「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

東京大空襲と下町(江東区砂町周辺)

東京大空襲と下町。
江東区砂町地区なども大きな被害を被っている。

慰霊巡拝を。


戦災殉難者供養之碑(砂村新田六地蔵)
南砂町1丁目・南砂町3丁目

江戸時代のことから、砂村新田六地蔵尊が祀られていたという。昭和20年3月9日夜半からの東京大空襲によって、六地蔵は瓦礫と化し戦災焼失。
昭和27年頃に「戦災殉難者慰霊」を兼ねて再建。

昭和20年3月10日歿
戦災殉難者供養之碑
起縁南砂町1、3丁目

砂町新田六地蔵
(前略)
さても恐ろしいのは戦争である。昭和20年(1945)3月9日、あの夜半からの大空襲のため、六地蔵は瓦礫と化し江戸時代からの文化財が一つ消えて行ってしまった。
 この地蔵は、戦災で焼失したため、昭和27年(1952)頃に戦災殉難者慰霊も兼ねて再建された。現在は「六地蔵尊奉賛会」によって守られている。

場所:

https://goo.gl/maps/QEi531KqViBth1cMA


戦災殉難者供養碑・波除地蔵尊

江東区南砂。
南砂2丁目町会会館に隣接。
大正6年(1917)10月の大津波によって砂村新田で亡くなった方を供養する波除地蔵尊とともに、東京大空襲の殉難者を供養する碑が建立されている。

地蔵尊の左側、お供えの花に埋もれているが、供養碑がある。
左側の石碑は地蔵尊の由来碑。

手前の線路は、貨物専用の越中島支線。

場所

https://goo.gl/maps/yPykKbWJf7sSmdr2A


戦災殉難者供養碑(妙久寺)

江東区北砂。
砂町地区での戦災殉難者を供養する。

寺院境内墓地内には、空襲で破損した墓石や焼けた墓石も多数残っている。

場所

https://goo.gl/maps/ovFeZKhaPobQMPg37


江東馬頭観世音(武州妙安禅寺)

江東区南砂。
当時、界隈では、荷車を引かせる馬=輓馬の業者が集中していた。東京大空襲では、輓馬3,000頭が焼死。また輓馬も軍部によって軍馬としても徴用され、多く戦死している。
昭和28年9月に、愛馬の霊を弔うために、地元の運送業者の手によって馬頭観世音が建立された。

なお、武州妙安禅寺は、東松山市に鎮座する「慈雲山妙安寺」のこと。境内の馬頭観世音は「武州上岡観音」として古くから牛馬と関わる農家から信仰され、関東随一の馬頭観音の霊場とされている。

碑面裏の趣旨書は漢文での記載。

江東馬頭観世音由来之碑
 昭和20年(1945)3月9日夜半の大空襲により江東方面は焦土と化し殉難者は目を覆うばかりの惨状を呈した。また戦局が激しさを加えるに伴い石油が欠乏し国内の輸送は専ら牛馬車のみに大きく依存された。江東地区特に砂町大島亀戸深川一帯は東京都内において当時最も多くの輓馬業者が集中し牛馬の頭数3千有余居りその大半が空襲で厩舎や路上で焼死しさらに戦時中は軍馬として江東方面から多数徴用され大陸や南方において数多くの馬が戦死をとげたのである。
 昭和28年(1953)9月輓馬による運送業者が中心となりこれら愛馬の諸霊を弔い平和祈願をこめてこの地に江東馬頭観世音を建立したものである。
 大空襲後33回忌を迎えるにあたりこの志を継ぐ者が相寄り慰霊の由来を記し、ここに碑を建立して永く世にこれを傳えることになった。
 昭和52年(1977)3月10日 
  江東馬頭観世音講

馬蹄や人参が奉納されている。今でも手厚く崇敬されていることがわかる。

江東馬頭観世音

武州妙安禅寺

となりには「東京トラック同盟協同組合」。
いまも縁がある。

場所

https://goo.gl/maps/xVoRNtDXxWkKXXHP9


殉職者慰霊碑「礎」(小名木川駅跡)

江東区北砂。
旧国鉄小名木川駅跡の「アリオ北砂」
入口にある慰霊碑。


日本国有鉄道総裁
十河信二

時太平洋戦争も䦨(たけなわ)昭和20年3月10日未明米国重爆撃機B29型百数十機の大空襲により江東地帯は壊滅的被害を受け特に当駅は五百数十両の貨車、数千屯の貨物と共に駅施設は烏有に帰す。この日勤務者二十四名中実に十二名が壮烈その職に殉す。
又昭和4年開業以来職に殉せし者四名を数うここに十六名の霊を慰むべく駅員の総意により広く国鉄部内外の協力を得て本碑を建立す。
 昭和37年3月10日

小名木川駅は昭和4年開業の貨物専用駅。
交差点はまだ「小名木川駅前」表示のまま。

場所

https://goo.gl/maps/mBECHTGgdLW1TQ7F6


北砂二丁目公園(小名木川駅跡)

小名木川駅の歴史
 江東地区の工業地帯の輸送需要の増加に対応するため昭和4年3月20日、小名木川河畔14,000平方メートルのドッグを備えた水陸連絡貨物専用駅として、小名木川駅が開業した。
 初め貨物取扱量50万トンの規模であったが、第2次大戦中の昭和18年(1943)には130万トンの貨物取扱量を記録。
(以下略)

小名木川駅は、平成12年(2000)に廃止となっている。
再開発のアリオ北砂は2010年に開業。

場所(北砂二丁目公園)

https://goo.gl/maps/FtFGnd13aLyn53fD6


地蔵尊(羅漢寺)

江東区大島。西大島駅の交差点の北東。
東京大空襲で火の海から逃れた住職が発起人となり、大島町の町会の寄付もあり昭和26年に7回忌として建立。
東京大空襲で焼けた庫裏跡に700名以上の遺体が仮埋葬されており、昭和24年に遺体を火葬し東京都慰霊堂に改葬した際に、分骨した5人遺骨を地蔵下に埋め、開眼供養としたという。

場所

https://goo.gl/maps/vpJ8witZJeaiqFpP7

撮影:2022年1月


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

東京大空襲と下町(墨田区菊川・立川、江東区森下周辺)

東京大空襲と下町。
菊川・立川地区なども大きな被害を被っている。

慰霊巡拝を。


榎稲荷神社

墨田区立川。
稲荷神社の御神木の榎の大木は空襲によって真っ二つに裂かれた被災樹木。

榎稲荷は天和3年(1682)に菊川の土手に建立され、元禄9年(1696)に菊川という河の名を取り「菊川」という町名になり、溝中が作られたという。

被災した榎。

榎稲荷神社由緒書
(前略)
明治11年11月2日本所区菊川1丁目と称し、大正12年9月1日の関東大震災にて焼失、その後区画整理にて現在地に移転し、昭和7年町名変更にて竪川4丁目となる。
昭和20年3月10日第2次世界大戦の際、東京大空襲にて再度焼失したる(攻略)
※カタカナはひらがなに置き換え、句読点を補完

場所

https://goo.gl/maps/nfn6bw8Ap56sid2E7


堅川地蔵尊

墨田区立川。
昭和21年5月、堅川地蔵尊が、東京大空襲の犠牲者の冥福と恒久平和を願って建立。
竪四会館と同居している。

竪川地蔵尊戦災震災殉難者諸霊位供養之塔

地蔵尊の由来
 大東亜戦争中昭和二十年(西暦一九四五年)三月十日未明、敵空軍爆撃機の焼夷弾による大空襲を受け下町一帯は壊滅状態となり尊い人命を数多く亡くし其の数実に10万人と言います。
 攻撃に参加した敵爆撃機二九八機、投下焼夷弾一七八三t、被災者数100万人、焼失家屋二十七万戸、負傷者数14万人、当、菊川公園に埋めた人4515人に達し当町の住民の中からも多数の焼死者を出し、無人の町に等しくなるも終戦により町に復帰する人も日毎に多くなり、其の生存者の間から犠牲者の冥福と恒久平和を念じて地蔵尊建立の運動が起き、当時この町の住民で菊川小学校で奇跡的に難を免かれ、船橋市に疎開中の石黒善次氏に話が伝わり動詞の浄財により昭和二十一年五月地蔵尊を菊川公園に建立し町に寄贈され昭和四十年四月菊川公園改修のため現在地に移転、今日に至り以来毎年三月十日の戦災記念日には盛大に犠牲者の霊を弔うと共に人が人を愛し世界の国々が平和で人類が何時迄も仲良く幸であることを祈るものである。
  昭和五十九年三月十日 
   立川四丁目町会

戦災者供養

場所

https://goo.gl/maps/DL8oQJBZY2GKC19w6


菊川公園

竪川地蔵尊と榎木稲荷神社の隣。
東京大空襲に際して、避難民で溢れた「菊川国民学校」も火の海に包まれ、学校も路上も遺体で溢れ、隣接する「菊川公園」に4,515名にも及ぶ犠牲者が、菊川公園に仮埋葬された。

場所

https://goo.gl/maps/gRTo6ogmGBZ6Ug5D7


夢違之地蔵尊夢違地蔵尊

墨田区菊川。
約3,000人の犠牲者が菊川橋の周辺であったという。
弥勒寺住職が書かれた縁起には、以下のような惨劇が綴られている。

  まだ春浅き三月九日夜半 雨あられの如く投下された焼夷弾は、いとまなき出火となり立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を、呼び合い叫び逃げまどい 或は壕に入り、水面に飛込み、或は公園、校舎に走り、ついに力尽きてその声も消え果て、やがて倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥
に骸と果て、翌朝光の中の惨状は眼を覆うばかりであった。生き残れる者僅かにしてそのさまは亡者のようであった。この地の殉難者数約三千余名といわれている。

夢違地蔵尊縁起

夢違地蔵尊縁起
 一九二三年(大正十二年)関東大震災に於ける下町の惨禍は遭難死者五万八千名に及びその遺骨を収納し、東京都慰霊堂が建立され、その加護と平安を願い毎年九月一日を記念日と定め 官民あげて法要が営まれているが、この地も焦土と化しその物故者も多いため、毎年その慰霊法要を行うに至った。一九四一年(昭和十六年)太平洋戦争勃発し、戦局利にあらず、殊に一九四五年(昭和二十年)三月九日より十日にかけての米戦略爆撃機B29による東京空襲は最も熾烈を極め僅か数時間で下町を中心に二十七万八千余戸を焼失し無慮七万八千余の殉難者を出した広島 長崎の原爆の戦史に比類する永遠に忘れ得ぬ悲惨な史実である。
 まだ春浅き三月九日夜半 雨あられの如く投下された焼夷弾は、いとまなき出火となり立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を、呼び合い叫び逃げまどい 或は壕に入り、水面に飛込み、或は公園、校舎に走り、ついに力尽きてその声も消え果て、やがて倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥に骸と果て、翌朝光の中の惨状は眼を覆うばかりであった。生き残れる者僅かにしてそのさまは亡者のようであった。この地の殉難者数約三千余名といわれている。
 この地蔵尊の在わします菊川橋周辺の惨禍は、東京大空襲を語るとき後世まで残るもので霊地として守らねばならない聖域である。而して復興なり一九八三年(昭和五十八年)三月十日、誠心集い浄財を集め仏縁深き弥勒寺住職の教示を得て、これか悪夢の消滅を願い、これを善夢に導き、再びこの悲史をくり返さないようにと、夢違之地蔵尊と命名され開眼法要、殉難者追悼供養を施行した。
 時移り再び多大なる協賛を得て夢違之地蔵尊縁起の史碑建立となり地蔵講が生まれた。願わくば子々孫々への加護と人類の平和を祈念して本日此処に慰霊法要を謹んで行うものである。
                     合掌
  一九八五年三月十日
   弥勒寺第五十七代住職 岩堀真至謹書
    夢違之地蔵尊縁起史碑建立 協賛者一同

夢違之地蔵尊

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city003/index.html

菊川橋の北西にある菊川橋児童遊園 (北側)に地蔵尊はある。

場所

https://goo.gl/maps/EG8bQsf7WcwEwiP66


八百霊地蔵尊(やおだま地蔵尊)

江東区森下5丁目。
この地の戦災犠牲者約800名を慰霊するために、昭和21年に建立。

八百霊地蔵尊
由来記碑
昭和二十年三月十日大東亜戦争による米軍東京大空襲により一朝にして犠牲となった当時の深川高橋五丁目の町民八百余名の霊を慰めるため昭和二十一年生存者町民有志によりこの地蔵尊が建立された
この由来を後世に伝へ併せて恒久の平和を祈るため三十周忌を記念してこの碑を建てた
 昭和四十九年三月十日
  江東区森下五丁目町民有志

猿江橋の北西角地。

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_koto_city011/index.html

場所

https://goo.gl/maps/aNk1i3Z5Fn4xjnM26

※2022年1月撮影


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

東京大空襲と下町(江東区白河・平野・三好周辺)

東京大空襲と下町。
清澄白河地区も大きな被害を被っている。
慰霊巡拝を。


白河戦災地蔵尊(延命地蔵尊)

江東区白河。
戦前に、朝鮮から来日し白河町で食堂を開いていた李夫妻。東京大空襲後に、無料宿泊所をつくり、洋裁教習所などうをもうけ、女性や子供の自立支援をおこなっていた。昭和33年に、白川2丁目の延命地蔵尊の右端に、白河町で犠牲となった700余名り追悼地蔵尊を建立。

場所

https://goo.gl/maps/Fs8fv9edhT2q8z2J8


平和祈念慰霊碑(東深川橋脇の慰霊碑)

江東区白河。
上記の白河地蔵尊を建立した李氏が帰国に際し、白河2丁目有志が昭和46年に建立した慰霊碑。

昭和二十年三月九日夜の大空襲により首都東京は一瞬にして火の海と化し我白河二丁目もまた灰燼となる
その夜の焼死者実に七百余名の多きに及ぶ 其惨状は筆舌につくし難い同年八月十五日終戦となる
我々町民は全くの無一物焦土の中より起上り復興の為凡ゆる困苦と闘ひ欠乏に耐えて廿六年今日戦前にもました未曾有の繁栄を遂ぐるに至る顧みて幾多の尊き犠牲者の冥福を祈り今後戦争の絶滅を期すると共に我町会の復興を記念して茲に相計り記念碑を建立する
 昭和四十六年八月十五日  町会長 平谷章 記
  在日五十四年帰国記念為建之

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_koto_city001/index.html

場所

https://goo.gl/maps/DE719L4aG89GNHLD7


平和地蔵尊・戦災殉難者供養塔(良信院)

江東区三好。
良心院にある平和地蔵尊。

地蔵尊とともに、「戦災殉難者供養塔」もある。
50回忌に建立。

平成6年3月、50回忌供養での建立。

現代的な寺院。

場所

https://goo.gl/maps/TTXtN3RffiMBHYcU6


観音像・戦災殉難有縁無縁各霊供養塔(善徳寺)

江東区三好。
東京大空襲での江東地区の犠牲者を供養する観音像。
昭和32年建立。

昭和20年3月9日夜半より10日未明に至る初の帝都夜間大空襲は全都に多大の被害を与え、江東地帯も一夜にして焼土と化し、多数の犠牲者を出し、私達にとり忘れ得ぬ悲しい出来事となりました。
同年8月15日戦争は終了を告げ爾来十有余年、人々の努力に依り町は以前にもまして復興しましたが、今は再び帰らぬ殉難の方々の永遠の冥福を祈念し、この供養塔を建立致しました。
 昭和32年10月13日
 当山19世 俊道 識

戦災殉難
有縁無縁
各霊位供養塔

場所

https://goo.gl/maps/CwmJTEGNDU36mKye7


平和観音像(成等院)

江東区三好1丁目。
成等院にある紀伊国屋文左衛門の墓域に建立されている。
なお、紀伊国屋文左衛門墓域は、東日本大震災の影響で立入禁止。

三好1丁目
平和観音

平和観音由来
昭和20年3月10日戦災により当町内は全焼し百名近くの方が亡くなられました。本年37回忌に当り、又町内で亡くなられた方々のご冥福を永久に祈り、町内各位の御清栄と国の平和を願って平和観音を造立しました。
 昭和56年3月10日
 三好1丁目町会造立

紀伊国屋文左衛門之碑は昭和33年(1958)建立。

敷地外からなので、わかりにくいが、上記碑の左側に墓石がある。

立ち入り禁止。

場所

https://goo.gl/maps/71UjHnKefubq5XYY9


慰霊碑(浄心寺)

江東区平野2丁目。
関東大震災の慰霊碑と並ぶ、戦災慰霊碑。
東京大空襲で掘割で水死した犠牲者をはじめとする万物供養の慰霊碑。
昭和21年に洲崎弁天町町会が建立し、都営住宅建設に伴い、浄心寺に移転。

昭和20年3月10日の空襲に殉難せる町会内緒霊の為、茲に碑を建て永久に其の英魂を弔う 
 昭和21年3月10日
  東京都深川区州崎弁天町会

※旧仮名遣いを現在仮名遣いに改めました

となりのおおきなモニュメントは、関東大震災慰霊碑。

蔵魄塔・関東大震災殃死者慰霊塔(浄心寺)

関東大震災では、浄心寺の境内も臨時の火葬場に当てられ、約3,000の遺体が荼毘に付された。
大正12年10月5日に深川区主催で、浄心寺にて大震災横死者追悼大法要が営まれた。
大正14年8月30日、大震災犠牲者の遺灰を納めた供養塔が建立。
(その後、遺灰は東京都慰霊堂に移されている。)
供養塔の作者は、日名子実三。(朝倉文夫門下塾頭)
蔵魄塔と名付けられ、半球ドーム型の白いコンクリート像の墳墓。悲しみに暮れる女性が抱きしめいている姿をモニュメントしている。

ちなみに、石灯籠は、仙台伊達藩六代目藩主の伊達宗村(仙台少将藤原宗村)が享保四年(1719)に奉納したもの。

浄心寺。

場所

https://goo.gl/maps/q1pHQeEqKdf8cVtb6

※撮影2022年1月


関連

東京大空襲関連の一覧

はじめに

軍都佐倉の戦跡散策・その2(佐倉陸軍墓地跡と歴博)

千葉県佐倉市。佐倉市を代表する「佐倉城址」は、佐倉城址公園や国立歴史民俗博物館などとなっているが、戦前は「佐倉聯隊」(歩兵第2聯隊・歩兵第57聯隊)の兵営地であった。

佐倉は、行こう行こうと思って2022年5月に戦跡散策を実施、そこで時間切れや散策漏れなどがいろいろあって2023年1月に再訪。写真が夏だったり冬だったりするのは、そのためです。
特に一日で、佐倉城址の散策と、歴博の見学を一気にやろうとしてはダメです。
歴博だけで、真面目に見学すると、歴史好きなら一日を消費します。

本記事は、「その2」となります。
その2では、佐倉城址以外の話題を軸にします。

その1は、こちらにて


忠霊塔(佐倉陸軍墓地跡)

佐倉市役所の駐車場奥に忠霊塔がある。
この場所が、かつての佐倉陸軍墓地であるという。

忠霊塔
ここには、過去の戦争による戦没者の遺骨・遺品が安置され、一万有余の御霊が祀られております。
 印旛郡市町・八千代市
  遺族会

平和之礎

合掌

佐倉霊園

傷痍軍人 顕彰碑

昭和36年1月 印旛地区傷痍軍人会 建立

佐倉市役所

場所

https://goo.gl/maps/Cw4Pgvb4ZTsaFAJ29


児玉源太郎旧宅跡

往時の土塁と生垣が残る。
佐倉藩の上中級の武家屋敷があつまっていたエリア。

この地には、佐倉連隊長の借家がありました。児玉源太郎(後の大将)は、佐倉歩兵第2連隊長として、1880(明治13年)から1885(明治18)年までこの地に住んでいました。
佐倉において中佐から大佐へ昇進しています。陸軍の演習において、児玉が佐倉歩兵第2連隊長として佐倉の兵を率い、乃木希典(後の大将)率いる東京の第1連隊を奇襲によって破ったというエプソードは大変有名です。江戸時代から続く土塁と生垣は、児玉の借家の時代にも存在しており、往時の面影を今に伝えています。

※児玉源太郎 嘉永5(1852)年~明治39(1906)年
旧陸軍軍人。箱館戦争、佐賀の乱へ従軍後、明治9(1876)年には神風連の乱を鎮圧する。台湾総督を勤める。日露戦争(明治37(1904)年~明治38(1905))全体の戦略を立案した人物である。実際の戦闘指揮だけでなく、戦費の調達、アメリカの仲立による講和の画策、帝政ロシアへの革命工作などを行っている。戦争遂行に己のすべてを注ぎ込んだためか、日露戦争終戦後しばらくして亡くなっている。

場所

https://goo.gl/maps/27BjD7DJKYVvEPat7


成徳書院跡

佐倉市民体育館の近く。かつて佐倉上大手門あったあたり。

佐倉藩校があった。

場所

https://goo.gl/maps/KQ7DYFspwptuLNP29


西村勝三翁像

銅像があるなと思って、近寄ってみましたら「西村勝三さん」でした。
「明治の工業の父」「製靴業の祖」
佐倉でした、そういえば。

以下も参照

西村勝三翁の業績
 この地を下った所には、曽て佐倉藩の士魂を磨いた「成徳書院」の武道場があった。
その武道場を、断乎改造して、製靴の業を教えたのが、西村茂樹(1828~1902)・勝三(1836~1907)の兄弟である。
大塚岩次郎(大塚製靴創始者)もここでその業を習った一人であった。
時に明治4年7月であり、この月には「廃藩置県令」が出されている。
佐倉藩の士族授産行政は、この様にまさに間髪を入れぬ素早さと、先見に富んだ大胆なものであった。
茂樹は当時佐倉藩大参事であり、勝三はその前年3月15日日本初の製靴工場を築地入船町5丁目1番地に建てていた。
 父西村芳郁は、成徳書院の前身「温故堂」の頭取となり、又支藩佐野藩への附家老も勤めた有能の士で、母楽子は、佐倉藩士荒井宗輝の長女であった。
 勝三は初め佐野藩の禄を喰んだが、安政3年(1856)脱藩し、その後武士も捨てて、佐野の豪商正田利右衛門と横浜に出て貿易に従事した。
やがて明治2年(1869)大村益次郎から製靴をすすめられ、弟の綾部平輔と製革製靴事業創始を決意して断髪した。
断髪令に先立つこと2年であり、この決意に感動して、高見順は「日本の靴」を著したほどである。
 勝三翁の創業は「伊勢勝製靴場」といったが、その後「桜組」と改称、更に大同合併して皮革は「日本皮革株式会社」、靴は「日本製靴株式会社」として今日の大をなす源となった。
 翁は又、正田利右衛門から製鉛法の研究を託され、それが耐火煉瓦の研究となり、明治8年「伊勢勝白煉瓦製造所」に結実し、之が後「品川白煉瓦株式会社」となり、今日の盛業を見るに至った。
本碑及び像周辺の煉瓦は、特に寄贈された同社製の耐火煉瓦である。
 翁は又、ガス・ガラス・靴下・洋服等々の事業も手がけ、夫々の業界の先達と仰がれている。
 この様に勝三翁の生涯は、日本工業の創業の苦闘の歴史そのものであった。
 翁の無二の理解者であり、且つ最大の協力者であった渋沢栄一は「西村翁はいつも国益を優先し、自己の利害を顧みず、百難を排して日本の工業を創始した。」と、その士魂商才の面目を絶賛している。

場所

https://goo.gl/maps/kqth9g9kFWquEtSs7


浜野昇と済生病院

佐倉の藩医の出身であった浜野昇。陸軍軍医として西南戦争に従軍したのちに、佐倉で市立病院を開業。第一回衆議院委員選挙で全国唯一の医学士・医師としての初めての衆議院議員であった。

場所

https://goo.gl/maps/DnXxbnnvrTBc2o6g8


国立歴史民俗博物館

言わずとしれた「歴博」。歴史を俯瞰的に見ると充実しすぎて1日あっても足りませんし、見どころ多数ですし、原始宗教としての民俗史として見るべきものも多数ですが、佐倉の連隊、佐倉の陸軍に関する展示もありますので、ここも足を運んでおくべきかと。歴博、やばいですね、好きです。

近現代。
(民俗学のコーナーもありますし、歴史学だって時系列にそった展示は興味深く、全部紹介したいぐらいではありますが、逸脱してしまうので、ここでは、それ以外は省略します。。。)

佐倉兵営

忠霊塔の建設要領
中身が気になります。。。

B29ですね。

横浜の赤レンガの模型も

国産第一号機関車の話。

昭和の街並み再現も。

場所

https://goo.gl/maps/8riCuYwbTwnXv9wf6

佐倉城址に点在する戦跡は「その1」にて。

※撮影:2022年5月及び2023年1月


軍都佐倉の戦跡散策・その1(歩兵第二聯隊佐倉兵営跡地散策)

千葉県佐倉市。佐倉市を代表する「佐倉城址」は、佐倉城址公園や国立歴史民俗博物館などとなっているが、戦前は「佐倉聯隊」(歩兵第2聯隊・歩兵第57聯隊)の兵営地であった。

佐倉は、行こう行こうと思って2022年5月に戦跡散策を実施、そこで時間切れや散策漏れなどがいろいろあって2023年1月に再訪。写真が夏だったり冬だったりするのは、そのためです。
特に一日で、佐倉城址の散策と、歴博の見学を一気にやろうとしてはダメです。
歴博だけで、真面目に見学すると、歴史好きなら一日を消費します。

本記事は、「その1」となります。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1828-72
1948年9月26日、米軍撮影の航空写真を加工。

上記から佐倉城址界隈を切り抜きし、画像を回転。
本丸を上にしてみる。

下図は佐倉連隊跡関連位置図。
上記の航空写真と位置合わせ。

みてのとおり、「佐倉連隊跡関連位置図」という便利な案内看板が随所にあります。戦跡散策も快適ですね。


佐倉連隊案内図

これは、歴博の入口正面、愛宕坂の下に。

明治7年、日本最初の軍隊歩兵第二連隊が佐倉に駐屯し、多くの部隊が編成・訓練され、西南戦争、日清・日露戦争にこの地から出生されました。明治42年には、第二連隊にかわって歩兵第五七連隊が移転し、昭和19年のフィリピン戦で多くの命が失われ、壊滅しました。


佐倉兵営跡の碑

散策順は、番号順ではなく。
なぜなら、佐倉城の大手門から、入城したので、番号順に散策するのが困難だったのです。番号は、歴博からの順路、ですね。

佐倉兵営跡の碑
佐倉市城址公園自由広場の南側にある。昭和41年に建立、現在地に移ったのは歴博建設後。題字は連隊長をつとめた今村均陸軍大将の書。

今村均は、陸士19期、陸大27期首席。最終階級は陸軍大将。
1932年4月、佐倉の歩兵第57連隊長を拝命している。
開戦時は、蘭印作戦を指揮。
昭和17年意向は、ラバウルの第八方面軍司令官として陸軍を統率し、海軍の草鹿任一中将以下の南東方面艦隊と共に、終戦まで孤立する中でラバウルを維持している。

佐倉兵営跡
 元聯隊長 今村均謹書

歴代聯隊長名(23代目まで)が、裏面に刻まれています。
今村均は、第17代聯隊長。

歩兵第二聯隊長佐倉兵営全図
「佐倉兵営跡の記念碑」は昭和41年に旧佐倉57連隊本部跡付近に設置されたものです。
国立歴史民俗博物館が明治100年記念事業として建設されるにあたり昭和51年5月ここに移設しました。

皇紀二千六百年奉祝記念

桜 壱百本
躑躅 参拾本

明治天皇御駐蹕記念碑
 陸軍大臣 林銑十郎 敬書

背面は、削られていました。。。

 こゝは、旧佐倉城二乃丸の入口で連隊になってからは、この前後に連隊本部及び兵舎十数棟があった。佐倉城は土井利勝が、徳川家康の命により、元和3年(1617年)完成以後延享3年(1746年)以来堀田氏の所領したものであるが、明治6年ごろ(1813年)建造物はすべて取りこわされた。同7年歩兵第2連隊がおかれた。後、明治42年第1師団歩兵第57連隊となり、以来昭和20年(1945年)8月15日まで、千葉県一円を徴兵区と定められ、名実共に房総健児練武乃地であった。
 この間、西南、日清、日露、欧洲大戦、関東大震災、日支事変、大東亜戦争と数多く乃国難におもむき常に師団最強の部隊として郷土の信頼にこたえた。
 本連隊乃主力は、昭和11年乃2.26事件以来満洲に移駐し、同19年7月まで、孫呉において、ソ満国境の警備に当たったが、同年11月フィリッピン乃レイテ島に転進し、宮内連隊長の下、物量を誇る米軍と50日にわたり激戦し玉砕した。こ乃内第3大隊はグアム島において奮戦した。
 別に第57連隊を母胎として動員編成された歩兵第157連隊は、昭和12年9月より福井部隊(後に南部、赤松)として上海に上陸、大場鎮、杭州、廬山、修水、南昌、高安、江南の中支戦線において活躍し、又別に歩兵第212連隊は、山口(信)部隊として昭和14年4月より中国山東省、山西省において房総健児の勇名を輝かせた。
 このたび連隊関係有志相語らい、軍旗の下に祖国乃ため散華せられた方ゝ乃御めい福を祈り兵営跡が永久の平和公園としてよみがえる事を祈念し佐倉連隊乃いわれを伝えるものである。
 昭和41年10月吉祥日

皇太子殿下御野立所

明治44年5月21日

大将5年5月21日建設

ちかくに空堀

場所

https://goo.gl/maps/JCHfCL8VCDuxjxj19


車道の碑

車道の碑
大正9年建立。兵営と大手門とを直通させる新道の完成記念碑。連隊への物資搬入のため、佐倉城時代の不便を解消しました。

第1師団経理部員の名前が刻まれていた。
大正9年8月の銘あり。

場所

https://goo.gl/maps/JzzfBtg1UqF4wJEy7


旧佐倉連隊脂油庫

旧佐倉連隊脂油庫
旧陸軍(歩兵第五十七連隊等通称佐倉連隊)が小銃、機関銃等の手入れ用の油を保管していた倉庫です。
この倉庫は、昭和9(1934)年発行の「営内配置図」においてその存在を確認することができます。昭和20(1945)年の終戦まで使用されていたと推定されます。
佐倉連隊のうち歩兵第57連隊は、その一部が昭和19(1944)年8月にグアム島にて壊滅(玉砕)しました。また主隊は、同年11月のフィリピンレイテ戦でその大部分を失い、セブ島にて終戦を迎えました。
佐倉連隊の戦争遺構として大変貴重です。
※油脂庫ともいいますが、、「営内配置図」においては『脂油庫』と記載されております。

場所

https://goo.gl/maps/hWzbZwHMVHTx4TdW9


弾薬庫の跡

弾薬庫の跡
姥が池西側坂道を登った奥の窪地にあった。万一の爆発に備えた土手や建物に使われたコンクリートの一部が残されています。

場所

https://goo.gl/maps/UK2ru9Xboejt5RTo6


姥が池

佐倉城址に古くある池。伝説も多く残っている。


訓練用の12階段

訓練用の12階段
兵士が高所からの飛び下り訓練に使用したコンクリート製の階段。木製の飛び下り台と違い、壊すのが大変なため、戦後も残ったと考えられます。

場所

https://goo.gl/maps/uYanydKxvTkJ4Uyx9


軍犬・軍馬の墓

軍犬・軍馬の墓
軍曹安藤一能が建てた軍犬房号之墓(昭和7年)、近衛歩兵第五連隊第二機銃隊が建てた軍馬北盤之墓(昭和18年)が並んで立つ。連隊の敷地内には、犬舎・鳩舎・厩舎がありました。

場所

https://goo.gl/maps/DHHZSfCMVinQWkLE6


佐倉陸軍病院跡

佐倉陸軍病院跡
創設は明治7年。佐倉屯営病室・佐倉営所病院・佐倉衛戍病院・佐倉陸軍病院と名称が変遷した。昭和40年代までテラスを配した洋風病棟が残っていました。

場所

https://goo.gl/maps/eZ3zguDiqA1ijDf27


東京鎮台佐倉営所病院跡の碑
(東京鎮台佐倉営所病院記念碑)

明治・大正・昭和・平成の
 四世に亘る
  佐倉醫のこころ 
   茲に遺す 
    仁の心を腎に

病院・療養所の変遷
明治 7年 5月 
 東京鎮台佐倉営所病院として創設される
明治20年11月
 佐倉衛戍病院となる
昭和11年11月
 佐倉陸軍病院となる
昭和20年 8月
 軍事保護院佐倉病院となる
昭和20年12月
 国立佐倉病院となる
昭和25年 4月
 国立療養所佐倉病院となる
昭和28年 4月
 国立佐倉療養所となる
昭和52年 4月
 腎不全対策の基幹施設 
 腎移植センターとして機能付与される
昭和54年 4月
 国立佐倉病院となる
 江原台に移転する
平成16年 3月
 国立病院・療養所再編計画により
 国立千葉東病院に経営統合される

記念碑の建立に際して
 この地には、かつて病院が存在しておりました。当時の建物は、国立歴史民俗博物館の建設に伴いすべて解体され、元の敷地に残る樹木にのみ往時を偲ぶことができます。
 この病院は、戦前戦後の百年余りにわたり、国策や社会動向と密接不離に変転し続ける舞台となり、その軌跡は今も多くの人々の記憶に刻まれています。
 私たちは、佐倉城跡に連綿と息づいた病院の歴史を将来に語り継ぐ為、多くの方々のご支援をいただき記念碑を建立致しました。
 平成19年3月
  東京鎮台佐倉営所病院記念碑建立事業実行委員会建之

病院時代の往時を偲びし樹木。

場所

https://goo.gl/maps/E5uXPwtkyDFJxkFC9


佐倉城の礎石(兵舎の礎石)

あたりまえですが佐倉城の史跡もあります。

佐倉上の礎石
 昭和59、60年(1984、1985)国立歴史民俗博物館の研究棟を建設するために、同敷地を発掘調査し、旧陸軍の営所跡を検出した。
 兵舎跡の基礎には、大量の石が詰めてあったが、主柱の建つ位置には佐倉城の礎石を埋め込んでいた。
 佐倉上は、江戸時代初期の元和年間(1610年代)に土井利勝がこの地に築いた城である。明治時代初期(1873)に同じ場所に陸軍の営所をおく際に、佐倉城の建物は取り壊し、その基礎を兵舎の基礎に転用したのである。

場所

https://goo.gl/maps/w2tKMjtfpZgwpCad8


兵士が文字を彫り込んだモッコク

兵士が文字を彫り込んだモッコク
本丸跡にある県指定天然記念物。幹に「昭和十八年十月」「砲隊」といった落書きが掘られています。

あっ、わかりますね。

「昭十八年十月」「砲隊」って、いまでも刻んだ跡が残っています。

場所

https://goo.gl/maps/xoxBfQqQYisVqYsx6


佐倉城天守跡

場所:

https://goo.gl/maps/kEgemPL2LBB3X9g59


土塁

場所

https://goo.gl/maps/C9Coo6mMyDkNE1Gn7


兵営の便所跡

兵営の便所跡
雨天休憩所近くに土台のみが残る。江原新田では連隊と契約し、下肥・馬糞の払い下げを受け、汚物掃除を担当していました。

これは、良い感じに、残ってますね。

往時は、なかったであろう樹木も、戦後七十年以上ともなれば、コンクリートを破壊する根力でもって、存在感をアピール。

樹木の力って凄いなを実感。。

ここは、良いですね。写真を撮り続けてしまいます。

場所

https://goo.gl/maps/d2jRzP7Dkivfnp9L8


佐倉城馬出跡

場所

https://goo.gl/maps/hoabJzFtnN9LMrZz8


椎木曲輪(侍屋敷)【兵舎跡】

椎木曲輪(侍屋敷)
 歴博があるのは「椎木曲輪」と呼ばれる侍屋敷地区で、連隊時代は兵舎がありまいsた。歴博駐車場も侍屋敷の跡で、外側には「杉坂」と呼ばれる坂や秋葉神社がありました。


円勝寺跡・愛宕神社跡

円勝寺跡・愛宕神社跡
 円勝寺は城内にあった真言宗の寺院でしたが、明治の廃仏毀釈で消滅しました。奥には愛宕神社があり、田町の氏神でもありましたが、連隊建設後は立ち入りが禁止されたため、移転しました。

場所

https://goo.gl/maps/8x6kXFbi4VvpUCw39


衛兵所跡

衛兵所跡
 ここに常に衛兵が立ち、連隊に出入りする者を監視していました。

場所

https://goo.gl/maps/rRdXy23TxMVGNmBd6


田町門跡・愛宕坂

田町門跡・愛宕坂
 成田街道に沿った城下町の一部「田町」から城内への門で、門の裏手に番所がありました。現在歴博のある場所は椎木曲輪と呼ばれ武家屋敷がありました。田町から現ザウ歴博のある椎木曲輪へ上がる坂は、愛宕神社の下にあるため「愛宕坂」と呼ばれていました。現在の歴博入口は連隊建設の際にまっすぐに出入りできるよう変更されたものです。

歴博正面

佐倉連隊跡&佐倉城址&歴博、これは面白い良いですよ。戦跡散策の入門編としてもおすすめ。

※撮影:2022年5月及び2023年1月


関連

第二連隊は、水戸に。。。

佐倉界隈

第1師団創立61周年・練馬駐屯地創設72周年記念行事(2023年・練馬駐屯地一般公開その1)

令和5年(2023)4月9日(日曜日)
東京都練馬区にある練馬駐屯地。東京23区内で唯一普通科連隊が所在し第1師団司令部もある首都防衛の要となる実戦部隊の駐屯地。
戦前は、「東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫」。

倉庫時代の往時を物語るものはない。。。
しかし、「陸上自衛隊第一師団普通科第一連隊」は、「大日本帝国陸軍第1師団歩兵第1聯隊」の伝統を受け継いでおり、一般公開の機会がありましたので、散策してきました。


練馬駐屯地

昭和5年(1930)、東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫が完成し、陸軍用地となる。
昭和18年(1943)、東武鉄道(東上線)の上板橋駅より陸軍第一造兵廠構内駅(東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫・練馬倉庫駅)まで線路もむずばれていた。(のちの啓志線)

戦後、昭和26年に警察予備隊が進駐し練馬駐屯地となり、保安隊を経て、昭和29年(1954)より、陸上自衛隊となる。
第1普通科連隊は、23区内唯一の普通科連隊。


歩兵第一聯隊軍旗

「陸上自衛隊第一師団普通科第一連隊」に、受け継がれている、「旧陸軍第1師団歩兵第1聯隊」の軍旗

歩兵第1聯隊軍旗経緯

主旨:本軍旗は、旧軍の軌跡を後世に残すため、歩一会が第1普通科連隊に管理を強く委託したもの。よって、連隊はこの意向を尊重し、経緯を理解して大切に直接保管しなければならない。

・明治7年 
日比谷操練場において明治天皇より軍旗を親授せられる。
・昭和20年
8月15日停戦に伴い全軍軍旗焼却命令があったが、片岡薫第1師団長が旗竿だけを焼き、御紋章と紫穂は裁断のうえ、多人数でお守り袋に偽装して持ち帰るよう命令した。
終戦に伴い、歩兵第1聯隊軍旗フィリピンセブ島から日本本土帰着
・時期不明
歩兵第1聯隊関係者により構成された後の「歩一会」のそれぞれの聯隊員により継ぎ合わされて3旒(本来1旒としたかった。)となったものの戦後の混乱や交通事情等から各々の考えで乃木神社(安川氏等が保管依頼)、練馬駐屯地資料館及び靖國神社に3箇所に別れて保管された。
・昭和32年
4月28日の築地本願寺での「全国戦没者慰霊大祭」挙行されたおりに歩兵第1聯隊出身者約700名が集結、当日「歩一会」結成を全員一致で決議、事後「歩一会」として活動を開始し、毎年5月の総会及び12月の軍旗祭(乃木神社保管の1旒を借り出し、練馬駐屯地保管の1旒と併せて聯隊機を一つとして飾り、物故した創立以来の亡き戦友の慰霊と会員の親睦の会合)を開催、第1普通科連隊と関係を深めていく。(歩一会は、永代、歩兵1聯隊軍旗を第1普通科連隊に保管してもらいたいとの意向を徐々に強くしていた。
・平成22年
3月、戦史に関心のあった中川師団長OBの寺島氏と懇談したのを契機として歩兵1聯隊軍旗の1本化が語られ、6月14日歩一会の安川氏のご尽力により乃木神社で保管されていた歩兵第1聯隊軍旗が第1普通科連隊室に移管された、なお、歩一会の意向として軍旗を1つにしたいとの意向から靖國神社に保管されている分旗もと調整したものの登記しているため不可能と断られた。
・平成23年
頭号連隊顕彰室新設に伴い、一時的に練馬駐屯地資料館で保管されていた軍旗及び第1普通科連隊室で保管されていた軍旗が1つになり頭号連隊顕彰室で保管展示されることとなった。
・令和3年
平成30年、一時的に練馬駐屯地資料館で展示されることとなったが、70周年を控え、舞台の帰属意識を高めて団結を強化するため、大庭師団長の許可を得て、再び第1普通科連隊が保管することになった。なお、安川氏に確認したところ、平成22年当時、歩一会の総意として第1普通科連隊が軍旗を直接管理することを強く要望している由。

歩兵第一聯隊軍旗記
歩兵第一聯隊軍旗は、明治7年12月19日日比谷操練場特設式場において、親しく臨御せられたる 明治天皇より 初代聯隊長 長谷川好道中佐に親授せられたるものなり。
爾来、日清・日露両役をはじめ、日支事変、大東亜戦争等、累次の国難に當り、常に陣頭に立ち誉高き武勲の象徴なりしが、昭和20年8月15日、フィリピン セブ島 アンガラン河畔において、聯隊とその運命を倶にす。
奉焼に際し、御紋章・紫房・鐓・旗竿覆金属片及び残灰を招聘に分ち、ひそかに故国に奉持して奉還せんとす。然るに時に利なく戦争は敗北に終る。幸に任に當れる将兵身を以て軍旗の残片を奉持し辛苦を重ねてそれぞれ故国に皈還するを得たり。
時巳に国家の諸制度革り軍旗を奉還するに由なく、しかもその所在久しく不明なりしが、最近に至り判明せるを以て、宮内庁保管分を中心に可能の限り復元して、在りし日の軍旗を偲ばんとす。
 昭和47年12月19日
  平野斗作撰文
尚軍旗残片の一部は靖國神社及び乃木神社に奉安しあり

練馬駐屯地資料館で預かっていた歩兵第一聯隊軍旗

乃木神社で預かっていた歩兵第一聯隊軍旗


練馬駐屯地内の慰霊碑

慰霊碑エリアは、西門近くに集められている。

合掌

歩兵第1連隊の追悼碑である「明治二十七・八年の役 陣歿者追悼の碑」と「忠勇八士の碑」が練馬駐屯地内にある。
これは、戦後、神奈川県溝の口にあった歩兵第1聯隊留守担当部隊跡に放置されていたものを、1965年(昭和40年)にこれを見かねた歩兵第1連隊を母体とする「歩1会」が第1普通科連隊に要請し、練馬駐屯地へ両石碑を移設したものである。

歩兵第一聯隊の留守部隊が、歩兵第101聯隊として改編され、そして東部62部隊として川崎宮崎台に駐留していた。
宮崎台の戦跡は以下。

明治三十七・八年之役陣歿者追悼碑 忠勇八士の碑 由来

 この両碑は、旧陸軍第一師団歩兵第一聯隊の営庭にありました。同聯隊は明治6年5月、赤坂区桧町(現在の防衛庁所在地)に創設され、昭和11年5月満州へ移駐、昭和19年10月から比島レイテ島作戦に参戦中終戦となり74年の歴史を閉じました。
 終戦と共にこの両碑は神奈川県溝ノ口の歩一留守業務担当部隊跡の畑地に放置されており、聯隊の戦友会である歩一会はこれを見るに忍びず、第一普通科連隊御当局(森山高士一佐)に、頭号部隊の誼をもつて両碑の同隊構内への移設を懇請致しましたところ、ご承諾を得て一切の作業力御提供のもとに完了し昭和40年12月26日落成式を挙行することが出来ました。殉国勇士の慰霊碑が安住の地を得ましたことはえに連隊御当局の御厚志の賜であり深く感謝の意を表するものであります。
 ここに由来を記して後年に留める次第であります。
  昭和59年12月19日
   歩一会
    会長 横田 洋

明治二十七・八年之役陣歿者追悼碑

明治二十七・八年の日清戦争で殉職した126名を追悼

明治二十七八年之役陣歿者追悼碑
 陸軍中将従三位勲一等功三級子爵 山地元治 書

忠勇八士の碑

歩兵第1連隊による富士演習の日射病で殉職した8名を慰霊。

生気放光

扁額は、陸軍大臣陸軍中将の 荒木 貞夫 の謹書

忠勇八士之碑

忠勇八士之碑は、陸軍歩兵大佐 渡 久雄 の謹書

渡 久雄 は、1932年(昭和7年)8月から33年7月まで、第26代目の歩兵第一聯隊長であった。ちなみに前後で、24代は東條英機、27代目は本間雅晴、29代目は牛島満であった。

(8柱 指名略)
右者昭和8年7月2日富士裾野ニ於ケル歩兵第一旅団諸兵連合演習ニ参加シ苦熱ヲ冒シテ任務ニ邁進シ遂ニ軍旗ノ下ニ斃ル茲ニ遺烈ヲ後世ニ傳へテ鑑ト為ス
 昭和8年7月30日建之
  歩兵第一聯隊将兵一同

馬魂

軍馬慰霊碑

殉職隊員 留魂の碑

陸上自衛隊殉職隊員を追悼する慰霊碑

そのほか石碑

戦後の陸自関係の記念碑など。


広報史料館

基地公開日の楽しみの一つが、各駐屯地にある史料館の見学。

安倍さんの国葬儀の写真も掲載されていました。

レイテ島遺品

乃木希典大将の遺品

乃木希典は、陸自第一普通科連隊の前身である「歩兵第一聯隊」の2代目聯隊長であった。

乃木希典が使用した湯呑み

水師営でステッセル将軍と会見したした際に、使用された湯呑み。これは、歴史の一幕を物語る貴重なもの。

歴代の第一師団長と、歩兵第一聯隊長

三十八年式歩兵銃

よね山丸の遺留品
日露戦争の第二次旅順港閉塞作戦で閉塞隊輸送船として出撃。

この手の史料館によくある、軍服コーナーだなと思ったら、、、
由緒のある軍服が混じってまして、びっくり。

陸軍大将 山下奉文 外套

陸軍大将 東條英機 国民服

99式短小銃と38式歩兵銃

啓志線の車輪

啓志線の車輪・線路
昭和十八年、上板橋~東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫(練馬駐屯地間)が開通した。
当時は、現在の練馬駐屯地内練風館付近に積み下ろしの駅が存在しており、戦後は光が丘に米軍が進駐し、住宅(グランドハイツ)として利用されたのを機に啓志線は、光が丘まで延長、気動車も運行し、昭和34年に廃止された。
展示してあるこの車輪と線路は、当時練馬駐屯地内で入れ替え作業をしていたトロッコに使用されていたもので、グランドハイツ延長とともに撤去された。
軌道の幅は、60mmで、一般的には軽便鉄道の幅と同じで、急なカーブにも対応できた。隊舎改修の際、練馬駐屯地において偶然発見され展示された。


歩哨舎・連隊門哨所
(警察予備隊普通科第一連隊)

練馬駐屯地の外、西門にある歩哨舎。警察予備隊時代から約20年間は、この場所が正門であった。
一瞬、戦前からの歩哨舎に勘違いしたが、これは昭和26年竣工の先gのの歩哨舎。

連隊門哨所のいわれ
 第一普通科連隊の前身「警察予備隊普通科第一連隊」は、昭和26年9月28日に久里浜駐屯地から練馬駐屯地に移駐した。
 この哨所は、移駐から約2ヶ月後の昭和26年11月15日に竣工して以来、昭和46年11月にこの連隊門(西門)が閉門するまでの約20年間、駐屯地警備に使用された。

歩哨舎を冊得していたら、西門からは、星2つの車が続々と3台続けて出発して行きました。
陸将補クラスかな。

陸自関連の練馬駐屯地の写真は、「その2」にて

※撮影:2023年4月


関連

歩兵第一聯隊碑(歩一の跡碑)は、港区立桧町公園にある。

東京第一陸軍造兵廠の本廠は十条にあった。

「空自・熊谷基地さくら祭」熊谷陸軍飛行学校跡地散策

令和5年(2023年)4月2日。
熊谷市の航空自衛隊熊谷基地(航空自衛隊第4術科学校)にて、「令和5年度 熊谷基地さくら祭」が開催されましたので、足を運んでみました。
かつての熊谷陸軍飛行学校跡地、です。


熊谷陸軍飛行学校
(三尻飛行場・熊谷飛行場・稜威ケ原飛行場)

昭和9年、所沢陸軍飛行学校が開設。
翌年の昭和10年(1935年)12月に、操縦分科の生徒教育のために、熊谷陸軍飛行学校が開設。
主として飛行機操縦に従事する航空兵科下士官となる生徒、少年飛行兵、あるいは将校、下士官の操縦学生などに対し、飛行機操縦の基本教育を行った。
昭和12年に所沢陸軍飛行学校が廃止され、操縦学生は本格的に、熊谷陸軍飛行学校で教育されることとなった。
昭和13年10月に昭和天皇行幸。
熊谷陸軍飛行学校は昭和20年2月に第52航空師団の一部に改編のため閉鎖。

熊谷陸軍飛行学校の跡地は1945年九月に進駐したアメリカ陸軍第43師団によって接収され米軍キャンプ「U.S.ARMY CAMP WHITTINGTON」として使用。昭和33年(1958)返還され、同年8月より「航空自衛隊熊谷基地」となっている。

熊谷陸軍飛行学校に関しては、航空自衛隊熊谷基地の記事も参照で。

https://www.mod.go.jp/asdf/kumagaya/Base_tour.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R465-No1-78
1947年11月3日、米軍撮影の航空写真を加工。

庁舎や格納庫のあったエリアを拡大。

黄丸が陛下行幸の御野立所があった「御稜威ヶ原の碑」
赤丸が「給水塔」

GoogleMapで現在の航空写真と照合。
格納庫の位置関係もよく分かる。


御稜威ヶ原の碑(みいづがはら)

昭和13年10月10日(月)
天皇陛下が熊谷陸軍飛行学校に行幸され教育状況を御覧になられた。
学校長である江橋陸軍中将は、この日を記念して、この地を「御稜威ケ原(みいづがはら)」と命名して、記念碑を中央格納庫と第二格納庫の間の中央道路の真中(御野立所となった場所)に設置した。

御稜威ヶ原
 昭和13年10月10日
 御臨幸記念
 
  さしつけに
   仰ぎまつれる
大御稜威 
 伝えてはげめ 
  空の益良雄

熊谷陸軍飛行学校長陸軍中将
従四位勲二等功五級 江橋英二郎 選書

中央道路の真ん中に。

御稜威ヶ原の碑
昭和13年10月
昭和天皇の行幸を記念し、御野立所となった場所に建立

昭和初期まで、現在の基地及びその一帯は赤松・くぬぎ等の樹木が生い茂る森林であったが、昭和10年2月に突如として陸軍の飛行場が建設されることとなり、その秋までに森林は伐採され飛行場に変わった。飛行場としての工事も完了に近い昭和13年10月10日天皇陛下が行幸され、平の訓練状況や高等飛行などを観閲された。時の熊谷陸軍飛行学校長江橋英二郎中将は、この感激を後世に伝えようと「さしつけに 仰ぎまつれる 大御稜威 伝えてはげめ空の益良雄」と歌い、当時の飛行場を「御稜威ヶ原」と名付けた。行幸の際、御野立所となった地点に建てられた江橋中将自筆のこの碑は、今なお当時を偲ぶよすがとなっている。

現代略:直接に見申し上げた天皇陛下の御威光を、皆に伝えては空の勇者たちよ


方位盤

当時のものと思われる方位盤。

かすれていて、細かくは不明であるが、方位盤とおもわれる。


荒鷲之碑

昭和50年5月、航空自衛隊熊谷基地内に、荒鷲の慰霊碑が建立された。揮毫は、菅原道大。

荒鷲之碑
菅原道大書

昭和50年5月建立

由来
昭和十年この地に熊谷陸軍飛行学校が誕生した。爾来、万を数える若鷲が巣立っていった。戦いの場は遠く洋の南北に拡がり勇士は荒鷲となり愛機と共に生死し昭和二十年歴史を閉じた。散華した荒鷲の霊を慰め勲を顕彰し事実を後世に永く伝える為、残りし者、相集って、この碑を建てる。
 昭和50年5月5日

由来碑
昭和33年8月航空自衛隊熊谷基地発足以来任務遂行中殉職され基地発展の礎となった自衛隊員を慰霊するため「荒鷲の碑」を奉祀し永くその栄誉を伝承するものである

平成12年4月8日
航空自衛隊熊谷基地司令 空将補 原充男

熊谷陸軍飛行学校
荒鷲之碑奉賛会
平成11年3月建之

揮毫をした菅原道大は、陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官でもあった。

菅原道大は、陸軍中将。
大正14年(1925年)に菅原は陸軍航空科へ転科し航空少佐として飛行第6聯隊に着任。
昭和6年(1931年)、「下志津陸軍飛行学校教官
昭和14年12月に、「下志津陸軍飛行学校長」
昭和16年(1941年)、開戦時は第3飛行集団長。マレー作戦の航空作戦を指揮。
昭和17年7月、新設された第3航空軍司令官に着任。ビルマ航空戦を指揮。
昭和18年5月、内地に帰還し陸軍航空士官学校長に着任。
昭和19年3月、航空総監部次長。7月には、航空総監兼航空本部長を拝命。12月、第6航空軍司令官。沖縄方面の航空作戦の責任者として、海軍の戦艦大和の菊水作戦の支援や、指揮下の義烈空挺隊の義号作戦の指揮を執ることとなる。
昭和20年8月15日、終戦。
海軍の九州方面の航空責任者であった宇垣纏が沖縄に特攻出撃する中で、陸軍の九州方面の航空責任者であった菅原のもとにも部下たちが最後の特攻出撃を申し出る中で、「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と部下を諭している。
海軍側の宇垣纏中将、大西瀧治郎中将が亡き後、陸軍側の責任者とて、自決することを断念し、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決意。
「特攻平和観音奉賛会」を設立し、「特攻平和観音像」「知覧特攻平和観音像」「知覧特攻観音堂」を建立している。

関連では、熊谷陸軍飛行学校のほか、下志津陸軍飛行学校、水戸陸軍飛行学校の跡地に、菅原道大の碑がある。


給水塔

推測の域を出ないが、かもし出す雰囲気からして往時のものと思われる給水塔。前述の位置関係の航空写真でも照合したが、場所も適合している。近寄れないので望遠で。

給水塔の手前は、「基地補給倉庫」。


格納庫跡

かまぼこ型の格納庫のような建屋がある。手前は「武道場」、そして格納庫型の「基地体育館」と「基地補給倉庫」。位置関係は、熊谷陸軍飛行学校時代と同じ場所。
ここだけ切り取ると飛行場な雰囲気。


教育参考館

熊谷陸軍飛行学校や航空自衛隊航空生徒隊の資料を展示。


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の玄関扉

本部庁舎で実際に使用されていた玄関扉が、移設保存されている。

 この扉は、昭和10年12月陸軍熊谷飛行学校開校以来、本部庁舎玄関で使用していました。
 平成14年11月、庁舎取り壊しに伴い、約67年の歴史の一部を保存するため、当施設に移設し保存しました。


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の中央階段

おなじく、熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の中央階段の一部が移設保存されている。

 この階段は、昭和10年12月陸軍熊谷飛行学校開校以来、本部庁舎の中央階段として使用していました。
 平成14年11月、庁舎取り壊しに伴い、約67年の歴史の一部を保存するために、当場所に下側3段部分を移設し保存しました。
 基地司令室が2階にあったため、赤絨毯が敷かれていました。
 昭和13年10月昭和天皇が行幸された際、この階段を登られた由緒ある階段です。
 木材:ケヤキ材使用


熊谷陸軍飛行学校本部庁舎の一部

とくに説明はなかったが、取り壊しの旧庁舎の一部かと。


熊谷基地展示エリア

旧軍資料

通信機材など。

戦争末期のドラム缶。竹製、、、ですね。

図書館戦争コーナー?


公募空士第1期生入隊20周年記念

歴代航空幕僚長の名前もある。

この寄せ書きは、公募空士第1期生の20周年を祝って書かれたものです。
寄せ書きには、歴代の航空幕僚長「源田実元空将」「白河春元元空将」「角田義隆元空将」の名前があります。

源田実
帝国海軍では、海兵52期を卒業し最終階級は海軍大佐、航空参謀を経て、松山の第343海軍航空隊司令で終戦を迎える。
空自では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長、ブルーインパルス創設、航空自衛隊育ての親。また、参議院議員を4期24年努めている。

白川元春
白川義則の三男。白川義則は、上海天長節爆弾事件で死去。
白川元春は陸士51期、陸大58期卒。最終階級は陸軍少佐。
航空自衛隊では第11台航空幕僚長

角田義隆
帝国海軍では海軍機関学校卒。最終階級は海軍大尉。
航空自衛隊では、第12代航空幕僚長。
海軍機関学校出身者が大将(幕僚長たる将)に相当する地位まで昇進したのは、帝国海軍・自衛隊を通じて角田が唯一の事例となる。


生徒隊展示エリア

航空自衛隊生徒隊の展示エリア。2006年に募集が停止され、2011年に生徒隊は廃止となっている。
虚空自衛隊航空教育隊生徒隊で採用時は、3等空士となり4年間の教育修了後は3等空曹として、通信、レーダー操作及び整備などに補職されたという。


航空自衛隊生徒隊創立50周年記念モニュメント

負けじ魂

流れも清き大利根の
 岸辺に緑の色染めし
練武の庭に都度至る
 若人の任いや重し
  誇りに満てり
   航空生徒隊

このモニュメントは生徒隊創立50周年記念を機に教育環境整備の一環として、第8航空団からF-1垂直尾翼を譲り受け、表面は生徒隊歌詩を裏面は第8航空団(築城)第6飛行隊のマーク等を遺して、第4術科学校の支援を得て建立したものである。
なお、表面のデザインは生徒隊生活4年間で培った「負けじ魂」に代表される不撓不屈の精神を持って巣立っていく生徒の翼をイメージしてデザインしたものである。
 平成17年5月吉日


熊谷基地 友縁の酒「空の華」

基地内の売店にて購入(熊谷基地厚生棟ミニストップ熊谷基地店)

空の華
ソラノハナ 
勲業赫々 輝萬國
埼玉縣大里郡三ヶ尻
権田酒造店吟醸

赤とんぼ

空の華
 昭和10年、熊谷陸軍飛行学校が当地に創立されたことを記念して発売した「空の華」を平成14年秋、約60年ぶりに復刻させて頂きました。
 熊谷の研究所で開発された酵母で醸し、熊谷の水と大気の中で育んだ熊谷基地の地酒です。
 上質の旨味を湛えた柔らかな香味、冷やしても温めても美味しくお召し上がり頂けます。


熊谷基地さくら祭

令和5年(2023)は、4月2日の公開でした。

以下は、さくら祭の写真を。

熊谷基地庁舎。平成15年(2003)新設。

桜並木が気持ち良い。

桜とトラック

熊谷基地には、「第1移動通信隊」が所在している。

御稜威フィールド

現在、航空自衛隊熊谷基地には、滑走路はない。
運動場にヘリが着陸することは可能。

草刈り機。パイロット座乗。

来年もおいでをお待ちしています

なかなか楽しめました熊谷基地。
熊谷陸軍飛行学校の名残もあり、興味ある方はこれは必見ですね。

※2023年4月撮影


熊谷関連

陸軍飛行学校関連

銚子の戦跡散策

「土浦駐屯地・武器学校 観桜会(一般公開)」その2・土浦海軍航空隊跡地散策

茨城県稲敷郡阿見町。
現在の土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校が駐屯しているが、かつては「予科練」で有名な「土浦海軍航空隊」の錬成地であった。海軍と陸自の歴史がぎっしりと詰まった駐屯地の一般開放がありましたので、足を運んでみました。

なお、本編は「その2」となります。

歴史的な説明は「その1」で。

また、下記も参照で。


予科練平和記念館

土浦駐屯地のとなりに「予科練平和祈念館」がある。

http://www.yokaren-heiwa.jp/

買い物など


予科練の碑(予科練之碑)

土浦武器学校内の雄翔園に。

予科練出身者の同窓生が全予科練戦没者の遺徳を顕彰するため、昭和41年5月27日に建立。

予科練之碑

題字は寺岡謹平。海軍中将。

高松宮妃電化御歌
霞ヶ浦に立ちて海軍飛行
予科練習生を偲びてよめる

海はらに
 はたおほそらに
  散華せし
きみら声なく
 いく春やへし
      喜久子

昭和41年5月27日、この御歌は、高松宮喜久子妃殿下のご直筆。

碑文
 予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ヶ浦の湖畔に移った。
 太平洋に風雲急を告げ搭乗員の急増を要するに及び全国に十九の練習航空隊の設置を見るに至った。三沢、土浦、清水、滋賀、宝塚、西宮、三重、奈良、高野山、倉敷、岩国、美保、小松、松山、宇和島、浦戸、小富士、福岡、鹿児島がこれである。
 昭和十二年八月十四日、中国本土に孤立する我が居留民団を救助するため暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来、予科練を巣立った若人たちは幾多の偉勲を重ね太平洋戦争においては名実ともに我が航空戦力の中核となり、陸上基地から或いは航空母艦から或いは潜水艦から飛び立ち相携えて無敵の空威を発揮したが、戦局利あらず敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当りを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。
 創設以来終戦まで予科練の歴史は僅か十五年に過ぎないが、祖国の繁栄と同胞の安泰を希う幾万の少年たちが全国から志願し選ばれてここに学びよく鉄石の訓練に耐え、祖国の将来に一辺の疑心をも抱かず桜花よりも更に潔く美しく散って、無限の未来を秘めた生涯を祖国防衛ために捧げてくれたという崇高な事実を銘記し、英魂の万古に安らかならんことを祈ってここに予科練の碑を建つ。
昭和41年5月27日
 海軍飛行予科練練習生出身生存者一同
 撰文 海軍教授 倉町秋次

雄翔園・雄翔館(予科練記念館)

こちらは陸自土浦駐屯地武器学校内に開設。
予科練平和記念館開館時に見学可能。

http://www.yokaren-heiwa.jp/04guide/04yusyokan.html

今回は、土浦駐屯地開放日だったので、それはそれで問題なく開放。


旧海軍道路桜並木

「海軍道路」 茨城県下で初めての舗装道路。
1921年(大正10)開通。
当時「東洋一」と称された霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班と水上班(のち鹿島空に移設し土浦空が開設)をむすんだ道路。

旧海軍道路桜並木
この坂道は、昔「海軍道路」と呼ばれ、茨城県下ではじめて舗装された道路です。
1921年(大正10年)に開かれて、当時「東洋一」の航空基地といわれた霞ヶ浦海軍航空隊の陸上班と水上班を結ぶもので、見事な桜並木で知られていました。
 現在残っている三本は、予科練※揺籃の地である土浦海軍航空隊(現陸上自衛隊土浦武器学校)で訓練にはげむ多くの予科練生たちを見守り、1945年(昭和20年)6月10日の阿見空襲にも耐えた桜です。

現在残っている三本の桜は土浦空で励む予科練生達を見守り1945年6月10日の阿見空襲にも耐えた桜。
ちょうど桜咲く季節に訪問。

海軍用地の境界標石。

https://goo.gl/maps/xhJKsb2EaJRJGEua7

場所

https://goo.gl/maps/UEmVQR16HtL1zot18


続きは「その3」で。

※2023年4月1日撮影

「土浦駐屯地・武器学校 観桜会(一般公開)」その1・土浦海軍航空隊跡地散策

茨城県稲敷郡阿見町。
現在の土浦駐屯地には陸上自衛隊武器学校が駐屯しているが、かつては「予科練」で有名な「土浦海軍航空隊」の錬成地であった。海軍と陸自の歴史がぎっしりと詰まった駐屯地の一般開放がありましたので、足を運んでみました。

まずは、海軍編その1として、海軍関連を中心に紹介をしていきます。


霞ヶ浦海軍航空隊(霞空)

1922年(大正11年)大日本帝国海軍で3番目に設立。
1945年(昭和20年)の終戦まで存続した航空部隊。航空隊要員の操縦教育を担当。

予科練の練成を行ってきた「霞ヶ浦海軍航空隊」を初歩練習・実用練習部隊に改編し、霞空内にあった予科練習部を新規に独立移転することなった。
その結果、水上機部隊が霞空から鹿島空へと独立移転した際に遊休地となっていた阿見村内の練習地を改めて「土浦空」として開隊。

霞ヶ浦海軍航空隊に関しては下記も。

土浦海軍航空隊(土空)

昭和15年(1940)、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部を土浦に移転し開隊。

阿見町内には霞ヶ浦空と土浦空があり、予科練は土浦空が新設した際に土浦空所属となっている為、正に阿見町は「予科練の街」。
「土浦空」跡地は、現在は土浦駐屯地近郊。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-14
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

ファイル:USA-R401-No1-3
1947年11月4日、米軍撮影の航空写真を加工。

土浦海軍航空隊の跡地。

現在の航空写真。


陸上自衛隊土浦駐屯地

陸上自衛隊武器学校等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地。
駐屯地司令は、武器学校長が兼務。
陸上自衛隊で使用される装備の教育用装備や車両が配備。また展示場が設けられており、旧日本陸軍の戦車や戦後の米軍からの貸与車両、国内での開発車両、試作車などが多く展示されている。


旧土浦海軍航空隊正門

現在は、新しい門柱となっている。
それでは、土浦駐屯地内の戦跡散策を実施しましょう。

駐屯地配置図。


旧土浦海軍航空隊医務科第一病棟(病舎)

昭和15年の開隊時に医療施設として建設された建物。
元々は4棟あった。
南側の第三・第四病棟は空襲で焼失。
第二病棟、北側の渡り廊下と附属建物(便所)は戦後に取り壊しされ、「第一病棟」のみが現存している。
手前のトタン板で覆われている部分は旧手術室。

この部分に、渡り廊下があった。

病舎前。土浦海軍航空隊時代も、円形のロータリーがあった。


広報史料館

土浦海軍航空隊関連から土浦駐屯地、武器学校時代までの歴史を紹介。

駐屯地紹介コーナー

予科練第三兵舎解体記念

5/1模型。第一海軍航空廠では約600機が生産された。
元第一海軍航空廠飛行機部で勤務されていた方が奉納。

旧海軍時代から使用されていた燃料タンクの一部


弾薬展示コーナー

小火器コーナー

九八式射爆照準器

覗いてみる。おもしろい。

95式射爆照準器

こっちも覗いてみた。おもしろい。

豊川海軍工廠製の機銃銃架三脚架

一式旋回機銃二連(航空機銃)

旧軍関連の小火器

対空機銃、旋回機銃、航空機固定機銃

砲隊鏡

拳銃

指揮刀


初代・山本五十六元帥像の左手

昭和一八年にコンクリート製の山本五十六元帥像(初代像)が土浦海軍航空隊本部前に建立された。
終戦後に、米軍の破壊を案じた土浦海軍航空隊では、山本五十六元帥像の上半身を霞ヶ浦に沈め、下半身を台座近くに埋めたという。上半身はその後引き上げられ、現在は江田島の教育参考館に展示。そして下半身や左手などがは平成14年に発掘。
平成16年に、雄翔館前に、2代目山本五十六元帥像が復元され、礎石として下半身は砕いて埋められ、そして左手は、現存し、展示されている。

ちょっと話題を寄り道して。
2代目山本五十六元帥像

雄翔館前の二代目・山本五十六元帥像

桜賑わう霞ヶ浦湖畔。

この角度は、普段はみれない。(土浦駐屯地側から)
空母を模している雄翔館・豫科練記念館(予科練記念館)。
その2でも記載予定。

土浦駐屯地内に戻ります。


行幸記念

(表)
行幸記念

(裏)
昭和17年7月15日
奉仰聖籠
海軍中将戸塚道太郎謹書

戸塚道太郎は、昭和16年4月から第11海軍連合航空隊司令官。
横須賀鎮守府第11連合航空隊が、土浦海軍航空隊であった。

天皇行幸記念の碑
 この碑は、昭和17年7月13日、昭和天皇が霞ヶ浦海軍航空隊及び土浦海軍航空隊に行幸され、予科練習生が実施する海軍体操等を視察されたのを記念して建立(昭和18年1月28日)されました。
 石碑には、昭和20年6月10日の空襲で受けた機銃の跡が残っています。

機銃の跡。

土浦海軍航空隊時代の本庁は解体されたが、現在は土浦駐屯地本部庁舎が、行幸記念碑の後方に同じように建っている。


旧土浦海軍航空隊号令台

号令台跡
 この建物は、昭和15年、霞ヶ浦海軍航空隊予科練習部が土浦海軍航空隊として独立、開隊した時に、軍艦掲揚塔と共に建設された。
 毎朝、航空隊司令以下全員が、この号令台前に集い、朝礼や海軍体操が行われた。
 また、休日には外出する予科練習生が全員集合し、当直将校の外出点検や指導を受けたり、司令訓辞が行われた場所である。

号令台の上から。


常在戦場の碑

山本五十六の常在戦場

常在戦場
昭和十年四月 山本五十六

昭和十九年九月
第十三期二次甲種飛行豫科練習生建之

 この碑文は、昭和14年4月、山本五十六元帥(当時中将)によって揮毫されたものであるが、昭和18年4月18日ソロモン群島ブーゲンビル島上空において戦死された際、元帥の遺徳を偲び同年9月、当時土浦海軍航空隊司令であった森啓吉大佐により、土浦海軍航空隊神社境内に石碑として建立されやものである。
 この台座には、元々、昭和18年12月に建立された元帥の銅像が安置されていたが、終戦直後、像が汚されることを恐れた予科練習生達の手により胸部と下部に2分され、霞ヶ浦の湖底に沈められた。昭和23年、地元有志により胸部が引揚げられ、一旦元帥の出生地である長岡市に移管された後、昭和45年、江田島の海上自衛隊第一術科学校教育参考館に寄贈、安置されている。
 昭和30年、主のいないまま放置されていた台座に「常在戦場の碑」が移築され、現在に至っている。

台座は、もともと山も五十六元帥像が立っていた。


皇太子殿下行啓記念碑

皇太子殿下行啓記念の五葉松
 この五葉松は、昭和18年6月1日、平成の天皇陛下が皇太子の時、霞ヶ浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊に行啓された際、予科練習生達の錬成ぶりをご覧遊されたことを記念して植樹(昭和18年6月1日)されました。


本庁跡(土浦駐屯地本部庁舎)と「雄飛の松」

土浦海軍航空隊時代の本庁は、解体。
現在は土浦駐屯地本部庁舎が、往時の土浦海軍航空隊本庁を模すようにして、同じように建っている。

2代目「雄飛の松」が本部庁舎前に植えられている。

「雄飛の松」由来記
 霞ヶ浦の波静かに寄せるこの地に、大正9年霞ヶ浦海軍航空隊水上機班が誕生、その後土浦海軍航空隊となり七つ釦の予科練習生育成の地となった。
 初代「雄飛の松」は、皇紀2600年を記念して昭和15年12月22日、新治郡関川村の名主から譲り受けた名木を筏をもって霞ヶ浦を渡し、困難な作業の末、当地に移植され、後日、当時の航空隊副長であった成富武光中佐が「雄飛の松」と名付け、海の若鷲達の象徴として愛された。
 戦後は陸上自衛隊土浦駐屯地(武器学校)のシンボルとしてその勇姿を誇っていたが、平成5年頃より樹勢が頓に衰え、翌平成6年4月22日、名残を惜しまれつつ伐採され、推定樹齢130余年の生涯を閉じた。
 伐採後調査したところ、昭和20年6月10日の空襲時に被弾し、折切した上部枝の付根部分から腐食がはじまり根元の部分に至るまで、幹の中心部が侵食され完全に空洞化していた。「雄飛の松」もまた、戦争の尊い犠牲であったと云える。
 2代目「雄飛の松」は、昭和18年頃、かっての霞ヶ浦海軍航空隊本部前に構築された防空壕を偽装するため旧海軍の人達により植樹された樹木の1本であるが、幸いにも戦火を免れ、戦後は他所に移植され、専門の剪定師により大切に管理されてきたものを譲り受け、当地に移植したものである。
 平成7年2月22日

昭和20年6月10日の空襲で被弾した折損部分から腐食がはじまり、空洞化してしまった雄飛の松です。
(推定樹齢 約130年)

2代目「雄飛の松」


旧土浦海軍航空隊裏門跡

かつての裏門のあたり。いまも裏門ですね。

そのまま歩けば、雄翔館・豫科練記念館(予科練記念館)と予科練平和記念館との間に到着。

この日は、土浦駐屯地と直結するために、手荷物検査のゲートが設置。


霞ヶ浦

土浦駐屯地からみる、霞ヶ浦。
水上機が飛翔した場所。
湖畔は立入禁止でした。


旧土浦海軍航空隊スロープ跡

武器学校開設記念の公開日に撮影(2023年11月)


正門前の「海軍用地」境界標石

別日に撮影(2023年11月)。正門前の道路脇に。


雄翔園そのほか海軍系は、その2で。

旧軍戦車と火砲は、その3で、

陸自の戦車は、その4で。

※2023年4月1日撮影


「下志津駐屯地・高射学校 観桜開放」下志津陸軍飛行学校跡地散策(2023)

かつて「下志津原」と呼ばれていた平坦な土地には、佐倉藩の射撃場から発展した陸軍の射撃場が広がり、そして「陸軍砲兵射的学校」があった。

そして、共同訓練を行っていた「下志津陸軍飛行学校」もあった。

陸軍砲兵射的学校は、のちに四街道に移動し、「陸軍野戦砲兵学校」となる。

そして、下志津原を活用すべく近くには、航空学校が開設される。
「下志津陸軍飛行学校」では、射撃観測などで、砲兵との連動訓練などを実施することもあり、「陸軍野戦砲兵学校(野砲兵校)」が近くにあることは多くのメリットがあった。


下志津陸軍飛行学校

主に空中偵察に関する各種の教育と研究を行った陸軍の学校。

明治45年(1912)に、日本陸軍は飛行機操縦者の教育を国内で本格的に開始する。
当時は、国内唯一の航空関係部隊であった所沢の飛行試験場の気球隊での教育から始まった。
大正4年(1915)に常設部隊として所沢に「航空大隊」が創設。

大正8年、「陸軍航空学校」が所沢に開設。フォール大佐を長とするフランス航空団が航空教育を指導。
航空偵察観測は、砲兵との連携が重視されたために、陸軍野戦砲兵学校と下志津陸軍演習場にて航空教育を実施。
大正10年(1921)4月、「陸軍航空学校」は、所沢を本校に、空中偵察訓練がすでに実施されていた「千葉の下志津」に分校を設置。
陸軍航空学校下志津分校」が開設される。

「下志津分校」は砲兵の連携に最適な環境ではあったが、所沢の陸軍航空学校本校とは離れており、本校分校との連携には難儀があった。
大正13年(1924)5月、陸軍航空学校が再編となり、「所沢陸軍飛行学校」、「下志津陸軍飛行学校」(偵察等)、「明野陸軍飛行学校」(空中戦闘等)の3校が設立された。

昭和11年(1936)に、下志津陸軍飛行学校銚子分教場を設置。

銚子の戦跡散策

昭和13年(1938)7月、「水戸陸軍飛行学校」が新設され、通信関連の教育や幹部候補生教育は、水戸に移管となった。

昭和16年(1941)3月に、下志津陸軍飛行学校八街分教所を設置。
昭和19年(1944)には、広島市の吉島にも分教所が設置されていた。

下志津教導飛行師団

戦局の悪化とともに、下志津陸軍飛行学校も教育機関から防空戦闘機関に移行となり、教育と作戦行動が並行するようになり、昭和19年6月に下志津陸軍飛行学校は閉鎖。下志津教導飛行師団に改編となった。

昭和20年7月には、下志津教導飛行師団は教育部隊と作戦部隊の分離改編がおこなわれ、教育部隊は「教導飛行師団 第5教導飛行隊」となった。そして作戦部隊として「教導飛行師団 第1・第2独立飛行隊」が編成された。
昭和20年8月15日、終戦。

陸上自衛隊下志津駐屯地(陸上自衛隊高射学校)

昭和30年(1955)、陸上自衛隊下志津駐屯地が開設。陸上自衛隊高射学校も設置されている。
下志津駐屯地司令は、高射学校長が兼任している。


下志津陸軍飛行学校の遺構

※移築格納庫 解体済み

格納庫と便所


下志津陸軍飛行学校跡地散策

下志津駐屯地の観桜一般公開がありましたので、足を運んできました。
良い感じに桜が満開です。かなりの雨でしたが。。。

下志津陸軍飛行学校の歩哨舎(門柱)

平成23年に正門改修工事が行われている門柱(手前)。
かつては下志津陸軍飛行学校の「歩哨舎」であった。
歩哨舎の外観を生かして、内部空間を塞いで、近年に「門柱」としたようだ。

陸上自衛隊 下志津駐屯地

高射学校

駐屯地観桜開放のお知らせ

雨天中止しなくて良かったです!

桜散策コースガイド

正門から右側のみ見学可能。「桜メイン」の開放ですから。
左側にも行きたかったが。

いくつか記念碑が集まっています。

下志津陸軍飛行学校跡碑

下志津陸軍飛行学校跡

菅原道大 の揮毫
昭和41年5月建立

菅原道大は、水戸つばさの塔も揮毫していました。

下志津陸軍飛行学校跡碑の裏面

下志津は所沢明野と共に陸軍航空揺籃の三大基地であった
大正8年偵察観測班創設以来分校より下志津飛行学校〇〇成長し大東亜戦争熾烈化に伴い教育師団となり次で第五教育飛行隊の基地として終戦を迎えたこの間二十有六年教育せし学生総数実に四千五百九十四名の多きに達するの功績を遺した
 昭和四十一年五月
  第八代校長 菅原道大

菅原道大は、陸軍中将。
大正14年(1925年)に菅原は陸軍航空科へ転科し航空少佐として飛行第6聯隊に着任。
昭和6年(1931年)、「下志津陸軍飛行学校教官
昭和14年12月に、「下志津陸軍飛行学校長」
昭和16年(1941年)、開戦時は第3飛行集団長。マレー作戦の航空作戦を指揮。
昭和17年7月、新設された第3航空軍司令官に着任。ビルマ航空戦を指揮。
昭和18年5月、内地に帰還し陸軍航空士官学校長に着任。
昭和19年3月、航空総監部次長。7月には、航空総監兼航空本部長を拝命。12月、第6航空軍司令官。沖縄方面の航空作戦の責任者として、海軍の戦艦大和の菊水作戦の支援や、指揮下の義烈空挺隊の義号作戦の指揮を執ることとなる。
昭和20年8月15日、終戦。
海軍の九州方面の航空責任者であった宇垣纏が沖縄に特攻出撃する中で、陸軍の九州方面の航空責任者であった菅原のもとにも部下たちが最後の特攻出撃を申し出る中で、「陛下の終戦玉音を拝聴した後は、余は一人の兵士も殺すわけにはゆかぬ。皆、おとなしく帰れ」と部下を諭している。
海軍側の宇垣纏中将、大西瀧治郎中将が亡き後、陸軍側の責任者とて、自決することを断念し、特攻隊員の顕彰、慰霊、遺族への弔問を行うことを決意。
「特攻平和観音奉賛会」を設立し、「特攻平和観音像」「知覧特攻平和観音像」「知覧特攻観音堂」を建立している。

古河内貞一先生碑

陸上防空の慈父
古河内貞一先生碑

FATHER OF ELPASO

古河内貞一は、戦前に海外で活躍した医師。メキシコ国境に近い米国テキサス州エルパソに1924年に医院を開業し、戦前戦後を通じ、民間領事といわれるほど日、墨米人間に絶大な信頼があり慈父と慕われた人物。

古河内先生略歴
明治20年 千葉市寒川町に生まる
大正12年 渡米 テキサス州率医科大学にて研修
大正13年 テキサス州エルパソ市において開業 爾来市民に広く仁愛の恵を施し市民慕いて慈父と敬う
昭和30年 以降留学自衛隊員の誘致指導に尽力
昭和35年 日米親善の功績により日本政府から勲四等瑞宝章を受く
昭和35年 産業発展等の功により大日本農会から緑白綬章を受く
御高徳を讃え昭和40年7月これを建つ

第一ロケット実験訓練隊記念之碑ほか

第一ロケット実験訓練隊記念之碑

第一ロケット実験訓練隊は、防空装備近代化の一環として昭和34年12月に新設。昭和43年夏に高射学校の改編に伴い廃止。
石碑は廃止となった昭和43年8月の建立。

8H編合記念
第309射撃中隊
 昭和51年8月1日

記念
第123特科大隊

第123特科大隊は、昭和34年創設、昭和45年廃止。

広報史料館

広報史料館

入れませんでしたが、非常に興味深いものが入口の前に展示してありました。

三式12糎高射砲

三式12糎高射砲
 三式12cm高射砲は、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)にアメリカのB29爆撃機に対抗するために高度10,000mまで届く高射砲として量産化され、約120門製造された。
 本高射砲は、当時陸軍の対空兵器として多大な期待がかけられ、試作から量産までを担当した㈱日本製鋼所の功績は高く評価された。
 その後、本高射砲の出現によりB29爆撃機が更に高高度を飛行するようになり、陸軍はそれに対抗して15cm高射砲の開発に着手することとなった。
 本砲身は、2008年1月横浜市・子安台公園で横浜環状北線の土壌調査中に出土したものであり、現存する唯一の方針である。

前面

背面

99式8糎高射砲

由来書
 「京阪地区」昭和3年から軍官民の総合防空訓練を定期的に行うなど平素から防空について関心が高かったが昭和16年11月中部防空旅団が編成完結し以来、質、量ともに増強され第2次大戦末期には高射第3師団が展開配置されていた。
 この高射砲は発見された一(神戸市生田区)から見て神戸地区の防空に任じていた。
 高射砲第12連隊又は高射砲第123連隊の主力火砲であり99式8糎高射砲12門中の1門であると推定される。

25ミリ機関砲

25ミリ機関砲
 この機関砲は、第2次世界大戦の末期(20.4.1~20.6.23)沖縄本島の防衛に当たったものである。
 沖縄首里西方真嘉比、安里、天久台地区及び大名方面等で活躍し、特に天久台地区の激戦で一角を固守する独立第2大隊機関砲第103大隊(大隊長 苧坂清治少佐 千葉で編成 19.7.20 第62師団に編入)は、よく奮戦し沖縄の防衛に活躍した大隊装備の25ミリ機関砲の一門である。
 この機関砲は沖縄首里東側の大名附近で発見したもので昭和48年8月 第101不発弾処理隊によって発掘したものである。

この砲身は、なんだろう?

野外展示。こちらは陸自時代ですね。

75mm高射砲(M51)

40mm自走高射機関砲(M42)

35mm2連装高射機関砲(L-90)

地対空誘導弾改良ホーク

下志津のつつじ

毎年、4月29日に下志津駐屯地創設記念行事「つつじ祭り」が開催。

右が桜の開放エリア。

左は立入禁止。。。

グランドの隅に。

天皇の松

天皇の松

天皇の松の由来
この松は今上天皇が皇太子当時大正11年五月旧下志津飛行学校の開校式に行啓の際将校集会所の前庭(現位置より東百米)に記念植樹された由緒ある松であり昭和49年2月11日に移植し「天皇の松」と命名し末永く保存することになったものである。
 昭和54年10月吉日

グランド

通信鉄塔

通信鉄塔がシンボルになってますね。

高射学校本部庁舎

理想を持て
勇気を持て
前進せよ
 昭和42年6月
 福富繁書

福富繁
陸軍としては、陸大56期、陸軍少佐で第28軍参謀。
戦後は、陸将、第4代の陸上自衛隊高射学校長。


下志津駐屯地の観桜開放

ここからは観桜を。写真で。

医務室

下志津厚生センター(体育館)
トイレと売店はこちら

迷彩の真価を発揮する溶け込み具合。

立ち入りできないエリアも多く、古そうな建物観察とかはできませんでした。

通信鉄塔と桜

雨がすごかったので、人出はまばら。
逆にゆっくり見学できたのは良かったですね。
4月29日の「つつじ祭り」にも足を運びたいと思いつつ。

撮影:2023年3月25日


東京大空襲と下町(深川東陽町・千石・千田周辺)

東京大空襲と下町。
深川・東陽地区なども大きな被害を被っている。

慰霊巡拝を。


扇橋戦災地蔵尊

江東区扇橋。
戦災地蔵尊と関東大震災地蔵尊。

あの日炎の中履き物は熱で溶け裸足で逃げまどった人々のことを思うにつけ二度と再び戦争を起こさせない世界を希求します
恒久平和を願い
この布ゾーリをお供えします

場所:

https://goo.gl/maps/Jyv8S28xxwLJ1TWc8


世薀多観音(光明寺)

江東区千田。
昭和25年、東京大空襲で犠牲となった千田地区の殉難者を慰霊。
戦災殉難霊供養観音。
世薀多(せうんだ)は仏教用語で「地名の千田(せんだ)」にかけて命名されたもの。

世薀多観音

場所:

https://goo.gl/maps/TyDyWVdpCSYXdSeW8


千石地蔵尊(仙台堀川公園)

仙台堀川公園の西端に。
江東区千石。旧石住橋。
戦争中ではあったが、昭和20年5月頃にはすでに供養の地蔵が祀られていたという。

千石地蔵尊の由来
昭和20年3月10日未明、米軍機の大空襲により、我が郷土は焼野原と化し、掘割や路端、学校などで、尊い生命が数多く奪われ、殆ど肉親に逢うこともなく葬られました。
 劫火に追われて逃げ惑い、離れ離れになった家族の行方を捜して、焼跡に住み続けた、杉岡桂治郎氏らの有志が、夥しい死者の霊を悼み、同年5月頃、当地に地蔵尊を祀り、供養を続けて参りました。
 この度山崎ムメ氏外有志が、地区内の風致化に伴い、豊かな景観に添う御堂修築を発願し、会員及び地元の有志や企業のご賛同により竣工致しました。茲にみ霊のご冥福を祈り二度と無惨な悲しみを繰り返さぬよう、恒久平和を希って、この碑を建立します。
 昭和62年3月10日
  千石長寿会 会長 山岡英太郎

仙台堀川公園

場所:

https://goo.gl/maps/Uv6Z56wBqk1k4SYg7


母子像「希い」

江東区東陽。江東区役所前に鎮座。
昭和57年3月10日、平和を願う人々の願いを託した「希い」と第された母子像。

希い
 江東区は、昭和20年(1945年)3月9日夜半から10日にかけての、東京大空襲により、街は壊滅状態となり、多くの尊い人命を失いました。この犠牲者の鎮魂と恒久の平和、安全を念願し、永く忘れないために、この記念像を建立したのであります。
 この母子像は、母が子を慈しみ育て幸せな日々が続き、そしてこの子が成長した時も平和な日々であることを願うものであり、人と人とが愛し合い、国と国とが平和で結ばれていますよう祈るものであります。
 平和の希いは、現在に生きる私達の心であります。
  昭和57年3月10日建之
   江東区長 小松崎軍次

撮影のときは、江東区役所は一部工事中でした。
(2021年1月)

場所:

https://goo.gl/maps/mYEppaM33axPiTG76


東京大空襲戦災殉職者慰霊之碑(深川高校)

江東区東陽。
昭和20年3月10日の東京大空襲にて、深川高校は全焼。避難していた人々の中からも死傷者が出て、校舎内外に約100体の焼死体があったという。
また深川高校の生徒も焼死や行方不明など230名以上にも及び、宿直や先生の中にも殉職された方もいた。
昭和53年、33回忌を迎えるに当たり、慰霊碑を建立。
東京都は「都有地である校内には、いかなる理由であっても宗教的なものは設立許可できない」というスタンスであったともいう。

※学校内のため非公開

この奥に、慰霊碑がある。

場所:

https://goo.gl/maps/AnYWJ8eLnPMLqLN57


深川親子地蔵尊

江東区東陽。東陽町駅近く。
東陽4丁目、東陽5丁目の東京大空襲の犠牲者の方々の霊を供養するため、昭和23年3月の3回忌に町会によって建立。

親子地蔵尊の由来
この親子地蔵尊は第二次大戦も終わりに近い昭和20年3月10日の下町地区の大空襲の砌この地域に於いて殉難死された方々の霊の供養回向の為昭和23年3月10日の3年忌法要を記念し遺族及有志の初願によって建立したものです。
 昭和53年3月10日 親子地蔵保存会

戦災殉難者諸精霊位

戦災殉難者7回忌紀念
親子地蔵尊
昭和26年3月建立

場所:

https://goo.gl/maps/rQCKxEFKMcMTKmXY8

※撮影:2021年1月


関連

東京大空襲

はじめに

東京大空襲と下町(深川富岡と門前仲町周辺)

東京大空襲と下町。
深川・門仲地区も大きな被害を被っている。

慰霊巡拝を。


富岡八幡宮・天皇陛下御野立所

「こんなに焼けたか」

東京大空襲の被害状況のご説明を富岡八幡宮境内にて聞き終えた 昭和天皇は、しばし絶句されて、立ちすくまれた、という。

詳細は前述の記事にて。

https://goo.gl/maps/TQWchAv3mK1Nw9AP7


富岡八幡宮の被災イチョウ

境内に残るイチョウは、東京大空襲で被災をしたイチョウ。

大鳥居の左手、伊能忠敬銅像の後ろのイチョウは、東京大空襲被災のイチョウ。

富岡八幡宮御社殿

富岡八幡宮本殿後方の神域の二本の御神木イチョウも、東京大空襲の被災イチョウとなる。

天皇陛下御製の碑もある。

昭和天皇御製

身はいかになるともいくさとどめけり
 ただたふれゆく民をおもひて

  元侍従次長 鈴木一謹書

昭和20年8月15日 終戦時の御製

天皇陛下御在位60年奉祝記念
 大東亜戦争末期の昭和20年3月18日、
天皇陛下は、大空襲で焼土と化した東京をご視察になり、ここ富岡八幡宮境内にお立ち寄りになった。この時、 陛下は爆撃の惨状に深く御心を痛められ、その後終戦の御聖断を下されたのである。この御製は、その当時お詠みになった大御歌である。 陛下の御聖徳を讃え、後世に伝えるため、ここに刻む。
昭和61年10月26日
天皇陛下御在位60年東京都奉祝委員会

場所

https://goo.gl/maps/reQ2h2EW5QMwta4QA


平和の鐘(深川不動尊)

江東区富岡。護摩行がちょっとしたエンターテイメントで現代的な魅せる場ともなっている深川不動尊は一見の価値ある。
そんな深川不動尊の仏殿内に設置されているのが「平和の鐘」。平成14年設置。

昭和20年3月10日、東京大空襲により日本の首都は一瞬にして火の海となり、特に江東区(当時の深川区と城東区)は最も被害を受け、「広島」や「長崎」と同じく戦争により余りにも多くの人命が奪われたことは、私達の心に大きな傷跡を残しました。この鐘は、内仏殿建立工事のおり、土中より発掘された爆弾の破片を含ませ鋳造し、戦災で亡くなられた方々の鎮魂ならびに平和を願い、此処に「平和の鐘」と命名し永代に亘りご祈念申し上げます。

場所

https://goo.gl/maps/GXRSeBKcv7UqmajPA


戦災殉難者慰霊碑
門前仲町1丁目

江東区門前仲町一丁目。
門前仲町の交差点、ハンバーガーショップの脇に鎮座。
1990年にビルが新築された際に、建立されていた木造の「戦災殉難者供養塔」にかわって、建立された。台座はビルのオーナーが寄贈。

場所

https://goo.gl/maps/Bwc3gzFaHjZW114NA


戦災殉難者慰霊之碑(黒船橋)
牡丹町1丁目

江東区牡丹1丁目。
江東区界隈では一番新しい慰霊碑。
2002年10月に牡丹町1丁目町会が建立。

場所

https://goo.gl/maps/2GHnYoEXevnGxG7a8


東京大空襲戦災殉難者慰霊碑(越中島橋)
永代2丁目

江東区永代2丁目。
「大震火災歿者霊追悼供養塔」のとなりに、「東京大空襲戦災殉難者慰霊碑」がある。
昭和55年建立。

今次大東亜戦争末期、昭和二十年三月十日の大空襲により、当町内及び周辺地区はほとんど原形をとどめぬまでの戦災を被り三百有余名の殉難者を出しました。
これ等の方々の霊を慰め再び平和な世界を祈り之を建立する。
 昭和五十五年七月一日

場所

https://goo.gl/maps/MJCHmkvGr4Z8z4x19


戦災殉難者慰霊碑(万徳院)
永代2丁目

江東区永代2丁目。
東京大空襲で被災した人々が、隅田川などに水を求めて殺到。隅田川に近い、万徳院の周辺でも多くの人命が失われた。
昭和36年9月に、永代2丁目町内会によって建立。

場所

https://goo.gl/maps/BPKtPLw9g8VWRgwN6


戦災殉難殃死者供養塔(冬木弁財天)
深川1丁目・深川2丁目・冬木町

江東区冬木。冬木弁財天境内。
殃死は、横死とも表記。
冬木町会と深川1丁目、2丁目町会によって、昭和26年3月10日に建立。
永代2丁目の万徳院住職と町会によって、毎年3月10日に慰霊供養が実施されている。

冬木弁財天は、深川七福神の一つ。

冬木弁財天

場所

https://goo.gl/maps/wrSMASp9Mb4vEzqJ7


十日地蔵尊(法乗院えんま堂)
牡丹町2丁目・牡丹町3丁目・牡丹町4丁目町会・南北町

江東区深川。
東京大空襲で全滅した牡丹町を含む深川地区すべての犠牲者を供養するために、昭和26年に牡丹町2丁目、3丁目、4丁目町会、南北町会によって地蔵尊が建立された。
当初は、平久橋脇にあったが、現在は法乗院に遷座している。3つの地蔵尊の左側が、十日地蔵尊。
平久橋には、供養塔が建立されている。

閻魔大王

場所

https://goo.gl/maps/8MhXdT6P6Vn9Roax9


観音像・戦死戦歿者戦災被歿者供養塔(永代寺)

江東区富岡。
昭和33年3月10日に木場筏組合によって建立。

場所

https://goo.gl/maps/irQ3ZGaRu9fwwo2H6


戦災地蔵尊

江東区富岡。ビルの角に鎮座。


 この地蔵尊は一九四五年(昭和二十年)三月十日の東京大空襲で炎に追われて亡くなられた方々の来世と焦土と化した深川の復興を願って故 堀㐂代 がこの地に建立したものです
 この地蔵尊が人々を見守り故 堀㐂代 の願いが永遠に成就されることを願ってここに記します
 (連絡先は略)

場所

https://goo.gl/maps/jTqz5fFbJ1YSaAfy6


戦災殉難者供養塔(平久橋)
牡丹町2丁目・牡丹町3丁目・牡丹町4丁目・南北町

江東区牡丹。
前述のとおり、平久橋脇に、東京大空襲で全滅した牡丹町を含む深川地区すべての犠牲者を供養するために、昭和26年に牡丹町2丁目、3丁目、4丁目町会、南北町会によって「十日地蔵尊」が建立された。地蔵尊は、のちに法乗院えんま堂に遷座。

戦災殉難者供養塔は、昭和36年三月10日に建立。

供養塔の左隣には、「旧平久橋の石橋」が一部保存されている。

右隣には「波除碑」。寛永3年(1791)の高潮被害のにちに、徳川幕府が建立。

場所

https://goo.gl/maps/j39Abax6MzpE8H2SA


戦災殉難者供養塔(西州崎橋)
木場6丁目

江東区木場。
昭和23年頃、平木橋の角に木製の供養塔が建立された。その後、高速道路の建設に伴い、西州崎橋の脇にあった地蔵尊の隣に移転。
現在の供養塔は、平成5年3月10日に、木場ラジオ体操会によって石造の供養塔が昆建立された。

場所

https://goo.gl/maps/GtB9VWkAA8fYNyvH7

※撮影は、2021年11月、2022年1月


関連(東京大空襲)

はじめに

関連(深川・門前仲町)

旧松永橋モニュメントに残る弾痕

大島川西支川の東西、江東区福住と江東区佐賀を結んでいる松永橋。

なにやら不思議なモニュメントがある。


旧松永橋モニュメント

旧松永橋の鋼材が戦跡として保存されている。

 平成8年まであった旧松永橋には、戦争の傷跡である弾痕が残っていました。このモニュメントは、橋の鋼材の一部を使ったものです。
 古い橋の鋼材を使って過去を表し、新しい鋼材によって現在と未来への情熱と希望を想像したものです。

弾痕は2箇所残っている。

松永橋は1996年に架替られた。

場所

https://goo.gl/maps/LRTAMXKGAqdg1BfQ8

※撮影:2021年11月


関連

はじめに

3月10日の慰霊「東京大空襲」あの日から78年(令和5年・東京都慰霊堂と言問橋)

令和5年(2023年)3月10日。

あの日から78年。

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。

犠牲者10万人を超す規模は、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
これが、世にいう、「東京大空襲」(下町大空襲)であった。

「東京都平和の日」

慰霊鎮魂を。

3月10日に手を合わせてきました。


東京都慰霊堂

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、慰霊大法要が執り行なわれている。

詳しくは下記にて。

東京大空襲・慰霊

昨年の様子

今年は、例年より、警備が厳重。
話を聞くと、 秋篠宮殿下が参列されるとのことで、なるほどなっとくの警備体制。

東京都慰霊堂

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

献花と線香を。

合掌


東京都慰霊堂「春季慰霊大法要」

10時の法要にあわせて、
秋篠宮両殿下がご参列されました。

コロナ禍のやめ、参列者数に制限あり。

10時に法要が斎行。
10時30分に、 秋篠宮両殿下が退出されました。

秋篠宮殿下

退出後に、限界警備体制が解除となり、参拝が可能となりました。

春季慰霊大法要終了後の、11時から、堂内で一般の焼香が可能となる。

あっ、2023年は関東大震災100年、でした。

晴天の東京都慰霊堂。

東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

内部には霊璽簿が奉納されており、3月10日と9月1日の春秋の法要にあわせて、内部で手を合わせることが可能。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city002/index.html

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html


言問橋

言問橋に移動しました。

言問橋は関東大震災後の復興事業として架橋。内務省外局の復興局が建設した。
1928年(昭和3年)2月10日竣工。

東京大空襲の焼け跡が残る言問橋

東京大空襲では、浅草(台東区)の人々は「川の向こうに行けば助かる」と考え言問橋を渡ろうとした。
同じく向島・本所深川(墨田区)の人々も「対岸へ」と橋に殺到。
向島本所地区は、すでに火の海であり、住民らは同様に対岸への避難を試みたため、両者が橋の上でぶつかり合い進退窮まる状態となった。そこに焼夷弾が落ち、言問橋の上に猛火が燃え移り、燃え盛る中で逃げるすべもなく、 両岸と橋上とすさまじき猛火の中で、行き場を失った人々が隅田川に飛び込んだとされ、そして多くの人々が焼死したという。
言問橋の親柱は、その時の黒焦げた焼き跡が今も残っている。


言問橋と東京大空襲

浅草よりの親柱のところに、おじいさんがいました。
私が親柱を撮影しようと近寄ったのと、ちょうど同じタイミング。
同じタイミングで写真を取ろうと親柱に近寄った二人。おじいさんとお話をしました。


「子供の頃に、昭和20年3月10日、今日、言問橋の近くの天蓋の防空壕(素掘りの防空壕)で一命をとりとめた。言問橋の北側には、陸軍の陣地(防空陣地)があって北にはいけなかったので、言問橋にみんなが殺到してしまった」
「近くに住んでいるのに、【言問橋】の表示をまだ写真に撮っていなかったことに気がついたので、今日は写真を撮りに来た」
「今年が3月10日は、最後になるかもしれない、体が良くないので。」

たまたま出会ったおじいさんから聞く、戦争体験談。応じの惨劇の生き証人。貴重なお話、ありがとうござます。しばらくの間、言問橋でお話をさせていただき、おじいさんは最後に「引き止めて悪かったね」と言いながら、歩いていかれまして。
いえいえ、引き止めていただき、ありがとうござました。お陰で、貴重なお話をお伺いできました。

そうして、写真を撮り終えて立ち去っていった、おじいさん。
ありがとうござました!


東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
(戦災により亡くなられた方々の碑)

あゝ
東京大空襲
朋よやすらかに

合掌

戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番
 
 隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
 昭和六十一年三月 台東区

言問橋の縁石
 ここに置かれているコンクリート塊は1992年言問橋の欄干を改修した際にその基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲になりました。
 この縁石は当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。

東京大空襲犠牲者追悼集会

多くの犠牲者を出した言問橋の袂にある慰霊碑では「東京大空襲犠牲者追悼集会」が斎行。
3月10日13時から。

私が訪れたのが12時。
13時からの集会に参加する都合がつきませんでしたが、慰霊碑に手を合わせてきました。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_taito_city001/index.html

言問橋の先。いまは東京スカイツリーの絶好のビューポイント。


関連

はじめに

八鶴湖周辺の近代史跡散策(東金市)

千葉県東金市。
東金から上総一ノ宮の外房地区、すなわち九十九里浜は、米軍上陸に備え、本土防衛のために展開した近衛第3師団の陣地構築が盛んに行われた場所。戦跡も豊富にある。今回は東金の八鶴湖周辺にある戦跡を散策しようとしたが、結果として、目的地に立ち入りできなかったので、再訪が必須となってしまいました。本記事は「封鎖されてますよ!」という、今(2023年2月現在)の状況報告も兼ねています。


東金御殿山観測所跡・防空壕跡

東金城のあった御殿山には「観測所」や「防空壕」があった。

しかし、現在は立入禁止。東金城址に入れないと、砲台観測所跡にもいけない、、、

東金市指定文化財 東金城址
※東金城址は現在、令和元年台風15号の影響により、史跡内の見学はできません。ご了承ください。

東金市(https://www.city.togane.chiba.jp/0000000463.html

現在、東金城址は倒木の影響により立ち入り禁止となっています。今後の立ち入りの再開は未定となっています。ご理解ご協力をお願いします。

東金市観光協会(https://www.toganekanko.jp/2021/11/7611/

入り口は固く閉じられている。
物理的に門の脇から強行突破できそうな雰囲気はあるが、もちろんそんなことはしない。いつの日か、再開されることを願い、引き返す。

令和元年房総半島台風(2019)の倒木の影響で東金城址は立入禁止となっております。

東金城址、東金御殿。
九十九里平野の中心都市であった東金。戦国時代は東金城、そして江戸時代には徳川家康の鷹狩り場として、東金御殿が設けられていた。
船橋から東金までの直線が、いまも「御成街道」として残っているのも、その名残。

東金高校の脇から。

東金城址碑


八鶴湖

徳川家康が東金御殿を築造した際に、拡張した人口の御殿池。東金御成街道の終点。


八鶴湖畔の慰霊碑群

湖畔にはいくつかの慰霊碑が集まっている。

忠勇の碑

旧山辺郡出身者444名と旧武射郡出身者282名の従軍記念碑。明治29年9月建立。

忠魂碑

旧東金村出身の日露戦争の戦没者46柱を祀る。
川村景明書。日露戦争時の陸軍大将・鴨緑江軍司令官。
大正11年11月建立。

大東亜戦争 旧東金町出身の戦没者の碑

満州事変から太平洋戦争までの英霊276柱を祀る。
昭和27年4月建立。


八鶴亭

明治期創業の旅館。関東大震災後の大正から昭和初期にかけて建てられた建造物が国指定重要文化財となっている。
2006年に旅館としては経営破綻し、現在は日本料理屋として生まれ変わっている。

本館

浴室棟

新館

ビリヤード棟


千葉県立東金高校

徳川家康の千葉御殿の跡地にある。
千葉県第二の高等女学校であった東金高等女学校が前身。

明治45年の東金高等女学校時代の作法室と正門画残る。

はい、東金城址にはリベンジしないと、です。。。

※撮影:2023年2月


関連

「成東駅空襲(成東駅爆発惨事)」(山武市)

千葉県山武市。
交通の要衝である成東駅は総武本線と東金線の乗換駅。
終戦2日前の昭和20年8月13日、米軍グラマン機による機銃掃射で、成東駅に停車していた火薬搭載の貨車が炎上。そして成東駅は爆破爆発、42名の殉職者をだす惨事となった。

成東駅空襲

昭和20年8月13日午前11時40分頃。九十九久里浜方面から飛来した米軍グラマン機数機が。成東駅下りホームに停車していた軍用列車(6両編成)に向けて、機銃掃射を反復。
6両編成の軍用列車は、高射砲4門と2両に火薬が搭載されていた。火薬車両から煙が立ち込めたために、駅職員、兵士が消火活動に務めたが、火勢が衰えることなく、午後11時58分に大爆発が発生。成東駅舎、ホーム、線路、上りホームの客車などが爆発した。
消火活動にあたっていた、成東駅の長谷川駅長以下、10代の女子3名や男子5名を含む15名の駅職員、消火活動に駆け付けた近衛第三師団近衛歩兵第八連隊範第三八二四部隊などの兵士27名の合計42名が殉職した。


「礎」の碑


日本国有鉄道総裁 十河信二

昭和20年8月13日11時50分米グラマン機の機銃掃射により成東駅停留中の弾薬積載貨車誘発、鉄道職員15名将兵27名瞬時にして散華し平和の礎と化す
 昭和32年8月13日建之

礎について
 昭和二十年八月十三日、敵機グラマンの攻撃を受け、成東駅構内下り一番線に停車中の軍弾薬積載貨車は十一時四十分火煙を発した。之を認めた国鉄職員十五名、将兵二十七名は、被害を最小限に止めようと機を失せず身を挺して貨車の隔離消火に努め、一方乗客及び町民を避難させたが、必死の検討も空しく十一時五十八分弾薬は遂に爆発して全員悉く壮烈な戦死を遂げ、平和の礎と化しました。
 昭和三十二年八月、十三回忌に当り、その功績をたたえ町民並びに鉄道職員を初め多数の方々の御支援によって茲に礎の碑を建立せられました。

建立は、昭和32年8月13日に日本国有鉄道職員有志の手による。

合掌

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/chiba_sammu_city001/index.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M85-A-5VV-92
1946年3月26日、米軍撮影の航空写真。一部加工。
成東駅周辺、空襲で焼失していることがわかる。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M724-1-193
1948年1月8日、米軍撮影の航空写真。一部加工。
1947年(昭和22年)に成東駅は再建。一説に旧海軍の香取航空基地の飛行機格納庫を転用したという。
(ただし真偽不詳)

Google航空写真でみる限りでは、成東駅舎の雰囲気は、1947年当時から変わらない。


成東駅

昭和20年8月13日の空襲で爆発した成東駅舎は昭和22年(1947)に再建された。2008年にリニューアルが施され、レンガ造りのファサードが追加されている。
一説には、「旧海軍の香取航空基地の飛行機格納庫を転用」したものともいうが、真偽は不詳。なお、銚子駅も同じく空襲焼失し、「旧海軍の香取航空基地の飛行機格納庫を転用」されたが、すでに解体済み。

銚子駅に比べると、成東駅はかなり小さい。
戦後の旧軍の倉庫転用と考えると、たしかにそんな感じもある。


「魁」の碑

上総・下総の地に総武線の敷設を推進した安井理民の顕彰碑。
安井 理民(やすい はるたみ)
安政6年3月3日(1859年4月5日) – 明治27年(1894年)2月16日)。
上総国(現在の千葉県)の成東下町(現・山武市)の人物。総武本線の前身である総武鉄道設立に関わった。
その後、1897年(明治30年)5月1日に佐倉と成東間が、同年6月1日に成東と銚子間がそれぞれ開通し、安井の遺志は今日に至るまで総武本線として


 わが両総の地に世に魁(さきがけ)て鉄道敷設の狼煙をあげ生涯をこの事業に捧げた人は実にわが成東町の先覚安井理民氏である
氏は安政六年(1859年)三月わが町の素封安井家に生まれ二十才で既に戸長として町政を担った青年戸長の夢は常に大きかった
やがて県下に鉄道を敷き交通運輸の便を計り郷土の一大発展を図ろうとの大理想を抱き明治十九年決然立ってその運動にはいった  
まず東京神田に創立事務所 を設け本町の塚本正脩氏を事務長に推し相扶け相謀り各地の有力者を歴訪しては参加を需め或は各種資料の調査研究に或は請願に或は資金集めに東奔西走の日々 が続いたかくて爾後七年有餘の血みどろの活動は遂に家産を傾けあまつさえ病を得て再び起たず明治二十七年二月十六日可惜奮闘の生涯を閉じた享年三十有六才
しかしその事業は後人に受継がれ明治三十年六月佐倉銚子間の開通を最後に両総を縦断する総武鉄道全線の完成を見るに至り氏の点じた灯の光は皎々と輝き 亘ったのである
 わが町は茲に記念碑を建て以て永く氏の功績を称えんとするものである
  昭和四十六年二月十六日
         成東町

大正12.10


成東駅殉難者之墓

法高山本行寺。
終戦2日前の昭和20年8月13日に、成東駅で爆死された駅職員15名の慰霊碑。昭和32年に建立。平成17年に基壇改修。

成東駅殉難者之墓

線香台には、動輪のレリーフがある。

成東駅前にも動輪がありましたね。

法高山本行寺。

境内の慰霊碑。

戦争受難碑

境内の左手に陸軍技手の墓があった。
墓標は、石井四郎の謹書。石井四郎といえば、関東軍防疫給水部(通称731部隊)、ですね。そういえば、石井四郎の出身は、千葉県山武郡芝山町なので近いです。

場所

https://goo.gl/maps/xcnRSSpZv6Upxxtu6


元倡寺の慰霊碑

元倡寺境内には、成東駅空襲で殉職した将兵の慰霊碑があるというが、見つけられなかった。墓苑を上から下までも何巡もしてみたが、見つからず、でした。もしご存知の方がいましたらお教えいただければ幸いです。

忠霊碑はかろうじて見つけた。こちらも枯れ枝の奥に埋もれていて、パッと見では気が付かない慰霊碑。

忠霊

場所

https://goo.gl/maps/w9KnuJnQB5kZYuJx5

※撮影:2023年2月


関連

「日本砲兵揺籃の地」陸軍野戦砲兵学校射場跡地の散策(佐倉市下志津原)

千葉県佐倉市と四街道市の間に広がる、平坦な土地は、「下志津原」と呼ばれ、陸軍の射撃場があった。往時の名残は格別にはないが、記念碑が建立されているので、足を運んでみた。


日本砲兵揺籃の地

京成ユーカリが丘駅の南約3キロ、京成勝田台駅とJR四街道駅の中間に、記念碑はあった。
ユーカリが丘駅から歩くと35分程度。バスもあるが、本数が少ないので、調整が必要。
周辺は建材屋や畑が広がる。

日本砲兵揺籃の地
 陸軍大将 藤江恵輔

藤江恵輔
陸軍大将正三位勲一等功二級(士候18 陸大26)
昭和9年に陸軍少将時代に四街道にあった陸軍野戦砲兵学校幹事(教育部長)を務めている。
昭和12年に陸軍中将として、第16師団長や陸軍大学校長を務め、昭和16年に西部軍司令官として開戦を迎えている。昭和18年2月に陸軍大将に昇進。東部軍司令官や第12方面軍司令官兼東部軍管区司令官を歴任し、昭和20年3月31日に予備役。
昭和20年6月に召集を受け、第11方面軍司令官兼東北軍管区司令官として、終戦を迎えた。

日本砲兵揺籃の地(碑裏面)
佐倉堀田藩は砲術を在来の武衛流から洋式の高島秋帆流に切り替えるにあたりその丁打場を従来の大田原(旧根郷村)から下志津原のこの地に移した
時に天保十三年(1842)である 明治初年に残っていた射垜は同藩士大筑尚志(後の第一代砲兵監陸軍中将)が築設したという
明治六年(1873)政府は教師として招聘したフランスのルホン砲兵大尉をしてこれを南北三千米幅三百米の射的場となし初めて砲術を伝習させた
同十三年 明治天皇の行幸を仰ぎ砲兵の天覧射撃あり大臣参議愈扈従したと伝えられる
同十九年春陸軍砲兵射的学校はここに創立せられ同三十一年四街道に移るまで日本砲兵発達の源泉となった
由緒ある遺跡の消滅せんことを惜しみ碑を建ててその由来を記するものである
  昭和四十年(1965)四月二日
   佐倉市教育委員会
   陸軍野戦砲兵学校遺跡保存有志一同
   土地提供者 下志津原開拓農業協同組合
    謹書 須藤健夫

だいぶ薄くなってますが、、、佐倉市による解説板もあります。

砲兵演習場跡
 佐倉藩は幕末に洋式砲術高島流を取入れ、下志津原のこの地で演習や試打を行った。
 明治六年(1873)政府が教師として招聘したフランスのルホン砲兵大尉は、藩士大筑尚志が築いたという射垜(土手)を増築し南北三千メートル幅三百メートルの射的場とした。
 同十九年陸軍砲兵射的学校が創立され、附近には料理屋、旅館などの街がつくられ、当時、下志津原一丁目と呼んだという。
 その後、明治三十年に、四街道へ射的学校は移された。
 昭和四十年、同校関係者有志により、この碑は建てられたものである。
  昭和五十七年三月三日
   佐倉市

記念碑前の道路。

南の方に射場が広がっていた。向こうは四街道。

場所

https://goo.gl/maps/35phy7vvtmhWnNZM8

※撮影:2023年1月


関連

陸軍野戦砲兵学校の跡地。射場の南側は、ルボン山は残る。

高島秋帆流砲術

錦着山護国神社(栃木市)

栃木駅から、歩いていける場所に、ちょっと気になる神社があったので、足を運んでみた。

社殿の脇にたつ記念燈台がひときわに存在感を放つ錦着山護国神社。


錦着山護国神社

栃木県の初代県令鍋島幹が、戊辰戦争・西南戦争(明治10年)の戦死者を祭り、忠魂を慰めるために、招魂社(栃木招魂社・私祭招魂社)の建立を検討。
明治11年(1878)に起工し、明治12年9月に社殿・社務所が完成。
明治17年(1884)に、栃木県庁が栃木町から宇都宮町に移転するとともに、管理は栃木県から下都賀郡へ移管となり、その後は栃木町への移管となっている。
大正10年(1921)に、栃木町長と帝国在郷軍人会栃木町分会で協議の結果、日清戦争日露戦争の下都賀郡出身の英霊を合祀。
昭和14年(1939)に、招魂社制度の改正となり「錦着山護国神社」と改称。
その後、上海事変・満州事変・支那事変・大東亜戦争の英霊も合祀し、下都賀郡の8300余柱を祀っている。
なお、招魂社としての官祭招魂社は、宇都宮招魂社(栃木県護国神社)と黒羽招魂社の2社のみ。
栃木招魂社(錦着山護国神社)は、私祭招魂社とされる。

ちなみに、錦着山とは、巾着の形ににているからとも、つつじが満開の頃は錦を着ているように美しいことからとも名前がつけられたとされている。

栃木市観光協会

https://www.tochigi-kankou.or.jp/spot/kinchakusan

栃木県観光物産協会

https://www.tochigiji.or.jp/spot/s9016

大鳥居は、大正12年(1923)11月帝国在郷軍人会下都賀郡連合分会の建立。

社号標は一度折れてしまったようです。

「錦着山護國神社」名称での社号標

参道途中の鳥居。

神額には「招魂社」と記載あります。謹書が誰かは読み取りできず。

両脇には、「獅子の子落とし」の阿吽の狛犬。
帝国在郷軍人会栃木市総合分会の奉納。昭和13年8月。

錦着山護國神社御社殿(拝殿)

合掌

至誠の扁額。謹書は読み取れず。

錦着山護國神社御社殿(ご本殿)

錦着山護國神社社務所。年季が入っている。


日露戦争記念燈台

社殿の向かって右隣りに高くそびえる「燈台」。
詳細は不明であるが、日露戦争を記念して建てられたものという。


栃木市海友会の碑(同期の桜碑)

昭和46年5月27日の建立。海軍記念日の建立ですね。

大日本帝国海軍
貴様と俺とは同期の桜
同じ海兵団の庭に咲く
栃木市海友会

錨と桜

海軍旗(旭日旗)

碑のことば
我々は日本の海を護って戦った。平和のために。
貴様と俺と呼びあい相擁して戦いの歌を若い血潮のたぎりの中に歌いあげた。
はげしく厳しかった、その道を何時も我々は支え堪えた。
眼を閉じるとその励まし慰めあいの戦いの日々が胸を往き来して果てしない。
平和が続いている。何時までも続けなければならない。
其の為にあの嵐の中に命を賭けてかち得た、ちえを感激にとかして持ちよろう。
関東の山野に風薫る朝、同期の桜、相寄りて此の碑を建つ。
 昭和46年5月27日
  栃木市海友会会長 森戸清一郎


栃木市海友会の碑(七つの海は桜に錨碑)

栃木市海友会
創立15周年記念
昭和52年五月27日設置
七つの海は桜に錨
海友会長 森戸清一郎かく

海行かば
 水漬く屍
山行かば
 草むす屍
大君の辺に
 こそ死なめ
返り見はせじ


奉祝 御大典紀念碑

下都賀郡傷痍軍人會
昭和3年閏戊辰11月10日建之


日露戦役忠魂碑

伏見宮貞愛親王殿下謹書。
明治41年12月20日竣工。


支那事変大東亜戦争 戦歿者慰霊碑

栃木市青年学校同窓会
昭和38年9月24日建之


記念塔

詳細不明。銘板等は外されたような形跡あり。

ちょっとした山。
三等三角点がある。
標高80.45m

記念燈台は、道路からもよく見える。

栃木駅からは、徒歩約20分。

場所

https://goo.gl/maps/YfAi1XFf6nD17RCQ6