和気清麻呂公銅像(紀元二千六百年記念)

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令和元年11月撮影

竹橋駅のすぐ近く、大手濠緑地内に鎮座。
現在地は令和2年4月まで竹橋駅エレベーター設置工事で 近寄れなかったため、遠巻きに見学。

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和気清麻呂公銅像

昭和15年(1940年)に、紀元2600年記念事業として建立。
佐藤清蔵(佐藤玄々)作。

紀元二六〇〇年記念
 建設委員長
 陸軍大将 従二位勲一等功四級 林銑十郎
 寄贈者 石川博資

和気清麻呂公とは・・・
 奈良朝末期の廷臣、地方の豪族出身で藤原仲麻呂の乱で天平神護1年(765)右兵衛尉となり、姉広虫とともに信任を得ました。
 神護景雲3年(769)道鏡が皇位をうかがった時、宇佐八幡の神託をきき道鏡の野望を挫きました。
 清麻呂は別部穢 麻呂 と改名され大隅(鹿児島)に配流、天皇の死後、道鏡失脚により復帰しました。
 光仁・桓武天皇深く信頼され、平安遷都を推進、造都に活躍しています。
 この像は、昭和15年、紀元2600年記念事業として建立、楠公銅像とともに文武の二忠臣を象徴したものです。

ここに立たせるは護王大明神の神号を給はりし
贈正一位和気清麻呂公の像にして宇佐の大神の
貴く畏き御教言を承り復奏の為に参内せるさまを
うつせるなり公の誠忠は國史の上に顕著なるが殊に
孝明天皇の宣命に身の危うきを顧ず雄々しく
烈しき誠の心を盡せるはと稱へさせたまひまた
明治天皇の策命に日月と共に照り徹れる偉き
勲をめでさせたまへりこれの像は明治の大御代に允許を
忝うせしを今茲紀元二千六百年の記念として
宮城の御濠に沿へる地に建設せるなり公の英霊は
千載生けるが如く儼然として宮闕の下を離れず我が
國體を擁護しまつり天地と倶にとこしへに存せむ
 昭和十五年二月  大日本護王会

※令和5年、写真追加

公園整備完了していたので、再撮影しました


震災いちょう

震災いちょう
 この木は、震災いちょうと呼ばれています。樹齢一五〇年を超えると思われるこのいちょうは、かって文部省の跡地である一ツ橋一丁目一番一帯(現在のパレスサイドビル・住友商事竹橋ビル一橋総合ビル一帯)にありました。
 大正十二年(1923)九月の関東大震災によって一面焼け野原となった都心にあって奇跡的に生き残り、このイチョウは当時の人々に復興への希望を与えました。
 その後、復興事業に伴う区画整理によって切り倒されることになった際、当時の中央気象台長岡田武松氏がこれを惜しみなんとか後世に残したいと思い帝都復興局長官清野長太郎氏に申し入れたところ、長官もその意義を理解しこの地に移植されたという由緒をもっています。

岡田武松(1874~1956)
 千葉県に生まれ、東京大学物理学科卒業後、中央気象台に入り予報課長をへて明治三十七(1904)年、海洋気象台の創設とともに台長となりついで中央気象台長となる。海難防止のため無線送受信設備の完成、海洋気象設備を充実させたことや、測候技術官養成所の設立など研究・行政両面で活躍した。大正十三年(1924)にイギリスの王立気象学会からサイモン金杯をおくられ、昭和二五年(1950)には文化勲章を受ける。

清野長太郎(1869~1924)
 香川県に生まれ、東京大学法学科卒業後、旧内務省警備局に入り、富山県理事官・神奈川県理事官をへて内務省事務官となる。明治三六年(1903)に人口学万国会議の委員として、ベルギーへ派遣される。明治三九年(1906)に秋田県知事、同年南満州鉄道株式会社の理事に抜擢され大正二年(1913)までこの職にあった。 大正五年以降、兵庫県知事・神奈川県知事を歴任して帝都復興局長官となる。

※令和5年、写真追加

工事がおわったらまた足を運びましょう。

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