「残された横浜市電最後のポール」と横浜大空襲(横浜市電保存館)

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疎開道路散策をしていたら、横浜市電保存館に辿り着きました。

最近、疎開道路を巡っています。もちろん、いま、そこに何かが残っているわけではないのだけれども、なんとなく空間が往時を偲んでいるような、そん...

面白そうなので、立ち寄ってみましょう。


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残された横浜市電最後のポール

横浜市電保存館の入口にあるポール。
横浜市電を物語る残された最後のポールは、「横浜大空襲を物語る戦跡」でもあった。

ポールの下の部分の穴。
1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲で受けた被弾の跡といわれている。

1928(昭和3)年の横浜市電生麦線開業時に建てられた架線用のポールという。

残された横浜市電最後のポール
このポールは、1928(昭和3)年の横浜市電生麦線開業時に建てられた架線用のポールです。
かつては、市電沿線に列をなして建てられました。横浜の市電は、1904(明治37)年に横浜電気鉄道㈱によって発足しましたが、1921(大正10)年に横浜市が買収して市電となりました。横浜の市電の最盛期は昭和30年代で、路線長は50キロを超えていました。しかし、自動車交通の波にのまれ、1972(昭和47)年3月31日限りで横浜からその姿を消してしまいました。その後市電の線路は道路となり、架線用ポールも道路整備や腐食のために撤去されていきました。
このポールは、神奈川新町の国道15号線の歩道上に奇跡的に残った最後のポールです。このたび道路整備のため撤去されることになったので、記念に保存するため横浜市電保存館に移設しました。なお、撤去されたのは2007(平成19)年6月3日で、高さは地上から7.3mあります。先端のねぎぼうずみたいなポールトップは鉄製の飾りもので、いくつかの型があります。市電保存館の館内に展示されています。
社営時代から取り付けられていました。
このポールの下の部分に穴があいていますが、戦時下の1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲で受けた被弾の跡といわれています。
2007(平成19)年7月
横浜市電保存館

当館のアプローチには、昭和3年(1928年)の市電生麦線開通時に立てられた架線用のポールが展示されています。かつては、市電の線路に沿い列をなして立てられていました。
ポールの下部には、空襲での被弾の跡とされる穴が残っています。


横浜市電

1921年(大正10年)、横浜電気鉄道を買収し、横浜市電気局(現在の横浜市交通局)によって運行開始。
元となる横浜電気鉄道は、横浜市初の路面電車として1904年(明治37年)から路面電車を運行していた民間企業。総延長距離は28.86キロ、8路線、保有車両は104両であった。

関東大震災
1923年(大正12年)の関東大震災では、保有車両143両のうち、72台が火災焼失、13台が大破し、変電所や道路、橋梁、架線の被害も甚大であった。復旧に際しては帝国陸軍鉄道第一聯隊工兵3000人が携わった。

横浜大空襲
1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲では、保有車両203台のうち、48両が焼失等で被害をうけ、関東大震災と同じく、変電所や架線、線路の被害も甚大であった。

廃止
戦後復興と共に財政は逼迫し累積赤字が膨れ上がり、経営が悪化。
モータリゼーションによる慢性的な道路渋滞もあり定時運行も困難となり、そして横浜市の急速な郊外の都市化もあり、時代に変化に追随できなくなった横浜市電は、1972年(昭和47年)3月31日に全廃された。


横浜市電保存館

横浜市電保存館は、神奈川県横浜市磯子区にある、1972年(昭和47年)に廃止された横浜市交通局の路面電車(横浜市電)に関する資料を保存・展示する施設。
もともとは、横浜市電の滝頭電停前・滝頭車庫・滝頭車両工場跡地。現在は、横浜市営バス滝頭営業所、でもある。

以下、館内展示など興味持ったところを。

横浜大空襲


関東大震災

関東大震災とその復興
大正12年(1923年)、関東大震災が発生。横浜市電は車両の半数以上を失い、一ヶ月間、全線が不通となりました。しかし、復興事業による街路の整備や区画整理とあわせて、線路の改良が進められ、郊外の各方面へ新しく路線がつくられていきました。
その距離は震災前の二倍以上となり、市電の路線網はこの時期にほぼ完成したのです。


戦時下の横浜市電

奉祝 紀元二千六百年祝典

戦争と市電
戦時体制下になると、軍事施設への動員による輸送が大きく増加します。スピードアップと電力節約のため急行運転が導入され、工場地帯の鶴見方面への延伸も行われました。しかし、昭和20年(1945年)、空襲によって横浜の中心市街は焦土と化し、市電の車両は約4分の1が焼失、車庫や変電所などの施設も大きな被害を受けました。

横浜大空襲
大空襲直後の横浜市街地
桜木町駅上空付近から根岸湾を望む。
写真中央が現大岡川にかかる吉田橋から伊勢佐木町通りの付近。
桜木町駅は無事だったが、中心市街地のほとんどは焼け野原となった。

空襲の罹災状況を示す地図

戦災車両の記録ノート

戦災被害状況

戦前の横浜市電女性車掌

良き笑顔


戦後の横浜市電

戦後、市民の足として復興した横浜市電は昭和30年代に最盛期を迎える。

昭和35年
路線規模が最大となり運転系統本数がもっとも多かった時期の横浜市電。

昭和41年、生麦線と中央市場線が廃止。

昭和44年、久保山線が廃止。
また杉田線、浅間町線なども廃止済み。

昭和45年
本牧線、保土ヶ谷線の廃止。

昭和46年
山元町線廃止。
もう運転系統路線もだいぶ少なくなってきている。

昭和46年度末での市電全廃。


旧横浜駅東口大時計

昭和3年(1928年)10月の旧横浜駅完成時から、昭和54年(1979年)2月まで半世紀にわたり、東口正面で時を刻んできた大時計です。戦時中は出征兵士が学童疎開、戦後は戦災復興、経済発展、横浜の都市開発が進むなか、多くの出会いと別れを見てきた時計です。激動の昭和を見つめつづけたこの大時計は70余年を走った市電の歴史を刻んできたものでもあり、縁あって当館で展示することとなりました。そしてリニューアルを期に再び時を刻む大時計として蘇りました。


横浜市電の保存車両たち

523号車(500型)

昭和3年、震災復興車両、戦後に15両を600型に改造、昭和44年に廃車


1007号車(1000型)

初ボギー車。昭和3年に震災復興事業として20両を購入。
昭和45年に全廃。


1104号車(1100型)

昭和11年に5両を購入。
昭和47年の市電全廃まで活躍。


1311号車(1300型)

昭和22年の30両を製造。
昭和46年に廃車。


1601号車(1600型)

昭和32年に製造。昭和45年に廃車。


1510号車(1500型)

昭和26年に20両を導入。
「ちんちん電車の決定版」ともいわれた。
昭和47年の市電廃止の最後の日まで走った車両。


無蓋貨車10号

昭和23年製造。戦後復興で市電軌道を修理するために活躍。
レールや枕木、バラスト、石炭輸送などを担い、また祝賀装飾の花電車としても活躍し、昭和47年の市電全廃まで運用された。

いまは、横浜市営バス滝頭営業所

※撮影:2025年6月


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