慶應義塾大学(慶応義塾大学・慶應大・慶応大)の信濃町キャンパスには、慶應義塾大学病院があり、そして、僅かながらに戦争の痕跡も残っている。
そんな、慶應義塾大学病院の周辺を散策してみました。
目次
慶應義塾大学医学部予防医学校舎
1929年(昭和4年)建設。
慶應義塾大学・信濃町キャンパスにおいて現存する鉄筋コンクリート造りの建物の中で、この予防医学校舎が最も古い建物となる。
1945年5月24日未明に受けた空襲で、慶應義塾大学医学部と病院を有する信濃町キャンパスは約1万5千余坪のうち9300坪を失った。
当時、木造建築物が多かったために病院の主要部分は焼失したが、予防医学校舎、北里記念医学図書館は鉄筋コンクリートであったために、焼失から逃れて現存している。





昭和20年5月24日25日の空襲
(山の手大空襲)
昭和20年(1945)5月24日は、東京の山の手地域と「3月10日の東京大空襲」で焼け残った町全体を目標として、525機のB29が渋谷・世田谷・杉並・目黒・大森・品川地域を爆撃した。
さらに、翌日の25日深夜には、まだ焼夷弾による被害を受けていない東京の残存地域を目標として、470機が高性能焼夷弾3000トンを投下した。被害は、山の手方面を中心に南多摩・北多摩にまでくまなく及んだ。
予防医学校舎に残る焼夷弾の跡
慶應義塾大学医学部予防医学校舎の車寄せに残る「六角形の焼夷弾の跡」。1945年5月24日未明に受けた空襲の痕跡。

M69油脂焼夷弾の六角形の形がしっかり残っている。まっすぐに叩きつけるように落ちた焼夷弾の衝撃を物語っている。
痕跡と思われるものを、すくなくとも3箇所は、確認できました。






六角形の焼夷弾「M69焼夷弾(M69油脂焼夷弾)」は、イメージとして下記の記事も参照に。
北里記念医学図書館
起工1936(昭和11)年6月5日
竣工1937(昭和12)年10月7日
慶應大学医学科を創立し「日本細菌学の父」とも呼ばれる北里柴三郎を顕彰するために1937年(昭和12年)に北里記念医学図書館として、建設された。



慶應義塾大学食養研究所跡(食研跡地記念碑)
慶應義塾大学食養研究所(食研)は、1926年に医学部内に設立された研究機関。空襲の戦災を耐えた食養研究所であったが、1990年(平成2年)建物は解体された。外壁の一部が残され、記念碑が建立された。

往時の食研外壁
平成2年11月解体

食研跡地記念の碑
塾祖福澤諭吉が唱えた食養の概念を具体化するため、大正15年(1926)益田孝ら財界人の厚意によりこの地に慶應義塾大学医学部食養研究所(食研)が設立された。
研究所主任に大森憲太が就任し、栄養増進、食事療法およびビタミン学の研究を行った。昭和2年(1927)臨床と基礎の共同研究を推進すべく、小林六造のもと臨床最近研究室が併設された。食研は第二次世界大戦の戦火を免れ、大学の研究の灯はここに守られた。また中央検査室も食研に始まった。
その後も食研は、慶應医学はもとより日本の医学の発展に大きく貢献し、平成2年(1990)11月27日その幕を閉じた。

地域文化財
第51号
慶應義塾大学食養研究所跡
食養研究所は大正15年に、日本の人口·食糧問題の解決や患者の食事療法
の研究を目的として慶應義塾大学医学部に設置された。鉄筋コンクリート3階建ての研究所が建てられ、大森憲太を中心に栄養増進、食事療法、ビタミン学の研究が行われた。平成2年廃止となり、現在は「食研跡地記念の碑」が建つ。
新宿区

慶應義塾大学病院

となりには、信濃町煉瓦館。これはこれで、興味深い建造物。


信濃町の陸軍境界標石
(陸軍第一師団輜重兵第一大隊)
陸軍第一師団輜重兵第一大隊の境界標石。
大正9年に慶應病院に用地が売却され輜重兵営部隊は郊外に転地している。
陸軍省所轄地

慶應義塾は1917年11月 四谷区信濃町の陸軍用地を購入し大学
医学部と病院の本拠とした。
本標はこの地が陸軍省所轄地であったことを示す境界石である。
2023年5月 慶應義塾

慶應義塾大学によって、案内看板が設置されておりました。


信濃町の南には、青山練兵場があった。
ざっと1時間もかからずに、ちょっとした散策が楽しめる「信濃町の戦跡散策」でした。

※撮影:2026年3月






