戦後日本の航空産業は、時(とき)を止めていた。
そして終戦から7年後に、国産機の復活の口火を切ったのが「新立川飛行機」であった。
目次
新立川飛行機
戦前、中堅飛行機メーカーとして、「赤とんぼ」や中島飛行機「隼」のライセンス生産などを行ってきた「立川飛行機」。
終戦により、立川飛行機をはじめ、日本国内の航空産業はすべて停止させられた。
立川飛行機は、1949年(昭和24年)11月15日に企業再建整備法により、「立飛企業」と「タチヒ工業」(のちの新立川飛行機)とに分割された。
昭和20年(1945年)11月18日
「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」発令
連合軍による航空活動の禁止命令(航空禁止令)
昭和25年(1950年)6月25日、朝鮮戦争勃発。
昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条約
同年10月25日、民間航空再開。
昭和27年(1952年)7月、航空法及び航空機製造法が公布。
R-52型軽飛行機
昭和27年9月、飛行機制作が解禁され立川飛行機の技術伝承を目的に設立されていた第二会社「新立川飛行機」が、戦後最初の国産機「立飛R-52練習機」を制作。戦時中に作られた部品の寄せ集めではあったが、国産航空機生産は、「新立川飛行機」から始まった。
「R」は練習機を意味し、「52」は1952年型を意味する。
R-52は、戦前に試作していたR-38練習機をベースとしているため、戦前の航空機を再生産したような古い設計の飛行機であったが、それでも戦後の国産飛行機のはじまりには違いない。
R-53型軽飛行機
「R-53型軽飛行機」について
R-52の改良型として製作され、基本的な設計は変わらず、エンジンをイギリス製シラス・メジャー(155hp)に換装するなど改良が加えられました。同機は「R-52」と共に全日本学生飛行連盟に貸与され、日本一周飛行に参加しました。その後、一旦、航空大学校での練習機としての使用を経て1957年に新立川航空機㈱に返却されました。
機体概要
全長:7.5m、全幅:10.7m、全高:2.65m、最高速度:時速207km/h、上昇限度:4,500m
R-HM型軽飛行機
R-HM型軽飛行機はフランス人技師のアンリ・ミニエ氏指導の下1954年(昭和29年)に新立川航空機㈱で製作(機体番号:JA3094)され、同年に試作機の初飛行に成功しました。 当初は「空のジープ」として海外の飛行場が未整備の国に輸出する意向でしたが、操縦が難しい為、量産には至りませんでした。
機体概要
全長5.80m 全幅8.00m 全高2.00m 最高速度150km/h 上昇限度3,000m
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こうして、新立川飛行機は戦後、上記3機の飛行機を設計開発した。
修復作業
新立川飛行機が2013年にエンジン部品の製造部門を廃止することから、過去資料を残す意味合いから、保存されていた「R-53」と「R-HM」の修復作業が施された。
2020年から、「R-HM」のみ、立飛ホールディングスも経営に関わる立川市の複合施設「GREEN SPRINGS」に移され一般公開されている。
R-HM型軽飛行機の公開
R0HM型軽飛行機(機体番号:JA3094)
終戦と同時に禁止となった飛行機制作が1952年に解禁されて以降、立飛グループでは、飛行機制作技術の再興を目的に、戦後初の国産飛行機であるR-52型軽飛行機を含む3機の飛行機を製作しました。
3機のうちの1機であるR-HM型軽飛行機は、フランス人技師のアンリ・ミニエ氏が設計し、1954年に初飛行に成功しました。「プー・ド・シェル(空の虱)」の愛称で呼ばれた同機は、低速での飛行が可能な反面、高度な操縦技術が要求されたことから量産には至りませんでした。
2013年、立川における飛行機制作の歴史を地域の子どもたちにお伝えするために、長年立飛グループの倉庫に保管されていたオリジナルの機体を修復いたしました。設計図以外の資料が殆ど無い中、試行錯誤の末に修復された同機は、羽布を貼る工程等について、外部の専門家から高い評価を受けました。
機体諸元
全幅:8,000mm
全長:5,080mm
全高:2,000mm
最高速度:150km/h
上昇限度:3,000m
商業施設のいっかくに、飛行機が展示してある。
新日本立川航空機株式会社
タチヒ
R-HM型
場所
※撮影2022年6月