「東京都-多摩地区」カテゴリーアーカイブ

 「八清住宅」陸軍航空工廠従業員の集団住宅地(昭島)

東中神駅の南側に「八清」と呼ばれる住宅街がある。
地図を見てみると、円形のロータリーが住宅地の中に今も残っている。

八清の由来

八清の由来
 日中戦争から太平洋戦争へと軍国主義の道を歩む頃、我が国の軍需産業は飛躍的発展を遂げた。昭和13年、当地に設立された名古屋造兵廠立川製作所(後の陸軍航空咬傷)も拡張につぐ拡張という有様で翌14年には従業員2万余を数える大軍需工場へと急成長した。こうした状況下、同工廠では早急なる従業員住宅建設の必要にせまられ当時一面の桑畑であった福島827番地付近、約3万坪の地を買収、その建設に着手した。
 工事は軍の協力下、八日市屋清太郎氏によって進められ、同16年10月までに約500戸の住宅と集会所、市場、映画館、浴場、神社、公園などの福利施設が竣工。ここにロータリーを中心として放射線状にに区画された大規模な住宅街が誕生した。即ちこれが八清住宅の起源であり八清という名称は工事をした八日市屋清太郎氏の名に由来するものである。
 戦後、これらの住宅は住民に払い下げられ、また市場(マーケット)を中心に商店街としての新たな街づくりも進められ、その結果今日見られるような市内屈指の住宅商店街”八清”が生まれたのである。
ここに恒久の平和を念願し建立したものである。

八日市屋清太郎は博覧会の仮設建築を得意としていた「ランカイ屋」。
「博覧会の八日市屋」で著名であったという。
初代八日市屋清太郎と二代目八日市屋清太郎がいる。
数々の博覧会をこなし仮設建築のノウハウで、軍部に依頼に答えるべく驚くべき速さで工場従業員住宅の建設をした人物。

名古屋陸軍工廠熱田製造所の飛行機製造設備と千種の発動機製造施設が立川に移転するにあたり、新工場予定地の近くに、短納期で住宅建設を行うことが必要となり、二代目八日市屋清太郎が、23歳の時に陸軍施設の移転協力を行った。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C23-C7-138
昭和16年(1941年)06月25日、日本陸軍撮影の航空写真。

中央上「陸軍航空工廠」
右上 「陸軍航空技術研究所」
右  「陸軍航空工廠立川支廠」

八清住宅を拡大。昭和16年。

こちらは戦後。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R360-115
昭和22年(1947年)10月24日、米軍撮影の航空写真。

昭和16年の頃と比べるとだいぶ密度が上がってきている。

八清住宅を拡大。昭和22年。

Google航空写真で八清住宅の現在の様子を見てみる。
八清公園の円形もよく残っている。


八清住宅のロータリー

昭和16年に開発された八清住宅。最寄りとなる東中神駅は昭和17年7月に開業。戦時下の開業は軍需工場と従業員向け住宅の性質を考えれば、なっとくの開業。

中央円形部は防火水槽のような噴水のような水たまりと花壇。
そこを中心に八差路に道が伸びている。ちょっとおもしろい。

郵便局は今も昔もこの場所。

ベンチもある。

昭島市立玉川会館(東部出張所)は、元々は八清住宅管理事務所があった場所。
戦後の昭和町警察署もあったという。

隣のメインストリートたる「八清通り」には商店があつまっている。
食堂は昔からの佇まいがある。

年季の入ったコンクリート建屋もある。

八清通りには、住民の生活を支えるスーパーもある。

ありゃ、すずさんだ。
片渕須直監督の劇場版アニメ4作品の紹介があった。
八清通りの写真館さんにて。

参考

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1320715100/space/spaceD/D14.html#:~:text=%E3%80%8C%E5%85%AB%E6%B8%85%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%90%8D%E7%A7%B0%E3%81%AF,%E3%81%8C%E8%A1%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

場所

https://goo.gl/maps/VGTdmi8s5ceCbj1x6

撮影:2022年5月


関連

中神坂の防空壕跡(昭島)

昭島市の南側を走る「奥多摩街道」。
ざっと中神駅から南に1キロ。
そこに防空壕跡があるというので足を運んでみた。


中神坂の石垣

中神坂交差点周辺は見事な石垣が造成されている。
多摩川の玉石を使った石垣は、東京府が昭和6年に奥多摩街道の旧道の蛇行と急坂を直す改良工事の際に、工事を請け負った地元土建業者が造成したもの。

中神坂の防空壕跡

福巌寺南面の石垣には「防空壕」の入り口が残っている。昭和19年(1944年)ごろに地元の警防団が掘ったものという。当時は西角にあった別の防空壕と奥でつながっていたというが、現在は南側の入口跡しか残っていない。
昭和20年4月4日の空襲によって、防空壕入口付近で、警防団員が1名死亡しているという。

警防団は昭和14年(1939年)に「警防団令」施行で持って「空襲あるいは災害から市民を守る」ために組織された団体。警察及び消防の補助組織として機能していた。昭和22年(1947年)に警防団は廃止され、消防団に改組移行された。

参考

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1320715100/space/spaceC/C8.html

場所

https://goo.gl/maps/JTCKBiP3sNHeeXfp9

中神坂、奥多摩街道の石垣。
左手は中神日枝神社。

石垣が連なる奥多摩街道。


関連

昭和飛行機工業東京製作所の跡地散策(昭島)

昭島市。昭和3年(1928年)に発足した昭和村を前身とする。
立川陸軍飛行場の隣ということもあり、航空機関連の軍需工場が昭和村にも進出。
そんな昭和村に進出した「昭和飛行機」の名残を昭島に辿ってみる。


昭和飛行機工業株式会社

多摩四大航空機メーカーといえば、立川飛行機・日立航空機・中島飛行機、そして昭和飛行機。

昭和12年(1937年)6月5日に、三井系新興企業の「昭和飛行機工業株式会社」が設立され、翌昭和13年(1938年)には、昭和村(現在の昭島市)の「東京製作所」において、三井物産を経由して製造権を獲得した米ダグラスDC-3のライセンス生産を開始。
昭和飛行機工業株式会社は、米ダグラスDC-3をベースとした大日本帝国海軍の主力輸送機「零式輸送機」を430機を生産。その他海軍向け各種航空機を含めると700機の航空機を生産したという。

昭和村は、昭和飛行機とともに発展し、昭和16年に町制を施行し昭和町に。
戦後の昭和29年に昭和町と拝島村が合併し、昭島市が発足している。

昭和飛行機工業は、戦後はGHQによって航空機事業の全面禁止を余儀なくされた。昭和飛行機の航空機製造工場も賠償指定工場として接収を受け、米軍の各種車両(航空機燃料給油車・消防車・クレーン車・バスなど)・エンジン・航空機などの修理作業に従事。米国の新技術と技法を習熟し、民需転換後の新事業の基礎となった。
現在の昭和飛行機工業は、航空機内装美品や特殊車両などを手掛ける一方で、国内唯一のハニカム総合メーカーとしても確立し、自社保有地の都市開発業務を分社化している。

かつての昭和飛行機工業の広大な土地(滑走路跡など)は、「昭和の森ゴルフコース」「昭和の森テニスセンター」や「モリタウン」「モリパーク」「昭島つつじヶ丘ハイツ」などに生まれ変わっている。

昭和飛行機工業の格納庫は、屋内テニス場に。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-20
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真。

上記を拡大。
西には昭和飛行機工業の工場エリア。
中央に格納庫。
東には滑走路が広がっていることがわかる。

現在の航空写真。
西には引き続き、昭和飛行機工業の工場。
中央の格納庫は、昭和の森テニスセンターへ。
滑走路跡は、ハイツやカインズ、昭島市民会館、そして昭和の森ゴルフコースが広がっている。

格納庫部分を拡大。
格納庫が6棟並んでいる。

いまは格納庫が3棟、残っていることがわかる。
現在、当時の格納庫は、昭和の森テニススクールとして活用。

昭和飛行機の工場エリアを拡大。現在の南工場エリア。

工場特有のノコギリ屋根が残っているのがわかる。
ただノコギリ建屋の東3分の1が削られていることもわかる。
10年ほど前は東工場にもノコギリ屋根の建屋があったが、現在は解体されグランドになっている。
(下記写真の緑の芝生グランドの場所)


昭和飛行機工業東京製作所の跡地散策

昭島駅から散策スタート。

「昭島駅」は、かつては「昭和前駅」と呼称されていた。
昭和飛行機工業東京製作所の従業員向けに昭和13年(1938)1月に青梅電気鉄道の「昭和前仮停留場」として開業。同年12月に「昭和前駅」に昇格している。


昭和飛行機本館跡地(昭和の森広場)

現在の「昭島市立昭和の森広場」が昭和飛行機本館の跡地。本館は2014年に取り壊しをされており、公園へと整備されている。

昭和飛行機工業株式会社 創設の地
当地は、昭和12年に航空機の製造を目的として創設された昭和飛行機工業株式会社の本館跡地であり、このヒマラヤスギは、創設時に植樹されたものです。永く当地の歴史を見届けてきたヒマラヤスギを保存し市民の憩いの場とするため、当地を「昭和の森広場」として昭島市へ寄贈いたします。
 平成27年8月10日 昭和飛行機工業株式会社

場所

https://goo.gl/maps/V8KmBuFG43UYboK57


昭和飛行機工業に残る往時の建屋?

いまでもいくつか往時からのものと思われる建屋が残っている。

昭和飛行機工業(南工場)の「ノコギリ屋根の工場」
昭和初期当時からの建屋と思われる。

2つ目の建屋。ノコギリ屋根の工場の西側に。

当時の航空写真を照らし合わせて、ノコギリ屋根の工場の西側の2棟の建屋も当時からのものと推測。
敷地外からは、前述のノコギリ建屋とあわせて、往時の建屋と推測できるものとして3棟を確認。

3つ目の建屋。わかりにくいが真ん中の木の左側の建屋。

給水施設の場所も、往時から変わりなしの雰囲気。

給水タンクは新しくなっている。かつての航空写真ではこの場所に給水塔が確認できる。

場所

https://goo.gl/maps/ep94XvWWj6PRadPe7


モリパークを横目に北上をする。


新昭和通

説明文を読むと、南に昭和12年に昭和飛行機工業が開設した「昭和通」があり、この通りが北側で対となる「新昭和通」とのこと。のちほど、南にも足を運んでみましょう。

新昭和通
 この道路は、「新昭和通」と呼称し、昭島駅北口の十字路から北へ進み、ゆるくカーブをしながら「フォレスト・イン昭和館」の南東角にある十字路に至る、全長594m・幅員16mの道路で、「昭和館」の建設に合わせて、全額昭和飛行機の負担で新しく築造され、昭島市に寄贈されたものであります。
 この工事は、道路用地にかかわる工場敷地内の建物等の移転と並行して、平成8年10月に着工、18ヶ月の工期を経て、平成10年4月17日開通しました。
 昭和12年の昭和飛行機創立当時、当社は機械設備等の搬入のため、旧奥多摩街道から諏訪神社脇を北上し宮沢地区を経て旧工場正門に至る、延長約2km・幅員11mの道路を当社の負担で新設し、地元に寄贈しました。
 その道路は、「昭和通」の名で、広く人々に親しまれていましたが、道路築造に合わせて当時建立された「昭和通」の石標は、年を経て散失してしまいました。しかしながらその後、地元有志の熱意により、昭島駅南側の宮沢町1丁目1番5号(株)カトービルドシステム前にこの石標は修復再建され今日に至っております。
 当社ではこれに呼応して、このたび昭島駅北側に新設した道路を「新昭和通」と称し、南の昭和12年当時の「昭和通」の石標と同型、同寸法の「新昭和通」の石標をここに建て、南北両道路ともども永く人々の記憶に留まり、また広く活用され親しまれることを念願するものであります。 
 平成10年4月吉日  昭和飛行機工業株式会社

場所

https://goo.gl/maps/yQoM7MYWn45BTxMR6

このあたりの道路が、工場から格納庫や滑走路方面に向かう、誘導路にもあたる。

フォレスト・イン 昭和館がある。


昭和飛行機工業東京製作所格納庫
(現・昭和の森テニススクール)

前述の航空写真では、仮に北から順番に番号を振ると「第一」「第二」「第四」の格納庫が残っていることがわかる。順番に見てみよう。

仮称の第一、第二格納庫。

場所

https://goo.gl/maps/cptteYKsAb8m5StY9

換気のために窓が空いていた。

中の様子は、公式サイトから流用させて頂く。

昭和の森テニスセンター 施設紹介

http://www.showasp.co.jp/sports/facilities

上記サイトから画像を参照

(仮称)第一格納庫を北から。横からの全景がよくわかる。

滑走路側へ。

(仮称)第二格納庫には「昭和の森テニスセンター」の看板が大きく掲げられている。

すこし南側の「(仮称)第四格納庫」。

(仮称)第四格納庫の東側、滑走路に面している側は、スライド式の扉。

今では開けることはなさそうだけれども。

西側(写真西側)に格納庫。道路は駐機場、東側(写真右側)は滑走路だった。

格納庫の北側。
写真右側が格納庫。左側(トヨタショップの側)が滑走路だった。

滑走路を北上する。

全然関係ないけど、HOYAのPENTAXがあった。
PENTAXのカメラ部門がHOYAからリコーに売却された際に、PENTAXのメディカル部門はHOYAに残った。PENTAXがユーザーとして目に止まったので。。。

北上すると、玉川上水にたどり着く。


昭和飛行機滑走路延伸コンクリート覆蓋部

玉川上水に沿って東に歩むと、蓋がかけられた箇所が見える。ここから玉川上水は長さ300mほど蓋をされている。
昭和飛行の敷地は南を青梅線、北を玉川上水とする広大な面積があり、その敷地の南北に試験飛行用の滑走路も設けていた。
昭和飛行機は、滑走路オーバーランの事故防止のために玉川上水に蓋をかけて滑走路を延長し玉川上水以北の土地も買収する計画があった。
玉川上水に対する覆蓋工事は東京市水道局の設計し、工事は昭和飛行機が実施。昭和15年(1940)秋頃に完成し、現在はそのまま緑道として活用されている。
なお、オーバーラン防止として玉川上水には覆蓋まではされたが、玉川上水北部の滑走路延伸そのものは未着工であった。

玉川上水覆蓋上部。違和感のない緑道。駐車場側が滑走路。現在はゴルフ場。

昭和15年に昭和飛行機によって、玉川上水にコンクリート覆蓋が実施された。

場所

https://goo.gl/maps/HZDjtX15u6DcMGBn8


昭和通

昭島駅の南側に。昭和飛行機が建設した道路の名残が残っている。

昭和通

昭和13年8月
昭和飛行機工業株式会社

「昭和通」の道しるべ
 この御影石(みかげいし)の標柱は、かつて、奥多摩街道から通称「昭和通」へ入る道しるべとして、阿弥陀寺の東南の角に戦後間もない頃まで建てられていたものです。
 昭和の初めまでは林や桑畑などのまだまだ武蔵野の面影を残すこの地域に、昭和12年、昭和飛行機工業(株)により軍用機の製造が始められるとともに、まちづくりや物資の輸送のために、道路の整備が進められました。
 奥多摩街道から現在地点を経て、かつての昭和前駅(現昭島駅)へ至る全長約2キロメートルのこの「昭和通」もまさに主要な道路の一つでありました。
 なお、現在の「昭和通り」は昭島駅の東側から奥多摩街道に通ずる南北の道路(市道昭島21号の一部と西247号)を指します。
 昭島市

場所

https://goo.gl/maps/HQqZSgNGrW7BJ12y6

現在の「昭和通り」

昭島駅の南口。よくみれば、北口と同じデザイン。

散策は以上。思ったよりも見どころ多数で散策のやりがいのあるエリアでした。

※撮影は2022年4月及び5月


関連

武蔵野陵に拝す(昭和天皇祭の儀・令和4年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。

国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

即日、
皇太子明仁親王殿下が践祚され、第百二十五代天皇の御位にお就きになられた。
そして、年号は「平成」と改元せられた。


武蔵野陵(むさしののみささぎ)

33年後の令和4年(2022年)1月7日、
昭和天皇が眠る武蔵野陵を参拝いたしました。

昭和を偲びつつ…

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。

昭和天皇武蔵野陵

令和4年1月7日。
午前9時30分前に到着。武蔵野陵へ参進する。

午前9時33分。祭員が参進。

このあとは、撮影禁止。

午前9時開門から午前9時30分までは一般参拝可能。
午前9時30分から11時頃までは祭祀のために、立ち入り制限発生の場合あり。
祭祀の間は一般参拝者は御陵向かって右側で待機、でした。

祭祀は、神道式。
 一般参拝停止
 祭員参進
 式部官参進(宮内庁式部職)
 招待者参進
 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下でした。)
 勅使参進
  献饌
  勅使拝礼
  皇族代表拝礼
  招待者拝礼
  撤饌
 勅使退出
 皇族代表退出
 招待者退出
 式部官退出
 祭員退出
 一般参拝再開 
祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

https://www.fnn.jp/articles/gallery/295317?image=5

https://mainichi.jp/articles/20220107/k00/00m/040/074000c

最初は、一般は15人かな。
最終的には一般も50人くらいまで集まっていたような感じでした。

午前10時45分頃、祭員退出。

前日の雪が残る武蔵野陵。

武蔵野陵墓地(宮内庁多摩陵墓監区事務所所管の陵墓 )

大正天皇 多摩陵
貞明皇后 多摩東陵

昭和天皇 武蔵野陵
香淳皇后 武蔵野東陵

高尾駅

旧日立航空機立川工場変電所(補修完了後の再訪)

2017年に訪れた際は、1階のみの公開で、2階部分は非公開エリア、でした。
2020年に改修工事が行われ、問題となっていた耐震補強や老朽化による雨漏りの補修を実施。
2021年10月に、2階部分も一般公開される運びとなった。そのため、改めて脚を運んでみた次第。

前回の様子はこちら。

旧日立航空機立川工場変電所

戦災建造物 東大和市指定文化財
旧日立航空機立川工場変電所

公開日:毎週水曜日・日曜日
公開時間:午前10時30分~午後4時
入場料:無料
 東大和市立郷土博物館

市指定文化財
旧日立航空機立川工場変電所見学入口

東大和市文化財 
史跡・戦災建造物
旧日立航空機株式会社立川工場変電所

 この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。
 北隣にあった設備で受電した66000ボルトの電気を33000ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。
 工場地域への攻撃は3回ありました。最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。2回目は4月19日、P51ムスタング戦闘機数機によるもの。3回目は4月24日、B29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。
 この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。
 都立公園として整備されるにあたり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。
 戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。
  平成8(1996)年3月 東大和市教育委員会

変電所
関係者以外立入禁

昭和13年(1938)竣工。
航空機エンジン製造していた日立航空機立川工場(立川発動機製作所)変電所。
昭和20年2月17日にF6Fヘルキャット戦闘機、4月19日にP-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射を受けた痕が残る。戦後も変電所機能は失われていなかった為そのまま使用され平成5年まで活躍。公園整備されるあたり取壊しを回避し保存された。

機銃掃射の銃撃痕が壁一面に残る。

内階段に残る銃撃痕
 内階段には、木製の手すりや階段面、階段の裏側と、いたるところに多くの機銃掃射の銃撃痕が残されています。
 手すりにある2ヶ所の傷痕のうち、上方のものはすぐ横のコンクリートにも傷が残っています。窓から飛び込んできた弾丸には、手すりを傷つけたあとも、コンクリートを破壊する威力があったことを物語っています。
 令和2(2020)~3年の工事で、内階段を保護し弾痕もみえるようにした上で、階段に負荷がかからない構造のガラス階段と手すりを設置しました。

保存のため、弾痕が残る木製の手すりには触れないようお願いいたします。

手すりをえぐり、コンクリートをも破壊した機銃掃射の銃撃痕を間近で見ることができる。

コンクリートの階段も破壊された。

従来のコンクリートの階段は、新たに設置されたガラス階段で補強され、2階への見学が可能となった。

2階部分は初めて見学。

木製の小屋は仮眠室。

変電の設備が残っている。

変電所について
 変電所は、昭和13(1938)年に建てられ、戦後も富士自動車(株)や小松ゼノア(株)などで、設備を更新しながら平成5年(1938)年まで使われていました。
 2階には受変電設備のほか、24時間体制に対応するための仮眠スペースがありました。
 野外に主変圧器や遮断器(スイッチ)などの主要設備、屋内に受電・配電設備などの監視・制御装置を、この変電所では配置していました。
 八ツ沢発電所(現:山梨県上野原市)で発電された電力は、府中変電所を経て、この変電所に供給されていました。66kV・2回戦で送られてきた電力を、この変電所で3.3kVに変電して、工場内の各施設に供給していました。

配電盤について
 前面パネルに、「第1パネル」「第2パネル」「第1~9号高圧配電盤」と記されています。バンクとは主変圧器のことで、野外に2台設置されていました。この変電所では、主変圧器で受けた電力を、9個の配線で各工場に供給していました。配電盤には、電力の流れが分かるように矢印が表示されています。
 向かって一番左側の低圧配電盤は、変電所が建設された当時のものです。脇に「昭和14年製」と記載があります。
 この低圧配電盤には、複数の銃撃痕が残されています。空襲の際に、南側の窓から、金属でできた盤を貫通する威力で、銃弾が飛び込んできたことがわかります。

貫通した銃撃痕が2箇所。

配電盤の後方の壁にも銃撃痕。

受変電設備の配置(電力の流れ)

特別高圧受電盤

油入遮断器

木製のアナログ式の計測器。一番左の絶縁抵抗測定機は昭和13年製。

変電所の計測器類

外階段
 この建物は、もともと1階が倉庫、2階が事務所として使用されており、変電所稼働当時、従業員は外階段から出入りしていました。
 外階段やテラスにも数多くの銃撃痕が残っています。外階段保護のため、現在は立ち入りを制限しています。
 外階段保護のため、ここから外にはでられません。

このさきは、1階部分の展示をメインに。

製造していたエンジン
 工場では、陸軍用の航空機のエンジンを製造していました。会社全体の製造状況のうち、陸軍用のエンジンは表のとおりです。

エンジン種類 製造台数 製造期間
ハ‐12      895    昭 8~19
ハ‐13     3,116    昭10~18
ハ‐13甲    7,086    昭12~20
ハ‐26      758    昭19~20
ハ‐42      77    昭 8~18
ハ‐112      47    昭19~20
昭和14年以前は大盛り工場で製造された分を含みます。
 出典:「小松ゼノア社報 創業80周年記念号」平成2年

ハ‐13甲エンジンを使用した代表機種
95式練習機
昭和10年(1935)年に実用化され、長く使用された機種です。鮮やかなだいだい色の塗装から「赤とんぼ」と呼ばれました。

九五式一型練習機乙型
エンジン:ハ-13日立九五式350馬力空冷星型9気筒

米軍500ポンド爆弾(226.7kg)実物大模型
東大和市内でも過去にいく度か戦時中の不発弾処理が行われました。
そのすべてが500ポンド爆弾でした。
B-29爆撃機から落とされた大型爆弾は、東日本では500ポンド爆弾、西日本では1000ポンド爆弾が中心だったとも言われています。

蓄電池室
 室内にある蓄電池は、非常用とうよう電源として使われていました。停電時には、2階の直流電源装置に電力を供給し、変電所の設備が停止することないようにしていたのです。
 鉛蓄電池を使用していたので、安全対策として、壁には耐酸性能のある塗料が塗られ、野外への換気も行われれています。(塗装の詳しい成分をご存じでしたらお知らせください。)
 蓄電池室内の壁面にも、2か所の銃撃痕が残されています。1か所は貫通していませんが、外壁に当たった機銃掃射の弾丸(12.7mm弾)の衝撃で壁の内側もすり鉢状にえぐられたのだと思われます。
 外壁の銃撃痕は、外階段沿いに見ることができます。

東洋陶器の洗面台
 変電所の1階と2階に残る洗面台は東洋陶器(現在のTOTO)製のもので、全面に鷲のトレードマークがあります。
 このマークが使われたのは、昭和7年(1932)から昭和36年(1961)までで、戦時中は「敵性語」である「CO LTD.」を「KAISHA」にかえた時期もありました。
 TOTOミュージアム(北九州市)への問い合わせの結果、洗面台の形式は「L-92」で、これも戦前・戦後を通じて生産されており、残念ながら変電所建設当初からあるものか、戦後新たに設置されたものかは特定できませんでした。

こちらは1階の洗面台。

こっちは2階の洗面台。


旧日立航空機株式会社 
立川発動機製作所
太平洋戦争戦災犠牲者 慰霊碑

111名の方々が亡くなられた。合掌。

旧日立航空機株式会社 立川発動機製作所
太平洋戦争
戦災犠牲者
慰霊碑
  戦災犠牲者慰霊碑建立委員会
  平成七年四月吉祥日建之

慰霊碑建立の由来
  旧日立航空機立川発動機製作所戦災犠牲者の慰霊碑は、一九九四年( 平成六年) 夏、元同社々員小川準一氏(九十四才)の提唱により、コマツゼノア立川OB会がその推進母体となり、戦後五十周年を期して建立する運動を開始し、五十年忌にあたる翌一九九五年(平成七年)四月二十三日に除幕式ならびに慰霊祭を執り行うにいたったものである

昭和20(1945)年の空襲
 戦争末期になると、軍需工場が集まる多摩地域は、多くの空襲を受けました。当工場も、計3回の攻撃を受け工場の8割が破壊され、従業員やその家族、勤労動員された学生など100人を超える方が亡くなられました。

2月17日(土)10:30すぎ(諸説あり)
グラマンF6FやカーチスSB2Cなど50機以上による爆撃と機銃掃射
(略)

4月19日(木)10:00ごろ
P-51マスタング数機による機銃掃射
(略)

4月24日(火)9:00ごろ
B29の101機編隊による1800発余りの爆弾投下
(略)

日立航空機株式会社立川工場空襲死没者一覧
2月17日 78名死亡
(個人名略)
4月19日 5名死亡
(個人名略)
4月24日 28名死亡
(個人名略)
以上 111名

遷座の由来
 旧日立航空機株式会社(現在の小松ゼノア(株)の前身)は、太平洋戦争中、航空機のエンジンを製造していた軍需工場であったため、数回にわたり米軍機の空襲を受け、多くの従業員がその犠牲となりました。
 この慰霊碑は、元従業員の方々が戦後50年を節目に、多くの市民やそのゆかりのある方々からの寄付により、小松ゼノア(株)の構内の一隅に建立されたものです。(平成7年4月23日除幕式)
 その後、平成12年に同会社が移転することとなり、この慰霊碑をこの場所に移設したものです。
 東大和市では、慰霊碑を被爆工場に近いこの地に移設し、戦災建造物の変電所とともにまちの歴史の証しとして、また、恒久平和を願い保存することとしました。
 平成12年8月 
  東大和市

防護壁

防護壁
 旧所在 東大和市桜が丘2丁目

 昭和13(1938)年、東京瓦斯電気工業株式会社の工場が建設され(翌年日立航空機株式会社と改名)、その施設のひとつとして変電所とその北側に受電施設が建設されました。この防護壁は高圧電流を取り入れる受電施設の東西にあり、外部との分離をするためのものです。
 昭和20(1945)年、3回の爆撃を受けたあとも、変電所とともに長く工場内にあった防護壁は、変電所が稼働を止め、公園の中に保存されることになったときに、受電施設ととともに解体されてしまいましたが、爆撃跡を残す一部を切り取りこの地に保存し、長く変電所とともにあった壁の記憶を残していくこととしました。
 東大和市教育委員会

被爆アオギリ二世
2011年植樹。

給水塔

給水塔
 旧所在 東大和市桜ケ丘2丁目

 変電所の西方約230メートルのところにあった給水塔は、高さが約25メートルあり、工場内のほぼ全ての水をまかなっていました。太平洋戦争中の昭和20年(1945)、三回にわたる米軍機の空襲を受けましたが、戦後もずっと工場内に水を送り続け、工場の移転により、操業も停止するまで、給水塔も働き続けました。
 戦争中に施された迷彩が、長い年月の間に色が薄れ、濃淡がやっとわかる程度になってしまった給水塔は、変電所同様戦災建造物として歴史的価値が高いものですが、老朽化に伴う維持管理や用地取得などの問題から、平成13年(2001)3月やむなく取り壊されることになりました。その際、爆撃の痕跡を顕著に残す部分を切り取り、ここに保存することにしました。
 東大和市教育委員会


位置関係

米軍撮影1947年(昭22年) 11月14日 を編集


玉川上水駅

多摩モノレールにも、旧日立航空機株式会社変電所(戦災建造物)として、掲載があります。

※撮影は2021年12月


関連

武蔵村山の戦跡散策(高射砲第七聯隊跡地)

武蔵村山市の南東部は、陸軍関連の戦跡が点在している。
以前に、「東航」(東京陸軍少年飛行兵学校)の戦跡散策を行った。
今回は、ちょっと北側のエリアを散策。


高射砲第七聯隊
東部第七十八部隊
所沢陸軍航空整備学校立川教育隊

多摩地区の軍事施設は、大正11年(1922)に開設された陸軍第五飛行大隊 (後、陸軍飛行第五連隊)が、立川陸軍飛行場に駐屯したことに始まる。

その後、立川陸軍飛行場周辺には、所沢から陸軍航空本部技術部が移転し、立川飛行機が設立された。

昭和7年(1932)には、現在の武蔵村山市内の大南地区に大規模な陸軍飛行第五連隊の射爆場が完成。

昭和13年(1938)には、陸軍飛行第五連隊が千葉県柏(陸軍柏飛行場)に移動し、立川陸軍飛行場には実戦部隊がいなくなった。

昭和13年(1938) 8月 、第五連隊移転により空地 となった射爆場に、「東航」東京陸軍航空学校校舎が完成。武蔵村山の地で少年飛行兵の基礎訓練が開始となった。

昭和15年(1940)には、立川飛行場の付属施設として陸軍多摩飛行場が建設。(現在の横田基地)
同じ年に、東京陸軍航空学校の北に、陸軍東部第七十八部隊(高射砲第七聯隊)が駐屯。陸軍東部第七十八部隊の西隣には、近衛師団司令部直轄の二等陸軍病院として、村山陸軍病院が開設された。

昭和18年3月には陸軍少年飛行兵学校令の公布により、東京陸軍航空学校は東京陸軍少年飛行兵学校へ改称された。
昭和18年10月、戦局悪化の中、陸軍東部第七十八部隊は解隊され、その跡地に所沢陸軍航空整備学校立川教育隊が開設された。


高射砲第七聯隊跡地散策

武蔵村山市の南東に点在する戦跡を散策。
武蔵村山市が制定した歴史散策コースに基づいて散策を開始。

武蔵村山市>歴史散策コース(南東コース)

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/kankou/spots/rekishiminzoku/1001937/1012519.html

歴史散策コース(南東コース)地図

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/res/projects/default_project/_page/001/012/519/map_nantou.pdf

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)
陣営地土塁

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)陣営地境界の土塁は、陣営地の周囲に築かれ、その断面からは、もともと東南への傾斜地であった敷地を平らにならした状況が確認できます。また、土塁が残るさいかち公園付近には、射撃場や土塁とは別に10メートルほど高い土手に囲まれた火薬庫(弾薬庫)が設置されていました。

土塁が僅かに残っている。

さいかち公園には、火薬庫が設置されていたという。

陸軍用地であったこの場所は、戦後は武蔵村山市立第五小学校の校庭であったが、平成10年(1998年)に閉校となり公園化された。

場所

https://goo.gl/maps/JzWRe3f5QkJ5z9N7A


高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)
鉄塔基礎跡

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)陣営地内に設置されていた、4本あった鉄塔の跡地のひとつ。敷地中央に建てられた高さ30メートルの鉄塔4本にはワイヤーが張られ、模型飛行機を吊るして高射砲の照準訓練が行われていました。

雷塚公園

土盛りがある。これが、訓練鉄塔の盛土跡。
公園の奥、なんかそれっぽい土盛がある。

案内の杭がたっていた。無かったらわからないですね。

盛り土の上に、基礎?があった。

場所

https://goo.gl/maps/41yAd62jTqbXvxSU8


高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)
正門跡

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)は、昭和14年(1939)に部隊を新設され、翌年には村山村(学園地区)の陣営地へ兵舎や営庭のほか、トラックの運転練習場などが設置されました。
その後、昭和18年(1943)5月に高射砲第七連隊は解体され、この陣営地は同年9月に少年飛行兵短期制度(乙種制度)を行う所沢陸軍航空整備学校立川教育隊の教育訓練施設として転用されました。

村山医療センターの西側、学南通りと大学通りのT字交差点に、高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)の正門があった。

場所

https://goo.gl/maps/6NQ6n5NsxAtrSygK6


村山陸軍病院正門跡

昭和16年(1941)4月に近衛師団隷下の病院として開設。外科棟・内科棟・手術棟・伝染病棟が設置され、隣接する高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)、所沢陸軍航空整備学校立川教育隊や東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)、そのほか陸軍航空整備学校第二教育隊(立川陸軍航空整備学校(福生市))、東京陸軍少年通信兵学校(東村山市)などの傷病兵を収容しました。

現在の東京経済大学武蔵村山キャンパスのグランドが、かつての村山陸軍病院、であった。

村山陸軍病院の正門のある道路の突き当りが、高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)の正門であった。

場所

https://goo.gl/maps/3HwUSBVTkGxWcikG9


江戸街道

江戸と青梅を結んでいた街道。青梅街道とも。当時、陸軍用地として敷地拡大した際に、江戸街道が寸断された、と。

市内を東西に通る江戸街道は、昭和20年(1945)に軍備拡張のため所沢陸軍航空整備学校立川教育隊の敷地を拡張した際に街道の一部が寸断されましが、戦況悪化によって敷地は穀物の栽培地として転用されました。
戦後、拡張された敷地は農地改革で農家へ払い下げられ、昭和42年(1967)にもとの街道筋へと整備されました。

場所

https://goo.gl/maps/LYGXEHQbUfuhGizo7


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-74
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。


以下は、東京陸軍航空学校の話題になるので、前述の「東京陸軍少年飛行兵学校跡地散策」 記事を参照に。

東京陸軍航空学校練兵場跡地

東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)は、少年航空兵(少年飛行兵)へ1年間の基礎教育を行う施設で、普通学(国語作文・数学・歴史・理科・図画・英語(後に廃止))と軍事学を学び、教練・体操(フープ体操・マット体操・デンマーク体操)・剣術訓練を行っていました。また練兵場では、エンジンやプロペラといった動力装置が搭載されていない初歩操縦用グライダーを使用した訓練も行われていました。

そのまま南に歩けば、「東航」の地となる。
東航に関しては、以前のレポートでも触れていたので、かんたんに。

場所

https://goo.gl/maps/Tfs62zh915i6vL9S8


東京陸軍航空学校西通用門跡

東京陸軍航空学校は、村山村(大南地区)にあった立川小爆撃場地を転用して昭和13年(1938)に開設され、昭和18年(1943)に「東京陸軍少年飛行兵学校」と改称されました。敷地内には生徒舎や生徒自習室をはじめ、各分野の学科講堂、剣道場、練兵場などが設置され、南にある正門のほか、北に4カ所と東西に1カ所ずつ通用門が設置されていました。終戦後、学校施設の解体に伴い、正門や通用門も同時に解体されましたが、東通用門の門柱は市内にある禅昌寺(西2コース)境内に移設されています。

東航の西側通用門。このさきの住宅地の中に、歴史民俗資料館分館もある。揺籃之地碑や正門跡もある。

場所

https://goo.gl/maps/fkdwRZMpvkXs9nUh6


揺籃之地碑

昭和38年(1963)、東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)跡地の一角に陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑が建てられましたが、平成2年(1990)に周囲の宅地開発によって慰霊碑は禅昌寺へと移されました。同年10月、その跡地へ揺籃之地碑が建てられました。
平成19年(2007)7月に、市内に軍事施設が存在したことを後世へ伝えるため、東航正門跡碑とともに市の旧跡に指定されています。

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/kankou/spots/rekishiminzoku/1001937/1012519.html

場所

https://goo.gl/maps/zygSuWbVYrAQzqys8


東航正門跡碑

東京陸軍航空学校(略称:東航。後の東京陸軍少年飛行兵学校)が開校し、第6期生から20期生までの18,000余名の生徒が少年航空兵(少年飛行兵)の基礎教育訓練を受けました。基礎教育訓練を終えた1年後には上級教育(操縦・整備・通信)学校へ進学し、その後陸軍兵士となった生徒の約4,500名が戦争の犠牲となったことを後世へ伝えるため、平成11年(1999)4月に建てられました。

平成19年(2007)7月に、市内に軍事施設が存在したことを後世へ伝えるため、揺籃之地碑とともに市の旧跡に指定されています。

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/kankou/spots/rekishiminzoku/1001937/1012519.html

場所

https://goo.gl/maps/TH61x5H28gBeMSVX7

この日は、玉川上水駅から東大和南公園を経由して、そこからぐるっと武蔵村山市を経て、玉川上水駅に戻るコースを歩きました。ざっくり8.5キロで1時間45分。

東大和南公園では、2階部分も見学できるようになった日立航空機立川変電所の見学をしたわけですが、それはまた別記事にて。(以前の見学はこちら

※撮影は2021年12月


関連

立川飛行機「一式双発高等練習機・キ54」(立飛ホールディングス一般公開)

立飛ホールディングスの前身、立川飛行機が制作した飛行機が、里帰りし、一般公開された。
その様子を写真中心に以下に掲載。

写真多めですが、それだけ充実の展示。
ありがたいものを拝見させていただきました。

本記事は2021年公開時のものです。
2022年公開時の模様は下記の記事にて


立川飛行機一式双発高等練習機

一式双発高等練習機
大日本帝国陸軍の練習機。
キ番号は、「キ54」。
略称は、「一式双発高練」「一式双高練」「双発高練」など。
連合軍のコードネームは、「Hickory」(ヒッコリー、クルミの意味)
開発製造は、立川飛行機。
昭和16年(皇紀2601年、1941年)に正式採用。
立川飛行機として、はじめての自社開発全金属製双発機。
傑作機として重宝され総生産機数は、1342機に及ぶ。

国内唯一の「一式双発高等練習機」現存機

飛行第38戦隊所属機。昭和18年(1943年)9月27日、能代飛行場から離陸後にエンジントラブルによって十和田湖に不時着水。乗員4名のうち3名が死亡、1名が生還。
低温淡水の十和田湖底であったために、機体腐食が少なく当時の塗装が残るままで発見され、2012年に引き揚げ。
青森県立三沢航空科学館で展示されていたが、2020年に立飛ホールディングスに譲受された。
また同時に引き上がられた天風型エンジンの1基は製造を担当した東京瓦斯電気工業(日立航空機)の後継企業にあたる日野自動車が復元処理をおこなっている。

一般公開 平成28年 重要航空遺産認定
一式創発高等練習機
11月25日(木)~28日(日)10時~16時

一式創発高等練習機
公開展示 2021.11.25~28
株式会社 立飛ホールディングス

一般公開の趣旨
 一般公開を行う一式双発高等練習機は、立川飛行機(立飛ホールディングスの前身)が制作した機種の一つで、同機は昭和18年(1943年)に青森県の十和田湖に沈んで以来、今から9年前の平成24年9月に69年ぶりに引き揚げられ、青森県立三沢航空科学館に展示されていました。
 同機の雄姿や、かつて立川飛行機を中心とした科学技術の最先端を誇っていた街の歴史を伝えることが弊社の使命であると感じ、令和2年11月に同機を譲受、今回の一般公開に至りました。

一式双発高等練習機(キ五十四)
 昭和14年(1939年)3月、陸軍から多目的双発高等練習機の試作指示があり、立川飛行機にとっては初めて双発、全金属製、引込脚の機体を制作しました。
 操縦訓練だけではなく、航法、通信、射撃、写真撮影など、いわゆる機上作業全般に使用される練習機です。エンジンの信頼性が高く機体の耐久性に優れ、また操縦席からの視界がよく、機内も様々な訓練に対応できる広いスペースが確保されているなど使い勝手に優れている傑作機でした。
・乗員:5~9名
・発動機:空冷式星型9気筒
・全長:11,940mm
・全幅:17,900mm
・全高:3,580mm
・最大速度:376km/h/2,000m
・上昇限度:7,180m
・航続距離:960km~1,300km
・生産期間:昭和15年~昭和20年
・総生産機数:1,342機

青森県十和田湖から引き揚げ
 太平洋戦争の最中であった昭和18年9月27日、秋田県能代飛行場から飛び立って青森県八戸市高舘飛行場に向かった1機の陸軍機が、エンジントラブルで十和田湖に墜落したことがわかっていました。
 青森県立三沢航空科学館 館長 大柳繁造氏を中心とした引き揚げプロジェクトにより、平成24年9月、十和田湖に沈んでいた「一式双発高等練習機」が引き揚げられました。


一式双発高等練習機
「機首部」

操縦席からの視界が良いと好評だった前面部。

機首部

上部の窓は跳ね上がることができた。

胴体は、2つに割れていた。


一式双発高等練習機
「右翼エンジン部」

双発エンジンは、空冷単列星型9気筒。
東京瓦斯電気工業(日立航空機)が開発・製造した航空機用空冷星型エンジン
陸軍名称は「ハ13」、海軍名称は「天風」。陸海軍統合名称は「ハ23」。

一式双発高等練習機に使用されたエンジンは、「日立ハ13甲」 (九八式四五〇馬力発動機)。

主に、陸海軍の中間・高等練習機で使用されたエンジン。
陸軍では、「一式双発高等練習機」、「一式輸送機」、「二式高等練習機」などに採用。
海軍では、「赤とんぼ」と呼称された「九三式中間練習機」や、機上作業練習機「白菊」などにも採用されている。


一式双発高等練習機
「右翼主翼部」

補助翼
補助翼。展示機は補助翼を覆う羽布が失われていることで、フレームがむき出しの状態を観察できる。補助翼前方には操縦系統と繋がる動作機構が見えている。

一式双発高等練習機の翼型について
「キ五十四取扱参考」(立川飛行機株式会社、昭和18年1月)から、一式双発高等練習機の主翼の翼型は次のNACAの5桁シリーズ翼と呼ばれる種類であることが分かる。どのような翼型だろう。
 胴体中心 NACA23016
 翼端   NACA23009
(以下略)


一式双発高等練習機
「胴体外板・右部」

胴体外板
 附図第2「外板厚 胴体」と展示機。鮮やかに残る日章(日の丸)が描かれている胴体外板の薄さを実感していただきたい。日章の辺りは、厚さ0.5~0.7mmの高力アルミニウム合金板mいわゆる「超ジュラルミン」が使用されている。

一式双発高等練習機の金属材料について
「昭和15年 立川一式双発高等練習機(キ-54)飛行機設計附図」では、胴体外板や主翼骨格の補強材に「チ221」「チ222丙」、主翼結合部に「イ201」「イ202」という材料名称を見ることができる。
(以下略)


一式双発高等練習機
「垂直尾翼部」

垂直尾翼
 移送のための胴体から外された垂直尾翼。飛行第三八戦隊の舞台標識(三と八をうまく組み合わせている)が良く見てとれる。巣直安定版先端の黄色く塗装されている部分には、無線アンテナを張る為のリングも残っている。
 が、ここでは安定版や方向舵の構造にも注目したい。「キ五四取扱参考」からは「対象翼断面、付け根で翼弦長の8%、2本桁」と分かるが、胴体との結合部分は胴体から外さなければ絶対に見ることができない部分である。

飛行第38戦隊


一式双発高等練習機
「水平尾翼部」

水平尾翼
 こちらも移送のために胴体から外されている不意丙尾翼。「キ五十四取扱参考」にあるように、本機の水平尾翼は左右一体の一翼型で、「付け根で翼弦長の10%、2本桁」である。本機の昇降舵も左右一体で、胴体に隠れる部分に操縦索と繋がる槓桿やバランス錘がある。


一式双発高等練習機
「尾部」

尾部
 こちらは、水平尾翼を収納する胴体尾部部分で、左右一体型の水平尾翼を格納するため胴体が切り抜かれている。
 機体後端で尾翼という荷重が掛かる部分がこんな空洞なのには驚かされるが、水平尾翼と垂直尾翼が組み合わされことで、強固な構造となる。本機は水平尾翼と垂直尾翼とも胴体にボルト留めなのだが、展示機ではその結合部分はその結合箇所は分かりにくい。

尾部
 こちらは胴体の尾部端に装着される「尾端覆」(カバー)。プレス成型された数枚の外板を小骨と縦通材、リベット付けで組みあげたと思われ、外板の微妙なカーブ具合を実感していただきたい。その先端に「尾灯」も見えているが、その「保護覆」は失われている。


一式双発高等練習機
「胴体外板・左部」

「5541」は、製造番号


一式双発高等練習機
「機首操縦席内部」

通路扉
 実際に見ると「小さすぎる」という印象が強烈な、胴体と機首操縦席を結ぶ通路ドア。下部がややすぼまっており、上部も十分な広さとは言えず、背の高い人はもちろん通常体型の人でもスムーズに通れなかっただろうと推測される。体を横にして出入りしていたのだろうが、冬用飛行服を着たらつっかえる人が少なくなかっただろう。
 失われているが、ここには木製扉が付く。 


一式双発高等練習機
「同乗室内部」

 同乗室内部
  附図に見る甲型の道場室内部と展示機。附図で見えている空気導管)(今風に言えばエアコンダクト)は展示機では外されて別に展示されている。なお、展示機には内装材も残っていることがわかる。


一式双発高等練習機
「操縦装置」

操縦装置
 展示機の操縦装置。2つある「8の字」状の転輪(コントロールホイール)を
・左右に回転させて補助翼を操作し、機体を左右に傾け
・前後に動かして昇降舵を操作し、機首を上下させ
 機首を左右に振るには、ペダルの左右の踏み分けで方向舵を操作する。


一式双発高等練習機
「左翼主翼部」

ノルナ

フラップの操作油管

主翼結合部。
材質は強靭鋼。クロムモリブデン鋼。


一式双発高等練習機
「燃料タンク」

一式双発高等練習機の主燃料タンクは、主翼付け根前部に格納される内蔵タンク。
容量は1つが約300リットル。

燃料タンク
 このタンクには銘板が付いており、昭和17年9月15日製造と分かる。製造番号は「294左(左タンク)」となっており、機体の製造番号と製造年月(5541号機、昭和17年12月)とは異なっている。そのことに加えて陸軍の検印もあることから、燃料タンクは陸軍への単独納入品だった可能性があるが、他機と共用とも考えにくく詳細は掴めなかった。

主翼の内部に燃料タンクを収納するスペースがある。


一式双発高等練習機
「左翼エンジン部」


一式双発高等練習機
「パネル展示」


一式双発高等練習機
「模型」


一式双発高等練習機
「部品展示」

左主脚「オレオ緩衝器」銘板
製造会社:茅場製作所
製造年:昭和16年

立川 キ54
一式双発高等練習機
「第5541号」機体銘板
※発動機操作台に設置されていた。

操縦席計器盤

航空羅針儀:羅針盤(1号)
※操縦席計器盤丈夫に設置されていた。

高度計(97式)
※操縦席計器盤に設置されていた。

大気温度計
製造会社:富士航空計器
※操縦席計器盤に設置されていた。

油圧調整弁(外板)

操縦席で見つかった鉛筆


エンジン(発動機)

特に説明がなかったが、エンジンが展示してあった。


一式戦闘機「隼」搭載
「ハ25型エンジン」

中島飛行機の空冷複列星型14気筒エンジン。
なぜか展示してあった。


トートバック

Tachihi
Since1924
Tachikawa Ki-54

お土産にトートバックをいただきました。ありがとうございます。

あとは、ワックスペーパー(蠟引紙)でつくられたA4ファイルもいただきました。
企画:立飛ストラテージラボ
販売:TAKEOFF-SITE


立飛リアルエステート 南地区5号棟

一式双発高等練習機が展示されたこの建屋は、「立川飛行機」時代からのもの。

以上、一式双発高等練習機の展示レポートでした。
目の前で見られた、往時の息吹。大変貴重な遺産、ありがとうございました。

※撮影:2021年11月


立川関連

陸軍技術研究所の跡地散策(小金井)

小金井と小平のあいだ辺りに、かつて陸軍の研究機関があった。
現在の東京学芸大学のある辺り。
往時を物語るものは多くは残っていないが、ちょっと脚を運んでみました。


陸軍兵器行政本部
陸軍技術研究所

陸軍関係兵器の調査研究を行っていた機関。
昭和17年10月に陸軍兵器機関の整理統合が行われ、「陸軍兵器行政本部」が設置され、陸軍技術本部が廃止された。
陸軍技術本部の隷下にあった研究所は、そのまま陸軍兵器行政本部に属することになった。

  • 第一陸軍技術研究所 小金井 →鉄砲・弾薬・馬具
     現在は小金井市営競技場
  • 第二陸軍技術研究所 小平 →観測・測量・指揮連絡用兵器など
     現在は花小金井一丁目の住宅地
  • 第三陸軍技術研究所 小金井 →爆破用火薬・工兵器材など
     現在は東京学芸大学
  • 第四陸軍技術研究所 相模原 →戦車・装甲車・自動車など
     現在は米軍相模総合補給廠
  • 第五陸軍技術研究所 小平 →通信器材・整備器材・電波兵器など
     現在は東京サレジオ学園
  • 第六陸軍技術研究所 百人町 →化学兵器(毒ガス)など
     現在は東京都健康安全研究センター
  • 第七陸軍技術研究所 百人町 →物理的兵器など
     現在は東京都健康安全研究センター
  • 第八陸軍技術研究所 小金井 →兵器材料・化学工芸など
     現在は東京学芸大学
  • 第九陸軍技術研究所 登戸 →秘密戦・謀略戦用兵器など
     通称は登戸研究所
     現在は明治大学生田キャンパス
  • 第十陸軍技術研究所 姫路 →海運器材など
     現在は姫路市立琴丘高校
  • 多摩陸軍技術研究所 小金井・小平 →電波兵器
     第5・第7・第9の各陸軍技術研究所と
     第4陸軍航空技術研究所の電波兵器研究部門を統合し新設

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:8921-C6-127
1944年11月07日、陸軍撮影の航空写真を一部加工。

小金井市文化財センター

以下は、小金井市文化財センター展示より

陸軍技術研究所の範囲

陸軍技術研究所跡地

戦争と人々の生活
 日本は、1931年(昭和6)に勃発した満州事変をきっかけに、次第に軍国主義の道を歩みはじめました。1938年(昭和13)に国家総動員法が制定され、地域に国防婦人会や隣組が組織されるなど、戦時体制が強化されていきました。小金井では、1940年(昭和15)と1942年に、陸軍が現在の東京学芸大学を中心とする175haに及ぶ広大な地域を強制的に買収し、陸軍技術研究所が建設されました。太平洋戦争中(1941~1945年)、空襲による大きな被害はありませんでしたが、約150人(昭和18年の街人工16,839人)が出征し、多くの戦死者を出しました。

市登録文化財
陸軍技術研究所境界石杭
昭和15年と17年、矯正買収により現在の小金井市北西部と小平市上水南町3・4丁目に移転してきた陸軍技術研究所は、広大な用地の周囲に石杭を埋めて、その範囲を表示しました。
石杭は全長1000cm、「陸軍」と刻んだ上部20cmを地上に出し、残り80cmの下部は地中に埋めてありました。戦後、技研敷地の払下げと宅地造成にともない大多数が廃棄され、現在残っているのは当館所蔵の石杭と、本町5-31道路脇に残る石杭のみです。

「陸軍」の文字がわかる。

小金井市文化財センターのサイト

https://www.city.koganei.lg.jp/smph/kankobunka/bunkazai/bunkazaisenta.html


陸軍技術研究所の跡地散策

陸軍技術研究所境界石杭(境界標石)

前述に記載のあったとおり、小金井市本町5-31の道路脇に、一つだけ残存している。
摩耗しているが、わずかに「陸軍」と読み取ることができる。

陸軍技術研究所境界石杭
 市登録有形文化財
 登録(追加)平成30年8月

 現在の貫井北町・桜町・本町一帯は、昭和十五年(一九四〇)から昭和十七年にかけて、広大な農地を陸軍技術研究所として陸軍に買収されました。買収用地は万年塀で囲われ、第一(現市営競技場付近)、第二(現市立本町小学校付近)、第三(東京学芸大学構内東部)、第五(現情報通信研究機構付近)、第七(現サレジオ学園付近)、第八(現東京学芸大学中心部)の6つの技術研究所が都心部から移転してきましたが、まもなく終戦を迎えました。戦後は国有地となり、教育機関、国家公務員住宅、都住宅供給公社住宅等ができ、一部は民間に払い下げられ住宅地に変わりました。
 境界石杭は、側面に「陸軍」と刻み、陸軍用地の境界の各所に設置されたものです。小金井市文化財センター所蔵の同様の境界石杭(平成二十三年登録)が全長一メートルであることから、石杭の大半は地下に埋設され、地上に露出しているのは一部とみられます。この境界石杭は戦争遺跡である旧陸軍技術研究所の存在を示す遺物として貴重です。
 平成31年3月
 小金井市教育委員会

道路脇に。

場所

https://goo.gl/maps/RG6n8c8mzRVDfieP7


プール前

この場所には、かつてプールがあった。今はない。
もとを正せば、「陸軍技術研究所テスト用プール」があった。
そこでは、上陸用舟艇や水陸両用戦車のテストなども行われていた。
戦後は、水泳用プールに改造されたが、その後は放置され、現在は再開発され名前のみが往時を伝えている。

四角いプールと丸いプールが見える。(前述の航空写真より)

この近くには、仙川源流の仙川上流端もある。
ただし空堀。


陸軍技術研究所正門付近

東京学芸大学の南側に正門があった。

東京学芸大学の正門。
かつては、陸軍技術研究所の正門があった場所。

正門

正門前の道路。

前述の航空写真から。

周辺を散策してみる。
無造作に残るコンクリート壁の残骸。これは往時のものかどうかは不詳。

これは違う。

このあたりが、陸軍技術研究所当時の敷地の南西端。

特になにもない。。。

少し前までは遺構としては、給水塔なども残っていたというが、再開発により陸軍技術研究所の遺構は失われている。

※撮影は2021年8月


関連

登戸研究所(第九陸軍技術研究所)

相模陸軍造兵廠には第四陸軍技術研究所が置かれていた。

小金井市文化財センター

都立小金井公園
海軍技術研究所

すぐ近くには、陸軍経理学校があった。

陸軍経理学校の跡地散策(小平)

かつて陸軍経理学校が小平市内にあった。わずかに残る痕跡を散策してみる。


陸軍経理学校

陸軍における経理を担当する軍人(経理官)の養成教育、あるいは経理官への上級教育を行っていた陸軍学校。教育に限らず陸軍経理に関する調査と研究なども行っていた。陸軍経理とは会計だけに限らず、監査、被服、糧秣、建築も職務に含まれていた。

明治19年(1886)に陸軍軍吏学舎が設置されたことに始まる。
明治23年(1890)に陸軍軍吏学舎を廃止、陸軍経理学校を開校。
明治33年(1900)に「陸軍経理学校本校」を東京市牛込区河田町に移転。陸軍士官学校の「市谷台」に対して、陸軍経理学校は「若松台」の愛称で呼称されることとなる。
昭和17年(1942)3月、陸軍経理学校は戦争による生徒、学生、幹部候補生等の人員増加のため、東京府北多摩郡小平村に移転。昭和20年8月の敗戦により閉校。

関東管区警察学校の正門は、かつての陸軍経理学校の正門跡。

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-36
昭和22年(1947)11月14日、米軍撮影の航空写真

陸軍経理学校部分を拡大

グーグル航空写真での同位置。

陸軍経理学校跡は大きく4つに分割された。
北西 陸上自衛隊小平駐屯地
南西 国土交通大学校
南部 関東管区警察学校
東部 小平団地


陸軍経理学校跡地散策

西武鉄道多摩湖線の一橋学園駅の南東が、かつての陸軍経理学校の跡地。
線路と敷地の間にある道路は「国交大通り」。そのまま南下する。

南西の角には、全国建設研修センターがある。
ひときわ大きな桜は「明倫桜」という。

明倫桜

秋月藩の学問所明倫堂跡に残る桜。

明倫桜の下にはレンガ積みがある。

それなりに古そうな感じもあるが、当時のレンガかどうかは不詳。


陸軍境界石(陸軍経理学校)

喜平町みどり公園の入口にたつ陸軍標石。

陸軍境界石
 正面に「陸軍」の二文字が刻まれています。ここには太平洋戦争末期に陸軍経理学校が作られ、その敷地の境界を示すために建てられました。
 もともと現在より5メートルほど南にありましたが、歩道の改修に伴い移設されました。

周辺の歩道には、陸軍境界石と思われる標石が埋もれて点在している。

このあたりの側溝は、当時の境界だろうか?

そろそろ正門が近づいてくる。


陸軍経理学校の正門跡

現在は、関東管区警察学校。
陸軍経理学校時代の門柱が、そのまま活用されている。

陸軍管区警察学校の標識は横に掲げられている。
よくよく見れば、縦位置には埋めたような跡がある。
往時は縦標識で「陸軍経理学校」と掲げられていたことであろう。

そのまま東に歩みをすすめる。

あかしあ通りの銀杏並木

現在は、警察学校と団地の間を縦断する道路「あかしあ通り」。
銀杏並木は経理学校の生徒が卒業記念に植樹したものという。

標石っぽいものが埋もれている。ここから先は小平団地。

陸軍経理学校の南東端から北東端まで歩みをすすめる。
「警察学校北通り」に到達したら、ここからは西に向けて歩く。

陸上自衛隊小平学校
陸上自衛隊小平駐屯地

陸軍経理学校の北西部分は、現在は陸自の施設となっている。

そのまま歩けば、西武線に突き当たる。
陸軍経理学校の跡地を一周歩いた、ことになる。

西武鉄道。
昭和15年に、多摩湖鉄道は武蔵野鉄道へ合併している。

一橋学園駅。
戦前は現在地には開業しておらず、北側に「小平学園駅」が昭和8年に開業していた。
「小平学園駅」と南にあった「一橋大学駅」を統合して「一橋学園駅」が昭和41年に統合し現在の駅名となっている。

だいたい、約3キロ周回の散策、でした。

※撮影は2021年8月


陸軍経理学校の校内神社「若松神社」

若松台の陸軍経理学校


関連

陸軍経理学校生徒隊慰霊碑

磯部浅一は、経理学校出身だった。(もちろん小平に移転する前に卒業しているが)

海軍経理学校

「一死以て大罪を謝し奉る」陸軍大臣・阿南惟幾

終戦時の陸軍大臣・阿南惟幾。多磨霊園に墓所があり、三鷹に邸宅跡がある。
関連する史跡などを徒然に記載していきたいと思う。


阿南 惟幾(あなみ これちか)

1887年(明治20年)2月21日 – 1945年(昭和20年)8月15日
日本帝国陸軍軍人。陸軍大将勲一等功三級。
1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。終戦直前の陸軍の暴発を抑え、そして終戦の詔が発布される前、8月15日早朝に自決をした。


昭和20年8月9日・御前会議

広島そして長崎と新型爆弾(原子爆弾)が投下され、ポツダム宣言を受諾するしか道がない状況下での御前会議は、昭和20年8月9日に開催された。

これまで陸軍を代表して「一撃講和」、一戦を交えてからの講和を(陸軍へのジェスチャーとしての側面もあったが)主張していた阿南惟幾陸軍大臣も、ここに至って、ポツダム宣言の受諾を受け入れる方向へとなりつつあった。

昭和20年の鈴木貫太郎内閣主要人物
内閣総理大臣:鈴木貫太郎
外部大臣:東郷茂徳
内大臣:木戸幸一
陸軍大臣:阿南惟幾
参謀総長:梅津美治郎
 参謀次長:河辺虎四郎
海軍大臣:米内光政
軍令部総長: 豊田副武
 軍令部次長:大西瀧治郎
内大臣:木戸幸一
枢密院議長 :平沼騏一郎

陸軍の声を代表する阿南惟幾陸軍大臣は、米内光政海軍大臣と激論を戦わせるも、結論が出なかった。そして、ついに鈴木貫太郎首相は、最後の手段として、 昭和天皇のご臨席を仰ぐ御前会議を決断する。
昭和天皇ご臨席のもとに午後11時50分に開始された御前会議。

阿南惟幾陸軍大臣は「本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて1億玉砕しても、世界の歴史に日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか」という意見をし、梅津美治郎陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長は阿南の意見に賛同。
東郷茂徳外務大臣は「終戦やむなき」と意見し、米内光政海軍大臣と平沼騏一郎枢密院議長が賛同。
意見が出揃った8月10日深夜2時ごろ、鈴木貫太郎総理大臣は、自らは発言せずに「意見の対立のある以上、甚だ畏れ多いことながら、私が 陛下の思召しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと思います」と 昭和天皇の意見を求めた。終戦反対の強硬派は不意を突かれた形となった。

昭和天皇は身を乗り出すと
「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に同意である」
「もちろん忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持ちをしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」との「ご聖断」を下した。

そうして、聖断が下された御前会議が終了した。

聖断が下されたのちの、阿南惟幾陸軍大臣の切り替えは見事であった。
なおも終戦に反対する陸軍将校を統制し、出来得る限り暴発を防ぐべく尽力をした。

8月12日には、三鷹の私邸に戻り、家族とつかの間の時間を過ごした。
すでに自決を決意していた阿南としては、家族との最期の別れ、でもあった。

8月13日、 聖断があったにも関わらず、最高戦争指導会議は紛糾しており、翌日に再び 聖断を仰ぐことになった。

昭和20年8月14日・御前会議

8月14日午前11時、御前会議開催。
阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令部総長は、「このままの条件で受諾するならば、国体の護持はおぼつかなく、是非とも敵側に再照会をすべき」という意見を述べた。阿南らにとって最期に死守すべき事項が「国体護持」(天皇制の継続)であった。
意見を聞いた 昭和天皇は、「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と述べられた。その瞬間、会議は慟哭に包まれ、鈴木貫太郎首相は、至急詔書勅案奉仕の旨を拝承し、繰り返し聖断を煩わしたことを謝罪した。

慟哭する阿南陸相に対して、 昭和天皇は「あなん、あなん、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」とやさしく説いたという。

陸軍省に戻った阿南陸相は、御前会議での 昭和天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」「 陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張できなかった」と説いた。

大東亜戦争終結ノ詔書

昭和20年8月14日午後4時より、終戦の詔書の審議が始まった。
原案では「戦勢日ニ非ニシテ」と記載有る箇所に関して、阿南陸相は、「身命を投げ出して戦ってきた将兵が納得しない」として「戦局必スシモ好転セズ」との穏やかな表現にして欲しいと主張。
対して、米内光政海相は、「陸軍大臣はまだ負けてしまったわけではないと言われるが、ここまで来たら、負けたのと同じだ」「ありのままを国民に知らせた方がよいと思うので、私はまやかしの文を入れないで、原案のままがよいと思う」と反論。
それでも阿南陸相は、交渉を続け、「まだ最後の勝負はついていないので、ここはやはり“戦局必スシモ好転セズ”の方が相応しいと思う」と主張。陸軍将兵の心情を重んじる表現を譲らずに、この点に関しては米内海相が折れて、阿南陸相の修正案に賛同。


これが、陸軍大臣・阿南惟幾の最後の務めであった。

大東亜戦争終結ノ詔書

(全文)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣總理大臣鈴木貫太郞

大東亜戦争終結ノ詔書
(読み下し)
朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置を以って時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ

朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず 延べて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何を以ってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉し 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排せい 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うか如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣鈴木貫太郎

以下は、2016年に国立公文書館で公開のあった「終戦の詔書原本」。

「戦局必スシモ好転セズ」 の修正は、阿南の強い要望で修正された。
紙を削って修正されたという箇所がよく分かる。

陸軍大臣として阿南惟幾が公的書類へ署名した最後の文書。

終戦の詔書の審議も無事に終わり閣僚たちが終戦の詔勅への署名する。

阿南惟幾陸相は、閣僚たちに最後の挨拶を取り交わす。

阿南陸相は、東郷外相のそばに歩み寄り、最敬礼で「さきほど保障占領及び軍の武装解除について、連合国側に我が方の希望として申し入れる外務省案を拝見しましたが、あの処置はまことに感謝にたえません。ああいう取り扱いをしていただけるのなら、御前会議であれほど強く言う必要はありませんでした」と謝罪。
東郷外相は「いや、希望として申し入れることは外務省として異存はありません」と答えると、阿南陸相は「いろいろと本当にお世話になりました」とさらに丁重に腰を折って礼をしたので、東郷外相はあわてて「とにかく無事にすべては終わって、本当によかったと思います」と返答している。

次に、総理大臣室を訪れた阿南陸相は、鈴木首相に「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍の意志を代表して、これまでいろいろと強硬な意見ばかりを申し上げましたが、総理に対してご迷惑をおかけしたことと想い、ここに謹んでお詫びを申し上げます。総理をお助するつもりが、かえって対立をきたして、閣僚としてはなはだ至りませんでした。自分の真意は一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものではございません。この点はなにとぞご了解いただくよう」と謝罪。同席していた迫水内閣書記官長は、陸軍の暴発を抑えるために心にもない強硬意見を発していた阿南の心情を理解しもらい泣きをしている。

鈴木首相は、阿南陸相の肩に手をやって「阿南さん、あなたの気持ちはわたくしが一番よく知っているつもりです。たいへんでしたね。長い間本当にありがとうございました」「今上陛下はご歴代まれな祭事にご熱心なお方ですから、きっと神明のご加護があると存じます。だから私は日本の前途に対しては決して悲観はしておりません」と答え、阿南は「わたくしもそう信じております」と同意。

阿南陸相が部屋を離れた後に、鈴木首相は迫水に「阿南君は暇乞いに来たんだね」と。最期の覚悟を感じ取っていた。
ちなみに昭和4年に、阿南惟幾が侍従武官に就任した際の、当時の侍従長は鈴木貫太郎であり、その時から阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。

自決

8月14日の夜11時すぎに陸軍大臣官邸に戻ってきた阿南陸相。自決の意志は陸軍大臣官邸に帰宅する前から固まっていた。

8月15日深夜1時、阿南の義弟であった竹下正彦中佐が陸軍大臣官邸を訪れた。竹下はクーデター決起(宮城事件)に際して阿南陸相を説得するために、阿南のもとを訪れたが、奇しくも阿南の最期に立ち会うこととなった。

阿南が竹下に「もう暦の上では15日だが、14日は父の命日だから、この日に決めた。15日には玉音放送があり聴くのは忍びない」と遺書の日付を14日とした理由を話した。

会話の最中に銃声が聞こえ始め、宮城事件が勃発。決起した青年将校は近衛師団長森赳中将を殺害。井田正孝中佐が報告のための阿南陸相のもとを訪れると、「そうか。森師団長を斬ったのか、お詫びの意味をこめて私は死ぬよ」と短くもらしただけであったという。

宮城事件に関係する慰霊碑は青松寺にある。
「國體護持 孤忠留魂之碑」


宮城事件が発生しているさなかの、ちょうど同じころの陸軍官邸。
阿南は、竹下と井田を囲んで3人で酒盛りをし、最期の宴を興じ、そして夜明け間近に二人を下がらせた。

阿南は侍従武官時代に昭和天皇から拝領した白いシャツを身につけ、軍服を床の間に置き、昭和18年に戦死した惟晟(次男)の遺影を置いて、ひとり縁側で割腹自決した。

義弟の竹下が阿南の手から短刀を取り介錯。井田は官邸の庭の土の上に正座し、阿南がいる縁側の方を仰ぎ慟哭していた。

「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」と記録されている

阿南陸相は、8月15日正午のラジオでの玉音放送を聴取することもなく、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前の自決となった。

8月15日夜、阿南の遺体は市ヶ谷台で荼毘に付された。

阿南惟幾 遺書

阿南 惟幾 遺書

一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル

昭和二十年八月十四日夜
 陸軍大臣 阿南惟幾 花押

神州不滅ヲ確信シヽ

「一死以て大罪を謝し奉る」
阿南惟幾は、この一言の遺書に、 陸軍の責任者として、大東亜戦争責任の「大罪」を一死でもって「謝し奉る」覚悟を記した。

阿南惟幾の遺書(血染めの遺書)は、遺族から靖國神社に奉納され、遊就館にて保存されている。

画像引用:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anami’s_will.jpg

阿南惟幾 辞世の句

阿南惟幾 辞世の句

大君の
 深き恵に
  浴みし身は
言ひ遺こすへき
 片言もなし

辞世の句は、昭和13年(1938)に、第109師団長として転出するにあたり、 昭和天皇と二人きりで陪食した際に、その感激を詠んだ歌であり、国体護持に最後まで拘った、阿南惟幾の心意でもあった。

死後

8月15日の玉音放送後、終戦に伴う臨時閣議が開催。
閣議に先立ち、空席となった陸軍大臣席を前に、鈴木首相から話があった。
「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。反対論を吐露しつつ最後の場面までついて来て、立派に終戦の詔勅に副署してのち、自刃して逝かれた。このことは立派な態度であったと思います」
「実に武人の最期らしく、淡々たるものであります……謹んで、弔意を表する次第であります」との報告があり、阿南の遺書と辞世の句もその場で披露された。

また、阿南陸相がとった最後の手段、自らの自決という行為は全陸軍に衝撃を与え、終戦という事実を強烈に全陸軍に伝えるここととなった。

阿南が最期まで身を挺して護り抜こうとした「国体護持」の象徴である 昭和天皇は、阿南が自決したという知らせを聞くと、「あなんはあなんとしての考え方もあったに違いない。気の毒なことをした……」と漏らされた。

終戦に至る過程で激論を繰り広げてきた、米内海相は、阿南の自決を聞くと「我々は立派な男を失ってしまった」と語った一方で、「私は阿南という人を最後までよくわからなかった」と感想を残している。
阿南の自決直後、米内海相は誰よりも早く阿南の弔問に訪れている。

阿南と陸大同期生であった石原莞爾は、ご聖断による終戦を聞くと、まずは阿南の身を案じて「阿南の気持ちは俺がよく知っている。きっと阿南は死ぬだろう。」と知人に話している。

なお、日本の内閣制度発足後、現職閣僚の自殺はこれが初めてのことであった。


阿南惟幾陸軍大将 御着用の軍服
(冬服)

阿南陸軍大臣の冬服は市ヶ谷台にあり、そして夏服は靖國神社遊就館にある。
以下は市ヶ谷記念館にて。

陸軍大将阿南惟幾荼毘之碑

8月15日の夜に阿南大将の遺体は、自決をした陸軍大臣官邸から、大本営陸軍部・陸軍省・参謀本部のあった陸軍の中枢たる市ヶ谷台に運ばれ、そこで荼毘に付くされた。

市谷台の防衛省メモリアルパーク内に、「陸軍大臣陸軍大将 阿南惟幾 荼毘之跡碑」がある。
(通常非公開)

以下は、市ヶ谷台ツアーでかつて配布のあった「メモリアルゾーンのご案内」パンフレットより


阿南惟幾之墓

多磨霊園に阿南惟幾は眠る。場所は、13区1種25側。

阿南惟幾之墓

合掌

阿南惟幾の辞世の句が碑に刻まれている。

大君の深き恵に
  あみし身は
言ひ遺こすへき
 片言もなし
昭和20年8月14日夜
陸軍大将 惟幾(花押)

故 大将追慕の念已み難く 友人舊部下教へ子親威相集り 卿を同じくする朝倉文夫氏に嘱して 之の碑を建つ 
 昭和二十八年八月十四日

多磨霊園には、阿南惟幾ほか、一族が眠る。

場所

https://goo.gl/maps/mxdhnKMC3VWHcr2r9


阿南惟幾邸宅跡

三鷹市下連雀に、阿南惟幾の私邸があった。現在は、平和通りと呼称されている。

阿南家
長男・阿南惟敬(1921年生まれ、元防衛大学校教授)
次男・阿南惟晟(1923年生まれ、陸軍少尉、1943年〈昭和18年〉戦死)
三男・阿南惟正(1933年生まれ、元新日本製鐵副社長、靖国神社氏子総代)
四男・野間惟道(1937年生まれ、野間家へ養子、野間佐和子の夫、元講談社社長)
五男・阿南惟茂(1941年生まれ、元駐中国大使)
長女・喜美子
次女・聡子(大國昌彦元王子製紙社長の妻)

現在、阿南惟幾邸宅跡は、今はふたつの阿南家の邸宅となっていた。

阿南惟茂
阿南惟幾の五男(末っ子)。外交官として活躍し中国大使などを勤めた。

南隣にも阿南家。

阿南惟正
阿南建太

阿南惟正は、阿南惟幾の三男。実業家として新日本製鐵副社長などを勤めた。また、靖國神社氏子総代も勤めていた。2019年3月に86歳で没している。
阿南建太は、阿南惟正の長男。

すぐ近く、おなじ通りに太宰治の邸宅もあった。

太宰治のゆかりの「さるすべり」が花を咲かしていた。

阿南惟幾と太宰治は、ご近所ではあったが、生きていた世界が異なるために、お互いを知っていたかどうかは不詳。。。

場所

https://goo.gl/maps/gRvzeMJPaiAk93pt6


阿南一族の出身地、大分県竹田市の広瀬神社(御祭神:広瀬武夫)には「阿南惟幾顕彰碑」が建立され、「阿南惟幾胸像」も建立されている。未訪問。いつの日か、訪れたい。

以上、阿南惟幾関連の史跡、でした。


関連

太宰治ゆかりの三鷹陸橋(三鷹こ線人道橋)

2021年9月、JR東日本と三鷹市との協議で解体撤去されることが決定した。。。
解体時期はまだ決まっていないというが、解体される前に足を運んでみた。


三鷹陸橋(三鷹跨線橋・三鷹跨線人道橋)

昭和4年(1929)、人びとの往来を確保するために中央線と三鷹車両センターを南北に横断する跨線橋が設置された跨線橋。
全長93メートル、幅約3メートル、高さ約5メートル。
太宰治(1909-1948)ゆかりのスポット、でもあった。

三鷹こ線人道橋の今後の取り扱いについて
      作成・発信部署:都市整備部 道路管理課
      公開日:2021年9月7日 最終更新日:2021年9月7日

 三鷹こ線人道橋(以下「こ線橋」という。)については、旧三鷹電車庫建設に伴い当時の鉄道省が昭和4年に設置し、鉄道省から国鉄を経て東日本旅客鉄道株式会社(以下「JR東日本」という。)が継承、以来JR東日本が維持管理してきました。しかし、こ線橋は鉄道事業施設としてではなく、実質生活道路として利用され、公共的施設として管理されることが相応しいとの見解から、JR東日本から無償譲渡の申し入れがありました。これまでの間、市民の皆様や市議会の思い等から、現状のままで存続する方法がないか模索してきましたが、2021年6月にJR東日本より、こ線橋は建設後長期間経過するとともに、耐震性能が現在の基準を満たしておらず、利用者や鉄道の安全安定輸送に支障をきたすことが想定されること、また、こ線橋の代替施設として堀合地下道があることから、撤去することで進めるとの見解が示されました。市としては、耐震性能に課題のあるこ線橋の譲渡を受けたとしても大規模な改修(耐震補強)及びメンテナンスに多額の費用が必要となること、改修により文化的価値が損なわれる可能性が高いことなどから譲り受けることは困難と判断し、耐震性能が現在の基準を満たしていないこ線橋の存続により、万が一の災害の際に利用者や鉄道の安全安定輸送に支障をきたすことも考えられるため、JR東日本の判断を受け入れることとしました。なお、こ線橋は三鷹ゆかりの文学者で世界的に有名な太宰治が好んだ場所として文化的価値が高く、市民に人気のある施設であることから、今後はJR東日本と連携し、こ線橋の一部を譲り受けて保存や映像・画像等での記録など、記憶と記録を残す取り組みを行っていきます。

三鷹市 https://www.city.mitaka.lg.jp/c_service/093/093254.html

北側の一部のみ、再塗装が施されているが、大部分は錆色。

通行される皆様へ
この三鷹こ線人道橋は、JR東日本が管理している橋です。
1929年(昭和4年)に古い設計基準で建設されています。このため、
地震等の災害発生時には通行禁止となりますので
他の道路へ迂回していただくようにお願いします。

迂回の道路につきましては、三鷹駅寄り「堀合地下道」を利用ください。
なお、今後、老朽化等により通行できなくなる場合があります。
ご理解とご協力をお願いします。
 東日本旅客鉄道 八王子支社

太宰が生きたまち
三鷹

太宰ゆかりの場所
陸橋(跨線橋)

中央線の上にかかる陸協に友人を案内することもありました。
この陸橋は、1929(昭和4)年に竣工した当時の姿を今も留めています。
 三鷹市

跨線橋の様子を記録してみる。

北側は、道路もまたぐように跨線橋が伸びている。
北側の階段部分及び道路の上あたりまで、再塗装が施されており、きれいな緑色であるが、線路側の大部分は錆びるに任せた状態。

南側。
北側よりも緊張感がある石段は、やはり再塗装されていないがゆえに老朽化を感じさせる状態だからだろうか。

石段の所々は、破損している。鉄筋も露出している。

三鷹市が設置した太宰治の案内板は南側に設置されている。

場所

https://goo.gl/maps/pGhCg8Xatikdmg6f8

跨線橋と三鷹駅の間には、堀合地下道が設置されている。跨線橋が撤去された場合の代替の南北横断通路。


三鷹は太宰治が居住をしていた街。三鷹を流れる玉川上水に入水自殺をし、墓も三鷹の禅林寺にある。

太宰治の墓

場所

https://goo.gl/maps/8chNdhXqFSzBCM5j6

三鷹の禅林寺には、森鴎外の墓もある。また、三鷹事件の慰霊碑もある。


太宰治ゆかりの「さるすべり」

太宰治旧宅に植えられていた「玄関前の百日紅(おさん)」が三鷹市平和通りの井心亭の庭に移植されている。

場所

https://goo.gl/maps/8r7zStkTxoAjb7Yw9

実は、太宰治の邸宅があった通りには、阿南惟幾陸軍大将宅もあったが、その話は別記事にて。

三鷹には、太宰治ゆかりの場所が多い。跨線橋とあわせ、史跡散策・文学散策をしてみるのも良さそうです。

※撮影は2021年9月

「日本の飛行機王」東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平(太田の戦跡散策1・銅像、邸宅、墓所)

日本一にして東洋一の航空機メーカーが戦前の日本にはあった。
「中島飛行機」
その創業者が、日本の飛行機王と称せられた「中島知久平」であった。


中島知久平と中島飛行機

中島 知久平(なかじま ちくへい)
明治17年(1884年)1月11日 – 昭和24年(1949年)10月29日)65歳没。
海軍軍人(海軍大尉)、のち実業家・政治家。
中島飛行機(のちの富士重工業・SUBARU)創始者。

帝国海軍
明治36年(1903)10月に、海軍機関学校(海軍兵学校機関科)入学(第15期生)。
明治40年(1907年)4月25日、海軍兵学校卒業。明治45年、海軍大学校卒業。
海軍中尉となった中島知久平は明治45年に米国に派遣され、さらに大正3年にフランスに出張し、飛行術・機体整・飛行機製作技術などを会得。
大正3年、中島知久平(機関大尉)は横須賀海軍工廠飛行機工場長として設計試作などに従事。

飛行機研究所
大正6年、中島知久平は、航空機の将来に着目し「航空機は国産すべき」「それは民間製作でなければ不可能」と結論し、「飛行機研究所」を設立。海軍を大尉で退役した。(予備役編入)

「飛行機研究所」は、群馬県新田郡尾島町(現・太田市)にて創業(大正6年・1917)。
中島邸宅のすぐ近くの河川敷に滑走路が設けられた。

中島飛行機製作所
「飛行機研究所」 は、大正7年に「日本飛行機製作所」に改称し、さらに大正8年に「中島飛行機製作所」と改称。
大正13年(1924)に「中島飛行機東京工場」(後の東京製作所・杉並区桃井)を建設し、翌年より東京工場にてエンジンの本格生産を開始。

昭和12年には、中島知久平は近衛内閣の鉄道大臣に就任。群馬県人として初の大臣であった。

そして昭和13年(1938)に陸軍の増産要請により陸軍専用のエンジン工場として「中島飛行機武蔵野製作所」(武蔵野市緑町)を開設。
昭和16年(1941)、陸軍専用エンジンを製造していた「武蔵野製作所」の西側に、海軍専用のエンジン工場として「多摩製作所」が開設。
昭和18年に軍需省より増産命令を受け両製作所を統合し陸海軍機の生産を一元化された「中島飛行機武蔵制作所」が成立。
国内エンジン生産シェア4分の1を誇るものとなる。

昭和18年12月、軍需会社法により中島飛行機は軍需省管理下の軍需会社に指定。

武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所を中心に西東京田無には中島航空金属田無製造所、三鷹には中島飛行機三鷹研究所などが展開。また周辺には立川飛行機や陸軍立川飛行場、陸軍調布飛行場、府中陸軍燃料廠など軍事施設が集中する一大航空産業地区が出来上がっていた。

昭和19年(1944)11月24日。
マリアナ諸島を発進したB29の東京初爆撃の目標地点は「中島飛行機武蔵製作所」であった。
米軍は武蔵製作所を標的とし高度8000メートル以上の高高度爆撃を行うも、この初空襲での命中率は高くなかった。武蔵製作所は1箇所の工場としては例を見ない計9回に及ぶ爆撃を受ける。

爆撃による壊滅的な被害を受けた中島飛行機武蔵製作所は、各地に工場機能を移転。(工場疎開)
八王子浅川では地下壕にて浅川工場、栃木宇都宮では大谷石採石場跡を利用した大谷工場、福島信夫山に福島工場など30ヶ所以上に分散疎開工場を展開したという。

昭和20年4月に中島飛行機は国営化され「第一軍需工廠」となり、武蔵製作所は「第十一製造廠」に指定。
疎開先の工場は本格稼働も出来ず、特に地下壕の浅川工場は湿気による金属腐敗や内外の温度差などが生産に不向きな環境であり、結局終戦までに10数個のエンジンが完成しただけだったという。

戦後
昭和20年8月16日、中島飛行機は社名を「富士産業株式会社」に改称。中島知久平は代表取締役社長を辞任。弟の中島乙末平が富士産業株式会社社長就任。
中島知久平は、昭和20年8月終戦直後の東久邇宮内閣で、軍需大臣及び商工大臣に就任し敗戦処理に当たる。
(中島知久平は、昭和5年(1930)以降衆議院議員として連続5回当選し、昭和6年に犬養内閣の商工政務次官に、同12年には近衛内閣の鉄道大臣に、同20年に東久邇内閣の軍需大臣(後の商工大臣)を歴任している。)

昭和20年12月に中島知久平はGHQよりA級戦犯に指定。病気を理由に中島飛行機三鷹研究所内の泰山荘にて自宅拘禁扱いとなり、昭和22年9月にA級戦犯指定解除。
昭和24年10月29日に脳出血のため泰山荘にて死去。65歳没。

昭和20年11月16日、富士産業株式会社は財閥指定を受け解体を命じられ昭和25年に解散。

以下は中島飛行機が解体したのちに設立された主な会社

  • SUBARU (旧富士重工業・東京富士産業)
  • THKリズム(旧リズム・富士精密工業)
  • 富士機械(旧富士機器)
  • 輸送機工業(旧愛知富士産業)
  • マキタ(旧富士機械産業・富士発動機)
  • GKNドライブライントルクテクノロジー(旧栃木富士産業)
  • イワフジ工業(旧岩手富士産業)

中島飛行機の主要な航空機と航空エンジン

陸軍

  • 1931年(昭和6年) 九一式戦闘機
  • 1934年(昭和9年) 九四式偵察機
  • 1936年(昭和11年)九七式輸送機
  • 1937年(昭和12年)九七式戦闘機
  • 1940年(昭和15年)一〇〇式重爆撃機 「呑龍」
  • 1941年(昭和16年)一式戦闘機 「隼」
  • 1942年(昭和17年)二式戦闘機 「鍾馗」
  • 1943年(昭和18年)四式戦闘機 「疾風」
  • 1945年(昭和20年)キ87 高々度戦闘機(試作)
  • 1945年(昭和20年)キ115特殊攻撃機「剣」(試作)
  • 1945年(昭和20年)キ201戦闘爆撃機「火龍」(試作)

海軍

  • 1928年(昭和3年) 三式艦上戦闘機
  • 1930年(昭和5年) 九〇式艦上戦闘機
  • 1936年(昭和11年)九五式艦上戦闘機
  • 1936年(昭和11年)九五式水上偵察機
  • 1937年(昭和12年)九七式艦上攻撃機
  • 1938年(昭和13年)十三試陸上攻撃機「深山」(試作)
  • 1942年(昭和17年)二式水上戦闘機
  • 1942年(昭和17年)二式陸上偵察機
  • 1943年(昭和18年)夜間戦闘機「月光」
  • 1943年(昭和18年)艦上攻撃機「天山」
  • 1943年(昭和18年)十八試陸上攻撃機「連山」(試作)
  • 1943年(昭和18年)十八試局地戦闘機「天雷」(試作)
  • 1944年(昭和19年)艦上偵察機「彩雲」
  • 1945年(昭和20年)特殊攻撃機「橘花」(試作)

※中島飛行機では三菱の零戦のライセンス生産も行っており、設計元の三菱を上回る全体約2/3(約6000機)を中島飛行機で量産している。

航空エンジン

  • 空冷式単列星型9気筒 
     海軍名称「 寿」
     陸軍名称「ハ1」「ハ24(性能向上型)」
  • 空冷式複列星型14気筒
     陸軍名称「ハ5」「ハ41」「ハ109」
     陸海軍統一名称「ハ34」
  • 空冷式複列星型14気筒 → 零戦/隼のエンジン 
     海軍名称「栄」
     陸軍名称「ハ25」「ハ105(性能向上型)」「ハ115(性能向上型)」
     陸海軍統一名称「ハ35」
  • 空冷式複列星型18気筒 → 銀河/彩雲/紫電改/疾風のエンジン 
     海軍名称「誉」
     陸軍名称「ハ45」
     陸海軍統一名称「ハ45」

太田市

https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/manga-19.html


中島知久平之像

中島知久平生誕百周年記念として、中島知久平の出生地である尾島町に昭和59年10月建立。

巨人中島知久平先生顕彰之碑に讃ず
 名誉町民、中島知久平先生は明治17年1月11日群馬県尾島町押切の徳望家中島粂吉翁の長男として出生す。同31年尾島町立尋常高等小学校を卒業。向学心に燃え独学で見事専門学校検定試験に合格。引き続き海軍機関学校、海軍大学に学び優秀な成績をもって卒業す。此の間、飛行機の研究に着目する。その後、欧米の航空界の実情を視察し民営の航空機工場の必要性を提唱すると共に、自ら海軍を退官して飛行機の製作を郷里尾島町前小屋を発祥の地として志し後に、現在の太田市に中島飛行機製作所を創設し、我が国の航空機工業に絶大の貢献をもらたす。また政治家としても昭和5年衆議院議員として初当選を機に政界に入り、鉄道、軍需、商工の各大臣を歴任しこの間第八代政友会総裁に就任するなどその経世の才は世界の飛行機王の名と共に今になお高く評価せらる。
 尚今日の富士重工業、三菱電機、東京三洋等をはじめとして東毛の工業発展の礎を創り、かつ平和産業の基盤を残した足跡は誠に偉大にして郷土の誇りとするところであり、ここに巨人中島知久平先生の生誕百年を記念し関係者有志の発起により町内外多くの方々の浄財を基に生誕の地を選び顕彰事業として記念像を建設し先生の偉業を永く後世に伝えんとするものなり。
 昭和59年10月吉日
  尾島町長 小出由友撰之

雄飛

雄飛
それは中島知久平翁が最も好んだ座右の銘であり、翁が若くして雄々しくはばたき人生の夢を描きつづけその全生涯を宇宙への先駆者として生きつづけた指標です。今日も尚若者たちの変わらざる永遠の指針でもあります。
 昭和59年10月27日
  中島知久平翁生誕百年記念
   顕彰事業推進委員会

中島知久平之像

元内閣総理大臣 岸信介

威風堂々とした中島知久平の立像

中島知久平像の後方には女の子の像があった。。。
女の子の像は艶めかしい。「婉然」と名付けられていた。

かつての尾島町役場。旧新田郡尾島町が太田市が合併してからは「太田市尾島総合支所
総合支所としては2008年に廃止。現在は、「太田市尾島行政センター」

場所
太田市尾島総合支所(町民の森公園)

https://goo.gl/maps/ix7xM2HGKQxL28wP9

※中島知久平像(中島知久平先生像)は、この他に、群馬県太田市の金山城跡に胸像がある。(未訪問)

https://goo.gl/maps/sAqGEZgJVmwFZoij9


旧中島家住宅
中島知久平邸地域交流センター

国指定重要文化財。
中島知久平が両親のために築いた邸宅。来客を迎える重厚な車寄せやステンドグラスやシャンデリアなどの高貴な装飾が施された応接室、客間から見渡せる前庭など、宮殿建築としての特徴が随所に見られる近代和風建築物。
大正15年に図面が作成され、昭和4年10月12日に地鎮祭、昭和5年4月17日に主屋上棟、12月5日に屋敷神社殿地鎮祭が執り行われている。

資料(太田市教育委員会)

https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/kankoubutu/files/nakajimapanhu.pdf

太田市

https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bunkazai/shinotabunka04nakajimatei.html

中島知久平邸を、見学。

正門と門衛所。門衛所は昭和6年(1931)の上棟。

主屋は昭和5年(1930)の上棟。主屋の設計監督は宮内省内匠寮出身の伊藤藤一。

中島家の家紋「下がり藤」が施された彫刻。

氏神社は昭和5年に地鎮祭が祭行されている。

重要文化財指定書
旧中島家住宅 4棟

現在、主屋4棟のうち、車寄せのある建物のみが耐震補強整備が完了し公開されている。
その他の建屋は未公開。

電気ストーブの据えられた大理石の暖炉。

電気ストーブは当時、使用されていたもの。

電気ストーブ側のコンセント。

暖炉に備え付けられたコンセント。

ステンドグラスが施された窓

当時この窓から利根川河川敷の滑走路を離着陸する飛行機を眺望することができたようです。

シャンデリアが高級感を引き立てる。

各部屋や玄関には電鈴が設置されていた。
電鈴は女中室外側の壁に集中端末が設置されており、どこで鳴らされたかがわかるようになっていた。

中庭。車寄部の北側には食堂部がある。

外から庭に足を運ぶ。庭からは客室部や居間部の各部屋を見学することができる。

主屋のなかで居間部のみ2階建て。そのとなりには2階建ての土蔵もある。

居間部と土蔵。

左から車寄部、客間部、居間部、土蔵

敷地は四方を塀で囲まれている。

北側の通用門。

旧中島家住宅を南から遠望。

利根川の堤防から。

中島家住宅の南側、利根川の河川敷。かつてこの河川敷から中島知久平の飛行機が飛んでいた。

場所

https://goo.gl/maps/4xEZgJiUQA1cpqCF6


中島知久平墓(徳性寺)

群馬県太田市押切町。中島家住宅のすぐ近く。
中島知久平の出生地である、この地にも分骨され墓がある。

中島知久平の墓

知空院殿久遠成道大居士

昭和二十四年十月二十九日卒 中島知久平
 享年 六十六

墓石は、昭和30年10月に、中島知久平の長男である中島源太郎によって建立されている。

右が中島知久平の墓。
左は中島知久平の妹である中島あやの墓。
中島家住宅は戦後にGHQにより将校倶楽部として接収されている。昭和33年頃に進駐軍も撤退し空き家となり、中島あやが居住していた。

中島家代々之墓。中島知久平の両親(中島粂吉と中島いつ)もこの地で眠る。

場所

https://goo.gl/maps/JHH5jthBReBNBu9z9

※撮影は2021年9月
※群馬県太田市の中島知久平関連の史跡は公共機関のアクセスが悪いので、埼玉県深谷市でレンタサイクルにてアクセスしましたが、利根川(新上武大橋)を渡り、流石に移動距離が尋常ではないので最良の方法ではありません。。。


中島知久平墓(多磨霊園)

多磨霊園9区1種2側。正門から名誉霊域の古賀峯一・山本五十六・東郷平八郎を拝しながら北上していくと、9区に到達する。ここに中島知久平が眠る。

多磨霊園の東には中島飛行機三鷹研究所と、中島知久平が晩年を過ごした泰山荘がある。北東には中島飛行機武蔵工場、そして南東には調布飛行場。

左に「中島知久平墓」、右に「中島家之墓」

中島知久平墓

知空院殿久遠成道大居士
 昭和二十四年十月二十九日卒 享年六十六

中島家の家紋「下がり藤」

中島知久平には大空が映える。

中島知久平墓の向こうを航空機が飛び抜ける。

墓誌

中島知久平、中島ハナ、中島源太郎、嬰児(中島弘仁郎)、中島洋次郎、の名が刻まれている。中島知久平は正妻を設けていなかったが、内縁の小島ハナが、実質の妻として、中島ハナとして刻まれて中島家の墓に眠っている。

場所

https://goo.gl/maps/i3tEsMzetUiGcFbx6


その2は準備中


中島飛行機関連

中島飛行機武蔵製作所

中島飛行機三鷹研究所

中島飛行機東京製作所(中島飛行機発動機)

中島飛行機武蔵製作所疎開工場(中島飛行機浅川地下工場)

中島飛行機大宮製作所疎開工場(中島飛行機吉松地下工場)

中島飛行機田無試運転工場
中島航空金属田無製造所(田無鋳鍛工場)

中島飛行機半田製作所

中島飛行機(第一軍需廠)エンジン工場

「帝国海軍きっての知性」最後の海軍大将・井上成美

井上成美海軍大将。
日本帝国海軍史上、最後に海軍大将に昇進した軍人は二人いた。
ひとりは、塚原二四三、そしてもうひとりが井上成美、であった。


井上成美(いのうえ・しげよし)

1889年〈明治22年〉12月9日 – 1975年〈昭和50年〉12月15日
日本帝国海軍の海軍大将。

海軍兵学校第37期。
卒業順位は2位であったが、明治43年(1910)に海軍少尉に任命され最先任者(クラスヘッド)となる。
通常は同期生は揃って少尉任官するものであるが、第37期のみは唯一、任官が揃わなかった。37期席順1位の小林万一郎は病気のために任官が遅れ、そのために2番の井上成美がクラスヘッドとなている。
兵37期は、井上成美が大将となったほかは、大川内傳七・ 小沢治三郎・ 草鹿任一などが中将となっている。

昭和4年、海軍大佐に任命。
昭和5年、海軍大学校教官。
昭和7年、海軍軍務局第一課長。
昭和8年、練習戦艦「比叡」艦長に就任。
昭和10年、海軍少将に任命。横須賀鎮守府参謀長に就任。横須賀鎮守府長官は米内光政。二・二六事件を対処。
昭和12年、海軍省軍務局長に就任。米内光政が海軍大臣、山本五十六が海軍次官。米内光政・山本五十六・井上成美の三人を「海軍省の左派トリオ」「海軍左派三羽烏」などと称した。
米内・山本・井上の海軍省は日独伊三国同盟に反対するも時勢の流れは変えることはできなかった。
昭和14年、支那方面艦隊参謀長に就任。海軍中将に任命。支那方面艦隊司令長官は嶋田繁太郎中将。
昭和15年、海軍航空本部長に就任。このときの海軍大臣は及川古志郎。

昭和16年(1941)、第四艦隊司令長官(4F長官)に親補される。トラック「夏島」を拠点とする第四艦隊旗艦は「鹿島」。
昭和16年 12月8日に太平洋戦争が開戦。第四艦隊は第一段作戦において、ウェーク島攻略を担当。第一回の攻撃(12月11日)は、大発動艇の発進に手間取るうちに夜明けとなり、陸上砲台と残存航空部隊の反撃により駆逐艦2隻(疾風、如月)を喪失して失敗。真珠湾攻撃から帰投する途中の南雲機動部隊から分派された(重巡2、空母2(蒼龍・飛竜、駆逐艦2)の協力で、同島上空の制空権を確保しての第二回攻撃(12月23日)を」行い攻略に成功。

昭和17年5月7日、第四艦隊(南洋部隊)はMO作戦を担当し、珊瑚海海戦が発生。空母「祥鳳」を失い、「戦下手」を自認することとなる。
7月、海軍料亭「小松」の支店がトラック島に開業。これは、井上が横須賀で「小松」を経営する山本直枝夫婦に出店を依頼したものであった。(敗戦時にトラック島の小松は消滅し、女子従業員6名が犠牲となり、井上は戦後、小松に謝罪をしている)

昭和17年10月、海軍兵学校長に就任。トラックから内地に帰還。英語教育廃止論を退け、「自国語しか話せない海軍士官などは、世界中どこへ行ったって通用せぬ。」として英語教育を推進。

昭和19年7月、サイパン失陥により東條内閣は崩壊。予備役であった米内光政が現役に復帰し、小磯内閣副総理格で海軍大臣に就任。米内光政海軍大臣の懇請で井上成美は海軍次官に就任。海軍省人事局の高木惣吉少将を、海軍省出仕とし、米内ー井上ー高木のラインで、終戦のための研究・海軍の終戦工作が行われた。

昭和20年5月15日、海軍大将に親任され海軍次官を免じ、軍事参議官に親補された。
昭和20年8月10日、ポツダム宣言を受諾。
井上成美海軍大将は、海軍での最後の仕事として9月10日付けで司令官宇垣纏を失った第五航空艦隊の「査閲」を実施し、各基地において終戦処理を推進し、帝国海軍の有終の美を飾るように説いて回った。
昭和20年10月15日、予備役となり39年間の海軍生活を終えた。満55歳であった。

戦後は、横須賀長井に隠棲し、近所の子供達に、得意の英語を教えるなどして余生を過ごしていたが困窮していた。戦前は海軍料亭として賑わっていた料亭「小松」の山本直枝も、井上の支援を行い、小松従業員に英語指導を依頼するなどして、井上の生活を支えていた。

1975年(昭和50年)12月15日午後5時過ぎに老衰で死去。86歳没。
最期の言葉は、「海が…、江田島へ…」だったという。


井上成美墓

多磨霊園に眠る。場所は21区1種3側。

井上成美
ここに眠る

1889-1975
 井上成美伝記刊行会

合掌

井上家家之墓

昭和13年5月
 井上秀二建之

井上秀二は井上家の長兄。土木技師。
井上家は13人兄弟(12男1女)であり、夭折などもあり事実上の長男が4男の秀二であった。井上成美は11男。

墓誌

父、井上嘉矩や成美の最初の妻であった井上喜久代、最後を看取った二番目の妻である井上富士子、兄である井上秀二などの名が刻まれている。

つまり、井上本家(井上秀二)の墓に、弟の井上成美と二人の妻も一緒に眠っているということになる。

場所

https://goo.gl/maps/wzAtoNUMCSpD2Skj8

※参拝・撮影は2021年9月


井上成美旧宅(井上成美記念館・閉館)

かつての井上成美邸宅は、損傷が激しかったために改装がおこなわれており、井上が住んでいた頃の名残をとどめるのは、暖炉などの一部だけとなっている。
小規模ながら「井上成美記念館」として公開されていたが、東日本大震災の被害により閉館。現在に至る。

閉館中のため、敷地外より遠望。敷地内は立入禁止。

井上記念館は
閉館
しました!

ここが井上成美記念館であった、わずかな証。

今も昔も、井上提督が愛した海を望む高台。窓から見える風景は変わっていないという。

場所

https://goo.gl/maps/SNED1EUuEUTc4jaa6


※撮影は2018年8月

昔の写真が出てきました。以下は2009年の撮影。。。

このときもすでに閉館でしたが。


軍艦鹿島 有終之碑

呉海軍墓地にて。
井上成美は、太平洋戦争開戦時に、第四艦隊司令長官であった。
「鹿島」は、開戦時はトラック泊地で南洋部隊の全作戦を指揮する第四艦隊の旗艦を務める。

関連

※撮影は2017年3月


料亭 小松

全焼する前に来たかった場所でした・・・

海軍料亭「小松」
平成28年(2016)5月16日、火災により全焼。
板塀と看板が残る空間が苦しい…

横須賀の海軍ゆかりの料亭「小松」の母屋から出火、正面左手の奥「松風の間」を残し、木造母屋全焼…
海軍提督の書、あるいは海軍、海自からの記念品は、残念ながらほとんど焼損してしまった。

井上成美は、小松の女将・山本直枝とは親しく、山本直枝は、困窮する戦後の井上成美を支えた一人でもあった。

場所

https://goo.gl/maps/To6CqCJhoyvSnC1V9

※撮影は2018年4月


井上成美
井上成美伝記刊行会

井上成美の伝記。1982年刊行。

題字は、井上成美の筆。

海軍中将時代の井上成美。
自ら進級に反対していたため、海軍大将として独りで撮影された写真は無い。

横須賀鎮守府時代。
鎮守府長官は米内光政。参謀長が井上成美。


井上成美の肉声

海自第2術科学校には井上成美の肉声テープが保管されている。

https://www.mod.go.jp/msdf/twomss/sp/sp_index.html

海自第2術科学校、オープンスクール。


海上自衛隊第2術科学校オープンスクール(2019年)

海自第二術科学校の「井上成美」公開講座が2019年にありました。

「井上成美のしおり」を戴きました。
挟むべき「本」を迷います・・・

偲ぶ
IN LOVING MEMORY OF
May He Rest In God’s Loving Arms
海軍大将 
井上成美
1889年12月9日~1975年12月15日(86歳)

英語教育廃止論を退けた人

明治22年 仙台市に出生
明治42年 海軍兵学校卒業
昭和 2年 イタリア駐在武官
昭和10年 横須賀鎮守府参謀長
昭和12年 海軍省軍務局長
昭和17年 海軍兵学校長
昭和19年 海軍次官
昭和20年 海軍大将、軍事参事官
8月終戦  横須賀市長井の自宅に隠棲後英語塾を始める
昭和50年12月15日 長井の自宅で死去

日本海軍きっての知性といわれた最後の海軍大将。
戦後30年間、清貧を貫いて逝ったこの人の先見性、識見の高さ、事績の正しさは歴史が証明した。
敗戦前夜一億玉砕を避けるべく終戦工作に身命を賭した井上成美だった。
開戦前、米内光政、山本五十六とともに日独伊三国同盟に反対し、無謀な対米戦争回避を主張、戦時下にあっては兵学校長として英語教育廃止論を退ける等、時流に抗して将来を見通す全人教育を目指した。
 阿川弘之

井上成美が艦長を務めた練習戦艦「比叡」


二・二六事件と井上成美

井上成美が横須賀鎮守府参謀長の際に、二・二六事件が勃発。
米内井上コンビが横須賀から陸軍に対抗する。

「二・二六事件と海軍」


小沢治三郎(小澤治三郎)

小沢 治三郎(小澤 治三郎, おざわ じさぶろう)
1886年(明治19年)10月2日 – 1966年(昭和41年)11月9日)
日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。
第31代となる最後の連合艦隊司令長官を務めた。

海軍兵学校37期生。卒業順位は45番。 井上成美と同期。


塚原二四三

塚原 二四三 (つかはら にしぞう)
1887年(明治20年)4月3日 – 1966年(昭和41年)3月6日)
日本の海軍軍人。海兵36期・海大18期。最終階級は海軍大将。
日本海軍で最後に大将に昇進したのが、井上成美と塚原二四三の二人であった。

墓は井上成美と同じく多磨霊園にある。


阿川弘之

「井上成美」
昭和五十年暮、最後の元海軍大将が逝った。帝国海軍きっての知性といわれた井上成美である。彼は、終始無謀な対米戦争に批判的で、兵学校校長時代は英語教育廃止論をしりぞけ、敗戦前夜は一億玉砕を避けるべく終戦工作に身命を賭し、戦後は近所の子供たちに英語を教えながら清貧の生活を貫いた。「山本五十六」「米内光政」に続く、著者のライフワーク海軍提督三部作完結編。

https://books.google.co.jp/books/about/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%88%90%E7%BE%8E.html?id=TArVCwAAQBAJ&source=kp_book_description&redir_esc=y


竹製落下タンク(小金井市文化財センター)

東京都小金井市。小金井市文化財センター。
ここに、落下増槽(落下タンク)が展示してあるというので、足を運んでみた。

館内の展示物撮影は許可制。申請を行う。
 学芸員さん「何を撮影されますか」
 私「戦時下の展示物を、具体的には、増槽を・・・」
 学芸員さん 「わかりました、そんなに珍しいものではないですけど・・・」
 私「いえいえ、珍しいものだと思います。」
 学芸員さん「撮影の用途は?」
 私「研究?でしょうか。趣味で。」
 学芸員さん「SNSとかブログに投稿されます?」
 私「そうですね、ネット上にも写真公開しています。大丈夫ですか?」
 学芸員さん「えぇ。問題ないですね」
話のはやい学芸員さんで助かります。

学芸員さんは、さっそく「増槽」が展示された由来や、小金井にあった陸軍施設「陸軍技術研究所」の解説などをしてくださいました。
「陸軍技術研究所」跡地は、このあと赴こうと思っていましたので、記事は別立てにて。


竹製落下タンク(増槽)

どのような航空機に搭載されていた増槽かは不明。
統一型二型(木製)落下タンク(200リットル)
主に、陸軍戦闘機(隼、飛燕、疾風、五式戦)に装備され、海軍では零戦21型、52型乙の(爆戦型)が装備していた、という。珍しく陸海軍で共用していた落下タンク。

上部には銘板が残っており、名称は「らつかたんく」「竹製」であることがわかる。竹に紙張り。これで航空燃料が漏れずにタンクとして活用できるものなのですね。

落下タンク(増槽)
太平洋戦争当時、戦闘機の機体下部に取り付けられた補助燃料タンク。期待本体内の燃料を温存するために、先に落下タンク内の燃料を使用し、戦闘開始と同時に投棄して身軽になって戦いました。
日本戦闘機の卓越した航続距離を支えた部品ですが、素材は当時の日本の資源不足を反映して、竹製の骨組みに紙張りです。この落下タンクは敗戦直後、調布飛行場から持ち帰り、何らかの容器として使われていたようです。

名稱 らつかたんく
製造番號
製造所

竹製

戦後、調布飛行場に様々の飛行機の部品が転がっていたのだろう。展示されている増槽もそうして回収されてきたものと思われます、と学芸員さん。
飛行機のタイヤをリヤカーなどに転用していた例もありますし。

一矢と和冬が調布飛行場へ行き。飛行機の部分品をはずして来る。計器、コードのようなものを持ってあそんでいる。座席からはずして来たのだそうだ。
 子供ばかりではなく、大人もやっているらしい。座席をそっくり持って来て、椅子にしている家もある。スプリングがきくから具合がいいだろう。
 そういえば。先日、農家が作物を積んで引いてくる車に、ひどく幅のひろい立派なゴムタイヤのついているのを見た。いつものならカタンカタンと音をたてて動く車が、無音ですべっているのを不思議に思ったが、なるほど、あれは飛行機の車輪だったわけだ。
 富永次郎「失われた季節-日本人の記録」より

つまりこういうことですね。

紙が経年劣化で割れ始めていた。

下地が見える。なるほ、竹を編んでいる感がする。


M69焼夷弾

M69焼夷弾も陳列されていた。

M69焼夷弾
太平洋戦争当時、アメリカ軍が木造の多い日本家屋を焼き払うために開発した兵器で、爆風で破壊する爆弾とは異なります。38発のM69焼夷弾を束ねた親弾(E46集束焼夷弾)がB29爆撃機から投下され、空中でバラバラの子弾(M69焼夷弾)に分離して、地上に着弾すると油脂を成分とする焼夷剤が火災を引き起こします。燃えずに落ちた焼夷弾は、風呂の焚き付けに使われることもありました。
この焼夷弾には「焼夷弾」と書かれていますが、のちに書き込んだものと思われます。


小金井市文化財センターには、 「陸軍技術研究所」 関連の展示もある。

陸軍技術研究所境界石杭

陸軍技術研究所境界石杭
昭和15年と17年、矯正買収により現在の小金井市北西部と小平市上水南町3・4丁目に移転してきた陸軍技術研究所は、広大な用地の周囲に石杭を埋めて、その範囲を表示しました。
石杭は全長100cm、「陸軍」と刻んだ上部20cmを地上に出し、残りの80cmの下部は地中に埋めてありました。戦後、技研敷地の払下げと宅地造成にともない大多数が廃棄され、現在残っているのは当館所蔵の石杭と、本町5-31道路脇に残る石杭のみです。

「陸軍技術研究所」に関しては、別記事にて。


浴恩館

小金井文化センターはかつての「浴恩館」であった。

そして「浴恩館」は、昭和3年、京都御所で行われた昭和天皇即位大嘗祭の神職の更衣所の建物であった。

小金井文化センター
文化財センターは、教育者下村 湖人が青年団講習所の所長として講習生と語らい、小説「次郎物語」の構想を練った浴恩館を改修し、博物館施設としたものです。
市内から発見された考古資料・古文書・民具をもとに、小金井市のあゆみや生活について常設展示しています。
この建物は、「浴恩館」と呼ばれ、昭和5年から青年団講習所として使われた由緒のある建物です。
講習所長であった下村 湖人の小説『次郎物語』の舞台としても知られ、空林荘と共に、市史跡に指定されています。

浴恩館のあゆみ
浴恩館は昭和3年、京都御所で行われた昭和天皇即位大嘗祭の神職の更衣所を、財団法人日本青年館が譲り受けて移築したものです。昭和6年から全国の青年団の指導者層が集まり、寝食を共にして人間形成をする講習所として機能しました。
日本青年館の設立理事であり、「青年館の父」とうたわれる田澤たざわ 義鋪よしはるは、昭和8年、故郷佐賀の後輩で無二の友人、下村 湖人を、浴恩館に開かれた青年団講習所の所長として呼び寄せ、実践教育に当たらせました。
しかし、全国から才能ある青年が集まる浴恩館は、軍事教練に格好の場として軍部に目を付けられました。「次郎物語」も雑誌連載中止まで追い込まれた湖人は、昭和12年に講習所所長を辞任、以後、浴恩館は戦時体制に組み込まれます。
戦後、再び青年教育の場、あるいはユースホステルとして復興を果たしますが、時代は高度成長期に突入し、農村社会を支えていた青年団が自然消滅していきます。維持困難におちいった日本青年館は、教育の場として運用することを条件に、昭和48年に小金井市に売却、小金井市は青少年センターとして開館、平成5年には室内を抜本的に改装し、小金井市の郷土資料を展示収蔵する文化財センターとして、新たに開館しました。

小金井市
https://www.city.koganei.lg.jp/kankobunka/bunkazai/bunkazaisenta.html

浴恩館と下村湖人
次郎物語の舞台
 浴恩館は、1928年(昭和3)の大嘗祭で使用された建物を、財団法人日本青年館が譲り受け、京都御所からここに移築し、全国の青年団指導者の講習施設として開設したもので、各種の講習会が開かれました。
 下村湖人(本名虎六郎・前台北高等学校長)は、田沢義鋪(大日本連合青年団常任理事)に招かれ、1933~1937(昭和8~12)まで、専任の青年団講習所長を務めました。
 空林荘は、講習宿舎として田沢が寄贈したもので、湖人はここで講習生と人生を語り、「次郎物語」の構想を練りました。「次郎物語」の構想を練りました。「次郎物語」第五部に登場する友愛塾、空林庵は、浴恩館と空林荘がそれぞれモデルといわれ、物語は、湖人の浴恩館における青年教育への情熱や実践を基に創作されました。

同じ小金井市内にあった陸軍技術研究所跡地散策の記録は別記事にて。

※2021年8月撮影

場所

https://goo.gl/maps/zwceWeap6MQuD2Ac7


関連

一式戦闘機「隼」のタイヤ(檜原村の手打ちそば「深山」)

これは2016年(平成28年)10月22日の撮影記録。

友人からお誘いがありまして、突然に唐突に東京多摩地区唯一の村「檜原村」へと赴くことに。
友人曰く「蕎麦屋に行こう」と。
友人が懇意にしている蕎麦屋さんへと連れられまして・・・。

えっ、蕎麦屋?

なんでも、蕎麦屋に凄いものがあるらしい。


一式戦闘機「隼」車輪

大日本帝國陸軍
中島キ43一式戦闘機「隼」
日本タイヤ株式会社 (現在のブリヂストン)
昭和19年5月製 昭和18年10月製

昭和17年にブリッヂストンタイヤ株式会社から、社名を「日本タイヤ株式会社」に変更。
タイヤからは昭和19年5月製及び昭和18年10月製の刻印が確認できる。

このタイヤは 一式戦闘機・隼二型にものという。

「日本タイヤ」の文字が見える

「なんでも鑑定団」にて証明された「隼の車輪」は、蕎麦屋にて静かにその歴史を物語っていた。

https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20121204/02.html#

エピソード
生まれも育ちも東京都桧原村の高木さん。1年前に脱サラし、今年の春、長年の夢だった蕎麦屋を開いた。また、30年前から、夏は会社員の傍らキャンプ場を経営してきたため、7月から9月は蕎麦屋を休んでキャンプ場の主をしている。
昨年6月、そのキャンプ場で使うためにある物が欲しいと思っていた矢先、偶然通りかかった民家の壁にそれが立てかけてあるのを発見。かなりボロボロだったが、持ち主に頼み込んで1万円で譲ってもらった。しかし、その後、偶然これを見た友人が興奮し「とんでもないお宝だ」と言った。本当に凄いものなのか?

何でも鑑定団 
日本軍の戦闘機のタイヤ https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20121204/02.html

古民家を再活用した蕎麦屋さん。
この雰囲気。 たまらない人には、たまらない雰囲気です。
ヤバイです。 週末は結構な行列にもなる人気店だとか。


手打ち蕎麦「深山」

主役の蕎麦。
本格的な手打ち蕎麦に檜原村特産舞茸御飯に、自家栽培野菜、手作り燻製合鴨など。
そして、店主考案の蕎麦甘味。

料理を語る店主の楽しそうな、それでいてこだわり溢れる姿とともに、味わうひととき。
こんなん、旨いに決まってるじゃないですか!

こちらは、お土産に。
檜原村の男爵いもを使用した、じゃがいもアイス。
バニラの甘さと、じゃがいもの甘さがコラボ。
これもおいしいです。 入っているジャガイモの粒もワンポイント。

以上、「隼の車輪」と蕎麦屋さんのお話でした。

蕎麦焼酎を蕎麦湯で割るという粋な吞みも堪能。

ありがとうございました!!


手打ちそば 深山(みやま)

サイト

http://soba-miyama.com/


関連

「造船の父と造船の神様」赤松則良墓と平賀譲墓

日本海軍の軍艦造船において、「造船の父」と呼ばれた男と、「造船の神」と呼ばれた男がいた。
そんな二人の墓参りをしてみた。


「日本造船の父」(日本造船学の父)
赤松則良(赤松大三郎)

赤松則良(あかまつ のりよし)
天保12年11月1日(1841年12月13日) – 大正9年(1920年)9月23日)
海軍中将、従二位勲一等男爵。

幕末
安政4年(1857年)、長崎海軍伝習所に入所して航海術などを学ぶ。
万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換の使節団に随行し、咸臨丸で渡米。
米国海軍のポーハタン号に乗艦した万延元年遣米使節団の正使は新見正興、副使は村垣範正、目付は小栗忠順
同行する咸臨丸司令官は軍艦奉行の木村喜毅(木村芥舟)艦長は勝海舟

文久2年(1862年)、榎本武揚(運用術、砲術、機関学)・上田寅吉(船大工習得)・林研海(西洋医学)らとともにオランダに留学。
文久3年(1863年)4月、オランダ・ロッテルダムに到着。「運用術、砲術、造船学」などを学ぶ。
慶応2年(1866年)、オランダで完成した開陽丸(上田寅吉が開陽丸船匠長)に乗船して榎本武揚らは帰国するも赤松はオランダへ残留、留学を継続する。
慶応3年(1867年)、フランスにてパリ万国博覧会が開催。徳川幕府は将軍慶喜の弟、徳川昭武を名代として派遣し、この一行に日本資本主義の父・渋沢栄一も同行。パリにて、赤松則良と渋沢栄一が交わっている。

慶応4年(1868年)、大政奉還を知り、留学を中止し帰国の途に着き、5月17日、横浜港へ帰着。
戊辰戦争では、榎本武揚に合流を目指すも叶わずに静岡藩に移る。

明治
勝海舟の助言があり、明治政府に出仕。海軍中将にまで昇進。
海軍主船寮長官、海軍兵学校大教授、横須賀造船所長、海軍兵器会議議長、海軍造船会議議長、横須賀鎮守府司令長官などを歴任。

明治8年(1875年)から横須賀造船所所長(後の横須賀海軍工廠)に就任。
1876年(明治9年)、日本国内で初めて西洋技師の手を借りずに4隻の軍艦(清輝・天城・海門・天竜)を設計。
横須賀造船所では、赤松則良とともに西洋造船技術を習得していた上田寅吉が造船技術者として出仕し、横須賀海軍工廠初代工場長ともなっていた。赤松則良の設計のもとで、製図を引いたのが、上田寅吉であった。近代日本の造船技術と海軍の基礎固めに大きく貢献したことから、赤松則良と並び上田寅吉も「日本造船の父」と称されている。なお、赤松は上田を「近代日本造船界の一大恩人」とも賛辞している。

明治20年(1887年)5月24日、男爵を叙爵。貴族院議員も務める。
明治22年(1889年)、新たに開庁した佐世保鎮守府初代司令長官の要職を務める。
明治24年(1891年)、横須賀鎮守府司令長官に就任。
明治26年(1893年)、予備役、明治38年(1905年)10月19日、後備役に編入。
明治42年(1909年)11月1日に退役、大正6年(1917年9月14日)に隠居。

明治13年(1880年)、日本海員掖済会の設立とともに委員長に就任。
明治30年(1897年)、造船協会の設立とともに会長に就任。(現在の日本船舶海洋工学会)

旧赤松家記念館(静岡県磐田市見付)が残っている。これは赤松則良が予備役編入後、隠居所として設けた建物。静岡県指定文化財。


赤松則良墓

赤松則良は、大正9年9月23日に81歳で没している。
墓所は、文京区の吉祥寺。

赤松則良の妻・貞は、オランダ留学に同行した蘭方医であった林研海の妹。その姉は榎本武揚に嫁いでおり、赤松則良と榎本武揚は義兄弟であった。そして、榎本武揚と赤松則良は、同じく文京区の吉祥寺に眠っている。

赤松家之墓

大正元年11月 竣工

墓誌
赤松家先祖代々之霊位
壽仙院殿海家屋南明大居士 初代 大正9年9月23日歿
 従二位勲一等男爵海軍中将 赤松則良 行年81歳
(以下略)

場所
〒113-0021 東京都文京区本駒込3丁目19−17
諏訪山 吉祥寺

https://goo.gl/maps/SrfSwAvEtAEBmhsx8


造船の神様
平賀譲

平賀 譲(ひらが ゆずる)
1878年(明治11年)3月8日 – 1943年(昭和18年)2月17日[1])
海軍造船中将 従三位 勲一等 男爵 工学博士。東京帝大総長。従三位勲一等男爵。
父、平賀百左ヱ門は海軍主計官。兄、平賀徳太郎は海軍少将。

平賀譲は、兄同様に海軍兵学校を目指すも、体格検査で落第。第一高等学校工科に入学。
そして、東京帝国大学工科大学に進学し造船学科を専攻し首席で卒業。
海軍造船学生となり、明治34年に海軍造船中技士(後の海軍造船・造機中尉)となる。
横須賀海軍造船廠を経て呉海軍工廠造船部々員に着任。

明治38年(1905)、イギリス駐在。グリニッジ王立海軍大学造船科修学。
明治42年(1909)、帰国し海軍艦政本部々員、東京帝国大学工科大学講師を務める。
明治45年(1912)、横須賀海軍工廠にて、製図工場長、新造主任。戦艦「山城」、巡洋戦艦「比叡」、二等駆逐艦「樺」を担当し造船工場棟兼任となる。
大正5年(1916)、海軍技術本部第四部に勤務、八八艦隊主力艦の基本計画を担当。
大正7年(1918)、東京帝国大学工科大学教授兼任。

大正9年(1920)、海軍艦政本部再編、海軍艦政本部第四部長に山本開蔵就任に伴い、計画主任に就任。
海軍艦政本部で艦艇設計に従事し、戦艦紀伊型(戦艦陸奥・長門)、重巡洋艦古鷹型、妙高型、軽巡洋艦夕張、川内型、駆逐艦神風型、若竹型を設計。特に妙高型重巡洋艦などの画期的な重武装艦を設計する。

大正12年(1923)、欧州出張。ワシントン条約下の列強建艦状況調査し、翌年帰国。
大正14年(1925)6月、海軍技術研究所造船研究部長に就任。12月に海軍技術研究所所長兼造船研究部長に就任。
大正15年(1926)、海軍造船中将に昇進。
昭和6年(1931)、予備役。
昭和9年(1934)、友鶴事件「臨時艦艇性能調査会」事務嘱託。
昭和10年(1935)、海軍艦政本部の造船業務嘱託。大和設計にも影響を及ぼす。同年に発生した第四艦隊事件の「臨時艦艇性能改善調査委員会」で海軍艦政本部嘱託。
昭和13年(1938)、東京帝国大学十三代総長就任。翌年、「平賀粛学」を断行し教授等13名を追放。また、工学者や技術者を養成するために、平賀譲の発案によって東京帝国大学第二工学部の設置も進めた。平賀譲は興亜工業大学(現・千葉工業大学)の創立を支援している。

昭和18年(1943)2月17日、総長現役のまま64歳にて死去。東京大学医学部に脳保存されている。
昭和18年(1943)2月23日、東京帝国大学の安田講堂に大学葬を挙行され、墓所は多磨霊園にある。


平賀譲墓(平賀譲先生墓

平賀譲の墓は、多磨霊園にある。墓所は23区1種2側。

平賀譲先生墓
(裏面 昭和三十一年十一月建之 平賀譲先生をしのぶ會)

平賀譲先生頌徳碑

場所

https://goo.gl/maps/ysq5ycU3CsRjof5XA


多磨霊園には、牧野茂 の墓もある。せっかくなので付記として。

平賀譲の高弟・戦艦大和の設計主任
牧野茂

牧野 茂(まきの しげる)
1902年(明治35年)8月9日 – 1996年(平成8年)8月30日)
日本海軍技術将校。最終階級は海軍技術大佐。
牧野茂は、師匠であった平賀譲と同じ多磨霊園に眠っている。

1936年(昭和11年)〜1941年(昭和16年) 、呉海軍工廠造船部設計主任。大和設計主任として大和建造に携わる。
1945年(昭和20年) 終戦。海軍技術大佐、海軍艦政本部第4部設計主任。
1955年(昭和30年) 海上保安庁灯台補給船『宗谷』の南極観測船への改造設計に携わる。
1996年(平成8年) 没。享年94歳。

牧野茂墓

牧野

1902.2.9~1996.8.30

1907.4.15~2009.5.13

場所

https://goo.gl/maps/RHvfWPcvbWcJSUrw7

※赤松則良墓は2021年撮影、平賀譲墓と牧野茂墓は2016年撮影。


関連

海軍大和田通信隊跡地散策(新座市・清瀬市・東久留米市)

埼玉県新座市西堀、東京都清瀬市清戸、東久留米市上の原にかけて、かつて大日本帝国海軍の通信施設があった。
内陸県・海なし県「埼玉」にある、貴重な海軍戦跡。


海軍大和田通信隊

日本海軍の無線電信は、霞が関の海軍省内に設けられていた「東京無線電信所」を中心におこなれていたが、無線は同時交信を行うことから「送信所」と「受信所」を分離設置する必要があった。
 「東京海軍無線電信所」      中央管制と受信
 「東京海軍無線電信所船橋送信所」 送信設備
昭和9年(1934)に、「海軍東京無線電信所」の附属機関として無線傍受を専門とする「海軍東京無線電信所大和田受信所」の設置が決定。
「大和田受信所」は昭和11年に開設され昭和12年(1937)から本格稼働を開始。
また、昭和9年6月には、海軍通信隊令が施行。海軍無線電信所は海軍通信隊となり、「大和田受信所」は、「東京通信隊大和田分遺隊受信所」となっている。
昭和16年(1941)、太平洋戦争開戦時に「東京通信隊」から独立した「大和田通信隊」となり、傍受を掌る通信隊として海外無線の傍受を行い、副受信所では、方位測定を掌る大和田通信隊分遺隊が展開された。
アンテナ群は東西1キロ、南北2キロ以上の広範囲に設置。受信機は主に現在の新座市に置かれていた。
この地域に受信設備が置かれた理由は、武蔵野台地の中心に位置しており、周辺には電波障害の要因となる鉄道。幹線道路・民家なども少ない環境であったためという。

「大和田通信隊」での受信実績(傍受実績)として、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃成功を伝える電信「トラ・トラ・トラ」(モールス符号「・・―・・ ・・・」トラ連送)「ワレ奇襲ニ成功セリ」を受信。
米海軍が平文で打った「airraid on pearlharbor x this is not drill」(真珠湾が空襲を受けている。これは演習ではない)の電報も受信。
なお、真珠湾攻撃開始時の電信「ニイタカヤマノボレ1208」を送信したのは、「船橋送信所」。
また、終戦時の「ポツダム宣言」を受信したのも「大和田通信隊」。
戦争の最初と最後に「大和田通信隊」が絡んでいたのだ。

海軍予備学生達を主人公とした阿川弘之「暗い波濤」では、「大和田通信隊」の描写もある。阿川弘之自身も海軍予備学生として海軍に入隊し海軍少尉に任官し傍受諜報担当任務に携わっていた、という海軍経験を元に書かれた名作。

現在は、受信設備が置かれていた新座市には、「在日米軍大和田通信所」が引き続きアンテナ群を展開。
清瀬市にあった副受信所の一部は気象庁気象衛星センターとなっている。東久留米市域は東久留米団地として再開発されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C59-C2-41
昭和18年(1943年)06月27日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

この広大な敷地に、アンテナ群が点在していた。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:X1-C2-82
19410625S16

「海軍用地」の境界標石が2基残っている。
農道の脇にあり、非常にわかりにくいので、大体の位置は下記を参照で。


海軍大和田通信隊跡地(新座市)
門柱跡

フェンスの向こう側、「在日米軍大和田通信所」管理地内に、一対の門柱が残っている。
米軍がこのような門柱を作るとも思えないため、旧海軍時代の名残と思われる。

場所

https://goo.gl/maps/2mpdJSp5ZrbCcxaJ8


海軍大和田通信隊跡地(清瀬市)
「海軍用地」境界標石

現在の米軍敷地の北西、農道と農地に囲まれた場所に、2基確認できる。

海軍用地

第十七號

周辺に目印はない。。。

1基目の東側の農道に。

海軍用 (海軍用地)

右側のフェンスは米軍敷地。

裏面は摩耗して判別不能。

この界隈は、米軍用地と国有地と農地が入り混じっている。


海軍大和田通信隊跡地(東久留米市)

東久留米上の原。当時を偲ぶものは格別には残されていないが、「海軍大和田通信隊跡」を記録する看板が設立されいる。

東久留米市指定文化財 旧跡第6号
海軍大和田通信隊跡 上の原1丁目、2丁目
 昭和11年 (1936) に埼玉県北足立郡大和田町西堀に開設された旧日本海軍の外国無線傍受専用受信所の中心的な施設で、翌年に「東京通信隊大和田分遣隊」となり、昭和16年(1941)には「大和田通信隊」として独立しました。大和田町の受信施設を中心に、東京都北多摩郡清瀬村下清戸、同久留米村神山に及ぶ本隊、清瀬村中清戸の副受信所の3町村にまたがる広大な面積を有し、久留米村には字神山の平坦地に関連施設やアンテナ群が設置されました。久留米村部分の面積は明確ではありませんが、海軍施設所有地約 1.2 ヘクタール、アンテナ等敷設の海軍占有地約 200 ヘクタール程(現在の上の原一丁目、二丁目内)と推定されます。
 戦後、久留米村の用地の大部分は国有地となり、昭和37年(1962)に日本住宅公団の大規模な「東久留米団地」が建設されました。また、久留米村の通信施設の一部は米軍の「大和田通信所」の基地となり、その後、昭和38年から昭和52年まで運輸省航空交通管制本部として利用されました。現在、旧海軍通信施設としての遺構等は全く存在しませんが、上の原二丁目の南西より「海軍用地」の境界杭が発見されており、この地に旧海軍の施設が存在したことを記憶にとどめるため、戦争遺跡として旧跡に指定しました。なお、旧跡指定は東久留米市域のみです。
 東久留米市教育委員会

東京都東久留米市上の原1丁目6

場所

https://goo.gl/maps/cjNMtdqydHT5yUxL8


在日米軍大和田通信所

海軍大和田通信隊跡地の中心である新座市には、現在も「在日米軍大和田通信所」がある。

こうしてみると、実はフェンスに囲まれたエリア以外も「在日米軍大和田通信所」として米軍区域であることがわかる。周辺の農地や新座市総合運動公園なども米軍区域に含まれている。

周辺には、「防衛施設庁」境界標石が多い。
最初、「海軍用地」境界標石を探していた時に、何度騙されたことか。。。

昔は、界隈には海軍用地境界石が、まだまだ多くあったようだけど、今回、私が見つけられたのは、2基だけでした。。。


海軍無線電信所船橋送信所跡


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横沢入の戦車橋と地下壕跡(あきる野市)

東京都あきる野市に武蔵野の里山が残っている。
「横沢入里山保全地域」
静かな里山に、ひっそりと戦跡も混じっていた。

夏場は草が茂っていて観察には適さないであろうと考え、冬場に散策を。

武蔵増戸駅から約15分ほどあるけば、「横沢入」。案内看板も出ているので迷うことはないだろう。

横沢入保全地域
この地域は「東京における自然の保護と回復に関する条例」により指定された「横沢入里山保全地域」で、その自然を回復し。保護していく地域です。
 東京都

 マムシに注意!

豊かな自然には、マムシやハチなどもすんでいます。自然を良く知り、危険のないよう気をつけましょう。
東京都

正直言って、スズメバチとは遭遇したくないので、やっぱり冬場が推奨ですね。

横沢入の里山風景。

そして、里山に忽然と現れる戦跡。

陸軍立川航空工廠引田資材倉庫
地下秘匿地区

陸軍立川航空廠によって、軍用航空資材を疎開させるために、あきる野市横沢入に秘匿地区が設けられた。
地下壕は27箇所に及んだとされる。多くの地下壕は斜面を彫り込んで屋根をかぶせた半地下壕タイプが多く、間口2間・奥行5間半、高さは1間半から2間というものが多かった。
設置は昭和19年11月以降から昭和20年2月頃。陸軍64部隊(本部を増戸小学校に設けた)のおよそ100人での掘削であったという。
 ※参考→ http://a9akiruno.net/sennsei.pdf

戦車橋(東)

横沢川に架かる2つの橋。鋼鉄の骨組みを用いた頑丈な戦車の車体で作られている。
戦後に、農家が生活道路整備のために地下壕に残されていた残骸を用いて、橋の補強に使用したと言われている。
 ※参考→ http://a9akiruno.net/sennsei.pdf

「戦車橋」とは言われているが、使われたのは「戦車」ではなく「牽引車」、いわゆる砲兵トラクター。
「92式3頓試作牽引車」もしくは「94式3頓試作牽引車」とされている。

イメージはこんな感じ。
※ 参考→ https://www.ms-plus.com/72410

ただし、上記は「98式4屯牽引車」。
この戦車橋に使用された車体は、これよりもっと小さく、そして旧型であった。

東の戦車橋。

水路が代わったために、既に橋としては機能してませんね。

しっかりとした鉄の塊。
当時からのものと考えると、感慨深い。

水路にかかる現在の橋と、奥の戦車橋。

そのまま里山を奥にすすんで、西側の戦車橋に。

戦車橋(西)

見事な里山に同化する戦車橋。
こちらは水路の上に架かっており、現在も橋としてきちんと機能しております。


地下壕(地下壕跡)は、簡単にみつけられたのが、4つ。
東側から「1」「2」「3」「4」と振り分けしておく。

地下壕跡1

崩れてますね。。。

きけん
岩が落ちてきます
入らないでください

地下壕跡2

こちらも崩れてますね。。。

この先は、危険なので、立ち入らないでください。 
 東京都

地下壕跡3

おや、ここは「立入禁止」って看板がないですね。

ロープが備えられています。これは登れってことですね。

地下壕が開口してました。
おまけにハシゴまで備え付けられています。

ライトを照らしてみました。なぜかスコップが。。。
こんな急斜面な地下壕に、航空資材を秘匿したとは考えもつかないですが、火急時は平時の想像を容易く超えるんだろうなあ、と。

地下壕跡4

里山から林道に、景色がかわったところに。

なにやら塞いでるような。

柵がありました。こちらも開口してますね。

地下壕の内部を照らしてみました。


横沢入里山保全地域イラストマップ

里山の中心あたりに、イラストマップがありました。

戦車橋2つと、地下壕4つは、きちんとこの地図に書いてありましたので、散策がはかどり助かりました。
ご参考まで。

「戦車橋(東)」と「戦車橋(西)」。
そして2つの戦車橋の間に「地下壕跡1」。
「戦車橋(西)」の近くに「地下壕跡2」。

戦車橋(西)から歩道にそって「地下壕跡2」「地下壕跡3」「地下壕跡4」と並んでいる。


私は、そのまま林道を抜けて、武蔵五日市駅を目指してみました。

釜ノ久保
 ここは、釜ノ久保と呼ばれ、横入沢の源流部です。
  東京都

ここが「峠」

武蔵五日市駅に。

所要時間

武蔵増戸駅  0935
横沢入    0950 ~ 1050
釜ノ久保   1055
峠      1100
武蔵五日市駅 1120

場所

https://goo.gl/maps/RhwyMwqVyK1anZ1N9

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