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晩年を横須賀で過ごした坂本龍馬の妻・お龍(おりょうさんの胸像とお墓)

坂本龍馬の妻「おりょう」は、晩年を横須賀で過ごしていた。横須賀に胸像とお墓があるので足を運んでみた。

坂本龍馬の海援隊は日本海軍のルーツの一つ。そんな縁もあってか、晩年のおりょうさんには、海軍の支援があった。


楢崎龍(お龍・坂本龍子・西村ツル)

天保12年6月6日(1841年7月23日) – 明治39年(1906年)1月15日)
坂本龍馬の妻。
慶応2年(1866)1月22日に薩長同盟が成立した翌日、寺田屋騒動(寺田屋遭難)が勃発。多数の捕吏に気づいたお龍は入浴中ではあったが、機転を気転をきかして坂本龍馬の危急を救っている。
寺田屋騒動で負傷した坂本龍馬は、お龍を伴い療養のために薩摩に趣く。この薩摩旅行が日本初の「ハネムーン(新婚旅行)」とされている。
慶応3年(1867)11月15日、坂本龍馬は近江屋事件にて暗殺。お龍は長州下関で訃報に接した。

坂本龍馬亡き後のお龍は、龍馬の実家、妹の実家、京都、東京などを転々とし、西郷隆盛や勝海舟の世話になっていたという。
明治8年(1875年)に呉服商の若旦那で寺田屋時代の知り合いであっった西村松兵衛と再婚し、西村ツルとして横須賀に居住した。
明治39年(1906年)1月15日、お龍は66歳で死去した。
危篤に際しては、皇后大夫皇后大夫香川敬三(元陸援隊士)から御見舞の電報が送られ、井上良馨大将(長く横須賀鎮守府司令長官を勤めていた)が救護の募金を集めている。
死後、横須賀市大津の信楽寺に葬られた。長く墓碑を建てることができなかったが、田中光顕(元陸援隊士・のちの宮内大臣)や香川敬三(皇后宮大夫・日露戦争の際には、皇后の夢に坂本龍馬が出たという喧伝を行い、国民を鼓舞)の援助を受け、死から8年後の大正3年(1914年)8月、妹の中沢光枝が施主、夫の西村松兵衛らが賛助人となり墓を建立。墓碑には夫の松兵衛の名ではなく、「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と刻まれている。


おりょうさんの胸像

坂本龍馬の妻
 おりょう

「おりょうさん」
天保12年(1841年)京都に生まれる。
幕末の動乱の最中、坂本龍馬と出会う。
幕史の寺田屋襲撃のおり、入浴中にもかかわらず、龍馬に急を告げ、その脱出を助けたことは良く知られている。
その後彼の妻となるが、愛と光芒に満ちた日々は短かった。
龍馬の死後幾多の曲折を経て横須賀に至り当地にて後半生を送った。
明治39年(1906年)没す。享年66歳

おりょう会館という葬祭場(斉場)が、おりょうさん終焉の地であり、そして胸像がある。
おりょうさんは、この横須賀の地で晩年を過ごした。

場所

https://goo.gl/maps/yFsCBRGJvQnk6sXq6


坂本龍子の墓

京急大津駅最寄りの「信楽寺」に坂本龍子の墓がある。

信楽寺(浄土宗)
<前略>
 墓地には幕末の志士・坂本龍馬の妻があります。龍子は龍馬の死後、再婚し西村ツルの名で横須賀・米が浜に住んでいました。毎年秋には墓前祭にあわせて龍子を偲び「おりょうさんまつり」が催されます。

市制施行70周年期記念  
横須賀風物百選 
坂本龍子の墓
江戸末期の風雲児、坂本龍馬の妻龍子は、「寺田屋騒動」の折、坂本の危急を救った女性として広く知られています。
龍子は、京都の町医師楢崎将作の長女として生まれました。生年月日については、天保十一年説もありますが、本市に残る除籍簿によれば、嘉永3年(1850)六月六日となっています。名は「りょう」とか「とも」と呼ばれ、伏見の寺田屋にいた頃は「お春」と呼ばれていたようですが確かなことは不明です。
坂本龍馬は、慶応3年(1867)11月15日、京都のしょうゆ商近江屋で京都守護職の輩下見廻組与力の乱入を受け、斬りつけられて、33歳の若さで絶命しました。
未亡人となった龍子は、夫龍馬の実家土佐の坂本家に移り住みましたが、長続きはしませんでした。その後、京都、大阪、東京と明治初年まで流浪の生活が続きました。その原因や生活状況については、いろいろの説があり、現在のところでは定説がありません。ただ、はっきりしていることは、明治8年(1875)7月2日、三浦郡豊島村深田222番地(現在の米が浜通り)の西村松兵衛方に「西村ツル」として入籍し、明治39年(1906)1月15日の午後11時に死亡した事実だけです。いろいろな資料によりますと、龍馬の死後、龍子の生活は波乱の連続であったようです。龍子の葬儀は、知人や隣人の助力で、明治39年(1907)10月20日にささやかに営まれました。また、遺骨は当時の信楽寺住職新原了雄師の御好意により、この地に葬られたとのことです。

贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓

夫である西村松兵衛は、西村ツルとしてではなく「坂本龍子」として墓石を建立している。

また、墓石は海軍工廠が寄贈したドッグ建設用の物が使用されており、建立にあたっては海軍の協力も大きかった。

永代寄付
(略) 
 中沢光枝建之 

大正3年(1914年)8月、妹の中沢光枝が建立したことがわかる。

信楽寺

※撮影:2022年5月

場所

https://goo.gl/maps/283DUHZzW7eys3xS7

https://ootsu.yokosuka-kanko.com/tourist/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC%E3%81%AE%E5%A6%BB%E3%80%80%E9%BE%8D%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%A2%93-2/

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2750/walk_ootsu/b10139.html


関連

坂本龍馬も学んだ神戸海軍操練所

坂本龍馬の海軍の師匠にあたる勝海舟

馬門山海軍墓地(横須賀海軍墓地)

以前、墓前祭の様子はレポートしておりましたが、慰霊碑等の詳細に言及しておりませんでしたので、改めて再訪の上で記載をしていきます。

慰霊顕彰し、深く拝す。
ありがとうございます。


馬門山横須賀海軍墓地墓前祭


馬門山横須賀海軍墓地・入口

入り口に、かつての門柱がある。

馬門山墓地

馬門山墓地
横須賀海軍墓地

旧石積みに使用されていた佐島石

馬門山墓地(旧海軍墓地)
 明治15年(1882)海軍省が戦死や殉職した海軍軍人の埋葬地として開設しました。
 軍艦「河内」「筑波」等の殉職者の碑や上海事変・太平洋戦歿者の忠霊塔などがあり、英霊1592柱(内、独立埋葬者179柱)が祀られています。終戦までは鎮守府により神式と仏式の交互で式典が行われていました。
 現在は毎年5月に墓前祭が行われています。
 昭和26年大蔵省より横須賀市に譲渡され現在は市民墓地もあります。
 馬門山の名の由来は字名か屋号「馬門・まかど」を読み替えたものといわれています。
 園内はソメイヨシノが多く桜の名所となっています。

昭和52年市制施行70周年記念
横須賀市風物百選
「馬門山墓地」
 右手御門内約2万5千平方メートルの丘陵地が市営馬門山墓地です。
 この墓地は、東海鎮守府長官の埋葬地設定要請に基づいて、海軍省が明治15年1月に馬門山海軍墓地と定めたものです。
 以後、昭和20年8月の第2次世界大戦終結までの間、横須賀鎮守府が管理してきました。
 横須賀鎮守府は、横浜にあった東海鎮守府が、明治17年12月に市内の楠ヶ浦(現米海軍基地内)に移されて改称したもので、旧日本海軍の中枢的存在でした。
 昭和3年に定められた「横須賀鎮守府海軍葬儀場規則」によれば、毎総面積は階級によって6段階に分けられており、士官は8尺四方、平は4尺四方となっていました。
 墓地は、地形に従って三段に分けられています。下段、中断は兵たちの墓地で、高さ1mほどの墓石が整然と並んでいます。芝生が敷きつめられた上段には、7基の供養塔と士官たちの墓石が建っています。
 終戦後、市営墓地となると、新たに約4356平方メートルを造成し、墓地をもたない一般市民に提供されました。
 現在、この墓地に眠る御霊は次の通りです。
 海軍関係
  単独埋葬者            279柱
  供養塔
   軍艦河内殉難者の碑       621柱
   軍艦筑波殉難者の碑       152柱
   特務艦関東殉難者の碑      68柱
   北京籠城軍艦愛宕戦死者の碑   5柱
   上海事変死者の碑        59柱
   第4艦隊遭難殉職者の碑      36柱
   支那事変大東亜戦争戦歿者の碑  372柱
  一般市民             305基

横須賀市営馬門山墓地


馬門山横須賀海軍墓地・上段

上段には7つの慰霊碑、士官、下士官の墓があつまる。

以下、入り口向かって右から順番に参拝していく。(反時計回り)


上海事変戦死者之碑

59柱を祀る。昭和8年1月建立。

上海事變戦死者之碑
  海軍中将野村吉三郎 書

昭和7年(1932年)、第一次上海事変が勃発。日本海軍は1月31日に第三艦隊(司令官は野村吉三郎海軍中将)を派遣。ついで犬養内閣は金沢第9師団を派遣。さらに2月23日に善通寺第11師団と宇都宮第14師団を以て上海派遣軍を編成。司令官は白川義則陸軍大将。3月3日に戦闘中止。
上海事件終結の4月29日に上海で開催された、天長節祝賀会の最中に上海天長節爆弾事件が起こる。韓国の独立運動家である尹奉吉が爆弾を投げつけたもの。この事件で野村吉三郎海軍中将は右眼を失明、特命全権公使の重光葵は右脚を失い、同席していた白川義則陸軍大将は瀕死の重傷を負って翌月に死去した。

上海事変で海軍の責任者であった野村吉三郎の名でもって上海事変の戦闘で戦死した59柱の英霊を慰霊するために昭和8年1月に馬門山墓地に建立。上海事変に関しては、各鎮守府から出兵したということもあり、横須賀馬門山のほか、呉海軍墓地と佐世保海軍墓地にも慰霊碑が建立されている。


支那事変大東亜戦争戦没者忠霊塔

372柱を祀る。昭和21年8月、28年9月23日建立

題字は、最後の横須賀鎮守府長官となった戸塚道太郎中将。
由来記は、同じく最後の横須賀鎮守府参謀長となった古村啓蔵海軍少将。
横須賀鎮守府下の英霊372柱を祀る。

忠霊塔 
支那事變大東亞戰爭戰歿者

昭和十二年支那事變勃發シ次ニ大東亞戰爭トナリ皇國未曽有ノ危局ニ到達スルヤ一家ヲ忘レ祖國ノ爲勇躍從軍シ砲煙彈雨ノ中酷熱瘴癘ニ抗シ或ハ寒風怒涛ト戰ヒ又ハ内地ニ於テ激務ニ從事中壮烈ナル戰死ヲ遂ゲ或ハ其ノ職ニ殉シ若クハ病魔ノ爲不歸ノ客トナレル舊横須賀鎮守府管下諸英霊ノ忠誠ヲ記念シ永遠ニ其ノ遺烈ヲ語リ傳ヘン爲此處ニ忠霊塔ヲ建立ス 
 昭和二十一年六月 
  横須賀地方復員局長官 古村啓藏

昭和二十一年八月十五日


第四艦隊遭難殉職者之碑

36柱を祀る。昭和11年9月建立。

第四艦隊遭難殉職者之碑  
 昭和十年九月

第四艦隊事件は、昭和10年(1935年)に岩手県沖で台風により大日本帝国海軍の艦艇が被った大規模海難事故。前年に発生した友鶴事件と共に、海軍艦艇の設計思想に大きな影響を与えた。
昭和10年の海軍大演習で臨時編成された第四艦隊は台風と遭遇し参加艦艇41隻のうち約半数の19隻に何らかの損傷を受け、水雷戦隊にいた最新鋭の吹雪型(特型)駆逐艦の初雪と夕霧は艦橋付近から前の艦首部分が切断される大損害を受けた。

第四艦隊遭難殉職者之碑は、昭和11年九月に建立され初雪の艦首殉職者24名、ほか12名の36名を祀る。


軍艦河内殉難者之碑

621柱を祀る。大正8年2月建立。

軍艦河内殉難者之碑

大正七年七月十二日爆沈 大正八年二月建之 正木義太書

軍艦「河内」は、日本海軍が最初に保有した弩級戦艦。姉妹館は摂津。明治45年(1912年)竣工。
大正7年(1918年)7月12日、山口県徳山沖にて火薬庫爆発により爆沈。乗組員1035名のうち621名が殉職。
軍艦河内殉難者之碑は、翌大正8年2月に建立された。
揮毫の正木義太は、爆沈当時の河内艦長であり、後、海軍中将となる。沈没地の山口県にも「帝國軍艦河内殉難者英霊之碑」が建立されている。海軍大佐(海兵51期)の正木生虎は、正木義太の長男。


軍艦筑波殉難者之碑

152柱を祀る。大正8年4月建立。

忠烈(篆額)
 東伏見宮依仁親王篆額 

軍艦筑波殉難者之碑 
 海軍大将 名和又八郎 書

大正六年一月十四日午後三時十五分於横須賀軍港遭難 
 大正八年四月建之

巡洋戦艦「筑波」は、戦艦「薩摩」とともに日本国内で初めて建造された装甲艦。
明治40年(1907年)竣工。大正6年(1917年)に停泊中の横須賀港で火薬庫爆発事故により沈没。乗員約340名のうち125名が死亡、27名が行方不明となる。
軍艦筑波殉難者之碑は、殉職者152名を祀る。大正8年4月建立。
なお、「筑波」爆沈の翌年に、「河内」が爆沈している。


特務艦関東殉職者碑

68柱を祀る。大正14年4月建立。

特務艦関東殉職者碑 
 海軍中将加藤寛治書

大正十四年四月建之

特務艦(工作艦)「関東」は、日露戦争で拿捕したロシア艦艇マニジューリヤ。
大正13年12月9日、舞鶴に向け兵員物資を輸送するため呉軍港を出港したが、12月12日、暴風雨のため、福井県下糠浦海岸(南越前町糠)の二ッ栗岩に激突し座礁沈没。便乗者含め99名が死亡。殉職者68柱が合祀された。


北京籠城軍艦愛宕戦死者碑

5柱を祀る。明治34年5月建立。昭和7年8月29日移設。

北京籠城軍艦愛宕戦死者碑

明治三十四年五月建立

扁額は、海軍大将正三位勲一等功二級子爵 伊東祐亨
碑文は、愛宕艦長海軍中佐正六位勲五等 竹内平太郎

明治33年(1900年)5月、清国にて義和団の乱(義和団事件・北清事変)が勃発。砲艦「愛宕」の乗組員は陸戦隊25名を編成。5月から9月まで北京公使館を保護のために籠城し、死者5名、重軽傷者多数を出したが、最後まで奮戦し、日本公使館を守り抜いた。
明治34年5月横須賀市大勝利山天栄寺境内に建立されたが、昭和7年に移設。

手前左右に砲弾、碑の隣に錨が納められている。


関口特攻兄弟之碑

特攻隊として国難に殉じた関口兄弟の碑で、昭和32年5月、父(海軍大尉 関口辰次)によって建立された。

次男海軍少佐関口哲男(24歳)は神風特別攻撃隊新高隊長として昭和二十年一月二十一日台湾東方海面に於て三男海軍少尉関口剛史(19歳)は神風特別攻撃隊水心隊員として同年五月七日沖縄海面に於て何れも敵艦隊を邀撃して之に突入偉功を奏し壮烈なる戰死を遂げた。

関口特攻兄弟之碑
 元第三航空艦隊司令長官寺岡謹平 敬書


馬門山墓地の下段

猿九重野女史留魂

猿九重野女史留魂碑
 大川内傳七 書

馬門山墓地の下段にある。
上海にて特志看護婦として海軍のために献身的な奉仕を果たし、「海軍婆さん」の愛称で親しまれた猿丸重野女史(昭和28年2月3日横須賀市で永眠)の遺徳を永遠に顕彰し慰霊する。

大川内傳七は、海軍中将。
昭和11年に、上海海軍特別陸戦隊司令官に就任し、翌年の昭和12年(1937)に支那事変が勃発。上海海軍特別陸戦隊司令官として第二次上海事変を戦い、上海派遣軍の増援が来るまでの3ヶ月間を死守した。
海兵37期。同期は、井上成美、小沢治三郎、草鹿任一など。


馬門山墓地の中段

中野良之助君招魂碑

明治20年、初代「金剛」(コルベット)で職務執行中に殉職した中野良之助の招魂碑。


馬門山横須賀海軍墓地・上段

下段、中段は兵の墓。
中段は明治10年代、下段は明治20年代が多い。


馬門山横須賀海軍墓地・拝霊堂

昭和7年8月建立。下段の入り口正面にある。
一括礼拝に便利なように建設された。

馬門山旧海軍墓地合祀者靈位

合掌拝礼

ありがとうございます


場所

https://goo.gl/maps/DnSBa8cLnTuQEtUR6

※参拝:2022年5月


関連

佐世保海軍墓地

鶴舞公園に残る戦跡(名古屋)

名古屋市昭和区の鶴舞公園。
名古屋初の都市公園として明治42年に誕生した鶴舞公園にも、戦争に関連する歴史が残されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M550-1-72_19471013
1947年10月13日に米軍が撮影した航空写真を加工。

鶴舞公園周辺を拡大。


鶴舞公園

住居表示やJR駅名は「つるまい」ではあるが、公園の名前は「つるま」。
1909年(明治42年)に開設された名古屋市が設置した初の公園。
名古屋大空襲で複数の建造物を焼失している。


「鶴舞公園」扁額

明治42年の開園当時に内閣総理大臣であった陸軍大将桂太郎の扁額。当初の青銅板は、戦時下の金属回収で供出。コンクリート代用品に変えられたが、昭和41年に復元。当初は公園の正門ゲートを兼ねていたJR中央線ガードに掲げられていたが現在は正面花壇に設置されている。


陸軍高射第二師団司令部
(名古屋市公会堂)

大正13年(1924)1月の摂政宮(昭和天皇)御成婚記念事業として計画され、昭和5年(1930)9月30日建立。
外観は茶系の落ち着いた色調で整え、最上階の円形アーチ窓や隅部の丸み等、ロマネスク的表現とする。初期の鉄骨鉄筋コンクリート造建築。

昭和16年(1941年)8月に「名古屋防空隊本部」が名古屋市公会堂に開設される。
「名古屋高射砲隊司令部」を経て、昭和20年(1945年)5月には、第13方面軍隷下となる「陸軍高射第二師団」となり、引き続き「名古屋公会堂」に司令部を設置。名古屋地区の防衛にあたった。

戦後は進駐軍に接収。米空軍の専用施設としての10年を経て、名古屋市に昭和31年に返還され、再び公会堂として復活。


高射第二師団司令部の門柱

高射第二師団司令部の門柱が一対、残されている。


吉田山の高射砲台陣地跡

鶴舞公園野球場の周辺に、高射砲陣地(4門)が展開されていた。台座の跡が3箇所残っている。

1つ目

2つ目

3つ目

野球場

吉田山は、もともと元名古屋区長吉田禄在の所有地であった。


八幡山古墳の高射砲台陣地跡

八幡山古墳
国の史跡に指定(昭和6年)されている県下最大の円墳。高さ10メートル、直径82メートル、まわりは堀になっています。
大正8年、公園敷地に編入された当時は老松がうっそうとしていましたが、戦争中、高射砲陣地設営のため伐採されてしまいました。戦後再び緑化され、昭和57年から緑地保全地区(平成16年の法改正に伴い、特別緑地保全地区に名称変更)されています。

立ち入りは禁止。


名古屋大学医学部附属病院門及び外塀
(旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀)

旧愛知県立医学専門学校正門及び外塀
大正3年(1914年)建立。
名古屋大学鶴舞キャンパス敷地の南辺にあり、道路を挟んで鶴舞公園に面する。門柱は花崗岩の方柱で、中央2本が当初のものである。塀は当初の煉瓦造に昭和5年(1930)にスクラッチタイルとテラコッタで改修し仕上げたもので、当時のデザイン傾向が窺える。

名大病院


鶴舞公園のそのほか

鶴舞公園内は、ほかにも近代史跡が多く残っているが、私は大部分を見逃してしまっていた。。。


噴水塔

明治43年、鶴舞公園を会場として、第10回関西府県連合共進会が開かれた。会場の正面広場を飾ったのがこの噴水塔であった。
設計は鈴木禎次工学士、ローマ様式の大理石柱に岩組みという和洋折衷式。
地下鉄3号線工事のため一時撤去されたが、昭和52年復元された。


奏楽堂

明治43年、鶴舞公園を会場として第10回関西府県連合共進会が開催された際に、中心的施設として各種の演奏会が催された。
イタリアルネサンス風の建物で、細部にはアールヌーボーのデザインが施されている。設計者は噴水塔と同じ鈴木禎次工学士。
昭和9年に老朽化のうえ室戸台風で大被害を受けたので取り壊され、昭和11年から平成7年まではデザインの異なる奏楽堂が建てられていたが、平成9年に築造当時の姿に復元された。


近代史の目線では、以下も興味深かったが、見逃し。
2022年9月に再訪しました。

青年団令旨碑壇

名古屋市連合青年団が昭和5年に建設した記念碑壇。青年のスポーツ精神を高揚する令旨が掲げられています。陸上競技場は、大正2年に大運動場として発足しました。昭和7年には施設も充実し、乙種認定を受けましたが、戦後の接収時代に荒れてしまいました。現在は認定外の陸上競技場として、各種のスポーツ、行事に利用されています。


普選壇

普通選挙法(大正14年施行)を記念した野外劇壇。中日新聞社の前身名古屋新聞社が解題20周年(大正15年)を記念して昭和3年に建造しました。壁面には普通選挙の基本精神「五箇条の御誓文」とその英訳、および建設の趣旨とが掲げられています。この青銅板は戦争で失われましたが昭和42年に復元されました。昭和61年に市指定文化財に指定されました。


加藤高明伯銅像跡

昭和3年、愛知県出身の内閣総理大臣であった加藤高明氏を顕彰し、銅像建設会により同氏の銅像が建立されました。同氏の銅像は、昭和19年に戦時物資の不足を理由に供出され、現在は台座だけが残されています。


鶴舞公園は広いので、全部をまわろうとすると結構な時間が必要。結局、6月の訪問ではすべてをまわりきれず、見逃しもあり、機会があったので9月に再訪をした次第でした。

※撮影:2022年6月 再訪9月


関連

多摩陸軍飛行場(横田基地)の格納庫

在日米空軍横田基地で「日米友好祭フレンドシップフェスティバル2022」が、5月21日22日にかけて、3年ぶりの開催された。

実は横田基地は初めて。
事前学習せずに、何気ない気持ちで行ってみたら、大行列と雨に巻き込まれて散々な状態となり、写真もまともに撮れていないひどいありさま。今回の記事は、掲載を見合わせようかと思うレベルではありましたが、来年以降のリベンジの念も込めて、かなり半端な内容ですが掲載します。

2023年にリベンジしました。
より詳細な記事は、以下にて


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-80_19471114
1947年11月14日に米軍が撮影した航空写真を加工。

拡大。

当時の写真と、Google航空写真との照合を行ってみる。
横田に行く前に事前に、この照合作業をおこなっていれば、よいものを、今回は手抜かりもあり、記事に漏れが多数。。。

日本戦跡協会さまより、
「南の右の格納庫は、米軍が建てたもの」とコメントを頂きました。


多摩陸軍飛行場(福生飛行場・横田飛行場)

昭和15年(1940)、立川陸軍飛行場の付随施設として建設。
同年4月に、陸軍飛行実験部(陸軍航空審査部飛行実験部)が立川から多摩に移転。
大戦末期の本土防空戦時には、飛行実験部戦闘隊を「福生飛行隊」と通称し、第10飛行師団指揮下の臨時の防空飛行部隊として投入され、戦果も上げている。
戦時中の米軍は、従来把握していなかった多摩陸軍飛行場を「横田飛行場」と名付たことから、「横田基地」と呼ばれるようになった。
終戦後は、アメリカ軍に接収され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも積極的に活用された。


横田基地に残る陸軍の格納庫

上記の位置関係と照合した結果、格納庫がいくつか残っていることがわかる。

三角屋根の格納庫が当時からの格納庫。
オスプレイと一緒に写る。

こちらも当時からの格納庫。最南部。

撮影していた格納庫の写真は以上のみ。
記録写真としても、まったくできていないので、リベンジが必須。

オスプレイ
初めて垣間見たオスプレイは、おもったよりも小さかった。

2022
Firendship Festival
Yokota Air Base

いろいろ

いろいろ。

また、リベンジします。

※撮影:2022年5月


関連

「旧・横須賀海仁会病院」(202207解体)「禁廷水の碑」と「旧・横須賀海軍共済病院」散策

横須賀海仁会病院の建屋が、いよいよ解体という話があったので、慌てて見学に行ってきました。


横須賀海仁会病院

海軍の下士官及びその家族の診療を行う病院として昭和14年3月に開院。
45年の敗戦と同時に、米海軍に接収。
当時の米海軍横須賀基地司令官デッカー大佐が一般市民に開放することを決定。46年に現在の聖ヨゼフ病院として開院し、現在に至る。
モダニズム建築として石本喜久治氏の設計。弧を描くように湾曲した凹壁面が特徴的。

2020年に聖ヨゼフ病院新棟が完成し病院機能は移転済み。
コロナ禍で遅れていたが、2022年7月下旬に取り壊し工事が実施される。

https://www.townnews.co.jp/0501/2022/06/24/630638.html

聖ヨゼフ病院

聖ヨゼフ病院新棟

場所

https://goo.gl/maps/aBz8twjFySrKWsCt5


禁廷水

横須賀海仁会病院(聖ヨゼフ病院)の裏、崖下に、ひと目につかない状態で、井戸と記念碑があった。

明治天皇が横須賀に行幸した際に、差し上げる水を汲んだ井戸と、それを記念した「禁廷水の碑」が建っている。

加藤寛治海軍大将謹書で、昭和4年の建立。
禁廷とは、宮中・御所・禁裏の意。

禁廷水
加藤寛治海軍大将敬書

明治天皇の行幸は明治4年、明治6年と8年に、向山行在所で宿泊され造船所を見学されている。
向山行在所(横須賀行在所)は現在は幼稚園となっており「明治天皇横須賀行在所阯と聖蹟の碑」、上段には「明治天皇御駐蹕」の碑もある。
明治天皇行幸の際に食事などに使われたのが、この禁廷水であった。

昭和4年2月11日建之
雨峰敬書

草が。。。

井戸。

建物解体後に史蹟は再整備されるのだろうか。。。

明治天皇横須賀行在所関係の記事は、以下にもまとめていました。

場所

https://goo.gl/maps/4sTUkhkFYcYtm5MDA


横須賀の海軍病院つながりでの追記

横須賀海軍共済病院(現・横須賀共済病院)

明治39年03月 横須賀海軍工廠職工共済会医院として開設
明治42年04月 横須賀海軍工廠職工共済会病院と改称
大正07年04月 海軍共済組合横須賀病院と改称
昭和04年11月 横須賀海軍共済組合病院と改称
昭和18年04月 横須賀海軍共済病院と改称
昭和20年12月 終戦により横須賀共済病院と改称

昭和12年(1937年)竣工の第二病棟が残っている。

あれ、これは海軍時代の消火栓だ。
(現場では気が付かずに、写真チェックであとから気が付きました。。。)

こんど、きちんと撮影しよう。。。

※撮影:2022年5月

場所

https://goo.gl/maps/12EwFLeaMgqhFxacA


関連

横須賀海軍病院は、米軍基地内に。。。

松井石根大将ゆかりの神社(椿神明社・名古屋)

愛知県名古屋市中村区牧野町。
名古屋駅の駅裏(駅西)、つまり名古屋駅の西側には、牧野公園や牧野小学校など牧野の名前を残した場所がある。

椿神社は牧野村の北端。
この牧野村で、松井石根は明治11年(1878年)7月27日に生まれた。


神明社(椿神明社)

祭神は、豊宇気比売神。創建年代は不詳。旧社格は村社。
伊勢の神宮の神領地であった牧野村で、椿神明社は外宮とされ「上ノ宮」、牧野神明社は内宮とされ「下ノ宮」と呼称されていたという。

JR東海が施行するリニア中央新幹線(品川・名古屋間)の事業用地として椿神明社の境内北側を一部譲渡することとなり、境内整備が実施された。工事は2020年4月 ~ 2022年3月。
私の参拝は2022年6月。工事完了後の参拝。

社号標の銘は削り取られていた。
昭和9年10月建立。

境内の随所に柵が設けられ、立ち入りできる空間が少ない。


松井石根ゆかりの石碑(池に沈めた大将の碑)

石碑がある。
これが、松井石根ゆかりの石碑。近くで見ることができないのが残念。

松井石根は、椿神社のある牧野村の出身であった。
昭和12年(1937年)7月、盧溝橋事件により支那事変(日中戦争)が勃発。
第二次上海事変に際し、予備役の松井石根は召集され上海派遣軍司令官として陣頭指揮を取ることとなり、昭和12年(1937年)12月、中支那方面軍司令官として南京攻略戦が開始。12月13日に南京陥落。
昭和13年1月、近衛文麿首相の近衛声明「蔣介石を対手とせず」宣言で、中国寄りであった松井石根は考え方の相違もあり更迭され予備役とり、昭和13年3月に帰国。

昭和14年(1939年)12月に、地元の有力者が石碑を建立。
石碑の内容は、地元の英雄であった松井石根大将が南京入城後に作った漢詩。
「南京入城之感」

松井石根は昭和15年(1940年)2月、支那事変(日中戦争)における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた。

昭和21年5月、松井石根は、いわゆる南京事件の責任者として戦争犯罪人(BC級)逮捕。極東国際軍事裁判において起訴され巣鴨プリズンに収監。東京裁判において、11月12日に死刑判決。
昭和23年12月23日に死刑が執行された。享年70歳。

東京裁判と久保山火葬場(横浜)

松井石根の石碑は、この判決よりも前に、GHQに見つかることや戦犯と関わり合いになることを恐れた人々によって、中村公園近くの池に放り込まれたという。
その後、松井石根の石碑は引き上げられ、再び椿神明社に建立されたという。

南京入城之感
燦矣旭旗颺石城江南風色
忽澄清豼貅百萬軍容肅
仰見 皇威輝八綋
 陸軍大臣 松井石根

昭和十二年七月支那事変起也皇国直進膺懲之師
吾郷英傑陸軍大将松井石根閣下為上海方面軍最
高指揮官督戦於江南之地撃破頑敵不出九旬而陥
其首都南京此詩即将軍陣中之作讀者宜相傳唱以
仰皇軍威武乎不朽也昔豊太閤裂明之封冊也其意
欲席捲四百余州而不果焉今経三百有余年豊公之
霊有知同郷英傑偉績如此其感喜果如何必應含会
心之笑於泉下也矣
 昭和十四年十二月
    陸軍中将    大塚堅之助 撰
    陸軍軍医中将  石黒大介  書
        幼友  恒川増太郎 建立

大塚堅之助陸軍中将も石黒大介陸軍軍医中将も愛知県出身。恒川増太郎氏は、松井石根陸軍大将の幼友達で地主。恒川増太郎氏が音頭を取って建立したものと思われる。

「南京入城之感」の隣の碑も、松井石根の謹書であった。
一緒に、池の中に投げ込まれたものかどうかは不詳。

大津武五郎直行君頌徳碑
 陸軍大将 松井石根書

大津直行は、尾張藩士。明治維新後は、鳥取県権参事などを努めている。大正14年に84歳で没。

手水石は昭和10年。
狛犬は昭和14年。

昭和14年に郷土の英雄として讃えられていた松井石根大将。
南京陥落の英雄は、8年後には、いわゆる南京事件の責任者として死刑となり、建立された記念碑は、関わりたくないものとして、池の中に沈められてしまった。
戦後、松井石根大将の石碑はもとのように神社に戻ってきたが、昨今の政治的事情もあり、(偏った歴史感を持った方々による)神社自体に対する不貞な行為などもあり、その保護のために松井大将の石碑は、金網に囲まれてしまった。そうして貴重な石碑が、多くの人々にとっては「よくわからない石碑」になってしまったことが、申し訳なく。

場所

https://goo.gl/maps/rdjUFoaLJPqxyCzXA

※撮影は2022年6月

「陸軍野戦砲兵学校」四街道の陸軍戦跡散策

軍郷四街道。
軍郷としての四街道の繁栄は、佐倉藩が洋式砲術(高島秋帆流砲術)の演習を行っていた「下志津原」にはじまる。
下志津原に築かれた砲兵演習場(射場)を軸に、明治19年には、「陸軍砲兵射的学校」が創立している。


陸軍野戦砲兵学校(野砲兵校)

野戦砲兵監の管轄下で、野戦砲、高射砲の射撃・観測等の教育と、野戦砲、高射砲に関する諸学術、兵器、資材等の調査・研究を行った機関。
1886(明治19)年4月、下志津原(現在の千葉県佐倉市)に設立された陸軍砲兵射的学校を前身とする。
1896(明治29)年、陸軍野戦砲兵射撃学校に改称され、四街道(現在の千葉県四街道市)に移転した。
1922(大正11)年8月、陸軍野戦砲兵学校に改称。
甲種学生(大尉)に射撃・戦術、乙種学生(大・中尉)に射撃・高射砲術、観測通信学生(中・少尉)に観測通信術、馭法学生(中・少尉)に馬術・馭法術などの教育が行われた。研究部は、野戦砲兵・高射砲に関する調査研究・試験を行った。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R2769-109
1949年04月26日に米軍が撮影した航空写真を加工。

四街道界隈を拡大。

今回の散策エリア。


陸軍野戦重砲兵第四聯隊跡(愛國学園)

愛国学園大学(学校法人愛国学園)の正門は、当時の陸軍野戦重砲兵第四聯隊の正門を流用している。昭和14年に近衛師団に所属する陸軍野戦重砲兵第四聯隊が満洲に移転後は、野戦砲兵学校幹部候補生隊となっている。

史蹟
野戦重砲兵第四聯隊跡
吉永朴謹書

建碑之辞
 この地は旧陸軍近衛師団に所属する当聯隊が馬編成四年式十五糎榴弾砲部隊として武を練った所である。
 その期間は発祥の地・広島県呉要塞からここに居を移した。大正十一年から北満の牡丹江に移駐した昭和十四年までの十七年間である。
 渡満移駐後この地は野戦砲兵学校幹部候補生隊となり、聯隊はノモンハン事変に参加したあと、自動車編成九六式十五糎榴弾砲装備に改編されその面目を一新し、太平洋戦争勃発に伴い昭和十七年九月南太平洋戦線に展開された。
 かくして聯隊はガダルカナル及びブーゲンビル両島の作戦に参加し死闘を重ねつつその本領を発揮したが、終戦と共に事実上かの地において五十年にわたる歴史の幕を閉じた。
 この間あるいは満州の曠野に、あるいは南溟の密林に陣没した戦士は聯隊長以下千三百有余名の多きに達した。
 この小碑は当聯隊の生存者等が計画し、之に市と学校法人愛国学園が協賛し以て縁り深きこの地に史蹟として建立したものである。
 昭和三十八年三月
  四街道市史蹟保存会

謹書にある吉永朴(すなお)は、終戦時は陸軍少将。陸士31期、陸大38期。砲兵出身で野砲兵校にゆかりあり。

聯隊の歴史
(略

陸軍野戦重砲兵第四聯隊の正門跡

愛国学園大学(学校法人愛国学園)の正門として活用されている。

場所

https://goo.gl/maps/67QKbs1KYfv2FYuz7


将校集会所跡(四街道公民館)

四街道公民館の場所は、かつての将校集会所の跡地。

門が残っている。
正門のすぐ近く。

場所

https://goo.gl/maps/ToLxZSPCCccfyVpL8


松脂油採取跡と将校集会所の築堤(四街道公民館)

将校集会所のあった公民館の近くにある松の切り株。
戦時中に松脂油を採取した名残もあった。

「松のきずあと」
何かが書いてあるようだけど風化して判読不可能。。。

築堤も当時の名残と思われる。


陸軍野戦重砲兵第四聯隊の裏門跡

愛国学園大学と千葉敬愛高校の裏側。方向でいうと北西側にあたる。「コープみらいえ四街道」の近くの道路に裏門の門柱が残っている。

一本は、門柱として残っているが、もう一つは土台だけが残っている。

敷石も残っている。

位置がおかしい。

どうやら近年の道路拡張で、片側の土台だけが移動したようだ。敷石はそのままでの拡張という、心遣いがありがたい。
ストリートビューで2013年にはまだ移築していなかったが、2015年で移動されているのを確認できた。

場所

https://goo.gl/maps/nQdnyQmPXerEdLBEA


大土手山(別名・ルボン山) 

砲兵射朶の跡の石碑と、射朶(射的)の築堤の山が残っている。標高25.1mという。

大土手山
神社を頂いたこの丘は大土手山と呼ばれている。
麓には昭和四十年に四街道町史蹟保存会と陸軍野戦砲兵学校遺跡保存会有志一同によって建てられた「砲兵射垜の跡」の碑があり碑裏には次のように刻まれている。

 「この地は佐倉藩士大筑尚志が藩の砲術練習所として築いたものを明治六年(一八七三)教師として招聘されたフランスのルボン砲兵大尉が増築し初めて砲術を伝習した射垜の一角である射的場は南北三千米幅三百米であった。 
 明治十九年その北端に陸軍砲兵射的学校が創立されたが同三十年四街道に移転してより射場は急速に拡張され射場はルボン台または大土手山と呼ばれた。
 大正七年(一九一八)五月皇太子が台上で射撃をご覧になった。
 下志津原演習場は砲兵学校とともに拡大し四街道の発展に寄与したが射垜は実にその始祖である。
 由来ある遺蹟の消滅せんことを惜しみ碑を建ててその由来を記すものである。
   昭和四十年(一九六五)四月二日 
    四街道町史蹟保存会 
    陸軍野戦砲兵学校遺跡保存有志一同」
  昭和五十一年十一月 
  四街道市

砲兵射垜の跡
陸軍野戦砲兵学校長 室兼次書

室兼次は、昭和2年(1927年)7月26日から昭和5年(1930年)7月30日までの陸軍野戦砲兵学校長であった。
最終階級は陸軍中将。陸軍野戦砲兵学校長の次は昭和5年8月からは第20師団長。昭和7年に予備役編入。昭和41年に89歳で没している。
「砲兵射垜の跡碑」は昭和40年建立のため、亡くなる1年前の揮毫であった。

登ってみた。
「神社を頂いたこの丘は大土手山と呼ばれている。」と記載があったが、神社は無くなっているようだ。
見晴らしが良いですね。

陸軍野戦砲兵学校があった方向。

北側は、射場があった。

場所

https://goo.gl/maps/SY6Ux69pRrkxFPrS9


陸軍野戦砲兵学校跡

大土手山 (ルボン山)の南に、陸軍野戦砲兵学校があった。
現在の四街道市役所の北側の街道沿いに記念碑が建立されている。

陸軍野戦砲兵学校跡
東久邇盛厚書

東久邇盛厚は東久邇宮稔彦王第1王子。大日本帝国陸軍での階級は陸軍少佐。陸軍では砲兵に縁があり、(昭和12年)6月陸軍士官学校を卒業、同年8月陸軍砲兵少尉に補任され、野戦重砲第1連隊附の陸軍将校となる。
昭和15年には、陸軍砲兵中尉として陸軍野戦砲兵学校附ともなっている。
終戦後は皇籍を離脱。昭和44年に52歳で没している。

砲兵学校跡
 明治十九年四月下志津原に創立された陸軍砲兵射的学校は明治三十年に陸軍射撃学校と改称され四街道に移転しました
学校の移転に伴ないそれまでは閑散としていた四街道駅(移転の三年前に建設)周辺は次々と整備され、東京に至便な演習場という利点と、明治中期から終戦までの時代の要求は多くの軍事施設の設置を見、四街道は軍都としての歴史を歩んできた。
終戦を機とし四街道はその景観と機能を一変し新しい四街道へと脱皮、砲兵射撃学校跡も現在は市民の憩いの公園、小学校となり文化都市の一翼をになっている。
 四街道市

 明治十九年(一八八六)四月二日下志津原の北端に創立した陸軍砲兵射的学校は鉄道の開通に伴い同三十年春野山砲から成る教導大隊を持つ陸軍野戦砲兵射撃学校としてこの地に移転し砲兵の戦術及び射撃術の研究教育にあたった。
 大正十一年(一九二二)陸軍野戦砲兵学校と改称し野戦重砲兵を含む教導聯隊に拡張し高射砲練習
隊を新設して初めて一部を機械化した。
 昭和八年(一九三三)以降下士官候補者隊・情報隊・観測隊幹部候補者隊を相次いで新設し大東亜戦争に入り少年兵の生徒隊ロケットを含む迫撃砲隊・ 自走砲隊などを新設した。
 この間明治三十三年六月と同四十五年五月とに天皇の行幸を仰ぎ、同四十四年五月と大正七年五月とに 皇太子の行啓をお迎えした。
 惟うに学校は創立以来六十年まさに日本砲兵最高の指導的殿堂として大いに国運の興隆に貢献した。
 しかも四街道はその昔人家まれな寒村であった頃から学校と緊密な協力をして今日の繁栄の基礎を築いた。
 この壇は学校創立五十年記念として築いたもので終戦にあたり全校将兵はここで 御真影と勅諭とを奉焼し日本の再建を誓い合った由緒ある遺跡の消滅せんことを惜しみ碑を建ててその由来を記するものである。
 昭和四十年(一九六五)四月二日  
  四街道町史蹟保存会 
  陸軍野戦砲兵学校遺跡保存有志 一同

昭和62年8月15日
観測隊之碑
観測隊有志建之

御歌
 北白川房子
志もしつの原に栄えて
 御国守る
わさにはけみし其日しのはむ
わかつまもわか子もともにはけみけむ
御代の光りを永久に仰かむ

生徒隊之碑

(生徒隊之碑裏面)
少年砲兵生存者一同
平成14年10月吉日建之

15センチ榴弾砲砲弾
10センチ加農砲砲弾
7.5センチ野山砲砲弾

場所

https://goo.gl/maps/h3vsHYafK9mGf85N7

隣は、四街道市役所。


軍馬の碑(栗山半台児童公園)

陸軍野戦砲兵学校のエリアから北東に離れた場所に、下志津陸軍墓地(下志津陸軍埋葬地)がある。
現在は、栗山半台児童公園と栗山半台区集会所が併設されている。

軍馬の碑

軍馬の慰霊顕彰碑。

軍馬之碑

 昭和10年3月建之
  陸軍野戦砲兵学校
  野戦重砲第4聯隊
  下志津憲兵分遣隊

同じ空間に、観世音菩薩と馬頭観音もある。

場所

https://goo.gl/maps/pJMkZYasppa6nBd47


下志津陸軍墓地(栗山半台児童公園)

下志津陸軍墓地(下志津陸軍埋葬地)は、明治30年代に栗山地区の有力者が、土地を陸軍に寄付したことにはじまる。

引き取り手が無いまま眠る八の遺体
 墓地全体は、明治二十年代に栗山地区の当時の有力者が土地を陸軍に寄付し、下志津陸軍埋葬地としたものです。
 ここには、いまだに引き取り手が無いまま眠っている兵士の墓があります。土葬で埋葬された士官や兵士たちの遺体は総計で十三名です。戦後になって、墓は栗山地区半台の方々の厚意で管理され、供養も続けられています。
 遺族による遺骨の引き取りは。戦前一名、戦後に四名の計五名で、若い身空を他国で不運にも果てた八名の人々が、今なお無縁仏として眠っています。
 戦後、栗山半台地区の方々の厚意で、本籍地の市町村役場へ照会しても遂にわからずじまいでした。

軍人墓地に眠る人々
諫早 消輝   砲兵中尉   山口県阿武郡萩町 .
宮地 徳太郎  砲兵二等卒  栃木県宇都宮市  .
藤原 喜助   砲兵一等卒  宮崎県西臼杵郡七折村
福田 荒吉   砲兵一等卒  宮崎県東臼杵郡南郷村
原  愛正   砲兵二等卒  山梨県北巨摩郡熱見村
小沢 兼吉   砲兵二等卒  東京都西多摩郡調布村
金丸 茂之   砲兵二等卒  山梨県中巨摩郡南湖村
加藤 真一   砲兵上等兵  山口県佐波郡牟礼村

合掌

場所

https://goo.gl/maps/HTqmVNX4J9tnhzMU8


下志津陸軍墓地の陸軍境界標

下志津陸軍墓地(下志津陸軍埋葬地)のあった四隅に境界標石が残っていた。当時の敷地の東西南北四辺に対して境界標石がきちんと残っているというのが、嬉しい。

南の境界標石

陸軍用地

北の境界標石

南の境界標石
ちょっと摩耗が激しいですが、きっと陸軍用地って書いてある。

陸軍用地

北の境界標石

陸軍用地

場所

https://goo.gl/maps/HTqmVNX4J9tnhzMU8


四街道町護國神社・野砲兵校神社「千代田宮」社殿流用?
(津之森児童遊園)

愛国学園と給水塔の近くにある児童公園。

四街道の護国神社は、四街道駅北側にある八百稲荷神社の境内にあった招魂社を戦後現在地に移したものという。

手前の鳥居は、昭和49年に四街道町遺族会が建立。

四街道町護国神社
 千葉縣護國神社宮司

拝する。

御社殿は、旧陸軍野戦砲兵学校内にあった「千代田宮」の社が流用されているという。

もしかしたら、狛犬や手水石も陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の流用かも知れないが、未確認。

2つ目の鳥居は、戦前の建立。
1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端にはじまった支那事変の1周年記念とのことなので、1938年の建立。
これも、陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の流用だろうか。

支那事変一週年記念

しかし、陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の流用とするならば、この鳥居は陸軍野戦砲兵学校と下志津陸軍飛行学校の連名となっていることから、もしかしたら「千代田宮」は、両校の共同祭祀だったのもしれない。思いつきなので、根拠はないです。

陸軍野戦砲兵学校
下志津陸軍飛行学校

ジャンルは違うが同じ陸軍の学校が連名して奉納した鳥居、良いですね。
飛行学校の観測射撃と、砲兵の観測射撃の共同訓練も行っていた、という話もありますので。

慰霊碑が4基、林立している。

明治丗七八年日露役忠魂碑
 西南戦役戦没者・北清事変戦没者・戦病死者
 明治丗九年7月建設
 建碑・発起出征軍人
徳頌
 昭和12年以降の旭村戦争犠牲者
 昭和25年9月旭村招魂碑石保存会建之
忠魂
 支那事変以降戦没者
 昭和28年11月千代田町建之
忠魂碑
 陸軍大将男爵田中義一書
 昭和3年11月千代田村分会建

場所

https://goo.gl/maps/drMJcQ5QXKaoQdrW6


千代田宮・野砲兵校神社跡(四街道中央公園)

陸軍野戦砲兵学校に祀られていた校内神社「千代田宮」。
ご祭神
 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
 天之常立神(あめのとこたちのかみ)
 明治天皇
千代田宮の御祭神は、1947(昭和22)年、桜ヶ丘地区に入植した開拓者有志によって創建された「櫻ヶ丘神社」に奉遷されている。
そして、陸軍野戦砲兵学校内神社「千代田宮」の御社殿は、前述の四街道護国神社に流用されたという。

野砲兵校内神社「千代田宮」の跡地は、中央公園として整備され、公園内に唯一残された「奉納」の石柱が当時を物語っている。

奉納

裏面は削られていて判読不可であった。

場所

https://goo.gl/maps/yRqakqtigzuXVUmw6


下志津陸軍病院(国立病院機構下志津病院)

国立病院機構下志津病院は、ご多分に漏れずかつての陸軍病院。

明治30年4月に下志津衛戌病院として発足、その後、終戦までは下志津陸軍病院であった。

場所

https://goo.gl/maps/FZzhfTSKcr2KSVvQ7


四街道駅

1894年(明治27年)12月9日、総武鉄道(初代)の四ツ街道駅(よつかいどうえき)として開業。
1907年(明治40年)9月1日、総武鉄道買収により、帝国鉄道庁の駅となり、11月1日に四街道駅に改称。


下志津陸軍飛行学校(下志津駐屯地)

ちょっと足を伸ばしてみました。
行政的には、四街道市ではなく、千葉県‎千葉市‎若葉区。

下志津陸軍飛行学校では、射撃観測などで、砲兵との連動訓練などを実施することもあり、野砲兵校が近くにあることは多くのメリットがあったという。

下志津陸軍飛行学校
主に空中偵察に関する各種の教育と研究を行った陸軍の学校。
1921年(大正10年)4月、陸軍航空学校下志津分校として開設。
1924年(大正13年)5月、下志津陸軍飛行学校として独立。
下志津陸軍飛行学校は本校以外に、銚子八街、広島県広島市に分教場、分教所があった。

下志津陸軍飛行学校の門柱と歩哨舎

平成23年に正門改修工事が行われている門柱(手前)。
これは、下志津陸軍飛行学校の「歩哨舎」であった。
外観を生かして、内部空間を塞いで門柱としたようだ。

下志津駐屯地

当時の正門は以下。

陸上自衛隊下志津駐屯地より抜粋。

https://www.mod.go.jp/gsdf/aasch/aaspr-hp/history/slide1/slide1.html

https://www.mod.go.jp/gsdf/aasch/aaspr-hp/history.html

「高射学校」も併設されている。

高射学校

場所

https://goo.gl/maps/3NpbXXeyXaVWVcBM6

まだ四街道には、いくつかの戦跡のネタがありますが、本記事はいったん以上で締めます。
実は2022年5月に散策したのちに記事を書くために調査をしていたらいくつかのポイントを見逃していたことが発覚したために5月にも再訪しております。まだ地味ですが見たいところがあるので、また行くことにはなりそうですが。。。


下志津駐屯地はこちらにて


関連

銚子の戦跡散策

日本の高さの基準点「日本水準原点」一般公開

かつて「陸地測量部」があった場所は、現在は「国会前庭」として整備されている。
その場所にあるのが「日本水準原点」。
日本水準原点と日本水準原点標庫は、測量分野では初の国指定重要文化財となり、監視用の附属水準点標石3点は附指定とされている。


測量の日

測量法が昭和24年6月3日に公布され、平成元年に満40年を迎えたことを機会に、測量の意義と重要性に対する国民の理解と関心を高めることを目的として、6月3日を「測量の日」として制定。

https://www.gsi.go.jp/kinki/survey_day-survey_day_index.html

https://www.gsi.go.jp/kanto/kanto40002.html

毎年6月3日を中心に「測量と地図のフェスティバル」「国土地理院技術研究発表会」「日本水準原点を始めとする各種施設公開」等の測量と地図に関する情報と知識を国民に啓発する運動を広範囲に展開されている。

2022年(令和4年)は、5月25日に「日本水準原点」の一般公開がありましたので、見学してきました。


水準原点(日本水準原点)

日本の高さ(標高)の基準点となる、水準の原点が一般公開されました。
普段は、扉が閉じられております。

重要文化財【建造物】
「日本水準原点」
  所在地 東京都千代田区永田町1-1-2
  指定 令和元年12月27日
 日本水準原点は、明治24年に創設された我が国の高さの基準になるもので、130年近くにわたり、我が国の測量の歴史を支えている重要な施設です。
 日本水準原点の歴史的及び技術的な価値が認められ、測量分野の建造物としては初となる国の重要文化財に指定されました。
日本水準原点 
 日本水準原点の零目盛りは、温度変化の影響を受けにくい水晶板に刻まれており、丈夫な花崗岩台石にはめ込まれ、固い岩盤まで達する約10mの基礎に支えられています。
日本水準原点標庫
 日本水準原点標庫は、ドーリス式ローマ神殿形式の古典的建築で、日本人建築家により設計された初期の洋風建築として、歴史的、建築学的にも貴重なものです。
  令和元年12月
   国土地理院

これが水準原点
目盛尺の材質:推奨(山梨県産)
 長さ25cm、幅5.5cm

水準原点

日本水準原点
 日本水準原点は、我が国の土地の標高を測定する基準となる点である。明治24年(1891)5月にこの場所に設置した。
 日本水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心である。その標高は明治6年から12年までの東京湾の潮位観測による平均海面から測定したもので、24.500メートルと定めた。
 その後、大正12年(1923年)の関東地震による地殻変動に伴いその標高を24.4140メートルに改正したが、平成23年(2011年)3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い24ミリメートル沈下したため、新たに24.3900メートルに改正した。
 平成23年10月21日
 国土地理院

開扉されています。はじめて開いているところを見ました。

このゼロ目盛(零位)が原点数値。
目盛りの部分は水晶。水晶版を花崗岩でしっかりと固定している。
ゼロ表示の高さ、原点数値は24.3900mとなっている。(2011年現在)

扉の模様も美しいのですが、開扉中はもちろん正面からは見えません。

扉をしめているときは、こんな感じ。

年に1度の一般公開は、平日にはなりますが、これは調整してでも見る価値ありますね。


水準原点(日本水準原点)裏側

水準原点の裏側も公開。

明治24年
辛卯5月建設
陸地測量部

明治24年は1891年。
ちょうど、1891年5月11日には、ロシア皇太子(ニコライ二世)来日中に、滋賀県にて警官に切りつけられ重傷を負った「大津事件」があった。

水晶版がはめ込まれた舟型台石(厚さ36cm、長さ2.7m)を花崗岩の正八角形台石(厚さ45cm)が支え、さらに台石の下を、10m下の岩石層まで達するコンクリートの基礎が支えている。

舟形台石の裏側(下部)には、関係者5名の名前が刻まれてる。

参謀総長陸軍大将大勲位 熾仁親王
参謀次長陸軍中将従三位勲三等 川上操六
陸地測量部長陸軍工兵大佐正六位勲四等 藤井包總
陸地測量部三角科長陸軍工兵中佐従六位勲六等 田坂虎之助
陸地測量部三角科班長陸軍工兵大尉正七位勲五等 唐澤忠備


日本水準原点標庫

保管庫として、「日本水準原点標庫」は以前に紹介をしておりました。

https://senseki-kikou.net/?p=5007

菊の御紋と大日本帝国の文字残っている。

大日本帝国

明治24年5月に、陸地測量部の庭園であった現在地に設置された。
現在も使用されている公的建造物において「大日本帝国」号を残している希有な建造物としても貴重。

設計は、佐立七次郎。
日本近代建築の父といわれた、ジョサイア・コンドルの一番弟子。
生涯で設計した建造物は34棟を数えるが、現存する建造物は、「日本水準原点標庫」と「旧日本郵船株式会社小樽支店」の2棟のみ。

日本水準原点の建物(標庫)は文化財
「特徴」
・小ぶりな石造
・ローマ風神殿建築 トスカーナ式
・明治期の数少ない近代洋風建築
・佐立七次郎の設計
  東大建築学科(現在)第1期生(4人)のひとり
「注目」
・装飾
・文字
・円柱の柱
・扉の模様
建築面積:14.93平方m 軒高3.75m 総高:4.3m

東京都制定有形文化財(建造物)
日本水準原点標庫
 日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年(1891)5月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者は工部大学校第1期生の佐立七次郎(1856~1922)。建物は石造で平屋建。建築面積は14.93㎡で、軒高3.75m、総高4.3m。正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフ装飾で特徴づけられる。
 日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。
 平成9年(1997)3月31日建設  
 東京都教育委員会


機械台と一等水準点

陸軍参謀本部陸地測量部の敷地内に水準原点と一等水準点が設置されている。

甲・乙・丙・丁・戊
「丁」のみが地上に設置。それ以外は地中にある。
今回は「甲」も公開されておりました。

水準原点の前にあるのが「機械台」

記載台のさらに北の先に一等水準点「甲」がある。
普段は、鉄の蓋の下。

一等水準点「乙」

一等水準点「丙」

一等水準点「丁」
「丁」のみが地上にある。その他は鉄の蓋の下。

一等水準点「戌」は、今回は未確認。
憲政記念館の工事の影響で立ち入りできないエリアにある。


電子基準点

電子基準点の内部も公開されていました。

GNSS受信機、ルーター、バッテリー、電源監視装置、通信装置、UPS、傾斜計などが収納されている。
高さは7m。

電子基準点「東京千代田」
測位衛星で国土を測る位置情報インフラ

GNSS連続観測システム
GEONET
(GNSS Earth Observation Network System)
電子基準点を用いて高精度な測量や地殻変動の監視をしています。

国会前庭にある「日本水準原点」の隣に、電子基準点「東京千代田」を設置し、平成30年3月26日から、準天頂衛星システム(みちびき)やGPSなどの観測を始めました。都心での測量が効率化するとともに、全国の標高の基準である日本水準原点の変動をモニターできるようになり、大きな地殻変動が生じた場合でも円滑な測量が可能になります。

電子基準点「東京千代田」
 この電子基準点は、我が国の準天頂衛星システムや米国のGPSなどの衛星測位システムの信号を常時受信し、地球上の正確な三次元位置を計測・モニタリングする施設である。国土地理院は全国に電子基準点網を構築して、土地の測量や地図の調整に必要な位置の基準を提供するとともに、国土の地殻変動をモニタリングしている。また、受信した信号は高精度なリアルタイム位置情報サービスにも利用されている。
 電子基準点「東京千代田」は、日本の基準となる日本水準点(明治24年(1891)設置)の近傍にあり、その標高を常時モニタリングする役割も担っている。
 平成30年3月
 国土地理院


6月3日の「測量の日」の前、5月最終週の水曜日あたりが毎年の一般公開日。
気になる人は、国土地理院の発表を気にしてみてください。

ちかくは国会議事堂。

桜田門も見える。
水準原点のある国会前庭は、かつての井伊家藩邸でもあった。

配布物


「日本水準原点」と「水位観測所・験潮場」

油壷験潮場と日本水準原点の間で、水準測量を毎年行い、原点の変動を把握している。

油壺験潮場の前身は、霊岸島水位観測所


日本経緯度原点

日本の高さの基準は、かつての陸軍の敷地にあったが、日本の位置の基準は、かつての海軍の敷地にあった。


場所

https://goo.gl/maps/nsfG9TqSGaz4xjGH9

※撮影:2022年5月

日本の高さの出発点「霊岸島水位観測所」と一等水準点「交無号」

日本の国土の基点となっている場所がある。今回は「高さ」のスタート地点を散策。

国会議事堂前庭にある「日本水準原点」の標高は、霊岸島で水位を観測し定められた水準点「交無号」からの測量で決定している。

日本水準原点

油壷験潮場


一等水準点「交無号」

花壇にかこまれて「水準点」があった。
ここが日本の「高さ」の出発点。

大切にしましょう
水準点
国土地理院関東地方測量部

一等水準点「交無号」
 標高3.24m

 水準点とは、精密に測られた高さの基準点です。全国の主要道路に約2キロメートルおきに設置されており、各種測量の基準や地殻変動の検出に利用されています。
 日本の高さの基準である東京湾平均海面(標高0m)は、明治6年から12年の間に霊岸島で行われた潮位観測によって決定されました。この結果は、潮位観測に用いられた量水標近傍の「内務省地理局水準標石(霊岸島旧点)」に取り付けられましたが、明治24年に新しい基点として、この「霊岸島新点・交無号」が設置されました。同年、国会議事堂前の地に建設された日本水準原点の標高は、この水準点からの測量で決定されています。
 水準点番号「交無号」の由来は、水準路線が交差する点であることを示す「交」と、「0」を意味する「無号」を合わせたものです。
 この水準点は、まさに日本の高さの出発点として歴史あるものです。
 現在の水準点は、平成18年にこの地に移転されました。標石は昭和5年の移転時に作られたもので、小豆島産の花崗岩が用いられています。
 平成21年2月
  国土地理院関東地方測量部

すぐ近くに水位観測所がある。


霊岸島水位観測所

日本水準原点と霊岸島水位観測所
 国土交通省関東地方整備局
 荒川下流河川事務所
1.水準原点とは
 現在日本の水準原点は、測量法施行令第2条により東京都千代田区永田町1丁目1番地内にある日本水準点で、その高さは東京湾平均海面上24.4140mと定められています。
(東京湾平均海面をT.P.0mとして算定しています。)
この水準原点の高さに基づいて、例えば、山の高さや土地の高さが「標高〇〇m」というように求められているのです。

2.日本近代測量と霊岸島水位観測所について
 日本の近代測量は明治初期に始まりました。当時の測量方法は所要河川の河口部に水位を測るための「量水標」を設け測量を行うときには近くの「量水標」の平均海面データを用いていました。「量水標」の主なものは、明治5年に利根川河口の「銚子量水標」が日本初で、翌明治6年にここ霊岸島に、明治7年に江戸川と淀川の河口にと、全国の主要河川でそれぞれ設置されました。
 霊岸島水位観測所の零位は、A.P.0m(エーピーゼロ、A.P.はArakawa Peilの略、Peliはオランダ語で「基準」あるいは「標準」の意)と呼ばれるようになりました。
 その後、測量技術などの進歩に伴い、平均海面のデータの全国統一が考えられ、そのときに選ばれたのがここ霊岸島水位観測所だったのです。

3.東京湾平均海面と日本水準原点
 平均海面を算出するために霊岸島水位観測所で明治6年6月から明治12年12月の間、4ヶ月間の欠測を除き6年3ヶ月の毎日の満潮位と干潮位を測定しその平均値を求め、さらにその平均値を算出したのです。このときの値が霊岸島水位標の読み値で1.1344mでした。これを東京湾平均海面すなわちT.P.0mとし全国の高さの基準として定めたのです。そしてその後の明治24年5月に東京都千代田区永田町に「日本水準原点」が設置され、このとき霊岸島水位観測所から原点までの水準測量を行い、日本水準原点の高さ24.5000mを基準点としたのです。しかしこの値は、大正12年に起きた関東大震災の影響により昭和3年に24.4140mに改定され現在に至っています。

4.現在の霊岸島水位観測所
 日本の水準原点を生んだ令官島水位観測所も、その後の東京湾の埋め立てや隅田川の河川水の影響があり、水準原点の検証をするための観測所としては、理想的な位置とは言えなくなり、現在では神奈川県三浦半島油壺の観測所にその機能が移されています。
 現在の霊岸島水位観測所は荒川水系の工事実施基本計画や改修計画の策定及び改訂のための基礎データの観測を続けていますが、隅田川のテラス護岸の施行に伴い平成6年5月に元の位置から約36m下流に観測所を移設しました。
 元の観測所の位置には、その歴史的経緯を永く後世に伝えるため、観測柱を正面にシンボル柱として設置しました。また新しい観測所の3角形のフレームは、土木や建築の設計図などに高さを表す記号として用いられる▽をイメージし、その下端部はA.P.0mを指し、その1辺の長さは観測所位置のある東経139°47’にちなみ13.947mとしています。
 観測室については、斜方十二面体という形で立方体それぞれの面に後輩45°の四角錐を付加したような形をしていて、川に沿って視点を移動していくと正方形、正六角形、八角形と変化して見えるものです。

霊岸島検潮所・量水標跡

護岸工事で観測地点が移転したため、もともとの観測所があった場所には、観測柱がモニュメントして設置されている。

亀島川水門。水門の向こうには、南高橋がある。

防潮堤の耐震補強工事中でした。

江戸港発祥跡

近くには江戸港発祥跡がありました。

江戸港発祥跡
慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。昭和11年まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点として、にぎわった。
  東京京橋ライオンズクラブ
  結成35周年記念
  平成11年1月吉日建立

離島への汽船発着所として
東京湾汽船は明治22年、この地に設立された
町には6軒の旅館があ、島の人々で賑わった
 旧町名越前堀は越前松平家の周囲に堀があったことに由来する
 地名将監は幕府奉行職御船手(海兵団)向井将監の屋敷跡に由来する
 霊岸島検潮舎は、海抜の原点で、この大川のテラス内にある
     越前堀将監21号住民建立


場所

https://goo.gl/maps/ui5sXHkt3r6k82mi8

https://goo.gl/maps/QYe1iemx9angQmMV9

https://goo.gl/maps/okvmLTa7kxfEDKLt8

※撮影は2022年5月

「動物慰霊之塔と陸軍習志野学校跡地」習志野の森散策

騎兵の町・軍郷習志野。
日露戦争当時、この地には4つの「騎兵聯隊」が駐留していた。
その後、第一次大戦後の軍縮や軍備近代化の流れなどもあり、騎兵連隊は規模を縮小し騎兵は戦車兵と統合し機甲兵としてなり、兵種としての騎兵は消滅していった。

習志野の騎兵第16聯隊の敷地は、昭和7年(1932)より、陸軍習志野学校の敷地へと編入されている。
今回のレポートは、そんな「陸軍習志野学校」にまつわる戦跡散策。


習志野の森

以前に、習志野の騎兵聯隊関連の散策を行った際に気になっていた場所があった。

https://senseki-kikou.net/?p=2829

「習志野の森」
立ち入りできず外から眺めるのみであったこの場所に、入れる機会があった。
当サイトでも何度かお世話になっていた日本戦跡協会さんが、「習志野の森」の保存活動と掃除を行っている団体(「習志野みどりの会」)と連絡をとり、とある日の午前中の掃除時間に見学できる道筋を用意し、そこに私も便乗する機会を得られたのだ。

そんなわけで。。。

本記事は、日本戦跡協会様との共同探索となります。
 日本戦跡協会サイト
  https://www.sensouiseki.com
 日本戦跡協会Twitter
  https://twitter.com/sensouiseki
 日本戦跡協会Facebook
  https://www.facebook.com/sensouiseki/

いつもありがとうございます。


習志野の騎兵

近衛師団
 騎兵第1旅団→麾下 騎兵13聯隊 騎兵14聯隊
第1師団
 騎兵第2旅団→麾下 騎兵15聯隊 騎兵16聯隊

日露戦争時の旅団長(少将)
 騎兵第1旅団長→秋山好古 【秋山支隊】
 騎兵第2旅団長→閑院宮載仁親王

習志野陸軍病院→習志野病院
騎兵第13聯隊→東邦大学
騎兵第14聯隊→日本大学
騎兵第15聯隊→東邦中学校高等学校
騎兵第16聯隊→大久保住宅や「習志野の森」←【今回の対象エリア】


位置関係(騎兵聯隊)

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8911-C1-1
昭和19年10月16日に大日本帝国陸軍が撮影した航空写真を加工。

位置関係(陸軍習志野学校)

騎兵第16聯隊は、昭和7年より陸軍習志野学校。
当初は、騎兵第16聯隊の跡地のみだったが、のちに騎兵第15聯隊の跡地にも敷地拡大している。

陸軍習志野学校周辺をクローズアップする。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M737-103
1948年01月18日に米軍が撮影した航空写真を加工。

見学の際に頂いた資料。
「学校内建物配置図」と照合する。

「習志野の森」該当部分を更に拡大。

「習志野の森」に残されている基礎などは、上記と照らし合わせると「学校本部」「実験講堂」「学生舎」「厠」「医務室」「将校集会所」などであることがわかった。

習志野演習場 周辺住民説明会(第1回)

http://www.env.go.jp/chemi/gas_inform/local/nara_en/01/index.html

環境省の説明会資料にて「習志野学校」関連、位置関係などがわかる資料が公開されている。


陸軍習志野学校

もと陸軍騎兵第16聯隊及び騎兵15聯隊の地に展開されたのが「陸軍習志野学校」(昭和8年~昭和20年)。
戦後は警察署・学校・住宅・保育園などに転用。
中心部は「千葉大腐食研究所」が展開されていたというが現在は移転。その跡地は「習志野の森」として国有地になっている。

「習志野の森」
現在は国有地となっており年に何度かの公開日以外は立入禁止。戦後に学校建屋を活用して展開された千葉大腐食研究所跡地に習志野学校時代の基礎や土台のみが残っている。奥には動物実験の犠牲になった「動物慰霊塔」もある。

陸軍習志野学校では、帝国陸軍の化学戦(毒ガス戦)に関する研究が行われた。「毒ガス学校」とも呼称されて、毒ガス兵器の開発や実験をしていたと思われやすいが、実際には、化学兵種である化兵・瓦斯兵に毒ガス戦に対する防御法の教育訓練する学校であったという。
陸軍習志野学校は運用訓練、大久野島の陸軍造兵廠忠海製造所で化学物質の製造が行われ北九州小倉の陸軍造兵廠曽根製造所まで輸送され兵器として製造(充填)されたという。

大正7年(1918)、陸軍省で臨時毒ガス調査委員会が設立。
大正8年、板橋陸軍火薬研究所を改編し陸軍技術本部に陸軍科学研究所が新設。
大正11年、戸山ヶ原に創設された陸軍化学研究所第2課化学兵器班で研究開始。
大正15年、参謀本部内に毒ガス研究会が設置。
昭和4年(1929)、化学兵器を製造する大久野島忠海製造所が稼動開始。
昭和8年(1933)、毒ガスを中心とする化学戦学校として習志野学校が開校。同時に細菌戦は関東軍防疫給水部本部(731部隊)で行うことも決定。

昭和20年の終戦時、学校は空襲を受けずほぼ無傷の状態であったが、校内では文書や設備の破壊・焼却が行われた。
戦後は、警察署・学校・住宅・保育園などに転用。特に中心施設があった騎兵第16連隊跡地には千葉大学の分院・附属の腐敗研究所などが置かれた。1977年(昭和52年)腐敗研究所が千葉市内に移転した跡は、「習志野の森」となっている。
習志野の森も再開発で失われるところであったが、貴重な在来種「カントウタンポポ生息地」として「習志野みどりの会」による緑地保全活動が行われている。


動物慰霊之塔(習志野の森)

陸軍習志野学校の敷地内に残る慰霊塔。登戸研究所もそうであったが、実験での犠牲となった動物たちを慰霊する空間。敷地の端ではなく、本部と講堂と学生舎の中間に建立されていた。

動物慰霊之塔
 〇〇〇〇〇〇〇〇

慰霊之塔に刻まれている揮毫者の名前は削りとられていた。

揮毫者の名前を何らかの理由で削ったものと思われるが、削られた理由は不詳。
上4文字が「陸軍少将」と読めることから、陸軍習志野学校校長など、それなりの立場であった人物であったことは容易に予想できる。
その上で、裏面は「皇紀2600年」に建立されたことが刻まれている。
皇紀2600年=1940年(昭和15年)であれば、ちょうど陸軍習志野学校第4代校長の 西原貫治 少将(陸士23期)が、立場も時期も該当する。最後の漢字の削られ方も「治」とも読めそうだ。

西原貫治(にしはらかんじ)は、陸軍習志野学校幹事や陸軍習志野学校校長、化兵監、第4軍司令官、第57軍司令官などを歴任し、1945年(昭和20年)10月、西部軍管区司令官となり、翌月、予備役に編入され、同年12月から翌年3月にかけて西部復員監を務めている。

皇紀二千六百年一月建之


陸軍習志野学校跡地散策(習志野の森散策)

清掃開放日に許可を得て見学を実施。
一般開放は年4回(4月、6月、8月、11月の第一土曜日1000-1600)とされているが、実際の実施の可否は、都度確認でお願い致します。

入り口の門柱脇のレンがは、当時のものと思われます。

習志野の森。

このあたりに「貯水池」があったと思われる。

貯水池の隣で、「この字型」に残るレンガ基礎は「厠」の跡か?

貯水池と厠の北側は、学校本部。
学校本部の階上は研部、階下は経理室。

写真を撮っているうちに位置関係がわからなくなりました。。。

学生舎の入り口?

手洗所。水道管も残っている。

電柱も残っている。

境界杭

基礎であることはわかるが、何がなにやら、位置関係をトレースせずに写真を撮っていたので、整理ができていない状況です。

習志野の森エリアの建屋位置関係を後学のためにメモしておきます。

乱暴に記載するとこんな感じ。

        【実験講堂】
      【慰霊塔】 【厠】 【印刷所】 
【学 校 本 部】【学 生 舎】
【貯水池】【厠】     【貯水池】
【衛兵所】 【医務室】 【将校集会所】
【表門】

今回まとめることで、位置関係を把握できたので、これはわかるように写真を取り直そう。。。
また、訪問したいと思います。

掲載が遅くなってしまいましたが、「習志野みどりの会」の皆様と、日本戦跡協会様と、ありがとうございました。

※2022年1月撮影

https://goo.gl/maps/NHn3wesHvVCd7bpM6


関連リンク

習志野みどりの会

https://commu-chika.jp/organizations/50

https://narashino.mypl.net/commu-chika/50


陸軍中野学校

陸軍登戸研究所

習志野関連

毛呂駅(昭和7年の駅本屋)

JR八高線。
文字通りに八王子と高崎を結んでいる鉄道。現在は八王子ー高麗川の南側は電化区間として電車が走り、高麗川ー高崎の北側は非電化区間として気動車(ディーゼル車)が走っている。非電化の鉄道としては埼玉県唯一。東京都内のJRとしては唯一の地方交通線。

八高線

昭和6年(1931)に、「東京府八王子ヨリ埼玉県飯能ヲ経テ群馬県高崎ニ至ル鉄道」として建設が開始。八高南線として八王子駅ー東飯能駅が開業。八高北線として倉賀野駅ー児玉駅間が開業。
昭和8年に南線は東飯能駅ー越生駅間、北線は児玉駅ー寄居駅間が延伸開業。
昭和9年3月に、南線は越生駅ー小川町駅まで延伸し、昭和9年10月6日に小川町駅ー寄居駅が延伸し、全線開通となる。

毛呂駅

昭和8年(1933)4月15日、八高線が東飯能駅ー越生駅まで開通とともに開業。
現在の駅舎は開業当時の姿を残しつつ、左側は増築なども施されている。

毛呂駅

毛筆を彫り込んだ駅名標。

三角形の屋根が可愛らしい。

座布団にぬくもりを感じる待合室。

入場券を購入しましてホームに。

いきなり、昭和感、全開ですよ。

駅長
STATIONMASTER

停第四号
驛本屋

開業 昭和八年四月十五日

建物財産標

本屋1号
昭和7年 月 日

ホーロー引きの行き先案内。
(琺瑯焼き付き)

ちょうど電車、、、もとい列車(気動車)が入線してきました。

首都圏近郊で貴重な昭和戦前の面影を残す木造駅舎。
機会がありましたら、是非に。


毛呂駅の近くには、武蔵国の古社がある。
界隈では、抜きん出た古社であり、オススメの神社でもあるので、あわせて是非に。

出雲伊波比神社

武蔵国入間郡延喜式内社・埼玉県内最古の神社建築・国重要文化財

http://jinja-kikou.net/tojyo.html#4

御祭神
大名牟遅神(おおなむちのかみ)
天穂日命(あめのほひのみこと)
品陀和気命(ほんだわけのみこと・応神天皇)
息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと他16柱

出雲を中心として国土経営・農事・産業・文化を興され、全ての災いを取り除かれたオオナムヂ神、天孫のために出雲の国土を移譲する国譲りに奔走し、オオナムヂ神が杵築宮(出雲大社)に入られたのち、そのみたまをいわい祀る司祭となられたアメノホヒ命(アマテラスの御子)の二柱を主祭神とした神社である。
古くは出雲臣(いずもおみ)が祭祀する社であったという。景行天皇53年(123年)に倭建命(ヤマトタケル命)が東征凱旋の際に、景行天皇から賜った「比々羅木鉾(ひひらぎのほこ)」を神体として侍臣である武日命(タケヒ命=大伴武日)に命じて社殿を創建し、東北に向けて鎮座させたという。今も本殿内で鉾の先を東北にむけているという。
当社は宝亀3年(772)12月の太政官府に朝廷の奉幣が絶えたのを怒り雷神を率いて入間郡の正倉を焼いたとされている神社で、中世に活躍する毛呂氏や越生氏が祭祀した神社だろうとされる。
本殿建築は流造一間社で屋根は桧皮葺形式、大永8年(享禄元年=1528年)9月15日に毛呂三河守藤原朝臣顕重が再建したもので、埼玉県内最古の室町期の神社建築であり、棟札二面とともに国指定重要文化財である。
中世期には茂呂(毛呂)明神、飛来明神、八幡宮とも称されていた。ちなみに八幡宮は源頼義父子が当社を参詣後に凱旋し、八幡宮を相殿にまつったことに始まり、明治期まで二社併立していた。明治4年に八幡宮その他を合祀し明治6年に郷社列格。
当社は、埼玉県内で「流鏑馬」(11月3日)が唯一毎年奉納される神社でもある。

出雲伊波比神社
忠魂碑
招魂碑

忠魂碑は元帥陸軍大将伯爵奥保鞏謹書。

出雲伊波比神社。

※2022年2月撮影


関連(周辺)

世界無名戦士之墓

関連(駅舎)

はじめに

https://senseki-kikou.net/?p=6348

松脂油採取の跡(井の頭自然文化園)

戦争末期。
苦肉の策として航空燃料原料としての利用が試みられたのが「松から採取された油」であった。
しかし労力と効率の割が悪く、また粗悪のために実用には至らず。
松の根からは「松根油」、樹皮からは「松脂油」が採取されたという。

その痕跡を「井の頭自然文化園」で探してみました…


井の頭恩賜公園(井の頭公園)

吉祥寺駅の南に広がる、井の頭池を中心とした公園。神田川は井の頭池を源としている。徳川家光が鷹狩りの際に休息した御殿を造営した場所でもあり、地名として「御殿山」と呼称されている。

井の頭自然文化園

当地には、明治38年(1905年)、渋沢栄一が、井の頭御殿山御料地の一角(現在の自然文化園本園)を皇室から拝借して、非行少年を収容する東京市養育院感化部(のちの「井の頭学校」)を創設したことにはじまる。
大正6年(1917年)御料地全体が東京市に下賜され「井の頭恩賜公園」となる。
昭和9年(1934年)「中之島小動物園」が開園。
昭和14年(1939年)「井の頭学校」移転。「中之島小動物園」を上野動物園規模の大動物園にする計画が立ち上がるが、戦時中ということもあり、予算も物資も不足。
昭和17年(1942年)5月17日に「井の頭自然文化園」が開園する。
昭和18年には、猛獣処分が井の頭自然文化園でも実施されていおり、ホッキョクグマ1頭、ニホングマ2頭、ラクダ3頭が処分されている。
昭和20年には、事実上の救援状態となる。
昭和22年、水生物園が再開。昭和26年に移動動物園が開催、昭和28年に北村西望がアトリエを設置。昭和29年、アジアゾウはな子が来日。昭和33年、北村西望から平和祈念像の原型や作品、アトリエなどが寄贈される。


松脂油採取の跡(井の頭自然文化園)

井の頭自然文化園の中心に位置する「大放飼場」のあたりにある松の木。
根本を見てみれば、人工的に削られた痕跡がありました。

今どきの感覚でいうと「ハート型」でかわいい、となるかもしれません。
この松の木の傷が、戦時中に油を採取した名残といっても、ピンと来ないかもしれませんが、これも立派な戦跡、です。

東京都井の頭自然文化園

小動物中心の動物園。


アジアゾウ はな子

終戦時、日本には名古屋東山動物園に2頭、京都市動物園に1頭のゾウが生き延びていただけであった。
1947年にタイ王国で生まれたアジアゾウの「はな子」は、戦後日本で、再びゾウの姿をみたいという声に応えるかたちで1947年に来日。
戦後にはじめて来日した像であった。
「はな子」は、公募で決まった名前であったが、これは戦争中に猛獣処分(餓死処分)された上野動物園の「花子」(ワンリー)に因んだ名前であった。

なお、昭和18年に「井の頭自然文化園」でも、猛獣処分により、ホッキョクグマ1頭、ニホングマ2頭、ラクダ3頭が処分されている。

はな子は2016年5月26日、69歳で永眠。


北村西望「アトリエ館」「彫刻館」

北村西望は、昭和を代表する彫刻家。
代表作は、長崎平和公園の「平和祈念像」、国会議事堂内「板垣退助翁像」など。

「平和祈念像」を作成するにあたり、大きなアトリエが必要となり、東京都が井の頭自然文化園内の敷地を提供。北村西望はアトリエ施設や作品を寄付という縁から、井の頭自然文化園内に北村西望作品が展示されることとなった。

「将軍の孫」と北村西望アトリエ

「将軍の孫像」の軍靴と、「橘中佐像」の軍靴は同一のものという。

加藤清正像

若き日の織田信長像

聖観世音菩薩

咆哮


彫刻館B館には、興味深い作品がいくつか集まっているので、是非とも足を運んでみてほしい。なお、館内は写真撮影は禁止。以下はテキスト紹介のみで。

橘中佐
1919年
北村西望の初めての公共彫刻。橘中佐は故郷の隣町出身。日露戦争で戦死。その死が惜しまれ、橘神社も建立されている。

寺内正毅元帥騎馬像
1921年
北村西望がはじめて制作した騎馬像でもある。赤坂の三宅坂に設置されていたが、像は失われ現在は台座のみ残されている。

山県有朋公騎馬像
1929年
当初は永田町の陸軍省前に置かれていたが戦後に撤去。
現在は山県の出身地である山口県萩市に復元されている。

閑院宮馬上像
1937年
閑院宮載仁親王殿下の騎馬像。

児玉源太郎大将騎馬像
1938年
北村西望最大の騎馬像で高さ5m。満洲に設置されていた。


松脂油から北村西望まで、目線を変えた見どころも豊富な井の頭自然文化園。
ちょっとしたスキマ時間に足を運んでみるのも楽しいかもしれません。

※撮影:2022年6月


参考リンク

https://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=news&inst=ino&link_num=26636

https://www.tokyo-zoo.net/zoo/ino/history.html


関連

松脂油採取の跡。

兼六園の戦跡散策

「軍艦と愛国」日本の行進曲の父・瀬戸口藤吉の墓(横須賀)

瀬戸口藤吉。
日本の行進曲の父。
日本が世界に誇る名行進曲「軍艦」(軍艦行進曲・軍艦マーチ)を作曲した軍楽師。

その瀬戸口藤吉の墓が横須賀にあるというので足を運んでみた。
(愛国行進曲が大好きだという思い入れもあり。)

瀬戸口藤吉

1868年6月29日(慶応4年5月10日) – 1941年(昭和16年)11月8日)
作曲家、海軍軍楽師。
軍艦行進曲や愛国行進曲を手掛けた「日本の行進曲の父」

瀬戸口藤吉は、明治28年に「海軍軍楽師」に任官。29歳であった明治30年頃に「軍艦」を作曲。
明治37年(1904)に海軍軍楽長(軍楽隊長)に昇進。この年から始まった日露戦争には出陣せず、明治38年の日本海海戦後の6月に連合艦隊旗艦の三笠に乗艦。その後、三笠は佐世保港で爆沈するが、瀬戸口藤吉は直前に上陸していて難を逃れている。
大正6年(1917)に、海軍軍楽特務少尉を定年退官、翌年に後備役となる。

第一線を引退していた瀬戸口藤吉であったが、昭和12年(1937)に、瀬戸口藤吉の曲が公募のあった「愛国行進曲」の作曲公募第一位(応募点数約10,000点)となる。
この「愛国行進曲」は「国民が永遠に愛唱すべき国民歌」として、そして「第二の国歌」(国民愛唱歌)として、広く歌われる名曲となった。

昭和16年11月8日、東京都麻布区の自宅にて死去。74歳。音楽葬として日比谷大音楽堂で本葬が行われた。
代表作は「行進曲軍艦」「敷島行進曲」「日本海海戦記念行進曲」「愛国行進曲」「野球行進曲」「ラジオ行進曲」「東京行進曲」「行進曲体育大行進」など。

2018年には、瀬戸口藤吉の生誕150周年を記念して、出身地とされる鹿児島垂水市に「記念碑」が建立され顕彰碑「瀬戸口藤吉翁之碑」とあわせて瀬戸口翁の偉業をたたえている。(私は未訪問ですが。)


行進曲「軍艦」(軍艦行進曲・軍艦マーチ)

軍艦
 作詞:鳥山啓 作曲:瀬戸口藤吉
海行かば トリオ(中間部)
 作詞:大伴家持 作曲:東儀季芳

守るも攻めるも 黒鉄の
浮かべる城ぞ 頼みなる
浮かべるその城 日の本の
皇国の四方を 守るべし
真鉄のその艦 日の本に
仇なす国を 攻めよかし

石炭の煙は 大洋の
竜かとばかり 靡くなり
弾撃つ響きは 雷の
聲かとばかり 響むなり
万里の波濤を 乗り越えて
皇國の光 輝かせ

海行かば 水漬く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かへりみはせじ

守るも攻めるも 黒鉄の
浮かべる城ぞ 頼みなる
浮かべるその城 日の本の
皇国の四方を 守るべし
真鉄のその艦 日の本に
仇なす国を 攻めよかし


愛国行進曲

 作詞:森川幸雄 作曲:瀬戸口藤吉

見よ東海の空明けて
旭日高く輝けば
天地の正氣潑剌と
希望は躍る大八洲
おお淸郞の朝雲に
聳ゆる富士の姿こそ
金甌無缺搖ぎなき
我が日本の誇なれ

起て一系の大君を
光と永久に戴きて
臣民我れら皆な共に
御稜威に副はん大使命
往け八紘を宇となし
四海の人を導きて
正しき平和打ち建てん
理想は花と咲き薰る

今幾度か我が上に
試練の嵐哮るとも
斷乎と守れ其の正義
進まん道は一つのみ
ああ悠遠の神代より
轟く步調 受け繼ぎて
大行進の 往く彼方
皇國常に 榮在れ


瀬戸口藤吉の墓

横須賀の常光寺。墓所の石段を登っていった先のしだれ桜の近くに、瀬戸口藤吉の墓があった。

先祖歴代之墓

瀬戸口氏

天樂院釋國芳吉祥居士
昭和16年11月8日 
瀬戸口藤吉

枝垂れ桜の下に。

常光寺

場所

https://goo.gl/maps/nJNby9GzLgR3GhGd7


行進曲「軍艦」の碑

行進曲 軍艦
碑文
行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長 瀬戸口藤吉氏によって作曲された 日本の勃興期における行進曲として親しまれ 未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである 世界3大行進曲の一つとして 音楽史を彩る稀有の名曲で 作曲されてから一世紀を迎える年にあたり 瀬戸口軍楽長がこよなく愛し 青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである 
 行進曲「軍艦」記念碑建立協賛会

行進曲 軍艦  
 鳥山啓作詞 
 瀬戸口藤吉作曲
一.守るも攻めるも黒金(くろがね)の
  浮かべる城ぞ頼みなる
  浮かべるその城日の本(もと)の
  皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし
  真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に
  仇なす国を攻めよかし
二.石炭(いわき)の煙は太洋(わだつみ)の
  龍(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
  弾丸撃(たまう)つ響きは雷(いかづち)の
  声かとばかりどよむなり
  万里の波濤を乗り越えて
  皇国の光輝(かが)やかせ
   平成十五年3月横須賀水交会修復

三笠には、瀬戸口藤吉自筆の「軍艦」譜面も保管されいると古い資料には記載があったが、2022年5月に訪ねたところ、譜面の陳列はなかった。三笠スタッフにも聞いてみたが責任者(三笠保存会の事務局)不在のために詳細不明という。後日、詳細が分かり次第で追記したいと思う。

撮影:2022年5月


関連

 「八清住宅」陸軍航空工廠従業員の集団住宅地(昭島)

東中神駅の南側に「八清」と呼ばれる住宅街がある。
地図を見てみると、円形のロータリーが住宅地の中に今も残っている。

八清の由来

八清の由来
 日中戦争から太平洋戦争へと軍国主義の道を歩む頃、我が国の軍需産業は飛躍的発展を遂げた。昭和13年、当地に設立された名古屋造兵廠立川製作所(後の陸軍航空咬傷)も拡張につぐ拡張という有様で翌14年には従業員2万余を数える大軍需工場へと急成長した。こうした状況下、同工廠では早急なる従業員住宅建設の必要にせまられ当時一面の桑畑であった福島827番地付近、約3万坪の地を買収、その建設に着手した。
 工事は軍の協力下、八日市屋清太郎氏によって進められ、同16年10月までに約500戸の住宅と集会所、市場、映画館、浴場、神社、公園などの福利施設が竣工。ここにロータリーを中心として放射線状にに区画された大規模な住宅街が誕生した。即ちこれが八清住宅の起源であり八清という名称は工事をした八日市屋清太郎氏の名に由来するものである。
 戦後、これらの住宅は住民に払い下げられ、また市場(マーケット)を中心に商店街としての新たな街づくりも進められ、その結果今日見られるような市内屈指の住宅商店街”八清”が生まれたのである。
ここに恒久の平和を念願し建立したものである。

八日市屋清太郎は博覧会の仮設建築を得意としていた「ランカイ屋」。
「博覧会の八日市屋」で著名であったという。
初代八日市屋清太郎と二代目八日市屋清太郎がいる。
数々の博覧会をこなし仮設建築のノウハウで、軍部に依頼に答えるべく驚くべき速さで工場従業員住宅の建設をした人物。

名古屋陸軍工廠熱田製造所の飛行機製造設備と千種の発動機製造施設が立川に移転するにあたり、新工場予定地の近くに、短納期で住宅建設を行うことが必要となり、二代目八日市屋清太郎が、23歳の時に陸軍施設の移転協力を行った。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C23-C7-138
昭和16年(1941年)06月25日、日本陸軍撮影の航空写真。

中央上「陸軍航空工廠」
右上 「陸軍航空技術研究所」
右  「陸軍航空工廠立川支廠」

八清住宅を拡大。昭和16年。

こちらは戦後。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R360-115
昭和22年(1947年)10月24日、米軍撮影の航空写真。

昭和16年の頃と比べるとだいぶ密度が上がってきている。

八清住宅を拡大。昭和22年。

Google航空写真で八清住宅の現在の様子を見てみる。
八清公園の円形もよく残っている。


八清住宅のロータリー

昭和16年に開発された八清住宅。最寄りとなる東中神駅は昭和17年7月に開業。戦時下の開業は軍需工場と従業員向け住宅の性質を考えれば、なっとくの開業。

中央円形部は防火水槽のような噴水のような水たまりと花壇。
そこを中心に八差路に道が伸びている。ちょっとおもしろい。

郵便局は今も昔もこの場所。

ベンチもある。

昭島市立玉川会館(東部出張所)は、元々は八清住宅管理事務所があった場所。
戦後の昭和町警察署もあったという。

隣のメインストリートたる「八清通り」には商店があつまっている。
食堂は昔からの佇まいがある。

年季の入ったコンクリート建屋もある。

八清通りには、住民の生活を支えるスーパーもある。

ありゃ、すずさんだ。
片渕須直監督の劇場版アニメ4作品の紹介があった。
八清通りの写真館さんにて。

参考

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1320715100/space/spaceD/D14.html#:~:text=%E3%80%8C%E5%85%AB%E6%B8%85%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%90%8D%E7%A7%B0%E3%81%AF,%E3%81%8C%E8%A1%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

場所

https://goo.gl/maps/VGTdmi8s5ceCbj1x6

撮影:2022年5月


関連

中神坂の防空壕跡(昭島)

昭島市の南側を走る「奥多摩街道」。
ざっと中神駅から南に1キロ。
そこに防空壕跡があるというので足を運んでみた。


中神坂の石垣

中神坂交差点周辺は見事な石垣が造成されている。
多摩川の玉石を使った石垣は、東京府が昭和6年に奥多摩街道の旧道の蛇行と急坂を直す改良工事の際に、工事を請け負った地元土建業者が造成したもの。

中神坂の防空壕跡

福巌寺南面の石垣には「防空壕」の入り口が残っている。昭和19年(1944年)ごろに地元の警防団が掘ったものという。当時は西角にあった別の防空壕と奥でつながっていたというが、現在は南側の入口跡しか残っていない。
昭和20年4月4日の空襲によって、防空壕入口付近で、警防団員が1名死亡しているという。

警防団は昭和14年(1939年)に「警防団令」施行で持って「空襲あるいは災害から市民を守る」ために組織された団体。警察及び消防の補助組織として機能していた。昭和22年(1947年)に警防団は廃止され、消防団に改組移行された。

参考

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1320715100/space/spaceC/C8.html

場所

https://goo.gl/maps/JTCKBiP3sNHeeXfp9

中神坂、奥多摩街道の石垣。
左手は中神日枝神社。

石垣が連なる奥多摩街道。


関連

昭和飛行機工業東京製作所の跡地散策(昭島)

昭島市。昭和3年(1928年)に発足した昭和村を前身とする。
立川陸軍飛行場の隣ということもあり、航空機関連の軍需工場が昭和村にも進出。
そんな昭和村に進出した「昭和飛行機」の名残を昭島に辿ってみる。


昭和飛行機工業株式会社

多摩四大航空機メーカーといえば、立川飛行機・日立航空機・中島飛行機、そして昭和飛行機。

昭和12年(1937年)6月5日に、三井系新興企業の「昭和飛行機工業株式会社」が設立され、翌昭和13年(1938年)には、昭和村(現在の昭島市)の「東京製作所」において、三井物産を経由して製造権を獲得した米ダグラスDC-3のライセンス生産を開始。
昭和飛行機工業株式会社は、米ダグラスDC-3をベースとした大日本帝国海軍の主力輸送機「零式輸送機」を430機を生産。その他海軍向け各種航空機を含めると700機の航空機を生産したという。

昭和村は、昭和飛行機とともに発展し、昭和16年に町制を施行し昭和町に。
戦後の昭和29年に昭和町と拝島村が合併し、昭島市が発足している。

昭和飛行機工業は、戦後はGHQによって航空機事業の全面禁止を余儀なくされた。昭和飛行機の航空機製造工場も賠償指定工場として接収を受け、米軍の各種車両(航空機燃料給油車・消防車・クレーン車・バスなど)・エンジン・航空機などの修理作業に従事。米国の新技術と技法を習熟し、民需転換後の新事業の基礎となった。
現在の昭和飛行機工業は、航空機内装美品や特殊車両などを手掛ける一方で、国内唯一のハニカム総合メーカーとしても確立し、自社保有地の都市開発業務を分社化している。

かつての昭和飛行機工業の広大な土地(滑走路跡など)は、「昭和の森ゴルフコース」「昭和の森テニスセンター」や「モリタウン」「モリパーク」「昭島つつじヶ丘ハイツ」などに生まれ変わっている。

昭和飛行機工業の格納庫は、屋内テニス場に。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-20
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真。

上記を拡大。
西には昭和飛行機工業の工場エリア。
中央に格納庫。
東には滑走路が広がっていることがわかる。

現在の航空写真。
西には引き続き、昭和飛行機工業の工場。
中央の格納庫は、昭和の森テニスセンターへ。
滑走路跡は、ハイツやカインズ、昭島市民会館、そして昭和の森ゴルフコースが広がっている。

格納庫部分を拡大。
格納庫が6棟並んでいる。

いまは格納庫が3棟、残っていることがわかる。
現在、当時の格納庫は、昭和の森テニススクールとして活用。

昭和飛行機の工場エリアを拡大。現在の南工場エリア。

工場特有のノコギリ屋根が残っているのがわかる。
ただノコギリ建屋の東3分の1が削られていることもわかる。
10年ほど前は東工場にもノコギリ屋根の建屋があったが、現在は解体されグランドになっている。
(下記写真の緑の芝生グランドの場所)


昭和飛行機工業東京製作所の跡地散策

昭島駅から散策スタート。

「昭島駅」は、かつては「昭和前駅」と呼称されていた。
昭和飛行機工業東京製作所の従業員向けに昭和13年(1938)1月に青梅電気鉄道の「昭和前仮停留場」として開業。同年12月に「昭和前駅」に昇格している。


昭和飛行機本館跡地(昭和の森広場)

現在の「昭島市立昭和の森広場」が昭和飛行機本館の跡地。本館は2014年に取り壊しをされており、公園へと整備されている。

昭和飛行機工業株式会社 創設の地
当地は、昭和12年に航空機の製造を目的として創設された昭和飛行機工業株式会社の本館跡地であり、このヒマラヤスギは、創設時に植樹されたものです。永く当地の歴史を見届けてきたヒマラヤスギを保存し市民の憩いの場とするため、当地を「昭和の森広場」として昭島市へ寄贈いたします。
 平成27年8月10日 昭和飛行機工業株式会社

場所

https://goo.gl/maps/V8KmBuFG43UYboK57


昭和飛行機工業に残る往時の建屋?

いまでもいくつか往時からのものと思われる建屋が残っている。

昭和飛行機工業(南工場)の「ノコギリ屋根の工場」
昭和初期当時からの建屋と思われる。

2つ目の建屋。ノコギリ屋根の工場の西側に。

当時の航空写真を照らし合わせて、ノコギリ屋根の工場の西側の2棟の建屋も当時からのものと推測。
敷地外からは、前述のノコギリ建屋とあわせて、往時の建屋と推測できるものとして3棟を確認。

3つ目の建屋。わかりにくいが真ん中の木の左側の建屋。

給水施設の場所も、往時から変わりなしの雰囲気。

給水タンクは新しくなっている。かつての航空写真ではこの場所に給水塔が確認できる。

場所

https://goo.gl/maps/ep94XvWWj6PRadPe7


モリパークを横目に北上をする。


新昭和通

説明文を読むと、南に昭和12年に昭和飛行機工業が開設した「昭和通」があり、この通りが北側で対となる「新昭和通」とのこと。のちほど、南にも足を運んでみましょう。

新昭和通
 この道路は、「新昭和通」と呼称し、昭島駅北口の十字路から北へ進み、ゆるくカーブをしながら「フォレスト・イン昭和館」の南東角にある十字路に至る、全長594m・幅員16mの道路で、「昭和館」の建設に合わせて、全額昭和飛行機の負担で新しく築造され、昭島市に寄贈されたものであります。
 この工事は、道路用地にかかわる工場敷地内の建物等の移転と並行して、平成8年10月に着工、18ヶ月の工期を経て、平成10年4月17日開通しました。
 昭和12年の昭和飛行機創立当時、当社は機械設備等の搬入のため、旧奥多摩街道から諏訪神社脇を北上し宮沢地区を経て旧工場正門に至る、延長約2km・幅員11mの道路を当社の負担で新設し、地元に寄贈しました。
 その道路は、「昭和通」の名で、広く人々に親しまれていましたが、道路築造に合わせて当時建立された「昭和通」の石標は、年を経て散失してしまいました。しかしながらその後、地元有志の熱意により、昭島駅南側の宮沢町1丁目1番5号(株)カトービルドシステム前にこの石標は修復再建され今日に至っております。
 当社ではこれに呼応して、このたび昭島駅北側に新設した道路を「新昭和通」と称し、南の昭和12年当時の「昭和通」の石標と同型、同寸法の「新昭和通」の石標をここに建て、南北両道路ともども永く人々の記憶に留まり、また広く活用され親しまれることを念願するものであります。 
 平成10年4月吉日  昭和飛行機工業株式会社

場所

https://goo.gl/maps/yQoM7MYWn45BTxMR6

このあたりの道路が、工場から格納庫や滑走路方面に向かう、誘導路にもあたる。

フォレスト・イン 昭和館がある。


昭和飛行機工業東京製作所格納庫
(現・昭和の森テニススクール)

前述の航空写真では、仮に北から順番に番号を振ると「第一」「第二」「第四」の格納庫が残っていることがわかる。順番に見てみよう。

仮称の第一、第二格納庫。

場所

https://goo.gl/maps/cptteYKsAb8m5StY9

換気のために窓が空いていた。

中の様子は、公式サイトから流用させて頂く。

昭和の森テニスセンター 施設紹介

http://www.showasp.co.jp/sports/facilities

上記サイトから画像を参照

(仮称)第一格納庫を北から。横からの全景がよくわかる。

滑走路側へ。

(仮称)第二格納庫には「昭和の森テニスセンター」の看板が大きく掲げられている。

すこし南側の「(仮称)第四格納庫」。

(仮称)第四格納庫の東側、滑走路に面している側は、スライド式の扉。

今では開けることはなさそうだけれども。

西側(写真西側)に格納庫。道路は駐機場、東側(写真右側)は滑走路だった。

格納庫の北側。
写真右側が格納庫。左側(トヨタショップの側)が滑走路だった。

滑走路を北上する。

全然関係ないけど、HOYAのPENTAXがあった。
PENTAXのカメラ部門がHOYAからリコーに売却された際に、PENTAXのメディカル部門はHOYAに残った。PENTAXがユーザーとして目に止まったので。。。

北上すると、玉川上水にたどり着く。


昭和飛行機滑走路延伸コンクリート覆蓋部

玉川上水に沿って東に歩むと、蓋がかけられた箇所が見える。ここから玉川上水は長さ300mほど蓋をされている。
昭和飛行の敷地は南を青梅線、北を玉川上水とする広大な面積があり、その敷地の南北に試験飛行用の滑走路も設けていた。
昭和飛行機は、滑走路オーバーランの事故防止のために玉川上水に蓋をかけて滑走路を延長し玉川上水以北の土地も買収する計画があった。
玉川上水に対する覆蓋工事は東京市水道局の設計し、工事は昭和飛行機が実施。昭和15年(1940)秋頃に完成し、現在はそのまま緑道として活用されている。
なお、オーバーラン防止として玉川上水には覆蓋まではされたが、玉川上水北部の滑走路延伸そのものは未着工であった。

玉川上水覆蓋上部。違和感のない緑道。駐車場側が滑走路。現在はゴルフ場。

昭和15年に昭和飛行機によって、玉川上水にコンクリート覆蓋が実施された。

場所

https://goo.gl/maps/HZDjtX15u6DcMGBn8


昭和通

昭島駅の南側に。昭和飛行機が建設した道路の名残が残っている。

昭和通

昭和13年8月
昭和飛行機工業株式会社

「昭和通」の道しるべ
 この御影石(みかげいし)の標柱は、かつて、奥多摩街道から通称「昭和通」へ入る道しるべとして、阿弥陀寺の東南の角に戦後間もない頃まで建てられていたものです。
 昭和の初めまでは林や桑畑などのまだまだ武蔵野の面影を残すこの地域に、昭和12年、昭和飛行機工業(株)により軍用機の製造が始められるとともに、まちづくりや物資の輸送のために、道路の整備が進められました。
 奥多摩街道から現在地点を経て、かつての昭和前駅(現昭島駅)へ至る全長約2キロメートルのこの「昭和通」もまさに主要な道路の一つでありました。
 なお、現在の「昭和通り」は昭島駅の東側から奥多摩街道に通ずる南北の道路(市道昭島21号の一部と西247号)を指します。
 昭島市

場所

https://goo.gl/maps/HQqZSgNGrW7BJ12y6

現在の「昭和通り」

昭島駅の南口。よくみれば、北口と同じデザイン。

散策は以上。思ったよりも見どころ多数で散策のやりがいのあるエリアでした。

※撮影は2022年4月及び5月


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新境内地に御遷座した「千葉縣護國神社」

千葉縣護國神社(千葉県護國神社)が令和4年(2022年)に遷座しました。


ご遷座した千葉縣護國神社

千葉県出身5万7828柱の御英霊を祀る千葉縣護國神社。
千葉県千葉市中央区弁天から千葉県千葉市若葉区桜木へ、令和4年(2022)2月に御神体がご遷座した。

遷座の背景として、戦没者遺族や戦友の高齢化があり、バリアフリー化が必要であったということ、旧社殿老朽化に伴う耐震補強化が必要であったということが挙げられている。

遷座の背景は以下から。

千葉縣護國神社は、昭和42年9月亥鼻山から現境内地に御遷座以来50有余年、英霊奉慰顕彰の祭祀を御遺族・戦友・ 崇敬者また、地元の皆様のご支援・ご協力をいただきながら続けて参りました。しかしながら、本殿等主要建造物の老朽化が顕著となり、また近年の自然災害の影響に依る被害が毎年発生し、更に昭和40年代の建造物であるため、非耐震構造であり、かつ高齢御遺族・身体障害者の皆様方に対するバリアフリーにも対応しておらず、大変ご心配・ご不便をお掛けしている状態でありました。
 神社では、戦後75年余を経て、御遺族が年々減少している状況を鑑み、責任役員会に於いて将来の神社護持運営のあり方を、あらゆる角度から検討して参りました。その結果、今般神社本庁の承認を得て、新境内地(千葉市若葉区桜木4丁目2番) に新たに本殿・社務所等を移転し、御遷座申し上げることと相成りました。
 就きましては、御遺族・戦友・崇敬者各位のご理解を賜りまして、御創立百四十五年の記念事業として、千葉県戦歿英霊鎮まる齋場建設にあたり、真心籠もるご浄財をご奉賛いただき、度く、ご支援ご協力のほど謹んでお願い申し上げます。

https://www.chiba-gokoku.jp/gohousan.html

千葉縣護國神社

幕末の嘉永6年(1853年)以降
約一世紀にわたり、戊辰の役・西南の役・日清戦争・日露戦争・
第一次世界大戦・満州事変・支那事変・大東亜戦争などに
おいて、ひたすら「国安かれ」との一念のもとに、その尊い
いのちを捧げられた方々のみたまを、軍人だけでなく、従軍看護婦や児童、生徒など女性の御祭神を含み、「護國」の神として、5万7828柱をお祀り申し上げている。

明治11年1月27日に、千葉県庁公園に「千葉縣招魂社」として創建したことに始まる。
明治22年に千葉神社境内に奉遷。
昭和12年に猪鼻山に改築奉遷。
昭和42年に猪鼻山から千葉公園・千葉県忠霊塔隣地に改築奉遷。
令和4年に千葉公園・千葉県忠霊塔隣地から桜木の地に改築奉遷。


改築奉遷した千葉県護國神社

もともとは千葉市の市有地であった土地を、令和元年度の市有地売払でもって、千葉縣護國神社が2億3,541万円で落札。

千葉県護國神社の御英霊に、黙祷を捧げる。

真新しい境内。


神門脇には旧鎮座地から移設された記念碑などがある。

あゝ特攻 千葉県特攻勇士顕彰碑

あゝ特攻 
千葉県特攻勇士顕彰碑

我が祖国日本は昭和16-20年米英支ソ蘭豪と大東亜戦争を戦った
自国の安泰と欧米の植民地支配からアジアを解放するためだった
戦は連戦連勝南太平洋インド洋まで制圧したが物資の補給乏しく比島から沖縄と敵の反攻を許した
この時一機一艇で一艦に体当りする歴史に例のない必死の特攻戦法が採られた
貧しくとも誇り高い民族の苦渋の選択だった
二十歳前後の若者の死への旅立ちを国民は合掌して見送った
その雄姿を此処に置く敗戦国に育ち歴史を絶たれた現代の人よ
命に代えて何を守ろうとしたのか
この像に問いかけてほしい
戦後同26年5月3日連合国最高司令官マッカーサー元帥が米上院軍事外交合同委員会で日本の戦は自衛のためであったと証言し米報道機関が全米に発信した
日本国民よ
この事実を銘記せよ

(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会
日本人の心を伝える会
 碑文・揮毫 吉田學
 慰霊碑像デザイン 塚本哲
  平成23年5月

特別攻撃隊として出撃、散華された多くの千葉県出身英霊の遺徳顕彰のため公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会又靖國神社の御支援御協力のもと、千葉県下遺族戦友崇敬者各崇敬団体から寄せられた真心籠もる浄財を以て茲に「千葉県特攻勇姿之像」を謹んで建立する
 平成23年5月26日
  千葉県特攻勇姿之像 建設実行委員会
   委員長 臼井日出男

天皇陛下 皇后陛下 御親拝記念
皇太子殿下 皇太子妃殿下 御参拝記念

天皇皇后両陛下には 昭和48年 第28回国民体育大会開会式御臨場を機に10月13日当神社に後親拝
皇太子同妃両殿下には 同年第9回全国身体障害者スポーツ大会御臨場を機に10月28日御参拝遊ばされた
千葉県戦歿英霊の御嘉納のほどいかばかりかと拝察 また遺族 戦友 県民崇敬者の光栄と喜びとを茲に永久に伝える
 昭和49年6月
 千葉県護國神社奉賛会会長
 千葉県知事
  友納武人

千葉県護國神社御創立145年記念事業新境内地新社殿造営工事にあたり 記念すべき行幸啓碑を茲に新設し 畏き大御心を永く 後世に伝え 英霊の安らかならんことを祈念する
 令和4年2月25日
  一般財団法人 千葉県遺族会
   会長 椿 唯司


御朱印(千葉縣護國神社御遷座記念御朱印)

御遷座・新社殿造営記念参拝
千葉県護國神社 御朱印

場所
千葉モノレール「桜木駅」から徒歩約20分。

https://goo.gl/maps/SgsKqxmTWUCS67VSA


千葉縣護國神社旧鎮座地(22年5月)

下記は、平成29年(2017)の参拝記録。

そして、改めて旧鎮座地にも足を運んでみました。
令和4年(2022年)5月の記録です。

千葉モノレール「千葉公園」で下車。

すでに大方の社殿は解体中でした。

かつての千葉縣護國神社の「二の鳥居」の姿が残る。

かつての千葉縣護國神社の参道脇には千葉市が奉納した大灯籠も残る。

そして千葉縣護國神社「一の鳥居」もまだ残っている。

千葉縣護國神社一の鳥居

昭和17年6月

富岡徴兵保険相互会社

社号標も残っている。

社号標、一の鳥居、大灯籠などは、千葉公園の敷地だから、早急には解体などの手がつけられないのだろうか。
できることであれば、このまま残してほしいものではあるが。。。

護国神社通り

護国神社入口

この地には、すでに護国神社はない。。。
千葉縣護國神社の跡地にはマンションが建つともいわれている。。。
隣の千葉陸軍墓地跡地にたつ忠霊塔や慰霊碑群の景観を壊さなければよいのだが。


千葉縣護國神社旧鎮座地(23年8月)

千葉公園内に残っていた灯籠や鳥居、社号標なども撤去されておりました。

交差点の名称は、まだ「護國神社入口」のままでしたが、確実に、ここに神社があった痕跡がなくなりつつあります。


関連

はじめに

千葉県忠霊塔(千葉陸軍墓地跡・千葉公園)

千葉公園は戦前は鉄道連隊の演習場や陸軍墓地があった。しばらく前までは千葉縣護國神社もあったが、令和4年に遷座している。

遷座前

遷座後

また、千葉公園は下記の記事にも記載している。
千葉公園の鉄道連隊は以下から。


千葉県忠霊塔
(千葉陸軍墓地跡)

かつての「千葉陸軍墓地」
戦時中に忠霊塔の建設が始まっていたが、工事途中で終戦。戦後の昭和27年に工事が再開され 昭和29年4月建立。
日清戦争以降の戦没者を追悼するとともに恒久平和を祈念して千葉県が建設し管理している。(なお千葉公園そのものは千葉市管理、忠霊塔は千葉県の管理。)

https://www.pref.chiba.lg.jp/kenshidou/engo/tsuitou/chuureitou/goannai.html

千葉県陸軍合同碑

海軍の碑

謎の構造物

日中戦士鎮魂碑

由来記
 我が楓4256部隊(歩兵212聯隊)は、昭和14年陽春、佐倉57聯隊に於て第32師団管下の部隊として編成。
 軍旗を親授され、同年端午節屯営を出発北支派遣、山東省魯西道の治安警備に当たり、昭和19年壕北ハルマヘラに転進現地において軍旗を奉焼。 渡史数か月後には第1大隊、長田部隊長を始め数百名の戦死者を輩出、部隊は壊滅状態となる。所謂「梁山事件」である。各隊は駐屯地周辺における寧日なき作戦、討伐行は、日中彼我双方に幾多の戦死者を出す。 日中両国戦士の立場に相反し、砲火を交え、救国の美名の下、戦線に立ち散兵戦に散華した。
 日中両国戦士の遺族一統の心中を思う時正に断腸の感あり。
 日中国交正常化した今我が魯桜会有志は「永久不戦」を誓い両国戦没者の怒れる魂よ鎮まり給えと、「日中戦士鎮魂碑」を建立したものである。
  昭和52年4月吉日 建立


千葉県出身 陸軍少年飛行兵 慰霊之碑

千葉県出身 
陸軍少年飛行兵 
慰霊之碑
 千葉県知事 友納武人謹書

平和の翼(由来)
 戦火絶えて27年 いま私達の胸に去来するものは、大空に憧れ、大空に生き、そして大空に散って行った君達のあの林檎のような頬っぺと澄みきった眼差しだ。今日の平和な日本の繁栄は君達の尊い尊い死によって築かれたものなのだ。
 若くして大空の華と散った君達の至純な姿を忘れぬために、再び戦争を繰り返さぬことを誓いながら、私達は「平和の翼」の碑を此の地に建てた。
 亡き友よ、安らかに眠り給え。そして、愛する日本を、美しい郷土を、永久に護り給え。
  昭和47年8月 建立
   元陸軍少年飛行兵 千葉県出身 生存者 一同


慰霊碑 支那駐屯地歩兵第三聯隊

墓碑
 この聯隊は北清事変以来北支に駐留した支那駐屯軍の伝統を継ぎ 昭和13年3月中国北京において編成され、その兵員は千葉県人を主体とし、東京埼玉山梨その他の各府県出身者により構成されていた。
 その後聯隊は北京保定附近の警備に任じ同年5月一部をもって徐州会戦に臨み 同年7月新たに編成された第27師団(極兵団)の基幹部隊として武漢攻略戦に参加し、赫々たる武勲を遺し 発祥の地北支に帰還し冀忠及び冀東地区の警備討伐に任じ 昭和18年戦力培養のため満州国錦県に移駐した。翌19年再び中国戦線に出動、京漢作戦、湘桂作戦に参加し、転じて江西省在支米空軍基地を覆滅し、さらに広東省に進出し三南作戦江西作戦を闘い、北上中、南昌南方地において終戦を迎えた。
 この間将兵は炎熱に耐え、酷寒を忍び峻嶮に挑み、困苦欠乏を極めたなかに常に勇戦して聯隊の名誉を高めた。不幸戦歿した2300余柱の英霊は故国の平和と繁栄を知ることなく今なお中国大陸の山野に眠っている。この尊い犠牲こそ今日の礎石であったことを銘肝し、ここ郷土の地に碑を刻んで諸霊の冥福を祈る。
 昭和54年7月22日
  支駐歩三戦友一同 建立

愛馬慰霊


鎮魂 シベリア強制抑留死没者慰霊碑

鎮魂
悲惨を極めた第2次大戦は、日本が連合国のポツダム宣言を受諾して終結した。
しかし、多くの将兵は酷寒のシベリアなどに抑留され、長期にわたり、労役に就かされた。
戦友の多くは、厳しい環境の中で病と戦いながら望郷の願いも空しく、凍土の中に永遠の眠りについている。
亡き同胞の昔日を偲び世界の恒久平和を祈念して、この碑を建立する。
 1996年3月吉日
 財団法人全国強制抑留者協会千葉県支部連合会 建立

大地

忠魂(鉄道隊創立80周年記念忠魂碑)

日本鉄道隊創立80周年記念忠魂碑改築由来
 我が鉄道隊の淵源は日清戦役直後中野に1大隊が創設されたのに始まる。爾来北清事変・日露戦役・青島戦役・シベリヤ出兵・満州事変と累次の征戦に参加し、赫々たる武勲を奏した。 此の間大隊は連隊に改編千葉津田沼に分屯していたが大正7年夫々鉄1、鉄2にかくちょうされ、更に満州事変後満州に第3・第4が新設常駐新たに装甲車の装備も加えられ名実共に野戦鉄道隊たるに至った。
 支那事変勃発するや鉄道隊は殆どその全力を以て北支に転戦常に軍の戦闘にあって活躍鉄緒戦を有利ならしめ爾来鉄一は中支に、鉄五は南支に、次いで仏印に転戦大東亜戦争突入と共に鉄五・鉄九は海陸相携えてマレー半島を席捲爾後鉄五はビルマに転進戡定作戦終了と共に反転鉄九と共に困難辛苦に絶する世紀の大作戦泰緬鉄道の建設等其戦力を遺憾なく発揮軍の作戦に貢献するところ頗る大であった。此の間或は剣電弾雨に斃れ、或は瘴癘病魔に斃れ名を鬼籍に列つれ、多くの英霊に対し、其の遺勲を伝え、追慕惜く能わざるものあり、茲に碑を建立し、其の遺勲を永遠に伝え、其の霊を慰めんとする次第である。
  昭和50年11月23日 建立
   地元発起人代表 鉄道聯隊会会長 藤原勝正 誌

「荒木大尉の脱線器装着戦闘場面の銅板額」について
 大東亜戦争が勃発して軍需物資が欠乏し、町内の金属類「火鉢、半鐘」と同様に大尉の銅像も供出されることになった。
 台座を壊す際に、この解体作業を担当した石屋の主人が大尉の武勲を語るこの銅板額の処分されるのを惜しみ、密かに自宅に持ち帰り保存していた。その後(昭和40年頃)旧鉄道第1聯隊の遺品として提出され、現自衛隊下志津高射学校資料室に保管されていた。
 この度、銅板額と銅像の除幕式に、当時学生で参列し、その後鉄道兵となり、また自衛隊のOBでもあり、現在、隊友会千葉県支部連合会の参与でもある私が、この銅板額をお預かりすることになった。今はその姿もない旧鉄道連隊の一部分の戦績に過ぎないかもしれないが、荒木大尉の武勲を語る貴重な記念品として、鉄道隊創立百周年迎えるに当り行事の一端として、千葉県護国神社境内に在る鉄道隊の忠魂碑の傍に建立し、後世に伝える。
  平成7年
   全国鉄道連隊連合会 千葉市 黒川日出松 記


忠魂塔からは、すこし離れた場所にあるが、同じ千葉公園内に追加された新しい保存展示。あわせて掲載しておきます。残念ながら2020年に解体された格納庫構造物の一部。

陸軍気球連隊
第二格納庫のダイヤモンドトラス

 陸軍気球連隊は、昭和2年(1927年)現在の埼玉県所沢市から千葉市稲毛区作草部に移転してきた日本陸軍で唯一の軍用気球を扱う連隊でした。気球連隊では敵地の偵察や砲弾の着弾点を観測するための訓練を行い、戦時中は気球部隊を戦地に派遣し、太平洋戦争末期には風船爆弾の実施部隊となりました。
 気球連隊には気球を入れる格納庫が2つあり、第二格納庫は昭和9年(1934年)に完成、大きさは間口38m、奥行き44m、高さ18.5m、かまぼこ屋根の巨大な建物でした。昭和20年(1945年)の千葉空襲で焼け残った第二格納庫は戦後長く民間の倉庫として使われましたが、令和2年(2020年)に老朽化のため解体されました。
 この鉄骨は第二格納庫で使われた「ダイヤモンドトラス」と呼ばれる立体構造物の一部で、解体時に切り出したものです。細い鉄骨材を三角形につくり、アーチ型に組み合わせることで、柱のない大きな空間を足場なしで建設することができる、構造技術者 野澤一郎氏による戦前の著名な発明でした。
 この展示はコンクリート基礎から斜めに立ち上がるダイヤモンドトラスを再現しており、外側には赤いサビ止め、内側は銀色のペンキで塗られていたものを復元しています。

https://www.city.chiba.jp/somu/shichokoshitsu/hisho/hodo/documents/220401-2-1.pdf

https://www.city.chiba.jp/kyodo/tenji/kikakutenji/kikaku_2021_01.html

※撮影は2022年5月