甲府の近代史跡と、甲府空襲に関係する戦跡を巡ってみました。

目次
山梨県議会議事堂
1930年(昭和5年)3月31日に竣工。山梨県議会議事堂と山梨県庁別館は、ほぼ同一の公法、素材、様式によって建立している。
1945年(昭和20年)7月7日の甲府空襲では、罹災地域にありながらも、山梨県議会議事堂と山梨県庁別館ともに、甲府城址に守られて被害を免れた。
山梨県議会議事堂と山梨県庁別館は、いずれも2009年に山梨県の有形文化財指定を受けている。





山梨県庁別館
1930年(昭和5年)3月31日に竣工。山梨県議会議事堂と山梨県庁別館は、ほぼ同一の公法、素材、様式によって建立している。
1945年(昭和20年)7月7日の甲府空襲では、罹災地域にありながらも、山梨県議会議事堂と山梨県庁別館ともに、甲府城址に守られて被害を免れた。
山梨県議会議事堂と山梨県庁別館は、いずれも2009年に山梨県の有形文化財指定を受けている。
現在、山梨県庁別館内には、「山梨近代人物館」が開設されている。
竣工当時の内装に再現された旧知事室・旧正庁、県政の歴史を紹介するコーナーも併設されているというが、今回は外観のみで、館内は未訪問。また次回の楽しみ、で。
ちなみに、山梨県庁別館は、大日本帝国陸軍関連の司令部としてドラマや映画の撮影に活用されることも多いという。

今回は外観見学のみ、で。

甲府城から




甲府城(舞鶴城)
舞鶴城公園として整備されている。
武田氏時代は、躑躅ヶ崎館を中心とした武田城下町が整備されていたが、武田氏滅亡後に、甲府城が築城され甲府城下町が整備された。



本丸跡から望む、甲府市内。



富士山も。

謝恩碑
甲府城内にある記念碑。明治40年の大水害などにより荒廃した山梨県内の山林に対し、 明治天皇より山梨県内の御料地の下賜が行われたことに対する感謝と水害の教訓を後世に伝える。
1922年(大正11年)に建設。
碑の正面に彫られた揮毫は山縣有朋の筆による。また、裏面には山梨県知事の山脇春樹の撰文による碑文となる。
碑の設計は明治神宮造営局参与工学博士伊藤忠太と同局技師大江新太郎による。
碑の高さは約18.2メートル、碑身は、オベリスクと呼ばれる古代エジプトの記念碑を形どり、碑台はパイロンと呼ばれる同じく古代エジプトの神殿の入口に設けられた塔状の門を形どっている。


謝恩碑
元帥公爵山縣有朋




あっちこっちから、目に止まる。
山梨県警察本部道場「武徳殿」


明治天皇御登臨之跡
昭和13年3月建立
明治13年6月、 明治天皇が山梨県に御巡幸に際に、21日に、甲府城にご登臨し、国見遊ばされたことを記念し、建立。
明治天皇御登臨之跡

甲府市市役所
展望室に行ってみます。
現在の甲府市役所は2013年竣工。10階には展望フロアもある。


10階の展望フロアから。

さきほどの謝恩碑が聳え立っていますね。

富士山がみえるたびに、写真を撮ってしまうのも、仕方がないですね。

謝恩碑と甲府城は、こんな感じの距離感。

甲府空襲
甲府盆地は、南太平洋から富士山を目標に東京方面に向かう米軍機の飛来ルート上にあったため、米軍機と空襲警報が頻発していた場所であった。すでに甲府上空の制空権は米軍が握っており、3月の東京大空襲で罹災し、甲府に避難してきた人々も多く、多くの甲府市民は、「米軍は甲府上空を通過するだけ、ただの通り道なので、空襲は無いだろう」という意識と判断があったという。
1945年(昭和20年)7月6日深夜から7月7日にかけて、米軍B-29爆撃機によって、甲府市街地の74%が焼失し死者1,127名、負傷者1,239名、被害戸数18,094戸に及ぶ被害を出した空襲。7月7日の空襲であったことから、「七夕空襲」(たなばた空襲)」とも呼称される。山梨県内で最大の戦争被害となる。(千葉市も7月7日の空襲があったことから、同じく七夕空襲と呼称されている。)
南銀座仲町ノ稲荷社(甲府市中央1丁目)
甲府空襲で全てが焼けてしまった甲府中心街のなかで、この祠の裏には「昭和十年五月五日 合資会社松林軒 社員一同建之」と記載されていることから、甲府空襲で奇跡的に焼け残った祠であることがわかる。

昭和十年五月五日 合資会社松林軒 社員一同建之




狛狐は平成元年の建立だが、その台座は往時からのモノかもしれない。

狛狐の台座から煉瓦が垣間見れる。この台座も往時からのものと推測。




南銀座仲町の繁華街に、静かに佇むお稲荷さま。



戦災者慰霊「いしずえ地蔵尊」(一達寺)
甲府空襲の犠牲者を祀る地蔵様。
一蓮寺に鎮座する。

戦災者慰霊 いしずえ地蔵尊(礎地蔵尊)

いしずえ地蔵尊縁由
第二次世界大戦末期んお昭和20年7月6日夜半より7日払暁にかけ当市は大空襲を受け焦土と化す
殊に当地にて死せる人夥しく三百余体を当山境内にて荼毘に付し当所に埋葬す
終戦後間もなく市営墓地に改装せしむも当時の残状誠に忘れ難く跡地に篤信者に依り慰霊の地蔵尊が建立され今日に至りしと謂う以来五十有余年堂宇等の損耗殊の外激し茲に整備改築を発願し有縁の士の協賛を基に是を成就せり
平和への礎となられたる諸精霊への慰霊と報恩の深心を以て茲に いしずえ地蔵尊 と稱し奉らんこととせり
冀くは向後参詣の士には平和護持倍増の志を以て諸精霊の冥福と謝徳の誠心を賜わらんことを
平成十一年十月仏日
一達寺


一蓮寺境内の慰霊碑
支那事変と大東亜戦争の慰霊碑。

日支事変
大東亜戦

昭和36年建立



ちょうど、縁日でした。そんな日に、境内で戦跡散策をしていた私は若干の場違い感。

場所:
※2025年5月撮影