「近代建築」カテゴリーアーカイブ

伊奈利神社・忍高等女学校奉安殿(羽生市)

伊奈利神社・忍高等女学校奉安殿

埼玉県羽生市中岩瀬鎮座。
御祭神は稲荷神、宇迦之御魂神。本務社は羽生市小松鎮座の小松神社。
神社としての由緒は不詳。

社殿は昭和6年頃築の旧忍高等女学校御真影奉安殿の移築という。移築された経緯等も不詳。

埼玉県立忍高等女学校は、忍藩藩校「進修館」の流れをくむ伝統校。大正4年(1915)に忍進修館尋常小学校内に忍町立実科高等女学校として設立。その後、女子教育を行う旧制中等教育学校として大正14年(1925年)に忍高等女学校となり、戦後の行田女子高等学校を経て平成17年(2005)に行田女子高等学校・行田工業高等学校・行田進修館高等学校は合併し、進修館高等学校として統合され、閉校している。行田女子高等学校旧校地は埼玉県立総合教育センターの移転先として再活用されている。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿の建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震耕造で、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去がすすむが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされている。

http://www.saitama-jinjacho.or.jp/shrine/10257/

https://goo.gl/maps/1X4tigGucYBkatNU8


関連

https://senseki-kikou.net/?p=9576

https://senseki-kikou.net/?p=9224

https://senseki-kikou.net/?p=9196

https://senseki-kikou.net/?p=5469

「七転八起のダルマ蔵相」高橋是清像と関連史跡

総理大臣を1度、そして大蔵大臣を6度も勤め、近代日本きっての財政家として、「ダルマさん」として、親しまれた高橋是清にまつわる史跡などを散策してみました。


高橋是清

1854年9月19日-1936年(昭和11年)2月26日
正二位大勲位子爵。立憲政友会第4代総裁、第20代内閣総理大臣。

生い立ち
1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)、幕府御用絵師・川村庄右衛門の子として芝に生まれる。2歳で仙台藩足軽の高橋覚治の養子となる。
 11歳で横浜でアメリカ人医師ヘボンの私塾ヘボン塾(現在の明治学院大学)に入学。1867年に14歳に藩命により渡米。勝海舟の長男・勝子鹿と一緒の海外留学であった。米国ではホームステイ先で奴隷として売られてしまうが英語を習得し、1868年(明治元年)に帰国。
共立学校の初代校長を務め、教え子には正岡子規や秋山真之などがいた。

日露戦争
1892年(明治25年)日本銀行に入行。日露戦争時には 日銀副総裁として戦費調達を行ない、外債公債募集に成功。日露戦争の戦費調達の立役者となる。支払いの完済は1986年(昭和61年)
1905年(明治38年)に貴族院議員に勅選。1906年から1911年まで横浜正金銀行頭取、1911年(明治44年)に日銀総裁に就任。

政界
1913年(大正2年)、第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣に就任。立憲政友会に入党。その後の原敬内閣でも大蔵大臣に就任。原敬が暗殺された直後に、第20代内閣総理大臣に就任。立憲政友会の第4代総裁ともなった。
その後の清浦奎吾内閣時に行われた第15回総選挙の際は、高橋是清は貴族院議員から隠居し子爵の爵位を長男に譲り、自らは原敬の選挙区であった盛岡から出馬。政友会総裁として、前総裁であり盟友であった原敬の地盤から出馬し、衆議院議員として当選。清浦内閣を総辞職に追い込む。

就任した大臣職は以下
1913年
 第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣(1度目)
1918年
 原敬内閣の大蔵大臣(2度目)
1921年
 高橋是清内閣総理大臣
1924年
 加藤高明内閣の農商務大臣
1927年
 田中義一内閣の大蔵大臣(3度目)
1931年
 犬養毅内閣の大蔵大臣(4度目)
1932年
 犬養毅内閣の臨時内閣総理大臣(五・一五事件で犬養毅暗殺後の臨時内閣)
 斉藤実内閣の大蔵大臣(5度目)
1934年
 岡啓介内閣の大蔵大臣(6度目)

二・二六事件
田中義一内閣以降、高橋是清が取り組んできた金融恐慌対策、デフレ脱出のケインズ政策など、いわゆる「高橋財政」を展開してきたが、あわせて陸軍予算の削減を図っていたことから、青年将校の襲撃対象となってしまう。
昭和11年2月26日、中橋基明中尉及び中島莞爾少尉が赤坂の高橋是清私邸を襲撃。高橋是清は自宅2階寝室において拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。享年83歳(満81歳)。
戒名は、報国院殿仁翁是清大居士


高橋是清翁記念公園

東京都港区赤坂。赤坂の高崎是清邸は赤坂御所と対面する青山通り沿いにある。現在は高橋是清翁記念公園として整備。隣のカナダ大使館もかつては高橋是清邸の敷地内であったという。

高橋是清翁記念公園の沿革
 この公園は、日本の金融界における重鎮で大勝から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家「高橋是清」翁(1854年~1936年)の邸宅があったところです。
 翁は、昭和11年(1936年)2・26事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和13年(1938年)10月高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄附し、昭和16年(1941年)6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和50年(1975年)港区に移管されたものです。第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母屋は故人の眠る多磨霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和30年(1955年)に再建されました。
 現在の面積は5,320㎡で、国道246号線の拡幅等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されています。
 園内は池を中心として石像や石灯籠が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしています。

高橋是清翁像が奥まった高台に鎮座している。

高橋是清翁像

ダルマさんと親しまれた風貌。

英字新聞を読むのが日課だったという。右手には丸メガネ。

高橋是清翁ハ安政元年江戸芝ニ生ル幼少轗軻不運十四歳ニシテ
北米ニ渡航刻苦勉學シ長シテ轉々窮境ニ在ルモ気宇益高邁識見
常ニ卓抜夙ニ特許制度ヲ創設シ殖産興業國家経済ニ盡瘁シ或ハ
戰時財政ノ確保ニ貢獻スル所多ク日本銀行総裁大蔵大臣ヲ歴任
シテ遂ニ首相ノ枢職ニ就キ日夜一死報國ノ純志ニ終始セラレタ
リ昭和十一年二月倏忽トシテ此邸ニ薨ス年八十三本邸ハ明治三
十三年以来翁カ日常起居ノ處ニシテ之ニ臨メハ洵ニヨク其ノ髙
風雅懐ヲ偲フニ足レリ
昭和十三年十月嗣子子爵高橋是資氏ハ故高橋是清翁記念事業會
ト戮カ邸地二千坪ヲ擧ケテ本市ニ寄附シ永ク翁ヲ追慕スルノ資
タラシム本市ハ其趣旨ヲ承ケ諸般ノ保存施設ヲ了セリ茲ニ公開
ニ當リ由緒ヲ記シ以テ之ヲ後世ニ傳フ
 昭和十六年六月   東京市

高橋是清時代の庭園が残されている。
この組井筒を水源にした流れや 雪見型灯籠は、後述する移築先の江戸東京たてもの園でも復原をされている。

https://goo.gl/maps/fg6zeWMD4fKzUves7


高橋是清邸

高橋是清邸の主屋が、高橋是清死後に移築されている。赤坂から高橋是清の眠る多磨霊園に移築された主屋は、休憩所「仁翁閣」として使用されていた。
昭和20年の東京大空襲で、高橋是清翁記念公園内に残っていた邸宅跡は焼失するも、多磨霊園にあった主屋は被災を免れ、平成5年に江戸東京たてもの園内に移築公開をされている。

高橋是清邸
 高橋是清邸は経済通の政治家として、明治から昭和の初めにかけて日本の誠治を担った高橋是清の住まいの主屋部分である。是清は、赤坂の丹波篠山藩青山家の中屋敷跡地約6,000平方メートルを購入し、1902年(明治35)に屋敷を建てた。
総栂普請の主屋は、複雑な屋敷構成をもっており、また当時としては高価な硝子障子を、縁周りに大量に使用している。赤坂にあった頃は、主屋のほか3階建ての土蔵や、離れ座敷がある大きな屋敷だった。
 1936年(昭和11)、是清はこの建物の2階で青年将校の凶弾に倒された(2.26事件)。敷地と屋敷はまもなく東京市に寄付され、記念公園になった。是清の眠る多磨霊園に移築され、休憩所として利用されていた主屋部分が、この場所に移築された。
建築年:1902年(明治35)
旧所在地:港区赤坂7丁目

クリックで拡大

玄関部分と母屋部分が移築復元されている。

1階と2階と見学可能。

クリックで拡大
クリックで拡大
クリックで拡大
クリックで拡大
クリックで拡大

明治のガラスが使われています
注意して下さい

昭和11年2月26日早朝。
青年将校たちが高橋是清が眠る2階へと駆け上った・・・。

 高橋是清は、2階の庭に面した二部屋を書斎と寝室に使っていた。是清の娘・眞喜子氏によると、書斎には大きな洋机があり、そこで仕事をしたという。また、寝室の床の間の前には文机が置かれ、就寝前にその机で習字をするのが晩年の習慣であったという。
 是清は1936年(昭和11)2月26日早朝、青年将校によって暗殺された。(二・二六事件)。兵士10数名が寝室になだれ込み、白の寝巻き姿で布団に座っていた是清に銃弾をあびせ、群島で切りつけた。即死であった。
 是清は市民から「達磨さん」と呼ばれ、親しみを持たれていたため、葬儀には、別れを告げる人々が大勢参列した。
 波乱に満ちた83年の生涯であった。

一行書「不忘念」
 曹洞宗の開祖道元は、「正法眼蔵」で「八大人覚」のひとつとして「不忘念」(正法を心に念じて、忘れないようにすること)を説いている。
 高橋是清/筆(複製)

 写真はこの建物の2階の部屋で、書斎として使用していたもの。是清は毎日欠かさず日記をつけており、英字新聞も毎日購読していた。拡大鏡は辞書を引くときなどに使っていたと伝えられる。

2階からは庭園がよく見える。

この2階の寝室で、高橋是清は暗殺された。

1階に降りる階段。

高橋是清邸の主屋を外からも拝見。

紅葉がひときわに美しいタイミングでの見学でした。

この組井筒や雪見型灯籠は、高橋是清翁記念公園にあるものを復元している。

https://goo.gl/maps/BfDQjro4hE3AyKW17


高橋是清翁之御鬚墓

高橋是清の「おヒゲ」のお墓が世田谷区にある。
東京都世田谷区弦の実相院の境内に。

永井如雲画伯が高橋是清から戴いた御髭を埋葬したお墓。

高橋是清翁之御鬚墓

高橋是清翁御鬚の墓由緒
 是清翁の鬚は旦那様のお髭として旧川越藩主の家に生まれた永井如雲画伯が身辺に大切に拝持したものである。画伯は斯道の大家として、永く宮内省御用掛りを拝命し、特に宮内省お買い上げ絵画の審査、帝室博物館所蔵国宝級絵画の鑑定補修主任として、丹青の道に精通され、霊筆を振るわれた画人である。如雲画伯は青年時代より高橋是清の庇護信任を受け、本心乾漆観音像を是清翁より直接拝受。爾後永井家の霊宝として日夜観音経を読誦信奉され居りしところ、偶々、第二次世界大戦の戦局緊迫を告げ、身辺の不安愈々急なるを感ぜられ、帝都を去り暫く桐生に疎開せらるるに当り、永代回向料金壹百円也を並びに昭和9年5月2日に戴いた御壽81歳の時の高橋旦那様の御鬚を添えて、実相禅院の寺宝として後昆に相伝すべく、當寺廿四世憲翁義宣老師に寄進せられた。時移り縁熟し、當山廿五世硯全一雄老?永代追善の鬚墓を建立。本堂安置の観音像と共に永く寺門に遺すべく茲に掩蓋供養する。更に加うるに高橋是清翁の嫡子是彰氏と令孫正治氏とは老?の親交を厚くするなかであり、両者お鬚確認の上當山に納鬚を諾され、就中令孫正治氏は老?若き日慶應義塾大学に於ける愛弟子の一人でもあり、その学恩に報いんとして祖父是清翁の納鬚の法縁となり鬚の墓開眼法筵供養に参列され、ご祖父翁の高徳を忍び老?とともに永劫の菩提を念じ虔みてともに識すものなり。

クリックで拡大

高橋是清翁略伝
(略)
大正2年60歳の時、山本権兵衛内閣の大蔵大臣となり、その後大正7年9月29日原敬内閣の大蔵大臣。大正9年9月7日子爵(67歳)。大正10年11月13日、内閣総理大臣兼大蔵大臣(68歳)政友会総裁となる。大正13年3月24日貴族院議員辞任、盛岡より5月10日衆議院議員に当選。6月11日加藤高明内閣護憲三派内閣の農商務大臣(71歳)として入閣。翌14年4月1日商工大臣兼農林大臣(72歳)となる。昭和2年4月20日田中義一内閣の大蔵大臣(74歳)、昭和6年犬養毅内閣の大蔵大臣(78歳)、昭和7年斉藤実内閣の大蔵大臣(79歳)、続いて昭和9年11月27日岡田啓介内閣の大蔵大臣(81歳)となる。昭和10年1月14日82歳の高齢の為特旨により宮中杖を差許さる。昭和11年2月26日折からの大雪の日帝国陸軍叛乱軍青年将校らによって殺される。享年83歳。世に云う二・二六事件として史上に伝えらる。

クリックで拡大

報国院殿仁翁是清大居士
維時 昭和61年6月吉日
 鶴松山實相禪院 (以下略

https://goo.gl/maps/Zk5svVyGzuZXNS9H9


鶴松山実相院


高橋是清墓

多磨霊園に高橋是清は眠っている。
場所は、8区1種2側16番。おなじ8区には西園寺公望墓もある。8区の向かい側の7区には同じく二・二六事件で暗殺された斎藤実墓もある。

正二位
大勲位
高橋是清墓

昭和11年2月26日薨

御誄

資性忠純立朝ノ大節ヲ全クシ気宇英爽経世ノ遠猷ヲ懐キ再ヒ閣僚ノ首班ニ列シ屡財政ノ要路ニ当ル殊域ニ渉リテ国難ヲ紓タシ老躯ヲ挺ンチテ時艱ヲ済フ勲労両ナカラ優ニ歯徳並ニ邵ク国ノ重寄ニ任シ民ノ具瞻ニ叶ヒシニ遽ニ溘逝ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘム茲ニ侍臣ヲ遣ハシ賻ヲ斎ラシ臨ミ弔セシム

(平仮名転記)
資性忠純立朝の大節を全くし気宇英爽経世の遠猷を懐き再ひ閣僚の首班に列し屡財政の要路に当る殊域に渉りて国難を紓たし老躯を挺んちて時艱を済ふ勲労両なから優に歯徳並に邵く国の重寄に任し民の具瞻に叶ひしに遽に溘逝を聞く曷そ軫悼に勝へむ茲に侍臣を遣はし賻を斎らし臨み弔せしむ

「賜誄」
誄(るい)と呼ばれるご弔意を 天皇陛下より賜っている。

クリックで拡大

高橋是清の家紋は、三つ追い花沢瀉紋

https://goo.gl/maps/3uVd4HW8PQab8gTm9

多磨霊園


関連

秩父御嶽神社の東郷元帥立像と乃木大将立像

埼玉県飯能市。最寄りは西武秩父線吾野駅。
秩父路の途中に、東郷平八郎と乃木希典を祀る神社があった。
「秩父御嶽神社」
ちょうど紅葉の季節に機会がありましたので足を運んでみました。


本記事で触れる「秩父御嶽神社」以外に関しては以下の記事より。


吾野駅

西武鉄道としては、西武池袋線の終点であり、西武秩父線の始発にあたる駅。(飯能駅起点ではないのですね)
昭和4年(1929)に西武池袋線の前身にあたる「武蔵野鉄道」の終着駅として開業。西武秩父線の開業は昭和44年(1969)。現在の駅舎は平成9年建造。

吾野駅にポスターがありました。徒歩20分だそうです。

秩父御岳神社
東郷公園
当駅より徒歩約20分です!

吾野駅前に案内石柱がある。昭和5年12月建立。

御嶽山秩父御嶽神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

御嶽山東郷公園
 長生書

福寿山乃木公園

御嶽山秩父御嶽神社の鎮座している山を福寿山と呼称している。

「長生」とは、海軍中将小笠原長生のこと。東郷平八郎に傾倒し副官的な立場で東郷とともにあった。だいたい東郷さんの関連する場所に足を運ぶと、小笠原長生の名を見ることになる。

小笠原長生(おがさわら ながなり)
東郷平八郎に傾倒し「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

吾野駅から約20分ほどあるく。高麗川の先に社頭が見えてきた。


秩父御嶽神社

御祭神:
国常立命、大巳貴命、少彦名命、清貫一誠霊神(鴨下清八)、東郷平八郎、乃木希典、他

埼玉県飯能市鎮座。
信州木曾御嶽山を本山と仰ぎ、その御分霊を奉斎する御嶽信仰の神社。
創建は明治27年(1894)。鴨下清八(1861-1955)が創建。鴨下清八は没後に、清貫一誠霊神として祀られている。

御嶽山秩父御嶽神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

東郷公園
長生敬書

御嶽山
元帥伯爵東郷平八郎謹書

村社秩父御嶽神社
昭和戌辰秋 海軍中将子爵小笠原長生敬書

東郷公園

東郷平八郎元帥の銅像建立後、秩父御嶽神社の境内は「東郷公園」と呼ばれている。
公園内には東郷元帥像のほかに乃木希典陸軍大将銅像、日露戦争の遺物(ロシア製大砲、戦艦三笠被弾甲板)、海軍省からの記念品などが点在されている。

御嶽山東郷公園 秩父御嶽神社 御案内
 当山は、御嶽山東郷公園、秩父御嶽神社と謂い明治28年11月故鴨下清八氏の開山によるもので、名将東郷元帥の記念公園を境内にした木曽御嶽山の御分霊を奉斎する霊山である。

御祭神
 國狭槌尊八海山提頭羅神王
  (健康・和楽・長寿の神)
國常立御嶽山座王大権現
  (天福皆来・地福円満の神)
 豊斟渟尊三笠山刀利天
  (福徳開運・必勝の神)

例祭日 毎月1日・9日・15日・18日・27日

 参道入口には、開山者清貫一誠霊神銅像及び講社信仰に貢献せる諸霊神碑霊場があり、それより足を進めると、日露戦争遺物の三笠艦弾痕の甲板や砲弾、布設水雷、野砲、東郷元帥銅像や乃木大将銅像等々がある。東郷元帥銅像は元帥自ら臨席除幕なされた日本唯一のものにして東郷生身銅像とも謂う。傍には元帥お手植えの松が今でもその緑をたたえている。
 境内中腹より、365段の石段を登り途中祈祷殿各末社を経て頂上奥社に達する。
 全山に、楓樹数百本あり11月初中旬の紅葉は特に美しい。
  秩父御嶽神社社務所

かなり広いので境内の位置関係を把握しておかないと迷子になる。


砲弾と布設水雷

林立する門柱も当時からのものと思われる。

砲弾と布設魚雷
右の砲弾は日露戦争日本海開戦の時、ロシア軍バルチック艦隊より発射された主砲の巨弾で、日本海軍はこのために苦戦をしいられました。
左の球型のものは布設水雷と云い、旅順港口に多数布設され、日本海軍の入港を阻止しました。
戦後、日本軍が掃海し、引き揚げたものが」海軍省より下賜されました。

バルチック艦隊主砲 砲弾

旅順港敷設 水雷


紀念公園碑

紀念公園碑
海軍大将東郷平八郎書


門柱

皇国興廃在此一戦
各員一層奮励努力
 平八郎書

昭和3年の御即位記念のに建立された門柱。


東郷元帥銅像

紅葉に囲まれた東郷平八郎銅像。
この銅像は、東郷平八郎が生前に唯一建立をみとめたものという。

鴨下清八氏と親交のあった陸軍中将堀内文次郎も東郷平八郎を説得。
ここに唯一の生前銅像が建立した。

東郷元帥銅像
当山開祖 鴨下清八 氏は、世界の名将と称された東郷元帥の武勲と威徳を後世に伝えるべく、「皇国興廃在此一戦」との名言になぞらえ一戦を一銭とし毎日一銭ずつ蓄える一銭貯金を断行し、元帥の銅像を志しました。
元帥邸をおとずれること80余回。元帥は、我が生前の銅像建立は断じて辞退するとのことでしたが、氏の誠意に打たれ、ついには承諾されました。
氏は大正14年4月17日、元帥の望まれるままの正装したお姿の銅像を建立されました。
除幕式当日には、元帥自ら松崎海軍大臣代理、小笠原長生中将、堀内信水中将等を従えられ、小笠原中将に命じられ除幕されました。他に例のない唯一の生身銅像と称せられる所以です。

階段下に
鴨下清八氏

階段上、左から3番目から
小笠原長生海軍中将
東郷平八郎元帥海軍大将
松崎海軍大臣代理=松崎伊織?(中佐のち中将)。この時の海軍大臣は財部彪
堀内文次郎(堀内信水)陸軍中将
粕谷義三衆議院議長

東郷元帥像

嗚呼名将
 海軍大臣財部彪題


東郷元帥お手植えの松

残念ながら平成11年に枯れてしまったが、継承された松が2代目として育っている。

東郷元帥お手植えの松 大正14年4月17日

平成11年の雪害が原因で、元帥お手植えの松は惜しくも枯れ落ちましたが、近隣在住の信徒の手により実生の発芽に成功し、平成24年3月15日ここに移植、既存種の継承を確認いたしました。
 社務所


弾痕の三笠甲板

日露戦争を決定づけたのは、明治38年5月27日の日本海海戦でした。ロシア軍がウラジオ港に向けて航行させた主力バルチック艦隊を撃滅すべく、東郷司令長官ひきいる連合艦隊は日本海に待機しました。
「敵艦見ゆとの報に接し、連合艦隊は直ちに出動。之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」の第一広報に続き「皇国興廃在此一戦 各員一層奮励努力」Z信号ととともに海戦が開始されました。激戦の結果、敵艦38隻のうち逃亡3隻に過ぎず、日本軍が大勝しました。このとき、東郷長官の乗る旗艦三笠は、ロシアン軍の集中砲火をあび、甲板には蜂の巣状の弾痕を残しました。展示のものは、開園時に海軍省より下賜された旗艦三笠の甲板の一部です。


日本海海戦大捷記念碑

明治天皇御製
くもりなき朝日の旗に
あまてらす 神のみいつを
仰げ國民
 元帥伯爵東郷平八郎謹書

日本海海戦大捷記念碑
海軍中将子爵小笠原長生書


東郷神社

参拝時、東郷神社は改修工事中でした。。。

東郷神社
東郷神社は東郷元帥ご他界(昭和9年5月)の後、昭和10年4月17日に建てられました。
東郷公園創始者鴨下清八氏が元帥の御心を体し、縁も深きこの場所を鎮座地と選び、生前の元帥の功績を讃え、平和の神と仰ぎその御霊をお祀りしました。
日露戦争日本海海戦大勝の日にちなみ、5月27日を例祭日として、毎年、世界の平和と国土の安泰を祈願しています。


ロシア製3インチ野砲と至誠館

ロシア製3インチ野砲(1901年製)と至誠館
明治38年満洲の荒野において、ロシア軍新鋭の野砲のために日本陸軍は難戦苦闘しました。
日本軍の野砲は発射と同時に砲車が後退し命中率を欠きましたが、ロシア軍の野砲は砲身が自動的に後退し、使用も簡易で命中率も優秀でした。
当山の東郷神社に陸軍省から下賜されましたが、大東亜戦争の後、付属部品の盗難被害にあったのが残念です。
野砲が納められている建築物は至誠館と云い、東郷元帥来山のおり、ご休憩されました。

至誠館

大正14年(1925)4月17日の東郷元帥銅像除幕式の際に、東郷平八郎が休憩をした建物。


三笠山神社

日本海海戦の連合艦隊旗艦「三笠」と通じるものがあるが、関係ない。
御嶽信仰に関係する御嶽山の前山である三笠山に由来。
三笠山大神(豊斟淬命)


乃木神社

陸軍大将乃木希典を祀る。


乃木将軍銅像

東郷公園内には、驚いたことに東郷平八郎だけではなく乃木希典の銅像もある。

乃木将軍銅像
乃木将軍は萩出身の陸軍軍人。日露戦争時、難攻不落といわれた旅順の203高地を攻略しました。
質素倹約を旨とし、農将としても名高く、明治天皇の大喪の日の殉死はあまりにも有名です。
「農は国の本なり」との信念にも篤かった当山開祖の鴨下清八氏、将軍に師事するがごとく農業、養蚕業にも力を尽くし、昭和4年11月24日、人々の模範となるよう、この地に将軍の銅像を建立しました。
 乃木希典(のぎ まれすけ) 1849.11.11~1912.9.13

忠魂義魄
陸軍大臣宇垣一成書


秩父御嶽神社御社殿

扁額

秩父御嶽神社
 元帥伯爵東郷平八郎謹書


秩父御嶽神社祈祷殿

扁額が同じく東郷平八郎によるもの。

秩父御嶽神社
 元帥伯爵東郷平八郎謹書


清貫一誠霊神立像

清貫一誠霊神は、鴨下清八氏の神名。


御朱印

社務所で御朱印をいただきました。

いただきませんでしたが、社務所では「東郷煎餅」を頒布しておりました。

社務所の近くには里宮。通常のご祈願は里宮にて対応している感じですね。

飯能の山奥に、これほどに見どころのある神社があるとは知りませんでした。東郷平八郎と乃木希典と、日露戦争の両雄銅像を一度に拝見できる貴重な空間。ぜひとも足を運ぶことをおすすめします。


東郷氏祖先発祥地

北千住界隈の戦跡散策(足立区)

北千住界隈の戦跡としては、千住神社の防空壕が有名だけれども、それ以外にもいくつか見どころがあるので、以下に紹介をしてみる。


B29無名戦士慰霊碑(慈眼寺)

慈眼寺境内には、空襲で撃墜されたB-29搭乗員戦死者の霊を供養する慰霊碑があった。慰霊碑建立にあたり作家の長谷川伸が相談役として名を列ねている。

無名戦士を弔ふ

昭和20年4月13日夜、第313航空団505爆撃群所属のB29(機体番号42−63517)が足立区花畑町・北加平町に墜落。搭乗員11名全員死亡。

戦後、墜落地にほど近い現在の北加平公園に「B29無名戦士之墓」が建立されるも、道路拡張により撤去。銘碑のみが足立区郷土博物館に保管されている。

慈眼寺の被災銀杏

B29無名戦士慰霊碑近くの銀杏は、戦災を生き抜いた銀杏。今でも焼け焦げた跡を残している。

慈眼寺

新義真言宗寺院。千龍山妙智院慈眼寺。
創建は1314年(正和3年)、行覚によって開山。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-13
1947年08月11日、米軍撮影写真を一部加工。
クリックして拡大。
戦後2年経っていてもまだまだ残っている空襲の爪痕。


千住郵便局電話事務室

現存する数少ない山田守設計の建築物。山田が設計した建物では初期のもので「ドイツ表現主義」建造物。一枚一枚が手焼きの煉瓦によるスクラッチタイルは昭和初期の流行という。
1929年(昭和4年)5月に竣工。逓信省の技師である山田守によって設計された、いわゆる逓信建築の一つ。昭和20年の空襲でも本建物は残ることができた。
現在はNTT千住ビルとしてNTT東日本が管理。


源長寺の被災大欅

千住大橋と北千住の中間あたりに鎮座している源長寺の境内にも被災樹木があった。

大楠
文化年間この地帯に多く見られたが、昭和20年戦火の為最後の一本を焼失。その残りがこの切株である。

源長寺

浄土宗寺院。稲荷山勝林院源長寺。
1610年(慶長15年)、伊奈忠次の開基。


千住神社の防空壕

以前はとくに説明板もなくロープも張っていなかったが、最近に整備をされたようだ。

以前の写真はこちらから

平和の大切さを伝える
防空壕
昭和20年、空襲が激しくなると、東京中に防空壕が作られました。
簡易なものから、強固な地下壕までいろいろあり身体を守ってきました。
平成29年5月 千住神社歴史保存会

八紘一宇の国旗掲揚台(千住神社)

紀元二千六百年記念
 昭和十五年十一月吉日建設
  千住宮元町會

日露戦役紀念碑

乃木希典書。明治39年3月建。

不屈のイチョウ(千住神社)

生命の大切さを伝える
不屈のイチョウ
昭和20年4月10日、空襲により、神社に爆弾が投下され、蔵を残して神社は焼失しました。
このイチョウも燃えましたがコゲ跡を刻み復活して今も、生き続けます。
平成29年5月 千住神社歴史保存会

御神木(千住神社)

御神木
 この銀杏は、先の戦争にて千住宮元町のほぼ全ての建物が焼失した中で、御祭神御守護のもと、焼け残った御神木であります。
 寄り添う樹木は「夫婦銀杏」として親しまれており、縁結び、夫婦円満、家内安全、子宝安産の象徴となっております。
 (足立区指定保存樹)

千住神社

創建は延長4年(926)という古社。
旧社格は郷社。千寿七福神の一神(恵比寿)。

昭和20年(1945)4月13日 空襲で社殿を焼失。
境内の御神木や石鳥居などは戦災を免れて残っている。
そして戦争の記憶を残す防空壕跡も残されている神社。
戦後の昭和33年(1958)9月に社殿が再建。


関連

八紘一宇碑と千住大橋

千住大橋の南側にひときわ大きな石碑が残されている。
「八紘一宇」の碑。同様の石碑の多くは戦後に撤去されてしまったが、交通の往来激しい千住大橋脇の石碑は、経緯は不詳であるが撤去されずに今日まで残されていた。歴史的経緯として貴重な石碑。

八紘一宇(はっこういちう)

日本書紀巻第三
神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」
上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎
上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。

もともとは日本書紀の記述「掩八紘而為宇」を略した「八紘為宇」であった。その意味は「八紘(あめのした)をおおひて宇(いえ)となす」、すなわち「天下を一つの家のようにすること」の意であった。

昭和15年8月に、第二次近衛内閣(近衛文麿)が基本国策要綱で大東亜新秩序を掲げた際に「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基づく」と述べたこの「八紘一宇」というフレーズが、この昭和15年の紀元二千六百年(神武紀元皇紀2600年)の大流行語となった。
あまりにも「八紘一宇」が」政治イデオロギー的なスローガンとなってしまていたために、戦後はGHQによって「八紘一宇」の用語は使用を禁じられてしまった。

神武天皇を祀る橿原神宮では、八紘一宇を、以下のように記している。

神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。昭和天皇が歌に「天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」とお詠みになっていますが、この御心も「八紘一宇」の精神であります。

橿原神宮 御神徳 http://www.kashiharajingu.or.jp/about/goshintoku.html

http://www.kashiharajingu.or.jp/about/goshintoku.html

八紘一宇の碑

八紘一宇
陸軍大将 林銑十郎書

建立は昭和15年11月10日、愛国婦人会荒川区分会南千住連合分区による。
紀元二千六百年記念行事の一環。
八紘一宇の揮毫は林銑十郎。

林銑十郎といえば、満州事変の際に、関東軍の要請を受けて独断で満州に進軍した朝鮮軍司令官。その後は陸軍大臣となり、内閣総理大臣にもなっている。広田弘毅内閣のあと、宇垣一成が組閣に失敗して内閣が流産した次が林銑十郎内閣であった。林内閣は当時としても異例の短命内閣で終わり、「史上最も無意味な内閣」「何もせんじゅうろう内閣」と呼ばれた。なお米内光政が海軍大臣として初入閣したのは林銑十郎内閣であった。
紀元二千六百年記念行事が行われた昭和15年の林銑十郎は内閣参議(内閣顧問)であった。


余談だが、千住大橋の北側(北千住)の千住神社境内には「八紘一宇の国旗掲揚塔」が残っている。建立は千住大橋のたもとの「八紘一宇の碑」と同じ時期。すなわち昭和15年の紀元二千六百年記念行事としての建立。全国各地でこの時期には同様の記念碑が建立されている。

八紘一宇の国旗掲揚台(千住神社)

紀元二千六百年記念
 昭和十五年十一月吉日建設
  千住宮元町會

北千住の千住神社には防空壕なども残っている。別記事にて。

八紘一宇は、上記の千住神社以外にも各所の神社で見かけることができる。

市谷亀岡八幡宮境内にも

築地の町中にも


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:8921-C3-35
1944年11月07日、陸軍撮影

拡大編集

千住製絨所は別記事にて

千住大橋

竣工は昭和2年(1927)。関東大震災後の震災復興事業として東京都復興局が計画をし石川島造船所が施工。タイドアーチ橋としては日本最古、という。

千住大橋
 文禄三年(一五九四)、徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。架橋工事は伊奈備前守忠次が奉行を務めたが、工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住六丁目)に祈願したところ、工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に、江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素盞雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より、二〇〇メートル程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。
 千住大橋は、日光道中初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ、多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果の戯曲「将軍江戸を去る」では、最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。
 現在の鋼橋は、昭和二年(1927)、日本を代表する橋梁技術者増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは、四〇〇年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。
 荒川区教育委員会

昭和2年12月竣工


千住界隈(南千住・北千住)の戦跡や近代史跡は他にも。

根岸競馬場跡(横浜競馬場跡)

神奈川県横浜市中区根岸台にあった競馬場。現在は主に根岸森林公園として再整備。日本初の洋式競馬場跡地。

根岸競馬場一等馬見所跡

根岸競馬場(横浜競馬場)

幕末の1866年に横浜の外国人居留地における娯楽施設として根岸台に敷地が用意され「根岸競馬場」として開設。1937年からは「横浜競馬場」に名称を変更。

昭和17年(1942)に戦争に影響により競馬場として休止。
昭和18年に馬場を閉鎖し、帝国海軍が徴用。
昭和20年9月3日、連合軍が接収。
変換後の昭和52年(1977)に横浜市所有の「根岸森林公園」、日本中央競馬会所有の「根岸競馬記念公苑」「馬の博物館」などに再整備された。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R498-5
1947年11月05日、米軍撮影。一部加工。

根岸競馬場と根岸飛行場(大日本航空横浜水上飛行場)と。
根岸飛行場は以下で掲載。

周辺は、米軍の接収地と入り混じっている。
根岸住宅地区(X住宅地区)
現在は返還合意の下で跡地利用の調整段階。

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/kichi/shisetsu/negisi.html

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/kichi/beigun/negisitochi.html


根岸競馬場一等馬見所跡

昭和4年(1929)にアメリカ人建築家J・H・モーガンの設計にて竣工。
2009年に経済産業省によって近代化産業遺産に認定されるも、修復などが施されておらず、廃墟として放置状態。敷地内はフェンスに囲まれており立入禁止。

根岸競馬場観覧席全景
(1930年頃)

モーガン広場
 根岸森林公園は第2次世界大戦までは、競馬場として利用されていました。競馬場には馬場のほかに、一等馬見所・二等馬見所・下見所などの施設がありました。全ての施設は、アメリカ人建築家J・Hモーガン(1877-1937)による設計でした。
 J・Hモーガンは多年にわたり、根岸競馬場の施設を設計しています。設計の過程では、設計案の変更を行っており、主な施設である一等馬見所・二等馬見所は、実際に設計された設計案のほかに別の設計案もありました。
 ここでは、図面と写真で、一等馬見所・二等馬見所の設計過程及び建設された後の建物の様子、当時の競馬場の様子を紹介します。
 現存している建物は、一等馬見所で昭和5年(1930年)に建設されたものです。

建物細部外観を遠望。

スタンド側は米軍敷地になるために、垣間見ることも難しい。。。
スタンドには鉄骨の屋根がついていたが、撤去済み。
Google Earthより。

現状は廃墟となっている近代化産業遺産。
公園の中にそびえ立つ巨大な構造物は見応えありますので、ご興味わきましたら是非に。

東京第一陸軍造兵廠跡地散策・その3(十条編)

東京第一陸軍造兵廠跡地をめぐる散策。ここでは北部の十条地区を巡ってみたいと思います。
工廠神社として祀られていた「四本木稲荷神社」や南部の「滝野川・王子地区」は別記事でまとめました。

北区 …東京第一陸軍造兵廠
板橋区…東京第二陸軍造兵廠


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)

昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されている。

東京第一陸軍造兵廠第一製造所(旧陸上自衛隊十条駐屯地275号棟)の赤レンガ倉庫

位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-82
1947年08月11日-米軍撮影

上記を一部加工。(クリックで拡大。)
赤丸が本記事の対象エリア。


東京第一陸軍造兵廠 275号棟
(北区中央図書館)

大正8年(1919)竣工の赤レンガ倉庫(275号棟)を北区中央図書館として2008年より再活用。


工廠神社跡地

「北区中央図書館」の北側は「いなりプレーパーク」
かつて「東京第一陸軍造兵廠の工廠神社」、「十条の四本木稲荷神社」が鎮座していた場所。

詳細は別記事にて


東京第一陸軍造兵廠 275号棟
(十条駐屯地)

十条駐屯地内の開放された広場に、モニュメントとして残された変圧所の煉瓦が残されておりました。

 この煉瓦は小菅集治監や北区の煉瓦工場などで焼成され、明治38年この地に建設された東京砲兵工廠銃砲製造所に使用されたものの一部を保存したものです。

十条駐屯地の赤煉瓦造建築物
 現在の十条駐屯地の敷地は、約116,000㎡(約35,000坪)ですが、この地域一帯を明治38年(1905)に陸軍が購入して、東京砲兵工廠銃砲製造所を建設した当時は、約330,000㎡(約100,000坪)の広さでした。幾多の変遷ののち第2次世界大戦時は、東京第一陸軍造兵廠として、これらの施設は当初から、一貫して小口径の弾薬を製造する所でした、当時の敷地には、明治後期から大正に建設された大規模な赤煉瓦建築物が50棟以上あったことが確認されています。戦後は、米陸軍東京兵器補給廠として使用されましたが、昭和34年(1959)自衛隊に移管され、約39年間陸上自衛隊武器補給処十条支処及び諸隊が所在する駐屯地でした。自衛隊に移管された頃は、赤煉瓦建物22棟と鋼製耐震煙突2基が残っていました。これらに使用された赤煉瓦は、全国の大規模な煉瓦工場のほか、地元の荒川、隅田川流域の中小の煉瓦工場で製造されたものです。これらの赤煉瓦は、新庁舎建設のため平成5年(1993)から遂次解体されましたが、解体された赤煉瓦の一部が正門、新庁舎のエントランス等に利用されています。

煉瓦造254号建物
 このモニュメントは、大正7年(1918)変圧所として建設された「煉瓦造」平屋建ての建築物254号建物の一部を利用し作られたものです。建築物の規模は、桁行(東西)方向が36.04mで10スパン、梁間(南北)方向が14.20mで4スパン軒高が5.85mであり、屋根は4寸5部後輩のスレート葺き(昭和40年代に長尺カラー鉄板葺きに改修)でした。小屋組は、木造のクイーンポストトラス、外壁の煉瓦の積み方はオランダ積みであり、腰部は焼き過ぎ煉瓦、その上部は一枚半積みでした。北面には切妻の破風があり、白の碍子が埋め込まれ(南側には茶の碍子)受電施設の痕跡を残していました。大正期に建設された煉瓦の建築物の小屋組は、ほとんどが鉄骨造りでありましたが、この建物が木造の小屋組としているのは、変圧所という建物の機能から、通電性の高い鉄骨材料をあえて採用しなかったためと考えられます。


ちんちん山のトンネル跡
(東京陸軍第一造兵廠軍用鉄道)

中央図書館から東に赴いたところにある「北区ちんちん山児童公園」。この公園にモニュメントとして、東京陸軍第一造兵廠の軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)のトンネル跡が残されている。

三つ丸の上に丸が重なったシンボルマークは、「一造」を管轄していた「東京砲兵工廠」のマーク。

産業考古学探索路
王子周辺にはかつて、20世紀初頭の殖産興業を支えた工場が数多く存在していました。
「産業考古学探索路」は、区民のみなさんや北区を訪れたみなさんに当時の工場や関連施設の跡地をめぐりながら、当時のこの地域が担っていた役割と雰囲気を実感していただくために整備したものです。

ちんちん山のトンネル
 明治時代から昭和にかけて、北区とその周辺には、陸軍の関連施設が数多く点在していました。その当時、これらの施設は、物資や人間を運搬するための軍用鉄道と呼ばれる専用軌道で結ばれていました。
 この辺りでは、板橋、十条の火薬製造工場と王子の火薬製造工場を結ぶ軍用電車が、チンチンと鐘の音を鳴らしながら、盛土の上を走っていたそうです。そのため、付近の住民は、この盛土を俗に「ちんちん山」という愛称で呼んでいました。
 かつて、この場所には、ちんちん山の下をくぐる石積みのトンネルがありました。
 このトンネルの上部には、3個のだんごを三角形の形に並べ、その上に、もう一つだんごを乗せたような珍しいマーク(当時の東京砲兵工廠のマーク)が刻まれていました。現在、このマークを含め、トンネルの石積みの一部が園内でモニュメントとして使われています。

十条駐屯地

現在の十条駐屯地の正門は、「東京第一陸軍造兵廠(一造)」の裏門跡にあたる。

十条駐屯地内で取り壊した「東京第一陸軍造兵廠(一造)」の煉瓦倉庫の煉瓦を再利用して正門と壁を作成。

十条駐屯地

陸上自衛隊 補給統制本部
海上自衛隊 補給本部
航空自衛隊 補給本部
航空自衛隊 第二補給処十条支処
北関東防衛局 装備部

北区十条富士見中学校

十条駐屯地と北区十条富士見中学校の壁は「東京第一陸軍造兵廠(一造)」ゆかりの煉瓦を使用した煉瓦壁で整っている。
レンガストリートの様相。

このベンチの壁の仕上げ材の一部には、平成21年度に、旧十条中学校の校舎を解体した時に出土したレンガを使用しています。

レンガ造のモルタル塗り。最近補強されたようだ。

煉瓦(れんが)塀の由来
十条台1丁目一帯には旧陸軍の東京砲兵工廠銃砲製造所が所在していました。この製造所は、日露戦争の行われていた明治38年、小銃弾薬の増産を図るために現在の東京ドーム周辺から移転してきた工場施設で、約10万坪の敷地に煉瓦造の工場等が建てられていました。
本校とJR埼京線の境界に現存する煉瓦塀は、その製造所の西側の敷地境界にあたり、煉瓦に残されている刻印から、葛飾区の金町煉瓦製造所の煉瓦が使われていることが判りました。

埼京線から見えるコンクリウートの壁。これが実は陸軍時代のレンガ壁だったのだ。

このあとは板橋方面の「東京第二陸軍造兵廠(二造)」に向かったが、それはまた改めて掲載予定。


東京第一陸軍造兵廠・一造に関連するそのほかは、別記事にて。


関連

東京第一陸軍造兵廠(一造)が十条に来る前に拠点だったのが小石川

北区西が丘

北区赤羽台

赤羽台の戦跡散策

東京第一陸軍造兵廠跡地散策・その2(滝野川・王子編)

※撮影は2016年~2020年

東京第一陸軍造兵廠跡地をめぐる散策。ここでは南側の「滝野川・王子地区」を巡ってみたいと思います。
工廠神社として祀られていた「四本木稲荷神社」や北部の「十条地区」は別記事でまとめました。

北区 …東京第一陸軍造兵廠
板橋区…東京第二陸軍造兵廠


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)

昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されている。


東京第一陸軍造兵廠本部(北区中央公園文化センター)

位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-82
1947年08月11日-米軍撮影

上記を一部加工。(クリックで拡大。)


東京第一陸軍造兵廠第三製造所滝野川工場の陸軍用地標石(陸軍標石)

西巣鴨駅からスタートして十条方面に北上。
滝野川方面を目指す。
少し歩けば、見逃しがちな脚下に標石が3つありました。
陸軍用地標石。(陸軍標石)

公務員第二宿舎のあった場所にそった通り沿い。

公務員第二宿舎は廃止され、現在は「滝野川三丁目公園」として整備されました。

弊サイトの写真を案内看板に提供しました。

半世紀以上も前の戦争時代の境界石が、こうして未だに道端に残っている不思議さ。ここが陸軍の土地であったことを感じさせる歴史遺産。
身近に戦争の歴史を感じるものが、こうして脚下に残っている。

このあたりが、「東京第一陸軍造兵廠滝野川工場」別名を滝野川雷汞所(らいこうじょ)とされたエリア。

https://goo.gl/maps/ao3iM3XWTJ7pBvRv5


四本木稲荷神社

このまま道なりに北上をしていくと「四本木稲荷神社」に到着。
東京第一陸軍造兵廠第三製造所滝野川工場の工廠神社。
別記事にて。


憲兵詰所遺構?

突き当たりを左に向かい石神井川を渡ると、周囲とは異色の古びたコンクリの建物が民家の目の前にドンッと鎮座している。
真偽は不明だが、このコンクリートの建屋は「憲兵詰所」遺構とされている。
ここだけがどうして残っているのかは謎だが、今となっては残ってくれたのはありがたい。

ちょうど、十条の東京第一陸軍造兵廠と、滝野川の分工場を結ぶ道沿いにあたるため、この界隈で憲兵が詰めていてもおかしくない位置関係。

https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d809.4920018137907!2d139.7268281292461!3d35.751591098761104!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x6018939c4274f387%3A0xe65e608c9c169a03!2z5oay5YW144Gu6Kmw5omA!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1599875682650!5m2!1sja!2sjp


東京第一陸軍造兵廠本部
(北区中央公園文化センター)

憲兵詰所の北側には「北区中央公園」
木々の合間から、歴史を感じさせる良い雰囲気の建物が見えてくる。

「北区中央公園」(東京都北区十条台)
現在は「北区中央公園文化センター」
戦前は「東京第一陸軍造兵廠本部」であった建屋は昭和5年( 1930年)の建設。
元は茶色であったが戦後の米軍接収時代に白色に塗装という。

休館日でした。。。

周辺にあった台座。往時のものか?どうか。。。

裏手へ。 中央屋上へあがる階段が、なかなか美しい。

東京砲兵工廠銃包製造所のボイラー(部品)と鋼製耐震煙突銘板
 明治38年(1905)、現在の十条台1丁目一帯に「東京砲兵工廠銃包製造所」が開設されました。日露戦争を機に弾薬(銃包)の増産が必要となったことから、小石川地区(現後楽園周辺)より当地に移転・拡張されたものです。敷地内には銃包を製造するための煉瓦造の工場棟が多数建設されました。銃包製造所では、製造に必要な工作機械の動力として、英国バブコック&ウイルコックス社製のWIF型蒸気ボイラーが導入され、ボイラーの煙突には、東京芝浦製作所製の鋼製耐震煙突が使われました。この煙突は、煉瓦造の煙突の周りに鉄板を巻き、耐震性を高めたものです。
 ここに展示されている部品は、ボイラーのドラム・水管の一部・鉄製の扉、および、鋼製耐震煙突の銘板で、十条の自衛隊の施設建替の際に解体・保存したものです。銘板には銃包製造所開設年にあたる「明治三十八年九月竣工」の年代が入っており、これらは、銃包製造所の歴史を伝えるとともに、日本の近代産業遺産としても貴重な資料です。
平成27年3月 東京都北区教育委員会

東京芝浦製作所
明治38年9月竣工

ボイラー展示の隣の半円状の建物内に古墳時代の横穴式石室が空間丸ごと移築保存されているのは、なかなかのカオス。

赤羽台第3号古墳石室

皇后陛下行啓記念

皇后陛下行啓記念
東京第一陸軍造兵廠長 杉浦辰雄 謹書

杉浦辰雄中将(陸士25期)
昭和12年(1937)に、東京工廠火具製造所長
昭和14年(1939)に、東京工廠長
昭和15年(1940)に、東京第一陸軍造兵廠長 
そのまま終戦を迎える。 

【消失】
東京第一陸軍造兵廠の陸軍用地標石(陸軍標石)

都営王子アパートの道に陸軍用地標石(陸軍標石)がありました。
都営王子アパートがなくなるとともに消失してしまったようです。。。

以下はGoogleストリートビューにて。
2018年5月には「標石」を確認することができます。

そして2019年5月。無くなりました。。。。


東京第一陸軍造兵廠・一造に関連するそのほかは、別記事にて。


関連

東京第一陸軍造兵廠(一造)が十条に来る前に拠点だったのが小石川

北区西が丘

北区赤羽台

赤羽台の戦跡散策

氷川八幡神社・白子国民学校奉安殿(和光)

埼玉県和光市下新倉鎮座

氷川八幡神社境内・琴平神社稲荷神社
(白子国民学校奉安殿)

氷川八幡神社の旧本殿と社務所は昭和20年5月の戦災にて焼失。
戦後に、白子国民学校(白子小学校)の奉安殿を移築して氷川八幡神社の本殿として奉斎。
平成8年に本殿・幣拝殿を新築した際に、琴平神社・稲荷神社として再移築。
平成9年10月に、銅板に葺き替え。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


日露戦役記念碑

日露戦役記念碑
陸軍大将子爵長谷川好道書


氷川八幡神社

祭神:建速須佐之男尊・誉田別尊
第73代堀河天皇の寛治5年(1091)に八幡宮として創建。
文禄3年(1594)に氷川神社を合祀。
明治社格では村社列格。


関連

長慶寺稲荷社・池雪国民学校奉安殿(大田区)

大田区東雪ヶ谷鎮座。

長慶寺境内・朝日稲荷社
(池雪国民学校奉安殿)

昭和15年築の旧池雪尋常小学校奉安殿(旧池雪国民学校奉安殿)という。
池雪国民学校は現在の池雪小学校。

稲荷社としての由緒由来は不詳。池雪国民学校奉安殿が当時に移築された由来も不詳。昭和21年頃に長慶寺境内に移築されたという。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

奉安殿の雰囲気を色濃く残す佇まい。

扉は鉄筋コンクリート。内側が一部崩落気味。

都内に残る数少ない奉安殿の名残。


長慶寺

境内社の朝日稲荷社はご本堂の後方に鎮座している。


関連

清水稲荷神社・鷹番国民学校奉安殿(目黒区)

目黒区に鎮座するお稲荷様は、なんとなく変わった御社殿。

戦前に「御真影( 天皇陛下と 皇后陛下のお写真)」と「教育勅語(勅語謄本)」を納めていた鉄筋コンクリートの建物=鷹番国民学校奉安殿が、戦後にこの清水稲荷神社の御社殿として再活用された、という。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

清水稲荷神社
(旧鷹番国民学校奉安殿)

清水稲荷神社
 目黒本町1-1

 この稲荷は明治30年(1897)頃から、東急バス駐車場のあたりにあったと言われ、その付近に真夏の旱天でも清水が湧き出していました。この湧き水外なりの社名の源となったと思われます。
 大正12年(1923)の大震災以後、このあたりにも多くの移住希望者があり、地主のさんたちはその要請に応えて、計画的な土地分譲を志摩市yた。土地分譲事業は、この稲荷様を基にし、土地の発展を祈念しました。そのため、京都伏見稲荷より御霊代を拝受し、社殿や鳥居も奉納されました。
 その後、昭和27年(1952)に篠原福太郎氏が39.7㎡(12坪余)の土地を寄進されましたので現在地へ移築されました。また、この年、太田喜八郎氏が鷹番小学校へ寄進したご真影奉安殿を、大へん苦労して移築し拝殿としました。
 この稲荷は、家内安全、商売繁盛、芸能上達などのご利益があるとともに、縁結びの神としても有名で、初午には甘酒が振る舞われ、盛んな祭りが行なわれます。
 平成5年3月
 目黒区教育委員会

鉄筋の分厚い扉。
壁面も赤く塗られているが、基はコンクリート。
奉安殿の特徴を感じることが出来る。

社殿の欄干や階段部分もすべて奉安殿時代からの流用という。

鳥居は大正13年建立。関東大震災の翌年。御由緒にある土地分譲の再開発時期と合致。


関連

傷痍軍人東京療養所・外気舎(清瀬)

東京都清瀬市
現:独立行政法人国立病院機構東京病院・外気舎記念館


結核治療のメッカとなった清瀬。いまでも多くの病院が集まる病院街。
そんな清瀬の森に戦前からの結核治療を物語る歴史が残されていた。

現在の「独立行政法人 国立病院機構 東京病院」は、戦前は「傷痍軍人東京療養所」として、軍人結核治療の中心地であった。

特効薬がなかった時代でもあり、ここでは自然療法での治療が行われ、そしておそらく多くの結核患者がなくなったであろう場所であった。
合掌。

傷痍軍人東京療養所・外気舎
外気舎記念館

外気舎記念館
傷痍軍人東京療養所は昭和14年に建設されたのでありますが、同時にその一番裏手の松と雑木の静かな武蔵自然林内に別図のごとく診察室及及び食堂を中心として外気舎72棟が扇形に建設されました。そこでは一棟に二人づつ作業患者が入っておりました。その頃はまだ結核薬のない時代で大気・安静・栄養が結核治療の主軸であり、外気舎はその名のごとく外気療養を行うと同時に作業療法患者の病舎でもありました。作業療法盛んな頃は72棟の外気舎も満員で130名から140名ほど入舎しておりましたが、昭和41年4月に作業患者が18病棟に移転すると同時に外気舎も廃止されました。ところが今度その一部を移転、ここに記念館として永久に保存することとなりました。
 国立療養所 東京病院

市指定有形文化財
外気舎記念館
 所在地 清瀬市竹丘3丁目
     (独立行政法人国立病院機構東京病院内)
 指定日 平成26年月14日

 清瀬における結核治療の歴史は、昭和6年(1931)に「東京府立清瀬病院」が開院したことに始まります。昭和8年(1933)には「べトレヘムの園病院」、昭和14年(1939)には「傷痍軍人東京療養所」が開所し、以後続々と病院がつくられ、今の病院街が形作られていきました。
 当時、結核は不治の病として恐れられ、死亡原因の上位に位置しました。抗結核薬であるストレプトマイシンの発見以前は、きれいな空気の中で、栄養を取りながら安静に療養生活を送ることが治療の方法だったのです。
 ここに残る「外気舎記念缶館」は、傷痍軍人東京療養所の付帯施設として、回復期にある患者を二人一組にして大気療法や軽作業を行い体力の回復を図るために使用した病棟(外気舎)です。こうした病棟は72棟が建てられましたが、現存するのはこの「外気舎記念館」のみになります。室内は狭く、木製のベットが2台置かれており、大きな窓が作られています。療養の為空気の循環を良くするために、この窓は冬の夜でも開け放たれていたと伝えられています。
 国民疾患であった結核の治療の歴史を今に伝える施設として大切なものです。
  平成28年月31日
   清瀬市教育委員会

とても小さく素朴な病棟

前後には、上下に開く扉が備え付けられている。半蔀(はじとみ)

内部には2つの簡易的なベットと小さな洗面台。
左右と前後の扉。すべてを開け放てば極めて開放的な空間。
まさに文字通りの「外気舎」。外の空気を取り入れることに特化した病棟。

軒先には鐘が吊り下げられていた。
非常時に打ち鳴らすのだろうか・・・。

清瀬の森の中に残された結核治療病棟「外気舎」

再起奉公
 東京府知事 岡田周造 

昭和15年5月
恩賜財団 軍人援護會東京府支部寄贈
慰安施設
1.釣堀池
2.休憩舎
3.温室
4.大弓場
5.テニスコート
6.バレーボールコート
7.果樹園
8.広場
9.庭園
10.野外卓
11.腰掛
12.其他

この紀念碑は昭和62年11月まで社会事業大学敷地(旧東京病院敷地)に残されていたがこのたび当院敷地内に移設したものである。
第二次大戦中当院に入院していた傷痍軍人が「再起奉公」を願い又国民がこれを支えた碑があります。この碑が所在していたあたりには右側にある外気舎72灯に140名ほど入舎していたと云う。
 昭和62年11月吉日
  国立療養所東京病院
 (当表札は平成14年10月吉日に復元)

桜の園
 この地は東京病院の前身である傷痍軍人療養所に隣接して当時は松の大木等が生い茂り昔の武蔵のそのままの状態であったのですが昭和17年に当療養所で1万坪を購入し農場と運動場とを作りました。運動場の回りには桜(桜園の回りに特に大きい桜)を植え、グランドには庭球コートを設け患者職員の運動会を催したものであります。戦争が激しくなるにしたがって職員の食糧自給の必要が生じ運動場を職員各自に地割をして畑にし食糧増産の場となりました。終戦後食料も次第に入手できる様になると畑を作る人もなくなったので、昭和31年埼玉県安行から桜の木(ソメイヨシノ)を購入し、樹高約4m、幹の太さ直径5-6cmの木を患者の作業療法として植付けたものです。桜爛漫の春となると患者のための憩いの場となっております。
 国立療養所東京病院

ここに寿康館ありき
ここに寿康館があった。
傷痍軍人東京療養所が昭和14年に開設された際、恩師財団軍人援護会からの寄贈にかかる。傷痍軍人療養所時代には国家的祝日がここで祝はれたし「精神講話」も行はれたし、はなやかな慰問演芸が拍手をもつて迎へられた。患者と職員が直立して終戦の放送を聞いたのもここであったが、終戦後は患者会、職員組合の熱っぽい集会にも利用された。患者の文化祭も行はれ、劇「父帰る」出演者のうち少なからぬ人達が再悪化をしたと云ふ記録も残っている。日本間には全国国立療養所の組合の本部がたむろしたこともあったが、ここで歌会や句会が行はれたから多くの風流人の思い出の場所でもある。ところが終戦以来殆ど手入がなされないまま放置されたため屋根は傾き屋台骨は腐り果て、風、火、地震の危険にさらされるに至ったので昭和53年春ついに取りはらわれ残された礎石がわづかに昔を語っている。こうして国立結核療養所の歴史の1こまが終わったのである。
 昭和53年8月
  国立療養所東京病院長
  砂原茂一

独立行政法人国立病院機構東京病院

位置関係

国土地理院航空写真:USA-M68-A-6-2-151
1946年02月09日-米軍撮影

上記を一部加工

現在の様子


関連

閘門橋(弐郷半領猿又閘門)

閘門橋というレンガ造りのアーチ橋があるときいて、ちょっと脚を伸ばしてみました。
訪れてみたら、予想以上に素晴らしい橋で、これはちょっと興奮物。


閘門橋

葛飾区登録文化財

1909(明治42)年に完成した閘門橋は、上流と下流の水量を調整して、洪水を防ぐための当時最先端の水門であった。
都内に現存する貴重なレンガ造りのアーチ橋。
レンガは金町でつくられたものを使っている。

閘門橋(明治42年完成)
 閘門橋は、レンガ造アーチ橋としては、東京に現存する唯一の貴重な橋です。
 橋名の閘門というのは、水位・水流・水量等の調節用の堰のことをいいます。
 江戸時代(宝永年間)この辺りは、古利根川(現在・中川)、小合川(こあいがわ:現在の大場川、小合溜)が入り込んだ、複雑な地形を有しており古利根川の氾濫地域でありました。この古利根川の逆流を防ぎ、水田の水源確保のため、さらに岩槻街道の流通路として閘門と橋が造られたと言われております。
 現在の橋は、明治42年、弐郷半領用悪水路普通水利組合によって「弐郷半領猿又閘門」としてレンガ造アーチ橋が造られました。
 その後、本橋は新大場川水門の完成により閘門としての役割を終え、また隣接する葛三橋(かつみばし)に車道を譲り、歩行者・自転車道に移り変わりました。
 この改修に当たって、レンガのアーチ部分は原形のままとし、橋面上の修景にとどめました。アーチの橋脚部のブロンズ像は、荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を巻き込んでいる姿です。
 閘門橋は、こうした人々の水との生活史を今に伝えるものです。
  平成2年3月
  東京都

弐郷半領(にごうはん)とは、現在の埼玉県吉川市、三郷市付近のことをいう。橋は東京都ではあるが、建設したのは「弐郷半領用悪水路普通水利組合」。これは埼玉県の水利組合。用悪水路とは用水路と排水路という意味。

土木学会選奨土木遺産
閘門橋 (旧二郷半領猿又閘門)

名称
 閘門橋
所在地
 東京都葛飾区
竣工年
 1909(明治42)年
選奨年
 2013年 平成25年度
選奨理由
 閘門橋は、明治時代に建造された都内に現存する数少ないレンガアーチ橋であり、上流側と下流側でアーチの門数が異なる非常に珍しい構造の橋梁だけでなく、樋門としても貴重な土木遺産であります。

土木学会選奨土木遺産 http://committees.jsce.or.jp/heritage/node/765

南側の葛飾側より。

「こうもんばし」

「閘門橋」

閘門橋と並走するのは「葛三橋」(かつみばし)
道路は「岩槻街道」。(「日光御成道」の別名。)
大場川にかかる。

シンボルマークは何をあらわしているのだろうか。

モニュメント。

閘門橋の下流側の橋脚部堰柱には「ブロンズ像」が二体設置されてる。
荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を巻き込んでいる姿を表現。
なお、ブロンズ像は後世に追加されたもの。

こちらは閘門橋の上流部分。
下流側と比べると静かな水面。

バルコニー(張り出し)部分は後年の増築という。

銘板には「明治42年4月竣工」と記載あり。

北側から。(三郷側)

これは一見の価値あり、です!

場所

こちらとセットで散策でした。

ドーリットル空襲と石出巳之助之墓

ドーリットル空襲

昭和17年(1942)4月18日。
米陸軍所属のB-25爆撃機16機が米海軍所属の空母ホーネットより発進し、日本本土への空襲を実施。この空襲がアメリカ軍による日本本土初空襲(東京初空襲)であり、ミッドウェー海戦のきっかけともなった。
「ドーリットル空襲」の名称は爆撃機隊の指揮官であったドーリットル中佐に由来する。

日本側の被害は、死亡約90人、負傷約460人であったという。

水元小学校と石出巳之助君

昭和17年4月17日(土曜日)
この日は土曜日だったので半ドン、つまり午前中で学校の授業は終わりだった。

4月に入学したばかりの東京都水元国民学校学校高等科1年生(中学1年生)の石出巳之助君(13歳)たちは午前の授業を終え、12時過ぎに校門を出たところで「空襲警報」が鳴ったという。
空襲警報を聞き、石出巳之助君たちは日頃の訓練どおりに急いで校舎に引き返し教室の机の下に潜ろうと廊下を走っていたところで、B-25の機銃掃射を受け背中に命中。応急処置を施すも、午後2時に命を引き取った。

石出くんを機銃掃射したB-25は、米空母ホーネットを8時30分に発艦したドーリットル隊3番機であった。3番機は水元国民学校に15発の機銃掃射を行ったという。

日本発空襲の被害は、東京だけで死者は39名であった。

翌日の新聞(朝日新聞)は、「鬼畜の敵、校庭を掃射」等、報じている。
また実際にはB-25を1機も撃墜していないが「けふ帝都に敵機来襲 9機を撃墜、わが損害軽微」との報道もなされた。

東部軍司令部発表(昭和17年4月18日午後2時)
「午後零時30分頃、敵機数方向より京浜地方に来襲せるも、わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり。現在までに判明せる敵機撃墜数は9機にして、我が方の損害、軽微なる模様。皇室は御安泰で渡らせらる。」

石出巳之助之墓

戒名は「悲運銃撃善士」
石出君の死は、軍部による国威発揚に利用されたのだ。

墓前にて合掌。

(表) 石出巳之助之墓
(左) 悲運銃撃善士 昭和十七年四月十八日
(右) 昭和十七年四月十八日
    米國敵機ノ機銃彈ヲ受ケテ死亡ス
    性温和至純至孝身體強健ニシテ
    將來ヲ囑望セラレシニ此ノ災禍ニ遭ヒテ殉難ス 
    享年十四歳
(裏) 昭和十七年八月
    施主 石出文五郎建之

石出巳之助之墓

第2章 葛飾の歴史
第9節 昭和時代

■葛飾区への空襲 :
初めは勝利を重ねた日本でしたが、だんだん負けることが多くなりました。そして、日本は空襲を受けるようになり、沖縄では上陸したアメリカ軍との激しい戦いがありました。

空襲による犠牲者  
 1942(昭和17)年4月18日、東京がはじめてアメリカ軍による空襲を受けました。飛行機が飛んできて爆弾を落とし、空から銃をうったのです。この空襲では、葛飾区も被害を受け、水元国民学校高等科1年生(中学1年生)の石出巳之助君がうたれて亡くなっています。当日は、土曜日で午前中に授業がありました。家に帰ろうと校門を出たときに空襲が始まり、日ごろの訓練どおりに校舎に引き返しましたが、1階のろう下でうたれたのです。亡くなった後、学校では石出君の写真を校舎内にかかげて、毎朝手を合わせました。  
 1944(昭和19)年にサイパン島がアメリカの手にわたると、そこからくる飛行機による空襲が本格化し、葛飾区でも被害がありました。

葛飾区史(葛飾区総務部総務課)http://www.city.katsushika.lg.jp/history/child/2-9-4-86.html

上記、葛飾区史(葛飾区総務部総務課)のサイトより写真を引用。

石出巳之助君の墓(1943〔昭和18〕年)
水元国民学校の校舎に残った銃弾のあと(葛飾区郷土と天文の博物館所蔵)
石出巳之助君が亡くなった空襲のときに、学校に残った銃弾による傷です。
なお、砲弾は後日、寄贈されたものです。

石出くんのお墓は「法林寺」にある。

浄土宗寺院の見池山法林寺

総務省>一般戦災死没者の追悼>石出巳之助之墓

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_katsushika_city001/index.html


旧水元小学校

石出くんが通っていた水元国民学校の校舎の一部が今も残されている。
現在は、葛飾区強度と天文の博物館の管理ではあるが、耐震性の問題があり平成28年で「教育資料館」としては閉館。立入禁止となっている。

葛飾区指定有形文化財
水元小学校旧校舎 1棟
 所在地 葛飾区水元4丁目21番1号
 指定年月日 昭和59年(1984)2月27日

 この建物は、水元村立水元尋常高等小学校の増築校舎として、大正14年(1925)7月20日に竣工しました。
 大正12年(1923)に発生した関東大震災の影響で材木が不足していたことから、アメリカから輸入した松材を用いて建築、当時としては構造上の強化も図られています。
 竣工当時は、廊下に沿って4部屋の教室がありましたが、現在の校舎新築に伴い昭和40年(1965)に北側の教室2部屋が撤去されました。この際に発見された棟札には、棟上げ日(大正14年5月16日)の他、当時の関係者の名前が記載されています。その後も、南側の2教室は昭和57年(1982)まで校舎として使用されました。
 昭和58年(1983)に現在地に曳家のうえ、建設当初の状態に復元されて、平成28年(2016)3月まで葛飾区教育資料館として使用されました。
 大正時代に建てられた校舎として貴重なことから、昭和59年2月に、葛飾区指定有形文化財に指定されています。
 葛飾区教育委員会

葛飾区郷土と天文の博物館>旧教育資料館 関連展示

https://www.museum.city.katsushika.lg.jp/exhibition/permanent/shiryokan.php


位置関係

国土地理院
ファイル;C36(8913)-C1-297
1944年10月24日-日本陸軍撮影。

水元小学校が上空からでも目立つのがわかる。
(機銃掃射すべき対象物でないこともわかるはずだが。)

現在の様子。水元公園は戦前は水田地帯であったのが意外。

以上、
ドーリットル空襲と、本土空襲最初の犠牲者の一人であった石出巳之助さんにまつわる話でした。

旧岩淵水門(赤水門)

大正13年(1924)竣工の水門。現在は近代化産業遺産として保存されている。

位置関係

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:USA-M380-30
1947年07月24日-米軍撮影

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:CKT794-C4A-27
1979年11月14日-国土地理院撮影

青水門の建設途中。青水門は1982年(昭和57年)竣工。

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:CKT843-C4-28
1984年10月22日-国土地理院撮影

青水門の運用開始後。昭和59年。

国土地理院航空写真を一部加工
ファイル:CKT921-C1-33
1992年11月02日-国土地理院撮影

赤水門のところが島に。

GoogleMAPを一部加工。
現在の様子。

かつて荒川放水路と呼ばれた人工河川が「荒川」に。
かつての荒川が「隅田川」に。
岩淵水門は、荒川と新河岸川・隅田川の分岐点に当たる。

旧岩淵水門(赤水門)

東京都選定歴史的建造物
旧岩淵水門

 所在地 東京都北区市も5丁目地先
 設計者 青山 士
 建設年 大正13年(1924)

 旧岩淵水門は明治43年(1910)東京下町を襲った大洪水を契機に、内務省が荒川放水路事業の一部として隅田川との分派点に設けた。
 水門はローラーゲート構造で、幅約9mの五つの門扉からなっており、袖壁部も含めた長さは約103mの大型構造物となっている。本体は煉瓦構造では力学的に対応が困難であったことから、当時では珍しい鉄筋コンクリート造として、大正5年(1916)に着工し同13(1924)に竣工した。
 昭和22年(1947)のカスリーン台風や昭和33年(1958)の狩野川台風の大出水の際も機能を十分に果たしてきたが、昭和20年代後半からの東京東部地域一体における広域的な地盤沈下により本水門も沈下してきたため、昭和35年(1960)に門扉の継ぎ足しが行われたほか、開閉装置の改修などが施され現在の旧岩淵水門(赤水門)となった。
 その後、昭和48年(1973)に荒川の基本計画が改訂されたことに伴い、水門の高さに不足が生じたことから、昭和57年(1982)に約300m下流に新たな岩淵水門(青水門)が整備され、旧岩淵水門はその役目を終えることとなった。

 東京都

旧岩淵水門

旧岩淵水門のあらまし
昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅が狭く、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治44年から昭和5年にかけて新しく河口まで約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。
現在の荒川と隅田川の分れる地点に、大正5年から13年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和50年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に作られた青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。
長年、地域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子供たちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。

近代化産業遺産
近代化産業遺産の価値を顕在化させ、地域活性化に役立てることを目的として経済産業省は平成19年度に国や地域の発展において貢献してきた建造物、機械、文書などを対象に「近代産業遺産群33」を取りまとめました。平成20年度には、その中の「国土の安全を高め都市生活や産業発展の礎となった治水・防砂の歩みを物語る近代化産業遺産群」において「旧岩渕水門及び荒川放水路」が認定されました。
このほかにも旧岩淵水門は「日本の近代土木遺産」「東京都選定歴史的建造物」「北区景観百選」に認定されています。

 国土交通省荒川下流河川事務所

岩渕水門改造工事
 竣工 昭和35年3月
 施工 大同機工株式会社

表記が「岩渕」になっていますね。


草刈の碑

赤水門の先の島に、大きな石碑が建立されていた。
全日本草刈選手権大会を記念して作られた碑。

草刈の碑
農民魂は 先ず草刈から

由来記
草刈は日本農民の昔ながらの美風で農民魂の訓練であり発露である。
金肥の流行につれて草刈が衰へ始めたので、有畜農業の普及は却って益々草刈の必要を認めたから、草刈奨励の為め有志相図り幾多の曲折を経て、漸く男女青年団農学校壮年団と四組に分ち、全国に亘って町村大会郡大会都道府県大会と選手を選抜し、最後に全日本草刈選手権大会を昭和十三年八月より此の地に前後六箇年開いた。
鎌を競う選手四万余名、熱戦各二時間に亘り両岸に観衆溢れ旗指物なびいて一世の壮観であった。
大東亜戦のためやむなく中止したが、草刈魂を永達に伝ふるため農業国体其他篤志家の寄付を仰ぎ、茲に草刈の碑を建立した。
蓋し農は国の大本草刈、堆肥は土を作る農業の根本だからである。
 昭和三十二年十月
 全日本草刈選手権大会理事長 横尾堆肥居士撰


赤水門の脇に。

攝政宮殿下御野立之跡

大正13年10月25日に荒川放水路通水後の様子を、 
攝政宮殿下(昭和天皇)がこの場所から視察された。

攝政宮殿下御野立之跡
大正13年10月25日


青水門

旧岩淵水門に代わり、新しく建設された水門。洪水時には扉を閉め、荒川から隅田川への水の流入を防ぐ。これより下流が隅田川となる。
昭和57年(1982)完成。


荒川放水路完成記念碑

荒川知水資料館の前に。

此ノ工事ノ完成ニアタリ 多大ナル犠牲ト労役トヲ払ヒタル 我等ノ仲間ヲ記憶センカ為ニ 
神武天皇紀元二千五百八十年 
荒川改修工事ニ従ヘル者ニ依テ

荒川放水路完成記念碑
この碑は荒川放水路の完成を記念して建てられたものである。
荒川下流改修工事事務所主任技師(現 工事事務所長)であった青山 士および工事関係者一同が工事の犠牲者を弔うために資金を出し合ったものである。
台座は富士川の転石を、銘板の模様は当時の河川敷を埋め尽くした桜草があしらわれている。この工事の最高責任者であり功労者でもある青山士の名前は刻まれていない。巨大な土木事業は関係者全員で造り上げていくものであるという青山主任技師の精神が簡潔に記されているとして著名である。

銘板に咲く桜草(サクラソウ)模様。

日本の近代化とともに、荒川を抑え込み首都圏の防水をつかさどってきた「岩淵水門」でした。

旧大井町変電所

品川区

JR品川駅とJR大井町駅の間に。京浜東北線に乗っていると車窓から見えるレンガ造りの建物が目に付き、気になったので脚を運んでみました。

旧大井町変電所(JR東日本)

竣工は大正3年(1914)という。
大正3年(1914)12月20日に東海道本線の起点として東京駅が開業。
東京駅-高島町駅間で電車運転(京浜電車、現在の京浜東北線)開始に際して変電所設置。

※初代横浜駅 → 現在の桜木町駅
 2代目横浜駅 → 高島町駅 →廃駅(現在の高島町駅付近)
 3代目横浜駅 → 現在の横浜駅

現在は、株式会社JR東日本運輸サービス山手事業所として現役で使用されている。

以下はGoogle航空写真

大正3年以来、100年以上に渡り現役で使用されている建屋。

海軍水雷学校と海自第2術科学校

令和元年11月・横須賀 JR田浦駅近く。

現在の「海上自衛隊第2術科学校」は、海軍水雷学校の敷地を受け継いでいる。

海軍水雷学校

大日本帝国海軍の水雷術(魚雷・機雷・爆雷)指揮官・技官を養成する教育機関であった。
明治26年(1893)12月2日に水雷術練習所が設置。
明治40年(1907)4月20日に海軍水雷学校に改編。
水雷学校から、海軍通信学校、海軍機雷学校(海軍対潜学校)が派生増設。
昭和20年の終戦までこの地で海軍教育が行われてきた。
歴代校長に著名人が多く、岡田啓介・鈴木貫太郎・南雲忠一・小澤治三郎など。

術科学校

第1術科学校・江田島 機関科を覗く水上艦艇術科教育
第2術科学校・横須賀 機関・電機・情報・外国語等の特殊部門専門教育
第3術科学校・下総  航空機整備員・航空基地員養成機関
第4術科学校・舞鶴  業務管理・経理・補給関係術科教育訓練

海上自衛隊第2術科学校、すなわち「2術校」

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/

機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を主体とする機関

戦前の水雷教育から戦後の特殊専門教育へとつながる、そんな「海自2術校」にて、当時の姿を残すものなどを。



海軍水雷学校 圧縮ポンプ室
 (旧整備科倉庫)

第2術科学校は海軍水雷学校の敷地を受け継いでいます。この建物はS9年に建てられた木造建築で、現存する唯一の帝国海軍水雷学校当時からの建物です。

オープンスクール(一般公開)時に見学

うしろの建屋は、「日立パワーソリューションズ田浦工場」
手前には海保のPM14たかとり(てしお型巡視船)

海上自衛隊第2術科学校のある田浦は、海自と海保の共同使用地。全国でも共同使用地は、ここだけだという。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M46-A-7-2-77」より。
1946年02月15日 米軍撮影

一部加工
ポンプ室のみが現在も残る水雷学校の遺構。

田浦駅北部の海軍軍需部倉庫も数棟が現存している。

拡大


近くにはロ号艦本式ボイラーが展示してあった。(別記事にて掲載)


歴史保存エリア

第2術科学校内に「歴史保存エリア」がある。

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校 跡
 明治26年12月2日水雷術練習所が設置されました。明治40年4月20日海軍水雷学校となり、昭和20年の終戦まで教育が行われました。
 昭和50年5月、水雷学校の歴史を後世に残すため、第二術科学校に隣接する関東自動車株式会社本館前に設置されていましたが、関東自動車株式会社の移転により、平成21年、この血に移設されました。

沿革
明治三年十一月四日
 海軍兵学寮に水雷火設置
明治七年九月二十日
 海軍兵学寮にて水雷術伝習開始
明治十二年八月二十三日
 水雷術練習所横須賀に開所
明治十六年二月六日
 水雷術練習所を廃止し水雷局を長浦に設置
明治十九年一月二十九日
 水雷局廃止水雷術練習艦設置(迅鯨)
明治二十年十一月十六日
 水雷術練習工概則制定(水雷術練習生の起源)
明治二十二年十二月二十三日
 水雷術練習艦で下士官、兵に掌水雷兵教育開始
明治二十六年十二月一日
 水雷練習艦を水雷練習所に改める(迅鯨)
明治三十九年十二月一日
 同右を長浦の陸上に移転
明治四十年四月二十日
 海軍水雷学校条例制定
明治四十年四月二十二日
 海軍水雷学校田浦に開校
 電気器具、防御水雷、攻撃水雷、通信術の四科目伝習開始
昭和五年六月一日
 海軍通信学校分離独立
昭和九年五月二十三日
 航空魚雷練習生制度設置
昭和十年七月
 航空兵器術練習生のなかに魚雷爆撃専修の練習生制度設置
昭和十五年六月二十日
 雷撃員制度設置雷撃練習生教育開始
昭和十六年四月一日
 海軍機雷学校分離独立
昭和一九年三月一五日
 海軍対潜学校と改称
昭和二十年七月十五日
 同右を廃止海軍水雷学校久里浜分校となる
昭和十八年六月十七日
 海軍水雷学校魚雷艇訓練規則制定
昭和十九年四月一日
 海軍水雷学校川棚魚雷艇訓練所開始、
 魚雷艇、特攻兵器、震洋艇の教育訓練実施
昭和二十年八月十五日
 終戦閉校

昭和五十八年五月八日
 海軍水雷学校跡碑建設委員会
  委員長 有田雄三
   他八七三名を以って建立
    兼平芳雄謹書

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑
 明治三十六年、この地にあった海軍水雷術練習所で無線電信術教育が開始されたことを記念し、昭和四十五年十一月に建立されました。
 海軍水雷術練習所は、明治四十年、海軍水雷学校になりましたが、通信術の教育所要が増大したため、昭和五年同地の一部に海軍通信学校が海軍水雷学校から分離独立しました。 海軍通信学校は、昭和十四年に現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地がある地に移転し、終戦を迎えました。

海軍無線通信教育の沿革
明治三十六年二月
 この地海軍水雷術練習所で無線電信術教育開始
大正七年八月
 海軍水雷学校に通信部設立
昭和五年六月
 この地に海軍通信学校として独立
昭和十四年十一月
 神奈川県久里浜に移転
昭和十七年五月
 横須賀海軍通信学校と改称
昭和十七年五月
 山口県防府に防府海軍通信学校を増設
昭和十九年九月
 神奈川県藤沢に海軍電測学校設立
昭和二十年七月
 各学校教育中止

   昭和四十五年十一月 
    海軍通信同窓有志建立

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑
海軍中将従三位功三級男爵伊藤雋吉君題碑

「上崎上等兵曹之碑」の由来
 上崎上等兵曹は青森県上北郡の人旧会津藩士であり、万延元年(1880年)岩代国若松城下で出生した
 十四歳で海軍に入り水雷術を専攻した
 征藩の役 西南の役に従軍し 明治二十二年上等兵曹に任ぜされ 二十七年勲七等に叙せられ瑞宝章を賜った
 明治二十七年日清戦争が起こるや第六号水雷艇に乗り戦地に赴く 艇長は海軍大尉鈴木貫太郎(後に大将 終戦の時の内閣総理大臣)であった
  明治二十八年二月四日夜 わが水雷艇隊は威海衛の夜襲を決行 第六号水雷艇もこの中にあって港内に突入 はげしい敵弾をうけながら敵艦鎮遠に近迫まさに水雷を射出して敵艦を粉砕しようとしたところ はからずも厚い氷が発射管を閉鎖し水雷が出なかった 上崎上等兵曹はこの責任を感じ 敵降伏後の三月十四日 従容として艇内において自刃した ときに三十六歳であった  鈴木艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建てた  昭和三年田浦(田浦交番隣)に移してあったものを昭和四十三年五月十八日 第2術科学校に移したものである

(台座)
建碑及遺族慰問
資金義捐者
 海軍将校以下有志
  一千十五名
 通常有志
  七名
発起人 
 海軍大尉鈴木貫太郎
  外 三十七名
永代施餓鬼料
 金貳拾圓

碑面裏の撰文は上崎の乗艇である第六号艇長が読んだ弔辞を漢文に直したもの
第六号艇長は鈴木貫太郎海軍大尉、のちの海軍大将、内閣総理大臣

発起人にも海軍大尉鈴木貫太郎の名が刻まれている。

上等兵上崎辰次郎君碑
君諱辰次郎上崎氏青森県上北郡人旧会津藩士也萬延元年十二月生于岩代国若松城下年十四入海軍酷苦励精技術大進
明治七年航台湾従征藩役十年西南之役起君乃乗軍艦討賊兵十三年任下士官十九年新造軍艦浪速於英国成君被撰為回
航委員至英国乗之而帰廿二年叙勲八等無何任上等兵曹廿七年叙勲七等賜瑞宝章是歳征清役起時君在第六号水雷艇慨
然決意曰吾欲誓死以報国恩十月航戦地従常備艦隊占領花園口十一月略大連湾攻旅順口屡々有功廿八年二月我軍攻威
海衛敵艦隊拠劉公島以水雷及防材鎖港恃険要而防戦数日不能遽抜同月三日夜第六号水雷艇乗月明迫港口敵知之砲撃
甚烈而君自苦冒弾雨而破防材通航路以是翌夜水雷艇隊得進入港内襲撃敵艦隊轟沈定遠等二艦此夜第六号水雷艇亦在
隊中冒砲撃而迫近鎮遠飛弾如雨注中艇者六十餘弾将射出水雷粉砕敵艦何計巌水閉管妨碍発射自是君憤慨不巳更期大
功自慰十二日敵艦隊力屈遂乞降三月和議再起清使李鴻章発天津君時在威海衛港聞之而知戦機既去亦不可為遺憾不自
禁以此月十四日従容自刃艇内歳丗六艇員火化之帰葬横須賀龍本寺君為人沈毅義胆処事綜密克耐艱楚常尚節義至誠奉
公服軍務廿有二年於茲励精如一日威海之襲撃不奏効因巌冬結氷所致於君何有然哀心不能自安負責謝過以死矣可勝歎
惜哉頃者故旧捐金樹碑余甞長第六号水雷艇懐旧殊切乃為君叙其事為之銘曰
至誠奉公 孰若其忠 偉績将奏 孰妬其功 憤慨難禁 視天夢々 
鬼哭神泣 烈士致躬 大書深刻 其碑穹隆 嗚呼崎氏 英名無窮
 海軍大尉正七位勲六等功五級 鈴木貫太郎選

海上自衛隊発祥乃碑

海上自衛隊発祥乃地

海上自衛隊発祥乃碑
 昭和27年4月」26日、海上自衛隊の前身である海上警備隊がこの地で創設されました。創設に際し戦後の海軍再建を検討したY委員会において全国数箇所の候補地の中から、地元と米軍の了承が得られた唯一の場所が、ここ田浦の地だったのです。
 なお、戦後当地は旧軍港市転換法により民間企業等が使用していましたが、その会社が旧軍との関係が深く、海上自衛隊が使用することを快諾されたこともこの地に決定した理由となりました。

国旗掲揚旗竿基部

国旗掲揚旗竿基部
海上自衛隊創設当時にこの地に建てられたものであり、海上自衛隊の歴史を残すものである。

第2術科学校開校20周年記念機関

「350馬力蒸気往復機関」
海自が昭和27年発足時から昭和32年まで「えい船4号」として使用した旧帝国海軍雑役船の主機械。同船除籍後に教材として活用。創立20周年に際して記念機関として永く保存されている。


海軍機関術参考資料室
海上自衛隊創設史料室

ひとまず別記事を参照でお願いします。。。


そのほか

横穴の壕。消火栓もみえる。

このあたりも当時からかもしれない

海上自衛隊第2術科学校と俗世界の境界。これも当時から。

また来ます


関連

館山の海軍戦跡散策・その1

平成28年4月

・館山海軍航空隊跡
  赤山地下壕
  掩体壕
  水上班滑走台跡(米軍上陸の地)
・第二海軍航空廠館山補給工場跡
・安房神社
  館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生戦没者慰霊碑
  海軍落下傘部隊慰霊碑
・館山海軍砲術学校跡
  正門跡・戦車橋
  平和祈念塔
  炊事場跡(ボイラー室跡)
  飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
  化学兵器実験施設跡
  ヤシの木
・震洋滑走台跡

令和元年房総半島台風(令和元年台風第15号)被災前の記録です

その2は、海自で。

この日(平成28年4月某日)は、突然ではあれど友人と館山へ。
友人車の機動力を活かして、館山に点在する海軍戦跡と神社をいくつか散策。


館山海軍航空隊(館空)

昭和5年(1930)に館山海軍航空隊(館空)開隊。海軍航空隊としては5番目。
横須賀海軍航空隊(横空)の実戦部隊が館山に移動することで「横空」は研究航空隊に特化。
昭和11年に木更津海軍航空隊(木空)が開隊すると、「木空」が外戦作戦任務を担当し、「館空」は内戦作戦部隊となる。
開戦後の1944年(昭和19年)に、東日本の哨戒航空隊を統合した「第九〇三海軍航空隊」が館山を中心に展開され、対潜哨戒機が配備され広大な哨戒区域をカバーする事となる。

洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-25」米軍撮影-1947年10月23日

USA-M583-25を一部加工。クリックして拡大。

上記地図のオレンジ色の箇所を散策。紫色の箇所は次回の宿題。未訪問個所。


赤山地下壕

まずは「赤山地下壕跡」へ。
館山市内の戦跡として一番有名な場所から。

https://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page001892.html

館山市指定史跡 館山海軍航空隊 
赤山地下壕跡
平成17年1月27日指定
 1930(昭和5)年、海軍5番目の実戦航空部隊として、館山海軍航空隊がつくられました。それから、1945(昭和20)年の終戦までの間、館山市香(こうやつ)から沼(ぬま)にかけての一帯には、航空機の修理部品の補給などをおこなった第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを補給した横須賀軍需部館山支庫関係の施設や、1943(昭和18)年に兵器整備の練習航空隊として開かれた洲ノ崎海軍航空隊など、さまざまな軍事施設がつくられました。
 東京湾の入り口にあることから、館山市には、海軍の施設だけではなく陸軍の砲台や、教育機関(洲ノ崎海軍航空隊、館山海軍砲術学校)など、いろいろな種類の戦争遺跡が残されています。
 このような場所は、わが国のなかでも例が少ないといわれていますが、この赤山地下壕は、合計した長さが約1.6㎞と全国的にみても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
 つくられた時期は、はっきりしていませんが、このような大きな地下壕が、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はないといわれています。
 その一方で、昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もありますが、当時の軍部が本格的に防空壕をつくり始めたのは、1942(昭和17)年より後であるという歴史的な事実があります。
 全国各地につくられた大規模な地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上(長野市松代大本営の象山壕は25mであるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭い上、計画的に掘られたとは考えにくい、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後にけんせつされたのではないかと考えられています。
 アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは内部にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったという体験や、病院の施設があったなどの証言から、知ることができます。
 平成15年 館山市・館山市教育委員会

赤山地下壕跡。
豊津ホールの受付で200円を納めて住所氏名を記載。
そしたらヘルメットと懐中電灯をお借りして地下壕に入ることができます。

今ではストリートビューもできるの便利になったものです。

https://www.google.com/maps/@34.9817322,139.841558,3a,75y,248.85h,83.7t/data=!3m4!1e1!3m2!1s4cv31GKv7mIAAAQo8FbG5A!2e0

自力発電所跡
 この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や、床面の鉄筋が残っています。発電所があったところで、昭和20年2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたということです。4気筒200馬力のディーゼルエンジンが2台、発電機が2台、変圧器が9個あったそうです。

このクボミは?その1
 変電所電気員の待機所です。右側の浅いクボミには2段式のベットがあったそうで、10人くらいが交代勤務していたとか。空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたそうです。
 壕内には科(職種)ごとの居住区があったらしく、木の棚のベットがあったそうです。

このクボミは?その2
 この縦長のクボミには、電話番が腰掛けて勤務をしていたそうで、中段左右の突起にコードを巻いていたということです。左隣の窪みはトイレで、桶がおいてあったそうです。

この壕はどうのように使われたのだろう
 防衛庁防衛研究所に「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面があります。太平洋戦争末期につくられたこの図面をみると、赤山地下壕跡の位置には、「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われたのかもしれません。

戦後の赤山地下壕跡
 終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。

このクボミは?その3
 この部屋はがんルームとよばれていたという証言があります。少尉クラスの士官たちの部屋だったようです。奥の四角く切った大きなクボミは御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。空襲のときに航空隊から御真影を移したということで、少尉クラスの士官の役割でした。

とにかく地層が美しい。
自然の芸術としても、よりいっそうの見応えがある。 現実には戦跡であるが。

安全に見学でき、そして良く整備されていた空間。
戦跡として歴史伝聞物として、このインパクトは極めて貴重。

海軍の街館山の最初の歴史散策として、この地下壕はうってつけの場でした。


掩体壕

赤山地下壕からはすぐ隣に。

サイズは小ぶり。戦闘機用かと。 掩体壕のすぐ隣は畑。日常との同居。 内部が解放され、自由に中に入れる掩体壕は貴重な存在だったり。


第二海軍航空廠館山補給工場跡

海自館山基地の隣にのこる大きな建物。
現在は民間企業が使用している。


米軍上陸の地


昭和20年9月2日降伏文書調印。 翌9月3日午前9時20分、米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊戦闘団約3,500人(司令官カニンガム准将)が館山上陸。 この館山が米軍による本土初上陸の地なのだ。

米軍上陸の地
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリの降伏文書調印式によって第二次大戦が終わった。翌3日、カニンガム准将の率いる米陸軍第8軍約3500名が館山海軍航空隊水上半滑走台から上陸した。東京湾の入口である軍都館山は、このとき本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。


館山海軍航空隊水上班滑走台跡

館山海軍航空隊水上班滑走台跡。
この場所にて水上機が運用されていた、と。
水上機用スロープ(スリップ)が残っている。

9月3日に館山に上陸した米軍司令官カニンガム准将は「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」指令を発出。外務省が抗議し4日後の9月7日に軍政解除。 これが日本本土唯一の直接軍政となっている。

米軍上陸の地であり館空水上班滑走台跡でもある界隈から、第二海軍航空廠館山補給工場跡を遠望。 降伏文書調印翌日の9月4日。 館山から日本の戦後が始まっていたのを知るのも感慨深い。

スリップ関連では、ほかに・・・


館山の沖ノ島

館山の沖ノ島。沖ノ島公園。
海自館山航空基地の先、なかなか面白いところにある島。 関東大震災で隆起して陸続きになったらしい。

こんな感じで陸続き。 夏場はリア充空間になりそうですねw

島の入り口脇にいきなりなんかありました。
なんかの建物の基礎ですね。
海軍関係かな? 島内には地下壕なども点在しているらしいですが時間の都合で散策割愛。 せっかくなので島の鎮守様を参拝する。

館山の沖ノ島宇賀明神

安房国司源親元が嘉保3年(1096年)勧請の古社。 宇賀は「なが」に通じ「白い蛇」とも。 館山沖ノ島の鎮守様。

ご神木はタブノキ。 島内一の巨木。

館山沖ノ島宇賀明神神社。 社頭から対岸を望む。海上自衛隊 館山航空基地方面。
島を巡るのはまたの機会にして次に。


安房神社

安房神社。
安房国一ノ宮・延喜式内明神大社・旧官幣大社。
社号標は東郷平八郎謹書。
私にとっては平成14年以来の参拝。
新緑が鮮やかな境内に心が踊りつつの参拝。

本社(上の宮) 天太玉命 天比理刀咩命(天太玉命の后)
摂社(下の宮) 天富命(天太玉命の御孫) 天忍日命(天太玉命の御弟)

天富命が神武天皇勅命によって阿波の忌部氏を率いて東国安房・上下総国に渡った事に始まる。

安房国開拓の祖神。 創建年代は神武天皇の頃まで遡る古社。
安房国開拓を進めた天富命は、祖神であり祖父である天太玉命(天太玉命は天照大神の側近)をこの地に祀ったことに始まる。

延喜式神明帳「安房坐社」名神大社。
千葉県内では「香取神宮」に次ぐ神階。

社頭には「日露戦役記念碑」

新緑が鮮やかな境内。
境内が気持ち良すぎて満足してしまい、なんか色々写真を撮るのを忘れてしまったような。

安房神社オリジナル御朱印帳。
黒をベースに御神紋と社号。シンプルなデザインは好みを分けるかも知れませんが、私は好きですね。格好良いと思います。 初穂料は1500円。御朱印代は別。

御神水。 安房神社後方に鎮座する、吾谷山の霊水。

洞窟遺跡とあったので、戦跡か?と早とちりするも、古代遺跡。
安房神社界隈での原始的な人々の営みの記録。 古社たるべき格がここにあった。

安房神社境内には幾つか横穴がある。
ただし、これが信仰的な穴なのか、戦跡的な壕なのかは不詳。

安房神社界隈には布良陣地群が展開されていたという。
周辺も興味深いが、それは宿題。


館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生
戦没者慰霊碑

安房神社境内に。
館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
 ※ 館山海軍砲術学校(館砲)に関しては、後述。

昭和45年10月10日建立。
慰霊碑には館山海軍砲術学校の第三期兵科予備学生229名の戦没者の名が記載。

館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
碑文
過ぐる大戦のさ中 当地神戸村地先にあった館山海軍砲術学校へ入校し教育訓練を受けた第三期兵科予備学生は1440名に及び 彼等は全て全国官公私立の大学高専等より志願によって馳せ参じ 選抜されて入校した学徒である
昭和18年10月8日入校式が行われ海軍予備学生を拝命 直ちに日夜の猛訓練が開始された 翌昭和19年1月末基礎教程を終了 一部は他の術科学校へ転属したが大部は2月1日術科教程に入る 術科では陸戦、対空、化兵の各班に分科し それぞれ第一線指揮官としての徹底的専門教育を受けた
同年5月31日術科教程を修了 卒業式が行われ 即日海軍少尉に任官した 戦雲正に急を告げるの秋 太平洋全域から印度洋に亘る前線へ あるいは諸艦艇等へ赴任し 熾烈な戦列に身を投じた
既にこの年の4月緊急な要請で卒業を繰り上げられて先発して行った同期を含めて任官総数は 陸戦班385名 対空班772名 化兵班50名で 総員1207名である
しかして戦勢は日を追って凄絶となり 勇戦奮闘した同期戦友も相次いで倒れて行った あるいは北海に あるいは南冥の果てに ときに戦争と平和を想い ときに戦局の前途を憂えながら 祖国にその青春の総てをかけたのである かくして尊き英霊となった者は実に228名に及ぶのである
われらはこのことを永久に忘れることはできない ここに栄光有る我等同期生一同の冥福を祈念し 永遠の芳名を刻印して 由緒あるこの神社に一碑を建立するものである
 昭和45年10月10日
 館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 慰霊碑建設委員長 高橋末吉 誌

同期戦没者二二九名に捧ぐ

参道のソメイヨシノ。
安房神社の染井吉野229本は、この慰霊碑建設の際に229名の戦没者に因んで植えられたものという。


海軍落下傘部隊慰霊碑

海軍落下傘部隊慰霊碑
内閣総理大臣田中角栄揮毫

館山は海軍落下傘部隊発祥の地でもある。

正面には、 翼をひろげた鷲と落下傘、そして地球と錨の彫刻。

海軍落下傘部隊慰霊碑
碑誌
太平洋戦争を告ぐる昭和十六年後期我が国最初の海軍落下傘部隊として誕生し、 十八才より四十五才までの精鋭なる将兵二千有余名により編成、任務の特質上、其の訓練は厳正なる軍規の基猛烈にして不撓不屈の落下傘部隊魂は茲に編成された。
第一特別陸戦隊は昭和十七年一月十一日・十二日 セレベス島メナドランゴワン飛行場に十字砲火を浴び戦闘降下を敢行 更に第三特別陸戦隊は、同年二月二十日・二十一日 チモール島クーパンに戦闘降下を敢行共に占領に成功
其の功績の顕著なる事に対し時の連合艦隊司令長官山本五十六大将より感状を授与せらる。 爾後大スンダ、小スンダ列島の島々を制圧、次期作戦準備の為、一旦内地に帰還し、戦争の末期再度灼熱の南洋サイパン、トラック、ナウルの諸島に作戦し、
特にサイパンの戦いは惨烈を極め善戦の甲斐もなく昭和十九年七月十六日全員玉砕す。 我等茲に往事を顧み戦友相謀り志を結集し今は亡き戦友の霊を慰め其の功績を永く讃えんものと当隊発祥の地、ここ舘山に慰霊碑を建立した。
 昭和四十八年十一月十日
 元海軍落下傘部隊隊員一同建立

昭和48年に元海軍落下傘部隊一同によって建てられた慰霊碑。
右に横須賀鎮守府 第一特別陸戦隊43名、
左に横須賀鎮守府 第三特別陸戦隊46名、の戦没者名が記されている。

横一特・横三特(海軍陸戦隊)として、その勇名を歴史に残している。
合掌。

空の神兵

 藍より蒼き 大空に大空に
 忽ち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く
心のなかで奉歌し慰霊する…


館山海軍砲術学校

館山海軍砲術学校跡。
安房神社からはすぐ北隣に展開されていました。

館山海軍砲術学校。
昭和16年(1941)に館山砲術学校(館砲)が新設。
館砲では陸戦隊の操練術や高角砲対空砲の操作術・化学戦術など。一方、従来の横須賀砲術学校(横砲)では、艦載兵装の操作術を担当。
昭和20年4月25日に横須賀砲術学校分校に格下げ。終戦直前の同年7月31日には閉鎖。これは米軍上陸地点想定地近くでの教育訓練は適切ではないため、という。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-14」米軍撮影1947年10月23日

「USA-M583-14」一部加工。画像はクリックで拡大可。

館山海軍砲術学校跡
 第二次世界大戦以前は海戦における主な攻撃力は大砲であると考えられ、明治時代以来、旧海軍の砲術教育は神奈川県横須賀で行われていました。
 昭和16(1941)年6月1日、陸上砲術の実地訓練を目的とした館山海軍砲術学校 (館砲)が新設されると、それまでの海軍砲術学校は横須賀海軍砲術学校(横砲)と名称をあらためました。
 「館砲」の特色は、士官候補であった大学出身の海軍予備学生が訓練を受けていたことです。陸戦、対空、化兵(3期以降)の3班にわかれ、陸戦班では、敵前上陸や対戦車戦闘などの訓練が、対空班では、高角砲などの射撃訓練が、化兵班では、毒ガス戦の訓練が行われていました。
 「館砲」で訓練を受けた学生は、海軍予備学生の1期から6期に及び、開校直後は軍医学生が海軍士官としての素養を学ぶ基礎教育の場でもありました。
 昭和19(1944)年10月に入隊した5期予備学生等の約4000名は5ヶ月間の基礎教育を受けたあと、それぞれが術科(各職種)学校に進み、館砲には655名が入校したとされています。
 訓練施設としては広大な平砂浦演習場、東砲台・西砲台の対空訓練砲台、犬石射撃場、飛行特技訓練プールなどがありました。
 昭和20(1945)年4月25日に、館砲は横砲の分校となり、終戦を目前にした同年7月31日には閉鎖されました。その理由はアメリカ軍の本土上陸か想定されていたなか、太平洋岸の平砂浦で教育訓練を行うことが適当ではなくなったためといわれています。  
 平成18年3月 館山市・館山市教育委員会

館山海軍砲術学校と訓練に向う予備学生隊
 真継不二夫氏撮影

 昭和18年10月、この館山海軍砲術学校へ入学した海軍第三期予備学生は1,440名であった。
 かれらは全て全国の官公私立の大学、高等専門学校より馳せ参じ、選抜されて入隊した学徒である。
 昭和18年10月 8日入校式が行われ海軍第三期兵科予備学生を拝命、直ちに日夜の猛訓練が開始された。
 翌昭和19年1月末基礎教程を修了、引続き術科教程に入り、陸戦、対空、化兵の各班に分科し、夫々第一戦指揮官としての専門教育を受けた。同三月末、あるいは五月末術科教程を修了。卒業式が行われ、即日海軍少尉に任官し、戦雲まさに急を告げる太平洋全域からインド洋に亘る前線に赴任し、激烈なる戦列に身を投じたのである。この隊列(写真)の中にも多数の戦没者がいる。
戦没者はフィリピン(比島)、硫黄島を第一として各地域の部隊および艦船(大和9、武蔵6、山城6、長門5、扶桑3、那智3、大鷹・大鳳・熊野・羽黒・葛城各1)における戦没者は次ぎの通りである。
グアム4名、テニアン5名、パラオ1名、
比島方面92名、インド洋方面6名、ビルマ4名、
ビアク2名、ボルネオ10名、セレベス2名、
ラボール3名、南漢島2名、マレー方面1名、
スマトラ1名、舟山島1名、東支那海3名、
モルッカ諸島1名、マリアナ群島1名、黄海3名、
内南洋2名、アンボン1名、ニューギニア1名、
ペリリュー島5名、サイパン方面11名、硫黄島18名、
東シナ海方面13名、台湾方面8名、
沖縄方面8名、南西諸島方面10名、千島2名、内地近辺8名
合計229名。この外基礎教程後他術科へ転出後戦死者若干名、法務死若干名。
 ここに館砲校全景を伝える希少な写真を展示し、「鬼の館砲」といわれた猛訓練を受け、勇敢敢闘の末倒れた万余といわれる将兵・同期生たちの護国の想念を偲び、深き感謝と鎮魂の想いを捧げる次第である。終
 平成年5月27日(1999年海軍記念日)
 館砲3期会有志(以下個人名略)

館山海軍砲術学校正門跡には往時を偲ぶ記念板がある。
「鬼の館砲」と称された海軍陸戦隊の教育機関。


館山海軍砲術学校
正門跡・戦車橋

正門跡の通りにかかる橋は「戦車橋」と言われている。戦車橋脇の側溝も往時のままのもの。 砲術学校ゆえに「戦車橋」。正門の道はさながら「戦車道」。


館山海軍砲術学校
平和祈念塔

館山海軍砲術学校平和祈念塔。
戦車橋からまっすぐ進んでいくと右手に砲身のようなものが見えてくる。 砲身のような塔。

館山海軍砲術学校跡

舘山海軍砲術学校の沿革
 舘山海軍砲術学校(「舘砲」)は大東亜戦争の開戦直前、風雲急を告げる秋に当たり、阿部孝壮初代校長(後に、第六特別根拠地隊司令官。戦後敗軍の将としての責めに任じ、グァムで慫慂として法務死)を載して、昭和十六年六月一日、当地(千葉県粗郡神戸村、現在は、舘山市佐野地区)に開設された。
  学校用地は、帝国海軍当局の現地調査による当地が最適との報告に基づき決定された。用地問題は安田義達開設委員(初代教頭。後年、横須賀第五特別陸戦隊指令としてブナで壮烈な戦死)の熱誠溢れる説得と、耕地及び山林原野の大半を失うという苦難を克服して、なお誠心誠意の協力を惜しまなかった出口常次村長、錦織寅吉助役を初めとする村民各位の尊い愛国の至情と献身的努力により解決され、急遽、建設の運びとなったものである。
  「舘砲」は、横須賀海軍砲術学校(「横砲」)の陸戦、対空等、陸上関係の砲術部門が分離独立する形で開設された術科学校である。訓練設備として広大な平砂浦演習場並びに東砲及び西砲台の対空訓練砲台を備えていた。後に、化学兵器に関する部門が加えられ、常時、一万数千人の将兵を擁する規模であった。
  戦局の悪化に伴い昭和二十年四月二十五日、「横砲」に併合されて同校の分校となり、終戦直前の昭和二十年七月三十一日、閉鎖、廃校となった。開校から廃校までの存続期間は、僅か四年間に過ぎなかったが、厖大な人員が教育訓練を受けたと推定される。しかし、記録喪失のため詳細は不明である。
 「舘砲」では研究部員が、陸戦、対空、化兵に関する専門技術・教育訓練に関する指導研究に当たった。その術科教育の対象は、兵科将校学生及び術科講習員の他、初級幹部の緊急訓練対策として、第一期兵科予備学生、第二期兵科予備学生、特別第三期兵科予備学生と第三期兵科予備学生、学徒動員の第四期兵科予備学生と第一期兵科予備学生、第五期兵科予備学生及び第二期兵科予備生徒並びに第一下士官候補訓練生及び第二下士官候補訓練生(師範学校卒)が挙げられる。
  更に優秀な下士官兵指導員の練成を目指して、高等科訓練生及び普通科練習生に対する教育訓練にも重点がおかれた。また、若年者の特別志願制度に基づく特年兵の教育訓練も行われ、その第一期及び第二期は、年少のまま実戦にも参加した。なお、台湾・朝鮮半島出身志願兵に対する教育も実施された。
  初期にはメナド落下傘降下で勇名を馳せた横須賀第一特別陸戦隊、中期にはソロモン群島方面で悪戦苦闘を続けていた横須賀第七特別陸戦隊、呉第六陸戦隊、佐世保第六特別陸戦隊、呉第七特別陸戦隊並びに佐世保第七特別陸戦隊、末期には、山岡S特攻部隊等々の部隊編成及び特別訓練も行われ発信基地ともなった。
 この間、前線の各地に向けて多数の防空隊が陸続として派遣されたが、その部隊編成及び特別訓練も行われ、その発進基地ともなった。その隊員の中には、国民兵役から徴集された多数の、年長の補充兵も含まれていた。
 「舘砲」は、開校直後、軍医科学生、薬剤科学生及び歯科医科の普通科学生の基礎教育の場としても利用されており、また、終戦間際の段階では、飛行科士官に対する陸戦指導法の演錬、艦船乗組の機関科・工作科系統の特務士官・準士官に対する防空指導法の演錬等、緊急の切替教育も行われた。
  このように、「舘砲」は、帝国海軍の各種陸上部隊、とりわけ、特別陸戦隊、基地警備隊、特別根拠地隊等の陸戦・対空専門技術に関する教育訓練の中核であったため、その影響する範囲は、広く、且つ、深く、その実戦即応を重視した教育内容は、誠に、多岐多彩なものがあった。
 「舘砲」の特色は帝国海軍の指揮官先頭の伝統による猛特訓を特徴とし、人は、「鬼の舘砲」と呼んだという。ここの教育訓練を受けた戦友は、陸戦、対空の実戦に臨んでは、遺憾なく指導力を発揮した。北は極寒不毛の孤島から南は、炎熱の島に至るまで、悪条件をものともせず、縦横無尽に活躍し、時として、激しい爆撃弾の下、寡兵よく大敵に屈せず、長期持久の戦いを闘い抜き、或は、力尽きて倒れ玉砕された将校各位も多い。その数は、一千数千柱にも及ぶと推定されている。この勇戦奮闘が、今日の日本繁栄の基礎を築いた原動力である。祖国の安泰を願い、同朋への愛に殉じる志こそ、国家の存立及び発展に不可欠なものである。
  祖国愛に殉じたこれら多数の戦士のご遺徳を偲び、切に、そのご冥福を祈りつつ、開校五十周年の記念日に、想い出尽きない舘山海軍砲術学校跡に、地元各位の絶大なるご協力を仰ぎつつ、ここに、多年念願の記念碑を建立し、永世に、太平を開かせ給えと、希うものである。
 平成三年六月一日
 舘山海軍砲術学校跡に記念碑を建立する会

雄魂
元連合艦隊兼横須賀鎮守府参謀 寺崎隆治謹書

平和祈念の塔
 平成3年6月吉日
 館山市長 庄司厚書

過ぎし戦に 玉と砕けし戦友の 英霊安かれと祈り
 永世に 太平を開かせたまえと ひたすら 希う

朽ちていく四一式山砲。
20センチ・ロケット弾(噴進弾)。
戦地より収集された遺品(銃剣)などが塔の周辺に展示してありました。

館山海軍砲術学校時代からの井戸という。

世界各地を示す標識


館山海軍砲術学校
炊事場跡(ボイラー室跡)

館山海軍砲術学校炊事場跡(ボイラー室跡)
赤煉瓦の壁だけが奇跡的に残っている空間。
何というか、存在感に圧倒されてしまった。


館山海軍砲術学校
飛行特技訓練プール跡
(落下傘部隊訓練プール跡)

炊事場跡から高台に移動。
その高台から見えるは、館山海軍砲術学校飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
この場所も奇跡的に残っていた。

Google航空写真より抜粋


館山海軍砲術学校
化学兵器実験施設跡

館砲の中心から隔離された場所に朽ちかけた史跡がある。
軍機(軍事機密)であったが、館砲では細菌などの生物兵器や毒ガスなどの化学兵器に関する教育や訓練が行われた海軍唯一の養成機関もあり、教育機関としては陸戦班、対空班、化兵班の三班制であった。

館砲化兵班が何らかの化学兵器実験施設として使用していた建物跡という。
いまは、何を語るでもなく畑の中に風化しつつある歴史遺産。


通りすがりに参拝。

洲崎神社

「洲崎神社」 安房国一宮
(ただし一宮は江戸期以降の主張、安房神社に対する二宮とも。洲崎神社に対する二宮は洲宮神社)
旧社格は県社。 延喜式内論社。
御祭神は天比理乃咩命(天太玉命の后神)

参道石段に圧倒。これは見事な神域。
御手洗山中腹に鎮座している。

神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓。 忌部族の総祖神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀ったことにはじまる古社。

延喜式内社神名帳では、式内大社・后神天比理刀咩命神社。(論社)

治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総半島に逃れてきた源頼朝は当社に参詣し源氏の再興を祈願。以後、武家の崇敬が篤い。 ちなみに。 文治3年(1187)に源頼朝が洲崎神社から天比理乃咩命を勧請したのが品川神社の創建由来ともなる。

東京湾海上鎮護神として。 洲崎神社から品川神社へと連なる歴史を辿るのも興味深いものではあり。 更には阿波国から房総へと渡ってきた忌部一族の足跡を辿るのも一興。

洲崎神社。浜鳥居へ。 洲崎神社の旧鎮座地は、この浜であった、と。 浜から現在の鎮座地を望めば、美しい神奈備山。

御神石

洲崎神社。御神石。
なんとも言えない格を帯びている御神石。 長さは2.5メートル。

実は洲崎神社に奉納された神石は二対ある。 ひとつは、この吽形の神石。
もう一つは三浦半島安房口神社の阿形の神石。

洲崎神社の吽形の御神石と対になる御神石。
もう一つの御神石は三浦半島に飛んでいったと伝承。 房総半島から東京湾を挟むように対坐する三浦半島の御神石。 これは忌部一族の海上支配の具現化であろうか。古代の信仰文化圏を夢想する。

こちらは三浦半島の安房口神社(2014年撮影)

三浦半島。安房口神社の阿形の御神石。
安房口神社は三浦半島最古の神社。 館山で三浦半島を感じる。海の目線で見れば隣。まさに安房口。 洲崎神社の文化は深いですね… 実に面白い。

洲崎神社の浜。対岸を眺めつつ洲崎神社を後にする。ここは興味深い信仰文化の宝庫。きっとまた来ることになりそうです。 時間は16時過ぎ。最後に戦跡を一カ所だけ寄り道してみる。


震洋滑走台

洲崎から海岸線沿いを進む。
波左間漁港。

ここの海に不思議な造形物がある。
震洋滑走台。

震洋は、いわゆる特攻兵器。爆薬をつんだモーターボート。
付近には震洋を格納した壕も点在しているという。

訪れた時が満潮だったようで、形は今ひとつ。雰囲気レベルで。

第一特攻戦隊第18突撃隊
波左間「震洋」特攻基地跡


館山駅前のヤシの木

館山駅前のヤシの木は館山砲術学校正面にあったものを戦後に移植したものだとか。 車のなかから撮影したので今ひとつな写りですが、記録として。

googleMapのストリートビューも参照に。

館山は、戦跡の宝庫であり、今回の掲載はそのほんの一部。見逃したところも多いので、いずれかに再訪せねばならない地であれど、今回はいったんこれにて〆。