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「領土・主権展示館」我が国固有の領土の歴史と領土・主権を学ぶ

先日、近くを通りすがったので、せっかくなので足を運んでみました。

虎の門三井ビルディング

東京都千代田区の虎の門三井ビルディングの1階に。
奇しくも、「領土・主権展示館」と「日本一おかき処・播磨屋本店(東京店)」が同じビルに同居していました。空間としての濃厚度は、ある意味で最大級に熱量が高いエリア。


領土・主権展示館

日本の領土と主権を学ぶことができる展示館。
近現代史における日本の領土を歴史的に国際法上に知ることができ、そして先人たちの苦労を学ぶとともに、我が国固有の領土を日本政府の公式見解とともに、あらためて正確に理解できる展示館。
これは一見の価値ありです。

公式サイト

https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/tenjikan/index.html

領土主権展示館」は、北方領土・竹島及び尖閣諸島が我が国固有の領土であることを示す歴史的資料や人々の営みを示す資料をまとめて紹介する初めての国の施設です。

領土・主権展示館
展示の目的

世界のすべての国家は、領土をもち、そこには国家の主権が及んでいます。
日本にも領土があり、そこには日本の主権が及んでいます。

主権とは、国家が時刻の領域において有する他の権力に従属することのない最高の統治権のことであり、国家の基本的な地位を表す権利を意味します。

しかし、日本の領土でありながら、このような権利の一部を事実上行使できない場所が二つあります。
北方領土と竹島です。

また、日本の領土のうち、尖閣諸島については、領有権の問題はありませんが、周辺海域における情勢が複雑化しています。

北方領土、竹島、尖閣諸島は、いずれも、一度も他の国の領土になったことがない日本固有の領土です。

領土・主権展示館では、これらを含む島々について、歴史を振り返りながら、日本が領有する根拠、他国・地域の主張や行動、それに対する日本の対応や考え方を説明していきます。

北方領土

竹島

尖閣諸島

正月明けにいきましたので鏡餅といっしょ。

エリカちゃん(北方領土のイメージキャラクター)
りゃんこ(竹島のイメージキャラクター)
アルバちゃん(尖閣諸島のイメージキャラクター)

https://www.cas.go.jp/jp/ryodo/kids/index.html

これは腰を据えて時間に余裕があるときに、しっかりと見学しなければ、です。

エリカちゃん(北方領土のイメージキャラクター)
「ロシアとは、戦後70年以上も領土問題が解決していないのか」

りゃんこ(竹島のイメージキャラクター)
「韓国は、裁判にも応じようとしないんだね。日本は、国際法にのっとって解決しようとしているのに、意図的に無視しているのか。」

アルバちゃん(尖閣諸島のイメージキャラクター)
「中国が尖閣諸島をめぐる独自の主張を始めたのは50年前なんだね。だけど、500年以上も前から領有しているなんて言っているのか」

いろいろいただくことができます。
充実の資料。

ありがとうございます。またきます。


江戸城外堀跡 溜池櫓台跡

この界隈は、江戸城の外堀。虎の門というぐらいだし、ねえ。


日本一のおかき処 播磨屋本店

東京店が、領土・主権展示館のとなりに。

はい、おかき、美味しいんですよね。

サイトとかトラックとか、いろいろ云われているけど、
おかきは美味しい。

公式サイト

https://www.harimayahonten.co.jp/

※2023年1月撮影

宮内庁庁舎(旧宮内省省舎・昭和10年/1935年竣工)

年に数回、宮内庁庁舎を見る機会がある。
具体的には、新年一般参賀と 天皇誕生日一般参賀の帰路に見る機会がある。誕生日の日は午後から記帳もあり、その時にも見ることができるので、2023年2月23日の 天皇誕生日一般参賀午後の記帳に足を運んできた。(一般参賀は抽選となり気楽にいけなくなってしまった、、、)

宮内庁庁舎

かつての旧宮内省庁舎。現在は宮内庁舎として使用。
昭和10年(1935)に竣工。
戦前の宮内省は、1官房2職8寮2局13外局と京都事務所を持ち、職員6200余人を擁する巨大組織であったが、戦後は、分離独立などをして機構を縮小した。
昭和22年(1947)に宮内府となった際は、1官房3職4寮と京都事務所で、職員も1500人弱となっている。

昭和24年(1949)、宮内省は廃止され、総理府外局の宮内庁となる。
昭和27年(1952)3月に宮内庁庁舎の3階が改装され、昭和43年の新宮殿落成までの間、仮宮殿として使用されていた。
昭和27年11月10日の立太子の礼の際には、宮内庁正面玄関上のバルコニーにて、一般参賀があった。

平成13年(2001)に内閣府により、宮内庁の組織改正があり、1官房5職2部と京都事務所の体制となっている。

天皇誕生日一般参賀の記帳

以下は、2017年01月02日の撮影。

残念ながら、中に入る機会はない。。。

富士見櫓

江戸城遺構として残る唯一の三重櫓。1659(万治2)年の再建。

旧枢密院庁舎(皇宮警察本部)

大正10年(1921)に完成した枢密院庁舎。非公開。木々の隙間から建屋がほんの少しだけ垣間見ました。。。裏側、、、こちらも非公開のために近くで見るすべがない。。。

しょうじき、見れたと言えないレベルですが。。。


大手門

昭和20年4月の空襲で焼失。鯱は焼け残った。

大手門。昭和42年復元。

※2023年2月撮影


関連

上田中坑道陣地(速射砲防御陣地)跡の散策(東金市田中・法光寺)

東金市の寶珠山法光寺。
寺院墓地の裏山に、かつて速射砲陣地があった。

砲室から外を望む。


法光寺

東金市田中鎮座。日蓮宗寶珠山法光寺。
江戸時代に完成した灌漑用貯水池である雄蛇ヶ池の近くに鎮座。

法光寺の裏山に、速射砲陣地があった。

本堂は、令和元年の房総半島台風により全壊し、その後、再建された。

場所

https://goo.gl/maps/RKvSkJT7goNLSN6R8


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-109
1947年2月22日、米軍撮影の航空写真。一部加工。

上記を拡大加工。
ちょうど、上田中の谷間を貫く国道126号が、外房から内房にアクセスする幹線道路であることがわかる。東金台地の南端に、御殿山観測所を設け、後背地には東金拠点陣地群が展開。
そして、西に御蛇ヶ池を控える独立した丘陵である上田中速射砲陣地が、東の大豆谷と北の由井と連携することで、上陸してくる戦車部隊に対する強力な防御陣地であった。しかし、敵中に取り残され後退場所がない上田中の陣地は、そのまま全滅することも予想に固くない。


上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)

陸軍は本土防衛・首都防衛をするに際し、連合軍の上陸地点として、相模灘・九十九里浜を予測していた。
九十九里浜には、砂浜には蛸壺陣地、丘陵地帯には洞窟陣地を構築し、迎撃体制を整えるなかで、この東金上田中は、近衛歩兵第10連隊独立速射砲中隊が工事を請け負い、独立第二四速射砲中隊の四七ミリ速射砲が配備される計画になっていた。


上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)跡を法光寺墓地から

上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)を墓地から見学してみる。

すでにいくつかの横穴がありますね。

ブロック塀で塞いである横穴も。


上田中坑道陣地(上田中速射砲防御陣地)跡を坑道内から

戦後も、上田中の洞窟陣地の坑道は一部が残存。現在も墓地の端の方に、一箇所だけ開口している箇所がある。法光寺の庫裡に見学を申し入れれば快諾していただける。

それでは、洞窟陣地、見学してみます。

懐中電灯は必要。見学用には整備されていないので、洞窟内には灯りはない。

「カメ(甕)」が落ちてました。昔は便器で甕が使用されていたけど、違うよね、きっと後世、、、

振り返り。

おや、昔は甕は便器とか言っていたら、今度はほんとに便器だし。

突き当り。弾薬庫かな。

瓶がたくさん。

全体的に砂っぽい洞窟。細かい砂が積もっている。

47mm速射砲砲室。上田中で唯一完成した砲室。

冷蔵庫がある。

竹が生えている。

洞窟に生える竹、なかなかの生命力。

砲室から外に出てみた。もうひとつ開口部があった。

祠もあった。

隣の開口部は倉庫みたい。どこにもつながっていない。

もとの砲室から、洞窟内に戻る。(砲室の外は民家に裏に繋げっている模様)。

左側に進む。

明かりが見える。

表は、さっきの墓地ですね。

中に戻る。

これも弾薬庫かな。

こっちは土砂が流入している。埋まってますね。

外の灯りが見えます。
開口部砲室になるはずの部分。こっちは作りかけ。

竹に覆われている。

スタート地点に戻ってきました。

そんなに広くはないけど、なかなかおもしろい空間だったため、気がつけば20分くらい散策してました。

法光寺の裏山。速射砲陣地を攻勢側の目線でみるとこんな感じ。実際にはこの山を左手に進軍することになるので、側面射撃を食らうイメージ。


大豆谷坑道陣地?

ちなみにバス停(台方一丁目)の近くも、穴がありました。
もしかしたら、上田中と相対する位置関係で連動していた大豆谷坑道陣地に関連する開口部かもしれませんが、遠望のみで。

場所

https://goo.gl/maps/kwsiDa4B3feaD46F6


東金駅

行きは東金駅から歩きました。ちょっと後悔する距離感。
帰りは近くのバス停(台方一丁目)から東金駅に戻ってきました。千葉と東金と成東を結んでいる路線バスが、1時間に1本前後走っているので、状況によっては、東金駅でJR東金線を使用するよりも、バスのほうがアクセス事情が良好かも。
まあ、そもそも公共交通機関で赴くのは不利ですが。

東金駅は歴史が古く、開業は明治33年(1900)。

かつて東金駅から九十九里浜の片貝駅までを結んでいた九十九里鉄道は大正11年(1922)開業、昭和36年(1961)に鉄道を廃止しバス事業に専念。
太平洋戦争中は、ガソリンの入手が困難な中で、気動車の燃料を沿線地域の片貝付近の地下で採取した天然ガスで動くように改造して代用することによって運行を継続という逸話を持つ。

東金界隈は、御殿山観測所のリベンジもありますし、東金飛行場跡(豊成飛行場跡)もありますんで、また再訪します。

※撮影:2023年2月


関連

八鶴湖周辺の近代史跡散策(東金市)

千葉県東金市。
東金から上総一ノ宮の外房地区、すなわち九十九里浜は、米軍上陸に備え、本土防衛のために展開した近衛第3師団の陣地構築が盛んに行われた場所。戦跡も豊富にある。今回は東金の八鶴湖周辺にある戦跡を散策しようとしたが、結果として、目的地に立ち入りできなかったので、再訪が必須となってしまいました。本記事は「封鎖されてますよ!」という、今(2023年2月現在)の状況報告も兼ねています。


東金御殿山観測所跡・防空壕跡

東金城のあった御殿山には「観測所」や「防空壕」があった。

しかし、現在は立入禁止。東金城址に入れないと、砲台観測所跡にもいけない、、、

東金市指定文化財 東金城址
※東金城址は現在、令和元年台風15号の影響により、史跡内の見学はできません。ご了承ください。

東金市(https://www.city.togane.chiba.jp/0000000463.html

現在、東金城址は倒木の影響により立ち入り禁止となっています。今後の立ち入りの再開は未定となっています。ご理解ご協力をお願いします。

東金市観光協会(https://www.toganekanko.jp/2021/11/7611/

入り口は固く閉じられている。
物理的に門の脇から強行突破できそうな雰囲気はあるが、もちろんそんなことはしない。いつの日か、再開されることを願い、引き返す。

令和元年房総半島台風(2019)の倒木の影響で東金城址は立入禁止となっております。

東金城址、東金御殿。
九十九里平野の中心都市であった東金。戦国時代は東金城、そして江戸時代には徳川家康の鷹狩り場として、東金御殿が設けられていた。
船橋から東金までの直線が、いまも「御成街道」として残っているのも、その名残。

東金高校の脇から。

東金城址碑


八鶴湖

徳川家康が東金御殿を築造した際に、拡張した人口の御殿池。東金御成街道の終点。


八鶴湖畔の慰霊碑群

湖畔にはいくつかの慰霊碑が集まっている。

忠勇の碑

旧山辺郡出身者444名と旧武射郡出身者282名の従軍記念碑。明治29年9月建立。

忠魂碑

旧東金村出身の日露戦争の戦没者46柱を祀る。
川村景明書。日露戦争時の陸軍大将・鴨緑江軍司令官。
大正11年11月建立。

大東亜戦争 旧東金町出身の戦没者の碑

満州事変から太平洋戦争までの英霊276柱を祀る。
昭和27年4月建立。


八鶴亭

明治期創業の旅館。関東大震災後の大正から昭和初期にかけて建てられた建造物が国指定重要文化財となっている。
2006年に旅館としては経営破綻し、現在は日本料理屋として生まれ変わっている。

本館

浴室棟

新館

ビリヤード棟


千葉県立東金高校

徳川家康の千葉御殿の跡地にある。
千葉県第二の高等女学校であった東金高等女学校が前身。

明治45年の東金高等女学校時代の作法室と正門画残る。

はい、東金城址にはリベンジしないと、です。。。

※撮影:2023年2月


関連

日立航空機大網地下工場跡地の散策(大網白里市)

千葉県大網白里市。
この地にかつて日立航空機の疎開工場があった。

大網駅から小湊バスで「宮谷」へ。このあたりは文字通り「谷」が多いが、再開発で切り開かれている。このバスの終点は、「みどりが丘車庫」。土地区画整理事業により、大規模な土地基盤整備が行われた。それに伴い、大規模な道路も切り開かれ、戦時下の地下工場跡もだいぶ消失している。
ちなみに「宮谷」は「みやざく」と読む。


日立航空機千葉工場大網地下工場

日立航空機株式会社は、昭和14年(1939)5月に、日立製作所から分離独立。
1941年(昭和16年)1月から終戦までの間に航空機(練習機)4機種1,783機とエンジン14機種13,571基を製造。

日立航空機千葉工場は、昭和10年(1935年)に、海軍航空本部長であった山本五十六の航空産業拡大要求に応じて建設された」工場。蘇我の埋立地で昭和17年(1942年)に操業開始。昭和19年に空襲回避の疎開として、大網に大規模な地下工場を建設。工事進捗40%で終戦を迎えた。
日立航空機千葉工場は、千葉空襲(昭和20年6月10日及び7月7日)で攻撃を受けたが、工作機械は大網に疎開が進んでいたために、生産能力への影響は軽微であった。


日立航空機大網地下工場・第1工場跡

宮谷の谷戸に開口部がある。周辺は谷の地名が多く「宮谷」「名谷」「安楽寺谷」「真行谷」「相ノ谷」「門ノ谷」などがあり、大網地下工場は、広域に4箇所に分かれて展開されていた。

第1地下工場の北側に開口部と解説板がある。

戦蹟 日立航空機大網地下工場跡
 日立航空機(株)千葉製作所大網工場の建設工事は、昭和19年12月頃に開始された。その背景には、第二次世界大戦で日本の戦局が悪化し、10月に千葉市にあった同工場が空襲を避けて、大網に疎開計画を立てたことに始まる。
 施設は、地下・半地下の二種類あり、地下工場は海抜30~70m程の笠森層に造られた幅4m、高さ4mの蒲鉾[かまぼこ]型の施設で、五か所の工場に分けられ総延長3kmであった。半地下工場(伏土[ふくど]工場)は、間口10m、奥行き20~30mで厚板を五重六重に張り、土砂で覆い、芝や草を植え擬装した。実際に三十数箇所の施設が確認されていたが、残念ながら現存していない。『米国戦略爆撃調査報告書』には、「本格的に製造が開始されると日本でも優れた工場の一つになったであろう」「地下・半地下工場共に各二箇所が稼働していた」ときさいされている。この施設では、海軍零式戦闘訓練機(機体)と発動機(航空エンジン)の部品が生産された。
 工場の建設は、軍・日立航及び大林組の三者により厳しい統制下で行われた。軍の設営隊や社員・工員の他に婦人会や大網国民学校(現大網小学校)の児童までがもっこ担ぎ等の勤労奉仕に従事した。特に工場建設のために雇用された数百人におよぶ朝鮮人の強制労働によって行われていた。
 戦時における我が国は、アジア諸国やその他の人々に甚大な禍害を加え、自らも多大な被害を被ったことを決して忘れてはならない。
 戦争という悲惨な行為を二度と繰り返すことの内容「地球は一つ」「生命の尊厳」更に「恒久平和」への願いを込め、この戦蹟説明板を設置した次第である。
 二〇〇〇年八月
  日朝友好大網白里町民の会
  大網白里町教育委員会
  ※文章・団体名は看板作成当時のまま

1992年の調査。

場所

https://goo.gl/maps/Cu7acvAPRza9bCeK7

日立航空機大網地下工場(第1工場)の左の開口部。
奥は土砂で塞がれており、水が溜まっていた。

日立航空機大網地下工場(第1工場)の中央の開口部は、足元がぬかるんでおり、普通の靴では侵入が困難なために断念。

日立航空機大網地下工場(第1工場)の右の開口部は竹やぶの奥に。
同じく、水没。


日立航空機大網地下工場・第2工場跡

宮谷八幡神社。この下には、日立航空機大網地下工場(第2工場)があった。
開口部のひとつは民家の裏。未確認。

宮谷八幡神社が谷の上に鎮座。

神社の裏山に穴があった。
非常に高いところに穴が開いているが、どうなっているのだろうか。

本國寺の北側にも開口部がある。

遠目でもわかる開口部。フェンスが目印。

わかりにくいが、やっぱり水没。


造成により失われた日立航空機大網地下工場の跡地

大規模開発で、谷戸は切り開かれ、直線的な道路が伸びる。
そうして地下工場の遺構も多くは失われてしまった。

宅地造成された、みどりが丘のニュータウン方面に伸びる道路。

このあたりは、第5工場があったらしいが、何もない。

第1工場跡の南側は、道路で切り開かれなにもない。前述した通り、北側の開口部のみが残っている。

敷地の北側にあたる第3工場と第4工場があったあたりは、みどりが丘ニュータウンの宅地造成で失われた。


地下工場の近くにある「本國寺」は、かつては県庁でもあった。

宮谷県庁跡

明治新政府が、新治世として旧天領には府県を置き知事・県令を任命。その際に「宮谷県」が誕生。当地に県庁が置かれた。

明治元年(1868年)7月、明治新政府から安房上総知県事として久留米藩士柴山典が任命され、同年12月宮谷の本國寺に知県事役所を設置。
翌年2月に宮谷県が誕生し、その管轄地は藩領を除く幕領・旗本領(天領)で、旧安房、上総を中心として、下総、茨城県の一部までにおよんでいた。
明治4年11月、第1次府県統合で安房・上総全域が新たに木更津県に統合され、宮谷県は廃止された。

場所

https://goo.gl/maps/ro18upvM44THaMoS7

https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p411-018.html


大網駅までは、約1.5キロ、歩いて20分くらい。せっかくなので、旧大網駅跡に寄り道しながら、駅に戻ることにする。

旧大網駅

明治29年(1896)に開業した大網駅は、開業時は今よりも東側にあった。現在地に移転したのが昭和47年(1972)。この移転により、外房線は大網駅でのスイッチバックが解消された。
現在、旧大網駅地は、簡易的な公園とJR東日本大網保線技術センターとなっている。

線路の北側の空き地。かつてはここまで側線が伸びており、転車台があったという。現在は特に何もない空き地。

線路は東金線。

場所

https://goo.gl/maps/s5DrY1Kwm29tiQg76

そして線路に沿って歩けば、旧大網駅跡地がある。
旧大網駅跡地は、ちょっとした公園として整備されている。
日立航空機大網地下工場の最寄り駅でもある。

場所

https://goo.gl/maps/ZNLeeth5yrrwitHk6

駅跡を偲ぶように、腕木式信号機があった。

大網の人々は、この場所で出生していく家族を見送ったのだ。

旗ふりて
 出征兵士を見送りし
駅舎の跡に
 子らの歓声
  大塚喜一

鎮魂・平和を祈りて
 2004年秋
  町民有志建立

ホームの跡。

なんとなくホームがあった名残を感じることができる。

西側から、かつての大網駅があった方向を望む。
JR東日本大網保線技術センター関連の車両が停車している。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M1209-42
1948年10月31日、米軍撮影の航空写真。一部加工。

Google航空写真。みどりが丘の造成がわかりやすい。

※撮影:2023年2月


関連

「成東駅空襲(成東駅爆発惨事)」(山武市)

千葉県山武市。
交通の要衝である成東駅は総武本線と東金線の乗換駅。
終戦2日前の昭和20年8月13日、米軍グラマン機による機銃掃射で、成東駅に停車していた火薬搭載の貨車が炎上。そして成東駅は爆破爆発、42名の殉職者をだす惨事となった。


成東駅空襲

昭和20年8月13日午前11時40分頃。九十九久里浜方面から飛来した米軍グラマン機数機が。成東駅下りホームに停車していた軍用列車(6両編成)に向けて、機銃掃射を反復。
6両編成の軍用列車は、高射砲4門と2両に火薬が搭載されていた。火薬車両から煙が立ち込めたために、駅職員、兵士が消火活動に務めたが、火勢が衰えることなく、午後11時58分に大爆発が発生。成東駅舎、ホーム、線路、上りホームの客車などが爆発した。
消火活動にあたっていた、成東駅の長谷川駅長以下、10代の女子3名や男子5名を含む15名の駅職員、消火活動に駆け付けた近衛第三師団近衛歩兵第八連隊範第三八二四部隊などの兵士27名の合計42名が殉職した。


「礎」の碑


日本国有鉄道総裁 十河信二

昭和20年8月13日11時50分米グラマン機の機銃掃射により成東駅停留中の弾薬積載貨車誘発、鉄道職員15名将兵27名瞬時にして散華し平和の礎と化す
 昭和32年8月13日建之

礎について
 昭和二十年八月十三日、敵機グラマンの攻撃を受け、成東駅構内下り一番線に停車中の軍弾薬積載貨車は十一時四十分火煙を発した。之を認めた国鉄職員十五名、将兵二十七名は、被害を最小限に止めようと機を失せず身を挺して貨車の隔離消火に努め、一方乗客及び町民を避難させたが、必死の検討も空しく十一時五十八分弾薬は遂に爆発して全員悉く壮烈な戦死を遂げ、平和の礎と化しました。
 昭和三十二年八月、十三回忌に当り、その功績をたたえ町民並びに鉄道職員を初め多数の方々の御支援によって茲に礎の碑を建立せられました。

建立は、昭和32年8月13日に日本国有鉄道職員有志の手による。

合掌

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/chiba_sammu_city001/index.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M85-A-5VV-92
1946年3月26日、米軍撮影の航空写真。一部加工。
成東駅周辺が、空襲で焼失していることがわかる。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M724-1-193
1948年1月8日、米軍撮影の航空写真。一部加工。
1947年(昭和22年)に成東駅は再建。一説に旧海軍の香取航空基地の飛行機格納庫を転用したという。
(ただし真偽不詳)

Google航空写真でみる限りでは、成東駅舎の雰囲気は、1947年当時から変わらない。


成東駅

昭和20年8月13日の空襲で爆発した成東駅舎は昭和22年(1947)に再建された。2008年にリニューアルが施され、レンガ造りのファサードが追加されている。
一説には、「旧海軍の香取航空基地の飛行機格納庫を転用」したものともいうが、真偽は不詳。なお、銚子駅も同じく空襲焼失し、「旧海軍の香取航空基地の飛行機格納庫を転用」されたが、すでに解体済み。

銚子駅に比べると、成東駅はかなり小さい。
戦後の旧軍の倉庫転用と考えると、たしかにそんな感じもある。

駅改札付近


「魁」の碑

上総・下総の地に総武線の敷設を推進した安井理民の顕彰碑。
安井 理民(やすい はるたみ)
安政6年3月3日(1859年4月5日) – 明治27年(1894年)2月16日)。
上総国(現在の千葉県)の成東下町(現・山武市)の人物。総武本線の前身である総武鉄道設立に関わった。
その後、1897年(明治30年)5月1日に佐倉と成東間が、同年6月1日に成東と銚子間がそれぞれ開通し、安井の遺志は今日に至るまで総武本線として存続し運行されている。


 わが両総の地に世に魁(さきがけ)て鉄道敷設の狼煙をあげ生涯をこの事業に捧げた人は実にわが成東町の先覚安井理民氏である
氏は安政六年(1859年)三月わが町の素封安井家に生まれ二十才で既に戸長として町政を担った青年戸長の夢は常に大きかった
やがて県下に鉄道を敷き交通運輸の便を計り郷土の一大発展を図ろうとの大理想を抱き明治十九年決然立ってその運動にはいった  
まず東京神田に創立事務所 を設け本町の塚本正脩氏を事務長に推し相扶け相謀り各地の有力者を歴訪しては参加を需め或は各種資料の調査研究に或は請願に或は資金集めに東奔西走の日々 が続いたかくて爾後七年有餘の血みどろの活動は遂に家産を傾けあまつさえ病を得て再び起たず明治二十七年二月十六日可惜奮闘の生涯を閉じた享年三十有六才
しかしその事業は後人に受継がれ明治三十年六月佐倉銚子間の開通を最後に両総を縦断する総武鉄道全線の完成を見るに至り氏の点じた灯の光は皎々と輝き 亘ったのである
 わが町は茲に記念碑を建て以て永く氏の功績を称えんとするものである
  昭和四十六年二月十六日
         成東町

大正12.10


成東駅殉難者之墓(本行寺)

法高山本行寺。
終戦2日前の昭和20年8月13日に、成東駅で爆死された駅職員15名の慰霊碑。昭和32年に建立。平成17年に基壇改修。

成東駅殉難者之墓

線香台には、動輪のレリーフがある。

成東駅前にも動輪がありましたね。

法高山本行寺。

境内の慰霊碑。

戦争受難碑

境内の左手に陸軍技手の墓があった。
墓標は、石井四郎の謹書。石井四郎といえば、関東軍防疫給水部(通称731部隊)、ですね。そういえば、石井四郎の出身は、千葉県山武郡芝山町なので近いです。

場所

https://goo.gl/maps/xcnRSSpZv6Upxxtu6


元倡寺の慰霊碑

元倡寺境内には、成東駅空襲で殉職した将兵の慰霊碑があるというが、見つけられなかった。墓苑を上から下までも何巡もしてみたが、見つからず、でした。もしご存知の方がいましたらお教えいただければ幸いです。

フォームから投稿いただきました。次回訪問時に、再確認させていただきます。
ご連絡ありがとうございます。

2023/2/12の成東駅空襲で殉職した将兵の慰霊碑が見つからなかったとのこと
慰霊碑ではなく、お墓としてありますよ!
元倡寺の本堂裏手に、成東駅頭被爆戦没将兵之墓と書かれています

※参考(写真あり→「成東駅殉難者之墓」)

https://news.ntv.co.jp/category/society/dd292880aa76452084a01e68b76890dd

再訪ですね。。。

忠霊碑はかろうじて見つけた。こちらも枯れ枝の奥に埋もれていて、パッと見では気が付かない慰霊碑。

忠霊

場所

https://goo.gl/maps/w9KnuJnQB5kZYuJx5

※撮影:2023年2月


関連

「日本砲兵揺籃の地」陸軍野戦砲兵学校射場跡地の散策(佐倉市下志津原)

千葉県佐倉市と四街道市の間に広がる、平坦な土地は、「下志津原」と呼ばれ、陸軍の射撃場があった。往時の名残は格別にはないが、記念碑が建立されているので、足を運んでみた。


日本砲兵揺籃の地

京成ユーカリが丘駅の南約3キロ、京成勝田台駅とJR四街道駅の中間に、記念碑はあった。
ユーカリが丘駅から歩くと35分程度。バスもあるが、本数が少ないので、調整が必要。
周辺は建材屋や畑が広がる。

日本砲兵揺籃の地
 陸軍大将 藤江恵輔

藤江恵輔
陸軍大将正三位勲一等功二級(士候18 陸大26)
昭和9年に陸軍少将時代に四街道にあった陸軍野戦砲兵学校幹事(教育部長)を務めている。
昭和12年に陸軍中将として、第16師団長や陸軍大学校長を務め、昭和16年に西部軍司令官として開戦を迎えている。昭和18年2月に陸軍大将に昇進。東部軍司令官や第12方面軍司令官兼東部軍管区司令官を歴任し、昭和20年3月31日に予備役。
昭和20年6月に召集を受け、第11方面軍司令官兼東北軍管区司令官として、終戦を迎えた。

日本砲兵揺籃の地(碑裏面)
佐倉堀田藩は砲術を在来の武衛流から洋式の高島秋帆流に切り替えるにあたりその丁打場を従来の大田原(旧根郷村)から下志津原のこの地に移した
時に天保十三年(1842)である 明治初年に残っていた射垜は同藩士大筑尚志(後の第一代砲兵監陸軍中将)が築設したという
明治六年(1873)政府は教師として招聘したフランスのルホン砲兵大尉をしてこれを南北三千米幅三百米の射的場となし初めて砲術を伝習させた
同十三年 明治天皇の行幸を仰ぎ砲兵の天覧射撃あり大臣参議愈扈従したと伝えられる
同十九年春陸軍砲兵射的学校はここに創立せられ同三十一年四街道に移るまで日本砲兵発達の源泉となった
由緒ある遺跡の消滅せんことを惜しみ碑を建ててその由来を記するものである
  昭和四十年(1965)四月二日
   佐倉市教育委員会
   陸軍野戦砲兵学校遺跡保存有志一同
   土地提供者 下志津原開拓農業協同組合
    謹書 須藤健夫

だいぶ薄くなってますが、、、佐倉市による解説板もあります。

砲兵演習場跡
 佐倉藩は幕末に洋式砲術高島流を取入れ、下志津原のこの地で演習や試打を行った。
 明治六年(1873)政府が教師として招聘したフランスのルホン砲兵大尉は、藩士大筑尚志が築いたという射垜(土手)を増築し南北三千メートル幅三百メートルの射的場とした。
 同十九年陸軍砲兵射的学校が創立され、附近には料理屋、旅館などの街がつくられ、当時、下志津原一丁目と呼んだという。
 その後、明治三十年に、四街道へ射的学校は移された。
 昭和四十年、同校関係者有志により、この碑は建てられたものである。
  昭和五十七年三月三日
   佐倉市

記念碑前の道路。

南の方に射場が広がっていた。向こうは四街道。

場所

https://goo.gl/maps/35phy7vvtmhWnNZM8

※撮影:2023年1月


関連

陸軍野戦砲兵学校の跡地。射場の南側は、ルボン山は残る。

高島秋帆流砲術

錦着山護国神社(栃木市)

栃木駅から、歩いていける場所に、ちょっと気になる神社があったので、足を運んでみた。

社殿の脇にたつ記念燈台がひときわに存在感を放つ錦着山護国神社。


錦着山護国神社

栃木県の初代県令鍋島幹が、戊辰戦争・西南戦争(明治10年)の戦死者を祭り、忠魂を慰めるために、招魂社(栃木招魂社・私祭招魂社)の建立を検討。
明治11年(1878)に起工し、明治12年9月に社殿・社務所が完成。
明治17年(1884)に、栃木県庁が栃木町から宇都宮町に移転するとともに、管理は栃木県から下都賀郡へ移管となり、その後は栃木町への移管となっている。
大正10年(1921)に、栃木町長と帝国在郷軍人会栃木町分会で協議の結果、日清戦争日露戦争の下都賀郡出身の英霊を合祀。
昭和14年(1939)に、招魂社制度の改正となり「錦着山護国神社」と改称。
その後、上海事変・満州事変・支那事変・大東亜戦争の英霊も合祀し、下都賀郡の8300余柱を祀っている。
なお、招魂社としての官祭招魂社は、宇都宮招魂社(栃木県護国神社)と黒羽招魂社の2社のみ。
栃木招魂社(錦着山護国神社)は、私祭招魂社とされる。

ちなみに、錦着山とは、巾着の形ににているからとも、つつじが満開の頃は錦を着ているように美しいことからとも名前がつけられたとされている。

栃木市観光協会

https://www.tochigi-kankou.or.jp/spot/kinchakusan

栃木県観光物産協会

https://www.tochigiji.or.jp/spot/s9016

大鳥居は、大正12年(1923)11月帝国在郷軍人会下都賀郡連合分会の建立。

社号標は一度折れてしまったようです。

「錦着山護國神社」名称での社号標

参道途中の鳥居。

神額には「招魂社」と記載あります。謹書が誰かは読み取りできず。

両脇には、「獅子の子落とし」の阿吽の狛犬。
帝国在郷軍人会栃木市総合分会の奉納。昭和13年8月。

錦着山護國神社御社殿(拝殿)

合掌

至誠の扁額。謹書は読み取れず。

錦着山護國神社御社殿(ご本殿)

錦着山護國神社社務所。年季が入っている。


日露戦争記念燈台

社殿の向かって右隣りに高くそびえる「燈台」。
詳細は不明であるが、日露戦争を記念して建てられたものという。


栃木市海友会の碑(同期の桜碑)

昭和46年5月27日の建立。海軍記念日の建立ですね。

大日本帝国海軍
貴様と俺とは同期の桜
同じ海兵団の庭に咲く
栃木市海友会

錨と桜

海軍旗(旭日旗)

碑のことば
我々は日本の海を護って戦った。平和のために。
貴様と俺と呼びあい相擁して戦いの歌を若い血潮のたぎりの中に歌いあげた。
はげしく厳しかった、その道を何時も我々は支え堪えた。
眼を閉じるとその励まし慰めあいの戦いの日々が胸を往き来して果てしない。
平和が続いている。何時までも続けなければならない。
其の為にあの嵐の中に命を賭けてかち得た、ちえを感激にとかして持ちよろう。
関東の山野に風薫る朝、同期の桜、相寄りて此の碑を建つ。
 昭和46年5月27日
  栃木市海友会会長 森戸清一郎


栃木市海友会の碑(七つの海は桜に錨碑)

栃木市海友会
創立15周年記念
昭和52年五月27日設置
七つの海は桜に錨
海友会長 森戸清一郎かく

海行かば
 水漬く屍
山行かば
 草むす屍
大君の辺に
 こそ死なめ
返り見はせじ


奉祝 御大典紀念碑

下都賀郡傷痍軍人會
昭和3年閏戊辰11月10日建之


日露戦役忠魂碑

伏見宮貞愛親王殿下謹書。
明治41年12月20日竣工。


支那事変大東亜戦争 戦歿者慰霊碑

栃木市青年学校同窓会
昭和38年9月24日建之


記念塔

詳細不明。銘板等は外されたような形跡あり。

ちょっとした山。
三等三角点がある。
標高80.45m

記念燈台は、道路からもよく見える。

栃木駅からは、徒歩約20分。

場所

https://goo.gl/maps/YfAi1XFf6nD17RCQ6

「平和の礎」小金井空襲・小金井駅戦災(栃木県下野市)

栃木県下野市。かつての栃木県下都賀郡国分寺村。
小金井駅と付近を走る列車に対して機銃掃射による空襲があった。


小金井空襲

昭和20年7月28日
艦載機P51戦闘機14機が宇都宮市内空爆と機銃掃射を実施。国鉄宇都宮駅前にあった日清製粉宇都宮工場を襲撃し、勤労動員の下野中学校生(現在の作新学院高等学校)5名が犠牲となった。また乱射された宇都宮駅や周辺の列車も犠牲となり、当日は全体で30名以上の死者が出たという。
宇都宮を襲撃した14機のうち3機は、宇都宮駅を発車した列車を追跡。

11時55分ごろ。
宇都宮駅を出発して南下し、東北本線「小金井駅」に向けて走行していた福島発の東北本線上り上野行き「第118号旅客列車」は、戦死者の遺骨を抱いて乗車していた遺族などもおり、そして小金井駅では、乗客を迎えるために集まった群衆もいた。

そんな「第118号旅客列車」を米軍のグラマン艦載機P51戦闘機3機は機銃掃射。さらに小金井駅に集まる群衆にも機銃掃射を行い、結果として、列車出迎えの市民らをはじめ、駅員や列車の乗客らも死傷し、31人が亡くなり、70人以上が負傷したとされている。

この昭和20年7月28日の空襲では、宇都宮駅、小金井駅、小山駅周辺で、米軍艦載機が機銃掃射を実施。
栃木県下では7月12日の宇都宮大空襲に次ぐ、70余名の犠牲者を出した空襲であった。


平和の礎

小金井駅西口広場に慰霊碑が立つ。

昭和20年7月28日
小金井駅戦災
平和の礎
平成10年秋 国分寺町之建

第二次世界大戦の昭和20年(1945年)7月28日正午ごろ、福島発上野行き列車が小金井駅手前で米軍戦とう機3機の銃撃をうけ多数の死傷者が出た。
 駅には戦死者の遺骨を迎える人が集まっていて、停車中の列車とともに再び銃撃をうけた。
 ぎせい者は、死者31名、負傷者7~80名である。
 こんな農村にまで及んだ戦争の惨禍を決して忘れることはできない。
 ここに、ぎせいになられた方の、ごめい福をお祈りし、碑を建て後世に語りつぐものである。
  平成10年秋天
   国分寺町長 若林英二謹書

国分寺駅前にはほかにもいろいろあった。

C57の動輪。C5738機。

下野の国分寺

国分寺があれば古代の下野国の中心地。

歴史好きとしては、興味深い街でもあり。

かんぴょう生産量が日本一だそうで、カンピくん。

レンタサイクルもある。私は今回は駅前のみの散策でしたが。

東の飛鳥とは、大きく出た感じですね。

https://www.city.shimotsuke.lg.jp/0059/info-0000006609-0.html

ご当地アニメもあった

https://www.city.shimotsuke.lg.jp/0061/info-0000004735-3.html

小金井駅の北側。この空に、銃撃があった。。。

※2023年1月撮影


関連

B29墜落搭乗員慰霊碑とB29墜落地点の慰霊巡拝(群馬県‎‎邑楽町‎秋妻)

群馬県と栃木県の県境。
群馬県‎邑楽郡‎邑楽町‎秋妻は、のどかな水田が広がる農村地帯。
戦時中、この地にB29が墜落し、そして地域住民は搭乗員を慰霊した。

すぐ近くにあった、東洋一の飛行機メーカー「中島飛行機」の工場(中島飛行機太田工場)を狙ったものであった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M606-49
1947年10月27日、米軍撮影の航空写真。一部加工。

中島飛行機大田工場や太田飛行場、小泉製作所のすぐ近くで墜落したことがわかる。

墜落地点を拡大。

墜落地点は、今も昔も水田。集落には尾翼が落ちたが幸いにして落下地点は矢場川の横であったために人家共に被害は皆無であった。

現在の様子。

集落と水田の位置関係はさほどに大きく変わっていない。

余談だが、邑楽郡‎邑楽町‎の「‎邑楽」は「おうら」と読む。難読です。


B29爆撃機墜落地点

B29爆撃機墜落地点
 1945(昭和20)年2月10日、中島飛行機太田製作所をねらって午後3時過ぎに飛来した118機(米軍公表)のB29大編隊の爆撃により、多くの生命財産が失われました。このとき、大編隊の中の2機が空中接触しこの地に墜落炎上しました。(2機の搭乗員23人全員即死)。なお、Slicks Chicks号(機体番号224784)の尾翼が
秋妻集落東側民家すぐそばの矢場川にかかる旭橋横に墜落しました。当日は西風の強い日で、この黒煙により秋妻集落は全滅したという噂も出たほどでしたが、幸いにも人家とも無傷でした。しかし同日、ここから北東に直線距離で1kmも離れていない隣町の足利市百頭町では、軍需施設とは無縁な一集落が集中爆撃され33人もの一般の人たちが犠牲となりました。
 この事実を風化させることなく、戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に伝え、世界平和を祈念していきたいと思います。
  平成22年11月
   ‎邑楽町‎教育委員会
   ‎邑楽町‎第17区(秋妻)自治会

墜落地点は、3か所。
Deaner Boy 号(機体番号224815)は、下図の1番。
Slicker Chicks号(機体番号224784)は胴体(下図2番)と尾翼(下図3番)が分かれて落下。

落下地点

わかりにくいが、黄枠のところに「赤い目印」は立っている。
このあたりに、「Deaner Boy 号(機体番号224815)」が落下した。

赤城山の方向。

ここに、Slicker Chicks号(機体番号224784)の胴体が落下した。

2機のB29が空中衝突し、田園に落下した。

ちなみに、なにもないところでアクセス方法は悪い。
東武足利市駅でレンタサイクルをしてみました。
東武足利市駅からは、だいたい自転車で30分位かかりました。

場所

https://goo.gl/maps/ePgwVA1CJKXyEE6r8


B29爆撃機尾翼墜落地点

Slicker Chicks号(機体番号224784)の尾翼が落下した地点。

矢場川にかかる旭橋。

とくに看板等もなく。

ちょっとした建屋とベンチがあった。

矢場川の東側なので、こっちは栃木県。

場所

https://goo.gl/maps/HF6kobatj7JuY36r7


清岩寺

邑楽郡邑楽町秋妻の天華山清岩寺

清岩寺の開山は、大雲文龍。大雲文龍(1545-1617)は曹洞宗を関東に広めた高僧。


清岩寺の戦争慰霊碑と記念碑

境内の一角に、先の戦争関連の慰霊碑や式辞記念碑があつめられている。

合掌

日清日露大東亜演奏戦歿者報国之英霊塔
B29日米合同追悼式七十年供養塔

平成27年建立

B29墜落搭乗員慰霊碑

B29墜落搭乗員慰霊碑 
The Memorial Monument of B29 Crash Crew

墜落日時 Crash Data 1945年2月10日  Feb.10th,1945
墜落位置 Crash Site  群馬県邑楽郡高島村秋妻(現群馬県邑楽郡邑楽町秋妻)
                Akizuma Ora-machi Ora-gun Gunma
所属   Affiliation  第2空軍第313爆撃団第505爆撃群第483爆撃隊
     483 BSQ 505th BG 313rd BW of 20th AF
攻撃目標 Target     中島飛行機太田製作所 Nakajima Aircraft Ota Factory
墜落原因 Cause of Crash 接触事故 Midair Collision

B29#42-24784 SLICK’S CHICKS
操縦士    Pilot      C McC SLAUGHTER Jr 大尉   CAPT
副操縦士   Copilot    DAN E.GODSY     少尉   2D LT
航法士    Navigator   JOSEPH F.JAROSZ   少尉   2D LT
爆撃手    Bombardier   KENNETH E.SWANSON  中尉   1ST LT
機関士    Engineer    HERBERT WEINER   少尉   2D LT
通信士    Radio Operator NICK CORBO     二等軍曹 S SGT
レーダー士  Radar Operator KENNETH F.MAGO   軍曹     SGT
中央火器管制 CFC      ROBERT K.YONCE   二等軍曹 S SGT
左銃手    Left Gunner  JAMES E.MELVIN    軍曹     SGT
右銃手    Right Gunner  RALPH J.McCLELLAN  二等軍曹 S SGT
尾部銃手   Tail Gunner  FRANK P.KASTENMEVER 軍曹     SGT
同乗員    Observer    BIRRELL WALSH    大佐     COL

B29#42-24815 DEANER BOY
操縦士    Pilot     OWEN o.BARNHART Jr   中尉   1ST LT
副操縦士   Copilot    DONALD M.MORRISON   少尉   2D LT
航法士    Navigator   CORNELIUS R.KERNS   少尉   2D LT
爆撃手    Bombardier   HUGH D.BURNER     中尉   1ST LT
機関士    Engineer    HARLEY H.HAZELWOOD  少尉   2D LT
通信士    Radio Operator NORMAN E.SMITH    二等軍曹 S SGT
レーダー士  Radar Operator JAMES F.GREUP     軍曹   SGT
中央火器管制 CFC      GEORGE B.WILBUR Ⅲ   軍曹   SGT
左銃手    Left Gunner  HARRY J.HARZ Jr    軍曹   SGT
右銃手    Right Gunner  DONALD A.W.KISSINGER 軍曹   SGT
尾部銃手   Tail Gunner  HARVEY J.FITZPATRICK 軍曹   SGT

ここ秋妻の空に散った23名の勇士の御霊に哀悼の誠をささげるとともに日米両国の友好と世界の平和を希求いたします
We wish to commemorate the 23 brave souls and offer a wish for world peace and friendship between Japan and America

秋妻B29日米合同追悼式

邑楽郡邑楽町秋妻257 清岩寺 殿
秋妻B29日米合同追悼式
秋妻B二九日米合同追悼式並びに慰霊碑建立除幕式がしめやかに執り行われますにあたり御霊の安らけくもありますことを祈念申し上げ謹んで追悼の誠を捧げます 今日の開催に至りますまでの日米ご遺族様、米国横田基地のご関係皆様、木崎代表をはじめ秋妻B二九世話人会の皆様の常日頃のご労苦に深く敬意を表しますとともにご参集皆様の今後益々のご発展と関係皆様のご活躍を心から祈念申し上げます 
 平成二十五年三月二十日 
  参議院自由民主党議員会長 参議院議員 
   元外務大臣 中曽根 弘文

グラマン搭乗員鎮魂碑(清岩寺)

グラマン搭乗員鎮魂碑 
Grumman Crew Memorial

 1945年2月16日 空母バンカーヒルを発進したグラマン・アヴェンジャー TBM-38316は太田上空で高射砲に撃たれ現足利市田中町に墜落、3名死亡。

On 16 February 1945,a Grumman Avenger(TBM-38316)that took off from the USS Bunker Hill was hit by Japanese abti-aircraft fire and crashed in Ashikaga.
The following three crew members lost their lives.

操縦士 Pilot     Richard Brothers    海軍少尉 Ensign
射撃手 GunnerEd   Edward V.Andriso   三等兵曹 AOM3c
通信士 Radioman   Walter L.Paulissen Jr. 上等空兵 ARM1c

 異国で命を落としたアメリカ海軍将兵の霊を慰め、人類永遠の平和を祈ります。
May these brave American soldiers rest in peace.And may peace prevail among mankind eternally.

”人間の持つ残酷さを克服し、この人生を平穏なものにしよう”
  日本人の皆さんに心からの感謝を込めて
“Please,let us tame the savageness of man and make gentle the life of this world.”
  with warmest gratitude to people of Japan
    Maxwell Taylor Kennedy

B29・グラマン日米合同追悼式

B29・グラマン日米合同追悼式
ごあいさつ
 「B二九・グラマン戦没者二十六名の日米合同追悼式」が挙行されるにあたり、戦没者の御霊に謹んで哀悼と慰霊の誠を捧げます。
 本日の日米合同追悼式は、戦争によって失われた尊い命を慰めるものであり、合せて「不戦の誓い」であります。そして日米両国の関係者が相集い追悼式が開催できますことは日米両国の信頼と友好の証でもあります。開催に際しご尽力いただきました横田基地関係者の皆様ならびに木崎様をはじめとする多くの関係者の皆様に深く敬意を表しますとともに感謝申し上げます。
 本年は、終戦から七十年という大きな節目の年にあたります。節目の年を迎えるにあたり、現在の繁栄は、多くの犠牲と悲劇の上に築かれていることを再認識しなければなりません。
是非、本日の追悼式を「命」と「平和」の尊さを心に刻む機会にしていただければと思います。
 なお、本日は在日米軍関係者の皆様もご出席でいただいておりますが、二〇一一年三月十一日に起きた東日本大震災ではアメリカ合衆国から寄せられた温かいご支援、米軍の各部隊の力強いご支援に改めて心から感謝申し上げます。有難うございました。
 今後も日米両国がともに協力しながら、アジアの平和・世界の平和のために努力をしていくことが大事であると考えております。
 最後に、本日ご参会の皆様ならびにご遺族の皆様のご健勝とご多幸を心からお祈り申し上げ、あいさつといたします。
 平成二十七年三月二十一日
  衆議院議員 笹川博義

To the Seiganji Temple Memorial,
清岩寺追悼記念式典に寄せて

AMBASSADOR OF THE UNITED STATES OF AMERICA TOKYO
 March 20,2015

To the Seiganji Temple Memorial,

 Thank you for the very kind in vitation to the dedication of the
memorial to the fallen United States Service members in Gunma Prefecture.
It is my honor to provide a short message of remembrance.
 This healing process is essential for the families and also essential
for our two nations. Activities such as this memorial that are driven by the community truly show the world that former enemies cun put aside their differences and animosities and become the closest of friends. The future of the US-Japan Alliance is strong.
For decades families have suffered both the pain of losing loved ones
far from home and also the emptiness that accompanies the loss when that loved one is not returned to the family,in order to begin the healing process.The unknown whereabouts of their last resting place puts the grieving process on hold. However,through your commendable efforts,you bring comfort to those families whose loved ones have now been found. Your dedication provides closure and allows the families an opportunity to hela. I play for the crews aboard B29 Bombers and Grumman TBM that they may rest in peace.
 We continue to work together side-by-side to ensure the bonds we
have forged over the last seven decades are stronger than ever and are a
daily reminder of the future cooperation necessary to maintain peace,
stability and prosperity in the region.
 It is my hope and the hope of the United States that peace and
reconciliation will continue to flourish. There is no berrer place to see this
process in action than the US-Japan Allaince.
     Sincerely,
           Caroline Kennedy

清岩寺追悼祈念式典に寄せて

 このたびは群馬県で開催される戦没米兵慰霊碑の除幕式にお招きいただき、感謝申し上げます。こうして追悼のメッセージをお送りできて光栄です。
 こういった癒しの過程は、遺族、そして日米両国にとって欠かせません。今回の追悼式のようなコミュニティ主導の活動は、過去に敵対関係にあった国同士でも、互いの違いや敵対心を忘れ、親しい友人関係を築けるということを世界に向けて示してくれます。日米同盟の未来は強固です。
 これまで長いあいだ、米兵の遺族は、故郷から遠く離れた場所で大切な家族を亡くした傷みと、愛する人が家族のもとに戻ってこない虚しさに苦しみ、心の傷を癒すための第一歩を踏み出せずにいました。家族がどこに葬られたのか分からないがゆえに、深い悲しみをいつまでも乗り越えられずにいたのです。しかし、皆様のご尽力のおかげで家族を見つけたいま、遺族の心に安らぎがもたらされました。皆様の献身的な活動は、遺族の苦しみを終わらせ、また、遺族に癒しを得る機会を与えてくださいました。B29爆撃機とグラマンTBMの乗組員のご冥福をお祈りします。
 これまでの七十年間で築きあげてきた絆が、今後もますます強まっていくよう、そしてその絆が、この地域における平和、安定、繁栄の維持に必要な将来の協調関係を日々思い出させてくれるよう、私たちはこれからも協調して歩みつづけます。
 平和と和解の過程が続くことは、私、そしてアメリカ合衆国の願いです。そして、ほかのどこよりもその過程が進んでいることを実感できる場所、それが日米同盟なのです。
  キャロライン・ケネディ
    中村有以[訳]

ハナミズキ
秋妻とアメリカを結ぶ絆となることを願い、キャロライン・ケネディ駐日大使より賜った「ハナミズキ」
千九百四十五年2月、異国に散ったB29スリックス・チックス号の操縦士カーネル・スローター大尉の縁者アルベルト・グリグノロ氏に依ってここに植樹される。
  平成28年4月

B29慰霊碑建立除幕式
日米合同追悼式
記念館

B29慰霊碑建立除幕式
日米合同追悼式
記念館

平成25年3月20日
清岩寺代表役員 木崎伸雄

とくに銘記がなかったが、隣の建屋がきっと記念館なのかな。。。

場所

https://goo.gl/maps/FNroaFbeZTs1BWU39


光林寺

邑楽郡邑楽町秋妻の秋妻山光林寺。


B29墜落ゆかりの寺碑(光林寺)

昭和20年(1945年)2月10日、太田市の中島飛行機の工場爆撃のために飛来した118機のB29のうち2機が空中衝突し、光林寺の西南600mの地点に墜落した。搭乗員23名が犠牲となった。搭乗員の遺体は光林寺の墓地に手厚く埋葬された。
戦後まもなく進駐軍が遺体を引き取りにきたが、光林寺にて丁重に葬られていた事に驚き、大変感謝したという。

B29墜落ゆかりの寺
 昭和20年2月10日午後3時過ぎ中島飛行機製作所太田工場を爆撃する為、サイパンのテニアン島を飛びたったB29編隊118機のうちの2機が、接触事故を起こし、当寺より西南約600mの秋妻田んぼに墜落しました。搭乗員23人は全員死亡が確認され、光林寺の本堂裏の墓地に横死者の供養の為手厚く埋葬されました。終戦後まもなく進駐軍が光林寺に駆け付け遺体を引き取って行きましたが、丁重に葬られていた事に驚き、大変感謝されました。
 以後毎年お盆の施餓鬼法要の時、歴代住職が檀徒の供養と共に(B29no)搭乗員の冥福を祈り回向しております。戦後74年を迎えた今日、戦争の記憶が薄れる中、今を生きている者の責務としてこの事実を碑に刻し、未来永劫世界平和を願い後世に残したいと思います。
  平成31年2月吉日
   秋妻山根本院光林寺
    B29墜落ゆかりの寺碑建立委員会

B29搭乗員埋葬地跡

本堂の裏手の墓地に、B29搭乗員埋葬地跡の墓碑があった。
平成31年2月吉日の建立。

場所

https://goo.gl/maps/TNtJUSUbHdoZzQa69


玉取神社

B29とは関係はないが、秋妻集落の鎮守様である玉取神社に興味深いものがあるので足を運んでみる。

御祭神:天児屋根命
創立は天長2年(825)。旧社格は村社。
藤原信綱が所領していたこの地を開いて、藤原綱義(大栄師)が天児屋根命を祀り、建立。
祖先の鎌足公が房崎の浦で竜宮から玉を取り得て日本の宝としたので、鎌足公を玉取明神として崇敬したという伝説に由来。

奈良時代、藤原鎌足に贈られるため船で運ばれていた宝の玉が瀬戸内で竜神に奪われてしまった。鎌足の子不比等は玉を奪還するために志度へ赴き、身分を隠して暮らすうちに海女と夫婦になり、子、房前をもうけた。海女は不比等の目的を知り、竜宮に潜って玉を取り戻そうとするが追撃にあって命を落としてしまう。そのとき海女は自らの乳房を切って中に玉を隠して持ち帰ったという。これが玉取姫の伝説。

浮標水雷缶(玉取神社)

昭和3年に「御大典紀念」として、海軍省から横須賀海軍軍需部在庫の廃兵器(水雷)を下付されたもの。

玉取姫の伝説に出てくる、龍宮から取り戻した「宝の玉」を模したモニュメントに見えますが、「浮標水雷缶」です。

今では「玉取神社」という社名と、浮標水雷缶の銀玉の形状がパチンコ玉にみえることから、パチンコ祈願の神社になっているとか、、、

場所

https://goo.gl/maps/997qycAvtnMH25Si9

※2023年1月撮影


B29慰霊関連

日露戦争の海軍三提督がお手植え「足利学校の月桂樹」

栃木県足利市。
下野国足利荘にある「足利学校」は、日本最古の学校として知られている国指定史跡。


足利学校

中世において足利学校は関東最高の学府であったが、明治維新後、足利藩は足利学校を藩校とすることで復興を図ったが、明治4年(1871年)、廃藩置県の実施により足利藩校である足利学校の管理は足利県(のち栃木県に統合)に移り、明治5年(1872年)に至って廃校とされた。明治5年(1872年)に廃校となっていた。

明治36年(1903年)に足利学校の敷地内に、栃木県内初の公共図書館である足利学校遺蹟図書館が設立。
そして大正10年(1921年)、残っていた足利学校の敷地と孔子廟や学校門などの現存する建物は「足利学校跡」として国の史跡に指定され、保存されることとなった。

平成2年(1990年)に建物と庭園の復元が完了。
平成27年(2015年)には、「近世日本の教育遺産群 ―学ぶ心・礼節の本源―」のひとつとして日本遺産に認定された。


海軍三提督のお手植え「月桂樹」

足利学校孔子廟(大成殿)前庭には、海軍三提督がお手植えした月桂樹がある。
明治38年(1905)9月に終結した日露戦争の1年後の明治39年(1906)12月23日の「釋奠」(孔子祭)の行事に海軍の三提督が参列。
参列した海軍の三提督は、伊東祐亨、東郷平八郎、上村彦之丞の三名。

なお、足利学校で孔子を祀る釋奠(せきてん)の行事は冬至の日(12月22日ごろ)に行われていたが、大正4年以降は11月23日に変更され、現在に至っている。

東郷平八郎お手植えの月桂樹

月桂樹
海軍大将 東郷平八郎 手植
明治39年12月23日

東郷平八郎
日露戦争時の連合艦隊司令長官。大日本帝国海軍連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を撃滅、完勝をして日本の勝利を導いた提督。

孔子廟大成殿の向かって左にお手植えの月桂樹がある。

伊東祐亨お手植えの月桂樹

月桂樹
元帥海軍大将 伊東祐亨 手植
明治39年12月23日

伊東祐亨
(日清戦争時の)初代連合艦隊司令長官。
日露戦争時は軍令部長として大本営で海軍を統括した。
明治38年(1905年)の終戦の後は元帥に列せられた。

上村彦之丞お手植えの月桂樹

月桂樹
海軍中将 上村彦之丞 手植
明治三九年12月23日

上村彦之丞
日露戦争では第二艦隊司令長官として、蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊を撃破。
日本海海戦では、判断よくバルチック艦隊の進路を塞ぎ勝利に貢献した。

伊東と上村の月桂樹は並んでいる。

孔子廟大成殿の向かって右側に2提督の月桂樹。

日本最古の学校として、文の象徴であった足利学校に、当時の日本で最高の武を誇った海軍提督が揃って、祭礼に参加したというのもなかなか趣深い。

孔子廟(大成殿)

聖廟とも呼ばれ孔子を祀ってある廟。
建物の名称は「大成殿」で寛文8年(1668)足利学校第13世庠主伝英元教の時に造営

扁額「大成殿」は有栖川宮織仁親王の王子で、のちに京都知恩院門跡となった尊超法親王の書。

孔子坐像

小野篁公像

杏壇門

扁額「杏壇」は紀伊徳川家第10代藩主大納言徳川治宝の書。

学校門

寛文8年(1668)に創建され、現在、足利学校の象徴的な門。
扁額「學校」の文字は明の書家 蒋 竜渓 が来日した時の書を、当時の江戸国史館助教授の 狛高庸 が縮模。

孔子像

入徳門

足利学校に入る最初の門です。寛文8年(1668)徳川幕府第4代将軍家綱の時の創建であったが、火災焼失。現在の門は、明治の中頃に裏門を移転修築したものという。
扁額「入徳」は紀伊徳川家第11代藩主大納言徳川斎順の書。

方丈・庫裡


足利学校遺蹟図書館

足利学校伝来の書籍の保存を目的として明治36年(1903)3月に足利学校遺蹟図書館が発足し、大正4年(1915)に現在の建物が完成し開館した。

※撮影:2023年1月


戦時迷彩塗装の残る旧足利織物赤レンガ工場群(トチセン・足利)

栃木県足利市内に残る大規模煉瓦工場。
壁面に残る戦時迷彩塗装を見に行ってきました。

最寄りは東武伊勢崎線福居駅。私は東武足利市駅からレンタサイクルで赴いてみた。

なお、敷地内は通常非公開。
年一度11月頃に、足利市文化財一般公開時のみ公開されるという。


トチセン

国登録有形文化財 
トチセン(旧足利織物)
赤レンガ捺染(なっせん)工場・赤レンガサラン工場・汽罐室(ボイラー2基付)

 トチセンは、足利が織物産業で隆盛していた大正2年(1913)に足利織物株式会社として創業。同8年(1919)に明治紡織株式会社となり「明紡」として知られました。
 6連の鋸屋根が特徴の赤レンガ捺染工場は、イギリス積みのレンガ造平屋建で、鋸屋根破風部分の軒蛇腹や外壁側に突出した付柱(つけばしら)、出入口や窓等の開口部マグサ上に走る横材などに外観上の特徴があります。
 赤レンガサラン工場は、捺染工場同様レンガ造平屋建で、半円のドーマー窓が付いた切妻洋瓦葺の建物です。
 汽罐室(ボイラー室)は捺染工場の西に位置し、イギリス積みのレンガ積平屋建切妻スレート波板葺の建物です。内部には4基の蒸気ボイラーが設置されており、中央にある石炭を燃料とするランカシャーボイラーは、昭和16年(1941)に設置された創業期と同型のボイラーです。
 これらの建物に使用されているレンガには「上敷免製」の刻印が見られることから、渋沢栄一が中心となって創設した埼玉県深谷市の日本煉瓦製造の工場で製造されたものであり、東京駅や迎賓館に使われているレンガと同じものであることがわかります。
 また、建物の壁面全体に塗られた黒い迷彩柄は、終戦直前に空襲を避けるためのカモフラージュとして施されたものです。
 これらは、織物産業発展期に輸出織物の大量生産を目的として建てられた近代工場で、大規模な赤レンガ造工場建築としては唯一現在まで残されている貴重な建物です。
 足利市教育委員会

トチセン正面。

赤レンガ捺染工場

イギリス積みのレンガ造平屋建

赤レンガサラン工場

汽罐室(ボイラー室)

煉瓦は、渋沢栄一が中心となって創設した埼玉県深谷市の日本煉瓦製造の工場で製造されてものを使用している。ちょうど、利根川の対岸ですね。

思った以上に、戦時迷彩塗装が残っていました。これはなかなか見応えありますね。
一般公開の際にも訪れてみたいです。

場所

https://goo.gl/maps/T8qvi1gBGxe7Afvf8

※2023年1月撮影


関連

会社概要

http://www.tochisen.co.jp/company/

文化庁

https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/101/00001407

文化遺産オンライン

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/114487

足利市

https://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/bunkazai/tochisen-kyuahikagaorimono-akarenganassenkoujyou-akarengasarankoujyou.html

足利駅と足利散策

JR足利駅。
なんとなく足利を散策したいと思い、足を運んでみたら、これは近代建築ですね。
足利散策の小話とともに、掲載しておきます。
近代史としての足利散策はそれぞれ別立てにて。

正直って、都内から足利に行くには、JRよりも東武のほうが圧倒的に楽ではある。
今回は、JRの「休日おでかけパス」切符を使用した場合、足利まではフリーエリアのため、それを活用してみたという理由もある。


足利駅

明治21年(1888)5月22日、両毛鉄道の駅として開業。
昭和8年(1933)現在の駅舎が完成。
平成10年(1998)関東の駅百選に選定。選定理由は「歴史のある土地にありながらステンドグラスを使い開設当時の外国文化を表す洋風な建築模様が目をひく駅」。
平成20年(2008)7月25日、落雷直撃によって駅舎2階部分の一部を焼失。
平成26年(2014)駅舎観光美化工事
平成31年(2019)「現今の足利の礎を築いた交通・物流基盤施設、昭和モダンの風情と煌めきを留める歴史的建造物」として、土木学会選奨土木遺産に選定。

かつて庇の上のガラスはステンドグラスだったそうだけど、なくなってしまったようで。


以下、近代史からは逸脱するけど、なんとなく足利観光編をざっくり掲載。

EF60 123 形直流電気機関車

駅前に。かつて両毛線で貨物を牽引していた。

足利駅前の観光ガイドマップ。
「日本一の足利3名所」が4つあるなと思ったら、足利学校と鑁阿寺はセットのようでした。


鑁阿寺・足利氏邸宅跡

足利学校の隣にある鑁阿寺、(足利学校は別記事にて)

国史跡。足利氏の氏寺。また足利氏邸宅跡として、日本100名城のひとつにも数えられている。

鑁阿寺本堂(国宝)

建久7年(1196)に足利義兼が建立。
雷火により正安元年(1299)に再建。

鑁阿寺多宝塔(栃木県指定文化財)

開基足利義兼の創建。
元禄5年(1692)徳川五代将軍綱吉の母、桂昌院尼が再建と伝わるが、寛永6年(1629)までさかのぼることが判明している。。

鑁阿寺大銀杏

開基足利義兼のお手植えと伝わる。

鑁阿寺経堂(国指定重要文化財)

開基足利義兼の創建。
現在の建物は、応永14年(1407)に関東管領足利満兼の再建。

鑁阿寺鐘楼

開基足利義兼の創建。建久7年(1196)建立。
梵鐘は元禄年間の再鋳であるが、歴史的資料があるために、戦時中の金属供出は免れている。


征夷大将軍足利尊氏公像

平成3年造。

足利尊氏鎧

NHK大河ドラマ「太平記」での足利尊氏の鎧。


渡良瀬橋

現在の鉄橋は昭和9年(1934)の架橋。
昭和9年11月の大日本帝国陸軍の大演習が足利で開催される際に、従来の旧橋(木橋)では陸軍車両の走行に困難をきたすために、急遽で鉄橋として架橋された。

夕日までは、待てませんでした。。。

渡良瀬橋歌碑

森高千里の名曲、渡良瀬橋の聖地。

ボタンを押すと、曲も流れます。

八雲神社

足利の氏神様。足利総鎮守。

貞観年間(859-876年)に、佐野唐沢山城主であった藤原村雄(秀郷の父)が夢のお告げにより素盞嗚男命他二神を祀ったのが始まりとも、貞観11年(869)に清和天皇が夢のお告げにより右大臣藤原基経に命じて祀らせたともいわれている。
平成24年(2014年)出火により社殿全焼。
平成29年(2017年)内宮別宮の月讀荒御魂宮から式年遷宮の古材を譲り受け社殿を再建。

お参りしてきました。

足利織姫神社

現在の社殿は、昭和12年(1937)の再建。
祭神は天御鉾命(服部連祖)と八千々姫命。

社号標は、金子堅太郎の謹書。

昭和12年の社殿。

足利の街並み。

渡良瀬橋と足利男山。
山頂の男浅間神社の社殿も見えますね。
昭和10年築のRC造(鉄筋コンクリート造)。

足利織姫神社といい、男浅間神社といい、戦前のRCA造の社殿は、都内以外では珍しい建造物。

足利と足利織物の歴史

樅山唯四郎君像

これは台座、ですね。。。供出されたようです。
樅山唯四郎(1861-1922)は、足利の発展に尽力し、学校の設立や、織物組合を立ち上げたりしている。

足利駅と渡良瀬橋以外は、近代史跡の要素はないですね。
もっとも、足利織物を掘り下げれば、そこは近代史の範疇ですが、、、

※撮影:2023年1月


「昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)」34年目の昭和天皇武蔵野陵に拝する(令和5年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。
国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

あの日から、34年。

今年も、 昭和天皇 武蔵野陵(しょうわてんのう むさしののみささぎ)へ参拝をいたしました。そして、昭和記念公園の「 昭和天皇記念館」にも足を運んできました。

昭和から平成、そして令和へと、時代は移り変わるも、決して忘れてはいけない昭和の記録を伝承し、そして歴史として、後世に紡いでいくために。


昭和天皇 武蔵野陵(むさしののみささぎ)

昭和天皇 武蔵野陵 
昭和六十四年一月七日午前六時三十三分崩御 平成元年二月二十四日斂葬

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。


昭和天皇祭(山陵に奉幣の儀)

祭礼に関する撮影は一切禁止、です。
午前9時半頃より、一般参拝が停止され、祭員参進が始まります。
午前10時より、「山陵に奉幣の儀」が奉祭されます。
おわるのは、午前10時30分から11時の間くらい。
祭員が退出次第で、一般参拝が再開されます。

祭祀は、神道式。

  • 祭員参進
  • 式部官参進(宮内庁式部職)
  • 招待者参進
  • 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下)
  • 勅使参進
  • 献饌(奏楽)
  • 勅使拝礼(奉幣)
  • 皇族代表拝礼
  • 招待者拝礼
  • 撤饌(奏楽)
  • 勅使退出
  • 皇族代表退出
  • 招待者退出
  • 式部官退出
  • 祭員退出

祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

一般参拝再開直後。午前10時45分頃。

静謐な空気のもと、 昭和天皇に拝礼をしてきました。
ありがとうございました。


関連ニュース記事

一般参列者は撮影禁止でしたので、マスコミ代表撮影の記事を掲載しておきます。

https://www.fnn.jp/articles/-/467753

https://www.yomiuri.co.jp/koushitsu/20230107-OYT1T50117/


香淳皇后 武蔵野東陵(むさしののひがしのみささぎ)

大正天皇 多摩陵(たまのみささぎ)

貞明皇后 多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)

武蔵陵墓地


多摩御陵参道

カラーコーンも幔幕(青白の浅黄幕)


南浅川橋

昭和11年(1936年)に設置されたコンクリートアーチ式の橋です。南浅川に架り、多摩御陵(武蔵陵墓地)への参道となっています。御陵参道の橋であるため、威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮したデザインが施されているのが特徴。

https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/002/003/p003407.html

橋歴
「東京の著名橋・南浅川橋」
 大正15年(西暦1926年)12月25日大正天皇崩御により、当時の東京府南多摩郡横川村・浅川村および元八王子村(元八王子市長房町・甘里町・元八王子町)地域に御陵所の造営が決定した。これに伴い、東京府が八王子駅と浅川(現高尾)駅間の仮駅から御陵(多摩陵)に至る参道新設を行い、南浅川に全長約87mの木橋が架けられ、南浅川橋と命名されたのが始まりである。
 現在の橋は、昭和11年(西暦1936年)の大正天皇十年式年祭にあわせて、東京府が木橋を架け替えたものである。構造形式は関東大震災後の東京(帝都)復興時に開発されたコンクリートラーメン橋台のコンクリートアーチ橋で、御陵参道の橋として、威厳のある形式と周辺の自然との調和を考慮した意匠が施されている。
 昭和64年(1989年)1月7日の昭和天皇崩御、武蔵野陵造営にあわせて、平成元年2月に東京都が南浅川橋の洗浄・補修、参道の整備を行った。

南浅川橋(コンクリート橋)
昭和11年12月竣工
全長 53.3m
幅員 21.4m
構造 鉄筋コンクリート橋
形式 コンクリートラーメン橋台・固定アーチ橋

1993年1月 補修
東京都
施工 吉田建設株式会社

東京府建造
昭和11年12月完成
合資会社 清水組


多摩御陵参道(武蔵陵墓地参道)入口


陵南会館(東浅川駅跡・東浅川仮停車場跡)

この地には、東浅川駅があった。
東浅川駅は、大正天皇の大喪列車用の臨時駅として開設された皇室専用の駅で、社殿造の駅舎であった。
昭和35年(1960年)に廃止となり、八王子市に払い下げされ、公民館「陵南会館」となっていた。
平成2年(1990年)に、新左翼の皇室テロによって爆破されてしまった。

陵南会館

石碑があった。

1964
オリンピック東京大会 自転車競技この地で行わる


高尾駅

大正天皇の大喪列車の始発駅として「新宿御苑に設置された仮設駅舎」を移築したもの。

八王子の富士森公園の大正殿は、大正天皇多摩陵での「大喪の儀」で「祭場殿」として使用された建物の移築。


昭和天皇記念館

せっかくなので、立川の記念館にも足を伸ばしました。
高尾と立川は、中央線で一本ですし。

https://f-showa.or.jp/museum/

館内は撮影禁止

今回、ボールペンを追加購入したかったのですが、売り切れでした。写真のボールペンは以前に購入したものです。(仕事用で愛用しています)

そのため、かわりにまだ戴いていなかった目録とハンドタオルなどを戴きました。

昭和天皇のお印は「若竹」

昭和天皇記念館は、武蔵野陵参拝とセットでいつも足を運んでしまいます。


関連

「敵機侵入を察知した聴音壕」大月防空監視哨跡の散策

2022年8月に大月から富士急で河口湖に赴いていました。
河口湖飛行館に行きたかったので。

そのときに大月の防空監視哨跡に赴こうかなと思っていたのですが、夏場で草むらが心配だったということもあり、そのときはやめときました。
そうして、行こうと思ったところを、先延ばしにしていると、気になるもので、飛行館の記事を遅ればせながらで、ようやく掲載したところで、どうしても記事にしたくなりましたので、大月まで足を運んでみました。


大月防空監視哨跡(聴音壕跡)

おむすび山の展望台に穴が空いていました。これが、「聴音壕」の跡。

大月防空監視哨跡
日本は昭和一六年(一九四一年)一二月アメリカ・イギリス等に宣戦布告をし、第二次世界大戦に突入した。
緒戦こそ戦果が上がったが軍事も経済も豊かな連合軍にかなうはずもなく、昭和一七年のミッドウェー海戦に敗れてからは不利を余儀なくされた。
昭和一七年米爆撃機による本土初空襲があり、空の守りとして「民防空監視隊」が組織された。その時山梨県には甲府・大月・南部に監視隊本部が設置され、その下にそれぞれ一五・一〇・七の監視哨が置かれた。
大月監視隊本部は、昭和一八年暮れに猿橋から大月へ警察署と共に移転し、傘下には、丹波・西原・上野原・七保・大月・笹子・谷村・吉田・精進・河口の各監視哨があった。監視哨は、哨長一名監視隊員九名で編成され、三交代で昼夜を分かたず空の守りについていた。
その役割を、昼は二名で双眼鏡で空を監視し、夜は一名が監視、一名は聴音壕の中で飛行機の音を聴き飛んでいる方向や機種を探り、一名は電話番としてキャッチした情報を本部に伝えるという、分担制で果たしていた。
左にある縦穴は聴音壕の、右の平らの部分は事務所のあった跡である。
監視隊本部では、各監視哨からの情報を、女子隊員が警察電話を使い、直通で東部軍管区へ通報した。
東部軍管区では、これらの情報を、警戒警報や空襲警報を発令したり、立川にある飛行集団本部に連絡し、迎撃の飛行機を発進させたりする判断の資料とした。
昭和一九年サイパン島が占領され、そこから飛び立つアメリカ爆撃機B29は富士山を目標に北上し、東に折れて京浜方面へ、西に進んで中京方面へ向かうという進路を取るようになり、大月の監視哨の役割は重要性を増してきた。
昭和一九年から二〇年にかけて、B29による本土爆撃は三五三回におよび、東京をはじめ二〇〇近くの都市が空襲され、八月には広島・長崎に原爆が投下された。
八月一五日敗戦。「国破れて山河あり」、そして疲弊という無謀な戦争によるつけも残った。
戦後半世紀を経た今、この地から望める大月の町を眺めるにつけ、世界平和が続くことを祈らずにはいられない。五〇年前の苦しみを平和への一里塚ととらえ、この記念標を建てた。
決して戦争賛美の為ではない。
(この文は、当時の大月監視隊本部隊長山口明男氏の貴重な体験談をもとに作りました。)
 平成三年
  大月公民館

大月防空監視哨跡

縦穴は「聴音壕」
夜間に、聴音壕のなかで、飛行機の音を聴くことで、飛んでくる方向や機種を探り、取得した情報を大月監視隊本部に電話にて連絡した。

下に降りてみた。結構深い。。。

面白い石の積み方。

開けた場所は、事務所が置かれていた。

富士山が見えました。

大月の街並み

桂川から。通称「おむすび山」。

ちなみに夏はこんな感じになります。
このとき(2022年8月)は、山の様子だけみて、疲れていたので、登るのはやめました。。。
そうして、2023年1月にリベンジしたわけです。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1232-51
1948年3月31日、米軍撮影の航空写真。

該当部分を拡大。

現在の様子。

ちなみに、聴音壕は、はっきりみえる。


行き方

JR大月駅。背後には、岩殿山。岩殿城址がある。
そして、中央戦ユーザーが恐怖の終電乗り過ごしで「大月行」となってしまった場合に、救いとなるらしいビジホが力強くそびえています。

大月駅

大月駅から、15分くらい歩きます。
桂川をわたって、大月市民病院が見えてきたら、その裏山。

病院の脇の道路をあがっていけば、、、

ここが入口。

登山口です。ちょっとした山登りがまってます。

おむすび山展望台登山口
(旧陸軍防空監視所跡)

高川山へ登る登山道の通りに「おむすび山」がある。

このうえに、防空監視哨跡がある。

かたくり群生地、だそうです。

登山口から、おむすび山の山頂までは、15分くらいの登山でした。そうすると駅からは30分くらいですね。

場所

https://goo.gl/maps/VRtUNL3of9PtDHG29

※撮影:2023年1月


河口湖自動車博物館・飛行舘(2022年8月版)

2022年8月、「河口湖自動車博物館・飛行館」に赴きました。
毎年8月の1ヶ月間のみ公開される博物館。前々から気にはなっていましたが、ようやくに赴くことができました。


「河口湖飛行館」に関しては、多くの記事がありますので、写真中心に。

2023年の記事は下記にて


河口湖自動車・飛行館

山梨県南都留郡鳴沢村富士桜高原内にある自動車および航空機の博物館。
原田信雄氏が私費を投じて設立した博物館で、毎年8月の1ヶ月間だけ開館している。

https://www.car-airmuseum.com/index.html


零式艦上戦闘機52型(靖國神社遊就館)

冒頭から脇道です。。。

ちなみに、靖國神社遊就館に保存されている零式艦上戦闘機52型の復元に携わったのも、「河口湖自動車博物館・飛行館」であった。(2002年、靖国神社ご創立130年記念のため遊就館に奉納)


F-86F-40 セイバー

飛行館の脇で出迎えてくれるのは、航空自衛隊創設期の主力戦闘機「F-86」。


飛行館・入口

ケイタイ電話の撮影のみOK!

デジカメとかは駄目。
最近はスマホカメラも機能向上しているから、それなりの写真は撮れるかな。そんなわけで本記事は、すべてスマホ写真となります。(スマホ=Motorola moto g PRO)

なにかのプロペラ


飛行館・館内

さっそく目に飛び込んでくる情報量の多い空間に圧巻。
まずは2機の「隼」

一式戦闘機 隼1型

天井に展示されている隼1型。
中島飛行機が開発。第日本帝国陸軍を代表する戦闘機。

一式戦闘機(ハヤブサ)1型
上昇力や加速力では、ゼロ戦をも上回る性能を持つ、旧日本陸軍の戦闘機で、日本でハヤブサを見られるのは、この飛行館だけです。
ゼロ戦が海軍機として造られたのと動揺に、陸軍機として造られたのが、このハヤブサです。抜群の性能を持つこれらの2機は、同じエンジンを搭載し、旧日本軍の主力戦闘機として運用されました。2枚のプロペラが、ハヤブサ1型の特徴です。

一式戦闘機2型(6750号機)

無塗装で展示されているのは隼2型。プロペラは3枚ですね。

一式戦闘機(ハヤブサ)2型
ゼロ戦52型と同じパワーアップしたエンジンを搭載しているため、エンジンカウリングの形状が異なり、プロペラが3枚に変更されているのが、1型との大きな違いです。天井展示の1型と比べてください。
この機体は1944年にニューギニアで米軍に捕獲され、性能調査が行われました。調査の結果、ハヤブサは操縦が容易で、旋回性能はいかなる連合国機より優れていると米軍は評価しました。


艦上偵察機 彩雲 11型1290号機

中島飛行機が開発。大日本帝国海軍の艦上偵察機。
実用化した海軍機の中で、彩雲は海軍最速機として陸上偵察機としても活用され、米軍機の追跡を振り切った際に「我ニ追イツクグラマン無シ」の名言も残っている。

1944年に愛知の半田製作所にて量産が開始。半田1号機は1944年6月に完成。終戦までに463機生産(半田では427機)されたという。

河口湖飛行館とアメリカ国立航空宇宙博物館(非公開)にのみ現存。
河口湖飛行館では、彩雲の復元作業に着手している。

彩雲の水平尾翼・垂直尾翼の復元。昨年2021年は胴体中央部が公開。少しずつ、復元が進んでいる。

彩雲の右主脚部


特殊滑空機 桜花11型 I-16

機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器。
母機(一式陸攻)に吊るされて目標付近で分離し発射される。その後はロケット推進で加速し、搭乗員が目標に誘導して体当たりを決行する。

桜花
特攻機、人間爆弾です。
米国ではBAKA BOMBと呼ばれた。
大型艦を一撃で大破させることが可能な1.2トンの大型爆弾を搭載した特攻専用の航空兵器です。
一式陸上攻撃機に吊るされた桜花は、標的付近で切り離され、人間の操縦により体当たりをしました。ロケットエンジンの搭載で急降下時には時速800km以上の猛スピードで敵艦に向かうために、連合軍は迎撃不可能と判断し、攻撃目標を切り離し前の一式陸上攻撃機に変更したほどです。


一式陸上攻撃機(一式陸攻)22型

大日本帝国海軍の陸上攻撃機。略称は一式陸攻。開発は三菱。
日本海軍の主力陸上攻撃機として活躍した。
河口湖飛行館では、12017号機、尾翼番号 62-22の機体を、現在は尾翼番号 「龍41」と塗装し、主翼を除いて復元展示している。
「龍」は第761海軍航空隊所属機。絶対国防圏防衛の主力爆撃機隊として、太平洋戦争終盤にマリアナ諸島およびフィリピンで哨戒・爆撃・雷撃行動に従事した。

一式陸上攻撃機22型
太平洋戦争海鮮から終戦まで、爆撃、低朝つ、輸送と大戦全般のあらゆる場面で運用されました。海軍大将の山本五十六元帥が最期に登場した機体としても有名です。
全長20mにも及ぶ大型機でありながら、優れた設計により幕軍の操縦性を実現した傑作機です。2,400機もの一式陸上攻撃機が生産されましたが現存する機体はmこの展示機のみです。

尾部の旋回機銃

一式陸上攻撃機の内部。

乗員出入り口を開放するとこうなる。
日の丸の部分が扉だったのですね。

前方の旋回機銃。

上方にも旋回機銃を備える。

一式陸攻の機首。曲線美。

これは、すごい。

前方視界が、ある意味で恐怖な、一式陸攻。
前に居たくない。。。

火星二一型(一式陸攻用エンジン)

今でもオイルがたれているエンジン。

91式航空魚雷(一式陸攻用魚雷)


零式艦上戦闘機(ゼロ戦)52型

大日本帝国海軍の主力戦闘機。零戦。開発は三菱。
河口湖飛行館では4機の零戦を復元し、1機は靖國神社遊就館に奉納。残り3機を展示保存している。

零戦52型1493号機「豹187」
昭和19年(1944年)5月頃、中島飛行機にて製造。栄三一型エンジン、四式射爆照準機などを装備した後期の機体。

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)52型 
強力なエンジンの搭載で、最高速度は21型より30km/h向上の560km/hにも達した後期型モデルのゼロ戦です。
エンジンのパワーアップに伴う大型化したエンジンカウリングと折り曲げ機構のない主翼先端が21型との大きな相違点です。21型と違いを較べて見てください。
展示機は、1,150馬力の最終型「栄31型」エンジンを搭載しています。

栄エンジンがわかるように展示。

栄発動機31型(中島)


栄12型 ゼロ戦用エンジン

世界で、回る唯一のエンジン。
中島飛行機が開発。零戦や隼に使用された。

エンジンが生きている証。オイルが下にポタポタと。


九三式中間練習機

大日本帝国海軍の練習機。愛称は「赤とんぼ」。開発は川西飛行機。

九三式中間練習機
天井展示の複葉機は、旧日本海軍の操縦士養成用練習機です。
海軍のパイロットはこの機で、高度な操縦技術を身につけました。
三菱や中島飛行機など海軍と関係を持つほとんどの航空機製造メーカーにより、5,800機もの機体が生産されています。
練習中に海に落ちても見つけやすいよう、尾翼が朱色に塗られていたことから、通称「赤とんぼ」と呼ばれていました。


零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型

大日本帝国海軍の主力戦闘機。零戦。開発は三菱。
河口湖飛行館では4機の零戦を復元し、1機は靖國神社遊就館に奉納。残り3機を展示保存している。

スケルトン状態の21型92717号機

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型
昭和19年4月頃に生産された末期の21型です。
既に後期型モデルである52型の生産は始まっておりましたが、この頃までは中島飛行機により、21型も製造されておりました。
ゼロ戦の内部構造がわかる貴重な資料として残すため、できる限りのオリジナル部品を装着し、外板を張らない骨組みの状態で展示しております。

それにしても情報量が多い。。。


四式戦闘機 疾風(方向舵)

大日本帝国陸軍の戦闘機。四式戦闘機。開発は中島飛行機。


特殊攻撃機 剣(外板)

大日本帝国陸軍の特殊攻撃機(特攻機)。開発は中島。生産は昭和飛行機も参加している。生産は105機であったが、実践には使用されなかったという。陸軍名称は「剣」、海軍名称は「藤花」であった。


アツタ21型(艦上爆撃機彗星用エンジン)

愛知航空機が製造。ドイツのダイムラー・ベンツDB601のライセンス生産。


金星11型(九六式陸上攻撃機用エンジン)

三菱が開発。大日本帝国海軍の主力エンジン。


誉11型(銀河用エンジン)

中島飛行機と海軍空技廠が開発。中島飛行機の最後の量産航空エンジンでもあった。


誉11型(彩雲用エンジン)


栄12型(零戦21型用エンジン)


栄12型(零戦21型用エンジン)

製造番号12515


落下増槽燃料タンク

鉄板製タンクと木製タンク

鉄板製タンク

木製タンク


水上偵察機 零式観測機(フロート)

三菱が開発した水上偵察機。


零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型

大日本帝国海軍の主力戦闘機。零戦。開発は三菱。
河口湖飛行館では4機の零戦を復元し、1機は靖國神社遊就館に奉納。残り3機を展示保存している。

21型91518号機、尾翼は「AI-101」塗装(一航戦赤城の戦闘機1番機)になっている。

零式艦上戦闘機(ゼロ戦)21型
ゼロ戦は旧日本海軍の主力戦闘機で、21型は初期型モデルです。
抜群の運動性能を誇り、ゼロ戦の名を世界中に広めました。
尾翼に記された「AI-101」は真珠湾攻撃の際、空母赤城より出撃したエースパイロット板谷少佐の機番です。
展示機は90%以上ものオリジナル部材を使用して復元されており、本物のエンジンが装着された世界唯一の機体です。

零式艦上戦闘機
零式艦上戦闘機(艦上機:航空母艦から発着可能な航空機)、通称ゼロ戦は昭和12年(1937年)三菱重工、大江工場にて堀越二郎氏を主任設計者として開発が始まった。
約2年の猛スピードで試作機が完成。翌年の昭和15年7月には、正式に海軍戦闘機として採用される。ゼロ戦(零戦)の名称は、昭和15年が旧暦、皇紀2600年である、その年号最後の数字が”0”であることから、そう呼ばれた。
・最高速度550km/h(世界的なレベルは500km/h)
・航続距離2,500km(世界的な距離は500km以下)
・20mm機関砲2門と、最大の機銃を装備
そして、他に類を見ない、抜群の運動性能などから、世界一のゼロ戦と呼ばれた。

このような機械の設計・開発を行った堀越二郎氏は操縦ができなかったと云われているが、ゼロ戦の隅々までに”美”を追求した、芸術家であったとも云える。
制作から75年経過した現在でも、美しい機体をもつゼロ戦は世界的に人気が絶えない。
ゼロ戦は21型から、22型、32型、52型、62型と5回もの設計変更が行われたが、最初に設計された21型が、一番性能が良かったと云われている。
初期型のゼロ戦は空の雲の色に溶け込むように機体色はグレーであったが、後期型からは主に熱帯のジャングルで使用された為、グリーンに塗装されている。
約10,000機も作られたゼロ戦だが、現在は30機のオリジナルのゼロ戦と、1990年にロシアとアメリカで完成した3機の新造機(エンジンはアメリカ製)のみが残されている。
日本では10機ものゼロ戦が保存されているが、残念ながら何れも飛行できる状態ではない。アメリカでは飛行機は飛ばすものとの考えから、航空祭などで我々を楽しませてくれているのだが、悲しいことに我が国では、完全なゼロ戦でも”キケン”とされ、航空局から許可が出ないのが現状である。

復元前の機体の翼端

オリジナルの下地。1944年の段階では資材不足のために、内部塗装はしていなかった。

折り畳み翼端が、21型の特徴。

尾翼の「AI-101」


ライト兄弟1号機「フライヤー1」

飛行機時代の開幕。

1903年(明治36年)12月14日、ライト兄弟の第1号飛行機「フライヤー1」が人類最初のエンジン付き飛行機による飛行に成功した。


GE J79(F104用ジェットエンジン)

空冷のガソリンエンジンから、全く新しいジェットエンジンへと。


戦時下のポスター

戦時下の啓蒙活動。いろいろ。


富嶽

6発の超大型戦略爆撃機。中島飛行機が設計をすすめるも、戦局悪化で開発中止。


ラバウル航空隊ジオラマ

昭和17年のころをジオラマで再現。


そのほか

いろいろ。


野外展示

T-6 テキサン

S2F-1トラッカー

H-19 チカソー

T-33A シューティングスター

F-86F セイバー(ブルーインパルス)

C-46D コマンドー


1190形蒸気機関車

1923年(大正12)のドイツ・コッペル社製の蒸気機関車。
2両が輸入され、鶴見臨海鉄道301号機、302号機となるも、鶴見臨海鉄道は戦時買収で国有化され、1190形となった。1190形は1950年に三井埠頭に譲渡され、1968年まで使用された後、廃車後に河口湖自動車博物館で展示されている。


F-104DJ

河口湖自動車博物館のうえにも飛行機が。
今回は、飛行館のみを見学しました。自動車は余り興味が沸かなかった、、、ということもありましが。


お土産

零戦21型に、隼1型に、一式陸攻22型で。

ここはすごいです、これはまた来たいです!
歴史遺産、戦争遺産を修復復元して後世に伝承する現在の工廠ですね。
彩雲も楽しみ、です。

※撮影:2022年8月


関連

靖國神社の新春初詣(令和5年)

令和5年(2023年)正月元日。
靖國神社に初詣。

初詣

良き青空の年始め

令和癸卯

新春初詣の正式参拝を。

御本殿には、 明治天皇が明治7(1874)年1月27日に、初めて招魂社をご参拝された際に詠まれた御製が奉書された御宸筆の扁額が掲げられている。

年のはじめに、改めて御本殿の扁額に接する。

我國の為をつくせる人々の
 名もむさし野にとむる玉垣

※2019年特別展にて写しを撮影

御本殿の神鏡(明治10年11月14日の臨時大祭にて御親拝された 明治天皇の幣帛料で制作された。

※2019年特別展にて写しを撮影

国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えるお社。

感謝と哀悼を。

甘酒を頂戴しました。

振る舞い酒を頂戴しました。

正月の風物詩。

遊就館に。ちょっとデザインが変わりましたね。

C5631の正月飾り。

チハにも正月奉納

新しい年への祈り
まごころこめて
初詣は靖国神社へ

菊の御紋

参道の賑わい

社務所

神門

第二鳥居

大村益次郎の広場には屋台も。

参道

迎春 靖國神社

初詣は靖國神社へ

令和五年冬季限定刺繍朱印

大鳥居


初詣でお頒かちいただいた授与品

正式参拝のおさがりで、黒豆(大納言甘納豆)は初めていただきました。

令和五年冬季限定刺繍朱印

刺繍が美しいです。梅と鶯。

令和癸卯の祝枡

毎年、いただいている「桜みくじ」

毎年、お守りが増えていきます。。。


関連

武蔵航空吉田工場跡と河口湖散策(富士吉田)

山梨県の富士吉田にも、軍需工場があった。
工場の跡地に、空襲の犠牲者の慰霊碑があるというので、足を運んでみた。


武蔵航空吉田工場(武蔵航空株式会社吉田工場)

富士北麓は、もともと軍需工業とは無縁の地域であったが、戦争末期になると、立川地区の航空機工場の疎開先として、当時の下吉田町(現在の富士吉田市)は1943年以降、一大軍需産業地帯と化した。
富士吉田市の竜ヶ丘自治会館周辺には、「武蔵航空吉田工場」があった。中島飛行機武蔵工場の下請けとして、勤労動員学徒を含む約2000名が海軍双発陸上爆撃機「銀河」尾翼の組み立てや発動機の修理、特攻日の整備なども行っていたという。


富士吉田空襲

1945年7月30日。午後1時半頃。
富士吉田にあった武蔵航空吉田工場に米軍機グラマンF6Fが襲来。
工場にいた15歳から39歳の工員12人が犠牲となった。
1945年8月13日にも空襲があり、工場は全壊となった。(人的被害はなかった)


武蔵航空工場被爆殉難者之碑

武蔵航空工場被爆殉難者之碑
  題字 西山巧記
太平洋戦爭の末 此の地に二萬坪の敷地を整地して広大な工
場が建ち竝び勤労学徒隊を含めて二千余名の者が航空機の生
産に從つて居りました 昭和二十年七月三十日午後一時突如
として米軍艦載機数編隊の襲撃を受け一瞬にして十二人の貴
い生命を喪い二十余人の負傷者を出すという惨事に至りまし
た 旧字えて八月十五日終戦を迎え爾來星霜十有二年 工場跡
は一望の水田と変り世人の記憶も漸く薄れゆこうとする時
元從業員一同亡き友を偲んで記念碑建立のことを発起しまし
たところ 過去十二年間朝夕にねんごろな供養を續けてこら
れた元社長西山巧記殿の絶大なご協力と県市当局並びに有志
縁故多数の方々の御力添によつてここに成就することを得ま
した 謹んで十二柱英靈の御冥福を祈る次第であります

昭和三十二年七月三十日
 為十三年忌法要供養建立

富士吉田空襲で犠牲となった12名のお名前が刻まれている。
合掌。

場所

https://goo.gl/maps/pW9CuAnGtZoukFdL7


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R772-37
1948年1月3日、米軍撮影の航空写真。

上記から抜粋及び加工

現在の様子


河口湖

せっかくだから河口湖に寄り道。

河口湖シンボル像「源泉」
北村西望の終生最期の作品。

場所

https://goo.gl/maps/cqHUmtF1zDuJ5DoF9


富士山麓電気鉄道「モ1号」

昭和4年(1929)に富士山麓電気鉄道が線路開業した際に新造した車両。

河口湖駅

トーマスですね。

大月駅

察しの良い人は、富士吉田とか河口湖で、わかるかもしれませんが、「河口湖自動車博物館・飛行館」に行くのがメインでした。その記事はまた別立てにて。

※撮影2022年8月