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旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿(久伊豆神社境内社)

埼玉県越谷市 久伊豆神社境内社

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地 遥拝殿
(きゅうかんぺいたいしゃなんようじんじゃちんざあとちようはいでん)

南洋神社は、南洋群島の中心地パラオ(現パラオ共和国のコロール島)に昭和15年2月11日、皇紀2600年に際して、昭和天皇の格別の思し召しにより創立された神社です。その御祭神を「皇祖天照大神」一座とする官幣大社であり、我々神社人が「本宗」と仰ぐ伊勢の神宮の「南洋における分社」ともいうべき神社です。その後、昭和20年8月の終戦によって、御社殿は御焚き上げとなり、神社の祭祀は終結、社殿跡地が残るのみとなりました。しかし、創立以来、南洋の地で開拓・入植に励んだ方々が、また戦時下、アジアの解放と大東亜共栄圏の実現を信じて、遥か遠く故郷を離れて南方の戦地へと赴いた部隊・兵士たちが篤い祈りと誓いを捧げられた事実は永遠に消滅するものではありません。

伊勢の神宮と旧南洋神社との御神縁・御神慮を拝し、神宮当局の御指導・御協力を賜って平成16年4月11日久伊豆神社境内に「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」を建立いたしました。この遥拝殿は、氏子・崇敬者共々遥かに、幾多の兵士の最期の祈りと誓いをお受けになった大神様の御霊を和め、遠く故国を離れた南洋の地に散華された英霊への感謝と慰霊・鎮魂、功績顕彰の誠を致す御殿です。

久伊豆神社公式サイト より

旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿竣工をお祝いして
この度、久伊豆神社境内に戦前パラオに創立され敗戦によって廃止された官幣大社南洋神社を偲び彼の地で戦没された方々の御霊を慰霊顕彰するための施設である旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿が目出度く竣工いたしました。洵に御同慶の至りであり衷心よりお祝い申し上げる次第であります。
ご承知の通り、南洋神社は我々神社人が本宗と仰ぐ伊勢の神宮の南洋における分社ともいうべき格別の神社であり、御祭神を皇祖天照大神一座とする官幣大社として昭和天皇の格別の思し召しから創立された神社であります。
そのことは、昭和15年2月1日付で拓務大臣小磯国昭が慎みて皇統の始祖に存します天照大神を奉祀し、永へに報本反始の誠を致さしめたく祭神を天照大神とし、社号を南洋神社と定め、社格を官幣大社に列せられる旨仰せ出られたく、右慎みて奏すと昭和天皇へ上奏し、それを天皇が裁可されたことからもご理解いただけることでしょう。
そして日本が、国際連盟規約により委任統治していた南洋群島の中心地であるパラオに鎮座した南洋神社に、南洋の地で開拓入植に励んだ方々が、また戦時下アジアの開放と大東亜共栄圏の実現を信じて遥か遠く故国を離れて南方の戦地に赴いた部隊・兵士たちが、篤い祈りと誓いを捧げた事実は、永遠に消滅するものではありません。
伊勢の神宮と旧南洋神社との御神縁御神慮を拝し、神宮御当局の御指導御協力を賜って、久伊豆神社境内に旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿が恙無く無事建立竣工なったことに、改めて慶賀の意を表すと共に、氏子崇敬者の方々はじめ多くの人々が竣工なったこの遥拝殿を通じて、幾多の兵士の最期の祈りと誓いをお受けになった旧南洋神社を偲び、遠く故国を離れた南洋の地に散華なされた英霊への感謝と慰霊、鎮魂、御功績顕彰の誠を致されることを記念致すものであります。
 平成16年4月11日
  國學院大學教授 阪本是丸

旧官幣大社南洋神社遥拝殿

南洋神社

現在のパラオ共和国コロール島に鎮座していた神社。
旧社格は官幣大社。

1914年に勃発した第一次世界大戦にて、日本は日英同盟に基づき連合国として参戦。日本海軍はパラオを統治していたドイツ軍を降伏させ占領。
1919年の第一次世界大戦戦後処理であるパリ講和会議によって、南洋諸島は日本の委任統治領となった。
コロール島には南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、南洋諸島の中心的な島となり、多くの日本人も移住。
紀元2600年記念事業の一環として、そして南洋群島総鎮守として、昭和15年(1940)に創建。
太平洋戦争では、コロール島は帝国海軍の重要な基地として、北西太平洋方面の作戦拠点として展開。
昭和19年(1944)には、コロール島の南に位置するペリリュー島にて、ペリリュー島の戦いが勃発。日米双方に多くの戦死者を出した。
昭和20年(1945)8月の終戦により、日本の南洋統治は終了。

昭和20年9月11日に、南洋神社奉焼式が行われ社殿奉焼。11月17日、日本政府より南洋神社廃止の連絡を受け、翌1946年1月5日、パラオ本島の仮本殿で昇神の儀・仮本殿の奉焼を行い、ご神体は船で東京の宮内省に運ばれ、1月19日御奉遷の手続きが行われた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/南洋神社

http://www.himoji.jp/database/db04/preview.php?name=南洋神社

位置関係

久伊豆神社(ひさいず神社)

埼玉県越谷市越ヶ谷鎮座。越ヶ谷総鎮守。旧社格は郷社。
元荒川流域に分布する久伊豆神社の総本社とされている。
境内には国学者平田篤胤の仮寓跡もある。

https://www.hisaizujinja.jp/

第三鳥居
伊勢神宮の第61回遷宮撤去材の皇大神宮板垣南御門を再建
平成7年9月28日竣工

平田篤胤仮寓跡

平田篤胤(1776-1843)は、江戸時代後期に復古神道を唱えた有名な国学者です。しばしばこの地を訪れ、暮らしたと伝えられています。
 平成18年12月 久伊豆神社 越谷市教育委員会 埼玉県教育委員会

平田篤胤先生遺徳之碑

昭和17年10月建立

久伊豆神社の藤
平田篤胤遺愛の藤。樹齢200余年。

誠忠碑
神社本庁総裁北白川房子謹書

昭和6年満州事変、昭和12年支那事変、昭和16年大東亜戦争戦没者と応招者の名前を刻む。
昭和38年5月建立

戦捷記念碑
埼玉県知事従四位勲四等大久保利武謹書

明治39年12月建立、日露戦争

日本海軍大東亜戦争戦没者殉国者慰霊碑(龍口寺)

令和元年(2019年)11月撮影

神奈川県藤沢市片瀬鎮座の龍口寺。
日蓮が処刑されそうになった地。

ちょうど江ノ島の入口に位置しており、門前には江ノ島電鉄(江ノ電)が走る。

そんな龍口寺の境内に、人知れず大東亜戦争の海軍慰霊碑がある。

日本海軍大東亜戦争戦没者殉国者慰霊碑

日本海軍戦没者47万3千余柱と殉国者200余柱の英霊を慰霊する。
昭和62年4月8日建立。

日本海軍大東亞戰争戰没者殉国者 
南無妙法蓮華経 慰霊碑 

 龍口十三世 日宣(花押)

維時 昭和六十二年四月吉日 
 海交会 
  龍口寺大本願人
   秦野秀雄 建之

追悼の辞
大東亜戦争日本海軍戦没者四十七万三千余名殉国者二百余名の 
 御英霊に捧ぐ 
祖国日本の繁栄と同朋の幸福を念じつ 悠久の大義に殉じた 
御英霊に感謝申し上げ御冥福を祈る
 施主 元海軍一等兵曹 秦野秀雄 
  奉賛者 
   元法務大臣 秦野章 
   元参議院議員 藤井裕久
   衆議院議員 田中慶秋 
   立正山光妙寺 柴山宣哲

主要慰霊行事 
一 中部太平洋ソロモン方面慰霊祭施行 海交会 
   昭和五十六年十一月十二日より十二月一日まで
一 タラワ ナウル グアム マショロ島慰霊祭施行 
   昭和五十八年十一月二十二日より十二月一日まで
    熊野原妙光寺 田中栄海 
    亀井野法泉寺 酒井光雄 
    愛国歌手 渡辺はま子
一 南太平洋方面慰霊祭施行 
   昭和五十九年十一月二十八日より十二月九日まで
一 フィリッピン 台湾 沖縄方面慰霊祭施行 
   昭和六一年十一月二十六日より十二月十日まで
 
世話人 
 海交会 元海軍中尉 山北林
 謹書 元海軍少尉 米本八百重

(碑面裏)
昭和六十二年四月八日建之
 (以下奉賛者名は略)


地下壕(陸軍抵抗拠点陣地)

龍口寺境内に残されている、陸軍抵抗拠点陣地は戦跡として著名。
陸軍歩兵第401聯隊のよる米軍上陸による水際の防衛陣地。
実際には使われることなく終戦を迎えているが、境内には地下壕の開口部が数箇所残されている。

今回は、地下壕が目的ではなかったので、この話題はここまで。
関係者以外進入禁止エリアですし。

龍口寺や界隈の地下壕に関しては、ネット上に情報が散見しておりますので、ご参照をば。

龍口寺(りゅうこうじ)

神奈川県藤沢市片瀬鎮座。
文永8年(1271)9月12日に日蓮宗の開祖日蓮が、この地にあった龍口刑場で処刑されそうになったことに、関連する寺院。

明治43年(1910)建立の五重塔。

天保3年(1832)建立の本堂。

昭和45年(1970)竣工の仏舎利塔。

龍口刑場跡

山門前には、江ノ電。

鎌倉江ノ島界隈は戦跡が多いけれども、巡りきれておりません・・・

関連

陸軍関東松山飛行場跡(唐子飛行場跡)

松山飛行場

今も昔も「松山」という地名は混乱をきたす。
戦国の頃は、この地にも「松山城」があり、武蔵の松山もそれなりの知名度を持っていたが、愛媛松山に対して「東の松山」という位置づけ。

東上鉄道(東武東上線)が大正12年(1923年)に「武州松山駅」を開業。(戦後に東松山駅に改称)
当時は「武州松山駅(東松山駅)の隣の駅は「菅谷駅(現在の武蔵嵐山駅)であり、まだ「森林公園駅」は開業前であった。

その当時は存在していなかった「森林公園駅」の南側に、かつて飛行場があった。

「陸軍松山飛行場(陸軍関東松山飛行場)
通称は、地元名称から「唐子飛行場」(唐子の飛行場)と呼称していたという。

愛媛の松山には、松山海軍航空隊・松山海軍航空基地(源田実の第343海軍航空隊が著名)、そして現在の松山空港があり、海軍と陸軍でそれぞれの松山だった感じですね。

余談ついでに。
台湾は台北飛行場(松山飛行場)が昭和11年(1936)日本統治時代の台湾総督府によって建設されておりますので、戦前のあるタイミングでは3つの松山飛行場があった、というわけですね。

陸軍関東松山飛行場(唐子飛行場)

戦時中、首都防衛のために関東各地に陸軍の飛行場が建設され、この松山飛行場もそのうちの一つ。

昭和17年(1942)
測量と土地買収が開始される。

昭和19年(1944)10月
現在の森林公園の南側の地に、陸軍によって「松山飛行場」建設開始。
同時に松山飛行場建設のために、東武鉄道東上線「武州松山駅(東松山駅)」~「武蔵嵐山駅」間5.3キロを北に迂回させる必要があった。。
迂回工事は松山中学(現在の松山高校)の生徒なども動員され3ヶ月後の昭和20年1月には完了。
西側の旧軌道跡は、飛行機誘導路としてそのまま利用され、そのまま現在も道路として活用されている。

昭和20年8月
飛行場未完成のまま終戦。
滑走路面が固まりきっておらず離着陸にはまだ使用できない状況で、飛来した航空機が不時着を試みたことがあったが、車輪が滑走路にめり込んで転倒してしまったいう。

戦後は「農業地」「東松山工業団地」として再開発。

位置関係

昭和22年に米軍撮影の「関東松山飛行場跡」周辺の航空写真。
比較的にわかりやすい正方形。
国土地理院より)

USA-R356-18
1947年10月24日-米軍撮影

今昔マップ on the webで、飛行場ができる前、昭和14年の地図を以下に参照。一部加工済み。

昭和14年 飛行場建設前
東武東上線は「旧線」

青線は、飛行場建設後に北側に移転された線路。
ポイントは「森林公園駅」と「つきのわ駅」。

赤線は、飛行場区画。
ポイントは区画の四隅。
現在の様子。
昭和14年と照らし合せると違いがわかりやすい。
GoogleMAPを一部加工。
紫ポイントは「開拓記念之碑」石碑

森林公園駅

昭和46年(1971)開業。飛行場当時は当駅はまだ存在していなかった。

東松山工業団地案内板

飛行場跡地は工業団地に。比較的良くある戦後再開発。

森林公園駅の南側、住宅地区画の先が、旧飛行場エリア。

都開拓記念碑

松山開拓都会館に「開拓の石碑」が建立されていた。
開拓の歴史は、この地に「飛行場」があった歴史の記録でもあり。

都開拓記念碑
 旧村の宮前、唐子両村を境して、民地約二00ヘクタールが大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが終戦とともに、戦後国民の食糧事情が飢餓の状態であったので、開拓による食糧増産が国策となり、唐子飛行場跡地も開拓入植の土地となりこの旧宮前地区には昭和二十五、二十六年にわたり、旧宮前、唐子の人達家族ごと十五戸が入植となった。この地は字名を都と称し、唐子分は新郷と称したとくに、表土をけずられてあるこの都は、黄塵にして荒れ、開拓家族は、石油ランプをたよりに起居し、農具も鍬や万能の、手による作業で、血と汗にまみれ排水工事を施工、困苦の日々の闘いの開拓であった。開拓当初、都開発者は唐子開拓農業協同組合を設立したが旧村がそれぞれに町村合併により東松山市と滑川村とになり、組合も松山開拓農業協同組合と合併した。電灯も入り辛苦の十数年、作物も実りが得られるようになった。この頃より国の経済の動向は農業から工業生産と変化した。市村も将来の発展的計画に基づき県企業局の協力のもとに工業団地として組合にその協力を求められた。血と汗の結晶の土地であるが組合として協力の決がとられた。その後地区内を関越高速道の通過があり全員が協力した。以上のように開拓者一致の協力は、この地域と住民の発展を大きく進展させたことは事実でありかっての苦闘の努力は歴史を綴り不滅に輝き続けてゆくことであろう。都開拓三十周年記念の開拓者建碑にあたり碑文とする。 
 滑川村長小久保正男 
 昭和五十八年四月吉日建之 

大東亜戦争に軍用の唐子飛行場となったが・・・

刻まれる「唐子飛行場」の名称。

石碑の向いている南側が、かつての飛行場区画。

飛行場区画の東側に足を伸ばしてみた。
「東武東上線の旧線」にあたる道路であり、水路との境界地。

この水路は「唐子飛行場」時代から設けられた水路。当時の飛行場排水路であろうと推測。

石碑と水路と。
往時を偲ぶものはさほどには残されていないが、地図には当時の飛行場を忍ばせる区画が残っていた。

国旗掲揚所跡(秋葉原・岩本町)

秋葉原・岩本町界隈。
「和泉橋」の隣の駐輪場に、ひっそりと「昭和の遺産」が残っていた。

国旗掲揚所跡
(国旗掲揚台跡・国旗掲揚塔跡 )

(表面)
帝國在郷軍人會
國旗掲揚所 第拾班
神田區分會

(側面)
陸軍中將赤井春海書
昭和八年八月建設 寄贈 大熊柳三

大熊柳三は東京神田の呉服商。
陸軍中将・赤井春海(1876-1954)は、大正12年(1926)に陸軍中将、昭和5年(1930)に予備役。

「星と錨」が掲げられた。国旗掲揚台。
星と錨は「帝国在郷軍人会」のシンボルマーク。
「帝国陸軍の五芒星」と「帝国海軍の錨」。

「帝国在郷軍人会」のシンボルマークは、昭和8年(1933)建設以来、約90年の時を経て、留め具が緩み始めていました。

国旗掲揚台には、当時、国旗を掲げたであろう木製の柱の残骸も残っていた。


帝国在郷軍人会

現役を離れた軍人(予備役・後備役の軍人)が入会していた団体。

全国統一的組織としての「帝国在郷軍人会」は、1910年(明治43年)11月3日、予備役・後備役軍人の軍人精神向上などを目的に伏見宮貞愛親王を総裁として発足。

以下は、参考資料。
平和祈念展示資料館(新宿)展示の帝国在郷軍人会徽章

現在、帝国在郷軍人会に相当する組織は、自衛隊員OB組織である公益社団法人隊友会、か。


和泉橋

国旗掲揚台の隣は和泉橋。
この橋も実は古い。

江戸期には伊勢国津藩の藤堂和泉守屋敷があったことから、「和泉橋」と呼称。町名としても「神田和泉町」として残っている。
大正5年(1916)に鋼橋に架け替えられ、昭和2年(1927)に、帝都復興事業の一環で拡張。今も残る親柱は大正5年当時のもの。

秋葉原、岩本町界隈。
ひとしれず、戦前を偲ぶものが残っている空間でした。

鎮守様の戦跡~海老名・神武社

海老名市河原口(海老名市河原口3丁目3付近)に小さなお社が鎮座している。
その名も「神武社」。
海老名市総鎮守・有鹿神社の境外摂社。

社号の通り「神武天皇」を祀っている当社は「石碑」がご神体という、珍しい神社。

神武社
神武天皇碑
日露戦争戦勝祈願 橿原神宮遥拝記念

神武社

江戸時代の頃は、辺りは桑畑であったといい、この地には「石神社」が鎮座していた。
明治37年(1904)に勃発した日露戦争に際して、戦勝祈願の為に、この地に河原口の人々が集まり、橿原神宮を遥拝したという。その後、橿原神宮遥拝の地を記念して「神武天皇碑」が建立。その石碑を覆う社殿も建立されたという。
社殿と鳥居は橿原神宮の方向(西面)を向いている。

もともと河原口の氏神様は神明社であったが、戦後に神武社にかわった、とされる。
河原口地区には、神武社が建立される前、「新編相模風土記」によると、天神社・神明社・諏訪社・熊野社・石神社・第六天社・弁天社などが鎮座していた。明治期の神社合祀政策により、これらの小社は「有鹿神社」に合祀されたが、その後に河原口地区で疫病が流行ったために、現在地に遷座。
現在、「神武社」の境内には、石神社・神明社・天神社・熊野社・第六天社の石祠が鎮座している。

<本記事は有鹿神社宮司様よりお伺いしたお話を基礎としております>

神武天皇碑
神武社
神武社
鳥居は昭和35年建立
神武社と石祠群
石祠は、 石神社・神明社・天神社・熊野社・第六天社 という(順不同)
御社殿と鳥居は西面。橿原神宮の方向。
ちょうど西日が差す先には現在は「圏央道」

海老名総鎮守「有鹿神社」(あるか神社)

相模国最古の神社。近年はパンダ宮司で有名。

公式サイト

https://www.arukajinja.jp

有鹿神社の後方には「横須賀水道」が縦断している。
これもまた「戦跡」のひとつ。

「横須賀水道みち」の戦跡散策もおすすめ。

東郷氏祖先発祥地

海老名駅から綾瀬市役所方面に向かうバスに揺られて、城山公園バス停で下車。

この地にあった「城山城」が、「東郷平八郎の祖先発祥の地」であったという。早川城址の物見塚の上に記念碑が建立されている。

東郷氏祖先発跡地

東郷氏祖先発跡地
 元帥伯爵東郷平八郎書之

相模高座の郡早川郷は往古渋谷庄司重国の領地にして其子光重孫重直実重の住地なり
光重承久の乱に戦功あり薩摩国薩摩郡の数郷に封せられたり
光重は長男重直と共に早川に在城し次男早川次郎実重三男吉岡三郎重保四男大谷四郎重茂五男曹同五郎坊定心下男落合六郎重貞は宝治二年の春薩州の封地に下向せり而して実重は川内川の上域東郷の地を領し姓を東郷と改む
元亀元年東郷の一族島津氏に帰服するに至る迄三百十有余年間其子孫東郷地方に割拠し渋谷党と称し雄を北薩に振へり爾来東郷の姓を冒す者概ね其後裔なり昭和六年有志相謀り東郷氏の祖先発跡の旧地を卜し早川の城山物見塚に碑を建て以て後昆に伝ふと云爾
 昭和六年 月
  海軍中将正四位勳一刀功四級東郷吉太郎撰並書

物見塚と東郷氏祖先発祥地碑
 早川城本郭の西側に位置するこの塚は、物見塚と呼ばれています。南北21m、東西23m、高さ約2mの塚です。発掘調査の結果, 表土直下に宝永火山灰(1707年、富士山の噴火による火山灰)が見られることから江戸時代初期以前に築かれていることは明らかです。また、塚の作り方が土塁と同 様の版築(黒土と赤土を交互に敷きつめて突き固めたもの) であることから、城郭の関連遺構のひとつであり、外敵の侵入を見張るため築かれた塚であると思われます。
 物見塚の上には、昭和7年に祖先発祥地東郷会により建てられた「東郷氏祖先発祥地碑」があります。この碑は日露戦争で有名な旧海軍元帥である東郷平八郎の先祖の地であることを記念して建てられたものです。東郷家は、早川城主であったと伝えられる渋谷氏の末裔の一つでした。
 綾瀬市

早川城址
東郷元帥祖先発祥地

県下名勝史蹟四十五佳撰当選記念 横浜貿易新報社

城山公園

早川城跡
 早川城跡は、地元では古くから「城山(じょうやま)」と呼ばれ、鎌倉時代の御家人渋谷氏の城と伝えられています。しかし、文献資料がないことから、その実態は明らかではありませんでした。
 そこで、綾瀬市教育委員会では平成元年度から平成六年度にかけて、早川城跡の学術調査を行ないました。
 発掘調査によって、堀切・土塁・物見塚・曲輪等、多くの城郭関連遺構が発見され、県内でも有数な保存状態の良好な中世城郭であることが明らかとなりました。また、城郭が構築される以前には、縄文時代や古代の集落が営まれていたことも明らかとなりました。

渋谷氏と早川城跡
 渋谷氏は平安の末期、綾瀬市域を中心に渋谷荘(吉田荘)という荘園を支配し、勢力をもった武士でした。『吾妻鏡』によると、平治の乱(1159年)に敗れて奥州に落ち延びていく源氏の重臣佐々木秀義を渋谷重国が保護したとの記事があることから、この頃までには綾瀬市域一帯を支配下に置いたものと思われます。
 鎌倉時代になると、渋谷重国は源頼朝の家臣である御家人となり、その子高重が後をつぎました。高重は早川次郎と名乗り、早川に拠点を置いて一族を統率していたものと思われます。1213年の和田合戦では高重は和田義盛に組したため高重はじめ多くの一族が討たれましたが、1247年、宝治合戦の後、その軍功により薩摩国入来院ほかに所領を得、地頭となり、その際多くの一族が移っていきました。しかし、室町時代の初め頃までは綾瀬市域に渋谷氏の支配が続いたと思われ、その一族が早川城を築城したものと考えられます。

堀切と土塁
 鎌倉時代に築城されたと推定される早川城跡は、天守閣を持つ江戸時代の城と異なり、自然の地形を巧みに利用し、堀切と土塁を周囲に巡らした「砦」的な要素の強い城郭であることが発掘調査によって明らかとなりました。堀切とは外敵の進入を防ぐため、城の周囲に巡らされた堀のことです。
 堀切の内側には、堀切を掘った土を利用して、土塁と呼ばれる高い土手を築き、さらに堅固な防御施設を作り上げています。早川城の場合、東西及び南側は急峻な崖に囲まれ、自然の要害となっています。しかし、北側は平坦なため、幅約11メートル、深さ5メートル以上という大規模な堀切と土塁を築いて敵の侵入を阻んでいます。
 早川城は、有事の際に周囲に暮らす武士たちが集結して、外敵の進入に備える防御施設として、また、領民に対しては、権力を誇示するシンボルとしてそれぞれ機能していたものと思われます。

見事な堀切と土塁が残る。

西側は低地の湿地帯となっている。天然の要塞。現在は湿生園として整備されている。

薩摩の東郷平八郎の東郷氏が、まさか渋谷氏の流れを踏んでいるとは、此の地に足を運ぶまで知りませんでした。
良い知的散策が出来ました。


陸軍成増飛行場の戦跡散策

令和2年(2020年)2月撮影

かつて東京都練馬区にあった陸軍飛行場。


陸軍成増飛行場

昭和17年(1942)4月18日のドーリットル空襲を期に、帝都防空の飛行場として急遽建設が計画され突貫工事が行われ、昭和18年(1943)12月に陸軍成増飛行場が完成。

陸軍成増飛行場完成と同時に第1航空軍第17飛行団隷下の飛行第47部隊が展開。
昭和19年3月、飛行第47部隊は、第10飛行師団隷下となり、11月には特攻隊(B29に対する空対空の特別攻撃隊)「震天制空隊」が編成される。

戦後は連合国に接収され、グラントハイツ(アメリカ空軍の宿舎)となる。1973年に日本に返還。「光が丘」として再開発された。

住居に再活用された掩体壕

位置関係

現在の都立光が丘公園を中心とした一帯が「成増陸軍飛行場」であった。

国土地理院
C36(8913)-C2-399
陸軍撮影、1944年10月24日
GoogleMapに、おおよその位置関係を追記
国土地理院
USA-R585-No2-1
米軍撮影、1949年03月02日
グラントハイツ

陸軍成増飛行場の掩体壕跡

赤塚新町の住宅地の中に、掩体壕が残っている。

残っている・・・というよりも住居として、掩体壕の上下の空間が巧みに活用されていた。

だいたいの住所は、「板橋区赤塚新町3-29」地区内。
住宅地なので見学は状況をわきまえつつで。

前述の グラントハイツ 周辺を撮影した航空写真、国土地理院USA-R585-No2-1・米軍撮影(1949年03月02日)から位置関係を確認してみる。

都立光が丘公園へ。


都立光が丘公園

陸軍成増飛行場は、戦後グラントハイム(米空軍宿舎)を経て返還後に光ヶ丘団地に隣接する公園となった。

光が丘公園 のあらまし
 都市近郊の農村地帯 であったこの付近一帯は、昭和15年(1940年)紀元2600年 記念事業として、東京府の「東京大緑地計画 」のひとつにあげられました。
 しかし、大平洋戦争 が始まったため、大緑地としては整備されず、昭和20年8月の終戦まで旧陸軍の成増飛行場 として使用され、戦後は、昭和48年9月の全面返還 までの間、米軍の住宅地(グラントハイツとして使用されました。
 昭和47年(グランドハイツ〕 跡地(182ha)の処分により、同49年3月その跡地の三 分の一に当たる 60.7haが都市計画公園として計画に決定されました。
 昭和49年4月から公園造成に着手し、“豊かな自然とスポーツの公園”をテーマに、災害時の広域避難場所としても機能するみどり豊かな、都民に広く親しまれる公園として整備され、同56年12月に34.6haを開園しました。その後、各種の公園施設を整備し、現在60.7haを有する都内でも有数の規模の公園として都民に利用されています。

◎ 開園年月日 昭和56年(1981年)・12月26日
◎ 公園の規模607,675.05m (平成7年6月1日現在) ..
◎所在地 練馬区光が丘四丁目、同二丁目、旭町二丁目 板橋区赤塚新町三丁目
◎主な施設 スポーツ施設のほか、芝生広場、バードサンクチュアリ 、ゲートボール 場、噴水、流れ、光りのアーチ、売店、駐車場など。


屋敷森跡地

昭和18年に成増飛行場が造営されるにあたり、周辺住民は立ち退きを命じられるも、この屋敷森の家は境界の都合で1軒だけ残ることが出来た。
戦後、グラントハイツとなり飛行場の周りの土地も接収されるも、この屋敷森の住宅は宅地であったためにそのまま残ることが出来たという。
光が丘公園として再開発時に、当主が無くなり「屋敷森のまま」保全されることにあったという。

屋敷森の樹木は、成増陸軍飛行場のころから変わらずにそこにあったのだろうか。特攻隊の飛び行く姿を見守っていたのだろうか。


平和祈念碑

平和祈念碑
 この地には 1943年(昭和18年) 帝都(首都)防衛のため成増陸軍飛行場がつくられ 多くの若い生命が空に散っていった。
地元住民にとっても 農地を強制買収され 基地づくりに動員された忘れがたい地である。
 終戦直後の一時期 この広大な地域は米軍キャンプとして接収され 米国第18代大統領グラント将軍にちなみグラントハイツと呼ばれた。
その後 多年にわたる返還運動が実り みどりと太陽の武蔵野台地にコミュニティ「光が丘」が誕生した。
 練馬区は1983年(昭和58年)に『非核都市練馬区宣言』を制定し 「世界の恒久平和は人類共通の願い」であるとして「核兵器の廃絶と軍縮」を強く訴えている。
 本年は戦争終結から50年 歴史の大きな節目の年にあたる。この時にあたり戦中 戦後の歴史の激しい流れを見つめてきたこの地に 区民の総意を込めて平和の祈念碑を建て 練馬地域の多数の戦没者を悼むとともに 空爆による被災者や第二次世界大戦による内外諸国民の多大な犠牲を省りみるものである。
 ここに練馬区民は 戦争の悲惨さと平和の尊さを心に刻み 平和を守る決意を新たにしたい。
 1995年(平成7年)8月15日
 練馬区

平和への祈り
練馬区長 岩波三郎書

平和祈念碑.彫刻
デザイン.制作
彫刻家 田中昭

健やかに
田中昭

都立光が丘公園には、成増陸軍飛行場の面影は残っていない。なんとなくここに滑走があったのか・・・と感慨にふけるのみ。

総務省
練馬区における戦災の状況(東京都)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_18.html


2023年9月追記

成増陸軍飛行場開設80周年・写真展

郷土史家の山下徹さんの展示と秘話公開がありました(2023年9月)
「成増陸軍飛行場秘蔵写真&今だから語る秘話公開」

http://akatsuka-tokumaru.cocolog-nifty.com/blog/2023/09/post-9876ce.html

https://itabashi.keizai.biz/headline/667/

そこで知った2つの史跡を以下に追記。


飛行場建設で移転した観音立像

丸彫聖観音立像廻国供養塔
練馬区登録有形民俗文化財

成増陸軍飛行場の建設に伴い、飛行場予定地の住民たちは移住を余儀なくされたが、そんな住民の一人(Kさん)は、道端で打ち捨てられそうになっていた観音様を保護し、近隣の神社に預けたという。

江戸時代(享保13年・1728)に66ヶ国巡りを達成した記念碑です。元は光が丘の地域に建てられました。成増(高松)陸軍飛行場建設のため、土支田八幡宮、さらに旭町2丁目にあった稲荷神社に移設されました。その後、保護のため、現在地に移設しました。
 平成27年10月 練馬区教育委員会

上練馬公園にて


吉澤平吉中尉(震天制空隊)の勇魂碑

震天制空隊(震天隊)は空対空の特攻隊。B29に対して体当たり特攻を実施防空した。成増陸軍飛行場にも震天隊が編成され、首都防空の一翼を担っていた。

昭和20年2月10日、B29に対して体当たり散華した吉澤中尉。
震天隊として成増陸軍飛行場にもゆかりがあった。

東部第一〇七部隊飛行第四十七戦隊、震天制空隊近衛鐘馗戦闘隊
吉澤平吉中尉(陸軍航空士官学校第56期)
実は吉澤中尉は特攻隊員ではなかった。しかし部隊から多くの体当たりでの特攻隊員を出した先任将校として、自らもと覚悟を決めていたのかもしれなかった。

吉澤中尉(特進で少佐)の体当たり散華から38年後の昭和58年2月10日の、吉祥寺(武蔵野市)の大法禅寺境内に、勇魂碑が、吉澤中尉の姉達によって建立された。

勇魂 
従六位功四級勲六等 
故陸軍少佐吉澤平吉之碑

感状
 陸軍中尉 吉澤平吉

右者マリアナ基地ヨリスル米空軍ノ数次ニ亙ル帝都来襲ニ際シ其ノ都度勇戦以テB29撃墜ニ機撃破4機ノ赫々タル戦果ヲ収メアリシカ昭和20年2月10日敵B29約90機ノ太田付近空襲ニ方リ勇躍之ヲ下館上空ニ邀撃シ忽チ其ノ1機ヲ撃破セリ敵機攻撃ニ方リ自機亦被弾損傷シタルモ吉澤中尉ハ毫モ之ニ屈スルコトナク勇戦奮闘遂ニ後続敵編隊ノ左外側機ニ對シ敢然躰當リヲ決行之ヲ確実ニ撃墜スルト共ニ自ラ亦壮烈ナル戦死ヲ遂ク
吉澤中尉ハ真摯者実而モ内ニ烈々タル気魄ヲ蔵シ戦技亦卓抜ナリ敵機要地ニ侵襲スルヤ憤然挺身ヲ勇猛果敢毎戦武勲ヲ重ネ遂ニ玉砕以テ要地援護ノ大任ヲ完遂セルモノニシテ其ノ行動真ニ軍人ノ亀鑑ト謂フヘク武功亦抜群ナリ
依テ茲ニ感状ヲ授与シ之ヲ全軍ニ布告ス
  昭和20年2月23日
   防空総司令官 稔彦王

防空総司令官 東久邇宮稔彦王殿下の感状が掲げられている。

辞世
君の為 捧げし命の 重からで 只一筋に 宮居護らむ
大君の 御楯とあらば 何惜しまむ 雲染め散なむ 翼なりせば

戦歴
防衛総司令官東久邇宮稔彦王殿下命名の震天制空隊にて昭和十九年来帝都護持の任務を遂行中 「マリアナ」基地より発進する米空軍の数次に亙る帝都襲来に際し其の都度勇戦B29二機を撃墜四機を撃破せしが 昭和二十年二月十日B29約九十機関東地方襲来に際し下館上空に於て其の一機を撃破せしも 自機又被弾損傷せるも毫も之に屈せず更に勇戦奮闘遂に後続編隊の左外側機に敢然体当りを決行 之を確実に撃墜すると共に梅花に魁けて萬朶の櫻となり雲染む屍は大空に潔散壮烈なる戦死を遂く 昭和二十年二月二十三日東久邇宮稔彦王殿下より上記感状を授与せられ二階級特進畏くも陛下のお耳に達し 同じく仏印の空に散華し兄陸軍大尉吉澤正夫と共に金鵄勲章並に勲六等単光旭日章を賜ふ

略歴
大正11年 9月19日 本籍埼玉県北埼玉郡下忍村大字樋上64番地
(略)
昭和14年12月   陸軍士官学校予科 入学
昭和16年 3月   同校卒業 士官候補生隊付勤務
         飛行第二十九戦隊
昭和16年 6月   陸軍航空士官学校 入校
昭和16年 7月   第二十九独立飛行隊に転属
昭和18年 5月   陸軍航空士官学校を卒業(五十六期)
         任 陸軍少尉 叙正八位
昭和18年 6月   明野陸軍飛行学校 入校
昭和18年11月   同校退校 調布飛行部隊 部隊所沢へ移動
昭和19年     東部第一〇七部隊飛行第四十七戦隊
         震天制空隊近衛鐘馗戦闘隊
昭和19年 8月  陸軍中尉 従七位  
昭和20年 2月10日 群馬県に於て空中戦闘中戦死 2階級特進
         陸軍少佐従六位功四級勲六等を賜う 
         享年二十四才

碑文
このたび 昭和十六年来 府中市多磨霊園に埋骨されておりました父母兄弟の遺骨を当大法寺の永代納骨堂に奉移して未来永劫にわたり御供養をいただくことになりました 私達の弟二人は純粋に忠君愛国の念に燃え殉じましたが 志ならずして敗戦となり数多くのあらゆる面に罹災されました皆様の筆舌に尽くせぬ御辛苦に思いを馳せ さぞかし無念の涙に咽んだことと思います
然し身は大空に散華いたしましても霊魂は今なお天空に留まって日本国と国民の皆様の御安泰を祈り永遠なる平和への礎となっていることと思います 戦後三十八年を経た今日 新に戦死した弟達が蘇って参りました思いを切実に感じあらためて永遠の平和をひたすらに祈るものでございます
合掌
 昭和五十八年二月十日建立 吉澤富子 吉澤満子

合掌

吉祥寺の大法禅寺


立教大学の近代建築

池袋駅のほど近く、立教大学池袋キャンパス。
近代建築を散策してきました。


立教大学 池袋キャンパス
立教学院平和祈念の碑

チャペル近くにひっそりと慰霊の碑があった。

立教学院平和祈念の碑
 剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする
国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない (イザヤ書2章4節)

アジア太平洋地域の戦争で没した
本学院出身者の名簿をここに納める

2001年11月
立教学院

昭和16年(1941年)太平洋戦争開戦。
昭和17年、「基督教主義ニヨル教育」から「皇国ノ道ニヨル教育」に変更、チャペルを閉鎖し「修養堂」と改称。
昭和18年「学徒出陣」。文系学生は原則として全員が軍務に服することとなり文学部閉鎖。
立教大学からは658人(文学部23人、経済学部635人)の学生が入隊。

太平洋戦争に先立つ日中戦争下の昭和14年(1939年)に戦没した交友・教職員のための第一回慰霊祭がチャペルで執り行われた。昭和17年(1942年)の第四回慰霊祭までの戦没者30名の名前がチャペルに掲げられたタブレットに刻まれた。第5回目以降はチャペルが閉鎖され神道式での慰霊祭が執り行われた。
戦後、戦没者のうち在学中にチャペルで洗礼を受けた者とチャペル活動に積極的だった者の名がタブレットに刻まれ、昭和59年には昭和19年度卒業生のうちで戦没が明らかになった者の名も追加で刻まれたという。

チャペルに掲げられているタブレット
「名誉之戦死者」
人その友のために己の生命を棄つる之より大いなる愛はなし
そこには68名の名前が刻まれている


立教大学 池袋キャンパス
本館(モリス館)

東京都選定歴史的建造物
大正8年(1919年)竣工。立教大学のシンボル的な建造物。
米国聖公会宣教師アーサー・ラザフォード・モリス氏の寄付によって建てられたことから通称は「モリス館」。中央時計台の時計はイギリス・デント社製で直径90cm。池袋キャンパスのレンガ建造物は「フランス積み」で構築。

東京都選定歴史的建造物
立教大学本館(モリス館)、図書館旧館、諸聖徒礼拝堂、第1食堂、2号館、3号館

所在地 豊島区西池袋3-34-1
設計者 マーフィ&ダナ建築事務所
建設年 1818年(大正7)
    礼拝堂聖別式 1920年(大正9)

 立教大学の前身立教学校は、1874年(明治7)築地の開市場内に米国聖公会系の一私塾として開校された。その後、1918年(大正7)に現在の池袋に移転し、大学本館(モリス館)、図書館、寄宿舎、食堂、教授住宅等が完成し、礼拝堂は1920年(大正9)に聖別献堂が行われた。
 大学キャンパスの基本計画は、ニューヨークの建築家マーフィ&ダナ建築事務所によるもので、大学の主要な機能をもつ大学本館を据え、左に図書館、右に諸聖徒礼拝堂(チャペル)を配して正面を構成し、さらに中央の軸線を延長して、中庭を囲んで学生食堂を中心に左右に寄宿舎を整える構成となっている。
 各建物の意匠はゴシックリヴァイバル様式を基調とし、簡素でありながら重厚な赤レンガ造りでまとめられている。
 東京都


立教大学 池袋キャンパス
本館(モリス館)内部

内部は洗練された美しさがある。
2012年に改修工事が行われ、全館バリアフリー化対応。現在も教室として使用されている。


立教大学 池袋キャンパス
図書館旧館
メーザーライブラリー記念館

東京都選定歴史的建造物。
大正8年(1919年)竣工。
平成24年(2912)まで図書館として使用され、平成26年からは「立教学院展示館」として活用されている。本館の向かって左側。建設時に大きな貢献があったサミュエル・メーザー氏に由来する。


立教大学 池袋キャンパス
諸聖徒礼拝堂(チャペル)

東京都選定歴史的建造物。
大正5年(1916年)に定礎式がおこなわれ、大正8年(1919年)に竣工。


立教学院創立者
主教 ウイリアムス之像

人の子がきたのも
 仕えられるためではなく
  仕えるためであり
また多くの人の
 あがないとして
  自分の命を
    与えるためである
    
立教学院創立者
主教 ウイリアムス之像
昭和42年5月18日建之


立教大学 池袋キャンパス
第1食堂

東京都選定歴史的建造物。
大正7年(1918年)竣工。 イギリスの寄宿舎を思われる様相。
入口にはラテン語で「 APPETTTVS RATIONI OBEDIANT (食欲は理性に従うべし)」と記載。これは哲学者キケロの「欲望は理性に従うべし」をもじったものという。


立教大学 池袋キャンパス
2号館

東京都選定歴史的建造物。
大正7年(1918年) 、「寄宿舎東寮」として竣工 。
寄宿舎は1932年に閉鎖され、その後は教室や研究室として使用。


立教大学 池袋キャンパス
3号館

東京都選定歴史的建造物。
大正7年(1918年)、「寄宿舎西寮」として竣工。


立教大学 池袋キャンパス
4号館

昭和12年(1937年)、「予科校舎」として竣工。
現在は4号館(理学部研究室)。
立教大学内では珍しいレンガ造り以外の建造物。

神の栄光と
国民教育の
ため
 昭和12年4月


立教大学 池袋キャンパス
ライフスナイダー館

1926~27年(大正15~16年)にかけて校宅として建設された。空襲や再開発などによって10棟あった校宅は現在は、ライフスナイダー館のみを残す。
この建物は明治45年(1912)に立教学院総理として池袋校舎建築に尽力されたライフスナイダーの邸宅であった。ライフスナイダーは日米関係悪化により昭和15年(1940)に立教学院を辞任している。
現在は1階をレセプションルーム、2階を院長室や立教英国学院東京事務所などに使用されている。


江戸川乱歩邸

ほか立教大学関係の戦前建造物としては、「江戸川乱歩邸」がある。
邸宅は昭和9年(1934)、書庫として使われた土蔵。豊島区指定有形文化財。
平成14年(2002)に立教大学管理となり、公開日限定で公開されている。

2023年現在、公開日は毎週月曜日と金曜日。平日限定。

※江戸川乱歩邸は2023年2月撮影
※それ以外の立教大学関連は2022年2月撮影

早稲田大学の近代建築

2020年1月

早稲田大学に残る近代建築と戦跡などを散策してみました。

早稲田大学
喜久井町キャンパス
(理工学術総合研究所)

戦時中、喜久井キャンパスの研究所地下には防空壕があった。
空襲に際して周辺住民と学生などが避難していた防空壕も被災し300余名が亡くなったという。

戦災供養観音像(早稲田大学)

戦災者供養観音像建立の由来
 第二次世界大戦の終局も近い昭和二十年五月二十五日(1945年)米軍の東京空襲は、山手地区の多くを焼土と化した。
 理工学研究所も建物のほとんどが焼失し、とりわけ研究所敷地地下に作られた防空壕に避難した学生数名と、近隣の人々あわせて三百余名が火焔と煙に包まれて、悲しくも尊い犠牲となった。
 昭和三十年五月罹災十周年を迎えるにあたりこれらの人々の霊を慰め、永遠の 平和を祈願するため本観音像を建立した。
 昭和五十八年三月  
 観音像製作者 二紀会 永野隆業氏
 早稲田大学理工学研究所

近くの感通寺にも、慰霊観音さまがある。

早稲田の穴八幡の交差点。
かつては大隈家、そして近衛騎兵連隊御用達として、この地にあった「 三朝庵」は既に面影が無し。

ありし日の「三朝庵」

早稲田大学早稲田キャンパス

早稲田キャンパス内に残る近代建築を巡る前に、記念碑や銅像などを先に。

杉浦千畝レリーフ

第二次世界大戦中、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原千畝は、ドイツの迫害により逃れてきた難民たちに対し1940年7月から8月にかけて、外務省からの訓令に反して大量のビザ「命のビザ(杉原ビザ)」を発給。多くのユダヤ系避難民を救った「東洋のシンドラー」とも呼称される。

杉原千畝は早稲田大学高等師範部英語科予科に入学し外務省留学生試験に合格している。

外交官としてではなく
人間として当然の
正しい決断をした

命のビザ発給者
杉浦千畝

杉浦千畝
(1900~1986)
原型 櫻庭裕介
平成23年10月24日 建立

杉浦千畝レリーフは11号館と14号館の間に鎮座。

杉浦千畝レリーフの隣には「楠」が植樹されている。


 この楠の親木は、明治10年に創立者大隈重信が熱海より実を持ち帰り播種し、その後、雉子橋(九段南)から早稲田への本邸移転に際し、大隈庭園に移植されたものである。
 明治10年の実生からおよそ125年後の今日まで、学園を見守り続けたその実から再び第二世紀の苗木を育て、各キャンパスにおいて植樹し育成していくものである。
 2002年10月
 植樹〔第14代総長 奥島孝康〕

総長大隈老侯像
大隈重信像

早稲田大学の創立者である大隈重信の銅像。高さ298センチの立像。昭和7年10月17日に大学創立50周年と大隈重信10回忌を兼ねて制作。製作者は朝倉文夫。

大礼服姿大隈重信石膏像

大礼服姿大隈重信石膏像
小倉惣次郎作
明治40年(1907)10月の創立25周年記念式典の際、大礼服(明治期から太平洋戦争終戦までの宮中の儀式等で着用した最高の礼装)姿の大隈重信像が校庭に設置された。本像は石膏によるその同型像である。
 早稲田大学大学史資料センター蔵

元となった大礼服の大隈重信像は現在は大講堂バルコニーにあるという。

坪内逍遥胸像と台座歌碑

坪内逍遥像と台座歌碑
台座上の坪内逍遥胸像は、彫刻家、長谷川栄作氏の願望により昭和37年(1962)に鋳造されてもので、逍遥の「シェイクスピア」講義の姿である。
また、台座は、早稲田大学後援会事業資金、池田恒雄氏、近桂一郎氏の協力により演劇博物館創立70周年記念に建立され、歌碑の内容は逍遥を偲んだ会津八一の自筆の和歌である。

むかしひと
 こゑも
ほからに
 たくうちて
とかしし
 於もわ
みえ
 きたる
  かも
秋神道人


早稲田キャンパスの近代建築

大隈記念講堂(21号館)

国指定重要文化財
昭和2年建造

重要文化財
早稲田大学大隈記念講堂


所在地 新宿戸塚町1丁目104番
設計者 佐藤功一・佐藤武夫
建築年 昭和2年(1927年)
指定年 平成19年(2007年 )

早稲田大学大隈記念講堂は、創立者である大隈重信に対する記念事業として計画され、同大建築学科の佐藤功一教授と佐藤武夫助教授が設計し、同教授の内藤多仲が構造を担当し、昭和2年10月15日に竣工した。
早稲田大学大隈記念講堂は、早稲田大学のシンボル的存在であり、ロマネスク様式を基調としてゴシック様式を加味した我が国近代の折衷主義建築の優品として、高い評価がある。
また早稲田大学建築学科で永く教鞭をとり、多くの建築家を育てた佐藤功一の代表作としても重要である。

早稲田大学総合案内所
(大隈重信邸守衛詰所)

かつての大隈重信邸守衛詰所であった建物。
明治35年(1902年)建造という。

早稲田大学総合案内
 この建物は、戦争によって全焼した旧大隈重信邸(明治35年竣工)の唯一の現存遺構であり、当時は守衛詰所として用いられていたものである。
 建物は木造一階建ての簡素なつくりであるが、ハーフ・ティンバーの外観、妻飾りのハンマー・ビームやがらり窓が印象的である。小規模ながら、旧東京専門学校校舎(具ルーンハウス・現在は追分セミナーハウスに移築)と並んで、木造校舎時代の雰囲気を伝える貴重な建築物である。

大隈庭園(大隈重信邸跡)

大隈会館(大隈會舘)の入口門柱に一対の狛犬が鎮座している。台湾狛犬。

早稲田大学
百年祈念
中華民国
台湾同学会敬贈

脚を運んだ日は、天候不良のために大隈庭園は閉門しておりました。残念。

大隈重信邸沓脱ぎ石

早稲田大学
早稲田キャンパス1号館

専門部・高等師範部校舎として昭和10年(1935年)竣工。
現在、1号館には「早稲田大学歴史館」が併設されている。

1号館入口の円柱について
左に位置する一対の御影石円柱は、この建物の建設(1935年竣工)にあたり、明治期に正門となっていた門柱を加工したものである。
戦火に耐え、本学草創期の息吹を今日に伝えるこの円柱は、「歴史を明日に伝える」早稲田大学歴史館の象徴となっている。

早稲田大学
早稲田キャンパス2号館

大正14年竣工の旧図書館。
東京都選定歴史的建造物。
現在は會津八一記念博物館などに使用されている。

東京都選定歴史的建造物
早稲田大学2号館(旧図書館)(早稲田大学)
所在地 新宿区西早稲田1-6-1(早稲田大学)
設計者 今井兼次・桐山均一・内藤多仲
建築年 大正14年(1925)

 平成3年(1991)まで大学図書館として使用された。設計者今井兼次は、建築様式について”質実、豪放、端正なる現代の様式に東洋の印象を加味したもの”とした。
 建物は本館と書庫からなり、本館は玄関大広間ならびに大階段室、大閲覧室の空間構成がとられている。玄関大広間の柱東武は植物の形態をデフォルメしたもので、石膏製の彫刻である。表現主義の影響を受けたユニークな造形となっている。
 東京都

早稲田大学
早稲田キャンパス3号館

昭和8年(1933)竣工の建物(本部校舎)であったが、平成23年(2011)に解体。平成26年(2014)に新3号館が竣工。新3号館の低層部には旧校舎の様相が復元されている。

早稲田大学
早稲田キャンパス5号館
演劇博物館

新宿区指定有形文化財
昭和3年(1928)竣工
正式名称は「早稲田大学坪内博士記念演劇博物館」という。

新宿区指定有形文化財 建造物
演劇博物館
所在地 新宿区西早稲田1丁目6番地
指定年月日 昭和62年3月12日
 
 正式には早稲田大学坪内博士記念演劇博物館という。
 昭和3(1928)年10月に坪内逍遥の古稀と「シェークスピア全集」の完訳を祝って学界・演劇界の有志1500余名の協賛により建設された。建物の意匠は逍遥の発案によりイギリスのエリザベス朝(16世紀後半)の様式で、シェイクスピア時代の劇場フォーチュン座を模して設計されている。
 鉄筋コンクリート造、地上3階、、地下1階m建坪は約400平方メートルで、内部は逍遥記念室をはじめ8つの展示室、図書閲覧室がある。
 また、外部は実際にシェイクスピア劇ができるようになっており、館の正面は舞台、2階のt廊下は上舞台、建物の両翼は桟敷、前庭は一般席となる。
 なお、正面舞台上に掲げてあるラテン語は「全世界は劇場なり」という意味で、シェイクスピア時代の劇場グローブ座に掲げてあった看板の句である。
 平成3年11月
 東京都新宿区教育委員会

早稲田大学
早稲田キャンパス6号館

昭和10年(1935年)竣工。 1号館と同じ時期の建設。現在は教育学部。

豊明会記念
応用化学実験室
関東大震災で焼失した建物銘板を掲げる6号館
演劇博物館5号館と6号館

早稲田キャンパスの近代建築。
講堂からは1号館と3号館が並ぶ姿が見れる。

さて、ちょっと移動します。
早稲田キャンパスと西早稲田キャンパスのあいだあたりに、「早稲田大学 各務記念材料技術研究所」があります。


早稲田大学
各務材料技術研究所

昭和13年(1938年)、各務幸一郎・良幸父子の寄付により「鋳物研究所」として創立。所長は元海軍中将の石川登喜治。私立大学での理工系研究所としては最初の研究所となる。
現存する建物も昭和13年の竣工。

旧鋳物研究所の正門
この門は旧鋳物研究所(現在の各務記念材料技術研究)の正門であった。
昭和元年から昭和10年まで、早稲田大学の正門として使われていたものである。
昭和13年の鋳物研究所開設に伴い、初代所長の石川登喜治先生がこの門を田中穂積総長から譲り受け、研究所の正門とした。
旧大隈邸の門であったともいわれているが、その確証はない。
第二次大戦中には、鉄資源としての供出を恐れた石川先生が所内に隠され、木製の門が使われていた時期もある。この門では幅が狭く、大型トラックの出入りに不便であるとの理由で平成9年4月に現在の門に取り換えられた。
 2011年(平成23年)10月

早稲田大学正門の門柱は1号館に活用され、正門の扉はひっそりと材料技術研究所に保存されていた。


早稲田奉仕園
スコットホール

早稲田大学ではないけども、近くでしたので足を運んでみた。ここにも近代建築が残っている。

スコットホール

東京都選定歴史的建造物
早稲田奉仕園スコットホール
 この煉瓦組積造の建物は、1918年の米国バプテスト総会で報告された早稲 田奉仕園の事業に強く賛同された J・E・スコット夫人(1851-1936)によって、天に召された夫の記念として寄贈されたものです。
 ヴォーリズ建築事務所の設計原案に基づき、早稲田大学の内藤多仲教授研究 室が施工管理を行い、同研究室の今井兼次助教授(当時)が担当者となって設計 を完成させ、竹田米吉店が施工を請け負いました。
 1922 年(大正11年)1月に献堂式(竣工式)を行い、翌年の関東大震災で塔屋の一部 が崩落し補修をされた以外は、現在もほぼその原型が保たれています。
 1990年東京都より「歴史的建造物の景観意匠保存」の指定を受け、寄贈者の志を覚え永く後世に保存 したいとの願いから、1991年に多くの賛同者の寄付・協力によって、構造の補強と外観の全面保存改修が行われました。
 2008年10月
 公益財団法人 早稲田奉仕園

早稲田奉仕園創立者 H.B.ベニンホフ博士(1874-1949)
米国北部バブテストの宣教師として派遣されたベニンホフ は、1908年に早稲田大学の学生に請われて英語による聖書研究会“3Lクラブ”を築地にあった自宅で始めました。
同年早稲田大学 の創立者大隈重信 に要請され、キリスト教に基く学生寮「友愛学舎」を早稲田鶴巻町に創設、奉仕園の礎となる活動が開始されました。その後牛込弁天町に場所を移し、更に1920年現在の土地を購入して、友愛学舎のほか、スコットホール、スポーツ施設などを備えた学生センター「早稲田奉仕園」をつくりました。
長らく早稲田大学の講師も務め、また、日米間の相互理解と親善に努力しましたが、国際情勢の悪化により1941年志半ばにして帰国、再び日本に戻ることを願いながら、1949年1月24日インディアナ州フランクリンで天に召されました。
この像は1963年に関係者の寄附によりたてられました。
 2008年9月
 公益財団法人 早稲田奉仕園

早稲田大学周辺の散策は以上にて〆

東京大空襲・慰霊

撮影:平成29年3月及び平成30年3月

昭和20年(1945)3月10日
「東京大空襲」
罹災者は100万人を超え、死者は7万から10万人以上といわれている…

3月10日。
毎年この日には、墨田区横網町公園「東京都慰霊堂」や台東区隅田公園「戦災により亡くなられた方々の碑」をはじめ、都内各所にて東京大空襲に関連した追悼慰霊行事がある。

慰霊鎮魂の日

合掌

東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
(戦災により亡くなられた方々の碑)

あゝ
東京大空襲
朋よやすらかに

戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番
 
 隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
 昭和六十一年三月 台東区

言問橋の縁石
 ここに置かれているコンクリート塊は1992年言問橋の欄干を改修した際にその基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲になりました。
 この縁石は当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city001/index.html


言問橋

東京大空襲の際、浅草方面及び向島方面へ避難する人々などが、橋の上で交叉し身動きがとれない状態となってしまった。
それは、浅草(台東区)と本所深川(墨田区)とそれぞれの住民が川の向こう岸は安全だと信じて、火を逃れ対岸に逃げるために橋に殺到したためだった。
そうこうしているうちに橋の上に猛火が燃え移り、燃え盛る中で逃げるすべもなく、 両岸と橋上とすさまじき猛火の中で、行き場を失った人々が隅田川に飛び込んだとされ、そして多くの人々が焼死したという。

石柱には黒焦げた跡が残る・・・


言問橋の欄干と縁石

江戸東京博物館には、言問橋の欄干と縁石が保存されている。

言問橋の欄干と縁石
言問橋は、1928年(昭和3)に完成した、いわゆる震災復興橋梁のひとつである。1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人びとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交叉し、身動きがとれない状態となった。人びとだけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。そこへ日が燃え移り、橋上はたちまち大火災に包まれた。橋上では逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した。
1992年(平成4)の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったため、東京大空襲の被災資料として、その一部を当館に譲っていただいた。


関東大震災・東京大空襲 犠牲者慰霊碑

場所は変わって隅田川の下流、東京湾のかつての防波堤。

賑わう「台場公園」の片隅にヒッソリとある石碑。

関東大震災・東京大空襲 犠牲者慰霊碑
東京は、関東大震災及び第二次世界大戦末期の空襲により甚大なる犠牲を被った。二度の被災により隅田川河口近くに位置したここ旧防波堤にも、漂着した犠牲者が数多くみられたという。
 これら諸霊に対し、故富川栄氏の呼びかけに共鳴した地元の心ある人々により、長い歳月に亘りたゆみなき供養が続けられてきた。
 いま、当地周辺は未来都市に発展すべくまちづくりがすすめられている。そして、ここお台場海浜公園も新たな海上公園として再整備することとなった。これを受け平成五年九月二七日当地での最後の慰霊祭が行われ、その後は都の施設にて慰霊が続けられることになった。この事実を後世に伝えるべくここに記録する。
 平成六年三月吉日  東京都港湾局


東京都慰霊堂(横綱町公園)
旧陸軍被服廠跡地

墨田区・都立横網町公園
「東京都の歴史的建造物」選定

https://tokyoireikyoukai.or.jp/index.html

伊東忠太設計。
昭和5年(1930)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、死亡者の霊を祀る震災記念堂として創建。
昭和23年(1948)より東京大空襲の身元不明の遺骨も納め、死亡者の霊を合祀。昭和26年に現在の姿に。仏教各宗により慰霊祭祀されている。

当地は元々「陸軍被服廠」があったが1922年に赤羽に移転し、東京市が買収し公園として整備しているさなかに関東大震災が発生。造成中の横網町公園に避難していた3万8千人が犠牲となり、昭和5年に震災記念堂が創建。

200坪の講堂を持ち、三重塔がその奥にある。
三重塔は高さ約41m。基部が納骨堂。

昭和20年3月10日、東京大空襲。
多くの公園や寺院などに犠牲者が仮埋葬。終戦後に身元不明の遺骨などを「震災記念堂」納骨堂を拡張し合祀。
昭和26年(1951年)に「東京都慰霊堂」と改称され現在に至る。
祭壇には震災死亡者・空襲死亡者の霊をそれぞれ合祀した位牌が2基祀られている。

震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
 顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった、与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
 爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った、戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった、江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った、当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが昭和二十三年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
 横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
 昭和二十六年九月 東京都


震災遭難児童弔魂像

震災遭難児童弔魂像
 大正12(1923)年9月1日、関東大震災により東京市小学校児童約5000人が亡くなりました。
 この死を悼み、冥福を祈るため、全市学校長等が弔魂碑建立を計画し、寄付を募りました。その寄付金により彫刻家小倉右一郎氏に制作を依頼、昭和6(1931)年5月16日に除幕式が行われました。
 その後、像部分は、昭和19(1944)年、金属回収のため撤去されましたが、昭和36(1961)年、都は、小倉右一郎氏の高弟である、津山昌平、山畑阿利一両氏に制作を依頼し、往時の群像を模して再建されました。(略


東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city002/index.html

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑
 第二次世界大戦で、東京は、昭和17年4月18日の初空襲から終戦当日の昭和20年8月15日に至るまで、アメリカ軍の度重なる空襲により甚大な被害を受け、大方が非戦闘員である多くの都民が犠牲
となりました。
 こうした東京空襲の史実を風化させることなく、また、今日の平和と繁栄が尊い犠牲の上に築き上げられていることを次の世代に語り継ぎ、平和が永く続くことを祈念するための碑を建設しました。
 この碑の建設に当たっては、「東京の大空襲犠牲者を追悼し平和を願う会」の呼びかけにより、多くの方々から寄附が寄せられました。
 斜面を覆う花は生命を象徴しています。碑の内部には東京空襲で犠牲になった方々のお名前を記録した「東京空襲犠牲者名簿」が納められています。
 平成13年3月 東京都

内部には「東京空襲犠牲者名簿」が納められており、3月10日と9月1日の法要の際は、内部公開も行われる。

花壇のレイアウトデザインは、都度都度かわるという。


東京都復興記念館

震災記念堂(東京都慰霊堂)の付帯施設として昭和6年に建立。
「東京都の歴史的建造物」選定。

https://tokyoireikyoukai.or.jp/museum/history.html

(上記サイトより引用)
東京都復興記念館は、関東大震災の惨禍を永く後世に伝え、また官民協力して焦土と化した東京を復興させた当時の大事業を永久に記念するため、震災記念堂(現東京都慰霊堂)の付帯施設として昭和6年(1931年)に建てられました。
震災の記念品などは当初震災記念堂に展示する予定でしたが、昭和4年(1929年)に開催された帝都復興展覧会に出品された資料も加わり、その数が膨大となったことから予定を変更して「復興記念館」を建設し、展示することとしたものです。
大震災の被害、救援、復興を表す、遺品や被災物、絵画、写真、図表などが展示されました。
その後、第二次世界大戦の空襲により東京都下で亡くなった方々の遺骨を震災記念堂に合祀したため、記念館においても、東京空襲の被害や当時の状況、復興に向けた取り組みを伝える写真、図表などの展示を加えました。
平成元年(1989年)には、震災記念屋外展示場の解説等も充実させています。
平成11年(1999年)には東京都の歴史的建造物に選定されました。
平成29年11月~31年3月にかけて、基礎の補強や壁の増量などの耐震化工事を実施し、設備を含めて大幅に改修しました。
現在は、外壁の改修に着手していて、特徴あるテラコッタ仕上げなどの修復をしています。

摩耗していた怪獣は、復元リニューアル(令和3年3月撮影)

復興記念館館内

昭和4年開催 帝都復興展覧会出品模型
第二号幹線九段坂付近(靖國神社前) 復興局出品


築地本願寺慈光院

東京都慰霊堂のある墨田区横網町公園の南隣に。
陸軍本所被服廠跡にたつ寺院。

震災慰霊。
関東大震災を祈念して建立された寺院。
境内の梵鐘は、関東大震災および第二次世界大戦の犠牲者を偲ぶ。3月10日には、戦災記念追悼法要・東日本大震災追悼法要が斎行される。


なお、東京大空襲に際して、軍人・軍属の犠牲者は「東京都戦没者霊苑」において慰霊追悼している。

東京都戦没者霊苑


東京大空襲関連

戦災電柱

本記事は、ひとまず

愛の像(アガペの像)

令和元年11月撮影

東京駅の駅前広場再整備が完了したのが2017年。
2007年から10年間、人知れずに東京駅から姿を消していた「とある像」が、やはり人知れずにひっそりと戻ってきてました。

東京駅駅前広場の南側の隅に佇む何の説明もない男性像。
男性が両手を広げた祈りの像。
台座には「愛」と刻まれている。

愛の像(アガペの像)

戦後、戦争犯罪(戦犯)として捕まり、そしてスガモプリズンにて刑死および獄死、法務死された人々(いわゆるBC級戦犯、1068名)が残した幾多の遺書。
昭和27年(1952)4月28日にサンフランシスコ講和条約が発行され、昭和27年8月に巣鴨プリズンで遺族や関係者を軸に「巣鴨遺書編纂会」が結成。
翌年、昭和28年にそれらの遺書をまとめた「世紀の遺書」が出版。

そして、昭和30年11月11日に「世紀の遺書」の収益金の一部で「愛の像(アガペの像)」が多くの出征兵士が通った東京駅丸の内の駅前広場に設置。製作は横江嘉純。

昭和33年5月、巣鴨プリズンがGHQから返還され、最後の戦犯18名が釈放。「巣鴨遺書編纂会」 も解散し、「世紀の遺書」の編集著作権は「白菊遺族会」に寄贈された。

「愛の像(アガペの像)」は東京駅改修工事のために2007年10月に撤去されたが、2017年12月に東京駅に再設置された。

「アガペ」とは、ギリシャ語「αγάπη」(アガペー)、神の人間に対する愛、「無償の愛」の意味という。

関連する記事など。

朝日新聞>戦犯の祈り、平和問う像 東京駅前、台座に遺書集 2度撤去経て再建・元刑務官ら奔走

https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180226002723.html

MHK>「丸の内駅前広場と『愛の像』」(ここに注目!)

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/300/285997.html

Wikipedia>世紀の遺書

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E9%81%BA%E6%9B%B8#%E3%82%A2%E3%82%AC%E3%83%9A%E3%81%AE%E5%83%8F%EF%BC%88%E6%84%9B%E3%81%AE%E5%83%8F%EF%BC%89

戦犯の祈りが込められた像に深謝。


身代地蔵尊(護國寺)

護国寺にある身代地蔵尊は巣鴨プリズンの最後の教誨師であった「巣鴨の父」田嶋隆純大僧正の発願で昭和28年3月24日建立。
台石の下には戦争犯罪人として死刑宣告され殉じられた1068名の人々の氏名を刻んだ銅板と防蝕の処置された「世紀の遺書」が納められており、その御霊を慰めている。

関連

和気清麻呂公銅像(紀元二千六百年記念)

令和元年11月撮影

竹橋駅のすぐ近く、大手濠緑地内に鎮座。
現在地は令和2年4月まで竹橋駅エレベーター設置工事で 近寄れなかったため、遠巻きに見学。

和気清麻呂公銅像

昭和15年(1940年)に、紀元2600年記念事業として建立。
佐藤清蔵(佐藤玄々)作。

紀元二六〇〇年記念
 建設委員長
 陸軍大将 従二位勲一等功四級 林銑十郎
 寄贈者 石川博資

和気清麻呂公とは・・・
 奈良朝末期の廷臣、地方の豪族出身で藤原仲麻呂の乱で天平神護1年(765)右兵衛尉となり、姉広虫とともに信任を得ました。
 神護景雲3年(769)道鏡が皇位をうかがった時、宇佐八幡の神託をきき道鏡の野望を挫きました。
 清麻呂は別部穢 麻呂 と改名され大隅(鹿児島)に配流、天皇の死後、道鏡失脚により復帰しました。
 光仁・桓武天皇深く信頼され、平安遷都を推進、造都に活躍しています。
 この像は、昭和15年、紀元2600年記念事業として建立、楠公銅像とともに文武の二忠臣を象徴したものです。

ここに立たせるは護王大明神の神号を給はりし
贈正一位和気清麻呂公の像にして宇佐の大神の
貴く畏き御教言を承り復奏の為に参内せるさまを
うつせるなり公の誠忠は國史の上に顕著なるが殊に
孝明天皇の宣命に身の危うきを顧ず雄々しく
烈しき誠の心を盡せるはと稱へさせたまひまた
明治天皇の策命に日月と共に照り徹れる偉き
勲をめでさせたまへりこれの像は明治の大御代に允許を
忝うせしを今茲紀元二千六百年の記念として
宮城の御濠に沿へる地に建設せるなり公の英霊は
千載生けるが如く儼然として宮闕の下を離れず我が
國體を擁護しまつり天地と倶にとこしへに存せむ
 昭和十五年二月  大日本護王会

※令和5年、写真追加

公園整備完了していたので、再撮影しました


震災いちょう

震災いちょう
 この木は、震災いちょうと呼ばれています。樹齢一五〇年を超えると思われるこのいちょうは、かって文部省の跡地である一ツ橋一丁目一番一帯(現在のパレスサイドビル・住友商事竹橋ビル一橋総合ビル一帯)にありました。
 大正十二年(1923)九月の関東大震災によって一面焼け野原となった都心にあって奇跡的に生き残り、このイチョウは当時の人々に復興への希望を与えました。
 その後、復興事業に伴う区画整理によって切り倒されることになった際、当時の中央気象台長岡田武松氏がこれを惜しみなんとか後世に残したいと思い帝都復興局長官清野長太郎氏に申し入れたところ、長官もその意義を理解しこの地に移植されたという由緒をもっています。

岡田武松(1874~1956)
 千葉県に生まれ、東京大学物理学科卒業後、中央気象台に入り予報課長をへて明治三十七(1904)年、海洋気象台の創設とともに台長となりついで中央気象台長となる。海難防止のため無線送受信設備の完成、海洋気象設備を充実させたことや、測候技術官養成所の設立など研究・行政両面で活躍した。大正十三年(1924)にイギリスの王立気象学会からサイモン金杯をおくられ、昭和二五年(1950)には文化勲章を受ける。

清野長太郎(1869~1924)
 香川県に生まれ、東京大学法学科卒業後、旧内務省警備局に入り、富山県理事官・神奈川県理事官をへて内務省事務官となる。明治三六年(1903)に人口学万国会議の委員として、ベルギーへ派遣される。明治三九年(1906)に秋田県知事、同年南満州鉄道株式会社の理事に抜擢され大正二年(1913)までこの職にあった。 大正五年以降、兵庫県知事・神奈川県知事を歴任して帝都復興局長官となる。

※令和5年、写真追加

工事がおわったらまた足を運びましょう。

文武の二忠臣

鳴尾八幡神社慰霊塔(戦艦安芸の砲身?)

令和元年12月参拝

西宮市に所用があった。隙間の時間を利用して阪神電車「甲子園」駅に。そこから歩いて10分ほどのところに「鳴尾八幡神社」という神社が鎮座。
まずは御社殿にて参拝をし、参道脇に建立されていた「慰霊塔」に拝する。

鳴尾八幡神社慰霊塔
 戦艦・安芸の砲身

鳴尾村関係の戦没者500余名を祀る慰霊塔。
この慰霊塔に使用されている砲身、伝聞では「戦艦安芸の砲身」と伝わっている。砲身の先には鷲が翼を拡げていた。

合掌

木々が茂っていて後ろには回り込みができなかったので境内地の外から慰霊塔の背面を。

慰霊塔の台座背面には獅子頭があった。

戦艦 安芸

姉妹艦「薩摩」とともに日本国内で建造された最初の戦艦。準弩級戦艦。

1907年進水、1911年(明治44年)竣工。
日本の戦艦として初めてカーチス式タービン機関を搭載。薩摩と違いタービン機関を搭載した安芸は姉妹艦とされる薩摩と違い初期の弩級戦艦に匹敵する速力(20ノット)を誇った戦術的価値の高い戦艦であった。
ワシントン海軍軍縮条約により薩摩・安芸ともに廃棄が決まる。1923年(大正12年)9月20日除籍。研究射撃の標的艦に指定される。
1924年(大正13年)、戦艦「扶桑」に曳航された「安芸」は、新鋭の長門型戦艦「長門」「陸奥」による射撃により沈没。

両舷の副砲として、
戦艦「薩摩」は、40口径12cm砲 に対し
戦艦「安芸」は、40口径15.2cm砲 を配備していた。

この慰霊塔に使用されているのは、一説には「12cm砲の砲身」という。ところが戦艦「安芸」には12cm砲は搭載されていなかったので、この慰霊碑の砲身が「12cm」なのか「15.2cm」なのかの真偽は不詳。

鳴尾八幡神社

兵庫県西宮市鎮座。鳴尾地区の総鎮守。旧村社。
創立年代不詳なれど、創立は文安時代(1444~1449)とされる。

社号標は昭和3年5月建立。

伊藤博文公墓所

平成29年11月参拝・ 東京都品川区西大井6-10-18

毎年11月3日「文化の日」前後に数日間のみ一般公開されている。
通常非公開。

その限られた一般公開の日。
JR西大井駅の近く。
ちょうど時間もあり良い機会でしたので、平成29年11月5日(日曜日)に詣でておりました。

伊藤博文

初代総理大臣。
明治42年(1909))10月26日にロシア蔵相と会談のために中国徳北部ハルビン訪問中に朝鮮独立運動家安重根に狙撃されて69歳で没。
11月4日に日比谷公園で国葬。
伊藤博文の別邸(後述)の近くであったこの地に埋葬された。

伊藤博文公胸像
伊藤博文公生誕百年記念 紀元2600年10月16日建立

大正八年十月二十六日丁伊藤公十周年祭左記
諸氏以墓前道路狭窄相謀購傍近民有地二十余
坪得東京府庁允可拡張合於公道以為記念
 子爵 伊東已代治 男爵 林権助 子爵 金子堅太郎
 頭本元貞 鍋島桂次郎 室田義文 小宮三保松
 小山善 安楽兼道 鮫島武之助

「上がり藤」
伊藤家の家紋

門柱は明治43年10月造
貴族院有志による建立。もともとは伊藤博文公の墓所敷石の鳥居であったが、担当大震災で倒壊し、その後に門柱に再利用されたものという。

大勲位伊藤博文公墓所
大正13年甲子5月1日

伊藤博文公墓所

伊藤博文公墓所
神式の円墳は高さ約2m。
従一位大勲位公爵伊藤博文墓
明治42年十月26日薨

従一位大勲位公爵伊藤博文墓

明治四十二年十月二十六日薨

石垣は明治43年に奉納。韓国統監府の職員などによる。

品川区指定史跡
伊藤博文墓所

 伊藤博文は、天保十二年(1841)に長州藩(山口県)の武士の子として生まれ、松下村塾(しょうかそんじゅく)で学んだ。若くしてイギリスに遊学し、帰国後は海外の状勢をもとに、新政府の樹立に力を尽した。
 明治の新政府では要職を歴任し、その間に三度も欧米諸国を巡って各国の制度を視察して、憲法制度や行政組織などの内閣制度の基礎をつくった。明治十八年(1885)にわが国初の総理大臣となり、長期間にわたって国政の発展に貢献した。
 明治四十二年(1909)十月に、中国のハルピンで朝鮮の独立運動家によって狙撃され、六十九歳で没した。
 平成8年3月31日
 品川区教育委員会

伊藤梅子墓

隣には伊藤博文夫人、梅子の墓所。

伊藤梅子
初の内閣総理大臣夫人
伊藤博文公が暗殺されれた際には
「国のため光をそえてゆきましし 君とし思へどかなしかりけり」
と詠んだという。
1924年4月12日に死去

末松謙澄夫妻の祠
 伊藤博文公墓所の祠

末松謙澄夫妻を祀るという。
末松謙澄夫人は、伊藤博文の次女、生子。

水盤

上がり藤の伊藤家家紋が描かれた水盤。
明治43年10月26日に奉納、福岡県 貝島大助

参道には多くの灯籠が林立している。

勤施四方
立憲政友会

明光上下
立憲政友会

墓所の隣は墓守さんのお宅でしょうか。敷地内には邸宅もありました。それゆえの制限付き一般公開なのかな、とも。
墓所参道には時代を物語る公爵子爵等により奉納された灯篭が林立。伊藤博文公への追慕の念を感じさせる空間でした。

しながわ観光協会>伊藤博文公墓所

https://shinagawa-kanko.or.jp/spot/itouhirobumikumonjo/


近くには伊藤博文を偲ぶものが残されている。

品川区立伊藤学園の旧正門・伊藤門
(伊藤博文公宅の門柱と門扉)

「品川区立伊藤学園の旧正門」
旧正門は、昭和25年に伊藤博文公宅から譲り受けた門柱と門扉。
晩年をこの地で過ごし、没後この地へ埋葬された伊藤博文にちなみ、界隈はかつて伊藤町と呼称されていた。

伊藤学園の門
艱難辛苦に挑む
気迫あふれる
少年少女だけが
この門をくぐる
ことができる


伊藤博文公別邸跡

この地には平成10年まで伊藤博文別邸があった
(老朽化のため解体。別邸の一部は山口県萩市に移築)
今は再開発で当時の面影なく…

伊藤博文公別邸跡
 この解説板の南側一帯の広大な敷地(地図参照】は初代内閣総理大臣となった伊藤博文の別邸跡にあたります。明治40年(1907)、大日本帝国憲法制定に功績があった伊藤に対して、明治天皇から憲法草案の審議場であった元赤坂仮皇居会食所の建物と、移築費として2万1千円が下賜されました。伊藤は東京府荏原郡大井村のこの地に約五千坪の土地を購入して移築し、「恩賜館」と名づけました。
 その後、恩賜館の隣には和洋館並列型の二階建て邸宅が建てられ、伊藤の嗣子・博邦一家が居住しました。伊藤没後、大正7年(1918)に恩賜館は明治神宮に献納され、「憲法記念館」と呼ばれ皇室関係の行事に使用されました。昭和22年(1947)からは、明治神宮の結婚式場「明治記念館」として一般に利用されています。
 和洋館の邸宅と敷地は、大正11年に上杉伯爵家へ譲渡され、昭和19年には日本光学工業(株)の所有となりました。平成10年(1998)老朽化のため解体され、邸宅の一部は山口県萩市に移築・公開されています。
 平成27年12月25日
 品川区教育委員会

品川に残る伊藤博文公ゆかりの地でした。


付記:

伊藤博文像(国会議事堂)

きちんと撮影できていませんでした。形だけ写真を。。。

国会議事堂は撮影2017年5月


【封鎖中】児玉神社(江ノ島)

令和元年11月参拝

ちょっと最近、気になっていた児玉神社さんに参拝してきました。

ここでは深くは言及しませんが、再建の資金繰りも悪化しているところに台風被害などもあり、なかなか厳しい状況のようですので、この記事を目にしていただきました皆様も機会ありましたら是非に参拝を。。。

令和3年(2021)春に、境内地は封鎖。
石碑や社号標などにはブルーシートがかけられ、所有者によって「立入禁止」となりました。。。

以下、コメントをいただきましたので、一部記載内容を更新しました。

鵠沼在住の藤沢市民です。
残念なことに2020年、江ノ島児玉神社は競売により人手に渡りました。
現在は大鳥居だけはそのままですが、数々の石碑、掲示板などはブルーシートで覆われ、人目を拒んでいます。山道入り口は鉄扉が固く閉じられ、「立入厳禁・所有者」の貼紙が掲げられています。歴史的記念碑や台湾からの寄贈の物品などはどうなるのかとても心配です。

littleball より:2021年7月16日 9:13 AM(編集)

児玉神社

御祭神 児玉源太郎命

児玉源太郎(1852~1906)
明治政府及び明治陸軍の中枢で活躍。
日露戦争では満州軍総参謀長として日本の勝利に貢献。文部大臣・内務大臣・陸軍大臣なども歴任。第4代台湾総督も務める。
日露戦争開戦前は、台湾総督兼内務大臣であったが、参謀総長大山巌から請われて内務大臣を辞して、降格人事となる参謀本部次長に就任。日本陸軍史上で唯一となる降格人事を了承した例ともなった。

日露戦争直前のころ、参謀本部次長に就任した児玉源太郎は週末は鎌倉の別荘で静養をしていた。しかし面会希望者が殺到したために、江ノ島の山中に退避していたという。いつしか江ノ島にも面会希望者の面々(陸軍や政府の要人たち)が押し寄せるために、江ノ島町内では、誰が山中に籠もっているのかといぶかしんでいると、それが児玉源太郎であった知り、江ノ島町民は大いに徳としたという。
児玉源太郎は明治39年(1906)7月23日に55歳で急逝。三回忌を期し、親友であった杉山茂丸が向島の私邸に社を建立したのが児玉神社の始まりという。そののち児玉源太郎が、たびたび足を運んでいた江ノ島の現在地に遷座、江ノ島町民は将軍静養の地に将軍の霊祠を迎え、大正7年に正式に「児玉神社」となった。

社号標は昭和八年建立

勝運の神
児玉神社

児玉神社 明治45年(1912年)創建
日露戦争で日本を勝利に導いた救国の英雄 児玉源太郎 (1852-1906)をお祀りし、明治45年の創建以来、勝運の神として崇められてきました。御祭神は台湾総督在任時、善政によって現地の人々に慕われ、その縁で社殿の用材と石材は大部分が台湾からの寄進です。
社殿の設計は寺社建築の第一人者、伊東忠太博士によるもので、境内には山縣有朋歌碑を始め、後藤新平や石黒忠悳の詩碑、二〇三高地の石などの文化財があります。

児玉神社扁額
李登輝元台湾総統の揮毫

鳥居
昭和八年三月奉献
台湾婦人慈善会

現在、神楽殿は改修工事中です

御社殿改修工事および境内整備工事ご奉賛のお願い

山縣有朋歌碑

山縣有朋歌碑
(碑文)
児玉藤園の身まかりける日
讀ける 有朋
越えはまた里やあらむと
 頼みてし
杖さへをれぬ老のさかみち

明治の元勲山県有朋が、御祭神の逝去を悼んで詠んだ歌である。この石碑は当初、杉山茂丸が向島の別邸に建てた私祠内にあったが、遷座のとき境内に移された。なお下段には山県の側近であった政治家芳川顕正が、御祭神と山県とを竜虎に喩えた詩を刻している。

児玉神社誌
昭和四年十二月建立

台湾奉納の灯籠

謝介石詩碑

謝介石詩碑
(碑文)
伏鉞登壇衆所尊功成百戦得雄藩
大賢自著多聞政
賤子頻嘗有味言萬里驅馳思景行
卅年事變遡重源
神鴉社鼓江之嶋矍相當時盖僅存
奉題
 児玉公神社 大同元年十二月
 満州國外交部總長謝介石

 台湾の人謝介石の奉献。国民の尊敬を集めた御祭神の武勲、才知、徳を讃えている。謝介石(字は又安)は満州国初代外交部総長を務め、のち満州国駐日全権大使として日本に駐在したこともある。

後藤新平詩碑

後藤新平詩碑
(碑文)
森厳羽衛老將軍 功烈眞兼武興文 
造次不離忠孝旨 于花于月又思君
             新平
寄兒玉爵帥在満州舊製

 政治家後藤新平が、御祭神の文武の功績と忠孝の徳を讃えて奉献した。御祭神の台湾総監時代、後藤は民政長官に任じられ、日本統治下にあった台湾の運営と近代化に手腕を発揮した。

石黒忠悳詩碑

石黒忠悳詩碑
(碑文)
出將入相無匹儔 
 武功文勲傳千秋 
英魂長鎮画島裡
 天朗海洪浮白鴎

 子爵であった石黒忠悳(いしぐろただのり)の奉献。御祭神の文武の功績は千年先まで伝えられるであろうと絶賛している。石黒は陸軍軍医総監まで務めた軍医であり、医学者として西洋医学の普及に尽くし、退官後は貴族院議員や日本赤十字社社長などに就任している。

爾霊山の石

爾霊山の石
 二〇三高地は、日露戦争において激戦地となった旅順市(中国東北部遼東半島南端)背後にそびえる標高二百三メートルの高地である。当地の石を横須賀鎮守府が日本に持ち帰って別地に寄贈したが、のち当社境内に移設され現在に至る。この「二〇三」に爾霊山(にれいさん。「なんじの霊の山」の意)の字をあてたのは乃木希典将軍である。

昭和拾年一月一日
爾霊山高地
  石
  棗萩松碑
横須賀鎮守府


江ノ島の入り口近く。
「片瀬江ノ島駅入口」交差点の南側の駐車場近くに「乃木希典銅像」があった。その地のあったものを平成13年(2001年)に移設したという。

児玉神社のある江ノ島とは別の場所ですが以下にまとめておきます。

乃木大将像台座石
ここはかつて日露戦争時に陸軍司令官として知られる乃木大将の銅像が建っていましたが、太平洋戦争の終戦直後に行方不明となり、台座だけが残されました。この石は、その台座石として使われたものです。

藤沢市生涯学習部郷土歴史課
みゆネットふじさわ より

http://www.fujisawa-miyu.net/search/result.html?CN=1019


児玉神社に戻ります。

我が国を守った砲弾

我が国を守った砲弾
明治日本の技術遺産二十八センチ榴弾砲の砲弾

 明治三十七~三十八年(一九〇四~一九〇五)、圧倒的武力で日本を占有しようとする帝政ロシアに対し、日本の国民が一丸となって戦ったのが日露戦争です。列強が世界中を植民地化していた時代に、我が国だけが最強国のロシアに勝ち、尊厳ある独立を守り抜いたのです。日本の勝利に東アジアの諸民族は歓喜し独立の気運に沸き立ちました。
 この戦争の勝敗を決したのが旅順攻略です。旅順は極東侵攻を見据えた露の軍事的要衝で、鍵となる二百三高地占領に日本は苦戦を強いられました。その時、御祭神が司令部から直接戦場へ赴いて指揮を執り、巨大な二十八センチ榴弾砲を用いて猛攻をかけ、二百三高地を確保、旅順港停泊中のロシア艦隊をも全滅させました。これが日本海海戦での完勝へとつながり、我が国の勝利を決定的にしました。もし日本が負けていれば、日本はロシアの植民地とされて事実上消滅、全日本人は人権をもたぬ奴隷民とされ労働力として生涯を搾取苦役に従事し、歴史は断絶、ひいては東アジア全体もロシア領となっていたであろうことは多くの歴史家が指摘しております。
 今日、我が国が独立国家として存在し繁栄を享受し得るのは、ひとえに先人の御蔭であり、その勇気、祖国愛、犠牲を我々は決して忘れてはなりません。その二十八センチ砲弾が、京都嵐山美術館館長の新藤源吾氏より寄贈されました。寄贈に当たり佐々木信之氏、甲飛喇叭隊隊長の原知崇氏と隊員の方々にご尽力頂きました。砲弾は全長八十センチ、直径二十八センチ、重量約二百五十キログラム、現存の砲弾としては珍しく完全形を残すものです。
 ロシアの支配をはねのけた日本戦勝を記念し、御祭神の御功績を仰ぐよすがとして、さらには維新後三十年程で、国土防衛のための近代兵器を知恵と工夫を以って作り上げた明治日本の技術遺産として、この砲弾を末永く当社境内に安置し、後世に伝えるものであります。
 西暦二〇一九年四月十四日 御祭神御生誕百六十七年祭
 児玉神社宮司 山本白鳥

咸臨丸図面発見の地

咸臨丸図面発見の地
 日章旗をひるがえしてはじめて、太平洋横断の壮挙をなした
本艦乗員の進取をたたへ咸臨丸の復元保存と「青少年に夢と希望を」ねがい、先年、オランダ政府の尽力により、設計図発見、贈与をうけたことに対し、謝恩をこめ、永世に記念するため本碑を建立した。
 昭和五十五年十二月十六日

児玉神社御社殿

百年経過の為 ただ今 神楽殿を修復中です。
この工事期間のみ普段は見えない本殿をここから拝むことができます
 児玉神社

御本殿は大正7年(1918)造営。神門の奥に鎮座。

神楽殿(拝殿)は再建中

供養塔

創建時からの物故者、日清日露の英霊、日本領有時の台湾にて殉職・戦死された日台の英霊を祀る。

台湾の狛犬

昭和5年(1930)11月に奉納された狛犬。
第13代台湾総督石塚英蔵の寄進。台湾の名工によって台湾観音山の石で作られた逸品。口の中で動く丸石が転がる造形は見事。


児玉神社の境内から眺める風光明媚な湘南の海

江ノ島


児玉神社を参拝。久しぶりでした。
神楽殿は再建中で、境内の景観はしょうしょう寂しい状況ですが、心配していた最悪の状況ではなく。

運良く、社務所に神職様がいらしましたので、御朱印と御神札、お守りなどを頂戴しました。

御朱印は東郷神社の御朱印帳に。
これは乃木神社にもお参りしないと、ですね。


児玉神社公式サイト

https://www.kodamajinja.or.jp/

ひとまず〆

「日本の航空事始め・その3」民間初飛行の奈良原三次(民間航空発祥之地散策・千葉)

令和元年11月

先日、幕張・稲毛方面に赴く機会がありましたので散策をしてみました。


民間航空のパイオニア
奈良原三次

奈良原三次
明治10年(1877年)2月11日~昭和19年(1944年)7月14日
鹿児島出身

東京帝国大学工学部造兵科を卒業して日本海軍少技士として横須賀海軍工廠造兵部に勤務。
新設された臨時軍用気球研究会の委員となり飛行機研究を行う。
明治43年(1910)10月に自ら設計した「奈良原式1号飛行機」を自費で製作するも当初予定されたエンジン(仏製ノーム50馬力)の半分しかない仏製アンザニー25馬力での取り付けを余儀なくされ、戸山ヶ原での飛行試験はエンジン出力不足で地上滑走のみに終わり離陸に失敗。

その2ヶ月後の明治43年12月19日、代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が国内初飛行に成功。日本人による(外国機)国内初飛行となる。

明治44年に奈良原は海軍を退役し「奈良原式2号飛行機」を製作。
明治44年 (1911) 5月5日、国産機「奈良原式2号飛行機」は、所沢飛行場にて自らの操縦にて高度約4メートル、距離約60メートルの飛行に成功。
これが日本人による民間国産機での国内初飛行となる。

明治45年(1912)5月、千葉県の稲毛海岸に民間初の飛行場を開設。稲毛海岸の干潟を利用した飛行場であった。
ここで奈良原は、一番弟子 白戸栄之助 や二番弟子 伊藤音次郎 らのパイロットを養成。
奈良原式4号機「鳳号」を制作し、日本の民間航空の発展に尽くした。

※以下は所沢航空発祥記念館にて

奈良原式2号複葉機
1911(明治44)年5月5日、所沢飛行場で奈良原三次の操縦によって高度4m、距離約60mを跳び、国産機による最初の飛行記録を作る。その後、最大距離約600m、高度約60mを記録した。奈良原三次は海軍技師として臨時軍用気球研究会に参加していたが、委員会の活動とは別に自作の飛行機を設計、制作した。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:1
 全備重量:550kg
 全幅:10.00m
 全長:10.00m


民間航空発祥之地 記念碑

京葉線「稲毛海岸駅」北東約700メートル。稲毛公園の南端にひときわ大きな記念碑が建立されている。
この稲毛飛行場の地を飛んだ、奈良原式4号機「鳳号」の全長は9メートル、翼幅も9メートルであり、この記念碑の高さと幅も9メートル。
恩師 奈良原三次 のために、二番弟子の 伊藤音次郎 が建立。

民間航空発祥之地
 笹川良一 書

1912年5月 奈良原三次氏 この海浜に初めて練習飛行場を創設
教官白戸栄之助氏により 飛行士の養成をはじめた
この地がわが民間航空発祥の地である
1971年7月
 伊藤音次郎 記
 航空振興財団

松の由来
 この松は昭和35年日本初飛行50周年を記念して、アメリカ・ノースカロライナ州のホッジス知事から送られた、キティホークの丘(ライト兄弟が世界で初めて動力による飛行に成功した丘)の松の種を我が国、民間航空の草分けで、当地ともゆかりの深い故伊藤音次郎氏が、成田市の自宅で育てたものをこの地に植樹したものであります。
 昭和46年6月 
 千葉市

発祥記念碑の基部には「奈良原式4号機・鳳号」複葉機とその諸元を示すプレートが表示されている。

記念碑

奈良原式4号機「鳳号」
千葉市サイトより

奈良原式4号機「鳳号」復元機は、稲毛民間航空記念館に展示してあったが、現在は閉館中。リニュアルオープンを待ちたいと思います。。。

https://www.chibacity-ta.or.jp/spots/inage-kouku-kinenkan

記念の周辺に、気になるものがいくつかありました。

礎の碑
この碑は明治初期より貝類のり漁場として代々漁業を営み又関東一の汐干狩り海水浴場としてひろく親しまれた稲毛の海でしたが国土開発に協力し埋め立てのため昭和44年6月に解散した記念です。
千葉市稲毛町漁業協同組合

明治45年(1912)5月、千葉県の稲毛海岸に飛行場ができた当時から埋め立てが進むまで、遠浅の海外線がこの地に広がっていた。

蒸気機関車も保存されていました。

NUS7
 この蒸気機関車は昭和28年から昭和43年まで川崎製鉄千葉製鉄所において資材原材料等の運搬に使用されておりました。
 しかしディーゼル機関の発達にともない蒸気機関車は使われなくなり千葉市に寄贈され当公園に置かれたものです。
 昭和52年9月 
 千葉市

道路名は、「つばさ記念ロード」


こじま公園

稲毛海岸駅から記念碑に向かう道路を歩いていたら、バス停が「こじま公園」。
今はなにもないけども、かつてここに「こじま」がいました。
帝国海軍海防艦「志賀」
海上保安庁巡視船「こじま」
1998年に解体・・・

ファイル名:CKT881-C3-6(一部加工)
1988年10月30日・国土地理院撮影
地図空中写真閲覧サービス(国土地理院)

寄り道でした


以下、民間の航空をいくつか。

日本の民間操縦士第一号
白戸栄之助

白戸栄之助
明治19年(1886年)11月12日~昭和11年(1936)3月2日
青森県出身

明治39年(1906年)12月に陸軍交通兵団気球隊に入隊、43年に軍曹で退役。上官だった徳川好敏陸軍大尉の推薦で、奈良原三次のもとで操縦士としての訓練を受ける。

明治45年(1912年)4月、川崎競馬場で開催された、日本で初めて開催された有料民間飛行大会で、白戸栄之助は奈良原式4号機「鳳号」を操縦して「日本の民間操縦士第1号」の名声を得て、続いて5月11日東京の青山練兵場で時の皇太子殿下(大正天皇)、皇孫殿下(昭和天皇)の台臨飛行を行って大成功を納めた。

明治45年5月末には奈良原三次の提案で千葉の稲毛海岸の干潟を利用した飛行場を本拠地として移動し、教官として伊藤音次郎を教育した。
大正5年(1916)、奈良原三次の稲毛飛行場内に「白戸共同飛行練習所」を設立。 翌年に奈良原から独立し「白戸飛行機練習所」を開設。
大正13年(1924年)に門下生が相次いで飛行機事故で殉職したことから航空業界を引退し木工業へ。

白戸工業株式会社

http://www.shirato-web.com/history.html


民間機による初の帝都訪問飛行
伊藤音次郎

伊藤音次郎
明治24年(1891年)6月3日~昭和46年(1971年)12月26日

大阪の恵美須町生まれ。
17歳のときにライト兄弟の飛行写真をみて、飛行機に興味を持ち、奈良原式飛行機発明記事をみて、奈良原三次に手紙を送ったことから奈良原との交流がはじまる。
明治43年(1910年)に上京。奈良原三次に弟子入りし白戸栄之助教官の教えを受け「民間飛行士第2号」となる。

大正2年(1913年)、事情により航空業界から一時引退した奈良原三次の稲毛飛行場の地にて、大正4年(1915年)に伊藤音次郎は奈良原のもとから独立した形で「伊藤飛行機研究所」を設立。

大正5年、大阪の出身地・恵美須町の名をつけた「伊藤式・恵美1号」を制作し、民間機として初めての帝都東京訪問飛行に成功。
大正6年(1917年)、台風と高潮により稲毛海岸の施設(稲毛飛行場と伊藤飛行機研究所)が壊滅したことから、翌年大正7年に津田沼町鷺沼に移転し「伊藤飛行機製作所」(津田沼飛行場・鷺沼飛行場)として拡張する。

大正8年には、開発した日本初の曲芸専用機が連続2回宙返りに成功する。
昭和12年(1937)「伊藤飛行機株式会社」に名称変更。
昭和17年、日本航空工業と合併。
戦後、伊藤音次郎は、GHQの航空禁止令を受けて航空業界から引退。
昭和23年に(1948)に「恵美開拓農業協同組合」を設立し現在の成田市東峰に入植し開墾開拓に携わり農場主となった。
昭和40年代に始まった「成田空港建設予定地」の一部に東峰地区が決定し、現地では伊藤音次郎ただ一人が大歓迎を表明。軌道に乗っていた農業用地をすべて売却。航空業界から身を引いた伊藤音次郎ではあったが数奇な巡り合わせであった。

その後、恩師奈良原三次が築いた稲毛飛行場を記念するために稲毛海岸に「民間航空発祥の地記念碑」建立に尽力し、自ら育てていたライト兄弟ゆかりの貴重な松を植樹している。

昭和46年(1971)、伊藤音次郎は成田空港の開港を見ることなく他界。


旧 伊藤飛行機研究所 滑走路跡

現在の「袖ヶ浦第二児童遊園」に。

旧 伊藤飛行機研究所 滑走路跡
 伊藤飛行機研究所は、大正七年四月一日、鷺沼三丁目の旧千葉街道沿いに、伊藤音次郎氏によって開設されました。
 伊藤氏は、明治四十五年日本初の民間飛行機練習所を稲毛海岸に開いた奈良原男爵の弟子で、大正四年に独立し稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設しましたが、大正六年九月の台風と高潮で施設が壊滅したため、翌年鷺沼海岸に再開しました。当時この辺は遠浅の海で、潮が引いたあとの干潟は格好の滑走路となり、この干潟を利用して約百五十名の飛行士が養成されました。
 昭和六年、研究所は飛行機製作部門の伊藤飛行機製作所、飛行士養成部門の東亜飛行学校・帝国飛行学校に分かれ、昭和二十年八月、第二次世界大戦終戦とともにすべて解散されました。大正四年の創設以来、製作された飛行機は五十四機、グライダーは十五機種二百余機でした。
 平成十八年三月
 習志野市教育委員会

伊藤音次郎日記(日本航空協会)

http://www.aero.or.jp/isan/archive/Ito_Otojiro_diary/index.htm

日本航空史 明治大正編(日本航空協会)

http://www.aero.or.jp/isan/archive/Japanese_Aviation_Histroy_upto_taisho-era/isan-archive-History_of_Japan_Aeronautic_Meiji-Taisho.htm

ならしの豆知識(習志野市)

https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysales/kanko/mamechishiki.html


山縣飛行士殉空之地

伊藤音次郎の一番弟子であった山縣豊太郎。民間初の曲芸飛行家
大正7年(1918)5月4日に民間初の宙返り飛行に成功。5月10日には連続2回宙返りにも成功し天才飛行士として絶賛された。
しかし大正8年(1919)8月29日、連続3回転宙返りの際に翼が折れて、鷺沼の畑に墜落。享年23歳であった。

山縣飛行士殉空之地
 男爵 奈良原三次 書

紀元二千六百年八月二十九日 
 伊藤音次郎建立

山縣豊太郎君は明治三十二年九月百太郎氏の三男として広島に生まれ資性温健謙譲然も豪毅果断十六歳志を立てて東京に出叔父鳥飼繁三郎氏に寄り身を航空界に投ず
大正四年二月伊藤飛行機研究所創設されるや所長伊藤音次郎氏に師事して飛行機の操縦及び製作を習得し大正六年第一回卒業生首席として飛行士免状を授与せらる
爾来技愈々熟し出藍の誉高く東京大阪間最初の郵便飛行同区間周航の六百三十哩飛行等の競技に優勝し又民間最初の曲技飛行家として其天才的技量を発揮し後輩を指導して多数の優秀な飛行士を養成す
大正九年八月二十九日の曲技飛行中空中分解の為愛機恵美号と共に此の地に玉砕す
我が航空界の第一人者として称賛を受けたる君は航空界に幾多の大功績を残して遂に逝けり享年僅二十三
官民間人今猶ほ惜しまざるはなし
建碑に当って其昔を偲ぶ 嗚呼
 昭和十五年八月二十九日
 男爵 奈良原三次

「山縣飛行士殉空之地」は今も昔も畑の中。
海岸側からはちょとした高台にあった。

伊藤音次郎 の一番弟子であった 山縣豊太郎 を偲びし碑。
事故の21年後、紀元2600年の節目、昭和15年に 伊藤音次郎 によって建立された。揮毫と碑文は、伊藤の恩師 奈良原三次 の書。

合掌

はるかに幕張新都心を望む。当時は海だった場所。


参考

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

日本の航空発祥の地


位置関係

今昔マップ On The Web

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.646807&lng=140.052355&zoom=14&dataset=kanto&age=1&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

国道14号が海と陸の境界線。

稲毛飛行場跡

津田沼飛行場・鷺沼飛行場


付記

伊藤音次郎が、昭和12年(1937)に鷺沼の伊藤飛行機製作所の工場敷地内に空難犠牲者を祀る「航空神社」を建立。
戦後、伊藤音次郎が成田東峰に入植した際に、航空神社も移設され「東峰神社」として鎮座。その際に勤労の神として二宮尊徳を祀ったという。

東峰神社は開拓集落の産土神として東峰地区にて崇敬。
伊藤音次郎は成田空港を喜んで迎えたが、空港反対派が東峰神社を拠点として反対活動を行ったことは皮肉でしかなく。

東峰神社=航空神社は2001年に伊藤音次郎の子孫の要請で航空科学博物館の野外展示場に遷座。御神体も遷座しているために、現在の東峰神社は空座という。

伊藤音次郎ゆかりの神社として、航空科学博物館の航空神社と、東峰神社にも赴かねば、です。宿題ですね。

山縣有朋邸庭園跡(三番町共用会議所)

平成30年11月撮影

山縣有朋邸庭園跡・明治天皇行幸碑

山縣有朋邸庭園跡の一般公開にいってきました。(平成30年11月23日)

三番町共用会議所は明治18年に山縣有朋が建築した邸宅跡。当時の建物は関東大震災で大破し、再建後は昭和20年5月空襲で焼失し現存していないが、当時を偲ぶものが残っているので探訪してみました。
現在は全省庁共用の国の会議所。

三番町共用会議所
(山縣有朋邸庭園跡)
一般公開(無料)

 三番町共用会議所は、明治18年に山縣有朋伯爵(当時)が建築した邸宅跡です。
 当時の建物は、関東大震災(大正12年)で大破し、再建した建物も、昭和20年5月にあった空襲の焼夷弾により焼失したため、現存しておりませんが、庭園跡(昭和55年整備)と明治天皇の行幸を賜ったことを示す記念碑(明治18年山縣有朋公建立)が今も残っており当時を偲ぶことができます。
農林水産省

三番町共用会議所
山縣有朋邸庭園跡

明治18年に山縣有朋公が当地に私邸を建設。同年10月19日には明治天皇が行幸。
山縣は明治19年に内務大臣兼農商務大臣に就任し、国が山縣私邸を農商務大臣官舎として購入。大正12年の関東大震災で大破。昭和18年に改築するも昭和20年に空襲焼失。

昭和27年に旧本館竣工。
昭和29年に別館が竣工。この別館は現存している。設計は大江宏。大江の代表作としては大阪万博日本館、国立能楽堂などが知られる。

三番町共用会議所別館

写真は現存する三番町共用会議所別館 。昭和29年造。

三番町共用会議所別館内部
1階は会議室

昭和38年以降の米価審議会はここで行われていた。
(米流通自由化などもあり平成11年に米価審議会は廃止)

2階は大臣室など

三番町共用会議所本館

現在の本館は昭和48年に竣工
平成11年からは全省庁で利用できる共用の会議所となっている。

山縣有朋邸庭園跡(三番町共用会議所庭園)

昭和55年に庭園を再整備している。

明治天皇行幸記念碑

明治19年10月19日、山縣有朋邸で行われた銃剣術並演刀槍術展覧に、
明治天皇が行幸されたことを記念して山縣有朋が建立。山縣有朋が詠まれた和歌を山縣有朋本人の書体で掘られている。山縣有朋邸の当時を物語る石碑。

天津かせ えたをならさぬ 君がよは 
  こゝろ のとけく 匂ふ梅かゝ
 山縣有朋直筆

 山縣有朋邸(当地)で行われた銃剣術並演刀槍術天覧に、明治天皇が行幸されたことを記念して、山県有朋が建立したものです。碑文は隷書体で行幸の一部始終が石版全体に書かれています。表面には山県有朋が詠まれた和歌が本人の書体で彫られています。

明治天皇行幸碑 裏面(概要)
 今年(明治18年)10月19日。
 今上天皇が有朋の私邸に行幸され、光栄に預かること大である。又、銀杯、貨幣を下賜される。有朋は謹んで来国光の刀一口及び松蔭先生の書二幅献上した。この日、宴に侍する者は、皇族、内閣諸侯及び武官若干名なり。(陸軍)戸山学校の下士が銃剣技を奏し、宮内官吏等は刀槍術を演じ御覧頂いた。饗応の際、夕刻となり陸軍楽隊に演奏させる。夜になり、多くの玉燈を点け、煙火を放つ。既に儀仗兵の隊列の準備の知らせが入り、龍旗(錦旗)は宮城に還られた。嗟、有朋の幸この上なし。ここに臨幸の始末を記し、併せて二品の由来を録し、将来に伝える。
明治18年11月
従三位 伯爵 山縣有朋 謹んで識るす。

石灯籠

庭園内の灯籠も山縣有朋邸庭園時代からのものと推定。
土台が六角形の灯籠は江戸後期から明治初期の技法とされている。

石畳
木の根の広がりに年月を感じさせる。

三番町共用会議所・山縣有朋邸庭園跡は、毎年11月12月に数日間に公開されているようです。

給水塔と車庫は取り壊し予定だそうで・・・(昭和20年代の建築という)

山縣有朋邸宅庭園として現存している有名な庭園は以下。
 椿山荘 東京都文京区
  明治11年
 無鄰菴 京都府左京区 京都別荘
  明治27~29年
 古稀庵 神奈川県小田原市 小田原別邸
  明治40年 70歳の古希を迎えた晩年の別荘

この三番町共用会議所の庭園は、山縣有朋の時代を石碑などに残すのみではあるが、人知れずの史跡。一般公開もひっそりと行われていたので、私も最近まで存在を知りませんでした。なかなかの良き歴史スポット。


関連

戦争の犠牲になった動物たち「上野動物園と動物慰霊碑」

令和元年(2019)11月

「上野動物園」
日本で最初の動物園、明治15年(1882)開園。
東京市時代の戦前は「東京市公園局・上野恩賜公園動物園」と称していた。
現在の正式名称は「東京都恩賜上野動物園」

そんな歴史由緒ある上野動物園の園内に、ひっそりと「動物慰霊碑」があった。

これもまた戦跡としての慰霊碑・・・。

合掌を


戦時猛獣処分

戦争において空襲等に巻き込まれた動物園の猛獣が逃亡して被害を及ぼすのを未然に防ぐための殺処分のことをいう。


上野動物園の戦時猛獣処分

昭和18年(1943)以降、日本の各動物園で戦時猛獣処分が行われた。
食糧不足も重なり、多くの動物達も、戦争の犠牲となった。

昭和18年8月11日に上野動物園において、象1匹の殺処分が決定したのを皮切りに、昭和19年には全国の動物園で戦時猛獣処分が始まった。
処分は軍部による命令ではなく、あくまで行政機関の命令をうけた動物園の判断での実施であったという。

昭和18年8月16日、大達茂雄東京都長官(東京市と東京府が廃止されて東京都が設置された際の初代東京都知事)は、上野動物園などの都内の動物園に猛獣殺処分を発令。
これは前職でシンガポール市長(昭南特別市長)を努めていた大達茂雄が、既に時局の厳しさを感じ取り、猛獣被害予防という点以外にも、国民の危機意識を高めるために行ったという側面もある。
大達茂雄東京都長官が決断をした、昭和18年夏の段階では、まだ東京に対して空襲が頻発する前段階であり、そのため空襲のために殺処分が決まった、というわけでもなかった。
しかし「絵本」では、わかりやすく、軍の命令、空襲が続く中で・・・となっている。

上野動物園では、ゾウ・ライオン・トラ・クマ・ヒョウ・ヘビなど14種27頭が殺処分対象となる。
特に気性が荒く危険とされていたゾウの「ジョン」は、処分命令に先立つ8月11日に早くも殺処分が決定され、13日から絶食状態となっていた。 
そうして、8月17日から9月1日までに、ゾウ1頭(ジョン)を含む24頭の殺処分され、そして9月23日に最後のゾウが死亡し、計画された一連の殺処分が終わった。

なかでも、3頭のインドゾウの殺処分は特に有名。
気性の荒い「ジョン」は、いち早く8月13日に餓死による殺処分が着手され、17日後の8月29日に餓死。残る2頭のゾウも餓死による殺処分。
当初は、ゾウも他の動物と同じように薬殺が予定されていたが、繊細なゾウは毒餌を受け入れなかったために餓死させることとなったという。
食べ物を欲した象たちは、痩せた体でヨロヨロと飼育員の前で必死の芸をしたという。芸当をすれば、きっと餌がもらえると信じての行動であったが、飼育員たちは餌を与えることは出来ず、ただただ、象たちのやせ細る姿を見守ることしか出来なかった。
そうして、9月11日に「ワンリー(別称「花子」)」が餓死、最後まで残った「トンキー」も9月23日に餓死した。

昭和18年9月2日に「時局捨身動物」として戦時猛獣処分実施が公表。
さらには、9月4日には「処分動物慰霊祭」(殉難猛獣慰霊法要)が斎行された。
慰霊祭は象舎の前で行われたが、そのときはまだ象舎では「ワンリー(花子)」と「トンキー」は絶食中でも生存しており、慰霊祭に際して象舎に鯨幕を張り、象の姿を見せないために目隠しをしたという。

「処分動物慰霊祭」(殉難猛獣慰霊法要)
位牌は「殉難猛獣霊位」
墓標は「時局捨身動物」


上野動物園の猛獣を懇切処置

懇切処置という表現といい、記事の文面のもやもやした言い回しが、時局を表していて、とても複雑な気持ちになる・・・。

昭和18年(1943年)9月2日
同盟時事月報(通号208号) 第7巻 第09号

上野動物園の猛獣を懇切処置

【二日】東京都では、日頃都民から限りない親愛の情をもたれて来た、上野動物園の人気者象の花子さんを始めライオンなどの猛獣が、馴染みの姿を柵から消す処置がとられた。
(東京都発表)(二日午後二時)
東京都に於いては非常時に際しての万一の場合を考慮し、上野動物園に飼育する最も危険な猛獣をこのほど懇切に処置した。依ってこれらの動物供養のため、来る四日午後二時、本園内動物慰霊塔に於て、浅草寺大森大僧正を導師として法要を営む。如何に馴れた動物でも激烈な衝撃によって怖るべき狂乱状態となるので、誠に不憫ながらライオン以下の猛獣を処置することは止むを得ざる次第で、平素愛護を頂いた都民皆様の御諒解を願ひ度い。


上野動物園 動物慰霊碑

動物よ安らかに
 古賀忠道書

古賀忠道(1903-1986)
1937年に園長制度が設立され上野動物園初代園長に就任。
戦前から戦後まで上野動物園とともにあったお人。
「動物よ安らかに」に重みを感じる。
1962年の動物園創立80周年記念行事を最後に園長を引退。

「動物園は平和なり」は古賀忠道氏の残した言葉。

なお、動物慰霊の後方に見える、石塔は、津藩藤堂家墓地。
上野公園の地には、かつて津藩藤堂家の屋敷地があり、東京の「上野」は高虎の領した「伊賀上野」が語源になったとの説もある。
上野の寛永寺内にあった藤堂高虎の菩提寺「寒松院」の地が、上野動物園となり、そして、藤堂高虎を始めとした歴代の藤堂藩主の墓は、上野動物園内に残された。なお、藤堂家墓地は非公開立入禁止エリア。

動物慰霊碑
動物慰霊碑は、動物園で死亡した動物の霊をなぐさめるためのものです。戦争の犠牲となった動物たちをはじめ、園内で暮らしたすべての動物たちが供養されています。ブロンズのリボンは動物への愛情と弔意をあらわし、フクロウは動物たちの霊をみまもる象徴として選ばれました。
最初は1931年に、今のゴリラとトラの森付近に建立され、当時は動物たちを近くに埋葬していました。この慰霊碑は1975年、園内の改修にあたり新たに建立されました。


上野動物園旧正門

明治44年建立。昭和9年頃までは恩賜上野動物園の玄関口として使用されていた表門。
現在は臨時門として使用されることもある。


上野動物園

上野動物園。久しぶりに園内に。

象舎の裏に慰霊碑がある。


上野動物園モノレール(廃止)

「東京都交通局 上野懸垂線」
日本で最初に開業したモノレール。 開業は1957年。日本最短のモノレール。
現在の車両は4台目の車両(2001年導入)であったが、令和元年(2019年)11月1日で車両経年劣化もあり運行休止。

https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/other/monorail/


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