「野毛山公園のラジオ塔」野毛山の近代史跡散策(横浜)

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きがつけば、なんとなく「ラジオ塔」の散策も4箇所目。
野毛山公園のラジオ塔を見に行ってみました。


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野毛山公園のラジオ塔

戦前の日本。まだまだ一般家庭にラジオが普及していなかった時代。
ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。「公衆用聴取施設」として各地にラジオ等が建設された。

野毛山公園のラジオ塔は、日本放送協会(NHK)が昭和7年、ラジオ受信契約数100万件突破を記念して設置したもの。

ラジオ塔
このラジオ塔はラジオの聴衆契約者が百万人を超えた記念に日本放送協会が昭和7年に全国の著名な公園や広場に建てる計画が進められ昭和7年度から昭和8年度中に41箇所が完成してその中に野毛山公園も選ばれ建塔されたものです。
 正式名 公衆用聴衆施設
 全高  3メートル
 建塔  昭和7年11月19日

近くには寄れないので、望遠で眺める。。。


野毛山公園

ラジオ塔だけでは、話題が薄いので、野毛山公園も散策する。
野毛山は動物園だけではないのだ。

野毛山公園
 野毛山公園は日本の公園発祥の地である横浜で横浜公園や掃部山公園に次ぐ長い歴史を持つ公園です。
 明治時代の野毛山は豪商たちの屋敷が立ち並ぶ住宅地でした。現在の散策地区には生糸貿易で財を築いた原善三郎の邸宅が、現在の野毛山動物園の区域には茂木惣兵衛の別荘がありました。
 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の際に野毛山も大きな被害を受けきした。震災後、被災地復興事業の一環で、都市防災の要地、また市民の憩いの場として、野毛山に公園を建設することになりました。横浜市が買収した民有地、復興局が買収した茂木別邸跡地と市水道浄水場、市長公舎を含む市所有地をあわせ公園用地を取得し、1925年(大正14年)に着工、翌1926年(大正15年)に一般公開されました。開園当時は回遊式日本庭園(現在の野毛山動物園)・西洋庭園(現在の配水池地区)・折衷庭園(現在の散策地区)の三つの様式を持っていました。
 その後、第二次大戦中は陸軍が使用し、戦後は1947年(昭和22年)まで米軍に接取され、公園として利用できない時期が続きました。
 米軍の接収解除後、1949年(昭和24年)に横浜で日本貿易博覧会が開催されました。第一会場に野毛山公園、第二会場に反町公園を利用して開催された博覧会は野毛山公園を現在の形に整備する契機となりました。日本庭園だった部分は動物園になり、洋式庭園部分には噴水池が設けられました。噴水池は博覧会終了後、競泳用プールに改築され、同年開催された第4回国民体育大会夏季水泳大会の会場となりました。
 さらに1951年(昭和26年)には洋式庭園だった部分に児童遊園が造られ、児鏨遊園と動物園をあわせて「野毛山遊園地」として開園しました。児童遊園には豆電車、メリーゴーランドなどの遊戯機械や横浜の街並みが見渡せる展望台が設けられ賑わいました。この頃、様々なイベントや集会、映画のロケなどが園内で開かれ、まさに横浜市の中央公園の役割を担っていました。
 1964年(昭和39年)明治時代に作られた野毛山配水池の老朽化により、水道配水池整備工事によって配水池を地下に新設することになリ、児童遊園を閉鎖して整備をすることとなりました。地下配水池整備後は地上部を公園とし、動物の広場、子供の広場が設けられ、現在の野毛山公園の形になりました。

結構な情報量だが、勉強になるので書き起こし。

野毛山歴史探訪
野毛山は明治、大正、昭和と市民の文化の中心地として、歴史にたくさんの足跡を残してきました。

 横浜は日本の文明開化のスタート地点です。江戸の末期に開港して以来、開港場(中区関内地区)を軸として街づくりが進められました。
 戸部・野毛山には神奈川奉行所が置かれ、当時の官庁街でした。1899年に外国人居留地が廃止されるまで、横浜は現在の県庁の場所にあった運上所を境にして西に外国人が、東に日本人が分かれて住んでいました。山手は外国人の住宅地になったのに対して、野毛山は成功した日本人の住宅地になり、横浜の行政の中心地になりました。
 山手の外国入墓地に対するように野毛山の久保山墓地があり、英仏領事館に対するように、神奈川奉行所がおかれ、山手フランス山庭園に対するように、野毛山がありました。

■野毛の切通しから江戸の人々は異人たちの生活に思いをはせました
 江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を調印しました。その後、開港場をどこに建設するかアメリカと交渉に入りました。アメリカ側は東海道神奈川宿付近を主張しました。しかし、幕府は大名行列や庶民が行きかう東海道から開港場を隔離し、庶民と外国人との接触をできるだけ避けたいという思惑がありました。大岡川の砂州であった横浜村が開港場に選ばれたのは、横浜村と東海道の間には野毛山があり、大岡川河口部に大きく張り出していたので、横浜村の開港場は東海道から見ることのできない立地となり、庶民と外国人の接触を制限することが可能だったのです。しかし、幕府の提示した横浜村開港場案に対して、「横浜は神奈川東海道から2里半(約10キロ)もあり、そのうえ、途中河川、丘坂があって、これに道を通ずるには橋を架け、丘坂を平らかにしなければならず」と横浜村開港場案に反対しましたが、幕府は開港三ヶ月前に着工し、条約の定めた1859年(安政6年)6月2日に横浜港を差し出しました。
 これに対し、アメリカの全権大使ハリスと各国領事は抗議しましたが、貿易を急いだ外国商人は自国領事の警告を無視し、横浜に住み着いてしまい、やむなく横浜を開港場として受け入れざるを得なくなってしまいました。
 
横浜道と野毛の切通し
 1858年(安政5年)当時は、東海道筋から横浜への交通は非常に不便であったため、幕府は東海道筋の芝生村(現浅間町交差点付近)から横浜(関内)にいたる「横浜道」と呼ばれる道路を開きました。(当時、東海道と連絡するには、保士ケ谷から井土ケ谷、蒔囲を通るか、神奈川からの舟運しかありませんでした。)
 この道は、芝生村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路を築くとともに、新田間、平沼、石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切通しを開き、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けたものでした。
 野毛の切通しへと至る道の途中には関門と番所がいくつも設けられ通行が厳重にチェックされました。
 野毛の切通しの上に神奈川奉行所を築いたのは、いざというとき開港場に架かる吉田橋を落とし、野毛山を砦とする意図があったとも言われています。

■ペリーから敬礼を受けたただ一人の日本人と言われました。
 佐久間象山は信州松代藩に1811年(文化8年)に生まれました。松代藩の藩主真田幸貫は若年期に様々な学問を修めた象山を洋学研究の担当者の役に任じました。その後、象山は兵学を学び、大砲やガラスの製造を手がけるなど西洋の技術、学問を積極的に取り入れました。
 1852年(嘉永5年)、江戸に赴いた象山は幕府に、戦略上の観点から開港場に選ばれた下田ではなく横浜の開港を提言しました。
 その後、1864年(元治元年)開国派であった象山は京都に赴きましたが、攘夷派の前田伊右衛門、河上彦斎らによって暗殺されてしまいました。
 象山の門弟には勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など開国派の中心人物が名前を連ねています。まさに日本の近代化を支えた立役者といえるでしよう。
 公園内に顕彰碑が立っています。

■日本最初のガス灯は花咲町から始まりました。
 1872年(明治5年)9月29日、花咲町から送られたガスによって、大江橋から馬車道、本町通にかけてガス燈が灯りました。これは日本初のガス灯の一般事業化であり、日本近代化の歴史的な瞬間となったのです。
 ガス灯は開国当初の1867年(慶応3年)にアメリカ人によリガス灯建設の提案が出されたのをはじめとして、横浜の外国人を中心に建設申請が出されるなど強い要望がありました。
 神奈川県知事井関盛良と大参事内海忠勝はガス灯の利権を外国人に独占されるのを嫌い、日本人とドイツ商社との共同経営を提案しました。
 しかし、明治の実業家、高島嘉右衛門は、横浜の有力者8名と「日本社中」という会社を作り、日本人によるガス事業を目差しました。
 日本社中はドイツ商社とガス事業の認可をめぐり、競争することとなり、結果、日本社中がガス燈設置の免許を獲得しました。
 日本社中はフランス人技師、アンリ・オーギュスト・ベルグランを上海から招き、花咲町の伊勢山下石炭蔵跡(現・本町小字校)にガス工場を建設し、点灯に成功したのです。

■ヘンリー・スペンサー・パーマー 横浜にきれいな水を届けてくれた恩人です。
 開港後の横浜は海や沼を埋め立て市街地の造成をしたため水質が悪く、衛生的な生活用水の給水が強く求められていました。
 1883年(明治15年)3月にイギリス工兵中佐のパーマーに水道建設を一任しました。1885年(明治18年)4月に水源を相模川支流道志川に定め、野毛山配水池に至る48キロメートルの水道建設に取り掛かりました。
 1887年(明治20年)9月に完成し、10月17日より市内への給水を開始しました。これが日本初の近代的水道の始まりとなったのです。
 今もパーマーが築いた道志川から西谷浄水場を通り野毛へと続く上水道は「水道道」となってその道筋を追うことができます。
 旧野毛山配水池に胸像が立っています。

■汀女はここ野毛山で俳句を詠みました。
 中村汀女は昭和の著名な女流俳人で、日常を題材にしながらも叙情性に富む句によって知られています。汀女は本名を破魔子といい、1900年(明治33年)熊本に生まれました。
 18歳のときに詠んだ句で認められ、1919年(大正8年)19歳の時に「ホトトギス」に投句し、俳句を始めました。
 1920年(大正9年)に結婚、夫の転勤によって日本各地を転々とし、子育てにも追われて、その間は創作活動を中断せざるをえませんでした。
 その後、創作活動を再開したのは1930年(昭和5年)に夫が横浜税関長横浜(西戸部町)に移り住んだ時からでした。高浜虚子に師事し、1934年(昭和94年)「ホトトギス」の同人となって頭角を現します。戦後「風花」を創刊主宰、後の女流排人に多大な影響を与えました。
 汀女は生涯を通じて郷里の実家近くの江津湖を愛したといい、1979年(昭和54年)には熊本市の名誉市民となりました。また、郷里に残した母を想って詠んだ句も多数あります。1988年(昭和63年)9月、その生涯を閉じました。
 散策路をあがってゆくと句碑があります。

参考文献
「区政五十周年記念 横浜西区史」横浜西区史刊行委員会
「ヨコハマ西区ふるさと白書 誰かと西区の話をしてみたい」横浜市西区役所
「横浜市史」横浜市
「横濱復興史 第3編」横浜市
「水と港の恩人H,S.パーマ―」横浜開港資料館


佐久間象山顕彰碑

昭和29年10月1日、開国100年を記念して「横浜開港の先覚者」である佐久間象山を顕彰して建立された碑。


旧野毛山配水池

近代水道発祥の地。
野毛山公園内にある旧野毛山配水池は、関東大震災後の復興と、横浜市の人口増加に伴って昭和2年に完成、昭和5年に運用を開始した配水池。
昭和42年に4万tの新野毛山配水池が完成したことを受け、平成7年に廃止された。

水道みち
「トロッコ」の歴史

 この水道みちは、津久井郡三井村(現:相模原市緑区三井)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)まで約44kmを、1887年(明治20年)わが国最初の近代水道として創設されました。運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用し水道管を敷設しました。横浜市民への給水の一歩と近代を共に歩んだ道です

近代水道発祥の地(野毛山貯水場跡)

 明治20年(1887年)10月、日本最初の近代水道は横浜に誕生した。
 当時の横浜は、埋立地が多く良い水が得られないため、長い間飲み水や伝染病に苦しみ、また大火事にも悩まされていた。
 いつでもどこでも安全で良い水が欲しいという人々の夢は、この近代水道の完成によって実現された。
 横浜の水道は、英国人H.S.パーマーの設計・監督によるものであるが、沖守国県知事をはじめ三橋僕方(後に市長となる)、三田善太郎など多くの日本人の努力も忘れることはできない。
 パーマーは、横浜のほかにも大阪・神戸・函館・東京などの水道計画に貢献した。
 さらに、横浜築港工事や横浜ドックの設計など港湾整備の面でも業績を残したほか、天文台の建設やロンドンタイムズへの寄稿など広い分野で活躍し、明治26年(1883年) 54才で没し東京青山墓地に眠る。
 横浜水道創設100周年を迎えるにあたり、パーマー像をこの地に建て、先人の業績を讃え、明日への発展を願いたいと思う。
  昭和62年4月  横浜市長 細郷道一

ヘンリー・スペンサー・パーマーの碑

日本初の近代水道となる横浜水道を完成させ、横浜港第1期築港工事を提案したパーマーの胸像。
ヘンリー・スペンサー・パーマー工兵少将は、横浜の水道の父とも言える人物。

昭和2年に完成した流入弁室。野毛山配水池。

野毛山公園展望台

場所

撮影:2023年7月


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