「航空隊・航空全般」カテゴリーアーカイブ

「霞ヶ浦駐屯地一般公開」その3(飛行場地区)・霞ヶ浦海軍航空隊跡地散策

令和5年度の「霞ヶ浦駐屯地開設70周年・関東補給処創立25周年記念行事」が2023年6月3日に開催されました。午前中は雨天ということもあり、いくつかのイベントは中止とはなったが、足を運んでみました。
この機会を逃すと、霞ヶ浦駐屯地内の戦跡散策は、また1年後になってしまうかもしれませんので。

本記事は「その3」となります。飛行場地区を中心として掲載。
その1」「その2」はこちら。


霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)

1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立した航空隊。(横須賀、佐世保、霞ヶ浦)
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当。

予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転することなった。
その結果、水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

霞ヶ浦海軍航空隊に関しては下記も。


土浦海軍航空隊(土空)

昭和15年(1940)、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
「土浦空」跡地は、現在は土浦駐屯地近郊。


第一海軍航空廠

第一海軍航空廠は、それまでの海軍航空技術廠霞ヶ浦出張所を拡大改編して昭和16年10月に設立された。
海軍の航空機やエンジンなどの組立て・修理を実施。
霞ヶ浦は、霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊、霞ヶ浦飛行場、第一海軍航空廠など、大日本帝国海軍航空隊の一大拠点であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

今回は、霞ヶ浦海軍航空隊の左側、四角で囲った格納庫エリアの散策。


霞ヶ浦駐屯地(飛行場地区)

道路を挟んだ南側に、霞ヶ浦飛行場の飛行場地区がある。
 陸上自衛隊 航空学校霞ヶ浦校
 航空自衛隊 霞ヶ浦分屯基地


霞ヶ浦飛行場

管制塔

KASUMIGAURA
BASE OPERATIONS

管制塔の隣の「格納庫A」は戦後のもの。

この先の方に、押収格納庫があった。


霞ヶ浦海軍航空隊の格納庫

手前から、霞ヶ浦駐屯地の格納庫3つと、茨城倉庫㈱土浦営業所の倉庫3つが並ぶ。
霞ヶ浦駐屯地の「格納庫A」は管制塔の隣。

  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫B
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫C
  • 霞ヶ浦駐屯地格納庫D →屋根その他に改修あり、外観が異なる
  • 茨城倉庫3
  • 茨城倉庫2
  • 茨城倉庫1

茨城倉庫と庚申塚は、下記の記事にて

ファイル:USA-R373-84
1947年10月25日、米軍撮影の航空写真を加工。
該当の格納庫エリアを拡大。

現在の様子を、Google航空写真で照合。
自衛隊側の右から3番目だけ、屋根の形状が異なる。
それ以外の5つの格納庫は、往時から変わらない。

今回は、この格納庫を間近で見ることも目標。
(別途、井関農機の敷地内にも中央格納庫関連施設が現存しており、機会あれば見学したいが、それはまたその機会が来るまでお預け。

格納庫が6基並んでいる。

霞ヶ浦駐屯地の格納庫C

手前は、霞ヶ浦駐屯地の格納庫D
奥の3棟が自衛隊敷地外の民有地にある茨城倉庫土浦営業所の倉庫

霞ヶ浦駐屯地の格納庫Dは、だいぶリニューアルされている。

茨城倉庫土浦営業所の倉庫は、通し番号としては、手前から倉庫3、倉庫2、倉庫1となる。

霞ヶ浦駐屯地の格納庫CとB。

ヘリを見ずに格納庫ばかり見ている、、、

手前から、霞ヶ浦駐屯地の格納庫CとB、管制塔、格納庫A

霞ヶ浦駐屯地の格納庫C

霞ヶ浦駐屯地の格納庫CとD、茨城倉庫土浦営業所の倉庫

霞ヶ浦駐屯地の格納庫B

ようやく、ヘリにも、歩み寄りました。

救難消防車庫

最新の空港用化学消防自動車、米オシュコシュ社製ストライカー3000。救難消防車IB型として飛行場に配備されている。

手前の救難消防車は、色褪せてますね。世代交代、お疲れ様でした。

※撮影:2023年6月


関連(茨城県)

はじめに

「霞ヶ浦駐屯地一般公開」その2(広報センター)・第一海軍航空廠跡地散策

令和5年度の「霞ヶ浦駐屯地開設70周年・関東補給処創立25周年記念行事」が2023年6月3日に開催されました。午前中は雨天ということもあり、いくつかのイベントは中止とはなったが、足を運んでみました。
この機会を逃すと、霞ヶ浦駐屯地内の戦跡散策は、また1年後になってしまうかもしれませんので。

本記事は、「その2」となります。本部地区の広報センター内部展示を中心に掲載。
その1」「その3」はこちら。


霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)

1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立した航空隊。(横須賀、佐世保、霞ヶ浦)
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当。

予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転することなった。
その結果、水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

霞ヶ浦海軍航空隊に関しては下記も。


土浦海軍航空隊(土空)

昭和15年(1940)、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
「土浦空」跡地は、現在は土浦駐屯地近郊。


第一海軍航空廠

第一海軍航空廠は、それまでの海軍航空技術廠霞ヶ浦出張所を拡大改編して昭和16年10月に設立された。
海軍の航空機やエンジンなどの組立て・修理を実施。
霞ヶ浦は、霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊、霞ヶ浦飛行場、第一海軍航空廠など、大日本帝国海軍航空隊の一大拠点であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:UUSA-R2232-44
1948年12月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

第一海軍航空廠の部分を拡大


旧第一海軍航空廠及び霞ヶ浦海軍航空隊模型

これは、良くできた模型。
わかりにくい、霞ヶ浦飛行場周辺の海軍関係施設が、一目瞭然に理解できます。

年表で代表的な事項をピックアップしてみる。

  • 1921(大10)7月 霞ヶ浦海軍飛行場開設
  • 1922(大11)11月 霞ヶ浦海軍航空隊開設
  • 1924(大13)4月 押収格納庫竣工
  • 1929(昭4)8月16日 ツェッペリン伯号着陸
  • 1939(昭14)航空廠先発隊として横須賀海軍技術廠霞ヶ浦出張所が開設。航空廠建設に着手。
  • 1940(昭15)11月 土浦海軍航空隊開設。紀元2600年記念。
  • 1941(昭16)10月 第一海軍航空廠設立。
  • 1943(昭18) 押収格納庫解体。海軍軍需部霞ヶ浦支部で燃料供給開始(朝日分屯地)
  • 1944(昭19) 「桜花」試作一号機完成。
  • 1945(昭20)6月10日 阿見大空襲で土浦海軍航空隊の予科練生ら281人戦死。8月15日、終戦。10月、第一海軍航空廠は米軍に接収。賠償指定工場となる。

昭和20年頃の海軍各施設。
でも、押収格納庫は昭和18年には解体されているけど、ね。

第一海軍航空廠

霞ヶ浦海軍航空隊。
中央に、霞ヶ浦海軍航空隊中央格納庫や霞ヶ浦海軍航空隊戦闘指揮所がある。
井関農機の敷地内に現存している。

霞ヶ浦海軍航空隊

奥は、土浦海軍航空隊
真ん中は、霞ヶ浦海軍航空隊
手前は、第一軍需工廠


陸自のコーナー(1階)

武器補給処 追憶乃碑

野外にあった石碑とリンクしますね。これは、陸自時代の思い出。


旧第一海軍航空廠庁舎

昭和16年10月1日に開庁した第一海軍航空廠の庁舎。
昭和28年からの霞ヶ浦駐屯地でも、平成5年3月まで本部庁舎として使用。
施設再配置工事にて解体。


中島健氏の絵画

階段には、飛行機絵師・中島健氏の絵画が掲げられていた。

零式艦上戦闘機52型。
以前にコメントにていただいていた情報を思い出しました。

なるほど。
これは、作者として特定の個人を連想させないように、あえて顔を描かなかった、もしくは、顔を描けなかった、ような気配を、私は感じ取った次第です。


ハンザ式水上偵察機プロペラ

ハンザ式水上偵察機は大正15年に正式採用され、同年までに300機前後が生産された。当展示プロペラは刻印から同機種に取り付けられていたと推察され、写真の2枚羽が大半であったが、展示品は希少な4枚羽である。(写真:霞空十年史)

いわれてみれば、木製4枚羽のプロペラはあまり見ない。。。

14式水上偵察機、ってありますね。

プロペラの刻印。

単葉
ヒ式200H.P.
愛知No.473
15.8.31

ヒ式200馬力は、イスパノスイザ発動機とのことで、三菱ヒ式発動機でライセンス生産された。愛知時計電機製航空機製。

海軍のシンボル錨も刻印されている


第一海軍航空廠ゆかりの航空機

第一海軍航空廠が整備、修理、部品受領等で関わった航空機。

圧巻。日本海軍の航空機が勢ぞろいしている感がある。


第一海軍航空廠の関連資料

止水栓


高須四郎海軍大将の遺品

高須四郎は、茨城県稲敷市の出身。
旧制土浦中学(現在の土浦第一高等学校)卒業。
開戦時は、第一艦隊司令長官。
昭和19年、海軍大将。海軍乙事件において連合艦隊司令長官古賀峯一大将が殉職した際に、南西方面艦隊司令長官であった高須四郎は、次席指揮官として、後任の豊田副武大将が着任するまでの間、連合艦隊司令長官代行として、レ号歓待の指揮を執っている。


大空の女神 胸像
(藤田多美子女史胸像)

「その1」で掲載した歌碑とともに、胸像が、霞ヶ浦駐屯地にて保管されている。

藤田多美子女史の歌碑は、広報センター外に展示されている。「その1」で掲載。

歌碑に記される二首の歌
大君の 御楯となれる 益荒男の
 空の勇士に この身捧げん

大空に産声挙げし吉田原
 この身捧げて 守りまつらん

 飛行機事故が起きませぬ様にわが命を捧げる事によって空の勇士を守り給えと祈りつつ、大空翔ける勇士の安全と武運を祈り、水戸通信学校の皆様に宛てた遺書に添えられていた藤田多美子女史の歌である。写真前に展示してある書籍「山桜の花影に」は、多美子さんの純粋で一途な愛国の心を後世に伝えるべく、多美子さんの実妹である増田芳江女史が平成16年に自費出版したものである。

「身は壌土と化すとも魂はかならず永しへに、この地にとどまり大空翔ける皆々様の御武運をお守りいたす事で御座いませう」遺書の一文。

「大空の女神」と呼ばれた乙女
 この胸像の女神は、茨城県水戸市に実在した藤田多美子女史である。
 多美子さんは、昭和15年11月29日、開戦気運が高まる中、相次ぐ航空機事故で命を落とす軍人たちを目の当たりにして、「何かお国のために、女ながらお役に立ちたい」との切望のもと、陸軍航空通信学校(旧・水戸市吉田原、現・水戸市住吉町)の飛行場の一隅にあった井戸に、身を投じ、わが身を、わが心を、わが命を飛行機事故が起きませんように、一人も犠牲者が出ませんようにとの祈りを込めて身を没しました。享年22歳の事である。
 多美子さんの行動は美談として称えられ、地元有志らにより、一周忌にあたる昭和16年11月、陸軍航空通信学校内に胸像と写真の歌碑、お堂が建立され「大空の女神」として戦時中、同校に祀られたものである。

展示までの経緯
 戦後、陸軍航空通信学校は米軍に接収され、女神像も遺棄されたが、昭和20年頃農家の納屋で発見され以来67年間に亘り、ご実家に安置され守られてきた。
 多美子さんの父親が生前「事故の根絶という娘の遺志を叶えるべく、せめて飛行場の見える位置に安置してあげたい。」と願っていたという事実を知りえたご遺族、旧陸軍航空通信学校出身者及びその支援者の働きかけにより、「場所は違えど、同じ茨城県内唯一の陸上自衛隊航空科部隊の飛行場を有する霞ヶ浦駐屯地に胸像及び歌碑を置きたい。」との申し出があり、72周忌にあたる平成24年11月以降、ご意志を広く後世に伝えるため、当広報センターにおいて展示するものである。


藤田信雄海軍兵曹長

アメリカ本土を爆撃した唯一の事例として、藤田信雄氏のコーナーが設置されている。

レーガン大統領から「英雄」藤田信雄氏に贈られた星条旗とメッセージ。

1942年9月9日と29日に2回に渡って、アメリカ合衆国オレゴン州ブルッキングスの森林に焼夷弾を投下し山林火災を企図。
これが、歴史上で唯一の航空機による爆撃となり、そのときに爆撃を実施したのが伊25潜水艦から離水した零式小型水上偵察機11型の藤田信雄飛行長であった。
藤田信雄氏は、霞ヶ浦航空隊で水上機教育を受け、そして霞ヶ浦海軍航空隊で教育担当も行い、昭和17年に伊号25潜水艦で出撃し、米本土爆撃後の昭和18年に、再び霞ヶ浦海軍航空隊に配属され終戦を迎えている。


ツェッペリン伯号

ドイツの飛行船、ツェッペリン伯号のコーナー

係留環

藤吉 直四郎
昭和4年に、少佐としてドイツ出張。ツェッペリン伯号を日本まで誘導する任務を担った。
帰国後は、霞ケ浦空飛行船隊長。その後も、各地の航空隊司令を勤め、終戦時は、少将で土浦空司令であった。

藤吉直四郎海少佐(後少将)
昭和4年8月、ドイツ国の飛行船ツェッペリン伯号の世界一周に際し同船をドイツから霞ヶ浦飛行場まで1万1千キロ余の航程誘導の大任を無事果され、日本海軍の航空技術の優秀性を世界に示された。

ツェッペリン伯号関連の記念碑は広報センターの外に展示されている。「その1」で掲載。


陸自のコーナー(2階)

2階のむかって左半分は陸自のコーナー。(右半分が戦前のコーナー)

「兵站攻勢」
補給処の業務遂行の礎として。(石碑は野外の慰霊殿の近くにありました。)

火器展示

模型展示

※撮影:2023年6月

「その3」では、飛行場地区など。


関連(茨城県)

はじめに

「霞ヶ浦駐屯地一般公開」その1(本部地区)・第一海軍航空廠跡地散策

令和5年度の「霞ヶ浦駐屯地開設70周年・関東補給処創立25周年記念行事」が2023年6月3日に開催されました。午前中は雨天ということもあり、いくつかのイベントは中止とはなったが、足を運んでみました。
この機会を逃すと、霞ヶ浦駐屯地内の戦跡散策は、また1年後になってしまうかもしれませんので。

本記事は「その1」となります。本部地区の野外展示を中心として掲載。
その2」「その3」はこちら。


霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)

1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立した航空隊。(横須賀、佐世保、霞ヶ浦)
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当。

予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転することなった。
その結果、水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

霞ヶ浦海軍航空隊に関しては下記も。


土浦海軍航空隊(土空)

昭和15年(1940)、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
「土浦空」跡地は、現在は土浦駐屯地近郊。


第一海軍航空廠

第一海軍航空廠は、それまでの海軍航空技術廠霞ヶ浦出張所を拡大改編して昭和16年10月に設立された。
海軍の航空機やエンジンなどの組立て・修理を実施。
霞ヶ浦は、霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊、霞ヶ浦飛行場、第一海軍航空廠など、大日本帝国海軍航空隊の一大拠点であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:UUSA-R2232-44
1948年12月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

第一海軍航空廠の部分を拡大


霞ヶ浦駐屯地

昭和28(1953)年に開設された霞ヶ浦駐屯地。
霞ヶ浦駐屯地は、旧日本海軍の「霞ヶ浦海軍航空隊」(霞ヶ浦飛行場)と「第1海軍航空廠」(海軍航空隊専用工場)の跡地でもある。

https://www.mod.go.jp/gsdf/eae/eadep/about.html

霞ヶ浦駐屯地の駐屯地司令は、関東補給処長が兼務。
現在は、陸上自衛隊東部方面隊関東補給処、陸上自衛隊航空学校霞ヶ浦校、そして航空自衛隊中部航空方面隊中部高射群第3高射隊などが配備されている。


霞ヶ浦駐屯地一般公開

まずは、本部地区から。

陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地

陸上自衛隊関東補給処

記念行事マップ

霞ヶ浦駐屯地(本部地区)案内図

荒川沖駅と駐屯地間は、送迎バスを利用しました。

本部庁舎(庁舎A)

霞峰の松


霞ヶ浦駐屯地 旧海軍関連史跡

広報センターに、「霞ヶ浦駐屯地 旧海軍関連史跡配置図」がありましたので、まずは本部エリアの散策を実施します。

駐屯地の史跡案内
●当駐屯地は、終戦によって設置されていた第一海軍航空廠跡に、昭和28年、東京都立川市から陸上自衛隊武器補給処が移転しました。平成2年に施設再配置工事が開始され、平成10年、現在の霞ヶ浦駐屯地の形になるまで第一海軍航空廠の施設を使用しておりました。
●施設再配置工事の際、旧海軍施設は取り壊されてしまったものの一部が当駐屯地に残存しており、歴史を感じることができます。

史跡配置図を参照にしながら、まずは散策を。


霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿
(第一海軍航空廠 奉安殿)

第一海軍航空廠時代の奉安殿が残る。貴重な遺産。

慰霊殿(奉安殿)の由来
 慰霊殿は、昭和16年頃、第一海軍航空廠の発足とともに奉安殿として建立された歴史的遺産である。
 旧海軍時代の奉安殿は、正面に菊の御紋章を奉じ天皇陛下の御真影と軍人勅諭を収める施設であり近傍を通る人々は拝礼し敬った。終戦後、御真影と直喩は、占領軍の手に渡ることを恐れた関係者がいずれかの場所に移したため行方はわからない。
 昭和20年、第一海軍航空廠を接収した占領軍は日本海軍航空の発展の礎となられた御霊を慰霊するため建立された霞ヶ浦神社の廃棄と、収められていた五千五百七十三柱の殉職者名簿の焼却を命じたが、名簿は阿見町内民家に分散秘匿された。この名簿は、武器補給廠の発足から海軍航空隊殉職者慰霊塔が建立された昭和30年まで奉安殿に大切に保管された。
 その後、奉安殿は慰霊殿と改称され、霞ヶ浦駐屯地関係舞台等の殉職者名簿を奉納し慰霊祭等が行われてきた。
 これらの歴史等を後世に残すため、慰霊殿の由来を記し併せて殉職者に対する敬虔な祈りを捧げる次第である。
 平成21年3月

「霞ヶ浦神社」「海軍航空隊殉職者慰霊塔」などに関しては、上記のリンク先を参照で。

慰霊殿(奉安殿)
奉安殿は、戦前、戦中に天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語を納めていた神聖な祭祀場であり、昭和10年以降全国の小学校等に建設が行われ、「愛国心」を国民に浸透させる役割がありました。
自衛隊が移設してからは名称が慰霊殿にかわり、昭和49年までの霞ヶ浦自衛隊員殉職者(病死、事故含む)追悼名簿が納められており、現在は毎月毎中途各部隊が清掃を実施、先人達への敬意を表す場となっております。

奉安殿に関しては、以下も参照で。

はじめに

合掌

霞ヶ浦駐屯地 慰霊殿

かつては、菊の御紋章が掲げられていた


紀元二千六百年記念碑

皇紀2600年(昭和15年)を記念して建てられた記念碑。
慰霊殿の参道脇に。

紀元二千六百年記念碑

昭和十五年十一月十日
海軍航空技術廠霞ヶ浦出張所有志建之

紀元二千六百年記念碑
昭和15年11月10日、皇紀2600年記念祝典が全国で執り行われました。皇紀年号は、初代天皇である神武天皇が即位(紀元前660年)してからを数える、日本独自の紀年法であり、この碑は海軍技術廠霞ヶ浦出張所(第一海軍航空廠の前身)有志が建てたものです。
余談ではありますが、零式艦上戦闘機(通称:零戦)はこの年に正式採用され、皇紀2600年の下二桁の00をとり、零(れい・ぜろ)式と命名されております。


兵站攻勢

慰霊殿の参道近くに。これは戦後のもの。

兵站攻勢

昭和58年6月建立。
第17代武器補給処長 陸将 中根新一謹書


飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑

広報センターのエリアの展示物を。
飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑は、もともとは飛来着陸跡(霞ヶ浦駐屯地の飛行エリア南端付近)に設置されていいたが、平成20年現在地に移設。

飛行船ツェッペリン拍号飛来跡記念碑
 昭和4年(1929年)8月19日、世界最大のドイツ飛行船ツェッペリン伯号が世界一周飛行の途中、当時東洋一といわれたここ霞ヶ浦海軍航空隊に着陸した。5日間の滞在中に約40万人が見物、上野ー土浦間に臨時列車も運行し、阿見原(現阿見町)は人の波で埋まったという。格納庫は全長240mで第一次世界大戦の戦利品である「押収格納庫」を利用した。
 昭和6年にはリンドバーグ夫妻も飛来し、当時霞ヶ浦は世界的空港でもあった。
 昭和49年に係留石と係留環が発見されツェッペリン伯号がこの付近に着陸したことをうけ、昭和50年に記念碑を建立した。
 平成5年阿見町名所百選にも選ばれている。
 近年見学者が減少しつつあり、ツェッペリン来訪の歴史を忘れないため現在地に移設し展示するものである。
 平成20年6月18日
 第33代 霞ヶ浦駐屯地司令 陸将 藤野 毅

ツェッペリン伯号 飛来の地
昭和4年8月19日、世界最大のドイツ飛行船、ツェッペリン伯号が飛来しました。
シベリア上空を通り1万1千キロという距離を渡ってきたのです。滞在は4日間でしたが、新聞やラジオも大きく報じ、見物人はなんと40万人。
上野ー土浦駅間に臨時列車も運行されましたがそれでも乗車しきれず、飛行場にはこの光景を一目みるために野宿をする人もたくさんいたそうです。かつてこの場所に設置されていた飛来記念碑は、現在広報センター前に移設されております。


日独友好濫觴之地

日米友好の「濫觴=はじまり」の地を記念する碑。

ツェッペリン伯号交歓記念
日独友好濫觴之地

陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地司令
 陸将 近藤 清秀 書

近藤清秀氏は技師として、61式や74式戦車開発に携わっていたことで著名。

ツェッペリン伯号係留環

由来
昭和4年8月19日は、当時世界最大の飛行船であったツェッペリン伯号が、世界一周早廻り飛行を目指して、祖国ドイツから一気に全人未翔のシベリア上空を超えて、最初の着陸地阿見原に安着した日である。滞在5日間にわたる地元をあげての歓待、就中巨大格納庫を擁する霞ヶ浦海軍航空隊の民族を超えた協力が、引き続く正規の大偉業完遂に貢献した役割は大きい。ドイツ側も駐日大使を始め多数の在留ドイツ人がこの地に交歓し、阿見原はまさに日独友好濫觴の地となった。
春秋幾星霜、今や辛うじて残されているツェッペリン伯号係留石等の他には、かつてこの地の果たした世界史的意義を想起させるものがないことは淋しい。
ここに記念碑を建立し、その誇りの継承を期する所以である。

係留環


大空の女神 歌碑

「大空の女神」とよばれた乙女。
茨城県水戸市の藤田多美子女史は、自らの身をもって戦闘機事故の根絶を願った。

大君の 御楯となれる 益荒男の
 空の勇士に この身捧げん

大空に産声挙げし吉田原
 この身捧げて 守りまつらん

「大空の女神」
大君の 御楯となれる 益荒男の 空の勇士に この身捧げん
大空に産声挙げし吉田原 この身捧げて 守りまつらん

この歌碑は、昭和15年相次ぐ戦闘機事故の根絶を願い、陸軍航空通信学校(水戸市住吉町)飛行場一隅の掘井戸で入水自決した藤田多美子女史の遺書に添えられていた歌だる。
 身を挺した行動が美談と称えられ、昭和16年陸軍航空通信学校にお堂を建立し「大空の女神」として女史の胸像と歌碑が祀られていた。
 戦後、遺族が引き取り安置していたがご意志を後世に広く伝えたく、72周忌にあたる平成24年11月以降支援者等の働きかけにより、飛行場を有する霞ヶ浦駐屯地に胸像と歌碑を移設し展示するものである。
 平成25年4月13日
  第37代霞ヶ浦駐屯地司令 陸将 櫻木 正明

藤田多美子女史の胸像は、広報センター内に展示されている。
「その2」で掲載。

もともとは、陸軍航空通信学校に祀られていた。
昭和13年6月に水戸陸軍飛行学校が新設。航空通信や戦技、火器などの教育や研究が行われた。
昭和14年に陸軍航空通信学校(吉田)が新設されたことにより、水戸陸軍飛行学校の航空通信教育も移管となった。


旧本部庁舎前 消火栓

海軍の消火栓

消火栓
旧軍第一海軍航空廠季題、本部庁舎前に設置されていたものである。

旧本部庁舎前 消火栓
昭和16年、海軍飛行機専用工場である「第一海軍航空廠」が現霞ヶ浦駐屯地の敷地に建てられました。
海軍航空廠は海軍航空隊基地近くにあり、戦闘機や練習機などの修理・補給・制作を担っておりました。この消火栓は、平成5年頃までは旧本部庁舎前にあり、現在使用しているA庁舎が建てられるに伴い広報センター前に移設・展示されることになったのです。
海軍のシンボルである「錨」のマークもしっかりと刻印されています。


木レンガ

第一海軍航空廠整備工場内に設置されていた木製レンガ。

木レンガ
旧軍第一海軍航空廠時代、大型航空機の整備工場の中に設置されていたものである。


総蹶起の月 記念碑

防火水槽の一部を保存。

総蹶起の月 記念碑
昭和19年、太平洋戦争の戦況は好転せず、山場を迎えようとしていました。この碑は、かつて航空廠内北東に存在した航空エンジン試験場裏に、防火水槽を作ったのを記念して北側外壁に刻み込んだものです。
この年、大都市では疎開が始まり、予科練製の大部分は特攻隊員となり、米軍がサイパンに上陸。学徒動員、女子挺身隊勤労令が発せられました。
総蹶起とはいいながら、この時期日本には十分に性能を発揮して戦える飛行機は残されていませんでした。

「総決起の月」記念碑
旧軍第一海軍航空廠時代、航空エンジン試験場の裏防火水槽を作ったのを記念して水槽北側の外壁に刻み込んだものである。


そのほかの戦跡

以下の2つは、立入禁止エリアでしたので、情報のみで。

飛行機係留環及び米軍爆撃跡地
大型機体組立工場に隣接していた、北東に延びるコンクリート製の飛行機係留場。現在も1/3程度が残されており、火器車両部が資材置き場として使用しています。
飛行機を繋ぐ係留環は地面にそのままの形で残されていますが、米軍により爆撃を受けた箇所は補修によって周囲のコンクリートと材質が異なっており、その威力と範囲をうかがい知ることができます。

庚申塚
霞ヶ浦海軍航空隊が格納庫を作る際、300年前から飛行場地区にあった庚申塚を取り払うと、飛行機訓練事故が多発。庚申塚のたたりといわれ、海軍関係者を困らせました。そこで昭和10年、現在地に移しおまつりしたところ事故が絶えたとされています。
庚申塚は十干十二支の「庚申」で、帝釈天とその使者、青面金剛菩薩を祭神としていて、昔は農事の虫取りの神、人間の諸悪を天帝に告げる神としてあがめていました。

庚申塚は下記にて


霞ヶ浦駐屯地の記念碑

以下は、陸上自衛隊時代の記念碑。

武器補給処「追憶の碑」
武器補給処は昭和29年に霞ヶ浦駐屯地に移駐。平成10年に関東補給処と改編。47年間の歴史を追憶する記念碑。

煌(きらめき)
「煌」とは、首都防衛任務の要たる東部方面隊を支える駐屯地として「内から自ら煌く駐屯地」に変貌を遂げるべくとの期待を込め名付けられたもの。平成15年建立。霞ヶ浦駐屯地開設50周年記念。

90式戦車
石像の戦車。みごと。

90式戦車の本物。

10式戦車も。
2台とも土浦の武器学校から来たっぽい。ご近所さん。


厚生センター

日替わり定食を。天丼と蕎麦。

※撮影:2023年6月

「その2」では、広報センター内の展示資料など。


関連(茨城県)

はじめに

「清水海軍航空隊」清水三保の戦跡散策・その1

静岡県清水区三保。三保半島。
「三保の松原(三保松原)が有名な景勝地にも戦跡がある。

本編は「その1」として清水海軍航空隊を中心に掲載します。
「その2」では、格納庫跡の散策を掲載します。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R236-No.1-92
1947年10月01日、米軍が撮影した航空写真を参照。

一部編集。

Google航空写真


清水海軍航空隊

三保の松原の一角を軍用地に転用して展開された航空隊。
昭和19年9月1日。土浦海軍航空隊から海軍甲種飛行予科練習生(甲飛)第14期前期320名が新設の「清水海軍航空隊」に転入。
昭和20年4月1日。最後の予科練となる甲飛第16期入隊。水上及び水中特攻訓練の教程が実施。
教育訓練部隊のために、航空機の配属はなく、また14期15期16期の3期の教育において、航空機搭乗訓練はなく、特攻教育が主体であった。


甲飛予科練之像

甲飛予科練之像

碑文
太平洋戦争の末期ここ三保の地に清水海軍航空隊ありき
大空に雄飛せんと集いし若人海軍甲種飛行予科練習生が
日夜厳しき教育と訓練に明け暮れし所なり
往時の面影すでになし 
われら再び戦争の惨を起さず
今ここに久遠の平和を念じつつ記念の碑を建立す
 昭和63年8月吉日
  清水海軍航空隊所属
  第十四、十五、十六期海軍甲種飛行予科練習生一同
  清水海軍航空隊清空会 関係者一同

甲飛予科練之像記念碑案内
 「甲飛予科練」とは太平洋戦争時、海軍航空隊に入隊した甲種飛行予科練習生のことであり、旧制中学3年生から、志願により選抜された者たちである。
 昭和19年9月1日、清水海軍航空隊がここ三保の地に開隊され、予科練習生14、15、16期生2700名が航空兵を目指して、日夜厳しい教育と訓練に明け暮れた所である。
 当時、学業半ばにして国難に殉ぜんと、全国より馳せ参じた若人、未だ思慮分別も熟さず、心身も長じていない少年期の練習生が、「潔く散ってこそ若桜の生きがい」と生還を期し得ない精神と技量を養成された。
 愛国心に徹した人生観、青春のひととき、苦楽を共に過ごした霊峰富士を眺める時、清水海軍航空隊がここにあり、甲飛練習生の跡であると、後世に戦争の悲惨さを伝え平和の尊さを願ってこの碑を建立した。
 記念碑保存会

富士山と甲飛予科練之像

鳩を抱きかかえた予科練生徒像。

場所

https://goo.gl/maps/8DSuJ1n1nGxymRJR8


清水海軍航空隊の門柱

「甲飛予科練之像」から三保灯台通りを挟んだ向かい側の建屋の脇に、門柱が残っている。この門柱は、清水海軍航空隊の門柱ともいわれている。
隊門としては貧相なので、裏門か通用門か、といったところ。


三保灯台(清水灯台)

三保半島の東端に建つ、八角形の白亜の小型灯台。
明治45年(1912)3月31日に設置された日本で最初のコンクリート造灯台。国指定重要文化財。日本国近代化産業遺産。土木学会推奨土木遺産。

場所

https://goo.gl/maps/ew1uM3imPfvuXuZu8


三保飛行場

「甲飛予科練之像」から富士山にむかって海岸を進んでいくと、荒れ地が広がっている。これが「三保飛行場」の滑走路。
滑走路は長さ500m、幅20mという超小型の飛行場で、災害救助専用の飛行場として場外離着陸場に分類されている。

かつてこの場所には「三保根岸飛行場」という民間飛行場があり、戦中に海軍に買い上げされ、戦後に払い下げとなっている。

かつては、「日本飛行連盟」「赤十字飛行隊」の管轄だったが、現在は静岡県が管理している(静岡県静岡土木事務所)

三保半島から望む富士山。

駿河湾フェリー「富士」が富士山をバックに航行。


三保の松原(三保松原)

せっかくなので観光ぽいことも。

三代目「羽衣の松」


御穂神社

むかし、神社フリークだったことに、来たことがありました。
記録によると平成16年(2004)だったので、ざっくり約20年前、、、ちょっと自分で驚きの時間軸、、、

御穂神社は、駿河国三の宮。延喜式内社。

主祭神:
大己貴命(おおあなむち命)、一説に三穂津彦命ともいう
三穂津姫命

由緒
大国主神が国を譲られ、高皇産霊尊の娘である三穂津姫命を大后とされ、二柱で羽車に乗って三保の浦に降臨され、三保の森に鎮座されたという。また当社は出雲国御穂埼より遷座した神ともされる。当社を「駿河国三の宮」とする説もある。
醍醐天皇の延喜式では式内社列格。
現在の社殿は寛文8年(1668)の落雷のあとに仮宮として建てられたもので、本殿は江戸中期の建築という。

御穂神社正面の松参道(約500メートル)先の海岸には「羽衣の松」、「三保松原」がある。


三保駅跡(三保ふれあい広場)

昭和19年(1944)7月1日に、貨物駅として開業。
同年9月に、日本軽金属清水工場が操業開始し専用線が運用開始。
同年12月に、清水港線として旅客営業を開始。
昭和59年(1984)に廃止。
三保駅跡は、一部プラットフォームが残され、公園として整備されている。

引込み線で使用されていた小型ディーゼル機関車と、日本軽金属のアルミナ輸送に使用されていた私有タンク車(タキ8450形タキ8453)が静態保存されている。

場所

https://goo.gl/maps/gbPdDfo7DE766rYs6

※2023年5月撮影


関連

「伊保原飛行場」名古屋海軍航空隊跡地の戦跡散策(愛知豊田)

愛知県豊田市浄水町。名鉄でいうところの名鉄豊田線浄水駅。
ここにかつて、飛行場があったという。
近くに赴く機会がありましたので、足を運んでみました。


伊保原飛行場

1940年(昭和15年)に、愛知時計電機株式会社伊保工場の試験飛行場として建設され、軍民共用の飛行場として運用された。なお、愛知時計電機のちに飛行機部門は愛知航空機となる。

1941年に、愛知時計電機株式会社伊保工場の西側に「霞ヶ浦海軍航空隊 名古屋分遣隊」が開隊。
1942年(昭和17年)4月1日、名古屋分遣隊は「名古屋海軍航空隊」に改編となる。
名古屋空は艦爆の実用機教程・操縦訓練が追加され、1945年4月には名古屋空にて艦爆による特攻「神風特別攻撃隊 草薙隊」が編成され、沖縄の米軍艦隊へ特攻が実施されている。

戦後は、開拓地として払い下げられ、また愛知少年院や浄水場なども建設されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:97I9-C4-85
1945年04月06日、日本陸軍が撮影した航空写真を参照。

一部拡大。

現在の様子。
不思議なもので、なんとなく滑走路のあった場所が浮かび上がってくる。


開豊神社

戦後に入植した人々により、昭和23年に伊勢神宮から分神を受けて、伊保原神社を造営。
昭和44年に「開豊神社」と改称。現在の社殿は平成29年(2017)建立。
隣には、浄水区民会館がある。
名古屋海軍航空隊時代には、まだ無かった神社。ちなみに、この近隣では北西に鎮座している「射穂神社」が古社(延喜式内社)として有名。

社地の東側に石碑が集まっている。


開拓碑

開拓碑

沿革
 この一帯は元名古屋海軍航空隊の飛行場跡で戦後国の緊急食糧増産対策の一環として開拓された土地である。昭和二十一年七月六 人の人達によって開拓事業が始められた。県追進農場で開拓技術を修練し十七人が地区内に居住した。同年伊保原開拓農業協同組合が設立された。この土地は酸性が強く礫の多い粘土質土壌であった。鍬一丁にたよる開墾は遅々として捗らず収入のない歳月が続いて苦闘の連続で多くの人が離農した。屡々挫折感をおぼえ乍らも歯をくいしばって頑張った。組合は設立以来各種事業を完成し二十六年漸く電灯がひかれた。 その後開拓地としての整備も徐々に行なわれて将来に希望を見出した。三十年代に入って営農が軌道にのりかけた矢先に伊勢湾台風に見舞われ大きな被害を受けたが組合員が一丸となって見事に災害復旧をし組合の経済発展を為し遂げて現在に至っている。なお三十三年和田ヶ池三十六年愛知用水の完成により水田十七ヘクタールが開かれたが開拓者にとって素晴しい光明であった。漸次入植し現在組合員数八一戸耕地面積一七〇ヘクタール余漸くして近代的農業地帯を完成し周辺地区と肩を並べるまでに成長した。これは偏に関係当局の暖かいご指導の賜であり心からの謝意を表しつゝ 茲に組合解散の記念を碑する 
 昭和四六年一二月吉日建立之
  伊保原開拓農業協同組合


神風特別攻撃隊 草薙隊之碑

神風特別攻撃隊 草薙隊之碑

名古屋海軍航空基地で錬成した神風特別攻撃隊「草薙隊」は、鹿児島の国分基地に進出。
そして昭和20年4月6日12日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入した。戦死56名。

合掌。

此の地は昭和十七年四月一日開隊昭和二十年九月二日解散せる名古屋海軍航空隊の址なり 
昭和二十年春 当地に於て神風特別攻撃隊草薙隊が編成され 四月五日 十二日の両日各二十機の九九式艦上爆撃機は鹿児島県国分基地に進出 菊水一号二号四号作戦に参加 同月六日十二日の三次にわたり沖縄本島西方泊地の米艦船に突入 未帰還二十八機戦死五十六 
彼らが眠る沖縄の地が祖国復帰の日を迎うるにあたり有志の協力を得て豊田市在住の元海軍軍人本碑を建立し草薙隊ノ忠烈を永く後世に伝へんとするもの也
 昭和47年4月吉日
  豊田海友会

特別攻撃隊 機付整備員 追記碑


特攻花

特攻花 
 沖縄特攻の激しかったころ、九州南方の飛行場のまわりに黄色く咲き乱れていたこの花は、誰言うこともなく特攻花と呼ばれました。特攻花は見ていました。みんな二十前後の元気な若者でした。飛び立つ者の願いと見送る者の祈りを、花は聞いていました。今も、花は聞こうとする人には、聞こえる声でささやいてくれます。「ホラ、プロペラの音が、風の声が」 

慰霊五十年祭の記念に、草薙隊が発進した第二国分十三塚原から種を譲り受けて育てました。和名「おほきんけいぎく」多年生草木です。 
 平成七年四月 草薙隊之碑保存会

「大金鶏菊(オオキンケイギク)」な「特攻花」は、ありませんでしたが、ちいさな黄色い花(たんぽぽ)が咲いていました。


三十二糎砲弾

三景艦砲弾(32糎砲弾)がおいてある。
終戦の詔勅の一節「万世の為に太平を開かん」が砲弾に添えられている。


錨と消火栓

詳細不明。錨は住友重機械工業の寄贈。

消火栓は、海軍の刻印がのこる。移築かと。


五省の碑

五省
無悖至誠乎
無恥言行乎
無缺氣力乎
無憾努力乎
無亘不精乎

左下が不自然に埋められている。
隠さねばならない揮毫者だったのだろうか。

五省とは、海軍兵学校において用いられた五つの訓戒。

十三塚は、室町時代末期のいわれ。これだけは戦争が関係ない。

場所

https://goo.gl/maps/t1EyPQpdsWidkU239


名古屋少年院の向かいにある駐車場の奥の竹藪。

名古屋海軍航空隊の通信壕

竹藪の中に、壕。

旧日本海軍名古屋航空隊 通信壕
 地下戦闘指揮所(通信施設)と考えられる遺構。コンクリート造の3か所部屋で構成され、通路を挟んで2つが並んで位置し、1つが向かい側にある。並んだ2つの部屋は幅4.1m、高さ2.7m、奥行き9.0mと6.6m。天井がアーチ形で、出入り口丈夫に経10cmの孔が弧を描いて開けられている。2つの部屋は連絡孔と鉄管でつながり、機器の配線用と推定される。向かいの部屋は幅5.0m、高さ1.8m、奥行き1.5mで、向かいの部屋に比べると狭い。

配線用の孔は入口上部に。
四角い凹みは屋根の梁か。

配管

隣の部屋と貫通している孔

上部の換気口。

名古屋少年院
かつての名古屋航空隊の中心にあたる。


名古屋海軍航空隊の門柱

片方のみ残っている。

珍しいデザインの門柱。

場所

https://goo.gl/maps/s7MixNC9UPrJh9Dr6


名古屋海軍航空隊(伊保原飛行場)の滑走路跡

浄水町伊保原北交差点から浄水町原山東交差点の先まで、まっすぐに伸びる道路。このあたりの真っ直ぐな区画が当時の滑走路の名残。

まっすぐな飛行場跡に、戦後、愛知県豊田浄水場が建設された。
昭和47年7月から給水を開始。

浄水駅
昭和54年(1979)の開業。

撮影:2023年4月


関連

「八丁八反の飛行場」児玉陸軍飛行場跡地の戦跡散策(埼玉児玉)

埼玉県は、本庄(児玉)・上里にあった陸軍飛行場。
往時を偲ぶものがいくつかあるというので、足を運んでみた。

児玉飛行場のあったあたりは、上里町・本庄市(旧児玉町)・神川町境の八町八反と地元で呼ばれた地域であったために「八町八反の飛行場」と呼称された。ちなみに「八」は末広がりとしての意味であり、実際の面積ではない。


児玉陸軍飛行場

昭和十八年十月、熊谷陸軍飛行学校児玉教育斑として使用開始。
昭和十九年四月、学徒動員の陸軍特別操縦見習士官200名が入校し、児玉教育隊と改称。
昭和十九年十月、児玉基地と改称。第一四四飛行場大隊が配備される。
児玉基地には、第1航空軍の第27飛行団(飛行団長 野中俊雄)が配備。
特別攻撃隊の基地、拠点となって帝都の防衛、硫黄島攻撃等の重要航空作戦の任に当たった。
昭和二十年八月十五日、児玉基地は、映画「日本の一番長い日」(1967年版)にも登場する。(ただし内容はフィクションなので注意が必要。児玉飛行場からは8月15日に特攻出撃が実施していません。)
現在は、大部分が児玉工業団地となっている。

余談だが、児玉飛行場の第27飛行団長であった野中俊雄大佐は、戦後は富士飛行場の跡地に部下とともに入植開墾し、その地を「靖国」としたと伝わっている。

https://www.at-s.com/news/sengo70/senka/vol06.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R465-No1-203
1947年11月3日に米軍が撮影した航空写真を参照。

一部拡大。

いまでも形がはっきりわかる。


児玉飛行場之跡碑

児玉飛行場跡地の北東側に、慰霊碑を設けた区画がある。

児玉飛行場之跡碑

鎮魂

合掌

碑文
第二次世界大戦の苛烈な戦局下、当地に建設された児玉飛行場の生涯は、まさに戦いの歴史であった、即ち陸軍航空特別攻撃隊の出撃基地として、日本々土に来襲する敵軍の勢を砕く古今未曽有の航空作戦に貢献した。児玉飛行場の栄誉は埼玉県はもとより全国に其の名を馳せている。其の建設を胸に秘める児玉郡下市町村住民の血と汗の協力に拠る「八丁八反の飛行場」こそ日本最後の砦として神洲不滅の奇跡を信じ、各種団体から小学校児童に至るまで、困苦欠乏に耐えつゝ工事に奉仕し、昭和十七年春より約一年有半の歳月を経て完成した。昭和十八年十月熊谷陸軍飛行学校児玉教育斑(初代隊長浅井策大尉)として使用開始し、同校の九十五式一型練習機が初めて児玉飛行場に着陸した。先ず、暁部隊の将校、下士官学生十五名に飛行機の操縦技術を施し前線に送った。続いて、昭和十九年四月学徒動員の陸軍特別操縦見習士官二○○名が入校し、児玉教育隊と改称され、三ヶ月の最短期間に操縦教育を終了し陸軍特別攻撃隊要員として第一線に配属された。又同年八月、第一練習飛行隊の編成を見るや全将兵は、児玉郷の山河に別れ南国ジャワ島に移駐した。同年十月児玉基地と改称、第一四四飛行場大隊が配備され、各分科飛行部隊及び、特別攻撃隊の基地、拠点となって帝都の防衛、硫黄島攻撃、或いは太平洋近海を遊弋する敵機動艦隊に対する攻撃等、重要航空作戦の任に当たった。昭和二十年八月十五日大詔を拝し戦局を結ぶ、児玉基地は、映画「日本の一番長い日」によって全国民に伝えられたが、祖国日本の栄光を背負って戦った、児玉飛行場は尊くも又悲しい無限の教訓を残して、その思い出だけを住民、軍関係の記憶に止どめて日本と運命を共にし、三年有余の歴史を閉じた。我が民族の限り無い雄叫は、歴史の試練に苛なまれ乍らも、同年秋、百十余名の開拓団員の入植となり、農耕地にすると同時に一部は工業団地として再生し今日に至る。戦後三十五年を閲し、往時の留魂、姿を偲ぶ何物もなく、追想のみ錯綜し物心共に漠々たるものを覚ゆる時此の縁故ある地に生存する有志の悲願が凝って記念碑建立の声こんこんとして湧くが如く起る。幸にして地元同志の篤志と物心両面の援助と更に碑建設の諸般に亘り住民各位の甚大なる協力を受けたことはまさに天佑神助と信じ共に感謝するところである。茲に熊谷陸軍飛行学校、第一練習飛行隊第一四四飛行場大隊の関係者並びに地元有志の発願により、児玉飛行場を飛び立ち祖国の為に散華された幾多将士を始め教育訓練中殉職した戦友の冥福を永久に祈り、再び戦争を繰返さないことを願いつゝ世界の平和と日本の繁栄を祈念してこの碑を建立する。
 昭和五十五年十一月十五日 児玉飛行場跡記念碑建設委員会

「八丁八反の飛行場」

観世音菩薩

第四教育飛行隊鎮魂碑
児玉飛行場跡に、護国生死を共にと集いたる第四教育飛行隊に在籍の士が、今茲に訓練中、不幸その任に殉ぜし者、或は米機襲来に斃れし者を部隊終焉の地に、永えに眠られん事を願い、この碑を建立する。
部隊は昭和十七年滋賀縣八日市に飛行第三戰隊北方進出の後を享け軽爆撃機操縦者の戰技訓練を主務とした新設部隊であったが、戰局の推移に鑑み、南方補給作戰更に名阪神地区の要地防空戰斗等の戰斗行動に参加、昭和二十年三月部隊はこの地に移駐、戰局漸く悪化するや本然の任務たる教育訓練から特別攻撃隊の養成へと変遷を経て、振武第二九九隊、三○○隊、三○一隊、三○二隊、三○三隊、三○四隊を編成、沖縄特攻作戰の為南下征途に就かしめた。此の間の訓練においても幾多の尊き命が失われたが屍を越え国の護持に訓練は日夜を分かたず続けられた。 
二十年八月に入るや米機の空襲も熾烈を極め対空戰斗においても戰死者が出るに至った。斯くして頽勢の挽回ならざるまゝに終戰の日を迎えたが、青春の血滾る憂国の至情も詔勅の渙発に旬日を出ずして敗戰の處理を完了、茲にこの児玉において部隊の歴史は閉ざされた。短期間乍ら苛酷な情勢下における児玉飛行場での生活の一日一日は終生忘れ得ぬものがあり、更に幽明境を異にした幾多の戰友をこの地に残したまま家郷に戻らねばならなかつたことは断腸の思であつた。離散の日より三十七年を歴し、今漸く兄等の安住と、兄等に心の再開を願える地を、児玉飛行場之跡碑奉賛会の御厚志により得ることが出来、この碑の建立される日を迎え得た。
庶幾兄等観世音菩薩の慈悲に抱かれ永えに此の地に鎮まらんことを。
 昭和五十七年十月十日 合掌
  八日市会 冲之原会 児玉会

第十五輸送飛行中隊発祥の地

第十五輸送飛行中隊
 発祥の地記念碑
  内閣総理大臣 中曽根康弘

第十五輸送飛行中隊戦死者 
  大松少佐  中田少尉  萩野曹長
  国分中尉  若林准尉  小南曹長
  西田准尉  加納准尉  西沢伍長
  山崎准尉  岡辺曹長  武川兵長
  門屋准尉  遠藤曹長  加藤候補生 
   中隊戦友会建之

却火
大東亜戦争末期の昭和二十年五月から七月に遠く太平洋の波頭を超えて来襲した米機動艦隊のグラマン機によって児玉飛行場は爆撃や機銃掃射の攻撃を受けた。
この爆弾は、戦後の昭和三十五年児玉飛行場跡北西隅の地下二メートルから出土した三発である。
犠牲者の冥福を祈り、久遠の平和を祈念する。
 昭和五十五年一月十五日 
  児玉開拓 岩田七郎

児玉飛行場を空襲した焼夷弾の欠片。

場所

https://goo.gl/maps/vxRECE83L5YCmxw28


立野南公民館(兵舎流用)

児玉飛行場にあった兵舎の一部を移築し再利用した公民館。
なお、出入り口は増築したもの。

拓魂
開拓30周年記念之碑
 
埼玉県児玉開拓農業共同組合

碑文
開拓地は太平洋戦争遂行の為航空後方基地として終戦二年前に完成した旧陸軍児玉飛行場跡地である 
戦後緊急食料増産対策として、基地残留部隊員を基幹として復員軍人引揚者開拓者及び周辺町村の次男三男百十六名を以って昭和二十年十月開墾に着手した 
以来三十年困苦に耐え欠乏を忍んでひたむきの努力を重ねて今日に至る 
ここに三十周年を迎へるに当り今は亡き友と共に入植者の足跡を記し子孫の繁栄を祈りこの碑を建立するものである 
 昭和五十二年四月二十日
  児玉開拓農業協同組合

西瓜記念碑

昭和38年建立。
昭和20年10月に、児玉飛行場跡地に入植した開拓農家がスイカの栽培を初め、児玉スイカとして特産品になった。

場所

https://goo.gl/maps/xcSmcLAFzcEGZu5Q6


上部を伐採されたマキの大木

児玉飛行場の北西。

マキの大木。児玉飛行場を離着陸する飛行機の妨げになるということで、上部をばっっさりと切り取られてしまった。
それでも立派に存在感を発揮しているマキの大木。

上里町指定の天然記念物。 樹齢800年という。

マキの大木の向こうを飛ぶ飛行機。

場所:

https://goo.gl/maps/i7XV1d3iA4UMHNzBA


宝蔵寺の被災石灯籠

マキの大木の隣にあるのが宝蔵寺。
機銃掃射の弾痕が残る石灯籠がある。

無数の弾痕。

場所

https://goo.gl/maps/2Y9BoEQvibjJrf7J6


児玉飛行場の滑走路跡(西側)

飛行場滑走路があった西側から、東に向けて歩いてみます。

このあたりが西端。

場所

https://goo.gl/maps/sQhcYm2TLoc6abe38

滑走路跡の道路。

場所

https://goo.gl/maps/aEAJ42jNSePxbTeb7


児玉工業団地造成事業完成記念碑(共栄公園)

共栄公園は、工業団地の真ん中辺りにある。
すなわち、児玉飛行場の真ん中あたり、滑走路のあったあたりともいえる。

児玉工業団地造成事業
完成記念碑

完成記念碑建立の由来
 この工業団地は、児玉郡市広域市町村圏の地域振興と既成市街地の土地利用の純化を図るため、埼玉県企業局が造成したものである。
 昭和四十七年に事業を開始以来三百六十五名の土地所有者をはじめ、本庄市、児玉町、神川村および上里町その他多数の関係者の深い御理解と御協力を得て、十三年の歳月と約百九十六億円の事業費を投じて一〇六・五ヘクタールの団地造成を昭和五十九年十一月に完了したものである。
 この地域は、かつての共和村、七本木村、長幡村、丹荘村の村境に位置し、通称八丁八反と呼ばれていた。第二次世界大戦末期の昭和十九年には、一部集落の移転を行い、陸軍飛行場が建設されたが、戦後は開拓地として入植農民による野菜栽培等の農業振興が図られ、特に西瓜の特産地であった。
 造成以前は、児玉丘陵を南に望み、上毛の山々や秩父連峰を遠望するのどかな農村地帯であったが、時代の要請により自然環境と調和のとれた近代的な工業団地として生れ変わったものである。
 ここに工業団地造成事業の完了に当たり、この地の由来と土地提供者の氏名を彫刻した記念碑を建立し、永く後世にこれを伝えるものである。
 昭和五十九年十一月吉日
  埼玉県企業局

場所

https://goo.gl/maps/fvxcT98mjiWKcCVA7


児玉飛行場の滑走路跡(東側)

東側は、工業団地となるまえに、入植していた開拓民の集落がそのまま住宅地となっている。

歩いていて、不自然に感じたのが、アスファルトの盛り方。
左右が低くなっていて、じつに歩きにくい路肩であった。

ちなみに当時の滑走路は、マカダム工法で造られたために、いまでも掘ると砂利が出てくるという。

場所

https://goo.gl/maps/oEj8QYSWzfGeVC8d7

児玉飛行場の外周。東端。

セブンイレブン本庄共栄店のあるあたりが、飛行場エリアの北東端。

一昔前は、側溝のコンクリート蓋が往時のまま残っていたが、消失した。


児玉飛行場入口跡(推定)

現在のエステー埼玉工場のあたりが、飛行場エリアの入口であったと推定。
ここより北側は、飛行場エリアに付属する施設エリア。

飛行場の入口からまっすぐに伸びる道路。


児玉飛行場正門跡(推定)

嘉美の信号のあるあたり。
児玉飛行場の正門はこのあたりにあったのではと推測。

場所:

https://goo.gl/maps/Hb5MuGArPVBmSTLw6

近くには、嘉美神社がある。
児玉飛行場のある嘉美の鎮守様。

児玉飛行場に付属する施設エリアの北東端。

児玉飛行場跡地は、公共交通機関のアクセスは芳しくない。
すくないバスをうまく利用して、散策を実施。

ちなみに徒歩7キロで2時間15分歩いていたようです。

※撮影:2023年5月


関連

北宇都宮駐屯地開設50周年記念行事(北宇都宮駐屯地一般公開)

北宇都宮駐屯地の一般公開。
雀宮駅から北側に「北宇都宮駐屯地」があって、南側には「宇都宮駐屯地」がある。
北宇都宮駐屯地は、飛行場があるので、ちょっと趣が異なるのだ。


北宇都宮駐屯地

陸上自衛隊航空学校宇都宮校などが駐屯。
1700mの滑走路を持つ宇都宮飛行場があり、官公庁向け航空機を制作するSUBARU宇都宮製作所南工場と、栃木県警警察航空隊との共同使用となっている。

公式

https://www.mod.go.jp/gsdf/kitautunomiya/index.html


中島飛行機宇都宮製作所飛行場
(宇都宮南飛行場)

中島飛行機宇都宮製作所飛行場として開設。
昭和19年1月に、中島飛行機宇都宮製作所が開設。主に四式戦「疾風」を生産。
昭和20年8月、終戦により、中島飛行機宇都宮製作所は解散、富士産業宇都宮工場となり、平和産業に転換。
のちに富士重工業宇都宮製作所となり航空機の生産を開始。現在は、SUBARU宇都宮製作所南工場が滑走路に隣接している。また、中島飛行機宇都宮製作所は、SUBARU 航空宇宙カンパニーとなっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M83-A-6-105
ファイル:USA-M83-A-6-93
1946年3月24日に米軍が撮影した航空写真。

北にあるのが、中島飛行機宇都宮製作所。誘導路で滑走路と結ばれている。

中島飛行機宇都宮工場と南飛行場の位置関係、誘導路などは、いまでもわかりやすい。


北宇都宮駐屯地開設50周年記念行事

本部庁舎

若々しき航空戦士たらん

鵬翼無窮

航空自衛隊宇都宮基地としての石碑。

航空安全


航空資料館(北宇都宮駐屯地)

旧軍関係としては、陸軍航空学校の資料など。

宇都宮陸軍飛行学校は昭和15年の開設。宇都宮陸軍飛行場は、この地ではなく、東方の清原にあった。(現在の清原工業団地)

陸軍航空育ての親
近藤兼利 陸軍中将

宇都宮教導飛行師団長、でもあった。(昭和10年)

こっちは戦後。

航空公園には、いくつかの飛行機が展示。

F-86F(旭光)


宇都宮駐屯地滑走路(宇都宮飛行場)

管制塔

側溝
なんの根拠もないけど、往時からの側溝だと良いな、という気持ち。蓋は新しいので、今と昔と位置関係があっているかどうか、です。

第三格納庫と管制塔

第二格納庫と第三格納庫は一緒。

式典のメイン観覧席になってます。

第一格納庫。
戦後かな。中島飛行機時代は、格納庫は航空写真で確認できなかったので。

体育館

側溝

こういうのが気になります。往時かどうかは不明。

車庫

古そうなものはとりあえず撮影してしまいます。


航空行事

航空学校宇都宮校の教官が操るブルーホーネットの一斉離陸。
ヘリコプターの飛行演舞は珍しい。

練習ヘリコプター(TH-480B)

多用途ヘリコプター(UH-1J)

飛行展示

栃木県警察航空隊と栃木県消防防災航空隊も交えての救難飛行展示

ブルーホーネット(練習ヘリコプターTH-480B)の演舞

CH-47地上滑走の搭乗抽選は外れました。
まだ乗ったことはありません、、、

厚生センターでカレーを。

ごく普通の味わい。

※撮影:2023年5月


関連

多摩陸軍飛行場(横田基地)の戦跡散策

在日米空軍横田基地
「日米友好祭フレンドシップ・フェスティバル2023」(日米友好祭2023)
第47回目だそうで。
年に一度の横田基地、散策してみましょう。

今回は、消化不良でおわった昨年のリベンジとして再訪してきました。

前回記事はこちら。

一部は、重複しますが。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-80
1947年11月14日に米軍が撮影した航空写真を加工。

下記の黄色が現存。

当時の写真と、Google航空写真との照合。
5つの格納庫を、南側から便宜上で通し番号を振っておく。


多摩陸軍飛行場(福生飛行場・横田飛行場)

昭和15年(1940)、立川陸軍飛行場の付随施設として建設。
同年4月に、陸軍飛行実験部(陸軍航空審査部飛行実験部)が立川から多摩に移転。
大戦末期の本土防空戦時には、飛行実験部戦闘隊を「福生飛行隊」と通称し、第10飛行師団指揮下の臨時の防空飛行部隊として投入され、戦果も上げている。
戦時中の米軍は、従来把握していなかった多摩陸軍飛行場を「横田飛行場」と名付たことから、「横田基地」と呼ばれるようになった。
終戦後は、アメリカ軍に接収され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも積極的に活用された。


旧多摩陸軍飛行場格納庫1

米軍横田基地内に残る多摩陸軍飛行場時代からの格納庫。
前述の地図で、一番南側の格納庫。


旧多摩陸軍飛行場格納庫2と3

2つの格納庫が並んでいる。


旧多摩陸軍飛行場格納庫4と5

北側に4番目と5番目の格納庫。近寄ることは出来ないので遠望で。

どうみても格納庫ばっかり撮っている人、になっていますね。


そのほか

丸い屋根の格納庫は戦後の米軍時代もの。

横田名物


横田名物

横田名物のハンバーガーに並んでみました。
ゴールが見えないw

行列のゴールは、「外人バーガー GAIJIN BURGER」

第36空輸飛行隊(イーグル・エアリフター)が焼く、本場モノで間違いない!

GAIJIN BURGER!!ってノリノリになりながら、作っていました!

外人バーガーは、肉厚なハンバーグが3つ。あとはチーズのみ。
ピクルスやマスタード、マヨネーズはセルフで好きなだけ使って良しのスタイル。
これは大満足のハンバーガー
(ちなみに1時間、並びました、、、)

あっ、これも名物。甘いものもほしいですよね。

フライドオレオ。5個買ったらTシャツもらえました。

オレオをフライド、、、カロリー爆弾

Tシャツ。

青くて良いね。2022年の米空軍75周年の記念Tシャツ。


飛行展示

飛行展示は小規模ですね。あくまでおまけな感じ。

空挺展示。

ヘリでの救難展示。

そして、これを待ってました。

CV-22 オスプレイの飛行展示。

飛んでいるところを生で初めてみました。

機動力にびっくりです。

オスプレイのお辞儀。機種をちょっと下げるアクション。

カメラ設定が甘くて、写真が失敗多数でした。
普段は、静態ばかりを撮影しているため、シャッタースピードは遅めが基本のため、動いているもの撮ったのが久しぶりで、設置ミスった、とか。


地上展示

気になったものだけ撮影。

軍事機密の塊ですね。隠してあります。

水上機、いいねえ。

ホンダ

CH‐47J。
横田基地日米友好祭も47回目。

F-2

T-4。青と赤。

青のブルーインパルス
赤のレッドドルフィン

入間基地の飛行点検機 U-680A


おしまい

また来年?

※撮影:2023年5月


関連

鳴尾飛行場と川西航空機鳴尾製作所の戦跡散策(西宮)

兵庫県西宮市の東部。武庫川や鳴尾地区には、戦前、川西飛行機の工場と海軍の飛行場があった。
往時を偲ぶものは少ないが、そんな西宮市の東部を散策してみました。


川西航空機株式会社

現在の新明和工業の前身。
九四式水上偵察機、九七式飛行艇、二式飛行艇、強風、紫電、紫電改などの海軍向けの航空機を製造した。特に水上機と飛行艇には定評を持つメーカー。
傑作機「二式大艇」を生み出したのも川西航空機。
飛行艇のDNAは、帝国海軍の二式大艇から救難飛行艇 US-2(US-1A改)へと受け継がれている。

中島知久平(中島飛行機)に出資していた川西清兵衛は、トラブルから出資を引き上げ、1920年(大正9年)に自社での飛行機メーカーを目指して川西機械製作所を創業。
川西機械製作所飛行機部は、1928年(昭和3年)に川西航空機(現・新明和工業)として独立した。
1930年(昭和5年)鳴尾製作所を開設。帝国海軍と密接な関係となり、海軍も積極的に川西飛行機を後押しし、大型飛行艇メーカーとしての成長をすすめていく。
1938年(昭和13年)、海軍管理工場となる。
1942年(昭和17年)に、甲南製作所(鳴尾製作所分所・現在の新明和工業甲南工場)、姫路製作所が完成。
1943年(昭和18年)、鳴尾製作所に隣接していた鳴尾競馬場と鳴尾ゴルフ倶楽部の土地が接収され、鳴尾飛行場と川西飛行機用地として使用され、従業員輸送と資材輸送のために、阪神国道駅及び国鉄西宮駅と接続する専用鉄道(のちの阪神武庫川線)も建設された。
川西飛行機は、鳴尾・甲南・宝塚・姫路に製作所(工場)を擁していたが、戦争末期には4製作所ともに米軍空襲により壊滅。工場疎開を余儀なくされた。
戦後の企業再建では、母体であった株式会社川西機械製作所は、第二会社として神戸工業を設立し、解散。神戸工業は富士通と合併。引き継いだ部門は、富士通テンを経て、デンソーテンとして、川西器械製作所を継承している。
川西飛行機株式会社は、昭和22年に明和興業と社名変更し、昭和s4年に、自動車部門の明和自動車工業と、汎用機械の新明和興業に分割。明和自動車工業はのちにダイハツ傘下となり吸収。
新明和興業は、昭和35年に「新明和工業株式会社」に社名変更し、海上自衛隊の救難飛行艇をはじめてとした航空機製造を継続している。


二式大艇(二式飛行艇)

川西航空機が製造した当時世界最高の性能を誇った傑作機。
「恐るべき機体」「空飛ぶ戦艦」「全世界の飛行艇に君臨する王者」と別称された名機。連合国コードネームEmily。
二式大艇でもって、飛行艇技術では日本が世界に勝利したと讃えられ数々の勇名を誇る。
川西航空機が生み出した帝国海軍の飛行艇の伝統は、戦後は、新明和工業によって海自PS-1/US-1/US-2へと受け継がれている。

「船の科学館」に在りし日の彼女。2003年撮影。
※現在は鹿児島鹿屋に展示
 (鹿屋にも行きたい、、、、

以下、参照


甲子園口駅

この日の散策は、甲子園口駅からスタート。

まずはJR神戸線に沿って西に歩いてみました。


甲子園SL公園

川西航空機鳴尾製作所への輸送のために、昭和18年に阪神電鉄により武庫川ー洲先駅が開通。昭和19年に武庫大橋ー武庫川駅間が開通。西宮駅からは国有鉄道としての乗り入れも行われた。

甲子園SL公園には、国有鉄道と阪神電鉄武庫川線の貨物を物語る給水塔がモニュメントとして残っていた。

 この給水塔は、昭和19年の戦争末期に蒸気機関車の給水塔として軍需輸送のために阪神電鉄により武庫川線として敷設され、当時の省線(JR線の旧称)との間で相互乗り入れが行われていた。
 この路線は、その後、工業資材などの輸送を行ってきましたが、昭和30年代にその役目を終え廃止されました。
 戦後の社会復興に貢献してきた武庫川線の歴史を残す貴重な資料、また、歴史的かつ地区のシンボルとして補修を施し、モニュメントとして生まれ変わりました。

武庫川線に関しては後述します。

場所

https://goo.gl/maps/48tXzUwvr9mKW63S8


まんぼうトンネル(甲子園口)

JRの線路の下をくぐるトンネル。屈まないと通行できないほどの小ささ。高さは130センチほど。
地図を見て、ちょっと面白そうだったので立ち寄り。

もともとは、明治7年に官設鉄道が開業する際に線路の盛り土の下を
用水路が流れるように作ったトンネルだったという。
西宮には、3つほど通称「まんぼうトンネル」がある。今回はそのうちの一番東側のトンネル。これが一番、間口が小さい。

下記の写真は、わかるかな、自転車を押したおじさんがかがみながら通行中です。

北側の半円トンネルは明治29年の複線工事でレンガで造営され、南側の四角トンネルは大正15年の複々線工事のときに延伸したものという。そのために形状が違うのかな。

場所

https://goo.gl/maps/MsmkJTwyUVNH55SX7


いったん、甲子園口駅まで戻って、そこから南下していきます。

武庫川女子大学 甲子園会館
(旧大阪海軍病院・旧甲子園ホテル)

武庫川女子大学の甲子園会館。
昭和5年(1930年)に甲子園ホテルとして竣工。
その後、昭和19年に帝国海軍が借受し、呉海軍病院大阪分院として開院。昭和20年3月に、大阪海軍病院として独立し、終戦を迎える。
その後、米軍の将校宿舎を経て、昭和40年(1965年)、武庫川学院が譲り受け教育施設として活用されている。

甲子園会館(武庫川女子大学サイト)

https://www.mukogawa-u.ac.jp/~kkcampus/

申請をすれば見学も可能。

流石に女子大なので、私は通りすがりに敷地外からチラ見。
時間がある時に改めて申請して見学したい。

場所

https://goo.gl/maps/46fyrEBYJKmqYbyZ8


明和病院

川西航空機株式会社(現在の新明和工業株式会社)は、福利厚生として、社員用に4つの病院を有していた。
その一つが西宮市鳴尾にあった昭和17年9月に川西航空機株式会社付属病院として創設された「鳴尾病院」。
鳴尾病院は、昭和20年の終戦後に川西龍三社長が戦後の苦難の時期に、地域に恩返しをしたいとして「明和病院」を再出発させた病院。

明和病院 理事長あいさつ

https://www.meiwa-hospital.com/outline/directors-greetings.html

明和病院 概要

https://www.meiwa-hospital.com/outline/profile.html

場所

https://goo.gl/maps/oRdQcrw3UWewGnYY7


鳴尾飛行場

帝国海軍の航空基地。
鳴尾川を挟み、川西航空機鳴尾製作所に隣接しており、川西航空機の試験飛行用飛行場でもあった。
川西航空機鳴尾飛行場の隣には、もともと鳴尾競馬場(旧・阪神競馬場)があったが、1943年(昭和18年)の春競馬終了後に海軍に接収され、鳴尾飛行場として再整備されることになった。
鳴尾飛行場を建設するにあたっって、浜甲子園阪神パーク(遊園地)などの施設も接収している。
かつての旧鳴尾競馬場本館(大スタンド正面玄関貴賓館)は、鳴尾飛行場管制塔として流用されることになり、いまも武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」として現存。

戦後は、武庫川女子大学付属中学校・高等学校や浜甲団地、浜甲子園運動公園などに再開発されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M18-4-44
1948年2月20日、米軍撮影の航空写真を加工。

拡大。滑走路は、米軍の資材置き場として活用されている。
左上には、甲子園球場(1924年完成)。
滑走路から鳴尾川を挟んだ右側が、川西航空機鳴尾製作所。


旧鳴尾飛行場管制塔
旧鳴尾競馬場本館(貴賓館)

竣工は昭和10年(1935年)。もともとは、競馬場のスタンドだった。

現在の武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」。
かつての旧鳴尾競馬場本館(大スタンド正面玄関貴賓館)は、鳴尾飛行場管制塔として流用されることになり、いまも武庫川女子大学附属中学校・高等学校「芸術館」として使用されている。

武庫川女子大学

https://www.mukogawa-u.ac.jp/~okazaki/designworks/mwu-jhs/index.html

日経新聞

https://www.nikkei.com/article/DGXLASIK17H01_Y5A510C1AA1P00/

管制塔として使用された最上部。

いまでは、そんなに高くは無いが、往時は一際高い建物として管制塔の役目を果たしたのだろう。

X字を描く滑走路のちょうど真ん中に、管制塔がある。

場所

https://goo.gl/maps/4biu4yYk7hkefKk2A


鳴尾飛行場跡

内陸部は、再開発で跡形もない。
浜甲子園運動公園の向こうの団地群は、武庫川団地。川西航空機鳴尾製作所があった場所。

海側。
当時、鳴尾飛行場の滑走路は海上に面していた。
しかし、海際は、「浜甲子園阪神パーク(遊園地)」の残骸もあり、排水溝の跡もあり、なにがなにやらよくわからない残骸にあふれている。鳴尾飛行場の滑走路の残骸もあるのだろう。

残骸があつまる。
きっと、鳴尾飛行場滑走路の残骸もある、、、はず。

甲子園浜

沖合に見える岩礁が鳴尾飛行場時代の海岸線(防波堤)という。

鳴尾飛行場時代の防波堤

鳴尾飛行場の滑走路の残骸。

滑走路東南に位置するところに、瓦礫があつまっている。

場所

https://goo.gl/maps/wSd5Gb2fxQr6sTty9


鳴尾川

鳴尾川の西が鳴尾飛行場、東が川西航空機鳴尾製作所であった。
写真の左側にみえる武庫川団地が川西航空機鳴尾製作所の跡地。


武庫川団地

このあたり一帯は、戦前は川西航空機鳴尾製作所であった。
往時を偲ぶものはなく。

阪神電車がいました。

阪神電車の赤胴車。

自販機も特別仕様。

キレイに保存されている車両。良いですね。

場所

https://goo.gl/maps/nxgZiR4tCNq2ez739


阪神電鉄武庫川線

冒頭の「甲子園SL公園」でも触れたが、阪神電鉄武庫川線の前身は、川西航空機鳴尾製作所への輸送のために、昭和18年に阪神電鉄により武庫川駅ー洲先駅が開通したことにはじまる。
昭和19年には、武庫大橋駅ー武庫川駅間が開通。西宮駅からは国有鉄道としての乗り入れも行われた。
終戦後に旅客営業中止。昭和23年に武庫川駅ー洲先駅間での運行が再開。
昭和33年に西ノ宮駅ー洲先駅間の貨物線は休止され、45年に貨物廃止、昭和60年に休止中の武庫大橋ー武庫川間が廃止。
その1年前に昭和59年に現在の「武庫川団地前駅」まで南側は路線が延伸された。

西宮市

https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=14039

武庫川団地前駅

武庫川駅

武庫川駅の引込線は、かつての線路跡。

武庫川線の引込線は途中でおわり、線路も剥がされて、線路跡のみがのこる。

武庫川橋の北側からは、住宅地として、線路跡が活用されている。

場所(武庫川橋)

https://goo.gl/maps/2JYjCqWgCDVgimni7

鳴尾・武庫川の散策は、9時スタートで、12時終了。ざっくり3時間で10キロ(電車利用部分は除く)の散策でした。

※撮影:2023年4月


関連

「空自・熊谷基地さくら祭」熊谷陸軍飛行学校跡地散策

令和5年(2023年)4月2日。
熊谷市の航空自衛隊熊谷基地(航空自衛隊第4術科学校)にて、「令和5年度 熊谷基地さくら祭」が開催されましたので、足を運んでみました。
かつての熊谷陸軍飛行学校跡地、です。


熊谷陸軍飛行学校
(三尻飛行場・熊谷飛行場・稜威ケ原飛行場)

昭和9年、所沢陸軍飛行学校が開設。
翌年の昭和10年(1935年)12月に、操縦分科の生徒教育のために、熊谷陸軍飛行学校が開設。
主として飛行機操縦に従事する航空兵科下士官となる生徒、少年飛行兵、あるいは将校、下士官の操縦学生などに対し、飛行機操縦の基本教育を行った。
昭和12年に所沢陸軍飛行学校が廃止され、操縦学生は本格的に、熊谷陸軍飛行学校で教育されることとなった。
昭和13年10月に昭和天皇行幸。
熊谷陸軍飛行学校は昭和20年2月に第52航空師団の一部に改編のため閉鎖。

熊谷陸軍飛行学校の跡地は1945年九月に進駐したアメリカ陸軍第43師団によって接収され米軍キャンプ「U.S.ARMY CAMP WHITTINGTON」として使用。昭和33年(1958)返還され、同年8月より「航空自衛隊熊谷基地」となっている。

熊谷陸軍飛行学校に関しては、航空自衛隊熊谷基地の記事も参照で。

https://www.mod.go.jp/asdf/kumagaya/Base_tour.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R465-No1-78
1947年11月3日、米軍撮影の航空写真を加工。

庁舎や格納庫のあったエリアを拡大。

黄丸が陛下行幸の御野立所があった「御稜威ヶ原の碑」
赤丸が「給水塔」

GoogleMapで現在の航空写真と照合。
格納庫の位置関係もよく分かる。


御稜威ヶ原の碑(みいづがはら)

昭和13年10月10日(月)
天皇陛下が熊谷陸軍飛行学校に行幸され教育状況を御覧になられた。
学校長である江橋陸軍中将は、この日を記念して、この地を「御稜威ケ原(みいづがはら)」と命名して、記念碑を中央格納庫と第二格納庫の間の中央道路の真中(御野立所となった場所)に設置した。

御稜威ヶ原
 昭和13年10月10日
 御臨幸記念
 
  さしつけに
   仰ぎまつれる
大御稜威 
 伝えてはげめ 
  空の益良雄

熊谷陸軍飛行学校長陸軍中将
従四位勲二等功五級 江橋英二郎 選書

中央道路の真ん中に。

御稜威ヶ原の碑
昭和13年10月
昭和天皇の行幸を記念し、御野立所となった場所に建立

昭和初期まで、現在の基地及びその一帯は赤松・くぬぎ等の樹木が生い茂る森林であったが、昭和10年2月に突如として陸軍の飛行場が建設されることとなり、その秋までに森林は伐採され飛行場に変わった。飛行場としての工事も完了に近い昭和13年10月10日天皇陛下が行幸され、平の訓練状況や高等飛行などを観閲された。時の熊谷陸軍飛行学校長江橋英二郎中将は、この感激を後世に伝えようと「さしつけに 仰ぎまつれる 大御稜威 伝えてはげめ空の益良雄」と歌い、当時の飛行場を「御稜威ヶ原」と名付けた。行幸の際、御野立所となった地点に建てられた江橋中将自筆のこの碑は、今なお当時を偲ぶよすがとなっている。

現代略:直接に見申し上げた天皇陛下の御威光を、皆に伝えては空の勇者たちよ


方位盤

当時のものと思われる方位盤。

かすれていて、細かくは不明であるが、方位盤とおもわれる。


荒鷲之碑

昭和50年5月、航空自衛隊熊谷基地内に、荒鷲の慰霊碑が建立された。揮毫は、菅原道大。

荒鷲之碑
菅原道大書

昭和50年5月建立

由来
昭和十年この地に熊谷陸軍飛行学校が誕生した。爾来、万を数える若鷲が巣立っていった。戦いの場は遠く洋の南北に拡がり勇士は荒鷲となり愛機と共に生死し昭和二十年歴史を閉じた。散華した荒鷲の霊を慰め勲を顕彰し事実を後世に永く伝える為、残りし者、相集って、この碑を建てる。
 昭和50年5月5日

由来碑
昭和33年8月航空自衛隊熊谷基地発足以来任務遂行中殉職され基地発展の礎となった自衛隊員を慰霊するため「荒鷲の碑」を奉祀し永くその栄誉を伝承するものである

平成12年4月8日
航空自衛隊熊谷基地司令 空将補 原充男

熊谷陸軍飛行学校
荒鷲之碑奉賛会
平成11年3月建之

揮毫をした菅原道大は、陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官でもあった。

菅原道大は、陸軍中将。
大正14年(1925年)に菅原は陸軍航空科へ転科し航空少佐として飛行第6聯隊に着任。
昭和6年(1931年)、「下志津陸軍飛行学校教官
昭和14年12月に、「下志津陸軍飛行学校長」
昭和16年(1941年)、開戦時は第3飛行集団長。マレー作戦の航空作戦を指揮。
昭和17年7月、新設された第3航空軍司令官に着任。ビルマ航空戦を指揮。
昭和18年5月、内地に帰還し陸軍航空士官学校長に着任。
昭和19年3月、航空総監部次長。7月には、航空総監兼航空本部長を拝命。12月、第6航空軍司令官。沖縄方面の航空作戦の責任者として、海軍の戦艦大和の菊水作戦の支援や、指揮下の義烈空挺隊の義号作戦の指揮を執ることとなる。
昭和20年8月15日、終戦。
海軍の九州方面の航空責任者であった宇垣纏が沖縄に特攻出撃する中で、陸軍の九州方面の航空責任者であった菅原のもとにも部下たちが最後の特攻出撃を申し出る中で、「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と部下を諭している。
海軍側の宇垣纏中将、大西瀧治郎中将が亡き後、陸軍側の責任者とて、自決することを断念し、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決意。
「特攻平和観音奉賛会」を設立し、「特攻平和観音像」「知覧特攻平和観音像」「知覧特攻観音堂」を建立している。

関連では、熊谷陸軍飛行学校のほか、下志津陸軍飛行学校、水戸陸軍飛行学校の跡地に、菅原道大の碑がある。


給水塔

推測の域を出ないが、かもし出す雰囲気からして往時のものと思われる給水塔。前述の位置関係の航空写真でも照合したが、場所も適合している。近寄れないので望遠で。

給水塔の手前は、「基地補給倉庫」。


格納庫跡

かまぼこ型の格納庫のような建屋がある。手前は「武道場」、そして格納庫型の「基地体育館」と「基地補給倉庫」。位置関係は、熊谷陸軍飛行学校時代と同じ場所。
ここだけ切り取ると飛行場な雰囲気。


教育参考館

熊谷陸軍飛行学校や航空自衛隊航空生徒隊の資料を展示。


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の玄関扉

本部庁舎で実際に使用されていた玄関扉が、移設保存されている。

 この扉は、昭和10年12月陸軍熊谷飛行学校開校以来、本部庁舎玄関で使用していました。
 平成14年11月、庁舎取り壊しに伴い、約67年の歴史の一部を保存するため、当施設に移設し保存しました。


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の中央階段

おなじく、熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の中央階段の一部が移設保存されている。

 この階段は、昭和10年12月陸軍熊谷飛行学校開校以来、本部庁舎の中央階段として使用していました。
 平成14年11月、庁舎取り壊しに伴い、約67年の歴史の一部を保存するために、当場所に下側3段部分を移設し保存しました。
 基地司令室が2階にあったため、赤絨毯が敷かれていました。
 昭和13年10月昭和天皇が行幸された際、この階段を登られた由緒ある階段です。
 木材:ケヤキ材使用


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の一部

とくに説明はなかったが、取り壊しの旧庁舎の一部かと。


熊谷基地展示エリア

旧軍資料

通信機材など。

戦争末期のドラム缶。竹製、、、ですね。

図書館戦争コーナー?


公募空士第1期生入隊20周年記念

歴代航空幕僚長の名前もある。

この寄せ書きは、公募空士第1期生の20周年を祝って書かれたものです。
寄せ書きには、歴代の航空幕僚長「源田実元空将」「白河春元元空将」「角田義隆元空将」の名前があります。

源田実
帝国海軍では、海兵52期を卒業し最終階級は海軍大佐、航空参謀を経て、松山の第343海軍航空隊司令で終戦を迎える。
空自では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長、ブルーインパルス創設、航空自衛隊育ての親。また、参議院議員を4期24年努めている。

白川元春
白川義則の三男。白川義則は、上海天長節爆弾事件で死去。
白川元春は陸士51期、陸大58期卒。最終階級は陸軍少佐。
航空自衛隊では第11台航空幕僚長

角田義隆
帝国海軍では海軍機関学校卒。最終階級は海軍大尉。
航空自衛隊では、第12代航空幕僚長。
海軍機関学校出身者が大将(幕僚長たる将)に相当する地位まで昇進したのは、帝国海軍・自衛隊を通じて角田が唯一の事例となる。


生徒隊展示エリア

航空自衛隊生徒隊の展示エリア。2006年に募集が停止され、2011年に生徒隊は廃止となっている。
虚空自衛隊航空教育隊生徒隊で採用時は、3等空士となり4年間の教育修了後は3等空曹として、通信、レーダー操作及び整備などに補職されたという。


航空自衛隊生徒隊創立50周年記念モニュメント

負けじ魂

流れも清き大利根の
 岸辺に緑の色染めし
練武の庭に都度至る
 若人の任いや重し
  誇りに満てり
   航空生徒隊

このモニュメントは生徒隊創立50周年記念を機に教育環境整備の一環として、第8航空団からF-1垂直尾翼を譲り受け、表面は生徒隊歌詩を裏面は第8航空団(築城)第6飛行隊のマーク等を遺して、第4術科学校の支援を得て建立したものである。
なお、表面のデザインは生徒隊生活4年間で培った「負けじ魂」に代表される不撓不屈の精神を持って巣立っていく生徒の翼をイメージしてデザインしたものである。
 平成17年5月吉日


熊谷基地 友縁の酒「空の華」

基地内の売店にて購入(熊谷基地厚生棟ミニストップ熊谷基地店)

空の華
ソラノハナ 
勲業赫々 輝萬國
埼玉縣大里郡三ヶ尻
権田酒造店吟醸

赤とんぼ

空の華
 昭和10年、熊谷陸軍飛行学校が当地に創立されたことを記念して発売した「空の華」を平成14年秋、約60年ぶりに復刻させて頂きました。
 熊谷の研究所で開発された酵母で醸し、熊谷の水と大気の中で育んだ熊谷基地の地酒です。
 上質の旨味を湛えた柔らかな香味、冷やしても温めても美味しくお召し上がり頂けます。


熊谷基地さくら祭

令和5年(2023)は、4月2日の公開でした。

以下は、さくら祭の写真を。

熊谷基地庁舎。平成15年(2003)新設。

桜並木が気持ち良い。

桜とトラック

熊谷基地には、「第1移動通信隊」が所在している。

御稜威フィールド

現在、航空自衛隊熊谷基地には、滑走路はない。
運動場にヘリが着陸することは可能。

草刈り機。パイロット座乗。

来年もおいでをお待ちしています

なかなか楽しめました熊谷基地。
熊谷陸軍飛行学校の名残もあり、興味ある方はこれは必見ですね。

※2023年4月撮影


熊谷関連

陸軍飛行学校関連

銚子の戦跡散策

「土浦駐屯地・武器学校 観桜会(一般公開)」その2・土浦海軍航空隊跡地散策

茨城県稲敷郡阿見町。
現在の土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校が駐屯しているが、かつては「予科練」で有名な「土浦海軍航空隊」の錬成地であった。海軍と陸自の歴史がぎっしりと詰まった駐屯地の一般開放がありましたので、足を運んでみました。

なお、本編は「その2」となります。

歴史的な説明は「その1」で。

また、下記も参照で。


予科練平和記念館

土浦駐屯地のとなりに「予科練平和祈念館」がある。

http://www.yokaren-heiwa.jp/

買い物など


予科練の碑(予科練之碑)

土浦武器学校内の雄翔園に。

予科練出身者の同窓生が全予科練戦没者の遺徳を顕彰するため、昭和41年5月27日に建立。

予科練之碑

題字は寺岡謹平。海軍中将。

高松宮妃電化御歌
霞ヶ浦に立ちて海軍飛行
予科練習生を偲びてよめる

海はらに
 はたおほそらに
  散華せし
きみら声なく
 いく春やへし
      喜久子

昭和41年5月27日、この御歌は、高松宮喜久子妃殿下のご直筆。

碑文
 予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ヶ浦の湖畔に移った。
 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。
 昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね太平洋戦争においては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或いは航空母艦から或いは潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。
 創設以来終戦まで予科練の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一辺の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛ために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈ってここに予科練の碑を建つ。
昭和41年5月27日
 海軍飛行予科練練習生出身生存者一同
 撰文 海軍教授 倉町秋次

雄翔園・雄翔館(予科練記念館)

こちらは陸自土浦駐屯地武器学校内に開設。
予科練平和記念館開館時に見学可能。

http://www.yokaren-heiwa.jp/04guide/04yusyokan.html

今回は、土浦駐屯地開放日だったので、それはそれで問題なく開放。


旧海軍道路桜並木

「海軍道路」 茨城県下で初めての舗装道路。
1921年(大正10)開通。
当時「東洋一」と称された霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班と水上班(のち鹿島空に移設し土浦空が開設)をむすんだ道路。

旧海軍道路桜並木
この坂道は、昔「海軍道路」と呼ばれ、茨城県下ではじめて舗装された道路です。
1921年(大正10年)に開かれて、当時「東洋一」の航空基地といわれた霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班と水上班を結ぶもので、見事な桜並木で知られていました。
 現在残っている三本は、予科練※揺籃の地である土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊土浦武器学校)で訓練にはげむ多くの予科練生たちを見守り、1945年(昭和20年)6月10日の阿見空襲にも耐えた桜です。

現在残っている三本の桜は土浦空で励む予科練生達を見守り1945年6月10日の阿見空襲にも耐えた桜。
ちょうど桜咲く季節に訪問。

海軍用地の境界標石。

https://goo.gl/maps/xhJKsb2EaJRJGEua7

場所

https://goo.gl/maps/UEmVQR16HtL1zot18


続きは「その3」で。

※2023年4月1日撮影

「土浦駐屯地・武器学校 観桜会(一般公開)」その1・土浦海軍航空隊跡地散策

茨城県稲敷郡阿見町。
現在の土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校が駐屯しているが、かつては「予科練」で有名な「土浦海軍航空隊」の錬成地であった。海軍と陸自の歴史がぎっしりと詰まった駐屯地の一般開放がありましたので、足を運んでみました。

まずは、海軍編その1として、海軍関連を中心に紹介をしていきます。


霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)

1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立。
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当。

予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転することなった。
その結果、水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

霞ヶ浦海軍航空隊に関しては下記も。

土浦海軍航空隊(土空)

昭和15年(1940)、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
「土浦空」跡地は、現在は土浦駐屯地近郊。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:USA-R401-No1-3
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

土浦海軍航空隊の跡地。

現在の航空写真。


陸上自衛隊土浦駐屯地

陸上自衛隊武器学校等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地。
駐屯地司令は、武器学校長が兼務。
陸上自衛隊で使用される装備の教育用装備や車両が配備。また展示場が設けられており、旧日本陸軍の戦車や戦後の米軍からの貸与車両、国内での開発車両、試作車などが多く展示されている。


旧土浦海軍航空隊正門

現在は、新しい門柱となっている。
それでは、土浦駐屯地内の戦跡散策を実施しましょう。

駐屯地配置図。


旧土浦海軍航空隊医務科第一病棟(病舎)

昭和15年の開隊時に医療施設として建設された建物。
元々は4棟あった。
南側の第三・第四病棟は空襲で焼失。
第二病棟、北側の渡り廊下と附属建物(便所)は戦後に取り壊しされ、「第一病棟」のみが現存している。
手前のトタン板で覆われている部分は旧手術室。

この部分に、渡り廊下があった。

病舎前。土浦海軍航空隊時代も、円形のロータリーがあった。


広報史料館

土浦海軍航空隊関連から土浦駐屯地、武器学校時代までの歴史を紹介。

駐屯地紹介コーナー

予科練第三兵舎解体記念

5/1模型。第一海軍航空廠では約600機が生産された。
元第一海軍航空廠飛行機部で勤務されていた方が奉納。

旧海軍時代から使用されていた燃料タンクの一部


弾薬展示コーナー

小火器コーナー

九八式射爆照準器

覗いてみる。おもしろい。

95式射爆照準器

こっちも覗いてみた。おもしろい。

豊川海軍工廠製の機銃銃架三脚架

一式旋回機銃二連(航空機銃)

旧軍関連の小火器

対空機銃、旋回機銃、航空機固定機銃

砲隊鏡

拳銃

指揮刀


初代・山本五十六元帥像の左手

昭和一八年にコンクリート製の山本五十六元帥像(初代像)が土浦海軍航空隊本部前に建立された。
終戦後に、米軍の破壊を案じた土浦海軍航空隊では、山本五十六元帥像の上半身を霞ヶ浦に沈め、下半身を台座近くに埋めたという。上半身はその後引き上げられ、現在は江田島の教育参考館に展示。そして下半身や左手などがは平成14年に発掘。
平成16年に、雄翔館前に、2代目山本五十六元帥像が復元され、礎石として下半身は砕いて埋められ、そして左手は、現存し、展示されている。

ちょっと話題を寄り道して。
2代目山本五十六元帥像

雄翔館前の二代目・山本五十六元帥像

桜賑わう霞ヶ浦湖畔。

この角度は、普段はみれない。(土浦駐屯地側から)
空母を模している雄翔館・豫科練記念館(予科練記念館)。
その2でも記載予定。

土浦駐屯地内に戻ります。


行幸記念

(表)
行幸記念

(裏)
昭和17年7月15日
奉仰聖籠
海軍中将戸塚道太郎謹書

戸塚道太郎は、昭和16年4月から第11海軍連合航空隊司令官。
横須賀鎮守府第11連合航空隊が、土浦海軍航空隊であった。

天皇行幸記念の碑
 この碑は、昭和17年7月13日、昭和天皇が霞ヶ浦海軍航空隊及び土浦海軍航空隊に行幸され、予科練習生が実施する海軍体操等を視察されたのを記念して建立(昭和18年1月28日)されました。
 石碑には、昭和20年6月10日の空襲で受けた機銃の跡が残っています。

機銃の跡。

土浦海軍航空隊時代の本庁は解体されたが、現在は土浦駐屯地本部庁舎が、行幸記念碑の後方に同じように建っている。


旧土浦海軍航空隊号令台

号令台跡
 この建物は、昭和15年、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部が土浦海軍航空隊として独立、開隊した時に、軍艦掲揚塔と共に建設された。
 毎朝、航空隊司令以下全員が、この号令台前に集い、朝礼や海軍体操が行われた。
 また、休日には外出する予科練習生が全員集合し、当直将校の外出点検や指導を受けたり、司令訓辞が行われた場所である。

号令台の上から。


常在戦場の碑

山本五十六の常在戦場

常在戦場
昭和十年四月 山本五十六

昭和十九年九月
第十三期二次甲種飛行豫科練習生建之

 この碑文は、昭和14年4月、山本五十六元帥(当時中将)によって揮毫されたものであるが、昭和18年4月18日ソロモン群島ブーゲンビル島上空において戦死された際、元帥の遺徳を偲び同年9月、当時土浦海軍航空隊司令であった森啓吉大佐により、土浦海軍航空隊神社境内に石碑として建立されやものである。
 この台座には、元々、昭和18年12月に建立された元帥の銅像が安置されていたが、終戦直後、像が汚されることを恐れた予科練習生達の手により胸部と下部に2分され、霞ヶ浦の湖底に沈められた。昭和23年、地元有志により胸部が引揚げられ、一旦元帥の出生地である長岡市に移管された後、昭和45年、江田島の海上自衛隊第一術科学校教育参考館に寄贈、安置されている。
 昭和30年、主のいないまま放置されていた台座に「常在戦場の碑」が移築され、現在に至っている。

台座は、もともと山も五十六元帥像が立っていた。


皇太子殿下行啓記念碑

皇太子殿下行啓記念の五葉松
 この五葉松は、昭和18年6月1日、平成の天皇陛下が皇太子の時、霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊に行啓された際、予科練習生達の錬成ぶりをご覧遊されたことを記念して植樹(昭和18年6月1日)されました。


本庁跡(土浦駐屯地本部庁舎)と「雄飛の松」

土浦海軍航空隊時代の本庁は、解体。
現在は土浦駐屯地本部庁舎が、往時の土浦海軍航空隊本庁を模すようにして、同じように建っている。

2代目「雄飛の松」が本部庁舎前に植えられている。

「雄飛の松」由来記
 霞ヶ浦の波静かに寄せるこの地に、大正9年霞ヶ浦海軍航空隊水上機班が誕生、その後土浦海軍航空隊となり七つ釦の予科練習生育成の地となった。
 初代「雄飛の松」は、皇紀2600年を記念して昭和15年12月22日、新治郡関川村の名主から譲り受けた名木を筏をもって霞ヶ浦を渡し、困難な作業の末、当地に移植され、後日、当時の航空隊副長であった成富武光中佐が「雄飛の松」と名付け、海の若鷲達の象徴として愛された。
 戦後は陸上自衛隊土浦駐屯地(武器学校)のシンボルとしてその勇姿を誇っていたが、平成5年頃より樹勢が頓に衰え、翌平成6年4月22日、名残を惜しまれつつ伐採され、推定樹齢130余年の生涯を閉じた。
 伐採後調査したところ、昭和20年6月10日の空襲時に被弾し、折切した上部枝の付根部分から腐食がはじまり根元の部分に至るまで、幹の中心部が侵食され完全に空洞化していた。「雄飛の松」もまた、戦争の尊い犠牲であったと云える。
 2代目「雄飛の松」は、昭和18年頃、かっての霞ヶ浦海軍航空隊本部前に構築された防空壕を偽装するため旧海軍の人達により植樹された樹木の1本であるが、幸いにも戦火を免れ、戦後は他所に移植され、専門の剪定師により大切に管理されてきたものを譲り受け、当地に移植したものである。
 平成7年2月22日

昭和20年6月10日の空襲で被弾した折損部分から腐食がはじまり、空洞化してしまった雄飛の松です。
(推定樹齢 約130年)

2代目「雄飛の松」


旧土浦海軍航空隊裏門跡

かつての裏門のあたり。いまも裏門ですね。

そのまま歩けば、雄翔館・豫科練記念館(予科練記念館)と予科練平和記念館との間に到着。

この日は、土浦駐屯地と直結するために、手荷物検査のゲートが設置。


霞ヶ浦

土浦駐屯地からみる、霞ヶ浦。
水上機が飛翔した場所。
湖畔は立入禁止でした。


旧土浦海軍航空隊スロープ跡

武器学校開設記念の公開日に撮影(2023年11月)


正門前の「海軍用地」境界標石

別日に撮影(2023年11月)。正門前の道路脇に。


雄翔園そのほか海軍系は、その2で。

旧軍戦車と火砲は、その3で、

陸自の戦車は、その4で。

※2023年4月1日撮影


日立航空機大網地下工場跡地の散策(大網白里市)

千葉県大網白里市。
この地にかつて日立航空機の疎開工場があった。

大網駅から小湊バスで「宮谷」へ。このあたりは文字通り「谷」が多いが、再開発で切り開かれている。このバスの終点は、「みどりが丘車庫」。土地区画整理事業により、大規模な土地基盤整備が行われた。それに伴い、大規模な道路も切り開かれ、戦時下の地下工場跡もだいぶ消失している。
ちなみに「宮谷」は「みやざく」と読む。


日立航空機千葉工場大網地下工場

日立航空機株式会社は、昭和14年(1939)5月に、日立製作所から分離独立。
1941年(昭和16年)1月から終戦までの間に航空機(練習機)4機種1,783機とエンジン14機種13,571基を製造。

日立航空機千葉工場は、昭和10年(1935年)に、海軍航空本部長であった山本五十六の航空産業拡大要求に応じて建設された」工場。蘇我の埋立地で昭和17年(1942年)に操業開始。昭和19年に空襲回避の疎開として、大網に大規模な地下工場を建設。工事進捗40%で終戦を迎えた。
日立航空機千葉工場は、千葉空襲(昭和20年6月10日及び7月7日)で攻撃を受けたが、工作機械は大網に疎開が進んでいたために、生産能力への影響は軽微であった。


日立航空機大網地下工場・第1工場跡

宮谷の谷戸に開口部がある。周辺は谷の地名が多く「宮谷」「名谷」「安楽寺谷」「真行谷」「相ノ谷」「門ノ谷」などがあり、大網地下工場は、広域に4箇所に分かれて展開されていた。

第1地下工場の北側に開口部と解説板がある。

戦蹟 日立航空機大網地下工場跡
 日立航空機(株)千葉製作所大網工場の建設工事は、昭和19年12月頃に開始された。その背景には、第二次世界大戦で日本の戦局が悪化し、10月に千葉市にあった同工場が空襲を避けて、大網に疎開計画を立てたことに始まる。
 施設は、地下・半地下の二種類あり、地下工場は海抜30~70m程の笠森層に造られた幅4m、高さ4mの蒲鉾[かまぼこ]型の施設で、五か所の工場に分けられ総延長3kmであった。半地下工場(伏土[ふくど]工場)は、間口10m、奥行き20~30mで厚板を五重六重に張り、土砂で覆い、芝や草を植え擬装した。実際に三十数箇所の施設が確認されていたが、残念ながら現存していない。『米国戦略爆撃調査報告書』には、「本格的に製造が開始されると日本でも優れた工場の一つになったであろう」「地下・半地下工場共に各二箇所が稼働していた」ときさいされている。この施設では、海軍零式戦闘訓練機(機体)と発動機(航空エンジン)の部品が生産された。
 工場の建設は、軍・日立航及び大林組の三者により厳しい統制下で行われた。軍の設営隊や社員・工員の他に婦人会や大網国民学校(現大網小学校)の児童までがもっこ担ぎ等の勤労奉仕に従事した。特に工場建設のために雇用された数百人におよぶ朝鮮人の強制労働によって行われていた。
 戦時における我が国は、アジア諸国やその他の人々に甚大な禍害を加え、自らも多大な被害を被ったことを決して忘れてはならない。
 戦争という悲惨な行為を二度と繰り返すことの内容「地球は一つ」「生命の尊厳」更に「恒久平和」への願いを込め、この戦蹟説明板を設置した次第である。
 二〇〇〇年八月
  日朝友好大網白里町民の会
  大網白里町教育委員会
  ※文章・団体名は看板作成当時のまま

1992年の調査。

場所

https://goo.gl/maps/Cu7acvAPRza9bCeK7

日立航空機大網地下工場(第1工場)の左の開口部。
奥は土砂で塞がれており、水が溜まっていた。

日立航空機大網地下工場(第1工場)の中央の開口部は、足元がぬかるんでおり、普通の靴では侵入が困難なために断念。

日立航空機大網地下工場(第1工場)の右の開口部は竹やぶの奥に。
同じく、水没。


日立航空機大網地下工場・第2工場跡

宮谷八幡神社。この下には、日立航空機大網地下工場(第2工場)があった。
開口部のひとつは民家の裏。未確認。

宮谷八幡神社が谷の上に鎮座。

神社の裏山に穴があった。
非常に高いところに穴が開いているが、どうなっているのだろうか。

本國寺の北側にも開口部がある。

遠目でもわかる開口部。フェンスが目印。

わかりにくいが、やっぱり水没。


造成により失われた日立航空機大網地下工場の跡地

大規模開発で、谷戸は切り開かれ、直線的な道路が伸びる。
そうして地下工場の遺構も多くは失われてしまった。

宅地造成された、みどりが丘のニュータウン方面に伸びる道路。

このあたりは、第5工場があったらしいが、何もない。

第1工場跡の南側は、道路で切り開かれなにもない。前述した通り、北側の開口部のみが残っている。

敷地の北側にあたる第3工場と第4工場があったあたりは、みどりが丘ニュータウンの宅地造成で失われた。


地下工場の近くにある「本國寺」は、かつては県庁でもあった。

宮谷県庁跡

明治新政府が、新治世として旧天領には府県を置き知事・県令を任命。その際に「宮谷県」が誕生。当地に県庁が置かれた。

明治元年(1868年)7月、明治新政府から安房上総知県事として久留米藩士柴山典が任命され、同年12月宮谷の本國寺に知県事役所を設置。
翌年2月に宮谷県が誕生し、その管轄地は藩領を除く幕領・旗本領(天領)で、旧安房、上総を中心として、下総、茨城県の一部までにおよんでいた。
明治4年11月、第1次府県統合で安房・上総全域が新たに木更津県に統合され、宮谷県は廃止された。

場所

https://goo.gl/maps/ro18upvM44THaMoS7

https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p411-018.html


大網駅までは、約1.5キロ、歩いて20分くらい。せっかくなので、旧大網駅跡に寄り道しながら、駅に戻ることにする。

旧大網駅

明治29年(1896)に開業した大網駅は、開業時は今よりも東側にあった。現在地に移転したのが昭和47年(1972)。この移転により、外房線は大網駅でのスイッチバックが解消された。
現在、旧大網駅地は、簡易的な公園とJR東日本大網保線技術センターとなっている。

線路の北側の空き地。かつてはここまで側線が伸びており、転車台があったという。現在は特に何もない空き地。

線路は東金線。

場所

https://goo.gl/maps/s5DrY1Kwm29tiQg76

そして線路に沿って歩けば、旧大網駅跡地がある。
旧大網駅跡地は、ちょっとした公園として整備されている。
日立航空機大網地下工場の最寄り駅でもある。

場所

https://goo.gl/maps/ZNLeeth5yrrwitHk6

駅跡を偲ぶように、腕木式信号機があった。

大網の人々は、この場所で出生していく家族を見送ったのだ。

旗ふりて
 出征兵士を見送りし
駅舎の跡に
 子らの歓声
  大塚喜一

鎮魂・平和を祈りて
 2004年秋
  町民有志建立

ホームの跡。

なんとなくホームがあった名残を感じることができる。

西側から、かつての大網駅があった方向を望む。
JR東日本大網保線技術センター関連の車両が停車している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M1209-42
1948年10月31日、米軍撮影の航空写真。一部加工。

Google航空写真。みどりが丘の造成がわかりやすい。

※撮影:2023年2月


関連

B29墜落搭乗員慰霊碑とB29墜落地点の慰霊巡拝(群馬県‎‎邑楽町‎秋妻)

群馬県と栃木県の県境。
群馬県‎邑楽郡‎邑楽町‎秋妻は、のどかな水田が広がる農村地帯。
戦時中、この地にB29が墜落し、そして地域住民は搭乗員を慰霊した。

すぐ近くにあった、東洋一の飛行機メーカー「中島飛行機」の工場(中島飛行機太田工場)を狙ったものであった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M606-49
1947年10月27日、米軍撮影の航空写真。一部加工。

中島飛行機大田工場や太田飛行場、小泉製作所のすぐ近くで墜落したことがわかる。

墜落地点を拡大。

墜落地点は、今も昔も水田。集落には尾翼が落ちたが幸いにして落下地点は矢場川の横であったために人家共に被害は皆無であった。

現在の様子。

集落と水田の位置関係はさほどに大きく変わっていない。

余談だが、邑楽郡‎邑楽町‎の「‎邑楽」は「おうら」と読む。難読です。


B29爆撃機墜落地点

B29爆撃機墜落地点
 1945(昭和20)年2月10日、中島飛行機太田製作所をねらって午後3時過ぎに飛来した118機(米軍公表)のB29大編隊の爆撃により、多くの生命財産が失われました。このとき、大編隊の中の2機が空中接触しこの地に墜落炎上しました。(2機の搭乗員23人全員即死)。なお、Slicks Chicks号(機体番号224784)の尾翼が
秋妻集落東側民家すぐそばの矢場川にかかる旭橋横に墜落しました。当日は西風の強い日で、この黒煙により秋妻集落は全滅したという噂も出たほどでしたが、幸いにも人家とも無傷でした。しかし同日、ここから北東に直線距離で1kmも離れていない隣町の足利市百頭町では、軍需施設とは無縁な一集落が集中爆撃され33人もの一般の人たちが犠牲となりました。
 この事実を風化させることなく、戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に伝え、世界平和を祈念していきたいと思います。
  平成22年11月
   ‎邑楽町‎教育委員会
   ‎邑楽町‎第17区(秋妻)自治会

墜落地点は、3か所。
Deaner Boy 号(機体番号224815)は、下図の1番。
Slicker Chicks号(機体番号224784)は胴体(下図2番)と尾翼(下図3番)が分かれて落下。

落下地点

わかりにくいが、黄枠のところに「赤い目印」は立っている。
このあたりに、「Deaner Boy 号(機体番号224815)」が落下した。

赤城山の方向。

ここに、Slicker Chicks号(機体番号224784)の胴体が落下した。

2機のB29が空中衝突し、田園に落下した。

ちなみに、なにもないところでアクセス方法は悪い。
東武足利市駅でレンタサイクルをしてみました。
東武足利市駅からは、だいたい自転車で30分位かかりました。

場所

https://goo.gl/maps/ePgwVA1CJKXyEE6r8


B29爆撃機尾翼墜落地点

Slicker Chicks号(機体番号224784)の尾翼が落下した地点。

矢場川にかかる旭橋。

とくに看板等もなく。

ちょっとした建屋とベンチがあった。

矢場川の東側なので、こっちは栃木県。

場所

https://goo.gl/maps/HF6kobatj7JuY36r7


清岩寺

邑楽郡邑楽町秋妻の天華山清岩寺

清岩寺の開山は、大雲文龍。大雲文龍(1545-1617)は曹洞宗を関東に広めた高僧。


清岩寺の戦争慰霊碑と記念碑

境内の一角に、先の戦争関連の慰霊碑や式辞記念碑があつめられている。

合掌

日清日露大東亜演奏戦歿者報国之英霊塔
B29日米合同追悼式七十年供養塔

平成27年建立

B29墜落搭乗員慰霊碑

B29墜落搭乗員慰霊碑 
The Memorial Monument of B29 Crash Crew

墜落日時 Crash Data 1945年2月10日  Feb.10th,1945
墜落位置 Crash Site  群馬県邑楽郡高島村秋妻(現群馬県邑楽郡邑楽町秋妻)
                Akizuma Ora-machi Ora-gun Gunma
所属   Affiliation  第2空軍第313爆撃団第505爆撃群第483爆撃隊
     483 BSQ 505th BG 313rd BW of 20th AF
攻撃目標 Target     中島飛行機太田製作所 Nakajima Aircraft Ota Factory
墜落原因 Cause of Crash 接触事故 Midair Collision

B29#42-24784 SLICK’S CHICKS
操縦士    Pilot      C McC SLAUGHTER Jr 大尉   CAPT
副操縦士   Copilot    DAN E.GODSY     少尉   2D LT
航法士    Navigator   JOSEPH F.JAROSZ   少尉   2D LT
爆撃手    Bombardier   KENNETH E.SWANSON  中尉   1ST LT
機関士    Engineer    HERBERT WEINER   少尉   2D LT
通信士    Radio Operator NICK CORBO     二等軍曹 S SGT
レーダー士  Radar Operator KENNETH F.MAGO   軍曹     SGT
中央火器管制 CFC      ROBERT K.YONCE   二等軍曹 S SGT
左銃手    Left Gunner  JAMES E.MELVIN    軍曹     SGT
右銃手    Right Gunner  RALPH J.McCLELLAN  二等軍曹 S SGT
尾部銃手   Tail Gunner  FRANK P.KASTENMEVER 軍曹     SGT
同乗員    Observer    BIRRELL WALSH    大佐     COL

B29#42-24815 DEANER BOY
操縦士    Pilot     OWEN o.BARNHART Jr   中尉   1ST LT
副操縦士   Copilot    DONALD M.MORRISON   少尉   2D LT
航法士    Navigator   CORNELIUS R.KERNS   少尉   2D LT
爆撃手    Bombardier   HUGH D.BURNER     中尉   1ST LT
機関士    Engineer    HARLEY H.HAZELWOOD  少尉   2D LT
通信士    Radio Operator NORMAN E.SMITH    二等軍曹 S SGT
レーダー士  Radar Operator JAMES F.GREUP     軍曹   SGT
中央火器管制 CFC      GEORGE B.WILBUR Ⅲ   軍曹   SGT
左銃手    Left Gunner  HARRY J.HARZ Jr    軍曹   SGT
右銃手    Right Gunner  DONALD A.W.KISSINGER 軍曹   SGT
尾部銃手   Tail Gunner  HARVEY J.FITZPATRICK 軍曹   SGT

ここ秋妻の空に散った23名の勇士の御霊に哀悼の誠をささげるとともに日米両国の友好と世界の平和を希求いたします
We wish to commemorate the 23 brave souls and offer a wish for world peace and friendship between Japan and America

秋妻B29日米合同追悼式

邑楽郡邑楽町秋妻257 清岩寺 殿
秋妻B29日米合同追悼式
秋妻B二九日米合同追悼式並びに慰霊碑建立除幕式がしめやかに執り行われますにあたり御霊の安らけくもありますことを祈念申し上げ謹んで追悼の誠を捧げます 今日の開催に至りますまでの日米ご遺族様、米国横田基地のご関係皆様、木崎代表をはじめ秋妻B二九世話人会の皆様の常日頃のご労苦に深く敬意を表しますとともにご参集皆様の今後益々のご発展と関係皆様のご活躍を心から祈念申し上げます 
 平成二十五年三月二十日 
  参議院自由民主党議員会長 参議院議員 
   元外務大臣 中曽根 弘文

グラマン搭乗員鎮魂碑(清岩寺)

グラマン搭乗員鎮魂碑 
Grumman Crew Memorial

 1945年2月16日 空母バンカーヒルを発進したグラマン・アヴェンジャー TBM-38316は太田上空で高射砲に撃たれ現足利市田中町に墜落、3名死亡。

On 16 February 1945,a Grumman Avenger(TBM-38316)that took off from the USS Bunker Hill was hit by Japanese abti-aircraft fire and crashed in Ashikaga.
The following three crew members lost their lives.

操縦士 Pilot     Richard Brothers    海軍少尉 Ensign
射撃手 GunnerEd   Edward V.Andriso   三等兵曹 AOM3c
通信士 Radioman   Walter L.Paulissen Jr. 上等空兵 ARM1c

 異国で命を落としたアメリカ海軍将兵の霊を慰め、人類永遠の平和を祈ります。
May these brave American soldiers rest in peace.And may peace prevail among mankind eternally.

”人間の持つ残酷さを克服し、この人生を平穏なものにしよう”
  日本人の皆さんに心からの感謝を込めて
“Please,let us tame the savageness of man and make gentle the life of this world.”
  with warmest gratitude to people of Japan
    Maxwell Taylor Kennedy

B29・グラマン日米合同追悼式

B29・グラマン日米合同追悼式
ごあいさつ
 「B二九・グラマン戦没者二十六名の日米合同追悼式」が挙行されるにあたり、戦没者の御霊に謹んで哀悼と慰霊の誠を捧げます。
 本日の日米合同追悼式は、戦争によって失われた尊い命を慰めるものであり、合せて「不戦の誓い」であります。そして日米両国の関係者が相集い追悼式が開催できますことは日米両国の信頼と友好の証でもあります。開催に際しご尽力いただきました横田基地関係者の皆様ならびに木崎様をはじめとする多くの関係者の皆様に深く敬意を表しますとともに感謝申し上げます。
 本年は、終戦から七十年という大きな節目の年にあたります。節目の年を迎えるにあたり、現在の繁栄は、多くの犠牲と悲劇の上に築かれていることを再認識しなければなりません。
是非、本日の追悼式を「命」と「平和」の尊さを心に刻む機会にしていただければと思います。
 なお、本日は在日米軍関係者の皆様もご出席でいただいておりますが、二〇一一年三月十一日に起きた東日本大震災ではアメリカ合衆国から寄せられた温かいご支援、米軍の各部隊の力強いご支援に改めて心から感謝申し上げます。有難うございました。
 今後も日米両国がともに協力しながら、アジアの平和・世界の平和のために努力をしていくことが大事であると考えております。
 最後に、本日ご参会の皆様ならびにご遺族の皆様のご健勝とご多幸を心からお祈り申し上げ、あいさつといたします。
 平成二十七年三月二十一日
  衆議院議員 笹川博義

To the Seiganji Temple Memorial,
清岩寺追悼記念式典に寄せて

AMBASSADOR OF THE UNITED STATES OF AMERICA TOKYO
 March 20,2015

To the Seiganji Temple Memorial,

 Thank you for the very kind in vitation to the dedication of the
memorial to the fallen United States Service members in Gunma Prefecture.
It is my honor to provide a short message of remembrance.
 This healing process is essential for the families and also essential
for our two nations. Activities such as this memorial that are driven by the community truly show the world that former enemies cun put aside their differences and animosities and become the closest of friends. The future of the US-Japan Alliance is strong.
For decades families have suffered both the pain of losing loved ones
far from home and also the emptiness that accompanies the loss when that loved one is not returned to the family,in order to begin the healing process.The unknown whereabouts of their last resting place puts the grieving process on hold. However,through your commendable efforts,you bring comfort to those families whose loved ones have now been found. Your dedication provides closure and allows the families an opportunity to hela. I play for the crews aboard B29 Bombers and Grumman TBM that they may rest in peace.
 We continue to work together side-by-side to ensure the bonds we
have forged over the last seven decades are stronger than ever and are a
daily reminder of the future cooperation necessary to maintain peace,
stability and prosperity in the region.
 It is my hope and the hope of the United States that peace and
reconciliation will continue to flourish. There is no berrer place to see this
process in action than the US-Japan Allaince.
     Sincerely,
           Caroline Kennedy

清岩寺追悼祈念式典に寄せて

 このたびは群馬県で開催される戦没米兵慰霊碑の除幕式にお招きいただき、感謝申し上げます。こうして追悼のメッセージをお送りできて光栄です。
 こういった癒しの過程は、遺族、そして日米両国にとって欠かせません。今回の追悼式のようなコミュニティ主導の活動は、過去に敵対関係にあった国同士でも、互いの違いや敵対心を忘れ、親しい友人関係を築けるということを世界に向けて示してくれます。日米同盟の未来は強固です。
 これまで長いあいだ、米兵の遺族は、故郷から遠く離れた場所で大切な家族を亡くした傷みと、愛する人が家族のもとに戻ってこない虚しさに苦しみ、心の傷を癒すための第一歩を踏み出せずにいました。家族がどこに葬られたのか分からないがゆえに、深い悲しみをいつまでも乗り越えられずにいたのです。しかし、皆様のご尽力のおかげで家族を見つけたいま、遺族の心に安らぎがもたらされました。皆様の献身的な活動は、遺族の苦しみを終わらせ、また、遺族に癒しを得る機会を与えてくださいました。B29爆撃機とグラマンTBMの乗組員のご冥福をお祈りします。
 これまでの七十年間で築きあげてきた絆が、今後もますます強まっていくよう、そしてその絆が、この地域における平和、安定、繁栄の維持に必要な将来の協調関係を日々思い出させてくれるよう、私たちはこれからも協調して歩みつづけます。
 平和と和解の過程が続くことは、私、そしてアメリカ合衆国の願いです。そして、ほかのどこよりもその過程が進んでいることを実感できる場所、それが日米同盟なのです。
  キャロライン・ケネディ
    中村有以[訳]

ハナミズキ
秋妻とアメリカを結ぶ絆となることを願い、キャロライン・ケネディ駐日大使より賜った「ハナミズキ」
千九百四十五年2月、異国に散ったB29スリックス・チックス号の操縦士カーネル・スローター大尉の縁者アルベルト・グリグノロ氏に依ってここに植樹される。
  平成28年4月

B29慰霊碑建立除幕式
日米合同追悼式
記念館

B29慰霊碑建立除幕式
日米合同追悼式
記念館

平成25年3月20日
清岩寺代表役員 木崎伸雄

とくに銘記がなかったが、隣の建屋がきっと記念館なのかな。。。

場所

https://goo.gl/maps/FNroaFbeZTs1BWU39


光林寺

邑楽郡邑楽町秋妻の秋妻山光林寺。


B29墜落ゆかりの寺碑(光林寺)

昭和20年(1945年)2月10日、太田市の中島飛行機の工場爆撃のために飛来した118機のB29のうち2機が空中衝突し、光林寺の西南600mの地点に墜落した。搭乗員23名が犠牲となった。搭乗員の遺体は光林寺の墓地に手厚く埋葬された。
戦後まもなく進駐軍が遺体を引き取りにきたが、光林寺にて丁重に葬られていた事に驚き、大変感謝したという。

B29墜落ゆかりの寺
 昭和20年2月10日午後3時過ぎ中島飛行機製作所太田工場を爆撃する為、サイパンのテニアン島を飛びたったB29編隊118機のうちの2機が、接触事故を起こし、当寺より西南約600mの秋妻田んぼに墜落しました。搭乗員23人は全員死亡が確認され、光林寺の本堂裏の墓地に横死者の供養の為手厚く埋葬されました。終戦後まもなく進駐軍が光林寺に駆け付け遺体を引き取って行きましたが、丁重に葬られていた事に驚き、大変感謝されました。
 以後毎年お盆の施餓鬼法要の時、歴代住職が檀徒の供養と共に(B29no)搭乗員の冥福を祈り回向しております。戦後74年を迎えた今日、戦争の記憶が薄れる中、今を生きている者の責務としてこの事実を碑に刻し、未来永劫世界平和を願い後世に残したいと思います。
  平成31年2月吉日
   秋妻山根本院光林寺
    B29墜落ゆかりの寺碑建立委員会

B29搭乗員埋葬地跡

本堂の裏手の墓地に、B29搭乗員埋葬地跡の墓碑があった。
平成31年2月吉日の建立。

場所

https://goo.gl/maps/TNtJUSUbHdoZzQa69


玉取神社

B29とは関係はないが、秋妻集落の鎮守様である玉取神社に興味深いものがあるので足を運んでみる。

御祭神:天児屋根命
創立は天長2年(825)。旧社格は村社。
藤原信綱が所領していたこの地を開いて、藤原綱義(大栄師)が天児屋根命を祀り、建立。
祖先の鎌足公が房崎の浦で竜宮から玉を取り得て日本の宝としたので、鎌足公を玉取明神として崇敬したという伝説に由来。

奈良時代、藤原鎌足に贈られるため船で運ばれていた宝の玉が瀬戸内で竜神に奪われてしまった。鎌足の子不比等は玉を奪還するために志度へ赴き、身分を隠して暮らすうちに海女と夫婦になり、子、房前をもうけた。海女は不比等の目的を知り、竜宮に潜って玉を取り戻そうとするが追撃にあって命を落としてしまう。そのとき海女は自らの乳房を切って中に玉を隠して持ち帰ったという。これが玉取姫の伝説。

浮標水雷缶(玉取神社)

昭和3年に「御大典紀念」として、海軍省から横須賀海軍軍需部在庫の廃兵器(水雷)を下付されたもの。

玉取姫の伝説に出てくる、龍宮から取り戻した「宝の玉」を模したモニュメントに見えますが、「浮標水雷缶」です。

今では「玉取神社」という社名と、浮標水雷缶の銀玉の形状がパチンコ玉にみえることから、パチンコ祈願の神社になっているとか、、、

場所

https://goo.gl/maps/997qycAvtnMH25Si9

※2023年1月撮影


B29慰霊関連

河口湖自動車博物館・飛行舘(2022年8月版)

2022年8月、「河口湖自動車博物館・飛行館」に赴きました。
毎年8月の1ヶ月間のみ公開される博物館。前々から気にはなっていましたが、ようやくに赴くことができました。


「河口湖飛行館」に関しては、多くの記事がありますので、写真中心に。

2023年の記事は下記にて


河口湖自動車・飛行館

山梨県南都留郡鳴沢村富士桜高原内にある自動車および航空機の博物館。
原田信雄氏が私費を投じて設立した博物館で、毎年8月の1ヶ月間だけ開館している。

https://www.car-airmuseum.com/index.html


零式艦上戦闘機52型(靖國神社遊就館)

冒頭から脇道です。。。

ちなみに、靖國神社遊就館に保存されている零式艦上戦闘機52型の復元に携わったのも、「河口湖自動車博物館・飛行館」であった。(2002年、靖国神社ご創立130年記念のため遊就館に奉納)


F-86F-40 セイバー

飛行館の脇で出迎えてくれるのは、航空自衛隊創設期の主力戦闘機「F-86」。


飛行館・入口

ケイタイ電話の撮影のみOK!

デジカメとかは駄目。
最近はスマホカメラも機能向上しているから、それなりの写真は撮れるかな。そんなわけで本記事は、すべてスマホ写真となります。(スマホ=Motorola moto g PRO)

なにかのプロペラ


飛行館・館内

さっそく目に飛び込んでくる情報量の多い空間に圧巻。
まずは2機の「隼」

一式戦闘機 隼1型

天井に展示されている隼1型。
中島飛行機が開発。第日本帝国陸軍を代表する戦闘機。

一式戦闘機(ハヤブサ)1型
上昇力や加速力では、ゼロ戦をも上回る性能を持つ、旧日本陸軍の戦闘機で、日本でハヤブサを見られるのは、この飛行館だけです。
ゼロ戦が海軍機として造られたのと動揺に、陸軍機として造られたのが、このハヤブサです。抜群の性能を持つこれらの2機は、同じエンジンを搭載し、旧日本軍の主力戦闘機として運用されました。2枚のプロペラが、ハヤブサ1型の特徴です。

一式戦闘機2型(6750号機)

無塗装で展示されているのは隼2型。プロペラは3枚ですね。

一式戦闘機(ハヤブサ)2型
ゼロ戦52型と同じパワーアップしたエンジンを搭載しているため、エンジンカウリングの形状が異なり、プロペラが3枚に変更されているのが、1型との大きな違いです。天井展示の1型と比べてください。
この機体は1944年にニューギニアで米軍に捕獲され、性能調査が行われました。調査の結果、ハヤブサは操縦が容易で、旋回性能はいかなる連合国機より優れていると米軍は評価しました。


艦上偵察機 彩雲 11型1290号機

中島飛行機が開発。大日本帝国海軍の艦上偵察機。
実用化した海軍機の中で、彩雲は海軍最速機として陸上偵察機としても活用され、米軍機の追跡を振り切った際に「我ニ追イツクグラマン無シ」の名言も残っている。

1944年に愛知の半田製作所にて量産が開始。半田1号機は1944年6月に完成。終戦までに463機生産(半田では427機)されたという。

河口湖飛行館とアメリカ国立航空宇宙博物館(非公開)にのみ現存。
河口湖飛行館では、彩雲の復元作業に着手している。

彩雲の水平尾翼・垂直尾翼の復元。昨年2021年は胴体中央部が公開。少しずつ、復元が進んでいる。

彩雲の右主脚部


特殊滑空機 桜花11型 I-16

機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器。
母機(一式陸攻)に吊るされて目標付近で分離し発射される。その後はロケット推進で加速し、搭乗員が目標に誘導して体当たりを決行する。

桜花
特攻機、人間爆弾です。
米国ではBAKA BOMBと呼ばれた。
大型艦を一撃で大破させることが可能な1.2トンの大型爆弾を搭載した特攻専用の航空兵器です。
一式陸上攻撃機に吊るされた桜花は、標的付近で切り離され、人間の操縦により体当たりをしました。ロケットエンジンの搭載で急降下時には時速800km以上の猛スピードで敵艦に向かうために、連合軍は迎撃不可能と判断し、攻撃目標を切り離し前の一式陸上攻撃機に変更したほどです。


一式陸上攻撃機(一式陸攻)22型

大日本帝国海軍の陸上攻撃機。略称は一式陸攻。開発は三菱。
日本海軍の主力陸上攻撃機として活躍した。
河口湖飛行館では、12017号機、尾翼番号 62-22の機体を、現在は尾翼番号 「龍41」と塗装し、主翼を除いて復元展示している。
「龍」は第761海軍航空隊所属機。絶対国防圏防衛の主力爆撃機隊として、太平洋戦争終盤にマリアナ諸島およびフィリピンで哨戒・爆撃・雷撃行動に従事した。

一式陸上攻撃機22型
太平洋戦争海鮮から終戦まで、爆撃、低朝つ、輸送と大戦全般のあらゆる場面で運用されました。海軍大将の山本五十六元帥が最期に登場した機体としても有名です。
全長20mにも及ぶ大型機でありながら、優れた設計により幕軍の操縦性を実現した傑作機です。2,400機もの一式陸上攻撃機が生産されましたが現存する機体はmこの展示機のみです。

尾部の旋回機銃

一式陸上攻撃機の内部。

乗員出入り口を開放するとこうなる。
日の丸の部分が扉だったのですね。

前方の旋回機銃。

上方にも旋回機銃を備える。

一式陸攻の機首。曲線美。

これは、すごい。

前方視界が、ある意味で恐怖な、一式陸攻。
前に居たくない。。。

火星二一型(一式陸攻用エンジン)

今でもオイルがたれているエンジン。

91式航空魚雷(一式陸攻用魚雷)


零式艦上戦闘機(ゼロ戦)52型

大日本帝国海軍の主力戦闘機。零戦。開発は三菱。
河口湖飛行館では4機の零戦を復元し、1機は靖國神社遊就館に奉納。残り3機を展示保存している。

零戦52型1493号機「豹187」
昭和19年(1944年)5月頃、中島飛行機にて製造。栄三一型エンジン、四式射爆照準機などを装備した後期の機体。

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)52型 
強力なエンジンの搭載で、最高速度は21型より30km/h向上の560km/hにも達した後期型モデルのゼロ戦です。
エンジンのパワーアップに伴う大型化したエンジンカウリングと折り曲げ機構のない主翼先端が21型との大きな相違点です。21型と違いを較べて見てください。
展示機は、1,150馬力の最終型「栄31型」エンジンを搭載しています。

栄エンジンがわかるように展示。

栄発動機31型(中島)


栄12型 ゼロ戦用エンジン

世界で、回る唯一のエンジン。
中島飛行機が開発。零戦や隼に使用された。

エンジンが生きている証。オイルが下にポタポタと。


九三式中間練習機

大日本帝国海軍の練習機。愛称は「赤とんぼ」。開発は川西飛行機。

九三式中間練習機
天井展示の複葉機は、旧日本海軍の操縦士養成用練習機です。
海軍のパイロットはこの機で、高度な操縦技術を身につけました。
三菱や中島飛行機など海軍と関係を持つほとんどの航空機製造メーカーにより、5,800機もの機体が生産されています。
練習中に海に落ちても見つけやすいよう、尾翼が朱色に塗られていたことから、通称「赤とんぼ」と呼ばれていました。


零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型

大日本帝国海軍の主力戦闘機。零戦。開発は三菱。
河口湖飛行館では4機の零戦を復元し、1機は靖國神社遊就館に奉納。残り3機を展示保存している。

スケルトン状態の21型92717号機

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型
昭和19年4月頃に生産された末期の21型です。
既に後期型モデルである52型の生産は始まっておりましたが、この頃までは中島飛行機により、21型も製造されておりました。
ゼロ戦の内部構造がわかる貴重な資料として残すため、できる限りのオリジナル部品を装着し、外板を張らない骨組みの状態で展示しております。

それにしても情報量が多い。。。


四式戦闘機 疾風(方向舵)

大日本帝国陸軍の戦闘機。四式戦闘機。開発は中島飛行機。


特殊攻撃機 剣(外板)

大日本帝国陸軍の特殊攻撃機(特攻機)。開発は中島。生産は昭和飛行機も参加している。生産は105機であったが、実践には使用されなかったという。陸軍名称は「剣」、海軍名称は「藤花」であった。


アツタ21型(艦上爆撃機彗星用エンジン)

愛知航空機が製造。ドイツのダイムラー・ベンツDB601のライセンス生産。


金星11型(九六式陸上攻撃機用エンジン)

三菱が開発。大日本帝国海軍の主力エンジン。


誉11型(銀河用エンジン)

中島飛行機と海軍空技廠が開発。中島飛行機の最後の量産航空エンジンでもあった。


誉11型(彩雲用エンジン)


栄12型(零戦21型用エンジン)


栄12型(零戦21型用エンジン)

製造番号12515


落下増槽燃料タンク

鉄板製タンクと木製タンク

鉄板製タンク

木製タンク


水上偵察機 零式観測機(フロート)

三菱が開発した水上偵察機。


零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型

大日本帝国海軍の主力戦闘機。零戦。開発は三菱。
河口湖飛行館では4機の零戦を復元し、1機は靖國神社遊就館に奉納。残り3機を展示保存している。

21型91518号機、尾翼は「AI-101」塗装(一航戦赤城の戦闘機1番機)になっている。

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型
ゼロ戦は旧日本海軍の主力戦闘機で、21型は初期型モデルです。
抜群の運動性能を誇り、ゼロ戦の名を世界中に広めました。
尾翼に記された「AI-101」は真珠湾攻撃の際、空母赤城より出撃したエースパイロット板谷少佐の機番です。
展示機は90%以上ものオリジナル部材を使用して復元されており、本物のエンジンが装着された世界唯一の機体です。

零式艦上戦闘機
零式艦上戦闘機(艦上機:航空母艦から発着可能な航空機)、通称ゼロ戦は昭和12年(1937年)三菱重工、大江工場にて堀越二郎氏を主任設計者として開発が始まった。
約2年の猛スピードで試作機が完成。翌年の昭和15年7月には、正式に海軍戦闘機として採用される。ゼロ戦(零戦)の名称は、昭和15年が旧暦、皇紀2600年である、その年号最後の数字が”0”であることから、そう呼ばれた。
・最高速度550km/h(世界的なレベルは500km/h)
・航続距離2,500km(世界的な距離は500km以下)
・20mm機関砲2門と、最大の機銃を装備
そして、他に類を見ない、抜群の運動性能などから、世界一のゼロ戦と呼ばれた。

このような機械の設計・開発を行った堀越二郎氏は操縦ができなかったと云われているが、ゼロ戦の隅々までに”美”を追求した、芸術家であったとも云える。
制作から75年経過した現在でも、美しい機体をもつゼロ戦は世界的に人気が絶えない。
ゼロ戦は21型から、22型、32型、52型、62型と5回もの設計変更が行われたが、最初に設計された21型が、一番性能が良かったと云われている。
初期型のゼロ戦は空の雲の色に溶け込むように機体色はグレーであったが、後期型からは主に熱帯のジャングルで使用された為、グリーンに塗装されている。
約10,000機も作られたゼロ戦だが、現在は30機のオリジナルのゼロ戦と、1990年にロシアとアメリカで完成した3機の新造機(エンジンはアメリカ製)のみが残されている。
日本では10機ものゼロ戦が保存されているが、残念ながら何れも飛行できる状態ではない。アメリカでは飛行機は飛ばすものとの考えから、航空祭などで我々を楽しませてくれているのだが、悲しいことに我が国では、完全なゼロ戦でも”キケン”とされ、航空局から許可が出ないのが現状である。

復元前の機体の翼端

オリジナルの下地。1944年の段階では資材不足のために、内部塗装はしていなかった。

折り畳み翼端が、21型の特徴。

尾翼の「AI-101」


ライト兄弟1号機「フライヤー1」

飛行機時代の開幕。

1903年(明治36年)12月14日、ライト兄弟の第1号飛行機「フライヤー1」が人類最初のエンジン付き飛行機による飛行に成功した。


GE J79(F104用ジェットエンジン)

空冷のガソリンエンジンから、全く新しいジェットエンジンへと。


戦時下のポスター

戦時下の啓蒙活動。いろいろ。


富嶽

6発の超大型戦略爆撃機。中島飛行機が設計をすすめるも、戦局悪化で開発中止。


ラバウル航空隊ジオラマ

昭和17年のころをジオラマで再現。


そのほか

いろいろ。


野外展示

T-6 テキサン

S2F-1トラッカー

H-19 チカソー

T-33A シューティングスター

F-86F セイバー(ブルーインパルス)

C-46D コマンドー


1190形蒸気機関車

1923年(大正12)のドイツ・コッペル社製の蒸気機関車。
2両が輸入され、鶴見臨海鉄道301号機、302号機となるも、鶴見臨海鉄道は戦時買収で国有化され、1190形となった。1190形は1950年に三井埠頭に譲渡され、1968年まで使用された後、廃車後に河口湖自動車博物館で展示されている。


F-104DJ

河口湖自動車博物館のうえにも飛行機が。
今回は、飛行館のみを見学しました。自動車は余り興味が沸かなかった、、、ということもありましが。


お土産

零戦21型に、隼1型に、一式陸攻22型で。

ここはすごいです、これはまた来たいです!
歴史遺産、戦争遺産を修復復元して後世に伝承する現在の工廠ですね。
彩雲も楽しみ、です。

※撮影:2022年8月


関連

武蔵航空吉田工場跡と河口湖散策(富士吉田)

山梨県の富士吉田にも、軍需工場があった。
工場の跡地に、空襲の犠牲者の慰霊碑があるというので、足を運んでみた。


武蔵航空吉田工場(武蔵航空株式会社吉田工場)

富士北麓は、もともと軍需工業とは無縁の地域であったが、戦争末期になると、立川地区の航空機工場の疎開先として、当時の下吉田町(現在の富士吉田市)は1943年以降、一大軍需産業地帯と化した。
富士吉田市の竜ヶ丘自治会館周辺には、「武蔵航空吉田工場」があった。中島飛行機武蔵工場の下請けとして、勤労動員学徒を含む約2000名が海軍双発陸上爆撃機「銀河」尾翼の組み立てや発動機の修理、特攻日の整備なども行っていたという。


富士吉田空襲

1945年7月30日。午後1時半頃。
富士吉田にあった武蔵航空吉田工場に米軍機グラマンF6Fが襲来。
工場にいた15歳から39歳の工員12人が犠牲となった。
1945年8月13日にも空襲があり、工場は全壊となった。(人的被害はなかった)


武蔵航空工場被爆殉難者之碑

武蔵航空工場被爆殉難者之碑
  題字 西山巧記
太平洋戦爭の末 此の地に二萬坪の敷地を整地して広大な工
場が建ち竝び勤労学徒隊を含めて二千余名の者が航空機の生
産に從つて居りました 昭和二十年七月三十日午後一時突如
として米軍艦載機数編隊の襲撃を受け一瞬にして十二人の貴
い生命を喪い二十余人の負傷者を出すという惨事に至りまし
た 旧字えて八月十五日終戦を迎え爾來星霜十有二年 工場跡
は一望の水田と変り世人の記憶も漸く薄れゆこうとする時
元從業員一同亡き友を偲んで記念碑建立のことを発起しまし
たところ 過去十二年間朝夕にねんごろな供養を續けてこら
れた元社長西山巧記殿の絶大なご協力と県市当局並びに有志
縁故多数の方々の御力添によつてここに成就することを得ま
した 謹んで十二柱英靈の御冥福を祈る次第であります

昭和三十二年七月三十日
 為十三年忌法要供養建立

富士吉田空襲で犠牲となった12名のお名前が刻まれている。
合掌。

場所

https://goo.gl/maps/pW9CuAnGtZoukFdL7


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R772-37
1948年1月3日、米軍撮影の航空写真。

上記から抜粋及び加工

現在の様子


河口湖

せっかくだから河口湖に寄り道。

河口湖シンボル像「源泉」
北村西望の終生最期の作品。

場所

https://goo.gl/maps/cqHUmtF1zDuJ5DoF9


富士山麓電気鉄道「モ1号」

昭和4年(1929)に富士山麓電気鉄道が線路開業した際に新造した車両。

河口湖駅

トーマスですね。

大月駅

察しの良い人は、富士吉田とか河口湖で、わかるかもしれませんが、「河口湖自動車博物館・飛行館」に行くのがメインでした。その記事はまた別立てにて。

※撮影2022年8月


戦後国産機リスタート2「新立川飛行機」と「立飛R-53型軽飛行機」(立川立飛)

戦後日本の航空産業は、時(とき)を止めていた。
そして終戦から7年後に、国産機の復活の口火を切ったのが「新立川飛行機」であった。

本記事は、2022年に一般公開された「R-53」を中心とした「新立川飛行機その2」、です。

「その1」は、下記にて。

今回、「一式双発高等練習機・キ54」の公開とあわせて、普段は非公開の「R-53型軽飛行機」も公開されました。


新立川飛行機

戦前、中堅飛行機メーカーとして、「赤とんぼ」や中島飛行機「隼」のライセンス生産などを行ってきた「立川飛行機」。
終戦により、立川飛行機をはじめ、日本国内の航空産業はすべて停止させられた。
立川飛行機は、1949年(昭和24年)11月15日に企業再建整備法により、「立飛企業」と「タチヒ工業」(のちの新立川飛行機)とに分割された。

昭和20年(1945年)11月18日
「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」発令
連合軍による航空活動の禁止命令(航空禁止令)

昭和25年(1950年)6月25日、朝鮮戦争勃発。
昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条約
同年10月25日、民間航空再開。
昭和27年(1952年)7月、航空法及び航空機製造法が公布。


R-52型軽飛行機

昭和27年9月、飛行機制作が解禁され立川飛行機の技術伝承を目的に設立されていた第二会社「新立川飛行機」が、戦後最初の国産機「立飛R-52練習機」を制作。戦時中に作られた部品の寄せ集めではあったが、国産航空機生産は、「新立川飛行機」から始まった。
「R」は練習機を意味し、「52」は1952年型を意味する。
R-52は、戦前に試作していたR-38練習機をベースとしているため、戦前の航空機を再生産したような古い設計の飛行機であったが、それでも戦後の国産飛行機のはじまりには違いない。


R-53型軽飛行機

「R-53型軽飛行機」について
R-52の改良型として製作され、基本的な設計は変わらず、エンジンをイギリス製シラス・メジャー(155hp)に換装するなど改良が加えられました。同機は「R-52」と共に全日本学生飛行連盟に貸与され、日本一周飛行に参加しました。その後、一旦、航空大学校での練習機としての使用を経て1957年に新立川航空機㈱に返却されました。

機体概要
全長:7.5m、全幅:10.7m、全高:2.65m、最高速度:時速207km/h、上昇限度:4,500m

以下、写真を中心に。


R-HM型軽飛行機

立川市の複合施設「GREEN SPRINGS」のTAKE-OFF-SITEにて公開されている、R-HM型軽飛行機は、操縦席の公開があったので、座ってきました。

操縦席。
極めて原始的な造り。これは間違いなく操縦が難しい。。。

復元作業の様子など。


立飛ビールとステッカー

https://www.tachihibrewery.com

立飛ビールを購入して、ステッカーを頂きました。

※撮影:2022年10月


立川飛行機「一式双発高等練習機・キ54」(立飛ホールディングス最後の一般公開)

立川市の立飛ホールディングスで、昨年に引き続いて、2022年10月27日(木)から30日(日)まで、「一式双発高等練習機」が一般公開されました。

2022年10月の今回が、「立飛ホールディングスとしての最後の一般公開」(予定)という。
スタッフに「最後?」の詳細を聞いたところ、今後は立川市が保存をし、立川市として恒常的な施設ないし展示を実施する予定という。つまり、一民間企業たる「立飛ホールディングス」として、このような形の一般公開は最後となる見通し。

本記事は2022年公開時のものです。
2021年公開時の模様は、下記の記事にて


立川飛行機


新立川飛行機


国内唯一の立川飛行機「一式双発高等練習機」現存機

一式双発高等練習機
大日本帝国陸軍の練習機。
キ番号は、「キ54」。
略称は、「一式双発高練」「一式双高練」「双発高練」など。
連合軍のコードネームは、「Hickory」(ヒッコリー、クルミの意味)
開発製造は、立川飛行機。
昭和16年(皇紀2601年、1941年)に正式採用。
立川飛行機として、はじめての自社開発全金属製双発機。
傑作機として重宝され総生産機数は、1342機に及ぶ。

展示機は、飛行第38戦隊所属機。昭和18年(1943年)9月27日、能代飛行場から離陸後にエンジントラブルによって十和田湖に不時着水。乗員4名のうち3名が死亡、1名が生還。
低温淡水の十和田湖底であったために、機体腐食が少なく当時の塗装が残るままで発見され、2012年に引き揚げ。
青森県立三沢航空科学館で展示されていたが、2020年に立飛ホールディングスに譲受された。
また同時に引き上がられた天風型エンジンの1基は製造を担当した東京瓦斯電気工業(日立航空機)の後継企業にあたる日野自動車が復元処理をおこなっている。


一式双発高等練習機(一式双発高練)・キ54
「写真」

以下、写真中心にお送りいたします。
昨年の記事で詳細を記載しているので、今回は省略。

開場直後。1時間前に並んだ成果の最初の1枚。

昨年と展示の状態が異なっている。
機首の木枠がなくなっていたり、上部の窓の跳ね上げがなくなっていたり、胴体部と機首部をつなげていたり。

双発エンジンは、空冷単列星型9気筒。
東京瓦斯電気工業(日立航空機)が開発・製造した航空機用空冷星型エンジン
陸軍名称は「ハ13」、海軍名称は「天風」。陸海軍統合名称は「ハ23」。

一式双発高等練習機に使用されたエンジンは、「日立ハ13甲」 (九八式四五〇馬力発動機)。

主に、陸海軍の中間・高等練習機で使用されたエンジン。
陸軍では、「一式双発高等練習機」、「一式輸送機」、「二式高等練習機」などに採用。
海軍では、「赤とんぼ」と呼称された「九三式中間練習機」や、機上作業練習機「白菊」などにも採用されている。


立川飛行機の概史と三大生産数機種について

石川島飛行機製作所から立川飛行機へ
大正11年(1922)夏に立川飛行場が完成。(2022年で立川飛行場100周年)
大正13年(1924)11月、東京石川島造船所の出資により、石川島飛行機製作所が設立。
社長は渋沢栄一の三男・渋沢正雄。渋沢財閥と大倉財閥の資本であった。
創業地の月島は飛行場がないことから、飛行機製制作には不便ということもあり、昭和5年(1930)5月に立川に移転。昭和9年4月に陸軍から練習機の単独試作を命ぜられたことから、航空機メーカーとして地位を気づき、95式1型練習機(赤トンボ)を正式化。

昭和11年2月、2代目社長の渋沢武之助が退任し、大倉財閥系の門野重九郎が代表取締役に就任。7月に「立川飛行機:へ称号を変更した。

三大生産数機種
九五式一型練習機 2398機
九八式直協機 849機 / 九九式高等練習機 1067機
一式双発高等練習機 1347機

立川飛行機は、陸軍すべての練習機を製造していた。
初等練習機としての「九五式三型練習機」
中間練習機としての「九五式一型練習機」
そして、実践機へとつながる高等練習機としての「九九式高等練習機」「一式双発高等練習機」。

メイドイン多摩
上記の三大生産数機種は、北多摩製であった。
機体は、立川飛行機、発動機(天風系)は日立航空機、点火栓は立川工作所であった。


作業台

キ54の作業台。


重要航空遺産

日本航空協会認定。


各種説明

昨年の記事を参照で。省略します。。。


立川飛行機の建屋

おおくの建屋は、立川飛行機時代のもの。

正門

ノコギリ屋根の建屋

いずれも、立川飛行機時代の建屋。

車庫も当時からの建屋。

車庫の隣の建屋も。

写真は取らなかったけど、守衛所も。

立川飛行機の建屋の詳細は、こちらで。


立飛ビール

https://www.tachihibrewery.com

ビールを購入すると、ステーカーがもらえました。

一式双発高等練習機「キ54」(一式双発高練)

九五式一型練習機「キ9」(赤とんぼ・九五式中練)

※撮影:2022年10月


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