「近代史全般」カテゴリーアーカイブ

露天神社に残る機銃掃射弾痕(大阪市北区曽根崎)

曾根崎心中で知られる「お初天神」こと「露天神社(つゆのてん神社)」
近くに赴く用事があったので、足を運んでみました。


露天神社に残る機銃掃射弾痕

社頭前に2つある柱に刻まれた弾痕。

昭和20年6月
福島駅・大開周辺を爆撃した後、大阪駅を超えて来襲した、米軍マスタングP51他による
「機銃掃射弾痕」
(他方の柱にも残っています。)

露天神社社頭。
この2つの柱に機銃掃射の弾痕が残る。

脇参道にある旧社号標にも、弾痕が残る。

石灯籠に傷も、そうかも知れない。

石畳。
中央部分は新しいが、左右の石畳は少し古い。
このあたりの欠けも弾痕とおもわれる削れ具合。


露天神社

祭神は大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真の五柱の神を祀る。
創建は大宝元年(701年)頃とされ、「難波八十島祭」旧跡の一社とされている。
のちに難波神明社とも称され、日本七神明(東京芝神明宮、京都松原神明宮、京都東山神明宮、大阪難波神明宮、加賀金沢神明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮)の一つにも数えられたという。
「天神の森(現在の社の裏手)」にて心中を遂げた悲恋を人形浄瑠璃にしたのが近松門左衛門の「曽根崎心中」。
戦前は「天神の森」が鬱蒼としていたが、戦後復興で境内地を切り売りし、現在の広さとなっている。

※撮影:2024年5月

公式サイト

https://www.tuyutenjin.com


機銃掃射関連

はじめに

タイ王国バンコクの戦跡散策その1(戦勝記念塔と大日本帝国陸軍泰国駐屯軍司令部庁舎)

2024年6月。いろいろあってバンコクにいました。仕事の兼ね合い。
スキマ時間を捻出して、バンコク市内を散策。

※2025年2月に別件の仕事で、再びバンコクにいたので、戦勝記念塔をリベンジ再訪。写真を追加しました。


タイ・フランス領インドシナ紛争

「泰・仏印国境紛争」「インドシナ国境紛争」

タイ王国軍は、1940年11月23日から1941年5月8日に渡って起こったタイ・フランス領インドシナ紛争でフランス軍と戦った。

タイ王国軍は、新たに発足したフランスのヴァシー政権に対して、1893年の仏泰戦争でフランスの軍事的圧力を受けて割譲した仏印領内のメコン川西岸までのフランス保護領ラオスの領土と主権やフランス保護領カンボジアのバッタンバン・シエムリアプ両州の返還を求めたが、フランス政府(ヴァシー政権)はこの要求を拒否した
日本の同盟国であるドイツによるフランス本土占領と、親独のヴィシー政権の樹立を受けて日本軍が北部仏印進駐を行ったため、日本と友好関係にあったタイにとっては、日本軍が南部仏印にまで進駐してしまうと領土要求が難しくなるという懸念が生まれていた。
上記のような要因、フランスがドイツに敗退、独仏休戦(1940年6月17日)前にフランスが不可侵条約を批准していなかった、日本軍による仏印進駐が迫っていたことなどの状況から、タイは旧領回復への行動を開始した。

1940年11月23日、開戦。戦闘は拡大しそして終息の気配が見えないなかで、終戦に向けて日本が和平を斡旋を開始。
アジアにおける数少ない独立国で友好国であった「タイ王国」と、ドイツに降伏後の「ヴァシー政権のフランス国」は、それぞれが日本にとっては友好国であった。
1941年5月9日に、泰仏両国が「東京条約」に調印して終戦。

タイの要求を仏印側がほぼ受諾するというタイ側の事実上の勝利に終わり、タイではこの勝利を記念し、戦勝記念塔がバンコクに建立され、戦争の犠牲となった兵士を慰霊した。


戦勝記念塔(Victory Monument)

戦勝記念塔
タイ語: อนุสาวรีย์ชัยสมรภูมิ, アヌサーワリーチャイサモーラプーム、アヌサーワリーチャイとも。
タイ王国のバンコク、ラーチャテーウィー区にある記念塔である。

訪れたとき(2024年6月)は、ちょうど保全工事中でした。
兵士像など、見えませんね。
残念、これは、また来てねと言うことなのか。。。

ちょうど、夜中に豪雨が降った明けの朝でしたので、濡れてますね。

ひっきりなしに車が走っているロータリー。
記念塔に近づくことはできるのでしょうか。
今回は工事もしているので、遠目に見るだけとしましたが。

兵士像。
保全工事中ですが。

※2025年2月に、再訪できました。
これは予想外に早い再訪です。以下、再訪の写真を追加

南側側から一周してみる。
記念塔には、5体の銅像が配置されているのがわかる。

Victory Monument駅。(アヌサワリーチャイ駅)
BTS(バンコクスカイトレイン)を活用。
バンコクに行くとわかるが、とにかく道路渋滞がひどい。多少割高でもBTSを活用するのがベスト。

EMB-B3型車両

場所

https://maps.app.goo.gl/qTSFpZxJw8UjmzuB6


タイ王国の第二次世界大戦

タイ王国は、大日本帝國と同じく数少ないアジアでの独立国であり、同じアジアの国として、日本の政策には概ね好意的であった。
リットン調査団の報告による国際連盟での満洲国合否判断ではタイ王国政府は投票を棄権、満洲国を国家として承認していた。
前述のタイ・フランス領インドシナ紛争では日本の仲介でタイの主張が反映されたということもあり、日本への協力姿勢は強まっていた。
1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開戦。タイ王国は中立国であったが、日本軍はタイ南部に奇襲上陸。日本はタイを経由してイギリスマレーに侵攻することを意図していた。
日本はタイに事前に進駐合意を得る予定であったが、同意が遅れ、その間にタイ王国軍と日本軍の間で戦闘が勃発。同意のもとで日本軍はタイへ進駐(タイ王国進駐)となり、タイは日本と「日泰攻守同盟」を締結。
同じタイミングでイギリスもタイ国南部に侵攻しタイ警察と交戦となったが、日本軍の援軍が間に合い、撃退。
イギリス・アメリカ両軍は1942年(1942)1月8日からタイ国内への都市攻撃を開始したために、タイ政府は、1月25日に、英米に対して宣戦布告をしている。(しかしタイ国駐アメリカ合衆国大使セーニー・プラーモートは通達を拒否し自由タイ運動を実施。米国と宣戦を取り交わさなかったことで戦後外交を有利に導いた。)
タイは東南アジア戦線(マレー作戦、ビルマの戦い)では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。そのため戦争末期には連合国軍の空襲にもあっている。
一方で駐米大使セーニー・プラーモート、摂政プリーディー・パノムヨンらの「自由タイ運動」などの連合国と協力する勢力も存在し、連合国と連絡を取っていた。
こうした二重外交により、タイは日本の敗退が近づく1945年には、1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和しており、降伏や占領を免れた。


大日本帝国陸軍泰国駐屯軍司令部庁舎
(第18方面軍司令部庁舎)

BSTのSurasak(スラサック駅)すぐ南。
ちなみに「X(Twitter)」フォロワーの ばさ様 に教えていただきました。

元々は、泰国中華総商会の建屋。
泰国中華総商会が1930年に改装整備した洋館。
日本軍が泰国中華総商会から接収し、司令部庁舎とした。
終戦後に、泰国中華総商会に復したが、現在は、BlueElephant(ブルーエレファント)という高級料理店になっている。

1942年(昭和17年)12月に泰緬鉄道建設現場で発生したタイ人と日本兵の間の衝突事件(バーンポーン事件)をきっかけに、1943年1月に「泰国駐屯軍」の新設での設置が発令。司令部は、バンコクに設置された。

泰国駐屯軍司令官は、中村明人(陸士22期)。
最終的に1944年12月に泰国駐屯軍は第39軍へと野戦軍化され、1945年(昭和20年)7月に第18方面軍へと改編昇格した。司令官は、かわらず中村明人陸軍中将が終戦までタイ王国内の陸軍の司令官を勤めた。

「日泰攻守同盟」は、条約は1945年(昭和20年)9月2日、日本及び連合国の降伏文書調印に伴うタイの敗戦により破棄された。
親英米派のタイ新政府は攻守同盟条約を「日本の軍事力を背景に無理やり調印させられた」ものとして、その違法性を連合国に訴え、1946年から1947年にかけて、回復した旧領土をフランスに返還。その結果、タイ国民は連合国による裁きを免れた。
なお、タイから旧領土を回復されたフランスは、その後の独立運動で、旧タイ領をカンボジア及びラオスに引き渡すこととなった。
タイ王国は、国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。
タイ王国は、日本に対する多額の戦争賠償を大幅に減額し、1951年に日本とも国交を回復した。

泰国中華総商会は、BlueElephant(ブルーエレファント)のうしろの、THAI CC TOWERに今も存在している。

時間がなかったので、レストランは、またの機会に。
内部の写真は、下記を参考までに。同じく、ばさ様より。

BSTのSurasak(スラサック駅)。

EMU-B型

EMB-A2型


王宮・エメラルド寺院

王宮(プラボーロンマハーラーッチャワン)

ここからはタイ・バンコクの観光など。
仕事で行ってまして、「市場視察」という名の観光ツアーもありまして。

写真メインで。

エメラルド寺院(ワット・シーラッタナーサーサダーラーム)

王宮の宮殿郡と接し、本堂にはエメラルド仏(プラ・ケーオ)が安置されている。王室専用の仏教儀式の場であるため僧侶がおらず、僧侶が生活する庫裏などの施設がない。普段は観光地になっており、内外から毎日たくさんの旅行客が訪れる。

コメントを、いただきました。
実は、エメラルド寺院は日泰攻守同盟の調印式が行われたところだった、と!

ワットプラケオ(エメラルド寺院)の本堂ですが、実は日泰攻守同盟の調印式が行われた場所になります。ここで調印式を行った理由として、タイは信心深い仏教国であり、日本も歴史的、文化的にも仏教と関わりが深い国で理解があることから、仏法僧の面前、特にタイで最も崇められているエメラルド仏の前で調印させることによって、より条約に忠誠を誓わせ尊重し、忠実に守らせると言う日本とタイ双方に意図があったようです。
このことから調印する前から日泰両国は双方に不信感と警戒心を抱いていたのは明らかで、結局終戦まで両国の間にあった疑念は払拭されることはありませんでした。
同盟国、そして枢軸国として第二次世界大戦に参戦したタイですが、むしろタイは列強国の戦争に巻き込まれたという立場で、戦時中のタイ政府・国民ともに日本に対して相当警戒していたようで、同盟国でありながら水面下では日泰で様々な交渉や駆け引きがあり、これもまた興味深いものなので機会が有りましたら是非調べてみて下さい。
また、当時タイはあくまで独立国で日本軍は駐留という形で存在していましたが、タイ国内には沢山日本軍に関する戦跡が良好な状態で現存していたりするので、今度タイへ行く機会が有りましたら是非色々な所を巡ってみて下さい。

コメント欄 バサ様 https://senseki-kikou.net/?p=44403#comment-3343

チャクリーマハープラーサート宮殿

衛兵


ワット・ポー(涅槃寺)

ワット・プラチェートゥポンウィモンマンカラーラーム

ワット・ポーは、菩提寺を意味する。バンコクで最大の最も古くからある寺院。
ワット・ポー伝統医学校は、タイ古式マッサージ(タイ伝統医療)の学校。
バンコク滞在中には、夜な夜なでタイ古式マッサージを受けましたが、かなり良いものでした。

涅槃像


トゥクトゥク

三輪タクシー。みんなで試乗。これはなかなかおもしろい乗り物ですね。
バンコクは渋滞がひどく、二輪バイクやトゥクトゥクで以下にすり抜けるか、が肝になっているような交通事情。。。


往路

機内でコジラ1.0/Cを見つつ。。。

機内食 ANA

台湾島を横目に。

スワンナプーム国際空港
アジア最大級の国際空港は成田の三倍という。


バンコクでの飲食

食べたり飲んだり。

1日目。

2日目。

3日目

スイカジュースが美味しかった。。。

丸ごとココナッツジュースも美味しかった。

マンゴージュースはすごく濃厚。。。

泊まったホテル。

チップ文化。

路々の仏様。


帰路

スワンナプーム国際空港

羽田は、第二ターミナルの国際線まで、バス移動。。。

バンコク、楽しいですね。
今回は仕事でしたが、プライベートでも行きたいですわ。

“微笑みの国”・タイ、気に入りました!!


※撮影:2024年6月 2025年2月

「守山空襲」機銃掃射弾痕が残る六地蔵(滋賀県守山市)

太平洋戦争末期の昭和20年7月30日。
米軍の艦載機が守山駅(滋賀県守山市)で列車などを機銃掃射した「守山空襲」。
往時の惨劇を伝える六地蔵が残されている。


守山空襲

昭和20(1945)年7月30日、大津の滋賀海軍航空隊を空襲した空母ハンコックの艦載機であるF4Fワイルドキャット4機が、午後4時頃、守山付近に来襲。
守山駅発車直後の列車や守山駅周辺に対し機銃掃射を浴びせた。
日本側では被害に関する正確な記録がなく、犠牲者・負傷者数は記録のばらつきがあるが、死者11名、多数の負傷者、といわれている。

語り継ぐ、残された傷跡
守山空襲

昭和20年(1945年)7月30日午後4時頃
 守山は、米軍空母ハンコックから発進したグラマン4機によって空襲を受けました。守山駅を発射する列車を狙った機銃掃射によって、列車の乗客や駅周辺の人々が犠牲となりました。その数は、確認されているだけで死者11名、負傷者22名。県下の空襲被害としては、大津市の東洋レーヨンに落とされた模擬原爆に次ぐものでした。


守山空襲の弾痕が残る地蔵(吉身町墓地の六地蔵)

吉身町墓地(守山市吉身六)に、守山空襲の機銃掃射の弾痕が残る地蔵が残されている。

守山空襲の弾痕が残る地蔵
「地蔵さん、痛かったやろな。怖かったやろな。新しい地蔵さんに変えたらよいのやけど、この傷跡を後世に残し、戦争のむごさを伝えたいのや。ごめんね。」
 管理人

六地蔵は、覆屋のもとで、大切に保全されていた。

1体目

2体目

3体目

4体目

5体目

6体目

六地蔵は、いずれも機銃掃射を受け、6体とも頭部が欠けていた。

昭和6年10月4日
六体地蔵菩薩

守山空襲の弾痕が残る地蔵

わかりやすい看板が墓地の入口にあった。

守山駅。現在の駅は二代目(昭和48年1973改築)

駅前にあった「少年赤十字団発祥の地」
滋賀県の守山市立守山小学校の前身、守山尋常高等小学校は1922(大正11)年、全国に先駆けて青少年赤十字団(JRC)を結成し、赤十字の人道・博愛の精神でボランティア活動を実践する活動の輪がこの日から全国へ広がったという。

場所

https://maps.app.goo.gl/zhVY19VZy98VJJak7

撮影:2024年6月


関連(機銃掃射)

はじめに

岩脇蒸気機関車退避壕・岩脇山列車壕(米原)

鉄道の町「米原」は、滋賀県唯一の新幹線停車駅であり、東海道と北陸道の分岐点でもある。
そんな「米原」に戦争に関連する戦跡が残っているというので、足を運んでみた。


岩脇蒸気機関車退避壕

※岩脇は「いをぎ(いおぎ)」と読む。

太平洋戦争中、米原駅が空襲の対象になることが予想され、機関区の転車台が破壊された時に備えた機関車の方向転換ができる三角線が設置され、列車を空襲から守るための列車壕(蒸気機関車避難壕)も運輸省鉄道総局によって秘密裏に工事着工された。
東側のトンネル(長さ130m)は貫通したが、西側のトンネルは中央部を残して非貫通。上下二段工法で掘られたが穴の大きさも機関車を入れるには不十分な大きさで、線路も敷設できないまま、蒸気機関車避難壕は完成せずに終戦となり工事は中断された。

蒸気機関車退避壕
 ここに存在する二つの洞窟(左側は奥行52m止め、右側は130mで貫通)は、太平洋戦争末期に日本の輸送の大動脈である東海道線及び北陸線の列車を引っ張る蒸気機関車を連合軍の空爆から守るために掘られた防空壕です。
この岩脇山は岩盤が固く、その上当時は物量が乏しく、火薬、スコップ、ツルハシ、トロッコなどの手作業のため難工事であったことがうかがえます。
 しかしながら完成することなく終戦となったが、作業に従事した人達の汗と涙の結晶である防空壕跡が、長い間ごみ捨て場として放置されたままになっていました。
 そこで「岩脇まちづくり委員会」では戦争の悲劇を風化させないために戦争の遺跡として保存するため平成20年10月から平成21年8月にかけて整備したものです。
 平成21年8月
  岩脇まちつくり委員会

戦争が残した2つの洞穴

貫通した退避壕(南側)

立入禁止とあるので、入口までで。

望遠で覗いてみる。

非貫通の退避壕(南側)

こちらは未貫通の退避壕。
柵がないので、中に入れる。
外の熱気と中の冷気で、白く温度の壁ができる。

東海道線がみえる。

非貫通の退避壕(北側)

柵の隙間から。

貫通の退避壕(北側)

同じく柵の隙間から。貫通している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R586-5
昭和22年(1947年)11月21日、米軍撮影の航空写真。

岩脇山周辺を拡大。
東海道本線と北陸本線が二股で分かれるポイントでデルタ線が形成されており、退避壕まで線路が造成されていることがわかる。
退避壕のある岩脇山は南北に路盤が貫通して造成が進んでいることもわかる。
未完成の待避線アクセス線路は、のちに東海道本線上り線に流用される。


資料館

まちづくりの一環で作られた資料館。手作り感あふれるこぢんまりとした資料館だが、なかなかに情報量もあって、良い感じに見学できました。

地元の皆様の保存活動が行き届いた戦跡。佳き環境。

熊が迎えてくれました。

出土品
1 爆破する際に火薬の挿入に用いたと思われる
2 大形のかすがい?

岩脇山周辺案内図。
南北が逆になっている地図は位置関係を見失うので勘弁してほしい。

岩屋善光堂
推古天皇時代、本多善光が三尊の仏像を長野にお連れする途中にこの地で休憩し、そのときみた神の夢のお告げにより仏像の分身像を安置。以来、信州長野善光寺の分身として崇拝。

岩脇稲荷神社
創建年代は不詳。第92代天皇の伏見天皇が即位していた正応4年(1291年)の記録が残されている事からそれ以前から鎮座の神社と推定。

退避壕のある岩脇山。

現在の東海道本線上り線。
応じは退避壕までのアクセス路として造成中で終戦を迎えている。

場所

https://maps.app.goo.gl/diYq7d5XTcZrqnJg7

撮影:2024年6月


トルコ海軍コルベット艦「クナルアダ」(日本・トルコ外交関係樹立100周年記念)

2024年は、日本・トルコ外交関係樹立100周年。

2024年6月。
日本とトルコの歴史を振り返りつつ、トルコ軍艦を見学してきました。


エルトゥールル号遭難事件

日本とトルコの交流は、1887年の小松宮彰仁親王のオスマン帝国訪問と、翌年のエルトゥールル号の来日から始まった。

1887年、小松宮彰仁親王がヨーロッパ訪問の途中で、オスマン帝国の首都イスタンブールに立ち寄った。それに応える形で1890年、オスマン帝国スルタンであったアブデュル・ハミト2世の使節としてフリゲート艦「エルトゥールル」が日本へ派遣された。
使節は 明治天皇へ親書などを手渡し帰国の途についたが、和歌山県沖で台風に巻き込まれ座礁沈没。
特使オスマン・パシャを含め500名以上の乗組員が死亡した。このとき紀伊半島南端の和歌山串本・大島の住民が救援に駆けつけ69名を救出した。報告を受けた 明治天皇は直ちに神戸港へ医師と看護婦を派遣、救援に全力をあげた。さらに生存者には日本全国から多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。
生存者は日本海軍の装甲コルベットの金剛と比叡により、オスマン帝国に丁重に送還された。
「トルコ軍艦遭難事件」とその顛末はトルコ国内で大きく報道され、日本人に対する友好的感情もこの時より醸成された。
現在、和歌山県串本町には遭難事件にまつわるトルコ記念館がある。


日露戦争

1904年から始まった日露戦争に、オスマン帝国国民は大きな関心を寄せた。
これはクリミア戦争(1853年 – 1856年)・露土戦争(1877年 – 1878年)などによるもので、日本・トルコ両国にとってロシア帝国は共通の敵であった。
トルコを苦しめてきたロシア帝国であったが、1905年に日本が日本海海戦でロシアバルチック艦隊に対し決定的な勝利をおさめると、オスマン帝国国内では、日本の快勝を自国の勝利のように歓迎した。


第一次大戦

極東で南下政策を日本によって阻止されたロシア帝国は、オスマン帝国(オスマン・トルコ)に矛先を転じ、ボスボラス海峡とイスタンブールの掌握を目指した。トルコはドイツと接近し、第一次大戦は、同盟国(ドイツ帝国、オスマン帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国)として、連合国(イギリス、フランス、ロシア、日本)と戦うことになった。
日本は連合国(日英同盟)として、同盟国と戦うことになり、オスマン帝国と日本は交戦国となる。
敗れたオスマン帝国は、1920年セーヴル条約によって広範な領土を失った。


トルコ革命(トルコ独立戦争)

第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国は、さらなる列強による国土分割・植民地化の危機にあった。

しかし1922年からアンカラに樹立された大国民議会政府(アンカラ政府)ケマル・アタテュルク(現代トルコの国父・建国の父)らの主導で祖国解放戦争が開始され、祖国解放戦争に勝利、オスマン帝国を打倒して、トルコ共和国が成立。
1923年のローザンヌ条約(フランス・イギリス・イタリア・日本・ギリシャ・ルーマニア・ユーゴスラビア・トルコ)により国境が決定した。


平明丸事件(ツムラ・ユキチ通り)

終戦によってロシアの捕虜となったトルコ兵は1918年に日本側に移管され、その後、日本が捕虜をトルコ本国へ送り届けることとなった。
1921年に捕虜を乗せた輸送船の「平明丸」(司令官・津村諭吉)がトルコ到着直前にギリシャ軍に拿捕された。
これは、ギリシャ政府はトルコ内(小アジア)の領土を獲得しようと侵攻しており戦争状態(希土戦争)であり、トルコ兵捕虜返還によりトルコ側の戦力増強につながることを懸念したためであった。

津村中佐は、ギリシャより捕虜の引き渡しを要求されたが、これを拒否した。そして7カ月近い抑留の末、仲介役のイタリアに捕虜を引き渡し、トルコ兵らを救った。
結果として、トルコ人捕虜の多くは最終的に1922年6月に無事帰国、その後はギリシャの懸念通り直ちに祖国解放戦争に参加し、同年9月にギリシャ軍はトルコから完全撤退することになった。

2020年にイスタンブール市内のある通りが「津村諭吉中佐通り」と改名された。


日本・トルコ国交樹立

トルコ共和国建国の翌年、1924年の8月6日に日本がローザンヌ条約を批准し、同条約が発効したことにより、トルコと日本の間で外交関係が樹立。
その後、1925年にトルコに日本大使館を開設。
中東地域での日本大使館開設はトルコが初めてであり、これは日本政府が当時からトルコをいかに重要視していたかを示している。

1926年に日土協会が発足。
1928年にはトルコ海軍が日本海軍に駆逐艦や潜水艦などの建造を依頼。
1929年に高松宮宣仁親王( 昭和天皇弟宮・日本海軍将校)が、日土協会の総裁に就任。
トルコは、日本の明治維新を手本として、近代化政策をすすめていった。
1930年、日土通商航海条約が結ばれ両国の関係はより強固なものとなった。


第二次世界大戦

第二次世界大戦でトルコが枢軸国側に参加することは無かった。
開戦当初からトルコは中立を宣言し、中立を長らく維持していたがイギリスをはじめとした連合国の圧力により、1945年日本に宣戦布告した。
しかしトルコ国内世論は宣戦布告に反対であり、日本に対しての軍事行動は一切行わなかった。

戦時中に、破棄された国交は、1951年のサンフランシスコ平和条約によって回復。
トルコ政府は日本政府に対して、賠償をはじめとする一切に請求を行わなかった。


日本・トルコ外交関係樹立100周年

1924年から100年。
2024年、日本とトルコは外交関係樹立100周年を迎えた。


トルコ海軍コルベット艦「クナルアダ」

アダ級コルベット「クナルアダ」が、国交樹立100周年を記念して、東京港(東京国際クルーズターミナル)に入港し一般公開されました。


クナルアダ(F514 TCG Kınalıada)
トルコ海軍初の国産大型水上戦闘艦。ステルス艦として設計されている。
排水量2465トン、全長99.56メートル。
イスタンブール海軍工廠で起工され2019年に就役した。

ムスタファ・ケマル・アタテュルクの肖像とともに。
トルコ共和国の元帥、初代大統領
「父なるトルコ人」
「現代トルコの国父(建国の父)」

第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国において、トルコ独立戦争とトルコ革命を指導してトルコ共和国を樹立。トルコの近代化を推進し、トルコ大国民議会から「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」の称号を贈られた。「現代トルコの国父(建国の父)」とも呼ばれる。

トルコ国旗

撮影は後甲板のみで、艦内は撮影禁止。

WELCOM ON BOARD
TCG KINALIADA(F-514)

OUR FRIENDSHIP IS GOLDEN

「TCG」(Turkiye Cumhuriyeti Gemisi)(トルコ共和国艦艇)

上からも。

記念の帽子。トルコ国旗が良い!!


トルコ海軍

トルコ海軍の紹介パンフ。

トルコ共和国海軍は、チャカスがスミュルナを制圧した1081年を創設年としている。

トルコ海軍の歴史(意訳概略)
1081年にCaka Bey(チャカ・ベイ/チャカス)の指揮のもとに、イズミット(Izmir)で最初の艦隊が設立されたことにはじまる。
取るか艦隊は、1090年のKoyun諸島の戦いで輝かしい勝利を収めた。
1538年に、バルバロス・ハイレディン・バシャ(Barbaros Hayreddin Pasa)率いるトルコ艦隊は十字軍とのプレヴェザの海戦で勝利を収め、地中海の絶対的な支配を確立した。(大航海時代、ですね)
トゥルグト・レイス(Turgut Reis)の指揮下で、トルコ艦隊は1560年にジェルバ島近くで再び十字軍を破り、地中海の優位性を強化。
トルコ艦隊は、第一次世界大戦の1915年にチャナッカレ海戦(ガリポリの戦い)で連合国を撤退に追い込んだ。(オスマン帝国の名指揮官ムスタファ・ケマル・アタテュルクが活躍)
チャナッカレ海戦(ガリポリの戦い)の勝利と、のちのムスタファ・ケマル・アタテュルクによるトルコ共和故国の設立により、トルコ海軍は新たな海軍として立ち上がった。
トルコ海軍は、「Türkiye(テュルキエ)」の権利、利益、資産、そして潜在的な脅威を守り、地域の案件保証への取り組みに貢献するために、海上での重要な役割を引き受けることで、任務を遂行し続けている。


ケバブ

やっぱり食べたくなるので。
東京国際クルーズターミナルから、ケバブが食べれる場所を探して、一番近場だったお台場まで足を伸ばして、ケバブラップを。


付記

トルコ海軍フリゲート艦「ゲディズ」(2015年撮影)

1890年に現在の和歌山県串本町沖で座礁、沈没したエルトゥールル号事件の125周年記念事業の一環として来日したときの写真などを付記で。

F495 Gediz(ゲディズ)
ガビヤ級フリゲート艦。
旧・米O・H・ペリー級(オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲート)をベースとしている。
元は、米海軍の「ジョン・A・ムーア」(1981就役)
2000年9月1日に米海軍を退役し、トルコ海軍に移管、艦名はゲティズ (Gediz, F 495) と改められた。

エルトゥールル号事件 125 周年記念として、トルコ海軍TCGゲディズが晴海埠頭に寄港。
海自ホストシップ艦は護衛艦たかなみ。

記念品。
エルトゥールル号の本とキーホルダー。

ホスト艦の「たかなみ」

映画「海難1890」
2015年制作の映画。日本とトルコの友好125周年を記念して制作された。
エルトゥールル号海難事故編とテヘラン邦人救出劇編の二部構成。


「連合国民抑留所(敵性外国人抑留所)」であった聖母病院(新宿区中落合)

昭和6年に建造された病院は、空襲をくぐり抜け、連合国民抑留所として活用され終戦を迎えている。
そして、現在、東京都選定歴史的建造物に指定されている。


聖母病院

昭和6年、「国際聖母病院」として開院。
昭和18年、戦時下により「国際」を外して「聖母病院」と改称。
昭和20年4月13日の夜にB29による爆撃を受けるも、類焼を防ぎ無事を保つ。

昭和20年5月27日の山の手空襲で、小石川区関口台(文京区)にあった抑留所=関口台の天主公教会(現在の東京カテドラル聖マリア大聖堂・カトリック関口教会)が全焼し、連合国民抑留者=敵性外国人抑留者(宣教師や修道女など女子36名であったという)は、新宿区の聖母病院に移動。
ジュネーブ条約を準用した「敵国人の身柄保護」は、戦争末期には画餅と化してしまっていたが、それでも敵国人抑留政策は終戦までギリギリの状態で実施されていた。

そして、そのまま聖母病院は、「連合国民抑留所」として終戦を迎える。

東京都選定歴史的建造物
聖母病院
所在地 新宿区中落合2丁目5番1号
設計者 マックス・ヒンデル
建設年 昭和6年(1931)
 昭和6年(1931)にキリスト教の精神に基づき開院した国際病院で、上智大学などを手がけたスイス仁の建築家マックス・ヒンデルにより設計された鉄筋コンクリート造3階建ての建物である。
 うす茶色のタイル張りの外壁と、L字型の建物中央の頂部にある銅板葺き屋根の2つの塔が特徴となってる。縦長の窓が配置されるが、3階部分は上部をアーチ型にして変化をつけている。入隅に局面を用い、軒の小庇や窓台で水平線を強調するなどの点は、当時流行したデザインである。
 建物の全面には新宿区保護樹木のヒマラヤ杉の大木が立ち、壁面の茶色と調和した景観を形づくっている。平成15年(2003)新病棟の改築に伴い、本館の外観を当初に復元した。
 東京都生活文化局


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M606-48
昭和22年(1947年)10月27日、米軍撮影の航空写真。

聖母病院部分を抜粋

L字型の建屋がそのまま残っているのがわかる。

Google EARTHより

※撮影 2023年7月

場所

https://maps.app.goo.gl/P4BSc396NkD6EJBQ6


資料

新宿区立図書館
 > 新宿区内の戦跡紹介 – 東京 より

https://www.library.shinjuku.tokyo.jp/lib/files/libimg1594939155.pdf

戦後、救援物資の直撃で死者がでているのが、やるせない、、、

●聖母病院(中落合 中落合2-5-1)
カトリックの病院である聖母病院ですが、昭和20年4月13日の夜にB29による爆撃を受けました。 病院の前庭や屋上にも焼夷弾が落ちましたが、その時残っていた神父をはじめとする2、3人の男性と看護婦やシスター達だけで懸命の消火をしました。周囲は火の海で、大きな火の粉が空高く舞い上がって病院の構内に降り注いできました。病院の建物へ炎が燃え移らないようにと皆で番をし、一夜が明けて 無事に残った病院を眺めると煙と水に汚れた塔がそびえていたそうです。 終戦後、聖母病院に外国人の抑留者がいたため、米軍の飛行機から救援物資の投下がありました。 ただ残念なことに、この食料投下はパラシュートを付けたドラム缶だったこともあり、直撃して亡くなった人が3名いたのです。
平成15年(2003)新病棟の改築に伴い、本館の外観が当初に復元されました。
 東京都選定歴史的建造物

昭和館デジタルアーカイブ
 > 捕虜収容所と空襲跡(空撮) より

https://search.showakan.go.jp/search/photo/detail.php?id=90076852

https://search.showakan.go.jp/search/photo/detail.php?id=90076853

屋上にある「PW」とは、「Prisoners of War」=「戦争捕虜」のこと。「POW」とも略する。
下記は、上記サイトからの画像引用


東京新聞20240214
 > 3500人が命を失った…戦時中の「捕虜収容所」の実態に迫った事典を出版 市民団体が20年かけ全国調査

https://www.tokyo-np.co.jp/article/309044

下記は、上記サイトからの画像引用

お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション
 > 太平洋戦争下の「敵国人」抑留‐日本国内に在住した英米系外国人の抑留について‐小宮まゆみ氏

https://teapot.lib.ocha.ac.jp/record/33986/files/KJ00004470995.pdf


イオンモール太田に残る下小林高射砲陣地跡(太田の戦跡散策5)

「日本の飛行機王」
東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。
そんな中島知久平ゆかりの太田市内に点在する戦跡に足を運んでみました。

本編は、その5です。


下小林高射砲陣地

中島飛行機の工場(太田製作所、小泉製作所)が集中する太田市内には、いくつもの高射砲陣地が設置されていた。

高射砲陣地跡
 高射砲は、旧陸軍によって配備された航空機を撃墜するための大砲です。太平洋戦争(第2次世界大戦)当時、太田市域では、由良や古戸などの他、下小林にも高射砲陣地が設置されました。
 平成15年に太田市教育委員会が行った発掘調査では、ここ下小林の高射砲陣地において、6基の砲台が見つかりました。砲台は、直径約4.5mの低い円柱形のコンクリートで造られており、上面には高射砲を固定するための穴があいてました。これら6基の砲台は、約24m間隔で扇形に配置されていたこともわかりました。
 ここに調査で見つかった砲台1基を移設し、保存することにいたしました。今後、歴史教育や平和教育に活用されることを期待します。
 平成15年12月5日 
  イオンモール株式会社

イオンモールの南方の緑地(イオンモール太田 芝生広場)に。

場所

https://maps.app.goo.gl/HnjNoYV9igqyTA8j6

※撮影:2024年1月

その6に続く。


中島飛行機関連

はじめに

「救世観世音菩薩」と「B29墜落搭乗者慰霊碑」(駿府静岡の戦跡散策・その4)

静岡市のシンボル「賎機山(浅間山)」。
安倍川に沿って南北に伸びる賤機山(浅間山)の山頂に、戦争に関係する慰霊碑があった。

本編は、「その4」です。

「その1」はこちら。


静岡大空襲

静岡市は昭和19年から終戦までに26回の空襲を受けている。本土爆撃には富士山を目標に飛来するということもあり、富士山の入口にあたる駿河湾は、爆撃機護衛の艦載機の機銃掃射なども多数被っていた。
なかでも、昭和20年6月19日深夜から20日未明にかけての空襲は被害が甚大。
米軍B-29爆撃機137機により、静岡市街は3時間あまりにわたって波状爆撃をうけ壊滅した。

静岡平和資料センター

https://www.shizuoka-heiwa.jp/?page_id=9


救世観音菩薩(静岡市戦禍犠牲者慰霊塔)

静岡空襲の犠牲者を慰霊する観音様。

救世観音菩薩縁起
 吾が静岡市は、昭和19年11月5日南太平洋マリアナ基地よりB29 が連日の如く侵攻し、静岡市の受けた空襲による被害は被爆度数は12回、死者1,813名重傷者830名、特に昭和20年6月19日の夜半過ぎよりB29の大挙来襲により受けた空襲により全市が壊滅状態となりました。その状況はB29が157機、0時50分から3時40分に至る約3時間単機及び数機にて波状に飛来し大型小型の焼夷弾を無数に投下し、密度の高い絨毯爆撃を受け死者1,669名重傷者800余名、その後重傷者中死亡した者多数に及びました。
 諸団体、各位のご協力とご援助を賜りまして静岡市随一の名勝地賤機山の聖地に安置されて優終無縁の衆生の菩提を済度し慈顔を以て衆生を視たまい福聚円満なる御姿と観音妙智力の功徳により御霊の冥福と共に静岡市民の安泰と子孫繁栄曳いては世界人類の平和と幸福を念願いたす事が目的であります。
 発起人伊藤福松

救世観音菩薩縁起
吾が静岡市は昭和十九年十一月五日南太平洋マリヤナ基地よりB29一桟本市上空に初めて侵入してより昭和廿年八月十五日終戦に至る迄殆んど連日の如く侵攻し特に本市上空は京浜都市及び中京都市爆撃の経路として空襲警報発令極めて烈しく其の為市民は心身共に恐怖と疲労に陥り且戦時体制下に於ける生産活動能力は頗ぶる低下を来たしその間に受けた被害は非常に大なるものがありました
静岡市の受けた空襲による被害は被爆度数十二囘死者一、八一三名重傷者八三〇名全半壊建物一四八戸焼失建物二五、二三九戸罹災者一一八、七四六名の多きに上り特に昭和廿年六月十九日夜半過ぎよりB29の大挙来襲により受けた空襲により全市が壊滅状態となりました
其の状況はB29百桟零時五十分から三時四十分に至る約三時間単桟及数桟にて波状的に飛来し大型小型の焼夷彈を無数に投下し密度の高い絨毯爆撃を行った次第であります
其の被害状況は罹災世帯数二四、四五九罹災者一一〇、〇四六名死者一、六六九名重傷者八〇〇余名其の后重傷者中死亡した者多数に及びました
なお本市は去る昭和十五年一月十五日の大火に罹り全市の大半を焼失しましたが犠牲者は僅か一名の死亡のみに止りました
然るに今次の戰禍の如何に凄惨たる事は皆様の知悉する処であります
戰災者は永年の家産と貴き人命を一朝に失い其の惨状は筆舌に盡す事は出来ません
雨霰の如く落下する焼夷彈の中を老人子供或は病人等何の罪もない非戰斗員か逃げ惑い夫は妻を庇い妻は吾子を護り阿鼻叫喚宛ら地獄絵巻其の儘でありました
私は比のような多数の犠牲者に対し眞に御気の毒にたえません 然も一家全滅の憂目をみられ祭祠の出来ない数多くの方がある事を知りまして御慰靈追悼申し上げると同時に人類生存上再度斯様な人災は構成しない様発願致しました
猶其他内地外地に非戰斗員が千数百人の多数の戰禍のため犠牲となられても國家社会は年月の去ると仝事に忘れられて行く状態は御
靈と御遺族の心境に対し眞に同情に堪えませんので合祠させて戴き全市民の皆様と倶に永久に四恩報謝の誠意を捧げたいのであります 時至りまして元市会議員団市連合町内会婦人団躰その他諸団躰各位のご協力と御援助を蒙りまして静岡市随一の名勝地賤機山の聖地に安置されて有縁無縁の象生の菩提を済慶し慈眼を以て象生を視たまい福聚圓満なる御姿と観音妙智力の功徳により御靈の冥福と倶に静岡市民の安泰と子孫繁栄曵ては世界人類の平和と幸福を念願いたす事が目的であります
 昭和四十四年十二月吉日 謹誌 喜壽福松
   西暦一九六九年 建之 書刻 横井石堂

静岡市戦禍犠牲者慰霊塔


B29墜落搭乗者慰霊碑

1945年6月20日。静岡空襲に参加したB29の2機が空中衝突して墜落。B29の搭乗員23名が犠牲となった。
戦後、僧侶の伊藤福松さんが「死んでしまえば、敵も味方もない」と言って墜落死したアメリカの搭乗員のために慰霊碑を建立。
その後、私財を投じ昭和45年(1970)に賎機山山頂に空襲の犠牲者とB29の搭乗員の慰霊碑を建立。
慰霊碑は現在も市民の手によって大切に管理され、日米の関係者が出席し、「静岡空襲犠牲者日米合同慰霊祭」が執り行われている。

関連

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/shizuoka_shizuoka_004/index.html

裏面には、紀元2630年・西暦1970年の建立銘がある。

犠牲者のお名前

日米友好親善の樹、ハナミズキは米国からの記念植樹

賤機山ハイキングコース。
賤機山山頂 浅間山観音広場。

賤機山から見る富士山。

静岡浅間神社から登山、、、しました。
麓山神社を起点にして賤機山公園山頂までは、だいたい20分くらい。

危険が多い。

麓山神社へ向かう石段が一番大変とも。

※2023年12月撮影

場所

https://maps.app.goo.gl/2gSX5Ki7D1HN4DjG6


B29関連

3月10日の慰霊「東京大空襲」あの日から79年(令和6年・東京都慰霊堂と東京大空襲戦災犠牲者追悼碑)

令和6年(2024)3月10日。
あの日から79年目。
昭和20年(1945)3月10日、東京大空襲。

東京都慰霊堂にて、慰霊鎮魂の合掌を。
今日は、慰霊の日。


東京大空襲

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。
罹災者は100万人を超え、死者は10万人を超す規模は、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
これが、世にいう、「東京大空襲」(下町大空襲)であった。
慰霊鎮魂の日として、「東京都平和の日」となっている。


東京都慰霊堂

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、慰霊大法要が執り行なわれている。

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

午前9時45分。
10時からの法要にあわせて、秋篠宮殿下・同妃殿下がご参列に。

秋篠宮家の公用車は「三菱・ディグニティ(DIGNITY)」
20年以上も愛用されている秋篠宮家の専用車。
(三菱の最高級乗用車であったが生産台数は59台と、日本製乗用車では例題最小生産数で、ある意味で幻の乗用車)

10時25分頃、秋篠宮両殿下が退出。

だいたい11時位に、一般参列が可能になります。

合掌

納骨堂も開扉されていました

三重塔を模した納骨堂

甘酒、ありがとうございます

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

内部には霊璽簿が奉納されており、3月10日と9月1日の春秋の法要にあわせて、内部で手を合わせることが可能。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city002/index.html

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html


東京水辺ライン(隅田川・水上バス)

「両国リバーセンター」から「浅草二天門」まで水上バスで移動します。
両国12時15分の便が、ちょうどよく。

駒形橋

アサヒビール本社とスカイツリー

東武鉄道

言問橋

水上から言問橋を見るのは、実は、はじめて。

往時を思い起こしながら。

東京大空襲では、浅草(台東区)の人々は「川の向こうに行けば助かる」と考え言問橋を渡ろうとした。
同じく向島・本所深川(墨田区)の人々も「対岸へ」と橋に殺到。
向島本所地区は、すでに火の海であり、住民らは同様に対岸への避難を試みたため、両者が橋の上でぶつかり合い進退窮まる状態となった。そこに焼夷弾が落ち、言問橋の上に猛火が燃え移り、燃え盛る中で逃げるすべもなく、 両岸と橋上とすさまじき猛火の中で、行き場を失った人々が隅田川に飛び込んだとされ、そして多くの人々が焼死したという。
言問橋の親柱は、その時の黒焦げた焼き跡が今も残っている。


東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
(戦災により亡くなられた方々の碑)

あゝ
東京大空襲
朋よやすらかに

戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番
 
 隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
 昭和六十一年三月 台東区

東京大空襲犠牲者追悼集会

被災79周年
東京大空襲犠牲者追悼集会
 主催 東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会
 共催 台東区
 後援 台東区教育委員会

実行委員長の挨拶

台東区教育委員の挨拶

日本共産党の小池氏の挨拶

被爆体験者のお話し

毎年のことではあるが、語り継ぐべく、記録を。


東京大空襲関連

2023年

2022年

2021年

そのほか

東京大空襲・慰霊
戦災電柱
東京都戦没者霊苑

「弾除け観音」として崇敬された「おたすけ観音・報恩寺」(綾瀬市)

神奈川県綾瀬市。海軍厚木飛行場のほど近く。
戦時中に「弾除け観音」として崇敬された観音様の寺院があった。

「先祖の記録」の伝承の一助として。
戦争に関連のあったエピソードもまた、戦跡として、本サイトでは取り上げていきます。


「おたすけ観音」縁起

以下、公式サイトより。

当山二十七世 太嶽洞源大和尚(たいがくとうげん)は、現役入隊で、台湾の正蕃征伐(せいばんせいばつ)に参加し、山奥の作戦中、早朝、一人で滝の前で座禅中、滝の中に観音様を拝することができ「観音様がついていてくださるから、敵の弾に当たる事がない。」とかんじられた。
激戦で戦友達が多く戦死する中で、無事に帰還出来たので、この有難い観音様を一人でも多くの方に拝んで頂こうと、観音石像を刻み境内に安置し、観音像を描いて、沢山の人に差し上げたので、「おたすけ観音」として、第二次大戦中は、県内を始め東京等から参拝の人達が続いたといわれています。

http://www.ho-onji.or.jp/ho-onji.html

「江田島」と陰刻された観音様。

境内には、多くの観音様がおられる。
これらのいずれか一体が「弾除け観音」「お助け観音」というわけではなく、境内の観音様を総じて「弾除け観音」「お助け観音」と捉えているようだ。

立像もあれば坐像もある。さまざまな観音様がいらっしゃる。

昭和17年(1942年)に、開設した熱き海軍飛行場「厚木海軍航空隊(第二〇三海軍航空隊)」の隊員もこぞって祈願参拝し、洞源和尚の観音様を描いた絵を身につけていると、弾に当たらないと崇敬され、「弾除け観音の御札」を求めた、という。

平和観音と陰刻された観音様。

皇紀二千六百年の建立。1940年(昭和15年)だ。
「平和」の文字が凹んでいる。
皇紀2600年で「平和観音」とは、時局柄、刻めないので、これは戦後に削って「平和」と刻んだのだろう。
皇紀2600年のときは、どのような名称の観音さまであったか。無粋ではあるが、「興亜観音」「戦勝観音」といった観音様だったのかもしれない。
いずれにせよ戦争中の「弾除け観音」は、戦後は「おたすけ観音」として、そして「平和観音」として、現世を見守っていてくれている。

もう一つ、古い観音様があった。
こちらは像ではなく、刻まれた観音様。

よくみると「弾除観音」と刻まれている。

国威宣揚 天壌無窮

昭和12年(1937)に建立された観音様

観音立像

本堂前の観音様

鐘堂の観音様

あっちこっちに観音様

観音様に囲まれた、趣深い寺院。


曹洞宗陽廣山報恩寺

報恩寺は、慶長7年(1602)8月28日曹洞宗の寺院として開山。

公式サイト

http://www.ho-onji.or.jp/index.html

「おたすけ観音」の名称はあっちこっちにある。
今は、もう「弾除け」の時代ではない。

厚木基地から飛び立ったのかな。
空自のC-130輸送機が、報恩寺の上空を通過。

お猫様。こんにちは。

なんか、防空壕っぽい。

とてもきれいに整った寺院さんでした。

おたすけ観音報恩寺

場所:

https://maps.app.goo.gl/GSF8gVtMD16wJXAY7

撮影:2024年2月


「弾除け霊験」で信仰された「サムハラ神社」(大阪市西区)

「先祖の記録」の伝承の一助として。
戦争に関連のあったエピソードもまた、戦跡として、本サイトでは取り上げていきます。

2016年9月参拝。いまから8年前。この当時の私は、全国の有名神社を散策していたころでした。逆に言うと、まだ戦跡には目覚めていないころでしたので、戦跡としての意識は全く無く、神社フリークとして、足を運んだ次第でした。
ふと「そういえば、大阪に弾除け信仰の神社があったな、昔の写真あるかな」と思い起こして、本記事で再掲した次第です。


サムハラ神社

この読めない4文字の漢字は・・・漢字ではなく「神字」とされている。サムハラとは、「不思議の4文字」であり、「身の安全を守る文字」とされている。

祭神は、天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神。
いわゆる造化三神。
「サムハラ」はこれら三神の総称

本宮が大阪にあり、そして奥の院は、美作加茂(岡山県津山市)にある。

田中富三郎は、サムハラ大神をあつく信仰し、日清・日露戦争などで戦地に行った時にはサムハラの護符を身に着けていたことから、数々の危難をまぬがれ無事生還。

1935年(昭和10年)に、田中富三郎は、出身地の岡山県苫田郡西加茂村(現・津山市)にて、旧祠を再興しサムハラ聖殿が竣工する。そして、サムハラの霊徳を世の人々に分かつため、サムハラ信光会という団体も立ち上げ、サムハラ文字の付された様々な品物を販売し、サムハラの流布がはじまる。

しかし昭和11年に、岡山県特高課(特高警察)より、迷信利用と宗教法人違反(無許可神社での商品広告など)で自主撤去を求められ、いったん神社は撤去されている。

その後、田中富三郎は出征する兵士に、サムハラのお守りを持たせ、そのおかげで救われたりケガがなかったという人が大勢いたということから、サムハラは弾除け弾避けに霊験あらたかということで戦前・戦中に爆発的期に流行した宗教となる。

以下は、公式な由緒として。

美作国東北条郡中原村(現・津山市加茂町中原)日詰山山中の城郭址に古祠在り、 『サムハラ』を伝えると謂れあるも年紀不詳、恐らくは中世の日詰城の域内に斯様の守護祠の在ったものかと推測される。 歳月の中に古祠荒廃し、付近の住人の細々たる尊崇のみのうちに継がれる。同地出生の当神社初代主管者・田中富三郎翁の、往時により災難除・身体健固の加護に与りて日清・日露の戦役に助かり、常陸丸、鉄嶺丸に難を逃れ、しばしばの危難を避けて無事なるは奉持した
「サムハラ」の護符の御陰と畏んで、昭和9年に奉賛会たる信光会を催し、昭和10年に荒廃の古祠を再建する。第2次大戦に至り、大阪師団司令部を通じて出征兵士に御守を贈呈、武運長久を願う。
戦後昭和21年改めて中原・日詰山山中に社殿再建。 次で昭和25年、当時の大阪市要人達の賛同を得て大阪中之島豊国神社(当時)の摂社として岡山より分霊、中原の社殿は元宮・奥宮と称する。 昭和36年、大阪市役所増築により豊国神社大阪城内に奉遷、当神社も西区立売堀に移築遷座する。平成17年、台風の為毀たれた岡山奥宮を、加茂金刀比羅神社、地元各人の協力を得て加茂町中原900-3の現在地に遷座する。

沿革について(https://www.samuhara.or.jp/about.php

公式サイト

https://www.samuhara.or.jp/

神社としての第一印象は「よくわからない神社」
なんというか・・・よくわからない神社という感覚は、「神社神道」的な理屈の目線。
理屈とか由緒とか、歴史とか、そういうことではなく、人々は生きるか死ぬかの戦時下に縋った、生きて帰ってくるための、よくわかならい霊験からくる信仰は、人々の生活に直結し、そこには理屈ではない信仰の重みを感じさせる。

田中富三郎胸像

創建者の田中富三郎は、1868年(明治元年)美作加茂生まれ。サムハラ大神をあつく信仰し日清・日露戦争で数々の危難をまぬがれた。サムハラ大神の霊徳を人々に分かつため私財でサムハラ神を建立。1967年(昭和42年)12月3日逝去。享年100歳。

御朱印。
2016年(平成28年)の参拝。

御神環守
「指輪の御守・御神環(指輪形肌守)」

神紋

崇敬者の声。
無傷無病、延命長寿の神としての「サムハラ様」の霊験。

サムハラさんは、従来型の神社神道とは異なる新しい形の神社として、色んな意味でよくわからないながらも面白いなと感じた神社でした。

場所

https://maps.app.goo.gl/a543rbEh2WGyLXUK6


秩父宮御殿場御別邸の防空壕跡(秩父宮記念公園)

静岡県御殿場市。
秩父宮記念公園に、秩父宮家に関係する防空壕が残っているというので足を運んで見ました。


秩父宮雍仁親王

秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや やすひとしんのう)
1902年〈明治35年〉6月25日 – 1953年〈昭和28年〉1月4日

大正天皇と貞明皇后の第二皇子。
明治天皇の皇孫にあたる。
昭和天皇は兄、長弟に高松宮宣仁親王、次弟に三笠宮崇仁親王がいる。
御称号は淳宮(あつのみや)。
日本陸軍の軍人でもあり、階級は少将。
勲等功級は大勲位功三級。
大正9年(1920)に陸軍士官学校に入校。陸士34期。同期は、同期には西浦進、石井秋穂、堀場一雄、赤松貞雄、西田税、三好達治など。
大正11年(1922)に、20歳で成年式を行い、宮家「秩父宮」を創立。
昭和3年(1928)、陸軍大学校に入校。陸大43期。同期は、森巌、辻政信など。
昭和15年(1940)に肺結核と診断され、戦時中は御殿場別邸で療養生活を余儀なくされる。
昭和27年(1952)、御殿場別邸から鵠沼別邸に移るも、病状が悪化し昭和28年(1953)1月4日に50歳で薨去された。


秩父宮御殿場別邸

もともとは、血盟団事件で暗殺された大蔵大臣井上準之助の元別荘であった。昭和16年(1941年)に秩父宮家が購入して秩父宮御殿場御別邸とされ、戦中戦後の時期をここで過ごした。

秩父宮雍仁親王・勢津子妃が過ごした元別邸を整備、公開した公園が秩父宮記念公園。
静岡県御殿場市の箱根外輪山の麓にあり、勢津子の遺言により御殿場市に寄贈されたのち公園となった。
平成7年(1995年)に遺贈され、平成15年(2003年)春にオープン。敷地面積1万8千坪、標高500mに位置している。


秩父宮同妃両殿下防空壕

秩父宮同妃両殿下防空壕
 当園内には、秩父宮同妃両殿下防空壕、将校の防空壕、民間人用僕空劫(未公開)の3つの防空壕があります。
 平成27年に戦後七十年を迎え、秩父宮同妃両殿下防空壕を一般公開に向けて整備を進めてまいりました。
 当時、皇位継承順位第三位であった殿下の防空壕は特殊掩体壕というかまぼこ型で、遮断層として石を1.5メートルほど積み上げ、その後さらに土を持った構造で強度があるものでした。
 昭和19年11月1日 
  御殿場別邸上空を敵機が通過するようになる。
 昭和20年3月16日
  東海軍により殿下専用の防空壕構築計画をたてる。
 昭和20年4月8日
  構築開始。
 昭和20年5月11日
  掩体セメント作業のため将兵250名を増員。
  その他約140名にて照明燈下のもと作業。
  その間、市内小学生も石積み奉仕作業に加わる。
 昭和20年6月22日
  竣工。
 昭和20年7月30日
  御殿場駅付近に爆弾8個投下により
  殿下は初めて新築防空壕に退避されました。
 病気療養中であった殿下を別邸から担架に乗せたまま防空壕の奥まで入れるカタツムリのような構造となっています。
 入り口は近くに爆弾が落ちても中に弾や飛散物、爆風が直接はいらないように折れ曲がり、厚い板戸がついた設計になっております。
 奥には煙突のような脱出口もついています。
  参考文献「銀のボンボニエール」
      (著者 雍仁親王新王妃勢津子)より

防空壕
 園内には3つの防空壕がある。現在内部公開している「将校防空壕」「両殿下防空壕」、未公開の「民間人防空壕」
 両殿下防空壕は、昭和20年3月造成開始、6月完成。その後7月30日御殿場駅付近での空襲時に退避、8月15日終戦を迎えた。
 当時の図面は「特殊掩体設計図」となっている。「特殊掩体」=「掩体壕」とは、かまぼこ型で大きな強度のある建物。躯体完成後、周りに遮断層として石を1.5m程度積み、その後土を盛った構造。当時地元の生徒が参邸し石積の奉仕をした。
 掩体壕設計図は、入り口から右に曲がり前室、そのまま居室へとまっすぐに入るようになっていたが、実際は入口から右に曲がり前室に入り、前室左側から居室に入るようにジグザクになっている。入口付近に爆弾が落とされても爆風が直接両殿下のいる居室には届かないよう、建設段階で変更したと思われる。

防空壕内部見取り図

石が積まれている。

右に折れる。

前室

居室。
奥には通気口が上に伸びている。

前室から出入り口を見る。

防空壕上部の通気口。

将校防空壕のところに、勢津子妃殿下の手記が抜粋されているので、あわせて記載しておきます。

◎秩父宮勢津子妃殿下が書かれた手記の中には以下のような記述があります。
参考文献:銀のボンボニエール(主婦の友社)
      平成3年6月27日発行
「8月15日」・・・289ページ
 別邸の屋根には迷彩が施され、東海軍部隊の兵隊によって強靭な防空壕も造られました。地下を螺旋状に掘り固めて、ちょうどカタツムリの殻のように奥にはいれるようになっておりました。奥には煙突のような脱出口もついていました。いざというときは宮さまを担架にお乗せしたままずーっと奥まで入れるのです。このほかには宮内省が作った簡素なものもございました。

◎御殿場の空襲についても下記のように書かれています。
「8月15日」・・・289ページ
7月30日、空襲警報が鳴ったと思うと、御殿場駅の方角でドカーンという大きな音がつづけざまに聞こえてきました。私にもそれが爆弾の音だとすぐに分かりました。御殿場駅から東に3キロのこの地もいよいよ危ないと思い、手伝いの者と急ぎ走って帰り、宮さまを皆で囲むようにして初めて防空壕に退避いたしました。後で聞くところによりますと、艦載機数機が御殿場駅構内を機銃掃射し、駅付近に50キロ爆弾を8個投下したということです。

◎両殿下が入られた防空壕は整備し、公開されています。
この防空壕を出て、正面の竹林内にある赤い三角の通気口がある場所


将校防空壕

こちらは秩父宮様の警護にあたったであろう将校用の防空壕。

なお、3つ目の防空壕にあたる宮内省が作ったという民間用防空壕(宮内省職員向けか)は、未公開。

宮様の防空壕は、今ではわかりやすく整備されている。


秩父宮雍仁親王像

昭和天皇より贈られた登山服姿の秩父宮殿下銅像は富士山に向けて設置されている。
昭和3年(1928年)に 昭和天皇の下命により、秩父宮邸御殿(赤坂表町御殿)の造営を記念して、朝倉文夫が制作。
東京赤坂の御本邸より昭和19年(1944年)に、御殿場別邸に移設された。
なお、秩父宮邸・赤坂表町御殿は昭和20年5月25日の空襲(山の手空襲)で本館が全焼している。
この空襲では、皇居内の明治宮殿も焼失している。


秩父宮記念公園

公式サイト

https://www.chichibunomiya.jp/

秩父宮記念公園は、昭和16年9月から約10年間、秩父宮両殿下が実際にお住まいになられていたご別邸を、秩父宮妃勢津子殿下が平成7年8月にお亡くなりになられた際のご遺言により御殿場市に御遺贈いただき、園内を整備し平成15年4月に開園した公園です。敷地面積は約1万8千坪(東京ドームの約1.5倍)、標高約500メートルにある庭園は、両殿下が愛された山野草を始め四季折々の花々を楽しむことができます。

秩父宮記念公園公式サイト

記念館(御遺品展示室)

記念館(母屋)
もともとは、大蔵大臣井上準之助の別荘であった。
享保8年(1723年)に建築されたものを、昭和2年(1928年)に移築。

井上準之助は、第二次山本権兵衛内閣、浜口雄幸内閣、第二次若槻禮次郎内閣の大蔵大臣。昭和7年(1932年)2月9日に血盟団事件によって暗殺される。

書斎、応接間、食堂として使用された部屋

秩父宮農場「宮さまの農事試験場」

三峰窯
秩父宮は陶芸を好まれた

御殿場からみる富士山。

※撮影:2023年12月


関連

玉音放送を発信した耐弾式送信所「足柄送信所跡」御殿場線の廃トンネル(山北町)

御殿場を散策した帰り道。御殿場線経由で、東京に戻る途中に夕刻に、時間が調整できたので、「谷峨駅」で下車。かねてより気になっていた廃トンネルに赴いてみました。


御殿場線

明治22年(1889年)に東京‐大阪を結ぶ鉄道(のちの東海道本線)として、国府津‐沼津間が開業。
昭和9年(1934年)に丹那トンネルが開通すると東海道本線は、熱海経由に変更され、国府津‐沼津間は、東海道本線の支線「御殿場線」となった。
第2次世界大戦中の昭和19年(1944年)に不要不急路線に指定され、単線化され、レールなどの資材は回収転用され、廃トンネルや橋脚などが残存している。

国際電気通信株式会社

昭和13年(1938年)に日本無線電信株式会社・国際電話株式会社を合併させて創立したのが「国際電気通信株式会社」(KDTK)であった。
国際電気通信株式会社は、対外無線電信電話の設備の建設、保守業務を行い、その設備を政府に供することによる使用料をその収入源とし、電信電話の運用業務は、政府が行っていた「半官半民の企業」であった。
昭和19年、軍、情報局、通信省が必要最小限の送信機を確保するため防空送信所を計画。
耐弾式送信所として足柄送信所、隠蔽式送信所として多摩送信所が建設されることになった。

国際電気通信・多摩送信所(隠蔽送信所)

国際電気通信は、本土空襲に備え戦争末期に2つ送信所を敷設した。
「多摩送信所」「足柄送信所」

東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたる山林内で、三方を尾根に囲まれた一帯に、1945年4月、起伏と樹林を利用した隠蔽送信所として「多摩送信所」が開設された。

多摩送信所ではポツダム宣言を受諾を発信している。


国際電気通信・足柄送信所(耐弾式送信所)
御殿場線・箱根第五隧道(廃トンネル)

国際電気通信の「足柄送信所」は、軍部の要請に基づいて設置された極秘の防空送信所であり耐弾式送信所でもあった。御殿場線の廃トンネルを再活用し、昭和19年11月に竣工という。
20Kw電話送信機を1台、20Kw電信送信機を2台設置。
昭和20年8月15日の正午からの「玉音放送」を発信した極秘の防空送信所が「足柄送信所」であった。

足柄送信所から世界に向けて短波にのせられた玉音放送は、中国大陸や南方諸地域の軍人や在留邦人、南米などの日本人移民に終戦を伝える役割を果たした。

アクセスは、「清水橋」(駿河小山駅方向)から。谷峨駅側からはアクセスできません。。。

清水橋の旧道から右手に折れると、トンネルがあります。

箱根第五隧道(旧上り線)
全長は、275.53m。幅は、3.5メートル、高さは4.5メートル。岩盤が30メートル以上あり、空爆にも充分耐えられる耐弾式送信所であった。

通信機器を置いていた痕跡。
トンネルの中心部分は、床がコンクリート張りとなっている。

保全作業員用の退避所

排水口

両脇は排水溝として機能。

ちなみにライトがないとこんな感じ。

外光が見えてきた。

谷峨駅がわのトンネル開口部。

爆弾防止壁

通信設備を保護するために設けられたL字型の爆弾防止壁。これはなかなかの厚み。

戦後に、でっかい穴が開けられた、、、

御殿場線の本線が見えます。

並行する道路から。

この右側には、冷却池も現存している。(確認漏れ、、、)

新東名の建設工事中。山北ー駿河小山(新秦野IC – 新御殿場IC)は、2027年度の開通予定という。

場所(清水橋)

https://maps.app.goo.gl/BY7wTLeZiYijE1Wn6

谷峨駅。
1907年(明治40年)開設の信号場を前身とし、1947年(昭和22年)7月に駅として開業した。

現在の駅舎は2000年に改築したもの。

鉄道唱歌第1集13番
 いでてはくぐるトン子ルの
 前後は山北・小山驛
 今も忘れぬ鐵橋の
 下ゆく水のおもしろさ

山北駅と駿河小山駅の間に、谷峨駅がある。

※撮影:2023年12月


関連

中島飛行機信夫山地下工場跡(福島)

福島県の信夫山。標高275メートル。
福島市のシンボルとしてそそり立つ信夫山は、古くから山岳信仰の場でもあり、今も福島県護国神社や出羽三山の分社、黒沼神社や岩谷観音を始めとした多くの寺社がある。

戦前、この信夫山に中島飛行機の地下工場があったというので、足を運んでみた。


中島飛行機信夫山地下工場(中島飛行機フ工場

中島飛行機武蔵製作所のエンジン製造工場を分散疎開させることとなり、疎開工場として福島県福島市の信夫山も候補となった。信夫山には、江戸時代前から金鉱山として有名で、いくつかの坑道があったというのも、地下工場と親和性が高かった。

通称は「フ工場」。
昭和20年3月、信夫山の羽山西側に中島飛行機エンジン組立の地下工場が切削がされたが、完成前に終戦を迎えている。
現在、開口部はコンクリートで塞がれている。

中島飛行機・信夫山地下工場跡

暑い夏の日でしたが、隙間からは冷気を感じることが出来ました。

開口部前に平らな道がある。人為的に作られた道は、往時のトロッコ道かもしれない。

西端。

福島交通飯坂線を見下ろせた。

地下工場開口部の前の道。

場所はこのあたりから、山道に入ると開口部へのアクセスできる。

https://maps.app.goo.gl/MN2pm3wfSDyrjtew7

山裾をはしる福島交通飯坂線。

この山に地下工場があった。

ちょうど、山の西側を電車が走る。

福島県立美術館から「羽山」を望む。羽山の左側が地下工場のあった台地。
住所は「西平山」


曽根田駅

福島交通飯坂線の駅。
1942年(昭和17年)の開業当時の姿を伝えている駅舎。

福島駅から望む信夫山。

東北新幹線は信夫山の西側をトンネルで通過し、東北本線は、西側の山裾を避けるように北上している。

ちなみに福島は、古関裕而のまち。

古関裕而記念館もあるけど、時間の都合で行きませんでした。
 露営の歌
 暁に祈る
 若鷲の歌

※撮影:2023年8月


関連

明治天皇銀婚式記念「可美真手命像」(浜離宮恩賜庭園)


可美真手命(うましまでのみこと)

可美真手命(日本書紀)、宇摩志麻遅命(古事記)
邇芸速日命(天津神)が那賀須泥毘古(大和地方の豪族)の妹である登美夜毘売を娶って生んだ子が、可美真手命。
神武天皇の東征に際して、那賀須泥毘古を殺し、神武天皇に帰属。
可美真手命は、穂積臣、物部連などの祖にあたる。
御祭神としては、物部神社、石上神宮などに祀られている。


可美真手命像

可美真手命像
明治27(1894)年、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った検証募集に当選した作品で、佐野昭氏が制作、鈴木長吉氏が鋳造したと言われています。

明治天皇の銀婚式記念。
明治27年3月9日に催された大婚二十五年祝典。
日本で初めて明治天皇が銀婚式の祝賀を行ったことが契機になり、金婚式の折返しにあたる銀婚式を日本に広めた式典ともなった。
ちなみに、同じ年の明治27年7月25日から、日清戦争が勃発している。

フツノミタマを抱える可美真手命

神武天皇の東征に従った可美真手命は、末裔となる物部氏が武門の家柄となり、近代においては、軍神として崇敬された。

可美真手命像は、太平洋戦時の金属供出を逃れ、今も変わらずに勇姿を伝えている。


浜離宮(浜離宮恩賜庭園)

この地は、江戸時代に埋め立てがすすみ、将軍家の鷹狩場として活用されていた。
三代将軍徳川家光の三男綱重が賜邸され、屋敷が築かれた。
その後、徳川将軍家浜御殿として、活用され、11代徳川家斉の時代には、鴨場も設けられた。
幕末には、浜御殿は海軍所となり、御殿奉行を廃止され海軍奉行となったが、15代将軍慶喜は、江戸城と浜御殿には一度も入ること無く、明治を迎えることになった。

明治期の浜御殿は、東京府の管理となり軍事的利用から貴賓接待場に変化していた。
明治3年に宮内省の管轄となり「浜離宮」となった。
明治7年(1872年)1月28日、敷地内にあった外国貴賓用の施設「延遼館」(日本で最初の西欧式の石造建築)を外務省所管とし、敷地21,765坪を宮内省所管とした。

昭和19年(1944年)11月29日、浜離宮にサイレンが鳴り響き、上空をB29が編隊で通過した。園内には防空壕が造られ、高射砲も備えられていたが、一帯は火の海となり、浜離宮は日に包まれ、歴史的建物は全て焼失。稲荷と宮内省官舎だった現在の芳梅亭だけが生き残ったという。

鴨がいますね。

鴨場も復元されてる。

鴨塚

鷹場も

稲荷神社(稲生神社)

三百年の松。

延遼館の跡。

※撮影:2022年12月


関連

「戦前最初で最後の国際的博覧会」名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

愛知県名古屋市港区にある陸橋。地図を見ていてなんとなく目にとまったところから調べてみたら、興味深い歴史を有していたので足を運んでみました。


名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

名古屋市が人口100万人を突破し、名古屋開港30周年を迎え、太平洋の平和と発展に寄与することを目的に、昭和12年(1937年)3月15日から78日間にわたって開催されたのが、「名古屋汎太平洋平和博覧会」であった。

平和博覧会は、名古屋市長(大岩勇夫)が中心となり、そして総裁は東久邇宮稔彦王(当時、陸軍中将)が就任した。
陸軍としては軍事拡大を目論んでいるさなかでの「平和を銘打った博覧会」は断固反対の立場であったが、名古屋に縁があり(平和派)皇族の陸軍中将が総裁では、軍も公式には反対できなかったという。

なお、この当時すでに昭和15年(1940)に東京と横浜で紀元2600年を記念した万国博覧会(紀元2600年記念日本万国博覧会・幻の東京万博)が計画されていたことから、それに配慮し「万国」ではなく「汎太平洋」という名称になったともいう。

名古屋汎太平洋平和博覧会
開催目的
 (1)広く内外産業文化の現状を紹介する
 (2)わが国の産業の振興と日本文化の宣伝を行なう
 (3)関係各国民の平和親善と共同の繁栄に資する
会期
 昭和12年3月15日~5月31日(78日間)
会場
 名古屋市南部臨港地帯の15万坪
出展国
 太平洋沿岸諸国および名古屋市との友好国全29カ国
出展物
 産業、社会、科学など
入場料
 大人=60銭
 子供=30銭
 軍人=30銭
入場者数
 約480万人

昭和前期の大規模な博覧会として、会場496.000平方メートルの敷地の中央を南北に貫通して東西会場に分割し、東会場は運河で3分割、会場の道路は大陸橋と地下道で結ばれた。

東会場には国内特設館14館と、海外より満州、中華民国、蘭領印度、ペルシャ、シャム、中南米などが参加した。
国内の保健衛生館で展示されたドイツから購入したプラスチック製の透明人間が人気を呼んだ。

西会場はメインの航空国防館で、非常時日本の威力を誇示し、国民の戦意高揚を図る展示をした。

「名古屋汎太平洋平和博覧会」会場の道路は幅80メートル、そこに噴水、花壇や緑地帯を配し、中央に高さ50メートルの大平和塔が聳え、そこから数条の道路が放射状につくられ、展示館、特設館や付属設備が建てられるという統制のとれた会場づくりであった。入場者は4.808.164人で、外国人も満州の2.819人を含め6.625人が入場した。

参照

https://www.nomurakougei.co.jp/expo/exposition/detail?e_code=1660

https://history.nagoya-cci.or.jp/shouwashoki/h12.html

「平和」を銘打った国際的博覧会ではあったが、博覧会終了の2ヶ月後には盧溝橋事件をきっかけとした「支那事変(日中戦争)」が勃発し、平和は程遠い状況下となってしまった。

名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋
我が国最初の国際的博覧会

 名古屋汎太平洋平和博覧会は、昭和12年、我が国最初の国際的博覧会として注目されました。
 会場は、現在の港北公園周辺50万平方メートルにおよび、国内の各都道府県や外国29か国が参加、会期78日間で総入場者数480万人にのぼる大規模なものでした。

 博覧会名にちなみ、平和の二文字をとって名付けられた平和橋は、港区内で博覧会の跡をとどめる唯一の建造物とされています。
 平成25年、市民に身近な歴史的建造物として「認定地域建造物資産」に認定されました。
  平成26年3月 名古屋市港区役所まちづくり推進室

平和橋
昭和12年港区で、名古屋汎太平洋平和博覧会(日本の産業の振興・文化の発展と高揚・関係国民との平和親善を図ることを目的とする)が開催され、解散期間78日間で、入場者約480万人に達した。
この博覧会のために、約13万円を投入しこの橋が建設された。その名を博覧会の「平和」の二字をとって名付けられ、博覧会の記念として残る唯一のものである。

昭和11年十一月竣工

「ピースあいち」のサイトに、名古屋汎太平洋平和博覧会画報の画像が掲載されている。

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201809/vol_106-5.html

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201810/vol_107-5.html

http://www.peace-aichi.com/pdf/20181021_hakurankai1937_2.pdf

※2023年3月撮影


「熱田大空襲の慰霊巡拝」愛知時計電機・愛知航空機(名古屋)

昭和20年6月9日、名古屋の熱田に集中的に空襲があった。

名古屋大空襲のひとつに数えられる「熱田空襲」。
そのターゲットは愛知時計電機と愛知航空機であった。


熱田空襲

昭和20年6月9日、名古屋市熱田区の愛知時計電機船方工場・愛知航空機(現愛知機械工業)工場周辺に米軍が実施をした空襲。
米軍の爆撃機編隊は通常の爆撃航路とは異なる航路で突如として名古屋を襲撃。日本軍は当初の航路から名古屋の空襲警報を解除しており、不意をつかれたことから被害が広がり、結果、愛知時計電機・愛知航空機工場で働いていた従業員や動員学徒約2万2000名のうち1045名が死亡、重軽傷者約3000名、周辺住民も数十人死亡した。(従業員や周辺住民あわせて約2000人が死亡、重軽傷者約2000名との説もある)
この空襲は、9時30分から40分にかけての約10分間の空襲であったという。

米軍は、「エンパイア作戦」として、複数の重工業地点を同時に襲撃し日本側の迎撃態勢を分散させる作戦を立案し、この6月9日は、兵庫県西宮市の川西航空機の鳴尾製作所、兵庫県明石市の川崎航空機の明石製作所、そして愛知県名古屋市熱田区の愛知時計電機、愛知航空機が爆撃をされたものであった。
そして、2トン爆弾が日本で最初に使われた日でもあった。


愛知時計電機と愛知航空機

もとは、機械式時計メーカーの一つ。現在の愛知時計電機株式会社は時計事業からは撤退しているが、歯車技術を応用して精密計測機器メーカーとなっている。
戦前の同社は、やはり時計製造による技術・資本蓄積によって派生した機械、電機、化学部門などを活かし軍用航空機やエンジン製造に携わっていた。

1893年(明治26年)に「愛知時計製造」として創立。
日露戦争時の1904年(明治37年)に陸海軍から砲弾の信管などを初めて受注。
1912年(明治45年)に「愛知時計電機」に社名を改称。引き続き機雷や魚雷発射管の製造の他、艦砲用の射撃盤(射撃データの機械式計算機)の国産化にも協力し海軍との関係が深かった。
また、航空用エンジンの生産も手がけ、大戦中は水冷エンジン「アツタ」の製造をしている。
大戦中の1943年(昭和18年)には航空機増産のために同社の航空機部門を独立させて「愛知航空機株式会社」(現在の愛知機械工業)を設立。
1944年(昭和19年)12月7日の東南海地震では機体組立の中心工場だった永徳工場の製造用治具が乱れ、以後の航空機生産に大きく影響した。
更に1945年(昭和20年)6月の空襲(熱田空襲)により主力の船方工場が大きな被害を受け、そのまま終戦を迎えた。

「愛知時計製造」及び「愛知航空機」の代表作
・九九式艦上爆撃機
・流星
・流星改
・零式水上偵察機
・瑞雲
・晴嵐
・九八式水上偵察機(夜偵)
・水冷式発動機「アツタ」
など。


慰霊地藏尊(愛知時計電機)

愛知時計電機の正門脇に鎮座する慰霊地蔵尊。

熱田空襲の犠牲者を慰霊。

三界萬靈

合掌

地藏尊建立縁起
過グル第二次世界大戦當時當愛知時計電機株式會社ニハ從業員並ニ動員學徒ヲ併セ二萬二千名就業セリ
時ニ昭和二十年六月九日午前九時三十分ヨリ同四十分ニ至ル約十分間ノ空襲ニヨリ忽チニシテ工場一帯ハ當社関係死者一一四五名重軽傷者三〇〇〇名更ニ地方人死者一〇〇〇名ノ一大修羅場ト化セリ
嗚呼惨シイカナ 茲ニ終戰後五年船方工場再建セラル丶ニ當リ同志相謀リ隨喜ノ寫經ヲ埋藏シ地藏尊一軆ヲ建立シ以テ右殉國諸靈魂ノ冥福ヲ祈ラル各靈位願クハ此ノ功徳ニヨリ佛果菩堤ヲ證得セラレンコトヲ
 昭和二十四年六月九日
  覺王山主
   勅賜襌師瓏仙記

場所

https://maps.app.goo.gl/6v6EeH3WfBR177AaA

愛知時計電機 正門

堀川沿いの新建屋


第二次大戦非戦闘員横死者諸霊之追善菩提

愛知時計電機株式会社本社の北側に。
熱田空襲の犠牲者を祀る。

爲第二次大戰非戰鬪員横死者諸靈之追善菩提

愛知時計電機関係者以外の犠牲者を祀る。
合掌

昭和二十年六月九日此の白鳥橋周邉に於て米軍爆撃により無量数百名の一般人名を失ひよつて将來の平和と安定を祈り被爆死者等の冥福を謹みて祈願するものである
 維時 昭和三十三年八月吉祥日
 發願 廣小路徳風會
 隨喜 一般有志者

場所

https://maps.app.goo.gl/KBidYm8HPBxebhAaA


熱田空襲の被爆堤防

以前の記事から抜粋。

堀川運河。
愛知時計電機のすぐ脇に保存されている戦跡。
そこには、 熱田空襲の爆撃痕を残す堤防が移築保存されている。

この護岸は、昭和八年に築造され、平成四年度から実施した「マイタウン・マイリバー整備事業」による新たな護岸の設置にあたり、撤去したものの一部である。
護岸表面にみられるくぼみは、昭和二十年六月九日のいわゆる「熱田空襲」の爆撃によりできたものである。
 平成八年三月 
  名古屋市

場所:

https://maps.app.goo.gl/V8NdRDpmjEDYfuHj9


殉職者之墓

平和公園墓地に、愛知時計電機株式会社の殉職者のお墓がある。

合掌

殉職者之墓
愛知時計電機株式会社
此の墓は、昭和20年6月9日に熱田大空襲を受け殉職された英霊を祀ったものである。

殉職者之墓

愛知時計電機株式会社

場所:平和公園墓地

https://maps.app.goo.gl/BymDWWKzzd3DxhMu7

撮影:2023年10月


関連

ドン山の大砲(新潟)

新潟県新潟市中央区。
日本海沿いに広がる新潟市内最大規模の海浜公園「西海岸公園」。
その公園に「ドン山」と呼ばれる小高い一角がある。
「ドン山」の名前の由来は、全国各地で作られた午砲台(正午の時報代わりに、空砲を打っていた場所・午砲山)と、そこに据えられていた大砲に由来し、いまもドン山の大砲が復元されている。

ドン山の大砲

ドン山の由来
 時計が現在のように普及していなかった明治、大正時代に、新潟では大砲で空砲をうち、人々に正午を知らせていました。
 これは、明治6年から大正13年までの52年間続きました。
 明治5年以前の新潟の人々は、現在の第四銀行本店のところにあった町内会所の中の和時計をもとに、2時間ごとに打ち鳴らす鐘を聞いて時を知りました。
 時計のなかった当時としては、明け六つの鐘、暮れ六つの鐘などと呼ばれ、人々にとって重要なものでした。
 明治6年、旧暦から新暦に改められたことを契機に、同年6月15日から寄居砂山(現在の旧新潟大学理学部跡)の白御影石を積んで木柵をめぐらした小高い丘の上に、六角形の白い番小屋と車輪のない大砲を据え付け、空砲をうって正午を知らせました。
 この大砲の音は、風向きによっては遠く新発田まで聞こえるほど大きな音であったため、新潟の人々はもちろん近郊の村々でも正午を知ることができ、重宝がられ、ドン山といわれて人々に親しまれていました。
 大正8年、この場所に新潟高等学校が建設されることになり、ドン山はやむなく二葉中学校のこの地に移転し、大正13年の午砲が廃止されるまで続きました。
 砲先は、はじめ市街地の方向に向けられていましたが、打つのドーンとものすごい音がしたため、新しく建てられた二葉中学校の勉強の支障となるということで、大正10年頃、海に向けられました。
 大正13年の新潟新聞によると、明治6年から明治38年まで車輪のない大砲を使用し、明治39年には、八木朋直氏の寄贈による車輪のある大砲に取り替えられ、廃止される大正13年まで使用されたということです。
 廃止後、その保存のため初代大砲は白山公園内に設置され、その後大円寺公園に移設されました。2代目大砲も大円寺公園に存置され、昭和18年頃まで保存されていましたが、両方とも戦争のため其の姿を消してしまいました。
 新潟市公園水辺課
 西土木事務所

大砲について
 このたびのドン山に据えられた大砲の復元は、確かな資料に乏しく、不明な点が多くありました。
 明治・大正時代の新聞・国会図書館・自衛隊武器学校での調査、郷土史家の意見などを参考といたしました。
 その結果、明治42年の雑誌「新潟交友」、大正13年の「新潟新聞」から、ドン山の情景、大砲の大きさ、大砲の打ち方などを把握することができました。
 大砲は、明治初期、陸軍で使用していたもので、前装式(弾薬を砲口から装填する)でり、当時、フランス製の大砲を模して国内で制作したと推測されました。
 さいわい、国立国会図書館で当時の「欧州諸国現用野山砲兵附図」を収集することができました。
 その中から、フランス製の大砲を基本として、ドン山をイメージ復元したものであります。

ドン山から望む日本海。

西海岸公園

場所

https://maps.app.goo.gl/Y9uwBxj7rLrXy7pH9

撮影:2023年10月


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