「近代史全般」カテゴリーアーカイブ

善光寺坂のムクノキ(戦災樹木・文京区)

文京区では初の指定天然記念物(文京区指定天然記念物)。
戦災をくぐり抜けたムクノキの巨木に会ってきました。


善光寺坂のムクノキ

伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷の御神木。
第二次世界大戦中の昭和20年(1945)5月25日の空襲で樹木上部が焼けて欠損し、樹幹下部もその空襲によって幹に炭化した部分が見受けられる。

善光寺坂 のムクノキ  
 文京区指定天然記念物
  所在地 小石川3丁目18番(ポケットパーク内)
  指定   平成25年3月1日

 樹高約13m(主幹約5m)、目通り幹周約5mを測る推定樹齢約400年の古木 である。第二次世界大戦中、昭和20年5月の空襲により樹木上部が焼けてしまったが、それ以前の大正時代の調査によると樹高は約23mもあった。
 ムクノキは、ニレ科ムクノキ属の落葉高木である。東アジアに広く分布し、日当たりのよい場所を好む。成長が早く、大木になるものがある。
この場所は江戸時代、伝通院 の境内であった。その後、本樹は伝通院の鎮守であった澤蔵司稲荷 (たくぞうすいなり)の神木 として現在に至っている。
 樹幹上部が戦災により欠損し、下部も幹に炭化した部分が見受けられるが、幹の南側約半分の良好な組織から展開した枝葉によって樹冠が構成されている。枝の伸び、葉の大きさ、葉色ともに良好であり、空襲の被害を受けた樹木とは思えないほどの生育を示している。
 本樹は、戦災をくぐりぬけ、地域住民と長い間生活を共にし、親しまれてきたものであり、貴重な樹木 である。
 平成26年1月
  文京区教育委員会

戦争の爪痕を遺しつつも、力強く立派なに枝を伸ばしている樹木。

善光寺坂。寺町にある坂道。よい風情。

文化庁>文化遺産オンライン

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/276710

澤蔵司稲荷

https://takuzousuinari.com/mukunoki/

場所

https://goo.gl/maps/jeCkmYaapvT57inY8


澤蔵司稲荷 (たくぞうすいなり)

小石川善光寺

ちかくにある料理学校。
明治15年(1882年)日本で最初の日本で最初の家庭料理の学校として開校した「赤堀割烹教場」以来の伝統を誇る日本最古の料理学校とのことで。

※撮影:2022年12月


関連

5月25日の空襲は、東京にとどめを刺した「山の手空襲」。

明治生命館(GHQ接収・米極東空軍司令部)

明治生命館を見学していましたので、掲載。
かつて、アメリカ極東空軍司令部として接収されたこともある建造物。

公式サイト

https://www.meijiyasuda.co.jp/profile/meiji-seimeikan/

一般公開もありますので、見学してきました。


明治生命館(外観)

昭和9年(1934)3月31日竣工。
昭和20年8月、終戦後に連合国軍が進駐を開始。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日比谷の第一生命館を接収するとともに、明治生命館に対しても米極東空軍司令部(FEAF)として使用するために接収した。
接収期間中、2階の会議室では、米・英・中・ソの4カ国代表による「対日理事会(ACJ)が開催され、昭和21年(1946)4月5日、その第一回には連合国軍総司令官D.マッカーサーが演説を行っている。対日理事会は、隔週ごとに開催され、サンフランシスコ講和条約が発行され、GHQが廃止された昭和27年(1952)まで164回にも及んでいる。昭和31年に返還。

昭和建造物としては、昭和の建造物として初めて、平成9年に「明治生命保険相互会社本社本館」として重要文化財指定。

設計は「様式建築の名手」岡田信一郎・捷五郎(兄弟)、構造設計は内藤多仲、施工は竹中工務店。5階分のコリント式列柱が並ぶ古典主義様式に則ったデザイン。

明治生命館
重要文化財
竣工 1934年(昭和9年)
指定 1997年(平成9年)


明治生命館(内部)

往時の雰囲気を残すエレベーターで2階に。

受付をすまして、まずは資料・展示室。


資料・展示室


手すり

手すり
回廊に巡らされている手すりはブロンズ製です。
この手すりは戦時中に金属回収されましたが、昭和31年の改修工事の際に当初と同じ形式に復元されました。


吸塵バルブ

吸塵バルブ
当時としても珍しい真空掃除機設備が設置されていました。各階では壁の吸塵バルブにホースをつなげ、吸引清掃していました。吸い寄せられたゴミは館内に張り巡らせた配管を通り、地下二階の米国製バキュームポンプとダクトタンクへと運ばれました。


会議室(対日理事会)

古典主義様式が取り入れられた会議室。

戦後、明治生命館は米極東空軍司令部(FEAF)として使用するために連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収された。
接収期間中、2階の会議室では、米・英・中・ソの4カ国代表による「対日理事会(ACJ)が開催されている。


控室(食堂控室)

料理用昇降機(小型エレベーター)が設置されており、地下にある厨房から料理が2階まで運ばれた。


食堂


象徴的なデザイン。吹き抜け部分にはイオニア式を貴重とする26本の角柱。回廊内側は、トスカナ式。イタリア産大理石。


回廊

1階部分は、静嘉堂展示室のエレアのみでならず、店舗営業室(ほけんショップ丸の内)としても、現在も活用されている。

消火栓格納


メールシュート

メールシュート
郵便物を各階から直接投函することができる、米国カットラー社製メールシュートが、館内各階二ヵ所に設置されていました。
一階北玄関と東玄関には、各階のメールシュートから投函された郵便物が集積される集合郵便箱が設置されていました。


天井

天井
天井は漆喰と石膏で作られています。吹き抜けの中央部に設置されたトップライト(天窓)の南・西・北側を取り囲む天井には八角形と小さな正方形のくぼみがあり、八角形の中には石膏で造られたロゼット(丸い花飾り)が施されています。


執務室


執務室隣接応接室


階段


応接室


健康相談室

健康相談室は昭和13年(1938)に創設された健康増進施設であり、現在のように健康診断が一般的ではなかった頃に、生命保険会社もよる社会貢献の一環として発足しました。当時としては最新のドイツ製の心電図計(エレクトロ・カルヂオグラム)が導入されていました。

2階を一周して見学終了。

これは良いですね。いいものを見学させて頂きました。
見学できることがあまり周知されていないのか、ほどんど独占状態での見学。ゆっくり楽しめました。


明治生命館「講堂」(東京建築祭2025)

2025年5月、「東京建築祭2025」にて、通常は非公開の明治生命館7階の「講堂」が一般公開されましたので、足を運んでみました。

以下、写真は2025年5月撮影。


第一生命館

明治生命館と同じく連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が接収したのが、日比谷の第一生命館。マッカーサー記念室など一部が残っているというが通常非公開。


第一生命日比谷ファースト展示資料(東京建築祭2025)

第一生命日比谷ファーストビルの1階公開エリアにて、東京建物祭2025に際して、関連資料の展示がありましたので、足を運んでみました。

以下、写真は、2025年5月。

マッカーサー執務室(保存・非公開)

資料展示コーナー(保存・非公開)

貴賓室(保存・非公開)


第一生命館


マッカーサー記念室と保存諸室

この部分が一番興味あるので、拡大しつつ紹介

GHQによる接収
 昭和20年8月15日、昭和天皇によるポツダム宣言受諾の詔書により、第二次世界大戦は終わりを告げた。同年8月30日には、連合国総司令官ダグラス・マッカーサーが厚着飛行場に降り立ち、連合国総司令部(GHQ)による戦後処理が始まることとなった。
 第一生命館がGHQによって、建物の地上部分すべて接収されることになった。9月10日に日本政府より正式の接収命令が通知され、9月15日の正午をもって明け渡しの期限とするまことにあわただしいものであった。建物が戦前に陸軍からの要請で、屋上スラブ厚40cm、1階床スラブ厚60cmの耐爆対弾構造であったこと、また冷暖房装置が整っていたことなどが接収の理由であったと考えられる。隣接する農林中央金庫有楽町ビルも同様に急な接収が行われた。
民主化の象徴として
 第一生命館は昭和27年7月に、農林中央金庫有楽町ビルは昭和31年2月に接収が解除され両社に返還された。
 しかし、この建物が財閥解体、農地改革、新憲法の草案などの諸政策の発信源として、戦後の民主化の象徴と認められていたことも事実である。第一生命館の返還受領式の挨拶の中で、矢野社長は次のように述べている。
「・・・第一に、この家が日本および日本人の為に、延いては更にまた世界の為に最も有効に役立つお努めをしたいということが何より欣ばしいことであります。又之は会社にとっても名誉と考えるものであります。
 第二に6年10ヶ月の長い間このビルに関して私dも何等不愉快な出来事を経験せず、終始気持ちのよい思い出のみを持ったことを喜ぶものであります。
 このビルをめぐっての美わしい話は沢山あるのであります。之は要するに所有者である第一生命と使用者であるGHQの間に頭から絶対的な強力と理解があったことによるものであると思います。(中略)・・・第一ビルが永らく歴史的な建物として人々の心に残るものである丈に、日本の為、世界の為によかったことだと思って居ります」(「」内は第一生命八十五年史より引用)

復旧・保存されたマッカーサー執務室
 本館6階には、旧第一生命館の歴史の舞台となった貴賓室、大小会議室およびマッカーサー執務室があった。これらのうちマッカーサー執務室と貴賓室は、現状を完全保存し、記念室として残すことになった。

イメージ保存の手法
 大小会議室とそれにまつわるホワイエと廊下は、要所に旧建物のデザイン要素を取り込みながら、床、壁、天井を新たに作り直してイメージ保存を行っている。(以下略)

あとは、写真共有で。


外堀から

※撮影:2023年1月


関連

「平和外交を尽力し続けた隻脚の名外交官」(重光葵記念館・湯河原)

湯河原駅からバスに揺られて終点の奥湯河原バス停から、数分歩いたところに、私設の記念館があった。

重光葵記念館

「重光葵記念館」
「昭和の動乱」を第一線の外交官として活躍し、終戦時には日本全権として降伏文書に調印。日本の戦争を幕引きし、そして戦後日本を国際連合加盟のために尽力した外交官「重光葵」が、その最後を過ごした別荘(保養所)のあった場所。
そこに、重光葵の次男、重光篤氏が、2000年に開設したのが、「重光葵記念館」。

重光葵記念館

http://contra99.ojiji.net/index.html

産経新聞記事

https://www.sankei.com/article/20140810-3GXA64WRCVKTHJLLLQD27R7QFA/

神奈川新聞記事

https://www.kanaloco.jp/news/life/entry-19643.html

開館の日時は要注意。

金曜日 1200-1700
土曜日 1000-1700
日曜日 1000-1300

記念館内は撮影禁止。

展示品の一部は、サイトでも確認できる。

http://contra99.ojiji.net/tenjihin/index.htm

重光葵が、ここ一番の大事なときに使用した義足「恩賜の義足」(皇太后(大正天皇の貞明皇后)より賜った)も展示してある。また、重光葵の写真や手記などとともに昭和の動乱期の事象が時系列で展示。重光葵の書斎や、外交官時代の旅行鞄などもある。そして、重光葵に関する動画を視聴させていただくこともできた。ありがとうございます。

邸宅は、重光葵の頃からは、さすがに建て替えられています。


以下、多くを「平和への努力 重光葵の生涯」(重光葵記念館発行)を参照する。

重光 葵 (しげみつ まもる)

葵と書いて「まもる」(あおい ではない)

重光葵 
1887年〈明治20年〉7月29日 – 1957年〈昭和32年〉1月26日)
上海事変当時の駐華臨時代理公使。上海での天長節遙拝式場にて爆弾により右足を失う。
のち外務次官として対華問題に取り組み、張鼓峰事件時の駐ソ大使、そして二次世界大戦開戦時の駐英大使。
東条・小磯・東久邇宮内閣時の外相。降伏時の日本首席全権。戦後は改進党総裁。
鳩山一郎内閣副総理・外相として日ソ共同宣言・国連加盟を果たすなど、「昭和の動乱」を駆け抜けた第一級の外交官であった。

駐華公使での上海天長節爆弾事件
昭和7年1月28日に上海事変(第一次上海事変)が勃発。
なんとか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった、昭和7年4月29日、上海での天長節祝賀式典において、朝鮮テロリスト尹奉吉の爆弾攻撃に遭い重傷を負う(上海天長節爆弾事件)。なお、参列者は、爆弾が投げつけられた際も逃げることなく微動だもしなかった。これは「国歌君が代」斉唱中であったということもあった。
即死
 上海居留民団行政委員会会長 医師河端貞次
重傷
 上海派遣軍司令官 白川義則大将(翌月5月26日に死亡)
 第9師団長 植田謙吉中将(足指切断)
 第3艦隊司令長官 野村吉三郎海軍中将(右眼を失明)
 在上海公使 重光葵(右脚を失う)
 在上海総領事 村井倉松

この事件の7日後の5月5日、重光葵は、右脚切断手術の直前に上海停戦協定の署名を果たす。右脚切断の大手術のあとは、別府温泉で静養するも、昭和8年5月には外務次官に就任している。昭和11年の2・26事件の際も外務次官の要職にあった。岡田圭右内閣辞職後に、外部大臣であった広田弘毅が首相に任命されたのを期に、重光葵は、ソビエト駐在大使に任命となった。

写真参照元

駐ソ大使での張鼓峰事件
重光葵が駐ソ大使としてシベリア鉄道経由でモスクワに着いた日が昭和11年(1936)11月25日であった。奇しくもこの日に「日独防共協定」が調印。日本とドイツが共産主義インターナショナル(コミンテルン)に共同で対抗するとあっては、ソビエトはまったく歓迎できない空気感のもとでの重光の着任であった。
昭和13年(1938)7月29日、張鼓峰事件が勃発。ソビエトのリトヴィノフ外相との折衝で停戦協定は成立したが、このときに重光葵はソ連に睨まれ、のちの東京裁判で、ソ連側から張鼓峰事件の責任者として戦犯指名されることにもなってしまう。

駐英大使での日独伊三国同盟
張鼓峰事件ののち昭和13年10月に駐英大使として、モスクワを離れロンドンに着任。支那事変拡大の影響もあり、日英関係も悪化していた。
昭和14年(1939)9月1日、ドイツはポーランドに侵攻、英仏はドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発。1940年5月にはチェンバレン内閣の海相であったチャーチルが首相に就任し、英国では挙国一致内閣が成立となった。
日本では、陸軍主導でドイツへの接近が強まり、日独伊三国同盟が駐独大使の大島浩中将によって進められていた。
昭和15年(1940)9月、欧州の情勢をつぶさに報告し、日独伊三国同盟の危険性を指摘し警笛を鳴らしていた重光葵駐英大使の声も虚しく、第二次近衛内閣は、東條英機陸相、松岡洋右外相のもとに、日独伊三国同盟を締してしまう。
駐英大使として、英国チャーチル首相と親交を深めていた重光葵であったが、イギリスでの外交は完全に手詰まりとなり、昭和16年(1941)6月に英国を離れ、アメリカ経由で7月20日日に鎌倉丸で日本へ帰国した。

外務大臣での大東亜憲章(大東亜共同宣言)
昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争開戦。
日本に帰国していた重光葵は、昭和16年12月19日に駐英大使を被免となり、駐華大使として南京に赴任。
重光葵は、米国ルーズベルト大統領と英国チャーチル首相の大西洋憲章を意識した大東亜憲章の構想を練り、大東亜憲章のもとにアジア各国の共同機関「大東亜機構」を作り、協力体制を確立する計画であった。
昭和18年4月に、日本に帰国し上京した重光葵は「大東亜憲章」を東条首相に進言。その夜に首相官邸より呼び出しがあり、谷外相が辞表を出したということで、重光葵は外務大臣に就任。
重光外相は東条首相の大東亜省設置には反対をするも、自らの大東亜憲章構想に奔走し、昭和18年(1943)11月、大東亜共同宣言として、実現し、大東亜会議が開催となった。
大東亜共同宣言の内容は、軍部からの異論を抑えるために、重光外相が、直接に東条首相に提出しており、「1.大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道󠄁義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス」に始まる5条は、大東亜各国の自主独立、民族の創造性、文化高揚、経済発展を謳ったものであり、重光外相には、和平や戦後構想にむけて、長年欧米諸国の植民地として搾取されていた各国の独立構想が織り込まれていたものであった。
昭和19年7月19日、東條内閣は戦局の悪化と重臣による倒閣運動により総辞職。小磯国昭内閣が成立。東條英機の後任は難航し、陸軍大将を専任順に選考するも、寺内寿一、畑俊六は断られ、3番手の小磯国昭陸軍大将に落ち着く。しかし小磯は政界に疎く政治基盤もないために指導力不足が懸念されたため、総理経験者の米内光政海軍大将を副総理格として起用し、重光葵は引き続き外相に就任した。

終戦工作
小磯内閣が、中国国民党政府との和平工作(繆斌工作)に失敗したため、内閣総辞職すると、重光葵も外相を辞任。
三番町の自宅は5月25日の空襲で焼失していたために、日光の別荘に疎開。
昭和20年8月に、木戸内大臣より外務省を通じて、東京に来るように依頼があり、8月8日に上京。木戸内大臣や近衛元首相たち重臣たちと終戦に向けての工作に奔走することになる。

日本全権での降伏文書調印
「不名誉の終着点ではなく、再生の出発点」

鈴木貫太郎内閣は昭和20年(1945)8月15日に終戦を決定し、総辞職。後継は、軍部の暴走を抑えるための宮様内閣として東久邇宮稔彦王内閣となった。
重光葵は、3度めの外務大臣に就任。終戦処理を担う外務大臣となった。

降伏文書調印式の日本全権は、天皇及び日本政府を代表して重光葵外相、大本営を代表して梅津美治郎参謀総長。
昭和20年9月2日、重光葵全権が早朝に詠んだ心境。
 ながらへて甲斐ある今日はしも
  しこの御楯と吾ならましを
上海の爆弾事件で失っていた命を永らえて、今日は 天皇の御楯として調印式へと向かう重光は、終戦反対の国家主義者にいつおそわれてもおかしくないなか、東京湾のミズーリ号に乗艦するするために横浜に向かった。

ミズーリ号艦上での調印式。

写真参照元

外務省外交史料館別館で展示されている降伏文書(原本特別公開)


調印の心境を、重光は以下のように詠んでいる。
 願わくは御国の末の栄え行き
  我が名さけすむ人の多きを

「降伏文書に調印した自分のような恥ずべき外相が蔑まれるような、栄えある日本になってほしい」との意を込めた、志の高い名外交官による屈辱的でもあり歴史的でもあった大きな一幕であった。

軍政施行中止要望
調印式が終わって、帰郷した重光全権は、東久邇宮首相に報告をしたのちに、参内して 天皇にも委細を奏上。その夜に。外務省からの通報で、GHQは、占領下においても日本の主権を認めるとしたポツダム宣言を反故にし、行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷き、軍票を使用させ、公用語も英語にする方針であることがわかった。
重光外相は翌日朝に、再び横浜赴き、旧横浜税関のGHQ総司令部でマッカーサーと面談。「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」「 天皇は、受諾したポツダム宣言を忠実に履行する決意がある。日本国民の崇敬する天皇の指令する日本政府を通じて、占領政策を実行するのが一番の方法だ」と軍政布告の取り下げを要求し、その結果、占領政策は日本政府を通した間接統治となった。
昭和20年10月5日、東久邇宮内閣は総辞職。元外相の幣原喜重郎内閣が成立。重光葵も外相を離れ日光から鎌倉に転居。

A級戦犯
昭和21年(1946)4月13日に来日したソ連代表検事セルゲイ・A・ゴルンスキーが、ジョセフ・キーナン主席検事に対して、東條内閣・小磯内閣の外務大臣であった重光葵をA級戦犯にするように強硬に要求。GHQは、重光を戦犯起訴するつもりはなかったが、ソ連の揺さぶりに屈する形で要求を容認せざるを得ず、重光葵は昭和21年4月29日の起訴当日に逮捕起訴され、巣鴨プリズンに連行となった。奇しくも天長節の4月29日は、重光が右脚を失った日でもあった。
2年半を要した軍事裁判は、昭和23年11月12日に判決が言い渡され、東條英機以下7名が絞首刑となる。この中には文官として元首相で重光にとっては外務省の先輩に当たる広田弘毅も含まれていた。東郷茂徳元外相は禁錮20年、そして重光葵は禁錮7年と一番軽く、その他は終身刑であった。
重光は、A級戦犯の中では最も軽い禁錮7年ではあったが、日本だけではなくアメリカでも重光は無罪と予想されてたなかでの有罪判決は、ソ連に対する政治的な妥協があったとも批評されている。
重光は、4年7ヶ月の服役後で、昭和25年(1950)11月21日に巣鴨拘置所を仮出所(減刑保釈)。昭和27年(1952)に講和条約(サンフランシスコ平和条約)の発行後に恩赦により刑の執行を終了となった。

改進党総裁
吉田茂の自由党に対抗する第二の保守として、昭和27年6月、改進党の元首相芦田均(重光の外務省時代の同僚)の要請があり、重光は改進党総裁に就任。
昭和28年には、自由党の吉田茂と鳩山一郎が分裂。
昭和28年11月24日に、鳩山一郎を総裁とし、重光葵を副総裁、幹事長を岸信介とする「日本民主党」が設立し、吉田茂内閣不信任案を提出。第5次吉田内閣は総辞職となり、鳩山一郎内閣が成立。重光葵は、4回目の外務大臣、そして副総理となった。

国連加盟と「東西の架け橋」
鳩山内閣では、「日ソ交渉」と「国際連盟への加盟」が大きな課題であった。
重光外相は、昭和31年(1956)7月に全権としてモスクワでソ連との交渉を行うが領土問題で交渉は難航。重光葵は対ソ強硬論であったが、鳩山一郎は日ソ国交回復を最優先する方針であった。
10月に鳩山一郎首相によって「領土問題は棚上げ」しての「日ソ共同宣言」が調印。日ソ国交回復が実現した。(なお、日ソないし日露での平和条約は現在においても未締結。)

昭和31年(1956)12月18日、これまではソ連の反対で加盟できなかったが、共同宣言締結によってソ連の支援を得られることにより、国連総会は、加盟国の全会一致で、日本の国連加盟を承認した。
重光葵外相は、12月18日の総会の、加盟の謝辞とともに、有名な演説を行った。
 わが国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米及びアジア両文明の融合の産物であつて、日本はある意味において東西のかけ橋となり得るのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を充分自覚しておるのであります。
 私は本総会において、日本が国際連合の崇高な目的に対し誠実に奉仕する決意を有することを再び表明して、私の演説を終ります。
これが、後世にのこる有名な「東西の架け橋」演説となる。

外務省サイト

https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/esm_1218.html

終焉
昭和31年12月23日、第三次鳩山一郎内閣が総辞職。石橋湛山内閣が成立。重光も辞任し、後任の外相は岸信介となる。
日本に帰国した重光は、昭和32年の正月を郷里の大分県国東で過ごした。
帰京して、湯河原の別荘で静養をしていたが1月26日夜半に、狭心症の発作を起こし急逝した。69歳だった。

 霧は晴れ 国連の塔は輝きて
  高くかかげし 日の丸の旗 

日本の国連加盟が承認され、本部前に初めて日の丸が掲揚された様を詠んだ句が辞世となった。
重光は、国連演説の後、加瀬俊一初代国連大使に「ありがとう。もう思い残すことはない」と言い残し、そのわずか一ヶ月後にこの世を去ってしまった。

墓は大分県国東市安岐町にある。安岐町には、重光葵元外務大臣の遺徳を偲び、後世にその功績を伝えるために建立された「山渓偉人館」もある。また、杵築市には重光邸「無迹庵」も残っている。
葵(あおい)は中国では向日葵(ひまわり)を意味し、「向陽」と号していた。
地元の大分県国東市安岐町では遺徳を偲び命日に「向陽祭」が執り行われている。

「志四海」
「四海を志す。志が全世界を覆う。志を全世界に及ぼす。」という意味。重光が常に胸に留めていたこの言葉は、今も重光葵記念館や母校の大分県立杵築高等学校に残されている。


機会あれば、大分の重光関連の土地にも訪れたいものです。
※撮影:2023年2月


関連(湯河原)


関連(昭和外交)


もう一つの「二・二六事件」光風荘襲撃事件(湯河原)

昭和11年(1936)2月26日。
後の世に言う「2・26事件」。東京以外では唯一、湯河原・熱海でも事件があった。


湯河原の二・二六事件

東京の反乱軍と連動した河野壽大尉。
民間人を主体とした襲撃部隊以下8人は、別働隊(河野隊)として湯河原「光風荘」に滞在していた牧野伸顕伯爵を襲撃した。

河野壽
河野壽(こうの ひさし)は、陸軍航空兵大尉。陸軍士官学校(陸士40期)卒業。所沢陸軍飛行学校操縦学生。

牧野伸顕伯爵
牧野伸顕は大久保利通の次男。事件当時75歳。前内大臣として 天皇陛下の側近であり欧米強調主義であったために、「君側の奸」( 天皇を取り巻く悪者)として暗殺対象となっていた。麻生太郎の母、麻生和子は吉田茂の長女(吉田和子)であったが、当時、祖父であった牧野伸顕ともに湯河原に滞在して事件を経験している。(吉田和子は事件当時20歳)

河野寿大尉の指揮する湯河原襲撃隊
現役は、河野寿大尉・宇治野時参軍曹(歩一第六中隊歩兵軍曹)・黒沢鶴一上等兵(歩一歩兵砲隊歩兵一等兵)。
民間元陸軍からは、黒田昶(予備役歩兵上等兵)・中島清治(予備役歩兵曹長)・宮田晃(予備役歩兵曹長)
民間からの参加者は、水上源一(弁理士)・綿引正三の合計8名。
河野寿大尉自身は、学生であったために部下がおらず、同士であった栗原中尉からの紹介で7名を率いることとなった。

湯河原・熱海の「二・二六事件」
2月26日早朝午前5時頃、牧野伸顕が滞在していた湯河原「光風荘」を襲撃。
玄関前で乱射された機関銃の銃声で目覚めた身辺警護の皆川義孝巡査(警視庁警務部警衛課勤務・牧野礼遇随衛)は、機転を働かせ牧野伯爵を裏口から避させることに成功。
河野壽大尉の襲撃部隊は護衛の皆川義孝巡査と銃撃戦となり、河野大尉と宮田が負傷。河野大尉が負傷したことで計画変更を余儀なくされ、放火を行い光風荘を炎上させるも、牧野伸顕伯爵襲撃は失敗。

銃撃戦で皆川義孝巡査は死亡(享年32歳・殉職)、河野壽大尉と宮田晃予備役曹長は負傷。河野壽大尉重傷後の部隊指揮は民間出身であった水上源一が務めている。(そのために民間人でありながら水上源一は、河野大尉自決後の湯河原隊責任者として唯一の死刑となっている)

襲撃隊8名の内、宮田は湯河原の病院に入院。重傷の河野大尉は熱海の東京第一衛戍病院熱海分院に入院し胸部盲貫の弾丸摘出手術を受ける。残る6名は翌日の2月27日に三島憲兵隊に収容。

河野壽の最期
熱海陸軍病院に入院し、刃物などを取り上げられた河野壽は、密かに兄の河野司に自決用の刃物を用意するように頼み、河野司は果物ナイフを差し入れ。
昭和11年3月5日午後、軍服に着替え病室を抜け出した河野壽大尉は、病院の外、裏山で自決。しかし果物ナイフでの自決は致命傷を得られず、16時間後の3月6日朝に死去。享年28歳。

辞世
 あを嵐 過ぎて静けき 日和かな
戒名 
 徹心院天嶽徳寿居士

河野壽大尉自決の地
熱海の陸軍病院跡に、記念碑が残っている。

https://senseki-kikou.net/?p=15368

以下、案内看板より。

湯河原の二・二六事件
 昭和11年(1936)2月26日首都東京で、首相をはじめ政府高官の官邸、私邸が、国家改造を求める陸軍青年将校らの率いる兵1400余名の部隊に襲われ、斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監、松尾陸軍大佐らは即死、鈴木侍従長は重傷、護衛の巡査数名死傷という大事件が起こった。
 これと同時に、遠く離れたこの湯河原でも、青年将校の一人河野大尉の率いる別働隊7名が、元内大臣牧野伸顕伯爵を、静養中のこの場所伊東屋旅館の元別館光風荘に襲い、銃撃、放火。急を知り駆けつけた地元消防団員の救出活動により、牧野伯爵とその家族は辛くも難を逃れたが、付添いの森看護婦は銃創、護衛の皆川巡査は銃弾に倒れ、後に焼死体で発見されるという事態に至った。
 また牧野伯爵を助け出した前第五分団長(現温泉場分団)岩本亀三は銃創、消火に当たった消防団員も負傷するなどのほか、銃剣をも恐れぬ地元消防団員らの勇敢な救出消火活動があった。
 これらの事実は、湯河原の歴史の一こまとして湯河原町民の心意気と共に後世に永く語り伝うべきものである。
  平成14年2月26日
   郷土史研究家 高橋徳
   光風荘保存会

史跡 二・二六事件「光風荘」見学ご案内
昭和史上稀にみる大事件は、首都圏のほか、ここ湯河原にも別働隊による襲撃があり、その唯一の地方現場「光風荘」を次の通り、見学できます。(略)

史跡 二・二六事件 光風荘 
 麻生太郎書

碑文は、光風荘に宿泊静養中に襲撃された牧野伯爵の曾孫に当たる麻生太郎の直筆。平成17年11月建立。


光風荘

光風荘は、二・二六事件の際に放火され焼失している。現在の光風荘は、昭和37年に、消失前とほぼ同じ間取りで再建された。

湯河原町

https://www.town.yugawara.kanagawa.jp/soshiki/8/1282.html

主な展示物
皆川巡査の遺体の傍らにあった、焼け焦げた愛用の万年筆(現物)
河野大尉が自決に用いた果物ナイフ(刃こぼれが痛ましい)と直筆の辞世の句(現物)
兄大尉に自決を促した実弟(大学生)からの手紙(現物)
事件を回想した麻生和子さん(牧野伯爵の孫、祖父母に付添い事件に遭遇)の手紙(直筆)ほか当時の新聞、写真など 
多数

ご来館の皆様へ
本日2月26日は、混雑が予想されます。
混雑時には、入場規制をかける場合がありますので係員の指示に従って頂ますようお願い申し上げます。

2月26日にピンポイントで光風荘に足を運ぶ人は、思うところありますよね。
私もそのうちの一人。
しかし、たまたま人が少ないタイミングでの訪問となり、ボランティアスタッフにて展示物の解説をしていただきました。ありがとうございます。結構、へぇ~な話が聞けました。やはり地元ならではの話を聞けるのは面白いですね。

なお、建物内部は撮影禁止。

場所

https://goo.gl/maps/cijAp9NzzQtEBbaE9

2・26事件と湯河原
1936年(昭和11年)2月26日珍しい大雪の早朝、国家改造(昭和維新)を目指す陸軍の一部青年将校らは1400人あまりの部下将兵を率いて、首都の中心部を占拠し、軍・政府高官の官邸、私邸を襲うという、日本近代史上未曾有のクーデター未遂事件「2.26事件」を起こした。
 この事件で斎藤内大臣・高橋蔵相・渡辺教育総監や護衛の警察官らが犠牲になったほか多数が負傷した。
 この事件では東京以外で唯一の現場がここ湯河原の「光風荘」である。
 老舗旅館伊藤屋の元別館「光風荘」には、前内大臣の牧野伸顕伯爵が静養のため家族、使用人と共に滞在していた。天皇側近として国政の中枢にあり、リベラルな考え方で政・官・財界に影響力を持っていた牧野伯爵は、急進的な青年将校たちに、天皇の判断を誤らせる「君側の奸」(天皇を取り巻く悪者)と見なされ襲撃の対象となった。
 2月26日早朝、東京から雪の湯河原に着いた河野壽大尉以下8名の別動隊は「光風荘」を急襲、当直の護衛官・皆川義孝巡査と銃撃戦のあと同荘を放火炎上させたが、目指す牧野伯爵は地元消防団員らの活躍で脱出に成功。この事件で護衛の皆川巡査は死亡。河野大尉も部下の下士官と共に重傷を負ったほか、伯爵づきの看護婦や地元消防団員も銃弾や消火作業で負傷した。
 河野大尉は事件後、収容先の熱海陸軍衛戌病院(分院)で差入れの果物ナイフで自決した。


伊藤屋

牧野元内大臣夫妻とそれぞれのお付の女中、看護婦、護衛の巡査の計7名は、伊藤屋の別館「光風荘」に滞留していた。

牧野伯爵襲撃の責任者であった河野寿陸軍航空大尉は、予め民間人の渋川善助夫妻と偵察のため伊藤屋本館に宿泊。牧野伯爵の動向を確認後一旦東京に戻り、そして兵を連れ自動車で湯河原に入り、夜明けを待って光風荘を襲撃した。

伊藤屋の2階からは、光風荘の様子がよく見えたので絶好の偵察場所であった。

●歴史が動いたその日。舞台になったのが伊藤屋でした
昭和11年2月26日に日本帝国陸軍若手将校が決起した2.26事件は、陸軍の皇道派の青年将校が対立していた統制派の打倒と国家改造を目指し、約1500名の部隊を率いて首相官邸等を襲撃した事件です。
この時、元内大臣であった牧野伸顕伯爵が宿泊していたのが伊藤屋で、東京以外で唯一事件の舞台となりました。
宿泊者は牧野元内大臣夫妻とそれぞれのお付の女中、看護婦、護衛の巡査の計7名。宿泊先の条件は独立した建物であるということから、弊館別館「光風荘」が選ばれました。
牧野伯は滞在10日の予定でお見えになり、3日目に事件に遭遇。襲撃の責任者 河野寿陸軍航空大尉は、予め民間人の渋川善助夫妻と偵察のため弊館本館に宿泊。牧野伯の動向を確認後一旦東京に戻ります。
その後兵を連れ自動車で湯河原に入り、夜明けを待って光風荘を襲撃しました。
その際牧野伯はお付の女中の機転で女物の着物をかぶり勝手口から脱出、塀を乗り越えて裏山に逃れました。
河野大尉の「女子供は傷つけるな」との命令により助かったとのことです。
襲撃の際光風荘は全焼し、現在ある建物はその後建てられたものです。河野大尉らが襲撃前の偵察に宿泊した本館の客室は、当時のまま現在も利用されています。

伊藤屋「2.26事件と伊藤屋」https://www.itouya-net.jp/backup/01_about/02.html

河野寿大尉は、渋川善助夫妻とともに伊藤屋の2階から、光風荘のようすを偵察したという。

千歳川

当時は、このあたりに火の見櫓があったようだ。

老舗の富士屋旅館。

このあたりには回春園という医院があった。現在は歯医者。
牧野伯爵付きの看護婦であった森すず江(避難中に流れ弾で腕に銃創)、 岩本屋旅館主人であっった岩本亀三(当日は光風荘の火災に気付き、現場に急行し牧野伯爵を救出、小銃弾で左足に貫通銃創、全治1ヶ月の重傷)、襲撃に参加した宮田晃(左脛銃創)が、治療を受けている。
河野寿は重傷のため、熱海の陸軍病院で治療を受けている。

湯河原温泉

せっかくだから温泉、ですね。

光風荘の近くには湯河原町営温泉「こごめの湯」があります。

https://kogomenoyu.com/

※撮影:2023年2月


関連

「領土・主権展示館」我が国固有の領土の歴史と領土・主権を学ぶ

先日、近くを通りすがったので、せっかくなので足を運んでみました。

虎の門三井ビルディング

東京都千代田区の虎の門三井ビルディングの1階に。
奇しくも、「領土・主権展示館」と「日本一おかき処・播磨屋本店(東京店)」が同じビルに同居していました。空間としての濃厚度は、ある意味で最大級に熱量が高いエリア。


領土・主権展示館

日本の領土と主権を学ぶことができる展示館。
近現代史における日本の領土を歴史的に国際法上に知ることができ、そして先人たちの苦労を学ぶとともに、我が国固有の領土を日本政府の公式見解とともに、あらためて正確に理解できる展示館。
これは一見の価値ありです。

公式サイト

https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/tenjikan/index.html

領土主権展示館」は、北方領土・竹島及び尖閣諸島が我が国固有の領土であることを示す歴史的資料や人々の営みを示す資料をまとめて紹介する初めての国の施設です。

領土・主権展示館
展示の目的

世界のすべての国家は、領土をもち、そこには国家の主権が及んでいます。
日本にも領土があり、そこには日本の主権が及んでいます。

主権とは、国家が時刻の領域において有する他の権力に従属することのない最高の統治権のことであり、国家の基本的な地位を表す権利を意味します。

しかし、日本の領土でありながら、このような権利の一部を事実上行使できない場所が二つあります。
北方領土と竹島です。

また、日本の領土のうち、尖閣諸島については、領有権の問題はありませんが、周辺海域における情勢が複雑化しています。

北方領土、竹島、尖閣諸島は、いずれも、一度も他の国の領土になったことがない日本固有の領土です。

領土・主権展示館では、これらを含む島々について、歴史を振り返りながら、日本が領有する根拠、他国・地域の主張や行動、それに対する日本の対応や考え方を説明していきます。

北方領土

竹島

尖閣諸島

正月明けにいきましたので鏡餅といっしょ。

エリカちゃん(北方領土のイメージキャラクター)
りゃんこ(竹島のイメージキャラクター)
アルバちゃん(尖閣諸島のイメージキャラクター)

https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/kids/index.html

これは腰を据えて時間に余裕があるときに、しっかりと見学しなければ、です。

エリカちゃん(北方領土のイメージキャラクター)
「ロシアとは、戦後70年以上も領土問題が解決していないのか」

りゃんこ(竹島のイメージキャラクター)
「韓国は、裁判にも応じようとしないんだね。日本は、国際法にのっとって解決しようとしているのに、意図的に無視しているのか。」

アルバちゃん(尖閣諸島のイメージキャラクター)
「中国が尖閣諸島をめぐる独自の主張を始めたのは50年前なんだね。だけど、500年以上も前から領有しているなんて言っているのか」

いろいろいただくことができます。
充実の資料。

ありがとうございます。またきます。


江戸城外堀跡 溜池櫓台跡

この界隈は、江戸城の外堀。虎の門というぐらいだし、ねえ。


日本一のおかき処 播磨屋本店

東京店が、領土・主権展示館のとなりに。

はい、おかき、美味しいんですよね。

サイトとかトラックとか、いろいろ云われているけど、
おかきは美味しい。

公式サイト

https://www.harimayahonten.co.jp/

※2023年1月撮影

「平和の礎」小金井空襲・小金井駅戦災(栃木県下野市)

栃木県下野市。かつての栃木県下都賀郡国分寺村。
小金井駅と付近を走る列車に対して機銃掃射による空襲があった。


小金井空襲

昭和20年7月28日
艦載機P51戦闘機14機が宇都宮市内空爆と機銃掃射を実施。国鉄宇都宮駅前にあった日清製粉宇都宮工場を襲撃し、勤労動員の下野中学校生(現在の作新学院高等学校)5名が犠牲となった。また乱射された宇都宮駅や周辺の列車も犠牲となり、当日は全体で30名以上の死者が出たという。
宇都宮を襲撃した14機のうち3機は、宇都宮駅を発車した列車を追跡。

11時55分ごろ。
宇都宮駅を出発して南下し、東北本線「小金井駅」に向けて走行していた福島発の東北本線上り上野行き「第118号旅客列車」は、戦死者の遺骨を抱いて乗車していた遺族などもおり、そして小金井駅では、乗客を迎えるために集まった群衆もいた。

そんな「第118号旅客列車」を米軍のグラマン艦載機P51戦闘機3機は機銃掃射。さらに小金井駅に集まる群衆にも機銃掃射を行い、結果として、列車出迎えの市民らをはじめ、駅員や列車の乗客らも死傷し、31人が亡くなり、70人以上が負傷したとされている。

この昭和20年7月28日の空襲では、宇都宮駅、小金井駅、小山駅周辺で、米軍艦載機が機銃掃射を実施。
栃木県下では7月12日の宇都宮大空襲に次ぐ、70余名の犠牲者を出した空襲であった。


平和の礎

小金井駅西口広場に慰霊碑が立つ。

昭和20年7月28日
小金井駅戦災
平和の礎
平成10年秋 国分寺町之建

第二次世界大戦の昭和20年(1945年)7月28日正午ごろ、福島発上野行き列車が小金井駅手前で米軍戦とう機3機の銃撃をうけ多数の死傷者が出た。
 駅には戦死者の遺骨を迎える人が集まっていて、停車中の列車とともに再び銃撃をうけた。
 ぎせい者は、死者31名、負傷者7~80名である。
 こんな農村にまで及んだ戦争の惨禍を決して忘れることはできない。
 ここに、ぎせいになられた方の、ごめい福をお祈りし、碑を建て後世に語りつぐものである。
  平成10年秋天
   国分寺町長 若林英二謹書

国分寺駅前にはほかにもいろいろあった。

C57の動輪。C5738機。

下野の国分寺

国分寺があれば古代の下野国の中心地。

歴史好きとしては、興味深い街でもあり。

かんぴょう生産量が日本一だそうで、カンピくん。

レンタサイクルもある。私は今回は駅前のみの散策でしたが。

東の飛鳥とは、大きく出た感じですね。

https://www.city.shimotsuke.lg.jp/0059/info-0000006609-0.html

ご当地アニメもあった

https://www.city.shimotsuke.lg.jp/0061/info-0000004735-3.html

小金井駅の北側。この空に、銃撃があった。。。

※2023年1月撮影


関連

「昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)」34年目の昭和天皇武蔵野陵に拝する(令和5年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。
国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

あの日から、34年。

今年も、 昭和天皇 武蔵野陵(しょうわてんのう むさしののみささぎ)へ参拝をいたしました。そして、昭和記念公園の「 昭和天皇記念館」にも足を運んできました。

昭和から平成、そして令和へと、時代は移り変わるも、決して忘れてはいけない昭和の記録を伝承し、そして歴史として、後世に紡いでいくために。


昭和天皇 武蔵野陵(むさしののみささぎ)

昭和天皇 武蔵野陵 
昭和六十四年一月七日午前六時三十三分崩御 平成元年二月二十四日斂葬

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。


昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)

祭礼に関する撮影は一切禁止、です。
午前9時半頃より、一般参拝が停止され、祭員参進が始まります。
午前10時より、「山陵に奉幣の儀」が奉祭されます。
おわるのは、午前10時30分から11時の間くらい。
祭員が退出次第で、一般参拝が再開されます。

祭祀は、神道式。

  • 祭員参進
  • 式部官参進(宮内庁式部職)
  • 招待者参進
  • 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下)
  • 勅使参進
  • 献饌(奏楽)
  • 勅使拝礼(奉幣)
  • 皇族代表拝礼
  • 招待者拝礼
  • 撤饌(奏楽)
  • 勅使退出
  • 皇族代表退出
  • 招待者退出
  • 式部官退出
  • 祭員退出

祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

一般参拝再開直後。午前10時45分頃。

静謐な空気のもと、 昭和天皇に拝礼をしてきました。
ありがとうございました。


関連ニュース記事

一般参列者は撮影禁止でしたので、マスコミ代表撮影の記事を掲載しておきます。

https://www.fnn.jp/articles/-/467753

https://www.yomiuri.co.jp/koushitsu/20230107-OYT1T50117/


香淳皇后 武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)

大正天皇 多摩陵(たまのみささぎ)

貞明皇后 多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)

武蔵陵墓地


多摩御陵参道

カラーコーンも幔幕(青白の浅黄幕)


南浅川橋

昭和11年(1936年)に設置されたコンクリートアーチ式の橋です。南浅川に架り、多摩御陵(武蔵陵墓地)への参道となっています。御陵参道の橋であるため、威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮したデザインが施されているのが特徴。

https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/002/003/p003407.html

橋歴
「東京の著名橋・南浅川橋」
 大正15年(西暦1926年)12月25日大正天皇崩御により、当時の東京府南多摩郡横川村・浅川村および元八王子村(元八王子市長房町・甘里町・元八王子町)地域に御陵所の造営が決定した。これに伴い、東京府が八王子駅と浅川(現高尾)駅間の仮駅から御陵(多摩陵)に至る参道新設を行い、南浅川に全長約87mの木橋が架けられ、南浅川橋と命名されたのが始まりである。
 現在の橋は、昭和11年(西暦1936年)の大正天皇十年式年祭にあわせて、東京府が木橋を架け替えたものである。構造形式は関東大震災後の東京(帝都)復興時に開発されたコンクリートラーメン橋台のコンクリートアーチ橋で、御陵参道の橋として、威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮した意匠が施されている。
 昭和64年(1989年)1月7日の昭和天皇崩御、武蔵野陵造営にあわせて、平成元年2月に東京都が南浅川橋の洗浄・補修、参道の整備を行った。

南浅川橋(コンクリート橋)
昭和11年12月竣工
全長 53.3m
幅員 21.4m
構造 鉄筋コンクリート橋
形式 コンクリートラーメン橋台・固定アーチ橋

1993年1月 補修
東京都
施工 吉田建設株式会社

東京府建造
昭和11年12月完成
合資会社 清水組


多摩御陵参道(武蔵陵墓地参道)入口


陵南会館(東浅川駅跡・東浅川仮停車場跡)

この地には、東浅川駅があった。
東浅川駅は、大正天皇の大喪列車用の臨時駅として開設された皇室専用の駅で、社殿造の駅舎であった。
昭和35年(1960年)に廃止となり、八王子市に払い下げされ、公民館「陵南会館」となっていた。
平成2年(1990年)に、新左翼の皇室テロによって爆破されてしまった。

陵南会館

石碑があった。

1964
オリンピック東京大会 自転車競技この地で行わる


高尾駅

大正天皇の大喪列車の始発駅として「新宿御苑に設置された仮設駅舎」を移築したもの。

八王子の富士森公園の大正殿は、大正天皇多摩陵での「大喪の儀」で「祭場殿」として使用された建物の移築。


昭和天皇記念館

せっかくなので、立川の記念館にも足を伸ばしました。
高尾と立川は、中央線で一本ですし。

https://f-showa.or.jp/museum/

館内は撮影禁止

今回、ボールペンを追加購入したかったのですが、売り切れでした。写真のボールペンは以前に購入したものです。(仕事用で愛用しています)

そのため、かわりにまだ戴いていなかった目録とハンドタオルなどを戴きました。

昭和天皇のお印は「若竹」

昭和天皇記念館は、武蔵野陵参拝とセットでいつも足を運んでしまいます。


関連

英国輸入の大阪鉄道6号蒸気機関車(明24・西武鉄道3号・昭和鉄道高校)と池袋散策

池袋はなにげに鉄道にゆかりのある街。黎明期の鉄道を軸に、ちょっと散策してみた。


昭和鉄道高等学校に保存されている明治期の蒸気機関車。

西武鉄道3号機関車

1891年に輸入され、「大阪鉄道6号機」として運用。
1900年に大阪鉄道は関西鉄道に買収され、関西鉄道「駒月57号機」となった。
1907年に関西鉄道が国有化された後は、「220形220号機」と改称。
1917年に多摩鉄道に譲渡され、「A1号機」と改称。
1927年に、多摩鉄道は西武鉄道に合併。
1944年に「西武鉄道3号機」と改称。
1956年3月に日本ニッケル鉄道に貸与。
1956年10月に後身の上武鉄道に譲渡され、「上武鉄道8号機」と改称。
1965年に廃車となり西武鉄道に返却。同年に西武鉄道から昭和鉄道高校に寄贈。

西武鉄道3号機関車
1891(明治24)年イギリスのダブス社で製造された車両配置が1B1型のタンク蒸気機関車です。
大阪鉄道が輸入し、1900(明治33)年大阪鉄道が関西鉄道に吸収されたために関西鉄道に移り「駒月」の形式名で活躍しました。
1907(明治40)関西鉄道が国有化され、形式220(No,220)と改称、活躍の場が神戸付近に移りました。
1917(大正6)年に廃車。その後、多摩鉄道(のちに西武鉄道に併合)に譲渡され、A1の番号をつけて使用されましたが、晩年は埼玉県にあった日本ニッケル鉄道でも走り、1965年(昭和40)に廃車という経歴を持っています。
1967(昭和42)年に西武鉄道から寄贈され、ここが安住の地となりました。
機関車重量25.14t、動輪直径が1.219mmの小さな車体ですが、日本の鉄道の歴史を物語る、大変貴重な蒸気機関車です。

敷地外から見学

※撮影は2022年12月

ちなみに2021年は、無限列車になっていました。。。(以下のみ ※撮影は2021年2月)


昭和鉄道高等学校

校名に鉄道がはいる日本で唯一の高校。

帝都高速度交通営団丸ノ内線 モハ500形685号

近代史ではないけど、豊昭学園には、もう1両、保存車両がある。

※2022年12月撮影

場所

https://goo.gl/maps/f2jce3WvmZW9ioih6


明治天皇御野立所跡

昭和40年8月吉日建立。
明治8年12月27日、明治天皇が板橋での近衛兵の演習を天覧された際に、この地で休息されたことを記念している。
これは通りすがりだっったので、なんとなく掲載。

ちょっと摩耗していて読みにくい。。。

※2021年2月撮影

https://goo.gl/maps/penFCYfzyLdMZc6t7


東京鉄道教習所跡・東京鉄道中学跡

メトロポリタンプラザは、芝浦工業大学高等学校跡地を再開発したエリア。

さらに遡ると、明治から太平洋戦争後にかけて存在した鉄道院、鉄道省、運輸通信省鉄道総局、運輸省鉄道総局、日本国有鉄道の職員養成機関があった。

動輪の由来
ここにはかつて東京鉄道教習所があり、広大な敷地に校舎、大講堂、図書館、プール、寄宿舎など立派な施設が完備され、多数の鉄道マンが勉学にいそしんだ場所である。
 当時の所在地 東京府北豊島郡西巣鴨町字池袋
 敷地及び建物 約37000平方米の敷地に校舎、大講堂、寄宿舎など約100棟の建物があった。
 存在した時期 大正13年(1924年)~昭和29年(1954年)
またこの地は鉄道開通50年記念事業の一環として設立認可された財団法人鉄道育英会により設立した東京鉄道中学が東京教習所内に開校し、後に東京育英中学、東京育英中学校、東京育英高等学校、芝浦工業大学高等学校と改称し、昭和57年まで存在していた場所でもある。
 存在した時期 大正13年(1924年)~昭和57年(1982年)
これらの施設は昭和20年4月14日の東京大空襲で一旦焼失した。
なお、この地は成蹊学園発祥の地でもあり、若者と教育に由緒深い土地柄である。

ルミネの入口の脇に。

※2021年3月撮影

場所

https://goo.gl/maps/hSc69bd8vEDokGYFA


池袋関連

自由学園明日館

英国輸入の鉄道院403号蒸気機関車(明19・西武鉄道4号・芝浦工大付属中学高校)

豊洲にある芝浦工業大学付属中学高等学校100周年記念事業として、西武鉄道から寄贈を受けた「旧鉄道院403号蒸気機関車」が、2022年11月に復元保存公開されましたので、足を運んでみました。


鉄道院403号(西武鉄道4号)蒸気機関車

2022年11月12日。
芝浦工業大学が西武鉄道から寄贈を受けた元鉄道院403号蒸気機関車を、芝浦工業大学附属中学高等学校の新豊洲校地にて保存一般公開を開始。
2022年に100周年を迎えた芝浦工大附属中高は、1922年に鉄道省設立の「東京鐡道中学」を前身としている。この縁にちなんで、今回、西武鉄道から寄贈があった。
403号蒸気機関車の車両展示とあわせて、港区教育委員会とJR東日本から寄贈を受けた「高輪築堤」の海側の築石を土台として活用。
さらに、博物館明治村の協力のもと、汽笛及び走行音を動態保存されている蒸気機関車9号から採音して定刻に鳴らすようにもなっている。

鉄道院403号(西武鉄道4号)蒸気機関車
403号の概要
 1886年(明治19年)にイギリスのナスミス・ウィルソン社で製造された400形の1両です。
 同一設計車として500形・600形・700形(鉄道作業局A8形)など存在しており、いずれもイギリスから輸入されました。後に国産の860形(A9形)、230形(A10形)などの礎となりました。すなわち、本車は我が国の鉄道の歴史を現在に伝える貴重な存在となります。
 特徴としては機構が簡便なジョイント式弁装置の採用が挙げられます。また、先輪と従輪はウェップ式ラジアル軸箱となっており、円弧上に移動することで、動揺が抑制される機構となっています。
 保存展示にあたっては、徹底した補修整備を実施しました。
 また、失われていた製造銘板とナンバープレートを復元して取り付けました。

略歴
1886年 鉄道局No.73として、ナスミス・ウィルソン社(製造No.302)にて製造 
    日本鉄道が借り入れ、番号不変
1892年 鉄道局から日本鉄道に譲渡
1894年 No.20に改番
    逓信省鉄道局(鉄道作業局】に返却、Jクラスとなる
1899年 房総鉄道に譲渡、No6となる
1907年 房総鉄道国有化、帝国鉄道庁No6となる
1909年 No.403となる
1914年 東部局にて廃車
1914年 川越鉄道に譲渡、のちにNo5となる
1914年 川越鉄道が武蔵水電に吸収合併、番号不変
1922年 武蔵水電の鉄道部門を(旧)西武鉄道として独立、番号不変
    No4に改称
1945年 武蔵野鉄道と)(旧)西武鉄道が合併、西武農業鉄道となる
1946年 (新)西武鉄道に改称
1961年 上武鉄道が借り入れ
1965年 上武鉄道から返却、廃車、所沢市のユネスコ村にて保存
    その後、西武鉄道横瀬車両管理所に移送され保管
2022年 芝浦工業大学付属中学高等学校100周年記念事業として保存

製造者 ナスミス・ウィルソン社(イギリス)
製造年 1886年(明治19年)
寄贈者 西武鉄道株式会社殿

竣工    2022年11月
事業者   学校法人芝浦工業大学
SL寄贈者  西武鉄道株式会社
積石寄贈者 東日本旅客鉄道株式会社
施工会社  西武建設株式会社

芝浦工業大学付属中学高等学校の公開敷地に展示。
豊洲六丁目第二公園に隣接。

運転台にも入れる。

NASMYTH,WILSON&Co
LIMITED
No302
1886
MANCHESTER

403
TYPE400


高輪築堤オブジェ

高輪築堤の石が土台に活用されている。

高輪築堤オブジェ
高輪築堤とは
 高輪築堤は日本初の鉄道として造られた新橋~横浜間の約29kmのうち、現在の田町駅の北(芝浦周辺)から品川駅の南までの海上に気づかれた鉄道用の約2.7kmの堤のことです。構想から3年、着工からわずか2年という期間で完成しました。
403号蒸気機関車と高輪築堤の関係
 明治19(1886)年に製造された403号蒸気機関車は年代的にも高輪築堤と同じ時代に国内で走っていました。明治期の姿に修復した403号蒸気機関車と高輪築堤の海側築石を使用しオブジェとして設置した土台は親和性も高く、当時の姿に想いを馳せることができます。
 今回、港区教育委員会と東日本旅客鉄道株式会社のご厚意により高輪築堤築石をご寄贈いただきました。
汽笛について
 定時に鳴らす汽笛の音源は、博物館明治村にご協力いただき403号蒸気官舎と同じく明治期に製造され動態保存されている蒸気機関車9号の汽笛及び走行音を採音加工し使用しています。

高輪築堤築石モニュメント
 展示してある築石は、鉄道が開業した明治5年(1872)に造られた海側の高輪築堤の一部(発掘現場4街区海側)です。石は安山岩で相州真鶴をはじめとする全国から集められ、お台場や東海道沿いの護岸石垣も再利用されました。品川車両基地の再編や高輪ゲートウェイ駅の新駅を伴った大規模開発の中で令和2年に発掘されました。この築石は403号蒸気機関車展示土台にも使われています。
 高輪築堤は、明治9年(1876)の複線化、明治32年(1899)の3線化のために陸側に拡張されています。海側の石垣は、最大で15段確認しています。石垣の土台は角材として加工した「胴木(土台木)」で石を受け、その上部は約30度の傾斜で、石段を1段ずつ並べる「布積み」を用いて積み上げています。一方、山側では石を斜めに使って積み上げる「谷積み」を用いて積み上げており、明治32年(1899)の3線化に伴い拡張された際のものであると考えられます。

豊洲六丁目第二公園

※撮影:2022年12月

場所

https://goo.gl/maps/h22aNzVsxZdZBQAQ8


関連(鉄道開業)

関連(蒸気機関車)

芝浦工大付属中学高等学校の前身にあたる東京鐡道中学は池袋にあった。

「米ヶ濱砲台跡地」(横須賀平和中央公園)と「横須賀市自然・人文博物館」

米ヶ濱砲台のあった「中央公園」が2021年に「平和中央公園」へと再整備されたという話を聞いたので、足を運んでみました。


平和中央公園

明治時代には旧陸軍の東京湾要塞として米ヶ濱砲台が設置。
関東大震災の被災と演習砲台への転用を経たのち終戦。
「砲台山」として親しまれており、1970年に「中央公園」として開園、50年目の2020年にリニューアル工事を経て、2021年4月に「平和中央公園」として開園している。

中央公園

これは以前の表記ですね。

平和中央公園

再整備されてだいぶきれいになっています。

https://www.kanagawaparks.com/heiwacyuou/

https://www.kanagawaparks.com/heiwacyuou/about.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/fc00000484.html


米ヶ濱砲台跡

かなりきれいになってますね。以前は半分埋もれていた掩体部も見学できるように掘り返しされていました。

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/oldays/houdai.html

https://routemuseum.jp/area/b/b12/

米ヶ濱砲台跡とは
 米ヶ濱砲台は、陸軍が建設した東京湾要塞を構成する砲台の一つです、江戸幕府が海防のために建設した台場に代えて、明治政府は西洋の築城技術・建築資材を導入して海岸防御のための砲台群を、全国の要地に建設しました。これらの砲台群は、後にその地名を冠してん某要塞と呼ばれます。東京湾要塞は新首都東京と横須賀軍港っを守ることを任務とした要塞で、明治10年代に建設が始められた唯一の要塞です。
 明治時代の東京湾要塞建設は、大きく3つの時期に分けられます。明治10年代には東京湾が最も狭くなる富津岬~観音崎を防御する砲台群(観音崎砲台、猿島砲台、走水低砲台など)の建設が始まり、明治20年代前半には横須賀・長浦両軍港を守備する砲台群(夏島砲台、箱崎低砲台など)、明治20年代後半には富津岬~観音崎を守備する既設砲台の背面防御や側防を担う砲台・堡塁(千代ヶ崎砲台、大浦堡塁、小原台堡塁など)とともに新たな砲台(三軒屋砲台)も増設されました。
 米ヶ濱砲台は明治23(1890)年から明治24年(1891)にかけて建設され、横須賀軍港を守備するとともに、不入斗にあった要塞砲兵第一聯隊(後の横須賀重砲兵聯隊)の教育・訓練砲台としての役割も担いました。 
 米ヶ濱砲台は西側の榴弾砲砲台と東側の加農砲砲台で構成され、28cm榴弾砲6門、24cm加農砲2門が備砲されました。明治27(1894)年に開戦した日清戦争では戦備につき、明治37(1904)年に開戦した日露戦争では28cm榴弾砲6門がロシア軍の旅順要塞攻略のため運び出されました。その後は、火砲の進歩や航空機の出現による戦術の変化、安浦町の埋立事業により重要度は低下し、さらに大正12(1923)の関東大震災で大きな被害を受けたことで、加農砲砲台は廃止され、榴弾砲砲台は28cm榴弾砲4門からなる演習砲台に改変されました。
 戦後は、中央公園して市民に親しまれてきましたが、令和元(2019年)に公園リニューアル工事に伴う発掘調査を行い、明治時代の砲台の構造物の多くが良好に残っていることを確認し、遺構保存のため埋め戻しをしました。また一部の構造物については切り取りを行い、横須賀市自然・人文博物館に移設しました。

要塞配置地図

平和公園の地下には、米ヶ濱砲台の遺構が埋め戻しで保存されている。

平和公園の地下に眠る米ヶ濱砲台

榴弾砲砲台弾薬庫跡

榴弾砲砲台の弾薬庫跡

かつては公園の管理室としても使用されていた。
下部には、焼過煉瓦を用いている。天井はコンクリート。

榴弾砲砲台土塁跡

弾薬庫の上部には、榴弾砲砲台の土塁が設けられている。
土塁の上には観測所が設けられ、土塁の中には観測所付属室があったという。

榴弾砲砲台弾薬庫排気口

排気口。弾薬庫と通じている。

カバーがついている。

覗くと、通風口が見える。

土塁の上から、東京湾。

猿島が見える。

猿島砲台と連動している立地であることがわかる。

榴弾砲砲台の跡。

弾薬庫が2つ。

以下は、以前の米ヶ濱砲台跡。
改修前の中央公園時代(2018年4月撮影)

このときは、まだ整備前。


榴弾砲砲台右翼観測所跡

平和モニュメントの下にも地下施設があった。(現在は埋戻し)
榴弾砲砲台右翼観測所の付属室など。平和モニュメントの場所が、右翼観測所であった。

埋戻し保存。

榴弾砲台右翼隧道跡

埋戻し保存。


平和モニュメント

榴弾砲砲台右翼観測所跡。

中央公園時代の平和モニュメント(2018年4月撮影)。
公園リニューアル工事時の際に、平和モニュメントもリニューアルされた。

説明など。


芝生広場(加農砲台跡)

芝生広場の下には、加農砲砲台の弾薬庫などもあったが、埋戻し保存されている。

加農砲台跡の芝生公園も、海がよく見える。走水低砲台や観音崎砲台のある方向を望む。

「あぶない」の英語表記があるのが、横須賀ならでは。


デッカー司令官

1946年、ベントン・ウィーバー・デッカー司令官は、第4代横須賀米国海軍基地司令官として横須賀に着任。横須賀の戦後復興、市民救済、病院や学校などの設立に尽力した「横須賀市再建の恩人」でもあった。
アメリカ軍人として日本人の手による初めての胸像が作られるほどの功績があった。

デッカー司令官

横須賀市再建の恩人
ベントン・W・デッカー司令長官

川村吾蔵作。
川村吾蔵は太平洋前はアメリカで彫像活動をしていた。1940年に帰国。戦後GHQの通訳などをさせられれるも、昭和22年にデッカー米軍横須賀司令長官に招聘されて、胸像を多数作成。このときに最晩年の作品としてデッカー胸像を作っている。
マッカーサーも噂を聞き、胸像作成を依頼するも、完成前の昭和25年に死去。未完成だったマッカーサー元帥胸像は川村の妻娘が完成させている。

頌徳
ベントン・W・デッカー司令官は、横須賀米国海軍基地司令官として、大戦後混沌たる昭和二十一年四月着任せられ、爾来四ヶ年に亘り本市経済の復興に絶大な同情と好意とを以て吾々市民を指導された偉大なる恩人である。軍港を失った本市を民主的な経済都市として更生させるために新しい商工会議所、婦人会、赤十字会、福祉委員会等の設立を促され、更に本市の文化、教育、救済等凡ゆる社会的事業にも適格な指導精神を指示せられ、殊に新規転換工業の育成に対しては最大の援助を与へられ、本市諸産業が今日の復興を見るに至ったことは偏えに同司令官の有難き徳政の賜であって吾々は哀心深い感銘と敬意とを表するものである。
玆に同司令官の頌徳を永く偲びつつ今後不断の努力を続けるため玆に巨匠川村吾蔵氏畢生の力作になる記念胸像を建立した次第である。
 昭和二十四年十一月
  社団法人横須賀商工会議所

デッカーは、1946年4月に着任し、1950年6月までの4年間を、横須賀基地司令官として、横須賀の占領行政に携わっていた。そんな時間軸の中で、はやくも記念胸像が1949年に建立されているのが、なによりも驚きである。

横須賀の海を望む高台から、横須賀を見守る。


戦没者慰霊塔

平和中央公園の東端にある慰霊塔。公園の先端を船の舳先のように造形した鉄筋コンクリート製の慰霊塔。前面には御影石。長さ31メートル、高さ8.7メートル。
昭和44年4月建立。
横須賀市出身の日清、日露、第一次、第二次世界大戦での戦病死者の遺影約3600枚を納めている。

船の先端をイメージ。

戦没者慰霊塔

日本が 
世界の夜明けに目覚めてから 
今日の栄光をかちえるまで 
多くの戦争において 
国のため尊い命を捧げられた 
諸霊よ 
横須賀市民は 
諸霊の遺族とともに 
この地を定め塔をたて 
熱いまごころをもって 
み霊を慰めたてまつる 
 昭和四十四年三月誌す 
  横須賀市長 長野正義

ありがとうございます
合掌


島田修二の歌碑

横須賀の 丘に吹く風
いちにんの いのちの重み
世界に告げよ
 島田修二

島田修二(1928年~2004年)は、昭和3年8月19日、神奈川県横須賀市大津町に生まれた。父 島田英之、母 島田敏子。陽一、修二、章三、迪男、嘉寿江の四男一女の次男であった。
兄 陽一は海軍士官として戦没した。修二も旧制横須賀中学校を経て海軍兵学校に進み、そこで終戦を迎える。その後は、読売新聞記者を経て、短歌の道に精進し、宮中の歌会始選者等を勤めるに至った。
修二は、平成16年1月、この丘に来て、ふるさと横須賀の歴史と未来を思い、世界の平和を思い、ひとりの、そしてすべての人のいのちの重みを思って、この歌を詠んだ。私たちは、この歌の心を広く、また永く、世に伝えることを願い、横須賀の海をみはるかすここ中央公園の地に、これを建てる。
 平成16年11月5日 草木短歌会有志一同


岩崎泡鳴「田戸の海ぬし」

昭和58年(1983年)に設置の文学碑。


横須賀市自然・人文博物館

自然博物館と人文博物館が併設されている総合博物館、横須賀市営で、三浦半島の展示が充実しているのに無料で観覧できるという、おすすめ穴場スポット。

近代史的には、日本遺産に登録された、横須賀製鉄所で制作の日本製で最古級の煉瓦の展示などは興味深く。

ヨコスカ製銕所

刻印スタンプもあります。

近現代展示エリア

横須賀軍港の境界標注ですね。

横須賀軍港境界標
明治33年2月13日
海軍省

横須賀海軍航空技術廠の本部庁舎の模型。
追浜にあったが、建屋は解体済み。
(先日、フィールド調査はしたけど、レポ掲載はまだ。。。)

おもしろそうな企画展もあります。デジタルですね。

おお、海軍の蓋です。

旧海軍消火栓蓋(旧海軍水雷学校跡地)

消火栓、錨のマーク付き。

これは、摩耗も少なく、大変にキレイな状態ですね。

旧海軍水雷学校第四兵舎 階段親柱

旧海軍水雷学校第四兵舎階段の親柱
(昭和4(1929)年頃、当館蔵・トヨタ自動車東日本株式会社寄贈)

この部材は、横須賀市田浦港町にあった「旧海軍水雷学校代四兵舎」で使われてきたものです。終戦時の田浦地区沿岸部には、旧海軍の水雷学校と軍需部の施設群が集積していました。この地区周辺への旧海軍施設の設置は、明治10年代にさかのぼり、以後、埋め立てと施設の拡充が続きました。そして、明治40(1907)年には、前身の水雷術練習所等の歩みを経て、海軍水雷学校が発足しました。
 終戦後の昭和29(1954)年、海軍水雷学校の跡地の一部は、関東自動車工業株式会社(トヨタ自動車東日本株式会社)の敷地となりました。同敷地内にあった、第四兵舎も平成20(2008)年に解体されるまで長らく利用されてきました。第四兵舎は、昭和4年頃に建築された、鉄骨造2階建の大きな建物でした。この建物の中央階段の1階にあった親柱には、旧海軍でよく使われていた錨をモチーフとした装飾があり、同じ敷地内にあった上下水道設備の点検用の蓋にも、同じく錨のマークが刻まれていました。
 これらの部材は、トヨタ自動車東日本株式会社にて大切に保存され、令和4(2022)年に同社から寄贈をうけました。
  横須賀市自然・人文博物館

海軍水雷学校兵舎の階段親柱

錨をモチーフにした装飾

https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/

水雷学校の記事はこちらにて。


小栗忠順像 栗本鋤雲像

横須賀製鉄所の建設に携わった2名が、横須賀の発展の礎であった、ともいえる。

小栗さんと栗本さんの胸像。
小栗上野介忠順とその小栗の盟友であった栗本鋤雲はともに軍艦奉行や外国奉行などの要職にあった。 小栗が画策した「横須賀製鉄所」の建設を栗本が助け事業に貢献。横須賀発展の礎を築いた人物たち。

小栗さんの像はヴェルニー公園にもありましたね。そちらではヴェルニーさんと並んでましたが、こちらでは栗本さんと。

小栗忠順に関しても、いろいろまとめたいとは思いつつ、なのですが、まだ、調査が出来あがっておらず、でして。

横須賀市自然・人文博物館の中にも胸像がある。

こっちは、ヴェルニーと小栗忠順と、ちょと時代は違うが、ウイリアム・アダムス。

ヴェルニーも記事を書きたいですね。。。

小栗忠順

https://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8161/benri/hakubutukan.html


文化会館(横須賀海軍病院跡)

中央公園の隣には文化会館。 かつての「市民病院」跡。
市民病院は昭和37年焼失。
さらに遡ると、深田台の市民病院があった、この場所は「横須賀海軍病院」があった。
明治13年開院。関東大震災で全焼移転(移転先は現在の米軍基地内。現存建物)
昭和3年に海軍用地だった当地は区画再整備され宅地化したという。
※2018年4月撮影

米軍の基地内に残る、横須賀海軍病院に関しては、下記にて。

※撮影は2022年11月


関連

「日本の近代の幕開け」ペリー上陸記念碑と浦賀奉行所跡(浦賀・久里浜)

日本の近代は、ペリー率いる黒船来航とともに幕を開けたといっても過言はない。すなわち、いわゆる「幕末」は、嘉永6年(1853)の浦賀への黒船来航とともにはじまる。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」
日本の近代は、ここから始まった。


北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑

久里浜のペリー公園として整備されている上陸地点。

嘉永6年(1853)のペリー艦隊の来航時、アメリカ大統領からの国書受け渡しは、久里浜で実施された。
ペリー上陸を記念し明治三十四年(1901)に、建立・除幕された記念碑。

北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑
大勲位伊藤公爵博文書

MONUMENT IN COMMEMORATION OF THE LANDING OF COMMODORE
PERRY U.S.N.
MARQUIS HIROBUMI ITO CRAND ORDER OF CHRYSANTHEMUM

嘉永6年6月9日上陸
明治34年7月14日建之

THIS MONUMENT
COMMEMORATES
The First Arrival
OF
COMMODORE PERRY,
AMBASSADOR FROM THE
UNITED STATES OF AMERICA
WHO LANDED AT THIS PLACE
JULY 14,1853
ERECTED JULY 14.1901.
BY
AMERICA’S FRIEND ASSOCIATION

 1853年7月8日、浦賀沖に来航したアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官M.C.ペリー(Matthew C.Perry)は、7月14日、ここ久里浜の海岸に上陸し、大統領フィルモアの親書を江戸幕府に渡した。翌年、神奈川において日米両国間に和親条約が締結された。この一連の出来事は、幕府支配のもとに鎖国を続けていた日本を、世界へと引き戻す原動力となった。
 ペリー来航より48年後の1901年7月14日、米友協会の手によって、日本開国ゆかりの地として、ここに記念碑が建てられた。

ペリー公園

北米合衆國水師提督伯理上陸記念碑建設者タル米友協會ノ意志ヲ繼キ本日以後本會ニ於テ該記念碑並構内ノ維持管理ニ當ルコトヽナレリ仍テ茲ニ之ヲ誌ス
 昭和十年二月二日
  神奈川縣廳内伯理記念碑保存會

KANEKO PINE
THIS TREE PLANTED
BY
VISCOUNT KANEKO
JULY 14TH 1901

かねこ松
米友協会会長
子爵金子堅太郎氏
手植松
明治34年7月14日

RODERS PINE
THIS TREE PLANTED
BY
REAR ADMIRAL RODERS
JULY 14TH 1901

ろぢあーす松 
米海軍少将 
ろぢあーす氏 
手植松 
明治三十四年七月十四日

手植えの松は、記念碑の左右に。

ぺるり上陸の地記念碑

県下名勝史蹟45佳選当選紀念
ぺるり上陸の地
横浜貿易新報社

昭和10年10月建立

じょうきせんの碑

泰平の
ねむりをさます
じようきせん
たつた四はいで
夜も眠られず

じょうきせんの碑
 江戸幕府は約200年にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていた。
 その日本に対し突如として泰平の夢を破るように1853年7月8日(旧暦嘉永6年6月3日)開国を迫る4隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊は6日後に久里浜に上陸した。
 この艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督であった。
 江戸湾の守備にあたっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船を見て、驚き動揺した。
 開国を促す黒船の来航に幕府要人はもちろんのこと、その戒容を見聞きした人たちの驚きはどんなであったろう。
 その驚きを端的に表現したのが、この落首である。
 なお、「久里浜村詩」によれば、この落首は、老中松平下総守(間部詮勝)号松堂作とも言われている。
 平成2年7月
  横須賀市

ハイネ画 ペリー久里浜上陸図

ペリー上陸記念碑物語
 長い間外国との貿易を制限していた徳川幕府に1853年(嘉永6年)アメリカ大統領の国書をもって来航した東インド太平洋艦隊司令長官ペリーは幕府と交渉し強い態度で開国を迫り、ついに1853年7月14日幕府に大統領の国書を受理させ再来航を約束しアメリカに帰りました。
 このとき今まで200年以上にわたり外国との交流を閉じていた日本の地に外国の使節団が上陸し、幕府とアメリカの交渉が行われた場所が場所が久里浜であり、新しい日本の夜明けはこの久里浜から始まったのです。
 ペリー提督が初めて日本の地に上陸してから47年後の1900年(明治33年)10月25日アメリカ退役海軍少将ビアズリーが夫人と共に久里浜を訪れました。ビアズリーは17歳の時、少尉候補生としてペリー提督と共に久里浜に上陸したのです。彼は青年の頃訪れた美しい久里浜にたくさんの思い出があり、アメリカの使節団が初めて訪れた地に何も記念するものがないことを残念に思いました。
 ホテルのある横浜に帰ったとき新聞記者に久里浜でのことを話しました。その内容が新聞に掲載されました。また、明治政府の下で近代社会を築きつつあった明治10~20年代には前途有為な人達が留学や働く場所をもとめて欧米に渡りました。特にアメリカに留学し日本に帰国した後、政界や経済界で活躍する人達が集まり、1898年(明治31年)交友の場として米友協会が設立され、その米友協会の席上でもビアズリーが演説し、このことが契機となって当時の米友協会の会長でハーバード大学で学んだ金子堅太郎男爵(当時)を中心に上陸記念碑建設の運動が起こり「記念碑建設委員会」が組織され募金や明治天皇の下賜金によって記念碑は完成し、1901年(明治34年)7月14日ペリーの上陸と同じ日に除幕式が行われました。参列者は桂首相ほか閣僚、徳川家達、榎本武揚、アメリカからはビアズリーやペリーの孫にあたるロジャース少将等、総数1000人で久里浜沖では日米の軍艦が祝砲を放つなど盛大な式典となりました。
 日米親善の象徴となた上陸記念碑ですが太平洋戦争中にはアメリカに関するものは敵性のものと憎まれ1945年(昭和20年)2月8日横須賀市の翼賛青年団を中心としたグループに引き倒されました。ところが半年後の8月15日に終戦となり11月に復元されました。
 日本の歴史上大切な足跡を刻んだペリー上陸記念碑のもつ意義をこれからも大切に見守ってゆきましょう。

参考
 記念碑の大きさ 高さ4.5m 重さ11.4t 仙台産の花崗岩 碑の台座は根府川石
 刻まれている文字は伊藤博文の書で「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」と書かれており碑文を彫刻した石工は横浜あの横溝豊吉です
 令和4年(2022年)3月 久里浜地域運営協議会 久里浜の文化を考える会

記念碑の前で記念撮影するのは、ペリーの曾孫にあたるペリー大僧正と、浦賀奉行の曾孫にあたる戸田夫妻。昭和8年。

なお、戦時中に、ペリー上陸記念碑は倒されている。破壊粉砕をしようとする過激な動きもあったが、海軍横須賀鎮守府は反対。神奈川県知事は当初は反対するも、強硬派の圧力に屈し撤去に合意。昭和20年2月に記念碑は倒された。倒された直後に米軍の空襲などもあり、記念碑を粉砕する話は報復を恐れ立ち消えとなっている。重機不足で倒すのが精一杯だったというのもあるようだが。
戦後、昭和20年11月に、ペリー上陸記念碑は再建された。

https://www.kanagawaparks.com/perry/

https://www.cocoyoko.net/spot/perry-park.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/fc00000435.html

場所

https://goo.gl/maps/iLY9J6wYuPqTroRB7


ペリー記念館

ペリー公園には、ペリー記念館もある。
横須賀市市制80周年を記念して1987(昭和62)年に建てられた記念館。

ペリー提督

戸田伊豆守

浦賀奉行の戸田氏栄。
黒船来航の初動対応は、奉行所応接掛であった中島三郎助が担当していた。

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/fc00000442.html


ペリー上陸の砂浜(久里浜)

ペリー公園のすぐ目の前に、ペリーが上陸した砂浜がある。

※撮影 2022年8月


ペルリ上陸記念碑道

明治の道標で英語でも記載があるが、おしゃれ。

ペルリ上陸記念碑道
COMMODORE PERRY’S MONUMENT
明治41年1月18日建設

車道側に向いているので、ちょっと撮影しにくい。。。

場所:

https://maps.app.goo.gl/tdev2C5q76iN4rwB9

※撮影:2023年11月


浦賀(黒船来航の地)

ペリー提督の黒船は、浦賀沖に来航した。浦賀に来航して、久里浜に上陸。

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、浦賀沖に停泊したペリー艦隊。それまでみてきたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違う、蒸気外輪フリゲートを目の当たりにした人々は「黒船」と呼称し、恐れおののいた。

浦賀奉行戸田氏栄は、司令長官旗を掲げていた米艦隊旗艦サスケハナに対して、まず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣。
ペリーの渡航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことが目的であることを把握した。
日本側は長崎に向かうように交渉をするも、ペリーは了承せず、江戸に向かい直接国書を渡すと主張。ペリーの強硬姿勢に幕府側は譲歩し、国書受け取りを決断。

1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、幕府は当初、浦賀港近くの燈明堂近くの館浦で受け取り予定であったが、土地が狭く、警備を担当する4藩(川越・彦根・会津・忍)の反対もあり、結果として、国書受け取りは浦賀の隣の入江であった久里浜で行われることになった。

黒船来航の地
ようこそ浦賀へ

1853年 浦賀に黒船来航

ペリーとサスケハナ号
嘉永6年(1853)6月、アメリカ大統領の国書を持ったペリーが率いるサスケハナ号以下4隻の黒船が浦賀沖に姿を現わした。このペリー来航により鎖国政策はピリオドをうち、日本の近代はここにはじまった。
 浦賀国際文化村推進協議会


浦賀奉行所跡

黒船来航で、奇しくも近代の幕開けの口火として、その最前線となったのが、浦賀奉行所であった。

石橋(浦賀奉行所跡)
 浦賀奉行所表門の前のお堀に架けられていた石橋が、役宅(官舎)の通りより少し北に寄っているのは、奉行所が敵に攻められても直線で侵入できないように配慮されていたためで、同様に町家(商家)から役宅に入るところのカギの手に曲がっているのも江戸時代のままです。
 お堀は江戸時代後期の改築にともなって表門とその脇の三方に低いながらも石垣が積まれてできています。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

黒船に最初に乗り込んだ男
中島三郎助
 浦賀奉行所与力・中島三郎助は、浦賀を代表する人物で、嘉永6年(1853)ペリー来航の際、最初に黒船(使節団)との、折衝にあたるなど敏腕をみせ、翌年、日本最初の洋式軍艦・鳳凰丸を建造しました。
 三郎助は、文武に優れ、「大衆帰本塚」の碑文を書き、俳号は「木鶏」と称し、人々から敬慕されていました。
 明治維新では、幕臣としての意思を貫き、函館の千代ケ岡台場で2人の息子と共に戦死しました。
 享年49歳、父子の墓は東林寺。
 函館中島町に「中島三郎助父子最後の地」の碑があります。
  浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

浦賀奉行所跡

(一部抜粋)
嘉永6年(1853)6月、浦賀に来航したペリー艦隊は、日本が近代に進む第一歩としてよく知られていますが、浦賀奉行所にとっては、文政元年(1818)5月に来航したイギリス船から数えて7度目の異国船でした。ペリー来航時には、中島三郎助や香山栄左衛門をはじめとした浦賀奉行所の役人たちが大きく活躍し、交渉の結果、アメリカ大統領の親書を久里浜で受け取る事になりました。

今は、更地。
堀が残る。

場所

https://goo.gl/maps/1ysfN1eUvoncFkLh6


船番所跡

船番所跡
 浦賀奉行所の出先機関で、享保6年(1721)から明治5年まで、江戸を出切りするすべての船の乗組員と積み荷を検査する「船改め」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われました。
 与力、同心の監督のもと、「三方問屋」と呼ばれる下田と西浦賀の廻船問屋百軒余が、昼夜を通して実務を担当しました。「入鉄砲に出女」を取り締まる海の関所としても重要なものでした。
 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

船番所跡

奉行所はもともと下田にあったが、享保5年(1720)に、浦賀に移転。江戸への出入りをチェックを強化。

船改めはの業務は浦賀奉行だけでは手が足りないために、廻船問屋も協力。下田から移転してきた下田問屋が63軒、西浦賀に22軒、東浦賀に20軒の合計105軒で船改めを実施していた。また船番所は、幕末に急増したは異国船への警備なども担っていた。

船番所のあとは、いまは陸軍桟橋とも呼称されている。

場所

https://goo.gl/maps/vQ64mnFng8GXfnZh7

浦賀の沖合に来航した黒船から、日本の近代が幕を開けた。

※撮影:2022年7月及び8月


関連

浦賀ドックのきっかけとなった「中島三郎助招魂碑」と横須賀最古の公園「浦賀園」(愛宕山公園)

「浦賀ドック」の浦賀船渠が創立したきっかけが、浦賀奉行所の与力であった中島三郎助。その慰霊碑がある愛宕山に行ってみる。


愛宕山公園

横須賀で一番古い公園という。

愛宕山公園
 明治24年(1891)に開園したしないで一番古い公園で、「浦賀園」と呼ばれていました。
 浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され篆額の題字は榎本武揚によって書かれました。開園に出席した人たちの提唱よって浦賀船渠㈱が創設された話は有名です。
 咸臨丸出航の碑には乗組員全員の名が刻まれています。
 与謝野鉄幹・晶子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。
 江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました。
  浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ

浦賀園の入口。

えーっと。道がない。
夏場に来ては駄目なところでした。

強行突破しました。。。

夏以外に訪れることをおすすめします。。。

ヤブを抜けた先の開けた場所に記念碑がありました。


咸臨丸出航の碑

市制施行70周年記念
横須賀風物百選
咸臨丸出航の碑
 嘉永6年(1853)6月3日、米国水師提督ペリーが、黒船四隻を率いて、浦賀湾沖に現れました。我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。それが、江戸近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰たった四はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。
 7年後の安政7年(1860)幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする、使節団をワシントンへ送ることにしました。幕府は万が一の事故に備えて、軍艦奉行・木村攝津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下、九十有余名の、日本人乗組員で、運航する、咸臨丸を従わせることにしました。
 1月13日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は品川沖で錨を上げました。途中、横浜で難破した、米測量船クーパー号の選任11名を乗せ、16日夕刻、浦賀に入港しました。それから2日間、食糧や燃料その他の航海準備作業が行われました。意気天をつく若者たちを乗せた、咸臨丸は、1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を39日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。米国での大任を果した咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う、万延元年(1860)5月5日でした。
 この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として、咸臨丸・太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向い合うように、ゆかりの深い、この地に建てられたものです。
 なお、この愛宕山公園は、明治26年開園で、市内最古の公園です。また、彼方に建つ、招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。

咸臨丸出航の碑

日米修好通商百年を記念して昭和三十五年に建立。
碑は船型、材質は花崗岩。

裏面には乗組員の名が刻まれている。
軍艦奉行 木村摂津守喜毅
教授方頭取 勝麟太郎
通弁役 中浜万次郎
奉行従者 福沢諭吉、ほか


愛宕山公園

広場にたどり着くも、とにかく草がひどい。
何度も記載するが、夏はやめときましょう。


中島三郎助の招魂碑

横須賀市指定 市民文化資産
中島三郎助招魂碑
明治24年、彼を追慕する浦賀の有志によって建てられたもので、篆額は、当時の外務大臣・榎本武揚の筆である。愛宕山公園は、この碑の建立の際に整備された。

榎本武揚の篆額

中島君招魂碑

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に拓本がある。

浦賀奉行所与力
中島三郎助生誕200年祭
令和3年(2021年)1月25日
中島三郎助と遊ぶ会

中島三郎助の生涯
 中島三郎助は、幕臣であることを貫き通して49年の生涯を終えた。その中島が見習うべき人物としたのは、鎌倉時代に源頼朝に生涯を捧げた三浦大介義明であった。
 文政4年(1821年)21月25日に浦賀で生まれ、三郎助で8代目となる奉行所の与力の家系であった。

  天保6年(1835年)閏7月、15才で奉行所の与力見習いとして出仕した。見習いに出仕するまでに槍術・剣術ともに当時砲術三派であった田付流・荻野流・集最流をすでに学んでおり、後に西洋式の高島流まで含めてすんべて免許皆伝となっている。
 この砲術の腕前は、天保8年(1837年)6月に浦賀沖に来航したアメリカ商船・モリソン号に観音崎台場から砲撃を加え、打払っている。この時の功績で、浦賀奉行・大田資統から太刀を拝領した。
 また、この年岡田定十郎の娘・すず(15才)と結婚している。

 嘉永2年(1849年)6月、父の跡を継ぎ与力となった。翌年7月には館浦にあった「玉薬製造所」の責任者を勤めていたが、足軽役の者の過失から製造所と隣接の船蔵が焼失す、その責任から謹慎処分を受けた。

 嘉永6年(1853年)6月、アメリカ東インド艦隊のペリーが率いる2隻の蒸気軍艦と2隻の帆走軍艦が来航すると、応接掛として最初に黒船に乗り込み交渉した。もっとも中島の関心は最新鋭の蒸気軍艦には装備されていると思われる炸裂弾を発射できる大砲を検分することにあった。
 ペリー来航後、幕府に提出した上申書には、今は海外諸国の知見を養うことが大事であると述べており、力の差を見せつけられた中島ならではの提言であろう。

 幕府も軍艦の必要性を実感し、浦賀奉行所へ軍艦建造を申し付けた。この軍艦・鳳凰丸は日本人の手による最初の洋式軍艦であり、その中心人物となったのが三郎助であった。しかも9ヶ月というスピードで翌年5月に完成させている。
 こうした三郎助の活躍は広く知れ渡り、長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が三郎助のところに弟子入りしている。三郎助は幕府が長崎に開いた海軍伝習所へ派遣され、オランダ人から造船や洋式砲台の建設などを習得した。

 安政5年(1858年)長崎から戻った三郎助は、幕府海軍の草創期に活躍し、多くの後輩を指導している。
 また和歌や俳句を通じて、浦賀周辺の人々とも交流をもっていた。
 戊辰戦争が始まると榎本武揚らとともに北海道にわたり、ここに新しい国(中島のなかでは新徳川幕府)づくりに親子で参加したが、新政府軍の攻撃を受け、函館五稜郭近くで1869年5月15日桓太郎・英次郎ともに戦死した。
 
 明治23年(1890年)5月、名誉が回復され、浦賀の人々の手によって「招魂碑」が建てられた。その除幕式で中島の意思を継ぐ造船所の建設が提案されて、浦賀船渠が発足した。

中島三郎助
 明治2年(1869)5月、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いが函館郊外の五稜郭近くで行われた。この戦いで浦賀奉行所与力・中島三郎助親子は戦死した。三郎助の二十三回忌にあたり、彼の功績と名誉を浦賀の町に末永く残すことを目的に、彼とともに激動の明治維新期を生きた友人、知人たちによって建てられたのが真向かいにある中島三郎助招魂碑である。碑の篆額(題辞)は三郎助と公私ともに親交があり五稜郭で共に戦った榎本武揚が記し、激動の時代を象徴するような彼の人生を表したのは当時の外務官僚の田辺太一である。また、この碑の除幕式の日、初代の中央気象台長であった荒井郁之助の発案で、三郎助の意思を継いだ近代造船所を浦賀の地で開業することが決定した。

招魂碑建碑由来碑

同じく、浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)に拓本がある。

浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)

浦賀ドックや浦賀の歴史を、調べようとすると、この中島三郎助にたどりつく。いままで知るよしもなかったことをこうして新たに知れるのが楽しい。


与謝野夫妻歌碑

良さの夫妻の歌碑もあった。

黒船を怖れし世などなきごとし 
 浦賀に見るはすべて黒船
               寛
春寒し造船所こそ悲しけれ 
 浦賀の町に黒き鞘懸く
               晶子

昭和10年3月3日に与謝野夫妻が観音崎・浦賀・久里浜を訪れている。与謝野寛は同年3月26日に亡くなっているため、生涯最後の歌のひとつといわれている。

愛宕山から海を望む。
夏はやめといたほうが良いですね。(大事なことなので何度も書きます)


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/nisi7.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004024.html

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/g_info/l100004001.html

https://routemuseum.jp/theme/g05/

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/tokubetuten/4.html

記念碑の台座となった「旅順口閉塞船弥彦丸の閉塞石」(久里浜・若宮神社)

久里浜の神社に、日露戦争の旅順港閉塞船に積まれていた石が使用されているというので、足を運んでみた。


旅順口閉塞船弥彦丸の閉塞石

昭和10年の「久比里ノ若宮神社」の社殿改築を記念して建立された石碑。

この記念碑の台座は、日露戦争の旅順閉塞隊に参加した弥彦丸に積まれていた花崗岩。
日露戦争後に、旅順港口を復旧させるために、閉塞船として擱座していた弥彦丸を旅順港口から撤去し、浦賀船渠の川間分工場で解体した際、その船底から取り出したものという。

この台石は浦賀工場の寄贈にして日露戰役の際 旅順口閉塞船弥彦丸に使用せしものなり


第二次旅順港口閉塞作戦

旅順港に立てこもったロシア艦隊を壊滅できない日本海軍の連合艦隊は、旅順港の入口を封じてしまう「旅順港口閉塞作戦」を決行。三次にわたり海上を封鎖する閉塞作戦が行われたが、充分な封鎖はできなかった。

第二次旅順港口閉塞作戦は明治37年(1904年)3月27日未明に決行された。4隻の閉塞船(千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸)を投入して実行されたが、ロシア軍に察知されて失敗。閉塞船「福井丸」を指揮した広瀬武夫少佐(のち中佐に特進)が戦死し、のちに軍神となった。
また、杉野孫七上等兵曹(没後、兵曹長)の他、「朝日」乗組の菅波正次2等信号兵曹(没後、1等信号兵曹)、「高千穂」乗組の小池幸三郎2等機関兵(没後、1等機関兵)も戦死している。


若宮神社

久比里地区の氏神様。西叶神社が本務社。

1531年(享録4年)、千葉介常胤の末流にあたる臼井惣左衛門が鎌倉の鶴岡若宮明神を奉戴して建立した。
祭神は仁徳天皇。
1983年(昭和58年)社殿は焼失し、1985年(昭和60年)新築されている。社殿の左側に、古い鳥居の一部や額が保存されている。
境内にある石碑には神社の縁起について書かれており、その台座は日露戦争の際、旅順口閉塞船の弥彦丸に使用されたとされる。
例年7月には「例大祭」がおこなわれる。

https://kurihama.info/jisya/wakamiyajinja/

享禄4年(1531)の建立で、御祭神は仁徳天皇です。
鎌倉の鶴岡若宮明神を奉戴して氏神とする久比里の鎮守様です。
神社の縁起を記した謹誌の基壇には、日露戦争で旅順口閉塞船の弥彦丸に積まれた石が使われています。
ここの祭礼は「久比里の下駄まつり」と呼ばれ、かつては勝海舟が書いた大幟が上がりました。

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/yosii9.html

社号標。
揮毫は、海軍大将・小栗孝三郎。黎明期の潜水艇研究の第一人者。

撮影:2022年7月


写真の撮り忘れがありましたので、2022年11月に再訪しました。。。

28糎砲弾

久比里の若宮神社の境内社、八雲神社の社殿横に鎮座。
日露戦争の勝利を記念して明治39年2月に氏子によって建立されたもの。

征露紀念

明治三十九年二月 氏子中

境内社の八雲神社


関連

「陸軍桟橋」と「浦賀港引揚記念の碑」海外引揚者が第一歩を踏みしめた港(浦賀)

昭和20年8月15日の終戦を海外で迎えた邦人(日本人)は、軍人と民間人をあわせて約660万人以上に及んでいた。戦後、日本各地の引揚者指定港では、引揚者の受け入れを行い、中でも東京湾の入口に位置する浦賀港は、約56万人の受け入れを実施した。これは舞鶴港の約67万人に次ぐ規模であった。


海外引揚者

終戦当時、旧陸軍308万人、旧海軍45万、一般法人300万の約660万人が海外にいたという。
1945年9月2日のGHQ(連合国総司令官マッカーサー)による「日本政府宛一般命令第1号」にて、外地にいた日本人は、それぞれの軍管区の下に降伏することになり、軍人・軍属・一般人を含め、すべての日本人は各軍管区の支配下に置かれた。

  • 中国軍管区
     満州以外の中国全土、台湾など
      約312万人
  • ソ連軍管区
     満州、38度以北の朝鮮、樺太、千島列島
      約161万人
  • イギリスならびにオランダ軍管区
     インドシナ、インドネシア、マレーシアなど東南アジア
      約74万人
  • オーストラリア軍管区
     ボルネオ、ニューギニア、ビスマルク、ソロモンなど
      約14万人
  • アメリカ軍管区
     38度以南の朝鮮、沖縄、フィリピン、小笠原ほか太平洋諸島など
      約99万人

実際の引き揚げは、各軍管区ごとに実施された。
昭和20年12月1日に陸軍省は「第一復員省」に改組、海軍省は「第二復員省」に改組となり、軍人の復員を司った。昭和21年6月に廃止、「復員庁」に統合された。
復員庁は昭和22年10月に廃止となり、最終的には昭和23年の「厚生省引揚援護庁」(厚生省外局)に引き継がれた。軍人軍属は復員、一般人は引揚と呼称され、一般人は厚生省担当であったが、復員・引揚それぞれの概念的呼称も「復員援護」として統一され厚生省での管轄となった。
なお、陸軍の復員はソ連軍管区で抑留された軍人以外は昭和23年1月までにほぼ完了。海軍の復員は昭和22年末迄に概ね完了していた。
一般人の引揚を含めると昭和24年(1949年)までに624万人が帰還。昭和51年(1976年)までに約629万(軍人軍属311万人、一般318万人)が帰還している。


横須賀地方復員局

厚生省引揚援護庁の横須賀地方復員局が岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県、栃木県、群馬県、埼玉県、東京都、神奈川県、山梨県、静岡県、長野県の復員業務を担当。
現在も保存されている、「氷川丸」「宗谷」も横須賀地方復員局所管の復員船として活躍している。


浦賀引揚援護局(浦賀検疫所)

「浦賀引揚援護局」は昭和20年(1945年)11月~昭和22年(1947年)5月まで引揚者の援護や検疫業務を担当。昭和22年5月からは「引揚援護院横浜援護所」(昭和22年に引揚援護庁援護局横浜援護所に改称)が設置された。昭和30年7月11日に引揚所は廃止され、業務は「横浜検疫所」が引き継いでいる。

昭和21年3月29日に中国広東からの引揚船内でコレラが発生し蔓延したまま引揚船は浦賀港に4月5日に入港。海上隔離を実施。
浦賀引揚援護局では「コレラ防疫本部」を設置し、中国及びベトナムからやってくる引揚船の海上隔離を継続し20隻が海上隔離のために沖合停泊、隔離者が7万余人に到達。患者等の食糧、飲料水の確保・提供が窮迫するも、急ピッチで施設及び衛生資材等が整備し、同年5月4日には停留船隔離者が上陸可能となった。
浦賀港での汚染船は22隻にも及び、患者483人(うち死亡72人)、保菌者191人、疑似者345人であった。
浦賀引揚援護局浦賀検疫所は、旧海軍対潜学校の敷地を活用。

https://www.forth.go.jp/keneki/yokohama/museum/page2-5.html

なお、久里浜駅近くの「長安寺」には、浦賀引揚援護局引揚者精霊塔の慰霊碑が建立されている。引揚船コレラ病没者(身元不明者)を祀っている慰霊碑。

「浦賀引揚援護局引揚者精霊塔」

また、浦賀引揚援護局の下には、引揚者を援護するための援護所も設置された。

  • 久里浜援護所(海軍工作学校)
  • 鴨居援護所(浦賀船渠鴨居工員宿舎)
  • 馬堀援護所(陸軍重砲兵学校)

馬堀援護所(陸軍重砲兵学校)「行幸之地碑」


陸軍桟橋(西浦賀緑地)

陸軍桟橋の名称で歴史を伝えている桟橋。今は釣り人たちが集う場所となっている。

この海岸線は浦賀港の海の玄関口であり、歴史を語るうえで、重要なスポットである。
L字型の桟橋は、通称・陸軍桟橋と呼ばれ、昭和10年代に出来たものである。
太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引揚者が何十万人上陸し、帰国の第一歩を印した思い出深い桟橋である。
また、この場所は、享保6年(1721)に浦賀奉行所の主要機関である船番所が置かれ、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と荷物の検査が行われた船の関所であった。この検査は江戸経済の安定を図るために行われ、港町浦賀の繁栄にもつながった。
※この、港湾緑地は、国土交通省の環境整備事業により、整備したものであります。

関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5575/minato/amenity_kouen/nisiuraga/index.html

https://www.cocoyoko.net/spot/rikugunsanbashi.html


浦賀港引揚記念の碑

西浦賀みなと緑地公園内にある記念碑。

浦賀港引揚記念の碑
昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結。ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に返還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。私たちは再び繰り返してはならない戦争により悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。
 横須賀市

裏面に設立趣旨が記載されている。(裏面が見にくいのは、、、)

(裏面の設立趣旨)
ここ浦賀港は、先の大戦終結後、引揚指定港の一つとして極めて重要な責務を担いました。引揚とコレラ等の防疫に携わったすべての人々をねぎらい謝意を表するとともに、この地で倒れた幾多の御霊に弔意を表します。この碑は、引揚者や地元の方々の熱意により建立が実現したものであり、市制百周年を迎えるにあたり、当地の歴史を再認識し、恒久平和の願いを後世に伝えんとするものです。
 平成18年(2006年)10月 横須賀市長 蒲谷亮一

浦賀港。
外地からの引揚者が最初の一歩を踏みしめた祖国の大地。

関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/hikiage.html


船番所跡

陸軍桟橋の前の駐車場の地が浦賀奉行所の出先機関であった番所が置かれていたところという。

関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/nisi9.html


浦賀の渡し(浦賀渡船)

浦賀港の東西を往来する渡し船。ポンポン船の愛称で親しまれている。

もともとは、奉行所が浦賀に置かれてまもない享保10年(1725年)頃から始まる渡し船。
渡し船の愛宕丸は「御座船(ござぶね)」と呼ばれた東叶神社の祭礼の際に御輿を運んだ船をモチーフにしている。
浦賀港の東西を結ぶ海上航路は横須賀市道(2073号線)に認定されている。

関連

https://www.cocoyoko.net/spot/uraga-watashi.html

https://ponponsen.jp/


関東大震災の慰霊塔

現在、愛宕山公園(浦賀園、横須賀最古の公園)になっている愛宕山が、関東大震災によって土砂崩れを起こし、その時の土砂によって生き埋めになってしまった人々の慰霊塔。


叶神社

浦賀港の東西には叶神社が鎮座している。
東叶神社と西叶神社。宗教法人としては別法人なので、まとめて記載するのはしょうしょう乱暴ではあるが、今回は神社は社頭で遥拝するのみ。

西叶神社

東叶神社(後方が奥宮と浦賀城址)

撮影:2022年7月


叶神社の御朱印帳と御朱印

むかし、参拝していたときに御朱印を戴いてました。

以下は、平成28年(2016年)の写真です。ご注意を。

西叶神社、平成28年(2016年)

東叶神社、平成28年(2016年)

昔は、神社メインでした。海軍的なところはまだ深掘りできてなくて。
今思えば、浦賀ドックの写真をもっと撮っておくべきでした。

懐かしい気持ちにもなりつつ、浦賀港関連は、いったん〆


「千代ヶ崎砲台跡」散策(横須賀)

明治時代に、東京防衛のために構築されたのが、「東京湾要塞」。
なかでも「千代ケ崎砲台」は、東京湾がもっとも狭まる浦賀水道の入口に位置している防衛上の重要拠点でもあり、近年まで自衛隊管理下にあり立入禁止区域だったということもあり、当初の面影をよく残している砲台跡。
自衛隊跡地となった国有地を横須賀市が管理し史跡整備を実施。そうして2021年10月より土日祝日限定で一般公開が開始されたので、足を運んでみました。


千代ヶ崎砲台跡

国指定史跡 東京湾要塞跡

千代ヶ崎砲台とは
 千代ケ崎砲台は、江戸時代後期に会津藩により台場が造られた平根山に、明治25年(1892年)から明治28年(1995年)にかけて陸軍が建設した西洋式の砲台です。
 東京湾内湾口を防衛する観音崎砲台の援助や、浦賀湾前面海域への防御、また久里浜から上陸した敵に対する防衛が任務で、榴弾砲の海正面防御砲台と臼砲・加農砲・機関砲からなる陸正面防御砲台で構成されています。
 建造当初の姿を良好にとどめていること、日本の近代の軍事や築城技術を理解するうえで重要であることから、猿島砲台跡(横須賀市猿島1番)とあわせて平成27年に国の史跡に指定されました。

東京湾要塞とは
 日本で始めて西洋の築城技術と建築資材を導入して建設された砲台は観音崎砲台の第一・第二砲台で、明治13年(1880年)起工、明治17年(1884年)竣工です。観音崎砲台の起工以後、明治政府は首都東京や軍港防衛のために東京湾岸に沿岸砲台群を建設しました。これらの砲台群によって守備する土地を「要塞」と定め、東京湾要塞と呼称しました。
 東京湾要塞を構成する砲台群は、明治20年代後半までに20か所、大正から昭和にかけては火砲の能力向上に伴い防衛ラインを東京湾の南側に拡大して12か所の砲台が築かれました。

日本遺産
 千代ヶ崎砲台跡は、「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財として平成28年に日本遺産に認定されました。
 横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミュージアム」のサテライト施設でもあります。

千代ケ崎砲台の構造
 千代ケ崎砲台の海正面防御砲台は、3つの砲座が南北に並び、1砲座に2問ずつ、合計6門の28cm榴弾砲が配備されていました。地表からすり鉢状に深く掘りこまれた露天砲座の地下には、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部が造られ、砲弾の供給や地上との連絡、砲台内での貯水や排水の仕組みが合理的に設計されています。
 地下施設の壁は煉瓦造で、天井は無筋コンクリート造となっています。千代ヶ崎砲台より11年前に建設を開始した猿島砲台は地下施設の壁・天井ともに煉瓦造であり、2つの砲台を比較することにより建築資材や技術の改良と発展を見ることができます。

以下は案内所にて。

日本の要塞と東京湾要塞

日本の要塞

東京湾要塞

千代ケ崎砲台とは
 千代ケ崎砲台は東京湾要塞を構成した砲台のひとつで、明治25年(1892年)に工事が始まり、明治28年(1895年)に完成しました。
 東京湾要塞の中での任務は観音崎の砲台群の側防と浦賀湾前面海域の防御で、対岸の富津元州砲台とともに援助砲台に位置づけられました。
 千代ケ崎砲台は、28cm榴弾砲と呼ばれる大口径の大砲が備えられた榴弾砲砲台と小口径の加農砲などが備えられた近接防御砲台で構成されていました。
 榴弾砲砲台は南北に一直線に並んだ3砲座からなり、その延長線上の北側と南側にそれぞれ左翼観測所と右翼観測所が配置されていました。各砲座には28cm榴弾砲を据え付けた砲床は2つ置かれ、3つの砲座で合計6門の28cm榴弾砲が備えられました。

28cm榴弾砲
 28cm榴弾砲の砲身は全長約2.8m、最大射程距離は7.8km、砲弾の重量は217kgになります。砲身を水平にして砲弾と装薬を装填した後、砲身を仰角に合わせて発射します。弾道は高く放物線を描き、敵艦の甲板を貫いて、エンジンや火薬庫などの艦艇の重要な部分を破壊する狙いがありました。

砲座と地下施設
 千代ヶ崎砲台の榴弾砲砲座は地表から約6m低い場所に砲床が設計され、周囲はすり鉢状の高い旨檣が築かれて大砲を隠していました。敵艦艇からの砲撃による着弾の被害を小さくするため、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部などは砲座間の地下に造られています。

砲台の建設
 千代ヶ崎砲台が建設された土地は、浅く谷が入った細尾根が続く丘陵地でした。
 砲台の建設にあたっては、丘陵頂部を削平し、地下施設の建設場所を掘削して施設を建設した後に埋戻し、残土で浅谷の埋め立てや土塁などを造成する大規模な土木工事が行わました。建設工事は陸軍工兵第一方面が担当しました。

千代ケ崎砲台の構造

集水と排水の仕組み
 千代ケ崎砲台の水の流れには、砲台内部で雨水を集水・ろ過して生活用水を確保するための集水系統と、砲座などからの汚水を砲台の外に排出する排水系統の2系統がありました。
 集水系統は、飲用水など生活用水を確保する貯水所への導水システムです。貯水所は塁道の南北2か所で確認され、類同には貯水所につながる「ろ過下水溝」が埋設されています。ろ過下水溝で簡易ろ過された雨水は沈殿池の給水口から導水され、沈殿池からろ過池を経由して、最終的にきれいに濾過されて貯水池に貯められ、生活用水として利用される仕組みになっています。
 排水系統は、雨水とともに砲座や地下施設から出る汚水を砲台の外に排水する仕組みです。貯水所への集水系統と交わらないように設計されていました。

地下室に使われた建築資材
 千代ケ崎砲台の地下に造られた砲側弾薬庫などの諸施設は、脚壁が煉瓦造、天井は無筋コンクリートで造られています。また柵門への切通しや塁道の露天空間部分の擁壁は凝灰質礫岩という石材で造られています。
 煉瓦の積み方はイギリス積みと呼ばれる方式です。塁道に面した貯水所や棲息掩蔽部の煉瓦壁は、雨水の帯水を防ぐために撥水性の高い焼過煉瓦(焦げ茶色)、直接雨風にさらされない室内や隧道内は普通煉瓦(赤色)を用いるという使い分けをしています。使われている煉瓦は小菅集治監という当時の刑務所に併設されていた煉瓦工場で造られたもので、桜の花の刻印が押されています。
 一般公開に先立ち実施した砲台の構造体の健全度調査では数か所でコア抜きを行い、煉瓦の脚壁は奥壁が約75cm、天井を支える側壁が開く1.5mの厚さで、コンクリート像のヴォールト天井は最も厚いところで約2mに及びました。
 コンクリートの強度試験では、現在のコンクリートトンネルに必要とされる強度と同等の数値が得られ、千代ケ崎砲台の地下に残る諸施設は堅牢な構造物であることが分かりました。 

現在に残る砲台跡

千代ヶ崎砲台の歴史

28cm榴弾砲模型(原寸)

28糎榴弾砲 1/35スケール

千代ケ崎砲台(現状)の模型

小菅集治監製の煉瓦


軍道

千代ケ崎砲台にアクセスするための唯一の道として「軍道」が設けられていた。現在は横須賀市道であるが、唯一のアクセス道路としての役割は変わっていない。


柵門

千代ケ崎砲台の出入り口。唯一の出入り口。

凝灰質礫岩の擁壁。


掘井戸

入口近くに掘井戸が設けられている。水は貴重。

国史跡 東京湾要塞跡 千代ヶ崎砲台跡


土塁

土塁は海上自衛隊時代に削られたりもしているが、よく姿を残している。


塁道

千代ケ崎砲台は3つの砲座と3つの弾薬庫、3つの棲息掩蔽部と2つの貯水庫などの関連施設にわかれており、塁道でそれぞれが結ばれている。

塁道の擁壁は凝灰質礫岩。

アーチ部分はコンクリートで強化している。

塁道と砲座を結ぶ交通路。


濾過池と沈殿池

奥が濾過池で手前が沈殿池。斜面を利用し、雨水を貯めるために濾過溝で水を集水し、水が下りきったところに濾過池と沈殿池が設置されている。


貯水池(第二貯水所)

沈殿と濾過を終えた浄水は、貯水池に貯められる。千代ケ崎砲台には、南北の2か所に貯水所が設けられていた。

自衛隊時代は、蓄電池倉庫だったようで。。。
(剥がして撤収しなかったようで)

オランダ積み(イギリス積み)の煉瓦。

見事な煉瓦のグラデーション。露天部や入口部分は強度を高めた撥水性に優れた「焼過煉瓦(焼きすぎ煉瓦)」が用いられ、通常の普通煉瓦と使い分けているために色が異なる。


棲息掩蔽部

兵員の待機所、倉庫などが設けられていた。

交通路


弾薬庫

弾薬庫部分。

揚弾井


点灯室

点灯室。弾薬庫にランプが持ち込みできないために、ランプは隣の部屋にある。

弾薬庫から砲座に向けて階段を上がる。


高塁道

砲座への連絡通路。砲弾供給の通路でもある。
そして砲弾の揚弾井の上部。

砲弾を砲座に移動させるためのガイドが取り付けられていたと推測。



砲座

砲弾は横のスペース縦置きで並べていた。

伝声管の穴。隣の台座とつながっている。

砲座から弾薬庫に戻ります。

塁道へ。

棲息掩蔽部の上部には通風孔がある。

塁道

小菅のマーク入り煉瓦

棲息掩蔽部と貯水所

この先には右翼観測所があるが、民有地のために立ち入りができない。。。


砲台上部

砲台の上部に。気持ち良い空間。

第三砲座。

第二砲座。

そして第一砲座。

第一砲座
28cm榴弾砲を据え付けた場所です。
地上からコンクリートの床面まで約6mの深さがあります。
1つの砲座に2門の榴弾砲が設置されました。

桜の季節にも来てみたい。桜並木。

浦賀水道。東京湾フェリーが航行している。

千代ケ崎砲台の立地
 千代ヶ崎砲台は、眼下に東京湾を一望できる標高約65mの山の上に建設されました。
 要塞建設期(明治時代)に建設された砲台群の中では最も南に位置し、当時の防御線の外側です。28cm榴弾砲が据え付けられた海正面砲台は、東京湾内湾に侵入しようとする艦船と最初に対峙することが想定されていました。
 対岸の房総半島側は水深が浅く、大型の艦船は三浦半島寄りを航行します。そのため、三浦半島側に集中して砲台が建設されました。
 大型艦が通行する航路は浦賀水道とも呼ばれ、現在では世界有数の海上交通量を誇っています。

これは、良い東京湾要塞。

なにかの遺構。
横須賀市が管理している千代ヶ崎砲台跡地の敷地外の民有地。南側堡塁にあたる。

このあたりに右翼観測所。また近接防御砲台もあるエリアであるが同じく横須賀市管理敷地外の民有地。

富士山が見えた。

塁道を上から。

通風孔は塞がれている。

千代ケ崎砲台、ここは面白いですね。
ちょっとアクセスは不便ですが、一見の価値あり。
ボランティアガイドを活用して見学するのがおすすめです。

夏場に訪問したので、ちょっと草木が茂りすぎていたので、冬にも再訪したい、あと桜の季節にも良き花見ができそう。


燈明堂跡

千代ケ崎砲台の眼下には、もともとは燈明堂があった。
江戸時代に造られた日本式灯台。

燈明堂は慶安元年(1648)から明治5年(1872】まで灯台として機能していた。
そして燈明堂背後の山には、平根山台場が設けられた。
天保8年(1837)に日本人漂流民を送り届けるために来航した米国商船モリソン号を最初に砲撃した台場。
また燈明堂は浦賀奉行所の処刑場でもあり、供養塔もあつまっている。

千代ケ崎砲台のある場所を望む。
夏場なので、海水浴客で大賑わい。燈明堂に至る道が路駐で溢れてました、、、

※撮影:2022年7月

なお、千代ケ崎砲台の下には、海軍の学校があった。


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8120/bunkazai/chiyogasaki-koukai.html

https://routemuseum.jp/theme/navy/c03/

https://chiyogasaki-supporter.jimdofree.com/

https://www.cocoyoko.net/event/chiyogasaki-.html

砲台関連

「走水低砲台跡」散策(横須賀)

横須賀の走水。
古くは、日本武尊と弟橘媛命の伝説の地「御所ヶ崎」(旗山崎)として知られている当地は、江戸期には「走水番所」が置かれ、そして幕末には「旗山崎台場」が設けられた。
明治19年(1886)には、陸軍によって半円形の低砲台が築かれ「走水低砲台」として跡が残っている。
近年、横須賀では今まで未公開であった砲台跡の整備がすすみ、一般公開・見学ができるようになったので足を運んでみた。


御所ヶ崎

横須賀風物百選

日本武尊 弟橘媛命 伝説の地 御所ヶ崎
古事記・日本書紀によれば日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐のおり、走水から上総(千葉)へ船で渡ろうとした時、海が荒れて進めず弟橘媛(おとたちばなひめ)は海神の怒りを静めるために身を投じ荒れ狂う海を鎮めました。
地元伝承によれば武尊がこの地に臨時の御所を設け軍旗を立てたことから御所ヶ崎、旗山崎と呼び弟橘媛は御所ヶ崎先端の「むぐりの鼻」 に次女たちと共に身を投じたと伝わります。港には尊が海を渡るときに乗船したといわれる寺島(御座島)の名があります。
《古東海道》
日本武尊の東征の道は古東海道といわれ足柄峠を越えて相模国に入り三浦半島を横切って衣笠宗源寺・天神坂辺りから安房口神社、小原台・走水から上総へ渡る道順と考えられています。
 大津行政センター市民協働事業・大津深訪くらぶ

走水番所・旗山崎台場跡
天正18年(1590)徳川家康が関東に入封しました。
その後、船手衆である向井一族に明治走水に御船番を置き、向井政良は御船番、走水奉行を務め、後に三崎奉行・向井忠勝が兼任しました。三崎では上り船を、走水では江戸に下る船を検査しました。今も同心町海岸の名があります。
天保14年(1843)川越藩が江戸湾海防のため台場を築いた所で、六挺の大砲を配備し異国船の侵入に備えました。
明治19年(1886)旧陸軍によって築かれた半円形の低砲台が前方の松の木に現在も残されています。
旗山崎の名は日本武尊(やまとたけるのみこと)が上総(千葉)に渡る時海が荒れて進めず臨時の御所を設け軍旗を立てたことに由来します。
 大津行政センター市民協働事業・大津深訪くらぶ


走水低砲台跡

走水低砲台跡
走水低砲台跡とは?
 走水低砲台は、明治18年(1885年)から19年(1886年)に陸軍によって建設された砲台です。27cm可農砲4門を備え、東京湾要塞を構成する砲台の一つとして首都東京を守る任務にあたりました。
 日清、日露戦争とも交戦することはなく、また関東大震災で被害を受けましたが、その後、横須賀重砲兵学校の演習用砲台として復旧し、終戦まで稼働状態にありました。現在も良好な状態でほとんどの遺構が残っています。
 走水周辺は東京湾の内湾が房総半島と近接して最も狭くなる場所に位置し、江戸時代後期には旗山崎台場が築かれ、明治時代には低砲台のほかにも走水高砲台、小原台堡塁、花立台砲台が築かれるなど海防の重要地点でした。走水低砲台が建設された丘を含む岬一帯を示す「御所ヶ崎」や丘の周辺を指す「旗山崎」という地名は、古事記・日本書紀に伝わる日本武尊と妻の弟橘媛の伝説に由来しています。
 横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミュージアム」のサテライト施設でもあります。

兵舎の左右に弾薬庫がそれぞれ。
弾薬庫の左右に、砲座(第一から第四まで)がそれぞれ。
そして左翼観測所の遺構が残されているようだ。

一般公開は祝日と土日のみ、門扉が開放される。


弾薬庫(左翼)

まずは最初に弾薬庫が見える。
左翼の弾薬庫の奥には第四砲座と第三砲座がある。

走水低砲台の構造
 海岸に突出した海抜約20mの低丘上に4つの砲座が並び、27cm加農砲が設置されていました。
 4つの砲座の中央には地下式の兵舎(掩蔽部)を設け、第一砲座と第二砲座の間に共通の地下式の弾薬庫、第三砲座と第四砲座の間に同じく共通する地下式の弾薬庫が設置されています。

砲弾供給の仕組み
 砲座間の横檣(=防弾用の土塁)の下に設置された弾薬庫からは、左右の揚弾井を使用して地上の砲座に砲弾を供給しました。引き揚げられた砲弾は各砲座の弾室に納められ、射撃に備えました。
 2つの砲座は高塁道で連絡し、その中間には小隊長掩壕が造られ、両側の砲座に指示を出すことができました。

左翼の弾薬庫は、外からの見学のみ。


兵舎(兵員棲息部)

左右の弾薬庫の間には、兵舎がある。中に入れます。

ここに兵隊さんが待機していたのだろうが、収容人数はどのくらいなのだろうか。

左右の砲座と弾薬庫に繋がる道。


弾薬庫(右翼)

右側の弾薬庫。開放されている。

内部は、左右にわかれている。
右側は第一砲座、左側は第二砲座。

揚弾井
弾薬をここから引き揚げる。

弾薬を引き揚げる場所。
揚弾井
揚弾機の金具も残る。


第一砲座

砲座を第一から順番に見ていく。
見学用に見事に整備されている。

中央に、27cm加農砲が置かれていた。

海が見える。


速射加農砲座

9cm速射加農砲のアンカーボルト。4つ残っている。
横須賀陸軍重砲兵学校の演習用として、南門砲台(観音崎・関東大震災で大破除籍)の九糎速射加農砲4門が移設されたという。

1つ目。

東京湾要塞の砲台。
竣工順に32砲台が記載されている。走水低砲台は7番目。


第四砲座

見学用にきれいに整備されている。


左翼観測所

左側の観測所の基礎が残っている。
左翼があるなら右翼もと思いたいが、右翼は消失したのかな、、、。


第三砲座

樹木に覆われているが、第三砲座。


第二砲座

基本的には、同じ作り。

4つの台座と、2つの弾薬庫と、兵舎と、とても綺麗にのこっている、大変貴重な空間。ゆっくりと見学できたということもあり、ここは必見ですね。

撮影:2022年8月


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/hasirimizuteihoudai.html

https://routemuseum.jp/area/c/c01/

https://www.cocoyoko.net/spot/hasirimizuteihoudaiato.html

砲台関連

走水低砲台を演習用砲台として活用していたのが、横須賀重砲兵学校。

横須賀には、重砲聯隊も配備されていた。

観音崎が東京湾要塞の要であった。

走水関連

走水神社の近代史跡散策(横須賀)

横須賀の走水。日本武尊と弟橘媛命の伝説を残す古社。
今回は近代史の目線で参拝をしてみる。


弟橘媛命の記念碑

明治43年6月5日建立。
弟橘媛命の今際の御歌が刻まれている。
記念碑は、東郷平八郎、伊東祐亨、井上良馨、乃木希典、高崎正風、上村彦之丞、藤井茂太の7名が発起人となり建立。

さねさしさがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも
勲一等昌子内親王書

昌子内親王は、明治天皇の第六皇女。竹田宮恒久王の妃となる。

嗚呼此は 弟橘比賣命いまはの御歌なり命夫君 日本武尊の東征し給ふ伴われ
駿河にては危き野火の禍を免れ 此の走水の海を渡り給う時端無く暴風に遭ひ 御身を犠
牲として尊の御命を全からしめ奉りし其のいまはの御歌なり御歌に溢るゝ真情はすべて
夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず其の貞烈忠誠まことに女子の亀鑑たるのみならず
亦以て男子の模範たるべし平八郎等七人相議り同感者の賛成を得記念を不朽ならしめ
むと御歌の御書を 常宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り彫りてこの石を建つ
明治四十二年十月
発起人
海軍大将正三位大勲位功一級 伯爵 東郷平八郎
海軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 伊東祐亨
海軍大将従二位勲一等功二級 子爵 井上良馨
陸軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 乃木希典
樞密顧問官兼御歌所長従二位勲一等 男爵 高﨑正風
海軍中将従三位勲一等功一級 男爵 上村彦之丞
陸軍中将従四位勲二等功二級  藤井茂太
  御歌所主事従五位勲六等 阪正臣謹書
  旭海鶴永富萬治敬刻

そうそうたる発起人が名を連ねる。

東郷平八郎
 日露戦争時の連合艦隊司令長官
伊東祐亨
 日清戦争時の連合艦隊司令長官、日露戦争時の軍令部長
井上良馨
 日露戦争時の横須賀鎮守府司令長官 
乃木希典
 日露戦争時の第3軍司令官
高﨑正風
 御歌所初代所長、初代國學院院長
上村彦之丞
 日露戦争の第二艦隊司令長官
藤井茂太
 日露戦争の第1軍参謀長


機械水雷

日露戦争での鹵獲品が奉納。

この機雷(機械水雷)は、弟橘媛(弟橘比賣命)の記念碑の序幕にあたり、発起人の一人で建立のため中心的な役割を果した海軍中将上村彦之丞から走水神社に寄贈されたもの。
上村中将は、除幕式の折には、第一艦隊司令長官に転じていますが、少し前まで横須賀鎮守府司令長官を勤めていた。

奉献
露国機械水雷
横須賀鎮守府司令長官
男爵 上村彦之丞
明治43年6月5日
走水神社氏子会


走水神社

御祭神:日本武尊 弟橘媛命

創建年代は不詳であるが、伝承では日本武尊が東征の途上に当地から浦賀水道を渡る際、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが始まりという。
走水神社は兼務社であり神職は非常駐。本務社は西浦賀の叶神社となる。旧社格は郷社。

社号額には、海軍少将大勲位依仁親王とある。
東伏見宮依仁親王のことですね。
海軍少将時代に、横須賀予備艦隊司令官(明治44年)や横須賀鎮守府艦隊司令官(大正2年)などを努めていたので、そのご縁で揮毫されたものと推測。

走水から眺める浦賀水道。

横須賀に来ると、たまに足を運んでしまう神社です。

※撮影は2022年8月

なお、御朱印帳と御朱印は、戦跡に興味を抱く前に参拝していた、だいぶ昔のころにいただいていましたので、参考までに掲載しておきます。

平成26年(2014)でした。8年前、、、


関連

JR根府川駅に残る機銃掃射弾痕(小田原市)

昭和20年。小田原周辺は度々の空襲に見舞われていた。

小田原地方の空襲

界隈では、二宮駅が8月5日にアメリカ軍戦闘機P‐51の機銃掃射を受けていた。

この日、襲来したP-51戦闘機の編隊は、各地の鉄道駅や列車を襲撃し続けている。二宮駅や小田原駅・下曽我駅・国府津駅などに機銃掃射を加えながら、丹沢山地を抜け内陸部へと飛行を続け、八王子・浅川の上空に到達し、走っていた列車に機銃掃射を行った。

また、小田原でも、7月から8月にかけて、いくどとなく空襲を受けていた。東京への空襲の進入路や退出路のひとつであった、からのようだ。

今回、訪問した根府川駅に残る機銃掃射弾痕が、いつの空襲かは定かではないが、昭和20年7月末頃、とされている。


JR根府川駅に残る機銃掃射弾痕

昭和20年7月末から、小田原地方は連日、米軍艦載機の空襲を受けていた。低空で飛び交う艦載機(主にP‐51マスタングか)からの機銃掃射は、人々を恐怖のどん底へと引き落としていた。
JR根府川駅の上りホームには、その機銃掃射の弾痕が多く残っている。

以下、見つけたものを、仮で番号を振りつつ、掲載。
見逃しや機銃掃射弾痕ではないものもあるかもしれませんがご了承いただければ幸いです。

【1】
階段からホームに降りたすぐ近くの屋根の柱の上部に大きく抉られた機銃掃射の弾痕がある。抉られた柱をのちに後ろに当て板をして補強しているものと見られる

【2】

屋根の下の柱には、いくつも抉られたあとがある。

【3】

【4】

【5】

【6】

【7】

【8】

【9】

屋根を支える柱も。手前の柱は綺麗なために、のちの補強か。

【10】

着弾の衝撃で凹んだと思われるコンクリート壁。

【11】
階段の壁にも穴が。

内側。

【12】
階段を支えるコンクリートが削られている。

【13】

階段の壁が、えぐられている。

【14】

弾痕の穴を木片で埋めているようだ。

【15】

【16】

【17】
【18】

【19】

【20】

【21】

【22】

【23】

【24】

これは違うかもしれないけど、削れているので、、、

【25】

【26】

【27】
【28】
階段を支える鉄筋部分。

【29】

まだまだあるかもしれませんが、ざっくりでも29箇所を見ることができました。


根府川駅旅客上家1号

昭和8年8月11日の建物財産標を確認できました。

風光明媚。


関東大震災殉難碑(根府川駅列車転落事故)

大正12年(1923年)9月1日。
東京発真鶴行普通第109列車が、根府川駅のホームに入線しかけたところで、関東大震災によって引き起こされた地滑りによる土石流に遭遇。根府川駅の駅舎やホームなどの構造物もろとも海側に脱線転覆して最後部の客車2両を残して全てが海中に没してしまった。
この事故に遭遇した列車の乗員乗客と根府川駅にいた乗客及び駅勤務職員のうち、112人が死亡している。
関東地震が原因となって引き起こされた最悪の被害を出した列車事故であった。

昭和48年(1973年)に根府川駅の改札口横に、鉄道関係者によって慰霊碑が建立されている。

関東大震災殉難碑

昭和四拾八年九月壱日 根府川駅職員一同

合掌


根府川駅(根府川駅旅客上家3号)

根府川駅旅客上家3号(駅本屋)は、大正13年10月5日と建物財産標に記載があるのが確認できる。。大正12年9月1日の関東大震災で駅舎を消失し、その翌年に再建された駅舎となる。

関東の駅百選認定駅

小田原ふるさとの原風景百選


根府川の高射砲陣地跡

根府川公民館には高射砲陣地が設けられていた。
高射砲部隊の所属していた元兵士が、1988年に、この地に陣地があったことを詠んだ句碑を建立している。

訪いくれば
 要塞たりし
丘高く
 公民館の白き
 映えおり
  正夫

高射砲陣地跡からは、海を望める。

※撮影:2022年8月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-1-199
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。

拡大。根府川駅と高射砲陣地跡。


参考

小田原市のリーフレット「伝えておきたい小田原の戦争と平和」

https://www.city.odawara.kanagawa.jp/municipality/peace/peace/ki-20170149.html


関連(鉄道と機銃掃射)