「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

武蔵航空吉田工場跡と河口湖散策(富士吉田)

山梨県の富士吉田にも、軍需工場があった。
工場の跡地に、空襲の犠牲者の慰霊碑があるというので、足を運んでみた。


武蔵航空吉田工場(武蔵航空株式会社吉田工場)

富士北麓は、もともと軍需工業とは無縁の地域であったが、戦争末期になると、立川地区の航空機工場の疎開先として、当時の下吉田町(現在の富士吉田市)は1943年以降、一大軍需産業地帯と化した。
富士吉田市の竜ヶ丘自治会館周辺には、「武蔵航空吉田工場」があった。中島飛行機武蔵工場の下請けとして、勤労動員学徒を含む約2000名が海軍双発陸上爆撃機「銀河」尾翼の組み立てや発動機の修理、特攻日の整備なども行っていたという。


富士吉田空襲

1945年7月30日。午後1時半頃。
富士吉田にあった武蔵航空吉田工場に米軍機グラマンF6Fが襲来。
工場にいた15歳から39歳の工員12人が犠牲となった。
1945年8月13日にも空襲があり、工場は全壊となった。(人的被害はなかった)


武蔵航空工場被爆殉難者之碑

武蔵航空工場被爆殉難者之碑
  題字 西山巧記
太平洋戦爭の末 此の地に二萬坪の敷地を整地して広大な工
場が建ち竝び勤労学徒隊を含めて二千余名の者が航空機の生
産に從つて居りました 昭和二十年七月三十日午後一時突如
として米軍艦載機数編隊の襲撃を受け一瞬にして十二人の貴
い生命を喪い二十余人の負傷者を出すという惨事に至りまし
た 旧字えて八月十五日終戦を迎え爾來星霜十有二年 工場跡
は一望の水田と変り世人の記憶も漸く薄れゆこうとする時
元從業員一同亡き友を偲んで記念碑建立のことを発起しまし
たところ 過去十二年間朝夕にねんごろな供養を續けてこら
れた元社長西山巧記殿の絶大なご協力と県市当局並びに有志
縁故多数の方々の御力添によつてここに成就することを得ま
した 謹んで十二柱英靈の御冥福を祈る次第であります

昭和三十二年七月三十日
 為十三年忌法要供養建立

富士吉田空襲で犠牲となった12名のお名前が刻まれている。
合掌。

場所

https://goo.gl/maps/pW9CuAnGtZoukFdL7


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R772-37
1948年1月3日、米軍撮影の航空写真。

上記から抜粋及び加工

現在の様子


河口湖

せっかくだから河口湖に寄り道。

河口湖シンボル像「源泉」
北村西望の終生最期の作品。

場所

https://goo.gl/maps/cqHUmtF1zDuJ5DoF9


富士山麓電気鉄道「モ1号」

昭和4年(1929)に富士山麓電気鉄道が線路開業した際に新造した車両。

河口湖駅

トーマスですね。

大月駅

察しの良い人は、富士吉田とか河口湖で、わかるかもしれませんが、「河口湖自動車博物館・飛行館」に行くのがメインでした。その記事はまた別立てにて。

※撮影2022年8月


良長院の海軍慰霊碑(横須賀鎮守府海軍建築部請負と横須賀鎮守府所属看護科員)

横須賀中央駅と、汐入駅の中間、聖ヨゼフ病院の近くにある良長院に、海軍関連の2つの慰霊碑がある。


横須賀海軍建築部請負工事
殉職者弔魂碑

横須賀海軍建築部請負工事 
殉職者弔魂碑
 海軍大将 野村吉三郎書

昭和8年11月建立
横須賀建工同志会・傷害救済会建立

横須賀の海軍施設請負工事で殉職した民間の方々を慰霊顕彰している。
裏面には殉職された方々の名前が刻まれている。


横須賀鎮守府看護科員 戦病死者之霊碑

横須賀鎮守府看護科員 
戦病死者之霊
 海軍大将山本英輔謹書

(裏面)
昭和7年9月23日建立
赤心会建立

文字通りに横須賀鎮守府看護科員戦病死者の方々を慰霊顕彰する碑。


良長院

龍谷山良長院(曹洞宗)
保年間(1645-1648)創建

横須賀軍港で、建築部請負工事殉職者の碑と看護科員戦病死者の碑と。
それぞれの碑前で、海軍を支えた方々の御魂に合掌をする。

※参拝と撮影は2018年4月

「日本の近代の幕開け」ペリー上陸記念碑と浦賀奉行所跡(浦賀・久里浜)

日本の近代は、ペリー率いる黒船来航とともに幕を開けたといっても過言はない。すなわち、いわゆる「幕末」は、嘉永6年(1853)の浦賀への黒船来航とともにはじまる。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」
日本の近代は、ここから始まった。


北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑

久里浜のペリー公園として整備されている上陸地点。

嘉永6年(1853)のペリー艦隊の来航時、アメリカ大統領からの国書受け渡しは、久里浜で実施された。
ペリー上陸を記念し明治三十四年(1901)に、建立・除幕された記念碑。

北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑
大勲位伊藤公爵博文書

MONUMENT IN COMMEMORATION OF THE LANDING OF COMMODORE
PERRY U.S.N.
MARQUIS HIROBUMI ITO CRAND ORDER OF CHRYSANTHEMUM

嘉永6年6月9日上陸
明治34年7月14日建之

THIS MONUMENT
COMMEMORATES
The First Arrival
OF
COMMODORE PERRY,
AMBASSADOR FROM THE
UNITED STATES OF AMERICA
WHO LANDED AT THIS PLACE
JULY 14,1853
ERECTED JULY 14.1901.
BY
AMERICA’S FRIEND ASSOCIATION

 1853年7月8日、浦賀沖に来航したアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官M.C.ペリー(Matthew C.Perry)は、7月14日、ここ久里浜の海岸に上陸し、大統領フィルモアの親書を江戸幕府に渡した。翌年、神奈川において日米両国間に和親条約が締結された。この一連の出来事は、幕府支配のもとに鎖国を続けていた日本を、世界へと引き戻す原動力となった。
 ペリー来航より48年後の1901年7月14日、米友協会の手によって、日本開国ゆかりの地として、ここに記念碑が建てられた。

ペリー公園

北米合衆國水師提督伯理上陸記念碑建設者タル米友協會ノ意志ヲ繼キ本日以後本會ニ於テ該記念碑並構内ノ維持管理ニ當ルコトヽナレリ仍テ茲ニ之ヲ誌ス
 昭和十年二月二日
  神奈川縣廳内伯理記念碑保存會

KANEKO PINE
THIS TREE PLANTED
BY
VISCOUNT KANEKO
JULY 14TH 1901

かねこ松
米友協会会長
子爵金子堅太郎氏
手植松
明治34年7月14日

RODERS PINE
THIS TREE PLANTED
BY
REAR ADMIRAL RODERS
JULY 14TH 1901

ろぢあーす松 
米海軍少将 
ろぢあーす氏 
手植松 
明治三十四年七月十四日

手植えの松は、記念碑の左右に。

ぺるり上陸の地記念碑

県下名勝史蹟45佳選当選紀念
ぺるり上陸の地
横浜貿易新報社

昭和10年10月建立

じょうきせんの碑

泰平の
ねむりをさます
じようきせん
たつた四はいで
夜も眠られず

じょうきせんの碑
 江戸幕府は約200年にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていた。
 その日本に対し突如として泰平の夢を破るように1853年7月8日(旧暦嘉永6年6月3日)開国を迫る4隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊は6日後に久里浜に上陸した。
 この艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督であった。
 江戸湾の守備にあたっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船を見て、驚き動揺した。
 開国を促す黒船の来航に幕府要人はもちろんのこと、その戒容を見聞きした人たちの驚きはどんなであったろう。
 その驚きを端的に表現したのが、この落首である。
 なお、「久里浜村詩」によれば、この落首は、老中松平下総守(間部詮勝)号松堂作とも言われている。
 平成2年7月
  横須賀市

ハイネ画 ペリー久里浜上陸図

ペリー上陸記念碑物語
 長い間外国との貿易を制限していた徳川幕府に1853年(嘉永6年)アメリカ大統領の国書をもって来航した東インド太平洋艦隊司令長官ペリーは幕府と交渉し強い態度で開国を迫り、ついに1853年7月14日幕府に大統領の国書を受理させ再来航を約束しアメリカに帰りました。
 このとき今まで200年以上にわたり外国との交流を閉じていた日本の地に外国の使節団が上陸し、幕府とアメリカの交渉が行われた場所が場所が久里浜であり、新しい日本の夜明けはこの久里浜から始まったのです。
 ペリー提督が初めて日本の地に上陸してから47年後の1900年(明治33年)10月25日アメリカ退役海軍少将ビアズリーが夫人と共に久里浜を訪れました。ビアズリーは17歳の時、少尉候補生としてペリー提督と共に久里浜に上陸したのです。彼は青年の頃訪れた美しい久里浜にたくさんの思い出があり、アメリカの使節団が初めて訪れた地に何も記念するものがないことを残念に思いました。
 ホテルのある横浜に帰ったとき新聞記者に久里浜でのことを話しました。その内容が新聞に掲載されました。また、明治政府の下で近代社会を築きつつあった明治10~20年代には前途有為な人達が留学や働く場所をもとめて欧米に渡りました。特にアメリカに留学し日本に帰国した後、政界や経済界で活躍する人達が集まり、1898年(明治31年)交友の場として米友協会が設立され、その米友協会の席上でもビアズリーが演説し、このことが契機となって当時の米友協会の会長でハーバード大学で学んだ金子堅太郎男爵(当時)を中心に上陸記念碑建設の運動が起こり「記念碑建設委員会」が組織され募金や明治天皇の下賜金によって記念碑は完成し、1901年(明治34年)7月14日ペリーの上陸と同じ日に除幕式が行われました。参列者は桂首相ほか閣僚、徳川家達、榎本武揚、アメリカからはビアズリーやペリーの孫にあたるロジャース少将等、総数1000人で久里浜沖では日米の軍艦が祝砲を放つなど盛大な式典となりました。
 日米親善の象徴となた上陸記念碑ですが太平洋戦争中にはアメリカに関するものは敵性のものと憎まれ1945年(昭和20年)2月8日横須賀市の翼賛青年団を中心としたグループに引き倒されました。ところが半年後の8月15日に終戦となり11月に復元されました。
 日本の歴史上大切な足跡を刻んだペリー上陸記念碑のもつ意義をこれからも大切に見守ってゆきましょう。

参考
 記念碑の大きさ 高さ4.5m 重さ11.4t 仙台産の花崗岩 碑の台座は根府川石
 刻まれている文字は伊藤博文の書で「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」と書かれており碑文を彫刻した石工は横浜あの横溝豊吉です
 令和4年(2022年)3月 久里浜地域運営協議会 久里浜の文化を考える会

記念碑の前で記念撮影するのは、ペリーの曾孫にあたるペリー大僧正と、浦賀奉行の曾孫にあたる戸田夫妻。昭和8年。

なお、戦時中に、ペリー上陸記念碑は倒されている。破壊粉砕をしようとする過激な動きもあったが、海軍横須賀鎮守府は反対。神奈川県知事は当初は反対するも、強硬派の圧力に屈し撤去に合意。昭和20年2月に記念碑は倒された。倒された直後に米軍の空襲などもあり、記念碑を粉砕する話は報復を恐れ立ち消えとなっている。重機不足で倒すのが精一杯だったというのもあるようだが。
戦後、昭和20年11月に、ペリー上陸記念碑は再建された。

https://www.kanagawaparks.com/perry/

https://www.cocoyoko.net/spot/perry-park.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/fc00000435.html

場所

https://goo.gl/maps/iLY9J6wYuPqTroRB7


ペリー記念館

ペリー公園には、ペリー記念館もある。
横須賀市市制80周年を記念して1987(昭和62)年に建てられた記念館。

ペリー提督

戸田伊豆守

浦賀奉行の戸田氏栄。
黒船来航の初動対応は、奉行所応接掛であった中島三郎助が担当していた。

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/fc00000442.html


ペリー上陸の砂浜(久里浜)

ペリー公園のすぐ目の前に、ペリーが上陸した砂浜がある。

※撮影 2022年8月


ペルリ上陸記念碑道

明治の道標で英語でも記載があるが、おしゃれ。

ペルリ上陸記念碑道
COMMODORE PERRY’S MONUMENT
明治41年1月18日建設

車道側に向いているので、ちょっと撮影しにくい。。。

場所:

https://maps.app.goo.gl/tdev2C5q76iN4rwB9

※撮影:2023年11月


浦賀(黒船来航の地)

ペリー提督の黒船は、浦賀沖に来航した。浦賀に来航して、久里浜に上陸。

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀沖に停泊したペリー艦隊。それまでみてきたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違う、蒸気外輪フリゲートを目の当たりにした人々は「黒船」と呼称し、恐れおののいた。

浦賀奉行戸田氏栄は、司令長官旗を掲げていた米艦隊旗艦サスケハナに対して、まず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣。
ペリーの渡航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことが目的であることを把握した。
日本側は長崎に向かうように交渉をするも、ペリーは了承せず、江戸に向かい直接国書を渡すと主張。ペリーの強硬姿勢に幕府側は譲歩し、国書受け取りを決断。

1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、幕府は当初、浦賀港近くの燈明堂近くの館浦で受け取り予定であったが、土地が狭く、警備を担当する4藩(川越・彦根・会津・忍)の反対もあり、結果として、国書受け取りは浦賀の隣の入江であった久里浜で行われることになった。

黒船来航の地
ようこそ浦賀へ

1853年 浦賀に黒船来航

ペリーとサスケハナ号
嘉永6年(1853)6月、アメリカ大統領の国書を持ったペリーが率いるサスケハナ号以下4隻の黒船が浦賀沖に姿を現わした。このペリー来航により鎖国政策はピリオドをうち、日本の近代はここにはじまった。
 浦賀国際文化村推進協議会


浦賀奉行所跡

黒船来航で、奇しくも近代の幕開けの口火として、その最前線となったのが、浦賀奉行所であった。

石橋(浦賀奉行所跡)
 浦賀奉行所表門の前のお堀に架けられていた石橋が、役宅(官舎)の通りより少し北に寄っているのは、奉行所が敵に攻められても直線で侵入できないように配慮されていたためで、同様に町家(商家)から役宅に入るところのカギの手に曲がっているのも江戸時代のままです。
 お堀は江戸時代後期の改築にともなって表門とその脇の三方に低いながらも石垣が積まれてできています。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

黒船に最初に乗り込んだ男
中島三郎助
 浦賀奉行所与力・中島三郎助は、浦賀を代表する人物で、嘉永6年(1853)ペリー来航の際、最初に黒船(使節団)との、折衝にあたるなど敏腕をみせ、翌年、日本最初の洋式軍艦・鳳凰丸を建造しました。
 三郎助は、文武に優れ、「大衆帰本塚」の碑文を書き、俳号は「木鶏」と称し、人々から敬慕されていました。
 明治維新では、幕臣としての意思を貫き、函館の千代ケ岡台場で2人の息子と共に戦死しました。
 享年49歳、父子の墓は東林寺。
 函館中島町に「中島三郎助父子最後の地」の碑があります。
  浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

浦賀奉行所跡

(一部抜粋)
嘉永6年(1853)6月、浦賀に来航したペリー艦隊は、日本が近代に進む第一歩としてよく知られていますが、浦賀奉行所にとっては、文政元年(1818)5月に来航したイギリス船から数えて7度目の異国船でした。ペリー来航時には、中島三郎助や香山栄左衛門をはじめとした浦賀奉行所の役人たちが大きく活躍し、交渉の結果、アメリカ大統領の親書を久里浜で受け取る事になりました。

今は、更地。
堀が残る。

場所

https://goo.gl/maps/1ysfN1eUvoncFkLh6


船番所跡

船番所跡
 浦賀奉行所の出先機関で、享保6年(1721)から明治5年まで、江戸を出切りするすべての船の乗組員と積み荷を検査する「船改め」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われました。
 与力、同心の監督のもと、「三方問屋」と呼ばれる下田と西浦賀の廻船問屋百軒余が、昼夜を通して実務を担当しました。「入鉄砲に出女」を取り締まる海の関所としても重要なものでした。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

船番所跡

奉行所はもともと下田にあったが、享保5年(1720)に、浦賀に移転。江戸への出入りをチェックを強化。

船改めはの業務は浦賀奉行だけでは手が足りないために、廻船問屋も協力。下田から移転してきた下田問屋が63軒、西浦賀に22軒、東浦賀に20軒の合計105軒で船改めを実施していた。また船番所は、幕末に急増したは異国船への警備なども担っていた。

船番所のあとは、いまは陸軍桟橋とも呼称されている。

場所

https://goo.gl/maps/vQ64mnFng8GXfnZh7

浦賀の沖合に来航した黒船から、日本の近代が幕を開けた。

※撮影:2022年7月及び8月


関連

浦賀ドックのきっかけとなった「中島三郎助招魂碑」と横須賀最古の公園「浦賀園」(愛宕山公園)

「浦賀ドック」の浦賀船渠が創立したきっかけが、浦賀奉行所の与力であった中島三郎助。その慰霊碑がある愛宕山に行ってみる。


愛宕山公園

横須賀で一番古い公園という。

愛宕山公園
 明治24年(1891)に開園したしないで一番古い公園で、「浦賀園」と呼ばれていました。
 浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され篆額の題字は榎本武揚によって書かれました。開園に出席した人たちの提唱よって浦賀船渠㈱が創設された話は有名です。
 咸臨丸出航の碑には乗組員全員の名が刻まれています。
 与謝野鉄幹・晶子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。
 江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました。
  浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

浦賀園の入口。

えーっと。道がない。
夏場に来ては駄目なところでした。

強行突破しました。。。

夏以外に訪れることをおすすめします。。。

ヤブを抜けた先の開けた場所に記念碑がありました。


咸臨丸出航の碑

市制施行70周年記念
横須賀風物百選
咸臨丸出航の碑
 嘉永6年(1853)6月3日、米国水師提督ペリーが、黒船四隻を率いて、浦賀湾沖に現れました。我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。それが、江戸近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰たった四はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。
 7年後の安政7年(1860)幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする、使節団をワシントンへ送ることにしました。幕府は万が一の事故に備えて、軍艦奉行・木村攝津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下、九十有余名の、日本人乗組員で、運航する、咸臨丸を従わせることにしました。
 1月13日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は品川沖で錨を上げました。途中、横浜で難破した、米測量船クーパー号の選任11名を乗せ、16日夕刻、浦賀に入港しました。それから2日間、食糧や燃料その他の航海準備作業が行われました。意気天をつく若者たちを乗せた、咸臨丸は、1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を39日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。米国での大任を果した咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う、万延元年(1860)5月5日でした。
 この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として、咸臨丸・太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向い合うように、ゆかりの深い、この地に建てられたものです。
 なお、この愛宕山公園は、明治26年開園で、市内最古の公園です。また、彼方に建つ、招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。

咸臨丸出航の碑

日米修好通商百年を記念して昭和三十五年に建立。
碑は船型、材質は花崗岩。

裏面には乗組員の名が刻まれている。
軍艦奉行 木村摂津守喜毅
教授方頭取 勝麟太郎
通弁役 中浜万次郎
奉行従者 福沢諭吉、ほか


愛宕山公園

広場にたどり着くも、とにかく草がひどい。
何度も記載するが、夏はやめときましょう。


中島三郎助の招魂碑

横須賀市指定 市民文化資産
中島三郎助招魂碑
明治24年、彼を追慕する浦賀の有志によって建てられたもので、篆額は、当時の外務大臣・榎本武揚の筆である。愛宕山公園は、この碑の建立の際に整備された。

榎本武揚の篆額

中島君招魂碑

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に拓本がある。

浦賀奉行所与力
中島三郎助生誕200年祭
令和3年(2021年)1月25日
中島三郎助と遊ぶ会

中島三郎助の生涯
 中島三郎助は、幕臣であることを貫き通して49年の生涯を終えた。その中島が見習うべき人物としたのは、鎌倉時代に源頼朝に生涯を捧げた三浦大介義明であった。
 文政4年(1821年)21月25日に浦賀で生まれ、三郎助で8代目となる奉行所の与力の家系であった。

  天保6年(1835年)閏7月、15才で奉行所の与力見習いとして出仕した。見習いに出仕するまでに槍術・剣術ともに当時砲術三派であった田付流・荻野流・集最流をすでに学んでおり、後に西洋式の高島流まで含めてすんべて免許皆伝となっている。
 この砲術の腕前は、天保8年(1837年)6月に浦賀沖に来航したアメリカ商船・モリソン号に観音崎台場から砲撃を加え、打払っている。この時の功績で、浦賀奉行・大田資統から太刀を拝領した。
 また、この年岡田定十郎の娘・すず(15才)と結婚している。

 嘉永2年(1849年)6月、父の跡を継ぎ与力となった。翌年7月には館浦にあった「玉薬製造所」の責任者を勤めていたが、足軽役の者の過失から製造所と隣接の船蔵が焼失す、その責任から謹慎処分を受けた。

 嘉永6年(1853年)6月、アメリカ東インド艦隊のペリーが率いる2隻の蒸気軍艦と2隻の帆走軍艦が来航すると、応接掛として最初に黒船に乗り込み交渉した。もっとも中島の関心は最新鋭の蒸気軍艦には装備されていると思われる炸裂弾を発射できる大砲を検分することにあった。
 ペリー来航後、幕府に提出した上申書には、今は海外諸国の知見を養うことが大事であると述べており、力の差を見せつけられた中島ならではの提言であろう。

 幕府も軍艦の必要性を実感し、浦賀奉行所へ軍艦建造を申し付けた。この軍艦・鳳凰丸は日本人の手による最初の洋式軍艦であり、その中心人物となったのが三郎助であった。しかも9ヶ月というスピードで翌年5月に完成させている。
 こうした三郎助の活躍は広く知れ渡り、長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が三郎助のところに弟子入りしている。三郎助は幕府が長崎に開いた海軍伝習所へ派遣され、オランダ人から造船や洋式砲台の建設などを習得した。

 安政5年(1858年)長崎から戻った三郎助は、幕府海軍の草創期に活躍し、多くの後輩を指導している。
 また和歌や俳句を通じて、浦賀周辺の人々とも交流をもっていた。
 戊辰戦争が始まると榎本武揚らとともに北海道にわたり、ここに新しい国(中島のなかでは新徳川幕府)づくりに親子で参加したが、新政府軍の攻撃を受け、函館五稜郭近くで1869年5月15日桓太郎・英次郎ともに戦死した。
 
 明治23年(1890年)5月、名誉が回復され、浦賀の人々の手によって「招魂碑」が建てられた。その除幕式で中島の意思を継ぐ造船所の建設が提案されて、浦賀船渠が発足した。

中島三郎助
 明治2年(1869)5月、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いが函館郊外の五稜郭近くで行われた。この戦いで浦賀奉行所与力・中島三郎助親子は戦死した。三郎助の二十三回忌にあたり、彼の功績と名誉を浦賀の町に末永く残すことを目的に、彼とともに激動の明治維新期を生きた友人、知人たちによって建てられたのが真向かいにある中島三郎助招魂碑である。碑の篆額(題辞)は三郎助と公私ともに親交があり五稜郭で共に戦った榎本武揚が記し、激動の時代を象徴するような彼の人生を表したのは当時の外務官僚の田辺太一である。また、この碑の除幕式の日、初代の中央気象台長であった荒井郁之助の発案で、三郎助の意思を継いだ近代造船所を浦賀の地で開業することが決定した。

招魂碑建碑由来碑

同じく、浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に拓本がある。

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)

浦賀ドックや浦賀の歴史を、調べようとすると、この中島三郎助にたどりつく。いままで知るよしもなかったことをこうして新たに知れるのが楽しい。


与謝野夫妻歌碑

良さの夫妻の歌碑もあった。

黒船を怖れし世などなきごとし 
 浦賀に見るはすべて黒船
               寛
春寒し造船所こそ悲しけれ 
 浦賀の町に黒き鞘懸く
               晶子

昭和10年3月3日に与謝野夫妻が観音崎・浦賀・久里浜を訪れている。与謝野寛は同年3月26日に亡くなっているため、生涯最後の歌のひとつといわれている。

愛宕山から海を望む。
夏はやめといたほうが良いですね。(大事なことなので何度も書きます)


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/nisi7.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004024.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004001.html

https://routemuseum.jp/theme/g05/

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/tokubetuten/4.html

海軍機雷学校跡・海軍潜水学校跡(久里浜)

千代ケ崎砲台の南側に、海軍の学校があった。
千代ヶ崎砲台を見学した後に、足を伸ばしてみました。

千代ヶ崎砲台はこちらにて。

「千代ヶ崎砲台跡」散策(横須賀)

海軍機雷学校

日露戦争の教訓を踏まえ、水雷学校の教育課程に機雷戦のカリキュラムを設定したことに始まる。
昭和16年3年に機雷戦専門の学校として「海軍機雷学校」が設立。所在地は、久里浜港の突端にあたる久里浜長瀬。

海軍対潜学校

昭和19年3月、海軍機雷学校は海軍対潜学校に改称。対戦戦闘を重視した措置であった。
昭和20年に本土決戦要員を捻出するために、術科学生は繰り上げ卒業となり、対潜学校は閉校。高等科教育は海軍水雷学校に編入となった。(海軍水雷学校久里浜分校)
繰り上げられた学生は、ほぼ特攻要員(伏龍)とされたようで。

海軍対潜学校の最後の校長は、キスカ撤退を指揮した木村昌福少将であった。

跡地は、横須賀刑務所、久里浜少年院、防衛装備庁艦艇装備研究所、港湾技術研究所などとなっている。

浦賀引揚援護局(浦賀検疫所)

終戦後、南方からの引揚に浦賀港が指定。
陸軍桟橋から引揚者が上陸していたが、引揚船内でコレラが発生したことから、対潜学校に検疫所が設けられている。
横須賀刑務所内には、引揚者の供養塔があるという。


海軍機雷学校 海軍対潜学校跡

跡地は刑務所や少年院、行政機関の敷地などになっており、立ち入ることができない。なにやら岸壁や沖合には構造物が残っているようでもあるが、大事なことなので2回書くが立入禁止なので。

海軍機雷学校 海軍対潜学校跡

碑の由来 
ここ横須賀市長瀬三丁目一帯には、次の海軍の学校がありました。
海軍機雷学校(昭和16年4月1日創設)
海軍対潜学校(昭和19年3月15日改称)
この学校では、機雷術(機雷・掃海・防潜網・爆雷など)、水中測的術(探信儀・聴音機・磁気探知機など)の教育が行われました。
終業して任地におもむいた若人は約2万7千人、そのうち約8千人の尊い生命が失われました。
この石碑はこのことを後世にのこすために建てたものです。 
 平成5年(1993年)4月1日 
  有志一同

ぱっと見は、記念碑しか残っていない。

場所

https://goo.gl/maps/arnEcR4YRp6uzyX38

※撮影:2022年7月


軽質油庫跡

上記の記事を書くために情報を整理していたときに、遺構として軽質油庫(軽質原油庫)が残っているとのことがわかったので、再訪をしました、、、

近くのケアセンターの駐車場として活用されていました。

とても綺麗な壕ですね。

海軍機雷学校 海軍対潜学校跡地

跡地は気楽に立ち入りできない施設が多い。

横須賀刑務所支所

防衛装備庁・艦艇装備研究所

久里浜少年院

港湾施設

※撮影:2022年11月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-162
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。

海軍機雷学校(海軍対潜学校)の該当部分を拡大。
千代ヶ崎砲台のすぐ南であることがわかる。

現在の様子。

ちなみに、久里浜少年院の沖合に、謎の構造物がある。どうやら干潮時に燈明堂の海岸から見えるところまで、近づくことができるらしい。。。

構築物は海軍機雷学校(海軍対潜学校)の施設として使用されていたもので、当時は陸続きであったらしい。荷役施設として使用され、戦後は、引揚船内でコレラが発生したために、浦賀港で会場隔離が実施され、浦賀引揚援護局浦賀検疫所が久里浜の海軍対潜学校跡地に設けられ、検疫所としても活用された。


長瀬海岸

長瀬海岸から、海軍対潜学校と千代ヶ崎の岬を望む。
平作川の北側。

干潮時には下に降り、ちかくで見れるらしいが、この日は潮が満ちてまして。。。
フランス積みのレンガ片が転がっている。古い時代のレンガ。この界隈では、千代ヶ崎、観音崎、浦賀ドック、猿島などもフランス積み。

※撮影:2022年11月


関連

走水神社の近代史跡散策(横須賀)

横須賀の走水。日本武尊と弟橘媛命の伝説を残す古社。
今回は近代史の目線で参拝をしてみる。


弟橘媛命の記念碑

明治43年6月5日建立。
弟橘媛命の今際の御歌が刻まれている。
記念碑は、東郷平八郎、伊東祐亨、井上良馨、乃木希典、高崎正風、上村彦之丞、藤井茂太の7名が発起人となり建立。

さねさしさがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも
勲一等昌子内親王書

昌子内親王は、明治天皇の第六皇女。竹田宮恒久王の妃となる。

嗚呼此は 弟橘比賣命いまはの御歌なり命夫君 日本武尊の東征し給ふ伴われ
駿河にては危き野火の禍を免れ 此の走水の海を渡り給う時端無く暴風に遭ひ 御身を犠
牲として尊の御命を全からしめ奉りし其のいまはの御歌なり御歌に溢るゝ真情はすべて
夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず其の貞烈忠誠まことに女子の亀鑑たるのみならず
亦以て男子の模範たるべし平八郎等七人相議り同感者の賛成を得記念を不朽ならしめ
むと御歌の御書を 常宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り彫りてこの石を建つ
明治四十二年十月
発起人
海軍大将正三位大勲位功一級 伯爵 東郷平八郎
海軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 伊東祐亨
海軍大将従二位勲一等功二級 子爵 井上良馨
陸軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 乃木希典
樞密顧問官兼御歌所長従二位勲一等 男爵 高﨑正風
海軍中将従三位勲一等功一級 男爵 上村彦之丞
陸軍中将従四位勲二等功二級  藤井茂太
  御歌所主事従五位勲六等 阪正臣謹書
  旭海鶴永富萬治敬刻

そうそうたる発起人が名を連ねる。

東郷平八郎
 日露戦争時の連合艦隊司令長官
伊東祐亨
 日清戦争時の連合艦隊司令長官、日露戦争時の軍令部長
井上良馨
 日露戦争時の横須賀鎮守府司令長官 
乃木希典
 日露戦争時の第3軍司令官
高﨑正風
 御歌所初代所長、初代國學院院長
上村彦之丞
 日露戦争の第二艦隊司令長官
藤井茂太
 日露戦争の第1軍参謀長


機械水雷

日露戦争での鹵獲品が奉納。

この機雷(機械水雷)は、弟橘媛(弟橘比賣命)の記念碑の序幕にあたり、発起人の一人で建立のため中心的な役割を果した海軍中将上村彦之丞から走水神社に寄贈されたもの。
上村中将は、除幕式の折には、第一艦隊司令長官に転じていますが、少し前まで横須賀鎮守府司令長官を勤めていた。

奉献
露国機械水雷
横須賀鎮守府司令長官
男爵 上村彦之丞
明治43年6月5日
走水神社氏子会


走水神社

御祭神:日本武尊 弟橘媛命

創建年代は不詳であるが、伝承では日本武尊が東征の途上に当地から浦賀水道を渡る際、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが始まりという。
走水神社は兼務社であり神職は非常駐。本務社は西浦賀の叶神社となる。旧社格は郷社。

社号額には、海軍少将大勲位依仁親王とある。
東伏見宮依仁親王のことですね。
海軍少将時代に、横須賀予備艦隊司令官(明治44年)や横須賀鎮守府艦隊司令官(大正2年)などを努めていたので、そのご縁で揮毫されたものと推測。

走水から眺める浦賀水道。

横須賀に来ると、たまに足を運んでしまう神社です。

※撮影は2022年8月

なお、御朱印帳と御朱印は、戦跡に興味を抱く前に参拝していた、だいぶ昔のころにいただいていましたので、参考までに掲載しておきます。

平成26年(2014)でした。8年前、、、


関連

「軍都・平塚」海軍火薬廠の跡地散策・その2

平塚市は、海軍火薬廠や海軍工廠科学実験部、そして関連する軍需工場などが集中する一大軍事拠点、「軍都・平塚」であった。そんな平塚の街をざっと散策をしてみる。

本編は、「その2」となります。「その1」はこちらから。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R227-A-3-13
1946年08月15日、米軍撮影の航空写真。

平塚八幡宮の北側に軍需工場が展開されていた。

第二海軍火薬廠
平塚市役所、平塚博物館、横浜ゴム平塚製造所、パイロットコーポレーション平塚工場、平塚市総合公園、など
第二海軍火薬廠第六工場
三菱ケミカル平塚工場
相模海軍工廠科学実験部
平塚市美術館、不二家平塚工場、平塚合同庁舎、平塚警察署、など
平塚海軍共済病院
平塚共済病院
日本国際航空工業
日産車体湘南工場、ららぽーと湘南平塚など
第二海軍航空廠補給部平塚補給工場
湘南倉庫運送、JT平塚工場跡など
横須賀海軍工廠造機部平塚分工場
平塚競輪場、三興製鋼など
平塚自動車部品製作所(平塚傷兵工場)
平塚金属工業

ファイル:USA-M46-A-7-1-152
1946年02月15日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-M64-A-6-13
1946年083月05日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-R227-A-3-160
1946年08月15日、米軍撮影の航空写真。

ファイル:USA-M46-A-7-1-104
1946年02月15日、米軍撮影の航空写真。

現在のイメージ範囲。一部推測です。


海軍火薬廠(第二海軍火薬廠

海軍省直属の海軍工廠。
1905年(明治38年)9月 英国アームストロング、ノーベル、ヴィッカースの3社によりイギリス帝国に本社が設立された「日本火薬製造株式会社平塚製造所」を前身とする。
1919年(大正8年)4月 「海軍火薬廠令」に基づき日本海軍により買収され、「海軍火薬廠」発足。
海軍の爆薬・火薬の製造、研究開発拠点となる。
1929年(昭和4年)に爆薬部が舞鶴に移転。
1939年(昭和14年)、海軍火薬本廠に改編。海軍火薬支廠が宮城に増設。
昭和16年(1941年)、東から順番に宮城船岡支廠が「第一海軍火薬廠」、平塚本廠が「第二海軍火薬廠」、舞鶴爆薬部が「第三海軍火薬廠」に改編されている。

昭和20年(1945)8月の終戦とともに火薬廠は廃廠。
火薬廠は戦後は米軍により接収。
昭和25年、横浜ゴム株式会社が、一部敷地の払い下げを受け、現在に至る。

第二海軍火薬廠の各工場
第一工場 各種砲用及びロケット用無煙火薬の製造
第二工場 各種綿薬(硝化綿)の製造 各種混酸の調製
第三工場 各種酸の製造 廃酸の回収 石炭ガスの製造
第四工場 設備の設計、据付及び補修 ユーティリティの管理
第五工場 各種機銃火薬の製造 溶剤の回収
第六工場 無煙火薬の貯蔵 砲用無煙火薬の選別以降の作業
第七工場 ニトログリセリンの製造
     第一工場関係の火薬の配合混餅作業


海軍技術研究所科学研究部
相模海軍工廠科学実験部

昭和5年に、海軍火薬廠用地の一部割愛し海軍技術研究所平塚出張所を開設。科学研究部第二科(化学兵器担当)が平塚に移転をする。
昭和9年に「海軍技術研究所化学研究部」として独立。
昭和17年に寒川に「相模海軍工廠」を新設。化学研究部は改称し、「相模海軍工廠科学実験部」となる。
現在の平塚市交通安全協会や平塚市美術館、平塚警察署や平塚合同庁舎などが、「相模海軍工廠科学実験部」の敷地であった。跡地では旧日本軍の毒ガスの分解生成物として発生する有機ヒ素化合物・ジフェニルアルシン酸が検出されていたりもする。

史跡
海軍技術研究所化学研究部 
相模海軍工廠化学実験部 跡

海軍技術研究所は昭和5年(1930年)この地に科学研究部を設け 多くの市民から「技研」の愛称で親しまれた 昭和18年(1943年)相模海軍工廠化学実験部と改称 終戦と共にその役割を終えた
いま往時を偲び懐旧の思い新たに 先人の鎮魂と世界の平和を祈念し ここに記念碑を建立しその足跡を留める
  平成6年(1994年)春  
  相模記念碑建立委員会建立

平塚市役所公用車駐車場の奥

場所

https://goo.gl/maps/4a3NUQ17SmXUCkve8


相模海軍工廠科学実験部 境界壁

敷地の東側。
「湘南リンテック加工 平塚工場」の東側の壁が、当時の境界塀。

場所

https://goo.gl/maps/Lzb6HuPL2oV6Drk89


日本国際航空工業株式会社 平塚製作所
(日産車体)

昭和12年(1937)に日本航空工業株式会社が設立。
昭和16年に国際航空工業と合併し、社名を日本国際航空工業と改称。
この工場は、陸軍戦闘機「疾風」(四式戦)の三翼自動可変ピッチ・プロペラや大型輸送用グライダー(四式中型輸送滑空機)を製作していた。
戦後は、日産車体株式会社となる。

再開発で、「ららぽーと湘南平塚」もできた。

場所

https://goo.gl/maps/6v8HUfiVJNe3jtbw6


平塚自動車部品製作所・平塚傷兵工場
平塚金属工業)

戦時下、傷痍軍人援護のため、昭和15年(1940)4月に創設された「平塚自動車部品製作所」(トヨタ系列)。
平塚自動車部品製作所は、「平塚傷兵工場」ともいわれ、戦場で傷つき傷害を持つ人々のために創られた日本で唯一の傷痍軍人を従業員とする会社であった。
「戦場で傷ついた勇士達に対し、一時的ではなく永遠に感謝の徴意を表すため、何か意義ある御奉公をさせて頂きたい」という意義のもとでの設立であった。
戦後は「平塚金属工業」として、再生し現在に至っている。

参考

https://hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/rekisi/00000045/8.html

https://otani.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1179&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=28

場所

https://goo.gl/maps/4HWEVGJNy3UTFX4x6


第二海軍航空廠補給部平塚補給工場
(湘南倉庫)

航空機のエンジンと航空機用機銃やその部品を製作していた第二海軍航空廠の跡地。
第二海軍航空廠は、空襲により100%破壊され、外壁を残るだけであった。
現在、湘南倉庫の一部外壁は、この第二海軍航空廠の外壁が再利用されている。

https://hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/rekisi/00000045/4.html

裏の倉庫も、往時?とおもったけど、違うとのこと。

場所

https://goo.gl/maps/hcCKtqHrzBrV7WZM9


横須賀海軍工廠 造機部 平塚分工場
(三興製鋼)

現在の三興製鋼は、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場であった。

なかなか迫力のある工場ですね。

工場の第4ヤードには、今も機銃掃射弾痕が残っているという。
また、「慰霊乃碑」もあるという。

参考

http://www.sankoseiko.co.jp/judan.html

https://hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/rekisi/00000045/5.html

平塚競輪場
ちかくには、平塚競輪場もある。これも、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場の跡地。

場所

https://goo.gl/maps/KJUYQ3LyzY9EocEA9


陸軍架橋記念碑

1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災では、相模川にかかる馬入橋が倒壊し、東西の交通が断絶してしまった。そこで、9月17日、豊橋の陸軍第15師団所属工兵大隊と、京都の第16師団所属工兵大隊が急遽派遣され、架橋工事が行われ、橋の全長450メートルの内、平塚側の300メートルを第16師団が、茅ヶ崎側を第15師団が担当し、10月3日に完成。
平塚側を請け負った、第16師団所属工兵大隊を称えるために、建立されたもの。

陸軍架橋記念碑

場所

https://goo.gl/maps/MkTBUAc9ZJAb4qxj8


東海道本線・相模川鉄橋残骸

関東大地震では、馬入橋だけではなく東海道本線の相模川鉄橋も倒壊している。
その橋脚の台座が、今も相模川には残っている。

参考

https://hirahaku.jp/kids/rekishi/rekishi05/index.html

場所

https://goo.gl/maps/3og9f1YPkx7cweUE6


犠牲動物慰霊塔(蓮光寺墓地)

馬入の蓮光寺近くにある「蓮光寺墓地」には、動物慰霊塔がある。それも「犠牲動物」の慰霊塔。
すなわち、「海軍技術研究所平塚出張所」(海軍技術研究所化学研究部・相模海軍工廠科学実験部)において使われた実験動物の慰霊塔。

合掌

犠牲動物慰霊塔

海軍技術研究所平塚出張所有志

創建年代は不詳。「海軍技術研究所平塚出張所」時代は、昭和5年から昭和9年となる。

参考

https://hirahaku.jp/hakubutsukan_archive/minzoku/00000063/24.html

場所

https://goo.gl/maps/KgCvNTK2PjsJaQLp9


※撮影は2022年4月及び9月

平塚散策ですが、都合3回実施してしまいました。
1回目は、2022年4月。その時の記事を書き始めて調査不足が発覚して9月に訪問。さらに調査不足が露呈して3回目も実施。3回目にして、レンタサイクルを駆使して、行動範囲を拡大させました。まだ漏れがあるかもしれませんが、いったん掲載をしておきます。


関連

水戸陸軍墓地跡と水戸歩兵第二聯隊跡地の散策

水戸市内の戦跡散策。
水戸市内には、「水戸歩兵第二聯隊」が駐留していた。

以前に、水戸歩兵第二聯隊には触れており、今回はその際に散策しきれなかった箇所などを追記。


参考記事

水戸歩兵第二聯隊や茨城県護國神社など。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M177-A-7-13
1946年06月26日、米軍撮影の航空写真。

該当部を拡大。

水戸歩兵第二聯隊は茨城大学、水戸工兵隊は茨城大教育学部付属中、練兵場は堀原運動公園、そして水戸陸軍墓地は堀町公園墓地となっている。


水戸歩兵第二聯隊

水戸歩兵第二聯隊の練兵場跡(堀原練兵場)に建立。茨城県営球場の道を挟んで北側の公園内。

歩兵第二聯隊は明治7年に宇都宮に開隊。その後は佐倉から水戸に転営。尼港事件では石川正雅少佐以下水戸歩兵第二聯隊第三大隊が在留邦人を保護し赤軍に対して防戦をするが全滅。
先の大戦では、歩兵第二聯隊(聯隊長中川州男大佐)がペリリュー島守備の主役となり玉砕… 

詳細は、「水戸歩兵部隊の跡碑」にて。


水戸陸軍墓地

現在の「水戸市営堀町公園墓地」。
墓地の北西の一角に「戦没者碑」として、個人墓石を100基弱纏めた区画に整理されている。
もともと水戸陸軍墓地に埋葬されていた遺骨などは、遺族会が、昭和25年に墓地跡地に建てた「戦没者留魂の処」に7700余柱を納骨していた。
その後、昭和38年に茨城県護国神社内に「顕勲の塔」建立し遺骨を改葬。
当地には遺骨はなく、墓石のみが、整然と整理されている。

水戸陸軍墓地の門柱

水戸市堀町公園墓地

墓地区画の隅に「戦没者碑」とある。

再整備で整然と並び過ぎの墓石。
当時からの区画ではなく、再整備で追いやられたともいう。

手前は、上等兵などで中列は伍長など。大きな墓石は佐官と尉官。

まわりよりも大きな墓石。
奥の2基は、陸軍少佐、手前の3基は陸軍少尉。

石上中尉記念碑

石上中尉記念碑
工兵第十四大隊長 石井泰一書


大正13年9月11日、爆破操作中に石上指揮官(石上則得工兵中尉)が操作を誤り、部下3人を爆死させてしまったことを自責し、大正14年11月に工兵を除隊し11月27日に自刃。
石上中尉の一周忌に際して、大正15年11月27日に、工兵第十四大隊によって記念碑が建立された。
記念碑を揮毫した石井泰一の最終階級は陸軍少将。大正12年に陸軍工兵大佐・工兵第十四大隊長となる。

水戸陸軍墓地内に、墓石とは違うが石上中尉記念碑もある。

場所

https://goo.gl/maps/qupyzjdbHBgPm4dX9

https://goo.gl/maps/zH7pHgU4i6WNg2MD8


陸軍境界標石(練兵場南西隅)

水戸陸軍墓地に赴く途中、「新原二丁目バス停」から、当時の練兵場の南辺に沿って歩いていたら、突き当りに境界石を見つけました。

陸軍用地

現在も「境界」(水戸市道界)として活用されています。

場所

https://goo.gl/maps/18Km1bZ2rJcTV7Bp9


陸軍境界標石(水戸陸軍墓地)

水戸陸軍墓地の入り口脇の倉庫に立掛けるように、境界票石がありました。界隈で引き抜かれたものが保存されているものと思われます。

陸軍用地


陸軍境界標石(練兵場西辺)

これは違うかもしれません。しかし位置的にも材質的にも、往時の陸軍境界標石であったもおかしくない感じです。

場所

https://goo.gl/maps/yEaxv6SWy2393knBA

※撮影は2022年9月


戦没者留魂の處

水戸陸軍墓地に戦後、納骨施設が作られた。
昭和25年に建設された「戦没者留魂の處」には、7700余柱の遺骨が納骨されていた。
昭和38年に茨城県護國神社内に、「顕勲の塔」が建設され、遺骨は塔内に移管。「戦没者留魂の處」の碑などは、昭和59年に「顕勲の塔」の脇に移設された。

戦没者留魂の処と碑
戦没者留魂の処は、財団法人茨城県遺族会連合会が戦没者の納骨施設として昭和二十五年十一月水戸市堀町字立原二〇八五番地の旧陸軍墓地跡に建設し七千七百余柱の分骨を納骨していたが昭和三十八年三月に「顕勲の塔」が建立されたため この分骨は顕勲の塔内に移管され留魂の処には碑のみが遺された。
このたび留魂の処跡地を水戸市に返還したことを機会にこの碑および灯篭などをここに移転したものである。
 昭和五十九年六月吉日
 財団法人茨城県遺族会連合会 会長 狩野明男

※撮影は2017年8月

顕勲の塔

水戸陸軍墓地にあった7700余柱の遺骨は、現在は、茨城県護国神社境内の「顕勲の塔」に納骨されている。

顕勲の塔
碑文
この塔は日清の役から太平洋戦争までの幾多の戦いにおいて国のため散華された県下の五万八千余柱の英霊を慰めその偉勲を後世に伝えようと県のはからいにより全遺族の祈りをこめて建てられたものであります
なおこの塔には支那事変以来分骨された七千七百余柱の遺骨が納められております 諸霊やすらかにこの地に鎮まり郷土の平和繁栄にながく加護を垂れ賜わりますよう祈念いたします
 昭和三十八年五月

合掌

※撮影は2017年8月


茨城県護國神社

https://ibaraki-gokokujinja.jp/precincts/

軍艦那珂忠魂碑(大洗磯前神社)

大洗磯前神社には何度も参拝をしておりました。
それこそ、「ガルパン」とか「艦これ」とかで賑わう前から、神社フリークとしても東国有数の古社「延喜式内明神大社」にして「国幣中社」という格式からも欠かせない神社。初参拝は平成13年(2001)3月でした。約20年前となると往時は学生でしたね。。。

あまりにも身近すぎたために、このサイトに掲載するのはうっかり忘れておりましたので、久しぶりに参拝をしまして、「軍艦那珂忠魂碑」を改めて撮影、掲載することにします。


軽巡洋艦「那珂」

大日本帝国海軍の軽巡洋艦(二等巡洋艦)。川内型軽巡洋艦の3番艦。姉妹艦は「川内」「神通」川内型軽巡洋艦は、5500トン型軽巡洋艦の第3グループ(最終グループ)にあたる。艦名は大洗磯前神社のある大洗町の北側を流れる那珂川に因んで命名された。
横濱船渠(横浜船渠)で1925年(大正14年)3月24日進水。

美保関事件
1927年(昭和2年)8月24日。
那珂は第五戦隊を編成し、観戦武官として伏見宮博義王が乗艦していた。
夜間演習で戦隊は衝突を起こし、神通は駆逐艦蕨と衝突し、神通は大破し蕨は沈没、那珂は駆逐艦葦と衝突し両艦とも大破するという、美保関事件が発生している。

第四艦隊事件
1935年 (昭和10年) 9月25-27日。
第四水雷戦隊旗艦那珂は第11駆逐隊(初雪、白雪)、第12駆逐隊(白雲、薄雲、叢雲)、第7駆逐隊(潮、曙、朧)、第8駆逐隊(天霧、夕霧)を率いて演習をおこなっていた。
麾下の初雪で溺者1名にはじまり、荒天で夕霧が艦首切断で行方不明27名、さらに救助中の初雪が艦首切断行方不明24名という、第四艦隊事件が発生している。

太平洋戦争
太平洋戦争序盤は第四水雷戦隊旗艦として活躍。(四水戦)
1942年(昭和17年)4月のクリスマス島攻略作戦で損傷。
復帰後は第十四戦隊旗艦として輸送・護衛任務に従事した。
1944年(昭和19年)2月17日、軽巡洋艦阿賀野救援のため出動したところ「トラック島空襲」に遭遇、アメリカ軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて沈没。

トラック空襲
軍艦那珂忠魂碑にある艦歴の記載から抜粋する。

昭和十九年二月十七日
トラック島ニ来襲敵機動部隊ト応戦同島南西海域ニ於テ九時間ニ及ブ激烈ナル対空戦斗ノ末満身創痍砲ハ飛散艦首艦橋切断海中ニ没ス 
後進交戦魔ノ紅ノ炎ト化シ遂ニ沈没連合艦隊ノ一翼ノ使命ヲ果シ輝シイ武勲ヲ残シテ終焉

軍艦那珂忠魂碑 艦歴

那珂の艦歴をかたる碑は、これ以上は何も語っていない。
ただただ「那珂」を偲ぶだけだった。
この簡潔にして勇壮な文章が那珂の最期を伝え、そしてありし日のすがたを偲ぶ。私は、大洗の地から太平洋を望み、那珂が終焉を迎えたはるかなトラック群島の気配を感じるだけであった。

アメリカ軍がマーシャル諸島を泊地としたことから、連合艦隊の根拠地であったトラック群島は極めて危険な状態となり、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は連合艦隊主力艦隊を昭和19年2月10日に退避。
そのわずか一週間後の17日に米軍のトラック大空襲(スプルーアンス中将率いる第五艦隊・空母5軽空母4戦艦6巡洋艦10駆逐艦28)が敢行された。
トラック基地及び第四艦隊(司令官小林仁中将)の迎撃は後手となり、航空機のほととんどが離陸時に撃墜。完全に制空権を握られ17日18日の二日間の空襲で基地機能喪失、航空機270機喪失、軽巡洋艦「那珂」、駆逐艦「太刀風」「追風」「文月」、特設巡洋艦「愛国丸」「清澄丸」「赤城山丸」、特設潜水母艦「平安丸」「りおでじゃねいろ丸」、輸送艦30隻(194000トン)が撃沈。
そのほか水上機母艦「秋津洲」駆逐艦「時雨」「秋風」、特務艦3隻、潜水艦4隻が損害を受けた。
またトラック島を出港しようとした新鋭軽巡洋艦「阿賀野」がトラック空襲の前日16日に潜水艦の雷撃で撃沈。
翌17日に脱出しようとした練習軽巡洋艦「鹿取」駆逐艦「舞風」「野分」が包囲していた戦艦部隊に捕捉され「鹿取」「舞風」は撃沈。「野分」だけはトラック島からの脱出に成功した。

こうして、軽巡洋艦「那珂」は、最期のトラック空襲では9時間にも及ぶ対空戦を行い艦首艦橋切断大破しつつも満身創痍で奮戦し沈没した。
那珂沈没で約240人が戦死し末沢慶政艦長を含む210人は哨戒艇に救助された。


軍艦那珂忠魂碑

軍艦那珂忠魂碑
第四代艦長 従四位勲三等 今和泉喜次郎 書

今和泉喜次郎大佐は、軽巡洋艦那珂の第24代艦長。1943年3月25日から1944年1月6日まで勤めている。今和泉艦長時代の「那珂」は第十四戦隊として、トラックラバウル界隈の輸送護衛や「タラワの戦い」の支援なにど従事している。


ただただ「那珂」を偲ぶ。ありし日の姿を偲ぶ。
大洗の海から太平洋、そしてはるかなトラック群島を拝む。

那珂ちゃんの聖地
「那珂ちゃん!」「艦隊のアイドル!」
そのきっかけはなんであれ、歴史を伝承する最初のきっかけとして「艦これ」が機能するのであれば、それも良きこと。

巡洋艦那珂
常備排水量5,595トン 機関出力90,000馬力 速力35,25ノット

「輝シイ武勲ヲ残シテ終焉」の一言が重い。

軍艦那珂艦歴
大正14・3・24 進水
仝〃11・30   竣工呉鎮守府所管トシテ艦籍ニ入ル
仝〃12・5    第1艦隊第3戦隊編入南支沿岸台湾方面行動
昭和4・11・30 第1艦隊第1水雷戦隊編入上海方面ニ行動
仝7・1・28   第1次上海事変ニ出動
仝9・11・15  艦籍ヲ横須賀鎮守府所管ニ転籍
仝10・11・15 第2艦隊第2水雷戦隊旗艦トナル
仝11・2・26  二二六事件発生鎮圧ノ為東京品川沖ニ出動
仝14・11・25 第2艦隊第4水雷戦隊旗艦トシテ南支方面行動
仝16・12・7  太平洋戦争比島部隊トシテ比島ルソン島出撃
仝〃 〃 10   ビガン攻略
仝〃 〃 22   同島リンガエン湾大上陸作戦支援部隊デ活躍
仝17・1・7   蘭印部隊トシテ出撃ボルネオタラカン攻略
仝〃 1・21   ボルネオパリクパパン進撃攻略
仝〃 2・27   ジャワ島スラバヤ作戦大船団護衛南進中
          米英蘭艦隊ヲ迎撃
          敵艦撃沈大戦果ヲ収メクラガン上陸作戦ヲ
          成功セシム
仝〃 3・26   印度洋上クリスマス島作戦参加攻略
仝〃 12・8   ジャワ島攻略作戦ノ勲功ニヨリ
          山本五十六連合艦隊司令長官ヨリ感状授与サル
仝18・4・1   第4艦隊第14戦隊旗艦トナリ
          南洋トラック島ヲ基地ニ
          南洋方面作戦特ニ輸送任務ニ活躍
仝〃 11・5   上海方面ヨリラバウル方面ニ陸軍部隊輸送ス 
          ラバウル港ニ於テ敵機部隊ト交戦
仝〃 〃 25   マーシャル群島
          ポナペ島クエゼリン島クサイ島ミレ島ニ
          陸軍部隊輸送
仝19・2・17  トラック島ニ来襲敵機動部隊ト応戦
          同島南西海域ニ於テ
          9時間ニ及ブ激烈ナル対空戦斗ノ末
          満身創痍砲は飛散艦首艦橋切断海中ニ歿ス 
          後進交戦魔ノ紅ノ炎ト化シ遂ニ沈没
          連合艦隊ノ一翼ノ使命ヲ果シ
          輝シイ武勲ヲ残シテ終焉

大洗磯前神社の境内案内

軍艦那珂(なか)は、日本海軍の軽巡洋艦。神社の北側を流れる那珂川に因んで命名され、艦内神社として当社がお祀りされていました。
 艦内神社とは、古くから船には神様を祀る風習があり、軍艦には艦名に縁がある神社の御分霊をお祀りして艦長はじめ乗組員は事あるごとにお参りしていました。
 軍艦那珂は20年ほど前線で活躍しましたが、残念ながら昭和19年2月17日に沈没しました。沈没後40年にあたる昭和58年に忠魂碑が建立され、現在も毎年2月17日に慰霊祭が行われています。

軍艦那珂忠魂碑 https://www.oarai-isosakijinja.net/%E5%A2%83%E5%86%85%E6%A1%88%E5%86%85/%E8%BB%8D%E8%89%A6%E9%82%A3%E7%8F%82%E5%BF%A0%E9%AD%82%E7%A2%91/

https://www.oarai-isosakijinja.net/%E5%A2%83%E5%86%85%E6%A1%88%E5%86%85/%E8%BB%8D%E8%89%A6%E9%82%A3%E7%8F%82%E5%BF%A0%E9%AD%82%E7%A2%91/

場所

https://goo.gl/maps/GSXpc6PDpzdj2Vo3A


大洗磯前神社(式内名神大社・国幣中社)

御祭神
主祭神:大名貴命
(オオナムチ命・オオクニヌシ命の別名・国土開拓の神)
配祀神:少彦名命
(スクナヒコナ命・高皇産霊神の御子神・医薬、醸造、海の神)

文徳天皇実録(六国史の一つ)によると、斉衡三年(856)、度々地震が発生し人心動揺し国内が乱れて居た時に、常陸国鹿島郡大洗の浜に「両恠石」(二つの怪しい石の意)が示現し、それは「高各尺許、体於神造、非人間石」というものであったという。
石の出現の翌日には「亦有廿余小石、在向石左右、似若侍坐」とされ、里人の一人に神がかりして人々にいうには「我は、これ大名貴、少彦名神也。昔、この国を造り常世の国に去ったが、東国の人々の難儀を救うために再びこの地に帰ってきた」と仰せられたという。
オオクニヌシ神(元々、オオクニヌシ神とスクナヒコナ神は同神との説もある)は自ら東国の混乱を鎮める平和な国土を構築するために大洗の降臨したということになる。

大洗磯前神社は創立当初から関東一円の総守護神として祀られ、酒列磯前神社共々に天安元年(857)には官社、そして延喜の制では「大洗磯前薬師菩薩明神」として明神大社に列している。(両社の関係は不明だが、那珂川を挟んで鹿島郡・那珂郡にそれぞれ両神が祀られたと考えて良いだろう。)

永禄年間(1558-1570)に小田氏治の兵乱で社殿以下の諸建築を焼失してしまい、以後小社で祭祀を続けていたという。
水戸藩主徳川光圀は見るに忍びず元禄三年(1690)に現在の社地の中程に社殿を造営。徳川綱條が享保十五年(1730)に本殿、拝殿、神門を再興したという。
現存の社殿は当時の建造物(本殿・拝殿は県文化財)。明治の世になると明治七年には県社、明治十八年には国幣中社に列せられている。

神磯の鳥居

神磯の鳥居。
まぶしいばかりに輝く太平洋を望む。
大洗の浜からやってきた神様を祀る。

ありがたい空間。

那珂川

那珂川。関東地方では第三の大河。
北側は、ひたちなか市。

那珂川から太平洋を望む。

那珂川の南側にはアクアワールド大洗水族館。

北側は那珂湊の漁港。

今回は、ひたちなか海浜鉄道「那珂湊駅」でレンタサイクルをして、大洗磯前神社に赴きましたが、水戸駅や大洗駅からバスも出ています。大洗駅にもレンタサイクルがありますね。


関連

那珂ちゃんは、横浜ドックの産まれ。

艦内神社

軍艦の慰霊碑
軍艦多摩慰霊碑
戦艦武蔵の碑

「水戸陸軍飛行場跡(水戸東飛行場跡)」水戸つばさの塔(ひたちなか市)

茨城県ひたちなか市。

戦前、水戸の周辺には3つの陸軍飛行場があった。
水戸飛行場(水戸東飛行場)
水戸南飛行場(吉田飛行場)
水戸北飛行場(水戸北秘匿飛行場)、未完成の特攻用飛行場。

今回は、その中心にあたる「水戸飛行場(水戸東飛行場)」に関して。


水戸飛行場

昭和13年(1938年)、「水戸飛行場」設定。場所は茨城県那珂郡前渡村(現在のひたちなか市新光町)。
昭和14年(1939年)、「水戸陸軍飛行学校」が開校。東部には「陸軍航空審査部水戸試験場」が設置。
昭和15年(1940年)、水戸南飛行場に「陸軍航空通信学校」が開校。
昭和18年(1943年)8月、「水戸陸軍飛行学校」は仙台に移駐となり、「明野陸軍飛行学校分校」(明野陸軍飛行学校水戸分校)が開校。
昭和19年(1944年)6月、陸軍教育機関が随時で防空戦闘体制に移行。「明野陸軍飛行学校分校」も「常陸教導飛行師団」に改編。以降、水戸東飛行場及び水戸南飛行場から本土防衛のための特攻作戦が敢行された。
昭和20年(1945年)4月、「常陸教導飛行師団」主力は群馬の「新田飛行場」に移転。
昭和20年7月、各地の教導飛行師団は統合され地名を冠しない「教導飛行師団」(本部は宇都宮)に統括。「常陸教導飛行師団」も教育部隊と作戦部隊に分離改編され、「教導飛行師団第2教導飛行隊」「飛行第112戦隊」となる。

各地の教導飛行師団としては、下志津教導飛行師団、明野教導飛行師団、浜松教導飛行師団、鉾田教導飛行師団、常陸教導飛行師団、宇都宮教導飛行師団があった。統合後の単一組織としての教導飛行師団本部は宇都宮。明野には第1教導飛行隊が、常陸(水戸)には第2教導飛行隊が置かれた。

そして改編分離された作戦部隊として新設された、明野教導飛行師団第1教導飛行隊「飛行第111戦隊」と、常陸教導飛行師団第2教導飛行隊「飛行第112戦隊」は、最後の陸軍戦闘機部隊であった。

戦後は付近一帯の現国営ひたち海浜公園および常陸那珂地区が1946年(昭和21年)から27年間アメリカ軍の「水戸対地射爆場」として使用され、1973年(昭和48年)に日本に返還されている。


陸軍航空通信学校

昭和15年(1940年)8月、水戸陸軍飛行学校内で開設。
昭和15年12月、水戸南飛行場(吉田飛行場)に移転。
昭和20年5月、陸軍航空通信学校は「水戸教導航空通信師団」に改編。水戸教導航空通信師団の任務は主として将校と下士官の教育であった。

水戸教導航空通信師団事件
昭和20年8月17日、水戸教導航空通信師団教導通信第二隊第二中隊を率いる岡島哲少佐らは、宮城事件などで東京で終戦阻止で決起した部隊と合流しようと画策。林慶紀少尉は決起に反対する教導通信第二隊長田中常吉少佐を射殺。
そうして、水戸教導航空通信師団の将兵391人は、終戦阻止の動きに呼応して「東京での徹底抗戦」を目指し、水戸駅を出発、正午過ぎに続々と上野公園(東京美術学校)に集結。

近衛第一師団参謀石原貞吉少佐が上野で上京した水戸教導航空通信師団部隊に対し撤収の説得を行った。これは、指揮官岡島哲少佐が、石原の陸軍士官学校本科教練班長時代の教え子であったからという。
しかし、石原貞吉少佐は、林慶紀少尉に射殺され、そして林慶紀少尉は自決。林少尉の所属していた小隊長の松島利雄少尉も責任を取り自決。リーダー格であった岡島哲少佐、杉茂少佐も自決し事件は収拾した。


水戸飛行場に関係する組織

水戸陸軍飛行学校
 (仙台陸軍飛行学校)
陸軍航空通信学校
明野陸軍飛行学校分校
 (明野陸軍飛行学校水戸分校)
常陸教導飛行師団
 (教導飛行師団第2教導飛行隊と飛行第112戦隊)
水戸教導航空通信師団
陸軍航空審査部水戸試験場


水戸つばさの塔

かつての陸軍水戸飛行場跡の一角、現在の那珂湊運動公園の南東に、往時を偲ぶ空間があった。

水戸つばさの塔
 菅原道大書

散る桜 残る桜も
 散るさくら

菅原道大は、陸士21期。最終階級は陸軍中将。生粋の航空畑育ちで陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官であった菅原の名とともに垣間見る「残る桜」の重みを痛感。

合掌

昭和50年5月吉日建立。つばさと日本刀を象徴しているという。


由来記

由来記
 昭和13年、ここ前渡の地に千二百ヘクタールに及ぶ水戸飛行場を設定し翌年水戸陸軍飛行学校が開校。通信、戦技、武装、高射、化学戦、自動車、特操、佐尉官等の教育と研究を実施し、東部に陸軍航空審査部水戸試験場が設置された。
 昭和15年、水戸南飛行場に陸軍航空通信学校が開校され、通信教育と研究を移管した。
 戦局の要請により昭和18年8月、明野陸軍飛行学校分校が開校、水戸校は仙台に移駐した。昭和19年6月に至るや、分校は常陸教導飛行師団に改編。精鋭空中戦士の養成と研究に加え、本土防空の作戦任務を附与された。
 この地にあってその職に殉ずる者および、昭和20年2月16・17日の艦載機群邀撃等により身命を捧げた者その数百八十余柱、また南飛行場に於いても電鍵を片手に華と散った者数知れず。更に昭和19年11月以降特別攻撃隊一宇隊、殉義隊、第24振武隊、第53振武隊、第68振武隊、平井隊、誠35飛行隊の勇士七十余人は、相ついで進発レイテ沖に、台湾、沖縄海域に敵艦船を求めて突入し国難に殉じた。
 昭和20年4月、師団主力は群馬県新田飛行場に移動し終戦に至った。
 ここに終戦30周年を期し、関係者ならびに有志相計りこの戦跡を後世に伝え、殉国英霊の偉業を顕彰し、祖国永遠の平和を祈念して、この塔を建立す。
  昭和50年5月3日
   水戸飛行場記念会


陸軍 境界票石

上記の由来記の記念碑の隣に、さりげなくある。

2 陸軍用地


国旗掲揚塔(紀元2600年記念)

紀元2600年記念は、昭和15年(1940年)。

昭和15年に水戸陸軍飛行学校長であった、中薗盛孝の書と思われる。中薗盛孝は、最終階級は陸軍中将。
第3飛行師団長として出征し昭和18年(1943年)9月、搭乗機が広東上空で撃墜され戦死。


陸軍航空通信学校の門柱

水戸南陸軍飛行場にあった陸軍航空通信学校の門柱。


この校門は昭和15年陸軍航空通信学校が開校された元の所在地(水戸市住吉町)付近の畑に破損したまま放置されていたもので表題字は同校元副官山口敦氏の揮毫である。
 昭和56年4月16日
 水戸つばさの塔奉賛会

陸軍航空通信学校
山口敦の揮毫

金具が一つしか残っていない。


立川98式直協偵察機(キ36)プロペラ

立川九八式直接協同偵察機
別称は、九八式直協偵察機、九八式直協、九八直協、直協機など。司令部偵察機(司偵機)は戦略的な偵察任務を主とし、直接協同偵察機(直協機)は戦術的な偵察、近距離偵察を主任務としていた。立川飛行機としては初めての全金属製機であった。九八直協の総生産機数は1,334機で、立川飛行機としては最も多く生産した機種でもあった。

単葉機の割には短距離での離着陸が可能で、操縦性・低速安定性もよく、エンジン故障が少なく整備も容易だったため、使いやすい万能機として偵察、指揮、連絡、対地攻撃などの任務、さらには爆装した特攻機として終戦まで活躍した機体。

立川98式直協偵察機の「陸軍ハ13甲エンジン(九八式四五〇馬力発動機)(海軍呼称では天風エンジン」につけられていたプロペラが展示してある。

立川98式直協偵察機(キ36)プロペラ
このプロペラは、昭和20年2月26日の艦載機大空襲の際に、当飛行場から迎撃に飛び立ち、激闘のすえ壮烈な自爆を遂げた戦友(不詳)の最期を偲ぶもので、昭和51年8月11日、日立港沖合の海底から引揚げられたものである。
 昭和52年1月吉祥日
  水戸つばさの塔奉賛会


2式複座戦闘機(キ45改・屠龍)プロペラとエンジン

川崎二式複座戦闘機(二式複戦)。愛称は屠龍。エンジンは、三菱の陸軍ハ102(海軍呼称では瑞星21型)。
1942年(昭和17年)2月(皇紀2602年)に二式複座戦闘機として制式採用され。B-29迎撃で活躍。屠龍生産機数は1,704機。三菱のエンジン(陸軍ハ26・ハ102、海軍瑞星、陸海軍統合ハ31)としては、全型式総計で12,795台生産された。

2式複座戦闘機(キ45改・屠龍)プロペラとエンジン
この発動機は大洗沖で操業中の漁船の網に掛かりひき揚げられたもの。二式複座戦闘機(キ-45屠龍)のものと判明


増槽

屠龍のエンジンの後方には「増槽」も展示してある。
屠龍の増槽タンクなのかは不詳。後部には安定翼もあるジュラルミン製の燃料増槽タンク。


航空神社の御手洗

常陸教導飛行師団の本部前の航空神社の御手洗盤。


この御手洗はかつて本部前の航空神社に奉納されていたもので正面には当時の常陸教導飛行師団所属機が尾翼につけたマークが刻まれている
 昭和53年1月吉祥日
 水戸つばさの塔奉賛会

常陸教導飛行師団の所属機尾翼とおなじシンボルが描かれている。


水戸つばさの塔奉賛会

昭和50年5月3日、水戸つばさの塔竣工除幕式ならびに慰霊祭を執り行い、名称を水戸つばさの塔建立委員会(昭和42年発足)から水戸つばさの塔奉賛会と改称し、以後毎年慰霊祭を執り行い現在に至っている。


アクセス方法

私は、ひたちなか海浜鉄道「那珂湊駅」からレンタサイクルで訪問しました。バスもないエリアのようで、公共機関ではこの選択肢が最適な感じです。歩くとなると、阿字ヶ浦駅か磯崎駅かとなりますので、どのみち「ひたちなか海浜鉄道」となります。

場所

https://goo.gl/maps/vG1adtmDfo8E5vBJ8

※撮影:2022年9月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R526-6
1949年01月12日、米軍撮影の航空写真。
すでに北側に、射爆場が拡張されている。

「水戸つばさの塔」は、水戸飛行場(水戸東飛行場)の南東にあたる。


関連

小名浜港の礎となった駆逐艦汐風と澤風「軍艦防波堤(沈船防波堤)」(福島県いわき市)

福島県いわき市小名浜。福島県下では最大の港湾。
この港町の埠頭に、旧帝国海軍の駆逐艦が眠っているというので、足を運んでみました。

艦影が分かるように敷かれたタイル。これが駆逐艦「汐風」の艦尾を伝える名残。


沈船防波堤の歴史

沈船防波堤の歴史
 小名浜港は、延享4年(1747)に江戸幕府の代官所が置かれ、磐城各藩の納付米を江戸に積み出したことにより、港の基礎が築かれました。本格的な整備は大正7年の漁港修築工事が始まりで、昭和2年には第2種重要港湾に指定され、昭和4年から昭和13年まで第1期港湾修築工事として港の整備が行われました。しかしながら、国の財政事情により計画の一部を縮小せざるを得ませんでした。さらに、昭和16年から第2期港湾修築工事に着手しましたが、戦争の混乱と財政の悪化により工事を中断したため、防波堤や防砂堤施設は不完全で風や波による災害が頻発しました。
 戦後の混乱期を迎え、食糧や物資輸送ルート確保のための港の整備が要求され、小名浜港においても、漁獲物を揚げる漁港の整備と石炭エネルギー輸送のための、第3期港湾修築工事が昭和21年から昭和28年まで行われました。
 当時の港の整備は、不完全だった防波堤や防砂堤を完成させるのが急務でしたが、財源が乏しくコンクリートや骨材などの建設資材も不足していたため、艦船を海底に沈めるという手法(沈船)による整備が計画されました。昭和23年4月1~2日に、駆逐艦「澤風」が漁港市場前に、引き続き8月25日には、駆逐艦「汐風」が波浪及び漂砂対策として現在地に沈められたのです。昭和26年1月には、重要港湾の指定を受け、本格的な石炭輸送のための漁港整備が進められ、沈船(汐風)が岸壁の基礎として第2の役目を担うこととなり、昭和32年6月に待望の1号ふ頭が完了したのです。
 戦後日本の経済発展とともに、小名浜港は工業港として整備が進められ、取扱貨量も驚異的な伸びを見せました。しかし、近年になって船舶の大型化や港湾機能・流通機能の変化に加え、市民に親しまれるウォーターフロントとしての港の役割が求められるようになり、整備の転換が図られることとなりました。
 「沈船防波堤」となった駆逐艦「汐風」は、大正10年7月29日に舞鶴工廠で竣工して以来、戦後日本の再興そして高度成長を支える重要港湾の礎として、第2、第3の役割を果たしてくれました。
 ここに、これまでの小名浜港の発展に重要な役割を果たした、沈船防波堤の歴史を残すものとします。

昭和23年頃
「汐風」が漁港区の漂砂対策の防波堤として沈船されたころ

昭和32年頃
「汐風」が1号ふ頭の埋立岸壁として石炭輸送に活躍していた頃

現在
2号ふ頭の整備が開始された

「汐風」沈船状況図

駆逐艦「汐風」舷外側面図

参考

http://www.pa.thr.mlit.go.jp/onahama/020/010/010/popup_history07.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M10-21-2-188
1952年10月21日、米軍撮影の航空写真。

以下、国土地理院航空写真「地図・空中写真閲覧サービス」の空中写真を活用。

ファイル:USA-M10-21-2-188
1952年10月21日。汐風と澤風。
1948年に沈船堤防とされているので、4年後の空中写真。

ファイル:MTO617X-C4-1
1961年11月02日。汐風と澤風。沈船から9年。
澤風の艦影はしっかりとわかるが、汐風の小名浜港1号埠頭は拡張中。艦影がわかりにくくなっている。

ファイル:MTO663X-C10-13
1966年10月20日。汐風。沈船から14年。
昭和40年に漁港区改良のため澤風は撤去されている。

ファイル:KT707Y-C2-30
1970年10月21日。
ここからは、汐風の1号埠頭と漁港区の工事進捗を見ていくとことになる。

ファイル:CTO7532-C23C-11
1975年10月17日。

ファイル:TO824-C18-19
1982年05月23日。

汐風の空中写真

小名浜港1号埠頭の「汐風」に注目してみる。

ファイル:USA-M10-21-2-188
1952年10月21日撮影。
艦影はわかりにくいが、突き出た防波堤が「汐風」

ファイル:KT707Y-C2-30
1970年10月21日。
1号埠頭の埋め立てが進み、汐風右舷(写真の左側)が海となり、左舷が陸地となる。

ファイル:CTO7532-C23C-11
1975年10月17日。
汐風が埠頭に取り込まれ、左舷側岸壁に突起が見える。

ファイル:TO824-C18-19
1982年05月23日。
1号埠頭の岸壁となった汐風の右舷がなんとなくわかる。

ファイル:CTO20092-C18-32
2009年10月30日。
1号埠頭が拡張され、汐風の左舷も陸地に。
広場のタイルが色付けされたので、埠頭に取り込まれても、汐風の位置関係が分かる。

ファイル:CTO201115-C11-41
2011年11月01日。
東日本大震災で小名浜も被害を受けた。汐風の1号埠頭も、津波によって建屋等が損傷している。そして、1号埠頭では奇しくも汐風の埋まっている場所だけ、明白に色が違ってみえる。軍艦を使用したということもあり、周辺と、この部分だけが基礎の材質が違うからなのだろうか。

ファイル:CTO20196-C4-71
2019年05月05日。
ほぼ現在の姿。東日本大震災復興後の1号埠頭。
震災で一瞬、その姿を感じさせた汐風であったが、現在はその姿を感じさせずに静かに小名浜港の埠頭の礎となっている。

いわきマリンタワーから、現在の小名浜港の様子をみる。
黄枠の場所に、汐風と澤風が沈船された。


汐風

汐風は峯風型8番艦。
舞鶴海軍工廠で、1920年5月15日に起工。1920年10月22日に進水。1921年(大正10年)7月29日に竣工。
1937年(昭和12年)から始まった日支事変(支那事変・日華事変・日中戦争)では、華南の沿岸作戦に参戦。
1941年(昭和16年)大東亜戦争開戦時には、第一航空艦隊第四航空戦隊第3駆逐隊に所属。空母龍驤を護衛していた。その後は、輸送船の護衛などに従事。
1945年(昭和20年)に汐風は、特殊潜航艇回天搭載艦としての改造を受けるが、活躍する機会がなく、呉で終戦を迎える。
1945年(昭和20年)10月5日に除籍、同年12月1日に、特別輸送艦の指定を受けて復員輸送に従事。1948年(昭和23年)8月25日に、小名浜港第1号埠頭先端の防砂防波堤として沈船埋設された。

現在、駆逐艦汐風が埋設されている箇所では、艦尾部分の一部が艦影をなぞるように、タイルで舗装されている。

場所

https://goo.gl/maps/L4HBKZkeABzW4eqT6

駆逐艦汐風を偲びながら、いわきマリンタワーのある三崎公園に向う。


小名浜港漁港区

小名浜港第1号埠頭で沈船した「汐風」よりも先に、この小名浜漁港に「澤風」が沈船した。小名浜漁港は昭和40年に拡張され、「澤風」が撤去されているため、現在の漁港の堤防は「澤風」とは関係ない。

場所

https://goo.gl/maps/skNDdrXfvPPnHpWc9


澤風(沢風)

澤風は峯風型駆逐艦の2番艦。
三菱造船(株)長崎造船所で建造。1920年(大正9年)3月にネームシップの「峯風」よりも早く竣工。
1932年(昭和7年)、上海事変において、長江水域での諸作戦に参加。
1935年(昭和10年)4月、館山海軍航空隊の練習艦となり、1938年(昭和13年)12月に予備艦となるも、引き続き館山海軍航空隊練習艦として各種飛行訓練に協力。
1939年(昭和14年)11月、横須賀鎮守府練習駆逐艦となる。1941年(昭和16年)9月、再び館山航空隊付属として各種飛行訓練に協力。
太平洋戦争では、対潜掃討や船団護衛に従事。
1944年(昭和19年)12月、海軍対潜学校練習艦となる。
1945年(昭和20年)対潜実験艦への改造を施され、第1特攻戦隊の特攻攻撃訓練目標艦となり、横須賀で終戦を迎えた。

1948年(昭和23年)、戦後の食糧増産の一環として漁獲高をあげるために、小名浜港に防波堤を作ることが急務であった。しかし、防波堤を作るにも次第が不足していた戦後日本において、軍艦を沈めればそれだけで防波堤を作ることができることから、旧海軍の廃艦を用いた軍艦防波堤工事が各地で実施されることとなる。
澤風は浦賀船渠で解体改装され、マストや艦橋などの上部構造物などを撤去され、小名浜港に曳航。昭和23年4月2日に沈船作業が実施された。
この澤風による防波堤が日本で始めての軍艦を用いた沈船防波堤であった。
1965年(昭和40年)に、小名浜漁港の拡大のために沢風防波堤を撤去。解体後の澤風のスクラップは、いわき市を通じて、地元の海友会(旧海軍軍人および軍属で結成)が保存をすることとなり、タービンが昭和48年に永久保存となった。なお、タービン以外の澤風のスクラップのその後の行方は不詳。

澤風のタービンは、昭和48年11月3日に、三崎公園に記念碑として設置。海軍としてご縁のあった 高松宮宣仁親王が艦魂碑除幕式に参加されている。


澤風艦魂碑(澤風のタービン)(沢風のタービン)

いわきマリンタワーのある三崎公園の一画に、「澤風のタービン」が記念碑として保存されている。

艦魂

高松宮宣仁親王の筆。海軍士官でもあった高松宮宣仁親王が艦魂碑除幕式に臨席された。


艦魂碑説明板
東北地方最大の国際港であり、日本一の広域都市いわき市の海の玄関でもある小名浜港は、かつては今日のような護岸も防波堤もない、遠浅の砂浜に小さな漁船を引き揚げておく程度の漁村にすぎませんでした。
長い苦しい戦争を戦い抜いて生残った日本海軍の艦艇は武装を撤去し、過酷な悪条件下に海外の復員軍人のみならず、婦女子や病人など、十数万の国民の帰国に働いた後、本土沿岸の危険な機雷処理に働き、更にあるものは連合軍に引取られ、あるものは現在の海上保安庁に残されたりしましたが、横須賀港にあって15センチ9連発ロケット砲を装備し、対潜学校練習艦として沿岸警備に活躍していた駆逐艦「澤風」と、日本海方面にあって人間魚雷「回天」の搭載艦となっていた駆逐艦「汐風」の2隻は、日本再建の希いをこめて福島県小名浜築港の基礎とするため回航され、澤風は今の魚市場の防波堤として、また汐風は現在の1号埠頭の中央付近に着底さ せ、コンクリートで固定してそのまま使用する事になったものです。澤風・汐風は同型艦で、大正9年・10年の完成で、1.215トン、長さ97.5メートルの技本式(海軍技術本部式)バーソンス型タービン38,500馬力2基を備え、当時39~40ノットの高速を出し得た駆逐艦であり北洋警備などでも活躍して本県の北洋漁船員にはおなじみの軍艦であり、戦前いわき市出身の艦長小野四郎少佐が指揮をして小名浜港に入港したこともあるのですが、これらの艦も今は忘れられた存在となっていましたが、小名浜在住の旧海軍々人有志の海桜会が廃棄処分となった同艦のタービン機関を保存しその後ここに名前を連ねる福島県海友会を中心とする有志の人々の苦心と熱意によって記念碑として永久に保存されることになりました。
昭和48年11月3日  福島県海友会記念碑建設委員会

駆逐艦 澤風 植樹記念碑

高松宮殿下御手植松

残念ながら伐採されてしまったようだ。

澤風の  孤高を慕う 波がしら

海軍技術本部式パーソンズ型タービンは、38,500馬力。
澤風はタービンを2基備えていた。

マリンタワーを見上げる広場に記念碑はある。

タービンのフィンが圧巻。

場所

https://goo.gl/maps/Lppcj9VFGkMdJETc6


小名浜港の軍艦防波堤の噂

小名浜港には、澤風と汐風以外にも軍艦堤防があったという噂がある。


「桂」
1艦目は松型駆逐艦「桂」。
「第5503号艦」と呼称され、1944年11月30日起工、1945年1月8日命名、6月23日進水(藤永田)。
同日工程60%で工事中止された未成艦。
情報がないために真偽不明。下記の場所も??。

https://goo.gl/maps/7tgmLBq6JXGtG1qa9

「潮」
2艦目は、吹雪型駆逐艦「」。
一等駆逐艦吹雪型(特型)の20番艦(特II型の10番艦)。横須賀に中破状態で終戦を迎え、昭和20年9月15日除籍、昭和23年に解体されたとされ、防波堤云々は真偽不明。


いわきマリンタワー

昭和60年(1985年)8月1日開館。塔の高さは59.99m、岬の上に立地しているので展望室は海抜106mの高さという。
小名浜港を見渡すには、最高の場所。せっかくだから上まで行ってみる。

小名浜港。

未来に躍進する小名浜港

場所

https://goo.gl/maps/zqfzjpcsetAZzQf97


戦傷の碑

福島県傷痍軍人会小名浜部会、同妻の会による。
昭和57年建立。
マリンタワー近くの道路脇に建立されていた。傷痍軍人の慰霊碑

戦傷の碑
人類永遠の
 平和を願い
  ここにその
   名を残す
元自由民主党幹事長
元厚生大臣 斎藤邦吉謹書

斎藤邦吉は福島相馬中村出身。

場所

https://goo.gl/maps/5gtCBBjXALMFQgDD9


第一ケーソンヤード跡地

ケーソンを製作する作業基地だった場所。港湾工事の海底の基礎といういみでは、沈船した軍艦もケーソンも役目は等しい。。。

参考

http://www.pa.thr.mlit.go.jp/onahama/020/010/010/popup_history05.html

場所

https://goo.gl/maps/uAhhagb9XPGQYqh29


小野晋平胸像と頌徳碑

小名浜町長などを務めた小野賢司の子であった小野晋平。小名浜港の整備を尽力した人物。
昭和2(1927)年、小名浜港が国の「重要港湾」指定を受け、同4(1929)年5月、第1期計画の起工式が執り行われるも、浜口雄幸内閣の緊縮財政で予算は大幅削減されてしまった。
小野晋平は昭和2年5月16日、東京で陳情活動を実施。「白襷隊」を結成し責任者となる。小野晋平率いる白襷隊217人が予算の復活を訴え、結果として同年9月、ほぼ当初の予算通りに工事が着工された。小名浜港で多くの実績を残し、昭和18年(1943)、57歳で死去。

小野晋平翁

小野晋平翁頌徳碑

扁額は吉田茂。建立は昭和24年。

小野賢司翁頌徳碑

建立は昭和43年


アクアマリンパーク

「いわき・ら・ら・ミュウ」や、「みなと公園」「アクアマリンふくしま」などで構成される臨海エリア。

https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/41400a/facilities-amp.html

イオンモールいわき小名浜

「アクアマリンふくしま」と「小名浜マリンブリッジ」

福島海上保安部(第二管区)のPM-58なつい。2019年建造のかとり型巡視船(500トン型PM)。

小名浜魚市場

ちなみに、公共交通機関を用いて小名浜にアクセスするのは、しょうしょう大変。
福島臨海鉄道に乗れると良いが、これは貨物なので乗れない。(旅客化してくれれば良いのですが。。。)
そうなると、泉駅からバスでイオンモールいわき小名浜まで向うのが現実的な選択肢。小名浜港から三崎公園までは、頑張って歩きましょう。。。

※撮影:2022年8月


「陸軍重砲兵学校」跡地散策・その1(横須賀)

横須賀の防衛大学校の手前、馬掘小中学校や馬掘自然教育園のあるエリアは、かつて陸軍の重砲兵学校があった場所。昭和40年代に海岸線を埋め立てる前は、この地が海岸線の南西端でもあった。
そんな馬掘の陸軍重砲兵学校関連戦跡を散策してみる。

その2(馬掘自然教育園)はこちらから。


陸軍重砲兵学校

明治22年(1989)。要塞砲兵幹部練習所が市川市の国府台に創設。
明治29年(1896)に、陸軍要塞砲兵射撃学校と改称。翌年明治30年に横須賀馬堀の新校舎に移転。明治41年(1908)に陸軍重砲兵射撃学校と改称し、大正11年(1922)に、陸軍重砲兵学校と改称した。

陸軍重砲兵学校跡
 現在の馬堀小・中学校は戦前に旧陸軍重砲兵学校が置かれていた所です。
 明治8年(1875)浦賀に海軍の兵士を育てる屯営が置かれ、その後、要塞砲兵幹部練習所・要塞射撃学校と変遷しました。大津練兵場に一時移転しましたが、明治30年(1897)馬掘の地に重砲兵学校を設置しました。
 この学校は砲術の訓練と発達に寄与し、養成した将兵は3万人を超えました。終戦後の一時期、浦賀が陸軍の復員手続きや馬堀援護所として使用されました。
 現在も校庭西側の丘に「重砲兵発祥の地」の碑があります。
 大津行政センター市民協働事業・大津探訪くらぶ

現在の馬掘小学校の入り口に、跡地の案内板が立っている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-2-122
昭和21年(1946年)2月15日、米軍撮影の航空写真。

一部拡大の上、加工。
当時は、重砲兵学校のすぐ先が海岸線であったた。現在は海岸線が埋め立てられていることが分かる。


重砲兵発祥地の碑

馬掘小学校の校庭西側の丘のうえに、重砲兵発祥の地の記念碑がある。
小学校の校庭内になるためにご注意下さい。私は校庭開放日に見学をさせていただきました。

この地は、重砲兵学校将校集会所前庭であったという。

重砲兵発祥地 
永持源次謹書

永持源次の最終階級は陸軍中将。
陸士15期、砲兵畑をすすみ、陸軍要塞砲兵射撃学校教官、陸軍重砲兵射撃学校教官、陸軍野戦砲兵学校教官、横須賀重砲兵連隊長、造兵廠大阪工廠長、砲工学校長、造兵廠長官などを歴任した。
昭和13年(1938年)、予備役。除隊後は、日本製鐵常務や日本特殊鋼社長、全国軍人恩給連合会長を務め昭和53年に94歳で没している。

(裏面)
当処は明治二十二年創立せる陸軍重砲兵学校の旧址なり本校は重砲兵の進歩発展に貢献し昭和二十年迄に三万の将兵を練成す正に重砲兵発祥の地と謂うへし 然るに往時の施設は逐年改廃せられ近くその姿を没せんとす全国同憂の士深く之を惜しみ由緒ある遺跡を永く顕彰する為明治百年に方り此の碑を建つ
昭和四十三年十一月 重砲校遺跡顕彰会

本記念碑本体は富士の溶岩塊により築かれていたが、この度の修復に当たり保全上堅固な伊達冠石に交換した。
 平成十九年八月
 重砲会碑修復事業協力者一同


行幸之地碑

重砲兵発祥地記念碑の隣には、行幸の記念碑がある。
昭和天皇は、この地に2回、行幸されている。

行幸之地

昭和天皇当地行幸記録
昭和三年五月二十四日 陸軍重砲兵学校時代
昭和二十一年二月二十日 浦賀引揚援護局時代
右の碑は浦賀引揚援護局が建立したものを、平成十九年八月重砲会が修復しこの記録を刻した。
重砲会碑修復事業協力者一同

場所

https://goo.gl/maps/oyKDGk9pW4oXMtn69

※撮影:2022年5月


関連

「横須賀重砲聯隊」跡地散策

横須賀には「陸軍重砲兵学校」があった。そして横須賀には「要塞」があった。横須賀に残る重砲聯隊の名残を散策してみる。
汐入駅からの衣笠駅を結んでいるバスで、坂本坂上バス停下車。


横須賀重砲聯隊

明治24年(1891年)11月に、要塞砲兵第一聯隊が、横須賀に創設されたことに始まる。
明治27年、日清戦争に参戦。
明治29年、東京湾要塞砲兵聯隊と改称。
明治37年、日露戦争に参戦し旅順二〇三高地攻略戦で活躍。
明治40年、重砲兵第一聯隊第二聯隊に改編。
大正9年12月に、「横須賀重砲兵聯隊」と改称。
以来、終戦まで東京湾要塞重砲兵聯隊として首都を防衛。
横須賀重砲兵連隊は第1師団に所属し、有事の際は東京湾要塞司令部の指揮下にあった。


横須賀重砲兵連隊営門

横須賀重砲兵連隊の正門。
明治40年(1907)10月26日に竣工。連なって残る約16mの塀は、明治24年(1891)に出来上がったものと推定。
門柱は58cm角で、高さは3.24m、塀の高さは1.8m。
横須賀に残る数少ない明治建造物で、現在は桜小学校、坂本中学校の門として使用されている。

横須賀市指定市民文化資産
旧横須賀重砲兵連隊営門
連隊の正門で、明治40年10月に竣工した。これに連なる塀は、明治24年に完成したものと推定される。本市に残る数少ない明治建造物である。

公式

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004017.html

場所

https://goo.gl/maps/64ukQw8YBMzfWuJAA


横須賀重砲兵聯隊跡記念碑

桜小学校の校庭南側の鎮座。道路を挟んだ反対側は坂本公園。道路側からも記念碑を伺うことは可能。

現在は、桜小学校の校庭南側に2つの記念碑が並んで建立されている。
小学校の校庭内になるためにご注意下さい。私は校庭開放日に見学をさせていただきました。

横須賀重砲兵聯隊跡記念碑
誠心山之碑
ふたつの碑がある。

記念碑
横須賀重砲兵聯隊跡

嗚呼横重
鎌倉山の星月夜
衣笠城址の蝉時雨
山河に残る英雄の
感化は如何で浅からん
桜花の春の競技会
紅葉の秋の裾野原

一 明治二十四年十一月要塞砲兵第一聯隊当地に創設
一 明治二十七年日清戦争に参戦
一 明治二十九年五月東京湾要塞砲兵聯隊と改稱
一 明治三十七年日露戦争に参戦二十八榴を以て旅順二〇三高地攻略戦に偉勲を樹つ
一 明治四十年十月重砲兵第一第二聯隊に改編
一 大正三年一部を以て日独戦争に参戦
一 大正八年十二月芸豫重砲兵大隊当隊に編入
一 大正九年九月深山重砲兵連隊より第三大隊転入 同年十二月横須賀重砲兵聯隊と改稱
一 昭和十三年第三大隊満州国阿城に転営
一 自昭和十二年至昭和二十年支那事変及大東亜戦争に於て各種野戦部隊を編成派遣し且つ東京湾
   要塞重砲兵聯隊を編成し首都を防衛す
一 昭和二十年八月十五日終戦
  
昭和四十六年四月
 横須賀重砲兵聯隊遺跡保存会建之
  施工 田中石材工業

誠心山之碑

陸軍重砲兵聯隊の敷地内にあった人口の丘「誠心山」があった。大正14年12月に、「誠心山」由来を刻んだ碑が建立された。

誠心山之碑の扁額は上原勇作の揮毫。

誠心山之碑

横須賀市立桜小学校

※撮影:2022年8月


関連

米沢の近代史跡散策・その1

山形県米沢市に赴く機会があったので、米沢城周辺を散策してみました。


招魂碑

米沢城址、上杉神社の境内の上杉謙信祠堂(御堂)跡に建立されている招魂碑。

招魂碑
 この招魂碑は、慶応4年(1866)に始まった戊辰戦争で、主に新潟方面で西軍と激戦の末に戦死した米沢藩士280余名と、明治10年(1877)におこった西南戦争の戦死者52名を慰霊するために、明治11年4月に建てられました。その後、日清・日露戦争で戦死した将兵の霊も合祀されています。この場所は、米沢城本丸の東南隅にあたり、藩祖上杉謙信公の遺骸を安置した御堂があったところです。毎年2月に開催される雪灯篭祭は、この地で執り行われます。
 碑は、凝灰岩で高さ約3.4メートル、総高約5.8メートル。碑銘は、戊辰戦争に従軍して参謀を務めた齊藤篤信(後の山形県師範学校初代校長)が、稲穂の芯を束ねた特製の大筆で書いたものです。
 米沢市
 米沢観光協会

上杉謙信祠堂(御堂)跡

松が岬公園の南東の高台にある謙信公御堂跡(米沢城本丸南東)。ここは米沢城下で一番高い場所。


傷痍之碑

上杉神社境内社の春日神社敷地内に建立。

恒久平和祈念
傷痍之碑
米澤市傷痍軍人会
米澤市傷痍軍人妻之会

傷痍之碑
趣意書
 ああ 過ぎしいくさの日日を憶えは痛ましくも悲しく万感胸に迫る
 時まさに風雲急を告げ青春の血を燃やし国難に殉せんと祖国遥かに陸海空の戦陣に召されるや護国の大任に就き戦傷病を負い戦列を去ったわれら傷痍軍人は、昭和20年8月15日痛恨と慟哭の裡に終戦を迎えた
 国破れて山河あり 傷痍の身に生命の灯を点し帰郷したわれらは、以来耐え難き苦悩と心身の障害を克服 祖国再建 平和布求の決意も新たに再起し妻とともに相寄り相扶な生活を刻み心魂を傾け生きてきた生きざまを省みるとき 恒久平和 祖国郷土の発展 家運繁栄を衷心より記念して止まず 願わくはこの熱き思いを込めたわれらの志を永く伝えるべく 四季美しく神鎮まる城址の丘に傷痍の碑を建立 協賛会員一同の名を刻み 鎮魂のため 上杉神霊の加護を祈願奉納するものである
 昭和57年5月1日
  米澤市傷痍軍人会、
  米澤市傷痍軍人妻之会

春日神社は、上杉鷹山公が学問・武芸に励むことや、行動や賞罰に不正の無いこと等を誓った誓詞を奉納した神社。


慰霊の碑

松が岬公園内。

ふるさとの父母想い 
 妻や子の 
やすらかなれと
 祈りつつ
平和を願い
 散りし魂

戦後50年の節目の年に当り、あらためて、あの太平洋戦争を顧みながら、世界の恒久平和と、御霊の永遠の安寧を願うとともに、あの痛ましい悲惨な戦争体験を風化させることなく、戦争を二度と起こさない証として、ここに慰霊碑を建立する
  平成7年9月
   米沢市遺族連合会  
   米沢市遺族共励会
     婦人部
     青壮年部


建国記念の日碑

松が岬公園内。

上杉鷹山が米沢に迎え入れられた際に、義父の上杉重定は、歓迎の意を表して米沢城大手門前広場の前を流
れる御入水川(上水道)に架かる橋を、新しく石橋に架け替えた。上杉鷹山は、この新しい橋に気が付き、下馬をして橋の前で頭を下げて徒歩で橋を渡ったという。人々は鷹山の人柄に触れ、この石橋を「いただき橋」と名づけました。のちにこの石橋が割れてしまうが、その石で「建国記念の日」碑を建てて、形を変えつつ鷹山の人柄を伝承している。

建国記念の日
2月11日


以下、近代史に限らずで、米沢城址・松が岬公園の散策を。

従三位上杉曦山公之碑

第12代上杉斉憲公。
正面の題字は、陸軍大将兼参謀総長で書道に優れた有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の筆。
裏面の斉憲の経歴は勝安房(かつあわ)(勝海舟)の撰文。


稽照殿(上杉神社宝物殿)

稽照殿は、大正8年の米沢大火による大正12年の上杉神社再建に際し、宝物殿として創設。
設計は米沢市出身の建築家・伊東忠太。
平成10年に登録有形文化財に認定。


赤穂事件殉難追悼碑

吉良上野介の正室は、米沢藩主の娘であり、赤穂浪士が実際に討ち入りの時には、吉良上野介の実子(上杉綱憲)が上杉家に養子入りして藩主となっていた。


上杉神社

松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉謙信を祀る。旧社格は別格官幣社。
現在に残る社殿は、大正12年に竣工。設計は米沢出身の伊東忠太によるもの。


米沢城

伊達政宗公生誕の地

伊達政宗は永禄10年(1567)、米沢城で生誕している。

上杉鷹山公之像(上杉神社参道)

天地人
上杉景勝公と直江兼続公主従像

上杉謙信公


逸三之像

日本で初めて人造絹糸(レーヨン)製造に成功した科学者・実業家。帝国人造絹糸(現・帝人の前身)共同設立者。


明治天皇行在所遺趾

明治天皇が明治14年9月に東北地方を巡幸した際、米沢に宿泊した場所(行在所)。当時新築の南置賜郡役所がこの地にあった。
南置賜郡役所は大正8年の米沢大火で類焼。大正10年に 明治天皇ゆかりの遺蹟があったことを記念して石碑が建立された。


米沢牛の恩人
チャールズ・ヘンリー・ダラス碑

1842年(天保13)、英国の首都ロンドン市で生まれる。1862年頃(文久2)、鉱物商として中国大陸に渡り、1865年(慶応元)に初来日した。
明治4年10月、米沢興譲館洋学舎で教鞭をとり、明治8年に任期を終え横浜の居留地に戻る折り、お土産として米沢の牛を持ち帰ったとされている。その米沢肉をイギリス人仲間に食べさせたところ、その食味の良さに驚き大好評であったといわれ、米沢牛が有名となった。


上杉鷹山公之像(松が岬第2公園)


草木塔

石碑草木塔。草木の魂を供養する碑。


松岬神社

松岬神社(まつがさきじんじゃ)。
上杉鷹山、上杉景勝、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政を祀る。
上杉謙信の祠堂を改めた上杉神社に合祀された米沢藩中興の大名・上杉鷹山は、明治35年(1902年)に上杉神社が別格官幣社に列せられるに際し、米沢城二の丸世子御殿跡に設けた摂社「松岬神社」に遷座された。
旧社格は県社。上杉神社摂社。

上杉景勝公

松が岬公園

場所

https://goo.gl/maps/Cv3Xb6aPnNzMLBDG7

撮影:2022年5月


関連

米沢出身の建築家・伊東忠太

千葉陸軍病院跡と陸軍歩兵学校跡

千葉市内の戦跡。

点在する戦跡の中から、学校と病院を掲載。以前の散策で見逃していた戦跡をフォローする。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

市内に点在している案内板より。

椿森の周辺。


千葉市内の関連する戦跡など


千葉陸軍病院

現在の「独立行政法人国立病院機構千葉医療センター」。当時の門柱が正門に残されている。もともとは南通用門の門柱であったが移設保存。正門の門柱ではない。

1908年(明治41年)、千葉衛戍病院として開院。
1936年(昭和11年)、千葉陸軍病院となる。

千葉市に残る戦跡
千葉陸軍病院跡
 明治41年(1908年)6月の交通兵旅団と鉄道聯隊第二大隊の椿森移転以来、本市には、陸軍歩兵学校、気球聯隊など多くの陸軍施設が中央区(椿森、弁天)や稲毛区(作草部、天台、穴川、小仲台、園生)の台地に集積し、その総面積は約462ヘクタール(約140万坪)に及びました。
 ここ椿森の地には、傷病兵の治療にあたるため、同年に千葉衛戍病院(昭和11年(1936年)、千葉陸軍病院に改称)が設立され、隣接する鉄道聯隊(大正7年(1918年)、鉄道第一聯隊に改組)のほか、気球聯隊、歩兵学校、戦車学校などの将兵に対する医療の中心的な役割を果たしていました。
 昭和20年(1945年)7月の千葉空襲(右下解説)により鉄道第一聯隊をはじめとする多くの陸軍施設が焼失しましたが、千葉陸軍病院は被災を免れ、空襲で負傷した将兵や市民を受け入れました。
 終戦後、同年12月に千葉陸軍病院は厚生省(現厚生労働省)の管轄となり、国立千葉病院として発足、その後、更なる名称変更、建て替えを経て、現在の独立行政法人国立病院機構千葉医療センターとなりました。この正面入口には当時の門柱※が現存しており、この地がかつて陸軍病院であった面影を残しています。
※門柱は、千葉陸軍病院の南通用門(現在の椿森中学校側出口付近)として設置されていましたが、平成22年(2010年)の建て替え時に現在の正面入口に移設されました。

国立病院機構千葉医療センターの正門。
道幅が広すぎて、門柱が心もとない。

場所

https://goo.gl/maps/QXeta5xPdMHonvmk8


陸軍歩兵学校(歩兵学校)

場所的には、鉄道聯隊材料廠煉瓦建物の近く。天台駅最寄りの作草部公園に往時をしのぶ記念碑がある。

陸軍歩兵学校は、1912年(大正元年)9月に、陸軍戸山学校内に創設されたことに始まる。

大正元年11月に作草部の現在地に移転。
歩兵戦闘法の研究・普及などを行っていた陸軍教育機関。

平和之礎

陸軍歩兵学校之跡

由来
 陸軍歩兵学校は大正元年この地に創設され以来30有余年歩兵の実施学校としてもっぱら歩兵戦闘法の研究とその普及に任し 軍練成上をきわめて重要な使命を遂した
 この間数次の事変戦争において収めたるかくかくたる成果は本校の努力に負うところまことに多大であり又一面本校の存在が所在地軍都千葉市発展の一要因となったのである
 不幸にして大東亜戦争の末期空襲を受け諸施設は灰に帰し 終戦により昭和20年8月本校は閉鎖されその上戦後の市街復興に伴いその跡は様相一変し ほとんど往年の面影をとどめないようになった
 われら本校ゆかりの者は深く現況を嘆きこの地に旧軍練成の中枢的機関が存在した事実を後世に伝えるとともに 先人の功績をたたえ あわせて建軍の目的が日本国の興隆と世界平和維持にほかならなかったことを広く国民に理解されんことを願い財を集めてここに記念碑を建てたものである

昭和39年11月吉日
陸軍歩兵学校由縁者建之
題字 矢野機 書

揮毫の矢野機は、最終階級は陸軍中将。陸士18期。陸大25期。昭和19年(1944年)10月に陸軍歩兵学校長に就任し終戦を迎えている。

作草部公園

場所

https://goo.gl/maps/QsUrQdREXRWLtnjR9

※撮影:2022年6月


真田山の騎兵第四聯隊(大阪)

大阪城の南に築かれた出城、真田丸。
その真田丸のあったエリアに展開されていたのが、騎兵第四聯隊であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

真田山陸軍墓地と騎兵第四聯隊。
もっとも実際には騎兵第四聯隊は、昭和7年に真田山から堺に転営し、昭和14年に真田山公園となっているので、航空写真も「真田山公園」。


騎兵第四聯隊

大坂第四師団所属の騎兵第四聯隊。
明治22年に創立。戦歴としての最初の出動は日清戦争。ついで日露戦争に参戦。日露戦争では第2軍に属し、遼陽会戦・沙河戦に参戦。明治38年3月10日奉天入城。
昭和7年に手狭となったために聯隊兵舎は堺(金岡)に移転。

その後、騎兵第四聯隊跡地は大阪市に払い下げ、昭和14年(1939)に全域が真田山公園として整備。
騎兵第四聯隊は、昭和17年にフィリピンから内地に帰還し解隊、軍旗は奉還された。
昭和18年に再動員、捜索第四聯隊となる。昭和20年にタイ国で終戦を迎えている。


騎兵第四聯隊忠魂碑

もともとあった2つの下段「真田山兵舎史跡碑(騎兵営址碑」に、戦後増設で、最上段に「忠魂碑」が建立されている。

忠魂

騎馬のレリーフ

騎兵營址
陸軍大将鈴木荘六書

昭和8年11月
 騎兵将卒建之

騎兵第4聯隊歌
1.東に生駒の山高く
  西にはチヌの海眺め
  軍馬のいななき勇ましく
  集う八州の健児なり
  その名も高き桃山に
  聞かずや高くうたわるる
  錦城騎兵四聯隊
2.春は花咲く吉野山
  若草もゆる信太森
  吹く朝風に勇ましく
  栗毛の駒にまたがりて
  槙尾の山の桜花
  駒の蹄の音高く
  わが駒勇め今しばし
3.青葉若葉の風薫る
  はつ夏の頃早やすぎて
  炎熱もゆる八月の
  波風高き高師浜
  水馬演習も勇ましく
  武門の名誉偲びつつ
  怒涛に駒を乗り入れる
4.秋風立ちて中つ頃
  播州加古川上流の
  青野ヶ原の原頭に
  四百の騎兵勇ましく
  襲え襲えの号令に
  戦場の華とうたわるる
  あゝ爽快の襲撃ぞ
  あゝ爽快の襲撃ぞ

騎兵第4聯隊之歴史

騎兵第4連隊は、もとこの真田山公園の全域にあった。
明治22年(1889年)2個中隊の大隊編成として始めて大阪に新設され、兵員250、馬匹200程度で、大隊長は大高坂正元少佐である。
明治29年日清戦役の直後同年11月19日、軍旗を拝受し爾来昭和7年まで此の地にあり、軍旗を拝受すると共に、騎兵第4連隊と改編、茲に、日本帝国の、陸軍の華として発足した。
当時は国民皆兵制のため、徴兵令に従い、男子21才に達すると全国一斉に徴兵検査が施行せられ、身体、精神の厳密な検査をうけ、少しの故障、又は欠陥ある者は不合格となり、徴兵司令官より甲種合格の証書を自ら渡された時は、軍人の資格を得たことに、男子の本懐として強く感激したものである。
古来日本民族には 武勇を尊び、正義を愛し、その貫徹には死をも恐れぬ気概があり、入隊した者は、軍隊生活の第一日から厳格な訓練をうけた。
騎兵は又特科隊とも呼ばれ、馬も活兵器として、むしろ兵より大切にとり扱われ、食事も兵は馬よりいつも後であった。
戦歴としては、日清戦役に出動が最初で、日露戦役には、明治37年(1904年)第2軍に属し、金洲、南山の攻撃、蓋平、大石橋、海上の戦闘に続いて遼陽会戦に参加、次いで沙河戦を経て明治38年3月10日、敵の最重要拠点、奉天に入城、国運を懸けた。
さしもの大戦も、連合艦隊の大勝と相俟って、遂に露軍の全面降伏となった。
斯くして、この戦況に重大な関心をもつ世界の列強を驚かせ日本恐るべしの感を抱かせたのも事実である。
その後昭和20年(1945年)までこの3月10日を陸軍記念日(祭日)として全国民を挙げて戦勝記念日の行事が各地で行われた。
昭和7年の春、現連隊では狭隘のため訓練に支障の故をもって、堺、金岡に兵舎は移転された。
昭和12年に入るや、日本に対するアメリカの経済封鎖は日を経て強まり、日、中、米の情勢は緊迫を告げ、支那事変、大東亜戦争に突入するの止むなきに至った。
真田山連隊の出身者にして外地に出征した将兵は極めて少なく金岡部隊の出征者が殆んどで8割を超えるものと思われる。
昭和17年8月比島方面の連隊は一旦内地に帰還し、軍旗は奉還された。
翌18年9月再び動員下令となり、この度は南方に出動した。
この時は捜索第4連隊となり連隊長は、やはり今村安大佐であった。
昭和20年2月タイ国に進駐、同4月タイ国の師団主力の位置に復し、同地に於て終戦となった。
茲に於て我が誇りとした騎兵第4連隊は光輝ある大日本帝国、陸、海軍と共に惜しくも永遠にその歴史の幕を閉じた。
作戦の建制上堺留守隊に於て編成出征した各部隊及其の長は次のようである。
捜索第34連隊(森岡正中佐・田川泉中佐)、騎兵第75連隊(吉沢末俊中佐)、騎兵第104大隊(高橋保和中佐)、堺金岡留守部隊(森岡正中佐)、独立輜重兵第54大隊(内木彦一少佐)、独立輜重兵第55大隊(浅利正基少佐)、同第75大隊(藤原長治少佐)である。
尚全戦線に亘り、軍直轄部隊として、自動車廠、碇泊場司令部に多数の騎兵第4連隊出身者がその要職につかれた。
以上は騎兵第4連隊創設以来の概要であるが、此の忠魂碑は昭和7年連隊が堺へ移転の翌8年11月建立された。
顧りみれば戦争終結以来星流れ時移りて40年、我々は言語に絶する猛訓練に堪え、更に命運を決する数多くの戦闘に参加、遺憾なく果敢な騎兵精神を発揮した。
この記録は不滅のものであり、永く日本の戦史を飾るものと思う。
我々日本の国民は、一時は信ぜざる事態に直面し呆然としたが、戦争に従軍した我々軍人は死力を尽して戦った。
勝敗の如何に拘らず、死線を超え不思議に生還した我々に今は何の悔いもない。
しかしながら不運にして戦病死された勇士、亦帰還後亡くなられた方々のお心を察するとき、我々は国民各位と共に深く犠牲者に感謝し、その名誉を称え、み霊に対し奉り、とわの安らかなる眠りにつかれんことを心から祈念するものである。
 騎兵第4聯隊並関連諸部隊有志

日本暦2645年  
西暦1985年 
昭和60年11月3日
 忠魂碑維持 大阪騎兵会
  永代供養 三光神社

大きい。。。陸軍境界標柱。北側。

陸軍省所轄地

往時のコンクリート塀。

陸軍境界標柱。南側。こっちは摩耗している。

陸軍省所轄地

うっすら、「陸」はわかるかな、という感じ。

往時のコンクリート塀。真田山公園側。

南側はコンクリートの状態がかわっている。。。

真田山公園。

場所

https://goo.gl/maps/9Pr8qubXmyGJRPXH9

※撮影:2022年7月


関連

大阪護國神社

「森之宮団地の大阪砲兵工廠跡」と「鵲森宮の機銃掃射弾痕跡」(大阪)

大阪城の東を走る大坂環状線。そのさらに東側に大阪メトロ森之宮検車場や森之宮小学校、大坂公立大学森ノ宮キャンパスや、UR森之宮団地がある場所、さらには、大阪城公園の近くや、大阪城ホール、大坂ビジネスパークなどの広大なエリアは、かつて軍需工場であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

大阪城には陸軍第四師団司令部が置かれ、そして大阪城の西側、森ノ宮駅の北側には「軍需工場」(大阪砲兵工廠・大阪陸軍造兵廠)が展開されていた。

大阪陸軍造兵廠は、空襲により、80%を焼失している。
このエリアが重要な軍事拠点であり、逆に言うと、米軍からすれば重要攻撃拠点であったことがわかる。

赤い線の内側が大阪砲兵工廠。
大阪城の北側に正門があり、化学分析所と守衛所は今も残る。
大阪環状線は、砲兵工廠のある大阪城の東側のみが高架ではなく、唯一の地上線路となっている。これは高架にして工場を一望されることを防いだためという。なお、大阪城公園駅ができたのは戦後。当時は駅は設けていなかった。


大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)

大阪砲兵工廠は、陸軍の大口径火砲を製造していた極東最大の軍需工場であった。戦前の日本では最先端の重工業工場でもあったため、兵器以外の金属製品も多く製造していた。

明治維新後、大日本帝国陸軍創設指揮をとっていた大村益次郎の建言により造兵司(大坂造兵司)を設置。
明治5年(1872年)の陸軍省発足とともに、「大坂製造所」と呼称。
明治12年(1879年)に、「大阪砲兵工廠」と呼称。
大正12年(1923年)に、「陸軍造兵廠大坂工廠」と改称。
昭和15年(1940年)に、陸軍兵器本部の設置に伴い、「大坂陸軍造兵廠」と改称。

大阪砲兵工廠は、陸軍唯一の大口径火砲工場として、火砲や戦車、弾薬などを開発・製造していた。また鋳造や金属加工に関する最先端の技術水準を誇っていたということもあり、軍需のみではなく民需の依頼も受注していた。

靖國神社第二鳥居は、1887年(明治20年)に「大阪砲兵工廠」で鋳造されたもの。 靖國神社に4つある鳥居の中で一番古く、また青銅製鳥居として日本一の大きさを誇っている。
写真は靖國神社第二鳥居(大阪砲兵工廠鋳造)

終戦前日の昭和20年8月14日午後の集中空襲で、大阪砲兵工廠は80%以上の施設が破壊され、工廠としての機能を失った。

大阪城の近くに残る大坂砲兵工廠関連の戦跡に関しては、以下も。

南の玉造には機銃掃射弾痕が残る。


大阪砲兵工廠跡

現在、UR森之宮団地内に「大阪砲兵工廠跡」の碑が建立されている。

大阪砲兵工廠跡

誰がいつ建立したのか、跡碑には詳細がなく履歴は不明。

大坂砲兵工廠跡碑と、地蔵様と、よくわからないモニュメントの3つが並んでいる。

場所

https://goo.gl/maps/BdAWGGJc6MUNmxzN7


もう一つの「大坂砲兵工廠跡碑」

上記は別に大阪城ホールの近くにも「砲兵工廠跡」の碑がある。
大阪城ホールに大阪砲兵工廠本館があった。

場所

https://goo.gl/maps/ME5yP49RVPxWuEVT8


鵲森宮(森之宮神社)

森ノ宮駅の南西すぐ近くにあるのが、鵲森宮(森之宮神社)。「かささぎのもり」。
創建は、聖徳太子の時代まで遡る。
御祭神は、聖徳太子の両親である用明天皇と穴穂部間人皇后、そして聖徳太子を祀る古社。

当社の狛犬台座には機銃掃射の銃痕が残っている。

大東亜戦争ノ為メ青銅製ノ狛犬ヲ献納シテ之ヲ再建ス
昭和19年7月

狛犬の台座に残る無数の修復の痕跡が、機銃掃射の弾痕の名残。

場所

https://goo.gl/maps/D66eh6nPQZmrwiez7


森ノ宮駅

城見エリア、がある。

大阪城の天守が見えました。

ホームからみる大阪城、いいですね。
大阪城の戦跡という言い方をすると、戦国時代も含まれますね。私のサイト内では、もっぱら昭和にしか触れていませんでしたが。

※撮影:2022年7月撮影


関連

「為萬世開太平」終戦内閣総理大臣・鈴木貫太郎の関連史跡2(晩年の地・千葉県野田市関宿町)

千葉県野田市関宿町。
この地に、鈴木貫太郎記念館がある。
関宿町は、鈴木貫太郎が幼年期と最晩年を過ごした土地。
前々から気に掛かる場所でした。

実は先日に、関西に出張がありました。
せっかくなので、足を伸ばしたのが、「鈴木貫太郎生誕の地」。
生誕の地に行ったのであれば、晩年の地、にもです。

本記事は「その2・晩年の地」です。
「鈴木貫太郎関連史跡1・誕生の地(大阪府堺市)」は以下より。


鈴木貫太郎

1868年1月18日〈慶応3年12月24日〉- 1948年〈昭和23年〉4月17日。
海軍大将。終戦時の内閣総理大臣。
海軍士官として、海軍次官・連合艦隊司令官・海軍軍令部長などを歴任。
予備役後に侍従長・枢密院顧官・枢密院議長などを歴任。
小磯国昭内閣のあと、内閣総理大臣に就任。日本を終戦へと導いた。

1868年1月18日(慶応3年12月24日)、和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾)に生まれる。伏尾は下総関宿藩の飛地であり、関宿藩久世家の家老であった父の鈴木由哲は、代官として和泉国大鳥郡伏尾に赴任しており、鈴木貫太郎は、その関宿藩飛地の堺伏尾で生まれている。3年後の1871年(明治4年)、鈴木貫太郎は本籍地の関宿に居住を移している。

日清戦争

1884年(明治17年)、海軍兵学校に入校(海兵14期)。
1895年(明治28年)、日清戦争に従軍。第三水雷艇隊所属の第五号型水雷艇第6号艇艇長として威海衛の戦いに参加。水雷射出の失敗があり部下の上崎辰次郎上等兵曹は戦後に責任を感じ艇内で自刃。追悼碑「上崎上等兵曹之碑」が、今も海自第二術科学校(海軍水雷学校跡)に残っている。

日露戦争

1897年(明治30年)、海軍大学校入校。(海大1期)
1903年(明治36年)、ドイツ駐在中に海軍中佐昇進。イタリアで建造されていた装甲巡洋艦「春日」の回航委員長となり日本に向けて航行中に日露戦争が開戦。日本に到着した鈴木貫太郎は、そのまま春日副長に就任に黄海海戦に参戦。

1905年(明治38年)、第四駆逐艦司令として、高速近距離射法でもって、ロシア戦艦3隻に魚雷を命中させる活躍をする。この際の猛訓練から、鬼の貫太郎・鬼の艇長・鬼貫と渾名された。

1914年(大正3年)、海軍次官に就任し、シーメンス事件の事後処理を行う。
1915年(大正3年)、先妻とよ(1912年、死去)の後妻として、足立たかと再婚。足立たかは 裕仁親王( 昭和天皇)の年少期の教育係を勤めたこともあり、後に侍従長を務める鈴木貫太郎ともども、夫妻で 昭和天皇に仕えることとなる。
1923年(大正12年)、海軍大将に昇進。1924年に連合艦隊司令官、1925年に海軍軍令部長に就任。

侍従長

1929年(昭和4年)、 昭和天皇の希望があり、鈴木貫太郎は海軍を予備役となり、侍従長に就任。
「大侍従長」として、 昭和天皇の信任が厚かったが、1930年(昭和5年)、ロンドン軍縮会議の政府案に反対する加藤寛治海軍軍令部長を説得するなどが、青年将校たちからは、のちに牧野伸顕とともに「君側の奸」として命を狙われることとなる。

二・二六事件

1936年(昭和11年)2月26日、二・二六事件が勃発。
鈴木貫太郎はたか夫人とともに、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの夕食会に参加し、2月25日11時過ぎに麹町三番町にあった侍従長官邸に帰宅
2月26日午前5時頃に安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が官邸を襲撃。
下士官が兵士たちに発砲を命じ鈴木は四発撃たれ、肩、左脚付根、左胸、脇腹に被弾。
安藤輝三陸軍大尉がとどめをさそうとすると、たか夫人が「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。
安藤は軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令し、たか夫人に「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と発し、侍従長官邸を立ち去っている。
反乱部隊が去った後、たか夫人は止血処置を行い、湯浅倉平内大臣に連絡。湯浅内大臣に鈴木貫太郎は、「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と話をするが、こののちに出血多量で意識を失い、近くの日医大飯田町病院に運び込まれている。
瀕死の重傷ではあったが、幸いにして急所を外れおり、快復した。

1937(昭和12年)1月に、鈴木貫太郎は、生地に鎮座する多治比売神社に、二・二六事件での負傷からの本快祝の参拝をしている。
「重症を負った時、多治速比売命が、枕元にお立ちになって命を救われました。そのお礼にお参りに来ました」と語られている。

終戦内閣総理大臣

1941年(昭和16年)12月8日、対米英開戦。大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発する。
1945年(昭和20年)戦況悪化の責任をとり辞職した小磯国昭内閣の後任として、内総理大臣に就任。 昭和天皇から頼まれ首相に就任する異例の事態であった。また、77歳2ヶ月での内閣総理大臣就任は戦前戦後を通じて日本最高齢の記録、江戸時代の生まれで非国会議員での就任は最後にあたる。

今日、私に大命が降下いたしました以上、私は私の最後のご奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信いたしまして、謹んで拝受いたしたのであります。

昭和20年4月7日、内閣総理大臣  鈴木貫太郎の表明

昭和20年の鈴木貫太郎内閣主要人物
内閣総理大臣:鈴木貫太郎
外部大臣:東郷茂徳
内大臣:木戸幸一
陸軍大臣:阿南惟幾
参謀総長:梅津美治郎
 参謀次長:河辺虎四郎
海軍大臣:米内光政
軍令部総長: 豊田副武
 軍令部次長:大西瀧治郎
内大臣:木戸幸一
枢密院議長 :平沼騏一郎

ポツダム宣言を黙殺する

1945年7月26日、イギリス・アメリカ・中華民国の名において発表された「ポツダム宣言」は、7月27日未明、外務省経由で宣言内容を把握。直ちに最高戦争指導会議及び閣議を開き、その対応について協議を開始。

外務大臣・東郷茂徳の「この宣言は事実上有条件講和の申し出であるから、これを拒否すれば重大な結果を及ぼす恐れがある。よって暫くこれに対する意見表示をしないで見送ろう。」という意見で合意し、政府の公式見解は発表しないという方針に決まった。
しかし、継戦派の梅津美治郎・阿南惟幾・豊田副武らが、宣言の公式な非難声明を出すことを政府に強く提案し押し切られる形で、28日午後におこなわれた記者会見で、鈴木貫太郎首相は「「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な價値あるものとは認めず默殺し、斷乎戰爭完遂に邁進する」とコメント。「ポツダム宣言を黙殺する」との発言には、鈴木貫太郎首相は「黙殺=ノーコメント(特に意見を言わない)」の意であったが、「黙殺する」が大きく取り上げられ、連合国側は拒絶と解し誤解を生むこととなってしまった。
鈴木貫太郎は、のちに「(軍部強硬派の)圧力で心ならずも出た言葉であり、後々にいたるまで余の誠に遺憾とする点」であると反省している。

昭和20年8月9日・御前会議

広島そして長崎と新型爆弾(原子爆弾)が投下され、ポツダム宣言を受諾するしか道がない状況下での御前会議は、昭和20年8月9日に開催された。

これまで陸軍を代表して「一撃講和」、一線を交えてからの講和を(陸軍へのジェスチャーとしての側面もあったが)主張していた阿南惟幾陸軍大臣も、ここに至って、ポツダム宣言の受諾を受け入れる方向へとなりつつあった。

陸軍の声を代表する阿南惟幾陸軍大臣は、米内光政海軍大臣と激論を戦わせ、結論が出ず、ついに鈴木貫太郎首相は、最後の手段として、 昭和天皇のご臨席を仰ぐ御前会議を決断する。

昭和天皇ご臨席のもとに午後11時50分に開始された御前会議。

阿南惟幾陸軍大臣は「本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて1億玉砕しても、世界の歴史に日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか」という意見をし、梅津美治郎陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長は阿南の意見に賛同。
東郷茂徳外務大臣は「終戦やむなき」と意見し、米内光政海軍大臣と平沼騏一郎枢密院議長が賛同。
意見が出揃った8月10日深夜2時ごろ、鈴木貫太郎総理大臣は、自らは発言せずに「意見の対立のある以上、甚だ畏れ多いことながら、私が 陛下の思召しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと思います」と 昭和天皇の意見を求めた。終戦反対の強硬派は不意を突かれた形となった。
昭和天皇は身を乗り出すと
「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に同意である」
「もちろん忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持ちをしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」との「ご聖断」を下した。

そうして、ご聖断が下された御前会議が終了した。
しかし、8月13日に、ご聖断があったにも関わらず、最高戦争指導会議は紛糾しており、翌日に再び 聖断を仰ぐことになった。

昭和20年8月14日・御前会議

8月14日午前11時、御前会議開催。
阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令部総長は、「このままの条件で受諾するならば、国体の護持はおぼつかなく、是非とも敵側に再照会をすべき」という意見を述べた。阿南らにとって最期に死守すべき事項が「国体護持」(天皇制の継続)であった。
意見を聞いた 昭和天皇は、「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と述べられた。その瞬間、会議は慟哭に包まれ、鈴木貫太郎首相は、至急詔書勅案奉仕の旨を拝承し、繰り返し聖断を煩わしたことを謝罪した。

慟哭する阿南陸相に対して、 昭和天皇は「あなん、あなん、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」とやさしく説いたという。

大東亜戦争終結ノ詔書

昭和20年8月14日、終戦の詔書の審議も無事に終わり閣僚たちが終戦の詔勅への署名する。

大東亜戦争終結ノ詔書

(全文)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣總理大臣鈴木貫太郞

大東亜戦争終結ノ詔書
(読み下し)
朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置を以って時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ

朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず 延べて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何を以ってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉し 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排せい 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うか如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣鈴木貫太郎

国立公文書館で公開のあった「終戦の詔書原本」。

こうして、日本の降伏が決まった。

鈴木貫太郎内閣閣僚の署名が終わり、総理大臣室を訪れた阿南陸相が、鈴木貫太郎に最後の言葉を発している。。
「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍の意志を代表して、これまでいろいろと強硬な意見ばかりを申し上げましたが、総理に対してご迷惑をおかけしたことと想い、ここに謹んでお詫びを申し上げます。総理をお助するつもりが、かえって対立をきたして、閣僚としてはなはだ至りませんでした。自分の真意は一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものではございません。この点はなにとぞご了解いただくよう」と謝罪。
同席していた迫水内閣書記官長は、陸軍の暴発を抑えるために心にもない強硬意見を発していた阿南の心情を理解しもらい泣きをしている。

鈴木首相は、阿南陸相の肩に手をやって「阿南さん、あなたの気持ちはわたくしが一番よく知っているつもりです。たいへんでしたね。長い間本当にありがとうございました」「今上陛下はご歴代まれな祭事にご熱心なお方ですから、きっと神明のご加護があると存じます。だから私は日本の前途に対しては決して悲観はしておりません」と答え、阿南は「わたくしもそう信じております」と同意。

阿南陸相が部屋を離れた後に、鈴木首相は迫水に「阿南君は暇乞いに来たんだね」と。
鈴木貫太郎は阿南惟幾に最期の覚悟を感じ取っていた。
ちなみに昭和4年に、阿南惟幾が侍従武官に就任した際の、当時の侍従長は鈴木貫太郎であり、その時から阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。

私邸焼き討ち(宮城事件)

昭和20年8月15日の早朝、終戦反対派が決起し、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員など数名が身柄を拘束され、宮中占拠、そして近衛第一師団長森赳中将を殺害する宮城事件が発生。
佐々木武雄陸軍大尉ら国粋主義者が宮城事件に連動して総理官邸及び小石川丸山町私邸、平沼騏一郎邸などを襲撃。
鈴木貫太郎も襲撃されるも、からくも私邸から脱出。そのときに鈴木貫太郎私邸は焼き討ちされた。今は石垣のみ残る。

鈴木貫太郎邸跡

8月15日の未明、阿南惟幾が自刃。
8月15日の玉音放送後、終戦に伴う臨時閣議が開催。
まず鈴木貫太郎首相から冒頭に話があった。
「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。反対論を吐露しつつ最後の場面までついて来て、立派に終戦の詔勅に副署してのち、自刃して逝かれた。このことは立派な態度であったと思います」「実に武人の最期らしく、淡々たるものであります……謹んで、弔意を表する次第であります」との報告とともに、阿南の遺書と辞世の句も披露した。
同日、鈴木は昭和天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職。東久邇宮内閣が成立する8月17日まで職務は執行している。

永遠の平和、永遠の平和

1945年(昭和20年)12月15日に、枢密院議長であった平沼騏一郎が戦犯容疑で逮捕されたために、鈴木貫太郎が就任(2回目)。翌年の昭和21年6月3日に公職追放令の対象となったために辞職し、郷里の関宿に隠棲。

1948年(昭和23年)4月17日、肝臓癌のため関宿町で死去、享年81。
死の直前、鈴木貫太郎翁は危篤状態で口がきけなくなっていましたが、突然唇が動き、非常にはっきりとした声で「永遠の平和、永遠の平和」と二度繰り返し、再び口を開くことなくまもなく永眠したという。
墓所は関宿町の実相寺。
遺灰の中に二・二六事件の時に受けた弾丸が混ざっていたという。
遺品の多くは野田市の鈴木貫太郎記念館で管理されている。


鈴木貫太郎翁終焉の地

野田市関宿町。
鈴木貫太郎が晩年を過ごした邸宅跡に建つ鈴木貫太郎記念館の周辺には、関連する史跡が点在している。

終戦内閣総理大臣
鈴木貫太郎翁終焉の地
吉田茂謹書

昭和33年2月 関宿農事研究会建立

正二位勲一等 鈴木貫太郎閣下経歴
 慶応三年     関宿須主久世大和守代官の長男として泉州境に生る
 明治二十年    海軍少尉
 明治三十九年   授功三級金鵄勲章
 大正三年     海軍次官
 同 七年     海軍兵学校長
 同十一年     呉鎮守府司令長官
 同十二年     海軍大将
 同十三年     連合艦隊司令長官
 同十四年     海軍々令部長
 昭和四年     侍従長兼枢密院顧問官
 同十一年     男爵
 同十九年     枢密院議長
 同二十年四月   内閣總理大臣
 同二十年十一月  萬世の為に太平を開き郷里関宿に帰山
 同二十一年十二月 枢密院議長再任
 同二十二年    青年有志を集め農事研究会を結成
 同二十三年四月  関宿に於て薨去八拾一歳
  日本青年協会理事 青木常盤撰文      
  関宿町教育長 奥原謹爾書

鈴木貫太郎翁邸跡

終戦内閣総理大臣
鈴木貫太郎翁邸跡

 終戦内閣総理大臣鈴木貫太郎翁は、終戦処理の大任を果たし、昭和21年9月、郷里関宿に帰られました。
 時に80才であり、且つ2・26事件の時には、数発の弾丸を身に受け、その内の時の一発は体に残っていましたが、矍鑠として居られました。
 翁はこの地に農事研究会を発足させ、青年を指導され、将来酪農を農業経営に採り入れていくべきことを助言されました。
 「酪農の町関宿」の基礎は、翁がきずかれたといっても過言ではありません。
 昭和23年4月17日「永遠の平和」の一言を残し、82才で大往生されました。
 平成2年8月
  野田市教育委員会

鈴木貫太郎翁邸跡・門扉

鈴木貫太郎翁邸跡・井戸

鈴木貫太郎翁邸跡・戦没者慰霊碑

鈴木貫太郎翁の19回忌に85歳なった鈴木たか夫人が昭和42年に奉納したもの。
タカ夫人は貫太郎翁の没後も関宿に居住して、酪農の推進など関宿の発展に尽力し、昭和46年に逝去している。

萬霊供養塔

為 
日清日露両戦役・太平洋戦・戦死病没者諸霊・殉国出陣学徒・原爆・被災諸霊
追善菩提

大乗妙典一字一石寫経奉納

昭和42年4月17日
 願主 鈴木孝子
      85歳


鈴木貫太郎記念館

鈴木貫太郎記念館。
昭和38年(1963年)、吉田茂総理の提案などもあり開館。
令和元年(2019年)10月の東日本台風で被災、耐震診断でも建物強度不足が指摘され、長期休館(臨時休館)を余儀なくされている。
鈴木貫太郎記念館の補強改修が困難なために、記念館の再建を予定している。

「為萬世開太平」塔碑

「万世のために太平を開く」

大東亜戦争終結ノ詔書(玉音放送)の一節。
堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
(堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す)

大東亜戦争終結ノ詔書(終戦詔書・玉音放送)は、8月14日付けで詔として発布された。
大筋を内閣書記官長・迫水久常が作成、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、更に14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が加筆して完成し同日の内に天皇の裁可があった。
大臣副署は当時の内閣総理大臣・鈴木貫太郎以下16名による。

安岡正篤が加筆した「以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」は、もとは、張横渠(ちょうおうきょ、1020~1077、張載とも、北宋の儒学者)が残した「四言教」という名文の一節からとられたという。

為萬世開太平
 鈴木貫太郎書

終戦内閣総理大臣
鈴木貫太郎記念館
 迫水久常書

迫水久常は、鈴木内閣の内閣書記官長。
終戦詔書(いわゆる玉音放送)を起草した人物の一人。

 本館は故内閣総理大臣海軍大将男爵鈴木貫太郎の遺品を蒐集陳列しその事蹟を保存する
 鈴木貫太郎は慶應三年に生れ日清日露の両戰役には水雷艇長として威海衛の敵港深く突入し或は駆逐隊司令として日本海海戦に敵艦二隻を撃沈水雷戦術の第一人者であったが武運に恵まれ身に一彈も受けず部下に一人の戰死者も出さなかったという
 海軍軍人最高の栄誉たる軍令部長に就任在任中侍従長の下命を受け今上陛下の側近に奉仕せらる昭和十一年所謂二・二六事件勃発し反乱軍の撃った三彈は眉間心臓の急所を突いたが奇跡的に一命を取り止められた而して第二次世界大戰の終末史上未曽有の国難であった終戰内閣の宰相となり特に天皇陛下の萬世の為に太平を開くとの御聖旨を体し祖国を救う大勇猛心に一億玉砕民族滅亡への方途に追いつめられていた至難な戰局の収拾に身命をささげられ克く国体の護持と民族存続の大偉業を達成された即ちポツダム宣言の無條件受諾を敢行し昭和二十年八月十五日終戰詔勅の玉音放送を奏請して日本を今日に救い世界平和の礎を築いた功績は世界史上に燦として不滅の光を放つものである実にかくの如き行動は盡忠無私の人ならでは不可能事であって国民として何人も忘れ去ることが出来ない
 終戰後は郷里関宿に歸住村民古老と交わって農事を奨励し或は郷土青年の先頭に立って国民精神の
振興に専念されたが余生僅か一年有七ヶ月昭和二十三年四月十七日永遠の平和の一語を残してこの地関宿の自邸に眠るが如き大往生を遂げられた享年八十一歳菩提寺実相寺に葬る
 この不世出の偉人を顕彰し国民の亀鑑として永く後世に傳える為近郷市町村の有志が相図り當記念館を発起建立する
  昭和三十七年  財団法人 鈴木貫太郎記念会

入館料は、無料。しかし、閉館中。。。

お知らせ
 現在、諸事情により館内展示物がございません。ご来館の皆さまには申し訳ございませんが、ロビーでの資料映像(タカ夫人による2・26事件の証言)のみとなりますので、ご了承承りたく案内いたします。
 尚、説明希望の方は、担当までお申し出下さい。
  鈴木貫太郎記念館

鈴木貫太郎記念館の早期再建を期待しています。
再建は、やはり鈴木貫太郎ゆかりの関宿でお願い致します。


集乳所新設記念の碑

集乳所新設記念の碑が東側の駐車場にある。

以和為貴
関宿町酪農組合は去る昭和廿四年同志廿四名を以て創立し同廿六年事務所と集乳所を鈴木家邸内に設けその機能を拡充強化して発展の態勢を整へ同廿九年近代的集乳所を同邸内に新設して不動の基盤を確立した今や組合員八十名を数へその旺盛なる活動と合理的経営進歩的運営とはラヂオ放送に新聞報道に数次採擇せられて広く世の注視を浴びてゐる組合結成以来僅に五星霜真に驚異的な躍進と謂はざるを得ない按ずるに本組合の創設並に爾後の進展向上は一に元首相故鈴木貫太郎翁と孝子令夫人の薫化誘掖の賜で翁の遺訓「正直に腹を立てずに撓まず励め」の一語は組合員の信條であり全員その高諭を服膺し高風を欽慕して百折不撓千挫不屈の精神を堅持し夙夜精励してゐる更に本町酪農事業の創始者杉本峯蔵翁並に本町農事研究會に於ける有畜農業の提唱指導者岡本敏夫先生酪農経営の合理化近代化の教示啓発者楢原恭爾博士及び常に助言を惜しまざる浜野政三博士の懇志芳情は組合員の深く銘記する所である茲に集乳所新設に際し碑を建て由来を記してこれを記念する
 昭和二十九年五月十四日   鈴木孝子篆額  奥原謹爾撰文並書

以和為貴

鈴木孝子の名前が見える。

集乳所新設記念の碑
 晩年をこの地で過ごした鈴木貫太郎翁は、地元の農家の若者を教育するために、指導者を招いたり尽力しました。その影響もあり、関宿地域で酪農がさかんとなったといわれています。
 この碑は、昭和29年(1954年)、鈴木家の敷地に集乳所が新設されたのを記念して、関宿町酪農組合によって建てられた記念碑です。タカ夫人により書かれた貫太郎翁に日常訓「以和為貴(和をもって貴しとなす)」の文字が刻まれています。
 野田市教育委員会

集乳車が停まっている。

関連

https://www.city.noda.chiba.jp/shisetsu/bunka/1001064.html

https://www.city.noda.chiba.jp/kantaro_museum/index.html

場所

https://goo.gl/maps/qiGnabvYRPuF6sPz7


実相寺

鈴木貫太郎、鈴木孝雄兄弟のお墓がある。
関宿藩主久世家の菩提寺でもある寺院。

旧関宿藩主久世家
終戦内閣総理大臣鈴木貫太郎翁 菩提寺
日蓮宗 寶樹山 實相寺

寶樹山 實相寺
海軍大将
男爵 鈴木貫太郎書

報恩感謝
 この門柱は昭和18年2月、矢口米男・寛両氏の浄財により建立されました。「宝樹山 實相寺」の山号寺号は、終戦内閣総理大臣・鈴木貫太郎翁の直筆であります。建立当時、袖垣も取り付けられた姿を予定していましたが、戦中戦後の動乱期のため、完成することはできませんでした。(略

実相寺
 当山は、宝樹山本足院実相寺と称し、日蓮宗のお寺です。創建は神亀元年(724年)行基により、法相寺として茨城県総和町水海の地に開山したといわれています。
 その後、真言宗に改宗しましたが、応永16年(1409年)、日蓮宗の高僧の一人と言われる妙親院日英上人により、日蓮宗に再度改宗され現在に至っております。
 長禄元年(1475年)の頃、古河公方足利成氏の重臣であった簗田氏が関宿城に入場した時、当山は水海より関宿の地に移されました。
 境内には、中雀門と呼ばれる唐破風形式の山門、大きな袴をはいた鐘楼堂、そして明治4年(1871年)に関宿城本丸の一部の建物{宝歴6年(1709年)に建造}を移築した現在の客殿(千葉県では本丸の建物が現存するのはここだけです)があります。また、本山は江戸中期以後、明治まで関宿城主であった久世家の香華院(菩提寺)であったため、久世家歴代の城主と奥方の位牌が安置されています。
 墓地内には関宿藩の家老職を勤めた富田家・奥原家・亀井家など久世家関係の家臣を始め、終戦内閣総理大臣を勤めた、鈴木貫太郎翁(元海軍大将・元侍従長)夫妻、弟の鈴木孝雄翁(元陸軍大将・元靖国神社宮司)夫妻など鈴木家の墓もあります。 
 野田市教育委員会


海軍大将
終戦内閣総理大臣
 鈴木貫太郎翁墓所 左手奥
陸軍大将
 鈴木孝雄翁墓所 左手前


鈴木貫太郎墓所

鈴木貫太郎墓

鈴木貫太郎墓には、鈴木貫太郎と鈴木タカが眠る。

大勇院殿尽忠孝徳日貫大居士
 昭和23年4月17日 薨 (俗名 鈴木貫太郎)
貞烈院殿妙聞賢徳日孝大姉
 昭和46年9月23日 薨
  俗名 タカ 享年89

鈴木貫太郎墓の右隣には、両親である鈴木由哲・きよ夫妻の墓。
鈴木由哲は、幕末の関宿藩久世家の家老。晩年は関宿町町長を務めた。
鈴木家に子供がなかったため、由哲が倉持家から養子入り(倉持家は足利氏家臣の家柄で足利家管財文書係)。

鈴木家の墓

鈴木貫太郎の長男、鈴木一は、鈴木家の墓に眠る。

鈴木一(はじめ)
農林省山林局長、侍従次長、外務省出入国管理庁長官等を歴任。鈴木貫太郎内閣では内閣総理大臣秘書官も勤めている。。

鈴木由哲家
長男
 鈴木貫太郎:海軍大将、内閣総理大臣
次男
 鈴木孝雄:陸軍大将、第14師団長、靖國神社宮司
三男
 鈴木三郎:関東都督府外事総長、久邇宮御用掛
四男
 鈴木茂(永田茂):永田家養子、陸軍中佐、40代で若死している


鈴木孝雄墓所

鈴木貫太郎の弟(鈴木由哲次男)の鈴木孝雄墓所も同じく実相寺にある。

鈴木孝雄家之墓

鈴木孝雄
明治2年10月29日(1869年12月2日) – 1964年(昭和39年)1月29日)
陸軍大将。栄典は勲一等功三級。砲兵監・第14師団長・陸軍技術本部長・軍事参議官を歴任。
昭和10年(1935年)に現役を退いて、昭和13年から昭和21年までは靖国神社第4代宮司に就任。また、大日本青少年団長も務めている。戦後は、公職追放されるが、追放解除後の昭和29年(1954年)からは、旧陸軍将校たちで結成された偕行社会長となる。
昭和39年(1964年)1月29日死去。

鈴木武之墓

鈴木武は、鈴木孝雄の長男。
岡田啓介内閣の首相秘書官を勤めおり、2・26事件に際しては、岡田啓介首相救出や鈴木貫太郎侍従長遭難収拾などに功績があった。
昭和19年、北見航空機副社長に就任。
昭和20年には、叔父である鈴木貫太郎の内閣総理大臣秘書官を拝命。終戦工作に協力をする。

鈴木孝雄次男の鈴木英は、岡田啓介の次女を娶っている。義理兄にあたる岡田貞外茂と鈴木英は海兵同期。岳父の岡田啓介が襲撃された二・二六事件の際は横須賀海軍航空隊教官であった。鈴木英の海軍時代の最終階級は海軍中佐、海自では海将まで昇進している。

写真の右手に鈴木孝雄家墓所。
写真の突き当りに鈴木貫太郎家墓所。

実相寺。

明治4年(1871年)に関宿城本丸の一部の建物{宝歴6年(1709年)に建造}を移築した現在の客殿。
千葉県内に残る唯一の本丸建造物。

実相寺 場所

https://goo.gl/maps/o5qEcb2tZTNWDHA79


野田市郷土博物館

「令和4年度企画展 見て、見て、ハッケン! 野田の歴史」(令和4年6月11日から9月19日まで)にて、鈴木貫太郎の展示があるというので足を運んでみた。

実際には、関宿から公共機関では野田市内を縦断できず、関宿からは横の春日部まで戻ってからの東武線で南下して野田市駅まで赴くという、移動にかなりの手間が生じている。

https://www.city.noda.chiba.jp/eventinfo/bunka/1033892/1035100.html

https://noda-muse.jp/exhibition/schedule

鈴木貫太郎の展示資料(野田市郷土博物館)

鈴木貫太郎翁の生涯
 鈴木貫太郎翁は、慶応3年12月24日に関宿藩飛び地領の代官所で生まれました。その後は、江戸を経て明治5年に関宿に移り住むと、現在の野田市立関宿小学校に通います。幼少期の翁は心優しい性格で、よく泣くことから「泣き貫」とあだ名されました。その鳴き声は、大工町(現在の境大橋千葉県側のたもと付近)まで聞こえたと伝わります。
 貫太郎翁は、海軍に入ると日清・日露の両戦役に参加します。特に水雷の専門家として知られ、海軍大将まで出世すると、連合艦隊司令長官や軍令部長を歴任しました。その後は侍従長、枢密院議長を経て内閣総理大臣に就任し、日本を終戦へ導きます。戦後は、故郷の関宿に戻り地元の若手農家を中心に酪農を推奨するなど郷土の発展に尽くし、昭和23年4月17日、「永遠の平和」の言葉を残しこの世を去ります。

鈴木貫太郎海軍時代成績表
明治20年(1887)
鈴木貫太郎の海軍兵学校の成績表。成績表の中でも、5位佐藤鐵太郎(中将)は貫太郎へタカっを紹介し、結婚の仲立ちをした。38位小笠原長生(中将)は、鈴木貫太郎を顕彰する「鈴木貫太郎記念太平会」の顧問に就任するなど、後々まで交流を持っていた。

絵はがき
「帝国駆逐艦 朝霧」

当時、海軍中佐であった貫太郎翁が、日露戦争の日本海海戦において第四駆逐隊司令とし乗船していた駆逐艦・朝霧の絵はがき。

儀礼長剣
大正2年(1913)
鈴木貫太郎が海軍軍人として儀礼の際帯剣したもの。この剣は士官級の者が所持し、基本的に皆同じ形式であったが、明治29年の変更により将官級の者は金具に桐紋を付す事となった。本資料はこの桐紋が付され、少将任官以降に使用したことがわかる。また、他の者とほぼ同じ形式とはいえ上質なつくりとなっている。

鈴木貫太郎肖像
作者:安達真太郎
昭和40年(1965)
鈴木貫太郎の肖像。モデルとなった時期は海軍軍令部長時代と推測される。軍服などは現存するが、勲章は戦時中に焼損してしまったため、写真を元に描かれたと考えられる。この絵画は「8月9日の御前会議」などの絵画と共に、記念館拡充事業の中で制作された。

鈴木タカ肖像
作者:安達真太郎
昭和41年(1966)
鈴木タカの肖像。写真のモデルとなった時期は、昭和初期頃と推測される。タカは、昭和天皇の「養育掛」をつとめ、その中でも最も信頼された人物である。二・二六事件の際は、襲撃した安藤輝三大尉らにとどめを想い留まらせ、貫太郎翁の窮地を救った。
※現在、野田市鈴木貫太郎記念館では、二・二六事件を語るタカ夫人の肉声を公開中

礼用檜扇
大正期
鈴木タカが儀礼の際に使用したもの。元々は宮中で使用されたものだが、近代では、主に儀礼の際に使用されており、収納箱には「礼用」と書かれている。扇には、蝶や鳥が描かれている。

地元の英雄として
 鈴木貫太郎は関宿を離れた後も、小学校の式典や両親への近況報告などで、度々関宿に帰ってきていました。そのため、市内の小学校には貫太郎翁の書が残されている学校もあります。特に旧関宿町の人々は地元の著名人として捉え、貫太郎翁が二・二六事件で瀕死の重傷を負った際は、出身校の関宿小学校では児童と教職員が皆で快復を祈るほか、町内にはお百度参りをする人もいたと伝わります。また内閣総理大臣就任時には、関宿の食材を直接東京の邸宅へ届けるなど、物心両面で支えました。

鈴木貫太郎就任祝い作文
昭和20年(1945)6月頃
鈴木貫太郎の内閣総理大臣就任を祝い、東葛飾郡の小学生が書いた作文。各学校1名程度が選抜されて送られたと考えられる。児童が郷土の誇りや高齢であった貫太郎翁の身体を心配する内容が多いが、B29による爆撃など当時の様相についても書かれている。

子どもたちの感想文では、鈴木貫太郎が東葛飾郡出身で郷土のほまれと書かれているが、「関宿の飛び地」は「関宿」という解釈で問題ないということですね。

辞令(首相退任)
昭和20年(1945)8月17日
鈴木貫太郎の首相退任時の辞令。稔彦王は、貫太郎の後任で、皇族出身の唯一の内閣総理大臣東久邇宮稔彦親王のこと。首相就任時の辞令書は行方不明で戦災で焼失してしまったと考えられる。

鈴木貫太郎顕彰と記念館建設
 鈴木貫太郎記念館の建設は、貫太郎翁を顕彰する「洗心会」からはじまり、関宿町、野田市、流山町を巻き込みます。野田市が建設の主体となると中央財政会へ働き掛けを行い資金を集めました。建物は昭和38年には完成しますが、内装や展示物の充実を図るため、吉田茂や鈴木貫太郎内閣の元閣僚の力を借り、絵画の制作や松屋銀座を会場とした企画展を行います。その結果、昭和41年に開館式が行われ正式に開館しました。

鈴木貫太郎記念館建設会議(市民会館会議)
昭和三五年(1960)三月29日
鈴木貫太郎記念館建設に関する書類郡。鈴木貫太郎記念館建設を貫太郎翁の13回忌追悼会でPRするための会議を市民会館菊の間で行ったことが分かる。また、出席者の中には当時野田市郷土博物館の運営協議委員を務めた市山盛雄の名前も見られる。

パース図
昭和36年頃
鈴木貫太郎記念館の建設前のイメージ図。設計した創建設設計事務所は、旧関宿町役場など、町内の公共建築に携わっていた。

起工式木槌
昭和37年(1962)7月7日
起工式で使用された木槌。柄には、「昭和37年7月7日」と記載されており、「為」の字型木の裏にも「7月7日着工」と記載されていることから、同日が着工日であることがわかる。

「為」の字型木
昭和37年(1962)7月
鈴木貫太郎記念館の「為萬世開太平」の碑塔の「為」の字の型木。型木は塔の字を埋めるためのくぼみをつくるためのもので、ほとんどの型木は塔から剥がす際に壊れており、「為」が唯一原型のまま残った。長年、地元出身の工事関係者が保存していた。

扇子「為萬世開太平」
昭和41年(1966)8月
鈴木貫太郎記念館の開館式典で配布された扇子。印刷物。鈴木貫太郎翁が生前に揮毫した書をもとに作成し、落款を押したもの。関宿地域をはじめ複数の現存が確認されている。

開会式写真
昭和41年(1966)
記念館に入館する鈴木家と関係者の写真。左からタカ夫人、貫太郎長男の妻である布美、貫太郎の長男一と続いている。

内閣総理大臣からの花輪
昭和41年(1966)
当時、内閣総理大臣であった佐藤栄作は鈴木貫太郎記念会の名誉総裁を務めていた。この人選は名誉総裁であった吉田茂によるものと考えられる。

開会式の出席者
昭和41年(1966)
鈴木貫太郎記念館の開館の主体となった鈴木貫太郎記念会の役員ら。前列左から須賀清八(関宿町長)、戸邊鐵太郎(元野田市長)、茂木啓三郎(キッコーマン社長)、迫水久常(参議院議員)、太田耕造(亜細亜大学学長)の順で着席している。

鈴木貫太郎掛軸
昭和18年(1943)
貫太郎翁77歳の書。翁が好んだ「老子」の一節、「慈は、以て戦えば則ち勝ち、以て守れば則ち固し。天将に之を救わんとす、慈を以て之を衛」が書かれている。「慈愛がある人は、それによって戦って勝利を収め、守っては攻略されがたい。天が(その国を)救おうとすれば慈愛をもって保護する」の意である。

鈴木貫太郎記念館再建へ

場所

https://goo.gl/maps/682ML43VsAhLT47TA

※撮影:2022年7月


靖國神社内苑「為萬世開太平碑」

靖國神社の境内内苑は、靖國神社の方針もあって記念碑のたぐいは少ない。そんななか、斎館の前に、人知れず石碑が有る。

為萬世開太平
 八十叟 貫太郎 書

昭和天皇御在位六十年奉祝の記念碑であるという。
鈴木貫太郎が昭和21年に揮毫した条幅をもとにとしている。
昭和61年建。

「万世のために太平を開く」

大東亜戦争終結ノ詔書(玉音放送)の一節。
堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
(堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す)