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海軍水雷学校と海自第2術科学校

令和元年11月・横須賀 JR田浦駅近く。

現在の「海上自衛隊第2術科学校」は、海軍水雷学校の敷地を受け継いでいる。

海軍水雷学校

大日本帝国海軍の水雷術(魚雷・機雷・爆雷)指揮官・技官を養成する教育機関であった。
明治26年(1893)12月2日に水雷術練習所が設置。
明治40年(1907)4月20日に海軍水雷学校に改編。
水雷学校から、海軍通信学校、海軍機雷学校(海軍対潜学校)が派生増設。
昭和20年の終戦までこの地で海軍教育が行われてきた。
歴代校長に著名人が多く、岡田啓介・鈴木貫太郎・南雲忠一・小澤治三郎など。

術科学校

第1術科学校・江田島 機関科を覗く水上艦艇術科教育
第2術科学校・横須賀 機関・電機・情報・外国語等の特殊部門専門教育
第3術科学校・下総  航空機整備員・航空基地員養成機関
第4術科学校・舞鶴  業務管理・経理・補給関係術科教育訓練

海上自衛隊第2術科学校、すなわち「2術校」

http://www.mod.go.jp/msdf/twomss/

機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を主体とする機関

戦前の水雷教育から戦後の特殊専門教育へとつながる、そんな「海自2術校」にて、当時の姿を残すものなどを。



海軍水雷学校 圧縮ポンプ室
 (旧整備科倉庫)

第2術科学校は海軍水雷学校の敷地を受け継いでいます。この建物はS9年に建てられた木造建築で、現存する唯一の帝国海軍水雷学校当時からの建物です。

オープンスクール(一般公開)時に見学

うしろの建屋は、「日立パワーソリューションズ田浦工場」
手前には海保のPM14たかとり(てしお型巡視船)

海上自衛隊第2術科学校のある田浦は、海自と海保の共同使用地。全国でも共同使用地は、ここだけだという。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M46-A-7-2-77」より。
1946年02月15日 米軍撮影

一部加工
ポンプ室のみが現在も残る水雷学校の遺構。

田浦駅北部の海軍軍需部倉庫も数棟が現存している。

拡大


近くにはロ号艦本式ボイラーが展示してあった。(別記事にて掲載)


歴史保存エリア

第2術科学校内に「歴史保存エリア」がある。

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校跡碑

海軍水雷学校 跡
 明治26年12月2日水雷術練習所が設置されました。明治40年4月20日海軍水雷学校となり、昭和20年の終戦まで教育が行われました。
 昭和50年5月、水雷学校の歴史を後世に残すため、第二術科学校に隣接する関東自動車株式会社本館前に設置されていましたが、関東自動車株式会社の移転により、平成21年、この血に移設されました。

沿革
明治三年十一月四日
 海軍兵学寮に水雷火設置
明治七年九月二十日
 海軍兵学寮にて水雷術伝習開始
明治十二年八月二十三日
 水雷術練習所横須賀に開所
明治十六年二月六日
 水雷術練習所を廃止し水雷局を長浦に設置
明治十九年一月二十九日
 水雷局廃止水雷術練習艦設置(迅鯨)
明治二十年十一月十六日
 水雷術練習工概則制定(水雷術練習生の起源)
明治二十二年十二月二十三日
 水雷術練習艦で下士官、兵に掌水雷兵教育開始
明治二十六年十二月一日
 水雷練習艦を水雷練習所に改める(迅鯨)
明治三十九年十二月一日
 同右を長浦の陸上に移転
明治四十年四月二十日
 海軍水雷学校条例制定
明治四十年四月二十二日
 海軍水雷学校田浦に開校
 電気器具、防御水雷、攻撃水雷、通信術の四科目伝習開始
昭和五年六月一日
 海軍通信学校分離独立
昭和九年五月二十三日
 航空魚雷練習生制度設置
昭和十年七月
 航空兵器術練習生のなかに魚雷爆撃専修の練習生制度設置
昭和十五年六月二十日
 雷撃員制度設置雷撃練習生教育開始
昭和十六年四月一日
 海軍機雷学校分離独立
昭和一九年三月一五日
 海軍対潜学校と改称
昭和二十年七月十五日
 同右を廃止海軍水雷学校久里浜分校となる
昭和十八年六月十七日
 海軍水雷学校魚雷艇訓練規則制定
昭和十九年四月一日
 海軍水雷学校川棚魚雷艇訓練所開始、
 魚雷艇、特攻兵器、震洋艇の教育訓練実施
昭和二十年八月十五日
 終戦閉校

昭和五十八年五月八日
 海軍水雷学校跡碑建設委員会
  委員長 有田雄三
   他八七三名を以って建立
    兼平芳雄謹書

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑

海軍通信教育発祥記念碑
 明治三十六年、この地にあった海軍水雷術練習所で無線電信術教育が開始されたことを記念し、昭和四十五年十一月に建立されました。
 海軍水雷術練習所は、明治四十年、海軍水雷学校になりましたが、通信術の教育所要が増大したため、昭和五年同地の一部に海軍通信学校が海軍水雷学校から分離独立しました。 海軍通信学校は、昭和十四年に現在の陸上自衛隊久里浜駐屯地がある地に移転し、終戦を迎えました。

海軍無線通信教育の沿革
明治三十六年二月
 この地海軍水雷術練習所で無線電信術教育開始
大正七年八月
 海軍水雷学校に通信部設立
昭和五年六月
 この地に海軍通信学校として独立
昭和十四年十一月
 神奈川県久里浜に移転
昭和十七年五月
 横須賀海軍通信学校と改称
昭和十七年五月
 山口県防府に防府海軍通信学校を増設
昭和十九年九月
 神奈川県藤沢に海軍電測学校設立
昭和二十年七月
 各学校教育中止

   昭和四十五年十一月 
    海軍通信同窓有志建立

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑
海軍中将従三位功三級男爵伊藤雋吉君題碑

「上崎上等兵曹之碑」の由来
 上崎上等兵曹は青森県上北郡の人旧会津藩士であり、万延元年(1880年)岩代国若松城下で出生した
 十四歳で海軍に入り水雷術を専攻した
 征藩の役 西南の役に従軍し 明治二十二年上等兵曹に任ぜされ 二十七年勲七等に叙せられ瑞宝章を賜った
 明治二十七年日清戦争が起こるや第六号水雷艇に乗り戦地に赴く 艇長は海軍大尉鈴木貫太郎(後に大将 終戦の時の内閣総理大臣)であった
  明治二十八年二月四日夜 わが水雷艇隊は威海衛の夜襲を決行 第六号水雷艇もこの中にあって港内に突入 はげしい敵弾をうけながら敵艦鎮遠に近迫まさに水雷を射出して敵艦を粉砕しようとしたところ はからずも厚い氷が発射管を閉鎖し水雷が出なかった 上崎上等兵曹はこの責任を感じ 敵降伏後の三月十四日 従容として艇内において自刃した ときに三十六歳であった  鈴木艇長をはじめ艇員はその忠誠を永久に伝えるために横須賀竜本寺にこの碑を建てた  昭和三年田浦(田浦交番隣)に移してあったものを昭和四十三年五月十八日 第2術科学校に移したものである

(台座)
建碑及遺族慰問
資金義捐者
 海軍将校以下有志
  一千十五名
 通常有志
  七名
発起人 
 海軍大尉鈴木貫太郎
  外 三十七名
永代施餓鬼料
 金貳拾圓

碑面裏の撰文は上崎の乗艇である第六号艇長が読んだ弔辞を漢文に直したもの
第六号艇長は鈴木貫太郎海軍大尉、のちの海軍大将、内閣総理大臣

発起人にも海軍大尉鈴木貫太郎の名が刻まれている。

上等兵上崎辰次郎君碑
君諱辰次郎上崎氏青森県上北郡人旧会津藩士也萬延元年十二月生于岩代国若松城下年十四入海軍酷苦励精技術大進
明治七年航台湾従征藩役十年西南之役起君乃乗軍艦討賊兵十三年任下士官十九年新造軍艦浪速於英国成君被撰為回
航委員至英国乗之而帰廿二年叙勲八等無何任上等兵曹廿七年叙勲七等賜瑞宝章是歳征清役起時君在第六号水雷艇慨
然決意曰吾欲誓死以報国恩十月航戦地従常備艦隊占領花園口十一月略大連湾攻旅順口屡々有功廿八年二月我軍攻威
海衛敵艦隊拠劉公島以水雷及防材鎖港恃険要而防戦数日不能遽抜同月三日夜第六号水雷艇乗月明迫港口敵知之砲撃
甚烈而君自苦冒弾雨而破防材通航路以是翌夜水雷艇隊得進入港内襲撃敵艦隊轟沈定遠等二艦此夜第六号水雷艇亦在
隊中冒砲撃而迫近鎮遠飛弾如雨注中艇者六十餘弾将射出水雷粉砕敵艦何計巌水閉管妨碍発射自是君憤慨不巳更期大
功自慰十二日敵艦隊力屈遂乞降三月和議再起清使李鴻章発天津君時在威海衛港聞之而知戦機既去亦不可為遺憾不自
禁以此月十四日従容自刃艇内歳丗六艇員火化之帰葬横須賀龍本寺君為人沈毅義胆処事綜密克耐艱楚常尚節義至誠奉
公服軍務廿有二年於茲励精如一日威海之襲撃不奏効因巌冬結氷所致於君何有然哀心不能自安負責謝過以死矣可勝歎
惜哉頃者故旧捐金樹碑余甞長第六号水雷艇懐旧殊切乃為君叙其事為之銘曰
至誠奉公 孰若其忠 偉績将奏 孰妬其功 憤慨難禁 視天夢々 
鬼哭神泣 烈士致躬 大書深刻 其碑穹隆 嗚呼崎氏 英名無窮
 海軍大尉正七位勲六等功五級 鈴木貫太郎選

海上自衛隊発祥乃碑

海上自衛隊発祥乃地

海上自衛隊発祥乃碑
 昭和27年4月」26日、海上自衛隊の前身である海上警備隊がこの地で創設されました。創設に際し戦後の海軍再建を検討したY委員会において全国数箇所の候補地の中から、地元と米軍の了承が得られた唯一の場所が、ここ田浦の地だったのです。
 なお、戦後当地は旧軍港市転換法により民間企業等が使用していましたが、その会社が旧軍との関係が深く、海上自衛隊が使用することを快諾されたこともこの地に決定した理由となりました。

国旗掲揚旗竿基部

国旗掲揚旗竿基部
海上自衛隊創設当時にこの地に建てられたものであり、海上自衛隊の歴史を残すものである。

第2術科学校開校20周年記念機関

「350馬力蒸気往復機関」
海自が昭和27年発足時から昭和32年まで「えい船4号」として使用した旧帝国海軍雑役船の主機械。同船除籍後に教材として活用。創立20周年に際して記念機関として永く保存されている。


海軍機関術参考資料室
海上自衛隊創設史料室

ひとまず別記事を参照でお願いします。。。


そのほか

横穴の壕。消火栓もみえる。

このあたりも当時からかもしれない

海上自衛隊第2術科学校と俗世界の境界。これも当時から。

また来ます


関連

館山の海軍戦跡散策・その1

平成28年4月

・館山海軍航空隊跡
  赤山地下壕
  掩体壕
  水上班滑走台跡(米軍上陸の地)
・第二海軍航空廠館山補給工場跡
・安房神社
  館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生戦没者慰霊碑
  海軍落下傘部隊慰霊碑
・館山海軍砲術学校跡
  正門跡・戦車橋
  平和祈念塔
  炊事場跡(ボイラー室跡)
  飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
  化学兵器実験施設跡
  ヤシの木
・震洋滑走台跡

令和元年房総半島台風(令和元年台風第15号)被災前の記録です

その2は、海自で。

この日(平成28年4月某日)は、突然ではあれど友人と館山へ。
友人車の機動力を活かして、館山に点在する海軍戦跡と神社をいくつか散策。


館山海軍航空隊(館空)

昭和5年(1930)に館山海軍航空隊(館空)開隊。海軍航空隊としては5番目。
横須賀海軍航空隊(横空)の実戦部隊が館山に移動することで「横空」は研究航空隊に特化。
昭和11年に木更津海軍航空隊(木空)が開隊すると、「木空」が外戦作戦任務を担当し、「館空」は内戦作戦部隊となる。
開戦後の1944年(昭和19年)に、東日本の哨戒航空隊を統合した「第九〇三海軍航空隊」が館山を中心に展開され、対潜哨戒機が配備され広大な哨戒区域をカバーする事となる。

洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-25」米軍撮影-1947年10月23日

USA-M583-25を一部加工。クリックして拡大。

上記地図のオレンジ色の箇所を散策。紫色の箇所は次回の宿題。未訪問個所。


赤山地下壕

まずは「赤山地下壕跡」へ。
館山市内の戦跡として一番有名な場所から。

https://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page001892.html

館山市指定史跡 館山海軍航空隊 
赤山地下壕跡
平成17年1月27日指定
 1930(昭和5)年、海軍5番目の実戦航空部隊として、館山海軍航空隊がつくられました。それから、1945(昭和20)年の終戦までの間、館山市香(こうやつ)から沼(ぬま)にかけての一帯には、航空機の修理部品の補給などをおこなった第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを補給した横須賀軍需部館山支庫関係の施設や、1943(昭和18)年に兵器整備の練習航空隊として開かれた洲ノ崎海軍航空隊など、さまざまな軍事施設がつくられました。
 東京湾の入り口にあることから、館山市には、海軍の施設だけではなく陸軍の砲台や、教育機関(洲ノ崎海軍航空隊、館山海軍砲術学校)など、いろいろな種類の戦争遺跡が残されています。
 このような場所は、わが国のなかでも例が少ないといわれていますが、この赤山地下壕は、合計した長さが約1.6㎞と全国的にみても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
 つくられた時期は、はっきりしていませんが、このような大きな地下壕が、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はないといわれています。
 その一方で、昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もありますが、当時の軍部が本格的に防空壕をつくり始めたのは、1942(昭和17)年より後であるという歴史的な事実があります。
 全国各地につくられた大規模な地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上(長野市松代大本営の象山壕は25mであるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭い上、計画的に掘られたとは考えにくい、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後にけんせつされたのではないかと考えられています。
 アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは内部にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったという体験や、病院の施設があったなどの証言から、知ることができます。
 平成15年 館山市・館山市教育委員会

赤山地下壕跡。
豊津ホールの受付で200円を納めて住所氏名を記載。
そしたらヘルメットと懐中電灯をお借りして地下壕に入ることができます。

今ではストリートビューもできるの便利になったものです。

https://www.google.com/maps/@34.9817322,139.841558,3a,75y,248.85h,83.7t/data=!3m4!1e1!3m2!1s4cv31GKv7mIAAAQo8FbG5A!2e0

自力発電所跡
 この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や、床面の鉄筋が残っています。発電所があったところで、昭和20年2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたということです。4気筒200馬力のディーゼルエンジンが2台、発電機が2台、変圧器が9個あったそうです。

このクボミは?その1
 変電所電気員の待機所です。右側の浅いクボミには2段式のベットがあったそうで、10人くらいが交代勤務していたとか。空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたそうです。
 壕内には科(職種)ごとの居住区があったらしく、木の棚のベットがあったそうです。

このクボミは?その2
 この縦長のクボミには、電話番が腰掛けて勤務をしていたそうで、中段左右の突起にコードを巻いていたということです。左隣の窪みはトイレで、桶がおいてあったそうです。

この壕はどうのように使われたのだろう
 防衛庁防衛研究所に「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面があります。太平洋戦争末期につくられたこの図面をみると、赤山地下壕跡の位置には、「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われたのかもしれません。

戦後の赤山地下壕跡
 終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。

このクボミは?その3
 この部屋はがんルームとよばれていたという証言があります。少尉クラスの士官たちの部屋だったようです。奥の四角く切った大きなクボミは御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。空襲のときに航空隊から御真影を移したということで、少尉クラスの士官の役割でした。

とにかく地層が美しい。
自然の芸術としても、よりいっそうの見応えがある。 現実には戦跡であるが。

安全に見学でき、そして良く整備されていた空間。
戦跡として歴史伝聞物として、このインパクトは極めて貴重。

海軍の街館山の最初の歴史散策として、この地下壕はうってつけの場でした。


掩体壕

赤山地下壕からはすぐ隣に。

サイズは小ぶり。戦闘機用かと。 掩体壕のすぐ隣は畑。日常との同居。 内部が解放され、自由に中に入れる掩体壕は貴重な存在だったり。


第二海軍航空廠館山補給工場跡

海自館山基地の隣にのこる大きな建物。
現在は民間企業が使用している。


米軍上陸の地


昭和20年9月2日降伏文書調印。 翌9月3日午前9時20分、米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊戦闘団約3,500人(司令官カニンガム准将)が館山上陸。 この館山が米軍による本土初上陸の地なのだ。

米軍上陸の地
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリの降伏文書調印式によって第二次大戦が終わった。翌3日、カニンガム准将の率いる米陸軍第8軍約3500名が館山海軍航空隊水上半滑走台から上陸した。東京湾の入口である軍都館山は、このとき本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。


館山海軍航空隊水上班滑走台跡

館山海軍航空隊水上班滑走台跡。
この場所にて水上機が運用されていた、と。
水上機用スロープ(スリップ)が残っている。

9月3日に館山に上陸した米軍司令官カニンガム准将は「米軍ニヨル館山湾地区ノ占領」指令を発出。外務省が抗議し4日後の9月7日に軍政解除。 これが日本本土唯一の直接軍政となっている。

米軍上陸の地であり館空水上班滑走台跡でもある界隈から、第二海軍航空廠館山補給工場跡を遠望。 降伏文書調印翌日の9月4日。 館山から日本の戦後が始まっていたのを知るのも感慨深い。

スリップ関連では、ほかに・・・


館山の沖ノ島

館山の沖ノ島。沖ノ島公園。
海自館山航空基地の先、なかなか面白いところにある島。 関東大震災で隆起して陸続きになったらしい。

こんな感じで陸続き。 夏場はリア充空間になりそうですねw

島の入り口脇にいきなりなんかありました。
なんかの建物の基礎ですね。
海軍関係かな? 島内には地下壕なども点在しているらしいですが時間の都合で散策割愛。 せっかくなので島の鎮守様を参拝する。

館山の沖ノ島宇賀明神

安房国司源親元が嘉保3年(1096年)勧請の古社。 宇賀は「なが」に通じ「白い蛇」とも。 館山沖ノ島の鎮守様。

ご神木はタブノキ。 島内一の巨木。

館山沖ノ島宇賀明神神社。 社頭から対岸を望む。海上自衛隊 館山航空基地方面。
島を巡るのはまたの機会にして次に。


安房神社

安房神社。
安房国一ノ宮・延喜式内明神大社・旧官幣大社。
社号標は東郷平八郎謹書。
私にとっては平成14年以来の参拝。
新緑が鮮やかな境内に心が踊りつつの参拝。

本社(上の宮) 天太玉命 天比理刀咩命(天太玉命の后)
摂社(下の宮) 天富命(天太玉命の御孫) 天忍日命(天太玉命の御弟)

天富命が神武天皇勅命によって阿波の忌部氏を率いて東国安房・上下総国に渡った事に始まる。

安房国開拓の祖神。 創建年代は神武天皇の頃まで遡る古社。
安房国開拓を進めた天富命は、祖神であり祖父である天太玉命(天太玉命は天照大神の側近)をこの地に祀ったことに始まる。

延喜式神明帳「安房坐社」名神大社。
千葉県内では「香取神宮」に次ぐ神階。

社頭には「日露戦役記念碑」

新緑が鮮やかな境内。
境内が気持ち良すぎて満足してしまい、なんか色々写真を撮るのを忘れてしまったような。

安房神社オリジナル御朱印帳。
黒をベースに御神紋と社号。シンプルなデザインは好みを分けるかも知れませんが、私は好きですね。格好良いと思います。 初穂料は1500円。御朱印代は別。

御神水。 安房神社後方に鎮座する、吾谷山の霊水。

洞窟遺跡とあったので、戦跡か?と早とちりするも、古代遺跡。
安房神社界隈での原始的な人々の営みの記録。 古社たるべき格がここにあった。

安房神社境内には幾つか横穴がある。
ただし、これが信仰的な穴なのか、戦跡的な壕なのかは不詳。

安房神社界隈には布良陣地群が展開されていたという。
周辺も興味深いが、それは宿題。


館山海軍砲術学校第三期兵科予備学生
戦没者慰霊碑

安房神社境内に。
館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
 ※ 館山海軍砲術学校(館砲)に関しては、後述。

昭和45年10月10日建立。
慰霊碑には館山海軍砲術学校の第三期兵科予備学生229名の戦没者の名が記載。

館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 戦没者慰霊碑
碑文
過ぐる大戦のさ中 当地神戸村地先にあった館山海軍砲術学校へ入校し教育訓練を受けた第三期兵科予備学生は1440名に及び 彼等は全て全国官公私立の大学高専等より志願によって馳せ参じ 選抜されて入校した学徒である
昭和18年10月8日入校式が行われ海軍予備学生を拝命 直ちに日夜の猛訓練が開始された 翌昭和19年1月末基礎教程を終了 一部は他の術科学校へ転属したが大部は2月1日術科教程に入る 術科では陸戦、対空、化兵の各班に分科し それぞれ第一線指揮官としての徹底的専門教育を受けた
同年5月31日術科教程を修了 卒業式が行われ 即日海軍少尉に任官した 戦雲正に急を告げるの秋 太平洋全域から印度洋に亘る前線へ あるいは諸艦艇等へ赴任し 熾烈な戦列に身を投じた
既にこの年の4月緊急な要請で卒業を繰り上げられて先発して行った同期を含めて任官総数は 陸戦班385名 対空班772名 化兵班50名で 総員1207名である
しかして戦勢は日を追って凄絶となり 勇戦奮闘した同期戦友も相次いで倒れて行った あるいは北海に あるいは南冥の果てに ときに戦争と平和を想い ときに戦局の前途を憂えながら 祖国にその青春の総てをかけたのである かくして尊き英霊となった者は実に228名に及ぶのである
われらはこのことを永久に忘れることはできない ここに栄光有る我等同期生一同の冥福を祈念し 永遠の芳名を刻印して 由緒あるこの神社に一碑を建立するものである
 昭和45年10月10日
 館山海軍砲術学校 第三期兵科予備学生 慰霊碑建設委員長 高橋末吉 誌

同期戦没者二二九名に捧ぐ

参道のソメイヨシノ。
安房神社の染井吉野229本は、この慰霊碑建設の際に229名の戦没者に因んで植えられたものという。


海軍落下傘部隊慰霊碑

海軍落下傘部隊慰霊碑
内閣総理大臣田中角栄揮毫

館山は海軍落下傘部隊発祥の地でもある。

正面には、 翼をひろげた鷲と落下傘、そして地球と錨の彫刻。

海軍落下傘部隊慰霊碑
碑誌
太平洋戦争を告ぐる昭和十六年後期我が国最初の海軍落下傘部隊として誕生し、 十八才より四十五才までの精鋭なる将兵二千有余名により編成、任務の特質上、其の訓練は厳正なる軍規の基猛烈にして不撓不屈の落下傘部隊魂は茲に編成された。
第一特別陸戦隊は昭和十七年一月十一日・十二日 セレベス島メナドランゴワン飛行場に十字砲火を浴び戦闘降下を敢行 更に第三特別陸戦隊は、同年二月二十日・二十一日 チモール島クーパンに戦闘降下を敢行共に占領に成功
其の功績の顕著なる事に対し時の連合艦隊司令長官山本五十六大将より感状を授与せらる。 爾後大スンダ、小スンダ列島の島々を制圧、次期作戦準備の為、一旦内地に帰還し、戦争の末期再度灼熱の南洋サイパン、トラック、ナウルの諸島に作戦し、
特にサイパンの戦いは惨烈を極め善戦の甲斐もなく昭和十九年七月十六日全員玉砕す。 我等茲に往事を顧み戦友相謀り志を結集し今は亡き戦友の霊を慰め其の功績を永く讃えんものと当隊発祥の地、ここ舘山に慰霊碑を建立した。
 昭和四十八年十一月十日
 元海軍落下傘部隊隊員一同建立

昭和48年に元海軍落下傘部隊一同によって建てられた慰霊碑。
右に横須賀鎮守府 第一特別陸戦隊43名、
左に横須賀鎮守府 第三特別陸戦隊46名、の戦没者名が記されている。

横一特・横三特(海軍陸戦隊)として、その勇名を歴史に残している。
合掌。

空の神兵

 藍より蒼き 大空に大空に
 忽ち開く 百千の
 真白き薔薇の 花模様
 見よ落下傘 空に降り
 見よ落下傘 空を征く
 見よ落下傘 空を征く
心のなかで奉歌し慰霊する…


館山海軍砲術学校

館山海軍砲術学校跡。
安房神社からはすぐ北隣に展開されていました。

館山海軍砲術学校。
昭和16年(1941)に館山砲術学校(館砲)が新設。
館砲では陸戦隊の操練術や高角砲対空砲の操作術・化学戦術など。一方、従来の横須賀砲術学校(横砲)では、艦載兵装の操作術を担当。
昭和20年4月25日に横須賀砲術学校分校に格下げ。終戦直前の同年7月31日には閉鎖。これは米軍上陸地点想定地近くでの教育訓練は適切ではないため、という。


位置関係

国土地理院航空写真「USA-M583-14」米軍撮影1947年10月23日

「USA-M583-14」一部加工。画像はクリックで拡大可。

館山海軍砲術学校跡
 第二次世界大戦以前は海戦における主な攻撃力は大砲であると考えられ、明治時代以来、旧海軍の砲術教育は神奈川県横須賀で行われていました。
 昭和16(1941)年6月1日、陸上砲術の実地訓練を目的とした館山海軍砲術学校 (館砲)が新設されると、それまでの海軍砲術学校は横須賀海軍砲術学校(横砲)と名称をあらためました。
 「館砲」の特色は、士官候補であった大学出身の海軍予備学生が訓練を受けていたことです。陸戦、対空、化兵(3期以降)の3班にわかれ、陸戦班では、敵前上陸や対戦車戦闘などの訓練が、対空班では、高角砲などの射撃訓練が、化兵班では、毒ガス戦の訓練が行われていました。
 「館砲」で訓練を受けた学生は、海軍予備学生の1期から6期に及び、開校直後は軍医学生が海軍士官としての素養を学ぶ基礎教育の場でもありました。
 昭和19(1944)年10月に入隊した5期予備学生等の約4000名は5ヶ月間の基礎教育を受けたあと、それぞれが術科(各職種)学校に進み、館砲には655名が入校したとされています。
 訓練施設としては広大な平砂浦演習場、東砲台・西砲台の対空訓練砲台、犬石射撃場、飛行特技訓練プールなどがありました。
 昭和20(1945)年4月25日に、館砲は横砲の分校となり、終戦を目前にした同年7月31日には閉鎖されました。その理由はアメリカ軍の本土上陸か想定されていたなか、太平洋岸の平砂浦で教育訓練を行うことが適当ではなくなったためといわれています。  
 平成18年3月 館山市・館山市教育委員会

館山海軍砲術学校と訓練に向う予備学生隊
 真継不二夫氏撮影

 昭和18年10月、この館山海軍砲術学校へ入学した海軍第三期予備学生は1,440名であった。
 かれらは全て全国の官公私立の大学、高等専門学校より馳せ参じ、選抜されて入隊した学徒である。
 昭和18年10月 8日入校式が行われ海軍第三期兵科予備学生を拝命、直ちに日夜の猛訓練が開始された。
 翌昭和19年1月末基礎教程を修了、引続き術科教程に入り、陸戦、対空、化兵の各班に分科し、夫々第一戦指揮官としての専門教育を受けた。同三月末、あるいは五月末術科教程を修了。卒業式が行われ、即日海軍少尉に任官し、戦雲まさに急を告げる太平洋全域からインド洋に亘る前線に赴任し、激烈なる戦列に身を投じたのである。この隊列(写真)の中にも多数の戦没者がいる。
戦没者はフィリピン(比島)、硫黄島を第一として各地域の部隊および艦船(大和9、武蔵6、山城6、長門5、扶桑3、那智3、大鷹・大鳳・熊野・羽黒・葛城各1)における戦没者は次ぎの通りである。
グアム4名、テニアン5名、パラオ1名、
比島方面92名、インド洋方面6名、ビルマ4名、
ビアク2名、ボルネオ10名、セレベス2名、
ラボール3名、南漢島2名、マレー方面1名、
スマトラ1名、舟山島1名、東支那海3名、
モルッカ諸島1名、マリアナ群島1名、黄海3名、
内南洋2名、アンボン1名、ニューギニア1名、
ペリリュー島5名、サイパン方面11名、硫黄島18名、
東シナ海方面13名、台湾方面8名、
沖縄方面8名、南西諸島方面10名、千島2名、内地近辺8名
合計229名。この外基礎教程後他術科へ転出後戦死者若干名、法務死若干名。
 ここに館砲校全景を伝える希少な写真を展示し、「鬼の館砲」といわれた猛訓練を受け、勇敢敢闘の末倒れた万余といわれる将兵・同期生たちの護国の想念を偲び、深き感謝と鎮魂の想いを捧げる次第である。終
 平成年5月27日(1999年海軍記念日)
 館砲3期会有志(以下個人名略)

館山海軍砲術学校正門跡には往時を偲ぶ記念板がある。
「鬼の館砲」と称された海軍陸戦隊の教育機関。


館山海軍砲術学校
正門跡・戦車橋

正門跡の通りにかかる橋は「戦車橋」と言われている。戦車橋脇の側溝も往時のままのもの。 砲術学校ゆえに「戦車橋」。正門の道はさながら「戦車道」。


館山海軍砲術学校
平和祈念塔

館山海軍砲術学校平和祈念塔。
戦車橋からまっすぐ進んでいくと右手に砲身のようなものが見えてくる。 砲身のような塔。

館山海軍砲術学校跡

舘山海軍砲術学校の沿革
 舘山海軍砲術学校(「舘砲」)は大東亜戦争の開戦直前、風雲急を告げる秋に当たり、阿部孝壮初代校長(後に、第六特別根拠地隊司令官。戦後敗軍の将としての責めに任じ、グァムで慫慂として法務死)を載して、昭和十六年六月一日、当地(千葉県粗郡神戸村、現在は、舘山市佐野地区)に開設された。
  学校用地は、帝国海軍当局の現地調査による当地が最適との報告に基づき決定された。用地問題は安田義達開設委員(初代教頭。後年、横須賀第五特別陸戦隊指令としてブナで壮烈な戦死)の熱誠溢れる説得と、耕地及び山林原野の大半を失うという苦難を克服して、なお誠心誠意の協力を惜しまなかった出口常次村長、錦織寅吉助役を初めとする村民各位の尊い愛国の至情と献身的努力により解決され、急遽、建設の運びとなったものである。
  「舘砲」は、横須賀海軍砲術学校(「横砲」)の陸戦、対空等、陸上関係の砲術部門が分離独立する形で開設された術科学校である。訓練設備として広大な平砂浦演習場並びに東砲及び西砲台の対空訓練砲台を備えていた。後に、化学兵器に関する部門が加えられ、常時、一万数千人の将兵を擁する規模であった。
  戦局の悪化に伴い昭和二十年四月二十五日、「横砲」に併合されて同校の分校となり、終戦直前の昭和二十年七月三十一日、閉鎖、廃校となった。開校から廃校までの存続期間は、僅か四年間に過ぎなかったが、厖大な人員が教育訓練を受けたと推定される。しかし、記録喪失のため詳細は不明である。
 「舘砲」では研究部員が、陸戦、対空、化兵に関する専門技術・教育訓練に関する指導研究に当たった。その術科教育の対象は、兵科将校学生及び術科講習員の他、初級幹部の緊急訓練対策として、第一期兵科予備学生、第二期兵科予備学生、特別第三期兵科予備学生と第三期兵科予備学生、学徒動員の第四期兵科予備学生と第一期兵科予備学生、第五期兵科予備学生及び第二期兵科予備生徒並びに第一下士官候補訓練生及び第二下士官候補訓練生(師範学校卒)が挙げられる。
  更に優秀な下士官兵指導員の練成を目指して、高等科訓練生及び普通科練習生に対する教育訓練にも重点がおかれた。また、若年者の特別志願制度に基づく特年兵の教育訓練も行われ、その第一期及び第二期は、年少のまま実戦にも参加した。なお、台湾・朝鮮半島出身志願兵に対する教育も実施された。
  初期にはメナド落下傘降下で勇名を馳せた横須賀第一特別陸戦隊、中期にはソロモン群島方面で悪戦苦闘を続けていた横須賀第七特別陸戦隊、呉第六陸戦隊、佐世保第六特別陸戦隊、呉第七特別陸戦隊並びに佐世保第七特別陸戦隊、末期には、山岡S特攻部隊等々の部隊編成及び特別訓練も行われ発信基地ともなった。
 この間、前線の各地に向けて多数の防空隊が陸続として派遣されたが、その部隊編成及び特別訓練も行われ、その発進基地ともなった。その隊員の中には、国民兵役から徴集された多数の、年長の補充兵も含まれていた。
 「舘砲」は、開校直後、軍医科学生、薬剤科学生及び歯科医科の普通科学生の基礎教育の場としても利用されており、また、終戦間際の段階では、飛行科士官に対する陸戦指導法の演錬、艦船乗組の機関科・工作科系統の特務士官・準士官に対する防空指導法の演錬等、緊急の切替教育も行われた。
  このように、「舘砲」は、帝国海軍の各種陸上部隊、とりわけ、特別陸戦隊、基地警備隊、特別根拠地隊等の陸戦・対空専門技術に関する教育訓練の中核であったため、その影響する範囲は、広く、且つ、深く、その実戦即応を重視した教育内容は、誠に、多岐多彩なものがあった。
 「舘砲」の特色は帝国海軍の指揮官先頭の伝統による猛特訓を特徴とし、人は、「鬼の舘砲」と呼んだという。ここの教育訓練を受けた戦友は、陸戦、対空の実戦に臨んでは、遺憾なく指導力を発揮した。北は極寒不毛の孤島から南は、炎熱の島に至るまで、悪条件をものともせず、縦横無尽に活躍し、時として、激しい爆撃弾の下、寡兵よく大敵に屈せず、長期持久の戦いを闘い抜き、或は、力尽きて倒れ玉砕された将校各位も多い。その数は、一千数千柱にも及ぶと推定されている。この勇戦奮闘が、今日の日本繁栄の基礎を築いた原動力である。祖国の安泰を願い、同朋への愛に殉じる志こそ、国家の存立及び発展に不可欠なものである。
  祖国愛に殉じたこれら多数の戦士のご遺徳を偲び、切に、そのご冥福を祈りつつ、開校五十周年の記念日に、想い出尽きない舘山海軍砲術学校跡に、地元各位の絶大なるご協力を仰ぎつつ、ここに、多年念願の記念碑を建立し、永世に、太平を開かせ給えと、希うものである。
 平成三年六月一日
 舘山海軍砲術学校跡に記念碑を建立する会

雄魂
元連合艦隊兼横須賀鎮守府参謀 寺崎隆治謹書

平和祈念の塔
 平成3年6月吉日
 館山市長 庄司厚書

過ぎし戦に 玉と砕けし戦友の 英霊安かれと祈り
 永世に 太平を開かせたまえと ひたすら 希う

朽ちていく四一式山砲。
20センチ・ロケット弾(噴進弾)。
戦地より収集された遺品(銃剣)などが塔の周辺に展示してありました。

館山海軍砲術学校時代からの井戸という。

世界各地を示す標識


館山海軍砲術学校
炊事場跡(ボイラー室跡)

館山海軍砲術学校炊事場跡(ボイラー室跡)
赤煉瓦の壁だけが奇跡的に残っている空間。
何というか、存在感に圧倒されてしまった。


館山海軍砲術学校
飛行特技訓練プール跡
(落下傘部隊訓練プール跡)

炊事場跡から高台に移動。
その高台から見えるは、館山海軍砲術学校飛行特技訓練プール跡(落下傘部隊訓練プール跡)
この場所も奇跡的に残っていた。

Google航空写真より抜粋


館山海軍砲術学校
化学兵器実験施設跡

館砲の中心から隔離された場所に朽ちかけた史跡がある。
軍機(軍事機密)であったが、館砲では細菌などの生物兵器や毒ガスなどの化学兵器に関する教育や訓練が行われた海軍唯一の養成機関もあり、教育機関としては陸戦班、対空班、化兵班の三班制であった。

館砲化兵班が何らかの化学兵器実験施設として使用していた建物跡という。
いまは、何を語るでもなく畑の中に風化しつつある歴史遺産。


通りすがりに参拝。

洲崎神社

「洲崎神社」 安房国一宮
(ただし一宮は江戸期以降の主張、安房神社に対する二宮とも。洲崎神社に対する二宮は洲宮神社)
旧社格は県社。 延喜式内論社。
御祭神は天比理乃咩命(天太玉命の后神)

参道石段に圧倒。これは見事な神域。
御手洗山中腹に鎮座している。

神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓。 忌部族の総祖神天太玉命の后神天比理乃咩命を祀ったことにはじまる古社。

延喜式内社神名帳では、式内大社・后神天比理刀咩命神社。(論社)

治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総半島に逃れてきた源頼朝は当社に参詣し源氏の再興を祈願。以後、武家の崇敬が篤い。 ちなみに。 文治3年(1187)に源頼朝が洲崎神社から天比理乃咩命を勧請したのが品川神社の創建由来ともなる。

東京湾海上鎮護神として。 洲崎神社から品川神社へと連なる歴史を辿るのも興味深いものではあり。 更には阿波国から房総へと渡ってきた忌部一族の足跡を辿るのも一興。

洲崎神社。浜鳥居へ。 洲崎神社の旧鎮座地は、この浜であった、と。 浜から現在の鎮座地を望めば、美しい神奈備山。

御神石

洲崎神社。御神石。
なんとも言えない格を帯びている御神石。 長さは2.5メートル。

実は洲崎神社に奉納された神石は二対ある。 ひとつは、この吽形の神石。
もう一つは三浦半島安房口神社の阿形の神石。

洲崎神社の吽形の御神石と対になる御神石。
もう一つの御神石は三浦半島に飛んでいったと伝承。 房総半島から東京湾を挟むように対坐する三浦半島の御神石。 これは忌部一族の海上支配の具現化であろうか。古代の信仰文化圏を夢想する。

こちらは三浦半島の安房口神社(2014年撮影)

三浦半島。安房口神社の阿形の御神石。
安房口神社は三浦半島最古の神社。 館山で三浦半島を感じる。海の目線で見れば隣。まさに安房口。 洲崎神社の文化は深いですね… 実に面白い。

洲崎神社の浜。対岸を眺めつつ洲崎神社を後にする。ここは興味深い信仰文化の宝庫。きっとまた来ることになりそうです。 時間は16時過ぎ。最後に戦跡を一カ所だけ寄り道してみる。


震洋滑走台

洲崎から海岸線沿いを進む。
波左間漁港。

ここの海に不思議な造形物がある。
震洋滑走台。

震洋は、いわゆる特攻兵器。爆薬をつんだモーターボート。
付近には震洋を格納した壕も点在しているという。

訪れた時が満潮だったようで、形は今ひとつ。雰囲気レベルで。

第一特攻戦隊第18突撃隊
波左間「震洋」特攻基地跡


館山駅前のヤシの木

館山駅前のヤシの木は館山砲術学校正面にあったものを戦後に移植したものだとか。 車のなかから撮影したので今ひとつな写りですが、記録として。

googleMapのストリートビューも参照に。

館山は、戦跡の宝庫であり、今回の掲載はそのほんの一部。見逃したところも多いので、いずれかに再訪せねばならない地であれど、今回はいったんこれにて〆。


平和観音と平和島(大森捕虜収容所跡)

大森捕虜収容所跡地に建立された平和観音

平和島は、昭和14年(1939年)1月31日に京浜第2区埋立地として免許取得。東京都が事業主体として埋め立てを開始。

しかし、埋め立ては第二次世界大戦により一時中止。

戦時中は、埋め立てが進んでいた一部(現在の平和島一丁目付近)にアメリカ合衆国などの連合国側の捕虜を収容する場所(東京捕虜収容所)が設けられた。そのまま戦後は、東條英機ら戦犯の一時収容所にもなっていた。

そのような経緯から、平和への祈りを込めて「平和島」と呼称されるようになり、昭和42年(1967年)7月18日に埋立人工島「平和島」が竣工。同年9月に東京都大田区に編入され10月に町名が「平和島」に確定する。

東京俘慮収容所(大森捕虜収容所)

東京俘虜収容所(東京捕虜収容所)
昭和16年(1942)9月25日開設。
当初は品川区東品川3丁目の京浜運河建設事務所の建物を流用して「品川俘虜収容所」として9月12日に開設。9月25日に東京俘虜収容所本所と改称。
昭和17年(1943)7月20日、現在の平和島に移転。当時の住所は大森区入新井町の東京第2埋立地。
終戦時収容人員606人(米437、英115、蘭28、他26)、収容中の死者41人。

戦後は、東條英機をはじめとするA級戦犯が、 巣鴨刑務所に移送されるまでの間この収容所に収容。
横浜BC級裁判では、初代本所長鈴木薫二大佐、 2代目本所長酒葉要大佐ともに死刑判決。(両者ともに巣鴨で獄死)

参考:POW研究会
ttp://www.powresearch.jp/jp/archive/camplist/index.html

位置関係

国土地理院航空写真「USA-M58-A-6-135」(1946年2月28日-米軍撮影)より。
埋め立ては陸地側の一部分のみで、そこに大森捕虜収容所が設けられていることがわかる。

その後、平和島は埋め立てが進み、昭和57年(1982)の「平和の森公園」の開園でもって、陸続きとなった。


平和観音

大森捕虜収容所 跡地に建立された「平和観音」
平和島劇場の前、ボートレース平和島の隣に鎮座している。
このあたりが、かつての大森捕虜収容所跡地。

平和観音由来記
 昭和三十五年七月十九日 建立 
  長沼孝三 作

人類最高の希いは「平和」であります。そして平和を祈り念ずる心が宇宙の慈悲をもとめます。地上永遠の平和を祈り続ける為に平和観音の建立を思いたったゆえんが此處にあります。
観音さまは人類の誠のねがいをきいて、いちばんよい方法でおすくい下さる佛さまであります。佛さまとは宇宙不変の理をあがめたお姿であり、その理をさとって大きな力を得た方の呼び名であります。
佛さまのなかで観音さまは災禍に苦しむ人々に宇宙の慈悲を示してすくいの手だてをとって下さる菩薩であります。
平和観音像が建立された平和島はさきの大戦中相手国の俘虜収容所があった處、戦後はわが国戦犯が苦難の日々を送った請わば「戦争と平和」の因縁の地であります。
大慈悲の御姿を建立して、地上変わることなき平和を念ずる一人一人の小さなまごころからの祈願をみのらせ給え。

平和観音の隣では、猫さんがお休みをされておりました。

ボートレース平和島
かつて、この界隈に大森捕虜収容所があった。


いわゆるA級戦犯と呼称された昭和受難者の方々は、大森捕虜収容所から巣鴨拘置所・巣鴨プリズンへ移送される。

東条英機邸跡

「明治の工業の父」近代硝子工業発祥之地と西村勝三墓

品川の東海寺大山墓地の入口にある史跡。
「史蹟 官営品川硝子製作所跡」「近代硝子工業発祥之地」

日本の近代ガラス工業は、この品川からはじまったのだ。

史蹟 官営品川硝子製作所跡

近代硝子工業発祥之地

明治維新後の文明開化に伴い、莫大な輸入超過に陥っていた明治政府は、西洋技術を取り入れて産業の国産化を目指していた。

明治6年(1873)太政大臣三条実美は、家令丹羽正庸の提案により、東海寺境内に日本初の板ガラス製造工場「興業社」を設立するも失敗。

明治9年(1876)、工部省」は興業社を買収し、官営「品川硝子製作所」として再生。産業育成と技術者養成を目的とし、赤字覚悟の出資をすすめ、ガラス製造や洋食器の製造を推進。

明治17年(1884)、大量の在庫をかかえ、板ガラス製造に失敗し経営不振が続いていた明治政府は、「品川硝子製作所」を西村勝三に貸し下げ、翌年には払い下げを行い、民営工場となる。

明治21年(1888)に、「品川硝子製造所」は業務拡張に伴い「品川硝子」として新たに発足。麒麟麦酒の発売に伴い、日本で初めてビール瓶の大量生産を手掛ける。
しかし世界恐慌と板ガラス製造失敗の影響により、明治25年(1892)11月に解散。
品川硝子のガラス工場としての命運は20年でしかなかったが、この工場が日本のガラス産業に与えた影響は大きく、のちに日本初のステンドグラスを製造した岩城硝子(iwaki/AGCテクノグラス)の岩城滝次郎や、品川硝子では完成できなかった日本初の板ガラスの商品化を明治35年に完成させた島田硝子(東洋ガラス)の島田孫市も、この品川硝子の出身者であった。
当時の品川硝子のレンガ造りの建物は愛知県の明治村に移築されている。

近代硝子工業發祥之地
 此ノ地ハ本邦最初ノ洋式硝子工場興業社ノ跡デアル 同社ハ明治六年時ノ太政大臣三條實美ノ家令丹羽正庸等ノ發起ニヨリ我國ニ始メテ英國ノ最新技術機械施設等ヲ導入シ外人指導ノ下ニ廣大ナ規模ト組織ニ依テ創立サレタモノデアル
 然ルニ最初ハ技術至難ノタメ經営困難ニ陥リ同九年政府ノ買上ゲル所トナリ官營ノ品川硝子製作所トシテ事業ヲ再開シタ 同十七年ニハ再ビ民營ニ移サレ西村勝三其ノ衝ニ膺リ同廿一年品川硝子会社トシテ再興ノ機運ヲ迎ヘタガ収支償ハズ同二十六年マタマタ解散ノ己ムナキニ至ツタ
 其ノ間育成サレタ技術者ハ東西ニ分布シテ夫々業ヲ拓キ斯業ノ開發ニ貢獻シ本邦硝子工業今日ノ基礎原動力トナリ我國産業ノ興隆ニ寄與スル所顧ル大ナルモノガアッタ
 吾等ハ其ノ業績ノ偉大ナルヲ偲ビ遺跡ノ保存ヲ圖ッタガ會々此ノ擧ニ賛シタ 三共株式会社ハ進ンデ建設地ヲ無償提供サレタ 斯クテ有志ノ協賛ト相俟ツテ今茲ニ由緒アル發祥地ニ建碑先人ノ功ヲ不朽ニ傅フルヲ得タノデアル
 昭和四十年十二月

品川区指定史跡
官営品川硝子製造所跡
  所在 北品川四丁目十一番五号 三共株式会社
  指定 昭和五十三年十一月二十二日 (第八号)
 日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは、明治六年(一八七三)に東海寺境内に創設された興業社である。
 興業社は、明治九年(一八七六)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり、全国のガラス工業の発展に貢献した。明治十八年(一八八五)には西村勝三 らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため、明治二十五年(一八九ニ)に解散した。
 昭和三十六年(一九六一)に官営時代の建物は取り片づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は、明治初期の貴重な建築物として、愛知県犬山市の明治村に移築され保存されている。
 平成六年三月三十一日
  品川区教育委員会

珪石 ガラス原料

西村勝三

「明治の工業の父」「製靴業の祖」とも称される西村勝三(1837-1907)

  • 明治3年、日本初の西洋靴を制作(伊勢勝造靴場)
  • 明治4年、日本初のニット工業機械編み(靴下)の製造開始
  • 明治5年、日本初の近代クラブを開設(ナショナル・クラブ)
  • 明治8年、耐火煉瓦の製造開始(品川白煉瓦)
  • 明治21年、日本初のビール瓶大量生産(品川硝子/麒麟麦酒向け)

西村勝三は、天保7年12月9日(1837年1月15日)佐倉藩支藩の佐野藩付家老の子として生まれる。兄はのちに貴族院議員となる西村茂樹。
佐野藩で砲術助教を勤め、幕府の海軍伝習所へ応募するも不合格となり脱藩。幕末の動乱のなかで銃砲弾薬商として銃器の売買を行うなかで実業家へと目覚めていく。
慶応元年(1865)、日本橋に鉄砲店を開業。屋号を「伊勢屋」とし伊勢屋勝三と改名。幕府側・幕臣にしか銃を売らないことが大村益次郎の目にとまり、大村益次郎の信頼を得る。

明治3年(1870)、かねてより懇意であった大村益次郎に軍政改革の一環として日本人向けの西洋靴の開発相談を受けていた勝三は、日本人の脚にあう西洋靴の開発に成功し、東京築地に近代的な靴工場「伊勢勝造靴場」を開業。この開業日3月15日は「靴の記念日」となっている。また靴工場とあわせて「伊勢勝製革所」も開設。

大村益次郎は日本の近代靴が大量生産される前に、明治2年11月5日に不慮の死を迎えてしまう。大村益次郎が目指した軍政改革は着実に進み、「伊勢勝造靴場」の軍靴は明治22年に陸軍省検査合格品となり、日本の軍靴は舶来靴全廃へと繋がり、「伊勢勝造靴場」は一躍発展をしていくことになる。
「伊勢勝造靴場」は、明治17年に西村勝三の出身地であった佐倉から「佐倉組製靴」と改称。
明治35年に「伊勢勝造靴場」は「日本製靴株式会社」となり、現在の「株式会社リーガルコーポレーション」へ。
明治40年に「伊勢勝製革所」は「日本皮革株式会社」となり、現在の「株式会社ニッピ」へ。
いずれも西村勝三が創業したニッピとリーガルコーポレーションは、今も相互がそれぞれの筆頭株主の関係。

明治4年(1871)、西村勝三が数台の編機を輸入して、メリヤス(靴下)を製造したのが、日本におけるニット工業機械編みの始まりでもあった。

明治5年(1872)、西村勝三はヨーロッパのクラブを模範とし、築地に開設した「ナショナルクラブ」が日本におけるクラブの最初という。

明治8年(1875)、いくつかので成功をしていた西村勝三は、文明開化の象徴であった「瓦斯燈(ガス灯)」のためのガス発生炉用耐火煉瓦を国産品で賄うために、東京芝浦に「伊勢勝白煉瓦製造所」を設立。
明治17年「官営品川硝子製作所」の払い下げを受け、明治20年に品川硝子製作所に「品川白煉瓦」を移転設立。(白煉瓦とは耐火煉瓦のこと。建築用煉瓦は赤煉瓦と呼称。)
品川白煉瓦は、耐火煉瓦の国産化をすすめるとともに、建築用の装飾煉瓦も製造し、東京駅の赤レンガ外壁部を品川白煉瓦が納入している。(構造部の煉瓦は日本煉瓦製造株式会社・深谷市。平成24年の再建時のレンガはLIXILが納入。)
品川白煉瓦株式会社は、現在の「品川リフラクトリーズ株式会社」

明治9年、東京瓦斯局副事務長に西村勝三が就任。事務長は渋沢栄一。ガス事業は東京府から明治18年に民間に払い下げられ、現在の東京ガス株式会社へ。

明治40年、盲腸炎がもとで逝去。享年72歳。明治の近代化経済を支えた男は、東海寺大山墓地に墓所がある。
また、出身の佐倉市の佐倉市民体育館前に銅像もある(未訪問)

訪問しました


西村勝三墓

墓はガラス工場とゆかりのある品川東海寺大山墓地にある。

 

西村勝三に関しては、以下のサイトが良くまとまっている。

https://www.jtp.co.jp/techport/2018-01-31-001/

https://www.jtp.co.jp/techport/2018-03-19-001/

https://www.jtp.co.jp/techport/2018-05-09-001/


靴業発祥の地

明治3年(1870)3月15日に、西村勝三が日本初の近代的な靴工場「伊勢勝造靴場」を創建したのが、この地であった。現在の地下鉄有楽町線の新富町駅・7番出入口の隣。

靴業発祥の地
 明治三年(一八七〇)三月十五日、西村勝三が 伊勢勝・造靴場を創建したのは旧築地入船町五丁目一番のこの地であった。勝三は佐倉藩の開明進取の風土に育ち、時の兵部大輔大村益次郎の勧めと、藩主堀田正倫並びに渋沢栄一の支援を得て靴工業を創成しこれを大成した。斯くてこの地は日本に於ける製靴産業の原点であるのでこゝに建碑事績を記す
  昭和六十年(一九八五)三月十五日
   日本靴連盟
    題字 堀田正久 書


銅像堀公園

かつて、西村勝三の像が隅田川の近くの公園にあったという。
明治40年に、功績を讃えて銅像が建立されたというが、戦時供出で撤去され戦後に石像が再建されるも昭和40年に撤去され、今は銅像があった名前だけが残っている。

https://goo.gl/maps/WrmnXTUsZmK9JSVx5


東海寺大山墓地

なお、東海寺大山墓地には、沢庵和尚や賀茂真淵の墓もあるので、簡単に写真だけご紹介。

沢庵和尚 沢庵墓


賀茂真淵墓

荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに国学の四大人のひとり。


東海寺大山墓地にある井上勝墓は別記事にて。

「日本の鉄道の父」井上勝像と井上勝墓

東京駅丸の内駅前広場北西端に井上勝像がある。

井上勝

天保14年8月1日(1843年8月25日) – 明治43年(1910年)8月2日
長州藩士。政治家。正二位勲一等子爵。
鉄道庁長官などを歴任し日本の鉄道発展に貢献。「日本の鉄道の父」と称される。
墓所は東海寺大山墓地。鉄道記念物指定。

井上勝像

1914年(大正3年)に、本山白雲(代表作は坂本龍馬像)の原型制作により東京駅丸の内側の駅前広場に銅像が設置。
しかし戦時中の金属供出に伴い撤去。
のち井上勝の没後50年を機に、1959年に朝倉文夫の制作により再建。

その後工事での一時撤去もありながら、1987年からは東京駅正面から皇居を向く形で立ち2007年には東京駅復元工事に際し一時撤去され、2017年12月7日の駅前広場リニューアルに伴い初代像の位置に近い駅前広場の北西端から駅舎中央を向く形で再設置された。

建立時の銅像身長は12尺5寸、台座の高さは24寸5寸。
1914年(大正3年)12月6日に銅像除幕式が執り行われた。

正二位勲一等 子爵 井上勝君像

君自明治初年専任創設鐵道之事拮据経營基礎始立盡心斯業抵老不渝四十三年夏力疾訪制歐洲歿子塗次可謂斃
而後巳矣茲同志胥謀鋳君像置諸東京車站以傳偉績於不朽云
大正3年11月建

大正3年11月  建立
昭和34年10月 再建
昭和38年4月  移転
平成29年12月 移設

井上勝像の後方は、一部が保存された「日本工業倶楽部会館」(大正/1920竣工)

井上勝像の先には、東京駅。


東京駅から品川駅に。
南側の東海道新幹線や山手線や東海道本線がちょうど分岐するあたりの場所に東海寺大山墓地がある。そこに井上勝墓がある。

井上勝墓

(表)
正二位勲一等 子爵 井上勝

子爵夫人 井上宇佐子
故陸軍工兵大尉 正五位勲五等 井上亥六

(裏) 
明治四十三年八月二日 薨

明治四十年一月五日 逝
明治三十九年五月二日 逝 

初代鉄道頭
井上 勝 1843(天宝4)年~1910(明治43)年
”鉄道の父”と称される井上勝は、萩藩士の三男として生れた。15才から長崎、江戸で学び、1863(文久3)年 井上馨、伊藤博文らとともにイギリスに密航し、鉄道と鉱山技術を学ぶ。日本の鉄道建設に最初から関わり、1871(明治4)年には初代鉄道頭となり、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道を完成させた。その後、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。外国から導入した鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓地は東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている。

鉄道記念物 井上 勝 墓
昭和39年10月14日指定
 建植年月日 平成10年10月14日
  東日本旅客鉄道株式会社

井上家祖先之墓

井上勝墓のすぐ脇を、東海道新幹線や山手線・横須賀線・京浜東北線・東海道本線、そしてリニア中央新幹線などが通過する鉄道大動脈となっている。

ちなみに余談ですが、井上勝墓の向かいには、島倉千代子墓がある。未撮影ですが。
そのほか、東海寺大山墓地は、沢庵和尚・賀茂真淵・渋川春海・西村勝三の墓がある。


新幹線の父

地下鉄の父

元町公園-震災復興公園(文京区本郷)

大正12年(1923)の関東大震災ののち、帝都復興院総裁となった後藤新平が中心となって、地震発生時の防火帯設置を目的とした公園の確保が重要視されることとなった。

震災復興三大公園として「隅田公園」「浜町公園」「錦糸公園」が設置。
また、昭和5年(1930)に完成した横綱町公園には震災記念堂と震災記念館が建設された。

東京市公園課長に就任した井下清は、52箇所の東京市立公園を設計。小学校を不燃化・耐震化させた鉄筋コンクリート校舎とし、小公園を併設することにより防火帯と避難設備の役割を担った。
この井下清が設計した小学校とセットとなった小公園が東京市内52箇所に設置され「震災復興52小公園」となる。

戦後の再開発で当時の「震災復興公園」は消滅や縮小などもあり、往時の姿を完全に残すものはない。
今回訪れた「元町公園」は昭和57年(1982)に原型に忠実な改修が行われたことにより、開園時の井下清の設計思想を伝える小公園として復元をされている。


元町公園

昭和5年開園。設計は東京市公園課長の井下清。
モダンデザインな擁壁や壁泉、太い円柱が印象的なパーゴラ(つる棚)、左右対称の2連式滑り台など、当時の特徴的な様式を伝える小公園。

正門

文京区立
 元町公園

開園年月日
 昭和5年1月25日

壁泉

カスケード(水階段)

トイレ建屋もモダンな雰囲気

裏門

滑り台と砂場はシンメトリーなデザイン

全体的にモダンな空間

公園を見守る鷲像

旧元町尋常小学校

元町公園の隣には、元町小学校があった。
関東大震災で建て替えられた復興小学校の一つ。
昭和2-3年頃(1927-8年頃)竣工という。
1998年(平成10年)3月31日で閉校。

現在、文京区は旧元町小学校の整備と元町公園との一体的活用事業をおこなっており、学校法人順天堂を軸に保全整備が行われることになっている。

東京大空襲・慰霊

汎太平洋の鐘と南洋群島平和慰霊像(源覚寺)

東京都文京区小石川
源覚寺

「こんにゃくえんま」(こんにゃく閻魔・蒟蒻閻魔・身代わり閻魔)で知られる小石川の「源覚寺」に、サイパンゆかりの釣鐘があると聞き、足を運んでみました。
後楽園駅・春日駅のすぐ近く。

汎太平洋の鐘
THE PAN PACIFIC TEMPLE BELL

汎太平洋の鐘
THE PAN PACIFIC TEMPLE BELL

1690年 元禄3年 粉河丹後守の鋳造により当山に奉納された。
1937年 昭和12年 サイパン島南洋寺に転出、南太平洋にひびきわたる。
1944年 昭和19年 サイパン島軍民玉砕して、以後消息不明となる。
1965年 昭和40年 米国テキサス州オデッサ市において発見される。
          発見者 ミツエ・ヘスター
1974年 昭和49年 カリフォルニア州オークランド市居住 D.V.クレヤー氏によって、サンフランシスコさくら祭りに展示され、その後当山に寄贈される。

元禄3年(1690)に鋳造された釣り鐘が、昭和12年(1937)にサイパン島の中心都市(「南洋の東京」とも呼称)であったガラパン郊外に建立された「南洋寺」(浄土宗 多寶山 南洋寺)に転出。

南洋寺は、現在の「フィエスタリゾート&スパホテル」あたりに鎮座しており、リゾートホテル南東に、往時の「南洋寺門柱」が残っているという。

https://goo.gl/maps/LU7HSQePQuP1Gdvy7

昭和19年6月15日から7月9日にかけてマリアナ諸島サイパン島で激戦が繰り広げられ、海上ではマリアナ沖海戦(あ号作戦)も発生。
サイパン島での日本軍の戦死者は約3万人、民間人の死者は約1万人。米軍の死者は3441人という。
ガラパンの街も荒廃に帰し日本軍民は玉砕。

サイパンの激戦を物語る銃痕跡


南洋群島物故者慰霊像

第二次世界大戦において、サイパンをはじめとする南洋群島で犠牲になった人たちを追悼する菩薩像

合掌

南洋群島物故者慰霊像建立の趣旨
 かつて南洋群島は、日本の委任統治領として南洋庁施政の下に三十有七年、その治績は顕著であった。然るに第二次世界大戦に敗れ、米国太平洋信託統治領(ミクロネシア地域)となった。これ等の島々で、明治、大正、昭和の三代に渉って南方開拓に努め、志半ばに物故された人々並に今次太平洋戦争に祖国に身命を捧げられた将兵及び在留邦人の冥福を祈念して、先年南洋群島関係者に依ってサイパン島に物故者慰霊像を建立したが、遠隔の地であるので参拝の叶わぬ人々のために、南洋群島とゆかりの深い此の源覚寺境内に遥拝所としてこの慰霊像を建立したものである。
  昭和50年7月18日
  財団法人 南洋群島協会

慰霊像の脚下には、南洋諸島を思い起こさせる貝殻…

歌碑
 サイパンの夜のしじまの洞窟に
  ねむりしあらん友をしぞ思ふ

汎太平洋の鐘 と 南洋群島物故者慰霊像 


鎮魂 南洋諸島海没者 慰霊碑

南洋諸島海没者
亜米利加丸 494名
千代丸 97名
白山丸 277名
赤城丸 512名
泰南丸 1名
総洋丸 7名
龍田川丸 2名
ぱたびあ丸 18名
ぶらじる丸 1名
青森丸 4名
門司丸 5名
神島丸 54名
第三大栄丸 43名
美山丸 27名
ジョクジャ丸 7名
広順丸 15名
三池丸 7名
靖国丸 6名

総計 1,580名

平成20年8月吉日
南洋群島在島者有志


第十四期飛行予備学生記念碑

第十四期飛行予備学生記念碑

雲ガハシル
 学徒ガ征ク
  空ニ
同期ノ華
 参千六百

 昭和63年戌辰8月15日建立
  廿四世徳誉叢願 廿五世真誉代


源覚寺

浄土宗 常光山 源覚寺
通称「こんにゃくえんま」
寛永元年(1624)に創建。
小石川七福神のひとつでもあり毘沙門天を祀る。

こんにゃくえんま像は鎌倉時代の作と推定。文京区内で最も古い仏像に属しており文京区市指定有形文化財。


都内には、サイパン観音もあります。

いつの日か、サイパンへ慰霊に訪れることは出来るだろうか・・・

旧・醸造試験所第一工場

国指定重要文化財(建造物)

王子駅から飛鳥山・音無橋の方へ歩いていくと、赤レンガの建物がみえてくる。

旧醸造試験所第一工場
(通称・赤煉瓦酒造工場)

国重要文化財(建造物)
明治35年(1902年竣工)
明治37年5月に創設された大蔵省醸造試験所の清酒醸造試験工場として設立。
設計は、明治三大建築家のひとり、妻木頼黄。
大蔵大臣所管としてはじまった国立醸造研究所は平成13年(2001)に、独立行政法人酒類総合研究所へ移行。2015年に東京事務所を本部(東広島市)に統合。

醸造試験所跡地公園は、醸造研究所が広島県に移転したことに伴い、その跡地に設けられた公園。
跡地公園からも外観を見ることはできるが、秋の東京都文化財ウェークや不定期に開催されるイベントの際には内部に入ることも可能。

国指定重要文化財(建造物)
旧醸造試験所第一工場
 北区滝野川2-6

 醸造試験所は、醸造方法の研究や清酒の品質の改良を図ること、講習により醸造技術や研究成果を広く普及させることなどを目的に設立された国の研究機関です。創立は、明治37年(1904年)5月で、酒税とも密接なかかわりを持つことから、大蔵省が所管することになりました。
 醸造試験所が設置された場所は、幕末に滝野川大鳳製造徐が置かれた敷地の一部で、水利が良く、王子停車場(今の王子駅)も近いことなどから「まことに得難き好適地」として選定されました。
 第一工場は、試験所の中核施設として、蒸米、製麴(せいきく)、仕込み、発酵、貯蔵などの作業が行われていました。建物の設計および監督は、、大蔵省技師の妻木頼黄(つまきよりなか)が担当しています。一部三階建、地下階に貯蔵室を持つ煉瓦造りで、外観を化粧レンガ小口積みとし、外壁上部はレンガを櫛形に並べたロンバルド帯風の意匠となっています。躯体のレンガ壁の一部に中空部分を設けて外部の温度変化の影響を受けにくくし、またリンデ式アンモニア冷凍機を用いた空調設備を備えるなど、一年を通して醸造の研究が行えるように、ドイツのビール醸造施設を大様した設計がなされています。製麴室の白色施釉(せゆう)煉瓦積みの壁や、鉄骨梁に半円形状にレンガを積んだ耐火床など、屋内にも特徴的な煉瓦造りの部分を見ることができます。
 昭和20年(1945年)に空襲で被災し、屋根部分は葺き直されていますが、その他は当時の様子をよくとどめています。
 平成29年3月 東京都北区教育委員会 

醸造試験所跡地公園より

3階建ての建屋には地下室もある。
試験室や貯蔵室、発酵室や倉庫などが設けられている。

こちらは南側の平屋の建屋。蒸米冷却室などはこちら。


旧醸造試験所第一工場(内部)

廊下

赤煉瓦酒造工場の旧麹室
白色施釉煉瓦を使用。

旧麹室はライティングイベント会場となっておりました。

松尾大社の神符

イギリス積みとドイツ積みと。

妻木頼黄の代表作。
「横浜正金銀行」と「横浜赤レンガ倉庫」


矢部博士寿像(矢部規矩治博士胸像)

清酒酵母の発見者
矢部規矩治(やべ・きくじ)

醸造試験所構内に、矢部規矩治博士の功績を称えるために制作されていた寿像の除幕式が11月20日に予定されていたが、その直前の昭和11年10月2日に急性心臓発作にて永眠。享年69歳。

矢部博士寿像

碑文
正三位勲二等農学博士矢部規矩治氏
明治元年前橋市二出生シタリ
明治二十七年東京帝国大学農科大学ヲ卒業シ明治二十九年大蔵省二奉職スルヤ或ハ大蔵省鑑定官トシテ又ハ関税訴願審査委員特許局審査官トシテ我国鑑定事務ニ関シテ多大ノ功績アリ
更ニ明治三十六年醇造試験所設立準備委員ヲ命ジラルルヤ幾多ノ研究ヲ遂ゲテ同所ノ設立ニ参劃シ翌年其ノ設立成ルヤ事業課長トシテ醸造ノ学術技術二関スル研究ヲ計画指導シ大ニ斯界ノ発達ニ貢献スル処アリ
昭和六年十二月退官スルマデ実ニ三十有四年一意専心税務並ニ醸造界ノタメ尽痒シ其ノ間門下ヨリ数多ノ学者技術ヲ輩出セリ
尚同氏ハ大正四年九月社団法人日本醸友会ヲ設立シ自カラ選バレテ会長トナリ
醸造技術ノ研讃ヲ唱導シ或ハ醸造試験所商議員トシテ又ハ全国酒造組合中央會顧問トシテ酒造界ノ発達ニ尽スコト大ナリ
実ニ氏ノ如キハ我国醸造界ノ先覚者タルト共ニ人格高潔ノ士トシテ後人ノ模範トスベキモノト謂フベシ
昭和十一年門下生一同資ヲ蒐メテ同氏ノ寿像ヲ建設センコトヲ図リ居リシ際同年十月二日突如薨去セラレタリ
時ニ享年六十九歳
 昭和十一年十一月二十日
 矢部博士寿像建設會発起人

(読みやすいように適宜改行しました)

矢部規矩治博士
Dr. Kikuji Yabe
1865-1936

 矢部規矩治博士は、明治27年(1894年)東京帝国大学農家大学を卒業、明治28年(1895年)世界で初めて清酒酵母を分離した。明治29年(1896年)大蔵省に入省、明治37年(1904年)の醸造試験所設立に尽力し、醸造技術の発達、また、わが国の関税制度の確立に多大な功績を残した。昭和6年(1931年)退官までの34年間、税務並びに醸造界のために尽力し、門下より数多くの学者技術者を輩出した。
 設計・塑像 大野明山


錐台銘

錐台銘
 元治元年(1864年)江戸幕府はこの地を王子村名主より買い上げ、大砲鋳造の用地とし反射炉と錐台(砲身の穴あけ)を置いた。
 明治時代に入りこの用地は大蔵省印刷局王子抄紙部付属工場にあてられたが、明治35年(1902年)10月大蔵省醸造試験所設立に際し移譲され、現在は錐台の一部だけが残っている。
 昭和48年1月

 平成7年7月東広島市への移転に伴い、ここに移設した。
  平成7年7月

今回はイベント公開での見学だったため、建屋内をゆっくり拝見することができませんでしたが、秋の文化財ウィークの際は比較的ゆっくりと見学できるそうなので、そのときにまた再訪したいですね。

陸軍航空士官学校高萩飛行場跡(陸軍高萩飛行場跡)

埼玉県坂戸市及び日高市
 東武越生線・一本松駅及び西大家駅
 JR川越線・武蔵高萩駅

陸軍高萩飛行場
(陸軍航空士官学校高萩分教場)

高萩飛行場は、昭和13年12月、陸軍航空士官学校高萩分教場として使用開始された。

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

今回の散策は、そのうちの陸軍航空士官学校高萩飛行場にあたる。
高萩飛行場の規模は、東西1700メートル、南北1300メートル、面積は約220ヘクタール。
飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
陸軍航空士官学校高萩分教場の飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
昭和20年2月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として活用され、その後、昭和20年4月より中島 キ84 四式戦闘機「疾風」を配備した飛行第一戦隊が展開。首都防衛の一翼を8月の終戦を迎えた。

位置関係

国土地理院:USA-M29-32
1947年02月08日-米軍撮影の航空写真を加工
国土地理院:USA-M29-32
1947年02月08日-米軍撮影の航空写真を加工

飛行第一戦隊納翼の地
(飛行第一戦隊納翼の碑)

東武越生線一本松駅の北に鎮座している「大栄寺」
昭和20年4月から8月の終戦まで、飛行第一戦隊が当寺に兵舎を設けた所縁で、境内に「飛行第一戦隊納翼の碑」が建立されている。

飛行第一戦隊納翼の地
 本隊は、日本陸軍最初の戦闘機隊として、大正・昭和にわたり、幾度か編成を繰返し、古い伝統と輝かしい戦績に飾られている、誇り高い部隊である。
 満州事変・日華事変・及びノモンハン事変では、多くの戦果を収め、昭和16年大東亜戦争の際は、マレー半島に進出し、東南アジア・ビルマ方面の制空に任じ、ガダルカナル島撤収に従事した。
 昭和19年、主力部隊はフィリピン作戦に飛翔し、熟練の飛行士は、わが国の未来を信じて、特攻隊として出撃し、また地上将兵は、異国の山谷で精魂盡きて散華した。
 昭和20年4月、残留部隊と再編し、入間高萩飛行場に於いて四式戦闘機(可動20機)を配備し、帝都防空の任務を遂行した。
 戦闘本部を旧大家村に置き、清水山大栄寺も兵舎に当てられたが、昭和20年8月、終戦を迎えた。
未だ天空をさまよい、平和の礎となった戦友の功績をしのび、御霊を癒し、恒久平和への願いをこめ、納翼の碑を建立する。
 平成12年8月15日
  飛行第一戦隊戦友会

戦隊長
 四至本広之烝 大阪
整備隊長
 壁谷利之 神奈川
(略)
後援 清水寺大栄寺
 高萩の 空に舞いたる 銀翼に
  想いもあらたに 平和噛みしむ
   大栄寺 小住 志村巧人
(略) 

中島 キ84 四式戦闘機「疾風」

元高萩飛行場跡地発見
機体(キの84)炎上融解片

清水山大榮寺

大栄寺から、一本松駅の隣、西大家駅に向けて歩く。
大谷小学校の近くに鎮座している「西光寺」も、飛行第一戦隊が兵舎を展開した場所であるという。

西光寺

JAいるま野サービス北部店のある辺りが、かつての陸軍飛行第一戦隊の本部があった場所という。

そして、西大家駅近くの「国渭地祇神社(森戸神社)」には陸軍第一戦隊の炊事場が設けられたという。

国渭地祇神社(森戸神社)を訪れたのは実は2回目。15年ほど前に「武蔵国延喜式内社」の論社を巡っていたとき(当時のレポート)は、この神社が戦争に関係していたと知る由もなく。
陸軍第一戦隊が炊事場で使用していたと知ったのは、今回の散策のための調査で、でした。

国渭地祇神社(森戸神社)の社号標は大正2年建立。往時を見てきた社号標ですね。

東武越生線西大家駅
昭和11年(1936)開業。

西大家駅から日高川島線を南西に30分ほど歩く。
「醤遊王国」という施設の近くに戦没者慰霊碑が建立されていた。

大東亜戦争戦没者慰霊碑

千手観世音のお堂の隣にある「戦没者之碑」

大東亜戦争戦歿者之碑
元陸軍中将 遠藤三郎書

陸軍第一飛行戦隊の戦死者8名を祀る慰霊碑。1953年建立。
遠藤三郎は、第3飛行団長、陸軍航空士官学校幹事などを経て、昭和17年12月に陸軍中将となり陸軍士官学校第4代校長に就任。その後は陸軍航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局長官などを歴任。昭和22年から約1年、戦犯として巣鴨プリズンに収監され、その後は陸軍航空士官学校跡地に入植し農業に従事。その頃に遺族の要望で揮毫に協力したと思われる。

高萩飛行場方面に。

陸軍高萩飛行場跡地(北西端)

「中東京変電所」のあたりが。高萩飛行場の北西端。そこから西端を歩く。

高萩飛行場の中心部へ。

高萩飛行場跡の碑

「旭ヶ丘神社」「旭ヶ丘公会堂」の敷地内に、飛行場を物語る石碑が「建立されていた。

高萩飛行場跡碑
開拓碑
自治会組織法人化と経緯碑

高畑飛行場跡
 日高市長 大沢幸夫書

高萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
 所在地 日高市大字旭ヶ丘全域及び一部森戸新田を含む 

昭和四十四年旭ヶ丘開拓農業協同組合の解散にともない、精算開始。
総会により現状の道路C号線五本と開拓事務所敷地等を共有とすることに決定する。
その後推移を経たが、旭ヶ丘地主会を結成して今日に至る。
ここに開拓地以前の高萩飛行場の碑を建て後世の遺文とするものである。
 平成二十年十月吉日 旭ヶ丘地主会建立

開拓碑
碑文
 昭和二十年終戦を迎えるや、首都衛星基地であった旧陸軍高萩飛行場跡へ十二月一日国の緊急開拓政策のもとに県下でもいち早く高萩開拓団を組織し、鍬入れを行った。
 当地は旧高萩村及び旧高麗川村の一部に亙り、総面積は出耕作地も含め六十余万坪に及び主として復員軍人、引揚者、近隣の二三男の百二十四名で構成し、字を旭ヶ丘と命名した。
 当時世相は混沌とし、農業経験の未知に加えて食糧物資は極度に不足し、更に打続く各種災害等に依り、経営基盤の弱い入植者の生活は困窮を極めた。
然し同士一同克くその苦難に耐え、昭和二十二年より国の助成による住宅の建設も始り、二十三年秋には待望の点灯工事を了え、同年農協法の施行により開拓団を旭ヶ丘開拓農協に改組し、苦難の中にも一歩一歩建設への段階を進め、二十七年国の開拓完成検査に全員合格した。
 更に心の據り処として部落中央に旭ヶ丘神社を建立し、幹線道路も逐次整備を進め、四十年代に入り蔬菜を中心とする営農も漸くその基礎を固めることが出来た。
 昭和四十四年開拓農協を解散し各自一本立ちの農家として再出発出来たのも、一重に各行政当局、各種諸団体、諸先輩の尽力指導の賜であることは勿論、入植者一同の団結と努力の成果であろう。
 茲に当地の足跡を後世に伝えると共に旭ヶ丘の将来の繁栄を希念しこの碑を建てる 
 昭和五十三年十二月一日

飛行場跡地のあった旭ヶ丘神社は、かつての高萩飛行場のほぼ中心部。
ここから東に歩いていくと、格納庫などがあったエリアに到達できる。

陸軍高萩飛行場跡地(東端)

ファミリーマートのあるあたりに、当時は格納庫があった。

ゴルフ練習場のあたりにも格納庫があった。

高萩飛行場の東端。

高萩飛行場跡(高萩北公民館)

高萩北公民館の敷地内にも跡地を記す看板があった。
内容はほぼ、旭ヶ丘神社境内にあった碑文と同じ。所在地の範囲が若干違うのは新旧での認識に誤差があった、のかもしれない。

高萩飛行場跡
 所在地 日高市大字旭ヶ丘全域 

 高萩飛行場は、昭和十三年十二月、陸軍航空士官学校(現在の入間市)の高萩分教場として使用開始された。
 当時この地は、北海道などからの入植者によって山林が農地として開拓されていたが、日華事変の拡大に伴い軍用地として接収された。
 飛行場の規模は、東西一七〇〇メートル、南北一三〇〇メートル、面積は約二二〇ヘクタールで、飛行場設備の主な建物としては、格納庫四庫(内二庫は鉄骨)、本部舎(二階建)、兵舎二棟(二階建)、機材庫、車庫、庶務事務所、講堂、将校下士官用控室、炊事用建物などであった。
 飛行練習は、主に通称赤トンボと呼ばれていた九五式練習機などを用いて行われた。
 昭和二十年二月まで、航空士官学校生徒の飛行練習場として、大きな役割を果たした。飛行場としては、同年八月の終戦まで使用された。
 平成八年一月 
 日高市教育委員会

陸軍高萩飛行場跡地(南東端)

「のりたま」の看板が目立つ。丸美屋食品工業(株) 埼玉工場のある場所が高萩飛行場の南東端。

この日の散策は、一本松駅から武蔵高萩駅までを歩くこと約15キロ、約3時間の散策でした。


付記

武蔵高萩駅

以前は、開業以来の瓦葺の地上駅舎が使われており貴賓室もあった。
貴賓室や車寄せは陸軍航空士官学校卒業式に臨席した昭和天皇が利用したが、2005年(平成17年)の改築に伴い旧駅舎は取り壊された。
新駅舎にも緑色の瓦を使用したデザインが踏襲されているほか、駅舎内部に旧駅舎の瓦と車寄せの柱を使って作られた展示コーナーが設けられた。

駅前通りは、陸軍航空士官学校に赴く昭和天皇の御車が走った御幸通りということになる。

昭和天皇行幸記念碑

旧豊岡町の陸軍航空士官学校卒業式に御臨席されたのを記念する石碑。
昭和16年3月28日、昭和17年3月27日、昭和19年3月20日の3回、昭和天皇が行幸されている。
北には、陸軍航空士官学校高萩飛行場(陸軍高萩飛行場)があったが、南には旧豊岡町の陸軍航空士官学校があった。すなわち、現在の入間基地。当時、皇室としては、武蔵高萩駅が、南の陸軍航空士官学校の最寄駅でもあった。


関連

JR御茶ノ水駅-聖橋口(解体済)

2020年3月28日で、JR御茶ノ水駅の聖橋口が閉鎖となりました。
御茶ノ水駅工事のために、聖橋口駅舎や聖橋口連絡通路は解体へ。。。

御茶ノ水駅

昭和7年(1932年)にモダニズム建築様式を取り入れた駅舎は、伊藤滋の設計。先に完成した聖橋(1927年)、御茶ノ水橋(1931年)との調和を重視したものとなった。

聖橋口駅舎は昭和7年の駅舎をベースに改修はされているものの開業当時の姿を伝えており、そして聖橋口ホームへのつながる連絡通路も、ほぼ開業当時のままであった。

御茶ノ水駅 聖橋口(解体済)

待合室などを設けずに、改札直結の駅舎は開業当時は斬新な設計であったという。

聖橋口連絡通路(解体済)

昭和7年の開業当初の姿をほぼ残していた。

JR御茶ノ水駅 御茶ノ水橋口

昭和7年(1932年)竣工。

聖橋

昭和2年(1927)完成。

仮設 聖橋口

令和になり、戦前建造物の建て替えが加速化している気がします。
都心部で利用客が多い駅舎、という性質から鑑みるに、やむを得ないことではありますが。


解体

2021年1月、気がつけば解体完了しました。。。
(気がつけば、そば屋がうどん屋に変わってました)


御茶ノ水駅臨時改札口

臨時改札口は、どうなるのだろうか・・・

近くに鎮座する太田姫神社の元宮、御神木の椋の木が静まる。

太田姫神社
元宮
旧名 一口神社(いもあらいじんじゃ)

一口太田姫神社
一口である太田姫神社は江戸城外濠(神田川)を作るにあたり伊達家と徳川家が神田山を開削した時、江戸城の結界また鬼門の護り神として旧江戸城(現皇居)よりこの地に移された。
昭和6年(1931)総武線開通に伴ない現在の駿河台下に移る。尚、鉄道は(「甲武線」中央線の前身)濠の中にあり開通時、天皇家との間に濠幅を減じない中で商業を営まない環境を守るとの約束がある。(明治期鉄道史より)
この木は椋の木 落葉高木 花は緑 実は濃紫

JR東日本は約束を継承していないんだろうなあ、と。


近代建築・駅関連

市ヶ谷水管橋

市ヶ谷水管橋(水道管の橋)は、JR市ヶ谷駅前の市ヶ谷橋と並行して、線路と外堀を跨いでいる水管橋。
市ヶ谷水管橋の南半分は線路と市ヶ谷駅ホーム、そして北半分は外濠を活かした釣り堀となっている。

市ヶ谷見附跨線水道橋
市ヶ谷水管橋

長さは98.1m。
昭和5年(1930)に完成した水道橋。

昭和四年
株式会社横河橋梁製作所
製作

銘板にある株式会社横河橋梁製作所は、現在の株式会社横河ブリッジ。今も昔も橋梁メーカー。

市ヶ谷フィッシュセンター。
市ヶ谷駅のホームから見える釣堀が有名ですね。


市ヶ谷橋

市ヶ谷水管橋に併設された橋。
昭和2年(1927)竣工。
橋としての長さは36.40m。水管橋より短い。
市ヶ谷門に架かる見附橋。


市ヶ谷駅から市ヶ谷橋を渡れば、その先は市ヶ谷台。防衛の中枢。

彩帆観音(サイパン観音)

東京都北区。
王子駅より荒川の方角に15分ほど歩く。
「西福寺」という寺院に、サイパンゆかりの観音様が建立されているというので足を運んでみた次第。

彩帆観音(サイパン観音)

彩帆観世音菩薩(サイパン観世音菩薩)

昭和48年建立。
西福寺住職が、サイパンにて日本軍が玉砕した洞窟から血に染まった土砂や遺骨を収集して、観音塔に遺骨を埋葬し、聖観音像を安置し、彩帆観音塔として建立。

サイパン玉砕慰霊の観音様
昭和19年6月15日から7月9日にかけてマリアナ諸島サイパン島で激戦が繰り広げられ、海上ではマリアナ沖海戦(あ号作戦)も発生。
サイパン島での日本軍の戦死者は約3万人、民間人の死者は約1万人。米軍の死者は3441人という。

合掌

彩帆観音塔建立の賦
私は一昨年の十二月下旬、戦争を知らない学徒代表ら拾名を伴い、第二次世界大戦で数多くの戦死者を出した南太平洋上に浮かぶミクロネシア諸島激戦の跡を歴訪した。特に日本人全員玉砕の悲しい思い出を残したサイパン島においては、怨恨親平等の仏教精神に則り、サイパン政庁長官と互にメッセージを交換して親善友好を深めると共に、自ら導師となって慰霊祭を執行し、国境を超えて現地人に多大な感銘を与えたが、その際旧日本軍参謀本部跡の洞窟内から血に染まった土砂や遺骨を収集しt帰国した。今回機縁熟するところとなり、塔内に遺骨を埋葬して聖観音像を安置し、彩帆観音塔と銘してこれを建立したわが国唯一のものである。
願わくは亡き英霊が現世に廻向して観音菩薩の慈悲を仰ぎ、世界平和国家隆盛萬民豊楽のために、無限のご加護あらんことを祈念して建立の賦とする。

 謹んで唱へ奉る
  南無彩帆観世音菩薩

 昭和48年9月
  当山主 小松原賢誉 
          合掌

彩帆観音

英霊菩提
世界平和

鎮護国家
現世安楽


西福寺

東京都北区に鎮座する真言宗豊山派の寺院。
山号は三縁山
院号は無量寿院

江戸六阿弥陀霊場1番札所
豊島八十八ヶ所霊場67番札所
荒川辺八十八ヶ所霊場20番・33番札所


場所

ちなみに、近くの「豊島公園」は明治大正期に陸軍によって作られた「豊島ドッグ」と呼ばれた掘割の跡。現在は埋め立てられており、往時の雰囲気は、細長い公園にその姿を感じさせるのみ。

これはまた別の話題ですね。

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿(久伊豆神社境内社)

埼玉県越谷市 久伊豆神社境内社

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地 遥拝殿
(きゅうかんぺいたいしゃなんようじんじゃちんざあとちようはいでん)

南洋神社は、南洋群島の中心地パラオ(現パラオ共和国のコロール島)に昭和15年2月11日、皇紀2600年に際して、昭和天皇の格別の思し召しにより創立された神社です。その御祭神を「皇祖天照大神」一座とする官幣大社であり、我々神社人が「本宗」と仰ぐ伊勢の神宮の「南洋における分社」ともいうべき神社です。その後、昭和20年8月の終戦によって、御社殿は御焚き上げとなり、神社の祭祀は終結、社殿跡地が残るのみとなりました。しかし、創立以来、南洋の地で開拓・入植に励んだ方々が、また戦時下、アジアの解放と大東亜共栄圏の実現を信じて、遥か遠く故郷を離れて南方の戦地へと赴いた部隊・兵士たちが篤い祈りと誓いを捧げられた事実は永遠に消滅するものではありません。

伊勢の神宮と旧南洋神社との御神縁・御神慮を拝し、神宮当局の御指導・御協力を賜って平成16年4月11日久伊豆神社境内に「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」を建立いたしました。この遥拝殿は、氏子・崇敬者共々遥かに、幾多の兵士の最期の祈りと誓いをお受けになった大神様の御霊を和め、遠く故国を離れた南洋の地に散華された英霊への感謝と慰霊・鎮魂、功績顕彰の誠を致す御殿です。

久伊豆神社公式サイト より

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿竣工をお祝いして
この度、久伊豆神社境内に戦前パラオに創立され敗戦によって廃止された官幣大社南洋神社を偲び彼の地で戦没された方々の御霊を慰霊顕彰するための施設である旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿が目出度く竣工いたしました。洵に御同慶の至りであり衷心よりお祝い申し上げる次第であります。
ご承知の通り、南洋神社は我々神社人が本宗と仰ぐ伊勢の神宮の南洋における分社ともいうべき格別の神社であり、御祭神を皇祖天照大神一座とする官幣大社として昭和天皇の格別の思し召しから創立された神社であります。
そのことは、昭和15年2月1日付で拓務大臣小磯国昭が慎みて皇統の始祖に存します天照大神を奉祀し、永へに報本反始の誠を致さしめたく祭神を天照大神とし、社号を南洋神社と定め、社格を官幣大社に列せられる旨仰せ出られたく、右慎みて奏すと昭和天皇へ上奏し、それを天皇が裁可されたことからもご理解いただけることでしょう。
そして日本が、国際連盟規約により委任統治していた南洋群島の中心地であるパラオに鎮座した南洋神社に、南洋の地で開拓入植に励んだ方々が、また戦時下アジアの開放と大東亜共栄圏の実現を信じて遥か遠く故国を離れて南方の戦地に赴いた部隊・兵士たちが、篤い祈りと誓いを捧げた事実は、永遠に消滅するものではありません。
伊勢の神宮と旧南洋神社との御神縁御神慮を拝し、神宮御当局の御指導御協力を賜って、久伊豆神社境内に旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿が恙無く無事建立竣工なったことに、改めて慶賀の意を表すと共に、氏子崇敬者の方々はじめ多くの人々が竣工なったこの遥拝殿を通じて、幾多の兵士の最期の祈りと誓いをお受けになった旧南洋神社を偲び、遠く故国を離れた南洋の地に散華なされた英霊への感謝と慰霊、鎮魂、御功績顕彰の誠を致されることを記念致すものであります。
 平成16年4月11日
  國學院大學教授 阪本是丸

旧官幣大社南洋神社遥拝殿

南洋神社

現在のパラオ共和国コロール島に鎮座していた神社。
旧社格は官幣大社。

1914年に勃発した第一次世界大戦にて、日本は日英同盟に基づき連合国として参戦。日本海軍はパラオを統治していたドイツ軍を降伏させ占領。
1919年の第一次世界大戦戦後処理であるパリ講和会議によって、南洋諸島は日本の委任統治領となった。
コロール島には南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、南洋諸島の中心的な島となり、多くの日本人も移住。
紀元2600年記念事業の一環として、そして南洋群島総鎮守として、昭和15年(1940)に創建。
太平洋戦争では、コロール島は帝国海軍の重要な基地として、北西太平洋方面の作戦拠点として展開。
昭和19年(1944)には、コロール島の南に位置するペリリュー島にて、ペリリュー島の戦いが勃発。日米双方に多くの戦死者を出した。
昭和20年(1945)8月の終戦により、日本の南洋統治は終了。

昭和20年9月11日に、南洋神社奉焼式が行われ社殿奉焼。11月17日、日本政府より南洋神社廃止の連絡を受け、翌1946年1月5日、パラオ本島の仮本殿で昇神の儀・仮本殿の奉焼を行い、ご神体は船で東京の宮内省に運ばれ、1月19日御奉遷の手続きが行われた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/南洋神社

http://www.himoji.jp/database/db04/preview.php?name=南洋神社

位置関係

久伊豆神社(ひさいず神社)

埼玉県越谷市越ヶ谷鎮座。越ヶ谷総鎮守。旧社格は郷社。
元荒川流域に分布する久伊豆神社の総本社とされている。
境内には国学者平田篤胤の仮寓跡もある。

https://www.hisaizujinja.jp/

第三鳥居
伊勢神宮の第61回遷宮撤去材の皇大神宮板垣南御門を再建
平成7年9月28日竣工

平田篤胤仮寓跡

平田篤胤(1776-1843)は、江戸時代後期に復古神道を唱えた有名な国学者です。しばしばこの地を訪れ、暮らしたと伝えられています。
 平成18年12月 久伊豆神社 越谷市教育委員会 埼玉県教育委員会

平田篤胤先生遺徳之碑

昭和17年10月建立

久伊豆神社の藤
平田篤胤遺愛の藤。樹齢200余年。

誠忠碑
神社本庁総裁北白川房子謹書

昭和6年満州事変、昭和12年支那事変、昭和16年大東亜戦争戦没者と応招者の名前を刻む。
昭和38年5月建立

戦捷記念碑
埼玉県知事従四位勲四等大久保利武謹書

明治39年12月建立、日露戦争

自由学園明日館

令和元年撮影

訪れた際、何かの団体の貸し切りだったため、外観撮影のみです。

国指定重要文化財な建造物。大正末期から昭和期に建設されたオシャレな洋館。

重要文化財
自由学園 明日館

自由学園明日館 国指定重要文化財
 自由学園は、羽仁吉一・もと子により大正10年(1921)に女学校として創立された。明日館はその自由学園誕生の校舎で、その設計は羽仁夫妻の教育思想に共鳴した世界的建築家フランク・ロイド・ライトで、彼は自らの建築思想を融合させて校舎を建築した。
 自由学園は生徒の増加に伴い、昭和9年(1934)に東京都東久留米市に移転し、この建物は卒業生の活動の場として使われ、羽仁夫妻が自由学園と日本の教育の明日を託して「明日館」と命名した。太平洋戦争末期の空襲で池袋周辺は壊滅的被害を受けるが、幸い明日館は被災を免れた。
 その後老朽化が進み、昭和40年代になると取り壊しの可能性もあったが、卒業生、建築家をはじめ多くの関係者の保存への思いが実り、この地における保存が決定した。
 建築の特徴は高さを抑えて水平線を強調した屋根、窓やドアなどをはじめ多用されている幾何学的デザイン、建物の中に入ると床の高さを少しずつ変えた部屋を連続させた空間構成など、「プレーリースタイル(草原様式)」というライトの第一期黄金期の作風をよく表している。昭和2年(1927)に道路を隔てて竣工したライトの弟子、遠藤新設計の講堂とともに、これら一連の建物がライトの作風を示す典型的な建築として重要であると評価され、平成9年5月29日に重要文化財に指定された。その後、約3年間の保存修理工事が実施され、現在は「使いながら保存する文化財」として、見学はもちろん結婚式、コンサート、展示会、公開講座など多くの人が利用し、文化財建造物として歩zんされている。
 平成28年 豊島区教育委員会

重要文化財
自由学園 明日館
羽仁もと子・吉一夫妻創立の自由学園校舎として大正10年(1924)から昭和2年(1927)にかけて建設されました。設計はアメリカの巨匠フランク・ロイド・ライト氏及び遠藤新氏です、平成9年(1997)国の重要文化財に指定され、約3年の歳月を費やし保存修理が行われました。中央棟、東西教室棟および道路南側の講堂からなっておりウィスコンシンの大草原を舞台としてライトが発想した草原住宅のたたずまいが特徴となっています。
 学校法人 自由学園

ご見学のご案内

最新情報は、公式サイトにて

https://jiyu.jp/tour/


自由学園 明日館

大正10年(1924)竣工。フランク・ロイド・ライト氏設計。

自由学園 講堂

昭和2年(1927)竣工。フランク・ロイド・ライト氏の弟子、遠藤新氏設計。

明日館の梟

明日館の梟
明日館は大正10年に自由学園がこの地に設立された時の校舎です。
この梟像は豊島区の区制70周年を記念した事業で「梟の路」として設置された物です。平成15年に自由学園の生徒たちが明日館に所縁のある大谷石で制作しました。
豊島区・梟の樹を創る会をはじめ近隣の皆様のご協力をいただきました。
梟デサイン制作・詩 自由学園男子部64回生(製作時・高等科3年)
題字・詩書家 望月氿蔭
企画 梟の樹を創る会
建立 平成15年11月29日

今回は外観だけでしたので、次回探訪時は内部見学も行いたいですね。

東京府庁舎跡

令和元年9月撮影

東京国際フォーラムの片隅に、古めかしい石碑が残っている。

東京都の前身、東京府時代の庁舎跡を示す石碑。

東京府廳舎
 大正六年七月

東京都指定旧跡
「東京府庁舎跡」
所在地 東京都丸の内三の五の一
指定 昭和30年3月28日(旧跡)
所有 東京都(産業労働局)

 東京府庁舎は、当初東京市幸橋門内(現在の内幸町一丁目)の旧大和郡山藩邸に開設されその後1894年(明治27年)に丸の内(現在の有楽町駅前)に新たに建設されました。
 1898年に東京市庁舎も完成し、第二次世界大戦中の1943年に東京市 と東京府 が廃止され東京都が設置されましたが、この建物は戦災で焼失しました。
 1955年3月に敷地一帯が、旧跡として東京教育委員会により文化財指定されました。
 かって、東京府庁舎があったことを示すものとしては、本石碑だけが残っています。

上部には何かしらのレリーフが埋め込まれていたのだろうか。
不自然な空間が残る。

側面には、「大正六年七月」とある。

日本海軍大東亜戦争戦没者殉国者慰霊碑(龍口寺)

令和元年(2019年)11月撮影

神奈川県藤沢市片瀬鎮座の龍口寺。
日蓮が処刑されそうになった地。

ちょうど江ノ島の入口に位置しており、門前には江ノ島電鉄(江ノ電)が走る。

そんな龍口寺の境内に、人知れず大東亜戦争の海軍慰霊碑がある。

日本海軍大東亜戦争戦没者殉国者慰霊碑

日本海軍戦没者47万3千余柱と殉国者200余柱の英霊を慰霊する。
昭和62年4月8日建立。

日本海軍大東亞戰争戰没者殉国者 
南無妙法蓮華経 慰霊碑 

 龍口十三世 日宣(花押)

維時 昭和六十二年四月吉日 
 海交会 
  龍口寺大本願人
   秦野秀雄 建之

追悼の辞
大東亜戦争日本海軍戦没者四十七万三千余名殉国者二百余名の 
 御英霊に捧ぐ 
祖国日本の繁栄と同朋の幸福を念じつ 悠久の大義に殉じた 
御英霊に感謝申し上げ御冥福を祈る
 施主 元海軍一等兵曹 秦野秀雄 
  奉賛者 
   元法務大臣 秦野章 
   元参議院議員 藤井裕久
   衆議院議員 田中慶秋 
   立正山光妙寺 柴山宣哲

主要慰霊行事 
一 中部太平洋ソロモン方面慰霊祭施行 海交会 
   昭和五十六年十一月十二日より十二月一日まで
一 タラワ ナウル グアム マショロ島慰霊祭施行 
   昭和五十八年十一月二十二日より十二月一日まで
    熊野原妙光寺 田中栄海 
    亀井野法泉寺 酒井光雄 
    愛国歌手 渡辺はま子
一 南太平洋方面慰霊祭施行 
   昭和五十九年十一月二十八日より十二月九日まで
一 フィリッピン 台湾 沖縄方面慰霊祭施行 
   昭和六一年十一月二十六日より十二月十日まで
 
世話人 
 海交会 元海軍中尉 山北林
 謹書 元海軍少尉 米本八百重

(碑面裏)
昭和六十二年四月八日建之
 (以下奉賛者名は略)


地下壕(陸軍抵抗拠点陣地)

龍口寺境内に残されている、陸軍抵抗拠点陣地は戦跡として著名。
陸軍歩兵第401聯隊のよる米軍上陸による水際の防衛陣地。
実際には使われることなく終戦を迎えているが、境内には地下壕の開口部が数箇所残されている。

今回は、地下壕が目的ではなかったので、この話題はここまで。
関係者以外進入禁止エリアですし。

龍口寺や界隈の地下壕に関しては、ネット上に情報が散見しておりますので、ご参照をば。

龍口寺(りゅうこうじ)

神奈川県藤沢市片瀬鎮座。
文永8年(1271)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が、この地にあった龍口刑場で処刑されそうになったことに、関連する寺院。

明治43年(1910)建立の五重塔。

天保3年(1832)建立の本堂。

昭和45年(1970)竣工の仏舎利塔。

龍口刑場跡

山門前には、江ノ電。

鎌倉江ノ島界隈は戦跡が多いけれども、巡りきれておりません・・・

関連

浦和飛行場跡(埼玉第一飛行場跡)

令和2年2月。

荒川横堤(宗岡第二横堤) 昭和6年竣工
飛行場施設は横堤の南側にあった(写真右手)

1938年、首都圏近郊の「浦和飛行場」「調布飛行場」「砂町飛行場(東京市飛行場)」の3つの飛行場建設が承認された。

そのうち、調布飛行場は昭和14年(1939)に建設着手。昭和16年(1941)竣工。
砂町の東京市飛行場は現在の「夢の島公園」のあたり。埋め立て途中での戦時下の物資不足で工事は中断。竣工することはなかった。

浦和飛行場
(埼玉第一飛行場)

昭和14年(1939)に「浦和飛行場」の建設が承認。
この地には、すでに戦時下防空やグライダー育成を目的とした「埼玉第一飛行場」が起工しており、昭和12年(1937)頃にはすでに滑走路が出来上がっていたという。埼玉第一飛行場の設置者は埼玉義勇飛行会で、当時は「秋ヶ瀬飛行場」とも「秋ヶ瀬浦和飛行場」と呼称されていた。
昭和15年(1940)に「浦和飛行場」と名称変更され、拡張工事が始まるも、最終的には完成を見る前に終戦。跡地は放置。
戦後、荒川の直線化工事に伴い、当時の面影は残されていない。

当時と変わらずに残っているのは「荒川横堤」。
浦和飛行場の北側にある「宗岡第二横堤」は昭和4年(1929)着工、昭和6年(1931)竣工。当時は、この宗岡第二横堤の南側に飛行場施設が建設されていた、という。
荒川横堤は、日本では荒川のみの独特な堤防として土木遺産に選定されている。

また、荒川直線化工事の影響は、市境にも残されている。
志木市とさいたま市(旧浦和市)の屈折した市境は荒川が曲線だったときの名残。「浦和飛行場」(埼玉第一飛行場)は「浦和」と言いつつも、浦和側ではなく現在の志木市(当時の宗岡村)側であった。

位置関係

国土地理院航空写真(写真ファイル名:891-C2-66)
1944年9月28日-大日本帝国陸軍撮影

https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1

上記航空写真を拡大のうえ加工

横堤(宗岡第二横堤)の下流に「飛行場施設」
荒川の曲線の内側に「飛行場」
その下流には「秋ヶ瀬橋」

横堤と秋ヶ瀬橋の間に当時「浦和飛行場」(埼玉第一飛行場)があった。

戦後の航空写真。
あまり変わっていないようだけれども、飛行場跡地が開拓されているのがわかる。

同じく国土地理院航空写真より(写真ファイル名:USA-M675-55)
1947年11月28日-米軍撮影

現在の様子。
GoogleMAPS航空写真を加工。
荒川の直線化により、飛行場のあった場所の大部分が川の中に。
横堤は往時から変わらずに。

志木市とさいたま市(旧浦和市)の市境。荒川の東側に志木市の飛び地が残っている。この飛び地は、往時の飛行場跡地でもあり荒川が曲線であった頃の名残でもある。

浦和飛行場跡
(埼玉第一飛行場跡)

秋ヶ瀬河川敷
実際のところ、当時の遺構は残っていない。

飛行場跡地は、荒川の水の下に。

横堤(宗岡第二横堤)

昭和4年(1929)着工、昭和6年(1931)竣工。
当時は、この宗岡第二横堤の南側に飛行場施設が建設されていた、という。
荒川横堤は、日本では荒川のみの独特な堤防として土木遺産に選定されている。

このあたりに、当時は飛行場施設があったと思われる。

横堤の端。

ちょうど横堤の端には、不正投棄を監視する防犯カメラ。
河川敷には不正投棄が多いとのことで。

横堤の堤防上。

秋ヶ瀬取水堰

現在は、独立行政法人水資源機構の管轄。荒川で最も下流に位置する取水堰。

飛行場があった当時は、この取水堰があった場所が滑走路の中心地点。
今ではここに飛行場があったとは信じられない光景。

宗岡取水口

秋ヶ瀬取水堰

ここに、飛行場があったとは今では信じられない場所。
住宅地や工業団地になった飛行場は多いが、「浦和飛行場」は、まさか川になってしまった場所でした。

和田堀給水所(世田谷・代田橋)

令和のとある冬に。

京王線代田橋駅のすぐ近くに古風で壮大な建物が残っていた。
聞くところによると、近々で建て替えになるとのことで、いま残っている歴史的建造物を慌てて記録してきました。

和田堀給水所-昭和9年(1934年)竣工

位置関係

上から見ると、特徴的な建造物の様子を知ることができる。
円形が、一号配水池
方形が、二号配水池

1947年11月28日-米軍撮影航空写真(国土地理院-USA-M676-211)

1947年

2009年4月27日-国土地理院航空写真(国土地理院-CKT20092-C67-20)

2009年

そして2020年の航空写真。
すでに方形の二号配水池は解体済み。円形の一号配水池を残すのみ。

Google航空写真(2020)

2020年

和田堀給水所一号配水池

大正元年(1912)9月に東京市の水道拡張事業が認可され、翌年より着工。
和田堀給水所は2つの配水池が設けられていた。
 一号配水池 昭和9年(1934年)竣工
 二号配水池 大正13年(1924年)竣工
現在、和田堀給水所は、二号配水池が解体され建て替え工事中。
給水を止めることができないため、新しい二号配水池が完成するまでの間は、一号配水池は引き続き稼働。
二号配水池完成後に、この歴史的な建造物=一号配水池も解体され新たな配水池が建造予定。

細部のデザインにこだわりを感じる。

八角形の排気塔

付随する建造物

階段のデザインも美しい

東京都水道局 和田堀給水所

建築計画
完了予定は平成34年3月31日=令和4年=2022年

建造から80年以上が過ぎ、老朽化と耐震性、給水量の問題などがあり、解体の上でリニューアルとなる、歴史的建造物。
しかし、歴史的建造物であるまえに、現役の給水設備建造物。
現役の給水設備建造物であるがゆえに建て替えを余儀なくされている。

惜しむらくは、すでに二号給水池が解体された後に、興味を持ち始めたこと。
知るのが、少し遅かったのが悔やまれます。もう少し早ければもっとちゃんとした記録が残せたのですが。。。
それでも、まだ一号給水池が解体前に接することができたのが、せめてもの救いでした。