「笹井戦災の跡」笹井白鬚神社と狭山に残る「奉安殿」流用の神社散策

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

埼玉県狭山市。
入間川の北、笹井地区に鎮座する「笹井白鬚神社」に戦災の跡が残るというので、足を運んでみました。あわせて、狭山市内の奉安殿を流用した建造物も散策してみました。


笹井戦災の跡(笹井白鬚神社)

狭山には「入間基地(豊岡陸軍飛行場)」があり、当時は陸軍航空士官学校もあった軍事拠点であった。
昭和20年5月25日夜中(26日午前0時30分ごろ)の空襲によって、水富村笹井(狭山市笹井)から豊岡町黒須(入間市春日町)にかけての空襲では、5000発ともいわれる焼夷弾が落とされ、死者13名、負傷者10名、罹災者69家族346名にのぼったという。
この空襲で笹井白鬚神社は、拝殿や社務所を焼失。しかし幸いにして、本殿は焼失を免れ、本殿奏上門は手前の破風が焦げたが全焼は免れた。
奏上門の破風には、焼け焦げた跡が、往時の戦争の記憶を伝承するために今も残っている。

破風に残る焼け焦げた跡。焼夷弾の被害を物語る。

反対側は、類焼の被害なく。

対比させると、状態の違いが良くわかる。

笹井戦災の跡地

笹井戦災の跡地を示す標はあるが、細かい説明は無かった。せっかくなので、破風に残る焼け焦げた跡を解説する案内が欲しいところ。(今は知る人ぞ知る、、、になっているので)


笹井白鬚神社

創建年代は不詳。
古くより笹井村の氏神として崇敬され、文明19年(1487)聖護院29代門跡道興准后が関東方面を巡錫の折、当社の別当寺観音堂に滞在し、当社を拝礼し、御神木銀杏を手植えされたと伝承。
この御神木は明治11年9月13日の暴風により倒れたため、現在は若木が植えられている。
明治5年、明治社格制定で、村社に列格。
昭和20年5月25日戦禍にあい、文政8年(1825)に再建された拝殿及び社務所(建立年代不詳)を焼失。
社務所は昭和22年ごろ再建され、拝殿は昭和41年氏子一同の浄財をもって再建。


せっかくなので、狭山市内の奉安殿流用の建造物も散策。

奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、のちに被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされているものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社の社殿などに再活用もされ、現在に残っている例も多い。


水富神社(水富国民学校奉安殿

御社殿は、もと水富小学校奉安殿。
水富小学校にあった奉安殿を、戦後に広瀬神社に移築し、日清・日露戦争以降の戦没者の御霊を旧奉安殿に招魂社・水富神社として祭祀。
その後、昭和28年4月10日、旧奉安殿を現在地に移転。

水富神社の由緒
一、当神社は招魂社として水富小学校の校庭の築山に忠魂碑、戦勝記念碑等が祭られておりました。
  昭和28年に地元有志により当地に建立されました。
二、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争で日本国を守り、郷土の安泰を願い、尊い生命を捧げられた方々、笹井地区に焼夷弾が投下され戦災に遭われた方々をお祀りする。
三、例祭 4月22日
  水富神社奉賛会

水富小学校


入間招魂社(入間小学校奉安殿)

昭和15年入間小学校内に建立された御真影奉安殿を昭和20年12月15日付をもって公布された神道指令にもとづき解体。
建物は金剛院の土蔵に、礎石は入間野神社に保管していたが、昭和25年4月15日、これを再建し、日清戦争以降の英霊126柱を招魂して、入間招魂社としたものであり、その後38柱を合祀。
祭神:日清戦争以降の戦没者164柱

狭山市サイト

https://www.city.sayama.saitama.jp/manabu/dentou/jinjya/iriso_chiku/irumasyoukonsya.html

なお、入間小学校は、明治5年(1872年)の明治新政府の学制令発布により「入曽学校」として創立。明治22年に「入間尋常小学校」となった、歴史ある小学校であったが、創立137年の2011年に駅前再開発の影響等により閉校。
閉校後、建物はすべて解体となっているため、「入間小学校」としても、唯一ゆかりの建造物となる。入間小学校の跡地は、イオンショッピングセンター「そよら入曽駅前」となった。

入間招魂社(いるましょうこんしや)
 日清戦争(一八九四)より大東垂戦争(一九四一)に至るまで、この地から多数の青壮年が出征され、祖国のため勇敢に戦い殉国されました。
 生命を捧げられた百六十四柱を、昭和二十五年(一九五O)四月十五日、旧入間村は戦後に解体保管されていた奉安殿を入間招魂社として復元、ここに御祀りしました。
 時代は変わり行くとも平和の礎として、国の安稳と御魂の安らかなる鎮座を、永遠に祈念するものである。
  令和元年十月
   入間遺族会
   入間奉賛会

「16紋菊の菊花紋章」。皇室の紋章が奉安殿の流用であることを物語っている。

下には「五七の桐紋」。
「16紋菊の菊花紋章」と並ぶ、最高位の紋章。

屋根の鬼瓦には、紋章がない。
奉安殿時代は、ここにも菊の御門が掲げられていたのでは?と推測。

社号標は昭和57年4月10日の建立。
靖国神社宮司・松平永芳氏の謹書。松平永芳氏は祖父が松平春嶽にして元海軍軍人(海軍少佐)陸自1等陸佐。昭和受難者(いわゆるA級戦犯)の靖国神社合祀を実施した宮司。

入間招魂社
靖國神社宮司 松平永芳  

御祭神として日清戦争以降の戦没者164柱を祀る。

明治三七八年戦役記念碑
 希典書

忠魂碑
 大正四年二月建立 入間村

明治三七八年戦役は、日露戦争の慰霊碑。
忠魂碑も時期的に日露戦争と思われるが、第一次世界大戦関係もありそうだ。どこからか、移転されてきたのだろう。


入間野神社

建久2年(1191)の鎮座。旧号を国井神社と称し、後に御岳大権現と称した。
明治元年社号改正につき、御岳神社と改称。
明治40年5月3日、浅間神社、神明社、天神社、稲荷社を合祀。
明治44年6月、両村社を合祀し、社号を入間野神社と改称。

狭山市サイト


入間川神社(入間川国民学校奉安殿)

別記事にて掲載。

狭山市駅から西の高台に鎮座している古社。新田義貞ゆかりの八幡神社の境内に鎮座している地元の犠牲者を祀る護国神社は入間川神社として、祭祀され...

※2026年5月撮影


関連

埼玉県狭山市の広瀬神社(廣瀬神社)。延喜式内社(延喜式神明帳・武蔵国式内四十四社のうちの1社)の古社としても知られる神社。私の記録(思い出...
埼玉県入間市。入間市で有名なのが「狭山茶」、隣の狭山市にあるのが「入間基地」。入間と狭山は地名が交差していてややこしい。この地にあった飛行...
川越を歩いていたら「御野立の森公園」という公園があって、「おっ」と思い、なんとなく写真を撮っていました。(実はラーメン二郎・川越店に行く途...
2025年の冬に。入間基地内の「修武台記念館」を見学させていただきました。修武台記念館内は、撮影可能であってもSNS等の写真公開は禁止、ま...
2024年11月の入間基地航空祭に際して、旧陸軍航空士官学校時代の倉庫が5棟残っているというので、航空機はそこそこに倉庫の見学をしてきまし...
  • このエントリーをはてなブックマークに追加