中島飛行機地下工場跡・地下疎開の藪塚工場跡(太田の戦跡散策3)

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「日本の飛行機王」
東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。
太田市内には、中島知久平と中島飛行機に関連する史跡が点在しているので足を運んでみました。

本編は、その3です。

日本一にして東洋一の航空機メーカーが戦前の日本にはあった。「中島飛行機」その創業者が、日本の飛行機王と称せられた「中島知久平」であった。 ...
「日本の飛行機王」東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平。その出生の地・群馬県新田郡尾島町には、中島知久平の立像と旧宅、墓がある。同じ太田...

現在の八王子霊園と太田双葉カントリークラブのあるエリアには、広大な地下軍需工場があった


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旧中島飛行機地下工場跡

昭和20年(1945年)、中島飛行機太田製作所は度重なる空襲で壊滅しており、太田製作所の分散工場の一つとして藪塚工場が疎開工場として掘られたが未完成にて終戦となった。

旧中島飛行機地下工場跡
  所在地 太田市大字西長岡地内
 このトンネルは、太平洋戦争の最中、昭和20年(1945年)に中島飛行機太田製作所の分散工場の一つ(藪塚工場)として掘られたものですが、完成を待たずに終戦を迎えました。(注1)
 終戦後、米国戦略爆撃調査団による調査が行われましたが、調査に訪れた日(1945年11月13日)には、すでに全ての入り口で崩落が始まっており、かろうじて崩れ落ちた土砂ごしに、地下道の中を覗くことができたといいます。
 この地下工場の掘削は、昭和20年1月から始まり、1500人(注2)が十時間交替で働いたといわれます。4月末からは、中国から強制的に連行され、それまで長野県木曽谷の発電所建設工事現場で強制労働させられていた280人の中国人も動員されましたが、過酷な労働と栄養失調のために、昭和20年5月から終戦後の11月までの七ヶ月間に、50人の中国人が無残な死を遂げました。
 昭和20年11月1日には、死亡者の慰霊祭が行われ、木曽谷から捧持してきていた遺骨も一緒に長岡寺の墓地に埋葬され、小さな石碑が建てられました。石碑には85名の殉難烈士の氏名と、帰国することが出来た中国人の追悼の言葉が刻まれています。また、昭和28年(1953)8月には遺骨の発掘慰霊祭が行われ、遺骨は中国へ奉送されました。この遺骨は、天津市にある抗日殉難烈士の墓に収められています。
 この説明板は、昭和47年(1972)に、日中友好協会群馬県連合会の手によって立てられた「トンネルの由来」を記した説明板が老朽化したため、戦後50周年を記念し、平和への願いをこめて、立て替えられたものです。
 (この説明板の文章は、「米国戦略爆撃調査団報告書」(太田市史 資料編 近現代)及び日中友好協会群馬県連合会発行の「トンネルは訴える」を参考に作成しました。)

(注1)
終戦の時点で、幅13フィート(約4m)、高さ11フィート(約3.4m)の地下道30本が掘りぬかれ、木材の支柱が立てられていたといいます。これは、計画されていた範囲の1/2に相当します。
(注2)
この数字は、米国戦略爆撃調査団の報告によるものです。他の資料によると、280人の中国人のほか、2000人を越える朝鮮人や数百人の日本人も工事に携わっており、あわせると3000人以上にもなります。
 平成8年(1996)3月31日
  太田市教育委員会

かなり広大な地下工場

イノシシよけの柵があったが、施錠は無し。

開口部からは、大量の水が流れ出ている。
立入禁止の札があるので、望遠で観察。

柵が設けられている。

近くにはイノシシの捕獲罠があった。

地下工場の方向。

場所


強戸地区忠霊塔

強戸地区の戦没者慰霊碑。平成7年8月15日建立。

忠霊塔

強戸地区戦没者鎮魂之碑

強戸地区忠霊塔
 今より127年前、戊辰戦争(1867)に始まる明治維新の富国強兵論は、皇軍として国軍を組織し、国民皆兵、徴兵令により強化され、以来、西南の役(1877)の内戦より、力を海外に向け日清(1894‐5)日露(1904‐5)第一次世界大戦(1914)シベリア(1919)満洲(1931)日中(1937‐8)事変より世界の大国を相手として第二次世界大戦(1941‐5)にと限りなく拡大し内外共に甚大な犠牲を出し、遂に昭和20年8月15日無条件降伏し終戦となった。
 新田郡強戸村では昭和18年に強戸村国民学校(現小学校)校庭西方の小丘に忠霊塔を建立し、全ての英霊の遺骨を分骨し村葬にて丁重に祭った。その数220柱(人)なり。
 然し昭和23年連合軍(GHQ)司令により、国旗国歌と共に校内設置を禁じられたため、同年10月大字寺井639番地聖王寺境内に移転され、以来強戸地区遺族会と聖王寺により守護され、又婦人会では春秋彼岸に清掃慰霊を続けてきた。その間半世紀、当時の基礎工事も悪く、白樹の陰下で、地盤沈下により塔も傾き強戸保育園庭との共有地の為、事故等危惧されていたところである。
折しも今年が、終戦50周年に当りこれを記念し、戦没者追悼と、戦争の悲劇を二度と繰り返すことなき様、心をこめて後世に伝え「平和の塔」として残すべく地区内で運動が展開され、地区挙げての移転改築事業となり、実行委員会の設立、太田市当局の協力、区民自主活動による募金等すべて順調に進行し、総予算800有余万円、建設用地もここ太田市西長岡んの八王子山公園内厩寮景勝地に設置されることに決定し、ここに完成を見るに至った。
 本事業計画以来2ヶ年以上、その間遺族会を中心に「英霊にこたえる会」「軍恩連盟」「傷痍軍人会」「区長会」をはじめ、社会教育ボランティア団体等から寄せられた厚いご協力に対し、甚大なる感謝を捧げたい。
 本工事は本年早々より着工され、前塔解体後は、碑中心の「忠霊塔」の銘板は当時の物を利用し、他の石材等は外装や敷石等は全て活用し、前塔内に安置されていた各柱(人)の骨壺は合体し、本塔下部に安置埋葬した。
 本日ここに忠霊塔の移転改築の完成と強戸地区挙げての追悼並びに平和祈念式に当り、不幸なる戦争の悲劇を肌で知っている人達がこの事業を起こし、戦争を知らない人達に現在の豊かなる日本国の礎となり、若い生命を捧げた「みたま」に感謝を忘れてはならないことを銘記して、後世に伝えるものとする。 合掌
 維時平成7年8月15日樹之
 強戸地区忠霊塔移転改築実行委員会
  (個人名略)

場所

※撮影:2024年1月

その4に続く。

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近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝 ‐日本の近代と慰霊の地を巡りしサイト‐(戦跡紀行ネット)

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