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日本で最初の私立測候所「高岡市伏木気象資料館(旧伏木測候所)」と「藤井能三」

伏木にある測候所に足を運んでみました。


伏木測候所

伏木測候所は、1883年(明治16年)12月1日に日本最初の私立測候所として藤井能三の首唱により設立された。
藤井能三は私費をもって伏木小学校を建設し、1875年(明治8年)10月には金澤米商会所を設立して伏木に商店を置き、あるいは越中汽船の取締役を務め、あるいは北陸通船の社長を務めた明治期の豪商であった。

伏木測候所は1884年(明治17年)1月1日から定時観測を開始し、1885年(明治18年)1月には内務大臣の認可を得、同年2月からは内務省地理局所属の各測候所と同等の資格をもって東京気象台と気象電報を交換することとなった。
1887年(明治20年)4月1日からは富山県伏木測候所として、富山県に移管され観測業務を推進。
1892年(明治25年)5月に富山県射水郡伏木町大字伏木臥浦町に新庁舎建設工事に着手され、同年6月20日に完成、同年7月1日に移転。
1909年(明治42年)3月31日に同郡同町古国府に再び新庁舎を建設し、同年4月30日に移転して、同年5月1日より同所にて業務を開始。
この庁舎が高岡市伏木気象資料館として現存するもので、当初は風向計を備えた望楼を有する建物であったが、1937年(昭和12年)にその隣に測風塔が建設されたのを機に1939年(昭和14年)に撤去された。
1939年(昭和14年)10月31日限りをもって、県営としての富山県伏木測候所は廃止され、同年11月1日からは国営に移管。中央気象台伏木観測所と改称された。
1941年(昭和16年)10月25日には再び伏木測候所に名称を改称。
伏木測候所は、戦時中は防空監視哨としても機能していた。

国登録 有形文化財(建造物)
指定年月日 平成18年3月2日
高岡市伏木気象資料館
(旧伏木測候所庁舎·測風塔)


1883年、廻船問屋出身の藤井能三が、船舶の安全確保を目的に設立した全国初の私立測候所。今も全国に日々気象データを提供している。

旧伏木測候所は、明治10年(1877年)、廻船問屋出身の藤井能三が、伏木港を大型汽船が接岸できる近代港湾とすべく私費で建設した燈明台(灯台)の一室に、明治16年(1883年)、全国初の私立測候所として設立されたものである。その後、明治42年(1909年)、現在地に移転し、県営、国営への移管を経て、現在に至るまで気象観測を続けている。
現建物は、平成17年(2005年)より、「高岡市伏木気象資料館」として公開されており、日本海側屈指の商工業都市として発展した高岡の経済を支えてきた伏木港、その近代化を象徴する建物である
 文化庁

伏木測候所庁舎
1909年(明治42年)当時のもので桟瓦葺木造平屋建て、面積は153.67平米。
登録有形文化財。
測風のための望楼は、1939年(昭和14年)に取り壊されたが、2017年(平成29年)3月18日に復元された。

測風塔
1937年(昭和12年)に建設されたもので、鉄筋コンクリート造3階建て、39.66平米の面積を有する。
旧庁舎と共に登録有形文化財に登録されている。
風速風向計及び日照計が設置されており、現在も「伏木特別地域気象観測所」の一部として観測業務を行っている。

復元された望楼

望楼は立ち入り禁止。

現在も観測を続けている、伏木特別地域気象観測所の機器群。


藤井能三

藤井能三像
(一八四六~一九一三)六六歳
 藤井能三さんは明治時代の実業家で先見性に富んだ考えを持たれ、来るべき新しい時代の息吹をいち早く捉えられ、郷土だけでなく、北陸地方の発展のために私財を投じて寄与されました。
 伏木港の波除け工事の取り組み、明治六年(一八七三年)には富山県で最初の伏木小学校の設立、明治一〇年(一八七七年)日本海側で最初の西洋式灯台の完成、明治十六年(一八八三年)には私立伏木測候所(現在の気象資料館)の観測がはじめられ、明治三十三年(一九〇〇年)には能三さんらの鉄道誘致運動が実って高岡·伏木間に中越鉄道が開通となるなど全精力を尽くされ数々の多大なる功績を残され、一九一三年(大正三年)享年六六歳、伏木の人々は町葬をもって能三さんを報いた。
 今もなお私たち住民の心に深く刻みこまれ、語り伝えられている。
  平成二十八年六月五日建立
   伏木校下自治会連絡協議会
   古府校区自治会連絡協議会
   勝興寺まちづくり協議会

初の私立測候所を設置した
藤井能三
 藤井能三(幼名 嘉他郎)は、越国射水郡伏木村(現在の高岡市伏木)廻船問屋 能登屋三右衛門の長男として生まれました。
 当時能登屋は豪商銭屋五兵衛と並び称されるほどの実力を発揮してい と伝えられる廻船問屋で、江戸後期には、北海道から下関を経て大阪に至る和船の航路北前船による廻運を業として活躍していました。
 能三は、彼自身が政治家ないしは官僚となって、地域開発という目的を達成したいとは考えてはおらず、地域開発事業を推進していくには、地方の人々を集結するとともに、中央を動かすことが必要だという考え方をもっていました。
 また、産業を振興するためには、伏木港の近代化を生涯の目標に定め、需要を広げ貿易の道を開くことが重要であると考えていた能三は、富山県が冬期間の船舶運送が途絶していたことに危惧し、定期航路の開拓や東京、大坂、北海道などと伏木を結ぶために奔走しました。

ひとこと!!
能三達が測候所を造ったきっかけ
 明治8年8月27日、能三の斡旋によって、東京三菱会社所有の西洋型商船が伏木港に姿をあらわしました。
 これは、能三が、三菱の社長岩崎弥太郎に同社汽船の伏木回航を交渉したものでした。しかし、北陸の一小港に採算が取れるだけの積荷があると考えなかった弥太郎は、以下の条件を示しました。
 1 廻船ごとにその積貨数量が船腹の半分に達しない時は、その運賃を弁償すること
 2 積貨数量が船腹の半分に達することを担保すること
 3 伏木港頭に公式の燈台を建設し、航海業者の利便を図ること
 このことが、のちに伏木測候所の設置に結び付きました。
 明治6年、能三は、富山県初の公立学校「伏木小学校」を設立し、その後、洋式燈明台や測候所を設置するなど私財を投じて港の整備を行い、伏木港を洋式船が寄港できる近代港湾に発展させました。


越中国守館址

万葉歌人・大伴家持が越中国守として赴任した際(746年〜751年)に居宅(国司の役所・官衙)があったとされる場所。

越中国守館跡推定地


伏木駅

氷見線の駅。現在の駅舎は昭和4年(1929年)の改築。

この雰囲気、良いです。

伏木駅から能町駅へ移動しました。万葉線に乗り換えのため。

なかなか、風情ある情景。


※撮影:2026年10月


山形の近代建築散策(山形の戦跡散策・4)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。
その1は下記から。

県庁所在地としては戦災を免れた数少ない「非戦災都市」の一つ。
大規模な空襲がなかった山形市内には、比較的に近代建築物が残っている。


山形県旧県庁舎(山形県郷土館・文翔館)

第2代山形県庁舎。
1911年(明治44年)5月の山形市北大火によって初代山形県庁舎および県会議事堂は焼失。
再建新庁舎は耐火建築物として建設され、1916年(大正5年)6月、2代目の県庁舎および県会議事堂がイギリス・ルネサンス様式で竣工した。建物はレンガ造りで(床・天井・小屋組は木造)、県庁舎は地上2階、半地下1階の3階建て。議事堂は平屋建て一部2階建て。
創建時から稼働する時計塔の機械式大時計は札幌市時計台に次いで国内で2番目に古いものとなる。
1975年(昭和50年)9月、総工費97億円余りを投じ建設された地下2階、地上16階の3代目県庁舎が完成し、歴史資料館として永久保存となった。
国指定重要文化財。

重要文化財
山形県旧県庁舎

この建物は、レンガ造りの三階建で大正5年6月15日に落成し、昭和50年9月に新県庁舎が建設されるまでの間、県庁舎として使用されました。
その後、東南村山合同庁舎として昭和59年まで使用されました。
昭和59年12月28日に旧県会議事堂とともに国の重要文化財に指定されております。

中央階段

バルコニー
昭和22年、 昭和天皇行幸の際に、バルコニーから山形県民にお手を振られた記録が残っている。

稼働する機会式時計としては、日本で二番目に古い(最古は札幌市時計台)。

貴賓室(副知事室)

知事官房(知事秘書室)

初代県令(初代県知事)
三島通庸胸像

栗子山隧道
國の為 尽くす心は 陸奥の
 山の坑道 踏みてこそしれ
            通庸

栗子山隧道(栗子隧道)は、山形県米沢市と福島県福島市の県境間のトンネル。明治14年(1881)開通当時の日本最長トンネル。

三島通庸所用佩刀

知事室

山形の歴史も。

1.県都山形の発展
市制を築いた明治22年(1889)、当時の山形市の戸数は2,212戸、人口は28,400人でした。その後、大火や水害の大きな被害もありましたが、35年に5,884戸・37,348人、大正10年(1921)には8,794戸・47,257人と、戸数・人口ともに増加し、とくに工業従事者数が急増しました。
その間、日清戦争後の軍備拡張の気運が高まる中で明治30年に歩兵第三十二連隊が設置され、34年には奥羽線が山形まで開通しました。また、大火後の復旧事業も進み、大正5年には、新県庁と県会議事堂の完成を記念して、奥羽六県連合共進会が開催されました。

歩兵第三十三聯隊の設置
日清戦争後の三国干渉の結果、軍備拡張の気運が高まり、旧山形城本丸・二の丸跡に歩兵第三十二聯隊が設置されました(明治30年)。
歩兵第三十二聯隊は、初めて従軍した日露戦争で大活躍しました。

中庭側から。


山形県旧県会議事堂(山形県郷土館・文翔館)

旧県庁に隣接する、旧県会議事堂。
第2代山形県会議事堂。

こちらは、改装工事中のため、見学は不可でした。

旧県庁と旧県会議事堂を結ぶ通路。

https://www.pref.yamagata.jp/110001/sangyo/sangyoushinkou/him_top/him_maincat1/him_24.html

https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/145381

場所

https://maps.app.goo.gl/ojUcJE5fpBXGNJnp7


旧山形師範学校本館(山形博物館・教育資料館)

旧山形師範学校本館は、山形県師範学校時代の1901年に建設された本館。
ルネサンス様式の木造洋風建築。

1973年に国の重要文化財に指定され、1980年から山形県立博物館分館教育資料館となっている。
旧山形師範学校講堂は、本館に隣接しており山形県指定有形文化財二指定されている。

師範学校道場の大鏡
 師範□□山川□□具店。鏡面の下には文字が削り取られた跡があります。もとは、師範道場、山川武道具店の文字がありました。終戦直後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令により、教育現場では軍国主義の一掃が図られました。戦時下に中学校や師範学校などで行われていた軍事教練はもとより、柔道や剣道などの武道も軍国主義につながるものとして一切が禁止され、関係する道具類もすべて廃棄処分されました。
 この大鏡は、昭和13年(1938)に山形師範学校の道場落成記念として寄贈されたものです。武具に類するものではなかったために、処分を免れたものですが、「道場」と「武道」の語が注意深く削除されています。当時の軍国主義排除の徹底ぶりを物語る貴重な資料といえます。


旧山形師範学校・門衛所(国指定重要文化財)

門衛所(国指定重要文化財)
明治34年に山形県師範学校が旅籠町から現在地に移転新築された時からある建物です。本館に続き、昭和55年に国重要文化財に追加指定されました。昭和15年奉安殿建設のため正門内南側に移されましたが、昭和57年の改修工事の際に元の位置に移築されました。木造平屋建ての擬洋風建築で、屋根は亜鉛引鉄板一文字葺、外装には下図のような意匠が凝らされています。


旧山形師範学校・講堂(山形県指定有形文化財)


教学百年

昭和五十五年の建立。

「創立二十五年祝典記念」
1901年9月に、現在地の馬見ヶ崎河畔の新校舎(馬畔校舎)に移転。
師範学校は1878年9月に開校して、1903年に25周年を迎えた。

https://www.pref.yamagata.jp/110001/sangyo/sangyoushinkou/him_top/him_maincat1/him_25.html

https://www.yamagata-museum.jp/education-museum

https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/192840

場所

https://maps.app.goo.gl/rAaBhFy5iGvVQqYF9

このあと、「山形大学附属博物館」に赴いたけど、臨時閉館。残念。ここには、陸軍丁式二型爆撃機用プロペラがあるというが。再訪?


※撮影:2026年3月

沖縄で奮闘継戦した霞城聯隊「歩兵第三十二聯隊」と「山形城址」(山形の戦跡散策・3)

2026年3月、山形に赴く機会がありましたので、散策を。
(キュンパス(旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス)」を活用した日帰り旅、でした)

戦跡散策として、初の山形市となります。
その1は下記から。


歩兵第三十二聯隊

明治29年(1896)に秋田市に聯隊本部を設置。
明治31年(1898)に軍旗拝受。
明治37年(1904)日露戦争に参戦。戦後に、秋田市から山形城に転営。
本拠地にちなみ「霞城聯隊」とも称された。
大正7年(1918)シベリア出兵、大正11年に帰還。
昭和14年(1939)10月、第8師団から満洲で新設された第24師団に所属変更。
昭和19年(1944)満洲から南方戦線に兵力転用となり、歩兵第32聯隊は1個大隊はサイパンに派遣となり、連隊主力は沖縄に派遣となった。

歩兵第32聯隊の沖縄戦
沖縄戦初期の前田高地の激戦(米軍戦車群を擲弾筒射撃および肉薄攻撃によって阻止)、棚原の戦い(第32軍の総攻撃で米軍陣地を突破し、棚原一五四.九高地を奪取)から末期の国吉高地まで、終始激戦の最前線で戦ってきたのが第24師団の「歩兵第32聯隊」であった。

歩兵第32聯隊は、上級司令部にあたる第32軍(牛島満中将は6月23日に自決)、第24師団(雨宮巽中将は6月30日に自決)の組織的な戦闘行為が壊滅したのちも、第32聯隊長・北郷格郎陸軍大佐、第1大隊長の伊東孝一大尉のもとで組織的な戦闘を継続。

歩兵第32聯隊は、残存将兵をもって、米軍に多大な損害を与え続け、既に沖縄戦勝利を発表していた米軍を悩ませ続け、そして8月15日の終戦まで、国吉台の洞窟陣地を堅持し、最期まで健闘した。
8月29日の武装解除の段階で、歩兵第32聯隊の残存将兵は約300名であった。


山形歩兵第三十二聯隊之跡

山形城(霞城)に駐屯した歩兵第三十二聯隊

山形歩兵第三十二聯隊之跡
昭和四十三年七月 山形三十二聯隊会建之

歩兵第32聯隊足跡の大要
 聯隊は、明治31年3月24日、宮中にて軍旗を拝受。最上義光公の居城であったこの地に誕生し、國防の一翼を担い、霞城聯隊とも称した。
 日露戦争では、明治38年、緒戦の黒溝台会戦に抜群の勲を樹て、勇名を馳せた。
 満州事変では、昭和7年、熱河作戦に参加し万里の長城の古北口、南天門等の戦闘で活躍。12~19年の間、満州東部國境の防衛に任じた。
 大東亜戦争の戦況急迫に伴い、19年、聯隊は一個大隊をメレオン島に急派、主力は転進して沖縄防衛第32軍の指揮下に入った。
 昭和20年3月末から沖縄本島は、圧倒的優勢な米陸海空軍の猛攻を受け、各部隊は勇戦敢闘したが、逐次壊滅、6月23日、軍司令官の自刃により組織的抵抗を終えた。
 しかし、我が聯隊だけは、軍旗を奉じ、残存二百五十名が、沖縄南部の國吉台とウテル原台一帯を死守した。8月末終戦の大命を知り、26日夜軍旗を奉焼し翌日聯隊は終焉を迎えた。
 ここに恒久平和を願い、聯隊創設以来の戦没者の遺徳を偲び哀悼の誠を捧げる。
  平成十九年四月
   山形歩兵第三十二聯隊会・関係者一同

建碑由来
 霞ヶ城は最上義光の居城にして歩兵第三十二聯隊は明治三十一年三月軍旗親授とともにここに創設され爾来鋭意国防訓練に励み霞城聯隊と称す。
 明治三十七八年日露戦役には黒溝台の戦闘に勇名をはせ、大正七年朝鮮守備、同十一年サガレン派遣、こえて昭和七年満洲事変には万里の長城古北口等の戦闘に参加して数々の功績を樹てり、同十二年再度渡満しソ満国境警備の任につき田原山ノモンハン事件に出動し同十六年遂に大東亜戦争を迎う同十九年主力は沖縄本島に転進し歩兵一ヶ大隊をメレオン島に派遣す。翌二十年三月十数倍の敵機動部隊の攻撃を受け勇戦敢闘し多大の損害を与えたるも聯隊もまた死傷続出し将兵の大半を失ない寡兵克く敵の重囲下死闘を続けること五ヶ月余、遂に終戦の大命を拝し同年八月二十八日夜軍旗を奉焼して終る。
 ここに異国の丘に眠る幾多戦友の武勲をしのび恒久平和の願いをこめて霞城聯隊跡にこの碑を建て永久に伝う
 昭和四十三年七月 山形三十二聯隊会

歴代の聯隊長
初代 岩元 貞英
二代 安村 範雄
三代 森川 武
四代 高山 公通
五代 山本 延身
六代 森川 武
七代 岡沢 慶三郎
八代 柴 豊彦
九代 大川 盛行
十代 山田 留太郎
十一代 宮地 太郎
十二代 倉茂 三蔵
十三代 堀之内 直
十四代 佐藤 正三郎
十五代 田中 清一
十六代 阿部 規秀
十七代 山本 源右衛門
十八代 野地 嘉平
十九代 川村 脩
二十代 泉 可畏翁
二十一代 北郷 格郎

歴代の知事
初代 三島 通庸
(以下略)

場所:

https://maps.app.goo.gl/6DTgyKVx3nRafVyb6


山形城(霞城・霞ヶ城)

国史跡、日本100名城。
最上義光が整備し、出羽57万石の本城となる。
三の丸の内側の面積は、日本国内で5番目の広さを誇り、奥羽地方では最大の城であった。
最上57万石時代から藩主交代と石高削減に伴い、幕末の水野氏5万石時代には、広大な城を維持するのが難しい状態であったという。

明治に、山形市が城跡を取得し、陸軍を誘致。歩兵第三十二聯隊の兵営となった。

最上義光像

山形城主最上義光顕彰詞


霞城聯隊(山形市郷土館・済生館)

山形市郷土館にある「霞城聯隊(かじょうれんたい)」に関係する展示と解説など。

血染めの桜

霞城連隊の発足
 明治時代以降、急速な近代化政策に伴う軍備増強のため、旧山形城内に陸軍が駐屯するなど、山形も国の政策とそれに伴う戦争に巻き込まれていきました。
 1894(明治27)年に始まった日清戦争は日本の勝利に終わり、戦後調停された下関条約により、日本は新たな領土と多額の賠償金獲得しました。しかし、三国干渉により遼東半島の返還を余儀なくされ、また本土から離れた台湾統治の必要があり、国内における軍備増強が急務となりました。
 そのような背景から、山形県にも連隊が設置されることが決定しました。それを受けて、山形市は旧山形城本丸·二ノ丸の跡地を買収して国に寄付することを決議しました。連隊の誘致が成功し、1897(明治 30)年から駐屯したのが、第八師団管下の歩兵第三十二連隊(通称、霞城連隊)です。
 連隊入隊のため、山形県内の青年が二千人近くも山形市に集まり、市経済は大いに潤いました。連隊は、日露戦争で活躍を見せ、その後も朝鮮、樺太、満州に派遣されたほか、ソ満国境にも駐屯しました。太平洋戦争末期には、満州から沖縄への移動を命ぜられ、力戦の末、終戦を迎えました。

日露戦争・血染の桜
 1904(明治37)年に日露戦争が勃発すると、しばらくして歩兵第三十二連隊にも出征の要請がかかりました。連隊が属する第八師団は、初め遼陽の警備にあたっていましたが、翌年1月、ロシア軍の攻撃を受け壊滅の危機に瀕していた黒溝台に進軍し、多大な犠牲を出しながらも同地を死守し、日本の勝利に貢献しました。日露戦争の勝敗を分ける要因となったといわれる黒溝台会戦です。
 日露戦争終結後も遼東地方で警備を続けた連隊は、1906(明治39)年に帰還しました。生存者の中では、凱旋したら兵営に記念の桜を植えようという話が持ち上がっており、それが実現して植えられたのが、現在の霞城公園の桜といわれます。
 日露戦争以前から、連隊のシンボルとなっていた桜の木がありました。「血染の桜」です。この名前は、最上義光が病気を装い、敵対していた谷地(現在の山形県河北町)城主、白鳥十郎長久を山形城に呼び寄せて斬った際に、桜が返り血で染まったという伝承に由来します。戦後、霞城公園内の野球場建設のために移植されて枯れるまで、山形城及び霞城公園のシンボルでした。

第二次世界大戦と山形の生活
 1920年代の日本は、第一次世界大戦後の戦後恐慌や昭和恐慌という慢性不況に陥っていましたが、それを打破すべく中国大陸に新領土を求めました。
 1931(昭和6)年、満州事変で日中両軍は衝突し、1937(昭和 12)年に日中は本格的な戦争状態に突入しました。満州事変以降、経済統制が進み、日本は軍需·戦時経済へ移行しました。
 市内でも軍需産業への転換が起きました。1938年、金属工業の軍需品以外への原材料使用が禁止されると、銅町の銅鉄器鋳物工業は鉄瓶製造を禁止されました。それにより失業した者の一部は、軍需品製造の下請けとして職を得ました。また戦闘機の生産を手掛ける日本飛行機株式会社の山形工場が1942(昭和17)年に設置され、統制経済による地元の廃業失業者を吸収しました。さらに民間の銅鉄器供出も始まり、公共施設の門扉·鉄柵のほか、豊烈神社境内の水野三郎右衛門元宣銅像も供出されてしまいました。
 1944年以降、空襲激化により学童集団疎開が進み、山形市は6月30日に東京都豊島区から小学生600名以上の集団疎開を受け入れました。

戦禍を免れた山形市
 1945(昭和20年)3月10日の東京大空襲の後、山形市には多くの疎開者が流入し、深刻な食糧不足に陥りました。そのような中で6月29日、山形市上空に初めてB29機が飛来しました。その後7月10日、ついに隣県宮城県仙台市で米軍による大規模な空襲が行われ、山形においても空襲を免れえないという危機感が強まりました。山形市では急ぎ防空壕を作り、分散備蓄や建物疎開を進めました。旧済生館本館は、当時県内で最も高い建物であり、空襲の標的とされる恐れがあったため、最上階部分を撤去し、低くする工事が行われました。
 戦時中、現在の市内漆山駅付近(当時は出羽村、楯山村)に設置されていた日本飛行機の飛行場では、市内工場で生産した戦闘機の飛行実験をしていました。それにより、8月9日、米軍による空襲を受けました。
 済生館病院の医師看護師たちは、8月15日の終戦を中庭で聞いたそうです。山形市は、無差別爆撃を受けずに終戦を迎えた数少ない県庁所在地です。城下町特融の丁字路やかぎ形路、食い違い道路などが残っているほか、歴史的建造物など文化財も多く残っています。

昭和8年作
七生報国


陸軍用地境界標杭(山形城周辺)

山形城址の北にいくつか境界標杭が残っている。

「四六」とありますね。

場所:

https://maps.app.goo.gl/NbbEfu2WSHM31VpG9

こっちは「四五」

埋もれてますね。

これは?


山形市郷土館・済生館

旧済生館病院本館
1873年(明治6年)に私立病院として設立され、1878年9月に当時の県庁そばに本館が竣工した。
全国的に見ても唯一の明治初年の病院遺構として貴重であり、明治初期の下見板張擬洋風建築の最高傑作として、国の重要文化財に指定。
戦後、病院としては役目を終えて、1969年に霞城公園内に移築され山形市郷土館として利用されている。

明治11年(1878年)太政大臣三条実美により「済生館」と命名された。

3層楼なのに実は4層。
1階部は、ドーナツ型。
2階部は16角形の直径10メートルほどの柱のないホール。
トラス構造で、中3、4階を支え、8角形へと楼の形を変え、そして螺旋階段で上階へとつながっている。

1階から

1階から2階への階段

ステンドグラス

3階へは螺旋階段

中庭で終戦の玉音放送を聞いたという。

明治洋風建築系統図
これは興味深い

ローレツ先生
明治に来日したオーストリアの医師。山形県公立病院済生館医学寮に教頭に就任した。

木村逸堂は、明治時代初期に山形公立病院(のちの済生館)で働いていた医師。

場所

https://maps.app.goo.gl/3Yzwzj6xsJpu7mbJ8


霞城セントラル展望台

おー、霞城がよく見える!

済生館

蔵王山もよく見える!

山形駅。四方を山に囲まれているのがよく分かる。

1階には、日本酒の利き酒エリアも!

500円で3コイン、1000円で6コイン

6杯いただきました!

山形駅のうしろに見えるのが、霞城セントラル

https://maps.app.goo.gl/p6AVPnN6dbV3o7a28


※撮影:2026年3月


その4へ(準備中)

「富山大空襲」の戦跡と近代建築(富山の戦跡散策6)

2025年9月、富山県に赴く用事があったので、近隣の戦跡などを散策してみました。
その6では、「富山大空襲」と富山市街地に残る近代建築などを。

なお、2026年9月にも富山に訪れており、富山大空襲関連に関して追記をしました。


富山の戦跡散策1


富山大空襲

昭和20年8月1日、富山は米軍B-29爆撃機182機による大空襲を受けた。
富山市街地は99・5%を焼き尽くされ廃墟となり、死者は約3,000人、負傷者は約8,000人、被災者は約11万人にのぼった。
「富山大空襲」は、地方都市としては人口比で最も多くの犠牲者を出した空襲であった。

当時、米軍は、空襲目標として中小都市を選定していた。すでに空襲により都市機能を破壊した東京・大阪・名古屋・横浜・神戸・川崎・尼崎を外し、原爆投下候補として、京都・広島・新潟・小倉を外した、空襲対象地は137都市となり、富山市は人口12万7,000人で36番目であった。
しかし富山市は呉羽紡績・日清紡績・日本曹達・不二越などの近代的大工場が集まり東岩瀬港の改修と東岩瀬臨海工業地帯を始めとした臨海工業地帯が発展しつつあり、米軍としては重要な爆撃目標であった。
ただ、米軍は、富山において工場群を狙う戦略爆撃は実施せず(結果、工場群は、ほぼ無傷)ではなく、労働者(市民)の住む都市爆撃を敢行し、富山は多大な犠牲を払った。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/kuushuu

https://www.toyama-gokoku.jp/ihouroku/2013/12/post-44.html


戦災復興記念像(天女の像・富山城址公園)

富山城址公園内に。

 昭和二十年、太平洋戦争は激烈の度を加え、八月二日未明に、富山市は、B29百七十余機の焼夷爆弾攻撃を受け、市街地は一夜にして焦土と化しました。
 約二万五千の世帯、十一万人の市民が罹災し、約八千人が重軽傷を負い、二千七百余人の尊い生命が失われ、まさに、壊滅的な状況になりました。
 惨憺たる焼土と、絶望の虚脱の中から、富山市民は、平和を渇望し郷土の復興に気力を燃やし、槌音高く、県都富山の再建に立ち上がりました。
 市民の決意と総力の結集が実を結び、戦災復興の大大事業が完成し、今日の近代的都市に生まれ変わりました。
 この天女の像は、恒久の平和を念願するとともに、尊い犠牲に敬虔な祈りを捧げ、市民の努力による偉大な業績を記念して、富山復興特別事業協議会により、昭和四十九年八月一日に、戦災復興記念像として建立されたものです。
 平成二十年八月一日
  富山市

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/toyama_toyama_003/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/bfEzy39FMocorHACA


富山城址公園

富山市郷土博物館(模擬天守)。

加賀前田藩の分家となる富山前田藩の居城。
富山大空襲では、米軍は爆撃中心点を富山城址の東南に設定している。
なお富山城自体は、明治4年(1870)の廃藩置県により廃城となり払下げ解体となっている。
現在の模擬天守は、1954年(昭和29年)完成。

呑んだあとに散歩していたので、夜の様相も。

2026年9月

場所:

https://maps.app.goo.gl/UvCBUbbZ3Mg6Ukhe6


殉職警防團員之碑(富山城址公園)

富山城址公園内に。

皇紀2600年(1940年・昭和15年)を記念して建立。
明治42年から昭和15年までの30年間で、消防・水防活動中に亡くなった消防組員および警防団員20名の殉職者の慰霊顕彰碑。
また第二次大戦中に活動していた当時の消防関係者の志気を高めるという意味も込められていた。

警防団は昭和14年に結成。防護団(防空)と消防団(火防・水防)を統合し、警察の指揮下にあった。

殉職警防團員之碑

殉職警防団員之碑
 警防団員とは、戦前の名称で、現在の消防団員をいいます。
 消防団員は、住民の生命、身体、財産をあらゆる災害から守るという崇高な使命と長い伝統のなかで培われた旺盛な郷土愛護の精神に燃えています。
 水火災害に敢然と身を挺してその職に殉じた消防職団員の霊を弔い、その功績を永くたたえるとともに、県下消防関係者の志気を鼓舞するために建設されました。
 昭和20年8月2日未明の富山市空襲には奇跡的に戦禍を免れています。
    昭和15年12月竣工 (皇紀二千六百年)
    木曽川産 水成岩
    本碑揮毫 富山県知事 矢野兼三
    (財)富山県消防協会 

明治天皇御製
事しあらば 火にも水にも いりなむと
思ふがやがて やまとだましひ

明治40年に詠まれた歌
意訳:事故があったときには、火の中水の中飛び込んででも、救助しようとするその心こそが大和魂だ
万葉集の「事しあらば火にも水にもわれなけなくに」の表現が取り入れられている。

https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori34/tayori34.htm

場所:

https://maps.app.goo.gl/4RJxHoMYSa5uyrX37


前田正甫像(富山城址公園)

富山城址公園内に。

前田正甫(まえだ まさとし)は、富山藩二代目藩主。産業奨励とし富山売薬(富山反魂丹)を推進し、いわゆる「越中富山の薬売り」を発展させた人物。

場所:

https://maps.app.goo.gl/QfuQLr2w7SYBTLHe7


愛こそ平和の母なれ(県庁前公園)

富山県出身の彫刻家・横江嘉純の作品。
終戦から10年を経て、平和を希求する強い心が慈愛に満ちた母子の姿に表現。
1968年の製像。目黒区民キャンパスや糸魚川の親不知記念広場にも建立されている。


お野立所(県庁前公園)

大正13年 秋
 当時、摂政宮であった昭和天皇は、北陸地方における陸軍特別大演習の統裁ならびに地方事情の視察のため富山県に行啓になりました。
 11月10日午前に汽車にて富山駅にお着きになり、富山県庁にて県知事らに拝謁を賜りました。同日午後からは、富山県立神通中学校での奉迎式に御臨席ののち、このお野立所(陛下の御座所)において県下の児童生徒らの体操や運動競技を親しくご覧になりました。
富山県

大正13年当時は、この付近は神通川の廃川地で、神通中学校の敷地であった。
現在は県庁前公園として、大きな噴水が特徴的な公園。


殉職警察官之碑(県庁前公園)

富山県庁前公園に。

殉職警察官之碑
内務大臣 男爵 山本 達雄 書

昭和9年5月竣工

殉職警察官之碑
 昭和九年五月竣工 (常願寺川産水成岩)
 殉職者 建立時 三十柱
     令和六年八月現在 一四四柱 
 本碑 揮毫 内務大臣 山本達雄
 副脾 稿 漢詩家 国府種德
    撰文 富山県知事 斎藤樹
    揮毫 臨済宗国泰
       寺派管長 佐竹竜水

碑文要旨
 立山を仰ぎ見れば、高くそびえてまことに崇高であり、越の海を望み見れば、まことに広大である。しかし、わが富山県の殉
職警察官の義勇もその崇高、広大さにおいては、かの立山や越の海に比類するものというべきである。
 警察官の任務は、安寧を擁護し、秩序を維持し、邪悪を戒め、災禍を救うにあり、一身の安危を忘れて、敢然として職務に挺
身すべきものであるが、思うに、旺盛な義勇心がなくては、どうして至難の事に処し、ひいては世人の期待にそい得ることができ
ようか。まさにこの旺盛な義勇心こそ、警察精神というべきである。
 社会の治安と民衆の福祉のために捧げられた、本県殉職警察官の義勇を知るならば、かの立山の山霊、越の海の海神も、その崇
高偉大さに一歩も二歩も譲るであろう。
 富山県警察本部
 富山県警友会

場所:

https://maps.app.goo.gl/gjyoNzQK5S2GR4jc8


平和群像(富山駅前)

平和群像
作者は松村外次郎、建立は昭和24年(1949) 9月、再建が平成2年 (1990) 3月。

平和群像
 「平和群像」は、未来永劫の平和を祈念し人類の至高の英知を現わす自由と正義、希望と真理を象徴するモニュメントとして、原型製作者 松村外次郎のもと渡辺義知氏ら数名が協力して富山市制60周年と平和記念の一環として、昭和24年9月にコンクリート製で建立されたものです。
 その後、歳月を経て風化損傷がはげしく原型保持が困難となったことから、富山市施行100周年を記念して横山豊介氏の監修を受けて原形のままブロンズ像で再生したものです。
 平和のシンボルとして市民の皆様に愛されることを願ってやみません。
  平成2年3月 富山市
   原型製作者 松村外次郎

場所:

https://maps.app.goo.gl/v8ozqHKctTCTfFL69


富山大空襲で破損した「常夜灯」(松川・舟橋)

寛政11年(1799)の建立。
富山大空襲で破損した常夜灯。
2026年に、富山大空襲の戦火をくぐり抜けた「神通川船橋常夜灯」として、富山市の有形文化財に指定された。

場所:

https://maps.app.goo.gl/wC4kFApVoBVbxUSj7


富山大空襲で破損した「富山別院創立記念碑」

富山大空襲により一部破損しているが、明治初頭の廃仏毀釈と富山東別院創立を物語るモニュメントとして今日まで伝承されている。

富山別院創立記念碑
このたび、法要の記念整備整備事業の一環で、記念碑が境内正面に移転整備されました。
富山別院は、創立以来、大火や戦火によって何度も消失しています。そのような中、創立時から残っている唯一のモニュメントがこの記念碑です。第二次大戦の富山空襲により石碑の一部は損壊して読めません。それでも、明治維新の際に富山藩で廃仏毀釈があったこと、明治13年に説教所が建てられ、17年に別院へと昇格した際にこの石碑が建立されたこと、松任本誓寺(現白山市)の住職、松本白華がこの文章を書いたということが読み取れます。(以下略)

場所:

https://maps.app.goo.gl/2aMrKkEQ8e25Z8L16


富山大空襲で破損した「日枝神社の敷石」

富山大空襲で破損した日枝神社の参道敷石が残されている。

富山大空襲の傷跡
この石畳は昭和20年8月1日未明から約2時間に渡って米軍機B29による富山市への大空襲の折、雨の様に投下された焼夷弾が当たって割れた数十枚の一枚です。
 その他破損したものは、平成14年参道改修工事を以ってすべて修復した。

日枝神社御社殿

御社殿前の鳥居

奉納 日独戦争記念

大正六年六月建立
日独戦争は、第一次世界大戦での日本とドイツ領「青島」やドイツ東洋艦隊本拠地の南洋諸島での戦い。

弁慶石
弁慶が怪力で転がし、義経が腰掛けたという石。
佐々成政の庭石でもあったという。

大正四年(1915年)の御大典記念で献納された鳥居と狛犬。

場所

https://maps.app.goo.gl/LMEn6urwCkB9UeHi8


富山大空襲で焼けた石碑(応声寺)

焼夷弾の熱と炎で表面が焼け、碑文が読めなくなった石碑

亀谷先生之碑
明治初年頃、梅沢町の亀谷家は医師として生業を営む傍ら、私塾・寺子屋として地域の子どもたちに漢籍や読み書きを教えていた。

場所

https://maps.app.goo.gl/RaWhNDAJwgZzUwdK7


富山大空襲の爆撃痕が残る梵鐘(大法寺)

幼稚園の神様。

場所:

https://maps.app.goo.gl/g5dQvdspAsnpH6LQA


富山薬学教育発祥之地碑

1894(明治26)年に,私立の「共立富山薬学校」が この地梅沢町に設立。
その後、「富山薬学専門学校」の門柱を、梅沢町に居住していた 一人の卒業生が譲りうけて、昭和40年(1965) に自宅の庭先である共立富山薬学校の跡地に建てたもの。という。
なお、市立の「共立富山薬学校」は、明治30年に富山市「富山市立薬学校」となり、明治40年に富山県「富山県立薬業学校」を経て、昭和24年に国立富山大学に統合されて「富山大学薬学部」となっている。

場所

https://maps.app.goo.gl/Eyqr6Qjh6BTQug6X9


富山県庁本庁

国会議事堂の設計を担当した大蔵省営繕管財局工務部長の大熊喜邦が監修し、1935年(昭和10年)8月17日に完成。
1945年(昭和20年)8月1日に富山市一円を焼き尽くした富山大空襲では、焼夷弾の直撃を受けたとされるが焼け残った。
全国の庁舎の中では5番目に古い建造物。国登録有形文化財。

夜の散歩

場所:

https://maps.app.goo.gl/v9im9SuXp9kkNNjJ6


富山市役所

1992年完成。最上階の展望塔から富山市街を一望できる。

富山城方面

富山県庁方面

富山電気ビルディング方面


富山電気ビルデイング

1936年(昭和11年)4月8日に竣工。
富山市内では富山県庁舎(富山県庁)とともに第二次世界大戦以前に竣工した建築物。
富山大空襲では焼夷弾の屋上への直撃で焼失した5階部分を除き、耐えぬいた。
第二次世界大戦後の1945年11月には、進駐軍の富山司令部が設置(1952年6月廃止)されている。

富山電気ビルデイングの前を路面電車が走る

場所:

https://maps.app.goo.gl/X6zsLvAKqtfPaj7y9


富山あれこれ

富山地方鉄道の路面電車でなんとなく南富山駅に行ってみたり。

富山地鉄路面電車

富山駅

鱒寿司自販機!

駅そば、立山そば(202509)

「しろえび天ぷら」と「ますずし」、「ニシンの昆布巻」
ますの寿司でおなじみの「源」
駅そばで富山を満喫。
(202509)

駅ビルのどんぶり屋さんで。
特別純米「立山」(202509)

富山スペシャル天丼(白えび・ブリ・ほたるいか)(202509)

ねばり昆布生姜(202509)

駅ビルで買って、ホテルで晩酌
「焼き鯖すし」「幻の瀧」(202509)

居酒屋で、
「呉羽梨」とほうじ茶のJIN(202509)

千代鶴(202509)

羽根屋(202509)

羽根屋(202609)

勝駒(202509)

富山の地酒(202609)

シメそば、を

とろろそば、とろろ昆布おにぎり(202509)

コロッケそばも美味しい。(202609)

あんばやし(味噌田楽)(202509)

冷やしそば出しラーメン(202509)

ラーメン屋さんで。
富山ブラックラーメン(202509)

おでん(202509)

元祖のお店で。
ブラックラーメン
さすが元祖だけあって、いちばん黒かった。
(202509)

別のラーメン屋さんで。
モツ串(202609)

モツ味噌ラーメン(202609)

別日に。
モツ味噌が美味しかったので、今度はブラック。これも美味しい。モツトッピング。
ブラックラーメン(202609)

駅ビルの8番ラーメン(202609)

いろいろ買ってますね。
ビーバー
ロングサラダ(202509)

いろんなビーバー(202609)

北陸っぽいもの。

新幹線アイス(202509)

パウチ日本酒(202509)

ビーバーとハッピーターンと柿の種(202509)

新幹線様に。(202609)

カウヒーが美味しい。。。

高田屋さんの「鱒の寿」
先輩におすすめされて。(202509)

2026年は、青山総本舗さん(202609)

※撮影:2025年9月及び2026年9月

富山の食も堪能満喫、また来ますね。富山良い街です。
一連の富山散策は、いったん、〆で。


関連

慶應義塾大学の近代建築・戦跡散策(信濃町)

慶應義塾大学(慶応義塾大学・慶應大・慶応大)の信濃町キャンパスには、慶應義塾大学病院があり、そして、僅かながらに戦争の痕跡も残っている。
そんな、慶應義塾大学病院の周辺を散策してみました。


慶應義塾大学医学部予防医学校舎

1929年(昭和4年)建設。
慶應義塾大学・信濃町キャンパスにおいて現存する鉄筋コンクリート造りの建物の中で、この予防医学校舎が最も古い建物となる。

1945年5月24日未明に受けた空襲で、慶應義塾大学医学部と病院を有する信濃町キャンパスは約1万5千余坪のうち9300坪を失った。
当時、木造建築物が多かったために病院の主要部分は焼失したが、予防医学校舎、北里記念医学図書館は鉄筋コンクリートであったために、焼失から逃れて現存している。


昭和20年5月24日25日の空襲
(山の手大空襲)

昭和20年(1945)5月24日は、東京の山の手地域と「3月10日の東京大空襲」で焼け残った町全体を目標として、525機のB29が渋谷・世田谷・杉並・目黒・大森・品川地域を爆撃した。
さらに、翌日の25日深夜には、まだ焼夷弾による被害を受けていない東京の残存地域を目標として、470機が高性能焼夷弾3000トンを投下した。被害は、山の手方面を中心に南多摩・北多摩にまでくまなく及んだ。


予防医学校舎に残る焼夷弾の跡

慶應義塾大学医学部予防医学校舎の車寄せに残る「六角形の焼夷弾の跡」。1945年5月24日未明に受けた空襲の痕跡。

M69油脂焼夷弾の六角形の形がしっかり残っている。まっすぐに叩きつけるように落ちた焼夷弾の衝撃を物語っている。
痕跡と思われるものを、すくなくとも3箇所は、確認できました。

六角形の焼夷弾「M69焼夷弾(M69油脂焼夷弾)」は、イメージとして下記の記事も参照に。

https://www.keio.ac.jp/ja/keio-times/features/2025/6

https://www.keio.ac.jp/ja/keio-times/features/2024/5


北里記念医学図書館

起工1936(昭和11)年6月5日
竣工1937(昭和12)年10月7日
慶應大学医学科を創立し「日本細菌学の父」とも呼ばれる北里柴三郎を顕彰するために1937年(昭和12年)に北里記念医学図書館として、建設された。

https://www.lib.keio.ac.jp/med/about/history.html


慶應義塾大学食養研究所跡(食研跡地記念碑)

慶應義塾大学食養研究所(食研)は、1926年に医学部内に設立された研究機関。空襲の戦災を耐えた食養研究所であったが、1990年(平成2年)建物は解体された。外壁の一部が残され、記念碑が建立された。

往時の食研外壁
平成2年11月解体

食研跡地記念の碑
 塾祖福澤諭吉が唱えた食養の概念を具体化するため、大正15年(1926)益田孝ら財界人の厚意によりこの地に慶應義塾大学医学部食養研究所(食研)が設立された。
 研究所主任に大森憲太が就任し、栄養増進、食事療法およびビタミン学の研究を行った。昭和2年(1927)臨床と基礎の共同研究を推進すべく、小林六造のもと臨床最近研究室が併設された。食研は第二次世界大戦の戦火を免れ、大学の研究の灯はここに守られた。また中央検査室も食研に始まった。
 その後も食研は、慶應医学はもとより日本の医学の発展に大きく貢献し、平成2年(1990)11月27日その幕を閉じた。

地域文化財
第51号
慶應義塾大学食養研究所跡
食養研究所は大正15年に、日本の人口·食糧問題の解決や患者の食事療法
の研究を目的として慶應義塾大学医学部に設置された。鉄筋コンクリート3階建ての研究所が建てられ、大森憲太を中心に栄養増進、食事療法、ビタミン学の研究が行われた。平成2年廃止となり、現在は「食研跡地記念の碑」が建つ。
新宿区

慶應義塾大学病院

となりには、信濃町煉瓦館。これはこれで、興味深い建造物。


信濃町の陸軍境界標石
(陸軍第一師団輜重兵第一大隊)

陸軍第一師団輜重兵第一大隊の境界標石。
大正9年に慶應病院に用地が売却され輜重兵営部隊は郊外に転地している。

陸軍省所轄地

慶應義塾は1917年11月 四谷区信濃町の陸軍用地を購入し大学
医学部と病院の本拠とした。
本標はこの地が陸軍省所轄地であったことを示す境界石である。
2023年5月 慶應義塾

慶應義塾大学によって、案内看板が設置されておりました。

信濃町の南には、青山練兵場があった。

ざっと1時間もかからずに、ちょっとした散策が楽しめる「信濃町の戦跡散策」でした。

※撮影:2026年3月


関連

慶應義塾大学の近代建築・戦跡散策(三田)

慶應義塾大学(慶応義塾大学・慶應大・慶応大)の三田キャンパスには、いくつか戦争に関するモニメント(戦跡)がある。キャンパス散策をしてみました。


慶應義塾大学と戦争

太平洋戦争のさなか、全国の大学で最大の戦災を被ったのは慶應義塾であったという。
昭和20年4月、日吉・工学部校舎の8割が焼失。
昭和20年5月、信濃町地区(医学部)と三田地区の施設の半分以上が焼失。
慶應義塾の塾長・小泉信三も傷を負った。
慶應義塾の塾生は、陸海軍に、勤労動員に、疎開に、散り散りとなり、学生による学徒出陣は約3,500名となり、義塾関係の戦歿者は2,200名以上を数えた。
8月終戦。慶應義塾は全国の大学の中で、最大の空襲被害を受けた罹災校であった。
9月には日吉地区に米軍が進駐し、昭和24年秋まで接収されたため、戦後の復興計画もすすまなかった。

https://www.keio.ac.jp/ja/about/learn-more/publications/juku/stainedglass/1995/193.html


還らざる学友の碑

「還らざる学友の碑」は、先の戦争により学び舎に戻ることが叶わず、志半ばにして逝った学友を偲んで1998年に建立された。碑には、「アジア太平洋戦争における慶應義塾関係戦没者名簿(白井厚編/慶應義塾福澤研究センター発行)が、収められている。

 還らざる友よ
  君の志は
   われらが胸に生き
 君の足音は
  われらが学び舎に
   響き続けている

ここには
「アジア太平洋戦争における慶應義塾関係戦没者名簿」
(白井厚編/慶應義塾福澤研究センター発行)
が納められています
 平成26年10月 慶應義塾

還らざる学友の碑
この碑は今次大戦において志半ばにして逝った
学友を偲び慶応義塾が建立する
 平成十年十一月
  慶應義塾塾長 鳥居泰彦

戦没者名簿によると、日中戦争以降の塾関係の戦没者数は2,224名に上るという。

みたまやすらかに
合掌


「平和来」朝倉文夫

戦没した学徒や卒業生を追悼するために、1952年に製作され、1957年に設置された。
「へいわきたる」(へいわらい)
作者は、朝倉文夫。第8回日展出品作品。
台座には、戦時中塾長であった小泉信三の碑文が刻まれている。

平和来 朝倉文夫作

丘の上の平和なる日々に
 征きて還らぬ人々を思ふ
  小泉信三 識


「青年」菊池一雄

1948年製作、菊池一雄の代表作。
戦時下の応召中に喉を潰した声楽家志望の青年をモデルにする。


手古奈(空襲被災)

彫刻家・北村四海の代表作。
明治45(1912)年4月に竣工した図書館玄関ホールに設置。
1945年5月の東京大空襲によって被災し、戦後まもなくより図書館地下の倉庫に収納され、そのままの状態となっていた。
歴史的痕跡を留める方針とし、欠損部分は補填せず、戦禍による痕跡についても残すこととなった。

http://www.art-c.keio.ac.jp/en/research/collections-research/2004/2007-05-07-tekona/

https://www.keio.ac.jp/ja/keio-times/features/2025/6

あえて戦災の痕跡を残し修復された


戦没学生記念像 わだつみのこえ

図書館の地下一階に。
戦没学生記念像 わだつみのこえ(1950年・本郷新)

戦没学生記念像
わだつみのこえ
 ほんごうしん作

なげけるか いかれるか
 はたもだせるか
きけ はてしなき
 わだつみのこえ


幻の門(旧表門)

慶應義塾が三田に移転した明治時代初期にさかのぼる門柱。当時はこちらが表門=「正門」であったという。

第2次世界大戦中の1943(昭和18)年11月、三田で塾生出陣(学徒出陣)の壮行会が挙行された。
大講堂前を出発した出陣学徒は他の塾生たちに見送られ、表門から旅立ち、福澤の墓参に向かった。

戦時中には、陸軍のトラックが門柱を破損した事件もあった。当時用度課長であった羽磯武平が、小泉信三塾長にそのことを報告すると「軍と雖(いえども)遠慮することは無用である。然るべく要求し請求すべきである」との指示を受けたそうである。

1945(昭和20)年5月の空襲で表門も被災したが、その2年後に横須賀三田会の寄付などによって修復された。戦後間もなく右側の門柱に「慶應義塾」と墨書きされた門標が掲げられた。しかし何者かに持ち去られてしまい、今はその門標は慶應義塾には存在しない。

https://www.keio.ac.jp/ja/keio-times/features/2022/5


慶應義塾図書館旧館

曾禰達蔵・中條精一郎の設計によるゴシック様式の建物。
明治45年(1912)4月、慶應義塾創立50年記念の寄付金によって建立。
国の重要文化財。

大正12年(1923)9月の関東大震災で大きく損傷し、八角塔は一度解体された。
昭和20年(1945)5月の米軍による空襲では、本館部分(大閲覧室や事務室、ステンドグラスなど書庫以外の部分)を全焼。
昭和44年(1969)には国の重要文化財に指定。
昭和57年(1982)に図書館新館が開館したことに伴う改修工事で、戦後形状が大きく変わっていた屋根を復旧し、本館部分の用途を変更。平成28-30年(2016-19)にかけて免震化工事を実施し、あわせて外装も修復。
福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館が2021年に開館している。

https://history.keio.ac.jp/?page_id=104

外壁の損傷
一部欠落しているのは、戦災被害の痕跡


福沢諭吉記念 慶應義塾史展示館

慶應義塾図書館旧館内に。

修復工事でも残された空襲の痕

戦没者調査とアーカイブ
大学別では、慶應義塾は早稲田に次ぐ戦没者

チャフ(電波欺瞞紙)
戦争系の資料は多く拝見しているが、チャフを意識して見たのは初めてかも知れないなあ、と。

アメリカ軍が散布した伝単(福澤諭吉肖像入)
慶應義塾に保管されている伝単が福澤諭吉というのが、良いですね。

空襲により損傷した考古資料
大山巌の息子の大山柏文学部教授の採集資料

陸軍予科士官学校教科書「本邦史教程」
福沢諭吉の「学問のすゝめ」を批判する教科書。。。

廃墟と化した三田の惨状
信濃町キャンパスの焼け跡

開設まもない日吉キャンパス 昭和10年頃

日吉から野外教練に出発する塾生 昭和16年2月

日吉キャンパスの連合艦隊司令部地下壕

小泉信三 塾長訓示
昭和15年

慶應義塾のシンボルたち

展示室の光景


上原良司(特攻出撃前夜の手記)

そうだった、特攻隊員として、著名な上原良司氏は、慶應義塾の出身だった。

五六振武隊 陸軍少尉 上原良司

上原良司「所感」(特攻出撃前夜の手記)
昭和20年(1945)5月10日
権力主義全体主義の国は「最後には敗れる」、特攻は「理性をもって考えたなら実に考へられぬ事」、最後に「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます」などと記す出撃前夜の義塾出身特攻隊員の遺書。筆者は翌日沖縄方面で戦死。

五六振武隊 陸軍少尉 上原良司
 大正十一年九月廿七日生

本籍 長野県東筑摩郡和田村一七三
現住所長野県南安曇郡有明村一八六
出身校慶應義塾大学経済学部

所感
栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊とも謂ふべ
き陸軍特別攻撃隊に選ばれ身の光栄之に過ぐ
るものなきを痛感致して居ります
思へば長き学生時代を通じて得た信念とも申
すべき理論万能の道理から考へた場合これは

或は自由主義者と謂はれるかも知れませんが
自由の勝利は明白な事だと思ひます。人間の本
性たる自由を減す事は絶対に出来なく例へそ
れが抑へられて居る如く見えても、底に於ては
常に闘ひつゝ、最後には必ず勝つと云ふ事は、
彼のイタリヤのクローチエも云って居る如く真
理であると思ひます。権力主義全体主義の国家
は一時的に隆盛であらうとも必ずや最後
には敗れる事は明白な事実です。我々はその真
理を今次世界大戦の枢軸国家に於て見る事が

出来ると思ひます。ファシズムのイタリヤは如
何ナチズムのドイツ亦、既に敗れ、今や権力主義
国家は、土台石の壊れた建築物の如く、次から次
へと減亡しつつあります。真理の普遍さは今、現
実に依って証明されつゝ過去に於て歴史が示
した如く未来永久に自由の偉大さを証明して
行くと思はれます。自己の信念の正しかつた事
この事は或は祖国にとって恐るべき事であ
るかも知れませんが吾人にとっては嬉しい限
りです。現在の如何なる闘争もその根底を為す

ものは必ず思想なりと思ふ次第です。既に思想
に依って、その闘争の結果を明白に見る事が出
来ると信じます。
愛する祖国日本をして嘗ての大英帝国の如き
大帝国たらしめんとする私の野望は遂に空し
くなりました。真に日本を愛する者をして立た
しめたなら日本は現在の如き状態には或は追
ひ込まれなかったと思ひます。世界何処に於て
も肩で風を切って歩く日本人これが私の夢見
た理想でした。

空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと
一友人が云った事は確かです。操縦桿を採る器
械、人格もなく感情もなく勿論理性もなく、只敵
の航空母艦に向って吸ひつく磁石の中の鉄の
一分子に過ぎぬのです。理性を以て考へたなら
実に考へられぬ事で強ひて考ふれば彼等が云
ふ如く自殺者とでも云ひませうか、精神の国、日
本に於てのみ見られる事だと思ひます。一器
械である吾人は何も云ふ権利もありませんが
唯、願はくば愛する日本を偉大ならしめられん

事を、国民の方々にお願ひするのみです。
こんな精神状態で征ったなら勿論死んでも何
にもならないかも知れません。故に最初に述べ
た如く特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思って
居る次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、一
旦下りればやはり人間ですから、そこには感情
もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた
時自分も一緒に精神的には死んで居りました。
天国に待ちある人、天国に於て彼女と会へると
思ふと死は天国に行く途中てしかありません
から何でもありません。明日は出撃です。過激に
亘り、勿論発表すべき事ではありませんてした
が、偽はらぬ心境は以上述べた如くです。何も系
統だてず思った儘を雑然と並べた事を許して
下さい。明日は自由主義者が一人この世から去
って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満
足で一杯です。
云ひたい事を云ひたいだけ云ひました無礼を
御許し下さい。ではこの辺で

出撃の前夜記す

みたまやすらかに


塾監局

大正15年(1926年)9月の竣工。シック風の建物。
設計は1912(明治45)年竣工の図書館旧館と同じく曾禰達蔵・中條精一郎による。
戦中から戦後の一時期には教室と事務室に併用されていた。
塾監局とは、事務局のこと。

https://www.keio.ac.jp/ja/keio-times/features/2018/1


三田演説館

明治8(1875)年5月1日、日本最初の演説会堂として建造された演説館。慶應義塾において、福澤諭吉存命中から存在する唯一の建造物。
木造瓦葺、洋風、なまこ壁の建物。
国の重要文化財。

以下、2026年5月23日に公開された「三田演説館」の様子。(東京建物祭2026)


デモクラシー

1949(昭和24)年に完成した「学生ホール」。
その中に設けられた学生食堂の東西両壁面には、戦後民主主義の到来で伸びやかに歌い語らう青年男女たちを描いた猪熊弦一郎の壁画「デモクラシー」が飾られた。
壁画「デモクラシー」は学生ホール取り壊し後は、西校舎内生協食堂に移設。上部が三角形となっているのは学生ホール時代の屋根の形の名残。

で、食堂に行ってみた。
「生協食堂」が休みだったので、「山食」へ。

若き血 味噌ラーメン をいただきました。
色付きの麺が特徴的。トウガラシを練り込んでいると言う赤い麺。
そんなに辛くないが、味噌のコクが強い。

「山食」から、「生協食堂」を見ることができました。

デモクラシーの壁画。


※撮影:2026年2月及び5月


大学関連

陸軍船舶兵出身「狂気と異端の建築家・渡邊洋治と軍艦マンション」(東新宿)

ふとしたことから「軍艦マンション」というものがあることを知った。「ふーん、文字通りに軍艦みたいなマンションなのかな」と軽い気持ちで検索してみたら、「おお、確かに軍艦だ、東新宿か、見に行けるな」って思い、さらに建築家の渡邊洋治氏を調べてみたら、なんかいろいろ面白くなってきたので、まとめてみた次第。


渡邊洋治

渡邊 洋治(わたなべ ようじ)
1923年6月14日 – 1983年11月2日
新潟県直江津市(現:上越市)出身の建築家。
建築家・吉阪隆正に師事した。
「鬼軍曹」ともあだ名された、とか。

代表作は、「糸魚川市の善導寺(1961年)」「龍の砦・嶺崎邸/嶺崎医院(1968年)「「第3スカイビル/鉄のマンション・軍艦マンション(1970年)」「斜めの家(1976年)」など。

陸軍軍人、それも陸軍船舶兵出身という出自も建築家としして異端であった。
1944年、陸軍船舶兵として徴兵され、幹部候補生試験に合格し陸軍予備士官学校に入学。
卒業後、新潟にあった陸軍の船舶隊司令部に勤務。

軍艦マンションや龍の砦に代表される狂気とも呼ばれる異端な設計に、船舶兵としての経験が下地にあったのかどうか。


軍艦マンション(1970年)

1970年の建築。
2026年現在の正式名称は「GUNKAN東新宿ビル」
旧称は「第3スカイビル」、「ニュースカイビル」、通称として「鉄のマンション」とも呼ばれた。
2024年に解体が予定されていたが、リノベーションされ解体を免れ延命している。

GUNKAN東新宿ビル
GUNKAN Higashi shinjuku

GUNKAN東新宿ビルの歴史
『GUNKAN東新宿ビル』は、東京都新宿区大久保1丁目に立地する 戦艦 をモチーフにしたユニークな建築物です。
陸軍船舶兵出身の建築家·渡邊洋治氏が手がけたこの建物は、その特異な外観から「軍艦マンション」の愛称で長年親しまれてきました。
特徴的な 円筒形の給水タンクは艦橋のミサイル を思わせ、 各階に配置されたY字型の廊下と150室の鉄製6畳ユニット が 戦艦の内部空間 のような印象を与えます。
各室にはエアコン室外機用のコンパクトなバルコニーが設けられています。2010年から2011年にかけて実施された大規模リノベーションにより、外装は従来のシルバーメタリックから落ち着いたグレーと淡い緑色の配色に一新されました。
新宿の高層ビル群を望む屋上スペースも特徴的で、歴史的建造物の趣きと現代的な利便性を兼ね備えた 唯一無二の空間 となっています。

スタジオとレンタルスペース、ビルオーナー会社と住居となっている。
「R」屋上は「軍艦デッキ」

外観を見学。

各階のY字型の廊下に、居室ユニットが配置。

ミサイルのような円筒は、「受水槽」

正面。
張り出した居室ユニットには、エアコンの室外機を配置したベランダもある。

場所


第2スカイビル(解体済)

1968年建築。軍艦マンションと呼ばれた第3スカイビルの2年前に、渡邊洋治の設計で建築されたが、残念ながら2024年に解体。
渡邊洋治は、第5スカイビル(1971)も設計していたが同じく解体済み。


渡邊建築事務所ビル兼自邸(1962年)

せっかくなので、都内に残っている渡邉洋治の建築を散策してみる。
麴町駅近く。
1962年、渡邉洋治が39歳のときの建築。
高野長英が麹町貝塚に蘭学塾「大観堂学塾」を開いた場所。

小さく、細長い敷地に、コンクリート打ちっぱなしで異様な存在感を放つ建造物。

軍艦マンションの8年前の建造物。

3階部分のバルコニーには家紋

そして、2階のバルコニーには穴があけられており、

仏様(不動明王ぽい?)が。

なんとも不思議な意匠。

場所(高野長英 大観堂學塾跡)

https://maps.app.goo.gl/hrcczVs6pwjmAWSz5


明和ビル(1970年)

軍艦マンションと同じく、1970年の建造。
凛としてすっきりとしたビルではあるが、ベランダ部分の意匠になんとなくらしさがある。

場所

https://maps.app.goo.gl/zSDWn7YtHNYDCEr87


三和ビル(1967年)

上野駅近く。
「渡邊建築事務所ビル兼自邸」と同じように、家紋(社紋?)が存在感を放っている。
単純に窓を配置するわけではなく、鉄壁な防御を施したような意匠。
まわりとの異端さに渡邉洋治らしさ、が漂っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/A5trSaBFLYDXaNT48

こうなってくると、現存する渡邉洋治の建造物を見に行きたくなりますね。
糸魚川市の「善導寺」、伊東市の「龍の砦・嶺崎邸/嶺崎医院」、上越市の「斜めの家」が代表的な建築物。逆に言うと、ここで取り上げた「軍艦マンション」「三和ビル」「明和ビル」以外は残っていないとも。


軍艦ビル・芝パークビル(1982年)

渡邉洋治は関係なく、軍艦つながりで。
通称「軍艦ビル」と呼称されているのが「芝パークビル」。
芝公園近く。
A館とB館に分かれており、基準階面積はあわせて1,810.0坪(5,983.47㎡)。
14階建てのビルは、延べ床面積が10.3万平米で、全長140メートル、奥行き50メートルの威容から「軍艦ビル」と呼称された。

場所

https://maps.app.goo.gl/ixyBnsaW1ykoJcog8


野村軍艦ビル・日本橋野村ビルディング(旧館1930年)

旧野村財閥(野村コンツエルン)が大阪から東京に進出する拠点として計画され、ビルの所有者は、旧財閥の不動産等資産を管理にあたる野村殖産。野村ホールディングスや野村證券の所有するビルではない。

終戦後の1946年11月3日、建物は占領軍に接収され、アメリカ軍やその家族の宿泊ホテル「リバービューホテル」として、1952年10月20日の接収解除まで供された。
1959年に本館、1981年には別館が増築され、野村證券が本社を置いた。

日本橋野村ビルディングは、日本橋川沿いに建つ「軍艦ビル(野村軍艦ビル)」として呼称されていた。
旧館・本館・別館から構成されていたが、再開発により、本館と別館は解体。旧館は外観保全の上で改装となる。
旧館は、中央区指定有形文化財。

はい、改築の真っ最中でした。
※2026年2月

場所

https://maps.app.goo.gl/C3iFRPcyGQgv3S348

また来ましょうかね、、、

撮影:2026年2月


陸軍柏飛行場「教材置場」(流山)解体前の最初で最後の見学会(軍都柏・その8)

軍都柏の戦跡散策、その8。
柏飛行場の名残を探しに。
この日は、柏飛行場関連施設として残存していた「教材置場」の解体前の最初で最後の一般公開の模様を掲載。

本記事は、流山市駒木台「流山市内の戦跡」となりますが、便宜上「柏飛行場・軍都柏」として掲載します。

建造当時の様子を残す梁棟。

ちなみに、前回記事の「ガス庫及び部品庫」の向かい側にある建造物が今回取り上げる「教材置場」となるが、前回散策時は、、、記録できていなかったです。。。


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


旧柏飛行場関連施設(教材置場)文化財見学会・概要

旧柏飛行場関連施設(教材置場)文化財見学会

令和8年2月7日・8日
主催 流山市教育委員会
協力 柏歴史クラブ 柏市教育委員会

柏飛行場は、昭和13年(1938)に開設され、昭和 20年(1945)まで陸軍の飛行場として利用されました。流山市と柏市の市境には、飛行場の本部や格納庫、立川分廠本部などの施設が建てられていました。昭和20年の戦争終結以降、飛行場の大半は米軍の通信基地として利用されたほか、建物の一部は民間に払い下げられ、住宅や倉庫、工場等に利用されていたようです。
米軍の通信基地は、昭和54年(1979)に日本に返還されます。返還後は、柏の葉公園や東京大学大学院、千葉大学、住宅地等が整備され、かつて飛行場だった面影はほとんど残らなくなりました。
そのような中、昨年の5月に旧所有者の関係者から柏飛行場と思われる建物を解体する予定だとの相談がありました。このため、流山市教育委員会は、柏飛行場の調査を以前より進めていた柏市教育委員会、柏歴史クラブ、建造物の研究者と共同で調査を実施し、今回見学会を実施する建物が、柏飛行場関連の教材置場と呼ばれる施設であることが明らかとなりました。
教材置場は、飛行機を整備するための部品などを展示していた場所と考えられています。建物は、その後クリーニング工場と住居として利用されていたため、建物内部は大きく改造されていますが、随所に当時の痕跡が残っています。

流山市

https://www.city.nagareyama.chiba.jp/tourism/1013087/1052392.html

https://www.city.nagareyama.chiba.jp/res/projects/default_project/_page/001/052/392/chirasi.pdf


「教材置場」見学会

解体前の最初で最後の見学会。


「教材置場」見学会・建屋の内部

戦後は、クリーニング工場であった、という。

往時からの窓枠が残る。

紐で上下にスライドできた。

教材置場としての入口は側面のシャッターがある場所あたり。

建屋の手前3分の2がクリーニング工場。
建屋の板張りの奥3分の1が居住スペース。
大改築されているが、陸軍時代の残存部分もある。

右側の板張りが戦後の増築部分。

手前が戦後の増築部分。


「教材置場」見学会・建屋の天井や梁棟

小屋梁や垂木、棟木など、往時からの様子がよく残っている。

水色っぽい色合いは、戦後の塗装。

建造当時の木材は、黒っぽい塗装。
天井部分を開口して発見。

天窓があったのかどうか、それは不明。
解体されるその日まで、少しずつ構造物をバラしていくことで、往時の様子が解明できる。不明部分も今後の解体調査次第で明らかになっていく。

戦時中の建造物ということもあり、金属に余裕がなく、金属使用部分は限られている。
梁を補強するボルトのみが金属であった。

電球取付部は当時からのものと推測されるが、要調査。


「教材置場」見学会・建屋の入口

開口部分が、往時の建屋入口。

扉の溝(鴨居)が残っている。

奥にも出入り口があったことがわかる。


「教材置場」見学会・建屋窓

建屋の窓の位置も状況から推測できる。

戦後に取り付けられた配電盤の左右にも窓があった形跡が残る。

増築部分の壁にも、窓があった痕跡が残る。

窓枠が残る。

窓枠の上部だけ残る。


「教材置場」見学会・建屋壁

往時の壁の構造を知ることも出来た。

モルタルは戦後。
往時は、木を張り筋違を設けた建造。

調達された木材の仕入元などの記録も残る。

床面も剥がすことで当時の状態を解明することができる。
解体時にわかってくることもある。

会場は「流山市教育委員会(流山市立博物館)」と「柏歴史クラブ」がタッグを組んだ説明会でした。

「柏飛行場調査報告書」は、PDFがダウンロードできるよって教えてくれました。これは良いもの。

https://www.city.kashiwa.lg.jp/documents/26561/kashiwahikoujyouh1.pdf

https://www.city.kashiwa.lg.jp/documents/26561/kashiwahikoujyouh2.pdf

この充実の資料がPDFがで読めるのが、ありがたいです!


「教材置場」見学会・建屋の外観

外観を。

宅地造成工事
着手は令和8年4月から。

陸軍柏飛行場関連施設(教材置場)として、解体の最後の時まで記録と調査が実施されます。

最初で最後の見学会を開催いただいた流山市教育委員会・柏市教育委員会・柏歴史クラブの皆々様に感謝です。
ありがとうございました。


※撮影:2026年2月


関連

八戸の盾「海防艦・稲木」八戸の戦跡と近代史跡散策

八戸に赴く機会がありました。
せっかくなので、八戸の戦跡と近代史跡を中心に歴史散策を。

地震の影響で、「八戸線」が運休するなどもあり、バスを活用しての八戸の東西移動になりましたが、思った以上にバス路線が充実しており、当初の予定より、だいぶアクティブに行動できた感じ。
新幹線の「八戸駅」が、まったくもってイメージしていた「八戸」(八戸中心街)とは違う場所にあって、ちょっと焦りましたが。


海防艦稲木之碑(蕪島神社)

1945年(昭和20年)8月9日。
八戸の鮫港の蕪島沖に仮泊していた「海防艦・稲木」は、米軍艦載機の集中攻撃を受け、激しい攻防の末に撃沈した。

米軍艦載機約50機の空襲をたった一艦で迎撃し「八戸の盾」として、八戸市民と八戸の街を護った「海防艦・稲木」。
約4時間にわたる海空の激戦が鮫港で繰り広げられ、ロケット弾と銃撃により稲木は撃沈し、稲木乗組員243名のうち稲木艦長の山田忠太少佐以下乗員29名が戦死、重軽傷者83人を出した。

「八戸の盾」として活躍をした稲木を偲ぶ慰霊碑が「蕪島神社」の境内にある。

海防艦稲木之碑

昭和20年8月9日、八戸港内に仮泊中の海防艦稲木は来襲せる米三十八機動部隊の艦載機群と交戦勇戦敢闘遂に沈没す
爾来38年、当時の乗組員並びにその父母2世及び関係者相図り記念碑を建立して、物故者の霊を追悼し、あわせて世界の恒久平和を祈念するものである。
 昭和58年8月7日

合掌

稲木乗組員
物故者皆様方のご冥福を
心からお祈り申し上げます

蕪島からみた八戸の港

場所:

https://maps.app.goo.gl/DewsSiQdS5AugEnp9


海防艦・稲木

1944年(昭和19年)5月15日、三井造船玉野造船所で起工。
仮称艦名「第4701号艦」。香川県高松市の離島「稲木島」から「稲木」と命名され、鵜来型海防艦の12番艦となる。
基準排水量:940トン
全長:78.77m
最大幅:9.10m
速力:19.5ノット
乗員定員:149名
兵装・搭載機材:
 45口径12cm高角砲 連装1基、単装1基
 25mm機銃 3連装5基、単装1基
 三式迫撃砲 単装1基
 九四式爆雷投射機2基
 三式爆雷投射機16基
 爆雷120個
 短艇3隻搭載
 レーダー 22号電探改四 1基
 レーダー 13号電探改三 1基
 ソナー 九三式水中聴音機 1基
 ソナー 三式水中探信儀 2基
1944年12月16日竣工、山田忠太少佐が稲木海防艦長となる。
就役後は、船団護衛に従事。
1945年(昭和20年)8月8日、「稲木」は船団を護衛し釜石を出港し八戸に入港。翌8月9日朝、八戸はアメリカ軍第38任務部隊艦載機の空襲を受ける。稲木は午前9時頃、空母「ランドルフ」と「エセックス」から発進したF6F、SB2Cによる空襲を受けて後甲板に直撃弾を受けて機械室が大破。夕方頃に沈没した。海防艦長の山田忠太少佐以下乗員29名が戦死。

八戸港国際物流拠点化推進協議会
>八戸港の歴史
https://hachinohe-port.org/hachinohe-port/history/
海防艦「稲木」の残骸(昭和20年)

Wikipedia > 鵜来型海防艦

鵜来型海防艦「宇久」の画像(参考)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/ff/IJN_escort_vessel_UKU_in_1944.jpg


海防艦稲木戦歿者慰霊碑(呉海軍墓地)

稲木の慰霊碑は、呉海軍墓地にもある。関連として掲載。


海防艦顕彰碑 護国 海防艦(靖國神社)

海防艦顕彰碑が靖國神社の境内にある。関連として掲載。

船団護衛と沿岸警備を主任務とする排水量約800トンの小艦であった「海防艦」
海防艦189隻の内85隻が海没し、1万余の尊い命が捧げられた。

 船団護衛と沿岸警備を主任務とする海防艦は、昭和15年6月竣工の「占守」を第一号艦として、さきの大東亜戦争終結までに未就役19隻を含め建造数189隻にのぼった。
 要目は全長約70メートル排水量約800トン乗員200余名、小艦ながら優秀な対潜対空兵器をもち 操縦性と航洋性の点においてもすぐれていた。
 乗組員延総数3万余、士官に商船学校出身者、学徒出身者、兵よりの昇進者多く、兵員中には17才前後の少年の姿もみられた。
 十分な訓練を受けるいとまなきまま、北は千島から南はシンガポールに至る広い海域で、不眠不休、日夜任務の遂行に当った。人員、兵器、物資の輸送を果しつつ、途上、潜水艦、航空機を撃沈撃墜する戦果もあげたが戦局の悪化に伴って被害艦続出し、85隻を失い、1万余の人びとが尊い生命を国に捧げた。
 ここに海防艦顕彰の碑を建て、戦没乗員の勇戦と労苦をしのび、併せてわが国海上輸送の宿命的重要性を後世に伝える資としたい。
  昭和55年5月5日 海防艦顕彰会

冬の季節に。


八戸と戦争

八戸港
昭和18年頃には制海権を失っていた日本。昭和18年8月には、八戸沖にも米海軍潜水艦が進出していた。8月に「明和丸」「美福丸」、9月に「第六多聞丸」、10月には「幹雲丸」が撃沈され、八戸沖の近海航路も危険な状態となっていた。
そんななかでも八戸港からは漁船船団が、ボルネオまで石油積取得のために決死の航海を行っている記録も残っている。しかし、昭和19年6月にマリアナ沖海戦で日本艦隊は壊滅的な打撃をうけ、そしてサイパン島が陥落したことで、南方資源との航路も閉ざされることとなった。

八戸永久築城(八戸要塞)
昭和19年7月、大本営は「本土沿岸築城実施要綱」を発令し、「捷号作戦」本土防衛計画が策定された。本土方面決戦(捷三号作戦)として、連合国軍の上陸を迎え撃つための重点地域が下記の3箇所に絞られた。
・九十九里浜
・鹿島灘
・八戸周辺
八戸には、大規模な上陸作戦を可能とする長大な砂浜が多いという地理的な要因もあり戦略的な要衝となっていた。米軍の本土上陸に備え、昭和19年10月に、八戸永久築城緊急工事が始まった。
わずか半年の工期で、八戸の後背地の新井田川沿いの山中の「是川」「舘」「島守」にまたがる1,380ヘクタールの地域に、地下壕が掘られ、トーチカ陣地が造られた。この八戸要塞の築城には98万人の人員と43,000台の馬車が動員された。昭和20年1月からは、八戸中学校500名、八戸商業200名、八戸水産200面、八戸高等女学校700名、千葉学園400名のほか、八戸市内国民学校高等科の男女生徒2,200名など、近隣の学徒も動員された。

八戸の防衛配備状況
八戸永久築城(八戸要塞)が昭和20年3月末に完成後、昭和20年4月8日に、大本営は「決号作戦準備要項」を決定。東北は第十一方面軍が守備を担当することとなり、仙台と八戸の二ヶ所を重点地とした。
八戸守備として、独立混成第九十五旅団(旅団長・石黒岩太陸軍少将、石黒兵団)が配備。
「陸軍八戸飛行場」には、飛行部隊が展開。「蕪島」には海軍が特攻艇の配備を計画。「鮫港」には海防艦・稲木が停泊。「鮫角」には軍司令部直轄の電波探知機(電探)が配備。「鮫」には陸軍3個中隊と機関銃25、高角砲16、重砲2が配備された。しかし重砲は日露戦争時代(明治45年1912年)の代物、であった。
また、その他の部隊として、「白銀」に弾薬補給部隊、「湊」に食料補給部隊が置かれた。


八戸空襲

八戸には、陸軍の「八戸飛行場」(現在の海自八戸航空基地)や、米軍上陸に備えた「八戸防衛陣地(八戸要塞)」、蕪島の海軍基地(特攻基地)が配備され、軍需工場に指定された民間企業も多数ある街であった。

昭和20年7月になると、関東の主要都市に対し空襲を重ねてきた米軍は、東北にも及んできた。

昭和20年7月14日15日に、八戸は、米空母機動部隊艦載機(F6Fグラマン戦闘機)による初空襲を受ける。
朝5時から7時、9時、11時と2時間ずつの波状攻撃で、高舘飛行場(現在の海上自衛隊八戸航空基地)、日東化学、尻内駅が被害を受けた。この攻撃は翌日も続き、死者行方不明者452名、重軽傷者は多数にのぼった。

ついで、7月27日には、青森市に爆撃予告のビラが撒かれ、翌28日夜にB29が青森市を空襲し、結果、「青森大空襲」として約700名が死亡した。

青森大空襲のあと、八戸では学童疎開がはじまった。
八戸国民学校から縁故疎開した生徒は800名、引率集団疎開した生徒は135名に及んだ。

そして、2回目の八戸空襲は、8月9日午前6時、グラマン戦闘機50機の来襲であった。
八戸港に仮泊していた海防艦「稲木」はこれに応戦したが、ロケット弾を集中的にあびせられ撃沈、艦長以下29名が戦死した。
翌10日も空襲があり、工場、民家等が爆撃され、多数の死者を出した。
おなじ8月9日に、一部が兵舎として使用されていた八戸国民学校も米海軍機の機銃掃射で炎上したが、第一陣の学童疎開が八戸を去った直後(八戸駅=現在の本八戸駅を発車まもなく)であり、重大な被害から逃れることが出来た。

3回目として、「八戸大空襲」を米軍は8月17日に予告してきていたが、8月15日に終戦を迎えたために「八戸大空襲」は幻となり、壊滅的な被害を免れることができた。

総務省>八戸における戦災の状況(青森県)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tohoku_01.html


蕪島海軍基地跡(蕪島要塞跡)

蕪島では、1944年10月ごろから、東西に島を貫通する坑道5本、南北に坑道1本が築造された。
「駆潜艇」用爆雷格納庫、であったという。
海軍では、捕鯨船のキャッチャーボートに爆雷投下装置と機銃を備え付け、応急の駆潜艇としており、八戸にも4~5隻が配備されていたという。蕪島の格納壕は未完成だったが、50~55個の爆雷が貯蔵される予定だったという。また、特攻艇「震洋」の格納庫として転用予定もあったという。

以下、八戸市蕪島休憩所にて

1942
内務省と海軍省のイラク工事として旧海軍により埋め立て工事が行われる。2年がかりで埋め立てられ本土と陸続きとなった。
1945
7月15日/太平洋戦争の末期にアメリカ軍からの空襲を受ける。

1942年(昭和17年)、軍需施設建設のため旧海軍による埋め立て工事が2年がかりで行われました。戦時中「北の要塞」と呼ばれた蕪島。写真には東西に掘られた5本の坑道口も見えます。

坑道の開口部が見える。

「NPO法人鮫町蕪島ウミネコvillage」が運営している建屋の中にあった資料。

https://www.daily-tohoku.news/archives/344351

デイリー東北(2025年8月15日)
蕪島が痛がっている
軍事要塞化で陸続きに
(略)
 1941年(昭和16年)12月、日本が米国などを相手に始めた太平洋戦争に合わせ、翌42年から着手された蕪島の軍事要塞化工事だ。

 鮫地区の沿岸に位置する蕪島はかつて、陸地と切り離された文字通りの「島」であり、頂上の蕪嶋神社と共に、漁師が会場の安全と豊漁を祈願する聖域だった。
 その島域を軍事要塞とすべく、海軍は架け橋を取り壊して陸続きに埋め立て、さらに島内に5本の坑道を掘った。爆薬を搭載して敵艦に体当たりする有人の水上特攻艇を坑道に隠す計画だった。
(略)
 蕪島だけではない。太平洋戦争末期の1944年10月、国は「八戸永久築城計画」に着手し、館・是川・南郷島守地区に100基を超える要塞を建設させた。対米戦の敗退が続き、米軍の上陸が想定されたことに伴う措置。実際、沿岸部を中心に米国の爆撃機による空襲も相次ぎ、上陸の危機は現実味を帯びていた。
(略)

マリエントから見る蕪島もおすすめ。

改めて、蕪島にて。坑道の気配は感じない。

戦後しばらくは開口していたが、十勝沖地震(1968)による陥没などもあり、埋め戻されている。

マリエントの展望台から

八甲田山がみえた。

ウミネコ?


蕪島神社

八戸駅からバスを乗り継いで「鮫小学校通」バス停に到着。
地震によりJR八戸線が運休中のため「鮫駅」を横目に、バスを駆使して、蕪島神社には歩いての訪問となりました。

ちなみに、バスは「八戸市内共通1日乗車券(800円)」を活用。これで、八戸市営バス(青いバス)と南部バス(赤いバス)が乗り放題。

蕪島は、戦時中に海軍の工事によって地続きとなった。

ちなみに、ウミネコは春から夏にかけて、なので、冬にはそんなに居ないのだ。

八戸小唄
昭和6年に造られた新民謡。

もともと「稲木」の碑を見に来たということを鑑みると、ウミネコがいないほうが落ち着いてゆっくり見学できるとも。

1933年の津波

2011年の津波

参道の石段脇に、津波の高さを示すプレートが設置されている。

2020年に再建の御社殿(2015年に焼失のため)

蕪嶋神社は社伝によれば1269年に江ノ島弁才天を勧進したのがはじまりだという。
祭神は市寸嶋比売命、多紀理毘売命、多岐都比売命の宗像三女神(厳島神社の主祭神である)で「蕪嶋の弁天様」として信仰を集めてきた。弁財天は商売繁盛や子授けにご利益があるとされているが、漁業の守り神でもある。

チョコクランチが、かわいらしかったので、お土産にしました。

場所:

https://maps.app.goo.gl/YrYpwUkTL9HcrdhR7


葦毛崎展望台(葦毛崎海軍電探基地跡)

「うみねこ号」(鮫駅~種差海岸駅)を結ぶバスを活用して、葦毛崎展望台まで移動。これも一日乗車券で。

葦毛崎展望台
幕末時代には台場が築かれ、異国の船を監視するのに使われ、戦時中は、旧帝国海軍の「電探基地」(レーダー基地)の円盤基礎が設けられた。
2式1号電波探信儀(二式二号電波探信儀一型・二号一型電探、21号電探)が配備され、海軍による監視哨が置かれた。

上部構造物は戦後に観光地化で展望台として造営されたものだが、下部の円盤基礎は、戦時中の帝国海軍の電探基地(レーダー基地)の土台。

防空レーダーを備えた海軍の無線基地跡。

太平洋の眺望を楽しむ

鮫角灯台も見える

苫小牧の方向

うーん、さすがに見えない。

海軍時代の土台を基礎とする。

鮫角灯台側から。

場所:

https://maps.app.goo.gl/odqxUZJEtcgjLeaS8


八戸のマイルポスト

高さ5mほどにもなるコンクリート製の柱。
このそびえ立つ柱は、新造船の速度を計測するためのマイルポストであった。もともとは5本あったというが、現在は2本が残っている。
船の速度を測る計測器が発達していなかったころの産業遺産。

青森県庁>

https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kotsu/seikatsu/files/kenshi-mado148.pdf

鮫角灯台と2本のマイルポスト


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R272-93
1948年(昭和23年)4月29日、米軍撮影

葦毛崎周辺を拡大

現在の様子


マイルポスト(鮫角)

海側のマイルポスト。こっちは近くに寄ることが出来ます。

場所:

https://maps.app.goo.gl/qVyfZMEGAh395RV88


マイルポスト(小舟渡平)

こちらは近くに寄れなかったので、鮫角灯台から。

ギリギリ、2本が写った画角

場所:

https://maps.app.goo.gl/tF77BUj7ftKFNQHM7


鮫角灯台

「日本の灯台50選」に選ばれている灯台。
昭和13年(1938)2月16日に初点灯。
毎年期間限定(4月~10月の土日祝日など)で一般開放しているが、私が訪れたこのとき(12月)は非解放。。。

鮫角灯台
初点
昭和13年2月16日

鮫角灯台
~美しい景観で地域に愛される灯台~
 鮫角灯台は、1938年(昭和13年)2月16日に点灯した灯台で、昭和初期からのハ戸港の目覚ましい発展に伴い、漁船や貨物船の安全な航行のため、地元からの強い要望により設置されました。
 1997年(平成9年)に、灯器は長寿命のメタルハライドランプを採用した回転式に変更しましたが、外観は設置当時のまま変わりなく海を照らし、航行船舶の道しるべとなっています。
 灯台の周辺地域は2013年(平成25年)に「三陸復興国立公園」に指定され、翌年の2014年(平成26年)には「白亜の灯台と青い空と海のコントラストが美しく、周辺の景観とも見事に調和し、地域のシンボルとして相応しい。」との評価から、第26回ハ戸市景観賞(まちなみ空間部門)を受賞しています。

位置 北緯 40度32分24秒
東経 141度34分34秒
光り方 単閃白光 毎8秒に1閃光
光の強さ 100,000カンデラ(約本分の明るさで
光の届く距離 19.5海里(約36キロメートル)
高さ 地上から灯台頂部 約23メートル
水面から灯火 約58メートル

鮫角灯台
海上保安庁
八戸海上保安部

鮫角灯台
施設の概要
初点
 昭和13年2月16日
位置
 北緯40度32分24秒
 東経141度34分34秒
構造
 白色塔型鉄筋コンクリート造
等級及び灯質
 第4等 単閃白光(毎8秒に1閃光)
光度
 100,000 カンデラ
光達距離
 19.5 海里(約36キロメートル)
高さ
 地上~頂部 23メートル
 水面上~灯火 58メートル
管理事務所
 第二管区海上保安本部 八戸海上保安部
 電話 0178-32-4691

なんだろ、築山

馬?

タイヘイ牧場が隣接している。サラブレッドの競走馬の牧場。
大川財閥の大川平三郎氏の「大」と「平」からの命名。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Dup6FbgSZqukGdCJ9


物見岩(種差防空監視哨跡)

鮫角灯台近くに、海抜52メートルの岩山「物見岩」があり、藩政時代から魚群発見や大漁などを狼煙を揚げて知らせる場所であったという。
この地に、戦時中は、陸軍の防空監視哨が設けられていた。

物見岩自然植物園
 このあたり一帯は、夏でも冷たい風や霧に包まれる日が多いため、さまざまの植物が自生しています。美しい自然を構成している植物には、南限または、北限の学術上貴重な植物なども見られるといわれています。
 市では、この自然を生かした小さな植物園を、市民の憩の場として利用できるよう整備しました。
 園内にある岩山は、海底から隆起したと思われる安山岩で、海抜五ニメートル、藩政時代から魚群の発見や、大漁など、のろしを揚げて知らせる場所であったということから、「物見岩」と名付けられました。また、海図にも記載され、海路の重要な目印になっています。また、このあたりは、名勝地と鳥戦保護区に指定されていますので、植物や鳥類をとることは禁止されています。

うーん、立入禁止。自身の影響かな。。。

岩場、、、

まあ、立入禁止ってあるので、強行はしない。

場所:

https://maps.app.goo.gl/xBFpZoYjeWeq7Ko39


根城跡

おお。南部師行!!

実は、私は、最近はもっぱら近代史専攻な感じですけど、南北朝期も結構好きでして。南朝の南部師行は、義良親王と北畠顕家の陸奥将軍府を支えた重臣。北畠顕家と最期まで行動をともにし、石津の戦いで戦死した。

八戸市博物館は、休館中、、、残念。

せっかくだから、戴きました。

今回のサイトの記録に、八戸市博物館刊行の「戦後60年特別展・戦争と八戸市民‐苦難とともに‐」の図録が役に立ちました。
あと、「はちのへ文化財ガイドブック」は在庫僅少だそうで、そういうフレーズに弱いのであわせて戴きました。

根城跡
南朝方の根本となる城として、南部師行が築城。
日本100名城

場所:

https://maps.app.goo.gl/uK3isTWrZA2Pw4Xb7

https://maps.app.goo.gl/SWZ7SiqgxRUikCWEA


櫛引八幡宮

場所は変わって、八戸が誇る国宝スポットの「櫛引八幡宮」へ。
南部総鎮守一之宮。
本殿・旧拝殿(長所)・末社神明社・末社春日社・正門が5棟が国指定重要
文化財。
赤糸威鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:菊一文字の鎧)と白糸威褄取鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:卯の花威)が国宝。
紫糸威肩白浅黄鎧(兜、大袖付)と唐櫃入白糸威肩赤胴丸(兜、大袖付)と、兜(浅黄糸威肩赤大袖2枚付)が国重要文化財。

拝殿

本殿は改修工事中。
国重要文化財
正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもの

国宝館

赤糸威鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:菊一文字の鎧)
白糸威褄取鎧(兜、大袖付)(附:唐櫃)(別名:卯の花威)
国宝の2つの鎧を、ぐるぐると、ずーっと飽きることなく、みていられます。
これは良いものだ。
写真では伝わらないですね、これは生でないと。この鎧を生で見るためだけに八戸に赴いても損ではないかも。こういうのが好きな人であれば。

JR八戸駅でもアピールされてました

旧拝殿(長所)
国重要文化財
正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもの

南門(正門)
国重要文化財
正保2年(1645年)から慶安元年(1648年)にかけて、盛岡藩2代藩主(南部氏28代)南部重直の命で造営されたもの

末社(脇宮)春日社本殿
国重要文化財
東北では数少ない一間社春日造。
元文4年(1739年)に勧請、創祀されたと伝わる

末社(脇宮)神明宮本殿
国重要文化財
元文4年(1739年)に勧請、創祀されたと伝わる


明治記念館(旧八戸小学講堂)

明治14年(1881年)竣工。
明治12年(1879)11月に立柱式を挙げ、明治14年(1882)8月に完成した八戸小学講堂は、青森県内に現存する洋風建築では最古のものである。
校舎が完成した明治14年8月に明治天皇の東北御巡幸があり、落成したばかりのこの講堂が、行在所として用いられた。
昭和4年には「八戸市図書館」として使用され、後の昭和37年に櫛引八幡宮境内に移築され「明治記念館」として現在に至る。

明治天皇八戸行在所

昭和10年4月建設

明治記念館の内部は見学できません
櫛引八幡宮

明治記念館の由来
 明治記念館は八戸市堀端に八戸小学講堂として、明治14年(1882)8月に竣工した、県内に現存する最古の洋風建築である。洋風の下見板張りの外壁が真壁として納まり柱の頂部には飾を載せ、胴蛇腹と幹蛇腹とを備えている。
 明治14年の明治天皇東北御巡章に際し行注所として用いられた。昭和4年には八戸市図書館となり御聖蹟として維待される。
 昭和37年に櫛引八幡宮境内へ移築し、その際窓回り等に若千の改造が加えられてはいるが、「明治」の雰囲気を色濃く伝えており、「明治記念館」として現在に至る。(現在は直会所・神前結婚式控室・会議室等に使用している。県重宝平成3年3月13日指定)

明治大帝御聖像

御大典奉祝
八戸市傷痍軍人会

碑文
 皇紀二千六百五十年 今上天皇御即位の礼 大嘗祭に世界百六十有ヶの国の元首代表が参列し 内閣総理大臣以下一億二千萬人の国民が挙って 御奉祝申上げる
 我等は
滿洲事麥以降大東垂戰爭の終結に至るまで 戦地に赴き 国家の干城として奮闘
 九死に一生を授かって この目出度き国家の慶事に遭う 生涯の恵に感泣し
 七生報国の誓を新たにす
 今茲に 先帝陛下の「耐ヘ難キヲ堪へ忍ビ難キラ忍ビ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」との聖旨を仰ぎ 国体の精華を讃え我が国の悠久の弥栄を祈念し 聖寿の万歳を寿ぎ奉り御大典奉祝の記念碑とす
 平成2年8月15日

場所:

https://maps.app.goo.gl/EorGdiXFBEbFb4iC9


八戸あれこれ

今回、人生初の八戸ということもあり、いろいろ堪能してみました。

へー、サバ日本一なのか。
サバのまち八戸

八戸駅の駅そば
駅そばはみかけると入ってしまいます。

天玉そば

地震の影響で、市街地に道路封鎖あり。

NTTの鉄塔に被害。
あと、JR西日本八戸線の鉄橋にも被害があって、JR八戸線も運休。

出張先の六ケ所村での昼食。
貝の味噌鍋、貝のエキスが染み出て美味でした。

JR八戸駅

JR八戸駅ちかくの海鮮居酒屋「浜小屋」さん。
おおあたりで美味。

本つぼ鯛
一番のおすすめ

本マグロカマトロにぎり、やばい

地場の日本酒も美味。

JR駅前のホテルから。

朝飯。
しじみ出汁茶漬け

八戸せんべい汁

なんばんみそ

八戸の山車、三社大祭

お土産ランキング。

「鶴子まんじゅう」を買いました。

もちろん、「なかよし」も。

駅中横丁、で。
イカ飯とせんべい汁を。

帰りの新幹線。

この日の移動距離など。

八戸、楽しく美味しい街でした。
今度は、ゆっくり散策してみたく。

撮影:2025年12月


秩父の近代史跡散策

秩父に行っていたので、駅周辺を散策してみました。



羊山公園

武甲山から北に尾根上に伸びる羊山丘陵にある応援。
「羊山」の名称は、戦前に埼玉県の「綿羊種畜場」が設けられていたことによる。

眺望。西側に秩父市街地が広がる。

秩父公園橋(秩父ハープ橋)


忠霊塔(羊山公園)

羊山公園にある、忠霊塔。
秩父出身の英霊を慰霊する。

忠霊塔

合掌

秩父市民心を同じくし力を協せて特に此の地を選び忠霊塔の威容ここに仰ぐ
先に太平洋戦争の暗雲去って平和来たり
我が国の独立更に陽光を迎えて国民斉しく忠魂を偲ぶ我が郷土
日露戦争以来殉国の英霊を景仰し愛国奉公の至情を追慕すること厚く
ここに高くその英風を顕彰し常に深く其の正気を思念す
庶幾わくは魏然たるこの聖塔を郷土の柱石と観じ相共に平和自治の建設と文化産業の興隆とに邁進せむ
 昭和29年7月
  秩父市忠霊塔建設委員会
  文学博士河野省三撰文並謹書

おっ、河野省三先生。埼玉出身の国学・神道学者。神社関係を調べていた時は、河野先生の関連はよく目にしていたが、戦跡関連では初めてかも。


柿原万蔵翁像(羊山公園)

秩父鉄道の前身となる上武鉄道の創始者、初代社長。
秩父織物業界、秩父産業を代表する人物、秩父銀行の設立等にも参加。
現在の柿原万蔵翁像(2代目)は、北村西望が昭和29年に建立。

柿原万蔵翁像
ここに立つのは秩父鉄道の創業者で初代社長 柿原万蔵翁(1860-1919年)の銅像です。
1939年に同翁頌徳会建立の像は先次大戦に供出されたため1954年同会が再度北村西望氏に依頼し製作しました
 1994年11月
  秩父鉄道株式会社

台座は、創建時の昭和14年建立。

柿原万蔵翁銅像入口

昭和14年3月
頌徳会

入り口の石柱は、創建当時のもの。


秩父事件追念碑(羊山公園)

尾崎咢堂(尾崎行雄)の扁額。
1949年(昭和24年)10月の建立。

秩父事件は、自由民権運動の影響下で発生した埼玉県秩父郡の農民と士族が政府に対して負債の延納、雑税の減少などを求めて起こした武装蜂起事件。

秩父事件関係は、吉田の椋神社にも訪れているので、別でそのうちまとめてみたいとは思いつつ、ですが。


牧水の滝・若山牧水 喜志子 比翼歌碑(羊山公園)

羊山公園にある人工の滝。
大正時代に秩父を数回訪れている歌人・若山牧水にちなむ。

秩父町出はづれ来れば機をりのうた声つゞく古りし家並に(若山牧水)

のび急ぐしたもえ草のあさみとりあやふくぞおもふ生ひ立つ子らを(若山喜志子)


せっかくなので秩父のあれこれ、を。

西武鉄道 西武秩父駅

2017年にリニューアルした駅舎。「特急Laview」と「武甲山」
秩父散歩のはじまりは、西武秩父駅から。

羊山公園にいったのであれば、武甲山資料館にも行くべきでしたが、時間の兼ね合いで、未訪問。また今度。


秩父鉄道 御花畑駅

西武秩父駅から御花畑駅までは、歩いて5分ほど。
御花畑駅の駅舎は大正6年造営となり「国登録有形文化財」登録。

https://www.city.chichibu.lg.jp/4263.html


秩父そば 御花畑駅そば店

「せきた」の特挽地そば
天皇陛下に献上の蕎麦が、駅そばで食べれる贅沢。
普通に美味しい、し。

「みそぽてと」は、優勝


秩父鉄道 影森駅

地上の旧駅舎は2016年に取り壊しとなり、現在は、駅ホーム上に駅舎がある。
今回、秩父に行こうと思った「大淵寺・護国観音」の最寄り駅。


秩父パリー食堂/カフェ・パリー(秩父の近代建築)

国登録有形文化財
昭和2年

https://www.city.chichibu.lg.jp/4274.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/141101

カフェ・パリー
所在地:秩父市番場町19番8号
年代:昭和2年
構造:木造2階建、鉄板葺
建築面積:60㎡
登録日:平成16年2月17日
 この建物は、店舗兼用住宅の木造2階建て片流れ造金属板葺き屋根となっています。屋根は正面側
が高く、この屋根を隠す位置までラスモルタル塗の外壁が大きく立ち上がり、最上部にコーニスを廻しています。コーニスの下にはエッグアンドダーツ(卵鏃文様)のモールディングが施されています。小屋裏にあたる位置は窓を付け3階建てを思わせる外観となっています。正面建具はこの小屋裏窓の他は建築当時のものではありませんが、窓上部の装飾はみな当初のものとなっています。このように外観は近代洋風の様相となっていますが、内部は店舗部分の調理場と客席を除き、従来の木造建築の様相となっています。
 昭和時代初期から昭和30年代かけての秩父の賑わいを今に伝える近代商店建築の一つとして貴重な建造物となっています。
 <登録基準:「造形の規範となっているもの」に該当>

秩父で、有名な食堂。
近代建築としても、興味深い、昭和レトロ食堂。

せっかくなので。

一番人気の「オムライス・プリンセット(クリームソーダ付き)」


安田屋(秩父の近代建築)

パリーの隣の安田屋も昭和レトロ。
建築は、昭和5年ごろ。国登録有形文化財。

https://www.city.chichibu.lg.jp/4275.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/169142

創業は大正5年。猪牛豚味噌漬けの安田屋。

https://yasudaya-shop.com

秩父名物なので、購入しました。
「安田屋のみそ漬(豚肉)」


小池煙草店(秩父の近代建築)

現在は、たばこ店ではなく、リノベーションした「小池カフェ」と「NIPPONIA秩父 門前町(KOIKE・MIYATANI棟)古民家ホテル」として営業をしている。
国登録有形文化財。
昭和初期の建造。

https://www.city.chichibu.lg.jp/4276.html

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/141101

小池煙草店
所在地:秩父市番場町17番10号
年代:昭和初期
構造:木造2階建、鉄板葺
建築面積:61m2
登録日:平成16年2月17日
 この建物は、番場通りと昭和通りの交差する角地に建てられた木造2階建てで、北西側(番場通り
側)の屋根が高くした片流れ造金属板葺きとなっています。外壁は屋根を隠す位置まで大きく立ち上
がり、最上部にはコーニスと葉飾りのモールディングを施し、交差点隅部を曲面として、煙草売場力ウンターを設け正面としています。正面建具は1階の出入り口と販売カウンターを除いてほぼ建築当初のもので、2階の窓周りの縁取りなど装飾性に富んだ店舗兼用住宅となっています。
 開店当時は東京の専売公社からモデル店舗に指定され写真入で関係機関に宣伝されたと伝えられています。昭和時代初期の近代商店建築の好例として貴重な建造物となっています。
 <登録基準:「造形の規範となっているもの」に該当>



西武秩父駅前温泉 祭の湯

2017年に開設された秩父の温泉

風呂上がりに。生ビール。

2杯目は、「リポビ」(リポビタンD&ビール)
みそポテトアイスも美味。

温泉むすめ 秩父美祭

名物 ちちぶ餅
やわらかさにびっくりする、「つぶしあん」の餅

秩父錦甕口酒の日本酒ジェラート

たまには、のんびり秩父観光も楽しいですね。


※撮影:2025年11月


近衛師団司令部庁舎(東京建築祭2025)

「東京国立近代美術館工芸館」でもあった「近衛師団司令部庁舎」が一般開放していると聞いたので脚を運んでみました。


近衛師団司令部庁舎

国重文
明治43年(1910)造営。
陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風。明治洋風建築の代表建築。

周辺界隈は、下記も参照で

重要文化財 旧近衛師団司令部庁舎
建築 明治43年3月
指定 昭和47年10月

東京建築祭2025

重要文化財 旧近衛師団司令部庁舎
 この建物は、近衛師団司令部庁舎として明治43(1910)年3月に竣工したもので、設計者は陸軍技師田村鎮と考えられています。第2次世界大戦後は、皇宮警察の寮として使用されましたが、昭和38(1963)年の北の丸地区の森林公園整備計画策定に伴い、取り壊されることになりました。しかしながら、この建物は、明治時代の官庁建築の特徴をよく残すものとして現存する数少ない遺構であるため、その建築的価値を惜しむ声が寄せられ、重要文化財に指定した上で、東京国立近代美術館工芸館として活用することが決定されました(昭和47(1972)年重要文化財指定)。
 昭和48(1973)年から、美術館施設として活用するための保存修理工事が行われました。煉瓦壁体には破損が見られたため、内側に新たに鉄筋コンクリートの構造体を設けて補強するととともに、屋根を関東大震災後の桟瓦葺から建築当初のスレート葺に復原し、取り壊されていた軒蛇腹を整備するなど、創建当初の外観に復しました。内部は、保存状態の良かった中央の階段回りとホールの部分のみ当時の姿を残し、建築家谷口吉郎氏の設計により、美術館仕様に改修しました。
 工芸館は、昭和52(1977)年11月に開館し、政府機能移転基本方針により、令和2(2020)年10月に石川県金沢市に移転するまでの間、ここで活動していました、現在この建物については、今後の保存活用のために、重要文化財保存活用計画を策定しています。
 煉瓦造りのゴシック様式の外観のほか、床下通風口の金具、玄関アーチ両脇の四葉飾り、破風(ペディメント)の頂華(フィニアル)、大棟中央塔屋のデザインなどをお楽しみください。

近衛師団は、旧陸軍が北海道から九州までの主要都市に設置した19の師団のうちの一つで、明治時代から第2次世界大戦終了時までの皇室の警護を担っていました。

閉館しました Closed
東京国立近代美術館工芸館は2020年2月28日で東京での活動を終了し、2020年夏、石川県金沢市に移転します。
42年間、誠にありがとうございました。
工芸館は、通称・国立工芸館として新たに活動がはじまります。


近衛師団司令部庁舎 外観


近衛師団司令部庁舎 玄関


近衛師団司令部庁舎 裏口


近衛師団司令部庁舎 階段


近衛師団司令部庁舎 2階ホール

東京国立近代美術館工芸館の名残。。。

※撮影 2025年5月


関連

愛知県庁食堂と名古屋市役所食堂

先日、愛知県庁の近くで仕事があったので、せっかくなので「名古屋めし」を「役所めし」で味わうことにした。

結構久しぶりに、愛知県庁と名古屋市役所に足を運んだ次第。


愛知県庁食堂

愛知県庁。国重文化財。
愛知県庁本庁舎は1938年(昭和13年)3月完成。
昭和天皇御大典の記念事業の1つとして建設。頂部に名古屋城大天守風の屋根を乗せた帝冠様式。
日本趣味溢れる建造物。

令和8年1月30日まで
愛知県庁本庁舎屋根改修工事中

入口

5階に。

貴賓室がある。

食堂・喫茶室がある。

和定食を。

11時過ぎ。ランチタイムラッシュ前の食堂は空いていました。

国重要文化財の名古屋市役所をオカズに食するランチは贅沢の極み。

まどから、名古屋市役所を眺めることができます。

愛知県庁の内側。5回の窓より。

5階エントランス。

階段も重厚な感じ。

1階

なかなか楽しかった「愛知県庁めし」
歴史的な建物のなかで、歴史的な建物を眺めながら食べる「文化財めし」は最高の贅沢です。

愛知県庁本庁舎屋根改修工事は令和8年1月30日まで。


名古屋市役所

名古屋市役所。国重要文化財。
1933年(昭和8年)竣工。
政令指定都市の中では1927年竣工の京都市役所に次いで2番目に古い。
名古屋市役所本庁舎は、 昭和天皇即位の記念事業として建設され、日本趣味を基調とした近世式意匠の建造物として特徴的。いわゆる帝冠様式建物。

せっかくなので、隣の名古屋市役所にも行きたくなりました。

1階エントランス

地階

食堂がありました。

名古屋市役所本庁舎食堂は、すべてのランチに、サラダとスープとライスバー(白米と中華粥)が食べ放題。。。

さすがにお腹いっぱい(さっき愛知県庁で和定食を食べたばかり)なので、軽めに肉うどんをチョイスしサラダを盛りまして。
良い感じにお腹いっぱい。

ちょうど食べ終わった頃合いが、12時。食堂が職員で賑わってきましたので、ボチボチ退散。

1階。

帰りは、新幹線ホームで「みそきしめん(卵入り)」を食べて、久しぶりの名古屋出張は〆

※撮影2025年3月


関連

はじめに

旧朝香宮邸「東京都庭園美術館」散策(港区)

国立科学博物館附属自然教育園が、明治時代の「白金火薬庫の跡地」で、大正時代に宮内省の白金御料地になり、そして、朝香宮邸として、朝香宮鳩彦王が、昭和22年に皇籍離脱をするまで居住していた建物。
白金火薬庫からの流れで、足を運んでみました。


旧朝香宮邸(東京都庭園美術館)

需要文化財(建造物)
旧朝香宮邸
  四棟 本館・茶室・倉庫・自動車庫
  一基 正門
  所在地 港区白金台五丁目二六番
  指定 平成二七年七月八日
 朝香宮鳩彦王の住宅として昭和8年(1933年)に竣工した建築群で、昭和22年まで朝香宮の本邸として使われていた。
 本館は鉄筋コンクリート造2階建(一部3階建)で、外観は簡明な意匠である。中庭を囲むロの字形平面の南半分を客間や住居とし、他を事務や厨房にするのは、この時期の宮内省内匠寮設計の邸宅に共通の配置である。南側テラスは洋風庭園へ続き、和風庭園や正門からのアプローチも往時の雰囲気を良く留める。和風庭園には茶室が現存する。
 本館主要室の内装設計はフランス人装飾美術家アンリ・ラパンが担当、実施設計は内匠寮工務課技師の権藤要吉らが分担して行った。鳩彦殿下と允子(のぶこ)妃殿下は大正14年(1925年)にパリで、のちにアール・デコ博といわれる美術博覧会を視察。新邸にもアール・デコ様式が随所に採用され、新鮮かつ洗練された華やかな意匠に満ちている。正面玄関のガラス扉は工芸家ルネ・ラリックの作品として有名である。
 当時最新のフランスの芸術作品を取り入れたこの建物は、宮内省内匠寮による邸宅建築の頂点のひとつとして意匠的に優れ、価値が高い。
  東京都教育委員会

重要文化財 旧朝香宮邸 東京都庭園美術館 本館
アール・デコの館と呼ばれる旧朝香宮邸。1925年のアール・デコ博覧会でその様式美に魅せられた朝香宮ご夫妻は、自邸の建設にあたり、フランス人装飾美術家アンリ・ラパンに主要な部屋の設計を依頼。ルネ・ラリックのガラス扉など、アール・デコの精華を積極的に取り入れました。基本設計は宮内省内匠寮が担当し、建造には日本古来の高度な職人技が随所に発揮されています。旧朝香宮邸は、アール・デコ様式を正確に留め、昭和初期の東京における文化受容の様相をうかがうことができる貴重な歴史的建造物として、2015年に国の重要文化財に指定されました。

「建物公開2024」のイベントに便乗して、建物見学してきました。

正門

旧朝香宮邸本館
鉄筋コンクリート造2階建て(一部3階建て)、地下1階で1929年(昭和4年)頃から建築準備に取り掛かり1933年(昭和8年)5月に完成。

香淳皇后の叔父にあたる朝香宮鳩彦王がパリ遊学後2年をかけて建設し、1947年の皇籍離脱まで暮らした邸宅だった。この土地は白金御料地と呼ばれ、近世には高松藩松平家の下屋敷があった。明治期には陸軍の火薬庫が一時置かれ、後に皇室財産となっている。
宮邸は朝香宮一家が退去した後、吉田茂によって外務大臣公邸(ただし、外相は総理の吉田が兼務していたので実質的には総理大臣仮公邸)として、1947年から1950年にかけて使用された。
1950年には西武鉄道に700万円で払い下げられ、1955年4月に白金プリンス迎賓館として開業し、国賓・公賓来日の際の迎賓館として1974年まで使用された。
1971年にホテル建設計画が発表されたが反対運動が起こり、1974年5月からプリンスホテルの本社として使用された後、1981年12月に139億円で東京都に売却され、1983年(昭和58年)に都立美術館の一つとして一般公開される。


旧朝香宮邸外観散策

正面から。
やばいですね、ずっと見ていられる。全然飽きない。現在でも通用するデザインの美しさ。

庭園側から。

庭園側は、表とはまた雰囲気が変わる。これはこれで良き。四角と、ワンポイントな曲線のバランスが良き。


旧朝香宮邸内部散策

年に一度の「建物公開」の際は、館内撮影もOK。何も考えずに足を運んでいたが、これは私はだいぶ運が良いですね。

正面玄関

建物公開のコンセプトが「あかり、ともるとき」
朝香宮邸の特徴的な「あかり」が「ともされるとき」は、いちいち狙いすぎて、きれいすぎる。

第一応接室

大広間

次室

小客室

大客室

1階テラス

大食堂

大食堂の曲線美が、ね。

第一階段

2階広間

若宮寝室

若宮居間

テラス

書斎

殿下居間

殿下寝室

第一浴室

妃殿下寝室

朝香宮鳩彦王妃允子内親王
明治天皇第8皇女

ベランダ

妃殿下居間

2階廊下

姫宮寝室

姫宮居間

3階への階段

ウインターガーデン(温室)

小食堂

姫宮寝室前廊下

これはずるい。こんなライト、絶対的に勝利すぎる。

こんな感じで、朝香宮邸とライトを堪能した建物見学でした。

※2024年9月撮影


関連

「鉄道聯隊材料廠・内部公開」(千葉経済大学)

千葉県内に残る鉄道連隊の戦跡。
千葉や習志野、津田沼界隈に多く残っている。
当サイト内でもいくつか掲載をしてきていた。

今回は、千葉経済大学の構内に残る、貴重な煉瓦建造物の内部公開があったので、足を運んできた次第。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

市内に点在している案内看板より。

上記の米軍航空写真から該当部分を拡大。


千葉経済大学企画展
「学び舎に残る歴史‐煉瓦棟と千葉の戦跡‐」

https://www.cku.ac.jp/news_all/11789

https://www.cku.ac.jp/news_all/12889

千葉経済大学総合図書館では、前期企画展示として「学び舎に残る歴史 ~煉瓦棟と千葉の戦跡~」を5月27日から開催しています。展示期間は当初8月23日までの予定でしたが、好評につき展示ブースを拡大し、10月31日(木)まで期間を延長いたします。
 本学の敷地内に残る「旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)」は、千葉県内でも珍しい明治に創建された大規模煉瓦建築物で、千葉県有形文化財に指定されています。今回の企画展示では、その「旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築」を中心に、本学周辺に残る旧軍施設の成り立ちや現状、および地域史に欠くことのできない背景についても紹介しています。

通常は非公開。2024年の企画展で特別に内部も公開された。

千葉県指定有形文化財
 旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
 この煉瓦建築は、明治41年、鉄道聯隊材料廠の機関車の修理工場として建築されたもので、その後昭和20年旧日本国有鉄道が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用、昭和60年から千葉経済学園の所有となったものである。
 千葉県内に数少い明治年間創建の大規模な煉瓦建築の一つであり、特に内部の東西方向に二列に連なった十連の雄大なアーチ構造は、全国的にも他に比類がなく、この建物の主な特色となっている。
 従って、我が国明治期の煉瓦建造構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。
 右の理由により、千葉県指定有形文化財として指定をうけたものである。
  一、指定年月日 平成元年3月10日
  一、構造 煉瓦造アーチ構造、木造小屋組
  一、面積 695.6平方メートル
     千葉経済学園

千葉県指定有形文化財
旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
  所在地 千葉県稲毛区轟町3-59-6
  所在者 学校法人 千葉経済学園
  指定日 1989(平成元)年3月10日
 この建物は1908(明治41)年、旧鉄道連隊の材料廠※として建築された。大正時代には旧陸軍の兵器庫としても利用されていたが、戦後は大蔵省、国鉄と引き継がれ、1985年(昭和60)年に千葉経済学園の所有となり現在に至る。
 主要部分は、54.4m×7.3mと細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積と呼ばれる技法を用いている。
 県内では数少ない明治時代の大規模な煉瓦建築であり、10連の雄大なアーチ構造は、全国的にも類例がない。我が国の近代建築史における初期煉瓦建築の構造を知る上で、極めて重要かつ貴重な建築である。
 ※廠:壁の仕切りがない、広い建物のこと。工場、倉庫。 


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)内部公開

通常は非公開。今回の企画展に伴い特別にスタッフ立ち会いのもとで内部公開も実施された。ヘルメット着用必須。

1908年(明治41年)8月に、陸軍鐵道第一聯隊の材料廠として鉄道軌道の材料や蓄積の管理、列車の組立や修理を行うことを目的に建設。
主要構造部分は、東西54.4m、南北12.7mの東西に長い長方形。(南北にそれぞれ2.7m幅の下屋を含む)主屋の東西:煉瓦造、下屋・小屋組:木造、屋根:トタン葺き、木造部分の外壁:トタン張り
内部は煉瓦造の連続した10連の弧形アーチが5.4m間隔で並んでいる。

煉瓦の積み方は、オランダ積み。交差イギリス積みとも。

建設当時から使用されているクレーン。

クレーン用にもレールが曳かれている。

棟内にあった資料。
限られた時間で、詳細を目通しするのはムリでした、、、

昭和63年の煉瓦試験結果報告書

煉瓦建築に関する調査報告書
平成元年


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)軌道跡

南側の外には2種類の幅の違うレール600mm(鉄道聯隊演習路線)・1067mm(軍用鉄道・国鉄など)が一部残っており、当時の出入り口に続いている

ふたつのレール幅が確認できる。


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)外観

ところどころ、崩れかかっている箇所が気になる。


千葉経済大学企画展
「学び舎に残る歴史‐煉瓦棟と千葉の戦跡‐」
展示コーナー(図書室)

配布資料

ペーパークラフトにて煉瓦棟を模型再現

旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築 模型
千葉経済大学模型部作成 1/150サイズ

航空写真

旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
概要や歴史、工事年表など

鉄道聯隊について(1)

小湊鐵道に残る鉄道聯隊の痕跡
鉄道聯隊で使用されていた蒸気機関車(B104)や」鉄道聯隊のマークが刻まれたレール、97式貨車の写真など。

枕木
旧千葉県営鉄道多古線の路線跡から出土した金属製の軽便鉄道枕木
千葉経済大学敷地内にかつてあった千葉レールセンターで使用されていたと推測される木製枕木

鉄道聯隊について(2)

千葉県営鉄道

近隣(習志野・佐倉・四街道)の軍施設

大学周辺(千葉市内)の軍施設

※撮影:2024年10月


関連

旧陸軍第四師団司令部庁舎と大阪城の戦跡散策

大阪城周辺を訪れる機会があったので、前回記事の不足分などを補填的に掲載をしてみる。
仕事終わりの夕方の18時頃に。


大阪城周辺の戦跡

下記も参照に。
本記事は、下記に掲載しきれていない内容を中心としております。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。


第四師団司令部庁舎

「旧・大阪市立博物館」は、かつての「第四師団司令部庁舎」
第4師団司令部庁舎として昭和6年(1931)3月に竣工。
大阪城天守閣の復興のために集められた寄付金約150万円の内、約80万円を投じて1931年(昭和6年)に本丸に新築された。
外観は左右対称のロマネスク様式を採用。
1940年(昭和15年)に、中部軍司令部が「第四師団司令部庁舎」に入り、第四師団司令部は二ノ丸に移転。
1945年(昭和20年)に、中部軍は第15方面軍の編成により廃止、第15方面軍司令部と中部軍管区司令部が「第四師団司令部庁舎」を使用。
終戦とともに、GHQに接収。
1948年にGHQ接収解除、その後は大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として使用され、1958年からは、大阪市の管理下におかれる。
1960年からは、大阪市立博物館として使用され、市立博物館としては2001年に閉館。
2001年から、2016年までは特に何にも利用されずに保全され、2017年に複合施設「ミライザ大阪城」として再開業。

この建物は、昭和天皇の即位を記念して、昭和6年(1931年)市民の寄付により当時の金額にして150万円が集められ大阪城天守閣の再建、大阪城公園の新設とあわせて、第四師団司令部として建設されたものです。

外観をヨーロッパ中世の古城に似せた堂々とした建築で、壁面上部の装飾や、正面及び四隅の隅塔などにその特徴があります。

戦後は、大阪市警視庁として、またそのあとは大阪府警察本部として使用されましたが、内部を改装し、昭和35年から平成13年まで、大阪市立博物館として使用されました。
その後、耐震補強工事などのリノベーションが施され、平成29年(2017年)10月、装いも新たに複合施設「ミライザ大阪城」としてよみがえりました。


明治天皇駐蹕之所

大阪市青年聯合團によって建てられた石碑。
大正14年(1925年)5月10日建立。


明治天皇聖躅 臨時軍事病院跡

あぁぁ、見逃したあ、、、
司令部庁舎前の向かって左側の植え込み、、、


山里丸石垣の機銃掃射痕

山里丸石垣の機銃掃射痕
石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の痕跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度におよぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった、山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北側内堀に面した石垣も数か所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。

機銃掃射痕が、斜めに刻まれていた。


天守大石垣の爆撃被害跡

天守大石垣の爆撃被害跡
昭和20年(1945)陸軍の関連施設が集中していた大阪城は終戦前日の8月14日を最大とする爆撃を数次にわたって受けた。これにより大阪城天守閣付近の石垣も大きな被害をこうむっている。天守台北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」はこの時のもので、天守閣の北数メートルの地点に落ちた爆弾によるものである。昭和6年復興の天守台に荷重をかけない構造だったため影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行を止めるための工事が行われた。

石垣が「ずれ」ているのがよくわかる。
爆撃の衝撃の大きさが、如実に伝わってくる。

※撮影:2024年5月


宇都宮歩兵聯隊の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策4)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その4」です。「その3」は、以下にて。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


見返り橋(水無橋)

かつての用水路あとに橋の欄干のみ残っている。
歩兵聯隊に入隊する新兵を、家族や友人がこの橋まで見送り、別れを告げる場所であったため、当時は見返り橋といわれたという。

場所

https://maps.app.goo.gl/zPXbBSDDFJEstx3F7

歩兵59聯隊の兵営地は、とちぎ福祉プラザとなっている。

いったん北に向かいます。


宝木開拓之碑(宝木練兵場跡地)

歩兵59聯隊と歩兵66聯隊の兵営地の北側に、開拓児童公園と若草町三区公民館があり、そこに「宝木開拓之碑」がある。

宝木
開拓之碑

碑文
この地は、明治41年以降宝木練兵場として陸軍の精鋭を育んで来たが昭和20年大東亜戦争の終結により我等36名が入植し開墾を行なった。
入植当時は、一望の原野でしかも永年に亘り軍靴に踏み固められた不毛の地であったが、(以下略)
 昭和46年3月12日
  宝木開拓農業協同組合

場所

https://maps.app.goo.gl/bM5vn2kj31xCRecQ6


宇都宮歩兵聯隊跡碑

わかくさアリーナ敷地内に記念碑がある。

碑文は、第16代聯隊長 林 茂清
扁額は、栃木県知事 横川信夫
建立は、昭和38年3月10日、宇都宮歩兵聯隊史跡保存会による。
宇都宮歩兵聯隊史跡保存会は、宝木会(歩兵第59聯隊および東部第36部隊の関係者)を主体とし、その他有志によって組織されたもの。

至誠
宇都宮歩兵聯隊跡

記念碑建立の趣旨
宇都宮歩兵聯隊は明治三十八年八月畏くも 明治天皇より軍旗を親授せられ明治四十一年 宇都宮市宝木の兵営に入城 爾来四十有余年間軍旗の下父子相継ぎ郷土部隊として特に県民に親しまれつつ護国の大任に当った 
その間日露戦争 シベリヤ上海満州日支の各事変及び大東亜戦争に参加し常に赫々たる武勲を樹て野州健児の名聲を高からしめた 
然るに昭和二十年八月終戦の天詔喚発せられ歩兵第五十九聯隊は南洋パラオ島において又歩兵第六十六聯隊は東部ニューギニヤにおいて夫々悲憤の涙に咽びつつ謹んで軍旗を奉焼した 
我等聯隊出身者及び有志は今は無き軍旗の栄光を偲ぶと共に祖国の為散華せられた幾多先輩戦友の英魂を慰めるため思い出深き旧営庭跡に記念碑を建立し之を永く後世に伝えんとするものである
 昭和38年3月10日
  宇都宮歩兵聯隊史跡保存会
  および 有志一同

場所

https://maps.app.goo.gl/RzEUFYdMboA2y72r7


宇都宮歩兵聯隊の北営門の門柱(栃木県警察学校)

宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の北営門の門柱が、警察学校の門柱として、残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/FSVb5ftYrrdAHxGF9

警察学校の西側敷地内。石碑とか胸像がある。

殉職警察官の慰霊碑。昭和3年3月建立の石碑。

胸像は委細不明

栃木県警察学校の門柱。これは陸軍とは関係なさそう。


宇都宮歩兵聯隊の倉庫

栃木県立宇都宮中央高等学校(旧・宇都宮中央女子高等学校)の敷地内に、赤レンガ倉庫がのこっている。
宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の炊事場として使われた庖厨棟という。

明治40年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵聯隊の厨房関係施設として建設され、現在は倉庫に用いられている。
切妻造・平屋建で、外壁がイギリス積み煉瓦造、小屋組は木造トラス。
宇都宮に残る軍事関連施設のうち、唯一の明治期の建物となる。

敷地外から遠望。

倉庫は2000年(平成12年)に「宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫(旧第六十六歩兵連隊倉庫)」として国の登録有形文化財に登録された。

場所

https://maps.app.goo.gl/mX4UCfw1DMHRQxtW8

※撮影:2024年1月

「その5」へ


関連

栃木縣護國神社

軍艦建造技術を活用した日本初の大規模全溶接構造橋梁「田端ふれあい橋・旧田端大橋」(昭和10年建造)

横浜の「瑞穂橋」を調べていたら、溶接橋として日本初は、昭和9年の瑞穂橋であったが、本格的な大規模全溶接橋は、昭和10年の「田端大橋」であったと知り、そうと知ったら、居ても立ってもいられずで、急に現地に赴いてみた次第。


田端ふれあい橋・旧田端大橋

昭和10年(1935年)12月完成。全長135m。
全溶接構造橋としては、日本初にして東洋初であり、完成当時としては世界的な規模の橋梁であった。
設計者は、鉄道技師の稲葉権兵衛(代表作は筑後川昇開橋・田中豊博士の門下生)で、当時の橋梁界を率いていた田中豊博士指導のもとで行われた。
建設は「川崎造船所」(川崎重工の前身)。
軍艦製造技術で培われた溶接が本格的に橋梁建設に導入された歴史的に意義のある建造物。
ちなみに川崎造船所は、勝鬨橋や清洲橋、白鬚橋、永代橋など多くの震災復興橋の建造も手掛けている。

現在の田端大橋は、1987年に架橋。旧田端大橋は取り壊し予定であったが、計画変更で1992年に人道橋に改装された。愛称は「田端ふれあい橋」。
改装後は、主桁を隠し橋面側面ともタイル化粧板などで覆われて、まったくもって歴史的な趣が感じ出せなくなっている。非常な残念なデザイン。
もっとも、歴史的な意義は別として、植栽とタイルで、フレンドリーな感じに生まれ変わっている。

タイル張りには、歴史の趣が感じられない。

橋の上から探して、ようやく橋脚がみえる場所に。
ちなみに、橋脚を見ようとしてもなかなかビューポイントがなく。

親柱

田端大橋

昭和十四年三月成 東京府

田端ふれあい橋の橋上で、歴史を感じられたのは、ここのみ。

旧田端大橋の生い立ち
橋の由来
 旧田端大橋は、昭和十年に架建された突桁式下路版桁三径間ゲルバー式 全溶接橋です。
 当時、この橋は現場継手部も溶接した文字どおりの全溶接橋として東洋では最初で最大級の橋として注目を浴びました。
 この溶接技術は、そのころの造船技術(軍艦建造技術)を生かしたものであり、当時の技術者が遭遇した数々の苦労話がのこされています。
橋の概要
 施工年月日 昭和十年十二月二十七日
 形式    突桁式下路版桁三径間ゲルバー式
 橋長    一三五.〇メートル
 橋梁巾   一三.八〇メートル
 道路幅員  一一.〇〇メートル(当時)
 総鋼重量  約五九一トン(当時)
残存の経緯
 旧田端大橋は、近年の経済発展に伴う自動車交通量の増加と年月の経過による老朽化が進んだため、東京都は昭和六十二年に新田端橋を架建しました。
 新田端橋が開通したことにより、本橋の役目は終り、当初の計画では撤去する予定でありました。しかし歴史的にも学術的にも貴重な橋であり、また地域住民の方から歩行橋として再生利用の要望があることを考え、田端ふれあい橋として生まれ変わることになりました。
  平成四年三月 東京都北区

ふれあい橋について
田端ふれあい橋の概要
 田端ふれあい橋は、駅前広場と公園機能を合わせもった田端のシンボルとなる歩行者専用の橋です。
 この橋は、通勤、通学に利用するだけではなく、散歩道として、または待ち合わせの場所、憩い語らいの場としての快適な歩行空間をつくるとともに、自然の樹木によるやすらぎ、高欄や花壇の自然石による落ち着き、門柱や街灯による時代感を感じさせるものとしました。
田端ふれあい橋の特色
步行部
 花壇の形態を波型の曲線にすることにより平面的なやわらかさを出し、カリオンと二本のしらかしによって立体的なアクセントをつけました。中央の白御影石の部分を通行ゾーン、両側のタイル舗装部分は休憩・たまりゾーンとしています。
植栽
 花壇の縁石には赤御影石を使用しそのその重厚感による落ち着きを出すとととも、座って 話をしたりすることができます。 樹種は四季折々の花や葉が楽しめるように数多くの種類を配しています。
高欄
 木の枝をモチーフしたデザインは花壇の植栽と一体感をなし、快適な歩行空間をつくり出しています。
門柱
 大正時代の洋風赤れんが造りと銅板の屋根により、この橋の入口を表現しています。
カリオン
 文化の香り高い田端の発展を望んで 「希望の鐘」と名づけました。橋の中央に位置し、四種類の音色で時を知らせます。
展望窓
 上野駅側二か所に電車や線路が見える幅四mの大きな展望窓があります。
  平成四年三月
   東京都北区


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8921-C3-38
1944年11月7日、日本陸軍軍撮影の航空写真を加工。

田端大橋の様子がよくわかる。


田端ふれあい橋・旧田端大橋の主桁・橋脚

下を見れる場所に。

リベットがないです。
素人なので、細かいことはわかりませんが、全溶接橋として、リベットのない形態は、すらっとストレートな様相。美しいですね。

リベットがない!!としか言えない素人ですみません。


田端ふれあい橋・旧田端大橋の路面部分

ここは、歩いても、歴史が感じられないので、さらりと。。。
新幹線の橋梁が目線を遮ります。

門柱

側面には「田端大橋」
ん?旧称で良いの?

現在の田端大橋と、旧田端大橋の間。

高さが違いますね。
旧田端大橋は撤去予定だったので、建造時は高さをあわせるつもりがなかったことがわかります。

なので、両方の橋を横断する場合は、段差が生まれます。

高欄
波打つベンチと植栽。子供が近寄って電車見学ができない仕様。

「華」と銘された金色の裸女像。樹木が後光のようで。意味は不明。

鉄道の街「田端」にちなむ展示物など。
40Kレールとポイントリバー

連結器カバー(東北新幹線200系)

車輪(東北新幹線200系)

希望の鐘。ここにある意図や意味は不明。

静思と銘された女性像。

歴史を感じさせない路面。

新田端大橋と田端ふれあい橋の、JR側の入口。

いつもとはちょっと違う散策もたまにはたのしいもので。

なお、JR西日本ホームからも「田端ふれあい橋」をみることはできますが、やっぱりタイル化粧板に覆われて、残念な感じではある。

※撮影:2024年8月

場所

https://maps.app.goo.gl/mgTye1gbxotTNwUw8


日本初の溶接鉄道橋「瑞穂橋梁」(昭和9年建造)と横浜ノース・ドック

「瑞穂埠頭(瑞穂ふ頭)」
大東亜戦争後の昭和21年に米軍に接収され、横浜ノースドックとして、在日アメリカ軍の湾岸施設として使用されている場所。
そこには、瑞穂橋(道路橋)と併設している瑞穂橋梁(鉄道橋)が架かっている。
そんな瑞穂埠頭は、橋の向こうは、米軍施設などもあり、立ち入りが制限されているというが、足を運んでみました。


瑞穂埠頭(瑞穂ふ頭)・横浜ノースドック

もともとは、外国貿易埠頭として1925年(大正14年)に着工し、昭和20年(1945年)に完成したが、終戦後に連合国軍に接収。1947年(昭和22年)より在日米軍が使用している。
現在、在日米陸軍施設管理本部(ふ頭地区)、在日米海軍横須賀基地司令部(郵便地区)が展開されている。
ふ頭地区は、中型・小型船舶用バース、野積場、倉庫等があり、物資の搬出入や軍人・軍属等の移動に伴う貨物輸送業務(相模総合補給廠や横田飛行場の兵站拠点に運ばれる米陸軍物資の陸揚げ拠点)が行われている。
郵便地区は、艦隊軍事郵便センターが置かれ、極東からペルシャ湾に至る米海軍関係の軍事郵便業務が行われている。

部分返還が進んでおり、2009年に瑞穂橋及び港湾道路(土地:約27,000平方メートル、水域:約2,500平方メートル)が返還。2021年に使用されていない鉄道レール(工作物)や周辺の土地(約1,400平方メートル)が変換されている。

2024年には、在日米陸軍第10支援群(司令部・沖縄県読谷村)下として「第5輸送中隊」が新設運用され、全面返還とは、異なる動きも発生している。

横浜市サイト

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/kichi/shisetsu/yokohama-northhtml.html


瑞穂橋梁(かながわの橋100選)

2021年に返還された鉄道橋「瑞穂橋梁」。
瑞穂埠頭内に敷かれていた線路は終戦前から利用されており、1946年の接収後も物資を搬出入するための引き込み線として使われていたが、近年は使われていなかった。

「瑞穂橋梁」は2021年に返還された線路などの一部に含まれており、内陸側とノース・ドック側をつないでいる橋梁。
1934年(昭和9年)に建造され、従来のリベット工法から新たな技法として取り入れられた、日本最初の溶接鉄道橋である。

※昭和10年の田端大橋が、田端駅北側ヤードの上を横断して架けられた跨線道路橋で、現場継手も溶接した日本最初の全溶接橋であった。当時は世界最大級の溶接橋であり、現在は歩行者専用橋「田端ふれあい橋」として補強して現存している。

瑞穂橋の返還後を管理する「南関東防衛局」では、基地返還後は現状復帰として「工作物は撤去する」とされており、線路設備や橋梁は解体撤去される方針とのことで。。。
いつまで、見れるかは、なんとも。。。

昭和9年に建造された鉄這橋で、わが国最初の溶接鉄道橋として知られている。構造は鋼曲弦ワーレントラスとブレートガーダーとから成る。アーク溶接は鈑桁部、床組、対傾構の接合に用いられたが、トラスにはリベットが用いられている。橋長77.2mのうち、中央トラス部分は36m。溶接延長は6,458mあって、溶接橋の試験橋梁の意味を持っていた。この橋は瑞穂ふ頭への連絡橋で、現在は防衛施設庁が管理者となっている。(神奈川県庁サイトより)

https://www.pref.kanagawa.jp/docs/bd2/hashi100sen/05-mizuho.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:897-C9-137
1944年10月14日、日本陸軍撮影の航空写真を加工。

まだ埋め立ては一部なことがわかる。

航空写真レベルだと、横浜ノース・ドック内の海側の米軍の建屋3棟が、往時からのもので適合するが、米軍基地なので確認の術がない。。。

今昔マップ on the web

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.471864&lng=139.636488&zoom=17&dataset=tokyo50&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

2022年に撮影していた横浜ノース・ドック(大さん橋から撮影)
艦艇の後ろの建屋、これ戦前からと思われ、です。航空写真で適合したので。


瑞穂橋

瑞穂埠頭に渡るための橋。
以前は瑞穂橋も米軍接収で立入禁止であったが、日本に返還されており、いまは瑞穂橋はわたっても問題ないらしい。

橋を渡った先、瑞穂埠頭の横浜ノースドック側は、立ち入り制限あり。
ゲートを写すと怒られるらしいので、カメラは向けず。。。

なので、陸地側から望遠する。

大さん橋がみえる。(逆に大さん橋から横浜ノースドックも見えるが)

「Bar StarDust」「BAR POLESTAR」
老舗のバー「スターダスト」
「バー・ポーラスター」は、貸切営業のみで「スターダスト」に応相談、だそうで。


三井倉庫(三井倉庫横浜支店千若事務所)

かつてはクレーンが張り出していた三井倉庫だが(2023年写真ではクレーンを確認)、2024年現在、クレーンは撤去されている。
1953(昭和28)年に建てられた、ココアとコーヒー豆専用の倉庫という。

モザイクタイルで描かれた「三井マーク」

かつては線路も敷地内に引き込まれていたという。

横浜港湾部の貨物線「高島線」

場所

https://maps.app.goo.gl/noayR1gJXUwxqH5r7

※撮影:2024年5月