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大アジア主義の第一人者「頭山満」と福岡の政治結社「玄洋社」関連の史跡散策(福岡・東京)

福岡に赴いていたときに、福岡の地図を眺めていたら、歴史的に香ばしい感じで「玄洋社」とか「頭山満」とか、興味をひいたポイントがいくつかあったので、そんな関連史跡をふらりと巡ってみました。
そして記事を書いているうちに、東京に玄洋社関係者の墓がいくつかあったので、それもあわせて掲載してみました。


頭山満

頭山 満(とうやま みつる)
安政2年4月12日(1855年5月27日)- 昭和19年(1944年)10月5日
玄洋社の中心人物、右翼・国家主義者、アジア主義者。
昭和の巨人とよばれた国家主義の第一人者であった。

頭山満が組織した玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。
また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となり孫文とともに中国同盟会も設立し、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。
一方で、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、遠縁のアナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流があった。
鳥尾小弥太、犬養毅、広田弘毅、中野正剛など政界にも広い人脈を持ち、実業家(新聞社代表)や民族的活動を支援する篤志家としての側面も持っていた。
中国の孫文や蔣介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウ、朝鮮の金玉均など、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。

遠山満は、歴史の節々に影響力を発揮しており、孫文亡命、ラス・ビハリ・ボーズと新宿中村屋の仲介、井上日召の血盟団事件、五・一五事件・犬養毅暗殺事件、などに関わっていた。

晩年は、静岡県御殿場の富士山を望む山荘で、第二次世界大戦末期の昭和19年(1944年)10月5日、89年の生涯を閉じた。
葬儀委員長は元総理の広田弘毅、副委員長は緒方竹虎がつとめた。

頭山満の墓は、以下の3箇所にある。
・頭山家の菩提寺である圓應寺(未訪問)
・玄洋社墓地のある崇福寺
・東京の青山霊園

https://www.ennouji.or.jp/concept/history-omen/h8.html


玄洋社

1881年(明治14年)に旧福岡藩士が中心になって、結成された政治団体。
日本で初めて誕生した右翼団体ともいわれている。
自由民権運動の拡充を目指し結成され、植民地支配に対抗して、アジア民族の欧米隷属からの脱却を目指し、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。
同時に、対外的にはアジア民族の欧米隷属からの独立を支援し、アジア諸国との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。

明治10年(1877年)の西南戦争の後、高知の板垣退助のもとで学んだ頭山満は、明治12年(1879年)帰郷し、自由民権運動の結社として向陽義塾(後に向陽社)を設立した。これが、玄洋社の前身である。社長は箱田六輔、幹事は頭山満、進藤喜平太。

明治14年(1881年)、向陽社を玄洋社と改称する。
旧福岡藩士らが中心となり、 藩立修猷館出身の平岡浩太郎を社長として、頭山満、箱田六輔、大原義剛、福本誠、内田良五郎(内田良平の父)、進藤喜平太(進藤一馬の父・玄洋社2代目社長)、月成功太郎(廣田弘毅夫人となる静子の父)、末永純一郎、武井忍助、古賀壮兵衛、的野半介、月成勲、児玉音松らが創立に参画、のち杉山茂丸も加わった。
明治22年(1889年)、大隈重信爆殺未遂事件の首謀者であった来島恒喜も玄洋社社員。
日露戦争で勝利に貢献した明石元二郎も玄洋社社員であった。
昭和期に活躍する、廣田弘毅や中野正剛、緒方竹虎なども玄洋社に関係があった。
また、玄洋社2代目社長であった進藤喜平太の子息で、中野正剛の秘書や玄洋社の最後の社長を務めた「進藤一馬」は戦後に福岡市長を務めている。

玄洋社は「皇室を敬戴すべし」「本国を愛重すべし」「人民の権 利を固守すべし」の三憲則を基幹とし、自由民権の普及に献身、憲法の新設、国会の開設、次いで祖国の国力の伸張に奔走する一方、屈辱的外交条約の破棄、アジア主義に基くアジア民族の自決独立の援助に勇往邁進した。
中でも中国革命に於ける玄洋社の存在は大きく、第二次世界大戦終了直後まで日中和平工作を継続していた政治結社は玄洋社を除いて他になかった。

https://genyosha.jp

本編では、下記の玄洋社の主要人物に言及。
・頭山満
・高場乱
・来島恒喜
・中野正剛
・緒方竹虎
・内田良平

※広田弘毅は、別記事にて。


玄洋社跡碑

福岡市中央区舞鶴の玄洋社跡地に隣接して「玄洋ビル」があったが解体済み。同ビル跡地はNTTドコモ舞鶴ビルとなり一角に記念碑が建立されている。
玄洋社関係の各種資料を収蔵した「玄洋社記念館」も玄洋ビル内にあった。1978年(昭和53年)11月に開館し、2008年(平成20年)5月末をもって閉館したが、資料は福岡市博物館に寄託された。

玄洋社跡

玄洋社跡記念碑
明治、大正、 昭和と激動する世界の中にあって、日本の独立を守りアジアの解放を目指して活躍した玄洋社は 自由民権運動の中で、明治十二年(一八七九)談生した。
以来昭和二十一年(一九四六)解散まて、六十七年にわたりこの地を本拠地として活動を続けた。
 平成九年十月
  社団法人玄洋社記念館建之


玄洋社墓地(崇福寺)

臨済宗大徳寺派の寺院、三道場のひとつ。福岡藩主黒田家の菩提寺。かつての伽藍は広大な寺域を誇っていたが、福岡大空襲で灰燼に帰した。(現在の寺域は戦前の五分の一の規模に縮小)

玄洋社墓地には、頭山満、来島恒喜、高場乱の墓、そして154基ある玄洋社員の墓などがある。

西都法窟
勅賜萬年崇福禅寺

頭山満先生之墓所

玄洋社墓地

玄洋社基地整備趣旨
「玄洋社の生みの親」高場乱の生誕百九十年を迎えるにあたり その偉業に思いを触せ高場乱の子孫である株式会社アキラホールティンクス代表取締役安部泰宏は私財を投じて、玄洋社基地を整備し、遺徳を未来永幼に伝え残すものとする。
 令和四年八月二十日

安部泰宏氏は、玄洋社の創始者・高場乱の姉の子孫にあたるという。
高場乱保存会「人参畑塾の会」顧問、高場乱の銅像建立にも尽力。

獨 朗 天 眞

先亡霊塔

昭和十一年十月改葬の折、立ち並んでいた玄洋社員の墓標を整理し、全物故者を弔うために五輪塔が建てられた。
裏面には論語の一節「殺身成仁」(自分を犠牲にして仁を成す)(頭山満書)
※写真撮り忘れ

場所:

https://maps.app.goo.gl/VwtnVS626nUnXYWs8


頭山満先覚之墓(玄洋社墓地)

玄洋社の先覚者として、祀られている頭山満。

頭山満先覚之墓

昭和十九年十月五日於富士山麓御殿場帰幽享寿九十歳乞分骨同年十一月六日葬於崇福寺玄洋社墳域
 後学 宮川五郎三郎敬書

宮川五郎三郎は、奈良原至の弟。
奈良原至は、玄洋社の草創期からの社員で 玄洋社随一の豪傑と呼ばれた人物。
宮川五郎三郎は玄洋社の組織の根幹を支えた人物。


高場乱(玄洋社墓地)

高場 乱(たかば おさむ)
天保2年10月8日(1831年11月11日)- 明治24年(1891年)3月31日)
江戸時代末期の女性儒学者で、眼科医、教育者。
頭山満ら多くの国士を育てた。「人参畑の先生」。

代々眼科医の名門で福岡藩の藩医を務めていた高場家・高場正山の末子として生まれる。
高場乱は男子扱いで育てられており、天保12年(1841年)、10歳で男性として元服した。16歳で結婚したが、これを不服として自ら離縁し、20歳の時に儒学者・亀井昭陽(亀門学)の亀井塾に入った。亀井塾は当時身分性別を問わない学風で、女性の弟子も多かった。

明治6年(1873年)、福岡藩住吉村の薬用人参畑の跡(現在博多駅の近く)に私塾興志塾(通称「人参畑塾」)を開設。
興志塾に明治7年(1874年)頃に入門したのが、頭山満であり、のちに玄洋社の主要なメンバーとなった平岡浩太郎や進藤喜平太、箱田六輔、武部小四郎などが、いずれも興志塾で学んだ。
頭山満らが結成した向陽社(玄洋社の前身)内部の抗争を仲裁するなど、弟子となる玄洋社の面々を見守ってきた。
弟子の一人である来島恒喜が大隈重信へテロを仕掛けた上で自殺したことには衝撃を受け嘆きの歌を詠んでいる。
来島の自殺の翌年、乱は病床に伏し、弟子たちに看取られつつ逝去した。明治24年(1891年)3月31日、59歳であった。

高場先生之墓

勝海舟の揮毫

碑面題識勝海舟先生之書也

2023年には高場乱の生誕190周年を記念し、高場乱の銅像が建立された。
「高場乱騎牛象」牛に横乗りする高場乱

高場乱先生之像

高場乱先生は、天保二年(一八三一)博多の瓦町に誕生。家は代々、眼科医である。乱先生の父である正山先生は高場流眼科の九世を継承したが、元々は福岡藩医の一統でもある。
正山先生には二女があり、長女は小田家に嫁いだことから、次女の乱先生を高場流眼料の後継者に据えた。しかし、時は封建時代。正山先生は乱先生を男子として福岡藩庁に届け出、刀を持つことも許された。正山先生は乱先生を男子として教育。乱先生も正山先生の意に応え、医学を学び、漢籍の学問にも励まれた。後年、正山先生の代診を務めるほど乱先生は評判の眼料医になられた。
乱先生は、福岡藩の薬草園である人参畑近くに学塾を構え、眼科診療の傍ら、有為の青年教育にも尽力された。この塾が人参畑塾こと興志塾である。乱先生は塾生からの謝礼どころか、貧しい人からは治療代を受け取らない無欲の人。博多の衆は乱先生を「人参畑の婆さん」と、尊敬と親しみを込めて呼んだ。
乱先生の学墊には、入門を願う青年が多数押しかけた。しかも、塾生の行動に対し、一身に責任を負うという気概を示され、ごの事実は今もって語り草てある。塾は歴史に名を刻む著名な志士を多数輩出。門弟たちの活躍の場は遠くアジアにまで及び、乱先生の教育方針が、どれほど壮大なものてあったかが窺いしれる。しかし、明治二十四年(一八九一)三月三十一日、乱先生は病没された。
医師として自身の余命を知り、静かに息を引き取られたという。弟子たちは旧藩主黒田家の墓地を分けてもらい、乱先生の墓を建てた。葬儀の会葬者は五百人余り。葬列は整然とじて、見送りの人垣が続いたという。
墓碑銘には、乱先生の人柄を著す言葉が簡潔に刻まれている。
金銭や名誉を求めず、清貪に負けず、よく他人を援け、自身の事は後回しだった。名を成した後も、師について易経を学んだ。時代が変わっても、その教育方針に変わりはなく、門下生たちは皆、豪傑揃いで盛ん。皆、義を胸に抱いたものばかりで、美しい綾を織りなすがごとく。だが、志は大きいが行いが伴っていない。この春、俄かに高場先生は具合が悪くなり、亡くなられた。その天命は果てしないだけに、敬愛する人を喪い茫然とするばかり。形もなく、変化もなく、どどまることを知らない万物の母。その識見が高い人はかくれてしまった。平原は薄暗くなり、その魂は愛する故鄉に帰るがごとく天に還っていった。
  高場乱先生略伝慧碑後面の「勝海舟書」より


来島恒喜之墓(玄洋社墓地)

来島 恒喜(くるしま つねき)
1860年1月31日〈安政6年12月30日〉 – 1889年〈明治22年〉10月18日
玄洋社元社員。
条約改正に絡む外国人司法官任用問題から、当時外務大臣を務めていた大隈重信の暗殺を計画。
計画には同じく玄洋社の社員であった月成功太郎も加わっていたが、老母、妻子を持つ月成の身を欺き、単独で決行。

1889年(明治22年)10月18日、外務省からの帰路にあった大隈に、彼の乗る馬車へ爆弾を投げつけた。
爆弾は馬車の中に入り、大隈の足元で爆発。来島はその場で短刀で喉を突き自害。享年29。
大隈は命はとりとめたものの、顔と手に軽症、右膝と踝に重症を負い、右脚を切断することとなった。

来島も学んだ興志塾(通称・人参畑塾)の塾長高場乱は、かつて塾生だった来島が爆弾テロ事件を起こしたことを聞くと、国際情勢や日本の国際環境を理解しない浅はかな者だと否定し、批判した。一方で、自決したことには「ながらえて明治の年の秋なから心にあらぬ月を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる、

来島の葬儀の際、弔辞を読むこととなった頭山満は「天下の諤諤(がくがく)は君が一撃に若(し)かず」と、国民輿論を無視し条約改正に突き進む政府の政策を打ち破った来島を激賞した。

来島の墓碑を寄贈した石工の広田徳平は、後に首相となる広田弘毅の父。また、計画に加わっていた月成功太郎は弘毅の妻の父であり、岳父にあたる。

来島恒喜之墓

明治廿二年十月十八日於東京霞関自刃行年三十一


玄洋社墓地内の碑群

満洲義軍志士之碑
明道館柔道之碑

154基ある玄洋社員の墓

時間がなかったので、福岡藩主黒田家の墓所には訪れず。
そのあたりは、また次回かな。


頭山満墓(東京・青山霊園)

頭山満の墓は、東京の青山霊園にもある。参考掲載。

頭山 満 墓
室 峰尾

1855年、福岡藩士・筒井亀策の三男として生まれた「筒井満」。
1873年の春、男手のなかった母方の頭山家に当時3歳だった娘の峰尾の婿として迎え入れられ、頭山に姓を改め「頭山満」となる。
頭山が峰尾と正式に結婚するのは、1885年頭山が30歳になってから。

昭和19年10月5日
享年89歳

※青山霊園撮影:2021年5月


来島恒喜之墓(東京・谷中霊園)

来島恒喜の墓は、東京の谷中霊園にもある。参考掲載。

来島恒喜之墓
 頭山満書

来島恒喜の墓は、勝海舟によって谷中霊園に建立されたが、その後に、玄洋社の頭山満によって長け替えられた。当初の墓石も、傍らに残されている。

来島恒喜の碑。
昭和13年に頭山満揮毫で墓碑が建立されたことを記す。

当初の墓石、一部が摩耗している。
来島恒喜之墓 勝安芳書

明治廿三年十一月建

東京の来島恒喜の墓は、谷中霊園の乙10号17側

※谷中霊園撮影:2026年1月


頭山満手植えの楠

西新緑地に、頭山満が手植えしたクスノキがある。

楠木の由来
このクスノキは、政治結社「玄洋社」の創設者の一人、頭山満翁(1855~1944年)が植えたものです。
そばに建つ石碑には、慶応元(1865)年、頭山満翁が11歳の時に「楠木正成のような人になりたい」との願いを込めて生家の庭に苗木を植えたとあります。

場所:

https://maps.app.goo.gl/ZsAJ6iL2P3ecxZhb7


中野正剛

中野 正剛(なかの せいごう)
1886年(明治19年)2月12日 – 1943年(昭和18年)10月27日
ジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。

旧藩校の流れをくむ修猷館を卒業後、早稲田大学高等予科に進学。修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿する仲であった。
1909年(明治42年)7月早稲田大学政治経済学科を卒業し、東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社、同年11月退社。
同年12月東京朝日新聞(東朝、現・朝日新聞)に入社。1911年(明治44年)11月大阪朝日新聞に移籍。
1913年(大正2年)に三宅雪嶺(金沢出身の哲学者・評論家)の長女・多美子と結婚。仲人は、頭山満と古島一雄(三宅雪嶺が主宰する雑誌「日本人」の記者、のちに衆議院議員・貴族院議員)であった。
1916年(大正5年)7月大阪朝日新聞を退職し、東方時論社に移って社長兼主筆に就任。
1920年(大正9年)5月の総選挙で当選する。以後、8回当選。
反軍派政党人として名を馳せ、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任した。1928年(昭和3年)1月から1929年(昭和4年)4月まで九州日報社長も務めた。
1936年(昭和11年)3月に、東方会を結成し会長となった。
1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)3月にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラーと会見。秘書として中野正剛に進藤一馬(後の衆議院議員、福岡市長)が随行していた。
1940年(昭和15年)10月大政翼賛会常任総務に就任。

東條英機倒閣運動
1941年(昭和16年)3月、東條英機の権力強化に反対するために大政翼賛会を脱会。
1942年(昭和17年)4月の翼賛選挙に際しては、東方会総裁として非推薦候補を擁立し、東条首相に反抗。中野正剛は非推薦でありながら当選。
同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を実施。当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志し当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。
戦時中の中野正剛は反東條英機の動きを鮮明し、倒閣運動を実施。

中野正剛事件
1943年(昭和18年)年9月21日、東方同志会の会長だった中野をはじめとする39人が一斉に検挙された。
国会議員であった中野 正剛(なかの せいごう)
1886年(明治19年)2月12日 – 1943年(昭和18年)10月27日
ジャーナリスト、政治家。東方会総裁、衆議院議員。号は耕堂。

旧藩校の流れをくむ修猷館を卒業後、早稲田大学高等予科に進学。修猷館時代に出会った緒方竹虎とは、早稲田大学や東京朝日新聞社でも行動を共にし、大学時代には2人で下宿する仲であった。
1909年(明治42年)7月早稲田大学政治経済学科を卒業し、東京日日新聞(現・毎日新聞)を発行していた日報社に入社、同年11月退社。
同年12月東京朝日新聞(東朝、現・朝日新聞)に入社。1911年(明治44年)11月大阪朝日新聞に移籍。
1913年(大正2年)に三宅雪嶺(金沢出身の哲学者・評論家)の長女・多美子と結婚。仲人は、頭山満と古島一雄(三宅雪嶺が主宰する雑誌「日本人」の記者、のちに衆議院議員・貴族院議員)であった。
1916年(大正5年)7月大阪朝日新聞を退職し、東方時論社に移って社長兼主筆に就任。
1920年(大正9年)5月の総選挙で当選する。以後、8回当選。
反軍派政党人として名を馳せ、政府では、内務大臣だった濱口雄幸の推薦で、大蔵参与官や逓信政務次官などを歴任した。1928年(昭和3年)1月から1929年(昭和4年)4月まで九州日報社長も務めた。
1936年(昭和11年)3月に、東方会を結成し会長となった。
1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)3月にかけて、イタリア、ドイツ両国を訪問し、ムッソリーニ、ヒトラーと会見。秘書として中野正剛に進藤一馬(後の衆議院議員、福岡市長)が随行していた。
1940年(昭和15年)10月大政翼賛会常任総務に就任。

東條英機倒閣運動
1941年(昭和16年)3月、東條英機の権力強化に反対するために大政翼賛会を脱会。
1942年(昭和17年)4月の翼賛選挙に際しては、東方会総裁として非推薦候補を擁立し、東条首相に反抗。中野正剛は非推薦でありながら当選。
同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を実施。

諸君は、由緒あり、歴史ある早稲田の大学生である。便乗はよしなさい。歴史の動向と取り組みなさい。天下一人を以て興る。諸君みな一人を以て興ろうではないか。日本は革新せられなければならぬ。日本の巨船は怒涛の中にただよっている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目覚めよ。天下一人を以て興れ、これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である。

中野の雄弁と早稲田の聴衆の興奮熱気はあまりにすさまじく、憲兵隊の制止どころではなかった。
当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志し当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。
1943年(昭和18年)正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表し、名指しこそしなかったものの、東條首相を痛烈に批判。この記事の内容に東條は激怒し、朝日新聞に対して記事の差し止めを命じた。
戦時中の中野正剛は反東條英機の動きを鮮明し、倒閣運動を実施。宇垣一成擁立を進めるが重臣会議での連携不足で失敗、次いで東久邇宮稔彦王擁立を進めるが、東條側の対策の打つ手が先行してしまう。

中野正剛事件
1943年(昭和18年)年9月21日、東方同志会(東方会の改称)の会長だった中野をはじめとする39人が一斉に検挙された。
東條英機は大いに溜飲を下げたが、国会議員であった中野の身柄拘束は強引すぎるものとして世評の反発を買うことになった。結局、中野は10月25日に釈放される。
釈放されたものの、憲兵2名の見張りがつき、追い詰められた中野は10月27日に割腹自殺した。
享年57歳。

戦前の帝国議会議員で最初の自殺者であった。


中野正剛先生像

中野正剛像
昭和30年3月27日に鳥飼八幡宮境内に建立された。


中野正剛先生碑
 緒方竹虎書

緒方竹虎と、中野正剛は修猷館、早稲田大学、東京朝日新聞記者を通じ、変わらぬ親友であった。大学時代には2人で下宿をしていた時期もあった。

中野正剛先生略伝
明治十九年二月十二日福岡市西湊町(現荒戸一丁目)ニ生レ中学修猷館、早稲田大學ニ学ブ。
東京朝日新聞記者、東方時論主幹トシテ健筆ヲ揮イ郷土紙九州日報ヲ経営ス。
福岡県一区ヨリ衆議院議員ニ当選スルコト八回在職二十年四月。
其間大蔵参與官逓信政務次官トナル。
後、東方会ヲ組織シ全国ノ青年同志ヲ糾合国事ニ奔走ス。
性剛直果断、愛国ノ至誠ハ熱血ノ雄弁不抜ノ筆陣トナリ毅然トシテ所信ニ邁進、太平洋戦争酣ナルヤ戦局日ニ非ナルヲ憂イ東條内閣ノ退陣ヲ図リ其収拾ニ盡瘁。
東條首相ノ熾烈ナル弾圧ニ屈セズ抗議スルモ志成ラズ。
昭和十八年十月二十七日渋谷ノ自邸ニテ自刃。
 歳 満五十七
  門人 進藤一馬 謹書

豪傑之志
雖無文王
猶興

 耕堂正剛

孟子「豪傑之士雖無文王猶興」
「才知や徳のある豪傑は、文王の教えがなくても、自発的に立ち上って善を行うことができる」の意
中野正剛が提唱した猶興は アジア主義(南進論)の思想的拠点、「猶興居(ゆうこうきょ)」に関連し、中野正剛の「アジア主義」と「東方会」の活動の根幹をなす概念。
「猶興(東洋の興隆)」は中野正剛の理想を表している。

中野正剛先生旧家跡

鳥飼八幡宮の参道脇に。

鳥飼八幡宮

筑前藩主黒田家の氏神、 福岡市の鎮守。
旧社格は県社。2022年に建て替えられたモダンな神社建築。
神功皇后が胎内の応神天皇の将来をお祝いした地・鳥飼村に社を建てたのが創始という。

場所:

https://maps.app.goo.gl/SBRmrqjoGFe2g9Yf9


中野正剛生家跡

電信柱に、生家跡の表記があった。石碑があるものばかり思って探していたら、これはなかなか見つける難易度が高い。

中野正剛生家跡
明治19年(1886)年2月12日、旧筑前藩士中野泰次郎とトラの長男として、当地の伯父中野和四郎宅で出生。幼名甚太郎。
中野正剛という人物には謎がある。朝日新聞の辣腕記者であって、電信電話の民営論者。大塩中斎と西郷隆盛と頭山満に憧れていて、犬養毅と尾崎咢堂の擁護者。シベリア出兵の反対者にして極東モンロー主義者。それでいて満州国支持者で、ファシストであって東条英機の戦線拡大反対者。酒も煙草もやらないが、論争と馬には目がなく、やたらに漢詩漢文が好きな男。いったいこれは何者か。はっきりいえるのは、自死は中野正剛が最後の最後に選んだ結論だったということである。腹は真一文字に切り、左頸動脈を切断した。(昭和18年(1943年)10月27日未明、知らせで駆けつけた頭山満が、「古武士のような見事な最期」と言った。)中野正剛については、ほとんど詳細な研究がない。(松岡正剛「千夜千冊」より)

場所:

https://maps.app.goo.gl/A4zabw5yiDoQ16FK7


中野正剛墓(多磨霊園)

中野正剛の墓は、東京の多磨霊園にもある。参考掲載。
12区1種1側2番

中野家之墓

昭和十年六月 中野正剛 建之

扁額は、頭山満。
碑の撰は徳富蘇峰、書は緒方竹虎

才該衆美 氣吐長虹 矯々不群 國士之風

友人 蘇峰徳富正敬撰
同学 緒方竹虎書

※多磨霊園撮影:2026年1月


緒方竹虎墓(青山霊園)

中野正剛の友であった緒方竹虎。
玄洋社の頭山満は緒方竹虎の結婚の仲人を務めた。
そして、緒方竹虎は頭山満の葬儀副委員長を務めている。葬儀委員長は、廣田弘毅であった。

緒方竹虎は、朝日新聞社副社長・主筆、自由党総裁、自由民主党総裁代行委員、国務大臣、情報局総裁、内閣書記官長、内閣官房長官、副総理などを歴任。栄典は正三位勲一等旭日大綬章。

緒方竹虎の墓は、東京の青山霊園にもある。参考掲載。

緒方家之墓

※青山霊園撮影:2021年5月


内田良平墓(多磨霊園)

黒龍会主幹。柔道家。
頭山満の玄洋社の三傑といわれた平岡浩太郎が伯父(父・内田良五郎の実弟)。
明治34年(1901年)黒龍会を結成。玄洋社の一部がアジア主義を掲げて大陸で活動するために、玄洋社初代の平岡浩太郎の甥に当たる内田良平を中心として設立。頭山満が顧問であった。
昭和6年(1931年)に大日本生産党を結成し、その総裁となる。
昭和7年(1932年)の血盟団事件・昭和8年(1933年)の神兵隊事件などの黒幕と呼ばれた。
昭和9年(1934年)大本教系昭和神聖会副統管。
昭和12年(1937年)7月26日死去。没年64歳。墓所は多磨霊園14区1号9番地。

内田良平之墓

頭山満書

昭和12年7月26日逝去 享年64歳
 昭和13年7月26日建之

※多磨霊園撮影:2026年1月

※福岡の写真撮影:2025年7月


「全員玉砕せるものと認む」アッツ観音(保寿院・山梨)と山崎保代の墓(多磨霊園・東京)

毎年恒例の「河口湖(「河口湖自動車博物館・飛行舘」)」の往復で乗車している「富士急行線(富士山麓電気鉄道富士急行線)」。

そんな富士急行線「赤坂駅」すぐ近くに、「アッツ観音」があるというのを知ったのはつい最近。実は車窓からも見える、ことも知らなかった。
知ったからには、すぐさまに足を運びたくなり、そうして、8月の河口湖行きの復路に参拝をしていきました。


山崎保代(やまざき やすよ)

山崎 保代(やまざき やすよ)
1891年10月17日 – 1943年5月29日
最終階級は陸軍中将。
都留市の四日市場保寿院住職山崎玄洞の二男に生まれた。
太平洋戦争(大東亜戦争)中、山崎保代は北海守備第2地区隊長に任命され、アッツ島の戦いを指揮し17日間の激しい抗戦の後戦死した。

https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/kingendai/yasuyo.htm


アッツ島の戦い

1942年6月7日以来「日本軍」が占領していたアッツ島を、「アメリカ軍」が奪還を目指して始まった戦い。
アメリカとしては、1812年に始まった米英戦争以来、131年ぶりにアメリカ領土を奪還する戦いとなった。
日本軍の守備兵力は2650名に対し、米軍は5倍以上の戦力を投入し、日本守備隊は激戦の末に全滅した。
アッツ島の戦いは、日本国内で初めて「玉砕」という表現で報じられた戦いであった。

昭和17年6月、ミッドウェー作戦(ML作戦)の支援を兼ねたアリューシャン作戦(AL作戦)が決行された。
6月8日、日本軍はアッツ島に上陸し占領。アッツ島を「熱田島」と命名した。なお、アッツ島には米軍は駐留していなかった。
侵攻に際しては、アッツ島は陸軍、キスカ島は海軍の担当であった。

昭和17年8月、キスカ島への守備強化を実施するために、アッツ島は放棄となったが、アメリカ軍の攻撃に際して、10月に方針を変更し、アッツ島の再占領を実施。

昭和18年2月、北太平洋方面の守備を見直し。
 北方軍司令部
  (司令官 樋口季一郎陸軍中将)
 北海守備隊
  (司令官 峯木十一郎陸軍少将 キスカ在)
 キスカ島を担当する第一地区隊
  (歩兵三コ大隊、地区隊長 佐藤政治陸軍大佐)
 アッツ島を担当する第二地区隊
  (歩兵一コ大隊、地区隊長 山崎保代陸軍大佐)

2月11日に山崎保代陸軍大佐が北海守備第2地区隊長に補職された。
3月27日にはアッツ島沖で「アッツ島沖海戦」が発生、日本軍の輸送船団はアッツ行きをやめて幌筵に撤退し、乗船していた山崎大佐もアッツ島に着任できなかった。
山崎大佐は潜水艦に乗り換え、4月18日にアッツ島に上陸。

1943年5月12日、戦艦3隻を擁するアメリカ太平洋艦隊の支援下、第7歩兵師団の15,000名のアメリカ軍が上陸を開始した。

山崎保代北海守備第2地区隊長は、アッツ島の戦いで、2,650名の守備隊を指揮し水際防御ではなく、のちのペリリュー島の戦いや硫黄島の戦いと同じく敵を島の内部や高地に引き込む戦略を採用し陣地を構築。

1943年5月29日、過酷な戦闘が繰り広げられ、17日間の激闘のすえ、最後の突撃にて守備部隊は壊滅し、戦闘で指揮していた山崎保代も戦死し、アッツ島守備隊は玉砕した。

大本営発表(昭和18年5月30日17時付)
アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵兵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。
爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む。
傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、之に先立ち悉く自決せり。
我が守備部隊は2500名にして、部隊長は陸軍大佐山崎保世なり。
敵は特種優秀装備の約2万にして5月28日までに与えたる損害6000を下らず。

山崎保代は、死後2階級特進し、陸軍中将に進級している。
享年51歳。

なお、大本営発表として「玉砕」と発表されたのは、「アッツ島の戦い」が最初であるが、以後は「総員壮烈なる戦死」と発表されている。


アッツ観音

戦後全国のアッツ島戦没者遺族と地域の人々によって、勇士の菩提を弔い、かつ、世界平和を願って、昭和29年5月19日、父親の山崎玄洞により生家の保寿院境内に「アッツ観音」が建立される。
1994年(平成6年)には、追悼の石碑も建立される。

部隊の長として遠く不毛に入り
骨を北海の戦野に埋む 
眞の本懐に存じ候えや
護國の神霊として悠久の大義に生く 
快える哉
 山崎大佐

山崎保代は当山十七世玄洞和尚の次男として明治二十四年十月十七日生を享く
長じて陸軍に身を捧し 大東亜戦争北方の要衝アッツ島守備部隊の長として出陣
その折上野甲子氏に碑面の遺書を託した 
昭和十八年五月二十九日 二千六百三十八勇士と共に北海の孤島に於いて 世界平和と祖国の安泰を祈念しつつ玉砕した
その功により陸軍中将に任ぜられる
 平成六年仲秋
  当山二十世洞岳明三敬建

台座は、アッツ島をイメージしているという。

合掌

富士山を背に、アッツ島の方角を向く「アッツ観音」

富士急行線のすぐとなり。


保寿院

曹洞宗
山号は岩生山
都留七福神の大黒天
アッツ観音霊場
アッツ島の守備隊長・山崎保代の生家

車窓からも見えます。

場所:

https://maps.app.goo.gl/E6qfMkZ4jdMD8cu36


山崎保代の墓

多磨霊園の山崎保代の「山崎家之墓」がある。
多磨霊園19地区1種2側

山崎家之墓

従四位勲二等功三級
陸軍中将 山崎保代 
 昭和18年5月29日
  アッツ島・戦死・53歳

だいぶ昔に、多磨霊園の山崎保代の墓に詣でていました。

https://maps.app.goo.gl/SY8QD1FTT9tm2UiS7

※2016年2月撮影


アッツ島玉砕・藤田嗣治(東京国立近代美術館)

東京国立近代美術館に「アッツ島玉砕」(藤田嗣治)が収蔵されている。ちょうど、特別展もやっていたので、作品を見ておきたく、こちらも足を運んでみました。

東京国立近代美術館
2025年夏の特別展
コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ

https://www.momat.go.jp/exhibitions/563

この特別展にて、「アッツ島玉砕」が掲示されていたので、以下に記録。

「アッツ島玉砕」(藤田嗣治)

写真では絵画ならではの迫力も凄惨も伝わらないが。

戦争画(戦争記録画)の代表作として著名

藤田嗣治
アッツ島玉砕

1943 作戦記録画
1943年5月29日、アリューシャン列島のアッツ島で、アメリカ軍の攻撃により日本の守備隊が全滅した出来事が、敵味方入り乱れる死闘図として描かれています。全滅は「玉砕」という言い方で美化され、国に殉じる行為が軍人の鑑であると報じられたため、藤田の絵は陰惨な図柄であるにもかかわらず、観衆に熱狂的に受け入れられました。同年9月の国民総力決戦美術展に展示された際には、作品の前に賽銭箱が置かれ、脇には藤田自身が直立し、観客が賽銭を入れると藤田がお辞儀をしたというエピソードもあります(野見山暁治「四百字のデッサン」河出書房新社、1978年)。ここで作品は単なる記録を超え、追悼と「仇討ち」の気分を醸成するための機能を果たしました。その気分の醸成には、報道や文学、絵本、歌などのメディア・ミックスがあったことも見逃せません。

https://www.momat.go.jp/collection/x00120

「写真週報」276号
昭和18(1943)年6月16日

アジア歴史資料センターより

https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A06031087100

https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2006070420550957726

同特別展では、
「アッツ島爆撃」という作品も掲示されていた。

※2025年8月撮影


関連

山崎保代の上官にあたるのが、北方軍司令部(北部軍司令部)の司令官であった樋口季一郎。

富士急行線の目的は、、、

模擬原子爆弾「パンプキン」長崎に原爆投下したB-29「ボックスカー」の最終投下訓練地(西東京)

西東京市に、模擬原子爆弾が投下されていた。
つい最近にそのことを知り、投下現場に足を運んできました。
ちょうど、戦後80年の節目に当たる2025年の夏に、新しい看板が設置されたとのことで。


模擬原子爆弾の着弾・爆発地点(しじゅうから第2公園)

模擬原子爆弾の着弾・爆発地点
 第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年7月29日午前9時23分、1機のB-29爆撃機が中島飛行場武蔵製作所をねらって模擬原子爆弾を投下し、この付近に着弾・爆発しました。当時この場所はじゃがいも畑で、3人の女性が亡くなり、8人が重傷、3人が軽傷という記録が残っています。2人の女性は、それぞれわが子を自分の体で守り、子ども(女の子:当時7歳、男の子:当時5歳)は助かりました。
 このB-29爆撃機は「ボックスカー」と呼ばれ、その後8月9日に長崎に原子爆弾を投下することになります。

模擬原子爆弾とは
 原子爆弾を確実に目的地に投下して爆発させる訓練のために作られたもので、東京で2発、日本各地に計49発が投下されました。長崎に投下された原子爆弾と同じ形、同じ重さ(4.5t)で、核物質ではなく高性能爆薬が込められていました。
 黄色く塗られ丸い形をしていたことから「パンプキン(かぼちゃ)爆弾」と呼ばれました。
  戦後80年の節目にあたり、模擬原子爆弾が投下され市民が犠牲になった歴史を後世に伝え、平和を考える場とするため解説板を設置しました。
 令和7年7月29日
  西東京市教育委員会 教育部 地域学習推進課

投下から着弾までの想定図

西東京市は、中島飛行場武蔵製作所の北側。

8921-C6-132
1944年(昭19)11月07日‐陸軍撮影を編集 空襲前

東伏見稲荷の西側に位置する。

下記はアメリカ・ラスベガスのアトミックミュージアム展示の「ファットマン原寸大模型」
(2025年4月撮影)

模擬原子爆弾の着弾・爆発地
ここが長崎の原爆攻撃機の最終訓練地でした。
昭和20年(1945年)7月29日午前9時23分、この公園の近くに原子爆弾の投下訓練のため米軍によって模擬原子爆弾(パンプキン)が落とされました。
当時、この場所はじゃがいも畑で、作業中の3人の女性が亡くなり、11人が負傷しました。

西東京市サイトには、以下の記載もある。

1945年8月9日長崎に投下された原子爆弾。
この投下に先立ち、訓練のため、全国で49発の模擬原子力爆弾が投下されました。
そのうちの1発は、武蔵野市にあった中島飛行機武蔵製作所を狙って投下されましたが、
実際には西東京市の柳沢駅近く、現在のしじゅうから第2公園付近に着弾し、複数の死傷者がでました。

https://www.city.nishitokyo.lg.jp/enjoy/rekishi_bunka/bunkazai/pumpkinbomb_shijyukara2.html

以下、西東京市による資料も添付。

https://www.city.nishitokyo.lg.jp/enjoy/heiwa/manabu/sensaipaneru.files/a20.pdf

パンプキン爆弾
重さ4.5トン(通常の高性能爆薬2.5トン)
投下したB29(愛称ボックスカー)は、10日後、長崎に原爆を投下

原爆模擬爆弾の被害
1945年(昭和20年)7月29日、西武柳沢駅南にある現在のしじゅうから第二公園の東側に、強力な爆風を生じる爆弾1発が投下され、畑仕事をしていた女性ら3名が亡くなりました。その爆弾が何であるのか長い間不明でしたが、米軍資料関係者らの調査により、原子爆弾の投下訓練のために全国50ヶ所で実施された作戦の一つであることが判明しました。

いまは、静かな公園。

ちなみに、西武柳沢駅に近い北側には「しじゅうから公園」がある。
模擬原爆が投下されたのは「しじゅうから第二公園」の近く。

「しじゅうから」は、西東京市の鳥、とのこと。

※撮影:2025年7月

※場所:

https://maps.app.goo.gl/5Bs2uhBD9jDEkHhL7


模擬原爆関連

「まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵)」と「中国帰国者之墓」(西多摩霊園・あきる野市)

あきる野市にある「西多摩霊園」。
ここに、「中国帰国者之墓」と、ちばてつや氏デザインの「まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵)」があるというので足を運んでみた。

「まんしゅう母子地蔵」が浅草寺に鎮座しており、どちらも漫画家のちばてつや氏のデザインとなる。


「中国帰国者之墓」と「まんしゅう地蔵(まんしゅう地ぞう)」

「まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵」は、あきる野市の西多摩霊園にある「中国帰国者之墓」の横に鎮座。
浅草の浅草寺にある「まんしゅう母子地蔵」と同じく、ちばてつや氏がデザイン。

中国帰国者之墓
内閣総理大臣 海部俊樹 書

海部俊樹総理大臣の銘。1990年6月の建立。

合掌

墓碑銘
 1931年9月満洲事変以降、五族共和・王道楽土建設の名のもと多くの日本人が中国東北地方に渡った。特に重要国策として、日本全国から開拓団青少年義勇軍が中ソ国境に送り込まれた。
 しかるに第二次世界大戦末期ソ連軍の侵攻に際し、日本軍の庇護無く、多くの婦女子が、飢え・病・酷寒に苦しんだ。また逃避行の果て家族は離散し異郷に永く放置されたが中国の人々に救われた。
 戦後四十有余年、多くの孤児・夫人達が念願叶い、故国に帰ったが、定着自立の過程で不幸にして他界された御霊を此処に祀る。
 再び過ちが繰り返されぬことを願い永遠に安らかに眠られんことを祈る。
  1990年6月
  中国残留孤児の国勢取得を支援する会
   会長 河合弘之

由来
 望郷の思い久しくようやく帰国した残留孤児・残留夫人は懸命に定着、自立の努力を続けていますが、その過程で新たな問題が発生しました。それは、せっかく祖国に帰りながら不幸にして他界した夫人・孤児あるいはその家族の人達の御霊が眠る墓所がないことです。
 そこでこの墓所を中国残留孤児の国籍所得を支援する会が発案し、孤児支援関係者・厚生省など関係各庁の方々、西多摩霊園、宮川石材株式会社等、そのほか心ある方々の協力によって建立されたものです。衷心よりお礼申し上げます。
 1990年6月
  中国残留孤児の国籍取得を支援する会
   事務局長 千野誠治

「まんしゅう地ぞう」由来
 今日は遠路『まんしゅう地ぞう』さまにお参りされご苦労さまです。
この機会に、お地蔵さま建立の由来について申し上げたいと思います。
 おとなたちが起こした、さきの大戦敗戦の結果、当時の満州で数万の子供たちが亡<なりました。一九四五年八月九日、突然のソ連軍侵攻。守ってくれる筈の日本軍は頼りにならず、ソ連戦車に蹂躙され、暴民の襲撃にさらされながら、人々は一歩でも祖国に近づこうと必死の逃避行を続けました。襲い来る飢、疫病、酷寒そして集団自決、そのなかでおとなたちの手によって死んでいった子供たちもいました。罪のない子供たちが、なぜ虫けらのように死ななければならなかったのでしょうか。
子供たちの魂は日本に帰えれず、花一本供えられることもなく、まだ満洲の荒野で迎えを待っているのではないでしょうか。
 あれから五十年の歳月が過ぎ去りました。ともすれば戦争の惨禍が忘れられ、多くの子供たちの貴い命がその犠牲になったことも消えてしまいそうです。改めてここに、幼い御霊よ安らかなれと祈り、再びあやまちを繰り返さないことを誓い、永遠の平和の願いをこめて『まんしゅう地ぞう』を建立した次第です。お地蔵さまのお慈悲、皆の思いは遠く満洲の地に眠る非運の子供たちに届くことを信じてやみません。
 最後に、和田圭子さんから頂いた短歌を捧げてご冥福をお祈り申し上げます。
 異郷にて はかなくなりし幼児の みたまかへれよ ちちははの手に
 風となり  雲ともなりて  遊べかし  お地蔵さまに  見守られつつ

デザイン ちばてつや 題字 井上翠園
彫刻 和泉成治 石材 宮川八三吉
 一九九五年十一月
  まんしゅう地ぞう建立委員会

中国帰国者支援・交流センター
https://www.kikokusha-center.or.jp/index2.html

https://www.kikokusha-center.or.jp/resource/sankoshiryo/ioriya-notes/photo/zizo.htm

まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵)は、漫画家のちばてつや氏のデザイン。
ちばてつや氏は、2歳の時に満洲国奉天にわたり、6歳のときに同地で終戦を迎え、多くの困難を経て満洲国から引き揚げを経験している。

まんしゅう地ぞう

「まんしゅう地ぞう」から、西多摩霊園を眺める。


西多摩霊園

東京郊外の大規模霊園。予想以上に広く、そして山を切り拓いた感もあり、アップダウンも激しい。
私は、福生駅からシェアサイクルで赴いたが、同じく福生駅からは無料送迎バスもあるとのことで、バスを使うのものあり。

https://nishitamareien.com/guidance_top/guidance/guidance1

西多摩霊園は、都内最大の民営公園墓地。昭和41年開設。広大な聖域は15万坪(50万平方メートル)を有し、総区画数は約3万区画にも及ぶ。

もちろん、場所がわからなかったので、管理事務所で「中国帰国者之墓」と「まんしゅう地蔵」の場所を尋ねると、受付のお姉さんが教えてくれます。
「案内図のここ(黒線で行き方を記載)を右にいった、第5区の1号の1列、おおきなお地蔵さんがあるので、すぐわかると思いますよ」

親切にありがとうございます。
お陰様で、迷わず、たどり着けました。

https://nishitamareien.com/img/Gardenmap2023.jpg

ちなみに、5区の入口には東海大学の創設者・松前重義博士の顕彰碑「望星塚」がある。

※撮影:2025年5月
※Pentax WG-1000


満洲関連

「昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)」36年目の昭和天皇武蔵野陵に拝する(令和7年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。
国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

あの日から、36年。

今年も、 昭和天皇 武蔵野陵(しょうわてんのう むさしののみささぎ)へ参拝をいたしました。

昭和から平成、そして令和へと、時代は移り変わるも、決して忘れてはいけない昭和の記録を伝承し、そして歴史として、後世に紡いでいくために。

昭和天皇 武蔵野陵(むさしののみささぎ)

昭和天皇 武蔵野陵 
昭和六十四年一月七日午前六時三十三分崩御 平成元年二月二十四日斂葬

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。

拝礼


昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)

祭礼に関する撮影は一切禁止、です。
午前9時半頃より、一般参拝が停止され、祭員参進が始まります。
午前10時より、「山陵に奉幣の儀」が奉祭されます。
おわるのは、午前10時30分から11時の間くらい。
祭員が退出次第で、一般参拝が再開されます。

祭祀は、神道式。

  • 祭員参進
  • 式部官参進(宮内庁式部職)
  • 招待者参進
  • 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下)
  • 勅使参進
  • 献饌(奏楽)
  • 勅使拝礼(奉幣)
  • 皇族代表拝礼
  • 招待者拝礼
  • 撤饌(奏楽)
  • 勅使退出
  • 皇族代表退出
  • 招待者退出
  • 式部官退出
  • 祭員退出

祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

祭員退出のあたりで、写真撮影禁止ではなくなったり。

毎年、見かける人がいました、、、

今年も、佳子内親王殿下が参列、でした。

今年は10時30分頃には一通りが終わった感じで。


香淳皇后 武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)


大正天皇 多摩陵(たまのみささぎ)


貞明皇后 多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)


武蔵陵墓地・武蔵陵墓地

この先は、お察しください。。。

木漏れ日

撮影:2025年1月


関連

陸軍経理学校「若松神社」(現・上鈴木稲荷神社)と「小平駐屯地」

2024年3月24日に、小平駐屯地一般開放(観桜一般開放)がありましたので、足を運んでみました。


陸軍経理学校

陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育、あるいは経理官への上級教育を行っていた陸軍学校。教育に限らず陸軍経理に関する調査と研究なども行っていた。陸軍経理とは会計だけに限らず、監査、被服、糧秣、建築も職務に含まれていた。

明治19年(1886)に陸軍軍吏学舎が設置されたことに始まる。
明治23年(1890)に陸軍軍吏学舎を廃止、陸軍経理学校を開校。
明治33年(1900)に「陸軍経理学校本校」を東京市牛込区河田町に移転。陸軍士官学校の「市谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」の愛称で呼称されることとなる。
昭和17年(1942)3月、陸軍経理学校は戦争による生徒、学生、幹部候補生等の人員増加のため、東京府北多摩郡小平村に移転。昭和20年8月の敗戦により閉校。

詳細は、下記にて


小平駐屯地

昭和29年に陸上自衛隊小平駐屯地として開設したことにはじまる。
小平駐屯地は、もともとは陸軍経理学校のあった場所。しかし往時を偲ぶものは駐屯地内には残っていない。
陸軍経理学校の正門は、警察学校側となり、小平駐屯地側は裏側になる。

一般公開で足を運んでみたものの見どころは少なく、小平駐屯地内の「史料館」を拝見できるのがメリットぐらい。ちなみに史料館内部は撮影禁止。

史料館のスタッフに、「警察学校の正門以外で、陸軍経理学校時代の遺構ってないですよね?」ときいてみたところ、スタッフから「小平駐屯地には遺構はないです」「陸軍経理学校の若松神社は、戦後に上鈴木神社の本殿に流用され、本殿と鳥居が陸軍時代のもの」とお伺いできたのは、大収穫。
これは行ってみましょう。
ちなみに「警察学校のプールも陸軍経理学校時代のまま残っている」とのことですが、そこは見学ができないので。。。


陸軍経理学校の校内神社「若松神社」御社殿と石鳥居
(現:上鈴木稲荷神社)

陸軍経理学校の校内神社であった「若松神社」の御本殿と鳥居が流用され現存している。

陸軍経理学校は、もともと若松河田の地にあり「若松台」と呼称されていたことから昭和17年に小平に移転しても「若松台」の名称は継承されてしており、陸軍経理学校の校内神社も「若松神社」と呼称されていた。
石鳥居は、昭和18年(1943年)の造営。本殿社殿も同じ頃と推測。
上鈴木稲荷神社には戦後の昭和24年に払い下げされている。

御由緒

昭和24年に、陸軍経理学校の若松神社から払い下げられたことがわかる。

石鳥居の右側に陸軍の鳥居であった証が刻まれている。

陸軍主計中将 従四位勲二等 迫栄吉 禁書

迫栄吉は、1941年(昭和16年)8月25日に陸軍主計中将に進級し、昭和16年12月1日に「陸軍経理学校長」に就任し、昭和20年4月まで、太平洋戦争のほぼすべての期間を陸軍経理学校長であった。
1945年(昭和20年)4月7日に第1総軍経理部長となり終戦を迎えている。

昭和18年2月建之

木曽周太郎

木曽氏の詳細は不明

上鈴木稲荷神社の拝殿

上鈴木稲荷神社の本殿覆殿
この内部に在る本殿が、陸軍経理学校の若松神社の御社殿。

茅葺きの社殿がわかる。

場所

https://maps.app.goo.gl/qGw8TiKsPu7CTKVYA


小平駐屯地「史料館」

小平駐屯地内。
史料館には、小平になった陸軍経理学校と、中野にあった憲兵学校に関係する史料が展示。なお、内部は撮影禁止。

小平駐屯地の史料館の建屋が古めだったので、スタッフに由来を聞いてみたところ、陸軍時代のものではなく、東立川にあった米軍占領時代の建屋を移設したものだ、とのこと。

2001年に調査学校(情報要員養成)と業務学校(会計、警務などの業務要員養成)が統合してできたのが、「小平学校」。
小平学校は自衛隊の任務遂行の基礎となる警務・会計・人事・法務・システム等の実務全般にわたる幅広い教育を担任する陸上自衛隊唯一の教育機関であり、事務官や海空自衛隊も含めた自衛隊員にとっての「実学の府」。


小平駐屯地一般開放

観桜一般開放だったけど、観桜はまだな基地公開。

陸上自衛隊小平駐屯地

陸上自衛隊小平学校

本部庁舎

校風
国の安危を擔うべき身たるの修養
これがため、常に疑問を持ち、想像力を働かせ、与えられた可能性に挑戦する勇気をもって、任務を完遂せよ。

校章は、5枚のカラフルな銀杏。

https://www.mod.go.jp/gsdf/kodaira/song_mark.html

食堂・厚生センター

桜とタイミング合わせるのは、なかなか難しいですよね。。。

公式サイト

https://www.mod.go.jp/gsdf/kodaira/index2.htm

場所

https://maps.app.goo.gl/pmQfWNTnRbAMS3Yg7

撮影:2024年3月


東郷の私設副官と称せられた海軍中将「小笠原長生の墓」(世田谷・府中・伊豆長岡)

小笠原長生は、東郷平八郎に傾倒し「東郷の私設副官」「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

そんな小笠原長生の墓巡り。

  • 幸龍寺(東京世田谷) 小笠原家の江戸の菩提寺・小笠原家累代墓所
  • 東郷寺(東京府中)  開基を東郷平八郎、副開基を小笠原長生とする寺院
  • 近松寺(佐賀唐津)  小笠原家の唐津の菩提寺
  • 宗徳寺(伊豆長岡)  戦後に隠棲した伊豆長岡の古刹

なお、唐津の近松寺は未訪問


小笠原長生

小笠原 長生(おがさわら ながなり)
1867年12月15日(慶応3年11月20日) – 1958年(昭和33年)9月20日)
海軍軍人(海軍中将)、華族(子爵)。幼名は賢之進。佐賀県出身。
階級位階勲等功級は、海軍中将、正二位勲一等功四級子爵。忠知系小笠原家14代目。

江戸幕府老中を務めた小笠原長行の長男。
明治6年(1873年)9月、忠知系小笠原家13代の義祖父長国(肥前唐津藩主)の隠居により家を相続。
明治17年(1884年)9月に海軍兵学校に入学。同年7月、子爵を授けられる。
明治20年(1887年)7月、海軍兵学校(14期)を卒業。成績は45人中35位。なお、同期には鈴木貫太郎らがいる。

明治37年(1904年)1月、軍令部参謀に就任して日露戦争を迎えた。同年7月、海軍中佐。
軍令部参謀として海軍司令長官東郷平八郎の知偶を得て、その才を認められ、明治44年(1911)に、軍令部出仕兼参謀のまま学習院御用掛となった。ときの学習院院長は乃木大将。

明治天皇崩御の際の乃木大将夫婦殉死前後の大将と深くかかわることになり後事を託され、乃木将軍の長生宛の遺言や常用された書籍類が遺品として長生の手元に残された。

大正3年(1914年)4月から大正10年(1921年)3月まで、皇太子裕仁(昭和天皇)の教育を担う東宮御学問所幹事を務める。このときの東宮御学問所総裁は東郷平八郎。元帥東郷平八郎のブレーンとして伝記や読本などによって東郷の神格化に拍車をかけた。

大正3年(1914年)12月に海軍少将。大正7年(1918年)12月、海軍中将に進級し待命。大正8年(1919年)12月に休職し、大正10年(1921年)4月に予備役編入となり宮中顧問官に就任。昭和20年(1945年)11月まで在任した。

昭和22年(1947年)、公職追放の処分を受けて伊豆に閉居。
昭和33年(1958年)、死去。90歳没。


小笠原長生の墓(世田谷の幸龍寺・小笠原家墓所)

小笠原長生の墓が世田谷区にあるというので、足を運んでみたことから、芋づるで小笠原長生の墓を巡ることになるなど。
まず、足を運んだのが、東京都世田谷区北烏山5丁目に鎮座する「幸龍寺」。
旧唐津藩藩主小笠原家累代墓所でもある。
なお、世田谷区には、海軍軍人として、永野修身、小澤治三郎、堀悌吉の墓もあったりする。

旧唐津藩藩主小笠原家累代墓所がある。

小笠原家之墓

ちなみに、 小笠原長生の父・小笠原長行は当初「谷中墓地」に埋葬されていたが、後年、長生によって幸龍寺に改葬された。

鐵櫻院殿無畏長生日来大居士 
小笠原長生公 
正二位勲一等功四級 
昭和33年9月20日

三階菱の家紋

昭和32年12月建之
 小笠原長生

幸龍寺

なお、幸龍寺には、内海好江師匠の墓や長谷川雪旦の墓(唐津藩御用絵師)もある。

場所:

https://maps.app.goo.gl/6U32EmFr6K6nVnNo8

※撮影:2023年12月


小笠原長生墓(東郷寺境内の供養墓)

府中の東郷寺。
東郷寺は東郷平八郎元帥海軍大将を開基とし、副開基を小笠原長生海軍中将とする、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗寺院。山号は「聖将山 東郷寺」東郷没後に東郷家別荘・農園があった当地に昭和14年(1939)に小笠原長生を始めとする海軍関係者が中心となって建立。

境内の西エリア手前。
東郷寺副開基の小笠原長生子爵(海軍中将)を祀る。

小笠原長生の本墓は世田谷区烏山幸龍寺。
ここ東郷寺は供養墓となる。

東郷元帥墓と小笠原墓は並んで建立。
当地にて死してなお東郷の側にいられるというのは小笠原としては本望極まりないことだろう…

東郷寺の様子は下記にて。

ちなみに、東郷と小笠原以外の著名人として、豊田副武、貞閑勝見、河本大作の墓がある。

※撮影:2017年12月


小笠原家の墓(伊豆長岡の宗徳寺)

昭和20年の敗戦とともに、小笠原長生がが勤めていた宮中顧問官の制度は廃止。
昭和22年、小笠原長生は公職追放となり伊豆長岡の地に隠棲。
昭和29年、 昭和天皇は長岡まで行幸され、小笠原に長年の御辛労に感謝の御言葉をかけられた。その4年後、昭和33年秋、卒。92歳であった。

小笠原家墓

鐵櫻院殿無畏長生日来大居士 俗名 長生
 正二位勲一等功四級 慶應3年11月20日生

昭和28年6月3日
 小笠原長生建之

小笠原長生は昭和33年に亡くなっている。
本墓石は、生前に建立したことがわかる。

ここには、小笠原長生子爵とその母、夫人、継夫人、夭折した息子長孝の名前が刻まれている。

三階菱の家紋

墓所の入口、右側の木立に、小笠原家の墓がある。

軍人墓

伊豆長岡の宗徳寺、山門

長岡山

場所

https://maps.app.goo.gl/99GzSFwURE5G5Aqf7

※撮影:2024年8月


関連

「立川駐屯地創立50周年記念行事(航空祭)」その2(飛行展示)

2023年10月29日、一般公開にあわせて、ひさしぶりに立川駐屯地に足を運びました。

こちらでは飛行展示の模様などを掲載。

歴史っぽいことは、「その1」で。

UH-2

立川駐屯地での「UH-2」は初お披露目。
2022年に量産開始。スバル「ベル 412EPX」を自衛隊用に改良した機種。


UH-2とUH1Jの比較展示

多用途ヘリとして、UH-1Jと、新鋭のUH-2の比較展示が行われました。

UH-2

UH-1J

横からのUH-2

横からのUH-1J

後ろからのUH-2

後ろからのUH-1J

UH-2


編隊上空通過

圧巻ですね。


編隊着陸


災害救助活動展示

準備

準備完了(倒壊家屋を想定)

災害発生。まずはヘリによる上空偵察。

白バイによる地上からの現状確認。

パトカー出動。

救助犬も出動。

SRT出動。スペシャルレスキューチーム。警視庁災害対策課特殊救助隊

自衛隊災害救助とDMAT(災害派遣医療チーム Disaster Medical Assistance Team)出動。

上空からの救助を実施。
陸自と消防と警察のヘリがそれぞれ出動。

全開は、見ていて怖いものがある。

一斉に降下を開始。3つの組織のヘリが足並み揃えるのは、立川ならではの光景かも。

救助活動

そして、消火活動

流石に消火活動は、消防ヘリが最適化されている。


立川駐屯地(そのほか)

ちょうど50周年。

格納庫群。

管制塔

貴賓室

駐屯地内から立川駅行きのシャトルバス。
行き先案内板が、航空祭仕様でヘリ表示。

※撮影:2023年10月


関連

「立川駐屯地創立50周年記念行事(航空祭)」その1(立川駐屯地史料館と歴史散策)

2023年10月29日、一般公開にあわせて、ひさしぶりに立川駐屯地に足を運びました。
以下では、前回の補完もあわせて、記事を再編していきます。

飛行展示は、「その2」で。

以下は以前の記事
「立川駐屯地」

「立川飛行場」

「立川飛行機(立飛)」


立川陸軍飛行場

大正11年(1922)に帝都防衛構想の陸軍航空部隊の中核拠点として開設。
日中戦争さなかの昭和13年(1938)に立川に駐留していた飛行第五連隊隷下の戦闘中隊は「飛行第五戦隊」に改編され、翌年には柏飛行場に移駐。 そののちは実働部隊は置かれなかった。

大東亜戦争のさなかは、実戦部隊は展開されていなかったが、陸軍航空部隊の研究・開発・製造の一大拠点として機能。また軍用機製造の民間工場もあつまっており、戦争末期にはたびたび空襲に見舞われた。

アメリカ空軍立川基地
戦後、アメリカ軍が立川飛行場を接収。アメリカ軍の飛行場運用は昭和44年まで続き、飛行活動停止後に徐々に基地返還が行われる。
昭和47年に立川駐屯地発足、昭和52年に全ての敷地が全面返還。再開発が行われ、今日に至る。

2013年より始まった立川基地跡地再開発事業により、それまで残存していた旧軍の遺構も解体撤去。残るものは少ない。


立川陸軍航空廠

1933年(昭和8年)、所沢にあった陸軍航空本部補給部所沢支部が立川に移転して陸軍航空本部補給部立川支部となる。1941年(昭和16年)8月、立川陸軍航空廠に改称。
北側には陸軍航空技術研究所、西側には陸軍航空工廠が存在していた。


陸軍航空工廠

1940年(昭和15年)発足。
陸軍唯一の航空機製造施設であり、主に航空機用発動機の製造、航空機の設計・試作・製造を目的としていた。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-16
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

立川飛行場東側
USA-R556-No1-16
1947年(昭和22)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
立川飛行場西側
USA-R556-No1-17
1947年(昭和22年)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
再開発の進む現在の様子

立川駐屯地史料館

2019年以来、4年ぶりの再訪です。

展示機MAPと庭園MAPは新しい。
参考にさせていただきます。

CAMP TACHIKAWA 庭園MAP
昭和48年 東部方面航空隊 立川に全面移駐完了
昭和48年に滑走路東側の旧立川駐屯地から現立川駐屯地へと移駐した際、隊員の手によって整備された。移駐にあたり、庭園を整備したほか、旧軍施設や旧立川駐屯地にあった石碑を移設している。

CAMP TACHIKAWA 展示機MAP
航空機としての役目を終え、広報用展示機となった航空機4機種と装甲車

では、MAPに従って散策してみましょう。


【1】八紘一宇

八紘一宇
昭和15年(1940)
 陸軍航空廠本部に建立された。
 アジアが欧米列強の植民地となっている状況を憂い、アジア及び世界が一つの家族のように平和でともに栄えるようにとの願いが。

八紘一宇
陸軍中将 山下奉文 謹書
昭和15年建立

紀元二千六百年記念
陸軍大佐 川崎正寴 謹書

史料館資料より

陸軍航空廠本部
航空廠は、陸軍航空関係の直轄工場です。
写真は、正門から本館を望んだもので、正面の八紘一宇の碑は、マレーの虎と恐れられた山下奉文大将の筆によるもので、現在は史料館東側に展示しています。

史料館にある拓本


【2】行幸記念碑(行幸紀念)

行幸記念碑
昭和8年(1933)
 昭和天皇が初めて行幸されたことを記念して建立された。
 部隊や試験中の航空機を視察されたほか、展覧飛行も行われ、その様子は新聞にも取り上げられた。

行幸紀念
周次郎 謹書

維時昭和八年五月四日  聖駕此地へ幸シ給ヒ親シク陸軍航空ノ威容ヲ臠セラレ當所ノ研究兵器亦  天覧ノ光栄二浴ス乃テ碑ヲ以テ之ヲ不朽二傳フ

周次郎とは、伊藤周次郎陸軍少将のこと。陸軍航空本部技術部長(1932~1935)、昇格後の陸軍航空技術研究所所長(1935~1936)を努めている。
天覧のあった、昭和8年(1933)に、伊藤周次郎が部長を努めていた。

立川駐屯地史料館より。
昭和8年5月4日の 天皇陛下行幸のようすなど。


【3】池

昭和48年(1973)
 隊員の手によって整備された。
 任務に向けて離陸した航空機が無事に帰投するようにとの願いを込めて「ブーメラン」の形を模して設計された。


【4】行啓記念碑

昭和10年11月19日 皇太子殿下の行啓

行啓記念碑
昭和10年(1935)
 皇太子殿下が行啓されたのを記念し、翌年12月に当時の飛行第5連隊長の柴田大佐により建立された。

飛行第5連隊長の柴田信一の最終階級は陸軍中将。陸士24期、陸大33期。
浜松陸軍飛行学校幹事や鉾田陸軍飛行学校長などを歴任した。


【5】行啓記念碑2(皇太子殿下行啓記念碑)

行啓記念碑の2つめ。
昭和16年10月28日 皇太子殿下の2回目の行啓

行啓記念碑
昭和16年(1941)
 再度皇太子殿下が行啓されたことを記念して建立された。
 裏には「陸軍大将土肥原賢二謹書」とあり、当時、航空総監を務めた土肥原大将が書いたことを示している。

土肥原賢二の最終階級は陸軍大将。奉天特務機関長として満州で活躍。欧米では「満蒙のロレンス」と畏怖された。
極東国際軍事裁判では、A級戦犯として処刑された。


【6】飛行第5戦隊記念碑(飛行第五戦隊之碑

飛行第5戦隊記念碑
昭和58年(1983)
 「飛行第5戦隊」の生存者の会により。
 飛行第5戦隊は、大正10年に岐阜県の各務原飛行場で編成され、翌11年に立川に移駐。昭和14年まで立川飛行場に駐屯した。

飛行第五戦隊之碑
開雲 高木秀明謹書


飛行第五戦隊の母隊である航空第五大隊は 大正十年各務原で創設 翌年立川に移駐し 同十四年飛行第五連隊となった
昭和十三年夏飛行第五連隊の戦闘中隊は改編して飛行第五戦隊となり 千葉県柏に移駐した
昭和十六年大東亜戦争の勃発により戦隊は首都防空に任じた 次いで昭和十八年夏南方戦線に進出してジャワ、チモール、ハルマヘタ、比島方面で作戦任務を遂行した
戦局の推移に伴い昭和十九年秋小牧に転進し 同二十年終戦まで中京地区の要塞防空に任じた この間戦隊は武勲を重ねて感状を授与され陸軍戦闘戦隊の華と謳われた
茲に戦隊の歴史を刻し創隊以来国家に殉じた幾多の戦友病没隊員の遺徳を偲びこの碑を建立する
 昭和五十八年五月二十九日
 飛行第五戦隊生存者有志一同

以下は、立川駐屯地の史料館から第五戦隊関連を。

陸軍飛行第5聯隊配置図

ステンドグラス
陸軍飛行第五大隊将校集会所の2階窓に取り付けられていたもの。
大正11年製

オルガン
陸軍飛行第五戦隊の将校集会所にあった

灯籠
立川駐屯地東地区 旧軍通用門門柱

昭和14年まで立川飛行場に駐屯した飛行第五戦隊は柏に移駐となっている。

飛行第五戦隊 その後
千葉県柏で本土防空任務に就いていた飛行第5戦隊は二式複座戦闘機”屠龍”(キ‐45改)を保有していました。昭和18年になると南方戦線を防衛するため、インドネシアのジャワ島マランに展開して船団護衛や要地の防空任務に従事していましたが、、昭和19年7月に名古屋地区の防空任務を命ぜられて本土へ帰還。愛知県の清洲飛行場を拠点として夜間防空に活躍しています。昭和20年7月には五式戦闘機(キ‐100)に徐々に機種改変して対艦攻撃の訓練を行っていました。しかし、本土決戦のため戦力を温存する傾向となり、出撃を延期することが多くなって、8月15日を迎えたのでした。


【7】駐屯地竣工記念碑(竣工記念植樹)

駐屯地竣工記念碑
昭和58年(1983)
 現立川駐屯地移駐の10年後、第5代駐屯地司令の菱田司令の時代に建立された。
 これに合わせて記念樹としてハナミズキが植樹された。


立川駐屯地史料館見学

いくつか目に止まったものをピックアップ。

昭和15年頃の陸軍施設等の配置図。
「立川飛行場」を中心とした、位置関係がわかる。

東側に
陸軍航空技術学校、陸軍病院
立川飛行機(民間)、陸軍獣医資材廠(東立川駐屯地)、立川工作所(民間)。
西側に
陸軍航空技術研究所、陸軍航空廠立川支廠、陸軍気象部立川出張所、陸軍航空工廠、東亜航空機(民間)、千代田航空機(民間)

立川と空襲
 米軍による日本本土空襲が始まったのは、昭和19年11月のこと。同年7月にサイパン島が占領され、ここを基地としたB-29が大挙して来襲するようになった。以来、空襲は激しさを増し、終戦までの10ヶ月足らずにうちに、日本の主要都市のほとんどが爆撃された。
 立川が空襲を受けた理由としては、軍事関連施設が多かったこと、B-29が東京に襲来するときのコースが、サイパン島からまっすぐ富士山めがけて北上し、伊豆諸島上空付近で進路を北東に向け侵入するため、多摩地区が通過コースとなっていたことなどが考えられる。このため立川は、昭和20年2月16日以降、13回の空襲を受けた。なかでも昭和20年4月4日の空襲は激しく、富士見町山中坂ではB-29が落とした250Kg爆弾が命中し、防空壕にいた全員が犠牲となった。立川飛行場にも空襲はあったが、市内の空襲よりも被害は少なかった。これは、終戦後立川飛行場をそのまま使おうと米軍が考えていたから、などと言われている。
 「昭和記念公園は飛行場だった」より抜粋

山中坂の防空壕跡。

昭和初期~昭和15年頃の軍用機

立川は民間航空発祥地

「神風号」昭和12年に立川を離陸して英国へ。

「ニッポン号」の世界一周(昭和14年)

木製プロペラ
日本楽器株式会社(ヤマハ・YAMAHA)

九三式単軽爆撃機の木製プロペラ
(被包式プロペラ甲型)
川崎造船飛行機工場製、昭和9年

八八式偵察機の木製プロペラ
(刃部包装)
日本楽器(ヤマハ)製、昭和6年

二式射撃標準器甲一号
日本工学工業製(ニコン・NIKON)

板垣征四郎大将の書
杉山元大将の書

陸上自衛隊の引退航空機

陸上自衛隊の現役航空機


野外展示機も見学。

【1】UH-1H

UH-1H
全長:17.4m/全幅:2.85m/巡行速度:215km/h
航行距離:420km/乗員:操縦士2名+兵員11名
UH-1Bの後継として1972年から1991年にかけて133基を導入。現在はUH-1Jに託し全て退役。
陸自ではコールサインから「ハンター」と呼ばれる。「ひよどり」という別名もある。米国では「ヒューイ」(先住民族の名)という愛称も。


【2】OH-6D

OH-6D
全長:9.54m/全幅:1.97m/巡行速度:239km/h
航行距離:460km/乗員:操縦士1名+兵員3名
1969年からOH-1J、1979年からはH-6Dが1997年まで310基を導入、2020年に全て退役。
陸自ではコールサインから「オスカー」と呼ばれる。米国では「カイユース」(先住民族の名)とい愛称も。


【3】LR-1

LR-1
全長:10.13m/全幅:11.95m/巡行速度:460km/h
航行距離:2000km/乗員:操縦士2名+兵員5名
1967年から1984年かけて20基が納入。現在はLR-2に託し2016年に全て退役。
陸自では「LR」コールサインから「レコン」と呼ばれる。


【4】L-19

L‐19
全長:7.62m/全幅:10.97m/巡行速度:160km/h
航行距離:750km/乗員:2名
セスナ社で制作されたセスナ170の軍用機。
1954年に米軍から貸与を受け1986年に全て退役。
「L-19」とそのまま呼ばれている。「そよかぜ」という愛称も。

常設の展示場所には、姿が見えず。。。

イベント限定で、滑走路にお引越ししていました。L-19にとっては、何年ぶりの滑走路だろうか。久しぶりの晴れ舞台でちょっと嬉しそうに見えました。

コクピットになにかいました。
こいつ、前から気になっていたんだけど、なぜにここにいるのだろう。ミニオンズ。

今にも飛び立ちそうな佇まい。


【5】60式装甲車

入り口近くに。
何かが乗っている。

60式装甲車
全長:4.85m/全幅:2.40m/速度:45km/h
行動距離:230km/乗員:4名+兵員6名
1960年に制式化され2006年に全て退役。
戦後米国から提供され、三菱重工業が開発。
「60式」は1960年に制式化されたことを示している。災害派遣でも活躍。


立川黒松

庁舎まえの庭園に。

立川黒松の由来
 立川の発展は 飛行場とともにあり 立川は歴史の中から また立川を語る上でも飛行場を忘れることが出来ない
 過ぎた日の飛行場を懐ひ 飛行場がもつ歴史的背景をおもいおこすときいつも立川飛行場を見守っているのが 此の黒松であり現在もそのさまはみごとである
 当駐屯地は 大正10年陸軍が飛行場の建設を開始し 翌年飛行場の開港とともに陸軍飛行場第5大隊が創隊して 兵舎の間には桜や梅など様々な植木が植樹された
 その中でも ひときわ立派で枝振りの良い此の黒松は 本部隊舎前の植え込みに植樹されたもので 昭和56年現在の立川駐屯地が建設された際に現在地に移植された

八紘一宇に続いて、再び本部庁舎前の写真。

現在の庁舎。

撮影:2023年10月


関連

ポツダム宣言受諾を発信した隠蔽送信所「多摩送信所」跡地散策

町田市相原にある法政大学の多摩キャンパス。
遺構が残っているというので足を運んでみた。


多摩送信所

第二次世界大戦末期、軍部は本土空襲に備えて海外放送、電信通信・連絡を確保する必要から、2カ所の通信施設の設置場所を選定し、国際電気通信株式会社に敷設を要請。

1カ所は御殿場線の山北駅と駿河小山駅の中間にある廃トンネルで、1944(昭和19)年に耐弾式送信所として「足柄送信所」が設けられた。

もう1カ所で選ばれたのが、東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたる山林内で、三方を尾根に囲まれた一帯に、1945年4月、起伏と樹林を利用した隠蔽送信所として「多摩送信所」が開設。

1945(昭和20)年8月10日、日本政府はポツダム宣言を受諾。
日本政府は宣言受諾を連合国側には外交ルートを通じて伝えたが、ニュースとしても世界に発信された。その発信を担ったとされる多摩送信所であった。

10日午前7時、外務省は「国体護持」を前提に宣言を受諾する電報をスイス、スウェーデン公使を通じ連合国側に伝達。
さらに同日午後7時、戦時中の通信社・同盟通信の短波(モールス放送)にて受諾を、多摩送信所を始めとする国内に点在する対外放送施設を用いて、全世界に放送した。この放送によって世界のプレスなどは戦争終結を知った。
しかし10日の受諾宣言以降も、日本国内は激動の日々=「日本のいちばん長い日」が続き、御前会議で持って14日の御聖断をあおぎ、大多数の日本国民は、15日の玉音放送で終戦を知ることとなった。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/123208

https://www.hosei.ac.jp/hosei/daigakugaiyo/daigaku_shi/museum/2011/111012/?auth=9abbb458a78210eb174f4bdd385bcf54

https://adeac.jp/machida-digital-museum/text-list/d200020/ht001040

https://machida-aihara.info/?kiji=tamasoushinjyo-ato


多摩送信所跡

多摩送信所跡
二次世界第大戦末期に近い1944年(昭和19)、本土空襲の本格化に備え対外送信の確保が要請され、国際電気通信株式会社によって隠蔽送信所として多摩送信 所の建設が着手された。当時の東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたるこの地に、アンテナ敷地74000 坪(244,000平方メートル)を確保し、高さ60 メートルの木支柱を立て、空中線六基を樹林にめぐらした。技術者、職員計50 名が勤務する局舎を点在させ、翌年4 月竣工し、5 月5 日から操業を開始した。当時、我が国の対外送信は、政府関係以外に同盟通信社のモールス電と日本放送協会が諸外国語で流す「海外放送」および「東亜中継放送」があった。これらの対外送信は、1945 年8 月10 日から15 日の間、日本政府のポツダム宣言受諾表明に際して歴史的な役割を果たした。政府の外交ルートとは別に、ポツダム宣言受諾に関するニュースを送り出したのである。ここにあった「多摩送信所」も木造、手動による回転式アンテナから電波を送ることによって、ポツダム宣言受諾の際に重要な役割を担い、1946 年11 月10 日、開設以来一年半で活動の幕を閉じた。本学の多摩校地は多摩送信所の跡地に位置し、発掘調査により一部の遺構も確認された。ここにその事歴を誌し、永く後世に伝えるものである。
 1988年3月30日 法政大学

アンテナ木柱台石

この山奥にアンテナ群が展開していた。

法政トンネル。

法政大学 多摩キャンパス

アクセスは、法政大学多摩キャンパス行きのバスで。

場所

https://maps.app.goo.gl/4Ve326HQRYszW3LR6

※撮影 2023年9月


関連

板垣退助銅像と板垣退助墓所

青梅に赴いたときに、地図を見ていたら「板垣退助の銅像」と記載があり。
気になったので、赴いてみました。
板垣退助の墓所は、品川に何度か足を運んでいたこともありましたので、せっかくなので一緒に掲載。


板垣退助

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。
明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。
東アジアで初となる帝国議会を樹立。
「国会を創った男」。
伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。(国会議事堂内に3人の銅像もある。)
国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。

岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

板垣退助の銅像

全国に、板垣退助の墓は下記の6ヵ所であるが、芝公園は現存していないので、実質は5ヵ所となる。
・国会議事堂
・芝公園(戦時供出で焼失)
・青梅釜の淵公園(昭和36年建立)
・岐阜公園(板垣遭難の岐阜事件にちなむ、戦時供出され、現在は2代目)
・高知城(出身地、戦時供出され、現在は2代目)
・日光東照宮(戊辰戦争で戦禍を回避した縁、戦時供出され、現在は2代目)


板垣退助銅像(青梅)

青梅市の釜の淵公園に。

明治時代に三多摩自由党の有志が、党首板垣退助を対岸の大柳河原に招いて鮎漁を楽しんだという。
それを記念して、昭和36年(1961)5月3日に建立したもの。

板垣死すとも自由は死せず
 大野伴睦書

自由民権確立のため其の生涯を捧げ、今なお憲政の父と仰がるる板垣先生、かつてこの地に遊ぶ。多摩の老政客・岩浪光二郎翁つとに先生を景慕すること厚く、その偉業を顕彰。以て高風を永く後世に伝えんとす。
ここに先生ゆかりの地を卜し、同志協力してこの像成る。
 昭和三十六年五月
  板垣退助先生銅像建設会
   設計作成 松野伍秀

多摩川の上流。風光明媚な景観。

場所

https://goo.gl/maps/2pNjBG2e5sRiU2RS9


板垣退助像(日光)

戊辰戦争に際して、日光に立てこもった大鳥圭介ら旧幕府軍を説得し日光を兵火から守った。
昭和4年の像は、金属供出され、昭和42年に再建。
2023年9月撮影。

神橋の近く


板垣退助像(岐阜)

工事中でしたので、望遠にて。(2023年9月)

明治15年(1882年)4月6日、板垣退助暗殺未遂事件。
岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

岐阜城の近く。


板垣退助像(国会議事堂)

あまり興味のなかった2017年の撮影。これは取り直し、しないといけません。。。。

大日本帝国憲法施行五十周年を記念して1940年の建立。北村西望作。


板垣退助墓

高源院飛び地。
わかりやすくいくと品川神社の裏。
むかしから何故に品川神社の裏にあるんだろと思っていたが、もともと高源院という寺院があったんですね。高源院は、品川東海寺の塔頭であったが、関東大震災で被災し、昭和14年に世田谷区に移転している。寺院が世田谷に移転したのちも、板垣退助の墓所はそのまま高源院の飛び地として品川に残されている。
そのため、品川神社とは関係ない。。。

板垣退助の地元の高知県にも墓所はあるけど、こちらは東京の墓所。

邦光院殿賢徳道圓大居士

大正八年七月十六日薨 享年八十三

従一位勲一等伯爵板垣退助之墓

板垣退助の墓は第4正妻・板垣絹子と並んで建てられている。

品川区指定史跡
 板垣退助墓
  所在 北品川三丁目七番十五号 品川神社裏
  指定 昭和五十三年十一月二十に日(第四号)
 板垣退助は、天保八年(一八三七)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信の側用人となるが、倒幕運動や戊辰戦争(一八六八)に参加して功績をあげた。明治七年(一八七四)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治十四年(一八八一)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ湧わかせた。明治二十九年(一八九六)から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治三十三年(一九○○)に政界を引退した。大正八年(一九一九)に亡くなり、この地に葬られた。
  平成七年三月三十一日  
    品川区教育委員会

板垣
 死すとも
自由は
 死せず
   自由民主党
    総裁佐藤栄作書

明治100年及び板垣退助50回忌を記念して建立。

https://goo.gl/maps/QBbxsNPNm3wpdvHd7


品川神社

現在、板垣退助の墓は品川神社を経由しないと訪れることができない。
しなし板垣退助の墓所は品川神社の境内ではなく、高源院の飛び地。

品川神社は関係ないけど、絶対の通り道なので、、、

戦跡として。もはや、板垣退助とはなんら関係ないけど。

忠魂碑(品川神社)

この忠魂碑は明治43年4月に品川町在郷軍人会が日清日露戦争における戦没者の慰霊のため乃木大将の揮毫により当時の東海小学校構内に建立された 其の後昭和7年9月に権現山公園(現城南中学校校舎前)に移し 日支事変・大東亜戦争の戦没者をも加えて慰霊を行なってまいりました。
 昭和20年終戦後占領軍の命令により撤去させられましたが 北品川三丁目田島卯之吉氏が引き取られ千葉県南行徳の源心寺に移され慰霊を行なってまいりました。
 この度源心寺及び田島孝作氏のご厚意により終戦50周年記念事業として品川神社に引き取らせて頂き戦没者の追悼慰霊祭を執り行い平和の尊さを後世に伝えて行きたいと存じます
 平成7年7月15日
   宮司 小泉和夫 識

撮影:2022年3月及び2023年1月


関連

伊藤博文公墓所

多摩陸軍飛行場(横田基地)の戦跡散策

在日米空軍横田基地
「日米友好祭フレンドシップ・フェスティバル2023」(日米友好祭2023)
第47回目だそうで。
年に一度の横田基地、散策してみましょう。

今回は、消化不良でおわった昨年のリベンジとして再訪してきました。

前回記事はこちら。

一部は、重複しますが。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-80
1947年11月14日に米軍が撮影した航空写真を加工。

下記の黄色が現存。

当時の写真と、Google航空写真との照合。
5つの格納庫を、南側から便宜上で通し番号を振っておく。


多摩陸軍飛行場(福生飛行場・横田飛行場)

昭和15年(1940)、立川陸軍飛行場の付随施設として建設。
同年4月に、陸軍飛行実験部(陸軍航空審査部飛行実験部)が立川から多摩に移転。
大戦末期の本土防空戦時には、飛行実験部戦闘隊を「福生飛行隊」と通称し、第10飛行師団指揮下の臨時の防空飛行部隊として投入され、戦果も上げている。
戦時中の米軍は、従来把握していなかった多摩陸軍飛行場を「横田飛行場」と名付たことから、「横田基地」と呼ばれるようになった。
終戦後は、アメリカ軍に接収され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも積極的に活用された。


旧多摩陸軍飛行場格納庫1

米軍横田基地内に残る多摩陸軍飛行場時代からの格納庫。
前述の地図で、一番南側の格納庫。


旧多摩陸軍飛行場格納庫2と3

2つの格納庫が並んでいる。


旧多摩陸軍飛行場格納庫4と5

北側に4番目と5番目の格納庫。近寄ることは出来ないので遠望で。

どうみても格納庫ばっかり撮っている人、になっていますね。


そのほか

丸い屋根の格納庫は戦後の米軍時代もの。

横田名物


横田名物

横田名物のハンバーガーに並んでみました。
ゴールが見えないw

行列のゴールは、「外人バーガー GAIJIN BURGER」

第36空輸飛行隊(イーグル・エアリフター)が焼く、本場モノで間違いない!

GAIJIN BURGER!!ってノリノリになりながら、作っていました!

外人バーガーは、肉厚なハンバーグが3つ。あとはチーズのみ。
ピクルスやマスタード、マヨネーズはセルフで好きなだけ使って良しのスタイル。
これは大満足のハンバーガー
(ちなみに1時間、並びました、、、)

あっ、これも名物。甘いものもほしいですよね。

フライドオレオ。5個買ったらTシャツもらえました。

オレオをフライド、、、カロリー爆弾

Tシャツ。

青くて良いね。2022年の米空軍75周年の記念Tシャツ。


飛行展示

飛行展示は小規模ですね。あくまでおまけな感じ。

空挺展示。

ヘリでの救難展示。

そして、これを待ってました。

CV-22 オスプレイの飛行展示。

飛んでいるところを生で初めてみました。

機動力にびっくりです。

オスプレイのお辞儀。機種をちょっと下げるアクション。

カメラ設定が甘くて、写真が失敗多数でした。
普段は、静態ばかりを撮影しているため、シャッタースピードは遅めが基本のため、動いているもの撮ったのが久しぶりで、設置ミスった、とか。


地上展示

気になったものだけ撮影。

軍事機密の塊ですね。隠してあります。

水上機、いいねえ。

ホンダ

CH‐47J。
横田基地日米友好祭も47回目。

F-2

T-4。青と赤。

青のブルーインパルス
赤のレッドドルフィン

入間基地の飛行点検機 U-680A


おしまい

また来年?

※撮影:2023年5月


関連

稲荷神社・青梅第五小学校奉安殿(青梅市梅郷)

青梅市梅郷。
吉野梅郷の「梅の公園」入口交差点の近くに鎮座している稲荷社。かつての奉安殿だというので、足を運んでみた。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


青梅市梅郷ノ稲荷神社

青梅線日向和田駅から多摩川を渡って吉野街道に。梅の公園入口の信号近くに鎮座している。
社号標もなく、忽然と祠がある状態である。
うしろに控える「青梅私立第五小学校」の奉安殿であったという。奉安殿の役目を終え、戦後に180度回転して、吉野街道側に再鎮座し、稲荷社となったとされる。

奉安殿らしい重厚さを備えている。

社殿の後ろは、青梅私立第五小学校。

場所

https://goo.gl/maps/msjxyoDA645Cngem8

※撮影:2023年1月

「昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)」34年目の昭和天皇武蔵野陵に拝する(令和5年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。
国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

あの日から、34年。

今年も、 昭和天皇 武蔵野陵(しょうわてんのう むさしののみささぎ)へ参拝をいたしました。そして、昭和記念公園の「 昭和天皇記念館」にも足を運んできました。

昭和から平成、そして令和へと、時代は移り変わるも、決して忘れてはいけない昭和の記録を伝承し、そして歴史として、後世に紡いでいくために。


昭和天皇 武蔵野陵(むさしののみささぎ)

昭和天皇 武蔵野陵 
昭和六十四年一月七日午前六時三十三分崩御 平成元年二月二十四日斂葬

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。


昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)

祭礼に関する撮影は一切禁止、です。
午前9時半頃より、一般参拝が停止され、祭員参進が始まります。
午前10時より、「山陵に奉幣の儀」が奉祭されます。
おわるのは、午前10時30分から11時の間くらい。
祭員が退出次第で、一般参拝が再開されます。

祭祀は、神道式。

  • 祭員参進
  • 式部官参進(宮内庁式部職)
  • 招待者参進
  • 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下)
  • 勅使参進
  • 献饌(奏楽)
  • 勅使拝礼(奉幣)
  • 皇族代表拝礼
  • 招待者拝礼
  • 撤饌(奏楽)
  • 勅使退出
  • 皇族代表退出
  • 招待者退出
  • 式部官退出
  • 祭員退出

祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

一般参拝再開直後。午前10時45分頃。

静謐な空気のもと、 昭和天皇に拝礼をしてきました。
ありがとうございました。


関連ニュース記事

一般参列者は撮影禁止でしたので、マスコミ代表撮影の記事を掲載しておきます。

https://www.fnn.jp/articles/-/467753

https://www.yomiuri.co.jp/koushitsu/20230107-OYT1T50117/


香淳皇后 武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)

大正天皇 多摩陵(たまのみささぎ)

貞明皇后 多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)

武蔵陵墓地


多摩御陵参道

カラーコーンも幔幕(青白の浅黄幕)


南浅川橋

昭和11年(1936年)に設置されたコンクリートアーチ式の橋です。南浅川に架り、多摩御陵(武蔵陵墓地)への参道となっています。御陵参道の橋であるため、威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮したデザインが施されているのが特徴。

https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/002/003/p003407.html

橋歴
「東京の著名橋・南浅川橋」
 大正15年(西暦1926年)12月25日大正天皇崩御により、当時の東京府南多摩郡横川村・浅川村および元八王子村(元八王子市長房町・甘里町・元八王子町)地域に御陵所の造営が決定した。これに伴い、東京府が八王子駅と浅川(現高尾)駅間の仮駅から御陵(多摩陵)に至る参道新設を行い、南浅川に全長約87mの木橋が架けられ、南浅川橋と命名されたのが始まりである。
 現在の橋は、昭和11年(西暦1936年)の大正天皇十年式年祭にあわせて、東京府が木橋を架け替えたものである。構造形式は関東大震災後の東京(帝都)復興時に開発されたコンクリートラーメン橋台のコンクリートアーチ橋で、御陵参道の橋として、威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮した意匠が施されている。
 昭和64年(1989年)1月7日の昭和天皇崩御、武蔵野陵造営にあわせて、平成元年2月に東京都が南浅川橋の洗浄・補修、参道の整備を行った。

南浅川橋(コンクリート橋)
昭和11年12月竣工
全長 53.3m
幅員 21.4m
構造 鉄筋コンクリート橋
形式 コンクリートラーメン橋台・固定アーチ橋

1993年1月 補修
東京都
施工 吉田建設株式会社

東京府建造
昭和11年12月完成
合資会社 清水組


多摩御陵参道(武蔵陵墓地参道)入口


陵南会館(東浅川駅跡・東浅川仮停車場跡)

この地には、東浅川駅があった。
東浅川駅は、大正天皇の大喪列車用の臨時駅として開設された皇室専用の駅で、社殿造の駅舎であった。
昭和35年(1960年)に廃止となり、八王子市に払い下げされ、公民館「陵南会館」となっていた。
平成2年(1990年)に、新左翼の皇室テロによって爆破されてしまった。

陵南会館

石碑があった。

1964
オリンピック東京大会 自転車競技この地で行わる


高尾駅

大正天皇の大喪列車の始発駅として「新宿御苑に設置された仮設駅舎」を移築したもの。

八王子の富士森公園の大正殿は、大正天皇多摩陵での「大喪の儀」で「祭場殿」として使用された建物の移築。


昭和天皇記念館

せっかくなので、立川の記念館にも足を伸ばしました。
高尾と立川は、中央線で一本ですし。

https://f-showa.or.jp/museum/

館内は撮影禁止

今回、ボールペンを追加購入したかったのですが、売り切れでした。写真のボールペンは以前に購入したものです。(仕事用で愛用しています)

そのため、かわりにまだ戴いていなかった目録とハンドタオルなどを戴きました。

昭和天皇のお印は「若竹」

昭和天皇記念館は、武蔵野陵参拝とセットでいつも足を運んでしまいます。


関連

北多摩陸軍通信所の戦跡散策(東久留米)

東京都東久留米市前沢のあたりに、陸軍の通信施設があった。
前沢南公園には、防火水槽跡が残っている。散策してみましょう。

前沢南公園の中にある円形が、防火水槽の名残。


北多摩陸軍通信所跡

東久留米市指定旧跡 旧跡第5号
北多摩陸軍通信所跡 前沢5丁目他
 この場所には、昭和8年(1933)から同20年(1945)まで、海外無線の傍受を目的とする陸軍の通信所がありました。
 当時の住所は久留米村前沢1470番地で、当初は1500坪(4,950㎡)の敷地に45m自立式鉄塔4基(逆L字型空中線)と受信所が建設されました。その後の増設により、高速・低速受信機など53台と千数百人に及ぶ人員を要していました。
 昭和18年8月には「陸軍中央特殊情報部通信隊」と改名され、歴史に残る数々の重要な通信の傍受と解読にあたりました。
 戦後、敷地の大部分は民間に譲渡され、当時の施設は現存しませんが、通信施設の中心部分であった受信所や官舎の区画は、道路などでほぼその形状を留めています。旧跡指定は東久留米市の所有部分のみです。
 東久留米市教育委員会

通信所
(米軍撮影空中写真、昭和22年)
官舎に囲まれた丸い防火水槽のある長方形の土地が現在の前沢南公園。

小金井街道から見た通信所と鉄塔
(郷土資料室提供、昭和22年)


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M390-51
1947年8月8日、米軍撮影の航空写真。

写真中央に密集している建屋が、かつての北多摩陸軍通信所の官舎群。

上記を拡大。

現在は住宅密集。。。

更に拡大。黄枠が今回の散策ポイント。

現在の様子。道路の区画もほぼ同じ。
防火水槽のある場所は前沢南公園。その北側に当時の官舎が2棟、残っている。
1棟は完全な形で。そして1棟は半分のみ残っている。


北多摩通信所防火水槽(前沢南公園)

前沢南公園まえの道路。この区画も当時のまま。

公園の北側に、丸くなった区画がある。これが防火水槽の名残。

前沢南公園を貫く東西の通路。公園内に残る基礎も名残かな。。。

こちらは南北の通路。

前沢南公園

いまも「防火水そう」がある。


北多摩陸軍通信所の官舎跡(南)

いまも居住されている建屋のため、チラ見で。
建屋の西側は、削られているために、かなり不自然。前述の航空写真でも、その様子がわかる。


北多摩陸軍通信所の官舎跡(北)

北側の官舎跡の建屋は現在は空家。心置きなく見学できる。

財務省関東財務局が管理する国有地だった。

入口。往時の面影が残っている。

これは、、、「陸軍の官舎」として、保存してくれたりしないかなあ。。。
かなり良い状態にみえます。

防火水槽跡は公園内で保存されているので心配は無いですが、国有地管理の官舎跡は、いつ宅地造成されてもおかしくない雰囲気。
気になる方は、早めの散策が良いかもしれません。

※撮影:2022年12月


関連

北東には海軍の通信所(海軍大和田通信隊)もありました。

東には中島飛行機関連

南には陸軍技術研究所も

戦後国産機リスタート2「新立川飛行機」と「立飛R-53型軽飛行機」(立川立飛)

戦後日本の航空産業は、時(とき)を止めていた。
そして終戦から7年後に、国産機の復活の口火を切ったのが「新立川飛行機」であった。

本記事は、2022年に一般公開された「R-53」を中心とした「新立川飛行機その2」、です。

「その1」は、下記にて。

今回、「一式双発高等練習機・キ54」の公開とあわせて、普段は非公開の「R-53型軽飛行機」も公開されました。


新立川飛行機

戦前、中堅飛行機メーカーとして、「赤とんぼ」や中島飛行機「隼」のライセンス生産などを行ってきた「立川飛行機」。
終戦により、立川飛行機をはじめ、日本国内の航空産業はすべて停止させられた。
立川飛行機は、1949年(昭和24年)11月15日に企業再建整備法により、「立飛企業」と「タチヒ工業」(のちの新立川飛行機)とに分割された。

昭和20年(1945年)11月18日
「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」発令
連合軍による航空活動の禁止命令(航空禁止令)

昭和25年(1950年)6月25日、朝鮮戦争勃発。
昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条約
同年10月25日、民間航空再開。
昭和27年(1952年)7月、航空法及び航空機製造法が公布。


R-52型軽飛行機

昭和27年9月、飛行機制作が解禁され立川飛行機の技術伝承を目的に設立されていた第二会社「新立川飛行機」が、戦後最初の国産機「立飛R-52練習機」を制作。戦時中に作られた部品の寄せ集めではあったが、国産航空機生産は、「新立川飛行機」から始まった。
「R」は練習機を意味し、「52」は1952年型を意味する。
R-52は、戦前に試作していたR-38練習機をベースとしているため、戦前の航空機を再生産したような古い設計の飛行機であったが、それでも戦後の国産飛行機のはじまりには違いない。


R-53型軽飛行機

「R-53型軽飛行機」について
R-52の改良型として製作され、基本的な設計は変わらず、エンジンをイギリス製シラス・メジャー(155hp)に換装するなど改良が加えられました。同機は「R-52」と共に全日本学生飛行連盟に貸与され、日本一周飛行に参加しました。その後、一旦、航空大学校での練習機としての使用を経て1957年に新立川航空機㈱に返却されました。

機体概要
全長:7.5m、全幅:10.7m、全高:2.65m、最高速度:時速207km/h、上昇限度:4,500m

以下、写真を中心に。


R-HM型軽飛行機

立川市の複合施設「GREEN SPRINGS」のTAKE-OFF-SITEにて公開されている、R-HM型軽飛行機は、操縦席の公開があったので、座ってきました。

操縦席。
極めて原始的な造り。これは間違いなく操縦が難しい。。。

復元作業の様子など。


立飛ビールとステッカー

https://www.tachihibrewery.com

立飛ビールを購入して、ステッカーを頂きました。

※撮影:2022年10月


立川飛行機「一式双発高等練習機・キ54」(立飛ホールディングス最後の一般公開)

立川市の立飛ホールディングスで、昨年に引き続いて、2022年10月27日(木)から30日(日)まで、「一式双発高等練習機」が一般公開されました。

2022年10月の今回が、「立飛ホールディングスとしての最後の一般公開」(予定)という。
スタッフに「最後?」の詳細を聞いたところ、今後は立川市が保存をし、立川市として恒常的な施設ないし展示を実施する予定という。つまり、一民間企業たる「立飛ホールディングス」として、このような形の一般公開は最後となる見通し。

本記事は2022年公開時のものです。
2021年公開時の模様は、下記の記事にて


立川飛行機


新立川飛行機


国内唯一の立川飛行機「一式双発高等練習機」現存機

一式双発高等練習機
大日本帝国陸軍の練習機。
キ番号は、「キ54」。
略称は、「一式双発高練」「一式双高練」「双発高練」など。
連合軍のコードネームは、「Hickory」(ヒッコリー、クルミの意味)
開発製造は、立川飛行機。
昭和16年(皇紀2601年、1941年)に正式採用。
立川飛行機として、はじめての自社開発全金属製双発機。
傑作機として重宝され総生産機数は、1342機に及ぶ。

展示機は、飛行第38戦隊所属機。昭和18年(1943年)9月27日、能代飛行場から離陸後にエンジントラブルによって十和田湖に不時着水。乗員4名のうち3名が死亡、1名が生還。
低温淡水の十和田湖底であったために、機体腐食が少なく当時の塗装が残るままで発見され、2012年に引き揚げ。
青森県立三沢航空科学館で展示されていたが、2020年に立飛ホールディングスに譲受された。
また同時に引き上がられた天風型エンジンの1基は製造を担当した東京瓦斯電気工業(日立航空機)の後継企業にあたる日野自動車が復元処理をおこなっている。


一式双発高等練習機(一式双発高練)・キ54
「写真」

以下、写真中心にお送りいたします。
昨年の記事で詳細を記載しているので、今回は省略。

開場直後。1時間前に並んだ成果の最初の1枚。

昨年と展示の状態が異なっている。
機首の木枠がなくなっていたり、上部の窓の跳ね上げがなくなっていたり、胴体部と機首部をつなげていたり。

双発エンジンは、空冷単列星型9気筒。
東京瓦斯電気工業(日立航空機)が開発・製造した航空機用空冷星型エンジン
陸軍名称は「ハ13」、海軍名称は「天風」。陸海軍統合名称は「ハ23」。

一式双発高等練習機に使用されたエンジンは、「日立ハ13甲」 (九八式四五〇馬力発動機)。

主に、陸海軍の中間・高等練習機で使用されたエンジン。
陸軍では、「一式双発高等練習機」、「一式輸送機」、「二式高等練習機」などに採用。
海軍では、「赤とんぼ」と呼称された「九三式中間練習機」や、機上作業練習機「白菊」などにも採用されている。


立川飛行機の概史と三大生産数機種について

石川島飛行機製作所から立川飛行機へ
大正11年(1922)夏に立川飛行場が完成。(2022年で立川飛行場100周年)
大正13年(1924)11月、東京石川島造船所の出資により、石川島飛行機製作所が設立。
社長は渋沢栄一の三男・渋沢正雄。渋沢財閥と大倉財閥の資本であった。
創業地の月島は飛行場がないことから、飛行機製制作には不便ということもあり、昭和5年(1930)5月に立川に移転。昭和9年4月に陸軍から練習機の単独試作を命ぜられたことから、航空機メーカーとして地位を気づき、95式1型練習機(赤トンボ)を正式化。

昭和11年2月、2代目社長の渋沢武之助が退任し、大倉財閥系の門野重九郎が代表取締役に就任。7月に「立川飛行機:へ称号を変更した。

三大生産数機種
九五式一型練習機 2398機
九八式直協機 849機 / 九九式高等練習機 1067機
一式双発高等練習機 1347機

立川飛行機は、陸軍すべての練習機を製造していた。
初等練習機としての「九五式三型練習機」
中間練習機としての「九五式一型練習機」
そして、実践機へとつながる高等練習機としての「九九式高等練習機」「一式双発高等練習機」。

メイドイン多摩
上記の三大生産数機種は、北多摩製であった。
機体は、立川飛行機、発動機(天風系)は日立航空機、点火栓は立川工作所であった。


作業台

キ54の作業台。


重要航空遺産

日本航空協会認定。


各種説明

昨年の記事を参照で。省略します。。。


立川飛行機の建屋

おおくの建屋は、立川飛行機時代のもの。

正門

ノコギリ屋根の建屋

いずれも、立川飛行機時代の建屋。

車庫も当時からの建屋。

車庫の隣の建屋も。

写真は取らなかったけど、守衛所も。

立川飛行機の建屋の詳細は、こちらで。


立飛ビール

https://www.tachihibrewery.com

ビールを購入すると、ステーカーがもらえました。

一式双発高等練習機「キ54」(一式双発高練)

九五式一型練習機「キ9」(赤とんぼ・九五式中練)

※撮影:2022年10月


関連

戦後国産機リスタート「新立川飛行機」と「立飛R-HM型軽飛行機」(立川立飛)

戦後日本の航空産業は、時(とき)を止めていた。
そして終戦から7年後に、国産機の復活の口火を切ったのが「新立川飛行機」であった。


新立川飛行機

戦前、中堅飛行機メーカーとして、「赤とんぼ」や中島飛行機「隼」のライセンス生産などを行ってきた「立川飛行機」。
終戦により、立川飛行機をはじめ、日本国内の航空産業はすべて停止させられた。
立川飛行機は、1949年(昭和24年)11月15日に企業再建整備法により、「立飛企業」と「タチヒ工業」(のちの新立川飛行機)とに分割された。

昭和20年(1945年)11月18日
「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」発令
連合軍による航空活動の禁止命令(航空禁止令)

昭和25年(1950年)6月25日、朝鮮戦争勃発。
昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条約
同年10月25日、民間航空再開。
昭和27年(1952年)7月、航空法及び航空機製造法が公布。

R-52型軽飛行機

昭和27年9月、飛行機制作が解禁され立川飛行機の技術伝承を目的に設立されていた第二会社「新立川飛行機」が、戦後最初の国産機「立飛R-52練習機」を制作。戦時中に作られた部品の寄せ集めではあったが、国産航空機生産は、「新立川飛行機」から始まった。
「R」は練習機を意味し、「52」は1952年型を意味する。
R-52は、戦前に試作していたR-38練習機をベースとしているため、戦前の航空機を再生産したような古い設計の飛行機であったが、それでも戦後の国産飛行機のはじまりには違いない。

R-53型軽飛行機

https://www.tachihi.co.jp/2013/10/02/%E3%80%8Cr-53%E5%9E%8B%E8%BB%BD%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F%E3%80%8D%E4%BF%AE%E5%BE%A9%E5%AE%8C%E4%BA%86%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/

「R-53型軽飛行機」について
R-52の改良型として製作され、基本的な設計は変わらず、エンジンをイギリス製シラス・メジャー(155hp)に換装するなど改良が加えられました。同機は「R-52」と共に全日本学生飛行連盟に貸与され、日本一周飛行に参加しました。その後、一旦、航空大学校での練習機としての使用を経て1957年に新立川航空機㈱に返却されました。

機体概要
全長:7.5m、全幅:10.7m、全高:2.65m、最高速度:時速207km/h、上昇限度:4,500m

R-HM型軽飛行機

https://www.tachihi.co.jp/2013/05/01/%E3%80%8Cr-hm%E5%9E%8B%E8%BB%BD%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F%E3%80%8D%E4%BF%AE%E5%BE%A9%E5%AE%8C%E4%BA%86%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/

R-HM型軽飛行機はフランス人技師のアンリ・ミニエ氏指導の下1954年(昭和29年)に新立川航空機㈱で製作(機体番号:JA3094)され、同年に試作機の初飛行に成功しました。 当初は「空のジープ」として海外の飛行場が未整備の国に輸出する意向でしたが、操縦が難しい為、量産には至りませんでした。

機体概要
全長5.80m 全幅8.00m 全高2.00m 最高速度150km/h 上昇限度3,000m

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こうして、新立川飛行機は戦後、上記3機の飛行機を設計開発した。

修復作業

新立川飛行機が2013年にエンジン部品の製造部門を廃止することから、過去資料を残す意味合いから、保存されていた「R-53」と「R-HM」の修復作業が施された。
2020年から、「R-HM」のみ、立飛ホールディングスも経営に関わる立川市の複合施設「GREEN SPRINGS」に移され一般公開されている。


R-HM型軽飛行機の公開

R0HM型軽飛行機(機体番号:JA3094)
終戦と同時に禁止となった飛行機制作が1952年に解禁されて以降、立飛グループでは、飛行機制作技術の再興を目的に、戦後初の国産飛行機であるR-52型軽飛行機を含む3機の飛行機を製作しました。
3機のうちの1機であるR-HM型軽飛行機は、フランス人技師のアンリ・ミニエ氏が設計し、1954年に初飛行に成功しました。「プー・ド・シェル(空の虱)」の愛称で呼ばれた同機は、低速での飛行が可能な反面、高度な操縦技術が要求されたことから量産には至りませんでした。
2013年、立川における飛行機制作の歴史を地域の子どもたちにお伝えするために、長年立飛グループの倉庫に保管されていたオリジナルの機体を修復いたしました。設計図以外の資料が殆ど無い中、試行錯誤の末に修復された同機は、羽布を貼る工程等について、外部の専門家から高い評価を受けました。

機体諸元
全幅:8,000mm 
全長:5,080mm 
全高:2,000mm 
最高速度:150km/h 
上昇限度:3,000m

商業施設のいっかくに、飛行機が展示してある。

新日本立川航空機株式会社
タチヒ
R-HM型

場所

https://goo.gl/maps/H4sbnGpcvoB2Hdhy6

https://goo.gl/maps/oYhSG2WoCCxQN2tX6

※撮影2022年6月


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