「人物史」カテゴリーアーカイブ

「怨親平等の観音様」松井石根大将と興亜観音・殉国七士之碑(熱海)

静岡県熱海市伊豆山。
太平洋を望む風光明媚な伊豆山鳴沢山の中腹。

陸軍大将 松井岩根が願主となって支那事変戦歿者を「怨親平等」わけへだてなしに慰霊供養するために建立された「興亜観音」が鎮まり、そして「殉国七士」をはじめとした昭和殉難者(殉国刑死者・ABC級戦犯)1068柱の御英霊、大東亜戦争戦歿者を慰霊する聖地が、熱海伊豆山にあった。

※「興亞観音」が正しい記載ですが、
 以下は一般的な「興亜観音」で記載致します。


興亜観音へ

興亜観音に赴くバスの本数は少ない。「興亜観音前」バス停というバス停があることにはあるが、いかんせん本数が少ないので、熱海駅からは「伊豆山循環」を利用して「小学校入口」バス停から歩くのがよい。

興亜観音前バス停のちかくにあるリゾートホテル「東急ハーヴェストクラブ熱海伊豆山&VIALA」。この地は、かつて熱海に隠棲した松井石根陸軍大将宅跡。

興亜観音前バス停から、伊豆山鳴沢山を登る。
この山の中腹に興亜観音が静まる。

この先は駐車場。車であがってくるのも大変そうだ。


興亜観音(礼拝山興亜観音)

わけへだてなし「怨親平等」の観音様。
昭和15年(1940)2月24日に、松井石根陸軍大将の発願により支那事変での日支両軍の戦没者を、等しく弔慰、供養するために建立。
寺院としては、日蓮宗から分かれた法華宗陣門流系であるが、興亜観音はこれにも属さず、日本で唯一の独自の歴史と祭祀を持った独立した寺院。

御参拝の御方様へ
伊豆山の急な山道をお登りになり、ようこそ『平和の御使い 興亜観音』においでくださいました。ここ礼拝山(鳴沢山)は鎌倉幕府を開いた源頼朝が源氏の再興を祈願した祈りのお山でございます。
そして昭和15年、陸軍大将松井石根閣下が日支事変で命を落とされた日中双方の兵士の御霊を弔うため平和を祈願し、
この地に「興亜観音」を建立されました。

 以来長い年月の間、風雨に耐え、野に立っておられる観音様は、かつて戦場であった中国大陸の方に向かい、今も深い慈悲のまなざしで見つめていらっしゃいます。午前11時から午後3時頃が観音様のお顔がもっとも美しく輝く時間でございます。どうぞごゆりと心静かにお参りくださいませ。 合掌
 興亜観音 住職

興亜観音
施無畏
 願主 陸軍大将 松井石根書

施無畏(せむい)
仏語。
菩薩が、その威力や方便で衆生の種々の畏怖を取り去って救うこと。
無畏を施すこと。三施の一つ。施無畏力をもっているために,観世音菩薩は施無畏者と呼ばれる。

コトバンク 施無畏
https://kotobank.jp/word/%E6%96%BD%E7%84%A1%E7%95%8F-87688#:~:text=%E3%81%9B%E2%80%90%E3%82%80%E3%81%84%E3%80%94%E2%80%90%E3%83%A0%E3%83%B0,%E8%A6%B3%E4%B8%96%E9%9F%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9%E3%81%AE%E7%95%B0%E7%A7%B0%E3%80%82

松井石根は、熱海の自宅にも無畏の名を冠していた。

決意の證
松井石根大将は、支那事変初期に於ける敵、味方双方の戦没将兵を平等に弔う為に、興亜観音を建立されました。同大将は私共に忠誠心を以て國の為に命を捧げた日本将兵は、永遠に供養されなければならぬ事と、忠誠心の極まった所に生ずる佛心、即ち敵といえども戦没者の霊を丁重に弔う、我が國武士道の伝統に基づく「信」を教えられたのです。これは平和への願いであり、あらゆる善行の基本です。同大将の辞世の内に「自他平等、誠の心」とあり、これこそ武士道精神、声なき声、心の光として人を導いているのです。
 日本国民が天から与えられた至上命令は、人類の文明を破却から守る事です。私共は天を敬い、人を愛して、身を慎んで善を行い、自らに課す精神生活の充実が、我が民族の道徳水準の向上となり、これこそが人類の文明を破却から守る原動力になると言う堅い信念を以て、興亜観音を心の拠り所として善行に励もうと思います。
(以下略)

来山の若き人よ
 名にし負う伊豆山の
明媚なる風光を
 愛づると共に
しばしここに足を留めて
 篁のかそけき風の音の
底なる日本精神の
 真髄なる「天上の声」に
  耳を傾け給え。

平成19年春 興亜観音刻名石版奉納事業 

興亜観音

この場所には、不審者侵入阻止のために扉付きの山門を建立予定。
興亜観音建立80年記念奉賛事業で建立予定であったが、コロナ禍により延期。


偶然が重なり、興亜観音の伊丹妙浄住職のご案内で参拝をさせていただく。
伊丹妙浄住職は、興亜観音の4代目住職。
 「遠いところからわざわざありがとうございます」
 「興亜観音は知っておられましたか」
 「最近はお若い方の参拝も多くなりました」
非常に物腰の低い慈愛に満ちた住職様。


松井石根と興亜観音

松井 石根(まつい いわね)
明治11年(1878年)7月27日 – 昭和23年(1948年)12月23日
最終階級は陸軍大将。大亜細亜協会を設立し大亜細亜協会会長を務める。
上海派遣軍司令官として、「いわゆる南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて処刑された。

松井石根は、成城学校卒業後に陸軍幼年学校に進学し、陸軍士官学校へ入学。
陸軍士官学校を9期次席卒業し、明治34年に陸軍大学校に入学。陸大在学中に日露戦争に従軍。
明治39年に陸大を18期主席卒業。
明治40年、清国に派遣され、孫文と親交。松井は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。また、蒋介石とも親交を深めた。
昭和2年、陸軍中将に昇進。
昭和3年(1928年)5月3日、済南事件が起き、陸軍内で蔣介石への批判が高まるなか、6月4日に張作霖爆殺事件が勃発。前年に松井石根が調整して蒋介石の来日を働きかけ、合意していた「田中義一・蔣介石会談」(国民党による中国統一と日本の満蒙開発承認)が完全に瓦解してしまった。
松井石根の中国構想は破綻し、そして蒋介石は日本への不信感を高め、そうして昭和6年(1931年)9月満州事変、昭和7年(1932年)3月満州国建国へと進んでいってしまう。
松井石根は昭和8年(1933年)3月1日に大亜細亜協会を設立(松井は設立発起人、後に会長に就任)。10月に陸軍大将に昇進。昭和9年に現役を退き予備役となる。

支那事変
昭和12年(1937)7月7日、盧溝橋事件により日中戦争(支那事変)勃発。
予備役だった松井石根に8月14日陸軍次官から呼び出しがかかった。
そうして8月20日、上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて上海に向けて出港した。
10月30日には、上海軍と第10軍を統括する中支那派遣軍司令官も兼任。
11月5日、柳川平助中将率いる第10軍は杭州湾上陸作戦を敢行。日本軍が優勢となり11月12日上海陥落。

南京攻略戦
11月19日、第10軍は、独断で中国軍を追撃、「南京攻略戦」を開始してしまう。松井石根は暴走を制止したが間に合わず第10軍の暴走を追認せざるを得なかった。11月28日、参謀本部は、後追いで南京攻略命令を 発令。
12月4日、朝香宮鳩彦中将が上海派遣軍司令官に就任。中支那方面軍司令官専任となる。
そのまま南京攻略戦の指揮にあた り、12月10日に総攻撃を開始、13日に南京城は陥落し、17日に南京入城式が行われた。
南京入城の翌日12月18日に、南京戦において亡くなった 日本軍戦死者の慰霊祭が行われた。松井石根は祭主として「中国軍の戦没者も併せて慰霊するようにせよ」としたが師団長から異論が出たために、日本軍戦没者のみの慰霊となったが、松井石根は、すでにこのときに日本と中国と両軍の慰霊を考えていた。

松井石根は独自の和平交渉を行おうとしていたが、昭和13年(1938年)1月16日近衛文麿首相の「蔣介石を対手とせず」宣言(近衛声明)で、松井石根の交渉の芽は全て摘まれてしまった。
松井石根は、軍中央部から中国寄りと見られ、その考え方の相違から更迭されてしまい、昭和13年2月に帰国し、再び予備役となった。

興亜観音
昭和13年5月、滞在していた熱海伊豆山温泉旅館涼々園主人の古島安二氏に伊豆山で余生を過ごしたいこと、戦歿将兵の供養などを打ち明け、古島氏が松井石根に協力。「観音像」を建立することとなった。

興亜観音の原型製作は、愛知県常滑の陶工柴山清風氏が快諾。
松井石根の後任で中支那派遣軍司令官となっていた畑俊六陸軍大将に「上海上陸以来、南京入城に至るまでの各戦場の土」の用意をお願いし10樽ほど送ってもらって、柴山清風氏と、そして彫塑家小倉右一郎氏に原型の修正を依頼し、漁師合作で「興亜観音」塑像が完成。高さ1丈(3.3m)、推定重量は約600kg。

開眼式は朱桜わ15年2月24日、芝増上寺大島徹水僧正を導師として執り行われた。
柴山清風氏の露座「興亜観音」と同じ姿の瀬戸焼2尺(60.6cm)の「興亜観音」も堂内に安置。

その後
軍籍を離れた松井石根は、「大亜細亜協会」会頭として、アジア主義運動、興亜思想の普及などに務めるとともに、仏門に励み、朝昼の二回、興亜観音堂に参拝するのが日課となっていた。
1945年8月15日、熱海伊豆山の自宅で終戦を迎える。11月19日、松井は戦犯指定を受けたが、肺炎を患っていたために巣鴨出頭を1946年3月5日まで延期。
1946年3月5日出頭。収監されてからも毎朝、観音経を上げるのを日課としていた。

松井石根は、極東国際軍事裁判において、A級戦犯(平和に対する罪)としては無罪であったが、B級戦犯(通例の戦争犯罪)では「捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)」での有罪とされ、死刑判決。
東京裁判においては首席検察官を務めたジョセフ・キーナン検事はこの判決について、『なんというバカげた判決か。シゲミツは、平和主義者だ。無罪が当然だ。マツイ、ヒロタが死刑などとは、まったく考えられない。マツイの罪は、部下の罪だから、終身刑がふさわしい。ヒロタも絞首刑は不当だ。どんなに重い刑罰を考えても、終身刑まではないか。』と判決を批判していた。

昭和23年(1948年)12月23日
巣鴨プリズン内で松井石根、東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章の死刑が執行された。
松井石根は享年70歳没。昭和53年(1978年)、昭和殉難者として靖国神社へ合祀。


興亜観音の部下英霊に捧ぐ

以下に、松井石根の「興亜観音」建立に至った心持ちが取材された記事を引用する。

戦場の霊土で作り奉った
興亜観音の部下英霊に捧ぐ
 元中支方面軍最高司令官陸軍大将 松井石根

 (前略)記者は、堂主として余生を送るために、本籍までここに移されたといふ将軍を、観音堂に程近い、伊豆山麓のお住居にお訪ねして、将軍の興亜観音を建立された御心境を伺った。(記者)

 部下の英霊と共に住みたい —- それが、私の永い間の願ひであった。

 いまここに幾多同感の人士、併に熱海市各方面の協力によりて興亜観音の完成を見、開眼式を行ひ、日夜諸君の霊を慰め得ることを、私は衷心から歓ばしく思ふのである。

 大命を拝して江南の野に転戦し私は敵味方幾多の将兵の貴い生命を滅ぼした。
 南京入城の翌日、戦没将兵の慰霊祭を行つたのであるが、その時、私の脳裏に浮かんだのは、皇軍将士の忠勇義烈の様と共に、蒋政権の傀儡となつて、徒らに生命を捨てた、哀れな支那人の犠牲者のことであつた。
 皇軍の将兵は、その最後において一様に、陛下の萬歳を唱へまつり、莞爾(かんじ)として皇国のために殉じたのである。
 この姿は、成佛の姿でなくして何であらう。
 また、靖国神社に神として斎(いつ)き祀られ、萬人の景仰のもとに永遠に神鎮まり給ふのである。
 ひきかへて支那の犠牲者達は、その多くが、些末(さまつ)の囘向(えこう)をも受けることなくして、空しく屍を荒野にさらしている。
 その亡魂は成佛することができずして、大陸にさまようていることであらう。
 この哀れな犠牲者を、皇軍将士と共々供養してやりたいといふ願ひは、私の心深く根ざすところがあった。
 命により、數多の部下を残して帰還するに當つて、私は人に託して部下の遺骨と、日中両国将兵が戦没の地の霊土をもって佛像を作り、両国の戦没将兵を平等に祀ることにした。

 すでに靖国神社に神として祀られ、皇国の英霊を、私してお祀りすることは、まことに僭越であつた。
 しかし私個人として、私の部下であつた多くの勇士に對する感謝と愛惜(あいせき)の情はまことに禁じ難く、僭越ながらかうして英霊を祀り、これを一般に公開することにしたのである
 両国殉難者を祀るためには、相通じる佛教もつてすべきだと思つた。
 そして各宗派に超越している観世音を祀り、その大慈大非の念力によって數多の亡魂を救ひ、普く三千大千世界を照らす観音の光明をもって、業障を浄除して、両国犠牲者の霊が、地下に融和せんことを願つたのである。

 更に、我が身を殺して大慈を布き、畏(おそ)れなきを施すといふ施無畏(せむい)の観音の精神は、即ち八紘一宇の興亜大業の精神に他ならぬ。
 諸人と共に、両国犠牲者の冥福を怨親平等に囘向(えこう)し、八紘一宇の大精神を具現する、日支親善の守り本尊となるならば望外の幸福である。
 私が興亜観音の建立を発願したのは、この目的に他ならなかつた。
 携えて来た霊土は、陶土に混へて、上餘(じょうよ)の外佛と二尺餘の内佛の二體作つて興亜観音となし、部下勇士達の遺骨は、寶蓮華臺(ほうれんげだい)の中にねんごろに納めた。
 この伊豆山の麓に居を移した私は、朝夕(ちょうせき)の閼伽(あか)の水を奉るべく、杖を引いて山路を登り下りする。
 観音像の御前に合掌して、想ひを蒼海萬里(そうかいばんり)の外に馳(はせ)するとき、うたた感慨切なきものなきを得ない。
 諸君と共に死すべかりし身の、命により帰還して後、私の眼前に見んとして見得ず、しかも脳裏を巡って離れぬものは、諸君が戦場において、敢然敵陣に突入せんとする忠勇義烈の姿であった。
 いま諸君のこの姿を、興亜観音の御像の上に仰ふ。
 私はこの観音堂にあつて、身の餘生を、諸君の霊を守つて明し暮らしたいと思ふ。
 しかしながら、諸君の莫大の命を捧げし、興亜の聖業未だ成らざるのとき、徒らに身を閑居の安きに処しているべきではない。
 言うまでもなく地位の如何を問わず、なほまた何かと邦家(ほうか)のため微力をいたすの義務ありと信じている。
 聖業の成れる暁にこそ、私は興亜観音像の堂主として、諸君の霊に仕えへて餘生を終わりたいと思ふ。

「主婦の友」昭和15(1940)年4月号
戦場の霊土で作り奉った 興亜観音の部下英霊に捧ぐ 松井石根
http://www.history.gr.jp/koa_kan_non/6-2.html

興亜観音の後ろの崖は、最近は開発で山に追われたイノシシが頻繁に通行して、その際に木々やがれきを落としていくという。昔は観音様の周りの草木を伐採していたが、最近は観音様を護るクッションとして茂らせている、とは伊丹妙浄住職のお話。
樹木が「見苦しくて申し訳ないです」ともお話されましたが、いえいえ緑に包まれた観音様のお姿もお美しいです。

「彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を採り、 施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立」された。
興亜観音は、中国大陸の方向を向いて鎮座している。

国土安穏
日本古来の伝統ある良き日本の心を大切に日々に感謝
御参詣各位の御健康を心からお祈り申し上げます
 礼拝山興亜観音

興亜観音縁起
支那事変は友隣相打ちて莫大の生命を喪滅す 実に千歳の悲惨事なり 然りといえども是所謂東亜氏族救済の聖戦なり おもふに此の犠牲たるや身を殺して大慈を布く無畏の勇慈悲の行 真に興亜の礎たらんとする意に出てたるものなり 予大命を拝して江南の野に転戦し亡ふ所の生霊算せいれいさんなし まことに痛惜の至りに堪へす 茲に此等の霊を弔ふ為に、 彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を採り、 施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立し、 此の功徳を以て永く怨親平等に回向し、 諸人とともに彼の観音力を念じ、東亜の大光明を仰がん事を祈る
因に古島安二氏其他幾多同感の人士併に熱海市各方面の熱心なる協力を感謝す
 紀元二千六百年二月
  願主 陸軍大将松井石根誌

紀元二千六百年は昭和15年。

興亜観音の右並びに3つの石碑が林立している。

南無妙法蓮華経
大東亜戦殉国刑死一〇六八霊位供養碑

(裏面)昭和43年12月8日 有志建之

大東亜戦争戦歿将士英霊菩薩

(裏面)
昭和19年4月
 願主 陸軍大将 松井石根 建之


七士之碑

巣鴨プリズン
昭和23年(1948年)12月23日、 当時、皇太子であった 上皇陛下の15歳の誕生日であった。

12月23日の尊い「国民の祝い日」であった夜中の午前0時。
巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)で極東国際軍事裁判(東京裁判)により「戦犯」として死刑判決が処せられた7名の絞首刑が執行された。

  • 板垣征四郎 陸軍大将・陸相
           <中国侵略・米国に対する平和の罪>
  • 木村兵太郎 陸軍大将・ビルマ方面軍司令官
           <英国に対する戦争開始の罪>
  • 土肥原賢二 陸軍大将・奉天特務機関長
           <中国侵略の罪>
  • 東條英機  陸軍大将・第40代内閣総理大臣
           <真珠湾不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪>
  • 武藤章   陸軍中将・第14方面軍参謀長
           <一部捕虜虐待の罪>
  • 松井石根  陸軍大将・中支那方面軍司令官
           <捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)>
  • 広田弘毅  文官・第32代内閣総理大臣
           <近衛内閣外相時に南京事件を止めなかった不作為責任>

横浜・久保山
巣鴨プリズンで処刑された7人の遺体は、横浜の久保山火葬場に運び込まれ、厳重警戒の中で焼却された。
遺族は遺骨遺灰の引き取りを願ったが、GHQはA級戦犯七士が神聖化されることを恐れ拒絶。
そうして、A級戦犯七士の遺骨は米兵によって粉々に砕かれ東京湾に捨てられた。
遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、細かい遺骨や遺灰は、久保山火葬場のコンクリ穴に捨てられていた。この僅かな遺骨と遺灰を回収するために、小磯国昭弁護人三文字正平、興禅寺住職市川伊雄、久保山火葬場場長飛田善美は、米兵がクリスマスで浮かれている12月26日の夜中に、必至の覚悟で密かに忍び込み、苦心の末に骨壺一杯分の遺骨灰を集めることに成功した。

熱海・興亜観音
骨壺は密かに久保山火葬場から、すぐ隣に鎮座していた市川住職の興禅寺に運び出され、しばらくは興禅寺に隠されていたが、やはり久保山葬祭場のすぐ近くは危険だということもあり、三文字弁護士や市川住職、七士の遺族の人々が、極秘のうちに相談した結果、翌年昭和24年5月三日に松井石根大将ゆかりの熱海・興亜観音に運ばれれることとなった。
三文字正平は、広田弘毅氏の令息、東條未亡人、武藤未亡人らとともに興亜観音住職伊丹忍礼に相談。「知り合いの方の遺骨だが時期が来るまで、誰にもわからぬように秘蔵しておいて欲しい」と申し出て、伊丹住職は一見して七士のご遺骨であることを直感し、快諾。そうして東亜観音にて遺骨は秘匿された。

「七士之碑」建立
密かに興亜観音に運び込まれた七士のご遺灰は10年もの間、秘事として興亜観音の初代住職伊丹忍礼によって護持されてきた。
昭和34年4月一九日、松井大将の無二の親友であった高木陸郎氏(興亜観音奉賛会長)らの発起により、吉田茂元総理の筆になる「七士の碑」が建立された。吉田茂は、広田弘毅の外交官時代の同期でもあった。「七士之碑」建立の際は、81歳と高齢な吉田茂は、興亜観音の山道を籠に乗って登られた。
ご遺灰は、「七士之碑」の碑の下に約3メートルの地下に埋葬されている。
碑文についても種々議論があったが、「知る人ぞ知る「七士之碑」でいいではないか」との結論に落ち着いたという。
そして昭和35年には、遺灰の回収と秘匿に尽力した三文字弁護士の発起により愛知県の三ヶ根山(松井石根の出身地)にある「殉国七士墓」に、「興亜観音」にある骨壷から香盒1ヶ分ほどが分骨埋葬された。

七士之碑
吉田茂書

昭和34年4月17日、興亜観音奉賛会建之

すめろぎの
 おほみいのちに
  代りませる
七つのみたま
 います奥城

松井石根
板垣征四郎
東条英機
土肥原賢二
木村兵太郎
武藤章
広田弘毅

七士之碑裏面
殉国七士 処刑直前の揮毫の写し


興亜観音・七士之碑爆破事件

昭和46年(1971)12月12日。
赤軍派「東アジア反日武装戦線」グループ数名が、「七士之碑」にダイナマイトを仕掛け爆破を行った。

「七士の碑」から、さらに導火線は「大東亜戦争殉国刑死一〇六八霊位供養碑」を一巻きし、30メートルほど離れた「興亜観音」の腰にも導火線を巻きつけ、それぞれにダイナマイトを仕掛けた。
22時少し前、時限装置が発動し大爆音とともに「七士の碑」は粉々に砕けるも、隣の「1068名霊位供養碑」に上部「南無妙法蓮華経」の「法蓮」のところで、導火線がショートし、供養碑と観音様は爆破を逃れた。いまも、ショートして黒くなった部分が見てわかる。
「七士の碑」は爆破されて粉々になってしまったが、復旧作業が行われ、3つに割れた石を元に破片をあわせドイツ製の接着剤を用いて復元された。

南無妙法蓮華経の「法蓮」が黒くなっているのが、導線がショートし黒く焼けた部分。

爆破事件の際に砕けた「七士之碑」の破片。

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで


興亜観音本堂

本堂は熱田神宮造営の余材を用いて建立された。昭和15年の建立。

興亜観音
陸軍大将松井石根

当興亜観音は戦没者の慰霊と御供養をする霊場です
英霊緒霊位に畏敬の念を抱き現在ある幸せに感謝の心で御参詣を賜れば真にありがたく存じます
 礼拝山興亜観音

相模湾を望む


興亜観音本堂・堂内

伊丹妙浄住職の読経
南無妙法蓮華経 唱和し拝する。 

合掌

支那事変の犠牲者、大東亜戦争の犠牲者、極東軍事裁判で処刑された昭和殉難者、そして七士の御霊に。

堂内の様々な事物に関して、伊丹妙浄住職のお話を拝聴する。
ありがとうございます。
堂内総て撮影可、とのことでお話をお伺いしたあとで、パシャリパシャリと。
住職からお伺い出来たお話を踏まえて、ほんの一部ですが、以下に記載させていただきます。

興亜観音
朝香宮殿下(朝香宮鳩彦王)による揮毫扁額

興亜観音

霊座されている興亜観音と同じ姿で作られた、2尺(60,6cm)の瀬戸焼による観音様。

右       「日本国民戦死者霊牌」
中央  観音菩薩「松井将軍部下戦死者霊名(23,104柱)」
左       「中華民国戦死者霊牌」
 「殉国刑死1068柱の霊」
 「七士の霊」(松井石根、東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章)

支那事変日本戦歿者霊位

支那事変中華戦歿者霊位

松井石根閣下を祀る神棚

興亜観音 
 岩根書

パール判事

パール判事は、昭和28年、3度目の来日の際に興亜観音に参詣された。都合2回参詣されたという。

殉国七士 処刑前の揮毫(写し)

七士は、死刑執行の3分前に、両手が縛られた状態で最後の揮毫をおこなった。

昭和15年に画かれた中国の人々の様子

松井石根書

万歳
 岩根

巣鴨プリズンにて。
絞首刑台に向かう直前、最初の組(土肥原、松井、東條、武藤)は、松井石根大将の音頭で万歳三唱をされたという。
「天皇陛下万歳」 「大日本帝国万歳
それぞれ三唱。しかし、手錠のせいで、両手は胸の高さまでしか上がらなかった。
その次の組(板垣、広田、木村)は、前の組の万歳が聞こえていたということもあり、板垣征四郎大将の音頭で同じく万歳三唱を行った。

松井大将の外套

八紘一宇の絵画

松井石根大将の獄中の遺書(扇面)
その生涯を五言絶句に詠む

昭和21(1946)年から約3年間A級戦犯として巣鴨の獄中にあった松井石根大将。
昭和22年7月、古稀の誕生日に際して白扇の地紙に五言絶句の漢詩を以ってご自分の生涯を22行に集約して揮毫された遺書ともいうべき由緒あるもの。

上記を書き下し

古希誕辰 述懐
明治戊寅の夏 尾張牧野に生る
清和源氏の裔 歴代金城に仕ふ
武兵の第六男 幼にして凌雲の気有り
十六陸軍に入り 廿歳少尉に任ず
累升、大将を承け 勲位寵恩全し
夙に東方の事を志し 支に遊ぶこと十数年
初時燕京に赴き 又江滬に駐留す
朝野の士人と交り 日華親善に努む
帰って帷幕の賛に當り 出でて旅・師・聯に長たり
三次欧米に経き 軍縮・執権を談ず
審に國際の難きを知り 画策す東洋の社
侶中・偉和に座し 鞍を懸けて草野に臥す
上海の兵変に逢ひ  起き来たりて晩節を揮ふ
征師真に涙血 力戦愈々仁威
首府金陵を降し 皇軍神武熾なり
巧成りて戟を収めて還り 内朝の参議に任ず
興亜同盟立ち 大東亜戦酣なるや
中外の事を籌謀し 歴巡して西南に説く
国破れて戦犯の人となり 落莫たり幽牢の裏
老骨古希を迎へて 痩身荘志を埋む
俯して地に恥る無く 仰いで亦天に羞る没し
面壁専ら道を求め 心を放つ一味の禅
  昭和丁亥夏七月  巣鴨獄中に於て
   孤峯 石根

興亜観音開眼式
記念絵葉書
昭和15年2月

松井石根とご家族のお写真

衆生皆姑息
正気払神州
無為観音力
普明照亜洲
松井石根大将辞世 田中正明書

田中正明は松井石根の私設秘書であった。

堂本印象画伯の天龍画

堂本印象は近代日本画の大家

興亜観音本堂


本堂脇の休憩所

伊丹妙浄住職から、お茶をいただきつつ、談笑させていただく。
ありがとうございます。

興亜観音ヲ奉る

松井石根大将が巣鴨刑務所で記した興亜観音の詩

北京仏学研究院より松井大将閣下に贈られた書

作業された職人に手跡がついた木材。最近の合成木材では手跡がつくことがなく、これはこれで貴重なもの、だそうだ。

用材奉納
名古屋木材組合有志
昭和15年11月

熱田神宮の余材で建立。

徐州会戦 堤防修復の絵画

相模湾と狛犬
狛犬は昭和17年10月奉納


一段下がった場所にあったお堂は、乙女の祈りを捧げるお堂だった。

乙女の祈り

乙女の祈り
ソ連兵に身を汚されるくらいなら私たちは命を絶って純潔を守りますと昭和21年6月21日に、ハルピンにて22名の従軍看護婦さんが青酸カリで自決なされました。
この建屋の祭壇の従軍看護婦観音像を見守るように多くの観音像が安置され、総ての観音像の御胎内には、観音経がお収められています。
已む無き自決を決断せざるを得なかった清らかな乙女たちに思いを馳せ、無念の声なき声に耳を傾け、祈りを捧げましょう。 合掌

なぜか、小笠原海軍中将の額が。
小笠原長生は明治のイメージが強いけど、戦後まで長生きしてたな、そういえば。 

朝香宮殿下お手植えの菩提樹

昭和15年、松井大将の部隊に随行されていたご縁から朝香宮殿下が、興亜観音開山式の際にお手植えされた。

昭和17年10月奉納の掲揚台

熱海市中心部の方向を望む。
東海道本線は伊豆山の下をトンネルで抜ける。

相模湾、かすかに熱海城が見える。


各地の興亜観音

熱海の興亜観音が建立され、松井石根大将の「怨親平等思想」が広まると、共鳴した僧侶が自らの寺院にも「興亜観音」を建立したいと松井閣下に申し出があった。

  • 昭和16年8月11日  三重県尾鷲市 曹洞宗寺院 金剛寺
  • 昭和17年5月3日  富山県入善町 浄土真宗 養照寺
  • 昭和18年3月27日  奈良県桜井市 浄土宗 蓮台寺

機会があれば、これらの寺院にも参詣したいと思います。


授与品

お忙しいところ、伊丹妙浄住職には、大変お世話になりました。
ありがとうございます。

ちなみに、興亜観音でも御朱印をいただくことは可能です。昨今のブームの中でも、興亜観音で頂いている人は少ないようで、いわゆる御朱印サイトにも掲載がほとんどありませんでした。
ただし、興亜観音で御朱印をいただくためには帳面の持参が必要です。私は「興亜観音で御朱印」ということがすっかり念頭になかった為に、帳面を持参しておりませんでした。次回、参拝時には、靖國神社の御朱印帳を持参して参拝させていただこうと思います。

ご由緒書を頂き、御札を授かりました。

実は、松井石根大将のことは、さほどに深くは知っていなかった私でした。
今回、東亜観音にて松井石根大将の「施無畏」「怨親平等」のお心持ちを知ることが出来、認識を大いに深めることができました。

ありがとうございます。
また参拝させていただきます。


参考

参考文献として、「興亜観音を守る会」会報を使用したが、いわゆる「興亜観音問題」は私はよく知らない。「興亜観音を守る会」が守ることを放棄して崩壊した(平成23年に解散)という。
なお、昭和17年に設立された「興亜観音奉賛会」が唯一の公式団体。

興亜観音を守る会会報バックナンバー
http://www.history.gr.jp/koa_kan_non/backnumber.html
興亜観音第2号
興亜観音ものがたり 第1回
興亜観音第3号(平成8年4月18日号)
興亜観音はどうして建立されたか 伊丹忍礼
興亜観音ものがたり 第2回
興亜観音第6号(平成9年10月18日号)
戦場の霊土で作り奉った 興亜観音の部下英霊に捧ぐ ・・・松井石根(「主婦の友」昭和15年4月号より)
興亜観音第7号(平成10年4月18日号)
殉国七士の墓、興亜観音にその墓があるわけ  伊丹忍礼

興亜観音公式サイト
http://www.koakannon.org/index.html
興亜観音 いつも そして 永遠に
https://www.facebook.com/kouakannon/
興亜観音リーフレット
http://www.koakannon.org/box2/k03.pdf
興亜観音のいわれ(創建時 本修院道場主 伊丹忍礼)
http://www.koakannon.org/box4/a01.pdf


関連

市ヶ谷
極東軍事裁判は市ヶ谷の法廷で執り行われた

巣鴨拘置所
松井石根をはじめとする殉国七士は巣鴨プリズンで処刑された

久保山
松井石根をはじめとする殉国七士が火葬され、そして遺骨灰が収集された

靖國神社
殉国七士をはじめとする昭和殉難者の皆様は靖國神社に祀られている

殉国七士を偲ぶ慰霊の鐘

「河野壽大尉自決の地」二・二六事件と熱海陸軍病院跡

昭和11年(1936)2月26日。
後の世に言う「2・26事件」。東京以外では唯一、湯河原・熱海でも事件があった。

2・26事件と河野壽大尉

河野壽(こうの ひさし)は、陸軍航空兵大尉。陸軍士官学校(陸士40期)卒業。所沢陸軍飛行学校操縦学生。

河野壽大尉以下8人は、別働隊(河野隊)として湯河原「光風荘」に滞在していた牧野伸顕伯爵を襲撃した。

牧野伸顕
牧野伸顕は大久保利通の次男。事件当時75歳。前内大臣として 天皇陛下の側近であり欧米強調主義であったために、君側の奸( 天皇を取り巻く悪者)として暗殺対象となっていた。麻生太郎の母、麻生和子は吉田茂の長女(吉田和子)であったが、当時、祖父であった牧野伸顕ともに湯河原に滞在して事件を経験している。(吉田和子は事件当時20歳)

河野寿大尉の指揮する湯河原襲撃隊
現役は、河野寿大尉・宇治野時参軍曹(歩一第六中隊歩兵軍曹)・黒沢鶴一上等兵(歩一歩兵砲隊歩兵一等兵)。
民間元陸軍からは、黒田昶(予備役歩兵上等兵)・中島清治(予備役歩兵曹長)・宮田晃(予備役歩兵曹長)
民間からの参加者は、水上源一(弁理士)・綿引正三の合計8名。
河野寿大尉自身は、学生であったために部下がおらず、同士であった栗原中尉からの紹介で7名を率いることとなった。

湯河原・熱海の「二・二六事件」
2月26日早朝午前5時頃、牧野伸顕が滞在していた湯河原「光風荘」を襲撃。
玄関前で乱射された機関銃の銃声で目覚めた身辺警護の皆川義孝巡査(警視庁警務部警衛課勤務・牧野礼遇随衛)は、機転を働かせ牧野伯爵を裏口から避させることに成功。
河野壽大尉の襲撃部隊は護衛の皆川義孝巡査と銃撃戦となり、河野大尉と宮田が負傷。河野大尉が負傷したことで計画変更を余儀なくされ、放火を行い光風荘を炎上させるも、牧野伸顕伯爵襲撃は失敗。

銃撃戦で皆川義孝巡査は死亡(享年32歳・殉職)、河野壽大尉と宮田晃予備役曹長は負傷。河野壽大尉重傷後の部隊指揮は民間出身であった水上源一が務めている。(そのために民間人でありながら水上源一は、河野大尉自決後の湯河原隊責任者として唯一の死刑となっている)

襲撃隊8名の内、宮田は湯河原の病院に入院。重傷の河野大尉は熱海の東京第一衛戍病院熱海分院に入院し胸部盲貫の弾丸摘出手術を受ける。残る6名は翌日の2月27日に三島憲兵隊に収容。

河野壽の最期
熱海陸軍病院に入院し、刃物などを取り上げられた河野壽は、密かに兄の河野司に自決用の刃物を用意するように頼み、河野司は果物ナイフを差し入れ。
昭和11年3月5日午後、軍服に着替え病室を抜け出した河野壽大尉は、病院の外、裏山で自決。しかし果物ナイフでの自決は致命傷を得られず、16時間後の3月6日朝に死去。享年28歳。

辞世
 あを嵐 過ぎて静けき 日和かな
戒名 
 徹心院天嶽徳寿居士

二・二六事件
河野壽大尉自決の地

河野寿大尉自決の地
 河野寿大尉(28才)はニ・ニ六事件において、湯河原の伊藤屋旅館の貸別荘(当時)である光風荘に滞在していた牧野伸顕前内大臣(大久保利通の二男、麻生太郎元総理の曾祖父)を8名で襲撃し、護衛の皆川義孝巡査と相撃ちとなり、熱海の陸軍病院で治療をした。
 ニ・ニ六事件は陸軍皇道派の青年将校が、世界恐慌を発端とした昭和恐慌、また冷害による凶作によって疲弊する東北地方の農村の状況を座視し得ず、世直しを目指して取起した事件。昭和11年2月26日、第一師団を中心に1,483名を率いて、政府要人および天皇側近6名を襲撃し4日後には反乱軍となり鎮圧された。
 反乱軍となった河野大尉は3月5日、兄の司氏に果物ナイフを差し入れて貰い、午後3時半頃、病院の裏山で割腹し首を6箇所も切って、翌朝6時半絶命した。
 陸軍病院は戦後、国立熱海病院となった。昭和39年熱海バイパス国道の開通によって病院は分断され、山側は国家公務員共済組合連合会(KKR)に売却された。病院は取り壊され荒地となって放置されていた。
 平成2年に地元有志が自決跡に目印の石を置き、平成5年に標柱を立てたが、KKRホテルの建設に伴いそれらは撤去させられ、平成15年6月19日に関係者一同で現在地に石碑を建立した。
 光風荘は日本で唯一のニ・ニ六事件資料館として土日祭日開館しており、入館時間は午前10時~午後2時半。
 湯河原駅より奥湯河原行きバス乗車、万葉公園入口下車、徒歩1分。
 問合せは、湯河原町役場・地域政策課(0465・63・2111)
平成25年9月 
 看板菅理者川久保勲0557(83)4636

入口にはいくつかの案内があった。

熱海陸軍病院裏門跡
河野寿大尉自決の地
豆相人車鉄道軽便路

場所

https://goo.gl/maps/hqVFnt3ZzPrGL1NG8


東京第一衛戍病院熱海分院
熱海陸軍病院
(現・国際医療福祉大学熱海病院)

現在の国際医療福祉大学熱海病院とKKRホテル熱海のあるあたりに、当時は熱海陸軍病院があった。

明治44年(1911)5月、東京第一衛戍病院熱海分院が創設。
昭和13年(1938)2月、臨時東京第一陸軍病院熱海分院と改称。
昭和20年(1945)12月、終戦により厚生省に移管、国立東京第一病院熱海分院として発足。
昭和25年(1950)7月、国立東京第一病院から分離独立し、国立熱海病院に改称。
平成19年(2007年)2月、国際医療福祉大学熱海病院となる。

熱海陸軍病院の裏山。河野寿大尉自決の地。

KKRホテル熱海。
写真の後方奥に、熱海病院


熱海陸軍病院の陸軍境界標石

河野寿大尉自決の地から山の反対側に当たる場所。熱海駅側に標石が残っていた。

陸軍用地

場所

https://goo.gl/maps/khT5H6qyBNakEuAUA

熱海

風光明媚な熱海の海を望みながら、自決された河野大尉。
二・二六事件の歴史をほんの僅かに残していた、熱海でした。


関連

渋谷にある「二・二六事件慰霊碑」は、河野壽大尉の兄であった河野司氏が中心となって建立された。

麻布の賢崇寺は、二・二六事件で殉難した「二十二士」を祀る。

河野司さんが代表を務めていた佛心會(仏心会)

https://busshinkai.or.jp/

「二・二六事件」海軍の動き。

こちらは湯河原。

2・26事件資料館「光風荘」

https://www.town.yugawara.kanagawa.jp/kankou/leisure/koufusou.html

瓜生外吉海軍大将之像と瓜生外吉墓(小田原と南青山)

小田原に、海軍大将 瓜生外吉 が晩年に隠棲した邸宅があった。


瓜生外吉(うりゅう そときち)

安政4年1月2日(1857年1月27日) – 昭和12年(1937年)11月11日)
大日本帝国の海軍軍人。海軍大将。加賀藩支藩の大聖寺藩(石川県)の出身。

海軍兵学校は卒業していないがアナポリス海軍兵学校に留学をしており明治海軍有数のアメリカ通。
瓜生外吉夫人の瓜生繁子は三井物産の益田孝の実妹。明治新政府の第一回海外女子留学生(日本初の女子留学生)として渡米し10年間のアメリカ経験あり。三井物産初代社長の益田孝は義理の兄となる。
そして、「東洋のセシル・ローズ」と称された衆議院議員・森恪は女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)となる。

明治33年(1900)、海軍少将・軍令部第1局長。
明治37年(1904)2月4日、日露戦争開戦。第四戦隊司令官として参加。
開戦直後の明治37年2月9日、瓜生外吉率いる第四戦隊(旗艦・巡洋艦浪速、高千穂、明石、新高に、臨時で装甲巡洋艦浅間と第九艇隊および第十四艇隊の水雷艇8隻)は、仁川のロシア海軍・防護巡洋艦「ヴァリャーグ」と航洋砲艦「コレーエツ」を、日露戦争の口火を切った「仁川沖海戦」で撃破。瓜生外吉率いる第四戦隊が初戦の勝利を飾る。

日露戦争後、佐世保鎮守府長官・横須賀鎮守府長官を歴任。
大正元年(1912年)10月16日、海軍大将に昇級。薩摩出身者以外では2番目の海軍大将であった。
ちなみに、薩摩閥以外での1番目の海軍大将は会津白虎隊出身の出羽重遠(日露戦争では第三戦隊司令官)。出羽重遠は明治時代で唯一の薩摩閥外の海軍大将。とはいっても明治45年(1912)7月9日に海軍大将となっているので、瓜生外吉の3ヶ月前。
大正2年(1913年)、予備役に編入。

瓜生外吉は義兄である三井物産創始者・益田孝の勧めで、海軍退役後の大正2年に、小田原天神山に隠棲の別荘を設けて移り住んだ。
大正11年に体調を悪くし、小田原で療養中に大正12年の関東大震災に遭遇。一度、都内に転地療養し全快。
大正14年以降、再び小田原別邸に移住。
瓜生邸付近の道路が狭隘で、その上石段があるため、自動車の通行が不可能であったため、義兄・益田孝の経済的な援助と、海軍部員の奉仕によって工事が施行され、完成後に「瓜生坂」と呼ばれるようになった。
瓜生外吉は小田原を愛し、地元海軍部員はもとより、地域の人々とも交流が深かったという。(死後に地域の人々により記念の胸像が建立された)
昭和12年11月11日、81歳の天寿を全うした。正二位勲一等旭日桐花大授章が追贈。


瓜生海軍大将之像

作者は、北村四海。大正6年(1917)の作。
瓜生外吉没後、小田原町第十六区民・山角町青年誠友会員により、昭和14年(1939)5月27日、山角天神社の石段中途左に「瓜生海軍大将之像」が東京の瓜生邸から山角天神社へ移築され建立された。

瓜生海軍大将之像

昭和14年5月27日
小田原町第十六区民 
山角町青年誠友会員 建設

瓜生外吉海軍大将之像
Statue of Admiral Baron Sotokichi Uriu, I.J.H.
 瓜生外吉(1857‐1937年)は、米アナポリス海軍兵学校を卒業。
 日露戦争(1904‐1905年)の仁川沖、蔚山沖、日本海の各海戦で活躍し、1912年に海軍大将に昇進しました。
 後年は夫人繁子(日本初の女子留学生)とともに対米民間外交、親善に尽力しました。
 ここから」西に200mほどの高台に別荘を設けた外吉は、誠実な人柄が市民に敬愛され、海を眺めての小田原の生活をこよなく愛しました。

小田原の海を望む。

坂に名を残した人・瓜生外吉(海軍大将・男爵)

山角天神社


瓜生坂

すみません、写真を取りそこねております。
Googleストリートビューのキャプチャを暫定で掲載しておきます。。。

瓜生坂は、海軍を退役後に小田原天神山の別荘に移り住み、入退院を繰り返していた瓜生外吉を車で移動できるようにするため、義兄の益田孝の援助と、交流のあった海軍関係者が奉仕活動で造った坂。

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-110665.html


場所は変わって。。。東京の青山霊園

瓜生外吉の墓

場所は、1種イ22号5側。訪れたときは、ちょうど薔薇の花が賑わっていました。

海軍大将正二位
勲一等功二級男爵
瓜生外吉墓

隣には瓜生夫人の墓も。

従五位 瓜生繁子之墓

瓜生外吉の長男、瓜生武雄は、明治41(1908)年4月30日の松島爆沈事故で殉職している。

海軍少尉従五位瓜生武雄墓

明治41年4月30日軍艦松島
馬公港爆裂之際殉難齒廿三


森恪の墓(もり かく/もり つとむ)

青山霊園には、森恪の墓もありました。瓜生外吉の女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)。
青山霊園内を散策していたら、たまたま見つけましたので参詣。
ちょっと墓地が荒れていました。。。
場所は、1種ロ8号1側。


小田原の瓜生海軍大将之像から、東にちょっと行った所に、対潮閣跡がある。
海軍史としては、秋山真之終焉の地。瓜生外吉とは日露戦争の縁もあり、ここに付記する。

対潮閣(山下亀三郎別邸)《秋山真之終焉の地》

山下亀三郎は、山下汽船(現・商船三井)の創業者。
現在は、邸宅は残っておらず、個人宅・私邸が分割されている。
対潮閣の正面玄関があった場所に、説明の看板がある。

対潮閣(山下亀三郎別邸)跡(秋山真之終焉の地) 
 明治時代から、小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(鈍翁)、田中光顕、北原白秋など多くの政財界人や文人が居を構えたり、訪れたりしていた。
 山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎(1867~1944)の別邸「対潮閣」の正面入口がこの辺りにあった。
 対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山真之(1868~1918)がたびたび訪れ、山縣の別邸「古稀庵」(現・あいおいニッセイ同和損保小田原研修所)を訪ね「国防論」について相談していたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7(1918)年2月4日未明に対潮閣内で亡くなった(享年49歳)。

 正面の巨石は、対潮閣にあったもので、梵鐘を抜いた形の空洞があるので「釣鐘石」といわれている。
 左手前の石碑には、田中光顕がこの石を賞して詠んだ和歌が彫られている。

碑文
「うちたたく 人ありてこ曾(そ) よの中に な里(り)もわたらね つりが年(ね)の石 光顕」

田中光顕歌碑

うちたたく 人ありてこ曽 よの中に な里もわたらめ つりが年の石 光顕

 釣鐘石

山下亀三郎別邸の上段は清閑亭。

清閑亭(旧・黒田長成邸)

対潮閣の隣にあるのが清閑亭。
秋山真之も最後のときに、同じように相模灘の小田原の海を眺めていたかもしれない。

瓜生外吉から、神奈川の小田原から東京の青山霊園から、小田原の秋山真之へと、話が散らかりました。


小田原散策で、瓜生外吉と出会って、あまり知ることなかった瓜生提督のことを深堀りできたのが、良き記録となりました。


「陸軍中佐上原重雄戦死の地碑」と「疾風のプロペラ」(小田原)

小田原市沼代。その山中の道路の傍らに、この地で戦死された搭乗員の慰霊碑があった。


上原重雄

鹿児島出身。陸士第52期卒業。
上原重雄は、スマトラ島の「パレンバン航空隊」にて、遠くニューギニア戦線までも遠征し縦横無尽に活躍。
特にB17爆撃機の迎撃で勇戦した「偉勲の戦士」として知られる。
昭和19年にパレンバンから日本本土に戻り、兵庫県の「加古川航空隊」で教育にあたっていたが、昭和20年1月愛甲郡愛川町中津にあった「相模陸軍飛行場(中津飛行場)」を拠点としていた「飛行第22戦隊長(22FR長)」に着任。

ジャンボリー作戦
昭和20年2月16日、米海軍空母機動部隊は関東地方に対して、空母艦載機による本土初空襲を敢行。(ドーリットル空襲を除く、通常の米海軍空母艦載機による本土初空襲)
これは、硫黄島上陸作戦と連動する、日本本土航空戦力の撃滅を目指したものであった。

米海軍の高速空母機動部隊である第58任務部隊が、関東地方周辺の日本軍航空基地及び航空機工場を攻撃。第58任務部隊は大型正規空母11隻・軽空母5隻を基幹とする強力な艦隊であった。
2月16日の空襲では、房総半島から関東上空を目指し、戦闘機部隊は本土上空で空中戦を展開。爆撃隊は中島飛行機太田製作所や小泉製作所を目標としたものであった。
2月17日の空襲では、東京西部の中島飛行機武蔵製作所や多摩立川地区の航空機工場が目標となる。
日本軍航空隊の損失は、少なくとも被撃墜60機・地上撃破60機以上。アメリカ軍の損失は戦闘による航空機損失60機とその他作戦中の損失28機の合計88機。

相模陸軍飛行場(中津飛行場)
第22航空戦隊は最前線から帰還し戦力回復のため中津で錬成している最中であった。
昭和20年2月17日、第22航空戦隊は既に近日中に朝鮮への移駐が決まっており、部隊には迎撃中止命令が発令されていた。しかし着任したばかりの飛行第22戦隊長・上原重雄少佐は、我が物顔に飛行する米軍機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、部下をなだめつつも自らは義憤の単機発進を決行。

飛行第22戦隊長・上原重雄少佐は、相模陸軍飛行場(中津飛行場)から離陸し、米軍機を迎撃した。

100機にも及ぶ米軍機に上原重雄少佐は単機捨身で突入するも衆寡敵せず被弾。小田原市沼代上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の中津飛行場、そして皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆。壮烈な戦死を遂げられた。
(上原重雄少佐は、死後、陸軍中佐に特進)


飛行第22戦隊(隼第18913)
飛行第二二戦隊 (隼第一八九一三部隊) 

飛行第22戦隊は、初の四式戦闘機「疾風」装備部隊であった。
初代戦隊長には陸軍戦闘機隊のエースパイロットであった、岩橋譲三少佐が着任。岩橋譲三少佐は四式戦テストパイロットも務めていた。
岩橋譲三少佐はノモンハン事件以来の古参熟練搭乗員でもあったが、昭和19年9月9日に西安飛行場で戦死。

飛行第22戦隊は、最新鋭の大東亜決決戦機「四式戦 疾風」を要する陸軍屈指の決戦部隊であり、上原重雄少佐は、第四代目の飛行第22戦隊長であった。

「疾風」運用の最初の実戦部隊として活躍した飛行第22戦隊の部隊マークは、湊川の楠木正成にちなむ「菊水紋」であった。

※画像は「ハセガワ 1/48 日本陸軍 中島 キ84-I 四式戦闘機 疾風 プラモデル JT67」
 http://www.hasegawa-model.co.jp/product/jt67/

飛行第二二戦隊 (隼第一八九一三部隊) 略歴
昭和19年3月5日  東京福生(多摩陸軍飛行場)において臨時編成・
昭和19年5月下旬  神奈川中津(中津陸軍飛行場)において教育訓練開始
昭和19年8月17日  中津飛行場を出発し漢口へ
昭和19年8月20日  中国大陸にて桂林作戦に参加
昭和19年10月中旬 内地帰還
昭和19年10月18日 中津飛行場を出発しフィリピンへ移動、レイテ作戦に参加
昭和20年1月28日  戦力を回復するために内地帰還
昭和20年2月20日  福岡第一飛行場に到着   
昭和20年2月21日  中津飛行場に到着
昭和20年3月5日  朝鮮京城金浦第二飛行場に着
昭和20年3月25日  中国徐州飛行場に着 
昭和20年8月2日  朝鮮京城飛行場に着
昭和20年8月15日 朝鮮晋州で終戦

参考:
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122419500、陸軍航空部隊略歴(その1) 付.航空部隊の隷指揮下にあったその他の部隊/分割8(防衛省防衛研究所)」


中島 キ84 四式戦闘機「疾風」

大東亜決戦機として名高い「疾風」。
小山悌技師長を設計主務者とする中島製戦闘機の集大成。
「疾風」は重点生産機に指定され、戦争末期に近い昭和19年配備でありながら日本軍戦闘機としては零戦、一式戦(隼)に次ぐ約3,500機に及んだ。


疾風のプロペラ

四式戦に採用されたプロペラブレードは直径3.05 mの4翅であり、2000馬力戦闘機としては小径のプロペラであった。同時期に誕生した海軍の紫電・紫電改は、直径3.3 m、そして疾風と同じ中島製の海軍の彩雲は直径3.6 mを採用ということからも、疾風のプロペラが小さいことがわかる。一般には、プロペラ直径を大きくすると離陸時と上昇時の効率が向上し、小直径化すると高速飛行時の効率が向上するといわれている。
「疾風」プロペラは、フランスのラチェ式を改造し日本国際航空工業が国産化した電動可変ピッチ機構プロペラ「ペ32型」が採用。

「上原重雄戦死地の慰霊碑」は、疾風プロペラ1枚が用いられている。
これは、上原重雄の愛機「疾風」の残骸を陸軍が回収しに来た際に、「偉勲の戦士」の最後を見届けた農家の1人がプロペラを隠しておき、碑を作ったものだという。


陸軍中佐上原重雄戦死之地碑

合掌

近隣の方々により、今も手厚く維持されている。

陸軍中佐上原重雄戦死の地碑
 昭和20年2月17日、相模湾沖に進行した航空母艦から発進したグラマン戦闘機延べ600機が初めて関東地区を襲った。硫黄島上陸作戦を目前に、米軍の本土の目標に対する超低空からの集団攻撃だった。2日目を迎えた当地は朝から空襲警報下にあった。
 午前10時頃、攻撃を終えて南下してきた暗緑色の大編隊の群に単機捨身で突入した日本軍機があった。衆寡敵せず不運にも本市小竹上空で被弾してしまった。機は相模湾上で反転し、飛行場への帰還に向かったが、後続し南下する敵編隊の挟み撃ちにあい当地上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の基地、皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆し壮烈な戦死を遂げられた。墜落場所は沼代の山の中腹(やまゆりライン沼代入口付近から山側に入る鉄塔近く)。
 その姿は当地の人々に現在も鮮烈に残っている。戦死した搭乗者は首都防衛飛行第22戦隊長上原重雄中佐(鹿児島出身 享年28歳)であった。
 歴戦の中佐は陸士第52期の卒業でスマトラ島のパレンバン航空隊を拠点として遠くニューギニア戦線までも遠征し縦横無尽に活躍をし、特にB17爆撃機の迎撃には偉勲の戦士と言われている。前年に祖国に帰り兵庫県加古川航空隊で教育にあたっていたが、20年1月愛甲郡愛川町中津にあった第22航空戦隊長として着任した直後であった。
 当日は部隊が朝鮮平壌に移駐が決まり、軍は迎撃中止を命じていたが、我が物顔の敵機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、はやる部下隊員を掩体壕になだめおいて、自らは義憤の単機発進をされたものと思われる。
 当地においては故人を偲び、当地区の戦死者として遺影を福泉寺に掲額し遺族会としても懇ろに供養している。
 墓地の記念碑は搭乗機「疾風」のプロペラ4枚のなかの1枚である。永く戦死の地に設置されていたが、平成22年(2011)に現在地に移設された。

(表面)
 故上原重雄墓

(裏面)
 昭和20年2月17日戦死
 昭和28年9月23日建之
 百機ノ敵ニ一機ヲ以テ挑戦
 享年28才
 

(表面)
上原重雄戦死之地

(裏面)
 時 昭和20年2月17日
爆音乃たへて 桜とちりぬるも 
 高きかんばせ 永遠にきへなん

隼 戦闘隊長
 陸軍少佐 行年28才

故人愛キ之プロペラ

出身地
 鹿児島県日置郡
  市来町 湊

昭和28年
 墓ト共ニ建之

林唯四郎
 カキキザム

疾風のプロペラ。ジュラルミンのアルミ合金に刻まれたレクイエム。

プロペラであることがわかる薄さ。なおかつ、墜落時の衝撃でより一層に曲がっている。

案内看板の背面には、地元の人による墜落当時のエピソードが掲げられていたが、残念ながら風雨により劣化しており、全てを読むことが出来ない状態だった。

第22航空戦隊長上原重雄が散った小田原の空。

実際の墜落現場は、慰霊碑がある場所より直線距離で約800mほど西側の山中。
平成22年(2011)に山中で関係者が高齢となり維持や参拝が困難となったことから、山中から沼代の集落近くの道路に移転。

Googleストリートビューにて。中央の鉄塔のあたりが、墜落現場。

墜落現場

https://goo.gl/maps/6d49swavBGKpnnkV9


福泉寺

ちかくの福泉寺には、上原重雄中佐の遺影が保管されているという。

王子神社

「陸軍中佐上原重雄戦死之地碑」へは、王子神社を目標とするとわかりやすい。
王子神社 〒256-0801 神奈川県小田原市沼代506−1

下記写真の鳥居の先の道路がカーブする所に、慰霊碑がある。

「陸軍中佐上原重雄戦死之地碑」の場所

https://goo.gl/maps/9vd8T8yrW3oKfSPT8


公共機関でのアクセス方法

JR二宮駅南口よりバスというのが、一番わかりやすい。
ニ30系統 中井町役場入口行に乗車し、「下中駐在所前」で下車。徒歩約20分。

道中は、のどかな田園地帯を20分ほど歩く感じ。


参考

https://www.townnews.co.jp/0607/2015/05/02/281877.html

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-92679.html

東京裁判と久保山火葬場(横浜)

東京裁判と殉国七士

巣鴨プリズン
昭和23年(1948年)12月23日、 当時、皇太子であった 上皇陛下の15歳の誕生日であった。

12月23日の尊い「国民の祝い日」であった夜中の午前0時。
巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)で極東国際軍事裁判(東京裁判)により「戦犯」として死刑判決が処せられた7名の絞首刑が執行された。

  • 板垣征四郎 陸軍大将・陸相
           <中国侵略・米国に対する平和の罪>
  • 木村兵太郎 陸軍大将・ビルマ方面軍司令官
           <英国に対する戦争開始の罪>
  • 土肥原賢二 陸軍大将・奉天特務機関長
           <中国侵略の罪>
  • 東條英機  陸軍大将・第40代内閣総理大臣
           <真珠湾不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪>
  • 武藤章   陸軍中将・第14方面軍参謀長
           <一部捕虜虐待の罪>
  • 松井石根  陸軍大将・中支那方面軍司令官
           <捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)>
  • 広田弘毅  文官・第32代内閣総理大臣
           <近衛内閣外相時に南京事件を止めなかった不作為責任>

横浜・久保山
巣鴨プリズンで処刑された7人の遺体は、横浜の久保山火葬場に運び込まれ、厳重警戒の中で焼却された。
遺族は遺骨遺灰の引き取りを願ったが、GHQはA級戦犯七士が神聖化されることを恐れ拒絶。
そうして、A級戦犯七士の遺骨は米兵によって粉々に砕かれ東京湾に捨てられた。
遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、細かい遺骨や遺灰は、久保山火葬場のコンクリ穴に捨てられていた。この僅かな遺骨と遺灰を回収するために、小磯国昭弁護人三文字正平、興禅寺住職市川伊雄、久保山火葬場場長飛田善美は、米兵がクリスマスで浮かれている12月26日の夜中に、必至の覚悟で密かに忍び込み、苦心の末に骨壺一杯分の遺骨灰を集めることに成功した。

熱海・興亜観音
骨壺は密かに久保山火葬場から、すぐ隣に鎮座していた市川住職の興禅寺に運び出され、しばらくは興禅寺に隠されていたが、やはり久保山葬祭場のすぐ近くは危険だということもあり、三文字弁護士や市川住職、七士の遺族の人々が、極秘のうちに相談した結果、翌年昭和24年5月三日に松井石根大将ゆかりの熱海・興亜観音に運ばれることとなった。
三文字正平は、広田弘毅氏の令息、東條未亡人、武藤未亡人らとともに興亜観音住職伊丹忍礼に相談。「知り合いの方の遺骨灰だが時期が来るまで、誰にもわからぬように秘蔵しておいて欲しい」と申し出て、伊丹住職は一見して七士のご遺骨灰であることを直感し、快諾。そうして東亜観音にて遺骨灰は秘匿された。

「七士之碑」建立
密かに興亜観音に運び込まれた七士のご遺灰は10年もの間、秘事として興亜観音の初代住職伊丹忍礼によって護持されてきた。
昭和34年4月一九日、松井大将の無二の親友であった高木陸郎氏(興亜観音奉賛会長)らの発起により、吉田茂元総理の筆になる「七士の碑」が建立された。吉田茂は、広田弘毅の外交官時代の同期でもあった。「七士之碑」建立の際は、81歳と高齢な吉田茂は、興亜観音の山道を籠に乗って登られた。
ご遺灰は、「七士之碑」の碑の下に約3メートルの地下に埋葬されている。
碑文についても種々議論があったが、「知る人ぞ知る「七士之碑」でいいではないか」との結論に落ち着いたという。
そして昭和35年には、遺灰の回収と秘匿に尽力した三文字弁護士の発起により愛知県の三ヶ根山(松井石根の出身地)にある「殉国七士墓」に、「興亜観音」にある骨壷から香盒1ヶ分ほどが分骨埋葬された。


六十烈士忠魂碑(光明寺)

久保山火葬場近くの光明寺には、極東軍事裁判によって巣鴨プリズンで極刑死せられ、久保山火葬場で茶毘に付された、東條英機(陸軍大将)らA級戦犯7人をはじめとする、六十吊の方々の忠魂碑がある。

合掌

顕彰記
この碑は天をも畏れぬ赦し難き 不法な極東国際軍事裁判の結果 巣鴨刑務所で極刑死せられ 当地 久保山で茶毘に付された東條首相 以下六十吊の忠魂碑である (烈士吊は碑裏面に処刑順記載) この殉国烈士の慰霊は日本協会 や有志の方により行われていたが 昭和四十三年当光明寺境内に碑が 建立せられるに及び 日本協会に 次いで昭和五十七年以降は当会が 毎年慰霊祭を挙行している
 平成十年六月 日本郷友連盟神奈川県支部

六十烈士  忠魂碑

別記の諸氏は大東亞戦争おいて盡忠報国の誠を貫きたるに拘らず旧敵國の一方的裁判により巣鴨において極刑を授けられたり 本会は深く之を悼み諸氏を此地に合祀して忠霊を慰めかつ其遺功を後世に伝えんことを冀う

六十烈士元官職吊故氏吊
陸軍中尉 由利敬、陸軍大尉 福原勲、陸軍大尉 平手嘉一、陸軍大尉 満淵正明
陸軍中尉 池上宇一、陸軍大尉 末松一幹、陸軍軍属 本田始、陸軍憲兵中尉 本川貞
陸軍軍属 牟田松吉、陸軍軍曹 武田定、陸軍軍属 髙木芳郎、陸軍大佐 宮沢亥重
陸軍軍曹 穂積正克、海軍上等兵曹 潁川幸生、陸軍大尉 都市野順三郎
陸軍伊長 相原一胤、陸軍大尉 中島祐雄、陸軍軍属 平松貞次
陸軍一等兵 川手晴美、陸軍軍属 木村保、陸軍軍属 吉沢国夫、陸軍曹長 道下正能
陸軍少佐 村上宅治、陸軍大佐 尾屋刢、陸軍大尉 西澤正夫、陸軍准尉 柴野忠雄
首相 東條英機、陸軍大将 土肥原賢二、陸軍大将 松井石根、陸軍大将 板垣征四郎
首相 広田弘毅、陸軍大将 木村兵太郎、陸軍中将 武藤章、陸軍軍医少将 水口安俊
陸軍少将 河根良賢、陸軍大佐 平野庫太郎、陸軍中尉 石﨑英男
陸軍曹長 片岡正雄、陸軍上等兵 斉藤善太郎、陸軍伊長 富岡菊雄
陸軍兵長 伊藤正治、陸軍中佐 田中義成、陸軍主計准尉 小西貞明
海軍中佐 大隈馨、海軍中佐 佐藤勇、陸軍軍属 柳沢章、陸軍軍属 関原政次
陸軍軍属 秋山米作、陸軍軍属 小日向治、陸軍軍属 鈴木賞博、陸軍軍属 牛木榮一
陸軍中将 岡田資、陸軍衛生曹長 青木勇次、海軍大佐 井上乙彦
海軍大尉 井上勝太郎、海軍大尉 幕田稔、海軍少尉 田口泰正、海軍大尉 榎本宗応
海軍一等兵曹 藤中松雄、海軍上等兵曹 成迫忠邦  昇霊順
 昭和四十三年十月建之
  日本協会
  日本郷友連盟神奈川県支部協賛
  日本協会々長 正三位勲一等下村定謹誌
   久保山花塚石材店謹刻

いわゆるA旧戦犯として、処刑された、七士
 首相 東條英機、
 陸軍大将 土肥原賢二、
 陸軍大将 松井石根、
 陸軍大将 板垣征四郎
 首相 広田弘毅、
 陸軍大将 木村兵太郎、
 陸軍中将 武藤章

光明寺


市川伊雄大和尚顕彰碑(興禅寺)

東條英機らA級戦犯7名の遺骨を密かに運び出した市川伊雄大和尚の功績を讃える顕彰碑。
昭和44年9月7日建立。

市川伊雄大和尚顕彰碑
碑文
(和尚の経歴など前略)
大東亜戦争後東京軍事裁判々決により、連合軍の東條元首相外六氏は、久保山火葬場に於て火葬 その遺骨の総てが遺族に還らざるを知り愕然出家の身として黙し難く身の危険をも顧りみず其の遺骨を搬出密かに当寺に安置回向其の冥福を祈る等禅僧としてその気概気風は寔に豪にして高邁の姿に後日世の注目を集めたが大和尚の姿は終始一貫経典の心にあり正義を貫く和尚一代を畢生の念願とした


久保山火葬場(久保山斎場)

神奈川県横浜市西区元久保。

久保山火葬場は昭和20年10月に連合軍に接収。
極東軍事裁判で裁かれた巣鴨プリズン刑死者の火葬が、この久保山火葬場で行われた。

久保山火葬場場長飛田善美は、極東軍事裁判終了後に、巣鴨で処刑され久保山で火葬された60名の遺灰が集められていた場内に供養塔を建立。今も久保山斎場内に残されているという。(火葬場という性質上、無造作に足を運ぶべき場所ではないので敷地内は未確認)


久保山墓地には、広田弘毅と外交官同期であった吉田茂の墓がある。

吉田茂墓

吉田茂墓の詳細に関しては、別記事で。

※本記事の撮影は2021年3月


関連記事

巣鴨プリズン跡地と護國寺界隈の戦跡散策

  • 巣鴨プリズン跡(東池袋公園)
  • 巣鴨プリズンの排水口跡
  • 東条英機墓(雑司ヶ谷霊園)
  • 身代地蔵尊と世紀の遺書(護國寺)

愛の像(アガペの像)

  • 世紀の遺書

殉国七士を偲びし慰霊の鐘「仁慈の鐘」

  • いわゆるA級戦犯の方々の名が刻まれた慰霊の鐘

東条英機邸跡

東条英機邸跡

平和観音と平和島(大森捕虜収容所跡)

  • いわゆる戦犯とされた方々は、大森捕虜収容所から巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)へ移送された。

「荻外荘と目白近衛町」近衛家と近衛文麿旧宅

  • A級戦犯として出頭を命じられ自殺をした近衛文麿

防衛省・市ヶ谷台ツアー

  • 極東軍事裁判法廷

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑と埋腿骨之地(大阪)

大阪市中央区法円坂の国立病院機構大阪医療センター近くの上町交差点。
ひときわに大きな石碑がある。
当時、この地にあった鈴木町の大阪府医学校病院(大阪府仮病院)に大村益次郎が運び込まれ、そしてこの地で亡くなった。


大村益次郎

文政7年5月3日〈1824年5月30日〉 – 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉
幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。「維新の十傑」の一人。
日本陸軍の創設者
村田蔵六、良庵、諱は永敏。あだ名は「火吹き達磨」

周防国の村医の家柄に生まれた村田蔵六は、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾の塾頭まで進む。
嘉永6年(1853年)、宇和島藩で蘭学者として勤務。
安政3年(1856年)4月、宇和島藩主・伊達宗城の参勤にしたがって江戸に出府。
同年11月、宇和島藩御雇の身分のまま幕府の蕃書調所教授方手伝となる。
安政4年(1857年)11月11日、築地の幕府の講武所教授に就任。
万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となる。
文久3年(1863年)10月、萩へ帰国、長州藩の軍事を掌り、高杉晋作の奇兵隊の指導などを行う。
慶応2年(1866年)、第二次長州征伐に際して、石州石見国方面の実戦指揮を担当し、軍事的才能を遺憾なく発揮し幕府軍を撃破。
明治元年(1868年)、戊辰戦争では有栖川宮東征大総督府補佐として、軍務官判事、江戸府判事を兼任し、江戸を掌握。討伐軍を指揮し、上野山に籠もる彰義隊を撃破。その後も江戸から事実上の新政府軍総司令官として戊辰戦争を指揮し、新政府軍を勝利に導く。

明治2年(1869年)、明治新政府の幹部として軍政改革の音頭を取るも、兵制論争となり、結果として大久保利通派に敗れるも、軍政では大村益次郎に変わるものもなく、新たに設置された兵部省の兵部大輔(次官)に就任。兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王であったために、実質的には大村益次郎は近代日本の軍制建設を指導する立場となる。

大村益次郎は大阪に大阪城近くに兵部省の兵学寮(士官学校)を設け、造兵廠(大阪砲兵工廠)、宇治に火薬製造所の建設するなどを決め、東京から関西へ軍事拠点を移転させることを決定。

明治2年(1869年)8月、視察のために京阪方面に出張。
9月4日夕刻、益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で会食中、8人の刺客に襲われる。
重傷を負い9月7日に京都の山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けるも、傷口から菌が入り敗血症となる。医療設備の整っていた「大阪府医学校病院」(浪華仮病院・大阪府仮病院)に転院を決め、教え子であった寺内正毅、児玉源太郎らが担架で高瀬川船着き場まで運び、10月2日に大阪府医学校病院(大阪仮病院)に入院。
大阪府医学校病院は院長が緒方惟準(大村益次郎の恩師・適塾緒方洪庵の次男)、オランダ人医師ボードウィンを主席教授とし、楠本イネ(シーボルトの娘)らが看護。蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術をおこない、足を切断するも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し11月5日の夜に死去した。享年46歳。
大村益次郎は「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めるように。」と遺言した。(龍海寺の緒方洪庵の墓の隣に足塚がある)


兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

昭和15年11月に大村益次郎が治療を受けた大阪府医学校病院(浪華仮病院・大阪仮病院)、そして亡くなった地に鎮座。
昭和15年(1940)は、1月米内光政内閣、7月に第2次近衛文麿内閣が成立し陸相には東条英機が就任。9月には、日独伊三国同盟条約が締結され、11月には、紀元2600年祝賀行事が行われるという時局であった。
ひときわに大きい、大村益次郎の殉難報國之碑もそんな時局をあらわしていた。

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

明治兵制ノ創始者兵部大輔大村益次郎卿ハ周防ノ人資性沈毅明敏少壮ニシテ漢籍ヲ廣瀬淡窓ニ蘭学ヲ梅田幽斎及緒方洪庵等ニ学ビ専ラ醫学及兵学ヲ修メ夙ニ皇政維新ノ大業ヲ翼賛シテ東京以北戡定ノ偉勲ヲ樹テ親兵ヲ創設シテ兵馬ノ大権確立ニ資シ徴兵ノ制ヲ布キテ國民皆兵ノ實ヲ擧ゲンコトヲ主張シ兵学寮及兵器弾薬製造所並軍艦碇泊場ノ設立等ニ拮据奔走中明治二年九月四日京都ニ於て刺客ノ難ニ遭ヒ後大阪病院ニ於て右大腿切断ノ手術ヲ受ク病牀二ケ月瀕死ノ中ニ在ツテ尚ホ書ヲ要路ニ致シ陸海兵制ノ整備ト軍事醫療ノ急設トヲ説キ傷處ノ疼痛ニ悩ミツゝ一言モ之ニ及ブ■ク愬フル所皆是レ國家公共ノ大策ニ非サルハ無カリキ不幸経過良好ナラズ遂ニ十一月五日経國ノ雄圖ヲ抱イテ空シク此ノ地ニ薨ス時ニ年四十六本會ハ茲ニ卿ノ高邁ナル識見ト偉大ナル功績トヲ敬慕シ特ニ終焉ノ地ヲ選ビ記念碑ヲ建テ此遺跡ト共ニ其洪勲ヲ長ヘニ後昆ニ傳フト云爾
   昭和十五年十一月 大村卿遺徳顕彰會

※中央部に亀裂が有り、一部の文字が読み取れず

発起人・賛助者にはそうそうたる名前が刻まれていた。
昭和15年当時の軍人・関西財界人など。

また、緒方銈次郎の名も有る。
緒方銈次郎は、大村益次郎の恩師であった緒方洪庵の子・緒方惟準の二男。大村益次郎は緒方惟準が院長を務める、適塾の流れをくむ浪華仮病院・大阪仮病院に担ぎ込まれた。

財界
伊藤忠兵衛(伊藤忠)
鳥井信治郎(サントリー)
種田虎雄(近鉄)
松下幸之助(パナソニック)
鴻池善右衛門(鴻池家)
小林一三(阪急)
江崎利一(江崎グリコ)
野村徳七(野村証券)

陸軍
畑俊六
林銑十郎
東条英機
大島健一
松井石根
松岡洋右
寺内寿一
荒木貞夫
杉山元

海軍
及川古志郎
高橋三吉
末次信正

場所

https://goo.gl/maps/UoLZBv6H6k1Debqy7

現在は、国立病院大阪医療センター。
この地は、のちに元歩兵第三十七連隊が展開されていた。
敷地内には、歩兵第三十七連隊の慰霊碑などもある。


大村益次郎寓居跡「漏月庵」

少し時系列をさかのぼる。
大村益次郎(村田蔵六)は、22歳のころに来阪して「緒方洪庵の適塾」に入門して塾頭まで務める。そのころにこの場所から適塾に通っていたという。

大村益次郎寓居跡
「漏月庵」

 大村益次郎は1825(文政8)年、山口・周防の医者の家に生まれた。蘭学、医学、蘭式兵学に通じ、日本の近代兵制を創始した。
 緒方洪庵に師事し、1849(嘉永2)年からこの家に住んで適塾に通った。初めて構えた居宅を愛し、ひさしのすき間から見える月の美しさに感謝して「漏月庵」と名付けた。
 後、故郷に戻って医者になったが洋楽の知識を認められ、明治新政府の兵部大輔(軍事大臣)となり、日本の兵制をととのえた。1869(明治2)年没。
「漏月庵址」の石碑は1950(昭和25)年まで存在したが、その後不明になり今回改めて建立した。
 令和2年9月吉日
  古川宏太郎建立

場所

https://maps.app.goo.gl/vPs8sqw7kCMfZRp78


大村益次郎埋腿骨之地(足塚)
緒方洪庵墓所

大阪市北区の龍海寺。緒方洪庵の菩提寺。
緒方洪庵の墓は東京文京区の高林寺にもあり、この龍海寺には遺髪が埋葬されている。
適塾で恩師であった緒方洪庵の墓之隣に、大村益次郎は切断した右足を埋めるように遺言した。
埋葬後も、しばらくは秘匿されており、昭和14年(1939)に、「埋腿骨之地」が建立された。

大村兵部大輔埋腿骨之地

裏面は陸軍軍医中将飯島茂による撰文。

緒方洪庵先生之墓
洪庵先生夫人億川氏墓

緒方洪庵の墓の隣に、大村益次郎足塚がある。

場所

https://goo.gl/maps/wqmbK9kYwMZDJQ1f6

靖國地蔵尊

龍海寺境内に。
昭和17年1月14日建立。開戦直後、ですね。


付記

緒方洪庵墓所(東京文京区・高林寺)

緒方洪庵墓(文京区指定史跡)
 洪庵は、江戸時代末期の蘭学者、医学者、教育者。文化7年~文久9年(1810~63)現在の岡山県に生まれ、名は章、後に洪庵と改めた。
 大坂、江戸、長崎で蘭学、医学を学び、天保9年(1838)、大坂に”適々斎塾”(適塾)を開き、診療と研究のかたわら、三千人におよぶ門弟の教育に当たった。この塾から大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉などが輩出した。
 洪庵は、幕府の奥医師として江戸に招かれ、翌年、文久3年(1863)に病没した。


付記

大村益次郎像(靖國神社)

明治15年(1882)、大村益次郎の意思を継いで陸軍創設に貢献をした山田顕義らにより、大村益次郎の功績を称えるべく銅像の建立が発議される。
明治26年(1893)、6月、大村益次郎も創建に尽力をしていた東京の靖国神社の境内に大村益次郎の銅像が建立され、除幕式が執行。日本初の西洋式銅像、であった。

この像は、戊辰戦争の際、司令官として江戸城本丸から、彰義隊が立てこもる上野を見つめている姿であるという。

靖國神社の大村益次郎は、上野公園の方向を向いているという。そして上野公園の西郷隆盛と向かい合っている、ともいう。


関連

渋沢栄一墓【渋沢栄一10】

渋沢栄一の暮所(渋沢家墓地)は、谷中霊園にある。
地番は「乙11号1側」。

1858年(安政5年)
 渋沢栄一(18歳)、尾高惇忠の妹・尾高千代(17歳)と結婚。
1882年(明治15年)
 渋沢栄一(42歳)の妻・渋沢千代(41歳)がコレラで病死。
1883年(明治16年)
 渋沢栄一(43歳)は、幕末の豪商・伊藤八兵衛の娘・伊藤兼子(31歳)と再婚。
 若き日の渋沢栄一は伊藤八兵衛の元で丁稚奉公をしていた縁があった。
1931年(昭和6年)
 渋沢栄一(91歳)、死去。
1934年(昭和9年)
 渋沢兼子(82歳)、死去。


谷中霊園
渋沢家墓所(渋沢家墓地)

渋沢栄一墓

青淵澁澤榮一墓

昭和6年(1931年)11月11日死去。享年91歳。
法名は、泰徳院殿仁智義譲青淵大居士

渋沢家の家紋「丸に違い柏」

渋沢栄一墓の向かって左隣に後妻の渋沢兼子(伊藤兼子)の墓。

澁澤孺人伊藤氏之墓

渋沢栄一墓の向かって右には孫の渋沢敬三夫妻墓と、先妻の渋沢千代(尾高千代)の墓。

澁澤孺人尾高氏之墓

渋澤敬三 渋澤登喜子 之墓

渋沢家墓地

以前は堀に囲まれて開放されていない敷地であったが、現在はいつでも参拝できるように開放されている。

場所は乙11号1側

大きな木「タブノキ」が生えている。

渋沢栄一の墓は、主君であった徳川慶喜の墓の方向を向いている。
徳川慶喜の墓も同じ谷中霊園(寛永寺徳川家墓地)にある。

徳川慶喜墓所


渋沢栄一関連


関連

深川と渋沢栄一宅跡【渋沢栄一9】

渋沢栄一は深川とも縁が深かった。

渋沢栄一は、明治9年に深川福住町に屋敷を購入、明治21年に中央区兜町(渋沢が創建した第一国立銀行の近く)に本邸が移されたのちは、深川邸は別邸として利用。(最終的な渋沢栄一の本邸は飛鳥山であった)

明治22年から37年まで、渋沢栄一は深川区会議員および区会議長を勤め深川の発展のため尽力。明治30年には深川に渋沢倉庫部(現澁澤倉庫)を創業。
そして明治44年の深川鎮守の富岡八幡宮の大修繕は、渋沢栄一が実行会長として推進している。

渋沢倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」が刻まれた力石。


渋沢栄一宅跡

渋沢榮一は、明治9年に深川福住町に住居を構え、明治21年に兜町に本邸を移し、この地は別邸となり、また澁澤倉庫部が設置された。

江東区登録史跡 
渋沢栄一宅跡
 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。
 栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
 栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
  平成21年3月  江東区教育委員会

渋沢邸の跡地は、澁澤倉庫となり、そして今では「渋沢」の名を冠したビルが建立されている。

澁澤シティプレイス永代

澁澤倉庫発祥の地

澁澤倉庫発祥の地
「わが国の商工業を正しく育成するためには、 銀行・運送・
保険などと共に倉庫業の完全な発達が不可欠だ」

日本資本主義の生みの親である、渋澤榮一は、右の信念のもと、
明治三十年三月、私邸に澁澤倉庫を創業した。
この地は、澁澤倉庫発祥の地である。

渋澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の
他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。
この藍玉の商いをするときに使用した記章が
(ちぎり・りうご)であった。
明治四十二年七月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として
組織を改めたが、この(ちぎり・りうご)の記章は、現在も
「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。

澁澤シティプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。
     平成十六年四月吉日
      澁澤倉庫株式会社

ちぎり(りうご)

澁澤倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」

血洗島の渋沢家では、藍玉の製造販売を行っていた。
藍玉の商いの際にシンボルとして使用していた記章が澁澤倉庫の社章の期限となっている。
澁澤倉庫では「りうご」と呼称しているが、渋沢家では「ちぎり」と呼ばれていた。
元来は糸巻きに糸を巻き付けた形を図案化したもので、この形が鼓を立てて横から見た形に似ているところから「立鼓(りうご)」と呼ぶようになったなどと言われている。

https://www.shibusawa.co.jp/company/future/


駐車場の片隅に神社があった。

福住稲荷神社

澁澤倉庫の守護神。

福住稲荷神社は、深川福住町(現永代2)にあった近江屋喜左衛門屋敷の邸内祠であったもので、明治9年に(1876)澁澤栄一が近江屋屋敷を買収して、明治30年に澁澤倉庫部(のちの澁澤倉庫株式会社)を創業したあとは、同社の守護神として祀られました。
神狐像は、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した福住稲荷神社が、昭和5年(1930)に再興されたことをうけて、澁澤倉庫社員一同によって奉納されたものです。平成3年に社殿内部から発見された奉納目録には、奉納者として当時の社員87名の名前が連なっており、深川の近代倉庫業に関わった人々の信仰を伝える貴重な文化財です。

江東区
https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/bunkazaisiseki/chokoku/88757.html

澁澤倉庫奉納の石鳥居。

昭和5年2月吉日建之
澁澤倉庫株式會社

神狐像も昭和5年に澁澤倉庫が奉納。

昭和5年(1930)は、渋沢栄一が90歳のとき。渋沢栄一は昭和6年(1931)に91歳で亡くなっている。

福住稲荷神社
子爵渋沢栄一書時年九十

渋沢倉庫が奉納した力石・さし石。力比べでさし上げた(持ち上げた)石。澁澤倉庫の従業員と思われるさし上げた力自慢の者の名前が刻まれている。

力石の中には、渋沢倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」が刻まれたものもある。

澁澤シティプレイス永代と澁澤永代ビル

澁澤倉庫株式会社

https://www.shibusawa.co.jp/#top-pamphlet

https://www.shibusawa.co.jp/story/photos/

場所

https://goo.gl/maps/2dtapXGK2BVn5TWW7


富岡八幡宮

明治44年の富岡八幡宮大修繕の際は、渋沢栄一が中心となって進められた。
なお、現在の社殿は昭和31年(1956)に造営されたもの。

深川公園

明治三十七 八年役戦死者忠魂碑

日露戦争の忠魂碑
渋沢栄一謹書

明治卅七八年役戦死者忠魂碑
正四位勲三等男爵澁澤榮一謹書


関連

渋沢栄一と血洗島(深谷市)【渋沢栄一7】

深谷市の北部「血洗島」。
「日本近代経済の父、日本資本主義の父」渋沢栄一の出身地を散策してみます。
(散策ポイントが広域に点在しているのでレンタサイクルが便利です)


旧渋沢邸「中の家」

慶応3年(1967年)の若き日の渋沢栄一

若き日の榮一
Eiichi in Paris 1867

渋沢栄一の生家「中の家」は、学校法人青淵塾渋沢国際学園として海外留学生向けの教育機関として昭和60年から平成12年まで使用されていた。
若き日の渋沢栄一像は、昭和58年(1983)10月1日の「青淵塾・渋沢国際会館」開館式で除幕された。

若き日の榮一像は、将軍徳川慶喜の異母弟である徳川昭武(水戸藩第11代)の訪欧使節団(パリ万博)に、会計係兼書紀(御勘定格陸軍附調役)として随行し慶応3年3月朔日(1867年4月5日)に、フランス マルセイユで撮影された写真を元に製造された。

中の家。旧渋沢邸。

渋沢栄一翁と論語の里

近代日本資本主義の父
渋沢栄一(1840~1931)

 深谷市血洗島に生まれ、尾高惇忠に学問を学びました。20代で従兄弟らと倒幕を計画し、中止された後は一橋(徳川)慶喜に仕え、家臣として慶喜公の名代昭武に同行し渡欧しました。
 明治維新後は政府の大蔵省で官営富岡製糸場の設立に関わりました。34歳で大蔵省を辞した後、実業界で活躍。幼少期に学んだ「論語の精神」を基に500社以上の企業の設立に関わりました。

論語の里
 栄一は7歳頃から、尾高惇忠に論語をはじめとする学問を習いました。生涯を通じて論語に親しんだ栄一は、「道徳経済合一説」を唱え、「近代日本資本主義の父」と呼ばれるに至りました。
 栄一が淳忠の家に通った道はいつしか「論語の道」と呼ばれ、栄一に関する史跡が多く残されていることから、それらを総称し「論語の里」と呼んでいます。

青淵まつり
栄一翁の命日(11月11日)を偲び、11月中に渋沢栄一記念館前で開催される。

血洗島獅子舞
市指定無形民俗文化財
諏訪神社の祭礼(秋季大祭)に奉納される。元亀2年(1571)にはじまると伝わり、雄獅子(おじし)・雌獅子(めじし)・法眼(ほうがん)の3頭が一組となって、笛のお囃子のもとで舞う。栄一翁も幼少より雄獅子を舞っており、帰郷の際には参観していた。

我が人生は、実業に在り。 渋沢栄一

天保11年(1840)豪農、渋沢市郎右衛門の子として誕生。
昭和6年(1931)92歳の大生涯を閉じるまで、実に五百にものぼる企業設立に携わり、六百ともいわれる公共・社会事業に関係。
日本実業界の祖。希代の天才実業家と呼ばれる所以である。
男の転換期。慶応3年(1867)15代将軍・徳川慶喜の弟、昭武に随行してヨーロッパに渡る。
28歳の冬であった。栄一にとって、西欧文明社会で見聞したものすべてが驚異であり、かたくなまでに抱いていた攘夷思想を粉みじんに打ち砕かれるほどのカルチャー・ショックを体験。しかし、彼はショックを飛躍のパワーに換えた。持ち前の好奇心とバイタリティで、新生日本に必要な知識や技術を貧欲なまでに吸収。とりわけ、圧倒的な工業力と経済力は欠くべからざるものと確信した。
他の随員たちの戸惑いをよそに、いち早く羽織・袴を脱ぎ、マゲを断った。己が信ずる道を見つけるや、過去の過ちと訣別、機を見るに敏。時代を先取りするのが、この男の身上であった。
2年間の遊学を終え、明治元年(1868)帰国。自身の改革を遂げた男は、今度は社会の改革に向って、一途に歩み始めた。
帰国の同年、日本最初の株式会社である商法会所を設立。明治6年(1873)には、第一国立銀行を創立し、総監役に就任した。
個の力、個の金を結集し、システムとして、さらなる機能を発揮させる合本組織。栄一の夢は、我が国初のこの近代銀行により、大きく開花した。
以後、手形交換所・東京商法会議所などを組織したのをはじめ、各種の事業会社を起こし偉大なる実績を重ねていった。
栄一はまた、成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべきという信念の持ち主でもあった。
私利私欲を超え、教育・社会・文化事業に賭けた情熱は、生涯変わることなく、その柔和な目で恵まれない者たちを見守り続けた。
失うことのなかった、こころの若さ。そこから生まれた力のすべてを尽して、日本実業界の礎を築いた渋沢栄一。並はずれた才覚と行動力は、今なお、人々を魅了する。
 昭和59年1月
 寄贈 エコー実業株式会社

深谷市指定文化財
旧渋沢邸「中の家」(なかんち)
 旧渋沢邸「中の家」に残る現在の建物は、母屋、副屋、4つの土蔵、門、塀から構成されます。明治時代の埼玉県北部の豪農の屋敷として貴重な歴史遺産です。渋沢栄一翁も天保11年(1840)にこの地で誕生しました。

中の家の敷地内にいくつかの碑があつまっている。

渋沢平九郎追懐碑

人の楽しみを楽しむ者は 人の憂いを憂う
人の食を喰う者は 人の事に死す
  渋沢平九郎昌忠

日月らかにするありて能く寃(えん)を雪(そそ)ぐ 
 九原豈(あに)幽魂を慰めざらんや
遺刀今夜灯(あかり)を挑(かかげ)て見るに 
 なお剰(あま)す当年碧血の痕(あと)
  義父・渋沢栄一

渋沢平九郎追懐碑

渋沢平九郎は、尾高淳忠の弟で、渋沢栄一の養子。幕末の飯能戦争で敗れ自刃。(尾高惇忠の項で詳述。)

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁が、飯能戦争で亡くなった自分の義子平九郎を偲んで作ったものである。
 平九郎は尾高惇忠の末弟で、栄一翁がパリ万博へ旅立つ際に養子となった。兄淳忠は栄一翁の学問の師で、富岡製糸場初代場長となった。
 慶応4年4月、江戸城が開場すると、平九郎は、年少ながら主家の窮状を見過ごすことが出来ず、振武軍に身を投じた。振武軍は、渋沢喜作や尾高惇忠を中心に、旧幕臣で構成されたものであるが、5月23日、飯能で官軍を迎え撃った。わっずか半日の戦闘で壊滅状態となり、平九郎は戦場から故郷を目指して逃走、顔振峠を超えて黒山(現越生町)に至り、官軍と遭遇、進退窮まり、ついに自刃して果てた。
 この追悼碑は、平九郎没後50年を経た大正6年に建てられたもので、平九郎の手跡を石に刻むとともに、栄一翁が平九郎を追悼して作った詩が刻まれている。時を経てもなお、若くして亡くなった義子平九郎を悼む栄一翁の、思いの深さをうかがわせる。

渋沢平九郎追懐碑
楽人之楽者憂人之憂
喰人之食者死人之事
 昌忠

嗚呼此我義子平九郎取義之前日自題寓舎障壁之辞也。 明治戊辰五月官軍入江戸城。 平九郎年尚少不忍坐視主憂便投振武軍廿三日遂殞命草野。 甲午家祭日有人贈其戦没時所佩刀予。 悲喜交至賦詩曰。 
 日月有明能雪寃 九原豈不慰幽魂
 遺刀今夜挑灯見 猶剰当年碧血痕
此憫其孤忠也。 今玆丁巳五十年忌辰重展遺墨不勝追懐之情。乃鈎摹刻石以見其志云。
 大正六年十二月 義父 渋沢栄一識並題額

【渋沢平九郎追懐碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

晩香渋沢翁招魂碑

渋沢栄一の父渋沢市郎の招魂碑。
渋沢市郎右衛門は晩香と号した。

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁の父で、晩香と号した渋沢市郎右衛門の招魂碑である。
 明治四年十一月二十二日、享年六十三で亡くなった。年が明けた正月五日に郷里の墓地に葬られた。
 晩香没後の明治五年、故郷血洗島を出て東京に居を構える栄一翁が、時宜に応じて父の祭事を欠かすことのないよう、東京の谷中天王寺境内に建立したものである。撰文は尾高惇忠、書は明治の三筆に上げられる日下部東作(鳴鶴)、題額は同じく三筆の巌谷修(一六)である。

晩香渋沢翁招魂碑
翁諱美雅渋沢氏通称市郎号晩香。武蔵国血洗島村人。世農。考諱敬林君妣高田氏。実同族諱政徳者第三子。嗣敬林君之後配其長女。翁自幼嗜学慨然有特立之志。而思慮周密一事不苟。凡自耕稼生産之道至尋常瑣事必反復審思本於実際。是以施設不差成算。家製藍為品素精。至翁研究益到名伝遠近其業大盛家産致優。至有郷人倣以立産者。村原係半原藩封内。藩侯有土木若不時之費毎令翁供財。翁毫無難色。曰財之用在応緩急耳況藩命乎。又厚於親姻故旧。人或失産破家則諄諄誘誨為捐財賑恤使其復産。故人皆称之不已。明治四年冬十一月二十二日病歿。年六十三。越五日葬其郷先兆之次。贈号曰藍田青於。五男八女。長男栄一君見為大蔵省三等出仕叙正五位。長女適吉岡十郎。少女配外甥須永才三郎委其家産。余夭。男栄一君以在東京建招魂碑於谷中天王寺以為行香之便。嗚呼翁行修於家信及郷里而老死畎畝之間終無著于世。洵為可惜矣。然栄一君擢草莾居顕職望属而名馳。蓋有所以矣哉。惇忠於翁有叔氏之親而蒙師父之恩。謹叙其行状表之。
 租税大属 尾高惇忠 撰文 
 少内史正六位 日下部東作 書 
 少内史正六位 巌谷修 隷額

晩香渋沢翁招魂碑(裏面)
明治五年壬申十一月廿二日
男正五位 渋沢栄一建

【大意】
 翁は、諱は美雅といい、通称は市郎、晩香と号した。武蔵国血洗島に、代々農業を生業とする渋沢家に生まれた。翁の父の諱は敬林、母は高田氏。もとは同族(東の家)の政徳の第三子である。養子として中の家に入り、敬林の後を継ぎ、その長女を妻とした。
 幼少より学問を好み、はっきりとした独立の志を持っていた。そして、思慮深く、ささいたことでも疎かにしなかった。家の仕事や日常の細々とした事まで、慎重に考え、事実に基づいて判断した。このようなわけで、何事も見通しと違うようなことはなかった。
 実家の藍玉づくりでは、もともと品質を大事にしてきたが、翁に至って、ますます研究が深まった。翁の名は広く知れ渡り、藍玉づくりは大変盛んになり、財産も大いに増えた。地元の人で、藍玉づくりを習って生計を立てるものもあらわれた。
 村はもともと半原藩の領地で、藩主の方で土木工事や不意の出費がある時は、いつも翁に費用を出させたが、翁は少しも苦にしなかった。翁が言うことに、「お金というのは緊急の時に使うためにあるのであって、まして藩の命令ならなおさらである。」というのである。また、親戚や古い友人に対しても同じようにした。他人で財産を失って家を傾ける人があれば、よく教えを諭すとともに、自らの財産を投げ打って助けてやり、元通りの生活が出来るようにした。それゆえ、だれもが翁を称賛してやまなかった。
 翁の行状は、家を修め、信用は郷里全体に及んだが、生涯を一農民として過ごしたため、世の中に知られることがなかったのは、まことに残念である。しかし、栄一の君が国家の中枢の仕事に携わり、大いに期待されているのも、翁の感化があったればこそといえるのである。惇忠にとって翁は、叔父であるが、父親以上に親愛の情を注いでくれた。謹んでその一生を文章に表すものである。

【晩香渋沢翁招魂碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

先妣渋沢氏招魂碑

渋沢栄一の母、渋沢えいの招魂碑。

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁の母 えい の招魂碑である。
 碑の内容は、よく働き、贅沢をせず、慈愛をもって人々に接するという、えいの人となりを記すもので、栄一翁は生涯にわたり多数の社会福祉事業に携わったが、その資質は母から受け継がれたものであることがよく示している。
 えいは明治七年病により東京で逝去し、夫晩香の墓に寄り添うように葬られ、この碑は明治十六年癸未十一月七日谷中に建てられた。
 碑の撰文には栄一翁自身が行い、題額と書は、明治の三筆に数えられる巌谷修(一六)によるもので、亡き母を敬慕する栄一翁の心情をうかがわせる碑である。

先妣渋沢氏招魂碑
          不肖男正五位 渋沢栄一抆涕撰
先妣諱恵伊子、武蔵国榛沢郡血洗島村渋沢敬林君長女、君無男、養同族宗助君第三男晩香翁為嗣、即先考也、配以妣、妣幼善事父母、既長任中饋及蚕織澣濯之労、孜孜不懈、五十年如一日矣、為人勤倹慈恵凡衣食器皿自取敝麤而供人以豊美、遇親戚故旧煦煦推恩、見疾病窮苦則流涕賑給唯恐不及、平素率家人愛恕有余、至教督生産之道不毫仮貸、子女僮婢克服命、足以見其内助有方焉、晩往来東京之邸、以楽余年矣明治七年一月七日以病卒于東京、享年六十有三、其十日帰葬晩香翁墓側、仏諡曰梅光院盛冬妙室大姉、越十六年癸未十一月七日建招魂碑谷中、因記其行実之概略
       脩史館監事従五位勛五等巌谷修書并題額
                         広群鶴刻

【大意】
えいは、渋沢敬林の長女として生まれたが、敬林に男子がいなかったため、同族の「東の家」渋沢宗助の三男晩香翁を婿に迎え家を継いだ。
幼いころからよく両親の手伝いをしたえいは、長ずるに及んでは食事の支度はもちろん、養蚕や機織の仕事、洗濯までこなし、怠ることなく長い年月にわたってよく働き続けた。贅沢をせず、人には慈愛をもって接した。衣服や食器なども、自らは粗末なものを用いても、人にはより良いものを供した。病に苦しんだり、困っている人を見れば、涙を流して施しを与えた。ふだん家業にあたって人を使うにも愛情と思いやりをもち、余力があれば生活に役立つ方法や技術を教えるなどして、少しも気を緩めることがなかった。
皆がえいによく従ったことは、妻としてのあり方にきちんとしたものがあったということをよく示している。
晩年には東京の栄一翁の邸宅へも往来し、余生を楽しんでいたが、明治七年一月七日病により東京で逝去した。享年は六十三であった。十日には郷里に移され、晩香翁の墓の側に葬られた。仏諡は梅光院盛冬妙室大姉という。
明治十六年癸未十一月七日招魂碑を建てた。そこで、その生涯の概略を記すのである。

【先妣渋沢氏招魂碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

場所

https://goo.gl/maps/NuKVHwYEx7Qn9PY38


青淵公園

「中の家」の後方は、清水川が流れており青淵公園として整備をされている。

青淵由来之跡碑

渋沢栄一の号、「青淵」の由来となった場所。「中の家」のすぐ後ろ。
「青淵」の号は渋沢栄一が18歳の頃に尾高惇忠(藍香)に付けてもらった。

撰書の渋沢治太郎は渋沢栄一の甥。県会議員や八基村長などを勤めていた。渋沢栄一に代わって渋沢栄一生家の「中の家」を継いだ、渋沢てい(渋沢栄一の妹)の次男。

青淵由来之跡
正二位伯爵清浦奎吾書

建碑の記
奉祝 皇太子明仁親王殿下御降誕を記念申上る為め、八基村青年団は村内の史蹟保存の事業を企てらる、血洗島支部亦其の挙に出て、故子爵青淵先生雅号発祥の跡を追慕すると同時に、利用厚生の実を挙ぐる耕地改良の整備に恵まれたる永久の幸福に感謝の誠を捧けんものをと青淵由来の跡と題し建碑の企を決議せらる、而して之れの揮毫を日本青年協会総裁伯爵清浦奎吾閣下に仰がんとせし所、夙夜世道風教の刷新振興を念とせらるゝ伯爵は、特に青淵先生と旧交を懐はれ、高齢と尊貴とを忘れて青年等の請を快諾せられたり、斯くして建碑の業進捗に伴ひ、血洗島青淵会並に大字血洗島は進んで其の企てを援け完成を期せられしは誠に機宜を得たるものと謂ふべきなり、抑も此地は元清水川の一部に属し、東西百五十米余、南北五十米の池沼の跡にして、蘆荻禽影を宿し、処々湧水あり、古来上の淵と呼ばれたるは新編武蔵風土記稿等にも載せられたる所にして、右岸の部落を血洗島字淵の上と云ひ、近世の名士子爵渋沢栄一・同喜作の君等此地に生れたるは世人の悉知する処なるか、其号を青淵といひ、蘆陰と称したるは、蓋し郷土の風物に因み各々撰ばれたる所なりと、故子爵より親しく語られたるを聴けり、昭和六年八基村昭和耕地整理組合設立せられ、干拓開道の工を加ふるに方り、地区の人々は之と連繋して由緒ある遺跡保存に意を用ゐ、一部の地を村社諏訪神社の社有地と為し、若干の風致を施こして新道に小橋を架設す、之を青淵橋と名付け永遠に記念を劃す余は耕地整理組合に長たるの名を汚し、各役員並に組合員の協力に倚りて事業完結を告げたる縁故者として、玆に建碑発起者の嘱に応じ其の顛末を識すこと爾利
  昭和十一年十月          渋沢治太郎撰書
           発起者 八基村青年団血洗島支部
                    血洗島青淵会
                     大字血洗島

場所

https://goo.gl/maps/GYT5wxKmZ491fmBs7


水戸藩烈士弔魂碑

岡部藩によって討たれた水戸藩天狗党浪士2名の慰霊碑。
渋沢栄一生家の「中の家」のすぐ手前の薬師堂に建立されている。

弔魂碑
 此弔魂碑は旧水戸藩士二人合葬の所を標せしなり、元治甲子の年、水藩の志士田丸稲之衛門・藤田小四郎等尊王攘夷の説を唱へ同志を糾合して幕府に抗し、事敗るゝに及び一橋慶喜公に就きて天朝に愬ふる所あらむとし、武田耕雲斎等と共に西上せむとす、兵凡三百余人、其嘗て筑波山に拠れるを以て世人呼びて筑波勢といふ、幕府傍近の諸藩に令して之を討たしむ、十一月十二日其勢七隊に分かれ利根川を越えて中瀬村に至る、岡部藩の家老吉野六郎左衛門兵を率ゐて其通過を止めしかば、夜陰に乗じて本庄宿に去れるが、其隊中の二人は一行に後れて藩兵の殺す所となれり、血洗島村人其非命を憐み遺骸を収めて墓石を建て、其氏名を詳にせざるを以て唯無縁塔とのみ称したりき、今玆大正七年、村人其久しくして湮滅せむことを恐れ碑を刻して之を表せむとし、余に其事由を記せむことを請はる、嗚呼筑波勢の挙言ふに忍びざるものあり、其行為には議すべきものありといへども、其志は朝旨を遵奉して幕政を革め、外侮を禦がむとするにありき、然るに事志と違ひ却て慶喜公の旗下に降服して、遂に幕府の為に敦賀に刑せらる、心ある者誰か痛惜せざらむや、明治二十四年、朝廷武田・藤田等の諸士に位を贈りて其忠悃を追賞せられ、寃魂始て黄泉の下に伸び、精忠永く青史の上に顕る、然るに此二士は其名だに伝はらず、空しく寒烟荒草の下に朽ちむとす、村人の之を歎きて貞石に刻せむとするは固より美挙といふべきなり、回顧すれば当時余は、慶喜公の軍に従ひ海津に在りて筑波勢の入京を防止せむとせし者なり、今二士の為に此文を作る、実に奇縁といふべく、書に臨みて中心今昔の感に堪へざるなり
  大正七年九月
                  青淵 渋沢栄一 撰并書

血洗嶋中建之

場所

https://goo.gl/maps/Eb9PtS5cgtorDbCG6


血洗島の諏訪神社

渋沢栄一の出身地、血洗島の鎮守。
渋沢栄一崇敬の鎮守様。「中の家」から南に500メートルほど。

渋沢栄一寄進の拝殿。大正5年(1916年)建立。

諏訪神社
 血洗島の鎮守社で、古来より武将の崇敬が厚く、源平時代に岡部六弥太忠澄は戦勝を祈願したといわれ、また、この地の領主安部摂津守も参拝したと伝えられている。
 大正5年(1916)に渋沢栄一の喜寿を記念して村民により建てられた渋沢青淵翁喜寿碑が境内に残る。神社の拝殿は栄一がこれに応えて造営寄進したものである。
 栄一は帰郷の際、まずこの社に参詣した。
 そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時に鑑賞することを楽しみとしていた。
 境内には、栄一手植えの月桂樹があった。また長女穂積歌子が父、栄一のために植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
  深谷市

渋沢青淵翁喜寿碑

大正5年(1916)建立。徳川慶久の題額。
徳川慶久は、徳川慶喜の七男。貴族院議員。そして渋沢栄一が設立した第一銀行取締役なども勤めていた。

澁澤青淵翁喜寿碑
公爵徳川慶久題額
男爵渋沢青淵翁、今年七十七の高齢に達せられたるを以て、郷里なる八基村字血洗島の人々、碑を立てゝ、翁の徳を頌せんとして、余に文を求めらる、余訝り問ひて、翁の功績は甚大なり、村人の私すべき所ならんやといふに、人々首打掉りて否々、吾村は武蔵平野の小村ながら、翁の如き大人物を出したるを誇とすべし、翁や青年の頃村を去りて国家の為に奔走し、今は世界の偉人として内外に瞻仰せらるれども我等は尚翁を吾村の父老として親しみ慕ひ、翁も亦喜びて何くれと村の事に尽すを楽となせり、翁は嚮に八基小学校の新築と、其維持法とに就きて、多くの援助を与へ、一村の子弟をして就学の便を得しめたり、村社諏訪神社は、翁が幼少の時境内にて遊戯し、祭日には村の若者と共に、さゝらなど舞ひたる事あれば、村に帰れば先づ社に詣づるを例とし、社殿の修理にも巨資を捐てゝ父老を奨励したり、今年は翁の喜寿に当りたれば、翁を迎へて彼のさゝらを催しゝに翁は記念として拝殿を造りて寄進したり、村人は此後春秋の告賽にも、子女の婚礼にも其便を得て、敬神の念嚮学の風と相待ちて風俗の益敦厚ならんことを喜び合へり、翁が尊貴を忘れて郷閭に尽せる功徳と情愛とは、村人の深く感謝する所なりと、余此言を聞きて感じて曰く、微賤より起りて富貴を一身に聚めたる人の草深き故郷を疎かにするは世の常なり翁や世界の偉人として其故旧を忘れず父老を敬ひ青年を導く、大人にして赤子の心を失はずとは翁の謂なり、翁の行は社会の模範となすべく、翁の徳は伝へて天下の風気を振起せしむべし、余は翁の知遇を蒙る者、いかでか人々の請を辞すべけんやと、因りて其言を録すること此の如し、翁の寿の九十に躋り百歳に至るは言はんも愚なり、後世翁の徳を聞きて感奮し、翁に継ぎて与る者あらば、翁は千歳にわたりて長へに生くべきなり
  大正五年九月       文学博士 萩野由之撰
                    阪正臣書

宮城遥拝所

紀元2600年記念(昭和15年)

諏訪神社修繕記念碑
 当社は、その創立の年代を詳らかにしていませんが、かつては諏訪大明神ととなえ、信州諏訪の地より勧請したものと伝えられています。江戸時代には岡部藩主安部氏の崇敬するところでもありました。
 現在の本殿は、明治四十年九月に竣工したもので、郷土の偉人澁澤榮一翁と当時の血洗島村民が費用を折半して造営されました。さらに現在の拝殿は、榮一翁がその費用を全額負担して造営され、大正五年九月に竣工したものです。以後代々の氏子により厚く崇敬されてきました。
<省略>

澁澤父子遺徳顕彰碑は、昭和48年11月建立。

澁澤父子遺徳顕彰碑
以和為貴

 君子は本を務む本立ちて道生ずその根柢をなすものこそ孝悌である わが澁澤父子三氏の如き正に斯の道の亀鑑と仰ぐべきであろう
 澁澤市郎は群馬縣太田市成塚須永氏に生れ初め才三郎と稱した わが國經濟界の泰斗澁澤榮一の妹ていの婿に迎えられて市郎と改名し榮一に代って中の家を嗣いだ 市郎は資性惇朴信義を重んじ常に謙虚に中の家は義兄に代って自分が守るのである 自分の任務は家名を傷つけず資産を失わないことであると語った 夫婦能く和合して家政を理め立派にその負託に應え長子元治次子治太郎を舉げた 市郎は生涯を通じて各般の地方公共事業に盡力した 八基信用組合を興し特に科學肥料の普及と農作物の増収に努めた さらに八基村名譽村長に就任し埼玉縣會議員に當選治水同盟を組織 利根川小山川の改修工事を促進した これに因って流域住民は始めて多年に亙る水害の苦難を脱することを得その恩澤は猶今日に及んでいる 大正六年齢七十一を以て歿した 市郎の一周忌に當り 榮一は自らその墓誌銘に諄信好義の士と撰書して厚く義弟を弔った
 長子元治は當時公職に在って東京に移住した爲榮一は二子と謀り次子治太郎が中の家を管理し農業を經営する方針を決めた 治太郎は誠意を盡して中の家を管理した 後年元治は自分が中央において心置きなく働けたのは偏に弟治太郎のお陰であると述懐している 治太郎は中の家を中心に産業の振興地方の發展に大いに貢献した 西部蚕業改良組合を結成してわが國最初の生繭正量取引を実施した 埼玉縣養蚕組合連合會を組織して會長となり更に全國養蚕業者の利益代表として奮闘した 當時治太郎らが政府當局に献策した蚕絲業振興策は悉く國策として採用された 父市郎を後を承け八基産業組合長となって經營の基礎を確立し八基村名譽村長埼玉縣會議員等に選ばれて自治行政を強力に推進し幾多地方の重要公共事業を遂行した なお自ら首唱して耕地整理を行い公民學校及び青淵図書館を開設した また埼玉興業株式会社深谷倉庫株式会社その他治太郎が設立経営した事業は多数に上りその目覚しい活躍と業績とは恰も伯父栄一の事蹟を地方に再現した觀があるとさえ評された 昭和十七年齢六十五を以て歿した
 隅々元治は昭和二十一年名古屋帝國大學總長の職を罷め父市郎弟治太郎の後を継いで中の家の主人となった 爾來元治は専ら著述と後進指導に力を注ぎ地方文化の進展に寄与した 元治は生來學問を好み東京帝國大學工學部に學び欧米各国に留学後工学博士の学位を得逓信技師となり次で東京帝國大學教授に就任工學部長を經て昭和十二年退官した 同十四年名古屋帝國大學初代總長に任ぜられ名古屋帝國大學を創立した 同三十年わが國電氣事業の開發育成に盡力した功績に依り文化功勞章を授與された 元治は本年九十八歳の高齢に達したが現在正三位勲一等日本學士院會員として活躍しその申申たる温容は衆人の齊しく景仰措かざる所である
 われらは澁澤父子が三代にわたり中の家を管理されさらに國家社會に貢獻された偉績を想起しその功業を永く後昆に傅える爲茲に顕彰碑を建立した 冀くは貞石と共に愈々その遺徳の顕彰されんことを祈ってやまない
     昭和四十八癸丑年十一月 
      澁澤父子遺徳顕彰會選書建立

扁額は渋沢栄一謹書。

場所

https://goo.gl/maps/68VxWDRNSGMAjcvN9


尾高惇忠生家


「中の家」から東に約1.5キロ。

尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)は渋沢栄一の従兄。号は藍香。
渋沢栄一は10歳年上の尾高惇忠に師事している。
「藍香ありてこそ、青淵あり」と称えられた。

のちに尾高惇忠は、官営富岡製糸場初代場長や第一国立銀行仙台支店長などを努めている。
尾高惇忠の妹である尾高ちよは渋沢栄一に嫁いでいる。(渋沢ちよ)
そして、尾高惇忠の弟である、尾高平九郎(渋沢平九郎)は、渋沢栄一の養子となるが飯能戦争で敗れ自刃している。

深谷市指定史跡
尾高惇忠生家
 尾高惇忠は天保元年(1830)下手計村に生まれ、通称は新五郎、藍香と号しました。渋沢栄一の従兄にあたり、栄一は少年時代からここ藍香のもとに通い、論語をはじめ多くの学問を藍香に師事したことが知られています。“藍香ありてこそ、青淵(栄一)あり”とまで、後の人々は称えており、知行合一の水戸学に精通し、栄一の人生に大きな影響を与えました。淳忠や渋沢栄一、喜作ら青年同志が、ときの尊皇攘夷論に共鳴し、高崎城の乗っ取りを謀議したのもこの2階であると伝わります。その後官営富岡製糸場初代場長や国立第一銀行仙台支店長を努めたことでもよく知られています。
 この尾高惇忠生家は、江戸時代後期に淳忠の曽祖父礒五郎が建てたものと伝わっており、屋号が油屋と故障されていた、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建造物です。母屋の裏にある煉瓦倉庫は、明治30年頃建てられたといわれ、日本煉瓦製造株式会社の煉瓦を使用している可能性が考えられます。

尾高家の人々
尾高惇忠(藍香)
渋沢栄一の学問の師、従兄、義兄。富岡製糸場初代場長。第一国立銀行仙台支店長。
尾高(渋沢)ちよ
淳忠の妹で、渋沢栄一の妻。
尾高(渋沢)平九郎
淳忠の弟で、渋沢栄一の養子となる。飯能戦争で新政府軍に敗れ、22歳で自刃。
尾高ゆう
淳忠の長女。14歳で富岡製糸場の第1号伝習工女となる。

以下は、場所は変わって埼玉県越生町。
渋沢平九郎に関する案内板が越生駅近くにある。越生町は渋沢平九郎の終焉の地。せっかくなのであわせて記載。

※以下は、越生町にて

渋沢平九郎
尾高(旧姓)平九郎の生涯
 弘化4年(1847)、武蔵国榛沢郡下手計村(現深谷市)の名主尾高勝五郎の末子として生まれました。幼少期から兄の新五郎(淳忠)や長七郎、従兄の渋沢栄一や渋沢成一郎(喜作)らと学問・文芸に親しみ、剣の腕を磨きました。そして兄や従兄たちと尊皇攘夷運動に傾倒していきました。
 「渋沢平九郎昌忠伝(藍香選)」は、平九郎は「温厚で沈勇果毅(沈着で勇気があり、決断がよく意思が強い)で、所作は美しく色白で背が高く腕力もある」と評しています。

 安政5年(1858)に姉千代が渋沢栄一に嫁ぎ、平九郎と栄一は義兄弟になりました。慶応3年(1867)には渡欧する栄一の養子となって、幕臣として江戸に出府しました。翌年2月に彰義隊に加わり、のちに、成一郎、淳忠らと振武軍を組織します。
 慶応4年(明治元年)5月23日、飯能で新政府軍に敗れ、顔振峠を下って黒山村(現越生町黒山)へ逃れてきた平九郎は、芸州藩斥候隊と遭遇、孤軍奮闘後、川岸の岩に座して自決しました。まだ20歳の若さでした。

深谷の尾高惇忠生家にもどる。

尾高惇忠生家にある煉瓦蔵は、日本煉瓦製造株式会社製か?といわれている。

旧尾高家 長屋跡

現在は基壇が残るのみ。

場所

https://goo.gl/maps/QEPW4cAZj51upvCW6


尾高家墓所

尾高家の近くではあるが、しょうしょうわかりにくい場所。

藍香、尾高惇忠の墓。

尾高長七郎(尾高弘忠)の墓

渋沢平九郎昌忠君招魂碑
渋沢栄一の建立。

場所

https://goo.gl/maps/oWjnNoqZyN51RWcV9


東の家跡

近くには、東の家跡もある。
中の家の東側が、尾高の下手計となるので、東の家は尾高家と近い。

渋沢市郎右衛門・喜作
宗助 東の家跡地


下手計の鹿嶋神社

尾高惇忠の下手計村(しもてばか)は、渋沢栄一の血洗島村の隣町。
下手計の鎮守は鹿嶋神社。
尾高惇忠家から、西に約500メートル、渋沢栄一「中の家」かたは東に約1キロ。

鹿島神社
 創立年代は不明だが、天慶年代(十世紀)平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、当社を祀ったと伝えられる。以降武門の守とされ、源平時代に竹幌合戦に神の助けがあったという。享徳年代(十五世紀)には上杉憲清(深谷上杉氏)など七千余騎が当地周辺から手計河原、瀧瀨牧西などに陣をとり、当社に祈願した。祭神は武甕槌尊で本殿は文化七年(一八一〇)に建てられ千鳥破風向拝付であり、拝殿は明治十四年で軒唐破風向拝付でともに入母屋造りである。境内の欅は空洞で底に井戸があり、天然記念物に指定されていたが、現在枯凋した。尾高惇忠の偉業をたたえた頌徳碑が明治四十一年境内に建立された。
  昭和六十年三月  深谷上杉顕彰会    (第二十二号)

渋沢栄一揮毫の扁額

鹿嶋神社 従三位勲一等男爵澁澤榮一謹書

克己復禮 尾高次郎書

尾高惇忠の次男、尾高次郎による揮毫。「克己復礼」は論語の出典。
尾高次郎は、尾高惇忠のあと、尾高家を相続。渋沢栄一の第一銀行(現・みずほ銀行)にて各地の支店長を勤め、武州銀行(現・埼玉りそな銀行)を設立し頭取に就任している。渋沢栄一は岳父にあたる。

鹿島神社
 下手計の鎮守社で、拝殿には渋沢栄一揮毫になる「鹿島神社」の扁額が掲げられている。
 境内には、栄一の師である尾高藍香の偉業を称える頌徳碑が建立されている。
 この碑のてん額は徳川慶喜公の揮毫、三島毅文学博士(号 中洲)の撰文によるものである。
 今では朽木となったが、大欅の根元に湧いた神水で共同風呂が設けられていた。栄一の母、栄はこれを汲み、らい病患者の背を流したと伝えられている。
 栄一手植えの月桂樹と長女穂積歌子が植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
    深谷市教育委員会

渋沢栄一手植えの月桂樹などは記録しそこねました・・・


藍香尾高翁頌徳碑

篆額は、徳川慶喜の揮毫。堂々たる石碑。

藍香尾高翁頌徳碑について
 尾高惇忠を敬慕する有志によって建てられたこの碑の除幕式は、明治四十二年(一九〇九)四月十八日に挙行されました。
 おりから桜花満開の当日、澁澤栄一はじめ穂積陳重、阪谷芳郎、島田埼玉県知事など、建設協賛者である名士多数が臨席されました。その際、尾高惇忠の伝記「藍香翁伝」が参列者一同に配布されたのです。
 碑の高さは約四・五メートル、幅は約一・九メートル、まさに北関東における名碑の一つです。石碑の上部の題字は、澁澤栄一が最も尊敬する最後の将軍、徳川慶喜によるものです。碑文は三島毅、書は日下部東作、碑面に文字を刻む細工は東京の石工・吉川黄雲がそれぞれ当たりました。
 郷土の宝物であるこの名碑を大切にし、藍香翁はじめ先人の遺徳を偲び、共に感激を新たにいたしましょう。
    平成十七年十月

藍香尾高翁頌徳碑
藍香尾高翁頌徳碑   従一位公爵徳川慶喜篆額
西武有君子人、曰尾高翁、々少時遭人倫之変、慈母与祖父不相協、去而不帰者数年、翁泣涕往来其間、或哀請、或幾諫、蒸々克諧以復旧、親戚郷党、莫不感称焉、嗚呼孝百行之本、自此以往、翁之進退出処、皆有功徳、物故已七年、人々追慕不已、況其門人故旧乎、乃胥謀欲樹碑於村社側以頌之、謁余文、按状翁諱惇忠、称新五郎、号藍香、尾高氏、武蔵榛沢郡下手計村人、祖曰磯五郎、父曰勝五郎、並為里正、家業農商、母渋沢氏、今男爵青淵君姑也、天保元年七月某日生翁、々少聡敏強記、独学通経史、業暇教授隣里子弟、青淵君亦就学焉、嘉永中辺警荐臻、海内騒然、翁喜水藩尊攘之説、窃与四方志士交、有所謀議文久元年襲里正、而心不在焉、慶応中以嫌疑下岡部藩獄、無幾免、既而翁悔悟攘夷未可遽行、専務殖産興業、而徳川慶喜公夙聞其名、行将用之、時公奉還大政、退大阪、誠意未上達、将陥危難、翁聞之慨然蹶起、欲有所救、到信州、則官軍既在木曾、乃還、明治元年二月入彰義隊、又起振武軍、屯飯能、与官軍戦敗、匿于家、乱已平、為静岡藩勧業属吏、亡何辞帰、家居三年、民部省辟為監督権少佑、転勧業大属、兼富岡製糸場長、十年辞之、為東京府養育院幹事、兼蚕種組合会議長翁曾得秋蚕之製於信州、伝之遠邇、皆獲大利、先是青淵君創立第一銀行、翁応嘱為盛岡支店長、土人又推為商業会議所長、傍勧製藍、励染工、後歴転秋田仙台支店長、興植林会社、二十三年刱製靛之方、得専売権、翌年以老辞職、翁助青淵君掌銀行業已十五年、功労不少、且所在為斯民授業興利、不可枚挙、遂寓東京福住街、専販藍靛、暇則矻々著述、而泰東格物学、其所最注心、毎曰名教之本、全在此、三十四年一月二日病終、享年七十有二、帰葬郷塋、青淵君以妹婿作墓銘、可謂交有終始矣、元室根岸氏、生二男五女、先亡、長男勝五郎夭、次次郎出為支族幸五郎嗣、季女配養子定四郎奉祀、余皆適人、翁天資惇誠温良、与物歓洽、有器局、処艱難能耐忍、為郷党謀最忠実、歳歉則廉価糶貯穀、有紛議則懇諭和解、其他善行不可勝記、而莫不一本於至性、豈可不謂君子人乎哉、銘曰、
  維孝為本 学術正淳 事君則藎 育英則循
  述作垂後 名教維因 造次顛沛 志在経済
  殖産刱業 大起民利 誰言理財 不由徳義
明治四十年七月
        東宮侍講正四位勲三等 文学博士 三島毅撰
        正五位日下部東作書  吉川黄雲鐫


北阿賀野の稲荷神社

「中の家」から北に約800メートルの地に鎮座。
青淵公園を流れていた清水川の北側にあたる。

稲荷神社 子爵澁澤榮一謹書

稲荷神社・菅原神社(天神社)改築記念碑
 深谷市北阿賀野一番地に鎮座する稲荷神社は倉稲魂命を御祭神と仰ぎ祀り五穀豊穣の神として先祖代々尊崇篤く現在に及んでいる。創建については風土記稿などによれば徳川氏関東に入国の頃との記述があることから四百年以上の歴史があるものと思われる。菅原神社(天神社)は宝暦十三年(一七六三)の建立と記されている。
 旧社殿内の棟木や記念誌からは御殿が明治二十六年に造営され大正十五年に改築し、その後昭和五十一年に氏子延百二十人の出役による改修事業が行われたなどの記録が残されている。
 境内には昭和二年に當地出身の偉人桃井可堂の顕彰碑が澁澤榮一翁により建立されている。社名の扁額も翁の揮毫によるものである。
 又戦争で尊い命を国家に殉じた英霊と従軍者の扁額が昭和三十九年に奉納され平和の尊さを今に伝えている。
 當神社は稲荷様として氏子に親しまれ豊作や商売繁盛・家内安全などを祈願する祭祀のみならず境内でのスポーツなど住民の交流の場として心の拠となっていた。しかし老朽化も著しく幾度となく修復も試みられてきた。
 この状況を憂い平成二十五年九月地元出身の実業家石坂好男氏により両神社の改築並びに境内の整備を寄進したい旨の申し入れがあり氏子総意の下、有難くこれを拝受し、平成二十六年六月起工・平成二十七年六月竣工の運びとなった。
 誠に氏子の喜び此の上なく尊崇篤くして地域の振興を子々孫々の繁栄を祈願してやまない。
 茲に石坂好男氏への報徳とその功績を後世に永く伝えると共に本事業の施工業者並びに協力・奉賛頂いた全ての皆様に衷心より感謝の誠を捧げてこの記念碑を建立する。
   平成二十七年六月吉日
     北阿賀野稲荷神社宮司 宮壽照代
     同          氏子一同

可堂桃井先生碑

桃井可堂(もものい・かどう)
幕末の尊皇攘夷活動家。渋沢栄一の血洗島村の北隣りに位置する北阿賀野村出身。渋沢栄一より37歳年上。
文久3年(1863)に慷慨組を組織するも挙兵計画が漏洩し川越藩に自首。幽囚され自ら絶食して死去。「深谷の吉田松蔭」と称された。

可堂桃井先生碑
慷慨国を憂ひ率先義を唱へ、時運未だ会せず謀成らずして身を殞し、英魂慰する所なかりしも、適昭代の隆運に遭ひて恩賞枯骨に及ぶ、吾が可堂桃井先生の如きは寔に生前に否にして死後に泰なるものと謂ふべし、先生諱は誠、通称は儀八、字は中道、可堂は其号なり、享和三年八月八日武蔵榛沢郡北阿賀野村に生る、本姓は福本、忠臣新田氏の後裔なり、父諱は守道、世々農を業とす、先生幼より好みて稗史野乗を読み、能く其要を記す、一日父先生に謂て曰く、汝をして大儒に就て修学せしめんと欲するも、家貧にして資なきを如何せんと、言畢りて撫然たり、先生も亦切歯涙を垂る、時に甫めて八歳なり、幾もなく郷儒渋沢仁山に就て学ぶ、仁山深く望を属す、年二十二、蹶然江戸に遊び、東条一堂の門に入り、清川八郎・那珂梧楼と併せて三傑と称せらる、業成り帷を下して教授す、名声日に揚り交道月に広し、庭瀬侯賓礼を以て先生を聘し、亀山侯も亦師事せり、嘉永六年米艦渡来し、物情騒然たり、先生感ずる所あり、藤田東湖に因りて書を水戸烈公に上らんとす、適東湖の死に遭ひて果さず、尋で米国の通商強要、安政戊午の大獄等ありて、幕政日に非なり、先生慨然職を辞して郷に帰り窃に名族岩松某を推して謀首と為し、兵を挙げて外人を掃攘し、一挙幕府を倒さんとす、某期に臨み遅疑して起たず、事漸く漏る、先生責を一身に負ひ、衆に代りて川越藩に自首す、幕府先生を江戸に檻送し福井藩邸に幽す、先生憂憤自ら食を絶ちて死す、実に元治元年七月二十二日なり、享年六十又二、巍然たる大節、真に忠臣の裔たるに恥ぢずと謂ふべし、諡して義道院猛雲至誠居士と云ふ、麻布光専寺に葬る
大正天皇登極の年、特旨を以て正五位を追贈せらる、是に於て戚族相議し駒込吉祥寺に改葬す、先生二男あり、長は之彦、畳山と号し、次は直徳、山東と号す、明治の初予大蔵省に勤務するに及び、二人を薦めて民部・大蔵両省に奉職せしめしに、頗る循吏の聞ありしが、不幸短命にして倶に世を蚤くせり、山東五男あり、長可雄は早く横浜の渋沢商店に入りて、生糸輸出の業に従ひ、季健吾は石井氏を冒して現に第一銀行副頭取たり、是亦予の推薦する所にして、倶に経済界に令名あり、忠誠の報空しからずと謂ふべし、頃日八基村教育会、碑を村社の境域に樹て、其義烈を顕揚せんとし、文を予に嘱す、嗚呼、先生と同憂の士多くは玉砕し、其子其孫亦既に地下に入りて、相見る能はざるものあり、予は郷閭先生と相近く、壮時同じく尊攘を以て念とせしも、故ありて事を共にせず、瓦全今に至る、偏に聖世の恩沢に因ると雖も、亦曷ぞ命長くして悲傷多きの歎なきを得んや、往時を追懐して悵然たること之を久しうす
  昭和二年五月 正三位勲一等子爵 渋沢栄一撰并書

場所

https://goo.gl/maps/iUQCydJk2o3MgwWf9

桃井可堂が塾を開いた中瀬村には、個人史料館「桃井可堂郷土史料館」もある。歯科医院の敷地内。

郷土の先人 苦学力闘の人
桃井可堂郷土史料館

場所

https://goo.gl/maps/SwRpz7gxRAAhn7T16


渋沢栄一記念館

渋沢栄一の「中の家」 血洗島村からは東に約500メートル。
平成7年(1995)11月11日(栄一翁の祥月命日)に開館。八基公民館を兼ねている。

「富岡製糸場と深谷の三偉人」
 深谷市は、平成26年に世界文化遺産に登録された富岡製糸場の設立に深く関わった渋沢栄一・尾高惇忠・韮塚直次郎三氏の偉業を称え、顕彰しています。
 渋沢栄一は明治政府において官営製糸場設置を推進し、尾高淳忠は富岡の地にフランス式機械製糸場を竣工、初代場長として運営を行い、韮塚直次郎は富岡製糸場の巨大建造物を支える煉瓦などの資材調達に尽力しました。
 ※このレリーフは、石坂産業株式会社創業者である石坂好男氏の寄附ににより制作しました。

渋沢栄一

尾高惇忠

韮塚直次郎


渋沢記念館の後ろ側、清水川、そして上州を見渡す方向に、大きな渋沢栄一像が建っている。

渋沢栄一像

渋沢栄一翁
 本像はもと深谷駅頭にありき
 昭和63年3月、有志1500有余名の錠剤をもとに駅前区画整理事業の完成と翁の顕彰を記念して建立せしものなり
 平成7年10月、翁、生誕八基の地に渋沢栄一記念館の落成に伴い、ここに遷座し奉る
 この地や、園日に渉り以て趣を成すの如く大いなる発展をとげしも、刀水は悠遠にして、翁、在世の昔も今の如し上毛三山の遠望も又、今も昔もなし
 翁没して65年、翁の像が故山の風物を眺めて起つは又美しき哉
 平成8年11月吉日
  深谷市長 福嶋健助


桃井可堂が塾を開いていた中瀬村には「河岸場」があった。

中瀬河岸跡

古来は、新田義貞が鎌倉幕府倒幕の兵を揚げ「中瀬の渡し」を渡り、そして江戸時代には武蔵国と上野国を結ぶ利根川の船着場として栄えていた河岸。物資や船客の乗り換え場所であったということから、江戸の情報がいち早く伝わる情報発信地であり、これが北武蔵で渋沢榮一を始めとする偉人を生んだきっかけでもあった。

中瀬河岸跡
 中瀬河岸は、江戸時代から明治にかけて利根川筋の河岸場として大いに繁栄した。
 慶長12年(1607)に江戸城秋竹の栗石中瀬から運んだ記録があり、この頃には既に中瀬からの水運が行われていたようである。その後、中瀬は周辺の物資の集積所となり上流や下流から来た乗客や荷物を積み替えるように定められ、関所のような役割を果たしたという。
最盛期には、大小100隻近くの舟が出入りし、問屋、旅籠屋などが軒を連ねて賑わった。
明治16年(1883)の高崎線の開通により次第に衰退し、明治43年の大洪水とその後の河川改修で河岸場の姿は失われた。
 平成5年11月 深谷上杉顕彰会

以上、渋沢栄一の出身地「血洗島」周辺の記事でした。

「誠之堂・清風亭」は、別記事にて。


リンク

渋沢栄一デジタルミュージアム

http://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/index.html


関連

渋沢栄一像と深谷駅【渋沢栄一5】

渋沢栄一の出身地「深谷市」。
その深谷駅前に渋沢栄一像がある。

渋沢栄一像

青淵澁澤榮一像

青淵広場

碑文
正二位勲一等子爵澁澤栄一先生は、天保11年(1840)2月13日私達のまち深谷市大字血洗島に生まれました。
幼い時から読書を好み、家業を助け、少壮の頃は国事に奔走、慶應3年第15代将軍慶喜公の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定しました。
明治6年富国の道を求めて野に下り、わが国最初の銀行を創立し、続いて製紙・紡績・製鋼・造船・鉄道・ガス・電気・窯業等先進諸国が有する諸事業のすべてを創立あるいは援助育成しました。
一方、福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を創設してその運営に挺身、その他労資協調・国際親善に心を砕き、昭和6年11月11日、91年の生涯を閉じられました。
先生は常に道徳と経済の合一を説かれ、その思想を経営の基本とされました。
先生を追慕する私達は、朝夕その教えを守り、後世に余光の及ぶことを祈念してここにこの像を建立しました。
  建立 昭和63年3月吉日   青淵・澁澤栄一銅像建設協賛会

建立 1996年7月  澁澤栄一座像  田中 昭 作


深谷駅

関東の駅百選。
平成8年(1996)7月10日改築。
東京駅が深谷産の煉瓦を使用していることから東京駅を模して「ミニ東京駅」として改築された。
これは、東京駅・丸の内口駅舎の建築時、深谷に所在した「日本煉瓦製造株式会社」で製造された煉瓦が使用されたことにちなむ。

日本煉瓦製造株式会社は、渋沢栄一による設立。深谷駅から日本煉瓦製造工場まで、専用線が敷設されていた。

ようこそ!渋沢栄一のふるさと深谷市へ!

祝 渋沢栄一 一万円札に

ようこそ 青天のまち 深谷へ

コミュニティバスにも渋沢栄一が描かれていた。

ようこそ 大河ドラマ「青天を衝け」の舞台へ
渋沢栄一の生誕地 埼玉県深谷市

深谷市のマンホール、深谷市のキャラクターふっかちゃん


渋沢栄一からくり時計

深谷駅気前に設置されたからくり時計。
第一国立銀行をイメージした時計台。
7時~23時の定時になると、ふっかちゃんの下から、渋沢栄一翁が現れる。

日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化した1927年(昭和2年)に、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士が「万国児童親交会委員(世界児童親善会)」を設立し、アメリカから友情の証として「青い目の人形」が日本へ贈られた。そして、ギューリック博士と親交のあった渋沢栄一が中心となって「日本国際児童親善会」が呼びかけを行い、全国の役場や学校を通して集められた募金を元に製作された「市松人形」(答礼人形)がアメリカに送られた。

渋沢栄一からくり時計
 渋沢栄一(1840年~1931年)は維新後の急激な近代化を迎えた明治・大正期の日本を経済という舞台で支えた人物で、現深谷市の血洗島に生まれた。
 日本で初めての銀行である第一国立銀行の創立者。
 論語の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、生涯設立にかかわった会社はゆうに500を超える。
 日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化したときには、それをやわらげるためにお互いの国の人形を交換した。そのとき日本に送られたのが「青い目の人形」、その返礼としてアメリカに贈ったのが「市松人形」である。
 このからくり時計は、時計塔の部分は当時の第一国立銀行をイメージし、定刻になると「青い目の人形」と「市松人形」を持った栄一が現れ、時刻を知らせる仕掛けとなっている。また、時計はソーラーエネルギーを使っている。
平成24年2月
 深谷市(渋沢栄一没後80年記念事業) 
 深谷ロータリークラブ(深谷ロータリークラブ創立50周年記念事業)

ふだんは、ふっかちゃんが回っている。

定刻になると、下から渋沢栄一翁が登場。ふっかちゃんは上に押し出される。
童謡「青い眼の人形」が流れる。

青い目の人形と市松人形を手にした渋沢栄一翁。

https://www.shibusawa.or.jp/museum/newsletter/302.html


あかね通りにかかる歩道橋。
あかね通りは、日本煉瓦製造専用鉄道線跡の遊歩道。
日本煉瓦製造に関しては別記事にて。。。


渋沢栄一関連

「日本最初の銀行」渋沢栄一と兜町【渋沢栄一4】

兜町には、渋沢栄一が設立した「日本最初の銀行」、そして渋沢栄一が発起人を努めた「日本最初の証券」、そして隣の茅場町には同じく渋沢栄一が関係した「日本最初の電力発電」があった。


銀行としては四代目の建物。

銀行発祥の地

銀行発祥の地
この地は明治6年6月11日(1873年)わが国最初の銀行である第一国立銀行が創立されたところであります
 昭和38年6月建立

第一国立銀行

明治5年(1872)、国立銀行条例が制定。
明治6年(1873)に渋沢栄一によって創設された日本最初の銀行。民間資本民間経営の銀行であったが、国立銀行条例により発券機能等を有していた。
明治15年(1882)、日本銀行条例により国立の日本銀行が設立。国立銀行条例による営業免許期間終了に伴い、明治29年(1896)に一般銀行に改組し「第一銀行」となる。
昭和18年(1943)、太平洋戦争戦時下の国策により三井銀行と合併し「帝国銀行」となるが、戦後の昭和23年(1948)には再度分割し「第一銀行」として再建。
昭和46年(1971)に日本勧業銀行と合併し「第一勧業銀行」。そして第一勧業銀行は、現在の「みずほ銀行」の流れにつながる。

第一国立銀行(第一銀行)」は、日本最初の銀行として、統一金融機関コード「0001」を保有。この0001も「みずほ銀行」が継承をしている。

また、「第一国立銀行」は日本最初の株式会社でもあり、東京株式取引所創設時より上場している。

第一国立銀行が創業した地には、「みずほ銀行兜町支店」がある。

「みずほ銀行兜町支店」の壁面には、「兜町歴史地図」と「渋沢栄一と建物の歴史」が掲載されていた。
(以下、クリックで拡大可)

銀行発祥の地
渋沢栄一翁
渋沢栄一翁は幕末の慶応3(1867)年に渡欧し、最先端の経済制度や科学技術を学びました。帰国後はその知識を活かし、明治政府において新生日本の基盤となる制度作りに力を発揮しました。その後実業界に転じ、生涯を通じて約500にものぼる株式会社の設立・育成を行うとともに、学校や病院など約600の社会・公共事業の育成・推進にも力を注ぎ、近代日本社会・経済の基礎作りに大きな貢献をしました。
中でも、渋沢翁が中心となって明治6(1873)年にこの場所に開業した「第一国立銀行」は、日本最初の近代的な銀行として有名です。この地周辺にはその後日本で最初の株式取引所(現東京証券取引所)や数多くの会社が次々と設立され、兜町は日本経済の中心地として発展していきました。

初代建物(第一国立銀行)
日本最初の近代的な銀行である「第一国立銀行」(現みずほ銀行)は、明治6(1873)年にこの場所で誕生しましたが、その本店として使用されたのが明治5(1872)年に竣工した写真の建物です。
日本初となる銀行建築を請け負った清水組(現清水建設)二代清水喜助は、外国人の手を借りず、設計施工すべてを自分達で手掛けました。木骨石造、ベランダ、日本屋根、塔を組み合わせた和洋折衷の建物は、擬洋風建築の最高峰といわれ錦絵にも度々描かれた東京の名所でした。

設計者 二代目清水喜助(1815-1881)
文化12(1815)年富山生まれ。
生地井波は宮大工輩出の地として知られ、幼少期から社寺建築に親しむ環境の中で育ち、大工となりました。近郷出身の清水組創始者初代清水喜助を頼り江戸に出て、幕末には横浜開港に伴う幕府御用の工事を手がけて事業を大きく発展させ、近代建設業の基礎を整えました。
本建物の他、我が国初の大規模和洋折衷建築と言われる築地の外国人旅館(通称築地ホテル)など彼の作った建物は、明治初期に全国各地に建設された擬洋風建築に大きな影響を与えました。

二代目建物
国立銀行制度の終了に伴い、明治29(1896)年第一国立銀行は株式会社第一銀行となりましたが、その本店の二代目建物として明治35(1902)年に竣工したのが写真の建物です。
後に東京駅舎で有名となる辰野金吾の設計によるもので、外壁は石造ですが鉄棒で補強し、床は耐火構造、シャッター、消火栓等、当時としては最新の防災設備を備えていました。
大正12(1923)年の関東大震災では、地域全体に広がった火災により大きな被害を受けましたが、建物自体は堅牢な作りで崩壊を免れ、その後も使われ続けました。

設計者 辰野金吾(1854-1919)
嘉永7(1854)年佐賀生まれ。
明治6(1873)年工学部工学寮(後の工部大学校、現在の東京大学工学部)に第一回生として入学。同校造家学科を首席で卒業後、官費留学生として英国に留学しました。帰国後は工部大学校の教授に就任し、後には帝国大学工科大学学長や建築学会会長などの要職に就きました。
建物の重圧で堅牢なイメージから「辰野堅固」とも言われたという彼の作品には、日本銀行本店や東京駅駅舎など、現在でも重要文化財などに指定されて残っているものが多数あります。

三代目建物
二代目建物は、昭和5(1930)年に第一銀行本店が当地から丸の内に移転した後も、同行の兜町支店として使われていましたが、その役割は昭和11(1936)年に三代目となる写真の建物に引継がれました。鉄骨鉄筋コンクリート造の建物は、銀行・証券会社の立ち並ぶ兜町の中でもひと際目立つ堂々とした風格を備えていました。 その後昭和51(1976)年に、第一国立銀行以来四代目となる現在の建物が建てられ、現在もみずほ銀行の兜町支店として百数十年に亘る歴史を繋いでいます。

設計者 西村好時(1886-1961)
明治19(1886)年横浜生まれ。
明治45(1912)年東京帝国大学建築学科を卒業後、曽根・中条事務所を経て清水組に入社。後に第一銀行に転出し、同行の丸の内本店をはじめ数多くの銀行建物にその設計・実務手腕をふるいました。
意匠のみならず最新設備にも精通した「銀行建築のエキスパート」として知られ、後の施設計画学にも大きな足跡を残しています。

兜町ビルの歴史
-銀行発祥の地-
https://www.seiwa-building.co.jp/bank-birthplace/building.html

清和綜合建物

https://goo.gl/maps/xXYbW6yqnTCprPnf8

「銀行発祥の地」の突き当りに「日証館」がある。
当時、渋沢栄一邸は、日証館の地にあった。

証券会社のビルが林立する。

フィリップ証券の建物は昭和10年。

山二証券のビルは昭和11年という。


兜神社

明治11年(1878)、渋沢栄一らが発起人となり、東京株式取引所(現・東京証券取引所)が設立。東京株式取引所設立とともに関係者によって創建された。

御祭神:倉稲魂命
明治十一年ここ兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるに当たり、同年五月取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営した。
御社殿に奉安してある「倉稲魂命」の御神号は時の太政大臣三條實美公の揮毫になるものである。
当社は御鎮座後一度換地が行われたが、昭和二年(1927年)再度換地を行ない、兜橋々畔の現在地約六十二坪(役205平方米)を卜して同年六月御遷座を行ない、鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。
昭和四十四年(1969年)五月高速道路の建設に伴い御影石造りの鳥居を残して旧社殿を解体し、同四十六年(1971年)三月現在の鉄筋コンクリート・一間社流造・向拝付きの社殿を造営した。
屋根は銅板葺とし玉垣・参道敷石などは御影石をもちいた。

兜神社の由来となった兜岩。
鎧岩は、前九年の役(1051~1062)のころ、源義家が東征の際に、この岩に兜を掛けて戦勝祈願したことに由来という。
「兜町」の町名由来でもある。

https://goo.gl/maps/LHcqmpgpSyarKKxQA

兜神社の隣は、日証館

日証館

明治21年(1888)に、辰野金吾が設計した渋沢栄一邸がこの地に完成。明治34年(1901)に渋沢栄一は飛鳥山に移り住んだ後は、渋沢事務所としても使用。
大正12年(1923)に渋沢事務所は関東大震災で全焼。
渋沢事務所・渋沢邸跡地に昭和3年(1928)に、「日証館」が建設された。当時の姿を活かしながらリノベーションされ現在も多くの証券会社が入居するビルとして活用されている。

https://goo.gl/maps/XvkmKS2TUEGkEfur5

左手には、東京証券取引所。右手には日証館

東京証券取引所(証券取引発祥の地)

明治11年(1878)6月1日。
東京株式取引所が創立し兜町にあった第一国立銀行の所有を購入して営業開始。渋沢栄一も東京株式取引所発起人に名前を連ねていた。
7月15日、日本初の上場株式として東京株式取引所の売買が開始。
9月、渋沢栄一の第一国立銀行(現みずほ銀行・旧第一勧業銀行)株式が上場。第一国立銀行は日本最初の株式会社であった。

昭和18年(1943)6月、戦時統制機関改編。日本証券取引所に統合。
日本証券取引所は、戦後にGHQにより活動禁止となり昭和22年に解散。
昭和24年(1949)、東京証券取引所設立。

日本橋兜町の歴史・史跡

https://www.heiwa-net.co.jp/urban_development/history.html

平和不動産株式会社

https://goo.gl/maps/kE62zxJp7cReEA5C8


以下は、渋沢栄一とは、あまり関係ない史跡。
発祥の地でしたので、興味深く。

郵便発祥の地

日本橋郵便局が、日本の郵便発祥の地、であったという。
この界隈は、銀行と証券と郵便が始まったエリアでもあったのだ。

郵便発祥の地
ここは、明治4年3月1日(1871年4月20日)
わが国に新式郵便制度が発足したとき駅逓司と東京の郵便役所が置かれたところです。

前島密先生
郵便発祥の地

前島密の胸像は昭和12年、会田富康の作。

前島男爵ノ命ニ依リ密翁之像ヲ補綴改鋳ス
昭和十二年三月 會田富康

多羅葉(たらよう)
はがきの木


「葉書」の由来は、この木から・・・
 肉厚の葉の裏側をとがったもので書きつけると、茶色に変色してくっきり文字が浮あがります。
 古代インドで手紙や文章を書くのに用いた多羅葉の葉になぞらえてその名がつけられました。
 この木は、郵便局のシンボルツリーとして植えられています。

https://goo.gl/maps/etp4NX6xUnBoD9686


電燈供給発祥の地

茅場町のビジネスホテルの手前に、記念碑があった。
この地から、日本で最初の電力送電が行われたのだ。

東京電燈株式会社設立を出願した渋沢栄一・大倉喜八郎らの手によって、明治16年に設立。
明治20年(1887)に日本橋茅場町から第二電燈局が小規模火力発電で電気の送電(架空配電による最初の電燈供給)を開始。

電燈供給発祥の地
 明治20年(西暦1887年) 11月21日東京電燈会社がこの地にわが国初の発電所を建設し、 同月29日から付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などのお客様に電燈の供給を開始いたしました。
 これが、わが国における配電線による最初の電燈供給でありまして、その発電設備は直立汽缶と、30 馬力の横置汽機を据付け、20キロワットエジソン式直流発電機1台を運転したもので、配電方式は電圧 210ボルト直流三線式でありました。

電気ゆかりの地を訪ねて
日本初の配電線による電灯供給
第2電燈局

http://kandenkyo.jp/pdf/yukari%20vol6.pdf

日本電気協会 関東電気協会

https://goo.gl/maps/9MHb5c8PB2TkCy9V8


海運橋親柱

第一国立銀行の脇には楓川という川が流れており、海運橋が掛けられていたが、現在は埋め立てられている。当時の名残の親橋が近くに残されている。

海運橋親柱
所在地 中央区日本橋一ー二十先
 日本橋兜町三先
 海運橋は、楓川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監忠勝の屋敷が置かれたので、将監橋とか海賊橋と呼ばれていました。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいっていたためです。
 橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、同八年に、長さ八間(約十五メートル)、幅六間(約十一メートル)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。
 石橋は、関東大震災で破損し、昭和二年鉄橋に架け替えられました。このとき、二基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和三十七年撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。
 平成六年三月
  中央区教育委員会

海運橋
紀元2535年=明治8年=1875年

楓川は埋め立てられ、その楓川の上を首都高速が走っている。
海運橋は、この方向に首都高の下に架かっていた。

https://goo.gl/maps/QpgZigvtBggSUSV7A


渋沢栄一関連

渋沢栄一像と日本銀行【渋沢栄一3】

日本橋界隈の渋沢栄一関連を散策してみる。

常盤橋公園(常磐橋)

常盤橋公園は、江戸城の城門の一つ常盤橋門があったところ。

昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われた公園。令和3年現在、工事のため閉鎖中。2021年度中に一部を暫定開放予定。

明治10年(1877年)に再建された2連アーチ石橋が残る。経年劣化と東日本大震災による被害のために全面的な修復工事が行われている。

公園の名前は、「常盤橋公園」
石橋は「常磐橋」
下流には「常盤橋」
上流には「新常盤橋」
磐と盤がややこしい。


渋沢栄一像(常盤橋公園)

工事中の常盤橋公園のなかで、渋沢栄一像の一角のみ開放されている。

渋沢栄一像は、日本で初めて設立された銀行「第一国立銀行」(日本銀行ではなく)の方向を向いているという。

青淵澁澤榮一

 青淵澁澤榮一翁は、天保十一年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり、後轉じて幕臣となって、慶應三年歐州に赴き、民主主義自由主義を知る機會を得た。
 歸朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に當ったが、明治六年退官し、同年創立された第一國立銀行の頭取となり、爾来産業経濟の指導者成りに任じ開與した會社五百、常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實錢し我が國運の發展に偉大な貢獻をした。
 また、東京市養育院等社會事業の助成、一橋大學・日本女子大學等實業及び女子教育の育成、協調會等による勞資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し、昭和六年十一月十一日に逝去した。
 翁の没後、財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が、昭和八年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。
 然るにこのたび、銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって、再び朝倉丈夫氏に製作を委託しこの位置にこの銅像を建て、東京都に寄附したのである。
  昭和三十年十一月 澁澤青淵記念財團龍門社

昭和8年11月11日
財團法人澁澤青淵翁記念會建之

場所

https://goo.gl/maps/2SjJoNKm8PrTUNbX6


常盤橋

日本場川に架かる橋。上流は石橋の常磐橋。左手には渋沢栄一像、右手には日本銀行本館。

常盤橋
昭和元年11月完成

渋沢栄一像

日本銀行本館

日本橋川の上流には石橋二連の「常磐橋」

渋沢栄一・渋沢敬三と日本銀行

明治5年(1872)、国立銀行条例が制定。
明治9年(1876)、国立銀行条例全面改正。不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、インフレが進行する。
明治14年(1881)、大蔵卿松方正義は不換紙幣の整理と中央銀行の創立をめざす建議を三条太政大臣宛に提出。大蔵卿松方正義により日本銀行創設へ。
明治15年(1882)、日本銀行条例により日本銀行が設立。第一国立銀行頭取であった渋沢栄一は割引手形審査のための日本銀行割引委員に就任。

渋沢栄一は、明治6年(1873)に日本最初の銀行「第一国立銀行」を創設。民間資本の民間経営の株式会社であったが、国立銀行条例による発券機能等を有していた。

渋沢栄一の孫である渋沢敬三は、昭和17年(1942)に日本銀行副総裁、そして昭和19年(1944)には第16代日本銀行総裁に就任している。就任は昭和19年3月18日であり、戦前最後の日本銀行総裁であった。幣原喜重郎内閣の大蔵大臣就任のために、昭和20年10月9日に日本銀行総裁を辞任している。

日本銀行本店本館

ベルギー国立銀行を参考に明治29年(1896)2月竣工。設計は辰野金吾。
明治24年(1891)に発生した濃尾地震の教訓から、高橋是清の指示で建物上部を軽量化し耐震性を高めており、2階3階は煉瓦造石貼り建築。
1974年2月5日に国の重要文化財に指定。

日本銀行本店別館

辰野金吾の弟子・長野宇平治の設計。昭和13年(1938)竣工。なお、長野宇平治は日本銀行本店別館の完成前の昭和12年に死去している。

本館の隣に別館が増築されている。

場所

https://goo.gl/maps/e93utY2d91aThXtw5


日本銀行創業の地

ちなみに、「日本銀行創業の地」は中央区日本橋箱崎にある。隅田川と日本橋川が合流する箱崎の地で創業し14年後に現在地に移転した、とのことで。
現在の日本IBM本社近く。

日本銀行創業の地
 明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
 明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
 創業百周年を記念してこの碑を建てる
      昭和五十七年十月
         日本銀行総裁  前川春雄

場所

https://goo.gl/maps/ncwXnUADuhVYrJy6A


渋沢栄一関連記事

「日本の福祉・医療の原点」養育院と渋沢栄一【渋沢栄一2】


渋沢栄一銅像

板橋区登録有形文化財
渋沢栄一銅像

初代養育院院長として渋沢栄一は50年以上養育院に関与し、他の職を辞することはあっても、養育院の運営には最後まで関与し続けた。

明治5年(1872)に、本郷の旧加賀藩邸の長屋を利用して養育院の仮施設が造られ、翌明治6年に上野に養育院本院を設置。維新後に急増した窮民収容保護のため、東京府知事大久保一翁(大久保忠寛)の「救貧三策」の一策であった。
養育院本院は、上野、神田、本所、大塚などを転々とし、関東大震災後に板橋に移転。
渋沢栄一は、大久保一翁東京府知事より、共有金の取り締まりを依頼され、養育院に関与。財政基盤が定まらない中で、渋沢栄一は初代・養育院院長として必死に寄金を集め、養育院の維持に努力。
関東大震災後に養育院本院が板橋に引っ越しし一段落した大正14年に、養育院常設委員会(委員長は東京市長)は市民の寄付金による渋沢栄一養育院院長の銅像建設を計画。
「養育院の構内に、百年の後も永久にこれを守護せんとする渋沢栄一子爵の魂魄ための定住所」という設立理由に渋沢栄一も銅像制作を承諾。

大正14年(1925)11月15日、本院完成にあわせて建立、小倉右一郎作の渋沢栄一像は、高さ4.3メートル、方5.4メートルの花崗岩台座に、高さ3.75メートル、重量1.8トンの青銅製銅像。フロックコート姿でソファーに座っている姿となる。
銅像の完成時には、渋沢栄一本人も出席して除幕式が執り行われた。

昭和20年(1945)、戦時中の金属供出によってコンクリート像に作り変えられ、銅像本体は供出予定で地上に降ろされるも、4月の板橋空襲で養育院は9割が焼失、107名の犠牲が出る中で、渋沢栄一銅像は焼け残った。そのまま運搬手段などが無くなったために渋沢栄一銅像は供出を逃れ、戦後に修復された。

旧養育院長渋沢栄一銅像
 日本の福祉・医療の原点である「養育院」は、明治5年(1872)に設立されました。渋沢栄一は明治7年以来その運営に関与し、養育院長として半世紀を超えて中心的な役割を果たしました。その偉業を顕彰するため、まだ存命中の大正14年(1925)、幅広い東京市民の醵金により建てられたのがこの銅像です。
 帝展・文展の審査員も努めた彫刻家、小倉右一郎の制作で、高さ16尺(4.3m)、方20尺(5.4m)の花崗岩の台座に、高さ10尺(3.75m)、重量480貫(1.8t)の青銅で造られています。フロックコートをまといソファーに座る晩年の姿を映しています。
 また、昭和18年(1943)金属供出のためにコンクリート製の代替像が作られ、本体は敷地の一隅に置かれて供出作業を待っていましたが、輸送の為の交通事情、都内空襲などで回収作業ができず、昭和20年4月13日の板橋地区の空襲にも焼け残り、供出されないままに昭和20年8月15日の終戦を迎えました。
 昭和32年に、作者・小倉右一郎の監修のもとに修築され、その後3回の敷地内移設を経て現状に至ってます。
 大正年間の養育院に関する造形物であり、板橋区の近代化の歴史を語る重要な史料となっています。平成26年(2014)3月に板橋区の登録文化財(歴史資料)となりました。
 平成26年12月 板橋区教育委員会

子爵渋沢栄一像

大正14年11月
小倉右一郎

大正14年11月建設寄附
澁澤養育院長銅像建設會
理事
會長 中村是公 
(以下略)

中村是公は関東大震災後の復興に取り組んだ第9代東京市長。
渋谷区広尾3丁目の旧中村是公邸(旧羽澤ガーデン)は有名であった。2011年に再開発で消失。


養育院本院

養育院本院の跡。
「養育院本院」の字は渋沢栄一の墨蹟

養育院本院の碑
 養育院は、昭和5(1871)年10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諸問に対し経営会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京芸大)、神田、本所大塚など東京市内を転々としたが、関東大震災後、現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(江戸幕府の松平定信によって創設された七分積金が明治維新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治7年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。特に第二次世界大戦後は、自動の保護や身寄りのない高齢者の養護、さらに高齢者の福祉・医療・研究、看護師の養成など時代の要請に応じて様々な事業を展開した。
 平成11年12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の膜を閉じたが、養育院が行ってきた事業はかたちをかえて現在も引き継がれている。
 養育院に関連する碑は、ほかに養育院の物故者中、引取人のいない遺骨を埋葬、回向をお願いした東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園にある。
 なお、碑の「養育院本院」は渋沢栄一の墨蹟を刻んだものである。
  平成25(2013)年3月 養育院を語り継ぐ会

この碑は元養育院職員当の篤志によって建てられました。
 地王独立行政法人 東京都健康長寿医療センター

養育院に関しては、以下に詳しい。

地方独立行政法人 
東京都健康長寿医療センター

養育院は、現在「東京都健康長寿医療センター」となっている。

https://www.tmghig.jp/hospital/about/history/

ようこそ 養育院・渋沢記念コーナーへ

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/guide.pdf

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/shibusawacorner2014.pdf

櫻園通信平成25年度発行

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/ouen_1-9.pdf


東京都健康長寿医療センター、かつての養育院を見つめる渋沢栄一像


谷中に養育院関連の慰霊碑が2つある。

養育院者故者の墓
義葬之冡(大雄寺)

台東区谷中の大雄寺では、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向を行っていた。
明治6年(1873)中の埋葬者は100名と伝えられ、寺内の一角に「義葬之冡」がある。この「義葬之冡」は養育院創立当時の唯一の遺構という。

養育院義葬の冡
 養育院は、明治5年(1872)10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原始資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治7年(1874)から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年(1879)には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成11年(1999)12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ここ大雄寺には、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向をお願いしたものである。明治6年(1873)中の埋葬者は100名と伝えられ、寺内の一角に義葬之冡がある。この義葬之冡は養育院創立当時の唯一の遺構である。
 なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多磨霊園がある。
 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
  平成22年(2010)4月 
   養育院を語り継ぐ会

義葬之冡  明治6年癸酉

幕末三舟の一人、高橋泥舟墓の墓も大雄寺にある。


養育院者故者の墓
東京都養育院慰霊碑・了俒寺

谷中霊園の隣、了俒寺(りょうごんじ)の飛地にあたる了俒寺墓地に「東京都養育院慰霊碑」がある。了俒寺の境内ではなく、谷中霊園側となるので要注意。私は場所がわからなかったので、了俒寺の御人に案内していただきました。

東京都養育院慰霊碑
 養育院は、明治五年(1872)十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事・大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関るようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史に幕を閉じた。
 ここ了俒寺の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬、回向を御願いしたものであり、明治六年末から大正二年に至る埋葬者は三千七百六十二名である。
 なお、養育院物故者の墓は、ほかに東京都台東区谷中の大雄寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園がある。

 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。

 平成二十二年(2010)四月
             養育院を語り継ぐ会
この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                          了俒寺

慰霊碑
明治6年末から
大正2年12月まで
3762名
 合葬
東京都養育院

養育院義葬之墓
明治12年3月建之

東京市養育院義葬

明治から大正にかけての合葬墓、義葬墓が5つ並んでいる。

場所は、谷中霊園の甲3号5側の隣。

谷中霊園には渋沢栄一墓もあるがそれは別記事にて。

谷中霊園の一角に、了俒寺墓地の隣に養育院慰霊碑の敷地がある。

谷中7丁目に、了俒寺がある。

突き当りの白い壁が了俒寺。左手に谷中霊園側の了俒寺墓地がある。


養育院合葬冢・多磨霊園

多磨霊園にて拝してきました。(※2021年9月)
場所は、5区の無縁墓地エリア。

東京市養育院合葬冢

歸入無為楽

昭和五年三月 成

養育院合葬冢
 養育院は、明治五(千八百七十二)年十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ここ多磨霊園には、昭和八年以降、養育院の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬し、現在も供養をしている。
 なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺及び栃木県那須塩原市の妙雲寺がある。

 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
   平成二十二(二千十)年四月 養育院を語り継ぐ会

 この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                   東京都福祉保健局

 ここ多磨霊園には、この碑文にある養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)があります。

裏には、墓標が5つ、並んでおりました。
明治・大正・昭和にかけて合葬されてきた証。

場所

https://goo.gl/maps/ykwnFSMRFTJh2xre7


大久保一翁墓

多磨霊園には、養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)もあるので拝してきた。

大久保忠寛
幕臣、のちに東京府第五代知事を務める。養育院創立時の東京府知事。養育院の設立を行い、運営を渋沢栄一に委任した。

大久保氏墓
一翁忠寛之墓

勝海舟の書、という。


栃木県那須塩原市の妙雲寺にあるという養育院者故者の墓は、訪れる機会があれば、アップデートします。


渋沢栄一関連

晩香廬と青淵文庫(渋沢栄一旧邸・曖依村荘跡)【渋沢栄一1】

2024年度発行予定の1万円新紙幣の顔、そして2021年の大河ドラマの主人公でもある渋沢栄一の邸宅は飛鳥山にあった。


渋沢栄一

日本近代経済の父、日本資本主義の父、と称される。
1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)
旧幕臣、官僚、実業家。正二位勲一等子爵。雅号は青淵。

第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所、東京株式取引所を初めとし、500を超える企業や経済団体の設立・経営に関わる。
社会福祉事業、病院医療、実業教育、女子教育、私立学校等の設立、運営、支援等、700を超える社会事業にも尽力。

実業家としては、みずほ銀行・りそな銀行・埼玉りそな銀行・王子ホールディングス・東京ガス・IHI・いすゞ自動車・立飛ホールディングス・大日本印刷・日本経済新聞・東京海上日動火災保険・東日本旅客鉄道・日本郵船・東京電力ホールディングス・東洋紡・太平洋セメント・キリンホールディングス・清水建設・日産化学・東京製綱・帝国ホテル・サッポロホールディングス・アサヒグループホールディングス・大成建設・古河グループ(古河機械金属・古河電気工業・富士通・富士電機・横浜ゴム)・オーベクス・大日本明治製糖・川崎重工業・住友重機械工業・東京建物・京阪ホールディングス・東宝・東京会館・ニッピなど、500以上に及ぶ企業の設立や運営に関わる。

教育面では、一橋大学・東京経済大学・東京女学館・日本女子大学・同志社・早稲田大学・高千穂大学・二松学舎・国士館大などに関与。

昭和6年(1931年)11月11日死去。享年91歳。
法名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。墓所は谷中霊園渋沢家墓地。


渋沢史料館

「飛鳥山3つの博物館」のひとつに、「渋沢史料館」がある。史料館本館とは別に、渋沢栄一の旧邸として大正期に建立され国指定重要文化財に登録されている建物が2棟ある。

  • 1878年(明治11年)
     渋沢栄一が飛鳥山に別荘「曖依村荘(あいいそんそう)」を設ける。
  • 1901年(明治34年)
     本邸を飛鳥山に移す
  • 1917年(大正6年)
     晩香廬竣工
  • 1925年(大正14年)
     青淵文庫竣工
  • 1931年(昭和6年)
     11月11日 渋沢栄一死去。
     旧渋沢邸は栄一門下生が結成した竜門社に遺贈される
  • 1945年(昭和20年)
     4月13日 太平洋戦争時の空襲により建物の大部分を焼失
  • 1946年(昭和21年)
     財団名を渋沢青淵記念財団竜門社に改称
  • 1982年(昭和57年)
     渋沢史料館開館
  • 1998年(平成10年)
     3月 本館新築開館
  • 2003年(平成15年)
     11月 財団名を渋沢栄一記念財団に改称
  • 2019年(令和元年)
     9月1日 渋沢史料館休館
  • 2020年(令和2年)
     11月19日 渋沢史料館リニューアルオープン

青淵文庫

大正14年(1925)竣工。重要文化財(旧渋沢家飛鳥山邸)

後日、撮影をやり直しました。。。季節が変わると見え方も変わりますね。

旧渋沢庭園
開演時間のお知らせ
開演時間 3月1日~11月30日 9:00から16:30まで
     12月1日~2月末日 9:00から16:00まで
(以下略)

ようこそ旧渋沢庭園へ
曖依村荘跡
 飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは別荘として、後には本邸として住まいした「曖依村荘(あいいそんそう)」跡です。約28,000㎡の敷地に、日本館と西洋館をつないだ主屋の他にも色々な建物が建っていました。住居等主要部分は1945(昭和20)年4月の空襲で消失しましたが、大正期の小建築として貴重な「晩香廬」と「青淵文庫」が、昔の面影をとどめる庭園の一部ともに、よく保存されています。

渋沢史料館
 渋沢栄一の1840(天保11)年から1931年(昭和6)年の91年におよぶ生涯と、携わったさまざまな事業、多くの人々との交流等を示す諸資料を渋沢史料館にて展示しております。

国指定重要文化財
晩香廬
青淵文庫

国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
青淵文庫
 所在地    北区西ヶ原2-16-1
 設計者    中村田辺建築事務所・田辺淳吉
 建築年    1925(大正14)年
 指定年月日 2005(平成17)年12月27日

 渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
 外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。
 財団法人 渋沢栄一記念財団

上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれている。

「寿」の字。

露台下より出土した「まぐさ」
露台基礎

晩香廬(ばんこうろ)

国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
晩香盧
 所在地    北区西ヶ原2-16-1
 設計者    田辺淳吉(清水組技師長)
 建築年    1917(大正6)年
 指定年月日 2005(平成17)年12月27日
 
 近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設(株))の清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。
 建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。
応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。
 財団法人 渋沢栄一記念財団

渋沢栄一像

この像は、兜町の第一銀行本店中庭にあった。

後日、撮影をやり直しました。
足場もいつの間にかしっかりと。

山形亭跡

山形亭跡
丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭です。
「六角堂」とも呼ばれていました。この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えていたところから付けられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。

兜稲荷神社跡
 日本橋兜町の第一銀行内にあった洋風の珍しい社です。1897(明治30)年の第一銀行改築時に現在地に移築されました。その後、1966(昭和41)年に破損が激しく、危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。この社は、最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後兜社は、為換座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたのです。

茶席門跡
茶席「無心庵」へ向かう途中に設けられていたいくつかの茶席門の一つです。この門をくぐってすぐに水の流れがありました。流れに架かる石橋を渡り、飛び石をたどっていくと、途中左手に「茶席待合」、さらにその奥に「無心庵」がありました。これらは、1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいましたが、当時の跡をたどることができます。

茶席待合跡
 茶席「無心庵」への途中にあった待合です。腰を下ろすだけの簡素なものですが、気持ちを落ちつけ、茶席へ誘う重要な役割を担っていました。現在は、軒下の踏石をはじめとして、礎石などがほとんど当時の形で残されています。

無心庵跡
茶室「無心庵」
設計は茶人としても有名な益田孝の弟、克徳と柏木貨一郎と言われています。
京都裏千家の茶室などを参考にして1899(明治32)年に建てられました。
栄一は、徳川慶喜の名誉回復を図るため、慶喜と伊藤博文等をこの茶室で対面させたという逸話が残されています。
無心庵には茶室のほかに広間も設けられ、伝統的なものの中に、新しい時代の茶席をも感じさせるものがあったようです。
縁先には石製の手水鉢が置かれていましたが、こうした静かなたたずまいも1945(昭和20)年4月13日の空襲で焼失してしまいました。

邀月台(ようげきだい)
無心庵の東側に切り立つ崖の斜面には、月見台がしつらえてありました。
当時、ここからは、栄一が誘致した王子製紙の工場が眼下に見え、荒川方面まで続く田んぼの先には、遠く国府台の台地や、さらにその北には、筑波山の勇姿を望むこともできたといいます。

飛鳥山は近いので、また再訪します。


渋沢栄一関連


関連

順次追加。。。

「日本建築史のパイオニア」伊東忠太作品と伊東忠太墓 

日本の近代建築を巡っていると、知らず知らずに出会っているのが「伊東忠太」が手掛けた建造物。日本近代建築において、欠かすことができない人物。
そんな伊東忠太の墓が、鶴見・総持寺にあると聞いたので脚を運んでみた。


伊東忠太

1867年11月21日-1954年(昭和29年)4月7日(享年87歳)
正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・米沢市名誉市民第1号。早稲田大学教授。辰野金吾の弟子。

日本建築を学問的に見直した第一人者。「日本建築史の創始」。
また明治27年当時は「造家」と約されていた「Architecture」を「建築」と訳すように提唱したの伊東忠太であった。それを受けて、明治30年に「造家学会」が「建築学会」に改称し、明治31年には東京帝国大学工科大学造家学科が建築学科に改称している。
昭和18年(1943年)に建築界ではじめての文化勲章を受賞。

伊東忠太が手掛けた建造物は枚挙にいとまがない。
以下、現存している代表的なものを。

  • 橿原神宮 1890年/重要文化財
  • 平安神宮 1895年/重要文化財
  • 東京大学正門 1912年/登録文化財
  • 弥彦神社 1916年/登録文化財
  • 明治神宮 1920年
  • 上杉神社 1923年
  • 総持寺放光観音台座 1923年/登録文化財
  • 東京商科大学兼松講堂(一橋大学) 1927年/登録文化財
  • 震災祈念堂(東京都慰霊堂) 1930年
  • 靖國神社遊就館 1930年/登録文化財
  • 靖國神社神門 1930年
  • 靖國神社石鳥居 1934年
  • 築地本願寺 1934年/重要文化財
  • 湯島聖堂 1934年
  • 神田神社 1934年/登録文化財
  • 高麗神社 1935年
  • 総持寺大僧堂 1937年/登録文化財

伊東忠太墓

総持寺の「伊東忠太の墓」は「石原裕次郎の墓」の4つ南に鎮座している。
石原裕次郎という目印がないとしょうしょうわかりにくい。

伊東忠太の墓は大谷石で造られているため年月とともに風化している。風化することを踏まえているのであれば、なおさらに奥深いものがある。

伊東家之墓

昭和15年3月建 
 伊東忠太

生前に設計した墓。
伊東忠太は昭和29年4月に亡くなっている。

総持寺の墓地担当者による立て看板が建っていました。
総持寺が伊東忠太の御子孫と連絡が取れない。。。と

大谷石で造られた外柵は一部崩壊していた。

伊東忠太の墓の場所は、「西望一 5-1」
(ちなみに石原裕次郎の墓は隣の「西望一 6-1」

大本山總持寺、墓地はかなりの広さ。

総持寺にある「浅野家墓所」の設計は伊東忠太。
伊東忠太は東京三田の浅野邸「紫雲閣」(戦災焼失)の設計も行っていた。

浅野総一郎墓所

伊東忠太設計。詳細は下記記事にて。

そのほか総持寺には、伊東忠太とは関係ないが、下記で記事にした「小野光賢と小野光景父子」や「大西瀧治郎」の墓がある。高橋三吉海軍大将の墓もあるというが未訪問(場所不明です・・・)

大西瀧治郎を偲ぶ

伊東忠太が眠る総持寺境内には、伊東忠太の作品が2つある。(ほかにも境内には伊東忠太が関わっている墓がいくつかあるが、浅野家以外の個人墓は割愛。)

総持寺・放光観音台座

大正12年(1923年)建立。花崗岩製の台座。台座の設計は伊東忠太。
登録有形文化財。

総持寺・大僧堂

昭和12年(1937年)建立。伊東忠太の設計。登録有形文化財。


伊東忠太作品

そのほか、私の写真フォルダから伊東忠太作品をいくつか掲載。

上杉神社

伊東忠太は米沢出身。
大正8年に米沢大火で焼失した社殿を、伊東忠太が設計し大正12年に竣工。

稽照殿(上杉神社宝物殿)

一橋大学兼松講堂(東京商科大学)

昭和2年(1927年)、国登録有形文化財、伊東忠太設計。

入澤達吉邸(近衛文麿邸)

昭和2年、伊東忠太設計。

東京都慰霊堂(震災祈念堂)

昭和5年(1930)、伊東忠太設計。

東京都復興記念館

昭和6年、伊東忠太設計。

東京大空襲・慰霊

築地本願寺

昭和9年(1934)、重要文化財、伊東忠太設計。

東郷寺山門

昭和15年、伊東忠太設計。

児玉神社

明治45年(1912年)、伊東忠太設計。


明治神宮

大正9年(1920)、伊東忠太設計。戦後再建。

平安神宮

明治28年(1895)、重要文化財、伊東忠太設計。

弥彦神社

大正5年(1916)、国登録有形文化財、伊東忠太設計。

神田神社(神田明神)

昭和9年(1934)、権現造鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗、国登録有形文化財、伊東忠太設計。

湯島聖堂

大成殿は伊東忠太設計、大林組施工により、1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造で再建。寛政年間の旧制をもとに復元再建したもの。

高麗神社

昭和10年(1935年)、伊東忠太設計。

靖國神社遊就館

昭和5年(1930)、登録文化財、伊東忠太設計。

靖國神社神門

昭和8年、伊東忠太設計。

靖國神社石鳥居と狛犬

昭和8年。長野の片倉財閥の奉納。伊東忠太設計。

靖國神社大灯籠

昭和10年、設計は伊東忠太。

大燈籠に関しては、別記事を作成予定。


伊東忠太作品に出会ったら追記していきます。。。

「七転八起のダルマ蔵相」高橋是清像と関連史跡

総理大臣を1度、そして大蔵大臣を6度も勤め、近代日本きっての財政家として、「ダルマさん」として、親しまれた高橋是清にまつわる史跡などを散策してみました。


高橋是清

1854年9月19日-1936年(昭和11年)2月26日
正二位大勲位子爵。立憲政友会第4代総裁、第20代内閣総理大臣。

生い立ち
1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)、幕府御用絵師・川村庄右衛門の子として芝に生まれる。2歳で仙台藩足軽の高橋覚治の養子となる。
 11歳で横浜でアメリカ人医師ヘボンの私塾ヘボン塾(現在の明治学院大学)に入学。1867年に14歳に藩命により渡米。勝海舟の長男・勝子鹿と一緒の海外留学であった。米国ではホームステイ先で奴隷として売られてしまうが英語を習得し、1868年(明治元年)に帰国。
共立学校の初代校長を務め、教え子には正岡子規や秋山真之などがいた。

日露戦争
1892年(明治25年)日本銀行に入行。日露戦争時には 日銀副総裁として戦費調達を行ない、外債公債募集に成功。日露戦争の戦費調達の立役者となる。支払いの完済は1986年(昭和61年)
1905年(明治38年)に貴族院議員に勅選。1906年から1911年まで横浜正金銀行頭取、1911年(明治44年)に日銀総裁に就任。

政界
1913年(大正2年)、第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣に就任。立憲政友会に入党。その後の原敬内閣でも大蔵大臣に就任。原敬が暗殺された直後に、第20代内閣総理大臣に就任。立憲政友会の第4代総裁ともなった。
その後の清浦奎吾内閣時に行われた第15回総選挙の際は、高橋是清は貴族院議員から隠居し子爵の爵位を長男に譲り、自らは原敬の選挙区であった盛岡から出馬。政友会総裁として、前総裁であり盟友であった原敬の地盤から出馬し、衆議院議員として当選。清浦内閣を総辞職に追い込む。

就任した大臣職は以下
1913年
 第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣(1度目)
1918年
 原敬内閣の大蔵大臣(2度目)
1921年
 高橋是清内閣総理大臣
1924年
 加藤高明内閣の農商務大臣
1927年
 田中義一内閣の大蔵大臣(3度目)
1931年
 犬養毅内閣の大蔵大臣(4度目)
1932年
 犬養毅内閣の臨時内閣総理大臣(五・一五事件で犬養毅暗殺後の臨時内閣)
 斉藤実内閣の大蔵大臣(5度目)
1934年
 岡啓介内閣の大蔵大臣(6度目)

二・二六事件
田中義一内閣以降、高橋是清が取り組んできた金融恐慌対策、デフレ脱出のケインズ政策など、いわゆる「高橋財政」を展開してきたが、あわせて陸軍予算の削減を図っていたことから、青年将校の襲撃対象となってしまう。
昭和11年2月26日、中橋基明中尉及び中島莞爾少尉が赤坂の高橋是清私邸を襲撃。高橋是清は自宅2階寝室において拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。享年83歳(満81歳)。
戒名は、報国院殿仁翁是清大居士


高橋是清翁記念公園

東京都港区赤坂。赤坂の高崎是清邸は赤坂御所と対面する青山通り沿いにある。現在は高橋是清翁記念公園として整備。隣のカナダ大使館もかつては高橋是清邸の敷地内であったという。

高橋是清翁記念公園の沿革
 この公園は、日本の金融界における重鎮で大勝から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家「高橋是清」翁(1854年~1936年)の邸宅があったところです。
 翁は、昭和11年(1936年)2・26事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和13年(1938年)10月高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄附し、昭和16年(1941年)6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和50年(1975年)港区に移管されたものです。第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母屋は故人の眠る多磨霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和30年(1955年)に再建されました。
 現在の面積は5,320㎡で、国道246号線の拡幅等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されています。
 園内は池を中心として石像や石灯籠が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしています。

高橋是清翁像が奥まった高台に鎮座している。

高橋是清翁像

ダルマさんと親しまれた風貌。

英字新聞を読むのが日課だったという。右手には丸メガネ。

高橋是清翁ハ安政元年江戸芝ニ生ル幼少轗軻不運十四歳ニシテ
北米ニ渡航刻苦勉學シ長シテ轉々窮境ニ在ルモ気宇益高邁識見
常ニ卓抜夙ニ特許制度ヲ創設シ殖産興業國家経済ニ盡瘁シ或ハ
戰時財政ノ確保ニ貢獻スル所多ク日本銀行総裁大蔵大臣ヲ歴任
シテ遂ニ首相ノ枢職ニ就キ日夜一死報國ノ純志ニ終始セラレタ
リ昭和十一年二月倏忽トシテ此邸ニ薨ス年八十三本邸ハ明治三
十三年以来翁カ日常起居ノ處ニシテ之ニ臨メハ洵ニヨク其ノ髙
風雅懐ヲ偲フニ足レリ
昭和十三年十月嗣子子爵高橋是資氏ハ故高橋是清翁記念事業會
ト戮カ邸地二千坪ヲ擧ケテ本市ニ寄附シ永ク翁ヲ追慕スルノ資
タラシム本市ハ其趣旨ヲ承ケ諸般ノ保存施設ヲ了セリ茲ニ公開
ニ當リ由緒ヲ記シ以テ之ヲ後世ニ傳フ
 昭和十六年六月   東京市

高橋是清時代の庭園が残されている。
この組井筒を水源にした流れや 雪見型灯籠は、後述する移築先の江戸東京たてもの園でも復原をされている。

https://goo.gl/maps/fg6zeWMD4fKzUves7


高橋是清邸

高橋是清邸の主屋が、高橋是清死後に移築されている。赤坂から高橋是清の眠る多磨霊園に移築された主屋は、休憩所「仁翁閣」として使用されていた。
昭和20年の東京大空襲で、高橋是清翁記念公園内に残っていた邸宅跡は焼失するも、多磨霊園にあった主屋は被災を免れ、平成5年に江戸東京たてもの園内に移築公開をされている。

高橋是清邸
 高橋是清邸は経済通の政治家として、明治から昭和の初めにかけて日本の誠治を担った高橋是清の住まいの主屋部分である。是清は、赤坂の丹波篠山藩青山家の中屋敷跡地約6,000平方メートルを購入し、1902年(明治35)に屋敷を建てた。
総栂普請の主屋は、複雑な屋敷構成をもっており、また当時としては高価な硝子障子を、縁周りに大量に使用している。赤坂にあった頃は、主屋のほか3階建ての土蔵や、離れ座敷がある大きな屋敷だった。
 1936年(昭和11)、是清はこの建物の2階で青年将校の凶弾に倒された(2.26事件)。敷地と屋敷はまもなく東京市に寄付され、記念公園になった。是清の眠る多磨霊園に移築され、休憩所として利用されていた主屋部分が、この場所に移築された。
建築年:1902年(明治35)
旧所在地:港区赤坂7丁目

クリックで拡大

玄関部分と母屋部分が移築復元されている。

1階と2階と見学可能。

クリックで拡大
クリックで拡大
クリックで拡大
クリックで拡大
クリックで拡大

明治のガラスが使われています
注意して下さい

昭和11年2月26日早朝。
青年将校たちが高橋是清が眠る2階へと駆け上った・・・。

 高橋是清は、2階の庭に面した二部屋を書斎と寝室に使っていた。是清の娘・眞喜子氏によると、書斎には大きな洋机があり、そこで仕事をしたという。また、寝室の床の間の前には文机が置かれ、就寝前にその机で習字をするのが晩年の習慣であったという。
 是清は1936年(昭和11)2月26日早朝、青年将校によって暗殺された。(二・二六事件)。兵士10数名が寝室になだれ込み、白の寝巻き姿で布団に座っていた是清に銃弾をあびせ、群島で切りつけた。即死であった。
 是清は市民から「達磨さん」と呼ばれ、親しみを持たれていたため、葬儀には、別れを告げる人々が大勢参列した。
 波乱に満ちた83年の生涯であった。

一行書「不忘念」
 曹洞宗の開祖道元は、「正法眼蔵」で「八大人覚」のひとつとして「不忘念」(正法を心に念じて、忘れないようにすること)を説いている。
 高橋是清/筆(複製)

 写真はこの建物の2階の部屋で、書斎として使用していたもの。是清は毎日欠かさず日記をつけており、英字新聞も毎日購読していた。拡大鏡は辞書を引くときなどに使っていたと伝えられる。

2階からは庭園がよく見える。

この2階の寝室で、高橋是清は暗殺された。

1階に降りる階段。

高橋是清邸の主屋を外からも拝見。

紅葉がひときわに美しいタイミングでの見学でした。

この組井筒や雪見型灯籠は、高橋是清翁記念公園にあるものを復元している。

https://goo.gl/maps/BfDQjro4hE3AyKW17


高橋是清翁之御鬚墓

高橋是清の「おヒゲ」のお墓が世田谷区にある。
東京都世田谷区弦の実相院の境内に。

永井如雲画伯が高橋是清から戴いた御髭を埋葬したお墓。

高橋是清翁之御鬚墓

高橋是清翁御鬚の墓由緒
 是清翁の鬚は旦那様のお髭として旧川越藩主の家に生まれた永井如雲画伯が身辺に大切に拝持したものである。画伯は斯道の大家として、永く宮内省御用掛りを拝命し、特に宮内省お買い上げ絵画の審査、帝室博物館所蔵国宝級絵画の鑑定補修主任として、丹青の道に精通され、霊筆を振るわれた画人である。如雲画伯は青年時代より高橋是清の庇護信任を受け、本心乾漆観音像を是清翁より直接拝受。爾後永井家の霊宝として日夜観音経を読誦信奉され居りしところ、偶々、第二次世界大戦の戦局緊迫を告げ、身辺の不安愈々急なるを感ぜられ、帝都を去り暫く桐生に疎開せらるるに当り、永代回向料金壹百円也を並びに昭和9年5月2日に戴いた御壽81歳の時の高橋旦那様の御鬚を添えて、実相禅院の寺宝として後昆に相伝すべく、當寺廿四世憲翁義宣老師に寄進せられた。時移り縁熟し、當山廿五世硯全一雄老?永代追善の鬚墓を建立。本堂安置の観音像と共に永く寺門に遺すべく茲に掩蓋供養する。更に加うるに高橋是清翁の嫡子是彰氏と令孫正治氏とは老?の親交を厚くするなかであり、両者お鬚確認の上當山に納鬚を諾され、就中令孫正治氏は老?若き日慶應義塾大学に於ける愛弟子の一人でもあり、その学恩に報いんとして祖父是清翁の納鬚の法縁となり鬚の墓開眼法筵供養に参列され、ご祖父翁の高徳を忍び老?とともに永劫の菩提を念じ虔みてともに識すものなり。

クリックで拡大

高橋是清翁略伝
(略)
大正2年60歳の時、山本権兵衛内閣の大蔵大臣となり、その後大正7年9月29日原敬内閣の大蔵大臣。大正9年9月7日子爵(67歳)。大正10年11月13日、内閣総理大臣兼大蔵大臣(68歳)政友会総裁となる。大正13年3月24日貴族院議員辞任、盛岡より5月10日衆議院議員に当選。6月11日加藤高明内閣護憲三派内閣の農商務大臣(71歳)として入閣。翌14年4月1日商工大臣兼農林大臣(72歳)となる。昭和2年4月20日田中義一内閣の大蔵大臣(74歳)、昭和6年犬養毅内閣の大蔵大臣(78歳)、昭和7年斉藤実内閣の大蔵大臣(79歳)、続いて昭和9年11月27日岡田啓介内閣の大蔵大臣(81歳)となる。昭和10年1月14日82歳の高齢の為特旨により宮中杖を差許さる。昭和11年2月26日折からの大雪の日帝国陸軍叛乱軍青年将校らによって殺される。享年83歳。世に云う二・二六事件として史上に伝えらる。

クリックで拡大

報国院殿仁翁是清大居士
維時 昭和61年6月吉日
 鶴松山實相禪院 (以下略

https://goo.gl/maps/Zk5svVyGzuZXNS9H9


鶴松山実相院


高橋是清墓

多磨霊園に高橋是清は眠っている。
場所は、8区1種2側16番。おなじ8区には西園寺公望墓もある。8区の向かい側の7区には同じく二・二六事件で暗殺された斎藤実墓もある。

正二位
大勲位
高橋是清墓

昭和11年2月26日薨

御誄

資性忠純立朝ノ大節ヲ全クシ気宇英爽経世ノ遠猷ヲ懐キ再ヒ閣僚ノ首班ニ列シ屡財政ノ要路ニ当ル殊域ニ渉リテ国難ヲ紓タシ老躯ヲ挺ンチテ時艱ヲ済フ勲労両ナカラ優ニ歯徳並ニ邵ク国ノ重寄ニ任シ民ノ具瞻ニ叶ヒシニ遽ニ溘逝ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘム茲ニ侍臣ヲ遣ハシ賻ヲ斎ラシ臨ミ弔セシム

(平仮名転記)
資性忠純立朝の大節を全くし気宇英爽経世の遠猷を懐き再ひ閣僚の首班に列し屡財政の要路に当る殊域に渉りて国難を紓たし老躯を挺んちて時艱を済ふ勲労両なから優に歯徳並に邵く国の重寄に任し民の具瞻に叶ひしに遽に溘逝を聞く曷そ軫悼に勝へむ茲に侍臣を遣はし賻を斎らし臨み弔せしむ

「賜誄」
誄(るい)と呼ばれるご弔意を 天皇陛下より賜っている。

クリックで拡大

高橋是清の家紋は、三つ追い花沢瀉紋

https://goo.gl/maps/3uVd4HW8PQab8gTm9

多磨霊園


関連

秩父御嶽神社の東郷元帥立像と乃木大将立像

埼玉県飯能市。最寄りは西武秩父線吾野駅。
秩父路の途中に、東郷平八郎と乃木希典を祀る神社があった。
「秩父御嶽神社」
ちょうど紅葉の季節に機会がありましたので足を運んでみました。


本記事で触れる「秩父御嶽神社」以外に関しては以下の記事より。


吾野駅

西武鉄道としては、西武池袋線の終点であり、西武秩父線の始発にあたる駅。(飯能駅起点ではないのですね)
昭和4年(1929)に西武池袋線の前身にあたる「武蔵野鉄道」の終着駅として開業。西武秩父線の開業は昭和44年(1969)。現在の駅舎は平成9年建造。

吾野駅にポスターがありました。徒歩20分だそうです。

秩父御岳神社
東郷公園
当駅より徒歩約20分です!

吾野駅前に案内石柱がある。昭和5年12月建立。

御嶽山秩父御嶽神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

御嶽山東郷公園
 長生書

福寿山乃木公園

御嶽山秩父御嶽神社の鎮座している山を福寿山と呼称している。

「長生」とは、海軍中将小笠原長生のこと。東郷平八郎に傾倒し副官的な立場で東郷とともにあった。だいたい東郷さんの関連する場所に足を運ぶと、小笠原長生の名を見ることになる。

小笠原長生(おがさわら ながなり)
東郷平八郎に傾倒し「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

吾野駅から約20分ほどあるく。高麗川の先に社頭が見えてきた。


秩父御嶽神社

御祭神:
国常立命、大巳貴命、少彦名命、清貫一誠霊神(鴨下清八)、東郷平八郎、乃木希典、他

埼玉県飯能市鎮座。
信州木曾御嶽山を本山と仰ぎ、その御分霊を奉斎する御嶽信仰の神社。
創建は明治27年(1894)。鴨下清八(1861-1955)が創建。鴨下清八は没後に、清貫一誠霊神として祀られている。

御嶽山秩父御嶽神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

東郷公園
長生敬書

御嶽山
元帥伯爵東郷平八郎謹書

村社秩父御嶽神社
昭和戌辰秋 海軍中将子爵小笠原長生敬書

東郷公園

東郷平八郎元帥の銅像建立後、秩父御嶽神社の境内は「東郷公園」と呼ばれている。
公園内には東郷元帥像のほかに乃木希典陸軍大将銅像、日露戦争の遺物(ロシア製大砲、戦艦三笠被弾甲板)、海軍省からの記念品などが点在されている。

御嶽山東郷公園 秩父御嶽神社 御案内
 当山は、御嶽山東郷公園、秩父御嶽神社と謂い明治28年11月故鴨下清八氏の開山によるもので、名将東郷元帥の記念公園を境内にした木曽御嶽山の御分霊を奉斎する霊山である。

御祭神
 國狭槌尊八海山提頭羅神王
  (健康・和楽・長寿の神)
國常立御嶽山座王大権現
  (天福皆来・地福円満の神)
 豊斟渟尊三笠山刀利天
  (福徳開運・必勝の神)

例祭日 毎月1日・9日・15日・18日・27日

 参道入口には、開山者清貫一誠霊神銅像及び講社信仰に貢献せる諸霊神碑霊場があり、それより足を進めると、日露戦争遺物の三笠艦弾痕の甲板や砲弾、布設水雷、野砲、東郷元帥銅像や乃木大将銅像等々がある。東郷元帥銅像は元帥自ら臨席除幕なされた日本唯一のものにして東郷生身銅像とも謂う。傍には元帥お手植えの松が今でもその緑をたたえている。
 境内中腹より、365段の石段を登り途中祈祷殿各末社を経て頂上奥社に達する。
 全山に、楓樹数百本あり11月初中旬の紅葉は特に美しい。
  秩父御嶽神社社務所

かなり広いので境内の位置関係を把握しておかないと迷子になる。


砲弾と布設水雷

林立する門柱も当時からのものと思われる。

砲弾と布設魚雷
右の砲弾は日露戦争日本海開戦の時、ロシア軍バルチック艦隊より発射された主砲の巨弾で、日本海軍はこのために苦戦をしいられました。
左の球型のものは布設水雷と云い、旅順港口に多数布設され、日本海軍の入港を阻止しました。
戦後、日本軍が掃海し、引き揚げたものが」海軍省より下賜されました。

バルチック艦隊主砲 砲弾

旅順港敷設 水雷


紀念公園碑

紀念公園碑
海軍大将東郷平八郎書


門柱

皇国興廃在此一戦
各員一層奮励努力
 平八郎書

昭和3年の御即位記念のに建立された門柱。


東郷元帥銅像

紅葉に囲まれた東郷平八郎銅像。
この銅像は、東郷平八郎が生前に唯一建立をみとめたものという。

鴨下清八氏と親交のあった陸軍中将堀内文次郎も東郷平八郎を説得。
ここに唯一の生前銅像が建立した。

東郷元帥銅像
当山開祖 鴨下清八 氏は、世界の名将と称された東郷元帥の武勲と威徳を後世に伝えるべく、「皇国興廃在此一戦」との名言になぞらえ一戦を一銭とし毎日一銭ずつ蓄える一銭貯金を断行し、元帥の銅像を志しました。
元帥邸をおとずれること80余回。元帥は、我が生前の銅像建立は断じて辞退するとのことでしたが、氏の誠意に打たれ、ついには承諾されました。
氏は大正14年4月17日、元帥の望まれるままの正装したお姿の銅像を建立されました。
除幕式当日には、元帥自ら松崎海軍大臣代理、小笠原長生中将、堀内信水中将等を従えられ、小笠原中将に命じられ除幕されました。他に例のない唯一の生身銅像と称せられる所以です。

階段下に
鴨下清八氏

階段上、左から3番目から
小笠原長生海軍中将
東郷平八郎元帥海軍大将
松崎海軍大臣代理=松崎伊織?(中佐のち中将)。この時の海軍大臣は財部彪
堀内文次郎(堀内信水)陸軍中将
粕谷義三衆議院議長

東郷元帥像

嗚呼名将
 海軍大臣財部彪題


東郷元帥お手植えの松

残念ながら平成11年に枯れてしまったが、継承された松が2代目として育っている。

東郷元帥お手植えの松 大正14年4月17日

平成11年の雪害が原因で、元帥お手植えの松は惜しくも枯れ落ちましたが、近隣在住の信徒の手により実生の発芽に成功し、平成24年3月15日ここに移植、既存種の継承を確認いたしました。
 社務所


弾痕の三笠甲板

日露戦争を決定づけたのは、明治38年5月27日の日本海海戦でした。ロシア軍がウラジオ港に向けて航行させた主力バルチック艦隊を撃滅すべく、東郷司令長官ひきいる連合艦隊は日本海に待機しました。
「敵艦見ゆとの報に接し、連合艦隊は直ちに出動。之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」の第一広報に続き「皇国興廃在此一戦 各員一層奮励努力」Z信号ととともに海戦が開始されました。激戦の結果、敵艦38隻のうち逃亡3隻に過ぎず、日本軍が大勝しました。このとき、東郷長官の乗る旗艦三笠は、ロシアン軍の集中砲火をあび、甲板には蜂の巣状の弾痕を残しました。展示のものは、開園時に海軍省より下賜された旗艦三笠の甲板の一部です。


日本海海戦大捷記念碑

明治天皇御製
くもりなき朝日の旗に
あまてらす 神のみいつを
仰げ國民
 元帥伯爵東郷平八郎謹書

日本海海戦大捷記念碑
海軍中将子爵小笠原長生書


東郷神社

参拝時、東郷神社は改修工事中でした。。。

東郷神社
東郷神社は東郷元帥ご他界(昭和9年5月)の後、昭和10年4月17日に建てられました。
東郷公園創始者鴨下清八氏が元帥の御心を体し、縁も深きこの場所を鎮座地と選び、生前の元帥の功績を讃え、平和の神と仰ぎその御霊をお祀りしました。
日露戦争日本海海戦大勝の日にちなみ、5月27日を例祭日として、毎年、世界の平和と国土の安泰を祈願しています。


ロシア製3インチ野砲と至誠館

ロシア製3インチ野砲(1901年製)と至誠館
明治38年満洲の荒野において、ロシア軍新鋭の野砲のために日本陸軍は難戦苦闘しました。
日本軍の野砲は発射と同時に砲車が後退し命中率を欠きましたが、ロシア軍の野砲は砲身が自動的に後退し、使用も簡易で命中率も優秀でした。
当山の東郷神社に陸軍省から下賜されましたが、大東亜戦争の後、付属部品の盗難被害にあったのが残念です。
野砲が納められている建築物は至誠館と云い、東郷元帥来山のおり、ご休憩されました。

至誠館

大正14年(1925)4月17日の東郷元帥銅像除幕式の際に、東郷平八郎が休憩をした建物。


三笠山神社

日本海海戦の連合艦隊旗艦「三笠」と通じるものがあるが、関係ない。
御嶽信仰に関係する御嶽山の前山である三笠山に由来。
三笠山大神(豊斟淬命)


乃木神社

陸軍大将乃木希典を祀る。


乃木将軍銅像

東郷公園内には、驚いたことに東郷平八郎だけではなく乃木希典の銅像もある。

乃木将軍銅像
乃木将軍は萩出身の陸軍軍人。日露戦争時、難攻不落といわれた旅順の203高地を攻略しました。
質素倹約を旨とし、農将としても名高く、明治天皇の大喪の日の殉死はあまりにも有名です。
「農は国の本なり」との信念にも篤かった当山開祖の鴨下清八氏、将軍に師事するがごとく農業、養蚕業にも力を尽くし、昭和4年11月24日、人々の模範となるよう、この地に将軍の銅像を建立しました。
 乃木希典(のぎ まれすけ) 1849.11.11~1912.9.13

忠魂義魄
陸軍大臣宇垣一成書


秩父御嶽神社御社殿

扁額

秩父御嶽神社
 元帥伯爵東郷平八郎謹書


秩父御嶽神社祈祷殿

扁額が同じく東郷平八郎によるもの。

秩父御嶽神社
 元帥伯爵東郷平八郎謹書


清貫一誠霊神立像

清貫一誠霊神は、鴨下清八氏の神名。


御朱印

社務所で御朱印をいただきました。

いただきませんでしたが、社務所では「東郷煎餅」を頒布しておりました。

社務所の近くには里宮。通常のご祈願は里宮にて対応している感じですね。

飯能の山奥に、これほどに見どころのある神社があるとは知りませんでした。東郷平八郎と乃木希典と、日露戦争の両雄銅像を一度に拝見できる貴重な空間。ぜひとも足を運ぶことをおすすめします。


東郷氏祖先発祥地

「北千島開拓の先駆者」郡司成忠大尉の墓と言問団子桟橋

隅田公園の北側、言問団子の近く。
海軍大尉で冒険家であった郡司成忠のゆかりの地。郡司成忠の冒険は隅田川から始まったのだ。


郡司成忠(ぐんじ しげただ)

万延元年11月17日(1860年12月28日) – 大正13年(1924年)8月15日)
海軍大尉、探検家・開拓者。
開拓事業団「報效義会」を結成し、北千島の探検・開発に尽力。
小説家の幸田露伴は弟。文学博士の幸田成友も弟。妹に音楽家の幸田延、安藤幸。

幕臣幸田成延の次男として生まれた成忠は、幼年期に親戚郡司家の養子となる。
明治5年(1872)、海軍兵学寮予科へ入学。海兵6期は斎藤實が同期生であった。その後、海軍大学校甲号学生1期(加藤友三郎が同期)卒業。
ロシア帝国との国境であった千島に興味をいだいた郡司成忠は明治25年(1892)に千島移住趣意書を海軍当局へ提出するも海軍はそれを許可しなかった。
当時、北千島に居住していた千島アイヌは根室県令の命令で色丹島に強制移住となっており、北千島列島は無人であった。
郡司成忠は千島行きを諦めず、海軍大尉を退いて予備役となり、民間人として千島を目指すこととなる。
舟の手配に苦慮した郡司成忠は、横須賀鎮守府で不要になった短艇を払い下げてもらい、無謀な計画の準備をすすめていく。

報效義会
明治26年(1893年)、郡司成忠率いる千島拓殖隊は「報效義会」として志を同じくする元海軍出身者が集っていた。のちに南極探検を行う陸軍出身の白瀬矗は「自分が海軍出身者でないためボート技術に不安があるというなら、陸行と渡し船を使って独自に千島へ渡るので迷惑はかけない」と報效義会への入会を希望し、例外として白瀬も北海道で合流の上で千島を目指すことととなる。
3月14日に、幸田露伴は兄・郡司成忠の送別会を行ない、そして3月20日に隅田川で出発セレモニー開催。出発前から大変な盛り上がりであった。

第一次北千島遠征(第一次拓殖)
明治26年(1893年)3月20日、郡司以下、約40人の報效義会員は5隻のボートで千島へと旅立った。しかし八戸沖で2隻が遭難し19名が死亡。当初の計画を変更し、函館からは他の船に便乗して択捉島に移動。その後、捨子古丹島に9名、そして郡司・白瀬ら7名は占守島に渡り越冬を行った。
占守島の郡司・白瀬らは越冬に成功するも、捨子古丹島の9名は全員死亡。また清国との緊張が高まっていたことから、占守島の郡司ら7名は全員が予備役軍人であったということもあり、いったん占守島を引き揚げ帰国。
最終的に1893年から1895年の報效義会の第一次千島拓殖は31名の死者を出してしまった。

第二次北千島遠征(第二次拓殖)
帰国した郡司成忠は日清戦争に参加。水雷敷設隊の分隊長などで活躍。戦争終了後の明治29年(1896)「第二次報效義会」を結成。第一次報效義会は冒険の面が強かったが、第二次報效義会は拓殖をメインとしており、また事前準備も整え、政府から3年間補助金が出ることも決まった。
明治36年(1903)には占守島の定住者は170人まで順調に拡充していた。

日露戦争
明治37年(1904)日露戦争勃発。郡司成忠は義勇軍を編成しカムチャッカ半島に進軍するもロシアコサック兵に捕まり捕虜となる。郡司成忠が捉えられたため、「第二次報效義会」は占守島からの引き揚げを決定し、事実上の解散となる。

その後
日露戦争終了後に郡司成忠は開放され帰国。明治39年頃に再び報效義会を率いて活動を再開。その後明治42年に、露領沿海州水産組合が組織され組合長に就任。
大正4年(1915)に郡司成忠は陸軍参謀本部第二部からの指令を受けシベリアに赴いている。第一次世界大戦のさなかということもありなんらかのスパイ活動ともされている。
大正13年(1924)8月15日、郡司成忠は63歳で没した。


郡司成忠墓

池上本門寺の五重塔の下、に郡司家・幸田家の墓所がある。

従六位勲五等 郡司成忠墓

先考諱ハ成忠、幸田氏ヨリ出テ郡司家ヲ譲ク。明治二十六年報效義会を起シ、占守島ニ拠リ外国密漁者ヲ攘ヒ、夙ニ北海ノ猟漁探検敢ヘテシ、更ニ邦人拓北ノ機ヲ啓キ、後年魯領沿海州漁業権ヲ我ニ収ムルノ地ヲ為セリ。大正十三年八月十五日没ス。追叙従六位、賜勲五等。享年六十五。
 昭和五年八月十五日 郡司智麿

郡司智麿は郡司成忠の長男(外交官となる)。

露伴幸田成行墓(幸田露伴墓)


隅田公園の北。
言問桟橋から郡司成忠の冒険は始まったのだ。

言問団子桟橋

言問団子と郡司大尉
 江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。
 明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん都島 わが想ふ人はありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は、「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを「言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は、言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。
 また、この裏手にある桟橋からは、明治26年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。


郡司成忠の曾孫が運営しているサイト

http://gunjishigetada.jpvlad.com/index.htm


関連

池上本門寺

隅田公園の南側