中島飛行機半田製作所飛行場跡と半田散策

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

平成29年1月撮影

スポンサーリンク

中島飛行機半田製作所

知多半田地区には、戦前に中島飛行機の工場があった。

中島飛行機といえば陸軍の戦闘機「隼」「鍾馗」「疾風」などが有名であるが、この半田製作所では海軍機を製造。

1943年1月末に主要建物が完成し半田製作所開設。
中島飛行機半田製作所では、主に海軍機2種類を製造。

艦上攻撃機「天山」
半田第1号機は1943年12月8日に完成。
終戦までに月産最大90機、平均月産49機、総生産機数は977機。

艦上偵察機「彩雲」
偵察機として抜群の性能を誇り、海軍最速機として追撃してきたF6Fを振り切ったときに発した「我ニ追イツクグラマン無シ」は有名。
半田第1号機は1944年6月に完成。半田製作所での制作機は427機。

北東の駅がJR武豊線「亀崎駅」(後述)。
西が「乙川駅」。
その南側の工場が中島飛行機半田製作所が転換された「輸送機工業株式会社」(富士重工の子会社)。
往時の滑走路跡を書いてみました。

中島飛行機半田製作所 滑走路跡

滑走路は長さ924mの1本。
南東側が堤防に当たるため、生産機である天山や彩雲を離陸できても着陸はできない離陸専用滑走路だったという。
ここより離陸した天山や彩雲は鈴鹿航空隊などに空輸されて再整備のうえで海軍へ納入された、と。

中島飛行機半田製作所の工場は滑走路の西に展開。
中島飛行機半田製作所は、戦後は輸送機工業株式会社に。(富士重工の子会社)。隣接する半田ソーラー発電所も当時の工場跡。

中島飛行機半田製作所滑走路跡。

もうね、この滑走路末端部の「ターニングポイント」がこんな風に残って、往時の歴史を物語っているって興奮しますよね。

こりゃ、せっかく半田界隈にいるのであれば現地に行ってみないと。

戦後に米軍が撮影した航空写真

USA-R728-25
1947年12月26日撮影(昭22)
ターニングパッドと滑走路がはっきりと見える。無数の穴痕も・・・。
USA-R1493-154
1948年06月07日(昭23)
東の滑走路と、中央の工場部分がよく分かる。

中島飛行機半田製作所滑走路末端部
「ターニングパッド」跡


コンクリが見事に曲線を描いており、滑走路わきの排水路を構築しておりました。 円の中心部は住宅地となっておりますので、そちらは余り写さないように…。

円の反対側。
こちらは枯草に覆われ気味でしたが、排水路はキチンと残ってます。

この砂利が混じったコンクリート具合がステキです。

円形のターニングパッドから、真っ直ぐな に伸びる滑走路方向へと歩いてみました。

現地には案内看板のようなものは一切ないけど、間違いなくこの場所から戦地へと海軍機「天山」「彩雲」が飛び立っていった歴史があるのだ。

中島飛行機半田製作所滑走路跡。
知らない人が見れば、ただの側溝。この側溝が戦前からここにあって、こうして今の世でもここにある奇跡に感謝する。歴史遺産として、静かに軍需工場の名残を伝えている空間は積極的な保存ではなく…ここにいつまでこうして残っていることか…と。

中島飛行機半田製作所跡

滑走路跡から西に歩むと「輸送機工業株式会社」がみえてくる。中島飛行機半田製作所の地に戦後に設立された会社。
2004年に富士重工業の完全子会社となっている。

建屋には大きく「SUBARU」 中島飛行機のDNAを継ぐ会社でもある。

JR武豊線「乙川駅」

この駅もまた中島飛行機半田製作所と縁が深い駅なのだ。工場への貨物側線を引くために高低差をなくす嵩上げ工事(盛土)を行い、その工事費用を中島飛行機が全額負担したという。
今も乙川駅の入口付近は嵩上げ名残の急坂が残っている。

中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫

そのまま歩いて辿り着いたのは「半田赤レンガ建物」

今でこそオシャレな建物ではあるが、このレンガ建物も紆余曲折あり、当初はビール工場、そして戦中は「中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫」となっていたのだ。

明治31年(1898年)にカブトビール製造工場として誕生。
昭和19年(1944年)に中島飛行機半田製作所の衣糧倉庫として活用され、戦後は民間のコーンスターチ製造工場となり、平成8年3月が半田市が所有。
登録有形文化財・近代化産業遺産

昭和20年(1945)7月15日。
「中島飛行機半田製作所・衣糧倉庫」に米軍P-51戦闘機が超低空で飛来し急降下による機銃掃射を受け、その傷跡がレンガ壁面に残っている。この空襲では衣糧倉庫に火災も発生しており一部焼失する被害も出ている、と。

半田赤レンガ建物、今回は時間が無かったので外側を眺めただけで退散。
残念なことに赤レンガ建物の復刻ビールにありつけなかったのだ。半田ってビールもあれば、酒蔵もある(国盛)良い街ですね。これは今度ゆっくりもう一度来たい街になりました。


付記

JR武豊線「亀崎駅」
(JR最古の現役駅舎)

駅全体を損ねないカラーリングではあれど一際に大きいエレベーター跨線橋は2014年に新設されたもの。 今回の注目点はこれではなく駅舎そのもの。

この亀崎駅の駅舎。
なんと、1886年(明治19年)の開業当時から残るものとして「日本最古の現役駅舎」とされている。
(異説ありますが、現役駅舎として最古級なのは間違いなし)
この佇まい。
佳き雰囲気を醸し出しています。
とても綺麗です。

建物資産標
M19年1月

日本最古の現役駅舎。
当駅は、JR東海が2013年10月1日より導入した「集中旅客サービスシステム」により、大府駅管理の無人駅となっている。

駅舎後方。
まるで住居のようでもあり、面白いですね。(いまは無人駅だけど)
駅自体はこじんまりと綺麗に良くまとまっていました。
佳き駅舎。
もっとも、あっという間に鑑賞が終わってしまったので…さて、次に参りましょう…

JR武豊線「半田駅」
(JR最古の現役跨線橋)

日本最古の現役駅舎「亀崎駅」に次いで鉄道ネタとして訪れたのが同じくJR武豊線「半田駅」。
(亀崎駅から歩いてきて)到着は11時ごろでした。

※半田駅の跨線橋は2021年6月で現役運用終了。半田市が保存に向けて調整中という。

半田駅の跨線橋は、建築当時から変わらずに利用されている現役の跨線橋としては日本最古。
コチラも古く1910年(明治43年)11月完成という。
まずは駅の外側から見学してみましょう。

奇しくも武豊線には明治の鉄道建築物が集中して残っていることになります。
今回、たまたま半田に用事があったので、こうして見学できることになり運がよいです。これは。
跨線橋に萌えてきました。これもまた良い建造物です。

1910年(明治43年)11月建造の跨線橋。
良き味わい。

1910年(明治43年)11月建造の跨線橋。
跨線橋の脇には「ランプ小屋」も。 こちらも良き味わい。

せっかくなので入場券を買って中も見てみましょう。

開駅 明治19年3月(1886)
このこ線橋は、明治43年11月に完成 JRでは最古の駅です。

階段部分の斜めのガラス窓が美しい。

そして通路の天井。

跨線橋の根本。
ホーム上でずっと興奮しまくってます、わたしw

鉄柱には「明四十三 鐡道新橋」と書いてあるのかな。

こんな感じに跨線橋にだいぶ萌えてしまった私がいました。
まさか武豊線に歴史的な価値のある鉄道建造物があるとは思いもよらずで。

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント

  1. 冬風 より:

    初めまして!私は普段水墨画を描いている者です。一応雅号を持っており、冬風と申します。
    コロナ渦で愛犬が亡くなった事を機に小説を書こうと思い戦後の半田について調べています。度々、中島飛行機というワードが出てきて(聞いた事はあったのですが)検索して今感動のあまり御礼を言いたくコメントさせて頂いております。たくさんの写真付きでわかりやすくありがとうございます。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。