「東京都-多摩地区」カテゴリーアーカイブ

「まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵)」と「中国帰国者之墓」(西多摩霊園・あきる野市)

あきる野市にある「西多摩霊園」。
ここに、「中国帰国者之墓」と、ちばてつや氏デザインの「まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵)」があるというので足を運んでみた。

「まんしゅう母子地蔵」が浅草寺に鎮座しており、どちらも漫画家のちばてつや氏のデザインとなる。


「中国帰国者之墓」と「まんしゅう地蔵(まんしゅう地ぞう)」

「まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵」は、あきる野市の西多摩霊園にある「中国帰国者之墓」の横に鎮座。
浅草の浅草寺にある「まんしゅう母子地蔵」と同じく、ちばてつや氏がデザイン。

中国帰国者之墓
内閣総理大臣 海部俊樹 書

海部俊樹総理大臣の銘。1990年6月の建立。

合掌

墓碑銘
 1931年9月満洲事変以降、五族共和・王道楽土建設の名のもと多くの日本人が中国東北地方に渡った。特に重要国策として、日本全国から開拓団青少年義勇軍が中ソ国境に送り込まれた。
 しかるに第二次世界大戦末期ソ連軍の侵攻に際し、日本軍の庇護無く、多くの婦女子が、飢え・病・酷寒に苦しんだ。また逃避行の果て家族は離散し異郷に永く放置されたが中国の人々に救われた。
 戦後四十有余年、多くの孤児・夫人達が念願叶い、故国に帰ったが、定着自立の過程で不幸にして他界された御霊を此処に祀る。
 再び過ちが繰り返されぬことを願い永遠に安らかに眠られんことを祈る。
  1990年6月
  中国残留孤児の国勢取得を支援する会
   会長 河合弘之

由来
 望郷の思い久しくようやく帰国した残留孤児・残留夫人は懸命に定着、自立の努力を続けていますが、その過程で新たな問題が発生しました。それは、せっかく祖国に帰りながら不幸にして他界した夫人・孤児あるいはその家族の人達の御霊が眠る墓所がないことです。
 そこでこの墓所を中国残留孤児の国籍所得を支援する会が発案し、孤児支援関係者・厚生省など関係各庁の方々、西多摩霊園、宮川石材株式会社等、そのほか心ある方々の協力によって建立されたものです。衷心よりお礼申し上げます。
 1990年6月
  中国残留孤児の国籍取得を支援する会
   事務局長 千野誠治

「まんしゅう地ぞう」由来
 今日は遠路『まんしゅう地ぞう』さまにお参りされご苦労さまです。
この機会に、お地蔵さま建立の由来について申し上げたいと思います。
 おとなたちが起こした、さきの大戦敗戦の結果、当時の満州で数万の子供たちが亡<なりました。一九四五年八月九日、突然のソ連軍侵攻。守ってくれる筈の日本軍は頼りにならず、ソ連戦車に蹂躙され、暴民の襲撃にさらされながら、人々は一歩でも祖国に近づこうと必死の逃避行を続けました。襲い来る飢、疫病、酷寒そして集団自決、そのなかでおとなたちの手によって死んでいった子供たちもいました。罪のない子供たちが、なぜ虫けらのように死ななければならなかったのでしょうか。
子供たちの魂は日本に帰えれず、花一本供えられることもなく、まだ満洲の荒野で迎えを待っているのではないでしょうか。
 あれから五十年の歳月が過ぎ去りました。ともすれば戦争の惨禍が忘れられ、多くの子供たちの貴い命がその犠牲になったことも消えてしまいそうです。改めてここに、幼い御霊よ安らかなれと祈り、再びあやまちを繰り返さないことを誓い、永遠の平和の願いをこめて『まんしゅう地ぞう』を建立した次第です。お地蔵さまのお慈悲、皆の思いは遠く満洲の地に眠る非運の子供たちに届くことを信じてやみません。
 最後に、和田圭子さんから頂いた短歌を捧げてご冥福をお祈り申し上げます。
 異郷にて はかなくなりし幼児の みたまかへれよ ちちははの手に
 風となり  雲ともなりて  遊べかし  お地蔵さまに  見守られつつ

デザイン ちばてつや 題字 井上翠園
彫刻 和泉成治 石材 宮川八三吉
 一九九五年十一月
  まんしゅう地ぞう建立委員会

中国帰国者支援・交流センター
https://www.kikokusha-center.or.jp/index2.html

https://www.kikokusha-center.or.jp/resource/sankoshiryo/ioriya-notes/photo/zizo.htm

まんしゅう地ぞう(まんしゅう地蔵)は、漫画家のちばてつや氏のデザイン。
ちばてつや氏は、2歳の時に満洲国奉天にわたり、6歳のときに同地で終戦を迎え、多くの困難を経て満洲国から引き揚げを経験している。

まんしゅう地ぞう

「まんしゅう地ぞう」から、西多摩霊園を眺める。


西多摩霊園

東京郊外の大規模霊園。予想以上に広く、そして山を切り拓いた感もあり、アップダウンも激しい。
私は、福生駅からシェアサイクルで赴いたが、同じく福生駅からは無料送迎バスもあるとのことで、バスを使うのものあり。

https://nishitamareien.com/guidance_top/guidance/guidance1

西多摩霊園は、都内最大の民営公園墓地。昭和41年開設。広大な聖域は15万坪(50万平方メートル)を有し、総区画数は約3万区画にも及ぶ。

もちろん、場所がわからなかったので、管理事務所で「中国帰国者之墓」と「まんしゅう地蔵」の場所を尋ねると、受付のお姉さんが教えてくれます。
「案内図のここ(黒線で行き方を記載)を右にいった、第5区の1号の1列、おおきなお地蔵さんがあるので、すぐわかると思いますよ」

親切にありがとうございます。
お陰様で、迷わず、たどり着けました。

https://nishitamareien.com/img/Gardenmap2023.jpg

ちなみに、5区の入口には東海大学の創設者・松前重義博士の顕彰碑「望星塚」がある。

※撮影:2025年5月
※Pentax WG-1000


満洲関連

「昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)」36年目の昭和天皇武蔵野陵に拝する(令和7年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。
国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

あの日から、36年。

今年も、 昭和天皇 武蔵野陵(しょうわてんのう むさしののみささぎ)へ参拝をいたしました。

昭和から平成、そして令和へと、時代は移り変わるも、決して忘れてはいけない昭和の記録を伝承し、そして歴史として、後世に紡いでいくために。

昭和天皇 武蔵野陵(むさしののみささぎ)

昭和天皇 武蔵野陵 
昭和六十四年一月七日午前六時三十三分崩御 平成元年二月二十四日斂葬

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。

拝礼


昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)

祭礼に関する撮影は一切禁止、です。
午前9時半頃より、一般参拝が停止され、祭員参進が始まります。
午前10時より、「山陵に奉幣の儀」が奉祭されます。
おわるのは、午前10時30分から11時の間くらい。
祭員が退出次第で、一般参拝が再開されます。

祭祀は、神道式。

  • 祭員参進
  • 式部官参進(宮内庁式部職)
  • 招待者参進
  • 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下)
  • 勅使参進
  • 献饌(奏楽)
  • 勅使拝礼(奉幣)
  • 皇族代表拝礼
  • 招待者拝礼
  • 撤饌(奏楽)
  • 勅使退出
  • 皇族代表退出
  • 招待者退出
  • 式部官退出
  • 祭員退出

祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

祭員退出のあたりで、写真撮影禁止ではなくなったり。

毎年、見かける人がいました、、、

今年も、佳子内親王殿下が参列、でした。

今年は10時30分頃には一通りが終わった感じで。


香淳皇后 武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)


大正天皇 多摩陵(たまのみささぎ)


貞明皇后 多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)


武蔵陵墓地・武蔵陵墓地

この先は、お察しください。。。

木漏れ日

撮影:2025年1月


関連

陸軍経理学校「若松神社」(現・上鈴木稲荷神社)と「小平駐屯地」

2024年3月24日に、小平駐屯地一般開放(観桜一般開放)がありましたので、足を運んでみました。


陸軍経理学校

陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育、あるいは経理官への上級教育を行っていた陸軍学校。教育に限らず陸軍経理に関する調査と研究なども行っていた。陸軍経理とは会計だけに限らず、監査、被服、糧秣、建築も職務に含まれていた。

明治19年(1886)に陸軍軍吏学舎が設置されたことに始まる。
明治23年(1890)に陸軍軍吏学舎を廃止、陸軍経理学校を開校。
明治33年(1900)に「陸軍経理学校本校」を東京市牛込区河田町に移転。陸軍士官学校の「市谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」の愛称で呼称されることとなる。
昭和17年(1942)3月、陸軍経理学校は戦争による生徒、学生、幹部候補生等の人員増加のため、東京府北多摩郡小平村に移転。昭和20年8月の敗戦により閉校。

詳細は、下記にて


小平駐屯地

昭和29年に陸上自衛隊小平駐屯地として開設したことにはじまる。
小平駐屯地は、もともとは陸軍経理学校のあった場所。しかし往時を偲ぶものは駐屯地内には残っていない。
陸軍経理学校の正門は、警察学校側となり、小平駐屯地側は裏側になる。

一般公開で足を運んでみたものの見どころは少なく、小平駐屯地内の「史料館」を拝見できるのがメリットぐらい。ちなみに史料館内部は撮影禁止。

史料館のスタッフに、「警察学校の正門以外で、陸軍経理学校時代の遺構ってないですよね?」ときいてみたところ、スタッフから「小平駐屯地には遺構はないです」「陸軍経理学校の若松神社は、戦後に上鈴木神社の本殿に流用され、本殿と鳥居が陸軍時代のもの」とお伺いできたのは、大収穫。
これは行ってみましょう。
ちなみに「警察学校のプールも陸軍経理学校時代のまま残っている」とのことですが、そこは見学ができないので。。。


陸軍経理学校の校内神社「若松神社」御社殿と石鳥居
(現:上鈴木稲荷神社)

陸軍経理学校の校内神社であった「若松神社」の御本殿と鳥居が流用され現存している。

陸軍経理学校は、もともと若松河田の地にあり「若松台」と呼称されていたことから昭和17年に小平に移転しても「若松台」の名称は継承されてしており、陸軍経理学校の校内神社も「若松神社」と呼称されていた。
石鳥居は、昭和18年(1943年)の造営。本殿社殿も同じ頃と推測。
上鈴木稲荷神社には戦後の昭和24年に払い下げされている。

御由緒

昭和24年に、陸軍経理学校の若松神社から払い下げられたことがわかる。

石鳥居の右側に陸軍の鳥居であった証が刻まれている。

陸軍主計中将 従四位勲二等 迫栄吉 禁書

迫栄吉は、1941年(昭和16年)8月25日に陸軍主計中将に進級し、昭和16年12月1日に「陸軍経理学校長」に就任し、昭和20年4月まで、太平洋戦争のほぼすべての期間を陸軍経理学校長であった。
1945年(昭和20年)4月7日に第1総軍経理部長となり終戦を迎えている。

昭和18年2月建之

木曽周太郎

木曽氏の詳細は不明

上鈴木稲荷神社の拝殿

上鈴木稲荷神社の本殿覆殿
この内部に在る本殿が、陸軍経理学校の若松神社の御社殿。

茅葺きの社殿がわかる。

場所

https://maps.app.goo.gl/qGw8TiKsPu7CTKVYA


小平駐屯地「史料館」

小平駐屯地内。
史料館には、小平になった陸軍経理学校と、中野にあった憲兵学校に関係する史料が展示。なお、内部は撮影禁止。

小平駐屯地の史料館の建屋が古めだったので、スタッフに由来を聞いてみたところ、陸軍時代のものではなく、東立川にあった米軍占領時代の建屋を移設したものだ、とのこと。

2001年に調査学校(情報要員養成)と業務学校(会計、警務などの業務要員養成)が統合してできたのが、「小平学校」。
小平学校は自衛隊の任務遂行の基礎となる警務・会計・人事・法務・システム等の実務全般にわたる幅広い教育を担任する陸上自衛隊唯一の教育機関であり、事務官や海空自衛隊も含めた自衛隊員にとっての「実学の府」。


小平駐屯地一般開放

観桜一般開放だったけど、観桜はまだな基地公開。

陸上自衛隊小平駐屯地

陸上自衛隊小平学校

本部庁舎

校風
国の安危を擔うべき身たるの修養
これがため、常に疑問を持ち、想像力を働かせ、与えられた可能性に挑戦する勇気をもって、任務を完遂せよ。

校章は、5枚のカラフルな銀杏。

https://www.mod.go.jp/gsdf/kodaira/song_mark.html

食堂・厚生センター

桜とタイミング合わせるのは、なかなか難しいですよね。。。

公式サイト

https://www.mod.go.jp/gsdf/kodaira/index2.htm

場所

https://maps.app.goo.gl/pmQfWNTnRbAMS3Yg7

撮影:2024年3月


東郷の私設副官と称せられた海軍中将「小笠原長生の墓」(世田谷・府中・伊豆長岡)

小笠原長生は、東郷平八郎に傾倒し「東郷の私設副官」「東郷さんの番頭」「お太鼓の小笠原」などと呼称されるほどに東郷平八郎の顕彰活動・聖将化に多大な影響があった人物。

そんな小笠原長生の墓巡り。

  • 幸龍寺(東京世田谷) 小笠原家の江戸の菩提寺・小笠原家累代墓所
  • 東郷寺(東京府中)  開基を東郷平八郎、副開基を小笠原長生とする寺院
  • 近松寺(佐賀唐津)  小笠原家の唐津の菩提寺
  • 宗徳寺(伊豆長岡)  戦後に隠棲した伊豆長岡の古刹

なお、唐津の近松寺は未訪問


小笠原長生

小笠原 長生(おがさわら ながなり)
1867年12月15日(慶応3年11月20日) – 1958年(昭和33年)9月20日)
海軍軍人(海軍中将)、華族(子爵)。幼名は賢之進。佐賀県出身。
階級位階勲等功級は、海軍中将、正二位勲一等功四級子爵。忠知系小笠原家14代目。

江戸幕府老中を務めた小笠原長行の長男。
明治6年(1873年)9月、忠知系小笠原家13代の義祖父長国(肥前唐津藩主)の隠居により家を相続。
明治17年(1884年)9月に海軍兵学校に入学。同年7月、子爵を授けられる。
明治20年(1887年)7月、海軍兵学校(14期)を卒業。成績は45人中35位。なお、同期には鈴木貫太郎らがいる。

明治37年(1904年)1月、軍令部参謀に就任して日露戦争を迎えた。同年7月、海軍中佐。
軍令部参謀として海軍司令長官東郷平八郎の知偶を得て、その才を認められ、明治44年(1911)に、軍令部出仕兼参謀のまま学習院御用掛となった。ときの学習院院長は乃木大将。

明治天皇崩御の際の乃木大将夫婦殉死前後の大将と深くかかわることになり後事を託され、乃木将軍の長生宛の遺言や常用された書籍類が遺品として長生の手元に残された。

大正3年(1914年)4月から大正10年(1921年)3月まで、皇太子裕仁(昭和天皇)の教育を担う東宮御学問所幹事を務める。このときの東宮御学問所総裁は東郷平八郎。元帥東郷平八郎のブレーンとして伝記や読本などによって東郷の神格化に拍車をかけた。

大正3年(1914年)12月に海軍少将。大正7年(1918年)12月、海軍中将に進級し待命。大正8年(1919年)12月に休職し、大正10年(1921年)4月に予備役編入となり宮中顧問官に就任。昭和20年(1945年)11月まで在任した。

昭和22年(1947年)、公職追放の処分を受けて伊豆に閉居。
昭和33年(1958年)、死去。90歳没。


小笠原長生の墓(世田谷の幸龍寺・小笠原家墓所)

小笠原長生の墓が世田谷区にあるというので、足を運んでみたことから、芋づるで小笠原長生の墓を巡ることになるなど。
まず、足を運んだのが、東京都世田谷区北烏山5丁目に鎮座する「幸龍寺」。
旧唐津藩藩主小笠原家累代墓所でもある。
なお、世田谷区には、海軍軍人として、永野修身、小澤治三郎、堀悌吉の墓もあったりする。

旧唐津藩藩主小笠原家累代墓所がある。

小笠原家之墓

ちなみに、 小笠原長生の父・小笠原長行は当初「谷中墓地」に埋葬されていたが、後年、長生によって幸龍寺に改葬された。

鐵櫻院殿無畏長生日来大居士 
小笠原長生公 
正二位勲一等功四級 
昭和33年9月20日

三階菱の家紋

昭和32年12月建之
 小笠原長生

幸龍寺

なお、幸龍寺には、内海好江師匠の墓や長谷川雪旦の墓(唐津藩御用絵師)もある。

場所:

https://maps.app.goo.gl/6U32EmFr6K6nVnNo8

※撮影:2023年12月


小笠原長生墓(東郷寺境内の供養墓)

府中の東郷寺。
東郷寺は東郷平八郎元帥海軍大将を開基とし、副開基を小笠原長生海軍中将とする、身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗寺院。山号は「聖将山 東郷寺」東郷没後に東郷家別荘・農園があった当地に昭和14年(1939)に小笠原長生を始めとする海軍関係者が中心となって建立。

境内の西エリア手前。
東郷寺副開基の小笠原長生子爵(海軍中将)を祀る。

小笠原長生の本墓は世田谷区烏山幸龍寺。
ここ東郷寺は供養墓となる。

東郷元帥墓と小笠原墓は並んで建立。
当地にて死してなお東郷の側にいられるというのは小笠原としては本望極まりないことだろう…

東郷寺の様子は下記にて。

ちなみに、東郷と小笠原以外の著名人として、豊田副武、貞閑勝見、河本大作の墓がある。

※撮影:2017年12月


小笠原家の墓(伊豆長岡の宗徳寺)

昭和20年の敗戦とともに、小笠原長生がが勤めていた宮中顧問官の制度は廃止。
昭和22年、小笠原長生は公職追放となり伊豆長岡の地に隠棲。
昭和29年、 昭和天皇は長岡まで行幸され、小笠原に長年の御辛労に感謝の御言葉をかけられた。その4年後、昭和33年秋、卒。92歳であった。

小笠原家墓

鐵櫻院殿無畏長生日来大居士 俗名 長生
 正二位勲一等功四級 慶應3年11月20日生

昭和28年6月3日
 小笠原長生建之

小笠原長生は昭和33年に亡くなっている。
本墓石は、生前に建立したことがわかる。

ここには、小笠原長生子爵とその母、夫人、継夫人、夭折した息子長孝の名前が刻まれている。

三階菱の家紋

墓所の入口、右側の木立に、小笠原家の墓がある。

軍人墓

伊豆長岡の宗徳寺、山門

長岡山

場所

https://maps.app.goo.gl/99GzSFwURE5G5Aqf7

※撮影:2024年8月


関連

「立川駐屯地創立50周年記念行事(航空祭)」その2(飛行展示)

2023年10月29日、一般公開にあわせて、ひさしぶりに立川駐屯地に足を運びました。

こちらでは飛行展示の模様などを掲載。

歴史っぽいことは、「その1」で。

UH-2

立川駐屯地での「UH-2」は初お披露目。
2022年に量産開始。スバル「ベル 412EPX」を自衛隊用に改良した機種。


UH-2とUH1Jの比較展示

多用途ヘリとして、UH-1Jと、新鋭のUH-2の比較展示が行われました。

UH-2

UH-1J

横からのUH-2

横からのUH-1J

後ろからのUH-2

後ろからのUH-1J

UH-2


編隊上空通過

圧巻ですね。


編隊着陸


災害救助活動展示

準備

準備完了(倒壊家屋を想定)

災害発生。まずはヘリによる上空偵察。

白バイによる地上からの現状確認。

パトカー出動。

救助犬も出動。

SRT出動。スペシャルレスキューチーム。警視庁災害対策課特殊救助隊

自衛隊災害救助とDMAT(災害派遣医療チーム Disaster Medical Assistance Team)出動。

上空からの救助を実施。
陸自と消防と警察のヘリがそれぞれ出動。

全開は、見ていて怖いものがある。

一斉に降下を開始。3つの組織のヘリが足並み揃えるのは、立川ならではの光景かも。

救助活動

そして、消火活動

流石に消火活動は、消防ヘリが最適化されている。


立川駐屯地(そのほか)

ちょうど50周年。

格納庫群。

管制塔

貴賓室

駐屯地内から立川駅行きのシャトルバス。
行き先案内板が、航空祭仕様でヘリ表示。

※撮影:2023年10月


関連

「立川駐屯地創立50周年記念行事(航空祭)」その1(立川駐屯地史料館と歴史散策)

2023年10月29日、一般公開にあわせて、ひさしぶりに立川駐屯地に足を運びました。
以下では、前回の補完もあわせて、記事を再編していきます。

飛行展示は、「その2」で。

以下は以前の記事
「立川駐屯地」

「立川飛行場」

「立川飛行機(立飛)」


立川陸軍飛行場

大正11年(1922)に帝都防衛構想の陸軍航空部隊の中核拠点として開設。
日中戦争さなかの昭和13年(1938)に立川に駐留していた飛行第五連隊隷下の戦闘中隊は「飛行第五戦隊」に改編され、翌年には柏飛行場に移駐。 そののちは実働部隊は置かれなかった。

大東亜戦争のさなかは、実戦部隊は展開されていなかったが、陸軍航空部隊の研究・開発・製造の一大拠点として機能。また軍用機製造の民間工場もあつまっており、戦争末期にはたびたび空襲に見舞われた。

アメリカ空軍立川基地
戦後、アメリカ軍が立川飛行場を接収。アメリカ軍の飛行場運用は昭和44年まで続き、飛行活動停止後に徐々に基地返還が行われる。
昭和47年に立川駐屯地発足、昭和52年に全ての敷地が全面返還。再開発が行われ、今日に至る。

2013年より始まった立川基地跡地再開発事業により、それまで残存していた旧軍の遺構も解体撤去。残るものは少ない。


立川陸軍航空廠

1933年(昭和8年)、所沢にあった陸軍航空本部補給部所沢支部が立川に移転して陸軍航空本部補給部立川支部となる。1941年(昭和16年)8月、立川陸軍航空廠に改称。
北側には陸軍航空技術研究所、西側には陸軍航空工廠が存在していた。


陸軍航空工廠

1940年(昭和15年)発足。
陸軍唯一の航空機製造施設であり、主に航空機用発動機の製造、航空機の設計・試作・製造を目的としていた。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-16
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

立川飛行場東側
USA-R556-No1-16
1947年(昭和22)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
立川飛行場西側
USA-R556-No1-17
1947年(昭和22年)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
再開発の進む現在の様子

立川駐屯地史料館

2019年以来、4年ぶりの再訪です。

展示機MAPと庭園MAPは新しい。
参考にさせていただきます。

CAMP TACHIKAWA 庭園MAP
昭和48年 東部方面航空隊 立川に全面移駐完了
昭和48年に滑走路東側の旧立川駐屯地から現立川駐屯地へと移駐した際、隊員の手によって整備された。移駐にあたり、庭園を整備したほか、旧軍施設や旧立川駐屯地にあった石碑を移設している。

CAMP TACHIKAWA 展示機MAP
航空機としての役目を終え、広報用展示機となった航空機4機種と装甲車

では、MAPに従って散策してみましょう。


【1】八紘一宇

八紘一宇
昭和15年(1940)
 陸軍航空廠本部に建立された。
 アジアが欧米列強の植民地となっている状況を憂い、アジア及び世界が一つの家族のように平和でともに栄えるようにとの願いが。

八紘一宇
陸軍中将 山下奉文 謹書
昭和15年建立

紀元二千六百年記念
陸軍大佐 川崎正寴 謹書

史料館資料より

陸軍航空廠本部
航空廠は、陸軍航空関係の直轄工場です。
写真は、正門から本館を望んだもので、正面の八紘一宇の碑は、マレーの虎と恐れられた山下奉文大将の筆によるもので、現在は史料館東側に展示しています。

史料館にある拓本


【2】行幸記念碑(行幸紀念)

行幸記念碑
昭和8年(1933)
 昭和天皇が初めて行幸されたことを記念して建立された。
 部隊や試験中の航空機を視察されたほか、展覧飛行も行われ、その様子は新聞にも取り上げられた。

行幸紀念
周次郎 謹書

維時昭和八年五月四日  聖駕此地へ幸シ給ヒ親シク陸軍航空ノ威容ヲ臠セラレ當所ノ研究兵器亦  天覧ノ光栄二浴ス乃テ碑ヲ以テ之ヲ不朽二傳フ

周次郎とは、伊藤周次郎陸軍少将のこと。陸軍航空本部技術部長(1932~1935)、昇格後の陸軍航空技術研究所所長(1935~1936)を努めている。
天覧のあった、昭和8年(1933)に、伊藤周次郎が部長を努めていた。

立川駐屯地史料館より。
昭和8年5月4日の 天皇陛下行幸のようすなど。


【3】池

昭和48年(1973)
 隊員の手によって整備された。
 任務に向けて離陸した航空機が無事に帰投するようにとの願いを込めて「ブーメラン」の形を模して設計された。


【4】行啓記念碑

昭和10年11月19日 皇太子殿下の行啓

行啓記念碑
昭和10年(1935)
 皇太子殿下が行啓されたのを記念し、翌年12月に当時の飛行第5連隊長の柴田大佐により建立された。

飛行第5連隊長の柴田信一の最終階級は陸軍中将。陸士24期、陸大33期。
浜松陸軍飛行学校幹事や鉾田陸軍飛行学校長などを歴任した。


【5】行啓記念碑2(皇太子殿下行啓記念碑)

行啓記念碑の2つめ。
昭和16年10月28日 皇太子殿下の2回目の行啓

行啓記念碑
昭和16年(1941)
 再度皇太子殿下が行啓されたことを記念して建立された。
 裏には「陸軍大将土肥原賢二謹書」とあり、当時、航空総監を務めた土肥原大将が書いたことを示している。

土肥原賢二の最終階級は陸軍大将。奉天特務機関長として満州で活躍。欧米では「満蒙のロレンス」と畏怖された。
極東国際軍事裁判では、A級戦犯として処刑された。


【6】飛行第5戦隊記念碑(飛行第五戦隊之碑

飛行第5戦隊記念碑
昭和58年(1983)
 「飛行第5戦隊」の生存者の会により。
 飛行第5戦隊は、大正10年に岐阜県の各務原飛行場で編成され、翌11年に立川に移駐。昭和14年まで立川飛行場に駐屯した。

飛行第五戦隊之碑
開雲 高木秀明謹書


飛行第五戦隊の母隊である航空第五大隊は 大正十年各務原で創設 翌年立川に移駐し 同十四年飛行第五連隊となった
昭和十三年夏飛行第五連隊の戦闘中隊は改編して飛行第五戦隊となり 千葉県柏に移駐した
昭和十六年大東亜戦争の勃発により戦隊は首都防空に任じた 次いで昭和十八年夏南方戦線に進出してジャワ、チモール、ハルマヘタ、比島方面で作戦任務を遂行した
戦局の推移に伴い昭和十九年秋小牧に転進し 同二十年終戦まで中京地区の要塞防空に任じた この間戦隊は武勲を重ねて感状を授与され陸軍戦闘戦隊の華と謳われた
茲に戦隊の歴史を刻し創隊以来国家に殉じた幾多の戦友病没隊員の遺徳を偲びこの碑を建立する
 昭和五十八年五月二十九日
 飛行第五戦隊生存者有志一同

以下は、立川駐屯地の史料館から第五戦隊関連を。

陸軍飛行第5聯隊配置図

ステンドグラス
陸軍飛行第五大隊将校集会所の2階窓に取り付けられていたもの。
大正11年製

オルガン
陸軍飛行第五戦隊の将校集会所にあった

灯籠
立川駐屯地東地区 旧軍通用門門柱

昭和14年まで立川飛行場に駐屯した飛行第五戦隊は柏に移駐となっている。

飛行第五戦隊 その後
千葉県柏で本土防空任務に就いていた飛行第5戦隊は二式複座戦闘機”屠龍”(キ‐45改)を保有していました。昭和18年になると南方戦線を防衛するため、インドネシアのジャワ島マランに展開して船団護衛や要地の防空任務に従事していましたが、、昭和19年7月に名古屋地区の防空任務を命ぜられて本土へ帰還。愛知県の清洲飛行場を拠点として夜間防空に活躍しています。昭和20年7月には五式戦闘機(キ‐100)に徐々に機種改変して対艦攻撃の訓練を行っていました。しかし、本土決戦のため戦力を温存する傾向となり、出撃を延期することが多くなって、8月15日を迎えたのでした。


【7】駐屯地竣工記念碑(竣工記念植樹)

駐屯地竣工記念碑
昭和58年(1983)
 現立川駐屯地移駐の10年後、第5代駐屯地司令の菱田司令の時代に建立された。
 これに合わせて記念樹としてハナミズキが植樹された。


立川駐屯地史料館見学

いくつか目に止まったものをピックアップ。

昭和15年頃の陸軍施設等の配置図。
「立川飛行場」を中心とした、位置関係がわかる。

東側に
陸軍航空技術学校、陸軍病院
立川飛行機(民間)、陸軍獣医資材廠(東立川駐屯地)、立川工作所(民間)。
西側に
陸軍航空技術研究所、陸軍航空廠立川支廠、陸軍気象部立川出張所、陸軍航空工廠、東亜航空機(民間)、千代田航空機(民間)

立川と空襲
 米軍による日本本土空襲が始まったのは、昭和19年11月のこと。同年7月にサイパン島が占領され、ここを基地としたB-29が大挙して来襲するようになった。以来、空襲は激しさを増し、終戦までの10ヶ月足らずにうちに、日本の主要都市のほとんどが爆撃された。
 立川が空襲を受けた理由としては、軍事関連施設が多かったこと、B-29が東京に襲来するときのコースが、サイパン島からまっすぐ富士山めがけて北上し、伊豆諸島上空付近で進路を北東に向け侵入するため、多摩地区が通過コースとなっていたことなどが考えられる。このため立川は、昭和20年2月16日以降、13回の空襲を受けた。なかでも昭和20年4月4日の空襲は激しく、富士見町山中坂ではB-29が落とした250Kg爆弾が命中し、防空壕にいた全員が犠牲となった。立川飛行場にも空襲はあったが、市内の空襲よりも被害は少なかった。これは、終戦後立川飛行場をそのまま使おうと米軍が考えていたから、などと言われている。
 「昭和記念公園は飛行場だった」より抜粋

山中坂の防空壕跡。

昭和初期~昭和15年頃の軍用機

立川は民間航空発祥地

「神風号」昭和12年に立川を離陸して英国へ。

「ニッポン号」の世界一周(昭和14年)

木製プロペラ
日本楽器株式会社(ヤマハ・YAMAHA)

九三式単軽爆撃機の木製プロペラ
(被包式プロペラ甲型)
川崎造船飛行機工場製、昭和9年

八八式偵察機の木製プロペラ
(刃部包装)
日本楽器(ヤマハ)製、昭和6年

二式射撃標準器甲一号
日本工学工業製(ニコン・NIKON)

板垣征四郎大将の書
杉山元大将の書

陸上自衛隊の引退航空機

陸上自衛隊の現役航空機


野外展示機も見学。

【1】UH-1H

UH-1H
全長:17.4m/全幅:2.85m/巡行速度:215km/h
航行距離:420km/乗員:操縦士2名+兵員11名
UH-1Bの後継として1972年から1991年にかけて133基を導入。現在はUH-1Jに託し全て退役。
陸自ではコールサインから「ハンター」と呼ばれる。「ひよどり」という別名もある。米国では「ヒューイ」(先住民族の名)という愛称も。


【2】OH-6D

OH-6D
全長:9.54m/全幅:1.97m/巡行速度:239km/h
航行距離:460km/乗員:操縦士1名+兵員3名
1969年からOH-1J、1979年からはH-6Dが1997年まで310基を導入、2020年に全て退役。
陸自ではコールサインから「オスカー」と呼ばれる。米国では「カイユース」(先住民族の名)とい愛称も。


【3】LR-1

LR-1
全長:10.13m/全幅:11.95m/巡行速度:460km/h
航行距離:2000km/乗員:操縦士2名+兵員5名
1967年から1984年かけて20基が納入。現在はLR-2に託し2016年に全て退役。
陸自では「LR」コールサインから「レコン」と呼ばれる。


【4】L-19

L‐19
全長:7.62m/全幅:10.97m/巡行速度:160km/h
航行距離:750km/乗員:2名
セスナ社で制作されたセスナ170の軍用機。
1954年に米軍から貸与を受け1986年に全て退役。
「L-19」とそのまま呼ばれている。「そよかぜ」という愛称も。

常設の展示場所には、姿が見えず。。。

イベント限定で、滑走路にお引越ししていました。L-19にとっては、何年ぶりの滑走路だろうか。久しぶりの晴れ舞台でちょっと嬉しそうに見えました。

コクピットになにかいました。
こいつ、前から気になっていたんだけど、なぜにここにいるのだろう。ミニオンズ。

今にも飛び立ちそうな佇まい。


【5】60式装甲車

入り口近くに。
何かが乗っている。

60式装甲車
全長:4.85m/全幅:2.40m/速度:45km/h
行動距離:230km/乗員:4名+兵員6名
1960年に制式化され2006年に全て退役。
戦後米国から提供され、三菱重工業が開発。
「60式」は1960年に制式化されたことを示している。災害派遣でも活躍。


立川黒松

庁舎まえの庭園に。

立川黒松の由来
 立川の発展は 飛行場とともにあり 立川は歴史の中から また立川を語る上でも飛行場を忘れることが出来ない
 過ぎた日の飛行場を懐ひ 飛行場がもつ歴史的背景をおもいおこすときいつも立川飛行場を見守っているのが 此の黒松であり現在もそのさまはみごとである
 当駐屯地は 大正10年陸軍が飛行場の建設を開始し 翌年飛行場の開港とともに陸軍飛行場第5大隊が創隊して 兵舎の間には桜や梅など様々な植木が植樹された
 その中でも ひときわ立派で枝振りの良い此の黒松は 本部隊舎前の植え込みに植樹されたもので 昭和56年現在の立川駐屯地が建設された際に現在地に移植された

八紘一宇に続いて、再び本部庁舎前の写真。

現在の庁舎。

撮影:2023年10月


関連

ポツダム宣言受諾を発信した隠蔽送信所「多摩送信所」跡地散策

町田市相原にある法政大学の多摩キャンパス。
遺構が残っているというので足を運んでみた。


多摩送信所

第二次世界大戦末期、軍部は本土空襲に備えて海外放送、電信通信・連絡を確保する必要から、2カ所の通信施設の設置場所を選定し、国際電気通信株式会社に敷設を要請。

1カ所は御殿場線の山北駅と駿河小山駅の中間にある廃トンネルで、1944(昭和19)年に耐弾式送信所として「足柄送信所」が設けられた。

もう1カ所で選ばれたのが、東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたる山林内で、三方を尾根に囲まれた一帯に、1945年4月、起伏と樹林を利用した隠蔽送信所として「多摩送信所」が開設。

1945(昭和20)年8月10日、日本政府はポツダム宣言を受諾。
日本政府は宣言受諾を連合国側には外交ルートを通じて伝えたが、ニュースとしても世界に発信された。その発信を担ったとされる多摩送信所であった。

10日午前7時、外務省は「国体護持」を前提に宣言を受諾する電報をスイス、スウェーデン公使を通じ連合国側に伝達。
さらに同日午後7時、戦時中の通信社・同盟通信の短波(モールス放送)にて受諾を、多摩送信所を始めとする国内に点在する対外放送施設を用いて、全世界に放送した。この放送によって世界のプレスなどは戦争終結を知った。
しかし10日の受諾宣言以降も、日本国内は激動の日々=「日本のいちばん長い日」が続き、御前会議で持って14日の御聖断をあおぎ、大多数の日本国民は、15日の玉音放送で終戦を知ることとなった。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/123208

https://www.hosei.ac.jp/hosei/daigakugaiyo/daigaku_shi/museum/2011/111012/?auth=9abbb458a78210eb174f4bdd385bcf54

https://adeac.jp/machida-digital-museum/text-list/d200020/ht001040

https://machida-aihara.info/?kiji=tamasoushinjyo-ato


多摩送信所跡

多摩送信所跡
二次世界第大戦末期に近い1944年(昭和19)、本土空襲の本格化に備え対外送信の確保が要請され、国際電気通信株式会社によって隠蔽送信所として多摩送信 所の建設が着手された。当時の東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたるこの地に、アンテナ敷地74000 坪(244,000平方メートル)を確保し、高さ60 メートルの木支柱を立て、空中線六基を樹林にめぐらした。技術者、職員計50 名が勤務する局舎を点在させ、翌年4 月竣工し、5 月5 日から操業を開始した。当時、我が国の対外送信は、政府関係以外に同盟通信社のモールス電と日本放送協会が諸外国語で流す「海外放送」および「東亜中継放送」があった。これらの対外送信は、1945 年8 月10 日から15 日の間、日本政府のポツダム宣言受諾表明に際して歴史的な役割を果たした。政府の外交ルートとは別に、ポツダム宣言受諾に関するニュースを送り出したのである。ここにあった「多摩送信所」も木造、手動による回転式アンテナから電波を送ることによって、ポツダム宣言受諾の際に重要な役割を担い、1946 年11 月10 日、開設以来一年半で活動の幕を閉じた。本学の多摩校地は多摩送信所の跡地に位置し、発掘調査により一部の遺構も確認された。ここにその事歴を誌し、永く後世に伝えるものである。
 1988年3月30日 法政大学

アンテナ木柱台石

この山奥にアンテナ群が展開していた。

法政トンネル。

法政大学 多摩キャンパス

アクセスは、法政大学多摩キャンパス行きのバスで。

場所

https://maps.app.goo.gl/4Ve326HQRYszW3LR6

※撮影 2023年9月


関連

板垣退助銅像と板垣退助墓所

青梅に赴いたときに、地図を見ていたら「板垣退助の銅像」と記載があり。
気になったので、赴いてみました。
板垣退助の墓所は、品川に何度か足を運んでいたこともありましたので、せっかくなので一緒に掲載。


板垣退助

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。
明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。

天保8年4月16日、4月17日(1837年5月20日もしくは5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日。
日本の政治家、軍人としては土佐藩陸軍総督。土佐藩士。
従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。
東アジアで初となる帝国議会を樹立。
「国会を創った男」。
伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。(国会議事堂内に3人の銅像もある。)
国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。

岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

板垣退助の銅像

全国に、板垣退助の墓は下記の6ヵ所であるが、芝公園は現存していないので、実質は5ヵ所となる。
・国会議事堂
・芝公園(戦時供出で焼失)
・青梅釜の淵公園(昭和36年建立)
・岐阜公園(板垣遭難の岐阜事件にちなむ、戦時供出され、現在は2代目)
・高知城(出身地、戦時供出され、現在は2代目)
・日光東照宮(戊辰戦争で戦禍を回避した縁、戦時供出され、現在は2代目)


板垣退助銅像(青梅)

青梅市の釜の淵公園に。

明治時代に三多摩自由党の有志が、党首板垣退助を対岸の大柳河原に招いて鮎漁を楽しんだという。
それを記念して、昭和36年(1961)5月3日に建立したもの。

板垣死すとも自由は死せず
 大野伴睦書

自由民権確立のため其の生涯を捧げ、今なお憲政の父と仰がるる板垣先生、かつてこの地に遊ぶ。多摩の老政客・岩浪光二郎翁つとに先生を景慕すること厚く、その偉業を顕彰。以て高風を永く後世に伝えんとす。
ここに先生ゆかりの地を卜し、同志協力してこの像成る。
 昭和三十六年五月
  板垣退助先生銅像建設会
   設計作成 松野伍秀

多摩川の上流。風光明媚な景観。

場所

https://goo.gl/maps/2pNjBG2e5sRiU2RS9


板垣退助像(日光)

戊辰戦争に際して、日光に立てこもった大鳥圭介ら旧幕府軍を説得し日光を兵火から守った。
昭和4年の像は、金属供出され、昭和42年に再建。
2023年9月撮影。

神橋の近く


板垣退助像(岐阜)

工事中でしたので、望遠にて。(2023年9月)

明治15年(1882年)4月6日、板垣退助暗殺未遂事件。
岐阜遭難の時に発せられた「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は著名。

岐阜城の近く。


板垣退助像(国会議事堂)

あまり興味のなかった2017年の撮影。これは取り直し、しないといけません。。。。

大日本帝国憲法施行五十周年を記念して1940年の建立。北村西望作。


板垣退助墓

高源院飛び地。
わかりやすくいくと品川神社の裏。
むかしから何故に品川神社の裏にあるんだろと思っていたが、もともと高源院という寺院があったんですね。高源院は、品川東海寺の塔頭であったが、関東大震災で被災し、昭和14年に世田谷区に移転している。寺院が世田谷に移転したのちも、板垣退助の墓所はそのまま高源院の飛び地として品川に残されている。
そのため、品川神社とは関係ない。。。

板垣退助の地元の高知県にも墓所はあるけど、こちらは東京の墓所。

邦光院殿賢徳道圓大居士

大正八年七月十六日薨 享年八十三

従一位勲一等伯爵板垣退助之墓

板垣退助の墓は第4正妻・板垣絹子と並んで建てられている。

品川区指定史跡
 板垣退助墓
  所在 北品川三丁目七番十五号 品川神社裏
  指定 昭和五十三年十一月二十に日(第四号)
 板垣退助は、天保八年(一八三七)に土佐(高知県)で生まれた。幕末に藩主山内豊信の側用人となるが、倒幕運動や戊辰戦争(一八六八)に参加して功績をあげた。明治七年(一八七四)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治十四年(一八八一)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだことばは、当時の若者達を感激させ湧わかせた。明治二十九年(一八九六)から伊藤内閣や大隈内閣の内相をつとめたが、明治三十三年(一九○○)に政界を引退した。大正八年(一九一九)に亡くなり、この地に葬られた。
  平成七年三月三十一日  
    品川区教育委員会

板垣
 死すとも
自由は
 死せず
   自由民主党
    総裁佐藤栄作書

明治100年及び板垣退助50回忌を記念して建立。

https://goo.gl/maps/QBbxsNPNm3wpdvHd7


品川神社

現在、板垣退助の墓は品川神社を経由しないと訪れることができない。
しなし板垣退助の墓所は品川神社の境内ではなく、高源院の飛び地。

品川神社は関係ないけど、絶対の通り道なので、、、

戦跡として。もはや、板垣退助とはなんら関係ないけど。

忠魂碑(品川神社)

この忠魂碑は明治43年4月に品川町在郷軍人会が日清日露戦争における戦没者の慰霊のため乃木大将の揮毫により当時の東海小学校構内に建立された 其の後昭和7年9月に権現山公園(現城南中学校校舎前)に移し 日支事変・大東亜戦争の戦没者をも加えて慰霊を行なってまいりました。
 昭和20年終戦後占領軍の命令により撤去させられましたが 北品川三丁目田島卯之吉氏が引き取られ千葉県南行徳の源心寺に移され慰霊を行なってまいりました。
 この度源心寺及び田島孝作氏のご厚意により終戦50周年記念事業として品川神社に引き取らせて頂き戦没者の追悼慰霊祭を執り行い平和の尊さを後世に伝えて行きたいと存じます
 平成7年7月15日
   宮司 小泉和夫 識

撮影:2022年3月及び2023年1月


関連

伊藤博文公墓所

多摩陸軍飛行場(横田基地)の戦跡散策

在日米空軍横田基地
「日米友好祭フレンドシップ・フェスティバル2023」(日米友好祭2023)
第47回目だそうで。
年に一度の横田基地、散策してみましょう。

今回は、消化不良でおわった昨年のリベンジとして再訪してきました。

前回記事はこちら。

一部は、重複しますが。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-80
1947年11月14日に米軍が撮影した航空写真を加工。

下記の黄色が現存。

当時の写真と、Google航空写真との照合。
5つの格納庫を、南側から便宜上で通し番号を振っておく。


多摩陸軍飛行場(福生飛行場・横田飛行場)

昭和15年(1940)、立川陸軍飛行場の付随施設として建設。
同年4月に、陸軍飛行実験部(陸軍航空審査部飛行実験部)が立川から多摩に移転。
大戦末期の本土防空戦時には、飛行実験部戦闘隊を「福生飛行隊」と通称し、第10飛行師団指揮下の臨時の防空飛行部隊として投入され、戦果も上げている。
戦時中の米軍は、従来把握していなかった多摩陸軍飛行場を「横田飛行場」と名付たことから、「横田基地」と呼ばれるようになった。
終戦後は、アメリカ軍に接収され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも積極的に活用された。


旧多摩陸軍飛行場格納庫1

米軍横田基地内に残る多摩陸軍飛行場時代からの格納庫。
前述の地図で、一番南側の格納庫。


旧多摩陸軍飛行場格納庫2と3

2つの格納庫が並んでいる。


旧多摩陸軍飛行場格納庫4と5

北側に4番目と5番目の格納庫。近寄ることは出来ないので遠望で。

どうみても格納庫ばっかり撮っている人、になっていますね。


そのほか

丸い屋根の格納庫は戦後の米軍時代もの。

横田名物


横田名物

横田名物のハンバーガーに並んでみました。
ゴールが見えないw

行列のゴールは、「外人バーガー GAIJIN BURGER」

第36空輸飛行隊(イーグル・エアリフター)が焼く、本場モノで間違いない!

GAIJIN BURGER!!ってノリノリになりながら、作っていました!

外人バーガーは、肉厚なハンバーグが3つ。あとはチーズのみ。
ピクルスやマスタード、マヨネーズはセルフで好きなだけ使って良しのスタイル。
これは大満足のハンバーガー
(ちなみに1時間、並びました、、、)

あっ、これも名物。甘いものもほしいですよね。

フライドオレオ。5個買ったらTシャツもらえました。

オレオをフライド、、、カロリー爆弾

Tシャツ。

青くて良いね。2022年の米空軍75周年の記念Tシャツ。


飛行展示

飛行展示は小規模ですね。あくまでおまけな感じ。

空挺展示。

ヘリでの救難展示。

そして、これを待ってました。

CV-22 オスプレイの飛行展示。

飛んでいるところを生で初めてみました。

機動力にびっくりです。

オスプレイのお辞儀。機種をちょっと下げるアクション。

カメラ設定が甘くて、写真が失敗多数でした。
普段は、静態ばかりを撮影しているため、シャッタースピードは遅めが基本のため、動いているもの撮ったのが久しぶりで、設置ミスった、とか。


地上展示

気になったものだけ撮影。

軍事機密の塊ですね。隠してあります。

水上機、いいねえ。

ホンダ

CH‐47J。
横田基地日米友好祭も47回目。

F-2

T-4。青と赤。

青のブルーインパルス
赤のレッドドルフィン

入間基地の飛行点検機 U-680A


おしまい

また来年?

※撮影:2023年5月


関連

稲荷神社・青梅第五小学校奉安殿(青梅市梅郷)

青梅市梅郷。
吉野梅郷の「梅の公園」入口交差点の近くに鎮座している稲荷社。かつての奉安殿だというので、足を運んでみた。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


青梅市梅郷ノ稲荷神社

青梅線日向和田駅から多摩川を渡って吉野街道に。梅の公園入口の信号近くに鎮座している。
社号標もなく、忽然と祠がある状態である。
うしろに控える「青梅私立第五小学校」の奉安殿であったという。奉安殿の役目を終え、戦後に180度回転して、吉野街道側に再鎮座し、稲荷社となったとされる。

奉安殿らしい重厚さを備えている。

社殿の後ろは、青梅私立第五小学校。

場所

https://goo.gl/maps/msjxyoDA645Cngem8

※撮影:2023年1月

「昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)」34年目の昭和天皇武蔵野陵に拝する(令和5年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。
国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

あの日から、34年。

今年も、 昭和天皇 武蔵野陵(しょうわてんのう むさしののみささぎ)へ参拝をいたしました。そして、昭和記念公園の「 昭和天皇記念館」にも足を運んできました。

昭和から平成、そして令和へと、時代は移り変わるも、決して忘れてはいけない昭和の記録を伝承し、そして歴史として、後世に紡いでいくために。


昭和天皇 武蔵野陵(むさしののみささぎ)

昭和天皇 武蔵野陵 
昭和六十四年一月七日午前六時三十三分崩御 平成元年二月二十四日斂葬

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。


昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)

祭礼に関する撮影は一切禁止、です。
午前9時半頃より、一般参拝が停止され、祭員参進が始まります。
午前10時より、「山陵に奉幣の儀」が奉祭されます。
おわるのは、午前10時30分から11時の間くらい。
祭員が退出次第で、一般参拝が再開されます。

祭祀は、神道式。

  • 祭員参進
  • 式部官参進(宮内庁式部職)
  • 招待者参進
  • 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下)
  • 勅使参進
  • 献饌(奏楽)
  • 勅使拝礼(奉幣)
  • 皇族代表拝礼
  • 招待者拝礼
  • 撤饌(奏楽)
  • 勅使退出
  • 皇族代表退出
  • 招待者退出
  • 式部官退出
  • 祭員退出

祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

一般参拝再開直後。午前10時45分頃。

静謐な空気のもと、 昭和天皇に拝礼をしてきました。
ありがとうございました。


関連ニュース記事

一般参列者は撮影禁止でしたので、マスコミ代表撮影の記事を掲載しておきます。

https://www.fnn.jp/articles/-/467753

https://www.yomiuri.co.jp/koushitsu/20230107-OYT1T50117/


香淳皇后 武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)

大正天皇 多摩陵(たまのみささぎ)

貞明皇后 多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)

武蔵陵墓地


多摩御陵参道

カラーコーンも幔幕(青白の浅黄幕)


南浅川橋

昭和11年(1936年)に設置されたコンクリートアーチ式の橋です。南浅川に架り、多摩御陵(武蔵陵墓地)への参道となっています。御陵参道の橋であるため、威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮したデザインが施されているのが特徴。

https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/002/003/p003407.html

橋歴
「東京の著名橋・南浅川橋」
 大正15年(西暦1926年)12月25日大正天皇崩御により、当時の東京府南多摩郡横川村・浅川村および元八王子村(元八王子市長房町・甘里町・元八王子町)地域に御陵所の造営が決定した。これに伴い、東京府が八王子駅と浅川(現高尾)駅間の仮駅から御陵(多摩陵)に至る参道新設を行い、南浅川に全長約87mの木橋が架けられ、南浅川橋と命名されたのが始まりである。
 現在の橋は、昭和11年(西暦1936年)の大正天皇十年式年祭にあわせて、東京府が木橋を架け替えたものである。構造形式は関東大震災後の東京(帝都)復興時に開発されたコンクリートラーメン橋台のコンクリートアーチ橋で、御陵参道の橋として、威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮した意匠が施されている。
 昭和64年(1989年)1月7日の昭和天皇崩御、武蔵野陵造営にあわせて、平成元年2月に東京都が南浅川橋の洗浄・補修、参道の整備を行った。

南浅川橋(コンクリート橋)
昭和11年12月竣工
全長 53.3m
幅員 21.4m
構造 鉄筋コンクリート橋
形式 コンクリートラーメン橋台・固定アーチ橋

1993年1月 補修
東京都
施工 吉田建設株式会社

東京府建造
昭和11年12月完成
合資会社 清水組


多摩御陵参道(武蔵陵墓地参道)入口


陵南会館(東浅川駅跡・東浅川仮停車場跡)

この地には、東浅川駅があった。
東浅川駅は、大正天皇の大喪列車用の臨時駅として開設された皇室専用の駅で、社殿造の駅舎であった。
昭和35年(1960年)に廃止となり、八王子市に払い下げされ、公民館「陵南会館」となっていた。
平成2年(1990年)に、新左翼の皇室テロによって爆破されてしまった。

陵南会館

石碑があった。

1964
オリンピック東京大会 自転車競技この地で行わる


高尾駅

大正天皇の大喪列車の始発駅として「新宿御苑に設置された仮設駅舎」を移築したもの。

八王子の富士森公園の大正殿は、大正天皇多摩陵での「大喪の儀」で「祭場殿」として使用された建物の移築。


昭和天皇記念館

せっかくなので、立川の記念館にも足を伸ばしました。
高尾と立川は、中央線で一本ですし。

https://f-showa.or.jp/museum/

館内は撮影禁止

今回、ボールペンを追加購入したかったのですが、売り切れでした。写真のボールペンは以前に購入したものです。(仕事用で愛用しています)

そのため、かわりにまだ戴いていなかった目録とハンドタオルなどを戴きました。

昭和天皇のお印は「若竹」

昭和天皇記念館は、武蔵野陵参拝とセットでいつも足を運んでしまいます。


関連

北多摩陸軍通信所の戦跡散策(東久留米)

東京都東久留米市前沢のあたりに、陸軍の通信施設があった。
前沢南公園には、防火水槽跡が残っている。散策してみましょう。

前沢南公園の中にある円形が、防火水槽の名残。


北多摩陸軍通信所跡

東久留米市指定旧跡 旧跡第5号
北多摩陸軍通信所跡 前沢5丁目他
 この場所には、昭和8年(1933)から同20年(1945)まで、海外無線の傍受を目的とする陸軍の通信所がありました。
 当時の住所は久留米村前沢1470番地で、当初は1500坪(4,950㎡)の敷地に45m自立式鉄塔4基(逆L字型空中線)と受信所が建設されました。その後の増設により、高速・低速受信機など53台と千数百人に及ぶ人員を要していました。
 昭和18年8月には「陸軍中央特殊情報部通信隊」と改名され、歴史に残る数々の重要な通信の傍受と解読にあたりました。
 戦後、敷地の大部分は民間に譲渡され、当時の施設は現存しませんが、通信施設の中心部分であった受信所や官舎の区画は、道路などでほぼその形状を留めています。旧跡指定は東久留米市の所有部分のみです。
 東久留米市教育委員会

通信所
(米軍撮影空中写真、昭和22年)
官舎に囲まれた丸い防火水槽のある長方形の土地が現在の前沢南公園。

小金井街道から見た通信所と鉄塔
(郷土資料室提供、昭和22年)


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M390-51
1947年8月8日、米軍撮影の航空写真。

写真中央に密集している建屋が、かつての北多摩陸軍通信所の官舎群。

上記を拡大。

現在は住宅密集。。。

更に拡大。黄枠が今回の散策ポイント。

現在の様子。道路の区画もほぼ同じ。
防火水槽のある場所は前沢南公園。その北側に当時の官舎が2棟、残っている。
1棟は完全な形で。そして1棟は半分のみ残っている。


北多摩通信所防火水槽(前沢南公園)

前沢南公園まえの道路。この区画も当時のまま。

公園の北側に、丸くなった区画がある。これが防火水槽の名残。

前沢南公園を貫く東西の通路。公園内に残る基礎も名残かな。。。

こちらは南北の通路。

前沢南公園

いまも「防火水そう」がある。


北多摩陸軍通信所の官舎跡(南)

いまも居住されている建屋のため、チラ見で。
建屋の西側は、削られているために、かなり不自然。前述の航空写真でも、その様子がわかる。


北多摩陸軍通信所の官舎跡(北)

北側の官舎跡の建屋は現在は空家。心置きなく見学できる。

財務省関東財務局が管理する国有地だった。

入口。往時の面影が残っている。

これは、、、「陸軍の官舎」として、保存してくれたりしないかなあ。。。
かなり良い状態にみえます。

防火水槽跡は公園内で保存されているので心配は無いですが、国有地管理の官舎跡は、いつ宅地造成されてもおかしくない雰囲気。
気になる方は、早めの散策が良いかもしれません。

※撮影:2022年12月


関連

北東には海軍の通信所(海軍大和田通信隊)もありました。

東には中島飛行機関連

南には陸軍技術研究所も

戦後国産機リスタート2「新立川飛行機」と「立飛R-53型軽飛行機」(立川立飛)

戦後日本の航空産業は、時(とき)を止めていた。
そして終戦から7年後に、国産機の復活の口火を切ったのが「新立川飛行機」であった。

本記事は、2022年に一般公開された「R-53」を中心とした「新立川飛行機その2」、です。

「その1」は、下記にて。

今回、「一式双発高等練習機・キ54」の公開とあわせて、普段は非公開の「R-53型軽飛行機」も公開されました。


新立川飛行機

戦前、中堅飛行機メーカーとして、「赤とんぼ」や中島飛行機「隼」のライセンス生産などを行ってきた「立川飛行機」。
終戦により、立川飛行機をはじめ、日本国内の航空産業はすべて停止させられた。
立川飛行機は、1949年(昭和24年)11月15日に企業再建整備法により、「立飛企業」と「タチヒ工業」(のちの新立川飛行機)とに分割された。

昭和20年(1945年)11月18日
「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」発令
連合軍による航空活動の禁止命令(航空禁止令)

昭和25年(1950年)6月25日、朝鮮戦争勃発。
昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条約
同年10月25日、民間航空再開。
昭和27年(1952年)7月、航空法及び航空機製造法が公布。


R-52型軽飛行機

昭和27年9月、飛行機制作が解禁され立川飛行機の技術伝承を目的に設立されていた第二会社「新立川飛行機」が、戦後最初の国産機「立飛R-52練習機」を制作。戦時中に作られた部品の寄せ集めではあったが、国産航空機生産は、「新立川飛行機」から始まった。
「R」は練習機を意味し、「52」は1952年型を意味する。
R-52は、戦前に試作していたR-38練習機をベースとしているため、戦前の航空機を再生産したような古い設計の飛行機であったが、それでも戦後の国産飛行機のはじまりには違いない。


R-53型軽飛行機

「R-53型軽飛行機」について
R-52の改良型として製作され、基本的な設計は変わらず、エンジンをイギリス製シラス・メジャー(155hp)に換装するなど改良が加えられました。同機は「R-52」と共に全日本学生飛行連盟に貸与され、日本一周飛行に参加しました。その後、一旦、航空大学校での練習機としての使用を経て1957年に新立川航空機㈱に返却されました。

機体概要
全長:7.5m、全幅:10.7m、全高:2.65m、最高速度:時速207km/h、上昇限度:4,500m

以下、写真を中心に。


R-HM型軽飛行機

立川市の複合施設「GREEN SPRINGS」のTAKE-OFF-SITEにて公開されている、R-HM型軽飛行機は、操縦席の公開があったので、座ってきました。

操縦席。
極めて原始的な造り。これは間違いなく操縦が難しい。。。

復元作業の様子など。


立飛ビールとステッカー

https://www.tachihibrewery.com

立飛ビールを購入して、ステッカーを頂きました。

※撮影:2022年10月


立川飛行機「一式双発高等練習機・キ54」(立飛ホールディングス最後の一般公開)

立川市の立飛ホールディングスで、昨年に引き続いて、2022年10月27日(木)から30日(日)まで、「一式双発高等練習機」が一般公開されました。

2022年10月の今回が、「立飛ホールディングスとしての最後の一般公開」(予定)という。
スタッフに「最後?」の詳細を聞いたところ、今後は立川市が保存をし、立川市として恒常的な施設ないし展示を実施する予定という。つまり、一民間企業たる「立飛ホールディングス」として、このような形の一般公開は最後となる見通し。

本記事は2022年公開時のものです。
2021年公開時の模様は、下記の記事にて


立川飛行機


新立川飛行機


国内唯一の立川飛行機「一式双発高等練習機」現存機

一式双発高等練習機
大日本帝国陸軍の練習機。
キ番号は、「キ54」。
略称は、「一式双発高練」「一式双高練」「双発高練」など。
連合軍のコードネームは、「Hickory」(ヒッコリー、クルミの意味)
開発製造は、立川飛行機。
昭和16年(皇紀2601年、1941年)に正式採用。
立川飛行機として、はじめての自社開発全金属製双発機。
傑作機として重宝され総生産機数は、1342機に及ぶ。

展示機は、飛行第38戦隊所属機。昭和18年(1943年)9月27日、能代飛行場から離陸後にエンジントラブルによって十和田湖に不時着水。乗員4名のうち3名が死亡、1名が生還。
低温淡水の十和田湖底であったために、機体腐食が少なく当時の塗装が残るままで発見され、2012年に引き揚げ。
青森県立三沢航空科学館で展示されていたが、2020年に立飛ホールディングスに譲受された。
また同時に引き上がられた天風型エンジンの1基は製造を担当した東京瓦斯電気工業(日立航空機)の後継企業にあたる日野自動車が復元処理をおこなっている。


一式双発高等練習機(一式双発高練)・キ54
「写真」

以下、写真中心にお送りいたします。
昨年の記事で詳細を記載しているので、今回は省略。

開場直後。1時間前に並んだ成果の最初の1枚。

昨年と展示の状態が異なっている。
機首の木枠がなくなっていたり、上部の窓の跳ね上げがなくなっていたり、胴体部と機首部をつなげていたり。

双発エンジンは、空冷単列星型9気筒。
東京瓦斯電気工業(日立航空機)が開発・製造した航空機用空冷星型エンジン
陸軍名称は「ハ13」、海軍名称は「天風」。陸海軍統合名称は「ハ23」。

一式双発高等練習機に使用されたエンジンは、「日立ハ13甲」 (九八式四五〇馬力発動機)。

主に、陸海軍の中間・高等練習機で使用されたエンジン。
陸軍では、「一式双発高等練習機」、「一式輸送機」、「二式高等練習機」などに採用。
海軍では、「赤とんぼ」と呼称された「九三式中間練習機」や、機上作業練習機「白菊」などにも採用されている。


立川飛行機の概史と三大生産数機種について

石川島飛行機製作所から立川飛行機へ
大正11年(1922)夏に立川飛行場が完成。(2022年で立川飛行場100周年)
大正13年(1924)11月、東京石川島造船所の出資により、石川島飛行機製作所が設立。
社長は渋沢栄一の三男・渋沢正雄。渋沢財閥と大倉財閥の資本であった。
創業地の月島は飛行場がないことから、飛行機製制作には不便ということもあり、昭和5年(1930)5月に立川に移転。昭和9年4月に陸軍から練習機の単独試作を命ぜられたことから、航空機メーカーとして地位を気づき、95式1型練習機(赤トンボ)を正式化。

昭和11年2月、2代目社長の渋沢武之助が退任し、大倉財閥系の門野重九郎が代表取締役に就任。7月に「立川飛行機:へ称号を変更した。

三大生産数機種
九五式一型練習機 2398機
九八式直協機 849機 / 九九式高等練習機 1067機
一式双発高等練習機 1347機

立川飛行機は、陸軍すべての練習機を製造していた。
初等練習機としての「九五式三型練習機」
中間練習機としての「九五式一型練習機」
そして、実践機へとつながる高等練習機としての「九九式高等練習機」「一式双発高等練習機」。

メイドイン多摩
上記の三大生産数機種は、北多摩製であった。
機体は、立川飛行機、発動機(天風系)は日立航空機、点火栓は立川工作所であった。


作業台

キ54の作業台。


重要航空遺産

日本航空協会認定。


各種説明

昨年の記事を参照で。省略します。。。


立川飛行機の建屋

おおくの建屋は、立川飛行機時代のもの。

正門

ノコギリ屋根の建屋

いずれも、立川飛行機時代の建屋。

車庫も当時からの建屋。

車庫の隣の建屋も。

写真は取らなかったけど、守衛所も。

立川飛行機の建屋の詳細は、こちらで。


立飛ビール

https://www.tachihibrewery.com

ビールを購入すると、ステーカーがもらえました。

一式双発高等練習機「キ54」(一式双発高練)

九五式一型練習機「キ9」(赤とんぼ・九五式中練)

※撮影:2022年10月


関連

戦後国産機リスタート「新立川飛行機」と「立飛R-HM型軽飛行機」(立川立飛)

戦後日本の航空産業は、時(とき)を止めていた。
そして終戦から7年後に、国産機の復活の口火を切ったのが「新立川飛行機」であった。


新立川飛行機

戦前、中堅飛行機メーカーとして、「赤とんぼ」や中島飛行機「隼」のライセンス生産などを行ってきた「立川飛行機」。
終戦により、立川飛行機をはじめ、日本国内の航空産業はすべて停止させられた。
立川飛行機は、1949年(昭和24年)11月15日に企業再建整備法により、「立飛企業」と「タチヒ工業」(のちの新立川飛行機)とに分割された。

昭和20年(1945年)11月18日
「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」発令
連合軍による航空活動の禁止命令(航空禁止令)

昭和25年(1950年)6月25日、朝鮮戦争勃発。
昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条約
同年10月25日、民間航空再開。
昭和27年(1952年)7月、航空法及び航空機製造法が公布。

R-52型軽飛行機

昭和27年9月、飛行機制作が解禁され立川飛行機の技術伝承を目的に設立されていた第二会社「新立川飛行機」が、戦後最初の国産機「立飛R-52練習機」を制作。戦時中に作られた部品の寄せ集めではあったが、国産航空機生産は、「新立川飛行機」から始まった。
「R」は練習機を意味し、「52」は1952年型を意味する。
R-52は、戦前に試作していたR-38練習機をベースとしているため、戦前の航空機を再生産したような古い設計の飛行機であったが、それでも戦後の国産飛行機のはじまりには違いない。

R-53型軽飛行機

https://www.tachihi.co.jp/2013/10/02/%E3%80%8Cr-53%E5%9E%8B%E8%BB%BD%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F%E3%80%8D%E4%BF%AE%E5%BE%A9%E5%AE%8C%E4%BA%86%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/

「R-53型軽飛行機」について
R-52の改良型として製作され、基本的な設計は変わらず、エンジンをイギリス製シラス・メジャー(155hp)に換装するなど改良が加えられました。同機は「R-52」と共に全日本学生飛行連盟に貸与され、日本一周飛行に参加しました。その後、一旦、航空大学校での練習機としての使用を経て1957年に新立川航空機㈱に返却されました。

機体概要
全長:7.5m、全幅:10.7m、全高:2.65m、最高速度:時速207km/h、上昇限度:4,500m

R-HM型軽飛行機

https://www.tachihi.co.jp/2013/05/01/%E3%80%8Cr-hm%E5%9E%8B%E8%BB%BD%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E6%A9%9F%E3%80%8D%E4%BF%AE%E5%BE%A9%E5%AE%8C%E4%BA%86%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/

R-HM型軽飛行機はフランス人技師のアンリ・ミニエ氏指導の下1954年(昭和29年)に新立川航空機㈱で製作(機体番号:JA3094)され、同年に試作機の初飛行に成功しました。 当初は「空のジープ」として海外の飛行場が未整備の国に輸出する意向でしたが、操縦が難しい為、量産には至りませんでした。

機体概要
全長5.80m 全幅8.00m 全高2.00m 最高速度150km/h 上昇限度3,000m

ーーー

こうして、新立川飛行機は戦後、上記3機の飛行機を設計開発した。

修復作業

新立川飛行機が2013年にエンジン部品の製造部門を廃止することから、過去資料を残す意味合いから、保存されていた「R-53」と「R-HM」の修復作業が施された。
2020年から、「R-HM」のみ、立飛ホールディングスも経営に関わる立川市の複合施設「GREEN SPRINGS」に移され一般公開されている。


R-HM型軽飛行機の公開

R0HM型軽飛行機(機体番号:JA3094)
終戦と同時に禁止となった飛行機制作が1952年に解禁されて以降、立飛グループでは、飛行機制作技術の再興を目的に、戦後初の国産飛行機であるR-52型軽飛行機を含む3機の飛行機を製作しました。
3機のうちの1機であるR-HM型軽飛行機は、フランス人技師のアンリ・ミニエ氏が設計し、1954年に初飛行に成功しました。「プー・ド・シェル(空の虱)」の愛称で呼ばれた同機は、低速での飛行が可能な反面、高度な操縦技術が要求されたことから量産には至りませんでした。
2013年、立川における飛行機制作の歴史を地域の子どもたちにお伝えするために、長年立飛グループの倉庫に保管されていたオリジナルの機体を修復いたしました。設計図以外の資料が殆ど無い中、試行錯誤の末に修復された同機は、羽布を貼る工程等について、外部の専門家から高い評価を受けました。

機体諸元
全幅:8,000mm 
全長:5,080mm 
全高:2,000mm 
最高速度:150km/h 
上昇限度:3,000m

商業施設のいっかくに、飛行機が展示してある。

新日本立川航空機株式会社
タチヒ
R-HM型

場所

https://goo.gl/maps/H4sbnGpcvoB2Hdhy6

https://goo.gl/maps/oYhSG2WoCCxQN2tX6

※撮影2022年6月


関連

戦前日本第四位の航空機メーカー「立川飛行機」の跡地散策(立川立飛)

戦前日本の航空機メーカーのトップスリーは、中島・三菱・川崎。この大手三社に続く四番手が「立川飛行機」。
戦後、航空機産業の道は閉ざされ、航空機メーカー各社は、それぞれの道を歩むことになる。そんな中で、立川飛行機は、今も色濃く立川の街に溶け込んでいくことになる。
そんな立川飛行機の名残を立川に散策してみる。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-15
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真。

立川飛行場周辺

わかりやすく、区画が残っている。

南地区。

ほとんどの建屋が、位置が変わらずに今も使用されているような感じで残っている。
これはすごい。。。

西地区。こちらも一部の建屋が位置も変わらずに、今も使用されている。


立川飛行機関連


立川の飛行機メーカー関連

中島飛行機

日立航空機

昭和飛行機


立川飛行機

石川島飛行機
1924年(大正13年)、石川島飛行機製作所(石川島飛行機)が設立。これは東京石川島造船所(現在のIHI)が中心となって出資設立されたものであった。
1930年(昭和5年)、立川陸軍飛行場のある立川に移転。
1934年(昭和9年)、陸軍の依頼で中等練習機を開発。陸軍主力中等(初等)練習機「九五式一型練習機」として正式採用され、「赤とんぼ」として親しまれた。

立川飛行機の戦前
1936年(昭和11年)、陸軍省の要請により、工場所在地の地名を取り込んで「立川飛行機」と改称。中堅航空機メーカーとして、
ロッキードよりL-14 スーパーエレクトラのライセンス生産権を購入して「ロ式輸送機」として生産し、また「九八式直協偵察機」・「九九式高等練習機」・「一式双発高等練習機」等の開発・生産を行いつつ、中島飛行機が開発した一式戦闘機「隼」の大規模な移管生産を行っていた。
一式戦「隼」二型(キ43-II)は約1000機、三型(キ43-III)は約1500機が立川飛行機で量産されている。
昭和19年、軍需会社指定。
昭和20年三月及び4月の大空襲で立川飛行機立川工場の施設大破。

「新立川飛行機株式会社」
敗戦後、工場は進駐軍によって接収。1949年には立川飛行機株式会社の出資によって第二会社である「タチヒ工業株式会社(立飛工業株式会社)を設立。
1952年には、戦後国産第一号機となる「R-52型軽飛行機(練習機)」を開発。
立飛工業株式会社は、「新立川航空機株式会社」と改称し、「R-53型軽飛行機」「R-HM型軽飛行機」も開発。日本の航空機開発は戦後の断絶があったことから時代遅れな技術であり、量産には至らなかった。

「たま電気自動車」から「プリンス自動車」
1947年、飛行機の開発を禁じられた立川飛行機の元従業員ら約200名が「東京電気自動車(たま電気自動車)」を設立。世界初の量産された電気自動車を生み出す。当時はガソリン流通に制限がある一方で、多くの工場が空襲被災し電気が余っている情勢であり、電気自動車が最適な選択肢であったが、1950年の朝鮮戦争勃発で鉛が高騰し、電気自動車の製造を終了させている。
その後、立川飛行機の流れをくむ「たま自動車」は、「プリンス自動工業(プリンス自動車)」となり、中島飛行機系の「富士精密工業」と合併。
1966年、「プリンス自動車工業」は、日産自動車に吸収合併となる。

「立川飛行機」本家の戦後
本家の立川飛行機は、戦後の1955年に「立飛企業株式会社」に改称。主力事業は不動産賃貸となる。
2012年、「株式会社立飛ホールディングス」を設立。現在に至る。


立川飛行機の給水塔(南地区)

昭和13年(1938年)建築。立川飛行機時代の名残。以前は周辺に建屋があったが、2022年6月現在は、給水塔の周りの建屋が解体されており、全景をよく見ることができる。
4階建ての建屋で、上部は給水槽となっている。

多摩モノレールの高松駅から給水塔を観察。

高松駅を降り、地上から。給水塔の脇に、記念碑がある。

立飛企業株式会社発祥之地碑

昭和45年11月建立。
統治が米軍に接収されていたため、記念碑設置当初は、別の場所(新立川ビル)に建立されていたが、その後に米軍から土地返還され、平成17年に本来の地に記念碑が移設されている。

南地区の敷地をぐるっと回ってみる。

建屋が解体され、いまなら給水塔がよく見える。

場所

https://goo.gl/maps/XvWqCiQEBKDsnb658


立川飛行機(南地区)

南地区の建屋。立川飛行機時代の戦前建造建造物の様相を残す。

南地区を外周から建屋観察。

のこぎり屋根、ですね。

だいたい、戦前からの建屋。。。

立川飛行機南地区の入り口。

一周して、多摩モノレール高松駅に戻ってきました。


多摩モノレールから見る立川飛行機(南地区)

モノレールからみる工場敷地。
上から全体的に見ることができるので、おすすめ。


多摩モノレール高松駅から立川飛行機(南地区)

ホームからも。

場所

https://goo.gl/maps/ZmHYRTidxqPu7QbFA


立川飛行機(西地区)

多摩モノレール立飛駅。
立飛駅の東側は再開発されて、「ららぽーと立川立飛」。西側には「アリーナ立川立飛」や「TACHIHI BEACH」などもある。
文字通りに立飛の街。立川飛行機の街。

こちらにも「給水塔」が残っているが工場敷地なので望遠で。
立川飛行機の給水塔(立飛の給水塔)。

場所

https://goo.gl/maps/ZZ7ypiaHBHHZf5Fg6

給水塔の手前にある管理事務所も、往時からの建屋だろう。

西地区は近寄れなかったので、望遠で。

工場のノコギリ屋根が見える。


多摩モノレールから見る立川飛行機(西地区)

同じく、モノレール車中から観察。


多摩モノレール立飛駅から立川飛行機(西地区)

ホームから、西地区を観察。

立川飛行機の名残を散策してみましたが、思っている以上に当時の建屋が残っていることを実感しました。
しかし、南地区の給水塔の近くにあった建屋は解体されており、今後も解体が増えていく可能性も否定できません。給水塔は残してくれるかとは思いますが、それ以外の建屋に関しては見れる間に、早めに見に行ったほうがよいかもしれません。

※撮影:2022年6月

多摩陸軍飛行場(横田基地)の格納庫

在日米空軍横田基地で「日米友好祭フレンドシップフェスティバル2022」が、5月21日22日にかけて、3年ぶりの開催された。

実は横田基地は初めて。
事前学習せずに、何気ない気持ちで行ってみたら、大行列と雨に巻き込まれて散々な状態となり、写真もまともに撮れていないひどいありさま。今回の記事は、掲載を見合わせようかと思うレベルではありましたが、来年以降のリベンジの念も込めて、かなり半端な内容ですが掲載します。

2023年にリベンジしました。
より詳細な記事は、以下にて


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-80_19471114
1947年11月14日に米軍が撮影した航空写真を加工。

拡大。

当時の写真と、Google航空写真との照合を行ってみる。
横田に行く前に事前に、この照合作業をおこなっていれば、よいものを、今回は手抜かりもあり、記事に漏れが多数。。。

日本戦跡協会さまより、
「南の右の格納庫は、米軍が建てたもの」とコメントを頂きました。


多摩陸軍飛行場(福生飛行場・横田飛行場)

昭和15年(1940)、立川陸軍飛行場の付随施設として建設。
同年4月に、陸軍飛行実験部(陸軍航空審査部飛行実験部)が立川から多摩に移転。
大戦末期の本土防空戦時には、飛行実験部戦闘隊を「福生飛行隊」と通称し、第10飛行師団指揮下の臨時の防空飛行部隊として投入され、戦果も上げている。
戦時中の米軍は、従来把握していなかった多摩陸軍飛行場を「横田飛行場」と名付たことから、「横田基地」と呼ばれるようになった。
終戦後は、アメリカ軍に接収され、朝鮮戦争やベトナム戦争でも積極的に活用された。


横田基地に残る陸軍の格納庫

上記の位置関係と照合した結果、格納庫がいくつか残っていることがわかる。

三角屋根の格納庫が当時からの格納庫。
オスプレイと一緒に写る。

こちらも当時からの格納庫。最南部。

撮影していた格納庫の写真は以上のみ。
記録写真としても、まったくできていないので、リベンジが必須。

オスプレイ
初めて垣間見たオスプレイは、おもったよりも小さかった。

2022
Firendship Festival
Yokota Air Base

いろいろ

いろいろ。

また、リベンジします。

※撮影:2022年5月


関連

松脂油採取の跡(井の頭自然文化園)

戦争末期。
苦肉の策として航空燃料原料としての利用が試みられたのが「松から採取された油」であった。
しかし労力と効率の割が悪く、また粗悪のために実用には至らず。
松の根からは「松根油」、樹皮からは「松脂油」が採取されたという。

その痕跡を「井の頭自然文化園」で探してみました…


井の頭恩賜公園(井の頭公園)

吉祥寺駅の南に広がる、井の頭池を中心とした公園。神田川は井の頭池を源としている。徳川家光が鷹狩りの際に休息した御殿を造営した場所でもあり、地名として「御殿山」と呼称されている。

井の頭自然文化園

当地には、明治38年(1905年)、渋沢栄一が、井の頭御殿山御料地の一角(現在の自然文化園本園)を皇室から拝借して、非行少年を収容する東京市養育院感化部(のちの「井の頭学校」)を創設したことにはじまる。
大正6年(1917年)御料地全体が東京市に下賜され「井の頭恩賜公園」となる。
昭和9年(1934年)「中之島小動物園」が開園。
昭和14年(1939年)「井の頭学校」移転。「中之島小動物園」を上野動物園規模の大動物園にする計画が立ち上がるが、戦時中ということもあり、予算も物資も不足。
昭和17年(1942年)5月17日に「井の頭自然文化園」が開園する。
昭和18年には、猛獣処分が井の頭自然文化園でも実施されていおり、ホッキョクグマ1頭、ニホングマ2頭、ラクダ3頭が処分されている。
昭和20年には、事実上の救援状態となる。
昭和22年、水生物園が再開。昭和26年に移動動物園が開催、昭和28年に北村西望がアトリエを設置。昭和29年、アジアゾウはな子が来日。昭和33年、北村西望から平和祈念像の原型や作品、アトリエなどが寄贈される。


松脂油採取の跡(井の頭自然文化園)

井の頭自然文化園の中心に位置する「大放飼場」のあたりにある松の木。
根本を見てみれば、人工的に削られた痕跡がありました。

今どきの感覚でいうと「ハート型」でかわいい、となるかもしれません。
この松の木の傷が、戦時中に油を採取した名残といっても、ピンと来ないかもしれませんが、これも立派な戦跡、です。

東京都井の頭自然文化園

小動物中心の動物園。


アジアゾウ はな子

終戦時、日本には名古屋東山動物園に2頭、京都市動物園に1頭のゾウが生き延びていただけであった。
1947年にタイ王国で生まれたアジアゾウの「はな子」は、戦後日本で、再びゾウの姿をみたいという声に応えるかたちで1947年に来日。
戦後にはじめて来日した像であった。
「はな子」は、公募で決まった名前であったが、これは戦争中に猛獣処分(餓死処分)された上野動物園の「花子」(ワンリー)に因んだ名前であった。

なお、昭和18年に「井の頭自然文化園」でも、猛獣処分により、ホッキョクグマ1頭、ニホングマ2頭、ラクダ3頭が処分されている。

はな子は2016年5月26日、69歳で永眠。


北村西望「アトリエ館」「彫刻館」

北村西望は、昭和を代表する彫刻家。
代表作は、長崎平和公園の「平和祈念像」、国会議事堂内「板垣退助翁像」など。

「平和祈念像」を作成するにあたり、大きなアトリエが必要となり、東京都が井の頭自然文化園内の敷地を提供。北村西望はアトリエ施設や作品を寄付という縁から、井の頭自然文化園内に北村西望作品が展示されることとなった。

「将軍の孫」と北村西望アトリエ

「将軍の孫像」の軍靴と、「橘中佐像」の軍靴は同一のものという。

加藤清正像

若き日の織田信長像

聖観世音菩薩

咆哮


彫刻館B館には、興味深い作品がいくつか集まっているので、是非とも足を運んでみてほしい。なお、館内は写真撮影は禁止。以下はテキスト紹介のみで。

橘中佐
1919年
北村西望の初めての公共彫刻。橘中佐は故郷の隣町出身。日露戦争で戦死。その死が惜しまれ、橘神社も建立されている。

寺内正毅元帥騎馬像
1921年
北村西望がはじめて制作した騎馬像でもある。赤坂の三宅坂に設置されていたが、像は失われ現在は台座のみ残されている。

山県有朋公騎馬像
1929年
当初は永田町の陸軍省前に置かれていたが戦後に撤去。
現在は山県の出身地である山口県萩市に復元されている。

閑院宮馬上像
1937年
閑院宮載仁親王殿下の騎馬像。

児玉源太郎大将騎馬像
1938年
北村西望最大の騎馬像で高さ5m。満洲に設置されていた。


松脂油から北村西望まで、目線を変えた見どころも豊富な井の頭自然文化園。
ちょっとしたスキマ時間に足を運んでみるのも楽しいかもしれません。

※撮影:2022年6月


参考リンク

https://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=news&inst=ino&link_num=26636

https://www.tokyo-zoo.net/zoo/ino/history.html


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松脂油採取の跡。

兼六園の戦跡散策