「近代建築」カテゴリーアーカイブ

近衛師団司令部庁舎(東京建築祭2025)

「東京国立近代美術館工芸館」でもあった「近衛師団司令部庁舎」が一般開放していると聞いたので脚を運んでみました。


近衛師団司令部庁舎

国重文
明治43年(1910)造営。
陸軍技師田村鎮の設計による赤レンガ造り、二階建て、スレート葺、簡素なゴシック風。明治洋風建築の代表建築。

周辺界隈は、下記も参照で

重要文化財 旧近衛師団司令部庁舎
建築 明治43年3月
指定 昭和47年10月

東京建築祭2025

重要文化財 旧近衛師団司令部庁舎
 この建物は、近衛師団司令部庁舎として明治43(1910)年3月に竣工したもので、設計者は陸軍技師田村鎮と考えられています。第2次世界大戦後は、皇宮警察の寮として使用されましたが、昭和38(1963)年の北の丸地区の森林公園整備計画策定に伴い、取り壊されることになりました。しかしながら、この建物は、明治時代の官庁建築の特徴をよく残すものとして現存する数少ない遺構であるため、その建築的価値を惜しむ声が寄せられ、重要文化財に指定した上で、東京国立近代美術館工芸館として活用することが決定されました(昭和47(1972)年重要文化財指定)。
 昭和48(1973)年から、美術館施設として活用するための保存修理工事が行われました。煉瓦壁体には破損が見られたため、内側に新たに鉄筋コンクリートの構造体を設けて補強するととともに、屋根を関東大震災後の桟瓦葺から建築当初のスレート葺に復原し、取り壊されていた軒蛇腹を整備するなど、創建当初の外観に復しました。内部は、保存状態の良かった中央の階段回りとホールの部分のみ当時の姿を残し、建築家谷口吉郎氏の設計により、美術館仕様に改修しました。
 工芸館は、昭和52(1977)年11月に開館し、政府機能移転基本方針により、令和2(2020)年10月に石川県金沢市に移転するまでの間、ここで活動していました、現在この建物については、今後の保存活用のために、重要文化財保存活用計画を策定しています。
 煉瓦造りのゴシック様式の外観のほか、床下通風口の金具、玄関アーチ両脇の四葉飾り、破風(ペディメント)の頂華(フィニアル)、大棟中央塔屋のデザインなどをお楽しみください。

近衛師団は、旧陸軍が北海道から九州までの主要都市に設置した19の師団のうちの一つで、明治時代から第2次世界大戦終了時までの皇室の警護を担っていました。

閉館しました Closed
東京国立近代美術館工芸館は2020年2月28日で東京での活動を終了し、2020年夏、石川県金沢市に移転します。
42年間、誠にありがとうございました。
工芸館は、通称・国立工芸館として新たに活動がはじまります。


近衛師団司令部庁舎 外観


近衛師団司令部庁舎 玄関


近衛師団司令部庁舎 裏口


近衛師団司令部庁舎 階段


近衛師団司令部庁舎 2階ホール

東京国立近代美術館工芸館の名残。。。

※撮影 2025年5月


関連

愛知県庁食堂と名古屋市役所食堂

先日、愛知県庁の近くで仕事があったので、せっかくなので「名古屋めし」を「役所めし」で味わうことにした。

結構久しぶりに、愛知県庁と名古屋市役所に足を運んだ次第。


愛知県庁食堂

愛知県庁。国重文化財。
愛知県庁本庁舎は1938年(昭和13年)3月完成。
昭和天皇御大典の記念事業の1つとして建設。頂部に名古屋城大天守風の屋根を乗せた帝冠様式。
日本趣味溢れる建造物。

令和8年1月30日まで
愛知県庁本庁舎屋根改修工事中

入口

5階に。

貴賓室がある。

食堂・喫茶室がある。

和定食を。

11時過ぎ。ランチタイムラッシュ前の食堂は空いていました。

国重要文化財の名古屋市役所をオカズに食するランチは贅沢の極み。

まどから、名古屋市役所を眺めることができます。

愛知県庁の内側。5回の窓より。

5階エントランス。

階段も重厚な感じ。

1階

なかなか楽しかった「愛知県庁めし」
歴史的な建物のなかで、歴史的な建物を眺めながら食べる「文化財めし」は最高の贅沢です。

愛知県庁本庁舎屋根改修工事は令和8年1月30日まで。


名古屋市役所

名古屋市役所。国重要文化財。
1933年(昭和8年)竣工。
政令指定都市の中では1927年竣工の京都市役所に次いで2番目に古い。
名古屋市役所本庁舎は、 昭和天皇即位の記念事業として建設され、日本趣味を基調とした近世式意匠の建造物として特徴的。いわゆる帝冠様式建物。

せっかくなので、隣の名古屋市役所にも行きたくなりました。

1階エントランス

地階

食堂がありました。

名古屋市役所本庁舎食堂は、すべてのランチに、サラダとスープとライスバー(白米と中華粥)が食べ放題。。。

さすがにお腹いっぱい(さっき愛知県庁で和定食を食べたばかり)なので、軽めに肉うどんをチョイスしサラダを盛りまして。
良い感じにお腹いっぱい。

ちょうど食べ終わった頃合いが、12時。食堂が職員で賑わってきましたので、ボチボチ退散。

1階。

帰りは、新幹線ホームで「みそきしめん(卵入り)」を食べて、久しぶりの名古屋出張は〆

※撮影2025年3月


関連

はじめに

旧朝香宮邸「東京都庭園美術館」散策(港区)

国立科学博物館附属自然教育園が、明治時代の「白金火薬庫の跡地」で、大正時代に宮内省の白金御料地になり、そして、朝香宮邸として、朝香宮鳩彦王が、昭和22年に皇籍離脱をするまで居住していた建物。
白金火薬庫からの流れで、足を運んでみました。


旧朝香宮邸(東京都庭園美術館)

需要文化財(建造物)
旧朝香宮邸
  四棟 本館・茶室・倉庫・自動車庫
  一基 正門
  所在地 港区白金台五丁目二六番
  指定 平成二七年七月八日
 朝香宮鳩彦王の住宅として昭和8年(1933年)に竣工した建築群で、昭和22年まで朝香宮の本邸として使われていた。
 本館は鉄筋コンクリート造2階建(一部3階建)で、外観は簡明な意匠である。中庭を囲むロの字形平面の南半分を客間や住居とし、他を事務や厨房にするのは、この時期の宮内省内匠寮設計の邸宅に共通の配置である。南側テラスは洋風庭園へ続き、和風庭園や正門からのアプローチも往時の雰囲気を良く留める。和風庭園には茶室が現存する。
 本館主要室の内装設計はフランス人装飾美術家アンリ・ラパンが担当、実施設計は内匠寮工務課技師の権藤要吉らが分担して行った。鳩彦殿下と允子(のぶこ)妃殿下は大正14年(1925年)にパリで、のちにアール・デコ博といわれる美術博覧会を視察。新邸にもアール・デコ様式が随所に採用され、新鮮かつ洗練された華やかな意匠に満ちている。正面玄関のガラス扉は工芸家ルネ・ラリックの作品として有名である。
 当時最新のフランスの芸術作品を取り入れたこの建物は、宮内省内匠寮による邸宅建築の頂点のひとつとして意匠的に優れ、価値が高い。
  東京都教育委員会

重要文化財 旧朝香宮邸 東京都庭園美術館 本館
アール・デコの館と呼ばれる旧朝香宮邸。1925年のアール・デコ博覧会でその様式美に魅せられた朝香宮ご夫妻は、自邸の建設にあたり、フランス人装飾美術家アンリ・ラパンに主要な部屋の設計を依頼。ルネ・ラリックのガラス扉など、アール・デコの精華を積極的に取り入れました。基本設計は宮内省内匠寮が担当し、建造には日本古来の高度な職人技が随所に発揮されています。旧朝香宮邸は、アール・デコ様式を正確に留め、昭和初期の東京における文化受容の様相をうかがうことができる貴重な歴史的建造物として、2015年に国の重要文化財に指定されました。

「建物公開2024」のイベントに便乗して、建物見学してきました。

正門

旧朝香宮邸本館
鉄筋コンクリート造2階建て(一部3階建て)、地下1階で1929年(昭和4年)頃から建築準備に取り掛かり1933年(昭和8年)5月に完成。

香淳皇后の叔父にあたる朝香宮鳩彦王がパリ遊学後2年をかけて建設し、1947年の皇籍離脱まで暮らした邸宅だった。この土地は白金御料地と呼ばれ、近世には高松藩松平家の下屋敷があった。明治期には陸軍の火薬庫が一時置かれ、後に皇室財産となっている。
宮邸は朝香宮一家が退去した後、吉田茂によって外務大臣公邸(ただし、外相は総理の吉田が兼務していたので実質的には総理大臣仮公邸)として、1947年から1950年にかけて使用された。
1950年には西武鉄道に700万円で払い下げられ、1955年4月に白金プリンス迎賓館として開業し、国賓・公賓来日の際の迎賓館として1974年まで使用された。
1971年にホテル建設計画が発表されたが反対運動が起こり、1974年5月からプリンスホテルの本社として使用された後、1981年12月に139億円で東京都に売却され、1983年(昭和58年)に都立美術館の一つとして一般公開される。


旧朝香宮邸外観散策

正面から。
やばいですね、ずっと見ていられる。全然飽きない。現在でも通用するデザインの美しさ。

庭園側から。

庭園側は、表とはまた雰囲気が変わる。これはこれで良き。四角と、ワンポイントな曲線のバランスが良き。


旧朝香宮邸内部散策

年に一度の「建物公開」の際は、館内撮影もOK。何も考えずに足を運んでいたが、これは私はだいぶ運が良いですね。

正面玄関

建物公開のコンセプトが「あかり、ともるとき」
朝香宮邸の特徴的な「あかり」が「ともされるとき」は、いちいち狙いすぎて、きれいすぎる。

第一応接室

大広間

次室

小客室

大客室

1階テラス

大食堂

大食堂の曲線美が、ね。

第一階段

2階広間

若宮寝室

若宮居間

テラス

書斎

殿下居間

殿下寝室

第一浴室

妃殿下寝室

朝香宮鳩彦王妃允子内親王
明治天皇第8皇女

ベランダ

妃殿下居間

2階廊下

姫宮寝室

姫宮居間

3階への階段

ウインターガーデン(温室)

小食堂

姫宮寝室前廊下

これはずるい。こんなライト、絶対的に勝利すぎる。

こんな感じで、朝香宮邸とライトを堪能した建物見学でした。

※2024年9月撮影


関連

「鉄道聯隊材料廠・内部公開」(千葉経済大学)

千葉県内に残る鉄道連隊の戦跡。
千葉や習志野、津田沼界隈に多く残っている。
当サイト内でもいくつか掲載をしてきていた。

今回は、千葉経済大学の構内に残る、貴重な煉瓦建造物の内部公開があったので、足を運んできた次第。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-168
昭和22年(1947年)9月24日、米軍撮影の航空写真。

千葉駅周辺の軍事施設跡など。

市内に点在している案内看板より。

上記の米軍航空写真から該当部分を拡大。


千葉経済大学企画展
「学び舎に残る歴史‐煉瓦棟と千葉の戦跡‐」

https://www.cku.ac.jp/news_all/11789

https://www.cku.ac.jp/news_all/12889

千葉経済大学総合図書館では、前期企画展示として「学び舎に残る歴史 ~煉瓦棟と千葉の戦跡~」を5月27日から開催しています。展示期間は当初8月23日までの予定でしたが、好評につき展示ブースを拡大し、10月31日(木)まで期間を延長いたします。
 本学の敷地内に残る「旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)」は、千葉県内でも珍しい明治に創建された大規模煉瓦建築物で、千葉県有形文化財に指定されています。今回の企画展示では、その「旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築」を中心に、本学周辺に残る旧軍施設の成り立ちや現状、および地域史に欠くことのできない背景についても紹介しています。

通常は非公開。2024年の企画展で特別に内部も公開された。

千葉県指定有形文化財
 旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
 この煉瓦建築は、明治41年、鉄道聯隊材料廠の機関車の修理工場として建築されたもので、その後昭和20年旧日本国有鉄道が大蔵省から借り受けて、レール等の修理工場として使用、昭和60年から千葉経済学園の所有となったものである。
 千葉県内に数少い明治年間創建の大規模な煉瓦建築の一つであり、特に内部の東西方向に二列に連なった十連の雄大なアーチ構造は、全国的にも他に比類がなく、この建物の主な特色となっている。
 従って、我が国明治期の煉瓦建造構造を知る上で極めて重要であり、近代建築史及び煉瓦建築の歴史を考える上でも貴重な建物である。
 右の理由により、千葉県指定有形文化財として指定をうけたものである。
  一、指定年月日 平成元年3月10日
  一、構造 煉瓦造アーチ構造、木造小屋組
  一、面積 695.6平方メートル
     千葉経済学園

千葉県指定有形文化財
旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
  所在地 千葉県稲毛区轟町3-59-6
  所在者 学校法人 千葉経済学園
  指定日 1989(平成元)年3月10日
 この建物は1908(明治41)年、旧鉄道連隊の材料廠※として建築された。大正時代には旧陸軍の兵器庫としても利用されていたが、戦後は大蔵省、国鉄と引き継がれ、1985年(昭和60)年に千葉経済学園の所有となり現在に至る。
 主要部分は、54.4m×7.3mと細長い長方形で、煉瓦の積み方は、段ごとに小口面と長平面とが交互に現れるイギリス積と呼ばれる技法を用いている。
 県内では数少ない明治時代の大規模な煉瓦建築であり、10連の雄大なアーチ構造は、全国的にも類例がない。我が国の近代建築史における初期煉瓦建築の構造を知る上で、極めて重要かつ貴重な建築である。
 ※廠:壁の仕切りがない、広い建物のこと。工場、倉庫。 


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)内部公開

通常は非公開。今回の企画展に伴い特別にスタッフ立ち会いのもとで内部公開も実施された。ヘルメット着用必須。

1908年(明治41年)8月に、陸軍鐵道第一聯隊の材料廠として鉄道軌道の材料や蓄積の管理、列車の組立や修理を行うことを目的に建設。
主要構造部分は、東西54.4m、南北12.7mの東西に長い長方形。(南北にそれぞれ2.7m幅の下屋を含む)主屋の東西:煉瓦造、下屋・小屋組:木造、屋根:トタン葺き、木造部分の外壁:トタン張り
内部は煉瓦造の連続した10連の弧形アーチが5.4m間隔で並んでいる。

煉瓦の積み方は、オランダ積み。交差イギリス積みとも。

建設当時から使用されているクレーン。

クレーン用にもレールが曳かれている。

棟内にあった資料。
限られた時間で、詳細を目通しするのはムリでした、、、

昭和63年の煉瓦試験結果報告書

煉瓦建築に関する調査報告書
平成元年


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)軌道跡

南側の外には2種類の幅の違うレール600mm(鉄道聯隊演習路線)・1067mm(軍用鉄道・国鉄など)が一部残っており、当時の出入り口に続いている

ふたつのレール幅が確認できる。


旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築(煉瓦棟)外観

ところどころ、崩れかかっている箇所が気になる。


千葉経済大学企画展
「学び舎に残る歴史‐煉瓦棟と千葉の戦跡‐」
展示コーナー(図書室)

配布資料

ペーパークラフトにて煉瓦棟を模型再現

旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築 模型
千葉経済大学模型部作成 1/150サイズ

航空写真

旧鉄道聯隊材料廠煉瓦建築
概要や歴史、工事年表など

鉄道聯隊について(1)

小湊鐵道に残る鉄道聯隊の痕跡
鉄道聯隊で使用されていた蒸気機関車(B104)や」鉄道聯隊のマークが刻まれたレール、97式貨車の写真など。

枕木
旧千葉県営鉄道多古線の路線跡から出土した金属製の軽便鉄道枕木
千葉経済大学敷地内にかつてあった千葉レールセンターで使用されていたと推測される木製枕木

鉄道聯隊について(2)

千葉県営鉄道

近隣(習志野・佐倉・四街道)の軍施設

大学周辺(千葉市内)の軍施設

※撮影:2024年10月


関連

旧陸軍第四師団司令部庁舎と大阪城の戦跡散策

大阪城周辺を訪れる機会があったので、前回記事の不足分などを補填的に掲載をしてみる。
仕事終わりの夕方の18時頃に。


大阪城周辺の戦跡

下記も参照に。
本記事は、下記に掲載しきれていない内容を中心としております。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。


第四師団司令部庁舎

「旧・大阪市立博物館」は、かつての「第四師団司令部庁舎」
第4師団司令部庁舎として昭和6年(1931)3月に竣工。
大阪城天守閣の復興のために集められた寄付金約150万円の内、約80万円を投じて1931年(昭和6年)に本丸に新築された。
外観は左右対称のロマネスク様式を採用。
1940年(昭和15年)に、中部軍司令部が「第四師団司令部庁舎」に入り、第四師団司令部は二ノ丸に移転。
1945年(昭和20年)に、中部軍は第15方面軍の編成により廃止、第15方面軍司令部と中部軍管区司令部が「第四師団司令部庁舎」を使用。
終戦とともに、GHQに接収。
1948年にGHQ接収解除、その後は大阪市警視庁本部、大阪府警察本部の庁舎として使用され、1958年からは、大阪市の管理下におかれる。
1960年からは、大阪市立博物館として使用され、市立博物館としては2001年に閉館。
2001年から、2016年までは特に何にも利用されずに保全され、2017年に複合施設「ミライザ大阪城」として再開業。

この建物は、昭和天皇の即位を記念して、昭和6年(1931年)市民の寄付により当時の金額にして150万円が集められ大阪城天守閣の再建、大阪城公園の新設とあわせて、第四師団司令部として建設されたものです。

外観をヨーロッパ中世の古城に似せた堂々とした建築で、壁面上部の装飾や、正面及び四隅の隅塔などにその特徴があります。

戦後は、大阪市警視庁として、またそのあとは大阪府警察本部として使用されましたが、内部を改装し、昭和35年から平成13年まで、大阪市立博物館として使用されました。
その後、耐震補強工事などのリノベーションが施され、平成29年(2017年)10月、装いも新たに複合施設「ミライザ大阪城」としてよみがえりました。


明治天皇駐蹕之所

大阪市青年聯合團によって建てられた石碑。
大正14年(1925年)5月10日建立。


明治天皇聖躅 臨時軍事病院跡

あぁぁ、見逃したあ、、、
司令部庁舎前の向かって左側の植え込み、、、


山里丸石垣の機銃掃射痕

山里丸石垣の機銃掃射痕
石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の痕跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度におよぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった、山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北側内堀に面した石垣も数か所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。

機銃掃射痕が、斜めに刻まれていた。


天守大石垣の爆撃被害跡

天守大石垣の爆撃被害跡
昭和20年(1945)陸軍の関連施設が集中していた大阪城は終戦前日の8月14日を最大とする爆撃を数次にわたって受けた。これにより大阪城天守閣付近の石垣も大きな被害をこうむっている。天守台北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」はこの時のもので、天守閣の北数メートルの地点に落ちた爆弾によるものである。昭和6年復興の天守台に荷重をかけない構造だったため影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行を止めるための工事が行われた。

石垣が「ずれ」ているのがよくわかる。
爆撃の衝撃の大きさが、如実に伝わってくる。

※撮影:2024年5月


宇都宮歩兵聯隊の跡地散策(軍都宇都宮の戦跡散策4)

第14師団がおかれた軍都宇都宮。往時を偲ぶ戦跡を巡ってみる。

本記事は、「その4」です。「その3」は、以下にて。


位置関係

主要拠点は下記となる。

  • 陸軍第14師団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第28旅団司令部:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 宇都宮衛戍病院:独立行政法人国立病院機構栃木医療センター
  • 歩兵第59聯隊:若草1丁目・とちぎ福祉プラザほか
  • 歩兵第66聯隊:若草2丁目・栃木県警察学校・宇都宮中央高等学校ほか
  • 貯水池:宇都宮市水道局戸祭配水場
  • 宇都宮偕行社:桜美公園
  • 師団長官庁舎:宇都宮地方合同庁舎
  • 輜重兵第14大隊:作新学院高等部
  • 騎兵第18聯隊:作新学院中等部
  • 糧秣倉庫:フードオアシス オータ二 一の沢店
  • 野砲第20聯隊:宇都宮短期大学附属中学・高等学校 睦町キャンパスほか
  • 兵器支廠:栃木県中央公園

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R389-193_19471025
1947年10月25日に米軍が撮影した航空写真を加工。
軍事施設の位置関係を落とし込み。

現在の様子。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R518-105_19490107_1
1949年1月7日に米軍が撮影した航空写真を加工。

司令部周辺を拡大。

同じく現在の位置関係。

上記に基づいて、各拠点を散策してみます。


見返り橋(水無橋)

かつての用水路あとに橋の欄干のみ残っている。
歩兵聯隊に入隊する新兵を、家族や友人がこの橋まで見送り、別れを告げる場所であったため、当時は見返り橋といわれたという。

場所

https://maps.app.goo.gl/zPXbBSDDFJEstx3F7

歩兵59聯隊の兵営地は、とちぎ福祉プラザとなっている。

いったん北に向かいます。


宝木開拓之碑(宝木練兵場跡地)

歩兵59聯隊と歩兵66聯隊の兵営地の北側に、開拓児童公園と若草町三区公民館があり、そこに「宝木開拓之碑」がある。

宝木
開拓之碑

碑文
この地は、明治41年以降宝木練兵場として陸軍の精鋭を育んで来たが昭和20年大東亜戦争の終結により我等36名が入植し開墾を行なった。
入植当時は、一望の原野でしかも永年に亘り軍靴に踏み固められた不毛の地であったが、(以下略)
 昭和46年3月12日
  宝木開拓農業協同組合

場所

https://maps.app.goo.gl/bM5vn2kj31xCRecQ6


宇都宮歩兵聯隊跡碑

わかくさアリーナ敷地内に記念碑がある。

碑文は、第16代聯隊長 林 茂清
扁額は、栃木県知事 横川信夫
建立は、昭和38年3月10日、宇都宮歩兵聯隊史跡保存会による。
宇都宮歩兵聯隊史跡保存会は、宝木会(歩兵第59聯隊および東部第36部隊の関係者)を主体とし、その他有志によって組織されたもの。

至誠
宇都宮歩兵聯隊跡

記念碑建立の趣旨
宇都宮歩兵聯隊は明治三十八年八月畏くも 明治天皇より軍旗を親授せられ明治四十一年 宇都宮市宝木の兵営に入城 爾来四十有余年間軍旗の下父子相継ぎ郷土部隊として特に県民に親しまれつつ護国の大任に当った 
その間日露戦争 シベリヤ上海満州日支の各事変及び大東亜戦争に参加し常に赫々たる武勲を樹て野州健児の名聲を高からしめた 
然るに昭和二十年八月終戦の天詔喚発せられ歩兵第五十九聯隊は南洋パラオ島において又歩兵第六十六聯隊は東部ニューギニヤにおいて夫々悲憤の涙に咽びつつ謹んで軍旗を奉焼した 
我等聯隊出身者及び有志は今は無き軍旗の栄光を偲ぶと共に祖国の為散華せられた幾多先輩戦友の英魂を慰めるため思い出深き旧営庭跡に記念碑を建立し之を永く後世に伝えんとするものである
 昭和38年3月10日
  宇都宮歩兵聯隊史跡保存会
  および 有志一同

場所

https://maps.app.goo.gl/RzEUFYdMboA2y72r7


宇都宮歩兵聯隊の北営門の門柱(栃木県警察学校)

宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の北営門の門柱が、警察学校の門柱として、残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/FSVb5ftYrrdAHxGF9

警察学校の西側敷地内。石碑とか胸像がある。

殉職警察官の慰霊碑。昭和3年3月建立の石碑。

胸像は委細不明

栃木県警察学校の門柱。これは陸軍とは関係なさそう。


宇都宮歩兵聯隊の倉庫

栃木県立宇都宮中央高等学校(旧・宇都宮中央女子高等学校)の敷地内に、赤レンガ倉庫がのこっている。
宇都宮歩兵聯隊(第六十六歩兵聯隊)の炊事場として使われた庖厨棟という。

明治40年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵聯隊の厨房関係施設として建設され、現在は倉庫に用いられている。
切妻造・平屋建で、外壁がイギリス積み煉瓦造、小屋組は木造トラス。
宇都宮に残る軍事関連施設のうち、唯一の明治期の建物となる。

敷地外から遠望。

倉庫は2000年(平成12年)に「宇都宮中央女子高校赤レンガ倉庫(旧第六十六歩兵連隊倉庫)」として国の登録有形文化財に登録された。

場所

https://maps.app.goo.gl/mX4UCfw1DMHRQxtW8

※撮影:2024年1月

「その5」へ


関連

栃木縣護國神社

軍艦建造技術を活用した日本初の大規模全溶接構造橋梁「田端ふれあい橋・旧田端大橋」(昭和10年建造)

横浜の「瑞穂橋」を調べていたら、溶接橋として日本初は、昭和9年の瑞穂橋であったが、本格的な大規模全溶接橋は、昭和10年の「田端大橋」であったと知り、そうと知ったら、居ても立ってもいられずで、急に現地に赴いてみた次第。


田端ふれあい橋・旧田端大橋

昭和10年(1935年)12月完成。全長135m。
全溶接構造橋としては、日本初にして東洋初であり、完成当時としては世界的な規模の橋梁であった。
設計者は、鉄道技師の稲葉権兵衛(代表作は筑後川昇開橋・田中豊博士の門下生)で、当時の橋梁界を率いていた田中豊博士指導のもとで行われた。
建設は「川崎造船所」(川崎重工の前身)。
軍艦製造技術で培われた溶接が本格的に橋梁建設に導入された歴史的に意義のある建造物。
ちなみに川崎造船所は、勝鬨橋や清洲橋、白鬚橋、永代橋など多くの震災復興橋の建造も手掛けている。

現在の田端大橋は、1987年に架橋。旧田端大橋は取り壊し予定であったが、計画変更で1992年に人道橋に改装された。愛称は「田端ふれあい橋」。
改装後は、主桁を隠し橋面側面ともタイル化粧板などで覆われて、まったくもって歴史的な趣が感じ出せなくなっている。非常な残念なデザイン。
もっとも、歴史的な意義は別として、植栽とタイルで、フレンドリーな感じに生まれ変わっている。

タイル張りには、歴史の趣が感じられない。

橋の上から探して、ようやく橋脚がみえる場所に。
ちなみに、橋脚を見ようとしてもなかなかビューポイントがなく。

親柱

田端大橋

昭和十四年三月成 東京府

田端ふれあい橋の橋上で、歴史を感じられたのは、ここのみ。

旧田端大橋の生い立ち
橋の由来
 旧田端大橋は、昭和十年に架建された突桁式下路版桁三径間ゲルバー式 全溶接橋です。
 当時、この橋は現場継手部も溶接した文字どおりの全溶接橋として東洋では最初で最大級の橋として注目を浴びました。
 この溶接技術は、そのころの造船技術(軍艦建造技術)を生かしたものであり、当時の技術者が遭遇した数々の苦労話がのこされています。
橋の概要
 施工年月日 昭和十年十二月二十七日
 形式    突桁式下路版桁三径間ゲルバー式
 橋長    一三五.〇メートル
 橋梁巾   一三.八〇メートル
 道路幅員  一一.〇〇メートル(当時)
 総鋼重量  約五九一トン(当時)
残存の経緯
 旧田端大橋は、近年の経済発展に伴う自動車交通量の増加と年月の経過による老朽化が進んだため、東京都は昭和六十二年に新田端橋を架建しました。
 新田端橋が開通したことにより、本橋の役目は終り、当初の計画では撤去する予定でありました。しかし歴史的にも学術的にも貴重な橋であり、また地域住民の方から歩行橋として再生利用の要望があることを考え、田端ふれあい橋として生まれ変わることになりました。
  平成四年三月 東京都北区

ふれあい橋について
田端ふれあい橋の概要
 田端ふれあい橋は、駅前広場と公園機能を合わせもった田端のシンボルとなる歩行者専用の橋です。
 この橋は、通勤、通学に利用するだけではなく、散歩道として、または待ち合わせの場所、憩い語らいの場としての快適な歩行空間をつくるとともに、自然の樹木によるやすらぎ、高欄や花壇の自然石による落ち着き、門柱や街灯による時代感を感じさせるものとしました。
田端ふれあい橋の特色
步行部
 花壇の形態を波型の曲線にすることにより平面的なやわらかさを出し、カリオンと二本のしらかしによって立体的なアクセントをつけました。中央の白御影石の部分を通行ゾーン、両側のタイル舗装部分は休憩・たまりゾーンとしています。
植栽
 花壇の縁石には赤御影石を使用しそのその重厚感による落ち着きを出すとととも、座って 話をしたりすることができます。 樹種は四季折々の花や葉が楽しめるように数多くの種類を配しています。
高欄
 木の枝をモチーフしたデザインは花壇の植栽と一体感をなし、快適な歩行空間をつくり出しています。
門柱
 大正時代の洋風赤れんが造りと銅板の屋根により、この橋の入口を表現しています。
カリオン
 文化の香り高い田端の発展を望んで 「希望の鐘」と名づけました。橋の中央に位置し、四種類の音色で時を知らせます。
展望窓
 上野駅側二か所に電車や線路が見える幅四mの大きな展望窓があります。
  平成四年三月
   東京都北区


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8921-C3-38
1944年11月7日、日本陸軍軍撮影の航空写真を加工。

田端大橋の様子がよくわかる。


田端ふれあい橋・旧田端大橋の主桁・橋脚

下を見れる場所に。

リベットがないです。
素人なので、細かいことはわかりませんが、全溶接橋として、リベットのない形態は、すらっとストレートな様相。美しいですね。

リベットがない!!としか言えない素人ですみません。


田端ふれあい橋・旧田端大橋の路面部分

ここは、歩いても、歴史が感じられないので、さらりと。。。
新幹線の橋梁が目線を遮ります。

門柱

側面には「田端大橋」
ん?旧称で良いの?

現在の田端大橋と、旧田端大橋の間。

高さが違いますね。
旧田端大橋は撤去予定だったので、建造時は高さをあわせるつもりがなかったことがわかります。

なので、両方の橋を横断する場合は、段差が生まれます。

高欄
波打つベンチと植栽。子供が近寄って電車見学ができない仕様。

「華」と銘された金色の裸女像。樹木が後光のようで。意味は不明。

鉄道の街「田端」にちなむ展示物など。
40Kレールとポイントリバー

連結器カバー(東北新幹線200系)

車輪(東北新幹線200系)

希望の鐘。ここにある意図や意味は不明。

静思と銘された女性像。

歴史を感じさせない路面。

新田端大橋と田端ふれあい橋の、JR側の入口。

いつもとはちょっと違う散策もたまにはたのしいもので。

なお、JR西日本ホームからも「田端ふれあい橋」をみることはできますが、やっぱりタイル化粧板に覆われて、残念な感じではある。

※撮影:2024年8月

場所

https://maps.app.goo.gl/mgTye1gbxotTNwUw8


日本初の溶接鉄道橋「瑞穂橋梁」(昭和9年建造)と横浜ノース・ドック

「瑞穂埠頭(瑞穂ふ頭)」
大東亜戦争後の昭和21年に米軍に接収され、横浜ノースドックとして、在日アメリカ軍の湾岸施設として使用されている場所。
そこには、瑞穂橋(道路橋)と併設している瑞穂橋梁(鉄道橋)が架かっている。
そんな瑞穂埠頭は、橋の向こうは、米軍施設などもあり、立ち入りが制限されているというが、足を運んでみました。


瑞穂埠頭(瑞穂ふ頭)・横浜ノースドック

もともとは、外国貿易埠頭として1925年(大正14年)に着工し、昭和20年(1945年)に完成したが、終戦後に連合国軍に接収。1947年(昭和22年)より在日米軍が使用している。
現在、在日米陸軍施設管理本部(ふ頭地区)、在日米海軍横須賀基地司令部(郵便地区)が展開されている。
ふ頭地区は、中型・小型船舶用バース、野積場、倉庫等があり、物資の搬出入や軍人・軍属等の移動に伴う貨物輸送業務(相模総合補給廠や横田飛行場の兵站拠点に運ばれる米陸軍物資の陸揚げ拠点)が行われている。
郵便地区は、艦隊軍事郵便センターが置かれ、極東からペルシャ湾に至る米海軍関係の軍事郵便業務が行われている。

部分返還が進んでおり、2009年に瑞穂橋及び港湾道路(土地:約27,000平方メートル、水域:約2,500平方メートル)が返還。2021年に使用されていない鉄道レール(工作物)や周辺の土地(約1,400平方メートル)が変換されている。

2024年には、在日米陸軍第10支援群(司令部・沖縄県読谷村)下として「第5輸送中隊」が新設運用され、全面返還とは、異なる動きも発生している。

横浜市サイト

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/kichi/shisetsu/yokohama-northhtml.html


瑞穂橋梁(かながわの橋100選)

2021年に返還された鉄道橋「瑞穂橋梁」。
瑞穂埠頭内に敷かれていた線路は終戦前から利用されており、1946年の接収後も物資を搬出入するための引き込み線として使われていたが、近年は使われていなかった。

「瑞穂橋梁」は2021年に返還された線路などの一部に含まれており、内陸側とノース・ドック側をつないでいる橋梁。
1934年(昭和9年)に建造され、従来のリベット工法から新たな技法として取り入れられた、日本最初の溶接鉄道橋である。

※昭和10年の田端大橋が、田端駅北側ヤードの上を横断して架けられた跨線道路橋で、現場継手も溶接した日本最初の全溶接橋であった。当時は世界最大級の溶接橋であり、現在は歩行者専用橋「田端ふれあい橋」として補強して現存している。

瑞穂橋の返還後を管理する「南関東防衛局」では、基地返還後は現状復帰として「工作物は撤去する」とされており、線路設備や橋梁は解体撤去される方針とのことで。。。
いつまで、見れるかは、なんとも。。。

昭和9年に建造された鉄這橋で、わが国最初の溶接鉄道橋として知られている。構造は鋼曲弦ワーレントラスとブレートガーダーとから成る。アーク溶接は鈑桁部、床組、対傾構の接合に用いられたが、トラスにはリベットが用いられている。橋長77.2mのうち、中央トラス部分は36m。溶接延長は6,458mあって、溶接橋の試験橋梁の意味を持っていた。この橋は瑞穂ふ頭への連絡橋で、現在は防衛施設庁が管理者となっている。(神奈川県庁サイトより)

https://www.pref.kanagawa.jp/docs/bd2/hashi100sen/05-mizuho.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:897-C9-137
1944年10月14日、日本陸軍撮影の航空写真を加工。

まだ埋め立ては一部なことがわかる。

航空写真レベルだと、横浜ノース・ドック内の海側の米軍の建屋3棟が、往時からのもので適合するが、米軍基地なので確認の術がない。。。

今昔マップ on the web

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.471864&lng=139.636488&zoom=17&dataset=tokyo50&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

2022年に撮影していた横浜ノース・ドック(大さん橋から撮影)
艦艇の後ろの建屋、これ戦前からと思われ、です。航空写真で適合したので。


瑞穂橋

瑞穂埠頭に渡るための橋。
以前は瑞穂橋も米軍接収で立入禁止であったが、日本に返還されており、いまは瑞穂橋はわたっても問題ないらしい。

橋を渡った先、瑞穂埠頭の横浜ノースドック側は、立ち入り制限あり。
ゲートを写すと怒られるらしいので、カメラは向けず。。。

なので、陸地側から望遠する。

大さん橋がみえる。(逆に大さん橋から横浜ノースドックも見えるが)

「Bar StarDust」「BAR POLESTAR」
老舗のバー「スターダスト」
「バー・ポーラスター」は、貸切営業のみで「スターダスト」に応相談、だそうで。


三井倉庫(三井倉庫横浜支店千若事務所)

かつてはクレーンが張り出していた三井倉庫だが(2023年写真ではクレーンを確認)、2024年現在、クレーンは撤去されている。
1953(昭和28)年に建てられた、ココアとコーヒー豆専用の倉庫という。

モザイクタイルで描かれた「三井マーク」

かつては線路も敷地内に引き込まれていたという。

横浜港湾部の貨物線「高島線」

場所

https://maps.app.goo.gl/noayR1gJXUwxqH5r7

※撮影:2024年5月


「下志津駐屯地創設69周年記念行事・その1」下志津陸軍飛行学校跡地散策(2024年・千葉)

2024年4月。下志津駐屯地。
基地行事があったので、行ってきました。
昨年は観桜のみ参加しましたが、今年は記念行事で。

まずは、旧軍ぽいところを散策。

下志津陸軍飛行学校の細かい話は、下記で。

ちなみに、記念碑を見学する際は、観桜でないとだめでした。
駐屯地記念行事の際は、記念碑エリアは立入禁止でしたので。。。


下志津陸軍飛行学校格納庫

往時の格納庫をベースとした建屋が現存している。


下志津陸軍飛行学校の煉瓦基礎木造便所

往時のトイレ(内装は変わっているとしても)が残っているのは大変珍しい。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R535-64
1947年11月12日、米軍撮影の航空写真を加工。

1947年11月12日写真の格納庫部分を拡大。

現在の航空写真、建屋の屋根形状が合致。

なお、最南端の格納庫は移築され千葉公園体育館として活用されたが、解体


往時の遺構と思われる建屋?

航空写真では絞りきれなかったが、雰囲気から往時の建屋?と推測。

往時の建屋と思われるエリアの中心には、巨大な通信鉄塔がそびえている。


広報史料館

内部は撮影禁止、でした。
陸自防空のメッカだけあり、防空関連資料展示が豊富。

なお、下志津陸軍飛行学校跡碑を始めた記念碑群の見学は、封鎖されていて出来ませんでした。
背面のみ。
正面から確認したい場合は、「観桜開放日」がおすすめ。

※撮影 2024年4月

※その2へ

「連合国民抑留所(敵性外国人抑留所)」であった聖母病院(新宿区中落合)

昭和6年に建造された病院は、空襲をくぐり抜け、連合国民抑留所として活用され終戦を迎えている。
そして、現在、東京都選定歴史的建造物に指定されている。


聖母病院

昭和6年、「国際聖母病院」として開院。
昭和18年、戦時下により「国際」を外して「聖母病院」と改称。
昭和20年4月13日の夜にB29による爆撃を受けるも、類焼を防ぎ無事を保つ。

昭和20年5月27日の山の手空襲で、小石川区関口台(文京区)にあった抑留所=関口台の天主公教会(現在の東京カテドラル聖マリア大聖堂・カトリック関口教会)が全焼し、連合国民抑留者=敵性外国人抑留者(宣教師や修道女など女子36名であったという)は、新宿区の聖母病院に移動。
ジュネーブ条約を準用した「敵国人の身柄保護」は、戦争末期には画餅と化してしまっていたが、それでも敵国人抑留政策は終戦までギリギリの状態で実施されていた。

そして、そのまま聖母病院は、「連合国民抑留所」として終戦を迎える。

東京都選定歴史的建造物
聖母病院
所在地 新宿区中落合2丁目5番1号
設計者 マックス・ヒンデル
建設年 昭和6年(1931)
 昭和6年(1931)にキリスト教の精神に基づき開院した国際病院で、上智大学などを手がけたスイス仁の建築家マックス・ヒンデルにより設計された鉄筋コンクリート造3階建ての建物である。
 うす茶色のタイル張りの外壁と、L字型の建物中央の頂部にある銅板葺き屋根の2つの塔が特徴となってる。縦長の窓が配置されるが、3階部分は上部をアーチ型にして変化をつけている。入隅に局面を用い、軒の小庇や窓台で水平線を強調するなどの点は、当時流行したデザインである。
 建物の全面には新宿区保護樹木のヒマラヤ杉の大木が立ち、壁面の茶色と調和した景観を形づくっている。平成15年(2003)新病棟の改築に伴い、本館の外観を当初に復元した。
 東京都生活文化局


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M606-48
昭和22年(1947年)10月27日、米軍撮影の航空写真。

聖母病院部分を抜粋

L字型の建屋がそのまま残っているのがわかる。

Google EARTHより

※撮影 2023年7月

場所

https://maps.app.goo.gl/P4BSc396NkD6EJBQ6


資料

新宿区立図書館
 > 新宿区内の戦跡紹介 – 東京 より

https://www.library.shinjuku.tokyo.jp/lib/files/libimg1594939155.pdf

戦後、救援物資の直撃で死者がでているのが、やるせない、、、

●聖母病院(中落合 中落合2-5-1)
カトリックの病院である聖母病院ですが、昭和20年4月13日の夜にB29による爆撃を受けました。 病院の前庭や屋上にも焼夷弾が落ちましたが、その時残っていた神父をはじめとする2、3人の男性と看護婦やシスター達だけで懸命の消火をしました。周囲は火の海で、大きな火の粉が空高く舞い上がって病院の構内に降り注いできました。病院の建物へ炎が燃え移らないようにと皆で番をし、一夜が明けて 無事に残った病院を眺めると煙と水に汚れた塔がそびえていたそうです。 終戦後、聖母病院に外国人の抑留者がいたため、米軍の飛行機から救援物資の投下がありました。 ただ残念なことに、この食料投下はパラシュートを付けたドラム缶だったこともあり、直撃して亡くなった人が3名いたのです。
平成15年(2003)新病棟の改築に伴い、本館の外観が当初に復元されました。
 東京都選定歴史的建造物

昭和館デジタルアーカイブ
 > 捕虜収容所と空襲跡(空撮) より

https://search.showakan.go.jp/search/photo/detail.php?id=90076852

https://search.showakan.go.jp/search/photo/detail.php?id=90076853

屋上にある「PW」とは、「Prisoners of War」=「戦争捕虜」のこと。「POW」とも略する。
下記は、上記サイトからの画像引用


東京新聞20240214
 > 3500人が命を失った…戦時中の「捕虜収容所」の実態に迫った事典を出版 市民団体が20年かけ全国調査

https://www.tokyo-np.co.jp/article/309044

下記は、上記サイトからの画像引用

お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション
 > 太平洋戦争下の「敵国人」抑留‐日本国内に在住した英米系外国人の抑留について‐小宮まゆみ氏

https://teapot.lib.ocha.ac.jp/record/33986/files/KJ00004470995.pdf


用賀駐屯地・陸軍衛生材料廠跡地散策(世田谷)

東京都世田谷区上用賀にあった陸軍の施設。その跡地を散策してみました。
なお、2回にわたり散策しているために、撮影日によって晴天だったり曇天だったりしています。


陸軍衛生材料廠
(現:陸上自衛隊用賀駐屯地ほか)

近代的な軍隊を維持するために、必要不可欠なのが医療衛生機関。
衛生材料と獣医材料等の制作、購買、補給などを行っていた。
もともと帝国陸軍の衛生材料廠本廠は、白金台にあったが大正12年の関東大震災で被災し、昭和4年に用賀に移転した。
また支廠は各師団司令部に付随して開設されていた。

用賀の陸軍衛生材料廠は、現在の陸上自衛隊用賀駐屯地、国立医薬品食品衛生研究所、駒沢大学附属高校、覆馬場などを含むエリアにあった。
陸軍の衛生機関を継承した陸上自衛隊用賀駐屯地は、旧陸軍衛生材料廠の跡地に位置し、米軍の接収を経て1963年(昭和38年)3月31日に開設。旧軍時代から衛生材料の兵站中枢を担っている。

なお、この地にあった「国立医薬品食品衛生研究所」は川崎に移転しており、用賀支処は2029年(令和11年)度以降に防衛省三宿地区(世田谷区・目黒区)に、東京音楽隊は2024年(令和6年)度に東立川地区(立川市)に、それぞれ移転する予定があるという。

移転後の建屋がどうなるかは不明。解体されるかもしれず、いまのうちに見ておくのが良いかも、です。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M871-132_19480329
昭和23年(1948年)3月29日、米軍撮影の航空写真。

一部加工。


陸上自衛隊・用賀駐屯地

2024年3月23日に、用賀駐屯地一般開放が実施されました。桜見学という名目の一般開放でしたが、桜はまだ咲かず、見学者も皆無な状態でしたが、隊員さんの案内ガイド付きで貴重な建屋を見学できました。
ありがとうございます!
案内をしていただいた隊員さんによると、なんと20年ぶりの一般開放だったとか。格別な集客の広報もされていなく、地元周辺住民との交流をメインとした公開は、シークレット的な状態で、かなり偶然の産物で足を運べた私は、かなりラッキーでした。

関東補給処用賀支処

陸上自衛隊用賀駐屯地


陸軍衛生材料本廠跡碑

陸軍衛生材料本廠跡
 元陸軍薬剤中将 田口文太 書

昭和40年5月建立

揮毫した、田口文太は、日本の陸軍で活躍した薬剤師。
東京第一衛戍病院での勤務を経て、陸軍衛生材料廠廠長、陸軍薬剤総監、田辺製薬株式会社顧問、静岡女子薬学専門学校校長(初代)などを歴任。
1931年(昭和6年)に、陸軍省の外局である陸軍衛生材料廠にて廠長に就任。
1935年(昭和10年)には陸軍薬剤総監に就任し、陸軍全体における薬剤師の最高位を占めた。最終階級は陸軍薬剤中将。


陸軍衛生材料廠・蹄鉄工場

現在、陸上自衛隊用賀駐屯地内にある「陸軍衛生材料廠・蹄鉄工場」は、昭和4年の造営。
用賀駐屯地内で許可を得て撮影。

以下は、敷地外から。
「国立医薬品食品衛生研究所」が解体されたので、敷地外からよく見えるようになった。


陸軍衛生材料廠・倉庫建造物3棟

3棟ならんでいる建造物も、陸軍衛生材料廠時代の建物。
南側2棟は、蹄鉄工場と同じく昭和4年造立。北側の1棟は、それよりも新しいという。
ドイツ人の設計による倉庫建造物は、東西南北にそれぞれ出入り口を設けており、倉庫内の東西には庫内の物流をスムーズにするためにレールが引かれている。

レールの跡がわかる。


国立医薬品食品衛生研究所跡地

国立医薬品食品衛生研究所敷地内にも往時の建物があったらしいが、2022年から解体が始まり、すでに更地。


陸軍衛生材料廠・境界壁

外壁は、陸軍衛生材料廠時代のものという。

上部が波打っている意匠的な境界壁は、ほかではあまり例を見ない。

この部分は民家の壁になっている。デザイン的に切り取ったのかもしれない?


「陸上自衛隊」交差点

交差点の名称が「陸上自衛隊」。そのものズバリ。


陸軍衛生材料廠・周辺散策

昭和薬科大学世田谷校舎跡地

駒澤大学高等学校

海上自衛隊 東京音楽隊

※移転予定

JRA覆馬場(馬事公苑)

最寄りの桜新町は、サザエさんの街ですね。

※撮影:2024年3月


関連

「鐵道院」「浦賀船渠」銘のある「鶴田駅の跨線橋」(明治44年造・JR日光線)

JR日光線の鶴田駅。
ここの跨線橋が、「完成当初から同じ場所で現役として使用されている最古の跨線橋」というので足を運んでみた。


(2021年時点)完成当時から同じ場所で使用されていた現役最古の跨線橋だった「半田駅」

かつて愛知県半田市のJR武豊線の半田駅にあった跨線橋が完成当初から同じ場所で現役として使用されていた最古の跨線橋建造物(明治43年築)であった。
しかし、2021年6月に役目を終えて撤去。半田駅は高架化され、かつての跨線橋は駅前公園に移築保存されることになった。

そうして半田駅の次に、同じ条件で古い跨線橋であったJR日光線の鶴田駅が、日本最古の跨線橋として、昇格した、ということになる。

ちなみに「移設された跨線橋」を含めると、1890年(明治23年)製のJR山陰本線の「大田市駅の跨線橋」が日本最古となる。

半田駅。2017年の半田散策のときに記録していましたね。
現在は撤去済み。


「鶴田駅」の跨線橋

改めて、完成当時から同じ場所で使用されている現役として、日本最古の跨線橋となる「鶴田駅の跨線橋」を見学。
明治44年(1911年)造の跨線橋。

駅ホーム側。

浦賀船渠株式会社製造

明治四十四年 鐵道院

駅舎(駅本屋)側。同じですね。

明治四十四年 鐵道院

浦賀船渠株式会社製造

浦賀船渠株式会社と、まさか鉄道駅の跨線橋で出会えるとは!です。

近代化遺産 に指定されています。

JR日光線。新型車両に置き換わっていますね。

鶴田駅
2014年に新造された駅舎。

※撮影:2024年1月


関連

鐵道院

浦賀船渠

日本鉄道大宮工場「門柱」と「赤煉瓦倉庫」(さいたま市)

「鉄道のまち・大宮」
JR東日本が、公式にサイトを用意しているぐらいに、「鉄道のまち」である。

https://www.jreast.co.jp/omiya/tetsumachi_omiya/

現在も、「鉄道博物館」や「大宮総合車両センター」などを要し、またJR東日本の新幹線の一大ジャンクションでもある。

そんな大宮で、「鉄道のまち」の歴史を散策してみる。


日本鉄道大宮工場

現在の「JR東日本・大宮総合車両センター」は、かつて「日本鉄道大宮工場」であった。
自社工場を保有していなかった「日本鉄道(日本鉄道株式会社)=国鉄の前身」が、上野‐青森間を全通させたことを機に明治27年(1994)に、大宮に工場を設立したことにはじまる。


日本鉄道大宮工場の門柱

「JR東日本・大宮総合車両センター」の敷地内に開設されたフィットネスクラブ(JEXER大宮)の脇に、かつての「日本鉄道大宮工場」時代の門柱が残っている。

現在は、門として機能はしておらず、ブロック塀で埋められており、境界壁としての役目のみとなっている。


日本鉄道大宮工場の赤煉瓦倉庫(旧大宮車両センター倉庫8号)

竣工は明治30年(1897)。往時は、米の貯蔵として使用されていたという。

さいたま市観光国際協会>

https://www.stib.jp/saitama-aruki/area-omiya.php

フィットネスクラブの入り口は2階にあり、すぐ近くで赤レンガ倉庫の2階部分をみることもできる。


RAILWAY GARDEN PROMENADE
(レールウェイガーデンプロムナード)

大宮総合車両センター本所内の施設を見学できる。

休みの日なので、なにもないですね。。。

D51 187号

大宮工場で新製されたD51形の第1号機。

準鉄道記念物
D51187号蒸気機関車
D51形式蒸気機関車は、1936年(昭和11年)に誕生した優秀な大形貨物列車で、1945年(昭和20年)までに民間工場をはじめ、国鉄の8工場でも製造され、合計1,115両製造された。
大宮工場においては、1938年(昭和13年)4月から1942年(昭和17年)3月までに、当時の社会的な要請に応じて31両製造したが、展示されている187号機は、それらのうち第1両目の由緒ある機関車で、1938年(昭和13年)4月12日に着工し、同年8月8日に完成した。
当時の工場職員が寝食を忘れ、心血を注いで製造にあたり、その構成部品の全てを工場独自の力で製作したもので、歴史的にも技術の大宮工場の真価を現したものであり、記念物として先輩の偉業を讃えるとともに、当時の職員の21世紀の国鉄に向かっての自覚を具現する象徴として、保存することになり1971年(昭和46年)10月14日に準鉄道記念物に指定された。

D51187
形式D51

1号
大宮工場
昭和13年製造

※撮影:2023年5月及び2024年2月


関連

松戸駐屯地 創立71周年記念行事・その1(松戸飛行場の戦跡散策)

2023年11月25日(土)。
陸上自衛隊 松戸駐屯地で、創立71周年記念行事が行われ、駐屯地一般開放がありましたので、足を運んで見ました。
本編は、その1として「松戸飛行場跡」の散策を。


逓信省航空局・松戸飛行場(松戸高等航空機乗員養成所)

1940年(昭和15年)6月3日。逓信省航空局松戸飛行場が竣工し、松戸飛行場を使用する中央航空機乗員養成所が開所。民間操縦士や整備員を養成する目的で設立されたが、帝都防空のための飛行場として陸軍が建設当初から関与し、養成所所長も陸軍少将が務めていた。

なお、逓信省松戸中央航空機乗員養成所は、後に高等航空機乗員養成所と改称している。

昭和19年(昭和19年)には陸軍第一〇飛行師団指揮下の「飛行第五十三戦隊」が所沢から移り、首都防衛の任務に当たった。

松飛台(飛行場跡)
戦時中パイロット養成が目的の「松戸飛行場」がここにあった
昭和15年(1940)、この一帯に総面積132万3000㎡、東西・南北1.2kmづつのL字形滑走路を持つ逓信省航空局、松戸飛行場中央航空機乗員養成所が完成しました。飛行場は民間パイロット養成を目的としましたが、軍人が所長ほか要職を占めており緊急時には軍事基地に転用されるものでした。戦時下では帝都防空を担う陸軍飛行場として機能しました。戦後は主要施設が陸上自衛隊に使用されています。付近は1960年代から工業団地として造成されますが、松戸飛行場の名を「松飛台」という地名に残すこととなりました。

松戸市観光協会(https://www.matsudo-kankou.jp/sightseeing/%E6%9D%BE%E9%A3%9B%E5%8F%B0%EF%BC%88%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4%E8%B7%A1%EF%BC%89/

松戸駐屯地

戦後は、警察予備隊・保安隊の補給処を経て昭和29年の陸上自衛隊発足に伴い「陸上自衛隊需品補給処」となる。

現在は、需品学校、需品教導隊、関東補給処松戸支処、第2高射特科群が駐屯している。
松戸駐屯地司令は、陸上自衛隊需品学校長が兼務している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:892-C2B-153
昭和19年(1944年)9月24日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

松戸飛行場を拡大
滑走路地区は逆L字。西は八柱霊園。

本部地区を拡大

大きな格納庫があるのがわかる。


松戸飛行場時代の格納庫

昭和15年(1940)竣工の格納庫。
現在は、陸上自衛隊松戸駐屯地の倉庫として活用されている。

滑走路側(西側)

東側

北側

南側

内部

覗いてみた。


大型倉庫(戦後)

こちらは戦後と思われる格納倉庫。


ハンドサイレン(手動警報機)

なんかあった。手回しのサイレン、ですね。


木造建屋(戦後?移築??)

木造の建屋がいくつかある。この場所は、格納庫と滑走路の間になるので、往時の建屋ではないんですけど、移築なら、往時の可能性もある、、、

格納庫の西側。


松戸飛行場時代の木造建屋(格納庫東側)

格納庫の東側。往時から現存する木造建屋。

4つの建屋のうち、2棟が木造建屋。

こちらは戦後かな。木造建屋と並ぶコンクリの建屋。

こっちはさらに東側。これも戦後。


門柱跡

門柱跡。ちょっと不自然な場所に。往時のものかどうかも??


松戸飛行場時代の木造建屋(線路側)

松戸飛行場跡の木造建屋。線路際の2棟も、往時からの建屋。

すぐ裏を新京成が走る。もともとは鉄道連隊の線路でもある。

正門近く。


松戸飛行場時代の木造建屋(南側)

南側にある木造建屋。これも往時からの建屋。

独特なデザインの門柱。

同じく南側の建屋。

車両整備工場


駐屯地を横切る踏切

南側の踏切近く。今も昔も位置関係は変わっていない。

線路の東側にも大型倉庫がある。ただし、これも戦後かな。

駐屯地の東西を線路が貫いている。もともとは、鉄道連隊の線路。

松戸駐屯地を新京成が走り抜ける。

戦後の倉庫かな?

滑走路跡は、グランドに。

西門

松飛台の住宅地。かつては滑走路が広がっていた。

※撮影:2023年11月

その2へ。


関連

玉音放送を発信した耐弾式送信所「足柄送信所跡」御殿場線の廃トンネル(山北町)

御殿場を散策した帰り道。御殿場線経由で、東京に戻る途中に夕刻に、時間が調整できたので、「谷峨駅」で下車。かねてより気になっていた廃トンネルに赴いてみました。


御殿場線

明治22年(1889年)に東京‐大阪を結ぶ鉄道(のちの東海道本線)として、国府津‐沼津間が開業。
昭和9年(1934年)に丹那トンネルが開通すると東海道本線は、熱海経由に変更され、国府津‐沼津間は、東海道本線の支線「御殿場線」となった。
第2次世界大戦中の昭和19年(1944年)に不要不急路線に指定され、単線化され、レールなどの資材は回収転用され、廃トンネルや橋脚などが残存している。

国際電気通信株式会社

昭和13年(1938年)に日本無線電信株式会社・国際電話株式会社を合併させて創立したのが「国際電気通信株式会社」(KDTK)であった。
国際電気通信株式会社は、対外無線電信電話の設備の建設、保守業務を行い、その設備を政府に供することによる使用料をその収入源とし、電信電話の運用業務は、政府が行っていた「半官半民の企業」であった。
昭和19年、軍、情報局、通信省が必要最小限の送信機を確保するため防空送信所を計画。
耐弾式送信所として足柄送信所、隠蔽式送信所として多摩送信所が建設されることになった。

国際電気通信・多摩送信所(隠蔽送信所)

国際電気通信は、本土空襲に備え戦争末期に2つ送信所を敷設した。
「多摩送信所」「足柄送信所」

東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたる山林内で、三方を尾根に囲まれた一帯に、1945年4月、起伏と樹林を利用した隠蔽送信所として「多摩送信所」が開設された。

多摩送信所ではポツダム宣言を受諾を発信している。


国際電気通信・足柄送信所(耐弾式送信所)
御殿場線・箱根第五隧道(廃トンネル)

国際電気通信の「足柄送信所」は、軍部の要請に基づいて設置された極秘の防空送信所であり耐弾式送信所でもあった。御殿場線の廃トンネルを再活用し、昭和19年11月に竣工という。
20Kw電話送信機を1台、20Kw電信送信機を2台設置。
昭和20年8月15日の正午からの「玉音放送」を発信した極秘の防空送信所が「足柄送信所」であった。

足柄送信所から世界に向けて短波にのせられた玉音放送は、中国大陸や南方諸地域の軍人や在留邦人、南米などの日本人移民に終戦を伝える役割を果たした。

アクセスは、「清水橋」(駿河小山駅方向)から。谷峨駅側からはアクセスできません。。。

清水橋の旧道から右手に折れると、トンネルがあります。

箱根第五隧道(旧上り線)
全長は、275.53m。幅は、3.5メートル、高さは4.5メートル。岩盤が30メートル以上あり、空爆にも充分耐えられる耐弾式送信所であった。

通信機器を置いていた痕跡。
トンネルの中心部分は、床がコンクリート張りとなっている。

保全作業員用の退避所

排水口

両脇は排水溝として機能。

ちなみにライトがないとこんな感じ。

外光が見えてきた。

谷峨駅がわのトンネル開口部。

爆弾防止壁

通信設備を保護するために設けられたL字型の爆弾防止壁。これはなかなかの厚み。

戦後に、でっかい穴が開けられた、、、

御殿場線の本線が見えます。

並行する道路から。

この右側には、冷却池も現存している。(確認漏れ、、、)

新東名の建設工事中。山北ー駿河小山(新秦野IC – 新御殿場IC)は、2027年度の開通予定という。

場所(清水橋)

https://maps.app.goo.gl/BY7wTLeZiYijE1Wn6

谷峨駅。
1907年(明治40年)開設の信号場を前身とし、1947年(昭和22年)7月に駅として開業した。

現在の駅舎は2000年に改築したもの。

鉄道唱歌第1集13番
 いでてはくぐるトン子ルの
 前後は山北・小山驛
 今も忘れぬ鐵橋の
 下ゆく水のおもしろさ

山北駅と駿河小山駅の間に、谷峨駅がある。

※撮影:2023年12月


関連

「予科練生の指定食堂」と「海軍住宅跡」(土浦)

土浦駅周辺を散策してみました。
流れとしては、下記の補足みたいな感じ。


霞ヶ浦海軍航空隊・土浦海軍航空隊

大正11(1922)年に阿見村に開隊した「霞ヶ浦海軍航空隊」によって、土浦駅周辺には飲食店や海軍将校の住宅や繁華街など、海軍航空隊を支える海軍となった。
昭和15年(1940)には、「土浦海軍航空隊」(通称・予科練)も開隊。休日は予科練生たちの外出先として土浦市内の民家は「クラブ」「下宿」として活用され、そして「指定食堂」は予科練生たちへ食を提供し、大いに賑わった。


保立食堂(ほたて)・予科練生の指定食堂

明治2(1869)年創業の食堂。
予科練生の「指定食堂」のひとつ。
丼物が人気で、店の二階は予科練生と家族との面会にも利用されたという。

「上天丼」をいただきました。

海老天と海鮮かきあげの天丼。味噌汁は、あら汁。そして、ぬか漬け。
往時を思い起こしながら食べる天丼。これはありがたい味。

休日は予科練生が食事を楽しみ、家族との面会にも使った店。歴史的にも味わいが深く重い。

場所

https://maps.app.goo.gl/GPijaLCAVtFCiuF26


吾妻庵・予科練生の指定食堂

明治6( 1873)年創業のそば屋。
休日の日中に予科練生が訪れることのできる「指定食堂」であった。

場所

https://maps.app.goo.gl/qWChhKLTgt4UXXfg6


城藤茶店(しろふじのちゃみせ)・海軍住宅跡

昭和11(1936)年、亀城通り開通後に建てられた書院造りの住宅で、海軍士官が借りて住んでいたという。現在は古民家カフェとして活用されている。

場所

https://maps.app.goo.gl/rpLqGuQzgy81F9jk9


桜川橋・海軍道路

桜川橋は大正12(1923)年に架けられた、茨城県初のコンクリート製の橋。
橋は現在の国道125号上にあり、阿見町へと繋がっている。
通称「海軍道路」。霞ヶ浦海軍航空隊の軍用道路として整備された。

場所

https://maps.app.goo.gl/oNUXeX5LGtmDhZEVA

撮影:2023年12月


関連

土浦関連

はじめに

「観武ケ原」盛岡市青山地区の戦跡散策

盛岡市北西部の青山地区。往時は騎兵第三旅団や工兵第八連隊の駐屯地として発展した地域。
陸軍時代の面影を辿りつつ散策をしてみました。

観武ケ原(みたけがはら)

観武ヶ原(みたけがはら)は、現在の岩手県盛岡市の青山・みたけ・月が丘、及び滝沢市滝沢地区にあたる地域に広がっていた原野。後世に観武野(みたけの)とも。
大正天皇が皇太子時代に、練兵場を観閲した折に命名したと言われている。またそれ以前に、岩手山が眼前に見えることから、「御嶽(みたけ)」と呼ばれていたものを改めたという。

今昔マップ on the web


陸軍騎兵第三旅団・覆馬場(覆練兵場)(現・盛岡ふれあい覆馬場プラザ)

煉瓦造の建屋がのこっている。
かつて青山地区に6棟の「覆馬場」があったが、この1棟を残し解体されてしまった。
建築年代は、明治42年(1909年)となる。
陸軍第八師団騎兵第三旅団騎兵第二十三聯隊、騎兵第二十四聯隊が明治42年に編成配備。

盛岡ふれあい覆馬場プラザの施設概要と周辺案内
盛岡ふれあい覆馬場プラザと青山地区の歴史
 青山地区一帯は、藩政時代は荒涼とした原野でした。明治41年に、工兵第八大隊が弘前から移転、明治42年(1909)に、騎兵第三旅団第二十三聯隊、第二十四聯隊が編成配置され、煉瓦造の覆馬場が6棟建設されました。
 当時、南部駒は軍馬として優秀であり、岩手山から続く広い原野は絶好の演習地でした。終戦後の昭和21年には、観武原の開拓とともに、兵舎を応急仮設住宅とし、この年に青山町が誕生しました。
 青山地区一帯には、現在でも盛岡ふれあい覆馬場プラザ(旧覆馬場)をはじめ、近接する森永乳業盛岡工場敷地内には、騎兵第三旅団の兵舎の煉瓦造の門柱等が保存され、また独立行政法人国立病院機構盛岡病院の敷地内には、工兵第8聯隊の兵舎の門柱等が保存されています。
 また、平成18年に開業した青山駅の駅舎や門柱、ショッピングセンターの歩道境等にも煉瓦が使用されており、今日においても、煉瓦文化が根付いている地域となっています。

盛岡ふれあい覆馬場プラザの施設概要
 この建造物は、平成16年に地元住民や有識者、保存を求める団体等からの要望をうけ、平成17年に盛岡市が取得しました。その後、平成18年から平成21年まで、5回の旧覆練兵場活用懇話会を開催して策定した「旧覆練兵場整備基本構想」に基づき、平成23年度、24年度の2個年で整備を進めてきました。
 歴史的な景観を形成するうえで、復元を基本に、屋根等の外観の色彩は建築当時のものとし、外壁の煉瓦については、経年劣化部分を補修のうえ、煉瓦素地のままの外観としました。また、敷地内の桜の樹木も保存し、さらに、閉鎖的にならないよう緑化整備を行うなど、景観に配慮したものです。
 名称を「盛岡ふれあい覆馬場プラザ」とし、平成24年6月1日に、「多目的施設」として開館しました。この建造物は、約100年もの間、青山地区の歴史を見続けてきた建造物である、同地区における歴史的建造物のシンボルとして、また本市における近代化遺産として、次代に継承するものです。

境界柵の残骸かも。

内部を覗いてみる。

場所

https://maps.app.goo.gl/QpYMUoxPCGzWDZ7t9


第八師団工兵第八聯隊・工兵園
(現・国立病院機構盛岡医療センター)

病院内のちいさな庭園。整備されたこの庭園が、工兵の思い出の場所であった。

明治41年に、工兵第8大隊が弘前から移転してきている。

工兵園の由来(碑文)
1,この園庭は明治、大正、昭和に亘りこの地に駐屯した工兵第八聯隊及びその編成部隊の隊員の冥福と勲功を顕彰するため造営し後世の活用を希い、厚生大臣の承認を得て国立盛岡療養所に寄贈したものである。
1,工兵隊は第8師団管下青森、秋田、岩手、山形四県の壮丁を訓練し数々の戦役に従軍して、常に抜群の功績を挙げ国宝師団の名を高からしむると共に、平時災害に際しては身を挺して事に當り、その温厚純朴の気風は市民に深い愛敬を受けていた。
1,部隊の歴史は陸上自衛隊岩手駐屯部隊史料館に、また造園記録は当園管理者に委託し永く保存する。
 昭和44年夏
  工八会

工兵園

工兵第八聯隊碑

工兵営跡

盛岡医療センター内にある。

病院敷地内の為、節度ある見学を。

場所

https://maps.app.goo.gl/XSrLGVZYyi9MJBSS9


騎兵第23連隊跡地
(現・青山児童公園)

いくつか「御手植えの碑」があった。
どうも見逃したものもあるようで。。。 
大正天皇の碑を確認漏れしていることをあとから知りました。。。

閑院宮殿下御手植

大正9年◯月◯日

月日は判読できなかった。

竹田宮殿下御手植

昭和7年5月7日

淳宮殿下御手植

淳宮は、 昭和天皇の弟で、後の秩父宮。

大正5年◯月◯日

月日は判読できなかった。

岩手県営体育館

場所

https://maps.app.goo.gl/qgnHPvLsWL5zEMiv5


騎兵第三旅団第23聯隊跡の門柱
陸軍豫備士官學校跡の碑
(現・森永乳業盛岡工場)

第23聯隊の門柱、盛岡陸軍予備士官学校の碑などがある。

旧騎兵第三旅団第二十三聯隊

明治41年に、工兵第8大隊が弘前から移転、明治42年(1909)に、騎兵第三旅団第23聯隊、第24聯隊が編成配置されている。

騎兵第三旅団
観武練兵之跡
 飯田貞固謹書

飯田貞固は、最終階級は陸軍中将。昭和8年(1933年)に騎兵第三旅団長を務め満州事変に出動している。

盛岡陸軍豫備士官學校跡

「陸軍予備士官学校」は、昭和13年に「仙台陸軍教導学校」内に「陸軍予備士官学校」を設置したことにはじまる。
「盛岡陸軍予備士官学校」は、「騎兵第三旅団」が昭和10年(1935)に満州に移駐したのち、昭和14年(1939)に騎兵第三旅団兵営跡地に、仙台から移転して創設された。
昭和16年8月に、盛岡から前橋に移動となり、前橋陸軍予備士官学校となっている。

  • 1938年8月 陸軍予備士官学校を設置(仙台陸軍教導学校内)
  • 1939年3月 陸軍予備士官学校を盛岡近郊に移転(騎兵第23連隊跡地)
  • 1939年8月 陸軍予備士官学校を盛岡陸軍予備士官学校と改称
  • 1941年8月 盛岡陸軍予備士官学校を前橋近郊に移転、前橋陸軍予備士官学校と改称
  • 1945年8月 敗戦によりすべての予備士官学校を閉校

建立志
 盛岡陸軍豫備士官學校は、兵制上はじめての陸軍予備士官学校として昭和14年に創設され、改正甲種幹部候補生制度上での第三期生が、同年4月にはじめて入校し、ついで同年11月第四期生、昭和15年12月第五期生が入校し、昭和16年7月、この期の卒業と同時に新設された前橋陸軍豫備士官學校に、その教育が引き継がれた。
 日支事変や、それに続く大東亜戦争では、多くの卒業生を戦場で失った。また生き長らえた私たち同窓生が、戦後の混乱と困難を乗り越えて、国家の債権に多大の貢献を成し得たのも、この校に学び性根を尽くして鍛えられ培われた不撓不屈の精神に因るところが大きい。
 この地に私たちが人生の足跡を残した證として「學校跡」の記念碑を建立した所以である。
 平成5年9月吉日
  盛士校記念碑建立委員会

場所:

https://maps.app.goo.gl/zPUpf7WhuTn47pzp9

「燕飛行隊発祥の地」「大元帥陛下御野立所聖蹟」とかがある「観武ヶ原」の北部(演習場跡地)には訪れる時間がなかった。これは再訪案件です。。。

※撮影:2023年8月


関連

岩手護國神社

榴岡公園の戦跡散策(仙台の戦跡散策その3)

仙台市内の榴岡公園の戦跡を散策してみました。
本編は、「その3」です。


榴岡公園

宮城県仙台市宮城野区。
江戸時代からの桜の名所。
戦前は、歩兵第四聯隊が営所をおいた。
仙台市歴史民俗資料館は、旧陸軍歩兵第四聯隊兵舎。


歩兵第四聯隊

宮城県仙台市の榴岡に営所を設置。仙台鎮台(第2師団)の司令部が仙台城に設置されたことに対して、聯隊が榴ヶ岡に設置されたのは、仙台城が要害の地にあり、広瀬川の氾濫時には、交通途絶し、仙台城から部隊が出動できなくなるために、白に対して広瀬川の対岸に位置し、街道に近い榴ヶ岡に置かれた。
歩兵第四聯隊は、明治8年(1875年)に発足。太陽戦争では、初戦をジャワ島、ついでガダルカナル島での激戦を経て、終戦はビルマで迎えている。


旧第四聯隊兵舎
(仙台市歴史民俗資料館)

陸軍第2師団歩兵第4聯隊の兵舎。
宮城県内最古の洋風木造建築。

宮城県指定有形文化財 令和5年3月24日指定
旧第四連隊兵舎
 明治7年(1874)に造営された兵舎建築で、宮城県内に現存する洋風建築では 最古のもの、瓦葺寄棟造り木造2階建で、漆喰塗りの大壁、建物角にはコーナー ストーン、ガラス入り上下窓、出入り口のポーチには洋風円柱、雲形の彫刻のある 階段等の特徴を持つ、これらは明治6年完成の名古屋第六連隊兵舎と似ている ことから、当時の兵舎建築の基準に則ったものと考えられる。
 終戦まで70年間にわたり旧陸軍の兵舎として使用された後、終戦から昭和31年 までは米軍が駐留、その後昭和50年まで東北管区警察学校等に使用された。 内部はその都度改造されているが、昭和53年文化財に指定された後、明治37年 の状態に復元された。昭和54年(1979)11月3日、仙台市歴史民俗資料館 として開館した。
 なお、同様の兵舎が7棟残されていたが、これ以外の兵舎や本部等の建物は榴岡 公園整備のため昭和52年2月に取り壊された。
 平成27年3月
  仙台市教育委員会

白を基調としたシンプルな美しさがあります。

中に入ってみましょう。

四聯隊コーナーがあります。

大正四年に空撮した歩兵第四聯隊。
中央が榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の兵営地。

軍隊生活の再現。

仙台陸軍地方幼年学校
榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東隣に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設置された。

仙台陸軍地方幼年学校
 日清戦争後の軍備拡張に応じるため、明治29年(1896)5月の条例改正により、陸軍中央幼年学校と陸軍地方幼年学校(東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)が設けられた。地方幼年学校の採用生徒は各校50名、年齢は13~15歳、毎月の納金は6円50銭、陸海軍将校の子弟は半額、戦死者の遺児は免除、修学期間は3年だった。明治30年(1897)9月には、榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東側に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設立された。
 しかし、第一次世界大戦後の軍備縮小で大正13年(1924)には廃校となる。その後、昭和12年(1937)には、仙台幼年学校として復活し、第1期生は第41期生として広島陸軍幼年学校に入校し、昭和13年(1938)には仙台市三神峯に完成した仙台陸軍幼年学校に転校した。昭和20年(1945)8月の配線まで、49期生におよんだ。仙台幼年学校の出身者には、多田駿(第1期生)、板垣征四郎(第2期生)、土肥原賢二(第2期生)、中島鉄蔵(第4期生)、石原莞爾(第6期生)などがいる。

仙台空襲

仙台空襲は、昭和20年7月9日深夜から10日未明にかけて、131機編成のB29爆撃機のうち123機が仙台上空に到達し、約3000mの高度より爆撃を行い、合計1万2961発、911.3トンの焼夷弾と焼夷集束弾が投下された。7月17日・8月9日・10日の小規模な爆撃も含め、1400名近い人々が空襲によって亡くなった。
(以下略)

満洲事変勇士合奏の墓は、常盤台霊苑にある。立ち入りできないけど。
昭和6年に勃発した満洲事変での日本軍の最初の戦死者は、仙台第二師団だった。

仙台と西南戦争

軍都仙台の誕生
仙台と日清戦争
仙台と日露戦争

愛国婦人会と国防婦人会
帝国在郷軍人会

仙台と満洲事変

満洲事変、日中戦争、アジア太平洋戦争

徴兵制と庶民のくらし

対外戦争と歩兵第四聯隊

歩兵第四聯隊全図

榴ヶ岡歩兵営図

招魂社
宮城縣護國神社

ガイドブック 仙台の戦争遺跡 2008
こちら、購入しました。はかどりますね。


歩兵第四聯隊営門跡

榴岡公園の西側。このあたりに営門があったという。


歩兵第四聯隊之碑

至誠無息
歩兵第四聯隊之碑

今村均(仙台出身の陸軍大将)による謹書。

 歩兵第四聯隊は明治八年九月九日重陽の佳節にあたりわが郷土出身者によってここ榴ヶ岡に編成せられてから星霜実に八十有余年父子相継いで護國の大任についた 其間明治十年西南の役を初めとし日清日露の両戰役満州事変昭和十二年日支事変引続き大東亜戰争等幾多の事変戰争に参加し二回に亘り感状を賜はる等抜群の功績は永く記念すべき聯隊であった 然るに昭和二十年終戰に遭い 畏くも 明治大帝より親授された我が軍旗は昭和二十年八月三十一日午後十二時南部佛領印度支那サイゴン市西北方約八十粁ホックモン町のゴム林内で涙を呑んで奉焼した 我等聯隊出身者竝に縁故者有志は今は無き軍旗の榮光
を偲び併せて陣歿せる幾多先輩戰友諸氏の英魂を慰むるためここに思出深き営門前に記念碑を建立し之を後世に伝うるものである
 昭和三十五年九月九日   
  重陽会
  その他有志一同


陸軍省所轄地標柱(境界標柱)


朝鮮戦役記念の碑

明治17年(1884)の甲申事変の開化派(独立党)と守旧派(事大党)が衝突し、京城(ソウル)の日本大使館護衛にあたったのが、歩兵第四聯隊第一中隊であった。
歩兵第四聯隊第一中隊は、事大党側の清国軍及び朝鮮軍と戦闘し死傷者を出している。
朝鮮戦役記念の碑は、軍功を称えて明治18年12月建立。


梅の園碑
(石原莞爾を偲ぶ碑)

石原莞爾は、昭和6年に陸軍中佐として関東軍の作戦主任参謀として、満洲事変を指揮。翌年の昭和7年8月に大佐に任ぜられ、陸軍省兵器本部付で内地に帰還。
昭和7年10月、石原莞爾は、満州問題に関するリットン調査団報告書を受けたジュネーブでの国際連盟総会に、松岡洋祐全権の随員として派遣。そして、この総会で日本は国際連盟脱退を宣言。
翌昭和8年6月に日本に帰国し、8月の異動で第四聯隊長に着任。
石原莞爾が第四聯隊長として在任したのは、昭和8年8月から昭和10年8月までの2年間であったが、出身地である東北の名門の聯隊に着任できたことを喜んでいる。

石原莞爾氏は昭和八年九月から二ヶ年間この地に歩兵第四連隊長として在任し連隊諸兵の栄養源又非常用として自ら植えられた
この四連隊跡地が仙台市民の公園として開放されたことを祈念してこの碑を建立する
 昭和五十二年三月二十五日
  石原莞爾将軍を偲ぶ会
  建立会一同

歩兵第四連隊長
石原莞爾大佐の日記から
昭和九年三月二十五日日曜(晴)
梅二〇〇本植える

榴岡公園は桜の名所として知られるが、今も石原莞爾なごりの梅園も残っている。


場所

https://maps.app.goo.gl/qB5NDWXWPL62xa78A

※撮影:2023年8月


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