「近代史全般」カテゴリーアーカイブ

明治天皇銀婚式記念「可美真手命像」(浜離宮恩賜庭園)


可美真手命(うましまでのみこと)

可美真手命(日本書紀)、宇摩志麻遅命(古事記)
邇芸速日命(天津神)が那賀須泥毘古(大和地方の豪族)の妹である登美夜毘売を娶って生んだ子が、可美真手命。
神武天皇の東征に際して、那賀須泥毘古を殺し、神武天皇に帰属。
可美真手命は、穂積臣、物部連などの祖にあたる。
御祭神としては、物部神社、石上神宮などに祀られている。


可美真手命像

可美真手命像
明治27(1894)年、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った検証募集に当選した作品で、佐野昭氏が制作、鈴木長吉氏が鋳造したと言われています。

明治天皇の銀婚式記念。
明治27年3月9日に催された大婚二十五年祝典。
日本で初めて明治天皇が銀婚式の祝賀を行ったことが契機になり、金婚式の折返しにあたる銀婚式を日本に広めた式典ともなった。
ちなみに、同じ年の明治27年7月25日から、日清戦争が勃発している。

フツノミタマを抱える可美真手命

神武天皇の東征に従った可美真手命は、末裔となる物部氏が武門の家柄となり、近代においては、軍神として崇敬された。

可美真手命像は、太平洋戦時の金属供出を逃れ、今も変わらずに勇姿を伝えている。


浜離宮(浜離宮恩賜庭園)

この地は、江戸時代に埋め立てがすすみ、将軍家の鷹狩場として活用されていた。
三代将軍徳川家光の三男綱重が賜邸され、屋敷が築かれた。
その後、徳川将軍家浜御殿として、活用され、11代徳川家斉の時代には、鴨場も設けられた。
幕末には、浜御殿は海軍所となり、御殿奉行を廃止され海軍奉行となったが、15代将軍慶喜は、江戸城と浜御殿には一度も入ること無く、明治を迎えることになった。

明治期の浜御殿は、東京府の管理となり軍事的利用から貴賓接待場に変化していた。
明治3年に宮内省の管轄となり「浜離宮」となった。
明治7年(1872年)1月28日、敷地内にあった外国貴賓用の施設「延遼館」(日本で最初の西欧式の石造建築)を外務省所管とし、敷地21,765坪を宮内省所管とした。

昭和19年(1944年)11月29日、浜離宮にサイレンが鳴り響き、上空をB29が編隊で通過した。園内には防空壕が造られ、高射砲も備えられていたが、一帯は火の海となり、浜離宮は日に包まれ、歴史的建物は全て焼失。稲荷と宮内省官舎だった現在の芳梅亭だけが生き残ったという。

鴨がいますね。

鴨場も復元されてる。

鴨塚

鷹場も

稲荷神社(稲生神社)

三百年の松。

延遼館の跡。

※撮影:2022年12月


関連

「戦前最初で最後の国際的博覧会」名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

愛知県名古屋市港区にある陸橋。地図を見ていてなんとなく目にとまったところから調べてみたら、興味深い歴史を有していたので足を運んでみました。


名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋

名古屋市が人口100万人を突破し、名古屋開港30周年を迎え、太平洋の平和と発展に寄与することを目的に、昭和12年(1937年)3月15日から78日間にわたって開催されたのが、「名古屋汎太平洋平和博覧会」であった。

平和博覧会は、名古屋市長(大岩勇夫)が中心となり、そして総裁は東久邇宮稔彦王(当時、陸軍中将)が就任した。
陸軍としては軍事拡大を目論んでいるさなかでの「平和を銘打った博覧会」は断固反対の立場であったが、名古屋に縁があり(平和派)皇族の陸軍中将が総裁では、軍も公式には反対できなかったという。

なお、この当時すでに昭和15年(1940)に東京と横浜で紀元2600年を記念した万国博覧会(紀元2600年記念日本万国博覧会・幻の東京万博)が計画されていたことから、それに配慮し「万国」ではなく「汎太平洋」という名称になったともいう。

名古屋汎太平洋平和博覧会
開催目的
 (1)広く内外産業文化の現状を紹介する
 (2)わが国の産業の振興と日本文化の宣伝を行なう
 (3)関係各国民の平和親善と共同の繁栄に資する
会期
 昭和12年3月15日~5月31日(78日間)
会場
 名古屋市南部臨港地帯の15万坪
出展国
 太平洋沿岸諸国および名古屋市との友好国全29カ国
出展物
 産業、社会、科学など
入場料
 大人=60銭
 子供=30銭
 軍人=30銭
入場者数
 約480万人

昭和前期の大規模な博覧会として、会場496.000平方メートルの敷地の中央を南北に貫通して東西会場に分割し、東会場は運河で3分割、会場の道路は大陸橋と地下道で結ばれた。

東会場には国内特設館14館と、海外より満州、中華民国、蘭領印度、ペルシャ、シャム、中南米などが参加した。
国内の保健衛生館で展示されたドイツから購入したプラスチック製の透明人間が人気を呼んだ。

西会場はメインの航空国防館で、非常時日本の威力を誇示し、国民の戦意高揚を図る展示をした。

「名古屋汎太平洋平和博覧会」会場の道路は幅80メートル、そこに噴水、花壇や緑地帯を配し、中央に高さ50メートルの大平和塔が聳え、そこから数条の道路が放射状につくられ、展示館、特設館や付属設備が建てられるという統制のとれた会場づくりであった。入場者は4.808.164人で、外国人も満州の2.819人を含め6.625人が入場した。

参照

https://www.nomurakougei.co.jp/expo/exposition/detail?e_code=1660

https://history.nagoya-cci.or.jp/shouwashoki/h12.html

「平和」を銘打った国際的博覧会ではあったが、博覧会終了の2ヶ月後には盧溝橋事件をきっかけとした「支那事変(日中戦争)」が勃発し、平和は程遠い状況下となってしまった。

名古屋汎太平洋平和博覧会と平和橋
我が国最初の国際的博覧会

 名古屋汎太平洋平和博覧会は、昭和12年、我が国最初の国際的博覧会として注目されました。
 会場は、現在の港北公園周辺50万平方メートルにおよび、国内の各都道府県や外国29か国が参加、会期78日間で総入場者数480万人にのぼる大規模なものでした。

 博覧会名にちなみ、平和の二文字をとって名付けられた平和橋は、港区内で博覧会の跡をとどめる唯一の建造物とされています。
 平成25年、市民に身近な歴史的建造物として「認定地域建造物資産」に認定されました。
  平成26年3月 名古屋市港区役所まちづくり推進室

平和橋
昭和12年港区で、名古屋汎太平洋平和博覧会(日本の産業の振興・文化の発展と高揚・関係国民との平和親善を図ることを目的とする)が開催され、解散期間78日間で、入場者約480万人に達した。
この博覧会のために、約13万円を投入しこの橋が建設された。その名を博覧会の「平和」の二字をとって名付けられ、博覧会の記念として残る唯一のものである。

昭和11年十一月竣工

「ピースあいち」のサイトに、名古屋汎太平洋平和博覧会画報の画像が掲載されている。

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201809/vol_106-5.html

https://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201810/vol_107-5.html

http://www.peace-aichi.com/pdf/20181021_hakurankai1937_2.pdf

※2023年3月撮影


「熱田大空襲の慰霊巡拝」愛知時計電機・愛知航空機(名古屋)

昭和20年6月9日、名古屋の熱田に集中的に空襲があった。

名古屋大空襲のひとつに数えられる「熱田空襲」。
そのターゲットは愛知時計電機と愛知航空機であった。


熱田空襲

昭和20年6月9日、名古屋市熱田区の愛知時計電機船方工場・愛知航空機(現愛知機械工業)工場周辺に米軍が実施をした空襲。
米軍の爆撃機編隊は通常の爆撃航路とは異なる航路で突如として名古屋を襲撃。日本軍は当初の航路から名古屋の空襲警報を解除しており、不意をつかれたことから被害が広がり、結果、愛知時計電機・愛知航空機工場で働いていた従業員や動員学徒約2万2000名のうち1045名が死亡、重軽傷者約3000名、周辺住民も数十人死亡した。(従業員や周辺住民あわせて約2000人が死亡、重軽傷者約2000名との説もある)
この空襲は、9時30分から40分にかけての約10分間の空襲であったという。

米軍は、「エンパイア作戦」として、複数の重工業地点を同時に襲撃し日本側の迎撃態勢を分散させる作戦を立案し、この6月9日は、兵庫県西宮市の川西航空機の鳴尾製作所、兵庫県明石市の川崎航空機の明石製作所、そして愛知県名古屋市熱田区の愛知時計電機、愛知航空機が爆撃をされたものであった。
そして、2トン爆弾が日本で最初に使われた日でもあった。


愛知時計電機と愛知航空機

もとは、機械式時計メーカーの一つ。現在の愛知時計電機株式会社は時計事業からは撤退しているが、歯車技術を応用して精密計測機器メーカーとなっている。
戦前の同社は、やはり時計製造による技術・資本蓄積によって派生した機械、電機、化学部門などを活かし軍用航空機やエンジン製造に携わっていた。

1893年(明治26年)に「愛知時計製造」として創立。
日露戦争時の1904年(明治37年)に陸海軍から砲弾の信管などを初めて受注。
1912年(明治45年)に「愛知時計電機」に社名を改称。引き続き機雷や魚雷発射管の製造の他、艦砲用の射撃盤(射撃データの機械式計算機)の国産化にも協力し海軍との関係が深かった。
また、航空用エンジンの生産も手がけ、大戦中は水冷エンジン「アツタ」の製造をしている。
大戦中の1943年(昭和18年)には航空機増産のために同社の航空機部門を独立させて「愛知航空機株式会社」(現在の愛知機械工業)を設立。
1944年(昭和19年)12月7日の東南海地震では機体組立の中心工場だった永徳工場の製造用治具が乱れ、以後の航空機生産に大きく影響した。
更に1945年(昭和20年)6月の空襲(熱田空襲)により主力の船方工場が大きな被害を受け、そのまま終戦を迎えた。

「愛知時計製造」及び「愛知航空機」の代表作
・九九式艦上爆撃機
・流星
・流星改
・零式水上偵察機
・瑞雲
・晴嵐
・九八式水上偵察機(夜偵)
・水冷式発動機「アツタ」
など。


慰霊地藏尊(愛知時計電機)

愛知時計電機の正門脇に鎮座する慰霊地蔵尊。

熱田空襲の犠牲者を慰霊。

三界萬靈

合掌

地藏尊建立縁起
過グル第二次世界大戦當時當愛知時計電機株式會社ニハ從業員並ニ動員學徒ヲ併セ二萬二千名就業セリ
時ニ昭和二十年六月九日午前九時三十分ヨリ同四十分ニ至ル約十分間ノ空襲ニヨリ忽チニシテ工場一帯ハ當社関係死者一一四五名重軽傷者三〇〇〇名更ニ地方人死者一〇〇〇名ノ一大修羅場ト化セリ
嗚呼惨シイカナ 茲ニ終戰後五年船方工場再建セラル丶ニ當リ同志相謀リ隨喜ノ寫經ヲ埋藏シ地藏尊一軆ヲ建立シ以テ右殉國諸靈魂ノ冥福ヲ祈ラル各靈位願クハ此ノ功徳ニヨリ佛果菩堤ヲ證得セラレンコトヲ
 昭和二十四年六月九日
  覺王山主
   勅賜襌師瓏仙記

場所

https://maps.app.goo.gl/6v6EeH3WfBR177AaA

愛知時計電機 正門

堀川沿いの新建屋


第二次大戦非戦闘員横死者諸霊之追善菩提

愛知時計電機株式会社本社の北側に。
熱田空襲の犠牲者を祀る。

爲第二次大戰非戰鬪員横死者諸靈之追善菩提

愛知時計電機関係者以外の犠牲者を祀る。
合掌

昭和二十年六月九日此の白鳥橋周邉に於て米軍爆撃により無量数百名の一般人名を失ひよつて将來の平和と安定を祈り被爆死者等の冥福を謹みて祈願するものである
 維時 昭和三十三年八月吉祥日
 發願 廣小路徳風會
 隨喜 一般有志者

場所

https://maps.app.goo.gl/KBidYm8HPBxebhAaA


熱田空襲の被爆堤防

以前の記事から抜粋。

堀川運河。
愛知時計電機のすぐ脇に保存されている戦跡。
そこには、 熱田空襲の爆撃痕を残す堤防が移築保存されている。

この護岸は、昭和八年に築造され、平成四年度から実施した「マイタウン・マイリバー整備事業」による新たな護岸の設置にあたり、撤去したものの一部である。
護岸表面にみられるくぼみは、昭和二十年六月九日のいわゆる「熱田空襲」の爆撃によりできたものである。
 平成八年三月 
  名古屋市

場所:

https://maps.app.goo.gl/V8NdRDpmjEDYfuHj9


殉職者之墓

平和公園墓地に、愛知時計電機株式会社の殉職者のお墓がある。

合掌

殉職者之墓
愛知時計電機株式会社
此の墓は、昭和20年6月9日に熱田大空襲を受け殉職された英霊を祀ったものである。

殉職者之墓

愛知時計電機株式会社

場所:平和公園墓地

https://maps.app.goo.gl/BymDWWKzzd3DxhMu7

撮影:2023年10月


関連

ドン山の大砲(新潟)

新潟県新潟市中央区。
日本海沿いに広がる新潟市内最大規模の海浜公園「西海岸公園」。
その公園に「ドン山」と呼ばれる小高い一角がある。
「ドン山」の名前の由来は、全国各地で作られた午砲台(正午の時報代わりに、空砲を打っていた場所・午砲山)と、そこに据えられていた大砲に由来し、いまもドン山の大砲が復元されている。

ドン山の大砲

ドン山の由来
 時計が現在のように普及していなかった明治、大正時代に、新潟では大砲で空砲をうち、人々に正午を知らせていました。
 これは、明治6年から大正13年までの52年間続きました。
 明治5年以前の新潟の人々は、現在の第四銀行本店のところにあった町内会所の中の和時計をもとに、2時間ごとに打ち鳴らす鐘を聞いて時を知りました。
 時計のなかった当時としては、明け六つの鐘、暮れ六つの鐘などと呼ばれ、人々にとって重要なものでした。
 明治6年、旧暦から新暦に改められたことを契機に、同年6月15日から寄居砂山(現在の旧新潟大学理学部跡)の白御影石を積んで木柵をめぐらした小高い丘の上に、六角形の白い番小屋と車輪のない大砲を据え付け、空砲をうって正午を知らせました。
 この大砲の音は、風向きによっては遠く新発田まで聞こえるほど大きな音であったため、新潟の人々はもちろん近郊の村々でも正午を知ることができ、重宝がられ、ドン山といわれて人々に親しまれていました。
 大正8年、この場所に新潟高等学校が建設されることになり、ドン山はやむなく二葉中学校のこの地に移転し、大正13年の午砲が廃止されるまで続きました。
 砲先は、はじめ市街地の方向に向けられていましたが、打つのドーンとものすごい音がしたため、新しく建てられた二葉中学校の勉強の支障となるということで、大正10年頃、海に向けられました。
 大正13年の新潟新聞によると、明治6年から明治38年まで車輪のない大砲を使用し、明治39年には、八木朋直氏の寄贈による車輪のある大砲に取り替えられ、廃止される大正13年まで使用されたということです。
 廃止後、その保存のため初代大砲は白山公園内に設置され、その後大円寺公園に移設されました。2代目大砲も大円寺公園に存置され、昭和18年頃まで保存されていましたが、両方とも戦争のため其の姿を消してしまいました。
 新潟市公園水辺課
 西土木事務所

大砲について
 このたびのドン山に据えられた大砲の復元は、確かな資料に乏しく、不明な点が多くありました。
 明治・大正時代の新聞・国会図書館・自衛隊武器学校での調査、郷土史家の意見などを参考といたしました。
 その結果、明治42年の雑誌「新潟交友」、大正13年の「新潟新聞」から、ドン山の情景、大砲の大きさ、大砲の打ち方などを把握することができました。
 大砲は、明治初期、陸軍で使用していたもので、前装式(弾薬を砲口から装填する)でり、当時、フランス製の大砲を模して国内で制作したと推測されました。
 さいわい、国立国会図書館で当時の「欧州諸国現用野山砲兵附図」を収集することができました。
 その中から、フランス製の大砲を基本として、ドン山をイメージ復元したものであります。

ドン山から望む日本海。

西海岸公園

場所

https://maps.app.goo.gl/Y9uwBxj7rLrXy7pH9

撮影:2023年10月


関連

新潟縣護國神社

日光田母沢御用邸の防空壕跡

日光で、何するというわけでもないけど、時間があったので、せっかくなので御用邸に赴いてみた。


日光田母沢御用邸

https://www.park-tochigi.com/tamozawa/

元は皇太子時代の大正天皇の静養所として造営された旧御用邸の建物と庭園を公園として整備し一般公開されている。

明治期以降に数多く造られた御用邸建築のうち、全体がほぼ完存する唯一の例として貴重であり、建造物群は国の重要文化財に指定されている。

御用邸の創設は明治32年(1899年)で、病弱であった皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の夏の静養所として設けられたもの。
大正天皇即位後にも多くの部屋が増築され、東京赤坂東宮御所の江戸期の移築建築もあり、明治・大正の各時代の用途の異なる建築が混在している。


日光田母沢御用邸の防空壕

1944年(昭和19年)7月、東京への大空襲に備え、日光田母沢御用邸が、当時皇太子(学習院初等科5年生)であった第125代天皇明仁の疎開先となった。その時に、防空壕も設営されたものと思われれる。

内部の写真。

水没しているようだ。

防空壕の上部。

この下に防空壕がある。

もうひとつの入り口。
防空壕の入り口は2つあった。


日光田母沢御用邸見学

正門。

入り口。御用邸の車寄せ。

御玉突所

謁見所

御学問所の丸窓

中央の建物は御食堂

2階へ

後日拝所

剣璽の間

御寝室

3階の御展望室は期間限定公開。

御座所

御食堂

御湯殿

庭園から

3階建屋。

なんかのんびりできました、たまにはこういう文化的なものも良いですね。

場所

https://maps.app.goo.gl/dPNqQeTv6zXzxRBE7

※2023年9月撮影


関連

烏山防空監視哨

那須烏山市。
烏山城に連なる南の筑紫山の山頂に、防空監視の戦跡があったので足を運んでみました。


烏山防空監視哨

筑紫山の山頂に、コンクリートの円筒がある。

筑紫山についての看板。

烏山防空監視哨の案内は、山の麓にある。(山頂には無い)

那須烏山市の近代化遺産
烏山防空監視哨
分類:軍事/監視哨
所在地:那須烏山市筑紫山頂
建造年:不明(昭和16年以降)
構造形式:コンクリート造
昭和16年12月に「防空監視隊令」が公布され(勅令1136号)、これを基に「栃木県防空計画」が選定されました。この計画では、県内に3ヶ所の監視隊本部と防空監視哨43ヶ所・補助監視哨4ヶ所の設置が定められ、監視隊本部の一つ宇都宮監視隊本部には19ヶ所の監視哨が配置され、烏山は6番目に位置していました。烏山防空哨は、当初毘沙門山頂にあった従来の監視用施設を供用し、その後、筑紫山頂にコンクリートで建造されたものと思われます。ラッパ型円筒形で外径4.25m・内径2.76m・高さ1.5m、地元那珂川産の川砂・川砂利が使用され、また表面はセメントペーストで成形されています。このような戦争遺産は、平和学習の教材として評価・関心が高まっており、烏山防空監視哨はその先導的施設として貴重な遺産といれるでしょう。

豆知識
■哨員の構成と仕事
監視哨は哨長1名、副哨長3名および哨員24名で構成され、8名1組の3班で概ね3日交代で勤務していました。哨員の仕事は飛来する敵機の監視で、目視・聴覚で判別して本部に通報することでした。
■現存する防空監視哨
現在、各地にいくつかの防空監視哨が確認されており、その構造・形状も多様です。栃木県では設置されたとされる47ヶ所のうち烏山と粟野の2ヶ所が現存・確認されており、どちらもラッパ型円筒形をしています。

土木学会の選奨土木遺産の認定書。
栃木県の防空関連施設群として、掩体壕3基と監視哨2基が認定されている。

防空監視哨を見学。

内部にベンチのようなものがある。

はしごもあるので、内部に入ることもできる。

けっこう、怖い。内部にはいるのは、やめておく。

場所

https://maps.app.goo.gl/6xRkJi6jeBSk8Jvz9

筑紫山、遠望。

那須烏山市 烏山庁舎のとなりにある「八雲神社」から登山できる。

案内看板がある。

となりの空き地には、「彰徳碑」がある。

削られている。

筑紫山の登山道。

毘沙門天が祀られている。

八雲神社から、だいたい15分くらいで山頂に到着できる。

ちなみに、JR烏山駅からは、八雲神社まで、15分くらい。
わたしは、「どうくつ酒蔵」から歩いたんので、八雲神社まで20分くらい。けっこう歩きまくりました。


JR烏山線

烏山線、初めて乗りました。

烏山線は、蓄電池駆動電車が運用されている。
JRグループ初の「蓄電池動車」。リチウムイオン電池でウドいている電車。

烏山駅で、急速充電中。

地下工場跡を再利用した「どうくつ酒蔵」(東京動力機械製造地下工場跡・島崎酒造どうくつ酒蔵・烏山)

栃木県那須烏山市。
ここに、地下工場(地下壕)を再利用した酒蔵があるというので、足を運んでみた。


東京動力機械製造地下工場

第2次世界大戦末期に戦車を製造するために建造された地下工場跡。
昭和19年11月に民間企業であった東京動力機械製造株式会社の疎開が決定。戦車を製造していた軍需工場でもあった。
疎開先の烏山の山裾に半地下式工場が建造され、隣接して地下工場も造営。
半地下式工場では、終戦までに約20台の戦車が製造されたと言われている。しかし、この地下工場では戦車を製造することなく終戦を迎えている。
地下工場は、高さ幅ともに3.5mの3本の坑道とそれを結ぶ5本の横坑で構成され、総延長は600m。
人力だけで素掘りされた隧道群。

「東京動力機械製造株式会社地下工場跡」として土木学会選奨土木遺産に認定されている。
選奨理由「戦車製造の軍需工場として人力だけで建造された総延長600mの素掘り隧道群で、意匠・技術力を超越した迫力が感受される土木遺産である。」
また、那須烏山市の近代化遺産にも認定されている。


島崎酒造どうくつ酒蔵

「東力士」で知られる島崎酒造。
戦後に、東京動力機械製造地下工場を酒蔵として活用。通称「どうくつ酒蔵」。
2011年に、旧地下工場跡の洞窟を酒蔵化している。

https://azumarikishi.co.jp/tour/

場所

https://maps.app.goo.gl/AGRbgAH85ZRSxG7Q8


東京動力機械製造地下工場跡(どうくつ酒蔵)散策

土日祝日が開放日。

入口。

受付時に音声ガイドのタブレットが手渡されました。
なかなかハイテクですね。

音声自動ガイド。

まだまだ暑い9月の訪問でしたが、中は一気に温度が下がりました。
日本酒を貯蔵するのに最適されています。

どうくつ施設について
歴史
第二次大戦末期、1944~45年頃、戦車を製造するために作られた地下工場跡地です。
当時、400人程度の人の手が掘削作業にあたり、約1年半という短い期間で地下施設を完成させました。

どうくつの大きさ
約12,000㎡の山一つの地下に
縦穴 100m 3本
横穴  60m 5本
トンネル横幅 3~4.5m
トンネル高さ 3.5m~4m
トンネル延べ 600m

形状
上から眺めると格子状ですが、真横から見ると、3本の縦穴は入り口から奥の突き当りの非常口まで貫通しており、すべて上り勾配がついています。これは暖かい空気は上に上るといった現象を利用してどうくつ掘削作業、施設稼働時の酸欠の危険を防ぐ空気循環の考慮だと言われています。

どうくつ内温度
どうくつ内の温度は年間を通じ平均10℃前後、冬場は5℃、夏場は15℃前後になっており、お酒の熟成には最適の温度環境になっております。

周辺減光してますね、、、洞窟内なので撮影が難しい。。。

つきあたりに、観光地でよくある顔出しパネルが、、、

洞窟内では、テレビや映画の撮影や、音楽コンサート、イベントなども開催。

温度は、18℃くらいで、湿度は65%くらい。

オーナーズボトルの貯蔵。5年から20年ものあいだ、寝かせるという。

外が見える。

下に降りる階段がある。

下は、売店。日本酒が買える。

どうくつから外に出る。
温湿度差でカメラのレンズが一気に曇る。。。

土木学会選奨土木遺産

土木学会の認定証

烏山市の近代化遺産

https://www.city.nasukarasuyama.lg.jp/data/doc/1610777525_doc_6_0.pdf

どうくつの酒場で購入しました。
「東力士純米吟醸 どうくつ熟成酒」

外で、サイダーとアイスも。
「東力士サイダー」「東力士吟醸酒アイスクリーム」

パンフレット

東力士ステッカー

どうくつ酒場から見えていた開口部。

どうくつ酒場のある山。

ちなみに、烏山線の滝駅から歩きました。電車の本数が少なくて調整必要。
どうくつ酒蔵のあとは、歩いて神長トンネルを抜けて烏山の筑紫山の防空監視哨(別記事で記載します)に行きましたが、この2つを歩いていくのは修行ですね。

※撮影:2023年9月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M561-104
1947年11月17日、米軍撮影の航空写真。

該当部分を拡大。

現在の位置関係。


関連

大型探照灯用反射鏡(ニコンミュージアム)

品川のニコンミュージアムに、大型探照灯用の反射鏡があるというので、見学してみました。

なお、ニコンミュージアムは、2024年に予定されているニコン新本社ビル(東京都品川区西大井)への移転に伴い、2024年3月1日(金)から長期休館を予定していますので、ご注意を。

ニコンミュージアム

https://www.jp.nikon.com/company/corporate/museum/


日本光学工業株式会社

1914年から勃発してた第一次世界大戦を踏まえ、1917年に軍部は、日本の光学機器の結集を画策。
そうして、1917年6月に光学兵器の国産化を目的として、測距儀修理を担っていた東京計器製作所光学部・岩城硝子製造所の探照灯用反射鏡部門、双眼鏡を開発製造してた藤井レンズ製造所を統合し、三菱の岩崎小彌太の個人出資により「日本光學工業株式會社(日本光学工業株式会社)」を設立。

1930年代以降は陸軍造兵廠東京工廠(東京第一陸軍造兵廠)・東京光学機械(現・トプコン)・高千穂光学工業(現・オリンパス)・東京芝浦電気(現・東芝)・富岡光学器械製作所(トミコン、ヤシカ、京セラオプテック、現・京セラ)・榎本光学精機(フジノン、現・富士フイルム)などとともに主に日本軍の光学兵器を開発・製造する。

陸軍系の企業である東京光学機械(のちのトプコン)と、海軍系の日本光学工業(ニコン)は、軍需光学機器製造の双璧として「陸のトーコー・海のニッコー」とも謳われるようになった。


大型探照灯用反射鏡(96式150センチ探照灯用反射鏡)

1939年(昭和14年)は、皇紀2596年。
その2596年に採用されたのが、日本海軍の「96式150センチ探照灯」であった。
展示は日本光学工業株式会社で製造された大型探照灯用反射鏡。

日本海軍が海上や陸上で索敵用に用いていた大型探照灯の反射鏡は、直径150cm(有効照射距離8,000m)、直径110cm(有効照射距離6,000m)、直径90cm(有効照射距離4,000m)の3種類があった。

大型探照灯用反射鏡
1939(昭和14)年に製造された探照灯(サーチライト)の凹面鏡で、船舶、陸上施設などに搭載され、捜索作業などに用いられた。
直径1.5メートルと、当時の国産としては最大径のもので、塩害を避けるためガラスの裏側に銀がメッキされている。
探照灯は、焦点位置に光源を置くと反射光は平行光線となって遠くまで届き、この大型探照灯では8,000メートル先まで届いたといわれる。現存する同型の反射鏡は数枚しかない。

大型探照灯用反射鏡。つまり、サーチライトの反射鏡。直径1.5mの超大型な鏡。

当然、鏡なので、真正面からだと撮影者=私が映り込むので、映り込み防止で撮影するのはなかなか難しい。

私が映らないように立ち位置は調整。

後ろ側。

戦前に軍事利用された貴重なミラーは、ニッコーを物語る歴史の証言者。


ニコンミュージアムあれこれ

せっかくなので、いろいろ見学してみる。

原点としての光学
ニコンにおける光学ガラス製造の歴史は、会社設立の翌年、1918(大正7)年にはじまる。
光学機器の国産化にとって光学ガラスの自製化は欠かせないものであった。
以降、現在にいたるまで、ニコンは「原点としての光学ガラス」の製造技術を追求してきている。
現在でも光学ガラスを製造できる企業は世界に数社しかない。光学ガラスという素材からの一貫生産は総合精密・光学メーカー「ニコン」の原点であり、同時に大きな特徴となっている。

NIKKOR誕生とニコンカメラの道のり

Nikon Model Ⅰ
ニコン初の小型カメラ。1948年。Nikonのブランドが初めて採用された記念すべきカメラ。

歴代のカメラがズラリ。
ニコンの歴史が揃っている。


ニコンようかん

毎度おなじみの「ニコンようかん」を。正確には、ニコン一口ようかん。
ちなみに、ニコンでは商品工場は持っていない。
1973年にニコン従業員向けに発売されたものが紀元。発案の栃木ニコンと同じ大田原市に所在する和菓子店である株式会社本宮によるもので、本宮が開発・製造を担当し、ニコンへ供給するOEM商品となる。

紙袋もおしゃれ。


ちなみに、、、

ごめんなさい。
そういえば、ニコン製品持っていませんでした、、、

実は、私はペンタックス(PENTAX)一筋のペンタキシアン(PENTAXIAN)です、、、
デジタル一眼は「*istD」「K10D」「K-5 IIs」「KP」が歴代の使用機種。。。

2023年現在の、私の戦跡散策は、基本として「HD PENTAX-DA 16-85mmF3.5-5.6ED DC WR」と「PENTAX KP」。これで戦跡で撮影しています。35mm換算24.5-130mmとなるので、広角から望遠前一本で使い勝手よろし。

上記のカメラを持ったヤツを、あっちこっちの戦跡で見かけたら、きっと私です。。。。。

※撮影:2023年9月

名古屋大空襲と大曽根(ナゴヤドーム・大曽根駅・片山八幡宮)

名古屋の大曽根駅周辺を散策してみました。


名古屋大空襲

1938年7月1日に三菱名古屋航空機製作所(大江)からエンジン製造部門を分離独立したのが三菱重工業名古屋発動機製作所(大幸)。

https://www.mhi.com/jp/company/location/nagoyaguidew/history

名古屋でB-29爆撃機による本格的な空襲がはじまった1944年12月13日に真っ先に爆撃目標となったのが、三菱重工業名古屋発動機製作所(三菱発動機)であった。
当時、三菱発動機大幸工場では日本の航空機用発動機(エンジン)の4割を生産していた大工場であり、米軍にとっては、東の中島飛行機武蔵工場、西の三菱発動機大幸工場は壊滅させねばならない工場であった。

昭和19年12月13日、三菱発動機大幸工場に対する初の本格的な空襲が実施。。翌年4月7日まで、執拗な爆撃が実施され、三菱発動機大幸工場は壊滅した。
また、昭和20年3月12日に名古屋市街地が被災、3月19日に名古屋駅が炎上、5月14日に名古屋城が焼失など、大規模な空襲が名古屋市に対して繰り返し行われた。こうして名古屋市に対しては、63回の空襲が行われ、B29飛来2579機、死者は7858名、負傷者10378名に及ぶという。


ナゴヤドーム
(三菱重工業名古屋発動機製作所跡)

1994年8月8日より三菱重工業大幸工場の跡地で建設を着工。
1997年2月18日に完工し、同年3月12日に、同市中川区露橋にあるナゴヤ球場(旧・中日スタヂアム/中日球場)に代わる中日ドラゴンズの本拠地として開場した。

総合案内所

総合案内所の脇に、掲げられたプレート。

平和への礎になられた人々を忘れません
 ナゴヤドームが建つこの地は、かつて三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場があり、第2次世界大戦下の1944年(昭和19)12月13日に米空軍B-29爆撃機70機の空襲を受け、工場で働く人たち、挺身隊の女性たち、学徒動員の生徒ら300余人の尊い命が奪われました。

 この大戦では、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)石丸進一投手(当時24歳)も特攻隊員として出撃、野球への熱い想いを胸に抱いたまま空の彼方へ消えて行きました。

 私たちは今日、平和への礎となられた人々を決して忘れず、野球やコンサートなどを通して感動を味わうことができることに深く感謝し、ここにご冥福をお祈りいたします。
2004年4月2日
株式会社 ナゴヤドーム

ナゴヤドームの地の歴史を伝承するプレート

場所

https://maps.app.goo.gl/sHW7QoM8zWkJ8fR49

北側には、三菱電機名古屋製作所大幸ビル

イオンモールもある。

見えてきたのは、三菱電機名古屋製作所

近代的なビルと、三角屋根の工場。

三菱の街

大曽根駅の南側に向かいます。


殉職者慰霊碑(大曽根駅)

JR大曽根駅の南側に、昭和20年4月7日の空襲での大曽根駅における殉職者を祀る。

合掌

殉職者慰霊碑
桂秋 吉田 藤 謹書

至誠公ニ奉シ毅然
トシテ職ニ殉ス業
ヲ我國有鐵道ニ操
ル者ノ儀表タリ茲
ニ其ノ義烈ヲ稱ヘ
長ヘニ旧字 靈ノ呵護
ヲ祈ル

昭和二十年四月七日大曽根驛ニ於ケル殉職者
(故人名略)
昭和二十一年 八月建之 建設委員
遺家族一同
大曽根驛員一同

大曽根駅の南口は、住宅街。商業エリアは北口で。

場所

https://maps.app.goo.gl/WrVHmNqq7in6Rx6w5


片山八幡宮に残る弾痕

名古屋鬼門鎮護の片山八幡神社。旧社格は県社。

敷地の東側を囲う石垣には焼夷弾の跡が多数残っている。破損や焼け跡など。

鳥居には、爆弾の破片が当たってできた弾痕がある。

昭和8年の社号標にも弾痕。

場所

https://maps.app.goo.gl/Jdt1dx7XRNxRXywE8

撮影:2023年7月及び9月


名古屋関連

はじめに

ポツダム宣言受諾を発信した隠蔽送信所「多摩送信所」跡地散策

町田市相原にある法政大学の多摩キャンパス。
遺構が残っているというので足を運んでみた。


多摩送信所

第二次世界大戦末期、軍部は本土空襲に備えて海外放送、電信通信・連絡を確保する必要から、2カ所の通信施設の設置場所を選定し、国際電気通信株式会社に敷設を要請。

1カ所は御殿場線の山北駅と駿河小山駅の中間にある廃トンネルで、1944(昭和19)年に耐弾式送信所として「足柄送信所」が設けられた。

もう1カ所で選ばれたのが、東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたる山林内で、三方を尾根に囲まれた一帯に、1945年4月、起伏と樹林を利用した隠蔽送信所として「多摩送信所」が開設。

1945(昭和20)年8月10日、日本政府はポツダム宣言を受諾。
日本政府は宣言受諾を連合国側には外交ルートを通じて伝えたが、ニュースとしても世界に発信された。その発信を担ったとされる多摩送信所であった。

10日午前7時、外務省は「国体護持」を前提に宣言を受諾する電報をスイス、スウェーデン公使を通じ連合国側に伝達。
さらに同日午後7時、戦時中の通信社・同盟通信の短波(モールス放送)にて受諾を、多摩送信所を始めとする国内に点在する対外放送施設を用いて、全世界に放送した。この放送によって世界のプレスなどは戦争終結を知った。
しかし10日の受諾宣言以降も、日本国内は激動の日々=「日本のいちばん長い日」が続き、御前会議で持って14日の御聖断をあおぎ、大多数の日本国民は、15日の玉音放送で終戦を知ることとなった。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/123208

https://www.hosei.ac.jp/hosei/daigakugaiyo/daigaku_shi/museum/2011/111012/?auth=9abbb458a78210eb174f4bdd385bcf54

https://adeac.jp/machida-digital-museum/text-list/d200020/ht001040

https://machida-aihara.info/?kiji=tamasoushinjyo-ato


多摩送信所跡

多摩送信所跡
二次世界第大戦末期に近い1944年(昭和19)、本土空襲の本格化に備え対外送信の確保が要請され、国際電気通信株式会社によって隠蔽送信所として多摩送信 所の建設が着手された。当時の東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたるこの地に、アンテナ敷地74000 坪(244,000平方メートル)を確保し、高さ60 メートルの木支柱を立て、空中線六基を樹林にめぐらした。技術者、職員計50 名が勤務する局舎を点在させ、翌年4 月竣工し、5 月5 日から操業を開始した。当時、我が国の対外送信は、政府関係以外に同盟通信社のモールス電と日本放送協会が諸外国語で流す「海外放送」および「東亜中継放送」があった。これらの対外送信は、1945 年8 月10 日から15 日の間、日本政府のポツダム宣言受諾表明に際して歴史的な役割を果たした。政府の外交ルートとは別に、ポツダム宣言受諾に関するニュースを送り出したのである。ここにあった「多摩送信所」も木造、手動による回転式アンテナから電波を送ることによって、ポツダム宣言受諾の際に重要な役割を担い、1946 年11 月10 日、開設以来一年半で活動の幕を閉じた。本学の多摩校地は多摩送信所の跡地に位置し、発掘調査により一部の遺構も確認された。ここにその事歴を誌し、永く後世に伝えるものである。
 1988年3月30日 法政大学

アンテナ木柱台石

この山奥にアンテナ群が展開していた。

法政トンネル。

法政大学 多摩キャンパス

アクセスは、法政大学多摩キャンパス行きのバスで。

場所

https://maps.app.goo.gl/4Ve326HQRYszW3LR6

※撮影 2023年9月


関連

花巻の戦跡散策

岩手県花巻市。宮沢賢治の生誕の地、イーハトーブとして有名な街。
どこか牧歌的なイメージを抱く花巻にも戦跡が残っているので、足を運んでみました。


花巻防空監視哨聴音壕跡

花巻には、珍しい円筒形の壕の形で「防空監視哨聴音壕」が残っている。

防空監視哨は、敵機の来襲をいち早く感知するためのもの。
高台から双眼鏡で監視する防空監視とは違い、「聴音壕」は、円筒形の壕の中に人が入り、飛行機の接近する音を聞き分ける壕となる。
花巻防空監視哨の、聴音壕は直径3.5m、高さ3.17mのレンガ積みで、内部の深さは約2mの空洞になっている。上空から見て軍の施設と分からないように、当時の壕のまわりは盛土され、かやぶき屋根がかけられていたという。
聴音壕の西側には平屋建て18坪(約60m2)の管理棟もあった。
円筒形の聴音壕の形状がほぼ完全な形で残っているものは珍しく、貴重な戦跡。

内部の様子が看板の写真に掲載されている。

住宅地の中に、ある。

円筒状の様子がわかる。

ぱっと見は、レンガの筒。

場所

https://goo.gl/maps/gQJk37hTsBudZKkF8

聴音壕関連

山梨県大月市の防空監視哨聴音壕


花巻空襲

昭和20年8月10日に、アメリカ海軍の航空母艦ハンコックの艦載機22機(SB2C爆撃機12機とF6F戦闘機10機)により、500ポンド爆弾等が20発以上投下された空襲。
花巻駅や、その周辺の建物が破壊された。焼失家屋673戸、倒壊家屋61戸、死者42名、負者約150名。岩手県内では2番目に大きな戦争被害となった。花巻町内豊沢町にあった宮沢賢治の生家も焼失、花巻に疎開していた高村光太郎も被災した。
ちなみに岩手県内で最大の戦争被害は「釜石艦砲射撃」であった。(2回の艦砲射撃での死者714名)


花川橋に残る花巻空襲の痕跡

花巻空襲の戦跡として。
「花川橋」に残る花巻空襲の爆撃跡。花川橋の改修工事で、痕跡は消失の危機にあったが、寸前のところで保存となり、痕跡を残した状態での改修となった。
花川橋は昭和9年に造営された鉄筋コンクリ-ト製の橋。花巻空襲では、花川橋周辺にも500ポンド爆弾が投下され、爆弾の破片が橋の欄干にあたり、一部を破損している状況。

昭和9年12月竣工の花川橋

花巻空襲の爆撃痕、上部

花巻空襲の爆撃痕、下部

鉄筋が剥きだしている。

爆撃痕のある一部分だけ、補修されずに残った。

場所

https://goo.gl/maps/uhpRemR2ZkLKbexF8


花巻駅

2013年(平成25年)から2014年にかけてリニューアルした駅舎。
1890年(明治23年)開業、1950年(昭和25年)改築。

花巻駅も花巻空襲で大きな被害を受けた。


やすらぎの像

花巻駅の東口ロータリーの東端にある花巻空襲の犠牲者を慰霊する像。

合掌。

やすらぎの像
 昭和二十年八月、太平洋戦争の終戦間際、花巻市内が空襲を受けましたが、特に、この花巻駅周辺の空襲は激しく、死者負傷者多数を数えたほか、建物等にも甚大な被害を受けたのであります。
 爾来、多くの方々の不屈の精神と心血を注ぐ努力により、焦土と化した花巻駅周辺をはじめとする市街地も見事に復興整備をみたところです。
 都市基盤の整備が進む今日、市民から平和祈念の像の建設の話が持ち上がり、建設促進会議が中心となって広く市民に呼びかけたところ、壱千弐百万円を超す浄財が寄せられました。
 ここに、戦後五十年を迎え、花巻空襲の激しかったこの地に、恒久平和を願い「やすらぎの像」を建立するものです。
  平成七年三月建立
   花巻市長 吉田 功

昭和20年(1945年)8月10日ひる
来襲 米軍艦載機グラマン15機
投下爆弾 20個(推定)
機銃掃射 各所
死者 42名
負傷者 約150名
焼失家屋 673戸
倒壊家屋 61戸
 資料 花巻市中央公民館発行
    「忘れまいあの日」より

「やすらぎの像」建立について
市老連会長佐藤通郎氏が中心となり次の団体の努力を得て建立しました。
 花巻空襲に基づく平和祈念の像建設促進会議
 花巻市老人クラブ連合会
 花巻市地域婦人団体協議会
 花巻市区長会
  原像作成 池田次男
  制作   岩手製鉄株式会社

場所

https://goo.gl/maps/ZyYYZiSxM6xQpxJU8


近代史として。

花巻電鉄デハ3(材木町公園)

なんとなく歩いていたら、公園に花巻電鉄の車両が保存されていた。
花巻電鉄デハ3。
1931年製造。
細長い車両は、通称「馬面電車」「ハーモニカ電車」といわれていた。
昭和47年(1972)鉄道・軌道線廃止。

旧花巻町役場 庁舎(花巻市民の家)

花巻町が設置される前年の1928年 (昭和3年) に竣工した総ヒノキ造、瓦葺きの建物。
当初は花巻市花城町にあった。
1954年に町から市に移行した後は議事堂といても利用され、庁舎が新築された1970年に解体され、現在の材木町公園に移築された。

場所(材木町公園)

https://goo.gl/maps/15qCv9XFWigVV73d9

※撮影:2023年8月


日露戦勝記念の「砲弾狛犬」(館山・長須賀の熊野神社)

以前、横浜と川崎の砲弾狛犬を特集した。その続き。

日露戦勝記念の「砲弾狛犬」(横浜・川崎)

先日、館山に赴いた際に、宿題となっていた館山の砲弾狛犬にも会ってきたので、写真を掲載。


長須賀の熊野神社「砲弾狛犬」(館山市)

千葉県館山市長須賀406に鎮座する狛犬。
前足を砲弾に乗せていますね。

明治34年(1904)から明治35年にかけて日本とロシアの間で勃発した日露戦争での戦勝記念で建立奉納されたもの。
神社において伝統的であった「狛犬」が、近代の熱狂の中で、砲弾を抱え始めたという、ひとつの時代の象徴的な姿、でもある。

椎実型砲弾を前足で抑えつけている。

銘がないため詳細じは不詳だが、大正8年(1919年)に奉納されたものという。

こちらは球型砲弾といって良いのか?

熊野神社
長須賀熊野神社の創建年代等は不詳。
明治社格制定に際しては村社に列格。

拝殿前は、普通の狛犬。

こちらは昭和17年の奉納。

※撮影:2023年7月


砲弾狛犬5社

神奈川県横浜市南区山王町5-32
 お三の宮日枝神社

神奈川県横浜市中区本牧原29-18
 吾妻神社

神奈川県川崎市中原区下小田中1-2-8
 大戸神社

神奈川県川崎市川崎区大島3ー4ー8
 八幡神社

千葉県館山市長須賀406
 熊野神社

「野毛山公園のラジオ塔」野毛山の近代史跡散策(横浜)

きがつけば、なんとなく「ラジオ塔」の散策も4箇所目。
野毛山公園のラジオ塔を見に行ってみました。


野毛山公園のラジオ塔

戦前の日本。まだまだ一般家庭にラジオが普及していなかった時代。
ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。「公衆用聴取施設」として各地にラジオ等が建設された。

野毛山公園のラジオ塔は、日本放送協会(NHK)が昭和7年、ラジオ受信契約数100万件突破を記念して設置したもの。

ラジオ塔
このラジオ塔はラジオの聴衆契約者が百万人を超えた記念に日本放送協会が昭和7年に全国の著名な公園や広場に建てる計画が進められ昭和7年度から昭和8年度中に41箇所が完成してその中に野毛山公園も選ばれ建塔されたものです。
 正式名 公衆用聴衆施設
 全高  3メートル
 建塔  昭和7年11月19日

近くには寄れないので、望遠で眺める。。。


野毛山公園

ラジオ塔だけでは、話題が薄いので、野毛山公園も散策する。
野毛山は動物園だけではないのだ。

野毛山公園
 野毛山公園は日本の公園発祥の地である横浜で横浜公園や掃部山公園に次ぐ長い歴史を持つ公園です。
 明治時代の野毛山は豪商たちの屋敷が立ち並ぶ住宅地でした。現在の散策地区には生糸貿易で財を築いた原善三郎の邸宅が、現在の野毛山動物園の区域には茂木惣兵衛の別荘がありました。
 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の際に野毛山も大きな被害を受けきした。震災後、被災地復興事業の一環で、都市防災の要地、また市民の憩いの場として、野毛山に公園を建設することになりました。横浜市が買収した民有地、復興局が買収した茂木別邸跡地と市水道浄水場、市長公舎を含む市所有地をあわせ公園用地を取得し、1925年(大正14年)に着工、翌1926年(大正15年)に一般公開されました。開園当時は回遊式日本庭園(現在の野毛山動物園)・西洋庭園(現在の配水池地区)・折衷庭園(現在の散策地区)の三つの様式を持っていました。
 その後、第二次大戦中は陸軍が使用し、戦後は1947年(昭和22年)まで米軍に接取され、公園として利用できない時期が続きました。
 米軍の接収解除後、1949年(昭和24年)に横浜で日本貿易博覧会が開催されました。第一会場に野毛山公園、第二会場に反町公園を利用して開催された博覧会は野毛山公園を現在の形に整備する契機となりました。日本庭園だった部分は動物園になり、洋式庭園部分には噴水池が設けられました。噴水池は博覧会終了後、競泳用プールに改築され、同年開催された第4回国民体育大会夏季水泳大会の会場となりました。
 さらに1951年(昭和26年)には洋式庭園だった部分に児童遊園が造られ、児鏨遊園と動物園をあわせて「野毛山遊園地」として開園しました。児童遊園には豆電車、メリーゴーランドなどの遊戯機械や横浜の街並みが見渡せる展望台が設けられ賑わいました。この頃、様々なイベントや集会、映画のロケなどが園内で開かれ、まさに横浜市の中央公園の役割を担っていました。
 1964年(昭和39年)明治時代に作られた野毛山配水池の老朽化により、水道配水池整備工事によって配水池を地下に新設することになリ、児童遊園を閉鎖して整備をすることとなりました。地下配水池整備後は地上部を公園とし、動物の広場、子供の広場が設けられ、現在の野毛山公園の形になりました。

結構な情報量だが、勉強になるので書き起こし。

野毛山歴史探訪
野毛山は明治、大正、昭和と市民の文化の中心地として、歴史にたくさんの足跡を残してきました。

 横浜は日本の文明開化のスタート地点です。江戸の末期に開港して以来、開港場(中区関内地区)を軸として街づくりが進められました。
 戸部・野毛山には神奈川奉行所が置かれ、当時の官庁街でした。1899年に外国人居留地が廃止されるまで、横浜は現在の県庁の場所にあった運上所を境にして西に外国人が、東に日本人が分かれて住んでいました。山手は外国人の住宅地になったのに対して、野毛山は成功した日本人の住宅地になり、横浜の行政の中心地になりました。
 山手の外国入墓地に対するように野毛山の久保山墓地があり、英仏領事館に対するように、神奈川奉行所がおかれ、山手フランス山庭園に対するように、野毛山がありました。

■野毛の切通しから江戸の人々は異人たちの生活に思いをはせました
 江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を調印しました。その後、開港場をどこに建設するかアメリカと交渉に入りました。アメリカ側は東海道神奈川宿付近を主張しました。しかし、幕府は大名行列や庶民が行きかう東海道から開港場を隔離し、庶民と外国人との接触をできるだけ避けたいという思惑がありました。大岡川の砂州であった横浜村が開港場に選ばれたのは、横浜村と東海道の間には野毛山があり、大岡川河口部に大きく張り出していたので、横浜村の開港場は東海道から見ることのできない立地となり、庶民と外国人の接触を制限することが可能だったのです。しかし、幕府の提示した横浜村開港場案に対して、「横浜は神奈川東海道から2里半(約10キロ)もあり、そのうえ、途中河川、丘坂があって、これに道を通ずるには橋を架け、丘坂を平らかにしなければならず」と横浜村開港場案に反対しましたが、幕府は開港三ヶ月前に着工し、条約の定めた1859年(安政6年)6月2日に横浜港を差し出しました。
 これに対し、アメリカの全権大使ハリスと各国領事は抗議しましたが、貿易を急いだ外国商人は自国領事の警告を無視し、横浜に住み着いてしまい、やむなく横浜を開港場として受け入れざるを得なくなってしまいました。
 
横浜道と野毛の切通し
 1858年(安政5年)当時は、東海道筋から横浜への交通は非常に不便であったため、幕府は東海道筋の芝生村(現浅間町交差点付近)から横浜(関内)にいたる「横浜道」と呼ばれる道路を開きました。(当時、東海道と連絡するには、保士ケ谷から井土ケ谷、蒔囲を通るか、神奈川からの舟運しかありませんでした。)
 この道は、芝生村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路を築くとともに、新田間、平沼、石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切通しを開き、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けたものでした。
 野毛の切通しへと至る道の途中には関門と番所がいくつも設けられ通行が厳重にチェックされました。
 野毛の切通しの上に神奈川奉行所を築いたのは、いざというとき開港場に架かる吉田橋を落とし、野毛山を砦とする意図があったとも言われています。

■ペリーから敬礼を受けたただ一人の日本人と言われました。
 佐久間象山は信州松代藩に1811年(文化8年)に生まれました。松代藩の藩主真田幸貫は若年期に様々な学問を修めた象山を洋学研究の担当者の役に任じました。その後、象山は兵学を学び、大砲やガラスの製造を手がけるなど西洋の技術、学問を積極的に取り入れました。
 1852年(嘉永5年)、江戸に赴いた象山は幕府に、戦略上の観点から開港場に選ばれた下田ではなく横浜の開港を提言しました。
 その後、1864年(元治元年)開国派であった象山は京都に赴きましたが、攘夷派の前田伊右衛門、河上彦斎らによって暗殺されてしまいました。
 象山の門弟には勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など開国派の中心人物が名前を連ねています。まさに日本の近代化を支えた立役者といえるでしよう。
 公園内に顕彰碑が立っています。

■日本最初のガス灯は花咲町から始まりました。
 1872年(明治5年)9月29日、花咲町から送られたガスによって、大江橋から馬車道、本町通にかけてガス燈が灯りました。これは日本初のガス灯の一般事業化であり、日本近代化の歴史的な瞬間となったのです。
 ガス灯は開国当初の1867年(慶応3年)にアメリカ人によリガス灯建設の提案が出されたのをはじめとして、横浜の外国人を中心に建設申請が出されるなど強い要望がありました。
 神奈川県知事井関盛良と大参事内海忠勝はガス灯の利権を外国人に独占されるのを嫌い、日本人とドイツ商社との共同経営を提案しました。
 しかし、明治の実業家、高島嘉右衛門は、横浜の有力者8名と「日本社中」という会社を作り、日本人によるガス事業を目差しました。
 日本社中はドイツ商社とガス事業の認可をめぐり、競争することとなり、結果、日本社中がガス燈設置の免許を獲得しました。
 日本社中はフランス人技師、アンリ・オーギュスト・ベルグランを上海から招き、花咲町の伊勢山下石炭蔵跡(現・本町小字校)にガス工場を建設し、点灯に成功したのです。

■ヘンリー・スペンサー・パーマー 横浜にきれいな水を届けてくれた恩人です。
 開港後の横浜は海や沼を埋め立て市街地の造成をしたため水質が悪く、衛生的な生活用水の給水が強く求められていました。
 1883年(明治15年)3月にイギリス工兵中佐のパーマーに水道建設を一任しました。1885年(明治18年)4月に水源を相模川支流道志川に定め、野毛山配水池に至る48キロメートルの水道建設に取り掛かりました。
 1887年(明治20年)9月に完成し、10月17日より市内への給水を開始しました。これが日本初の近代的水道の始まりとなったのです。
 今もパーマーが築いた道志川から西谷浄水場を通り野毛へと続く上水道は「水道道」となってその道筋を追うことができます。
 旧野毛山配水池に胸像が立っています。

■汀女はここ野毛山で俳句を詠みました。
 中村汀女は昭和の著名な女流俳人で、日常を題材にしながらも叙情性に富む句によって知られています。汀女は本名を破魔子といい、1900年(明治33年)熊本に生まれました。
 18歳のときに詠んだ句で認められ、1919年(大正8年)19歳の時に「ホトトギス」に投句し、俳句を始めました。
 1920年(大正9年)に結婚、夫の転勤によって日本各地を転々とし、子育てにも追われて、その間は創作活動を中断せざるをえませんでした。
 その後、創作活動を再開したのは1930年(昭和5年)に夫が横浜税関長横浜(西戸部町)に移り住んだ時からでした。高浜虚子に師事し、1934年(昭和94年)「ホトトギス」の同人となって頭角を現します。戦後「風花」を創刊主宰、後の女流排人に多大な影響を与えました。
 汀女は生涯を通じて郷里の実家近くの江津湖を愛したといい、1979年(昭和54年)には熊本市の名誉市民となりました。また、郷里に残した母を想って詠んだ句も多数あります。1988年(昭和63年)9月、その生涯を閉じました。
 散策路をあがってゆくと句碑があります。

参考文献
「区政五十周年記念 横浜西区史」横浜西区史刊行委員会
「ヨコハマ西区ふるさと白書 誰かと西区の話をしてみたい」横浜市西区役所
「横浜市史」横浜市
「横濱復興史 第3編」横浜市
「水と港の恩人H,S.パーマ―」横浜開港資料館


佐久間象山顕彰碑

昭和29年10月1日、開国100年を記念して「横浜開港の先覚者」である佐久間象山を顕彰して建立された碑。


旧野毛山配水池

近代水道発祥の地。
野毛山公園内にある旧野毛山配水池は、関東大震災後の復興と、横浜市の人口増加に伴って昭和2年に完成、昭和5年に運用を開始した配水池。
昭和42年に4万tの新野毛山配水池が完成したことを受け、平成7年に廃止された。

水道みち
「トロッコ」の歴史

 この水道みちは、津久井郡三井村(現:相模原市緑区三井)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)まで約44kmを、1887年(明治20年)わが国最初の近代水道として創設されました。運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用し水道管を敷設しました。横浜市民への給水の一歩と近代を共に歩んだ道です

近代水道発祥の地(野毛山貯水場跡)

 明治20年(1887年)10月、日本最初の近代水道は横浜に誕生した。
 当時の横浜は、埋立地が多く良い水が得られないため、長い間飲み水や伝染病に苦しみ、また大火事にも悩まされていた。
 いつでもどこでも安全で良い水が欲しいという人々の夢は、この近代水道の完成によって実現された。
 横浜の水道は、英国人H.S.パーマーの設計・監督によるものであるが、沖守国県知事をはじめ三橋僕方(後に市長となる)、三田善太郎など多くの日本人の努力も忘れることはできない。
 パーマーは、横浜のほかにも大阪・神戸・函館・東京などの水道計画に貢献した。
 さらに、横浜築港工事や横浜ドックの設計など港湾整備の面でも業績を残したほか、天文台の建設やロンドンタイムズへの寄稿など広い分野で活躍し、明治26年(1883年) 54才で没し東京青山墓地に眠る。
 横浜水道創設100周年を迎えるにあたり、パーマー像をこの地に建て、先人の業績を讃え、明日への発展を願いたいと思う。
  昭和62年4月  横浜市長 細郷道一

ヘンリー・スペンサー・パーマーの碑

日本初の近代水道となる横浜水道を完成させ、横浜港第1期築港工事を提案したパーマーの胸像。
ヘンリー・スペンサー・パーマー工兵少将は、横浜の水道の父とも言える人物。

昭和2年に完成した流入弁室。野毛山配水池。

野毛山公園展望台

場所

https://goo.gl/maps/XCgE93UXfM5sb9Vi6

撮影:2023年7月


ラジオ塔関連

大阪に落とされた模擬原爆(東住吉区田辺)

全国各地に投下された模擬原爆「パンプキン爆弾」。大阪にも投下されており、往時を伝える石碑が建立されているというので、足を運んでみた。


模擬原爆

パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾)は、1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾(原爆)である「ファットマン」の模擬爆弾として開発された。「パンプキン」は特殊形状な爆弾であった「ファットマン」の投下訓練とデータ取得の爆弾として、日本全国に投下され、その訓練と解析の実績が長崎に投下された「ファットマン」へのつながることとなった。
パンプキンは、18都道府県30都市に50発(うち1発は任務放棄し爆弾は海上投棄された)が7月20日 – 8月14日の間に投下され、全体で死者400名・負傷者1200名を超す被害が記録されている。


大阪に落とされた模擬原爆

終戦間近の昭和20年(1945年)8月6日広島に人類史上初の原子爆弾が投下されました。その11日前の7月26日午前9時26分大阪市東住吉区田辺2-3(現在の田辺小学校北側)に大きな爆弾が投下されました、大阪市が作った「昭和20年大阪市戦災概観」という資料には死者7人、重軽傷者73人、焼失倒壊戸数485戸、罹災者1645人とその爆弾による被害が記録されています。
実はこれは模擬原爆という特別な爆弾でした。模擬原爆というのは長崎に落とされたプルトニウム原爆(ファットマン)と同じ型、大きさ、重さで、中身がTNT火薬の約5トンの爆弾です。ずんぐりした型で黄色い色彩からパンプキンと呼ばれました。
米軍は終戦近い7月20日から日本各地への空襲に紛れて模擬原爆を49発も投下しました。模擬原子爆弾による被害は死者400名、負傷者1200名を越えると記録されています。

なぜ模擬原爆が慌ただしく投下されたのか。原爆を投下するには技術が必要でした。目視で原爆を目標地点に投下する。投下とともに自らの機体が被爆しないように急旋回させる。それもB29という巨大な爆撃機をです。当時完成したばかりの実物の原爆は3発しかなく、それを想定通り実戦投下するためには訓練が必要でした。その訓練用爆弾が模擬原爆だったのです。

模擬原爆の存在が歴史の明るみになったのは戦後の平成3年(1991年)です。愛知県春日井市の市民グループが国会図書にあった米軍資料から模擬原爆の投下場所の一覧表や地図を見つけました。模擬原爆の事実を解明していくと人類最悪の兵器原爆がどのような意図で使用されたかが見えてきます。

模擬原爆追悼碑は令和元年(2019年)5月末マンション建設に伴い恩楽寺(田辺1-14-18)山門に移設されました。恩楽寺本堂も模擬原爆の爆風で傾いた被災モニュメントです。毎年7月26日の投下時間に碑の前で追悼式が行われます。

東住吉区 081 模擬原子爆弾投下跡地之碑(https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033897.html

模擬原爆資料館 – 恩楽寺

https://www.onrakuji.com/%E6%A8%A1%E6%93%AC%E5%8E%9F%E7%88%86%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8/

模擬原子爆弾投下跡地
一九四五年七月二十六日九時二十六分広島・長崎への原爆投下を想定してこの田辺の地に模擬原爆が投下され、村田繁太郎(当時五十五歳)他六名が死亡、多数の方が罹災しました。ここに犠牲者の冥福をお祈りし、戦争のない世界の実現と全人類の共存と繁栄を願い、碑を建立します。
二〇〇一年三月吉日

「模擬原子爆弾投下跡地」の石碑を迎えて
 私たちは過去において、大日本帝国の名の下に、世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらし、将来ある青年たちを死地に赴かしめ、言いしれぬ苦難の過ちを犯したことを、深く懺悔するものであります。
 同時に、我が国には、広島、長崎に、アメリカによる二つの原子爆弾が投下され、まことに多くのいのちが無差別に奪われ、筆舌し難い業苦を被りました。
 この二つの原子爆弾に先立ち、模擬原子爆弾という、原爆投下練習用の殺戮兵器が我が国各地に四十九発も使用され、その内の一つが、昭和二十年七月二十六日、ここ東住吉区田辺にも投下されていました。死者七名が犠牲になり、重軽傷者七十三名、四八五戸の家屋が倒壊しました。
 この事実は長く歴史に埋もれており、先人がこれを発見し、こうした隠れた痛ましい事実を広く知らしめ、広島・長崎の原爆投下を身近に感じて、この悲劇が繰りかえされないことを念じて、「模擬原子爆弾投下跡地」の石碑を建立し、毎年追悼式を行って参りました。そのように、不戦平和への願いに促されて、その現実に身を捧げておられるあらゆる心ある人々に、深甚の敬意を表するものであります。
 しかしながら、戦後七十数年、戦争の悲惨さと愚かさに対する人々の感覚は風化していきます。その風化は、現在も、基地問題で苦しむ沖縄の人たちの心に向き合おうとせず、戦争に向かう状況を生み出そうとしています。
 かつて二五〇〇年前、釈迦牟尼仏・仏陀は、私たち人間の生きざまを憐れんで、仏教を開闢されました。
 永い人類の歴史は、人が人を殺し、傷つけ合う悲しみの連続でありました。仏陀の願心は、自我愛を正当化して「賜った尊いいのち」を奪い合うことを悲しみ、私たちに「共に生きよ」と呼びかけておられます。
 「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」という仏陀の悲願を受け取り、あらためてここに「非戦の誓い」を表明します。当恩楽寺は、この懺悔の思念を旨として、人間のいのちを軽んじ、他を抹殺して愧じることのない、すべての戦闘行為を否定し、さらに仏より賜った信心の智慧をもって、人類が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまないことを決意して、ここに「模擬原子爆弾投下跡地」の石碑を迎え、不戦の誓いを改めて表明するものであります。
 今日ここに集う私たちは、民族・言語・文化・宗教の相違を越えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設にむけて、すべての人々と歩みをともにすることを誓うものであります。
  令和元年六月二日 釋大信

7月26日 
田辺 模擬原爆 追悼式

場所

https://goo.gl/maps/6rXxMdJ1NsvLFcv67

総務省>田辺模擬原爆投下跡地

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/osaka_osaka_city016/index.html

模擬原爆追悼碑は令和元年(2019年)5月末マンション建設に伴い恩楽寺(田辺1-14-18)山門に移設している。もともとは、下記の写真のあたりにあったようだ。

場所

https://goo.gl/maps/oTkhdvyscHRdt3tV6

※撮影:2023年7月


関連

昭南島改称記念の国旗掲揚塔(大阪東住吉区北田辺ノ榎神社)

昭南島。
1942年から1945年にかけて、日本統治下にあったシンガポールを「昭南島」と呼称していた。
現在に残る、歴史的に貴重な国旗掲揚塔の記念碑。
「昭南島」と刻まれた文字列を、この手の記念碑で初めて拝見したので、戦跡として記録。


昭南島

第二次世界大戦において、日本軍第25軍(第25軍軍司令官・山下奉文中将)は初戦で「マレー作戦」を決行し、難攻不落とされた大英帝国が誇る一大拠点であったシンガポールを昭和17年2月15日に陥落させた。

大英帝国(イギリス極東軍司令官・パーシバル中将)のシンガポール降伏に伴い、日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」と改名された。そして軍政下の行政組織として「昭南特別市」が設置された。

日本ニュース 陸軍報道部発表<特輯シンガポール陥落>

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009180591_00000

「マレー(馬来)方面、帝国陸軍部隊は、本15日午後7時50分、シンガポール島要塞(ようさい)の敵軍をして無条件降伏せしめたり。」
老英帝国の威信、ついに地に落つ。時に昭和17年2月15日、全国を興奮のるつぼに投じた歴史の夜はほのぼのと明けて、一億の民草あげて感激の奔流と化し、続々宮城前広場に参集、この声天にも届けと母国の弥栄(いやさか)を唱え奉る。靖国神社社頭は夜の明けきらぬ頃より参拝者引きも切らず、大東亜聖戦の華と散った多くの英霊も、この日世紀の朝を寿ぐかのようであります。町々は戦勝祝賀の歓喜に沸き立つ中にも、米英倒れる日まで戦い抜かんとする一億国民の意気は火と燃える。

日本ニュース 陸軍報道部発表<特輯シンガポール陥落>

シンガポール陥落は、日本国中を歓喜の渦に包み込んだ。
そんな熱狂のなかで、国旗掲揚塔の記念碑として建立されたと思われる。


昭南島改称記念の国旗掲揚塔

境内奥の大黒社の前にある国旗掲揚塔。

昭南島改稱記念
昭和17年3月10日建之

設立団体などは不詳。
日本軍がシンガポールを占領したのは昭和17年(1942年)2月15日。
占領後シンガポールは「昭南島」と改称し、その記念で、約1ヶ月後に国旗掲揚塔が建立された。


榎神社

JR阪和線・美章園駅が最寄り。
行基菩薩に由来の有る桑津墓地内にある神社。

大阪市東住吉区>榎神社

https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000032782.html

大阪市東住吉区>桑津墓地

https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033849.html

かつては、樹木で覆われていたようだが、現在は樹木は伐採され開放的な空間となっている。

場所

https://goo.gl/maps/5geu8gySizntetXt5

※撮影:2023年7月


関連

航空爆弾?のモニュメント(東大阪)

近鉄奈良線瓢箪山駅から生駒山系にむけての登り坂。
住所でいうと、大阪府東大阪市上四条町12あたり。

なぜか、道に爆弾??が落ちている。
正確には、爆弾の尾部を地表に出した状態で、半分埋まっているような状態。

なんでも、かつて近くにあった軍需工場で、海軍向けの兵器を作っていたなかで、爆弾ケース(爆弾のガワ)も作っていたが、戦後に不要となり、車除けにオブジェクトとして置いたのが、そのまま今に至っているそうな。


東大阪にあった軍需工場。

日本理器株式会社(株式会社ロブテックス)

現在の「株式会社 ロブテックス」は、戦前は、「日本理器株式会社」と称していた。
日本理器株式会社は、伊藤 兼吉 によって大正12年(1923)8月12日に創業。理髪用バリカン工場を、東大阪のロブテックス本社の地に建設し、理髪用のバリカンを製造。全国生産量の50%を占める国内トップメーカーとなった。
昭和2年(1927)年、社内に「工具部」を設立し鍛造作業工具の製造に着手。2年後の昭和4年に「エビ印:の付いたモンキーレンチを発売し、バリカン理髪機器メーカーから、総合工具メーカーへと成長していった。
昭和18(1943)、社名を「帝国精鍛工業株式会社」と改め、海軍の管理工場となった。工具メーカーとしてのノウハウを活かし、各海軍工廠に機関銃部品や魚雷部品の鍛造加工品を製造。
戦後は、工具メーカーとして再出発。新社名をロブテックスとし現在に至る。

https://www.opmia.or.jp/sys/wp-content/uploads/2016/08/%E5%81%89%E4%BA%BA%E4%BC%9D201608_2%E6%A0%A1.pdf

https://www.lobtex.co.jp/company/history/tabid/72/Default.aspx

日本理器株式会社(現・株式会社ロブテックス)は、軍需工場時代に、魚雷部品を作っていたことを鑑みると、航空爆弾ではなく航空魚雷かもしれないが、安定翼部分が加工されているために、形状からは正確な判断ができない。

距離感的には、以下の位置関係。
左上が瓢箪山駅、真ん中がロブテックス、右下が爆弾モニュメント。


航空爆弾?航空魚雷?

見学。

シュールですね。

上から

安定翼の形状からは特定が難しい。加工されているために、大日本帝国海軍の代表的な航空爆弾とも航空魚雷とも安定翼の形状が一致しない。。。

まあ、真相は不明だけど、この地区にかつて、軍需工場があったことを記録するモニュメントにもなるのかな。

瓢箪山駅から歩いていきましたが、結構な坂道でした、、、

場所

https://goo.gl/maps/pmQ74TXEA46U425i7

「爆弾らしきモニュメント」で登録されている、、、


瓢箪山

瓢箪山稲荷神社が有名。

瓢箪山駅。なんかある。

楠木正行公墓の標石。大正4年の建立。
往生院六万寺は、四条縄手の戦いで小楠公・楠木正行の本陣が置かれた場所。
実は、私は、太平記も、好きです。

※撮影:2023年7月


関連

「ユダヤ人難民と北海道を救った将軍・樋口季一郎陸軍中将」顕彰碑と墓所(神奈川)

「ユダヤ人救出」「キスカ撤退」「占守の戦い」3つの奇跡を成し遂げた樋口季一郎陸軍中将。

ユダヤ人難民救出と言えば、「命のビザ」を発行した外交官・杉原千畝が有名であり、ユダヤ民族に貢献した人を記したエルサレムの「ゴールデンブック」には、杉原千畝と樋口季一郎の2名の日本人の名前が記されている。

しかし、樋口季一郎の知名度は杉原千畝と比べ、圧倒的に低いが、樋口季一郎は、杉原千畝の「命のビザ」の発行の2年前に「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出ルートを手配しユダヤ難民の救出を実施している。

神奈川県に、そんな樋口季一郎に関連するモニュメントがあるので、足を運んでみた。


樋口季一郎之碑

鎌倉市山ノ内の円覚寺の塔頭・龍隠庵に、2023年5月21日に建立された顕彰碑。
建立されたばかり。

樋口季一郎碑

八風吹不動

日本国民に誇り伝えたい
陸軍中将樋口季一郎の功績

救国
昭和20年8月18日、終戦後にも拘わらず北海道占領を目論み占守島に進行したソ連軍を、第五方面軍司令官として撃破し、日本国の分断を未然に阻止した。
キスカ島救出作戦
昭和十八年、米軍に包囲されたキスカ島の日本軍将兵約五千人の救出を、北方軍司令官として大本営に意見具申し、同年七月、作戦は奇跡的に成功した。
ユダヤ難民の救済
昭和十三年三月、ナチスドイツの迫害を逃れオトポール駅(シベリア鉄道)に到達したユダヤ難民を、ハルピン特務機関長として救済した。この脱出路は「ヒグチ・ルート」と呼ばれ、その後も、多くの人命が救われた。

円覚寺龍隠庵の太田周文住職による、八風吹不動とは「八風(はっぷう) 吹けども 動ぜず」と読む禅語。

https://rarea.events/event/190387

円覚寺龍隠庵への参道

円覚寺


樋口季一郎

樋口季一郎(ひぐちきいちろう)
1888年〈明治21年〉8月20日 – 1970年〈昭和45年〉10月11日)
最終階級は陸軍中将。兵庫県淡路島出身。
陸士21期、陸大30期。
歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団長等を経て、第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官を務める。

「3つの功績」(3つの奇跡)。
1.ハルピン陸軍特務機関長であった樋口は、ドイツによるユダヤ人迫害を逃れたユダヤ避難民に満洲国通過を認め、「ヒグチ・ルート」と呼ばれた脱出路を用いて、亡命の手助けを実施(オトポール事件)

2.北部軍司令官として、北東太平洋の陸軍を指揮。大戦中は麾下の部隊がアッツ島の戦いで玉砕するも、キスカ島撤退作戦を成功させる。

3.ソ連対日参戦に対する徹底抗戦(樺太の戦い、占守島の戦いなど)を行い、8月15日以降も防衛戦を指揮しソ連軍の北海道上陸を阻止。北海道の赤化分断を挫くことに成功した。

戦後は隠棲し昭和45年(1970)老衰のために82歳で死去。


樋口季一郎の墓

神奈川県中郡大磯町東小磯の妙大寺。
ここに樋口季一郎の樋口家の墓がある。
樋口季一郎は居住地を転々としており、大磯にも住んでいた時期があった。

樋口季一郎の墓。

樋口家の墓としか、記載はない。

樋口季一郎の戒名は「真如院殿伯堂日季居士」
右から4番目。

墓碑は、1971(昭和46)年10月に樋口季一郎の長男の樋口季隆氏が樋口季一郎の死去に際して建立したもの。


ーーーーー

余談だが、妙大寺には、ほかにも著名人の墓がある。樋口季一郎の墓の隣は、福田恆存の墓。福田恆存(ふくだつねあり)の「私の國語教室」は昔、読んでいました。正字正仮名(歴史的仮名遣い)を学ぼうと思ったときもありましたので。

そして、ひときわに目立つのが、大磯の発展に寄与した松本順の墓。松本順に関しては、別記事を書く予定はある、、、

妙大寺


樋口季一郎の顕彰

神奈川以外にも、全国に樋口季一郎を顕彰するモニュメントがある。
機会があれば、足を運んでみたい。

  • 大垣城丸の内公園
    イスラエル大使館が樋口季一郎を顕彰し寄贈したオリーブの木がある。樋口季一郎は大垣に本籍を置いていた時期があった。(大垣の樋口家に養子となった)
  • 北海道石狩市「樋口季一郎記念館」
  • 兵庫県淡路市・伊弉諾神宮「樋口季一郎中将銅像」
    樋口季一郎は現在の南あわじ市出身。

大垣市「オリーブの苗木」

大垣出身の会社の後輩が帰省した際に、大垣市の丸の内公園にある「オリーブの苗木」の写真を撮ってきてくれました。
自分で行って撮影するまでのあいだは、後輩の写真を使用させていただきます。
ありがとうございます。

苗木No3,4
 平成21年12月8日に杉原千畝と同様にユダヤ人を支援した樋口季一郎が、大垣市に30年間籍を置いていたことを知った当時の「イスラエル駐日大使」から大垣市に寄贈されました。

※2024年6月に大垣に訪問したので、写真を追加。

場所

https://goo.gl/maps/VvcQj6zv7BuGfx787
※この項目のみ2023年8月撮影および2024年6月


大恩人(令和5年の「みたままつり」)

日本画家 佐藤宏三 氏 が、令和五年(2023)の靖國神社みたままつりに奉納した雪洞、なんと樋口季一郎陸軍中将でした。

制作過程の詳細が、公式サイトに掲載されております。

https://kozo-sato.art/mitama_festival_bonbori_2023/

ありがとうございます。
※撮影:2023年7月


関連

早稲田大学に、「命のビザ(杉原ビザ)」を発行した杉浦千畝のレリーフがある。

「一宮の風船爆弾打ち上げ基地」跡地散策(上総一ノ宮)

風船爆弾の打ち上げ基地。
打ち上げ基地は、3ヵ所あり、以前に、「大津」と「勿来」は取り上げておりました。

・風船爆弾大津基地

・風船爆弾勿来基地

・登戸研究所。風船爆弾は登戸研究所で開発された。

今回は、3番目の打ち上げ基地として、一宮基地(上総一ノ宮)を訪問してきました。
最初に、書いておきますが、正直言って、何も無いです。
勿来基地も何もなかったけど、それ以上に何も無いです。
行ったことに意義のあるレポートです。



風船爆弾(ふ号)

太平洋戦争において日本軍が開発・実戦投入した、気球に爆弾を搭載した爆撃兵器。
日本本土から偏西風を利用して北太平洋を横断させ、時限装置による投下でアメリカ本土空襲を企図。
「風船爆弾」は、戦後の名称。当時の呼称は「気球爆弾」であり、防諜符号として「ふ号」「風船」などと呼称されていた。

千葉の気球聯隊が母体となり、ふ号差苦戦気球聯隊が編成され、連隊本部と第1大隊が茨城県大津、第2大隊が千葉一宮、第3大隊が福島勿来であった。
発射基地(放球基地)も、千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の各海岸に設けられ、昭和19年11月から昭和20年3月までのあいだに、約9300発が放球されたという。
9300発のうち、アメリカ本土到達が300発前後。
1945年5月5日オレゴン州で風船爆弾不発弾に触れた民間人6人が爆死。あとは小規模の山火事など。 風船爆弾による心理的効果は大きく米国内では箝口令が引かれていた。

実戦に用いられた兵器として、約7,700 km(茨城県からオレゴン州への概略大圏距離)は、発射地点から最遠地点への攻撃。
また、ほぼ無誘導で、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器であった。

風船爆弾は、登戸研究所第一科で開発されたものであった。
明治大学生田キャンパス内の「明治大学平和教育登戸研究所資料館」には、風船爆弾の復元展示や気球紙の作り方の説明などもある。

こちらは、江戸東京博物館に展示の風船爆弾復元模型。
気球部分を約1/5、ゴンドラ部分を約1/2に縮小して復元。

風船爆弾(復元模型)
縮尺:気球部:約約1/5、ゴンドラ部分:約1/2
 風船爆弾は、日本軍がアメリカ本土の攻撃のために開発したもので、和紙をこんにゃく糊で貼りあわせて作った直径10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばした兵器である。陸軍によって秘密裡に開発されたこの兵器は、軍の施設のほかに、日本劇場や東京宝塚劇場、国技館といった大きな空間を持つ施設で製造された。製造にあたっては、学徒勤労動員によって集められた女学校の生徒たちが多数従事した。完成した風船爆弾は、太平洋沿岸の千葉県の一宮や茨城県の大津、福島県の勿来にあった各打ち上げ基地より、1944年(昭和19)11月から翌年4月にかけて9,000個あまりが打ち上げられた。そのうち300個弱がアメリカ大陸に到達し、オレゴン州では6人が犠牲になったという。
 この模型は、実物を保管しているアメリカ・ワシントンの国立航空宇宙博物館が作成した報告書などをもとに、気球部を約1/5、ゴンドラ部分を約1/2に縮小して制作した。
※江戸東京博物館展示資料より


風船爆弾打ち上げ基地跡(一宮町)

特に基礎などが残っているわけではなく、一宮町教育委員会による解説があるのみ。

風船爆弾打ち上げ基地跡
風船爆弾は、旧日本軍がアメリカ本土への攻撃のために開発したもので、和紙をこんにゃく糊で張りあわせて作った直径10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばした兵器です。この計画は「ふ」号作戦と呼ばれ、一宮、茨城県の大津(北茨城市)、福島県の勿来(いわき市)の計3カ所の打ち上げ基地より、昭和19年(1944)の11月から翌年にかけて合計で約9000個が打ち上げられました。そのうち300個弱がアメリカ本土に到達したといわれ、オレゴン州では民間人6名が犠牲になりました。
一宮の打ち上げ基地は打ち上げのためのコンクリート台が数基据えられたといい、風船爆弾の資材の運搬のために、打ち上げ基地に向かった上総一ノ宮駅より引込線(線路、現在の一ノ宮停車線に沿う)が敷かれました。戦後、基地は旧日本軍によって破壊されたため、現在は当時の面影は残されていません。
※実際の打ち上げ基地は看板の建てられている場所の道を挟んだ海側の一帯にあったといいます。
  平成31年(2019)3月
  一宮町教育委員会

風船爆弾打ち上げ基地跡
 風船爆弾とは、和紙をこんにゃく糊で貼り合わせて作った直径約10メートルの巨大気球で、中に水素ガスを入れ爆弾を積んだ兵器です。太平洋戦争末期の昭和19年(1944)秋から翌年春まで、偏西風に乗せてアメリカ本土へ向けて飛ばしました。
打ち上げ基地は、全国で3ヵ所でした。
一宮(千葉)大津(茨城)勿来(福島)に造られ、一宮には12ヶ所の発射台があり、約2500個を打ち上げたといわれています。
 一宮町教育委員会 平成24年3月

ちなみに同じ場所に、加納藩台場跡もある。
当時の一宮藩主加納久徴が砲台を造らせた跡地。

https://www.town.ichinomiya.chiba.jp/kankou/kankouannai/bunkazai/machisitei/5.html

実際には、海側に発射台があった。

https://www.town.ichinomiya.chiba.jp/assets/files/kyouiku/%E9%A2%A8%E8%88%B9%E7%88%86%E5%BC%BE%E9%96%A2%E4%BF%82%E8%B3%87%E6%96%99.pdf

場所

https://goo.gl/maps/GNaGTtZAXHA2jEES8


九十九里浜(一宮海水浴場)

九十九里浜の南端。一宮海水浴場の南。
風船爆弾を偲ぶものはないけど、太平洋の海原を、往時を偲びながら、なんとなく眺める。

海岸線から、放球台のあった方向を望む。

サーファーで賑わう浜。一宮海水浴場方面。

上総一ノ宮駅

かつては、上総一ノ宮駅から、風船爆弾打ち上げ基地まで引き込み線が引かれていた。

一宮町役場

このあたりは引き込み線の線路が並走していたと思われるが、もうなにも痕跡がない。

このあたりで、引込線は写真の右側(南)にカーブしたと推測。
道路は緩やかに左に曲がっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M636-A-No2-306
1947年11月08日、米軍が撮影した航空写真を参照。

拡大。

一宮基地の放球台は、12基あったという。
白い半円もしくは全円が砲球台の跡。

ちなみに、上総一ノ宮駅から、海岸まで歩きました。久しぶりに歩くのに飽きる道のりでした。
ざっくり片道3キロ、往復6キロの道のりでした。。。。

※撮影:2023年5月


関連

陸軍気球連隊の第二格納庫は解体されダイヤモンドトラスがモニュメントとして残っている。