「人物史」カテゴリーアーカイブ

渋沢栄一墓【渋沢栄一10】

渋沢栄一の暮所(渋沢家墓地)は、谷中霊園にある。
地番は「乙11号1側」。

1858年(安政5年)
 渋沢栄一(18歳)、尾高惇忠の妹・尾高千代(17歳)と結婚。
1882年(明治15年)
 渋沢栄一(42歳)の妻・渋沢千代(41歳)がコレラで病死。
1883年(明治16年)
 渋沢栄一(43歳)は、幕末の豪商・伊藤八兵衛の娘・伊藤兼子(31歳)と再婚。
 若き日の渋沢栄一は伊藤八兵衛の元で丁稚奉公をしていた縁があった。
1931年(昭和6年)
 渋沢栄一(91歳)、死去。
1934年(昭和9年)
 渋沢兼子(82歳)、死去。


谷中霊園
渋沢家墓所(渋沢家墓地)

渋沢栄一墓

青淵澁澤榮一墓

昭和6年(1931年)11月11日死去。享年91歳。
法名は、泰徳院殿仁智義譲青淵大居士

渋沢家の家紋「丸に違い柏」

渋沢栄一墓の向かって左隣に後妻の渋沢兼子(伊藤兼子)の墓。

澁澤孺人伊藤氏之墓

渋沢栄一墓の向かって右には孫の渋沢敬三夫妻墓と、先妻の渋沢千代(尾高千代)の墓。

澁澤孺人尾高氏之墓

渋澤敬三 渋澤登喜子 之墓

渋沢家墓地

以前は堀に囲まれて開放されていない敷地であったが、現在はいつでも参拝できるように開放されている。

場所は乙11号1側

大きな木「タブノキ」が生えている。

渋沢栄一の墓は、主君であった徳川慶喜の墓の方向を向いている。
徳川慶喜の墓も同じ谷中霊園(寛永寺徳川家墓地)にある。

徳川慶喜墓所


渋沢栄一関連


関連

深川と渋沢栄一宅跡【渋沢栄一9】

渋沢栄一は深川とも縁が深かった。

渋沢栄一は、明治9年に深川福住町に屋敷を購入、明治21年に中央区兜町(渋沢が創建した第一国立銀行の近く)に本邸が移されたのちは、深川邸は別邸として利用。(最終的な渋沢栄一の本邸は飛鳥山であった)

明治22年から37年まで、渋沢栄一は深川区会議員および区会議長を勤め深川の発展のため尽力。明治30年には深川に渋沢倉庫部(現澁澤倉庫)を創業。
そして明治44年の深川鎮守の富岡八幡宮の大修繕は、渋沢栄一が実行会長として推進している。

渋沢倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」が刻まれた力石。


渋沢栄一宅跡

渋沢榮一は、明治9年に深川福住町に住居を構え、明治21年に兜町に本邸を移し、この地は別邸となり、また澁澤倉庫部が設置された。

江東区登録史跡 
渋沢栄一宅跡
 渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。25歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治6年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会工業事業に貢献し、昭和6年(1931)92歳で没しました。
 栄一は、明治9年(1876)に深川福住町(永代2)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。明治21年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。
 栄一と江東区との関係は深く、明治22年(1889)から明治37年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治30年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正5年(1916)、実業界を引退するまでに500余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
  平成21年3月  江東区教育委員会

渋沢邸の跡地は、澁澤倉庫となり、そして今では「渋沢」の名を冠したビルが建立されている。

澁澤シティプレイス永代

澁澤倉庫発祥の地

澁澤倉庫発祥の地
「わが国の商工業を正しく育成するためには、 銀行・運送・
保険などと共に倉庫業の完全な発達が不可欠だ」

日本資本主義の生みの親である、渋澤榮一は、右の信念のもと、
明治三十年三月、私邸に澁澤倉庫を創業した。
この地は、澁澤倉庫発祥の地である。

渋澤榮一の生家は、現在の埼玉県深谷市にあり、農業・養蚕の
他に藍玉(染料)の製造、販売も家業としていた。
この藍玉の商いをするときに使用した記章が
(ちぎり・りうご)であった。
明治四十二年七月、澁澤倉庫部は、澁澤倉庫株式会社として
組織を改めたが、この(ちぎり・りうご)の記章は、現在も
「澁澤倉庫株式会社」の社章として受け継がれている。

澁澤シティプレイス永代建築を記念し本碑を建立する。
     平成十六年四月吉日
      澁澤倉庫株式会社

ちぎり(りうご)

澁澤倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」

血洗島の渋沢家では、藍玉の製造販売を行っていた。
藍玉の商いの際にシンボルとして使用していた記章が澁澤倉庫の社章の期限となっている。
澁澤倉庫では「りうご」と呼称しているが、渋沢家では「ちぎり」と呼ばれていた。
元来は糸巻きに糸を巻き付けた形を図案化したもので、この形が鼓を立てて横から見た形に似ているところから「立鼓(りうご)」と呼ぶようになったなどと言われている。

https://www.shibusawa.co.jp/company/future/


駐車場の片隅に神社があった。

福住稲荷神社

澁澤倉庫の守護神。

福住稲荷神社は、深川福住町(現永代2)にあった近江屋喜左衛門屋敷の邸内祠であったもので、明治9年に(1876)澁澤栄一が近江屋屋敷を買収して、明治30年に澁澤倉庫部(のちの澁澤倉庫株式会社)を創業したあとは、同社の守護神として祀られました。
神狐像は、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した福住稲荷神社が、昭和5年(1930)に再興されたことをうけて、澁澤倉庫社員一同によって奉納されたものです。平成3年に社殿内部から発見された奉納目録には、奉納者として当時の社員87名の名前が連なっており、深川の近代倉庫業に関わった人々の信仰を伝える貴重な文化財です。

江東区
https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/bunkazaisiseki/chokoku/88757.html

澁澤倉庫奉納の石鳥居。

昭和5年2月吉日建之
澁澤倉庫株式會社

神狐像も昭和5年に澁澤倉庫が奉納。

昭和5年(1930)は、渋沢栄一が90歳のとき。渋沢栄一は昭和6年(1931)に91歳で亡くなっている。

福住稲荷神社
子爵渋沢栄一書時年九十

渋沢倉庫が奉納した力石・さし石。力比べでさし上げた(持ち上げた)石。澁澤倉庫の従業員と思われるさし上げた力自慢の者の名前が刻まれている。

力石の中には、渋沢倉庫の社章「ちぎり紋(りうご紋)」が刻まれたものもある。

澁澤シティプレイス永代と澁澤永代ビル

澁澤倉庫株式会社

https://www.shibusawa.co.jp/#top-pamphlet

https://www.shibusawa.co.jp/story/photos/

場所

https://goo.gl/maps/2dtapXGK2BVn5TWW7


富岡八幡宮

明治44年の富岡八幡宮大修繕の際は、渋沢栄一が中心となって進められた。
なお、現在の社殿は昭和31年(1956)に造営されたもの。

深川公園

明治三十七 八年役戦死者忠魂碑

日露戦争の忠魂碑
渋沢栄一謹書

明治卅七八年役戦死者忠魂碑
正四位勲三等男爵澁澤榮一謹書


関連

渋沢栄一と血洗島(深谷市)【渋沢栄一7】

深谷市の北部「血洗島」。
「日本近代経済の父、日本資本主義の父」渋沢栄一の出身地を散策してみます。
(散策ポイントが広域に点在しているのでレンタサイクルが便利です)


旧渋沢邸「中の家」

慶応3年(1967年)の若き日の渋沢栄一

若き日の榮一
Eiichi in Paris 1867

渋沢栄一の生家「中の家」は、学校法人青淵塾渋沢国際学園として海外留学生向けの教育機関として昭和60年から平成12年まで使用されていた。
若き日の渋沢栄一像は、昭和58年(1983)10月1日の「青淵塾・渋沢国際会館」開館式で除幕された。

若き日の榮一像は、将軍徳川慶喜の異母弟である徳川昭武(水戸藩第11代)の訪欧使節団(パリ万博)に、会計係兼書紀(御勘定格陸軍附調役)として随行し慶応3年3月朔日(1867年4月5日)に、フランス マルセイユで撮影された写真を元に製造された。

中の家。旧渋沢邸。

渋沢栄一翁と論語の里

近代日本資本主義の父
渋沢栄一(1840~1931)

 深谷市血洗島に生まれ、尾高惇忠に学問を学びました。20代で従兄弟らと倒幕を計画し、中止された後は一橋(徳川)慶喜に仕え、家臣として慶喜公の名代昭武に同行し渡欧しました。
 明治維新後は政府の大蔵省で官営富岡製糸場の設立に関わりました。34歳で大蔵省を辞した後、実業界で活躍。幼少期に学んだ「論語の精神」を基に500社以上の企業の設立に関わりました。

論語の里
 栄一は7歳頃から、尾高惇忠に論語をはじめとする学問を習いました。生涯を通じて論語に親しんだ栄一は、「道徳経済合一説」を唱え、「近代日本資本主義の父」と呼ばれるに至りました。
 栄一が淳忠の家に通った道はいつしか「論語の道」と呼ばれ、栄一に関する史跡が多く残されていることから、それらを総称し「論語の里」と呼んでいます。

青淵まつり
栄一翁の命日(11月11日)を偲び、11月中に渋沢栄一記念館前で開催される。

血洗島獅子舞
市指定無形民俗文化財
諏訪神社の祭礼(秋季大祭)に奉納される。元亀2年(1571)にはじまると伝わり、雄獅子(おじし)・雌獅子(めじし)・法眼(ほうがん)の3頭が一組となって、笛のお囃子のもとで舞う。栄一翁も幼少より雄獅子を舞っており、帰郷の際には参観していた。

我が人生は、実業に在り。 渋沢栄一

天保11年(1840)豪農、渋沢市郎右衛門の子として誕生。
昭和6年(1931)92歳の大生涯を閉じるまで、実に五百にものぼる企業設立に携わり、六百ともいわれる公共・社会事業に関係。
日本実業界の祖。希代の天才実業家と呼ばれる所以である。
男の転換期。慶応3年(1867)15代将軍・徳川慶喜の弟、昭武に随行してヨーロッパに渡る。
28歳の冬であった。栄一にとって、西欧文明社会で見聞したものすべてが驚異であり、かたくなまでに抱いていた攘夷思想を粉みじんに打ち砕かれるほどのカルチャー・ショックを体験。しかし、彼はショックを飛躍のパワーに換えた。持ち前の好奇心とバイタリティで、新生日本に必要な知識や技術を貧欲なまでに吸収。とりわけ、圧倒的な工業力と経済力は欠くべからざるものと確信した。
他の随員たちの戸惑いをよそに、いち早く羽織・袴を脱ぎ、マゲを断った。己が信ずる道を見つけるや、過去の過ちと訣別、機を見るに敏。時代を先取りするのが、この男の身上であった。
2年間の遊学を終え、明治元年(1868)帰国。自身の改革を遂げた男は、今度は社会の改革に向って、一途に歩み始めた。
帰国の同年、日本最初の株式会社である商法会所を設立。明治6年(1873)には、第一国立銀行を創立し、総監役に就任した。
個の力、個の金を結集し、システムとして、さらなる機能を発揮させる合本組織。栄一の夢は、我が国初のこの近代銀行により、大きく開花した。
以後、手形交換所・東京商法会議所などを組織したのをはじめ、各種の事業会社を起こし偉大なる実績を重ねていった。
栄一はまた、成功は社会のおかげ、成功者は必ず社会に還元すべきという信念の持ち主でもあった。
私利私欲を超え、教育・社会・文化事業に賭けた情熱は、生涯変わることなく、その柔和な目で恵まれない者たちを見守り続けた。
失うことのなかった、こころの若さ。そこから生まれた力のすべてを尽して、日本実業界の礎を築いた渋沢栄一。並はずれた才覚と行動力は、今なお、人々を魅了する。
 昭和59年1月
 寄贈 エコー実業株式会社

深谷市指定文化財
旧渋沢邸「中の家」(なかんち)
 旧渋沢邸「中の家」に残る現在の建物は、母屋、副屋、4つの土蔵、門、塀から構成されます。明治時代の埼玉県北部の豪農の屋敷として貴重な歴史遺産です。渋沢栄一翁も天保11年(1840)にこの地で誕生しました。

中の家の敷地内にいくつかの碑があつまっている。

渋沢平九郎追懐碑

人の楽しみを楽しむ者は 人の憂いを憂う
人の食を喰う者は 人の事に死す
  渋沢平九郎昌忠

日月らかにするありて能く寃(えん)を雪(そそ)ぐ 
 九原豈(あに)幽魂を慰めざらんや
遺刀今夜灯(あかり)を挑(かかげ)て見るに 
 なお剰(あま)す当年碧血の痕(あと)
  義父・渋沢栄一

渋沢平九郎追懐碑

渋沢平九郎は、尾高淳忠の弟で、渋沢栄一の養子。幕末の飯能戦争で敗れ自刃。(尾高惇忠の項で詳述。)

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁が、飯能戦争で亡くなった自分の義子平九郎を偲んで作ったものである。
 平九郎は尾高惇忠の末弟で、栄一翁がパリ万博へ旅立つ際に養子となった。兄淳忠は栄一翁の学問の師で、富岡製糸場初代場長となった。
 慶応4年4月、江戸城が開場すると、平九郎は、年少ながら主家の窮状を見過ごすことが出来ず、振武軍に身を投じた。振武軍は、渋沢喜作や尾高惇忠を中心に、旧幕臣で構成されたものであるが、5月23日、飯能で官軍を迎え撃った。わっずか半日の戦闘で壊滅状態となり、平九郎は戦場から故郷を目指して逃走、顔振峠を超えて黒山(現越生町)に至り、官軍と遭遇、進退窮まり、ついに自刃して果てた。
 この追悼碑は、平九郎没後50年を経た大正6年に建てられたもので、平九郎の手跡を石に刻むとともに、栄一翁が平九郎を追悼して作った詩が刻まれている。時を経てもなお、若くして亡くなった義子平九郎を悼む栄一翁の、思いの深さをうかがわせる。

渋沢平九郎追懐碑
楽人之楽者憂人之憂
喰人之食者死人之事
 昌忠

嗚呼此我義子平九郎取義之前日自題寓舎障壁之辞也。 明治戊辰五月官軍入江戸城。 平九郎年尚少不忍坐視主憂便投振武軍廿三日遂殞命草野。 甲午家祭日有人贈其戦没時所佩刀予。 悲喜交至賦詩曰。 
 日月有明能雪寃 九原豈不慰幽魂
 遺刀今夜挑灯見 猶剰当年碧血痕
此憫其孤忠也。 今玆丁巳五十年忌辰重展遺墨不勝追懐之情。乃鈎摹刻石以見其志云。
 大正六年十二月 義父 渋沢栄一識並題額

【渋沢平九郎追懐碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

晩香渋沢翁招魂碑

渋沢栄一の父渋沢市郎の招魂碑。
渋沢市郎右衛門は晩香と号した。

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁の父で、晩香と号した渋沢市郎右衛門の招魂碑である。
 明治四年十一月二十二日、享年六十三で亡くなった。年が明けた正月五日に郷里の墓地に葬られた。
 晩香没後の明治五年、故郷血洗島を出て東京に居を構える栄一翁が、時宜に応じて父の祭事を欠かすことのないよう、東京の谷中天王寺境内に建立したものである。撰文は尾高惇忠、書は明治の三筆に上げられる日下部東作(鳴鶴)、題額は同じく三筆の巌谷修(一六)である。

晩香渋沢翁招魂碑
翁諱美雅渋沢氏通称市郎号晩香。武蔵国血洗島村人。世農。考諱敬林君妣高田氏。実同族諱政徳者第三子。嗣敬林君之後配其長女。翁自幼嗜学慨然有特立之志。而思慮周密一事不苟。凡自耕稼生産之道至尋常瑣事必反復審思本於実際。是以施設不差成算。家製藍為品素精。至翁研究益到名伝遠近其業大盛家産致優。至有郷人倣以立産者。村原係半原藩封内。藩侯有土木若不時之費毎令翁供財。翁毫無難色。曰財之用在応緩急耳況藩命乎。又厚於親姻故旧。人或失産破家則諄諄誘誨為捐財賑恤使其復産。故人皆称之不已。明治四年冬十一月二十二日病歿。年六十三。越五日葬其郷先兆之次。贈号曰藍田青於。五男八女。長男栄一君見為大蔵省三等出仕叙正五位。長女適吉岡十郎。少女配外甥須永才三郎委其家産。余夭。男栄一君以在東京建招魂碑於谷中天王寺以為行香之便。嗚呼翁行修於家信及郷里而老死畎畝之間終無著于世。洵為可惜矣。然栄一君擢草莾居顕職望属而名馳。蓋有所以矣哉。惇忠於翁有叔氏之親而蒙師父之恩。謹叙其行状表之。
 租税大属 尾高惇忠 撰文 
 少内史正六位 日下部東作 書 
 少内史正六位 巌谷修 隷額

晩香渋沢翁招魂碑(裏面)
明治五年壬申十一月廿二日
男正五位 渋沢栄一建

【大意】
 翁は、諱は美雅といい、通称は市郎、晩香と号した。武蔵国血洗島に、代々農業を生業とする渋沢家に生まれた。翁の父の諱は敬林、母は高田氏。もとは同族(東の家)の政徳の第三子である。養子として中の家に入り、敬林の後を継ぎ、その長女を妻とした。
 幼少より学問を好み、はっきりとした独立の志を持っていた。そして、思慮深く、ささいたことでも疎かにしなかった。家の仕事や日常の細々とした事まで、慎重に考え、事実に基づいて判断した。このようなわけで、何事も見通しと違うようなことはなかった。
 実家の藍玉づくりでは、もともと品質を大事にしてきたが、翁に至って、ますます研究が深まった。翁の名は広く知れ渡り、藍玉づくりは大変盛んになり、財産も大いに増えた。地元の人で、藍玉づくりを習って生計を立てるものもあらわれた。
 村はもともと半原藩の領地で、藩主の方で土木工事や不意の出費がある時は、いつも翁に費用を出させたが、翁は少しも苦にしなかった。翁が言うことに、「お金というのは緊急の時に使うためにあるのであって、まして藩の命令ならなおさらである。」というのである。また、親戚や古い友人に対しても同じようにした。他人で財産を失って家を傾ける人があれば、よく教えを諭すとともに、自らの財産を投げ打って助けてやり、元通りの生活が出来るようにした。それゆえ、だれもが翁を称賛してやまなかった。
 翁の行状は、家を修め、信用は郷里全体に及んだが、生涯を一農民として過ごしたため、世の中に知られることがなかったのは、まことに残念である。しかし、栄一の君が国家の中枢の仕事に携わり、大いに期待されているのも、翁の感化があったればこそといえるのである。惇忠にとって翁は、叔父であるが、父親以上に親愛の情を注いでくれた。謹んでその一生を文章に表すものである。

【晩香渋沢翁招魂碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

先妣渋沢氏招魂碑

渋沢栄一の母、渋沢えいの招魂碑。

【解説】
 この碑は、渋沢栄一翁の母 えい の招魂碑である。
 碑の内容は、よく働き、贅沢をせず、慈愛をもって人々に接するという、えいの人となりを記すもので、栄一翁は生涯にわたり多数の社会福祉事業に携わったが、その資質は母から受け継がれたものであることがよく示している。
 えいは明治七年病により東京で逝去し、夫晩香の墓に寄り添うように葬られ、この碑は明治十六年癸未十一月七日谷中に建てられた。
 碑の撰文には栄一翁自身が行い、題額と書は、明治の三筆に数えられる巌谷修(一六)によるもので、亡き母を敬慕する栄一翁の心情をうかがわせる碑である。

先妣渋沢氏招魂碑
          不肖男正五位 渋沢栄一抆涕撰
先妣諱恵伊子、武蔵国榛沢郡血洗島村渋沢敬林君長女、君無男、養同族宗助君第三男晩香翁為嗣、即先考也、配以妣、妣幼善事父母、既長任中饋及蚕織澣濯之労、孜孜不懈、五十年如一日矣、為人勤倹慈恵凡衣食器皿自取敝麤而供人以豊美、遇親戚故旧煦煦推恩、見疾病窮苦則流涕賑給唯恐不及、平素率家人愛恕有余、至教督生産之道不毫仮貸、子女僮婢克服命、足以見其内助有方焉、晩往来東京之邸、以楽余年矣明治七年一月七日以病卒于東京、享年六十有三、其十日帰葬晩香翁墓側、仏諡曰梅光院盛冬妙室大姉、越十六年癸未十一月七日建招魂碑谷中、因記其行実之概略
       脩史館監事従五位勛五等巌谷修書并題額
                         広群鶴刻

【大意】
えいは、渋沢敬林の長女として生まれたが、敬林に男子がいなかったため、同族の「東の家」渋沢宗助の三男晩香翁を婿に迎え家を継いだ。
幼いころからよく両親の手伝いをしたえいは、長ずるに及んでは食事の支度はもちろん、養蚕や機織の仕事、洗濯までこなし、怠ることなく長い年月にわたってよく働き続けた。贅沢をせず、人には慈愛をもって接した。衣服や食器なども、自らは粗末なものを用いても、人にはより良いものを供した。病に苦しんだり、困っている人を見れば、涙を流して施しを与えた。ふだん家業にあたって人を使うにも愛情と思いやりをもち、余力があれば生活に役立つ方法や技術を教えるなどして、少しも気を緩めることがなかった。
皆がえいによく従ったことは、妻としてのあり方にきちんとしたものがあったということをよく示している。
晩年には東京の栄一翁の邸宅へも往来し、余生を楽しんでいたが、明治七年一月七日病により東京で逝去した。享年は六十三であった。十日には郷里に移され、晩香翁の墓の側に葬られた。仏諡は梅光院盛冬妙室大姉という。
明治十六年癸未十一月七日招魂碑を建てた。そこで、その生涯の概略を記すのである。

【先妣渋沢氏招魂碑移設の経緯】
 この碑は、渋沢栄一翁の眠る東京都台東区の谷中霊園にある渋沢家
墓所内に建立されていたものです。
 渋沢家墓所の整理縮小にあたり、ご子孫より寄贈の申し出を受け、
平成26年3月に、旧渋沢邸「中の家」へ移設いたしました。

場所

https://goo.gl/maps/NuKVHwYEx7Qn9PY38


青淵公園

「中の家」の後方は、清水川が流れており青淵公園として整備をされている。

青淵由来之跡碑

渋沢栄一の号、「青淵」の由来となった場所。「中の家」のすぐ後ろ。
「青淵」の号は渋沢栄一が18歳の頃に尾高惇忠(藍香)に付けてもらった。

撰書の渋沢治太郎は渋沢栄一の甥。県会議員や八基村長などを勤めていた。渋沢栄一に代わって渋沢栄一生家の「中の家」を継いだ、渋沢てい(渋沢栄一の妹)の次男。

青淵由来之跡
正二位伯爵清浦奎吾書

建碑の記
奉祝 皇太子明仁親王殿下御降誕を記念申上る為め、八基村青年団は村内の史蹟保存の事業を企てらる、血洗島支部亦其の挙に出て、故子爵青淵先生雅号発祥の跡を追慕すると同時に、利用厚生の実を挙ぐる耕地改良の整備に恵まれたる永久の幸福に感謝の誠を捧けんものをと青淵由来の跡と題し建碑の企を決議せらる、而して之れの揮毫を日本青年協会総裁伯爵清浦奎吾閣下に仰がんとせし所、夙夜世道風教の刷新振興を念とせらるゝ伯爵は、特に青淵先生と旧交を懐はれ、高齢と尊貴とを忘れて青年等の請を快諾せられたり、斯くして建碑の業進捗に伴ひ、血洗島青淵会並に大字血洗島は進んで其の企てを援け完成を期せられしは誠に機宜を得たるものと謂ふべきなり、抑も此地は元清水川の一部に属し、東西百五十米余、南北五十米の池沼の跡にして、蘆荻禽影を宿し、処々湧水あり、古来上の淵と呼ばれたるは新編武蔵風土記稿等にも載せられたる所にして、右岸の部落を血洗島字淵の上と云ひ、近世の名士子爵渋沢栄一・同喜作の君等此地に生れたるは世人の悉知する処なるか、其号を青淵といひ、蘆陰と称したるは、蓋し郷土の風物に因み各々撰ばれたる所なりと、故子爵より親しく語られたるを聴けり、昭和六年八基村昭和耕地整理組合設立せられ、干拓開道の工を加ふるに方り、地区の人々は之と連繋して由緒ある遺跡保存に意を用ゐ、一部の地を村社諏訪神社の社有地と為し、若干の風致を施こして新道に小橋を架設す、之を青淵橋と名付け永遠に記念を劃す余は耕地整理組合に長たるの名を汚し、各役員並に組合員の協力に倚りて事業完結を告げたる縁故者として、玆に建碑発起者の嘱に応じ其の顛末を識すこと爾利
  昭和十一年十月          渋沢治太郎撰書
           発起者 八基村青年団血洗島支部
                    血洗島青淵会
                     大字血洗島

場所

https://goo.gl/maps/GYT5wxKmZ491fmBs7


水戸藩烈士弔魂碑

岡部藩によって討たれた水戸藩天狗党浪士2名の慰霊碑。
渋沢栄一生家の「中の家」のすぐ手前の薬師堂に建立されている。

弔魂碑
 此弔魂碑は旧水戸藩士二人合葬の所を標せしなり、元治甲子の年、水藩の志士田丸稲之衛門・藤田小四郎等尊王攘夷の説を唱へ同志を糾合して幕府に抗し、事敗るゝに及び一橋慶喜公に就きて天朝に愬ふる所あらむとし、武田耕雲斎等と共に西上せむとす、兵凡三百余人、其嘗て筑波山に拠れるを以て世人呼びて筑波勢といふ、幕府傍近の諸藩に令して之を討たしむ、十一月十二日其勢七隊に分かれ利根川を越えて中瀬村に至る、岡部藩の家老吉野六郎左衛門兵を率ゐて其通過を止めしかば、夜陰に乗じて本庄宿に去れるが、其隊中の二人は一行に後れて藩兵の殺す所となれり、血洗島村人其非命を憐み遺骸を収めて墓石を建て、其氏名を詳にせざるを以て唯無縁塔とのみ称したりき、今玆大正七年、村人其久しくして湮滅せむことを恐れ碑を刻して之を表せむとし、余に其事由を記せむことを請はる、嗚呼筑波勢の挙言ふに忍びざるものあり、其行為には議すべきものありといへども、其志は朝旨を遵奉して幕政を革め、外侮を禦がむとするにありき、然るに事志と違ひ却て慶喜公の旗下に降服して、遂に幕府の為に敦賀に刑せらる、心ある者誰か痛惜せざらむや、明治二十四年、朝廷武田・藤田等の諸士に位を贈りて其忠悃を追賞せられ、寃魂始て黄泉の下に伸び、精忠永く青史の上に顕る、然るに此二士は其名だに伝はらず、空しく寒烟荒草の下に朽ちむとす、村人の之を歎きて貞石に刻せむとするは固より美挙といふべきなり、回顧すれば当時余は、慶喜公の軍に従ひ海津に在りて筑波勢の入京を防止せむとせし者なり、今二士の為に此文を作る、実に奇縁といふべく、書に臨みて中心今昔の感に堪へざるなり
  大正七年九月
                  青淵 渋沢栄一 撰并書

血洗嶋中建之

場所

https://goo.gl/maps/Eb9PtS5cgtorDbCG6


血洗島の諏訪神社

渋沢栄一の出身地、血洗島の鎮守。
渋沢栄一崇敬の鎮守様。「中の家」から南に500メートルほど。

渋沢栄一寄進の拝殿。大正5年(1916年)建立。

諏訪神社
 血洗島の鎮守社で、古来より武将の崇敬が厚く、源平時代に岡部六弥太忠澄は戦勝を祈願したといわれ、また、この地の領主安部摂津守も参拝したと伝えられている。
 大正5年(1916)に渋沢栄一の喜寿を記念して村民により建てられた渋沢青淵翁喜寿碑が境内に残る。神社の拝殿は栄一がこれに応えて造営寄進したものである。
 栄一は帰郷の際、まずこの社に参詣した。
 そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時に鑑賞することを楽しみとしていた。
 境内には、栄一手植えの月桂樹があった。また長女穂積歌子が父、栄一のために植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
  深谷市

渋沢青淵翁喜寿碑

大正5年(1916)建立。徳川慶久の題額。
徳川慶久は、徳川慶喜の七男。貴族院議員。そして渋沢栄一が設立した第一銀行取締役なども勤めていた。

澁澤青淵翁喜寿碑
公爵徳川慶久題額
男爵渋沢青淵翁、今年七十七の高齢に達せられたるを以て、郷里なる八基村字血洗島の人々、碑を立てゝ、翁の徳を頌せんとして、余に文を求めらる、余訝り問ひて、翁の功績は甚大なり、村人の私すべき所ならんやといふに、人々首打掉りて否々、吾村は武蔵平野の小村ながら、翁の如き大人物を出したるを誇とすべし、翁や青年の頃村を去りて国家の為に奔走し、今は世界の偉人として内外に瞻仰せらるれども我等は尚翁を吾村の父老として親しみ慕ひ、翁も亦喜びて何くれと村の事に尽すを楽となせり、翁は嚮に八基小学校の新築と、其維持法とに就きて、多くの援助を与へ、一村の子弟をして就学の便を得しめたり、村社諏訪神社は、翁が幼少の時境内にて遊戯し、祭日には村の若者と共に、さゝらなど舞ひたる事あれば、村に帰れば先づ社に詣づるを例とし、社殿の修理にも巨資を捐てゝ父老を奨励したり、今年は翁の喜寿に当りたれば、翁を迎へて彼のさゝらを催しゝに翁は記念として拝殿を造りて寄進したり、村人は此後春秋の告賽にも、子女の婚礼にも其便を得て、敬神の念嚮学の風と相待ちて風俗の益敦厚ならんことを喜び合へり、翁が尊貴を忘れて郷閭に尽せる功徳と情愛とは、村人の深く感謝する所なりと、余此言を聞きて感じて曰く、微賤より起りて富貴を一身に聚めたる人の草深き故郷を疎かにするは世の常なり翁や世界の偉人として其故旧を忘れず父老を敬ひ青年を導く、大人にして赤子の心を失はずとは翁の謂なり、翁の行は社会の模範となすべく、翁の徳は伝へて天下の風気を振起せしむべし、余は翁の知遇を蒙る者、いかでか人々の請を辞すべけんやと、因りて其言を録すること此の如し、翁の寿の九十に躋り百歳に至るは言はんも愚なり、後世翁の徳を聞きて感奮し、翁に継ぎて与る者あらば、翁は千歳にわたりて長へに生くべきなり
  大正五年九月       文学博士 萩野由之撰
                    阪正臣書

宮城遥拝所

紀元2600年記念(昭和15年)

諏訪神社修繕記念碑
 当社は、その創立の年代を詳らかにしていませんが、かつては諏訪大明神ととなえ、信州諏訪の地より勧請したものと伝えられています。江戸時代には岡部藩主安部氏の崇敬するところでもありました。
 現在の本殿は、明治四十年九月に竣工したもので、郷土の偉人澁澤榮一翁と当時の血洗島村民が費用を折半して造営されました。さらに現在の拝殿は、榮一翁がその費用を全額負担して造営され、大正五年九月に竣工したものです。以後代々の氏子により厚く崇敬されてきました。
<省略>

澁澤父子遺徳顕彰碑は、昭和48年11月建立。

澁澤父子遺徳顕彰碑
以和為貴

 君子は本を務む本立ちて道生ずその根柢をなすものこそ孝悌である わが澁澤父子三氏の如き正に斯の道の亀鑑と仰ぐべきであろう
 澁澤市郎は群馬縣太田市成塚須永氏に生れ初め才三郎と稱した わが國經濟界の泰斗澁澤榮一の妹ていの婿に迎えられて市郎と改名し榮一に代って中の家を嗣いだ 市郎は資性惇朴信義を重んじ常に謙虚に中の家は義兄に代って自分が守るのである 自分の任務は家名を傷つけず資産を失わないことであると語った 夫婦能く和合して家政を理め立派にその負託に應え長子元治次子治太郎を舉げた 市郎は生涯を通じて各般の地方公共事業に盡力した 八基信用組合を興し特に科學肥料の普及と農作物の増収に努めた さらに八基村名譽村長に就任し埼玉縣會議員に當選治水同盟を組織 利根川小山川の改修工事を促進した これに因って流域住民は始めて多年に亙る水害の苦難を脱することを得その恩澤は猶今日に及んでいる 大正六年齢七十一を以て歿した 市郎の一周忌に當り 榮一は自らその墓誌銘に諄信好義の士と撰書して厚く義弟を弔った
 長子元治は當時公職に在って東京に移住した爲榮一は二子と謀り次子治太郎が中の家を管理し農業を經営する方針を決めた 治太郎は誠意を盡して中の家を管理した 後年元治は自分が中央において心置きなく働けたのは偏に弟治太郎のお陰であると述懐している 治太郎は中の家を中心に産業の振興地方の發展に大いに貢献した 西部蚕業改良組合を結成してわが國最初の生繭正量取引を実施した 埼玉縣養蚕組合連合會を組織して會長となり更に全國養蚕業者の利益代表として奮闘した 當時治太郎らが政府當局に献策した蚕絲業振興策は悉く國策として採用された 父市郎を後を承け八基産業組合長となって經營の基礎を確立し八基村名譽村長埼玉縣會議員等に選ばれて自治行政を強力に推進し幾多地方の重要公共事業を遂行した なお自ら首唱して耕地整理を行い公民學校及び青淵図書館を開設した また埼玉興業株式会社深谷倉庫株式会社その他治太郎が設立経営した事業は多数に上りその目覚しい活躍と業績とは恰も伯父栄一の事蹟を地方に再現した觀があるとさえ評された 昭和十七年齢六十五を以て歿した
 隅々元治は昭和二十一年名古屋帝國大學總長の職を罷め父市郎弟治太郎の後を継いで中の家の主人となった 爾來元治は専ら著述と後進指導に力を注ぎ地方文化の進展に寄与した 元治は生來學問を好み東京帝國大學工學部に學び欧米各国に留学後工学博士の学位を得逓信技師となり次で東京帝國大學教授に就任工學部長を經て昭和十二年退官した 同十四年名古屋帝國大學初代總長に任ぜられ名古屋帝國大學を創立した 同三十年わが國電氣事業の開發育成に盡力した功績に依り文化功勞章を授與された 元治は本年九十八歳の高齢に達したが現在正三位勲一等日本學士院會員として活躍しその申申たる温容は衆人の齊しく景仰措かざる所である
 われらは澁澤父子が三代にわたり中の家を管理されさらに國家社會に貢獻された偉績を想起しその功業を永く後昆に傅える爲茲に顕彰碑を建立した 冀くは貞石と共に愈々その遺徳の顕彰されんことを祈ってやまない
     昭和四十八癸丑年十一月 
      澁澤父子遺徳顕彰會選書建立

扁額は渋沢栄一謹書。

場所

https://goo.gl/maps/68VxWDRNSGMAjcvN9


尾高惇忠生家


「中の家」から東に約1.5キロ。

尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)は渋沢栄一の従兄。号は藍香。
渋沢栄一は10歳年上の尾高惇忠に師事している。
「藍香ありてこそ、青淵あり」と称えられた。

のちに尾高惇忠は、官営富岡製糸場初代場長や第一国立銀行仙台支店長などを努めている。
尾高惇忠の妹である尾高ちよは渋沢栄一に嫁いでいる。(渋沢ちよ)
そして、尾高惇忠の弟である、尾高平九郎(渋沢平九郎)は、渋沢栄一の養子となるが飯能戦争で敗れ自刃している。

深谷市指定史跡
尾高惇忠生家
 尾高惇忠は天保元年(1830)下手計村に生まれ、通称は新五郎、藍香と号しました。渋沢栄一の従兄にあたり、栄一は少年時代からここ藍香のもとに通い、論語をはじめ多くの学問を藍香に師事したことが知られています。“藍香ありてこそ、青淵(栄一)あり”とまで、後の人々は称えており、知行合一の水戸学に精通し、栄一の人生に大きな影響を与えました。淳忠や渋沢栄一、喜作ら青年同志が、ときの尊皇攘夷論に共鳴し、高崎城の乗っ取りを謀議したのもこの2階であると伝わります。その後官営富岡製糸場初代場長や国立第一銀行仙台支店長を努めたことでもよく知られています。
 この尾高惇忠生家は、江戸時代後期に淳忠の曽祖父礒五郎が建てたものと伝わっており、屋号が油屋と故障されていた、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建造物です。母屋の裏にある煉瓦倉庫は、明治30年頃建てられたといわれ、日本煉瓦製造株式会社の煉瓦を使用している可能性が考えられます。

尾高家の人々
尾高惇忠(藍香)
渋沢栄一の学問の師、従兄、義兄。富岡製糸場初代場長。第一国立銀行仙台支店長。
尾高(渋沢)ちよ
淳忠の妹で、渋沢栄一の妻。
尾高(渋沢)平九郎
淳忠の弟で、渋沢栄一の養子となる。飯能戦争で新政府軍に敗れ、22歳で自刃。
尾高ゆう
淳忠の長女。14歳で富岡製糸場の第1号伝習工女となる。

以下は、場所は変わって埼玉県越生町。
渋沢平九郎に関する案内板が越生駅近くにある。越生町は渋沢平九郎の終焉の地。せっかくなのであわせて記載。

※以下は、越生町にて

渋沢平九郎
尾高(旧姓)平九郎の生涯
 弘化4年(1847)、武蔵国榛沢郡下手計村(現深谷市)の名主尾高勝五郎の末子として生まれました。幼少期から兄の新五郎(淳忠)や長七郎、従兄の渋沢栄一や渋沢成一郎(喜作)らと学問・文芸に親しみ、剣の腕を磨きました。そして兄や従兄たちと尊皇攘夷運動に傾倒していきました。
 「渋沢平九郎昌忠伝(藍香選)」は、平九郎は「温厚で沈勇果毅(沈着で勇気があり、決断がよく意思が強い)で、所作は美しく色白で背が高く腕力もある」と評しています。

 安政5年(1858)に姉千代が渋沢栄一に嫁ぎ、平九郎と栄一は義兄弟になりました。慶応3年(1867)には渡欧する栄一の養子となって、幕臣として江戸に出府しました。翌年2月に彰義隊に加わり、のちに、成一郎、淳忠らと振武軍を組織します。
 慶応4年(明治元年)5月23日、飯能で新政府軍に敗れ、顔振峠を下って黒山村(現越生町黒山)へ逃れてきた平九郎は、芸州藩斥候隊と遭遇、孤軍奮闘後、川岸の岩に座して自決しました。まだ20歳の若さでした。

深谷の尾高惇忠生家にもどる。

尾高惇忠生家にある煉瓦蔵は、日本煉瓦製造株式会社製か?といわれている。

旧尾高家 長屋跡

現在は基壇が残るのみ。

場所

https://goo.gl/maps/QEPW4cAZj51upvCW6


尾高家墓所

尾高家の近くではあるが、しょうしょうわかりにくい場所。

藍香、尾高惇忠の墓。

尾高長七郎(尾高弘忠)の墓

渋沢平九郎昌忠君招魂碑
渋沢栄一の建立。

場所

https://goo.gl/maps/oWjnNoqZyN51RWcV9


東の家跡

近くには、東の家跡もある。
中の家の東側が、尾高の下手計となるので、東の家は尾高家と近い。

渋沢市郎右衛門・喜作
宗助 東の家跡地


下手計の鹿嶋神社

尾高惇忠の下手計村(しもてばか)は、渋沢栄一の血洗島村の隣町。
下手計の鎮守は鹿嶋神社。
尾高惇忠家から、西に約500メートル、渋沢栄一「中の家」かたは東に約1キロ。

鹿島神社
 創立年代は不明だが、天慶年代(十世紀)平将門追討の際、六孫王源経基の臣、竹幌太郎がこの地に陣し、当社を祀ったと伝えられる。以降武門の守とされ、源平時代に竹幌合戦に神の助けがあったという。享徳年代(十五世紀)には上杉憲清(深谷上杉氏)など七千余騎が当地周辺から手計河原、瀧瀨牧西などに陣をとり、当社に祈願した。祭神は武甕槌尊で本殿は文化七年(一八一〇)に建てられ千鳥破風向拝付であり、拝殿は明治十四年で軒唐破風向拝付でともに入母屋造りである。境内の欅は空洞で底に井戸があり、天然記念物に指定されていたが、現在枯凋した。尾高惇忠の偉業をたたえた頌徳碑が明治四十一年境内に建立された。
  昭和六十年三月  深谷上杉顕彰会    (第二十二号)

渋沢栄一揮毫の扁額

鹿嶋神社 従三位勲一等男爵澁澤榮一謹書

克己復禮 尾高次郎書

尾高惇忠の次男、尾高次郎による揮毫。「克己復礼」は論語の出典。
尾高次郎は、尾高惇忠のあと、尾高家を相続。渋沢栄一の第一銀行(現・みずほ銀行)にて各地の支店長を勤め、武州銀行(現・埼玉りそな銀行)を設立し頭取に就任している。渋沢栄一は岳父にあたる。

鹿島神社
 下手計の鎮守社で、拝殿には渋沢栄一揮毫になる「鹿島神社」の扁額が掲げられている。
 境内には、栄一の師である尾高藍香の偉業を称える頌徳碑が建立されている。
 この碑のてん額は徳川慶喜公の揮毫、三島毅文学博士(号 中洲)の撰文によるものである。
 今では朽木となったが、大欅の根元に湧いた神水で共同風呂が設けられていた。栄一の母、栄はこれを汲み、らい病患者の背を流したと伝えられている。
 栄一手植えの月桂樹と長女穂積歌子が植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
    深谷市教育委員会

渋沢栄一手植えの月桂樹などは記録しそこねました・・・


藍香尾高翁頌徳碑

篆額は、徳川慶喜の揮毫。堂々たる石碑。

藍香尾高翁頌徳碑について
 尾高惇忠を敬慕する有志によって建てられたこの碑の除幕式は、明治四十二年(一九〇九)四月十八日に挙行されました。
 おりから桜花満開の当日、澁澤栄一はじめ穂積陳重、阪谷芳郎、島田埼玉県知事など、建設協賛者である名士多数が臨席されました。その際、尾高惇忠の伝記「藍香翁伝」が参列者一同に配布されたのです。
 碑の高さは約四・五メートル、幅は約一・九メートル、まさに北関東における名碑の一つです。石碑の上部の題字は、澁澤栄一が最も尊敬する最後の将軍、徳川慶喜によるものです。碑文は三島毅、書は日下部東作、碑面に文字を刻む細工は東京の石工・吉川黄雲がそれぞれ当たりました。
 郷土の宝物であるこの名碑を大切にし、藍香翁はじめ先人の遺徳を偲び、共に感激を新たにいたしましょう。
    平成十七年十月

藍香尾高翁頌徳碑
藍香尾高翁頌徳碑   従一位公爵徳川慶喜篆額
西武有君子人、曰尾高翁、々少時遭人倫之変、慈母与祖父不相協、去而不帰者数年、翁泣涕往来其間、或哀請、或幾諫、蒸々克諧以復旧、親戚郷党、莫不感称焉、嗚呼孝百行之本、自此以往、翁之進退出処、皆有功徳、物故已七年、人々追慕不已、況其門人故旧乎、乃胥謀欲樹碑於村社側以頌之、謁余文、按状翁諱惇忠、称新五郎、号藍香、尾高氏、武蔵榛沢郡下手計村人、祖曰磯五郎、父曰勝五郎、並為里正、家業農商、母渋沢氏、今男爵青淵君姑也、天保元年七月某日生翁、々少聡敏強記、独学通経史、業暇教授隣里子弟、青淵君亦就学焉、嘉永中辺警荐臻、海内騒然、翁喜水藩尊攘之説、窃与四方志士交、有所謀議文久元年襲里正、而心不在焉、慶応中以嫌疑下岡部藩獄、無幾免、既而翁悔悟攘夷未可遽行、専務殖産興業、而徳川慶喜公夙聞其名、行将用之、時公奉還大政、退大阪、誠意未上達、将陥危難、翁聞之慨然蹶起、欲有所救、到信州、則官軍既在木曾、乃還、明治元年二月入彰義隊、又起振武軍、屯飯能、与官軍戦敗、匿于家、乱已平、為静岡藩勧業属吏、亡何辞帰、家居三年、民部省辟為監督権少佑、転勧業大属、兼富岡製糸場長、十年辞之、為東京府養育院幹事、兼蚕種組合会議長翁曾得秋蚕之製於信州、伝之遠邇、皆獲大利、先是青淵君創立第一銀行、翁応嘱為盛岡支店長、土人又推為商業会議所長、傍勧製藍、励染工、後歴転秋田仙台支店長、興植林会社、二十三年刱製靛之方、得専売権、翌年以老辞職、翁助青淵君掌銀行業已十五年、功労不少、且所在為斯民授業興利、不可枚挙、遂寓東京福住街、専販藍靛、暇則矻々著述、而泰東格物学、其所最注心、毎曰名教之本、全在此、三十四年一月二日病終、享年七十有二、帰葬郷塋、青淵君以妹婿作墓銘、可謂交有終始矣、元室根岸氏、生二男五女、先亡、長男勝五郎夭、次次郎出為支族幸五郎嗣、季女配養子定四郎奉祀、余皆適人、翁天資惇誠温良、与物歓洽、有器局、処艱難能耐忍、為郷党謀最忠実、歳歉則廉価糶貯穀、有紛議則懇諭和解、其他善行不可勝記、而莫不一本於至性、豈可不謂君子人乎哉、銘曰、
  維孝為本 学術正淳 事君則藎 育英則循
  述作垂後 名教維因 造次顛沛 志在経済
  殖産刱業 大起民利 誰言理財 不由徳義
明治四十年七月
        東宮侍講正四位勲三等 文学博士 三島毅撰
        正五位日下部東作書  吉川黄雲鐫


北阿賀野の稲荷神社

「中の家」から北に約800メートルの地に鎮座。
青淵公園を流れていた清水川の北側にあたる。

稲荷神社 子爵澁澤榮一謹書

稲荷神社・菅原神社(天神社)改築記念碑
 深谷市北阿賀野一番地に鎮座する稲荷神社は倉稲魂命を御祭神と仰ぎ祀り五穀豊穣の神として先祖代々尊崇篤く現在に及んでいる。創建については風土記稿などによれば徳川氏関東に入国の頃との記述があることから四百年以上の歴史があるものと思われる。菅原神社(天神社)は宝暦十三年(一七六三)の建立と記されている。
 旧社殿内の棟木や記念誌からは御殿が明治二十六年に造営され大正十五年に改築し、その後昭和五十一年に氏子延百二十人の出役による改修事業が行われたなどの記録が残されている。
 境内には昭和二年に當地出身の偉人桃井可堂の顕彰碑が澁澤榮一翁により建立されている。社名の扁額も翁の揮毫によるものである。
 又戦争で尊い命を国家に殉じた英霊と従軍者の扁額が昭和三十九年に奉納され平和の尊さを今に伝えている。
 當神社は稲荷様として氏子に親しまれ豊作や商売繁盛・家内安全などを祈願する祭祀のみならず境内でのスポーツなど住民の交流の場として心の拠となっていた。しかし老朽化も著しく幾度となく修復も試みられてきた。
 この状況を憂い平成二十五年九月地元出身の実業家石坂好男氏により両神社の改築並びに境内の整備を寄進したい旨の申し入れがあり氏子総意の下、有難くこれを拝受し、平成二十六年六月起工・平成二十七年六月竣工の運びとなった。
 誠に氏子の喜び此の上なく尊崇篤くして地域の振興を子々孫々の繁栄を祈願してやまない。
 茲に石坂好男氏への報徳とその功績を後世に永く伝えると共に本事業の施工業者並びに協力・奉賛頂いた全ての皆様に衷心より感謝の誠を捧げてこの記念碑を建立する。
   平成二十七年六月吉日
     北阿賀野稲荷神社宮司 宮壽照代
     同          氏子一同

可堂桃井先生碑

桃井可堂(もものい・かどう)
幕末の尊皇攘夷活動家。渋沢栄一の血洗島村の北隣りに位置する北阿賀野村出身。渋沢栄一より37歳年上。
文久3年(1863)に慷慨組を組織するも挙兵計画が漏洩し川越藩に自首。幽囚され自ら絶食して死去。「深谷の吉田松蔭」と称された。

可堂桃井先生碑
慷慨国を憂ひ率先義を唱へ、時運未だ会せず謀成らずして身を殞し、英魂慰する所なかりしも、適昭代の隆運に遭ひて恩賞枯骨に及ぶ、吾が可堂桃井先生の如きは寔に生前に否にして死後に泰なるものと謂ふべし、先生諱は誠、通称は儀八、字は中道、可堂は其号なり、享和三年八月八日武蔵榛沢郡北阿賀野村に生る、本姓は福本、忠臣新田氏の後裔なり、父諱は守道、世々農を業とす、先生幼より好みて稗史野乗を読み、能く其要を記す、一日父先生に謂て曰く、汝をして大儒に就て修学せしめんと欲するも、家貧にして資なきを如何せんと、言畢りて撫然たり、先生も亦切歯涙を垂る、時に甫めて八歳なり、幾もなく郷儒渋沢仁山に就て学ぶ、仁山深く望を属す、年二十二、蹶然江戸に遊び、東条一堂の門に入り、清川八郎・那珂梧楼と併せて三傑と称せらる、業成り帷を下して教授す、名声日に揚り交道月に広し、庭瀬侯賓礼を以て先生を聘し、亀山侯も亦師事せり、嘉永六年米艦渡来し、物情騒然たり、先生感ずる所あり、藤田東湖に因りて書を水戸烈公に上らんとす、適東湖の死に遭ひて果さず、尋で米国の通商強要、安政戊午の大獄等ありて、幕政日に非なり、先生慨然職を辞して郷に帰り窃に名族岩松某を推して謀首と為し、兵を挙げて外人を掃攘し、一挙幕府を倒さんとす、某期に臨み遅疑して起たず、事漸く漏る、先生責を一身に負ひ、衆に代りて川越藩に自首す、幕府先生を江戸に檻送し福井藩邸に幽す、先生憂憤自ら食を絶ちて死す、実に元治元年七月二十二日なり、享年六十又二、巍然たる大節、真に忠臣の裔たるに恥ぢずと謂ふべし、諡して義道院猛雲至誠居士と云ふ、麻布光専寺に葬る
大正天皇登極の年、特旨を以て正五位を追贈せらる、是に於て戚族相議し駒込吉祥寺に改葬す、先生二男あり、長は之彦、畳山と号し、次は直徳、山東と号す、明治の初予大蔵省に勤務するに及び、二人を薦めて民部・大蔵両省に奉職せしめしに、頗る循吏の聞ありしが、不幸短命にして倶に世を蚤くせり、山東五男あり、長可雄は早く横浜の渋沢商店に入りて、生糸輸出の業に従ひ、季健吾は石井氏を冒して現に第一銀行副頭取たり、是亦予の推薦する所にして、倶に経済界に令名あり、忠誠の報空しからずと謂ふべし、頃日八基村教育会、碑を村社の境域に樹て、其義烈を顕揚せんとし、文を予に嘱す、嗚呼、先生と同憂の士多くは玉砕し、其子其孫亦既に地下に入りて、相見る能はざるものあり、予は郷閭先生と相近く、壮時同じく尊攘を以て念とせしも、故ありて事を共にせず、瓦全今に至る、偏に聖世の恩沢に因ると雖も、亦曷ぞ命長くして悲傷多きの歎なきを得んや、往時を追懐して悵然たること之を久しうす
  昭和二年五月 正三位勲一等子爵 渋沢栄一撰并書

場所

https://goo.gl/maps/iUQCydJk2o3MgwWf9

桃井可堂が塾を開いた中瀬村には、個人史料館「桃井可堂郷土史料館」もある。歯科医院の敷地内。

郷土の先人 苦学力闘の人
桃井可堂郷土史料館

場所

https://goo.gl/maps/SwRpz7gxRAAhn7T16


渋沢栄一記念館

渋沢栄一の「中の家」 血洗島村からは東に約500メートル。
平成7年(1995)11月11日(栄一翁の祥月命日)に開館。八基公民館を兼ねている。

「富岡製糸場と深谷の三偉人」
 深谷市は、平成26年に世界文化遺産に登録された富岡製糸場の設立に深く関わった渋沢栄一・尾高惇忠・韮塚直次郎三氏の偉業を称え、顕彰しています。
 渋沢栄一は明治政府において官営製糸場設置を推進し、尾高淳忠は富岡の地にフランス式機械製糸場を竣工、初代場長として運営を行い、韮塚直次郎は富岡製糸場の巨大建造物を支える煉瓦などの資材調達に尽力しました。
 ※このレリーフは、石坂産業株式会社創業者である石坂好男氏の寄附ににより制作しました。

渋沢栄一

尾高惇忠

韮塚直次郎


渋沢記念館の後ろ側、清水川、そして上州を見渡す方向に、大きな渋沢栄一像が建っている。

渋沢栄一像

渋沢栄一翁
 本像はもと深谷駅頭にありき
 昭和63年3月、有志1500有余名の錠剤をもとに駅前区画整理事業の完成と翁の顕彰を記念して建立せしものなり
 平成7年10月、翁、生誕八基の地に渋沢栄一記念館の落成に伴い、ここに遷座し奉る
 この地や、園日に渉り以て趣を成すの如く大いなる発展をとげしも、刀水は悠遠にして、翁、在世の昔も今の如し上毛三山の遠望も又、今も昔もなし
 翁没して65年、翁の像が故山の風物を眺めて起つは又美しき哉
 平成8年11月吉日
  深谷市長 福嶋健助


桃井可堂が塾を開いていた中瀬村には「河岸場」があった。

中瀬河岸跡

古来は、新田義貞が鎌倉幕府倒幕の兵を揚げ「中瀬の渡し」を渡り、そして江戸時代には武蔵国と上野国を結ぶ利根川の船着場として栄えていた河岸。物資や船客の乗り換え場所であったということから、江戸の情報がいち早く伝わる情報発信地であり、これが北武蔵で渋沢榮一を始めとする偉人を生んだきっかけでもあった。

中瀬河岸跡
 中瀬河岸は、江戸時代から明治にかけて利根川筋の河岸場として大いに繁栄した。
 慶長12年(1607)に江戸城秋竹の栗石中瀬から運んだ記録があり、この頃には既に中瀬からの水運が行われていたようである。その後、中瀬は周辺の物資の集積所となり上流や下流から来た乗客や荷物を積み替えるように定められ、関所のような役割を果たしたという。
最盛期には、大小100隻近くの舟が出入りし、問屋、旅籠屋などが軒を連ねて賑わった。
明治16年(1883)の高崎線の開通により次第に衰退し、明治43年の大洪水とその後の河川改修で河岸場の姿は失われた。
 平成5年11月 深谷上杉顕彰会

以上、渋沢栄一の出身地「血洗島」周辺の記事でした。

「誠之堂・清風亭」は、別記事にて。


リンク

渋沢栄一デジタルミュージアム

http://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/index.html


関連

渋沢栄一像と深谷駅【渋沢栄一5】

渋沢栄一の出身地「深谷市」。
その深谷駅前に渋沢栄一像がある。

渋沢栄一像

青淵澁澤榮一像

青淵広場

碑文
正二位勲一等子爵澁澤栄一先生は、天保11年(1840)2月13日私達のまち深谷市大字血洗島に生まれました。
幼い時から読書を好み、家業を助け、少壮の頃は国事に奔走、慶應3年第15代将軍慶喜公の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定しました。
明治6年富国の道を求めて野に下り、わが国最初の銀行を創立し、続いて製紙・紡績・製鋼・造船・鉄道・ガス・電気・窯業等先進諸国が有する諸事業のすべてを創立あるいは援助育成しました。
一方、福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を創設してその運営に挺身、その他労資協調・国際親善に心を砕き、昭和6年11月11日、91年の生涯を閉じられました。
先生は常に道徳と経済の合一を説かれ、その思想を経営の基本とされました。
先生を追慕する私達は、朝夕その教えを守り、後世に余光の及ぶことを祈念してここにこの像を建立しました。
  建立 昭和63年3月吉日   青淵・澁澤栄一銅像建設協賛会

建立 1996年7月  澁澤栄一座像  田中 昭 作


深谷駅

関東の駅百選。
平成8年(1996)7月10日改築。
東京駅が深谷産の煉瓦を使用していることから東京駅を模して「ミニ東京駅」として改築された。
これは、東京駅・丸の内口駅舎の建築時、深谷に所在した「日本煉瓦製造株式会社」で製造された煉瓦が使用されたことにちなむ。

日本煉瓦製造株式会社は、渋沢栄一による設立。深谷駅から日本煉瓦製造工場まで、専用線が敷設されていた。

ようこそ!渋沢栄一のふるさと深谷市へ!

祝 渋沢栄一 一万円札に

ようこそ 青天のまち 深谷へ

コミュニティバスにも渋沢栄一が描かれていた。

ようこそ 大河ドラマ「青天を衝け」の舞台へ
渋沢栄一の生誕地 埼玉県深谷市

深谷市のマンホール、深谷市のキャラクターふっかちゃん


渋沢栄一からくり時計

深谷駅気前に設置されたからくり時計。
第一国立銀行をイメージした時計台。
7時~23時の定時になると、ふっかちゃんの下から、渋沢栄一翁が現れる。

日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化した1927年(昭和2年)に、アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士が「万国児童親交会委員(世界児童親善会)」を設立し、アメリカから友情の証として「青い目の人形」が日本へ贈られた。そして、ギューリック博士と親交のあった渋沢栄一が中心となって「日本国際児童親善会」が呼びかけを行い、全国の役場や学校を通して集められた募金を元に製作された「市松人形」(答礼人形)がアメリカに送られた。

渋沢栄一からくり時計
 渋沢栄一(1840年~1931年)は維新後の急激な近代化を迎えた明治・大正期の日本を経済という舞台で支えた人物で、現深谷市の血洗島に生まれた。
 日本で初めての銀行である第一国立銀行の創立者。
 論語の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、生涯設立にかかわった会社はゆうに500を超える。
 日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化したときには、それをやわらげるためにお互いの国の人形を交換した。そのとき日本に送られたのが「青い目の人形」、その返礼としてアメリカに贈ったのが「市松人形」である。
 このからくり時計は、時計塔の部分は当時の第一国立銀行をイメージし、定刻になると「青い目の人形」と「市松人形」を持った栄一が現れ、時刻を知らせる仕掛けとなっている。また、時計はソーラーエネルギーを使っている。
平成24年2月
 深谷市(渋沢栄一没後80年記念事業) 
 深谷ロータリークラブ(深谷ロータリークラブ創立50周年記念事業)

ふだんは、ふっかちゃんが回っている。

定刻になると、下から渋沢栄一翁が登場。ふっかちゃんは上に押し出される。
童謡「青い眼の人形」が流れる。

青い目の人形と市松人形を手にした渋沢栄一翁。

https://www.shibusawa.or.jp/museum/newsletter/302.html


あかね通りにかかる歩道橋。
あかね通りは、日本煉瓦製造専用鉄道線跡の遊歩道。
日本煉瓦製造に関しては別記事にて。。。


渋沢栄一関連

「日本最初の銀行」渋沢栄一と兜町【渋沢栄一4】

兜町には、渋沢栄一が設立した「日本最初の銀行」、そして渋沢栄一が発起人を努めた「日本最初の証券」、そして隣の茅場町には同じく渋沢栄一が関係した「日本最初の電力発電」があった。


銀行としては四代目の建物。

銀行発祥の地

銀行発祥の地
この地は明治6年6月11日(1873年)わが国最初の銀行である第一国立銀行が創立されたところであります
 昭和38年6月建立

第一国立銀行

明治5年(1872)、国立銀行条例が制定。
明治6年(1873)に渋沢栄一によって創設された日本最初の銀行。民間資本民間経営の銀行であったが、国立銀行条例により発券機能等を有していた。
明治15年(1882)、日本銀行条例により国立の日本銀行が設立。国立銀行条例による営業免許期間終了に伴い、明治29年(1896)に一般銀行に改組し「第一銀行」となる。
昭和18年(1943)、太平洋戦争戦時下の国策により三井銀行と合併し「帝国銀行」となるが、戦後の昭和23年(1948)には再度分割し「第一銀行」として再建。
昭和46年(1971)に日本勧業銀行と合併し「第一勧業銀行」。そして第一勧業銀行は、現在の「みずほ銀行」の流れにつながる。

第一国立銀行(第一銀行)」は、日本最初の銀行として、統一金融機関コード「0001」を保有。この0001も「みずほ銀行」が継承をしている。

また、「第一国立銀行」は日本最初の株式会社でもあり、東京株式取引所創設時より上場している。

第一国立銀行が創業した地には、「みずほ銀行兜町支店」がある。

「みずほ銀行兜町支店」の壁面には、「兜町歴史地図」と「渋沢栄一と建物の歴史」が掲載されていた。
(以下、クリックで拡大可)

銀行発祥の地
渋沢栄一翁
渋沢栄一翁は幕末の慶応3(1867)年に渡欧し、最先端の経済制度や科学技術を学びました。帰国後はその知識を活かし、明治政府において新生日本の基盤となる制度作りに力を発揮しました。その後実業界に転じ、生涯を通じて約500にものぼる株式会社の設立・育成を行うとともに、学校や病院など約600の社会・公共事業の育成・推進にも力を注ぎ、近代日本社会・経済の基礎作りに大きな貢献をしました。
中でも、渋沢翁が中心となって明治6(1873)年にこの場所に開業した「第一国立銀行」は、日本最初の近代的な銀行として有名です。この地周辺にはその後日本で最初の株式取引所(現東京証券取引所)や数多くの会社が次々と設立され、兜町は日本経済の中心地として発展していきました。

初代建物(第一国立銀行)
日本最初の近代的な銀行である「第一国立銀行」(現みずほ銀行)は、明治6(1873)年にこの場所で誕生しましたが、その本店として使用されたのが明治5(1872)年に竣工した写真の建物です。
日本初となる銀行建築を請け負った清水組(現清水建設)二代清水喜助は、外国人の手を借りず、設計施工すべてを自分達で手掛けました。木骨石造、ベランダ、日本屋根、塔を組み合わせた和洋折衷の建物は、擬洋風建築の最高峰といわれ錦絵にも度々描かれた東京の名所でした。

設計者 二代目清水喜助(1815-1881)
文化12(1815)年富山生まれ。
生地井波は宮大工輩出の地として知られ、幼少期から社寺建築に親しむ環境の中で育ち、大工となりました。近郷出身の清水組創始者初代清水喜助を頼り江戸に出て、幕末には横浜開港に伴う幕府御用の工事を手がけて事業を大きく発展させ、近代建設業の基礎を整えました。
本建物の他、我が国初の大規模和洋折衷建築と言われる築地の外国人旅館(通称築地ホテル)など彼の作った建物は、明治初期に全国各地に建設された擬洋風建築に大きな影響を与えました。

二代目建物
国立銀行制度の終了に伴い、明治29(1896)年第一国立銀行は株式会社第一銀行となりましたが、その本店の二代目建物として明治35(1902)年に竣工したのが写真の建物です。
後に東京駅舎で有名となる辰野金吾の設計によるもので、外壁は石造ですが鉄棒で補強し、床は耐火構造、シャッター、消火栓等、当時としては最新の防災設備を備えていました。
大正12(1923)年の関東大震災では、地域全体に広がった火災により大きな被害を受けましたが、建物自体は堅牢な作りで崩壊を免れ、その後も使われ続けました。

設計者 辰野金吾(1854-1919)
嘉永7(1854)年佐賀生まれ。
明治6(1873)年工学部工学寮(後の工部大学校、現在の東京大学工学部)に第一回生として入学。同校造家学科を首席で卒業後、官費留学生として英国に留学しました。帰国後は工部大学校の教授に就任し、後には帝国大学工科大学学長や建築学会会長などの要職に就きました。
建物の重圧で堅牢なイメージから「辰野堅固」とも言われたという彼の作品には、日本銀行本店や東京駅駅舎など、現在でも重要文化財などに指定されて残っているものが多数あります。

三代目建物
二代目建物は、昭和5(1930)年に第一銀行本店が当地から丸の内に移転した後も、同行の兜町支店として使われていましたが、その役割は昭和11(1936)年に三代目となる写真の建物に引継がれました。鉄骨鉄筋コンクリート造の建物は、銀行・証券会社の立ち並ぶ兜町の中でもひと際目立つ堂々とした風格を備えていました。 その後昭和51(1976)年に、第一国立銀行以来四代目となる現在の建物が建てられ、現在もみずほ銀行の兜町支店として百数十年に亘る歴史を繋いでいます。

設計者 西村好時(1886-1961)
明治19(1886)年横浜生まれ。
明治45(1912)年東京帝国大学建築学科を卒業後、曽根・中条事務所を経て清水組に入社。後に第一銀行に転出し、同行の丸の内本店をはじめ数多くの銀行建物にその設計・実務手腕をふるいました。
意匠のみならず最新設備にも精通した「銀行建築のエキスパート」として知られ、後の施設計画学にも大きな足跡を残しています。

兜町ビルの歴史
-銀行発祥の地-
https://www.seiwa-building.co.jp/bank-birthplace/building.html

清和綜合建物

https://goo.gl/maps/xXYbW6yqnTCprPnf8

「銀行発祥の地」の突き当りに「日証館」がある。
当時、渋沢栄一邸は、日証館の地にあった。

証券会社のビルが林立する。

フィリップ証券の建物は昭和10年。

山二証券のビルは昭和11年という。


兜神社

明治11年(1878)、渋沢栄一らが発起人となり、東京株式取引所(現・東京証券取引所)が設立。東京株式取引所設立とともに関係者によって創建された。

御祭神:倉稲魂命
明治十一年ここ兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるに当たり、同年五月取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営した。
御社殿に奉安してある「倉稲魂命」の御神号は時の太政大臣三條實美公の揮毫になるものである。
当社は御鎮座後一度換地が行われたが、昭和二年(1927年)再度換地を行ない、兜橋々畔の現在地約六十二坪(役205平方米)を卜して同年六月御遷座を行ない、鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。
昭和四十四年(1969年)五月高速道路の建設に伴い御影石造りの鳥居を残して旧社殿を解体し、同四十六年(1971年)三月現在の鉄筋コンクリート・一間社流造・向拝付きの社殿を造営した。
屋根は銅板葺とし玉垣・参道敷石などは御影石をもちいた。

兜神社の由来となった兜岩。
鎧岩は、前九年の役(1051~1062)のころ、源義家が東征の際に、この岩に兜を掛けて戦勝祈願したことに由来という。
「兜町」の町名由来でもある。

https://goo.gl/maps/LHcqmpgpSyarKKxQA

兜神社の隣は、日証館

日証館

明治21年(1888)に、辰野金吾が設計した渋沢栄一邸がこの地に完成。明治34年(1901)に渋沢栄一は飛鳥山に移り住んだ後は、渋沢事務所としても使用。
大正12年(1923)に渋沢事務所は関東大震災で全焼。
渋沢事務所・渋沢邸跡地に昭和3年(1928)に、「日証館」が建設された。当時の姿を活かしながらリノベーションされ現在も多くの証券会社が入居するビルとして活用されている。

https://goo.gl/maps/XvkmKS2TUEGkEfur5

左手には、東京証券取引所。右手には日証館

東京証券取引所(証券取引発祥の地)

明治11年(1878)6月1日。
東京株式取引所が創立し兜町にあった第一国立銀行の所有を購入して営業開始。渋沢栄一も東京株式取引所発起人に名前を連ねていた。
7月15日、日本初の上場株式として東京株式取引所の売買が開始。
9月、渋沢栄一の第一国立銀行(現みずほ銀行・旧第一勧業銀行)株式が上場。第一国立銀行は日本最初の株式会社であった。

昭和18年(1943)6月、戦時統制機関改編。日本証券取引所に統合。
日本証券取引所は、戦後にGHQにより活動禁止となり昭和22年に解散。
昭和24年(1949)、東京証券取引所設立。

日本橋兜町の歴史・史跡

https://www.heiwa-net.co.jp/urban_development/history.html

平和不動産株式会社

https://goo.gl/maps/kE62zxJp7cReEA5C8


以下は、渋沢栄一とは、あまり関係ない史跡。
発祥の地でしたので、興味深く。

郵便発祥の地

日本橋郵便局が、日本の郵便発祥の地、であったという。
この界隈は、銀行と証券と郵便が始まったエリアでもあったのだ。

郵便発祥の地
ここは、明治4年3月1日(1871年4月20日)
わが国に新式郵便制度が発足したとき駅逓司と東京の郵便役所が置かれたところです。

前島密先生
郵便発祥の地

前島密の胸像は昭和12年、会田富康の作。

前島男爵ノ命ニ依リ密翁之像ヲ補綴改鋳ス
昭和十二年三月 會田富康

多羅葉(たらよう)
はがきの木


「葉書」の由来は、この木から・・・
 肉厚の葉の裏側をとがったもので書きつけると、茶色に変色してくっきり文字が浮あがります。
 古代インドで手紙や文章を書くのに用いた多羅葉の葉になぞらえてその名がつけられました。
 この木は、郵便局のシンボルツリーとして植えられています。

https://goo.gl/maps/etp4NX6xUnBoD9686


電燈供給発祥の地

茅場町のビジネスホテルの手前に、記念碑があった。
この地から、日本で最初の電力送電が行われたのだ。

東京電燈株式会社設立を出願した渋沢栄一・大倉喜八郎らの手によって、明治16年に設立。
明治20年(1887)に日本橋茅場町から第二電燈局が小規模火力発電で電気の送電(架空配電による最初の電燈供給)を開始。

電燈供給発祥の地
 明治20年(西暦1887年) 11月21日東京電燈会社がこの地にわが国初の発電所を建設し、 同月29日から付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などのお客様に電燈の供給を開始いたしました。
 これが、わが国における配電線による最初の電燈供給でありまして、その発電設備は直立汽缶と、30 馬力の横置汽機を据付け、20キロワットエジソン式直流発電機1台を運転したもので、配電方式は電圧 210ボルト直流三線式でありました。

電気ゆかりの地を訪ねて
日本初の配電線による電灯供給
第2電燈局

http://kandenkyo.jp/pdf/yukari%20vol6.pdf

日本電気協会 関東電気協会

https://goo.gl/maps/9MHb5c8PB2TkCy9V8


海運橋親柱

第一国立銀行の脇には楓川という川が流れており、海運橋が掛けられていたが、現在は埋め立てられている。当時の名残の親橋が近くに残されている。

海運橋親柱
所在地 中央区日本橋一ー二十先
 日本橋兜町三先
 海運橋は、楓川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監忠勝の屋敷が置かれたので、将監橋とか海賊橋と呼ばれていました。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいっていたためです。
 橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、同八年に、長さ八間(約十五メートル)、幅六間(約十一メートル)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。
 石橋は、関東大震災で破損し、昭和二年鉄橋に架け替えられました。このとき、二基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和三十七年撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。
 平成六年三月
  中央区教育委員会

海運橋
紀元2535年=明治8年=1875年

楓川は埋め立てられ、その楓川の上を首都高速が走っている。
海運橋は、この方向に首都高の下に架かっていた。

https://goo.gl/maps/QpgZigvtBggSUSV7A


渋沢栄一関連

渋沢栄一像と日本銀行【渋沢栄一3】

日本橋界隈の渋沢栄一関連を散策してみる。

常盤橋公園(常磐橋)

常盤橋公園は、江戸城の城門の一つ常盤橋門があったところ。

昭和8年(1933)に財団法人渋沢青淵翁記念会(現在の渋沢栄一記念財団)によって復旧整備が行われた公園。令和3年現在、工事のため閉鎖中。2021年度中に一部を暫定開放予定。

明治10年(1877年)に再建された2連アーチ石橋が残る。経年劣化と東日本大震災による被害のために全面的な修復工事が行われている。

公園の名前は、「常盤橋公園」
石橋は「常磐橋」
下流には「常盤橋」
上流には「新常盤橋」
磐と盤がややこしい。


渋沢栄一像(常盤橋公園)

工事中の常盤橋公園のなかで、渋沢栄一像の一角のみ開放されている。

渋沢栄一像は、日本で初めて設立された銀行「第一国立銀行」(日本銀行ではなく)の方向を向いているという。

青淵澁澤榮一

 青淵澁澤榮一翁は、天保十一年埼玉縣の農家に生まれたが時勢に激して志士となり、後轉じて幕臣となって、慶應三年歐州に赴き、民主主義自由主義を知る機會を得た。
 歸朝後大蔵省に仕官して諸制度の改革に當ったが、明治六年退官し、同年創立された第一國立銀行の頭取となり、爾来産業経濟の指導者成りに任じ開與した會社五百、常に道徳経濟合一主義を唱えて終生之を實錢し我が國運の發展に偉大な貢獻をした。
 また、東京市養育院等社會事業の助成、一橋大學・日本女子大學等實業及び女子教育の育成、協調會等による勞資の協調、日華日米親善等世界平和の促進、道徳風教振作のために九十二歳の高齢に達するまで盡力し、昭和六年十一月十一日に逝去した。
 翁の没後、財界有力者によりその遺徳顯彰の目的で設立された澁澤青淵翁記念會が、昭和八年此処に銅像を建立したが、第二次世界大戦中金属供出のために撤去された。
 然るにこのたび、銅像再建の聲が盛り上がり各界の有志によって、再び朝倉丈夫氏に製作を委託しこの位置にこの銅像を建て、東京都に寄附したのである。
  昭和三十年十一月 澁澤青淵記念財團龍門社

昭和8年11月11日
財團法人澁澤青淵翁記念會建之

場所

https://goo.gl/maps/2SjJoNKm8PrTUNbX6


常盤橋

日本場川に架かる橋。上流は石橋の常磐橋。左手には渋沢栄一像、右手には日本銀行本館。

常盤橋
昭和元年11月完成

渋沢栄一像

日本銀行本館

日本橋川の上流には石橋二連の「常磐橋」

渋沢栄一・渋沢敬三と日本銀行

明治5年(1872)、国立銀行条例が制定。
明治9年(1876)、国立銀行条例全面改正。不換紙幣の発行を認めたことが一因となって、インフレが進行する。
明治14年(1881)、大蔵卿松方正義は不換紙幣の整理と中央銀行の創立をめざす建議を三条太政大臣宛に提出。大蔵卿松方正義により日本銀行創設へ。
明治15年(1882)、日本銀行条例により日本銀行が設立。第一国立銀行頭取であった渋沢栄一は割引手形審査のための日本銀行割引委員に就任。

渋沢栄一は、明治6年(1873)に日本最初の銀行「第一国立銀行」を創設。民間資本の民間経営の株式会社であったが、国立銀行条例による発券機能等を有していた。

渋沢栄一の孫である渋沢敬三は、昭和17年(1942)に日本銀行副総裁、そして昭和19年(1944)には第16代日本銀行総裁に就任している。就任は昭和19年3月18日であり、戦前最後の日本銀行総裁であった。幣原喜重郎内閣の大蔵大臣就任のために、昭和20年10月9日に日本銀行総裁を辞任している。

日本銀行本店本館

ベルギー国立銀行を参考に明治29年(1896)2月竣工。設計は辰野金吾。
明治24年(1891)に発生した濃尾地震の教訓から、高橋是清の指示で建物上部を軽量化し耐震性を高めており、2階3階は煉瓦造石貼り建築。
1974年2月5日に国の重要文化財に指定。

日本銀行本店別館

辰野金吾の弟子・長野宇平治の設計。昭和13年(1938)竣工。なお、長野宇平治は日本銀行本店別館の完成前の昭和12年に死去している。

本館の隣に別館が増築されている。

場所

https://goo.gl/maps/e93utY2d91aThXtw5


日本銀行創業の地

ちなみに、「日本銀行創業の地」は中央区日本橋箱崎にある。隅田川と日本橋川が合流する箱崎の地で創業し14年後に現在地に移転した、とのことで。
現在の日本IBM本社近く。

日本銀行創業の地
 明治十五年十月十日日本銀行はこの地で開業した
 明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
 創業百周年を記念してこの碑を建てる
      昭和五十七年十月
         日本銀行総裁  前川春雄

場所

https://goo.gl/maps/ncwXnUADuhVYrJy6A


渋沢栄一関連記事

「日本の福祉・医療の原点」養育院と渋沢栄一【渋沢栄一2】


渋沢栄一銅像

板橋区登録有形文化財
渋沢栄一銅像

初代養育院院長として渋沢栄一は50年以上養育院に関与し、他の職を辞することはあっても、養育院の運営には最後まで関与し続けた。

明治5年(1872)に、本郷の旧加賀藩邸の長屋を利用して養育院の仮施設が造られ、翌明治6年に上野に養育院本院を設置。維新後に急増した窮民収容保護のため、東京府知事大久保一翁(大久保忠寛)の「救貧三策」の一策であった。
養育院本院は、上野、神田、本所、大塚などを転々とし、関東大震災後に板橋に移転。
渋沢栄一は、大久保一翁東京府知事より、共有金の取り締まりを依頼され、養育院に関与。財政基盤が定まらない中で、渋沢栄一は初代・養育院院長として必死に寄金を集め、養育院の維持に努力。
関東大震災後に養育院本院が板橋に引っ越しし一段落した大正14年に、養育院常設委員会(委員長は東京市長)は市民の寄付金による渋沢栄一養育院院長の銅像建設を計画。
「養育院の構内に、百年の後も永久にこれを守護せんとする渋沢栄一子爵の魂魄ための定住所」という設立理由に渋沢栄一も銅像制作を承諾。

大正14年(1925)11月15日、本院完成にあわせて建立、小倉右一郎作の渋沢栄一像は、高さ4.3メートル、方5.4メートルの花崗岩台座に、高さ3.75メートル、重量1.8トンの青銅製銅像。フロックコート姿でソファーに座っている姿となる。
銅像の完成時には、渋沢栄一本人も出席して除幕式が執り行われた。

昭和20年(1945)、戦時中の金属供出によってコンクリート像に作り変えられ、銅像本体は供出予定で地上に降ろされるも、4月の板橋空襲で養育院は9割が焼失、107名の犠牲が出る中で、渋沢栄一銅像は焼け残った。そのまま運搬手段などが無くなったために渋沢栄一銅像は供出を逃れ、戦後に修復された。

旧養育院長渋沢栄一銅像
 日本の福祉・医療の原点である「養育院」は、明治5年(1872)に設立されました。渋沢栄一は明治7年以来その運営に関与し、養育院長として半世紀を超えて中心的な役割を果たしました。その偉業を顕彰するため、まだ存命中の大正14年(1925)、幅広い東京市民の醵金により建てられたのがこの銅像です。
 帝展・文展の審査員も努めた彫刻家、小倉右一郎の制作で、高さ16尺(4.3m)、方20尺(5.4m)の花崗岩の台座に、高さ10尺(3.75m)、重量480貫(1.8t)の青銅で造られています。フロックコートをまといソファーに座る晩年の姿を映しています。
 また、昭和18年(1943)金属供出のためにコンクリート製の代替像が作られ、本体は敷地の一隅に置かれて供出作業を待っていましたが、輸送の為の交通事情、都内空襲などで回収作業ができず、昭和20年4月13日の板橋地区の空襲にも焼け残り、供出されないままに昭和20年8月15日の終戦を迎えました。
 昭和32年に、作者・小倉右一郎の監修のもとに修築され、その後3回の敷地内移設を経て現状に至ってます。
 大正年間の養育院に関する造形物であり、板橋区の近代化の歴史を語る重要な史料となっています。平成26年(2014)3月に板橋区の登録文化財(歴史資料)となりました。
 平成26年12月 板橋区教育委員会

子爵渋沢栄一像

大正14年11月
小倉右一郎

大正14年11月建設寄附
澁澤養育院長銅像建設會
理事
會長 中村是公 
(以下略)

中村是公は関東大震災後の復興に取り組んだ第9代東京市長。
渋谷区広尾3丁目の旧中村是公邸(旧羽澤ガーデン)は有名であった。2011年に再開発で消失。


養育院本院

養育院本院の跡。
「養育院本院」の字は渋沢栄一の墨蹟

養育院本院の碑
 養育院は、昭和5(1871)年10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諸問に対し経営会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京芸大)、神田、本所大塚など東京市内を転々としたが、関東大震災後、現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(江戸幕府の松平定信によって創設された七分積金が明治維新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治7年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。特に第二次世界大戦後は、自動の保護や身寄りのない高齢者の養護、さらに高齢者の福祉・医療・研究、看護師の養成など時代の要請に応じて様々な事業を展開した。
 平成11年12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の膜を閉じたが、養育院が行ってきた事業はかたちをかえて現在も引き継がれている。
 養育院に関連する碑は、ほかに養育院の物故者中、引取人のいない遺骨を埋葬、回向をお願いした東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園にある。
 なお、碑の「養育院本院」は渋沢栄一の墨蹟を刻んだものである。
  平成25(2013)年3月 養育院を語り継ぐ会

この碑は元養育院職員当の篤志によって建てられました。
 地王独立行政法人 東京都健康長寿医療センター

養育院に関しては、以下に詳しい。

地方独立行政法人 
東京都健康長寿医療センター

養育院は、現在「東京都健康長寿医療センター」となっている。

https://www.tmghig.jp/hospital/about/history/

ようこそ 養育院・渋沢記念コーナーへ

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/guide.pdf

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/shibusawacorner2014.pdf

櫻園通信平成25年度発行

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/ouen_1-9.pdf


東京都健康長寿医療センター、かつての養育院を見つめる渋沢栄一像


谷中に養育院関連の慰霊碑が2つある。

養育院者故者の墓
義葬之冡(大雄寺)

台東区谷中の大雄寺では、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向を行っていた。
明治6年(1873)中の埋葬者は100名と伝えられ、寺内の一角に「義葬之冡」がある。この「義葬之冡」は養育院創立当時の唯一の遺構という。

養育院義葬の冡
 養育院は、明治5年(1872)10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原始資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治7年(1874)から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年(1879)には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成11年(1999)12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ここ大雄寺には、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向をお願いしたものである。明治6年(1873)中の埋葬者は100名と伝えられ、寺内の一角に義葬之冡がある。この義葬之冡は養育院創立当時の唯一の遺構である。
 なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多磨霊園がある。
 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
  平成22年(2010)4月 
   養育院を語り継ぐ会

義葬之冡  明治6年癸酉

幕末三舟の一人、高橋泥舟墓の墓も大雄寺にある。


養育院者故者の墓
東京都養育院慰霊碑・了俒寺

谷中霊園の隣、了俒寺(りょうごんじ)の飛地にあたる了俒寺墓地に「東京都養育院慰霊碑」がある。了俒寺の境内ではなく、谷中霊園側となるので要注意。私は場所がわからなかったので、了俒寺の御人に案内していただきました。

東京都養育院慰霊碑
 養育院は、明治五年(1872)十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事・大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関るようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史に幕を閉じた。
 ここ了俒寺の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬、回向を御願いしたものであり、明治六年末から大正二年に至る埋葬者は三千七百六十二名である。
 なお、養育院物故者の墓は、ほかに東京都台東区谷中の大雄寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園がある。

 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。

 平成二十二年(2010)四月
             養育院を語り継ぐ会
この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                          了俒寺

慰霊碑
明治6年末から
大正2年12月まで
3762名
 合葬
東京都養育院

養育院義葬之墓
明治12年3月建之

東京市養育院義葬

明治から大正にかけての合葬墓、義葬墓が5つ並んでいる。

場所は、谷中霊園の甲3号5側の隣。

谷中霊園には渋沢栄一墓もあるがそれは別記事にて。

谷中霊園の一角に、了俒寺墓地の隣に養育院慰霊碑の敷地がある。

谷中7丁目に、了俒寺がある。

突き当りの白い壁が了俒寺。左手に谷中霊園側の了俒寺墓地がある。


養育院合葬冢・多磨霊園

多磨霊園にて拝してきました。(※2021年9月)
場所は、5区の無縁墓地エリア。

東京市養育院合葬冢

歸入無為楽

昭和五年三月 成

養育院合葬冢
 養育院は、明治五(千八百七十二)年十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ここ多磨霊園には、昭和八年以降、養育院の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬し、現在も供養をしている。
 なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺及び栃木県那須塩原市の妙雲寺がある。

 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
   平成二十二(二千十)年四月 養育院を語り継ぐ会

 この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                   東京都福祉保健局

 ここ多磨霊園には、この碑文にある養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)があります。

裏には、墓標が5つ、並んでおりました。
明治・大正・昭和にかけて合葬されてきた証。

場所

https://goo.gl/maps/ykwnFSMRFTJh2xre7


大久保一翁墓

多磨霊園には、養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)もあるので拝してきた。

大久保忠寛
幕臣、のちに東京府第五代知事を務める。養育院創立時の東京府知事。養育院の設立を行い、運営を渋沢栄一に委任した。

大久保氏墓
一翁忠寛之墓

勝海舟の書、という。


栃木県那須塩原市の妙雲寺にあるという養育院者故者の墓は、訪れる機会があれば、アップデートします。


渋沢栄一関連

晩香廬と青淵文庫(渋沢栄一旧邸・曖依村荘跡)【渋沢栄一1】

2024年度発行予定の1万円新紙幣の顔、そして2021年の大河ドラマの主人公でもある渋沢栄一の邸宅は飛鳥山にあった。


渋沢栄一

日本近代経済の父、日本資本主義の父、と称される。
1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)
旧幕臣、官僚、実業家。正二位勲一等子爵。雅号は青淵。

第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所、東京株式取引所を初めとし、500を超える企業や経済団体の設立・経営に関わる。
社会福祉事業、病院医療、実業教育、女子教育、私立学校等の設立、運営、支援等、700を超える社会事業にも尽力。

実業家としては、みずほ銀行・りそな銀行・埼玉りそな銀行・王子ホールディングス・東京ガス・IHI・いすゞ自動車・立飛ホールディングス・大日本印刷・日本経済新聞・東京海上日動火災保険・東日本旅客鉄道・日本郵船・東京電力ホールディングス・東洋紡・太平洋セメント・キリンホールディングス・清水建設・日産化学・東京製綱・帝国ホテル・サッポロホールディングス・アサヒグループホールディングス・大成建設・古河グループ(古河機械金属・古河電気工業・富士通・富士電機・横浜ゴム)・オーベクス・大日本明治製糖・川崎重工業・住友重機械工業・東京建物・京阪ホールディングス・東宝・東京会館・ニッピなど、500以上に及ぶ企業の設立や運営に関わる。

教育面では、一橋大学・東京経済大学・東京女学館・日本女子大学・同志社・早稲田大学・高千穂大学・二松学舎・国士館大などに関与。

昭和6年(1931年)11月11日死去。享年91歳。
法名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。墓所は谷中霊園渋沢家墓地。


渋沢史料館

「飛鳥山3つの博物館」のひとつに、「渋沢史料館」がある。史料館本館とは別に、渋沢栄一の旧邸として大正期に建立され国指定重要文化財に登録されている建物が2棟ある。

  • 1878年(明治11年)
     渋沢栄一が飛鳥山に別荘「曖依村荘(あいいそんそう)」を設ける。
  • 1901年(明治34年)
     本邸を飛鳥山に移す
  • 1917年(大正6年)
     晩香廬竣工
  • 1925年(大正14年)
     青淵文庫竣工
  • 1931年(昭和6年)
     11月11日 渋沢栄一死去。
     旧渋沢邸は栄一門下生が結成した竜門社に遺贈される
  • 1945年(昭和20年)
     4月13日 太平洋戦争時の空襲により建物の大部分を焼失
  • 1946年(昭和21年)
     財団名を渋沢青淵記念財団竜門社に改称
  • 1982年(昭和57年)
     渋沢史料館開館
  • 1998年(平成10年)
     3月 本館新築開館
  • 2003年(平成15年)
     11月 財団名を渋沢栄一記念財団に改称
  • 2019年(令和元年)
     9月1日 渋沢史料館休館
  • 2020年(令和2年)
     11月19日 渋沢史料館リニューアルオープン

青淵文庫

大正14年(1925)竣工。重要文化財(旧渋沢家飛鳥山邸)

後日、撮影をやり直しました。。。季節が変わると見え方も変わりますね。

旧渋沢庭園
開演時間のお知らせ
開演時間 3月1日~11月30日 9:00から16:30まで
     12月1日~2月末日 9:00から16:00まで
(以下略)

ようこそ旧渋沢庭園へ
曖依村荘跡
 飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは別荘として、後には本邸として住まいした「曖依村荘(あいいそんそう)」跡です。約28,000㎡の敷地に、日本館と西洋館をつないだ主屋の他にも色々な建物が建っていました。住居等主要部分は1945(昭和20)年4月の空襲で消失しましたが、大正期の小建築として貴重な「晩香廬」と「青淵文庫」が、昔の面影をとどめる庭園の一部ともに、よく保存されています。

渋沢史料館
 渋沢栄一の1840(天保11)年から1931年(昭和6)年の91年におよぶ生涯と、携わったさまざまな事業、多くの人々との交流等を示す諸資料を渋沢史料館にて展示しております。

国指定重要文化財
晩香廬
青淵文庫

国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
青淵文庫
 所在地    北区西ヶ原2-16-1
 設計者    中村田辺建築事務所・田辺淳吉
 建築年    1925(大正14)年
 指定年月日 2005(平成17)年12月27日

 渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
 外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。
 財団法人 渋沢栄一記念財団

上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれている。

「寿」の字。

露台下より出土した「まぐさ」
露台基礎

晩香廬(ばんこうろ)

国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
晩香盧
 所在地    北区西ヶ原2-16-1
 設計者    田辺淳吉(清水組技師長)
 建築年    1917(大正6)年
 指定年月日 2005(平成17)年12月27日
 
 近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設(株))の清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。
 建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。
応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。
 財団法人 渋沢栄一記念財団

渋沢栄一像

この像は、兜町の第一銀行本店中庭にあった。

後日、撮影をやり直しました。
足場もいつの間にかしっかりと。

山形亭跡

山形亭跡
丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭です。
「六角堂」とも呼ばれていました。この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えていたところから付けられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。

兜稲荷神社跡
 日本橋兜町の第一銀行内にあった洋風の珍しい社です。1897(明治30)年の第一銀行改築時に現在地に移築されました。その後、1966(昭和41)年に破損が激しく、危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。この社は、最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後兜社は、為換座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたのです。

茶席門跡
茶席「無心庵」へ向かう途中に設けられていたいくつかの茶席門の一つです。この門をくぐってすぐに水の流れがありました。流れに架かる石橋を渡り、飛び石をたどっていくと、途中左手に「茶席待合」、さらにその奥に「無心庵」がありました。これらは、1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいましたが、当時の跡をたどることができます。

茶席待合跡
 茶席「無心庵」への途中にあった待合です。腰を下ろすだけの簡素なものですが、気持ちを落ちつけ、茶席へ誘う重要な役割を担っていました。現在は、軒下の踏石をはじめとして、礎石などがほとんど当時の形で残されています。

無心庵跡
茶室「無心庵」
設計は茶人としても有名な益田孝の弟、克徳と柏木貨一郎と言われています。
京都裏千家の茶室などを参考にして1899(明治32)年に建てられました。
栄一は、徳川慶喜の名誉回復を図るため、慶喜と伊藤博文等をこの茶室で対面させたという逸話が残されています。
無心庵には茶室のほかに広間も設けられ、伝統的なものの中に、新しい時代の茶席をも感じさせるものがあったようです。
縁先には石製の手水鉢が置かれていましたが、こうした静かなたたずまいも1945(昭和20)年4月13日の空襲で焼失してしまいました。

邀月台(ようげきだい)
無心庵の東側に切り立つ崖の斜面には、月見台がしつらえてありました。
当時、ここからは、栄一が誘致した王子製紙の工場が眼下に見え、荒川方面まで続く田んぼの先には、遠く国府台の台地や、さらにその北には、筑波山の勇姿を望むこともできたといいます。

飛鳥山は近いので、また再訪します。


渋沢栄一関連


関連

順次追加。。。

「日本建築史のパイオニア」伊東忠太作品と伊東忠太墓 

日本の近代建築を巡っていると、知らず知らずに出会っているのが「伊東忠太」が手掛けた建造物。日本近代建築において、欠かすことができない人物。
そんな伊東忠太の墓が、鶴見・総持寺にあると聞いたので脚を運んでみた。


伊東忠太

1867年11月21日-1954年(昭和29年)4月7日(享年87歳)
正三位・勲二等瑞宝章・工学博士・東京帝国大学名誉教授・米沢市名誉市民第1号。早稲田大学教授。辰野金吾の弟子。

日本建築を学問的に見直した第一人者。「日本建築史の創始」。
また明治27年当時は「造家」と約されていた「Architecture」を「建築」と訳すように提唱したの伊東忠太であった。それを受けて、明治30年に「造家学会」が「建築学会」に改称し、明治31年には東京帝国大学工科大学造家学科が建築学科に改称している。
昭和18年(1943年)に建築界ではじめての文化勲章を受賞。

伊東忠太が手掛けた建造物は枚挙にいとまがない。
以下、現存している代表的なものを。

  • 橿原神宮 1890年/重要文化財
  • 平安神宮 1895年/重要文化財
  • 東京大学正門 1912年/登録文化財
  • 弥彦神社 1916年/登録文化財
  • 明治神宮 1920年
  • 上杉神社 1923年
  • 総持寺放光観音台座 1923年/登録文化財
  • 東京商科大学兼松講堂(一橋大学) 1927年/登録文化財
  • 震災祈念堂(東京都慰霊堂) 1930年
  • 靖國神社遊就館 1930年/登録文化財
  • 靖國神社神門 1930年
  • 靖國神社石鳥居 1934年
  • 築地本願寺 1934年/重要文化財
  • 湯島聖堂 1934年
  • 神田神社 1934年/登録文化財
  • 高麗神社 1935年
  • 総持寺大僧堂 1937年/登録文化財

伊東忠太墓

総持寺の「伊東忠太の墓」は「石原裕次郎の墓」の4つ南に鎮座している。
石原裕次郎という目印がないとしょうしょうわかりにくい。

伊東忠太の墓は大谷石で造られているため年月とともに風化している。風化することを踏まえているのであれば、なおさらに奥深いものがある。

伊東家之墓

昭和15年3月建 
 伊東忠太

生前に設計した墓。
伊東忠太は昭和29年4月に亡くなっている。

総持寺の墓地担当者による立て看板が建っていました。
総持寺が伊東忠太の御子孫と連絡が取れない。。。と

大谷石で造られた外柵は一部崩壊していた。

伊東忠太の墓の場所は、「西望一 5-1」
(ちなみに石原裕次郎の墓は隣の「西望一 6-1」

大本山總持寺、墓地はかなりの広さ。

総持寺にある「浅野家墓所」の設計は伊東忠太。
伊東忠太は東京三田の浅野邸「紫雲閣」(戦災焼失)の設計も行っていた。

浅野総一郎墓所

伊東忠太設計。詳細は下記記事にて。

そのほか総持寺には、伊東忠太とは関係ないが、下記で記事にした「小野光賢と小野光景父子」や「大西瀧治郎」の墓がある。高橋三吉海軍大将の墓もあるというが未訪問(場所不明です・・・)

大西瀧治郎を偲ぶ

伊東忠太が眠る総持寺境内には、伊東忠太の作品が2つある。(ほかにも境内には伊東忠太が関わっている墓がいくつかあるが、浅野家以外の個人墓は割愛。)

総持寺・放光観音台座

大正12年(1923年)建立。花崗岩製の台座。台座の設計は伊東忠太。
登録有形文化財。

総持寺・大僧堂

昭和12年(1937年)建立。伊東忠太の設計。登録有形文化財。


伊東忠太作品

そのほか、私の写真フォルダから伊東忠太作品をいくつか掲載。

上杉神社

伊東忠太は米沢出身。
大正8年に米沢大火で焼失した社殿を、伊東忠太が設計し大正12年に竣工。

稽照殿(上杉神社宝物殿)

一橋大学兼松講堂(東京商科大学)

昭和2年(1927年)、国登録有形文化財、伊東忠太設計。

入澤達吉邸(近衛文麿邸)

昭和2年、伊東忠太設計。

東京都慰霊堂(震災祈念堂)

昭和5年(1930)、伊東忠太設計。

東京都復興記念館

昭和6年、伊東忠太設計。

東京大空襲・慰霊

築地本願寺

昭和9年(1934)、重要文化財、伊東忠太設計。

東郷寺山門

昭和15年、伊東忠太設計。

児玉神社

明治45年(1912年)、伊東忠太設計。


明治神宮

大正9年(1920)、伊東忠太設計。戦後再建。

平安神宮

明治28年(1895)、重要文化財、伊東忠太設計。

弥彦神社

大正5年(1916)、国登録有形文化財、伊東忠太設計。

神田神社(神田明神)

昭和9年(1934)、権現造鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗、国登録有形文化財、伊東忠太設計。

湯島聖堂

大成殿は伊東忠太設計、大林組施工により、1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造で再建。寛政年間の旧制をもとに復元再建したもの。

高麗神社

昭和10年(1935年)、伊東忠太設計。

靖國神社遊就館

昭和5年(1930)、登録文化財、伊東忠太設計。

靖國神社神門

昭和8年、伊東忠太設計。

靖國神社石鳥居と狛犬

昭和8年。長野の片倉財閥の奉納。伊東忠太設計。

靖國神社大灯籠

昭和10年、設計は伊東忠太。

大燈籠に関しては、別記事を作成予定。


伊東忠太作品に出会ったら追記していきます。。。

「七転八起のダルマ蔵相」高橋是清像と関連史跡

総理大臣を1度、そして大蔵大臣を6度も勤め、近代日本きっての財政家として、「ダルマさん」として、親しまれた高橋是清にまつわる史跡などを散策してみました。


高橋是清

1854年9月19日-1936年(昭和11年)2月26日
正二位大勲位子爵。立憲政友会第4代総裁、第20代内閣総理大臣。

生い立ち
1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日)、幕府御用絵師・川村庄右衛門の子として芝に生まれる。2歳で仙台藩足軽の高橋覚治の養子となる。
 11歳で横浜でアメリカ人医師ヘボンの私塾ヘボン塾(現在の明治学院大学)に入学。1867年に14歳に藩命により渡米。勝海舟の長男・勝子鹿と一緒の海外留学であった。米国ではホームステイ先で奴隷として売られてしまうが英語を習得し、1868年(明治元年)に帰国。
共立学校の初代校長を務め、教え子には正岡子規や秋山真之などがいた。

日露戦争
1892年(明治25年)日本銀行に入行。日露戦争時には 日銀副総裁として戦費調達を行ない、外債公債募集に成功。日露戦争の戦費調達の立役者となる。支払いの完済は1986年(昭和61年)
1905年(明治38年)に貴族院議員に勅選。1906年から1911年まで横浜正金銀行頭取、1911年(明治44年)に日銀総裁に就任。

政界
1913年(大正2年)、第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣に就任。立憲政友会に入党。その後の原敬内閣でも大蔵大臣に就任。原敬が暗殺された直後に、第20代内閣総理大臣に就任。立憲政友会の第4代総裁ともなった。
その後の清浦奎吾内閣時に行われた第15回総選挙の際は、高橋是清は貴族院議員から隠居し子爵の爵位を長男に譲り、自らは原敬の選挙区であった盛岡から出馬。政友会総裁として、前総裁であり盟友であった原敬の地盤から出馬し、衆議院議員として当選。清浦内閣を総辞職に追い込む。

就任した大臣職は以下
1913年
 第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣(1度目)
1918年
 原敬内閣の大蔵大臣(2度目)
1921年
 高橋是清内閣総理大臣
1924年
 加藤高明内閣の農商務大臣
1927年
 田中義一内閣の大蔵大臣(3度目)
1931年
 犬養毅内閣の大蔵大臣(4度目)
1932年
 犬養毅内閣の臨時内閣総理大臣(五・一五事件で犬養毅暗殺後の臨時内閣)
 斉藤実内閣の大蔵大臣(5度目)
1934年
 岡啓介内閣の大蔵大臣(6度目)

二・二六事件
田中義一内閣以降、高橋是清が取り組んできた金融恐慌対策、デフレ脱出のケインズ政策など、いわゆる「高橋財政」を展開してきたが、あわせて陸軍予算の削減を図っていたことから、青年将校の襲撃対象となってしまう。
昭和11年2月26日、中橋基明中尉及び中島莞爾少尉が赤坂の高橋是清私邸を襲撃。高橋是清は自宅2階寝室において拳銃で撃たれた上、軍刀でとどめを刺され即死した。享年83歳(満81歳)。
戒名は、報国院殿仁翁是清大居士


高橋是清翁記念公園

東京都港区赤坂。赤坂の高崎是清邸は赤坂御所と対面する青山通り沿いにある。現在は高橋是清翁記念公園として整備。隣のカナダ大使館もかつては高橋是清邸の敷地内であったという。

高橋是清翁記念公園の沿革
 この公園は、日本の金融界における重鎮で大勝から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家「高橋是清」翁(1854年~1936年)の邸宅があったところです。
 翁は、昭和11年(1936年)2・26事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和13年(1938年)10月高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄附し、昭和16年(1941年)6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和50年(1975年)港区に移管されたものです。第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母屋は故人の眠る多磨霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和30年(1955年)に再建されました。
 現在の面積は5,320㎡で、国道246号線の拡幅等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されています。
 園内は池を中心として石像や石灯籠が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしています。

高橋是清翁像が奥まった高台に鎮座している。

高橋是清翁像

ダルマさんと親しまれた風貌。

英字新聞を読むのが日課だったという。右手には丸メガネ。

高橋是清翁ハ安政元年江戸芝ニ生ル幼少轗軻不運十四歳ニシテ
北米ニ渡航刻苦勉學シ長シテ轉々窮境ニ在ルモ気宇益高邁識見
常ニ卓抜夙ニ特許制度ヲ創設シ殖産興業國家経済ニ盡瘁シ或ハ
戰時財政ノ確保ニ貢獻スル所多ク日本銀行総裁大蔵大臣ヲ歴任
シテ遂ニ首相ノ枢職ニ就キ日夜一死報國ノ純志ニ終始セラレタ
リ昭和十一年二月倏忽トシテ此邸ニ薨ス年八十三本邸ハ明治三
十三年以来翁カ日常起居ノ處ニシテ之ニ臨メハ洵ニヨク其ノ髙
風雅懐ヲ偲フニ足レリ
昭和十三年十月嗣子子爵高橋是資氏ハ故高橋是清翁記念事業會
ト戮カ邸地二千坪ヲ擧ケテ本市ニ寄附シ永ク翁ヲ追慕スルノ資
タラシム本市ハ其趣旨ヲ承ケ諸般ノ保存施設ヲ了セリ茲ニ公開
ニ當リ由緒ヲ記シ以テ之ヲ後世ニ傳フ
 昭和十六年六月   東京市

高橋是清時代の庭園が残されている。
この組井筒を水源にした流れや 雪見型灯籠は、後述する移築先の江戸東京たてもの園でも復原をされている。

https://goo.gl/maps/fg6zeWMD4fKzUves7


高橋是清邸

高橋是清邸の主屋が、高橋是清死後に移築されている。赤坂から高橋是清の眠る多磨霊園に移築された主屋は、休憩所「仁翁閣」として使用されていた。
昭和20年の東京大空襲で、高橋是清翁記念公園内に残っていた邸宅跡は焼失するも、多磨霊園にあった主屋は被災を免れ、平成5年に江戸東京たてもの園内に移築公開をされている。

高橋是清邸
 高橋是清邸は経済通の政治家として、明治から昭和の初めにかけて日本の誠治を担った高橋是清の住まいの主屋部分である。是清は、赤坂の丹波篠山藩青山家の中屋敷跡地約6,000平方メートルを購入し、1902年(明治35)に屋敷を建てた。
総栂普請の主屋は、複雑な屋敷構成をもっており、また当時としては高価な硝子障子を、縁周りに大量に使用している。赤坂にあった頃は、主屋のほか3階建ての土蔵や、離れ座敷がある大きな屋敷だった。
 1936年(昭和11)、是清はこの建物の2階で青年将校の凶弾に倒された(2.26事件)。敷地と屋敷はまもなく東京市に寄付され、記念公園になった。是清の眠る多磨霊園に移築され、休憩所として利用されていた主屋部分が、この場所に移築された。
建築年:1902年(明治35)
旧所在地:港区赤坂7丁目

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玄関部分と母屋部分が移築復元されている。

1階と2階と見学可能。

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明治のガラスが使われています
注意して下さい

昭和11年2月26日早朝。
青年将校たちが高橋是清が眠る2階へと駆け上った・・・。

 高橋是清は、2階の庭に面した二部屋を書斎と寝室に使っていた。是清の娘・眞喜子氏によると、書斎には大きな洋机があり、そこで仕事をしたという。また、寝室の床の間の前には文机が置かれ、就寝前にその机で習字をするのが晩年の習慣であったという。
 是清は1936年(昭和11)2月26日早朝、青年将校によって暗殺された。(二・二六事件)。兵士10数名が寝室になだれ込み、白の寝巻き姿で布団に座っていた是清に銃弾をあびせ、群島で切りつけた。即死であった。
 是清は市民から「達磨さん」と呼ばれ、親しみを持たれていたため、葬儀には、別れを告げる人々が大勢参列した。
 波乱に満ちた83年の生涯であった。

一行書「不忘念」
 曹洞宗の開祖道元は、「正法眼蔵」で「八大人覚」のひとつとして「不忘念」(正法を心に念じて、忘れないようにすること)を説いている。
 高橋是清/筆(複製)

 写真はこの建物の2階の部屋で、書斎として使用していたもの。是清は毎日欠かさず日記をつけており、英字新聞も毎日購読していた。拡大鏡は辞書を引くときなどに使っていたと伝えられる。

2階からは庭園がよく見える。

この2階の寝室で、高橋是清は暗殺された。

1階に降りる階段。

高橋是清邸の主屋を外からも拝見。

紅葉がひときわに美しいタイミングでの見学でした。

この組井筒や雪見型灯籠は、高橋是清翁記念公園にあるものを復元している。

https://goo.gl/maps/BfDQjro4hE3AyKW17


高橋是清翁之御鬚墓

高橋是清の「おヒゲ」のお墓が世田谷区にある。
東京都世田谷区弦の実相院の境内に。

永井如雲画伯が高橋是清から戴いた御髭を埋葬したお墓。

高橋是清翁之御鬚墓

高橋是清翁御鬚の墓由緒
 是清翁の鬚は旦那様のお髭として旧川越藩主の家に生まれた永井如雲画伯が身辺に大切に拝持したものである。画伯は斯道の大家として、永く宮内省御用掛りを拝命し、特に宮内省お買い上げ絵画の審査、帝室博物館所蔵国宝級絵画の鑑定補修主任として、丹青の道に精通され、霊筆を振るわれた画人である。如雲画伯は青年時代より高橋是清の庇護信任を受け、本心乾漆観音像を是清翁より直接拝受。爾後永井家の霊宝として日夜観音経を読誦信奉され居りしところ、偶々、第二次世界大戦の戦局緊迫を告げ、身辺の不安愈々急なるを感ぜられ、帝都を去り暫く桐生に疎開せらるるに当り、永代回向料金壹百円也を並びに昭和9年5月2日に戴いた御壽81歳の時の高橋旦那様の御鬚を添えて、実相禅院の寺宝として後昆に相伝すべく、當寺廿四世憲翁義宣老師に寄進せられた。時移り縁熟し、當山廿五世硯全一雄老?永代追善の鬚墓を建立。本堂安置の観音像と共に永く寺門に遺すべく茲に掩蓋供養する。更に加うるに高橋是清翁の嫡子是彰氏と令孫正治氏とは老?の親交を厚くするなかであり、両者お鬚確認の上當山に納鬚を諾され、就中令孫正治氏は老?若き日慶應義塾大学に於ける愛弟子の一人でもあり、その学恩に報いんとして祖父是清翁の納鬚の法縁となり鬚の墓開眼法筵供養に参列され、ご祖父翁の高徳を忍び老?とともに永劫の菩提を念じ虔みてともに識すものなり。

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高橋是清翁略伝
(略)
大正2年60歳の時、山本権兵衛内閣の大蔵大臣となり、その後大正7年9月29日原敬内閣の大蔵大臣。大正9年9月7日子爵(67歳)。大正10年11月13日、内閣総理大臣兼大蔵大臣(68歳)政友会総裁となる。大正13年3月24日貴族院議員辞任、盛岡より5月10日衆議院議員に当選。6月11日加藤高明内閣護憲三派内閣の農商務大臣(71歳)として入閣。翌14年4月1日商工大臣兼農林大臣(72歳)となる。昭和2年4月20日田中義一内閣の大蔵大臣(74歳)、昭和6年犬養毅内閣の大蔵大臣(78歳)、昭和7年斉藤実内閣の大蔵大臣(79歳)、続いて昭和9年11月27日岡田啓介内閣の大蔵大臣(81歳)となる。昭和10年1月14日82歳の高齢の為特旨により宮中杖を差許さる。昭和11年2月26日折からの大雪の日帝国陸軍叛乱軍青年将校らによって殺される。享年83歳。世に云う二・二六事件として史上に伝えらる。

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報国院殿仁翁是清大居士
維時 昭和61年6月吉日
 鶴松山實相禪院 (以下略

https://goo.gl/maps/Zk5svVyGzuZXNS9H9


鶴松山実相院


高橋是清墓

多磨霊園に高橋是清は眠っている。
場所は、8区1種2側16番。おなじ8区には西園寺公望墓もある。8区の向かい側の7区には同じく二・二六事件で暗殺された斎藤実墓もある。

正二位
大勲位
高橋是清墓

昭和11年2月26日薨

御誄

資性忠純立朝ノ大節ヲ全クシ気宇英爽経世ノ遠猷ヲ懐キ再ヒ閣僚ノ首班ニ列シ屡財政ノ要路ニ当ル殊域ニ渉リテ国難ヲ紓タシ老躯ヲ挺ンチテ時艱ヲ済フ勲労両ナカラ優ニ歯徳並ニ邵ク国ノ重寄ニ任シ民ノ具瞻ニ叶ヒシニ遽ニ溘逝ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘム茲ニ侍臣ヲ遣ハシ賻ヲ斎ラシ臨ミ弔セシム

(平仮名転記)
資性忠純立朝の大節を全くし気宇英爽経世の遠猷を懐き再ひ閣僚の首班に列し屡財政の要路に当る殊域に渉りて国難を紓たし老躯を挺んちて時艱を済ふ勲労両なから優に歯徳並に邵く国の重寄に任し民の具瞻に叶ひしに遽に溘逝を聞く曷そ軫悼に勝へむ茲に侍臣を遣はし賻を斎らし臨み弔せしむ

「賜誄」
誄(るい)と呼ばれるご弔意を 天皇陛下より賜っている。

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高橋是清の家紋は、三つ追い花沢瀉紋

https://goo.gl/maps/3uVd4HW8PQab8gTm9

多磨霊園


関連

秩父御嶽神社の東郷元帥立像と乃木大将立像

埼玉県飯能市。最寄りは西武秩父線吾野駅。
秩父路の途中に、東郷平八郎と乃木希典を祀る神社があった。
「秩父御嶽神社」
ちょうど紅葉の季節に機会がありましたので足を運んでみました。


本記事で触れる「秩父御嶽神社」以外に関しては以下の記事より。


吾野駅

西武鉄道としては、西武池袋線の終点であり、西武秩父線の始発にあたる駅。(飯能駅起点ではないのですね)
昭和4年(1929)に西武池袋線の前身にあたる「武蔵野鉄道」の終着駅として開業。西武秩父線の開業は昭和44年(1969)。現在の駅舎は平成9年建造。

吾野駅にポスターがありました。徒歩20分だそうです。

秩父御岳神社
東郷公園
当駅より徒歩約20分です!

吾野駅前に案内石柱がある。昭和5年12月建立。

御嶽山秩父御嶽神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

御嶽山東郷公園
 長生書

福寿山乃木公園

御嶽山秩父御嶽神社の鎮座している山を福寿山と呼称している。

「長生」とは、海軍中将小笠原長生のこと。東郷平八郎に傾倒し副官的な立場で東郷とともにあった。だいたい東郷さんの関連する場所に足を運ぶと、小笠原長生の名を見ることになる。

小笠原長生(おがさわら ながなり)
東郷平八郎に傾倒し「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

吾野駅から約20分ほどあるく。高麗川の先に社頭が見えてきた。


秩父御嶽神社

御祭神:
国常立命、大巳貴命、少彦名命、清貫一誠霊神(鴨下清八)、東郷平八郎、乃木希典、他

埼玉県飯能市鎮座。
信州木曾御嶽山を本山と仰ぎ、その御分霊を奉斎する御嶽信仰の神社。
創建は明治27年(1894)。鴨下清八(1861-1955)が創建。鴨下清八は没後に、清貫一誠霊神として祀られている。

御嶽山秩父御嶽神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

東郷公園
長生敬書

御嶽山
元帥伯爵東郷平八郎謹書

村社秩父御嶽神社
昭和戌辰秋 海軍中将子爵小笠原長生敬書

東郷公園

東郷平八郎元帥の銅像建立後、秩父御嶽神社の境内は「東郷公園」と呼ばれている。
公園内には東郷元帥像のほかに乃木希典陸軍大将銅像、日露戦争の遺物(ロシア製大砲、戦艦三笠被弾甲板)、海軍省からの記念品などが点在されている。

御嶽山東郷公園 秩父御嶽神社 御案内
 当山は、御嶽山東郷公園、秩父御嶽神社と謂い明治28年11月故鴨下清八氏の開山によるもので、名将東郷元帥の記念公園を境内にした木曽御嶽山の御分霊を奉斎する霊山である。

御祭神
 國狭槌尊八海山提頭羅神王
  (健康・和楽・長寿の神)
國常立御嶽山座王大権現
  (天福皆来・地福円満の神)
 豊斟渟尊三笠山刀利天
  (福徳開運・必勝の神)

例祭日 毎月1日・9日・15日・18日・27日

 参道入口には、開山者清貫一誠霊神銅像及び講社信仰に貢献せる諸霊神碑霊場があり、それより足を進めると、日露戦争遺物の三笠艦弾痕の甲板や砲弾、布設水雷、野砲、東郷元帥銅像や乃木大将銅像等々がある。東郷元帥銅像は元帥自ら臨席除幕なされた日本唯一のものにして東郷生身銅像とも謂う。傍には元帥お手植えの松が今でもその緑をたたえている。
 境内中腹より、365段の石段を登り途中祈祷殿各末社を経て頂上奥社に達する。
 全山に、楓樹数百本あり11月初中旬の紅葉は特に美しい。
  秩父御嶽神社社務所

かなり広いので境内の位置関係を把握しておかないと迷子になる。


砲弾と布設水雷

林立する門柱も当時からのものと思われる。

砲弾と布設魚雷
右の砲弾は日露戦争日本海開戦の時、ロシア軍バルチック艦隊より発射された主砲の巨弾で、日本海軍はこのために苦戦をしいられました。
左の球型のものは布設水雷と云い、旅順港口に多数布設され、日本海軍の入港を阻止しました。
戦後、日本軍が掃海し、引き揚げたものが」海軍省より下賜されました。

バルチック艦隊主砲 砲弾

旅順港敷設 水雷


紀念公園碑

紀念公園碑
海軍大将東郷平八郎書


門柱

皇国興廃在此一戦
各員一層奮励努力
 平八郎書

昭和3年の御即位記念のに建立された門柱。


東郷元帥銅像

紅葉に囲まれた東郷平八郎銅像。
この銅像は、東郷平八郎が生前に唯一建立をみとめたものという。

鴨下清八氏と親交のあった陸軍中将堀内文次郎も東郷平八郎を説得。
ここに唯一の生前銅像が建立した。

東郷元帥銅像
当山開祖 鴨下清八 氏は、世界の名将と称された東郷元帥の武勲と威徳を後世に伝えるべく、「皇国興廃在此一戦」との名言になぞらえ一戦を一銭とし毎日一銭ずつ蓄える一銭貯金を断行し、元帥の銅像を志しました。
元帥邸をおとずれること80余回。元帥は、我が生前の銅像建立は断じて辞退するとのことでしたが、氏の誠意に打たれ、ついには承諾されました。
氏は大正14年4月17日、元帥の望まれるままの正装したお姿の銅像を建立されました。
除幕式当日には、元帥自ら松崎海軍大臣代理、小笠原長生中将、堀内信水中将等を従えられ、小笠原中将に命じられ除幕されました。他に例のない唯一の生身銅像と称せられる所以です。

階段下に
鴨下清八氏

階段上、左から3番目から
小笠原長生海軍中将
東郷平八郎元帥海軍大将
松崎海軍大臣代理=松崎伊織?(中佐のち中将)。この時の海軍大臣は財部彪
堀内文次郎(堀内信水)陸軍中将
粕谷義三衆議院議長

東郷元帥像

嗚呼名将
 海軍大臣財部彪題


東郷元帥お手植えの松

残念ながら平成11年に枯れてしまったが、継承された松が2代目として育っている。

東郷元帥お手植えの松 大正14年4月17日

平成11年の雪害が原因で、元帥お手植えの松は惜しくも枯れ落ちましたが、近隣在住の信徒の手により実生の発芽に成功し、平成24年3月15日ここに移植、既存種の継承を確認いたしました。
 社務所


弾痕の三笠甲板

日露戦争を決定づけたのは、明治38年5月27日の日本海海戦でした。ロシア軍がウラジオ港に向けて航行させた主力バルチック艦隊を撃滅すべく、東郷司令長官ひきいる連合艦隊は日本海に待機しました。
「敵艦見ゆとの報に接し、連合艦隊は直ちに出動。之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」の第一広報に続き「皇国興廃在此一戦 各員一層奮励努力」Z信号ととともに海戦が開始されました。激戦の結果、敵艦38隻のうち逃亡3隻に過ぎず、日本軍が大勝しました。このとき、東郷長官の乗る旗艦三笠は、ロシアン軍の集中砲火をあび、甲板には蜂の巣状の弾痕を残しました。展示のものは、開園時に海軍省より下賜された旗艦三笠の甲板の一部です。


日本海海戦大捷記念碑

明治天皇御製
くもりなき朝日の旗に
あまてらす 神のみいつを
仰げ國民
 元帥伯爵東郷平八郎謹書

日本海海戦大捷記念碑
海軍中将子爵小笠原長生書


東郷神社

参拝時、東郷神社は改修工事中でした。。。

東郷神社
東郷神社は東郷元帥ご他界(昭和9年5月)の後、昭和10年4月17日に建てられました。
東郷公園創始者鴨下清八氏が元帥の御心を体し、縁も深きこの場所を鎮座地と選び、生前の元帥の功績を讃え、平和の神と仰ぎその御霊をお祀りしました。
日露戦争日本海海戦大勝の日にちなみ、5月27日を例祭日として、毎年、世界の平和と国土の安泰を祈願しています。


ロシア製3インチ野砲と至誠館

ロシア製3インチ野砲(1901年製)と至誠館
明治38年満洲の荒野において、ロシア軍新鋭の野砲のために日本陸軍は難戦苦闘しました。
日本軍の野砲は発射と同時に砲車が後退し命中率を欠きましたが、ロシア軍の野砲は砲身が自動的に後退し、使用も簡易で命中率も優秀でした。
当山の東郷神社に陸軍省から下賜されましたが、大東亜戦争の後、付属部品の盗難被害にあったのが残念です。
野砲が納められている建築物は至誠館と云い、東郷元帥来山のおり、ご休憩されました。

至誠館

大正14年(1925)4月17日の東郷元帥銅像除幕式の際に、東郷平八郎が休憩をした建物。


三笠山神社

日本海海戦の連合艦隊旗艦「三笠」と通じるものがあるが、関係ない。
御嶽信仰に関係する御嶽山の前山である三笠山に由来。
三笠山大神(豊斟淬命)


乃木神社

陸軍大将乃木希典を祀る。


乃木将軍銅像

東郷公園内には、驚いたことに東郷平八郎だけではなく乃木希典の銅像もある。

乃木将軍銅像
乃木将軍は萩出身の陸軍軍人。日露戦争時、難攻不落といわれた旅順の203高地を攻略しました。
質素倹約を旨とし、農将としても名高く、明治天皇の大喪の日の殉死はあまりにも有名です。
「農は国の本なり」との信念にも篤かった当山開祖の鴨下清八氏、将軍に師事するがごとく農業、養蚕業にも力を尽くし、昭和4年11月24日、人々の模範となるよう、この地に将軍の銅像を建立しました。
 乃木希典(のぎ まれすけ) 1849.11.11~1912.9.13

忠魂義魄
陸軍大臣宇垣一成書


秩父御嶽神社御社殿

扁額

秩父御嶽神社
 元帥伯爵東郷平八郎謹書


秩父御嶽神社祈祷殿

扁額が同じく東郷平八郎によるもの。

秩父御嶽神社
 元帥伯爵東郷平八郎謹書


清貫一誠霊神立像

清貫一誠霊神は、鴨下清八氏の神名。


御朱印

社務所で御朱印をいただきました。

いただきませんでしたが、社務所では「東郷煎餅」を頒布しておりました。

社務所の近くには里宮。通常のご祈願は里宮にて対応している感じですね。

飯能の山奥に、これほどに見どころのある神社があるとは知りませんでした。東郷平八郎と乃木希典と、日露戦争の両雄銅像を一度に拝見できる貴重な空間。ぜひとも足を運ぶことをおすすめします。


東郷氏祖先発祥地

「北千島開拓の先駆者」郡司成忠大尉の墓と言問団子桟橋

隅田公園の北側、言問団子の近く。
海軍大尉で冒険家であった郡司成忠のゆかりの地。郡司成忠の冒険は隅田川から始まったのだ。


郡司成忠(ぐんじ しげただ)

万延元年11月17日(1860年12月28日) – 大正13年(1924年)8月15日)
海軍大尉、探検家・開拓者。
開拓事業団「報效義会」を結成し、北千島の探検・開発に尽力。
小説家の幸田露伴は弟。文学博士の幸田成友も弟。妹に音楽家の幸田延、安藤幸。

幕臣幸田成延の次男として生まれた成忠は、幼年期に親戚郡司家の養子となる。
明治5年(1872)、海軍兵学寮予科へ入学。海兵6期は斎藤實が同期生であった。その後、海軍大学校甲号学生1期(加藤友三郎が同期)卒業。
ロシア帝国との国境であった千島に興味をいだいた郡司成忠は明治25年(1892)に千島移住趣意書を海軍当局へ提出するも海軍はそれを許可しなかった。
当時、北千島に居住していた千島アイヌは根室県令の命令で色丹島に強制移住となっており、北千島列島は無人であった。
郡司成忠は千島行きを諦めず、海軍大尉を退いて予備役となり、民間人として千島を目指すこととなる。
舟の手配に苦慮した郡司成忠は、横須賀鎮守府で不要になった短艇を払い下げてもらい、無謀な計画の準備をすすめていく。

報效義会
明治26年(1893年)、郡司成忠率いる千島拓殖隊は「報效義会」として志を同じくする元海軍出身者が集っていた。のちに南極探検を行う陸軍出身の白瀬矗は「自分が海軍出身者でないためボート技術に不安があるというなら、陸行と渡し船を使って独自に千島へ渡るので迷惑はかけない」と報效義会への入会を希望し、例外として白瀬も北海道で合流の上で千島を目指すことととなる。
3月14日に、幸田露伴は兄・郡司成忠の送別会を行ない、そして3月20日に隅田川で出発セレモニー開催。出発前から大変な盛り上がりであった。

第一次北千島遠征(第一次拓殖)
明治26年(1893年)3月20日、郡司以下、約40人の報效義会員は5隻のボートで千島へと旅立った。しかし八戸沖で2隻が遭難し19名が死亡。当初の計画を変更し、函館からは他の船に便乗して択捉島に移動。その後、捨子古丹島に9名、そして郡司・白瀬ら7名は占守島に渡り越冬を行った。
占守島の郡司・白瀬らは越冬に成功するも、捨子古丹島の9名は全員死亡。また清国との緊張が高まっていたことから、占守島の郡司ら7名は全員が予備役軍人であったということもあり、いったん占守島を引き揚げ帰国。
最終的に1893年から1895年の報效義会の第一次千島拓殖は31名の死者を出してしまった。

第二次北千島遠征(第二次拓殖)
帰国した郡司成忠は日清戦争に参加。水雷敷設隊の分隊長などで活躍。戦争終了後の明治29年(1896)「第二次報效義会」を結成。第一次報效義会は冒険の面が強かったが、第二次報效義会は拓殖をメインとしており、また事前準備も整え、政府から3年間補助金が出ることも決まった。
明治36年(1903)には占守島の定住者は170人まで順調に拡充していた。

日露戦争
明治37年(1904)日露戦争勃発。郡司成忠は義勇軍を編成しカムチャッカ半島に進軍するもロシアコサック兵に捕まり捕虜となる。郡司成忠が捉えられたため、「第二次報效義会」は占守島からの引き揚げを決定し、事実上の解散となる。

その後
日露戦争終了後に郡司成忠は開放され帰国。明治39年頃に再び報效義会を率いて活動を再開。その後明治42年に、露領沿海州水産組合が組織され組合長に就任。
大正4年(1915)に郡司成忠は陸軍参謀本部第二部からの指令を受けシベリアに赴いている。第一次世界大戦のさなかということもありなんらかのスパイ活動ともされている。
大正13年(1924)8月15日、郡司成忠は63歳で没した。


郡司成忠墓

池上本門寺の五重塔の下、に郡司家・幸田家の墓所がある。

従六位勲五等 郡司成忠墓

先考諱ハ成忠、幸田氏ヨリ出テ郡司家ヲ譲ク。明治二十六年報效義会を起シ、占守島ニ拠リ外国密漁者ヲ攘ヒ、夙ニ北海ノ猟漁探検敢ヘテシ、更ニ邦人拓北ノ機ヲ啓キ、後年魯領沿海州漁業権ヲ我ニ収ムルノ地ヲ為セリ。大正十三年八月十五日没ス。追叙従六位、賜勲五等。享年六十五。
 昭和五年八月十五日 郡司智麿

郡司智麿は郡司成忠の長男(外交官となる)。

露伴幸田成行墓(幸田露伴墓)


隅田公園の北。
言問桟橋から郡司成忠の冒険は始まったのだ。

言問団子桟橋

言問団子と郡司大尉
 江戸後期、向島で植木屋を営んでいた外山佐吉は、文人墨客に手製の団子を振舞う「植佐」という団子屋を開くと、花見客や渡船客の間でも人気となった。
 明治元年、長命寺に逗留していた歌人の花城翁より、在原業平が詠んだ「名にしおはゞ いざ言問はん都島 わが想ふ人はありやなしやと」に因んだ命名の勧めを受けた佐吉は、「言問団子」と名づけ、業平神社を建て、都鳥が飛び交うこの辺りを「言問ヶ岡」と呼んだ。明治11年、佐吉が始めた灯籠流しによりその名は広く知られていった。後に「言問」は、言問橋や言問通りなどの名称で定着したが、ルーツは「言問団子」である。
 また、この裏手にある桟橋からは、明治26年3月20日千島開拓に向かう郡司大尉率いる5艘の端艇が出発している。隅田川両岸はこれを憂国の壮挙と称える群衆で埋まり、花火が打ち上げられ、歓呼の声と楽隊の演奏が響く中での船出であった。この時、大尉の弟、幸田露伴はこれに同乗して横須賀まで見送っている。


郡司成忠の曾孫が運営しているサイト

http://gunjishigetada.jpvlad.com/index.htm


関連

池上本門寺

隅田公園の南側

「敵兵救助の武士道」雷艦長・工藤俊作中佐の墓

埼玉県川口市。
川口市朝日にある真言宗智山派寺院薬林寺に海軍中佐・工藤俊作の墓がある。

工藤俊作

工藤俊作。最終階級は海軍中佐。
1901年(明治34年)1月7日-1979年(昭和54年)1月12日。

1920年(大正9年)、海軍兵学校に入学。海軍兵学校の同期は、大井篤、実松譲、豊田隈雄、小園安名など。
1923年に海軍兵学校を卒業。その時の練習艦隊の一艦であった磐手の艦長が米内光政であった。

海軍少佐として1940年(昭和15年)11月1日に駆逐艦「雷」艦長となり、そのまま太平洋戦争を迎える。

1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開戦。工藤艦長の「雷(イカヅチ)」は第六駆逐隊に所属し、僚艦の「電(イナヅマ)」とともに第二遣支艦隊(新見政一中将)に属し、香港の海上封鎖を行った。
その後、戦艦「榛名」を旗艦とする南方部隊本隊東方支援隊に所属し、蘭印作戦等の南方の諸作戦に参加することになる。

スラバヤ沖海戦

1942年3月1日。スラバヤ沖海戦。
インドネシア・スラバヤ沖で、アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア連合海軍(ABDA艦隊)と日本海軍が会敵し、日本海軍が勝利。

戦闘終了後、第三艦隊司令長官の高橋伊望中将の主隊附属であった第六駆逐隊小隊「雷」は救助活動を開始。
前日の戦で沈没したイギリス海軍の「エンカウンター」乗員などの漂流者を発見した工藤艦長は「おい、助けてやれよ」と一言発して救助を指示。
敵潜水艦などからの攻撃を受ける危険を冒しながらも3時間に亘り行われた救護活動の結果、「雷」は乗組員に倍する422名を救助した。(雷の乗員は約219名)

工藤は救助した英士官に英語で「諸君は果敢に戦われた。今、諸君は大日本帝国海軍の大切な賓客である。私はイギリス海軍を尊敬するが、日本に戦いを挑む貴国政府は実におろかである」とスピーチしたという。

工藤俊作は、1942年8月13日に駆逐艦「雷」艦長から駆逐艦「響」艦長に就任。11月に海軍中佐に昇進。その後、12月に地上勤務となるも1944年11月から体調を崩し、1945年3月15日に待命となり、そのまま終戦を迎える。

戦後

戦後の工藤俊作は故郷の山形で過ごしていたが、妻の姪の開業した医院で事務仕事を行うために埼玉県川口に移住。そのまま1979年に胃癌で没している。

工藤俊作は戦後はサイレントネイビーを貫き、雷艦長での敵兵救助のエピソードなども語らず、知る人も少なかった。

フォール卿

「雷」に救助されたエンカウンター砲術士官であったサムエル・フォール元海軍中尉(フォール卿)は、戦後は外交官として活躍し、戦時中の恩人であった工藤艦長の消息を探し続けていた。
フォール卿が工藤艦長を探し当てた時にはすでに工藤俊作は他界しており、せめて工藤の墓参りと遺族への感謝を伝えようと来日を調整。
2008年に「海軍中佐工藤俊作顕彰会」の招きを受けたフォール卿は、既に89歳という高齢で心臓病も患っていたが、駐日イギリス大使館附海軍武官や護衛艦「いかづち」乗員らの付き添いのもと来日し薬林寺へと足を運ばれた。
そうして工藤艦長に66年越しに感謝の思いを伝え、長年の希望であった工藤艦長の墓参りが実現した。

フォール卿は「ジャワ海で24時間も漂流していた私たちを小さな駆逐艦で救助し、丁重にもてなしてくれた恩はこれまで忘れたことがない。工藤艦長の墓前で最大の謝意をささげることができ、感動でいっぱいだ。今も工藤艦長が雷でスピーチしている姿を思い浮かべることができる。勇敢な武士道の精神を体現している人だった」と語っている。


工藤俊作の墓

先祖代々之墓

工藤家の墓とも記載がなく、工藤俊作の墓かどうかわかりにくいお墓。
墓石の横手に、「工藤俊作」と名が記されており、それを拝見してようやく「工藤俊作の墓」であることを知ることができる。
まさに「サイレントネイビー」たるに相応しい、海軍軍人の墓であった。

厳徳俊誉信士
昭和54年1月4日
俗名 工藤俊作 行年77歳

合掌


薬林寺

真言宗智山派瑠璃山薬林寺。
開基は室町時代、開山は当山第一世法印宥淳和尚で、寛正元年(1460年)五月とされている古寺。

https://goo.gl/maps/r2nhKUVVtykP4ZkTA


川口

川口の戦跡散策。

川口の鋳物師・増田安次郎に関連して。

「最後の将軍と幕末の三舟」徳川慶喜墓と三舟墓

先日、勝海舟にまつわる史跡を巡り、勝海舟墓に参拝したら、ふと幕末三舟の残りの二人、山岡鉄舟と高橋泥舟の墓はどこにあるか気になって探してみたところ、徳川慶喜の墓所とあわせて上野界隈に集中していることがわかったので、あわせて足を運んでみました。

幕末の三舟

幕臣であった勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の3名を「幕末の三舟」と通称。

幕末の混乱期の中、鳥羽・伏見の戦いで形勢不利とみた徳川慶喜は、江戸に退却。新政府軍の東征に対して、徳川慶喜は徹底抗戦はせずに恭順を主張し勝海舟に事態収拾を一任。

戦後処理の全権を任された勝海舟は、官軍の西郷隆盛との交渉役に高橋泥舟を推薦。高橋泥舟の誠実剛毅な人格を見込んでのことであった。しかし高橋泥舟は徳川慶喜の信任篤く、また江戸城から寛永寺への謹慎し恭順の意を表している徳川慶喜の護衛という大任もあり主君の傍を離れることができなかった。
高橋泥舟は代わりに義弟にあたる山岡鉄舟を推薦。

山岡鉄舟は徳川慶喜直々に新政府軍との交渉役の使者に命じられ、駿府に赴く前に勝海舟と面談。このときが勝海舟と山岡鉄舟の初対面であった。
勝海舟は山岡鉄舟の人柄を認め西郷隆盛あての書を山岡鉄舟に託した。

慶応4年(1868)3月9日、駿府で西郷隆盛と面談した山岡鉄舟は、勝海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を調停に取り計らうように嘆願。
徳川慶喜の身の安全を保証させる交渉に成功し、勝海舟と西郷隆盛の江戸無血開城の最終会談の根回しを、山岡鉄舟が見事に成し遂げている。

その後に3月13日14日の勝海舟と西郷隆盛の会談にも山岡鉄舟は立ち会いをしており、徳川慶喜自ら「官軍に対し第一番に行ったのはそなただ。一番槍は鉄舟である。」と山岡鉄舟を褒め称えている。


徳川慶喜墓

大正2年(1913)11月22日没。享年77歳。

明治維新後は駿府改め静岡に居住。政治的野心は一切なく、写真や狩猟、投網、囲碁、謡曲などの趣味に没頭。明治30年に東京・巣鴨に移住。明治34年に小石川(文京区春日)に転居し、そこが終焉の地となった。
明治35年に公爵に叙せられ、徳川宗家とは別家として徳川慶喜家を興す。あわせて貴族院議員に就任。35年ぶりに政治に関わることとなる。
明治43年に家督と貴族院議員を七男・慶久に譲り隠居。
大正2年11月22日午前4時10分、死去。

徳川慶喜の墓は谷中墓地(谷中霊園)にある。徳川歴代の墓地がある寛永寺・増上寺ではなく、徳川慶喜のみが谷中墓地区画に祀られている理由のひとつが神式墓所であるためという。歴代の徳川将軍墓所は仏式。明治天皇に感謝の意を表するために神式での葬儀を遺言したとされる。
向かって右側に徳川慶喜墓、左手に正室である徳川美賀子墓。後方には側室の墓も祀られている。

従一位勲一等徳川慶喜之墓

東京都指定史跡
徳川慶喜墓
 徳川慶喜(1837-1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第7子で、初めは一橋徳川家を継いで、後見職として徳川家茂を補佐しました。慶応2年(1866)、第15代将軍職を継ぎましたが、翌年、大政を奉還し慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦いを起こして敗れ、江戸城を明け渡しました。復活することはなく、慶喜は江戸幕府のみならず、武家政権最後の征夷大将軍となりました。
 駿府に隠棲し、余生を過ごしますが、明治31年(1898)には大政奉還以来30年ぶりに明治天皇の謁見しています。明治35年(1902)には公爵を授爵。徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、貴族院議員にも就任しています。大正2年(1913)11月22日に77歳で没しました。
 お墓は、間口3、6メートル。奥行き4、9メートルの切石土留を囲らした土壇の中央奥に径1、7メートル、高さ0、72メートルの玉石畳の基壇を築き、その上には葺石円墳状を成しています。
 平成22年3月 建設
  東京都教育委員会

徳川慶喜公事蹟顕彰碑
従一位勲一等公爵徳川慶喜公ハ水戸藩主徳川斉昭卿ノ第7子トシテ天保八年九月二十九日生レ弘化四年一橋徳川家を相續シ慶應二年征夷大将軍ノ宣下を蒙ル
時恰モ幕末維新ノ動乱ニ會シ内ニハ尊王攘夷ノ論ノ大イニ沸騰スルアリ
外ニハ歐米列強ノ競ウテ隙ヲ窺フアリ
内憂外患天下騒然タルニ方リ公ハ世界ノ大勢ヲ洞察シ國情ノ趣クトコロヲ看破シ二百六十五年ノ幕府政権ヲ朝廷ニ奉還シテ天皇親政ノ大本ヲ復原シ以テ日本近代國家發展ノ端緒ヲ啓ク
コレ實ニ公ノ叡智英斷ノ致ストコロニシテソノ功績赫灼トシテ萬世ヲ照ラストイフベシ
維新ノ後公ハ野ニ下リテ閑雲野鶴ヲ楽シマレシガ天恩優渥篤ク勲功ヲ嘉賞アラセラレ特ニ一家ヲ創立シテ榮爵ヲ賜ハル
大正二年十一月二十二日薨去セラル
壽七十七
茲ニ明治百年祭ニアタリ公ノ偉徳ヲ追慕シ碑ヲ建テテ謹ミテ顕彰ノ誠意ヲ捧グ
 昭和四十三年十一月
  徳川慶喜公事蹟顕彰會


勝精墓(かつ くわし)

勝海舟の長男勝小鹿の娘婿で徳川慶喜の10男であった勝精の墓も近くにある。それこそ徳川慶喜墓の向かいにある。
勝海舟の嫡男であった勝小鹿が早世したために、小鹿の娘である伊代子(勝海舟の孫)の婿となる。勝海舟が養父となり、勝精として勝家を相続。墓は養父である勝海舟の近くではなく、実父の徳川慶喜の近くに。

従三位伯爵 勝精
室    伊代子 墓

昭和7年7月10日 薨去

勝精の墓の右斜め前には、実父である徳川慶喜の墓所がある。

https://goo.gl/maps/fa7EMRuhbrsD7gXJ6


山岡鉄舟墓

明治21年(1888)7月19日没。享年53歳。戒名は「全生庵殿鉄舟高歩大居士」

明治維新後の山岡鉄舟は、徳川家達(徳川宗家第16代)に従い、駿府に下る。
明治4年の廃藩置県を機に明治政府に10年の約束で出仕。明治5年より侍従として明治天皇に仕える。
明治15年に徳川家宗家の徳川家達より徳川家存続の功績を褒賞し徳川家家宝の名刀が鉄舟に与えられた。(勝海舟には名刀等は与えられていない)
約束通り10年で明治政府から下野した鉄舟は明治16年(1883)、維新に殉じた人々の菩提を弔うために「普門山全生庵」を建立。
明治21年(1883)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐の姿で絶命。胃癌であったという。
「鉄舟のいない世の中は、生きるに値しない。」として多くの殉死者があった。

東京都指定旧跡 
山岡鉄舟墓 
  所在地:台東区谷中5丁目4番7号 全生庵墓地
  指定:昭和28年11月3日
 江戸開城の功労者で宮内省御用掛を務めた鉄舟は、天保7年(1836)6月10日幕臣小野朝右衛門の5男として江戸本所に生まれた。通称は鉄太郎、諱は高歩(たかゆき)、字は礦野(こうや)、猛虎、鉄舟、一楽斎は号である。父の飛騨郡代在任中、高山で井上清虎に一刀流を学んだ。嘉永5年(1852)江戸に戻り槍術の師山岡静山の婿養子となって山岡家を嗣いだ。幕末の動乱の仲で東征軍の東下に対し、駿府で西郷隆盛と会見し、勝海舟と協力して江戸無血開城を実現させた。
 明治維新後は天皇の側近として宮内大書記官や宮内少輔などを歴任した。公務の傍ら剣術道場を開き、明治13年(1880)には無刀流を創始した。書家としても優れ、また明治16年(1883)臨済宗普門山全生庵の開基となった。開山は松尾越叟である。明治21年(1888)7月19日53歳で死去した。
 山岡家墓所には、基壇上にある有蓋角塔の正面に「全生庵殿鉄舟高歩大居士」とある。墓所の周囲には、鉄門といわれる石坂周造、千葉立造、松岡萬(つもる)、村上政忠の墓がある。
  平成13年3月31日 設置
   東京都教育委員会

全生庵殿鉄舟高歩大居士

明治21年7月19日薨
従三位勲二等子爵山岡鉄太郎

山岡鉄舟の墓は本堂から直線。

山岡鐵舟居士之賛碑
鐵舟と交流のあった実業家平沼専蔵によって明治二十三年に建てられた碑で、上部に有栖川宮熾仁親王の篆書体で「山岡鐡舟居士之賛」と題され、碑文には浄土宗初代管長の鵜飼徹定による詩文が、勝海舟の書によって刻まれている。
 剣は一刀流を極めて無刀流を開き、禅は天竜寺滴水和尚に受け、書は弘法大師入木道の伝統を継いだ、剣・禅・書の大家である鐵舟を讃える碑であり、その才質の比類なきことを伝え、国を思う心の深いことを記す。鐵舟が在家の仏教者であったことから維摩居士に比されている字句も見える

有栖川宮熾仁親王の篆書体で「山岡鐡舟居士之賛」
碑文は浄土宗初代管長の鵜飼徹定による詩文を勝海舟の書で刻んでいる。

全生庵

明治13年(1880)、山岡鉄舟が明治維新に殉じた人々の菩提を弔うために創建を発願。富山高岡の国泰寺から越叟義格(松尾義格)を開山に招聘して1883年(明治16年)に創建。

国事殉難志士墓
大正3年7月19日建之

谷中大観音
北村西望作。

境内には、山岡鉄舟の弟子であった初代・三遊亭円朝の墓もある。

東京都指定旧跡 
三遊亭円朝墓 
  指定昭和28年11月3日
 初代三遊亭円朝は、通称出淵次郎吉といい、天保10年(1839)4月1日音曲師橘屋円太郎(出淵長蔵)の長男として江戸湯島切通町に生まれた。2代目三遊亭円生の門人となり、安政2年(1855)16歳で真打ちとなる。芝居噺で人気を博し「真景累ヶ淵」や「怪談牡丹燈籠」「塩原多助一代記」などを創作した。本業の話芸以外にも點茶、華道、聞香、和歌、俳句、書画など和敬清寂の道に精通していた。建築、作庭にも秀で、自らの設計監督によって内藤新宿では、数寄屋造の家屋や茶室、更に新宿御苑を借景とした百坪余りの枯山水の平庭を完成させた実績もある。また、臨済禅の修行においても、山岡鉄舟や由利滴水の指導の下に参禅し、難しい公安を喝破して居士号を授けられた。さらに書画古美術に対する鑑識眼は極めて高く、毎年円朝忌を中心に円朝の収集した幽霊画が公開されている。明治33年(1900)8月11日62歳で死去した。墓石には山岡鉄舟の筆により「三遊亭円朝無舌居士」とある。
 平成13年3月31日 設置
  東京都教育委員会

山岡鉄舟の筆による「三遊亭円朝無舌居士」

https://goo.gl/maps/wFu459xxcHKf7GeW9


高橋泥舟墓

明治36年(1903)2月13日没。享年69歳。
旗本・山本正業の次男。母方の高橋家の養子に出る。
槍の名家であった長兄・山本静山が27歳で早世すると、山岡家に残る妹の英子の婿養子として門人の小野鉄太郎を迎える。これがのちの山岡鉄舟。高橋泥舟の義理の弟となる。
明治維新後は徳川家が静岡に移住するとそれに従い地方奉行を務める。廃藩置県後は職を辞して東京に隠棲。

高橋泥舟墓
 台東区谷中6丁目1番26号 大雄寺
 高橋泥舟は幕末期の幕臣、槍術家。名は政晃。通称謙三郎。のち精一。泥舟と号した。山岡鉄舟の義兄にあたる。天保6年(1835)2月17日、山岡正業の次男として生まれ高橋包承の養子となる。剣術の名人として世に称賛され、21歳で幕府講武所教授、25歳のとき同師範役となり、従5位下伊勢守に叙任された。
 佐幕、倒幕で騒然としていた文久2年(1862)12月、幕府は江戸で浪士を徴集し、翌3年2月京都へ送った。泥舟は浪士取扱となったが、浪士が尊攘派志士と提携したため任を解かれた。同年12月師範役に復職し、慶応3年(1867)遊撃隊頭取となる。
 翌4年1月「鳥羽伏見の戦い」のあと、主戦論が多数を占めていた中で、泥舟は徳川家の恭順を説き、15代将軍徳川慶喜が恭順の姿勢を示して寛永寺子院の大慈院に移り、ついで水戸に転居した際には、遊撃隊を率いて警護にあたった。廃藩置県後は、要職を退き、隠棲し書を楽しんだという。明治36年2月13日没。
 勝海舟、山岡鐵舟とともに幕末の三舟といわれる。
  平成16年3月
   台東区教育委員会

クスの大木の下に立つ高橋泥舟墓

大雄寺
台東区谷中鎮座。
境内には「養育院義葬之冡」もある。

https://goo.gl/maps/SH16pv8p2dPiJ3k57


勝海舟墓

勝海舟墓は別記事にて

https://goo.gl/maps/oi88Ddnf1gYSCWr89


以上、徳川慶喜と幕末の三舟、勝海舟・山岡鉄舟/高橋泥舟の墓散策でした。

「日本海軍の生みの親」勝海舟像と勝海舟墓

都内で、勝海舟にまつわる史跡などを散策してみました。

勝海舟銅像(墨田区役所うるおい広場)

勝海舟(勝麟太郎/勝安芳

旧幕臣。政治家。
正二位勲一等伯爵。明治政府の初代海軍卿。(初代海軍大臣は西郷従道)

幼名及び通称は「勝麟太郎」。諱は「勝義邦」。幕末に「安房守」に任官し「勝安房」を名乗っていたことから、明治維新後に改名して「勝安芳」(かつ・やすよし)と名乗る。
号は「勝海舟」。山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。

幕末
文政6年(1823)に江戸本所にて生まれる。天保9年(1838年)家督相続。
安政6年(1859年)に、赤坂氷川神社の近くに転居。以来、赤坂界隈を拠点に活動をすることとになる。
嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊来航。勝海舟は海防意見書を提出すると幕府老中首座阿部正弘の目に止まり異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられることとなる。その後、長崎海軍伝習所に入門。オランダ語ができたことから長崎海軍伝習所教監も兼ね、伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めた。足掛け5年を長崎で過ごしたが、船乗りに向かない体質で、頻繁に船酔いに苦しんでいたという。
江戸築地に軍艦操練所が開設されると、勝海舟は長崎から江戸に戻り、軍艦操練所教授方頭取に就任。

咸臨丸での渡米
万延元年(1860年)
幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカへ派遣する。

遣米使節の正使は新見正興、副使は村垣範正、目付に小栗忠順らが選ばれ、アメリカ海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米。
この時、護衛と言う名目で軍艦を出すことにし、咸臨丸がアメリカ・サンフランシスコに派遣された。
咸臨丸には軍艦奉行(司令官格)として木村喜毅(木村兵庫頭・木村芥舟)、軍艦操練所教授方頭取(艦長格)として勝海舟が乗船し、米海軍から測量船フェニモア・クーパー号艦長だったジョン・ブルック大尉が同乗し咸臨丸の航海を助けた。通訳のジョン万次郎、木村喜毅の従者として福沢諭吉(福澤諭吉)も咸臨丸に乗り込んだ。
帰国後は蕃書調所頭取助や講武所砲術師範などに就任。

私塾・海軍塾
勝海舟は先行して私塾として「海軍塾」を設立。当初は大阪に設置し、後に神戸に移転している。海軍塾塾頭は坂本龍馬、塾生にはのちの外務大臣となる陸奥宗光や、初代連合艦隊司令長官となり日清戦争に勝利する伊東祐亨などがいた。

神戸海軍操練所
文久2年(1862年)、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行並、そして幕府艦隊を統括する軍艦奉行に就任し、神戸海軍操練所を設立。
しかし、勝海舟は禁門の変の影響で軍艦奉行を罷免となり約2年の蟄居生活を送ることとなる。また、神戸海軍操練所も反幕的な色合いが強かったため慶応元年(1865年)に閉鎖となる。

江戸城無血開城
慶応2年(1866年)5月28日に軍艦奉行に復帰。
慶応4年(明治元年、1868年)戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北。
徹底抗戦を主張する小栗忠順が罷免され、海軍奉行並を経て「陸軍総裁」に起用。
官軍が駿府城に到達した際に、勝海舟は早期停戦と江戸城の無血開城を主張。

高橋泥舟の推薦により、徳川慶喜から使者として命じられた山岡鉄舟が駿府へ交渉へ赴く前に勝海舟と基本方針を擦り合わせした。勝海舟は山岡鉄舟に東征大総督府東海道先鋒参謀であった西郷隆盛宛の手紙を託す。

慶応4年(明治元年、1868年)、江戸城総攻撃3月15日の直前の3月13日と14日には勝海舟が西郷隆盛と会談。
江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸城無血開城によって江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救わることとなった。

明治時代
明治維新後も勝海舟は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議、海軍大輔、海軍卿、元老院議官、枢密顧問官などを歴任し、伯爵に叙された。
しかし明治政府への仕官に気が進まず、辞退や短期間での辞職などを繰り返していた。
晩年も赤坂氷川の地で過ごしており、明治32年(1899年)1月19日に脳溢血により意識不明となり死去。享年77歳。
戒名は、大観院殿海舟日安大居士
勝海舟の最期の言葉は、「コレデオシマイ」であったという。


勝海舟寓居・海軍塾(専稱寺)跡(大阪)

大阪。
神戸に海軍操練所ができる前に、勝海舟は大阪で私塾「海軍塾」を開設していた。そして大阪での勝海舟の寓居が「専稱寺」であった。

勝海舟寓居・海軍塾(専稱寺)跡
この付近「淡路町3丁目」はもと「北鍋屋町」といい、専稱寺がありました。
文久3年(1863)勝海舟が住み、坂本龍馬や近藤長次郎らはこの国をまもるための海軍技術を学びました。その後は、塾は神戸(現兵庫県)に移ります。

 専稱寺は寺伝によると、江戸初期に北鍋屋町に開山され、明治33年(1900)には神戸に移転し、現存する浄土真宗本願寺派の寺です。慶応2年(1866)に記載された水帳には、表口11間、裏口20間の広さとあります。北鍋屋町は後に区画整理などで、現在の淡路町2丁目5から6、同三丁目1から2に該当します。
 文久3年(1863)3月朔日(1日)幕臣勝海舟は「(略)此日、旅宿を北溜屋町真正寺にっ定む 坂下(本)、新宮、京師より来る」と「海舟日記」に記しています。文久3年9月9日にも「(略)専修寺旅宿に入る(略)」という記載があり、また。勝の知人である幕臣 杉浦梅潭は、日記の文久4年正月7日条に「勝麟太郎旅宿 北鍋屋町 専正寺」と記しています。
 勝海舟は「日本の海軍 一大共有の海局」を目指し、佐藤与之助を塾頭として、私塾「大阪海軍塾」を専稱寺で開きました。塾生には、坂本龍馬をはじめ、望月亀弥太、高松太郎、千屋寅之助らも加わり、航海術を学びました。
 この頃、行動長次郎は南鍋屋町にある「大和屋弥七」の娘 徳 と結婚し、遺児 百太郎 が生まれます。
 また、勝海舟は、桂小五郎・井上聞多・松本良順・西郷吉之助らが、大阪の旅宿を訪れたと記していて、ここ専稱寺の可能性があります。
  (漢字は原文を使用しています。)
  平成22年9月

記念碑が有るのみ。

場所

https://goo.gl/maps/EvZMwer5TncQvJkQ6


神戸海軍操練所

以下の記事にて別掲載。


洗足池
勝海舟別邸(洗足軒)跡

洗足池には、勝海舟の別邸「洗足軒」があった。
洗足軒跡は、現在は大田区立大森第六中学校となっている。

勝海舟別邸(洗足軒)跡
勝海舟(1823~99)の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。
鳥羽・伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。
その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。
その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。明治二十四年(1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。
 池のもに 月影清き今宵しも
  うき世の塵の跡だにもなし
晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。
 うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
  秋はにしきを織りいだすらむ
明治三十二年(1899年)七十七歳で没しましたが、『富士を見ながら土に入りたい』との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。
石塔の『海舟』の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。
 平成11年3月
 勝海舟没後百年を記念して
 社団法人 洗足風致協会

勝海舟
勝海舟は、幕末から明治にかけて激動の時代を駆け抜けた。
スクリュー式蒸気軍艦「咸臨丸」で渡米し、海軍の育成に努めるなど、非常に革新的な考えを持った幕臣と言われている。
慶応4年(1868)年に新政府軍が江戸に進軍した際には、薩摩藩邸における西郷隆盛との会見や池上本門寺での交渉を経て、「江戸城無血開城」を実現させたことでも有名である。
池上本門寺での交渉に赴く歳、洗足池付近で休息を取ったと言われる。そのときに洗足池周辺の風景を気に入り「洗足軒」という別荘を現在の大森第六中学校の地に構えた。

洗足軒後は大森第六中学校。

https://goo.gl/maps/PwYX94cybFc2jqCu5


勝海舟記念館(旧・清明文庫)

1899年に勝海舟は死去。勝海舟死去後、使われることのなかった洗足軒の地を、財団法人清明会が譲り受け講堂兼図書館を1928年(昭和3年)に建設。戦後は学習研究社の「鳳凰閣」として使用され、2012年に大田区の所有となる。
2019年に清明文庫東側面に併設する形で増築され「大田区立勝海舟記念館」として再整備された。

1928年(昭和3年)建設。鉄筋コンクリート2階建て。ネオゴシック様式を基調としアール・デコ調の文様などが施されている。
2000年に国登録有形文化財に登録。

清明文庫の建物
 この建物は昭和3(1928)年に竣工し、外観は正面中央部のネオ・ゴシックスタイルの柱型4本が特徴的で、内部はアールデコ調の造作が施されている折衷様式の建築です。
 用途や間取りの改変や破損部の修理が重ねられているますが、内外とも竣工時の意匠や仕様、建具が良好な状態で残っており、昭和初期の建築様式と技術残す貴重な歴史的建造物です。ただ、設計図は残っておらず、設計者も分かっていません。残されている大正13(1914)年当時の図面では、一部は木造の設計でしたが、当時普及が進み始めた鉄筋コンクリート造に変更され、現在に至っています。

旧貴賓室
 この部屋は、かつて、お客様などをお迎えする貴賓室として使われていました。床材は、記念館が整備される前まで、当時の木材が一部残されており、3種の材料を組合わせた寄せ木造りでした。しかし、劣化が進んでいたため、同様の材料を用いて、全面的に再現しています。

寄木床
展示室5(旧貴賓室)の寄木床仕上は、建設当時高級材料であったラワンやオーク材を用いて、美しいパターン貼りで構成されていました。
 既存の床は傷みや破損があったため、建設当時と同じ樹種の新しい材料を使って復原しています。皆様の目の前にあるのは、既存の寄木床の良好な部分を残したものです。


勝海舟胸像

勝海舟胸像
 この胸像は、海舟の晩年の姿を表現したもので、彫刻家・高村光雲の弟子である本山白雲の作品です。
 白雲は、高知県の坂本龍馬像を始め、偉人の銅像を多数制作したことで知られていますが、現存するものは少ないといわれています。本作は、昭和25年(1950)年以来、東京都議会に保管されていたものです。

本山白雲作

https://goo.gl/maps/5RBziFEGZ3qd95Vj6


勝海舟の墓

洗足池公園の一角に勝海舟夫妻の墓がある。
勝海舟の生前の希望で、洗足池のほとりに眠る。

海舟の文字は、徳川慶喜公によるものという。

大田区文化財
勝海舟夫妻の墓
 勝海舟、諱は義邦、初め麟太郎、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政6年(1823)江戸に生れる。幕臣として万延元年(1860)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(1868)江戸開城に尽力する。
維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。
洗足池やその周辺の風光を愛し、明治32年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。
別荘洗足軒(現在は大森六中)で次の歌をよまれた。
   千束せんぞく村の別墅べっしょに
       楓樹数株を植ゑて
  うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
     秋はにしきを 織りいだすらむ
  染めいづる 此の山かげの 紅葉は
     残す心の にしきとも見よ
          (氷川歌集より)
昭和49年2月2日指定
大田区教育委員会

勝海舟先生墓前

手水鉢には、「子爵 榎本武揚」の名も刻まれていた。

https://goo.gl/maps/W5CPMR2Sfv4xH5do9

江戸無血開城顕彰碑

勝海舟墓所のとなりには、江戸無血開城顕彰碑

江戸無血開城顕彰碑
慶應三年十二月 王政古ニ復シ翌明治元年二月大總督熾仁親王 勅ヲ奉シ 錦旗東征セラレ三月十五日ヲ期シテ江戸城ヲ攻メシム城兵決死一戦セントシ兵火将ニ全都ニ及ハントス時ニ勝安芳幕府ノ陸軍總裁タリ時勢ヲ明察シテ幕議ヲ歸一セシメ十四日大總督府参謀西郷隆盛ト高輪ノ薩藩邸ニ會商シテ開城ノ議ヲ決シ四月十一日江戸城ノ授受ヲ了セリ都下八百八街數十萬ノ生霊因テ兵禍ヲ免ガレ江戸ハ東京ト改稱セラレテ 車駕此ニ幸シ爾来 三朝ノ帝都トシテ殷盛比ナシ是レ一二隆盛安芳ノ兩雄互ニ胸襟ヲ披キテ邦家百年ノ大計ヲ定メタルノ賜ナリ今ヤ東亞大有為ノ秋ニ方リ當年兩雄ノ心事高潔ニシテ識見卓抜ナリシヲ追慕シ景仰ノ情切ナリ茲ニ奠都七十年ニ際シ兩雄ノ英績ヲ貞石ニ勒シテ之ヲ顕彰シ永ク後昆ニ傳フ
 昭和十四年四月
 東京市長従三位勲一等小橋一太謹識


洗足池公園

公園の一隅に聖域がある。勝海舟墓所のとなり。

西郷隆盛留魂祠

留魂祠は、明治10年(1877)に戦死した西郷隆盛(南洲)を惜しんで、勝海舟が、西郷隆盛の7回忌に際して明治16年に造立した祠。
先んじて西郷隆盛の漢詩碑を建碑し、留魂祠ともに葛飾区の浄光寺境内にあった。勝海舟没後、勝海舟夫妻墓の隣地にあたる当地へ大正2年に移転したという。

留魂祠
一、祭神 南洲西郷隆盛先生
一、例祭 毎年九月二十四日
由緒
 明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治十(一八七七)年の西南戦役により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治十六年(一八八三年)、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」の「願留魂魄護皇城」に由来するものです。
 この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木一-五-九)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正二(一九一三)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。
 南洲会

西郷隆盛留魂詩碑

勝海舟が、西郷隆盛の死をいたみ、詩とその筆跡を遺すために、三回忌にあたる明治12年に自費で建立したもの。裏面には勝海舟が撰文した由来を記している。もとは葛飾区の浄光寺境内にあった。勝海舟没後、勝海舟夫妻墓の隣地にあたる当地へ大正2年に移転したという。

内容は西郷隆盛が沖永良部島の獄中で作った七言律詩。「願留魂魄護る皇城」から留魂詩と称される。

南洲先生建碑記

留魂碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治16年(1883)に建立。
留魂碑が明治12年7月27日に彫刻され、谷中の石工郡鶴のもとから浄光寺に建立された経緯が記載されている。

勝海舟追慕碑

大正2年に勝海舟門下生の富田鐵之助が記したもの。留魂碑が建立されて現在地に移設された経緯などが記されれている。

徳富蘇峰詩碑

昭和12年に、有志が建立。
勝海舟門下生であった徳富蘇峰の詩を刻み建立。
勝海舟と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を讃え、両雄を偲ぶ内容。

https://goo.gl/maps/KtnmYM2pYCNzRS6R9


勝海舟銅像

場所は変わって、隅田川近く。
墨田区役所となりの広場に、右手を突き出した勝海舟像がある。
木内禮智作。像高2.5m、台座も入れると5.5mとなる。

勝安芳
 勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823年)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899年)1月19日(発表は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
 勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
 この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区にに寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
  海舟生誕180年
 平成15年(2003年)7月21日(海の日)
 墨田区長 山崎昇

https://goo.gl/maps/TgLkQzqUAB7626a76


勝海舟生誕の地
 (墨田区立両国公園)

同じく墨田区。両国駅の南側。
墨田区立両国公園が勝海舟の生誕の地であった、という。近くには吉良上野介邸跡もある。

勝海舟生誕の地
所在地 墨田区两国四丁目二十五番
 勝海舟は、文政六年(一八二三) 正月三十日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父権究(小吉)は男谷忠怒(幕府勘定組頭)の三男で、文化五年(一八〇八)七歳のとき勝元良に養子入りし、文政二年に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は七歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は、旗本天野左京の自宅ニ階(現亀沢ニ丁目三番)や代官山ロ鉄五郎の貸家(現亀沢三丁目六番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年、旗本岡野融政の貸地(現緑四丁目二十五番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化三年(一八四六)までそこで暮らし、島田虎之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参拝していたと伝えられています。
 海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保十四年(一八四三)二十一歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永三年(一八五O)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永六年六月三日のことでした。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政二年(一八五五)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附南書翻訳御用となり、翌三年に講武所砲術師範役、同六年に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていきました。そして、同七年正月には日米修好通商条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行を務めるなど、政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。慶応四年(一八六八)三月に行なわれた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事となりました。
 海舟は新政府で高官に任ぜられますが、明治八年(一八七五)十一月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。同十九年(一八八六)五月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。
 明治三十二年(一八九九)一月十九日、海舟はも七十七歳で病没。洗足池呼の墓で静かに眠っています。
  平成二十三年三月
  墨田区教育委員会

勝海舟生誕之地
法務大臣 西郷吉之助書

西郷吉之助は、西郷隆盛の嫡男である西郷寅太郎の三男。西郷隆盛の孫にあたる。第2次佐藤内閣(1968年・昭和43年)の法務大臣。

碑文
勝海舟先生は幼名を麟太郎と稱し文政6年1月晦日この地男谷家邸内に生まる
剣は島田虎之助に師事し蘭學海洋術を學び安政7年咸臨丸艦長として渡米す
明治元年3月13日高輪薩摩邸に於いて西郷隆盛と會談
官軍の江戸進撃を中止させ江戸百萬の庶民を戰禍より救い東京都繁栄の基礎となせり
明治32年1月19日赤坂氷川の自邸に於いて歿す
明治百年を記念しこの碑を建つ
 昭和43年12月吉日  秀魚書
  勝海舟両国顕彰会
  両國1丁目町会
  両國2丁目町会
  両國3丁目町会
  両國4丁目町会有志
  元男谷邸跡

由来碑
(表)
勝海舟は幼名を麟太郎といい 文政6年(1823)1月13日この地 男谷精一郎邸内で生まれた。
剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。
慶應4年(1868)3月13日 高輪薩摩藩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去 行年77歳であった。
墓は洗足池畔に建立されている。
平成元年10月
墨田区
(幕府講武所剣術師範役 元 男谷邸跡)

(裏)
社団法人 東日本硝子工業会
会長 瀧波榮一郎 之納
両国勝海舟 顕彰会
平成元年10月吉日

勝海舟幕末絵巻
勝海舟の歩みと、様々な出会い

鳶が鷹を生んだ 
 勝海舟誕生
 文政6年 1823年
幕府海軍の礎となる
 長崎海軍伝習所
 安政2年 1855年
勝海舟アメリカへ
 咸臨丸の渡航
 安政7年 1860年
坂本龍馬との出会い
わずか一年の夢の跡
 小梅海軍操練所
 元治元年 1864年
活と西郷で江戸を救う
 江戸城開城
 慶應4年 1868年

https://goo.gl/maps/H8BozMNRXWwBTxR29


勝海舟翁之像

能勢妙見山別院
妙見山妙見堂(東京都墨田区本所4丁目)

勝小吉・勝海舟父子の信仰が篤かった寺院。

勝海舟9才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎え海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建られた。
昭和49年5月12日

https://goo.gl/maps/r7EgAY5NMttE4X1C9

https://www.myoken.org/tokyobetsuin/


勝海舟・坂本龍馬の師弟像
勝安房邸跡
勝海舟終焉ノ地

現在は、港区立特別養護老人ホーム、もとは氷川小学校があった地の一角に、勝海舟と坂本龍馬の師弟像が建立されている。

勝海舟・坂本龍馬の師弟像

東京都指定 旧跡
勝安房邸跡
この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟 が明治5年(1872年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んできた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な『氷川清話』などを遺しました。その後の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993年)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校となったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成15年から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡 の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。
港区

「明日に向かって」
  勝海舟·坂本龍馬の師弟像

 この地は、勝海舟が1872年(明治5年)から1899年(同32年)に77歳で亡くなるまで27年間住んだ屋敷のあった場所です。 海舟は、明治維新後 旧幕臣の代表格として維新政府の要職に在り協力していました。坂本龍馬との係りは海舟が幕府の要職に付いていた頃(海舟37歳~46歳)で、 龍馬 (26歳~31歳)は海舟を師と仰いで禁い緊密な交流があったようです。
 この交流の始まりは、海舟が威臨丸での渡米、帰国後幕府軍艦奉行就任の1862年(文久2年)海舟39歳のとき、龍馬が海舟を斬ろうと面会を申し入れ逆に感化され、 海舟の門人となり身辺警護をかってでたことからと言われております。 当時、日本国の未来を見据え大意を進めるに当って海舟と龍馬とは相反する体制下にありながら、改革を行うことが出来たのは海と繋がっている広い世界を観る目、日本国を取り巻く世界情勢の中で日本のゆくえについて日本人が一体となって事に当らなければならないことを教えたと伝えられています。
 また、海舟は軍艦奉行に就いていた 1864年2月(文久4年)英・仏・米・蘭4ヶ国艦隊の下関砲撃の中止交渉を幕府から命じられ、神戸から九州の豊後街道を通り長崎まで旅をしています。この旅に海舟は自らが主催する「神戸海軍塾」の塾生だった龍馬らを同行させています。重責を担って旅する海舟にとって龍馬に日本国の行く末を教える機会の旅であり、 当時の欧米の植民地政策の過の中にあるこの国の現状をつぶさに語り合い、後の薩長同盟、大政奉還、江戸無血開城へと繋げていったと考えられます。
 海舟、龍馬の生きた19世紀末と21世紀の今をとりまく時代状況は比較にならないくらい違ってきていますが、 彼らの明日を切り開いて行く強い志とエネルギーを、 宇宙船地球丸に乗っているこれからの時代を担う世代に伝えてゆくシンボルとしての銅像でありたいと願っております。
 銅像の細部を見て頂くと、 海も龍馬も視線は、明日に向かって海のかなたに広がる世界を向いています。 また、 海舟の刀の鍔(つば)に下緒(刀のさやを帯に巻くための紐) を絡めて刀をぬけないようにしています。 剣術の達人でありながら、当時の風潮を憂い何事にも対処するに当って刀を絶対に抜かないとの心がまえを表しています。

    勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会

この銅像の建立にあたっては、 「勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会」の呼びかけに赤坂をはじめとする全国のみなさまからのご支援ご協力を頂き、彫刻家 山崎和国氏に製作をお願いし2016年9月 (平成28年)完成建立し港区に寄贈しました。

また、戦前からの石碑も建立されていた。

史蹟 
勝安芳邸阯
勝海舟伯終焉ノ地ナリ
昭和五年十二月
東京府

氷川小学校後援会敬建
昭和8年12月
東京市長牛塚虎太郎書

勝海舟は赤坂で3度住居を変えている。
この場所は最後の居住地。明治5年50歳の時から、明治32年77歳で没するまで住んでいた。
今も、勝海舟遺愛の大イチョウが残っている。

氷川小学校
東に千代田の翠微を眺め 
西に芙蓉の麗姿を望む
英傑海舟 住みにしところ 
我らが学舎ぞ厳しく立てる

明治41年4月1日授業開始
明治42年6月27日開校式
平成5年3月31日閉校
 碑建立・氷川小学校卒業生


勝海舟邸跡

勝海舟が赤坂で最初に居住した場所がこの地であった。
幕末の安政6年(1859)から明治元年(1868)まで、日本が激動の時にあった時期に住んでいた旧跡。

勝海舟邸跡の記
 港区赤坂6丁目10番39号の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟 が安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ旧跡である。
 海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当初居住中の10年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。
 海舟は号で、名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めた。夫人は民子。
 海舟は文政6年(1823)、本所亀沢町の旗本屋敷=現墨田区両国4丁目の両国公園の地=で、貧しい御家人の子として出生。長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸=のちの福吉町、現赤坂2丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地=に通って蘭学を学び、その縁から新婚23歳で赤坂田町中通り=現赤坂3丁目13番2号のみすじ通り=の借家で所帯を持った。
 36歳からは赤坂本氷川坂下=もとひかわざかした、のちの氷川町=のこの地に住んだ。
 明治元年45歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移ったが、明治5年(1872)再び上京し、満76歳で亡くなるまで赤坂区氷川町4番地=現赤坂6丁目6番14号=に住み、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。
 当所に住み始めた翌年の安政7年(1860)、幕府海軍の軍艦頭取=咸臨丸 艦長として、上司の軍艦奉行木村攝津守、その従僕福沢諭吉 らを乗せ、正使の外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。
文久2年(1862)11月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬 らに、世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。
 明治元年3月には、幕府陸軍総裁として、官軍の江戸城総攻撃を前に征討総督府参謀西郷隆盛 と談判を重ね、無血開城を決めて江戸の町を戦火から救った。
 第1回会談は高輪の薩摩藩邸=品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪3丁目のホテルパシフィックの地=で行われた。第2回については芝田町薩摩藩邸=のち三田四国町、現港区芝5丁目芝税務署辺りの地=または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷(くらやしき=倉庫)の表側にある民家=現港区芝5丁目の三菱自動車ビル周辺=で行われたとの両説がある。いずれも当所居住中のことである。
 明治維新では、明治元年5月、海舟の留守中に一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入したが、海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞枝(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急を救った。
 海舟は終生赤坂の地を愛したが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木1丁目に、次いで洗足池畔の大田区南千束1丁目現大田区立大森第六中学校の地に別邸を設けた。墓は洗足池に面して作られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されている。
 平成7年11月吉日
  ソフトタウン赤坂管理自治会
   撰文 伊波 新之助
   協賛 勝海舟顕彰会
   協力 港区郷土資料館

https://goo.gl/maps/9L2yS1B1824GpLbq6


四合稲荷神社(赤坂氷川神社境内社)

赤坂に居住していた勝海舟は赤坂氷川神社とも深い縁にあった。
赤坂氷川神社境内の稲荷神社は勝海舟の命名。

御縁起
①古呂故稲荷(赤坂一ツ木2番地、古呂故天神社境内に鎮座)
②地頭稲荷(氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)
③本氷川稲荷(本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座)
④玉川稲荷(赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座)
 以上、4社を明治31年(1898年)、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により『四合稲荷(しあわせいなり)』と称えられる。
(略)
勝海舟翁筆の「四合稲荷社」という扁額が、現存する。
(略)
以上、境内御由緒より

「志あはせいなりの社」 
勝海舟書の掛け軸の筆跡を用いた幟

勝海舟直筆の扁額
「四合稲荷社」


場所は変わって、港区芝。三田駅の近く。

西郷南洲・勝海舟 会見之地

西郷南洲・勝海舟 会見之地
西郷吉之助書

慶應四年三月十四日
此薩摩邸に於て西郷 勝 両雄会見し江戸開城の円満解決を図り百万の民を戦火より救いたっるは其の功誠に大なり
平和を愛する吾町民深く感銘し以て之を奉賛す
 昭和二十九年四月三日
  本芝町会
 本芝町会十五周年記念建之

田町薩摩邸(勝・西郷会見地)附近沿革案内
この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは 遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。 また人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。

訪れたときは、ちょうどビルの建て替え工事の真っ最中。
記念碑は一時的に保管されているという。
工事完了は令和5年5月末予定。

https://goo.gl/maps/hqtuibb1UZwU4xTH7


西郷南洲・勝海舟 会見の図

浜松町駅のエスカレータ脇に、西郷隆盛と勝海舟の会見をモチーフしたた壁画があった。

時は慶応4年(1886)3月14日、幕府の軍事取扱勝海舟は薩摩藩蔵屋敷に於て、官軍の大総督参謀西郷南洲と最後の会見を行ない、戦火が招く江戸市民の災厄と諸外国の内政干渉とを絶対に避けるべしと説き、両雄お互いに憂国の誠意にうたれ、ついに江戸総攻撃は中止された。その蔵屋敷跡に現在建っている三菱自動右車ビルの前庭には「会見の地」の碑がある。「当駅正面交差点右折、歩いて2分」


勝海舟邸長屋門

石神井公園近くの三宝寺山門東側の通用門は、勝海舟邸長屋門であったという。
築年は文政年間(1818-29)という。
勝海舟が明治5年に赤坂に戻ってきてから、没するまで過ごした屋敷にあった長屋門と推定。

三宝寺に移設される前は、成増にあった遊園地「兎月園」にこの門はあった。大正13年(1924)に兎月園は開業。昭和18年(1943年)に戦争の影響などもあり閉園。

通用門(長屋門)
 練馬区旭町兎月園にあった勝海舟邸の屋敷門が、所有者の明電舎の事情により、取毀しの処分を受けるに際し、当時の練馬区長須田操氏の斡旋で、当山に移建された。
 昭和35年(1960)11月、新井工務店の手によって解体移建された。

海舟書屋(かいしゅうしょおく)

勝海舟の師匠であった佐久間象山。その佐久間象山の言葉「海舟書屋」から、海舟という号を採用したという。

江戸東京博物館収蔵品より

https://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0189204082

https://goo.gl/maps/D6WoYcrSZfqFcVkv8


勝家之墓

勝海舟の父である勝小吉と、、勝海舟の嫡男小鹿は、青山霊園(1種イ4号22側)の勝家之墓に眠る。


勝海舟の長男勝小鹿の娘婿で徳川慶喜の10男であった勝精の墓は谷中霊園にある。

谷中霊園には、徳川慶喜の墓もある。


以上、

都内に残された勝海舟の史跡などの散策記録でした。

コレデオシマイ

※撮影:主に2020年8月から11月にかけて。


そのほかの関連

勝海舟が教授を務めた築地軍艦操練所

初代海軍卿 勝安房

南湖院を設立した高田畊安の妻は勝海舟の孫娘

旧幕臣として勝海舟とは違う道を歩んだ榎本武揚

「最後の幕臣から明治最良の官僚へ」榎本武揚像と榎本武揚墓

都内で、榎本武揚にまつわる史跡などを散策してみました。

墨田区立梅若公園

榎本武揚

1836年10月5日〈天保7年8月25日〉 – 1908年〈明治41年〉10月26日)

旧幕臣、外交官、政治家。海軍中将。
正二位勲一等子爵。

戊辰戦争
榎本武揚は江戸浅草橋近くの生まれ。
昌平坂学問所・長崎海軍伝習所出身。修了後は江戸の築地軍艦操練所教授となる。1861年に幕府よりオランダ留学を命じられ欧州へ。オランダで完成した蒸気軍艦1隻(開陽丸)とともに1866年に帰国。軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)となる。
1868年(慶応4年)に江戸幕府の海軍副総裁に就任。幕末の動乱の中で徹底抗戦を主張し、榎本派が幕府艦隊を支配。
明治新政府軍による江戸開城に伴う降伏条件のひとつに旧幕府艦隊の引き渡し要求があるも、榎本武揚はそれを拒否。徳川宗家の江戸から駿府への移封が完了するのを待って榎本武揚率いる旧幕府艦隊は江戸を脱出。奥羽越列藩同盟支援のために艦隊を北上させる。
その後、仙台藩降伏に伴い、艦隊は蝦夷地「函館」に。

蝦夷共和国と最後の幕臣
榎本武揚は函館で蝦夷共和国の総帥に就任。選挙による就任は画期的な政策であった。
1869年(明治2年)5月18日、榎本武揚ら旧幕府軍は新政府軍に敵わず降伏。東京で牢獄に収監される。黒田清隆や福沢諭吉が榎本武揚の助命活動を行う。

明治新政府の下で
1872年(明治5年)特赦により出獄。黒田清隆の下で北海道開拓使に任官。
1874年に中露特命全権大使に就任するとともに日本で最初の海軍中将に就任。1875年に樺太・千島交換条約の締結を成功させる。ロシアからの帰国に際してはシベリア横断に成功。
帰国後は、外務大輔、海軍卿、皇居造営事務副総裁を歴任し、1882年(明治15年)には、駐清特命全権公使に就任。李鴻章と度々会談し天津条約締結に貢献する。

1885年(明治18年)、内閣制度発足に伴う第一次伊藤博文内閣で逓信大臣に就任。その後も農商務大臣や文部大臣、外務大臣を歴任。

1908年(明治41年)10月26日、死去。海軍葬が執り行われた。

榎本武揚の海軍軍人・政治家以外の側面としては、電気学会初代会長、東京農業大学のベースとなった徳川育英会育英黌農業科の設立、などにも携わっている。

榎本武揚墓

榎本武揚の墓
 天保7年(1836)~明治41年(1908)、江戸の生まれ。通称、釜次郎。江戸末期の幕臣、政治家。蘭学をはじめ広い学識をもち、オランダ留学後海軍奉行、海軍副総裁となったが、倒幕軍江戸入城にあたり幕府海軍を率いて函館五稜郭で反抗した。その後、時代の変化もあって海軍中将、ロシア駐在特命全権公使、海軍卿、文相、枢密顧問官、外相、農商務省などを歴任、子爵となる。
 東京都文京区教育委員会 

海軍中将子爵榎本武揚墓

元帥海軍大将伯爵伊東祐亨書

天保七年八月二十五日生
明治四十一年十月二十七日薨

榎本家の家紋は「丸に梅鉢紋」というが。

吉祥寺

東京都文京区本駒込三丁目にある曹洞宗の寺院。
室町時代1458年(長禄2年)に太田持資(太田道灌)の開基。
多くの譜代大名・旗本の江戸の菩提寺であったことから、それの墓所が多い。

榎本武揚の墓所も、吉祥寺にある。

https://goo.gl/maps/RNcwAjCEost6tPYU7


榎本武揚一族之墓

榎本武揚夫妻の墓は改装され「吉祥寺」にあるが、榎本一族の墓は「保元寺」(台東区橋場1-4-7)にある。この地は、足利尊氏が新田義興と戦った「石浜の合戦」の地。
榎本武揚は戊辰戦争後に投獄され、出獄後にこの地で謹慎をしていた。

榎本家略史
榎本家は武州豊島郡石浜橋場の郷士で、平家一門の千葉氏の家人である。
江戸時代の祖・榎本与兵衛武明は延享3年(1746)68歳で没し、千葉氏と縁のある石浜郷の古刹保元寺(法源寺とも称した)に葬られた。以来、榎本家の祖霊を祀る。
4代武兵衛武由は一女「とみ」の婿養子に箱田良助を迎える。良助は備後国(広島県)箱田村の郷士の次男で、伊能忠敬が幕府の命で全国を測量する助手となり、後に榎本圓兵衛武規と称し徳川幕府の家人となる。
5代圓兵衛武規の妻「とみ」が文政10年没したため「こと」を迎え武興・武揚兄弟を産み育てていく。
6代榎本勇之助武興の弟が釜次郎武揚である。
武揚は幕府によりオランダに留学し操船と海軍の知識を習得し帰国、徳川幕府の海軍長官となるも北海道五稜郭で敗戦し、刑死を免れ年余にわたり菩提寺謹慎となり保元寺に隠居したが、許されて明治新政府に仕え高位の身分となる。
明治41年10月27日に没し、先に保元寺に埋葬の夫人多津子と両名のみ改葬された。

保元寺

帰命山薬王無量院保元寺
奈良時代の宝亀元年(770年)創建という古寺。

https://goo.gl/maps/ML312fnSwti5Pdjp8


榎本武揚旧居跡

榎本武揚一族之墓があった保元寺の隅田川の対岸、向島言問に榎本武揚邸があった。

榎本武揚旧居跡
 父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中濱万次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。安政3(1856)年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。文久2(1862)年に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。慶応3(1867)年、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。
 戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治7(1874)に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て、文部大臣、外務大臣などを歴任した。
 明治38(1905)年から、73歳で没する同41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。

https://goo.gl/maps/YXo4RRcYWqxJTCpT6


銅像榎本武揚像

墨田区立梅若公園に、榎本武揚銅像が建立されている。

墨田区登録有形文化財
銅造榎本武揚像
 所在地  墨田区堤通2丁目6番10号
      墨田区立梅若公園内
 本像は、榎本武揚没後の大正2年(1913)5月に建立されました。銅製で、像高は約3メートルあり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。彫刻は、衣服の質感や顔の表情が細かく表現され外形描写に優れています。
 榎本武揚(1836~1908)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。
 武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。
 建立にあたっては、大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝など政財界を代表する人物等が協力しました。
 原型作者は藤田文蔵と田中親光であり、鋳造者は平塚駒次郎です。
 この銅像は平成12年12月7日に墨田区登録文化財に登録されました。  
  平成29年3月
  墨田区教育委員会

墨田区登録有形文化財
銅像榎本武揚像

「榎本武揚」
 榎本武揚は天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、
昌平坂学問所 (昌平黌)で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。
 武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制変換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年 (1869)降伏しました。
 その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。
 明治18年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農省務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役割を積極的に引き受けました。
 晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。

「銅像について」
 本像は青銅製で、高さ約400㎝の台座上に像高300㎝の榎本武揚の立像が乗っています。
 建立は大正2年(1913)5月で、当時の木母寺の境内である当該地に建てられました。白鬚東地区防災拠点建設に伴い木母寺は移転しましたが、本像は当該地に残されました。
 本像の原型作者は田中親光、藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎であることが台座背面に記されています。また、建設者に大隈重信、大倉喜八郎、渋沢栄一など当時の政財界の代表的人物が名を連ねています。
 原型作者のひとりである藤田文蔵は洋風彫刻界における先覚者として位置づけられ、代表作に陸奥宗光銅像(外務省)や井伊直弼銅像(掃部山公園、太平洋戦争で供出)、狩野芳崖胸像(東京国立博物館)などが知られています。

榎本武揚像の隣にある石碑。昭和12年建立。鈴木貫太郎の書であった。
(二・二六事件は昭和11年)


鈴木貫太郎書
昭和12年4月29日
 向島区青年団
  墨田町二丁目分団

https://goo.gl/maps/gUQVAvbqVQdxaYXUA


東京農業大学は、その創建に榎本武揚が関わっている。

榎本武揚先生像

東京農業大学世田谷キャンパス


旧幕臣としての榎本武揚

正二位勲一等子爵榎本公追弔碑


そのほか榎本武揚は函館にも多くの足跡があるが、今回は都内に限りで、ここまで、で。

「日本毛織物工業の父」井上省三と千住製絨所(荒川区)

東京都荒川区。
南千住にかつて被服製造の官営工場があった。
近代化を推し進める明治新政府にとって、軍服や制服といった洋装は輸入に頼っており、その国産化が急がれていた。

明治8年(1875)に千葉県に羊牧場が設けられ羊毛の生産が開始。
旧長州藩士の井上省三が被服製造技術を学ぶためにドイツ留学し、その帰国を待って明治12年(1879)に東京南千住に官営工場「千住製絨所」が完成し、操業開始した。

日本の羊毛工業・毛織物工業は、南千住から始まったのだ。


井上省三(いのうえせいぞう)
「日本毛織物工業の父」
「日本羊毛工業の父」

旧長州藩士。萩藩厚狭毛利氏家臣。奇兵隊隊長として倒幕に活躍。
明治4年(1871)に北白川宮能久親王に随行してドイツのベルリンに留学。兵学から工業に転向し猛職技術を修得。
明治8年に帰国し内務省勧業寮へ配属。その後、再度の欧州留学を行い帰国後の明治12年に官営千住製絨所の初代所長に就任。
明治19年(1886)、病死。享年42歳。

千住製絨所

明治12年に南千住で官営千住製絨所として創業を開始。
初代所長は井上省三。
明治21年(1888)からは陸軍省の管轄となり工場を拡張。陸軍所要の軍服などを生産管理した。陸軍省管轄ではあっても陸軍大臣の認可でもって、他官庁や民間からの製造依頼や研究依頼、技術指導や技術者養成なども行い、国内繊維・被服産業に大いに貢献。

昭和20年、敗戦により操業停止。民間地元企業の大和毛織に売却。しかし大和毛織は業績不振により昭和35年(1960)に操業停止となり閉鎖。こうして千住製絨所以来の被服生産は80余年で幕を引いた。
その後、跡地は大映がオーナーとなっていた大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の本拠地球場「東京スタジアム」などが建設されるが、東京スタジアムは昭和47年に閉鎖され撤去。
現在は、荒川区総合スポーツセンター、警視庁南千住警察署、東京都立荒川工業高等学校、ライフ南千住店などに姿を変えている。


井上省三像(井上省三胸像)

昭和11年(1936)12月14日に井上省三没後50年を記念して、千住製絨所構内に「東京千住製絨所初代所長井上省三胸像」が建設された。

左右には羊の彫刻。
羊毛工業の父、ゆえに。

かつては、もうひとまわり大きな台座であったことが除幕式当時の写真で垣間見ることができる。

参考

https://kiralink.pref.yamaguchi.lg.jp/202002/yamaguchigaku/index.html

井上省三像の隣りにあるモニュメント。特に説明がないので詳細は不明だが、当時の建造物の一部?かもしれない。
薄れかかった文字には以下の記載。

 明治12年(1879)この地に官営の千住製絨所が設立された。
 それまで輸入に頼っていた羊毛製品の国産化を意図して建てられたもので、初代所長 にはドイツで毛織物の技術を学んだ 井上省三(1845〜1886) を迎え、ここに日本の羊毛 工業が始まった。
 昭和20年操業が停止するまでの70年間、大規模な毛織物の製造が行われ日本の羊毛工 業の発展に寄与した。
 地域の人々から「ラシャ場」と呼ばれた赤煉瓦洋風建築のこの工場は、荒川区が近代 工業地帯として発展するきっかけとなった。


井上省三君碑

さらに隣には、井上省三を讃える碑も建立されていた。

井上省三君碑
 この碑は、官営国場千住製絨所初代所長・井上省三の功績を後世に伝えるものである。
 井上省三は、長州(現山口県)出身で、木戸孝允に従って上京、後にドイツに留学し毛織物の技術を修得した。明治十二年(1879)の千住製絨所の開業、日本羊毛工業の発展に尽力したが、明治十九年(1886)に42歳の若さで死去。明治二十一年(1888)に制絨所の職員・職工の有志が、井上省三の偉業をしのびこの碑を建立した。
 上部の題字と撰文は、井上省三と同郷で、交遊のあった、後の外務大臣青木周蔵と東京農林学校(後の東大農学部)教授松野礀による。
  荒川区教育委員会

井上省三君碑の扁額は青木周蔵の書。

https://goo.gl/maps/oZ95YzKkdFdRbAZ59


位置関係

国土交通省国土地理院航空写真
ファイル:8921-C3-35
昭和19年(1944)11月07日、日本陸軍撮影。

上記航空写真を一部加工。クリックで拡大可。

「千住製絨所」の北側、隅田川の対岸には「日本皮革株式会社の工場」があった。現在の「ニッピ」。

現在の様子。GoogleMap航空写真より。


千住製絨所のレンガ壁(都立荒川工業高校)

井上省三の碑からそのまま「若宮八幡通り」を道なりに北上をする。
右手に都立荒川工業高校の壁がみえてくる。この煉瓦壁が、当時の千住製絨所の壁でもあるのだ。

千住製絨所跡
 この付近一帯には、明治十二年(1879)に創業された官営の羊毛工場である千住製絨所があった。
 工場建設用地として強固な基盤を持ち、水利がよいことから、隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地(現南千住6-38〜40、45付近)が選定された。敷地面積8300余坪、建坪1769坪の広大なものであった。明治二十一年(1888)に陸軍省管轄となり、事業拡大とともに、現荒川スポーツセンターあたりまで敷地面積が拡張された。
 構内にも生産工場にとどまらず、研究施設や福利施設などが整備され、近代工場の中でも先進的なものであった。
 戦後民間に払い下げられ、昭和三十七年、敷地の一部は野球場「東京スタジアム」となり、人々に親しまれてきた。
 一部残る煉瓦塀が往時を偲ばせる。
  荒川区教育委員会

レンガ壁の途中に不自然なコンクリート。かつてこの場所に出入り口を作ったのであろうか。

この先もかつては壁が続いていた・・・


千住製絨所のレンガ壁(ライフ南千住店)

ライフ南千住店の駐輪場。その駐輪場の出入り口の脇に「レンガ壁」が残されていた。これも当時の千住製絨所の名残。

荒川区登録有形文化財(歴史資料)
旧千住製絨所煉瓦塀
 この煉瓦塀は、明治12年(1879)に創業を開始した官営工場、千住製絨所(せいじゅうしょ)の敷地を取り囲んでいた東側の塀です。塀の長さは北側9.9m、南側8.4mで、正門の袖柱の一部と、塀を保護するために設けられた車止めの一部が残っています。建設年代は、明治44年(1911)から大正3年(1914)頃と推定されます。
 千住製絨所は、ラシャ工場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果たしていました。初代所長はドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三です。荒川総合スポーツセンターの西側に井上省三の胸像が保存されています。
 当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに建設されましたが、次第に周辺の田園地帯を取り込んで拡張を重ね、大正時代には、敷地面積は3万2406坪になりました。千住間道を南限とし、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所などが旧敷地に該当します。
 千住製絨所の登場は、南千住地域に大きな影響を与えました。明治時代、汐入の二つの紡績工場(南千住8丁目)、石浜神社付近のガス会社(南千住3丁目)など大規模な工場が進出し、また隅田川貨物駅なども設置され、南千住は工業と商業の町へと変貌していきました。内務省、農商務省、陸軍省と所管が代わり、戦後、昭和24年(1949)には、大和毛織株式会社に払い下げられましたが、同36年(1961)に工場が閉鎖され、80年余りの羊毛工場の歴史に幕を閉じました。構内にあった工場の建物等は現存していないため、この煉瓦塀が千住製絨所に関する数少ない建造物であり、歴史的価値の高い文化財です。
 平成22年1月、この煉瓦塀は日本紙通商株式会社より荒川区教育委員会に寄贈され、株式会社ライフコーポレーションのご協力を得て、荒川区の近代化遺産として保存され、地域の歴史を刻んだモニュメントとして新たなスタートを切ることとなりました。保存に当たりご協力いただきました日本紙通商株式会社、株式会社ライフコーポレーションはじめ、関係各位に感謝申し上げます。
  平成22年10月 荒川区教育委員会

三段に飛び出した上部の造形が美しい。

煉瓦塀を保護するために設けられた車止めの一部

正門の袖柱の一部

正門の左側が現存部分とされる。

内側からも美しい造形。

https://goo.gl/maps/3FT5bBLf1vw4HCQa8


その他、荒川区界隈の記事。

彰義隊の墓(円通寺・荒川区)

彰義隊の墓は上野公園にもある。その上野公園の彰義隊の墓は、上野山内に放置されていた遺体を「円通寺」の住職仏磨らによって茶毘に付され、そうして円通寺に埋葬したことに由縁する。

上野公園の彰義隊の墓は下記より。


彰義隊

慶応4年(1868)
1月
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍に敗北。
江戸に帰還した渋沢成一郎が「彰義隊」を結成する。
 彰義隊頭取(隊長)   渋沢成一郎
 彰義隊副頭取(副隊長) 天野八郎

3月
西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城無血開城を決定。

4月
徳川慶喜が江戸を離れ水戸に謹慎。慶喜を警護すべく、渋沢成一郎は上野からの撤退を主張するも、天野八郎と意見が対立し、渋沢成一郎は彰義隊を脱退。天野八郎が彰義隊を率いる。(渋沢成一郎は振武軍を結成し、最終的には榎本武揚と合流し函館戦争を戦う)

5月15日
新政府軍は旧幕府軍・彰義隊の武力殲滅を目指し彰義隊に宣戦布告。
午前7時頃に戦闘が始まり、午後5時には新政府軍の勝利戦闘は終わった。

上野戦争で戦死し放置されていた多数の彰義隊士の遺体を当時の円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。
現在、上野公園内と円通寺に彰義隊の墓があるゆえんである。

円通寺は明治時代において、旧幕府軍の法要可能な寺院として旧幕臣の信仰を集めることとなった。

彰義隊戦死者の墓

戦死墓

建立時、まだまだ彰義隊という名称を出すのを憚れる時勢であったため「戦死墓」とのみ記載されている。
明治37年5月15日に榎本武揚らの手によって建立。墓碑銘は榎本武揚書。

彰義隊士の墓
 慶応四年(一八六八)五月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
 これが縁となって、明治四十年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和六十年に修復工事が行われている。
荒川区教育委員会

死節之墓

彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘にて、鳥羽・伏見、会津、函館、戊辰戦争などで戦死した旧幕臣の戦死者を供養していたが、円通寺に移設し、彰義隊と合わせて供養することとなったという。


こうして円通寺は彰義隊の供養を行った寺であったために旧幕臣関連の信仰が篤く、旧幕臣ゆかりの人々の碑も多く建てられることとなった。

正二位勲一等男爵大鳥圭介君追弔碑

明治44年6月15日没。明治44年7月に有志によって建立。
大鳥圭介は旧幕臣としては歩兵奉行を務める。旧幕府内でフランス陸軍の指導を受けた西洋式軍隊であった「伝習隊」を率いて戊辰戦争に参加。榎本武揚と合流して函館政権の陸軍奉行。
明治維新後は政治家・外交官・教育者など各方面で活躍。明治44年6月15日没。

天野八郎墓

渋沢成一郎が抜けたあと、上野戦争の彰義隊を「頭取(隊長)」として率いたのが天野八郎であった。新政府軍に敗れ再起を図っていたが、囚われの身となり獄中5ヶ月で病死。享年38歳。

俗名 天野八郎

天野君八郎碑

扁額は榎本武揚書

新門辰五郎碑

新門辰五郎は町火消の頭であったが侠客として著名。娘は徳川慶喜の妾。慶喜の警備なども担当する。
彰義隊が戦った上野戦争では、既に71歳であったが寛永寺の防火と鎮火、延焼防止などを勤めるも、大村益次郎率いる申請軍軍の砲火により寛永寺の伽藍は焼失。
上野戦争終了後に円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。墓所は豊島区の盛雲寺。

三幸翁之碑

寛永寺御用商人三河屋幸三郎。明治23年建立。

上野戦争終了後に円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。

二十三世仏磨大和尚之墓

円通寺23世住職。
上野戦争終了後に円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。

土肥庄次郎之碑

碑は榎本武揚書。
旧幕臣。彰義隊に参戦。上野戦争で壊滅後に榎本武揚艦隊に合流。咸臨丸に乗船するも暴風雨にて本隊とはぐれ清水港入港。函館戦争には参加できなかった。以後は幇間として活動し、明治36年死去。

碑は2つに割れてしまっていた。

土肥氏之墓

中田正廣之碑

碑は榎本武揚書。碑文は山岡鉄舟の長男である山岡直記。
旧幕臣。慶応4(1868)年3月に江戸開城に激怒し江戸を離れる。
幕府撤兵隊(上総義軍)に参加し木更津の戦いで戦死。享年33歳。

小芝長之助墓

旧幕臣。将軍家御庭番。蝦夷共和国探索役主任、箱館市中取締頭取格。
土方歳三戦死に際しては遺骸を引き取る役目を担った。
晩年は円通寺の墓守として旧幕臣を見守り続けた。
大正5年死去。享年88歳。

佐久間貞一君記念之松

旧幕臣。彰義隊に参加するも徳川慶喜の水戸蟄居に同行したために上野戦争には参加しなかった。
明治期には財界で活躍し大日本印刷の前身となる秀英舎を創業。
「日本のロバート・オウエン」とも称された。
碑は明治33年5月13日建立。

町野五八君追弔碑

堀覚之助の名で箱館戦争に参戦。大鳥圭介・土方歳三らの下で蝦夷共和国陸軍奉行添役を勤める。大正 5年3月8日に没。碑は 5月に建立。

澤太郎左衛門君記念之松

旧幕臣。蝦夷共和国開拓奉行。
長男は、海軍造兵総監・技術中将の澤鑑之丞。
明治期には海軍教官を勤める。明治31年死去、享年65歳。
日本海軍初の海上砲の操砲訓練を行ったのが澤太郎左衛門という。
また、澤太郎左衛門が輸入発注手配した圧磨機圧輪が板橋火薬製造所で使用され、加賀西公園に「圧磨機圧輪記念碑」として残さている。

相馬翁輔君之碑

彰義隊隊士。一橋相馬家。結城戦争で戦死。
墓所は相馬家の菩提寺・牛込松源寺。

佐野豊三郎君之墓

旧幕臣。彰義隊士。
上野戦争で敗走後、箱館に渡る。
函館市中での借金トラブルから、明治元年12月27日に切腹。
佐野の介錯をした鷹羽玄道らによって明治 29年 6月に建立

松平太郎君之墓

旧幕臣。陸軍奉行並。陸軍総裁であった勝海舟の下で旧幕府軍をまとめる立場であったが、大鳥圭介や榎本武揚と合流。蝦夷共和国副総裁。
明治期は不遇であった。明治42年5月24日死去。享年71歳。

永井尚志君 永井岩之丞君 追弔碑

永井尚志は旧幕臣旗本。京都町奉行。大目付。戊辰戦争では榎本武揚と行動をともにし、蝦夷共和国の箱館奉行。
明治24年7月1日死去、享年76歳。
永井岩之丞は永井尚志の養子。養父とともに函館戦争に参加。明治期は裁判官として活躍。明治40年5月25日死去、享年63歳。三島由紀夫の曾祖父にあたる。

彰義隊八番隊長木下福治郎
彰義隊遊撃隊長鷹羽玄道追悼碑

木下福治郎・鷹羽玄道(上原仙之助)は兄弟。
上野戦争のち、榎本武揚と合流し、函館で彰義隊メンバーを取りまとめる。
木下は明治13年に42歳で没し、弟の鷹羽は明治44年に69歳で没している。
追悼碑は鷹羽が亡くなった年に、娘・登宇によって建立。

樵村丸毛君碑

旧幕臣、彰義隊隊士。丸毛利恒。
上野戦争敗走後は榎本武揚と合流し函館戦争に参加。
明治期は横浜税関などに勤務。明治38年8月6日死去、享年55歳。
扁額は榎本武揚書。

合同舩

彰義隊士八人合同慰霊碑。
山田八郎(遊軍隊組頭のちの十六番隊組頭)
松本義房(第三青隊隊長のち三番態組頭)
大塚嘉久治(第二白隊隊長のち頭取並・大塚霍之丞)
小林一知(旧幕府軍最後の咸臨丸艦長)
西村賢八郎(十八番隊組頭)
前野利正(第一赤隊伍長)
羽山寛一
百井求之助(会計係)

彰義隊後藤鉄次郎追吊碑

旧幕臣、御書院番。
彰義隊に入隊し、慶応 4年 5月 15日の上野戦争にて上野山王台で戦死。
実弟の後藤鉄郎が建立。

旧幕府徳川之臣御書院番
彰義隊後藤鉄次郎追吊碑
戊辰五月十五日於上野山王台戦死

大澤常正の句碑

さがるほど 見あげる人や ふぢの花

大澤常正は彰義隊士の世話人を務めた弁護士。
諸霊追悼のため、明治四十三年5月15日建立。

荒井郁之助君追弔碑

旧幕臣。蝦夷共和国海軍奉行。
明治期には官僚となり、初代中央気象台長。ちなみに二代目が旧幕府軍最後の咸臨丸艦長であった小林一知。
明治42年7月19日死去。享年73歳。

高松凌雲君追弔碑

一橋家の専属医師であったが、慶喜が将軍となると幕府奥詰医師として登用。
榎本武揚に合流し、箱館戦争には医師として参戦。箱館病院院長。
箱館病院院長として敵味方問わず戦傷者を治療。日本ではじめての赤十字活動とされている。
明治新政府の評価も高かったが、新政府の誘いを断り民間の町医者として活動。
大正5年10月12日死去、享年79歳。墓所は谷中墓地。

正二位勲一等子爵榎本公追弔碑

旧幕臣。幕府海軍指揮官。蝦夷共和国総裁。
函館戦争敗北後に明治政府に任官。逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣を歴任。東京農業大学の前身を創立などもしている。
明治41年10月26日死去、享年72歳。

良馬之碑

扁額は立花種恭(陸奥国下手渡藩主・貴族院議員)
三池立花藩の流れをくむ立花種恭は、旧幕府では外国奉行・老中格の会計総裁などを努めた。

戊辰戦争の際に彰義隊に下された名馬「八重垣」
犠牲になった名馬の霊も祀る。
明治32年建立。

有縁諸霊之碑

彰義隊隊士の霊を祀る。大正9年4月15日建立。


円通寺には、上野戦争での激戦地であった移築された「黒門」の奥に、旧幕臣ゆかりの墓や追悼碑が所狭しと集まっている。


上野の黒門

上野戦争で彰義隊と新政府軍が激戦を繰り広げた黒門が円通寺に移築されている。彰義隊供養のゆかりゆえであった。

荒川区指定 有形文化財・歴史資料
旧上野の黒門
 この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門のうちで表門にあたる。慶応四年(一八六八)五月十五日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えている。戦いの後、埋葬されずにいた多数の彰義隊士の遺体を、当時の円通寺住持だった仏磨和尚と神田旅籠町の商人三河屋幸三郎が火葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。その機縁で、黒門が明治四十年(一九〇七)に帝室博物館より円通寺に下賜された。

今も残る黒門には、銃痕が多数残されている。


円通寺

東京都荒川区南千住鎮座。曹洞宗寺院。
伝承によると坂上田村麻呂によって建立という。

八幡太郎義家が供養のために築いた、小塚原の地名のもととなった「四十八首塚」。