「海軍」カテゴリーアーカイブ

八戸の盾「海防艦・稲木」八戸の戦跡と近代史跡散策

八戸に赴く機会がありました。
せっかくなので、八戸の戦跡と近代史跡を中心に歴史散策を。

地震の影響で、「八戸線」が運休するなどもあり、バスを活用しての八戸の東西移動になりましたが、思った以上にバス路線が充実しており、当初の予定より、だいぶアクティブに行動できた感じ。
新幹線の「八戸駅」が、まったくもってイメージしていた「八戸」(八戸中心街)とは違う場所にあって、ちょっと焦りましたが。


海防艦稲木之碑(蕪島神社)

1945年(昭和20年)8月9日。
八戸の鮫港の蕪島沖に仮泊していた「海防艦・稲木」は、米軍艦載機の集中攻撃を受け、激しい攻防の末に撃沈した。

米軍艦載機約50機の空襲をたった一艦で迎撃し「八戸の盾」として、八戸市民と八戸の街を護った「海防艦・稲木」。
約4時間にわたる海空の激戦が鮫港で繰り広げられ、ロケット弾と銃撃により稲木は撃沈し、稲木乗組員243名のうち稲木艦長の山田忠太少佐以下乗員29名が戦死、重軽傷者83人を出した。

「八戸の盾」として活躍をした稲木を偲ぶ慰霊碑が「蕪島神社」の境内にある。

海防艦稲木之碑

昭和20年8月9日、八戸港内に仮泊中の海防艦稲木は来襲せる米三十八機動部隊の艦載機群と交戦勇戦敢闘遂に沈没す
爾来38年、当時の乗組員並びにその父母2世及び関係者相図り記念碑を建立して、物故者の霊を追悼し、あわせて世界の恒久平和を祈念するものである。
 昭和58年8月7日

合掌

稲木乗組員
物故者皆様方のご冥福を
心からお祈り申し上げます

蕪島からみた八戸の港

場所:

https://maps.app.goo.gl/DewsSiQdS5AugEnp9


海防艦・稲木

1944年(昭和19年)5月15日、三井造船玉野造船所で起工。
仮称艦名「第4701号艦」。香川県高松市の離島「稲木島」から「稲木」と命名され、鵜来型海防艦の12番艦となる。
基準排水量:940トン
全長:78.77m
最大幅:9.10m
速力:19.5ノット
乗員定員:149名
兵装・搭載機材:
 45口径12cm高角砲 連装1基、単装1基
 25mm機銃 3連装5基、単装1基
 三式迫撃砲 単装1基
 九四式爆雷投射機2基
 三式爆雷投射機16基
 爆雷120個
 短艇3隻搭載
 レーダー 22号電探改四 1基
 レーダー 13号電探改三 1基
 ソナー 九三式水中聴音機 1基
 ソナー 三式水中探信儀 2基
1944年12月16日竣工、山田忠太少佐が稲木海防艦長となる。
就役後は、船団護衛に従事。
1945年(昭和20年)8月8日、「稲木」は船団を護衛し釜石を出港し八戸に入港。翌8月9日朝、八戸はアメリカ軍第38任務部隊艦載機の空襲を受ける。稲木は午前9時頃、空母「ランドルフ」と「エセックス」から発進したF6F、SB2Cによる空襲を受けて後甲板に直撃弾を受けて機械室が大破。夕方頃に沈没した。海防艦長の山田忠太少佐以下乗員29名が戦死。

八戸港国際物流拠点化推進協議会
>八戸港の歴史
https://hachinohe-port.org/hachinohe-port/history/
海防艦「稲木」の残骸(昭和20年)

Wikipedia > 鵜来型海防艦

鵜来型海防艦「宇久」の画像(参考)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/ff/IJN_escort_vessel_UKU_in_1944.jpg


海防艦稲木戦歿者慰霊碑(呉海軍墓地)

稲木の慰霊碑は、呉海軍墓地にもある。関連として掲載。


海防艦顕彰碑 護国 海防艦(靖國神社)

海防艦顕彰碑が靖國神社の境内にある。関連として掲載。

船団護衛と沿岸警備を主任務とする排水量約800トンの小艦であった「海防艦」
海防艦189隻の内85隻が海没し、1万余の尊い命が捧げられた。

 船団護衛と沿岸警備を主任務とする海防艦は、昭和15年6月竣工の「占守」を第一号艦として、さきの大東亜戦争終結までに未就役19隻を含め建造数189隻にのぼった。
 要目は全長約70メートル排水量約800トン乗員200余名、小艦ながら優秀な対潜対空兵器をもち 操縦性と航洋性の点においてもすぐれていた。
 乗組員延総数3万余、士官に商船学校出身者、学徒出身者、兵よりの昇進者多く、兵員中には17才前後の少年の姿もみられた。
 十分な訓練を受けるいとまなきまま、北は千島から南はシンガポールに至る広い海域で、不眠不休、日夜任務の遂行に当った。人員、兵器、物資の輸送を果しつつ、途上、潜水艦、航空機を撃沈撃墜する戦果もあげたが戦局の悪化に伴って被害艦続出し、85隻を失い、1万余の人びとが尊い生命を国に捧げた。
 ここに海防艦顕彰の碑を建て、戦没乗員の勇戦と労苦をしのび、併せてわが国海上輸送の宿命的重要性を後世に伝える資としたい。
  昭和55年5月5日 海防艦顕彰会

冬の季節に。


八戸と戦争

八戸港
昭和18年頃には制海権を失っていた日本。昭和18年8月には、八戸沖にも米海軍潜水艦が進出していた。8月に「明和丸」「美福丸」、9月に「第六多聞丸」、10月には「幹雲丸」が撃沈され、八戸沖の近海航路も危険な状態となっていた。
そんななかでも八戸港からは漁船船団が、ボルネオまで石油積取得のために決死の航海を行っている記録も残っている。しかし、昭和19年6月にマリアナ沖海戦で日本艦隊は壊滅的な打撃をうけ、そしてサイパン島が陥落したことで、南方資源との航路も閉ざされることとなった。

八戸永久築城(八戸要塞)
昭和19年7月、大本営は「本土沿岸築城実施要綱」を発令し、「捷号作戦」本土防衛計画が策定された。本土方面決戦(捷三号作戦)として、連合国軍の上陸を迎え撃つための重点地域が下記の3箇所に絞られた。
・九十九里浜
・鹿島灘
・八戸周辺
八戸には、大規模な上陸作戦を可能とする長大な砂浜が多いという地理的な要因もあり戦略的な要衝となっていた。米軍の本土上陸に備え、昭和19年10月に、八戸永久築城緊急工事が始まった。
わずか半年の工期で、八戸の後背地の新井田川沿いの山中の「是川」「舘」「島守」にまたがる1,380ヘクタールの地域に、地下壕が掘られ、トーチカ陣地が造られた。この八戸要塞の築城には98万人の人員と43,000台の馬車が動員された。昭和20年1月からは、八戸中学校500名、八戸商業200名、八戸水産200面、八戸高等女学校700名、千葉学園400名のほか、八戸市内国民学校高等科の男女生徒2,200名など、近隣の学徒も動員された。

八戸の防衛配備状況
八戸永久築城(八戸要塞)が昭和20年3月末に完成後、昭和20年4月8日に、大本営は「決号作戦準備要項」を決定。東北は第十一方面軍が守備を担当することとなり、仙台と八戸の二ヶ所を重点地とした。
八戸守備として、独立混成第九十五旅団(旅団長・石黒岩太陸軍少将、石黒兵団)が配備。
「陸軍八戸飛行場」には、飛行部隊が展開。「蕪島」には海軍が特攻艇の配備を計画。「鮫港」には海防艦・稲木が停泊。「鮫角」には軍司令部直轄の電波探知機(電探)が配備。「鮫」には陸軍3個中隊と機関銃25、高角砲16、重砲2が配備された。しかし重砲は日露戦争時代(明治45年1912年)の代物、であった。
また、その他の部隊として、「白銀」に弾薬補給部隊、「湊」に食料補給部隊が置かれた。


八戸空襲

八戸には、陸軍の「八戸飛行場」(現在の海自八戸航空基地)や、米軍上陸に備えた「八戸防衛陣地(八戸要塞)」、蕪島の海軍基地(特攻基地)が配備され、軍需工場に指定された民間企業も多数ある街であった。

昭和20年7月になると、関東の主要都市に対し空襲を重ねてきた米軍は、東北にも及んできた。

昭和20年7月14日15日に、八戸は、米空母機動部隊艦載機(F6Fグラマン戦闘機)による初空襲を受ける。
朝5時から7時、9時、11時と2時間ずつの波状攻撃で、高舘飛行場(現在の海上自衛隊八戸航空基地)、日東化学、尻内駅が被害を受けた。この攻撃は翌日も続き、死者行方不明者452名、重軽傷者は多数にのぼった。

ついで、7月27日には、青森市に爆撃予告のビラが撒かれ、翌28日夜にB29が青森市を空襲し、結果、「青森大空襲」として約700名が死亡した。

青森大空襲のあと、八戸では学童疎開がはじまった。
八戸国民学校から縁故疎開した生徒は800名、引率集団疎開した生徒は135名に及んだ。

そして、2回目の八戸空襲は、8月9日午前6時、グラマン戦闘機50機の来襲であった。
八戸港に仮泊していた海防艦「稲木」はこれに応戦したが、ロケット弾を集中的にあびせられ撃沈、艦長以下29名が戦死した。
翌10日も空襲があり、工場、民家等が爆撃され、多数の死者を出した。
おなじ8月9日に、一部が兵舎として使用されていた八戸国民学校も米海軍機の機銃掃射で炎上したが、第一陣の学童疎開が八戸を去った直後(八戸駅=現在の本八戸駅を発車まもなく)であり、重大な被害から逃れることが出来た。

3回目として、「八戸大空襲」を米軍は8月17日に予告してきていたが、8月15日に終戦を迎えたために「八戸大空襲」は幻となり、壊滅的な被害を免れることができた。

総務省>八戸における戦災の状況(青森県)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tohoku_01.html


蕪島海軍基地跡(蕪島要塞跡)

蕪島では、1944年10月ごろから、東西に島を貫通する坑道5本、南北に坑道1本が築造された。
「駆潜艇」用爆雷格納庫、であったという。
海軍では、捕鯨船のキャッチャーボートに爆雷投下装置と機銃を備え付け、応急の駆潜艇としており、八戸にも4~5隻が配備されていたという。蕪島の格納壕は未完成だったが、50~55個の爆雷が貯蔵される予定だったという。また、特攻艇「震洋」の格納庫として転用予定もあったという。

以下、八戸市蕪島休憩所にて

1942
内務省と海軍省のイラク工事として旧海軍により埋め立て工事が行われる。2年がかりで埋め立てられ本土と陸続きとなった。
1945
7月15日/太平洋戦争の末期にアメリカ軍からの空襲を受ける。

1942年(昭和17年)、軍需施設建設のため旧海軍による埋め立て工事が2年がかりで行われました。戦時中「北の要塞」と呼ばれた蕪島。写真には東西に掘られた5本の坑道口も見えます。

坑道の開口部が見える。

「NPO法人鮫町蕪島ウミネコvillage」が運営している建屋の中にあった資料。

https://www.daily-tohoku.news/archives/344351

デイリー東北(2025年8月15日)
蕪島が痛がっている
軍事要塞化で陸続きに
(略)
 1941年(昭和16年)12月、日本が米国などを相手に始めた太平洋戦争に合わせ、翌42年から着手された蕪島の軍事要塞化工事だ。

 鮫地区の沿岸に位置する蕪島はかつて、陸地と切り離された文字通りの「島」であり、頂上の蕪嶋神社と共に、漁師が会場の安全と豊漁を祈願する聖域だった。
 その島域を軍事要塞とすべく、海軍は架け橋を取り壊して陸続きに埋め立て、さらに島内に5本の坑道を掘った。爆薬を搭載して敵艦に体当たりする有人の水上特攻艇を坑道に隠す計画だった。
(略)
 蕪島だけではない。太平洋戦争末期の1944年10月、国は「八戸永久築城計画」に着手し、館・是川・南郷島守地区に100基を超える要塞を建設させた。対米戦の敗退が続き、米軍の上陸が想定されたことに伴う措置。実際、沿岸部を中心に米国の爆撃機による空襲も相次ぎ、上陸の危機は現実味を帯びていた。
(略)

マリエントから見る蕪島もおすすめ。

改めて、蕪島にて。坑道の気配は感じない。

戦後しばらくは開口していたが、十勝沖地震(1968)による陥没などもあり、埋め戻されている。

マリエントの展望台から

八甲田山がみえた。

ウミネコ?


蕪島神社

八戸駅からバスを乗り継いで「鮫小学校通」バス停に到着。
地震によりJR八戸線が運休中のため「鮫駅」を横目に、バスを駆使して、蕪島神社には歩いての訪問となりました。

ちなみに、バスは「八戸市内共通1日乗車券(800円)」を活用。これで、八戸市営バス(青いバス)と南部バス(赤いバス)が乗り放題。

蕪島は、戦時中に海軍の工事によって地続きとなった。

ちなみに、ウミネコは春から夏にかけて、なので、冬にはそんなに居ないのだ。

八戸小唄
昭和6年に造られた新民謡。

もともと「稲木」の碑を見に来たということを鑑みると、ウミネコがいないほうが落ち着いてゆっくり見学できるとも。

1933年の津波

2011年の津波

参道の石段脇に、津波の高さを示すプレートが設置されている。

2020年に再建の御社殿(2015年に焼失のため)

蕪嶋神社は社伝によれば1269年に江ノ島弁才天を勧進したのがはじまりだという。
祭神は市寸嶋比売命、多紀理毘売命、多岐都比売命の宗像三女神(厳島神社の主祭神である)で「蕪嶋の弁天様」として信仰を集めてきた。弁財天は商売繁盛や子授けにご利益があるとされているが、漁業の守り神でもある。

チョコクランチが、かわいらしかったので、お土産にしました。

場所:

https://maps.app.goo.gl/YrYpwUkTL9HcrdhR7


葦毛崎展望台(葦毛崎海軍電探基地跡)

「うみねこ号」(鮫駅~種差海岸駅)を結ぶバスを活用して、葦毛崎展望台まで移動。これも一日乗車券で。

葦毛崎展望台
幕末時代には台場が築かれ、異国の船を監視するのに使われ、戦時中は、旧帝国海軍の「電探基地」(レーダー基地)の円盤基礎が設けられた。
2式1号電波探信儀(二式二号電波探信儀一型・二号一型電探、21号電探)が配備され、海軍による監視哨が置かれた。

上部構造物は戦後に観光地化で展望台として造営されたものだが、下部の円盤基礎は、戦時中の帝国海軍の電探基地(レーダー基地)の土台。

防空レーダーを備えた海軍の無線基地跡。

太平洋の眺望を楽しむ

鮫角灯台も見える

苫小牧の方向

うーん、さすがに見えない。

海軍時代の土台を基礎とする。

鮫角灯台側から。

場所:

https://maps.app.goo.gl/odqxUZJEtcgjLeaS8


八戸のマイルポスト

高さ5mほどにもなるコンクリート製の柱。
このそびえ立つ柱は、新造船の速度を計測するためのマイルポストであった。もともとは5本あったというが、現在は2本が残っている。
船の速度を測る計測器が発達していなかったころの産業遺産。

青森県庁>

https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kotsu/seikatsu/files/kenshi-mado148.pdf

鮫角灯台と2本のマイルポスト


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R272-93
1948年(昭和23年)4月29日、米軍撮影

葦毛崎周辺を拡大

現在の様子


マイルポスト(鮫角)

海側のマイルポスト。こっちは近くに寄ることが出来ます。

場所:

https://maps.app.goo.gl/qVyfZMEGAh395RV88


マイルポスト(小舟渡平)

こちらは近くに寄れなかったので、鮫角灯台から。

ギリギリ、2本が写った画角

場所:

https://maps.app.goo.gl/tF77BUj7ftKFNQHM7


鮫角灯台

「日本の灯台50選」に選ばれている灯台。
昭和13年(1938)2月16日に初点灯。
毎年期間限定(4月~10月の土日祝日など)で一般開放しているが、私が訪れたこのとき(12月)は非解放。。。

鮫角灯台
初点
昭和13年2月16日

鮫角灯台
~美しい景観で地域に愛される灯台~
 鮫角灯台は、1938年(昭和13年)2月16日に点灯した灯台で、昭和初期からのハ戸港の目覚ましい発展に伴い、漁船や貨物船の安全な航行のため、地元からの強い要望により設置されました。
 1997年(平成9年)に、灯器は長寿命のメタルハライドランプを採用した回転式に変更しましたが、外観は設置当時のまま変わりなく海を照らし、航行船舶の道しるべとなっています。
 灯台の周辺地域は2013年(平成25年)に「三陸復興国立公園」に指定され、翌年の2014年(平成26年)には「白亜の灯台と青い空と海のコントラストが美しく、周辺の景観とも見事に調和し、地域のシンボルとして相応しい。」との評価から、第26回ハ戸市景観賞(まちなみ空間部門)を受賞しています。

位置 北緯 40度32分24秒
東経 141度34分34秒
光り方 単閃白光 毎8秒に1閃光
光の強さ 100,000カンデラ(約本分の明るさで
光の届く距離 19.5海里(約36キロメートル)
高さ 地上から灯台頂部 約23メートル
水面から灯火 約58メートル

鮫角灯台
海上保安庁
八戸海上保安部

鮫角灯台
施設の概要
初点
 昭和13年2月16日
位置
 北緯40度32分24秒
 東経141度34分34秒
構造
 白色塔型鉄筋コンクリート造
等級及び灯質
 第4等 単閃白光(毎8秒に1閃光)
光度
 100,000 カンデラ
光達距離
 19.5 海里(約36キロメートル)
高さ
 地上~頂部 23メートル
 水面上~灯火 58メートル
管理事務所
 第二管区海上保安本部 八戸海上保安部
 電話 0178-32-4691

なんだろ、築山

馬?

タイヘイ牧場が隣接している。サラブレッドの競走馬の牧場。
大川財閥の大川平三郎氏の「大」と「平」からの命名。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Dup6FbgSZqukGdCJ9


物見岩(種差防空監視哨跡)

鮫角灯台近くに、海抜52メートルの岩山「物見岩」があり、藩政時代から魚群発見や大漁などを狼煙を揚げて知らせる場所であったという。
この地に、戦時中は、陸軍の防空監視哨が設けられていた。

物見岩自然植物園
 このあたり一帯は、夏でも冷たい風や霧に包まれる日が多いため、さまざまの植物が自生しています。美しい自然を構成している植物には、南限または、北限の学術上貴重な植物なども見られるといわれています。
 市では、この自然を生かした小さな植物園を、市民の憩の場として利用できるよう整備しました。
 園内にある岩山は、海底から隆起したと思われる安山岩で、海抜五ニメートル、藩政時代から魚群の発見や、大漁など、のろしを揚げて知らせる場所であったということから、「物見岩」と名付けられました。また、海図にも記載され、海路の重要な目印になっています。また、このあたりは、名勝地と鳥戦保護区に指定されていますので、植物や鳥類をとることは禁止されています。

うーん、立入禁止。自身の影響かな。。。

岩場、、、

まあ、立入禁止ってあるので、強行はしない。

場所:

https://maps.app.goo.gl/xBFpZoYjeWeq7Ko39


根城跡

おお。南部師行!!

実は、私は、最近はもっぱら近代史専攻な感じですけど、南北朝期も結構好きでして。南朝の南部師行は、義良親王と北畠顕家の陸奥将軍府を支えた重臣。北畠顕家と最期まで行動をともにし、石津の戦いで戦死した。

八戸市博物館は、休館中、、、残念。

せっかくだから、戴きました。

今回のサイトの記録に、八戸市博物館刊行の「戦後60年特別展・戦争と八戸市民‐苦難とともに‐」の図録が役に立ちました。
あと、「はちのへ文化財ガイドブック」は在庫僅少だそうで、そういうフレーズに弱いのであわせて戴きました。

根城跡
南朝方の根本となる城として、南部師行が築城。
日本100名城

場所:

https://maps.app.goo.gl/uK3isTWrZA2Pw4Xb7

https://maps.app.goo.gl/SWZ7SiqgxRUikCWEA


櫛引八幡宮

場所は変わって、八戸が誇る国宝スポットの「櫛引八幡宮」へ。
南部総鎮守一之宮。
本殿・旧拝殿(長所)・末社神明社・末社春日社・正門が5棟が国指定重要
文化財。
赤糸威鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:菊一文字の鎧)と白糸威褄取鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:卯の花威)が国宝。
紫糸威肩白浅黄鎧(兜、大袖付)と唐櫃入白糸威肩赤胴丸(兜、大袖付)と、兜(浅黄糸威肩赤大袖2枚付)が国重要文化財。

拝殿

本殿は改修工事中。
国重要文化財
正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもの

国宝館

赤糸威鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:菊一文字の鎧)
白糸威褄取鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:卯の花威)
国宝の2つの鎧を、ぐるぐると、ずーっと飽きることなく、みていられます。
これは良いものだ。
写真では伝わらないですね、これは生でないと。この鎧を生で見るためだけに八戸に赴いても損ではないかも。こういうのが好きな人であれば。

JR八戸駅でもアピールされてました

旧拝殿(長所)
国重要文化財
正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもの

南門(正門)
国重要文化財
正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもの

末社(脇宮)春日社本殿
国重要文化財
東北では数少ない一間社春日造。
元文4年(1739年)に勧請、創祀されたと伝わる

末社(脇宮)神明宮本殿
国重要文化財
元文4年(1739年)に勧請、創祀されたと伝わる


明治記念館(旧八戸小学講堂)

明治14年(1881年)竣工。
明治12年(1879)11月に立柱式を挙げ、明治14年(1882)8月に完成した八戸小学講堂は、青森県内に現存する洋風建築では最古のものである。
校舎が完成した明治14年8月に明治天皇の東北御巡幸があり、落成したばかりのこの講堂が、行在所として用いられた。
昭和4年には「八戸市図書館」として使用され、後の昭和37年に櫛引八幡宮境内に移築され「明治記念館」として現在に至る。

明治天皇八戸行在所

昭和10年4月建設

明治記念館の内部は見学できません
櫛引八幡宮

明治記念館の由来
 明治記念館は八戸市堀端に八戸小学講堂として、明治14年(1882)8月に竣工した、県内に現存する最古の洋風建築である。洋風の下見板張りの外壁が真壁として納まり柱の頂部には飾を載せ、胴蛇腹と幹蛇腹とを備えている。
 明治14年の明治天皇東北御巡章に際し行注所として用いられた。昭和4年には八戸市図書館となり御聖蹟として維待される。
 昭和37年に櫛引八幡宮境内へ移築し、その際窓回り等に若千の改造が加えられてはいるが、「明治」の雰囲気を色濃く伝えており、「明治記念館」として現在に至る。(現在は直会所・神前結婚式控室・会議室等に使用している。県重宝平成3年3月13日指定)

明治大帝御聖像

御大典奉祝
八戸市傷痍軍人会

碑文
 皇紀二千六百五十年 今上天皇御即位の礼 大嘗祭に世界百六十有ヶの国の元首代表が参列し 内閣総理大臣以下一億二千萬人の国民が挙って 御奉祝申上げる
 我等は
滿洲事麥以降大東垂戰爭の終結に至るまで 戦地に赴き 国家の干城として奮闘
 九死に一生を授かって この目出度き国家の慶事に遭う 生涯の恵に感泣し
 七生報国の誓を新たにす
 今茲に 先帝陛下の「耐ヘ難キヲ堪へ忍ビ難キラ忍ビ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」との聖旨を仰ぎ 国体の精華を讃え我が国の悠久の弥栄を祈念し 聖寿の万歳を寿ぎ奉り御大典奉祝の記念碑とす
 平成2年8月15日

場所:

https://maps.app.goo.gl/EorGdiXFBEbFb4iC9


八戸あれこれ

今回、人生初の八戸ということもあり、いろいろ堪能してみました。

へー、サバ日本一なのか。
サバのまち八戸

八戸駅の駅そば
駅そばはみかけると入ってしまいます。

天玉そば

地震の影響で、市街地に道路封鎖あり。

NTTの鉄塔に被害。
あと、JR西日本八戸線の鉄橋にも被害があって、JR八戸線も運休。

出張先の六ケ所村での昼食。
貝の味噌鍋、貝のエキスが染み出て美味でした。

JR八戸駅

JR八戸駅ちかくの海鮮居酒屋「浜小屋」さん。
おおあたりで美味。

本つぼ鯛
一番のおすすめ

本マグロカマトロにぎり、やばい

地場の日本酒も美味。

JR駅前のホテルから。

朝飯。
しじみ出汁茶漬け

八戸せんべい汁

なんばんみそ

八戸の山車、三社大祭

お土産ランキング。

「鶴子まんじゅう」を買いました。

もちろん、「なかよし」も。

駅中横丁、で。
イカ飯とせんべい汁を。

帰りの新幹線。

この日の移動距離など。

八戸、楽しく美味しい街でした。
今度は、ゆっくり散策してみたく。

撮影:2025年12月


「戦争記録画」の記録・東京国立近代美術館(2025年企画展) 

東京国立近代美術館で、2025年7月15日から10月26日まで展示された企画展。
 コレクションを中心とした特集 
  記録をひらく 
  記憶をつむぐ
昭和100年、戦後80年の節目の展示は、企画展のタイトルからは読み取ることができかったが、蓋を開けてみれば、「戦争記録画(戦争絵画)」の展示であった。

図録の用意もない企画展ゆえ、今後の備忘のために、以下、私自身のためにも、記録と記憶の形を残しておきたいと思う。

以下、余計な主観は交えずに、粛々と作品を掲載をしていきたい。

アッツ島玉砕(藤田嗣治)


記録をひらく 記憶をつむぐ

東京国立近代美術館

ごあいさつ
 「昭和100年」、「戦後80年」という節目の年となる2025年、美術を手がかりとして、1930年代から1970年代の時代と文化を振り返る展覧会を開催します。当館のコレクションを中心に、他機関所蔵の作品·資料を加えて、絵画や写真や映画といった視覚的な表現が果たした「記録」という役割と、それらを事後に振り返りながら再構成されていく「記憶」の働きに注目しながら、過去を現在と未来につなげていく継承の方法を、美術館という記憶装置において考察するものです。
 東京国立近代美術館は、戦時下の1930年代から1940年代の美術について
は、購入や寄贈によって収集した作品のほか、いわゆる「戦争記録画」を153点収蔵しています。これらは戦意昂揚と戦争の記録を目的に制作され、戦後アメリカに接収された後、1970年に「無期限貸与」という形で「返還」されたものです。本展では戦時中の作品に、戦争体験を想起させる戦後美術を加えて、美術が戦争をどのように伝えてきたかを検証します。
 戦中にプロパガンダとして機能した戦争記録画の展示においては、戦時体制下で美術が担った社会的な役割を歴史的事実に基づいて見つめ直していきます。このような当時の経験を時代や地域を超えて共有し、未来の平和に資する想像力を引き出すことを試みます。
 戦後80年となる今年、戦争体験を持たない世代が、どのように過去に向き合うことができるかが問われています。それは他でもない、現在を生きる私たちの実践にかかっているといえるでしょう。これまで蓄積されてきた過去の記録に触れながら、それらをもとに新たな記憶を紡ぎだしていくこと。私たちは、美術館がこのような記憶を編む協働の場になることができると考えています。
 なお、本展に展示される作品や資料の中には、今日の社会通念や人権意識に照らして不適切な表現を含むものがありますが、当時の時代背景を伝える歴史資料としての意義を重視し、改変や削除などは施さずに紹介しています。
 最後になりますが、本展開催にあたり、貴重な作品·資料をご出品くださいました美術館、博物館、所蔵家の皆さま、ならびにご協力いただきました関係各位に深く感謝申し上げます。
 東京国立近代美術館

戦時の美術の分類(その名称と画題)
戦時に制作·発表された絵画は膨大な数にのぼります。そのうち東京国立近代美術館が保管する「作戦記録画」は軍によって委嘱された公式な作品群ですので、全体のごく一部にすぎません。画題は戦史に残すべき戦闘の場面が選ばれています。一方で「戦争記録画」という呼称は、軍からの依頼の有無にかかわらず戦闘場面を記念碑的に描いた作品を指します。
そのまわりに、「前線の光景」「銃後の光景」「大陸·南方風景」「歴史主題」「仏教主題」「象徴(桜·富士山など)」などを主題とする時局を反映した美術のすそ野が広がっているのです。これらを総称する用語として定着したものはありませんので、この図では仮に「戦時の美術」としました。「戦争画」という一般的な用語も使われますが、その境界を確定すること
は難しく、狭義には上記の「戦争記録画」を、広義には総力戦を表象する絵画全体を指す場合があります。

■作戦記録画を発注した軍部の認識を、当時の文献から抜粋して紹介しましょう。
-黒田千吉郎「戦争画について」『南方画信』1942年9月
「美術、特に戦争美術の重要性を知る陸軍は、支那事変勃発するや、直ちにこれを記録して永く後世に残すべく作戦記録画の制作を企図した」
「渾身の力を傾注して完成された作品は、銃後国民の士気を昂揚せしむるのみならず、永く後世に残って子々孫々に至るまで、我等日本人の血を湧き立てさせずにはおかない」

-画家·山口蓬春の手元に残っていた「昭和十九年度大東亜戦争陸軍作戦記録画制作計画(案)」
【註:読みやすいようひらがな表記にしています】
「三、作画公開目的 1国内 作画を以て国内展覧会を開催し銃後一般国民をして戦況裡に正確なる聖戦の実相を把握せしめ第一線将兵の労苦を偲ばしむると共に英霊に対する感謝の念を深め一層奉公精神の強化奮起を以て志気の昂揚に努めんとす」
「五、記録すべき戦闘並画材 画材選定に当たりては関係方面と密に連絡し将来記録として必要なる著名若くは重要なる戦闘を選択し併せて銃後国民に対する宣伝価値を考慮せり」

戦時の美術・戦争画
戦争記録画
作戦記録画


【1】絵画は何を伝えたか

二つの世界大戦が勃発した20世紀は、しばしば「戦争の世紀」と呼ばれます。日本は、1931年から1945年までの間に、満洲事変から日中戦争、太平洋戦争を経験しました。この時代の日本は、新聞、雑誌、ラジオ、映画などのメディアが発達し、人々の間に浸透した時期でもありました。1930年代になると、誕生間もないラジオ放送やニュース映画が戦況を伝えるようになり、戦争報道の速報性や迫真性をめぐってメディア間の競争が激しくなります。このような中、旧来の絵画という「遅い」メディアは、どのようにその存在感を示したのでしょうか。展覧会芸術としての絵画からは、大画面によって戦果を伝える
「作戦記録画」という新たなジャンルが生まれました。それ以外にも、ポスター、軍事郵便絵葉書、子ども向けの絵本などの印刷物を介して、他のメディアには欠けている「想像力」と「色彩」を武器に、絵画は社会に浸透していきました。展覧会の冒頭となる本章では、戦時下のメディアのひとつとして絵画が果たした役割を整理します。

本間、ウエンライト会見図(宮本三郎)

宮本三郎
本間、ウエンライト会見図
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

日中戦争から太平洋戦争中に、陸海軍によって委嘱された公式な戦争画としての「作戦記録画」は、展覧会で公表されることで銃後における啓発宣伝の役割を担うと同時に、後世に記録を残すという機能も期待されていました。したがって「作戦記録画」の中には対戦国との停戦会見を主題とする「会見図」というカテゴリーが存在します。本作は米軍とのフィリピン、コレヒドール島での戦果を示す1942年5月の会見を描いたものですが、戦況が悪化した1944年の陸軍美術展に発表されていることが示す通り、「作戦記録画」はある記念すべき出来事を後から振り返るという性格を持っています。本作の創意は、会見図そのものというよりは、それを後方から撮影する報道班員を中心に据えた構図にあり、「戦争」を伝達するメディアの舞台裏に注目するメタ戦争画となっている点が特徴的です。

ニューギニア沖東方敵機動部隊強襲(御厨純一)

御厨純一
ニューギニア沖東方敵機動部隊強襲
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

海軍作戦記録画に描かれる海戦は、大海原と青空という広大な空間を背景に、戦艦、空母、戦闘機など軍事技術の最先端を体現する兵器の活躍を示すという点で、大衆の好奇心をかきたてる戦争エンタテイメントとの親和性が高いといえるでしょう。この御厨純一の作品は、「記録画」といいながら、躍動感あふれる空中戦を絵画にしかできない脚色によって描いた想像図にほかなりません。1940年5月に創刊された「国防科学雑誌」を謳う『機械化』は、小松崎茂などの人気の挿絵画家を起用し、その空想科学兵器のイラストによって少年たちを魅了しました。このようなイラストと作戦記録画との間には、表現ジャンルを超えた共通点が見て取れます。


【2】アジアへの/からのまなざし

明治時代以降の日本は、台湾と朝鮮を植民地として領有し、アジアにおける帝国主義国家としてその圏域を拡張していきました。台湾、朝鮮、満洲、華北は戦時下にあっても観光地として紹介され、人々の旅行熱を掻き立てるとともに、異国の文化や風俗が美術のモチーフになり、画家に豊富な画題を提供しました。
さらに「大東亜共栄圏」というスローガンが発表されて以降、東南アジアにメディアの関心が向かうと、フィリピン、ビルマ(現ミャンマー)、インドネシアなどの自然や生活文化を異国趣味的に描き出す作品が多数制作されました。
こういった過程で、美術は自己と他者の差異を視覚的なイメージとして表現することを通して、「日本」や「日本人」の自己像(アイデンティティ)の形成に寄与しました。絵画に描かれたものと描かれなかったものに注目しながら、日本とアジアの間の視線のやり取りと、そこに含まれる政治的な力学について想像を巡らせます。

薬水を汲む(岩崎勝平)

岩崎勝平
薬水を汲む
油彩·キャンバス
川越市立美術館

岩崎は1937年の暮れから翌年にかけて朝鮮を何度か旅行しており、そのときの取材をもとに1938年の第2回新文展に《水くみ》、1941年の第4回新文展に本作を出品しました。いずれも朝鮮の民族衣装をまとった女性が大きな水瓶を携え、泉の水を汲む様子が描かれています。本展であわせて展示される絵葉書にも見られるように、女性と水瓶の組み合わせは当時、朝鮮風俗を表す定番のモチーフでしたが、本作では俯瞰の構図をとり、空を描かずに大地と樹木と女性たちだけで画面をシンプルに構成しています。彼女たちの視線は画面下の水くみの動作に集中しており、穏やかな中にも一種の張りつめた空気を感じさせます。

満洲の収穫(リウ·ロンフォン)

リウ·ロンフォン(劉栄楓)
満洲の収穫
1930
油彩·キャンバス
福岡アジア美術館

リウ·ロンフォン(劉栄楓)は、1892年神奈川県出身。日本に帰化して陸軍大学校等で教授を務めた中国系日本人の父の家庭に生まれました。独学で油彩画を学んだのち、「満洲」を画題とする作品を大正時代から描きはじめ、文展等で発表。旧関東州に縁のある人物だったのか、大連で個展を開催するなど、日本と関東州を往復していたようです。日露戦争後に日本が満洲の権益を得たことによって、その肥沃な大地のイメージが絵画に描かれるようになりました。明らかに19世紀のフランスの画家ミレーの絵画を参照したと思われる本作の収穫風景は、満洲事変前の作品とはいえ、その後の日本の大陸進出を予見する希望のイメージを創出しています。同種の地平線が広がる田園風景が、その後の満蒙開拓団募集の広告等に繰り返し使用され、1932年に建国された満洲国の典型的な視覚像として定着します。

満洲へ!!(拓務省ポスター)

1930年代

手前に大きく、笑顔の農夫/農婦を配し、背後に果てしなく広がる大地を描く構図のポスターが、満洲開拓移民募集として数多く制作されました。これはその典型的な一枚。同様の構図は、旅行案内である『満鮮の旅』の表紙や、プロパガンダ誌『満洲グラフ』裏表紙にも見られます。福沢一郎の《牛》は、この構図を逆手にとって諷刺化しているわけです。

「五族協和」のスローガン

1932年に「満洲国」が日本の傀儡国家として建国された際に提唱されたのが、複合民族国家を志向する「五族協和」という理念です。ここでいう「五族」とは、基本的には漢族、満洲族、モンゴル族、朝鮮人、日本人を指します。このイデオロギーは、ポスターやグラフ誌を媒体に、様々なパターンで視覚化されましたが、新京(現長春)の満洲国国務院総務庁玄関の壁画として描かれた岡田三郎助《民族協和》をはじめ、しばしば女性や子どもの姿で表象されました。

満洲·中国観光と戦争

1937年に日中戦争が始まり、当時のいわゆる「北支」(現在の華北地区に重なる)が日本軍の占領下におかれると、すぐさま観光案内パンフレットが発刊されました。日本人画家や写真家も現地を訪問し、競うように中国の文化·風物を題材に制作しました。なかでも万里の長城、河北省の承徳のラマ廟、北平(現北京)の紫禁城、山西省大同の雲崗石窟といった「文化遺産」が主題として選択されたことが注目されます。
貴重な文化遺産の庇護者としての日本、という象徴的な意味合いが、その表象の背後に潜んでいるためです。

牛(福沢一郎)

福沢一郎

1936
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館

福沢は1935年に「満洲国」を旅行しましたが、旅行前には建設と生産の国と聞いていたのに、現地を訪れてみると多くの人々が道端で昼寝をしているのに驚いたといいます(『みづ系』1935年10月号)。その体験はこの作品にも反映されているようです。地平線の広がる乾いた大地の手前には、二頭の牛が威容を誇りますが、よく見ると部分的に穴があき、安普請の看板のようです。理想国家と宣伝された「満洲国」の、遠く離れた日本から見える虚像と、現地で体験した現実とのギャップが、象徴的に描き出されているといえるでしょう。

「行軍」の情景

日中戦争の過程で、緒戦においては戦果を伝える報道に人々は沸き立ちましたが、長期化するにつれ、次第に兵士の日常を伝える戦争ルポルタージュ文学が注目されるようになります。その代表的なものが、火野葦平(陸軍伍長·玉井勝則)の『麦と兵隊』です(1938年9月単行書刊行)。また「露営の歌」(1937年)や「愛馬進軍歌」(1939年)などの軍歌もこの当時ヒットしました。このように「行軍」の主題は、文学や音楽や映画などのメディアの複合により、大衆的な共感の磁場を形成したのです。絵画もこれに加わり、「歴史画」と呼ぶべきモニュメンタルな表象をめざしました。

娘子関を征く(小磯良平)

小磯良平
娘子関を征く
1941 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1937年10月の中国山西省の要衝、娘子関での日本軍の進軍を描いた作品です。小磯は、激しい戦闘場面ではなく、進軍する兵士の群像として本作を描きました。画面の右端には休息をとる兵士、そこから左に進むにつれ、画面奥へと進む隊列に、兵士や馬が加わっ
ていくように、見る者の視線が誘導されます。縦長の画面を1:2で分割する石橋の下に、綿密に人と馬を
構成し(画面全体に下書きのグリッドが鉛筆で描かれているのがわかります)、一見、何気ない軍隊の日常
を、あたかもモニュメンタルな歴史画のように描きだしています。

臨安攻略(硲伊之助)

硲伊之助
臨安攻略
1941年代 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

空爆の視点

空爆の視点
1941年に開催された第5回海洋美術展には、田辺至《南京空襲》など「空爆」に関わる絵画が数多く展示されました。上空から俯瞰の視点で、空爆する航空機の機影と、その下に広がる攻撃対象となる大地を同一フレームに収める典型的な空爆イメージが、公式な作戦記録画として定着を見たのです。一方でこの構図からは、破壊された日常や難民化する人々といった地上の被害の情景が排除され、空を支配したという優越性が美的に強調されています。

南京空襲(田辺至)

田辺至
南京空襲
1940 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

大東亜共栄圈の夢

1940年8月、第二次近衛内閣は「大東亜共栄圏」の構想を唱えました。これは欧米の帝国主義の打倒と、日本主導によるアジア全体の共存共栄を謳うものでしたが、その背景には、戦争を継続するための資源を東南アジアで確保しようとするねらいがありました。『写真週報』など当時のグラフ誌には、南方の豊かな資源を紹介する記事が頻出します。また同じグラフ誌をめくると、これらの地域で「日本語学習」「ラジオ体操」「神社設営」といった「日本化」が進められていたことを示す記事も目につきます。

シンガポール最後の日(藤田嗣治)

藤田嗣治
シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1941年12月8日から始まるマレー作戦の大詰め、翌年2月11日のシンガポール、ブキ·テマ高地の占領を描いた作品です。画面手前の高地には日本軍兵士の群像が描かれ、画面右では傷ついた戦友を抱きかかえた兵士が、はるか遠方を眺めるように促しています。
彼らの視線の先にはシンガポール市街がパノラマ的に広がり、陥落直前の市街の随所から煙が立ち上る一方、画面左上からは陽光が幾条も差し込み、市街を明るく照らし出しています。藤田は、西洋の古典的歴史画の系譜に連なるように近代戦を描くことを企図して、このような演出を施したと考えられます。

古い通り(リウ·カン)

リウ·カン(劉抗)
古い通り
1950
油彩·キャンバス
福岡アジア美術館

1911年、中国福建省の生まれ。1916年家族とともに英領マラヤに移住。1928年上海新華芸術大学卒業後渡仏、アカデミー·ド·ラ·グランド·ショミエールで学びました。1941年よりシンガポールの南僑師範学校で教鞭をとり、シンガポールの近代美術のパイオニアのひとりとして自身の制作と後進の指導にあたります。
 ここで描かれているのは、ショップハウスと呼ばれる、1階が店舗、2、3階が住居になっているマレー半島の華人居住区独特の建築様式です。南洋のローカルな華人文化としてしばしば画題に取り上げられた風景ですが、本作にその賑わいはありません。1階の入口部分が木材を打ち付けて封鎖されており、「何かが起こったあと」の荒んだ場景として表現されています。抜けるような青空と対照させることで、戦争と日本占領下で受けた傷が、戦後も癒えずに残っていることを物語っています。

神兵の救出到る(藤田嗣治)

藤田嗣治
神兵の救出到る
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

場所は蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシアおよびマレーシアの一部)。現地に駐在するオランダ人の邸宅に、今まさに日本兵が踏み込んだ瞬間が描かれています。壁にかけられた絵や調度品から、その富裕ぶりがうかがえますが、家の主はすでに逃げ出し、縛り上げられた現地女性(家政婦)だけが怯えるようにうずくまっています。題名が示すように、欧米による植民地支配から東南アジアを解放するために、日本兵が「救出」に来た場面のはずですが、怯える現地女性の様子からは、日本兵もまた脅威でしかないことが露呈しているようにも見えます。

衛生隊の活躍とビルマ人の好意(鈴木良三)

鈴木良三
衛生隊の活躍とビルマ人の好意
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

医師の子として生まれ、自身も医学を学んだ後に画家に転向した鈴木は、戦闘場面よりも医療や看護の場面を描いた作品を得意としました。1943年に陸軍と日本赤十字社から記録画作成の依頼を受けた彼はビルマ(現ミャンマー)に渡り、シャン高原の野戦病院に1ヶ月ほど滞在して、その取材をもとに本作を描きました。作戦記録画で現地の人々が描かれる場合は女性か子どもであることが多く、「守る日本兵/守られる·奉仕する現地女性」という関係の枠組みが堅持されていますが、兵士たちにヤシの実を供給する女性たちを描いた本作も、そのバリエーションとして位置づけられます。

四月九日の記録 バタアン半島総攻撃(向井潤吉)

向井潤吉
四月九日の記録(バタアン半島総攻撃)
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1942年4月9日、日本はフィリピンのルソン島にあるバターン半島を占領しました。左右に画面を横切る人々は、前景がアメリカ兵とフィリピン兵の捕虜、中景が日本兵であり、後景にはフィリピンの避難民が立ち尽くしています。日本陸軍の報道班員として現地に赴いた向井はこの光景を「濁流」と形容し、人々がひしめき合う混沌とした様子で描き残しています。マラリアなどで多くの死者を出したこの移動は、のちに「バターン死の行進」と呼ばれることになります。

バターンの少女(フェルナンド·アモルソロ)

フェルナンド·アモルソロ
バターンの少女
1942
油彩·キャンバス
福岡アジア美術館

20世紀のフィリピンを代表する国民画家のひとり。牧歌的な田園風景を描く穏健な作風で定評のある画家でしたが、1942年以降の日本占領下のマニラで、日本軍への抵抗の意思を示す絵画を多数制作しました。本作が言及するバターン半島での日本軍との激戦は「死の行進」(投降した米軍·フィリピン軍捕虜を収容所まで歩かせ、多くの犠牲者を出した出来事)で知られ、バターン半島は後にフィリピンの愛国·抵抗を象徴する場所となりました。キリスト教の図像学を介して倒れた兵士を悼むこの作品は、1967年に切手の図柄に採用されています。


【3】戦場のスペクタクル

戦場のスペクタクル
日中戦争から太平洋戦争にかけて、陸海軍は当時の中堅画家に対して、前線における兵士たちの活躍を銃後に伝え、後世に永く残すことを目的とする作戦記録画の制作を依頼しました。大画面に構成された戦争を「記録」する絵画は、聖戦美術展、大東亜戦争美術展、陸軍美術展、海洋美術展など、全国を巡回した展覧会で公開され大勢の観客を集めました。これらの展覧会には、軍の委嘱による記録画のみならず、公募による作品も含まれていました。例えば、1939年開催の第1回聖戦美術展の公募要項をみると、「戦線」「占拠地」「銃後」等と主題別のカテゴリーが設けられていたことがわかります。これらが「戦争画」と総称される絵画ジャンルを形成したのです。公式の作戦記録画が担ったのは主として「戦線」の描写となりますが、戦況を伝えるために写真や映画ではなく絵画が選択された理由はどこにあったのでしょうか。他のメディアと異なる「絵画」の性質や約束事に注目しつつ、戦闘場面のスペクタクル化という観点から代表的な作品を読み解きます。

香港島最後の総攻撃図(山口蓬春)

山口蓬春
香港島最後の総攻撃図
1942 作戦記録画
紙本彩色
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1941年に起きた、英国が支配する九龍半島および香港島への日本軍の攻撃を題材にしています。戦争記録画の制作において、日本画は油彩に比べ迫真性に欠けると指摘されましたが、この絵は「静的なピトレスクな絵画的効果」(『国画』1943年1月号)をあげ、「大和絵風の描写をうまく生かして、陥落三日前の香港島を美しく描き出している」(『旬刊美術新報』1942年12月20日号)と評価されました。岩絵具の鮮やかな群青(山並み)や金(炎)が描き出す「美しい」風景は、しかし同時に戦争の「美化」という、戦争と芸術を考える際に避けて通れない問題をはらんでいるともいえます。

哈爾哈河畔之戦闘(藤田嗣治)

藤田嗣治
哈爾哈河畔之戦闘
1941 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1939年7月に満蒙国境をめぐって日本軍とソ連軍が衝突した「ノモンハン事件」を描いたものです。実際の戦闘は、双方が多大な犠牲を払う悲惨なものでしたが、その事実は当時の国民には伝えられていません。この作品の発注者である予備役中将·荻洲立兵はノモン
ハンで戦死した部下の鎮魂のために、藤田に制作を依頼しました。藤田は4mを超える極端に横長のキャンバスを用いてこれに応え、匍匐前進する日本軍兵士の隊列によって横の広がりを、手前の戦車と画面奥の戦闘との大きさの対比によって奥行きを強調し、パノラマ的な効果を高めています。

佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す(田村孝之介)

田村孝之介
佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1942年12月15日、ガダルカナル島の米軍司令部に奇襲攻撃を行った大野挺身隊の3人が、出撃前に部隊長と別れの盃を交わしている場面を描いた作品です。題名の通り3人は帰還することはありませんでした。密林の暗がりの中、画面中央の彼らにスポットライトのように光が差し込み、劇的な演出効果を挙げています。悲壮な場面ではありますが、当時の人々はこの絵を宗教画における殉教図のように受け止めたものと思われます。

神兵パレンバンに降下す(鶴田吾郎)

鶴田吾郎
神兵パレンバンに降下す
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

本作品に描かれたのは、1942年2月14日、蘭印スマトラ島のパレンバンに陸軍落下傘部隊が降下した模様です。落下傘部隊のイメージは鮮烈な印象を与え、同じ年に「藍より蒼き 大空に大空に 忽ち開く 百千の 真白き薔薇の 花模様 見よ落下傘 空に降り…(以下略)」と謳われた「空の神兵」という軍歌も誕生します。鶴田は空挺作戦の一連の動きを異時同図法的に構成しようと努力しますが、最終的に青空に舞う落下傘の遠景に重きを置く構図を選択しました。それは当時「見るからに楽天的」(『新美術』1943年2月号)と評されたようです。


【4】神話の生成

神話の生成
戦時下の美術は、他の表現分野から切り離された形で存在していたわけではありません。美術は、文学や音楽や映画など他の芸術ジャンルと連動しながら、時局を反映したイメージを供給し続けました。特に紀元二千六百年を記念する事業や、太平洋戦争の開戦、そして戦況が悪化してからの「玉砕」、「特攻」など社会的に大きな影響を与えた報道に際しては、必ず複数のジャンルから作品が登場し、それらが連鎖することで国民感情に働きかける力が増幅していった過程が見て取れます。ラジオからは軍歌や愛国詩が流れ、街中には標語やポスターが溢れ、展覧会では戦果を記念する壁画大の戦争画が展示されていました。このように目と耳に訴える表現がかけ合わされて、人々を動かす「物語」が生まれていくのです。

「12月8日」という記念日
米英蘭を相手に太平洋戦争が始まった1941年12月8日。一般にはハワイの「真珠湾攻撃」をその端緒として認識する人が多いですが、実際には英領マレー半島への上陸作戦がわずかに先行します。中村研一《コタ·バル》はその作戦を描いたものです。開戦はラジオによって国民に広く報じられ、緒戦の勝利は国民を熱狂させました。ラジオではまた、高村光太郎ら詩人たちによる「愛国詩」が朗読される番組が誕生します。開戦から1年後の1942年12月に開かれた第1回大東亜戦争美術展では、《コタ·バル》をはじめ戦勝を描いた作戦記録画が展示され、多くの観衆を集めました。

コタ·バル(中村研一)

中村研一
コタ·バル
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1941年12月8日の真珠湾攻撃によって太平洋戦争は始まったと言われることが多いのですが、その1時間ほど前に、マレー半島北端のコタ·バルへの上陸作戦は始まっていました。対英米開戦を告げる歴史的作戦を描くにあたって、中村は翌年6月に現地を訪れ、実際に作戦のあった日と同じ月齢、同じ時間帯の海岸を取材しました。中村はこの取材をもとに、月明かりによる光と闇の対比と、敵側からの視点による迫力ある構図によって、はいつくばりながら鉄条網を切断しようとする兵士や手榴弾を投げようとする兵士を劇的に描き出しました。発表時には「レアリズムの段階から、すでに浪漫主義絵画の域に踏み入っている」(『新美術」1943年2月号)と評されています。

「玉砕」の神話

「玉砕」の神話
1943年5月、アリューシャン列島のアッツ島で、日本陸軍守備隊がアメリカ軍との戦闘により全滅しました。同年4月の、海軍連合艦隊司令長官·山本五十六のパプアニューギニアでの戦死の知らせと続けて報道されたこともあり、日本国民に大きな衝撃を与えました。部隊の全滅は「玉砕」という言葉により美化され、歌や文学や絵本などさまざまなメディアに取り上げられて、「仇討ち」の国民感情を醸成しました。藤田嗣治の作品《アッツ島玉砕》もその文脈の中で生み出されたのです。

アッツ島玉砕(藤田嗣治)

藤田嗣治
アッツ島玉砕
1943 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1943年5月29日、アリューシャン列島のアッツ島で、アメリカ軍の攻撃により日本の守備隊が全滅した出来事が、敵味方の入り乱れる死闘図として描かれています。全滅は「玉砕」という言い方で美化され、国に殉じる行為が軍人の鑑であると報じられたため、藤田の絵は陰惨な図柄であるにもかかわらず、観衆に熱狂的に受け入れられました。同年9月の国民総力決戦美術展に展示された際には、作品の前に賽銭箱が置かれ、脇には藤田自身が直立し、観客が賽銭を入れると藤田がお辞儀したというエピソードもあります(野見山暁治『四百字のデッサン』河出書房新社、1978年)。ここで作品は単なる記録を超え、追悼と「仇討ち」の気分を醸成するための機能を果たしました。その気分の醸成には、報道や文学、絵本、歌などのメディア·ミックスがあったことも見逃せません。

アッツ島爆撃(小川原脩)

小川原脩
アッツ島爆撃
1944
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1942年6月に日本軍はアリューシャン列島のアッツ島を占領します。その際の爆撃の様子を描いた作品ですが、写真をもとに描いたというその描写は淡々としていて、派手な爆炎も燃え盛る敵陣も見当たりません。しかも不思議なことに、本作が発表されたのは1944年3月の第2回陸軍美術展。つまりすでにアッツ島は米軍に奪還され、日本軍の守備隊が玉砕した1943年5月よりずっと後のことでした。玉砕が国民に知れ渡った後に、それ以前の戦闘を淡々と描いた作者の真意はどのようなものだったのでしょうか。

「肉弾」、特攻の原型

1932年2月22日、第一次上海事変において、敵陣に爆弾とともに突入して戦死した3人の兵士(江下武二、北川丞、作江伊之助)は「肉弾三勇士」または「爆弾三勇士」の名で、新聞各紙で大きく報道され、その後、映画、歌舞伎、軍歌から童謡や玩具に至るまで、さまざまなメディアで表されました。美術においても、銅像や絵画がいくつも制作されています。こうしたブームは軍主導ではなく、メディアと大衆の側の自発的な活動だったといえますが、結果として、自己犠牲を尊重する後の「特攻」の原型をかたちづくることになります。

「特攻」の表象

「特攻」は特別攻撃の略で、軍の組織的作戦としては1944年10月に編成された「神風特別攻撃隊」を端緒とする、体当たり攻撃を指します。航空機によるものと潜航艇(人間魚雷)によるものとがありました。士気高揚の面から、体当たりの場面そのものが描かれる例は稀で、むしろ出撃前の盃をかわす儀式、旗を振っての見送り、そして飛び立つ飛行機と大空に消えていくまでのロングショットが、当時のメディアに繰り返し表されました。さらに、子どもたちを次世代の航空兵として「空」へといざなう言葉とイメージが頻出したことも見逃せません。

萬朶隊比島沖に奮戦す(宮本三郎)

宮本三郎
萬朶隊比島沖に奮戦す
1945 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

萬朶隊は、富嶽隊とともに陸軍最初の特別攻撃隊として1944年10月に編成されました。フィリピンで特攻を行うべく準備を進める中、移動中に米軍機の攻撃を受け隊長以下主力の4名を失いましたが、その後11月12日に残された部下たちはレイテ湾において米軍の艦隊に突入、任務を遂行しました。ただひとり生還した操縦士については、鴻上尚史『不死身の特攻兵』(講談社、2017年)に詳しく記されています。なお、このときの戦果は過大に報道されましたが、本作もそれを受けてか、爆炎や荒波の過剰なまでの交錯によって、現代の戦闘をフランス19世紀のロマン主義絵画のように描き出し、記録を超えてモニュメンタルなものにしようとする意図を感じさせます。

特攻隊内地基地を進発す(伊原宇三郎)

伊原宇三郎
特攻隊内地基地を進発す(一)
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1944年12月3日、茨城県水戸東飛行場から飛び立つ陸軍特別攻撃隊「殉義隊」と、それを見送る同僚や家族が描かれています。機体の尾翼に記されたカタカナは、飛行士の頭文字で、「ツ」は隊長の敦賀真二の搭乗機であることを示しています。彼らはフィリピンに向かい、12月21日と22日にミンドロ島付近で特攻を行いました。伊原は隊長の敦賀と同郷だったこともあり、出撃前の彼らを取材する際に、彼とその両親に話を聞く機会があったといいます。見送る人々の中にはその両親もいたそうですが、その中に一人だけ、画面を見る私たちのほうを見つめ返す少女がいて、はっとさせられます。

水戸東飛行場


【5】日常生活の中の戦争

日中戦争から太平洋戦争は、日本がはじめて経験する総力戦でした。総力戦は、兵士のみならず民間人も含めてすべての人々とあらゆる資源を動員するものです。前線/銃後、男/女、大人/子どもなどの境界は、戦況の変化とともに揺れ動き、それに応じて日常生活の形やそれぞれに割り当てられた役割が変化していきました。
本章では、とりわけ女性画家が集団制作した作品や『主婦之友』の挿図などの戦時の女性イメージの分析を通して、日常と戦争が隣り合わせにあった当時の暮らしを追体験するとともに、様々な分野にわたって戦時の労働を担った女性のあり方について考察します。
さらに、戦況が悪化する過程で、安定していると思われた前線/銃後の境が根本から揺らいだ事態を表す戦争画が登場します。ひとつは民間人も巻き込んだ戦闘場面を描いた作品。もうひとつは空襲下で逃げ惑う人々を描いた作品です。兵士を中心とする前線の戦闘場面から、日常が戦場と化していく戦争表象の変化をたどります。

女流美術家奉公隊

戦時下において、女性は「良妻賢母」として、さらに男性に代わる労働力として銃後を守る役割を担っていました。美術の分野においては、多くの男性画家が従軍して戦地に赴く一方で、女性画家には静物画や風俗画を描くことが求められていました。そんな中、1943年に洋画家·長谷川春子を中心に女流美術家奉公隊が結成されます。奉公隊は「戦ふ少年兵」展を開催し、世の母親たちに息子を少年兵として志願させるよう呼びかけました。また1944年には陸軍省の依頼により、銃後を支える女性たちの諸相をモンタージュした《大東亜戦皇国婦女皆働之図》を共同制作しています。

大東亜戦皇国婦女皆働之図・春夏の部
(女流美術家奉公隊)

女流美術家奉公隊
大東亜戦皇国婦女皆働之図
春夏の部
1944
筥崎宮

この作品には、防空訓練や軍需工場での労働をはしめ、さまざまな場面が描かれています。近代日本美術研究者·吉良智子氏の研究により、ここに描かれた女性たちの労働の具体的な内容が明らかになりました。たとえば、画面上段左中央に描かれた白い服の女性たちは、製図作業に従事しています。中段左端からは、炭鉱での選炭作業、造船、砲弾の製造、塩田での労働、さらにその隣には海女の姿も見て取れます。これらの描写にあたっては、当時の雑誌や新聞、グラフ誌に掲載された写真や挿絵が参照されました。

大東亜戦皇国婦女皆働之図・秋冬の部
(女流美術家奉公隊)

女流美術家奉公隊
大東亜戦皇国婦女皆働之図
秋冬の部
1944
油彩·キャンバス
靖國神社遊就館

この作品の遠景には、「春夏の部」の太陽と対比をなすように、月と富士山のイメージが配されています。上段右中央には靖國神社が描かれ、その脇には千人針を縫う女性たちの姿が見られます。さらに中段右側では、6人の女性たちが飛行機の翼に張る白い大きな羽
布を縫っている様子が描かれています。終戦後、多くの戦争画が廃棄·焼却処分される中で、《皆働之図》の2点は、長谷川春子のはたらきにより崎宮に保管されました。本作には靖國神社が描かれていることから、その後1962年に同社へ奉納されました。

総力戦と国民の生活

日中戦争勃発後の1938年に国家総動員法が公布され、日本は総力戦へと突入していきました。男性が戦地へと徴兵されるなか、女性や子どもたちも検約に努め、千人針を縫い、労働に従事することで、国家に貢献しました。総動員体制の確立とともに、ポスターは商品やサービスの広告にとどまらず、国策宣伝を担うメディアへと変化し、戦況が悪化するにしたがってその傾向を強めていきます。
戦時下のスローガン「進め一億火の玉だ」の「一億」という数字には、銃後の女性や子どもだけでなく、当時の外地の日本人および植民地の人口も含まれていました。

前線と銃後の境がなくなるとき

サイパン島に日本空襲のための航空基地を設置しようとする米軍と日本の守備隊との闘いは、7月7日の日本軍の「玉砕」で終結しました。大本営による発表後、新聞紙上ではサイパン島陥落に至る状況と、兵士と民間人の自決の様子が詳細に報道されました。藤田嗣治はこの記事をもとに、民間人を中心に据えて集団自決の場面を描く群像表現を構想し、1945年4月から東京府美術館で開催された陸軍美術展で発表しました。サイパン島陥落後の報道では「前線も銃後もない。正に国土が戦場」(『写真週報』1944年7月6日)であると、本土決戦の覚悟が唱えられましたが、藤田の作品《サイパン島同胞臣節を全うす》は、まさに日常生活が戦場と化した東京空襲の最中に公表されたのです。

サイパン島同胞臣節を全うす(藤田嗣治)

藤田嗣治
サイパン島同胞臣節を全うす
1945 作戦記録画油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

1944年、サイパン島では日米両軍による死闘が繰り広げられました。戦火に巻き込まれた住民たちは、島の北端に位置するマッピ岬へと追い詰められ、次々と身を投じたことから、この断崖は後に「バンザイ·クリフ」と呼ばれるようになります。製糖業が盛んだったサイパン島には沖縄からの移民が多く、民間人の犠牲者の大半は沖縄県出身者でした。藤田は報道記事をもとに、戦闘のなかで集団自決に至った民間人の姿を想像によって描いています。宗教画のような劇的な描写は、しばしばドラクロワの《キオス島の虐殺》(ルーヴル美術館蔵)と比較されます。

空襲のイメージ 地上の視点から

第2章2-6で空爆イメージの定着について紹介しましたが、実はそれと同時に空襲を受ける地上の観点から「防空思想」の普及が図られていました。空からの爆撃に備えて、日中戦争勃発直後の1937年10月に、灯火管制や防毒や避難といった防空業務を統制する「防空法」が施行されました。そのシンボルとして様々なメディアに流布したのが「ガスマスク」です。空襲の恐怖をあおる画像と、そこから身を守る道具としての物々しいガスマスク、そして「銃後」を守る役割を負わされた女性がセットとなって、日本における地上の側の「空襲」イメージが生成されました。

空襲!備へよ防毒面(東京・藤倉工業株式会社ポスター)

1930年代
山崎記念 中野区立歴史民俗資料館

皇土防衛の軍民防空陣(鈴木誠)

鈴木誠
皇土防衛の軍民防空陣
1945 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

画面左側には防火活動にあたる女性たち、右側には避難する人々の姿が描かれています。防災頭巾や女性が手にするバケツ、延焼を防ぐための鳶口といった道具は、物資が不足するなかで重要な防災用具とされていました。戦時下の国民は「隣組」単位でバケツリレー
などの防空演習に励みました。本作は、1945年3月10日の東京大空襲の様子を描いたもので、翌月に開催された陸軍美術展覧会に出品されました。多くの作戦記録画が前線を題材とする中、銃後の市民生活を描いた本作は、珍しい作品といえるでしょう。


【6】身体の記憶

1945年8月15日の戦争終結を伝える玉音放送、そして9月2日の日本による降伏文書の調印によって太平洋戦争は終結しました。敗戦国となった日本は連合国の占領下で非軍事化や民主化等の改革を進めます。深刻な不況に陥っていた日本経済は、1950年に勃発した朝鮮戦争の特需によって回復し、焼け跡からの経済的な復興を実現しました。東西冷戦が激化する中、日本は西側諸国との講和を選択。1952年のサンフランシスコ平和条約の発効によって日本は主権国としての独立を回復しますが、同時に日米安全保障条約によって独立後も米軍への基地提供義務を負うことになります。
このような複雑な力学で成り立つ「戦後」の社会において、過去の戦争の事実から何が記憶され、何が忘却されたかという現在にまで続く「戦争の記憶」の問題が立ち上がります。1950年代には忘却に抗うように、戦争の痛ましい記憶を定着しようと試みる一群の作家が登場しました。戦時中には描かれることのなかった傷つき、変形した身体イメージが媒介となり、容易には消えることのない過去の戦争の悪夢が呼び起こされたのです。

原爆の図 第2部 火 再制作版(丸木位里·俊)

丸木位里·俊
原爆の図 第2部 火(再制作版)
1950-51(後年に加筆)
紙本彩色
広島市現代美術館

この作品は、丸木位里と赤松俊子(丸木俊)による「原爆の図」三部作の「火」(前期展示)、「水」(後期展示)の再制作版です。被爆した人々の身体を克明に描写した「原爆の図」は全国を巡回し、占領下において統制されていた原爆被害の情報をいち早く国民に伝えるメディアとしての機能を果たすようになります。1950年末頃にアメリカでの展示を打診されると、丸木夫妻は「原爆の図」を複数化するためにこの再制作版を制作。海外展示は実現しませんでしたが、「原爆の図」への関心と需要が高まるなか、再制作版も各地で展示されました。なお、1974年に作者自身によって彩色などの大幅な加筆が施されています。


【7】よみがえる過去との対話

1965年以降ベトナム戦争が激化すると、その映像はテレビや週刊誌等を介して日本にも届けられました。日本と沖縄に存在する米軍基地が出撃·兵站基地となり、日本がベトナム戦争に間接的に関与していることが明らかになると、1965年4月に「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)が結成され、様々なメディアを駆使して反戦運動が展開されました。同時に日本人の作家、写真家、美術家、漫画家、デザイナー等がベトナム戦争に反応する仕事を発表します。ベ平連の主要メンバーであった小田実が主張したように、ベトナム戦争は日本人が過去の戦争を想起する契機となりました。戦争体験の風化が叫ばれた1970年前後に、アジアとの関係において過去の戦争を捉え直す視点が芽生えたのです。
さらに、この時期に特筆すべきは、「空襲」「原爆」「沖縄戦」において、歴史から零れ落ちてしまいそうな民間人の戦争体験を収集·記録する活動が、市民を巻き込んで立ち上がったことです。戦争の「小さな」記憶を掘り起こす実践が、過去に向き合う意識の変化をもたらしました。

証言の時代

戦後20年が経過し、戦争体験の「風化」が叫ばれた1965年以降、一般の人々の体験を記録する動きが活発になりました。1968年に『暮しの手帖』は、公募で集まった原稿をもとに「戦争中の暮しの記録」特集を組みました。1970年には空襲体験の記録を残そうと「東京空襲を記録する会」が発足します。軍隊の戦闘の経緯を記す公式の戦記とは異なり、そこから零れ落ちてしまう民間人の「小さな」記憶を拾い集める動きが、市民運動と連動しながら全国に拡大していきました。漫画家の手塚治虫や水木しげるが、個人史に基づいた戦争漫画を発表するのも同時期のことです。終戦から時を経て、封印していた記憶の扉が開きはじめたのです。


【8】記録をひらく

戦争の記録を目的に制作された戦争美術は、他国においては戦争博物館や
歴史博物館に収蔵されることが多いのですが、日本では近代美術館である当館が保管しています。これらは、終戦直後に米軍に接収され、長らく米国内で保管されていましたが、「日本近代美術史上の一つの大きな穴となっており、これを補填する文化的な観点」から返還交渉を行ったという報告が残されています(当館発行『現代の眼』188号、1970年7月)。このような1960年代の交渉の結果、1970年、日本に「無期限貸与」という形で「返還」されました。
接収された日本映画や戦争美術といった文化財を取り戻そうとする流れがこの時期に進行していたのです。では、戦時のプロパガンダとして機能した美術が、戦後25年を経た社会の変化を背景に、どのように読み替えられ、歴史の中に位置づけられたのでしょうか。戦争画を描いた作家の反応や、本土とは異なる眼差しで事態を見つめていた沖縄の作家の視点も交えて、当時の日本社会の受容の仕方を様々な資料を通して検証し、戦争記録画から受け取ることのできる「学び」を提示します。

山下、パーシバル両司令官会見図(宮本三郎)

宮本三郎
山下、パーシバル両司令官会見図
1942 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

太平洋戦争の緒戦のシンガポール陥落を伝える本作は、当時、歴史画の達成として高く評価されたものです。1960年代に戦争画返還に向けた世論が形成されていく過程でも、この作品は象徴的に使われ、1967年8月18日の『週刊読売』の「失われた戦争絵画」特集の表紙も飾っています。作者の宮本三郎は、戦争画について語る座談会にしばしば招かれて発言をしていますが、返還前に、現在の視点からの読み替えについて次のように語っていました。「ああいう絵画は、ある意味では戦争を避けるための戒めにもなるだろうし、まとまった場所に、外国の例にしたがって保管されてしかるべきだ」と(『週刊読売』1967年8月18日号)。

無題(真喜志勉)

真喜志勉
[無題]
1977
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館

沖縄出身の画家·真喜志勉は、ジャズをはじめとするアメリカ文化への憧れと、沖縄に存在する米軍基地への反発とが混ざり合った感情を抱えながら、ベトナム戦争下の沖縄の現実を、マスメディアに流布するイメージのコラージュを通して描き出しました。その作品に、日本の軍人のイメージが登場するのは1970年代半ばのことです。アメリカから返還された宮本三郎の《山下·パーシバル両司令官会見図》を参照する本作は、沖縄、アメリカ、日本の関係の織物となっています。1972年に基地はそのままに沖縄の施政権は「返還」され、1975年の沖縄国際海洋博覧会を契機として本土資本による開発が急速に進展します。アメリカ世からヤマト世への移行を象徴するイメージとして宮本三郎の作品が召喚されたのです。

成都爆撃(小川原脩)

小川原脩
成都爆撃
1945 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

小川原は「殺し合いや撃ち合いといった人間を主題とした絵はやりたくなかった」と考えていたようで、制作した戦争画はすべて飛行機をモチーフにしたものです(『画家たちの「戦争」』新潮社、2010年)。いずれも現場に立ち会うことなく写真と資料をもとに描いたといいます。戦後は、軍部に協力したことを理由に美術界との関係が疎遠になり、また小川原自身が自責の念を抱えていたこともあって、故郷北海道に戻ることを決心しました。その後亡くなるまで中央画壇と距離をとって制作を続けました。小川原の戦後の代表作のひとつ《群れ》(図)に描かれた孤独な犬の姿には、作者自身が投影されているといえるでしょう。90年代のインタビューで、小川原は戦争画が実在することの責任は自分にあると言い、50年以上にわたってその運命に向き合ってきた胸の内を吐露していました。

マユ山壁を衝く(向井潤吉)

向井潤吉
マユ山壁を衝く
1944 作戦記録画
油彩·キャンバス
東京国立近代美術館(無期限貸与)

向井潤吉は、自ら志願して従軍するなど、日中戦争初期から戦争という大きな出来事に積極的に向き合い、表現のレベルで可能なことを模索してきました。本展の第2章で示した、敵側から日本兵の姿を捉えた《突撃》(絵葉書)は戦争表象に新しいボキャブラリーを加えるものでした。しかし、戦況が悪化してからの《マユ山壁を衝く》は、もはや兵士が主役ではなく、それを飲み込む熱帯の植物群に焦点が当たっています。この克明な自然描写と、向井が戦後に開始した民家のシリーズのリアリズムには共通する眼を感じることができるでしょう。向井は、全国を旅して消えゆく民家を記録することに、生涯をかけて取り組みました。

おわりに

本展覧会では、当館が保管する戦争記録画を、どのように次世代に継承すべきかがひとつのテーマとなりました。最大の課題は、すでに終戦から80年が経過し、戦争体験者がますます少なくなる中で、戦時下の文化が置かれていた社会的·政治的な文脈が共有されにくくなっていることです。本展が明らかにしたように、美術を含む視覚的な表現は、決して他のメディアから自立していたわけではなく、同時代に流通していた言説に密接にかかわるものでした。
本展は、「戦争を知らない」世代が、実体験者と異なる視点で過去に向き合うことを積極的に考える機会でもありました。美術や文学などの芸術が虚構を交えて構成する戦争表象を、ジャンル間の比較や大衆文化との関係も含めて俯瞰できる視座を持つこと、さらに、時代や地域を超えた戦争経験との比較考察ができる視点を持つことは、戦争の記憶の継承にとって大きな可能性となるのではないでしょうか。
この展覧会で見てきたように、芸術は過去に、人々を戦争へと駆り立てる役割を果たしました。人々の心を動かす芸術の力の両義性を理解したうえで、未来の平和に向けた想像力に繋げていくために、今後も当館が収蔵する戦争記録画をはじめとする作品は貴重な記録として存在し続けるのです。


別フロアで連動して展示していた戦争画関連

日本画家の戦前/戦中

日本画家の戦前/戦中
昭和に入ると、日本画にもモダンな表現が見られるようになります。単純化されたフォルムや明快な色彩が特徴的です。一方で、戦争がはじまると、日本画家も絵筆によって国に貢献しました。洋画家たちが臨場感に満ちた写実的な描写を目指したのに対し、日本画家たちが使用する岩絵具は写実表現には不向きな画材でした。そのため、日本画家による戦争画には、劇的な演出や迫真的な描写はあまり見られません。しかし、彼らはそれまでの画業で培った造形感覚をいかしながら、外地の風土や自然、日常の光景を描きました。
戦前と戦中の作品を見比べたとき、どのような関係を見出せるでしょうか。

軍用機献納作品展
日本画家報国会が主催したこの展覧会は1942(昭和17)年3月19日から22日
に日本橋三越で開催され、その後、大阪に巡回しました。当館はこの時に出品された184点を所蔵しています。これらはすべて三越に買い上げられ、代価20万円(現在の約5億円)は陸海軍に、作品は東京帝室博物館に納められました。一見、戦争とは無関係な作品に見えますが、国土を象徴する富士や桜、国花である菊、戦闘機を暗示する猛禽類、祝勝を象徴する鯛などのモチーフには、戦勝祈願の意図が込められています。そのほかにも、歴史画や、良妻賢母の理念を説く主題などが好まれました。

戦艦献納展
こちらの2点は、1944年2月に東京帝室博物館表慶館(現在の東京国立博物
館)で開催された「戦艦献納帝国芸術院会員美術展」の出品作です。さかのぼること2年前、日本海軍は第三次ソロモン海戦で戦艦2隻を失いました。兵力の要である戦艦の喪失は国民に衝撃を与え、戦艦献納運動が広がります。戦艦献納展には帝国芸術院の会員である横山大観、川合玉堂、小林古径、安田報彦などの大家が参加しました。

基地に於ける整備作業(山口華楊)

山口華楊
基地に於ける整備作業
1943 昭和18年
紙本彩色
無期限貸与

1943(昭和18)年、華楊は海軍の従軍画家としてインドネシアに赴きました。海辺の前線基地に着水した戦闘機を整備兵たちが迎えています。中央には、パンツ姿のたくましい兵士が、搭乗員のブーツが海水に濡れないように背負って浜まで運んでいる様子が描かれています。水上戦闘機は、プロペラや水上滑走用のフロートなど細部に至るまで克明に描写されており、花鳥画や動物画の名手として知られる華楊としては稀有な作例です。

《基地に於ける整備作業》のための下絵(山口華楊)

山口華楊
《基地に於ける整備作業》のための下絵
1943 昭和18年
鉛筆、彩色·紙
上田研一氏寄贈

当館が保管する戦争記録画《基地に於ける整備作業》の下絵として描かれました。海軍の従軍画家としてインドネシアに派遣された華楊は、1943(昭和18)年10月に帰国すると、直ちに作品の制作に取り掛かり、本画は同年12月に開催された第2回大東亜戦争美術展に出品されています。下絵の右下には紙が貼り足され、人物の大きさやポーズを試行錯誤しながら構図を練っていたことがわかります。兵士たちが着用している白いふんどしが、本画では丈の長いパンツに描き直されている点も興味深いです。

山口華楊発 上田秀雄宛書簡
1943 昭和18年
墨·紙
上田研一氏寄贈

1943(昭和18)年5月25日、従軍画家としてインドネシアに派遣される直前、華楊は知人に一通の手紙を出しました。そこには「銃後もいよいよ第一線と変りが無くなりました[…]絵画がこれからどうなるだろうとか世の中がどうなるだろうとか、そんな空想の時ではありません。もっと切実に此の戦争を勝ちぬく為めに闘ふべき時代です」と書かれており、当時の画家としての華楊の覚悟がうかがい知れます。

輸送船団海南島出発(川端龍子)

川端龍子
輸送船団海南島出発
c.1944 昭和19年頃
紙本墨画淡彩
無期限貸与

海南島は南シナ海北部に位置します。この島で鉄鉱石を採掘し本土へ送る輸送作戦は、太平洋戦争末期になると決死の様相を帯びました。そんな主題に日月と南十字星が描きこまれているのはなぜでしょう?日月の意匠には天に命運を祈るという意味合いがあり、戦国時代には武具や衣裳の飾りにも用いられました。一方、南十字星は当時、南方への領土拡大のシンボルでしたが、祈りの仕草にも見えることを龍子は意識していたでしょうか。

小休止(岩田専太郎)

岩田専太郎
小休止
1944 昭和19年
紙本彩色
無期限貸与

岩田専太郎は、大正から昭和にかけて雑誌や新聞などで連載される大衆小説の挿絵を描き、とりわけ華麗で官能的な女性像が絶大な人気を博しました。そんな岩田もまた時代に翻弄され、
本作のような戦争記録画を描いています。
「…華麗な絵を描いて、ものの役に立たない絵かきのごとく扱われた口惜しさに、無理とは知りつつも兵隊の絵を描いて、戦争末期の昭和二十年には、陸軍報道局の命令で、『神風特攻隊基地出発』の記録画を描いている。[…]それが、戦争が終わると、またもとのような華麗な絵を描け、との注文である。どうすればい
いのだ!と思った。」
岩田専太郎『わが半生の記』(家の光協会、1972年)より

攻略直後のシンガポール軍港(矢沢弦月)

矢沢弦月
攻略直後のシンガポール軍港
c.1942 昭和17年頃
紙本彩色
無期限貸与

山田新一と戦争記録画

山田新一と戦争記録画
山田は東京美術学校で油彩画を学んだ後、1923(大正12)年の関東大震災を機に、当時日本の植民地下にあった京城(現在のソウル)に渡り、朝鮮美術展や帝展を中心に活躍しました。1928年からは、友人·佐伯祐三の誘いを受けて2年間パリに滞在します。その後再び朝鮮に戻り、終戦まで同地を拠点としました。戦時中は朝鮮軍報道部美術班長を務め、自らも作戦記録画を制作しました。
敗戦直後、軍司令部から京城駅構内の倉庫に保管されていた戦争画の焼却命令を受けますが、山田はそれらを後世に残すことを望み、朝鮮人の知人宅に分散して隠しました。
そこには宮本三郎、鶴田吾郎、猪熊弦一郎などの代表的な作例も含まれていました。
帰国後にGHQから依頼を受けた山田は、日本各地と朝鮮を巡って151点の戦争画を収集し、東京都美術館に集めました。戦後、画家たちは戦争責任を追及されることをおそれ、戦争画の多くが焼かれたり、行方不明になったりしましたが、当館が保管する戦争記録画は、このような経緯により残された作品群なのです。

仁川俘虜収容所に於ける英豪兵の作業(山田新一)

山田新一
仁川俘虜収容所に於ける英豪兵の作業
1943 昭和18年
無期限貸与

日本軍は1942(昭和17)年に朝鮮の京城(現在のソウル)と仁川に捕虜収容所を設置し、フィリピンやシンガポールなど南方の地域から捕虜を送り込みました。仁川に収容された捕虜たちは港や製鉄所などで労働に従事したとい
われています。朝鮮を拠点にしていた山田は朝鮮軍報道部美術班長を務め、「内鮮一体」(日本本土と朝鮮の一体化を目指す標語)を推し進めるべく戦争画を描きました。敗戦後、戦争記録画の保存に奔走した人物としても知られています。

曉明の天津附近戦闘(山田新一)

山田新一
曉明の天津附近戦闘
1944 昭和19年
油彩·キャンバス
無期限貸与

1937(昭和12)年7月の盧溝橋事件をきっかけに、日本軍は華北へ侵攻し、北平(現在の北京)や天津を制圧しました。本作は、当時の戦闘の様子を描いた作品で、京城の総督府美術館で開催された決戦美術展に出品されました。戦前から朝鮮を拠点に活動していた山田は、1946年にGHQの命令を受け、朝鮮に残された作戦記録画の回収のため現地へ渡航します。捜索の末、京城YMCAのロビーで本作を発見し、日本へ持ち帰りました。


国立工芸館

国立工芸館は近現代の工芸·デザイン専門の美術館です。
1977年に東京の北の丸公園に「東京国立近代美術館工芸館」として開館し、2020年には政府関係機関の地方移転政策により、石川県金沢市へ移転。2021年には館名を「国立工芸館」と改めました。
陶磁、ガラス、漆工、木工、竹工、染織、人形、金工、工業デザイン、グラフィック·デザインなどの各分野にわたって、総数約4,000点を収蔵し、特定のテーマに基づいた所蔵作品展、企画展を年に4~5回開催しています。他にも工芸の技法や専門用語をわかりやすく解説したデジタル鑑賞システムを備えた「工芸とであう」や、漆芸家·松田権六(1896-1986)の工房を移築·復元した「松田権六の仕事場」のコーナーがあります。
建物は明治期に建てられた国登録有形文化財の旧陸軍第九師団司令部庁舎と旧陸軍金沢偕行社を移築するとともに、過去に撤去された部分や外観の色などを復元して活用しています。周辺には石川県立美術館、金沢21世紀美術館、兼六園などの文化施設も充実しています。


図録 藤田嗣治、全所蔵作品展示

今回の企画展の図録はなかったけれども、藤田嗣治に注目した図録があったので購入しました。

2026年は、藤田嗣治・生誕140周年。
軽井沢安東美術館 では「生誕140周年 藤田嗣治展」の開催を予定している、とか。

https://www.musee-ando.com/blogs/exhibition/exhibit202601

藤田嗣治の戦争絵画以外も知りたくなってきたり、です。猫とか少女とか。


関連

「戦艦・比叡の錨」と「九一式改二型航空魚雷」(海自「下総航空基地開設66周年記念行事」その2)

2025年10月11日に「下総航空基地開設66周年記念行事」にて一般開放がありましたので、行ってきました。

その1は、下記にて。


下総航空基地記念行事

以前にも訪れていましたので、下記参照で。


藤ヶ谷陸軍飛行場跡地


戦艦「比叡」の錨

前回の基地再訪問時に、存在は知っていたけれども見ることが叶わなかったのが「比叡の錨」。
今回の基地祭で、案内所の隊員に「比叡の錨は見学できるか?」と聞いてみたところ、「立ち入り禁止エリアかどうかちょっとわからないので、とりあえず近くまで行ってみると良いよ、場所は、ここを真っすぐ行って、ここを右に、、、」という感じで教えてもらったとおりに足を進めてみたら、ありました、近寄れました。ありがとうございます!

やっと見学できました。比叡の錨。


艦種   高速戦艦 比叡
重量   7.5トン
錨鎖重量 2.5トン

比叡要目
建造年 1914
排水量 26330トン
速力 27.5kt
全長 214.6m
全幅 28m
主砲 36cm砲8門
副砲 15cm
魚雷発射管 8門
高角砲 12.7cm2連装×18
飛行機 4機
乗員 1437人平常
機銃 12.7mm2連装×18


九一式改二型航空魚雷

航空魚雷もありました。

九一式改二型航空魚雷
この魚雷は旧海軍一式陸上攻撃機、天山艦上攻撃機にとう載されていたものである。
全長 5.71m
全備重量 1.06トン
炸薬量 420kg
直径 45cm
直進機構 ジャイロ
動力 星型8気筒エンジン

場所は、第3術科学校 2号隊舎・学生隊本部 のあたり。


史料室

下総厚生センターの史料室は公開

整備魂
 この絵は、一水会々友藤瀬部國画伯の作品で、昭和18年6月頃のラバウル飛行場における出撃前の零戦整備の風景を描いたものです。
 「整備魂」の名称は、愛機の武運を自らの技術の全てを懸け黙々と炎天下の野戦整備に励んだ兵士たちの精神を上手に表現しています。
 苛烈を極めた航空戦闘の陰には、このような日夜寸暇のない整備に明け暮れた兵士の努力がありました。
 しかし、戦況は悪化し整備関係の多くの兵士は艦艇や不慣れな陸戦に参加し、無念を胸中に亡くなられました。
 この絵は、その遺徳の顕彰と鎮魂を祈念して、海軍関係将兵の生存者の浄財により、靖国の御社に奉納されたものです

2025年は第3術科学校の史料室は非公開でした。残念。
旧軍的には、第3術科学校の史料室のほうが見ごたえ高し。

ポスター

厚生センターの売店(デイリーヤマザキ下総航空基地店)で、「市ヶ谷台(本格焼酎・長期貯蔵酒・宮崎の神楽酒造)」が売っていたので、思わず購入。

「下総航空基地メロンパン」と「下総クリームアンパン」と「梨ウォーター」


※撮影:2025年10月


関連

「木更津海軍航空隊と第2海軍航空厰」木更津の海軍戦跡散策3

木更津の戦跡散策。
その1とその2は、陸上自衛隊木更津駐屯地を中心に取り上げましたが、「その3」では駐屯地の外を散策してみました。

「その1」は、下記にて。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-66
昭和22年(1947年)2月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

木更津には「木更津海軍航空隊」と「第2海軍航空厰」がありました。

現在の様子(GoogleMap)


巌根駅

袖ヶ浦駅と木更津駅の間に位置する、巌根駅。
開設は、昭和16年11月20日。太平洋戦争開戦の直前。
第2海軍航空厰を開設した大日本帝国海軍の要請に基づく。
現存する駅舎も、昭和16年11月の開業以来の佇まいを残している。

巌根駅


巌根駅・第2海軍航空厰の連絡道路

巌根駅から「第2海軍航空厰」への連絡道路。

連絡道路のつきあたりに「倉庫」がある。この敷地がかつての「第2海軍航空厰」となる。


海軍航空厰

海軍航空厰は、海軍航空隊で使用される軍用機の製造や部材調達・保管や修理などを行っていた工場。

昭和7年4月に「海軍航空厰」として、追浜に設置されたことに始まる。
昭和14年4月に追浜の海軍航空厰は「海軍航空技術厰」に改称。

第1海軍航空厰
昭和16年10月に、海軍航空技術厰霞ヶ浦出張所が、改めて「第1海軍航空厰」として独立。
第2海軍航空厰
第1と同じく、昭和16年10月に木更津に「第2海軍航空厰」が新設。第2海軍航空厰の本厰は「木更津(巌根)」。そのほか館山・八重原・瀬谷などに工場が展開され、昭和19年には松本にも疎開工場が展開された。
第11海軍航空厰
昭和16年11月に、広海軍工廠から航空機部が独立。本厰は広。
第12海軍航空厰
昭和16年10月、第11海軍航空厰分廠を改編。本厰は大分市今津留。
第21海軍航空厰
昭和16年10月、長崎県大村市に開庁。
第31海軍航空厰
昭和17年4月、第11海軍航空厰舞鶴支厰が独立。
第41海軍航空厰
昭和17年4月、第2海軍航空厰大湊支厰が独立。昭和19年10月に、千歳に本厰が移転。
第51海軍航空厰
昭和17年4月、第21海軍航空厰鎮海支厰が独立。


第2海軍航空厰・巌根工場の防音運転場
(現・貸スタジオ)

昭和16年10月開設。
現在は、木更津倉庫株式会社や貸スタジオの敷地となっている。

そこに残る建屋が「防音運転場」。
航空機の発動機の動作確認を行っていた防音施設だったようで。
現在は、防音ということを活かして、現在は、貸スタジオ(ハウススタジオ)となっている。
STUDIO ZERO NOIR (Pilot’s)
下記のサイトに内部写真が掲載されている。

https://studio.powerpage.jp/#!/detail/10784

大体の場所

場所:

https://maps.app.goo.gl/ab8ucVKCLmFi3mnt9


第2海軍航空厰・巌根工場の建屋
(現・貸スタジオ)

空自入り口の左側の三角屋根の建屋は海軍時代のもの。
空自の敷地ではなく、民間の撮影スタジオとなっている。

場所:
https://maps.app.goo.gl/hh2ektFWwp9iBrPp8


第2海軍航空厰跡
(現・航空自衛隊木更津分屯基地)

木更津の空自。
ちなみに、木更津には、陸自と海自と空自と揃っている。

航空自衛隊木更津分屯基地

第4補給処木更津支処
木更津地方警務隊

基地のなかには入れないので、外から外周を歩きながら見学。

なんかいた。

F-104J

T-1B


第2海軍航空厰・海軍木更津飛行場の連絡道路
(海軍道路)

この界隈では、交通量に見合わず格別に広い道路。
まさに、海軍のために設けられた道路。

第2海軍航空厰のあった「空自」から、木更津海軍航空隊のあった「海自」に赴く。「海自」の奥は「陸自」もある。


木更津海軍航空隊(木空)・海軍木更津飛行場

昭和11年(1936)4月1日、木更津海軍航空隊が現在の陸上自衛隊木更津駐屯地の場所に開隊。
木更津海軍航空隊は、鹿屋海軍航空隊と同時に開隊した日本初の陸上攻撃機部隊。
昭和17年(1942)11月1日に、第七〇七海軍航空隊と改称、翌12月1日に第七〇五航空隊(三沢空)に編入。
七〇七空の解散後も木更津飛行場は拠点基地として機能。
昭和20年8月7日には、木更津飛行場において、日本初の純国産ジェット機「橘花」が飛行に成功している。

敗戦直後の1945年8月19日、参謀次長河辺虎四郎中将を筆頭とする降伏全権団は、米軍の指示で木更津海軍飛行場から沖縄県の伊江島まで2機の飛行機=緑十字飛行(1番機一式大型陸上輸送機と2番機一式陸上攻撃機の緑十字機)で向かい、さらに伊江島から米軍機に乗り換えてフィリピンに向っている。

戦後は米軍の駐留を経て1956年(昭和31年)に航空自衛隊木更津基地が間借りする。
1961年(昭和36年)に米軍は立川飛行場に転出し、航空自衛隊が占有するが1968年(昭和43年)に入間基地に転出。
入れ替わりに陸上自衛隊が転入して木更津駐屯地となり、現在に至る。


木更津海軍飛行場の格納庫
(現・海上自衛隊航空補給処)

木更津の海自は、海上自衛隊の航空機が使用する搭載装備品の補給・整備を中心とした後方支援業務を実施している。
ここ木更津が本処。
海自は、千葉県内には「下総航空基地」と「館山航空基地」を有している。

何かのいかりと大きな格納庫

海軍飛行場時代の格納庫

敷地には入れないので、全て敷地外から。

色は、緑系で、手前が濃くて奥が薄め。

裏に回ってみました。

存在感

場所はこのあたり。


海軍時代の施設跡(防空壕・退避壕)
(現・陸上自衛隊木更津駐屯地)

木更津駐屯地の北東から北端の周辺道路を歩いてみる。
海軍時代の建造物が散見しているのがわかる。

こんなかんじで、不自然なコンクリート建造物がある。
1つめ。

2つめ。

3つめ。

4つめ。

なにか新しく建造中。富士山見えてる。

5つめ。
往時っぽい建造物はほかにあるかもしれないけど、周辺を歩いてみるだけでも、かなりの数が目に止まる。


木更津海軍飛行場時代の橋梁

北西端あたりに橋梁跡が残っている。


木更津海軍飛行場時代の掩体壕

北西端あたりに、掩体壕がいくつか残っている。
敷地外からも、垣間見ることができる。

木更津飛行場の北西端は、江川海岸・潮干狩場

東京湾を挟んで、富士山が見えた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/vyecfVRcwesDAEZf8


木更津海軍飛行場時代の施設

木更津市中里の交差点(セブンイレブンとかパールショップともえなどがある交差点)の北西部の住宅街に残るコンクリート施設。

だいたいこのあたり


海軍時代の止水栓蓋

木更津駅の北側、房総往還道路に面した商店街の歩道に残っていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/uzpYyMVZLNhwcTPm6

古そうな建物も周辺に残っている。
旧金田屋洋品店は、昭和7年の建立。

場所:

https://maps.app.goo.gl/6RLrUgELkNA7c8CFA


※撮影:2024年2月

南西諸島海軍航空隊「巌部隊」本部陣地壕「寿山海軍壕」(沖縄戦跡慰霊巡拝11)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その11」となります。

その10は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


カテーラムイ(寿山)旧海軍壕

小緑駅の東側にある田原公園に。
海軍小禄飛行場(現在の那覇空港)を防衛するための海軍航空隊「巌部隊」(南西諸島海軍航空隊)の本部陣地が置かれた壕。

カテーラムイ(寿山)旧海軍壕
 海軍航空隊巌部隊の本部陣地壕。日本軍は、この地を寿山と称した。小緑飛行場防衛のため、小緑・豊見城一帯では、海軍少将大田実司令官の指揮下に連合陸戦部隊が編成され、多くの陣地壕が掘られた。その一つが本壕で、1944年8月から12月にかけて住民も動員して突貫工事で完成した。総延長は約350mで、その中に司令室・兵員室・暗号室などが設けられた。
 1945年6月4日、米軍は飛行場のある字鏡水に上陸、戦闘が始まった。6月7日、米軍はここカテーラムイ一帯に激しい攻撃を加え、数日で制圧した。壕内には最大1,000人余の将兵・住民がいた。南部への撤退、避難民、戦死者ともに不明であるが、8月段階でも約50人が壕内にとどまっていたいう。

開口部が2つ見える。

案内板のある開口部。

https://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/spot/154

場所:

https://maps.app.goo.gl/FF7zfmyNRsF8hscn8


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その12」へ

「沖縄県民斯ク戦ヘリ」沖縄方面根拠地隊司令官・大田実海軍中将と「海軍司令部壕」(沖縄戦跡慰霊巡拝10)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その10」となります。

その9は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


大田実(大田實)

最終階級は海軍中将。千葉県長生郡長柄町出身。
大田實生家前(生誕地)には「海軍中将大田実顕彰碑」が建立されている。
海兵41期。同期には草鹿龍之介、木村昌福、田中頼三などがいる。
大田実は海軍の陸戦隊の隊長として上海事変や二・二六事件などで活躍している。
太平洋戦に於いては、ミッドウェー島の上陸部隊の海軍指揮官(陸軍指揮官は一木清直)となるも、ミッドウェー海戦の敗北により上陸作戦は中止となった。
沖縄戦では、海軍先任者として、沖縄根拠地隊司令官として、約一万人の海軍陸戦部隊を指揮。沖縄本島の小緑半島を防衛するも、陸軍の南部撤退により海軍司令部は孤立し、部隊は玉砕。
大田實は豊見城の海軍壕で自決。

沖縄戦に際して、沖縄知事・島田叡とは戦闘の最中でも密接な連絡を取り合い、肝胆相照らす仲であったという。

大田海軍司令が最後に発した電報の冒頭にある「県知事より報告せらるべきも」「本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども」の文言を添えたのも、本来民間人の苦労を伝えるのに最も相応しいのは、「県民に関して、殆ど顧みるに暇なかりき」と言った軍人からではなく、最後まで彼ら県民と共にあった島田県知事であるはずであるが、既に沖縄県庁の組織自体に通信能力が無く、やむを得ず大田が、行政官である島田に代わって県民の姿を伝えるという意思から綴られたものであった。

最後の電報は、1945年6月6日午後8時16分に、海軍次官多田武雄宛に発せられた。
玉砕決別電報の常套句であった「天皇陛下万歳」等の言葉はなく、ただただ沖縄県民の敢闘の伝えている電報であった。
 沖縄県民斯ク戦ヘリ
 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

1945年6月13日、海軍壕で自決。
死後、海軍中将に特別昇進。満54歳没。

辞世の句
 大君の
  御はたのもとに
   死してこそ
 人と生まれし
  甲斐ぞありけり


海軍戦没者慰霊之塔(海軍壕公園)

「旧海軍司令部壕」は、那覇市の南西、豊見城市の豊見城の小高い丘にある。
海軍戦没者慰霊之塔は、昭和33年(1958)の建立。

海軍戦没者慰霊之塔
野村吉三郎謹書

野村吉三郎は海軍大将・外交官。阿部内閣で外務大臣、第二次近衛内閣で駐米大使に任じられ、真珠湾攻撃まで日米交渉に奔走し戦争回避を模索。
戦後は日本ビクターの社長を経て、海上自衛隊の前身となる海上警備隊の創設に関わる。その後、参議院銀として政界人として活躍した。

旧海軍司令部壕
この壕は太平洋戦争中沖縄方面根拠地隊司令部のあった場所で昭和20年6月13日午前1時戦い利あらず遂に大田実司令官は
 大君の 御はたのもとに 死してこそ
 人と生まれし 甲斐ぞありけり
の辞世の句を残し将兵四千余名と共に壕内で壮烈な最期を遂げ太平洋戦争中最も悲惨を極めた沖縄戦における海軍部隊の組織的戦闘はここで終わった。鋤やつるはしで掘った壕には司令官室作戦室等があった当時の姿をしのび世界の恒久平和を祈念するにふさわしい戦跡でもある。

参加部隊名
沖縄方面根拠地隊
南西諸島航空隊(巌部隊)
第九五一航空隊 沖縄派遣隊(護部隊)
神風特別攻撃隊
佐世保軍需部那覇派遣隊
佐世保運輸部那覇派遣隊
佐世保工廠那覇派遣隊
沖縄海軍地方人事部
第二二六設営隊
第三二一〇設営隊
第三十七魚雷調整班
沖縄島連合陸戦隊
第二十七魚雷艇隊
第二蛟龍隊
第二一空廠派遣隊
震洋隊 第19 第22 第23 第26 第38 第41 第42

参加艦艇
軍艦 大和・矢矧・迅鯨
駆逐艦 磯風・雪風・濱風・初霜・朝霜・霞・冬月・涼月・沼風
潜水艦 伊号第8・伊号第44・伊号第56・伊号第361
    呂号第41・呂号第46・呂号第49・呂号第56・呂号第109
特務艦 杵崎
特設砲艦 長白山丸
敷設艦 廣島・鴎・燕
海防艦 第四十二号
輸送艦 第十八号・第158号
水雷艇 真鶴・友鶴
回天隊 多々良隊・天武隊・振武隊・轟隊・多聞隊・白龍隊
駆潜艇 海威
 昭和33年10月30日
 海軍軍人軍属生存者一同建立

沖縄戦に関係したすべての海軍部隊が明記されている。

南無阿弥陀仏

旧海軍いわお部隊
地域住民
戦没者之碑

特設陸戦隊第二大隊
第一中隊員之慰霊碑

海軍壕のある丘からの景観。はるかに海を望む。


旧海軍司令部壕・展示室

海軍壕公園ビジターセンターから展示室に。

https://kaigungou.ocvb.or.jp

大田実司令の最後の伝文。
沖縄県民に大きな感銘を与えた。

大田司令官の少将旗

旧海軍司令部號見取図
昭和19年8月着工、同年12月完成
第226設営隊(山根部隊3,000名)
司令官室、幕僚室、作戦室、通信室、暗号室、下士官室、信号室、その他

合掌


旧海軍司令部壕

下に


旧海軍司令部壕・信号室

この部屋からモールス信号などにより部隊間の通信を実施していた。


旧海軍司令部壕・作戦室

コンクリート漆喰でかためた当時のままの部屋。

作戦を練る重要な部屋でコンクリート漆喰で固めた当時のままの部屋です

当時の配電用碍子


旧海軍司令部壕・幕僚室

自決の手榴弾の弾痕が残っている。

合掌

みたまやすらかに

司令官室・作戦室に近いこの部屋は幕僚が手榴弾で自決した時の破片のあとがくっきり残っています。当時のままの部屋です。

自決された時の手榴弾の弾痕

なまなましい弾痕が残る。

合掌


旧海軍司令部壕・司令官室

司令官室で大田實と幕僚たちが自刃した。
みたまやすらかに。

大田実少将(当時)外幕僚6名が最期を遂げた当時のままの部屋です。

大田実司令官の辞世の句

 大君の
  御はたのもとに
   死してこそ
 人と生まれし
  甲斐ぞありけり

「大君の錦の御旗のもとに屍をさらしてこそ、日本に人と生まれて来た甲斐があるというものだ。」

この辞世の句は、寺田屋騒動の首謀者とされている幕末の志士・田中河内介(綏猷)の詩。大田実司令が愛唱していた。

大田司令の辞世の句は、フィルム保護がされていた。

神州不滅

神国である日本は不滅である

醜米覆滅

当時、戦闘中に記載された四文字は、かすれてきていた。「醜いアメリカを覆し滅ぼす」
この4文字に対しては、フォルム保護などが行われておらず、で。

観音菩薩様

やすらかに
 鎮まりませと 
  ひたすらに
願ひをこめし
 黄菊白菊

平和祈念
至心合掌

なお、施主に名を連ねている板垣愛子氏は大田司令官の3女。

沖縄県民はこのように戦いました

司令官室
大田司令官は県民の将来を憂い、「沖縄県民かく戦えり」の電文をこの部屋で書きました。

1945年6月6日20時16分
大田實海軍少将は自決する直前、沖縄司令部発、沖縄県民の献身的作戦協力を伝える電文を海軍次官宛に発信。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結んだ。


旧海軍司令部壕・医療室


旧海軍司令部壕・発電室

壕掘り作業
この壕はすべて兵士たちの「つるはし」や「くわ」によって掘られた手作りの壕です。


旧海軍司令部壕・下士官室

下士官室
玉砕前この部屋には兵士達がいっぱいで、立ったままで睡眠や休息をとったといわれています。

下士官室復元図
当時の壕内には、国頭方面から運ばれてきた琉球松が、支柱として多数使われていました。


旧海軍司令部壕・出撃の出口

出撃風景(出口付近)
兵士たちのほとんどは武器らしい武器もなくこの出口から出撃、大半が二度と帰ってきませんでした。


旧海軍司令部壕・出口

頒布物

場所:

https://maps.app.goo.gl/jGcbK9fNwVuiDE5ZA


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その11」へ

日米親善よこすかスプリングフェスタ 2025(米海軍横須賀基地)

久しぶりに米軍基地に行って、見たいものをサクッと見てきました。

始発で地元駅を出発し、7時過ぎに横須賀中央駅に到着。そこから、「三笠ウォンブルゲート」に到着。1時間程度の待ちで8時にはゲート前に列が圧縮され、そして8時半にはゲートを通過できました。ほぼほぼ全員が艦船公開に方向に向かっていく中で、私はとりあえず門柱をパシャパシャと。


旧海軍工機学校の門柱

神奈川歯科大学側から、海軍工機学校の門柱を見たことはあったけど、米軍側から見たのは初めて。

神奈川歯科大側のレポートは下記にて。

米軍側から、海軍工機学校の門柱を。
「三笠ウォンブルゲート」からの入場時に見学できます。


旧海軍工機学校の境界壁

海軍工機学校の境界壁も。

これは裏門の門柱かな?


旧横須賀海軍病院の門柱

みちなりに進むと、横須賀海軍病院の門柱が見え得てきます。
その奥の建屋は、横須賀海軍病院の建屋。

横須賀海軍病院

門柱に表記がそのまま残っています。

旧横須賀海軍病院の建屋。


旧横須賀海軍病院の境界壁

旧横須賀海軍病院時代からの境界壁が現存しています。


旧横須賀海軍病院の西側の防空壕跡

コンクリで塞いだ横穴が多数、見受けられます。

防空壕群の上は、邸宅のようなものが整備されている。


旧横須賀鎮守府軍法会議所の正門跡

三笠公園ゲートから来ると突き当り、三笠ウォンブルゲートから来ると左手に見えてくる独特の形状をした門柱が、横須賀鎮守府軍法会議所の正門跡。

旧横須賀鎮守府軍法会議所の北側の防空壕

比較的に大きな開口の防空壕跡。


海軍砲術学校の入口

海軍砲術学校は、1907年(明治40年)から1941年(昭和16年)までの名称。1941年に館山砲術学校が開設されると、「横須賀砲術学校」に改名した。
このトンネルが、海軍砲術学校の正門に相当する入口であった。

望遠レンズを持ってこなかったので、トリミング拡大で。
今度は望遠を持ってこよう。。。


旧海軍の消火栓蓋

ひさしぶりに、消火栓蓋と再開。


SABERHAWKS(セイバーホークス)

第77ヘリコプター海洋打撃飛行隊
愛称は「セイバーホークス」
厚木海軍基地所属。
MH-60R


米軍基地っぽいもの

とりあえず、ステーキを。

エナジードリンクばかり買ってしまいました。
配布用とか。
日本未上陸のモンエナ、とか。

ゲータレードも。

メガモンエナは710ml(日本は355ml)
やばい

iPhone12と並べてみた(大きさ比較)


記念艦「三笠」

米軍側から海を挟んで三笠を見れると、その軍艦当たる雄姿に接することができる。
三笠公園からだと、陸地に接しているので、やはり海側から、ですね。

スプリングフィスティバル

艦船見学は途中まで近寄りましたが、まあいいかなってことで、スルーしました。

※撮影:2025年3月


横須賀関連

はじめに

タイ王国バンコクの戦跡散策その2・戦前の日本が建造した唯一の輸出潜水艦の艦橋が残る「タイ王国海軍博物館」

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)
今回は時間を確保できたので「タイ王国海軍博物館(タイ海軍博物館)」に足を運んでみました。

BTS(BTS Sky Train)のスクムウィット線(Sukhumvit line)タイ王立海軍兵学校駅(Royal Thai Naval Academy)の東側。Bangkokバンコクの中心部からは少し距離がありますが、BTSで一本で来れるので楽チン。

とはいえ、まだまだバンコクでの一人旅は慣れていないけど。

本編は「タイの戦跡散策その1」の続きになります。

まずは、目に飛び込んでくるのが潜水艦の艦橋(セイル部分)。この潜水艦は日本製!なのです。

タイ海軍博物館。
タイ海軍にまつわる貴重な品が5,000点以上保管されている博物館。
入館は無料。
私が訪問したときは、守衛に「I want to visit the museum」でパスポートを提示して、OKでした。ちなみに受付のタイ海軍水兵さんは、英語は今ひとつ(私もですけど)だったので、スマホでタイ語翻訳を使いながら、会話などを。


マッチャーヌ級潜水艦(มัจฉานุ)

タイ海軍の近代化
1933年、タイ王国は近代海軍を創設。大日本帝国がタイ王国の近代海軍化に向けて協力をすることになった。
後に「タイ海軍の父」と言われるチュムポーンケートウドムサック親王(アブハカラ・キアーティヴォンセ王子)は、近代化海軍整備計画として、日本に軍艦の建造を発注した。
そんななかで、川崎重工業で作られた「トンブリ」級海防艦や、浦賀造船所で作られた「メクロン」などとともに、「マッチャーヌ級潜水艦」も発注された。
(戦前の日本から、タイ王国には、2000トン級のトンブリ級海防戦艦2隻、1400トン級のメクロン級スループ艦2隻、マッチャーヌ級潜水艦4隻が輸出された)

タイ海軍初の潜水艦
4隻が建造されタイ王国へ1938年(昭和13年)に輸出された。
戦前戦後を含めて、日本で建造され日本以外で運用された唯一の潜水艦。つまり、日本が建造した唯一の輸出潜水艦であった。
1937年から1938年にかけて、三菱重工業神戸造船所でマッチャーヌ級潜水艦(三菱型潜水艦)として4隻が竣工。当時の日本製潜水艦(ハ号クラスに準じる設計と性能であった。

マッチャーヌ級潜水艦は、乗員29名、基準排水量は水上375トン(水中430トン)、全長51 メートル。
推進機関としてディーゼルエンジン 2 基が搭載されており、水上では約15.7ノット(時速約 28 キロメートル)、水中では約 8.1ノット(時速約 15 キロメートル)の速力を出すことができた。兵装は、45cm魚雷発射管を艦首に4 門(8発)、8cm高角砲 1 門を備えていた。

マッチャーヌ級潜水艦1番艦2番艦は1936年5月6日起工、同年12月24日進水、1937年9月4日に竣工引渡された。この日はタイ海軍では「潜水艦の日」に制定されている。
続けて、3番艦4番艦も竣工し、マッチャーヌ級潜水艦4隻は1938年6月に、日本で訓練を受けたタイ海軍の訓練生らによって、神戸を出港し、3週間かけて、台湾とフィリピンを経由し、バンコクに到着し。7月19日にタイ海軍に就役した。

1940年の仏領インドシナとの国境紛争に際しては、哨戒任務に従事。
1945年のバンコク空襲では、搭載発電機を用いて市街に電力供給を実施。

バンコク空襲
タイ王国は日本の同盟国として英米に宣戦布告をしており、1942年から1945年までバンコク中心部のトンブリ地区では大規模空襲が34回あったとされ、日本の敗戦濃厚になってきた1944年1月から45年1月までの1年間はタイ王国全土でおよそ250回の空襲があったという。

戦後
マッチャーヌ級潜水艦4隻は、結果として大きな戦闘に従事することなく、終戦を迎えている。
日本の敗戦により、日本製潜水艦の保守部材供給に難があることや、1951年のタイ海軍クーデーター(マンハッタンの反乱)失敗に巻き込まれ、1951年に4隻ともに体液となり、解体された。

そのうち、1番艦「マッチャーヌ」の艦橋と単装砲がタイ海軍博物館に展示されている。

マッチャーヌ潜水艦の艦橋

8cm高角砲

そのほかの野外展示物。

アルバトス飛行艇
タイ海軍クーデターの失敗後、航空戦力を保有できなくなったタイ海軍が解禁後に導入した飛行艇。1968年に米空軍より中古導入。

野外展示


タイ王国海軍博物館
(NAVAL MUSEUM 海軍博物館)

入口に、退役軍人さんかな、受付がありまして、そこに記帳を求められます。記帳後に、私がそれなりに大きなリュックを背負っていたので、ロッカーにいれることをおすすめされました。(タイ語だけどなんとなく、ジェスチャーで理解)
そして、左側の部屋から見るようにと、案内をしてくれました。(タイ語だけど、なんとなく理解)

犬が当たり前のようにくつろいでいるのが、タイ王国クオリティー


タイ海軍歴史部門(タイ海軍博物館)

タイ海軍の歴史を中心とした部屋。
歴史学科海軍教育部


HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)
เรือหลวงพระร่วง

タイ海軍がイギリスから導入した最初の近代的な駆逐艦。
タイ海軍プラ・ルワン(Phra Ruang)
旧名(英国海軍):ラディアント(Radiant)

HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)のガルーダ艦首

「HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)/เรือหลวงพระร่วง
模型

船首像

タイ海軍の駆逐艦「HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)/เรือหลวงพระร่วง」(英海軍:レディアント/Radiant)は、1916年に進水し第一次世界大戦時にイギリス海軍(R級駆逐艦)で運用された後に、タイ海軍に1920年の売却された駆逐艦。本艦の購入資金を捻出するために国王ラーマ6世やその他の上流階級の人物が個人的に寄付を行ったことは、タイ王国において軍艦購入のため寄付が行われた最初の例でもあった。
タイ海軍提督アブハカラ・キアーティヴォンセ王子が直々にイギリスへ本艦の購入交渉に向かい、売却後のイギリスからタイ王国への回航の際にはキアーティヴォンセ提督が自ら本艦の指揮を執った。
第二次世界大戦、そしてその後もタイ王国海軍で運用。練習艦として活用され1957年に退役。海軍から除籍後も訓練用の艦体として活用され2000年頃以降に解体され、その後に船鐘やガルーダ船首像などの一部が保存されている。

以下は、タイ王国王が本艦を購入するに至るまでの王室の寄付などのエピソードが記載されている。

タイ王国海軍「HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)」としての活躍のエピソードなど。

1929年7月25日
プラチャーティポック国王(ラーマ7世)のシンガポール・ジャワ・バリ島への王宮訪問に同行

1940年
フランス領インドシナ紛争、大東亜戦争では、
ルアン・シントゥソンクラームチャイ 少将の指揮下で部隊編成され、HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)は第三艦隊に所属。

1959年6月19日
退役


「タイ王国海軍の父」タイ海軍とアブハカラ・キアーティヴォンセ王子の歴史

タイ海軍の歩みなど。

「タイ海軍の父」
海軍創設に尽力したチュムポン王子(チュムポーンケートウドムサック親王/アブハカラ・キアーティヴォンセ王子・Abhakara Kiartivongse)
ラマ5世の28番目の王子であった、タイ王国海軍の創設者、タイ海軍の父のエピソードなど。


Abhakara Kiartivongse祭壇(タイ海軍の父の祭壇)

タイ海軍の父
Abhakara Kiartivongse(アブハカラ・キアーティヴォンセ)の祭壇。

祭壇の絨毯は土足禁止。

神獣
象と鹿と鳥と魚と蛇と縁起の良い5つの動物が合成された神獣。


武器室(タイ海軍博物館)

火器が展示してある部屋

見る人が見れば、楽しいのかもしれないけど、火器関係は知識不足なので、さくっと。


2階へ

祭壇がありました。


タークシン王の祭壇

トンブリー王朝のタークシン王に関するコーナー。

伝記も。タイ語だけど。


タイ海軍の歴代制服とか

なぜかウミガメ

なぜか、アジアゴールデンキャット


奥の建屋に移動。

ガルーダ船首像がお出迎え。

タイ海軍のかつての軍艦模型

軍艦模型

いろいろ、じっくり見ていたら時間がなくなる。。。


HTMS Maeklong/メクロン(メークロン)模型

タイ王国が自国の沿岸警備のために日本の浦賀造船所に発注した軍艦。
1937年竣工、1995年退役。


B-24のプロペラ

1944年5月7日にタイ海軍艦が撃墜したB-24のプロペラ。


HTMS SAMUI サムイ(大東亜戦争)

大東亜戦争で活躍したタイ海軍(HTMS SAMUI サムイ)のエピソード。
電力燃料不足に陥ったタイは、シンガポールとタイのあいだの燃料輸送を、HTMSサムイに委ねる。
HTMSサムイはタイへの燃料輸送を17回成功させたが、1945年3月の18回目で力尽き、潜水艦シーラインの雷撃で沈没。艦長以下31人が死亡し、17人が生存した。

サムイ号の模型(タイ海軍のタンカー)


コーチャン島沖海戦


フランス領インドシナ紛争の一環として、1941年1月17日に起きたタイ海軍とフランス海軍の戦い。
フランス軍の圧勝であった。

HTMS Thonburi トンブリ
タイ王国海軍の海防戦艦(砲艦)
神戸の川崎造船所で建造された。起工は1936年1月12日、進水は1938年8月5日。1938年8月5日に就役。
1941年1月17日のコーチャン島沖海戦で横転擱座。さらには友軍のタイ空軍の誤爆にあうなど、タイ海空軍の練度の低さが露見してしまった。
横転擱座したトンブリは、サルベージには成功したが損傷が激しく、係留状態での練習艦として利用し、1959年6月19日に除籍され、1967年に解体された。
艦橋の一部と主砲塔がタイ海軍兵学校で記念保存されている。(今回は未訪問でしたが)

タイ海軍博物館には、フランス艦の砲撃を受けたHTMSトンブリの船尾装甲も展示されている。

トンブリの模型

チャン島の戦い


HTMS Chakri Naruebet(チャクリ・ナルエベト)模型

タイ海軍の航空母艦(軽空母・ヘリ空母)。1994年7月12日に起工、1996年1月20日に進水し1997年8月10日に就役。


そのほか

タイ語なのでよくわからないけど、(スマホでGoogleレンズを活用しつつ)ふらふらと眺めてみる。


野外展示

魚雷!!


絵画

HTMS Thonburiトンブリ、
フランス海軍との海戦。(コーチャン島沖海戦)
タイ海軍大佐が描いた油絵、1996年にタイ王国海軍に寄贈。

HTMS SONGKLA ソンクラ
同じくフランス海軍との海戦。(コーチャン島沖海戦)
タイ海軍大佐が描いた油絵、1996年にタイ王国海軍に寄贈。


Royal Thai Naval Academy(タイ海軍兵学校駅)

タイ海軍兵学校駅から。

見ての通り、ほとんど人がいない博物館。
ゆっくり見学して、それでも11時30分から13時くらいまで、1時間半くらいの所要でしたが、その気になれば(きちんと翻訳をしながら見学するのであれば)半日いても良い感じ。
今度は、向かいにあるタイ海軍士官学校(トンブリの見学)にも行きたいですね。(次のバンコク行きはいつだろ?)

※撮影:2025年2月


ラヨーン

ちなみに、仕事はバンコクから3時間くらい南のラヨーンのリゾートホテルでのAPACなミーティング参加、でした。

リゾートっぽい

仕事?ノマド感・・・

キーボード沼の終着点。
HHKB Professional Hybrid Type-S SnowWhite

タイの戦跡とは関係ないですが、タイのリゾートっぽい感じってことで。


世界一美しい帆船「アメリゴ・ヴェスプッチ号」(イタリア海軍帆船・東京港)

東京国際クルーズターミナルに世界一美しい帆船と言われているイタリア海軍の練習帆船「アメリゴ・ヴェスプッチ号」(「Amerigo Vespucci」号)が入港してきました。
令和6年8月25日(日)入港、30日(金)出港。
歓迎イベント「Villagio Italia」にて、平日のみ一般公開があったので、足を運んでみました

Amerigo Vespucci World Tour 2023-2025

https://tourvespucci.it/jp


アメリゴ・ヴェスプッチ号(イタリア海軍練習船)
Italian Navy training ship Amerigo Vespucci

「世界一美しい帆船」とされるイタリア海軍(Marina Militare)のアメリゴ・ヴェスプッチ号(Amerigo Vespucci)は、イタリア海軍の練習艦として、1931年に進水。
母港は、イタリアのラ・スペツィア(La Spezia)。

探検家アメリゴ・ヴェスプッチにちなんで命名。
アメリゴ・ヴェスプッチは「新世界」がアジアの一部ではなく、道の4つ目の「新大陸」であったことを論証した探検家にして地理学者であった。
「新大陸」はアメリゴのラテン語名アメリクスの女性形として「アメリカ」と後に呼称された。

 1925年、王立イタリア海軍(Royal Italian Navy、王立海軍 レジア・マリーナ Regia Marina)は、2隻の練習艦を発注した。
1番艦のクリストフォロ・コロンボ号は1928年に就役し、1943年までイタリア海軍で使用された。 第二次世界大戦後、戦争賠償金の一部としてソ連に引き渡され、まもなく退役した。
2番艦のアメリゴ・ヴェスプッチ号は、1930年にカステランマーレ・ディ・スタビア(ナポリ)の(旧)王立海軍造船所で建造された。
1931年2月22日に進水し、同年7月に就役。

アメリゴ・ヴェスプッチ号は全長82.4m(270フィート)、バウスプリットを含む全長101m(331フィート)、最大幅15.5m(51フィート)の総艤装3本マストの鋼船で。 喫水は約7m(23フィート)、満載時の排水量は4146トン。 補助ディーゼル電気推進により、アメリゴ・ヴェスプッチは時速10ノット(19km)に達し、航続距離は6.5ノットで5450海里。
2013年から2016年に掛けて近代化改装が行われ、ディーゼルエンジンを搭載。

3本の鋼鉄製マストの高さは50メートル、54メートル、43メートルで、合計2,824平方メートル(30,400平方フィート)の帆を張っている。
アメリゴ・ヴェスプッチ号には26枚の帆があり、角帆、ステイセイル、ジブなど、すべて伝統的な帆布の帆を用いている。 強い海風条件下で帆を張ると、時速12ノット(22km)に達する。
約30kmに及ぶロープは伝統的な麻のロープのみを使用し、係留索だけは港湾規制を遵守するため合成繊維を使用している。

アメリゴ・ヴェスプッチ号の標準的な乗組員は、士官16名、下士官70名、水兵190名である。海軍兵学校(アカデミア・ナヴァーレ)の中等士官が乗船すると、乗組員は合計約450人になる。


東京国際クルーズターミナルのデッキから

デッキから、見学。軍艦旗のはためきが美しい。

イタリア海軍の軍艦用国籍旗(イタリア海軍紋章)

軍艦旗の中央に使用される紋章は、中世、地中海の覇権を争い、「海洋共和国」(レプブリケ・マリナーレ)と呼ばれた都市国家の紋章を組み合わせたもので、左上がヴェネツィア共和国(聖マルコの獅子)、右上がジェノヴァ共和国(白地に赤十字)、左下がアマルフィ公国(青地に白のマルタ十字)、右下がピサ共和国(赤地に、使徒を示す12の珠の付いた白十字)となっている。イタリア海軍もイタリア商船も共通で使用している。

イタリア海軍の軍艦旗
イタリア海軍の軍艦旗は、国旗と王冠と紋章で構成。

日の丸掲揚
ありがとうございます

船首

中央に最新のアンテナ群。近代化改装の賜物。

おっ、東海汽船のジェットフォイルだ。
「セブンアイランド愛」


東京国際クルーズターミナルの岸壁から

裸婦像
なんだろう。航海の女神的なものかな。


アメリゴ・ヴェスプッチ号の船内

※撮影:2024年8月


関連

イタリア海軍航空母艦「カヴール」と「金沢まつり花火大会」の夜(横須賀)

2024年8月24日の夜。
イタリア海軍の空母「カブール」(ITS Cavour C 550) と「金沢まつり花火大会」を、写真中心に。


イタリア海軍航空母艦「カヴール」と「花火」

例の高台にて。
花火とは知らず、三脚を保有していなかったが、一脚を駆使して、なんとか頑張って撮影してみました。

艦橋がイタリア三色旗「トリコローレ」に彩られている。


ヴェルニー公園の夜

高台から、ヴェルニー公園に移動。

イタリア海軍フリゲート艦「アルピーノ」
ピントが甘いですが。


フランス海軍フリゲート艦「ブルターニュ」

フランスの国旗三色旗(トリコロール)に彩られ。

※2024年8月24日撮影


イタリア海軍航空母艦「カヴール」と「YOKOSUKA軍港めぐり」(横須賀)

2024年8月。イタリアの空母「カヴール」が日本に初めて寄港した。
横須賀にその様子を見に行ったので、写真メインで。


イタリア海軍航空母艦(軽空母)
「カヴール」(Cavour C 550)

カヴール(Cavour, C 550)は、イタリア海軍の軽空母。艦名はイタリア王国の初代首相カミッロ・カヴールに由来する。
2001年7月17日に起工、2004年7月20日に進水、2008年4月27日に就役。
スキージャンプ勾配つき全通飛行甲板となる。
艦載機は、「AV-8B ハリアー II」と「F-35 ライトニング II」の短距離離陸・垂直着陸(STOVL)型を搭載する。

「YOKOSUKA軍港めぐり」を活用して、イタリア空母を見学。

「AV-8B ハリアー II」

「F-35 ライトニング II」

イタリア海軍旗と「F-35 ライトニング II」

艦橋

艦首に、単装砲塔オート・メラーラ 76mmスーパー・ラピッド砲

なんか抗議船がいました、海保の皆様、ご苦労さまです。

例の高台からも。

NHインダストリーズ(NHI)「NH90」艦載ヘリ

ハリアーⅡ、はじめて見ました!


イタリア海軍フリゲート艦「アルピーノ」

カルロ・ベルガミーニ級フリゲート「アルピーノ(Alpino F 594)」。
対潜型フリゲート艦。
2012年2月23日に起工し、2014年12月13日に進水、2016年9月30日に就役。

カヴールとアルピーノ


フランス海軍フリゲート艦「ブルターニュ」

フランス海軍フリゲート艦「ブルターニュ」(FS BRETAGNE D 655)
米軍基地に、フランス海軍も入港。
アキテーヌ級フリゲート艦(駆逐艦)。
2013年起工、2016年9月16日進水、2019年2月20日就役。

フランス国旗とアメリカ国旗。

フランス軍艦の手前には、日本の潜水艦。


YOKOSUKA軍港めぐり

あとはいろいろ。

日本の潜水艦

米海軍ミサイル駆逐艦ラファエル・ペラルタ (USS Rafael Peralta, DDG-115) 
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の65番艦。

米海軍ミサイル駆逐艦マッキャンベル (英語: USS McCampbell, DDG-85) 
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の35番艦。

右は、米海軍ミサイル巡洋艦ロバート・スモールズ (USS Robert Smalls, CG-62) 
タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦の16番艦。 

左は、米海軍ミサイル巡洋艦レイク・エリー(USS Lake Erie, CG-70)
タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦の24番艦。

米海軍ミサイル駆逐艦ヒギンズ(USS Higgins, DDG-76)
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の26番艦。 

奥は、米海軍揚陸指揮艦ブルー・リッジ(USS Blue Ridge, LCC-19)

左は、ジョン・フィン (英語: USS John Finn, DDG-113) 
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の63番艦。

沖合に。
海自「くまの」(JS Kumano, FFM-2)

海自「いずも」JS Izumo, DDH-183

ドイツ海軍補給艦「フランクフルト・アム・マイン」が横須賀に入港。

「いずも」と対面。

相模倉庫

船越地区、長浦港。

海洋観測艦「わかさ」AGS-5104

海上自衛隊掃海艦「ひらど」MSO-305

海洋観測艦「しょうなん」AGS-5106

掃海艇「ちちじま」MSC-605

潜水艦は艦名わかんないね。

特務挺「はしだて」ASY-91 迎賓艇。
潜水作業支援船(水中処分母船1号型)「YDT-03」

輸送艇1号型の2番艇(LC-2002)
多用途支援艦えんしゅう(AMS4305)

いろいろいっぱい。
手前から。
護衛艦もがみ(FFM-1)
護衛艦おおなみ(DDD-111)
護衛艦むらさめ(DD-101)
 桟橋
掃海母艦うらが(MST-463)
護衛艦ゆうぎり(DD-153)
潜水艦救難艦ちよだ(ASR-404)

護衛艦てるづき(DD-116)
護衛艦まや(DDG-179)
 桟橋
イタリア海軍アルピーノ(Alpino F 594)

こんな感じで、多国籍が楽しめた2024年8月25日、でした。


「海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2024」(その2・教育史料館ほか)

2024年7月21日。
今年も館山に。ヘリコプターフェスティバルに。

その1はこちら。

歴史的なことは、昨年の記事で。


海自館山航空基地「教育史料館」

昨年は、1階のみ見学だった気がします。
今年は、2階も見学可能。旧軍関係は、2階に集積されていました。

2階も展示やってます。

はちろくさんの地味なアピール。

おお。冒頭から「海軍」の文字列。嬉しいです。

海軍指定工場

館山海軍航空隊御用達

歴代司令

館山航空隊の歴代司令
初代司令 大佐 堤政夫 
2代司令 大佐 近藤英治郎
3代司令 大佐 堀江六郎
4代司令 大佐 松永壽雄
5代司令 大佐 別府明朋
6代司令 大佐 戸塚道太郎
7代司令 大佐 大野一郎
8代司令 大佐 別府明朋
9代司令 大佐 竹中龍造
10代司令 大佐 大森来雄
11代司令 中佐 藤松達次
12代司令 大佐 菊池朝三
13代司令 大佐 安藤栄城
14代司令 大佐 山縣駿二
15代司令 大佐 藤田元成
16代司令 大佐 高橋農夫吉
17代司令 大佐 中村健夫
18代司令 大佐 鬼塚武二

日本海軍戦闘機の原点
10式艦上戦闘機

溟四躍蛟龍
解説
「龍蛟四溟二躍ル」
蛟は想像上の動物で龍の一種
龍蛟は天に昇る龍
四溟は四方の海
海軍の飛行機が天に昇る龍のように
飛び交う様子を表わす 
 山本五十六書

館山海軍砲術学校

館山海軍航空隊

吊床

戦艦陸奥の鋼材、陸奥鉄

零戦52型用エンジン電動スターター(セルスタータ)

真珠湾攻撃時の南雲機動部隊の陣形模型

2階はマストですね。


館山の戦争遺跡

これはこれは。。。

再調査したくなりますね。

館山航空基地の周辺

海自館山航空基地の中にある記念碑

海軍落下傘部隊発祥の地
 太平洋戦争の海軍落下傘部隊は、館山海軍航空隊で落下傘訓練を行い、昭和16年11月から戦闘に参加し、多くの戦死者が出た。
 戦後、戦死した隊員遺族の有志が平和を願い建立された。

海軍航空写真分隊記念の碑
 海軍における航空写真術科は、当初霞ヶ浦、横須賀両航空隊において教育を実施したが、昭和18年6月に開隊された洲崎海軍航空隊に移行された。
 この地で学んだ人達にとっての心の拠り所として建立された。

海軍航空再興の地
 昭和28年8月12日に、ベル型ヘリコプターが廃部されて操縦訓練が開始された。戦後8年にわたる空白期間から脱して、昭和28年9月16日、保安庁館山航空隊が解説し、海上航空再興の第一歩を記したことを記念して建立された。

悠久の碑
 昭和28年8月12日、この地に海上自衛隊館山基地が開設されて以来、当基地勤務中、惜しくもその職に殉じた尊い御霊を慰め、永久にその功績を顕彰するために建立された。

海軍中攻隊の碑
 日本海軍航空戦史に不滅の光彩を放つ96式中型陸上攻撃機(通称「中攻」)は、昭和10年館山海軍航空隊に配備され、心血を注いだ研究開発と部隊訓練が昼夜を分かたず行われ、当時、世界最高水準をいくものであった。日中戦争では世界初の「渡洋爆撃」を果たした。
 館山海友会と海上自衛隊を中心とする後輩有志により建立された。

以下は、基地の外。

1階は、前回見学したので、省略。


基地内バスツアー

先着順。15名x6回の90人。
立ち入れ禁止エリアに入れるチャンス。

号令台を、いつもと反対側から。

おお!

疾走するバス車内から「海軍中攻隊の碑」を確認!!
記念碑フリークもいるんですよ、次回は見学させてくださいよ!!

消火訓練用のヘリ模型

滑走路エリアに。

滑走路の奥に。

普段は絶対に入れない滑走路エリアをマイクロバスで見学。


館山航空基地内散策

このあたりが古そうな建屋。
館山航空基地は、ほぼ建屋が新築されたので、往時のものは残っていないというが。

ん?
これ、往時の防空壕だったりする?

庁舎

号令台

保存機があった場所。
ここにあった保存機はすべて撤去解体された、とのことで。。。


館山海軍航空隊時代の境界壁

意匠的な造形の壁は往時からのもの。

※撮影:2024年7月


館山関連

はじめに

霞ヶ浦駐屯地 開設71周年・関東補給処 創立26周年記念行事(2024年)

霞ヶ浦駐屯地の記念行事に行ってきました。
2024年4月28日。

戦跡関連は、下記にて


霞ヶ浦駐屯地記念行事

昨年(2023年)は雨天で記念式典観閲行進は中止でしたが、今回は晴天。
霞ヶ浦駐屯地はスペースの都合か、しょうしょう狭い記念式典でした。

記念式典会場

厚生センター

整列

10式さん

はじまり

指揮官入場

観閲官入場

国旗掲揚

巡閲

陸上自衛隊関東補給処長 兼ねて 霞ヶ浦駐屯地司令

陸将なので銀色桜星3個。


観閲行進

補給処本処なので、後方支援な部隊が中心。
それはそれで、良い。

空自も。

16式機動戦闘車

10式戦車

グランドは立入禁止。だいたいの駐屯地はグランドで式典するけど、ここでは使わない。。。


霞ヶ浦駐屯地(本部地区)散策

本部庁舎

霞峰の松


霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿
(第一海軍航空廠 奉安殿)

慰霊殿(奉安殿)の由来
 慰霊殿は、昭和16年頃、第一海軍航空廠の発足とともに奉安殿として建立された歴史的遺産である。
 旧海軍時代の奉安殿は、正面に菊の御紋章を奉じ天皇陛下の御真影と軍人勅諭を収める施設であり近傍を通る人々は拝礼し敬った。終戦後、御真影と直喩は、占領軍の手に渡ることを恐れた関係者がいずれかの場所に移したため行方はわからない。
 昭和20年、第一海軍航空廠を接収した占領軍は日本海軍航空の発展の礎となられた御霊を慰霊するため建立された霞ヶ浦神社の廃棄と、収められていた五千五百七十三柱の殉職者名簿の焼却を命じたが、名簿は阿見町内民家に分散秘匿された。この名簿は、武器補給廠の発足から海軍航空隊殉職者慰霊塔が建立された昭和30年まで奉安殿に大切に保管された。
 その後、奉安殿は慰霊殿と改称され、霞ヶ浦駐屯地関係舞台等の殉職者名簿を奉納し慰霊祭等が行われてきた。
 これらの歴史等を後世に残すため、慰霊殿の由来を記し併せて殉職者に対する敬虔な祈りを捧げる次第である。
 平成21年3月

慰霊殿(奉安殿)
奉安殿は、戦前、戦中に天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語を納めていた神聖な祭祀場であり、昭和10年以降全国の小学校等に建設が行われ、「愛国心」を国民に浸透させる役割がありました。
自衛隊が移設してからは名称が慰霊殿にかわり、昭和49年までの霞ヶ浦自衛隊員殉職者(病死、事故含む)追悼名簿が納められており、現在は毎月毎中途各部隊が清掃を実施、先人達への敬意を表す場となっております。

飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑

広報資料などは、2023年の記事で。。。


高機動車試乗

当たりました!
なかなか壮快な走り、撮影禁止なので、まあ。


霞ヶ浦駐屯地(飛行場地区)

旧海軍時代の格納庫が残る。詳細は2023年の記事で。


庚申塚(庚申青面金剛)

2023年のときは、垣間見れなかった、庚申塚を遠目に見ることが出来ました。(自販機エリアの奥から望遠)
立入禁止なのことはかわりないでしたが。

庚申塚
霞ヶ浦海軍航空隊が格納庫を作る際、300年前から飛行場地区にあった庚申塚を取り払うと、飛行機訓練事故が多発。庚申塚のたたりといわれ、海軍関係者を困らせました。そこで昭和10年、現在地に移しおまつりしたところ事故が絶えたとされています。
庚申塚は十干十二支の「庚申」で、帝釈天とその使者、青面金剛菩薩を祭神としていて、昔は農事の虫取りの神、人間の諸悪を天帝に告げる神としてあがめていました。

庚申塚の由来
(前略)
 庚申塚にまつわる話として言い伝えられていることは、この地に数百年前からあった庚申塚を旧海軍航空隊が格納庫建設のため取り払い工事を始めたところ怪我人が頻発しその後航空事故が続発した。土地の人や工事関係者の間では庚申さまのたtりではないかと恐れていた。
 当時、精強を誇った海軍も庚申塚を取り払ったままにしておけなくなって土地の篤信者と相談し、昭和10年12月現在のところに再築し、小さい方の碑を建立し無事故を祈願した。その後、大事故は殆どなくなりご利益あっらたな庚申塚と言われるようになった。また時期は不明であるが庚申塚に手をかけると災難に見舞われると言い伝えられいる。
 大きい方の碑は格納庫の建設が完了した昭和14年12月に格納庫の落成を謝し建立して航空安全を祈願したと言われている。
 最近では、塚も崩れかかり、碑も傾いてきたので平成6年11月に分校と業務隊が諸々の安全を祈願して整備再鎮座したものである。


霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫(茨城倉庫)

霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫として、霞ヶ浦駐屯地の格納庫3つと、茨城倉庫㈱土浦営業所の倉庫3つが並ぶ。
霞ヶ浦駐屯地の「格納庫A」は管制塔の隣。

  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫B
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫C
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫D →屋根その他に改修あり、外観が異なる
  • 茨城倉庫3
  • 茨城倉庫2
  • 茨城倉庫1

今回は、敷地外から「茨城倉庫」を見学。

自衛隊側からはこちらで。


周辺の建屋

近くに古そうな建屋があったので記録してみたが、往時の航空写真を見直すと、どうやら違うようで。戦後の建屋ですね。

※撮影:2024年4月


関連

よこすかYYのりものフェスタ2024(海自・横須賀基地)

2024年6月9日。久しぶりに横須賀に護衛艦を見に行きました。
海上自衛隊横須賀地方総監部へ。

横須賀のヌシ「いずも」はお出かけで、いつもとはちょっと違うメンバーが停泊。

写真中心で。

横須賀のヌシ「いずも」は、何度か乗ってます。。。


護衛艦「てるづき」「あきづき」試験艦「あすか」

DD-116 護衛艦「てるづき」(あきづき型2番艦)母港は横須賀
DD-115 護衛艦「あきづき」(あきづき型1番艦)母港は佐世保
ASE-6102 試験艦「あすか」母港は佐世保

低視認塗装(ロービジ化)で艦番号が薄くなっている「あきづき」「てるづき」
一方で、試験艦「あすか」は、低視認塗装にする必要はないので、くっきりはっきりの艦番号。

護衛艦「てるづき」見学

護守印の中央上部には月の女神「アルテミス」を、右下には「つるづき」を描き、「照り輝く月の下、率先して任務に挑み、達成する」という艦の方針を示しています。
乗員は艦名の由来「照り輝く月」を誇りに思っています。

となりの僚艦「あきづき」

おっ、照月ちゃん。かわいい!


護衛艦「もがみ」見学

FFM-1多機能護衛艦「もがみ」(母港は横須賀)

「もがみ」「くまの」とはよく会いますね。最近。


護衛艦「きりしま」

「もがみ」の隣に停泊。
DDG-174ミサイル護衛艦「きりしま」母港は横須賀。

艦番号423は、補給艦「ときわ」


もがみ型護衛艦

もがみ型護衛艦
FFM-2くまの(横須賀)
FFM-5やはぎ(舞鶴)

艦番号110は、護衛艦「たかなみ」


潜水艦「うずしお」見学

SS-592潜水艦「うずしお」(母港は横須賀)

潜水艦は甲板の上のみだけど、一番混んでました、、、

潜望鏡!!
潜望鏡をぐるぐるするデモ


そのほか

そのほか、目についたものを。

補給艦「ときわ」

AMS-4305 多用途支援艦「えんしゅう」
水中処分船「YDT-03」

曳船YT10


横須賀海軍港務部の境界塀

JRと海自のあいだあたりに残存している境界塀


横須賀海軍港務部係船環表示板


海上自衛隊横須賀地方総監部

繋留用ブイ繋止錨

四瓲 昭和十三、一 (住友マーク)NO5

国産水産物を食べよう!

艦めしーふーど

佳きデザイン!

護衛缶!!

ちょっと高級な缶詰(護衛缶)でしたが、がんばろう!ということで、ゲットしました!

わんわんお


海上自衛隊横須賀資料室(横須賀厚生センター)

なにげにはじめて、でした。

海自の主要部隊配置図。

横須賀と海軍の沿革
 横須賀における海軍の歴史は嘉永6年(1853年)ペリーの来航から始まります。当時、勘定奉行小栗忠順の提唱により建設された横須賀造船所があったことから、明治17年(1884年)海軍省は横須賀に鎮守府を置き「横須賀鎮守府」が誕生しました。横須賀には造船部が開設され、海軍工廠として戦艦「薩摩」「陸奥」空母「鳳翔」「加賀」など多くの軍艦が建造されました。
 また、砲術練習所、機関練習所が置かれ、追浜には海軍航空隊が開設され、海軍基地として大きく発展しました。
 戦時下に水雷学校、通信学校(久里浜)、海兵団(武山)など多くの機関が設けられました。
 昭和20年(1945年)8月帝国海軍は消滅し、在日米海軍司令部が横須賀に移りました。旧海軍施設の一部は民間に払下、昭和27年4月水雷学校跡に海上警備隊横須賀監部が設けられました。

横須賀厚生センター

喫茶と食堂

なんか茶色い揚げ物がてんこ盛りのカレーを食べました。

海上自衛隊横須賀地方総監部庁舎

自衛隊がんばれ!

横須賀で偉い人

撮影:2024年6月


【展示移設作業中】「日本初の零戦復元機」零式艦上戦闘機52型甲(空自浜松広報館エアパーク)

空自浜松広報館エアパークの展示格納庫にて吊り下げられていた「零戦(ゼロ戦)」が展示場所移設作業のために床下に降ろされ、前部胴体/後部胴体に分割されました。
移設完了までの二度と目にすることがないであろう状態の展示。なぜか(仕事の都合で)運良く浜松にいたので、二度とないチャンスとし、無理やり足を運んできました。

浜松広報館によると、以下の通り、どこかのタイミングで「ご覧いただけなく」なるようだけど、ご覧いただくことが出来ました。

令和6年6月24日から展示格納庫に展示中の零戦を、より間近で見ていただける様、展示資料館2階に移設する作業を行います。
移設作業が完了するまでの間、零戦をご覧いただくことができない旨ご了承ください。

浜松広報館NEWS https://www.mod.go.jp/asdf/airpark/NEWS/20240626.html

以前の様子は下記にして。


零式艦上戦闘機五二型甲 A6M5
43-188号機

日本への里帰り第1号機の零戦。

昭和19年3月、三菱名古屋工場製造機。
所属は、第三四三海軍航空隊(1944年1月に開隊した初代、通称隼部隊)。
昭和19年6月〜7月にかけてのマリアナ諸島攻防戦で、米軍との戦闘や米軍機の空襲などにより壊滅し、7月10日に解隊。
浜松基地浜松広報館に保存されている零戦は、第三四三海軍航空隊の飛行隊長・尾崎伸也大尉(海兵68期)が昭和19年6月19日に米軍と交戦し被弾し不時着し放棄された機体。尾崎伸也大尉は戦死されている。
海兵68期の尾崎伸也大尉の同期には、作家・豊田穣、撃墜王・鴛淵孝、九軍人の広尾彰、海軍中将松永貞市の息子・松永市郎、捕虜第一号となった酒巻和男など。
第三四三海軍航空隊は、昭和19年12月に再編(二代目)される、これが通称「剣部隊」として紫電改を用いて有名となった航空隊。

昭和39年1月に日本に里帰り。

零式艦上戦闘機(零戦)の展示経緯
昭和38年4月  
 本展示機がグアム島で発見される。
昭和38年7月
 グアム島知事から日本への返還が決まる。
昭和39年1月
 米軍C-130輸送機により岐阜基地へ搬送。
 本機の製造元である三菱重工業大江工場にて忠実な復元作業を実施。
昭和39年10月
 我が国で最初の零戦復元機が完成。(その後、全国各地において展示されたため期待の損傷がひどくその管理が必要とされた。)
昭和42年11月
 航空自衛隊の航空機整備のメッカ(航空機の整備学校が所在)である浜松基地に移送されその後浜松基地において展示・管理された。
平成11年4月
 航空自衛隊浜松広報館開設に伴い、当館において展示される。

零戦52型
零戦52型は1943年8月初飛行し、太平洋戦争後半の日本海軍の主力戦闘機として活躍した機体である。この機体には甲、乙、丙の3種の型があり、零戦総生産数約1万機のうち、4種あわせた52型シリーズは約6,000機が生産された。

性能
全幅 11m
全長 9.1m
全高 3.5m
全備重量 2,733kg
エンジン 栄21型 最大出力1,100馬力x1基
最大速度 565km/h
実用上昇限度 11,740m
航続距離 1,920km
乗員 1名
搭載武装 7.7mm固定銃x2門 99式20mm固定銃x2門

以下、移設作業中の展示状態を見学。

撮影:2024年7月


トルコ海軍コルベット艦「クナルアダ」(日本・トルコ外交関係樹立100周年記念)

2024年は、日本・トルコ外交関係樹立100周年。

2024年6月。
日本とトルコの歴史を振り返りつつ、トルコ軍艦を見学してきました。


エルトゥールル号遭難事件

日本とトルコの交流は、1887年の小松宮彰仁親王のオスマン帝国訪問と、翌年のエルトゥールル号の来日から始まった。

1887年、小松宮彰仁親王がヨーロッパ訪問の途中で、オスマン帝国の首都イスタンブールに立ち寄った。それに応える形で1890年、オスマン帝国スルタンであったアブデュル・ハミト2世の使節としてフリゲート艦「エルトゥールル」が日本へ派遣された。
使節は 明治天皇へ親書などを手渡し帰国の途についたが、和歌山県沖で台風に巻き込まれ座礁沈没。
特使オスマン・パシャを含め500名以上の乗組員が死亡した。このとき紀伊半島南端の和歌山串本・大島の住民が救援に駆けつけ69名を救出した。報告を受けた 明治天皇は直ちに神戸港へ医師と看護婦を派遣、救援に全力をあげた。さらに生存者には日本全国から多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。
生存者は日本海軍の装甲コルベットの金剛と比叡により、オスマン帝国に丁重に送還された。
「トルコ軍艦遭難事件」とその顛末はトルコ国内で大きく報道され、日本人に対する友好的感情もこの時より醸成された。
現在、和歌山県串本町には遭難事件にまつわるトルコ記念館がある。


日露戦争

1904年から始まった日露戦争に、オスマン帝国国民は大きな関心を寄せた。
これはクリミア戦争(1853年 – 1856年)・露土戦争(1877年 – 1878年)などによるもので、日本・トルコ両国にとってロシア帝国は共通の敵であった。
トルコを苦しめてきたロシア帝国であったが、1905年に日本が日本海海戦でロシアバルチック艦隊に対し決定的な勝利をおさめると、オスマン帝国国内では、日本の快勝を自国の勝利のように歓迎した。


第一次大戦

極東で南下政策を日本によって阻止されたロシア帝国は、オスマン帝国(オスマン・トルコ)に矛先を転じ、ボスボラス海峡とイスタンブールの掌握を目指した。トルコはドイツと接近し、第一次大戦は、同盟国(ドイツ帝国、オスマン帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国)として、連合国(イギリス、フランス、ロシア、日本)と戦うことになった。
日本は連合国(日英同盟)として、同盟国と戦うことになり、オスマン帝国と日本は交戦国となる。
敗れたオスマン帝国は、1920年セーヴル条約によって広範な領土を失った。


トルコ革命(トルコ独立戦争)

第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国は、さらなる列強による国土分割・植民地化の危機にあった。

しかし1922年からアンカラに樹立された大国民議会政府(アンカラ政府)ケマル・アタテュルク(現代トルコの国父・建国の父)らの主導で祖国解放戦争が開始され、祖国解放戦争に勝利、オスマン帝国を打倒して、トルコ共和国が成立。
1923年のローザンヌ条約(フランス・イギリス・イタリア・日本・ギリシャ・ルーマニア・ユーゴスラビア・トルコ)により国境が決定した。


平明丸事件(ツムラ・ユキチ通り)

終戦によってロシアの捕虜となったトルコ兵は1918年に日本側に移管され、その後、日本が捕虜をトルコ本国へ送り届けることとなった。
1921年に捕虜を乗せた輸送船の「平明丸」(司令官・津村諭吉)がトルコ到着直前にギリシャ軍に拿捕された。
これは、ギリシャ政府はトルコ内(小アジア)の領土を獲得しようと侵攻しており戦争状態(希土戦争)であり、トルコ兵捕虜返還によりトルコ側の戦力増強につながることを懸念したためであった。

津村中佐は、ギリシャより捕虜の引き渡しを要求されたが、これを拒否した。そして7カ月近い抑留の末、仲介役のイタリアに捕虜を引き渡し、トルコ兵らを救った。
結果として、トルコ人捕虜の多くは最終的に1922年6月に無事帰国、その後はギリシャの懸念通り直ちに祖国解放戦争に参加し、同年9月にギリシャ軍はトルコから完全撤退することになった。

2020年にイスタンブール市内のある通りが「津村諭吉中佐通り」と改名された。


日本・トルコ国交樹立

トルコ共和国建国の翌年、1924年の8月6日に日本がローザンヌ条約を批准し、同条約が発効したことにより、トルコと日本の間で外交関係が樹立。
その後、1925年にトルコに日本大使館を開設。
中東地域での日本大使館開設はトルコが初めてであり、これは日本政府が当時からトルコをいかに重要視していたかを示している。

1926年に日土協会が発足。
1928年にはトルコ海軍が日本海軍に駆逐艦や潜水艦などの建造を依頼。
1929年に高松宮宣仁親王( 昭和天皇弟宮・日本海軍将校)が、日土協会の総裁に就任。
トルコは、日本の明治維新を手本として、近代化政策をすすめていった。
1930年、日土通商航海条約が結ばれ両国の関係はより強固なものとなった。


第二次世界大戦

第二次世界大戦でトルコが枢軸国側に参加することは無かった。
開戦当初からトルコは中立を宣言し、中立を長らく維持していたがイギリスをはじめとした連合国の圧力により、1945年日本に宣戦布告した。
しかしトルコ国内世論は宣戦布告に反対であり、日本に対しての軍事行動は一切行わなかった。

戦時中に、破棄された国交は、1951年のサンフランシスコ平和条約によって回復。
トルコ政府は日本政府に対して、賠償をはじめとする一切に請求を行わなかった。


日本・トルコ外交関係樹立100周年

1924年から100年。
2024年、日本とトルコは外交関係樹立100周年を迎えた。


トルコ海軍コルベット艦「クナルアダ」

アダ級コルベット「クナルアダ」が、国交樹立100周年を記念して、東京港(東京国際クルーズターミナル)に入港し一般公開されました。


クナルアダ(F514 TCG Kınalıada)
トルコ海軍初の国産大型水上戦闘艦。ステルス艦として設計されている。
排水量2465トン、全長99.56メートル。
イスタンブール海軍工廠で起工され2019年に就役した。

ムスタファ・ケマル・アタテュルクの肖像とともに。
トルコ共和国の元帥、初代大統領
「父なるトルコ人」
「現代トルコの国父(建国の父)」

第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国において、トルコ独立戦争とトルコ革命を指導してトルコ共和国を樹立。トルコの近代化を推進し、トルコ大国民議会から「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」の称号を贈られた。「現代トルコの国父(建国の父)」とも呼ばれる。

トルコ国旗

撮影は後甲板のみで、艦内は撮影禁止。

WELCOM ON BOARD
TCG KINALIADA(F-514)

OUR FRIENDSHIP IS GOLDEN

「TCG」(Turkiye Cumhuriyeti Gemisi)(トルコ共和国艦艇)

上からも。

記念の帽子。トルコ国旗が良い!!


トルコ海軍

トルコ海軍の紹介パンフ。

トルコ共和国海軍は、チャカスがスミュルナを制圧した1081年を創設年としている。

トルコ海軍の歴史(意訳概略)
1081年にCaka Bey(チャカ・ベイ/チャカス)の指揮のもとに、イズミット(Izmir)で最初の艦隊が設立されたことにはじまる。
取るか艦隊は、1090年のKoyun諸島の戦いで輝かしい勝利を収めた。
1538年に、バルバロス・ハイレディン・バシャ(Barbaros Hayreddin Pasa)率いるトルコ艦隊は十字軍とのプレヴェザの海戦で勝利を収め、地中海の絶対的な支配を確立した。(大航海時代、ですね)
トゥルグト・レイス(Turgut Reis)の指揮下で、トルコ艦隊は1560年にジェルバ島近くで再び十字軍を破り、地中海の優位性を強化。
トルコ艦隊は、第一次世界大戦の1915年にチャナッカレ海戦(ガリポリの戦い)で連合国を撤退に追い込んだ。(オスマン帝国の名指揮官ムスタファ・ケマル・アタテュルクが活躍)
チャナッカレ海戦(ガリポリの戦い)の勝利と、のちのムスタファ・ケマル・アタテュルクによるトルコ共和故国の設立により、トルコ海軍は新たな海軍として立ち上がった。
トルコ海軍は、「Türkiye(テュルキエ)」の権利、利益、資産、そして潜在的な脅威を守り、地域の案件保証への取り組みに貢献するために、海上での重要な役割を引き受けることで、任務を遂行し続けている。


ケバブ

やっぱり食べたくなるので。
東京国際クルーズターミナルから、ケバブが食べれる場所を探して、一番近場だったお台場まで足を伸ばして、ケバブラップを。


付記

トルコ海軍フリゲート艦「ゲディズ」(2015年撮影)

1890年に現在の和歌山県串本町沖で座礁、沈没したエルトゥールル号事件の125周年記念事業の一環として来日したときの写真などを付記で。

F495 Gediz(ゲディズ)
ガビヤ級フリゲート艦。
旧・米O・H・ペリー級(オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲート)をベースとしている。
元は、米海軍の「ジョン・A・ムーア」(1981就役)
2000年9月1日に米海軍を退役し、トルコ海軍に移管、艦名はゲティズ (Gediz, F 495) と改められた。

エルトゥールル号事件 125 周年記念として、トルコ海軍TCGゲディズが晴海埠頭に寄港。
海自ホストシップ艦は護衛艦たかなみ。

記念品。
エルトゥールル号の本とキーホルダー。

ホスト艦の「たかなみ」

映画「海難1890」
2015年制作の映画。日本とトルコの友好125周年を記念して制作された。
エルトゥールル号海難事故編とテヘラン邦人救出劇編の二部構成。


伊藤整一提督手植えの「父子桜」(杉並区大宮)

一億総特攻の魁となった「戦艦・大和」と、「司令長官・伊藤整一」
伊藤整一提督が、杉並の自宅の庭に手植えをしたという桜は、樹齢80年を超え、今も見事な桜を咲かしている。


坊ノ岬海戦

昭和20年4月6日、沖縄へ海上特攻として出撃した、世界一の大戦艦「大和」。
「大和」は、米軍機との激しい戦闘を繰り広げ、大和は轟沈した。
大和海上特攻を指揮した司令長官が、伊藤整一であった。

昭和20年4月7日14時23分。
大日本帝国海軍の栄光を担った戦艦「大和」。
象徴でもあった戦艦「大和」
一億総特攻の魁として、坊ノ岬沖に散華した。

第二艦隊旗艦「大和」
第二艦隊司令官・伊藤整一中将
第二水雷戦隊旗艦・軽巡「矢矧」 司令官・古村啓蔵少将
第四十一駆逐隊(冬月、涼月)
第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)
第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)

大和・矢矧・磯風・浜風・朝霜・霞が沈没。 戦死は約4000名。


伊藤整一と伊藤叡

伊藤整一
1890年〈明治23年〉7月26日 – 1945年〈昭和20年〉4月7日
海軍兵学校39期。最終階級は海軍大将。

坊ノ岬海戦に出撃した、大日本帝國海軍 聯合艦隊 第二艦隊の司令長官 伊藤整一海軍大将(出撃時は海軍中将)は、昭和20年4月7日に、旗艦大和と命を共にした。

作戦に際して、第五航空艦隊司令長官であった宇垣纏中将は、出撃中の第二艦隊に対して途中まで護衛戦闘機隊を出撃させたが、その護衛戦闘機隊の中に伊藤整一の長男である伊藤叡(あきら)中尉(兵72期)搭乗の零式艦上戦闘機も含まれており、父親の最期を空から見送った。

そして、伊藤長官の戦死から3週間後、搭乗割の変更を自ら申し出て、沖縄特攻に志願した長男・伊藤叡中尉。
伊藤叡中尉は、神風特別攻撃隊直掩隊として出撃。4月28日、伊江島(いえじま)上空に散花した。21歳であった。


父子桜

伊藤整一第二艦隊司令長官が出撃前に、杉並の自宅に手植えをしたソメイヨシノ。
大空襲を乗り越えて焼け残ったその木の根から珍しいことにひとつの枝が伸びた。その姿はまるで戦死した父と子が桜になって共に立っているかのようで、いつしか父子桜と呼称された。

そして、毎年4月7日になると満開の桜の花を咲かせるという。

杉並の伊藤提督手植えの桜は、伊藤整一出身の福岡県みやま市の地域住民を中心とした「大和さくらの会」によって、全国各地へ「父子桜」の苗木植樹活動が行われれている。

なお、杉並の父子桜は、個人宅敷地内となるために、詳細な場所は割愛させていただきます。
場所は、大宮八幡裏手の高千穂大学の近く、国府道沿い、です。

大宮八幡宮の近く。

※撮影:2024年4月


駆逐艦「朝霜」「梅」と重巡洋艦「愛宕」戦没者慰霊碑(三島・妙法華寺)

静岡県三島市の山中に静かに鎮座する玉澤妙法華寺(妙法華寺)。
その境内に、軍艦の慰霊碑があるというので、足を運んでみた。


「愛宕」「朝霜」の慰霊碑建立の経緯

昭和19年(1944)10月。
捷一号作戦、レイテ沖海戦。
第二艦隊司令長官栗田健男海軍中将は、重巡洋艦「愛宕」に座乗し、第一遊撃部隊第一部隊(通称:栗田艦隊)は、10月22日にブルネイを出航し、レイテ島に向かった。
翌日10月23日に米国潜水艦が栗田艦隊を発見し、雷撃を実施。栗田艦隊の旗艦「愛宕」に魚雷が命中し、愛宕は20分後に転覆沈没。1197名の乗員のうち、492名が駆逐艦「朝霜」に、221名が「岸波」に救助され、484名が戦死したという。
駆逐艦「朝霜」は、愛宕生存者を救助後に、駆逐艦「長波」とともに、同じく雷撃を受けて応急修理を行っていた重巡洋艦「高雄」の警戒と護衛を実施。「高雄」に留めを刺そうとする米潜水艦による攻撃を断念させた。

昭和20年4月。

坊の岬沖海戦。沖縄水上特攻作戦(天一号作戦)
4月6日。
沖縄特攻部隊として、第二水雷戦隊第21駆逐隊「朝霜」(司令駆逐艦)、僚艦の「初霜」「霞」は、第一航空戦隊戦艦「大和」(第二艦隊旗艦)、第二水雷戦隊旗艦「矢矧」、第17駆逐隊「磯風」「雪風」「浜風」、第41駆逐隊「冬月」「涼月」とともに徳山を出撃。
翌日7日に、朝霜は機関故障を起こし速力低下し艦隊から落伍。応急修理を実施するも復旧せずに、単艦で米軍機と戦闘。孤軍奮闘し『我敵機ト交戦中』『90度方向に敵機30数機を探知す』との無電を発した後、連絡が途絶え消息が途絶えた。朝霜乗組の第21駆逐司令小滝久雄大佐、艦長杉原与四郎中佐以下、327名の将兵は、消息不明となった朝霜と殉じ、全員戦死認定された。

昭和32年
三島市の高橋氏が朝霜で戦士した息子を思い、朝霜戦没者遺族に呼びかけて、戦没者の冥福を供養する為に玉沢の妙法華寺に「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」を建立。

昭和55年
「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」碑前での慰霊祭を耳にした、軍艦愛宕元乗組員が、愛宕沈没時に乗組員を救助した朝霜の英霊に感謝し、「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」碑前にて、軍艦愛宕戦没者三十三回忌法要を愛宕生存者と遺族の有志により施行し、併せて朝霜の英霊に従事に謝しつつ御冥福を祈念した。
その折に、「愛宕戦没者慰霊碑」建立を決定し、妙法華寺の理解を得て、「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」と並んで建立された。

慰霊碑建立の経緯
 軍艦「愛宕」は、重巡洋艦(壱万屯)で戦時中は第四戦隊の旗艦として活躍し、昭和十九年十月二十三日、比島パラワン島沖の回線で不運にも轟沈せり。乗組員(司令部付を含む)一一九七名のうち戦死者四八四名、その折り救援の駆逐艦「朝霜」が四百九二名同じく「岸波」が二二一名救出せり(戦闘詳報より)駆逐艦朝霜は昭和二十年四月七日沖縄特攻部隊として出撃中、敵機三十余機と交戦、武運拙く第二一駆逐司令小滝久雄大佐、艦長杉原与四郎中佐以下、三二七名の将兵は九州南端沖に護国の鬼と化し、悲惨、艦と共に轟沈。全員戦死せり。駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑の建立は三島市中央町高橋実衛氏(錦店)の父晋吾氏が五男通夫氏も朝霜で戦死したので、子を想う親として同憂の全国の朝霜戦没者遺族に呼びかけ、先達となり全国を行脚し、尚私財を投じ戦没者の冥福を供養する為に玉沢の聖地に、昭和三十二年春建立したものである。
 毎年命日には遺族会長小滝国雄氏(故 小滝司令息子)のもと全国より遺族が碑前で慰霊祭を行っておるがその祭事を地元海軍出身者の集いである海軍会員が協賛し、厳粛盛大に行っており、時候的に玉沢は桜花咲き乱れ好時期であり桜花の如く散りし戦没者を想い同じ海軍にありて運よく達者である事を感謝しつつ戦没者のご冥福を祈念し祭事に奉仕しておる三島地方の出身者海軍会であります。
 この事を軍艦愛宕元乗組員が知り愛宕沈没の折り身を悌し救助に活躍した駆逐艦朝霜の英霊の碑前で先年軍艦愛宕戦没者三十三回忌法要を愛宕生存者と遺族の有志により海軍会員多数列席佛式により厳粛に施行し併せて朝霜の英霊に従事に謝しつつ御冥福を祈念した。その折愛宕戦没者慰霊碑建立の議を決し、妙法華寺の御理解を得て駆逐艦朝霜の碑と並びに建立する事が決り愛宕関係者や海軍出身者その他各界の協賛を得て昭和五十五年十月二十三日建立されました。
 敵味方入り乱れての激戦の最中沈没寸前に救助された生存者の感謝が朝霜の英霊に答えるや如く愛宕戦没者の慰霊碑が建立された事は、戦後三十余年を迎え遅ればせながら両艦の偉勲をたたえると共に、慰霊と御供養になることを信ずるものであります。
 願わくば、此の慰霊碑建立によって永年に平和を願い戦争の悲劇を再び繰り返さないよう楯となっていただき祖国日本をお守りくださることを念願してやまない次第です。
 このようにして由緒深い玉沢の妙法華寺境内に大東亜戦の生んだ海軍の遺跡が生現した次第であります。
  昭和五十五年十月二十三日
   三島田方駿東海軍会


駆逐艦朝霜戦没者之碑
(駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑)

駆逐艦朝霜戦没者之碑
正二位勲一等 小笠原長生 書

駆逐艦朝霜の戦歴
 駆逐艦朝霜は大東亜戦争中 帝国海軍第二艦隊第二水雷戦隊に所属し、太平洋海域の主要作戦に参加、奮闘した。
 昭和二十年四月六日、戦艦大和ほか九隻で水上特攻隊を編成し、米軍による沖縄侵攻を阻止するため、同地に向け 三田尻沖を出撃し 四月七日正午頃 九州南西方面海域において敵機多数と交戦、奮闘するも力及ばず、旗艦 大和 宛て
「我、敵機 三十機と 交戦中」との電報を最後に 十二時十分頃 同海域に沈没、乗組員全員三百二十九柱は 艦と共に 壮絶な最後を遂げた。
 ここに同艦の赫々たる功績を称え、戦没者諸柱の鎮魂のため、此の碑を建立する。


一、建造
   竣工 昭和十八年十一月二十七日
   場所 藤永田造船所(大阪)
二、要目
   排水量 二、〇七七 屯
   全長 百十七米 全幅一〇・八 米
   吃水 三・七六 米
   主機 蒸気タービン二機二軸
   出力 五二、〇〇〇 馬力
   最高速力 三十五 節
   装備 主砲 十二・七糎 二連 三基
      魚雷 六十一・〇糎 四連 二基
   乗員 約三百名
三、戦歴 (参戦した主要な作戦)
   あ号作戦(マリアナ沖海戦)
   捷一号作戦(レイテ沖海戦)
   多号作戦(オルモック輸送作戦)
   礼号作戦(ミンドロ島沖作戦)
   天一号作戦(沖縄突入作戦)

跋文
「駆逐艦朝霜戦没者之碑」は昭和三十一年 同艦沈没時、艦と運命を共にした乗組員総員の鎮魂のために建立された。
 「駆逐艦朝霜戦没者之碑」の建立にあたっては朝霜会地元世話人 髙橋晋五殿の並々ならぬ御苦労があった。
 三島市玉澤の聖地に立つ此の碑を心の拠りどころとして爾来三十数年に亘って遺族と元乗組員から成る朝霜会は、毎年一回此の地に集い相互に親交を深め励ましあって戦後の荒波を乗り越えてくることができた。
 此の度、北海道亀田郡七飯町の遺族 森本絹子殿は篤志を以て英霊の供養のため本戦歴碑を寄進された。
  平成二年四月七日 
   駆逐艦朝霜会一同

揮毫の小笠原長生さん、、、昭和31年建立の慰霊碑にも揮毫されていました。小笠原長生は昭和33年に90歳で没しているので、戦後は、海軍の大長老といったところ。

大和、、、坊の岬沖海戦。


軍艦愛宕戦没者之碑
(軍艦愛宕戦没者慰霊碑)

軍艦愛宕戦没者之碑
参議院議員 源田実 書

巡洋艦 愛宕
巡洋艦愛宕は、広島県呉海軍工廠に於て昭和7年3月30日竣工し排水量12,400屯、太平洋戦争に当り、マレー沖海戦・マレー比島上陸作戦支援・ミッドウェー海戦・アリューシャン攻略戦・南太平洋海戦・ソロモン沖海戦・ガダルカナル攻防戦・マリアナ沖海戦・比島沖海戦等に参加。昭和19年10月23日比島パラワン島西方東経1177北緯922に於て敵潜水艦の雷撃により乗組員480余名と共に沈没す。
我等九死に一生を得て生存した愛宕乗組員は、共に戦った戦友と愛宕の御霊を慰め、永くその名を後世に留めようと決意し、ここに真心をこめて慰霊碑を建立した。
 昭和55年10月23日
  愛宕慰霊碑建立委員長  芹沢吉作
        副委員長  平山正晴
        副委員長  冨樫雅文
  静岡愛宕会会長     山下三男
  三島田方駿東海軍会会長 星谷庄作
   (略)


駆逐艦梅戦没者慰霊之碑
(駆逐艦梅戦没者慰霊碑)

駆逐艦「梅」の慰霊碑が当地にある由来は不明。

駆逐艦梅戦没者慰霊之碑
艦長 海軍少佐 従六位勲四等 大西快治 書

駆逐艦「梅」
丁型一等駆逐艦第5483号艦として藤永田造船所にて、昭和19年6月竣工した。昭和19年10月のレイテ作戦には参加せず、台湾方面輸送作戦に従事していた。

「パトリナオ輸送作戦」
駆逐艦「梅」は、昭和20年1月31日、ルソン島アパリに集結していたフィリピンからの搭乗員救出(フィリピン撤退)のために、台湾高雄からルソン島に向けて航行中に空襲され沈没。

駆逐艦「梅」艦長・大西快治少佐は、子ノ日航海長、水雷艇鳩艇長、朝凪艦長、梅艦長等を歴任。「梅」沈没後は、横須賀突撃隊特攻隊長。終戦後は「萩」艦長を努めている。

艦歴
昭和一九
(四.二四)  大阪藤永田造船所にて進水
六.二   竣工 第十一水雷戦隊に編入
七.一五  桃と共に第四十三駆逐隊を編成
七.二〇  内海西部にて訓練に従事
八.二〇  第三十一戦隊に編入
一〇.一二 台湾沖航空戦に参加
一〇.二三 多号作戦一〇二師団レイテ西岸オルモック上陸作戦掩護
一一.三  人員機材を台湾に緊急輸送
一一.六  戦艦伊勢 日向 五十鈴 新南郡島進出の為護衛任務に従事
一一.一四 戦艦大和 長門 金剛 内地回航の為護衛任務に従事
一一.二五 単艦にてブルネイ方面に進出
一二.二  南西方面艦隊(マニラ)指揮下に入りマニラに回航
一二.五  多号第八次オルモック輸送作戦に従事
一二.一四 マニラ湾にて敵機動部隊の艦載機と交戦
      艦首へ至近弾を受け揚錨機作動不能となる
一二.一五 修理の為香港に回航
昭和二〇
一.一五  香港々内にて米機動部隊艦載機五〇機と交戦 三機撃墜
一.二九  台湾高雄港にて米機動部隊艦載機と交戦
一.三一  比島アパリ集結中の搭乗員救出の為
パトリナオ輸送作戦実施の為
高雄を出港
     バシー海峡にて敵機約三〇機の来襲を受け之と交戦
     被弾三発後部甲板切断沈没 敵一機撃墜(一八時一〇分)
     戦死者八〇余名 東経一二〇度五〇分 北緯二〇度三〇分
茲にて短命なりと雖も 梅の輝かしい戦績を讃え 勇敢に戦い悠久の大義に就いた戦友の霊を慰むる為「梅」ゆかりの地 三島玉沢木山妙法華寺霊峰富士の万年雪溶けて流るる神霊地に 此の碑を建立す
  昭和六十一年一月三十一日(四十年目命日)
   駆逐艦梅慰霊碑建立委員会


永代供養料碑

昭和63年、3団体の寄進。

三島田方駿東海軍会
駆逐艦梅戦友会
静岡県愛宕戦友会


忠魂碑

忠魂碑
陸軍大将 鈴木荘六書

昭和8年建立。
鈴木荘六は、定年退役後に第4代帝国在郷軍人会長であったことから、揮毫された忠魂碑も多い。


日露役戦死病没英霊菩提塔


忠霊殿

にゃあ


玉澤妙法華寺(妙法華寺)

静岡県三島市玉沢にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。
山号は経王山。

1284年(弘安7年)、日蓮の弟子日昭は風間信昭の帰依を受け、鎌倉浜土の玉沢(現鎌倉市材木座)に法華堂を建立したことにはじまる。
1538年(天文7年)戦乱により、越後村田(現新潟県長岡市村田)の妙法寺に避難。
1594年(文禄3年)戦乱により、伊豆加殿(現静岡県伊豆市)の妙国寺に避難。
その後、15代日産の時、1621年(元和7年)に大木沢(現在地)に移転し、日産、日達、日亮の3代に渡り再建された。大木沢は妙法華寺創建の地名をとって玉沢と改称された。

最寄りのバス停は「玉沢」
1時間に1本あるときもあれば、2時間に1本のときもあるので、バスで赴く時は、時間配分は要注意。

私は9時15分に到着して、帰りは11時5分のバスでしたので、約2時間ほどの持ち時間でした。。。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Ndi3Ae2UrL4ohjB78

撮影:2023年12月


関連

朝霜と梅は、藤永田造船所で生まれた