Date-SKN のすべての投稿

高座海軍工廠の地下壕と台湾少年工顕彰碑(芹沢公園・座間)

以前、高座海軍工廠跡地散策を行ったときに、芹沢公園にも脚を運んだのが2017年12月だった。
その後に、様相が若干かわったとの噂を聞いたので、4年後の2021年12月に再訪してみました。

前回の記録は以下で。


芹沢公園の地下壕

高座海軍工廠(こうざかいぐんこうしょう)の地下工場跡。
地下壕には、「雷電」のミニチュア模型があった。

雷電

大日本帝国海軍の局地戦闘機(乙戦)「雷電」
零戦を設計した三菱の堀越二郎が陸上基地防空のための戦闘機(十四試局地戦闘機)として設計を手掛けた。
昭和18年(1943年)9月から生産開始となり、生産数は621機。三菱生産のほか、高座海軍工廠でも生産された。

「箱根東京軽石層」の白い地層がよくわかる。

芹沢公園の地下壕は、立ち入りはできないが、柵の隙間から地下壕の様子を伺うことができる。現在、2本の壕内がライトアップされており、そのうちのひとつには、壕内に雷電のミニチュアが置かれている。
ライトアップは、9時~17時のあいだ。

芹沢の地下壕

高座海軍工廠と地下壕

 第2次世界大戦末期の昭和19年、現在の東原と大和市・海老名市の一部にまたがる地域に、本土防衛を遂行するための戦闘機「雷電」を製造する目的で口座海軍工廠が建設されました。
 地上施設と並行して、日々激しさを増してゆく空襲を避け、工員と操業の安全を図るために、下栗原の目久尻川沿いや支流にあたる芹沢川の谷あいの垳面に無数の地下壕をが作られました。地下工場が3カ所と知か物資倉庫が10数か所のほか、地下変電所や救護用ベッドを備えた郷もあったと伝えられています。
 栗原の中丸地区(現在の芹沢公園)には、地下工場として、この地下壕が作られました。地下壕の中には、東西と南北にあみだくじのように地下壕が張り巡らされ、その総延長は1500m程となります。これは、赤土の関東ローム層を人力で掘り抜いたものです。
 現在では、殆どの地下壕は埋められて。当時の姿を知ることはできなくなりました。そこで、埋められていないこの壕を残して、戦争の招いた悲惨さを忘れずに久遠の平和を祈念したいと思います。

箱根東軽石層
 地下壕内の壁には、幅40cmほどの白い地層があります。この地層は「箱根東京軽石層」といい、約66,000年前に起きた箱根火山の最大級の噴火による火山灰で、軽石を主体とし、神奈川県を中心とする南関東一帯に降り積もったものです。白い地層の上の層は、噴火直後に起こった火砕流の堆積物で、高熱の火砕流に巻き込まれて炭化した木片や、大木が倒れた跡と推定されている構造も観察できます。
 この地下壕は火砕流がこの地を通過したことがわかる貴重な場所です。(危険防止のため、一般公開は行っておりません。)
 平成28年11月座間市教育委員会

芹沢公園 園路整備工事は
【特定防衛施設周辺整備調整交付金(一般助成)】
を活用して完成しました。
 防衛省南関東防衛局
 座間市公園緑政課

土砂が堆積したままの地下壕もそのまま残っている。


芹沢公園の地下壕から北エリアに移動。北駐車場・管理棟の近くに新しい顕彰碑が建立されている。
「台湾少年工顕彰碑」
2018年に再整備が行われ、顕彰碑とあせて、地下壕のライトアップも行われるようになった。

台湾少年工顕彰碑

台湾少年工顕彰碑
八千の台湾少年雷電を
   造りし歴史永遠に留めん
    高座日台交流の会 石川公弘
北に対き年の初めの祈りなり
   心の祖国に栄えあれかし
    台湾万葉歌人 元少年工 洪坤山
朝夕にひたすら祈るは台湾の
   平和なること友の身のこと
    元伊勢原高女勤労挺身隊 佐野た香
2018年10月20日
 台湾高座会
 台湾高座会 留日七五周年歓迎大会記念
  石川創一謹書  

台湾少年工顕彰碑の由来
 先の大戦中、航空機生産の労働力不足に直面した日本海軍は、その供給源を向学心に燃えていた台湾の若者に求めました。新鋭戦闘機(雷電)を生産しながら勉学に励めば、旧制工業中学の卒業資格を与え、将来は航空機技師への道を開くとの条件に、多くの台湾台湾少年が応募し、選抜試験を突破した八千四百余名が、海を渡って高座海軍工廠のあったこの地(神奈川県高座郡)にやってきました。
 戦局はすでに下り坂で、彼らが求めた勉学の機会はほとんど無く。その上新設の高座海軍工廠には十分な設備が無かったため、大半が全国各地の航空機工場に派遣され、慣れない寒さやひもじさに耐えながら懸命に働き、非常に高い評価を得ました。しかし米軍機の空襲などで六十名に上る尊い犠牲もありました。
 一九四五年八月一五日の敗戦により、志半ばで帰国した彼らを待っていたのは、四十年の長きにわたる戒厳令下の厳しい生活でしたが、それにも耐え抜き、戒厳令が解除されると直ちに同窓組織・台湾高座会を発足させ、李雪峰氏を会長にして日本との密度の高い交流を重ねてきました。
 二〇一八年は、台湾からの第一陣が日本本土に上陸した日から数えて七五年になります。私たちはこの機に台湾高座会留日七五周年歓迎大会実行委員会を組織し、台湾高座会の戦時下の貢献と戦後における台湾最大の親日団体としての活動に感謝の意を表すため、台湾少年工顕彰碑建立を計画しました。
 なお、台湾高座会の皆さんが今もこの高座の地を「第二の故郷」と呼ぶのは、工廠のあった高座の地の多くの農家のお母さんたちのやさしさに源があるようです。此の顕彰碑は当時の農家のお母さんたちへの感謝の碑でもあります。
 二〇一八年一〇月二〇日(平成三十年十月二十日)
 台湾高座会留日七五周年歓迎大会会長 衆議院議員 甘利明

なお、座間市内に高座海軍工廠があったが、台湾少年工たちは、大和市の宿舎から通っていた。
大和市内には、「台湾亭」と「戦没台湾少年の慰霊碑」がある。

以下も参照に。

高座海軍工廠と台湾少年工
「雷電」を作った海軍の工場

 太平洋戦争末期の昭和18(1943)年、現在の座間市東原一帯に海軍直属の工場が開設されました。この工場は当初は空C廠と呼ばれていましたが、昭和19(1944)年高座海軍工廠として正式に発足しました。
 この工場は約1万人規模の工場で、開設された目的は高度1万メートルを飛行する米軍爆撃機 B 29を迎
え新型戦闘機「雷電」を生産することでした。
 工廠の中心部は、およそ現在の相鉄線さがみ野駅から東中学校までですが、その敷地全体は当時の大和
町、海老名町、綾瀬町にまたがり、組み立て工場のほかに将校宿舎・行員宿舎・倉庫・診療所などを含んで
いました。
 この工場の従業員の約8割は台湾出身の少年工で、そのほかに軍人、学徒動員の学生、勤労女子挺身隊
などが働いていました。戦後、フジヤマのトビウオとして有名になった水泳選手の古橋広之進さんや、作家の
三島由紀夫さんもこの工場に在籍していました 。

台湾から来た少年たち
 高座海軍工廠では戦争末期に不足していた労働力を当時日本の統治下にあった台湾に求めました。台湾で行
われた選抜試験には多くの少年が応募し、国民学校高等科や旧制中学校などを卒業した、十代の優秀な少人
余りが、海軍軍属として海を渡って日本にやってきました。
 少年たちは、昭和18(1943)年から順次、現在の大和市上草柳にあった寄宿舎に入寮し基礎教育を受けた後、
高座海軍工廠をはじめ群馬県の中島飛行機製作所や名古屋の三菱航空機など各地の工場へ派遣されました。
その真面目な働きぶりと高い技術は派遣先の工場でも高く評価されました。
 しかし戦局が厳しくなると労働環境は悪化し、中には空襲で命を落とした少年もありました。大和市上草柳の善
徳寺には、亡くなった少年工60名の慰霊碑が建てられています。
 昭和20年8月に終戦を迎え、少年工たちは台湾へ戻ることになりました。翌年の帰国までの間、戦争直後多少
の混乱はあったものの、少年たちは自治組織を結成し、秩序を守って整然と帰国しました。
 戦後、元少年工たちは戒厳令下の台湾でも懸命に努力して故郷の発展に尽くし、また苦労した戦時を過ごした
この地を訪れ、若き日の思い出にふける人も少なくありません。
 出典:石川公弘著「二つの祖国を生きた少年工」「座間市史」ほか 

芹沢の地下壕
 ここ芹沢公園の芝生広場の地面の下には総延長1.5kmに及ぶ「あみだくじ」状の地下壕があります。この地下壕は、激しさを増す空襲を避けて、高座海軍工廠の部品工場を移すために人力で掘り抜かれたものです。
 また、この地下壕は「箱根東京軽石層」という白い特殊な地層が観察できる場所としても知られています。この地層は、約6万6千年前に起きた箱根火山の大噴火によって、軽石を含む火山灰が降り積もったものです。
 現在は、地下壕の入口部分を見学することができます。
  平成30年10月 座間市教育委員会


高座海軍工廠と地下工場と台湾少年工宿舎の位置関係


座間市役所

2020年6月に、座間市役所で公開が始まった「雷電の部品」

座間市>戦闘機「雷電」部品用展示ケースの寄贈式と展示の開始

https://www.city.zama.kanagawa.jp/www/contents/1592805582887/index.html

ぜひ見たいと思い、脚を伸ばしてみたところ、見当たらないので職員さんに確認してみたところ、2021年12月現在では公開休止中。しばらく相模原市に貸し出していて、戻ってきてからは、展示していないのだとか。

相模原市の展示、、、見に行けばよかった。

https://www.sagami-portal.com/city/scmblog/archives/27576

座間市役所での展示再開の際は、またWEBで告知があるとのことです。

撮影:2021年12月

武蔵村山の戦跡散策(高射砲第七聯隊跡地)

武蔵村山市の南東部は、陸軍関連の戦跡が点在している。
以前に、「東航」(東京陸軍少年飛行兵学校)の戦跡散策を行った。
今回は、ちょっと北側のエリアを散策。


高射砲第七聯隊
東部第七十八部隊
所沢陸軍航空整備学校立川教育隊

多摩地区の軍事施設は、大正11年(1922)に開設された陸軍第五飛行大隊 (後、陸軍飛行第五連隊)が、立川陸軍飛行場に駐屯したことに始まる。

その後、立川陸軍飛行場周辺には、所沢から陸軍航空本部技術部が移転し、立川飛行機が設立された。

昭和7年(1932)には、現在の武蔵村山市内の大南地区に大規模な陸軍飛行第五連隊の射爆場が完成。

昭和13年(1938)には、陸軍飛行第五連隊が千葉県柏(陸軍柏飛行場)に移動し、立川陸軍飛行場には実戦部隊がいなくなった。

昭和13年(1938) 8月 、第五連隊移転により空地 となった射爆場に、「東航」東京陸軍航空学校校舎が完成。武蔵村山の地で少年飛行兵の基礎訓練が開始となった。

昭和15年(1940)には、立川飛行場の付属施設として陸軍多摩飛行場が建設。(現在の横田基地)
同じ年に、東京陸軍航空学校の北に、陸軍東部第七十八部隊(高射砲第七聯隊)が駐屯。陸軍東部第七十八部隊の西隣には、近衛師団司令部直轄の二等陸軍病院として、村山陸軍病院が開設された。

昭和18年3月には陸軍少年飛行兵学校令の公布により、東京陸軍航空学校は東京陸軍少年飛行兵学校へ改称された。
昭和18年10月、戦局悪化の中、陸軍東部第七十八部隊は解隊され、その跡地に所沢陸軍航空整備学校立川教育隊が開設された。


高射砲第七聯隊跡地散策

武蔵村山市の南東に点在する戦跡を散策。
武蔵村山市が制定した歴史散策コースに基づいて散策を開始。

武蔵村山市>歴史散策コース(南東コース)

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/kankou/spots/rekishiminzoku/1001937/1012519.html

歴史散策コース(南東コース)地図

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/res/projects/default_project/_page/001/012/519/map_nantou.pdf

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)
陣営地土塁

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)陣営地境界の土塁は、陣営地の周囲に築かれ、その断面からは、もともと東南への傾斜地であった敷地を平らにならした状況が確認できます。また、土塁が残るさいかち公園付近には、射撃場や土塁とは別に10メートルほど高い土手に囲まれた火薬庫(弾薬庫)が設置されていました。

土塁が僅かに残っている。

さいかち公園には、火薬庫が設置されていたという。

陸軍用地であったこの場所は、戦後は武蔵村山市立第五小学校の校庭であったが、平成10年(1998年)に閉校となり公園化された。

場所

https://goo.gl/maps/JzWRe3f5QkJ5z9N7A


高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)
鉄塔基礎跡

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)陣営地内に設置されていた、4本あった鉄塔の跡地のひとつ。敷地中央に建てられた高さ30メートルの鉄塔4本にはワイヤーが張られ、模型飛行機を吊るして高射砲の照準訓練が行われていました。

雷塚公園

土盛りがある。これが、訓練鉄塔の盛土跡。
公園の奥、なんかそれっぽい土盛がある。

案内の杭がたっていた。無かったらわからないですね。

盛り土の上に、基礎?があった。

場所

https://goo.gl/maps/41yAd62jTqbXvxSU8


高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)
正門跡

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)は、昭和14年(1939)に部隊を新設され、翌年には村山村(学園地区)の陣営地へ兵舎や営庭のほか、トラックの運転練習場などが設置されました。
その後、昭和18年(1943)5月に高射砲第七連隊は解体され、この陣営地は同年9月に少年飛行兵短期制度(乙種制度)を行う所沢陸軍航空整備学校立川教育隊の教育訓練施設として転用されました。

村山医療センターの西側、学南通りと大学通りのT字交差点に、高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)の正門があった。

場所

https://goo.gl/maps/6NQ6n5NsxAtrSygK6


村山陸軍病院正門跡

昭和16年(1941)4月に近衛師団隷下の病院として開設。外科棟・内科棟・手術棟・伝染病棟が設置され、隣接する高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)、所沢陸軍航空整備学校立川教育隊や東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)、そのほか陸軍航空整備学校第二教育隊(立川陸軍航空整備学校(福生市))、東京陸軍少年通信兵学校(東村山市)などの傷病兵を収容しました。

現在の東京経済大学武蔵村山キャンパスのグランドが、かつての村山陸軍病院、であった。

村山陸軍病院の正門のある道路の突き当りが、高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)の正門であった。

場所

https://goo.gl/maps/3HwUSBVTkGxWcikG9


江戸街道

江戸と青梅を結んでいた街道。青梅街道とも。当時、陸軍用地として敷地拡大した際に、江戸街道が寸断された、と。

市内を東西に通る江戸街道は、昭和20年(1945)に軍備拡張のため所沢陸軍航空整備学校立川教育隊の敷地を拡張した際に街道の一部が寸断されましが、戦況悪化によって敷地は穀物の栽培地として転用されました。
戦後、拡張された敷地は農地改革で農家へ払い下げられ、昭和42年(1967)にもとの街道筋へと整備されました。

場所

https://goo.gl/maps/LYGXEHQbUfuhGizo7


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-74
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。


以下は、東京陸軍航空学校の話題になるので、前述の「東京陸軍少年飛行兵学校跡地散策」 記事を参照に。

東京陸軍航空学校練兵場跡地

東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)は、少年航空兵(少年飛行兵)へ1年間の基礎教育を行う施設で、普通学(国語作文・数学・歴史・理科・図画・英語(後に廃止))と軍事学を学び、教練・体操(フープ体操・マット体操・デンマーク体操)・剣術訓練を行っていました。また練兵場では、エンジンやプロペラといった動力装置が搭載されていない初歩操縦用グライダーを使用した訓練も行われていました。

そのまま南に歩けば、「東航」の地となる。
東航に関しては、以前のレポートでも触れていたので、かんたんに。

場所

https://goo.gl/maps/Tfs62zh915i6vL9S8


東京陸軍航空学校西通用門跡

東京陸軍航空学校は、村山村(大南地区)にあった立川小爆撃場地を転用して昭和13年(1938)に開設され、昭和18年(1943)に「東京陸軍少年飛行兵学校」と改称されました。敷地内には生徒舎や生徒自習室をはじめ、各分野の学科講堂、剣道場、練兵場などが設置され、南にある正門のほか、北に4カ所と東西に1カ所ずつ通用門が設置されていました。終戦後、学校施設の解体に伴い、正門や通用門も同時に解体されましたが、東通用門の門柱は市内にある禅昌寺(西2コース)境内に移設されています。

東航の西側通用門。このさきの住宅地の中に、歴史民俗資料館分館もある。揺籃之地碑や正門跡もある。

場所

https://goo.gl/maps/fkdwRZMpvkXs9nUh6


揺籃之地碑

昭和38年(1963)、東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)跡地の一角に陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑が建てられましたが、平成2年(1990)に周囲の宅地開発によって慰霊碑は禅昌寺へと移されました。同年10月、その跡地へ揺籃之地碑が建てられました。
平成19年(2007)7月に、市内に軍事施設が存在したことを後世へ伝えるため、東航正門跡碑とともに市の旧跡に指定されています。

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/kankou/spots/rekishiminzoku/1001937/1012519.html

場所

https://goo.gl/maps/zygSuWbVYrAQzqys8


東航正門跡碑

東京陸軍航空学校(略称:東航。後の東京陸軍少年飛行兵学校)が開校し、第6期生から20期生までの18,000余名の生徒が少年航空兵(少年飛行兵)の基礎教育訓練を受けました。基礎教育訓練を終えた1年後には上級教育(操縦・整備・通信)学校へ進学し、その後陸軍兵士となった生徒の約4,500名が戦争の犠牲となったことを後世へ伝えるため、平成11年(1999)4月に建てられました。

平成19年(2007)7月に、市内に軍事施設が存在したことを後世へ伝えるため、揺籃之地碑とともに市の旧跡に指定されています。

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/kankou/spots/rekishiminzoku/1001937/1012519.html

場所

https://goo.gl/maps/TH61x5H28gBeMSVX7

この日は、玉川上水駅から東大和南公園を経由して、そこからぐるっと武蔵村山市を経て、玉川上水駅に戻るコースを歩きました。ざっくり8.5キロで1時間45分。

東大和南公園では、2階部分も見学できるようになった日立航空機立川変電所の見学をしたわけですが、それはまた別記事にて。(以前の見学はこちら

※撮影は2021年12月


関連

椿山荘(山縣有朋邸跡)

山縣有朋は、数カ所に邸宅を持っていた。

本サイトでは、以前に、「山縣有朋邸庭園跡(三番町共用会議所)」を掲載していた。

他にも、山縣有朋は多くの邸宅を有していた。


 椿山荘 東京都文京区
  明治11年
 山縣有朋私邸 東京都千代田区
  明治18年
 無鄰菴 京都府左京区 京都別荘
  明治27~29年
 古稀庵 神奈川県小田原市 小田原別邸
  明治40年 
  70歳の古希を迎えた晩年の別荘

今回は、縁あって「椿山荘」に赴く機会がありましたので、夜でしたが庭園を(さくっと)見学してみました。


椿山荘

この地は、かつては椿が自生する景勝の地で「つばきやま」と呼ばれていた。

明治の元勲で日本軍閥の祖でもある山縣有朋が、明治11年(1878年)に、私財を投じて「つばきやま」を購入し庭、邸宅をつくり、「椿山荘」と命名。
椿山荘には、山県有朋自らが庭園を計画し高低差のある回遊式庭園が造られた。
山縣有朋の名庭園には、京都の無隣庵、小田原の古稀庵、そして、この椿山荘があり、この三園をあわせて「山縣三名園」とも呼称されている。

ホテル椿山荘東京公式サイト
ホテル椿山荘東京の歴史

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/garden/history/

現在のホテル椿山荘東京の庭園は、太平洋戦争で多くが焼失した後に1万本以上の樹木を植栽して新たに生まれ変わったもの。


椿山荘の碑

この碑は、山縣有朋公爵がこの地を気に入り、入手し、椿山荘の造営に着手し始めた当時を振り返り、(明治11年に)椿山荘と命名した際の感慨を刻んだ碑。

椿山荘の碑の内容
「明治10年の西南戦争は既に平定され、国内が平穏となって暇になった日にはしばしば城北の目白に出かけ、その大地におもしろさを感じた・・・」という内容から始まり、「後にここに住む人もこの自然を守り続け、この山水を楽しむような私の望み通りの人物であろうか」と締めくくられているこの碑は、明治30年に創られました。

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/garden/historic_site/

椿山荘の碑
風光明媚なこの地を気に入った山県有朋公は、明治11年(1878年)に土地を入手し、本邸と広大な庭園を造り「椿山荘」と名付けました。明治30年(1897年)に創られた「椿山荘の碑」には、この地と出会い、この地を愛した山縣公の感慨が刻まれています。(総高2m70cm、碑の幅90cm)

椿山荘記

椿山荘主山縣有朋撰


椿山荘庭園

霧というか雲海が凄い。。。
山縣有朋公もびっくりだろう。
この東京雲海の演出はコロナ渦で客足の鈍っていた2020年10月にスタートした新しい演出。

椿山荘の碑には、「後にここに住む人もこの自然を守り続け、この山水を楽しむような私の望み通りの人物であろうか」と最後に刻まれている。

椿山荘の庭園は山縣公の故郷である山口・萩の風景を再現したものであるという。
いま、ホテル椿山荘東京は、山縣有朋が愛した郷里・萩に流れる阿武川にかかる雲海の雲海を再現したかのように、国内最大大規模の霧噴霧で雲海を演出している。

東京雲海

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/unkai_lightup/


実は、椿山荘で会社の忘年会でした。
そうでもないと、椿山荘に行く機会はそうそうありません。

※撮影は2021年12月


ケルンの眺めと「萬年橋」

萬年橋(江東区)

昭和5年(1930)開通。鉄筋アーチ橋。

萬年橋は小名木川にかかる橋。萬年橋のすぐ西側で、小名木川は隅田川と合流する。合流先には清洲橋がある。そして萬年橋の東側には新小名木川水門が設置されている。
また北側は松尾芭蕉が居を構えていた場所でもあり江東区芭蕉記念館もある。

隅田川の南にある清須川は、萬年橋のたもとからの長めが最も美しく見える角度と言われており、清洲橋のモデルとなったドイツ・ケルンのライン川に架かる吊橋を連想させることから、「ケルンの眺め」と呼ばれている。

萬年橋

ケルンの眺め
 ここから前方に見える清洲橋は、ドイツ、ケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしております。
 この場所からの眺めが一番美しいといわれていおります。

新小名木川水門

※撮影は2021年11月


関連

令和3年12月8日の靖國神社(太平洋戦争開戦80年)

令和3年12月8日、太平洋戦争開戦の日から80年の節目に。

御英霊に感謝と哀悼を。
靖國神社に参拝をいたしました。

「はじまりの日」昭和16年12月8日(太平洋戦争開戦80年)

靖國神社(靖国神社・靖國神社)

雨降る社頭。
境内は靖國桜が紅葉に色付く。

大詔奉戴80年

午前10時。
深くは把握していないが、ある団体が、 大詔奉戴80年記念の昇殿参拝(正式参拝)をしていた。

大詔奉戴日
大東亜戦争(太平洋戦争)完遂のための大政翼賛の一環として1942年1月から終戦まで実施された国民運動。大東亜戦争開戦記念日(1941年12月8日)に「宣戦の詔勅」(開戦の詔書)が公布されたことにちなんで、毎月8日に設定された。

大詔奉戴日の趣旨
「皇國ノ隆替ト東亞ノ興廃トヲ決スベキ大東亞戰爭ノ展開ニ伴ヒ國民運動ノ方途亦畫期的ナル一大新展ヲ要請セラルルヲ以テ茲ニ宣戰ノ大詔ヲ渙發アラセラレタル日ヲ擧國戰爭完遂ノ源泉タラシムル日ト定メ曠古ノ大業ヲ翼賛スルニ遺算無カランコトヲ期セシメントス」

到着殿の靖國桜も紅葉色。

招魂斎庭
かつて、この地で、尊い戦没者の御霊が招魂され、そして靖國の御英霊として霊璽簿が奉安された。

遊就館

平日の午前中の遊就館は、80年目の12月8日であっても、静かであった。

黄色い参道。

御英霊を思いながら、知覧の「玉子丼」をいただく。
ほんのりとした甘さが口の中に広がり、感無量。

詳細は、以下にて。

鳥濱トメさんの玉子丼・靖國八千代食堂

12月8日、80年前の日本を意識しつつ、昇殿参拝(正式参拝)をしました。

御英霊に感謝と哀悼を。

80年目の12月8日。
靖國神社の御朱印をいただきました。
美濃和紙に社紋が刺繍された御朱印。美しいです。

80年目の12月8日といっても、世間的には平日。
静かな境内を、久しぶりにゆっくりと散策しました。

※撮影は太平洋戦争開戦80年目の令和3年(2021)12月8日


関連

「はじまりの日」昭和16年12月8日(太平洋戦争開戦の日)

80年前の節目を偲び、先人たちの生き様に想いを馳せる。
また、この日がやってくる。

はじまりの日。

大東亜戦争に散りし英霊たちに… 感謝を。 哀悼を。

憂国の想いを胸に抱き英霊に感謝する。
素晴らしき祖国・日本の為に、未曾有の国難に殉じた英霊に哀悼の誠を捧げ、今日の我が国の安泰と繁栄に感謝する。

12月8日。


忘れてはいけない「節目の日」。


昭和16年12月
「ヒノデハヤマガタ」(陸軍)
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」(海軍)

開戦の詔勅に先立つ12月1日に開戦を決意する「帝國國策遂行要領」が可決。
翌日12月2日には開戦日を伝える、「ヒノデハヤマガタ」(陸軍)「ニイタカヤマノボレ一二〇八」(海軍)が発令。


昭和16年12月8日
対米英宣戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)

昭和16年12月8日。
「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」(開戦の詔勅)が公布。

米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲に米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顯ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提攜スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ鬩クヲ悛メス米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剩ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隱忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衛ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
 御名御璽
昭和十六年十二月八日

米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書(国立公文書館)

※国立公文書館にて撮影

昭和16年12月8日
大詔を拝し奉りて

『大本営陸海軍部発表 十二月八日午前六時』
帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。

昭和16年12月8日
大東亜戦争(太平洋戦争、アジア・太平洋戦争)開戦に際し、
昭和天皇の名により「対米英宣戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)」が渙発されたことを受けて、同日午後7時過ぎ、内閣総理大臣・東條英機がラジオ放送を通じて日本国民に向けて戦争決意表明演説を実施。

大詔を拝し奉りて
「只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦を行いつつあります。東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘らず、遂に決裂の已むなきに至ったのであります。・・・(略)」

只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦を行いつつあります。東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘(かかわ)らず、遂に決裂の已(や)むなきに至ったのであります。
過般来政府は、あらゆる手段を尽し対米国交調整の成立に努力して参りましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、かえって英、蘭、支と連合して支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し帝国の一方的譲歩を強要して参りました。これに対し帝国は飽(あ)く迄(まで)平和的妥結の努力を続けましたが、米国は何ら反省の色を示さず今日に至りました。若(も)し帝国にして彼等の強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となるのであります。
事茲(ここ)に至りましては、帝国は現下の時局を打開し、自存自衛を全うする為(ため)、断乎として立ち上がるの已むなきに至ったのであります。今宣戦の大詔を拝しまして恐懼(きょうく)感激に堪(た)えません。私は不肖なりと雖(いえど)も一身を捧げて決死報国、唯々(ただただ)宸襟(しんきん)を安んじ奉らんとの念願のみであります。国民諸君も、亦(また)己が身を顧みず、醜(しこ)の御楯(みたて)たるの光栄を同じうせらるるものと信ずるものであります。

およそ勝利の要訣(ようけつ)は、「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、我等は、未だ嘗(か)つて戦いに敗れたことを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。我等は光輝ある祖国の歴史を、断じて、汚さざると共に、更に栄ある帝国の明日を建設せむことを固く誓うものであります。顧みれば、我等は今日まで隠忍、自重との最大限を重ねたのでありまするが、断じて安きを求めたものでなく、又敵の強大を惧(おそ)れたものでもありません。只管(ひたすら)、世界平和の維持と、人類の惨禍の防止とを顧念したるにほかなりません。しかも、敵の挑戦を受け祖国の生存と権威とが危うきに及びましては、蹶然(けつぜん)起(た)たざるを得ないのであります。

当面の敵は物資の豊富を誇り、これに依て世界の制覇を目指して居るのであります。この敵を粉砕し、東亜不動の新秩序を建設せむが為には、当然長期戦たることを予想せねばなりません。これと同時に絶大の建設的努力を要すること言を要しません。かくて、我等は飽くまで最後の勝利が祖国日本にあることを確信し、如何(いか)なる困難も障碍も克服して進まなければなりません。是(これ)こそ、昭和の御民(みたみ)我等に課せられたる天与の試錬であり、この試錬を突破して後にこそ、大東亜建設者としての栄誉を後世に担うことができるのであります。

この秋(とき)に当り満洲国及び中華民国との一徳一心の関係愈々(いよいよ)敦(あつ)く、独伊両国との盟約益々堅きを加えつつあるを、快欣とするものであります。帝国の隆替(りゅうたい)、東亜の興廃、正に此(こ)の一戦に在り、一億国民が一切を挙げて、国に報い国に殉ずるの時は今であります。八紘を宇と為す皇謨(こうぼ)の下に、此の尽忠報国の大精神ある限り、英米と雖も何等惧るるに足らないのであります。勝利は常に御稜威(みいつ)の下にありと確信致すものであります。

私は茲に、謹んで微衷を披瀝し、国民と共に、大業翼賛の丹心を誓う次第であります。

東条英機  大詔を拝し奉りて
日本ニュース第79号
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300464_00000&seg_number=001

開戦時の内閣

内閣總理大臣
内務大臣
陸軍大臣
 東條 英機
文部大臣
 橋田 邦彦
國務大臣
 鈴木 貞一
農林大臣
拓務大臣
 井野 碩哉
厚生大臣
 小泉 親彦
司法大臣
 岩村 通世
海軍大臣
 嶋田繁太郎
外務大臣
 東郷 茂德
逓信大臣
 寺島 健
大藏大臣
 賀屋 興宣
商工大臣
 岸 信介
鐵道大臣
 八田 嘉明


昭和16年12月8日
ハワイ真珠湾

昭和16年(1941)12月8日。
米国ハワイ真珠湾。
ハワイ時間12月7日7時53分(日本時間12月8日3時23分)。

帝國海軍航空隊より無電が発信される。
「トラトラトラ」「我、奇襲に成功せり」
連合国との長き戦争の始まりであった。

昭和16年12月1日。
柱島の連合艦隊旗艦「長門」から発信された電文は呉鎮守府を通じ海軍省を経て、12月2日に船橋送信所から無線にて南雲機動部隊を初めとする全艦隊に伝達された。

ハワイ沖合

東京時間12月8日午前零時
ハワイ時間7日午前4時30分、ワシントン時間7日午前10時)。
南雲忠一中将率いる「機動部隊」は、全てが順調に予定通りにオアフ島北方230マイルの地点に到着していた。

南雲中将直率の空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」「瑞鶴」「翔鶴」
支援部隊は、三川軍一中将率いる戦艦「比叡」「霧島」重巡「利根」「筑摩」
警戒隊は大森仙太郎少将率いる軽巡「阿武隈」と駆逐隊群。
周辺海域には哨戒のための潜水艦も張り巡らされていた。

ハワイ時間7日5時30分(東京時間12月8日1時)
「利根」「筑摩」のカタパルトから零式水上偵察機が一機ずつ直前偵察を開始。
偵察の結果、ハワイ真珠湾には戦艦8隻、重巡2隻、軽巡6隻を初め大小94隻が在泊。
しかし戦艦は全隻揃っていたが、空母は在泊していなかった。

ハワイ時間12月7日6時。 (東京時間12月8日1時30分)
南雲長官率いる機動部隊では戦闘ラッパが鳴り響き、第一次攻撃隊の出撃準備。
「発艦はじめ」の合図と共に次々と飛行機が舞い上がる。

第一次攻撃隊の総指揮官は淵田美津雄中佐。
制空隊零式艦上戦闘機43機、
九九式艦上爆撃機51機、
九七式艦上攻撃機89機。
うち九一式魚雷搭載40機、250キロ爆弾搭載51機、800キロ徹甲爆弾搭載49機。
しめて攻撃隊140機であった。

第一次攻撃隊発艦後の1時間15分後。
島崎重和少佐率いる第二次攻撃隊が発艦。
九九式艦爆78機、
九七式艦攻54機、
零式戦闘機35機。
第二次攻撃隊は魚雷を持たず、250キロ爆弾搭載105機、60キロ爆弾搭載27機であった。

真珠湾上空に向け飛び立った瞬間であった。
全てが幸運に恵まれていた。
単冠湾出港後、艦隊の航路を遮るものはなく、無謀とも危惧されていた米国ハワイ真珠湾を攻撃するという破天荒な目標は遂に実現の時が迫っていた。

実はこれより前に既に作戦行動は開始されていた。
ハワイ時間1941年12月6日23時。
日本海軍潜水艦5隻が真珠湾内の艦艇を攻撃するために、特殊潜航艇5隻を発進させていた。

ハワイ時間7日3時42分。
米国哨戒艇が特殊潜航艇の1隻を発見。

ハワイ時間7日6時45分(東京時間8日1時15分)。
警戒中の米駆逐艦ウォードが特殊潜航艇(甲標的)1隻を発見し撃沈。
彼ら特殊潜航艇5隻は未帰還となり、のちに九軍神として祀られる。

米駆逐艦ウォードが甲標的を撃沈したのは、南雲機動部隊航空隊が真珠湾攻撃を開始する1時間ほど前のことであった。
この事実は時を移さずに司令部に連絡され、それらの情報が司令長官キンメル大将に電話連絡されたのが7時40分(東京8日2時10分)であった。

そのまったく同じ時間。
ハワイ時間7時40分。(東京12月8日2時10分)
オアフ島上空に到達した淵田隊長が「展開命令」である信号弾を発射し攻撃態勢に入った瞬間でもあった。

7時49分「ト連送」(全軍突撃せよ)
7時53分「トラトラトラ」(我、奇襲に成功せり)

ハワイでの「はじまりの日」
日本側 搭乗員戦死54名 (一次攻撃20名・二次攻撃34名) 、甲標的戦死9名
米国側 2,345名戦死
合掌…


昭和16年12月8日
マレー半島

昭和16(1941)年12月8日。
戦争は真珠湾だけではなかった。
いや、全作戦の中心はマレー半島にあった。

主力艦隊で構成されていた真珠湾攻撃部隊に比べて、輸送部隊で構成され警戒厳重の中を進むマレー作戦の方が一層の危険を宿していた。

昭和16(1941)年12月4日午前7時。
日時をさかのぼる。
昭和16(1941)年12月4日午前7時。
開戦日を伝える「ヒノデハヤマガタ」の電報を受けた山下奉文陸軍中将率いる第二十五軍が乗船する輸送船団は、集結していた海南島を抜錨してマレー半島に向かっていた。

※山下奉文の墓は多磨霊園にある。 

東京時間12月6日13時45分。
輸送船団は仏領インドシナ・カモー岬南方の洋上を航行。
この地点からまっすぐに突き進めばマレー半島。作戦では輸送船団は数時間後に行動欺瞞の為に、バンコク・タイ湾に向かうかのごとく変進する予定になっていた。

マレー半島上陸部隊の上空に航空機による爆音が鳴り響く。
周辺警戒にあたっていた小澤治三郎海軍中将率いる護衛艦隊に警戒ブザーとラッパが鳴り響く。
予想された事態が遂にやってきた瞬間。当然、予想はしていた。しかし出来ることなら想定したくはなかった事態。

この時、マレー半島上陸輸送船団の上空に現れたのは、大型双発機イギリス空軍ロッキードハドソン爆撃機。
ハドソン機は上空で大きく旋回し輸送船団の規模を測るように飛行。
この英国機による輸送船団発見はバンコクに向かうと見せかける変針前のことであった。

どう見てもマレー半島に直進しているようにしかみえない船団。偵察を許すわけにもいかず撃墜するわけにもいかず、旗艦「鳥海」に置かれた南遺艦隊司令部は大混乱となる。
ここで、小澤治三郎南遺艦隊司令官は毅然と命令を発した。
「触接中ノ敵機ヲ撃墜セヨ」

触接中ノ敵機ヲ撃墜セヨ
南遺艦隊各艦の高角砲が一斉に火を吐く。
同時に連絡を受けた南部仏領インドシナ駐留の海軍第二十二航空戦隊からも英国機撃墜のために零式戦闘機が離陸。 ここで危険を察知した英国機は西方に機首を返し、そのまま零戦の追跡を振り切り遁走に成功した。

開戦の火蓋を切る
対英米戦の最初の一発は、小澤治三郎中将(のちの「最後の連合艦隊司令長官」)によって撃たれたのであった。
南遺艦隊司令部は輸送船に乗船している陸軍第二十五軍司令官山下奉文中将に対して「輸送船団ハ本六日英飛行機ニ依リソノ全貌ヲ発見セラレタリ」と伝達。

小澤長官は戦後、「マレー作戦で奇襲はもちろん望ましいが敵機が我が方を発見し触接をつづけるなら我が方の企図はすべて暴露してしまうであろう。それなら撃墜すべきだ。あまり心配しすぎて敵機をそのまま行動させておけばその結果はもっともっと重大なことになっただろう」と語っている。

ここで予定日より早く戦闘が始まっては、すべてが崩壊する。
「真珠湾に向かっている艦隊は?」
「マレー半島の輸送船団は大丈夫か?」
「フィリピンや香港やシンガポールの動きは?」
作戦中枢部はただ祈る思いで経過を見守るしかなかった。

南遺艦隊旗艦「鳥海」艦橋内の司令部でも、幕僚一同が不安に包まれていた。
すでに日は没していた。翌日には英米海軍が押し寄せるかもしれないという不安とともに・・・。
そんな中ただ一人、小澤治三郎中将だけは泰然自若と構え何も変わらぬ顔つきをしていた。

翌日にはプリンス・オブ・ウェールズを旗艦とする英国東洋艦隊を中心とした英米蘭連合艦隊も総出撃してくるに違いなかった。このプリンス・オブ・ウェールズに対抗できる戦艦は「長門「陸奥」しか日本海軍にはまだ存在しておらず、重巡主体の南遺艦隊では心許なかった。

※
開戦時には戦艦「大和」型は竣工前。 
戦艦「長門」は連合艦隊旗艦(山本五十六GF長官)として、姉妹艦「陸奥」とともに呉近海に待機中。 
大和・昭和16年(1941)12月16日竣工 
武蔵・昭和17年(1942)8月5日竣工 
「大和」は開戦12月8日の8日後に竣工したのだ。

遂にサイゴンに拠点を置く南方軍総司令官寺内寿一陸軍大将は悲痛な決断をせざるをえなかった。
「翌七日早朝ヨリ敵機ノ反復来襲ノ虞大ナルト認ム」という判断報告につづいて敵海空兵力の攻撃を受けた場合には海軍と協力して航空機による進行作戦を開始する、と…

東京の大本営は強烈な衝撃をうけた。
開戦日時は8日午前零時であるというのに、南方軍は7日早朝から戦闘開始は決定的だと伝えてきている。しかし寺内大将の判断は状況を鑑みて妥当なものではあるし、攻撃を受けた場合の航空機による進行作戦も当然なことであった。

そもそもマレー半島上陸作戦は当初から哨戒厳重な危険海域を航行するため、奇襲などがそう易々とできる場所ではなかった。
英国機に発見されるのも当然であったし充分予測されていたことでもあった。
大本営中枢では諦めの色も浮かびはじめていた…

マレー半島上陸部隊を乗せた輸送船団は12月6日午後7時、西北方に変針し予定通りに「欺瞞」のためバンコク・タイ湾方面に向かった。
この欺瞞行動が既に意味があるかどうかの疑問符が漂う中で、闇夜の海を輸送船団はただただ作戦遂行の為に進むだけであった。

昭和16年12月7日
緊張の12月7日がやってきた。
早朝から味方航空機が輸送船団上空掩護を行い、空気の緊迫さが一般の兵士にも伝わってきた。
たしかに昨日のイギリス機による日本軍輸送船団の偵察結果はシンガポールに置かれていた英国極東軍司令部に伝えられていた。

英軍はマレー防衛用対日作戦「マタドール作戦」を兼ねてから準備していた。
しかし、12月6日の時点では英国司令部は開戦を予期せず日本軍の行動目的がはっきりしない為に日本軍はタイに向かうものとして「マタドール作戦」の発動は行われず何の処置もとらなかった。


当時のタイ王国は日本同様にアジアにおける独立国。
日本(大日本帝国)とは友好国の関係にあった。
タイ国は開戦時は中立。
開戦後の1941年12月21日に日泰攻守同盟条約が締結。
タイ政府は1942年1月25日に英米に対して宣戦布告。条約破棄は1945年9月2日。

この時、英国東洋艦隊司令官のフィリップス大将は、米国アジア艦隊司令長官ハート大将との打ち合わせのためシンガポールを離れてフィリピンマニラにいた。
フィリップス大将は、日本艦隊・輸送船団発見の報を受け、急遽7日にシンガポールに引き返すことになっていた。

昭和16年12月7日9時50分
小澤提督率いる南遺艦隊所属特設水上機母艦「神川丸」から偵察のために発艦していた零式水上偵察機が、輸送船団にかなり近い上空で不意にイギリス空軍機コンソリデーテッドPBYカタリナ飛行艇と遭遇。

英軍カタリナ飛行艇が、そのまま真っ直ぐに飛行すると間違いなく輸送船団を発見してしまう、という状況の中で零式水上偵察機は必死の進路妨害と誘導を行うも上手くいかず。
英軍カタリナ飛行艇は日本輸送船団の方向へとなおも近づこうかと直進飛行を始めてしまう。

昭和16年12月7日10時15分。
前方から飛行してきた陸軍九七式戦闘機中隊が海軍零式水上偵察機と英国飛行艇が繰り広げていた異変に気づき援護を開始。
一方でカタリナ飛行艇は銃撃を加えて逃げようとした為、陸軍戦闘機隊は散開し飛行艇を撃墜してしまう。

英国飛行艇撃墜
陸軍機による英国飛行艇撃墜の報は、海軍南遺艦隊・陸軍南方軍総司令部に緊急報告された。
撃墜した事は輸送船団への偵察行為を阻止したという意味では大成功ではあったが、既に昨日に引き続く攻撃行動は8日の開戦日以前に既に戦闘が開始されたということでもあった。

昭和16年12月7日 10時30分
小澤治三郎南遺艦隊司令長官から、山下奉文陸軍第二十五軍司令官に対して「上陸ハ予定ノ如ク決行ス」の信号伝達。 予定海域に到達した船団は進路を変えコタバル・シンゴラ・パタニー等の上陸地点に向けて、英国軍の待ち構える海域へと航行を開始した。

英国極東司令部の決断
既に予定日より1日早い7日開戦の覚悟を決めた日本。
しかし、英国は未だにマタドール作戦を発動していなかった。
飛行艇一機が消息を絶ったという情報(撃墜されたとは想像できなかった)がシンガポール極東司令部には届いていたがまだ決断ができなかった。

英国極東司令部には、続々と日本軍の動きが伝えられる。
午後5時30分「輸送艦一隻、巡洋艦一隻、コタバル北方一一〇マイル。シンゴラニ向カウ」
午後6時30分「駆逐艦四隻、パタニー北方六〇マイル、海岸沿ニ南下中」
しかし英国は動かなかった。

イギリス極東軍司令部ブルックポーハム総司令官は、フィリップス東洋艦隊司令長官と協議を行った結果、12月8日早暁の偵察結果を待ってから作戦行動の判断することを決定。

12月7日23時20分。
英国は「マタドール作戦発動準備」の命令を下した。

昭和16年(1941)12月8日 午前0時45分
マレー半島上陸
佗美浩少将第二十三旅団がコタバル上陸開始。
続いて午前1時40分、山下奉文中将率いる第二十五軍司令部と第五師団主力がシンゴラ上陸。
午前2時、第五師団歩兵第四十二連隊他がパタニーに上陸。

昭和16年(1941)12月8日
マレー半島上陸作戦は、真珠湾攻撃に先立つ2時間前のことであった。
この報を受け、香港・フィリピン・グアム・ウェーキ等へ攻略部隊が一斉に活動を開始。

ここに「戦争」の火蓋が切られた…

この日よりシンガポールを攻略するまでマレー作戦は続く。
10日には英国東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ及び巡洋戦艦レパルスをマレー沖海戦にて沈め、山下奉文将軍は「マレーの虎」の勇名をはせ、翌年42年1月31日に極東英国軍は降伏する。

マレーでの「はじまりの日」
マレー作戦での日本側の犠牲は、戦死1,793名。
英国側(インド・オーストリア兵)含む犠牲は、戦死約5,000名とされている。
合掌…


節目の日「12月8日」

私たちの先祖が 祖国の安寧と発展を願い 祖国を護るために戦った その節目の日 「12月8日」
この節目の日ぐらいは、ご先祖様が、文字通りに命がけで戦った時代を振り返り往時を偲ぶよすがとしたい。

海行かば 
水漬く屍 山行かば 
草生す屍 大君の 
辺にこそ死なめ
かへり見はせじ

うみゆかば 
みづくかばね やまゆかば 
くさむすかばね おおきみの 
へにこそしなめ
かへりみはせじ

※80年後の令和3年12月5日夕刻に。

参考文献

『昭和16年12月8日 日米開戦・ハワイ大空襲に至る道』児島襄著 文春文庫 1996年9月
『史説 山下奉文』児島襄著 文芸春秋社 昭和44年5月
『太平洋戦争(上)』児島襄著 中公新書 昭和40年11月
『大本営が震えた日』吉村昭著 新潮文庫 昭和56年11月
『昭和史の謎を追う(上)』秦郁彦著 文芸春秋社 1993年3月
『最後の連合艦隊司令長官-勇将小沢治三郎の生涯』寺崎隆治著 光人社 1997年12月
『日本海軍総覧』 別冊歴史読本戦記シリーズ26 新人物往来社 1994年4月
『太平洋戦争海戦ガイド』福田誠・牧啓夫共著 新紀元社 1994年2月
『 歴史と旅・日米開戦50周年記念号 特集真珠湾奇襲攻撃』  秋田書店 平成3年12月号
※雑記のため、参考文献が「一次資料」ではないことをお詫びいたします。


そして、私は当たり前の事に気がついてしまったのです。


「はじまりの日」12月8日から、毎日が「節目の日」を迎えるということを。

命がけの日々がはじまったということを。

日々に感謝をしつつ、 日々を過ごして参ります…

巣鴨刑務所の排水口跡(移設保存)と池袋散策

池袋サンシャイン60の界隈には、「巣鴨監獄」(「巣鴨刑務所」「巣鴨拘置所」「巣鴨プリズン」)があった。

かつて、巣鴨刑務所があった台地の下、石垣には排水口があり、水窪川に排水がされていた。

巣鴨プリズンはなくなり、水窪川は暗渠となり、戦後にあった造幣局東京支局もなくなり、そして石垣と排水口のみがひっそりと残されていたが、近年の再開発で、石垣と排水口も消失した………と思っていた。

ところが、
造幣局東京支局跡地に2020年12月に完成した「IKE・SUNPARK(としまみどりの防災公園)」に、なんと排水口跡の石組みが移設保存されておりました。最近、その事実を知ったので、慌てて足を運んでみました。


巣鴨刑務所の石積みの排水口跡

あぁ、消失したと思っていた、石積みの排水口跡が、公園内に保存されていました。
これは嬉しい。本当に嬉しい。
価値が分かる方が居てくれて、本当にありがとうございます!

石積みのモニュメントについて
このアーチ状の石積みは、本公園の敷地の隣接道路(都市計画道路補助第176号線および特別区道41-340)を支えていた石垣の一部で、周辺道路整備で撤去した際に保存し、公園内に復元したものです。
かつてこの地には巣鴨刑務所があり、関東大震災で被害を受けその後縮小され、昭和14年、縮小により空地となった土地の一部に造幣局が移転してきました。この地には長らく貨幣の製造工場や博物館がありましたが、それらの機能は平成28年にさいたま市に移転し、その跡地に豊島区からの要請を受けたUR都市機構が本公園を整備しました。
そうした歴史から、かつてこの石積みは巣鴨刑務所の排水口として、この周辺を流れていた水窪川(現・暗渠)につながっていたのではないかと考えられています。石垣の石は他にもこの公園で再利用していますので探してみてください。

サンシャイン60に「巣鴨プリズン」があった。

公園内で再利用された石垣の名残の石?

石積みの排水口があった場所は、公園の南西。階段を降りたところ。
マンホールの先、にあった。

石積みの排水口があった頃の写真。
※以下の3枚は2017年撮影

近くには、撤去された石垣の残骸と思われれる石が集められていた。
これも公園内で再利用されると良いのだが。

豊島区立としまみどりの防災公園
(IKE・SUNPARK イケ・サンパーク)

非常に開放的な公園。最近の池袋の新しい公園は開放的なデザインが施された空間が多い。

https://ikesunpark.jp/

公園内には、IKEBUSも走ってくる。


せっかくだから、近隣の公園も「戦跡」として紹介していく。

豊島区立 東池袋中央公園
巣鴨プリズン跡

巣鴨プリズンの跡地。歴史を背負った公園は、ほかの公園と比べてどことなく重厚な空間。
心休まる公園ではないかもしれない。

永久平和を願って

永久平和を願って
碑裏文
第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。 戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
昭和五十五年六月

以下、巣鴨プリズン関係。

東池袋中央公園から見上げるサンシャイン60は、いつでも墓標のように感じてしまう。

歴史の重みとリンクして、公園としての空気も重い気がする。。。

※ここまでは撮影2021年11月


豊島区立南池袋公園
豊島区空襲犠牲者哀悼の碑

豊島区空襲犠牲者哀悼の碑(南池袋公園)

恒久の平和を願って
―豊島区空襲犠牲者哀悼の碑―

  昭和20年4月13日深夜から翌14日未明にかけて東京西北部一帯を襲った空襲は、豊島区の大半を焦土と化し、甚大な被害と深い悲しみをもたらしました。
  死者778人、負傷者2,523人、焼失家屋34,000戸にのぼる被害により罹災者の数は161,661人と、実に当時の人口の約7割に及びました。
  この空襲によって無念のうちに尊い命を失った数多くの犠牲者が、当時、「根津山」と呼ばれた、ここ南池袋公園の一角において埋葬されました。
  先の戦争を通じて空襲の犠牲者となった豊島区民の冥福を祈るとともに、この悲惨な事実を永く後世に伝え、二度と再び戦争による悲劇を繰り返さぬように、この碑を建立します。
 平成7年8月 豊島区

根津山の防空壕
 昭和20年4月13日の空襲では、南池袋公園に隣接する、当時根津山と云った林の中に造られた巨大な防空壕に避難者が殺到した。

南池袋公園も非常に開放的な公園。往時は、この地に空襲の犠牲者が埋葬された。
今は人々の憩いの場。

※撮影は2021年2月


豊島区立池袋西口公園
平和の像

池袋駅西口バスターミナルに隣接。東武側。メトロポリタン側。
ここに豊島区の「平和の像」が建立されている。

平和の像

平成2年に、世界恒久平和への願いを込めて、池袋西口公園に、「平和の像」が設置された。
作者は竹内不忘。

裸婦像の掲げた左手と足元には、平和の象徴である鳩が。

非核都市宣言
 世界の恒久平和は、人類共通の願いである。しかし、核軍拡競争は激化の一途をたどっている。われわれは、人類唯一の被爆国民として、平和憲法の精神に沿って核兵器の全面禁止と軍縮の推進について積極的な役割を果すべきである。
 よって、豊島区及び豊島区民は、わが日本の国是である「非核三原則(造らず、持たず、持ち込ませず)」が無視され、われわれの海や大地に核兵器が持ち込まれることを懸念し、わが豊島区の区域内にいかなる国の、いかなる核兵器も配備・貯蔵はもとより、飛来、通過することをも拒否する。
 豊島区及び豊島区民は、さらに他の自治体とも協力し、核兵器完全禁止・軍縮、全世界の非核武装化にむけて努力する。
 右 宣言する。
 昭和57年7月2日
  東京都豊島区

※撮影は2021年3月


立川飛行機「一式双発高等練習機・キ54」(立飛ホールディングス一般公開)

立飛ホールディングスの前身、立川飛行機が制作した飛行機が、里帰りし、一般公開された。
その様子を写真中心に以下に掲載。

写真多めですが、それだけ充実の展示。
ありがたいものを拝見させていただきました。

本記事は2021年公開時のものです。
2022年公開時の模様は下記の記事にて


立川飛行機一式双発高等練習機

一式双発高等練習機
大日本帝国陸軍の練習機。
キ番号は、「キ54」。
略称は、「一式双発高練」「一式双高練」「双発高練」など。
連合軍のコードネームは、「Hickory」(ヒッコリー、クルミの意味)
開発製造は、立川飛行機。
昭和16年(皇紀2601年、1941年)に正式採用。
立川飛行機として、はじめての自社開発全金属製双発機。
傑作機として重宝され総生産機数は、1342機に及ぶ。

国内唯一の「一式双発高等練習機」現存機

飛行第38戦隊所属機。昭和18年(1943年)9月27日、能代飛行場から離陸後にエンジントラブルによって十和田湖に不時着水。乗員4名のうち3名が死亡、1名が生還。
低温淡水の十和田湖底であったために、機体腐食が少なく当時の塗装が残るままで発見され、2012年に引き揚げ。
青森県立三沢航空科学館で展示されていたが、2020年に立飛ホールディングスに譲受された。
また同時に引き上がられた天風型エンジンの1基は製造を担当した東京瓦斯電気工業(日立航空機)の後継企業にあたる日野自動車が復元処理をおこなっている。

一般公開 平成28年 重要航空遺産認定
一式創発高等練習機
11月25日(木)~28日(日)10時~16時

一式創発高等練習機
公開展示 2021.11.25~28
株式会社 立飛ホールディングス

一般公開の趣旨
 一般公開を行う一式双発高等練習機は、立川飛行機(立飛ホールディングスの前身)が制作した機種の一つで、同機は昭和18年(1943年)に青森県の十和田湖に沈んで以来、今から9年前の平成24年9月に69年ぶりに引き揚げられ、青森県立三沢航空科学館に展示されていました。
 同機の雄姿や、かつて立川飛行機を中心とした科学技術の最先端を誇っていた街の歴史を伝えることが弊社の使命であると感じ、令和2年11月に同機を譲受、今回の一般公開に至りました。

一式双発高等練習機(キ五十四)
 昭和14年(1939年)3月、陸軍から多目的双発高等練習機の試作指示があり、立川飛行機にとっては初めて双発、全金属製、引込脚の機体を制作しました。
 操縦訓練だけではなく、航法、通信、射撃、写真撮影など、いわゆる機上作業全般に使用される練習機です。エンジンの信頼性が高く機体の耐久性に優れ、また操縦席からの視界がよく、機内も様々な訓練に対応できる広いスペースが確保されているなど使い勝手に優れている傑作機でした。
・乗員:5~9名
・発動機:空冷式星型9気筒
・全長:11,940mm
・全幅:17,900mm
・全高:3,580mm
・最大速度:376km/h/2,000m
・上昇限度:7,180m
・航続距離:960km~1,300km
・生産期間:昭和15年~昭和20年
・総生産機数:1,342機

青森県十和田湖から引き揚げ
 太平洋戦争の最中であった昭和18年9月27日、秋田県能代飛行場から飛び立って青森県八戸市高舘飛行場に向かった1機の陸軍機が、エンジントラブルで十和田湖に墜落したことがわかっていました。
 青森県立三沢航空科学館 館長 大柳繁造氏を中心とした引き揚げプロジェクトにより、平成24年9月、十和田湖に沈んでいた「一式双発高等練習機」が引き揚げられました。


一式双発高等練習機
「機首部」

操縦席からの視界が良いと好評だった前面部。

機首部

上部の窓は跳ね上がることができた。

胴体は、2つに割れていた。


一式双発高等練習機
「右翼エンジン部」

双発エンジンは、空冷単列星型9気筒。
東京瓦斯電気工業(日立航空機)が開発・製造した航空機用空冷星型エンジン
陸軍名称は「ハ13」、海軍名称は「天風」。陸海軍統合名称は「ハ23」。

一式双発高等練習機に使用されたエンジンは、「日立ハ13甲」 (九八式四五〇馬力発動機)。

主に、陸海軍の中間・高等練習機で使用されたエンジン。
陸軍では、「一式双発高等練習機」、「一式輸送機」、「二式高等練習機」などに採用。
海軍では、「赤とんぼ」と呼称された「九三式中間練習機」や、機上作業練習機「白菊」などにも採用されている。


一式双発高等練習機
「右翼主翼部」

補助翼
補助翼。展示機は補助翼を覆う羽布が失われていることで、フレームがむき出しの状態を観察できる。補助翼前方には操縦系統と繋がる動作機構が見えている。

一式双発高等練習機の翼型について
「キ五十四取扱参考」(立川飛行機株式会社、昭和18年1月)から、一式双発高等練習機の主翼の翼型は次のNACAの5桁シリーズ翼と呼ばれる種類であることが分かる。どのような翼型だろう。
 胴体中心 NACA23016
 翼端   NACA23009
(以下略)


一式双発高等練習機
「胴体外板・右部」

胴体外板
 附図第2「外板厚 胴体」と展示機。鮮やかに残る日章(日の丸)が描かれている胴体外板の薄さを実感していただきたい。日章の辺りは、厚さ0.5~0.7mmの高力アルミニウム合金板mいわゆる「超ジュラルミン」が使用されている。

一式双発高等練習機の金属材料について
「昭和15年 立川一式双発高等練習機(キ-54)飛行機設計附図」では、胴体外板や主翼骨格の補強材に「チ221」「チ222丙」、主翼結合部に「イ201」「イ202」という材料名称を見ることができる。
(以下略)


一式双発高等練習機
「垂直尾翼部」

垂直尾翼
 移送のための胴体から外された垂直尾翼。飛行第三八戦隊の舞台標識(三と八をうまく組み合わせている)が良く見てとれる。巣直安定版先端の黄色く塗装されている部分には、無線アンテナを張る為のリングも残っている。
 が、ここでは安定版や方向舵の構造にも注目したい。「キ五四取扱参考」からは「対象翼断面、付け根で翼弦長の8%、2本桁」と分かるが、胴体との結合部分は胴体から外さなければ絶対に見ることができない部分である。

飛行第38戦隊


一式双発高等練習機
「水平尾翼部」

水平尾翼
 こちらも移送のために胴体から外されている不意丙尾翼。「キ五十四取扱参考」にあるように、本機の水平尾翼は左右一体の一翼型で、「付け根で翼弦長の10%、2本桁」である。本機の昇降舵も左右一体で、胴体に隠れる部分に操縦索と繋がる槓桿やバランス錘がある。


一式双発高等練習機
「尾部」

尾部
 こちらは、水平尾翼を収納する胴体尾部部分で、左右一体型の水平尾翼を格納するため胴体が切り抜かれている。
 機体後端で尾翼という荷重が掛かる部分がこんな空洞なのには驚かされるが、水平尾翼と垂直尾翼が組み合わされことで、強固な構造となる。本機は水平尾翼と垂直尾翼とも胴体にボルト留めなのだが、展示機ではその結合部分はその結合箇所は分かりにくい。

尾部
 こちらは胴体の尾部端に装着される「尾端覆」(カバー)。プレス成型された数枚の外板を小骨と縦通材、リベット付けで組みあげたと思われ、外板の微妙なカーブ具合を実感していただきたい。その先端に「尾灯」も見えているが、その「保護覆」は失われている。


一式双発高等練習機
「胴体外板・左部」

「5541」は、製造番号


一式双発高等練習機
「機首操縦席内部」

通路扉
 実際に見ると「小さすぎる」という印象が強烈な、胴体と機首操縦席を結ぶ通路ドア。下部がややすぼまっており、上部も十分な広さとは言えず、背の高い人はもちろん通常体型の人でもスムーズに通れなかっただろうと推測される。体を横にして出入りしていたのだろうが、冬用飛行服を着たらつっかえる人が少なくなかっただろう。
 失われているが、ここには木製扉が付く。 


一式双発高等練習機
「同乗室内部」

 同乗室内部
  附図に見る甲型の道場室内部と展示機。附図で見えている空気導管)(今風に言えばエアコンダクト)は展示機では外されて別に展示されている。なお、展示機には内装材も残っていることがわかる。


一式双発高等練習機
「操縦装置」

操縦装置
 展示機の操縦装置。2つある「8の字」状の転輪(コントロールホイール)を
・左右に回転させて補助翼を操作し、機体を左右に傾け
・前後に動かして昇降舵を操作し、機首を上下させ
 機首を左右に振るには、ペダルの左右の踏み分けで方向舵を操作する。


一式双発高等練習機
「左翼主翼部」

ノルナ

フラップの操作油管

主翼結合部。
材質は強靭鋼。クロムモリブデン鋼。


一式双発高等練習機
「燃料タンク」

一式双発高等練習機の主燃料タンクは、主翼付け根前部に格納される内蔵タンク。
容量は1つが約300リットル。

燃料タンク
 このタンクには銘板が付いており、昭和17年9月15日製造と分かる。製造番号は「294左(左タンク)」となっており、機体の製造番号と製造年月(5541号機、昭和17年12月)とは異なっている。そのことに加えて陸軍の検印もあることから、燃料タンクは陸軍への単独納入品だった可能性があるが、他機と共用とも考えにくく詳細は掴めなかった。

主翼の内部に燃料タンクを収納するスペースがある。


一式双発高等練習機
「左翼エンジン部」


一式双発高等練習機
「パネル展示」


一式双発高等練習機
「模型」


一式双発高等練習機
「部品展示」

左主脚「オレオ緩衝器」銘板
製造会社:茅場製作所
製造年:昭和16年

立川 キ54
一式双発高等練習機
「第5541号」機体銘板
※発動機操作台に設置されていた。

操縦席計器盤

航空羅針儀:羅針盤(1号)
※操縦席計器盤丈夫に設置されていた。

高度計(97式)
※操縦席計器盤に設置されていた。

大気温度計
製造会社:富士航空計器
※操縦席計器盤に設置されていた。

油圧調整弁(外板)

操縦席で見つかった鉛筆


エンジン(発動機)

特に説明がなかったが、エンジンが展示してあった。


一式戦闘機「隼」搭載
「ハ25型エンジン」

中島飛行機の空冷複列星型14気筒エンジン。
なぜか展示してあった。


トートバック

Tachihi
Since1924
Tachikawa Ki-54

お土産にトートバックをいただきました。ありがとうございます。

あとは、ワックスペーパー(蠟引紙)でつくられたA4ファイルもいただきました。
企画:立飛ストラテージラボ
販売:TAKEOFF-SITE


立飛リアルエステート 南地区5号棟

一式双発高等練習機が展示されたこの建屋は、「立川飛行機」時代からのもの。

以上、一式双発高等練習機の展示レポートでした。
目の前で見られた、往時の息吹。大変貴重な遺産、ありがとうございました。

※撮影:2021年11月


立川関連

さらにもう一つの「日本の鉄道発祥の地」品川駅

日本の鉄道は、教科書的に記載すると、1872年10月14日(明治5年9月12日) 新橋駅-横浜駅の開業に始まる。
この10月14日は、今では、「鉄道の日」として記念日にもなっている。

しかし、この新橋駅-横浜駅が正式に開業する前から、日本では鉄道が走っていた。
それが、新橋駅が開業する前に仮営業で走り始めた、品川駅-横浜駅間の区間であった。

つまり、「横浜駅(桜木町駅)」と並んで、「品川駅」は、日本最古の鉄道駅のひとつなのだ。
(新橋駅は、横浜駅、品川駅の次)
そんな品川駅を散策してみることとする。


新橋駅関連

横浜駅関連(現在の桜木町駅)


日本の鉄道前史

1825年(文政8年)、イギリスのストックトン – ダーリントン間で蒸気機関車を用いた貨物鉄道(ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道)の運行が開始された。
1830年(文政13年)にはリヴァプール – マンチェスター間に旅客鉄道(リバプール・アンド・マンチェスター鉄道)も開業。

1853年(嘉永6年)、ロシアのエフィム・プチャーチンが長崎に来航。
船の上で蒸気機関車の鉄道模型を日本人に見せ、詳しい解説をおこなった。 蒸気機関車の模型を見学し「口を開いて見ほれていた」佐賀藩士が模型の制作を計画 。1855年(安政2年)には田中久重(からくり儀右衛門)と重臣や藩校の者の手によって、全長約27cmほどのアルコール燃料で動作する模型機関車を完成させている。これが模型とはいえ、日本人がはじめて作った機関車であった。 このとき当時18歳であった佐賀藩士の大隈重信も見学しており、のちの明治政府で熱心な鉄道導入を唱えることとなる。

1858年(安政5年)には、イギリスが中国の鉄道で使用する予定であった762mm軌間の本物の蒸気機関車が長崎へ持ち込まれ、1か月間にわたってデモ走行を実施。
こうして、国内で鉄道敷設の機運が高まってきた。

鉄道開通に向けて

明治維新後の1870年(明治3年)鉄道発祥国イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任。本格的工事が始まった。
日本側では1871年(明治4年)に井上勝(日本の鉄道の父)が鉄道頭に就任し、鉄道建設に携わった。
東京横浜間の全線29kmのうち、1/3にあたる約10kmが海上線路として建設。
資材を横浜港から供給した関係上、工事は横浜側から始まり、まず1871年夏頃には川崎までの工事が進み、その際に試運転と資材の輸送をかねて運転が行われていたと考えられる。

現横浜から桜木町にかけての左カーブ付近の埋め立ては地元の商人、高島嘉右衛門が工事を請負、土地を管理したので敬意を表して今でも「高島町」と呼ばれている。また、鶴見川、六郷川(多摩川)の橋は最初木造で作られたが木造では傷みが激しく、後に鉄橋に改められ、2代目六郷川橋(初代鉄橋)が愛知明治村に保存されている。

横浜停車場は現桜木町駅付近であったが、これは野毛外人居留地や港に近いという理由から選ばれたと思われる。新橋停車場は現汐留であるが、東京の入口であり、築地外人居留地に近いという理由もあるが、それよりも東京の中心に異様なものが進入するのを嫌った勢力や軍部が用地を提供しなかったという理由もあった。

1871年9月(明治4年8月)には、早くも木戸孝允や大隈重信、後藤象二郎や三条実美らが神奈川(現京浜急行神奈川駅付近と思われる。)-横浜停留場間を試乗。
そして同年11月には大久保利通も試乗。大久保は鉄道反対派であったが「百聞は一見に如かず。愉快に堪えず」と日記に記し一転して鉄道支持派になり、政府首脳の間にも鉄道の利便性が理解され始めた。

1871年11月(明治4年10月)には六郷川橋梁が完成し品川まで運転が開始された。
このころにはすでに時刻表で運転が定期的にくまれており、岩倉具視を団長とする「遣欧米使節団」一行100余名も臨時列車で品川から横浜まで利用している。
この列車は「品川仕立十一ジ二十分出行」であり「於川崎而蒸気行替五分避行」とあり横浜には12時40分に到着。所要1時間20分と、(同区間は仮営業時は40分)随分時間がかかっているのは、工事中ということもあり徐行しながら走ったのであろう。

品川-横浜間仮営業開始

1872年6月12日(明治5年5月7日)から品川-横浜間で仮営業が行われるようになり、陸蒸気の試運転を弁当持参で見物していた庶民も、お金さえはらえば平等に乗れるようになった。このお金さえ払えば身分の隔たりもなく無差別平等に汽車に乗れるということが、まさに新しい社会の到来であった。

仮営業当日は、所要35分で1日2往復。しかし翌日からは6往復となり、7月10日には川崎・神奈川の途中駅が開業し所要40分で運転が行われた。運転本数を増やしても平均乗車率は80%を越しておりかなりの人気であった。

仮営業中の1872年8月15日(明治5年7月12日)には
明治天皇が風波のために座乗する軍艦が品川に入港できなくなり急遽横浜から汽車に乗り品川から宮城に向かうという予定外の事件があった。
また箱根離宮の帰りに 
皇后(のちの昭憲皇太后)が横浜-品川間を利用しているということから、仮営業であっても
天皇・皇后の利用しており、汽車の安全性も認められ、あとはいよいよ本開業をまつばかりであった。

しかし品川-新橋の間には、高輪の台地がせまっており、また陸軍・海軍用地が多いため工事が難航。大隈重信はついには品川-新橋間を築堤し海のなかに線路用地を確保するという荒技をとることとなる。
海岸付近を通る路線のうち田町から品川までの約2.7kmには海軍の用地を避けるため約6.4mの幅の堤を建設して線路を敷設し、これが高輪築堤となる。高輪築堤の工事は1870年に着工し両側は石垣、船が通る箇所4か所には水路が作られた。

新橋-横浜間開業

1872年10月14日(明治5年9月12日) 新橋駅-横浜駅が正式開業。
新橋駅で式典が催され、明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜まで往復運転を実施した。
正式開業時の列車本数は日9往復、全線所要時間は53分、表定速度は32.8km/h。

開業当時の「1号機関車」は鉄道博物館、「3号機関車」は桜木町駅新南口に保存・展示されている。
また「1号機関車」は『南蛮阿房列車』に代表されるように大の鉄道好きで知られる阿川弘之先生が書いた、絵本「きかんしゃやえもん」のモデルとなった機関車でもある。

正式開業日を記念して、1922年(大正11年)に10月14日は「鉄道記念日」となった。
そして1994年(平成6年)には運輸省により「鉄道の日」と改称された。


品川駅創業記念碑

品川駅の西口・高輪口のロータリーにひっそりと記念碑がある。

 明治五年五月七日
品川駅創業記念碑 
 品川横浜間鉄道開通
  伴睦書

品川駅は、明治5年(1872年)5月7日(新暦6月12日)を開業日としている。
この日に品川・横浜間で仮開業。
品川から北、品川ー新橋間は、高輪築堤の工事などもあり開業が遅れ、品川ー横浜の仮営業から4箇月後の明治5年(1872年)9月12日(新暦10月14日)に、 新橋・横浜間で本営業を開始した。

品川駅創業記念碑
 品川駅では、明治5年(1872年)5月7日(新暦6月12日)をこの開業日にしています。何故かというと、新橋・品川間の工事が遅れたため、この日に品川・横浜間で仮開業したからです。新橋・横浜間で本営業を開始したのは仮営業から4箇月後の明治5年(1872年)9月12日(新暦10月14日)でした。それを記念して、今日では10月14日を「鉄道の日」としています。品川駅は日本で一番古い鉄道の駅といえます。
 この記念碑は鉄道開通80周年及び駅舎改築を記念して、昭和28年(1953年)4月に建之されたもので、揮毫者は衆議院議長をつとめた大野伴睦氏です。記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されており、当時の様子を偲ぶことができます。
 平成18年(2006年)10月 JR東日本 品川駅 この記念碑は鉄道開通80周年及び駅舎改築を記念して、昭和28年(1953年)4月に建之されたもので、揮毫者は衆議院議長をつとめた大野伴睦氏です。記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されており、当時の様子を偲ぶことができます。
 平成18年(2006年)10月 JR東日本 品川駅

鉄道列車出発時刻及賃金表
 定     明治五年五月七日

上り             下り
横浜発車 品川到着      品川発車 横浜到着
午前八字 午前八字三十五分  午前九字 午前九字三十五分
午后四字 午后四字三十五分  午后五字 午后五字三十五分

賃金表  
車ノ等級
上等  片道 壹円五拾銭
中等  同  壹円
下等  同  五拾銭

 昭和二十八年四月吉日
 品川駅改築落成祝賀協議会建之

高輪口のロータリーに記念碑はある。


JR品川駅中央改札内

品川駅の中央改札ナウに、ちょっとしたモニュメントがある。

さり気なく、「鉄道発祥の地“品川”」を主張している。

郵便ポスト&0kmポスト(ゼロキロポスト)
 この郵便ポストは,品川駅改良・ecute品川の誕生を記念してJR東日本・東京総合車両センターで製作されました。国鉄時代に活躍した荷物兼郵便車「クモユニ」をイメージした形に,東海道線電車の湘南色で仕上げ,鉄道発祥の地“品川”に相応しい「郵便車型ポスト」といたしました。
 0kmポストは,鉄道の路線の起点を示す標識で,品川駅には山手線と品鶴(ひんかく)線の2線の0kmポストがあります。山手線は一回りしているため,起点があまり知られていませんが,品川から新宿を経由して田端までを指します。
 品鶴線は,品川から西大井を経由して鶴見に至る路線で,当初は貨物線として敷設されましたが,現在では横須賀線への直通電車が走っています。
 生まれ変わった品川駅からの出発が,すばらしいものになりますことを祈念し,品川駅の新しいシンボルとして0kmポストのオブジェを設置しました。どうぞ,末長くご愛顧下さい。
2005年10月1日
高輪郵便局
JR東日本・品川駅
ecute品川

品川駅は、山手線の起点、そして品鶴仙という貨物線の起点とのこと。

※撮影:2021年11月


関連

日本の鉄道の父、井上勝の墓は、品川にある。

もう一つの「日本の鉄道発祥の地」初代横浜駅跡・JR桜木町駅

日本の鉄道は、明治5年(1872)に新橋駅ー横浜駅に開業したことに始まる。
その初代横浜駅は、現在の桜木町駅界隈であった。

鉄道発祥の地として、「新橋駅」とともに、もう一つの拠点であった「桜木町駅」を散策してみる。

JR桜木町新南口(市役所口)に隣接するJR桜木町駅ビル「CIAL桜木町ANNEX(シァル桜木町アネックス)」1階に開設されている「旧横ギャラリー」には、鉄道創業時に使用された蒸気機関車「110形」が展示されている。

桜木町は、日本初の鉄道のもう一つの起点駅。
そう、新橋横浜間の鉄道の横浜駅は、今の桜木町駅界隈であったのだ。


旧横濱鉄道歴史展示(旧横ギャラリー)

若干、窮屈そうな場所に、鉄道創業時に使用された蒸気機関車と展示スペースがあった。
しかし青梅鉄道公園で展示されていた頃に比べて、屋内展示としての絶対の安心感が感じられるのが、とにかく好印象。鉄道発祥の横浜にこうして記念すべき施設ができたことが喜ばしい。

鉄道記念物
110形蒸気機関車
1961(昭和36)年10月14日指定
東日本旅客鉄道株式会社 2020(令和2)年6月建植

110形蒸気機関車(110号)
1871(明治4)年、英国のヨークシャー・エンジン社の製造で、1872(明治5)年の鉄道創業時に「10号機関車」として新橋~横浜間で使用され、後に「3号機関車」と呼ばれた日本で最も古い機関車の一つです。1909(明治42)年、「110号」に名を改められ、1918(大正7)年まで各所で活躍し、廃車後は車体の一部を切開ののち、大宮工場内にあった「鉄道参考品陳列所」で技術者育成の教材として展示されました。1961(昭和36)年には「鉄道記念物」に指定され、翌年から2019(令和元)年まで青梅鉄道公園で保存展示されました。その後、大宮工場にて溶接を使用しない工法で切開箇所を閉腹し、錆の除去や破損箇所の修復を行い、本機の晩年頃の姿を再現しました。(形状が不明な箇所は資料が残る明治初期の形状を参考にしました。) そして、2020(令和2)年、旧横浜停車場であるこの地へ戻りました。

機関車全長:7,214mm
動輪直径:1,245mm
輪軸配置:1‐B‐0
シリンダ直径×行程:299×432mm
機関車重量:運転整備 23.04t 空車 18.85t
購入時価格:2,600ポンド(船賃含む)
使用蒸気圧8.0kg/cm²

鉄道創業時の中等客車(再現)
日本に輸入された客車は、上等車10両、中等車40両、緩急車8両の計58両で、全て英国製でした。外観や車内の構造は上等車、中等車ともにほぼ同じで、両端に出入口を兼ねたオープンデッキがあり、車内は中央通路式となっています。展示の客車は、鉄道開業期にM.モーザーが撮影した、横浜停車場に留置中の車両写真、英国製古典客車図面、車両形式図等の記載寸法を参考に、中等客車として再現しました。木造の客室部、車輪脇の板バネは新造し、本来は金属製である緩衝器は、木地をろくろ挽きで製作。他の国内で入手困難な金属部品は英国から輸入した古物を使用しています。車輪の外観は、創業期に用いられ乗り心地に優れているとされる、木製の「マンセルホイール」をイメージし、その造形を施しました。車内照明(オイルランプ)は、古文献や英国製のものを参考に電気式で再現しています。色彩は、当時の浮世絵、M.モーザー撮影写真のコントラスト、そして昔の英国車両を参考に配色しました。

客車サイズ:全長 7,630mm(緩衝器含む) 全幅 約2,210mm(客室側壁部)
定員:24名

旧横ギャラリーとして、展示資料も豊富。
これは丹念に見ていたら、結構な時間を要しそうだ。

最初の機関車たち

帰ってきた110形機関車
展示の実物機関車は、1872年の鉄道創業時に英国から輸入された蒸気機関車です。この地に荷揚げされて以来、日本各地で活躍し、2020年に再びここけ戻りました。

鉄道創業時の機関車
1871(明治4)年、英国からスエズ運河(1869年開通)を経由し、横浜港に5種10両の機関車が到着しました。これらの車両は、この地に存在した横浜停車場内の作業場で組み立てられました。
1号機関車(150形)
2~5号機関車(160形)
6、7号機関車(A3形)
8、9号機関車(190形)
10号機関車(110形)

明治初期の横濱停車場と街の風景

旧横ギャラリー

受け継がれる鉄道への夢

鉄道開業式典と明治の人々

明治の元勲たちを乗せた式典列車

元は武士!? 官員さんと舎内の様子

謎のステンショ内部を探る

西洋から導入されたモノは?

西洋の慣習と鉄道システム

産業革命を見聞したサムライたち

幕末の日本と横濱

鉄道敷設までの道のり

明治の鉄道建設と発展に貢献した人々

最初の客車と明治のお客さま

そして建物の外にも、掲載がある。

モレルさん、ガラスの反射が厳しい。

初代鉄道建築師長
エドモンド モレル

 十河信二書
EDMUND MOREL
1841-1871
1958.5.7 横浜市 鉄道友の会

旧横濱鉄道歴史展示
この地に存在した、日本初の鉄道駅「横濱停車場」の様子と横浜~新橋間を駆け抜けた機関車や客車、そして新たな時代を「鉄道」という文明の利器によって切り拓いた、明治の先人達の活躍を紹介します。

旧横ギャラリー

鉄道創業時に使用された蒸気機関車

展示の110形蒸気機関車について
1871(明治4)年 英国にて製造され、日本に輸入。
1872(明治5)年 鉄道創業時、10号として運用。
1876(明治9)年 機関車の番号を3に改番。
1909(明治42)年 形式称号改正で110形となる。
1923(大正12)年 廃車(諸説あり)後、大宮工場に展示
1961(昭和36)年 鉄道記念物に私邸。
1962(昭和37)年 青梅鉄道公園へ移転。
2020(令和2)年 この地へ移り、屋内展示となる。

英国から輸入された最初の客車

再現された創業時の客車
輸入された客車は、上等車10両(定員18人)、中等車40両(定員22か24人)、荷物緩急車8両の計58両でした。構造は前後にデッキを有する中央通路式で、室内左右にロングシートが配置されていました。開業時に中等客車を改造し、26両を下等客車としました。展示の客車は英国や明治期の資料を元に再現した中等客車です。

この地に存在した日本初の鉄道駅「横濱停車場」

旧横濱停車場と桜木町駅
1872(明治5)年 横濱停車場がこの地に開業。
1915(大正4)年 横浜駅は移転、桜木町駅に戒名。
1923(大正12)年 関東大震災にて初代駅舎消失。
1927(昭和2)年 2代目桜木町駅舎が完成。
1964(昭和39)年 根岸線開通にともない、駅舎を改築。
1989(平成元)年 3代目駅舎は高架下駅となる。

場所

https://goo.gl/maps/gvPFDDa2sAY7toRs9


鉄道創業の地 記念碑

旧横ギャラリーのある建物のすぐ南側に、記念碑がある。

鉄道創業の地 記念碑
 日本で初の鉄道を作るために 明治3年(1870年)に鉄道資材を英国から購入し 横浜港で陸揚げされ建設が始まった。
 その2年後の明治5年(1872年)5月7日、この地に初代横浜駅が建設され、 横浜、 品川間に最初の鉄道が開業した。
 この鉄道創業の地を象徴して昭和42年(1967年)10月13日に記念碑が竣功した。
 その後、昭和63年(1988年)12月に現在の位置に移設され、当初記念碑のあった位置に原標を置いた。

平成26年7月
公益財団法人 横浜観光コンベンション・ビューロー

鉄道創業の地
 我が国の鉄道は、明治5年(1872年)旧暦5月7日、この場所にあった横浜ステイションと品川ステイションの間で開通し、その営業を開始しました。
 わたくしどもは、当時の人の気概と努力をたたえ、このことを後世に伝えるとともに、この伝統が受け継がれて、さらにあすの飛躍をもたらすことを希望するものであります。
   昭和42年10月14日  
            財団法人 横浜市観光協会
             鉄道発祥記念碑建設特別委員会

創業当時の横浜駅

創業時の時刻・運賃表及び乗車に当たっての注意書きも記念碑に刻まれている。

鉄道列車出発時刻及び運賃表

定 明治5年5月7日
上り
 横浜発車 品川到着
 午前8時 午前8時35分
 午後4時 午後5時35分
下り
 品川発車 横浜到着
 午前9時 午前9時35分
 午後5時 午後5時35分

運賃表
車の等級
 上等 片道 1円50銭
 中等 同  1円
 下等 同    50銭

来る五月七日より此表示の時刻に日々横浜並びに品川ステイションより列車出発す乗車せむと欲する者は遅くとも此表示の時刻より十五分前にステイションに来り切手買入其他の手都合を為すべし
 但発車並に着車共必ず此表示の時刻を違はさるやうには請合かねたけれとも可成丈遅滞なきよう取行ふべし
手形は其日限り乗車一度の用たるべし
小児四歳までは無賃其餘十二歳まては半賃金の事
旅客は總て鐡道規則に隋ひ旅行すべし
手形檢査の節は手形を出し改を受又手形収集の節は之を渡すべし旅客自ら携ふ小包みドウランの類は無賃なれとも若し損失あらは自ら負うべし其餘の手廻り荷物は目方三十斤迄は二十五銭三十斤以上六十斤迄は五十銭を拂ひ荷物掛へ引渡請取證書を求め置くべし尤一人に付目方六十斤を限とす
手廻荷物は總て姓名か又は目印を記すべし
旅客中乗車を得ると得さるは車内場所の有無によるべし
犬一疋に付片道賃銭二十五銭を拂ふべし併し旅客車に載するを許さす犬箱或は車長の車にて運送すべし尤首輪首綱口綱を備へて相渡すべし
発車時刻を惰らさるため時限の五分前にステイションの戸を局さすべし
吸煙車の外は煙草を許るさす

旅客車上中下三等の内乗らむと欲する所の賃金を過金取引なきやうに用意致し来るべし
   明治五年 鐡道寮

記念樹
横浜緋桜
モレルの桜
 英国人技師エドモンド・モレル(1841-71)は、明治5年日本で最初の鉄道を桜木町-新橋間に建設するにあたって建築師長として貢献しました。生誕170年の今、その功績を称え縁の地に”モレルの桜”を植樹し記念とします
2011.3.30
 桜木町に桜の木を植える会
 神奈川県淡彩画会
  協賛 横浜郷土研究会
     横浜ペンクラブ
     学校法人横浜学院

場所

https://goo.gl/maps/Z4kZ7zGF2gVYCHSq9


JR桜木町駅

桜木町の駅にも見どころが豊富。
正直、丹念に見ていたら、駅だけでも結構な時間泥棒となる。
桜木町駅は、鉄道発祥の駅として、相当な力の入れ具合を感じられた。

JR桜木町駅

みなとみらい地区の記憶
明治から昭和まで臨海地域は造船と鉄道物流の拠点で、この街のシンボル的存在でした。現在は国際的なビジネスと観光の街として生まれ変わりました。

みなとみらい時層マップ
明治初期から平成までの海岸線の変化を俯瞰しながら、この地区の産業や町並みの発展を「時間を旅する」感覚で観察すると、新たな発見があるかもしれません。

日本の産業を支えた横濱停車場
鉄道開業の翌年、1873(明治6)年9月、横浜~新橋間の鉄道による貨物営業が始まりました。以来、横浜は日本の産業における重要な物流拠点となりました。

鉄道創業の地・桜木町(旧横濱停車場)
日本人と鉄道の出会いは江戸時代の末期でした。明治時代になるとその導入が決定し、1872(明治5)年、横浜と新橋の間で日本初の営業運転が始まりました。

初代横濱駅と発着場の情景
初代横浜駅は新橋駅と同じく、アメリカ人建築家、R・P・ブリジェンスの設計で、この場所から関内駅方面へ120m程の地に位置し、華麗な外観を誇りました。

明治の横濱・鉄道路線案内
明治初期、当時の人々にとって鉄道への関心は高く、多くの錦絵が残されました。開業時の路線は現在でもほぼ同じルートをとりながら、高度に複線化されています。

鉄道旅行のお楽しみ
江戸期の旅は徒歩による信仰と巡礼が目的でした。明治期、鉄道が利用されるようになると、やがて旅の目的は観光や仕事など、多様なものとなりました。

鉄道が発信する文化
鉄道創業時に、早くも横濱停車場の構内で商いをする人たちが現れました。以来、鉄道に関連した数多くの商売や文化が生まれてきました。

追憶の野毛・桜木町駅
庶民の街として親しまれてきた野毛、またその玄関口として街の変遷を見守って来た桜木町駅界隈は、いつの時代も人々の活気ある息吹を感じ取る事ができます。

桜木町にやってきた鉄道車両
鉄道の開業以来、この地には様々な種類の列車がやって来ました。ここでは蒸気から電気機関車までの変遷や鉄道車両の様々な形態を見る事ができます。

 この光景は、明治20年(1887)頃の初代横浜停車場(現桜木町駅)前を撮影したものです。写真中央の噴水塔は、高さ約4.4m、重さ約1.3tの鋳鉄製で、日本初の近代水道創設を記念して設置され、往来する方々に親しまれていました。
 この噴水塔は、現在、横浜市保土ケ谷区の横浜水道記念館に保存されています。
 平成25年10月17日 横浜市水道局

桜木町&みなとみらい地区は、馬車道や赤レンガもあるので、近代史散歩がはかどる街。しかし、それはまだ未探訪なので、おって、で。

※撮影:2021年11月


鉄道関連

横浜関連

マッカーサー草案・日本国憲法草案審議の地

日本の、戦後再起動の歴史を感じる場所。


この界隈に、かつて外務大臣官邸があり、日本国政府とGHQ連合国軍総司令部の間で日本国憲法の草案審議が行われた。それが審議であったか恫喝であったかは別として。

昭和21年(1946)11月3日に公布された日本国憲法は、翌年の昭和22年(1947)5月3日に施行された。
公布に至るまでの紆余曲折の歴史舞台のひとつがこの地であった。


マッカーサー草案・日本国憲法草案

昭和20年8月の終戦以降、日本政府は憲法の改正作業を進めていた。その流れの中でソ連を中心に天皇制の廃止を要求されることに、日本の世情を理解していたGHQは方針を転換し、GHQは総司令部にて憲法草案を起草することを判断した。

そうして、昭和21年2月13日に日本政府に「マッカーサー草案」が提示された。
これは、先立って日本政府が2月8日に提出していた「憲法改正要綱」(松本試案)に対する回答という形で示されたものであった。

「マッカーサー草案」 提示を受けた日本側、松本烝治国務大臣と吉田茂外務大臣、通訳の白洲次郎などは、寝耳に水のマッカーサー草案に驚き、大至急で審議を開始。
2月26日の閣議で、「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、作業を開始した。
そうして、日本国政府は、「憲法改正草案要綱」を発表し、マッカーサーも直ちにこれを支持、了承する声明を発表し、大筋が決まった。

昭和21年4月、幣原内閣が総辞職し、5月22日に第1次吉田内閣が発足。
6月20日、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、憲法改正案を衆議院に提出し可決、次いで貴族院でも可決され、帝国議会における憲法改正手続が完了。

こうして、帝国議会における審議を通過して、10月29日の枢密院本会議で、 昭和天皇臨席の下で「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した。
同日、 昭和天皇は、憲法改正を裁可。11月3日、日本国憲法が公布された。

日本国憲法草案審議の地

こうした一連の、憲法草案の地を記憶した史跡。

日本国憲法草案審議の地

日本国憲法草案審議の地
この地は、昭和二十一年(1946 年)二月、連合国軍総司令部と、日本国政府との間で、日本国憲法草案について審議された跡地である。
この地には(財)原田積善会の本部があり、戦後に外務大臣官邸として使用されていた。当事者に総司令部側代表としては、民生局長ホイットニー准将、民生局次長ケーティス大佐の両名で、日本側は当時の外務大臣吉田茂と法務大臣松本烝治であった。
  八木通商株式会社

六本木麻布台ビル

場所

https://goo.gl/maps/g8TGD9E94drYhZGu8

※撮影:2018年11月


関連

博物館動物園駅跡(上野・京成電鉄)

上野公園周辺には、意外と近代建築物が残っている。

国立博物館内には、旧東京帝室博物館本館と表慶館、上野公園内には、国立科学博物館と旧東京音楽学校奏楽堂、そして、帝国図書館、黒田記念館、東京藝術大学などにも戦前の建造物が残っている。

そのなかでも、今回は、京成電鉄の駅舎入口部分の建造物を眺めてみる。

博物館動物園駅跡(京成電鉄株式会社)

昭和8年(1933)の京成本線開通にあわせ、東京帝室博物館・東京科学博物館・上野恩賜公園・東京音楽学校・東京美術学校などの最寄駅「動物園前停留所」として開業。
平成9年(1997)に営業休止され、平成16年(2004)に廃止された。
廃止後も駅舎やホームは現存しており、不定期に一般公開もされている。
平成30年(2018)には、駅舎が鉄道施設としては初めての東京都選定歴史的建造物に選定。

地下ホームの出入り口は2箇所ある。

博物館動物園駅跡・博物館側

中川俊二設計。1931年竣工の駅地上口。
皇室用地であった東京帝室美術館(現在の東京国立博物館)の敷地内に建てられることとなったため、昭和天皇出席の御前会議でデザインが決定されたという。
国会議事堂中央部分のような西洋様式の外観が特徴で、国会議事堂よりも建築時期は古い。

博物館動物園駅跡
京成電鉄株式会社

博物館動物園駅 照明復元事業
 この博物館動物園駅は、1933年(昭和8年)に竣工しました。6灯の壁付照明器具が、3方に開いた出入口を照らしていましたが、第2次世界大戦の金属供出により取外され、永く失われていました。この駅舎と地下駅空間の保存と再生を願い20年間にわたる活動を続けてきた市民グループ、NPO法人〈上野の杜芸術フォーラム〉による企画と募金活動により、2010年、漸く1灯の復元が成りました。
 芸術の中枢機能が集積するこの交差点〈アートクロス上野〉に向けた光を復活させるものです。

照明復元企画・プロデュース:NPO法人 上野の杜芸術フォーラム
代表:森 徹/副代表:熊井千代子
理事:植野糾/臼田浩之/熊井芳隆/溝内公洋/若松久男
復元型デザイン・制作:宗政浩二
復元器具・鋳造:池田東央(池田美術)
照明メカニック:吉原義夫(東芝ライテック)

東京藝術大学から、博物館動物園駅舎を望む。

博物館動物園駅跡・動物園側

昭和42年(1962)から始まった上野動物園大改造計画に基づく工事によって、動物園正門の位置が変更されたことで人の流れが変わり、まもなく閉鎖された。
閉鎖後は東京都美術館の資材倉庫として利用されている。

一般公開のタイミングがあえば、内部も見学したいものです。

※撮影:2021年11月


恩賜上野動物園 旧正門

上野動物園は明治15年(1882)開園。日本最古の動物園。

旧正門は、明治44年建立。
昭和9年頃までは恩賜上野動物園の玄関口として使用されていた表門。
現在は臨時門として使用されることもある。

右奥に、京成電鉄の博物館動物園駅跡が見える。

内側は、 令和元年(2019)11月に撮影していました。
以下は内側の写真。

上野公園周辺の近代建築物は、また別記事にて。


上野関連

東京大空襲の傷跡を残す「日本橋」

日本橋

国指定重要文化財。明治44年(1911)に石造2連アーチ橋として架設。
全長は49メートル、幅は27.3メートル。

現在の日本橋は、20代目。19代目までは木橋であったが、明治44年(1911年)に改築された際に、石橋(コンクリート&煉瓦)へと変更された。

そして、明治以来の姿を残す「日本橋」は、戦争の爪痕も色濃く残す。

よく見ると、歩道には凹みが有り、そして至るところに焦げ跡が残っている。これは昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲での焼夷弾によるもの。空襲の跡。
平成22年(2010年)には、日本橋は大規模な補修工事と洗浄が行われたが、戦争の傷跡は、歴史の生き証人として、そのまま残されたという。

欄干も焼けたような黒ずんだ焦げ跡を残している。

よくみれば、所々が黒ずんでいる。

ちなみに、首都高速にかかげられた「日本橋」の筆跡は、徳川慶喜のものになる。

日本橋の中央には、「日本国道路元標」(佐藤栄作の筆)が埋め込まれている。これは昭和47年(1972)の改修によるもの。道路の中央部のために、近くで見物することは危険を伴う。

歩道をよく見れば、凹みが多いこともわかる。
これも戦争の爪痕。東京大空襲の痕跡。


重要文化財
日本橋 附東京市道路元標(二基)
     所在地 中央区日本橋室町一丁目~日本橋一丁目(日本橋川)

 日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(一六〇三)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市街の中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気のある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。

 現在の日本橋は、明治四十四年(一九一一)ごに架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。橋長四九・五メートル、幅員二七・五メートルの橋には、照明灯のある跨銅製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています.中でも、建築家・妻木頼黄の考案に基づく麒麟や東京市章を抱えた獅子ブロンズ像(原型制作・渡辺長男、鋳造・岡崎雪声)は、意匠的完成度の高い芸術作品といえます。なお、親柱に記された橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆によるものです。
 また、附指定を受けた「東京市道路元標」は、昭和四十二年(一九六七)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による「日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。
 平成三十一年三月
 中央区教育委員会

日本橋由来記
日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ
明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ
 昭和十一年四月
  日本橋區

日本国重要文化財
日本橋

構造 形式
 石造二連アーチ橋 高欄付(青銅製照明灯を含む)
 附 東京市 道路元標 一基
所有者
 国 (建設省)
指定年月日
 平成十一年五月十三日
指定の意義
 明治期を代表する石造アーチ道路橋であり 石造アーチ橋の技術的達成度を示す遺構として貴重である
 また 土木家 建築家 彫刻家が協同した装飾橋架の代表作であり ルネサンス式による橋梁本体と和漢洋折衷の装飾との調和も破綻なくまとめられており 意匠的完成度も高い
 建設省国道に係る物件で初めての重要文化財指定

「日本橋」親柱の橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆 。

東京市道路元票

日本国 道路元票複製

「東京市道路元標」は、昭和四十二年(一九六七)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていた。
昭和47年(1972)の改修によ って日本橋北西の橋詰広場に移設。
かわりに日本橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による「日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれた。

※撮影は2021年11月及び3月


関連

東京大空襲・慰霊

東京の北の玄関口「上野駅」

北の玄関口、上野駅。
現在の駅舎は3代目。昭和7年(1932年)に建造された駅舎が、戦争をくぐり抜けて、今もその姿を伝えている。

写真メインで近代建築としての上野駅の記録を。


上野駅

上野駅は、明治16年(1883年)7月28日に日本鉄道の上野-熊谷間開業にともない仮駅舎として開設された。明治18年に正式な駅舎が竣工。
大正12年(1923年)の関東大震災で駅舎は焼失。仮駅舎で営業を再開。そして昭和7年に3代目の駅舎が竣工した。

上野駅三代目駅舎
 関東大震災(1923年・大正12年)にて二代目の駅舎や主要な建物は破壊・焼失してしまいました。同年より仮駅舎にて営業し、その復興に力を注ぎ正面玄関口・広小路口駅舎は1932年(昭和7年)に3代目として完成した駅舎です。
 建設当時は、正面口が2階構造になっており、上層は乗車口で自動車から降りて直接駅に入ることが出来ました。下層は降車口で改札をでて大寒暖で地下へ降り降車口から自動車に乗ることが出来ました。
 乗車客と降車客の動線が分離されれた構造の駅舎でした。

正面玄関口駅舎。
かつての乗車口=2階には、今は車では乗り入れができない。
車は、かつての降車口=1階のみ。

上野駅貴賓室跡地
 1932年(昭和7年)に現在の上野駅舎が完成した際、この場所に貴賓室が造られました。
 以後、天皇陛下および皇族方が東北方面へお出かけになる際には、たびたびこの貴賓室をご使用になられたということです。
 当時の写真を見ると、大理石造りの風格ある入口の様子や、絨毯が敷かれ、暖炉やシャンデリアなどの豪華な調度品が配置された、室内の優雅な雰囲気が見てとれます。

貴賓室入口

正面玄関口。

一階部分から。

正面玄関口

上野駅広小路口。

上野山から


石川啄木の歌碑

上野駅15番ホームには、石川啄木の歌碑がある。

ふるさとの 訛なつかし
 停車場の 人ごみの中に
そを 聴きにゆく
         啄木

「あゝ上野駅」の歌碑

上野広小路口に建立されている碑。建立は2003年。
高度成長期の 1964 (昭和 39) 年に大ヒットした井沢八郎が歌った歌謡曲「あゝ上野駅」に基づく。
C62 23 号機が上野駅 18 番ホームに到着し、集団就職者が下車した情景をレリーフに描く。
「ようこそ東京へ」

あゝ上野駅
  作詞 関口義明
 作曲 荒井英一
  歌  井沢八郎

一、どこかに故郷の 香を乗せて
  入る列車の なつかしさ
  上野はおいらの 心の駅だ
  くじけちゃならない 人生が
  あの日ここから 始まった

二、就職列車に ゆられて着いた
  遠いあの夜を 思い出す
  上野はおいらの 心の駅だ
  配達帰りの 自転車を
  止めて聞いてる 国なまり

三、ホームの時計を 見つめていたら
  母の笑顔に なってきた
  上野はおいらの 心の駅だ
  お店の仕事は 辛いけど
  胸にゃでっかい 夢がある

歌碑の由来
高度成長期の昭和30~40年代、金の卵と呼ばれた若者達が地方から就職列車に乗って上野駅に降り立った。戦後、日本経済大繁栄の原動力となったのがこの集団就職者といっても過言ではない。
親もとを離れ、夢と不安を胸に抱きながら必死に生きていた少年、少女達。彼らを支えた心の応援歌『あゝ上野駅』は、昭和 39年に発表され多くの人々に感動と勇気を与え、以後も綿々と唄い継がれている。
この歌の心を末永く大切にしたいとの思いから、また、東京台東区の地域活性化・都市再生プログラムの一環として、ゆかりの此の地に『あゝ上野駅』の歌碑を設立するものである。
 平成15年(2003年)
 歌碑設立委員会・発起人
 総括責任者 深澤 寿一

歌碑はレールの上に乗っていた。

※撮影は2019年1月及び2020年6月


関連

旧三ノ輪王電ビルディング(王電ビルヂング)

都電荒川線に乗る機会があったので、終点の三ノ輪橋駅(三ノ輪橋電停・三ノ輪橋停留場)まで脚を伸ばしてみた。

三ノ輪橋駅からまっすぐに歩くと、ビルの下、アーチのような通路を抜け「日光街道」に。
今回は、この建物が主役。

ちょっと観察してみましょう。


三ノ輪王電ビルディング
(王電ビルヂング)

都電荒川線の前身である「王子電気軌道」により昭和2年(1927年)に建てられた、 王子電気軌道の本社ビル。
王子電気軌道は、電気事業(電灯電力事業)と軌道事業(路面電車)、路線バス事業を行っていた。「王子電車」「王電」とも呼称され、この本社ビルも「王電ビル」と呼ばれていた。
昭和2年当時は高い建物も少なく、この4階建ての王電ビルの存在感は圧倒的であった。

昭和17年(1942年)に王子電気軌道の軌道部門が東京市電気局に引き継がれ会社消滅。「王電ビルヂング」は売却。
軌道部門は「東京市電」となり、そして「都電荒川線」として唯一現存している軌道線となる。
また 「王電ビルヂング」 も現在は「梅沢写真会館」として、戦争をくぐり抜け、往時の姿のまま現存している。

ピー様より:
2026年1月11日 12:52 PM (編集)
よく誤解されがちですが、このビルは王電本社ではなく「三ノ輪王電ビルディング」と言う王電が建てたテナントビル的なものです。王電本社は東京市に買収されるまで現在の豊島区北大塚(東京電力大塚支社の場所)にありました。


※コメントでご指摘をいただきましたので、文中を修正しました。

王子電気軌道は会社としては、無くなったが、形を変え、都電荒川線として軌道を残し、そして本社ビルも、当時の姿を今尚伝えている。

現在は、「梅沢写真会館」

そして「三ノ輪橋商店街」の一部。

レトロな昭和の佇まいを残すビルの下。

ビルの先には、三ノ輪橋電停。

梅沢写真会館。

地下鉄の三ノ輪駅はちょっと離れている。

都電荒川線の三ノ輪橋駅。
最近は、「東京さくらトラム」と愛称もつけられた。

昭和、ですね。

たまには、都電荒川線に揺られて、のんびりボーッとするのもありですね。

※撮影は2021年9月


参考

以下のサイトに、戦前の「王電ビル」の写真が掲載されている。

https://smtrc.jp/town-archives/city/senju/p03.html


関連

陸軍技術研究所の跡地散策(小金井)

小金井と小平のあいだ辺りに、かつて陸軍の研究機関があった。
現在の東京学芸大学のある辺り。
往時を物語るものは多くは残っていないが、ちょっと脚を運んでみました。


陸軍兵器行政本部
陸軍技術研究所

陸軍関係兵器の調査研究を行っていた機関。
昭和17年10月に陸軍兵器機関の整理統合が行われ、「陸軍兵器行政本部」が設置され、陸軍技術本部が廃止された。
陸軍技術本部の隷下にあった研究所は、そのまま陸軍兵器行政本部に属することになった。

  • 第一陸軍技術研究所 小金井 →鉄砲・弾薬・馬具
     現在は小金井市営競技場
  • 第二陸軍技術研究所 小平 →観測・測量・指揮連絡用兵器など
     現在は花小金井一丁目の住宅地
  • 第三陸軍技術研究所 小金井 →爆破用火薬・工兵器材など
     現在は東京学芸大学
  • 第四陸軍技術研究所 相模原 →戦車・装甲車・自動車など
     現在は米軍相模総合補給廠
  • 第五陸軍技術研究所 小平 →通信器材・整備器材・電波兵器など
     現在は東京サレジオ学園
  • 第六陸軍技術研究所 百人町 →化学兵器(毒ガス)など
     現在は東京都健康安全研究センター
  • 第七陸軍技術研究所 百人町 →物理的兵器など
     現在は東京都健康安全研究センター
  • 第八陸軍技術研究所 小金井 →兵器材料・化学工芸など
     現在は東京学芸大学
  • 第九陸軍技術研究所 登戸 →秘密戦・謀略戦用兵器など
     通称は登戸研究所
     現在は明治大学生田キャンパス
  • 第十陸軍技術研究所 姫路 →海運器材など
     現在は姫路市立琴丘高校
  • 多摩陸軍技術研究所 小金井・小平 →電波兵器
     第5・第7・第9の各陸軍技術研究所と
     第4陸軍航空技術研究所の電波兵器研究部門を統合し新設

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8921-C6-127
1944年11月07日、陸軍撮影の航空写真を一部加工。

小金井市文化財センター

以下は、小金井市文化財センター展示より

陸軍技術研究所の範囲

陸軍技術研究所跡地

戦争と人々の生活
 日本は、1931年(昭和6)に勃発した満州事変をきっかけに、次第に軍国主義の道を歩みはじめました。1938年(昭和13)に国家総動員法が制定され、地域に国防婦人会や隣組が組織されるなど、戦時体制が強化されていきました。小金井では、1940年(昭和15)と1942年に、陸軍が現在の東京学芸大学を中心とする175haに及ぶ広大な地域を強制的に買収し、陸軍技術研究所が建設されました。太平洋戦争中(1941~1945年)、空襲による大きな被害はありませんでしたが、約150人(昭和18年の街人工16,839人)が出征し、多くの戦死者を出しました。

市登録文化財
陸軍技術研究所境界石杭
昭和15年と17年、矯正買収により現在の小金井市北西部と小平市上水南町3・4丁目に移転してきた陸軍技術研究所は、広大な用地の周囲に石杭を埋めて、その範囲を表示しました。
石杭は全長1000cm、「陸軍」と刻んだ上部20cmを地上に出し、残り80cmの下部は地中に埋めてありました。戦後、技研敷地の払下げと宅地造成にともない大多数が廃棄され、現在残っているのは当館所蔵の石杭と、本町5-31道路脇に残る石杭のみです。

「陸軍」の文字がわかる。

小金井市文化財センターのサイト

https://www.city.koganei.lg.jp/smph/kankobunka/bunkazai/bunkazaisenta.html


陸軍技術研究所の跡地散策

陸軍技術研究所境界石杭(境界標石)

前述に記載のあったとおり、小金井市本町5-31の道路脇に、一つだけ残存している。
摩耗しているが、わずかに「陸軍」と読み取ることができる。

陸軍技術研究所境界石杭
 市登録有形文化財
 登録(追加)平成30年8月

 現在の貫井北町・桜町・本町一帯は、昭和十五年(一九四〇)から昭和十七年にかけて、広大な農地を陸軍技術研究所として陸軍に買収されました。買収用地は万年塀で囲われ、第一(現市営競技場付近)、第二(現市立本町小学校付近)、第三(東京学芸大学構内東部)、第五(現情報通信研究機構付近)、第七(現サレジオ学園付近)、第八(現東京学芸大学中心部)の6つの技術研究所が都心部から移転してきましたが、まもなく終戦を迎えました。戦後は国有地となり、教育機関、国家公務員住宅、都住宅供給公社住宅等ができ、一部は民間に払い下げられ住宅地に変わりました。
 境界石杭は、側面に「陸軍」と刻み、陸軍用地の境界の各所に設置されたものです。小金井市文化財センター所蔵の同様の境界石杭(平成二十三年登録)が全長一メートルであることから、石杭の大半は地下に埋設され、地上に露出しているのは一部とみられます。この境界石杭は戦争遺跡である旧陸軍技術研究所の存在を示す遺物として貴重です。
 平成31年3月
 小金井市教育委員会

道路脇に。

場所

https://goo.gl/maps/RG6n8c8mzRVDfieP7


プール前

この場所には、かつてプールがあった。今はない。
もとを正せば、「陸軍技術研究所テスト用プール」があった。
そこでは、上陸用舟艇や水陸両用戦車のテストなども行われていた。
戦後は、水泳用プールに改造されたが、その後は放置され、現在は再開発され名前のみが往時を伝えている。

四角いプールと丸いプールが見える。(前述の航空写真より)

この近くには、仙川源流の仙川上流端もある。
ただし空堀。


陸軍技術研究所正門付近

東京学芸大学の南側に正門があった。

東京学芸大学の正門。
かつては、陸軍技術研究所の正門があった場所。

正門

正門前の道路。

前述の航空写真から。

周辺を散策してみる。
無造作に残るコンクリート壁の残骸。これは往時のものかどうかは不詳。

これは違う。

このあたりが、陸軍技術研究所当時の敷地の南西端。

特になにもない。。。

少し前までは遺構としては、給水塔なども残っていたというが、再開発により陸軍技術研究所の遺構は失われている。

※撮影は2021年8月


関連

登戸研究所(第九陸軍技術研究所)

相模陸軍造兵廠には第四陸軍技術研究所が置かれていた。

小金井市文化財センター

都立小金井公園
海軍技術研究所

すぐ近くには、陸軍経理学校があった。

川端龍子と「爆弾散華の池」(大田区)

大田区立龍子記念館に脚を運んでみました。

川端龍子

川端龍子(かわばた りゅうし)
1885年〈明治18年〉6月6日 – 1966年〈昭和41年〉4月10日)
日本画家、俳人。
1959年(昭和34年)、文化勲章受章。
本名は川端 昇太郎。

臼田坂下に画室を新築した
川端龍子(かわばたりゅうし:1885~1966)
日本画の巨匠川端龍子は、明治42年24歳の時、牛込矢来町より入新井新井宿に移ってきました。この頃はまだ作品を認められてはいませんでしたが、挿絵を描いたり、国民新聞社に勤めたりして生計を立てていました。
大正2年に渡米した際ボストン美術館で日本画に魅せられ、龍子は油絵から日本画へと志向の転機を決意します。翌3年には、処女作「観光客」が東京大正博覧会に入選し、日本画家として立つきっかけを摑みました。その後はつぎつぎと作品が認められ、大正9年現在の臼田坂下に住宅と画室を新築し、ここを御形荘(おぎょうそう)と名付けました。
一 画人生涯筆菅 龍子 一 、という句があるように画業に専念する人でしたが、唯一の趣味としての建築は、龍子持ち前の器用さと熱心さを反映して素人の域を脱するものでした。龍子記念館、屋敷内の建築は全て龍子の意匠によるものです。
 参考文献 集英社「現代日本の美術」 
  大田区


大田区立 龍子公園

一日に3回の公開が行われている。この時間以外は見学不可。
この龍子公園内に、「爆弾散華の池」やアトリエ、旧宅などがある。


爆弾散華の池

龍子公園に入ったすぐ左手に池がある。
この場所には、大正9年(1920年)に建てられた龍子の居宅があった。しかし昭和20年8月13日に爆撃を受け、居宅は倒壊。使用人が2人死亡している。

爆弾散華の池
昭和20年(1945)8月13日、米軍機の爆撃により龍子旧宅は全壊に近い被害をうけました。その体験から制作された作品が「爆弾散華」です。「爆弾散華」には、食糧難の中で栽培された野菜が、爆風によってもの悲しく散っていく光景が描かれています。
終戦後の10月に龍子は第17回青龍展を開催し、この作品を出品しています。また、爆撃跡の穴からは水が湧き出してきたため、龍子の発案によって「爆弾散華の池」として整備されました。
 大田区立龍子記念館

龍子のアトリエ

川端龍子のアトリエは昭和13年(1938年)の建造。
竹が多く用いられた龍子デザインの建屋。

龍子の旧宅

終戦後の昭和23年(1948年)の建造。


大田区立龍子記念館

龍子記念館とは
龍子記念館は、近代日本画の巨匠と称される川端龍子(1885-1966)によって、文化勲章受章と喜寿とを記念して1963年に設立されました。当初から運営を行ってきた社団法人青龍社の解散にともない、1991年から大田区立龍子記念館としてその事業を引き継いでいます。当館では、大正初期から戦後にかけての約140点あまりの龍子作品を所蔵し、多角的な視点から龍子の画業を紹介しています。展示室では、大画面に描いた迫力のある作品群をお楽しみいただけます。
龍子記念館の向かいの龍子公園には、旧宅とアトリエが保存されており、画家の生活の息づかいが今も伝わってきます。

大田区立龍子記念館 https://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi


川端龍子 作品

川端龍子の絵画のうち、いくつか私が興味を持った作品を紹介。

「香炉峰」

昭和14年(1939)の作。幅は727.2cmにも及ぶ大作。
飛行する九六式艦上戦闘機が半透明に表現されたインパクトのある作品。

川端龍子は海軍省嘱託画家として支那事変に従軍。中支の廬山上空を海軍機に便乗し、俯瞰した廬山主峰の香炉峰を中心に連峰と長江の大景観を取材した。

白居易が「簾をかかげて看る」と詠んだ香炉峰を、川端龍子は戦闘機という近代兵器で透かして見せた。戦闘機を透視的に扱ったのが龍子のウィットに富んだ秀逸な技法。

中央に日の丸。ほぼ、戦闘機を原寸大で描かれたものという。

川端龍子の自画像という。

ただ透明にしているのではなく、きとんと戦闘機の骨組みを踏まえた透明感が凄い。

※このとき(2021年10月)は香炉峰のみ撮影可、でした。
※展示会の内容により、作品は入れ替わりがあります。

絵葉書を購入しました。

「越後(山本五十六元帥)」

昭和18年(1943年)の作品。4月に戦士した山本五十六の鎮魂の作品。
川端龍子作品では珍しい肖像画。
山本五十六が長岡出身であったことから、人物から「越後」を表すことを試みた作品。
龍子は「五十六の写真」をヒントに描いたという。
しかし写真の第一種軍装の山本五十六と違い、龍子は、ソロモンの南東海域で亡くなった五十六を踏まえ、熱帯で着用されていた白い軍服(第二種軍装)の姿で描いている。

地図を見入る山本五十六の写真

絵葉書を購入しました

「水雷神」

昭和19年(1944年)の作品。
作品が発表された昭和19年の南方戦線は壊滅的な戦況となっていた。その南方海域を感じさせる熱帯魚が泳ぐ海での、特攻と精神的苦悩の様を造形で記録した作品。
海中で忿怒の表情を呈す3人の青年が、敵陣に突入する爆弾三勇士のように、魚雷を突き動かしつつ悲痛な叫びを上げている。
一方で、魚雷の先端に金剛杵を描くことで魚雷そのものを宝具と化し、それを突き動かす青年三体を神格化している仏教的な試みもされ、兵器としての水雷の神格化も踏まえ「水雷神」と銘し、軍部の期待にも龍子なりに応えている。

絵葉書

爆弾三勇士

「爆弾散華の池」

絵葉書は、「香炉峰」「越後(山本五十六元帥)」「水雷神」「爆弾散華の池」の都合4枚をいただきました。

実は、川端龍子のこと、ほとんど知りませんでした。
たまたま「爆弾散華の池」というフレーズを知り、ちょっと気になったので脚を運んだ次第でしたが、記念館で圧倒的な迫力で「香炉峰」を目にして、一気に興味を持った次第。

場所

大田区立龍子記念館
〒143-0024 東京都大田区中央4丁目2−1

https://goo.gl/maps/SD3uzoqfLhpopYxY6

大森駅からは歩いて25分くらい。バスだと15分くらい。


大森駅の東側にある入新井公園に戦争の慰霊碑があるので、あわせて参拝。

入新井萬霊地蔵尊

入新井萬霊地蔵尊
為昭和昭和二十年一月 十一日
        五月二十三日
        五月二十九日
               大空襲戰災死者

入新井萬霊地蔵尊の由来
 この辺りは、太平洋戦争下の昭和二十年五月二十九日の東京大空襲にて、不幸にも三・三平方メートル(一坪)当り六、七発の大量油脂焼夷弾が落され、大勢の尊い犠牲者が出ました。
 戦後、区画整理も整い入新井公園が設けられるに及び、昭和三十二年住民の声にて、今は亡き肉親を偲び、在りし日の隣人を追慕してご冥福を祈ると共に永遠の平和を祈念し、故広瀬定光氏他有志が発起人となり、住民の浄財をあおいで地蔵尊が建立されました。
 その後永年の風雪に破損がひどく、今回三十三回忌を記念して再び広く浄財を募り再建したものであります。近隣の方々のお力により、毎日お花や線香の絶える時がございません。
 昭和五十一年五月二十九日
 入新井萬霊地蔵尊奉賛会

場所

https://goo.gl/maps/cCBUbWuQyH9ptFtD6


※撮影は2021年10月

陸軍経理学校の跡地散策(小平)

かつて陸軍経理学校が小平市内にあった。わずかに残る痕跡を散策してみる。


陸軍経理学校

陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育、あるいは経理官への上級教育を行っていた陸軍学校。教育に限らず陸軍経理に関する調査と研究なども行っていた。陸軍経理とは会計だけに限らず、監査、被服、糧秣、建築も職務に含まれていた。

明治19年(1886)に陸軍軍吏学舎が設置されたことに始まる。
明治23年(1890)に陸軍軍吏学舎を廃止、陸軍経理学校を開校。
明治33年(1900)に「陸軍経理学校本校」を東京市牛込区河田町に移転。陸軍士官学校の「市谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」の愛称で呼称されることとなる。
昭和17年(1942)3月、陸軍経理学校は戦争による生徒、学生、幹部候補生等の人員増加のため、東京府北多摩郡小平村に移転。昭和20年8月の敗戦により閉校。

関東管区警察学校の正門は、かつての陸軍経理学校の正門跡。

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-36
昭和22年(1947)11月14日、米軍撮影の航空写真

陸軍経理学校部分を拡大

グーグル航空写真での同位置。

陸軍経理学校跡は大きく4つに分割された。
北西 陸上自衛隊小平駐屯地
南西 国土交通大学校
南部 関東管区警察学校
東部 小平団地


陸軍経理学校跡地散策

西武鉄道多摩湖線の一橋学園駅の南東が、かつての陸軍経理学校の跡地。
線路と敷地の間にある道路は「国交大通り」。そのまま南下する。

南西の角には、全国建設研修センターがある。
ひときわ大きな桜は「明倫桜」という。

明倫桜

秋月藩の学問所明倫堂跡に残る桜。

明倫桜の下にはレンガ積みがある。

それなりに古そうな感じもあるが、当時のレンガかどうかは不詳。


陸軍境界石(陸軍経理学校)

喜平町みどり公園の入口にたつ陸軍標石。

陸軍境界石
 正面に「陸軍」の二文字が刻まれています。ここには太平洋戦争末期に陸軍経理学校が作られ、その敷地の境界を示すために建てられました。
 もともと現在より5メートルほど南にありましたが、歩道の改修に伴い移設されました。

周辺の歩道には、陸軍境界石と思われる標石が埋もれて点在している。

このあたりの側溝は、当時の境界だろうか?

そろそろ正門が近づいてくる。


陸軍経理学校の正門跡

現在は、関東管区警察学校。
陸軍経理学校時代の門柱が、そのまま活用されている。

陸軍管区警察学校の標識は横に掲げられている。
よくよく見れば、縦位置には埋めたような跡がある。
往時は縦標識で「陸軍経理学校」と掲げられていたことであろう。

そのまま東に歩みをすすめる。

あかしあ通りの銀杏並木

現在は、警察学校と団地の間を縦断する道路「あかしあ通り」。
銀杏並木は経理学校の生徒が卒業記念に植樹したものという。

標石っぽいものが埋もれている。ここから先は小平団地。

陸軍経理学校の南東端から北東端まで歩みをすすめる。
「警察学校北通り」に到達したら、ここからは西に向けて歩く。

陸上自衛隊小平学校
陸上自衛隊小平駐屯地

陸軍経理学校の北西部分は、現在は陸自の施設となっている。

そのまま歩けば、西武線に突き当たる。
陸軍経理学校の跡地を一周歩いた、ことになる。

西武鉄道。
昭和15年に、多摩湖鉄道は武蔵野鉄道へ合併している。

一橋学園駅。
戦前は現在地には開業しておらず、北側に「小平学園駅」が昭和8年に開業していた。
「小平学園駅」と南にあった「一橋大学駅」を統合して「一橋学園駅」が昭和41年に統合し現在の駅名となっている。

だいたい、約3キロ周回の散策、でした。

※撮影は2021年8月


陸軍経理学校の校内神社「若松神社」

若松台の陸軍経理学校


関連

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑

磯部浅一は、経理学校出身だった。(もちろん小平に移転する前に卒業しているが)

海軍経理学校