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東京府庁舎跡

令和元年9月撮影

東京国際フォーラムの片隅に、古めかしい石碑が残っている。

東京都の前身、東京府時代の庁舎跡を示す石碑。

東京府廳舎
 大正六年七月

東京都指定旧跡
「東京府庁舎跡」
所在地 東京都丸の内三の五の一
指定 昭和30年3月28日(旧跡)
所有 東京都(産業労働局)

 東京府庁舎は、当初東京市幸橋門内(現在の内幸町一丁目)の旧大和郡山藩邸に開設されその後1894年(明治27年)に丸の内(現在の有楽町駅前)に新たに建設されました。
 1898年に東京市庁舎も完成し、第二次世界大戦中の1943年に東京市 と東京府 が廃止され東京都が設置されましたが、この建物は戦災で焼失しました。
 1955年3月に敷地一帯が、旧跡として東京教育委員会により文化財指定されました。
 かって、東京府庁舎があったことを示すものとしては、本石碑だけが残っています。

上部には何かしらのレリーフが埋め込まれていたのだろうか。
不自然な空間が残る。

側面には、「大正六年七月」とある。

日本海軍大東亜戦争戦没者殉国者慰霊碑(龍口寺)

令和元年(2019年)11月撮影

神奈川県藤沢市片瀬鎮座の龍口寺。
日蓮が処刑されそうになった地。

ちょうど江ノ島の入口に位置しており、門前には江ノ島電鉄(江ノ電)が走る。

そんな龍口寺の境内に、人知れず大東亜戦争の海軍慰霊碑がある。

日本海軍大東亜戦争戦没者殉国者慰霊碑

日本海軍戦没者47万3千余柱と殉国者200余柱の英霊を慰霊する。
昭和62年4月8日建立。

日本海軍大東亞戰争戰没者殉国者 
南無妙法蓮華経 慰霊碑 

 龍口十三世 日宣(花押)

維時 昭和六十二年四月吉日 
 海交会 
  龍口寺大本願人
   秦野秀雄 建之

追悼の辞
大東亜戦争日本海軍戦没者四十七万三千余名殉国者二百余名の 
 御英霊に捧ぐ 
祖国日本の繁栄と同朋の幸福を念じつ 悠久の大義に殉じた 
御英霊に感謝申し上げ御冥福を祈る
 施主 元海軍一等兵曹 秦野秀雄 
  奉賛者 
   元法務大臣 秦野章 
   元参議院議員 藤井裕久
   衆議院議員 田中慶秋 
   立正山光妙寺 柴山宣哲

主要慰霊行事 
一 中部太平洋ソロモン方面慰霊祭施行 海交会 
   昭和五十六年十一月十二日より十二月一日まで
一 タラワ ナウル グアム マショロ島慰霊祭施行 
   昭和五十八年十一月二十二日より十二月一日まで
    熊野原妙光寺 田中栄海 
    亀井野法泉寺 酒井光雄 
    愛国歌手 渡辺はま子
一 南太平洋方面慰霊祭施行 
   昭和五十九年十一月二十八日より十二月九日まで
一 フィリッピン 台湾 沖縄方面慰霊祭施行 
   昭和六一年十一月二十六日より十二月十日まで
 
世話人 
 海交会 元海軍中尉 山北林
 謹書 元海軍少尉 米本八百重

(碑面裏)
昭和六十二年四月八日建之
 (以下奉賛者名は略)


地下壕(陸軍抵抗拠点陣地)

龍口寺境内に残されている、陸軍抵抗拠点陣地は戦跡として著名。
陸軍歩兵第401聯隊のよる米軍上陸による水際の防衛陣地。
実際には使われることなく終戦を迎えているが、境内には地下壕の開口部が数箇所残されている。

今回は、地下壕が目的ではなかったので、この話題はここまで。
関係者以外進入禁止エリアですし。

龍口寺や界隈の地下壕に関しては、ネット上に情報が散見しておりますので、ご参照をば。

龍口寺(りゅうこうじ)

神奈川県藤沢市片瀬鎮座。
文永8年(1271)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が、この地にあった龍口刑場で処刑されそうになったことに、関連する寺院。

明治43年(1910)建立の五重塔。

天保3年(1832)建立の本堂。

昭和45年(1970)竣工の仏舎利塔。

龍口刑場跡

山門前には、江ノ電。

鎌倉江ノ島界隈は戦跡が多いけれども、巡りきれておりません・・・

関連

浦和飛行場跡(埼玉第一飛行場跡)

令和2年2月。

荒川横堤(宗岡第二横堤) 昭和6年竣工
飛行場施設は横堤の南側にあった(写真右手)

1938年、首都圏近郊の「浦和飛行場」「調布飛行場」「砂町飛行場(東京市飛行場)」の3つの飛行場建設が承認された。

そのうち、調布飛行場は昭和14年(1939)に建設着手。昭和16年(1941)竣工。
砂町の東京市飛行場は現在の「夢の島公園」のあたり。埋め立て途中での戦時下の物資不足で工事は中断。竣工することはなかった。

浦和飛行場
(埼玉第一飛行場)

昭和14年(1939)に「浦和飛行場」の建設が承認。
この地には、すでに戦時下防空やグライダー育成を目的とした「埼玉第一飛行場」が起工しており、昭和12年(1937)頃にはすでに滑走路が出来上がっていたという。埼玉第一飛行場の設置者は埼玉義勇飛行会で、当時は「秋ヶ瀬飛行場」とも「秋ヶ瀬浦和飛行場」と呼称されていた。
昭和15年(1940)に「浦和飛行場」と名称変更され、拡張工事が始まるも、最終的には完成を見る前に終戦。跡地は放置。
戦後、荒川の直線化工事に伴い、当時の面影は残されていない。

当時と変わらずに残っているのは「荒川横堤」。
浦和飛行場の北側にある「宗岡第二横堤」は昭和4年(1929)着工、昭和6年(1931)竣工。当時は、この宗岡第二横堤の南側に飛行場施設が建設されていた、という。
荒川横堤は、日本では荒川のみの独特な堤防として土木遺産に選定されている。

また、荒川直線化工事の影響は、市境にも残されている。
志木市とさいたま市(旧浦和市)の屈折した市境は荒川が曲線だったときの名残。「浦和飛行場」(埼玉第一飛行場)は「浦和」と言いつつも、浦和側ではなく現在の志木市(当時の宗岡村)側であった。

位置関係

国土地理院航空写真(写真ファイル名:891-C2-66)
1944年9月28日-大日本帝国陸軍撮影

https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1

上記航空写真を拡大のうえ加工

横堤(宗岡第二横堤)の下流に「飛行場施設」
荒川の曲線の内側に「飛行場」
その下流には「秋ヶ瀬橋」

横堤と秋ヶ瀬橋の間に当時「浦和飛行場」(埼玉第一飛行場)があった。

戦後の航空写真。
あまり変わっていないようだけれども、飛行場跡地が開拓されているのがわかる。

同じく国土地理院航空写真より(写真ファイル名:USA-M675-55)
1947年11月28日-米軍撮影

現在の様子。
GoogleMAPS航空写真を加工。
荒川の直線化により、飛行場のあった場所の大部分が川の中に。
横堤は往時から変わらずに。

志木市とさいたま市(旧浦和市)の市境。荒川の東側に志木市の飛び地が残っている。この飛び地は、往時の飛行場跡地でもあり荒川が曲線であった頃の名残でもある。

浦和飛行場跡
(埼玉第一飛行場跡)

秋ヶ瀬河川敷
実際のところ、当時の遺構は残っていない。

飛行場跡地は、荒川の水の下に。

横堤(宗岡第二横堤)

昭和4年(1929)着工、昭和6年(1931)竣工。
当時は、この宗岡第二横堤の南側に飛行場施設が建設されていた、という。
荒川横堤は、日本では荒川のみの独特な堤防として土木遺産に選定されている。

このあたりに、当時は飛行場施設があったと思われる。

横堤の端。

ちょうど横堤の端には、不正投棄を監視する防犯カメラ。
河川敷には不正投棄が多いとのことで。

横堤の堤防上。

秋ヶ瀬取水堰

現在は、独立行政法人水資源機構の管轄。荒川で最も下流に位置する取水堰。

飛行場があった当時は、この取水堰があった場所が滑走路の中心地点。
今ではここに飛行場があったとは信じられない光景。

宗岡取水口

秋ヶ瀬取水堰

ここに、飛行場があったとは今では信じられない場所。
住宅地や工業団地になった飛行場は多いが、「浦和飛行場」は、まさか川になってしまった場所でした。

和田堀給水所(世田谷・代田橋)

令和のとある冬に。

京王線代田橋駅のすぐ近くに古風で壮大な建物が残っていた。
聞くところによると、近々で建て替えになるとのことで、いま残っている歴史的建造物を慌てて記録してきました。

和田堀給水所-昭和9年(1934年)竣工

位置関係

上から見ると、特徴的な建造物の様子を知ることができる。
円形が、一号配水池
方形が、二号配水池

1947年11月28日-米軍撮影航空写真(国土地理院-USA-M676-211)

1947年

2009年4月27日-国土地理院航空写真(国土地理院-CKT20092-C67-20)

2009年

そして2020年の航空写真。
すでに方形の二号配水池は解体済み。円形の一号配水池を残すのみ。

Google航空写真(2020)

2020年

和田堀給水所一号配水池

大正元年(1912)9月に東京市の水道拡張事業が認可され、翌年より着工。
和田堀給水所は2つの配水池が設けられていた。
 一号配水池 昭和9年(1934年)竣工
 二号配水池 大正13年(1924年)竣工
現在、和田堀給水所は、二号配水池が解体され建て替え工事中。
給水を止めることができないため、新しい二号配水池が完成するまでの間は、一号配水池は引き続き稼働。
二号配水池完成後に、この歴史的な建造物=一号配水池も解体され新たな配水池が建造予定。

細部のデザインにこだわりを感じる。

八角形の排気塔

付随する建造物

階段のデザインも美しい

東京都水道局 和田堀給水所

建築計画
完了予定は平成34年3月31日=令和4年=2022年

建造から80年以上が過ぎ、老朽化と耐震性、給水量の問題などがあり、解体の上でリニューアルとなる、歴史的建造物。
しかし、歴史的建造物であるまえに、現役の給水設備建造物。
現役の給水設備建造物であるがゆえに建て替えを余儀なくされている。

惜しむらくは、すでに二号給水池が解体された後に、興味を持ち始めたこと。
知るのが、少し遅かったのが悔やまれます。もう少し早ければもっとちゃんとした記録が残せたのですが。。。
それでも、まだ一号給水池が解体前に接することができたのが、せめてもの救いでした。


伏見宮家別邸(祥雲寺)

令和の、とある冬の日の参拝。

東京都豊島区。
要町駅のほど近くに鎮座する寺院「祥雲寺」。
境内に珍しい建造物があるというので足を運んでみました。

祥雲寺と伏見宮家別邸

祥雲寺は小田原北条氏の天文元年(1532)に江戸城内に開山。徳川家康の江戸整備により、江戸城から神田・日暮里・白山と遷座。
大正4年に豊島区の現在地に鎮座。

昭和9年(1934)3月4日の火災で寺院堂塔すべてを消失。

この時の住職(第三十世)は、住職として寺を守るとともに、市ヶ谷の陸軍士官学校で教鞭をとっていた。その時の学生に皇族がおられ、火事に見舞われた祥雲寺の支援に奔走し、伏見宮家別邸が移築されることとなった。

そうして火災後の伽藍復興に努めていた祥雲寺は伏見宮家別邸を譲り受け昭和10年2月に移築。寺院再建までの仮本堂として伏見宮家別邸を使用された。
譲り受けたのは2つの和館と洋間の3棟。東御殿(和館と洋間)を仮本堂に、西御殿(和館)を方丈(住職宅)として用いた。その後、西御殿は祥雲寺と縁の深い神奈川県伊勢原市の「勝興寺」に移築された。

宮邸移築の経緯
東京大学心理学部を卒業した第三十世和尚は、住職として寺を守る傍ら、市ヶ谷陸軍学校で教鞭をとっていました。その時の学生の中に若い皇族がおられ、火事に見舞われた祥雲寺の窮状に接して、縁りの方々に呼びかけてくれました。そして昭和10年、祥雲寺に運びこまれたのが、今の中野坂上あたりにあった伏見宮家別邸です。譲り受けたのは、同家の兄弟が使用していた2つの和館と洋間の計3棟。東御殿(和館と洋間)を仮本堂に、西御殿(和館)を方丈(住職の住まい)として用い、戦後の苦しい時代を過ごしました。その後、西御殿は祥雲寺と縁りの深い神奈川県伊勢原「勝興寺」※に移築され、法事等の客間として使われています。
※先代住職の時代から祥雲寺と縁りがあり、現在は、祥雲寺住職の実弟が住職を努める。

祥雲寺>施設ご案内>別邸 https://shounji.com/info/bettei/

伏見宮家別邸

中野区中央一丁目(小淀町)にあった伏見宮家別邸は、もともとは山岡鉄舟の邸宅であったものを明治19年(1886)に伏見宮家に献上されたことにはじまる。
山岡鉄舟邸は、伏見宮家に献納され伏見宮家別邸として使用されてきたが、昭和16年(1941)に民間に払い下げられた。
この地に、山岡鉄舟を開基とした「高歩院」(山岡鉄舟の諱が山岡高歩)が開山。

この移築された建造物が、山岡鉄舟時代からのものかどうかは不詳であるが、趣深いゆかりがあった。

余談だが、境内にはソーラーパネルが巧みに設置されていた。
非常にアグレッシブさを感じさせる寺院でした。

そして祥雲寺の新しい試みが、お寺のカフェ「ぼうず’n coffee」
私が参拝した際はお休み中でしたが、不定期に営業しているらしい。

撮影はしていなかったが、境内墓苑には「首切り浅右衛門(七代目山田浅右衛門)」「松本藩戸田氏」「石ノ森章太郎」の墓などがある。


祥雲寺 公式サイト

https://shounji.com/

陸軍航空士官学校坂戸飛行場跡(陸軍坂戸飛行場跡)

東武東上線「若葉駅」のすぐ北側のエリアにかつて飛行場があった。

もっとも飛行場があった戦前には、まだ若葉駅は開業前(若葉駅は昭和54年開業)で、最寄り駅は「坂戸駅」。坂戸駅(当時は坂戸町駅)は大正5年(1916)開業。

かつて坂戸飛行場があったエリアには「女子栄養大学」「筑波大学附属坂戸高等学校」「山村国際高等学校」「坂戸市役所」、そして住宅地「UR若葉台団地」や「富士見工業団地」へと姿を変えている。

坂戸中学校に残る陸軍坂戸飛行場の弾薬庫跡

陸軍航空士官学校坂戸飛行場
(陸軍坂戸飛行場)

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

坂戸飛行場は、昭和15年に建設開始。
坂戸八幡神社の由緒によると「昭和15年2月5日に坂戸飛行場建設のために政府の政策により、社殿の移転を余儀なくされた。」旨が伝承されている。

そして、戦争末期の空襲により兵舎や格納庫などの主要施設は炎上し、そのまま終戦を迎えている。
戦後は開墾地を経て、昭和40年に土地区画整備が行われ、住宅団地119ha・工業団地96haの「住・工セット型団地」として再開発が行われた。

位置関係

USA-M44-A-5VT-12
1946年2月13日に米軍撮影の航空写真(国土地理院より)

USA-M44-A-5VT-12
1946年2月13日に米軍撮影の航空写真より、坂戸飛行場を拡大

USA-M44-A-5VT-12
1946年2月13日に米軍撮影の航空写真より、坂戸飛行場の施設部分を拡大
追記加工あり。

GoogleMapで現在の様子を。

同じく施設部分を拡大。

陸軍航空士官学校坂戸飛行場跡地散策

東武東上線若葉台駅より散策を開始。

まずは、「筑波大学附属坂戸高等学校」の敷地内に残る防火水槽跡を敷地外から見学。

坂戸飛行場の防火水槽

筑波大学附属坂戸高等学校敷地内

ひとつめは、少々わかりにくいですね。
なんとなく円形が察せられたので、多分これかな、と。

坂戸飛行場の防火水槽
ふたつめは、わかりやすいですね。

隣は坂戸中学校。

坂戸飛行場の弾薬庫

坂戸中学校の敷地内に弾薬庫が2棟残されておりました。

旧陸軍坂戸飛行場弾薬庫
 旧陸軍坂戸飛行場の正式名称は、陸軍航空士官学校坂戸飛行場で、昭和16年5月25日に開場したとの記事が、当時の新聞に掲載されています。滑走路は、路面が土で距離も短かかったようです。
 この飛行場の施設として、弾薬庫が建設されました。
 弾薬庫の規模は、幅7.6メートル、奥行5.6メートルの長方形で、入口が向かい合うように二棟作られ、高さは、4.3メートルです。
 入口以外に、内部を確認できる場所は、入口上部と入口の反対側の小さな窓だけです。
 さらに、建物全体が、厚さ約20センチメートルのコンクリート製で、堅牢なつくりです。
 戦後50年以上が経過しましたが、戦争という悲惨な事実をあたらめて認識し、平和の尊さを次の世代へ伝えていくため、この弾薬庫を保存していきます。
 平成12年10月
 坂戸市教育委員会

坂戸飛行場の本部跡地

法務局坂戸出張所のあたりが、陸軍航空士官学校坂戸飛行場の本部があった場所という。

そのすぐ近くに坂戸市役所。

坂戸飛行場の防風林(移植)

市役所駐車場の赤松は、陸軍坂戸飛行場の防風林として植えられていたものを、1971年に坂戸町役場移転に伴い移植されたもの、という。

坂戸飛行場の陸軍標石

陸軍坂戸飛行場に関係する陸軍標石は3箇所あるという。
1ヶ所は西側の「坂戸市役所第3駐車場」に残されており、2ヶ所は東側の民家の陰に残されている。東側は今回は未踏。
西側の坂戸市役所第3駐車場の陸軍標石を見学。

坂戸飛行場の駐機場跡

格納庫前の駐機場(待機所)のアスファルトが駐車場に残されているという。

坂戸市役所公用駐車場

路地裏の民間駐車場

坂戸飛行場の排水池(栄池)

当時も今も変わらぬ場所にある「池」。
当時は坂戸飛行場の排水池であったという。

坂戸の戦跡、まだまだ調べることは多そうです。
今回は飛行場の東側は未踏でしたし。(そこにも標石があるという)

本記事はひとまず〆


関連

陸軍関東松山飛行場跡(唐子飛行場跡)

松山飛行場

今も昔も「松山」という地名は混乱をきたす。
戦国の頃は、この地にも「松山城」があり、武蔵の松山もそれなりの知名度を持っていたが、愛媛松山に対して「東の松山」という位置づけ。

東上鉄道(東武東上線)が大正12年(1923年)に「武州松山駅」を開業。(戦後に東松山駅に改称)
当時は「武州松山駅(東松山駅)の隣の駅は「菅谷駅(現在の武蔵嵐山駅)であり、まだ「森林公園駅」は開業前であった。

その当時は存在していなかった「森林公園駅」の南側に、かつて飛行場があった。

「陸軍松山飛行場(陸軍関東松山飛行場)
通称は、地元名称から「唐子飛行場」(唐子の飛行場)と呼称していたという。

愛媛の松山には、松山海軍航空隊・松山海軍航空基地(源田実の第343海軍航空隊が著名)、そして現在の松山空港があり、海軍と陸軍でそれぞれの松山だった感じですね。

余談ついでに。
台湾は台北飛行場(松山飛行場)が昭和11年(1936)日本統治時代の台湾総督府によって建設されておりますので、戦前のあるタイミングでは3つの松山飛行場があった、というわけですね。

陸軍関東松山飛行場(唐子飛行場)

戦時中、首都防衛のために関東各地に陸軍の飛行場が建設され、この松山飛行場もそのうちの一つ。

昭和17年(1942)
測量と土地買収が開始される。

昭和19年(1944)10月
現在の森林公園の南側の地に、陸軍によって「松山飛行場」建設開始。
同時に松山飛行場建設のために、東武鉄道東上線「武州松山駅(東松山駅)」~「武蔵嵐山駅」間5.3キロを北に迂回させる必要があった。。
迂回工事は松山中学(現在の松山高校)の生徒なども動員され3ヶ月後の昭和20年1月には完了。
西側の旧軌道跡は、飛行機誘導路としてそのまま利用され、そのまま現在も道路として活用されている。

昭和20年8月
飛行場未完成のまま終戦。
滑走路面が固まりきっておらず離着陸にはまだ使用できない状況で、飛来した航空機が不時着を試みたことがあったが、車輪が滑走路にめり込んで転倒してしまったいう。

戦後は「農業地」「東松山工業団地」として再開発。

位置関係

昭和22年に米軍撮影の「関東松山飛行場跡」周辺の航空写真。
比較的にわかりやすい正方形。
国土地理院より)

USA-R356-18
1947年10月24日-米軍撮影

今昔マップ on the webで、飛行場ができる前、昭和14年の地図を以下に参照。一部加工済み。

昭和14年 飛行場建設前
東武東上線は「旧線」

青線は、飛行場建設後に北側に移転された線路。
ポイントは「森林公園駅」と「つきのわ駅」。

赤線は、飛行場区画。
ポイントは区画の四隅。
現在の様子。
昭和14年と照らし合せると違いがわかりやすい。
GoogleMAPを一部加工。
紫ポイントは「開拓記念之碑」石碑

森林公園駅

昭和46年(1971)開業。飛行場当時は当駅はまだ存在していなかった。

東松山工業団地案内板

飛行場跡地は工業団地に。比較的良くある戦後再開発。

森林公園駅の南側、住宅地区画の先が、旧飛行場エリア。

都開拓記念碑

松山開拓都会館に「開拓の石碑」が建立されていた。
開拓の歴史は、この地に「飛行場」があった歴史の記録でもあり。

都開拓記念碑
 旧村の宮前、唐子両村を境して、民地約二00ヘクタールが大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが終戦とともに、戦後国民の食糧事情が飢餓の状態であったので、開拓による食糧増産が国策となり、唐子飛行場跡地も開拓入植の土地となりこの旧宮前地区には昭和二十五、二十六年にわたり、旧宮前、唐子の人達家族ごと十五戸が入植となった。この地は字名を都と称し、唐子分は新郷と称したとくに、表土をけずられてあるこの都は、黄塵にして荒れ、開拓家族は、石油ランプをたよりに起居し、農具も鍬や万能の、手による作業で、血と汗にまみれ排水工事を施工、困苦の日々の闘いの開拓であった。開拓当初、都開発者は唐子開拓農業協同組合を設立したが旧村がそれぞれに町村合併により東松山市と滑川村とになり、組合も松山開拓農業協同組合と合併した。電灯も入り辛苦の十数年、作物も実りが得られるようになった。この頃より国の経済の動向は農業から工業生産と変化した。市村も将来の発展的計画に基づき県企業局の協力のもとに工業団地として組合にその協力を求められた。血と汗の結晶の土地であるが組合として協力の決がとられた。その後地区内を関越高速道の通過があり全員が協力した。以上のように開拓者一致の協力は、この地域と住民の発展を大きく進展させたことは事実でありかっての苦闘の努力は歴史を綴り不滅に輝き続けてゆくことであろう。都開拓三十周年記念の開拓者建碑にあたり碑文とする。 
 滑川村長小久保正男 
 昭和五十八年四月吉日建之 

大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが・・・

刻まれる「唐子飛行場」の名称。

石碑の向いている南側が、かつての飛行場区画。

飛行場区画の東側に足を伸ばしてみた。
「東武東上線の旧線」にあたる道路であり、水路との境界地。

この水路は「唐子飛行場」時代から設けられた水路。当時の飛行場排水路であろうと推測。

石碑と水路と。
往時を偲ぶものはさほどには残されていないが、地図には当時の飛行場を忍ばせる区画が残っていた。

軍隊と羊羹

酒保(軍隊での売店)での人気の甘味のひとつであった「羊羹(ようかん)」。
そんな羊羹を以下、つれづれと。

間宮羊羹

海軍将兵に最も愛された艦として有名な特務艦「間宮」

艦隊勤務の海軍将兵に給糧として甘味をもたらしてくれる特務艦。
「間宮」ではアイスクリームやモナカ、ラムネなどの嗜好品を生産しており、なかでも羊羹は一番人気だったとか。

「間宮羊羹」とは

【特務艦 間宮】
 広島県呉市を母港とする艦艇の中で、海軍将兵に「最も愛された、人気のあった艦」と言えば、間違いなく特務艦「間宮」でしょう。
 特務艦とは、他の艦艇の活動を支援することを任務とする艦で、「間宮」は他艦に糧食を供給する給糧艦でした。
 「間宮」は、内地から部隊に糧食を輸送するだけでなく、艦内に食品を製造加工できる設備をも有し、食品の他にモナカや大福、羊羹などの菓子類も製造していました。

【海軍将兵に大人気だった「名物 大型羊羹」】
 昭和17~18年に間宮主計長を務めた角本元海軍中佐の話によると、「と○やの羊羹より大きく!」との命令が申し送らされていたそうです。
 結果、当時「間宮」で製造されていた羊羹は、最低でも2kgはあったと思われます。
 そのサイズの羊羹を「間宮」では1日に2200本製造できる能力があったそうで、まさに「一大製菓工場」と言われていたのは不思議なことではありません。

※この商品は公益社団法人呉青年会議所、海軍料理研究家の方々の協力により当時レシピにて可能な限り再現したものです。

特務艦間宮戦没者慰霊碑

広島県呉市 海軍墓地

給糧艦「間宮」
就役当時は間宮は世界最大の給糧艦であり、日本海軍としても初の給糧艦であった。補給の要として活躍。艦隊の酒保として非常に人気が高く帝国海軍の中では最も有名な艦の一つ。
昭和19年12月21日、米潜水艦の雷撃により沈没。

間宮羊羹専用 海軍刀

間宮羊羹専用 海軍刀
ようかん和菓子ナイフ
大日本帝國海軍の群島は錆びにくいステンレス刀が多く使われておりました。
この「ようかん和菓子ナイフ」は、ステンレス洋食器の一大産地「新潟県燕市」の職人が一つ一つ手磨きで仕上げた物です。どうぞ安心してお使いください。

「間宮羊羹」とは?
大日本帝國海軍の艦隊勤務者に一番愛されたフネは、大和・武蔵ではなく「給糧艦間宮」。
それは間宮が甘い物を届けてくれるから。アイスクリーム・最中・ラムネ等の嗜好品を艦内で生産していた間宮。その中でも「間宮羊羹」の愛称で親しまれた羊羹が一番人気でした。


江田島羊羹(江田島ようかん)

友人からの戴き物

江田島は美しい広島湾に位置して、東は呉市に北は広島市に相対し、西は名勝安芸の宮島に接した南北に細長い島です。明治廿一年八月海軍兵学校がこの江田島にできました。以来旧海軍のメッカとして若人のあこがれの地でありましたが、昭和廿年八月終戦とともに約六十年の歴史の幕を閉じました。
昭和廿一年一月海上自衛隊第一術科学校が発足し、再び海の男達の修練の場として脚光を浴びることとなりました。
江田島羊かんは古鷹羊かんと共に兵学校時代よりこの海の男の皆様から、常にご愛用を賜り御土産品として絶えず御利用戴いています。


航空携帯糧食 玉羊羹

靖國神社遊就館の売店にて購入

玉羊羹
ゴム製の風船を容器として売られる球状になった羊羹。

支那事変(昭和12年)のころに、戦地の兵隊さんへ送る慰問袋用菓子として、日本陸軍から開発指示により生まれたことに始まるという。

当時は「日の丸羊羹」とも呼称された。

航空携帯糧食 玉羊羹
~航空糧食の特徴~
玉ようかんは、高高度飛行の気圧変化の激しい環境下でも容器が破裂することなく、容易に携帯でき、甘味による疲労回復の糧食として携帯されていました。


大日本帝國海軍の伝統を受け継ぐ海上自衛隊でも。

海軍羊羹 観艦式ようかん

自衛隊観艦式2019 限定の「観艦式ようかん」(さかくら総本家)


海軍羊羹(さかくら総本家)

海軍羊羹とは
明治時代からさかくら総本家の和菓子は海軍御用達品でした。
長期保存できる甘味品を望んでいた海軍からの依頼を受け、開発された羊羹を当時の味のまま再現したものが「海軍羊羹」です。

(海軍羊羹)
やや硬めで仕上げた当時の食感をお楽しみください。

(海軍羊羹 抹茶)
※本品は製造方法をそのままに、白あんと宇治抹茶を使用し現在風に仕上げた羊羹となっております。

海軍御用達品

さかくら総本家の羊羹は横須賀をはじめ、呉、佐世保各鎮守府に納められておりました。
長期保存できる甘味料を望んでいた海軍からの依頼を受け、開発された羊羹を当時のまま再現したものが海軍羊羹です。


巡羊羹(呉・武田製網)

靖國神社遊就館売店にて入手。

一等国の一等品

呉名物

巡羊羹

伝統につちかわれた羊羹を独自の製法により新しい感覚にアレンジして現在にマッチした羊羹に仕上げました。


海上自衛隊 塩ようかん

ポケット羊羹で安定の「かし原」ですね。


「ようかん」は、今も昔も愛される甘味ですね。

大船軒のサンドウヰッチ 

2019年撮影

大船軒サンドウヰッチ

大船軒サンドウヰッチ(サンドウィッチ/サンドイッチ)
SINCE 1898
鎌倉ハム
ボンレスハム使用

ボンレスハムの層にマスタードを使用しています。

日本初の駅弁
「サンドウィッチ」誕生秘話
 大船軒創業者の富岡周蔵が明治政府の要人・黒田清隆から薦められ。自ら考案した「サンドウイッチ」は好評を博し大船の名物となりました。明治32年のことでした。

創業明治31年
湘南鎌倉 大船軒

 日本初の「駅弁サンドウィッチ」を売り出したのは東海道線大船駅にある大船軒で、まだ文明開化の風もおさまらぬ明治32年のことでした。
 「鎌倉ハム」のブランドができたのもこの頃で、そのハムを使った「駅弁サンドウィッチ」の美味しさは大評判を呼びました。
 大船軒は他に湘南名物「鯵の押寿し」や鎌倉にちなんだ「あじさいちらし寿し」が有名で、古くから文人墨客にも親しまれています。

鎌倉ハム

http://www.kamakuraham-tomioka.co.jp

鎌倉ハム富岡商会

当時の鎌倉ハム製造業者の一人に、現在の「鎌倉ハム富岡商会」の創業者、富岡周蔵がいました。
「鎌倉ハム富岡商会」の歴史は、駅弁の製造販売会社、大船軒の開業にさかのぼります。
大船軒で明治32年(1899年)、ハムサンドウィッチを売り出したところ、これが大評判となり、やがて多数の食料品業者からハムだけの注文がくるようになりました。そこで、富岡周蔵は、明治33年(1900年)、「鎌倉ハム富岡商会」として、ハム製造部門を独立させ製造を開始しました。「鎌倉ハム富岡商会」の百年を超えるハム作りの歴史は、まさにこの時にスタートしたのです。

鎌倉ハム富岡商会・ブランドストーリー

鎌倉ハムとマスタードのサンドイッチが4つ
チーズのサンドイッチが2つ

シンプルだけど美味なサンドイッチ。

明治32年(1899年)以来の伝統の味は120年変わらぬ名物。

明治の味、文明開化の味を楽しみつつ。

振武臺記念館(陸軍士官学校皇族舎)

陸上自衛隊朝霞駐屯地
陸上自衛隊広報センター(りっくんランド)

2020年1月に行ってきました。

なお、もともとは座間にあったものを移転したものです。


振武臺記念館

振武臺記念館
 戦前、ここ朝霞の地に旧陸軍の予科士官学校が所在しておりました。陸軍士官学校は明治時代から市ヶ谷(東京)ありましたが、昭和の時代に入り初級将校を多く養成する必要性が生じ、当時の市ヶ谷では手狭となり本科が昭和12年に座間(神奈川)へ、予科は昭和16年10月に朝霞に移転してまいりました。陸軍士官になるには予科で約2年、その後の本科において約1年8ヶ月の教育訓練を受けなければなりませんでした。修学後、部隊での見習士官を経て少尉に任官するという制度となっておりました。また航空要員は予科修了後、入間(埼玉)にありました陸軍航空士官学校へと進みました。朝霞では終戦の昭和20年8月まで、57期生から61期生の合わせて19,147名の学生が学びました。振武臺記念館では当時の貴重な資料や所縁の品などを展示、古墳時代以来の朝霞の歴史と合わせて皆様に紹介しております。『振武臺』という名前の由来は昭和18年12月9日、昭和天皇が当校に行幸された際、学生達に対し「将来益々武を振るえ」という思いからお名付けになられた学校の別称です。
 また本記念館の建物は、陸軍士官学校(本科)にありました「皇族舎」(皇族男子学生の特別宿)を昭和53年、隊員の手によって座間から移築した歴史的建造物す。

陸上自衛隊広報センター「りっくんランド」で有名ですが、どちらかというと、現在の自衛隊よりも旧軍及び歴史に興味がある私ですから、迷うことなく振武臺記念館に。

陸上自衛隊広報センター
振武臺記念館見学ツアー

かつて朝霞駐屯地の場所に所在していた陸軍豫科士官学校の貴重な資料や、歴史的建造物である陸軍士官学校皇族舎の建物や当時の貴重な資料等を見学することができます。

隊員ガイド付き振武臺記念館見学ツアー
申し込んでみました。
この日は、この時間は私のみでした。つまり、隊員のガイドを独り占め状態。なにやら申し訳無い状態ですが、日と時間によっては、まれにあることだそうです。

ガイドの隊員さんと連れ立って、記念館に。
建物そのものの説明、そして館内資料の説明など、約30分ほどの貴重な時間を過ごす。

館内は撮影禁止。


雄健神社

入り口には「雄健神社(おたけび神社)」が復元されていた。

雄健神社は、昭和16年10月の陸軍豫科士官學校の朝霞移転とともに、学校の守護神として建立。
雄健の由来は神話から引用されており、「雄壮にして雄叫びを発し、もっと勇気を発奮し」ということから青年将校の理想像とされ、心の拠り所として学生達が毎日参拝をしていました。
平成14年、偕行社及び予科士官学校卒業生によって、鎮座跡地に「雄健神社跡碑」が建立。跡地は立入禁止。駐屯地一般開放日などに跡地を見学できる場合があるという。

市ヶ谷台の雄健神社


振武臺記念館館内(撮影禁止)

1階は、
・朝霞の歴史
・終戦関連展示品
・旧軍関連図書
・雄健神社(復元)

2階は、
・学校本部関連展示品
・学校施設配置模型
・教育訓練関連展示品
・軍服 生徒服
・在籍学生名簿(57期~61期)


振武臺記念館
旧・陸軍士官学校皇族舎

振武臺記念館
 この振武臺記念館は、昭和53年(1978年)3月に神奈川県座間市にありました陸軍士官學校の皇族舎を隊員によって解体し移設した建物で、市ヶ谷から朝霞に移転した陸軍豫科士官學校に関する資料等を中心に展示されています。
 振武臺の由来は、昭和18年(1943年)12月、昭和天皇陛下が行幸された折に「将来益々 武を振るえ」と言った意味からお名付けになられたそうです。
 皇族(男子)が、陸軍士官學校や海軍兵學校で将校教育を受ける際に用意された特別の宿舎であり、本皇族舎は東久邇宮電化(54期生)や賀陽宮殿下(55期生)が使用されたと記録に残っています。

朝霞駐屯地の歴史と振武臺記念館について
 我々自衛官が勤務しているこの朝霞駐屯地は、昭和16年10月に陸軍豫科士官學校として開講し、終戦の昭和20年8月まで多くの青年将校が巣立った場であり、約19000余名の学生が学んだ場でもあります。終戦後この地には、米軍が進駐しキャンプドレイクとして朝鮮戦争やベトナム戦争の後方きちとして使用され、昭和35年にはこの建物は日米共同使用という形態で朝霞駐屯地が開設されました。
 又、木造建ての建物は、皇族の方が使用していた建物であり、現在は記念館として旧軍及び陸軍豫科士官學校の資料等を展示しております。


もともと座間の陸軍士官学校にあった建物(皇族舎)を戦後に朝霞の陸軍予科士官学校のあった地に移転させたという歴史的な建造物。座間時代から、よく残ってくれたたものです。

陸軍予科士官学校正門門柱

陸軍豫科士士官學校正門門柱
 この門柱は、陸軍豫科士士官學校が昭和16年(1941)10月から終戦までここ朝霞の地で使用していたものであり昭和53年(1978)8月に、現在地から南へ約1kmの所にあった当時の正門を移設して保存しているものです。

陸軍豫科士官學校跡

陸軍予科士官学校当時の門柱。一枚岩でできている。
当時の学校正門は、現在の朝霞駐屯地正門(大泉門)南側の「長久保交差点」付近にあったという。

遥拝所石碑

陸軍予科士官学校当時、構内に数ヶ所の遥拝所が設けられていた。その一つを振武臺記念館脇に移設したもの。

遥拝所石碑について
 陸軍豫科士士官學校当時、敷地内に数ヶ所あった「遥拝所」に建てられた石碑の一つを、振武臺記念館の側に移設したものです。将校生徒達は、毎朝雄健神社に参拝した後、皇居や両親の方向に向かい、遥拝(遠く離れた所から拝むこと)を行いました。

表も裏も「遥拝所」と掘られている遥拝所石碑。

九九式十糎山砲
(99式10せんちさんぽう)

山砲ですね。

九九式十糎山砲
 大日本帝国陸軍が1939年(昭和14年)に制式化した口径105mmの山砲です。
 日中戦争当時、中国軍からろ獲した105mm砲(仏製)を再設計し、分解運搬できるように改良したものです。通常馬2頭で運搬しますが、悪路等では分解して10頭の馬を使用していました。
 最大で約7km(所沢インター付近まで)、有効射程は約4kmの射撃が可能です。
 昭和16年大阪陸軍造兵廠製

米軍第8軍団第1騎兵師団モニュメント碑

こちらは旧軍ではなく。
戦後5年間、駐留していた米軍の記念碑。

「キャンプドレイク」モニュメント

朝霞駐屯地一帯は、大東亜戦争終了直後の昭和20年(1945年)9月から昭和25年(1950年)7月までの5年間、アメリカの第8軍団第1騎兵師団が駐留し「キャンプ・ドレイク」と呼ばれていました。
 「キャンプ・ドレイク」の名前の由来は、昭和20年(1945年)のフィリピン作戦中に戦士した「ロイス・A・ドレイク大佐」を偲んでつけられたものです。
 このモニュメントの中央にある「黄色地に馬のマーク」は、第1騎兵師団のシンボルマークであり、同師団がこの地を去るときに作成したものを、平成20年(200。8年)7月に再整備したものです。


陸上自衛隊朝霞駐屯地
陸上自衛隊広報センター(りっくんランド)

世間一般的には、振武臺記念館よりも広報センターがメイン。

「サマーワ宿営地」の看板

陸自の装備など、屋内外に。

次回は駐屯地の一般開放日にも訪れてみたいです。

鈴木貫太郎邸跡

現在の文京区千石3丁目。不忍通りの猫又坂に名残の石垣だけが残っている。
当時は丸山町と呼称された地域。
この地に、終戦時の総理大臣・鈴木貫太郎の私邸があった。

昭和20年8月15日、鈴木貫太郎は終戦反対派に襲撃されるも、からくも私邸から脱出。そのときに鈴木貫太郎私邸は焼き討ちされた。(宮城事件)

戦後、鈴木貫太郎は生まれ故郷の関宿に隠棲。関宿の邸宅跡地は鈴木貫太郎記念館となっている。
文京区の私邸は長男の鈴木一がこの地に居住していたが、孫の代にマンションへと姿を変えており、残された石垣が往時の姿を伝えていた。

もしかしたらマンションの後ろの樹木は、鈴木貫太郎邸の頃からの樹木かもしれない。

石垣だけは、鈴木貫太郎時代から変わらない佇まい。

開戦時の総理大臣・東条英機邸宅跡は何も残っていなかったが、終戦時の総理大臣鈴木貫太郎の邸宅跡は石垣が残っているだけ、史跡として救いがあった。

東条英機邸跡

国旗掲揚所跡(秋葉原・岩本町)

秋葉原・岩本町界隈。
「和泉橋」の隣の駐輪場に、ひっそりと「昭和の遺産」が残っていた。

国旗掲揚所跡
(国旗掲揚台跡・国旗掲揚塔跡 )

(表面)
帝國在郷軍人會
國旗掲揚所 第拾班
神田區分會

(側面)
陸軍中將赤井春海書
昭和八年八月建設 寄贈 大熊柳三

大熊柳三は東京神田の呉服商。
陸軍中将・赤井春海(1876-1954)は、大正12年(1926)に陸軍中将、昭和5年(1930)に予備役。

「星と錨」が掲げられた。国旗掲揚台。
星と錨は「帝国在郷軍人会」のシンボルマーク。
「帝国陸軍の五芒星」と「帝国海軍の錨」。

「帝国在郷軍人会」のシンボルマークは、昭和8年(1933)建設以来、約90年の時を経て、留め具が緩み始めていました。

国旗掲揚台には、当時、国旗を掲げたであろう木製の柱の残骸も残っていた。


帝国在郷軍人会

現役を離れた軍人(予備役・後備役の軍人)が入会していた団体。

全国統一的組織としての「帝国在郷軍人会」は、1910年(明治43年)11月3日、予備役・後備役軍人の軍人精神向上などを目的に伏見宮貞愛親王を総裁として発足。

以下は、参考資料。
平和祈念展示資料館(新宿)展示の帝国在郷軍人会徽章

現在、帝国在郷軍人会に相当する組織は、自衛隊員OB組織である公益社団法人隊友会、か。


和泉橋

国旗掲揚台の隣は和泉橋。
この橋も実は古い。

江戸期には伊勢国津藩の藤堂和泉守屋敷があったことから、「和泉橋」と呼称。町名としても「神田和泉町」として残っている。
大正5年(1916)に鋼橋に架け替えられ、昭和2年(1927)に、帝都復興事業の一環で拡張。今も残る親柱は大正5年当時のもの。

秋葉原、岩本町界隈。
ひとしれず、戦前を偲ぶものが残っている空間でした。

鎮守様の戦跡~海老名・神武社

海老名市河原口(海老名市河原口3丁目3付近)に小さなお社が鎮座している。
その名も「神武社」。
海老名市総鎮守・有鹿神社の境外摂社。

社号の通り「神武天皇」を祀っている当社は「石碑」がご神体という、珍しい神社。

神武社
神武天皇碑
日露戦争戦勝祈願 橿原神宮遥拝記念

神武社

江戸時代の頃は、辺りは桑畑であったといい、この地には「石神社」が鎮座していた。
明治37年(1904)に勃発した日露戦争に際して、戦勝祈願の為に、この地に河原口の人々が集まり、橿原神宮を遥拝したという。その後、橿原神宮遥拝の地を記念して「神武天皇碑」が建立。その石碑を覆う社殿も建立されたという。
社殿と鳥居は橿原神宮の方向(西面)を向いている。

もともと河原口の氏神様は神明社であったが、戦後に神武社にかわった、とされる。
河原口地区には、神武社が建立される前、「新編相模風土記」によると、天神社・神明社・諏訪社・熊野社・石神社・第六天社・弁天社などが鎮座していた。明治期の神社合祀政策により、これらの小社は「有鹿神社」に合祀されたが、その後に河原口地区で疫病が流行ったために、現在地に遷座。
現在、「神武社」の境内には、石神社・神明社・天神社・熊野社・第六天社の石祠が鎮座している。

<本記事は有鹿神社宮司様よりお伺いしたお話を基礎としております>

神武天皇碑
神武社
神武社
鳥居は昭和35年建立
神武社と石祠群
石祠は、 石神社・神明社・天神社・熊野社・第六天社 という(順不同)
御社殿と鳥居は西面。橿原神宮の方向。
ちょうど西日が差す先には現在は「圏央道」

海老名総鎮守「有鹿神社」(あるか神社)

相模国最古の神社。近年はパンダ宮司で有名。

公式サイト

https://www.arukajinja.jp

有鹿神社の後方には「横須賀水道」が縦断している。
これもまた「戦跡」のひとつ。

「横須賀水道みち」の戦跡散策もおすすめ。

東郷氏祖先発祥地

海老名駅から綾瀬市役所方面に向かうバスに揺られて、城山公園バス停で下車。

この地にあった「城山城」が、「東郷平八郎の祖先発祥の地」であったという。早川城址の物見塚の上に記念碑が建立されている。

東郷氏祖先発跡地

東郷氏祖先発跡地
 元帥伯爵東郷平八郎書之

相模高座の郡早川郷は往古渋谷庄司重国の領地にして其子光重孫重直実重の住地なり
光重承久の乱に戦功あり薩摩国薩摩郡の数郷に封せられたり
光重は長男重直と共に早川に在城し次男早川次郎実重三男吉岡三郎重保四男大谷四郎重茂五男曹同五郎坊定心下男落合六郎重貞は宝治二年の春薩州の封地に下向せり而して実重は川内川の上域東郷の地を領し姓を東郷と改む
元亀元年東郷の一族島津氏に帰服するに至る迄三百十有余年間其子孫東郷地方に割拠し渋谷党と称し雄を北薩に振へり爾来東郷の姓を冒す者概ね其後裔なり昭和六年有志相謀り東郷氏の祖先発跡の旧地を卜し早川の城山物見塚に碑を建て以て後昆に伝ふと云爾
 昭和六年 月
  海軍中将正四位勳一刀功四級東郷吉太郎撰並書

物見塚と東郷氏祖先発祥地碑
 早川城本郭の西側に位置するこの塚は、物見塚と呼ばれています。南北21m、東西23m、高さ約2mの塚です。発掘調査の結果, 表土直下に宝永火山灰(1707年、富士山の噴火による火山灰)が見られることから江戸時代初期以前に築かれていることは明らかです。また、塚の作り方が土塁と同 様の版築(黒土と赤土を交互に敷きつめて突き固めたもの) であることから、城郭の関連遺構のひとつであり、外敵の侵入を見張るため築かれた塚であると思われます。
 物見塚の上には、昭和7年に祖先発祥地東郷会により建てられた「東郷氏祖先発祥地碑」があります。この碑は日露戦争で有名な旧海軍元帥である東郷平八郎の先祖の地であることを記念して建てられたものです。東郷家は、早川城主であったと伝えられる渋谷氏の末裔の一つでした。
 綾瀬市

早川城址
東郷元帥祖先発祥地

県下名勝史蹟四十五佳撰当選記念 横浜貿易新報社

城山公園

早川城跡
 早川城跡は、地元では古くから「城山(じょうやま)」と呼ばれ、鎌倉時代の御家人渋谷氏の城と伝えられています。しかし、文献資料がないことから、その実態は明らかではありませんでした。
 そこで、綾瀬市教育委員会では平成元年度から平成六年度にかけて、早川城跡の学術調査を行ないました。
 発掘調査によって、堀切・土塁・物見塚・曲輪等、多くの城郭関連遺構が発見され、県内でも有数な保存状態の良好な中世城郭であることが明らかとなりました。また、城郭が構築される以前には、縄文時代や古代の集落が営まれていたことも明らかとなりました。

渋谷氏と早川城跡
 渋谷氏は平安の末期、綾瀬市域を中心に渋谷荘(吉田荘)という荘園を支配し、勢力をもった武士でした。『吾妻鏡』によると、平治の乱(1159年)に敗れて奥州に落ち延びていく源氏の重臣佐々木秀義を渋谷重国が保護したとの記事があることから、この頃までには綾瀬市域一帯を支配下に置いたものと思われます。
 鎌倉時代になると、渋谷重国は源頼朝の家臣である御家人となり、その子高重が後をつぎました。高重は早川次郎と名乗り、早川に拠点を置いて一族を統率していたものと思われます。1213年の和田合戦では高重は和田義盛に組したため高重はじめ多くの一族が討たれましたが、1247年、宝治合戦の後、その軍功により薩摩国入来院ほかに所領を得、地頭となり、その際多くの一族が移っていきました。しかし、室町時代の初め頃までは綾瀬市域に渋谷氏の支配が続いたと思われ、その一族が早川城を築城したものと考えられます。

堀切と土塁
 鎌倉時代に築城されたと推定される早川城跡は、天守閣を持つ江戸時代の城と異なり、自然の地形を巧みに利用し、堀切と土塁を周囲に巡らした「砦」的な要素の強い城郭であることが発掘調査によって明らかとなりました。堀切とは外敵の進入を防ぐため、城の周囲に巡らされた堀のことです。
 堀切の内側には、堀切を掘った土を利用して、土塁と呼ばれる高い土手を築き、さらに堅固な防御施設を作り上げています。早川城の場合、東西及び南側は急峻な崖に囲まれ、自然の要害となっています。しかし、北側は平坦なため、幅約11メートル、深さ5メートル以上という大規模な堀切と土塁を築いて敵の侵入を阻んでいます。
 早川城は、有事の際に周囲に暮らす武士たちが集結して、外敵の進入に備える防御施設として、また、領民に対しては、権力を誇示するシンボルとしてそれぞれ機能していたものと思われます。

見事な堀切と土塁が残る。

西側は低地の湿地帯となっている。天然の要塞。現在は湿生園として整備されている。

薩摩の東郷平八郎の東郷氏が、まさか渋谷氏の流れを踏んでいるとは、此の地に足を運ぶまで知りませんでした。
良い知的散策が出来ました。


中島飛行機吉松地下工場と吉見百穴

令和2年2月訪問

むかし、一度か二度か、足を運んだことがあった吉見百穴。だいぶ昔のことだったので、中島飛行機のことは意識していませんでした。

最近、近代史跡・戦跡などを巡るようになって、そういえば地下工場があったなぁ、と思い出したので、足を運んでみました。


吉見百穴

古墳時代後期(6世紀~7世紀)の横穴墓群。大正12年に国史跡に指定。現在確認されている219基の横穴数は、国内最大規模。

入場料は300円。
支払いをして入場をしようとすると、張り紙が目につきまして。

※入場前に、ご確認ください。
 軍需工場跡は、崩落の危険があるため点検・調査を行っています。
 そのため、当分の間、
洞窟内の立ち入りを禁止しています。

おおお、これは残念。

どうやら、平成30年6月以降、立ち入りができなくなっているようです。

吉見百穴。
横穴がいっぱい。

でも、今回は、別の横穴がメイン。入れないけど。

吉見町

https://yoshimi-kanko.net/kanko/hyakuana/


中島飛行機吉松地下工場

中島飛行機大宮製作所 吉松地下軍需工場

昭和18年(1943)に中島飛行機大宮製作所が新設。中島飛行機武蔵製作所(多摩製作所=海軍機)が製造していた海軍向けエンジン部品生産増産のために開設。

昭和19年に中島飛行機武蔵製作所が空襲を受けたことにより、大宮製作所の生産能力確保のために疎開先の地下工場として吉見に地下工場が建設。

通商の「吉松地下工場」とは、「吉見と松山」を意味しているという。

地下軍需工場跡
 昭和19年~20年に、吉見百穴とその周辺の丘陵地帯に大規模な地下軍需工場が造られました。今でも通行可能な直径3メートル程の開口部を持つ洞窟が地下軍需工場の跡です。地下軍需工場は空襲を避けながら航空機の部品を製造する目的で造られたもので、縦と横の洞窟がそれぞれ交差し碁盤の目のようになっているのが特徴です。
 第二次世界大戦の末期、東京都武蔵野市にあった中島飛行機工場は、地下に移転する計画がありましたが間に合わず、空襲によって生産能力が10分の1に落ち込んだと言われています。そのため、現在のさいたま市にあった中島飛行機工場の移転の必要性が急速に高まり、生活物資の調達に便利で、掘削に適した場所である吉見百穴地域に軍需工場が造られることになりました。
 軍需工場の区域となったのは松山城跡から岩粉坂までの直線距離にして約1300メートル部分で、この工事を「吉松工事」と呼んでいました。軍需工場は大きく分けて「松山城跡下」「百穴下」「百穴の北側」「岩粉山近辺」の4工区あり、それぞれの工区は独立していました。ダイナマイトを使用しての工事は進められましたが、工事に適した凝灰質砂岩は百穴と岩粉山付近にしか分布していません。松山城下には固い岩盤があり落盤が起こりやすく、百穴と岩粉坂の中間は山が低いので掘削に適さず工事は難航し、また、その方法は工事を進めながら同意に設計も行うという作業のため、掘削しては測量し、高低や方向を修正していたと言われています。
 7月頃には機械が搬入されエンジンの部品が製造され始めた様ですが本格的な生産活動に移る前に終戦となりました。この工事に携わったのは全国から集められた3,000~3,500人の朝鮮人労働者で昼夜を通した突貫工事でした。掘削工事に従事した最後の人の帰国に際し、日本と朝鮮との平和を希望して植えられたムクゲの木は現在でもこの地で成長を続けていいます。

軍需工場模式図

地下工場の見学は出来ないけど、入り口から覗き込むことは出来ます。


中島飛行機吉松地下工場
開口部

全て素掘りの地下工場。

横穴の大小。
吉見の百穴、横穴墓と、軍需工場の入り口と。


中島飛行機関連の戦跡


吉見百穴とヒカリゴケと

もう一つの見どころが、ヒカリゴケ。



岩窟ホテル

明治から大正にかけて掘られた「岩窟ホテル・高壮館」という人工洞窟。観光名所ではあったが、現在は閉鎖している。
「岩窟掘っている」が訛って「岩窟ホテル」と呼ばれるようになったという。

吉見百穴の地下一帯に軍需工場が建設される際には、岩窟ホテルもその一部として使用され、また軍需工場側に続く通路が新たに掘られている。


松山城跡
(武州松山城・武蔵松山城)

岩窟ホテルのある山の上には松山城跡がある。
平成20年(2008年)、比企城館跡群として国史跡に指定。

戦国期には武蔵国の要衝として関東諸勢力による争奪戦が展開。扇谷上杉氏、上田氏、難波田氏、太田氏など。
後北条氏時代は上田氏の居城。

武蔵松山城の本曲輪には、かつて神社があったようで、基礎だけが残っていた。


吉見町は、吉見百穴と武蔵松山城、そして軍需工場。

神社的には武蔵国延喜式内社「伊波比神社」「横見神社」「高負彦根神社」などが見どころ。

私のかつての記録によると平成14年に吉見エリアを散策していたようです。
かれこれ18年ぶりの再訪、ということになりますね。

サイト: 神のやしろを想う>比企をめぐる

http://jinja-kikou.net/hiki1.html

東松山駅からバスで往復でした。

浅野カーリット埼玉工場跡と四式陶製手榴弾

令和2年2月撮影

川越の戦争遺跡はちょっと風変わり。
「びん沼川」の川岸に異様な不思議な空間が広がっていた。

河川敷に広がる「陶器の欠片」
戦時中に、この土地で製造された「陶器の手榴弾」の名残という。


位置関係

1947年11月8日、米軍撮影。
びん沼川にそって工場が展開している。
(国土地理院 USA-R524-No1-8)

現在の様子。
google航空写真より。

浅野カーリット埼玉工場の跡地は、川越東高校第2グラウンドなどに姿を変えている。


びん沼川河川敷に残る四式陶製手榴弾の残骸

東武東上線・上福岡駅からレンタサイクル(シェアサイクル)を活用して、治水橋方面に。

最初、場所がわからなくて、川越東高校まで歩みを進めてしまい、あれっ?、河川敷にどこから降りるんだろ、と。
産廃業者と第2グランドの突き当りから、でした。

冬季のびん沼川は水量が少ないが、稲作の季節になると水量が増す。
そのため、訪問は冬季がベスト。

ちなみにストリートビューでは、河原が冠水状態。

https://goo.gl/maps/7jaitbonJNyvBx4i8

河川敷の一角が白い。近づいてみましょう。

これは、、、一面に広がる陶器の欠片。
歴史的な背景を知らないと謎な光景。

第二次世界大戦末期、金属資源が欠乏していた日本では、金属に代用品として、なんと陶器で「手榴弾」の製造がおこなわれていたのだ。

全国各地の陶器・瀬戸物の名産地では、手榴弾として使用されるベースの陶器が作成され、この地にあった「浅野カーリット埼玉工場」に集められた。
そして、「浅野カーリット」で爆薬(カーリット)が詰められて「陶製手榴弾」が製造された。

戦後、手榴弾に使われる予定だった大量の「手榴弾型の陶器」が、工場敷地の隣の河川敷に廃棄され、そのまま現在の姿となっている。


浅野カーリット

創業者は浅野総一郎(1848-1930)。一代で浅野財閥を作り上げた実業家。日本のセメント産業を軌道に乗せ浅野セメントを育成した「日本のセメント王」と称される。
また鶴見を埋め立て鶴見臨海鉄道を設立(浅野駅はその名残)、京浜工業地帯の基礎を築いた「京浜工業地帯の父」「日本の臨海工業地帯開発の父」とも呼称される。

1916年に浅野総一郎がスウェーデンのカーリット社から日本における「カーリット爆薬」の製造販売権を取得。
1934年(昭和9年)に浅野カーリット株式会社が創立。埼玉工場は1939年ごろから操業という。

そして近隣には、1937年(昭和12年)に現在のふじみ野市(上福岡)には「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」があった。この地域は「浅野カーリット埼玉工場」と「陸軍造兵廠川越製造所」と軍需エリアでもあったのだ。

写真は「ふじみ野市立上福岡歴史民俗資料館」所蔵の陶製手榴弾。

上福岡には東京第一陸軍造兵廠川越製造所(火工廠)があり、浅野カーリットと密接な関係にあったと推測できる。

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M636-A-No1-64
1947年11月08日-米軍撮影・一部加工

「東京第一陸軍造兵廠川越製造所」の北東には「浅野カーリット埼玉工場」があった。浅野カーリット埼玉工場では「陶器型手榴弾」を製造していた。

浅野カーリットは戦後に「日本カーリット株式会社」に。

埼玉工場の跡地は、川越東高校に。公立高校のような名称だけれども、実は私立高校。1984年開校。

「信」の文字がある陶器は「信楽焼」。
全国各地の名産陶器がこの地に集まっている。

陶器型手榴弾は、本来の鉄器で作られる手榴弾と比べ、威力は弱かったという。

陶器の点在する河川敷への侵入は自己責任で。

びん沼川のすぐ隣は、荒川。

交通の便は悪い。

かつては、割れていない陶製手榴弾も多くあったようだが、形の良いものから持ちさらわれており、現在は割れた破片が残るばかり。根気よく掘っていけばまだ完全な形をしたものも残っているかもしれないが。

75年の時を、この河川敷で風雨にさらされながら、歴史を刻んでいる陶器の欠片に、往時を思い起こしつつ感傷に浸るとき。

陸軍成増飛行場の戦跡散策

令和2年(2020年)2月撮影

かつて東京都練馬区にあった陸軍飛行場。


陸軍成増飛行場

昭和17年(1942)4月18日のドーリットル空襲を期に、帝都防空の飛行場として急遽建設が計画され突貫工事が行われ、昭和18年(1943)12月に陸軍成増飛行場が完成。

陸軍成増飛行場完成と同時に第1航空軍第17飛行団隷下の飛行第47部隊が展開。
昭和19年3月、飛行第47部隊は、第10飛行師団隷下となり、11月には特攻隊(B29に対する空対空の特別攻撃隊)「震天制空隊」が編成される。

戦後は連合国に接収され、グラントハイツ(アメリカ空軍の宿舎)となる。1973年に日本に返還。「光が丘」として再開発された。

住居に再活用された掩体壕

位置関係

現在の都立光が丘公園を中心とした一帯が「成増陸軍飛行場」であった。

国土地理院
C36(8913)-C2-399
陸軍撮影、1944年10月24日
GoogleMapに、おおよその位置関係を追記
国土地理院
USA-R585-No2-1
米軍撮影、1949年03月02日
グラントハイツ

陸軍成増飛行場の掩体壕跡

赤塚新町の住宅地の中に、掩体壕が残っている。

残っている・・・というよりも住居として、掩体壕の上下の空間が巧みに活用されていた。

だいたいの住所は、「板橋区赤塚新町3-29」地区内。
住宅地なので見学は状況をわきまえつつで。

前述の グラントハイツ 周辺を撮影した航空写真、国土地理院USA-R585-No2-1・米軍撮影(1949年03月02日)から位置関係を確認してみる。

都立光が丘公園へ。


都立光が丘公園

陸軍成増飛行場は、戦後グラントハイム(米空軍宿舎)を経て返還後に光ヶ丘団地に隣接する公園となった。

光が丘公園 のあらまし
 都市近郊の農村地帯 であったこの付近一帯は、昭和15年(1940年)紀元2600年 記念事業として、東京府の「東京大緑地計画 」のひとつにあげられました。
 しかし、大平洋戦争 が始まったため、大緑地としては整備されず、昭和20年8月の終戦まで旧陸軍の成増飛行場 として使用され、戦後は、昭和48年9月の全面返還 までの間、米軍の住宅地(グラントハイツとして使用されました。
 昭和47年(グランドハイツ〕 跡地(182ha)の処分により、同49年3月その跡地の三 分の一に当たる 60.7haが都市計画公園として計画に決定されました。
 昭和49年4月から公園造成に着手し、“豊かな自然とスポーツの公園”をテーマに、災害時の広域避難場所としても機能するみどり豊かな、都民に広く親しまれる公園として整備され、同56年12月に34.6haを開園しました。その後、各種の公園施設を整備し、現在60.7haを有する都内でも有数の規模の公園として都民に利用されています。

◎ 開園年月日 昭和56年(1981年)・12月26日
◎ 公園の規模607,675.05m (平成7年6月1日現在) ..
◎所在地 練馬区光が丘四丁目、同二丁目、旭町二丁目 板橋区赤塚新町三丁目
◎主な施設 スポーツ施設のほか、芝生広場、バードサンクチュアリ 、ゲートボール 場、噴水、流れ、光りのアーチ、売店、駐車場など。


屋敷森跡地

昭和18年に成増飛行場が造営されるにあたり、周辺住民は立ち退きを命じられるも、この屋敷森の家は境界の都合で1軒だけ残ることが出来た。
戦後、グラントハイツとなり飛行場の周りの土地も接収されるも、この屋敷森の住宅は宅地であったためにそのまま残ることが出来たという。
光が丘公園として再開発時に、当主が無くなり「屋敷森のまま」保全されることにあったという。

屋敷森の樹木は、成増陸軍飛行場のころから変わらずにそこにあったのだろうか。特攻隊の飛び行く姿を見守っていたのだろうか。


平和祈念碑

平和祈念碑
 この地には 1943年(昭和18年) 帝都(首都)防衛のため成増陸軍飛行場がつくられ 多くの若い生命が空に散っていった。
地元住民にとっても 農地を強制買収され 基地づくりに動員された忘れがたい地である。
 終戦直後の一時期 この広大な地域は米軍キャンプとして接収され 米国第18代大統領グラント将軍にちなみグラントハイツと呼ばれた。
その後 多年にわたる返還運動が実り みどりと太陽の武蔵野台地にコミュニティ「光が丘」が誕生した。
 練馬区は1983年(昭和58年)に『非核都市練馬区宣言』を制定し 「世界の恒久平和は人類共通の願い」であるとして「核兵器の廃絶と軍縮」を強く訴えている。
 本年は戦争終結から50年 歴史の大きな節目の年にあたる。この時にあたり戦中 戦後の歴史の激しい流れを見つめてきたこの地に 区民の総意を込めて平和の祈念碑を建て 練馬地域の多数の戦没者を悼むとともに 空爆による被災者や第二次世界大戦による内外諸国民の多大な犠牲を省りみるものである。
 ここに練馬区民は 戦争の悲惨さと平和の尊さを心に刻み 平和を守る決意を新たにしたい。
 1995年(平成7年)8月15日
 練馬区

平和への祈り
練馬区長 岩波三郎書

平和祈念碑.彫刻
デザイン.制作
彫刻家 田中昭

健やかに
田中昭

都立光が丘公園には、成増陸軍飛行場の面影は残っていない。なんとなくここに滑走があったのか・・・と感慨にふけるのみ。

総務省
練馬区における戦災の状況(東京都)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_18.html


2023年9月追記

成増陸軍飛行場開設80周年・写真展

郷土史家の山下徹さんの展示と秘話公開がありました(2023年9月)
「成増陸軍飛行場秘蔵写真&今だから語る秘話公開」

http://akatsuka-tokumaru.cocolog-nifty.com/blog/2023/09/post-9876ce.html

https://itabashi.keizai.biz/headline/667/

そこで知った2つの史跡を以下に追記。


飛行場建設で移転した観音立像

丸彫聖観音立像廻国供養塔
練馬区登録有形民俗文化財

成増陸軍飛行場の建設に伴い、飛行場予定地の住民たちは移住を余儀なくされたが、そんな住民の一人(Kさん)は、道端で打ち捨てられそうになっていた観音様を保護し、近隣の神社に預けたという。

江戸時代(享保13年・1728)に66ヶ国巡りを達成した記念碑です。元は光が丘の地域に建てられました。成増(高松)陸軍飛行場建設のため、土支田八幡宮、さらに旭町2丁目にあった稲荷神社に移設されました。その後、保護のため、現在地に移設しました。
 平成27年10月 練馬区教育委員会

上練馬公園にて


吉澤平吉中尉(震天制空隊)の勇魂碑

震天制空隊(震天隊)は空対空の特攻隊。B29に対して体当たり特攻を実施防空した。成増陸軍飛行場にも震天隊が編成され、首都防空の一翼を担っていた。

昭和20年2月10日、B29に対して体当たり散華した吉澤中尉。
震天隊として成増陸軍飛行場にもゆかりがあった。

東部第一〇七部隊飛行第四十七戦隊、震天制空隊近衛鐘馗戦闘隊
吉澤平吉中尉(陸軍航空士官学校第56期)
実は吉澤中尉は特攻隊員ではなかった。しかし部隊から多くの体当たりでの特攻隊員を出した先任将校として、自らもと覚悟を決めていたのかもしれなかった。

吉澤中尉(特進で少佐)の体当たり散華から38年後の昭和58年2月10日の、吉祥寺(武蔵野市)の大法禅寺境内に、勇魂碑が、吉澤中尉の姉達によって建立された。

勇魂 
従六位功四級勲六等 
故陸軍少佐吉澤平吉之碑

感状
 陸軍中尉 吉澤平吉

右者マリアナ基地ヨリスル米空軍ノ数次ニ亙ル帝都来襲ニ際シ其ノ都度勇戦以テB29撃墜ニ機撃破4機ノ赫々タル戦果ヲ収メアリシカ昭和20年2月10日敵B29約90機ノ太田付近空襲ニ方リ勇躍之ヲ下館上空ニ邀撃シ忽チ其ノ1機ヲ撃破セリ敵機攻撃ニ方リ自機亦被弾損傷シタルモ吉澤中尉ハ毫モ之ニ屈スルコトナク勇戦奮闘遂ニ後続敵編隊ノ左外側機ニ對シ敢然躰當リヲ決行之ヲ確実ニ撃墜スルト共ニ自ラ亦壮烈ナル戦死ヲ遂ク
吉澤中尉ハ真摯者実而モ内ニ烈々タル気魄ヲ蔵シ戦技亦卓抜ナリ敵機要地ニ侵襲スルヤ憤然挺身ヲ勇猛果敢毎戦武勲ヲ重ネ遂ニ玉砕以テ要地援護ノ大任ヲ完遂セルモノニシテ其ノ行動真ニ軍人ノ亀鑑ト謂フヘク武功亦抜群ナリ
依テ茲ニ感状ヲ授与シ之ヲ全軍ニ布告ス
  昭和20年2月23日
   防空総司令官 稔彦王

防空総司令官 東久邇宮稔彦王殿下の感状が掲げられている。

辞世
君の為 捧げし命の 重からで 只一筋に 宮居護らむ
大君の 御楯とあらば 何惜しまむ 雲染め散なむ 翼なりせば

戦歴
防衛総司令官東久邇宮稔彦王殿下命名の震天制空隊にて昭和十九年来帝都護持の任務を遂行中 「マリアナ」基地より発進する米空軍の数次に亙る帝都襲来に際し其の都度勇戦B29二機を撃墜四機を撃破せしが 昭和二十年二月十日B29約九十機関東地方襲来に際し下館上空に於て其の一機を撃破せしも 自機又被弾損傷せるも毫も之に屈せず更に勇戦奮闘遂に後続編隊の左外側機に敢然体当りを決行 之を確実に撃墜すると共に梅花に魁けて萬朶の櫻となり雲染む屍は大空に潔散壮烈なる戦死を遂く 昭和二十年二月二十三日東久邇宮稔彦王殿下より上記感状を授与せられ二階級特進畏くも陛下のお耳に達し 同じく仏印の空に散華し兄陸軍大尉吉澤正夫と共に金鵄勲章並に勲六等単光旭日章を賜ふ

略歴
大正11年 9月19日 本籍埼玉県北埼玉郡下忍村大字樋上64番地
(略)
昭和14年12月   陸軍士官学校予科 入学
昭和16年 3月   同校卒業 士官候補生隊付勤務
         飛行第二十九戦隊
昭和16年 6月   陸軍航空士官学校 入校
昭和16年 7月   第二十九独立飛行隊に転属
昭和18年 5月   陸軍航空士官学校を卒業(五十六期)
         任 陸軍少尉 叙正八位
昭和18年 6月   明野陸軍飛行学校 入校
昭和18年11月   同校退校 調布飛行部隊 部隊所沢へ移動
昭和19年     東部第一〇七部隊飛行第四十七戦隊
         震天制空隊近衛鐘馗戦闘隊
昭和19年 8月  陸軍中尉 従七位  
昭和20年 2月10日 群馬県に於て空中戦闘中戦死 2階級特進
         陸軍少佐従六位功四級勲六等を賜う 
         享年二十四才

碑文
このたび 昭和十六年来 府中市多磨霊園に埋骨されておりました父母兄弟の遺骨を当大法寺の永代納骨堂に奉移して未来永劫にわたり御供養をいただくことになりました 私達の弟二人は純粋に忠君愛国の念に燃え殉じましたが 志ならずして敗戦となり数多くのあらゆる面に罹災されました皆様の筆舌に尽くせぬ御辛苦に思いを馳せ さぞかし無念の涙に咽んだことと思います
然し身は大空に散華いたしましても霊魂は今なお天空に留まって日本国と国民の皆様の御安泰を祈り永遠なる平和への礎となっていることと思います 戦後三十八年を経た今日 新に戦死した弟達が蘇って参りました思いを切実に感じあらためて永遠の平和をひたすらに祈るものでございます
合掌
 昭和五十八年二月十日建立 吉澤富子 吉澤満子

合掌

吉祥寺の大法禅寺


立教大学の近代建築

池袋駅のほど近く、立教大学池袋キャンパス。
近代建築を散策してきました。


立教大学 池袋キャンパス
立教学院平和祈念の碑

チャペル近くにひっそりと慰霊の碑があった。

立教学院平和祈念の碑
 剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする
国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない (イザヤ書2章4節)

アジア太平洋地域の戦争で没した
本学院出身者の名簿をここに納める

2001年11月
立教学院

昭和16年(1941年)太平洋戦争開戦。
昭和17年、「基督教主義ニヨル教育」から「皇国ノ道ニヨル教育」に変更、チャペルを閉鎖し「修養堂」と改称。
昭和18年「学徒出陣」。文系学生は原則として全員が軍務に服することとなり文学部閉鎖。
立教大学からは658人(文学部23人、経済学部635人)の学生が入隊。

太平洋戦争に先立つ日中戦争下の昭和14年(1939年)に戦没した交友・教職員のための第一回慰霊祭がチャペルで執り行われた。昭和17年(1942年)の第四回慰霊祭までの戦没者30名の名前がチャペルに掲げられたタブレットに刻まれた。第5回目以降はチャペルが閉鎖され神道式での慰霊祭が執り行われた。
戦後、戦没者のうち在学中にチャペルで洗礼を受けた者とチャペル活動に積極的だった者の名がタブレットに刻まれ、昭和59年には昭和19年度卒業生のうちで戦没が明らかになった者の名も追加で刻まれたという。

チャペルに掲げられているタブレット
「名誉之戦死者」
人その友のために己の生命を棄つる之より大いなる愛はなし
そこには68名の名前が刻まれている


立教大学 池袋キャンパス
本館(モリス館)

東京都選定歴史的建造物
大正8年(1919年)竣工。立教大学のシンボル的な建造物。
米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリス氏の寄付によって建てられたことから通称は「モリス館」。中央時計台の時計はイギリス・デント社製で直径90cm。池袋キャンパスのレンガ建造物は「フランス積み」で構築。

東京都選定歴史的建造物
立教大学本館(モリス館)、図書館旧館、諸聖徒礼拝堂、第1食堂、2号館、3号館

所在地 豊島区西池袋3-34-1
設計者 マーフィ&ダナ建築事務所
建設年 1818年(大正7)
    礼拝堂聖別式 1920年(大正9)

 立教大学の前身立教学校は、1874年(明治7)築地の開市場内に米国聖公会系の一私塾として開校された。その後、1918年(大正7)に現在の池袋に移転し、大学本館(モリス館)、図書館、寄宿舎、食堂、教授住宅等が完成し、礼拝堂は1920年(大正9)に聖別献堂が行われた。
 大学キャンパスの基本計画は、ニューヨークの建築家マーフィ&ダナ建築事務所によるもので、大学の主要な機能をもつ大学本館を据え、左に図書館、右に諸聖徒礼拝堂(チャペル)を配して正面を構成し、さらに中央の軸線を延長して、中庭を囲んで学生食堂を中心に左右に寄宿舎を整える構成となっている。
 各建物の意匠はゴシックリヴァイバル様式を基調とし、簡素でありながら重厚な赤レンガ造りでまとめられている。
 東京都


立教大学 池袋キャンパス
本館(モリス館)内部

内部は洗練された美しさがある。
2012年に改修工事が行われ、全館バリアフリー化対応。現在も教室として使用されている。


立教大学 池袋キャンパス
図書館旧館
メーザーライブラリー記念館

東京都選定歴史的建造物。
大正8年(1919年)竣工。
平成24年(2912)まで図書館として使用され、平成26年からは「立教学院展示館」として活用されている。本館の向かって左側。建設時に大きな貢献があったサミュエル・メーザー氏に由来する。


立教大学 池袋キャンパス
諸聖徒礼拝堂(チャペル)

東京都選定歴史的建造物。
大正5年(1916年)に定礎式がおこなわれ、大正8年(1919年)に竣工。


立教学院創立者
主教 ウイリアムス之像

人の子がきたのも
 仕えられるためではなく
  仕えるためであり
また多くの人の
 あがないとして
  自分の命を
    与えるためである
    
立教学院創立者
主教 ウイリアムス之像
昭和42年5月18日建之


立教大学 池袋キャンパス
第1食堂

東京都選定歴史的建造物。
大正7年(1918年)竣工。 イギリスの寄宿舎を思われる様相。
入口にはラテン語で「 APPETTTVS RATIONI OBEDIANT (食欲は理性に従うべし)」と記載。これは哲学者キケロの「欲望は理性に従うべし」をもじったものという。


立教大学 池袋キャンパス
2号館

東京都選定歴史的建造物。
大正7年(1918年) 、「寄宿舎東寮」として竣工 。
寄宿舎は1932年に閉鎖され、その後は教室や研究室として使用。


立教大学 池袋キャンパス
3号館

東京都選定歴史的建造物。
大正7年(1918年)、「寄宿舎西寮」として竣工。


立教大学 池袋キャンパス
4号館

昭和12年(1937年)、「予科校舎」として竣工。
現在は4号館(理学部研究室)。
立教大学内では珍しいレンガ造り以外の建造物。

神の栄光と
国民教育の
ため
 昭和12年4月


立教大学 池袋キャンパス
ライフスナイダー館

1926~27年(大正15~16年)にかけて校宅として建設された。空襲や再開発などによって10棟あった校宅は現在は、ライフスナイダー館のみを残す。
この建物は明治45年(1912)に立教学院総理として池袋校舎建築に尽力されたライフスナイダーの邸宅であった。ライフスナイダーは日米関係悪化により昭和15年(1940)に立教学院を辞任している。
現在は1階をレセプションルーム、2階を院長室や立教英国学院東京事務所などに使用されている。


江戸川乱歩邸

ほか立教大学関係の戦前建造物としては、「江戸川乱歩邸」がある。
邸宅は昭和9年(1934)、書庫として使われた土蔵。豊島区指定有形文化財。
平成14年(2002)に立教大学管理となり、公開日限定で公開されている。

2023年現在、公開日は毎週月曜日と金曜日。平日限定。

※江戸川乱歩邸は2023年2月撮影
※それ以外の立教大学関連は2022年2月撮影