「近代史全般」カテゴリーアーカイブ

「二引の旗章」信濃丸サロンチェアと「青い目の人形」(横浜・山手資料館)

「敵艦見ユ」を打電した仮装巡洋艦(哨艦)「信濃丸」
そんな信濃丸ゆかりの「椅子」が横浜に残っているので、足を運んでみた。


信濃丸

日本郵船の貨客船「信濃丸」
日露戦争に際しては、仮装巡洋艦として哨戒中にバルチック艦隊を発見し、日本海海戦での日本海軍の勝利に貢献した。

信濃丸は日本郵船の貨客船として1900年4月に竣工。
竣工後は欧州航路に就航したが、1901年にシアトル航路に転用。1903年には信濃丸で、永井荷風が渡米している。

1904年2月6日、日露戦争開戦。信濃丸は当初は、陸軍御用船として徴用されたが、12月に徴用解除。翌1905年3月15日に海軍に徴用され、呉鎮守府所属の仮装巡洋艦として整備された。仮装巡洋艦として十五栂安式速射砲1基、十二斤安式速射砲3基が兵装された。
信濃丸は、4月に対馬海峡に移動し、哨戒任務にあたった。
1904年5月27日午前2時45分、信濃丸は五島列島沖合を北東方面に向かって航行中に1隻の汽船・病院船「アリヨール」を発見。
「アリヨール」に接近し回り込んだ結果、バルチック艦隊の列に入り込むかたちとなり、午前4時45分。信濃丸は直ちに転舵し、全速力で退避。
三六式無線機にて「敵艦見ユ」として知られる一連の通報を送信しバルチック艦隊が確実に対馬海峡を目指していることを伝え、6時過ぎに巡洋艦「和泉」に引き継ぐまで触接を続けた。

翌5月28日、信濃丸と台南丸、八幡丸の仮装巡洋艦3隻は、沖ノ島北方海上で哨戒を行い、戦艦と駆逐艦を発見。八幡丸が駆逐艦を追跡し、信濃丸と台南丸が戦艦に接近すると、戦艦は前日の日本海海戦で大破損傷した「シソイ・ヴェリキィー」海防戦艦であった。
「シソイ・ヴェリキィー」は降伏し、乗員は信濃丸と台南丸が救助。「シソイ・ヴェリキィー」は曳航を試みるも浸水が止まらずに沈没。
6月、信濃丸は仮装巡洋艦としての役目を解かれ、徴用解除となった。

徴用解除後の信濃丸は、シアトル航路に復帰。のちに、神戸基隆航路に転じ、1913年の孫文亡命の際は、信濃丸に乗船している。

第一次大戦では徴用から免れ、1923年に日本郵船の近海航路部門が独立し「近海郵船」が設立。神戸基隆航路は近海郵船に継承され、信濃丸も移籍し、引き続き神戸基隆航路に就航した。

1929年に「北進汽船」に売却。1930年に「日魯漁業(ニチロ)」に売却され、蟹工船に改装。1932年に「太平洋漁業」に売却され、サケ・マス工船や北洋漁業の母船として活用。

1941年12月に勃発した太平洋戦争では、輸送船として徴用。水木しげるも陸軍兵士として乗船していた。
1943年に「太平洋漁業」が「日魯漁業」に合併。信濃丸の所属は再び「日魯漁業」となった。すでに船歴40年近い老朽船であったが、無事に戦争を生き延びた。

戦後は、引揚船として、シベリアからの引揚者の輸送に従事。大岡昇平も同船で復員した。

1951年に船籍解除。スクラップとして売却解体された。
日露戦争と第二次世界大戦と2度の徴用を受け戦没せずに戦後まで生き延びた「信濃丸」は、激動の51年の長き生涯を誇った強運船であった。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6e/Japanese_AMC-Shinano_Maru.jpg


信濃丸サロンチェア

「二引(にびき)の旗」が彫られた重厚な椅子。

白地に引かれた二本の赤いライン
通称「二引の旗章」
日本郵船のシンボル

1885(明治18)年、郵便汽船三菱会社(岩崎弥太郎)は、国内の競争相手であった共同運輸会社(渋沢栄一)と合併し「日本郵船会社」が誕生する。
当時の日本海運界を代表する三菱会社と共同運輸の二社が大合同したことを表すとともに、日本郵船の航路が地球を横断するという決意を示していた。

https://museum.nyk.com/history.html

https://museum.nyk.com/permanent_exhibition.html

信濃丸の椅子は、横浜の「山手資料館」とレストラン「馬車道十番館」に残されている。
「信濃丸」のサロンで使用されていたものを、廃船時に譲り受けたもの。

https://museum.nyk.com/kouseki/200110/index.html

あら、青い目の人形さん。
青い目の人形も戦争に関連する史跡(戦跡)のひとつ、ですね。

山手資料館

馬車道十番館に行くことがあれば、写真を追加するかもしれませんが、いったんはこれで。


青い目の人形

信濃丸の椅子に座っていた人形。
「青い目の人形」

日米親善のため海を渡った人形。
1927年(昭和2年)に日米関係の悪化を憂いたアメリカの牧師ギューリック博士らと渋沢栄一が中心となり、友情の証としてアメリカから日本の子供たちへ贈られた約1万2000体の人形。

※深谷駅前の「渋沢栄一からくり時計」

人形をとおして相互の友情と交流を図り、日米両国民の理解と親善を深めようとして日本に贈られ、善意の人々の想いを抱いた「平和の親善大使」。
米国から日本に送られたのが「青い目の人形」、その返礼として日本から米国に贈ったのが「市松人形」であった。

しかし、1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発すると、アメリカは「敵国」とされ、人形は「敵国の人形」「スパイ人形」としてみなされるようになりました。その結果、多くの人形が竹槍で突かれたり、焼却されたり、池に沈められたりして処分される悲劇もあった。
現在日本に残っている人形は、当時の先生や子供たちが校庭の隅や床下などに隠して守り抜いたごく一部(全体の約3%)という。


※撮影:2026年5月


関連

「蕨空襲」埼玉県下で2番目の空襲被害を受けた街

埼玉県蕨市。日本で一番面積の小さい「市」でも有名。ちなみに市区町村では8番目。また、市町村を五十音順で並べると、一番最後になる市町村でもある。

そんな蕨市(当時は蕨町)は、埼玉県下で熊谷に次ぐ二番目の空襲被害のあった街でもあった。


蕨空襲

昭和20年、3度の空襲見舞われた蕨市。
当時、蕨には軍事工場が複数あり、工場労働者が住む住宅密集地帯もあったことなどから、標的になったといわれている。

1回目は、昭和20年4月12日、昼過ぎ。東京を襲ったB29爆撃機とP51戦闘機部隊のうち8機が蕨上空に襲来。16発の1トン爆弾が投下され、死者36名、16戸の家が全壊。
2回目は、翌日の4月13日午後8時過ぎから14日未明まで、10機ほどの編隊が無数の焼夷弾が投下、蕨の街は火の海となり、死者12人、362戸が焼失。
そして、3回目は、昭和20年5月25日午後10時頃に焼夷弾が投下され、死者2名、3戸が焼失。

蕨市を襲った3度の空襲により、死者は50名、家屋の焼失や全壊・半壊などは400戸に上った。
これは、埼玉県では、熊谷に次ぐ、大きな空襲被害であった。

なお、終戦時の蕨の世帯数は5885世帯。人口は25,279人。空襲被害割合は世帯・人口共に約7パーセントに及び、被害の多さがわかる。

広報・蕨(2010年8月)

https://www.city.warabi.saitama.jp/res/projects/default_project/_page/001/003/101/2208kouho.pdf

広報・蕨(2015年8月)

https://www.city.warabi.saitama.jp/res/projects/default_project/_page/001/003/096/27-08honsi-.pdf

蕨市>平和行政

https://www.city.warabi.saitama.jp/shisei/danjo/heiwa/1002996.html

なお、蕨駅西口にあった日本車輌製造・蕨工場(12万5400平方メートル)は、爆撃を受けなかった。それは、同工場に米軍捕虜が収容され、工場労働者として使役されていたから、米軍の空襲対象からは外されていたから、という。
戦後、日本車輌製造・蕨工場では新幹線の試作車や、世界初の新幹線である量産車0系が製造され、「新幹線電車発祥の地」となっている。(現在の川口芝園団地)


平和祈念碑「平和を愛して」

春日公園は、1回目の蕨空襲のあった付近。

戦後50年・平和都市宣言10周年の平成7年、春日公園に「平和祈念碑」を設置された。
彫刻は、田中毅氏。宮崎県出身で埼玉県在住の彫刻家。

平和を愛して
 製作・田中毅

平和への願い
 蔵市は、昭和60年9月9日「平和都市」と宣言し世界の恒久平和を願い、核兵器の廃絶を強く訴えている。
 この地は、第二次世界大戦中の昭和20年4月12日と13日、そして5月25日の3日間空襲と受け、爆弾と焼夷弾などにより多くの尊い生命が犠牲となつた。県下でも熊谷市につぐ大きな被害であった。
 本年は終戦から50年、歴史の大きな節目の年にあたる。この地に、市民の総意を込めて、平和のモニュメントを建立し、戦争という過ちを二度と繰り返すことなく、平和を守る決意を新たにする。
  平成7年8月15日 蕨 市

地球儀は回転する。

蕨市春日公園

春日神社と蕨市公園が同一敷地に。

場所

https://maps.app.goo.gl/c7A4euJwJjPenyz29


平和之母子像

昭和63年、蕨市民公園に設置。
彫刻家・岩田健氏(埼玉県川口市出身)

平和之母子像

蕨市平和都市宣言
 昭和20年8月、広島、長崎に人類初の原子爆弾が投下され、早くも40年の歳月が流れました。
 その間、唯―の被爆国である我が国は、恒久平和を崇高な理念として憲法に掲げ、自由と正義を愛し、世界平和に寄与してきました。
 しかるに今、世界の超大国を中心とした核保有国が競って核軍備拡充を図っていることは、まことに脅威であり、この核軍拡競争に対して、世界のいたるところで、平和希求の叫びがとみに高まりつつあります。
 このような国際情勢の中で、戦争は人間が起こすものであり、また人間の力によってこれを防ぐことができることをしっかりと心に刻み、平和で豊かな社会を次の世代に引き継いでいくことが、現代に生きる我々の責務であると考えます。
 私たち蕨市民は、平和憲法の精神を守る立場から、非核三原則が厳守されることを強く希望し、世界のあらゆる国の核兵器の速やかな廃絶を願うものであります。
 蕨市は、市民の平和を願う心を結集し、ここに「平和都市」であることを宣言いたします。
  昭和60年9月9日 蕨市

平和之母子像建立
 私たち蕨市民は、いつの時代でも平和の中で、家族みんなが健康で、母と子が地域社会の愛情に支えられて、温かい家庭生活を送れることが、何よりも幸せであると考えています。
 しかし、この世にあの恐ろしい核兵器が存在する限り7万の市民が等しく希う真の平和はむなしいものとなっています。そこで、蕨市は昭和60年9月、敗戦40周年を記念して、この美しい地球から核兵器といたましい戦争をなくし、すべての生命が平和の中で育まれていくことを願い、平和都市を宣言しました。
 私たちは、この宣言によって戦争の恐ろしさを、後世に伝えていかなければならない責務と平和への思いをあらたにしたのであります。
 このたび、平和の砦を築きあげるために建立した平和之母子像は、彫刻家岩田健氏の手によって刻まれたもので、戦争を知らない世代にこれらのことを語り継ぎ、地球より重い命を守っていくことを、ここに誓ったのであります。
  昭和63年4月3日 蕨市長 田中啓一

蕨市民公園に。

場所

https://maps.app.goo.gl/BFFWk8ubWk3PSJaCA

※撮影:2026年6月


関連

「笹井戦災の跡」笹井白鬚神社と狭山に残る「奉安殿」流用の神社散策

埼玉県狭山市。
入間川の北、笹井地区に鎮座する「笹井白鬚神社」に戦災の跡が残るというので、足を運んでみました。あわせて、狭山市内の奉安殿を流用した建造物も散策してみました。


笹井戦災の跡(笹井白鬚神社)

狭山には「入間基地(豊岡陸軍飛行場)」があり、当時は陸軍航空士官学校もあった軍事拠点であった。
昭和20年5月25日夜中(26日午前0時30分ごろ)の空襲によって、水富村笹井(狭山市笹井)から豊岡町黒須(入間市春日町)にかけての空襲では、5000発ともいわれる焼夷弾が落とされ、死者13名、負傷者10名、罹災者69家族346名にのぼったという。
この空襲で笹井白鬚神社は、拝殿や社務所を焼失。しかし幸いにして、本殿は焼失を免れ、本殿奏上門は手前の破風が焦げたが全焼は免れた。
奏上門の破風には、焼け焦げた跡が、往時の戦争の記憶を伝承するために今も残っている。

破風に残る焼け焦げた跡。焼夷弾の被害を物語る。

反対側は、類焼の被害なく。

対比させると、状態の違いが良くわかる。

笹井戦災の跡地

笹井戦災の跡地を示す標はあるが、細かい説明は無かった。せっかくなので、破風に残る焼け焦げた跡を解説する案内が欲しいところ。(今は知る人ぞ知る、、、になっているので)


笹井白鬚神社

創建年代は不詳。
古くより笹井村の氏神として崇敬され、文明19年(1487)聖護院29代門跡道興准后が関東方面を巡錫の折、当社の別当寺観音堂に滞在し、当社を拝礼し、御神木銀杏を手植えされたと伝承。
この御神木は明治11年9月13日の暴風により倒れたため、現在は若木が植えられている。
明治5年、明治社格制定で、村社に列格。
昭和20年5月25日戦禍にあい、文政8年(1825)に再建された拝殿及び社務所(建立年代不詳)を焼失。
社務所は昭和22年ごろ再建され、拝殿は昭和41年氏子一同の浄財をもって再建。

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/mizutomi_chiku/sasaisirahigejinjya.html


せっかくなので、狭山市内の奉安殿流用の建造物も散策。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、のちに被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされているものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社の社殿などに再活用もされ、現在に残っている例も多い。


水富神社(水富国民学校奉安殿

御社殿は、もと水富小学校奉安殿。
水富小学校にあった奉安殿を、戦後に広瀬神社に移築し、日清・日露戦争以降の戦没者の御霊を旧奉安殿に招魂社・水富神社として祭祀。
その後、昭和28年4月10日、旧奉安殿を現在地に移転。

水富神社の由緒
一、当神社は招魂社として水富小学校の校庭の築山に忠魂碑、戦勝記念碑等が祭られておりました。
  昭和28年に地元有志により当地に建立されました。
二、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争で日本国を守り、郷土の安泰を願い、尊い生命を捧げられた方々、笹井地区に焼夷弾が投下され戦災に遭われた方々をお祀りする。
三、例祭 4月22日
  水富神社奉賛会

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/mizutomi_chiku/mizutomijinjya.html

水富小学校


入間招魂社(入間小学校奉安殿)

昭和15年入間小学校内に建立された御真影奉安殿を昭和20年12月15日付をもって公布された神道指令にもとづき解体。
建物は金剛院の土蔵に、礎石は入間野神社に保管していたが、昭和25年4月15日、これを再建し、日清戦争以降の英霊126柱を招魂して、入間招魂社としたものであり、その後38柱を合祀。
祭神:日清戦争以降の戦没者164柱

狭山市サイト

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/iriso_chiku/irumasyoukonsya.html

なお、入間小学校は、明治5年(1872年)の明治新政府の学制令発布により「入曽学校」として創立。明治22年に「入間尋常小学校」となった、歴史ある小学校であったが、創立137年の2011年に駅前再開発の影響等により閉校。
閉校後、建物はすべて解体となっているため、「入間小学校」としても、唯一ゆかりの建造物となる。入間小学校の跡地は、イオンショッピングセンター「そよら入曽駅前」となった。

入間招魂社(いるましょうこんしや)
 日清戦争(一八九四)より大東垂戦争(一九四一)に至るまで、この地から多数の青壮年が出征され、祖国のため勇敢に戦い殉国されました。
 生命を捧げられた百六十四柱を、昭和二十五年(一九五O)四月十五日、旧入間村は戦後に解体保管されていた奉安殿を入間招魂社として復元、ここに御祀りしました。
 時代は変わり行くとも平和の礎として、国の安稳と御魂の安らかなる鎮座を、永遠に祈念するものである。
  令和元年十月
   入間遺族会
   入間奉賛会

「16紋菊の菊花紋章」。皇室の紋章が奉安殿の流用であることを物語っている。

下には「五七の桐紋」。
「16紋菊の菊花紋章」と並ぶ、最高位の紋章。

屋根の鬼瓦には、紋章がない。
奉安殿時代は、ここにも菊の御門が掲げられていたのでは?と推測。

社号標は昭和57年4月10日の建立。
靖国神社宮司・松平永芳氏の謹書。松平永芳氏は祖父が松平春嶽にして元海軍軍人(海軍少佐)陸自1等陸佐。昭和受難者(いわゆるA級戦犯)の靖国神社合祀を実施した宮司。

入間招魂社
靖國神社宮司 松平永芳  

御祭神として日清戦争以降の戦没者164柱を祀る。

明治三七八年戦役記念碑
 希典書

忠魂碑
 大正四年二月建立 入間村

明治三七八年戦役は、日露戦争の慰霊碑。
忠魂碑も時期的に日露戦争と思われるが、第一次世界大戦関係もありそうだ。どこからか、移転されてきたのだろう。


入間野神社

建久2年(1191)の鎮座。旧号を国井神社と称し、後に御岳大権現と称した。
明治元年社号改正につき、御岳神社と改称。
明治40年5月3日、浅間神社、神明社、天神社、稲荷社を合祀。
明治44年6月、両村社を合祀し、社号を入間野神社と改称。

狭山市サイト

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/iriso_chiku/irumanojinjya.html


入間川神社(入間川国民学校奉安殿)

別記事にて掲載。


※2026年5月撮影


関連

「出陣学徒壮行早慶戦(最後の早慶戦)」と戸塚球場跡地(早稲田大学)

現在の早稲田大学総合学術情報センター。
この地は、かつて日本野球の草創期を支えた野球場であり、そして昭和18年に出陣学徒壮行早慶戦「最後の早慶戦」が行われた場所でもあった。出陣前、最後に球児たちはこの地で野球を楽しみ、そして出征学徒として戦地に赴いた、そんな戦跡としても由縁のある場所。
近くに立ち寄ったので、足を運んでみました。


日本野球黎明期の戸塚球場(安部球場)

明治35年(1902年)に早稲田大学が設置した球場。
日本で初めて照明を設置し、ナイターが行われた球場でもある。
昭和62年(1987)に閉鎖し、球場は現存していない。
現在は、早稲田大学総合学術情報センターとして、中央図書館や国際会議場などが設置されている。

早稲田大学では、明治34年(1901)に、野球部が設立され、翌年の明治35年に「戸塚球場」が開設した。初代野球部長・安部磯雄が、早稲田大学創設者・大隈重信を説得しての開設であった。
当時は、本格的な野球場は少なく、またプロ野球も存在していない時代であり、大学野球が、日本の野球の中心であり、早稲田大学の戸塚球場と、慶應義塾大学の三田綱町球場が東京を代表する野球場であった。

戸塚球場では、日本初の出来事が、「4つ」ある。

明治41年(1908年)
米国大リーグ選抜チームと早稲田大学が対戦。
大隈重信が日本野球史上初となる「始球式」を実施。

昭和6年(1931年)
早大理工学部の山本忠興博士の労により日本初のテレビジョン放送の実験が、球場と早稲田大学電気実験室との間で実施。

昭和8年(1933年)
日本で初めて野球場に照明設備を設置日本初のナイターが行われた。

昭和11年(1936年)
日本初のNHKラジオのプロ野球実況中継放送を実施。

昭和16年(1941年)4月、戦時色が強まる中で、戸塚球場を戸塚道場と改称。
昭和18年(1943年)6月、鉄製スタンドと照明塔を撤去。
昭和18年10月16日、「出陣学徒壮行早慶戦」が開催。これが第二次世界大戦期間におけるアマチュア野球最後の試合「最後の早慶戦」であった。

 ここにかつて野球場があった。第二次世界大戦前は戸塚球場と呼ばれ、戦後は安部球場と称されて早稲田の歴史を共に歩み、全早稲田人に親しまれてきたグランドである。
 早稲田大学に野球部が創設されたのは明治三十四年であったが、翌三十五年七月、初代野球部部長安部磯雄先生の御努力により、この地に野球場が誕生した。まだ黎明期にあった日本の野球は、明治三十六年に始まった早慶戦によって本格化し、大正十四年の東京六大学野球の発足後は、文字どおり国民的スポーツにまで高められた、その対象十四年には三万人を収容する大スタンドも造られたのである。
 大正十五年秋、明治神宮球場が完成し、東京六大学野球はその主舞台をしだいに神宮球場へ移していった。しかし、戸塚球場は学生野球の重要な舞台として、全国の注目を浴び続けた、昭和八年には全国に先駆けて夜間照明設備も完成した。
 野球のグランドとしてだけではなく、戸塚球場は全学運動会や大学創立五十周年記念祝賀会などの重要な学校行事が行われた場所であり、そして昭和十八年に学徒出陣壮行会という歴史的行事が催されたのもこの場所であった。とくに同年秋に行われた、いわゆる「最後の早慶戦」を忘れることは出来ない。この球場で、これを最後と熱戦をくりひろげた選手の多くが、戦場に散って再び帰らなかったのである。
 昭和二十四年、早稲田の野球の生みの親ともいうべき安部磯雄先生が世を去られ、大学は先生を偲んでこのグランドを安部球場と改称することとした。その名は、戦後早稲田に学んだ三十数万人の学生諸君の胸裡に刻まれて今日に至っている。
 それから時の流れること四十年、都会の膨張と学術の発展は、この地を野球場として用い続けることを困難とする状況をつくり出した。大学では、創立百周年記念事業の主柱である総合学術情報センターの建設を、この地に予定することとなったのである。幾多の部員諸君の血と涙と汗のしみこんだ思い出深い球場を、母校の学術発展のため明け渡すことを了承して下さった野球部の先輩諸兄に対し、心から感謝せずにいられない。この総合学術情報センターを訪れる方々は、どうかこの地に大学ゆかりの球場があったということを想起すると共に、先輩の方々の万感のこもる決断に思いを致して頂きたい。
 昭和六十二年、野球部の練習場は東伏見に移転したが、「安部球場」は安部磯雄先生の胸像と共に、今もここにある。
 1990年(平成2年)10月
  早稲田大学第十二代総長 西原春夫

早慶戦百周年記念碑
早稲田大学野球部の挑戦状を以って始まった早慶戦の第三回戦が1904年10月30日当地にて挙行された。

2つの銅像がある。
早稲田大学初代野球部長・安部磯雄氏と、初代監督・飛田穂洲氏の胸像。


安部磯雄胸像

野球道具をデザインしたレリーフ。

母校前野球部長安部磯雄君ガ明治三十四年同部創設以来二十有五年ノ久シキニ亘リ夙夜同部ノ発達ト崇高ナル運動精神ノ鼓吹ニ務メラレ獨リ同部ノミナラズ汎ク我國運動界今日ノ盛運ヲ見ルニ興テ大ニ力アリタル其功労ヲ感謝シ記念スルタメ之ヲ建ツ依テ茲ニ之ヲ刻ス
 昭和二年九月
 早稲田大学校友會内
  安部前野球部長記念會


飛田穂洲胸像

飛田穂洲氏 (本名は飛田忠順)
早大野球部初代監督として大学野球の選手に大きな影響を与えた。
「学生野球の父」と呼ばれてこの功績を称え1960年に野球殿堂特別表彰。

飛田穂洲先生像

 飛田先生名は忠順 穂洲の号をもつて広く世人に親しまれた
 明治十九年水戸市郊外に生まれ 水戸中学 早稲田大学時代はもとより その一生を学生野球道ひとすじに生き抜いてきた 水戸武士の精神に徹した先生は 安部磯雄先生の訓陶によつて日本学生野球のあるべき道を悟り これを実践するとともに 操觚界に人となるや独得の健筆をふるつてひたすら若い球児の啓発指導に努めた
 人となり快淡無私 最も酒を愛し銃猟を趣味とした 昭和四十年一月二十六日七十八才の質素な生涯をとじた
  昭和四十一年六月
   財団法人日本学生野球協会
    会長武田孟

早稲田大学総合学術情報センター

早稲田大学の中央図書館と国際会議場がある。

グランドは無くなっても、通りの名は「グランド坂通り」のまま。

撮影:2026年3月


関連

弾丸除地蔵尊・観音寺(横須賀追浜)

横須賀の追浜地区。
横須賀海軍航空隊や追浜海軍航空隊、海軍航空技術廠があった要地。
その地に鎮座する古寺に、弾丸除地蔵尊が建立されていたので、足を運んでみた。


弾除け信仰

戦時中、夫や息子・兄弟の出征に際して、家族が無事の帰還を願って、戦場で弾丸に当たらないように、「弾除け」を観音さまや御札、千人針などに祈願の気持ちを込めたのは、自然の摂理ではあった。


観音寺(追浜東町)

三浦三十三観音第二十二番札所。
「坂中山 観音寺」
戦国時代の相模の朝倉氏(北条綱成公の母の実家の朝倉家)の城跡。
貞享4年(1687年)の開創という。
「浦郷八景」として詠まれた絶景の地に鎮座。
現在は、追浜の良心寺が管理を行っている。

浦郷八景:
夏島秋月、勝力(岬)帰帆、箱崎夜雨、吾妻(山)晴嵐、州口落雁、榎戸夕照、亀島暮雪、独園(寺)晩鐘


弾丸除地蔵尊

観音寺の本堂脇に、鎮座する観音さま。
像高50センチほどの小さな地蔵尊であるが、戦地に赴く人々の無事の祈願が、切実に重く込められた地蔵様。

弾丸除地蔵尊

昭和12年秋

昭和12年(1937年)の秋は、7月の盧溝橋事件に続く日中戦争の拡大期にあたり、日本が戦時体制へ急速に転換した時期。
9月には「支那事変」と呼称が決定され、国民精神総動員運動が始動、メディアや生活の統制が強化された、そんな時期に建立された地蔵尊。

右手に「弾丸」を抱えている地蔵尊。

観音寺の本堂

三浦廿二番坂中観音

観音寺の高台から、日産追浜工場と夏島、住友重機械工業・横須賀製造所などを垣間見る。

場所:

https://maps.app.goo.gl/XnKhB2BkpQspFaMU7


筒井隧道

観音寺の下にあるトンネル。近くなので、あわせて掲載。
横須賀、追浜はとにかくトンネルの多い街。

明治38年(1905年)、交通が不便だった地域の住民たちが自ら団結して切り開いた、谷戸の奥と生活拠点を結ぶトンネルが筒井隧道。
素掘りで竣工し、海軍航空技術廠(海軍工廠)への通勤者増加に伴い、昭和8年(1933年)に、出入口を緩やかな登りにするため路面を切り下げる改修が行われた。
上下の高さがひときわある「筒井隧道」は、元々出入り口が急坂で勾配を緩やかにするために、底を掘り下げる工事を行ったトンネル。

階段の高低差で、もともとの高さ。底を掘り下げる工事の名残をみることができる。

場所:

https://maps.app.goo.gl/DxBqrUR7sGSTbSdP6

※撮影:2026年5月


関連

「拓殖招魂社と拓殖大学」戦跡散策(八王子)

拓殖大学の前身は、台湾開拓人材を育成する機関であった。
そんな拓殖大学(拓大)には、いくつか近代を物語る史跡や戦跡があるというので、足を運んでみた。


拓殖大学

拓殖大学は、1900年(明治33年)6月に設立された「台湾協会学校」を起源とする。
1907年に「東洋協会専門学校」、1915年(大正4年)に「東洋協会植民専門学校」、1918年に「拓殖大学」と改称。1922年に「東洋協会大学」とするも、1926年に再び「拓殖大学」と呼称。
戦前は、植民地経営のための人材を多く輩出した。
また、太平洋戦争では、1263人の学徒が出陣をしている。
空襲で、文京キャンパス(茗荷谷)の恩賜記念講堂などを焼失。
終戦後、1946年(昭和21年)に「紅陵大学」と改称するが、連合国軍占領統治終了後に旧称の「拓殖大学」に戻し、現在に至る。
初代総長は、桂太郎。後藤新平、宇垣一成、下村宏、そして中曾根康弘などが総長を務めている。


恩賜記念館

1912年に明治天皇から下賜された資金をもとに、1914年に文京キャンパスに建設された「恩賜記念講堂」を、創立100周年記念事業として2000年に八王子キャンパスへ復元・移築した建物。
歴史資料室もあるというが、訪れた際は、残念ながら閉館していたので、もしかしたら、再訪かも。

恩賜記念館
 明治45年4月23日 明治天皇から御下賜された恩賜金により、大正3年3月に建設された恩賜記念講堂を、創立百周年を記念して、平成12年に恩賜記念館として復元したものです。
 内部には、記念講堂をはじめ、本学の歴史的な資料を展示する歴史資料室、マルチメディア閲覧室及び会議室があります。
 なお、正面の桂太郎公の銅像及び館銘板は、当時の恩賜記念講堂のものです。

恩賜記念館

恩賜記念館の扁額。
恩賜記念講堂当時のもの。
昭和40年新校舎建築のため取り壊された際、半分に割れて廃棄されたものを回収したもの、という。

桂太郎銅像

桂太郎
内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。
日露戦争時の内閣総理大臣。
西園寺公望(第12代、14代)と交互に総理を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。
軍人としての階級は陸軍大将。
栄典は、従一位大勲位功三級公爵。
通算首相在職日数は、2,886日(2023年4月現在、安倍晋三に次ぐ歴代2位)。第3次内閣は第一次護憲運動を受けて退陣し、同年に病没した。

創立者 桂 太郎 先生銅像
 拓殖大学の前身台湾協会学校の創立者で、初代校長をつとめた公爵桂太郎先生(一八四七~一九一三年)の銅像である。
 桂太郎公は弘化四年山口県萩に生まれる。
 長州藩士として幕末緒戦に参加、維新後、ベルリンに留学、プロシアの兵制を学ぶ。山県有朋、大山巌を輔けて軍制の改革を図り、参謀本部の独立、鎮台の師団改編等を行い、明治陸軍建設に大きな役割を果たし、陸軍大将に累進した。
 第二代台湾総督、陸相の後、明治三十四年初めて組閣の大命を拝し、第一次桂内閣首相として翌年日英同盟を締結、さらに同三十七年、日露戦争勃発するや挙国一致これに対処してよく戦勝に導き、しかも戦争の終結を深謀、外相小村寿太郎を全権として講和条約を結ばせた功績は史上に著しい。
 明治三十三年(一九〇〇年)、台湾協会会頭として台湾協会学校を創立して初代校長に就任、以後十二年間にわたり本学の基礎をつくった。また医学会でも初代癌研究所会長に就任し、医療の発展に貢献した。
 大正二年 (一九一三年) 十月十日急逝。享年六十七歳。
 この銅像は大正三年六月に完成したもので、設計·鋳造は武石弘三郎氏の作である。
  平成十二年四月

桂太郎銅像は、文京キャンパスと、八王子国際キャンパス、そして山口県萩市の桂太郎旧宅にある。

恩賜金の下賜を伝えた明治天皇の御沙汰書を、桂太郎先生が、教職員・学生に奉読している姿。


拓殖招魂社

拓殖大学には、学内神社として招魂社がある。
戦前期に茗荷谷学舎において創建。第二次世界大戦後に撤去された際、神社の扁額が学生によって持ち出される。1976年に総長室に扁額を奉安。1980年に八王子国際キャンパスに社殿を創建。
戦没した御英霊を祀っていることから、「拓殖大学の護国神社」の性質を持っている。

拓殖招魂社
拓殖招魂社由来の記
拓殖招魂社は、昭和8(1933)年4月、学生有志の発願により茗荷谷校地(現在の文京キャンパス)に建立された。これより先、昭和6(1931)年4月に碑(「烈士脇光三碑」)が建てられた脇光三他5名の日露戦争戦没者をはじめとして、満洲開発の途上で、支那事変の従軍通訳として、また先の大戦等において国難に殉じた拓殖大学出身者の英霊を祭っている。終戦後、GHQのいわゆる「神道指令」によりやむなく焼却されたが、昭和51(1976)年10月、一学友によって九州に奉遷されていた神額が返還され、昭和55(1980)年10月23日、「拓殖大学の精神的原点」を象徴するものとして、学校、学友、学生三者の協力により現在の場所に再建された。令和5(2023)年に新たに一柱を加え、440柱を合祀。
毎年春季秋季の2回、例祭を執り行っている。

拓殖招魂社由緒
拓殖招魂社は、拓殖大学建学理念の具現化であり、精神的原点の象徴である。
ここに祀るは究極的には、その理念であり、その理念に身を以て殉どれた尊い御霊である。即ちここに 、建学の理念を体し日本国家民族の護持に挺身し、亜細亜恢復の大義に殉じ、以て世界の調和進展の礎石となられた脇光三先輩を初めとする本学関係者の尊き御霊を紀り奉つる。
 個を超えて日本、亜細亜、世界という全体に生きられたその御霊に合掌し、その無言の訓えに粛然として頭を重れ、我等またそのあとに続かんことを誓うものである
拓殖大学

経緯
 本校茗荷谷五文原頭に、鎮座せられた「拓殖招魂社」は終戦直後占領軍の指令により破棄せしめられた。 この日空は暗澹として雲他く学生救職員一同、万感の念いをこめてこれを送った。
 一学生あり(専門部十九期 当房栄三郎民 宮崎県出身 故人)鳥居に掲げられた「拓殖招魂社」の扁顔を秘かに毛布にくるんて持ち帰り、これを九州宮崎の地に奉安した。その後この扁顔は在九州学友をへて在京学友及び学生に迎えられ、昭和五十一年秋、変額を奉じて恭々しく招魂社祭が教り行なわれ、ついてこれを総長室に安置申し上げた。
 雨来、学支会より、その総意として招魂社再建の熱烈なる要望があり、これを受けて高瀬総長理事長により拓殖大学創立八十周年記念を機に、ここに八王子原頭扶柔ヶ丘に拓殖招魂社再建御邊産の運びとなった。
 時に、昭和五十五年錦繍の秋、十月二十三日、此の間実に茫々三十有五年、今扁願は社頭南面する島居の上に再び高々と捐けられ、我が拓殖大学の過去と現在をそして未来をじっと見つめて居られる

拓殖招魂社

合掌

けっこうな山道。大学構内とは思えない山道。。。5分ほど登りました。


芳流 烈士脇光三碑

六烈士のうちの1名、脇光三。

脇光三をはじめとした日露戦争の六烈士に関しては、「横川省三」を調べていて知ったので、下記の記事に別でまとめました。

脇光三は、明治34年に台湾協会学校(拓殖大学の前身)の学生であったが、明治35年に中退して海を渡り、北京駐在の陸軍武官青木大佐から南下露軍の後方攬乱の秘命を受け、沖禎介、横川省三らとともに特別任務班に編成されその一員となる(辞令上は「陸軍通訳」)。
明治37年4月、横川省三と沖禎介がロシア軍につかまり、残った4人は再起を期すもロシア軍の意向を受けた馬賊に捕捉され、内蒙古クーロンホ付近で、相次いで戦死した。

烈士脇光三碑は、昭和6年4月23日(拓殖大学恩賜記念日)に除幕式が行われた。
この碑は、当初は文京キャンパスにあったが、昭和57年に八王子キャンパスに遷座している。

芳流 
烈士脇光三碑
 一戸兵衛書

烈士辞世
一朝宣戦 除百年憂 
吾党有士 死賛皇猷
興安西峙 松華東流
侠骨可埋 此山河頭

意訳
いったん宣戦の命が下れば、百年の憂いを除こうではないか。
我ら志を同じくする士(もののふ)は、命を賭して天皇の遠大な計画を助け奉る。
西には興安嶺(こうあんれい)がそびえ、東には松花江(しょうかこう)が流れている。
義侠の心に満ちたこの身を埋めるなら、まさにこの山河の地こそふさわしい。

 脇光三君は同窓の先輩なり 日露戦役の初に當り進んで特別任務に服し六士相攜へて北京に發し辛酸六旬にして深く敵地に入り東清鉄橋の爆破を企てしも事破れ二士は露軍に捕へられて遂に哈爾濱郊原の沙に屍を委て君は三士と蒙匪に襲われて倶に興安嶺邊塞の月に骨を暴しぬ嗚呼凄惨此に至って腹語るに忍びす然れとも壮圖克く敵の気を奪ひ其の戦略を覆し交戦期間多大の兵力を後方の警備に費すの已むを得さるに至らしめたるは以て忠魂を慰むるに足らん吾等遺烈を景仰し茲に諸先輩の賛助に憑り同傐協力して石碑を学園に建て之を不朽に傳うと云爾
  拓殖大学生一同
  教授宮原氏平撰文

棗(ナツメ)の木
寄贈 中村養三氏 (学部十六期 大正七年卒)
日露戦争の折 乃木希典将軍と露軍のステッセル将軍が会見した中国旅順郊外の水師営の場にあった棗の木
昭和四十三年に中村氏(当時学友会京都支部長)が大学に持参され 文京キャンパスの「拓魂碑」脇に植えられていたが碑の移設に伴いこの地に移植された


拓殖大学八王子国際キャンパス

東京ドーム23個分の広大な敷地を持つという広大なキャンパス。
1977年に開設された。
高尾駅から直通のバスが出ている。

※撮影:2026年5月


関連

富岡空襲(横浜南部空襲)の慰霊巡拝

横浜の富岡地区は、「横浜海軍航空隊」の飛行艇基地や軍需工場などがあった。
この富岡地区にも大規模な空襲があり、往時をしのぶ慰霊碑があるというので、足を運んでみた。


富岡空襲(横浜南部空襲)

昭和20年5月29日
「横浜大空襲」

https://senseki-kikou.net/?p=34746

その12日後。
昭和20年6月10日
「富岡空襲」

横浜大空襲でターゲットから外れていた、富岡地区にあった横浜海軍航空隊と日本飛行機富岡工場・大日本兵器富岡製作所、そのほか磯子や本牧にあった軍需施設を中心として、米軍による空襲があった。
投下された爆弾は約250発とされ、100名近い犠牲者があった。

湘南富岡駅(現在の京急富岡駅)では、ちょうど停車していた電車の乗客や周辺住民が駅隣の人道トンネルに避難したが、周辺で数十発の爆弾がさく裂し、多くの被害者を出した。
この富岡空襲により、湘南富岡駅(現在の京急富岡駅)は、破壊され営業停止となっている。

こうして、横浜大空襲と富岡空襲(横浜南部空襲)によって、横浜の街は深刻な被害を被った。


戦争犠牲者諸聖霊(慶珊寺)

富岡空襲に際して、慶珊寺には多くの遺体が運ばれた。特に湘南富岡駅(現在の京急富岡駅)周辺での犠牲者が多く運ばれた。境内に安置された遺体は40体ほどあったという。

戦争犠牲者諸聖霊

昭和二十年六月十日横浜市富岡町ハ米軍ノ爆撃ヲ受ケ数多ノ犠牲者ヲ出ス 偶々当地ニアッテ非業ノ死ヲ遂ゲシ諸聖霊無念ノ恨ミヲイダキテ当苑ニテ仮葬セラル 時移リ平和ノ世トナリテ三十数星霜往時ヲ知ル人数ナシ 今ココニ檀徒有志ト共ニ供養塔ヲ建立シ聖霊ヲ慰メ併セテ戦没者各霊ノ追福菩提ヲ祈ルモノナリ
昭和五十五年春 慶珊寺第十九世 隆定識

合掌

https://maps.app.goo.gl/iEZs7pzqnzPpxwFC7

山門の隣には、「孫文の上陸記念碑」があった。孫文は、日本には何度も来日しているので、そのうちのひとつ、ではあるが。
なお、当時、慶珊寺の門前は、すぐ海が迫っていた。埋め立てられたのは戦後もだいぶ最近の昭和52年に「並木」地区が埋立地として造成された。

孫文先生上陸之地
岸信介書

由緒
近代中国建設の父にして、三民主義・大アジア主義の提唱者である孫文先生は第二革命に際し、袁世凱に追われ中国を脱出、台湾経由日本に亡命を企図され、1913年(大正2年)8月17日横浜沖より小舟にて当地富岡海岸に上陸、東京に向かわれた事実は当時の神奈川県知事大島久満次より外務大臣牧野伸顕に宛てた報告文により明白となりました。孫文先生の富岡亡命上陸成功の陰に当時の日本当局者並びに日本人有志の援護があり、それが要因となって近代中国が生まれたことを思えば、富岡上陸の意義は誠に大きいと言わねばなりません。しかも今回右の史実と意義を顕彰のため建てられたこの史蹟碑が富岡住民たちの研究と日本人有志多数の協力によって竣功したことは、両国親善の歴史に大きな金字塔を成すものと言えましょう。
 昭和59年(1984)8月17日
  孫文先生上陸之地記念碑建立委員会

https://maps.app.goo.gl/4TT2jHiVxgYHBUDv9

ちかくには、直江三十五の邸宅跡、文学碑もあった。

直江三十五は、1934年に亡くなっているので、戦争とは直接の関係はないが。

京急富岡駅の境内にも、「直木三十五と富岡」についての掲示がある。

さらに近くには、松方正義別荘跡もあった。
伊藤博文や井上馨、三条実美らの別荘も近くにあり、横浜金沢は明治期の政治家の別荘でもあった。のちに鉄道の開通とともに、鎌倉逗子湘南(大磯小田原)方面にと別荘も移っていくことになる。

十二天 松方正義別荘跡

「十二天」とは、十二神将をまつる十二天神社があったことに由来する。

https://maps.app.goo.gl/9voRJYN15H5NS7Bn6


戦災殉難供養塔(持明院)

「慶珊寺」の近くに鎮座する「持明院」にも、遺体が運び込まれたという。
こちらにも慰霊碑があった。

戦災殉難供養塔
昭和二十年六月十日

昭和20年6月10日の富岡空襲の戦災殉難者の供養塔。

合掌

https://maps.app.goo.gl/Rz91yYJzPH9iNHSh9

位置関係は、こんな感じ。
緑地帯=公園から右側が埋立地。

富岡八幡公園

富岡八幡宮

富岡八幡宮の隣、

日本国憲法起草之地

終戦後の第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣を任じられた金森徳次郎がこの地(印刷会社文寿堂社主・佐藤繁次郎別荘跡)に籠り、草案を書いたとされている。
ちなみに、近くの金沢八景には伊藤博文らが関わった明治憲法の草案の地でもある。

https://maps.app.goo.gl/jcDBGF2WSo5WxfNEA

日本国憲法として、マッカーサー草案は、下記も。


京急富岡駅(湘南富岡駅)

京急富岡駅は、戦前は「湘南富岡駅」と称していた。
昭和5年(1930年)に、海水浴客専用の仮駅として開業。
昭和6年(1931年)に、駅に昇格。
昭和20年(1945年)6月10日の富岡空襲(横浜南部空襲)によって破壊され、営業停止している。


人道トンネル(京急富岡駅)

京急富岡駅のとなりにある人道トンネル。昭和20年6月10日の富岡空襲に際して、鉄道の乗客や周辺住民がトンネルに逃げ込んだが、トンネルの前後で爆弾がさく裂し、多くのっ人々がなくなった。
富岡空襲は、都市空襲を目的とした焼夷弾ではなく、軍事施設の破壊を意図した爆撃であったため、破壊力の強い爆弾であり、そのために死傷者も増えたという。

このトンネル内でも、多くの人々が空襲の犠牲となった。
合掌。

往時を物語るものは特にない。
ただ、ここで爆撃があったという伝承が残っているのみ。

※撮影:2026年4月


三渓園の被災狛犬
(横浜南部空襲で被災した狛犬)

富岡空襲(横浜南部空襲)で被災した三渓園の狛犬。
むかし(2016年)、三渓園に赴いたときに、撮影していた写真があったので、掲載。
空襲被災で首から上を失った狛犬や、左耳を失った狛犬が今も残る。

三渓園は、原富太郎(原三溪)によって、1906年に造園された。
1923年の関東大震災と太平洋戦争中の1945年(昭和20年)6月10日の横浜南部空襲で被害を受け、一部の建造物を失っている。

楠公社と観心橋
楠公とは、南北朝時代の武将·楠正成のこと。社殿の建物は、もと大阪·観心寺にあったもので、楠正成が建武元(1334)年に建立、自らの守護神·牛頭明王を祀ったと伝えられた。三溪園へ移築後は、高村光雲門下の彫刻家·米原雲海作の楠公の木彫像が安置されていたが、空襲の爆撃により社殿と楠公像はともに失われた。現在の天満宮の鳥居脇にある首の欠け落ちた狛犬は、楠公社があった頃からのもので空襲による破壊の痕が生々しく残されている。手前にかかる橋は観心橋で、その名は楠公社の由緒(観心寺)による。


(おまけ)巡洋戦艦「天城」流用の浮桟橋

まったく、関係ないけど、三渓園のある本牧の高台から、ジャパンマリンユナイテッド横浜事業所磯子工場を垣間見る事ができる。此処には、関東大震災で被災し解体された巡洋戦艦「天城」船体の一部を流用した浮桟橋が今も護衛艦の整備等で活躍している。
三渓園に行ったときに撮影してましたので、メモ程度に掲載。

※撮影:2016年8月(三渓園と本牧)

本牧は、下記をメインで過去に散策していました。


関連

富岡にあった横浜海軍航空隊(浜空)の海軍飛行艇部隊。

亀山上皇立像と招魂社跡地のある「東公園」(福岡博多の戦跡散策6)

福岡博多の戦跡と史跡を。
個人的に興味をもった気になるところをピックアップして散策。


官祭妙見馬出招魂社遺跡保存地

福岡縣護国神社の元となった招魂社。

福岡縣護国神社は、明治元年(1868年)11月、福岡藩主・黒田長知が、戊辰戦争に殉じた藩士を祀るため那珂郡堅粕村(妙見招魂社)と馬出村(馬出招魂社)に招魂社を創建したのに始まる。
明治39年(1906年)6月27日、「馬出招魂社」に「妙見招魂社」を合祀して「妙見馬出招魂社」とした。
当地は、その跡地である。

昭和13年(1938年)に「福岡招魂社」と改称。
昭和18年(1943年)4月、「福岡護國神社」は、現在地の福岡城址南側の練兵場跡に遷座している。

官祭妙見馬出招魂社遺跡保存地

招魂社の由来
畏くも 明治天皇の大御心によって明治維新以来国事に殉じた志士の英霊を合祀して永く祭祀を行うよう明治元年五月十日太政官布告を以て仰せ出だされた
ここに於いて当時の筑前藩主黒田長知は 聖骨を奉体し明治元年十一月今の東公園当時の筑前国那珂郡堅粕村字東松原に妙見招魂社を筑前国那珂郡馬出村字東松原に馬出招魂社をそれぞれ創設し官費を以て永く祭祀を行うこととなった
然るにこの中官祭妙見招魂社を明治三十九年六月二十七日官祭馬出招魂社の隣接地に移転し更にこの官祭妙見招魂社を昭和十三年一月二十一日官祭馬出招魂社に合併と同時に官祭福岡招魂社と改称次いで昭和十四年勅令に基づきこの招魂社名を昭和十四年四月一日福岡護國神社と改称し更に昭和十八年四月三十日福岡市六本松に県下一円を総括する福岡縣護國神社が創立されたので同日この福岡護國神社の護神霊を福岡縣護國神社に合併したのである。
然るに東公園に於ける旧招魂社跡は記念碑墓石その他一切の施設がそのまま存置されていたので福岡県護国神社に於ては毎年墓前祭を執行祭祀を継続してきたのであるが戦後急激な都市の発展は護国の英霊鎮座にふさわしかった所謂千代の松原たる白砂青松の淨地も激変し招魂社跡の墓石や人名標石玉垣等も或は倒され或は破壊され清浄を保持し得ざるに至ったのでこれが移転は久しい懸案であった
然るに今般福岡県に於ては東公園の整備を計画両招魂社跡の移転方について要請があったよって検討を重ね約二五〇米北方にあった両招魂社社地に建設されていた由緒を記した石心松標・旌忠祠・玉砕光存の碑石三基を此の地に移しこの由来碑を立てて馬出の地名と共に永遠に伝え妙見招魂社の御祭神加藤司書徳成以下四十一柱と馬出招魂社の御祭神青木彌平増秀以下百十六柱の御遺骨等はこれを福岡市谷二丁目の旧陸軍墓地に改葬することにした
茲に由来を記し謹んで後世に遺す次第である
  昭和四十四年四月三十日
    福岡県護国神社 宮司 平川隆一

場所:

https://maps.app.goo.gl/SMc2ZfyoRcD6YYeR9


銅造亀山上皇立像

像本体4.8メートル。
福岡県指定有形文化財。
高村光雲の弟子であった博多出身の山崎朝雲によって木彫原型が制作。
銅像は、谷口鉄工場が制作。

福岡警察署長の湯地丈雄が長崎事件(1886年)を期に主唱した元寇記念碑建設運動に端を発し、日露戦争中の1904年(明治37年)12月25日に除幕式が挙行された。木型は、筥崎宮に安置されている。

亀山上皇は、南朝(大覚寺統)の祖。
正元元年(2369)に第90代天皇に即位され、文永11年(1274)で譲位、上皇となられた。
元寇(文永の役(1274年)、弘安の役(1281年))時の治天の君。(天皇は子の後宇多天皇)。

亀山上皇は、元寇来襲に際し、「我が身をもって国難に代わらん」と敵国降伏祈願を行うと共に、全国の神社・仏閣にも祈願を命じられた。

亀山上皇立像の設置に功績のあった石工として、廣田弘毅の父親である廣田徳平も関わっている。

敵國降伏

文永の役後の筥崎宮社殿再建時に亀山上皇により寄進された宸筆。
筥崎宮伏敵門「敵國降伏」扁額にも掲げられている。

明治39年十一月建之

亀山上皇銅像
13世紀後半の元(モンゴル)軍の来襲の際に、「我が身をもって国難に代わらん」と伊勢神宮などに敵国の降伏を祈願された亀山上皇の故事を記念し、福岡県警務部長(現在の警察署長)だった湯地丈雄氏等の17年有余の尽力により、明治37年(1904年)元寇に縁あるこの地に建立されました。高さ約6メートルを誇るこの像の原型となった木彫像は、当時、高村光雲門下で活躍していた、博多櫛田前町生まれの彫刻家山崎朝雲の代表作のひとつで、現在は営崎宮の奉安殿に安置されています。

国旗掲揚台
皇紀二千六百有一年記念

https://www.fukuoka-bunkazai.jp/frmDetail.aspx?db=1&id=260

https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/sp/cultural_properties/detail/211

場所:

https://maps.app.goo.gl/oayb67aE4vbkcd5n8


日蓮聖人銅像

公園内には、日蓮さんの立像もありました。
鳥羽上皇は、台座を除くと6メートル、日蓮は、なんと10メートル。。。

日蓮聖人銅像
日蓮聖人は、文応元年(1260年)『立正安国論』を記し、当時の鎌倉幕府執権北条時頼にいち早く元(モンゴル)軍の襲来を警告しました。明治37年(1904年)に完成したこの銅像は、高さ10.55メートル、重さ74.25トン。8角形の台座には「立正安国」の文字と、日蓮聖人の一代記を描いたレリーフがはめ込まれています。この像の木製原型は、当時東京美術学校の教授で彫刻家竹内久ー、レリーフの原画は洋画家矢田一嘯により作製されました。

場所:

https://maps.app.goo.gl/xZ8jSk6QaySDKWtr7


元帥伯爵東郷平八郎之像

さらには、東郷さんの胸像も。

胸像の由来
 東郷平八郎元帥は、法華経の篤信者であった。明治38年5月、日本海海戦で勝利を収めた後、同年8月19日、加藤友三郎参謀長等と共に博多に寄港し、松下直美福岡市長の案内で亀山銅像とこの日蓮銅像へ勝利御礼に参拝された。
 また、大正9年4月8日には、皇太子殿下(昭和天皇)に従って再度両銅像に参拝された。
 この銅像は、昭和10年に元帥の偉功を讃え日本海海戦会の有吉憲彰・中野昇外有志が、建立したものである。
 当初、前面の銘板には「おろかなる心につくす誠をば みそなわしてよ天つちの神」という歌を付してあった。
 これは大正3年4月、元帥が東宮学問所総裁に任命された時の感激を詠まれたものである。
 その後、銘板が剥がされていたものを福岡鹿児島県人会・南洲会有志が改修し奉納するものである。
 この胸像が日蓮聖人のお側に未来洋々立ち続けることを祈念して止まない。
 平成8年9月吉日

場所:

https://maps.app.goo.gl/SEWUZj8Ycr9M9xQe8


東公園

もともとは、千代の松原の一部であった。
1873年(明治6年)の太政官布告に基づいて1876年に公園地とした。
福岡県内最初の県営公園。
公園化する以前は、1868年(明治元年)には旧福岡藩主黒田長知によって招魂社が妙見・馬出の地に創建。
当初は東松原公園の名称であったが、1900年(明治33年)に東公園と改めるとともに県の管理となった。

場所:

https://maps.app.goo.gl/3ogNTTFmhB3U1Ckc6


箱崎公園碑

昔は千代松原であった歴史を記録する碑。

箱崎公園碑
縣治を距る東半里弱、松林海に傍ふ有り。箱崎と曰ひ、又千代の松原と曰ふ。宗祇指南抄に曰く、南北壹里、東西十町餘りと。明人之を稱して十里松と曰ふ。大江匡房太宰權帥たり、嘗て文を作り景勝を記す。其の天下の稱する所と爲るや久し。豊臣關白の島津氏を征するとき、箱崎八幡の祠を以て牙營と爲し、千利休を召して茗を林間に煮たり。利休松の稱焉よりして起る。黒田氏の封を此國に受くるに及び、厳に斬伐を禁ず。蒼翠蓊鬱、其の舊を改めず、千代の松の名誣ひざるなり。
余乏きを縣令に承け、是地を以て公園と爲す。博多の人、下澤、深澤、内海の諸氏、首として貲を捐し、役を督す。衆庶歡むで起ち、或は理して庭園と爲し、或は鑿りて池沼と爲す。花卉を雜植し、亭樹を列置す。青松白沙、點綴相映じ、匡房の所謂海岬斗出、一帶の青松、他に雜樹無く、位置天然にして殆むど造花の巧を弄する者の如く、指顧して來たすべきなり。園既に成り、余に文を請ひ之を記す。
嗚呼、豊臣氏の西征するや、貔貅百萬、海陸皆兵なり。而も翠を探りて茗を綴り、優遊暇豫す。眞に一世の雄なり。黒田氏の封を襲ぐ三百年、恩澤洪洽、今に至りて治め易きを稱す。余無似罪を此の地に待つこと八年、政績一の記すべきもの莫し、獨り心に愧ぢざらむや。但し車を下りしより以來、縣民貼然として安く治まるは實に土風の淳撲に由るも余が拙誠も亦或は焉を相孚ふに足るもの有らんか。乃ち所感を書して之を與へ、後人をして是地の景勝古今に稱せられて、其の公園と爲ることの遇然に非ざるを知らしむと云う。
 渡邊清撰


十日恵比須神社

東公園の西側に。神社本別表神社。

十日恵比寿神社
社伝では、天正19年(1591年)正月、武内五右衛門が香椎宮·笤崎宮参詣の帰途、千代松原の波打ち際で恵比須神像を拾い上げたのが神社の起こりとされます。恵比須神は七福神の一神で、漁民、商家の守護神とされ、人々の信仰を集めています。正月の縁起をかつぐ十日恵比須祭りは、8日を初えびす、9日を宵えびす、10日を正大祭、11日を残りえびすと呼び、多数の参詣者はもとより、参道を埋める露店や博多芸妓の「徒歩参り」で大変な賑わいを見せます

場所:

https://maps.app.goo.gl/TazgxN1pDnNfsJ5P8


福岡市赤煉瓦文化館(旧日本生命九州支店)

エリアは違うけど、写真を撮っていたのでメモとしてここに掲載。

1909年(明治42年)に日本生命保険株式会社九州支店として建てられた。
設計は、東京駅舎などの設計で知られる辰野片岡建築事務所(辰野金吾・片岡安)。
明治末期の本格的な煉瓦造建築物として価値が高く、国の重要文化財に指定されている。

https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/sp/cultural_properties/detail/51

場所

https://maps.app.goo.gl/wJo9cdnZoAMoJTyG9


博多港発祥の地

エリアは違うけど、写真を撮っていたのでメモとしてここに掲載。

博多港発祥の地

THIS IS THE PLACE HAKATA
PORT WAS FIRST ESTABLISHED

日本三大津の一つ「那ノ津」と呼ばれ古来より大陸文化受け入れの要衝の地であった博多港は明治32年7月13日開港の指定をうけ博多船溜を中心に近代港湾としての道を進み国際貿易港として現在に至っている。博多船溜にはかって魚市場も併設されていた。博多港のより一層の発展を念じこの地に記念の碑を建立する。
 昭和60年7月20日
  福岡市長 進藤一馬

博多港引揚記念碑(那の津往還)まで足を伸ばせばよかった。訪問時はそこまで知らなかったということもあり。
5大引揚港のひとつ。
また今度、かな。

場所:

https://maps.app.goo.gl/81XQNg6qRusrYZSh9


関連

「戦争記録画」の記録・東京国立近代美術館(2025年企画展) 

東京国立近代美術館で、2025年7月15日から10月26日まで展示された企画展。
 コレクションを中心とした特集 
  記録をひらく 
  記憶をつむぐ
昭和100年、戦後80年の節目の展示は、企画展のタイトルからは読み取ることができかったが、蓋を開けてみれば、「戦争記録画(戦争絵画)」の展示であった。

図録の用意もない企画展ゆえ、今後の備忘のために、以下、私自身のためにも、記録と記憶の形を残しておきたいと思う。

以下、余計な主観は交えずに、粛々と作品を掲載をしていきたい。

アッツ島玉砕(藤田嗣治)


記録をひらく 記憶をつむぐ

東京国立近代美術館

ごあいさつ
 「昭和100年」、「戦後80年」という節目の年となる2025年、美術を手がかりとして、1930年代から1970年代の時代と文化を振り返る展覧会を開催します。当館のコレクションを中心に、他機関所蔵の作品·資料を加えて、絵画や写真や映画といった視覚的な表現が果たした「記録」という役割と、それらを事後に振り返りながら再構成されていく「記憶」の働きに注目しながら、過去を現在と未来につなげていく継承の方法を、美術館という記憶装置において考察するものです。
 東京国立近代美術館は、戦時下の1930年代から1940年代の美術について
は、購入や寄贈によって収集した作品のほか、いわゆる「戦争記録画」を153点収蔵しています。これらは戦意昂揚と戦争の記録を目的に制作され、戦後アメリカに接収された後、1970年に「無期限貸与」という形で「返還」されたものです。本展では戦時中の作品に、戦争体験を想起させる戦後美術を加えて、美術が戦争をどのように伝えてきたかを検証します。
 戦中にプロパガンダとして機能した戦争記録画の展示においては、戦時体制下で美術が担った社会的な役割を歴史的事実に基づいて見つめ直していきます。このような当時の経験を時代や地域を超えて共有し、未来の平和に資する想像力を引き出すことを試みます。
 戦後80年となる今年、戦争体験を持たない世代が、どのように過去に向き合うことができるかが問われています。それは他でもない、現在を生きる私たちの実践にかかっているといえるでしょう。これまで蓄積されてきた過去の記録に触れながら、それらをもとに新たな記憶を紡ぎだしていくこと。私たちは、美術館がこのような記憶を編む協働の場になることができると考えています。
 なお、本展に展示される作品や資料の中には、今日の社会通念や人権意識に照らして不適切な表現を含むものがありますが、当時の時代背景を伝える歴史資料としての意義を重視し、改変や削除などは施さずに紹介しています。
 最後になりますが、本展開催にあたり、貴重な作品·資料をご出品くださいました美術館、博物館、所蔵家の皆さま、ならびにご協力いただきました関係各位に深く感謝申し上げます。
 東京国立近代美術館

戦時の美術の分類(その名称と画題)
戦時に制作·発表された絵画は膨大な数にのぼります。そのうち東京国立近代美術館が保管する「作戦記録画」は軍によって委嘱された公式な作品群ですので、全体のごく一部にすぎません。画題は戦史に残すべき戦闘の場面が選ばれています。一方で「戦争記録画」という呼称は、軍からの依頼の有無にかかわらず戦闘場面を記念碑的に描いた作品を指します。
そのまわりに、「前線の光景」「銃後の光景」「大陸·南方風景」「歴史主題」「仏教主題」「象徴(桜·富士山など)」などを主題とする時局を反映した美術のすそ野が広がっているのです。これらを総称する用語として定着したものはありませんので、この図では仮に「戦時の美術」としました。「戦争画」という一般的な用語も使われますが、その境界を確定すること
は難しく、狭義には上記の「戦争記録画」を、広義には総力戦を表象する絵画全体を指す場合があります。

■作戦記録画を発注した軍部の認識を、当時の文献から抜粋して紹介しましょう。
-黒田千吉郎「戦争画について」『南方画信』1942年9月
「美術、特に戦争美術の重要性を知る陸軍は、支那事変勃発するや、直ちにこれを記録して永く後世に残すべく作戦記録画の制作を企図した」
「渾身の力を傾注して完成された作品は、銃後国民の士気を昂揚せしむるのみならず、永く後世に残って子々孫々に至るまで、我等日本人の血を湧き立てさせずにはおかない」

-画家·山口蓬春の手元に残っていた「昭和十九年度大東亜戦争陸軍作戦記録画制作計画(案)」
【註:読みやすいようひらがな表記にしています】
「三、作画公開目的 1国内 作画を以て国内展覧会を開催し銃後一般国民をして戦況裡に正確なる聖戦の実相を把握せしめ第一線将兵の労苦を偲ばしむると共に英霊に対する感謝の念を深め一層奉公精神の強化奮起を以て志気の昂揚に努めんとす」
「五、記録すべき戦闘並画材 画材選定に当たりては関係方面と密に連絡し将来記録として必要なる著名若くは重要なる戦闘を選択し併せて銃後国民に対する宣伝価値を考慮せり」

戦時の美術・戦争画
戦争記録画
作戦記録画


【1】絵画は何を伝えたか

二つの世界大戦が勃発した20世紀は、しばしば「戦争の世紀」と呼ばれます。日本は、1931年から1945年までの間に、満洲事変から日中戦争、太平洋戦争を経験しました。この時代の日本は、新聞、雑誌、ラジオ、映画などのメディアが発達し、人々の間に浸透した時期でもありました。1930年代になると、誕生間もないラジオ放送やニュース映画が戦況を伝えるようになり、戦争報道の速報性や迫真性をめぐってメディア間の競争が激しくなります。このような中、旧来の絵画という「遅い」メディアは、どのようにその存在感を示したのでしょうか。展覧会芸術としての絵画からは、大画面によって戦果を伝える
「作戦記録画」という新たなジャンルが生まれました。それ以外にも、ポスター、軍事郵便絵葉書、子ども向けの絵本などの印刷物を介して、他のメディアには欠けている「想像力」と「色彩」を武器に、絵画は社会に浸透していきました。展覧会の冒頭となる本章では、戦時下のメディアのひとつとして絵画が果たした役割を整理します。

本間、ウエンライト会見図(宮本三郎)

宮本三郎
本間、ウエンライト会見図
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

日中戦争から太平洋戦争中に、陸海軍によって委嘱された公式な戦争画としての「作戦記録画」は、展覧会で公表されることで銃後における啓発宣伝の役割を担うと同時に、後世に記録を残すという機能も期待されていました。したがって「作戦記録画」の中には対戦国との停戦会見を主題とする「会見図」というカテゴリーが存在します。本作は米軍とのフィリピン、コレヒドール島での戦果を示す1942年5月の会見を描いたものですが、戦況が悪化した1944年の陸軍美術展に発表されていることが示す通り、「作戦記録画」はある記念すべき出来事を後から振り返るという性格を持っています。本作の創意は、会見図そのものというよりは、それを後方から撮影する報道班員を中心に据えた構図にあり、「戦争」を伝達するメディアの舞台裏に注目するメタ戦争画となっている点が特徴的です。

ニューギニア沖東方敵機動部隊強襲(御厨純一)

御厨純一
ニューギニア沖東方敵機動部隊強襲
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

海軍作戦記録画に描かれる海戦は、大海原と青空という広大な空間を背景に、戦艦、空母、戦闘機など軍事技術の最先端を体現する兵器の活躍を示すという点で、大衆の好奇心をかきたてる戦争エンタテイメントとの親和性が高いといえるでしょう。この御厨純一の作品は、「記録画」といいながら、躍動感あふれる空中戦を絵画にしかできない脚色によって描いた想像図にほかなりません。1940年5月に創刊された「国防科学雑誌」を謳う『機械化』は、小松崎茂などの人気の挿絵画家を起用し、その空想科学兵器のイラストによって少年たちを魅了しました。このようなイラストと作戦記録画との間には、表現ジャンルを超えた共通点が見て取れます。


【2】アジアへの/からのまなざし

明治時代以降の日本は、台湾と朝鮮を植民地として領有し、アジアにおける帝国主義国家としてその圏域を拡張していきました。台湾、朝鮮、満洲、華北は戦時下にあっても観光地として紹介され、人々の旅行熱を掻き立てるとともに、異国の文化や風俗が美術のモチーフになり、画家に豊富な画題を提供しました。
さらに「大東亜共栄圏」というスローガンが発表されて以降、東南アジアにメディアの関心が向かうと、フィリピン、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシアなどの自然や生活文化を異国趣味的に描き出す作品が多数制作されました。
こういった過程で、美術は自己と他者の差異を視覚的なイメージとして表現することを通して、「日本」や「日本人」の自己像(アイデンティティ)の形成に寄与しました。絵画に描かれたものと描かれなかったものに注目しながら、日本とアジアの間の視線のやり取りと、そこに含まれる政治的な力学について想像を巡らせます。

薬水を汲む(岩崎勝平)

岩崎勝平
薬水を汲む
油彩·キャンバス
川越市立美術館

岩崎は1937年の暮れから翌年にかけて朝鮮を何度か旅行しており、そのときの取材をもとに1938年の第2回新文展に《水くみ》、1941年の第4回新文展に本作を出品しました。いずれも朝鮮の民族衣装をまとった女性が大きな水瓶を携え、泉の水を汲む様子が描かれています。本展であわせて展示される絵葉書にも見られるように、女性と水瓶の組み合わせは当時、朝鮮風俗を表す定番のモチーフでしたが、本作では俯瞰の構図をとり、空を描かずに大地と樹木と女性たちだけで画面をシンプルに構成しています。彼女たちの視線は画面下の水くみの動作に集中しており、穏やかな中にも一種の張りつめた空気を感じさせます。

満洲の収穫(リウ·ロンフォン)

リウ·ロンフォン(劉栄楓)
満洲の収穫
1930
油彩·キャンバス
福岡アジア美術館

リウ·ロンフォン(劉栄楓)は、1892年神奈川県出身。日本に帰化して陸軍大学校等で教授を務めた中国系日本人の父の家庭に生まれました。独学で油彩画を学んだのち、「満洲」を画題とする作品を大正時代から描きはじめ、文展等で発表。旧関東州に縁のある人物だったのか、大連で個展を開催するなど、日本と関東州を往復していたようです。日露戦争後に日本が満洲の権益を得たことによって、その肥沃な大地のイメージが絵画に描かれるようになりました。明らかに19世紀のフランスの画家ミレーの絵画を参照したと思われる本作の収穫風景は、満洲事変前の作品とはいえ、その後の日本の大陸進出を予見する希望のイメージを創出しています。同種の地平線が広がる田園風景が、その後の満蒙開拓団募集の広告等に繰り返し使用され、1932年に建国された満洲国の典型的な視覚像として定着します。

満洲へ!!(拓務省ポスター)

1930年代

手前に大きく、笑顔の農夫/農婦を配し、背後に果てしなく広がる大地を描く構図のポスターが、満洲開拓移民募集として数多く制作されました。これはその典型的な一枚。同様の構図は、旅行案内である『満鮮の旅』の表紙や、プロパガンダ誌『満洲グラフ』裏表紙にも見られます。福沢一郎の《牛》は、この構図を逆手にとって諷刺化しているわけです。

「五族協和」のスローガン

1932年に「満洲国」が日本の傀儡国家として建国された際に提唱されたのが、複合民族国家を志向する「五族協和」という理念です。ここでいう「五族」とは、基本的には漢族、満洲族、モンゴル族、朝鮮人、日本人を指します。このイデオロギーは、ポスターやグラフ誌を媒体に、様々なパターンで視覚化されましたが、新京(現長春)の満洲国国務院総務庁玄関の壁画として描かれた岡田三郎助《民族協和》をはじめ、しばしば女性や子どもの姿で表象されました。

満洲·中国観光と戦争

1937年に日中戦争が始まり、当時のいわゆる「北支」(現在の華北地区に重なる)が日本軍の占領下におかれると、すぐさま観光案内パンフレットが発刊されました。日本人画家や写真家も現地を訪問し、競うように中国の文化·風物を題材に制作しました。なかでも万里の長城、河北省の承徳のラマ廟、北平(現北京)の紫禁城、山西省大同の雲崗石窟といった「文化遺産」が主題として選択されたことが注目されます。
貴重な文化遺産の庇護者としての日本、という象徴的な意味合いが、その表象の背後に潜んでいるためです。

牛(福沢一郎)

福沢一郎

1936
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館

福沢は1935年に「満洲国」を旅行しましたが、旅行前には建設と生産の国と聞いていたのに、現地を訪れてみると多くの人々が道端で昼寝をしているのに驚いたといいます(『みづ系』1935年10月号)。その体験はこの作品にも反映されているようです。地平線の広がる乾いた大地の手前には、二頭の牛が威容を誇りますが、よく見ると部分的に穴があき、安普請の看板のようです。理想国家と宣伝された「満洲国」の、遠く離れた日本から見える虚像と、現地で体験した現実とのギャップが、象徴的に描き出されているといえるでしょう。

「行軍」の情景

日中戦争の過程で、緒戦においては戦果を伝える報道に人々は沸き立ちましたが、長期化するにつれ、次第に兵士の日常を伝える戦争ルポルタージュ文学が注目されるようになります。その代表的なものが、火野葦平(陸軍伍長·玉井勝則)の『麦と兵隊』です(1938年9月単行書刊行)。また「露営の歌」(1937年)や「愛馬進軍歌」(1939年)などの軍歌もこの当時ヒットしました。このように「行軍」の主題は、文学や音楽や映画などのメディアの複合により、大衆的な共感の磁場を形成したのです。絵画もこれに加わり、「歴史画」と呼ぶべきモニュメンタルな表象をめざしました。

娘子関を征く(小磯良平)

小磯良平
娘子関を征く
1941 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1937年10月の中国山西省の要衝、娘子関での日本軍の進軍を描いた作品です。小磯は、激しい戦闘場面ではなく、進軍する兵士の群像として本作を描きました。画面の右端には休息をとる兵士、そこから左に進むにつれ、画面奥へと進む隊列に、兵士や馬が加わっ
ていくように、見る者の視線が誘導されます。縦長の画面を1:2で分割する石橋の下に、綿密に人と馬を
構成し(画面全体に下書きのグリッドが鉛筆で描かれているのがわかります)、一見、何気ない軍隊の日常
を、あたかもモニュメンタルな歴史画のように描きだしています。

臨安攻略(硲伊之助)

硲伊之助
臨安攻略
1941年代 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

空爆の視点

空爆の視点
1941年に開催された第5回海洋美術展には、田辺至《南京空襲》など「空爆」に関わる絵画が数多く展示されました。上空から俯瞰の視点で、空爆する航空機の機影と、その下に広がる攻撃対象となる大地を同一フレームに収める典型的な空爆イメージが、公式な作戦記録画として定着を見たのです。一方でこの構図からは、破壊された日常や難民化する人々といった地上の被害の情景が排除され、空を支配したという優越性が美的に強調されています。

南京空襲(田辺至)

田辺至
南京空襲
1940 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

大東亜共栄圈の夢

1940年8月、第二次近衛内閣は「大東亜共栄圏」の構想を唱えました。これは欧米の帝国主義の打倒と、日本主導によるアジア全体の共存共栄を謳うものでしたが、その背景には、戦争を継続するための資源を東南アジアで確保しようとするねらいがありました。『写真週報』など当時のグラフ誌には、南方の豊かな資源を紹介する記事が頻出します。また同じグラフ誌をめくると、これらの地域で「日本語学習」「ラジオ体操」「神社設営」といった「日本化」が進められていたことを示す記事も目につきます。

シンガポール最後の日(藤田嗣治)

藤田嗣治
シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1941年12月8日から始まるマレー作戦の大詰め、翌年2月11日のシンガポール、ブキ·テマ高地の占領を描いた作品です。画面手前の高地には日本軍兵士の群像が描かれ、画面右では傷ついた戦友を抱きかかえた兵士が、はるか遠方を眺めるように促しています。
彼らの視線の先にはシンガポール市街がパノラマ的に広がり、陥落直前の市街の随所から煙が立ち上る一方、画面左上からは陽光が幾条も差し込み、市街を明るく照らし出しています。藤田は、西洋の古典的歴史画の系譜に連なるように近代戦を描くことを企図して、このような演出を施したと考えられます。

古い通り(リウ·カン)

リウ·カン(劉抗)
古い通り
1950
油彩·キャンバス
福岡アジア美術館

1911年、中国福建省の生まれ。1916年家族とともに英領マラヤに移住。1928年上海新華芸術大学卒業後渡仏、アカデミー·ド·ラ·グランド·ショミエールで学びました。1941年よりシンガポールの南僑師範学校で教鞭をとり、シンガポールの近代美術のパイオニアのひとりとして自身の制作と後進の指導にあたります。
 ここで描かれているのは、ショップハウスと呼ばれる、1階が店舗、2、3階が住居になっているマレー半島の華人居住区独特の建築様式です。南洋のローカルな華人文化としてしばしば画題に取り上げられた風景ですが、本作にその賑わいはありません。1階の入口部分が木材を打ち付けて封鎖されており、「何かが起こったあと」の荒んだ場景として表現されています。抜けるような青空と対照させることで、戦争と日本占領下で受けた傷が、戦後も癒えずに残っていることを物語っています。

神兵の救出到る(藤田嗣治)

藤田嗣治
神兵の救出到る
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

場所は蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシアおよびマレーシアの一部)。現地に駐在するオランダ人の邸宅に、今まさに日本兵が踏み込んだ瞬間が描かれています。壁にかけられた絵や調度品から、その富裕ぶりがうかがえますが、家の主はすでに逃げ出し、縛り上げられた現地女性(家政婦)だけが怯えるようにうずくまっています。題名が示すように、欧米による植民地支配から東南アジアを解放するために、日本兵が「救出」に来た場面のはずですが、怯える現地女性の様子からは、日本兵もまた脅威でしかないことが露呈しているようにも見えます。

衛生隊の活躍とビルマ人の好意(鈴木良三)

鈴木良三
衛生隊の活躍とビルマ人の好意
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

医師の子として生まれ、自身も医学を学んだ後に画家に転向した鈴木は、戦闘場面よりも医療や看護の場面を描いた作品を得意としました。1943年に陸軍と日本赤十字社から記録画作成の依頼を受けた彼はビルマ(現ミャンマー)に渡り、シャン高原の野戦病院に1ヶ月ほど滞在して、その取材をもとに本作を描きました。作戦記録画で現地の人々が描かれる場合は女性か子どもであることが多く、「守る日本兵/守られる·奉仕する現地女性」という関係の枠組みが堅持されていますが、兵士たちにヤシの実を供給する女性たちを描いた本作も、そのバリエーションとして位置づけられます。

四月九日の記録 バタアン半島総攻撃(向井潤吉)

向井潤吉
四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1942年4月9日、日本はフィリピンのルソン島にあるバターン半島を占領しました。左右に画面を横切る人々は、前景がアメリカ兵とフィリピン兵の捕虜、中景が日本兵であり、後景にはフィリピンの避難民が立ち尽くしています。日本陸軍の報道班員として現地に赴いた向井はこの光景を「濁流」と形容し、人々がひしめき合う混沌とした様子で描き残しています。マラリアなどで多くの死者を出したこの移動は、のちに「バターン死の行進」と呼ばれることになります。

バターンの少女(フェルナンド·アモルソロ)

フェルナンド·アモルソロ
バターンの少女
1942
油彩·キャンバス
福岡アジア美術館

20世紀のフィリピンを代表する国民画家のひとり。牧歌的な田園風景を描く穏健な作風で定評のある画家でしたが、1942年以降の日本占領下のマニラで、日本軍への抵抗の意思を示す絵画を多数制作しました。本作が言及するバターン半島での日本軍との激戦は「死の行進」(投降した米軍·フィリピン軍捕虜を収容所まで歩かせ、多くの犠牲者を出した出来事)で知られ、バターン半島は後にフィリピンの愛国·抵抗を象徴する場所となりました。キリスト教の図像学を介して倒れた兵士を悼むこの作品は、1967年に切手の図柄に採用されています。


【3】戦場のスペクタクル

戦場のスペクタクル
日中戦争から太平洋戦争にかけて、陸海軍は当時の中堅画家に対して、前線における兵士たちの活躍を銃後に伝え、後世に永く残すことを目的とする作戦記録画の制作を依頼しました。大画面に構成された戦争を「記録」する絵画は、聖戦美術展、大東亜戦争美術展、陸軍美術展、海洋美術展など、全国を巡回した展覧会で公開され大勢の観客を集めました。これらの展覧会には、軍の委嘱による記録画のみならず、公募による作品も含まれていました。例えば、1939年開催の第1回聖戦美術展の公募要項をみると、「戦線」「占拠地」「銃後」等と主題別のカテゴリーが設けられていたことがわかります。これらが「戦争画」と総称される絵画ジャンルを形成したのです。公式の作戦記録画が担ったのは主として「戦線」の描写となりますが、戦況を伝えるために写真や映画ではなく絵画が選択された理由はどこにあったのでしょうか。他のメディアと異なる「絵画」の性質や約束事に注目しつつ、戦闘場面のスペクタクル化という観点から代表的な作品を読み解きます。

香港島最後の総攻撃図(山口蓬春)

山口蓬春
香港島最後の総攻撃図
1942 作戦記録画
紙本彩色
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1941年に起きた、英国が支配する九龍半島および香港島への日本軍の攻撃を題材にしています。戦争記録画の制作において、日本画は油彩に比べ迫真性に欠けると指摘されましたが、この絵は「静的なピトレスクな絵画的効果」(『国画』1943年1月号)をあげ、「大和絵風の描写をうまく生かして、陥落三日前の香港島を美しく描き出している」(『旬刊美術新報』1942年12月20日号)と評価されました。岩絵具の鮮やかな群青(山並み)や金(炎)が描き出す「美しい」風景は、しかし同時に戦争の「美化」という、戦争と芸術を考える際に避けて通れない問題をはらんでいるともいえます。

哈爾哈河畔之戦闘(藤田嗣治)

藤田嗣治
哈爾哈河畔之戦闘
1941 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1939年7月に満蒙国境をめぐって日本軍とソ連軍が衝突した「ノモンハン事件」を描いたものです。実際の戦闘は、双方が多大な犠牲を払う悲惨なものでしたが、その事実は当時の国民には伝えられていません。この作品の発注者である予備役中将·荻洲立兵はノモン
ハンで戦死した部下の鎮魂のために、藤田に制作を依頼しました。藤田は4mを超える極端に横長のキャンバスを用いてこれに応え、匍匐前進する日本軍兵士の隊列によって横の広がりを、手前の戦車と画面奥の戦闘との大きさの対比によって奥行きを強調し、パノラマ的な効果を高めています。

佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す(田村孝之介)

田村孝之介
佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1942年12月15日、ガダルカナル島の米軍司令部に奇襲攻撃を行った大野挺身隊の3人が、出撃前に部隊長と別れの盃を交わしている場面を描いた作品です。題名の通り3人は帰還することはありませんでした。密林の暗がりの中、画面中央の彼らにスポットライトのように光が差し込み、劇的な演出効果を挙げています。悲壮な場面ではありますが、当時の人々はこの絵を宗教画における殉教図のように受け止めたものと思われます。

神兵パレンバンに降下す(鶴田吾郎)

鶴田吾郎
神兵パレンバンに降下す
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

本作品に描かれたのは、1942年2月14日、蘭印スマトラ島のパレンバンに陸軍落下傘部隊が降下した模様です。落下傘部隊のイメージは鮮烈な印象を与え、同じ年に「藍より蒼き 大空に大空に 忽ち開く 百千の 真白き薔薇の 花模様 見よ落下傘 空に降り…(以下略)」と謳われた「空の神兵」という軍歌も誕生します。鶴田は空挺作戦の一連の動きを異時同図法的に構成しようと努力しますが、最終的に青空に舞う落下傘の遠景に重きを置く構図を選択しました。それは当時「見るからに楽天的」(『新美術』1943年2月号)と評されたようです。


【4】神話の生成

神話の生成
戦時下の美術は、他の表現分野から切り離された形で存在していたわけではありません。美術は、文学や音楽や映画など他の芸術ジャンルと連動しながら、時局を反映したイメージを供給し続けました。特に紀元二千六百年を記念する事業や、太平洋戦争の開戦、そして戦況が悪化してからの「玉砕」、「特攻」など社会的に大きな影響を与えた報道に際しては、必ず複数のジャンルから作品が登場し、それらが連鎖することで国民感情に働きかける力が増幅していった過程が見て取れます。ラジオからは軍歌や愛国詩が流れ、街中には標語やポスターが溢れ、展覧会では戦果を記念する壁画大の戦争画が展示されていました。このように目と耳に訴える表現がかけ合わされて、人々を動かす「物語」が生まれていくのです。

「12月8日」という記念日
米英蘭を相手に太平洋戦争が始まった1941年12月8日。一般にはハワイの「真珠湾攻撃」をその端緒として認識する人が多いですが、実際には英領マレー半島への上陸作戦がわずかに先行します。中村研一《コタ·バル》はその作戦を描いたものです。開戦はラジオによって国民に広く報じられ、緒戦の勝利は国民を熱狂させました。ラジオではまた、高村光太郎ら詩人たちによる「愛国詩」が朗読される番組が誕生します。開戦から1年後の1942年12月に開かれた第1回大東亜戦争美術展では、《コタ·バル》をはじめ戦勝を描いた作戦記録画が展示され、多くの観衆を集めました。

コタ·バル(中村研一)

中村研一
コタ·バル
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1941年12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争は始まったと言われることが多いのですが、その1時間ほど前に、マレー半島北端のコタ·バルへの上陸作戦は始まっていました。対英米開戦を告げる歴史的作戦を描くにあたって、中村は翌年6月に現地を訪れ、実際に作戦のあった日と同じ月齢、同じ時間帯の海岸を取材しました。中村はこの取材をもとに、月明かりによる光と闇の対比と、敵側からの視点による迫力ある構図によって、はいつくばりながら鉄条網を切断しようとする兵士や手榴弾を投げようとする兵士を劇的に描き出しました。発表時には「レアリズムの段階から、すでに浪漫主義絵画の域に踏み入っている」(『新美術」1943年2月号)と評されています。

「玉砕」の神話

「玉砕」の神話
1943年5月、アリューシャン列島のアッツ島で、日本陸軍守備隊がアメリカ軍との戦闘により全滅しました。同年4月の、海軍連合艦隊司令長官·山本五十六のパプアニューギニアでの戦死の知らせと続けて報道されたこともあり、日本国民に大きな衝撃を与えました。部隊の全滅は「玉砕」という言葉により美化され、歌や文学や絵本などさまざまなメディアに取り上げられて、「仇討ち」の国民感情を醸成しました。藤田嗣治の作品《アッツ島玉砕》もその文脈の中で生み出されたのです。

アッツ島玉砕(藤田嗣治)

藤田嗣治
アッツ島玉砕
1943 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1943年5月29日、アリューシャン列島のアッツ島で、アメリカ軍の攻撃により日本の守備隊が全滅した出来事が、敵味方の入り乱れる死闘図として描かれています。全滅は「玉砕」という言い方で美化され、国に殉じる行為が軍人の鑑であると報じられたため、藤田の絵は陰惨な図柄であるにもかかわらず、観衆に熱狂的に受け入れられました。同年9月の国民総力決戦美術展に展示された際には、作品の前に賽銭箱が置かれ、脇には藤田自身が直立し、観客が賽銭を入れると藤田がお辞儀したというエピソードもあります(野見山暁治『四百字のデッサン』河出書房新社、1978年)。ここで作品は単なる記録を超え、追悼と「仇討ち」の気分を醸成するための機能を果たしました。その気分の醸成には、報道や文学、絵本、歌などのメディア·ミックスがあったことも見逃せません。

アッツ島爆撃(小川原脩)

小川原脩
アッツ島爆撃
1944
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1942年6月に日本軍はアリューシャン列島のアッツ島を占領します。その際の爆撃の様子を描いた作品ですが、写真をもとに描いたというその描写は淡々としていて、派手な爆炎も燃え盛る敵陣も見当たりません。しかも不思議なことに、本作が発表されたのは1944年3月の第2回陸軍美術展。つまりすでにアッツ島は米軍に奪還され、日本軍の守備隊が玉砕した1943年5月よりずっと後のことでした。玉砕が国民に知れ渡った後に、それ以前の戦闘を淡々と描いた作者の真意はどのようなものだったのでしょうか。

「肉弾」、特攻の原型

1932年2月22日、第一次上海事変において、敵陣に爆弾とともに突入して戦死した3人の兵士(江下武二、北川丞、作江伊之助)は「肉弾三勇士」または「爆弾三勇士」の名で、新聞各紙で大きく報道され、その後、映画、歌舞伎、軍歌から童謡や玩具に至るまで、さまざまなメディアで表されました。美術においても、銅像や絵画がいくつも制作されています。こうしたブームは軍主導ではなく、メディアと大衆の側の自発的な活動だったといえますが、結果として、自己犠牲を尊重する後の「特攻」の原型をかたちづくることになります。

「特攻」の表象

「特攻」は特別攻撃の略で、軍の組織的作戦としては1944年10月に編成された「神風特別攻撃隊」を端緒とする、体当たり攻撃を指します。航空機によるものと潜航艇(人間魚雷)によるものとがありました。士気高揚の面から、体当たりの場面そのものが描かれる例は稀で、むしろ出撃前の盃をかわす儀式、旗を振っての見送り、そして飛び立つ飛行機と大空に消えていくまでのロングショットが、当時のメディアに繰り返し表されました。さらに、子どもたちを次世代の航空兵として「空」へといざなう言葉とイメージが頻出したことも見逃せません。

萬朶隊比島沖に奮戦す(宮本三郎)

宮本三郎
萬朶隊比島沖に奮戦す
1945 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

萬朶隊は、富嶽隊とともに陸軍最初の特別攻撃隊として1944年10月に編成されました。フィリピンで特攻を行うべく準備を進める中、移動中に米軍機の攻撃を受け隊長以下主力の4名を失いましたが、その後11月12日に残された部下たちはレイテ湾において米軍の艦隊に突入、任務を遂行しました。ただひとり生還した操縦士については、鴻上尚史『不死身の特攻兵』(講談社、2017年)に詳しく記されています。なお、このときの戦果は過大に報道されましたが、本作もそれを受けてか、爆炎や荒波の過剰なまでの交錯によって、現代の戦闘をフランス19世紀のロマン主義絵画のように描き出し、記録を超えてモニュメンタルなものにしようとする意図を感じさせます。

特攻隊内地基地を進発す(伊原宇三郎)

伊原宇三郎
特攻隊内地基地を進発す(一)
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1944年12月3日、茨城県水戸東飛行場から飛び立つ陸軍特別攻撃隊「殉義隊」と、それを見送る同僚や家族が描かれています。機体の尾翼に記されたカタカナは、飛行士の頭文字で、「ツ」は隊長の敦賀真二の搭乗機であることを示しています。彼らはフィリピンに向かい、12月21日と22日にミンドロ島付近で特攻を行いました。伊原は隊長の敦賀と同郷だったこともあり、出撃前の彼らを取材する際に、彼とその両親に話を聞く機会があったといいます。見送る人々の中にはその両親もいたそうですが、その中に一人だけ、画面を見る私たちのほうを見つめ返す少女がいて、はっとさせられます。

水戸東飛行場


【5】日常生活の中の戦争

日中戦争から太平洋戦争は、日本がはじめて経験する総力戦でした。総力戦は、兵士のみならず民間人も含めてすべての人々とあらゆる資源を動員するものです。前線/銃後、男/女、大人/子どもなどの境界は、戦況の変化とともに揺れ動き、それに応じて日常生活の形やそれぞれに割り当てられた役割が変化していきました。
本章では、とりわけ女性画家が集団制作した作品や『主婦之友』の挿図などの戦時の女性イメージの分析を通して、日常と戦争が隣り合わせにあった当時の暮らしを追体験するとともに、様々な分野にわたって戦時の労働を担った女性のあり方について考察します。
さらに、戦況が悪化する過程で、安定していると思われた前線/銃後の境が根本から揺らいだ事態を表す戦争画が登場します。ひとつは民間人も巻き込んだ戦闘場面を描いた作品。もうひとつは空襲下で逃げ惑う人々を描いた作品です。兵士を中心とする前線の戦闘場面から、日常が戦場と化していく戦争表象の変化をたどります。

女流美術家奉公隊

戦時下において、女性は「良妻賢母」として、さらに男性に代わる労働力として銃後を守る役割を担っていました。美術の分野においては、多くの男性画家が従軍して戦地に赴く一方で、女性画家には静物画や風俗画を描くことが求められていました。そんな中、1943年に洋画家·長谷川春子を中心に女流美術家奉公隊が結成されます。奉公隊は「戦ふ少年兵」展を開催し、世の母親たちに息子を少年兵として志願させるよう呼びかけました。また1944年には陸軍省の依頼により、銃後を支える女性たちの諸相をモンタージュした《大東亜戦皇国婦女皆働之図》を共同制作しています。

大東亜戦皇国婦女皆働之図・春夏の部
(女流美術家奉公隊)

女流美術家奉公隊
大東亜戦皇国婦女皆働之図
春夏の部
1944
筥崎宮

この作品には、防空訓練や軍需工場での労働をはしめ、さまざまな場面が描かれています。近代日本美術研究者·吉良智子氏の研究により、ここに描かれた女性たちの労働の具体的な内容が明らかになりました。たとえば、画面上段左中央に描かれた白い服の女性たちは、製図作業に従事しています。中段左端からは、炭鉱での選炭作業、造船、砲弾の製造、塩田での労働、さらにその隣には海女の姿も見て取れます。これらの描写にあたっては、当時の雑誌や新聞、グラフ誌に掲載された写真や挿絵が参照されました。

大東亜戦皇国婦女皆働之図・秋冬の部
(女流美術家奉公隊)

女流美術家奉公隊
大東亜戦皇国婦女皆働之図
秋冬の部
1944
油彩·キャンバス
靖國神社遊就館

この作品の遠景には、「春夏の部」の太陽と対比をなすように、月と富士山のイメージが配されています。上段右中央には靖國神社が描かれ、その脇には千人針を縫う女性たちの姿が見られます。さらに中段右側では、6人の女性たちが飛行機の翼に張る白い大きな羽
布を縫っている様子が描かれています。終戦後、多くの戦争画が廃棄·焼却処分される中で、《皆働之図》の2点は、長谷川春子のはたらきにより崎宮に保管されました。本作には靖國神社が描かれていることから、その後1962年に同社へ奉納されました。

総力戦と国民の生活

日中戦争勃発後の1938年に国家総動員法が公布され、日本は総力戦へと突入していきました。男性が戦地へと徴兵されるなか、女性や子どもたちも検約に努め、千人針を縫い、労働に従事することで、国家に貢献しました。総動員体制の確立とともに、ポスターは商品やサービスの広告にとどまらず、国策宣伝を担うメディアへと変化し、戦況が悪化するにしたがってその傾向を強めていきます。
戦時下のスローガン「進め一億火の玉だ」の「一億」という数字には、銃後の女性や子どもだけでなく、当時の外地の日本人および植民地の人口も含まれていました。

前線と銃後の境がなくなるとき

サイパン島に日本空襲のための航空基地を設置しようとする米軍と日本の守備隊との闘いは、7月7日の日本軍の「玉砕」で終結しました。大本営による発表後、新聞紙上ではサイパン島陥落に至る状況と、兵士と民間人の自決の様子が詳細に報道されました。藤田嗣治はこの記事をもとに、民間人を中心に据えて集団自決の場面を描く群像表現を構想し、1945年4月から東京府美術館で開催された陸軍美術展で発表しました。サイパン島陥落後の報道では「前線も銃後もない。正に国土が戦場」(『写真週報』1944年7月6日)であると、本土決戦の覚悟が唱えられましたが、藤田の作品《サイパン島同胞臣節を全うす》は、まさに日常生活が戦場と化した東京空襲の最中に公表されたのです。

サイパン島同胞臣節を全うす(藤田嗣治)

藤田嗣治
サイパン島同胞臣節を全うす
1945 作戦記録画油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1944年、サイパン島では日米両軍による死闘が繰り広げられました。戦火に巻き込まれた住民たちは、島の北端に位置するマッピ岬へと追い詰められ、次々と身を投じたことから、この断崖は後に「バンザイ·クリフ」と呼ばれるようになります。製糖業が盛んだったサイパン島には沖縄からの移民が多く、民間人の犠牲者の大半は沖縄県出身者でした。藤田は報道記事をもとに、戦闘のなかで集団自決に至った民間人の姿を想像によって描いています。宗教画のような劇的な描写は、しばしばドラクロワの《キオス島の虐殺》(ルーヴル美術館蔵)と比較されます。

空襲のイメージ 地上の視点から

第2章2-6で空爆イメージの定着について紹介しましたが、実はそれと同時に空襲を受ける地上の観点から「防空思想」の普及が図られていました。空からの爆撃に備えて、日中戦争勃発直後の1937年10月に、灯火管制や防毒や避難といった防空業務を統制する「防空法」が施行されました。そのシンボルとして様々なメディアに流布したのが「ガスマスク」です。空襲の恐怖をあおる画像と、そこから身を守る道具としての物々しいガスマスク、そして「銃後」を守る役割を負わされた女性がセットとなって、日本における地上の側の「空襲」イメージが生成されました。

空襲!備へよ防毒面(東京・藤倉工業株式会社ポスター)

1930年代
山崎記念 中野区立歴史民俗資料館

皇土防衛の軍民防空陣(鈴木誠)

鈴木誠
皇土防衛の軍民防空陣
1945 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

画面左側には防火活動にあたる女性たち、右側には避難する人々の姿が描かれています。防災頭巾や女性が手にするバケツ、延焼を防ぐための鳶口といった道具は、物資が不足するなかで重要な防災用具とされていました。戦時下の国民は「隣組」単位でバケツリレー
などの防空演習に励みました。本作は、1945年3月10日の東京大空襲の様子を描いたもので、翌月に開催された陸軍美術展覧会に出品されました。多くの作戦記録画が前線を題材とする中、銃後の市民生活を描いた本作は、珍しい作品といえるでしょう。


【6】身体の記憶

1945年8月15日の戦争終結を伝える玉音放送、そして9月2日の日本による降伏文書の調印によって太平洋戦争は終結しました。敗戦国となった日本は連合国の占領下で非軍事化や民主化等の改革を進めます。深刻な不況に陥っていた日本経済は、1950年に勃発した朝鮮戦争の特需によって回復し、焼け跡からの経済的な復興を実現しました。東西冷戦が激化する中、日本は西側諸国との講和を選択。1952年のサンフランシスコ平和条約の発効によって日本は主権国としての独立を回復しますが、同時に日米安全保障条約によって独立後も米軍への基地提供義務を負うことになります。
このような複雑な力学で成り立つ「戦後」の社会において、過去の戦争の事実から何が記憶され、何が忘却されたかという現在にまで続く「戦争の記憶」の問題が立ち上がります。1950年代には忘却に抗うように、戦争の痛ましい記憶を定着しようと試みる一群の作家が登場しました。戦時中には描かれることのなかった傷つき、変形した身体イメージが媒介となり、容易には消えることのない過去の戦争の悪夢が呼び起こされたのです。

原爆の図 第2部 火 再制作版(丸木位里·俊)

丸木位里·俊
原爆の図 第2部 火(再制作版)
1950-51(後年に加筆)
紙本彩色
広島市現代美術館

この作品は、丸木位里と赤松俊子(丸木俊)による「原爆の図」三部作の「火」(前期展示)、「水」(後期展示)の再制作版です。被爆した人々の身体を克明に描写した「原爆の図」は全国を巡回し、占領下において統制されていた原爆被害の情報をいち早く国民に伝えるメディアとしての機能を果たすようになります。1950年末頃にアメリカでの展示を打診されると、丸木夫妻は「原爆の図」を複数化するためにこの再制作版を制作。海外展示は実現しませんでしたが、「原爆の図」への関心と需要が高まるなか、再制作版も各地で展示されました。なお、1974年に作者自身によって彩色などの大幅な加筆が施されています。


【7】よみがえる過去との対話

1965年以降ベトナム戦争が激化すると、その映像はテレビや週刊誌等を介して日本にも届けられました。日本と沖縄に存在する米軍基地が出撃·兵站基地となり、日本がベトナム戦争に間接的に関与していることが明らかになると、1965年4月に「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)が結成され、様々なメディアを駆使して反戦運動が展開されました。同時に日本人の作家、写真家、美術家、漫画家、デザイナー等がベトナム戦争に反応する仕事を発表します。ベ平連の主要メンバーであった小田実が主張したように、ベトナム戦争は日本人が過去の戦争を想起する契機となりました。戦争体験の風化が叫ばれた1970年前後に、アジアとの関係において過去の戦争を捉え直す視点が芽生えたのです。
さらに、この時期に特筆すべきは、「空襲」「原爆」「沖縄戦」において、歴史から零れ落ちてしまいそうな民間人の戦争体験を収集·記録する活動が、市民を巻き込んで立ち上がったことです。戦争の「小さな」記憶を掘り起こす実践が、過去に向き合う意識の変化をもたらしました。

証言の時代

戦後20年が経過し、戦争体験の「風化」が叫ばれた1965年以降、一般の人々の体験を記録する動きが活発になりました。1968年に『暮しの手帖』は、公募で集まった原稿をもとに「戦争中の暮しの記録」特集を組みました。1970年には空襲体験の記録を残そうと「東京空襲を記録する会」が発足します。軍隊の戦闘の経緯を記す公式の戦記とは異なり、そこから零れ落ちてしまう民間人の「小さな」記憶を拾い集める動きが、市民運動と連動しながら全国に拡大していきました。漫画家の手塚治虫や水木しげるが、個人史に基づいた戦争漫画を発表するのも同時期のことです。終戦から時を経て、封印していた記憶の扉が開きはじめたのです。


【8】記録をひらく

戦争の記録を目的に制作された戦争美術は、他国においては戦争博物館や
歴史博物館に収蔵されることが多いのですが、日本では近代美術館である当館が保管しています。これらは、終戦直後に米軍に接収され、長らく米国内で保管されていましたが、「日本近代美術史上の一つの大きな穴となっており、これを補填する文化的な観点」から返還交渉を行ったという報告が残されています(当館発行『現代の眼』188号、1970年7月)。このような1960年代の交渉の結果、1970年、日本に「無期限貸与」という形で「返還」されました。
接収された日本映画や戦争美術といった文化財を取り戻そうとする流れがこの時期に進行していたのです。では、戦時のプロパガンダとして機能した美術が、戦後25年を経た社会の変化を背景に、どのように読み替えられ、歴史の中に位置づけられたのでしょうか。戦争画を描いた作家の反応や、本土とは異なる眼差しで事態を見つめていた沖縄の作家の視点も交えて、当時の日本社会の受容の仕方を様々な資料を通して検証し、戦争記録画から受け取ることのできる「学び」を提示します。

山下、パーシバル両司令官会見図(宮本三郎)

宮本三郎
山下、パーシバル両司令官会見図
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

太平洋戦争の緒戦のシンガポール陥落を伝える本作は、当時、歴史画の達成として高く評価されたものです。1960年代に戦争画返還に向けた世論が形成されていく過程でも、この作品は象徴的に使われ、1967年8月18日の『週刊読売』の「失われた戦争絵画」特集の表紙も飾っています。作者の宮本三郎は、戦争画について語る座談会にしばしば招かれて発言をしていますが、返還前に、現在の視点からの読み替えについて次のように語っていました。「ああいう絵画は、ある意味では戦争を避けるための戒めにもなるだろうし、まとまった場所に、外国の例にしたがって保管されてしかるべきだ」と(『週刊読売』1967年8月18日号)。

無題(真喜志勉)

真喜志勉
[無題]
1977
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館

沖縄出身の画家·真喜志勉は、ジャズをはじめとするアメリカ文化への憧れと、沖縄に存在する米軍基地への反発とが混ざり合った感情を抱えながら、ベトナム戦争下の沖縄の現実を、マスメディアに流布するイメージのコラージュを通して描き出しました。その作品に、日本の軍人のイメージが登場するのは1970年代半ばのことです。アメリカから返還された宮本三郎の《山下·パーシバル両司令官会見図》を参照する本作は、沖縄、アメリカ、日本の関係の織物となっています。1972年に基地はそのままに沖縄の施政権は「返還」され、1975年の沖縄国際海洋博覧会を契機として本土資本による開発が急速に進展します。アメリカ世からヤマト世への移行を象徴するイメージとして宮本三郎の作品が召喚されたのです。

成都爆撃(小川原脩)

小川原脩
成都爆撃
1945 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

小川原は「殺し合いや撃ち合いといった人間を主題とした絵はやりたくなかった」と考えていたようで、制作した戦争画はすべて飛行機をモチーフにしたものです(『画家たちの「戦争」』新潮社、2010年)。いずれも現場に立ち会うことなく写真と資料をもとに描いたといいます。戦後は、軍部に協力したことを理由に美術界との関係が疎遠になり、また小川原自身が自責の念を抱えていたこともあって、故郷北海道に戻ることを決心しました。その後亡くなるまで中央画壇と距離をとって制作を続けました。小川原の戦後の代表作のひとつ《群れ》(図)に描かれた孤独な犬の姿には、作者自身が投影されているといえるでしょう。90年代のインタビューで、小川原は戦争画が実在することの責任は自分にあると言い、50年以上にわたってその運命に向き合ってきた胸の内を吐露していました。

マユ山壁を衝く(向井潤吉)

向井潤吉
マユ山壁を衝く
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

向井潤吉は、自ら志願して従軍するなど、日中戦争初期から戦争という大きな出来事に積極的に向き合い、表現のレベルで可能なことを模索してきました。本展の第2章で示した、敵側から日本兵の姿を捉えた《突撃》(絵葉書)は戦争表象に新しいボキャブラリーを加えるものでした。しかし、戦況が悪化してからの《マユ山壁を衝く》は、もはや兵士が主役ではなく、それを飲み込む熱帯の植物群に焦点が当たっています。この克明な自然描写と、向井が戦後に開始した民家のシリーズのリアリズムには共通する眼を感じることができるでしょう。向井は、全国を旅して消えゆく民家を記録することに、生涯をかけて取り組みました。

おわりに

本展覧会では、当館が保管する戦争記録画を、どのように次世代に継承すべきかがひとつのテーマとなりました。最大の課題は、すでに終戦から80年が経過し、戦争体験者がますます少なくなる中で、戦時下の文化が置かれていた社会的·政治的な文脈が共有されにくくなっていることです。本展が明らかにしたように、美術を含む視覚的な表現は、決して他のメディアから自立していたわけではなく、同時代に流通していた言説に密接にかかわるものでした。
本展は、「戦争を知らない」世代が、実体験者と異なる視点で過去に向き合うことを積極的に考える機会でもありました。美術や文学などの芸術が虚構を交えて構成する戦争表象を、ジャンル間の比較や大衆文化との関係も含めて俯瞰できる視座を持つこと、さらに、時代や地域を超えた戦争経験との比較考察ができる視点を持つことは、戦争の記憶の継承にとって大きな可能性となるのではないでしょうか。
この展覧会で見てきたように、芸術は過去に、人々を戦争へと駆り立てる役割を果たしました。人々の心を動かす芸術の力の両義性を理解したうえで、未来の平和に向けた想像力に繋げていくために、今後も当館が収蔵する戦争記録画をはじめとする作品は貴重な記録として存在し続けるのです。


別フロアで連動して展示していた戦争画関連

日本画家の戦前/戦中

日本画家の戦前/戦中
昭和に入ると、日本画にもモダンな表現が見られるようになります。単純化されたフォルムや明快な色彩が特徴的です。一方で、戦争がはじまると、日本画家も絵筆によって国に貢献しました。洋画家たちが臨場感に満ちた写実的な描写を目指したのに対し、日本画家たちが使用する岩絵具は写実表現には不向きな画材でした。そのため、日本画家による戦争画には、劇的な演出や迫真的な描写はあまり見られません。しかし、彼らはそれまでの画業で培った造形感覚をいかしながら、外地の風土や自然、日常の光景を描きました。
戦前と戦中の作品を見比べたとき、どのような関係を見出せるでしょうか。

軍用機献納作品展
日本画家報国会が主催したこの展覧会は1942(昭和17)年3月19日から22日
に日本橋三越で開催され、その後、大阪に巡回しました。当館はこの時に出品された184点を所蔵しています。これらはすべて三越に買い上げられ、代価20万円(現在の約5億円)は陸海軍に、作品は東京帝室博物館に納められました。一見、戦争とは無関係な作品に見えますが、国土を象徴する富士や桜、国花である菊、戦闘機を暗示する猛禽類、祝勝を象徴する鯛などのモチーフには、戦勝祈願の意図が込められています。そのほかにも、歴史画や、良妻賢母の理念を説く主題などが好まれました。

戦艦献納展
こちらの2点は、1944年2月に東京帝室博物館表慶館(現在の東京国立博物
館)で開催された「戦艦献納帝国芸術院会員美術展」の出品作です。さかのぼること2年前、日本海軍は第三次ソロモン海戦で戦艦2隻を失いました。兵力の要である戦艦の喪失は国民に衝撃を与え、戦艦献納運動が広がります。戦艦献納展には帝国芸術院の会員である横山大観、川合玉堂、小林古径、安田報彦などの大家が参加しました。

基地に於ける整備作業(山口華楊)

山口華楊
基地に於ける整備作業
1943 昭和18年
紙本彩色
無期限貸与

1943(昭和18)年、華楊は海軍の従軍画家としてインドネシアに赴きました。海辺の前線基地に着水した戦闘機を整備兵たちが迎えています。中央には、パンツ姿のたくましい兵士が、搭乗員のブーツが海水に濡れないように背負って浜まで運んでいる様子が描かれています。水上戦闘機は、プロペラや水上滑走用のフロートなど細部に至るまで克明に描写されており、花鳥画や動物画の名手として知られる華楊としては稀有な作例です。

《基地に於ける整備作業》のための下絵(山口華楊)

山口華楊
《基地に於ける整備作業》のための下絵
1943 昭和18年
鉛筆、彩色·紙
上田研一氏寄贈

当館が保管する戦争記録画《基地に於ける整備作業》の下絵として描かれました。海軍の従軍画家としてインドネシアに派遣された華楊は、1943(昭和18)年10月に帰国すると、直ちに作品の制作に取り掛かり、本画は同年12月に開催された第2回大東亜戦争美術展に出品されています。下絵の右下には紙が貼り足され、人物の大きさやポーズを試行錯誤しながら構図を練っていたことがわかります。兵士たちが着用している白いふんどしが、本画では丈の長いパンツに描き直されている点も興味深いです。

山口華楊発 上田秀雄宛書簡
1943 昭和18年
墨·紙
上田研一氏寄贈

1943(昭和18)年5月25日、従軍画家としてインドネシアに派遣される直前、華楊は知人に一通の手紙を出しました。そこには「銃後もいよいよ第一線と変りが無くなりました[…]絵画がこれからどうなるだろうとか世の中がどうなるだろうとか、そんな空想の時ではありません。もっと切実に此の戦争を勝ちぬく為めに闘ふべき時代です」と書かれており、当時の画家としての華楊の覚悟がうかがい知れます。

輸送船団海南島出発(川端龍子)

川端龍子
輸送船団海南島出発
c.1944 昭和19年頃
紙本墨画淡彩
無期限貸与

海南島は南シナ海北部に位置します。この島で鉄鉱石を採掘し本土へ送る輸送作戦は、太平洋戦争末期になると決死の様相を帯びました。そんな主題に日月と南十字星が描きこまれているのはなぜでしょう?日月の意匠には天に命運を祈るという意味合いがあり、戦国時代には武具や衣裳の飾りにも用いられました。一方、南十字星は当時、南方への領土拡大のシンボルでしたが、祈りの仕草にも見えることを龍子は意識していたでしょうか。

小休止(岩田専太郎)

岩田専太郎
小休止
1944 昭和19年
紙本彩色
無期限貸与

岩田専太郎は、大正から昭和にかけて雑誌や新聞などで連載される大衆小説の挿絵を描き、とりわけ華麗で官能的な女性像が絶大な人気を博しました。そんな岩田もまた時代に翻弄され、
本作のような戦争記録画を描いています。
「…華麗な絵を描いて、ものの役に立たない絵かきのごとく扱われた口惜しさに、無理とは知りつつも兵隊の絵を描いて、戦争末期の昭和二十年には、陸軍報道局の命令で、『神風特攻隊基地出発』の記録画を描いている。[…]それが、戦争が終わると、またもとのような華麗な絵を描け、との注文である。どうすればい
いのだ!と思った。」
岩田専太郎『わが半生の記』(家の光協会、1972年)より

攻略直後のシンガポール軍港(矢沢弦月)

矢沢弦月
攻略直後のシンガポール軍港
c.1942 昭和17年頃
紙本彩色
無期限貸与

山田新一と戦争記録画

山田新一と戦争記録画
山田は東京美術学校で油彩画を学んだ後、1923(大正12)年の関東大震災を機に、当時日本の植民地下にあった京城(現在のソウル)に渡り、朝鮮美術展や帝展を中心に活躍しました。1928年からは、友人·佐伯祐三の誘いを受けて2年間パリに滞在します。その後再び朝鮮に戻り、終戦まで同地を拠点としました。戦時中は朝鮮軍報道部美術班長を務め、自らも作戦記録画を制作しました。
敗戦直後、軍司令部から京城駅構内の倉庫に保管されていた戦争画の焼却命令を受けますが、山田はそれらを後世に残すことを望み、朝鮮人の知人宅に分散して隠しました。
そこには宮本三郎、鶴田吾郎、猪熊弦一郎などの代表的な作例も含まれていました。
帰国後にGHQから依頼を受けた山田は、日本各地と朝鮮を巡って151点の戦争画を収集し、東京都美術館に集めました。戦後、画家たちは戦争責任を追及されることをおそれ、戦争画の多くが焼かれたり、行方不明になったりしましたが、当館が保管する戦争記録画は、このような経緯により残された作品群なのです。

仁川俘虜収容所に於ける英豪兵の作業(山田新一)

山田新一
仁川俘虜収容所に於ける英豪兵の作業
1943 昭和18年
無期限貸与

日本軍は1942(昭和17)年に朝鮮の京城(現在のソウル)と仁川に捕虜収容所を設置し、フィリピンやシンガポールなど南方の地域から捕虜を送り込みました。仁川に収容された捕虜たちは港や製鉄所などで労働に従事したとい
われています。朝鮮を拠点にしていた山田は朝鮮軍報道部美術班長を務め、「内鮮一体」(日本本土と朝鮮の一体化を目指す標語)を推し進めるべく戦争画を描きました。敗戦後、戦争記録画の保存に奔走した人物としても知られています。

曉明の天津附近戦闘(山田新一)

山田新一
曉明の天津附近戦闘
1944 昭和19年
油彩·キャンバス
無期限貸与

1937(昭和12)年7月の盧溝橋事件をきっかけに、日本軍は華北へ侵攻し、北平(現在の北京)や天津を制圧しました。本作は、当時の戦闘の様子を描いた作品で、京城の総督府美術館で開催された決戦美術展に出品されました。戦前から朝鮮を拠点に活動していた山田は、1946年にGHQの命令を受け、朝鮮に残された作戦記録画の回収のため現地へ渡航します。捜索の末、京城YMCAのロビーで本作を発見し、日本へ持ち帰りました。


国立工芸館

国立工芸館は近現代の工芸·デザイン専門の美術館です。
1977年に東京の北の丸公園に「東京国立近代美術館工芸館」として開館し、2020年には政府関係機関の地方移転政策により、石川県金沢市へ移転。2021年には館名を「国立工芸館」と改めました。
陶磁、ガラス、漆工、木工、竹工、染織、人形、金工、工業デザイン、グラフィック·デザインなどの各分野にわたって、総数約4,000点を収蔵し、特定のテーマに基づいた所蔵作品展、企画展を年に4~5回開催しています。他にも工芸の技法や専門用語をわかりやすく解説したデジタル鑑賞システムを備えた「工芸とであう」や、漆芸家·松田権六(1896-1986)の工房を移築·復元した「松田権六の仕事場」のコーナーがあります。
建物は明治期に建てられた国登録有形文化財の旧陸軍第九師団司令部庁舎と旧陸軍金沢偕行社を移築するとともに、過去に撤去された部分や外観の色などを復元して活用しています。周辺には石川県立美術館、金沢21世紀美術館、兼六園などの文化施設も充実しています。


図録 藤田嗣治、全所蔵作品展示

今回の企画展の図録はなかったけれども、藤田嗣治に注目した図録があったので購入しました。

2026年は、藤田嗣治・生誕140周年。
軽井沢安東美術館 では「生誕140周年 藤田嗣治展」の開催を予定している、とか。

https://www.musee-ando.com/blogs/exhibition/exhibit202601

藤田嗣治の戦争絵画以外も知りたくなってきたり、です。猫とか少女とか。


関連

幻の東京オリンピック「大宮公園陸上競技場兼双輪場」

大宮公園を歩いていたら、みつけましたので。


1940年東京オリンピック(東京1940)

1940年東京オリンピック(第12回)は、1940年(昭和15年)9月21日から10月6日まで、東京府東京市での開催が予定されていた夏季オリンピック。東京1940(Tokyo 1940)と呼称。
史上初となるアジアで行われる五輪大会と紀元二千六百年記念行事(第12回夏季オリンピック東京大会と第5回冬季オリンピック札幌大会と紀元2600年記念日本万国博覧会を大規模開催予定だった)として準備が進められていたものの、支那事変の勃発や物資や兵士を取られる軍部の反対などから日本政府は1938年(昭和13年)に開催権を返上、実現には至らなかった。
第二次世界大戦後、1964年(昭和39年)の東京オリンピックが、日本、そしてアジアで初のオリンピックとなった。


大宮公園陸上競技場兼双輪場(大宮競輪場)

大宮競輪場は1939年に大宮公園に建設された国内初の自転車競技場。
これは1940年に開催予定(中止)だった「東京オリンピック」の自転車競技(トラック競技)の会場として使用する事を想定されたために建設されたものであった。
しかし、芝浦自転車競技場(芝浦オリンピック自転車競技場・現存せず)の建設が決まったために、幻の東京オリンピックが開催されたとしても、どのみち大宮で自転車競技は幻に終わるものであった。

1949年1月には福岡・小倉に続いて全国2カ所目、東日本では初の競輪が開催された。
「東日本競輪発祥の地」

幻の東京オリンピックと陸上競技場・双輪場建設(日本初の傾斜バンク)
 大宮公園の陸上競技場兼双輪場は、幻となった第12回東京オリンピック大会(昭和15年開催予定)のために建設されたものです。
 昭和11年8月の東京大会開催決定を受けて、昭和5年に着工されながらも建設が中断されていた陸上競技場の外側に一周500m、最大傾斜40%のバンクを設置するもので、この年の夏から本格的な工事が始められました。
 しかしながら、日中事変の影響で昭和13年7月、東京大会の中止が決まりましたが建設は続けられ、昭和14年9月に双輪場が、翌15年6月には陸上競技場が完成しました。双輪場はドイツ自転車連盟の好意で入手したペドローム競走路の設計図に基づく東洋初の近代的な施設でした。
 オリンピックに代わり、昭和15年6月6日には「紀元二千六百年記念東亜大会」の自転車競技が、7月20日・21日には、第1回県民体育大会が開・催されました。
 また、昭和24年1月15日には東日本初となる第1回大宮競輪も開催されました。
  平成17年9月 大宮公園事務所

夜にちかい夕方ですが。


再訪(2026年1月4日)

再訪しました。写真撮り直し。

ちなみに、ちかくの大宮公駅前の二郎に赴く途中でした。。。

※2025年11月撮影


関連

戦艦武蔵の碑
埼玉縣護國神社

生玉公園地下壕跡(生玉公園・大阪)

谷町9丁目駅からほど近くに鎮座している「生国魂神社」(いくだまさん)に隣接する「生玉公園」に地下壕があるというので足を運んでみた。


生玉公園

生玉公園は1940(昭和15)年5月着工、42(昭和17)年5月に開園。
生玉公園の地下壕は当時軍部が戦局を拡大させる中で空襲に備えるための「都市防空壕」として大阪市によって建設されたもの。

生玉公園地下壕
 先の戦争において我が国はアジア・太平洋地域の人々に対し大きな災禍と苦痛をもたらしたことをわすれてはなりません。また、大阪においても8次にわたる大空襲を含む50回を超える空襲を受け、まちは一面の廃墟となりました。
 生玉公園は1940(昭和15)年5月着工、42(昭和17)年5月に開園、地下壕は当時軍部が戦局を拡大させる中で空襲に備えるための「都市防空壕」として大阪市によって建設された。
 地下壕については、その建設経過や使用状況などの詳細は明らかになっていませんが、戦争末期には陸軍が使用していました。戦後、米国戦略爆撃調査団により刊行された報告書では、当時、一般では入手できなかった資材を使用して建設された「特別防空壕」の例として報告されています。
 また、この地下壕建設にあたっては、当時の植民地支配の下で「強制連行などにより集められた朝鮮人が苛酷な労働に従事させられた」との体験者の証言があります。
 戦後の50年にあたり、戦争の悲惨さを語り継ぎ、国籍・民族・文化等の違いを超えた相互理解と友好を深め、世界平和を心から願う気持ちを込め、ここに銘板を設置します。
 1996年(平成8年)3月 大阪府/大阪市

地下壕の構造
 内部の構造はアーチ状で鉄筋コンクリート造り、2階建て(ただし2階部分は現存せず)で、本体は幅約9m、高さ約6.5m、長さ約24m、1階部分の床面積203平方メートルとなっています。

生玉公園の上部に、「通気口」が残る。

斜面

開口部はコンクリートで閉鎖をされている。

しばらく工事していました。
2025年3月に訪れた際に工事していて、10月に訪問した際に工事が完了してました。
(そのまえ9月の段階でもまだ工事していて、実のところ、工事がいつ終わるかわからなかったため、不定期に何回か様子見るために訪問していました)

場所

https://maps.app.goo.gl/79iT3oobLXTJVNxZ6


生國魂神社

祭神:
生島神(いくしま神)
足島神(たるしま神)
相殿:大物主神

祭神は神祇官西院にて生島巫によって祀られる神。
歴代天皇が即位の際に祀る神として国家祭祀(八十島祭)の社。国土神霊として崇敬されてきた。

由緒:
 神武天皇が九州から難波津にお着きになられた際に、現在の大阪城付近に生島大神・足島大神を祀られたのが、当社の創祀とされている。そののち相殿に大物主神を祀っている。
 平安期の延喜式には「難波坐生國咲國魂神社」(二座)と記載され、御祭神は特別に生島巫によって祀られるなど、国家祭祀(八十島祭)の社として知られている。
 中世期には当社に隣接して「石山本願寺」が建立。元亀年間には信長の本能寺攻めにより延焼。その後、再興されるも秀吉の大阪築城によって天正11年(1585)に現在地に遷座したとされている。
 以来、当社は「難波大社」の尊称をもって広く崇敬され、明治期には官幣大社に列せられ、国土守護神・大坂総鎮守として篤く信仰されてきた。

 本殿社殿は「生國魂造」と呼ばれる独特の建築様式。本殿と幣殿は一つの流れ造りでふきおろし、正面屋根には千鳥破風・すがり唐破風、さらに千鳥破風の三破風をすえたものとなっている。
 社殿は明治45年、昭和20年に焼失し、さらには昭和25年の台風によって総檜素木造の本殿が倒壊。
 現在の社殿は昭和31年に鉄筋コンクリートによって建てられたもの。


※撮影:

2025年3月・10月


大阪関連

はじめに

「仙台市・西公園(桜ケ岡公園)」散策(仙台の戦跡散策・その12)

仙台市の西側にある総合公園。開園は明治8年(1875)と仙台市内で最も古い都市公園となる。広瀬川の東側に位置しており、広瀬川を挟んで対岸は、青葉山公園となっている。

西公園には記念碑が多く集まっているので、ちょっと散策してみましょう。


西公園

開園は1875年(明治8年)で、仙台市内で最も古い都市公園。
開園当時は「桜ケ岡公園」と呼ばれていたが、市の東側に「榴岡公園」が設けられた際(明治35年・1902)に、「榴岡公園」を東公園、「桜ケ岡公園」を西公園と呼称されるようになったが、「西公園」の呼称が定着した。
明治19年(1886)には陸軍第二師団の陸軍将校クラブの「仙台偕行社」が設置。 
天皇や皇族が仙台を訪問した際の宿泊や休憩にも利用された。
第二次世界大戦中には、西公園内に防空壕が設けられ、仙台空襲に際しては西公園は焦土と化したが、多くの仙台市民が防空壕に避難をした。

場所

https://maps.app.goo.gl/NMSSmhoUK8zuVVAz6


明治天皇御駐輦址碑

明治天皇御駐輦址碑
元帥伯爵東郷平八郎謹書

昭和2年建立。

1876年(明治9年)4月15日から宮城県博覧会が桜ケ岡公園で開催。
明治9年年6月には、 明治天皇が巡幸に訪れた。(明治九年六月東北巡幸)
博覧会では競馬が催された。


故内大臣海軍大将子爵齋藤公碑

昭和15年建立。

斎藤実は、岩手県水沢市出身。
海軍大将、海軍大臣、文部大臣、外務大臣、朝鮮総督、そして、第9代 内大臣、第30代 内閣総理大臣を歴任した。
内大臣時に、二・二六事件で暗殺された。


宮城縣殉職警察宦之碑(解体済)

昭和8年建立。
殉職した警察官の霊をまつり、永遠にその勲功を讃えるもの公益財団法人警察協会が管理、であった。
2024年に名取市の宮城県警察学校内に慰霊碑が新設され、それに伴い西公園の慰霊碑は撤去されたもよう。

うーん、なくなった


支倉六右衛門碑

明治41年建立。
支倉常長の記念碑。
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、武将慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航した伊達家臣。

扁額は東郷平八郎。


殉職消防組員招魂碑

昭和6年6月6日建立。
公益財団法人宮城県消防協会が慰霊祭を行っている。


広瀬川橋梁・西公園高架橋(地下鉄東西線)

広瀬川をわたる地下鉄東西線。
全駅が地下駅であるが、広瀬川は橋梁となっている。これは広瀬川を地下とした場合、青葉山で極端に深い地下駅となってしまうのを防ぐため。


明治天皇御駐輦所址

明治天皇御駐輦所址

昭和5年建立。
明治9年に西公園内で旧仙台藩士12名により行われた天覧騎射が開催され、その観覧を記念したもの。


西公園の防空壕跡

「仙台市・西公園」周辺の地下を広瀬川の崖から掘った横穴式の防空壕。総延長は200メートル超という。

工事中、でした。


大橋

広瀬川に架かる橋梁。
現在の大橋は、1938年(昭和13年)にコンクリートの橋となる。
鉄筋コンクリートのアーチ橋で、親柱、灯篭、高欄に和風の装飾を凝らす。長さ約116メートル、幅約11メートル。

仙台城の石垣も見える。

大橋の東側ちかくには、「仙台キリシタン殉教碑」「仙台高等学校発祥の地」などがある。

※撮影:2025年9月


関連

仙台の戦跡散策・その1から

仙台空襲からの戦災復興「壱弐参横丁・仙台朝市」(仙台の戦跡散策・その11)

仙台空襲で焦土と化した焼け野原。
戦後、露天商などが集まり誕生したのが「横丁」であった。


壱弐参横丁(いろは横丁)

昭和20年7月10日。「仙台空襲」で焦土と化した仙台の中心部。
焼け野原となった街なかで、昭和21年(1946年)、「仙台中央公設市場」が誕生したのが「壱弐参横丁」の始まり。
長屋の集合体に屋根を付けた商店街。
戦後の仙台の復興を象徴する横丁。東日本でも最大級のバラック商店街だ。
ちなみに、一番町2丁目3番地にあるから「壱弐参」(いろは)という。

東側の入口は「仙台市立東二番丁小学校」に面している。

西側は「サンモール一番街」というアーケード商店街と接続している。

長屋の連なり。

場所

https://maps.app.goo.gl/ey51XHnS6e6fK5GFA


文化横丁

壱弐参横丁の隣には「ブンヨコ」と愛称される「文化横丁」がある。文化横丁は、昭和元年設立で、100周年。
大正13年に誕生した「東百軒店街」が原型とされ、大正14年に開業した「文化キネマ」に由来するという。
もともと文化横丁はサンモール一番町商店街を挟んで反対側にあった。
仙台空襲で文化キネマと文化横丁は焼失、戦後復興の昭和24年に露店・闇市から再スタートした「文化横丁」は現在の場所で再開されたという。

https://www.sendaimiyagi-fc.jp/search/%E6%96%87%E5%8C%96%E6%A8%AA%E4%B8%81

まったく、横丁とは関係ないけど、
ちかくの「ラーメン二郎 仙台店2」を食す。

なにげに、二郎をよく食べているのだ。


仙台朝市

仙台朝市の歴史は、仙台空襲で焼け野原となった仙台駅前に並んだ露店、通称「青空市場」から始まると言われている。

https://sendaiasaichi.com/history

時間の都合で、朝には来れませんでしたが。

後日、朝に訪れて、朝ラーを食してみました。

ラーメンもおいしかったが、明太子ご飯の、明太子の量に幸せを感じました。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Fybh58uTLnnWx2zU7

仙台の戦後復興といえば、牛タンも関係している。


※撮影:2025年9月


関連

仙台の戦跡散策・その1から

「空襲警報を伝えたサイレン」と「仙台市戦災復興記念館」(仙台の戦跡散策・その10)

仙台の戦跡散策。
仙台市の戦災復興記念館に足を運んでみました。


警報サイレン

モーターサイレンは今も昔も形状は大きく変更がない確立された原理っぽい。

サイレン
 旧仙台市役所庁舎の塔屋内にあり、正午の時報を知らせていま
した。
 戦争中は、空襲の警戒警報、空襲警報にも使われました。
 イヤホンを耳にあてて、ボタンを押すと当時の警報を聞くことができます。

不明のジャンボサイレン発見 毎日新聞1983年(昭和58年)6月30日
戦前から正午の時知らせ
戦時下空襲警報も
(省略)
発見されたサイレンは、真っ赤にサビ付いていたが鉄製で、内部の羽根はアルミで出来ている。内蔵されたモーターが羽根を回し”うなり”を出す仕組み。大きさは約1メートル立方もあるジャンボサイズ。
このサイレンの製造、設置年月日は不明だが、記念館側の話では、戦前に旧庁舎のサイレン塔に取り付けられ、戦中、戦後と市民に正午の時を知らせたり、戦時下では空襲警報や警戒警報を伝え、多くの市民に知られた存在だったという。
しかし、背負わ41年、現市庁舎の前庭部分に建っていた旧庁舎が取り壊された際、行方がわからなくなった。
このほど、このサイレンが確認された場所は仙台市追廻の市公園管理事務所青葉山倉庫で、他のガラクタと一緒に放置されたままになっていたという。
(省略)

なかなか迫力のあるサイレン


仙台市戦災復興記念館

仙台市戦災復興記念館について
 当館は、仙台市の「戦災復興の資料及び記録を総合的に展示し、市民の戦災復興への努力とその成果を記念するとともに、市民に文化活動の場を提供し、市民文化の向上に資する」(仙台市戦災復興記念館条例)ことを目的として、昭和56年4月1日に設置されました。

館内の様子。
ちなみに、入館料は大人120円。安すぎる。

仙台空襲と戦後の復興事業に関する展示

軍都仙台
軍都への歩みは、1871(明治4)年川内(仙台城二の丸跡)に軍の「東北鎮台」が置かれた事に始まります。後に仙台鎮台と改称し、鎮台は1888(明治21)年には第二師団となりました。また、榴岡には歩兵第四連隊がおかれました。

仙台空襲前後の空撮

明治·大正·昭和初期の建物
仙台の近代化の象徴であった、洋風建築物の多くは戦災によって焼失しましたが、県庁や市役所、仙台市立病院、三越百貨店など、戦災を免れた建物もわずかにあります。榴岡公園内に建つ歴史民俗資料館は、元歩兵第四連隊兵 舎 [1874( 明 治 7) 年 築 ] で 、 現存する県内最古の洋風建築です。

戦時下の食事

仙台に投下された焼夷弾

B-29による都市空襲の経緯
大都市に続いて、中小65都市が空襲されていった

仙台空襲

仙台空襲
1945(昭和20)年7月10日、0時3分ごろから約2時間にわたって、仙台はアメリカ軍B29型爆撃機による空襲を受け、被災者は57,000人、1,000人を超す尊い命が奪われました。917.6トンもの焼夷弾や爆弾が、仙台駅西側の街の中心部、第二師団のおかれていた川内の軍事施設及び市内の住宅地に投下され、静かなたたずまいをみせていた仙台は、一夜にして瓦礫の原にかわってしまいました。

1945年(昭和20年)7月10日午前0時3分

米軍資料から見た仙台空襲

1.B-29の日本本土空襲
 第2次世界大戦末期の1944年夏、米軍はマリアナ諸島にB-29の基地を造り、同年11月から2500km以上離れた日本本土への空襲を開始した。
 連日のように軍需産業や都市が空襲され66都市が焦土となった。そして原爆投下。この他にも数多くの町や村が小規模な空襲にさらされ、また米英海軍の艦載機攻撃や艦砲射撃を受けた。その結果,数10万人の生命が失
われた。

2.B-29による本土空襲の区分
B-29による空襲は下の資料1のように区分される。
*第|期は主に航空機産業を高高度より精密爆撃を行った。
*第Ⅱ期は東京・大阪等大都市への焼夷空襲で、低空から主に夜間のレーダー攻撃。沖縄作戦支援。工場爆撃を行った。
*第Ⅲ期は6月中旬より全国の中小都市を、1夜に4都市ずつ低空からレーダーで焼夷空襲。梅雨時の悪天候対策であった。

 7月10日の仙台空襲は第II期、16回に及ぶ中小都市空襲の7回目で、比較的大きな市街地への最後の攻撃であった。
戦争終結のわずか1か月余り前のことである。

3.なぜ仙台は,空襲されたか
 この問いの答えは,米軍資料にあった。米軍は日本の戦争継続能力に打撃を与えるため、大都市の大規模空襲に続き全国の中小都市を次々と空襲していった。
 攻撃目標の都市を選択する資料となったのが、180の都市を人口順に並べた資料2である。この中で仙台市は13番目、223,630人 *。人口の他,都市の密集性・延焼性・軍需や輸送等徹底分析が行われ、目標として選ばれたのである。
*1940年国勢調査

4.空襲への手順
米軍は空襲前に収集した情報と偵察写真により、綿密な空襲計画を立て実行した。実行中も戦史将校をおき自らの戦闘を記録、 空襲後の評価を含む膨大な記録を残した。これらは米国立公文書館などに保存されており、情報公開されている。
この資料によって、仙台空襲がどのように計画され実行されたのかを知ることができる。
 空襲への主な経緯は、5月に偵察機が仙台地域の写真撮影。これを基に6月に計画の概略を、7月初めに爆撃中心点を表示したリト・モザイクを作成。立案空襲への主な経緯は、5月に偵察機が仙台地域の写真撮影。これを基に6月に計画の概略を、7月初めに爆撃中心点を表示したリト・モザイクを作成。立案した詳細な計画に従い、7月10日に空襲を実施した。
 空襲によって与えた損害を知るため7月25日に航空写真を撮影し分析。焼失しなかった駅東部に対し、8月10日、再空襲計画を立てた。しかし15日に戦争が終わり、駅東部地域は再空襲を免れた。

7月10日仙台空襲と再空襲の計画

写真加工提供:工藤洋三氏
写真:米国立公文書館所蔵

街は2時間3分で焼け野原
空襲中の写真に現在の地図を重ねる
*左上は元写真。炎上部分の現在地がわかる。1時27分撮影
*空襲開始から1時間半後、左下の現東北大川内キャンパスにあった旧陸軍施設は盛んに燃えている。
*右側、現在の地下鉄南北線沿いの街並みは燃え、当時の木町通国民学校が炎上中。約30分後に攻撃は終わった。
*爆撃中心点は右下写真外に位置する。

空襲前後の写真比較 市街地の27%が焼失
損害評価図-与えた被害の程度を分析した図-
(図上に空襲目標の円と主な位置を記した)
*空襲後の写真上に焼失区域が斜線で示されている。円内にある市街地中心部と円外左の川内の軍事施設が焼失。
*円内でも駅の東部、南部(東北帝大)は焼け残った。
*黒の実線内が米軍の設定した住宅密集地域.。焼失した斜線部はこの27%で、他都市に比べて小さい。
*このため、再び空襲する計画が立てられた。

焼け残った東部に再空襲計画
再空襲の2つの目標エリア
(写真上に再空襲目標を示す2つの実線円と爆撃中心点座標、7月10日仙台空襲時の空襲目標を示す破線円を記した)
*8月10日、再空襲の計画が立てられ、焼け残った北東部と南東部に、半径0.9kmの円が設定された。
爆撃中心点は現在の常盤木学園南方(座標:081123)と、仙台一高南方(座標:081081)。どちらも東北本線沿線であった。
*半径1.2kmの破線円は仙台空襲時に設定された円。
*8月15日,戦争が終わり、再空襲を免れた。

仙台空襲と防空壕

下記で展開しました

空襲警報旗

米軍が透過した伝単

米軍が投下した伝単
伝単とは戦争相手国の市民や兵士の戦闘意欲を失わせる目的でばらまくビラ。
太平洋戦争末期、米軍は日本本土上空から大量の伝単をまいた。空襲予告や降伏勧告、戦況の不利などを知らせる内容で、これらの伝単を拾った者は、憲兵や警察へ届けることになっていた。拾って持っていると、非国民として処罰されたため、現在残っている物は少ない。

君達の指導者は嘘つきだ!!

変わる身近な街並み

仙台市電
1926(大正15)年、仙台市街電車(市電)が開通しました。区間は仙台駅前~大町一丁目間と東五番丁~荒町間。
その後北仙台、長町、八幡町まで延長され、1948(昭和23)年原町線の開通で完成をみました。通勤·通学·買い物客の足として多くの市民に愛され、利用されましたが、1976(昭和51)年、半世紀にわたる歴史を閉じました。


宮城県の戦争遺跡「防空壕」

特別コーナー的にまとめられていて、なかなか興味深い展示であったので、メモとして記録。

仙台戦災復興記念館

https://www.hm-sendai.jp/sisetu/sensai

※撮影:2025年9月


関連

仙台の戦跡散策・その1から

防空壕きくらげ(川崎市麻生区)

川崎市麻生区に、「防空壕」で作られた「きくらげ」があり、それを販売する自販機がある聞いたので、足を運んでみました。


川崎初空襲

昭和17年4月18日、日本本土に対する空襲(ドーリットル空襲)
米陸軍所属のB-25爆撃機16機が米海軍所属の空母ホーネットより発進し、日本本土への空襲を実施。この空襲がアメリカ軍による日本初空襲(東京初空襲)であり、ミッドウェー海戦のきっかけともなった。
「ドーリットル空襲」の名称は爆撃機隊の指揮官であったドーリットル中佐に由来する。
日本側の被害は、死亡約90人、負傷約460人であったという。

川崎には、ドーリットル爆撃隊16機のうち、東京を目的としていた5番機・6番機・7番機と横浜を目的としていた12番機の4機が、結果として川崎に爆撃を実施している。


川崎大空襲

昭和20年4月4日、川崎地区において、B-29 による初空襲。
以後、川崎は、大規模な重化学工業や軍需生産に欠かせない大規模工場が多く集まっていたために、臨海地区や南武線沿線の工場を中心に何度も空襲被害にあってきた。
そして4月15日には、B-29爆撃機200機を超す編隊にて川崎を空襲された。
「川崎大空襲」での死者は700人から1500人といわれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html


川崎市麻生区栗木の防空壕

川崎市麻生区栗木に鎮座している「常念寺」。
戦時中に、川崎市川崎区の大島国民学校(現・川崎市立大島小学校)に通う児童が常念寺に疎開していたという。なお、川崎臨海部の国民学校は内陸の麻生区の寺院に分散して疎開していたようでもある。
麻生区の隣の町田鶴川には白洲次郎の武相荘もあった。

川崎市麻生区栗木の防空壕は、常念寺で疎開児童のためにつくられた防空壕であった。

防空壕について
神奈川県川崎市麻生区栗木の住宅街のそばの竹林に防空壕があります。終戦1年前の昭和19年8月、空襲に備えて学童疎開が発令され、川崎区の大島国民学校の3年生4年生の女子児童39名が、家族と離れて栗木の常念寺に来て終戦までの一年間共同生活をしました。
この防空壕はその子供たちを守るためにお寺のすぐ近くに日本軍によって掘られたものだと伝えられています。軍によって掘られたものは特殊地下壕と呼ばれています。
防空壕きくらげをお召し上がりいただくことでご家庭で戦争や平和、防空壕のない世界について話し合うきっかけになれば幸いです。

すぐ近くの日本軍?
同じ、川崎市麻生区には、探照灯基地(照空灯基地)もあったので、展開している部隊が居ても、まあ、おかしくはない。

https://senseki-kikou.net/?p=14765


防空壕きくらげ

【防空壕きくらげについて】
菌床:日本産
品種:アラゲキクラゲ
戦前の防空壕を補修改修し、国産キクラゲ栽培をしています。
防空壕の中は、夏は25℃、冬は15℃です。キクラゲの成長温度は20℃~25℃なので、冬場に少しヒーターで御園してあげれば、夏しか育たないキクラゲが一年中収穫できるのです。適温でゆっくり育ったキクラゲは肉厚でプリプリの食感です。国内のキクラゲ市場は95%が中国産の感想キクラゲとなっています。希少な国産のキクラゲは食感良く、食物繊維が豊富に含まれています。

自販機で、キクラゲが売っている!!

大ボトル 乾燥きくらげ(22g)1,000円
大ボトル 生きくらげ(170g) 800円
小ボトル 乾燥きくらげ(12g)600円
小ボトル 生きくらげ(100g) 500円
防空壕きくらげキムチ 1200円
 (麻生区限定おつけもの慶)

防空壕

購入しました。
小ボトル 生きくらげ(100g) 
 と
防空壕きくらげキムチ

サイト

https://netsugen-system.co.jp

https://boukuugoukikurage.stores.jp

場所

https://maps.app.goo.gl/XEyaWqZDprqP6HwJ9

※2025年8月


関連

地下壕では、日本酒も熟成されます

沖縄戦で失われたケービン鉄道「旧沖縄県営鉄道那覇駅跡の転車台遺構」(沖縄戦跡慰霊巡拝14)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その14」となります。

その13は、下記にて。

2022年10月記録です


泊まっていたホテルの最寄駅が「旭橋駅」であったことから、旧那覇駅にも程近く、せっかくなので足を運んでみました。


旧沖縄県営鉄道那覇駅跡

軽便鉄道の起点となっていた那覇駅だけにあったとされる「転車台」の遺構が移設保存されている。
那覇駅遺構は沖縄戦や戦後のバスターミナル建設などによって残っていないと考えられていた。
ところが、2015年に那覇バスターミナル再開発工事で「転車台」の遺構が発見された。

那覇駅跡
 沖縄における軽便鉄道各路線の起点となった那覇駅跡。
 日本の鉄道は、近代化への象徴として、明治新政府により推進され、1872年に初めて新橋〜横浜間が開通した。沖縄県でも、本土から来た寄留商人を中心に、鉄道事業の計画が何度かなされたが、資金調達等で目途が付かず、計画中止が相次いだ。
 通常の線路幅である1067mmに対し、それ未満の線路幅の鉄道設置を認め、建設費や維持費の抑制を図った「軽便鉄道法」(1910年)の成立を受け沖縄県では、1913年(大正2)に線路幅762mmの計便鉄道の敷設を決定した。
 1914年(大正3)12月1日に、那覇と与那原を結ぶ与那原線(全長約9.8km)の操業が開始され、その後、1922年(大正11)に那覇〜嘉手納線(約23.6km)、1923年(大正12)に那覇〜糸満線(約18.3km)が開業した。那覇港への引き込み線(約0.7km)も敷かれ、貨物専用として使用された。沖縄の軽便鉄道は「アギフィーグルマ」(陸火車:陸蒸気船)とも呼ばれたが、人々からは「ケービン」の愛称で親しまれた。
 那覇駅は、与那原線開業時に整備され、路線増加とともに拡充された。赤瓦葺きの木造平屋建ての駅舎には売店もあり、林s熱して鉄道管理所や交番が置かれた。構内には転車台・機関庫・石炭置き場、北端には職員住宅もあった。
 車両は、蒸気機関車12両、ガソリン動車6両、客車52両、貨車51両あったといい、1930年(昭和5)に初めて導入されたガソリン動車では、快速運転も行われ、乗客から人気があったという。那覇からはそれぞれ30分(与那原)、60分(嘉手納)、50分(糸満)程で結ばれていた。普段は3両編成であったが、キビの収穫時期や盆・正月、波上祭の時期には、5〜8両編成になったという。沿線地域の子どもたちは、「シッタンガラガラ」と音を立てて走る「ケービン」の姿や、「アフィー・アフィー」と聞こえる汽笛を真似て、遊んだという。
 那覇駅は、1944年(昭和19)10月10日の空襲により甚大な被害を受けたが、1ヶ月後には、運行が再開され、沖縄守備隊の兵站輸送や、住民の本島北部への疎開に利用された。しかし、翌年の3月下旬には、米軍の攻撃により破壊され、運休となった。
 終戦後の1947年(昭和22)には鉄道復興の計画もあったが、幹線道路の整備が優先された。さらに1950年(昭和25)の朝鮮戦争勃発による鋼材不足のため、スクラップ(くず鉄)ブームが起こり、車両やレールの残骸もスクラップとなった。
 那覇駅跡周辺は、1953(昭和28)から区画整理が始められ、1959年(昭和34)には那覇バスターミナルとなった。かつての那覇駅構内の北端に位置した仲島の大石は、ターミナル内の出入り口付近に二個慣れている。

戦前の那覇駅構内図

那覇駅構内図
転車台の位置がわかる。

沖縄県営鉄道及びバス路線図

沖縄県営鉄道那覇駅跡出土の転車台遺構
 沖縄県営鉄道那覇駅は、沖縄戦による破壊や戦後のバスターミナル建設等によって当時の施設は全く残っていないと思われていました。ところが、再開発中に、当時の駅構内にあった施設の遺構が発見されました。発掘調査の結果、遺構は沖縄では唯一那覇駅だけに設置されていたと言われる、機関車を方向転換させるための「転車台」と呼ばれる施設であることがわかりました。
 「転車台」遺構はコンクリートの基礎とその上にレンガを積み上げたドーナツの形をした構造で、かなり破壊されていましたが、全体の形がほぼわかる状態で残っていました。大きさは直径約6.8m、高さは最も残りの良い状態で最大約1.1mあります。
 基礎部分の地中には、直径約18cm前後の木杭が多数埋め込まれていました。これは、那覇駅一帯が埋め立て地で地盤が軟弱なため、「転車台」全体の沈下を防ぐための工事であったと考えられます。発見された「転車台」遺構は、近代沖縄の交通の歴史、建築・土木技術など、様々なことを知ることができる大変貴重な文化財です。

戦前の那覇駅構内(左側に見える円形が転車台)

機関車と転車台のイメージ模型(縮尺:6分の1)


沖縄都市モノレール線(ゆいレール)

沖縄県営鉄道「ケービン」が昭和20年3月に運行を停止し、沖縄戦で鉄路が破壊されて以来、沖縄には鉄道がなかった。
戦後、米軍主導で道路整備が優先されるも、経済活動が活発化してくると慢性的な道路交通の渋滞が発生していた。
そうした中、「沖縄県内に存在する唯一の鉄軌道路線・モノレール」として、2003年に「沖縄都市モノレール線・ゆいレール」が誕生した。


付記:沖縄の海保(第十一管区海上保安本部)

海上保安庁のなかで、最大規模の管区を誇る。

沖縄の海をクルージングするタイミングがあって、そこで海保の船をいくつかみたので、記録程度に、メモしておきます。

PLH06「おきなわ」

PLH09「りゅうきゅう」

PL03くだか

双胴船でのクルージング、でした。


付記:沖縄で飲食したものとか

なんとなく記録的に。これで締めなので。

ブルーシール

沖縄限定の紅茶花伝

オリオンビール

ソーキソバ

パワーギア

オリオンビール

ステーキハウス88(締めのステーキ)

ブルーシール

シークワーサー

さんぴん花茶
べにいもたると

ブルーシール(塩ちんすこう)

なんかスマホにのこっていた飲食系の写真がだいぶ偏っていることがわかりました。
もちろん、他にもいろいろ飲み食いしていたんですけど、写真に残っていたのが。。。


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

本編は、これで締めです。1日半の記録、でした。
1日目(全日) 沖縄本島南部周辺
2日目(半日) 那覇中心部周辺
また、行きたいですね。
今回のまとめで、かなり沖縄戦に関する知識が増えました。
次回もより深い巡拝ができるかと思います。まとめればまとめるほど、行かなばならない場所が増えてしまい。

みたまやすらかなれ、と深く拝し、合掌し。

「その1」に戻る

学童疎開船の悲劇「対馬丸記念館と旭ヶ丘公園」(沖縄戦跡慰霊巡拝13)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その13」となります。

その12は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


対馬丸事件

対馬丸は、日本郵船のT型貨物船の一隻。
総トン数は6,754トンの貨物船。
T型貨物船は、日本郵船の事実上最初の大型貨物船であり、高速ディーゼル船が就役するまで日本郵船の貨物船隊の主力であった。
大正2年(1913)から大正10年(1921)まで合計28隻が建造された。
1920年代以降は、高速ディーゼル船に第一線を譲り、1930年代後半からの世界情勢の悪化に伴い、援用貨物航路は縮小され、太平洋戦争とともに、陸海軍徴用船として使用され、多数の被害を出した。
終戦時にT型貨物船として残存したのは、28隻のうち1隻のみ(鳥羽丸)であった。

対馬丸は、大正4年(1915)竣工、大正5年(1916)6月21日就役。
就役後は、第一次世界大戦後に再開されたパナマ運河経由の貨物船として、横浜ーニューヨーク航路第一便として出航する栄誉を担った。
昭和12年(1937)に、対馬丸は日本郵船新鋭船にメインルートを譲り、カルカッタ航路を担当。
昭和16年(1941)9月21日付で日本陸軍に徴傭され南方戦線の輸送に投入。
昭和17年(1942)5月5日に日本陸軍の徴傭船としては解傭され、6月12日からは船舶運営会使用船となり物資輸送任務を担った。
昭和18年10月28日付で、再び日本陸軍に徴傭され、陸軍徴傭船となる。

昭和19年7月、サイパンの戦いが終結し、沖縄の防衛が急務となっていた。
そのため輸送船団は、沖縄本島に展開する兵員や軍需輸送を本土から沖縄に往路は軍事輸送、沖縄から本土への帰路は沖縄疎開の非戦闘員を乗せた疎開輸送を担っていた。

8月1日。本土からの沖縄への往路として、対馬丸は「モ05船団」に加入して、門司港を出港。「対馬丸」には、船舶工兵隊第二十六聯隊第一中隊211名が乗船し、同行輸送船には「和浦丸」「暁空丸」、護衛には敷設艦「白鷹」駆逐艦「響」などの船団であった。

8月5日。嘉手納港に入港した「モ05船団」は陸軍部隊を揚陸。対馬丸・和浦丸・暁空丸は「609船団」として上海・呉淞に回航し、沖縄防衛を担う第62師団の兵員を搭載して、護衛する駆逐艦「蓮」「栂」砲艦「宇治」とともに8月19日に那覇に到着した。

8月21日18時35分。
「ナモ103船団」として、「対馬丸」「和浦丸」「暁空丸」と、駆逐艦「蓮」砲艦「宇治」は長崎に向けて那覇を出港。
対馬丸には、学童疎開と民間人で1,661名が乗船。また、船舶砲兵隊41名も乗船していた。乗員は86名であった。
なお、和浦丸は、学童疎開者だけで1,514名、暁空丸は、一般疎開者だけで1,400名の乗船であった。

アメリカ海軍は、暗号解読などにより「ナモ103船団」の動向を把握しており、アメリカ潜水艦ボーフィン(SS-287 USS Bowfin)がレーダーでナモ103船団を探知。

8月22日22時9分、「ナモ103船団」を捉えた米潜水艦ボーフィンは、魚雷6発を発射。
対馬丸に2本魚雷が命中。船長は「総員退船」を命するも、魚雷命中の11分後の22時23分頃、対馬丸は大爆発をして沈没した。
乗員乗客あわせて1,484名が死亡した。このうち、15歳以下は1040名が犠牲となった。
(学童疎開者784名、疎開介添者30名、一般疎開者625名、船員24名、船舶砲兵隊員21名)
なお、学童疎開者で生き残った児童はわずかに59名であった。

なお、米潜水艦ボーフィンは、「真珠湾の復讐者」として、日本の艦船44隻を沈めたとされ、現在は、真珠湾のボーフィン記念公園に保存されている。


対馬丸記念館

対馬丸記念館

https://www.tsushimamaru.or.jp

対馬丸デジタルアーカイブ

https://www.tsushimamaru.net

對馬丸記念館

疎開船対馬丸で犠牲になった子どもたちの資料館
対馬丸記念館

昭和19年(1944)年7月7日、サイパン島の日本軍が全滅すると、次はいよいよ沖縄が戦場になる危険が大きくなり、政府は沖縄の子どもやお年寄り女性など、10万人を県外に疎開させる決定を下し、学童疎開のために沖縄県学童疎開準備要項を発令しました。学童疎開は文部省の指示を受けた沖縄県教学課が推進しましたが、すでに米軍の潜水艦が沖縄・鹿児島間の海上に出没し、多くの犠牲者が出始めていることを親たちは公然の秘密として知っていたので、疎開業務は容易に進めませんでした。その結果として沖縄県が策定した疎開計画では、国民学校初等科3年生から6年生までの学童が原則でしたが、実際には1.2年生や女子、高等科の学童もいました。学童疎開は8月14日から9月14日まで数回にわたって実施され、5,586人が船で九州に向かいました。
疎開船対馬丸はそのなかの一隻で、昭和19年8月21日那覇港から学童834名、一般・引率827名を乗せ僚船2隻、護衛艦2隻とともに長崎に向けて出港しました。翌22日那覇の沖合から追跡してきた、米潜水艦ボーフィン号(USS BOWFIN)の魚雷攻撃によって午後10時12分頃鹿児島県トカラ列島悪石島近海で撃沈され、学童780名を含むおおよそ1,500名が犠牲機となりました。
平成9年(1997)12月12日、科学技術庁海洋技術センター(現独立行政法人海洋研究開発機構)の海底探査によって海底に横たわる対馬丸が発見され、遺族は遺骨収集と船体引き上げを政府に要請しましたが、引き上げ不可能との回答をうけました。その結果、船体引き上げに代わる遺族慰謝事業として全額国庫補助により対馬丸記念館を建設、撃沈から60年後の平成16年(2004)8月22日に開館しました。
館内には、対馬丸事件の経緯や数少ない遺品や遺影を、子どもたちにも理解できるように展示しています。
沖縄で唯一の子どもの記念館として、平和発信と子供達の未来を創造する活動を行なっています。

疎開船対馬丸
6754トン
1914年に作られた、建造後30年の貨物船。那覇市内の8つの国民学校の生徒をはじめ、県内各地から集まった一般疎開者合計1661名が乗船していたと言われています。

建物について
対馬丸記念館は対馬丸への乗船をイメージして作られた建物です。屋上までの高さは、約10メートル。海面から甲板までと同じ高さに設計しています。
船の長さは135メートルで、この敷地の左端から波の上ビーチ入り口までの距離とほぼ同じ長さです。
館内への入り口を2階に設け、タラップから館(艦)に乗船するイメージで設計されました。また、2階の第一展示室から1階の第二展示室への階段は、船倉へ降りるイメージを再現しています。

対馬丸の模型と絵画

日本郵船寄贈
T型貨物船(戦時中は陸軍徴用船・学童疎開船)
対馬丸100分1模型

寄贈:船舶砲兵部隊慰霊碑を守る会
画:上田毅八郎(船舶画家)

「船舶砲兵部隊慰霊碑」は広島の比治山陸軍墓地に建立されている慰霊碑(未訪)

https://www.tsushimamaru.net/3019

対馬丸には、船舶砲兵隊も乗船をしていた。

真っ暗な海に投げ出され漂流する様子を再現。
はり巡るロープは波を表している。

対馬丸は、もともと貨物船だったということもあり、甲板の下は窓もなく2段に仕切られた板の上で、蒸し暑い中を我慢して過ごしたという。

学童疎開

学校の様子

遺影
みたまやすらかに

小桜の塔のシンボル。
対馬丸の子どもたちが平和の使いとなって大空に羽ばたくようすを表している。

いま「対馬丸」を語ること
昭和19年(1944)8月22日午後10時12分対馬丸は鹿児島県・悪石島沖で米国海軍ボーフィン号の魚雷を受け沈没しました。乗っていた疎開学童、訓導・世話人、一般疎開、船員・兵隊ら1418人(氏名判明者数)が一瞬にして帰らぬ人となりました。あれから60年、このことは悲劇として知られることはあっても史実として語られたことはありません。

私たちは考えました
いま「対馬丸」を語ること、それは何でしょう?
戦争のこと?それとも平和?
本当に語って欲しいこと、それはいまそこにある
それぞれの「夢」のことです

暗くつらい戦時でも「夢」は持っていました
でも、生きれいればこその「夢」
犠牲になった彼らの無くしてしまった「夢」
彼らが持っていたであろう未来への「夢」
その「夢の未来」に私たちは生きています

この館に身を置いたら、感じてみて下さい
そして、考えてみて下さい

この館には犠牲者の数と比較して
遺品など、「物」があまりありません
どうしてでしょう?
あまりにも長い時間がたったから?
思い出を残そうとしなかったから?

沖縄戦では、多くが焼かれ破壊しつくされました
形あるものは失われました
しかし、人々の「想い」は決して失われません

人々の「想い」、それは平和への強い「希望」です
戦争を語るとき、悲しみと憎しみが生まれます
悲しみの大きさを、「希望」にかえる努力をしないと
憎しみが報復の連鎖をよびます
しかし、報復の連鎖で悲しみは癒やされるのでしょうか?

いま「対馬丸」を語ること、それはなんでしょう?

いまも世界では報復の連鎖が
子供達から新たな夢と希望を奪っています
この報復の連鎖を断ち切る努力を一人ひとりがすること
これこそが、対馬丸の子どもたちから指し示された
私たちへの「課題」ではないでしょうか
 2004年8月22日 財団法人 対馬丸記念会

場所

https://maps.app.goo.gl/pJcdKjfXGJ96fAjv7


旭ヶ丘公園

波の上ビーチに隣接する公園。多くの記念碑・慰霊碑が集まっている。
対馬丸記念館、波上宮、護国寺などが近隣にある。


小桜の塔(旭ヶ丘公園)

対馬丸の犠牲者の慰霊碑

昭和19年8月22日夜半、学童疎開船対馬丸は、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて、悪石島沖で撃沈し、いたいけな学童と付添の人・1484人の尊い生命が、ひと時に奪われてしまいました。
 これらのみたまを弔い慰め、世界の恒久平和を念ずるために、多くの人々の善意で「小桜の塔」は建立されました

小桜之塔
厚生大臣 草葉隆圓書

小桜の塔建立について
愛知県丹陽村の「すずしろ子供会」会長川井桂氏は、戦争の犠牲となった子供達の慰霊塔が沖縄にないことを憂え、昭和28年護国寺の名幸芳章住職を通じて対馬丸遭難者遺族会に建立の意志を申し出た。河井氏を始め 関係者は愛知県の児童に広く1円募金を呼びかけて20余万円の浄財及び資材を集めるに至り、同年5月五日小桜の塔が建立された。

悪石島の霊石
この敷石は、対馬丸が沈没した悪石島海岸の石を集めた霊石です。

小桜の塔のシンボル。
対馬丸の子どもたちが平和の使いとなって大空に羽ばたくようすを表している。

弔歌
いのちみじかく青汐に 花とちりつつ過ぎゆけリ 
 年はめぐれど帰りこぬ おさなき顔の眼には見ゆ
  山崎敏夫

犠牲になられた皆様のご芳名
みたまやすらかに

小桜地蔵尊
昭和45年建立

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_naha_004/index.html


海鳴りの像・戦時船舶遭難碑(旭ヶ丘公園)

戦時遭難船舶での犠牲者を祀る。
戦時遭難船舶は二六隻。「海なりの像」には、対馬丸を除く二五隻の船舶で犠牲になられた県民1,927人(沖縄県調査)の御霊を祀っている。
対馬丸の犠牲者は、上記の「小桜の塔」で祀っている。

海鳴りの像

海鳴りの像
 第二次世界大戦(太平洋戦争)で沖縄県は、全国で唯一地上戦が闘われ、軍・民併せて
二十万余の尊い命が犠牲になりました。戦後六十二年経った今日なお、戦争で犠牲になった人々の遺骨がいまだに山野に残されたままになっています。他方沖縄県は、離島県である
が故に、海で犠牲になった県民は三四〇五人(沖縄県調査)にのぼります。学童疎開船
「対馬丸」を初め、軍需工場に向かった若者や女子挺身隊・少年航空兵になるために
乗船した者・召集令状を受け、郷里から出征しようと本土から沖縄に向かったもの・満州
開拓団から帰郷した者・南洋方面から軍命によって強制送還された者などです。
 沖縄県民が乗船して撃沈された戦時遭難船舶は二六隻です。海なりの像には、対馬丸を除く二五隻の船舶で犠牲になられた県民一九二七人(沖縄県調査)の霊を祀ってあります。二度と再び悲惨な戦争は起こしてはならないと堅く誓い、犠牲になられた御霊に心から追悼の誠を捧げます。戦時遭難船舶遺族会は、一九八七年六月二十三日「海鳴りの像」を建立しました。
二〇〇七年六月二十三日、赤城丸(四〇六人)・嘉義丸(三六八人)・開城丸(十人)・湘南丸(五七七人)・台中丸(一八六人)など五隻の犠牲者(一五四七人)の「刻銘板」を建立しました。
 戦時遭難船舶遺族会

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_naha_003/index.html


戦没新聞人の碑(旭ヶ丘公園)

新聞社の戦没者14柱の慰霊碑。

戦没新聞人の碑

1945年春から初夏にかけて沖縄は戦火につつまれた。砲煙弾雨の下で新聞人たちは二ヵ月にわたり新聞の発行を続けた。
 これは新聞史上例のないことである。その任務を果たして戦死した14人の霊はここに眠っている。
   昭和36年9月 建立

沖縄新報社(1940年に沖縄日報・沖縄朝日新聞・琉球新報が戦時統合)、同盟通信社、朝日新聞社、毎日新聞社

「沖縄新報」は、沖縄戦の進捗とあわせ第32司令部壕の東側に設けられた「新聞社壕」に移り、3月下旬からは、地下壕で印刷発行が行われた。第32軍司令部の南部撤退が決まった直後の5月25日まで続けられた。
第32軍司令部の南部撤退とともに新聞発行が不可となり1945年5月25日に廃刊となった。

犠牲になられた皆様のご芳名
みたまやすらかに


台湾遭難者之墓(臺灣遭害者之墓)

敷地としては、「波の上の護国寺」の境内にあたる。
戦争とは関係なく、「宮古島島民遭難事件」(琉球漂流民殺害事件)の遭難者の墓。
明治4年(1871年)宮古の船が台湾に漂着し、69人のうち3人が溺死、54人が漂着先の台湾原住民に殺害された。
日本政府は、清国に抗議するも、清国から「化外の民(台湾原住民は国家統治外)」と回答されたことから、のちに、明治7年の「台湾出兵」につながることとなる。


琉球箏曲先師顕彰碑

戦争とは関係ない、「琉球箏曲」(琉球琴)の「かつての師匠」を「顕彰する碑」かと。


波上宮(沖縄総鎮守・琉球国新一の宮・官幣小社)にも、行けばよかったのですが、時間があまりなかったので、見送りとなりました。以前の私であれば、全国一宮巡拝として必ず参拝したと思うのですが、今回は軸点が戦跡に集約されていいたので。

撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その14」へ

南西諸島海軍航空隊「巌部隊」本部陣地壕「寿山海軍壕」(沖縄戦跡慰霊巡拝11)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その11」となります。

その10は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


カテーラムイ(寿山)旧海軍壕

小緑駅の東側にある田原公園に。
海軍小禄飛行場(現在の那覇空港)を防衛するための海軍航空隊「巌部隊」(南西諸島海軍航空隊)の本部陣地が置かれた壕。

カテーラムイ(寿山)旧海軍壕
 海軍航空隊巌部隊の本部陣地壕。日本軍は、この地を寿山と称した。小緑飛行場防衛のため、小緑・豊見城一帯では、海軍少将大田実司令官の指揮下に連合陸戦部隊が編成され、多くの陣地壕が掘られた。その一つが本壕で、1944年8月から12月にかけて住民も動員して突貫工事で完成した。総延長は約350mで、その中に司令室・兵員室・暗号室などが設けられた。
 1945年6月4日、米軍は飛行場のある字鏡水に上陸、戦闘が始まった。6月7日、米軍はここカテーラムイ一帯に激しい攻撃を加え、数日で制圧した。壕内には最大1,000人余の将兵・住民がいた。南部への撤退、避難民、戦死者ともに不明であるが、8月段階でも約50人が壕内にとどまっていたいう。

開口部が2つ見える。

案内板のある開口部。

https://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/spot/154

場所:

https://maps.app.goo.gl/FF7zfmyNRsF8hscn8


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

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