「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

「日本海軍の生みの親」勝海舟像と勝海舟墓

都内で、勝海舟にまつわる史跡などを散策してみました。

勝海舟銅像(墨田区役所うるおい広場)

勝海舟(勝麟太郎/勝安芳

旧幕臣。政治家。
正二位勲一等伯爵。明治政府の初代海軍卿。(初代海軍大臣は西郷従道)

幼名及び通称は「勝麟太郎」。諱は「勝義邦」。幕末に「安房守」に任官し「勝安房」を名乗っていたことから、明治維新後に改名して「勝安芳」(かつ・やすよし)と名乗る。
号は「勝海舟」。山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる。

幕末
文政6年(1823)に江戸本所にて生まれる。天保9年(1838年)家督相続。
安政6年(1859年)に、赤坂氷川神社の近くに転居。以来、赤坂界隈を拠点に活動をすることとになる。
嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊来航。勝海舟は海防意見書を提出すると幕府老中首座阿部正弘の目に止まり異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられることとなる。その後、長崎海軍伝習所に入門。オランダ語ができたことから長崎海軍伝習所教監も兼ね、伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めた。足掛け5年を長崎で過ごしたが、船乗りに向かない体質で、頻繁に船酔いに苦しんでいたという。
江戸築地に軍艦操練所が開設されると、勝海舟は長崎から江戸に戻り、軍艦操練所教授方頭取に就任。

咸臨丸での渡米
万延元年(1860年)
幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカへ派遣する。

遣米使節の正使は新見正興、副使は村垣範正、目付に小栗忠順らが選ばれ、アメリカ海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米。
この時、護衛と言う名目で軍艦を出すことにし、咸臨丸がアメリカ・サンフランシスコに派遣された。
咸臨丸には軍艦奉行(司令官格)として木村喜毅(木村兵庫頭・木村芥舟)、軍艦操練所教授方頭取(艦長格)として勝海舟が乗船し、米海軍から測量船フェニモア・クーパー号艦長だったジョン・ブルック大尉が同乗し咸臨丸の航海を助けた。通訳のジョン万次郎、木村喜毅の従者として福沢諭吉(福澤諭吉)も咸臨丸に乗り込んだ。
帰国後は蕃書調所頭取助や講武所砲術師範などに就任。

私塾・海軍塾
勝海舟は先行して私塾として「海軍塾」を設立。当初は大阪に設置し、後に神戸に移転している。海軍塾塾頭は坂本龍馬、塾生にはのちの外務大臣となる陸奥宗光や、初代連合艦隊司令長官となり日清戦争に勝利する伊東祐亨などがいた。

神戸海軍操練所
文久2年(1862年)、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行並、そして幕府艦隊を統括する軍艦奉行に就任し、神戸海軍操練所を設立。
しかし、勝海舟は禁門の変の影響で軍艦奉行を罷免となり約2年の蟄居生活を送ることとなる。また、神戸海軍操練所も反幕的な色合いが強かったため慶応元年(1865年)に閉鎖となる。

江戸城無血開城
慶応2年(1866年)5月28日に軍艦奉行に復帰。
慶応4年(明治元年、1868年)戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北。
徹底抗戦を主張する小栗忠順が罷免され、海軍奉行並を経て「陸軍総裁」に起用。
官軍が駿府城に到達した際に、勝海舟は早期停戦と江戸城の無血開城を主張。

高橋泥舟の推薦により、徳川慶喜から使者として命じられた山岡鉄舟が駿府へ交渉へ赴く前に勝海舟と基本方針を擦り合わせした。勝海舟は山岡鉄舟に東征大総督府東海道先鋒参謀であった西郷隆盛宛の手紙を託す。

慶応4年(明治元年、1868年)、江戸城総攻撃3月15日の直前の3月13日と14日には勝海舟が西郷隆盛と会談。
江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸城無血開城によって江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救わることとなった。

明治時代
明治維新後も勝海舟は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議、海軍大輔、海軍卿、元老院議官、枢密顧問官などを歴任し、伯爵に叙された。
しかし明治政府への仕官に気が進まず、辞退や短期間での辞職などを繰り返していた。
晩年も赤坂氷川の地で過ごしており、明治32年(1899年)1月19日に脳溢血により意識不明となり死去。享年77歳。
戒名は、大観院殿海舟日安大居士
勝海舟の最期の言葉は、「コレデオシマイ」であったという。


勝海舟寓居・海軍塾(専稱寺)跡(大阪)

大阪。
神戸に海軍操練所ができる前に、勝海舟は大阪で私塾「海軍塾」を開設していた。そして大阪での勝海舟の寓居が「専稱寺」であった。

勝海舟寓居・海軍塾(専稱寺)跡
この付近「淡路町3丁目」はもと「北鍋屋町」といい、専稱寺がありました。
文久3年(1863)勝海舟が住み、坂本龍馬や近藤長次郎らはこの国をまもるための海軍技術を学びました。その後は、塾は神戸(現兵庫県)に移ります。

 専稱寺は寺伝によると、江戸初期に北鍋屋町に開山され、明治33年(1900)には神戸に移転し、現存する浄土真宗本願寺派の寺です。慶応2年(1866)に記載された水帳には、表口11間、裏口20間の広さとあります。北鍋屋町は後に区画整理などで、現在の淡路町2丁目5から6、同三丁目1から2に該当します。
 文久3年(1863)3月朔日(1日)幕臣勝海舟は「(略)此日、旅宿を北溜屋町真正寺にっ定む 坂下(本)、新宮、京師より来る」と「海舟日記」に記しています。文久3年9月9日にも「(略)専修寺旅宿に入る(略)」という記載があり、また。勝の知人である幕臣 杉浦梅潭は、日記の文久4年正月7日条に「勝麟太郎旅宿 北鍋屋町 専正寺」と記しています。
 勝海舟は「日本の海軍 一大共有の海局」を目指し、佐藤与之助を塾頭として、私塾「大阪海軍塾」を専稱寺で開きました。塾生には、坂本龍馬をはじめ、望月亀弥太、高松太郎、千屋寅之助らも加わり、航海術を学びました。
 この頃、行動長次郎は南鍋屋町にある「大和屋弥七」の娘 徳 と結婚し、遺児 百太郎 が生まれます。
 また、勝海舟は、桂小五郎・井上聞多・松本良順・西郷吉之助らが、大阪の旅宿を訪れたと記していて、ここ専稱寺の可能性があります。
  (漢字は原文を使用しています。)
  平成22年9月

記念碑が有るのみ。

場所

https://goo.gl/maps/EvZMwer5TncQvJkQ6


神戸海軍操練所

以下の記事にて別掲載。


洗足池
勝海舟別邸(洗足軒)跡

洗足池には、勝海舟の別邸「洗足軒」があった。
洗足軒跡は、現在は大田区立大森第六中学校となっている。

勝海舟別邸(洗足軒)跡
勝海舟(1823~99)の別邸は戦後まもなく焼失しましたが、茅葺きの農家風の建物でした。
鳥羽・伏見の戦い(1868)で幕府軍が敗れると、徳川慶喜より幕府側の代表として任じられた海舟は、官軍の参謀西郷隆盛(南洲)と会見するため、官軍の本陣が置かれた池上本門寺に赴きました。
その会見により江戸城は平和的に開けわたされ、江戸の町は戦禍を免れたのです。海舟は江戸庶民の大恩人と言えるでしょう。
その際、通り掛かった洗足池の深山の趣のある自然に感嘆し、池畔の茶屋で休息したことが縁となり、農学者津田仙(津田塾大学創始者、梅子の父)の仲立ちで土地を求めました。明治二十四年(1891)自ら洗足軒と名付けた別邸を建築し次のような歌を詠んでいます。
 池のもに 月影清き今宵しも
  うき世の塵の跡だにもなし
晩年海舟は晴耕雨読の生活の中で、かえで、さくら、松、秋の草々などを移し植え次のようにも詠んでいます。
 うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
  秋はにしきを織りいだすらむ
明治三十二年(1899年)七十七歳で没しましたが、『富士を見ながら土に入りたい』との思いから、生前より別邸背後の丘に墓所を造りました。
石塔の『海舟』の文字は徳川慶喜の筆と伝えられています。当初は海舟一人の墓所でしたが、後に妻たみも合祀され、大田区の史跡に指定されています。
 平成11年3月
 勝海舟没後百年を記念して
 社団法人 洗足風致協会

勝海舟
勝海舟は、幕末から明治にかけて激動の時代を駆け抜けた。
スクリュー式蒸気軍艦「咸臨丸」で渡米し、海軍の育成に努めるなど、非常に革新的な考えを持った幕臣と言われている。
慶応4年(1868)年に新政府軍が江戸に進軍した際には、薩摩藩邸における西郷隆盛との会見や池上本門寺での交渉を経て、「江戸城無血開城」を実現させたことでも有名である。
池上本門寺での交渉に赴く歳、洗足池付近で休息を取ったと言われる。そのときに洗足池周辺の風景を気に入り「洗足軒」という別荘を現在の大森第六中学校の地に構えた。

洗足軒後は大森第六中学校。

https://goo.gl/maps/PwYX94cybFc2jqCu5


勝海舟記念館(旧・清明文庫)

1899年に勝海舟は死去。勝海舟死去後、使われることのなかった洗足軒の地を、財団法人清明会が譲り受け講堂兼図書館を1928年(昭和3年)に建設。戦後は学習研究社の「鳳凰閣」として使用され、2012年に大田区の所有となる。
2019年に清明文庫東側面に併設する形で増築され「大田区立勝海舟記念館」として再整備された。

1928年(昭和3年)建設。鉄筋コンクリート2階建て。ネオゴシック様式を基調としアール・デコ調の文様などが施されている。
2000年に国登録有形文化財に登録。

清明文庫の建物
 この建物は昭和3(1928)年に竣工し、外観は正面中央部のネオ・ゴシックスタイルの柱型4本が特徴的で、内部はアールデコ調の造作が施されている折衷様式の建築です。
 用途や間取りの改変や破損部の修理が重ねられているますが、内外とも竣工時の意匠や仕様、建具が良好な状態で残っており、昭和初期の建築様式と技術残す貴重な歴史的建造物です。ただ、設計図は残っておらず、設計者も分かっていません。残されている大正13(1914)年当時の図面では、一部は木造の設計でしたが、当時普及が進み始めた鉄筋コンクリート造に変更され、現在に至っています。

旧貴賓室
 この部屋は、かつて、お客様などをお迎えする貴賓室として使われていました。床材は、記念館が整備される前まで、当時の木材が一部残されており、3種の材料を組合わせた寄せ木造りでした。しかし、劣化が進んでいたため、同様の材料を用いて、全面的に再現しています。

寄木床
展示室5(旧貴賓室)の寄木床仕上は、建設当時高級材料であったラワンやオーク材を用いて、美しいパターン貼りで構成されていました。
 既存の床は傷みや破損があったため、建設当時と同じ樹種の新しい材料を使って復原しています。皆様の目の前にあるのは、既存の寄木床の良好な部分を残したものです。


勝海舟胸像

勝海舟胸像
 この胸像は、海舟の晩年の姿を表現したもので、彫刻家・高村光雲の弟子である本山白雲の作品です。
 白雲は、高知県の坂本龍馬像を始め、偉人の銅像を多数制作したことで知られていますが、現存するものは少ないといわれています。本作は、昭和25年(1950)年以来、東京都議会に保管されていたものです。

本山白雲作

https://goo.gl/maps/5RBziFEGZ3qd95Vj6


勝海舟の墓

洗足池公園の一角に勝海舟夫妻の墓がある。
勝海舟の生前の希望で、洗足池のほとりに眠る。

海舟の文字は、徳川慶喜公によるものという。

大田区文化財
勝海舟夫妻の墓
 勝海舟、諱は義邦、初め麟太郎、後に安房または、安芳と改め、海舟と号した。文政6年(1823)江戸に生れる。幕臣として万延元年(1860)咸臨丸で渡米、海軍奉行となり明治元年(1868)江戸開城に尽力する。
維新後は海軍卿、伯爵、枢密顧問官などを歴任し、漢詩、書を好み、高橋泥舟・山岡鉄舟とともに幕末三舟と称せられた。
洗足池やその周辺の風光を愛し、明治32年(1899)没後遺言によりこの地に葬られた。
別荘洗足軒(現在は大森六中)で次の歌をよまれた。
   千束せんぞく村の別墅べっしょに
       楓樹数株を植ゑて
  うゑをかば よしや人こそ訪はずとも
     秋はにしきを 織りいだすらむ
  染めいづる 此の山かげの 紅葉は
     残す心の にしきとも見よ
          (氷川歌集より)
昭和49年2月2日指定
大田区教育委員会

勝海舟先生墓前

手水鉢には、「子爵 榎本武揚」の名も刻まれていた。

https://goo.gl/maps/W5CPMR2Sfv4xH5do9

江戸無血開城顕彰碑

勝海舟墓所のとなりには、江戸無血開城顕彰碑

江戸無血開城顕彰碑
慶應三年十二月 王政古ニ復シ翌明治元年二月大總督熾仁親王 勅ヲ奉シ 錦旗東征セラレ三月十五日ヲ期シテ江戸城ヲ攻メシム城兵決死一戦セントシ兵火将ニ全都ニ及ハントス時ニ勝安芳幕府ノ陸軍總裁タリ時勢ヲ明察シテ幕議ヲ歸一セシメ十四日大總督府参謀西郷隆盛ト高輪ノ薩藩邸ニ會商シテ開城ノ議ヲ決シ四月十一日江戸城ノ授受ヲ了セリ都下八百八街數十萬ノ生霊因テ兵禍ヲ免ガレ江戸ハ東京ト改稱セラレテ 車駕此ニ幸シ爾来 三朝ノ帝都トシテ殷盛比ナシ是レ一二隆盛安芳ノ兩雄互ニ胸襟ヲ披キテ邦家百年ノ大計ヲ定メタルノ賜ナリ今ヤ東亞大有為ノ秋ニ方リ當年兩雄ノ心事高潔ニシテ識見卓抜ナリシヲ追慕シ景仰ノ情切ナリ茲ニ奠都七十年ニ際シ兩雄ノ英績ヲ貞石ニ勒シテ之ヲ顕彰シ永ク後昆ニ傳フ
 昭和十四年四月
 東京市長従三位勲一等小橋一太謹識


洗足池公園

公園の一隅に聖域がある。勝海舟墓所のとなり。

西郷隆盛留魂祠

留魂祠は、明治10年(1877)に戦死した西郷隆盛(南洲)を惜しんで、勝海舟が、西郷隆盛の7回忌に際して明治16年に造立した祠。
先んじて西郷隆盛の漢詩碑を建碑し、留魂祠ともに葛飾区の浄光寺境内にあった。勝海舟没後、勝海舟夫妻墓の隣地にあたる当地へ大正2年に移転したという。

留魂祠
一、祭神 南洲西郷隆盛先生
一、例祭 毎年九月二十四日
由緒
 明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、晩年、この洗足池畔に洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。南洲先生はその後、明治十(一八七七)年の西南戦役により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治十六年(一八八三年)、その魂魄を招祠して留魂祠を建立せられました。留魂祠の名は、漢詩「獄中有感」の「願留魂魄護皇城」に由来するものです。
 この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木一-五-九)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正二(一九一三)年、石碑とともに現在の地へ移されました。右隣には勝先生御夫妻の奥津城(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。
 南洲会

西郷隆盛留魂詩碑

勝海舟が、西郷隆盛の死をいたみ、詩とその筆跡を遺すために、三回忌にあたる明治12年に自費で建立したもの。裏面には勝海舟が撰文した由来を記している。もとは葛飾区の浄光寺境内にあった。勝海舟没後、勝海舟夫妻墓の隣地にあたる当地へ大正2年に移転したという。

内容は西郷隆盛が沖永良部島の獄中で作った七言律詩。「願留魂魄護る皇城」から留魂詩と称される。

南洲先生建碑記

留魂碑の工事を勝海舟に任された玉屋忠次郎が明治16年(1883)に建立。
留魂碑が明治12年7月27日に彫刻され、谷中の石工郡鶴のもとから浄光寺に建立された経緯が記載されている。

勝海舟追慕碑

大正2年に勝海舟門下生の富田鐵之助が記したもの。留魂碑が建立されて現在地に移設された経緯などが記されれている。

徳富蘇峰詩碑

昭和12年に、有志が建立。
勝海舟門下生であった徳富蘇峰の詩を刻み建立。
勝海舟と西郷隆盛によって江戸庶民の命が救われた偉業を讃え、両雄を偲ぶ内容。

https://goo.gl/maps/KtnmYM2pYCNzRS6R9


勝海舟銅像

場所は変わって、隅田川近く。
墨田区役所となりの広場に、右手を突き出した勝海舟像がある。
木内禮智作。像高2.5m、台座も入れると5.5mとなる。

勝安芳
 勝海舟(通称・麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823年)1月30日、江戸本所亀沢町(両国4丁目)で、父小吉(左衛門太郎惟寅)の実家男谷邸に生まれ、明治32年(1899年)1月19日(発表は21日)、赤坂の氷川邸で逝去されました。
 勝海舟は幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成しました。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城をとりきめた海舟は、江戸を戦禍から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄であります。
 この海舟像は、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区にに寄贈されたものであり、ここにその活動にご協力を賜った多くの方々に感謝するとともに、海舟の功績を顕彰して、人びとの夢と勇気、活力と実践の発信源となれば、幸甚と存じます。
  海舟生誕180年
 平成15年(2003年)7月21日(海の日)
 墨田区長 山崎昇

https://goo.gl/maps/TgLkQzqUAB7626a76


勝海舟生誕の地
 (墨田区立両国公園)

同じく墨田区。両国駅の南側。
墨田区立両国公園が勝海舟の生誕の地であった、という。近くには吉良上野介邸跡もある。

勝海舟生誕の地
所在地 墨田区两国四丁目二十五番
 勝海舟は、文政六年(一八二三) 正月三十日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で生まれました。父権究(小吉)は男谷忠怒(幕府勘定組頭)の三男で、文化五年(一八〇八)七歳のとき勝元良に養子入りし、文政二年に元良の娘のぶと結婚、男谷邸内に新居を構えました。海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は七歳までの幼少期をこの地で過ごしました。その後は、旗本天野左京の自宅ニ階(現亀沢ニ丁目三番)や代官山ロ鉄五郎の貸家(現亀沢三丁目六番)を転々とし、ようやく落ち着いたのは天保初年、旗本岡野融政の貸地(現緑四丁目二十五番)に転居してからのことでした。海舟は、赤坂に転居する弘化三年(一八四六)までそこで暮らし、島田虎之助(豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参拝していたと伝えられています。
 海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保十四年(一八四三)二十一歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永三年(一八五O)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。米国使節マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永六年六月三日のことでした。海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政二年(一八五五)正月には目付大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附南書翻訳御用となり、翌三年に講武所砲術師範役、同六年に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を広げていきました。そして、同七年正月には日米修好通商条約の批准使節に随伴し、軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行を務めるなど、政局の混迷の中でますます重要な役割を担うようになったのです。慶応四年(一八六八)三月に行なわれた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事となりました。
 海舟は新政府で高官に任ぜられますが、明治八年(一八七五)十一月に元老院議官を辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。同十九年(一八八六)五月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。
 明治三十二年(一八九九)一月十九日、海舟はも七十七歳で病没。洗足池呼の墓で静かに眠っています。
  平成二十三年三月
  墨田区教育委員会

勝海舟生誕之地
法務大臣 西郷吉之助書

西郷吉之助は、西郷隆盛の嫡男である西郷寅太郎の三男。西郷隆盛の孫にあたる。第2次佐藤内閣(1968年・昭和43年)の法務大臣。

碑文
勝海舟先生は幼名を麟太郎と稱し文政6年1月晦日この地男谷家邸内に生まる
剣は島田虎之助に師事し蘭學海洋術を學び安政7年咸臨丸艦長として渡米す
明治元年3月13日高輪薩摩邸に於いて西郷隆盛と會談
官軍の江戸進撃を中止させ江戸百萬の庶民を戰禍より救い東京都繁栄の基礎となせり
明治32年1月19日赤坂氷川の自邸に於いて歿す
明治百年を記念しこの碑を建つ
 昭和43年12月吉日  秀魚書
  勝海舟両国顕彰会
  両國1丁目町会
  両國2丁目町会
  両國3丁目町会
  両國4丁目町会有志
  元男谷邸跡

由来碑
(表)
勝海舟は幼名を麟太郎といい 文政6年(1823)1月13日この地 男谷精一郎邸内で生まれた。
剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。
慶應4年(1868)3月13日 高輪薩摩藩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去 行年77歳であった。
墓は洗足池畔に建立されている。
平成元年10月
墨田区
(幕府講武所剣術師範役 元 男谷邸跡)

(裏)
社団法人 東日本硝子工業会
会長 瀧波榮一郎 之納
両国勝海舟 顕彰会
平成元年10月吉日

勝海舟幕末絵巻
勝海舟の歩みと、様々な出会い

鳶が鷹を生んだ 
 勝海舟誕生
 文政6年 1823年
幕府海軍の礎となる
 長崎海軍伝習所
 安政2年 1855年
勝海舟アメリカへ
 咸臨丸の渡航
 安政7年 1860年
坂本龍馬との出会い
わずか一年の夢の跡
 小梅海軍操練所
 元治元年 1864年
活と西郷で江戸を救う
 江戸城開城
 慶應4年 1868年

https://goo.gl/maps/H8BozMNRXWwBTxR29


勝海舟翁之像

能勢妙見山別院
妙見山妙見堂(東京都墨田区本所4丁目)

勝小吉・勝海舟父子の信仰が篤かった寺院。

勝海舟9才の時大怪我の際妙見大士の御利生により九死に一生を得その後開運出世を祈って大願成就した由縁の妙見堂の開創二百年を迎え海舟翁の偉徳を永く後世に傳へるため地元有志に仍ってこの胸像が建られた。
昭和49年5月12日

https://goo.gl/maps/r7EgAY5NMttE4X1C9

https://www.myoken.org/tokyobetsuin/


勝海舟・坂本龍馬の師弟像
勝安房邸跡
勝海舟終焉ノ地

現在は、港区立特別養護老人ホーム、もとは氷川小学校があった地の一角に、勝海舟と坂本龍馬の師弟像が建立されている。

勝海舟・坂本龍馬の師弟像

東京都指定 旧跡
勝安房邸跡
この地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟 が明治5年(1872年)の49歳から満76歳で亡くなるまで住んできた屋敷の跡地です。その間、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら有名な『氷川清話』などを遺しました。その後の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993年)春まで港区立氷川小学校敷地として使用されていました。その後、氷川小学校が廃校となったため、その建物を生かしつつ改修を行い、平成15年から区立特別養護老人ホーム及び子ども中高生プラザとして使用して現在に至っています。施設内には、屋敷跡 の発掘調査で出土した当時の縁の品などが展示されています。
港区

「明日に向かって」
  勝海舟·坂本龍馬の師弟像

 この地は、勝海舟が1872年(明治5年)から1899年(同32年)に77歳で亡くなるまで27年間住んだ屋敷のあった場所です。 海舟は、明治維新後 旧幕臣の代表格として維新政府の要職に在り協力していました。坂本龍馬との係りは海舟が幕府の要職に付いていた頃(海舟37歳~46歳)で、 龍馬 (26歳~31歳)は海舟を師と仰いで禁い緊密な交流があったようです。
 この交流の始まりは、海舟が威臨丸での渡米、帰国後幕府軍艦奉行就任の1862年(文久2年)海舟39歳のとき、龍馬が海舟を斬ろうと面会を申し入れ逆に感化され、 海舟の門人となり身辺警護をかってでたことからと言われております。 当時、日本国の未来を見据え大意を進めるに当って海舟と龍馬とは相反する体制下にありながら、改革を行うことが出来たのは海と繋がっている広い世界を観る目、日本国を取り巻く世界情勢の中で日本のゆくえについて日本人が一体となって事に当らなければならないことを教えたと伝えられています。
 また、海舟は軍艦奉行に就いていた 1864年2月(文久4年)英・仏・米・蘭4ヶ国艦隊の下関砲撃の中止交渉を幕府から命じられ、神戸から九州の豊後街道を通り長崎まで旅をしています。この旅に海舟は自らが主催する「神戸海軍塾」の塾生だった龍馬らを同行させています。重責を担って旅する海舟にとって龍馬に日本国の行く末を教える機会の旅であり、 当時の欧米の植民地政策の過の中にあるこの国の現状をつぶさに語り合い、後の薩長同盟、大政奉還、江戸無血開城へと繋げていったと考えられます。
 海舟、龍馬の生きた19世紀末と21世紀の今をとりまく時代状況は比較にならないくらい違ってきていますが、 彼らの明日を切り開いて行く強い志とエネルギーを、 宇宙船地球丸に乗っているこれからの時代を担う世代に伝えてゆくシンボルとしての銅像でありたいと願っております。
 銅像の細部を見て頂くと、 海も龍馬も視線は、明日に向かって海のかなたに広がる世界を向いています。 また、 海舟の刀の鍔(つば)に下緒(刀のさやを帯に巻くための紐) を絡めて刀をぬけないようにしています。 剣術の達人でありながら、当時の風潮を憂い何事にも対処するに当って刀を絶対に抜かないとの心がまえを表しています。

    勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会

この銅像の建立にあたっては、 「勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会」の呼びかけに赤坂をはじめとする全国のみなさまからのご支援ご協力を頂き、彫刻家 山崎和国氏に製作をお願いし2016年9月 (平成28年)完成建立し港区に寄贈しました。

また、戦前からの石碑も建立されていた。

史蹟 
勝安芳邸阯
勝海舟伯終焉ノ地ナリ
昭和五年十二月
東京府

氷川小学校後援会敬建
昭和8年12月
東京市長牛塚虎太郎書

勝海舟は赤坂で3度住居を変えている。
この場所は最後の居住地。明治5年50歳の時から、明治32年77歳で没するまで住んでいた。
今も、勝海舟遺愛の大イチョウが残っている。

氷川小学校
東に千代田の翠微を眺め 
西に芙蓉の麗姿を望む
英傑海舟 住みにしところ 
我らが学舎ぞ厳しく立てる

明治41年4月1日授業開始
明治42年6月27日開校式
平成5年3月31日閉校
 碑建立・氷川小学校卒業生


勝海舟邸跡

勝海舟が赤坂で最初に居住した場所がこの地であった。
幕末の安政6年(1859)から明治元年(1868)まで、日本が激動の時にあった時期に住んでいた旧跡。

勝海舟邸跡の記
 港区赤坂6丁目10番39号の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟 が安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ旧跡である。
 海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当初居住中の10年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。
 海舟は号で、名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めた。夫人は民子。
 海舟は文政6年(1823)、本所亀沢町の旗本屋敷=現墨田区両国4丁目の両国公園の地=で、貧しい御家人の子として出生。長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸=のちの福吉町、現赤坂2丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地=に通って蘭学を学び、その縁から新婚23歳で赤坂田町中通り=現赤坂3丁目13番2号のみすじ通り=の借家で所帯を持った。
 36歳からは赤坂本氷川坂下=もとひかわざかした、のちの氷川町=のこの地に住んだ。
 明治元年45歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移ったが、明治5年(1872)再び上京し、満76歳で亡くなるまで赤坂区氷川町4番地=現赤坂6丁目6番14号=に住み、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。
 当所に住み始めた翌年の安政7年(1860)、幕府海軍の軍艦頭取=咸臨丸 艦長として、上司の軍艦奉行木村攝津守、その従僕福沢諭吉 らを乗せ、正使の外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。
文久2年(1862)11月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬 らに、世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。
 明治元年3月には、幕府陸軍総裁として、官軍の江戸城総攻撃を前に征討総督府参謀西郷隆盛 と談判を重ね、無血開城を決めて江戸の町を戦火から救った。
 第1回会談は高輪の薩摩藩邸=品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪3丁目のホテルパシフィックの地=で行われた。第2回については芝田町薩摩藩邸=のち三田四国町、現港区芝5丁目芝税務署辺りの地=または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷(くらやしき=倉庫)の表側にある民家=現港区芝5丁目の三菱自動車ビル周辺=で行われたとの両説がある。いずれも当所居住中のことである。
 明治維新では、明治元年5月、海舟の留守中に一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入したが、海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞枝(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急を救った。
 海舟は終生赤坂の地を愛したが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木1丁目に、次いで洗足池畔の大田区南千束1丁目現大田区立大森第六中学校の地に別邸を設けた。墓は洗足池に面して作られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されている。
 平成7年11月吉日
  ソフトタウン赤坂管理自治会
   撰文 伊波 新之助
   協賛 勝海舟顕彰会
   協力 港区郷土資料館

https://goo.gl/maps/9L2yS1B1824GpLbq6


四合稲荷神社(赤坂氷川神社境内社)

赤坂に居住していた勝海舟は赤坂氷川神社とも深い縁にあった。
赤坂氷川神社境内の稲荷神社は勝海舟の命名。

御縁起
①古呂故稲荷(赤坂一ツ木2番地、古呂故天神社境内に鎮座)
②地頭稲荷(氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)
③本氷川稲荷(本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座)
④玉川稲荷(赤坂門外の御堀端、現弁慶橋のあたりに鎮座)
 以上、4社を明治31年(1898年)、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により『四合稲荷(しあわせいなり)』と称えられる。
(略)
勝海舟翁筆の「四合稲荷社」という扁額が、現存する。
(略)
以上、境内御由緒より

「志あはせいなりの社」 
勝海舟書の掛け軸の筆跡を用いた幟

勝海舟直筆の扁額
「四合稲荷社」


場所は変わって、港区芝。三田駅の近く。

西郷南洲・勝海舟 会見之地

西郷南洲・勝海舟 会見之地
西郷吉之助書

慶應四年三月十四日
此薩摩邸に於て西郷 勝 両雄会見し江戸開城の円満解決を図り百万の民を戦火より救いたっるは其の功誠に大なり
平和を愛する吾町民深く感銘し以て之を奉賛す
 昭和二十九年四月三日
  本芝町会
 本芝町会十五周年記念建之

田町薩摩邸(勝・西郷会見地)附近沿革案内
この敷地は、明治維新前夜慶応4年3月14日幕府の陸軍総裁 勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
この蔵屋敷(現在地)の裏はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られて来る米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは 遠くなりましたが、この附近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。 また人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。

訪れたときは、ちょうどビルの建て替え工事の真っ最中。
記念碑は一時的に保管されているという。
工事完了は令和5年5月末予定。

https://goo.gl/maps/hqtuibb1UZwU4xTH7


西郷南洲・勝海舟 会見の図

浜松町駅のエスカレータ脇に、西郷隆盛と勝海舟の会見をモチーフしたた壁画があった。

時は慶応4年(1886)3月14日、幕府の軍事取扱勝海舟は薩摩藩蔵屋敷に於て、官軍の大総督参謀西郷南洲と最後の会見を行ない、戦火が招く江戸市民の災厄と諸外国の内政干渉とを絶対に避けるべしと説き、両雄お互いに憂国の誠意にうたれ、ついに江戸総攻撃は中止された。その蔵屋敷跡に現在建っている三菱自動右車ビルの前庭には「会見の地」の碑がある。「当駅正面交差点右折、歩いて2分」


勝海舟邸長屋門

石神井公園近くの三宝寺山門東側の通用門は、勝海舟邸長屋門であったという。
築年は文政年間(1818-29)という。
勝海舟が明治5年に赤坂に戻ってきてから、没するまで過ごした屋敷にあった長屋門と推定。

三宝寺に移設される前は、成増にあった遊園地「兎月園」にこの門はあった。大正13年(1924)に兎月園は開業。昭和18年(1943年)に戦争の影響などもあり閉園。

通用門(長屋門)
 練馬区旭町兎月園にあった勝海舟邸の屋敷門が、所有者の明電舎の事情により、取毀しの処分を受けるに際し、当時の練馬区長須田操氏の斡旋で、当山に移建された。
 昭和35年(1960)11月、新井工務店の手によって解体移建された。

海舟書屋(かいしゅうしょおく)

勝海舟の師匠であった佐久間象山。その佐久間象山の言葉「海舟書屋」から、海舟という号を採用したという。

江戸東京博物館収蔵品より

https://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0189204082

https://goo.gl/maps/D6WoYcrSZfqFcVkv8


勝家之墓

勝海舟の父である勝小吉と、、勝海舟の嫡男小鹿は、青山霊園(1種イ4号22側)の勝家之墓に眠る。


勝海舟の長男勝小鹿の娘婿で徳川慶喜の10男であった勝精の墓は谷中霊園にある。

谷中霊園には、徳川慶喜の墓もある。


以上、

都内に残された勝海舟の史跡などの散策記録でした。

コレデオシマイ

※撮影:主に2020年8月から11月にかけて。


そのほかの関連

勝海舟が教授を務めた築地軍艦操練所

初代海軍卿 勝安房

南湖院を設立した高田畊安の妻は勝海舟の孫娘

旧幕臣として勝海舟とは違う道を歩んだ榎本武揚

「最後の幕臣から明治最良の官僚へ」榎本武揚像と榎本武揚墓

都内で、榎本武揚にまつわる史跡などを散策してみました。

墨田区立梅若公園

榎本武揚

1836年10月5日〈天保7年8月25日〉 – 1908年〈明治41年〉10月26日)

旧幕臣、外交官、政治家。海軍中将。
正二位勲一等子爵。

戊辰戦争
榎本武揚は江戸浅草橋近くの生まれ。
昌平坂学問所・長崎海軍伝習所出身。修了後は江戸の築地軍艦操練所教授となる。1861年に幕府よりオランダ留学を命じられ欧州へ。オランダで完成した蒸気軍艦1隻(開陽丸)とともに1866年に帰国。軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)となる。
1868年(慶応4年)に江戸幕府の海軍副総裁に就任。幕末の動乱の中で徹底抗戦を主張し、榎本派が幕府艦隊を支配。
明治新政府軍による江戸開城に伴う降伏条件のひとつに旧幕府艦隊の引き渡し要求があるも、榎本武揚はそれを拒否。徳川宗家の江戸から駿府への移封が完了するのを待って榎本武揚率いる旧幕府艦隊は江戸を脱出。奥羽越列藩同盟支援のために艦隊を北上させる。
その後、仙台藩降伏に伴い、艦隊は蝦夷地「函館」に。

蝦夷共和国と最後の幕臣
榎本武揚は函館で蝦夷共和国の総帥に就任。選挙による就任は画期的な政策であった。
1869年(明治2年)5月18日、榎本武揚ら旧幕府軍は新政府軍に敵わず降伏。東京で牢獄に収監される。黒田清隆や福沢諭吉が榎本武揚の助命活動を行う。

明治新政府の下で
1872年(明治5年)特赦により出獄。黒田清隆の下で北海道開拓使に任官。
1874年に中露特命全権大使に就任するとともに日本で最初の海軍中将に就任。1875年に樺太・千島交換条約の締結を成功させる。ロシアからの帰国に際してはシベリア横断に成功。
帰国後は、外務大輔、海軍卿、皇居造営事務副総裁を歴任し、1882年(明治15年)には、駐清特命全権公使に就任。李鴻章と度々会談し天津条約締結に貢献する。

1885年(明治18年)、内閣制度発足に伴う第一次伊藤博文内閣で逓信大臣に就任。その後も農商務大臣や文部大臣、外務大臣を歴任。

1908年(明治41年)10月26日、死去。海軍葬が執り行われた。

榎本武揚の海軍軍人・政治家以外の側面としては、電気学会初代会長、東京農業大学のベースとなった徳川育英会育英黌農業科の設立、などにも携わっている。

榎本武揚墓

榎本武揚の墓
 天保7年(1836)~明治41年(1908)、江戸の生まれ。通称、釜次郎。江戸末期の幕臣、政治家。蘭学をはじめ広い学識をもち、オランダ留学後海軍奉行、海軍副総裁となったが、倒幕軍江戸入城にあたり幕府海軍を率いて函館五稜郭で反抗した。その後、時代の変化もあって海軍中将、ロシア駐在特命全権公使、海軍卿、文相、枢密顧問官、外相、農商務省などを歴任、子爵となる。
 東京都文京区教育委員会 

海軍中将子爵榎本武揚墓

元帥海軍大将伯爵伊東祐亨書

天保七年八月二十五日生
明治四十一年十月二十七日薨

榎本家の家紋は「丸に梅鉢紋」というが。

吉祥寺

東京都文京区本駒込三丁目にある曹洞宗の寺院。
室町時代1458年(長禄2年)に太田持資(太田道灌)の開基。
多くの譜代大名・旗本の江戸の菩提寺であったことから、それの墓所が多い。

榎本武揚の墓所も、吉祥寺にある。

https://goo.gl/maps/RNcwAjCEost6tPYU7


榎本武揚一族之墓

榎本武揚夫妻の墓は改装され「吉祥寺」にあるが、榎本一族の墓は「保元寺」(台東区橋場1-4-7)にある。この地は、足利尊氏が新田義興と戦った「石浜の合戦」の地。
榎本武揚は戊辰戦争後に投獄され、出獄後にこの地で謹慎をしていた。

榎本家略史
榎本家は武州豊島郡石浜橋場の郷士で、平家一門の千葉氏の家人である。
江戸時代の祖・榎本与兵衛武明は延享3年(1746)68歳で没し、千葉氏と縁のある石浜郷の古刹保元寺(法源寺とも称した)に葬られた。以来、榎本家の祖霊を祀る。
4代武兵衛武由は一女「とみ」の婿養子に箱田良助を迎える。良助は備後国(広島県)箱田村の郷士の次男で、伊能忠敬が幕府の命で全国を測量する助手となり、後に榎本圓兵衛武規と称し徳川幕府の家人となる。
5代圓兵衛武規の妻「とみ」が文政10年没したため「こと」を迎え武興・武揚兄弟を産み育てていく。
6代榎本勇之助武興の弟が釜次郎武揚である。
武揚は幕府によりオランダに留学し操船と海軍の知識を習得し帰国、徳川幕府の海軍長官となるも北海道五稜郭で敗戦し、刑死を免れ年余にわたり菩提寺謹慎となり保元寺に隠居したが、許されて明治新政府に仕え高位の身分となる。
明治41年10月27日に没し、先に保元寺に埋葬の夫人多津子と両名のみ改葬された。

保元寺

帰命山薬王無量院保元寺
奈良時代の宝亀元年(770年)創建という古寺。

https://goo.gl/maps/ML312fnSwti5Pdjp8


榎本武揚旧居跡

榎本武揚一族之墓があった保元寺の隅田川の対岸、向島言問に榎本武揚邸があった。

榎本武揚旧居跡
 父は将軍側近で天文方として伊能忠敬にも師事した知識人であった。武揚も幼い頃から学才に長け、昌平黌で儒学を、江川太郎左衛門から蘭語、中濱万次郎から英語をそれぞれ学び、恵まれた環境で洋学の素養を身につけた。19歳で箱館奉行の従者として蝦夷地に赴き、樺太探検に参加する。安政3(1856)年には長崎海軍伝習所に学び、蘭学や造船学、航海術などを身につけた。文久2(1862)年に幕府留学生としてオランダに渡って、船舶に関する知識をさらに深める一方、国際法や軍学を修めた。慶応3(1867)年、幕府が発注した軍艦「開陽」に乗艦して帰国、翌4年に海軍副総裁に任ぜられた。
 戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが、五稜郭で降伏、3年間投獄された。この箱館戦争で敵将ながらその非凡の才に感服した黒田清隆の庇護を受け、北海道開拓使に出仕。明治7(1874)に駐露特命全権公使となり、樺太・千島交換条約を締結。海軍卿、駐清公使を経て、文部大臣、外務大臣などを歴任した。
 明治38(1905)年から、73歳で没する同41年までこの地で暮らし、墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。

https://goo.gl/maps/YXo4RRcYWqxJTCpT6


銅像榎本武揚像

墨田区立梅若公園に、榎本武揚銅像が建立されている。

墨田区登録有形文化財
銅造榎本武揚像
 所在地  墨田区堤通2丁目6番10号
      墨田区立梅若公園内
 本像は、榎本武揚没後の大正2年(1913)5月に建立されました。銅製で、像高は約3メートルあり、南を向き、大礼服姿で荘重な趣を呈しています。彫刻は、衣服の質感や顔の表情が細かく表現され外形描写に優れています。
 榎本武揚(1836~1908)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物です。
 武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任しました。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られたようです。
 建立にあたっては、大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝など政財界を代表する人物等が協力しました。
 原型作者は藤田文蔵と田中親光であり、鋳造者は平塚駒次郎です。
 この銅像は平成12年12月7日に墨田区登録文化財に登録されました。  
  平成29年3月
  墨田区教育委員会

墨田区登録有形文化財
銅像榎本武揚像

「榎本武揚」
 榎本武揚は天保7年(1836)に幕臣の子として江戸に生まれ育ち、
昌平坂学問所 (昌平黌)で学び、安政3年(1856)幕府が長崎に設けた海軍伝習所に入りました。その後、オランダに留学し、最新の知識や技術を身につけ、慶応2年(1866)幕府注文の軍艦開陽丸を回送し帰国しました。
 武揚帰国後の日本は「大政奉還」「王政復古」という体制変換を迎え、武揚は戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争では、五稜郭を中心に明治政府に抵抗しましたが、明治2年 (1869)降伏しました。
 その後、武揚は投獄されましたが傑出した人材として赦免され、明治政府に出仕しました。明治8年(1875)には、海軍中将兼特命全権公使として、樺太(サハリン)・千島交換条約の締結に尽力しました。
 明治18年(1885)伊藤博文が初代内閣総理大臣に任命されると、旧幕臣でありながら逓信大臣に就任以降、文部、外務、農省務大臣などの要職を歴任しました。また、東京農業大学の前身である私立育英黌農業科を創設したほか、化学、電気、気象などの各学会に関わりを持ち、日本の殖産産業を支える役割を積極的に引き受けました。
 晩年は成島柳北邸(現言問小学校)の西側に屋敷を構え、悠々自適の日々を過ごしました。明治41年(1908)10月に73歳でなくなりましたが、墨堤を馬で散歩する姿や、向島百花園で草花を愛でる姿が見られたそうです。

「銅像について」
 本像は青銅製で、高さ約400㎝の台座上に像高300㎝の榎本武揚の立像が乗っています。
 建立は大正2年(1913)5月で、当時の木母寺の境内である当該地に建てられました。白鬚東地区防災拠点建設に伴い木母寺は移転しましたが、本像は当該地に残されました。
 本像の原型作者は田中親光、藤田文蔵、鋳造者は平塚駒次郎であることが台座背面に記されています。また、建設者に大隈重信、大倉喜八郎、渋沢栄一など当時の政財界の代表的人物が名を連ねています。
 原型作者のひとりである藤田文蔵は洋風彫刻界における先覚者として位置づけられ、代表作に陸奥宗光銅像(外務省)や井伊直弼銅像(掃部山公園、太平洋戦争で供出)、狩野芳崖胸像(東京国立博物館)などが知られています。

榎本武揚像の隣にある石碑。昭和12年建立。鈴木貫太郎の書であった。
(二・二六事件は昭和11年)


鈴木貫太郎書
昭和12年4月29日
 向島区青年団
  墨田町二丁目分団

https://goo.gl/maps/gUQVAvbqVQdxaYXUA


東京農業大学は、その創建に榎本武揚が関わっている。

榎本武揚先生像

東京農業大学世田谷キャンパス


旧幕臣としての榎本武揚

正二位勲一等子爵榎本公追弔碑


そのほか榎本武揚は函館にも多くの足跡があるが、今回は都内に限りで、ここまで、で。

まんしゅう母子地蔵と浅草寺の戦跡散策

浅草寺境内を戦跡を中心に散策してみました。


まんしゅう母子地蔵(母子地蔵

母子地蔵建立の由来
第二次世界大戦末期、ソ連参戦で混乱状態となった中国東北部(満州)で逃避行の末、命を落とした日本人は二十万人を超えると云われています。
酷寒の曠野を逃げ惑う母子が生き別れとなったり飢えや疫病に苦しみながら亡くなるなど、その悲劇は数知れません。
犠牲となられた母子の霊を慰め、また、いまだ再会のかなわない親と子の心のよりどころとして、二度と戦 争という過ちを繰り返さない事を祈念しつつ、ここに母子地蔵を建立いたしました。
 一九九七年四月十二日
   願主   千野誠治
   デザイン ちばてつや
   文字   森田拳次
 まんしゅう地蔵建立委員会
 まんしゅう地蔵建立応援団 
 中国残留孤児援護基金

像のデザインは、ちばてつや氏
題字と碑文は、森田拳次氏

満洲の赤い夕陽色の幟旗に囲まれた「まんしゅう母子地蔵」

雨の日の「母子地蔵」

雨が降ると、満洲の赤い夕陽色の幟旗はより濃厚となっていた。

以下は、新宿の「平和祈念展示資料館」戦後75年企画「ちばてつや×森田拳次 漫画家からのメッセージ」企画展より。
(令和2年8月12日~11月15日)

https://www.heiwakinen.go.jp/kikaku/20200720-1000/

母子地蔵 エスキース(複製)ちばてつや

母子地蔵
日本有数の観光地である東京の浅草寺の一角、仲見世を抜けた先、宝蔵門(仁王門)を正面に見て右手側に、「母子地蔵」と呼ばれる小さな親子像があります。
 その母子3人が寄り添った姿には、引き上げの際に死に別れた母子の霊を慰めるとともに、残留婦人や残留孤児となって生き別れた母子の心の拠り所となるように、との願いが込められています。像の建立にあたっては、「中国残留孤児の国籍取得を支援する会」の元事務局長の千野誠治氏(故人)が発起人・願主、ちば氏が像のデザイン、森田氏が題字・碑文をそれぞれ担当しました。また、森田市の呼びかけで、引き揚げ漫画家14名による色紙販売が行われ、資金調達の一助とされました。
 多くの母子が離れ離れとなる場面を目の当たりにし、自身が残留孤児になってもおかしくはなかった、ちば・森田両氏のひとかたならぬ思いが、この像の建立につながったのです。毎年4月には、両氏を中心とした「日本漫画家事務局 八月十五日の会」による法要が営まれています。
 森田拳次

「まんしゅう地蔵(まんしゅう地ぞう)」はあきる野市の西多摩霊園にある「中国帰国者之墓」の横にも鎮座(1995年)。同じく、ちばてつや氏がデザイン。

https://www.kikokusha-center.or.jp/resource/sankoshiryo/ioriya-notes/photo/zizo.htm

https://search.ameba.jp/search/entry/%E6%AF%8D%E5%AD%90%E5%9C%B0%E8%94%B5.html?aid=chibatetsu

https://ameblo.jp/chibatetsu/entry-12264010862.html


母子地蔵の裏側に。

戦災者供養 平和地蔵尊

平和地蔵尊由来記
第二次世界大戦はその規模においても、その被害においてもまことに甚大であった。ことに昭和二十年三月十日の大空襲には、この附近一帯は横死者の屍が累として山をなし、その血潮は川となって流れた。その惨状はこの世の姿ではない。これ等の戦争犠牲者の霊を慰めることこそ、世界平和建設の基となるものである。ここに平和地蔵尊を祭り、その悲願を祈るため、昭和二十四年四月ここに安置された次第である。
 昭和24年4月
  龍郷 定雄 建立

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city003/index.html

龍郷 定雄 翁


旧五重塔跡

現在の五重塔の反対側。浅草神社側に。

旧五重塔跡
 五重塔とは、仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安する仏塔の一つで、古くから寺院に建立されてきた。
 この場所は、江戸時代の慶安元年(一六四八)、徳川家光 によって再建された旧国宝の五重塔(木造・高さ三十三メートル)が建立されていた場所で、現在の五重塔とは反対側に位置していた。
 浅草の五重塔は、天慶五年(九四二)平公雅により創建され、その後いく度か炎上するもその都度再建されている。
 江戸時代、家光再建の五重塔は、上野の寛永寺・谷中の天王寺・芝の増上寺の塔とともに「江戸四塔」として親しまれていた。
 また、歌川広重・歌川国芳 などの浮世絵の格好の画題としても全国にしられ、朱塗り・碧瓦(へきがわら)(未申にあたる裏鬼門の方角の第三層には、羊角猿面の鬼瓦が葺かれる)の美しい姿を見せていたが、昭和二十年(一九四五)の戦災で惜しくも焼失した。
 金龍寺 浅草寺


旧仁王門基礎石

旧仁王門基礎石
 慶安二年徳川家光 公により再建落慶した旧仁王門(国宝指定・現宝蔵門と同規模)が、三百年間浅草寺山門として江戸・明治・大正・昭和と時代の変遷を見つめ、文学、絵画、芸能など往時の文化にたびたび登場してまいりましたが、残念ながら昭和二十年(一九四五)三月十日の東京大空襲 により本堂・五重塔(家光公建立・国宝)と共に炎上焼失いたしました。
 その後、現本堂に続き昭和三十九年(一九六四)四月一日仁王門を宝蔵門 と改めて同跡地に再建されました。
 この三つの大石は宝蔵門再建に際して旧仁王門の跡地より昭和三十七年二月六日に掘り出された礎石です。旧仁王門には十八本の大木柱があり、それぞれに基礎石がありましたが、戦火に遭いひび割れ割れ破損し、原型をとどめる大礎石三個を選び保存しました。
 石材は「本小松石」で上端の仕上げ面は約一・二m角、柱受けのホゾ穴があり、最大幅は約一・四m角、高さ約一m。この礎石の下部と周囲は十~十五cm径の玉石と粘土で突き固められていました。
 江戸の人々の息吹を感じると共に、平和を祈る記念碑として受継ぎたいと存じます。
 浅草寺


平和の時計

平和を祈る時計。五重塔を上回る九重塔の平和の時計。
浅草ライオンズクラブ建立。


水吹きイチョウ

銀杏の木が火災の際に水を吹き出すことで消火に役立ったとされ「水吹きイチョウ」「霧吹きイチョウ」の伝承を残し、多くの寺社で銀杏が植えられていた。これは銀杏の葉には多くの水分が踏まれていることによるものという。
浅草寺にも多くのイチョウが植えられており、関東大震災、そして東京大空襲でも、樹肌を焼かれながらも防火に活躍した。


浅草寺の神木「いちょう」

浅草寺の神木・いちょう
 浅草寺本堂東南に位置するこのいちょう は、源頼朝公が浅草寺参拝の折、挿した枝から発芽したと伝えられる。
 昭和五年に当時の文部省より天然記念物 に指定されたが、昭和二十年三月十日の戦災で大半を焼失した。今は天然記念物の指定は取り消されたが、あの戦災をくぐり抜けた神木として、今も多くの人々に慕われている。
 金龍山 浅草寺

今も残る痛ましい焦げ跡。東京大空襲の爪痕。


浅草大平和塔

浅草寺淡島堂の境内に。

建立当時はこの5倍ほどのそびえていたが、いつしか改修されて小さくなった。2016年頃の写真では「大平和塔」であったが、今では「大」とは言い難い規模。(改修時期や理由などは確認し忘れました。)

かつての姿を、参考までに総務省サイト内の写真を以下に。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city004/index.html

東京大空襲後の浅草

浅草駅や神谷バー、仲見世、厩橋や吾妻橋などが確認できる。

みたまよ
 とこしえに
  安らかに
われら守らん
 世界の和

 湯川秀樹

建設趣意書
 思い出づる調べも哀し昭和二十年三月九日の夜、B29百五十機の大空襲により浅草一帯は火の海となる。地をなめるようにして這う火焔と秒速三十米をこす烈風にあふられ、親は子を呼び、子は親を求むれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい、悪夢の如き夜が去れば……眼にうつるものは一面の焦土にて、 一木一草の生づるもなく、あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の犠牲者は一万余柱を数う。
 当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生まれた子供達は戦争の惨禍を知るよしもない。いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。
 よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、二度とあやまちを繰返すことなく永遠に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立する。
  以て瞑せられよ。
  昭和三十八年八月十五日
   浅草大平和塔維持会


浅草寺淡島堂の境内に。

戦没供養地蔵尊

戰災靈供羪
地蔵大菩薩
浅草寺恭順拜書

昭和二十年三月十日

建 立 旧浅草藝妓屋組合
後 援 淺草三業會
建立日 昭和三十七年三月十日


浅草寺淡島堂の境内に。

天水桶

天水桶
 太平洋戦争が激しくなってきた、昭和十八年(一九四三)十一月十八日、浅草寺僧侶らによって夜儀が執り行われ、この天水桶内にご本尊の観音様をお厨子ごと奉安し、本堂の地中深くに埋めたため、ご本尊さまは戦火を逃れたという。
 戦後の昭和二十二年(一九四七)三月七日、ご本尊さまは再び地中より掘り上げられ、その無事が確認された。
 明和七年(一七七〇)造立。
  金龍山 浅草寺


浅草寺

以上、浅草寺境内の戦跡散策でした。

東京大空襲・慰霊

池上本門寺の戦争慰霊碑(大田区)

池上本門寺にて、戦争に関連する慰霊碑などを巡ってみる。

国難に殉じられた皆様に感謝と哀悼を。合掌。


日本看護婦会慰霊塔

由緒等はなく建立経緯は不詳。「日本看護婦会」という団体も不詳。
戦前にあった「日本帝国看護婦協会」は、戦後は「日本看護協会」となっている。
また日清日露戦争時には、戦時下の救護をボランティアで行っていた上流婦人階級による「日本赤十字篤志看護婦人会」という団体もあった。

日本赤十字によると日清戦争から第二次世界大戦(大東亜戦争)において戦時救護にて殉職した殉職救護員(日本赤十字社救護看護婦、いわゆる従軍看護婦)は1317名に及ぶという。

港区芝大門の日本赤十字本社前にも、看護婦慰霊碑があるので参考まで。

殉職救護員慰霊碑と看護婦立像(日本赤十字社)


日蓮大聖人説法像
星亨銅像跡

もともとこの場所には「星亨」の銅像があった。戦時下の金属供出で銅像は撤去され、台座のみが残されていたが、昭和58年に総アルミの日蓮大聖人像が建立された。

日蓮大聖人説法像
 星亨銅像跡

 この像は宗祖第七百遠忌記念として昭和58年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納されたんもので斯界の権威北村西望先生の作品です。(像の材質はアルミ、高さ3.4米、重量1瓲)
 もともとここには明治の政治家星亨先生の銅像がありましたが、今般星家の御協力により台座を奉納頂きこの像を建立しました。
 昭和58年10月吉日
 大本山 池上本門寺

星亨(ほしとおる)
嘉永3年4月8日(1850年5月19日) – 明治34年(1901年)6月21日)
イギリスに留学し日本人初の法廷弁護士資格を取得。日本での弁護士第1号。
明治時代の政治家。逓信大臣や衆議院議長などを勤める。東京市議会議長職にあった明治34年に暗殺された。享年51歳。墓所は池上本門寺。

星亨銅像は立像として大正14年(1925)に建立という。作者は本山白雲。戦時下に金属供出され、立派な台座が残り銅像は今はない。


大田区戦歿者慰霊塔

本堂向かって右手に鎮座。

慰霊

慰霊塔建設誌
碑文
 日華事変太平洋戦争における戦歿軍人軍属の英霊と戦災で犠牲になられた人々の霊魂を弔慰し 恒久の平和を祈念するため慰霊堂を建設すべく大田区自治会連合会大田区郷友会大田区遺族会及有志は昭和35年7月大田区戦歿者慰霊塔建設奉賛会を結成した
 区民の絶大なる協力と本門寺の好意を得て翌年9月23日この地に工を起し本日除幕の式を挙げるにいたった 塔内には日清日露の両役をもふくめた区内5千有余に及ぶ犠牲者名を18地区別の芳名録に謹記して奉安した
 われわれはこの慰霊塔を仰いで今後益々複雑なる国際関係の動きに処する決意を固め、地区の発展と世界平和に寄与することを英霊に誓いあわせてその加護を願うものである
  昭和37年4月8日
   大田区戦歿者慰霊塔建設奉賛会

日露戦役忠魂之碑

池上村軍人家族保護會


五重塔のむかって左側の道路に面した場所に鎮座

満洲国軍戦没者之碑

満州国での戦没者を祀る慰霊碑。

慰霊
満洲国軍戦没者之碑

満洲の大地に沈む夕陽を表しているという。

蘭花の碑 蘭星会
赤い夕陽の満洲に活躍した日系軍官此処に眠る

蘭花は満洲国の国花。
蘭花御紋徽は満洲国の国章は1932年(満洲国・大同元年/日本での昭和7年)に制定された。

蘭花碑誌「天地内有了新満州
青年の希望と夢に充ちた新国家は民族間等の歴史に幕を下し新しい時代を開くべく民族の融和を根本理念とした道義国家として創建された。
此の時にあたって選ばれたもの感激をそのままに何のためらいもなく日系軍官として国軍に投じた若人達は国軍の中核となって辺境の守護国内の治安維持に又国兵の練成を通じての建国理念の透徹に若い情熱の限りを傾け尽くした。
建国からその崩壊に至る十四歳の間に約六千の同志は日系軍官軍属文官として勤務奉公しつつ一千余名の同志はその使命に倒れて或は赤陽の荒野にはた又凍土の辺地に長限を留めるに至った。
以来幾星霜を経て今聖僧ゆかりの地本門寺の浄域に顕彰慰霊の碑を建て同志の英魂を祀り、あわせて民族協和の大理想に結ばれた国軍戦死没諸友の霊をも迎えその供養を行う。
ここに永遠の平和への悲願をこめて 
同志よ 友よ 安らかに眠られんことを祈る
  昭和51年8月15日
蘭星会

蘭花御紋徽


郡司成忠墓

海軍大尉で、北千島の探検・開発に尽力した冒険家であった郡司成忠墓。
幸田露伴墓の隣(幸田露伴は郡司大尉の弟)。

詳細は下記で。


児玉誉士夫墓

1911年2月18日-1984年1月17日。
戦時中の児玉誉士夫は海軍嘱託(佐官待遇)として暗躍。児玉機関を設立し海軍航空本部のために物資調達を担う。大西瀧治郎が海軍総務部長の際に児玉誉士夫と親睦を深め、大西滝次郎自決の際に立ち会う縁となった。

戦後はフィクサーとして政財界の黒幕として君臨。

昭和35年に建立。

児玉と縁が深かった大西瀧治郎の墓は鶴見総持寺。大西の墓を建立する支援も行っている。

大西瀧治郎を偲ぶ

近くには力道山の墓もある。


池上本門寺

日蓮宗大本山。
日蓮入滅の霊場。日蓮宗の十四霊蹟寺院。七大本山。
昭和20年4月の空襲によって五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇を焼失。
現在の大堂は昭和39年再建。

五重塔は1608年(慶長13年)に建立。空襲による焼失を免れた建物。


池上妙見堂

日蓮宗池上三院家のひとつ、朗慶山照栄院妙見堂。

池上妙見堂の境内にBC級戦争犯罪で処刑された殉難者の慰霊碑がある。

シンガポールのチャンギーで行われたBC級戦争犯罪人とされた日本の軍人軍属の裁判(シンガポール裁判)。
チャンギー刑務所にはBC級戦犯が2000名以上集められ、146名の被告が極刑を宣告され処刑されたという。
教誨師の田中日淳上人(照栄院前住職・池上本門寺第81世貫首)は教誨師として、その処刑に立ち会い、帰国後に妙見堂の境内に慰霊碑を建立。(建立は昭和58年)毎年4月第2日曜日には慰霊祭が祭行されている。

BC級戦犯

BC級戦犯は、連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における区分総称。

戦争犯罪類型A項「平和に対する罪」 = A級戦犯
戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」
戦争犯罪類型C項「人道に対する罪」(日本には適用なし)

日本のBC級戦犯は、GHQにより世界49カ所の軍事法廷で裁かれた。
被告人は約5700人。そのうち約1000人が死刑判決を受けたというが、中国及びソ連での裁判の実態は不明。

靖國神社では、彼らを「昭和受難者」として合祀。

シンガポール チャンギー殉難者慰霊碑

献文
第二次世界大戦後、シンガポール地区においては、146名の旧軍人軍属が連合軍の軍事裁判により戦争犯罪者として処刑されたが、その大部分は誤った戦争の犠牲者としてこのような悲運に哭かねばならなかった人々であった。しかもこの方々は祖国から見放されたまま、不自然な「死」を前にして苦悩に苦悩を重ね、最後には「己の死が祖国再建の人柱となるのであれば、又世界人類の平和にもつながればよし」と絶叫して散華したのである
これら殉難者の往時の心情を思うとき、万斛の涙また新たなるものがあり、かかる悲惨時が決して再びあってはならないと誓うのである。今ここ池上の寂かなる杜をこの方々の安らかなる眠りの場と定め碑を建て、以って所霊の冥福を祈る次第である
 昭和58年4月11日
 シンガポール チャンギー殉難者慰霊碑建立協賛会

碑誌
 元英領シンガポールチャンギ―獄戦犯殉難者のうち数多の人々が刑死されるまでの間、川崎市明長寺故関口亮共師、池上照栄院田中本隆師による獄内挺身教化に浴し従容として死に就かれた
 又殉難者が此の地に安息の場を得ることができたのは、往時の田中本隆師即ち現大本山本門寺第八十一世田中淳上人の廣大な御仁慈によるものである。
 第七回慰霊法要に当り両上人の御高徳を永えに称える為茲に追誌すること如斯
  平成元年4月

http://www.shoueiin.jp/myoken/changi.html

http://www.shoueiin.jp/myoken/profile.html


池上本門寺とは関係ないけれども。
池上駅の北側の池上本門寺に対して、場所は変わって池上駅の南へ。曹禅寺へ。

池上平和観音

池上平和観音
昭和二十年四月爆撃により五十余名の生命を失つたこの地に大悲菩薩を安置して殉難者の冥福を祈り念すると共に町内の平安と世界の平和を祈り願うものなり
 昭和四十三年十月十日
 壹世實道大憲

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_ota_city004/index.html


北千住界隈の戦跡散策(足立区)

北千住界隈の戦跡としては、千住神社の防空壕が有名だけれども、それ以外にもいくつか見どころがあるので、以下に紹介をしてみる。


B29無名戦士慰霊碑(慈眼寺)

慈眼寺境内には、空襲で撃墜されたB-29搭乗員戦死者の霊を供養する慰霊碑があった。慰霊碑建立にあたり作家の長谷川伸が相談役として名を列ねている。

無名戦士を弔ふ

昭和20年4月13日夜、第313航空団505爆撃群所属のB29(機体番号42−63517)が足立区花畑町・北加平町に墜落。搭乗員11名全員死亡。

戦後、墜落地にほど近い現在の北加平公園に「B29無名戦士之墓」が建立されるも、道路拡張により撤去。銘碑のみが足立区郷土博物館に保管されている。

慈眼寺の被災銀杏

B29無名戦士慰霊碑近くの銀杏は、戦災を生き抜いた銀杏。今でも焼け焦げた跡を残している。

慈眼寺

新義真言宗寺院。千龍山妙智院慈眼寺。
創建は1314年(正和3年)、行覚によって開山。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-13
1947年08月11日、米軍撮影写真を一部加工。
クリックして拡大。
戦後2年経っていてもまだまだ残っている空襲の爪痕。


千住郵便局電話事務室

現存する数少ない山田守設計の建築物。山田が設計した建物では初期のもので「ドイツ表現主義」建造物。一枚一枚が手焼きの煉瓦によるスクラッチタイルは昭和初期の流行という。
1929年(昭和4年)5月に竣工。逓信省の技師である山田守によって設計された、いわゆる逓信建築の一つ。昭和20年の空襲でも本建物は残ることができた。
現在はNTT千住ビルとしてNTT東日本が管理。


源長寺の被災大欅

千住大橋と北千住の中間あたりに鎮座している源長寺の境内にも被災樹木があった。

大楠
文化年間この地帯に多く見られたが、昭和20年戦火の為最後の一本を焼失。その残りがこの切株である。

源長寺

浄土宗寺院。稲荷山勝林院源長寺。
1610年(慶長15年)、伊奈忠次の開基。


千住神社の防空壕

以前はとくに説明板もなくロープも張っていなかったが、最近に整備をされたようだ。

以前の写真はこちらから

平和の大切さを伝える
防空壕
昭和20年、空襲が激しくなると、東京中に防空壕が作られました。
簡易なものから、強固な地下壕までいろいろあり身体を守ってきました。
平成29年5月 千住神社歴史保存会

八紘一宇の国旗掲揚台(千住神社)

紀元二千六百年記念
 昭和十五年十一月吉日建設
  千住宮元町會

日露戦役紀念碑

乃木希典書。明治39年3月建。

不屈のイチョウ(千住神社)

生命の大切さを伝える
不屈のイチョウ
昭和20年4月10日、空襲により、神社に爆弾が投下され、蔵を残して神社は焼失しました。
このイチョウも燃えましたがコゲ跡を刻み復活して今も、生き続けます。
平成29年5月 千住神社歴史保存会

御神木(千住神社)

御神木
 この銀杏は、先の戦争にて千住宮元町のほぼ全ての建物が焼失した中で、御祭神御守護のもと、焼け残った御神木であります。
 寄り添う樹木は「夫婦銀杏」として親しまれており、縁結び、夫婦円満、家内安全、子宝安産の象徴となっております。
 (足立区指定保存樹)

千住神社

創建は延長4年(926)という古社。
旧社格は郷社。千寿七福神の一神(恵比寿)。

昭和20年(1945)4月13日 空襲で社殿を焼失。
境内の御神木や石鳥居などは戦災を免れて残っている。
そして戦争の記憶を残す防空壕跡も残されている神社。
戦後の昭和33年(1958)9月に社殿が再建。


関連

「日本毛織物工業の父」井上省三と千住製絨所(荒川区)

東京都荒川区。
南千住にかつて被服製造の官営工場があった。
近代化を推し進める明治新政府にとって、軍服や制服といった洋装は輸入に頼っており、その国産化が急がれていた。

明治8年(1875)に千葉県に羊牧場が設けられ羊毛の生産が開始。
旧長州藩士の井上省三が被服製造技術を学ぶためにドイツ留学し、その帰国を待って明治12年(1879)に東京南千住に官営工場「千住製絨所」が完成し、操業開始した。

日本の羊毛工業・毛織物工業は、南千住から始まったのだ。


井上省三(いのうえせいぞう)
「日本毛織物工業の父」
「日本羊毛工業の父」

旧長州藩士。萩藩厚狭毛利氏家臣。奇兵隊隊長として倒幕に活躍。
明治4年(1871)に北白川宮能久親王に随行してドイツのベルリンに留学。兵学から工業に転向し猛職技術を修得。
明治8年に帰国し内務省勧業寮へ配属。その後、再度の欧州留学を行い帰国後の明治12年に官営千住製絨所の初代所長に就任。
明治19年(1886)、病死。享年42歳。

千住製絨所

明治12年に南千住で官営千住製絨所として創業を開始。
初代所長は井上省三。
明治21年(1888)からは陸軍省の管轄となり工場を拡張。陸軍所要の軍服などを生産管理した。陸軍省管轄ではあっても陸軍大臣の認可でもって、他官庁や民間からの製造依頼や研究依頼、技術指導や技術者養成なども行い、国内繊維・被服産業に大いに貢献。

昭和20年、敗戦により操業停止。民間地元企業の大和毛織に売却。しかし大和毛織は業績不振により昭和35年(1960)に操業停止となり閉鎖。こうして千住製絨所以来の被服生産は80余年で幕を引いた。
その後、跡地は大映がオーナーとなっていた大毎オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)の本拠地球場「東京スタジアム」などが建設されるが、東京スタジアムは昭和47年に閉鎖され撤去。
現在は、荒川区総合スポーツセンター、警視庁南千住警察署、東京都立荒川工業高等学校、ライフ南千住店などに姿を変えている。


井上省三像(井上省三胸像)

昭和11年(1936)12月14日に井上省三没後50年を記念して、千住製絨所構内に「東京千住製絨所初代所長井上省三胸像」が建設された。

左右には羊の彫刻。
羊毛工業の父、ゆえに。

かつては、もうひとまわり大きな台座であったことが除幕式当時の写真で垣間見ることができる。

参考

https://kiralink.pref.yamaguchi.lg.jp/202002/yamaguchigaku/index.html

井上省三像の隣りにあるモニュメント。特に説明がないので詳細は不明だが、当時の建造物の一部?かもしれない。
薄れかかった文字には以下の記載。

 明治12年(1879)この地に官営の千住製絨所が設立された。
 それまで輸入に頼っていた羊毛製品の国産化を意図して建てられたもので、初代所長 にはドイツで毛織物の技術を学んだ 井上省三(1845〜1886) を迎え、ここに日本の羊毛 工業が始まった。
 昭和20年操業が停止するまでの70年間、大規模な毛織物の製造が行われ日本の羊毛工 業の発展に寄与した。
 地域の人々から「ラシャ場」と呼ばれた赤煉瓦洋風建築のこの工場は、荒川区が近代 工業地帯として発展するきっかけとなった。


井上省三君碑

さらに隣には、井上省三を讃える碑も建立されていた。

井上省三君碑
 この碑は、官営国場千住製絨所初代所長・井上省三の功績を後世に伝えるものである。
 井上省三は、長州(現山口県)出身で、木戸孝允に従って上京、後にドイツに留学し毛織物の技術を修得した。明治十二年(1879)の千住製絨所の開業、日本羊毛工業の発展に尽力したが、明治十九年(1886)に42歳の若さで死去。明治二十一年(1888)に制絨所の職員・職工の有志が、井上省三の偉業をしのびこの碑を建立した。
 上部の題字と撰文は、井上省三と同郷で、交遊のあった、後の外務大臣青木周蔵と東京農林学校(後の東大農学部)教授松野礀による。
  荒川区教育委員会

井上省三君碑の扁額は青木周蔵の書。

https://goo.gl/maps/oZ95YzKkdFdRbAZ59


位置関係

国土交通省国土地理院航空写真
ファイル:8921-C3-35
昭和19年(1944)11月07日、日本陸軍撮影。

上記航空写真を一部加工。クリックで拡大可。

「千住製絨所」の北側、隅田川の対岸には「日本皮革株式会社の工場」があった。現在の「ニッピ」。

現在の様子。GoogleMap航空写真より。


千住製絨所のレンガ壁(都立荒川工業高校)

井上省三の碑からそのまま「若宮八幡通り」を道なりに北上をする。
右手に都立荒川工業高校の壁がみえてくる。この煉瓦壁が、当時の千住製絨所の壁でもあるのだ。

千住製絨所跡
 この付近一帯には、明治十二年(1879)に創業された官営の羊毛工場である千住製絨所があった。
 工場建設用地として強固な基盤を持ち、水利がよいことから、隅田川沿いの北豊島郡千住南組字西耕地(現南千住6-38〜40、45付近)が選定された。敷地面積8300余坪、建坪1769坪の広大なものであった。明治二十一年(1888)に陸軍省管轄となり、事業拡大とともに、現荒川スポーツセンターあたりまで敷地面積が拡張された。
 構内にも生産工場にとどまらず、研究施設や福利施設などが整備され、近代工場の中でも先進的なものであった。
 戦後民間に払い下げられ、昭和三十七年、敷地の一部は野球場「東京スタジアム」となり、人々に親しまれてきた。
 一部残る煉瓦塀が往時を偲ばせる。
  荒川区教育委員会

レンガ壁の途中に不自然なコンクリート。かつてこの場所に出入り口を作ったのであろうか。

この先もかつては壁が続いていた・・・


千住製絨所のレンガ壁(ライフ南千住店)

ライフ南千住店の駐輪場。その駐輪場の出入り口の脇に「レンガ壁」が残されていた。これも当時の千住製絨所の名残。

荒川区登録有形文化財(歴史資料)
旧千住製絨所煉瓦塀
 この煉瓦塀は、明治12年(1879)に創業を開始した官営工場、千住製絨所(せいじゅうしょ)の敷地を取り囲んでいた東側の塀です。塀の長さは北側9.9m、南側8.4mで、正門の袖柱の一部と、塀を保護するために設けられた車止めの一部が残っています。建設年代は、明治44年(1911)から大正3年(1914)頃と推定されます。
 千住製絨所は、ラシャ工場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果たしていました。初代所長はドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三です。荒川総合スポーツセンターの西側に井上省三の胸像が保存されています。
 当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに建設されましたが、次第に周辺の田園地帯を取り込んで拡張を重ね、大正時代には、敷地面積は3万2406坪になりました。千住間道を南限とし、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所などが旧敷地に該当します。
 千住製絨所の登場は、南千住地域に大きな影響を与えました。明治時代、汐入の二つの紡績工場(南千住8丁目)、石浜神社付近のガス会社(南千住3丁目)など大規模な工場が進出し、また隅田川貨物駅なども設置され、南千住は工業と商業の町へと変貌していきました。内務省、農商務省、陸軍省と所管が代わり、戦後、昭和24年(1949)には、大和毛織株式会社に払い下げられましたが、同36年(1961)に工場が閉鎖され、80年余りの羊毛工場の歴史に幕を閉じました。構内にあった工場の建物等は現存していないため、この煉瓦塀が千住製絨所に関する数少ない建造物であり、歴史的価値の高い文化財です。
 平成22年1月、この煉瓦塀は日本紙通商株式会社より荒川区教育委員会に寄贈され、株式会社ライフコーポレーションのご協力を得て、荒川区の近代化遺産として保存され、地域の歴史を刻んだモニュメントとして新たなスタートを切ることとなりました。保存に当たりご協力いただきました日本紙通商株式会社、株式会社ライフコーポレーションはじめ、関係各位に感謝申し上げます。
  平成22年10月 荒川区教育委員会

三段に飛び出した上部の造形が美しい。

煉瓦塀を保護するために設けられた車止めの一部

正門の袖柱の一部

正門の左側が現存部分とされる。

内側からも美しい造形。

https://goo.gl/maps/3FT5bBLf1vw4HCQa8


その他、荒川区界隈の記事。

八紘一宇碑と千住大橋

千住大橋の南側にひときわ大きな石碑が残されている。
「八紘一宇」の碑。同様の石碑の多くは戦後に撤去されてしまったが、交通の往来激しい千住大橋脇の石碑は、経緯は不詳であるが撤去されずに今日まで残されていた。歴史的経緯として貴重な石碑。

八紘一宇(はっこういちう)

日本書紀巻第三
神武天皇即位前紀己未年三月丁卯条の「令」
上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎
上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや。

もともとは日本書紀の記述「掩八紘而為宇」を略した「八紘為宇」であった。その意味は「八紘(あめのした)をおおひて宇(いえ)となす」、すなわち「天下を一つの家のようにすること」の意であった。

昭和15年8月に、第二次近衛内閣(近衛文麿)が基本国策要綱で大東亜新秩序を掲げた際に「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基づく」と述べたこの「八紘一宇」というフレーズが、この昭和15年の紀元二千六百年(神武紀元皇紀2600年)の大流行語となった。
あまりにも「八紘一宇」が」政治イデオロギー的なスローガンとなってしまていたために、戦後はGHQによって「八紘一宇」の用語は使用を禁じられてしまった。

神武天皇を祀る橿原神宮では、八紘一宇を、以下のように記している。

神武天皇の「八紘一宇」の御勅令の真の意味は、天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和の理想を掲げたものなのです。昭和天皇が歌に「天地の神にぞいのる朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を」とお詠みになっていますが、この御心も「八紘一宇」の精神であります。

橿原神宮 御神徳 http://www.kashiharajingu.or.jp/about/goshintoku.html

http://www.kashiharajingu.or.jp/about/goshintoku.html

八紘一宇の碑

八紘一宇
陸軍大将 林銑十郎書

建立は昭和15年11月10日、愛国婦人会荒川区分会南千住連合分区による。
紀元二千六百年記念行事の一環。
八紘一宇の揮毫は林銑十郎。

林銑十郎といえば、満州事変の際に、関東軍の要請を受けて独断で満州に進軍した朝鮮軍司令官。その後は陸軍大臣となり、内閣総理大臣にもなっている。広田弘毅内閣のあと、宇垣一成が組閣に失敗して内閣が流産した次が林銑十郎内閣であった。林内閣は当時としても異例の短命内閣で終わり、「史上最も無意味な内閣」「何もせんじゅうろう内閣」と呼ばれた。なお米内光政が海軍大臣として初入閣したのは林銑十郎内閣であった。
紀元二千六百年記念行事が行われた昭和15年の林銑十郎は内閣参議(内閣顧問)であった。


余談だが、千住大橋の北側(北千住)の千住神社境内には「八紘一宇の国旗掲揚塔」が残っている。建立は千住大橋のたもとの「八紘一宇の碑」と同じ時期。すなわち昭和15年の紀元二千六百年記念行事としての建立。全国各地でこの時期には同様の記念碑が建立されている。

八紘一宇の国旗掲揚台(千住神社)

紀元二千六百年記念
 昭和十五年十一月吉日建設
  千住宮元町會

北千住の千住神社には防空壕なども残っている。別記事にて。

八紘一宇は、上記の千住神社以外にも各所の神社で見かけることができる。

市谷亀岡八幡宮境内にも

築地の町中にも


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:8921-C3-35
1944年11月07日、陸軍撮影

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千住製絨所は別記事にて

千住大橋

竣工は昭和2年(1927)。関東大震災後の震災復興事業として東京都復興局が計画をし石川島造船所が施工。タイドアーチ橋としては日本最古、という。

千住大橋
 文禄三年(一五九四)、徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。架橋工事は伊奈備前守忠次が奉行を務めたが、工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住六丁目)に祈願したところ、工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に、江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素盞雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より、二〇〇メートル程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。
 千住大橋は、日光道中初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ、多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果の戯曲「将軍江戸を去る」では、最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。
 現在の鋼橋は、昭和二年(1927)、日本を代表する橋梁技術者増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは、四〇〇年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。
 荒川区教育委員会

昭和2年12月竣工


千住界隈(南千住・北千住)の戦跡や近代史跡は他にも。

彰義隊の墓(円通寺・荒川区)

彰義隊の墓は上野公園にもある。その上野公園の彰義隊の墓は、上野山内に放置されていた遺体を「円通寺」の住職仏磨らによって茶毘に付され、そうして円通寺に埋葬したことに由縁する。

上野公園の彰義隊の墓は下記より。


彰義隊

慶応4年(1868)
1月
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍に敗北。
江戸に帰還した渋沢成一郎が「彰義隊」を結成する。
 彰義隊頭取(隊長)   渋沢成一郎
 彰義隊副頭取(副隊長) 天野八郎

3月
西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城無血開城を決定。

4月
徳川慶喜が江戸を離れ水戸に謹慎。慶喜を警護すべく、渋沢成一郎は上野からの撤退を主張するも、天野八郎と意見が対立し、渋沢成一郎は彰義隊を脱退。天野八郎が彰義隊を率いる。(渋沢成一郎は振武軍を結成し、最終的には榎本武揚と合流し函館戦争を戦う)

5月15日
新政府軍は旧幕府軍・彰義隊の武力殲滅を目指し彰義隊に宣戦布告。
午前7時頃に戦闘が始まり、午後5時には新政府軍の勝利戦闘は終わった。

上野戦争で戦死し放置されていた多数の彰義隊士の遺体を当時の円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。
現在、上野公園内と円通寺に彰義隊の墓があるゆえんである。

円通寺は明治時代において、旧幕府軍の法要可能な寺院として旧幕臣の信仰を集めることとなった。

彰義隊戦死者の墓

戦死墓

建立時、まだまだ彰義隊という名称を出すのを憚れる時勢であったため「戦死墓」とのみ記載されている。
明治37年5月15日に榎本武揚らの手によって建立。墓碑銘は榎本武揚書。

彰義隊士の墓
 慶応四年(一八六八)五月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。
 これが縁となって、明治四十年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和六十年に修復工事が行われている。
荒川区教育委員会

死節之墓

彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘にて、鳥羽・伏見、会津、函館、戊辰戦争などで戦死した旧幕臣の戦死者を供養していたが、円通寺に移設し、彰義隊と合わせて供養することとなったという。


こうして円通寺は彰義隊の供養を行った寺であったために旧幕臣関連の信仰が篤く、旧幕臣ゆかりの人々の碑も多く建てられることとなった。

正二位勲一等男爵大鳥圭介君追弔碑

明治44年6月15日没。明治44年7月に有志によって建立。
大鳥圭介は旧幕臣としては歩兵奉行を務める。旧幕府内でフランス陸軍の指導を受けた西洋式軍隊であった「伝習隊」を率いて戊辰戦争に参加。榎本武揚と合流して函館政権の陸軍奉行。
明治維新後は政治家・外交官・教育者など各方面で活躍。明治44年6月15日没。

天野八郎墓

渋沢成一郎が抜けたあと、上野戦争の彰義隊を「頭取(隊長)」として率いたのが天野八郎であった。新政府軍に敗れ再起を図っていたが、囚われの身となり獄中5ヶ月で病死。享年38歳。

俗名 天野八郎

天野君八郎碑

扁額は榎本武揚書

新門辰五郎碑

新門辰五郎は町火消の頭であったが侠客として著名。娘は徳川慶喜の妾。慶喜の警備なども担当する。
彰義隊が戦った上野戦争では、既に71歳であったが寛永寺の防火と鎮火、延焼防止などを勤めるも、大村益次郎率いる申請軍軍の砲火により寛永寺の伽藍は焼失。
上野戦争終了後に円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。墓所は豊島区の盛雲寺。

三幸翁之碑

寛永寺御用商人三河屋幸三郎。明治23年建立。

上野戦争終了後に円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。

二十三世仏磨大和尚之墓

円通寺23世住職。
上野戦争終了後に円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・侠客新門辰五郎らが遺骸266体を集めて上野山内にて荼毘に附し円通寺に埋葬した。

土肥庄次郎之碑

碑は榎本武揚書。
旧幕臣。彰義隊に参戦。上野戦争で壊滅後に榎本武揚艦隊に合流。咸臨丸に乗船するも暴風雨にて本隊とはぐれ清水港入港。函館戦争には参加できなかった。以後は幇間として活動し、明治36年死去。

碑は2つに割れてしまっていた。

土肥氏之墓

中田正廣之碑

碑は榎本武揚書。碑文は山岡鉄舟の長男である山岡直記。
旧幕臣。慶応4(1868)年3月に江戸開城に激怒し江戸を離れる。
幕府撤兵隊(上総義軍)に参加し木更津の戦いで戦死。享年33歳。

小芝長之助墓

旧幕臣。将軍家御庭番。蝦夷共和国探索役主任、箱館市中取締頭取格。
土方歳三戦死に際しては遺骸を引き取る役目を担った。
晩年は円通寺の墓守として旧幕臣を見守り続けた。
大正5年死去。享年88歳。

佐久間貞一君記念之松

旧幕臣。彰義隊に参加するも徳川慶喜の水戸蟄居に同行したために上野戦争には参加しなかった。
明治期には財界で活躍し大日本印刷の前身となる秀英舎を創業。
「日本のロバート・オウエン」とも称された。
碑は明治33年5月13日建立。

町野五八君追弔碑

堀覚之助の名で箱館戦争に参戦。大鳥圭介・土方歳三らの下で蝦夷共和国陸軍奉行添役を勤める。大正 5年3月8日に没。碑は 5月に建立。

澤太郎左衛門君記念之松

旧幕臣。蝦夷共和国開拓奉行。
長男は、海軍造兵総監・技術中将の澤鑑之丞。
明治期には海軍教官を勤める。明治31年死去、享年65歳。
日本海軍初の海上砲の操砲訓練を行ったのが澤太郎左衛門という。
また、澤太郎左衛門が輸入発注手配した圧磨機圧輪が板橋火薬製造所で使用され、加賀西公園に「圧磨機圧輪記念碑」として残さている。

相馬翁輔君之碑

彰義隊隊士。一橋相馬家。結城戦争で戦死。
墓所は相馬家の菩提寺・牛込松源寺。

佐野豊三郎君之墓

旧幕臣。彰義隊士。
上野戦争で敗走後、箱館に渡る。
函館市中での借金トラブルから、明治元年12月27日に切腹。
佐野の介錯をした鷹羽玄道らによって明治 29年 6月に建立

松平太郎君之墓

旧幕臣。陸軍奉行並。陸軍総裁であった勝海舟の下で旧幕府軍をまとめる立場であったが、大鳥圭介や榎本武揚と合流。蝦夷共和国副総裁。
明治期は不遇であった。明治42年5月24日死去。享年71歳。

永井尚志君 永井岩之丞君 追弔碑

永井尚志は旧幕臣旗本。京都町奉行。大目付。戊辰戦争では榎本武揚と行動をともにし、蝦夷共和国の箱館奉行。
明治24年7月1日死去、享年76歳。
永井岩之丞は永井尚志の養子。養父とともに函館戦争に参加。明治期は裁判官として活躍。明治40年5月25日死去、享年63歳。三島由紀夫の曾祖父にあたる。

彰義隊八番隊長木下福治郎
彰義隊遊撃隊長鷹羽玄道追悼碑

木下福治郎・鷹羽玄道(上原仙之助)は兄弟。
上野戦争のち、榎本武揚と合流し、函館で彰義隊メンバーを取りまとめる。
木下は明治13年に42歳で没し、弟の鷹羽は明治44年に69歳で没している。
追悼碑は鷹羽が亡くなった年に、娘・登宇によって建立。

樵村丸毛君碑

旧幕臣、彰義隊隊士。丸毛利恒。
上野戦争敗走後は榎本武揚と合流し函館戦争に参加。
明治期は横浜税関などに勤務。明治38年8月6日死去、享年55歳。
扁額は榎本武揚書。

合同舩

彰義隊士八人合同慰霊碑。
山田八郎(遊軍隊組頭のちの十六番隊組頭)
松本義房(第三青隊隊長のち三番態組頭)
大塚嘉久治(第二白隊隊長のち頭取並・大塚霍之丞)
小林一知(旧幕府軍最後の咸臨丸艦長)
西村賢八郎(十八番隊組頭)
前野利正(第一赤隊伍長)
羽山寛一
百井求之助(会計係)

彰義隊後藤鉄次郎追吊碑

旧幕臣、御書院番。
彰義隊に入隊し、慶応 4年 5月 15日の上野戦争にて上野山王台で戦死。
実弟の後藤鉄郎が建立。

旧幕府徳川之臣御書院番
彰義隊後藤鉄次郎追吊碑
戊辰五月十五日於上野山王台戦死

大澤常正の句碑

さがるほど 見あげる人や ふぢの花

大澤常正は彰義隊士の世話人を務めた弁護士。
諸霊追悼のため、明治四十三年5月15日建立。

荒井郁之助君追弔碑

旧幕臣。蝦夷共和国海軍奉行。
明治期には官僚となり、初代中央気象台長。ちなみに二代目が旧幕府軍最後の咸臨丸艦長であった小林一知。
明治42年7月19日死去。享年73歳。

高松凌雲君追弔碑

一橋家の専属医師であったが、慶喜が将軍となると幕府奥詰医師として登用。
榎本武揚に合流し、箱館戦争には医師として参戦。箱館病院院長。
箱館病院院長として敵味方問わず戦傷者を治療。日本ではじめての赤十字活動とされている。
明治新政府の評価も高かったが、新政府の誘いを断り民間の町医者として活動。
大正5年10月12日死去、享年79歳。墓所は谷中墓地。

正二位勲一等子爵榎本公追弔碑

旧幕臣。幕府海軍指揮官。蝦夷共和国総裁。
函館戦争敗北後に明治政府に任官。逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣を歴任。東京農業大学の前身を創立などもしている。
明治41年10月26日死去、享年72歳。

良馬之碑

扁額は立花種恭(陸奥国下手渡藩主・貴族院議員)
三池立花藩の流れをくむ立花種恭は、旧幕府では外国奉行・老中格の会計総裁などを努めた。

戊辰戦争の際に彰義隊に下された名馬「八重垣」
犠牲になった名馬の霊も祀る。
明治32年建立。

有縁諸霊之碑

彰義隊隊士の霊を祀る。大正9年4月15日建立。


円通寺には、上野戦争での激戦地であった移築された「黒門」の奥に、旧幕臣ゆかりの墓や追悼碑が所狭しと集まっている。


上野の黒門

上野戦争で彰義隊と新政府軍が激戦を繰り広げた黒門が円通寺に移築されている。彰義隊供養のゆかりゆえであった。

荒川区指定 有形文化財・歴史資料
旧上野の黒門
 この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門のうちで表門にあたる。慶応四年(一八六八)五月十五日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えている。戦いの後、埋葬されずにいた多数の彰義隊士の遺体を、当時の円通寺住持だった仏磨和尚と神田旅籠町の商人三河屋幸三郎が火葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。その機縁で、黒門が明治四十年(一九〇七)に帝室博物館より円通寺に下賜された。

今も残る黒門には、銃痕が多数残されている。


円通寺

東京都荒川区南千住鎮座。曹洞宗寺院。
伝承によると坂上田村麻呂によって建立という。

八幡太郎義家が供養のために築いた、小塚原の地名のもととなった「四十八首塚」。


磯部浅一墓(二・二六事件)

南千住回向院(小塚原回向院)
慶安4年(1651)に小塚原刑場での刑死者を供養するために建立された南千住の回向院。
安政の大獄で刑死した橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎の墓や、蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが刑死者の解剖に立ち合った記念碑(解体新書)などど共に、昭和に歴史を刻んだ人物もこの地に葬られている。

磯部浅一

明治38年1905年(明治38年)4月1日 – (昭和12年(1937年)8月19日
広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校(38期)卒業。
陸軍歩兵中尉に進級した後に、昭和7年(1932)6月に経理部への転科を志願し陸軍経理学校に入校。翌年昭和8年5月に陸軍経理学校を卒業し主計に転科。
陸軍二等主計(中尉相当)に任官し、昭和9年8月に陸軍一等主計(大尉相当)に進級。野砲兵第1連隊附となる。

昭和9年11月20日に発覚した「陸軍士官学校事件(十一月事件、十一月二十日事件)」にて、磯部浅一、村中孝次ら皇道派青年将校が逮捕される。
磯部浅一、村中孝次は軍法会議の結果、停職。停職中に「粛軍に関する意見書」を配布し免官。

昭和11年(1936年)の二・二六事件では、磯部浅一は栗原安秀らとともに計画・指揮を担当。磯部浅一は陸軍大臣官邸で統制派の片倉衷を銃撃。(片倉衷は一命を取りとめた。)

二・二六事件後の軍法会議で死刑宣告。磯部と村中の二名は北一輝、西田税の裁判の都合上、昭和11年7月12日に処刑された他の死刑囚とは切り離され、昭和12年8月19日に北、西田、村中とともに銃殺刑に処された。享年33歳であった。

昭和維新を目指した青年将校たちの夢はこうして果てた。

辞世の句
 国民よ 国をおもひて 狂となり 痴となるほどに 国を愛せよ

磯部登美子夫人はその後、結核を病み、昭和16年3月13日に病没した。享年28歳。二人の間に子供はいなかった。

磯部浅一墓

磯部浅一 之墓
妻登美子 

浅一  昭和十二年八月十九日歿
    行年三十三歳
登美子 昭和十六年三月十三日歿
    行年二十八歳

歴史的な良し悪しは、ここでは触れない。
ただただ、真摯に手を合わせる。
合掌

以下、本記事の趣旨とは外れてしまうので、簡単に。

豊国山回向院
(南千住回向院・小塚原回向院)

小塚原刑場

観臓記念碑

解体新書の絵扉をかたどった「観臓記念碑」
もともとは大正11年(1922年)建立。
昭和20年2月25日の空襲で被災したため、昭和34年に解体新書の絵扉部分の浮彫青銅板部分を移設。

境内には歴史上の著名人の墓も多い。

橋本左内墓(橋本景岳墓)

吉田松陰墓(松蔭二十一回猛士墓)

頼三樹三郎墓(鴨崖墓)

鼠小僧の墓
片岡直次郎の墓
高橋お伝の墓
腕の喜三郎の墓

意外なところでは、

カール・ゴッチ墓

プロレスの神様

Never lie , never cheat , never quit. 
技術と精神は常に一緒だ 
決して嘘をつくな 決してごまかすな そして 決して放棄するな

ほかにも当地には、桜田門外の変を決行した元水戸浪士達の総指揮者であった関鉄之介の墓なども。


関連

国歌「君が代」発祥の地(横浜)

国歌「君ヶ代」発祥の地は横浜だった。(幻となった初代メロディーとして)


初代「君が代」発祥の地

イギリス公使館護衛隊であった英国陸軍第十聯隊付軍楽長ジョン・ウイリアム・フェントンが、日本に国歌がなく儀礼音楽もないことを遺憾に感じ、作曲を申し出たことに始まる。
薩摩藩砲兵隊長であった大山弥助(のちの大山巌)は、古今和歌集に記載があり、めでたい歌として小唄や長唄・浄瑠璃でも親しまれており、大山巌が愛唱していたという薩摩琵琶歌「蓬莱山」の歌詞の一節でもあったという「君が代」を選び、フェントンが作曲。
横浜の妙香寺は薩摩藩洋楽伝習生(薩摩バンド・サツマバンド)がフェントンのもとで洋楽・吹奏楽の練習に励んだ地でもあり、この地で初代「君が代」(礼式曲君が代)が生まれた。
日本で最初に「君が代」を演奏したのも薩摩藩洋楽伝習生(薩摩バンド・サツマバンド)であった。
そうして、明治3年9月8日に、我が国最初の陸軍観兵式に際して明治天皇の前で初めて演奏された。

フェントン作曲の初代「君が代」は讃美歌風のメロディで日本人には歌いにくいものであったため、明治13年(1880)に雅樂調の改定版「君が代」が制定。

http://myokohji.jp/kimigayo.html


国歌 君が代由緒地

国歌 君が代由緒地
昭和十二年五月 建碑 


國歌君ヶ代発祥之地

名勝史蹟四十五佳選当選記念
国歌君ヶ代発祥之地
横浜貿易新報社

昭和十年十月起

横浜貿易新報社は現在の神奈川新聞。
横浜貿易新報社の45周年にあたる昭和10年に神奈川県下の45名勝史蹟を新聞読者投票で選定したもの。


日本吹奏楽発祥の地

明治2年(1869)に薩摩藩は自藩の洋式化をイギリスに相談。洋式化のひとつが軍楽隊の設立であった。
30名ほどの薩摩藩洋楽伝習生(サツマバンド)はイギリス軍第十聯隊の軍楽長ジョン・ウイリアム・フェントンの指導を妙香寺で受けたことから、日本の吹奏楽が始まったとされる。

日本吹奏楽発祥の地
 島津忠秀書

碑文
 明治2年(1869年)10月、薩摩藩の青年藩士30余名が当妙香寺に合宿し、英国陸軍第10連隊第1大隊所属軍楽隊の指導者ジョン・ウイリアム・フェントン(John William Fenton)から吹奏楽を学んだ。
 これが日本人による吹奏楽団創立の序であり、吹奏楽活動の諸となった。
 発祥から120年目にあたるこの年、日本吹奏楽が悠久に発展することを祈念し、ここに、吹奏楽界同志に諮りこれを建立、謹んで日蓮宗本牧山妙香寺に献呈するものである。
平成元年(1989年)9月8日建立
 日本吹奏楽発祥の地記念碑建立発起人会
  代表 春日 學

島津忠秀は島津家第31代当主。島津義弘から数えて第14代目。

http://myokohji.jp/brass.html


妙香寺(君が代寺)

弘仁5年(814年)真言宗の開祖弘法大師(空海)の創立。その後、日蓮の教化で日蓮宗に改宗したという。

http://myokohji.jp/index.shtml


場所

元町・中華街駅から徒歩20分ぐらい。

https://goo.gl/maps/tok68fBP9s8qSacr5

ちなみに鹿児島にも「君が代発祥の地」があるとのこと。

http://www.pref.kagoshima.jp/aa02/pr/gaiyou/itiban/hatu/kimigayo.html#:~:text=%E5%85%A5%E6%9D%A5%E7%94%BA%EF%BC%88%E7%8F%BE%EF%BC%9A%E8%96%A9%E6%91%A9,%E5%9C%B0%E3%81%A8%E3%81%84%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

東京第一陸軍造兵廠跡地散策・その1(四本木稲荷神社)

東京都北区は軍都であった。

赤羽には「工兵隊」(近衛工兵大隊・第1師団第一工兵大隊)、
西が丘には「兵器補給廠」と「射撃場」、
そして南の十条及び滝野川には「造兵廠」(東京第一陸軍造兵廠・東一造)、
があった。

今回は東京第一陸軍造兵廠(東一造)の工廠神社を中心に。
その他の東京第一陸軍造兵廠関連記事はまた別途で。


東京第一陸軍造兵廠(東一造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

東京小石川後楽園にあった「東京砲兵工廠」の「銃砲製造所」を明治38年に十条に移転したことにはじまる。そののち、明治41年には「火具製造所」も小石川から十条に移転。

大正12年に、東京砲兵工廠の「銃砲製造所」「火具製造所」が合併。
「陸軍造兵廠火工廠十条兵器製造所」となる。

昭和11年に小石川から東京工廠本部が十条に移転。
「陸軍造兵廠東京工廠」の下に「銃砲製造所」「精器製造所」「火具製造所」が編成される。

昭和15年組織改変
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(略称「東一造」)
  第一製造所(銃砲製造所)
  第二製造所(精器製造所)
  第三製造所(火具製造所)
 
陸軍造兵廠東京第一陸軍造兵廠(東一造の主要施設は以下)
 陸軍造兵廠本部
  第一製造所(銃砲製造所)
   仙台製造所(宮城・第一製造所所管)
  第二製造所(精器製造所)
   大宮製造所・研究所(埼玉・第二製造所から分離)
    大宮製造所池田工場(大阪)
  第三製造所(火具製造所)
   第三製造所滝野川工場 
    技能者養成所
   第三製造所尾久工場 
   第三製造所江戸川工場(埼玉春日部)
   川越製造所(埼玉・第三製造所から分離)
   小杉製造所(富山・第三製造所所管)

昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されているが、この節では「四本木稲荷神社」を解説。その他は別途で。東昭和20年5月25日の空襲で一部焼失。戦後に進駐してきた米軍によって当地には東京兵器補給廠が展開。焼け残った昭和5年竣工の本部事務所は米軍東京兵器補給廠の保安司令部として使用される。昭和46年に返還され、昭和56年からは北区文化センターとして現存。
また倉庫の一部が北区中央図書館に活用。その他にも「東一造」を偲ぶ戦跡がいくつか残されているが、この節では「四本木稲荷神社」を解説。その他は別途で。


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-M402-2-82
1947年08月11日-米軍撮影

上記を一部加工。(クリックで拡大。)

東京第一陸軍造兵廠の北東に「十条の四本木稲荷神社」が鎮座。
そして南には「滝野川の四本木稲荷神社」が鎮座。

戦後に「北の四本木稲荷神社」は廃止。
鳥居などの建造物が「南の四本木稲荷神社」に移されて、今日に至る。

GoogleMapにて

北の四本木稲荷神社は、稲荷公園と呼ばれていたが、再開発により「北区中央公園」(旧稲荷公園)となっている。

「滝野川の四本木稲荷神社」の場所

「十条の四本木稲荷神社」があった場所
旧稲荷公園、現在は「北区中央公園いなりプレーパーク」


四本木稲荷神社境内地図

当社境内の旧陸軍関連の遺跡
よもとぎ稲荷を守る会

四本木稲荷神社御由緒

神道大教四本木稲荷神社
 当社の祭神は「神道大教院」の奉斎する主神の」御分霊、並びに「四本木、世基衹(よもとぎ)大神」です。昭和29年6月に宗教法人登記をされており、敷地は国有地です。
 「王子町誌」(昭和2年、王子町刊)に拠れば、当地周辺が明治38年に陸軍の雷汞場(「らいこうば」、銃弾火薬の製造工場、後に造兵廠滝野川工場となる)となる前より有った無名の小祠が源となります。
 一方、その北方の下十條村七軒町(現・十条台、十条駐屯地正門付近)に、四種類の樹木(サワラ、杉、樅、椎)に囲まれた王子稲荷神社分社の四本木稲荷(しほんぎいなり)が古くからありました。明治38年にその一帯が陸軍砲兵工廠(主に銃砲や銃弾製造、後に「造兵廠」となる)が設けられたため、陸軍が管理する営内(構内神社)となりました。この時、分社の御霊は王子稲荷神社境内に移されたものの、四本木の名称と祠は残されたようです。
 その後の第一次世界大戦をきっかけとする施設増強により敷地の北東角付近(現・稲荷公園の場所)に移転されました。当社敷地内にある多数の鳥居や灯籠、天水桶、手水鉢に刻まれた「火工廠」「火具製造所」「信管工場」「圧延工場」「銃砲製造所」「精器工場」等の文字は、その部門名です。毎年、4月には招魂祭と神社祭礼が周辺の方々も参加され盛大に執ち行われていました。(高木助一郎日記より)
 当社については王子町誌に「小祠を改修し、結構を改め、且つ当時の銃砲製造所長先導となって十條構内四本木稲荷神社から神霊遷しの式を行い、爾来四本木稲荷神社と称するので、祭典も十條構内の神社と共通に行うことになっている」とあり、造兵廠構内には南北(十條・滝野川)2つの四本木稲荷が有ったことになります。
 戦後、両社は陸軍の管轄を離れ周辺地域の方々により祀られましたが、十条の四本木稲荷が廃せられることになり、社殿、鳥居や灯籠、天水桶、手水鉢、狛犬等が梶田譲園氏により当社へ移転されました。滝野川は神道大教を祀る神社となり、四本木の四を世、本を基、木を衹と移し変え、四本木の名称を冠して世基衹大神を祀られていくことになりました。
 平成8年に新たに柵が設けられ、令和元年に当社の包括団体である宗教法人神道大教の本局により運営されることとなりました。
 なお、南東の古びた小祠は、現在の正殿、拝殿が移転される以前より有ったとされ、北東の朱色の小祠は、王子警察署裏の位置にあり廃社されるのをここへ移転されたと言われてます。
 よもとぎ稲荷を守る会


四本木稲荷神社

境内には北に鎮座していた「十条の四本木稲荷神社」から移されたものが多数残されている。陸軍造兵廠(一造)ゆかりの戦跡。

石鳥居(東京第一陸軍造兵廠奉納)

昭和12年4月建立

狛狐(東京第一陸軍造兵廠奉納)

お狐様
昭和10年4月建之 信管工場一同

石灯籠(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石灯籠
大正6年4月建之 火具製造所一同

石灯籠
昭和10年2月 精器工場関係者一同

手水鉢(東京第一陸軍造兵廠奉納)

手水鉢は境内に2つある。

手水鉢
明治43年4月 銃砲火具職工一同

手水鉢
明治43年4月 銃砲火具職工一同

石鳥居

御社殿

鉄製天水桶(東京第一陸軍造兵廠奉納)

昭和10年4月吉日 
 圧延工場従業員一同

忠魂碑(東京第一陸軍造兵廠奉納)

忠魂碑
大正6年4月建之
 火具製造所一同

碑は圧磨機圧輪を断裂して本体と台座に転用したものという。

境内社石鳥居(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石鳥居
大正7年3月建之

南東の小祠は、現在の御社殿が鎮座する前からの祠という。

境内社灯籠(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石灯籠
大正9年12月 精器工場外関係者一同

南の鳥居(東京第一陸軍造兵廠奉納)

石鳥居
大正13年2月 陸軍造兵廠火工廠

北東の境内社は、かつては王子警察署の裏手に鎮座していたが、廃社されることとなったために遷座という。


旧稲荷公園(十条の四本木稲荷神社跡)

かつての稲荷公園は「北区中央公園いなりプレーパーク」として再整備。
東京第一陸軍造兵廠275号棟(北区中央図書館)の北側。

公園内には慰霊碑が残されていた。

殉職慰霊碑

殉職慰霊碑
 陸軍造兵廠東京工廠長 杉本春吉 書

陸軍造兵廠東京工廠職員殉職者を祀る。

碑裏面の碑文等が全て消されていた・・・


関連

東京第一陸軍造兵廠・一造に関連するそのほかは、別記事にて。

東京第一陸軍造兵廠(一造)が十条に来る前に拠点だったのが小石川

北区西が丘

北区赤羽台

赤羽台の戦跡散策

田無平和観音・戦災者慰霊塔(西東京)

平和観音は総持寺に鎮座、記念碑は田無駅前に建立。

田無(西東京市)は、「中島航空金属田無製造所」があり、そして「中島飛行機武蔵工場」にも近く、多摩地区でも特に空襲被害が大きい地区であった。

戦災者慰霊塔
 昭和二十年四月十二日祈念

昭和三十二年四月十二日建立
 戦災者慰霊塔建設会

平和観音
 太平洋戦争末期の1945年4月12日、米軍機B29の爆撃により田無駅前において五十数名の罪なき人々が一瞬にして爆死し、その他多数の人々が被災者となった。更にこの年の8月15日の終戦までに田無全域において百数十の尊い命が爆撃の犠牲となった。
 1957年4月12日、被災地居住の歯科医海老沢太一氏が中心となり被災者遺族及び篤志家により金物店主下田武主氏がその所有地を無償提供され駅前の爆心地に観音像の戦災者慰霊塔が建立された。爾来、霊を同所で慰めてきたが、アスタビル建設のため、1992年移転せざるを得なくなり、総持寺のご好意によりこの地を安住の地と定める事となり移住した。
 田無駅前被災の中心地には「田無平和の日」条例制定記念として記念碑を設け、この慰霊塔はこの地で平和のシンボルとして子孫が平和を享受出来るよう祈願する。
 1999年4月12日

田無山 総持寺
別名は、田無不動尊
真言宗智山派の寺院


田無戦災記念碑

平和観音はもともと田無駅前に建立されていた。
この田無駅前は被災中心地であったという。

田無戦災記念碑
 太平洋戦争末期の昭和20年4月12日、B29爆撃機の空襲により市内各所で130余名という多数の犠牲者をだしました。駅前周辺だけで死者が50余名 破壊家屋は50軒に達したといわれております。
 その後、被災者遺族及び篤志家により戦災者慰霊のため、この地に観音像の戦災者慰霊塔が建立されました。
 以来、その霊を多くの方々が慰めてきましたが田無駅北口再開発事業のため、その慰霊塔は田無山総持寺の一角に移りました。
 よって 戦争による田無の被災中心がこの地であることを末永く伝え、恒久の平和を願いこの碑を設けるものです。
 平成八年(1996)三月 
  田無市


関連

浄牧院の爆弾型石塔(東久留米)

東久留米市大門町鎮座。
曹洞宗寺院 神護山 浄牧院

東久留米の南には「中島航空金属田無製造所」や「中島飛行機武蔵製作所」などの軍需工場があり、北多摩地区は度重なる空襲被害を受けていた。

東久留米市に鎮座する浄牧院の境内にも爆弾が落下してきたという。

爆弾型石塔(爆弾落下点)

爆弾落下点
第二次世界大戦末期西暦1944年(昭和19年)11月24日、アメリカ空軍爆撃機の空襲の際に投下された爆弾が本堂前庭に落下し直径約5米・深さ約2米の穴が生じ飛び散った土砂は本堂裏の竹林に至った。爆弾の着下した穴に植えたヒマラヤ杉が開創560年本堂工事のため伐採されたので此の地点に爆弾型石塔を建立して後世に伝えることとなった。
 維時平成16年5月23日 当院丗貳世猷孝 記載

御本堂の目前に爆弾が落下してきたという。
現在の御本堂は平成17年建立。

神護山 浄牧院

位置関係


少年航空兵像と所沢陸軍整備学校(所沢航空記念公園)

明治44年(1911年)、日本初の飛行場として、所沢飛行場が開設。
以来、昭和20年(1945年)の終戦に至るまで、日本の航空発展の歴史は、所沢とともにあった。

所沢陸軍飛行学校・所沢陸軍整備学校

大正8年、陸軍航空学校が所沢に開設。フォール大佐を長とするフランス航空団が航空教育を指導。
大正10年、陸軍航空学校は、所沢を本校に、千葉の下志津と伊勢の明野に分校を開設。
大正13年、所沢陸軍飛行学校に改称。
昭和8年、少年航空兵教育が追加。
昭和10年、所沢陸軍飛行学校から機関科が分離し、陸軍航空技術学校が開設。
昭和12年、下士官と少年航空兵の整備科を分離し、陸軍航空整備学校が開設され。所沢陸軍飛行学校は廃止。陸軍士官学校分校に転用。
昭和13年、陸軍士官学校分校は、現在の入間基地の地に移転し陸軍航空士官学校として独立。のち「修武台」と命名される。
昭和16年、陸軍航空技術学校は立川に移転。
昭和18年、所沢陸軍整備学校へと名称変更。
昭和19年、所沢陸軍整備学校の敷地内に「少年飛行兵の像」が建立。
昭和20年、所沢陸軍整備学校は陸軍幹部候補生・少年飛行兵の航空整備技術の中心地として機能し終戦を迎える。


少年航空兵像

航空発祥の地・ところざわ
航空整備兵の像
 この像は、昭和18年、彫刻家故長沼孝三氏(1908~1993)が第二回大東亜戦争美術展に出品し、翌19年5月21日に、当時この地にあった所沢航空整備学校内に建立されたものです。
 翼を抱き、空を見上げる航空整備兵三人の姿は、当時の少年飛行兵や整備兵のシンボルとされていました。
 戦後、所沢飛行場は米軍基地として接収され、昭和46年の基地返還により、所沢航空公園として整備されました。しかしこの像は痛みがはげしかったため、所沢航空資料調査収集する会では、後世にわたりこの像を保存していこうと、平成9年2月、長沼孝三彫刻館(山形県長井市)の協力をいただき、修復工事を行いました。
 空への夢と希望を抱いたこの像が、市民のやすらぎや平和への祈りを込めた像として永く市民に親しまれていくことを願ってやみません。
 平成10年3月
  所沢市
  所沢航空資料調査収集する会

翼を抱き空を仰ぐ少年飛行整備兵


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:892-C2A-107
1944年(昭和19年)9月24日、日本陸軍撮影

一部拡大

現在の様子

今も昔もはっきりと分かる空間。


大正天皇御駐輦之跡

大正天皇御駐輦之跡
 大正元年(1912)11月15日から19日にかけて関東地方で10万人の将兵が参加する陸軍特別大演習が行われました。所沢飛行場からはブレリオ機、会式3号機、会式4号機と飛行船パルセバルが初参加しました。この碑は、同年11月17日に大正天皇が所沢飛行場に行幸され、飛行機の飛行を統監されたのを記念して建立されたものです。
 尚、この碑には当時の井上幾太郎の直筆による文字が刻まれれており価値ある記念碑と言われています。
 2020年3月
  所沢市
  所沢資料調査収集する会


フォール大佐胸像

フォール大佐胸像
 日本にとって航空の黎明期であった大正7年(1918)、陸軍の航空本部長であった井上幾太郎大将は、先進国であったフランスに我が国の航空技術全般の指導を要請しました。
 日本からの妖精を受けたフランスは、フォール大佐を団長とする技術者63名の航空教育団を大正8年(1919)1月から大正9年(1920)10月までの間、派遣してくれました。
 この間、フランス航空教育団は、日本各地で陸軍の将校や技術者に学科と飛行訓練を指導しました。
 フォール大佐は、44歳で砲兵連隊長として第一線で活躍しており、フランスの航空部隊の第一人者でした。また、優れた操縦者であり、教育者でもあったので航空教育団の団長として派遣されたと言われています。
 日本でのフォール大佐の功績は大きく、日本の「航空の父」と呼ばれ、昭和3年(1928)4月に所沢飛行学校の校庭だったこの地に胸像が建立されました。
 しかし、胸像部分と正面プレートは、第二次世界大戦中に接収され、取り外されたままになっていましたが、昭和57年(1982)10月、少年飛行会及び所沢航空資料調査収集する会等の協力を得て、石川県金沢市の水野朗氏制作の原型を基に復元し、所沢市が建立したものです。
 なお、現在フォール大佐胸像正面にあるプレートは、フランス航空教育団来日100周年となる平成31年(2019)に、オリジナルの姿に復元したものとして、フランス航空宇宙工業会(GIFAS)から寄贈されたものです。
 2019年3月
 所沢市
 所沢航空資料調査収集する会

この胸像は昭和3年 当時所沢陸軍飛行学校校庭だったこの場所に建立されましたが 戦後取り外されたままとなっていました
この度少飛会有志の御協力により 金沢市の水野朗氏制作の原型を求め復元したものです
 昭和57年10月 所沢市

~記念植樹~
フランス航空教育団来日100周年記念
2019年4月7日(日)、フランス航空教育団来日100周年記念式典の実施にあたり、日仏交流の証、そしてフランスが日本の航空技術の発展に大きく貢献してくれたことをいつでも思い出すことができ、次の100年後も語り継げるよう、桜の木の植樹をしました。
(以下略)

ジャック・P・フォール大佐
フォール大佐の功績を記念して、所沢陸軍飛行学校校庭に設置された胸像の原型


ニューポール81E2(甲式一型練習機)

1918年(大正7年)、陸軍がフランスから輸入したニューポール81E2練習機。
翌大正8年に来日したフォール大佐のフランス航空団の教材として所沢陸軍航空学校設立以来、活用された練習機。その後、国内でも三菱によって国産化されている。写真の機体はレプリカ機。

岩田正夫のニューポール81E2

埼玉県ときがわ町の慈光寺に保存されていた「ニューポール81E2」の残骸。都幾川村出身の民間飛行家であった岩田正夫が、郷土訪問飛行時に機体を破損させたために、そのまま村に寄贈した機体。


所沢航空発祥記念館に関係する記事

日本の航空事始め7・日本初の航空犠牲者「木村・徳田両中尉像」(所沢)

日本初の飛行場、航空発祥の地「所沢」
航空事故も所沢が日本初であった・・・。

東京青山練兵場から所沢飛行場に向けてのフライトで、所沢飛行場を目の前にして墜落してしまったのが、木村中尉と徳田中尉が搭乗したブレリオ機であった。


日本の航空事始め

「日本の航空事始め」と題して、航空機の黎明期に注目した記録。
本記事は、もともと別立てでしたが、改題して、「その7」として再編集しました。

「その1」はこちら。


木村・徳田両中尉像
(木村・徳田両中尉記念塔)

我が国最初の航空犠牲者 
木村・徳田両中尉像

 大正2年(1913年)3月28日、所沢飛行場を離陸した木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の搭乗する「ブレリオ機」は青山練兵場に着陸し、貴・衆両議院の観覧及び説明の後、午前11時36分帰航の途につきました。
 ところが、所沢飛行場北東約1500メートルの大字下新井字柿の木台の上空に差し掛かったとき、突風に左の翼を破壊され両中尉は飛行機と共に墜落して殉職し、我が国最初の航空犠牲者となり、国民のすべてが深くその死を悲しみました。
 当時の「やまと新聞」は義捐金を募り、墜落地点に記念塔を建て、両中尉の英姿を銅像として残しました。
 墜落地が交通不便のため訪れる人も少なかったので、当時所沢町のほか六カ村の在郷軍人会が発起人となり、昭和4年3月西武線所沢駅に移設しました。
 その後西部園から航空自衛隊入間基地へ移設されましたが、関係者の協力を得て、昭和55年3月航空発祥の地である現在地に移設したものです。
 所沢市

大正二年三月二十八日、陸軍ノ航空術ヲ兩院議員ノ觀覧ニ供スルニ當リ、陸軍砲兵中尉木村鈴四郎ハ「ブレリオ」式飛行機ヲ操縦シテ所澤ヨリ青山練兵場ニ至リ。
次テ陸軍歩兵中尉徳田金一ヲ載セテ歸航セシニ、偶突風ニ機翼ヲ毀損セラレ、木村中尉ハ其ノ卓絶セル伎倆ヲ施スニ由無ク、徳田中尉ト共ニ此ノ地ニ墜落シテ壮烈ナル最期ヲ遂ケタリ。
惟フニ、飛行機ノ軍國ノ用ヲナスコト多大ナルハ言ヲ俟タス。
其ノ研鑽ノ初ニ於テ一身ヲ犠牲ニ供シタル兩中尉ノ事蹟ハ、之ヲ千載ニ傳ヘテ朽チサルヘシ。
乃チ、有志相謀リ記念塔ヲ建テ、以テ後人ニ貽スト云爾。
 大正三年三月
 建設發起者 やまと新聞社

塔本在松井村村域、両中尉殉職之処。
経癸亥之大震而、荒廃甚殆瀕倒壊。今兹際、同志相謀而修復之、鑑所在僻遠而、有詣者漸稀看守屡絶之、憾移之於此地庶幾長全。
建立之趣旨、云爾。
 昭和四年三月
 発起者 帝国在郷軍人会所沢町外六箇村聯盟分会

場所


木村・徳田両中尉墜落地

所沢航空記念公園の東方が墜落地点であった。

木村 德田 兩中尉殉職之處
所澤陸軍飛行學校長古谷清書
大正二年三月二十八日兩中尉之殉職於此地也
有志者建塔而記念之今茲昭和四年三月之於所澤驛頭別勒碑而傳後人
 発起者 帝國在郷軍人會所澤町外六箇村聯盟分會

所沢市指定文化財(史跡)
木村・徳田両中尉墜落地
 所沢市は日本初の飛行場が開設され、「航空発祥の地」として知られていますが、航空界初の犠牲者が出たのも、この所沢の地でした。
 大正2年(1913)3月28日、陸軍省は航空機の重要性を説くため、貴族院・衆議院議員を対象に青山練兵場で観覧飛行を行いました。その帰路、木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の搭乗したブレリオ機は、午前11時59分、所沢飛行場を目前にして突風を受け左翼が折れて墜落、両中尉とも即死でした。事故現場は、旧松井村下新井柿木台(現在の所沢市下新井)にあたります。
 両中尉の所沢での葬儀は、3月31日におこなわれ、会葬者は所沢飛行場から飛行機新道、日吉町を通り所沢駅に行き、停車場踏切南方まで見送ったといいます。事故後、両中尉の記念塔を建てようとする運動がおこり、やまと新聞社が中心となって義金を募集、墜落現場の土地を購入して、両中尉の銅像記念塔が建設されました。除幕式は一周忌にあたる大正3年(1914年)3月28日に挙行されています。
 この記念塔は、昭和4年(1929年)に所沢駅前へ移され、更に何度か移転を繰り返しましたが、昭和56年(1981年)に所沢航空記念公園内に移され、現在に至っております。
 記念塔の移転後、ここ墜落地跡には、根府川石で作られた「木村・徳田両中尉殉職記念碑」が建立されました。
 平成23年3月
 所沢市教育委員会

我が国ではじめての
航空殉職の地
大正2年3月28日正午頃、東京青山練兵場において皇太子をはじめ、貴・衆両院議員の公開飛行を終え、所沢飛行場に帰航中の「ブレリオ」式単葉機が、この上空300メートルにさしかかった時、突風のため左翼が壊れ墜落し搭乗の
木村鈴四郎
徳田金一
両中尉が、殉職を遂げられました。
 所沢市牛沼戦友会 建

所沢市指定文化財史跡
木村・徳田両中尉墜落地

日本最初の航空機事故犠牲者墜落の地

日本初飛行機事故の地

墜落地点

墜落地点

平成25年3月28日建立
殉職100年記念

墜落地点

木村中尉と徳田中尉が墜落死をされた場所。
もともとは、記念塔がこの地に建立されていたが、昭和4年に記念塔は所沢駅前に移転し、当地には新たにこの石碑が建立された。

所沢聖地霊園の駐車場の南側に建立。

航空公園駅前からは3km


所沢航空発祥記念館

所沢航空発祥記念館の展示より、木村・徳田両中尉に関係するものを。

ブレリオXIbis飛行機(フランス·1911)

日本記録を更新した高性能単葉機
明治43年、臨時軍用気球研究会の委員、徳川好敏大尉がフランス留学中に“アンリ·ファルマン機”と共に現地で購入した飛行機。
研究機として最初に購入された4機種中では最も高性能で、滞空、距離、高度の日本記録を次々に更新した。所沢飛行場では主に偵察訓練に用いられていたが、大正2年3月28日に青山練兵場で行われた公開飛行の帰りに空中分解を起こし墜落、搭乗していた木村、徳田両中尉は死亡、日本で初めての航空殉職者となった。

冒険好きの実業家ルイ·ブレリオ
1909(明治42)年7月25日、“ブレリオXI-bis”で英仏海峡初横断に成功したルイ·ブレリオは、当初自動車部品の製造販売を行っていた。彼は事業で得た財産で飛行機を作ることを考え、905年、最初のグライダーの製作をガブリエル·ボアザンに依頼した。その後彼は次々に単葉機を試作、自機で英仏海峡の初横断飛行に成功した。この名声により“ブレリオXI-bis”には100機の注文が寄せられ、航空事業を開始した。その後、彼の会社はドペルデュサン社と合併、第一次大戦の名機スパッドを世に送り出した。

英仏海峡横断機から発達した並列複座の単葉機
“陸軍ブレリオXI-2bis”は、ルイ·ブレリオが英仏海峡初横断に使った“フノリオXI-bis”から発達させ、一回り大きくして複座にした単葉機でーエンジンも高出力になっている。操縦装置はライト機を参考にしたたわみ翼式だが、方向舵と昇降舵が後方にまとめられている形は現代の飛行機に近い。着陸装置もスプリングを用いた緩衝装置を備えるなど、当時としては精巧な作りであった。

ブレリオ機

ブレリオⅪ-2bis単葉機
1911(明治44)年4月13日、徳川大尉の操縦で、滞空時間1時間9分30秒、距離80kmの当時の最大記録を作る。1913(大正2)年3月28日、木村、徳田両中尉搭乗、所沢、東京間野外飛行の帰途、所沢上空で空中破壊、両中尉はわが国最初の犠牲者となる。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:2
 全備重量:550kg
 最大速度:90km/h
 航続距離:4時間
 全幅:11.00m
 全長:8.80m
 全高:3.40m

出発前のブレリオ機と木村中尉

木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉

墜落したブレリオ機のハンドル

木村/徳田両中尉 遺品
この遺品は大正3年3月28日午前11時36分、木村徳田両中尉が「ブレリオ」式にて松井地区柿の木台(こぶし団地東北方)に墜落の際、祖父越阪部一(初代の所沢市議会議長)が最初に駆けつけ燃えさかる機体から操縦士の救助にあたったとのことで遺族からお礼の記念として贈られた遺品で戦時中は陸軍航空士官学校に飾られていたものを戦後当家に返還されたものでありまして、この尊き遺品を独り保存するに忍び得ず航空発祥の地所沢市の遺品として長く保存いたしたい次第であります
  (以下略

木村・徳田両中尉の事故の状況

木村・徳田両中尉の事故現場

墜落大破したブレリオ機

木村鈴四郎中尉、徳田金一中尉が日本の航空史に名を残した偉大な実績に感謝を。

合掌


「日本の航空事始め・その1」アンリ・ファルマン機と徳川好敏(所沢航空発祥記念館と代々木公園)

所沢航空発祥記念館に展示されている「アンリ・ファルマン機」。
日本で初めての動力飛行を行った飛行機。
徳川好敏とともに初フライトを行ったアンリ・ファルマン機と日本の航空史を簡単にまとめてみました。

所沢航空発祥記念館での「アンリ・ファルマン機」展示は2022年2月27日で終了しました。(航空自衛隊に返却)


日本の航空事始め

日本の航空史上、多くの「初」が溢れている。
以下に事象を箇条書きしてみる。

1877年(明治10年)5月21日
日本初の乗用気球飛行
  海軍兵学校が乗用繋留気球を制作。
  海軍省前の築地海軍練兵場で試験を行い高度110mまで上昇し成功。

1891年(明治24年)4月29日
日本初のプロペラ飛行実験
  二宮忠八による烏型飛行機・ゴム動力が完成。

1909年(明治42年)7月30日
臨時軍用気球研究会が設立
  陸海軍が設置した気球と飛行機の研究会
  委員に田中館愛橘・日野熊蔵・徳川好敏・相原四郎・奈良原三次ら。

1909年(明治42年)12月9日
日本初のグライダー制作
日本初の滑空飛行
  上野不忍池
  フランス海軍士官ル・プリウールがグライダー滑空飛行に成功。
  田中館愛橘(物理学者)・相原四郎海軍大尉がグライダー制作協力。
  (相原は明治44年1月にドイツで搭乗していた飛行船墜落により死去)
  相原四郎は日本人初の航空事故犠牲者となる。。

1910年(明治43年)3月18日
  日野熊蔵陸軍大尉設計の日本初の国産機「日野式1号機」が完成。
  戸山ヶ原で飛行試験を実施するも離陸できず。
   ※戸山ヶ原の射撃場を流用したため滑走距離不足とも。

1910年(明治43)10月
  奈良原三次海軍技師設計の「奈良原式1号飛行機」が完成。
  戸山ヶ原で飛行試験を実施するも地上滑走のみで離陸失敗。
   ※戸山ヶ原の射撃場を流用、馬力不足であったという。

1910年(明治43年)12月14日
日本初の動力飛行(動力滑空・動力跳躍)(非公式記録)
  代々木練兵場
  日野熊蔵大尉(グラーデ単葉機・独機)

1910年(明治43年)12月19日
日本初の公式動力飛行
  代々木練兵場
  徳川好敏陸軍大尉(アンリ・ファルマン・仏
  日野熊蔵陸軍大尉(グラーデ単葉機)
  日本人による(外国機)国内初飛行

1911年(明治44年)4月1日
日本初の航空機専用飛行場
  所沢陸軍飛行場が完成。

1911年(明治44年)4月5日
日本初の飛行場からの飛行
  所沢陸軍飛行場
  徳川好敏大尉が操縦する「アンリ・ファルマン機」飛行。
  高度10m、飛行距離800m、飛行滞空時間1分20秒の試験飛行を実施。

1911年(明治44年)5月5日
日本人による民間国産機での国内初飛行
  所沢陸軍飛行場
  奈良原三次(海軍を退役)が製造・操縦する「奈良原式2号飛行機」初飛行。
  高度約4m、距離約60mの飛行に成功。

1911年(明治44年)10月13日
日本人による軍用国産機での国内初飛行
  所沢陸軍飛行場
  徳川好敏陸軍大尉が設計した「会式一号機」が初飛行。

1912年(明治45年)5月
民間初の飛行場
  稲毛海岸
  奈良原三次が稲毛海岸の干潟を利用した飛行場を開設。

1912年(大正元年)11月2日-5日
日本海軍機の初飛行
  追浜飛行場(横須賀)
  河野三吉、金子養三による海軍機初飛行、観艦式への航空機初参加に成功。

1913年(大正2年)3月28日
日本初の航空機死亡事故
  所沢陸軍飛行場
  木村鈴四郎・徳田金一両中尉が死亡。
   ※別記事にて


地域でまとめると、
代々木
「日本航空発始の地」
「日本初飛行離陸の地」
「日本初飛行の地」
所沢
「航空発祥の地」
「日本初の飛行場」
稲毛
「民間航空発祥の地」
ということに。


アンリ・ファルマン機(原型:1910年型)

日本で、最初に動力飛行を記録した飛行機。

アンリ・ファルマン機
(原型:1910年型)


 当機は1910(明治43)年12月、徳川好敏大尉の操縦により日本で初めての動力飛行を記録したのち、翌1911(明治44)年には日本初の飛行場である「所澤飛行場」(現在の「所沢航空記念公園」)に備えられ、飛行訓練などに活躍しました。

主要諸元(原型)
●型式:1910年型アンリ・ファルマン(複葉複座型)
●エンジン:グノーム50馬力7気筒 星型回転式
●全幅:10.5m(展示機:10.8m)
●全長:12.0m(展示機:10.5m)
●重量:約600Kg
●水平速度:65Km/h
●航続時間:4時間
●製造国:フランス

アンリ・ファルマン機展示について
 このアンリ・ファルマン機は、徳川好敏大尉が操縦技術の取得と飛行機購入のために訪れていたフランスで買い付け、帰国とともに輸入したものです。
 1910(明治43)年12月19日に、わが国最初の動力飛行機による公式記録飛行を代々木練兵場において大尉自身の操縦により行ったのち、日本最初の飛行場である所澤飛行場で、これもまた徳川大尉らによって飛行技術の教育訓練に使用されました。
 第一線を退いたのちは、所沢の陸軍施設内にあった航空参考館(通称:南創庫)に展示・保管されていましたが、1945年、第二次世界大戦終結時にアメリカのライト・パターソン空軍博物館に運ばれ、15年後の1960(昭和35)年5月21日、日米修好100年ならびに日本の航空50年を機に日本へと返還されたものです。
 ときの航空幕僚長源田実氏は、わが国最初の動力飛行を記録したこのアンリ・ファルマン機を、青少年の教育・育成に役立てることを提案され、以来約50年間、東京都千代田区にあった交通博物館に展示されていましたが、2008(平成20)年3月、交通博物館の鉄道博物館へのリニューアルの折に航空自衛隊へと返却され、入間基地修武台記念館に移設・展示・保管されました。
 そしてこのたび、フランス航空教育団来日100周年を記念する事業を契機として、埼玉県が2019(令和元)年7月より航空自衛隊からの貸与を受け、かつこのアンリ・ファルマン機が活躍した地に立地する、所沢航空発祥記念館に展示することとなりました。
 このアンリ・ファルマン機を展示公開することは、わが国の航空発展に尽力した先人の足跡、ならびに日本とフランスの航空分野における深い係わりを、広く知っていただく機会となるとともに、空と空に関する技術や文化に対する興味や関心の喚起に繋がるものと確信します。

アンリ・ファルマン機のグノームエンジン
 当アンリ・ファルマン機に装備されているグノーム・エンジンは、普通のエンジンと全く逆で、クランク軸は回転せずに固定したままでシリンダー全体が回転します。放射状のシリンダーが弾み車のように回転し冷却効果を得ることができるこのタイプのエンジンをロータリー・シリンダー・エンジンといいますが、ピストンが回転するロータリー・エンジンとは全くの別物です。
 当時の航空界に衝撃を与えた画期的なこのエンジンはベストセラーになり、1910年頃のフランス機を中心に普及していきました。その後、飛行機の高速化にともなってシリンダーを回転させなくても冷却が可能となると、ロータリー・シリンダー・エンジンは姿を消していきます。

二人乗りの座席。複座。操縦席は脚が空中に飛びでるようで雰囲気で考えただけでも結構怖い。

ロータリー・シリンダー・エンジン

所沢航空発祥記念館での「アンリ・ファルマン機」展示は2022年2月27日で終了しました。(航空自衛隊に返却)


徳川好敏

御三卿清水徳川家第八代当主。男爵。最終階級は陸軍中将。
黎明期の陸軍航空を主導。
日本国内で初の航空機飛行に成功。

徳川好敏の軍用行李

漢詩「代々木初飛行の感慨」
徳川好敏が1910(明治43)年12月19日、東京・代々木練兵場もおける日本最初の動力飛行に成功した時の感慨を50年後の1960(昭和35)年に漢詩に認め、木村秀政・日本大学教授に贈ったもの。

漢詩読み下し
代々木原頭風凍る
寸時の飛行、是天祐
春秋去来す五十年
当時を偲びて、感慨更に新

飛行するアンリ・ファルマン機


航空発祥の地

航空発祥の地
この地は明治45年我が国で初めて飛行場が解説され同年4月5日早朝徳川大尉操縦のアンリファルマン機が初飛行に成功しました
それ以来、我が国航空界の発達に貢献した由緒ある「航空発祥の地」であります
 平成12年4月5日
 所沢市
 所沢航空資料調査収集する会

所沢市指定文化財(史跡)
航空発祥の地
 所沢市が日本の航空発祥の地といわれているのは、明治44年(1911年)4月、所沢に日本初の飛行場が開設されたことによります。
 明治42年(1909年)7月、勅令により臨時軍用気球研究会が発足し、航空機に関する研究が開始されました。気球研究会は、設置直後から試験場候補地を検討。栃木県大田原や千葉県下志津なども候補地にあがりましたが、旧所沢町と松井村にまたがる地域に決定されました。気象条件や地形の起伏などが選定の理由であったとされています。
 開設当初、所沢飛行場の敷地面積は約76.3ヘクタール。飛行機格納庫、気象観測所、軽油庫、東西方向に幅約50メートル、長さ約400メートルの滑走路を持つ飛行場でした。
 所沢飛行場での初飛行は、明治44年(1911年)4月5日の早朝に開始されました。まず、徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン機で飛揚し、約1分で着陸。続いて、日野熊蔵大尉がライト機で3分30秒の飛行時間を記録しました。
 所沢の住民はもとより、多くの見学者が、飛行を一目見ようと近在各地から集まり、訓練日には桟敷が設けられ、飛翔のたびに歓声が上がったといわれています。
 平成23年3月
 所沢市教育委員会


1911年の所沢飛行場

当時、この場所に滑走路があった。

「あっ、飛行機がとんだ!」
この地点はわが国最初の公式飛行場「所沢飛行場」の滑走路にあたります。
この滑走路で1911年(明治44年)4月5日早朝、徳川好敏大尉操縦のアンリ・ファルマン機が初飛行をお行いました。この飛行は公式飛行場における日本最初の快挙であり、以来所沢は「日本の航空発祥の地」といあわれています。
このモニュメントは、その偉業を成し遂げた滑走路を永遠にたたえる意味で作成されました。
 1994年5月
 創立5周年記念
 所沢東ロータリークラブ


会式1号機(日本初の国産軍用機)

臨時軍用気球研究会式1号・徳川式1号機

所沢飛行場が開設され、飛行機が足りなくなってきたことから、1911年(明治44年)4月、臨時軍用気球研究会として新しい飛行機の設計を開始。
徳川好敏を中心としてアンリ・ファルマン機をベースに設計された新型機は7月より所沢飛行場格納庫内で制作され、10月に完成した。
日本最初の国産軍用機であった。
10月13日に所沢飛行場で試験飛行が行われ、時速は72km/h・最高高度は85mで飛行試験は成功した。

所沢航空発祥記念館には、原寸大に復元された「会式1号機」も展示している。
入り口に吊り下げられているので、うっかりしていると見逃す展示。(実際、初見で私は見逃したために再訪しました。)

会式一号飛行機(日本・1911)
所沢で富んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏大尉の設計・制作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した「アンリ・ファルマン機」を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作ることを目的として、所沢飛行場格納庫内で制作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や空中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが生産された。


奈良原式2号複葉機(国産機初飛行)

奈良原式2号複葉機
1911(明治44)年5月5日、所沢飛行場で奈良原三次の操縦によって高度4m、距離約60mを跳び、国産機による最初の飛行記録を作る。その後、最大距離約600m、高度約60mを記録した。奈良原三次は海軍技師として臨時軍用気球研究会に参加していたが、委員会の活動とは別に自作の飛行機を設計、制作した。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:1
 全備重量:550kg
 全幅:10.00m
 全長:10.00m

国産機の初飛行
奈良原三次と“奈良原式2号機”
日本の初飛行は海外から購入した飛行機によるものであったが、国産の飛行機が初めて日本の空に舞い上がったのは、民間人の手により、ここ所沢で実現された。1911(明治44)年五月5日、海軍造兵中技師であった奈良原三次は、自ら私財を投じて“奈良原式2号機”を制作し、所沢飛行場にて初飛行に成功している。この初飛行の半年前、奈良原は1号機を完成させ東京・戸山ヶ原練兵場で飛行実験をしたが、わずか30cmほど浮き上がっただけで失敗している。この原因は、搭載を予定しフランスに注文したエンジン“ノーム50馬力”に対し、誤って“アンザニ25馬力”が届いたためであった。奈良原は、馬力不足であることを承知で行ったこの実験で、わずか30cmでも浮き上がったという事実で得た自信を旨に、所沢で2号機の飛行に挑み成功、これが国産飛行機の初飛行となった。続いて“奈良原式3号機”“奈良原式4号機”がつくられ、“4号機”は「鳳」号と命名された。翌4月13日に神奈川県川崎競馬場で日本初の有料飛行会を開催し、以後、地方巡回飛行を行った。
(以下略)


二宮忠八(航空思想のパイオニア)


臨時軍用気球研究会

日本での軍用気球の研究は、明治10年の西南戦争がきっかけであった。
明治10年5月21日、海軍兵学校が乗用繋留気球を制作。海軍省前の築地海軍練兵場で試験を行い、高度110mまで上昇し成功。
これが日本最初の気球飛行となる。

日本における航空技術は欧米に比べ遅れていたということから、専門の研究機関の設立が必要であった。
そこで、気球と飛行機の軍事利用のための研究組織として明治42年(1909年)に勅令によって、陸軍大臣と海軍大臣の監督に属する「臨時軍用気球研究会)が設立。

会長
 長岡外史(陸軍中将)
委員
 田中舘愛橘(東京帝国大学教授)
 日野熊蔵(陸軍)
 徳川好敏(陸軍)
 井上幾太郎(陸軍)
 相原四郎(海軍)
 奈良原三次(海軍)
 金子養三(海軍)
 河野三吉(海軍)
 ほか

臨時軍用気球研究会は陸軍主導で運営されていた為に、海軍の意向が反映されにくい状況があった。海軍では明治45年6月に横須賀追浜にて独自研究を開始。翌年には事実上の退会状態であった。
大正8年には陸軍航空部が設立。
大正9年(1920)五月14日、田中義一陸軍大臣と加藤友三郎海軍大臣が協議し、臨時軍用気球研究会は解散となった。

長岡外史(陸軍中将)と田中舘愛橘(東京帝国大学教授)


所沢市内のいたる所に「アンリ・ファルマン機」


所澤神明社

徳川好敏は、明治44年4月、所沢飛行場での初飛行を行う前に所沢神明社にて正式参拝を行ったという。

鳥船神社(所沢航空神社)
 所澤神明社の境内社

https://www.shinmeisha.or.jp/shinmeisha/hikouki.html

https://www.shinmeisha.or.jp/omamori/

所澤神明社 サイトより
所澤神明社 サイトより

境内再整備後の記事


ここまでは所沢を中心とした記事でしたが、以下は場所を変わって代々木公園に。日本の航空を鑑みる上で、所沢とともに重要な歴史が代々木公園にもあります。

代々木練兵場(代々木公園)

戦前の代々木公園は「帝国陸軍代々木練兵場」でした。所沢に日本初の飛行場が整備される前、日本の飛行機は代々木練兵場を利用して飛んでおりました。

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

明治43年(1910)12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が飛行に成功。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も飛行に成功。

これが日本航空史上「最初の飛行」である。
(ライト兄弟初飛行の7年後)

日本航空発始之地
陸軍大将井上幾太郎書

紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

日本初飛行の地
 1910年(明治43年)12月19日, 当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
 継いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。これが日本航空史上、最初の飛行である。

日本航空発始之地記念碑
 建立 朝日新聞社
 設計 今井兼次
 彫刻 泉二勝麿

徳川好敏之像
 建立 航空同人会
 彫刻 市橋敏雄

日野熊蔵之像
 建立 航空五〇会
 彫刻 小金丸義久

 東京都 昭和49年12月

日本初飛行離陸之地

徳川好敏之像と日野熊蔵之像

日本航空の父
徳川好敏之像
 井上幾太郎書

誠実 謹厳 航空に生涯を捧げた この人が明治四十三年(一九一〇年)十二月一九日 この地代々木の原でアンリ・ファルマン機を操縦しわが国の初飛行を行い飛行時間四分 飛距離三〇〇〇米 飛行高度七〇米の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった 
 昭和三九年四月十七日 
  赤城宗徳 
 像作者 鋳金家 市橋敏雄

至誠
通神
 好敏(花押)

平成17年4月17日
日本航空発始之地顕彰保存会
航空碑奉賛同人会

日野熊蔵之像
 美土路昌一書

限りなき大空
限りある人生
限りなき代々の祖国のため
限りある現世の定命をささぐ

翁は熊本の産 豪放磊落英仏独語に通じ 数理に秀で選ばれて 独逸に飛行機操縦を取得し一九一〇年十二月一九日此地に於いて発動機の不調を克服してグラーデ式を駆り一分間一〇〇〇米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである 
 昭和四一年四月二三日
  松野頼三

飛行機唱歌
  明治44年(1911)6月17日作
   作詞 日野熊蔵   
   作曲 岡野貞一
勇み立つたる推進機の
 響きは高し音高し
時こえて よけれ放てよと
 弓手を挙ぐる一刹那
御國を守るますらをよ
 勲立つる戦場は
かの大空にありと知れ
 かの大空にありと知れ
  平成17年(1942)4月17日
   日本航空発始之地顕彰保存会 
   航空碑奉賛同人会


関連ページ

飛行神社・二宮忠八

日野熊蔵

戸山(戸山ヶ原の射撃場で飛行試験)

代々木(代々木練兵場で初飛行)

稲毛(民間航空発祥の地)

航空神社

日本初の航空犠牲者

移動演劇さくら隊 原爆殉難碑(目黒区)

目黒不動に隣接する五百羅漢寺。
境内には、疎開巡業中に広島で原爆の被害にあった劇団さくら隊(桜隊)の慰霊碑が建立されている。

移動演劇さくら隊 原爆殉難碑

移動演劇隊さくら隊 原爆殉難碑
徳川夢声

原爆殉難碑
 昭和20年8月6日、世界で初めて原爆が広島に投下された。
 巡業中だった、新劇の名優「丸山定夫」の主宰する移動演劇隊「さくら隊」が被ばくし、団員9名が悲惨な最期を遂げました。
 この碑は、旧友たちの死を哀悼し、原爆という非人道的な武器を発明した人類の愚かさに、永遠に抗議するため、昭和27年、徳川夢声によって建てられました。
 碑の文字は徳川夢声、台座には亡くなられた9名の名前が刻まれ、碑の裏面には、柳原白蓮の自筆の追悼歌が刻まれています。
 原爆のみたまに誓ふ人の世に
  浄土をたてむ みそなはしてよ
              白蓮

桜隊(さくら隊)

1942年「苦楽座」結成。主要メンバーは薄田研二、徳川夢声、丸山定夫、藤原釜足。1944年に「苦楽座」は解散となり国策演劇団体「日本移動演劇連盟」に強制的に組み込まれ旧苦楽座は「桜隊」として改組。

1945年8月6日、「桜隊」疎開先の広島市中心部に近い堀川町の宿舎兼事務所も被爆し全壊焼失。当時、宿舎にいた9名のうち5名は即死であったという。
 ・森下彰子(23歳) 女優
 ・羽原京子(23歳) 女優
 ・島木つや子(22歳) 女優
 ・笠絅子(41歳) 島木つや子の母、衣裳方
 ・小室喜代(30歳) 桜隊事務長槙村浩吉の妻
   槙村浩吉は、たまたま広島から東京に赴いており広島不在だった。

辛くも脱出し避難した4名も次々と亡くなってしまう。
 ・丸山定夫(44歳) 桜隊隊長
   8月16日。避難先の厳島存光寺で死去。
 ・高山象三(21歳) 桜隊舞台監督、薄田研二の息子
   園井恵子とともに神戸の園井知人宅に避難するも8月20日死去。
 ・園井恵子(32歳) 女優、宝塚歌劇団出身
   高山象三とともに神戸の園井知人宅に避難するも8月21日死去。
   「宝塚歌劇の殿堂」殿堂入り。
   殿堂入りしたタカラジェンヌでは最年少物故者で唯一の戦災死者となる。
 ・仲みどり(36歳) 女優
   なんとか東京の実家に戻り東京帝国大学付属病院に入院。
   放射線医学の権威・都築正男教授の治療を受けるも8月24日死去。
   医学的に認定された「原子爆弾症認定患者第一号」となる。
   肺と骨髄の一部が今でも東大病院にてホルマリン保存されている。

こうして、広島に滞在していた桜組の9名は原爆によって命を奪われてしまった。

五百羅漢寺の碑には9名の隊員の遺骨も少量ずつ納められている、という。

合掌

台座には被爆し亡くなられた9名の御名前が刻まれている。

裏面には柳原白蓮の自筆の追悼歌が刻まれている。


五百羅漢寺


目黒区の五百羅漢寺境内に東京の「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」がある。

広島にもおなじく「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」があるが未訪。
いつか訪れたいです・・・


関連

B29と平和観音(東村山・秋津)

JR武蔵野線・新秋津駅と西武池袋線・秋津駅が交わる地。
この場所にかつて、米軍B-29爆撃機が墜落し、土地の地主が私財を投じて慰霊の観音様を建立した。

B29(B29機体番号#44-69752、所属:第73爆撃団第21爆撃隊第498爆撃群第873爆撃隊)は中島飛行機武蔵製作所を爆撃するために向かっている途中であった。

平和観音(秋津)

東村山市秋津町1-4鎮座

平和観音発願由来
東村山々会議員として在職中、偶々極度の苦難に遭遇せし時、計らずも同村西宿在徳蔵寺住職より菩薩の御教を聞き深く発信する処あり。以来ここに日常坐臥観音自在菩薩を守護神として、身に帯し今日迄何等事無きを得、戦時中偶々此地に於て貴き幾多の人命を損す。茲に人類の永久平和を発願し、在天の英霊を慰め 慈悲を求め本像を発願建立せし次第なり。散華の英霊願くば我が意を汲み、安らかに眠り給へ。
 昭和三十五年七月二日  小俣権次郎

平和観音に思う
 1945年(昭和20年)第二次世界大戦の末期、日本の敗色が濃厚となりし同年の4月2日午前3時15分東村山町秋津地区一帯の住民は突然起こった百雷一時に落つるが如き轟音に驚愕した。
 それは米国空軍B-29爆撃機(約50機)による首都東京近郊空襲中の出来事であった。耳朶を震わした轟音の真相は米国空軍B-29爆撃機一機が日本軍対空砲火により被弾自爆せしものであった。悪夢の夜が明けると我が家前は直径40米、深さ20米に及ばんとする大穴が掘られていた。それがB-29爆撃機自爆の痕跡であり機体の破片は数百米に散乱し凄絶鬼気迫るものがあった。
 1945年8月15日、大戦は米国等連合国勝利のうちに終局を見た。その後父権次郎は我が家の庭前に散った米国空軍勇者の慰霊に心を痛め続ける毎日であった。
 そして熱心な観音菩薩信者であった権次郎は11名の勇者の慰霊と世界平和の為に平和観音像の建立っを発願した。

 その銘に曰く
人類の恒久平和を祈願し在天の英霊を慰め慈悲を求め本像を発願建立せし次第なり。
散華の英霊願わくば我が意を汲み安らかに眠り給え。
 1960年(昭和35年)7月2日 小俣権次郎

 観音の慈悲に生きた人 父権次郎は不幸にも1960年(昭和35年)7月13日幽明界を異にする人となった。然しその意志は固く受け継がれ同年11月27日、在日空軍司令官、東村山市長、市当局の協力を得て平和観音の開眼法要が曹洞宗安松山長源寺住職、松永全隆導師により盛大且厳粛裡に執り行われた。
 時は流れ、平和観音像は小俣家庭前に変わらぬ永遠の微笑みを浮かべ立つ。
 それはこの地に散った11名の勇者を慈悲の衣で優しく包んだほほえみである。 合掌

平和観音像建立賛同者
(個人名略)

B-29 乗組員リスト
ミズーリ州セントルイス、兵士記録部室によると当該B-29機体番号44-69752は第21爆撃隊第498爆撃大隊内873爆撃中隊に所属し、乗組員は次の通りです。
(個人名略)

以下略
右部英文略

秋津の平和観音が建立されているこの場所は、小俣家の庭先だった。
小俣家が私財を投じてB29乗組員の冥福を祈った観音様は、慈悲の微笑みで犠牲者の冥福を祈っている。


東村山ふるさと歴史館

東村山ふるさと歴史館には、秋津に墜落したB29の残骸一部が保存されている。

B29の墜落と南秋津の平和観音
 昭和20年(1945)4月2日の夜間空襲の際、B29が高射砲により撃墜され、南秋津の茶畑に墜落した。付近の空襲被害と墜落の巻き添えにより、被害民家23戸、消失家屋1戸、死者3名、B29搭乗員11名は全員死亡した。米軍の遺体は花見堂墓地周囲の小高いところに埋葬され、終戦直後に「無名戦士の墓」と題した墓標が建てられた。遺体・遺品は返還された。墜落地点の畑の地主である小俣権次郎氏は亡くなった米兵と平和を祈念するために「平和観音」の建立を発願した。昭和35年12月に、ジョンソン基地司令官等大勢の来賓を迎えて開眼法要が行なわれた。

秋津の墜落したB29の機体部品
昭和20年(1945)4月2日に墜落したB29の機体部品、モーター部分と考えられる。

秋津町に墜落したB29の爆弾破片・薬きょう・機体部品(ジュラルミン製)

B29の爆弾破片

薬莢

乗組員指名


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