「近代建築」カテゴリーアーカイブ

八戸の盾「海防艦・稲木」八戸の戦跡と近代史跡散策

八戸に赴く機会がありました。
せっかくなので、八戸の戦跡と近代史跡を中心に歴史散策を。

地震の影響で、「八戸線」が運休するなどもあり、バスを活用しての八戸の東西移動になりましたが、思った以上にバス路線が充実しており、当初の予定より、だいぶアクティブに行動できた感じ。
新幹線の「八戸駅」が、まったくもってイメージしていた「八戸」(八戸中心街)とは違う場所にあって、ちょっと焦りましたが。


海防艦稲木之碑(蕪島神社)

1945年(昭和20年)8月9日。
八戸の鮫港の蕪島沖に仮泊していた「海防艦・稲木」は、米軍艦載機の集中攻撃を受け、激しい攻防の末に撃沈した。

米軍艦載機約50機の空襲をたった一艦で迎撃し「八戸の盾」として、八戸市民と八戸の街を護った「海防艦・稲木」。
約4時間にわたる海空の激戦が鮫港で繰り広げられ、ロケット弾と銃撃により稲木は撃沈し、稲木乗組員243名のうち稲木艦長の山田忠太少佐以下乗員29名が戦死、重軽傷者83人を出した。

「八戸の盾」として活躍をした稲木を偲ぶ慰霊碑が「蕪島神社」の境内にある。

海防艦稲木之碑

昭和20年8月9日、八戸港内に仮泊中の海防艦稲木は来襲せる米三十八機動部隊の艦載機群と交戦勇戦敢闘遂に沈没す
爾来38年、当時の乗組員並びにその父母2世及び関係者相図り記念碑を建立して、物故者の霊を追悼し、あわせて世界の恒久平和を祈念するものである。
 昭和58年8月7日

合掌

稲木乗組員
物故者皆様方のご冥福を
心からお祈り申し上げます

蕪島からみた八戸の港

場所:

https://maps.app.goo.gl/DewsSiQdS5AugEnp9


海防艦・稲木

1944年(昭和19年)5月15日、三井造船玉野造船所で起工。
仮称艦名「第4701号艦」。香川県高松市の離島「稲木島」から「稲木」と命名され、鵜来型海防艦の12番艦となる。
基準排水量:940トン
全長:78.77m
最大幅:9.10m
速力:19.5ノット
乗員定員:149名
兵装・搭載機材:
 45口径12cm高角砲 連装1基、単装1基
 25mm機銃 3連装5基、単装1基
 三式迫撃砲 単装1基
 九四式爆雷投射機2基
 三式爆雷投射機16基
 爆雷120個
 短艇3隻搭載
 レーダー 22号電探改四 1基
 レーダー 13号電探改三 1基
 ソナー 九三式水中聴音機 1基
 ソナー 三式水中探信儀 2基
1944年12月16日竣工、山田忠太少佐が稲木海防艦長となる。
就役後は、船団護衛に従事。
1945年(昭和20年)8月8日、「稲木」は船団を護衛し釜石を出港し八戸に入港。翌8月9日朝、八戸はアメリカ軍第38任務部隊艦載機の空襲を受ける。稲木は午前9時頃、空母「ランドルフ」と「エセックス」から発進したF6F、SB2Cによる空襲を受けて後甲板に直撃弾を受けて機械室が大破。夕方頃に沈没した。海防艦長の山田忠太少佐以下乗員29名が戦死。

八戸港国際物流拠点化推進協議会
>八戸港の歴史
https://hachinohe-port.org/hachinohe-port/history/
海防艦「稲木」の残骸(昭和20年)

Wikipedia > 鵜来型海防艦

鵜来型海防艦「宇久」の画像(参考)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/ff/IJN_escort_vessel_UKU_in_1944.jpg


海防艦稲木戦歿者慰霊碑(呉海軍墓地)

稲木の慰霊碑は、呉海軍墓地にもある。関連として掲載。


海防艦顕彰碑 護国 海防艦(靖國神社)

海防艦顕彰碑が靖國神社の境内にある。関連として掲載。

船団護衛と沿岸警備を主任務とする排水量約800トンの小艦であった「海防艦」
海防艦189隻の内85隻が海没し、1万余の尊い命が捧げられた。

 船団護衛と沿岸警備を主任務とする海防艦は、昭和15年6月竣工の「占守」を第一号艦として、さきの大東亜戦争終結までに未就役19隻を含め建造数189隻にのぼった。
 要目は全長約70メートル排水量約800トン乗員200余名、小艦ながら優秀な対潜対空兵器をもち 操縦性と航洋性の点においてもすぐれていた。
 乗組員延総数3万余、士官に商船学校出身者、学徒出身者、兵よりの昇進者多く、兵員中には17才前後の少年の姿もみられた。
 十分な訓練を受けるいとまなきまま、北は千島から南はシンガポールに至る広い海域で、不眠不休、日夜任務の遂行に当った。人員、兵器、物資の輸送を果しつつ、途上、潜水艦、航空機を撃沈撃墜する戦果もあげたが戦局の悪化に伴って被害艦続出し、85隻を失い、1万余の人びとが尊い生命を国に捧げた。
 ここに海防艦顕彰の碑を建て、戦没乗員の勇戦と労苦をしのび、併せてわが国海上輸送の宿命的重要性を後世に伝える資としたい。
  昭和55年5月5日 海防艦顕彰会

冬の季節に。


八戸と戦争

八戸港
昭和18年頃には制海権を失っていた日本。昭和18年8月には、八戸沖にも米海軍潜水艦が進出していた。8月に「明和丸」「美福丸」、9月に「第六多聞丸」、10月には「幹雲丸」が撃沈され、八戸沖の近海航路も危険な状態となっていた。
そんななかでも八戸港からは漁船船団が、ボルネオまで石油積取得のために決死の航海を行っている記録も残っている。しかし、昭和19年6月にマリアナ沖海戦で日本艦隊は壊滅的な打撃をうけ、そしてサイパン島が陥落したことで、南方資源との航路も閉ざされることとなった。

八戸永久築城(八戸要塞)
昭和19年7月、大本営は「本土沿岸築城実施要綱」を発令し、「捷号作戦」本土防衛計画が策定された。本土方面決戦(捷三号作戦)として、連合国軍の上陸を迎え撃つための重点地域が下記の3箇所に絞られた。
・九十九里浜
・鹿島灘
・八戸周辺
八戸には、大規模な上陸作戦を可能とする長大な砂浜が多いという地理的な要因もあり戦略的な要衝となっていた。米軍の本土上陸に備え、昭和19年10月に、八戸永久築城緊急工事が始まった。
わずか半年の工期で、八戸の後背地の新井田川沿いの山中の「是川」「舘」「島守」にまたがる1,380ヘクタールの地域に、地下壕が掘られ、トーチカ陣地が造られた。この八戸要塞の築城には98万人の人員と43,000台の馬車が動員された。昭和20年1月からは、八戸中学校500名、八戸商業200名、八戸水産200面、八戸高等女学校700名、千葉学園400名のほか、八戸市内国民学校高等科の男女生徒2,200名など、近隣の学徒も動員された。

八戸の防衛配備状況
八戸永久築城(八戸要塞)が昭和20年3月末に完成後、昭和20年4月8日に、大本営は「決号作戦準備要項」を決定。東北は第十一方面軍が守備を担当することとなり、仙台と八戸の二ヶ所を重点地とした。
八戸守備として、独立混成第九十五旅団(旅団長・石黒岩太陸軍少将、石黒兵団)が配備。
「陸軍八戸飛行場」には、飛行部隊が展開。「蕪島」には海軍が特攻艇の配備を計画。「鮫港」には海防艦・稲木が停泊。「鮫角」には軍司令部直轄の電波探知機(電探)が配備。「鮫」には陸軍3個中隊と機関銃25、高角砲16、重砲2が配備された。しかし重砲は日露戦争時代(明治45年1912年)の代物、であった。
また、その他の部隊として、「白銀」に弾薬補給部隊、「湊」に食料補給部隊が置かれた。


八戸空襲

八戸には、陸軍の「八戸飛行場」(現在の海自八戸航空基地)や、米軍上陸に備えた「八戸防衛陣地(八戸要塞)」、蕪島の海軍基地(特攻基地)が配備され、軍需工場に指定された民間企業も多数ある街であった。

昭和20年7月になると、関東の主要都市に対し空襲を重ねてきた米軍は、東北にも及んできた。

昭和20年7月14日15日に、八戸は、米空母機動部隊艦載機(F6Fグラマン戦闘機)による初空襲を受ける。
朝5時から7時、9時、11時と2時間ずつの波状攻撃で、高舘飛行場(現在の海上自衛隊八戸航空基地)、日東化学、尻内駅が被害を受けた。この攻撃は翌日も続き、死者行方不明者452名、重軽傷者は多数にのぼった。

ついで、7月27日には、青森市に爆撃予告のビラが撒かれ、翌28日夜にB29が青森市を空襲し、結果、「青森大空襲」として約700名が死亡した。

青森大空襲のあと、八戸では学童疎開がはじまった。
八戸国民学校から縁故疎開した生徒は800名、引率集団疎開した生徒は135名に及んだ。

そして、2回目の八戸空襲は、8月9日午前6時、グラマン戦闘機50機の来襲であった。
八戸港に仮泊していた海防艦「稲木」はこれに応戦したが、ロケット弾を集中的にあびせられ撃沈、艦長以下29名が戦死した。
翌10日も空襲があり、工場、民家等が爆撃され、多数の死者を出した。
おなじ8月9日に、一部が兵舎として使用されていた八戸国民学校も米海軍機の機銃掃射で炎上したが、第一陣の学童疎開が八戸を去った直後(八戸駅=現在の本八戸駅を発車まもなく)であり、重大な被害から逃れることが出来た。

3回目として、「八戸大空襲」を米軍は8月17日に予告してきていたが、8月15日に終戦を迎えたために「八戸大空襲」は幻となり、壊滅的な被害を免れることができた。

総務省>八戸における戦災の状況(青森県)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tohoku_01.html


蕪島海軍基地跡(蕪島要塞跡)

蕪島では、1944年10月ごろから、東西に島を貫通する坑道5本、南北に坑道1本が築造された。
「駆潜艇」用爆雷格納庫、であったという。
海軍では、捕鯨船のキャッチャーボートに爆雷投下装置と機銃を備え付け、応急の駆潜艇としており、八戸にも4~5隻が配備されていたという。蕪島の格納壕は未完成だったが、50~55個の爆雷が貯蔵される予定だったという。また、特攻艇「震洋」の格納庫として転用予定もあったという。

以下、八戸市蕪島休憩所にて

1942
内務省と海軍省のイラク工事として旧海軍により埋め立て工事が行われる。2年がかりで埋め立てられ本土と陸続きとなった。
1945
7月15日/太平洋戦争の末期にアメリカ軍からの空襲を受ける。

1942年(昭和17年)、軍需施設建設のため旧海軍による埋め立て工事が2年がかりで行われました。戦時中「北の要塞」と呼ばれた蕪島。写真には東西に掘られた5本の坑道口も見えます。

坑道の開口部が見える。

「NPO法人鮫町蕪島ウミネコvillage」が運営している建屋の中にあった資料。

https://www.daily-tohoku.news/archives/344351

デイリー東北(2025年8月15日)
蕪島が痛がっている
軍事要塞化で陸続きに
(略)
 1941年(昭和16年)12月、日本が米国などを相手に始めた太平洋戦争に合わせ、翌42年から着手された蕪島の軍事要塞化工事だ。

 鮫地区の沿岸に位置する蕪島はかつて、陸地と切り離された文字通りの「島」であり、頂上の蕪嶋神社と共に、漁師が会場の安全と豊漁を祈願する聖域だった。
 その島域を軍事要塞とすべく、海軍は架け橋を取り壊して陸続きに埋め立て、さらに島内に5本の坑道を掘った。爆薬を搭載して敵艦に体当たりする有人の水上特攻艇を坑道に隠す計画だった。
(略)
 蕪島だけではない。太平洋戦争末期の1944年10月、国は「八戸永久築城計画」に着手し、館・是川・南郷島守地区に100基を超える要塞を建設させた。対米戦の敗退が続き、米軍の上陸が想定されたことに伴う措置。実際、沿岸部を中心に米国の爆撃機による空襲も相次ぎ、上陸の危機は現実味を帯びていた。
(略)

マリエントから見る蕪島もおすすめ。

改めて、蕪島にて。坑道の気配は感じない。

戦後しばらくは開口していたが、十勝沖地震(1968)による陥没などもあり、埋め戻されている。

マリエントの展望台から

八甲田山がみえた。

ウミネコ?


蕪島神社

八戸駅からバスを乗り継いで「鮫小学校通」バス停に到着。
地震によりJR八戸線が運休中のため「鮫駅」を横目に、バスを駆使して、蕪島神社には歩いての訪問となりました。

ちなみに、バスは「八戸市内共通1日乗車券(800円)」を活用。これで、八戸市営バス(青いバス)と南部バス(赤いバス)が乗り放題。

蕪島は、戦時中に海軍の工事によって地続きとなった。

ちなみに、ウミネコは春から夏にかけて、なので、冬にはそんなに居ないのだ。

八戸小唄
昭和6年に造られた新民謡。

もともと「稲木」の碑を見に来たということを鑑みると、ウミネコがいないほうが落ち着いてゆっくり見学できるとも。

1933年の津波

2011年の津波

参道の石段脇に、津波の高さを示すプレートが設置されている。

2020年に再建の御社殿(2015年に焼失のため)

蕪嶋神社は社伝によれば1269年に江ノ島弁才天を勧進したのがはじまりだという。
祭神は市寸嶋比売命、多紀理毘売命、多岐都比売命の宗像三女神(厳島神社の主祭神である)で「蕪嶋の弁天様」として信仰を集めてきた。弁財天は商売繁盛や子授けにご利益があるとされているが、漁業の守り神でもある。

チョコクランチが、かわいらしかったので、お土産にしました。

場所:

https://maps.app.goo.gl/YrYpwUkTL9HcrdhR7


葦毛崎展望台(葦毛崎海軍電探基地跡)

「うみねこ号」(鮫駅~種差海岸駅)を結ぶバスを活用して、葦毛崎展望台まで移動。これも一日乗車券で。

葦毛崎展望台
幕末時代には台場が築かれ、異国の船を監視するのに使われ、戦時中は、旧帝国海軍の「電探基地」(レーダー基地)の円盤基礎が設けられた。
2式1号電波探信儀(二式二号電波探信儀一型・二号一型電探、21号電探)が配備され、海軍による監視哨が置かれた。

上部構造物は戦後に観光地化で展望台として造営されたものだが、下部の円盤基礎は、戦時中の帝国海軍の電探基地(レーダー基地)の土台。

防空レーダーを備えた海軍の無線基地跡。

太平洋の眺望を楽しむ

鮫角灯台も見える

苫小牧の方向

うーん、さすがに見えない。

海軍時代の土台を基礎とする。

鮫角灯台側から。

場所:

https://maps.app.goo.gl/odqxUZJEtcgjLeaS8


八戸のマイルポスト

高さ5mほどにもなるコンクリート製の柱。
このそびえ立つ柱は、新造船の速度を計測するためのマイルポストであった。もともとは5本あったというが、現在は2本が残っている。
船の速度を測る計測器が発達していなかったころの産業遺産。

青森県庁>

https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kotsu/seikatsu/files/kenshi-mado148.pdf

鮫角灯台と2本のマイルポスト


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R272-93
1948年(昭和23年)4月29日、米軍撮影

葦毛崎周辺を拡大

現在の様子


マイルポスト(鮫角)

海側のマイルポスト。こっちは近くに寄ることが出来ます。

場所:

https://maps.app.goo.gl/qVyfZMEGAh395RV88


マイルポスト(小舟渡平)

こちらは近くに寄れなかったので、鮫角灯台から。

ギリギリ、2本が写った画角

場所:

https://maps.app.goo.gl/tF77BUj7ftKFNQHM7


鮫角灯台

「日本の灯台50選」に選ばれている灯台。
昭和13年(1938)2月16日に初点灯。
毎年期間限定(4月~10月の土日祝日など)で一般開放しているが、私が訪れたこのとき(12月)は非解放。。。

鮫角灯台
初点
昭和13年2月16日

鮫角灯台
~美しい景観で地域に愛される灯台~
 鮫角灯台は、1938年(昭和13年)2月16日に点灯した灯台で、昭和初期からのハ戸港の目覚ましい発展に伴い、漁船や貨物船の安全な航行のため、地元からの強い要望により設置されました。
 1997年(平成9年)に、灯器は長寿命のメタルハライドランプを採用した回転式に変更しましたが、外観は設置当時のまま変わりなく海を照らし、航行船舶の道しるべとなっています。
 灯台の周辺地域は2013年(平成25年)に「三陸復興国立公園」に指定され、翌年の2014年(平成26年)には「白亜の灯台と青い空と海のコントラストが美しく、周辺の景観とも見事に調和し、地域のシンボルとして相応しい。」との評価から、第26回ハ戸市景観賞(まちなみ空間部門)を受賞しています。

位置 北緯 40度32分24秒
東経 141度34分34秒
光り方 単閃白光 毎8秒に1閃光
光の強さ 100,000カンデラ(約本分の明るさで
光の届く距離 19.5海里(約36キロメートル)
高さ 地上から灯台頂部 約23メートル
水面から灯火 約58メートル

鮫角灯台
海上保安庁
八戸海上保安部

鮫角灯台
施設の概要
初点
 昭和13年2月16日
位置
 北緯40度32分24秒
 東経141度34分34秒
構造
 白色塔型鉄筋コンクリート造
等級及び灯質
 第4等 単閃白光(毎8秒に1閃光)
光度
 100,000 カンデラ
光達距離
 19.5 海里(約36キロメートル)
高さ
 地上~頂部 23メートル
 水面上~灯火 58メートル
管理事務所
 第二管区海上保安本部 八戸海上保安部
 電話 0178-32-4691

なんだろ、築山

馬?

タイヘイ牧場が隣接している。サラブレッドの競走馬の牧場。
大川財閥の大川平三郎氏の「大」と「平」からの命名。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Dup6FbgSZqukGdCJ9


物見岩(種差防空監視哨跡)

鮫角灯台近くに、海抜52メートルの岩山「物見岩」があり、藩政時代から魚群発見や大漁などを狼煙を揚げて知らせる場所であったという。
この地に、戦時中は、陸軍の防空監視哨が設けられていた。

物見岩自然植物園
 このあたり一帯は、夏でも冷たい風や霧に包まれる日が多いため、さまざまの植物が自生しています。美しい自然を構成している植物には、南限または、北限の学術上貴重な植物なども見られるといわれています。
 市では、この自然を生かした小さな植物園を、市民の憩の場として利用できるよう整備しました。
 園内にある岩山は、海底から隆起したと思われる安山岩で、海抜五ニメートル、藩政時代から魚群の発見や、大漁など、のろしを揚げて知らせる場所であったということから、「物見岩」と名付けられました。また、海図にも記載され、海路の重要な目印になっています。また、このあたりは、名勝地と鳥戦保護区に指定されていますので、植物や鳥類をとることは禁止されています。

うーん、立入禁止。自身の影響かな。。。

岩場、、、

まあ、立入禁止ってあるので、強行はしない。

場所:

https://maps.app.goo.gl/xBFpZoYjeWeq7Ko39


根城跡

おお。南部師行!!

実は、私は、最近はもっぱら近代史専攻な感じですけど、南北朝期も結構好きでして。南朝の南部師行は、義良親王と北畠顕家の陸奥将軍府を支えた重臣。北畠顕家と最期まで行動をともにし、石津の戦いで戦死した。

八戸市博物館は、休館中、、、残念。

せっかくだから、戴きました。

今回のサイトの記録に、八戸市博物館刊行の「戦後60年特別展・戦争と八戸市民‐苦難とともに‐」の図録が役に立ちました。
あと、「はちのへ文化財ガイドブック」は在庫僅少だそうで、そういうフレーズに弱いのであわせて戴きました。

根城跡
南朝方の根本となる城として、南部師行が築城。
日本100名城

場所:

https://maps.app.goo.gl/uK3isTWrZA2Pw4Xb7

https://maps.app.goo.gl/SWZ7SiqgxRUikCWEA


櫛引八幡宮

場所は変わって、八戸が誇る国宝スポットの「櫛引八幡宮」へ。
南部総鎮守一之宮。
本殿・旧拝殿(長所)・末社神明社・末社春日社・正門が5棟が国指定重要
文化財。
赤糸威鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:菊一文字の鎧)と白糸威褄取鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:卯の花威)が国宝。
紫糸威肩白浅黄鎧(兜、大袖付)と唐櫃入白糸威肩赤胴丸(兜、大袖付)と、兜(浅黄糸威肩赤大袖2枚付)が国重要文化財。

拝殿

本殿は改修工事中。
国重要文化財
正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもの

国宝館

赤糸威鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:菊一文字の鎧)
白糸威褄取鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:卯の花威)
国宝の2つの鎧を、ぐるぐると、ずーっと飽きることなく、みていられます。
これは良いものだ。
写真では伝わらないですね、これは生でないと。この鎧を生で見るためだけに八戸に赴いても損ではないかも。こういうのが好きな人であれば。

JR八戸駅でもアピールされてました

旧拝殿(長所)
国重要文化財
正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもの

南門(正門)
国重要文化財
正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもの

末社(脇宮)春日社本殿
国重要文化財
東北では数少ない一間社春日造。
元文4年(1739年)に勧請、創祀されたと伝わる

末社(脇宮)神明宮本殿
国重要文化財
元文4年(1739年)に勧請、創祀されたと伝わる


明治記念館(旧八戸小学講堂)

明治14年(1881年)竣工。
明治12年(1879)11月に立柱式を挙げ、明治14年(1882)8月に完成した八戸小学講堂は、青森県内に現存する洋風建築では最古のものである。
校舎が完成した明治14年8月に明治天皇の東北御巡幸があり、落成したばかりのこの講堂が、行在所として用いられた。
昭和4年には「八戸市図書館」として使用され、後の昭和37年に櫛引八幡宮境内に移築され「明治記念館」として現在に至る。

明治天皇八戸行在所

昭和10年4月建設

明治記念館の内部は見学できません
櫛引八幡宮

明治記念館の由来
 明治記念館は八戸市堀端に八戸小学講堂として、明治14年(1882)8月に竣工した、県内に現存する最古の洋風建築である。洋風の下見板張りの外壁が真壁として納まり柱の頂部には飾を載せ、胴蛇腹と幹蛇腹とを備えている。
 明治14年の明治天皇東北御巡章に際し行注所として用いられた。昭和4年には八戸市図書館となり御聖蹟として維待される。
 昭和37年に櫛引八幡宮境内へ移築し、その際窓回り等に若千の改造が加えられてはいるが、「明治」の雰囲気を色濃く伝えており、「明治記念館」として現在に至る。(現在は直会所・神前結婚式控室・会議室等に使用している。県重宝平成3年3月13日指定)

明治大帝御聖像

御大典奉祝
八戸市傷痍軍人会

碑文
 皇紀二千六百五十年 今上天皇御即位の礼 大嘗祭に世界百六十有ヶの国の元首代表が参列し 内閣総理大臣以下一億二千萬人の国民が挙って 御奉祝申上げる
 我等は
滿洲事麥以降大東垂戰爭の終結に至るまで 戦地に赴き 国家の干城として奮闘
 九死に一生を授かって この目出度き国家の慶事に遭う 生涯の恵に感泣し
 七生報国の誓を新たにす
 今茲に 先帝陛下の「耐ヘ難キヲ堪へ忍ビ難キラ忍ビ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」との聖旨を仰ぎ 国体の精華を讃え我が国の悠久の弥栄を祈念し 聖寿の万歳を寿ぎ奉り御大典奉祝の記念碑とす
 平成2年8月15日

場所:

https://maps.app.goo.gl/EorGdiXFBEbFb4iC9


八戸あれこれ

今回、人生初の八戸ということもあり、いろいろ堪能してみました。

へー、サバ日本一なのか。
サバのまち八戸

八戸駅の駅そば
駅そばはみかけると入ってしまいます。

天玉そば

地震の影響で、市街地に道路封鎖あり。

NTTの鉄塔に被害。
あと、JR西日本八戸線の鉄橋にも被害があって、JR八戸線も運休。

出張先の六ケ所村での昼食。
貝の味噌鍋、貝のエキスが染み出て美味でした。

JR八戸駅

JR八戸駅ちかくの海鮮居酒屋「浜小屋」さん。
おおあたりで美味。

本つぼ鯛
一番のおすすめ

本マグロカマトロにぎり、やばい

地場の日本酒も美味。

JR駅前のホテルから。

朝飯。
しじみ出汁茶漬け

八戸せんべい汁

なんばんみそ

八戸の山車、三社大祭

お土産ランキング。

「鶴子まんじゅう」を買いました。

もちろん、「なかよし」も。

駅中横丁、で。
イカ飯とせんべい汁を。

帰りの新幹線。

この日の移動距離など。

八戸、楽しく美味しい街でした。
今度は、ゆっくり散策してみたく。

撮影:2025年12月


秩父の近代史跡散策

秩父に行っていたので、駅周辺を散策してみました。



羊山公園

武甲山から北に尾根上に伸びる羊山丘陵にある応援。
「羊山」の名称は、戦前に埼玉県の「綿羊種畜場」が設けられていたことによる。

眺望。西側に秩父市街地が広がる。

秩父公園橋(秩父ハープ橋)


忠霊塔(羊山公園)

羊山公園にある、忠霊塔。
秩父出身の英霊を慰霊する。

忠霊塔

合掌

秩父市民心を同じくし力を協せて特に此の地を選び忠霊塔の威容ここに仰ぐ
先に太平洋戦争の暗雲去って平和来たり
我が国の独立更に陽光を迎えて国民斉しく忠魂を偲ぶ我が郷土
日露戦争以来殉国の英霊を景仰し愛国奉公の至情を追慕すること厚く
ここに高くその英風を顕彰し常に深く其の正気を思念す
庶幾わくは魏然たるこの聖塔を郷土の柱石と観じ相共に平和自治の建設と文化産業の興隆とに邁進せむ
 昭和29年7月
  秩父市忠霊塔建設委員会
  文学博士河野省三撰文並謹書

おっ、河野省三先生。埼玉出身の国学・神道学者。神社関係を調べていた時は、河野先生の関連はよく目にしていたが、戦跡関連では初めてかも。


柿原万蔵翁像(羊山公園)

秩父鉄道の前身となる上武鉄道の創始者、初代社長。
秩父織物業界、秩父産業を代表する人物、秩父銀行の設立等にも参加。
現在の柿原万蔵翁像(2代目)は、北村西望が昭和29年に建立。

柿原万蔵翁像
ここに立つのは秩父鉄道の創業者で初代社長 柿原万蔵翁(1860-1919年)の銅像です。
1939年に同翁頌徳会建立の像は先次大戦に供出されたため1954年同会が再度北村西望氏に依頼し製作しました
 1994年11月
  秩父鉄道株式会社

台座は、創建時の昭和14年建立。

柿原万蔵翁銅像入口

昭和14年3月
頌徳会

入り口の石柱は、創建当時のもの。


秩父事件追念碑(羊山公園)

尾崎咢堂(尾崎行雄)の扁額。
1949年(昭和24年)10月の建立。

秩父事件は、自由民権運動の影響下で発生した埼玉県秩父郡の農民と士族が政府に対して負債の延納、雑税の減少などを求めて起こした武装蜂起事件。

秩父事件関係は、吉田の椋神社にも訪れているので、別でそのうちまとめてみたいとは思いつつ、ですが。


牧水の滝・若山牧水 喜志子 比翼歌碑(羊山公園)

羊山公園にある人工の滝。
大正時代に秩父を数回訪れている歌人・若山牧水にちなむ。

秩父町出はづれ来れば機をりのうた声つゞく古りし家並に(若山牧水)

のび急ぐしたもえ草のあさみとりあやふくぞおもふ生ひ立つ子らを(若山喜志子)


せっかくなので秩父のあれこれ、を。

西武鉄道 西武秩父駅

2017年にリニューアルした駅舎。「特急Laview」と「武甲山」
秩父散歩のはじまりは、西武秩父駅から。

羊山公園にいったのであれば、武甲山資料館にも行くべきでしたが、時間の兼ね合いで、未訪問。また今度。


秩父鉄道 御花畑駅

西武秩父駅から御花畑駅までは、歩いて5分ほど。
御花畑駅の駅舎は大正6年造営となり「国登録有形文化財」登録。

https://www.city.chichibu.lg.jp/4263.html


秩父そば 御花畑駅そば店

「せきた」の特挽地そば
天皇陛下に献上の蕎麦が、駅そばで食べれる贅沢。
普通に美味しい、し。

「みそぽてと」は、優勝


秩父鉄道 影森駅

地上の旧駅舎は2016年に取り壊しとなり、現在は、駅ホーム上に駅舎がある。
今回、秩父に行こうと思った「大淵寺・護国観音」の最寄り駅。


秩父パリー食堂/カフェ・パリー(秩父の近代建築)

国登録有形文化財
昭和2年

https://www.city.chichibu.lg.jp/4274.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/141101

カフェ・パリー
所在地:秩父市番場町19番8号
年代:昭和2年
構造:木造2階建、鉄板葺
建築面積:60㎡
登録日:平成16年2月17日
 この建物は、店舗兼用住宅の木造2階建て片流れ造金属板葺き屋根となっています。屋根は正面側
が高く、この屋根を隠す位置までラスモルタル塗の外壁が大きく立ち上がり、最上部にコーニスを廻しています。コーニスの下にはエッグアンドダーツ(卵鏃文様)のモールディングが施されています。小屋裏にあたる位置は窓を付け3階建てを思わせる外観となっています。正面建具はこの小屋裏窓の他は建築当時のものではありませんが、窓上部の装飾はみな当初のものとなっています。このように外観は近代洋風の様相となっていますが、内部は店舗部分の調理場と客席を除き、従来の木造建築の様相となっています。
 昭和時代初期から昭和30年代かけての秩父の賑わいを今に伝える近代商店建築の一つとして貴重な建造物となっています。
 <登録基準:「造形の規範となっているもの」に該当>

秩父で、有名な食堂。
近代建築としても、興味深い、昭和レトロ食堂。

せっかくなので。

一番人気の「オムライス・プリンセット(クリームソーダ付き)」


安田屋(秩父の近代建築)

パリーの隣の安田屋も昭和レトロ。
建築は、昭和5年ごろ。国登録有形文化財。

https://www.city.chichibu.lg.jp/4275.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/169142

創業は大正5年。猪牛豚味噌漬けの安田屋。

https://yasudaya-shop.com

秩父名物なので、購入しました。
「安田屋のみそ漬(豚肉)」


小池煙草店(秩父の近代建築)

現在は、たばこ店ではなく、リノベーションした「小池カフェ」と「NIPPONIA秩父 門前町(KOIKE・MIYATANI棟)古民家ホテル」として営業をしている。
国登録有形文化財。
昭和初期の建造。

https://www.city.chichibu.lg.jp/4276.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/141101

小池煙草店
所在地:秩父市番場町17番10号
年代:昭和初期
構造:木造2階建、鉄板葺
建築面積:61m2
登録日:平成16年2月17日
 この建物は、番場通りと昭和通りの交差する角地に建てられた木造2階建てで、北西側(番場通り
側)の屋根が高くした片流れ造金属板葺きとなっています。外壁は屋根を隠す位置まで大きく立ち上
がり、最上部にはコーニスと葉飾りのモールディングを施し、交差点隅部を曲面として、煙草売場力ウンターを設け正面としています。正面建具は1階の出入り口と販売カウンターを除いてほぼ建築当初のもので、2階の窓周りの縁取りなど装飾性に富んだ店舗兼用住宅となっています。
 開店当時は東京の専売公社からモデル店舗に指定され写真入で関係機関に宣伝されたと伝えられています。昭和時代初期の近代商店建築の好例として貴重な建造物となっています。
 <登録基準:「造形の規範となっているもの」に該当>



西武秩父駅前温泉 祭の湯

2017年に開設された秩父の温泉

風呂上がりに。生ビール。

2杯目は、「リポビ」(リポビタンD&ビール)
みそポテトアイスも美味。

温泉むすめ 秩父美祭

名物 ちちぶ餅
やわらかさにびっくりする、「つぶしあん」の餅

秩父錦甕口酒の日本酒ジェラート

たまには、のんびり秩父観光も楽しいですね。


※撮影:2025年11月


近衛師団司令部庁舎(東京建築祭2025)

「東京国立近代美術館工芸館」でもあった「近衛師団司令部庁舎」が一般開放していると聞いたので脚を運んでみました。


近衛師団司令部庁舎

国重文
明治43年(1910)造営。
陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風。明治洋風建築の代表建築。

周辺界隈は、下記も参照で

重要文化財 旧近衛師団司令部庁舎
建築 明治43年3月
指定 昭和47年10月

東京建築祭2025

重要文化財 旧近衛師団司令部庁舎
 この建物は、近衛師団司令部庁舎として明治43(1910)年3月に竣工したもので、設計者は陸軍技師田村鎮と考えられています。第2次世界大戦後は、皇宮警察の寮として使用されましたが、昭和38(1963)年の北の丸地区の森林公園整備計画策定に伴い、取り壊されることになりました。しかしながら、この建物は、明治時代の官庁建築の特徴をよく残すものとして現存する数少ない遺構であるため、その建築的価値を惜しむ声が寄せられ、重要文化財に指定した上で、東京国立近代美術館工芸館として活用することが決定されました(昭和47(1972)年重要文化財指定)。
 昭和48(1973)年から、美術館施設として活用するための保存修理工事が行われました。煉瓦壁体には破損が見られたため、内側に新たに鉄筋コンクリートの構造体を設けて補強するととともに、屋根を関東大震災後の桟瓦葺から建築当初のスレート葺に復原し、取り壊されていた軒蛇腹を整備するなど、創建当初の外観に復しました。内部は、保存状態の良かった中央の階段回りとホールの部分のみ当時の姿を残し、建築家谷口吉郎氏の設計により、美術館仕様に改修しました。
 工芸館は、昭和52(1977)年11月に開館し、政府機能移転基本方針により、令和2(2020)年10月に石川県金沢市に移転するまでの間、ここで活動していました、現在この建物については、今後の保存活用のために、重要文化財保存活用計画を策定しています。
 煉瓦造りのゴシック様式の外観のほか、床下通風口の金具、玄関アーチ両脇の四葉飾り、破風(ペディメント)の頂華(フィニアル)、大棟中央塔屋のデザインなどをお楽しみください。

近衛師団は、旧陸軍が北海道から九州までの主要都市に設置した19の師団のうちの一つで、明治時代から第2次世界大戦終了時までの皇室の警護を担っていました。

閉館しました Closed
東京国立近代美術館工芸館は2020年2月28日で東京での活動を終了し、2020年夏、石川県金沢市に移転します。
42年間、誠にありがとうございました。
工芸館は、通称・国立工芸館として新たに活動がはじまります。


近衛師団司令部庁舎 外観


近衛師団司令部庁舎 玄関


近衛師団司令部庁舎 裏口


近衛師団司令部庁舎 階段


近衛師団司令部庁舎 2階ホール

東京国立近代美術館工芸館の名残。。。

※撮影 2025年5月


関連

愛知県庁食堂と名古屋市役所食堂

先日、愛知県庁の近くで仕事があったので、せっかくなので「名古屋めし」を「役所めし」で味わうことにした。

結構久しぶりに、愛知県庁と名古屋市役所に足を運んだ次第。


愛知県庁食堂

愛知県庁。国重文化財。
愛知県庁本庁舎は1938年(昭和13年)3月完成。
昭和天皇御大典の記念事業の1つとして建設。頂部に名古屋城大天守風の屋根を乗せた帝冠様式。
日本趣味溢れる建造物。

令和8年1月30日まで
愛知県庁本庁舎屋根改修工事中

入口

5階に。

貴賓室がある。

食堂・喫茶室がある。

和定食を。

11時過ぎ。ランチタイムラッシュ前の食堂は空いていました。

国重要文化財の名古屋市役所をオカズに食するランチは贅沢の極み。

まどから、名古屋市役所を眺めることができます。

愛知県庁の内側。5回の窓より。

5階エントランス。

階段も重厚な感じ。

1階

なかなか楽しかった「愛知県庁めし」
歴史的な建物のなかで、歴史的な建物を眺めながら食べる「文化財めし」は最高の贅沢です。

愛知県庁本庁舎屋根改修工事は令和8年1月30日まで。


名古屋市役所

名古屋市役所。国重要文化財。
1933年(昭和8年)竣工。
政令指定都市の中では1927年竣工の京都市役所に次いで2番目に古い。
名古屋市役所本庁舎は、 昭和天皇即位の記念事業として建設され、日本趣味を基調とした近世式意匠の建造物として特徴的。いわゆる帝冠様式建物。

せっかくなので、隣の名古屋市役所にも行きたくなりました。

1階エントランス

地階

食堂がありました。

名古屋市役所本庁舎食堂は、すべてのランチに、サラダとスープとライスバー(白米と中華粥)が食べ放題。。。

さすがにお腹いっぱい(さっき愛知県庁で和定食を食べたばかり)なので、軽めに肉うどんをチョイスしサラダを盛りまして。
良い感じにお腹いっぱい。

ちょうど食べ終わった頃合いが、12時。食堂が職員で賑わってきましたので、ボチボチ退散。

1階。

帰りは、新幹線ホームで「みそきしめん(卵入り)」を食べて、久しぶりの名古屋出張は〆

※撮影2025年3月


関連

はじめに

旧朝香宮邸「東京都庭園美術館」散策(港区)

国立科学博物館附属自然教育園が、明治時代の「白金火薬庫の跡地」で、大正時代に宮内省の白金御料地になり、そして、朝香宮邸として、朝香宮鳩彦王が、昭和22年に皇籍離脱をするまで居住していた建物。
白金火薬庫からの流れで、足を運んでみました。


旧朝香宮邸(東京都庭園美術館)

需要文化財(建造物)
旧朝香宮邸
  四棟 本館・茶室・倉庫・自動車庫
  一基 正門
  所在地 港区白金台五丁目二六番
  指定 平成二七年七月八日
 朝香宮鳩彦王の住宅として昭和8年(1933年)に竣工した建築群で、昭和22年まで朝香宮の本邸として使われていた。
 本館は鉄筋コンクリート造2階建(一部3階建)で、外観は簡明な意匠である。中庭を囲むロの字形平面の南半分を客間や住居とし、他を事務や厨房にするのは、この時期の宮内省内匠寮設計の邸宅に共通の配置である。南側テラスは洋風庭園へ続き、和風庭園や正門からのアプローチも往時の雰囲気を良く留める。和風庭園には茶室が現存する。
 本館主要室の内装設計はフランス人装飾美術家アンリ・ラパンが担当、実施設計は内匠寮工務課技師の権藤要吉らが分担して行った。鳩彦殿下と允子(のぶこ)妃殿下は大正14年(1925年)にパリで、のちにアール・デコ博といわれる美術博覧会を視察。新邸にもアール・デコ様式が随所に採用され、新鮮かつ洗練された華やかな意匠に満ちている。正面玄関のガラス扉は工芸家ルネ・ラリックの作品として有名である。
 当時最新のフランスの芸術作品を取り入れたこの建物は、宮内省内匠寮による邸宅建築の頂点のひとつとして意匠的に優れ、価値が高い。
  東京都教育委員会

重要文化財 旧朝香宮邸 東京都庭園美術館 本館
アール・デコの館と呼ばれる旧朝香宮邸。1925年のアール・デコ博覧会でその様式美に魅せられた朝香宮ご夫妻は、自邸の建設にあたり、フランス人装飾美術家アンリ・ラパンに主要な部屋の設計を依頼。ルネ・ラリックのガラス扉など、アール・デコの精華を積極的に取り入れました。基本設計は宮内省内匠寮が担当し、建造には日本古来の高度な職人技が随所に発揮されています。旧朝香宮邸は、アール・デコ様式を正確に留め、昭和初期の東京における文化受容の様相をうかがうことができる貴重な歴史的建造物として、2015年に国の重要文化財に指定されました。

「建物公開2024」のイベントに便乗して、建物見学してきました。

正門

旧朝香宮邸本館
鉄筋コンクリート造2階建て(一部3階建て)、地下1階で1929年(昭和4年)頃から建築準備に取り掛かり1933年(昭和8年)5月に完成。

香淳皇后の叔父にあたる朝香宮鳩彦王がパリ遊学後2年をかけて建設し、1947年の皇籍離脱まで暮らした邸宅だった。この土地は白金御料地と呼ばれ、近世には高松藩松平家の下屋敷があった。明治期には陸軍の火薬庫が一時置かれ、後に皇室財産となっている。
宮邸は朝香宮一家が退去した後、吉田茂によって外務大臣公邸(ただし、外相は総理の吉田が兼務していたので実質的には総理大臣仮公邸)として、1947年から1950年にかけて使用された。
1950年には西武鉄道に700万円で払い下げられ、1955年4月に白金プリンス迎賓館として開業し、国賓・公賓来日の際の迎賓館として1974年まで使用された。
1971年にホテル建設計画が発表されたが反対運動が起こり、1974年5月からプリンスホテルの本社として使用された後、1981年12月に139億円で東京都に売却され、1983年(昭和58年)に都立美術館の一つとして一般公開される。


旧朝香宮邸外観散策

正面から。
やばいですね、ずっと見ていられる。全然飽きない。現在でも通用するデザインの美しさ。

庭園側から。

庭園側は、表とはまた雰囲気が変わる。これはこれで良き。四角と、ワンポイントな曲線のバランスが良き。


旧朝香宮邸内部散策

年に一度の「建物公開」の際は、館内撮影もOK。何も考えずに足を運んでいたが、これは私はだいぶ運が良いですね。

正面玄関

建物公開のコンセプトが「あかり、ともるとき」
朝香宮邸の特徴的な「あかり」が「ともされるとき」は、いちいち狙いすぎて、きれいすぎる。

第一応接室

大広間

次室

小客室

大客室

1階テラス

大食堂

大食堂の曲線美が、ね。

第一階段

2階広間

若宮寝室

若宮居間

テラス

書斎

殿下居間

殿下寝室

第一浴室

妃殿下寝室

朝香宮鳩彦王妃允子内親王
明治天皇第8皇女

ベランダ

妃殿下居間

2階廊下

姫宮寝室

姫宮居間

3階への階段

ウインターガーデン(温室)

小食堂

姫宮寝室前廊下

これはずるい。こんなライト、絶対的に勝利すぎる。

こんな感じで、朝香宮邸とライトを堪能した建物見学でした。

※2024年9月撮影


関連

「鉄道聯隊材料廠・内部公開」(千葉経済大学)

千葉県内に残る鉄道連隊の戦跡。
千葉や習志野、津田沼界隈に多く残っている。
当サイト内でもいくつか掲載をしてきていた。

今回は、千葉経済大学の構内に残る、貴重な煉瓦建造物の内部公開があったので、足を運んできた次第。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

市内に点在している案内看板より。

上記の米軍航空写真から該当部分を拡大。


千葉経済大学企画展
「学び舎に残る歴史‐煉瓦棟と千葉の戦跡‐」

https://www.cku.ac.jp/news_all/11789

https://www.cku.ac.jp/news_all/12889

千葉経済大学総合図書館では、前期企画展示として「学び舎に残る歴史 ~煉瓦棟と千葉の戦跡~」を5月27日から開催しています。展示期間は当初8月23日までの予定でしたが、好評につき展示ブースを拡大し、10月31日(木)まで期間を延長いたします。
 本学の敷地内に残る「旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)」は、千葉県内でも珍しい明治に創建された大規模煉瓦建築物で、千葉県有形文化財に指定されています。今回の企画展示では、その「旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築」を中心に、本学周辺に残る旧軍施設の成り立ちや現状、および地域史に欠くことのできない背景についても紹介しています。

通常は非公開。2024年の企画展で特別に内部も公開された。

千葉県指定有形文化財
 旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
 この煉瓦建築は、明治41年、鉄道聯隊材料廠の機関車の修理工場として建築されたもので、その後昭和20年旧日本国有鉄道が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用、昭和60年から千葉経済学園の所有となったものである。
 千葉県内に数少い明治年間創建の大規模な煉瓦建築の一つであり、特に内部の東西方向に二列に連なった十連の雄大なアーチ構造は、全国的にも他に比類がなく、この建物の主な特色となっている。
 従って、我が国明治期の煉瓦建造構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。
 右の理由により、千葉県指定有形文化財として指定をうけたものである。
  一、指定年月日 平成元年3月10日
  一、構造 煉瓦造アーチ構造、木造小屋組
  一、面積 695.6平方メートル
     千葉経済学園

千葉県指定有形文化財
旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
  所在地 千葉県稲毛区轟町3-59-6
  所在者 学校法人 千葉経済学園
  指定日 1989(平成元)年3月10日
 この建物は1908(明治41)年、旧鉄道連隊の材料廠※として建築された。大正時代には旧陸軍の兵器庫としても利用されていたが、戦後は大蔵省、国鉄と引き継がれ、1985年(昭和60)年に千葉経済学園の所有となり現在に至る。
 主要部分は、54.4m×7.3mと細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積と呼ばれる技法を用いている。
 県内では数少ない明治時代の大規模な煉瓦建築であり、10連の雄大なアーチ構造は、全国的にも類例がない。我が国の近代建築史における初期煉瓦建築の構造を知る上で、極めて重要かつ貴重な建築である。
 ※廠:壁の仕切りがない、広い建物のこと。工場、倉庫。 


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)内部公開

通常は非公開。今回の企画展に伴い特別にスタッフ立ち会いのもとで内部公開も実施された。ヘルメット着用必須。

1908年(明治41年)8月に、陸軍鐵道第一聯隊の材料廠として鉄道軌道の材料や蓄積の管理、列車の組立や修理を行うことを目的に建設。
主要構造部分は、東西54.4m、南北12.7mの東西に長い長方形。(南北にそれぞれ2.7m幅の下屋を含む)主屋の東西:煉瓦造、下屋・小屋組:木造、屋根:トタン葺き、木造部分の外壁:トタン張り
内部は煉瓦造の連続した10連の弧形アーチが5.4m間隔で並んでいる。

煉瓦の積み方は、オランダ積み。交差イギリス積みとも。

建設当時から使用されているクレーン。

クレーン用にもレールが曳かれている。

棟内にあった資料。
限られた時間で、詳細を目通しするのはムリでした、、、

昭和63年の煉瓦試験結果報告書

煉瓦建築に関する調査報告書
平成元年


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)軌道跡

南側の外には2種類の幅の違うレール600mm(鉄道聯隊演習路線)・1067mm(軍用鉄道・国鉄など)が一部残っており、当時の出入り口に続いている

ふたつのレール幅が確認できる。


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)外観

ところどころ、崩れかかっている箇所が気になる。


千葉経済大学企画展
「学び舎に残る歴史‐煉瓦棟と千葉の戦跡‐」
展示コーナー(図書室)

配布資料

ペーパークラフトにて煉瓦棟を模型再現

旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築 模型
千葉経済大学模型部作成 1/150サイズ

航空写真

旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
概要や歴史、工事年表など

鉄道聯隊について(1)

小湊鐵道に残る鉄道聯隊の痕跡
鉄道聯隊で使用されていた蒸気機関車(B104)や」鉄道聯隊のマークが刻まれたレール、97式貨車の写真など。

枕木
旧千葉県営鉄道多古線の路線跡から出土した金属製の軽便鉄道枕木
千葉経済大学敷地内にかつてあった千葉レールセンターで使用されていたと推測される木製枕木

鉄道聯隊について(2)

千葉県営鉄道

近隣(習志野・佐倉・四街道)の軍施設

大学周辺(千葉市内)の軍施設

※撮影:2024年10月


関連

旧陸軍第四師団司令部庁舎と大阪城の戦跡散策

大阪城周辺を訪れる機会があったので、前回記事の不足分などを補填的に掲載をしてみる。
仕事終わりの夕方の18時頃に。


大阪城周辺の戦跡

下記も参照に。
本記事は、下記に掲載しきれていない内容を中心としております。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。


第四師団司令部庁舎

「旧・大阪市立博物館」は、かつての「第四師団司令部庁舎」
第4師団司令部庁舎として昭和6年(1931)3月に竣工。
大阪城天守閣の復興のために集められた寄付金約150万円の内、約80万円を投じて1931年(昭和6年)に本丸に新築された。
外観は左右対称のロマネスク様式を採用。
1940年(昭和15年)に、中部軍司令部が「第四師団司令部庁舎」に入り、第四師団司令部は二ノ丸に移転。
1945年(昭和20年)に、中部軍は第15方面軍の編成により廃止、第15方面軍司令部と中部軍管区司令部が「第四師団司令部庁舎」を使用。
終戦とともに、GHQに接収。
1948年にGHQ接収解除、その後は大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として使用され、1958年からは、大阪市の管理下におかれる。
1960年からは、大阪市立博物館として使用され、市立博物館としては2001年に閉館。
2001年から、2016年までは特に何にも利用されずに保全され、2017年に複合施設「ミライザ大阪城」として再開業。

この建物は、昭和天皇の即位を記念して、昭和6年(1931年)市民の寄付により当時の金額にして150万円が集められ大阪城天守閣の再建、大阪城公園の新設とあわせて、第四師団司令部として建設されたものです。

外観をヨーロッパ中世の古城に似せた堂々とした建築で、壁面上部の装飾や、正面及び四隅の隅塔などにその特徴があります。

戦後は、大阪市警視庁として、またそのあとは大阪府警察本部として使用されましたが、内部を改装し、昭和35年から平成13年まで、大阪市立博物館として使用されました。
その後、耐震補強工事などのリノベーションが施され、平成29年(2017年)10月、装いも新たに複合施設「ミライザ大阪城」としてよみがえりました。


明治天皇駐蹕之所

大阪市青年聯合團によって建てられた石碑。
大正14年(1925年)5月10日建立。


明治天皇聖躅 臨時軍事病院跡

あぁぁ、見逃したあ、、、
司令部庁舎前の向かって左側の植え込み、、、


山里丸石垣の機銃掃射痕

山里丸石垣の機銃掃射痕
石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の痕跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度におよぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった、山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北側内堀に面した石垣も数か所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。

機銃掃射痕が、斜めに刻まれていた。


天守大石垣の爆撃被害跡

天守大石垣の爆撃被害跡
昭和20年(1945)陸軍の関連施設が集中していた大阪城は終戦前日の8月14日を最大とする爆撃を数次にわたって受けた。これにより大阪城天守閣付近の石垣も大きな被害をこうむっている。天守台北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」はこの時のもので、天守閣の北数メートルの地点に落ちた爆弾によるものである。昭和6年復興の天守台に荷重をかけない構造だったため影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行を止めるための工事が行われた。

石垣が「ずれ」ているのがよくわかる。
爆撃の衝撃の大きさが、如実に伝わってくる。

※撮影:2024年5月


宇都宮歩兵聯隊の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策4)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その4」です。「その3」は、以下にて。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


見返り橋(水無橋)

かつての用水路あとに橋の欄干のみ残っている。
歩兵聯隊に入隊する新兵を、家族や友人がこの橋まで見送り、別れを告げる場所であったため、当時は見返り橋といわれたという。

場所

https://maps.app.goo.gl/zPXbBSDDFJEstx3F7

歩兵59聯隊の兵営地は、とちぎ福祉プラザとなっている。

いったん北に向かいます。


宝木開拓之碑(宝木練兵場跡地)

歩兵59聯隊と歩兵66聯隊の兵営地の北側に、開拓児童公園と若草町三区公民館があり、そこに「宝木開拓之碑」がある。

宝木
開拓之碑

碑文
この地は、明治41年以降宝木練兵場として陸軍の精鋭を育んで来たが昭和20年大東亜戦争の終結により我等36名が入植し開墾を行なった。
入植当時は、一望の原野でしかも永年に亘り軍靴に踏み固められた不毛の地であったが、(以下略)
 昭和46年3月12日
  宝木開拓農業協同組合

場所

https://maps.app.goo.gl/bM5vn2kj31xCRecQ6


宇都宮歩兵聯隊跡碑

わかくさアリーナ敷地内に記念碑がある。

碑文は、第16代聯隊長 林 茂清
扁額は、栃木県知事 横川信夫
建立は、昭和38年3月10日、宇都宮歩兵聯隊史跡保存会による。
宇都宮歩兵聯隊史跡保存会は、宝木会(歩兵第59聯隊および東部第36部隊の関係者)を主体とし、その他有志によって組織されたもの。

至誠
宇都宮歩兵聯隊跡

記念碑建立の趣旨
宇都宮歩兵聯隊は明治三十八年八月畏くも 明治天皇より軍旗を親授せられ明治四十一年 宇都宮市宝木の兵営に入城 爾来四十有余年間軍旗の下父子相継ぎ郷土部隊として特に県民に親しまれつつ護国の大任に当った 
その間日露戦争 シベリヤ上海満州日支の各事変及び大東亜戦争に参加し常に赫々たる武勲を樹て野州健児の名聲を高からしめた 
然るに昭和二十年八月終戦の天詔喚発せられ歩兵第五十九聯隊は南洋パラオ島において又歩兵第六十六聯隊は東部ニューギニヤにおいて夫々悲憤の涙に咽びつつ謹んで軍旗を奉焼した 
我等聯隊出身者及び有志は今は無き軍旗の栄光を偲ぶと共に祖国の為散華せられた幾多先輩戦友の英魂を慰めるため思い出深き旧営庭跡に記念碑を建立し之を永く後世に伝えんとするものである
 昭和38年3月10日
  宇都宮歩兵聯隊史跡保存会
  および 有志一同

場所

https://maps.app.goo.gl/RzEUFYdMboA2y72r7


宇都宮歩兵聯隊の北営門の門柱(栃木県警察学校)

宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の北営門の門柱が、警察学校の門柱として、残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/FSVb5ftYrrdAHxGF9

警察学校の西側敷地内。石碑とか胸像がある。

殉職警察官の慰霊碑。昭和3年3月建立の石碑。

胸像は委細不明

栃木県警察学校の門柱。これは陸軍とは関係なさそう。


宇都宮歩兵聯隊の倉庫

栃木県立宇都宮中央高等学校(旧・宇都宮中央女子高等学校)の敷地内に、赤レンガ倉庫がのこっている。
宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の炊事場として使われた庖厨棟という。

明治40年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵聯隊の厨房関係施設として建設され、現在は倉庫に用いられている。
切妻造・平屋建で、外壁がイギリス積み煉瓦造、小屋組は木造トラス。
宇都宮に残る軍事関連施設のうち、唯一の明治期の建物となる。

敷地外から遠望。

倉庫は2000年(平成12年)に「宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫(旧第六十六歩兵連隊倉庫)」として国の登録有形文化財に登録された。

場所

https://maps.app.goo.gl/mX4UCfw1DMHRQxtW8

※撮影:2024年1月

「その5」へ


関連

栃木縣護國神社

軍艦建造技術を活用した日本初の大規模全溶接構造橋梁「田端ふれあい橋・旧田端大橋」(昭和10年建造)

横浜の「瑞穂橋」を調べていたら、溶接橋として日本初は、昭和9年の瑞穂橋であったが、本格的な大規模全溶接橋は、昭和10年の「田端大橋」であったと知り、そうと知ったら、居ても立ってもいられずで、急に現地に赴いてみた次第。


田端ふれあい橋・旧田端大橋

昭和10年(1935年)12月完成。全長135m。
全溶接構造橋としては、日本初にして東洋初であり、完成当時としては世界的な規模の橋梁であった。
設計者は、鉄道技師の稲葉権兵衛(代表作は筑後川昇開橋・田中豊博士の門下生)で、当時の橋梁界を率いていた田中豊博士指導のもとで行われた。
建設は「川崎造船所」(川崎重工の前身)。
軍艦製造技術で培われた溶接が本格的に橋梁建設に導入された歴史的に意義のある建造物。
ちなみに川崎造船所は、勝鬨橋や清洲橋、白鬚橋、永代橋など多くの震災復興橋の建造も手掛けている。

現在の田端大橋は、1987年に架橋。旧田端大橋は取り壊し予定であったが、計画変更で1992年に人道橋に改装された。愛称は「田端ふれあい橋」。
改装後は、主桁を隠し橋面側面ともタイル化粧板などで覆われて、まったくもって歴史的な趣が感じ出せなくなっている。非常な残念なデザイン。
もっとも、歴史的な意義は別として、植栽とタイルで、フレンドリーな感じに生まれ変わっている。

タイル張りには、歴史の趣が感じられない。

橋の上から探して、ようやく橋脚がみえる場所に。
ちなみに、橋脚を見ようとしてもなかなかビューポイントがなく。

親柱

田端大橋

昭和十四年三月成 東京府

田端ふれあい橋の橋上で、歴史を感じられたのは、ここのみ。

旧田端大橋の生い立ち
橋の由来
 旧田端大橋は、昭和十年に架建された突桁式下路版桁三径間ゲルバー式 全溶接橋です。
 当時、この橋は現場継手部も溶接した文字どおりの全溶接橋として東洋では最初で最大級の橋として注目を浴びました。
 この溶接技術は、そのころの造船技術(軍艦建造技術)を生かしたものであり、当時の技術者が遭遇した数々の苦労話がのこされています。
橋の概要
 施工年月日 昭和十年十二月二十七日
 形式    突桁式下路版桁三径間ゲルバー式
 橋長    一三五.〇メートル
 橋梁巾   一三.八〇メートル
 道路幅員  一一.〇〇メートル(当時)
 総鋼重量  約五九一トン(当時)
残存の経緯
 旧田端大橋は、近年の経済発展に伴う自動車交通量の増加と年月の経過による老朽化が進んだため、東京都は昭和六十二年に新田端橋を架建しました。
 新田端橋が開通したことにより、本橋の役目は終り、当初の計画では撤去する予定でありました。しかし歴史的にも学術的にも貴重な橋であり、また地域住民の方から歩行橋として再生利用の要望があることを考え、田端ふれあい橋として生まれ変わることになりました。
  平成四年三月 東京都北区

ふれあい橋について
田端ふれあい橋の概要
 田端ふれあい橋は、駅前広場と公園機能を合わせもった田端のシンボルとなる歩行者専用の橋です。
 この橋は、通勤、通学に利用するだけではなく、散歩道として、または待ち合わせの場所、憩い語らいの場としての快適な歩行空間をつくるとともに、自然の樹木によるやすらぎ、高欄や花壇の自然石による落ち着き、門柱や街灯による時代感を感じさせるものとしました。
田端ふれあい橋の特色
步行部
 花壇の形態を波型の曲線にすることにより平面的なやわらかさを出し、カリオンと二本のしらかしによって立体的なアクセントをつけました。中央の白御影石の部分を通行ゾーン、両側のタイル舗装部分は休憩・たまりゾーンとしています。
植栽
 花壇の縁石には赤御影石を使用しそのその重厚感による落ち着きを出すとととも、座って 話をしたりすることができます。 樹種は四季折々の花や葉が楽しめるように数多くの種類を配しています。
高欄
 木の枝をモチーフしたデザインは花壇の植栽と一体感をなし、快適な歩行空間をつくり出しています。
門柱
 大正時代の洋風赤れんが造りと銅板の屋根により、この橋の入口を表現しています。
カリオン
 文化の香り高い田端の発展を望んで 「希望の鐘」と名づけました。橋の中央に位置し、四種類の音色で時を知らせます。
展望窓
 上野駅側二か所に電車や線路が見える幅四mの大きな展望窓があります。
  平成四年三月
   東京都北区


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8921-C3-38
1944年11月7日、日本陸軍軍撮影の航空写真を加工。

田端大橋の様子がよくわかる。


田端ふれあい橋・旧田端大橋の主桁・橋脚

下を見れる場所に。

リベットがないです。
素人なので、細かいことはわかりませんが、全溶接橋として、リベットのない形態は、すらっとストレートな様相。美しいですね。

リベットがない!!としか言えない素人ですみません。


田端ふれあい橋・旧田端大橋の路面部分

ここは、歩いても、歴史が感じられないので、さらりと。。。
新幹線の橋梁が目線を遮ります。

門柱

側面には「田端大橋」
ん?旧称で良いの?

現在の田端大橋と、旧田端大橋の間。

高さが違いますね。
旧田端大橋は撤去予定だったので、建造時は高さをあわせるつもりがなかったことがわかります。

なので、両方の橋を横断する場合は、段差が生まれます。

高欄
波打つベンチと植栽。子供が近寄って電車見学ができない仕様。

「華」と銘された金色の裸女像。樹木が後光のようで。意味は不明。

鉄道の街「田端」にちなむ展示物など。
40Kレールとポイントリバー

連結器カバー(東北新幹線200系)

車輪(東北新幹線200系)

希望の鐘。ここにある意図や意味は不明。

静思と銘された女性像。

歴史を感じさせない路面。

新田端大橋と田端ふれあい橋の、JR側の入口。

いつもとはちょっと違う散策もたまにはたのしいもので。

なお、JR西日本ホームからも「田端ふれあい橋」をみることはできますが、やっぱりタイル化粧板に覆われて、残念な感じではある。

※撮影:2024年8月

場所

https://maps.app.goo.gl/mgTye1gbxotTNwUw8


日本初の溶接鉄道橋「瑞穂橋梁」(昭和9年建造)と横浜ノース・ドック

「瑞穂埠頭(瑞穂ふ頭)」
大東亜戦争後の昭和21年に米軍に接収され、横浜ノースドックとして、在日アメリカ軍の湾岸施設として使用されている場所。
そこには、瑞穂橋(道路橋)と併設している瑞穂橋梁(鉄道橋)が架かっている。
そんな瑞穂埠頭は、橋の向こうは、米軍施設などもあり、立ち入りが制限されているというが、足を運んでみました。


瑞穂埠頭(瑞穂ふ頭)・横浜ノースドック

もともとは、外国貿易埠頭として1925年(大正14年)に着工し、昭和20年(1945年)に完成したが、終戦後に連合国軍に接収。1947年(昭和22年)より在日米軍が使用している。
現在、在日米陸軍施設管理本部(ふ頭地区)、在日米海軍横須賀基地司令部(郵便地区)が展開されている。
ふ頭地区は、中型・小型船舶用バース、野積場、倉庫等があり、物資の搬出入や軍人・軍属等の移動に伴う貨物輸送業務(相模総合補給廠や横田飛行場の兵站拠点に運ばれる米陸軍物資の陸揚げ拠点)が行われている。
郵便地区は、艦隊軍事郵便センターが置かれ、極東からペルシャ湾に至る米海軍関係の軍事郵便業務が行われている。

部分返還が進んでおり、2009年に瑞穂橋及び港湾道路(土地:約27,000平方メートル、水域:約2,500平方メートル)が返還。2021年に使用されていない鉄道レール(工作物)や周辺の土地(約1,400平方メートル)が変換されている。

2024年には、在日米陸軍第10支援群(司令部・沖縄県読谷村)下として「第5輸送中隊」が新設運用され、全面返還とは、異なる動きも発生している。

横浜市サイト

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/kichi/shisetsu/yokohama-northhtml.html


瑞穂橋梁(かながわの橋100選)

2021年に返還された鉄道橋「瑞穂橋梁」。
瑞穂埠頭内に敷かれていた線路は終戦前から利用されており、1946年の接収後も物資を搬出入するための引き込み線として使われていたが、近年は使われていなかった。

「瑞穂橋梁」は2021年に返還された線路などの一部に含まれており、内陸側とノース・ドック側をつないでいる橋梁。
1934年(昭和9年)に建造され、従来のリベット工法から新たな技法として取り入れられた、日本最初の溶接鉄道橋である。

※昭和10年の田端大橋が、田端駅北側ヤードの上を横断して架けられた跨線道路橋で、現場継手も溶接した日本最初の全溶接橋であった。当時は世界最大級の溶接橋であり、現在は歩行者専用橋「田端ふれあい橋」として補強して現存している。

瑞穂橋の返還後を管理する「南関東防衛局」では、基地返還後は現状復帰として「工作物は撤去する」とされており、線路設備や橋梁は解体撤去される方針とのことで。。。
いつまで、見れるかは、なんとも。。。

昭和9年に建造された鉄這橋で、わが国最初の溶接鉄道橋として知られている。構造は鋼曲弦ワーレントラスとブレートガーダーとから成る。アーク溶接は鈑桁部、床組、対傾構の接合に用いられたが、トラスにはリベットが用いられている。橋長77.2mのうち、中央トラス部分は36m。溶接延長は6,458mあって、溶接橋の試験橋梁の意味を持っていた。この橋は瑞穂ふ頭への連絡橋で、現在は防衛施設庁が管理者となっている。(神奈川県庁サイトより)

https://www.pref.kanagawa.jp/docs/bd2/hashi100sen/05-mizuho.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:897-C9-137
1944年10月14日、日本陸軍撮影の航空写真を加工。

まだ埋め立ては一部なことがわかる。

航空写真レベルだと、横浜ノース・ドック内の海側の米軍の建屋3棟が、往時からのもので適合するが、米軍基地なので確認の術がない。。。

今昔マップ on the web

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.471864&lng=139.636488&zoom=17&dataset=tokyo50&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

2022年に撮影していた横浜ノース・ドック(大さん橋から撮影)
艦艇の後ろの建屋、これ戦前からと思われ、です。航空写真で適合したので。


瑞穂橋

瑞穂埠頭に渡るための橋。
以前は瑞穂橋も米軍接収で立入禁止であったが、日本に返還されており、いまは瑞穂橋はわたっても問題ないらしい。

橋を渡った先、瑞穂埠頭の横浜ノースドック側は、立ち入り制限あり。
ゲートを写すと怒られるらしいので、カメラは向けず。。。

なので、陸地側から望遠する。

大さん橋がみえる。(逆に大さん橋から横浜ノースドックも見えるが)

「Bar StarDust」「BAR POLESTAR」
老舗のバー「スターダスト」
「バー・ポーラスター」は、貸切営業のみで「スターダスト」に応相談、だそうで。


三井倉庫(三井倉庫横浜支店千若事務所)

かつてはクレーンが張り出していた三井倉庫だが(2023年写真ではクレーンを確認)、2024年現在、クレーンは撤去されている。
1953(昭和28)年に建てられた、ココアとコーヒー豆専用の倉庫という。

モザイクタイルで描かれた「三井マーク」

かつては線路も敷地内に引き込まれていたという。

横浜港湾部の貨物線「高島線」

場所

https://maps.app.goo.gl/noayR1gJXUwxqH5r7

※撮影:2024年5月


「下志津駐屯地創設69周年記念行事・その1」下志津陸軍飛行学校跡地散策(2024年・千葉)

2024年4月。下志津駐屯地。
基地行事があったので、行ってきました。
昨年は観桜のみ参加しましたが、今年は記念行事で。

まずは、旧軍ぽいところを散策。

下志津陸軍飛行学校の細かい話は、下記で。

ちなみに、記念碑を見学する際は、観桜でないとだめでした。
駐屯地記念行事の際は、記念碑エリアは立入禁止でしたので。。。


下志津陸軍飛行学校格納庫

往時の格納庫をベースとした建屋が現存している。


下志津陸軍飛行学校の煉瓦基礎木造便所

往時のトイレ(内装は変わっているとしても)が残っているのは大変珍しい。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R535-64
1947年11月12日、米軍撮影の航空写真を加工。

1947年11月12日写真の格納庫部分を拡大。

現在の航空写真、建屋の屋根形状が合致。

なお、最南端の格納庫は移築され千葉公園体育館として活用されたが、解体


往時の遺構と思われる建屋?

航空写真では絞りきれなかったが、雰囲気から往時の建屋?と推測。

往時の建屋と思われるエリアの中心には、巨大な通信鉄塔がそびえている。


広報史料館

内部は撮影禁止、でした。
陸自防空のメッカだけあり、防空関連資料展示が豊富。

なお、下志津陸軍飛行学校跡碑を始めた記念碑群の見学は、封鎖されていて出来ませんでした。
背面のみ。
正面から確認したい場合は、「観桜開放日」がおすすめ。

※撮影 2024年4月

※その2へ

「連合国民抑留所(敵性外国人抑留所)」であった聖母病院(新宿区中落合)

昭和6年に建造された病院は、空襲をくぐり抜け、連合国民抑留所として活用され終戦を迎えている。
そして、現在、東京都選定歴史的建造物に指定されている。


聖母病院

昭和6年、「国際聖母病院」として開院。
昭和18年、戦時下により「国際」を外して「聖母病院」と改称。
昭和20年4月13日の夜にB29による爆撃を受けるも、類焼を防ぎ無事を保つ。

昭和20年5月27日の山の手空襲で、小石川区関口台(文京区)にあった抑留所=関口台の天主公教会(現在の東京カテドラル聖マリア大聖堂・カトリック関口教会)が全焼し、連合国民抑留者=敵性外国人抑留者(宣教師や修道女など女子36名であったという)は、新宿区の聖母病院に移動。
ジュネーブ条約を準用した「敵国人の身柄保護」は、戦争末期には画餅と化してしまっていたが、それでも敵国人抑留政策は終戦までギリギリの状態で実施されていた。

そして、そのまま聖母病院は、「連合国民抑留所」として終戦を迎える。

東京都選定歴史的建造物
聖母病院
所在地 新宿区中落合2丁目5番1号
設計者 マックス・ヒンデル
建設年 昭和6年(1931)
 昭和6年(1931)にキリスト教の精神に基づき開院した国際病院で、上智大学などを手がけたスイス仁の建築家マックス・ヒンデルにより設計された鉄筋コンクリート造3階建ての建物である。
 うす茶色のタイル張りの外壁と、L字型の建物中央の頂部にある銅板葺き屋根の2つの塔が特徴となってる。縦長の窓が配置されるが、3階部分は上部をアーチ型にして変化をつけている。入隅に局面を用い、軒の小庇や窓台で水平線を強調するなどの点は、当時流行したデザインである。
 建物の全面には新宿区保護樹木のヒマラヤ杉の大木が立ち、壁面の茶色と調和した景観を形づくっている。平成15年(2003)新病棟の改築に伴い、本館の外観を当初に復元した。
 東京都生活文化局


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M606-48
昭和22年(1947年)10月27日、米軍撮影の航空写真。

聖母病院部分を抜粋

L字型の建屋がそのまま残っているのがわかる。

Google EARTHより

※撮影 2023年7月

場所

https://maps.app.goo.gl/P4BSc396NkD6EJBQ6


資料

新宿区立図書館
 > 新宿区内の戦跡紹介 – 東京 より

https://www.library.shinjuku.tokyo.jp/lib/files/libimg1594939155.pdf

戦後、救援物資の直撃で死者がでているのが、やるせない、、、

●聖母病院(中落合 中落合2-5-1)
カトリックの病院である聖母病院ですが、昭和20年4月13日の夜にB29による爆撃を受けました。 病院の前庭や屋上にも焼夷弾が落ちましたが、その時残っていた神父をはじめとする2、3人の男性と看護婦やシスター達だけで懸命の消火をしました。周囲は火の海で、大きな火の粉が空高く舞い上がって病院の構内に降り注いできました。病院の建物へ炎が燃え移らないようにと皆で番をし、一夜が明けて 無事に残った病院を眺めると煙と水に汚れた塔がそびえていたそうです。 終戦後、聖母病院に外国人の抑留者がいたため、米軍の飛行機から救援物資の投下がありました。 ただ残念なことに、この食料投下はパラシュートを付けたドラム缶だったこともあり、直撃して亡くなった人が3名いたのです。
平成15年(2003)新病棟の改築に伴い、本館の外観が当初に復元されました。
 東京都選定歴史的建造物

昭和館デジタルアーカイブ
 > 捕虜収容所と空襲跡(空撮) より

https://search.showakan.go.jp/search/photo/detail.php?id=90076852

https://search.showakan.go.jp/search/photo/detail.php?id=90076853

屋上にある「PW」とは、「Prisoners of War」=「戦争捕虜」のこと。「POW」とも略する。
下記は、上記サイトからの画像引用


東京新聞20240214
 > 3500人が命を失った…戦時中の「捕虜収容所」の実態に迫った事典を出版 市民団体が20年かけ全国調査

https://www.tokyo-np.co.jp/article/309044

下記は、上記サイトからの画像引用

お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション
 > 太平洋戦争下の「敵国人」抑留‐日本国内に在住した英米系外国人の抑留について‐小宮まゆみ氏

https://teapot.lib.ocha.ac.jp/record/33986/files/KJ00004470995.pdf


用賀駐屯地・陸軍衛生材料廠跡地散策(世田谷)

東京都世田谷区上用賀にあった陸軍の施設。その跡地を散策してみました。
なお、2回にわたり散策しているために、撮影日によって晴天だったり曇天だったりしています。


陸軍衛生材料廠
(現:陸上自衛隊用賀駐屯地ほか)

近代的な軍隊を維持するために、必要不可欠なのが医療衛生機関。
衛生材料と獣医材料等の制作、購買、補給などを行っていた。
もともと帝国陸軍の衛生材料廠本廠は、白金台にあったが大正12年の関東大震災で被災し、昭和4年に用賀に移転した。
また支廠は各師団司令部に付随して開設されていた。

用賀の陸軍衛生材料廠は、現在の陸上自衛隊用賀駐屯地、国立医薬品食品衛生研究所、駒沢大学附属高校、覆馬場などを含むエリアにあった。
陸軍の衛生機関を継承した陸上自衛隊用賀駐屯地は、旧陸軍衛生材料廠の跡地に位置し、米軍の接収を経て1963年(昭和38年)3月31日に開設。旧軍時代から衛生材料の兵站中枢を担っている。

なお、この地にあった「国立医薬品食品衛生研究所」は川崎に移転しており、用賀支処は2029年(令和11年)度以降に防衛省三宿地区(世田谷区・目黒区)に、東京音楽隊は2024年(令和6年)度に東立川地区(立川市)に、それぞれ移転する予定があるという。

移転後の建屋がどうなるかは不明。解体されるかもしれず、いまのうちに見ておくのが良いかも、です。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M871-132_19480329
昭和23年(1948年)3月29日、米軍撮影の航空写真。

一部加工。


陸上自衛隊・用賀駐屯地

2024年3月23日に、用賀駐屯地一般開放が実施されました。桜見学という名目の一般開放でしたが、桜はまだ咲かず、見学者も皆無な状態でしたが、隊員さんの案内ガイド付きで貴重な建屋を見学できました。
ありがとうございます!
案内をしていただいた隊員さんによると、なんと20年ぶりの一般開放だったとか。格別な集客の広報もされていなく、地元周辺住民との交流をメインとした公開は、シークレット的な状態で、かなり偶然の産物で足を運べた私は、かなりラッキーでした。

関東補給処用賀支処

陸上自衛隊用賀駐屯地


陸軍衛生材料本廠跡碑

陸軍衛生材料本廠跡
 元陸軍薬剤中将 田口文太 書

昭和40年5月建立

揮毫した、田口文太は、日本の陸軍で活躍した薬剤師。
東京第一衛戍病院での勤務を経て、陸軍衛生材料廠廠長、陸軍薬剤総監、田辺製薬株式会社顧問、静岡女子薬学専門学校校長(初代)などを歴任。
1931年(昭和6年)に、陸軍省の外局である陸軍衛生材料廠にて廠長に就任。
1935年(昭和10年)には陸軍薬剤総監に就任し、陸軍全体における薬剤師の最高位を占めた。最終階級は陸軍薬剤中将。


陸軍衛生材料廠・蹄鉄工場

現在、陸上自衛隊用賀駐屯地内にある「陸軍衛生材料廠・蹄鉄工場」は、昭和4年の造営。
用賀駐屯地内で許可を得て撮影。

以下は、敷地外から。
「国立医薬品食品衛生研究所」が解体されたので、敷地外からよく見えるようになった。


陸軍衛生材料廠・倉庫建造物3棟

3棟ならんでいる建造物も、陸軍衛生材料廠時代の建物。
南側2棟は、蹄鉄工場と同じく昭和4年造立。北側の1棟は、それよりも新しいという。
ドイツ人の設計による倉庫建造物は、東西南北にそれぞれ出入り口を設けており、倉庫内の東西には庫内の物流をスムーズにするためにレールが引かれている。

レールの跡がわかる。


国立医薬品食品衛生研究所跡地

国立医薬品食品衛生研究所敷地内にも往時の建物があったらしいが、2022年から解体が始まり、すでに更地。


陸軍衛生材料廠・境界壁

外壁は、陸軍衛生材料廠時代のものという。

上部が波打っている意匠的な境界壁は、ほかではあまり例を見ない。

この部分は民家の壁になっている。デザイン的に切り取ったのかもしれない?


「陸上自衛隊」交差点

交差点の名称が「陸上自衛隊」。そのものズバリ。


陸軍衛生材料廠・周辺散策

昭和薬科大学世田谷校舎跡地

駒澤大学高等学校

海上自衛隊 東京音楽隊

※移転予定

JRA覆馬場(馬事公苑)

最寄りの桜新町は、サザエさんの街ですね。

※撮影:2024年3月


関連

「鐵道院」「浦賀船渠」銘のある「鶴田駅の跨線橋」(明治44年造・JR日光線)

JR日光線の鶴田駅。
ここの跨線橋が、「完成当初から同じ場所で現役として使用されている最古の跨線橋」というので足を運んでみた。


(2021年時点)完成当時から同じ場所で使用されていた現役最古の跨線橋だった「半田駅」

かつて愛知県半田市のJR武豊線の半田駅にあった跨線橋が完成当初から同じ場所で現役として使用されていた最古の跨線橋建造物(明治43年築)であった。
しかし、2021年6月に役目を終えて撤去。半田駅は高架化され、かつての跨線橋は駅前公園に移築保存されることになった。

そうして半田駅の次に、同じ条件で古い跨線橋であったJR日光線の鶴田駅が、日本最古の跨線橋として、昇格した、ということになる。

ちなみに「移設された跨線橋」を含めると、1890年(明治23年)製のJR山陰本線の「大田市駅の跨線橋」が日本最古となる。

半田駅。2017年の半田散策のときに記録していましたね。
現在は撤去済み。


「鶴田駅」の跨線橋

改めて、完成当時から同じ場所で使用されている現役として、日本最古の跨線橋となる「鶴田駅の跨線橋」を見学。
明治44年(1911年)造の跨線橋。

駅ホーム側。

浦賀船渠株式会社製造

明治四十四年 鐵道院

駅舎(駅本屋)側。同じですね。

明治四十四年 鐵道院

浦賀船渠株式会社製造

浦賀船渠株式会社と、まさか鉄道駅の跨線橋で出会えるとは!です。

近代化遺産 に指定されています。

JR日光線。新型車両に置き換わっていますね。

鶴田駅
2014年に新造された駅舎。

※撮影:2024年1月


関連

鐵道院

浦賀船渠

日本鉄道大宮工場「門柱」と「赤煉瓦倉庫」(さいたま市)

「鉄道のまち・大宮」
JR東日本が、公式にサイトを用意しているぐらいに、「鉄道のまち」である。

https://www.jreast.co.jp/omiya/tetsumachi_omiya/

現在も、「鉄道博物館」や「大宮総合車両センター」などを要し、またJR東日本の新幹線の一大ジャンクションでもある。

そんな大宮で、「鉄道のまち」の歴史を散策してみる。


日本鉄道大宮工場

現在の「JR東日本・大宮総合車両センター」は、かつて「日本鉄道大宮工場」であった。
自社工場を保有していなかった「日本鉄道(日本鉄道株式会社)=国鉄の前身」が、上野‐青森間を全通させたことを機に明治27年(1994)に、大宮に工場を設立したことにはじまる。


日本鉄道大宮工場の門柱

「JR東日本・大宮総合車両センター」の敷地内に開設されたフィットネスクラブ(JEXER大宮)の脇に、かつての「日本鉄道大宮工場」時代の門柱が残っている。

現在は、門として機能はしておらず、ブロック塀で埋められており、境界壁としての役目のみとなっている。


日本鉄道大宮工場の赤煉瓦倉庫(旧大宮車両センター倉庫8号)

竣工は明治30年(1897)。往時は、米の貯蔵として使用されていたという。

さいたま市観光国際協会>

https://www.stib.jp/saitama-aruki/area-omiya.php

フィットネスクラブの入り口は2階にあり、すぐ近くで赤レンガ倉庫の2階部分をみることもできる。


RAILWAY GARDEN PROMENADE
(レールウェイガーデンプロムナード)

大宮総合車両センター本所内の施設を見学できる。

休みの日なので、なにもないですね。。。

D51 187号

大宮工場で新製されたD51形の第1号機。

準鉄道記念物
D51187号蒸気機関車
D51形式蒸気機関車は、1936年(昭和11年)に誕生した優秀な大形貨物列車で、1945年(昭和20年)までに民間工場をはじめ、国鉄の8工場でも製造され、合計1,115両製造された。
大宮工場においては、1938年(昭和13年)4月から1942年(昭和17年)3月までに、当時の社会的な要請に応じて31両製造したが、展示されている187号機は、それらのうち第1両目の由緒ある機関車で、1938年(昭和13年)4月12日に着工し、同年8月8日に完成した。
当時の工場職員が寝食を忘れ、心血を注いで製造にあたり、その構成部品の全てを工場独自の力で製作したもので、歴史的にも技術の大宮工場の真価を現したものであり、記念物として先輩の偉業を讃えるとともに、当時の職員の21世紀の国鉄に向かっての自覚を具現する象徴として、保存することになり1971年(昭和46年)10月14日に準鉄道記念物に指定された。

D51187
形式D51

1号
大宮工場
昭和13年製造

※撮影:2023年5月及び2024年2月


関連

松戸駐屯地 創立71周年記念行事・その1(松戸飛行場の戦跡散策)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。
本編は、その1として「松戸飛行場跡」の散策を。


逓信省航空局・松戸飛行場(松戸高等航空機乗員養成所)

1940年(昭和15年)6月3日。逓信省航空局松戸飛行場が竣工し、松戸飛行場を使用する中央航空機乗員養成所が開所。民間操縦士や整備員を養成する目的で設立されたが、帝都防空のための飛行場として陸軍が建設当初から関与し、養成所所長も陸軍少将が務めていた。

なお、逓信省松戸中央航空機乗員養成所は、後に高等航空機乗員養成所と改称している。

昭和19年(昭和19年)には陸軍第一〇飛行師団指揮下の「飛行第五十三戦隊」が所沢から移り、首都防衛の任務に当たった。

松飛台(飛行場跡)
戦時中パイロット養成が目的の「松戸飛行場」がここにあった
昭和15年(1940)、この一帯に総面積132万3000㎡、東西・南北1.2kmづつのL字形滑走路を持つ逓信省航空局、松戸飛行場中央航空機乗員養成所が完成しました。飛行場は民間パイロット養成を目的としましたが、軍人が所長ほか要職を占めており緊急時には軍事基地に転用されるものでした。戦時下では帝都防空を担う陸軍飛行場として機能しました。戦後は主要施設が陸上自衛隊に使用されています。付近は1960年代から工業団地として造成されますが、松戸飛行場の名を「松飛台」という地名に残すこととなりました。

松戸市観光協会(https://www.matsudo-kankou.jp/sightseeing/%E6%9D%BE%E9%A3%9B%E5%8F%B0%EF%BC%88%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4%E8%B7%A1%EF%BC%89/

松戸駐屯地

戦後は、警察予備隊・保安隊の補給処を経て昭和29年の陸上自衛隊発足に伴い「陸上自衛隊需品補給処」となる。

現在は、需品学校、需品教導隊、関東補給処松戸支処、第2高射特科群が駐屯している。
松戸駐屯地司令は、陸上自衛隊需品学校長が兼務している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:892-C2B-153
昭和19年(1944年)9月24日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

松戸飛行場を拡大
滑走路地区は逆L字。西は八柱霊園。

本部地区を拡大

大きな格納庫があるのがわかる。


松戸飛行場時代の格納庫

昭和15年(1940)竣工の格納庫。
現在は、陸上自衛隊松戸駐屯地の倉庫として活用されている。

滑走路側(西側)

東側

北側

南側

内部

覗いてみた。


大型倉庫(戦後)

こちらは戦後と思われる格納倉庫。


ハンドサイレン(手動警報機)

なんかあった。手回しのサイレン、ですね。


木造建屋(戦後?移築??)

木造の建屋がいくつかある。この場所は、格納庫と滑走路の間になるので、往時の建屋ではないんですけど、移築なら、往時の可能性もある、、、

格納庫の西側。


松戸飛行場時代の木造建屋(格納庫東側)

格納庫の東側。往時から現存する木造建屋。

4つの建屋のうち、2棟が木造建屋。

こちらは戦後かな。木造建屋と並ぶコンクリの建屋。

こっちはさらに東側。これも戦後。


門柱跡

門柱跡。ちょっと不自然な場所に。往時のものかどうかも??


松戸飛行場時代の木造建屋(線路側)

松戸飛行場跡の木造建屋。線路際の2棟も、往時からの建屋。

すぐ裏を新京成が走る。もともとは鉄道連隊の線路でもある。

正門近く。


松戸飛行場時代の木造建屋(南側)

南側にある木造建屋。これも往時からの建屋。

独特なデザインの門柱。

同じく南側の建屋。

車両整備工場


駐屯地を横切る踏切

南側の踏切近く。今も昔も位置関係は変わっていない。

線路の東側にも大型倉庫がある。ただし、これも戦後かな。

駐屯地の東西を線路が貫いている。もともとは、鉄道連隊の線路。

松戸駐屯地を新京成が走り抜ける。

戦後の倉庫かな?

滑走路跡は、グランドに。

西門

松飛台の住宅地。かつては滑走路が広がっていた。

※撮影:2023年11月

その2へ。


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玉音放送を発信した耐弾式送信所「足柄送信所跡」御殿場線の廃トンネル(山北町)

御殿場を散策した帰り道。御殿場線経由で、東京に戻る途中に夕刻に、時間が調整できたので、「谷峨駅」で下車。かねてより気になっていた廃トンネルに赴いてみました。


御殿場線

明治22年(1889年)に東京‐大阪を結ぶ鉄道(のちの東海道本線)として、国府津‐沼津間が開業。
昭和9年(1934年)に丹那トンネルが開通すると東海道本線は、熱海経由に変更され、国府津‐沼津間は、東海道本線の支線「御殿場線」となった。
第2次世界大戦中の昭和19年(1944年)に不要不急路線に指定され、単線化され、レールなどの資材は回収転用され、廃トンネルや橋脚などが残存している。

国際電気通信株式会社

昭和13年(1938年)に日本無線電信株式会社・国際電話株式会社を合併させて創立したのが「国際電気通信株式会社」(KDTK)であった。
国際電気通信株式会社は、対外無線電信電話の設備の建設、保守業務を行い、その設備を政府に供することによる使用料をその収入源とし、電信電話の運用業務は、政府が行っていた「半官半民の企業」であった。
昭和19年、軍、情報局、通信省が必要最小限の送信機を確保するため防空送信所を計画。
耐弾式送信所として足柄送信所、隠蔽式送信所として多摩送信所が建設されることになった。

国際電気通信・多摩送信所(隠蔽送信所)

国際電気通信は、本土空襲に備え戦争末期に2つ送信所を敷設した。
「多摩送信所」「足柄送信所」

東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたる山林内で、三方を尾根に囲まれた一帯に、1945年4月、起伏と樹林を利用した隠蔽送信所として「多摩送信所」が開設された。

多摩送信所ではポツダム宣言を受諾を発信している。


国際電気通信・足柄送信所(耐弾式送信所)
御殿場線・箱根第五隧道(廃トンネル)

国際電気通信の「足柄送信所」は、軍部の要請に基づいて設置された極秘の防空送信所であり耐弾式送信所でもあった。御殿場線の廃トンネルを再活用し、昭和19年11月に竣工という。
20Kw電話送信機を1台、20Kw電信送信機を2台設置。
昭和20年8月15日の正午からの「玉音放送」を発信した極秘の防空送信所が「足柄送信所」であった。

足柄送信所から世界に向けて短波にのせられた玉音放送は、中国大陸や南方諸地域の軍人や在留邦人、南米などの日本人移民に終戦を伝える役割を果たした。

アクセスは、「清水橋」(駿河小山駅方向)から。谷峨駅側からはアクセスできません。。。

清水橋の旧道から右手に折れると、トンネルがあります。

箱根第五隧道(旧上り線)
全長は、275.53m。幅は、3.5メートル、高さは4.5メートル。岩盤が30メートル以上あり、空爆にも充分耐えられる耐弾式送信所であった。

通信機器を置いていた痕跡。
トンネルの中心部分は、床がコンクリート張りとなっている。

保全作業員用の退避所

排水口

両脇は排水溝として機能。

ちなみにライトがないとこんな感じ。

外光が見えてきた。

谷峨駅がわのトンネル開口部。

爆弾防止壁

通信設備を保護するために設けられたL字型の爆弾防止壁。これはなかなかの厚み。

戦後に、でっかい穴が開けられた、、、

御殿場線の本線が見えます。

並行する道路から。

この右側には、冷却池も現存している。(確認漏れ、、、)

新東名の建設工事中。山北ー駿河小山(新秦野IC – 新御殿場IC)は、2027年度の開通予定という。

場所(清水橋)

https://maps.app.goo.gl/BY7wTLeZiYijE1Wn6

谷峨駅。
1907年(明治40年)開設の信号場を前身とし、1947年(昭和22年)7月に駅として開業した。

現在の駅舎は2000年に改築したもの。

鉄道唱歌第1集13番
 いでてはくぐるトン子ルの
 前後は山北・小山驛
 今も忘れぬ鐵橋の
 下ゆく水のおもしろさ

山北駅と駿河小山駅の間に、谷峨駅がある。

※撮影:2023年12月


関連

「予科練生の指定食堂」と「海軍住宅跡」(土浦)

土浦駅周辺を散策してみました。
流れとしては、下記の補足みたいな感じ。


霞ヶ浦海軍航空隊・土浦海軍航空隊

大正11(1922)年に阿見村に開隊した「霞ヶ浦海軍航空隊」によって、土浦駅周辺には飲食店や海軍将校の住宅や繁華街など、海軍航空隊を支える海軍となった。
昭和15年(1940)には、「土浦海軍航空隊」(通称・予科練)も開隊。休日は予科練生たちの外出先として土浦市内の民家は「クラブ」「下宿」として活用され、そして「指定食堂」は予科練生たちへ食を提供し、大いに賑わった。


保立食堂(ほたて)・予科練生の指定食堂

明治2(1869)年創業の食堂。
予科練生の「指定食堂」のひとつ。
丼物が人気で、店の二階は予科練生と家族との面会にも利用されたという。

「上天丼」をいただきました。

海老天と海鮮かきあげの天丼。味噌汁は、あら汁。そして、ぬか漬け。
往時を思い起こしながら食べる天丼。これはありがたい味。

休日は予科練生が食事を楽しみ、家族との面会にも使った店。歴史的にも味わいが深く重い。

場所

https://maps.app.goo.gl/GPijaLCAVtFCiuF26


吾妻庵・予科練生の指定食堂

明治6( 1873)年創業のそば屋。
休日の日中に予科練生が訪れることのできる「指定食堂」であった。

場所

https://maps.app.goo.gl/qWChhKLTgt4UXXfg6


城藤茶店(しろふじのちゃみせ)・海軍住宅跡

昭和11(1936)年、亀城通り開通後に建てられた書院造りの住宅で、海軍士官が借りて住んでいたという。現在は古民家カフェとして活用されている。

場所

https://maps.app.goo.gl/rpLqGuQzgy81F9jk9


桜川橋・海軍道路

桜川橋は大正12(1923)年に架けられた、茨城県初のコンクリート製の橋。
橋は現在の国道125号上にあり、阿見町へと繋がっている。
通称「海軍道路」。霞ヶ浦海軍航空隊の軍用道路として整備された。

場所

https://maps.app.goo.gl/oNUXeX5LGtmDhZEVA

撮影:2023年12月


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土浦関連

はじめに