帝国陸軍船舶部隊の根拠地・宇品(広島)

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広島に出張した際のスキマ時間に。あまり時間が無かったけれども、宇品まで足を運んでみました。
この宇品港は、陸軍船舶部隊の中心地、であった。


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宇品へ

広島電鉄宇品線で南に向かう。

広島電鉄宇品線は、「宇品口(現在の元宇品口)」電停まで現在のルートで線が引かれたのが昭和10年(1935年)であった。

今回は「海岸通」電停で下車。臨海エリアを歩く。


旧広島水上警察署

広島水上警察署
(旧広島港湾事務所)
所在地:広島市南区宇品海岸2丁目23-53
概要:木造2階建、建築面積189.13㎡、延床面積360.80㎡
 この建物は、明治42年(1909年)、広島水上警察署として建設されました。
 昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾により被爆しましたが、爆心地から4.6km離れていたために倒壊を免れました。
 昭和40年(1965年)から広島港湾事務所の事務室として、昭和56年(1981年)から広島港湾事務所の倉庫として利用されてきましたが、平成22年(2010年)からは使用されていません。
 平成8年(1996年)、広島市の「被爆建物等登録台帳」に登録され、平成10年(1998年)、広島県教育委員会の「広島の近代化遺産」に掲載されました。
 今では、市内に現存する唯一の明治の木造洋風建築であり、歴史的にも建築学的にも価値が高いものです。
 広島県

何故か、1階部分正面のみ塗装が施されている。以前は1階も特には塗装などはなかったようだが。

場所


陸軍運輸部船舶司令部

宇品中央公園に旧陸軍船舶司令部の記念碑がある。

広島県宇品(宇品港) は、帝国陸軍船舶部隊の根拠地であり、陸軍運輸部の本部(のちに兼船舶司令部)も置かれ、陸軍を代表する特殊船舶であった「神州丸」「あきつ丸」など帝国陸軍船舶の母港でもあった。

旧蹟
陸軍運輸部
船舶司令部

昭和55年2月吉晨
暁宇品会
建之


陸軍運輸部が1904年(明治37年)4月に設置。
その後、日中戦争(支那事変)開戦に伴い、1937年(昭和12年)8月、第一船舶輸送司令部が宇品に発足。
平時の業務は運輸部が担い、戦時業務を第一船舶輸送司令部が担当することとなった。
太平洋戦争(大東亜戦争)突入後の1942年(昭和17年)7月に、軍司令部格の「船舶司令部」に改編。

1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下に際し、中国軍管区司令部を初めとする陸軍部隊は壊滅、藤井洋治司令官は被爆死。
また、第2総軍司令部は壊滅は免れたが大きな被害を受け、機能停止に陥った。
行政としての中国地方総監府・広島県庁・広島市役所も大きな被害を受け、大塚惟精地方総監・粟屋仙吉市長が被爆死したため、行政機能もほぼ停止した。

6日夕刻になって、たまたま市外への出張で難を免れていた高野源進知事のもとで比治山麓の多聞院に臨時県防空本部が発足。
この結果、爆心地から4キロメートル前後離れていた宇品に駐屯し大きな被害を受けなかった船舶司令官(佐伯文郎陸軍中将)が、翌7日以降「広島警備本部」として市内の救援活動や警備活動の指揮をとることとなった。
船舶司令部麾下の「暁部隊」は市内での活動に総動員され、これに従事した部隊員の中から多くの二次被爆者を出すことになった。
また被害を受けた広島電鉄の復旧のため、船舶司令部隊が所有していたマスト300本が電柱として利用され、広電の早期復旧にも役立った。

かつて、この地に、帝国陸軍の船舶部隊があった証。


明治天皇御駐蹕趾碑

1885年(明治18)年
明治天皇の広島巡幸の際、建設中の宇品港から呉・倉橋島を視察された記念して1939年(昭和14)年に建立。


宇品凱旋館建設記念碑

宇品凱旋館建設記念碑
 皇紀二千六百年 昭和十五(1940)年二月十一日
  陸軍中将 田尻昌次書

田尻昌次は、運輸部長。
宇品凱旋館は、鉄筋コンクリート造3階建物として、 1939(昭和14)年4月に建設。
宇品凱旋館は、昭和49年12月に解体され建設記念碑だけが残された。


みなとの歌の碑


 作詞 籏野十一郎
 作曲 吉田信太

そらもみなとも
 よははれて
つきにかづます
 ふねのかげ
はしけのかよい
 にぎやかに
よせくるなみも
 こがねなり

※ 空も港も夜はれて
  月に数ます舟の影 
  艀の通いにぎやかに 
  よせくる波もこがねなり

『港』の歌碑建立由来記
 私達が、小学校時代を連想するごとに。口ずさまれる国民唱歌の一つに「空も港も夜は晴れて・・・」の懐かしいメロディーがあります。
 しかし、この歌がいつ、どこで、だれによって作られたものか忘れられ、いうなれば流浪の歌の運命をたどっていました。
ところが、昭和四十八(1973)年八月、全日本海員組合の宮城伸三が前任地博多から広島に赴任され、ある日、宇品の居酒屋で、たまたま同席した一老人から、この歌は宇品を歌ったものであることを聞かされました。
 そこで、同氏は広島といえば、原爆の都市という暗いイメージを与えているが、この明るく生き生きとした情緒あふれる名曲を掘り起こし、広島のイメージ・チェンジをはかるならば、今後、広島のこども達の情操教育と、海事思想普及に貢献することができるだろうと考え、地元海運関係者や有志に呼びかけました。一同これに賛意を表し、いろいろ調査研究の結果、作詞は旗野十一郎、作曲は吉田信太(いづれも故人)場所は宇品暁橋(通称めがね橋)であることを確かめました。
 その結果、数多くの人々の協力により、昭和五十(1975)年七月二十一日、海の記念日のよき日に地元小学生等の手によって除幕され、ただちにこの歌碑を広島県に寄贈されました。
 こうして国民に親しまれました「港」の歌は流浪の旅を終え、生まれ故郷の宇品港に帰ることができました。
○ 歌碑は船の煙突をかたどった円筒型のコンクリート製(高さ三・九米)歌詞の四十八文字は、地元三小学校の四年生による一人一字の手書きであり「港」の字は港湾管理者宮沢県知事の自筆です。
○ 歌碑の周囲の「いかり」は呉市、内外運輸(株)の寄贈です。
○ 歌碑の裏面の「歌碑建立発起人一同」の文字は、建立の推進役をした全日本海員組合中国支部長の宮城伸三に書いてもらいました。
○ 建立関係の書類、除幕のアルバム、資料は末永く記念するため、ここに保存してありますから御閲覧下さい。


平和の礎

シベリア抑留関連の記念碑。

ありし日に
 君と遊びし
  砂の浜
こゝに建つなり
 平和の
  祈り

先の大戦の後においても、強制抑留された本県出身者の多くは、この地宇品港から出港した。
その軌跡をここに刻み、世界の恒久平和と広島港が国際平和港として発展することを記念してこの碑を建立する。
 平成6年12月吉日
 財 全国強制抑留者協会広島県支部

 悲惨を極めた第二次大戦は、昭和20年(1945年)8月15日、日本のポツダム宣言受諾により集結した。
 戦争終結にもかかわらず、在満並びに北方地域の邦人並びに将兵は、シベリア各地に抑留された者約60万人、本県関係者1万6000人余は極度の重労働と飢餓、酷寒の中、1000人余が無念の死を遂げ、帰国せしも極度の栄養失調、塵肺その他の重い病気に耐えず消えた者600人余、これらの友の霊を鎮め、恒久平和の祈念をこめてこの碑を建立す。
する。
 平成6年12月吉日
 (財) 全国強制抑留者協会
      広島県支部建立委員会


宇品線の足跡をたどる  
鉄道伝説つかりの地めぐり

広島の宇品港は日清戦争において輸送の拠点基地となりました。広島駅と宇品を結ぶため大急ぎで整備されました。その期間、わずか17日、日本最短と云われています。
また、宇品駅のホームは積み下ろしを迅速に行うため何と560mもありました。これも当時は日本最長と云われていました。数々の伝説を生んだ宇品線ですが、昭和61(1986)年に廃線になりました。

宇品線の跡を散策するのも楽しそうだ。。。


宇品中央公園

場所


宇品の海

かつてここは、帝国陸軍の海であった。

宇品島。

私としたことが、残り持ち時間に焦りを感じ、すぐ隣の「六管桟橋(旧陸軍桟橋)」や「国鉄宇品線跡」のある宇品波止場公園に行きそこねてしまい。。。

しゃーない、また来よう。。。


広島陸軍糧秣支廠倉庫跡

広島陸軍糧秣支廠倉庫のあとが、わずかに残されている。被爆建物として黒く焦げた跡が生々しい。。。

広島陸軍糧秣支廠
(爆心地から約4.6キロメートル)
陸軍糧秣支廠は、戦時において必要な兵隊の食糧や軍馬の飼料を調達、補給するために設置されました。1894(明治27)年に日清戦争が始まると、当時山陽鉄道の西端であった広島駅とここ宇品を結ぶ軍用鉄道を二週間あまりの突貫工事により完成させ、宇品港は第二次世界大戦が終結するまで陸軍の海外への輸送基地となりました。この倉庫は、1910(明治43)年頃、軍需物資を保管するため、宇品駅のプラットフォームに沿ってレンガ造りで建てられました。1945(昭和20)年8月6日の原爆による被害は、爆心地から離れていたため、軽微にとどまり、傷ついた大勢の被爆者はこの付近の陸軍の関連施設に収容され、手当てを受けました。戦後、日本通運株式会社に払い下げられ、倉庫として利用されてきましたが、1997(平成9)年、広島南道路の整備にあたり、被爆建物として歴史を後世に伝えるため、その一部をモニュメントとして保存するものです。
(旧広島陸軍糧秣支廠倉庫 1985(昭和60)年4月 井手三千男氏撮影 日本通運株式会社 寄贈)

場所


陸軍船舶練習部

マツダ宇品工場西区は、かつての陸軍船舶練習部。
工場内なので入れないが、敷地内のある「講堂」が被爆建物として現存している。正門からは見えなかった。

後で知ったが、宇品線廃線跡の海岸通りの下丹那駅跡付近から垣間見ることができるらしい。 悔しい、見損ねた。また来よう。。。

場所

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広電宇品線

中心部にぼちぼち戻ろう。。。

なんか、見逃したところ多数ですね。時間に余裕がなかったので、致し方がないです。きっと、ここにはまた来ます。

※撮影は2021年4月


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