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陸軍糧秣廠本所倉庫跡と千種稲荷神社(錦糸公園)

錦糸町駅前の「錦糸公園」は、かつて陸軍の倉庫であり、空襲犠牲者の仮埋葬地であった。

錦糸公園

墨田区立錦糸公園は、大正12年(1923年)に発生した関東大震災で壊滅的な被害を受けた東京復興事業の一環として、隅田公園・浜町公園と並んで計画された公園であった。
当地は、帝国陸軍の糧秣廠本所倉庫であったが、大正14年に出張所として流山に倉庫が設けられて移転し、公園として再整備が行われ、昭和3年(1928)7月に開園。
太平洋戦争中は、空襲からの避難所としての役割や戦災で命を落とした人たちの仮埋葬所としても利用された。1945年3月10日の東京大空襲においては、1万2895の遺体が錦糸公園に仮埋葬された。
仮埋葬された遺体は戦後に掘り起こされて改装されている。
現在、錦糸公園には仮埋葬などを物語る戦跡などは特に残っていない。


千種稲荷神社

郷土の守護神としてこの地に鎮座してきた稲荷様。
陸軍糧秣廠本所倉庫の建設に際し、陸軍省は稲荷社を撤去。その後、倉庫周辺で火災が頻発したことから対策に苦慮し、取り払った稲荷社を元に戻したところ、火災は収まったという。
その後に、関東大震災で東京大空襲でも稲荷社周辺は無傷であった。

千種稲荷神社由来記
千種稲荷神社は、江戸時代此の地が湿地帯であり荒廃のままになっていたが、寛文から延宝の二十年間(徳川四代将軍家綱)の長きにわたり治水を目的として土木工事が行われ、更に其の後此の地を武家の下屋敷の敷地として、整地を行いなお商家の営業も地域内に許可され、加えて横十間川が当時舟運の盛んな処であった関係で、武家屋敷が横十間川をはさんで両側に軒を連ねていたと云う頃より、此の柳島村の守護神として祭られていたものと伝えられて居ります。その後、徳川幕府は明治政府に替り、従来の武家制度は廃止され武家屋敷も解体されて、農耕地に変わり其の武家下屋敷解体の際にも、此の稲荷社は保護されて郷土の守護神として残されました。

その後、政府は陸軍糧秣廠本所倉庫を此の地に建設しその敷地内に此の稲荷社があり、陸軍省は敷地整理に際し、この稲荷社を取り払いし処、その後倉庫並びに周辺に再三火災が発生し、陸軍省も面目問題として苦慮を重ね、後になり敷地内より取り払ったままになっていた稲荷社に気付き、旧位置に再建して祀りし処、不思議にもその後火災等は全くなくなりました。大正十二年の震災には此の地一帯は、灰燼に化したが稲荷社には少しの被害を受けませんでした。昭和三年七月十八日、復興局の手により創設された錦糸公園も開園となり、同じ頃神田より製菓業者が公園周辺に集団移転し、営業を開始した処早々より町内に火災多発して、町民が不安に苦しんでいた処、或る時静岡県より来られた行者さんが、昔より此の地に祀られてあった守護神が公園建設の際園内の何れかに放置されたままに成っているとの言葉に、町内有志により探し出し、公園課の了解を得て稲荷社を旧位置に祀りし処、其の後火災も無くなり、又商売繁盛、災厄消除等諸々の願いも成就するとて多くの信者が参拝致す様になりました。昭和二十年三月十日の空襲にも此の稲荷社は少しの被害もなく多くの人が境内に避難し戦火を免れました。昭和二十九年千種講世話人相計り、戦後荒廃した稲荷社の整備計画が建てられ、その年より玉垣、鳥居、参道、水屋、石燈籠、本殿の増改築等遂年に渉り工事を重ね、境内の整備を完了した次第です。昭和三十年五月十八日付けを以って右建物一切を東京都の申し出により、都に寄贈致し保存と管理を千種講が委任されました。その後昭和四十年四月から墨田区の公園になりました。
昭和五十年、千種講より春秋二回にわたり吉野桜を区の公園課に寄贈し、よりよい桜の公園として其の景観の向上を願っている次第であります。
 (趣文 真宗末一・千種稲荷由来記より)

錦糸公園内に鎮座する千種稲荷社の御由緒が、往時をわずかに物語っている。

錦糸公園


関連

東京大空襲・慰霊

「日本初の常設サーキット」多摩川スピードウェイ跡地(取り壊し前)

かつて多摩川の河川敷に「サーキット場」があった。
場所は、東急東横線多摩川橋梁の隣、多摩川駅と下丸子駅の間の川崎側。堤防に観客席跡などが今も残っている。

多摩川スピードウェイは、アジア初・日本初の常設サーキットパーマネントサーキット・クローズドサーキット・常設コースを備えた競技専用施設)であり、なおかつ日本唯一の常設サーキットでもあった。
常設サーキットとしては1962年に鈴鹿サーキットが開設されるまでは、多摩川スピードウェイが国内で唯一の自動車が使用できるサーキットであった。

「多摩川スピードウェイ」跡地は、築堤工事のため取り壊されました。
観客席の一部が移設保存。横並びの3席分、幅約3・3メートル分。

取り壊し後の記事はこちらから。
なお、新設されたプレートには、当サイトの写真が採用されております。
ありがとうございます。

移設保存にあっては、多摩川スピードウェイの会 (Tamagawa Speedway Society)の多大な尽力があった。

https://ja-jp.facebook.com/TamagawaSpeedwaySociety/


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C50-C2-31
昭和16年(1941年)4月2日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

多摩川スピードウェイ

多摩川スピードウェイ跡地の現在の様子。


多摩川スピードウェイ(オリンピアスピードウェイ)

1936年(昭和11年)開業。東急電鉄により運営。収容人数は約3万人。コース長は1,200m。
多摩川の堤防土手を利用したメインスタンドを持つ構造であった。

多摩川スピードウェイは、アジア初・日本初の常設サーキットであり、なおかつ日本唯一でもあり、「東洋一の自動車大競走場」として、注目を集めていた。

1936年6月7日に第1回全国自動車競走大会が開催された。
第1回大会では、外国車に交じって国産車も参戦。のちに本田技術工業を創設する本田宗一郎や、ダットサン日産自動車の鮎川義介などを押しのけ、国産自動車部門では、太田祐雄のオオタ自動車工業が優勝した。
3ヶ月後の第2回大会(1936年10月)では、鮎川義介の日産ワークスが雪辱を果たし、第3回大会(1937年5月)はオオタワークス再び優勝。

全国自動車競走大会は1936年の第1回以降、1938年4月17日の第4回大会まで計4回実施された。前年1937年7月7日に勃発した盧溝橋事件以降の支那事変(日中戦争)拡大の影響もあり、第4回大会を最後に自動車競争大会は中止となった。
その後、オートバイ競争大会は行われていたが、それも1941年12月8日の太平洋戦争勃発により中止。終戦後1945年8月以降、ガソリンの供給が市中に出回り始めることで、オートバイの草レースが復活したという。

オートバイ専用の競技場として1950年10月に千葉船橋オートレース場が開設され、また周辺住民が増えてきたことから騒音問題などもあり、1950年代に廃止となり、1952年には野球場に改装。
多摩川サーキット廃止後、国内には常設サーキット(パーマメントサーキット)が存在しない状況となってしまったが、1962年に、多摩川サーキットの第1回全国自動車競走大会にも出走した本田宗一郎のホンダが鈴鹿サーキットを開設させることで再び日本に常設サーキットが復活した。

多摩川スピードウェイ
多摩川スピードウェイは、日本初の常設サーキットとしてこの地に建設されました。階段状のコンクリート製堤防は、当時の観客席そのものです。
1936年6月の第1回大会以降、ここで第2次世界大戦前の数年間を中心に自動車・オートバイのレースが開催され、3万人の観客を集めていました。
若き日の本田宗一郎氏をはじめ、出場者・関係者の多くは、レースで得た技術・経験を活かし、戦後の自動車産業の発展において中心的な役割を果たしました。
開場80周年を機に、多摩川スピードウェイが果たした役割と、先人たちの功績を後世に語り継ぐべく、この碑に記します。
 寄贈 多摩川スピードウェイの会 2016年5月


多摩川スピードウェイ跡地

現在は、多摩川堤防のコンクリート部分に、往時の観客席の跡が残っている。

すぐ脇を、東急東横線が走る。(東急東横線の多摩川橋梁)

東急東横線の車窓から。

階段状のコンクリート製観客席の遺構も多く残る。

等間隔にある穴は、座席用の穴と思われる。

サーキットのあった場所は、今は野球グランドに。

ちなみに映画「シンゴジラ」でゴジラが多摩川を渡るのが、この界隈。


場所

https://goo.gl/maps/j3y8QwAGA7SRcocTA


参考

https://www.shinkosugi.jp/town/kosugisanpo200807_01.html

https://car.watch.impress.co.jp/docs/series/oku_race/1249120.html

「救援のために水を運ぶ婦人の像」(日本赤十字看護大学広尾キャンパス)

東京都渋谷区。日本赤十字看護大学広尾キャンパス前庭。

赤十字社と戦争は切っても切れない関係がある。
日本において、赤十字社は、1877年(明治10年)の西南戦争の最中に設立された「博愛社」という救護団体が前身であり、日本政府のジュネーブ条約(赤十字条約)加入翌年の1887年(明治20年)に「博愛社」は「日本赤十字社」に改称している。

https://www.jrc.or.jp/about/history/

戦前の日本赤十字社は陸軍省、海軍省管轄の社団法人であった。
戦後は厚生省管轄を経て、現在は厚生労働省管轄の認可法人。
伝統的に皇室の援助が厚く、初代の昭憲皇太后以降歴代皇后を名誉総裁とし、皇太子妃ほかの皇族を名誉副総裁としている。


救援のために水を運ぶ婦人の像

第二次イタリア独立戦争中の1859年6月24日、イタリア北部ロンバルディア地方のソルフェリーノを中心に行われた戦闘「ソルフェリーノの戦い」。
ナポレオン3世率いるフランス帝国軍とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルデーニャ王国軍の連合軍が、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国軍と戦い、フランス・サルデーニャ連合軍が勝利した。
世界戦史上、すべての交戦当事国の君主が親征に出て軍を指揮した最後の主要戦闘とされている。

この戦いの現場に遭遇したアンリ・デュナンは、戦場の惨状に強い衝撃を受け、「ソルフェリーノの思い出」と題した書籍を出版、これが後の赤十字運動へつながった。

「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間である。人間同士、その尊い生命は救われなければならない」

デュナンは、国家に関係なく負傷者の治療に当たる専門機関の結成を訴えた。1863年、戦傷兵国際救済委員会(のちの赤十字国際委員会)が結成され、やがて赤十字運動は世界へと広がっていった。

「救援のために水を運ぶ婦人の像」は、「ソルフェリーノの戦い」で傷病兵に敵味方なく水を届け、赤十字制度のきっかけになった農村の女性をイメージしているという。
制作は、岩田実
建立は、平成23年5月16日

場所

https://goo.gl/maps/KAp99F1om5c3kz9A9


(関連)
殉職救護員慰霊碑と看護婦立像

場所は変わって東京都港区の日本赤十字社本社前庭には、殉職救護員慰霊碑と看護婦立像がある。
参考までにリンク提示。


日本赤十字看護大学

日本赤十字社の関連団体である学校法人日本赤十字学園が設置、運営する看護学部のみを有する4年制大学。
1890年(明治23年)日本赤十字社病院における看護婦養成を前身とする。

併設施設として、日本赤十字社医療センター、日本赤十字社医療センター附属乳児院、日本赤十字社総合福祉センター等が同じ敷地内にある。

レンガ造りの校門

レンガ造りの校門
日本赤十字社医療センターの前身の日本赤十字社病院は、1886年(明治19年)に東京飯田町に開院し、1891年(明治24年)に現在地に移転した。病院の建設の際に道路沿いに長い煉瓦塀が造られた。特別に注文した煉瓦を使ったという。煉瓦塀は現在の病棟新築の際に取り壊されたが、日本赤十字看護大学新校舎建築の際に、煉瓦を利用した校門が造られた。また医療センター入口付近にも煉瓦塀の一部が復元され、共に往時の煉瓦塀を偲ばせている。

佐倉藩下屋敷跡の松
日本赤十字社医療センターの構内は、江戸時代の佐倉藩の下屋敷跡で、広い敷地内に多くの松があったことが当時の絵図により知られる。その中に宗吾(そうご)の松と呼ばれた有名な松があった。佐倉藩の名主の佐倉宗吾(本名は木内惣五郎)が、重税に苦しむ村民のために将軍に直訴して、この松にしばりつけられたという伝説をもつ。
病院内では、手術室のそばにあった。この松は昭和初期に枯れ、他の松も姿を消して、今では一株だけとなった。1890(明治23)年以来、赤十字看護教育の歴史を見てきた松である。

日本赤十字看護大学広尾キャンパス周辺には煉瓦が多い。

※撮影は2021年4月


関連

日本看護婦会慰霊塔

日本赤十字社殉職救護員慰霊碑(日本赤十字社栃木県支部所属救護員慰霊碑)

栃木縣護國神社

愛の燈(日本赤十字社山梨県支部救護看護婦慰霊碑)

陸軍流山糧秣廠跡地と千草稲荷神社

「流山糧秣廠」、正式名称は「陸軍糧秣本廠流山出張所」。
流鉄平和台駅近くに、かつて日本陸軍の糧秣保管の施設があった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R393-54
1947年10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


流山糧秣廠

糧秣廠は、兵士の食糧と軍馬の飼料を管理していた日本陸軍の部署であった。
糧秣本廠は越中島にあり、倉庫は向島本所(墨田)にあったが、手狭になったことや、干し草などの飼料の自然発火などの危険性があっために、大正14年に出張所として流山に倉庫が設けられた。流山は水運と鉄路に恵まれ、また軍馬飼料の藁や干し草の産地とも近いという好立地であった。
当地からは近衛第一師団への糧秣や宮内省・警視庁などに牧草を供給した。
戦後は、民間に払い下げられ、キッコーマンの工場となっていたが、現在は再開発され、イトーヨーカドーやマンションなどになり、当時の面影は残されていない。

元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑

元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑について
当所は元陸軍馬糧倉庫として、東京本所錦糸堀の旧津軽藩屋敷跡にあったが周辺の人家増加して火災の危険を生じたため流山に移り、大正十四年七月一日開庁、敷地三五、二六〇坪建物七、五九七坪(倉庫二〇棟、事務所、工場等一五棟)であった。業務は軍馬用大麦、燕麦、高粱、牧草は本廠の指示により、また干草、ワラは関東地方各都県より買入れて貯蔵し、干草は圧搾工場にて四〇瓩梱包に精撰加工し、近衛第一師団下各部隊並びに宮内省、警視庁に補給した。また所管下の習志野、駒沢支庫がこれを補足した。なお江戸川岸に架空輸送機があって舟運の荷役に用いられ、ガラガラと称され名物であった。
流山がこの基地に選定された主因は、干草、ワラの主産地が千葉、茨城県下でその収集、補給に水陸両運の便が得られたためである。かくて流山は特徴ある有名な町となった。
やがて終戦となり、進駐軍に英和文リストを提出し接収された。その後構内及び職員共に運輸省東京鉄道局所管となり、特殊物資(進駐軍返還の各軍用品)を受け入れて整理、出納する鉄道用品庫流山支庫として6カ年余つづいたが、国鉄改革のため、昭和二十七年三月五日閉止され大蔵省を経て野田醤油並びに東邦酒類両会社と流山町に払下げられ、現在の状態となった。
回顧すれば、大戦中は敵機の攻撃目標となり、爆弾も投下され、且つ東京糧秣本廠が空襲のため全焼するや、その業務の一部が当所に加重されるなど重大任務の遂行と防空対策とで職員は殆ど不眠不休の苦労を重ねた。さらに終戦直後は軍廃止のため全員失職の運命に遭い、物資の欠乏、生活の困窮は実に甚しく、またともすれば流言飛語に迷わされがちな不安の中にあって、複雑な引継ぎと残務処理を一同一糸乱れず誠実に無事に完遂した。その労苦多としたい。
右の実情に鑑み、ここに本碑を建立して、史跡の標識とし、後代の参考に供する次第である。
 昭和五十五年八月十五日
  元陸軍糧秣本廠流山出張所長
  記念碑建設委員長 瀧上浦治郎
       建立者氏名裏面参照

流山糧秣廠跡(ながれやまりょうまつしょうあと)
大正14年~昭和20年(1925~1945)に陸軍馬糧倉庫があった。敷地35,260坪、建物7,597坪。業務は軍馬用の大麦等の貯蔵や干し草の加工。正式名は陸軍糧秣本廠流山出張所(りくぐんりょうまつほんしょうながれやましゅっちょうじょ)。


元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑の後方に神社がある。

千草稲荷神社

流山糧秣廠で祀られていた稲荷様。
「干し草」をあつかう糧秣廠倉庫の鎮守様ということで「千草稲荷」だろうか。

元を辿れば錦糸町にある錦糸公園内にある「千種稲荷神社」からの勧請ともいえる。
「陸軍糧秣廠本所倉庫」があった場所の地主神が「千種稲荷神社」。陸軍が倉庫を設けた際に稲荷社を撤去したところ、火災が頻発し対応に苦慮した陸軍は撤去した「千草稲荷神社」を再建したところ、火災はおさまったという。そして関東大震災に際しても、「千草稲荷神社」は無傷で残ったという。
「陸軍糧秣廠本所倉庫」が流山に移転するにあたり、霊験ある「本所の千種稲荷神社」も流山に勧請したものと考えるられる。

千種稲荷社

千草稲荷

陸軍糧秣本廠流山出張所奉納の手水鉢。

昭和17年8月
陸軍糧秣本廠流山出張所

陸軍糧秣本廠流山倉庫奉納の石灯籠

陸軍糧秣本廠流山倉庫親和會
昭和11年6月

陸軍糧秣本廠流山倉庫奉納の狛狐

陸軍糧秣本廠流山倉庫職員以下一同
大正15年7月1日

なかなかの茂り具合。。。

場所

https://goo.gl/maps/6eLZbPugbtK8NTmm7

https://goo.gl/maps/AEyrgDaFZv7hYito9


流山糧秣廠跡地散策

元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑と千種稲荷神社の北側にはイトーヨーカドー流山店。
南側には千葉県立流山南高等学校。
東側のビバホーム流山店や、ミニストップ 流山平和台店、城の星保育園、柳田団地などがあるあたりがすべて流山糧秣廠の敷地であった。

位置関係には違和感がないため、当時から同じように水路があったかもしれない。
糧秣廠の南側。

流山糧秣廠の方向は暗渠となっていた。

流鉄平和台駅の南側。このあたりも流山糧秣廠の敷地。
流鉄(総武流山電鉄、当時は流山鉄道)から引き込み線が流山糧秣廠に伸びていた。
東邦酒類(東邦酒類株式会社流山工場があったが閉鎖済み、東邦酒類は現・メルシャン)の引き込み線もあった。

昭和8年(1933)に赤城駅として開業。昭和40年に赤城台駅に解消し、昭和49年に平和台駅に改称し現在に至る。

駅前の案内マップ。

「流山糧秣廠跡」もバッチリ記載があります。

電車が走ってきたのであわててパチリ。

普段の設定で建物撮影メインのためにシャッタースピードを下げていたのを忘れていたので、見事に電車にシャッタースピード合わずな写真。

昭和20年7月17日、流山鉄道(流鉄)の列車が米軍戦闘機の機銃掃射を受けて被弾している。
馬橋駅から流山駅に向けて走行していた列車が狙われ、特に蒸気機関車が集中攻撃を受けたために機関士が重傷を受けている。
列車は貨客混載で、貨車には陸軍糧秣本廠流山出張所へ運ぶ乾燥芋などを積載し、客車は最後尾に連結されていた。

流山は陸軍糧秣本廠があり、そしてすぐ北部には陸軍柏飛行場、南部の松戸に陸軍工兵学校などがあったために、このエリアも米軍の攻撃ターゲットとなっていた。

以下、流鉄流山線の機銃掃射の記録がまとめられている動画があったのでリンクしておく。

https://www.youtube.com/watch?v=dZyKB4PyhCU

列車と機銃掃射の関連記事


流山の周辺は、別途それぞれに散策記事をまとめる予定。
柏や松戸はかなり話題豊富なので。。。

新河岸川橋梁に残る弾痕修復の名残?(北区)

鉄道と軍隊は、切っても切れない重要な関係にあった。
そのため日本の動脈である鉄道は、戦時中は幾多の危険を伴っていた。

新河岸川に架かる「新河岸橋梁」も、戦争をくぐり抜けた鉄道鉄橋の一つであった。

軍都・赤羽

東京と埼玉をの間に横たわっている荒川・新河岸川。
東北本線は赤羽と川口で南北に横断する。

荒川・新河岸川の南側は、陸軍の拠点として工兵部隊が展開されている「軍都・赤羽」であった。

赤羽台の戦跡散策

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:893-C1-191
昭和19年(1944年)9月27日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

画像右上に鉄道橋が「2本」架かっているのがわかる。(現在の鉄道橋は「3本」)


新河岸川橋梁

東京都北区赤羽と埼玉県川口市舟戸町の間で、新河岸川に架かる「新河岸川橋梁」と荒川に架かる「荒川橋梁」が連なっている。
明治16年(1883)に初代橋梁が仮設として建設され、明治18年に初代橋梁が完成。
関東大震災後に2代目橋梁が企画され、貨客分離で2本目も増設された。

現在は3本の鉄道橋が並んでいる。
上流 貨物線 昭和2年(1927) → 東北貨物線・湘南新宿ライン
中央 列車線 昭和3年(1928) → 宇都宮線・高崎線。上野東京ライン
下流 電車線 昭和43年(1968)→ 京浜東北線

上流側から。
手前の2本は戦前の架橋。奥の1本(京浜東北線)は戦後の追加架橋。

平成25年(2013)11月17日(日)、上記写真の右側の護岸工事中に不発弾が見つかっている。

新河岸川整備事業(新河岸川護岸工事現場)では、新河岸川橋梁の間近にて不発弾(2,000ポンド爆弾/1トン爆弾)も見つかっていることから、米軍も戦略的に、この東京都埼、そして東北を結ぶ大動脈であった鉄道橋・新河岸橋梁をターゲットしていたこともわかる。

http://www.ukima.info/newslog/episolgo/form2/130724.pdf

上記PDFより不発弾発見場所

https://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage00271.html


新河岸川橋梁(貨物線)

新河岸川橋梁(貨物線)は、3つの橋のうち、一番古く昭和2年(1927)竣工。上流に位置している。

その新河岸橋梁の埼玉側(北側)に、戦争の爪痕があるというので足を運んでみました。

トラス橋の「端柱・橋門構」をみると、左右で異なっている。
北側から見て、左は「リベット結合」、右は板が追加され「溶接結合」がされていることがわかる。

この左右で異なっている理由が(真偽は不詳ではあるが)
「米軍機によるロケット弾により被弾損傷したものを修復した名残である」、とされている。

確定できるソース(原拠)に辿りついていないため、本記事の表題は「?」としました。

たしかに、右側と左側が異なっている。
端柱・橋門構の右側は補強修復されていることがわかる。

オリジナルの端柱はリベットのみ。

修復された端柱はオリジナルのリベットと、一部に板を追加された溶接となっている。

左 貨物線 昭和2年(1927) → 東北貨物線・湘南新宿ライン
中 列車線 昭和3年(1928) → 宇都宮線・高崎線。上野東京ライン
右 電車線 昭和43年(1968)→ 京浜東北線


関連

鶴見線大川支線第五橋梁に残る機銃掃射弾痕

JR鶴見線の大川支線。白河運河にかかる第五橋梁には、米戦闘機による機銃掃射の弾痕が今も残されている。

鶴見線国道駅にも機銃掃射の弾痕が残っているが、鶴見線大川支線の弾痕が同じ頃かどうかは不詳。


昭和17年4月18日、ドーリットル空襲において横浜・川崎地区でも初空襲を受けて以来、横浜は大小30回にも及ぶ空襲を受けてきたという。

昭和19年12月25日、B-29 による横浜地区、初空襲。

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/gaiyo/shishiryo/showa/digital-archives/daikushu/ks-nenpyou3.html

昭和20年4月4日、B-29 による川崎地区、初空襲。
そして4月15日にB-29爆撃機200機を超す編隊にて川崎を空襲。
「川崎大空襲」での死者は700人から1500人といわれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html

昭和20年(1945)5月29日昼間、アメリカ軍はB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機という大編隊でもって横浜を空襲。約8000人から10000人という死者をだした。この「横浜大空襲」では、京急平沼駅が壊滅、神奈川県護國神社は焼失、している。

鶴見線大川支線は大正15年(1926)3月に鶴見臨海鉄道貨物線として開業。
大川支線の大川は、日本初の製紙技師としていくつもの製紙会社を興し、「製紙王」と呼ばれた大川平三郎に因んでいる。


鶴見線大川支線第五橋梁

機銃掃射の弾痕は、橋の南側の西向きに集中している。

南1枚目。

南2枚目。

南3枚目。

南4枚目。

ここだけ東側。

全体

全体

集中的に機銃掃射されたのがわかる。

鉄柱は昭和18年。

なんかいた。なんか座礁して廃船っぽい佇まい。
ANNIVERSARY CRUISE 海賊船アニバーサルクルーズ号らしい。。。

場所

https://goo.gl/maps/goRXZrNQKPkM5m846

鶴見線といえば。


関連

「帝都の門・永代橋」と「震災復興の華・清洲橋」

隅田川の下流にかかる2つの橋。「永代橋」と「清洲橋」。
関東大震災で壊滅した下町復興のために架橋された、2つのシンボルブリッジであった。

永代橋は筋骨隆々とした男性的なイメージで、優雅な下垂曲線を描く清洲橋は女性的なイメージでデザインされたという対となる橋であった。


永代橋

隅田川の最下流に架かる「帝都の門」として大正15年12月20日竣工。
現存最古のタイドアーチ橋かつ日本で最初に径間長100 mを超えた橋。

2000年(平成12年)に清洲橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定。
2007年(平成19年)6月18日、永代橋は都道府県の道路橋として初めて同じ隅田川に架かる勝鬨橋・清洲橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定。

永代橋に用いられた重厚な鋼材は、もともと軍艦用の高級鋼材であった。
ワシントン軍縮会議によって戦艦の保有数に制限が生じ戦艦建造中止となったため、もともと戦艦用に確保していた鋼材を、永代橋に流用したものであるという。

なお、東京大空襲の焼夷弾の弾痕とされる「へこみ」もある。

土木学会選奨土木遺産
JSCE
2000
帝都を飾るツイン・ゲイト(永代橋)

 「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合言葉でした。帝都を代表する隅田川の入り口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。
 これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第一回選奨土木遺産に選定しました。
●二つの橋は、近代橋梁技術の粋をあつめてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在である。
●永代橋は、わが国ではじめてスパン100mをこえた橋であり、しかも現存最古のタイド・アーチ橋である。

場所

https://goo.gl/maps/b2S39EbzLZVzEf3T8


豊海橋

永代橋から左岸を北上するとすぐに日本橋川と隅田川の合流地点と日本橋川に架かる豊海橋がある。せっかくなので立ち寄り。

日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋。日本橋川最下流の橋。
1927年(昭和2年)に震災復興橋として架設。

豊海橋
 日本橋川の河口に架かるこの橋は、元禄11年(1698)に初めて架けられ、その後何回となく架け替えられ現在に至っています。
 現在の橋は、震災復興事業により、昭和2年に復興局が架設したもので、形式名はフィーレンデール橋といいます。この名は考案者のフィーレンデールの名をとったものです。
 梯子を横にしたようなこの形は、名橋永代橋との均衡を保つようにデザインされたもので、我が国では本橋以外に数例しかなく、希少価値の高い橋です。

「豊海橋鉄骨の間より斜に永代橋と佐賀町辺の燈下を見渡す景色、今宵は名月の光を得て白昼に見るよりも稍画趣あり。満々たる暮潮は月光をあびてきらきら輝き、橋下の石垣または繋がれたる運送船の舷を打つ水の音亦趣あり。」
 (永井荷風 断腸亭日乗 より)

橋梁の諸元
形式   フィーレンデール橋
橋長   46.13m
有効幅員 8.00m
着工   大正15年5月
竣工   昭和2年9月
施工者  復興局
 
平成3年3月 東京都中央区

日本橋川
日本橋川は、慶長5年(1600)関が原の合戦後に切り開かれ、江戸城の大手口と隅田川をほぼ一直線に結ぶ運河として主要な役割を果たした川筋で、江戸の繁栄と共に生きてきた河川です。

中央区民有形文化財
豊海橋
所在地 中央区新川一丁目 日本橋箱崎町 (日本橋川)

 現在の豊海橋は、大正15年(1926年)5月起工、昭和2年(1927年)9月竣工。
 日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋梁です。橋の歴史は古く、江戸時代中期には豊海橋(別名「乙女橋」)がありました。この辺りは新堀河岸と呼ばれ、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸上げする所で、川に沿って白壁の酒倉が並んでいました。
 明治期に豊海橋は鉄橋になり、大正12年(1923年)の関東大震災で落橋してしまいました。復興局は新規に設計を土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田武雄が担当。隅田川支流の河口部の第一橋梁はデザインを一つ一つ変えて区別しやすく工夫していました。それは隅田川から帰港する船頭に対する配慮でした。
 福田武雄はドイツ人フィーレンデールの案出した橋梁デザインを採用し、梯子を横倒しにした様な外観で重量感ある豊海橋を完成しました。この様式は日本では数ヵ所あるのみで近代の土木遺産としても貴重な橋で、区民有形文化財に登録されています。
 平成14年3月 中央区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/Tqkm1gwHuXdNixneA

ちなみに、豊海橋の近くには、「日本銀行創業の地」があった。


清洲橋

関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。昭和3年3月竣工。
「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になる設計で、清洲橋は「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザイン。

2000年(平成12年)に永代橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定。
2007年(平成19年)6月18日に、都道府県の道路橋として初めて勝鬨橋・永代橋と共に国の重要文化財(建造物)に指定。

日本国重要文化財
清洲橋
諸元 橋長 186.2メートル
   幅員 25.9メートル
   上部工 銅製3径間補剛吊橋
所有者 東京都
指定年月 平成19年(2007)6月18日指定(建第2500号)

指定の意義
 清洲橋は、関東大震災復興事業によって建造され昭和3年(1928)3月に竣功した。
 清洲橋の特筆すべき点として、上部構造は日本国内では珍しい橋端部に水平力の及ばない自碇式連続補剛吊橋で塔柱から吊るされた吊鎖を橋端部において主桁と連結し、主桁は左右の橋桁を繋ぐ構造である。放物線状の優美な外観の吊鎖は、高張力マンガン鋼のデュコール鋼を吊鎖に用いるなど、洗練された造形によって、力学的合理性に基づく近代的橋梁美を実現した橋梁である。
 下部構造は鉄筋コンクリート造で固定式空気潜函工法を用いた橋脚と、締切工法による橋台二基からなる。
 建造工事は、内務省復興局が施工し、後に東京市に引き継がれた。設計者は、内務省復興局土木部長太田圓三及び同技師田中豊の指導のもと、同技師鈴木清一らである。

清洲橋
 清洲の名は深川の清澄町と日本橋中洲町を結ぶ橋であることに由来し、橋の開設にあたって公募されたものである。
 深川の清澄町はわが国セメント工場の発祥の地であり、庭園でも知られ、また芭蕉庵跡にも近い。 日本橋中洲町は明和8(1771)年に埋立てを開始して隅田川畔の繁栄の一翼を担った。 その後、中洲埋立地は取り壊され、元の水浸地になるなど複雑な歴史を持つが、明治19(1886)年に再び埋立てられ、 新しい土地として生まれ変わった。 この二つの町を”中洲の渡し”が結んできたが、大震災後の復興事業でドイツのケルンの大吊橋を範として女性的な曲線美をもつ 吊橋を架けることになり、昭和3(1928)年この橋は完成した。 第二次世界大戦でケルンの橋は爆破されてなくなったが、清洲橋は東京大空襲の中でも多くの被爆者を救って 幹線道路の橋としての役割を果たしてきている。
 昭和58年3月 東京都

清洲橋の照明灯具
 この灯具は、清洲橋が建設された昭和3年から昭和60年代まで、橋の吊材に設置されていました。
 現在の灯具は、建設当時の図面を参考に制作し、材質は当時のブロンズ(青銅)から、軽量で強度のあるアルミニウム合金としました。
 また、ランプは省エネルギー効果の高いLEDを採用しました。
 平成30年3月 東京都

土木学会選奨土木遺産
JSCE
2000
帝都を飾るツイン・ゲイト(清洲橋)

 「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合言葉でした。帝都を代表する隅田川の入り口にあたる第一、第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。
 これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第一回選奨土木遺産に選定しました。
●二つの橋は、近代橋梁技術の粋をあつめてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在である。
●清洲橋は、美しさを追求した特殊な吊橋である。

場所

https://goo.gl/maps/m57AzNfkLyprHHjM9

ちなみに清洲橋の近くにはアサノコンクリート深川工場がある。


陸奥宗光宅跡

清洲橋のたもとに陸奥宗光邸宅跡があった。

江東区登録史跡
陸奥宗光宅跡 清澄1-5付近
 陸奥宗光 は、明治時代の外交官・政治家で、弘化元年(1844)、和歌山藩士伊達宗弘(千広)の第六子として生まれ、明治三十年(1897)、西ヶ原(北区)の自邸で逝去しました。
 父宗広は藩の要職にありましたが、政争により失脚、宗光は一五歳で江戸へでました。文久二年(1862)に脱藩し、京都で尊王攘夷 運動に加わり、のち坂本龍馬 の海援隊 に参加しました。このころより陸奥の姓を用いるようになりました。
 明治維新後は、外国事務局御用掛、神奈川県知事、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任しました。明治一〇年(1877)、西南戦争 に呼応した土佐立志社内の挙兵派の政府転覆計画に加担したとして、翌一一年に免官、五年間投獄されました。出獄後は外務省に入り、明治二三年(1890)、第一回衆議院選挙で当選、第二次伊藤内閣の外務大臣として日英通商航海条約締結を実現、日清戦争(1894~95)の開戦と講和に関わりました。
 宗光が深川清住町(現清澄)に在住したのは明治五年(1872)から同一〇年(1877)までの間で、大蔵省で地租改正事業に手腕をふるい、また薩長藩閥勢力による政権の独占を批判した論文「日本人」を書き上げた時期にあたります。この邸宅は、墨田川に面して眺望がよく「三汊水碧楼」と呼ばれていました。
 平成22年7月 江東区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/1TepzPT5qwkGNFy37

旧・陸奥宗光邸

明治維新百年記念碑

清洲橋のたもとに建立。
この記念碑は明治100年を記念して、昭和43年11月3日に清澄1丁目町会によって建立。

明治維新百年記念
明治天皇御製
いかならむ 時にあふとも 
 人はみな
誠の道を 
 ふめとをしへよ
 明治神宮権野宮司 伊達巽謹書

場所

https://goo.gl/maps/DctJaUQhy81zRX5k6


震災復興の鉄橋として架けられ、そして戦災をくぐり抜けた橋が都内には意外と多い。
これからもそんな橋を気の向くままに掲載していきたいと思う。

※本記事は総て2021年3月撮影

  


関連

海軍技術研究所と陸軍目黒火薬製造所跡(目黒区)

JR恵比寿駅と東急中目黒駅、目黒川のほど近くには、かつて陸軍火薬製造所、そして海軍技術研究所があった。


陸軍目黒火薬製造所

幕末に江戸幕府は千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(火薬庫)を目黒に移転させ、「目黒砲薬製造所」が設置されたことから、目黒は火薬と密接な関係となる。

明治政府は、旧幕府の「目黒砲薬製造所跡地」に新たに「目黒火薬製造所」を設置。明治18年に操業開始。当初は海軍省の管轄であった。
明治26年、海軍省から陸軍の東京砲兵工廠に移管。
「目黒火薬製造所」は日清戦争・日露戦争での火薬需要とともに発展。

昭和3年(1928)、周辺地域の開発が進むにつれて、都市化された目黒で火薬製造を続けることが危険な状態となったために、火薬製造所を群馬県岩鼻に移転。幕末から続いた目黒での火薬製造の歴史は終焉した。

海軍技術研究所

海軍技術研究所は海軍艦政本部隷下として海軍の先進研究を行っていた機関。
大正12年(1923)に築地で設立。
昭和2年(1927)、築地の研究機関に東京中央市場(築地市場)が建設されることに決まったために、陸軍目黒火薬製造所の跡地に移転を決め、昭和5年(1930)に移転完了。
陸軍目黒火薬製造所から海軍技術研究所へと、目黒のこの地は生まれ変わった。

海軍技術研究所 大水槽

昭和2年(1927)に築地から目黒に移転が決まった海軍技術研究所。
「大水槽」「高速水槽」、ふたつの水槽棟は移転完了の昭和5年に完成。

平賀譲 海軍造船中将

大正時代から昭和初期にかけて海軍艦政本部で艦艇設計に従事した平賀譲は、大正14年から「海軍技術研究所所長」の立場にあり、目黒に海軍技術研究所が移転した際の所長でもあった。平賀譲は昭和6年に退任し予備役となっている。

昭和10年から、海軍艦政本部の造船業務嘱託として戦艦大和の設計に携わる。
海軍技術研究所の大水槽は、戦艦大和の設計の際にも活用された水槽という。

防衛省 目黒地区

海軍技術研究所は昭和20年11月30日、海軍省廃止とともに解体。
占領期間を経て、現在は防衛省目黒地区として活用されている。

  • 防衛省 統合幕僚学校
  • 防衛装備庁 艦艇装備研究所
  • 陸上自衛隊 目黒駐屯地
  • 海上自衛隊幹部学校
  • 航空自衛隊幹部学校

敷地内には、「海軍技術研究所本館」も近年まで残っていたが目黒地区の再整理に伴い、既に解体済み。

そういえば、学生時代に、当時はまだ目黒にあった「防衛研究所史料閲覧室」に卒論のために通ったことを思い出した。防衛研究所史料閲覧室は市ヶ谷に移転。そして目黒地区の北半分は売却された。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M1121-A-39
1948年07月26日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

大水槽の北西には「海軍技術研究所本館」

航空写真には残っている「海軍技術研究所本館」は近年取り壊された。

恵比寿ガーデンプレイスタワーの最上階の展望スペースから、遠望できました。

※2023年9月撮影


海軍技術研究所跡地散策

現在は、艦艇装備研究所。
もちろん立入禁止のため、外周から。

大水槽は2つ並んでいる。

大水槽の隣の小屋も当時からのものと思われる。

大水槽

防衛装備庁
艦艇装備研究所

新しい正門。

統合幕僚学校
陸上自衛隊教育訓練研究本部
海上自衛隊幹部学校
航空自衛隊幹部学校

かつての正門。北側は敷地売却された。

場所

https://goo.gl/maps/KiQ2iLaT8hL9kMrB7


東京海軍共済総合病院(東京共済病院)

海軍技術研究所の隣りにあったのが東京海軍共済総合病院。現在の東京共済病院。
昭和5年(1930)9月、東京海軍共済組合病院として開設したことにはじまる。

場所

https://goo.gl/maps/YKvvYeC1uadZ9ptk6


陸軍目黒火薬製造所跡地散策

海軍技術研究所の前身は、陸軍目黒火薬製造所であった。

当時をものがたるものとして、陸軍標石(陸軍境界標石)が2基残っている。

小さな階段の途中に標石があった。
撤去をせずに、このまま階段を作るという心意気が素晴らしい。

もうひとつは、駐車場の片隅に。

陸軍用地
238

場所(この周辺)

https://goo.gl/maps/kBpa3yFqfy5zb5ZZA


奥沢海軍村跡(世田谷区)

東急線の自由が丘駅と奥沢駅の周辺。高級住宅地エリアであるこの界隈は、かつて「海軍村」であった。


奥沢海軍村

大正12年(1923)に発生した関東大震災後、将校居住地が都心部に集中するのは危険であり、郊外に住んだほうが安全だということもあって、郊外への海軍将校の移住が進んだ。

大正13年、海軍士官の親睦団体「水交社」に事務所を置く「水交住宅組合」の斡旋によって、住宅地として整備された奥沢2丁目界隈。
この地は、北に向かえば「霞が関の海軍省」、南に向かえば横浜を経て「横須賀の軍港」となり、また「目黒の海軍大学校・海軍技術研究所」にも近かったということと、まだ開発が進んでいなかったために土地の価格も手頃であったということもあって、多くの海軍士官たちが居住することとなり、気がつけば海軍将校の邸宅が30軒ほど集まったことから「海軍村」と呼ばれるようになった。

奥沢海軍村跡は、今も当時の面影を残す建物が3軒残っており、ポーチ上の玄関やシュロの古木等が残っている。

海軍村跡

地域風景資産
奥沢海軍村
ゆかりの風景
海軍士官の子孫やその後に住み着いた人々により、緑豊かな町並みが残る。
ポーチ付の玄関やシュロの古木等に、当時の面影を垣間見ることができる。

地域風景遺産
大ケヤキのある散歩道‐けやき道
この界わいは、大正13年に海軍士官の住宅地として開発された。海軍村と呼ばれ、街のみどりは洋風住宅が多くあった当時の面影を感じさせる。

「シュロ」(棕櫚)の古木。

海軍村当時の住宅は3軒残っている。

場所

https://goo.gl/maps/MBhYkPKDDbjX1tvk6


関連

https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/sumai/005/002/d00038440.html

https://okusawa.garden/%e5%9c%b0%e5%9f%9f%e9%a2%a8%e6%99%af%e8%b3%87%e7%94%a3/

https://okusawa.garden/ht/%e6%b5%b7%e8%bb%8d%e6%9d%91%e4%bd%8f%e5%ae%85%e9%85%8d%e7%bd%ae%e5%9b%b3%ef%bc%88%e6%98%ad%e5%92%8c11%e5%b9%b4%e9%a0%83%ef%bc%89/

浜松駅周辺の戦跡散策【浜松5】

浜松駅周辺の戦跡散策。浜松空襲の名残をたどってみる。


揚子橋に残る弾痕

馬込川にかかる揚子橋(ようずばし)。橋の南北に激しく機銃掃射による弾痕が残っている。弾痕は約50箇所にも及ぶという。

浜松は、その都市の規模に比べ、異様なほど多くの空襲を受けた。また艦砲射撃も受けている。
軍事施設や軍需工場が集まっており、また東海道の要衝でもあり、東京や名古屋を爆撃するB29の飛行航路にも当たっていたという複数要因があった。

揚子橋の弾痕がいつのものかは不詳。

場所

https://goo.gl/maps/c47NzCu32F7WzVax7


動員学徒追悼・慈光観音像(林泉寺)

学徒動員により動員現場で死亡した娘を追悼する母親の願いを受けて、1999年に建立。
観音像は学徒動員された10代の若き女性を模している。

慈光観音
為 学徒動員
青春散華

場所

https://goo.gl/maps/nigH8WqgWdqXnjHU9


戦歿者慰霊塔(河合楽器)

河合楽器の敷地内にある慰霊塔。河合楽器関係者の戦歿者を祀る。
河合楽器も軍需工場に指定されピアノ工場では爆弾倉や脚扉が作られていたという。
そこでは学徒動員も行われ、芥田学園や西遠女子学園などの多くの女学生が動員され、そして空襲等で亡くなっている。

場所

https://goo.gl/maps/5EFKCuM2ZH8Xvc8E9


市民の木・プラタナス

市民の木
 昭和20年6月18日の”浜松大空襲”により市街地の大半が焦土と化し、プラタナスの並木も枯死したと思われました。
 しかし、奇跡的に3本だけは幹に焦げ傷を残しながらも市民の愛の手に守られ、2年後の春に見事に発芽しました。
 以後このプラタナスは通行く人に勇気を与え、復興を呼びかけてくれました。
 戦火の中からよみがえり市民ともに生きた木として、昭和39年6月には”市民の木”と命名された記念すべき樹木です。
 浜松市

場所

https://goo.gl/maps/PghDjpPMpoNDSMj68


静岡銀行浜松営業部(旧遠州銀行本店)

昭和3年(1928)竣工。中村與資平設計の銀行建築。浜松市指定文化財。
浜松空襲を耐えた建築物。

場所

https://goo.gl/maps/FVmtSSWmF8NfkU5v9


鴨江アートセンター(旧浜松警察署)

昭和3年(1928)竣工。
浜松空襲を耐えた建築物。

場所

https://goo.gl/maps/LALLk3XAPwFwZNXx5


木下恵介記念館(旧浜松銀行協会)

昭和5年(1930)竣工。浜松市指定有形文化財。
設計は、中村與資平。前述の旧遠州銀行本店と同じ設計者。
浜松空襲を耐えた建築物。上記の警察署の向かいにある。

中村與資平は静岡県内に多くの建物を残している。
豊橋市公会堂、静岡市役所本館、静岡市公会堂、静岡県庁本館など。

場所

https://g.page/keisukemuseum?share


夢告地蔵尊

戦争の犠牲となったお地蔵様。

夢告地蔵尊由来
この地蔵尊は安政五年(西暦一八五八年)に大流行したコレラで死んだ人達を供養する為建立されたもので、延命地蔵尊と呼ばれ、遺族達の香華が絶えなかった程の大繁昌ぶりであった。その後明治七年、小野組の大火災に遭い、更に廃仏毀釈の影響で取り壊し令が出て、地中に埋められた。大正八年になって當町住人小柳丈之助といふ人が、「地蔵尊が地上に出たい。」といふ夢を見て、町民一体となり埋められたと思われる庚申堂境内をあちらこちら掘り捜した結果、三日目に發見地蔵尊を復元し、夢告地蔵尊と銘命した。當時このことが異常な評判を博し、特に、花柳界に反響を及ぼし、東西より粋な婦人の参拝が後を絶えなかったと云ふ。其の後、大東亜戦争中、爆撃と艦砲射撃により、御本体御堂共目茶目茶に破壊されてしまったが、戦後再び地蔵尊を復元し、昭和二十六年、現在の場所に、御堂を造り、恭々しくお祀りしたのである。昭和五十一年にいたり、この御堂はすでに老朽化し、倒壊寸前の状態にあり、之の新築を計画したるところ、幸いにして町内外有志の御賛同と御喜捨を得て、茲に総檜造りの御堂を、新築落成したのである。
昭和五十一年六月二十五日落成式佳日誌 世話人

場所

https://goo.gl/maps/Q3H9rrBbJtu5Dhnx6


一連の浜松の散策記録はひとまずこれで〆。
浜松は戦争関連の歴史が多く残されており、まだまだ散策しきれていません、きっとまた訪れることもあるかとは思いますので、そのときには別途追記していきます。

※撮影及び散策は2020年11月


関連

静大浜松キャンパス周辺の陸軍戦跡散策【浜松4】

静岡大学浜松キャンパスは、かつて、陸軍の兵営地であった。
わずかに残る当時の痕跡を巡ってみたいと思う。


静岡大学浜松キャンパスに展開していた陸軍部隊。

歩兵第67聯隊(第15師団)

明治40年(1907)10月26日、豊橋歩兵18聯隊兵営内で事務を開始。
明治41年(1908)3月26日、浜松の新兵営に移転。
明治41年(1908)5月8日、軍旗拝受。
大正14年(1925)5月1日、宇垣軍縮により廃止。

歩兵第18聯隊第3大隊(第3師団)

その後、浜松の兵営には「歩兵第18聯隊第3大隊」が展開。
宇垣軍縮により、第15師団も廃止となったために、第3師団に復しての駐留であった。

高射砲第1聯隊

大正14年(1925)、豊橋に高射砲第1聯隊が設置。高射砲聯隊は作戦部隊ではなく、教育部隊であった。
昭和3年(1928)、歩兵第67聯隊跡地であった浜松に移駐。

千葉陸軍高射学校浜松分教所

高射砲第1聯隊は、昭和18年10月に、転出し、跡地には「千葉陸軍高射学校浜松分教所」が展開された。
昭和20年7月25日に、本土決戦態勢を整えるために、赤穂陸軍高射教育隊に編成。そのまま終戦を迎えた。

戦後、千葉陸軍高射学校浜松分教所(高射砲連隊)の跡地は静岡大学工学部に、練兵場跡地は市営住宅と和地山公園などになった。


歩兵第67聯隊の門柱(静大浜松キャンパス)

敷地の東面北端に。
現在は使用されておらず、門柱のみが残る。

歩兵第67聯隊の門柱(静大浜松キャンパス北門)

敷地の北面。
それなりの趣があるので、当時からのものかもしれない。


高射砲第1聯隊弾薬庫跡

往時は弾薬庫、今は核燃料物質の貯蔵庫。。。

高射砲第1聯隊の土塁

静岡大学浜松キャンパスの北西部は、当時の土塁が残っている。

静岡大学浜松キャンパス

敷地内はだいぶ綺麗で新しく建屋が多い。
一昔前は、ほかにも高射砲聯隊時代の建屋が残されていたというが、今は見る影もない。

場所

https://goo.gl/maps/5ujgxDSrkTJn6d559


昭和天皇親閲記念碑

和地山公園は、かつて練兵場であった。公園の一角に記念碑がある。
昭和5年(1930)、  昭和天皇行幸時の親閲記念碑。

御親閲駐蹕坐處

裏面は風化しており判読困難。昭和6年5月に建立されたことはわかった。

和地山神社

和地山公園。陸軍演習場の跡地。

場所

https://goo.gl/maps/nhjSstUiVBLuWGRv7


浜松憲兵分隊の陸軍境界石

高射砲第1聯隊の兵営地があった静岡大学浜松キャンパスの南。
この場所に「浜松憲兵分隊」が駐留していた。

逆にいうと、この場所より北側が兵営地や演習場、飛行場など軍用地として重要な地であった。

陸軍用地
㐧二号

場所

https://goo.gl/maps/7aN6N2iMvrpxkvj7A

※撮影及び散策は2020年11月


関連

浜松三方原の陸軍戦跡散策・その1【浜松3】

「三方原の戦跡」と書いてしまうと、元亀3年(1572)、三方原古戦場での徳川家康と武田信玄の「三方原合戦(三方原の戦い)」の跡地を巡る散策になってしまいそうなので「三方原の陸軍戦跡」ということで。
それもそれで興味があるが、ここでは「浜松の三方原に展開された大日本帝国陸軍関連の戦跡」を巡ってみたいと思う。
この日は、浜松駅近くでレンタサイクルを借りての散策でした。


浜松の陸軍飛行場

浜松には陸軍の飛行場が2つあった。
「三方原飛行場」と「浜松飛行場」。
この2つの飛行場は誘導路で結ばれており、非常に近い関係であった。

「三方原陸軍飛行場」は、三方原教導飛行団と第7航空教育隊
「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊
なお。浜松陸軍飛行場は、現在は航空自衛隊浜松基地となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M142-A-5No3-21
1946年5月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


三方原陸軍飛行場跡地散策

半田山トーチカ(半田町のトーチカ)

静岡県浜松市東区半田町に残るトーチカ。

前面部のみのトーチカ。なぜか西を向いている。
防衛を考えると南を向くべきでは?
もっともこのトーチカは再開発で移築されたものともいう。真偽不詳。

西を向いている。三方原飛行場の方向。

トーチカの跡
 太平洋戦争中、この船岡山にはトーチカがいくつか築かれた。戦争が激化したため本土決戦に備えて構築したもので、その名残が今もみられる。幸いにもトーチカは使用されることはなく、平和な時代を迎えた今、当社の新鋭工場が建てられ、活躍しているというのも新しい時代の流れである。
 平成3年4月吉日 株式会社桜井製作所

場所

https://goo.gl/maps/A8GADE4XemhRoYws6


三方原飛行場の掩体壕

三方原飛行場のあったエリアの北側に。
民家の一部に掩体壕が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/r5kUfUeSH1dzrada6


東三方神社(赤松の鳥居)

奥山半僧坊への参詣道に鎮座。「赤松の鳥居」は奥山半僧坊への遥拝所でもあった。
昭和16年6月に陸軍よって松の大木や鳥居・石碑などが敵の攻撃目標にあるという理由で撤去。
当地の西側に三方原陸軍飛行場があり、このあたりが「三方原爆撃場」として使用された。
戦後、三方原陸軍飛行場は開拓地として再開発され、昭和39年に鳥居再建された。

これも、三方原陸軍飛行場に連なる戦跡のひとつ。

場所

https://goo.gl/maps/frmi18CWbim7akL4A


三方原教導飛行団の門柱

現在の自衛隊官舎の南側の門柱は、当時の「三方原教導飛行団」の門柱。

三方原教導飛行団は昭和19年4月に浜松飛行学校から独立。
中部第九十七部隊の使用していた三方原飛行場の一角に展開。任務は航空化学戦の実行と教育であった。

場所

https://goo.gl/maps/qYwjCPwcLArLzTqN9


第7航空教育隊の門柱

三方原教導飛行団の門柱のすぐ近くに、第7航空教育隊の門柱もあるというが、調査漏れで未探索。悔しい。
ひとまず、Googleストリートビューでお茶を濁す。
※再訪しないと

場所

https://goo.gl/maps/f8SNeVPHhbtPRuVh7

訪問しました

浜松三方原の陸軍戦跡散策・その2【浜松6】


四勇士の碑跡

四勇士の碑
 昭和12年3月19日、飛行第7聯隊の重爆撃機がこの地に墜落炎上し、搭乗の四勇士が殉職した。
 四勇士は殉職により階級特進で、陸軍少佐寿円正隆、陸軍曹長今泉正夫、陸軍軍曹小川高平、陸軍軍曹岡崎勝、に昇進した。
 この爆撃機が失速、墜落の直前一人の搭乗員が座席を立って、着陸地点を注視していた姿を見た人がいる。非常事態に直面しても沈着、冷静に行動し、民家や学校への被害を避けたことに感激した、地元民の熱意によって、この慰霊碑が建てられました。
 この碑の題字は、航空兵団長陸軍中将、男爵、徳川好敏閣下、撰文飛行第7聯隊長、島田隆一である。
  三方原歴史文化保存会

三方原陸軍飛行場の飛行第7聯隊の重爆撃機の墜落地点に建立された慰霊碑・・・がない。

説明解説板はあれど、慰霊碑がない。
「この碑は・・・」って説明があるのに、ない。

誰かに訪ねたいとおもっても、誰もいない。。。
このときは、撤去された??と思い、諦め。

改めて少ない情報を手がかりに調べてみると、どうやら近くの「三方原神社」に移築されているらしい。
こちらも再訪、ですね。。。

訪問しました

浜松三方原の陸軍戦跡散策・その2【浜松6】

ここに慰霊碑があった。

在りし日のGoogleストリートビュー
情報がなさすぎて、無くなっていることがわからんなかった。。。

墜落現場の場所

https://goo.gl/maps/ANS6EnvZcohCvh4e8

移築場所の三方原神社

https://goo.gl/maps/2ozUBQq6Mug3rhQb8


徳川家康のエピソードで有名な「小豆餅」。ここにも「昭和の戦跡」があった。

第一航測聯隊跡

第一航測連隊(中部百三十部隊・陸軍航空通信隊第130部隊)
航測技術の取得を目的とした教育部隊。
第一航測連隊は、当時最新の航空工学の部隊であった。戦局悪化の昭和20年7月に滋賀県日野町周辺に貨車300両と兵員1500余名が疎開。小豆餅地区の残留部隊300余名は残務や農園作業に従事し終戦を迎えている。

(表面)第一航測聯隊跡
(裏面)有志一同之を建つ 昭和61年9月 

碑誌
第一航測聯隊は、昭和17年4月22日、水戸市郊外にあった第11航空教育隊において、聯隊本部、第一、第ニ中隊および材料廠をもって編成。4月末、三方原演習廠舎に移駐、12月新兵舎の完成とともに、八個中隊の編成を完結し、ここ小豆餅地区に屯し、昭和20年7月、滋賀県日野町周辺に部隊移動、終戦を迎えた。
聯隊の使命は、地一号方向探知機および対空二号無線機をもって、友軍機の、航空基地への帰投誘導や各種作戦任務飛行の航行支援にあたる航測手の、基本教育と錬成訓練をもって本旨とした。

黒松は、当時からの面影を残す。

「小豆餅子供の遊び場」公園内に、第一航測聯隊の碑があった。

場所

https://goo.gl/maps/woQzQ6BQHDSxtx1x7


六所神社

静岡県浜松市東区半田山鎮座。
延喜式神名帳(遠江国・長上郡)「朝日波多加神社」延喜式内論社(小社)。旧村社。
浜松医科大学の東側に鎮座。台地を背にし東面している。

境内には地元の方々によって「日清日露戦役記念碑」「大東亜戦争慰霊碑」「忠魂碑」、そして「平和観音」が建立されている。

平和観音は平成7年11月建立。

場所

https://goo.gl/maps/3W9mvnThiGBJnam68


三方原古戦場跡(犀ヶ崖)

もちろん三方ヶ原なので、「三方ヶ原合戦」の戦跡記念碑も界隈にはある。
正確には、この地は「三方原の戦い」で破れた徳川家康が、浜松城に迫る武田信玄軍に対し、地の利を生かして反撃し一矢報いた「犀ヶ崖の戦い」の戦跡。

https://goo.gl/maps/qYE39EineYpK1Jzt7


三方原エリアは、結果として散策漏れ多数。
また浜松を訪問する機会があるときに再訪したいと思ってます。

※撮影及び散策は、2020年11月


関連

「日本初の零戦復元機」零式艦上戦闘機52型甲(空自浜松広報館エアパーク)【浜松2】

航空自衛隊の広報施設である浜松広報館「エアパーク」。
ここには空自の退役機に混じって、零戦が展示されている。

展示場所が移設されます(2024年6月24日~)


零式艦上戦闘機五二型甲 A6M5
43-188号機

日本への里帰り第1号機の零戦。

昭和19年3月、三菱名古屋工場製造機。
所属は、第三四三海軍航空隊(1944年1月に開隊した初代、通称隼部隊)。
昭和19年6月〜7月にかけてのマリアナ諸島攻防戦で、米軍との戦闘や米軍機の空襲などにより壊滅し、7月10日に解隊。
浜松基地浜松広報館に保存されている零戦は、第三四三海軍航空隊の飛行隊長・尾崎伸也大尉(海兵68期)が昭和19年6月19日に米軍と交戦し被弾し不時着し放棄された機体。尾崎伸也大尉は戦死されている。
海兵68期の尾崎伸也大尉の同期には、作家・豊田穣、撃墜王・鴛淵孝、九軍人の広尾彰、海軍中将松永貞市の息子・松永市郎、捕虜第一号となった酒巻和男など。
第三四三海軍航空隊は、昭和19年12月に再編(二代目)される、これが通称「剣部隊」として紫電改を用いて有名となった航空隊。

昭和39年1月に日本に里帰り。

零戦52型
零戦52型は1943年8月初飛行し、太平洋戦争後半の日本海軍の主力戦闘機として活躍した機体である。この機体には甲、乙、丙の3種の型があり、零戦総生産数約1万機のうち、4種あわせた52型シリーズは約6,000機が生産された。

性能
全幅 11m
全長 9.1m
全高 3.5m
全備重量 2,733kg
エンジン 栄21型 最大出力1,100馬力x1基
最大速度 565km/h
実用上昇限度 11,740m
航続距離 1,920km
乗員 1名
搭載武装 7.7mm固定銃x2門 99式20mm固定銃x2門

零式艦上戦闘機(零戦)の展示経緯
昭和38年4月  本展示機がグアム島で発見される。
同   7月  グアム島知事から日本への返還が決まる。
昭和39年1月  米軍C-130輸送機により岐阜基地へ搬送。
       本機の製造元である三菱重工業大江工場にて忠実な復元作業を実施。
同   10月 我が国で最初の零戦復元機が完成。
(その後、全国各地において展示されたため期待の損傷がひどくその管理が必要とされた。)
昭和42年11月 航空自衛隊の航空機整備のメッカ(航空機の整備学校が所在)である浜松基地に移送され
       その後浜松基地におきて展示・管理された。
平成11年4月  航空自衛隊浜松広報館開設に伴い、当館において展示される。

国内で吊り下げ展示されている唯一の零戦。

航空自衛隊浜松広報館

浜松陸軍飛行場

「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊があった。
現在は、航空自衛隊浜松基地。

広報館とは別に、浜松基地内にある「浜松基地資料館」にも行きたいんですけどねええ。。
基地内には「陸軍爆撃隊発祥之地」碑もある。

空自関係の展示多数。

※撮影は2020年11月


https://www.mod.go.jp/asdf/airpark/


浜松には陸軍の施設が集中していた。戦跡もちらほら残っている。
そんな散策の記録は別途で。

「怨親平等の観音様」松井石根大将と興亜観音・殉国七士之碑(熱海)

静岡県熱海市伊豆山。
太平洋を望む風光明媚な伊豆山鳴沢山の中腹。

陸軍大将 松井岩根が願主となって支那事変戦歿者を「怨親平等」わけへだてなしに慰霊供養するために建立された「興亜観音」が鎮まり、そして「殉国七士」をはじめとした昭和殉難者(殉国刑死者・ABC級戦犯)1068柱の御英霊、大東亜戦争戦歿者を慰霊する聖地が、熱海伊豆山にあった。

※「興亞観音」が正しい記載ですが、
 以下は一般的な「興亜観音」で記載致します。


興亜観音へ

興亜観音に赴くバスの本数は少ない。「興亜観音前」バス停というバス停があることにはあるが、いかんせん本数が少ないので、熱海駅からは「伊豆山循環」を利用して「小学校入口」バス停から歩くのがよい。

興亜観音前バス停のちかくにあるリゾートホテル「東急ハーヴェストクラブ熱海伊豆山&VIALA」。この地は、かつて熱海に隠棲した松井石根陸軍大将宅跡。

興亜観音前バス停から、伊豆山鳴沢山を登る。
この山の中腹に興亜観音が静まる。

この先は駐車場。車であがってくるのも大変そうだ。


興亜観音(礼拝山興亜観音)

わけへだてなし「怨親平等」の観音様。
昭和15年(1940)2月24日に、松井石根陸軍大将の発願により支那事変での日支両軍の戦没者を、等しく弔慰、供養するために建立。
寺院としては、日蓮宗から分かれた法華宗陣門流系であるが、興亜観音はこれにも属さず、日本で唯一の独自の歴史と祭祀を持った独立した寺院。

御参拝の御方様へ
伊豆山の急な山道をお登りになり、ようこそ『平和の御使い 興亜観音』においでくださいました。ここ礼拝山(鳴沢山)は鎌倉幕府を開いた源頼朝が源氏の再興を祈願した祈りのお山でございます。
そして昭和15年、陸軍大将松井石根閣下が日支事変で命を落とされた日中双方の兵士の御霊を弔うため平和を祈願し、
この地に「興亜観音」を建立されました。

 以来長い年月の間、風雨に耐え、野に立っておられる観音様は、かつて戦場であった中国大陸の方に向かい、今も深い慈悲のまなざしで見つめていらっしゃいます。午前11時から午後3時頃が観音様のお顔がもっとも美しく輝く時間でございます。どうぞごゆりと心静かにお参りくださいませ。 合掌
 興亜観音 住職

興亜観音
施無畏
 願主 陸軍大将 松井石根書

施無畏(せむい)
仏語。
菩薩が、その威力や方便で衆生の種々の畏怖を取り去って救うこと。
無畏を施すこと。三施の一つ。施無畏力をもっているために,観世音菩薩は施無畏者と呼ばれる。

コトバンク 施無畏
https://kotobank.jp/word/%E6%96%BD%E7%84%A1%E7%95%8F-87688#:~:text=%E3%81%9B%E2%80%90%E3%82%80%E3%81%84%E3%80%94%E2%80%90%E3%83%A0%E3%83%B0,%E8%A6%B3%E4%B8%96%E9%9F%B3%E8%8F%A9%E8%96%A9%E3%81%AE%E7%95%B0%E7%A7%B0%E3%80%82

松井石根は、熱海の自宅にも無畏の名を冠していた。

決意の證
松井石根大将は、支那事変初期に於ける敵、味方双方の戦没将兵を平等に弔う為に、興亜観音を建立されました。同大将は私共に忠誠心を以て國の為に命を捧げた日本将兵は、永遠に供養されなければならぬ事と、忠誠心の極まった所に生ずる佛心、即ち敵といえども戦没者の霊を丁重に弔う、我が國武士道の伝統に基づく「信」を教えられたのです。これは平和への願いであり、あらゆる善行の基本です。同大将の辞世の内に「自他平等、誠の心」とあり、これこそ武士道精神、声なき声、心の光として人を導いているのです。
 日本国民が天から与えられた至上命令は、人類の文明を破却から守る事です。私共は天を敬い、人を愛して、身を慎んで善を行い、自らに課す精神生活の充実が、我が民族の道徳水準の向上となり、これこそが人類の文明を破却から守る原動力になると言う堅い信念を以て、興亜観音を心の拠り所として善行に励もうと思います。
(以下略)

来山の若き人よ
 名にし負う伊豆山の
明媚なる風光を
 愛づると共に
しばしここに足を留めて
 篁のかそけき風の音の
底なる日本精神の
 真髄なる「天上の声」に
  耳を傾け給え。

平成19年春 興亜観音刻名石版奉納事業 

興亜観音

この場所には、不審者侵入阻止のために扉付きの山門を建立予定。
興亜観音建立80年記念奉賛事業で建立予定であったが、コロナ禍により延期。


偶然が重なり、興亜観音の伊丹妙浄住職のご案内で参拝をさせていただく。
伊丹妙浄住職は、興亜観音の4代目住職。
 「遠いところからわざわざありがとうございます」
 「興亜観音は知っておられましたか」
 「最近はお若い方の参拝も多くなりました」
非常に物腰の低い慈愛に満ちた住職様。


松井石根と興亜観音

松井 石根(まつい いわね)
明治11年(1878年)7月27日 – 昭和23年(1948年)12月23日
最終階級は陸軍大将。大亜細亜協会を設立し大亜細亜協会会長を務める。
上海派遣軍司令官として、「いわゆる南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて処刑された。

松井石根は、成城学校卒業後に陸軍幼年学校に進学し、陸軍士官学校へ入学。
陸軍士官学校を9期次席卒業し、明治34年に陸軍大学校に入学。陸大在学中に日露戦争に従軍。
明治39年に陸大を18期主席卒業。
明治40年、清国に派遣され、孫文と親交。松井は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。また、蒋介石とも親交を深めた。
昭和2年、陸軍中将に昇進。
昭和3年(1928年)5月3日、済南事件が起き、陸軍内で蔣介石への批判が高まるなか、6月4日に張作霖爆殺事件が勃発。前年に松井石根が調整して蒋介石の来日を働きかけ、合意していた「田中義一・蔣介石会談」(国民党による中国統一と日本の満蒙開発承認)が完全に瓦解してしまった。
松井石根の中国構想は破綻し、そして蒋介石は日本への不信感を高め、そうして昭和6年(1931年)9月満州事変、昭和7年(1932年)3月満州国建国へと進んでいってしまう。
松井石根は昭和8年(1933年)3月1日に大亜細亜協会を設立(松井は設立発起人、後に会長に就任)。10月に陸軍大将に昇進。昭和9年に現役を退き予備役となる。

支那事変
昭和12年(1937)7月7日、盧溝橋事件により日中戦争(支那事変)勃発。
予備役だった松井石根に8月14日陸軍次官から呼び出しがかかった。
そうして8月20日、上海派遣軍司令官として2個師団(約2万)を率いて上海に向けて出港した。
10月30日には、上海軍と第10軍を統括する中支那派遣軍司令官も兼任。
11月5日、柳川平助中将率いる第10軍は杭州湾上陸作戦を敢行。日本軍が優勢となり11月12日上海陥落。

南京攻略戦
11月19日、第10軍は、独断で中国軍を追撃、「南京攻略戦」を開始してしまう。松井石根は暴走を制止したが間に合わず第10軍の暴走を追認せざるを得なかった。11月28日、参謀本部は、後追いで南京攻略命令を 発令。
12月4日、朝香宮鳩彦中将が上海派遣軍司令官に就任。中支那方面軍司令官専任となる。
そのまま南京攻略戦の指揮にあた り、12月10日に総攻撃を開始、13日に南京城は陥落し、17日に南京入城式が行われた。
南京入城の翌日12月18日に、南京戦において亡くなった 日本軍戦死者の慰霊祭が行われた。松井石根は祭主として「中国軍の戦没者も併せて慰霊するようにせよ」としたが師団長から異論が出たために、日本軍戦没者のみの慰霊となったが、松井石根は、すでにこのときに日本と中国と両軍の慰霊を考えていた。

松井石根は独自の和平交渉を行おうとしていたが、昭和13年(1938年)1月16日近衛文麿首相の「蔣介石を対手とせず」宣言(近衛声明)で、松井石根の交渉の芽は全て摘まれてしまった。
松井石根は、軍中央部から中国寄りと見られ、その考え方の相違から更迭されてしまい、昭和13年2月に帰国し、再び予備役となった。

興亜観音
昭和13年5月、滞在していた熱海伊豆山温泉旅館涼々園主人の古島安二氏に伊豆山で余生を過ごしたいこと、戦歿将兵の供養などを打ち明け、古島氏が松井石根に協力。「観音像」を建立することとなった。

興亜観音の原型製作は、愛知県常滑の陶工柴山清風氏が快諾。
松井石根の後任で中支那派遣軍司令官となっていた畑俊六陸軍大将に「上海上陸以来、南京入城に至るまでの各戦場の土」の用意をお願いし10樽ほど送ってもらって、柴山清風氏と、そして彫塑家小倉右一郎氏に原型の修正を依頼し、漁師合作で「興亜観音」塑像が完成。高さ1丈(3.3m)、推定重量は約600kg。

開眼式は朱桜わ15年2月24日、芝増上寺大島徹水僧正を導師として執り行われた。
柴山清風氏の露座「興亜観音」と同じ姿の瀬戸焼2尺(60.6cm)の「興亜観音」も堂内に安置。

その後
軍籍を離れた松井石根は、「大亜細亜協会」会頭として、アジア主義運動、興亜思想の普及などに務めるとともに、仏門に励み、朝昼の二回、興亜観音堂に参拝するのが日課となっていた。
1945年8月15日、熱海伊豆山の自宅で終戦を迎える。11月19日、松井は戦犯指定を受けたが、肺炎を患っていたために巣鴨出頭を1946年3月5日まで延期。
1946年3月5日出頭。収監されてからも毎朝、観音経を上げるのを日課としていた。

松井石根は、極東国際軍事裁判において、A級戦犯(平和に対する罪)としては無罪であったが、B級戦犯(通例の戦争犯罪)では「捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)」での有罪とされ、死刑判決。
東京裁判においては首席検察官を務めたジョセフ・キーナン検事はこの判決について、『なんというバカげた判決か。シゲミツは、平和主義者だ。無罪が当然だ。マツイ、ヒロタが死刑などとは、まったく考えられない。マツイの罪は、部下の罪だから、終身刑がふさわしい。ヒロタも絞首刑は不当だ。どんなに重い刑罰を考えても、終身刑まではないか。』と判決を批判していた。

昭和23年(1948年)12月23日
巣鴨プリズン内で松井石根、東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章の死刑が執行された。
松井石根は享年70歳没。昭和53年(1978年)、昭和殉難者として靖国神社へ合祀。


興亜観音の部下英霊に捧ぐ

以下に、松井石根の「興亜観音」建立に至った心持ちが取材された記事を引用する。

戦場の霊土で作り奉った
興亜観音の部下英霊に捧ぐ
 元中支方面軍最高司令官陸軍大将 松井石根

 (前略)記者は、堂主として余生を送るために、本籍までここに移されたといふ将軍を、観音堂に程近い、伊豆山麓のお住居にお訪ねして、将軍の興亜観音を建立された御心境を伺った。(記者)

 部下の英霊と共に住みたい —- それが、私の永い間の願ひであった。

 いまここに幾多同感の人士、併に熱海市各方面の協力によりて興亜観音の完成を見、開眼式を行ひ、日夜諸君の霊を慰め得ることを、私は衷心から歓ばしく思ふのである。

 大命を拝して江南の野に転戦し私は敵味方幾多の将兵の貴い生命を滅ぼした。
 南京入城の翌日、戦没将兵の慰霊祭を行つたのであるが、その時、私の脳裏に浮かんだのは、皇軍将士の忠勇義烈の様と共に、蒋政権の傀儡となつて、徒らに生命を捨てた、哀れな支那人の犠牲者のことであつた。
 皇軍の将兵は、その最後において一様に、陛下の萬歳を唱へまつり、莞爾(かんじ)として皇国のために殉じたのである。
 この姿は、成佛の姿でなくして何であらう。
 また、靖国神社に神として斎(いつ)き祀られ、萬人の景仰のもとに永遠に神鎮まり給ふのである。
 ひきかへて支那の犠牲者達は、その多くが、些末(さまつ)の囘向(えこう)をも受けることなくして、空しく屍を荒野にさらしている。
 その亡魂は成佛することができずして、大陸にさまようていることであらう。
 この哀れな犠牲者を、皇軍将士と共々供養してやりたいといふ願ひは、私の心深く根ざすところがあった。
 命により、數多の部下を残して帰還するに當つて、私は人に託して部下の遺骨と、日中両国将兵が戦没の地の霊土をもって佛像を作り、両国の戦没将兵を平等に祀ることにした。

 すでに靖国神社に神として祀られ、皇国の英霊を、私してお祀りすることは、まことに僭越であつた。
 しかし私個人として、私の部下であつた多くの勇士に對する感謝と愛惜(あいせき)の情はまことに禁じ難く、僭越ながらかうして英霊を祀り、これを一般に公開することにしたのである
 両国殉難者を祀るためには、相通じる佛教もつてすべきだと思つた。
 そして各宗派に超越している観世音を祀り、その大慈大非の念力によって數多の亡魂を救ひ、普く三千大千世界を照らす観音の光明をもって、業障を浄除して、両国犠牲者の霊が、地下に融和せんことを願つたのである。

 更に、我が身を殺して大慈を布き、畏(おそ)れなきを施すといふ施無畏(せむい)の観音の精神は、即ち八紘一宇の興亜大業の精神に他ならぬ。
 諸人と共に、両国犠牲者の冥福を怨親平等に囘向(えこう)し、八紘一宇の大精神を具現する、日支親善の守り本尊となるならば望外の幸福である。
 私が興亜観音の建立を発願したのは、この目的に他ならなかつた。
 携えて来た霊土は、陶土に混へて、上餘(じょうよ)の外佛と二尺餘の内佛の二體作つて興亜観音となし、部下勇士達の遺骨は、寶蓮華臺(ほうれんげだい)の中にねんごろに納めた。
 この伊豆山の麓に居を移した私は、朝夕(ちょうせき)の閼伽(あか)の水を奉るべく、杖を引いて山路を登り下りする。
 観音像の御前に合掌して、想ひを蒼海萬里(そうかいばんり)の外に馳(はせ)するとき、うたた感慨切なきものなきを得ない。
 諸君と共に死すべかりし身の、命により帰還して後、私の眼前に見んとして見得ず、しかも脳裏を巡って離れぬものは、諸君が戦場において、敢然敵陣に突入せんとする忠勇義烈の姿であった。
 いま諸君のこの姿を、興亜観音の御像の上に仰ふ。
 私はこの観音堂にあつて、身の餘生を、諸君の霊を守つて明し暮らしたいと思ふ。
 しかしながら、諸君の莫大の命を捧げし、興亜の聖業未だ成らざるのとき、徒らに身を閑居の安きに処しているべきではない。
 言うまでもなく地位の如何を問わず、なほまた何かと邦家(ほうか)のため微力をいたすの義務ありと信じている。
 聖業の成れる暁にこそ、私は興亜観音像の堂主として、諸君の霊に仕えへて餘生を終わりたいと思ふ。

「主婦の友」昭和15(1940)年4月号
戦場の霊土で作り奉った 興亜観音の部下英霊に捧ぐ 松井石根
http://www.history.gr.jp/koa_kan_non/6-2.html

興亜観音の後ろの崖は、最近は開発で山に追われたイノシシが頻繁に通行して、その際に木々やがれきを落としていくという。昔は観音様の周りの草木を伐採していたが、最近は観音様を護るクッションとして茂らせている、とは伊丹妙浄住職のお話。
樹木が「見苦しくて申し訳ないです」ともお話されましたが、いえいえ緑に包まれた観音様のお姿もお美しいです。

「彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を採り、 施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立」された。
興亜観音は、中国大陸の方向を向いて鎮座している。

国土安穏
日本古来の伝統ある良き日本の心を大切に日々に感謝
御参詣各位の御健康を心からお祈り申し上げます
 礼拝山興亜観音

興亜観音縁起
支那事変は友隣相打ちて莫大の生命を喪滅す 実に千歳の悲惨事なり 然りといえども是所謂東亜氏族救済の聖戦なり おもふに此の犠牲たるや身を殺して大慈を布く無畏の勇慈悲の行 真に興亜の礎たらんとする意に出てたるものなり 予大命を拝して江南の野に転戦し亡ふ所の生霊算せいれいさんなし まことに痛惜の至りに堪へす 茲に此等の霊を弔ふ為に、 彼我の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を採り、 施無畏者慈眼視衆生の観音菩薩の像を建立し、 此の功徳を以て永く怨親平等に回向し、 諸人とともに彼の観音力を念じ、東亜の大光明を仰がん事を祈る
因に古島安二氏其他幾多同感の人士併に熱海市各方面の熱心なる協力を感謝す
 紀元二千六百年二月
  願主 陸軍大将松井石根誌

紀元二千六百年は昭和15年。

興亜観音の右並びに3つの石碑が林立している。

南無妙法蓮華経
大東亜戦殉国刑死一〇六八霊位供養碑

(裏面)昭和43年12月8日 有志建之

大東亜戦争戦歿将士英霊菩薩

(裏面)
昭和19年4月
 願主 陸軍大将 松井石根 建之


七士之碑

巣鴨プリズン
昭和23年(1948年)12月23日、 当時、皇太子であった 上皇陛下の15歳の誕生日であった。

12月23日の尊い「国民の祝い日」であった夜中の午前0時。
巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)で極東国際軍事裁判(東京裁判)により「戦犯」として死刑判決が処せられた7名の絞首刑が執行された。

  • 板垣征四郎 陸軍大将・陸相
           <中国侵略・米国に対する平和の罪>
  • 木村兵太郎 陸軍大将・ビルマ方面軍司令官
           <英国に対する戦争開始の罪>
  • 土肥原賢二 陸軍大将・奉天特務機関長
           <中国侵略の罪>
  • 東條英機  陸軍大将・第40代内閣総理大臣
           <真珠湾不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪>
  • 武藤章   陸軍中将・第14方面軍参謀長
           <一部捕虜虐待の罪>
  • 松井石根  陸軍大将・中支那方面軍司令官
           <捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件)>
  • 広田弘毅  文官・第32代内閣総理大臣
           <近衛内閣外相時に南京事件を止めなかった不作為責任>

横浜・久保山
巣鴨プリズンで処刑された7人の遺体は、横浜の久保山火葬場に運び込まれ、厳重警戒の中で焼却された。
遺族は遺骨遺灰の引き取りを願ったが、GHQはA級戦犯七士が神聖化されることを恐れ拒絶。
そうして、A級戦犯七士の遺骨は米兵によって粉々に砕かれ東京湾に捨てられた。
遺骨灰の殆どは米軍が処理したが、細かい遺骨や遺灰は、久保山火葬場のコンクリ穴に捨てられていた。この僅かな遺骨と遺灰を回収するために、小磯国昭弁護人三文字正平、興禅寺住職市川伊雄、久保山火葬場場長飛田善美は、米兵がクリスマスで浮かれている12月26日の夜中に、必至の覚悟で密かに忍び込み、苦心の末に骨壺一杯分の遺骨灰を集めることに成功した。

熱海・興亜観音
骨壺は密かに久保山火葬場から、すぐ隣に鎮座していた市川住職の興禅寺に運び出され、しばらくは興禅寺に隠されていたが、やはり久保山葬祭場のすぐ近くは危険だということもあり、三文字弁護士や市川住職、七士の遺族の人々が、極秘のうちに相談した結果、翌年昭和24年5月三日に松井石根大将ゆかりの熱海・興亜観音に運ばれれることとなった。
三文字正平は、広田弘毅氏の令息、東條未亡人、武藤未亡人らとともに興亜観音住職伊丹忍礼に相談。「知り合いの方の遺骨だが時期が来るまで、誰にもわからぬように秘蔵しておいて欲しい」と申し出て、伊丹住職は一見して七士のご遺骨であることを直感し、快諾。そうして東亜観音にて遺骨は秘匿された。

「七士之碑」建立
密かに興亜観音に運び込まれた七士のご遺灰は10年もの間、秘事として興亜観音の初代住職伊丹忍礼によって護持されてきた。
昭和34年4月一九日、松井大将の無二の親友であった高木陸郎氏(興亜観音奉賛会長)らの発起により、吉田茂元総理の筆になる「七士の碑」が建立された。吉田茂は、広田弘毅の外交官時代の同期でもあった。「七士之碑」建立の際は、81歳と高齢な吉田茂は、興亜観音の山道を籠に乗って登られた。
ご遺灰は、「七士之碑」の碑の下に約3メートルの地下に埋葬されている。
碑文についても種々議論があったが、「知る人ぞ知る「七士之碑」でいいではないか」との結論に落ち着いたという。
そして昭和35年には、遺灰の回収と秘匿に尽力した三文字弁護士の発起により愛知県の三ヶ根山(松井石根の出身地)にある「殉国七士墓」に、「興亜観音」にある骨壷から香盒1ヶ分ほどが分骨埋葬された。

七士之碑
吉田茂書

昭和34年4月17日、興亜観音奉賛会建之

すめろぎの
 おほみいのちに
  代りませる
七つのみたま
 います奥城

松井石根
板垣征四郎
東条英機
土肥原賢二
木村兵太郎
武藤章
広田弘毅

七士之碑裏面
殉国七士 処刑直前の揮毫の写し


興亜観音・七士之碑爆破事件

昭和46年(1971)12月12日。
赤軍派「東アジア反日武装戦線」グループ数名が、「七士之碑」にダイナマイトを仕掛け爆破を行った。

「七士の碑」から、さらに導火線は「大東亜戦争殉国刑死一〇六八霊位供養碑」を一巻きし、30メートルほど離れた「興亜観音」の腰にも導火線を巻きつけ、それぞれにダイナマイトを仕掛けた。
22時少し前、時限装置が発動し大爆音とともに「七士の碑」は粉々に砕けるも、隣の「1068名霊位供養碑」に上部「南無妙法蓮華経」の「法蓮」のところで、導火線がショートし、供養碑と観音様は爆破を逃れた。いまも、ショートして黒くなった部分が見てわかる。
「七士の碑」は爆破されて粉々になってしまったが、復旧作業が行われ、3つに割れた石を元に破片をあわせドイツ製の接着剤を用いて復元された。

南無妙法蓮華経の「法蓮」が黒くなっているのが、導線がショートし黒く焼けた部分。

爆破事件の際に砕けた「七士之碑」の破片。

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで


興亜観音本堂

本堂は熱田神宮造営の余材を用いて建立された。昭和15年の建立。

興亜観音
陸軍大将松井石根

当興亜観音は戦没者の慰霊と御供養をする霊場です
英霊緒霊位に畏敬の念を抱き現在ある幸せに感謝の心で御参詣を賜れば真にありがたく存じます
 礼拝山興亜観音

相模湾を望む


興亜観音本堂・堂内

伊丹妙浄住職の読経
南無妙法蓮華経 唱和し拝する。 

合掌

支那事変の犠牲者、大東亜戦争の犠牲者、極東軍事裁判で処刑された昭和殉難者、そして七士の御霊に。

堂内の様々な事物に関して、伊丹妙浄住職のお話を拝聴する。
ありがとうございます。
堂内総て撮影可、とのことでお話をお伺いしたあとで、パシャリパシャリと。
住職からお伺い出来たお話を踏まえて、ほんの一部ですが、以下に記載させていただきます。

興亜観音
朝香宮殿下(朝香宮鳩彦王)による揮毫扁額

興亜観音

霊座されている興亜観音と同じ姿で作られた、2尺(60,6cm)の瀬戸焼による観音様。

右       「日本国民戦死者霊牌」
中央  観音菩薩「松井将軍部下戦死者霊名(23,104柱)」
左       「中華民国戦死者霊牌」
 「殉国刑死1068柱の霊」
 「七士の霊」(松井石根、東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章)

支那事変日本戦歿者霊位

支那事変中華戦歿者霊位

松井石根閣下を祀る神棚

興亜観音 
 岩根書

パール判事

パール判事は、昭和28年、3度目の来日の際に興亜観音に参詣された。都合2回参詣されたという。

殉国七士 処刑前の揮毫(写し)

七士は、死刑執行の3分前に、両手が縛られた状態で最後の揮毫をおこなった。

昭和15年に画かれた中国の人々の様子

松井石根書

万歳
 岩根

巣鴨プリズンにて。
絞首刑台に向かう直前、最初の組(土肥原、松井、東條、武藤)は、松井石根大将の音頭で万歳三唱をされたという。
「天皇陛下万歳」 「大日本帝国万歳
それぞれ三唱。しかし、手錠のせいで、両手は胸の高さまでしか上がらなかった。
その次の組(板垣、広田、木村)は、前の組の万歳が聞こえていたということもあり、板垣征四郎大将の音頭で同じく万歳三唱を行った。

松井大将の外套

八紘一宇の絵画

松井石根大将の獄中の遺書(扇面)
その生涯を五言絶句に詠む

昭和21(1946)年から約3年間A級戦犯として巣鴨の獄中にあった松井石根大将。
昭和22年7月、古稀の誕生日に際して白扇の地紙に五言絶句の漢詩を以ってご自分の生涯を22行に集約して揮毫された遺書ともいうべき由緒あるもの。

上記を書き下し

古希誕辰 述懐
明治戊寅の夏 尾張牧野に生る
清和源氏の裔 歴代金城に仕ふ
武兵の第六男 幼にして凌雲の気有り
十六陸軍に入り 廿歳少尉に任ず
累升、大将を承け 勲位寵恩全し
夙に東方の事を志し 支に遊ぶこと十数年
初時燕京に赴き 又江滬に駐留す
朝野の士人と交り 日華親善に努む
帰って帷幕の賛に當り 出でて旅・師・聯に長たり
三次欧米に経き 軍縮・執権を談ず
審に國際の難きを知り 画策す東洋の社
侶中・偉和に座し 鞍を懸けて草野に臥す
上海の兵変に逢ひ  起き来たりて晩節を揮ふ
征師真に涙血 力戦愈々仁威
首府金陵を降し 皇軍神武熾なり
巧成りて戟を収めて還り 内朝の参議に任ず
興亜同盟立ち 大東亜戦酣なるや
中外の事を籌謀し 歴巡して西南に説く
国破れて戦犯の人となり 落莫たり幽牢の裏
老骨古希を迎へて 痩身荘志を埋む
俯して地に恥る無く 仰いで亦天に羞る没し
面壁専ら道を求め 心を放つ一味の禅
  昭和丁亥夏七月  巣鴨獄中に於て
   孤峯 石根

興亜観音開眼式
記念絵葉書
昭和15年2月

松井石根とご家族のお写真

衆生皆姑息
正気払神州
無為観音力
普明照亜洲
松井石根大将辞世 田中正明書

田中正明は松井石根の私設秘書であった。

堂本印象画伯の天龍画

堂本印象は近代日本画の大家

興亜観音本堂


本堂脇の休憩所

伊丹妙浄住職から、お茶をいただきつつ、談笑させていただく。
ありがとうございます。

興亜観音ヲ奉る

松井石根大将が巣鴨刑務所で記した興亜観音の詩

北京仏学研究院より松井大将閣下に贈られた書

作業された職人に手跡がついた木材。最近の合成木材では手跡がつくことがなく、これはこれで貴重なもの、だそうだ。

用材奉納
名古屋木材組合有志
昭和15年11月

熱田神宮の余材で建立。

徐州会戦 堤防修復の絵画

相模湾と狛犬
狛犬は昭和17年10月奉納


一段下がった場所にあったお堂は、乙女の祈りを捧げるお堂だった。

乙女の祈り

乙女の祈り
ソ連兵に身を汚されるくらいなら私たちは命を絶って純潔を守りますと昭和21年6月21日に、ハルピンにて22名の従軍看護婦さんが青酸カリで自決なされました。
この建屋の祭壇の従軍看護婦観音像を見守るように多くの観音像が安置され、総ての観音像の御胎内には、観音経がお収められています。
已む無き自決を決断せざるを得なかった清らかな乙女たちに思いを馳せ、無念の声なき声に耳を傾け、祈りを捧げましょう。 合掌

なぜか、小笠原海軍中将の額が。
小笠原長生は明治のイメージが強いけど、戦後まで長生きしてたな、そういえば。 

朝香宮殿下お手植えの菩提樹

昭和15年、松井大将の部隊に随行されていたご縁から朝香宮殿下が、興亜観音開山式の際にお手植えされた。

昭和17年10月奉納の掲揚台

熱海市中心部の方向を望む。
東海道本線は伊豆山の下をトンネルで抜ける。

相模湾、かすかに熱海城が見える。


各地の興亜観音

熱海の興亜観音が建立され、松井石根大将の「怨親平等思想」が広まると、共鳴した僧侶が自らの寺院にも「興亜観音」を建立したいと松井閣下に申し出があった。

  • 昭和16年8月11日  三重県尾鷲市 曹洞宗寺院 金剛寺
  • 昭和17年5月3日  富山県入善町 浄土真宗 養照寺
  • 昭和18年3月27日  奈良県桜井市 浄土宗 蓮台寺

機会があれば、これらの寺院にも参詣したいと思います。


授与品

お忙しいところ、伊丹妙浄住職には、大変お世話になりました。
ありがとうございます。

ちなみに、興亜観音でも御朱印をいただくことは可能です。昨今のブームの中でも、興亜観音で頂いている人は少ないようで、いわゆる御朱印サイトにも掲載がほとんどありませんでした。
ただし、興亜観音で御朱印をいただくためには帳面の持参が必要です。私は「興亜観音で御朱印」ということがすっかり念頭になかった為に、帳面を持参しておりませんでした。次回、参拝時には、靖國神社の御朱印帳を持参して参拝させていただこうと思います。

ご由緒書を頂き、御札を授かりました。

実は、松井石根大将のことは、さほどに深くは知っていなかった私でした。
今回、東亜観音にて松井石根大将の「施無畏」「怨親平等」のお心持ちを知ることが出来、認識を大いに深めることができました。

ありがとうございます。
また参拝させていただきます。


参考

参考文献として、「興亜観音を守る会」会報を使用したが、いわゆる「興亜観音問題」は私はよく知らない。「興亜観音を守る会」が守ることを放棄して崩壊した(平成23年に解散)という。
なお、昭和17年に設立された「興亜観音奉賛会」が唯一の公式団体。

興亜観音を守る会会報バックナンバー
http://www.history.gr.jp/koa_kan_non/backnumber.html
興亜観音第2号
興亜観音ものがたり 第1回
興亜観音第3号(平成8年4月18日号)
興亜観音はどうして建立されたか 伊丹忍礼
興亜観音ものがたり 第2回
興亜観音第6号(平成9年10月18日号)
戦場の霊土で作り奉った 興亜観音の部下英霊に捧ぐ ・・・松井石根(「主婦の友」昭和15年4月号より)
興亜観音第7号(平成10年4月18日号)
殉国七士の墓、興亜観音にその墓があるわけ  伊丹忍礼

興亜観音公式サイト
http://www.koakannon.org/index.html
興亜観音 いつも そして 永遠に
https://www.facebook.com/kouakannon/
興亜観音リーフレット
http://www.koakannon.org/box2/k03.pdf
興亜観音のいわれ(創建時 本修院道場主 伊丹忍礼)
http://www.koakannon.org/box4/a01.pdf


関連

市ヶ谷
極東軍事裁判は市ヶ谷の法廷で執り行われた

巣鴨拘置所
松井石根をはじめとする殉国七士は巣鴨プリズンで処刑された

久保山
松井石根をはじめとする殉国七士が火葬され、そして遺骨灰が収集された

靖國神社
殉国七士をはじめとする昭和殉難者の皆様は靖國神社に祀られている

殉国七士を偲ぶ慰霊の鐘

「河野壽大尉自決の地」二・二六事件と熱海陸軍病院跡

昭和11年(1936)2月26日。
後の世に言う「2・26事件」。東京以外では唯一、湯河原・熱海でも事件があった。

2・26事件と河野壽大尉

河野壽(こうの ひさし)は、陸軍航空兵大尉。陸軍士官学校(陸士40期)卒業。所沢陸軍飛行学校操縦学生。

河野壽大尉以下8人は、別働隊(河野隊)として湯河原「光風荘」に滞在していた牧野伸顕伯爵を襲撃した。

牧野伸顕
牧野伸顕は大久保利通の次男。事件当時75歳。前内大臣として 天皇陛下の側近であり欧米強調主義であったために、君側の奸( 天皇を取り巻く悪者)として暗殺対象となっていた。麻生太郎の母、麻生和子は吉田茂の長女(吉田和子)であったが、当時、祖父であった牧野伸顕ともに湯河原に滞在して事件を経験している。(吉田和子は事件当時20歳)

河野寿大尉の指揮する湯河原襲撃隊
現役は、河野寿大尉・宇治野時参軍曹(歩一第六中隊歩兵軍曹)・黒沢鶴一上等兵(歩一歩兵砲隊歩兵一等兵)。
民間元陸軍からは、黒田昶(予備役歩兵上等兵)・中島清治(予備役歩兵曹長)・宮田晃(予備役歩兵曹長)
民間からの参加者は、水上源一(弁理士)・綿引正三の合計8名。
河野寿大尉自身は、学生であったために部下がおらず、同士であった栗原中尉からの紹介で7名を率いることとなった。

湯河原・熱海の「二・二六事件」
2月26日早朝午前5時頃、牧野伸顕が滞在していた湯河原「光風荘」を襲撃。
玄関前で乱射された機関銃の銃声で目覚めた身辺警護の皆川義孝巡査(警視庁警務部警衛課勤務・牧野礼遇随衛)は、機転を働かせ牧野伯爵を裏口から避させることに成功。
河野壽大尉の襲撃部隊は護衛の皆川義孝巡査と銃撃戦となり、河野大尉と宮田が負傷。河野大尉が負傷したことで計画変更を余儀なくされ、放火を行い光風荘を炎上させるも、牧野伸顕伯爵襲撃は失敗。

銃撃戦で皆川義孝巡査は死亡(享年32歳・殉職)、河野壽大尉と宮田晃予備役曹長は負傷。河野壽大尉重傷後の部隊指揮は民間出身であった水上源一が務めている。(そのために民間人でありながら水上源一は、河野大尉自決後の湯河原隊責任者として唯一の死刑となっている)

襲撃隊8名の内、宮田は湯河原の病院に入院。重傷の河野大尉は熱海の東京第一衛戍病院熱海分院に入院し胸部盲貫の弾丸摘出手術を受ける。残る6名は翌日の2月27日に三島憲兵隊に収容。

河野壽の最期
熱海陸軍病院に入院し、刃物などを取り上げられた河野壽は、密かに兄の河野司に自決用の刃物を用意するように頼み、河野司は果物ナイフを差し入れ。
昭和11年3月5日午後、軍服に着替え病室を抜け出した河野壽大尉は、病院の外、裏山で自決。しかし果物ナイフでの自決は致命傷を得られず、16時間後の3月6日朝に死去。享年28歳。

辞世
 あを嵐 過ぎて静けき 日和かな
戒名 
 徹心院天嶽徳寿居士

二・二六事件
河野壽大尉自決の地

河野寿大尉自決の地
 河野寿大尉(28才)はニ・ニ六事件において、湯河原の伊藤屋旅館の貸別荘(当時)である光風荘に滞在していた牧野伸顕前内大臣(大久保利通の二男、麻生太郎元総理の曾祖父)を8名で襲撃し、護衛の皆川義孝巡査と相撃ちとなり、熱海の陸軍病院で治療をした。
 ニ・ニ六事件は陸軍皇道派の青年将校が、世界恐慌を発端とした昭和恐慌、また冷害による凶作によって疲弊する東北地方の農村の状況を座視し得ず、世直しを目指して取起した事件。昭和11年2月26日、第一師団を中心に1,483名を率いて、政府要人および天皇側近6名を襲撃し4日後には反乱軍となり鎮圧された。
 反乱軍となった河野大尉は3月5日、兄の司氏に果物ナイフを差し入れて貰い、午後3時半頃、病院の裏山で割腹し首を6箇所も切って、翌朝6時半絶命した。
 陸軍病院は戦後、国立熱海病院となった。昭和39年熱海バイパス国道の開通によって病院は分断され、山側は国家公務員共済組合連合会(KKR)に売却された。病院は取り壊され荒地となって放置されていた。
 平成2年に地元有志が自決跡に目印の石を置き、平成5年に標柱を立てたが、KKRホテルの建設に伴いそれらは撤去させられ、平成15年6月19日に関係者一同で現在地に石碑を建立した。
 光風荘は日本で唯一のニ・ニ六事件資料館として土日祭日開館しており、入館時間は午前10時~午後2時半。
 湯河原駅より奥湯河原行きバス乗車、万葉公園入口下車、徒歩1分。
 問合せは、湯河原町役場・地域政策課(0465・63・2111)
平成25年9月 
 看板菅理者川久保勲0557(83)4636

入口にはいくつかの案内があった。

熱海陸軍病院裏門跡
河野寿大尉自決の地
豆相人車鉄道軽便路

場所

https://goo.gl/maps/hqVFnt3ZzPrGL1NG8


東京第一衛戍病院熱海分院
熱海陸軍病院
(現・国際医療福祉大学熱海病院)

現在の国際医療福祉大学熱海病院とKKRホテル熱海のあるあたりに、当時は熱海陸軍病院があった。

明治44年(1911)5月、東京第一衛戍病院熱海分院が創設。
昭和13年(1938)2月、臨時東京第一陸軍病院熱海分院と改称。
昭和20年(1945)12月、終戦により厚生省に移管、国立東京第一病院熱海分院として発足。
昭和25年(1950)7月、国立東京第一病院から分離独立し、国立熱海病院に改称。
平成19年(2007年)2月、国際医療福祉大学熱海病院となる。

熱海陸軍病院の裏山。河野寿大尉自決の地。

KKRホテル熱海。
写真の後方奥に、熱海病院


熱海陸軍病院の陸軍境界標石

河野寿大尉自決の地から山の反対側に当たる場所。熱海駅側に標石が残っていた。

陸軍用地

場所

https://goo.gl/maps/khT5H6qyBNakEuAUA

熱海

風光明媚な熱海の海を望みながら、自決された河野大尉。
二・二六事件の歴史をほんの僅かに残していた、熱海でした。


関連

渋谷にある「二・二六事件慰霊碑」は、河野壽大尉の兄であった河野司氏が中心となって建立された。

麻布の賢崇寺は、二・二六事件で殉難した「二十二士」を祀る。

河野司さんが代表を務めていた佛心會(仏心会)

https://busshinkai.or.jp/

「二・二六事件」海軍の動き。

こちらは湯河原。

2・26事件資料館「光風荘」

https://www.town.yugawara.kanagawa.jp/kankou/leisure/koufusou.html

傷ついた兵士の療養所「傷痍軍人箱根療養所」(箱根病院・小田原)

箱根登山鉄道「風祭駅」。
かまぼこの鈴廣の本店や土産物店、鈴廣かまぼこ博物館などで賑わう駅前とは反対側の山の方に、「箱熱病院」がある。この病院は、かつて戦場で傷ついた軍人たちの療養所であった。


傷痍軍人箱根療養所
箱根病院

「廃兵院」は、日露戦争により、四肢の欠損や脊髄損傷などの重傷を負い、社会復帰が困難で身寄りのない者を収容する施設であった。

日露戦争直後の明治39年(1906)に、「廃兵院法」によって戦傷病兵を国で扶養することを決定し、明治40年に東京予備病院渋谷分院の一画に「廃兵院」が設立。明治41年(1908)に渋谷から巣鴨に移転。

大正12年(1923)、廃兵院法の改正が行われ、陸軍省から内務省に移管。
昭和9年(1934) 、「廃兵院」は「傷兵院法」により「傷兵院」と改称。
昭和11年(1936)、巣鴨の地から現在の小田原市風祭へと移転。東京巣鴨周辺の都市化が進み、療養環境が維持できなくなったための移転という。
昭和13年(1938)、厚生省の設置とともに、傷兵院は厚生省の外局として発足。「傷兵保護院」に所属。
昭和14年(1939)、傷兵保護院は事業拡大し、「軍事保護院」と改称。
昭和15年(1940)、軍事保護院は「傷痍軍人箱根療養所」を併設。当時、臨時東京第1病院に入院していた支那事変による戦傷脊損患者を収容した療養所であり、国内唯一となる脊髄損傷専門の「療養所」であった。
これは、箱根病院が、全国唯一の「国立精髄療養所」に分類されている由来でもある。

昭和20年(1945)、終戦とともに傷痍軍人箱根療養所は厚生障害教区の医療局に所属。「国立箱根療養所」と改称。軍事保護院(傷兵院)は廃止。「国立箱根療養所」が所管を継承した。

昭和39年(1964)、東京パラリンピック開催。
箱根療養所からは日本代表選手53名のうち19名もの選手が出場。
そのうち傷痍軍人(傷病兵)出身は7名であり、選手宣誓を行った青野選手も戦地で傷つき箱根療養所で療養していた御方であった。

昭和50年、「国立療養所箱根病院」と改称。
平成16年、「独立行政法人 国立病院機 構箱根病院」に組織変更。
平成20年(2008)、最後の傷痍軍人の入院が終了となった。

こうして、傷兵院(傷痍軍人箱根療養所)は、戦後は「国立療養所箱根病院」 として医療活動を継承し、こんにちに至っている。

巣鴨にあった「傷兵院」の記念碑は以前にレポートしました。


傷兵院本館(箱根病院)

内務省営繕管財局設計、昭和11年(1936)竣工。
傷兵院が巣鴨から小田原に移転した際に建設された。

車寄せ部分。

三角屋根。

ちょっとおしゃれ。

建物北側

建物南側

数年前までは、本館のほかに講堂も残されていたが、駐車場拡張のために取り壊し済み。


傷兵院奉安殿

傷兵院時代に奉安殿として使用されていた建屋が残されていました。
回遊庭園の島の中に鎮座。往時は水が張られていたかもしれない。

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。

奉安殿付近から、風祭駅方面を望む。


機銃台座??

不自然なベンチ。なんとなく機銃台座にみえるのですが詳細不明。

崖にせり出してます。この台座。

箱根病院

言わずもがなですが、
病院ですので、常識ある行動をお願いいたします。

風祭駅の北側

箱根登山電車。
小田原と箱根湯本の中間あたり。なのでこのエリアは小田急ぽい。

本格的山岳鉄道として土木遺産に認定されてます。(2007年の認定)


参考

https://hakone.hosp.go.jp/about/history/index.html

https://www.sankei.com/region/news/140819/rgn1408190054-n1.html

https://www.shokeikan.go.jp/


関連

瓜生外吉海軍大将之像と瓜生外吉墓(小田原と南青山)

小田原に、海軍大将 瓜生外吉 が晩年に隠棲した邸宅があった。


瓜生外吉(うりゅう そときち)

安政4年1月2日(1857年1月27日) – 昭和12年(1937年)11月11日)
大日本帝国の海軍軍人。海軍大将。加賀藩支藩の大聖寺藩(石川県)の出身。

海軍兵学校は卒業していないがアナポリス海軍兵学校に留学をしており明治海軍有数のアメリカ通。
瓜生外吉夫人の瓜生繁子は三井物産の益田孝の実妹。明治新政府の第一回海外女子留学生(日本初の女子留学生)として渡米し10年間のアメリカ経験あり。三井物産初代社長の益田孝は義理の兄となる。
そして、「東洋のセシル・ローズ」と称された衆議院議員・森恪は女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)となる。

明治33年(1900)、海軍少将・軍令部第1局長。
明治37年(1904)2月4日、日露戦争開戦。第四戦隊司令官として参加。
開戦直後の明治37年2月9日、瓜生外吉率いる第四戦隊(旗艦・巡洋艦浪速、高千穂、明石、新高に、臨時で装甲巡洋艦浅間と第九艇隊および第十四艇隊の水雷艇8隻)は、仁川のロシア海軍・防護巡洋艦「ヴァリャーグ」と航洋砲艦「コレーエツ」を、日露戦争の口火を切った「仁川沖海戦」で撃破。瓜生外吉率いる第四戦隊が初戦の勝利を飾る。

日露戦争後、佐世保鎮守府長官・横須賀鎮守府長官を歴任。
大正元年(1912年)10月16日、海軍大将に昇級。薩摩出身者以外では2番目の海軍大将であった。
ちなみに、薩摩閥以外での1番目の海軍大将は会津白虎隊出身の出羽重遠(日露戦争では第三戦隊司令官)。出羽重遠は明治時代で唯一の薩摩閥外の海軍大将。とはいっても明治45年(1912)7月9日に海軍大将となっているので、瓜生外吉の3ヶ月前。
大正2年(1913年)、予備役に編入。

瓜生外吉は義兄である三井物産創始者・益田孝の勧めで、海軍退役後の大正2年に、小田原天神山に隠棲の別荘を設けて移り住んだ。
大正11年に体調を悪くし、小田原で療養中に大正12年の関東大震災に遭遇。一度、都内に転地療養し全快。
大正14年以降、再び小田原別邸に移住。
瓜生邸付近の道路が狭隘で、その上石段があるため、自動車の通行が不可能であったため、義兄・益田孝の経済的な援助と、海軍部員の奉仕によって工事が施行され、完成後に「瓜生坂」と呼ばれるようになった。
瓜生外吉は小田原を愛し、地元海軍部員はもとより、地域の人々とも交流が深かったという。(死後に地域の人々により記念の胸像が建立された)
昭和12年11月11日、81歳の天寿を全うした。正二位勲一等旭日桐花大授章が追贈。


瓜生海軍大将之像

作者は、北村四海。大正6年(1917)の作。
瓜生外吉没後、小田原町第十六区民・山角町青年誠友会員により、昭和14年(1939)5月27日、山角天神社の石段中途左に「瓜生海軍大将之像」が東京の瓜生邸から山角天神社へ移築され建立された。

瓜生海軍大将之像

昭和14年5月27日
小田原町第十六区民 
山角町青年誠友会員 建設

瓜生外吉海軍大将之像
Statue of Admiral Baron Sotokichi Uriu, I.J.H.
 瓜生外吉(1857‐1937年)は、米アナポリス海軍兵学校を卒業。
 日露戦争(1904‐1905年)の仁川沖、蔚山沖、日本海の各海戦で活躍し、1912年に海軍大将に昇進しました。
 後年は夫人繁子(日本初の女子留学生)とともに対米民間外交、親善に尽力しました。
 ここから」西に200mほどの高台に別荘を設けた外吉は、誠実な人柄が市民に敬愛され、海を眺めての小田原の生活をこよなく愛しました。

小田原の海を望む。

坂に名を残した人・瓜生外吉(海軍大将・男爵)

山角天神社


瓜生坂

すみません、写真を取りそこねております。
Googleストリートビューのキャプチャを暫定で掲載しておきます。。。

瓜生坂は、海軍を退役後に小田原天神山の別荘に移り住み、入退院を繰り返していた瓜生外吉を車で移動できるようにするため、義兄の益田孝の援助と、交流のあった海軍関係者が奉仕活動で造った坂。

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-110665.html


場所は変わって。。。東京の青山霊園

瓜生外吉の墓

場所は、1種イ22号5側。訪れたときは、ちょうど薔薇の花が賑わっていました。

海軍大将正二位
勲一等功二級男爵
瓜生外吉墓

隣には瓜生夫人の墓も。

従五位 瓜生繁子之墓

瓜生外吉の長男、瓜生武雄は、明治41(1908)年4月30日の松島爆沈事故で殉職している。

海軍少尉従五位瓜生武雄墓

明治41年4月30日軍艦松島
馬公港爆裂之際殉難齒廿三


森恪の墓(もり かく/もり つとむ)

青山霊園には、森恪の墓もありました。瓜生外吉の女婿(瓜生栄枝・瓜生外吉の三女)。
青山霊園内を散策していたら、たまたま見つけましたので参詣。
ちょっと墓地が荒れていました。。。
場所は、1種ロ8号1側。


小田原の瓜生海軍大将之像から、東にちょっと行った所に、対潮閣跡がある。
海軍史としては、秋山真之終焉の地。瓜生外吉とは日露戦争の縁もあり、ここに付記する。

対潮閣(山下亀三郎別邸)《秋山真之終焉の地》

山下亀三郎は、山下汽船(現・商船三井)の創業者。
現在は、邸宅は残っておらず、個人宅・私邸が分割されている。
対潮閣の正面玄関があった場所に、説明の看板がある。

対潮閣(山下亀三郎別邸)跡(秋山真之終焉の地) 
 明治時代から、小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(鈍翁)、田中光顕、北原白秋など多くの政財界人や文人が居を構えたり、訪れたりしていた。
 山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎(1867~1944)の別邸「対潮閣」の正面入口がこの辺りにあった。
 対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山真之(1868~1918)がたびたび訪れ、山縣の別邸「古稀庵」(現・あいおいニッセイ同和損保小田原研修所)を訪ね「国防論」について相談していたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7(1918)年2月4日未明に対潮閣内で亡くなった(享年49歳)。

 正面の巨石は、対潮閣にあったもので、梵鐘を抜いた形の空洞があるので「釣鐘石」といわれている。
 左手前の石碑には、田中光顕がこの石を賞して詠んだ和歌が彫られている。

碑文
「うちたたく 人ありてこ曾(そ) よの中に な里(り)もわたらね つりが年(ね)の石 光顕」

田中光顕歌碑

うちたたく 人ありてこ曽 よの中に な里もわたらめ つりが年の石 光顕

 釣鐘石

山下亀三郎別邸の上段は清閑亭。

清閑亭(旧・黒田長成邸)

対潮閣の隣にあるのが清閑亭。
秋山真之も最後のときに、同じように相模灘の小田原の海を眺めていたかもしれない。

瓜生外吉から、神奈川の小田原から東京の青山霊園から、小田原の秋山真之へと、話が散らかりました。


小田原散策で、瓜生外吉と出会って、あまり知ることなかった瓜生提督のことを深堀りできたのが、良き記録となりました。


「ガラスのうさぎ像」二宮駅に残る機銃掃射弾痕(二宮町)

JR二宮駅南口のロータリーに「少女の像」が立っている。
ガラスのうさぎを手にした、少女の像は、戦争にまつわるエピソードがあった。

ガラスのうさぎ像

この像は太平洋戦争中、二宮町に縁故疎開していた童話作家高木敏子氏の体験記である『ガラスのうさぎ』をモチーフとして建てられたものである。
『ガラスのうさぎ』には終戦間近、父親が二宮駅で米軍機の機銃掃射を受けて死亡したために、ひとり取り残された少女と、少女に温かく接する町民の心情が描かれて童話。1977 年に金の星社から出版。ドラマ化や映画も作られ他作品。

ガラスのうさぎ像
設 置 1981 年(昭和 56 年)
製作者 圓鍔勝三氏(芸術院会員 昭和 55 年度神奈川文化賞受賞)

ガラスのうさぎ像
 太平洋戦争終結直前の昭和二十年八月五日
 ここ(国鉄)二宮駅周辺は艦載式P51 の機銃掃射を受け 幾人かの尊い生命がその犠牲と
なりました
 この時 目の前で父を失った十二歳の少女が その悲しみを乗り越え けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」は 国民の心に深い感動を呼び起こし 戦争の悲惨さを強く印象づけました
 この像は私たち二宮町民が 平和の尊さを後世に伝えるために また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために 多くのご協力をいただき 建てたものです
 少女が胸に抱えているのは 父の形見となったガラスのうさぎです

 ここに平和と友情よ 永遠に

 昭和五十六年八月五日
 「ガラスのうさぎ」像を二宮駅に建てる会

このクスノキは、樹齢108年の大クスノキが腐朽したため新たに植栽された2代目のシンボルツリーです。
ガラスのうさぎ像とともに、クスノキも平和を見守っています。 二宮町


二宮駅

昭和20年8月5日。
二宮駅とその周辺は、アメリカ軍戦闘機P‐51の機銃掃射を受け、5 名の方が亡くなった。
『ガラスのうさぎ』の著書高木敏子氏の父親が亡くなったのもこの時であった。
P-51戦闘機は、十数機ほどが相模湾より侵入二宮上空で、ちょうど二宮駅に集まっていた乗客目掛けて、無差別に機銃掃射を行い、二宮駅及び周辺が被害を受けた。
終戦、10日前のことであった。

二宮駅の東側・大磯よりのホーム。
一部、屋根の形が異なり、ホームの両側に柱が立っている上家がある。
この部分が大正14年の建屋であり、梁の一部に、機銃掃射の銃撃痕が残っている。

建物財産標

旅客上家4号
大14年 月 日

上家の梁に幾多の銃撃痕が残されている。


機銃掃射の悲劇

二宮駅が機銃掃射を受けたのが、8月5日。
この日、襲来したP-51戦闘機の編隊は、各地の鉄道駅や列車を襲撃し続けている。
彼らにとって、一般市民が集っていても、それは軍事施設しか見えていなかった。

彼らは二宮駅や小田原駅・下曽我駅・国府津駅などに機銃掃射を加えながら、丹沢山地を抜け内陸部へと飛行を続けた。

そして、彼らは、八王子・浅川の上空に到達し、走っていた列車に機銃掃射を行った。

湯の花トンネル列車銃撃空襲

昭和20年8月5日
新宿発長野行419列車が浅川駅(現在の高尾駅)を出発し、湯の花(猪の鼻)トンネルに差し掛かった時、硫黄島から飛来したP‐51マスタングの銃撃を受け、52人が死亡、133名が重軽傷を負った。
列車への銃撃空襲としては日本最大級の被害であった。


参考

http://www.asahi.com/area/kanagawa/articles/MTW20120807150280001.html

http://www.town.ninomiya.kanagawa.jp/gyosei_jigyosha/gyosei/shokai/1471339461480.html


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