横浜大空襲の慰霊巡拝

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昭和20年(1945年)5月29日。横浜大空襲。
今回は、横浜の空襲にまつわる慰霊碑などをいくつか散策してみようと思う。

合掌


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横浜大空襲

昭和17年4月18日、ドーリットル空襲において横浜・川崎地区でも初空襲を受けて以来、横浜は大小30回にも及ぶ空襲を受けてきたという。

都電荒川線「熊野前停留場」、日暮里舎人ライナー「熊野前駅」より北側、隅田川の方に向かって5分ほど歩く。熊野前保育園の壁に沿って案内板が立っ...

昭和19年12月25日、B-29 による横浜地区、初空襲。

昭和20年4月4日、B-29 による川崎地区、初空襲。
そして4月15日にB-29爆撃機200機を超す編隊にて川崎を空襲。
「川崎大空襲」での死者は700人から1500人といわれている。

昭和20年(1945)5月29日昼間、アメリカ軍はB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機という大編隊でもって横浜を空襲。約8000人から10000人という死者をだした。この「横浜大空襲」では、京急平沼駅が壊滅、神奈川県護國神社は焼失、している。

京急の横浜駅と戸部駅のあいだにかつて、平沼駅という駅があった。駅としての実働は実に12年半であった。 そして、横浜大空襲で残存施設は...
平成26年(2014)参拝/令和元年(2019)11月再訪  全国47都道府県で唯一「護國神社」が無い県が神奈川県。(内務大...

防空壕跡と戦災受難者の碑(霞ケ丘丘友会館)

霞ケ丘丘友会館の敷地内。

石垣のところに、防空壕あったという。

戦災殉難者之碑

昭和41年5月29日
 霞ケ丘丘友会 建立

会館では、観音様を安置しているという。
5月29日には、戦災殉難者之碑の前で、供養が行われている。

場所


親子身がわり地蔵尊(医王山光明院東光寺)

医王山光明院東光寺。
毎年、5月29日の横浜大空襲の日には、横浜大空襲物故者慰霊法会が執り行われている。

親子身がわり地蔵尊

地蔵尊は、先々代住職木川光雄和尚が終戦後間もなく三春台町内会の皆様と相談し、空襲で亡くなられた方々のご冥福をお祈り致す為に建立されたもの。

場所


横浜大空襲の遺体仮収容所(久保山円覚寺)

昭和20年(1945年)の横浜大空襲によって、久保山円覚寺の堂宇の全ては消失。境内には、遺体の仮安置所が設けられた。

有鉛無縁三界万霊

横浜大空襲の犠牲者も含め、有鉛無縁に命ある全ての霊を慰める。

慰霊塔

戦没者慰霊碑

場所


黄金地蔵尊(普門院)

昭和20年5月29日、横浜大空襲の際、近くに高射砲台があったためか焼夷弾が数多く落とされた。普門院にも助けを求めて多くの人が駆け込んできたが、火の回りが早く境内手前の階段で力尽きたものもいた。
当時の住職も迫りくる炎の中、念仏を唱えながら絶命されたという。
黄金町駅前には多くの遺体が運び込まれたため、終戦後、供養のため地蔵尊が駅前に建立された。その後、駅前開発の際、普門院に移築された。
毎年5月29日に法要が行われている。
  普門院 ご住職の証言をもとに構成

総務省>黄金地蔵尊

防災頭巾を被った、黄金地蔵尊

場所


京急黄金町駅

横浜大空襲で一番の被害を出したのが、京急黄金町駅周辺であった。停車中の電車の乗客、退避中の人々などが駅に集まり、高架下のガードは焼死体であふれかえったともいわれている。

黄金町を流れる川は、あたり一面が火の海となり熱湯と化したという。

黄金町がある南区は死者1308人、行方不明7人、重軽傷者1987人、被災者6万9124人という市内でもっとも大きな被害を受けた。


戦没者供養地蔵(黄金町)

横浜大空襲において、黄金町駅周辺は、多数の犠牲者で溢れ、遺体の仮収容所が当地に設けられていた、という。
その後、再開発しようとすると事故が多発したために、供養のために地蔵を建立し、当地は駐車場として活用することになった、という。

前述の黄金地蔵尊が、当初はこの地にあったが、のちに普門院に遷座し、そのごに、供養地蔵が建立されたものと推測。

場所


平和祈念碑(大通り公園)

大通り公園。最西端、阪東橋駅近くにある祈念碑。
愛・平和・地球を中国殷時代の金文を立体構成したブロンズ製のモニュメント。

「愛をもって世界の平和を祈念する」

平和祈念碑 由来之記
  1941年12月8日 日本軍の米国真珠湾軍港に対する奇襲攻撃により 大日本帝国は 連合国軍との間に戦端を開くに至った。
その後1945年8月15日に至り わが民族の滅亡を憂うご聖断により漸く敗戦の日を迎えた。

  その間 三年九ヶ月余。政・軍・官の情報統制の下 一般庶民は戦争の実相を知らされることなく ひたすら盲従を強いられた日々であった。戦線が次第に日本本土に近づくにつれ 米軍機による空爆は熾烈を極め 国内百数十の都市が軍事施設・民間施設の別なく攻撃を受け 非武装の一般民衆が多数犠牲となった。横浜はこの間三十数回の空爆をうけた。特に1945年5月29日白昼 当時世界最大級の重爆撃機B29五百余機 随伴戦闘機P51百余機の連合軍機により 市内は絨毯爆撃を受けること一時間余。焼夷弾換算四十三万余発の投下により市内は焦熱地獄の様相を呈し 非武装の民衆に万余の犠牲者を生ぜしめた。

  この地に戦火止みて既に四十数年の歳月が経過したが 残された遺族の心の傷は今なお癒えることはない。当時を知る遺族も その多くは鬼籍に入り 犠牲者達の恒久平和を希求する声なき声を伝うべきよすがとて失われようとしているこの時 遺族縁類相倚り相扶け 私財を投じ 心ある市民の合力を得て 平和祈念碑建立を発願した。
  祈念碑回廊中には犠牲者の姓名を彫刻し そのアイデンタティを復活せしめ 共に手をたずさえて平和のメッセージを伝え 全世界において我らが子々孫々に至るまで戦争の惨禍におびえることなく恒久平和を享受出来る世界の実現を願い 惻隠の情を意味する「愛」と 飢餓のない世を理想とする「平和」の文字を 我らのいのちを支える「地球」に配して象徴とした。幸い 横浜市会代表の正・副議長殿の賛同を得 国会・県議会有志議員諸賢 神奈川県知事殿の賛意を得た。題字には 横浜市長 高秀 秀信殿のご揮毫になる「平和祈念碑」の彫刻を付し 横浜市からは施設設置許可を受け この地に恒久平和実現の為の一里塚として この碑を建立した。

  除幕式には 国際連合駐日代表殿 広島市長殿 長崎市長殿世界各地のピース・メッセンジャー都市首長殿から 多数の献辞が寄せられた。

  この人類至高の祈りが 志ある人々により継承発展され 犠牲者も平和の使徒の先駆者として 至福の時を 共に迎える日の近きことを信ずる。
  1992年5月29日
   横浜戦災遺族会
    会長 池谷榮一撰

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場所


横浜戦災者慰霊碑(三ツ沢墓地)

横浜戦災者慰霊碑、合掌碑、戦災遭難者諸霊供養塔が建立されている。
三ツ沢墓地管理事務所のすぐ横手。

もともと慰霊碑は、久保山にあったというが、三ツ沢に移転という。

横浜戦災者慰霊碑
横浜市
昭和二十五年三月建之

合掌
横浜戰災遺族会
昭和四十七年五月二十九日建

戦災遭難者諸霊供養塔
爲戰災遭難者諸霊
供養塔
昭和二十二年三回忌五月建之

横浜市三ツ沢墓地

総務省

場所

撮影:2023年7月‐8月


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