「海軍」カテゴリーアーカイブ

日米親善よこすかスプリングフェスタ 2025(米海軍横須賀基地)

久しぶりに米軍基地に行って、見たいものをサクッと見てきました。

始発で地元駅を出発し、7時過ぎに横須賀中央駅に到着。そこから、「三笠ウォンブルゲート」に到着。1時間程度の待ちで8時にはゲート前に列が圧縮され、そして8時半にはゲートを通過できました。ほぼほぼ全員が艦船公開に方向に向かっていく中で、私はとりあえず門柱をパシャパシャと。


旧海軍工機学校の門柱

神奈川歯科大学側から、海軍工機学校の門柱を見たことはあったけど、米軍側から見たのは初めて。

神奈川歯科大側のレポートは下記にて。

米軍側から、海軍工機学校の門柱を。
「三笠ウォンブルゲート」からの入場時に見学できます。


旧海軍工機学校の境界壁

海軍工機学校の境界壁も。

これは裏門の門柱かな?


旧横須賀海軍病院の門柱

みちなりに進むと、横須賀海軍病院の門柱が見え得てきます。
その奥の建屋は、横須賀海軍病院の建屋。

横須賀海軍病院

門柱に表記がそのまま残っています。

旧横須賀海軍病院の建屋。


旧横須賀海軍病院の境界壁

旧横須賀海軍病院時代からの境界壁が現存しています。


旧横須賀海軍病院の西側の防空壕跡

コンクリで塞いだ横穴が多数、見受けられます。

防空壕群の上は、邸宅のようなものが整備されている。


旧横須賀鎮守府軍法会議所の正門跡

三笠公園ゲートから来ると突き当り、三笠ウォンブルゲートから来ると左手に見えてくる独特の形状をした門柱が、横須賀鎮守府軍法会議所の正門跡。

旧横須賀鎮守府軍法会議所の北側の防空壕

比較的に大きな開口の防空壕跡。


海軍砲術学校の入口

海軍砲術学校は、1907年(明治40年)から1941年(昭和16年)までの名称。1941年に館山砲術学校が開設されると、「横須賀砲術学校」に改名した。
このトンネルが、海軍砲術学校の正門に相当する入口であった。

望遠レンズを持ってこなかったので、トリミング拡大で。
今度は望遠を持ってこよう。。。


旧海軍の消火栓蓋

ひさしぶりに、消火栓蓋と再開。


SABERHAWKS(セイバーホークス)

第77ヘリコプター海洋打撃飛行隊
愛称は「セイバーホークス」
厚木海軍基地所属。
MH-60R


米軍基地っぽいもの

とりあえず、ステーキを。

エナジードリンクばかり買ってしまいました。
配布用とか。
日本未上陸のモンエナ、とか。

ゲータレードも。

メガモンエナは710ml(日本は355ml)
やばい

iPhone12と並べてみた(大きさ比較)


記念艦「三笠」

米軍側から海を挟んで三笠を見れると、その軍艦当たる雄姿に接することができる。
三笠公園からだと、陸地に接しているので、やはり海側から、ですね。

スプリングフィスティバル

艦船見学は途中まで近寄りましたが、まあいいかなってことで、スルーしました。

※撮影:2025年3月


横須賀関連

はじめに

タイ王国バンコクの戦跡散策その2・戦前の日本が建造した唯一の輸出潜水艦の艦橋が残る「タイ王国海軍博物館」

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)
今回は時間を確保できたので「タイ王国海軍博物館(タイ海軍博物館)」に足を運んでみました。

BTS(BTS Sky Train)のスクムウィット線(Sukhumvit line)タイ王立海軍兵学校駅(Royal Thai Naval Academy)の東側。Bangkokバンコクの中心部からは少し距離がありますが、BTSで一本で来れるので楽チン。

とはいえ、まだまだバンコクでの一人旅は慣れていないけど。

本編は「タイの戦跡散策その1」の続きになります。

まずは、目に飛び込んでくるのが潜水艦の艦橋(セイル部分)。この潜水艦は日本製!なのです。

タイ海軍博物館。
タイ海軍にまつわる貴重な品が5,000点以上保管されている博物館。
入館は無料。
私が訪問したときは、守衛に「I want to visit the museum」でパスポートを提示して、OKでした。ちなみに受付のタイ海軍水兵さんは、英語は今ひとつ(私もですけど)だったので、スマホでタイ語翻訳を使いながら、会話などを。


マッチャーヌ級潜水艦(มัจฉานุ)

タイ海軍の近代化
1933年、タイ王国は近代海軍を創設。大日本帝国がタイ王国の近代海軍化に向けて協力をすることになった。
後に「タイ海軍の父」と言われるチュムポーンケートウドムサック親王(アブハカラ・キアーティヴォンセ王子)は、近代化海軍整備計画として、日本に軍艦の建造を発注した。
そんななかで、川崎重工業で作られた「トンブリ」級海防艦や、浦賀造船所で作られた「メクロン」などとともに、「マッチャーヌ級潜水艦」も発注された。
(戦前の日本から、タイ王国には、2000トン級のトンブリ級海防戦艦2隻、1400トン級のメクロン級スループ艦2隻、マッチャーヌ級潜水艦4隻が輸出された)

タイ海軍初の潜水艦
4隻が建造されタイ王国へ1938年(昭和13年)に輸出された。
戦前戦後を含めて、日本で建造され日本以外で運用された唯一の潜水艦。つまり、日本が建造した唯一の輸出潜水艦であった。
1937年から1938年にかけて、三菱重工業神戸造船所でマッチャーヌ級潜水艦(三菱型潜水艦)として4隻が竣工。当時の日本製潜水艦(ハ号クラスに準じる設計と性能であった。

マッチャーヌ級潜水艦は、乗員29名、基準排水量は水上375トン(水中430トン)、全長51 メートル。
推進機関としてディーゼルエンジン 2 基が搭載されており、水上では約15.7ノット(時速約 28 キロメートル)、水中では約 8.1ノット(時速約 15 キロメートル)の速力を出すことができた。兵装は、45cm魚雷発射管を艦首に4 門(8発)、8cm高角砲 1 門を備えていた。

マッチャーヌ級潜水艦1番艦2番艦は1936年5月6日起工、同年12月24日進水、1937年9月4日に竣工引渡された。この日はタイ海軍では「潜水艦の日」に制定されている。
続けて、3番艦4番艦も竣工し、マッチャーヌ級潜水艦4隻は1938年6月に、日本で訓練を受けたタイ海軍の訓練生らによって、神戸を出港し、3週間かけて、台湾とフィリピンを経由し、バンコクに到着し。7月19日にタイ海軍に就役した。

1940年の仏領インドシナとの国境紛争に際しては、哨戒任務に従事。
1945年のバンコク空襲では、搭載発電機を用いて市街に電力供給を実施。

バンコク空襲
タイ王国は日本の同盟国として英米に宣戦布告をしており、1942年から1945年までバンコク中心部のトンブリ地区では大規模空襲が34回あったとされ、日本の敗戦濃厚になってきた1944年1月から45年1月までの1年間はタイ王国全土でおよそ250回の空襲があったという。

戦後
マッチャーヌ級潜水艦4隻は、結果として大きな戦闘に従事することなく、終戦を迎えている。
日本の敗戦により、日本製潜水艦の保守部材供給に難があることや、1951年のタイ海軍クーデーター(マンハッタンの反乱)失敗に巻き込まれ、1951年に4隻ともに体液となり、解体された。

そのうち、1番艦「マッチャーヌ」の艦橋と単装砲がタイ海軍博物館に展示されている。

マッチャーヌ潜水艦の艦橋

8cm高角砲

そのほかの野外展示物。

アルバトス飛行艇
タイ海軍クーデターの失敗後、航空戦力を保有できなくなったタイ海軍が解禁後に導入した飛行艇。1968年に米空軍より中古導入。

野外展示


タイ王国海軍博物館
(NAVAL MUSEUM 海軍博物館)

入口に、退役軍人さんかな、受付がありまして、そこに記帳を求められます。記帳後に、私がそれなりに大きなリュックを背負っていたので、ロッカーにいれることをおすすめされました。(タイ語だけどなんとなく、ジェスチャーで理解)
そして、左側の部屋から見るようにと、案内をしてくれました。(タイ語だけど、なんとなく理解)

犬が当たり前のようにくつろいでいるのが、タイ王国クオリティー


タイ海軍歴史部門(タイ海軍博物館)

タイ海軍の歴史を中心とした部屋。
歴史学科海軍教育部


HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)
เรือหลวงพระร่วง

タイ海軍がイギリスから導入した最初の近代的な駆逐艦。
タイ海軍プラ・ルワン(Phra Ruang)
旧名(英国海軍):ラディアント(Radiant)

HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)のガルーダ艦首

「HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)/เรือหลวงพระร่วง
模型

船首像

タイ海軍の駆逐艦「HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)/เรือหลวงพระร่วง」(英海軍:レディアント/Radiant)は、1916年に進水し第一次世界大戦時にイギリス海軍(R級駆逐艦)で運用された後に、タイ海軍に1920年の売却された駆逐艦。本艦の購入資金を捻出するために国王ラーマ6世やその他の上流階級の人物が個人的に寄付を行ったことは、タイ王国において軍艦購入のため寄付が行われた最初の例でもあった。
タイ海軍提督アブハカラ・キアーティヴォンセ王子が直々にイギリスへ本艦の購入交渉に向かい、売却後のイギリスからタイ王国への回航の際にはキアーティヴォンセ提督が自ら本艦の指揮を執った。
第二次世界大戦、そしてその後もタイ王国海軍で運用。練習艦として活用され1957年に退役。海軍から除籍後も訓練用の艦体として活用され2000年頃以降に解体され、その後に船鐘やガルーダ船首像などの一部が保存されている。

以下は、タイ王国王が本艦を購入するに至るまでの王室の寄付などのエピソードが記載されている。

タイ王国海軍「HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)」としての活躍のエピソードなど。

1929年7月25日
プラチャーティポック国王(ラーマ7世)のシンガポール・ジャワ・バリ島への王宮訪問に同行

1940年
フランス領インドシナ紛争、大東亜戦争では、
ルアン・シントゥソンクラームチャイ 少将の指揮下で部隊編成され、HTMS Phra Ruang(プラ・ルアン)は第三艦隊に所属。

1959年6月19日
退役


「タイ王国海軍の父」タイ海軍とアブハカラ・キアーティヴォンセ王子の歴史

タイ海軍の歩みなど。

「タイ海軍の父」
海軍創設に尽力したチュムポン王子(チュムポーンケートウドムサック親王/アブハカラ・キアーティヴォンセ王子・Abhakara Kiartivongse)
ラマ5世の28番目の王子であった、タイ王国海軍の創設者、タイ海軍の父のエピソードなど。


Abhakara Kiartivongse祭壇(タイ海軍の父の祭壇)

タイ海軍の父
Abhakara Kiartivongse(アブハカラ・キアーティヴォンセ)の祭壇。

祭壇の絨毯は土足禁止。

神獣
象と鹿と鳥と魚と蛇と縁起の良い5つの動物が合成された神獣。


武器室(タイ海軍博物館)

火器が展示してある部屋

見る人が見れば、楽しいのかもしれないけど、火器関係は知識不足なので、さくっと。


2階へ

祭壇がありました。


タークシン王の祭壇

トンブリー王朝のタークシン王に関するコーナー。

伝記も。タイ語だけど。


タイ海軍の歴代制服とか

なぜかウミガメ

なぜか、アジアゴールデンキャット


奥の建屋に移動。

ガルーダ船首像がお出迎え。

タイ海軍のかつての軍艦模型

軍艦模型

いろいろ、じっくり見ていたら時間がなくなる。。。


HTMS Maeklong/メクロン(メークロン)模型

タイ王国が自国の沿岸警備のために日本の浦賀造船所に発注した軍艦。
1937年竣工、1995年退役。


B-24のプロペラ

1944年5月7日にタイ海軍艦が撃墜したB-24のプロペラ。


HTMS SAMUI サムイ(大東亜戦争)

大東亜戦争で活躍したタイ海軍(HTMS SAMUI サムイ)のエピソード。
電力燃料不足に陥ったタイは、シンガポールとタイのあいだの燃料輸送を、HTMSサムイに委ねる。
HTMSサムイはタイへの燃料輸送を17回成功させたが、1945年3月の18回目で力尽き、潜水艦シーラインの雷撃で沈没。艦長以下31人が死亡し、17人が生存した。

サムイ号の模型(タイ海軍のタンカー)


コーチャン島沖海戦


フランス領インドシナ紛争の一環として、1941年1月17日に起きたタイ海軍とフランス海軍の戦い。
フランス軍の圧勝であった。

HTMS Thonburi トンブリ
タイ王国海軍の海防戦艦(砲艦)
神戸の川崎造船所で建造された。起工は1936年1月12日、進水は1938年8月5日。1938年8月5日に就役。
1941年1月17日のコーチャン島沖海戦で横転擱座。さらには友軍のタイ空軍の誤爆にあうなど、タイ海空軍の練度の低さが露見してしまった。
横転擱座したトンブリは、サルベージには成功したが損傷が激しく、係留状態での練習艦として利用し、1959年6月19日に除籍され、1967年に解体された。
艦橋の一部と主砲塔がタイ海軍兵学校で記念保存されている。(今回は未訪問でしたが)

タイ海軍博物館には、フランス艦の砲撃を受けたHTMSトンブリの船尾装甲も展示されている。

トンブリの模型

チャン島の戦い


HTMS Chakri Naruebet(チャクリ・ナルエベト)模型

タイ海軍の航空母艦(軽空母・ヘリ空母)。1994年7月12日に起工、1996年1月20日に進水し1997年8月10日に就役。


そのほか

タイ語なのでよくわからないけど、(スマホでGoogleレンズを活用しつつ)ふらふらと眺めてみる。


野外展示

魚雷!!


絵画

HTMS Thonburiトンブリ、
フランス海軍との海戦。(コーチャン島沖海戦)
タイ海軍大佐が描いた油絵、1996年にタイ王国海軍に寄贈。

HTMS SONGKLA ソンクラ
同じくフランス海軍との海戦。(コーチャン島沖海戦)
タイ海軍大佐が描いた油絵、1996年にタイ王国海軍に寄贈。


Royal Thai Naval Academy(タイ海軍兵学校駅)

タイ海軍兵学校駅から。

見ての通り、ほとんど人がいない博物館。
ゆっくり見学して、それでも11時30分から13時くらいまで、1時間半くらいの所要でしたが、その気になれば(きちんと翻訳をしながら見学するのであれば)半日いても良い感じ。
今度は、向かいにあるタイ海軍士官学校(トンブリの見学)にも行きたいですね。(次のバンコク行きはいつだろ?)

※撮影:2025年2月


ラヨーン

ちなみに、仕事はバンコクから3時間くらい南のラヨーンのリゾートホテルでのAPACなミーティング参加、でした。

リゾートっぽい

仕事?ノマド感・・・

キーボード沼の終着点。
HHKB Professional Hybrid Type-S SnowWhite

タイの戦跡とは関係ないですが、タイのリゾートっぽい感じってことで。


世界一美しい帆船「アメリゴ・ヴェスプッチ号」(イタリア海軍帆船・東京港)

東京国際クルーズターミナルに世界一美しい帆船と言われているイタリア海軍の練習帆船「アメリゴ・ヴェスプッチ号」(「Amerigo Vespucci」号)が入港してきました。
令和6年8月25日(日)入港、30日(金)出港。
歓迎イベント「Villagio Italia」にて、平日のみ一般公開があったので、足を運んでみました

Amerigo Vespucci World Tour 2023-2025

https://tourvespucci.it/jp


アメリゴ・ヴェスプッチ号(イタリア海軍練習船)
Italian Navy training ship Amerigo Vespucci

「世界一美しい帆船」とされるイタリア海軍(Marina Militare)のアメリゴ・ヴェスプッチ号(Amerigo Vespucci)は、イタリア海軍の練習艦として、1931年に進水。
母港は、イタリアのラ・スペツィア(La Spezia)。

探検家アメリゴ・ヴェスプッチにちなんで命名。
アメリゴ・ヴェスプッチは「新世界」がアジアの一部ではなく、道の4つ目の「新大陸」であったことを論証した探検家にして地理学者であった。
「新大陸」はアメリゴのラテン語名アメリクスの女性形として「アメリカ」と後に呼称された。

 1925年、王立イタリア海軍(Royal Italian Navy、王立海軍 レジア・マリーナ Regia Marina)は、2隻の練習艦を発注した。
1番艦のクリストフォロ・コロンボ号は1928年に就役し、1943年までイタリア海軍で使用された。 第二次世界大戦後、戦争賠償金の一部としてソ連に引き渡され、まもなく退役した。
2番艦のアメリゴ・ヴェスプッチ号は、1930年にカステランマーレ・ディ・スタビア(ナポリ)の(旧)王立海軍造船所で建造された。
1931年2月22日に進水し、同年7月に就役。

アメリゴ・ヴェスプッチ号は全長82.4m(270フィート)、バウスプリットを含む全長101m(331フィート)、最大幅15.5m(51フィート)の総艤装3本マストの鋼船で。 喫水は約7m(23フィート)、満載時の排水量は4146トン。 補助ディーゼル電気推進により、アメリゴ・ヴェスプッチは時速10ノット(19km)に達し、航続距離は6.5ノットで5450海里。
2013年から2016年に掛けて近代化改装が行われ、ディーゼルエンジンを搭載。

3本の鋼鉄製マストの高さは50メートル、54メートル、43メートルで、合計2,824平方メートル(30,400平方フィート)の帆を張っている。
アメリゴ・ヴェスプッチ号には26枚の帆があり、角帆、ステイセイル、ジブなど、すべて伝統的な帆布の帆を用いている。 強い海風条件下で帆を張ると、時速12ノット(22km)に達する。
約30kmに及ぶロープは伝統的な麻のロープのみを使用し、係留索だけは港湾規制を遵守するため合成繊維を使用している。

アメリゴ・ヴェスプッチ号の標準的な乗組員は、士官16名、下士官70名、水兵190名である。海軍兵学校(アカデミア・ナヴァーレ)の中等士官が乗船すると、乗組員は合計約450人になる。


東京国際クルーズターミナルのデッキから

デッキから、見学。軍艦旗のはためきが美しい。

イタリア海軍の軍艦用国籍旗(イタリア海軍紋章)

軍艦旗の中央に使用される紋章は、中世、地中海の覇権を争い、「海洋共和国」(レプブリケ・マリナーレ)と呼ばれた都市国家の紋章を組み合わせたもので、左上がヴェネツィア共和国(聖マルコの獅子)、右上がジェノヴァ共和国(白地に赤十字)、左下がアマルフィ公国(青地に白のマルタ十字)、右下がピサ共和国(赤地に、使徒を示す12の珠の付いた白十字)となっている。イタリア海軍もイタリア商船も共通で使用している。

イタリア海軍の軍艦旗
イタリア海軍の軍艦旗は、国旗と王冠と紋章で構成。

日の丸掲揚
ありがとうございます

船首

中央に最新のアンテナ群。近代化改装の賜物。

おっ、東海汽船のジェットフォイルだ。
「セブンアイランド愛」


東京国際クルーズターミナルの岸壁から

裸婦像
なんだろう。航海の女神的なものかな。


アメリゴ・ヴェスプッチ号の船内

※撮影:2024年8月


関連

イタリア海軍航空母艦「カヴール」と「金沢まつり花火大会」の夜(横須賀)

2024年8月24日の夜。
イタリア海軍の空母「カブール」(ITS Cavour C 550) と「金沢まつり花火大会」を、写真中心に。


イタリア海軍航空母艦「カヴール」と「花火」

例の高台にて。
花火とは知らず、三脚を保有していなかったが、一脚を駆使して、なんとか頑張って撮影してみました。

艦橋がイタリア三色旗「トリコローレ」に彩られている。


ヴェルニー公園の夜

高台から、ヴェルニー公園に移動。

イタリア海軍フリゲート艦「アルピーノ」
ピントが甘いですが。


フランス海軍フリゲート艦「ブルターニュ」

フランスの国旗三色旗(トリコロール)に彩られ。

※2024年8月24日撮影


イタリア海軍航空母艦「カヴール」と「YOKOSUKA軍港めぐり」(横須賀)

2024年8月。イタリアの空母「カヴール」が日本に初めて寄港した。
横須賀にその様子を見に行ったので、写真メインで。


イタリア海軍航空母艦(軽空母)
「カヴール」(Cavour C 550)

カヴール(Cavour, C 550)は、イタリア海軍の軽空母。艦名はイタリア王国の初代首相カミッロ・カヴールに由来する。
2001年7月17日に起工、2004年7月20日に進水、2008年4月27日に就役。
スキージャンプ勾配つき全通飛行甲板となる。
艦載機は、「AV-8B ハリアー II」と「F-35 ライトニング II」の短距離離陸・垂直着陸(STOVL)型を搭載する。

「YOKOSUKA軍港めぐり」を活用して、イタリア空母を見学。

「AV-8B ハリアー II」

「F-35 ライトニング II」

イタリア海軍旗と「F-35 ライトニング II」

艦橋

艦首に、単装砲塔オート・メラーラ 76mmスーパー・ラピッド砲

なんか抗議船がいました、海保の皆様、ご苦労さまです。

例の高台からも。

NHインダストリーズ(NHI)「NH90」艦載ヘリ

ハリアーⅡ、はじめて見ました!


イタリア海軍フリゲート艦「アルピーノ」

カルロ・ベルガミーニ級フリゲート「アルピーノ(Alpino F 594)」。
対潜型フリゲート艦。
2012年2月23日に起工し、2014年12月13日に進水、2016年9月30日に就役。

カヴールとアルピーノ


フランス海軍フリゲート艦「ブルターニュ」

フランス海軍フリゲート艦「ブルターニュ」(FS BRETAGNE D 655)
米軍基地に、フランス海軍も入港。
アキテーヌ級フリゲート艦(駆逐艦)。
2013年起工、2016年9月16日進水、2019年2月20日就役。

フランス国旗とアメリカ国旗。

フランス軍艦の手前には、日本の潜水艦。


YOKOSUKA軍港めぐり

あとはいろいろ。

日本の潜水艦

米海軍ミサイル駆逐艦ラファエル・ペラルタ (USS Rafael Peralta, DDG-115) 
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の65番艦。

米海軍ミサイル駆逐艦マッキャンベル (英語: USS McCampbell, DDG-85) 
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の35番艦。

右は、米海軍ミサイル巡洋艦ロバート・スモールズ (USS Robert Smalls, CG-62) 
タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦の16番艦。 

左は、米海軍ミサイル巡洋艦レイク・エリー(USS Lake Erie, CG-70)
タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦の24番艦。

米海軍ミサイル駆逐艦ヒギンズ(USS Higgins, DDG-76)
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の26番艦。 

奥は、米海軍揚陸指揮艦ブルー・リッジ(USS Blue Ridge, LCC-19)

左は、ジョン・フィン (英語: USS John Finn, DDG-113) 
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の63番艦。

沖合に。
海自「くまの」(JS Kumano, FFM-2)

海自「いずも」JS Izumo, DDH-183

ドイツ海軍補給艦「フランクフルト・アム・マイン」が横須賀に入港。

「いずも」と対面。

相模倉庫

船越地区、長浦港。

海洋観測艦「わかさ」AGS-5104

海上自衛隊掃海艦「ひらど」MSO-305

海洋観測艦「しょうなん」AGS-5106

掃海艇「ちちじま」MSC-605

潜水艦は艦名わかんないね。

特務挺「はしだて」ASY-91 迎賓艇。
潜水作業支援船(水中処分母船1号型)「YDT-03」

輸送艇1号型の2番艇(LC-2002)
多用途支援艦えんしゅう(AMS4305)

いろいろいっぱい。
手前から。
護衛艦もがみ(FFM-1)
護衛艦おおなみ(DDD-111)
護衛艦むらさめ(DD-101)
 桟橋
掃海母艦うらが(MST-463)
護衛艦ゆうぎり(DD-153)
潜水艦救難艦ちよだ(ASR-404)

護衛艦てるづき(DD-116)
護衛艦まや(DDG-179)
 桟橋
イタリア海軍アルピーノ(Alpino F 594)

こんな感じで、多国籍が楽しめた2024年8月25日、でした。


「海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2024」(その2・教育史料館ほか)

2024年7月21日。
今年も館山に。ヘリコプターフェスティバルに。

その1はこちら。

歴史的なことは、昨年の記事で。


海自館山航空基地「教育史料館」

昨年は、1階のみ見学だった気がします。
今年は、2階も見学可能。旧軍関係は、2階に集積されていました。

2階も展示やってます。

はちろくさんの地味なアピール。

おお。冒頭から「海軍」の文字列。嬉しいです。

海軍指定工場

館山海軍航空隊御用達

歴代司令

館山航空隊の歴代司令
初代司令 大佐 堤政夫 
2代司令 大佐 近藤英治郎
3代司令 大佐 堀江六郎
4代司令 大佐 松永壽雄
5代司令 大佐 別府明朋
6代司令 大佐 戸塚道太郎
7代司令 大佐 大野一郎
8代司令 大佐 別府明朋
9代司令 大佐 竹中龍造
10代司令 大佐 大森来雄
11代司令 中佐 藤松達次
12代司令 大佐 菊池朝三
13代司令 大佐 安藤栄城
14代司令 大佐 山縣駿二
15代司令 大佐 藤田元成
16代司令 大佐 高橋農夫吉
17代司令 大佐 中村健夫
18代司令 大佐 鬼塚武二

日本海軍戦闘機の原点
10式艦上戦闘機

溟四躍蛟龍
解説
「龍蛟四溟二躍ル」
蛟は想像上の動物で龍の一種
龍蛟は天に昇る龍
四溟は四方の海
海軍の飛行機が天に昇る龍のように
飛び交う様子を表わす 
 山本五十六書

館山海軍砲術学校

館山海軍航空隊

吊床

戦艦陸奥の鋼材、陸奥鉄

零戦52型用エンジン電動スターター(セルスタータ)

真珠湾攻撃時の南雲機動部隊の陣形模型

2階はマストですね。


館山の戦争遺跡

これはこれは。。。

再調査したくなりますね。

館山航空基地の周辺

海自館山航空基地の中にある記念碑

海軍落下傘部隊発祥の地
 太平洋戦争の海軍落下傘部隊は、館山海軍航空隊で落下傘訓練を行い、昭和16年11月から戦闘に参加し、多くの戦死者が出た。
 戦後、戦死した隊員遺族の有志が平和を願い建立された。

海軍航空写真分隊記念の碑
 海軍における航空写真術科は、当初霞ヶ浦、横須賀両航空隊において教育を実施したが、昭和18年6月に開隊された洲崎海軍航空隊に移行された。
 この地で学んだ人達にとっての心の拠り所として建立された。

海軍航空再興の地
 昭和28年8月12日に、ベル型ヘリコプターが廃部されて操縦訓練が開始された。戦後8年にわたる空白期間から脱して、昭和28年9月16日、保安庁館山航空隊が解説し、海上航空再興の第一歩を記したことを記念して建立された。

悠久の碑
 昭和28年8月12日、この地に海上自衛隊館山基地が開設されて以来、当基地勤務中、惜しくもその職に殉じた尊い御霊を慰め、永久にその功績を顕彰するために建立された。

海軍中攻隊の碑
 日本海軍航空戦史に不滅の光彩を放つ96式中型陸上攻撃機(通称「中攻」)は、昭和10年館山海軍航空隊に配備され、心血を注いだ研究開発と部隊訓練が昼夜を分かたず行われ、当時、世界最高水準をいくものであった。日中戦争では世界初の「渡洋爆撃」を果たした。
 館山海友会と海上自衛隊を中心とする後輩有志により建立された。

以下は、基地の外。

1階は、前回見学したので、省略。


基地内バスツアー

先着順。15名x6回の90人。
立ち入れ禁止エリアに入れるチャンス。

号令台を、いつもと反対側から。

おお!

疾走するバス車内から「海軍中攻隊の碑」を確認!!
記念碑フリークもいるんですよ、次回は見学させてくださいよ!!

消火訓練用のヘリ模型

滑走路エリアに。

滑走路の奥に。

普段は絶対に入れない滑走路エリアをマイクロバスで見学。


館山航空基地内散策

このあたりが古そうな建屋。
館山航空基地は、ほぼ建屋が新築されたので、往時のものは残っていないというが。

ん?
これ、往時の防空壕だったりする?

庁舎

号令台

保存機があった場所。
ここにあった保存機はすべて撤去解体された、とのことで。。。


館山海軍航空隊時代の境界壁

意匠的な造形の壁は往時からのもの。

※撮影:2024年7月


館山関連

はじめに

霞ヶ浦駐屯地 開設71周年・関東補給処 創立26周年記念行事(2024年)

霞ヶ浦駐屯地の記念行事に行ってきました。
2024年4月28日。

戦跡関連は、下記にて


霞ヶ浦駐屯地記念行事

昨年(2023年)は雨天で記念式典観閲行進は中止でしたが、今回は晴天。
霞ヶ浦駐屯地はスペースの都合か、しょうしょう狭い記念式典でした。

記念式典会場

厚生センター

整列

10式さん

はじまり

指揮官入場

観閲官入場

国旗掲揚

巡閲

陸上自衛隊関東補給処長 兼ねて 霞ヶ浦駐屯地司令

陸将なので銀色桜星3個。


観閲行進

補給処本処なので、後方支援な部隊が中心。
それはそれで、良い。

空自も。

16式機動戦闘車

10式戦車

グランドは立入禁止。だいたいの駐屯地はグランドで式典するけど、ここでは使わない。。。


霞ヶ浦駐屯地(本部地区)散策

本部庁舎

霞峰の松


霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿
(第一海軍航空廠 奉安殿)

慰霊殿(奉安殿)の由来
 慰霊殿は、昭和16年頃、第一海軍航空廠の発足とともに奉安殿として建立された歴史的遺産である。
 旧海軍時代の奉安殿は、正面に菊の御紋章を奉じ天皇陛下の御真影と軍人勅諭を収める施設であり近傍を通る人々は拝礼し敬った。終戦後、御真影と直喩は、占領軍の手に渡ることを恐れた関係者がいずれかの場所に移したため行方はわからない。
 昭和20年、第一海軍航空廠を接収した占領軍は日本海軍航空の発展の礎となられた御霊を慰霊するため建立された霞ヶ浦神社の廃棄と、収められていた五千五百七十三柱の殉職者名簿の焼却を命じたが、名簿は阿見町内民家に分散秘匿された。この名簿は、武器補給廠の発足から海軍航空隊殉職者慰霊塔が建立された昭和30年まで奉安殿に大切に保管された。
 その後、奉安殿は慰霊殿と改称され、霞ヶ浦駐屯地関係舞台等の殉職者名簿を奉納し慰霊祭等が行われてきた。
 これらの歴史等を後世に残すため、慰霊殿の由来を記し併せて殉職者に対する敬虔な祈りを捧げる次第である。
 平成21年3月

慰霊殿(奉安殿)
奉安殿は、戦前、戦中に天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語を納めていた神聖な祭祀場であり、昭和10年以降全国の小学校等に建設が行われ、「愛国心」を国民に浸透させる役割がありました。
自衛隊が移設してからは名称が慰霊殿にかわり、昭和49年までの霞ヶ浦自衛隊員殉職者(病死、事故含む)追悼名簿が納められており、現在は毎月毎中途各部隊が清掃を実施、先人達への敬意を表す場となっております。

飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑

広報資料などは、2023年の記事で。。。


高機動車試乗

当たりました!
なかなか壮快な走り、撮影禁止なので、まあ。


霞ヶ浦駐屯地(飛行場地区)

旧海軍時代の格納庫が残る。詳細は2023年の記事で。


庚申塚(庚申青面金剛)

2023年のときは、垣間見れなかった、庚申塚を遠目に見ることが出来ました。(自販機エリアの奥から望遠)
立入禁止なのことはかわりないでしたが。

庚申塚
霞ヶ浦海軍航空隊が格納庫を作る際、300年前から飛行場地区にあった庚申塚を取り払うと、飛行機訓練事故が多発。庚申塚のたたりといわれ、海軍関係者を困らせました。そこで昭和10年、現在地に移しおまつりしたところ事故が絶えたとされています。
庚申塚は十干十二支の「庚申」で、帝釈天とその使者、青面金剛菩薩を祭神としていて、昔は農事の虫取りの神、人間の諸悪を天帝に告げる神としてあがめていました。

庚申塚の由来
(前略)
 庚申塚にまつわる話として言い伝えられていることは、この地に数百年前からあった庚申塚を旧海軍航空隊が格納庫建設のため取り払い工事を始めたところ怪我人が頻発しその後航空事故が続発した。土地の人や工事関係者の間では庚申さまのたtりではないかと恐れていた。
 当時、精強を誇った海軍も庚申塚を取り払ったままにしておけなくなって土地の篤信者と相談し、昭和10年12月現在のところに再築し、小さい方の碑を建立し無事故を祈願した。その後、大事故は殆どなくなりご利益あっらたな庚申塚と言われるようになった。また時期は不明であるが庚申塚に手をかけると災難に見舞われると言い伝えられいる。
 大きい方の碑は格納庫の建設が完了した昭和14年12月に格納庫の落成を謝し建立して航空安全を祈願したと言われている。
 最近では、塚も崩れかかり、碑も傾いてきたので平成6年11月に分校と業務隊が諸々の安全を祈願して整備再鎮座したものである。


霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫(茨城倉庫)

霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫として、霞ヶ浦駐屯地の格納庫3つと、茨城倉庫㈱土浦営業所の倉庫3つが並ぶ。
霞ヶ浦駐屯地の「格納庫A」は管制塔の隣。

  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫B
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫C
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫D →屋根その他に改修あり、外観が異なる
  • 茨城倉庫3
  • 茨城倉庫2
  • 茨城倉庫1

今回は、敷地外から「茨城倉庫」を見学。

自衛隊側からはこちらで。


周辺の建屋

近くに古そうな建屋があったので記録してみたが、往時の航空写真を見直すと、どうやら違うようで。戦後の建屋ですね。

※撮影:2024年4月


関連

よこすかYYのりものフェスタ2024(海自・横須賀基地)

2024年6月9日。久しぶりに横須賀に護衛艦を見に行きました。
海上自衛隊横須賀地方総監部へ。

横須賀のヌシ「いずも」はお出かけで、いつもとはちょっと違うメンバーが停泊。

写真中心で。

横須賀のヌシ「いずも」は、何度か乗ってます。。。


護衛艦「てるづき」「あきづき」試験艦「あすか」

DD-116 護衛艦「てるづき」(あきづき型2番艦)母港は横須賀
DD-115 護衛艦「あきづき」(あきづき型1番艦)母港は佐世保
ASE-6102 試験艦「あすか」母港は佐世保

低視認塗装(ロービジ化)で艦番号が薄くなっている「あきづき」「てるづき」
一方で、試験艦「あすか」は、低視認塗装にする必要はないので、くっきりはっきりの艦番号。

護衛艦「てるづき」見学

護守印の中央上部には月の女神「アルテミス」を、右下には「つるづき」を描き、「照り輝く月の下、率先して任務に挑み、達成する」という艦の方針を示しています。
乗員は艦名の由来「照り輝く月」を誇りに思っています。

となりの僚艦「あきづき」

おっ、照月ちゃん。かわいい!


護衛艦「もがみ」見学

FFM-1多機能護衛艦「もがみ」(母港は横須賀)

「もがみ」「くまの」とはよく会いますね。最近。


護衛艦「きりしま」

「もがみ」の隣に停泊。
DDG-174ミサイル護衛艦「きりしま」母港は横須賀。

艦番号423は、補給艦「ときわ」


もがみ型護衛艦

もがみ型護衛艦
FFM-2くまの(横須賀)
FFM-5やはぎ(舞鶴)

艦番号110は、護衛艦「たかなみ」


潜水艦「うずしお」見学

SS-592潜水艦「うずしお」(母港は横須賀)

潜水艦は甲板の上のみだけど、一番混んでました、、、

潜望鏡!!
潜望鏡をぐるぐるするデモ


そのほか

そのほか、目についたものを。

補給艦「ときわ」

AMS-4305 多用途支援艦「えんしゅう」
水中処分船「YDT-03」

曳船YT10


横須賀海軍港務部の境界塀

JRと海自のあいだあたりに残存している境界塀


横須賀海軍港務部係船環表示板


海上自衛隊横須賀地方総監部

繋留用ブイ繋止錨

四瓲 昭和十三、一 (住友マーク)NO5

国産水産物を食べよう!

艦めしーふーど

佳きデザイン!

護衛缶!!

ちょっと高級な缶詰(護衛缶)でしたが、がんばろう!ということで、ゲットしました!

わんわんお


海上自衛隊横須賀資料室(横須賀厚生センター)

なにげにはじめて、でした。

海自の主要部隊配置図。

横須賀と海軍の沿革
 横須賀における海軍の歴史は嘉永6年(1853年)ペリーの来航から始まります。当時、勘定奉行小栗忠順の提唱により建設された横須賀造船所があったことから、明治17年(1884年)海軍省は横須賀に鎮守府を置き「横須賀鎮守府」が誕生しました。横須賀には造船部が開設され、海軍工廠として戦艦「薩摩」「陸奥」空母「鳳翔」「加賀」など多くの軍艦が建造されました。
 また、砲術練習所、機関練習所が置かれ、追浜には海軍航空隊が開設され、海軍基地として大きく発展しました。
 戦時下に水雷学校、通信学校(久里浜)、海兵団(武山)など多くの機関が設けられました。
 昭和20年(1945年)8月帝国海軍は消滅し、在日米海軍司令部が横須賀に移りました。旧海軍施設の一部は民間に払下、昭和27年4月水雷学校跡に海上警備隊横須賀監部が設けられました。

横須賀厚生センター

喫茶と食堂

なんか茶色い揚げ物がてんこ盛りのカレーを食べました。

海上自衛隊横須賀地方総監部庁舎

自衛隊がんばれ!

横須賀で偉い人

撮影:2024年6月


【展示移設作業中】「日本初の零戦復元機」零式艦上戦闘機52型甲(空自浜松広報館エアパーク)

空自浜松広報館エアパークの展示格納庫にて吊り下げられていた「零戦(ゼロ戦)」が展示場所移設作業のために床下に降ろされ、前部胴体/後部胴体に分割されました。
移設完了までの二度と目にすることがないであろう状態の展示。なぜか(仕事の都合で)運良く浜松にいたので、二度とないチャンスとし、無理やり足を運んできました。

浜松広報館によると、以下の通り、どこかのタイミングで「ご覧いただけなく」なるようだけど、ご覧いただくことが出来ました。

令和6年6月24日から展示格納庫に展示中の零戦を、より間近で見ていただける様、展示資料館2階に移設する作業を行います。
移設作業が完了するまでの間、零戦をご覧いただくことができない旨ご了承ください。

浜松広報館NEWS https://www.mod.go.jp/asdf/airpark/NEWS/20240626.html

以前の様子は下記にして。


零式艦上戦闘機五二型甲 A6M5
43-188号機

日本への里帰り第1号機の零戦。

昭和19年3月、三菱名古屋工場製造機。
所属は、第三四三海軍航空隊(1944年1月に開隊した初代、通称隼部隊)。
昭和19年6月〜7月にかけてのマリアナ諸島攻防戦で、米軍との戦闘や米軍機の空襲などにより壊滅し、7月10日に解隊。
浜松基地浜松広報館に保存されている零戦は、第三四三海軍航空隊の飛行隊長・尾崎伸也大尉(海兵68期)が昭和19年6月19日に米軍と交戦し被弾し不時着し放棄された機体。尾崎伸也大尉は戦死されている。
海兵68期の尾崎伸也大尉の同期には、作家・豊田穣、撃墜王・鴛淵孝、九軍人の広尾彰、海軍中将松永貞市の息子・松永市郎、捕虜第一号となった酒巻和男など。
第三四三海軍航空隊は、昭和19年12月に再編(二代目)される、これが通称「剣部隊」として紫電改を用いて有名となった航空隊。

昭和39年1月に日本に里帰り。

零式艦上戦闘機(零戦)の展示経緯
昭和38年4月  
 本展示機がグアム島で発見される。
昭和38年7月
 グアム島知事から日本への返還が決まる。
昭和39年1月
 米軍C-130輸送機により岐阜基地へ搬送。
 本機の製造元である三菱重工業大江工場にて忠実な復元作業を実施。
昭和39年10月
 我が国で最初の零戦復元機が完成。(その後、全国各地において展示されたため期待の損傷がひどくその管理が必要とされた。)
昭和42年11月
 航空自衛隊の航空機整備のメッカ(航空機の整備学校が所在)である浜松基地に移送されその後浜松基地において展示・管理された。
平成11年4月
 航空自衛隊浜松広報館開設に伴い、当館において展示される。

零戦52型
零戦52型は1943年8月初飛行し、太平洋戦争後半の日本海軍の主力戦闘機として活躍した機体である。この機体には甲、乙、丙の3種の型があり、零戦総生産数約1万機のうち、4種あわせた52型シリーズは約6,000機が生産された。

性能
全幅 11m
全長 9.1m
全高 3.5m
全備重量 2,733kg
エンジン 栄21型 最大出力1,100馬力x1基
最大速度 565km/h
実用上昇限度 11,740m
航続距離 1,920km
乗員 1名
搭載武装 7.7mm固定銃x2門 99式20mm固定銃x2門

以下、移設作業中の展示状態を見学。

撮影:2024年7月


トルコ海軍コルベット艦「クナルアダ」(日本・トルコ外交関係樹立100周年記念)

2024年は、日本・トルコ外交関係樹立100周年。

2024年6月。
日本とトルコの歴史を振り返りつつ、トルコ軍艦を見学してきました。


エルトゥールル号遭難事件

日本とトルコの交流は、1887年の小松宮彰仁親王のオスマン帝国訪問と、翌年のエルトゥールル号の来日から始まった。

1887年、小松宮彰仁親王がヨーロッパ訪問の途中で、オスマン帝国の首都イスタンブールに立ち寄った。それに応える形で1890年、オスマン帝国スルタンであったアブデュル・ハミト2世の使節としてフリゲート艦「エルトゥールル」が日本へ派遣された。
使節は 明治天皇へ親書などを手渡し帰国の途についたが、和歌山県沖で台風に巻き込まれ座礁沈没。
特使オスマン・パシャを含め500名以上の乗組員が死亡した。このとき紀伊半島南端の和歌山串本・大島の住民が救援に駆けつけ69名を救出した。報告を受けた 明治天皇は直ちに神戸港へ医師と看護婦を派遣、救援に全力をあげた。さらに生存者には日本全国から多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。
生存者は日本海軍の装甲コルベットの金剛と比叡により、オスマン帝国に丁重に送還された。
「トルコ軍艦遭難事件」とその顛末はトルコ国内で大きく報道され、日本人に対する友好的感情もこの時より醸成された。
現在、和歌山県串本町には遭難事件にまつわるトルコ記念館がある。


日露戦争

1904年から始まった日露戦争に、オスマン帝国国民は大きな関心を寄せた。
これはクリミア戦争(1853年 – 1856年)・露土戦争(1877年 – 1878年)などによるもので、日本・トルコ両国にとってロシア帝国は共通の敵であった。
トルコを苦しめてきたロシア帝国であったが、1905年に日本が日本海海戦でロシアバルチック艦隊に対し決定的な勝利をおさめると、オスマン帝国国内では、日本の快勝を自国の勝利のように歓迎した。


第一次大戦

極東で南下政策を日本によって阻止されたロシア帝国は、オスマン帝国(オスマン・トルコ)に矛先を転じ、ボスボラス海峡とイスタンブールの掌握を目指した。トルコはドイツと接近し、第一次大戦は、同盟国(ドイツ帝国、オスマン帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国)として、連合国(イギリス、フランス、ロシア、日本)と戦うことになった。
日本は連合国(日英同盟)として、同盟国と戦うことになり、オスマン帝国と日本は交戦国となる。
敗れたオスマン帝国は、1920年セーヴル条約によって広範な領土を失った。


トルコ革命(トルコ独立戦争)

第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国は、さらなる列強による国土分割・植民地化の危機にあった。

しかし1922年からアンカラに樹立された大国民議会政府(アンカラ政府)ケマル・アタテュルク(現代トルコの国父・建国の父)らの主導で祖国解放戦争が開始され、祖国解放戦争に勝利、オスマン帝国を打倒して、トルコ共和国が成立。
1923年のローザンヌ条約(フランス・イギリス・イタリア・日本・ギリシャ・ルーマニア・ユーゴスラビア・トルコ)により国境が決定した。


平明丸事件(ツムラ・ユキチ通り)

終戦によってロシアの捕虜となったトルコ兵は1918年に日本側に移管され、その後、日本が捕虜をトルコ本国へ送り届けることとなった。
1921年に捕虜を乗せた輸送船の「平明丸」(司令官・津村諭吉)がトルコ到着直前にギリシャ軍に拿捕された。
これは、ギリシャ政府はトルコ内(小アジア)の領土を獲得しようと侵攻しており戦争状態(希土戦争)であり、トルコ兵捕虜返還によりトルコ側の戦力増強につながることを懸念したためであった。

津村中佐は、ギリシャより捕虜の引き渡しを要求されたが、これを拒否した。そして7カ月近い抑留の末、仲介役のイタリアに捕虜を引き渡し、トルコ兵らを救った。
結果として、トルコ人捕虜の多くは最終的に1922年6月に無事帰国、その後はギリシャの懸念通り直ちに祖国解放戦争に参加し、同年9月にギリシャ軍はトルコから完全撤退することになった。

2020年にイスタンブール市内のある通りが「津村諭吉中佐通り」と改名された。


日本・トルコ国交樹立

トルコ共和国建国の翌年、1924年の8月6日に日本がローザンヌ条約を批准し、同条約が発効したことにより、トルコと日本の間で外交関係が樹立。
その後、1925年にトルコに日本大使館を開設。
中東地域での日本大使館開設はトルコが初めてであり、これは日本政府が当時からトルコをいかに重要視していたかを示している。

1926年に日土協会が発足。
1928年にはトルコ海軍が日本海軍に駆逐艦や潜水艦などの建造を依頼。
1929年に高松宮宣仁親王( 昭和天皇弟宮・日本海軍将校)が、日土協会の総裁に就任。
トルコは、日本の明治維新を手本として、近代化政策をすすめていった。
1930年、日土通商航海条約が結ばれ両国の関係はより強固なものとなった。


第二次世界大戦

第二次世界大戦でトルコが枢軸国側に参加することは無かった。
開戦当初からトルコは中立を宣言し、中立を長らく維持していたがイギリスをはじめとした連合国の圧力により、1945年日本に宣戦布告した。
しかしトルコ国内世論は宣戦布告に反対であり、日本に対しての軍事行動は一切行わなかった。

戦時中に、破棄された国交は、1951年のサンフランシスコ平和条約によって回復。
トルコ政府は日本政府に対して、賠償をはじめとする一切に請求を行わなかった。


日本・トルコ外交関係樹立100周年

1924年から100年。
2024年、日本とトルコは外交関係樹立100周年を迎えた。


トルコ海軍コルベット艦「クナルアダ」

アダ級コルベット「クナルアダ」が、国交樹立100周年を記念して、東京港(東京国際クルーズターミナル)に入港し一般公開されました。


クナルアダ(F514 TCG Kınalıada)
トルコ海軍初の国産大型水上戦闘艦。ステルス艦として設計されている。
排水量2465トン、全長99.56メートル。
イスタンブール海軍工廠で起工され2019年に就役した。

ムスタファ・ケマル・アタテュルクの肖像とともに。
トルコ共和国の元帥、初代大統領
「父なるトルコ人」
「現代トルコの国父(建国の父)」

第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国において、トルコ独立戦争とトルコ革命を指導してトルコ共和国を樹立。トルコの近代化を推進し、トルコ大国民議会から「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」の称号を贈られた。「現代トルコの国父(建国の父)」とも呼ばれる。

トルコ国旗

撮影は後甲板のみで、艦内は撮影禁止。

WELCOM ON BOARD
TCG KINALIADA(F-514)

OUR FRIENDSHIP IS GOLDEN

「TCG」(Turkiye Cumhuriyeti Gemisi)(トルコ共和国艦艇)

上からも。

記念の帽子。トルコ国旗が良い!!


トルコ海軍

トルコ海軍の紹介パンフ。

トルコ共和国海軍は、チャカスがスミュルナを制圧した1081年を創設年としている。

トルコ海軍の歴史(意訳概略)
1081年にCaka Bey(チャカ・ベイ/チャカス)の指揮のもとに、イズミット(Izmir)で最初の艦隊が設立されたことにはじまる。
取るか艦隊は、1090年のKoyun諸島の戦いで輝かしい勝利を収めた。
1538年に、バルバロス・ハイレディン・バシャ(Barbaros Hayreddin Pasa)率いるトルコ艦隊は十字軍とのプレヴェザの海戦で勝利を収め、地中海の絶対的な支配を確立した。(大航海時代、ですね)
トゥルグト・レイス(Turgut Reis)の指揮下で、トルコ艦隊は1560年にジェルバ島近くで再び十字軍を破り、地中海の優位性を強化。
トルコ艦隊は、第一次世界大戦の1915年にチャナッカレ海戦(ガリポリの戦い)で連合国を撤退に追い込んだ。(オスマン帝国の名指揮官ムスタファ・ケマル・アタテュルクが活躍)
チャナッカレ海戦(ガリポリの戦い)の勝利と、のちのムスタファ・ケマル・アタテュルクによるトルコ共和故国の設立により、トルコ海軍は新たな海軍として立ち上がった。
トルコ海軍は、「Türkiye(テュルキエ)」の権利、利益、資産、そして潜在的な脅威を守り、地域の案件保証への取り組みに貢献するために、海上での重要な役割を引き受けることで、任務を遂行し続けている。


ケバブ

やっぱり食べたくなるので。
東京国際クルーズターミナルから、ケバブが食べれる場所を探して、一番近場だったお台場まで足を伸ばして、ケバブラップを。


付記

トルコ海軍フリゲート艦「ゲディズ」(2015年撮影)

1890年に現在の和歌山県串本町沖で座礁、沈没したエルトゥールル号事件の125周年記念事業の一環として来日したときの写真などを付記で。

F495 Gediz(ゲディズ)
ガビヤ級フリゲート艦。
旧・米O・H・ペリー級(オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲート)をベースとしている。
元は、米海軍の「ジョン・A・ムーア」(1981就役)
2000年9月1日に米海軍を退役し、トルコ海軍に移管、艦名はゲティズ (Gediz, F 495) と改められた。

エルトゥールル号事件 125 周年記念として、トルコ海軍TCGゲディズが晴海埠頭に寄港。
海自ホストシップ艦は護衛艦たかなみ。

記念品。
エルトゥールル号の本とキーホルダー。

ホスト艦の「たかなみ」

映画「海難1890」
2015年制作の映画。日本とトルコの友好125周年を記念して制作された。
エルトゥールル号海難事故編とテヘラン邦人救出劇編の二部構成。


伊藤整一提督手植えの「父子桜」(杉並区大宮)

一億総特攻の魁となった「戦艦・大和」と、「司令長官・伊藤整一」
伊藤整一提督が、杉並の自宅の庭に手植えをしたという桜は、樹齢80年を超え、今も見事な桜を咲かしている。


坊ノ岬海戦

昭和20年4月6日、沖縄へ海上特攻として出撃した、世界一の大戦艦「大和」。
「大和」は、米軍機との激しい戦闘を繰り広げ、大和は轟沈した。
大和海上特攻を指揮した司令長官が、伊藤整一であった。

昭和20年4月7日14時23分。
大日本帝国海軍の栄光を担った戦艦「大和」。
象徴でもあった戦艦「大和」
一億総特攻の魁として、坊ノ岬沖に散華した。

第二艦隊旗艦「大和」
第二艦隊司令官・伊藤整一中将
第二水雷戦隊旗艦・軽巡「矢矧」 司令官・古村啓蔵少将
第四十一駆逐隊(冬月、涼月)
第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)
第二十一駆逐隊(朝霜、初霜、霞)

大和・矢矧・磯風・浜風・朝霜・霞が沈没。 戦死は約4000名。


伊藤整一と伊藤叡

伊藤整一
1890年〈明治23年〉7月26日 – 1945年〈昭和20年〉4月7日
海軍兵学校39期。最終階級は海軍大将。

坊ノ岬海戦に出撃した、大日本帝國海軍 聯合艦隊 第二艦隊の司令長官 伊藤整一海軍大将(出撃時は海軍中将)は、昭和20年4月7日に、旗艦大和と命を共にした。

作戦に際して、第五航空艦隊司令長官であった宇垣纏中将は、出撃中の第二艦隊に対して途中まで護衛戦闘機隊を出撃させたが、その護衛戦闘機隊の中に伊藤整一の長男である伊藤叡(あきら)中尉(兵72期)搭乗の零式艦上戦闘機も含まれており、父親の最期を空から見送った。

そして、伊藤長官の戦死から3週間後、搭乗割の変更を自ら申し出て、沖縄特攻に志願した長男・伊藤叡中尉。
伊藤叡中尉は、神風特別攻撃隊直掩隊として出撃。4月28日、伊江島(いえじま)上空に散花した。21歳であった。


父子桜

伊藤整一第二艦隊司令長官が出撃前に、杉並の自宅に手植えをしたソメイヨシノ。
大空襲を乗り越えて焼け残ったその木の根から珍しいことにひとつの枝が伸びた。その姿はまるで戦死した父と子が桜になって共に立っているかのようで、いつしか父子桜と呼称された。

そして、毎年4月7日になると満開の桜の花を咲かせるという。

杉並の伊藤提督手植えの桜は、伊藤整一出身の福岡県みやま市の地域住民を中心とした「大和さくらの会」によって、全国各地へ「父子桜」の苗木植樹活動が行われれている。

なお、杉並の父子桜は、個人宅敷地内となるために、詳細な場所は割愛させていただきます。
場所は、大宮八幡裏手の高千穂大学の近く、国府道沿い、です。

大宮八幡宮の近く。

※撮影:2024年4月


駆逐艦「朝霜」「梅」と重巡洋艦「愛宕」戦没者慰霊碑(三島・妙法華寺)

静岡県三島市の山中に静かに鎮座する玉澤妙法華寺(妙法華寺)。
その境内に、軍艦の慰霊碑があるというので、足を運んでみた。


「愛宕」「朝霜」の慰霊碑建立の経緯

昭和19年(1944)10月。
捷一号作戦、レイテ沖海戦。
第二艦隊司令長官栗田健男海軍中将は、重巡洋艦「愛宕」に座乗し、第一遊撃部隊第一部隊(通称:栗田艦隊)は、10月22日にブルネイを出航し、レイテ島に向かった。
翌日10月23日に米国潜水艦が栗田艦隊を発見し、雷撃を実施。栗田艦隊の旗艦「愛宕」に魚雷が命中し、愛宕は20分後に転覆沈没。1197名の乗員のうち、492名が駆逐艦「朝霜」に、221名が「岸波」に救助され、484名が戦死したという。
駆逐艦「朝霜」は、愛宕生存者を救助後に、駆逐艦「長波」とともに、同じく雷撃を受けて応急修理を行っていた重巡洋艦「高雄」の警戒と護衛を実施。「高雄」に留めを刺そうとする米潜水艦による攻撃を断念させた。

昭和20年4月。

坊の岬沖海戦。沖縄水上特攻作戦(天一号作戦)
4月6日。
沖縄特攻部隊として、第二水雷戦隊第21駆逐隊「朝霜」(司令駆逐艦)、僚艦の「初霜」「霞」は、第一航空戦隊戦艦「大和」(第二艦隊旗艦)、第二水雷戦隊旗艦「矢矧」、第17駆逐隊「磯風」「雪風」「浜風」、第41駆逐隊「冬月」「涼月」とともに徳山を出撃。
翌日7日に、朝霜は機関故障を起こし速力低下し艦隊から落伍。応急修理を実施するも復旧せずに、単艦で米軍機と戦闘。孤軍奮闘し『我敵機ト交戦中』『90度方向に敵機30数機を探知す』との無電を発した後、連絡が途絶え消息が途絶えた。朝霜乗組の第21駆逐司令小滝久雄大佐、艦長杉原与四郎中佐以下、327名の将兵は、消息不明となった朝霜と殉じ、全員戦死認定された。

昭和32年
三島市の高橋氏が朝霜で戦士した息子を思い、朝霜戦没者遺族に呼びかけて、戦没者の冥福を供養する為に玉沢の妙法華寺に「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」を建立。

昭和55年
「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」碑前での慰霊祭を耳にした、軍艦愛宕元乗組員が、愛宕沈没時に乗組員を救助した朝霜の英霊に感謝し、「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」碑前にて、軍艦愛宕戦没者三十三回忌法要を愛宕生存者と遺族の有志により施行し、併せて朝霜の英霊に従事に謝しつつ御冥福を祈念した。
その折に、「愛宕戦没者慰霊碑」建立を決定し、妙法華寺の理解を得て、「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」と並んで建立された。

慰霊碑建立の経緯
 軍艦「愛宕」は、重巡洋艦(壱万屯)で戦時中は第四戦隊の旗艦として活躍し、昭和十九年十月二十三日、比島パラワン島沖の回線で不運にも轟沈せり。乗組員(司令部付を含む)一一九七名のうち戦死者四八四名、その折り救援の駆逐艦「朝霜」が四百九二名同じく「岸波」が二二一名救出せり(戦闘詳報より)駆逐艦朝霜は昭和二十年四月七日沖縄特攻部隊として出撃中、敵機三十余機と交戦、武運拙く第二一駆逐司令小滝久雄大佐、艦長杉原与四郎中佐以下、三二七名の将兵は九州南端沖に護国の鬼と化し、悲惨、艦と共に轟沈。全員戦死せり。駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑の建立は三島市中央町高橋実衛氏(錦店)の父晋吾氏が五男通夫氏も朝霜で戦死したので、子を想う親として同憂の全国の朝霜戦没者遺族に呼びかけ、先達となり全国を行脚し、尚私財を投じ戦没者の冥福を供養する為に玉沢の聖地に、昭和三十二年春建立したものである。
 毎年命日には遺族会長小滝国雄氏(故 小滝司令息子)のもと全国より遺族が碑前で慰霊祭を行っておるがその祭事を地元海軍出身者の集いである海軍会員が協賛し、厳粛盛大に行っており、時候的に玉沢は桜花咲き乱れ好時期であり桜花の如く散りし戦没者を想い同じ海軍にありて運よく達者である事を感謝しつつ戦没者のご冥福を祈念し祭事に奉仕しておる三島地方の出身者海軍会であります。
 この事を軍艦愛宕元乗組員が知り愛宕沈没の折り身を悌し救助に活躍した駆逐艦朝霜の英霊の碑前で先年軍艦愛宕戦没者三十三回忌法要を愛宕生存者と遺族の有志により海軍会員多数列席佛式により厳粛に施行し併せて朝霜の英霊に従事に謝しつつ御冥福を祈念した。その折愛宕戦没者慰霊碑建立の議を決し、妙法華寺の御理解を得て駆逐艦朝霜の碑と並びに建立する事が決り愛宕関係者や海軍出身者その他各界の協賛を得て昭和五十五年十月二十三日建立されました。
 敵味方入り乱れての激戦の最中沈没寸前に救助された生存者の感謝が朝霜の英霊に答えるや如く愛宕戦没者の慰霊碑が建立された事は、戦後三十余年を迎え遅ればせながら両艦の偉勲をたたえると共に、慰霊と御供養になることを信ずるものであります。
 願わくば、此の慰霊碑建立によって永年に平和を願い戦争の悲劇を再び繰り返さないよう楯となっていただき祖国日本をお守りくださることを念願してやまない次第です。
 このようにして由緒深い玉沢の妙法華寺境内に大東亜戦の生んだ海軍の遺跡が生現した次第であります。
  昭和五十五年十月二十三日
   三島田方駿東海軍会


駆逐艦朝霜戦没者之碑
(駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑)

駆逐艦朝霜戦没者之碑
正二位勲一等 小笠原長生 書

駆逐艦朝霜の戦歴
 駆逐艦朝霜は大東亜戦争中 帝国海軍第二艦隊第二水雷戦隊に所属し、太平洋海域の主要作戦に参加、奮闘した。
 昭和二十年四月六日、戦艦大和ほか九隻で水上特攻隊を編成し、米軍による沖縄侵攻を阻止するため、同地に向け 三田尻沖を出撃し 四月七日正午頃 九州南西方面海域において敵機多数と交戦、奮闘するも力及ばず、旗艦 大和 宛て
「我、敵機 三十機と 交戦中」との電報を最後に 十二時十分頃 同海域に沈没、乗組員全員三百二十九柱は 艦と共に 壮絶な最後を遂げた。
 ここに同艦の赫々たる功績を称え、戦没者諸柱の鎮魂のため、此の碑を建立する。


一、建造
   竣工 昭和十八年十一月二十七日
   場所 藤永田造船所(大阪)
二、要目
   排水量 二、〇七七 屯
   全長 百十七米 全幅一〇・八 米
   吃水 三・七六 米
   主機 蒸気タービン二機二軸
   出力 五二、〇〇〇 馬力
   最高速力 三十五 節
   装備 主砲 十二・七糎 二連 三基
      魚雷 六十一・〇糎 四連 二基
   乗員 約三百名
三、戦歴 (参戦した主要な作戦)
   あ号作戦(マリアナ沖海戦)
   捷一号作戦(レイテ沖海戦)
   多号作戦(オルモック輸送作戦)
   礼号作戦(ミンドロ島沖作戦)
   天一号作戦(沖縄突入作戦)

跋文
「駆逐艦朝霜戦没者之碑」は昭和三十一年 同艦沈没時、艦と運命を共にした乗組員総員の鎮魂のために建立された。
 「駆逐艦朝霜戦没者之碑」の建立にあたっては朝霜会地元世話人 髙橋晋五殿の並々ならぬ御苦労があった。
 三島市玉澤の聖地に立つ此の碑を心の拠りどころとして爾来三十数年に亘って遺族と元乗組員から成る朝霜会は、毎年一回此の地に集い相互に親交を深め励ましあって戦後の荒波を乗り越えてくることができた。
 此の度、北海道亀田郡七飯町の遺族 森本絹子殿は篤志を以て英霊の供養のため本戦歴碑を寄進された。
  平成二年四月七日 
   駆逐艦朝霜会一同

揮毫の小笠原長生さん、、、昭和31年建立の慰霊碑にも揮毫されていました。小笠原長生は昭和33年に90歳で没しているので、戦後は、海軍の大長老といったところ。

大和、、、坊の岬沖海戦。


軍艦愛宕戦没者之碑
(軍艦愛宕戦没者慰霊碑)

軍艦愛宕戦没者之碑
参議院議員 源田実 書

巡洋艦 愛宕
巡洋艦愛宕は、広島県呉海軍工廠に於て昭和7年3月30日竣工し排水量12,400屯、太平洋戦争に当り、マレー沖海戦・マレー比島上陸作戦支援・ミッドウェー海戦・アリューシャン攻略戦・南太平洋海戦・ソロモン沖海戦・ガダルカナル攻防戦・マリアナ沖海戦・比島沖海戦等に参加。昭和19年10月23日比島パラワン島西方東経1177北緯922に於て敵潜水艦の雷撃により乗組員480余名と共に沈没す。
我等九死に一生を得て生存した愛宕乗組員は、共に戦った戦友と愛宕の御霊を慰め、永くその名を後世に留めようと決意し、ここに真心をこめて慰霊碑を建立した。
 昭和55年10月23日
  愛宕慰霊碑建立委員長  芹沢吉作
        副委員長  平山正晴
        副委員長  冨樫雅文
  静岡愛宕会会長     山下三男
  三島田方駿東海軍会会長 星谷庄作
   (略)


駆逐艦梅戦没者慰霊之碑
(駆逐艦梅戦没者慰霊碑)

駆逐艦「梅」の慰霊碑が当地にある由来は不明。

駆逐艦梅戦没者慰霊之碑
艦長 海軍少佐 従六位勲四等 大西快治 書

駆逐艦「梅」
丁型一等駆逐艦第5483号艦として藤永田造船所にて、昭和19年6月竣工した。昭和19年10月のレイテ作戦には参加せず、台湾方面輸送作戦に従事していた。

「パトリナオ輸送作戦」
駆逐艦「梅」は、昭和20年1月31日、ルソン島アパリに集結していたフィリピンからの搭乗員救出(フィリピン撤退)のために、台湾高雄からルソン島に向けて航行中に空襲され沈没。

駆逐艦「梅」艦長・大西快治少佐は、子ノ日航海長、水雷艇鳩艇長、朝凪艦長、梅艦長等を歴任。「梅」沈没後は、横須賀突撃隊特攻隊長。終戦後は「萩」艦長を努めている。

艦歴
昭和一九
(四.二四)  大阪藤永田造船所にて進水
六.二   竣工 第十一水雷戦隊に編入
七.一五  桃と共に第四十三駆逐隊を編成
七.二〇  内海西部にて訓練に従事
八.二〇  第三十一戦隊に編入
一〇.一二 台湾沖航空戦に参加
一〇.二三 多号作戦一〇二師団レイテ西岸オルモック上陸作戦掩護
一一.三  人員機材を台湾に緊急輸送
一一.六  戦艦伊勢 日向 五十鈴 新南郡島進出の為護衛任務に従事
一一.一四 戦艦大和 長門 金剛 内地回航の為護衛任務に従事
一一.二五 単艦にてブルネイ方面に進出
一二.二  南西方面艦隊(マニラ)指揮下に入りマニラに回航
一二.五  多号第八次オルモック輸送作戦に従事
一二.一四 マニラ湾にて敵機動部隊の艦載機と交戦
      艦首へ至近弾を受け揚錨機作動不能となる
一二.一五 修理の為香港に回航
昭和二〇
一.一五  香港々内にて米機動部隊艦載機五〇機と交戦 三機撃墜
一.二九  台湾高雄港にて米機動部隊艦載機と交戦
一.三一  比島アパリ集結中の搭乗員救出の為
パトリナオ輸送作戦実施の為
高雄を出港
     バシー海峡にて敵機約三〇機の来襲を受け之と交戦
     被弾三発後部甲板切断沈没 敵一機撃墜(一八時一〇分)
     戦死者八〇余名 東経一二〇度五〇分 北緯二〇度三〇分
茲にて短命なりと雖も 梅の輝かしい戦績を讃え 勇敢に戦い悠久の大義に就いた戦友の霊を慰むる為「梅」ゆかりの地 三島玉沢木山妙法華寺霊峰富士の万年雪溶けて流るる神霊地に 此の碑を建立す
  昭和六十一年一月三十一日(四十年目命日)
   駆逐艦梅慰霊碑建立委員会


永代供養料碑

昭和63年、3団体の寄進。

三島田方駿東海軍会
駆逐艦梅戦友会
静岡県愛宕戦友会


忠魂碑

忠魂碑
陸軍大将 鈴木荘六書

昭和8年建立。
鈴木荘六は、定年退役後に第4代帝国在郷軍人会長であったことから、揮毫された忠魂碑も多い。


日露役戦死病没英霊菩提塔


忠霊殿

にゃあ


玉澤妙法華寺(妙法華寺)

静岡県三島市玉沢にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。
山号は経王山。

1284年(弘安7年)、日蓮の弟子日昭は風間信昭の帰依を受け、鎌倉浜土の玉沢(現鎌倉市材木座)に法華堂を建立したことにはじまる。
1538年(天文7年)戦乱により、越後村田(現新潟県長岡市村田)の妙法寺に避難。
1594年(文禄3年)戦乱により、伊豆加殿(現静岡県伊豆市)の妙国寺に避難。
その後、15代日産の時、1621年(元和7年)に大木沢(現在地)に移転し、日産、日達、日亮の3代に渡り再建された。大木沢は妙法華寺創建の地名をとって玉沢と改称された。

最寄りのバス停は「玉沢」
1時間に1本あるときもあれば、2時間に1本のときもあるので、バスで赴く時は、時間配分は要注意。

私は9時15分に到着して、帰りは11時5分のバスでしたので、約2時間ほどの持ち時間でした。。。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Ndi3Ae2UrL4ohjB78

撮影:2023年12月


関連

朝霜と梅は、藤永田造船所で生まれた

軍艦「三笠」のスクリューの一片と補助舵輪(川口市)

埼玉県川口市に、なぜか「戦艦三笠」に関係するものが残っているというので、足を運んでみた。

そこには、遠目でもわかる状態で、三笠のスクリューが住宅地に忽然と陳列してあった。


三笠

日露戦争の日本海海戦での第日本帝国海軍の連合艦隊旗艦を務めた。
世界三大記念艦のひとつ。

三笠は、敷島型戦艦の4番艦。イギリスのヴィッカース社で建造され1902年(明治35年)竣工。

昭和20年の終戦後、三笠はソ連の圧力で解体処分されそうになるが、米軍の調整により解体は免れるも、戦後の荒廃で金属やチーク材などは盗まれ、そして米軍によってダンスホールや水族館などの娯楽施設が艦上に開設された。


軍艦「三笠」のスクリューの一片と補助舵輪

軍艦「三笠」のスクリューの一片と補助舵輪
 明治38年5月27日は日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に大勝した日である。其の時の旗艦「三笠」の栄誉をたたえ横須賀に記念艦とし此のスクリューの一片と補助舵輪は共に保存されてありました。
 昭和20年8月15日終戦後進駐軍より三笠艦を解体せよとの命令に従い惜しくも東郷元帥が指揮をした司令塔Z旗を掲揚したマスト等の解体作業が進められた其の折此の三笠艦のスクリューの一片と補助舵輪は私石井が幸いにして入手した次第であります。
 此のスクリューはイギリスのストーンブロンズ社が鋳造したもので奇しくも石井を英訳するとストーンであり而も同じ特殊ブロンズの鋳造会社であるが故に栄光に奇縁を添えた三笠艦のスクリューの一片と補助舵輪は石井家の宝として保存するものであり恂寿
 昭和59年10月吉日
  ストーンブロンズ株式会社
  石井次郎 記述 書

STONE’S BRONZE
LONDON 1899

なお、「三笠」は、保存のため陸地と固定されているため、スクリュー含め艦底部分は埋められている。

補助舵輪

ちなみに下記は、今の三笠についている艦橋の舵輪。(意識せずに撮影してました)
かなり大きさが違う。
補助舵輪は、どこに設置されていたのだろうか。
この大きさを設置しようとすれば、艦内では、それなりのスペースを必要とする。

まちかどスポット賞 川口市 1988

大砲のような鋳造品。

場所

https://maps.app.goo.gl/TiYs772Fy3HHTb89A

撮影:2024年2月


三笠関連

川口関連

意外と川口には、いくつか戦跡関連の話題が集まっている。

三菱重工「横浜造船所跡」と「三菱みなとみらい技術館」

横浜の「みなとみらい」は、かつては、三菱の横浜造船所であった。
往時の物語るものが、「三菱重工横浜ビル・三菱みなとみらい技術館」の片隅にある。


横浜造船所関連

日本丸の第一号船渠と、ドックヤードガーデンの第二号船渠

横浜造船所で造艦された「山汐丸」


三菱重工業株式会社 横浜造船所跡

三菱重工業横浜船渠として、旧海軍では練習巡洋艦「香取」「鹿島」「香椎」、陸軍護衛空母「山汐丸」、測量艦「筑紫」などを造艦した。
なお、三菱と合併前の「横浜船渠」時代では、軽巡洋艦「那珂」駆逐艦「吹雪」航空母艦「龍驤」などを手掛けている。

三菱重工業株式会社 横浜造船所跡
横浜造船所は明治24年(1891) 有限責任横浜船渠会社として発足、昭和10年(1935) 三菱重工業株式会社と合併し 三菱重工・横浜造船所となった。
横浜港出入り船舶の修理から始め、その後新造船、鉄橋、原動機、環境装置に事業を広げ、横浜市と共に発展してきた。
昭和58年(1983)「みなとみらい21」計画に沿い、この創立の地から本牧と金沢へ工場を移転し横浜事業所としてその事業を継続している 
 平成6年3月 

この記念碑の石材は、横浜造船所二号ドック(現ドックヤードガーデン)の底部に使われていたものです。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:897-C8-107
昭和19年(1944年)10月14日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

日本丸の第一号船渠と、ドックヤードガーデンの第二号船渠で位置関係を把握できる。


三菱重工横浜ビル・三菱みなとみらい技術館

三菱みなとみらい技術館が併設されている三菱重工横浜ビル。
三菱の技術を垣間見える施設。


三菱みなとみらい技術館見学1

せっかくだから見学します。

この台座に使われている石は明治30年完成の2号ドック(現ドックヤードガーデン)の石材の一部である。

三菱グループのはなし。

三菱の歴史。

岩崎彌太郎

1929 客船「浅間丸」建造
1939 零式艦上戦闘機制作

1931 日本初の国産戦車「八九式中戦車」制作
1942 世界最大の戦艦「武蔵」建造

空の夢が宇宙へと続く、挑戦のあゆみ

1923 Type10 Carrier Fighter (一〇式艦上戦闘機)
1927 Mitsubishi MC-1(三菱 MC-1)
1937 KAMIKAZE (神風号・雁型通信連絡機)

1939 Mitsubishi A6M Zero 零式艦上戦闘機


三菱みなとみらい技術館見学2(模型)

三菱が創り上げてきた乗り物たちの模型がありました。
ここで、私の時間はガッツリと持っていかれてしまい。

The History of Vehicles 乗物の歴史

実は模型コーナーは、出口の目の前にあった。
出口前で、私は、模型コーナーをもちろんスルーできずに吸い寄せられてしまいました。

飛行機関連は、すべて縮尺1/25で作成。

以下、飛行機模型を。。。

艦上戦闘機一〇式二号(海軍)
1921年(大正10年)
海軍として日本初の空母搭載用戦闘機で三菱内燃機(現:三菱重工)が開発・製造した。英国製エンジンを三菱が製造、骨組みは木製でボディーは布張り、複葉機(主翼が上下二枚)だが、当時の戦闘機としては充分な仕様であった。一号機は乗員2名だが、当機二号機は前後に一人ずつ搭乗し練習機としても使用した。

艦上雷撃機一〇式(海軍)
1922(大正11年)
雷撃機とは、戦闘機から水上艦へ魚雷攻撃するもので爆弾を投下するより命中率が高い。
本機は日本軍で唯一の三葉機(主翼が三枚)で運動性能は良好であったが単座(一人乗り)のため攻撃の正確性に欠け20機の生産で終了となった。

艦上攻撃機一三式二号(海軍)
1924(大正13年)
英国人の設計で三菱重工が製造、まだこの時代もボディーは布張りだが骨組みは鋼管になった。複座で前座の操縦席と後座の銃座に分割、よって攻撃性が高まった。一三式全種で400機以上生産。

練習機 己式一型(陸軍)
1924(大正13年)
フランス アンリオ社から3機購入試用し以後ライセンス生産となった、エンジンは気筒自体がプロペラと一緒に回転、操縦の容易性に定評で初歩練習機としても活躍した。

神風号(司令部偵察機九七式一型の改造機)
1937(昭和12年)
朝日新聞社は英国ジョージ6世の戴冠式に向け陸軍の九七式司令部偵察機の試作機を高速通信機に改造し、1937(昭和12年)4月、操縦士、機関士の2名で立川飛行場を離陸、途中11ヶ所を経由して4日後にロンドンに着陸しました。全行程1万5357kmを94時間、実飛行51時間で都市間連絡飛行の新記録をたて、当時の国民はこの大記録に熱狂しました。 

水上観測機 零式(海軍)
1936(昭和11年)
観測機の役割は戦艦同士の砲撃で命中率を高めるために着弾位置を上空から観測し誤差の週製情報を戦艦に伝えること。艦上から見渡せない敵艦の向こう側の着弾位置など正確に計測可能。偵察機としての役割も果たせます。従って攻撃力は低くても運動性能を重視し当時の技術では複葉機(主翼が2枚)が充分な成果を発揮した。

ひなづる(旅客輸送機)
1936(昭和11年)
英国エアスピード社製エンボイ機のライセンス生産で11機製造した。骨組みは木製で胴体は合板、翼は布張りで、乗員1名、乗客6名。後にこの旅客輸送機「ひなづる」は日本海軍が徴発し「エンボイ」と呼称を変え輸送機として使用した。

陸上攻撃機一式一一型(海軍)
1940(昭和15年)
従来の攻撃機と同等な空気抵抗で胴体径を増すことに成功した、それにより爆弾、魚雷を機内内部に収納でき、高速飛行と俊敏な機動力で敵機をかわすことができた、2400機を生産。

一式陸上攻撃機、ですね。

艦上戦闘機  零式五二型(海軍)
1939(昭和14年)
零戦の制作機数は日本機中最大の10,430機、当52型は主翼の折畳式を廃して短め、先端部を円形にしたこと更にエンジン排気はエンジンカバーの外周に沿って円形に分割したのが特徴、それにより空気整流と推進増加で最高時速が従来型より20km増強、急降下速度も米機に匹敵した。

艦上攻撃機九七式二号(海軍)
1936(昭和11年)
当機二号は、三菱重工製、一号、三号は中島飛行機がそれぞれ開発、製造を担当した。
二号は固定脚のため振動が少ないという利点があった、乗員3名で魚雷を1基搭載している。

零戦52型と、97艦攻2型

艦上戦闘機 九六式二号二型(海軍)
1937(昭和12年)
空中戦を重視し軽量、高速、運動性能を追求した設計、3回の改良を重ね当機は特に視認性を上げるために風防を開閉式にした。高速性、運動性能には主翼を熱くして主翼後方に設けたスプリットフラップ(下げ翼)を設けた。外国機の模倣から脱却した機であり、後に零戦へと継承される。

重爆撃機 九七式二型(陸軍)
1937(昭和12年)
機体は三菱重工製だがエンジンは中島飛行機製で九三式の後継機である。武装・防弾を強化しているが、高速性も確保しており制空権争いに実力を発揮した。生産数は2千機を超えている。

襲撃機 九十九式(陸軍)
1939(昭和14年)
襲撃機とは、爆撃機と異なり高度100m程度の超低空飛行で森陰から敵地を急襲するのに適したもの、そのため本模型は迷彩柄で武装している。戦闘機ほどの俊敏性はないが偵察機としての任務も可能。

司令部偵察機一〇〇式三型(陸軍)
1939(昭和14年)
高度6000mで最大時速630kmは「零戦」より早く敵機も振り切る速度である、機首からキャノピー(操縦席の風防)までを一体型にした流線型と1500馬力の双発エンジンで高度高速の偵察を可能にした。

陸上攻撃機 九十六式二一型(海軍)
1935(昭和10年)
主脚引込式や頭のないリベット(沈頭鋲)で空気抵抗を低減、可変ピッチプロペラで速度に応じた羽の角度を調整して燃費向上、など長距離攻撃機としての技術力を駆使している。
また、派生機として「ニッポン号」がある。(別途模型展示しています)

ニッポン号(輸送機)
1939(昭和14年)
海軍の九六式二一型攻撃機(別途模型展示しています)を長距離輸送機に改造した双発機。海外親善を目的とした改造機で兵器を取り外し大容量の燃料タンクを増設、割ピン1本、ナット1個も交換することなく世界一周を成功させた純国産機。

MC-20(旅客輸送機)
1939(昭和14年)
軍用輸送機の民間転用機で三菱重工が開発・製造、大日本航空のほか満州航空、中華航空でも運行、国内企業の社有機としても使用され、軍用機と合わせ500機以上生産された。乗員4名、乗客11名。

局地戦闘機【雷電】(海軍)
1942(昭和17年)
上昇力と速度向上のため大馬力エンジンを搭載、そのため機首から胴体中央まで大型化され空力特性に苦労したが中高速では零戦よりも横転性能が向上した、数多くの改良がなされたが総生産は600機程度であった。

重爆撃機【飛龍】(陸軍)
1942(昭和17年)
航続距離3800kmは当時日本軍機でトップクラス、高度6000から600km/hで急降下し超低空飛行も可能。機首と2つのキャノピー(風防)は防弾ガラスで急降下爆撃に威力を発揮した、また陸軍でありながら雷撃(魚雷発射)可能は珍しい。

キ‐83 遠距離戦闘機 試作(陸軍)
1944(昭和19年)
敵地奥まで進行できるよう遠距離戦闘機の開発となった、単発から双発エンジン、単座から複座(操縦席と後部座席の二座)仕様、最大速度650km/hだが、のちに米軍が接収し米軍仕様のハイオクタン価燃料で762km/hを記録した。これは米軍機の記録759Km/hを上回るものであった。

艦上戦闘機十七試【烈風】(海軍)
1944(昭和19年)
第二次世界大戦において戦闘機は日々敵国との開発競争に追われ抜きつ抜かれつの連続であった。三菱重工が開発した「零戦」も破竹の勢いで脅威を与えたが、やがてヘルキャット、コルセアの登場で劣勢になっていく、そこで三菱は次機種となる「雷電」の開発に着手、並びに「零戦」の改修型開発で多忙を極め後継機種の開発に大幅な遅れを取った、やがて「烈風」が誕生したが、量産前に終戦となったため試作機で終える事となった。

局地戦闘機【試作秋水】(陸海軍共同試作機)
1945(昭和20年)
陸軍、海軍、民間(三菱重工)共同開発の初のロケットエンジン試作機、B29の高度1万メートルに対抗するためドイツのメッサーシュミットを基に開発され試作機を7機まで製造したが、戦況の悪化で中断となった。尾翼無し、主翼のみが特徴的。

重爆撃機 九三式二型(陸軍)
1933(昭和8年)
陸軍からの要請を受け開発、全金属双発の重爆撃機は国内初であった、当初はロールスロイス社のエンジンで試作機を製作、後に三菱重工製エンジンを搭載した。機首と後方に旋回銃座が取り付けられており乗員は4名。

ここからは、戦後かな。

シコルスキーHSS-2Bヘリコプター
1964(昭和39年)

三菱重工にてノックダウン生産。エンジンも三菱重工製。

シコルスキーS-55Cヘリコプター
1953(昭和28年)

三菱が国内でノックダウン生産。

YS-11A ターボプロップ輸送機
1962(昭和37年)

三菱重工は最終組立を担当した。

MU-300(ダイヤモンド-1】ビジネスジェット機
1978(昭和53年)

三菱アメリカ・インダストリー社と共同開発。

ジェット戦闘機F-104 (航空自衛隊)
米国ロッキード社(1954年)

1962年(昭和37年)から三菱重工がライセンス生産。
F104Jは230機製造。スリムな機体形状から三菱鉛筆といわれたが、三菱グループとは無縁の会社。

ジェット戦闘機F-86F(航空自衛隊)
米国 ノースアメリカン社(1947年)

1956年(昭和31年)から300機をライセンス生産。
初代ブルーインパルスとしても活躍。1964年の東京オリンピック開会式で5色の五輪を描いた。

高等練習機T-2(航空自衛隊)
1971(昭和46年)

国産航空機として初の超音速機(マッハ1.6)
2代目ブルーインパルスとしても活躍。

ジェット戦闘機F-4E(航空自衛隊)
米国 マクダネル・エアクラフト社(1958年)

1968年(昭和43年)にF-$EJを三菱重工がライセンス生産。

三菱の艦船。

上:浅間丸 貨客船 1929(昭和4年)長崎造船所
下:鎌倉丸 貨客船 1930(昭和5年)横浜造船所
姉妹船にあたるが、搭載エンジンの違いから煙突の本数が異なっている。
両船とも日本郵船所有。

あるぜんちな丸 貨客船 1939(昭和14年) 長崎造船所
※のちに空母「海鷹」に改装。

戦艦「武蔵」

武蔵 戦艦 
1942(昭和17年)長崎造船所
全長263m 乗組員:3,300名
1937(昭和12年)海軍より三菱重工が正式発注を受けた長崎造船所として5隻目の大型戦艦、前年に大和が就役しており同級の姉妹艦だが、大和の弱点を改善し副砲塔周辺の防御力を強化した。巨大船でありながら船台建造であった(大和はドック建造)
3つのギネス世界記録に認定されている。
①世界最大の戦艦(総トン数)
②最大の艦砲を搭載した軍艦
③世界一被弾火薬量の多い軍艦

隼鷹 航空母艦
1942(昭和17年)長崎造船所
全長219.32m 乗組員:1187名
飛行甲板にエレベーター2基、零戦ほか53機搭載可能、40口径連装高角砲6基、蒸気タービン4基、推進スクリュー2軸、日本最大の豪華客船の建造中に空母に改造された。そのため母港は呉である。
太平洋戦争で生き延びたが商船への復帰は無く、1947(昭和22年)に佐世保で解体された。

伊19 一等潜水艦
1941(昭和16年)神戸造船所
第日本帝国海軍の一等潜水艦は伊(い)号、二等を呂(ろ)、続いて波(は)号、ホランド級と分類されている。
本艦は伊号の19番艦で、潜航深度100m、魚雷発射管6門、小型水上偵察機1機、ディーゼルエンジン2基を搭載。偵察機は主翼を後方に折り畳み、艦橋前方の格納筒に収納、飛行時は海上に浮上し、格納筒から引き出して主翼を広げた後、カタパルトで押し出す。
数々の太平洋線で活躍したが、1943(昭和18年)爆雷により撃沈された。

あまつかぜ 対空ミサイル護衛艦
1965(昭和40年)長崎造船所

蒸気機関車、ディーゼル機関車、電気機関車など。
三菱は機関車にも関わり合ったんですね。

なかなか見応えのあるのある展示館。もっともほぼ模型コーナーに釘付けだったけど、三菱目線でみてみるのも面白いかな。

※撮影:2023年12月


久里浜駐屯地 創立73周年記念行事・その2(海軍通信学校の戦跡散策)

2023年11月19日。
神奈川県 横須賀市にある陸上自衛隊 久里浜駐屯地で「久里浜駐屯地 創立73周年記念行事」が開催されました。
今は、陸上自衛隊通信学校。そして、かつては、海軍通信学校のあった久里浜。
駐屯地内が開放されましたので、足を運んでみました。

ちなみに、久里浜駐屯地は日本最古の駐屯地、でもあります。

その1は、訓練展示など。

こちらも参照で。


海軍通信学校

日本海軍においては、明治36年(1903)に海軍水雷学校に於いて無線電信術練習生として無線通信要員の育成がはじまり、昭和5年(1930)に海軍通信学校が独立するに至っている。
昭和14年(1939)11月に通信学校は 久里浜に移転。昭和18年には通信科要員の需要が増し、海軍防府通信学校が併設され、従来の通信学校は「海軍横須賀通信学校」と改称。


海軍通信学校跡碑

海軍通信学校跡

我々ここに巣立つ 
 第五十二期普通科練習生 十四志 
 昭和四十七年十一月五日 建立 
  海軍中将 志摩清英書

志摩清英中将は、昭和18年9月16日から昭和19年1月31日までの通信学校長。ついで、昭和19年2月に第5艦隊司令長官となり、第二遊撃部隊(通称志摩艦隊)を率いてレイテ沖海戦を戦う。

碑の脇には、海軍用地の標石がある。海軍通信学校の境界標かと。

もともと「海軍通信学校碑」がある場所は、海軍通信神社が鎮座していた場所であった。本部庁舎前。


通校神社(海軍通信学校神社) ※長安寺

海軍通信学校・本部庁舎前に鎮座していた「通校神社(海軍通信学校神社)」。
「通校神社」 は終戦後に長安寺に遷座されている。

長安寺は2018年撮影


防空壕跡

海軍通信学校本部庁舎前の庭にあるこんもりとした丘。
防空壕跡と推測。


海軍通信学校・本部庁舎
(久里浜駐屯地・本館・建屋1)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」は閉校後は復員局を経て米軍が接収。

戦後、昭和25年に「警察予備隊」が発足すると久里浜部隊が開設され、その後は「保安隊」の通信学校となる。

昭和29年に陸上自衛隊が設立すると、当地は「陸上自衛隊通信学校」が開設。陸上自衛隊として最も古い駐屯地であり、旧海軍通信学校庁舎をそのまま使用している。

正面玄関

陸上自衛隊 通信学校

中に入ってみます。

正面玄関

在室確認のランプ

歴史を感じさせる廊下。

本部庁舎の裏側。

建屋番号は「1」


海軍通信学校・第一兵舎(久里浜駐屯地・建屋2)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」。
おそらく本部庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。


海軍通信学校・第二兵舎(久里浜駐屯地・建屋3)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」
おそらく本庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。


海軍通信学校・車庫

陸自時代の現在も同じく車庫として使用されている。


地下通路入り口

久里浜駐屯地には、地下通路が4ヶ所設けられていたという。そのうちの一箇所は、タイヤ倉庫になっている。
立ち入りはできないので、望遠にて。

敷地の北側。南を向いている開口部。

上記写真は「C」に該当する。

久里浜駐屯地の東側の山にも地下通路があった。


久里浜駐屯地内の記念碑

いくつかの記念碑が、整備されている。

甲種飛行予科練習生 電信術錬成之地
昭和62年4月吉日建立

保安隊記念碑 
昭和29年

保安隊駐屯記念碑 
昭和28年

保安大学校開校之地(防衛大学校創設の記念碑)
平成31年3月吉日建立


海軍電話蓋

「波」に「話」
建屋1の本部庁舎と建屋2の兵舎のあいだに。


海軍蓋(制水弁蓋)

敷地内にいくつかあるらしい。
私は2つ見つけました。

1つ目。建屋2の近く。

2つ目(歴史館前)


歴史館

主に通信に関係するものなどを展示。

海軍の精神注入棒

山下奉文ゆかりの書


御稜威橋

海軍通信学校、そして久里浜駐屯地の入り口。
平作川にかかる「御稜威橋」

御稜威とは、天皇陛下の強い御威光のこと。


日本最古の駐屯地「御稜威橋」(日本酒)

 陸上自衛隊久里浜駐屯地は、昭和14年「海軍通信学校」として開設、その後は昭和27年から通信電子の教育の中核として「通信学校」が置かれている。
 自衛隊としては最も古い駐屯地である。

販売は、久里浜駐屯地限定。
製造は、岩手の「世嬉の一酒造」

百里基地航空祭2023・その1(百里原海軍航空隊の戦跡散策)

2023年12月17日、茨城県の百里基地航空祭に行ってきましたので、その模様を。

本編は歴史的なところを触れる「その1」となります。
航空祭そのものは「その2」で。


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百里原海軍航空隊

百里原海軍航空隊(ひゃくりはら)は、昭和13年に筑波海軍航空隊の補助飛行場が建設されたことに始まる。
昭和14年(1939)12月1日に筑波海軍航空隊百里原分遣隊から独立して開隊。初歩飛行訓練に従事。
昭和17年には予科練の受け入れを開始。
昭和19年(1944年)10月1日、「桜花訓練隊」として「第七二一海軍航空隊」が百里飛行場に開隊。
昭和19年11月7日、七二一空は「神ノ池飛行場」に転出。

昭和20年「第六〇一海軍航空隊」が百里原飛行場に進出。
同年4月には「神風特別攻撃隊・正気隊」が編成され出撃が行われている。
終戦後、飛行場は引揚者の開拓地に転用され破却されるも、首都圏唯一の戦闘機基地として昭和41年に百里基地が開隊している。


百里基地(雄飛園)

百里基地内にある用廃機(用途廃棄機)を保存展示しているエリア。
保存機の記録は多いようだけど、慰霊碑や記念碑の記録がすくないようなので、百里基地航空祭で開放をされていたエリアを散策記録しました。


百里原海軍航空隊記念碑

ここに百里旗海軍航空隊ありき
記念に桜を植え その栄光を伝う 
 昭和51年3月
  百里原海軍航空隊有志

百里原海軍航空隊と特攻について
百里原海軍航空隊は昭和13年、練習機の教育航空隊として発足した。
昭和16年大東亜戦争勃発、昭和18年練習機境域は他基地に移され、実用機の操縦員、偵察員の教育が開始されて昭和20年8月の終戦まで続けられた。
昭和20年3月沖縄戦が始まると、百里空も作戦に参加、教育に使用中の飛行機35機が九州から出撃、85名の隊員が沖縄の海域に散華した。
この記念碑の下に戦死者の名簿が埋めてある。
 平成20年3月
  百里原海軍航空隊有志


雄魂碑(殉職者慰霊碑

基地殉職者を祀っている。
昭和49年4月吉日の建立。


犬魂碑

基地内警備犬慰霊碑


F-4EJ飛行隊発祥の地記念碑

この記念碑は、第301飛行隊が昭和48年10月16日航空自衛隊初のF-4EJ飛行隊として誕生し昭和60年
3月九州に移動するまでの間、この百里基地において活躍したことを記念して建立したものである。

記念碑修復の記
 昭和六十年、部隊移動に先立ち建立されし本記念碑なれど、爾来十数年の風雪に耐え難く、「銘板」等の損傷見るに忍びず、第三〇一飛行隊(百里)出身者より浄財を募り、ここに「銘板」の修復・土手基礎部の造成をみるに至る。
 尚、「銘板」につきては、当初揮毫せりし土屋重正氏に依頼致したものなり。
 平成十三年九月吉日 記念碑修復実行委員会


第206飛行隊記念碑

栄光と共に
昭和40年12月~昭和53年12月
 第206飛行隊


アルゼンチンの碑

「アルゼンチンの碑」
大正十三年(一九二四)六月、アルゼンチン空軍のサンニ大佐とベルトラメ技師の二人が四五〇馬力の単発機を駆使し、アムステルダムから世界一周に飛び立ちました。
 同年十月、約二万キロメートルにも及ぶ人類未踏の大飛行を達成し、土浦の霞ヶ浦に着陸しました。
 その後、航空機の故障によりやむなく世界一周は断念することとなりましたが、二人の偉業を永久に顕彰するため、昭和五十六年十二月、アルゼンチン大統領の訪日に際し、最後の着陸地となった霞ヶ浦に近い百里基地に当記念碑が建立されました。


保存機

向こう側の保存機

こっち側の保存機

あまり興味がなかったようで、撮影ほぼシていませんでした。


百里基地

入り口。茨城空港とは反対側。航空祭の機会がなければ、まずこないですね。

航空祭の様子は、その2で。

2023年12月撮影


「予科練生の指定食堂」と「海軍住宅跡」(土浦)

土浦駅周辺を散策してみました。
流れとしては、下記の補足みたいな感じ。


霞ヶ浦海軍航空隊・土浦海軍航空隊

大正11(1922)年に阿見村に開隊した「霞ヶ浦海軍航空隊」によって、土浦駅周辺には飲食店や海軍将校の住宅や繁華街など、海軍航空隊を支える海軍となった。
昭和15年(1940)には、「土浦海軍航空隊」(通称・予科練)も開隊。休日は予科練生たちの外出先として土浦市内の民家は「クラブ」「下宿」として活用され、そして「指定食堂」は予科練生たちへ食を提供し、大いに賑わった。


保立食堂(ほたて)・予科練生の指定食堂

明治2(1869)年創業の食堂。
予科練生の「指定食堂」のひとつ。
丼物が人気で、店の二階は予科練生と家族との面会にも利用されたという。

「上天丼」をいただきました。

海老天と海鮮かきあげの天丼。味噌汁は、あら汁。そして、ぬか漬け。
往時を思い起こしながら食べる天丼。これはありがたい味。

休日は予科練生が食事を楽しみ、家族との面会にも使った店。歴史的にも味わいが深く重い。

場所

https://maps.app.goo.gl/GPijaLCAVtFCiuF26


吾妻庵・予科練生の指定食堂

明治6( 1873)年創業のそば屋。
休日の日中に予科練生が訪れることのできる「指定食堂」であった。

場所

https://maps.app.goo.gl/qWChhKLTgt4UXXfg6


城藤茶店(しろふじのちゃみせ)・海軍住宅跡

昭和11(1936)年、亀城通り開通後に建てられた書院造りの住宅で、海軍士官が借りて住んでいたという。現在は古民家カフェとして活用されている。

場所

https://maps.app.goo.gl/rpLqGuQzgy81F9jk9


桜川橋・海軍道路

桜川橋は大正12(1923)年に架けられた、茨城県初のコンクリート製の橋。
橋は現在の国道125号上にあり、阿見町へと繋がっている。
通称「海軍道路」。霞ヶ浦海軍航空隊の軍用道路として整備された。

場所

https://maps.app.goo.gl/oNUXeX5LGtmDhZEVA

撮影:2023年12月


関連

土浦関連

はじめに

東郷の私設副官と称せられた海軍中将「小笠原長生の墓」(世田谷・府中・伊豆長岡)

小笠原長生は、東郷平八郎に傾倒し「東郷の私設副官」「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

そんな小笠原長生の墓巡り。

  • 幸龍寺(東京世田谷) 小笠原家の江戸の菩提寺・小笠原家累代墓所
  • 東郷寺(東京府中)  開基を東郷平八郎、副開基を小笠原長生とする寺院
  • 近松寺(佐賀唐津)  小笠原家の唐津の菩提寺
  • 宗徳寺(伊豆長岡)  戦後に隠棲した伊豆長岡の古刹

なお、唐津の近松寺は未訪問


小笠原長生

小笠原 長生(おがさわら ながなり)
1867年12月15日(慶応3年11月20日) – 1958年(昭和33年)9月20日)
海軍軍人(海軍中将)、華族(子爵)。幼名は賢之進。佐賀県出身。
階級位階勲等功級は、海軍中将、正二位勲一等功四級子爵。忠知系小笠原家14代目。

江戸幕府老中を務めた小笠原長行の長男。
明治6年(1873年)9月、忠知系小笠原家13代の義祖父長国(肥前唐津藩主)の隠居により家を相続。
明治17年(1884年)9月に海軍兵学校に入学。同年7月、子爵を授けられる。
明治20年(1887年)7月、海軍兵学校(14期)を卒業。成績は45人中35位。なお、同期には鈴木貫太郎らがいる。

明治37年(1904年)1月、軍令部参謀に就任して日露戦争を迎えた。同年7月、海軍中佐。
軍令部参謀として海軍司令長官東郷平八郎の知偶を得て、その才を認められ、明治44年(1911)に、軍令部出仕兼参謀のまま学習院御用掛となった。ときの学習院院長は乃木大将。

明治天皇崩御の際の乃木大将夫婦殉死前後の大将と深くかかわることになり後事を託され、乃木将軍の長生宛の遺言や常用された書籍類が遺品として長生の手元に残された。

大正3年(1914年)4月から大正10年(1921年)3月まで、皇太子裕仁(昭和天皇)の教育を担う東宮御学問所幹事を務める。このときの東宮御学問所総裁は東郷平八郎。元帥東郷平八郎のブレーンとして伝記や読本などによって東郷の神格化に拍車をかけた。

大正3年(1914年)12月に海軍少将。大正7年(1918年)12月、海軍中将に進級し待命。大正8年(1919年)12月に休職し、大正10年(1921年)4月に予備役編入となり宮中顧問官に就任。昭和20年(1945年)11月まで在任した。

昭和22年(1947年)、公職追放の処分を受けて伊豆に閉居。
昭和33年(1958年)、死去。90歳没。


小笠原長生の墓(世田谷の幸龍寺・小笠原家墓所)

小笠原長生の墓が世田谷区にあるというので、足を運んでみたことから、芋づるで小笠原長生の墓を巡ることになるなど。
まず、足を運んだのが、東京都世田谷区北烏山5丁目に鎮座する「幸龍寺」。
旧唐津藩藩主小笠原家累代墓所でもある。
なお、世田谷区には、海軍軍人として、永野修身、小澤治三郎、堀悌吉の墓もあったりする。

旧唐津藩藩主小笠原家累代墓所がある。

小笠原家之墓

ちなみに、 小笠原長生の父・小笠原長行は当初「谷中墓地」に埋葬されていたが、後年、長生によって幸龍寺に改葬された。

鐵櫻院殿無畏長生日来大居士 
小笠原長生公 
正二位勲一等功四級 
昭和33年9月20日

三階菱の家紋

昭和32年12月建之
 小笠原長生

幸龍寺

なお、幸龍寺には、内海好江師匠の墓や長谷川雪旦の墓(唐津藩御用絵師)もある。

場所:

https://maps.app.goo.gl/6U32EmFr6K6nVnNo8

※撮影:2023年12月


小笠原長生墓(東郷寺境内の供養墓)

府中の東郷寺。
東郷寺は東郷平八郎元帥海軍大将を開基とし、副開基を小笠原長生海軍中将とする、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗寺院。山号は「聖将山 東郷寺」東郷没後に東郷家別荘・農園があった当地に昭和14年(1939)に小笠原長生を始めとする海軍関係者が中心となって建立。

境内の西エリア手前。
東郷寺副開基の小笠原長生子爵(海軍中将)を祀る。

小笠原長生の本墓は世田谷区烏山幸龍寺。
ここ東郷寺は供養墓となる。

東郷元帥墓と小笠原墓は並んで建立。
当地にて死してなお東郷の側にいられるというのは小笠原としては本望極まりないことだろう…

東郷寺の様子は下記にて。

ちなみに、東郷と小笠原以外の著名人として、豊田副武、貞閑勝見、河本大作の墓がある。

※撮影:2017年12月


小笠原家の墓(伊豆長岡の宗徳寺)

昭和20年の敗戦とともに、小笠原長生がが勤めていた宮中顧問官の制度は廃止。
昭和22年、小笠原長生は公職追放となり伊豆長岡の地に隠棲。
昭和29年、 昭和天皇は長岡まで行幸され、小笠原に長年の御辛労に感謝の御言葉をかけられた。その4年後、昭和33年秋、卒。92歳であった。

小笠原家墓

鐵櫻院殿無畏長生日来大居士 俗名 長生
 正二位勲一等功四級 慶應3年11月20日生

昭和28年6月3日
 小笠原長生建之

小笠原長生は昭和33年に亡くなっている。
本墓石は、生前に建立したことがわかる。

ここには、小笠原長生子爵とその母、夫人、継夫人、夭折した息子長孝の名前が刻まれている。

三階菱の家紋

墓所の入口、右側の木立に、小笠原家の墓がある。

軍人墓

伊豆長岡の宗徳寺、山門

長岡山

場所

https://maps.app.goo.gl/99GzSFwURE5G5Aqf7

※撮影:2024年8月


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