「近代史全般」カテゴリーアーカイブ

 「八清住宅」陸軍航空工廠従業員の集団住宅地(昭島)

東中神駅の南側に「八清」と呼ばれる住宅街がある。
地図を見てみると、円形のロータリーが住宅地の中に今も残っている。

八清の由来

八清の由来
 日中戦争から太平洋戦争へと軍国主義の道を歩む頃、我が国の軍需産業は飛躍的発展を遂げた。昭和13年、当地に設立された名古屋造兵廠立川製作所(後の陸軍航空咬傷)も拡張につぐ拡張という有様で翌14年には従業員2万余を数える大軍需工場へと急成長した。こうした状況下、同工廠では早急なる従業員住宅建設の必要にせまられ当時一面の桑畑であった福島827番地付近、約3万坪の地を買収、その建設に着手した。
 工事は軍の協力下、八日市屋清太郎氏によって進められ、同16年10月までに約500戸の住宅と集会所、市場、映画館、浴場、神社、公園などの福利施設が竣工。ここにロータリーを中心として放射線状にに区画された大規模な住宅街が誕生した。即ちこれが八清住宅の起源であり八清という名称は工事をした八日市屋清太郎氏の名に由来するものである。
 戦後、これらの住宅は住民に払い下げられ、また市場(マーケット)を中心に商店街としての新たな街づくりも進められ、その結果今日見られるような市内屈指の住宅商店街”八清”が生まれたのである。
ここに恒久の平和を念願し建立したものである。

八日市屋清太郎は博覧会の仮設建築を得意としていた「ランカイ屋」。
「博覧会の八日市屋」で著名であったという。
初代八日市屋清太郎と二代目八日市屋清太郎がいる。
数々の博覧会をこなし仮設建築のノウハウで、軍部に依頼に答えるべく驚くべき速さで工場従業員住宅の建設をした人物。

名古屋陸軍工廠熱田製造所の飛行機製造設備と千種の発動機製造施設が立川に移転するにあたり、新工場予定地の近くに、短納期で住宅建設を行うことが必要となり、二代目八日市屋清太郎が、23歳の時に陸軍施設の移転協力を行った。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C23-C7-138
昭和16年(1941年)06月25日、日本陸軍撮影の航空写真。

中央上「陸軍航空工廠」
右上 「陸軍航空技術研究所」
右  「陸軍航空工廠立川支廠」

八清住宅を拡大。昭和16年。

こちらは戦後。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R360-115
昭和22年(1947年)10月24日、米軍撮影の航空写真。

昭和16年の頃と比べるとだいぶ密度が上がってきている。

八清住宅を拡大。昭和22年。

Google航空写真で八清住宅の現在の様子を見てみる。
八清公園の円形もよく残っている。


八清住宅のロータリー

昭和16年に開発された八清住宅。最寄りとなる東中神駅は昭和17年7月に開業。戦時下の開業は軍需工場と従業員向け住宅の性質を考えれば、なっとくの開業。

中央円形部は防火水槽のような噴水のような水たまりと花壇。
そこを中心に八差路に道が伸びている。ちょっとおもしろい。

郵便局は今も昔もこの場所。

ベンチもある。

昭島市立玉川会館(東部出張所)は、元々は八清住宅管理事務所があった場所。
戦後の昭和町警察署もあったという。

隣のメインストリートたる「八清通り」には商店があつまっている。
食堂は昔からの佇まいがある。

年季の入ったコンクリート建屋もある。

八清通りには、住民の生活を支えるスーパーもある。

ありゃ、すずさんだ。
片渕須直監督の劇場版アニメ4作品の紹介があった。
八清通りの写真館さんにて。

参考

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1320715100/space/spaceD/D14.html#:~:text=%E3%80%8C%E5%85%AB%E6%B8%85%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%90%8D%E7%A7%B0%E3%81%AF,%E3%81%8C%E8%A1%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

場所

https://goo.gl/maps/VGTdmi8s5ceCbj1x6

撮影:2022年5月


関連

中神坂の防空壕跡(昭島)

昭島市の南側を走る「奥多摩街道」。
ざっと中神駅から南に1キロ。
そこに防空壕跡があるというので足を運んでみた。


中神坂の石垣

中神坂交差点周辺は見事な石垣が造成されている。
多摩川の玉石を使った石垣は、東京府が昭和6年に奥多摩街道の旧道の蛇行と急坂を直す改良工事の際に、工事を請け負った地元土建業者が造成したもの。

中神坂の防空壕跡

福巌寺南面の石垣には「防空壕」の入り口が残っている。昭和19年(1944年)ごろに地元の警防団が掘ったものという。当時は西角にあった別の防空壕と奥でつながっていたというが、現在は南側の入口跡しか残っていない。
昭和20年4月4日の空襲によって、防空壕入口付近で、警防団員が1名死亡しているという。

警防団は昭和14年(1939年)に「警防団令」施行で持って「空襲あるいは災害から市民を守る」ために組織された団体。警察及び消防の補助組織として機能していた。昭和22年(1947年)に警防団は廃止され、消防団に改組移行された。

参考

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1320715100/space/spaceC/C8.html

場所

https://goo.gl/maps/JTCKBiP3sNHeeXfp9

中神坂、奥多摩街道の石垣。
左手は中神日枝神社。

石垣が連なる奥多摩街道。


関連

「初雁公園のラジオ塔と国旗掲揚台」(川越)

小江戸川越として著名な観光地。
小江戸といえば近世的な見どころが多数ではあるが、近代目線でも見どころが豊富。実は、川越には、大きな空襲が無かったことも幸いして、近代建築物も多数残されている。
(ゆくゆくは川越の近代建築物の散策記録も掲載していく予定だが、まだ準備中、、、)

※川越市における戦災の状況(総務省)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_04.html

川越の「初雁公園」は、「現存2つのうち、東日本唯一現存の川越城本丸御殿」や「とおりゃんせにゆかりのある三芳野神社」などがあり、川越観光で足を運ぶ機会も多い場所。
初雁公園にある「川越市営初雁公園野球場」には、戦前のラジオ塔と国旗掲揚台が残されているというので足を運んでみた。


初雁公園のラジオ塔

ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。これらラジオ塔は「公衆用聴取施設」と称され、全国各地で人が集まるところに建設された。

初雁公園のラジオ塔は、建立年月は不詳であるが、後述する国旗掲揚台が昭和13年(皇紀2598年)6月建立であることから同年代と推定。

初雁公園野球場の一塁内野側に。
はたから見ると、野球場内にある不自然な灯籠。それでも違和感を感じさせないのは「小江戸川越」のイメージ感だからか。

前後に開口しているが、左右は壁がある。
通常の灯籠は、四方に開口しているが、ラジオ塔として音の広がりを意識していたのかもしれない。


初雁公園の国旗掲揚台

階段状のモニュメントを持つ国旗掲揚台。
初雁球場の1塁側フェンスに沿った駐車場にある。

建立は昭和13年6月。銘板には「皇紀二千五百九十八年六月」の文字をみることもできる。
高さの異なる5本の杭は、一部が色あせているが左から「青」「黄」「黒」「緑」「赤」となっている。
この5色はオリンピックのシンボルカラー。色の並びも同じく。

幻となった昭和15年(皇紀2600年、1940年)の東京オリンピック(東京五輪)を前に、盛り上がっていた地元有志の寄付でもって、オリンピックの五色を意識した国旗掲揚台が建立されたという。
なお、建立翌月の昭和13年7月に日中戦争(支那事変)の影響などもあり軍部の反対などから日本政府は東京五輪の開催権を返上している。

建立時に多額の寄付をした中心人物が前川道平氏。
川越出身で、のちの伊勢丹社長。昭和8年の第二回東京優駿(日本ダービー)優勝馬カブトヤマの馬主としても有名。

青は色あせており、わかりにくい。。。

本グランド施設ニ際シ前川道平氏ハ特志ヲ以テ金員ヲ寄與セラル
誠ニ時宜ニ適シ工備ヲ促進スルヲ得タリ
茲ニ厚ク其ノ行為ヲ録ス
 皇紀二千五百九十八年六月十日

川越市初雁公園野球場

場所

https://goo.gl/maps/3SLfJV7bwkei4A8b7

川越城本丸御殿

※撮影:2022年4月及び5月


川越関連

ラジオ塔関連

靖國信仰~人を神に祀るということ~


  • はじめに
  • 人を神に祀るということ
  • 御霊信仰と顕彰信仰
  • 祖霊信仰と靖國神社
  • みたままつり
  • 靖國のみたまへの想い 

はじめに 

 「靖國神社という神社」は、数多くの神社のなかでも、異彩を放っている。 

 異彩の一つとしては、その過程がそのまま「近代日本の具現化」であり、国家のために殉じた「英霊」が御祭神であることだろう。あまりにも強く明治維新以後の歴史に絡みつつ、またそれが定期的に政治イデオロギーに起因することも多く、そもそも「靖國神社とは何か?」と疑問符を抱くことも多い。 

 ここでは世の中に溢れる「靖國論争」ではあまり触れられることのない、「信仰」の側面から「靖國神社」を紐解いてみようと思う。 


人を神に祀るということ 

 靖國神社は明治二年(1869)六月二十九日に「東京招魂社」として設立している。 

 文字通りに「靖國神社は招魂社である」という大前提がこの創立起源にある。 

 東京招魂社の意義は一言でいうなれば「戦禍で斃れた者達の霊を慰め、その遺志を長く祈念するための社」である。 

 戦没将兵の慰霊鎮魂の為に、それが各藩ごと(官軍・幕府軍側問わず)であれ民間であれ明治政府であれ、慰霊・鎮魂・招魂の祭祀が各地でとりおこなわれたことは日本の文化側面的に何等おかしなことではない。これは自然な風習であり、何等「人工的」でも「作為的」なものでもない。 

 例えば、明治政府が主宰した「靖國神社」がこのような伝統的な「人を神に祀る風習」に反して、抑圧的なものであったならば、日本国民の信頼は決して得られるものではない。またこのような「信仰」が強制されたというなら靖國神社創立以来約150年も祭祀が休むことなくとりおこなわれ、確固たる民間によって維持されていることは何を意味しているのだろうか。 

 そこには民間風習が伝統として生きており、靖國の信仰が深く民間に根付いているからではないだろうか。では、その「靖國の信仰」に連なる「民間信仰・民間風習」とは何であろうか。 

 この世に生をうけ、そして亡くなった者を「カミ」として祀り上げる事は古くからの風習の一つであった。人を神に祀った施設で圧倒的に多いのが「神社」である。当然これらの祀り上げの儀式は、古俗に基づく「鎮魂(たましずめ・おおみたまふり)」に基づく神道式でとりおこなわれた。 

 本来の初期仏教・原始仏教は「魂」の存在自体を認めていなかったが、日本古来の風習や神道と巧みに融合してきた仏教は、「誰でも彼でも死ねばすべてホトケ」「死者を無差別に皆ホトケといふやう」(柳田國男『先祖の話』)になり、死せる霊を「成仏」という形で遠方(極楽浄土)に送りつけようとばかりし(柳田國男によれば霊は国土にとどまるという)、さらに祖霊の融合を認めず、古代以来培ってきた魂思想を機能神(守護神)信仰にねじまげ、家々の先祖祭や死者の霊の管理・葬送儀礼に関与しだした。 

 その結果、「人を祀る神社」とは別に「霊堂・霊廟・供養卒塔婆」等に「霊」が祀り上げ「人を祀る寺院」の例も多くなった。 

 仏教でも東南アジアに波及した部派仏教(=小乗仏教。近年の仏教界では小乗仏教とは呼称しない)系の生死観は「輪廻転生」、つまり生まれ変わりの精神であるので、そこには慰霊の精神は存在しない。同じく日本国内でも浄土真宗(真宗・一向宗)系は、その開祖である親鸞が先祖供養は不要だと主張している。(亡き人は諸仏となる。迷いなく即時転生。) 

 またシャマニズムや霊魂等をそもそもないキリスト教が靖國の慰霊行為に納得行かないとするのも宗教観的には理解できる。そこはお互いの文化が培ってきた伝統を尊重する必要があるだけであり、互いの宗教論で否定するのは無意味に等しい。 

 カミ・ホトケ・霊・魂と呼び名は様々にせよ「人を祀る」という根底には大差はない。「人を祀る」延長線上に「靖國信仰」がある以上、この古来の風習の起源を探っていく必要があるだろう。 

 柳田國男翁は人を祀る風習の根源について「最初に外から持ち込まれたと認むるべき証拠が無い」「民族固有のものだとする」理由も積極的には明確ではない、としている。「単に外から入つたもので無いならば、元から在つたと見るべきだと謂ふに過ぎぬ」ので、その「元から」が容易ではないが「永い年月の間に極めて徐徐として、所謂人格崇敬の思想は養はれて来たのである」としている。つまり根源を明確に出来ないほど身近なことであり死者の霊魂は生者が慰め供養するしかないという観念を日本人は伝統的に培ってきたのである。しかし柳田翁は人が祀られるのにかつては制限があったとし「弘く公共の祭を享け、祈願を聴容した社の神々の、人を祀るものと信ぜられる場合には、以前は特にいくつかの条件があった。即ち年老いて自然の終りを遂げた人は、先ず第一に之にあづからなかった。遺念予執といふものが、死後に於てもなほ想像せられ、従ってしばしばタタリと称する方式を以て、怒や喜の強い情を表示し得た人が、このあらたかな神として祀られることであつた」(柳田『人を神に祀る風習』)とされている。本来、死後に祀られる霊魂は「祟り」という観念に基づいており、とりわけ祟ることがない一般の死者の霊魂は「先祖」という霊体に融けこんで家(私)や公のために活躍する我が国固有の氏神信仰・祖霊信仰に基づく霊魂観念となり(柳田『先祖の話』)、これらの祖霊は子孫によって祀られるべき神格であった。 

 同じ「カミ」でも「遺念予執の人を神に祀る」はその多くが御霊信仰(怨霊信仰)であり、一方で「先祖を神に祀る」は祖霊崇拝(祖先祭祀)といえる。「人を祀る」という古来風習も歴史が経つと「生前に傑出した業績を残した人物を祀る」という「勲功顕彰信仰」というべき風習が出来あがる。いわば、三種の「人を祀る」信仰があるといえる。 

三種類の「人をまつる信仰」
 御霊信仰(怨霊信仰) 遺念予執の人を神に祀る
 祖霊信仰(祖先祭祀) 先祖を神に祀る
 勲功顕彰信仰     生前に傑出した業績を残した人物を祀る


御霊信仰と顕彰信仰 

 祟り神系は一般的には御霊信仰(怨霊信仰)とされる。この世に怨みを残して死んだ者の霊魂は、生者に祟りをなすと考えられ、これらの怨霊・亡霊は御霊・物の怪と恐れられてきた。本来の「たたり」という言葉は神の示現をいう意味にすぎなかったが、「巫蠱(ふこ)の幣なるもの」が「たたり」を変容させたという。。(柳田『先祖の話』)この巫蠱=呪術者が「たたり」を「祟り」として恐怖の世界の怨霊として明確化させ、本来は霊魂に関して沈黙していた仏教(密教)による呪術と古来の鎮魂儀礼の融合によって奈良末期から平安時代(最澄や空海が帰朝し密教を導入した後)に急速に「御霊信仰」が広がっていった。本来は天皇家の死者の霊を特別に御霊と呼んだが、このころには非業の死を遂げた人々の霊魂を御霊と呼ぶようになり、平安時代には疫病・飢饉・地震・雷等のあらゆる災害が、御霊の仕業とされ、これらの怨霊を鎮魂するための儀礼が必要となっていた。 

 古来、怨霊とされる霊も「神」として祀り祭礼儀式を行うことによって常に鎮魂してきた。その供養の結果、祭神の業績や伝説が世に語り継がれていくにつれて怨霊の力は弱まり祭神の性質がマイナスからプラスへと転換されていくことになる。有名な菅原道真が死後四十数年後に北野神社にまつられ、その後「文筆・学問の神」として祭神が顕彰されるように。 

 この顕彰化ということが後世に着目され「顕彰神」という人神が発生することになる。これが「勲功顕彰信仰」へのシフトといえる。一般的に「一定の年月を過ぎると、祖靈は個性を棄てゝ融合して一体になるものと認められて居た」(柳田『先祖の話』)といわれており神になれない「霊」というものは三十三年忌(もしくは四十九年忌・五十年忌)で最期の法事を行い「先祖」になるといわれている。つまりある程度の年月がたつと故人は先祖という枠の中に埋没して忘れ去られ記憶として残らなくなってしまう。しかし人を神に祀るということはその人物が永遠に記念として記憶され伝承されることを意味する。遺念予執がまったくなく祟り神とは到底思えない権力者や偉人が神として祀られる理由の一つにはこの記憶・記念される「顕彰」という機能が働いているといえる。つまり「祟り神」も時と共に「顕彰神」に転化するという根本があり、祭神が記憶・記念される場として神社が存在している。それもその神社が後世まで永続祭祀・信仰されていくという根本があって記憶され記念されるのである。このように「御霊信仰」と「顕彰信仰」というものは対極線上にあるもののようにみえて実は非常に近い関係にあるということがわかる。 

 また、天変地異等が「祟り」として認知認識されるときは得てして「政情不安定」な時である。誰かが「あれは祟りだ」と認定して「祟り神」を捜してこない限り「怨霊」は表面化して来ない。その「怨霊」を祭祀する役割は為政者や民衆が担っている。特に為政者にとっては政情安定化のために政治的目的で神社建立をするのが最良であった。つまり怨霊の転化ではなく最初から顕彰目的で建立された神社には政治的効果が大きいとされる。明治期の神社建立の動きを「国家神道のもとで、天皇崇拝を主軸に神社を再構築し、人為的作為的に改変し、国家神道の思想に立つ神社を次々と創建した」(村上重良『慰霊と鎮魂』)とみる見方もあるが、顕彰すべき必要性がない神というものもありえず、もし作為的作られた「顕彰に値しない神々」なら、少なくとも今の世の中では信仰されなくなるはずだが、明治以来の神社も今日多くの信仰を集めている。 


祖霊信仰と靖國神社 

 「人を神に祀る」概念を冒頭に三種類あげたが、一番最初に取りあげた「祖霊信仰(氏神信仰)」に関しては未だ詳述していない。

 「祖霊信仰」とは先に触れたように「先祖」という霊体に融けこんで家(私)や公のために活躍する我が国固有の霊魂観念のことを指し、本来これらの祖霊は子孫によって祀られるべき神格であり、子孫が先祖の霊を敬虔に祀り、それに対して「先祖の霊」は子孫の守護神として応えてくれるというものである。 

 以下、加地伸行氏の意見を参考にする。東北アジア(儒教文化圏)では亡霊を招き慰霊するシャマニズム(魂降ろし)が基本的宗教感覚であり、死者と生者とのきずなを断ち切ることのない祖先祭祀(仏教的には祖先供養)という宗教感覚が儒教によって体系化されてきた。日本古来の神道の根底はシャマニズムであり、印度から中国に波及した仏教(大乗仏教系)も儒教的慰霊観を取り入れ先祖供養重視の日本仏教に発展した。日本の古来神道は仏教・儒教体系や道教理論が伝来するにつれて原始信仰的なものから徐々に体制を整えていったが、ただ日本の神道は儒教にはない「穢れを忌む」思想があった。死に際しての火葬は禊的浄化であり、日本人にとっては「死」そのものは穢れである。しかし葬儀以降は「死」という厳粛な大事が聖化し、死者はカミもしくはホトケとなる。そしてこのように浄化された死者の生前のできごとを問うことは一切しない。死者は「死」という大事によって人間界の責任をすべて果たされ、あとは「カミ・ホトケ」となり人間界の子孫を護る存在となったと加地氏はいう。 

 例えば靖國神社で見てみれば「東京国際軍事裁判」という名の判決で裁かれたABC級戦犯の方々(便宜上「戦犯」と呼称)は、現世では「法務死」という一番重い刑で責任を果たされ「カミ・ホトケ」として祀られるべき存在といえる。 

 「祖霊信仰」は極めて儒教的なものであるが、そこに日本的な思想・伝統が加味されて「靖國信仰」が形成されてきた。私はそれらの昭和受難者たちが現世での罪を裁かれ「カミ・ホトケ」となったからには、もはや現世の罪を問うことはせず(問うこともできない)、ただ慰霊の一心で向き合うだけである。それが日本の伝統的な信仰のはずであるから。 

 彼らの御霊を後世の我々はどう祀ればよいのだろうか。以下、柳田國男翁・小堀桂一郎氏の見解を参考にしたい。御霊を祀れないという事態は、家が断絶して祀る人の無い霊が出来る場合もあれば、戦火で斃れ家の跡を継ぐものがいなくなる場合もある。柳田翁によれば、それらの「不祀の霊」の増加というものは、大きな恐怖であり、盆の先祖祭にてさまざまな外精霊や無縁ぼとけ(仏教呼称)等の為に、特別に外棚・門棚・水棚と呼ばれる棚(不祀の霊を祀るための棚)を設け、供物を分かち与えることをしなければならなかったという。これが古来の家の構造であり信仰であった。『先祖の話』の末尾で柳田翁は記す。「國家の為に戦つて死んだ若人だけは、何としても之を佛徒の謂う無縁ぼとけの列に、疎外して置くわけには行くまいと思ふ。」とし、子孫が絶え祭祀が行われなくなってしまうと「程なく家無しになつて、よその外棚を覗きまはるやうな状態にして置くことは、人を安らかにあの世に赴かしめる途では無く、しかも戦後の人心の動揺を、慰撫するの趣旨にも反するかと思ふ」と切実に記している。この言葉こそが「靖國信仰」の原核精神を示しているだろう。 

 靖國神社の祭神も個々の家々の墓に祀られている。それは柳田翁のいう両墓制のうち「いけ墓・上の墓・棄て墓」という、やがては記憶されなくなり(先祖と同化)、忘れ去られてしまう墓(所在不明になるのが良いとされる地域もある)であり、その地に死者の「魄」(肉体の象徴)は祀られる。一方で「参り墓・祭り墓」と呼ばれる参拝に都合の良い、社会的な霊魂の逗留地(招魂の祠)に死者の「魂」(精神の象徴)が祀られ、元の天に帰って、子孫の安寧を護ると考えられたきた。つまり、それらの招魂祭祀を司る場が「靖國神社」等であり、たとえ「いけ墓」での祭祀が廃れたり、または祭祀を司る子孫のない若い戦死者等の「不祀の霊」は、社会的立場ある「参り墓」での祭祀によって絶えることなく記憶され、霊は安んじてその祠にとどまり、それらの霊が「祀る者」を加護する。小堀桂一郎氏によれば「戦死者の霊を祀り、祭を営んだ人々と共鳴者が、恰も氏子が氏神に対する如き感情を自らのうちに育んでその神霊を尊崇し、かつその加護を祈るという信仰形体」が靖國神社・護国神社であり「霊(参い墓の霊=靖國・護国神社の霊)が加護を垂るべき子孫とは共同体の成員全体であると考えられる。祀る者と護る神とに関係が氏族の子孫と祖先という私的な関係から、共同体を軸とする公的な関係に移して考えられる様になる。祭神はその遺執を国を靖からしめんとの志に示現し、祀る氏子等は我等の安寧を守り給えと祈る。」とし、これこそが靖國信仰の形でもある。「いけ墓=私的な祭祀場」に対する「参い墓=公的な祭祀場」という考えによって招魂社は公的なものとして出発し、国家が主宰する祭祀によって公的な「国事殉難者」が祀られているのもなんら問題はなく自然の帰結である。 

 「靖國神社こそ国営にすべきだ」という声がある。本来なら靖國神社は国家機関たるべきだろう。いや根本の「神道」という信仰こそ「日本人の公的な信仰」とすべきだろう。(あくまで「宗教」とはせずに「信仰」というが。)ただ、そのようなことは現実には夢物語でしかない。ではどうするべきか。昭和五十三年七月から平成四年三月までの靖國神社の六代目宮司を務めていた松平永芳氏の意見が一番賛同的であると思う。以下一部抜粋する。「靖國神社は政府の維持すべき神社ではなくて、国民総氏子の神社ということでなければ、どうにもならないんじゃないかと考えています。(略)政府から庇護を受けていると、一時的にせよ、どんな政権が出現するかわからない。その時の不安があるから絶対に政府からお金は貰わない方がよいと考えているのです。仮に国家護持ということになると政府がお金を出せばよいと思うようになり、国民はノホホンとして靖國の存在を忘れ去ってしまうかもしれません。(略)少額でもいいからできるだけ多くの方々がここの神社を認識されて、ここのお陰で自分たちの今日の平和があるんだ、ということを理解していただくのが理想的なんだと考えております。」(『靖國神社創立百二十年記念特集』)たしかに、靖國神社がなんたるかすら理解できてない政府や国に、今後万が一でも委せる自体が発生する可能性はゼロではないとすれば、あとあとの不安が大きくなるばかりである。やはり小堀氏や松平氏のいう、この「祀る者と護る神」の関係を大切に、靖國神社を日本国民の氏神とした「国民総氏子」というのが理想ではなかろうか。 


みたままつり 

 毎年7月13日から16日にかけて、靖國神社では夏の風物詩として「みたままつり」が斎行されている。 

 この「みたままつり」とはなんであるかを簡単に触れてみようと思う。 

 靖國神社の「みたままつり」は靖國150年の歴史から鑑みれば決して古い祭儀ではない。従来、戦前の靖國神社は現在のように庶民がいつでも気楽に参拝できる神社ではなく、国家と軍部が管理していた神社であった。 

 昭和20年8月終戦後、靖國神社はGHQの厳しい統制下に置かれ、その段階で未合祀であった戦没者の御霊を今後合祀できるかどうかがわからないという懸念から11月19-20日に臨時大招魂祭を斎行。本来は戦没者氏名等を明白にし霊璽簿に奉斎すべきところを緊急時ということで、まずは氏名不詳のままで招魂しその後に調査が進み次第で霊璽簿奉安祭を行い逐次ご本殿におまつりする手はずとなった。こうして創建以来の軍部が関与する最後の招魂式が行われた。 

 その1ヶ月後にGHQは国家神道・神社神道をターゲットとした「神道指令」を発令。昭和21年2月を以って靖國神社は国家との関係を絶ち一宗教法人へと再生することとなる。 靖國神社規則では、「当神社は靖國神社と称し、国事に殉じた御霊を祭神とし、神徳光昭、遺族慰藉、平和醇厚なる民風を振励するのを目的として事業を行う」ことを明記している。 

 昭和21年7月、神社として国家と断絶し今後の立ち行く様を模索していた靖國神社に長野県遺族会の有志の方々が、神社の勧誘や依頼というべきものではなく自発的に上京してきて、境内で盆踊りを繰り広げ民謡を歌唱して戦没のみたまを慰めるという出来事があった。 

 このような民間発案の慰霊行事は戦中戦前含めかつてなかった事例であり、これが今日の「みたままつり」の起源とされている。 

 これにヒントを得て、翌年の昭和22年7月には、13日の前夜祭にはじまり、新暦のお盆の3日間(14日・15日・16日)に神社主導ではじめての「みたままつり」を斎行、以後は夏の恒例となった。 

 お精霊様の迎え火を焚き、茄子や胡瓜の馬・牛の乗り物を飾り、先祖の霊の一時帰宅を待ち受けるという古い民間習俗の風習は、平安期には京都では廃れていたが関東では盛んであったと兼好法師の「徒然草(第19段)」には記載されている。 「亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なおする事にてありしこそ、あわれなりしか」 

 往時は歳事であった古習も時代の変遷の中で、いつしかお盆の祭事として、先祖の祭り・家の祭りとして伝承されてきた。もともと家々の祭りであった祖霊の祭りは「公」の祭りではなく「私」のまつりであり、昭和21年2月に「公」たる靖國神社が、一宗教法人にならざるを得なかった以後をもって、その年の7月に「私」たる民間有志の発案でもってはじまった「みたまのまつり」であった。 

 こうして長野県遺族会の方々が自発的に盆踊りを始められた「みたまのまつり」は、その契機は柳田國男の「先祖の話」で記述された下地が根底にある。 

 柳田翁の先祖の話は昭和20年4月から5月にかけて書かれたものであり、昭和21年4月に刊行されている。その柳田翁は日本降伏後の昭和20年10月付けの序文に「まさか是ほどまでに社会の実情が改まってしまうとは思わなかった」とし「家の問題は自分の見るところ、死後の計畫と關聯し、また靈魂の觀念とも深い交渉をもつて居て、國毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ惡しかれ多數の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、又どうなつて行くべきであるか。もしくは少なくとも現在に於て、どうなるのがこの人たちの心の願ひであるか。」と記している。、終戦後の日本の行く末を案じ混沌からの憂いが強く伝わってくる序文である。 

 先祖の話。すなわち「先祖から子孫に向けての相続と先祖祭祀の継承という民俗の根底になしている伝統に大いなる断絶がせまっていることへの危機感と解決方法」「子孫を残さずに死んでいく(戦死者の)霊の存在を目の当たりにし、日本の家の構造と先祖の祀りの有り様」を記述している。 

 靖國神社で祀られる「みたま」は「国のために戦って死んだ若人」「国難に身を捧げた者」というのが特徴的であり、中でも若人の御霊は、これを家々の先祖として祭るであろう子孫を有していない場合も多い。そこに祖霊信仰の断絶が発生してしまう。祭ってくれる子孫を持たぬ御霊を直系の子孫に代わって祭り、その記憶を伝承し、それら先祖の霊を後世の祭祀される人々の守護霊として安んじる。これが「靖國神社」であり、後世の社会が祭る「みたままつり」である。「この祭りは、祭ってくれるべき子孫を欠いた若き御霊達を安らかにあの世に在らんしめんがために、あるべかりし子孫に代わって共同体の常民が営む祭」(小堀桂一郎氏)であり、その祭りは格別な儀礼に基づくものではない。 

 「みたままつり」は伝統的な民間風習を兼ね備えるとともに、「個」ではない社会的な祭祀が行われるという公的な位置づけも帯びた、昭和22年にはじまった新しい「お祭り」ではある。その新しいお祭りは新暦お盆の三日間で斎行され、東京では一番最初の盆踊りも奉納されるということもあり、異色な趣も感じさせずに自然なカタチで受け入れられたのも、その性質が「日本人の信仰」の根底に根付いたものであった、といえる。 

 後世の我々が御霊の献身的な御心を記憶に留めて回想し、往時に想いをはせる。そうして御霊とともに「お盆」を過ごし、その意志を継承することで御霊達は後世の守護神となる。これを「祖霊信仰」から一段と特化した「靖國信仰」と称しても良いのかもしれない。 

  みたまを慰めるこの信仰。「生きた人の社会と交通しようとするのが、先祖の霊だといふ日本人の考へ方」(柳田國男)が共通共同の事実として根付いていたからこそのまつりであり信仰である。「この曠古(こうこ)の大時局に当面して、目ざましく発露した国民の精神力、殊(こと)に生死を超越した殉国の至情には、種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培ひ育てて来た社会制、わけても常民の常識と名づくべきものが、隠れて大きな動きをして居るのだといふことである。(略)人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に、信仰の基底が無かつたといふことは考へられない。」とこの「常民の常識」が共通した信仰に根ざしていたのであり、「信仰はただ個人の感得するものでは無くて、寧ろ多数の共同の事実だつたといふことを、今度の戦ほど痛切に証明したことは曾て無かつた。」と力説をされている。 

 そのうえで柳田翁は「但しこの尊い愛国者たちの行動を解説するには、時期がまだ余りにも早過ぎる」と昭和20年春の段階ではこれ以上の追求は遠慮されているが、その言わんとしている深意は日本人の心底に根付いており、戦後も連綿と続く靖國の祭祀、みたまのまつりに継承されてきている。 


靖國のみたまへの想い 

 今回、信仰という側面から靖國神社を紐解いでみた。 

 世間的なイメージで言えば、靖國神社への参拝は慰霊・鎮魂・顕彰・感謝などの側面が多いが、その根底には「日本人の伝統的な民俗意識」があることもわかった。その「民俗的な先祖の祭り」を戦後改革の中で一宗教法人となり「神社神道形式」で伝承しているのが現在の靖國神社となる。 

 この信仰の根底を気にもしないような政治的なイデオロギーに巻き込まれるのも現在の靖國神社の一つの姿であり、嘆かわしい自体ではあるが、そんな事は関係なく心静かに拝する人々の願いとともに、これからも御霊の御心を伝承を願っていきたいと思う。 

 靖國信仰とは? 

「靖國神社・靖國信仰は日本人の心であり、日本人が築いてきた民俗文化である」ということも出来るかも知れない。 

 後世に生きる我々の多種多様の想いのなかでも不動のものがある。それが御霊への鎮魂と感謝の祈りであり、その行為は日本人の伝統でもあり伝承されるべき風習でもある。 

 彼ら御霊の想いと願いを記憶し、御霊を未来永劫に祈念し回想する。幕末以来今日まで246万6500余柱もの英霊たちが国家のために殉じられ、幾多の無名人が国難に立ち向かっていった。 

 後世の我々は彼らが身を挺して護り抜いた「日本」に生きるものとして残された義務がある。「家=国」を身を挺して護った彼らの想いを、「家=国」に残された子孫が引き継ぐ。御霊の遺志を後世に伝え続ける。そして先祖の御霊は子孫の「守護神」となり、国靖らかであることを願う「靖國の想い」へと導き、未来を馳せていく。 


主な参考文献(順不同) 

靖國及び周辺事項 

小堀桂一郎『靖国神社と日本人』PHP新書・1998年 

神社本庁編『靖国神社』PHP研究所・2012年 

加地伸行・新田均他『靖国神社をどう考えるか』小学館文庫・2001年 

村上重良『慰霊と鎮魂 靖国の思想』岩波新書・1974年 

神道及び思想全般 

柳田國男「先祖の話」昭和21年/「人を神に祀る風習」大正15年 

(『定本柳田國男集第十巻・新装版』所収 筑摩書房・昭和44年) 


初 稿 :平成14年(2002)5月
一次改訂:平成14年(2002)11月
二次改訂:平成28年(2016)7月 (みたままつり項目を追記)
三次改訂:令和04年(2022)4月 (Web掲載用に表記微修正)

学生の頃に、とある同人誌に寄稿した論文。
読み直せば、若気の至りも多数はあるが、基本的な考え方としての根底は今も変わりない。
うっかり発掘してしまったので、せっかくなのでWeb用に再構築して掲載しました。 


関連

霊璽奉安祭

都内現存唯一のラジオ塔「聖蹟公園とラジオ塔」(品川)

戦前の日本。まだまだ一般家庭にラジオが普及していなかった時代。
ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。「公衆用聴取施設」として各地にラジオ等が建設された。


聖蹟公園のラジオ塔

品川聖蹟公園のラジオ塔は、公園の開園と同じ年の昭和13年(1938年)に建設された。現在は聖蹟の記念碑とともに並んでいる。
公園内の看板には「灯籠」としか記載されておらず、これが歴史的な意義のある「ラジオ塔」であることが明記されていないのが残念。

寄贈
日の丸奉仕團


品川聖蹟公園

情報量が多い公園。
江戸時代は、東海道品川宿本陣。明治には 明治天皇の行在所となり、昭和には聖蹟公園と。

品川区指定史跡
東海道品川宿本陣跡
 品川宿は、江戸四宿の一つで、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した。ここはその本陣跡であり、 品川三宿の中央に位置していた。 東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところである。明治五年(1872)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用された。
 現在、跡地は公園となり、明治元年(1868)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。
 平成14年3月28日
  品川区教育委員会

聖蹟公園の石碑案内
聖蹟公園由来の碑
昭和13年(1938年)聖蹟公園として整備開園するに当たり、その由来を記して東京市が建てたものである。
灯籠
聖徳の碑
東京市品川聖蹟公園開設までの明治天皇品川聖蹟保存会の活動について記録した碑。
御聖徳の碑
明治天皇の行在所になった品川宿本陣跡が昭和十三年(1938年)に東京市の公園となったのを機に設置された碑である。
旗台
石井鐵太郎氏胸像
常に住民の福祉増進と社会福祉の向上に尽くし、昭和五十年に社会福祉国労を検証し名誉区民となった。
夜明けの像
昭和二十四年に二宮尊徳像が建立さられたが、昭和四十二年に石井鉄太郎によって、現在の子どもたちが親しみやすい像ということであらためて新聞少年の像が贈られた。

「灯籠」としか記載されていない「ラジオ塔」。
ちょっと寂しい。

東京市
品川聖蹟公園
昭和13年11月開園

聖蹟公園由来の碑

昭和13年に東京市によって建立された「聖蹟公園由来の碑」。摩耗していて判読不能。。。

御聖徳の碑

昭和13年11月15日建立。聖蹟公園の開園に際し、 明治天皇の御聖徳を記念する碑。

御聖徳の碑

御聖蹟

ボール遊びの弊害かもしれないが、激しく摩耗しており、判別不能。畏れ多いことではある。

旗台

のちに両サイドが増設されたのか、寄贈〇〇、読めなくなっている。

石井鐵太郎氏胸像

品川区名誉区民第一号、という。

夜明けの像

聖蹟公園。
江戸の品川宿から明治の行在所、昭和のラジオ塔まで、地味に歴史が詰まった公園。面白い。

品川区立聖蹟公園

品川宿本陣跡

もちろん本陣跡ゆえに、東海道に面している。

場所

https://goo.gl/maps/q1jUwoM7U1QtX12x7


関連

殉職救護員之碑・日本赤十字社埼玉県支部(浦和)

浦和の調神社の隣の調公園の隣に、日本赤十字社埼玉県支部がある。
その駐車場の片隅に、従軍看護婦を顕彰する慰霊碑がある。

殉職救護員之碑

日本赤十字従軍看護婦(第一種服装)の銅像。見事な造形。

殉職救護員之碑
博愛人道の赤十字の旗のもと、身を捨て、家を忘れて、召に応じ不眠不休、自愛懇切に、ひたすら戦傷病者の救護に奉仕する姿は、崇高の限りである。然も大陸の曠野に太平洋上の孤島に、或いは人跡未踏のジャングルに、その若き一生を捧ぐるに至っては実に一死仁を成すと謂うべきである。
茲に同志相謀り、殉職救護員のため、その徳を頌し又もつて永く吾等の師表として敬仰する姿となす
 昭和31年3月31日
  殉職救護員慰霊碑 建立委員会

「 殉職救護員之碑 」のプレートの左右に、32名の殉職救護員の名が刻まれている。
救護員、救護看護婦副監督、救護看護婦長、そして救護看護婦のお名前。

合掌

裏面。

精密な造形。

日本赤十字社 埼玉県支部

場所

https://goo.gl/maps/ojZMpUyhTotduBzJ9

※撮影2022年2月


関連

「日本の近代化を支えた砂利鉄道」西武安比奈線廃線跡の散策・その2(川越)

埼玉県川越市。
西武川越線「南大塚駅」から「安比奈駅」を結んでいた貨物線。
日本の近代化を支えた砂利鉄道の跡を散策してみる。

本記事は、「その2」です。「その1」は以下から。

「砂利鉄道」と「西武安比奈線」

入間川で採取した砂利運搬を目的とした「砂利線」として、1925年(大正14年)2月15日に開業。
砂利の需要減や採取規制強化により、1963年(昭和38年)休止。2017年(平成29年)に正式に廃線となった。

1900年代初頭に河川敷で採取した砂利を首都圏でのコンクリート建設資材などで活用するために「砂利鉄道」の敷設が相次いだ。東京近郊では入間川や多摩川などで砂利採取が活発であった。
しかし砂利採取は、堤防の破壊、河床面の低下、水質汚染などを巻き起こすこととなった。
戦後、1964年に多摩川、相模川、入間川、荒川などの主要河川での砂利採取は全面禁止され、近代化を支えていた砂利鉄道の役目も終わった。

ちなみに、安比奈は「あひな」と読む。

西武安比奈線では、かつて鉄道聯隊で活躍していた蒸気機関車も戦後、「安比奈のコッペル」として走っていた。


西武安比奈線廃線跡の散策

西武池袋線「南大塚駅」。北東方面にかつての線路跡が伸びている。
沿線に沿って歩いてみようと思う。

続きの場所はここから、

https://goo.gl/maps/koorCr847N5jWNwd6

廃線跡近くの小路から線路が見えた。ちょっと覗いてみる。

あぁ、これは良いですね。

道路と交差。

橋が見えた。

かつて、遊歩道として公開されていたらしいが、いまは再び封鎖。

再度の木枠は遊歩道時代の名残。

そのまま廃線跡を意識しながら、脇のあぜ道をあるく。

廃線跡と交差しながら。

良いカーブ。木の成長が根っこでレールを持ち上げている。

レールが盛り上がってる。。。

場所

https://goo.gl/maps/3AhMxL8JLKDvB5wP7

廃線跡は、川越越生線「八瀬大橋」によって分断。

八瀬大橋をくぐって、反対側に。

入間川の河川敷へ。

バイクの講習コースがとなりに。

場所

https://goo.gl/maps/k89R2Q6CUCm612CEA

切断時に、変な力が加わったのか。すごい曲がり方をしている。

SKマテリアル安比奈工場が、今も砂利を採掘しており、入間川の南北にパイプラインが渡されている。

その下を、安比奈線の廃線跡が伸びる。

伐採されていた。

根っこがすごい。

根っこの力で、レールが浮いている。

しかし、力強い根を這わせていた樹木は伐採されてしまった。

安比奈駅にむかってレールが分岐している。その後、分岐点を遮るかのように、大木が立ちふさがり、そしてその大木は伐採され、分岐するレールと切り株が、無用のものとして残った。
すごい光景。

レールを遮る切り株。正直いってわけがわからない。

この先は、安比奈駅跡。

場所

https://goo.gl/maps/pmYCiSwDfNNfZGPn6

安比奈駅跡。

砂利鉄道として、近代化を象徴するコンクリート建材を運び出していた鉄道は、戦後に需要が低下し、そして、廃線。廃線跡のレールを押しのけるかのように成長した樹木も伐採され、不思議な空間が目の前に広がっていた入間川河川敷の安比奈線。なかなかの見応えでした。

11時に南大塚駅を散策開始し、12時30分に安比奈駅跡に到着。
そこから南大塚駅に戻ってきたのが、13時15分。

約8キロで2時間15分、でした。

※撮影:2022年2月

「日本の近代化を支えた砂利鉄道」西武安比奈線廃線跡の散策・その1(川越)

埼玉県川越市。
西武川越線「南大塚駅」から「安比奈駅」を結んでいた貨物線。
日本の近代化を支えた砂利鉄道の跡を散策してみる。


「砂利鉄道」と「西武安比奈線」

入間川で採取した砂利運搬を目的とした「砂利線」として、1925年(大正14年)2月15日に開業。
砂利の需要減や採取規制強化により、1963年(昭和38年)休止。2017年(平成29年)に正式に廃線となった。

1900年代初頭に河川敷で採取した砂利を首都圏でのコンクリート建設資材などで活用するために「砂利鉄道」の敷設が相次いだ。東京近郊では入間川や多摩川などで砂利採取が活発であった。
しかし砂利採取は、堤防の破壊、河床面の低下、水質汚染などを巻き起こすこととなった。
戦後、1964年に多摩川、相模川、入間川、荒川などの主要河川での砂利採取は全面禁止され、近代化を支えていた砂利鉄道の役目も終わった。

ちなみに、安比奈は「あひな」と読む。

西武安比奈線では、かつて鉄道聯隊で活躍していた蒸気機関車も戦後、「安比奈のコッペル」として走っていた。


西武安比奈線廃線跡の散策

西武池袋線「南大塚駅」。北東方面にかつての線路跡が伸びている。
沿線に沿って歩いてみようと思う。

南大塚駅北口。
11時散策スタート。

コンクリート枕木が山積み。

道路部分に線路が残る。

場所

https://goo.gl/maps/c86ndHKjifRoMcx87

レールが端に寄せられている。

場所

https://goo.gl/maps/mhy88LYFuRsmaSUFA

国道16号と交差。渡りたいけど、渡ってはだめ。迂回する。

横断禁止 わたるな危険!

国道を迂回して北側に。
廃線跡は立ち入り禁止なので、迂回しながら廃線跡を辿る。

ここから北はレールが残っている。

歩行者用の通路。車は入れないように意図的に細くしているのかも。

https://goo.gl/maps/XM2aP6XwttTy6PDBA

柑橘と廃線。絵になる組み合わせ。

焼団子屋さん。入間川街道と交差。

場所

https://goo.gl/maps/gKTQgJ6qBNnPZte87

住宅地が終わり、目の前がひらけた。
この先に新河岸川。

場所

https://goo.gl/maps/V7pMRxUwDh9H5rS2A

用水にかかる小さな鉄橋が見える。

畑のあぜ道から回り込めた。枕木も残っている。

もうひとつ鉄橋がある。

場所

https://goo.gl/maps/XeEf7y8vT1eT3cCW6

新河岸川にかかる鉄橋。こちらも枕木が残っている。

鉄橋。

新河岸川。ここでは小さな小川。下流の岩淵水門で隅田川と合流している。

田んぼのなかを伸びる廃線跡。

場所

https://goo.gl/maps/DyxkXffgo7U84ehm8

場所

https://goo.gl/maps/EysDKQ6c35nWy7Dp8

この先の森がトンネルのようになっている。

場所

https://goo.gl/maps/3d8WY4muT2Vy5RwY7

場所

https://goo.gl/maps/TRnsH9g5MTNaAWtr9

森の中へ。

この先は、「その2」で。

日露戦勝記念の「砲弾狛犬」(横浜・川崎)

神奈川県と千葉県に、砲弾を抱えた狛犬がいる。

なんでも、神奈川県横浜市内の2社、川崎市内の2社、千葉県館山市内の1社の合計5社にて、境内に「砲弾を抱えた狛犬」こと通称「砲弾狛犬」が現存しているという。

いずれも明治34年(1904)から明治35年にかけて日本とロシアの間で勃発した日露戦争での戦勝記念で建立奉納されたもの。
神社において伝統的であった「狛犬」が、近代の熱狂の中で、砲弾を抱え始めたという、ひとつの時代の象徴的な姿、でもある。

そんな「砲弾狛犬」の姿を、今回は、横浜と川崎に見に行ってみようと思う。

※千葉館山にも行きました。


本牧原の吾妻神社「砲弾狛犬」(横浜市)

神奈川県横浜市中区本牧原の鎮座。旧社格では村社。
御祭神は日本武尊。

南北朝期の文和3年(1354年)、新田義貞の家臣であった篠塚伊賀守平重広が勧請したという。

社頭の左右には獅子山があり、砲弾を抑えつけた狛犬がいる。
狛犬は、明治39年(1906)5月の建立。日露戦争戦勝記念で建立された。

阿行(開口)の狛犬は「戦捷」の球型砲弾、吽行(閉口)の狛犬は「祈念」の椎実型砲弾を抑えつけている。

戦捷 ( 球型砲弾 )

祈念 ( 椎実型砲弾 )

りっぱな獅子岩。子獅子を従える。

王師渡海 屡戰屡克 豈獨人力 惟神之徳

嗚呼神徳 何以永憶 爰設狻猊  撰文以刻

場所

https://goo.gl/maps/8i5z5svQ19rydqLN8


お三の宮日枝神社「砲弾狛犬」(横浜市)

神奈川県横浜市南区山王町の鎮座。旧社格は村社。


日露戦争戦勝記念として、明治40年10月建立。
本牧原の吾妻神社に遅れること1年半後に奉納された。おそらくは同じ石工に手によると思われる。
昭和11年9月再建。

マスクをしているので、阿吽がわからないが。。。
阿行(開口)の狛犬は「戦捷」の球型砲弾、吽行(閉口)の狛犬は「祈念」の椎実型砲弾を抑えつけている姿は、本牧原の吾妻神社と同じ。

戦捷 ( 球型砲弾 )

祈念 ( 椎実型砲弾 )

日露戦戦捷為記念
 明治40年10月之建

皇徳溢内 威稜耀外 海表萬里 遠掲大旆

維勇維武 献靖報國 凱歌髙揚 ■■神徳

公式サイト

http://www.osannomiya-hie.or.jp/

場所

https://goo.gl/maps/wdz5KeAWbvGFoD1J6


川崎大島の八幡神社「砲弾狛犬」(川崎市)

川崎市川崎区大島の鎮座。
川崎市大島地区の鎮守様。

砲弾狛犬は明治39年10月建立。
阿吽の狛犬のうち、口を閉じた吽行の狛犬の脚下に「椎実型砲弾」がある。
阿行の狛犬は球体だが、何やら違和感がある。もしや、この部分だけ後世の作り変え?

台座には、陸軍を表す「小銃」と海軍を表す「錨」が刻まれている。

凱旋記念の砲弾狛犬。

凱旋

紀念

明治39年10月建之

阿行の狛犬は顔が破損。そして、球体が不自然。

台座には、旭日旗。

旭日旗の台座。

場所

https://goo.gl/maps/FzFLGeEaYqf7EK6x5


大戸神社の「砲弾狛犬」(川崎市)

川崎市中原区下小田中の鎮座。
戦国時代の永正年間(1504年-1521年)に、世田谷吉良氏家臣の内藤豊前の舎弟にあたる内藤内匠之助が信濃国戸隠大明神を勧請したことにはじまるという。
御祭神は、手力雄命、ほか。

砲弾狛犬は、明治40年(1907年)10月吉日建立。日露戦争戦勝記念。
阿吽の狛犬が対で砲弾(椎実型砲弾)を抱えている。砲弾には金属の輪が施されており、意匠に富んでいる。

閉口している吽行の砲弾狛犬は、砲弾を体側に傾けている。

日露戦捷紀念

一方、開口している阿行の砲弾狛犬は、砲弾を外側に傾けている。

日露戦捷紀念

境内には、「平和の礎」碑があった。昭和43年建立の慰霊碑。

平和の礎
 川崎市長 金刺 不二太郎 書

 今は昔昭和6年満州事変に始まる一連の大東亜戦争が20年8月痛ましくも玉音放送を以て終結する迄日本は実に有史未曾有の非常時でありました。此の間祖国の平和の為に氏神大戸神社社頭より聖戦に従軍したる者百有余名万里の波濤を越えて各地に勇戦したがあゝ悲しい哉内30余名の人々は酷寒の大陸に灼熱の孤島に草むす屍水つく屍とあたら若き生命を散華して再び故国の土を踏むことは無かったのであります。
 やがて星移り年は変わって戦後の混乱も漸く治まり独立日本に平和甦る此の時恰も明治百年を記念し従軍生存有志一同を以て戦歿者慰霊碑平和の礎を縁の大戸神社境内に建て、国に殉じた今は亡き友人たちの霊を慰め永しへに日本よ平和であれと切に祈念するものであります。  昭和43年9月 建立
   従軍有志

場所

https://goo.gl/maps/KyLSoGE8QbWK28zk9


付記
砲弾狛犬とは関係ありません。。。
川崎をうろうろして、立ち寄りついでに。

稲毛神社(稲毛公園)の「平和の塔」

稲毛神社の瑞垣は皇紀2600年記念。昭和15年’(1940年)。

稲毛神社の隣にある稲毛公園にひっそりとある「平和の塔」。
もともとは、「忠魂碑」であったという。

平和の塔としては昭和43年竣工。
しかし、いわれてみれば「台座」の造りは、昭和43年のデザインではないだろう。戦前の忠魂碑の台座が流用されたことが推測される。

平和の塔の裏面。何かを無理矢理に剥ぎ取ったような跡がある。

場所

https://goo.gl/maps/AkN9o7RZMqenykeR9

※撮影:2022年2月


砲弾狛犬5社

神奈川県横浜市南区山王町5-32
 お三の宮日枝神社

神奈川県横浜市中区本牧原29-18
 吾妻神社

神奈川県川崎市中原区下小田中1-2-8
 大戸神社

神奈川県川崎市川崎区大島3ー4ー8
 八幡神社

千葉県館山市長須賀406
 熊野神社

広島陸軍被服支廠倉庫跡

広島に出張があった際に、スキマ時間で散策をしてみました。
時間が捻出できなかったのでピンポイントの散策になりましたが。


広島陸軍被服支廠倉庫(出汐町倉庫

現存する4棟のうち、第 1~3 号棟は広島県所有。第 4 号棟は国所有(中国財務局)。
最大級の被爆建物。
国内に現存する最古級の鉄筋コンクリート造建築物として建築史上でも貴重。解体方針も打ち出されていたが、保存活動により、広島県は保有する3棟を耐震補強し保存する方針を示した。

大日本帝国陸軍の被服工場として建設された施設。
兵員の軍服や軍靴などを製造していた。

1905年(明治38年)4月陸軍被服廠広島出張所として開設。
現存する10-13番庫は、1913年(大正2年)8月竣工。
1907年(明治40年)11月に陸軍被服廠支廠に昇格。

1945年(昭和20年)8月6日。
原子爆弾により広島市は壊滅。爆心地から約2.7km離れていた被服支廠は外壁の厚みが60cmと厚かったこともあって焼失や倒壊は免れ救護所として使用。多くの避難民がこの地で息を引き取った。このとき爆風により大きく歪んだ窓の鉄製扉は、現在もそのまま残されている。

戦後、旧被服廠の敷地や建物などは徐々に解体され、現存は4棟のみとなっている。
南の1棟は広島大学が学生寮として使用したのちに国の管理に、西の3棟は日本通運出汐倉庫(旧日本通運出汐倉庫1-4号棟)として使用していたが、1995年に日通は使用を停止し県に譲渡されている。

現存する4棟、広島陸軍被服支廠10-13番庫は1913年(大正2年)8月に竣工。L字型に並んでいる。現在、1-3号棟は県が、4号棟のみ中国財務局が所有し、4棟とも県が一括管理。


詳細情報は、いかに詳しい。
アークウォーク広島

https://www.oa-hiroshima.org/buildings/buildings05.html

旧被服支廠の保全を願う懇談会

http://hifukushisho.jp/index.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:B26-C2-21
昭和14年(1939年)12月6日、日本陸軍撮影の航空写真

被爆前。

中央の山が「比治山」。「陸軍墓地」がある。
比治山の南西が「広島要塞砲兵聯隊(電信第2聯隊)」
比治山の南が「広島陸軍被服支廠」
比治山の南東が「広島陸軍兵器支廠(広島陸軍兵器補給廠)」

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M251-46
昭和22年(1947年)4月14日、米軍撮影の航空写真

被爆後。

下記写真の北東が爆心地。京橋川より西側が、。。

合掌

上記の写真から、それぞれ 広島陸軍被服支廠倉庫 を切り取り。

北から並んでいる3棟が「1号棟」「2号棟」「3号棟」。広島県所有。
南側で横になっているのが「4号棟」。国(中国財務局)所有。


広島陸軍被服支廠倉庫跡の散策

敷地内の立入りは広島県庁へ事前申込みで、広島県財産管理課まで見学申請が必要。(平日のみ)
当日は県庁まで鍵の受取と返却が必要。建物内見学は不可。

私は、さすがに時間がなかったので、敷地外の道路からの見学を。
敷地外からでもわかるレンガ建造物に圧倒的な重厚感に圧巻。
そして、爆風の衝撃を残す痕跡に、静かに手を合わせる。

被爆建物
A-Bombed Buildings

被爆時の名称 
広島陸軍被服支廠
(爆心地から2,670m)
この建物は、1945年(昭和20年)8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。被爆直後は臨時救護所となり。避難してきた多くの被爆者が次々と力尽きていきました。爆心地の方向に面していた西側の鉄扉のいくつかは、被爆時の爆風で変形した痕跡をとどめています。
 広島市

以下、写真にて。

爆風の圧で押し曲げられた鉄扉。

時間にあるときに、比治山を交えて、また改めて足を運びたいと思います。

※撮影:2021年4月


関連

武蔵野陵に拝す(昭和天皇祭の儀・令和4年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。

国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

即日、
皇太子明仁親王殿下が践祚され、第百二十五代天皇の御位にお就きになられた。
そして、年号は「平成」と改元せられた。


武蔵野陵(むさしののみささぎ)

33年後の令和4年(2022年)1月7日、
昭和天皇が眠る武蔵野陵を参拝いたしました。

昭和を偲びつつ…

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。

昭和天皇武蔵野陵

令和4年1月7日。
午前9時30分前に到着。武蔵野陵へ参進する。

午前9時33分。祭員が参進。

このあとは、撮影禁止。

午前9時開門から午前9時30分までは一般参拝可能。
午前9時30分から11時頃までは祭祀のために、立ち入り制限発生の場合あり。
祭祀の間は一般参拝者は御陵向かって右側で待機、でした。

祭祀は、神道式。
 一般参拝停止
 祭員参進
 式部官参進(宮内庁式部職)
 招待者参進
 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下でした。)
 勅使参進
  献饌
  勅使拝礼
  皇族代表拝礼
  招待者拝礼
  撤饌
 勅使退出
 皇族代表退出
 招待者退出
 式部官退出
 祭員退出
 一般参拝再開 
祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

https://www.fnn.jp/articles/gallery/295317?image=5

https://mainichi.jp/articles/20220107/k00/00m/040/074000c

最初は、一般は15人かな。
最終的には一般も50人くらいまで集まっていたような感じでした。

午前10時45分頃、祭員退出。

前日の雪が残る武蔵野陵。

武蔵野陵墓地(宮内庁多摩陵墓監区事務所所管の陵墓 )

大正天皇 多摩陵
貞明皇后 多摩東陵

昭和天皇 武蔵野陵
香淳皇后 武蔵野東陵

高尾駅

羽田の平和大鳥居(旧穴守稲荷神社大鳥居)

羽田空港の伝説として、よく語れるのが「羽田の大鳥居」。
羽田の平和大鳥居から、赤レンガ堤防を経由して、六郷水門まで多摩川沿いを散策してみました。

平和大鳥居(旧穴守稲荷神社大鳥居)

昭和4年(1929年)10月建立。
昭和6年(1931年)に民間飛行場として羽田飛行場(東京飛行場)が開業。
昭和20年(1945年)8月15日の終戦後、羽田飛行場を接収したGHQによって穴守稲荷神社は強制遷座を余儀なくされた。
残された穴守稲荷の社殿等はGHQによって破壊。羽田飛行場の駐車場近くに残された大鳥居も撤去対象となるが、作業員が怪我をしたり、責任者が病死したりという怪奇現象により撤去叶わずにそのまま残されることになった。

 この大鳥居は、穴守稲荷神社がまだ羽田穴守町にあった昭和初期に、その参道に寄付により建立されたと伝えられています。
 その後、終戦とともに進駐した米軍により、羽田穴守町、羽田鈴木町、羽田江戸見町の地域一帯に居住していた人々は強制退去され、建物は全て取り壊されました。
 しかしながら、この大鳥居だけは取り壊しを免れて羽田の地に残され、往時を物語る唯一の建造物となりました。
 米軍から、施設が日本に返還された昭和27年7月、東京国際空港として再出発した後も、この大鳥居は旅客ターミナルビル前面の駐車場の一隅に残され、羽田空港の大鳥居として航空旅客や空港に働く人々に親しまれました。また、歳月を重ね風雪に耐えた大鳥居は、進駐軍に強制退去された元住民の方々の「心のふるさと」として往時を偲ぶ象徴なりました。
 昭和59年に着手された東京国際空港沖合展開事業により、滑走路や旅客ターミナルビル等の空港施設が沖合地区に移設され、大鳥居も新B滑走路の整備の障害となることから、撤去を余儀なくされることとなりました。
 しかしながら、元住民だった多くの方々から大鳥居を残してほしいとの声が日増しに強まり、平成11年2月、国と空港関係企業の協力の下で、この地に移設されたものです。
 ここに関係各位に謝意を表するとともに、この大鳥居が地域と空港の共生のシンボルとして末永く親しまれることを念願する次第です。

羽田空港に残された穴守稲荷神社のかつての大鳥居。
現在は穴守稲荷神社の管理ではなく、国土交通省管理となっている。
扁額もかつては「穴守神社」であったが、現在は「平和」と掲げられている。

場所

https://goo.gl/maps/REBV1d1cLjazVNQY9


五十間鼻無縁仏堂

海老取川の対岸に五十間鼻という場所がある。そこに無縁仏が祀られている。
多摩川の下流となり、多くの水難者がこの地に流れ着いたという。

なかでも東京大空襲の犠牲者の多くもこの地に漂着している。
目と鼻の先の羽田飛行場は米軍に接収され、対岸には、犠牲者の無縁仏堂が祀られていた。

合掌

五十間鼻無縁仏堂の由来
創建年代は、不明でありますが、多摩川、又、関東大震災、先の第二次世界大戦の、昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着致しました。
その方々を、お祀りしていると言われております。
元は、多摩川河口寄りの川の中に、角塔婆が一本立っているだけで有りましたが 初代 漁業組合長 故 伊東久義氏が管理し毎年お盆には、盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養を
していました。昭和五十三年護岸工事に伴い、現在地に移転しました。
その後荒廃著しく、仲七町会 小峰守之氏 故 伊東米次郎氏 大東町会 故 伊東秀雄氏 が、私財を持ち寄り復興致しました。
又、平成十六年に、村石工業、北浦工業、羽田葬祭スミヤ、中山美装、中山機設、の協力により新たに、ブロック塀、角塔婆、桟橋、などを修理、増設、現在に至ります。
又、新年の水難祈願として、初日の出と共に、羽田本町 日蓮宗 長照寺 住職 並びに信者の方々が、水難者への供養を、毎年行っています。
  合掌
  堂守謹書

海老取川の両岸に。
左に平和大鳥居、右に五十間鼻無縁仏堂。

場所

https://goo.gl/maps/hAL8P6bqYdZy7qpNA


穴守稲荷神社

遷座した穴守稲荷神社。2014年4月撮影の写真を掲載しておきます。
2020年に改修工事が行われたために、この姿を見ることはもうできない。。。

当時は、神社参拝と御朱印を目的としておりました。。。

場所

https://goo.gl/maps/fihEKsezAFg4PC7T9

※穴守稲荷神社の写真のみ2014年


ねずみ島

多摩川の河口にあるちいさな島。かつて梨の果樹園であった場所が、多摩川の河川改修工事で川幅を広げた際に、取り残され島になった、と。

場所

https://goo.gl/maps/48Bv9e8phuVKhdSE9


関連

出陣学徒壮行の地(学徒出陣・国立競技場)

国立競技場。
もとは、大正13年(1924年)に明治神宮外苑競技場として完成した競技場。
昭和18年(1943年)10月21日には明治神宮外苑競技場で文部省学校報国団本部の主催による「出陣学徒壮行会」が行われ、強い雨の中で出陣学徒25000人が競技場内を行進した。

戦後、「明治神宮外苑競技場」は解体され、昭和33年に「国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)」が完成。旧国立競技場は2015年に解体され、2019年には新たな国立競技場が完成した。

「出陣学徒壮行の地」の碑(出陣学徒壮行碑)

「出陣学徒壮行碑」は。国立競技場建設中は、一時的に秩父宮ラグビー場敷地内にあったが、国立競技場完成とともに戻ってきた。現在は、千駄ヶ谷門の近くにある。

東京オリンピックが終わり、ようやく国立競技場周辺に近寄れるようになったので、脚を運んでみた。

出陣学徒壮行の地

次世代への伝言―出陣学徒壮行碑に寄せてー
  昭和18年(1943)10月2日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、全国の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。この非常措置により同年12月、約10万の学徒がペンを捨てて剣を執り、戦場へ赴くことになった。世にいう「学徒出陣」である。
 全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年12月21日、ここ元・明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺77校が参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋めつくした後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってこの実況を報道した。翌19年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子および女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶えた。  
 時流れて半世紀。今、学徒出陣50周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。 
 平成5年(1993)10月21日
  出陣50周年を記念して   
   出陣学徒有志

生等、もとより生還を期せず

NHK放送史
出陣学徒壮行会

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060059_00000

〈東條内閣総理大臣〉
「御国の若人たる諸君が勇躍学窓より、征途に就き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃滅をして皇運を扶翼し奉るの日は今日(こんにち)来たのであります。大東亜十億の民を、道義に基づいてその本然の姿に復帰せしむるために壮途に上るの日は今日(こんにち)来たのであります。私は衷心より諸君のこの門出を御祝い申し上げる次第であります。もとよリ、敵米英におきましても、諸君と同じく幾多の若き学徒が戦場に立っておるのであります。諸君は彼等と戦場に相対(あいたい)し、気魄(きはく)においても戦闘力においても必ずや彼等を圧倒すべきことを私は深く信じて疑わんのであります。」

〈学生(東京帝国大学文学部・江橋慎四郎〉
「学徒出陣の勅令、公布せらる。予(か)ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ、迸(ほとば)しめ得たりし生(せい)らは、ここに優渥(ゆうあく)なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従うを得るに至れるなり。豈(あに)、感奮興起せざらんや。生ら今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて悉(ことごと)くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生らもとより生還を期せず。誓って皇恩の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。決意の一端を開陳し、以て答辞となす。昭和18年10月21日、出陣学徒代表。」

〈東條内閣総理大臣〉
「諸君のめでたき征途にのぼれるところの第一歩にあたります。諸君とともに聖寿の万歳を心の底から三唱いたしたいと思います。天皇陛下、万歳、万歳、万歳。」

「万歳、万歳、万歳。」

NHKアーカイブス
日本ニュース第177号 1943年(昭和18年)10月27日
[2]学徒出陣

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300562_00000

1943年(昭和18年)10月21日に開催された神宮外苑での学徒出陣壮行会では、東京帝国大学文学部の江橋慎四郎氏が答辞を読んだ。

明治神宮外苑は学徒が多年武を練り、技を競ひ、皇国学徒の志気を発揚し来れる聖域なり。
本日、この思ひ出多き地に於て、近く入隊の栄を担ひ、戦線に赴くべき生等の為、斯くも厳粛盛大なる壮行会を開催せられ、内閣総理大臣閣下、文部大臣閣下よりは、懇切なる御訓示を忝くし、在学学徒代表より熱誠溢るる壮行の辞を恵与せられたるは、誠に無上の光栄にして、生等の面目、これに過ぐる事なく、衷心感激措く能はざるところなり。
惟(おも)ふに大東亜戦争宣せられてより、是に二星霜、大御稜威の下、皇軍将士の善謀勇戦は、よく宿敵米英の勢力を東亜の天地より撃攘払拭し、その東亜侵略の拠点は悉く、我が手中に帰し、大東亜共栄圏の建設はこの確乎として磐石の如き基礎の上に着々として進捗せり。
然れども、暴虐飽くなき敵米英は今やその厖大なる物資と生産力とを擁し、あらゆる科学力を動員し、我に対して必死の反抗を試み、決戦相次ぐ戦局の様相は、日を追って熾烈の度を加へ、事態益々重大なるものあり。
時なる哉、学徒出陣の勅令公布せらる。
予ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ迸しめ得たりし生等は、是に優渥なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従ふを得るに至れるなり。
豈に感奮興起せざらんや。
生等今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて、悉くこの光栄ある重任に獻げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。
生等もとより生還を帰せず。
在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず。
斯くの如きは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行する信条なり。
生等謹んで宣戦の大詔を奉戴し、益々必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を磨礪し、強靭なる体躯を堅持して、決戦場裡に挺身し、誓つて皇恩の万一に報ひ奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。
決意の一端を開陳し、以て答辞となす。
昭和十八年十月二十一日。

学徒出陣壮行会 答辞

国立競技場千駄ヶ谷門の近くに、学徒出陣の歴史を刻む碑がある。

合掌。

二度とあってはならない、繰り返してはいけない歴史。

※撮影は2021年12月


関連

「はじまりの日」昭和16年12月8日(太平洋戦争開戦の日)

80年前の節目を偲び、先人たちの生き様に想いを馳せる。
また、この日がやってくる。

はじまりの日。

大東亜戦争に散りし英霊たちに… 感謝を。 哀悼を。

憂国の想いを胸に抱き英霊に感謝する。
素晴らしき祖国・日本の為に、未曾有の国難に殉じた英霊に哀悼の誠を捧げ、今日の我が国の安泰と繁栄に感謝する。

12月8日。


忘れてはいけない「節目の日」。


昭和16年12月
「ヒノデハヤマガタ」(陸軍)
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」(海軍)

開戦の詔勅に先立つ12月1日に開戦を決意する「帝國國策遂行要領」が可決。
翌日12月2日には開戦日を伝える、「ヒノデハヤマガタ」(陸軍)「ニイタカヤマノボレ一二〇八」(海軍)が発令。


昭和16年12月8日
対米英宣戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)

昭和16年12月8日。
「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」(開戦の詔勅)が公布。

米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲に米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顯ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提攜スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ鬩クヲ悛メス米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剩ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隱忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衛ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
 御名御璽
昭和十六年十二月八日

米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書(国立公文書館)

※国立公文書館にて撮影

昭和16年12月8日
大詔を拝し奉りて

『大本営陸海軍部発表 十二月八日午前六時』
帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。

昭和16年12月8日
大東亜戦争(太平洋戦争、アジア・太平洋戦争)開戦に際し、
昭和天皇の名により「対米英宣戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)」が渙発されたことを受けて、同日午後7時過ぎ、内閣総理大臣・東條英機がラジオ放送を通じて日本国民に向けて戦争決意表明演説を実施。

大詔を拝し奉りて
「只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦を行いつつあります。東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘らず、遂に決裂の已むなきに至ったのであります。・・・(略)」

只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦を行いつつあります。東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘(かかわ)らず、遂に決裂の已(や)むなきに至ったのであります。
過般来政府は、あらゆる手段を尽し対米国交調整の成立に努力して参りましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、かえって英、蘭、支と連合して支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し帝国の一方的譲歩を強要して参りました。これに対し帝国は飽(あ)く迄(まで)平和的妥結の努力を続けましたが、米国は何ら反省の色を示さず今日に至りました。若(も)し帝国にして彼等の強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となるのであります。
事茲(ここ)に至りましては、帝国は現下の時局を打開し、自存自衛を全うする為(ため)、断乎として立ち上がるの已むなきに至ったのであります。今宣戦の大詔を拝しまして恐懼(きょうく)感激に堪(た)えません。私は不肖なりと雖(いえど)も一身を捧げて決死報国、唯々(ただただ)宸襟(しんきん)を安んじ奉らんとの念願のみであります。国民諸君も、亦(また)己が身を顧みず、醜(しこ)の御楯(みたて)たるの光栄を同じうせらるるものと信ずるものであります。

およそ勝利の要訣(ようけつ)は、「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、我等は、未だ嘗(か)つて戦いに敗れたことを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。我等は光輝ある祖国の歴史を、断じて、汚さざると共に、更に栄ある帝国の明日を建設せむことを固く誓うものであります。顧みれば、我等は今日まで隠忍、自重との最大限を重ねたのでありまするが、断じて安きを求めたものでなく、又敵の強大を惧(おそ)れたものでもありません。只管(ひたすら)、世界平和の維持と、人類の惨禍の防止とを顧念したるにほかなりません。しかも、敵の挑戦を受け祖国の生存と権威とが危うきに及びましては、蹶然(けつぜん)起(た)たざるを得ないのであります。

当面の敵は物資の豊富を誇り、これに依て世界の制覇を目指して居るのであります。この敵を粉砕し、東亜不動の新秩序を建設せむが為には、当然長期戦たることを予想せねばなりません。これと同時に絶大の建設的努力を要すること言を要しません。かくて、我等は飽くまで最後の勝利が祖国日本にあることを確信し、如何(いか)なる困難も障碍も克服して進まなければなりません。是(これ)こそ、昭和の御民(みたみ)我等に課せられたる天与の試錬であり、この試錬を突破して後にこそ、大東亜建設者としての栄誉を後世に担うことができるのであります。

この秋(とき)に当り満洲国及び中華民国との一徳一心の関係愈々(いよいよ)敦(あつ)く、独伊両国との盟約益々堅きを加えつつあるを、快欣とするものであります。帝国の隆替(りゅうたい)、東亜の興廃、正に此(こ)の一戦に在り、一億国民が一切を挙げて、国に報い国に殉ずるの時は今であります。八紘を宇と為す皇謨(こうぼ)の下に、此の尽忠報国の大精神ある限り、英米と雖も何等惧るるに足らないのであります。勝利は常に御稜威(みいつ)の下にありと確信致すものであります。

私は茲に、謹んで微衷を披瀝し、国民と共に、大業翼賛の丹心を誓う次第であります。

東条英機  大詔を拝し奉りて
日本ニュース第79号
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300464_00000&seg_number=001

開戦時の内閣

内閣總理大臣
内務大臣
陸軍大臣
 東條 英機
文部大臣
 橋田 邦彦
國務大臣
 鈴木 貞一
農林大臣
拓務大臣
 井野 碩哉
厚生大臣
 小泉 親彦
司法大臣
 岩村 通世
海軍大臣
 嶋田繁太郎
外務大臣
 東郷 茂德
逓信大臣
 寺島 健
大藏大臣
 賀屋 興宣
商工大臣
 岸 信介
鐵道大臣
 八田 嘉明


昭和16年12月8日
ハワイ真珠湾

昭和16年(1941)12月8日。
米国ハワイ真珠湾。
ハワイ時間12月7日7時53分(日本時間12月8日3時23分)。

帝國海軍航空隊より無電が発信される。
「トラトラトラ」「我、奇襲に成功せり」
連合国との長き戦争の始まりであった。

昭和16年12月1日。
柱島の連合艦隊旗艦「長門」から発信された電文は呉鎮守府を通じ海軍省を経て、12月2日に船橋送信所から無線にて南雲機動部隊を初めとする全艦隊に伝達された。

ハワイ沖合

東京時間12月8日午前零時
ハワイ時間7日午前4時30分、ワシントン時間7日午前10時)。
南雲忠一中将率いる「機動部隊」は、全てが順調に予定通りにオアフ島北方230マイルの地点に到着していた。

南雲中将直率の空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」「瑞鶴」「翔鶴」
支援部隊は、三川軍一中将率いる戦艦「比叡」「霧島」重巡「利根」「筑摩」
警戒隊は大森仙太郎少将率いる軽巡「阿武隈」と駆逐隊群。
周辺海域には哨戒のための潜水艦も張り巡らされていた。

ハワイ時間7日5時30分(東京時間12月8日1時)
「利根」「筑摩」のカタパルトから零式水上偵察機が一機ずつ直前偵察を開始。
偵察の結果、ハワイ真珠湾には戦艦8隻、重巡2隻、軽巡6隻を初め大小94隻が在泊。
しかし戦艦は全隻揃っていたが、空母は在泊していなかった。

ハワイ時間12月7日6時。 (東京時間12月8日1時30分)
南雲長官率いる機動部隊では戦闘ラッパが鳴り響き、第一次攻撃隊の出撃準備。
「発艦はじめ」の合図と共に次々と飛行機が舞い上がる。

第一次攻撃隊の総指揮官は淵田美津雄中佐。
制空隊零式艦上戦闘機43機、
九九式艦上爆撃機51機、
九七式艦上攻撃機89機。
うち九一式魚雷搭載40機、250キロ爆弾搭載51機、800キロ徹甲爆弾搭載49機。
しめて攻撃隊140機であった。

第一次攻撃隊発艦後の1時間15分後。
島崎重和少佐率いる第二次攻撃隊が発艦。
九九式艦爆78機、
九七式艦攻54機、
零式戦闘機35機。
第二次攻撃隊は魚雷を持たず、250キロ爆弾搭載105機、60キロ爆弾搭載27機であった。

真珠湾上空に向け飛び立った瞬間であった。
全てが幸運に恵まれていた。
単冠湾出港後、艦隊の航路を遮るものはなく、無謀とも危惧されていた米国ハワイ真珠湾を攻撃するという破天荒な目標は遂に実現の時が迫っていた。

実はこれより前に既に作戦行動は開始されていた。
ハワイ時間1941年12月6日23時。
日本海軍潜水艦5隻が真珠湾内の艦艇を攻撃するために、特殊潜航艇5隻を発進させていた。

ハワイ時間7日3時42分。
米国哨戒艇が特殊潜航艇の1隻を発見。

ハワイ時間7日6時45分(東京時間8日1時15分)。
警戒中の米駆逐艦ウォードが特殊潜航艇(甲標的)1隻を発見し撃沈。
彼ら特殊潜航艇5隻は未帰還となり、のちに九軍神として祀られる。

米駆逐艦ウォードが甲標的を撃沈したのは、南雲機動部隊航空隊が真珠湾攻撃を開始する1時間ほど前のことであった。
この事実は時を移さずに司令部に連絡され、それらの情報が司令長官キンメル大将に電話連絡されたのが7時40分(東京8日2時10分)であった。

そのまったく同じ時間。
ハワイ時間7時40分。(東京12月8日2時10分)
オアフ島上空に到達した淵田隊長が「展開命令」である信号弾を発射し攻撃態勢に入った瞬間でもあった。

7時49分「ト連送」(全軍突撃せよ)
7時53分「トラトラトラ」(我、奇襲に成功せり)

ハワイでの「はじまりの日」
日本側 搭乗員戦死54名 (一次攻撃20名・二次攻撃34名) 、甲標的戦死9名
米国側 2,345名戦死
合掌…


昭和16年12月8日
マレー半島

昭和16(1941)年12月8日。
戦争は真珠湾だけではなかった。
いや、全作戦の中心はマレー半島にあった。

主力艦隊で構成されていた真珠湾攻撃部隊に比べて、輸送部隊で構成され警戒厳重の中を進むマレー作戦の方が一層の危険を宿していた。

昭和16(1941)年12月4日午前7時。
日時をさかのぼる。
昭和16(1941)年12月4日午前7時。
開戦日を伝える「ヒノデハヤマガタ」の電報を受けた山下奉文陸軍中将率いる第二十五軍が乗船する輸送船団は、集結していた海南島を抜錨してマレー半島に向かっていた。

※山下奉文の墓は多磨霊園にある。 

東京時間12月6日13時45分。
輸送船団は仏領インドシナ・カモー岬南方の洋上を航行。
この地点からまっすぐに突き進めばマレー半島。作戦では輸送船団は数時間後に行動欺瞞の為に、バンコク・タイ湾に向かうかのごとく変進する予定になっていた。

マレー半島上陸部隊の上空に航空機による爆音が鳴り響く。
周辺警戒にあたっていた小澤治三郎海軍中将率いる護衛艦隊に警戒ブザーとラッパが鳴り響く。
予想された事態が遂にやってきた瞬間。当然、予想はしていた。しかし出来ることなら想定したくはなかった事態。

この時、マレー半島上陸輸送船団の上空に現れたのは、大型双発機イギリス空軍ロッキードハドソン爆撃機。
ハドソン機は上空で大きく旋回し輸送船団の規模を測るように飛行。
この英国機による輸送船団発見はバンコクに向かうと見せかける変針前のことであった。

どう見てもマレー半島に直進しているようにしかみえない船団。偵察を許すわけにもいかず撃墜するわけにもいかず、旗艦「鳥海」に置かれた南遺艦隊司令部は大混乱となる。
ここで、小澤治三郎南遺艦隊司令官は毅然と命令を発した。
「触接中ノ敵機ヲ撃墜セヨ」

触接中ノ敵機ヲ撃墜セヨ
南遺艦隊各艦の高角砲が一斉に火を吐く。
同時に連絡を受けた南部仏領インドシナ駐留の海軍第二十二航空戦隊からも英国機撃墜のために零式戦闘機が離陸。 ここで危険を察知した英国機は西方に機首を返し、そのまま零戦の追跡を振り切り遁走に成功した。

開戦の火蓋を切る
対英米戦の最初の一発は、小澤治三郎中将(のちの「最後の連合艦隊司令長官」)によって撃たれたのであった。
南遺艦隊司令部は輸送船に乗船している陸軍第二十五軍司令官山下奉文中将に対して「輸送船団ハ本六日英飛行機ニ依リソノ全貌ヲ発見セラレタリ」と伝達。

小澤長官は戦後、「マレー作戦で奇襲はもちろん望ましいが敵機が我が方を発見し触接をつづけるなら我が方の企図はすべて暴露してしまうであろう。それなら撃墜すべきだ。あまり心配しすぎて敵機をそのまま行動させておけばその結果はもっともっと重大なことになっただろう」と語っている。

ここで予定日より早く戦闘が始まっては、すべてが崩壊する。
「真珠湾に向かっている艦隊は?」
「マレー半島の輸送船団は大丈夫か?」
「フィリピンや香港やシンガポールの動きは?」
作戦中枢部はただ祈る思いで経過を見守るしかなかった。

南遺艦隊旗艦「鳥海」艦橋内の司令部でも、幕僚一同が不安に包まれていた。
すでに日は没していた。翌日には英米海軍が押し寄せるかもしれないという不安とともに・・・。
そんな中ただ一人、小澤治三郎中将だけは泰然自若と構え何も変わらぬ顔つきをしていた。

翌日にはプリンス・オブ・ウェールズを旗艦とする英国東洋艦隊を中心とした英米蘭連合艦隊も総出撃してくるに違いなかった。このプリンス・オブ・ウェールズに対抗できる戦艦は「長門「陸奥」しか日本海軍にはまだ存在しておらず、重巡主体の南遺艦隊では心許なかった。

※
開戦時には戦艦「大和」型は竣工前。 
戦艦「長門」は連合艦隊旗艦(山本五十六GF長官)として、姉妹艦「陸奥」とともに呉近海に待機中。 
大和・昭和16年(1941)12月16日竣工 
武蔵・昭和17年(1942)8月5日竣工 
「大和」は開戦12月8日の8日後に竣工したのだ。

遂にサイゴンに拠点を置く南方軍総司令官寺内寿一陸軍大将は悲痛な決断をせざるをえなかった。
「翌七日早朝ヨリ敵機ノ反復来襲ノ虞大ナルト認ム」という判断報告につづいて敵海空兵力の攻撃を受けた場合には海軍と協力して航空機による進行作戦を開始する、と…

東京の大本営は強烈な衝撃をうけた。
開戦日時は8日午前零時であるというのに、南方軍は7日早朝から戦闘開始は決定的だと伝えてきている。しかし寺内大将の判断は状況を鑑みて妥当なものではあるし、攻撃を受けた場合の航空機による進行作戦も当然なことであった。

そもそもマレー半島上陸作戦は当初から哨戒厳重な危険海域を航行するため、奇襲などがそう易々とできる場所ではなかった。
英国機に発見されるのも当然であったし充分予測されていたことでもあった。
大本営中枢では諦めの色も浮かびはじめていた…

マレー半島上陸部隊を乗せた輸送船団は12月6日午後7時、西北方に変針し予定通りに「欺瞞」のためバンコク・タイ湾方面に向かった。
この欺瞞行動が既に意味があるかどうかの疑問符が漂う中で、闇夜の海を輸送船団はただただ作戦遂行の為に進むだけであった。

昭和16年12月7日
緊張の12月7日がやってきた。
早朝から味方航空機が輸送船団上空掩護を行い、空気の緊迫さが一般の兵士にも伝わってきた。
たしかに昨日のイギリス機による日本軍輸送船団の偵察結果はシンガポールに置かれていた英国極東軍司令部に伝えられていた。

英軍はマレー防衛用対日作戦「マタドール作戦」を兼ねてから準備していた。
しかし、12月6日の時点では英国司令部は開戦を予期せず日本軍の行動目的がはっきりしない為に日本軍はタイに向かうものとして「マタドール作戦」の発動は行われず何の処置もとらなかった。


当時のタイ王国は日本同様にアジアにおける独立国。
日本(大日本帝国)とは友好国の関係にあった。
タイ国は開戦時は中立。
開戦後の1941年12月21日に日泰攻守同盟条約が締結。
タイ政府は1942年1月25日に英米に対して宣戦布告。条約破棄は1945年9月2日。

この時、英国東洋艦隊司令官のフィリップス大将は、米国アジア艦隊司令長官ハート大将との打ち合わせのためシンガポールを離れてフィリピンマニラにいた。
フィリップス大将は、日本艦隊・輸送船団発見の報を受け、急遽7日にシンガポールに引き返すことになっていた。

昭和16年12月7日9時50分
小澤提督率いる南遺艦隊所属特設水上機母艦「神川丸」から偵察のために発艦していた零式水上偵察機が、輸送船団にかなり近い上空で不意にイギリス空軍機コンソリデーテッドPBYカタリナ飛行艇と遭遇。

英軍カタリナ飛行艇が、そのまま真っ直ぐに飛行すると間違いなく輸送船団を発見してしまう、という状況の中で零式水上偵察機は必死の進路妨害と誘導を行うも上手くいかず。
英軍カタリナ飛行艇は日本輸送船団の方向へとなおも近づこうかと直進飛行を始めてしまう。

昭和16年12月7日10時15分。
前方から飛行してきた陸軍九七式戦闘機中隊が海軍零式水上偵察機と英国飛行艇が繰り広げていた異変に気づき援護を開始。
一方でカタリナ飛行艇は銃撃を加えて逃げようとした為、陸軍戦闘機隊は散開し飛行艇を撃墜してしまう。

英国飛行艇撃墜
陸軍機による英国飛行艇撃墜の報は、海軍南遺艦隊・陸軍南方軍総司令部に緊急報告された。
撃墜した事は輸送船団への偵察行為を阻止したという意味では大成功ではあったが、既に昨日に引き続く攻撃行動は8日の開戦日以前に既に戦闘が開始されたということでもあった。

昭和16年12月7日 10時30分
小澤治三郎南遺艦隊司令長官から、山下奉文陸軍第二十五軍司令官に対して「上陸ハ予定ノ如ク決行ス」の信号伝達。 予定海域に到達した船団は進路を変えコタバル・シンゴラ・パタニー等の上陸地点に向けて、英国軍の待ち構える海域へと航行を開始した。

英国極東司令部の決断
既に予定日より1日早い7日開戦の覚悟を決めた日本。
しかし、英国は未だにマタドール作戦を発動していなかった。
飛行艇一機が消息を絶ったという情報(撃墜されたとは想像できなかった)がシンガポール極東司令部には届いていたがまだ決断ができなかった。

英国極東司令部には、続々と日本軍の動きが伝えられる。
午後5時30分「輸送艦一隻、巡洋艦一隻、コタバル北方一一〇マイル。シンゴラニ向カウ」
午後6時30分「駆逐艦四隻、パタニー北方六〇マイル、海岸沿ニ南下中」
しかし英国は動かなかった。

イギリス極東軍司令部ブルックポーハム総司令官は、フィリップス東洋艦隊司令長官と協議を行った結果、12月8日早暁の偵察結果を待ってから作戦行動の判断することを決定。

12月7日23時20分。
英国は「マタドール作戦発動準備」の命令を下した。

昭和16年(1941)12月8日 午前0時45分
マレー半島上陸
佗美浩少将第二十三旅団がコタバル上陸開始。
続いて午前1時40分、山下奉文中将率いる第二十五軍司令部と第五師団主力がシンゴラ上陸。
午前2時、第五師団歩兵第四十二連隊他がパタニーに上陸。

昭和16年(1941)12月8日
マレー半島上陸作戦は、真珠湾攻撃に先立つ2時間前のことであった。
この報を受け、香港・フィリピン・グアム・ウェーキ等へ攻略部隊が一斉に活動を開始。

ここに「戦争」の火蓋が切られた…

この日よりシンガポールを攻略するまでマレー作戦は続く。
10日には英国東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ及び巡洋戦艦レパルスをマレー沖海戦にて沈め、山下奉文将軍は「マレーの虎」の勇名をはせ、翌年42年1月31日に極東英国軍は降伏する。

マレーでの「はじまりの日」
マレー作戦での日本側の犠牲は、戦死1,793名。
英国側(インド・オーストリア兵)含む犠牲は、戦死約5,000名とされている。
合掌…


節目の日「12月8日」

私たちの先祖が 祖国の安寧と発展を願い 祖国を護るために戦った その節目の日 「12月8日」
この節目の日ぐらいは、ご先祖様が、文字通りに命がけで戦った時代を振り返り往時を偲ぶよすがとしたい。

海行かば 
水漬く屍 山行かば 
草生す屍 大君の 
辺にこそ死なめ
かへり見はせじ

うみゆかば 
みづくかばね やまゆかば 
くさむすかばね おおきみの 
へにこそしなめ
かへりみはせじ

※80年後の令和3年12月5日夕刻に。

参考文献

『昭和16年12月8日 日米開戦・ハワイ大空襲に至る道』児島襄著 文春文庫 1996年9月
『史説 山下奉文』児島襄著 文芸春秋社 昭和44年5月
『太平洋戦争(上)』児島襄著 中公新書 昭和40年11月
『大本営が震えた日』吉村昭著 新潮文庫 昭和56年11月
『昭和史の謎を追う(上)』秦郁彦著 文芸春秋社 1993年3月
『最後の連合艦隊司令長官-勇将小沢治三郎の生涯』寺崎隆治著 光人社 1997年12月
『日本海軍総覧』 別冊歴史読本戦記シリーズ26 新人物往来社 1994年4月
『太平洋戦争海戦ガイド』福田誠・牧啓夫共著 新紀元社 1994年2月
『 歴史と旅・日米開戦50周年記念号 特集真珠湾奇襲攻撃』  秋田書店 平成3年12月号
※雑記のため、参考文献が「一次資料」ではないことをお詫びいたします。


そして、私は当たり前の事に気がついてしまったのです。


「はじまりの日」12月8日から、毎日が「節目の日」を迎えるということを。

命がけの日々がはじまったということを。

日々に感謝をしつつ、 日々を過ごして参ります…

巣鴨刑務所の排水口跡(移設保存)と池袋散策

池袋サンシャイン60の界隈には、「巣鴨監獄」(「巣鴨刑務所」「巣鴨拘置所」「巣鴨プリズン」)があった。

かつて、巣鴨刑務所があった台地の下、石垣には排水口があり、水窪川に排水がされていた。

巣鴨プリズンはなくなり、水窪川は暗渠となり、戦後にあった造幣局東京支局もなくなり、そして石垣と排水口のみがひっそりと残されていたが、近年の再開発で、石垣と排水口も消失した………と思っていた。

ところが、
造幣局東京支局跡地に2020年12月に完成した「IKE・SUNPARK(としまみどりの防災公園)」に、なんと排水口跡の石組みが移設保存されておりました。最近、その事実を知ったので、慌てて足を運んでみました。


巣鴨刑務所の石積みの排水口跡

あぁ、消失したと思っていた、石積みの排水口跡が、公園内に保存されていました。
これは嬉しい。本当に嬉しい。
価値が分かる方が居てくれて、本当にありがとうございます!

石積みのモニュメントについて
このアーチ状の石積みは、本公園の敷地の隣接道路(都市計画道路補助第176号線および特別区道41-340)を支えていた石垣の一部で、周辺道路整備で撤去した際に保存し、公園内に復元したものです。
かつてこの地には巣鴨刑務所があり、関東大震災で被害を受けその後縮小され、昭和14年、縮小により空地となった土地の一部に造幣局が移転してきました。この地には長らく貨幣の製造工場や博物館がありましたが、それらの機能は平成28年にさいたま市に移転し、その跡地に豊島区からの要請を受けたUR都市機構が本公園を整備しました。
そうした歴史から、かつてこの石積みは巣鴨刑務所の排水口として、この周辺を流れていた水窪川(現・暗渠)につながっていたのではないかと考えられています。石垣の石は他にもこの公園で再利用していますので探してみてください。

サンシャイン60に「巣鴨プリズン」があった。

公園内で再利用された石垣の名残の石?

石積みの排水口があった場所は、公園の南西。階段を降りたところ。
マンホールの先、にあった。

石積みの排水口があった頃の写真。
※以下の3枚は2017年撮影

近くには、撤去された石垣の残骸と思われれる石が集められていた。
これも公園内で再利用されると良いのだが。

豊島区立としまみどりの防災公園
(IKE・SUNPARK イケ・サンパーク)

非常に開放的な公園。最近の池袋の新しい公園は開放的なデザインが施された空間が多い。

https://ikesunpark.jp/

公園内には、IKEBUSも走ってくる。


せっかくだから、近隣の公園も「戦跡」として紹介していく。

豊島区立 東池袋中央公園
巣鴨プリズン跡

巣鴨プリズンの跡地。歴史を背負った公園は、ほかの公園と比べてどことなく重厚な空間。
心休まる公園ではないかもしれない。

永久平和を願って

永久平和を願って
碑裏文
第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。 戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
昭和五十五年六月

以下、巣鴨プリズン関係。

東池袋中央公園から見上げるサンシャイン60は、いつでも墓標のように感じてしまう。

歴史の重みとリンクして、公園としての空気も重い気がする。。。

※ここまでは撮影2021年11月


豊島区立南池袋公園
豊島区空襲犠牲者哀悼の碑

豊島区空襲犠牲者哀悼の碑(南池袋公園)

恒久の平和を願って
―豊島区空襲犠牲者哀悼の碑―

  昭和20年4月13日深夜から翌14日未明にかけて東京西北部一帯を襲った空襲は、豊島区の大半を焦土と化し、甚大な被害と深い悲しみをもたらしました。
  死者778人、負傷者2,523人、焼失家屋34,000戸にのぼる被害により罹災者の数は161,661人と、実に当時の人口の約7割に及びました。
  この空襲によって無念のうちに尊い命を失った数多くの犠牲者が、当時、「根津山」と呼ばれた、ここ南池袋公園の一角において埋葬されました。
  先の戦争を通じて空襲の犠牲者となった豊島区民の冥福を祈るとともに、この悲惨な事実を永く後世に伝え、二度と再び戦争による悲劇を繰り返さぬように、この碑を建立します。
 平成7年8月 豊島区

根津山の防空壕
 昭和20年4月13日の空襲では、南池袋公園に隣接する、当時根津山と云った林の中に造られた巨大な防空壕に避難者が殺到した。

南池袋公園も非常に開放的な公園。往時は、この地に空襲の犠牲者が埋葬された。
今は人々の憩いの場。

※撮影は2021年2月


豊島区立池袋西口公園
平和の像

池袋駅西口バスターミナルに隣接。東武側。メトロポリタン側。
ここに豊島区の「平和の像」が建立されている。

平和の像

平成2年に、世界恒久平和への願いを込めて、池袋西口公園に、「平和の像」が設置された。
作者は竹内不忘。

裸婦像の掲げた左手と足元には、平和の象徴である鳩が。

非核都市宣言
 世界の恒久平和は、人類共通の願いである。しかし、核軍拡競争は激化の一途をたどっている。われわれは、人類唯一の被爆国民として、平和憲法の精神に沿って核兵器の全面禁止と軍縮の推進について積極的な役割を果すべきである。
 よって、豊島区及び豊島区民は、わが日本の国是である「非核三原則(造らず、持たず、持ち込ませず)」が無視され、われわれの海や大地に核兵器が持ち込まれることを懸念し、わが豊島区の区域内にいかなる国の、いかなる核兵器も配備・貯蔵はもとより、飛来、通過することをも拒否する。
 豊島区及び豊島区民は、さらに他の自治体とも協力し、核兵器完全禁止・軍縮、全世界の非核武装化にむけて努力する。
 右 宣言する。
 昭和57年7月2日
  東京都豊島区

※撮影は2021年3月


さらにもう一つの「日本の鉄道発祥の地」品川駅

日本の鉄道は、教科書的に記載すると、1872年10月14日(明治5年9月12日) 新橋駅-横浜駅の開業に始まる。
この10月14日は、今では、「鉄道の日」として記念日にもなっている。

しかし、この新橋駅-横浜駅が正式に開業する前から、日本では鉄道が走っていた。
それが、新橋駅が開業する前に仮営業で走り始めた、品川駅-横浜駅間の区間であった。

つまり、「横浜駅(桜木町駅)」と並んで、「品川駅」は、日本最古の鉄道駅のひとつなのだ。
(新橋駅は、横浜駅、品川駅の次)
そんな品川駅を散策してみることとする。


新橋駅関連

横浜駅関連(現在の桜木町駅)


日本の鉄道前史

1825年(文政8年)、イギリスのストックトン – ダーリントン間で蒸気機関車を用いた貨物鉄道(ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道)の運行が開始された。
1830年(文政13年)にはリヴァプール – マンチェスター間に旅客鉄道(リバプール・アンド・マンチェスター鉄道)も開業。

1853年(嘉永6年)、ロシアのエフィム・プチャーチンが長崎に来航。
船の上で蒸気機関車の鉄道模型を日本人に見せ、詳しい解説をおこなった。 蒸気機関車の模型を見学し「口を開いて見ほれていた」佐賀藩士が模型の制作を計画 。1855年(安政2年)には田中久重(からくり儀右衛門)と重臣や藩校の者の手によって、全長約27cmほどのアルコール燃料で動作する模型機関車を完成させている。これが模型とはいえ、日本人がはじめて作った機関車であった。 このとき当時18歳であった佐賀藩士の大隈重信も見学しており、のちの明治政府で熱心な鉄道導入を唱えることとなる。

1858年(安政5年)には、イギリスが中国の鉄道で使用する予定であった762mm軌間の本物の蒸気機関車が長崎へ持ち込まれ、1か月間にわたってデモ走行を実施。
こうして、国内で鉄道敷設の機運が高まってきた。

鉄道開通に向けて

明治維新後の1870年(明治3年)鉄道発祥国イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任。本格的工事が始まった。
日本側では1871年(明治4年)に井上勝(日本の鉄道の父)が鉄道頭に就任し、鉄道建設に携わった。
東京横浜間の全線29kmのうち、1/3にあたる約10kmが海上線路として建設。
資材を横浜港から供給した関係上、工事は横浜側から始まり、まず1871年夏頃には川崎までの工事が進み、その際に試運転と資材の輸送をかねて運転が行われていたと考えられる。

現横浜から桜木町にかけての左カーブ付近の埋め立ては地元の商人、高島嘉右衛門が工事を請負、土地を管理したので敬意を表して今でも「高島町」と呼ばれている。また、鶴見川、六郷川(多摩川)の橋は最初木造で作られたが木造では傷みが激しく、後に鉄橋に改められ、2代目六郷川橋(初代鉄橋)が愛知明治村に保存されている。

横浜停車場は現桜木町駅付近であったが、これは野毛外人居留地や港に近いという理由から選ばれたと思われる。新橋停車場は現汐留であるが、東京の入口であり、築地外人居留地に近いという理由もあるが、それよりも東京の中心に異様なものが進入するのを嫌った勢力や軍部が用地を提供しなかったという理由もあった。

1871年9月(明治4年8月)には、早くも木戸孝允や大隈重信、後藤象二郎や三条実美らが神奈川(現京浜急行神奈川駅付近と思われる。)-横浜停留場間を試乗。
そして同年11月には大久保利通も試乗。大久保は鉄道反対派であったが「百聞は一見に如かず。愉快に堪えず」と日記に記し一転して鉄道支持派になり、政府首脳の間にも鉄道の利便性が理解され始めた。

1871年11月(明治4年10月)には六郷川橋梁が完成し品川まで運転が開始された。
このころにはすでに時刻表で運転が定期的にくまれており、岩倉具視を団長とする「遣欧米使節団」一行100余名も臨時列車で品川から横浜まで利用している。
この列車は「品川仕立十一ジ二十分出行」であり「於川崎而蒸気行替五分避行」とあり横浜には12時40分に到着。所要1時間20分と、(同区間は仮営業時は40分)随分時間がかかっているのは、工事中ということもあり徐行しながら走ったのであろう。

品川-横浜間仮営業開始

1872年6月12日(明治5年5月7日)から品川-横浜間で仮営業が行われるようになり、陸蒸気の試運転を弁当持参で見物していた庶民も、お金さえはらえば平等に乗れるようになった。このお金さえ払えば身分の隔たりもなく無差別平等に汽車に乗れるということが、まさに新しい社会の到来であった。

仮営業当日は、所要35分で1日2往復。しかし翌日からは6往復となり、7月10日には川崎・神奈川の途中駅が開業し所要40分で運転が行われた。運転本数を増やしても平均乗車率は80%を越しておりかなりの人気であった。

仮営業中の1872年8月15日(明治5年7月12日)には
明治天皇が風波のために座乗する軍艦が品川に入港できなくなり急遽横浜から汽車に乗り品川から宮城に向かうという予定外の事件があった。
また箱根離宮の帰りに 
皇后(のちの昭憲皇太后)が横浜-品川間を利用しているということから、仮営業であっても
天皇・皇后の利用しており、汽車の安全性も認められ、あとはいよいよ本開業をまつばかりであった。

しかし品川-新橋の間には、高輪の台地がせまっており、また陸軍・海軍用地が多いため工事が難航。大隈重信はついには品川-新橋間を築堤し海のなかに線路用地を確保するという荒技をとることとなる。
海岸付近を通る路線のうち田町から品川までの約2.7kmには海軍の用地を避けるため約6.4mの幅の堤を建設して線路を敷設し、これが高輪築堤となる。高輪築堤の工事は1870年に着工し両側は石垣、船が通る箇所4か所には水路が作られた。

新橋-横浜間開業

1872年10月14日(明治5年9月12日) 新橋駅-横浜駅が正式開業。
新橋駅で式典が催され、明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜まで往復運転を実施した。
正式開業時の列車本数は日9往復、全線所要時間は53分、表定速度は32.8km/h。

開業当時の「1号機関車」は鉄道博物館、「3号機関車」は桜木町駅新南口に保存・展示されている。
また「1号機関車」は『南蛮阿房列車』に代表されるように大の鉄道好きで知られる阿川弘之先生が書いた、絵本「きかんしゃやえもん」のモデルとなった機関車でもある。

正式開業日を記念して、1922年(大正11年)に10月14日は「鉄道記念日」となった。
そして1994年(平成6年)には運輸省により「鉄道の日」と改称された。


品川駅創業記念碑

品川駅の西口・高輪口のロータリーにひっそりと記念碑がある。

 明治五年五月七日
品川駅創業記念碑 
 品川横浜間鉄道開通
  伴睦書

品川駅は、明治5年(1872年)5月7日(新暦6月12日)を開業日としている。
この日に品川・横浜間で仮開業。
品川から北、品川ー新橋間は、高輪築堤の工事などもあり開業が遅れ、品川ー横浜の仮営業から4箇月後の明治5年(1872年)9月12日(新暦10月14日)に、 新橋・横浜間で本営業を開始した。

品川駅創業記念碑
 品川駅では、明治5年(1872年)5月7日(新暦6月12日)をこの開業日にしています。何故かというと、新橋・品川間の工事が遅れたため、この日に品川・横浜間で仮開業したからです。新橋・横浜間で本営業を開始したのは仮営業から4箇月後の明治5年(1872年)9月12日(新暦10月14日)でした。それを記念して、今日では10月14日を「鉄道の日」としています。品川駅は日本で一番古い鉄道の駅といえます。
 この記念碑は鉄道開通80周年及び駅舎改築を記念して、昭和28年(1953年)4月に建之されたもので、揮毫者は衆議院議長をつとめた大野伴睦氏です。記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されており、当時の様子を偲ぶことができます。
 平成18年(2006年)10月 JR東日本 品川駅 この記念碑は鉄道開通80周年及び駅舎改築を記念して、昭和28年(1953年)4月に建之されたもので、揮毫者は衆議院議長をつとめた大野伴睦氏です。記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されており、当時の様子を偲ぶことができます。
 平成18年(2006年)10月 JR東日本 品川駅

鉄道列車出発時刻及賃金表
 定     明治五年五月七日

上り             下り
横浜発車 品川到着      品川発車 横浜到着
午前八字 午前八字三十五分  午前九字 午前九字三十五分
午后四字 午后四字三十五分  午后五字 午后五字三十五分

賃金表  
車ノ等級
上等  片道 壹円五拾銭
中等  同  壹円
下等  同  五拾銭

 昭和二十八年四月吉日
 品川駅改築落成祝賀協議会建之

高輪口のロータリーに記念碑はある。


JR品川駅中央改札内

品川駅の中央改札ナウに、ちょっとしたモニュメントがある。

さり気なく、「鉄道発祥の地“品川”」を主張している。

郵便ポスト&0kmポスト(ゼロキロポスト)
 この郵便ポストは,品川駅改良・ecute品川の誕生を記念してJR東日本・東京総合車両センターで製作されました。国鉄時代に活躍した荷物兼郵便車「クモユニ」をイメージした形に,東海道線電車の湘南色で仕上げ,鉄道発祥の地“品川”に相応しい「郵便車型ポスト」といたしました。
 0kmポストは,鉄道の路線の起点を示す標識で,品川駅には山手線と品鶴(ひんかく)線の2線の0kmポストがあります。山手線は一回りしているため,起点があまり知られていませんが,品川から新宿を経由して田端までを指します。
 品鶴線は,品川から西大井を経由して鶴見に至る路線で,当初は貨物線として敷設されましたが,現在では横須賀線への直通電車が走っています。
 生まれ変わった品川駅からの出発が,すばらしいものになりますことを祈念し,品川駅の新しいシンボルとして0kmポストのオブジェを設置しました。どうぞ,末長くご愛顧下さい。
2005年10月1日
高輪郵便局
JR東日本・品川駅
ecute品川

品川駅は、山手線の起点、そして品鶴仙という貨物線の起点とのこと。

※撮影:2021年11月


関連

日本の鉄道の父、井上勝の墓は、品川にある。

もう一つの「日本の鉄道発祥の地」初代横浜駅跡・JR桜木町駅

日本の鉄道は、明治5年(1872)に新橋駅ー横浜駅に開業したことに始まる。
その初代横浜駅は、現在の桜木町駅界隈であった。

鉄道発祥の地として、「新橋駅」とともに、もう一つの拠点であった「桜木町駅」を散策してみる。

JR桜木町新南口(市役所口)に隣接するJR桜木町駅ビル「CIAL桜木町ANNEX(シァル桜木町アネックス)」1階に開設されている「旧横ギャラリー」には、鉄道創業時に使用された蒸気機関車「110形」が展示されている。

桜木町は、日本初の鉄道のもう一つの起点駅。
そう、新橋横浜間の鉄道の横浜駅は、今の桜木町駅界隈であったのだ。


旧横濱鉄道歴史展示(旧横ギャラリー)

若干、窮屈そうな場所に、鉄道創業時に使用された蒸気機関車と展示スペースがあった。
しかし青梅鉄道公園で展示されていた頃に比べて、屋内展示としての絶対の安心感が感じられるのが、とにかく好印象。鉄道発祥の横浜にこうして記念すべき施設ができたことが喜ばしい。

鉄道記念物
110形蒸気機関車
1961(昭和36)年10月14日指定
東日本旅客鉄道株式会社 2020(令和2)年6月建植

110形蒸気機関車(110号)
1871(明治4)年、英国のヨークシャー・エンジン社の製造で、1872(明治5)年の鉄道創業時に「10号機関車」として新橋~横浜間で使用され、後に「3号機関車」と呼ばれた日本で最も古い機関車の一つです。1909(明治42)年、「110号」に名を改められ、1918(大正7)年まで各所で活躍し、廃車後は車体の一部を切開ののち、大宮工場内にあった「鉄道参考品陳列所」で技術者育成の教材として展示されました。1961(昭和36)年には「鉄道記念物」に指定され、翌年から2019(令和元)年まで青梅鉄道公園で保存展示されました。その後、大宮工場にて溶接を使用しない工法で切開箇所を閉腹し、錆の除去や破損箇所の修復を行い、本機の晩年頃の姿を再現しました。(形状が不明な箇所は資料が残る明治初期の形状を参考にしました。) そして、2020(令和2)年、旧横浜停車場であるこの地へ戻りました。

機関車全長:7,214mm
動輪直径:1,245mm
輪軸配置:1‐B‐0
シリンダ直径×行程:299×432mm
機関車重量:運転整備 23.04t 空車 18.85t
購入時価格:2,600ポンド(船賃含む)
使用蒸気圧8.0kg/cm²

鉄道創業時の中等客車(再現)
日本に輸入された客車は、上等車10両、中等車40両、緩急車8両の計58両で、全て英国製でした。外観や車内の構造は上等車、中等車ともにほぼ同じで、両端に出入口を兼ねたオープンデッキがあり、車内は中央通路式となっています。展示の客車は、鉄道開業期にM.モーザーが撮影した、横浜停車場に留置中の車両写真、英国製古典客車図面、車両形式図等の記載寸法を参考に、中等客車として再現しました。木造の客室部、車輪脇の板バネは新造し、本来は金属製である緩衝器は、木地をろくろ挽きで製作。他の国内で入手困難な金属部品は英国から輸入した古物を使用しています。車輪の外観は、創業期に用いられ乗り心地に優れているとされる、木製の「マンセルホイール」をイメージし、その造形を施しました。車内照明(オイルランプ)は、古文献や英国製のものを参考に電気式で再現しています。色彩は、当時の浮世絵、M.モーザー撮影写真のコントラスト、そして昔の英国車両を参考に配色しました。

客車サイズ:全長 7,630mm(緩衝器含む) 全幅 約2,210mm(客室側壁部)
定員:24名

旧横ギャラリーとして、展示資料も豊富。
これは丹念に見ていたら、結構な時間を要しそうだ。

最初の機関車たち

帰ってきた110形機関車
展示の実物機関車は、1872年の鉄道創業時に英国から輸入された蒸気機関車です。この地に荷揚げされて以来、日本各地で活躍し、2020年に再びここけ戻りました。

鉄道創業時の機関車
1871(明治4)年、英国からスエズ運河(1869年開通)を経由し、横浜港に5種10両の機関車が到着しました。これらの車両は、この地に存在した横浜停車場内の作業場で組み立てられました。
1号機関車(150形)
2~5号機関車(160形)
6、7号機関車(A3形)
8、9号機関車(190形)
10号機関車(110形)

明治初期の横濱停車場と街の風景

旧横ギャラリー

受け継がれる鉄道への夢

鉄道開業式典と明治の人々

明治の元勲たちを乗せた式典列車

元は武士!? 官員さんと舎内の様子

謎のステンショ内部を探る

西洋から導入されたモノは?

西洋の慣習と鉄道システム

産業革命を見聞したサムライたち

幕末の日本と横濱

鉄道敷設までの道のり

明治の鉄道建設と発展に貢献した人々

最初の客車と明治のお客さま

そして建物の外にも、掲載がある。

モレルさん、ガラスの反射が厳しい。

初代鉄道建築師長
エドモンド モレル

 十河信二書
EDMUND MOREL
1841-1871
1958.5.7 横浜市 鉄道友の会

旧横濱鉄道歴史展示
この地に存在した、日本初の鉄道駅「横濱停車場」の様子と横浜~新橋間を駆け抜けた機関車や客車、そして新たな時代を「鉄道」という文明の利器によって切り拓いた、明治の先人達の活躍を紹介します。

旧横ギャラリー

鉄道創業時に使用された蒸気機関車

展示の110形蒸気機関車について
1871(明治4)年 英国にて製造され、日本に輸入。
1872(明治5)年 鉄道創業時、10号として運用。
1876(明治9)年 機関車の番号を3に改番。
1909(明治42)年 形式称号改正で110形となる。
1923(大正12)年 廃車(諸説あり)後、大宮工場に展示
1961(昭和36)年 鉄道記念物に私邸。
1962(昭和37)年 青梅鉄道公園へ移転。
2020(令和2)年 この地へ移り、屋内展示となる。

英国から輸入された最初の客車

再現された創業時の客車
輸入された客車は、上等車10両(定員18人)、中等車40両(定員22か24人)、荷物緩急車8両の計58両でした。構造は前後にデッキを有する中央通路式で、室内左右にロングシートが配置されていました。開業時に中等客車を改造し、26両を下等客車としました。展示の客車は英国や明治期の資料を元に再現した中等客車です。

この地に存在した日本初の鉄道駅「横濱停車場」

旧横濱停車場と桜木町駅
1872(明治5)年 横濱停車場がこの地に開業。
1915(大正4)年 横浜駅は移転、桜木町駅に戒名。
1923(大正12)年 関東大震災にて初代駅舎消失。
1927(昭和2)年 2代目桜木町駅舎が完成。
1964(昭和39)年 根岸線開通にともない、駅舎を改築。
1989(平成元)年 3代目駅舎は高架下駅となる。

場所

https://goo.gl/maps/gvPFDDa2sAY7toRs9


鉄道創業の地 記念碑

旧横ギャラリーのある建物のすぐ南側に、記念碑がある。

鉄道創業の地 記念碑
 日本で初の鉄道を作るために 明治3年(1870年)に鉄道資材を英国から購入し 横浜港で陸揚げされ建設が始まった。
 その2年後の明治5年(1872年)5月7日、この地に初代横浜駅が建設され、 横浜、 品川間に最初の鉄道が開業した。
 この鉄道創業の地を象徴して昭和42年(1967年)10月13日に記念碑が竣功した。
 その後、昭和63年(1988年)12月に現在の位置に移設され、当初記念碑のあった位置に原標を置いた。

平成26年7月
公益財団法人 横浜観光コンベンション・ビューロー

鉄道創業の地
 我が国の鉄道は、明治5年(1872年)旧暦5月7日、この場所にあった横浜ステイションと品川ステイションの間で開通し、その営業を開始しました。
 わたくしどもは、当時の人の気概と努力をたたえ、このことを後世に伝えるとともに、この伝統が受け継がれて、さらにあすの飛躍をもたらすことを希望するものであります。
   昭和42年10月14日  
            財団法人 横浜市観光協会
             鉄道発祥記念碑建設特別委員会

創業当時の横浜駅

創業時の時刻・運賃表及び乗車に当たっての注意書きも記念碑に刻まれている。

鉄道列車出発時刻及び運賃表

定 明治5年5月7日
上り
 横浜発車 品川到着
 午前8時 午前8時35分
 午後4時 午後5時35分
下り
 品川発車 横浜到着
 午前9時 午前9時35分
 午後5時 午後5時35分

運賃表
車の等級
 上等 片道 1円50銭
 中等 同  1円
 下等 同    50銭

来る五月七日より此表示の時刻に日々横浜並びに品川ステイションより列車出発す乗車せむと欲する者は遅くとも此表示の時刻より十五分前にステイションに来り切手買入其他の手都合を為すべし
 但発車並に着車共必ず此表示の時刻を違はさるやうには請合かねたけれとも可成丈遅滞なきよう取行ふべし
手形は其日限り乗車一度の用たるべし
小児四歳までは無賃其餘十二歳まては半賃金の事
旅客は總て鐡道規則に隋ひ旅行すべし
手形檢査の節は手形を出し改を受又手形収集の節は之を渡すべし旅客自ら携ふ小包みドウランの類は無賃なれとも若し損失あらは自ら負うべし其餘の手廻り荷物は目方三十斤迄は二十五銭三十斤以上六十斤迄は五十銭を拂ひ荷物掛へ引渡請取證書を求め置くべし尤一人に付目方六十斤を限とす
手廻荷物は總て姓名か又は目印を記すべし
旅客中乗車を得ると得さるは車内場所の有無によるべし
犬一疋に付片道賃銭二十五銭を拂ふべし併し旅客車に載するを許さす犬箱或は車長の車にて運送すべし尤首輪首綱口綱を備へて相渡すべし
発車時刻を惰らさるため時限の五分前にステイションの戸を局さすべし
吸煙車の外は煙草を許るさす

旅客車上中下三等の内乗らむと欲する所の賃金を過金取引なきやうに用意致し来るべし
   明治五年 鐡道寮

記念樹
横浜緋桜
モレルの桜
 英国人技師エドモンド・モレル(1841-71)は、明治5年日本で最初の鉄道を桜木町-新橋間に建設するにあたって建築師長として貢献しました。生誕170年の今、その功績を称え縁の地に”モレルの桜”を植樹し記念とします
2011.3.30
 桜木町に桜の木を植える会
 神奈川県淡彩画会
  協賛 横浜郷土研究会
     横浜ペンクラブ
     学校法人横浜学院

場所

https://goo.gl/maps/Z4kZ7zGF2gVYCHSq9


JR桜木町駅

桜木町の駅にも見どころが豊富。
正直、丹念に見ていたら、駅だけでも結構な時間泥棒となる。
桜木町駅は、鉄道発祥の駅として、相当な力の入れ具合を感じられた。

JR桜木町駅

みなとみらい地区の記憶
明治から昭和まで臨海地域は造船と鉄道物流の拠点で、この街のシンボル的存在でした。現在は国際的なビジネスと観光の街として生まれ変わりました。

みなとみらい時層マップ
明治初期から平成までの海岸線の変化を俯瞰しながら、この地区の産業や町並みの発展を「時間を旅する」感覚で観察すると、新たな発見があるかもしれません。

日本の産業を支えた横濱停車場
鉄道開業の翌年、1873(明治6)年9月、横浜~新橋間の鉄道による貨物営業が始まりました。以来、横浜は日本の産業における重要な物流拠点となりました。

鉄道創業の地・桜木町(旧横濱停車場)
日本人と鉄道の出会いは江戸時代の末期でした。明治時代になるとその導入が決定し、1872(明治5)年、横浜と新橋の間で日本初の営業運転が始まりました。

初代横濱駅と発着場の情景
初代横浜駅は新橋駅と同じく、アメリカ人建築家、R・P・ブリジェンスの設計で、この場所から関内駅方面へ120m程の地に位置し、華麗な外観を誇りました。

明治の横濱・鉄道路線案内
明治初期、当時の人々にとって鉄道への関心は高く、多くの錦絵が残されました。開業時の路線は現在でもほぼ同じルートをとりながら、高度に複線化されています。

鉄道旅行のお楽しみ
江戸期の旅は徒歩による信仰と巡礼が目的でした。明治期、鉄道が利用されるようになると、やがて旅の目的は観光や仕事など、多様なものとなりました。

鉄道が発信する文化
鉄道創業時に、早くも横濱停車場の構内で商いをする人たちが現れました。以来、鉄道に関連した数多くの商売や文化が生まれてきました。

追憶の野毛・桜木町駅
庶民の街として親しまれてきた野毛、またその玄関口として街の変遷を見守って来た桜木町駅界隈は、いつの時代も人々の活気ある息吹を感じ取る事ができます。

桜木町にやってきた鉄道車両
鉄道の開業以来、この地には様々な種類の列車がやって来ました。ここでは蒸気から電気機関車までの変遷や鉄道車両の様々な形態を見る事ができます。

 この光景は、明治20年(1887)頃の初代横浜停車場(現桜木町駅)前を撮影したものです。写真中央の噴水塔は、高さ約4.4m、重さ約1.3tの鋳鉄製で、日本初の近代水道創設を記念して設置され、往来する方々に親しまれていました。
 この噴水塔は、現在、横浜市保土ケ谷区の横浜水道記念館に保存されています。
 平成25年10月17日 横浜市水道局

桜木町&みなとみらい地区は、馬車道や赤レンガもあるので、近代史散歩がはかどる街。しかし、それはまだ未探訪なので、おって、で。

※撮影:2021年11月


鉄道関連

横浜関連

マッカーサー草案・日本国憲法草案審議の地

日本の、戦後再起動の歴史を感じる場所。


この界隈に、かつて外務大臣官邸があり、日本国政府とGHQ連合国軍総司令部の間で日本国憲法の草案審議が行われた。それが審議であったか恫喝であったかは別として。

昭和21年(1946)11月3日に公布された日本国憲法は、翌年の昭和22年(1947)5月3日に施行された。
公布に至るまでの紆余曲折の歴史舞台のひとつがこの地であった。


マッカーサー草案・日本国憲法草案

昭和20年8月の終戦以降、日本政府は憲法の改正作業を進めていた。その流れの中でソ連を中心に天皇制の廃止を要求されることに、日本の世情を理解していたGHQは方針を転換し、GHQは総司令部にて憲法草案を起草することを判断した。

そうして、昭和21年2月13日に日本政府に「マッカーサー草案」が提示された。
これは、先立って日本政府が2月8日に提出していた「憲法改正要綱」(松本試案)に対する回答という形で示されたものであった。

「マッカーサー草案」 提示を受けた日本側、松本烝治国務大臣と吉田茂外務大臣、通訳の白洲次郎などは、寝耳に水のマッカーサー草案に驚き、大至急で審議を開始。
2月26日の閣議で、「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、作業を開始した。
そうして、日本国政府は、「憲法改正草案要綱」を発表し、マッカーサーも直ちにこれを支持、了承する声明を発表し、大筋が決まった。

昭和21年4月、幣原内閣が総辞職し、5月22日に第1次吉田内閣が発足。
6月20日、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、憲法改正案を衆議院に提出し可決、次いで貴族院でも可決され、帝国議会における憲法改正手続が完了。

こうして、帝国議会における審議を通過して、10月29日の枢密院本会議で、 昭和天皇臨席の下で「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した。
同日、 昭和天皇は、憲法改正を裁可。11月3日、日本国憲法が公布された。

日本国憲法草案審議の地

こうした一連の、憲法草案の地を記憶した史跡。

日本国憲法草案審議の地

日本国憲法草案審議の地
この地は、昭和二十一年(1946 年)二月、連合国軍総司令部と、日本国政府との間で、日本国憲法草案について審議された跡地である。
この地には(財)原田積善会の本部があり、戦後に外務大臣官邸として使用されていた。当事者に総司令部側代表としては、民生局長ホイットニー准将、民生局次長ケーティス大佐の両名で、日本側は当時の外務大臣吉田茂と法務大臣松本烝治であった。
  八木通商株式会社

六本木麻布台ビル

場所

https://goo.gl/maps/g8TGD9E94drYhZGu8

※撮影:2018年11月


関連