平成29年参拝
平成29年8月26日。
この日は、栃木県宇都宮市に鎮座している「栃木縣護國神社」を参拝。
宇都宮駅西口からバスで作新学園前下車。
すぐ隣が護国の社叢。
目次
栃木縣護國神社
祖国と郷土の為に身命を捧げられた栃木県関係の英霊55,361柱を祀る、かつての内務大臣指定護国神社。
「宇都宮招魂社」として明治5年(1872)戊辰の役に殉じた旧宇都宮藩主戸田忠恕公及びその臣下等97柱の英霊を祀ったことにはじまる。(旧地は二荒山神社隣)
明治8年、官祭招魂社。
昭和14年、栃木縣護國神社と改称。
現在地には昭和15年4月29日遷座。
終戦後GHQ占領下の昭和22年11月14日に彰徳神社と改称。
昭和28年4月2日には栃木県護国神社と旧称に復称。
平成8年7月25日には、
天皇・皇后両陛下が御親拝をされており
天皇・皇后両陛下が唯一公式に御親拝された護国神社とされている。
感謝と哀悼を捧げる
参拝を
社務所で女性の神職様から御朱印を頂戴いたしました。
(靖國神社の桜の御朱印帳に戴いております)
ありがとうございます。
西側の鳥居。
社号標は昭和15年3月建立。
樞密顧問官・陸軍大将 奈良武次謹書。
奈良武次は栃木県鹿沼市の出身。陸軍大将。開戦前の昭和14年(1939年)3月に退役している。
名木「宝の木」(猿の手柏)
推定樹齢300年
明治6年の土地改良があった際に、この珍木にちなみ界隈は「宝木村」と呼称。
明治39年に宇都宮第十四師団司令部(現在の国立病院の地)が設置された際に寄進。昭和57年に社頭に献木という。
役立たずの御柱
「役立たず」と思う物を「役立ち」に変えてくれる御柱。
厄だけは「やくたたず」で結構。
なかなか面白い趣向です。
御製
今上陛下御製
旗
広芝をうむる人群旗持ちて
振る音聞ゆ今日のよき日を
なんじゃもんじゃの木
ヒトツバタゴ
東日本で樹齢100年余りの「なんじゃもんじゃ」の巨木が3本も見られるのは珍しい、とのことです。
社頭のむかって左側には各部隊の「慰霊碑」が集められた「慰霊碑区画」があります。栃木の先人たちをお慰めしている慰霊碑へと。 ゆっくりと参ります。
忠霊塔
元宇都宮陸軍墓地(現在の東妙寺墓地)に眠っていた遺骨などを栃木縣護國神社境内の忠霊塔へと改葬したという。
栃木県東部ニューギニア会慰霊碑
魂
この慰霊碑は昭和44年の遺骨収集の際に遺骨とともに持ち帰られたニューギニアの霊石。
大東亜戦争中 原始未開の東部ニューギニア北岸一帯は陸軍は第十八軍(猛部隊)の隷下に属する第二十(朝部隊)第四十一(河部隊)第五十一(基部隊)の各師団及び第四航空軍(洋)船舶団(暁)など 海軍は第二十七特別根拠地隊を主とした部隊が南太平洋防衛第一線の中央拠点として懸軍長躯孤立無援の作戦環境であったにもかかわらず 純正無比 ひたすら祖国の安泰と平和を念じて食料彈薬の欠乏を意とせず 悪疫瘴癘の地に敢闘すること実に三年有余 この間その犠牲は優に十二万人に達し しかもその大半は宇都宮師団管区に属し これら忠勇なる郷土将兵の遺骨の大部分は戦後二十有余年彼の僻遠の山野に埋れておりましたことはその遺族 戦友会は勿論 県民の一大痛恨事でありました。
万死に一生を得て生還したわれわれ戦友は栃木県東部ニューギニア会を結成し予てよりの収骨慰霊の悲願を達成するため昭和四十四年秋 厚生省が遺骨収集団を派遣する機会にこれが協力団を派遣することを企図し その趣旨の徹底とこれが費用の募金を全県下に呼びかけましたところが期せずして県民総ぐるみの一大運動として共感を喚び 予期以上の浄財を得て 昭和四十四年十月三日より十一月四日に至る約一ヶ月間収骨団は幾多の悪條件を克服し 亡き戦友に無言の対面を遂げ弔慰の辞を捧げ収骨の悲願を達成いたしました。
碑上の巌石こそは団員がかっての戦場より持帰ったもので亡き戦友の凄絶なる死闘を物語る無言の戦史であり 戦友の面影に接する感一入のものがあります。
茲に永久に英霊の偉勲を讃え その冥福を祈ってこの慰霊碑を建てるものであります。
昭和四十五年三月二十二日
栃木県東部ニューギニア会 建之
会長 澤田芳見
戦友よ安らかに眠れ
第三十三師団第二百十四聯隊戦没者慰霊塔
吾が聯隊は昭和十四年三月白虎隊の精神を受継ぐ会津若松聯隊に於いて編成を終え勇躍一路支那大陸に出陣かん湘会戦を初め錦江作戦中原会戦続く普察冀辺区作戦など数次に亘る戦闘に参加その都度赫々たる武勲をたて大東亜戦争の勃発するや長駆南方戦線へ転進を命ぜられ泰国「バンコック」へ上陸泰緬国境の峻険を突破ビルマ戡定作戦に入るや破竹の快進撃を続け遂に敵の要衝「ラングーン」そして「エナンジヨン」の油田地帯を占領中部ビルマ一帯の掃蕩を完了数々の感状を受領。
然し十九年に入るや各戦線とも熾烈な反撃を受け作戦転換を余儀なくされた方面軍は「インパール作戦」を企図約十ケ師団二十三万の兵力を投入無謀に等しい戦闘にも拘らず聯隊はひたすら祖国の安泰と平和を念じ愛国の血と白虎魂を以って圧倒的優勢を誇る敵軍を動揺せしめた。
この間彈薬食料の欠乏と悪疫を克服斬込み肉薄攻撃など悪戦苦闘実に三年有余その犠牲は十八万人を数え而もその大半は宇都宮師団管区内に属し本県出身者も実に五六八五名の勇士がビルマの山野に再び還らぬ護国の鬼神と化したその尊い遺骨の大半は未だに異国の山野に埋もれ収集と慰霊塔の建立は遺族戦友は勿論国民の一大悲願であり吾等生存者一同の責務でもある。
昭和四十六年一月ビルマ戦跡慰霊巡拝の壮途に参加した増渕幹男氏は一同を代表して山野の英霊と再会碑の建立を誓い碑中に奉納すべく現地の仏像と戦場の石をひそかに運んだ。
聖域に南十字星輝くこの碑は亡き戦友の死闘を後世に伝える無言の戦史であり平和の希求である。
殉国の英霊願わくばとこしえに安らかに眠り給え 茲に吾等はその御遺功をたたえ聯隊の武勲を永久に顕彰するものなり。
昭和四十六年九月廿日
元支那、元ビルマ 遣第三十三師団歩兵第二百十四聯隊 生存者一同
鎮魂
昭和六十年十一月二十三日建之
北支派遣陣第二九九三部隊
独立歩兵第七十八大隊高陽一九会
鎮魂
明治天皇御製
身をすてて いさををたてし 人の名は
くにのほまれと ともにのこさむ
鎮魂
第三十三師團 山砲兵第三十三聯隊之碑
山砲兵第三十三聯隊は弓第三十三師團の師團砲兵として昭和十四年仙台及び高田において東北各県新潟県茨城県栃木県群馬県長野県の出身者をもって編成され中国江西省に出征
その後北関東及び長野県出身者を主とするよう変更され揚子江南及び黄河北方の大小の作戦に参加
昭和十六年暮から終戦までタイ国上陸後ビルマ進攻作戦インパール作戦イラワジ会戦等苛烈な作戦に参加輝かしい弓師團の戦斗に貢献しました
この間には一八九六名の戦友が尊い生命を捧げた事は痛恨の極みであります
ここに故友の遺烈を後世に傳える為この碑を建立します
平成三年三月十日
弓六八二五部隊山砲兵第三十三聯隊戦友会
軍馬慰霊 山砲兵第三十三聯隊
軍馬は、かけがえのない、我々の戦友であった。召されて故国を出て、中国大陸の南に北に、ついでタイ、ビルマ、インドと多くの作戦に参加し、重い火砲や弾丸を負い、暑さ寒さひもじさに堪えて働いてくれた。この間弾丸に倒れ或は糧食の欠乏と豪雨とにより、多くが戦陣に死し、戦い敗れて一頭も故国に帰ることなく、悉くが南方の土に帰した。ここに万斛の涙とともに聯隊千三百頭の無言の戦友の霊を弔う。
平成九年三月十日
山砲兵第三十三聯隊戦友会
慰霊 宝木会
宝木会は昭和二十五年旧歩兵第五十九聯隊並に東部第三十六部隊関係者により創設、英霊の顕彰と遺族の慰霊及び会員相互の親睦をはかり、毎年慰霊祭を実施してきた。
宝木会は護国神社参道、前庭、及び神苑に桜樹二百数十本のほか銀杏の木を献木、忠霊塔の修理参道の整備及び神社幔幕、錦旗、旗幟等を寄進し、また歩兵第五十九聯隊激戦終焉の地パラオ諸島より戦友の遺骨を収集、我が歩兵第五十九聯隊兵営跡に宇都宮歩兵聯隊跡の碑を建てた。
我々は大東亜戦争終結後早くから、祖国の安泰と発展のため殉ぜられた、先輩戦友諸士の偉大なる功績顕彰と英魂の平安を祈り、護国神社及び忠霊塔を中心と仰ぎ、神霊の尊崇敬仰慰霊に精魂を傾け、また日本の安全と平和を祈念してきた。
茲に本会並に関係者の意図と哀情を子孫がこれを理解し永えに継承されんことを念願し、創立三十周年を記念してこの碑を建立する。
昭和五十五年四月吉日
宝木会
慰霊
宇都宮第14師団・照集団 野砲兵第20連隊之碑
第十四師団砲兵として編成されるも島嶼防衛の為に部隊改編。
水戸歩兵第二連隊、宇都宮歩兵第五十九連隊、高崎第十五連隊等に転属。
パラオ本島に歩十五連隊、そして歩二はペリリュー島、歩五十九はアンガウル島に展開。
昭和19年7月20日、歩五十九連隊はパラオ本島防衛強化の為、ア島に後藤大隊を残置主力は本島に転進。
9月6日、米機動部隊来襲ペリリュー・アンガウル両島を猛爆艦砲射撃。
9月23日、歩十五連隊飯田大隊はペ島に逆上陸を敢行し玉砕…
野砲兵第20連隊が配属されたペ島・ア島。
ペリリュー島は11月24日「サクラ」「サクラ」を連送して玉砕。
ペ島砲兵隊関係戦死者五三六名。
アンガウル島には9 月17日に米軍来襲。
残留の後藤守備隊長は連隊本部との連絡も途絶えたまま二十倍の敵と対峙し10月19日玉砕と推察
野砲兵第二十連隊は明治三十八年満洲で創立凱旋後第十四師団砲兵として宇都宮に駐屯し茨城・栃木・群馬・長野四県より選ばれた壮丁で構成。
昭和十五年三十余年練武の地宇都宮からチチハルに移駐し関東軍の中核としてソ連軍の侵攻に備えた。
昭和十九年二月師団に動員下令。
島嶼作戦に適応した編成装備に改変し、水戸歩兵第二連隊、宇都宮歩兵第五十九連隊に砲兵各一ケ大隊を配属、高崎第十五連隊には個々に転属、編成外人員は全員他部隊に転出、馬匹はチチハルに残置し連隊は栄光に満ちた四十年の歴史を閉じた。三月大連出航、制空制海権共になき海域を奇跡的に無事パラオ到着。
本島に照集団司令部 歩十五連隊主力等を置き歩二連隊をペリリュー島、歩五十九連隊をアンガウル島に配備、硬いさんご礁に苦しみながら陣地構築に励んだ。
七月二十日歩五十九連隊はパラオ本島防衛強化の為、ア島に後藤大隊を残置主力は本島に転進。
九月六日機動部隊来襲パ・ア両島を猛爆艦砲射撃も加え連日続行された。
米戦史によれば上陸前三日間に十七万トンの砲爆弾を使用し島形変じ地上物件すべて飛散した。
九月十五日中川州男守備隊長以下一万の守備するペ島に上陸開始、大隊長小林与平中佐・常持良二大尉・天童隆大尉・大橋栄一大尉率いる各中隊の砲兵は第一波の海兵隊を猛射千名に壊滅的打撃を与え緒戦は勝利したが装備物量の差に加え四倍の敵に対し複郭陣地に依り抗戦、九月二十三日歩十五連隊は砲兵より転属した新井道彦大尉以下五九名を含む飯田大隊の逆上陸救援作戦も効果なく軍旗を奉焼して十一月二十四日「サクラ」「サクラ」を連送して玉砕した。
ペ島砲兵隊関係戦死者五三六名。
ア島には九月十七日来襲、後藤丑男守備隊長は連隊本部との連絡も途絶えたまま二十倍の敵と対峙し配属砲兵中隊長芝崎省三郎大尉以下一九七名高射機関砲隊柏原中尉以下三〇名も一致団結よく敢闘したが十月十九日玉砕せるものと推察される。
本島の近藤大隊・丸山・谷口両中隊では飢餓との戦いにより三三名・砲兵団神山大隊・小宮山中隊他三ケ中隊で六二名の犠牲を生じた。
遠い南海の孤島で家族の安泰と祖国日本の弥栄を念じつゝ激闘の末若い尊い命を捧げた亡き戦友達の霊を慰め其の業績を永く後世に伝えるべく遺家族・戦友の有志相集い深い感謝を込めここに慰霊碑を建立し御霊の安穏を祈念し奉る。
平成十九年十月 建之
英霊顕彰碑
山砲第三十三聯隊第四中隊
戦没勇士196柱
永遠に讃え祀らむ平和の礎
戦友の霊に
国破れて山河あり
先の大戦が終結し五十年の星霜は緑の大地は蘇らせることはできたが異境に眠る御英霊への思いは愈々つのるばかりである
時の流れと共に戦争の悪夢は次第に風化されたとは言え、戦争体験者にとっては脳裏に焼き付いた心の痛みは永遠に消えることはない
懐古すれば、長い歴史と伝統を誇る我が国は、千古の昔から瑞穂の国を標榜する住みよい国である
然るに昭和の時代に至るや俄に世界の風雲急を告げ、世界諸国連合は我が国に経済封鎖の包囲網を繞らし強圧したるも大和民族は断じてこれに屈せず国家の存亡を賭けて総決起し、万止むなく大東亜戦争開戦の悲運となる
この時代に生を享けた我等青年は、青春の全てを捧げ国難に立ち向かうべく、従容として戦地に赴き、幾多の戦線に従軍する
かくして緒戦を飾ることはできたが、凄惨苛烈な死闘に国力の差を乗り越え幾百万の同朋は尊くも犠牲という人類最悪の悲劇を蒙り終戦を迎える結果となる。
思えば、今なを戦友の多くは、中国の広野に万里異境のビルマの地で、そして白骨街道のインパール(印度領)の果てに無念の涙を流し、当地の守護神と化して山野に眠っている。
九死に一生を得た私共は、祖国再建と平和国家実現に最善を尽すことが亡き戦友への供養であろうと確信し、その道を歩み続ける。
今や日本は苦難の道を乗り越え、戦争を放棄し、自由と平等の下教育文化は言うに及ばず経済大国として世界に誇示する迄に至る。
これぞ、まさしく悠久の大義に殉じられ、平和の礎となられた御英霊の賜である。
この時に及んで中隊戦没勇士の御尊名を深く刻み、ここに顕彰の碑を建立し、その偉業を声を大にして子子孫孫に伝えんことを我等一同お誓いするものである。
平成八年(一九九六)五月十六日
復員五十周年記念日建立
弓山砲山四会生存者一同
忠魂碑
栃木県立宇都宮商業高等学校同窓会
陸軍大将従二位勲一等功三級男爵奈良武次書
昭和9年1月、栃木県立宇都宮商業学校同窓会
昭和30年4月、 栃木県立宇都宮商業高等学校同窓会
満洲事変戦死者及び支那事変戦死者・大東亜戦争戦死者の名が刻まれている。
白鹿丸遭難之碑
昭和十九年十月十八日
コレヒドール沖合
兄小田尚命は、さきの第二次大戦において陸軍少年飛行兵を志願し
昭和十七年四月東京陸軍航空学校に入学
昭和十八年3月同校卒業同年四月陸軍航空通信学校(水戸)に入学
翌住区年七月同校卒業
第三航空軍に配属されその任地に赴くにあたり瑞穂丸に乗船
同年九月二十一日比島周辺で沈没、護衛駆逐艦に救助された
その後白鹿丸に乗船、少年飛行兵第十四規生(甲)二十一名を含む軍人約二千名と軍需品を積載
船団を編成してマニラから、シンガポールに向かい航行中十月十八日午前七時五十分ごろ東経一一九度五一分、北緯十四度〇四分地点で敵の潜水艦により撃沈され 名誉ある戦死をとげた
正に弱冠十九才
ここに兄の戦績を偲び文碑を建立した
平成十六年十二月八日
小田信明(博)「九百九十九日の青春」に基づいて編集
第十四期生甲 大曽根 敬雄 小田 清子
慰霊碑区画の反対側。
御社殿の向かって右側にも幾つかの碑が集まっておりましたので、そちらにも参りましょう。
境内社
日本赤十字社殉職救護員慰霊碑
栃の木かげに還る
この碑は日華事変から大東亜戦争にかけて日本赤十字社栃木県支部所属救護員として応召し黄塵と酷寒の大陸や、灼熱の南方地域に派遣されあるいは浪荒き海を海上輸送の任務について戦傷者の救護に献身し、若く尊い命を捧げた殉職救護員二十六名の清く凛々しい姿をしのびみたまを慰めるとともに、永遠の安らぎと世界平和の深い祈りをこめて建立し、その遺徳を後世に伝え師表と仰ぐ資とするものであります
昭和五十三年十一月八日
日本赤十字社看護婦同方会栃木県支部
特攻勇士の像
私たちは決して忘れない
かつて太平洋戦争の末期、敵の圧倒的戦力を阻止しようと爆弾をかかえ、あるいは魚雷を抱いて、敵艦等に体当たりを敢行した特攻隊員のことを 。
祖国の安泰を信じ、太平洋の陸に海に空に散華した特攻隊員は、全国で実に五千八百余柱、本県で九十四柱に及ぶ。
このたび、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会寄贈の「特攻勇士の像」を 多くの県民の浄財によってここに顕彰碑として建立することができた。 特攻隊員の崇高な美挙が、この碑によって永遠 に語り継がれることを願うものである。
平成二十二年八月十五日
栃木県特攻慰霊顕彰の会
満洲開拓青年義勇隊慰霊碑
我等は若き義勇軍 祖国の為ぞ鍬とりて 萬里涯なき野に立たん
今開拓の意気高し 今開拓の意気高し
満洲開拓青少年義勇隊は昭和十二年に創設され、十四歳から十九歳までの青少年が、茨城県内原訓練所を経て満洲(中国東北地方)に移住し、前後三年間、各種の訓練に従事しつつ北方守備の一翼を担ったのである
当時政府は、民族協和、王道楽土、第二の祖国建設等の政策を掲げ、全国の青少年がその国策推進に協力することを奨励した。
この政策に夢と理想を見出した幾多の純粋な若い魂は、進んで義勇隊に入り、内原での厳しい訓練に堪えて渡満した。この数全国で九万余、本県からも二千数百余名が応じた。
この間義勇隊の訓練と生活は言語を絶するものがあったが、夢と使命感を秘めていた拓友は、酷寒猛暑を克服してひたすら開拓の鍬を振るい、初志貫徹のため日夜精励した。そしてその苦闘も報いられ、理想郷の実現する日も近くにあるやに思っていた。
しかるに昭和二十年八月、敗戦という過酷な現実に、若い情熱と努力の結晶は水泡に帰した。その後の苦難は筆舌に尽くし難く、酷寒と飢餓、病魔に侵される悲惨な日が続き、斃れて若い生命を奪われたもの、本県のみでも三百六十余名に及んだ。
幸いわれわれは、励まし合い助け合って九死に一生を得、なつかしい母国の土を踏むことが出来たが、大陸の広野に空しく消えた拓友を忘れることは出来なかった。
ここにかれらの魂魄を故郷に幾久しく鎮めるため、生還し得た本県の有志が相集まり、相謀って、聖なるこの地に慰霊碑を建て、その冥福を祈念するものである。願わくば友よ、安らかに眠られんことを。
鎮魂賦
少年雄叫ぶ満洲の原
戦い敗れ辛酸言うに耐えず
八百の青雲興国の志
故郷の山は英魂を鎮めんと欲す
昭和四十七年十一月十二日
元満洲開拓青年義勇隊
慰霊碑建設協議会建之
防人の歌 (万葉歌碑)
昭和15年1月10日、栃木縣教育會建立
火長今奉部與曽布の歌
今日よりは顧みなくて大君の
志このみたてと出で立つ我は
樞密顧問官陸軍大将従二位勲一等功三級男爵奈良武次書
西側の「鳥居の外側」になにかいました。
「夢福神」
栃木県内では「夢福神・九難除け至福神社めぐり」というものが有るんですね。
栃木県護国神社の散策は以上にて。
栃木県護国神社サイト
栃木県護国神社・慰霊碑のご案内
あぁ、見逃しがあるのが判明しました・・・再訪ですね。
・平和の門( 基第二八〇二部隊(歩兵第六十六聯隊) )
・憲兵之碑
〆