以前に、横浜の浅見総一郎関連の史跡を巡った際に「氷見」が浅見総一郎の出身地と知り、訪れる機会があれば、、、としていたところ、思ったよりも早くにその機会が訪れまして。
氷見の浅見総一郎翁を訪問してきました。
横浜の浅見総一郎に関しては、下記を。
「京浜工業地帯の父」浅野財閥・浅野総一郎像と墓
目次
浅野総一郎(淺野總一郎)
1848年4月13日(嘉永元年3月10日) – 1930年(昭和5年)11月9日)
越中氷見の生まれ。明治4年(1871年)、23歳の時に上京。夏はお茶の水の冷たい名水に砂糖を入れた水売り、冬は本郷赤門でおでん屋をして資金を蓄え、横浜で贈呈用の竹の皮を販売し、薪炭商に転向。
明治6年、薪炭商のつながりから横浜ガス局より、石炭からガスを製造したあとに廃棄されていたコークスを安価で買取。セメント製造の燃料として、コークスを官営深川セメント製造所に納めることで利益を得た。
明治17年には、官営深川セメント製造所が浅野総一郎に払い下げされ、これが浅野セメントの基礎となる。払い下げ時には渋沢栄一のサポートもあった。
明治29年(1896)に欧米視察に赴いた浅野総一郎は、帰国後に東京から横浜にかけて日本初の臨海工業地帯の建設を計画。
浅野総一郎の計画に理解を示した安田善次郎(安田財閥)も支援。浅野と安田は富山出身の同郷でもあった。
浅野総一郎と安田善次郎は「浅野はエンジン、安田は石炭(燃料)」と呼ばれるほどの名コンビであった。
大正2年(1913)から昭和3年(1928)にかけて約15年をかけて、横浜鶴見から川崎にかけての埋立が完成。いわゆる「浅野埋立」は京浜工業地帯の元となった。現在のJR鶴見線沿線が浅野総一郎が埋め立てした「浅野埋立」の地。
昭和5年、欧米視察中の6月26日にベルリンで発病。8月2日に帰国して大磯別邸で療養していたが11月9日に死去。
墓は横浜市鶴見区の大本山総持寺。
法名は積功院殿偉業総成大居士。
浅野総一郎の銅像は以下に建立されている。
- 浅野学園(浅野総一郎が創設した学校)
- アサノコンクリート深川工場(旧官営深川セメント製造所)
- 東亜建設工業技術研究開発センター(浅野埋立)
- 氷見市(浅野総一郎出生地)
- 渋川市(浅野総一郎が設立した佐久発電所)
- 砺波市(浅野総一郎が設立した庄内小牧ダム)
日本におけるセメント産業を軌道に乗せた浅野総一郎は「セメント王」と呼ばれ、京浜工業地帯のもとになった浅野埋立によって「京浜工業地帯の父」「日本の臨海工業地帯開発の父」とも呼ばれている。
また、台湾高雄港築港にも尽力し高雄市の発展にも寄与している。
九転十起の像(浅野総一郎翁像)
九転十起の像(浅野総一郎翁像)
この像は、事業を起こしては失敗・挫折を繰り返しながらも人生の夢と希望に向かって邁進し、一代で財閥を築きあげセメント王や京浜工業地帯の父と呼ばれている浅見総一郎翁の像です。
人は、生を受け七転八起の人生を送りますが、事業にはその時節によって良し悪しが必ずめぐってきます。
そうした中において、いかなる時も努力と勤勉を惜しまずに頑張れば、必ず道が開けることを我々に身をもって教えてくれた浅野翁です。
翁は、幾多の失敗と挫折を繰り返し若い頃には何かと面倒を見てもらっていた村の肝いり役山崎善次郎氏から七転八起で足りなければ。九回転んで十回起きれば良いと教えられ。懸命な努力をし成功を掴みました。このことから、本像を「九転十起の像」と命名しました。
長い人生の歩みの中で、行き詰まったり失敗しても、必ず立ち上がる勇気を持って努力すれば必ず道が開けるという九転十起の像を心静かに拝見していただき、すべての人々の人生が豊かになるよう願うものです。
浅野総一郎 座右の銘
「度胸・努力・勤勉」
(略)
平成二十年七月二十日 建立



浅野總一郎翁関係事業
(昭和33年12月調)
セメント事業
浅野セメント株式会社 明治16年4月創立
(日本セメント株式会社に改名)
東亜セメント株式会社 明治40年1月創立
(浅野セメント株式会社に併合)
浅野スレート株式会社 大正4年2月創立
第一セメント株式会社
(旧浅野セメント株式会社川崎工場)
会津鑛業株式会社 大正9年6月設立
日本石膏株式会社 明治45年3月設立
(会津鑛業株式会社に併合)
日本カーリット株式会社 大正9年7月創立
旭コンクリート工業株式会社 大正12年11月創立
大阪石綿工業株式会社 大正14年8月創立
(浅野スレート株式会社に併合)
日本ヒューム管株式会社 大正14年10月創立
製鉄造船事業
浅野合資会社製鉄所 大正6年9月創立
(現在 日本鋼管株式会社鶴見製鉄所)
日本銑鉄株式会社 大正6年9月創立
(旧小倉製鋼株式会社に併合)
株式会社大島製鋼所 大正6年11月創立
(日曹製鋼株式会社に併合)
中央製鉄株式会社 大正6年11月創立(解散)
小倉製鋼株式会社 大正7年12月創立
(住友金属工業株式会社に整合)
日本鋳造株式会社 大正9年9月創立
東京シャリング株式会社 大正15年9月創立
(現在 東都製鋼株式会社及び東京シャリング株式会社)
株式会社浅野造船所 大正5年4月創立
(現在 日本鋼管株式会社鶴見造船所)
株式会社浅野造船所船渠部 大正12年4月創立
(現在 日本鋼管株式会社浅野船渠)
海運陸運部門
東洋汽船株式会社 明治29年6月創立
日之出汽船株式会社 大正元年11月創立
国際汽船株式会社 大正8年7月創立
(大阪商船株式会社に併合)
関東運輸株式会社 大正9年7月創立
青梅電気鉄道株式会社 明治26年12月創立
(国有鉄道に譲渡)
小倉鉄道株式会社 明治40年6月創立
(国有鉄道に譲渡)
南部鉄道株式会社 大正10年3月創立
(国有鉄道に譲渡)
鶴見臨港鉄道株式会社 大正13年7月創立
(国有鉄道に譲渡)
留萠鉄道株式会社 昭和3年6月創立
(国有鉄道に譲渡)
三岐鉄道株式会社 昭和3年9月創立
埋築地所事業
鶴見埋築株式会社 大正3年3月創立
(東京湾埋立株式会社に併合更に東亜港湾工業株式会社に改名)
京浜運河株式会社 大正6年9月創立
(旧東京湾埋立株式会社に併合)
台湾地所建物株式会社 明治43年6月創立(解散)
石油事業
宝田石油株式会社 明治35年6月創立
(旧日本石油株式会社に併合)
南北石油株式会社 明治38年創立
(旧宝田石油株式会社に併合)
東亜石油株式会社 明治39年8月創立
(旧南北石油株式会社に併合)
鑛山事業
磐城炭鑛株式会社 明治16年創立
(現在 常磐炭鑛株式会社)
茨城探炭株式会社 明治34年9月創立
(旧磐城炭鑛株式会社に併合)
石狩石炭株式会社 明治39年4月創立
(北海道炭礦汽舩株式会社に譲渡)
大日本鑛業株式会社 大正4年11月創立
日支炭礦汽舩株式会社 大正6年10月創立(解散)
朝鮮鉄山株式会社 大正6年10月創立(解散)
浅野雨龍炭礦株式会社 昭和4年9月創立
(古河鉱業株式会社に譲渡)
貿易事業
浅野物産株式会社 大正7年4月創立
電気事業
沖電気株式会社 大正元年8月創立
庄川水力電気株式会社 大正8年9月創立
(関西電力株式会社に譲渡)
関東水力電気株式会社 大正8年10月創立
(東京電力株式会社に譲渡)
文化事業
浅野綜合中学校 大正9年1月創立
(浅野学園に改名)
銀行業
株式会社日本昼夜銀行 大正5年5月創立
(旧安田銀行に併合)
其他の事業
東京瓦斯株式会社 明治18年10月創立
大日本人造肥料株式会社 明治20年2月創立
(日産化学鉱業株式会社に改名)
東京製鋼株式会社 明治20年3月設立
札幌麦酒株式会社 明治21年創立
(日本麦酒株式会社に改名)
株式会社帝国ホテル 明治23年6月創立
浅野石材工業株式会社 明治38年9月創立(解散)
神奈川コークス株式会社 大正8年4月創立
(東京瓦斯株式会社に併合)
鶴見木工株式会社 大正9年8月創立(解散)
伏木板紙株式会社 大正12年9月創立
(中越パルプ株式会社に併合)
この事業一覧は横浜市の学校法人浅野学園敷地内にある浅野総一郎翁銅像に表示していあるものを写したものです。
製作 藪下紙工印刷(株)浅野総一郎が関連した事業(会社)の列記。



年譜。
浅野総一郎の九転十起を物語る波乱万丈の一生が年譜レベルでも垣間見れて、なかなかに面白い。
浅野総一郎年譜
嘉永元年三月十日
富山県氷見郡薮田村に医師・浅野泰順の長男として生まれる。幼名泰治郎。後に総一郎と改名。
嘉永六年(6歳)
富山県氷見郡氷見町の医師・宮崎南禎の養子となる。
文久元年(14歳)
考えるところあって養家より離縁し浅野に復帰する。
文久二年(15歳)
母親を説得し資本を出させ編機を始める。
文久三年(16歳)
醤油醸造を営む。
元治元年(17歳)
稲扱仕入れのため氷見針を行商しながら陸路を単身京都へ赴く。
慶応二年(19歳)
二月、近村の大野村豪農・鎌仲惣右衛門長女の婿養子となり、泰治郎を総一郎と改名。
慶応三年(20歳)
産物会社を創設し常務担当となる。柏崎と新潟に事務所を設け、裏日本一帯に産物を商い、その名をようやく顕れる。
明治元年(21歳)
積極行動に因を発し、産物会社破綻。鎌仲家より離縁となる。
明治三年(23歳)
実家の薮田村近郷各村へ農業の副業として蓆機を宣伝。氷見町に浅野商店の看板を掲げ産物会社の再挙を計る。
明治四年(24歳)
能州の有名な金貸お熊より無担保にて金三百両を借入。
五月五日、夜事業に失敗して故郷を脱走。同月十九日初めて東京に入る。
夏、万世橋際およびお茶の水の路傍にて冷水を売る。
秋、横浜の醤油および味噌商・小倉屋に奉公。
冬、独立して横浜で竹の皮商を始める。
明治五年(25歳)
栃木県人鈴木長右衛門の次女サクと結婚。
明治六年(26歳)
横浜住吉町に大塚屋・大熊良三の仮名に隠れて薪炭商を営み、石炭販売を兼業する。
明治七年(27歳)
石炭商専業となる。七月強盗に襲われる。
明治八年(28歳)
二月、近火に類焼し無一文になる。横浜寿町に再挙を図る。
明治九年(29歳)
横浜瓦斯局よりコークスの払い下げを受け奇利を博する。
明治十年(30歳)
西南戦争のため全国の汽船は御用船に徴用され、九州・横浜間の輸送が途絶したために石炭の価格は暴騰し一挙に巨利を収める。
明治十二年(32歳)
横浜の市中六十三ヵ所に公衆便所を建設する。
明治十六年(36歳)
四月、渋沢栄一らの助力を得て深川のセメント工場の払い下げを受ける。品川弥太郎、榎本武揚らの後援を得て、益田孝、渋沢喜作と協力し共同運輸株式会社を創立する。磐城炭礦社を創立する。
明治十八年(38歳)
十月、共同運輸を岩崎汽船部に合併し、日本郵船会社となる。
明治二十年(40歳)
二月、大日本人造肥料会社の創立に参与する。
三月、大倉喜八郎、渋沢栄一と図り東京製綱会社を創立する。
明治二十一年(41歳)
渋沢栄一と共に平・上野間の鉄道布設を企てる。
札幌麦酒会社の創立に参与する。
明治二十三年(43歳)
六月、帝国ホテルの創立に参与する。
明治二十六年(46歳)
十二月、磐城炭礦社を株式組織とし磐城炭礦株式会社と改称する。
明治二十九年(49歳)
七月、東洋汽船会社を創立し、新船注文のため渡米。
明治三十七年(57歳)
日露戦争開戦のため東洋汽船の所有船三隻、御用船に徴発される。
鶴見海岸埋立計画の認可申請を神奈川県庁に提出する。
明治四十年(60歳)
安田善次郎と協り、東京湾築港を計画し、東京府へ認可を申請する。
明治四十一年(61歳)
鶴見海岸百五十万坪の埋立計画を企てる。
大正元年(65歳)
八月、沖電気会社の設立成る、
大正二年(66歳)
鶴見埋立組合成り、二月、工事に着手する。同月、セメント工場を株式組織に改め、浅野セメント会社と改称する。
大正五年(69歳)
四月、浅野造船所を創設する。
五月、日本昼夜銀行を創立する。
大正七年(71歳)
四月、浅野物産を創立する。
五月、日本昼夜銀行を浅野昼夜銀行と改称する。
同月、日本鋳造会社を創立する。
大正八年(72歳)
十月、水電界の有力者と協り、各水電会社の送電統一を計ろうとの大抱負をもって、東京電力会社設立の計画を企てる。
大正九年(73歳)
一月、宿願の浅野綜合中学校を創立する。
大正十一年(75歳)
八月、浅野昼夜銀行を安田家に譲渡する。浅野セメント会社の拡張工事を行う。
大正十二年(76歳)
関東大震災救護金百万円を公共に寄付する。
大正十三年(77歳)
五月、約二十五万人の寄付金により浅野綜合中学校校庭の一角に、身長一丈六尺(四.八メートル)台座二十尺(六メートル)の寿像成り、除幕式を挙行する。
十一月、郷里の薮田小学校入口に寿像成り、除幕式を挙行する。
昭和五年(83歳)
高齢をものともせず、約三ヶ月の欧米視察の旅を終えて八月帰朝。横浜埠頭の歓迎の群衆ににこやかに帽子を振った翁の、この秋の長逝を誰が予想しえたか。
十一月九日長逝
この年譜は、浅野総一郎翁の喜寿を祝して嗣子・浅野泰治郎および良三の両氏が著した「浅野総一郎」(初版発行大正十二年六月八日)並びに「日本セメント七十年史」に基づいて作成したものであります。
製作 (有)総合宣伝シミズ







富山湾(有磯海・ありそうみ)を望む




有効提携の記念樹。川崎市木の「つばき」


浅野総一郎翁誕生地
浅野総一郎翁誕生地
武安千春謹書

セメント王浅野総一郎翁小伝
明治大正昭和にわたりわが国実業界の巨人であった浅野総一郎翁は嘉永元年三月十日富山県氷見郡薮田村医師浅野泰順の長男としてこの地に生まれた
年少にして上京し薪炭コークス等の商業に従事して功を納めた
燃料の納入で関係のあった東京深川清澄町所在の官営セメント工場が経営に行き詰まるや明治十六年これを借り受け次いで払下げを受けて経営に当たった
これが現在の日本セメント株式会社の前身浅野セメント株式会社である
以来翁はセメント事業を主柱として開運炭鉱埋立て水力電気製鉄造船貿易等の事業を興しわが国産業界に多大の貢献をなし昭和五年十一月九日八十三歳をもって長逝した
一生を通し「努力と度胸かせぐに追いつく貧乏なし」の信条を掲げて国家社会のために活躍し事業の権化と仰がれた
生誕百二十五年に当たりこの地に誕生碑を建て翁の鴻業を顕彰する
昭和四十八年三月十日
日本セメント株式会社
取締役社長 武安千春「日本セメント」の前身が「浅野セメント」。
「秩父小野田」(秩父セメント・小野田セメント)と「日本セメント」が合併して、現在の「太平洋セメント」となる。「太平洋セメント」は、日本最大のセメント会社にして、朝のセメントを源流とすることから、会社設立の年月では最も古い企業とされている。


横浜の浅野中学校・浅野高等学校の寄贈
浅野総一郎が立ち上げた学校。




薮田港




場所
交通手段
高岡駅から加越能バス(新守谷経由灘浦海岸・脇)で「薮田」バス停下車。バスはだいたい1時間に1本。高岡からの所要時間はざっくり1時間。



薮田バス停留所

太平洋セメントが建てた看板がある。

公園

帰りのバス。

「氷見駅口」で下車。逆を言えば、「氷見駅」からバスでも行ける。氷見駅前にはバスは乗り入れしていないので、「氷見駅口」から「氷見駅」には、5分くらい歩く。
氷見線との接続の良し悪しは未確認。

氷見駅に。

氷見は藤子不二雄Aのまち。





氷見駅から氷見線に乗って隣駅の島尾駅に移動でした。
下記に赴くため、に。



