広島陸軍被服支廠倉庫跡

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広島に出張があった際に、スキマ時間で散策をしてみました。
時間が捻出できなかったのでピンポイントの散策になりましたが。


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広島陸軍被服支廠倉庫(出汐町倉庫

現存する4棟のうち、第 1~3 号棟は広島県所有。第 4 号棟は国所有(中国財務局)。
最大級の被爆建物。
国内に現存する最古級の鉄筋コンクリート造建築物として建築史上でも貴重。解体方針も打ち出されていたが、保存活動により、広島県は保有する3棟を耐震補強し保存する方針を示した。

大日本帝国陸軍の被服工場として建設された施設。
兵員の軍服や軍靴などを製造していた。

1905年(明治38年)4月陸軍被服廠広島出張所として開設。
現存する10-13番庫は、1913年(大正2年)8月竣工。
1907年(明治40年)11月に陸軍被服廠支廠に昇格。

1945年(昭和20年)8月6日。
原子爆弾により広島市は壊滅。爆心地から約2.7km離れていた被服支廠は外壁の厚みが60cmと厚かったこともあって焼失や倒壊は免れ救護所として使用。多くの避難民がこの地で息を引き取った。このとき爆風により大きく歪んだ窓の鉄製扉は、現在もそのまま残されている。

戦後、旧被服廠の敷地や建物などは徐々に解体され、現存は4棟のみとなっている。
南の1棟は広島大学が学生寮として使用したのちに国の管理に、西の3棟は日本通運出汐倉庫(旧日本通運出汐倉庫1-4号棟)として使用していたが、1995年に日通は使用を停止し県に譲渡されている。

現存する4棟、広島陸軍被服支廠10-13番庫は1913年(大正2年)8月に竣工。L字型に並んでいる。現在、1-3号棟は県が、4号棟のみ中国財務局が所有し、4棟とも県が一括管理。


詳細情報は、いかに詳しい。
アークウォーク広島

広島の建築を紹介する市民組織、アーキウォーク広島による建物解説です。

旧被服支廠の保全を願う懇談会


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:B26-C2-21
昭和14年(1939年)12月6日、日本陸軍撮影の航空写真

被爆前。

中央の山が「比治山」。「陸軍墓地」がある。
比治山の南西が「広島要塞砲兵聯隊(電信第2聯隊)」
比治山の南が「広島陸軍被服支廠」
比治山の南東が「広島陸軍兵器支廠(広島陸軍兵器補給廠)」

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M251-46
昭和22年(1947年)4月14日、米軍撮影の航空写真

被爆後。

下記写真の北東が爆心地。京橋川より西側が、。。

合掌

上記の写真から、それぞれ 広島陸軍被服支廠倉庫 を切り取り。

北から並んでいる3棟が「1号棟」「2号棟」「3号棟」。広島県所有。
南側で横になっているのが「4号棟」。国(中国財務局)所有。


広島陸軍被服支廠倉庫跡の散策

敷地内の立入りは広島県庁へ事前申込みで、広島県財産管理課まで見学申請が必要。(平日のみ)
当日は県庁まで鍵の受取と返却が必要。建物内見学は不可。

私は、さすがに時間がなかったので、敷地外の道路からの見学を。
敷地外からでもわかるレンガ建造物に圧倒的な重厚感に圧巻。
そして、爆風の衝撃を残す痕跡に、静かに手を合わせる。

被爆建物
A-Bombed Buildings

被爆時の名称 
広島陸軍被服支廠
(爆心地から2,670m)
この建物は、1945年(昭和20年)8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。被爆直後は臨時救護所となり。避難してきた多くの被爆者が次々と力尽きていきました。爆心地の方向に面していた西側の鉄扉のいくつかは、被爆時の爆風で変形した痕跡をとどめています。
 広島市

以下、写真にて。

爆風の圧で押し曲げられた鉄扉。

時間にあるときに、比治山を交えて、また改めて足を運びたいと思います。

※撮影:2021年4月


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