「陸軍」カテゴリーアーカイブ

「動物慰霊之塔と陸軍習志野学校跡地」習志野の森散策

騎兵の町・軍郷習志野。
日露戦争当時、この地には4つの「騎兵聯隊」が駐留していた。
その後、第一次大戦後の軍縮や軍備近代化の流れなどもあり、騎兵連隊は規模を縮小し騎兵は戦車兵と統合し機甲兵としてなり、兵種としての騎兵は消滅していった。

習志野の騎兵第16聯隊の敷地は、昭和7年(1932)より、陸軍習志野学校の敷地へと編入されている。
今回のレポートは、そんな「陸軍習志野学校」にまつわる戦跡散策。


習志野の森

以前に、習志野の騎兵聯隊関連の散策を行った際に気になっていた場所があった。

https://senseki-kikou.net/?p=2829

「習志野の森」
立ち入りできず外から眺めるのみであったこの場所に、入れる機会があった。
当サイトでも何度かお世話になっていた日本戦跡協会さんが、「習志野の森」の保存活動と掃除を行っている団体(「習志野みどりの会」)と連絡をとり、とある日の午前中の掃除時間に見学できる道筋を用意し、そこに私も便乗する機会を得られたのだ。

そんなわけで。。。

本記事は、日本戦跡協会様との共同探索となります。
 日本戦跡協会サイト
  https://www.sensouiseki.com
 日本戦跡協会Twitter
  https://twitter.com/sensouiseki
 日本戦跡協会Facebook
  https://www.facebook.com/sensouiseki/

いつもありがとうございます。


習志野の騎兵

近衛師団
 騎兵第1旅団→麾下 騎兵13聯隊 騎兵14聯隊
第1師団
 騎兵第2旅団→麾下 騎兵15聯隊 騎兵16聯隊

日露戦争時の旅団長(少将)
 騎兵第1旅団長→秋山好古 【秋山支隊】
 騎兵第2旅団長→閑院宮載仁親王

習志野陸軍病院→習志野病院
騎兵第13聯隊→東邦大学
騎兵第14聯隊→日本大学
騎兵第15聯隊→東邦中学校高等学校
騎兵第16聯隊→大久保住宅や「習志野の森」←【今回の対象エリア】


位置関係(騎兵聯隊)

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8911-C1-1
昭和19年10月16日に大日本帝国陸軍が撮影した航空写真を加工。

位置関係(陸軍習志野学校)

騎兵第16聯隊は、昭和7年より陸軍習志野学校。
当初は、騎兵第16聯隊の跡地のみだったが、のちに騎兵第15聯隊の跡地にも敷地拡大している。

陸軍習志野学校周辺をクローズアップする。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M737-103
1948年01月18日に米軍が撮影した航空写真を加工。

見学の際に頂いた資料。
「学校内建物配置図」と照合する。

「習志野の森」該当部分を更に拡大。

「習志野の森」に残されている基礎などは、上記と照らし合わせると「学校本部」「実験講堂」「学生舎」「厠」「医務室」「将校集会所」などであることがわかった。

習志野演習場 周辺住民説明会(第1回)

http://www.env.go.jp/chemi/gas_inform/local/nara_en/01/index.html

環境省の説明会資料にて「習志野学校」関連、位置関係などがわかる資料が公開されている。


陸軍習志野学校

もと陸軍騎兵第16聯隊及び騎兵15聯隊の地に展開されたのが「陸軍習志野学校」(昭和8年~昭和20年)。
戦後は警察署・学校・住宅・保育園などに転用。
中心部は「千葉大腐食研究所」が展開されていたというが現在は移転。その跡地は「習志野の森」として国有地になっている。

「習志野の森」
現在は国有地となっており年に何度かの公開日以外は立入禁止。戦後に学校建屋を活用して展開された千葉大腐食研究所跡地に習志野学校時代の基礎や土台のみが残っている。奥には動物実験の犠牲になった「動物慰霊塔」もある。

陸軍習志野学校では、帝国陸軍の化学戦(毒ガス戦)に関する研究が行われた。「毒ガス学校」とも呼称されて、毒ガス兵器の開発や実験をしていたと思われやすいが、実際には、化学兵種である化兵・瓦斯兵に毒ガス戦に対する防御法の教育訓練する学校であったという。
陸軍習志野学校は運用訓練、大久野島の陸軍造兵廠忠海製造所で化学物質の製造が行われ北九州小倉の陸軍造兵廠曽根製造所まで輸送され兵器として製造(充填)されたという。

大正7年(1918)、陸軍省で臨時毒ガス調査委員会が設立。
大正8年、板橋陸軍火薬研究所を改編し陸軍技術本部に陸軍科学研究所が新設。
大正11年、戸山ヶ原に創設された陸軍化学研究所第2課化学兵器班で研究開始。
大正15年、参謀本部内に毒ガス研究会が設置。
昭和4年(1929)、化学兵器を製造する大久野島忠海製造所が稼動開始。
昭和8年(1933)、毒ガスを中心とする化学戦学校として習志野学校が開校。同時に細菌戦は関東軍防疫給水部本部(731部隊)で行うことも決定。

昭和20年の終戦時、学校は空襲を受けずほぼ無傷の状態であったが、校内では文書や設備の破壊・焼却が行われた。
戦後は、警察署・学校・住宅・保育園などに転用。特に中心施設があった騎兵第16連隊跡地には千葉大学の分院・附属の腐敗研究所などが置かれた。1977年(昭和52年)腐敗研究所が千葉市内に移転した跡は、「習志野の森」となっている。
習志野の森も再開発で失われるところであったが、貴重な在来種「カントウタンポポ生息地」として「習志野みどりの会」による緑地保全活動が行われている。


動物慰霊之塔(習志野の森)

陸軍習志野学校の敷地内に残る慰霊塔。登戸研究所もそうであったが、実験での犠牲となった動物たちを慰霊する空間。敷地の端ではなく、本部と講堂と学生舎の中間に建立されていた。

動物慰霊之塔
 〇〇〇〇〇〇〇〇

慰霊之塔に刻まれている揮毫者の名前は削りとられていた。

揮毫者の名前を何らかの理由で削ったものと思われるが、削られた理由は不詳。
上4文字が「陸軍少将」と読めることから、陸軍習志野学校校長など、それなりの立場であった人物であったことは容易に予想できる。
その上で、裏面は「皇紀2600年」に建立されたことが刻まれている。
皇紀2600年=1940年(昭和15年)であれば、ちょうど陸軍習志野学校第4代校長の 西原貫治 少将(陸士23期)が、立場も時期も該当する。最後の漢字の削られ方も「治」とも読めそうだ。

西原貫治(にしはらかんじ)は、陸軍習志野学校幹事や陸軍習志野学校校長、化兵監、第4軍司令官、第57軍司令官などを歴任し、1945年(昭和20年)10月、西部軍管区司令官となり、翌月、予備役に編入され、同年12月から翌年3月にかけて西部復員監を務めている。

皇紀二千六百年一月建之


陸軍習志野学校跡地散策(習志野の森散策)

清掃開放日に許可を得て見学を実施。
一般開放は年4回(4月、6月、8月、11月の第一土曜日1000-1600)とされているが、実際の実施の可否は、都度確認でお願い致します。

入り口の門柱脇のレンがは、当時のものと思われます。

習志野の森。

このあたりに「貯水池」があったと思われる。

貯水池の隣で、「この字型」に残るレンガ基礎は「厠」の跡か?

貯水池と厠の北側は、学校本部。
学校本部の階上は研部、階下は経理室。

写真を撮っているうちに位置関係がわからなくなりました。。。

学生舎の入り口?

手洗所。水道管も残っている。

電柱も残っている。

境界杭

基礎であることはわかるが、何がなにやら、位置関係をトレースせずに写真を撮っていたので、整理ができていない状況です。

習志野の森エリアの建屋位置関係を後学のためにメモしておきます。

乱暴に記載するとこんな感じ。

        【実験講堂】
      【慰霊塔】 【厠】 【印刷所】 
【学 校 本 部】【学 生 舎】
【貯水池】【厠】     【貯水池】
【衛兵所】 【医務室】 【将校集会所】
【表門】

今回まとめることで、位置関係を把握できたので、これはわかるように写真を取り直そう。。。
また、訪問したいと思います。

掲載が遅くなってしまいましたが、「習志野みどりの会」の皆様と、日本戦跡協会様と、ありがとうございました。

※2022年1月撮影

https://goo.gl/maps/NHn3wesHvVCd7bpM6


関連リンク

習志野みどりの会

https://commu-chika.jp/organizations/50

https://narashino.mypl.net/commu-chika/50


陸軍中野学校

陸軍登戸研究所

習志野関連

所沢駅周辺の戦跡散策

所沢といえば、日本の航空の発祥の地。
日本初の航空機専用飛行場は所沢陸軍飛行場が明治44年(1911)に完成したことにはじまる。
以来、昭和20年(1945)の終戦に至るまで、日本の航空発展の歴史は、所沢とともにあった。

「空都所沢」の歴史は、明治44年(1911年)4月1日、日本初の航空機専用飛行場として「所沢陸軍飛行場」が完成したことに始まる。


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R741-123
昭和22年(1947年)12月29日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。


陸軍東京憲兵隊赤坂憲兵分隊所沢分遺所

所沢駅と所沢陸軍飛行場のを結ぶ道路の途中に。所沢陸軍飛行場の手前に、陸軍東京憲兵隊赤坂憲兵分隊所沢分遺所があった。憲兵隊は明治44年の飛行場開設と同時に配置された。

現在は、「陸軍用地の境界標石」と「門柱」「壁」が残っている。

陸軍用地

この先は、陸軍所沢飛行場。

門柱も残っている。

所沢憲兵隊の名残の壁。

場所
所沢憲兵隊の跡地には、現在は、所沢市消防団第2分団がおかれている。

https://goo.gl/maps/Q4x4crCNr135TzNn7


旭橋と飛行機新道

日本最初の飛行場である所沢飛行場の開設(明治44年)に伴い、所沢駅から飛行場へつながる道「飛行機新道」が整備された際に東川を渡るために架けられた橋。
旭橋は当初は土橋であったが、昭和5年(1930年)に、より強固でかつ空都所沢にふさわしいモダンなデザインの現在の橋に架け替えられた。
平成21年(2009年)8月に国の有形文化財に登録。

国登録有形文化財
旭橋
 旭橋は、わが国初の飛行場となった所沢飛行場が、明治44年(1911)に開設された際につくられた橋です。最初は土橋でしたが、昭和に入り飛行場が拡張されることととなり、橋の架け替えも計画されました。そして約2年の歳月をかけて昭和5年3月に現在の橋が完成しました。
 当時としては、重厚なつくりとモダンなデザインが施されており、「空都所沢の表玄関にふさわしい橋を」との関係者の意気込みが伝わってくるようです。

橋の特徴
 鉄筋コンクリート造りの単純桁橋(1本の桁を両端2点の支点で支える構造)です。
 両端の親柱には赤御影石が使用され、西洋風な彫刻が施されています。上部にはかつてブロンズ製で唐草模様をあしらった六角形の電灯がありましたが、戦時中の金属供出により台座だけが残されています。
 欄干はリズミカルな白タイル貼りの連続アーチで飾られています。西洋建築の様式的モチーフが所々に取り入れられている点が、この橋の魅力となっています。
  平成22年3月
   所沢市教育委員会

国登録有形文化財
「旭橋」の昔の写真を探しています
 旭橋は、日本最初の飛行場である所沢飛行場の開設(明治44年)にともない、所沢駅から飛行場へつながる道(飛行機新道)が整備された際に、東川を渡るために架けられました。
 当初は土橋でしたが、所沢飛行場が拡張されて飛行機新道を通る物資や飛行機を見物する人々が増えたため、昭和5年、より強固でかつ空都所沢にふさわしいモダンなデザインの現在の橋に架け替えられました。
 欄干はリズミカルな白タイル貼りの連続アーチで、両端の親柱には赤御影石を使用し、西洋風の彫刻を施されています。親柱の上部には、かつてブロンズ製で唐草模様をあしらった六角形の電灯が設置されていたと伝わりますが、戦時中の金属供出で失われ、現在は台座だけが残されています。
 文化財保護課では、電燈が失われる前の旭橋の写真を探しています。戦前の旭橋の写真をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひご提供ください。写真はお借りして複写した後、お返しします。
 所沢市教育総務部文化財保護課

昭和5年3月竣工

飛行機新道は所沢飛行場(1911年)の開設に合わせて作られた道。

飛行機新道

場所

https://goo.gl/maps/qLtcV8k8bqFQT6Zw8


将校住宅

所沢駅近くの洋館付き和風住宅。
所沢陸軍飛行場・陸軍航空学校に勤務する佐官クラスの将校が住んでいたという。

表通りは駅前商店街。

この界隈は所沢駅から100メートルも離れていない場所。駅前開発の流れから置き去りにされたかのような不思議な空間。いつまでも残っているとは思えないが、貴重な往時の空間が残されていた。

場所

https://goo.gl/maps/6P518LJ1H1mH9vbW8

日本で初めて飛行した飛行機「アンリ・ファルマン機」に由来。


秋田家住宅

秋田家は屋号を「井筒屋」といい、所沢の織物産業の発展を支えた綿糸商。
秋田家住宅は、明治後期の建造。所沢市寿町の銀座通りに南面して店舗を構える商家の建物。
国登録有形文化財。

大正元年 11 月の陸軍特別大演習の際に、伏見宮貞愛親王が宿泊している。
内部は通常非公開。

場所

https://goo.gl/maps/kAAtf2FUufLs1dMq5


陸軍航空部補給部所沢支部「南倉庫」
(所沢航空参考館)跡地

所沢駅前の再開発エリア西武鉄道車両工場跡地。その前身は、陸軍用地であった。
この地に運ばれた元ドイツ軍青島飛行場格納庫は、「所沢航空参考館」として活用され、戦後は「西武鉄道車両工場」としても活用されてきた。

数年前までは陸軍時代からの遺構があったが、再開発によって、「往時の建物」から「陸軍境界標石」に至るまで、現在はすべて消失し更地となっている。。。

なにもなくなった。。。

場所

https://goo.gl/maps/bz86N56WKE9ogYmb9

※撮影:2022年3月


なお、南倉庫に関しては、「所沢航空発祥記念館」にも展示コーナーがある。

所沢航空発祥記念館の展示コーナー
航空参考館

東洋一の航空博物館だった航空参考館
 大正10(1921)年、陸軍航空部補給部所沢支部の資材倉庫用地が所沢駅西口に整備されました。5.5haの広さのこの用地は当時の陸軍所沢飛行場(現在の所沢航空公園)に対して南に位置していたため通称「南創庫」と呼ばれていました。南創庫は所沢駅に隣接しており、駅からの専用の引き込み線に飛行機や機材を載せて南倉庫に収容していました。
 大正12(1923)年、それまでは木造の倉庫だった南倉庫に、第一次世界大戦でドイツから押収した鉄骨造の二棟の巨大な倉庫(展示模型の中の奥の角にある建物と手前角にある建物)が建設されます。
 昭和10(1935)年、南創庫は陸軍航空技術学校分教場として各種の教育、訓練の場となりました。
 賞あ14(1939)年、南倉庫に陸軍航空士官学校の展示施設として「航空参考館」が設けられます。航空参考館には国内外の多数の航空機をはじめ、部品類や航空関係の遺品などが展示され、終戦まで「東洋一の航空博物館」といわれました。
 戦後は西武鉄道の車輌工場として平成12(2000)年まで鉄道車輌を製造してきましたが、車輌工場の建物は全て撤去され、所沢駅西口土地区画整理事業に基づく街づくりが進められることになりました。

西棟で使用されていたドイツ製の鉄骨(実物)

所沢の戦跡散策をするのであれば、所沢航空発祥記念館も欠かせません。


「お化け灯籠と陸軍東部62部隊」の戦跡散策(川崎・宮崎台)

東急田園都市線「宮崎台駅」。今でこそよくある住宅街のこの地に、かつて陸軍部隊が展開されていた。
六本木で編成された東部62部隊(陸軍101聯隊)は、招集兵の訓練と東京近郊に駐留する部隊の演習場として、川崎市宮前区を中心に、川崎市高津区や横浜市青葉区の一部などに進出したという。


東部62部隊(陸軍歩兵第101聯隊)

昭和15年(1940年)12月、歩兵第1聯隊留守居隊を基幹に歩兵第101聯隊が改編され、近衛歩兵第3聯隊の兵舎に駐屯。(近衛歩兵第3聯隊の兵舎は、現在の赤坂TBS界隈。)
昭和17年(1942年)11月、歩兵第101聯隊は、川崎北部の高台、溝の口界隈に転営。

以下は、川崎市平和館・掲示 より

陸軍東部62部隊と溝の口演習場
 宮前区宮崎から高津区梶ケ谷にかけては「陸軍歩兵101連隊(通称東部62部隊)が敗戦までの3年間所在していた場所です。1942年に東京赤坂から移転し、連隊本部は現在の宮崎中学校におかれました。神奈川県を中心とする招集兵を短期間訓練して数万人も外地へ送り出す軍事施設でした。
 現在でも、部隊と共に赤坂から移された「お化け灯籠」(現 市青少年の家)や、被服廠・馬房の一部が残っています。
 また、陸軍は強制的に農地を買収し、宮前区の約3割と高津区・横浜市青葉区にまたがる約9平方kmもの広大な溝ノ口演習場を設置しました。当時の射撃場は現在の国学院大学たまプラーザキャンパスにあたります。

陸軍東部62部隊跡と溝ノ口演習場の現存している遺跡


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-M376-26
昭和22年(1947年)7月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

再開発で、界隈の様相が大きく変わっている。
交通網だけでも、バイパスが南北を縦断し、東急が東西を横断している。


宮崎台駅

東急田園都市線・宮崎台駅。
「電車とバスの博物館」がすぐとなりにある。
開業は昭和41年。陸軍時代にはまだ鉄道は敷かれていなかった。

界隈の鉄道では、昭和2年(1927年)、玉川電気鉄道の溝ノ口線(二子玉川‐溝の口間)が開業。溝の口駅から長津田駅間は、昭和41年(1966)の開業まで待たねばならなかった。


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石1
(宮前区宮崎台・馬絹)

宮崎台の台地の南側、馬絹との境目のあたりにいくつかの陸軍境界標石が残っている。

階段の脇と階段に埋め込まれた、面白い境界標石。

陸軍

ちょうど、ぴったり階段に埋め込まれている。
これは、階段を作った人の心意気に感謝。

場所

宮崎台サニーハイツと宮崎台パークハイツの間の石段。

https://goo.gl/maps/79XJsgKeCRBm79qv7


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石2
(宮前区宮崎台・馬絹)

こちらも石段の脇。こうしてみると宮崎台という台地が分かる。
台地の上が陸軍用地であった、と。

場所

宮崎台ハイツの手前の石段

https://goo.gl/maps/wb6cDyVfRZ5qdFC99


馬絹ノ稲荷神社

この稲荷神社の界隈にも、境界標があるというが、見つけられませんでした。。。

場所

https://goo.gl/maps/mLixMHczBRBEeMYa6


陸軍東部62部隊・馬房跡

宮前区梶ケ谷。
「虎の門病院分院」から、東京横浜バイパスを南下したエリアの住宅地。ここに、当時「馬房」として使用されていた長屋建物が、戦後に住居に転用された。現在も長屋の一部が数カ所に残っている。

関係者の方より「馬房跡の長屋」を切り離した際の写真を頂戴しました。
ご提供ありがとうございます。


ーーー
戦後、この長い馬房跡に人々が寄り合い早い者勝ちというような感じで土地を取り合ったようです。
なので広さはマチマチみたいです。
時代が変わり、代もかわり当時から住んでいる方もだいぶ居なくなりました。
(下記の写真は、)長屋を切り離した際に撮影したものです。工事中で乱雑に板が貼り付けてありますが、馬房の形跡がよくわかるかと思います。
ーーー

以下は、現在の通りの様子。
この通りの右手側に馬房の長屋があった。いまも一部の建屋にその痕跡をみることができる。
 ※建屋の写真は割愛。

場所

神奈川県川崎市高津区梶ケ谷4丁目の住宅地。

※界隈は、住宅地ですので、配慮の上でお願いいたします。


虎の門病院分院・宮崎中学校

陸軍東部62部隊の兵舎や酒保があったあたりが、虎の門病院分院。
陸軍東部62部隊本部があったあたりは、川崎市立宮崎中学校となっている。


陸軍東部62部隊・将校集会所跡

陸軍東部62部隊の将校集会所があったあたりは、現在は「川崎市青少年の家」となっている。庭園に将校集会所時代の石灯籠が残されている。

陸軍東部62部隊・将校集会所庭園
お化け灯籠

川崎市地域文化財
お化け灯籠
 この灯籠は、1941年(昭和16年)まで、元日本陸軍東部62部隊の将校集会所の庭にありました。(部隊の場所は、現在の東京都港区六本木)そのころ、灯籠が夜になると六本木辺りに出るという噂が立ちました。
 1942年に、部隊は灯籠も一緒に連れて、現在の青少年の家を中心としたこの場所に移しました。その時、この噂を消す願いを込めて、動かないように足の部分を埋めたとも、また足を切って移したとも言われ、本当のことははっきりしていません。
 今では化けて出るかどうか定かではありませんが、「お化け灯籠」と呼ばれ、この青少年の家の庭で、平和を願い、青少年の健やかな成長を見守っています。

けっこう、おおきな灯籠。

下はどうなっているのだろう。埋められているのか、切られているのか。。。

場所

https://goo.gl/maps/9CaDuLt1xTNTFBgv8


宮崎大塚古墳(高射砲陣地跡?)

高さ4.7メートルの方墳、という。頂上部には、「馬絹大塚供養塔」が建立されている。
陸軍東部62部隊が駐留していた当時は、高射砲陣地がおかれていた、とも伝承されている。

場所

https://goo.gl/maps/DSzvsnuf2fsfFUeSA


陸軍東部62部隊・ 被服廠の建屋跡

陸軍東部62部隊の被服廠は、川崎市宮前生活環境事業所の界隈にあった。
川崎市宮前生活環境事業所から東の住宅街の一角に、「被服廠の建物の一部」とされている木造建造物が残存している。

現在は、物置小屋として使用されているようだ。

場所

https://goo.gl/maps/9YopjwbfL4Yi4K3V9


陸軍東部62部隊・門柱跡?

被服廠跡ちかくにあるレンガの残骸。
往時の門柱跡?もしくは、なにかの基礎かもしれない。 

今は駐車場の角。

奥に 川崎市宮前生活環境事業所 が見える。

川崎市宮前生活環境事業所が、陸軍東部62部隊の被服廠跡。

場所

https://goo.gl/maps/2uq2B8HZsp7C5moJ8


長坂(陸軍用地迂回路)

長坂
国道246号線梶ヶ谷付近の坂は、かつて「長坂」と呼ばれていた。この坂道は、現在の「青少年の家」周辺が陸軍に接収され、迂回路としてつくられたものですが、「長坂」という名が残りました。
 平成12年2月1日制定
  宮前区

場所

https://goo.gl/maps/CmBERJpqQUnwjtvo6


陸軍東部62部隊・弾薬庫跡?

東急田園都市線の作延トンネル西出口付近がかつての弾薬庫であった。
トンネルは弾薬庫の転用?ともいうが定かではない。
作延トンネルの上部には、今は虎の門病院分院・宮崎中学校などがある。
往時は、このトンネルのうえに、部隊本部があった。

場所

https://goo.gl/maps/TH2ZCCgRw1cr8Kqi9


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石3
(高津区向ケ丘)

宮崎台駅の北側。しばられ松(聖社)の境内に保存されている。

陸軍

しばられ松

しばられ松、聖社の由来
昔、上作延南の原に聖松という大きな曲がり松がありました。
相模の国の或る六部(六十六部の経典を寺々に修める修行僧)が、諸国巡礼の折、この地で百日咳に苦しみ亡くなったという。
又、一説には、この地で穴の中にて鉦をたたき、念仏を唱え修行をしていたが、「この鉦の音が止んだら死んだと思ってくれ」と言い残し入定したといわれる。
その跡に植えたのが、この聖松であるいう(←「あるいう」って書いてあるけど、「あるという」のまちがいでしょうねたぶん)。松の樹勢は、高さ五メートル根廻り三メートル余りある大木となり、枝葉は相模の方向を向き生い繁っていた。明治二十年ごろ落雷にあい、焼け落ちて今日の姿となったが、残る枝ぶりは今も往年の面影をとどめている。近郷の人々は、子供が百日咳にかかると素縄を左に編んで、聖松に縛り願をかけ、病が治ると、右縄を編み幹に縛り直して願ほどきをしたと、言われる。
その由に、この松を別名「しばられの松」という。
社殿がある。又、このしばられ松は古くより稲毛領の七本松の一つとされ、百合ヶ丘の「「弘法の松」、久地の「綱下げの松」などと共によく知られた松である。
稲毛三郎重松が鎌倉に赴く途中、馬の鞍を掛けた「鞍掛けの松」とも言われている。
民俗信仰の対象としても江戸時代、大変崇められ、親しまれたと言われている。平成十二年、聖社を新築建立したのを記念してその縁起由来の伝聞を要約してここに記す。

慰霊碑
忠魂碑

しばられ松(聖社)の境内に、2つの慰霊碑がある。

慰霊碑は、日支事変、大東亜戦争における戦没者の慰霊顕彰。
忠魂碑は、西南の役から日清日露戦役における戦没者の慰霊顕彰。

碑文
 昭和の初期をふりかえって見れば日支事変、又大東亜戦争と、中期は二十年八月終戦、すべての物資の不足等で国全体がもっとも貧窮な時を迎えました。
 又此の戦争により入営や召集により北は大陸の果に南の海に島々に又空地とお国の為とは云え多くの方々が祖国をあとにして戦禍により散っていった。誠にお気の毒に耐えません。
 私達も此のような戦争は二度とあってはならない。いつまでもいつまでも平和な日本であってほしいとただただ祈り願うものであります。
 我が上作延に於ても戦没された方は日支事変で二名、大東亜戦争にて十二名の方が亡なっています。
 そして昭和三十九年東京オリンピック大会が過ぎる頃より経済の急成長により安定した克つてない平和な日本となりました。
 戦後五十年になろうとする今日、戦没者皆様の遺影に感謝申し上げここに慰霊碑を建立して衷心より哀悼の意を表し冥福をお祈りし其の名を後世まで伝え遺族の方々の心よりの慰めとして毎年慰霊祭の出来る事を願い度い。
  平成5年12月5日建立
   上作延戦没者慰霊碑建立委員会建立

場所

https://goo.gl/maps/6myByRTS6P3scmNv7


川崎市平和館

川崎市平和館には、東部62部隊の境界標石が展示してある。

陸軍軍用地境界標
近隣の家の庭に埋まっていたものを、陸軍東部62部隊の研究をしている関係で譲り受けた。東部62部隊・溝口演習場の境界を示すために使われていた境界標。
 川崎市平和館所蔵

陸軍軍用地境界標(宮前区馬絹で使用)
 軍用地の境界には、長さ1m余の御影石が30cm程度頭を出して埋められていました。「陸軍」という文字が刻まれています。都市開発の影響でほとんどが抜かれてしまいましたが、当時のまま埋まっているもの、別の場所に移されたものが約50本、宮前区・高津区に残っています。

撮影:2022年1月及び2月


関連

溝口

陸軍東部62部隊(101聯隊)は、宮崎台に移る前は、六本木に駐留していた。

「防空壕と溝口演習場」溝口の戦跡散策(川崎・溝口)


東急溝の口駅・JR武蔵溝ノ口駅前の防空壕

表記ゆれしているでややこしいが、東急溝の口駅・JR武蔵溝ノ口駅の南口ロータリー。
その向かい側の台地の下には、ぽっかりと穴が空いていた。

どうみても防空壕ですね。

穴は、左に折れた構造。

溝の口には昭和15年(1940年)に軍需工場として「日本光学」が建設。
南武線沿線は軍需工場は集中していたために、大規模空襲「川崎空襲」の被害を被ることとなる。

駅前ロータリー。

場所

https://goo.gl/maps/2iRVRoXvgKewFEn7A


久本神社裏山の防空壕

東急溝の口駅・JR武蔵溝ノ口駅から南に。
久本神社の裏山にも防空壕が残っている。

開口している。

近くには、久本横穴墓群もある。ただし横穴古墳群が埋められている。

場所

https://goo.gl/maps/PNYM9N9pdJLZ7rv99


馬坂ノ庚申堂

武蔵溝ノ口駅から南に、「馬坂」「兎坂」という動物の名を冠した坂がある。
このあたりにも陸軍の境界標が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/YmFhR4KgYWVuNZDf8


溝口演習場の陸軍境界標石(兎坂)

兎坂に2つ、境界標石が残っている。

ひとつめ。南側。

ふたつめ。北側。

ふたつの境界標石を見比べれば、天面の刻みの向きが違うことがわかる。
この角度で陸軍用地の方向を表している。

場所

https://goo.gl/maps/ViXV79Japdm6GfcY6


溝口演習場の陸軍境界標石(馬坂)

勾配26%(14.6度)の急坂。「馬坂」と書いて「まさか」という。急坂として有名らしい。

ここには、陸軍境界標席が1つ残っているといわれているが、見つけることが出来なかった。

もしかして、新しくフェンスが設けられた際に、撤去されたのかもしれない。不自然な痕跡を見つけた。

これは、境界石跡?かもしれない。関係ないかもしれない。

奥に、横たわっている石柱のような、なにかがあった。もしや…

庚申塚の手前の細道にも、標石があったが、これは違うかもしれない。

うーん、ちょっと違うかな??

溝口演習場と関連する「陸軍東部62部隊」に関しては、以下の頁にて

※撮影:2022年2月

印旛陸軍飛行場と無蓋掩体壕(印西)

千葉県印西市。
北総鉄道北総線「印西牧の原駅」。

正直言って乗る機会がなく、行く機会のない場所。なんせ北総線は運賃が高いので、用事がない限りは乗ることもなかった。そのため、印西市に「無蓋掩体壕」があるとは聞いていたが、それだけのために行く気がいまいち起きなかった。

先日、偶然で奇跡的な出会いをした「日本戦跡協会の代表様」から「印西の無蓋掩体壕を見てこようと思っている」という話を聞き、せっかくなので同行させていただくことにした。

そして、無蓋掩体壕と周辺探索を行い、記事をまとめるために、事後調査をしていたら、なにやら他にも見どころがあることが判明。このままでは、半端な記事になってしまう。

そういえば、日本戦跡協会さんと「同じところに何度も行くことってあるよね、、、調査漏れとかで」など話していた矢先、どうやら早速に、再訪しないと行けない感じ。

そんなわけで、本記事は、1回目を日本戦跡協会様との共同探索、2回目を再訪しての単独再調査ということで、まとめさせていただきました。

1回目は2022年1月上旬の晴天写真、2回目は1月下旬の曇天写真、です。


本記事の一部は、日本戦跡協会様との共同探索となります。
 日本戦跡協会サイト
  https://www.sensouiseki.com
 日本戦跡協会Twitter
  https://twitter.com/sensouiseki
 日本戦跡協会Facebook
  https://www.facebook.com/sensouiseki/


逓信省印旛地方航空機乗員養成所
印旛陸軍飛行場
(印旛飛行場・深草飛行場)

深草とかいて「そうふけ」と読む。草深野(惣深野)。文字通りに草深く茂っている土地であった。
印旛飛行場は舗装をしていない滑走路で、なおかつパイロット養成のための飛行場であった。そのためにもともとの格納庫が少なく、陸軍が使用するようになった際に多くの無蓋掩体壕が造られたという。1982年調査段階では36基が確認されている。

昭和13年、逓信省印旛地方航空機乗員養成所が創設。
昭和17年6月、印旛飛行場が完成。
昭和18年10月、陸軍によって拡張工事が開始。
昭和19年10月、帝都防衛のため、陸軍飛行第二十三戦隊(天翔第19026)が配備。

第十飛行師団の指揮下にあって関東地区防衛任務に従事した陸軍飛行第二十三戦隊は、一式戦闘機「隼」、二式戦闘機「鍾馗」を保有していた。ただ、この時期は既に「隼」はB-29爆撃機を邀撃するには無力すぎる戦闘機であった。

陸軍飛行第二十三戦隊は、帝都防空に奮戦。昭和20年2月16~17日の米艦載機群による関東空襲に邀撃し、藤田重郎少佐(陸軍飛行第二十三戦隊 初代戦隊長)以下、多くの搭乗員が戦死。このときは、印旛・柏・松戸・成増・調布・水戸などの多くの陸軍飛行場から戦闘機が迎撃しており、そして多くの戦死者を出している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-R377-No1-144
昭和22年(1947年)10月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

飛行場部分を拡大。既に農地開墾が始まっている。

現在の様子に、飛行場用地を落とし込みしてみた。

西の原公園にあった地図。これで位置関係が把握できる。


印西牧の原駅

印西牧の原駅の南西に、当時は飛行場が広がっていた。

現在、線路部分は掘り下げられているが、もちろん当時は、平地であった。
滑走路は、印西牧の原駅の南北にも広がっていた。

南側の駅前に、アパホテル。上の階に泊まれば、往時の飛行場界隈を見渡すことも出来るだろ。ただ。泊まる用事が思い浮かばないが。

観覧車が見える。BIG HOP(ビッグホップ)ガーデンモール印西。
このあたりも飛行場エリア。


西の原公園に、記念碑がある。

印旛飛行場跡地記念碑

平和の碑

逓信省印旛地方航空機乗員養成所跡
陸軍飛行第二十三戦隊印旛飛行場跡
通称 草深飛行場跡 

草深野のあゆみ
 往古、印旛沼の畔に谷津を抱きし原野あり、草深野と名づく。そが谷津に開墾の鍬が入れられしは凡そ三百三十年前のことにて、開墾に従事せし先人よく過酷なる労働に耐え、豊穣の地となせり。惣深新田と称す。里人、早春には野に出て山菜を摘み、風の音に秋来たりなば、金波を漂わす水田に入りて鎌を振るう。四季は移ろい、凛たる寒気に包まれし野に雄鹿の声渡り大晦となりぬ。時は緩やかに流れ連綿として代を重ねたり。そが草深野に激動の時代を予感させし槌音響きたるは昭和十三年のことにて、逓信省印旛地方航空機乗員養成所の創設行わる。大志を抱きたる若人集い訓練に励む。しかるに軍靴の響き日増しに高く、昭和十八年十月、拡張工事に着手。翌十九年十月、帝都防衛の任に当たるべく陸軍飛行第二十三戦隊配備され、熾烈なる空中戦に挑みたる。雄々しき丈夫、勇躍銀翼を煌めかせ飛翔せしが帰還せざる者また多し。昭和二十年八月、幾多の尊き人命を奪いし第二次世界大戦終結せし後、飛行場跡地に開拓団入植し開墾に取り組みたる。その辛苦筆舌に尽くしがたし。されど不屈の闘志と団結力により、耕地は徐々に拡大し草深野は肥沃の地となりぬ。昭和三十年代後半に至り、国家政策として大都市周辺部に大規模なる新住宅地の造成が進められ、その一環として千葉北部地区宅地開発事業、即ち、「千葉ニュータウン事業構想」が発表されしは、昭和四十一年のことなり。爾来三十有余年、草深野は活気に漲り笑顔溢るる市街地へと変貌しつつあり。
 今般、印旛(草深)飛行場跡に有志の発意をもちて、多感なる往時に思いを馳せ、かつ恒久の平和を祈念せんと平和の碑を建立するにあたり、草深野の変遷をここに刻み後世に伝うるものなり。
  平成十五年十月吉日 
   印旛市長 海老原栄選文 
   印旛飛行場跡地記念碑建設委員会

説明板もある。

印旛地方航空機乗員養成所
陸軍飛行第23戦隊
印旛飛行場

印旛地方航空機乗員養成所
陸軍飛行第23戦隊
印旛飛行場

 昭和17年(1942年)、この地域(現在の印西市原、西の原及び草深周辺)に印旛地方航空機乗員養成所として飛行場が設置されました。このような航空機乗員養成所は、全国で15ヶ所ほど設けられた施設で、旧逓信省航空局により、民間の航空機乗員養成所として計画されたものです。
 昭和19年、太平洋戦争の戦況悪化によって拡張され、旧陸軍航空基地と兼用となり、首都防衛のため陸軍飛行第23戦隊が配備されました。
 部隊は、首都上空の迎撃のほか、硫黄島や北九州などに派遣され、隊員の一部は特別攻撃隊として出撃しました。終戦時には、50機ほどの機体が配備されていたといわれています。
 飛行場には、約2,000mの滑走路3本に加え、格納庫や飛行指揮所、射撃場などの付属施設、空襲時に飛行機を隠す掩体壕や誘導路などが整備されていました。
 戦後は、入植者による開拓が行われ、その大半が農地となりましたが、施設の一部は開拓事務所や鉄道教習所となり、その後、昭和24年から昭和60年までは、印旛少年院として利用されました。

 現在では、千葉ニュータウン事業などによる開発に伴い、当時の面影を残すものはほとんど残されていませんが、掩体壕や敷地内に植えられていた椎の木などが、往時の姿を今に伝えています。掩体壕は、現在1基が保存され、見学することができます。
 また、傍らにある「平和の碑」は、この飛行場の存在を後世に語り継ぐとともに、恒久の平和を祈念して、関係者や地元有志の尽力により、平成15年に設置されたものです。

参考文献
・印養誌出版委員会1977『わが青春―印旛航空機乗員養成所』
・山本忠良1979『草深野開拓』
・飛行第二十三戦隊印旛会編1987『飛行第二十三戦隊想い出の記:帝都防衛』
・印西町石造物調査会1987「消えゆく掩体壕」『印西町の歴史』第三号
・小林実ほか編1997『印旛の空:長浜清・陸軍特別攻撃隊員の記録と印旛航空機乗員養成所五期生の回想』

場所

https://goo.gl/maps/rKvoeFLK7ebw2BHJ6


椎の木(西の原南街区公園)

本部や講堂などの主要施設がおかれていたエリア。再開発で区画としても往時を思い起こすことが難しい中、敷地内に植えられていた「椎の木」が往時の姿を伝えているという。
印旛航空機乗員養成所本部跡にあたる。

場所

https://goo.gl/maps/HWFSa45kDDsdXR3s6

位置関係
※前述の航空写真より( ファイル: USA-R377-No1-144 )

道路も区画も全く異なっているために、位置関係の照合が難しい。
何も噛み合わない。。。
往時のロータリーの中央が、もしかしたら「椎の木」なのだろうか。


無蓋掩体壕モニュメント(東の原公園)

日本戦跡協会様と最初に訪れた場所が「東の原公園」でした。
ここに、「印旛飛行場と掩体壕」の案内看板がありますが、この公園自体は、往時の飛行場エリアからは敷地外。

印旛飛行場と掩体壕
 印西牧の原駅周辺には、昭和16年から昭和20年にかけて通信省航空局の印旛地方航空機搭乗員養成所(通称・印旛飛行場)の滑走路が広がっていました。昭和19年頃からは陸軍の軍用飛行場として使用され、首都防衛の任を果たしていました。現在では、千葉ニュータウンなどの開発が進み、当時の姿を見ることはできませんが、印旛飛行場があったことを示す痕跡として、掩体壕が残っています。
 掩体壕とは、飛行場に駐機する軍用機を上空の敵機から守るために作られた格納庫で、太平洋戦争末期、米軍による本土空襲が激しくなる状況で、全国の軍用飛行場に構築されました。掩体壕には、コンクリート製の屋根で作られた有蓋型と、屋根がなく土を土塁状に固めた無蓋型があります。印旛飛行場には、無蓋型の掩体壕が作られ、現存する掩体壕は、造谷川防災調整池の西側に保存されています。大きさは幅約20メートル、高さ3メートルほどで、小型の軍用機ならばほぼ一機格納できる規模となっています。
  印西市教育委員会

公園には、無蓋掩体壕を模したものがある。その中央には飛行機を模した砂場。
子どもたちが遊んでいるので、近づいての撮影は行いませんでした。

Google航空写真でみると、たしかに、無蓋掩体壕と飛行機、ですね。
これはなかなか粋です。

東の原公園は印旛飛行場跡地ではないが看板がありますので、脚を運んでみるのも良いかと。

場所

https://goo.gl/maps/EbSLq1GP6zntLoPB7


印旛飛行場の無蓋掩体壕

掩体壕
 正面に見える構築物は、掩体壕と呼ばれる戦争遺跡です。掩体壕とは、飛行場に駐機する軍用機を上空の敵機から守るために造られた格納庫で、昭和20年、太平洋戦争末期に、米軍による本土空襲が激しくなる状況の中で、全国の軍用飛行場に構築されました。掩体壕には、コンクリート製の有蓋型と、現状で屋根がなく、土塁状の形状の無蓋型が存在します。
 印西牧の原駅一帯には、昭和16年から昭和20年にかけて逓信省航空局の印旛地方航空機乗員養成所(通称 印旛飛行場)が所在し、昭和19年頃から、乗員養成所は陸軍の軍用飛行場として使用され、首都防衛の任を果たしていました。滑走路周辺には、規模が横幅約20m、高さ約3mほどの無蓋型の掩体壕が多数存在し、小型の軍用機ならば、ほぼ1機格納できる大きさです。
 現在では、千葉ニュータウンなどの開発が進み、当時の姿を見ることはできませんが、掩体壕はこの地域に、印旛飛行場があったことを示す貴重な文化財です。
 平成28年4月1日
  印西市教育委員会

無蓋掩体壕は、写真で伝えるのが難しいので、まずは、Google航空写真を。

2回目のリベンジ撮影で、魚眼レンズを持ち込みまして。

魚眼でなんとか全容を収めることに成功。
今度から、無蓋掩体壕を撮影するときは、魚眼必須ですね。いうほどに撮影機会はないですが。

無蓋掩体壕の前の道は、かつての誘導路。

晴天時の撮影は、1回目の撮影。日本戦跡協会様との探索時に標準レンズ、で。

スマホでパノラマ撮影もしてみました。
魚眼もしくは、パノラマでないと、左右が収まらないですね。


誘導路の名残、かな。

宅地造成とともに、アスファルト道路も新しくなっていく。

このあたりが飛行場エリアの南東部。写真の右側が飛行場エリア。

場所(無蓋掩体壕)

https://goo.gl/maps/4GhB2ZpmLc2ZWpdy8

位置関係
※前述の航空写真より( ファイル: USA-R377-No1-144 )

右の黄枠が現存している「無蓋掩体壕」の場所。
左の黄枠が「射撃場」、そして「排水路(用水路)」

現在と照合する。
現存する「無蓋掩体壕」の場所ははっきりとわかる。
また、航空写真では、「射撃場」の区画もはっくりと残っていることがわかる。


射撃場跡(原青年館)

「開拓記念碑」が原青年館の脇に建立されている。
昭和46年2月16日建立。
この地は、かつて「射撃場」があった場所。

「草深飛行場跡」と刻まれている。

原青年館の周辺。畑と墓地と資材置き場。見渡せばきれいに四角形の空間が広がっていて、整地の先は林となっている。
この区画が「射撃場」の跡地。

この射撃場跡エリアも先行きが不安な雰囲気が。
なにやら造成されそうな気配が。。。

射撃場跡の茂みの中に、新しい境界杭が打たれ始めてました。これは。。。

1回目の探索時に日本戦跡協会様と、竹林を深入りしてみた。
そしたら、見事にビンゴでした。

資材置き場の奥の竹林は高台となっており、射撃場があった場所は低地となっていた。これは「射撃場」の土手の名残と思われます。一人では見つけられなかったかもしれません。

そして、往時の区画と同じ場所にある用水路。位置関係は往時と変わらず。
もちろん、改良さされているはずではあるが、これは飛行場エリアの排水路転用の用水路と思わます。

右側が飛行場エリア。

印税牧の原。再開発により、次々と姿を変えている。
椎ノ木の公園と無蓋掩体壕は、整備されたが、それ以外は、いつなくなってもおかしくない。畑がなくなれば用水も不要。平然と区画も変わるかもしない。
そして宅地化が郊外に広がっている現状で、射撃場跡もいつまでも残っているとは限らない。残る戦跡と消える戦跡の狭間をみつつ、少しでも記録として伝承をしていきたいものです。

※撮影は2022年1月


関連

藤ヶ谷陸軍飛行場専用線の廃線跡(鎌ヶ谷)

先日、藤ヶ谷陸軍飛行場の地下格納庫を探索してました。
その際にご一緒しました「日本戦跡協会様」の車で、 地下格納庫 から海自下総航空基地を南側から迂回して松戸方面に走っていた途中、「ちなみに・ ・ ・」 で、私が口にしたのが、藤ヶ谷陸軍飛行場の軍用鉄道廃線跡があるという話題でした。

道路と廃線跡が交差するあたりで、「ちょうどコンビニのあたり(セブン-イレブン 鎌ヶ谷東邦鎌ヶ谷病院前店)を左右に横切る感じで、軍用線の廃線跡があるらしいですよ。特に何かが残っているわけではないみたいですけど。」などと発言した私。

そしたら、その後に、急に、廃線跡が気になってしまいましたので、思い出して廃線跡の散策を実施してみました、というのが本記事となります。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-63
昭和22年(1947年)7月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

拡大。
左が東武野田線(東武アーバンパークライン)の「六実駅」。
右が「藤ヶ谷陸軍飛行場」(海自下総航空基地)
中央には大津川が流れる。

「藤ヶ谷陸軍飛行場専用線」は、いつ建設されて、いつ廃線されたのかが、いまいちよくわからないらしい。1947年の航空写真では、六実駅に貨車が写っているのは確認できる。

現在、一部が遊歩道として残っている。


藤ヶ谷陸軍飛行場専用線の廃線跡散策

スタートは東武野田線の六実駅から。

かつて側線があったホームの東側。このあたりから、「藤ヶ谷陸軍飛行場専用線」が伸びていたと思われる。

コンクリートの塊が積んである場所。ここに線路が伸びていたと思われる。

この先は、駐車場になっている。

駐車場の先は住宅地。
廃線跡の痕跡は住宅の中に現れた遊歩道。

こんな感じ。

廃線跡の遊歩道。

右手が低くなっている。築堤の名残かも。

この先、 セブンイレブン鎌ヶ谷東邦鎌ヶ谷病院前店の脇を抜ける。
写真左の建物がセブンイレブン。

また遊歩道が見えてきた。この先は大津川。

大津川。里山っぽく整備されている。良い感じ。

鉄道時代の橋脚などは残っておらず、再整備されたようだ。

大津川を渡り、遊歩道をさらに進む。

おお。左右に横たわるのは「枕木」。

「枕木」に「犬釘」が刺さったまま残っています。
これこそが、ここが鉄道の線路であったという、沿線に残る僅かな痕跡。

犬釘。線路のレールを固定していた名残。

廃線跡は緩やかなカーブを描く。

住宅地にぶつかりました。

この先は、なかなか追跡が困難。

この左側を線路が走っていたと思われる。

畑に横たわっていたコンクリート水槽。

コンクリートの瓦礫の具合が、往時からのものであっても違和感がないが、さすがに関係ないかな。。。(視点がなんでも往時のものか否かで見てしまうのが職業病かも)

このあたりが廃線跡、だったかもしれない。。。

この先は、森に埋もれてしまい踏破不可でした。

道路を大きく迂回して、下総航空基地のそばに。

痕跡は何も残っていないですね。
廃線跡は、産廃業者の敷地となっております。

右が、藤ヶ谷陸軍飛行場(空自下総航空基地)
左側から線路が伸びていたとおもれる。

空自下総航空基地の管制塔を垣間見ることが出来た。
下総教育航空群・第203教育航空隊の「P-3C」が駐留していますね。

廃線跡あるあるの遊歩道に、横たわる枕木、そして刺さっていた犬釘。見どころは、正直これしかないが、それでも何やら楽しい散策が出来ました。万人にオススメというわけではありませんが、ちょとした散策には良いかもしれません。なお、散策は枕木と犬釘を見たら引き返しで良いと思います。その先は、結構な徒労になります。。。

藤ヶ谷陸軍飛行場専用線の廃線跡は、以上で〆

※撮影:2022年1月

藤ヶ谷陸軍飛行場の地下格納庫跡(鎌ヶ谷)

本記事は、日本戦跡協会様との共同探索となります。

 日本戦跡協会サイト
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2022年1月某日。偶然の産物からの日本戦跡協会様との共同探索を実施。
鎌ヶ谷の下総航空基地近くにやってきました。


藤ヶ谷陸軍飛行場
(海自下総航空基地)

藤ヶ谷の地名は、現在の柏市藤ケ谷。敷地としては、北の柏市と南の鎌ケ谷市にまたがっている。

もともと当地は、東洋一の規模を誇っていたゴルフ場であった「武蔵カンツリー倶楽部」の「藤ヶ谷コース」であった。ゴルフ場としては、昭和4年(1929年)に開発された。
「武蔵カンツリー倶楽部」 は、隣接する「六実リンクス18ホール」に「鎌ヶ谷コース18ホール」を有し、日本初の36ホールのゴルフ場であった。

「武蔵カンツリー倶楽部」は、昭和19年(1944年)に本土防空のための飛行場化のために、帝国陸軍に土地が接収され陸軍用地となったたことでゴルフ場は閉鎖され解散。

昭和20年4月、「藤ヶ谷陸軍飛行場」が完成。6月に飛行第53戦隊が、松戸陸軍飛行場から移動。
昭和20年8月、終戦により、アメリカ陸軍航空軍の白井基地としてGHQに接収。
その後、海上自衛隊と米軍による日米共同飛行場時代を経て、現在は「海上自衛隊下総航空基地」となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M676-153
昭和22年(1947年)11月28日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

黄色枠が今回の探索対象。

下総航空基地は戦後に滑走路が延伸されている。
そのため、滑走路の位置から確認をしようとすると位置関係を見誤るため、台地の森から位置関係を把握。
きっちり、L字型の構造物が確認できる。

というか、この周辺、柏と同じように、燃料庫が集中している感じ。

航空写真で見比べただけでも、この「L字型」の構造物には、かなりの既視感がある。
あぁ、これは柏の秋水燃料庫と同じ「L字型」だと。


藤ヶ谷陸軍飛行場の地下格納庫跡の散策

現地にて改めて、鎌ヶ谷の構造物を目の前にする。

見えてきた構造物に、「あぁ、柏の秋水だ」「これは同じだ」と、日本戦跡協会様と即座に意見の一致をみる。
これはすごく既視感があります。

藤ヶ谷陸軍飛行場で秋水が配備されていたかどうかは未知ですが、柏陸軍飛行場ともそんなに遠いわけでもなく。鉄道演習線を通じたら、むしろ近い位置関係。同じようなものがあっても、おかしくなさそう。

表現は人によってまちまち。
地下格納庫・地下燃料庫・地下燃料格納庫・地下燃料貯蔵庫・地下貯蔵庫…まあ、言わんとする方向性は大体一緒。

地下格納庫のある森の外周を歩いてみる。
今回は、森の中を総じての探索は出来ませんでしたが、もしかしたら、何か他にもあるかもという予感もあり。

森の西側には、入り口が開放されておりました。

市有地、だそうです。

キャンプ場としても活用されているっぽいです。

そのまま西から東に歩みを進めていきますと、開口部がありました。
最初に道路側から見たコンクリート構造物の反対側、です。

内部。
奥は右側に曲がっています。「L字型」。

構造物上部から。この先、右に伸びている。

右に折れた先は、道路側からみた部分となる。思ったよりも高台。

分かりにくいが、この部分がちょうど「L字型」に折れている箇所。奥が道路側。

振り返ると、コンクリート構造物が伸びているのが分かる。

隙間があった。造られてから77年の歳月を経ていれば、ちょっとしたズレも生じる。

この周辺、まだ何かあるかもしれないし、もう他にはないかもしれないけれども、じっくり調査をする価値はありそう。

場所
道路から見える場所

https://goo.gl/maps/Nvu3HhZ7NMmM3DQNA

キャンプ場側の入口はこっち

https://goo.gl/maps/m9rNHnav7vD9Zeyy7

今回の散策は、日本戦跡協会様の御協力がありましたこと、改めて御礼申し上げます。
ありがとうございました。

※撮影:2022年1月


関連

鉄道連隊演習線松戸線の散策4(津田沼~前原)

新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。


鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8911-C1-4
昭和19年(1944年)10月16日、日本陸軍撮影の航空写真。

一部拡大加工 。
津田沼駅周辺に展開されていた、鉄道第二連隊の様子がよく分かる。


津田沼の鉄道聯隊跡地散策

新京成電鉄「新津田沼駅」とJR総武線「津田沼駅」界隈から散策をしてみる。
津田沼駅の南に、鉄道聯隊の看板がたっている。

鉄道連隊跡
 ここは旧陸軍の鉄道連隊があった場所です。鉄道隊は、戦地で鉄道の敷設・補修・運転・破壊に従事した部隊で、明治28年(1895年)の日清戦争における臨時鉄道隊の編成に始まり、翌年には東京牛込に鉄道大隊が常設されました(翌30年、中野に転営)。日露戦争後の明治39年(1906)、派遣隊により津田沼-習志野間の軽便鉄道が敷設されます。そして翌40年(1907)、鉄道大隊は鉄道連隊に昇格し、千葉と津田沼に転営しました。千葉には連隊本部・第一大隊・第二大隊・津田沼には第三大隊が置かれました。総武線津田沼駅の南側に本部・兵舎・作業場があり、北側には器材の保営・整備を行う材料廠がありました。
 鉄道連隊第三大隊は、大正7年(1918)に鉄道第二連隊に昇格しました。千葉の鉄道連隊は鉄道第一連隊となります。両連隊は、明治44年に完成した津田沼-千葉間の演習線で訓練を行いました。千葉県営鉄道の建設にも大きく関わっています。
 日中戦争から第二次世界大戦にかけての戦時中、津田沼と千葉の両連隊をもとに多くの鉄道連隊が編成され、中国・東南アジアの戦地に派遣されて作戦に従事しました。中でも、多大な犠牲者を出した泰面鉄道の建設が知られています。
 戦後、連隊跡地は教育施設・鉄道車両工場などを経て、習志野文化ホール・千葉工業大学・習志野郵便局・商業施設へと変わり、総武線津田沼駅・新京成線津田沼駅を擁する本市の表玄関となっています。
  平成30年3月 習志野市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/FbgLamEwZR9L8c7S9


陸軍鉄道第二聯隊兵営表門跡
(千葉工業大学通用門)

登録有形文化財 
第12-0007号

この門は明治40年(1907年)当地に移駐した陸軍鉄道連隊第三大隊(大正7年に鉄道第二連隊に改組)兵舎の表門として使用されたものです。
第二次大戦後、ここが千葉工業大学の校地になった後も、「工大の煉瓦門」として親しまれています。
平成10年5月、国土の歴史的景観に寄与するものとして、国の登録有形文化財に指定されました。 
 千葉工業大学

場所

https://goo.gl/maps/pLeJe6UgX6A5iZLd8


K2形機関車134号機

千葉工業大学から線路を挟んだ反対側にある公園。
習志野市「津田沼一丁目公園」

ここに鉄道連隊ゆかりの機関車が保存されている。
「K2形機関車134号機」

K2形機関車134号
 この蒸気機関車は、かつてここ津田沼に本部を置いていた陸軍第2連隊がしようしていたもので、現在の新京成線敷地内にあった陸軍演習線での機関車として活躍したものです。
 この度、西武鉄道㈱ユネスコ村に保存してあったものを譲り受け、鉄道連隊ゆかりの、この津田沼一丁目公園に設置したものです。
 平成6年3月

場所

https://goo.gl/maps/rqDsPQtgZsfHU4iUA


新京成電鉄橋脚

鉄道連隊が津田沼から総武本線をオーバークロスさせていた路線跡は、今は新京成電鉄が同じようにオーバークロスしている。鉄橋などはもちろん往時のものではないが、位置関係は同じ。橋脚はどうだろうか。参考までに撮影。

新京成は、新津田沼から京成津田沼までは、文字通りに「S字カーブ」を描いている。この窮屈なカーブも鉄道聯隊時代の名残。


御大典記念道

京成電鉄の京成津田沼駅から、谷津駅に向けて伸びる一本の道路は、御大典記念。
昭和4年2月建立。
昭和天皇の即位(御大典)を記念して京成津田沼駅から線路に沿って谷津に向かう道路を作ったよ、という記念道。
昭和天皇は、昭和3年11月10日に、京都御所において即位式の大礼を挙行。これを記念して、道路を造成。工事費の半分を町が負担。残りを地元有志の寄付金でまかない、約2ヶ月で竣工。

京成津田沼駅。


前原駅~新津田沼駅間の鉄道聯隊跡地散策

新津田沼駅から一駅先の前原駅に移動。前原駅から線路沿いに歩いて、鉄道聯隊の名残を探してみる。
以下、みつけた陸軍境界標石(陸軍境界標杭・陸軍境界石・陸軍境界杭)の記録。

陸軍境界標石1(前原駅)

前原駅の南(新津田沼駅側)、上り番線から見えるところに、陸軍境界標石がある。


陸軍境界標石2(前原1号踏切)

前原駅の南側、最初の踏切。うっすらと「陸軍」の刻印をみることができる。


陸軍境界標石3・4(前原2号~前原3号踏切間)

線路脇の側道から。
前原3号踏切は、成田街道と交差している。

新京成電鉄。撮影するときはだいたい急カーブ。


陸軍境界標石5(前原4号踏切)

前原4号踏切。ブロック塀に埋もれていた。

前原5号踏切に差し掛かる新京成電鉄。やっぱりカーブ。


陸軍境界標石6(前原5号~前原6号踏切間)

線路脇の道路。半分だけ。

陸軍境界標石7(前原5号~前原6号踏切間)

電信柱の裏。やっぱり半分埋もれている。

陸軍境界標石8(前原5号~前原6号踏切間)

駐車場の塀が、境界標石を巧みに避けながら設けられていた。
ここまで来ると、新津田沼駅が近い。すぐ南の前原6号踏切は、御成街道と交差する。

陸軍境界標石9(前原6号~前原7号踏切間)

新京成線と道路を隔てる隙間、ガードレールの裏に隠れていた。

うっすらと「陸軍」の文字が見えるような気がする。

陸軍境界標石10・11・12(前原7号踏切近くの駐車場)

前原7号踏切近くの駐車場に3本残っているのが確認出る。


陸軍境界標石13(前原7号踏切~前原8号踏切間)

ちょっと怪しいが、いちおうカウントに入れておく。
ここまで来ると、津田沼パルコのすぐ裏。この先は新津田沼駅となる。

前原駅から新津田沼駅まで歩いただけでも10個以上の陸軍境界標石を見つけることが出来た。歩いていて楽しい区間。今回は、前原駅から南下したが、逆に北上しても、いくつか見つかるらしい。際限無くなりそうでちょっと怖いが、また時間がある時に歩いてみようと思う。

※撮影:2022年1月

今回は以上で〆。

帝国陸軍船舶部隊の根拠地・宇品(広島)

広島に出張した際のスキマ時間に。あまり時間が無かったけれども、宇品まで足を運んでみました。
この宇品港は、陸軍船舶部隊の中心地、であった。


宇品へ

広島電鉄宇品線で南に向かう。

広島電鉄宇品線は、「宇品口(現在の元宇品口)」電停まで現在のルートで線が引かれたのが昭和10年(1935年)であった。

今回は「海岸通」電停で下車。臨海エリアを歩く。


旧広島水上警察署

広島水上警察署
(旧広島港湾事務所)
所在地:広島市南区宇品海岸2丁目23-53
概要:木造2階建、建築面積189.13㎡、延床面積360.80㎡
 この建物は、明治42年(1909年)、広島水上警察署として建設されました。
 昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾により被爆しましたが、爆心地から4.6km離れていたために倒壊を免れました。
 昭和40年(1965年)から広島港湾事務所の事務室として、昭和56年(1981年)から広島港湾事務所の倉庫として利用されてきましたが、平成22年(2010年)からは使用されていません。
 平成8年(1996年)、広島市の「被爆建物等登録台帳」に登録され、平成10年(1998年)、広島県教育委員会の「広島の近代化遺産」に掲載されました。
 今では、市内に現存する唯一の明治の木造洋風建築であり、歴史的にも建築学的にも価値が高いものです。
 広島県

何故か、1階部分正面のみ塗装が施されている。以前は1階も特には塗装などはなかったようだが。

場所

https://goo.gl/maps/UTdFhtEVwMSKZpA58


陸軍運輸部船舶司令部

宇品中央公園に旧陸軍船舶司令部の記念碑がある。

広島県宇品(宇品港) は、帝国陸軍船舶部隊の根拠地であり、陸軍運輸部の本部(のちに兼船舶司令部)も置かれ、陸軍を代表する特殊船舶であった「神州丸」「あきつ丸」など帝国陸軍船舶の母港でもあった。

旧蹟
陸軍運輸部
船舶司令部

昭和55年2月吉晨
暁宇品会
建之


陸軍運輸部が1904年(明治37年)4月に設置。
その後、日中戦争(支那事変)開戦に伴い、1937年(昭和12年)8月、第一船舶輸送司令部が宇品に発足。
平時の業務は運輸部が担い、戦時業務を第一船舶輸送司令部が担当することとなった。
太平洋戦争(大東亜戦争)突入後の1942年(昭和17年)7月に、軍司令部格の「船舶司令部」に改編。

1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下に際し、中国軍管区司令部を初めとする陸軍部隊は壊滅、藤井洋治司令官は被爆死。
また、第2総軍司令部は壊滅は免れたが大きな被害を受け、機能停止に陥った。
行政としての中国地方総監府・広島県庁・広島市役所も大きな被害を受け、大塚惟精地方総監・粟屋仙吉市長が被爆死したため、行政機能もほぼ停止した。

6日夕刻になって、たまたま市外への出張で難を免れていた高野源進知事のもとで比治山麓の多聞院に臨時県防空本部が発足。
この結果、爆心地から4キロメートル前後離れていた宇品に駐屯し大きな被害を受けなかった船舶司令官(佐伯文郎陸軍中将)が、翌7日以降「広島警備本部」として市内の救援活動や警備活動の指揮をとることとなった。
船舶司令部麾下の「暁部隊」は市内での活動に総動員され、これに従事した部隊員の中から多くの二次被爆者を出すことになった。
また被害を受けた広島電鉄の復旧のため、船舶司令部隊が所有していたマスト300本が電柱として利用され、広電の早期復旧にも役立った。

かつて、この地に、帝国陸軍の船舶部隊があった証。


明治天皇御駐蹕趾碑

1885年(明治18)年
明治天皇の広島巡幸の際、建設中の宇品港から呉・倉橋島を視察された記念して1939年(昭和14)年に建立。


宇品凱旋館建設記念碑

宇品凱旋館建設記念碑
 皇紀二千六百年 昭和十五(1940)年二月十一日
  陸軍中将 田尻昌次書

田尻昌次は、運輸部長。
宇品凱旋館は、鉄筋コンクリート造3階建物として、 1939(昭和14)年4月に建設。
宇品凱旋館は、昭和49年12月に解体され建設記念碑だけが残された。


みなとの歌の碑


 作詞 籏野十一郎
 作曲 吉田信太

そらもみなとも
 よははれて
つきにかづます
 ふねのかげ
はしけのかよい
 にぎやかに
よせくるなみも
 こがねなり

※ 空も港も夜はれて
  月に数ます舟の影 
  艀の通いにぎやかに 
  よせくる波もこがねなり

『港』の歌碑建立由来記
 私達が、小学校時代を連想するごとに。口ずさまれる国民唱歌の一つに「空も港も夜は晴れて・・・」の懐かしいメロディーがあります。
 しかし、この歌がいつ、どこで、だれによって作られたものか忘れられ、いうなれば流浪の歌の運命をたどっていました。
ところが、昭和四十八(1973)年八月、全日本海員組合の宮城伸三が前任地博多から広島に赴任され、ある日、宇品の居酒屋で、たまたま同席した一老人から、この歌は宇品を歌ったものであることを聞かされました。
 そこで、同氏は広島といえば、原爆の都市という暗いイメージを与えているが、この明るく生き生きとした情緒あふれる名曲を掘り起こし、広島のイメージ・チェンジをはかるならば、今後、広島のこども達の情操教育と、海事思想普及に貢献することができるだろうと考え、地元海運関係者や有志に呼びかけました。一同これに賛意を表し、いろいろ調査研究の結果、作詞は旗野十一郎、作曲は吉田信太(いづれも故人)場所は宇品暁橋(通称めがね橋)であることを確かめました。
 その結果、数多くの人々の協力により、昭和五十(1975)年七月二十一日、海の記念日のよき日に地元小学生等の手によって除幕され、ただちにこの歌碑を広島県に寄贈されました。
 こうして国民に親しまれました「港」の歌は流浪の旅を終え、生まれ故郷の宇品港に帰ることができました。
○ 歌碑は船の煙突をかたどった円筒型のコンクリート製(高さ三・九米)歌詞の四十八文字は、地元三小学校の四年生による一人一字の手書きであり「港」の字は港湾管理者宮沢県知事の自筆です。
○ 歌碑の周囲の「いかり」は呉市、内外運輸(株)の寄贈です。
○ 歌碑の裏面の「歌碑建立発起人一同」の文字は、建立の推進役をした全日本海員組合中国支部長の宮城伸三に書いてもらいました。
○ 建立関係の書類、除幕のアルバム、資料は末永く記念するため、ここに保存してありますから御閲覧下さい。


平和の礎

シベリア抑留関連の記念碑。

ありし日に
 君と遊びし
  砂の浜
こゝに建つなり
 平和の
  祈り

先の大戦の後においても、強制抑留された本県出身者の多くは、この地宇品港から出港した。
その軌跡をここに刻み、世界の恒久平和と広島港が国際平和港として発展することを記念してこの碑を建立する。
 平成6年12月吉日
 財 全国強制抑留者協会広島県支部

 悲惨を極めた第二次大戦は、昭和20年(1945年)8月15日、日本のポツダム宣言受諾により集結した。
 戦争終結にもかかわらず、在満並びに北方地域の邦人並びに将兵は、シベリア各地に抑留された者約60万人、本県関係者1万6000人余は極度の重労働と飢餓、酷寒の中、1000人余が無念の死を遂げ、帰国せしも極度の栄養失調、塵肺その他の重い病気に耐えず消えた者600人余、これらの友の霊を鎮め、恒久平和の祈念をこめてこの碑を建立す。
する。
 平成6年12月吉日
 (財) 全国強制抑留者協会
      広島県支部建立委員会


宇品線の足跡をたどる  
鉄道伝説つかりの地めぐり

広島の宇品港は日清戦争において輸送の拠点基地となりました。広島駅と宇品を結ぶため大急ぎで整備されました。その期間、わずか17日、日本最短と云われています。
また、宇品駅のホームは積み下ろしを迅速に行うため何と560mもありました。これも当時は日本最長と云われていました。数々の伝説を生んだ宇品線ですが、昭和61(1986)年に廃線になりました。

宇品線の跡を散策するのも楽しそうだ。。。


宇品中央公園

場所

https://goo.gl/maps/7kEyVQfoVEkuVywv8


宇品の海

かつてここは、帝国陸軍の海であった。

宇品島。

私としたことが、残り持ち時間に焦りを感じ、すぐ隣の「六管桟橋(旧陸軍桟橋)」や「国鉄宇品線跡」のある宇品波止場公園に行きそこねてしまい。。。

しゃーない、また来よう。。。


広島陸軍糧秣支廠倉庫跡

広島陸軍糧秣支廠倉庫のあとが、わずかに残されている。被爆建物として黒く焦げた跡が生々しい。。。

広島陸軍糧秣支廠
(爆心地から約4.6キロメートル)
陸軍糧秣支廠は、戦時において必要な兵隊の食糧や軍馬の飼料を調達、補給するために設置されました。1894(明治27)年に日清戦争が始まると、当時山陽鉄道の西端であった広島駅とここ宇品を結ぶ軍用鉄道を二週間あまりの突貫工事により完成させ、宇品港は第二次世界大戦が終結するまで陸軍の海外への輸送基地となりました。この倉庫は、1910(明治43)年頃、軍需物資を保管するため、宇品駅のプラットフォームに沿ってレンガ造りで建てられました。1945(昭和20)年8月6日の原爆による被害は、爆心地から離れていたため、軽微にとどまり、傷ついた大勢の被爆者はこの付近の陸軍の関連施設に収容され、手当てを受けました。戦後、日本通運株式会社に払い下げられ、倉庫として利用されてきましたが、1997(平成9)年、広島南道路の整備にあたり、被爆建物として歴史を後世に伝えるため、その一部をモニュメントとして保存するものです。
(旧広島陸軍糧秣支廠倉庫 1985(昭和60)年4月 井手三千男氏撮影 日本通運株式会社 寄贈)

場所

https://goo.gl/maps/qg9txfrQ3S7sXACs7


陸軍船舶練習部

マツダ宇品工場西区は、かつての陸軍船舶練習部。
工場内なので入れないが、敷地内のある「講堂」が被爆建物として現存している。正門からは見えなかった。

後で知ったが、宇品線廃線跡の海岸通りの下丹那駅跡付近から垣間見ることができるらしい。 悔しい、見損ねた。また来よう。。。

場所

https://goo.gl/maps/CBy18Mxzk38WWgzX8


広電宇品線

中心部にぼちぼち戻ろう。。。

なんか、見逃したところ多数ですね。時間に余裕がなかったので、致し方がないです。きっと、ここにはまた来ます。

※撮影は2021年4月


関連

広島陸軍被服支廠倉庫跡

広島に出張があった際に、スキマ時間で散策をしてみました。
時間が捻出できなかったのでピンポイントの散策になりましたが。


広島陸軍被服支廠倉庫(出汐町倉庫

現存する4棟のうち、第 1~3 号棟は広島県所有。第 4 号棟は国所有(中国財務局)。
最大級の被爆建物。
国内に現存する最古級の鉄筋コンクリート造建築物として建築史上でも貴重。解体方針も打ち出されていたが、保存活動により、広島県は保有する3棟を耐震補強し保存する方針を示した。

大日本帝国陸軍の被服工場として建設された施設。
兵員の軍服や軍靴などを製造していた。

1905年(明治38年)4月陸軍被服廠広島出張所として開設。
現存する10-13番庫は、1913年(大正2年)8月竣工。
1907年(明治40年)11月に陸軍被服廠支廠に昇格。

1945年(昭和20年)8月6日。
原子爆弾により広島市は壊滅。爆心地から約2.7km離れていた被服支廠は外壁の厚みが60cmと厚かったこともあって焼失や倒壊は免れ救護所として使用。多くの避難民がこの地で息を引き取った。このとき爆風により大きく歪んだ窓の鉄製扉は、現在もそのまま残されている。

戦後、旧被服廠の敷地や建物などは徐々に解体され、現存は4棟のみとなっている。
南の1棟は広島大学が学生寮として使用したのちに国の管理に、西の3棟は日本通運出汐倉庫(旧日本通運出汐倉庫1-4号棟)として使用していたが、1995年に日通は使用を停止し県に譲渡されている。

現存する4棟、広島陸軍被服支廠10-13番庫は1913年(大正2年)8月に竣工。L字型に並んでいる。現在、1-3号棟は県が、4号棟のみ中国財務局が所有し、4棟とも県が一括管理。


詳細情報は、いかに詳しい。
アークウォーク広島

https://www.oa-hiroshima.org/buildings/buildings05.html

旧被服支廠の保全を願う懇談会

http://hifukushisho.jp/index.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:B26-C2-21
昭和14年(1939年)12月6日、日本陸軍撮影の航空写真

被爆前。

中央の山が「比治山」。「陸軍墓地」がある。
比治山の南西が「広島要塞砲兵聯隊(電信第2聯隊)」
比治山の南が「広島陸軍被服支廠」
比治山の南東が「広島陸軍兵器支廠(広島陸軍兵器補給廠)」

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M251-46
昭和22年(1947年)4月14日、米軍撮影の航空写真

被爆後。

下記写真の北東が爆心地。京橋川より西側が、。。

合掌

上記の写真から、それぞれ 広島陸軍被服支廠倉庫 を切り取り。

北から並んでいる3棟が「1号棟」「2号棟」「3号棟」。広島県所有。
南側で横になっているのが「4号棟」。国(中国財務局)所有。


広島陸軍被服支廠倉庫跡の散策

敷地内の立入りは広島県庁へ事前申込みで、広島県財産管理課まで見学申請が必要。(平日のみ)
当日は県庁まで鍵の受取と返却が必要。建物内見学は不可。

私は、さすがに時間がなかったので、敷地外の道路からの見学を。
敷地外からでもわかるレンガ建造物に圧倒的な重厚感に圧巻。
そして、爆風の衝撃を残す痕跡に、静かに手を合わせる。

被爆建物
A-Bombed Buildings

被爆時の名称 
広島陸軍被服支廠
(爆心地から2,670m)
この建物は、1945年(昭和20年)8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。被爆直後は臨時救護所となり。避難してきた多くの被爆者が次々と力尽きていきました。爆心地の方向に面していた西側の鉄扉のいくつかは、被爆時の爆風で変形した痕跡をとどめています。
 広島市

以下、写真にて。

爆風の圧で押し曲げられた鉄扉。

時間にあるときに、比治山を交えて、また改めて足を運びたいと思います。

※撮影:2021年4月


関連

名古屋城周辺の戦跡と近代建築

本記事は2017年1月と2018年6月に名古屋方面を散策した際の記録をまとめたものになります。
2022年現在とは様相が異なる可能性濃厚ですが、往時の記録としてご参照いただければ幸いです。

なお、このころの散策はムラが多いので見逃し多数ですが、まあ、そのうち再訪するということで。。。


騎兵第三聯隊跡

名古屋市役所の北西角にある石碑。

騎兵第三聯隊跡
 名古屋市長 杉戸清書

騎兵第三聯隊は明治二十五年十一月創設以来昭和三年三月守山に移転する迄此の地に駐留せり
茲に往時を偲び明治百年を記念し之を建つ
 昭和42年4月 騎三会

場所

https://goo.gl/maps/rMq48pch1osUXDyq5


松脂採取跡

名古屋市役所の北側には松並木がある。
松脂採取跡。これも戦争の名残。


加藤忠四郎翁之碑

加藤忠四郎翁之碑
 陸軍大将 宇垣一成書

昭和6年4月建立。撰文は陸軍歩兵大佐津田次郎。
加藤忠四郎翁は第三師団に大きな貢献をし、雑役の元締として60余年奉仕的に勤め名古屋の第三師団では知らないものがいないほどの有名人であったという。


名古屋市役所

名古屋市役所。国重要文化財。
1933年(昭和8年)竣工。
政令指定都市の中では1927年竣工の京都市役所に次いで2番目に古い。
名古屋市役所本庁舎は、 昭和天皇即位の記念事業として建設され、日本趣味を基調とした近世式意匠の建造物として特徴的。いわゆる帝冠様式建物。


愛知県庁

愛知県庁。国重文化財。
愛知県庁本庁舎は1938年(昭和13年)3月完成。
昭和天皇御大典の記念事業の1つとして建設。頂部に名古屋城大天守風の屋根を乗せた帝冠様式。
日本趣味溢れる建造物。

名古屋市役所と愛知県庁。
帝冠様式・国重要文化財コンビ。

巨大な帝冠様式建造物がドーンっと並んでいるさまは圧巻の一言。
この日本趣味丸出しの昭和初期を代表する建造物たちに歴史的重みと風格を感じます。
見ていて飽きませんね。


野砲兵第三聯隊跡
(旧・名城東小公園)

かつてここに公園があり、その公園の中には「野砲兵第三聯隊跡碑」があった・・・という。
2018年現在では公園は閉鎖され再開発中でした。
碑は・・・どうなったのだろうか(不明


第三師団司令部跡の煉瓦塀

二の丸交差点の北西角に煉瓦壁が残る。
レンガはイギリス積み。

場所

https://goo.gl/maps/adTLjZkUhCiKegEk8


名古屋城二の丸

ここにかつて歩兵第六聯隊が展開されていた。


歩兵第六聯隊

二の丸の敷地。

歩兵第六聯隊之由来
抑々明治4年8月、東京鎮台第3分営を名古屋に設置せられたのが起源で、その後明治6年第3分営を名古屋鎮台と改め、歩兵6番大隊と称した。
この年わが国に徴兵令が施行され、翌年3月壮丁を愛知、三重、岐阜の県から徴集し、歩兵第6聯隊を創設し、此の地名古屋城二の丸に兵営を新築し、12月27日軍旗を拝授し衛戌した。
以来精強な軍隊の練成に励み国威の宣揚に尽した。
健軍早々にして明治10年西南の役に初陣し、熊本城の圍を解き本営を護衛し干城の任を尽した。
その後日清戦役に出陣し、九連城海城の戦闘で勇名を挙げ、明治37、8年の日露戦争にては首山堡、沙河、于洪屯の戦闘で武勲を樹てた。
大正7、8年のシベリア派遣、昭和初期における山東派兵及び満洲に加わりて、克く護国の大任を完うせり。
昭和12年支那事変勃発するや上海方面に急派せられ、幾多の辛酸をなめ威武堂々、南京、武漢に転進、次いで応山浙河地区に進駐し警備地の治安確保に任じつつ大東亜戦争に突入し、専ら大陸にありて長沙、常徳、湘桂など累次の会戦に加わりて、東亜新秩序の建設に邁進した。
然れども大勢我に利なく終戦となり、命により武装を解除し国軍は解散するの憂き目に遭い、今や郷土の誇りを継ぐ軍隊なきは誠に遺憾に堪えない。
茲に戦友相計り由縁の地に碑を建て、由来を刻み先人の偉績を顕彰し、併せて殉国の英霊を弔慰し其の功勲を不朽に伝う。
 昭和55年3月10日
  元歩兵第6聯隊戦友生存者有志建之

歩兵第六聯隊之跡
 河辺正三 書

明治4年8月20日創設
昭和20年8月15日解隊
昭和39年軍旗親授90周年記念建立

忠霊

馬魂碑

軍役動物の慰霊のために
昭和55年3月10日 歩六会建之

勅諭下賜五十周年記念碑

昭和7年

場所

https://goo.gl/maps/Sir2v3PCQNZ6ssmJ6


名古屋城

訪れたときは、改修工事中でした。(2018年)


天守礎石

天守礎石
昭和20年(1945年)の名古屋空襲で焼失した旧国宝天守の礎石。
焼け焦げた様子が今も残る。

場所

https://goo.gl/maps/CMx7uidECJteMvib8


乃木倉庫(弾薬庫)

乃木倉庫
 登録有形文化財(平成9年)
 乃木希典が名古屋鎮台に在任していた明治初期に建てられたと伝えられ、だれいうとなく「乃木倉庫」と呼ぶようになった。
 当建物は、煉瓦造平屋建で旧陸軍の弾薬庫であった。昭和20年5月14日の名古屋空襲の際、天守閣、御殿等が消失したが、本丸御殿の障壁画や天井絵類の大半を取りはずしてここに保管していたため被災を免れた。のちに煉瓦の保全のため白亜塗りにした。
 なお、被災を免れた障壁画等は重要文化財に指定されている。
  名古屋市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/XRC3zKxLBwf6RU6c6


戦争に関する資料館
愛知県庁大津橋分室

愛知県庁大津橋分室。建物としては1933年(昭和8年)に竣工。

場所

https://goo.gl/maps/S1DzhcXZjkwXGvh57

名古屋は、再訪して、がっつり歩きたいですね。。。

撮影:2017年1月と2018年6月


関連

愛知縣護國神社
豊橋の戦跡散策

名古屋陸軍造兵廠千種製造所跡(千種公園)

愛知県名古屋市千種区の「千種公園」は、かつては陸軍の工場であった。


名古屋陸軍造兵廠 千種製作所

名古屋陸軍造兵廠千種製作所は、 1919年(大正8年)発足。
第一次世界大戦で新兵器として登場した飛行機の国内生産に取り組むために設置。
熱田製作所で機体を生産し、千種製作所で発動機を生産する分業体制であった。
名古屋には三菱や愛知時計電機などもあり、民間工場も活性化していた。

1923年(大正12年)の関東大震災により、東京砲兵工廠が被害を受けたために、陸軍は小銃などの兵器生産を名古屋と小倉に分散。関東大震災以降に千種製作所は拡大し、小銃・機関銃などの生産も開始。

1945年(昭和20年)3月25日、4月7日、6月26日の3回、米軍B-29の爆撃を受けており、職員だけでも69人以上の犠牲者が出ている。

千種公園

案内地図には、慰霊碑等の記載はない。


名古屋陸軍造兵廠千種製造所慰霊碑

千種公園内の遊歩道脇にある。一見しただけでは、なんの慰霊碑かはわからない。裏の碑文を読めば、「名古屋陸軍造兵廠千種製造所」の慰霊碑であることがわかる。

ここに涙あり
されど
平和は永遠に

 名古屋市長 杉戸清 書

ここは元名古屋陸軍造兵廠千種製作所の所在地であって大正八年開所以来兵器を製造して国家の要請に応え、多大の貢献をした由緒ある地である。
太平洋戦争において全従業員は祖国愛に燃えて職域を固守したのであるが、不幸にして昭和二十年三月以降数度の爆撃を蒙って六十九名の犠牲者を出し、これに戦前の公務による死亡者五名を加えて計七十四名の殉職者を出したことはまことに痛恨の極みである。
 ここに有志相図り旧構内にこの碑を建立して記念としあわせて永遠の平和をこい願うものである。
  昭和43年6月
元名古屋陸軍造兵廠千種製造所関係者有志一同


名古屋陸軍造兵廠千種製作所の外塀跡

ちかくには、名古屋陸軍造兵廠千種製造所の外壁コンクリート塀が移築されている。
爆撃によって、無数の穴が空いている様がよく分かる。

第二大戦の末期、再度の名古屋空襲はこの地にあった名古屋陸軍造兵廠千種製作所に甚大な被害を与えた。この碑はその爆撃による痕跡を残す外塀の一部を移設し戦争の記録として残したものである。
 昭和62年1月


民間戦災傷害者の碑

千種公園内には、もうひとつ戦災に関係する碑があった。

痛みを共有し、継承を
 第二次世界大戦中、戦闘機のゼロ戦を生産するなど大軍需都市だった名古屋市は、60回以上の米軍の空襲を受け、街は焼き尽くされ、市民約8000人が死亡、それに劣らない数の人々が重軽傷を負った。
 死傷した民間人も国が援護すべきという運動は、昭和47年、全国戦災傷害者連絡会(杉山千佐子会長)により、ここ名古屋から始まった。一方、名古屋市は平成22年に「民間戦災傷害者援護見舞金」制度を受け、独自の援護を開始した。
 大戦が終わって70年が過ぎようとしている。壊滅した名古屋の街は市民のたゆまぬ努力によって復興、目覚ましい発展を遂げ、今日では、日本を代表する大都市となった。
 しかし、世界ではいまだに争いが絶えず、惨禍が繰り返されている。
 名古屋市は、市民が再び戦火に巻き込まれることがないようにと願うとともに、空襲で体と心に癒えない傷を負った方々の長年の苦難に思いを寄せ、その痛みの記憶をここに刻む。
 平成26年11月 名古屋市

民間戦災傷害者の碑
 平成26年11月
設置:名古屋市健康福祉局
写真提供:中日新聞社
     戦争と平和の資料館ピースあいち

※撮影は2021年11月

場所

https://goo.gl/maps/LB2xHbeAVBFkGfAo9


関連

座間・陸軍士官学校の戦跡散策3「陸軍士官学校の水道施設」

陸軍士官学校周辺の戦跡散策。その1は、富士山公園の「陸軍士官学校遙拝所方位盤」、その2は「座間公園」でした。 その3では、水道施設を見て歩きます。

陸軍士官学校では、陸軍軍人だけではなく、士官養成のために多くの軍馬も飼育していた。人馬ともに必須となるのが「水」。士官学校のおかれた座間は、多くの谷戸を有し湧水や地下水が豊富にある土地であった。

座間谷戸山公園

座間市役所のすぐ近くにある座間谷戸山公園。陸軍士官学校=キャンプ座間の地からは、南東に位置している。
陸軍士官学校の遥拝所があった富士山公園と谷戸山公園はそれぞれが山地となり、その間の谷を小田急が走っている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R355-95
昭和22年(1947年)10月24日、米軍撮影の航空写真

上記を一部拡大、加工。(クリックで拡大可)


座間谷戸山公園
陸軍士官学校の水道施設(配水地)

陸軍士官学校(現在のキャンプ座間)に水道水(地下水)を送るために作られた施設。
谷戸山という不思議な地名にも現れている通り、この界隈は、文字通りに谷戸が多く、人馬ともに必須となる水が豊富に湧く土地でもあった。

陸軍士官学校から、米軍基地に形はかわっても、今も給水施設がこの地にあった。

現在も米軍の管理下。今も昔も自由に立ち入りはできない軍事用地。

WARNING
RESTRICTED AREA
Keep Out
Authorized Personnel Only
警告
許可なき者立ち入り禁止

陸軍時代当時のものと思われる門柱が寝そべっていた。

礫(小石)の交じるコンクリート。

もう1本の門柱は、今も立っていた。

近くには、陸軍境界標石(陸軍境界杭)もある。何故か、黄色くなっている。

手前の防衛施設庁の杭は倒れそう。
おそらくは埋め込んだ深さが違うのだろう。その点、陸軍の境界杭はしっかりしている。

ここにも。埋もれていて見つける難易度が高い。

草を掻きわけた。出てきました。

この左側に上記の2つ境界石を見つけた。この界隈には他にも有るらしいが見つけられなかった。。。

配水地

県立座間谷戸山公園

北入口付近からみた眺望。
左が谷戸山公園の森、右が富士山公園の森。富士山公園には陸軍士官学校の遥拝所がある。
富士山公園の向こう側が、かつての陸軍士官学校。

場所

https://goo.gl/maps/3BEZ69ZML2tbfgRP7


目久尻川・上栗原橋右岸(西側)
陸軍士官学校の水道施設(第1水源地)

座間谷戸山公園から南東側に歩む。陸軍士官学校とは逆の方向に。
目久尻川が作り出した低地に、陸軍士官学校の水源地のひとつがある。「第1水源地」
さらに東側(芹沢公園の西側の谷戸)にある「第2・第3水源地」から送られてきた地下水と合せて北西方向にある前述の座間谷戸山公園内の「配水池」へ送水している、という。
現在は、米軍キャンプ座間の管理下にある。

もちろん立ち入り禁止。

上栗原橋


目久尻川・上栗原橋左岸 (東側)
陸軍士官学校の水道施設(第1水源地)

目久尻川を挟んだ対岸(東側)に八角形の建物がある。陸軍士官学校時代の建物と推測。用途は不詳。
同じく、現在も米軍キャンプ座間の管轄にある。

この界隈をぐるぐると歩いてみましたが、境界標石は見つかりませんでした。

場所

https://goo.gl/maps/ryqZ8wxywgWX2zZQ7


西老場
陸軍士官学校の水道施設(第2・第3水源地)

前述の「第1水源地」から更に東に歩く。栗原中学校の東側に谷戸がある。谷戸の先は、芹沢公園。芹沢公園といえば、高座海軍工廠の地下壕もある。同じエリアに陸軍の水源地もあった、ということになる。

もちろん、立ち入りできない。

航空写真で見てみると、2つの建屋があることが分かる。

場所

https://goo.gl/maps/z6oxvk3h6TcbeSST6

ここまでくると芹沢公園がすぐ近く。高座海軍工廠の地下壕があった場所。せっかくだから足を運ぶのもよいだろう。

※撮影:2021年12月

その4で米軍基地、です。


行程

この日は「陸軍士官学校の戦跡散策その1」「その2」「その3」「高座海軍工廠の地下壕と台湾少年工顕彰碑」の4つを1日で回りました。
距離は約20キロ、6時間30分の散策、でした。。。(下記タイムラインは一部GPSが乱れてます)


座間・相模原関連

座間・陸軍士官学校の戦跡散策2「陸軍士官学校境界石と軍馬功労碑」

陸軍士官学校周辺の戦跡散策。
その1は、富士山公園の「陸軍士官学校遙拝所方位盤」でした。

ここでは、「座間公園」界隈の散策を実施。


座間公園

キャンプ座間の西側に南北に細長く広がる公園が座間公園。公園の途中には座間神社も鎮座している。

入り口は4箇所。
今回のポイントは、「北口」「中央口(南側)」となる。

北から順番に。


座間公園北口
陸軍士官学校境界石(境界杭)

座間公園北口からの公園入口と民家との境界線上に、2つの標石があった。
文字が刻まれている側は民家塀側となるために不明。

「ひとつめ」

「ふたつめ」

座間神社

日本武尊を祀る古社。創建伝説には、飯綱権現の化身が悪疫の際に湧水を使用するようにお告げしたというように、座間は水と縁が深い。

座間神社の裏側は、キャンプ座間の米軍基地。野球場が広がる。


座間神社の北裏
陸軍士官学校境界石(境界杭)

座間神社の裏側、北側の座間公園側に、それっぽい標石があった。だいぶ埋まってますね。。。


軍馬功労碑

陸軍士官学校で飼育されていた数百頭にも及ぶ軍馬の功労を讃える慰霊碑。
士官学校では、馬乗は士官の必須項目であったため、大量に馬を飼育していた。

旧陸軍士官学校軍馬功労碑
陸軍中将 山室宗武 書
昭和14年夏建立

山室宗武は、昭和13年6月から第35代校長と、予備役再招集後の昭和19年8月からの第39代校長を勤めている。


座間神社の南裏
陸軍士官学校境界石(境界杭)

軍馬功労碑の南側、物置小屋の柵ちかくに無造作に横たわっている石杭。。。

あっ、これは陸軍境界標石ですね。

座間公園南側
陸軍境界支柱

公園内に無造作にたつ1本の石柱。どうも当時のものっぽい。

座間公園南側
陸軍士官学校境界石(境界杭)

公園と民家の境界に今も立っている石杭。

ちなみにこは、当時のものではなく、最近の境界石。

防衛施設庁

場所

https://goo.gl/maps/vYEL4vogeCSvCJHN9


相武台1丁目緑地
陸軍士官学校境界石(境界杭)

ちょっと(だいぶ)場所を移動しまして。相武台前駅の北側、相武台病院の裏にある公園に。
ここに、ふたつの石杭が残されていた。おそらく移設だとは思うけれども。

陸士

「陸士」とは、陸軍士官学校のこと。
ちょっとおしゃれなピンク色。子供が色を塗ったのかもしれないですね。。。

裏面には「9」とありました。

もうひとつは、「陸」の一文字。

場所

https://goo.gl/maps/4LUL2EaDtiX2VzjV6

※撮影:2021年12月

次は、陸軍士官学校を支えた水源地の散策。


座間・相模原関連

座間・陸軍士官学校の戦跡散策1「陸軍士官学校遙拝所方位盤」

座間には、陸軍士官学校があった。
陸軍士官学校の土地は、現在の「キャンプ座間」となっている。キャンプ座間にはそうそう立ち入りはできないが、周辺にも「陸軍士官学校」を物語る史跡があるので、ちょっと散策してみた。


陸軍士官学校
「相武台」

小田急「相武台前駅」、JR相模線「相武台下駅」。
座間市と相模原市に地名として使用されている「相武台」は、もともと陸軍に関係のある名称であった。

昭和12年(1937年)、陸軍士官学校が、市ヶ谷台より座間に移転。
昭和12年12月20日に行われた陸軍士官学校卒業式に 昭和天皇が行幸した際に、同校に「相武台」の名称が賜名された。

  • 市谷台 座間に移転する前の陸軍士官学校(本科・予科)
  • 相武台 陸軍士官学校(陸士)
  • 修武台 航空士官学校(航士)
  • 振武台 陸軍予科士官学校(予士)
  • 若松台 陸軍経理学校
  • 健武台 東京陸軍幼年学校

陸軍士官学校が移転したあとの市谷台には、陸軍省や参謀本部などの省部が三宅坂から移転し、陸軍の中枢となった。

市ヶ谷台

振武台

若松台

健武台

昭和16年(1941年)1月1日に、小田急「士官学校前駅」が「相武台前駅」に改称。相模鉄道(JR相模線)の「陸士前駅」も「相武台下駅」に改称。界隈では「通信学校駅」は「相模大野駅」に改称。いずれも防諜上の理由からというが、陸士を象徴する「相武台」を用いた駅名がそのまま戦後も使用されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M372-126
昭和22年(1947年)7月9日、米軍撮影の航空写真

一部拡大のうえで加工。


陸軍士官学校遙拝所方位盤

「富士山公園」の頂上にある方位盤。
この山には、かつて浅間神社があったゆえの富士山公園なのかもしれない。

史跡
旧陸軍士官学校遥拝所方位盤
 建立 昭和15年(1940)

由来
 昭和12年(1937)東京からこの地に移転開校した陸軍士官学校の生徒は、毎朝、点呼後に雄健(おたけび)神社に参拝し、続いて遥拝所に赴き宮城(皇居)・明治神宮・伊勢神宮及び各自の原隊や故郷に向かって遥拝するのが日課となっていた。
 この方位盤は、その遥拝するための方位と、国内外・朝鮮半島・中国東北部の主要都市の方位を矢印によって表示したもので校内では最も重要なところとされていた。

位置 旧浅間神社跡(浅間神社は明治42年〈1909)、座間神社に合祀された)
 なお、ここは南地区で北地区の遥拝所もあったが現在はキャンプ座間内に礎石だけが残っている。
  平成18年7月
   座間市教育委員会

東側。
千葉、明治神宮の方向。

北側。
旭川、高田、新京

西側。
京城、広島

方位盤。

毎朝、士官学生たちは、この広場に集まって、各方向に向かって遥拝した。

士官学生が、毎朝に駆け抜けた道。


富士山公園の防空壕

遙拝所方位盤と陸軍士官学校を結ぶ道の途中に、ぽっかりと穴が開口してた。
これは往時の防空壕かもしれない。

遙拝所方位盤と陸軍士官学校を結ぶ道

座間キャンプのフェンスの向こうにも、道がつながっていた。
この先は、かつての陸軍士官学校。今は立ち入りできない。

富士山公園にある、何かの基礎。往時のなにかの遺構かと思いきや。。。
「石の迷路」だそうな。なーんだ、面白くない。

https://www.city.zama.kanagawa.jp/www/contents/1223611954014/index.html


富士山公園

入り口。「富士山公園前」バス停が最寄りではあるが、相武台前駅から歩ける距離。

場所

https://goo.gl/maps/fT7KwhCuHAAamk1G7


キャンプ座間

米軍基地。
一般公開があるときに見学したい。今回は素通り。正門の写真を撮るだけでも守衛に注意されるらしいので写真も取らず。そのまま「行幸道路」(県道町田厚木線)を西に歩む。

※キャンプ座間、行きました!

ここで言う「行幸道路」とは、県道町田厚木線のうちJR横浜線の町田駅から在日米陸軍キャンプ座間までの約7キロの道をいう。昭和天皇が、陸軍士官学校の卒業式に行幸するための道路として作られた。


相模原隧道

陸軍用地を東西に横断するためのトンネル。

隧道諸元
延長・・・60メートル
幅員・・・6.1メートル
高さ・・・5.6メートル
竣工・・・昭和14年(1939年)

昭和14年3月竣工

相模原隧道


市道新戸相武台(新戸隧道)

ちなみに、陸軍士官学校時代からの東西横断道路と隧道はもう一つある。

1937(昭和12)年、旧日本陸軍が地域住民のために陸軍士官学校の敷地を貫く道として整備された市道新戸相武台(新戸隧道)。2020年に拡張工事が行われて、トンネルとしては当時の面影は残っていない。

米軍基地側から東西の貫通道路を望む。。


https://machida.keizai.biz/headline/3086/

https://goo.gl/maps/V8gwBBrexzN54Bzr7

https://goo.gl/maps/VaMC6wJqXW9ZKByS7


相模原隧道を西に抜けると、座間公園や座間神社があります。

座間・陸軍士官学校の戦跡散策2へ。

※撮影:2021年12月


座間・相模原関連

鉄道連隊演習線松戸線の散策3(鉄道連隊橋脚・鎌ヶ谷)

鉄道連隊の跡地散策。
この日は、新京成線沿線から離れ、東武野田線(東武アーバンパークライン)の馬込沢駅から20分ほど歩いた場所にある、演習線の橋脚を見学。


新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。

鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-45
昭和22年(1947年)09月24日、米軍撮影の航空写真

google航空写真でほぼ同位置。演習線の跡を色付け。ポイントが橋脚跡。
新京成の鎌ヶ谷大仏駅は、曲線をショートカットした新設線路で新駅であることがわかる。

拡大。


鎌ヶ谷の鉄道連隊橋脚

史跡 
鉄道連隊橋脚
  所在地 鎌ヶ谷市東道野辺6丁目8番

 この橋脚は、昭和初期に旧日本軍の鉄道大隊が、訓練や物資等の輸送のため、建設した鉄道の一部です。
 近代の戦争では、鉄道は人や物資の輸送のために重要な役割を担っていました。千葉県でも、鉄道大隊から独立した第1鉄道連隊が千葉町(現在の千葉市)に、第2鉄道連隊が津田沼町(現在の新京成新津田沼駅の辺り)に配備され、昭和20年(1945年)第2次世界大戦終了まで活躍しました。
 この橋脚は、第2鉄道連隊が、大戦中、鉄道を敷く訓練として津田沼~松戸間に設けた路線の一部でしたが、終戦後は放置されていたため、この部分を除くほとんどを京成電鉄が買い受けました。その後、昭和21年(1946年)に京成電鉄の出資により新京成電鉄が設立され、当路線の整備を行いました。しかし、この部分は整備から除かれ、この橋脚だけが残りました。現在の新京成電鉄の全線が、整備を終え開通したのは、昭和30年(1955年)のことでした。
  平成11年3月 
  鎌ヶ谷市教育委員会

アカシア児童遊園

児童遊園の中に橋脚が残っている。

西側の1番目。

西側の2番目。

西側の2本。

東側の二本。合計、四本の橋脚が残されている。

端の橋脚は凹型。

桜の季節が気になる枝ぶり。「戦跡と花見」というのは良きポイントですね。
もちろん、桜は戦後の植樹。

今は暗渠となっているが、この四本の橋脚のちょうど中間に川が流れていた。
そのために窪地となっており、鉄道連隊演習線は、この部分に橋を渡した。

地理院地図の標高地形図をみると、凹み具合がわかる。

https://maps.gsi.go.jp/#18/35.747603/140.002915/&base=std&base_grayscale=1&ls=std%7Crelief&blend=1&disp=11&lcd=relief&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

Google Mapsでも、道路のアップダウンが分かる。

場所

https://goo.gl/maps/MJrHPkUPMVwzxBqz6


陸軍境界標石(石杭)

公園の西端入口に、境界石もあった。

陸軍

場所

https://goo.gl/maps/oTpYKdmbq3JEzL5PA


出会い

実は、ここで偶然の出会いがありました。

私が橋脚の写真を撮っていると、同じくカメラを持っている御仁が。
「ん?同業者さんか??」と思って、そうこうして、挨拶を交わしてみると。。。

なんと、日本戦跡協会の代表さん!
(戦跡協会さんからすると、なんと、戦跡紀行さん!となったようですが。。。)
この場所で、タイミングよく出会うというのは、かなり奇跡的。
私が、橋脚を見ようかなと考えたのは、この日の移動中の電車の中でしたので、直前まで行き先も確定させていなかったので。

日本戦跡協会さんのサイト
 https://www.sensouiseki.com
日本戦跡協会さんのTwitter
 https://twitter.com/sensouiseki
日本戦跡協会さんのFacebook
 https://www.facebook.com/sensouiseki/

戦跡協会さんのTwitter等で発信される情報は、かなりの頻度で拝見しておりました。日本のみならず海外情報にも明るく、それらの記録は大変に秀逸なもので、まさかここで偶然の極みで御縁が出来るとは思いもよらず。今年(令和4年)の戦跡フィールドワークの幸先は良く、充実したものになりそうです。

このあと、せっかくの御縁なので、 日本戦跡協会さんと一緒に、千葉界隈の戦跡散策を実施。
それらの戦跡探訪記録は、おいおい掲載していきます。。。
ありがとうございました。

ひとまず、本編は以上で〆

※撮影:2022年1月


鉄道連隊演習線松戸線の散策2(新京成電鉄・常磐平駅~五香駅)

新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。

鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。

八柱駅界隈はこちら。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:893-C1-168
昭和19年(1944年)09月27日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を拡大、文字入れ加工。
オレンジ色は、現在の情報を追記。

常盤平駅と五香駅のあいだの鉄道連隊演習線区間は、北に大迂回をしていたが、新京成ではショートカットされたことがわかる。


常盤平駅

常盤平駅から北に。


「金ヶ作 熊野神社」と「囲いやまの森」の西側

境内地と森の西側を北に向けて歩く。
この道は、当時の鉄道連隊演習線の線路跡になる。

場所

https://goo.gl/maps/QYjKkZvYxQE4Uajy6

急に林となるが、そのまま北上する。ここも演習線の線路跡。


陸軍境界標石(陸軍境界杭)1

開けたところに、石杭がみえる。陥没しているが、これはきっと境界石。


陸軍境界標石(陸軍境界杭)2

そのまま北上すると、「印西道」に交差する。その交差の南側にありました。
はっきりと「陸軍」の刻印がわかる境界石が。

印西道は、さすがに交通量が激しい。

場所

https://goo.gl/maps/VV9AFECwZzjjCsQWA


陸軍境界標石(陸軍境界杭)3

北端部分にもいくつかの境界石があるというが、住宅地となっており、建て替えなどもすすんでおり、きれいになった住宅が多数。おそらく消失したものと思われる。

「千葉鎌ヶ谷松戸線」に面したところに、それっぽい石杭が残っていた。

https://goo.gl/maps/TnajYL8VcfgDRfPQ8

演習線路は、東に伸びて、ヨークマート青葉台店の辺りで南下するが、このあたりは痕跡は残っていない。


「松戸市立金ケ崎小学校」の東

北東側は道も残っていないほどに再開発がすすんでいる。
松戸市立金ケ崎小学校の東側に伸びる道路が、演習線路跡の名残を伝えている。


陸軍境界標石(陸軍境界杭)4

その南端部の突き当りの道 「千葉鎌ヶ谷松戸線」 と合流先に、石杭があった。
上部の一部が欠けているが、これもきっとそうに違いない。

右側の道路が「鉄道連隊演習線跡」。左側が、「千葉鎌ヶ谷松戸線」。
石杭は左の看板の陰にあった。

場所

https://goo.gl/maps/3NZVLZoegnUvCGnT9


五香駅

そのまま道沿いに南下すると、新京成電鉄「五香駅」に到着。
五香たかねちゃんがお迎えしてくれた。

他の境界石があるかもしれないが、再開発も進んでおり、なかなか住宅地の中を探し回るのも大変。

常盤平駅から五香駅まで、5キロで約1時間オーバーの散策でした。

※撮影は2022年1月

本記事は以上で〆


鉄道連隊演習線松戸線の散策1(新京成電鉄・八柱駅)

新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。


鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M676-145
昭和22年(1947年)11月28日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を抜粋。
現在の八柱駅は、集落から外れていた事がわかる。集落は「鮮魚街道」にあった。鉄道連隊の演習線であったことを鑑みれば、逆に集落の近くにあって欲しくはない。

今回の散策は以下のエリア。新京成電鉄「八柱駅」武蔵野線「新八柱駅」界隈を中心に散策しました。


八柱駅周辺散策

八柱駅から西に。住宅地のなかに標石があった。

陸軍境界標石(陸軍境界杭)

摩耗していて判別は難しいが、うっすらと「陸軍」と書いてあるのがわかる。

場所

https://goo.gl/maps/RUKPp931dg1SujtW8


八柱駅

八柱駅の周辺は、境界標石(境界杭)の宝庫。

陸軍境界標石(陸軍境界杭)・踏切

踏切近くに。

はっきりと「陸軍」と判読できる。

場所

https://goo.gl/maps/CwRVng6Vcpqy5MQd8

陸軍境界標石(陸軍境界杭)・駐車場

踏切の近くの駐車場にも「陸軍」があった。

場所

https://goo.gl/maps/fDbcJjAG6Ej9YKDFA


陸軍境界標石(陸軍境界杭)・鮮魚街道踏切近く

線路脇の歩道の真ん中近くに、陸軍の境界杭がそそり立っていた。通行の邪魔にもなる存在であれ、撤去されずに残っているのが嬉しい。

うっすらと陸軍の文字が読める。

けっこうな存在感。

場所

https://goo.gl/maps/zyHtuqBjsZKDQ1Cm9

陸軍境界標石(陸軍境界杭)・線路近く

新京成の線路沿いに、常盤平駅方面に歩く。


森のホール21

かつての演習線は、このあたりから、森のホール21・21世紀の森と広場方向に線路が伸びていた。

ちょっと寄り道します。


松戸市立博物館

陸軍工兵学校の門標が残っている。

陸軍工兵学校

陸軍工兵学校は、松戸駅の近くに。門柱も残っています。


平和の像

21世紀の森と広場の「光と風の広場」の奥まったところに、平和の像があった。
作者は雨宮敬子氏。

私たちの愛する街“松戸” 
緑あふれ、文化の香り高いこの地に
全ての市民と共に
世界の“生きとし生けるもの”の
恒久平和と豊かな未来を念願し
ここに、その象徴として『平和の像』を建立する。 
 平成3年3月 
 松戸市長 宮間 満寿雄

「21世紀の森と広場」には塹壕跡も残っているというが、公園はそこそこ広くて、散策の時間が取れなかったために、それは未訪。


鉄道連隊演習線跡と陸軍境界標石

森のホール21 (松戸市文化会館)から駐車場の脇の歩道を歩く。

ありましたね。

刻印は外側かもしれません。線路跡の歩道からは確認できませんでした。

埋もれてましたが、きっとこれもそうだと思います。

陸軍鉄道連隊の演習線路跡。

場所

https://goo.gl/maps/VdRUgnMcjFGSQc1b9


演習線路跡と新京成線の合流地点

演習線をショートカットするようにカーブを削った新京成線路と合流するあたり。
青面金剛碑がありました。

新京成の線路と、演習線路跡の合流地点。推測ですが。

新京成の標石もありました。

陸軍鉄道連隊の演習線は、この先の常盤平駅で大きく北に大カーブを描くが、新京成線は大カーブを嫌い、ショートカットした短絡線路を構築している。
常盤平駅と五香駅の記事は、別記事にて。

本記事は、ひとまずこれで〆。

※撮影は2021年10月