「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

浜松三方原の陸軍戦跡散策・その2【浜松6】

本記事は、以前の「三方原の陸軍戦跡散策」で、未訪問の箇所を補填した記録となります。

浜松三方原の陸軍戦跡散策【浜松3】の続きとして。

本記事のメインは、前回の訪問時に、移転先がわからなかった「四勇士碑」石碑の確認でした。


浜松の陸軍飛行場

浜松には陸軍の飛行場が2つあった。
「三方原飛行場」と「浜松飛行場」。
この2つの飛行場は誘導路で結ばれており、非常に近い関係であった。

「三方原陸軍飛行場」は、三方原教導飛行団と第7航空教育隊
「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊
なお。浜松陸軍飛行場は、現在は航空自衛隊浜松基地となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M142-A-5No3-21
1946年5月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


四勇士碑

三方原神社の境内に、四勇士碑がありました。

合掌

扁額は、徳川好敏の揮毫

四勇士碑
航空兵団長陸軍中将従四位勲二等功四級男爵徳川好敏題字
維時 昭和十二年三月十九日 故陸軍航空兵少佐従六位勲六等寿圓正隆 故陸軍航空兵曹長勲八等今泉正夫 故陸軍航空軍曹勲八等小川高平 故陸軍航空塀軍曹勲八等岡崎勝ノ四士 九三式重爆撃機第一〇二九号ニ搭乗シ爆撃演習中発動機ニ故障ヲ生シ此処ニ墜落 火ヲ発シ一瞬悉ク其職ニ殉ス 痛恨何ソ堪へン 今ヤ東亜ノ風雲急ニシテ空軍ノ飛躍拡張ヲスルノ秋此精鋭ノ士ヲ失フ国家ノ損失甚大ナリ 然レトモ其壮烈ハ深ク国民ヲ感奮セシメ其沈勇ハ蓋シ武人ノ亀鑑タリ報 天聴ニ達シ 畏クモ進級又ハ叙位叙勲ノ恩命ヲ賜フ 洵ニ餘栄アリト謂フへキナリ 此日壮烈永ク想フク此処ニ痛恨竟ニ忘ルへカラス 因テ村民相計リ碑ヲ建テ以テ之ヲ伝フ
 昭和十二年五月
 飛行第七聯隊長陸軍航空兵大佐
           従五位勲三等 島田隆一撰
           従七位勲六等 中島録平書

四勇士の碑
 昭和12年(1937)3月19日、飛行第7連隊の九三式重爆撃機がエンジン呼称のため失速し、今の三方原南研修会館に墜落して炎上、搭乗していた四人の兵士が殉職した。四人は殉職により二階級特進で、寿円正隆陸軍少佐、今泉正夫陸軍曹長、小川高平陸軍曹長、岡崎勝陸軍軍曹となった。この爆撃機の操縦士は非常事態に直面しても沈着に行動し、墜落の場所を民家や学校を避けていたことが判明した。これに感動した地元民は多くの資金を出し合い、墜落地点へ同年に石碑を建てた。四人は勇敢な行動をとったことから四勇士とされ「四勇士碑」が建立されたのである。篆額は航空兵団長、陸軍中将、男爵の徳川好敏、撰文は島田隆一飛行第七連隊長である。
 なお、この四勇士の碑は、平成29年(2017)に建立地点から三方原神社の境内に移転した。
 三方原歴史文化保存会
 浜松北地域まちづくり協議会
 三方原地区自治会連合会

陸軍士官学校第三十九期航空同期生一同

ちなみに、三方原神社境内には、多くの記念碑があった。

忠魂碑

陸軍大将 田中義一の書

三方原神社

三方原神社 
場所:

https://maps.app.goo.gl/fk8axzTa3QTbNg7WA

四勇士の碑
場所:

https://maps.app.goo.gl/3KQVFpJpZWcZ71BD6


四勇士碑跡地
(九三式重爆撃機墜落の地)

かつての墜落現場に、四勇士碑は建立されていたが、現在は跡地となっている。

四勇士の碑
 昭和12年3月19日、飛行第7聯隊の重爆撃機がこの地に墜落炎上し、搭乗の四勇士が殉職した。
 四勇士は殉職により階級特進で、陸軍少佐寿円正隆、陸軍曹長今泉正夫、陸軍軍曹小川高平、陸軍軍曹岡崎勝、に昇進した。
 この爆撃機が失速、墜落の直前一人の搭乗員が座席を立って、着陸地点を注視していた姿を見た人がいる。非常事態に直面しても沈着、冷静に行動し、民家や学校への被害を避けたことに感激した、地元民の熱意によって、この慰霊碑が建てられました。
 この碑の題字は、航空兵団長陸軍中将、男爵、徳川好敏閣下、撰文飛行第7聯隊長、島田隆一である。
  三方原歴史文化保存会

移転したことが書いていなかったために、前回の訪問時に現地で大混乱をしてしまった。三年ぶりに訪問し、ようやく移転後の石碑に接することが出来た。

四勇士の碑跡地(墜落の地)
場所:

https://maps.app.goo.gl/R9oUC96YH5a6eQCj9


第7航空教育隊の門柱

三方原教導飛行団の門柱のすぐ近くに、第7航空教育隊の門柱もある。こちらも前回、見逃していたので、ようやくの訪問。

場所

https://maps.app.goo.gl/dUfup4WDcu4t1ARt9


三方原教導飛行団の門柱

現在の自衛隊官舎の南側の門柱は、当時の「三方原教導飛行団」の門柱。

三方原教導飛行団は昭和19年4月に浜松飛行学校から独立。
中部第九十七部隊の使用していた三方原飛行場の一角に展開。任務は航空化学戦の実行と教育であった。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Vwyoit7uejnJvfMa8

※撮影:2023年11月


関連

浜松

はじめに

木更津駐屯地 創立55周年記念行事「第49回木更津航空祭」その1(木更津の海軍戦跡散策1)

2023年10月1日(日)に開催された木更津駐屯地の記念行事「第49回木更津航空祭」。
普段は立ち入りができない駐屯地内を散策してみました。

飛行展示などは、「その3」にて。


木更津海軍航空隊(木空)・海軍木更津飛行場

昭和11年(1936)4月1日、木更津海軍航空隊が現在の陸上自衛隊木更津駐屯地の場所に開隊。
木更津海軍航空隊は、鹿屋海軍航空隊と同時に開隊した日本初の陸上攻撃機部隊。
昭和17年(1942)11月1日に、第七〇七海軍航空隊と改称、翌12月1日に第七〇五航空隊(三沢空)に編入。
七〇七空の解散後も木更津飛行場は拠点基地として機能。
昭和20年8月7日には、木更津飛行場において、日本初の純国産ジェット機「橘花」が飛行に成功している。

敗戦直後の1945年8月19日、参謀次長河辺虎四郎中将を筆頭とする降伏全権団は、米軍の指示で木更津海軍飛行場から沖縄県の伊江島まで2機の飛行機=緑十字飛行(1番機一式大型陸上輸送機と2番機一式陸上攻撃機の緑十字機)で向かい、さらに伊江島から米軍機に乗り換えてフィリピンに向っている。

戦後は米軍の駐留を経て1956年(昭和31年)に航空自衛隊木更津基地が間借りする。
1961年(昭和36年)に米軍は立川飛行場に転出し、航空自衛隊が占有するが1968年(昭和43年)に入間基地に転出。
入れ替わりに陸上自衛隊が転入して木更津駐屯地となり、現在に至る。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-66
昭和22年(1947年)2月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

木更津飛行場界隈を切り出し。

現在の様子(GoogleMap)

さらに拡大。

黄色枠の部分の格納庫と建屋が現存。赤枠の建屋も現存。
緑は、ちょっと形状が違うかな。


木更津駐屯地正門(海軍木更津飛行場正門跡)

海軍時代の正門の門柱が残る。


翔鷺園(海軍防空掩体壕跡)

追悼碑と同時に作られた庭園。海軍時代の防空掩体壕跡でもある。

翔鷺園由来記
 本園は第一ヘリコプター団殉職者追悼之碑建立作業に関連し大堀大野石材店大野留吉氏矢那若草造園間弓三郎氏及び坂井敏武氏等の協力指導により当所にありし旧海軍防空掩体壕に土を盛りまた山梨県八ヶ岳山小淵沢町より石を運び併せて江川久津間地区の買収地より樹木を移し作業日数九十六日延人員1360名に及ぶ全隊員の労力奉仕により茲に庭園を築きたるものにして
昭和48年3月1日追悼之碑序幕と同じくして完成せり
陸上自衛隊第一ヘリコプター団長兼木更津駐屯地司令村岡英夫陸将補これを「翔鷺園」と命名す
永く隊員ならびに市民の思索と憩いの場とならんことを願うものなり


木更津航空神社(木更津神社)

木更津海軍航空隊の隊内神社。
大戦中に航空安全を祈願して建立された航空神社となる。
昭和14年造営。


行幸記念碑

昭和天皇が行幸された記念の碑。
1938年(昭和13年)8月11日に 昭和天皇が行幸された。

揮毫は、戸塚道太郎。
昭和12年に第1海軍聯合航空隊司令官として、木更津海軍航空隊・鹿屋海軍航空隊の九六式陸上攻撃機での上海渡洋爆撃を指揮している。

行幸記念

昭和13年8月11日行幸
 海軍少将正五位勲二等 戸塚道太郎謹書


追悼之碑

木更津駐屯地で殉職なされた隊員を追悼。


荒鷲之碑

昭和16年造。


一式陸上攻撃機(一式陸攻)プロペラ

特に何も説明がないが、一式陸攻のプロペラだという。


航空資料館

内部は撮影禁止。
V-107 (51736 / IIH, KV107II-4A) VIP輸送用の特別仕様機と、旧海軍時代から陸自関係の資料などを展示。

https://sec.mod.go.jp/gsdf/gcc/1hb/sta/index.html


旧海軍時代の格納庫

旧海軍木更津飛行場時代からの格納庫。前述の位置関係の黄枠部分。


海軍消火栓蓋

A格納庫の前に、海軍時代の消火栓蓋が残る。

波に錨


暗渠蓋(排水路の蓋)

もしかして、海軍時代かも。瓦礫が荒いので。


海軍止水栓蓋

海軍時代の止水栓蓋も残る。


海軍時代?の建屋1

おそらく、海軍時代の建屋と推定。前述の位置関係の黄枠部分。


海軍時代?の建屋2

おなじく、海軍時代の建屋と推定。前述の位置関係の黄枠部分。


海軍時代??の建屋3

おなじく、海軍時代の建屋と推定。前述の位置関係の赤枠部分。


講堂

前述の航空写真では形状が適合できなかった建屋。前述の位置関係の緑枠。
海軍時代ではないとしても、古そうなので、もしかして米軍時代?教会?とか???


海軍時代のスロープ?

海軍時代にも同じ場所にスロープがある。往時の名残かも。


海軍時代の施設1

防空壕と思われる施設。煙突のように通風孔もある。搭乗員退避壕だろうか。
往時は覆土してあったのだろう。


海軍時代の施設2

これはなんだろう。覆土された施設。燃料施設か。

上記の覆土された施設の隣。変電設備だろうか?

盛土されている。

土塁ですね。


海軍時代の施設3

若干、盛土が残っている防空壕。同じように通風孔もある。


海軍時代の施設4

防空壕。通風孔が2つもある。

こんな感じで、2つの防空壕が並んでいる。

特に立入制限のロープなどはなかったが、これより北には、ちょっと行っては駄目な雰囲気があったので、ここで引き返し。(掩体壕までは赴けず)


そのほか

そのほか木更津駐屯地内の写真。

格納庫に「笑門」
「笑う門には福来る」

給水タンク。海軍時代かどうかは???

陸上自衛隊 第1 ヘリコプター団の庁舎。

はなの舞。

現在の入り口。

木更津周辺は戦跡豊富。まだまだ見るべきところが多いのでまた来ます。

※撮影:2023年10月1日

その2へ


関連

名古屋陸軍墓地(万国戦没者墓地)

名古屋市の平和公園。
戦後、名古屋陸軍墓地は、平和公園墓地に改葬をされた。
名古屋においては、戦後の復興区画整理に際して、陸軍墓地のみではなく、市街地の寺院墓地も総じて新設された平和公園墓地に集約改葬を余儀なくされた。


平和公園

平和公園のご案内
 平和公園は名古屋市の東部に位置し、第二次世界大戦による戦災復興土地区画整理事業の一環として昭和22年5月に「都市計画墓園第1号東保円」として都市計画決定され、市内に点在する279寺の墓地18ha、189,030基の墓碑が集中移転され、墓地と公園が一体化した平和公園が生まれました。(以下略)

平和公園墓地 配置図
寺院ごとに墓地が区画されている。

平和公園バス停のすぐとなりの墓地。
バスは、星ケ丘駅と自由ケ丘駅を結んでいる。


「万国戦没者墓地」が、名古屋陸軍墓地となる。

場所

https://maps.app.goo.gl/cLnfwMSaoNgZVC4L8


名古屋陸軍墓地(万国戦没者墓地)

明治8年の陸軍省の通達により、翌明治9年に、名古屋陸軍墓地が現在の新出来公園に設置された。
戦後、名古屋市は戦災復興土地区画整理事業として市内各所に点在する墓地を移転集約し、墓地公園化を決定。
昭和31年に、陸軍墓地も移設され、万国戦没者墓地が新設された。

萬國英霊塔

昭和25(1950)年1月建立。
名古屋市戦災復興墓地整理委員会。

合掌

日清日露戦争をはじめとする合葬碑が並ぶ。

ドイツ人俘虜の墓地

ドイツ人名古屋俘虜収容所もあった。

ロシア人俘虜の墓地

墓地公園


愛知時計電機株式会社殉職者之墓

熱田大空襲で多大な犠牲者を出した愛知時計電機の殉職者之墓も平和公園墓園内にある。

場所

https://maps.app.goo.gl/wbjoAxgXnJgCyjLJ8


徳川宗春公の墓

尾張徳川家第7代、尾張藩主の徳川宗春公でさえ、改葬されるのが名古屋市戦災復興墓地整理。(もとは、建中寺にあった歴代藩主墓所)。
徳川宗春公の墓は、昭和20年(1945年)に名古屋市が空襲を受けた際、焼夷弾の直撃を受けて、墓石の一部が損傷している。
名古屋藩主代々の墓石は、修復が困難な鵜沼石が用いられており、しばらく損傷した状態であったが2010年に墓碑修復を実施している。

修復前

修復後。焼夷弾の焼け跡はそのまま残っている。

場所

https://maps.app.goo.gl/F1dvMjJJvHGUenvu6


平和公園散策

虹の塔

https://maps.app.goo.gl/gcoLfJFHS323PUvY9

平和堂

第二次世界大戦による多数の犠牲者を追悼し、人類の平和を祈念する趣旨で計画され、戦災復興事業墓地移転記念施設として昭和39年に完成。

https://maps.app.goo.gl/z5oVtdtLuEKZXBcZ6

※撮影:2023年10月


関連

「熱田大空襲の慰霊巡拝」愛知時計電機・愛知航空機(名古屋)

昭和20年6月9日、名古屋の熱田に集中的に空襲があった。

名古屋大空襲のひとつに数えられる「熱田空襲」。
そのターゲットは愛知時計電機と愛知航空機であった。


熱田空襲

昭和20年6月9日、名古屋市熱田区の愛知時計電機船方工場・愛知航空機(現愛知機械工業)工場周辺に米軍が実施をした空襲。
米軍の爆撃機編隊は通常の爆撃航路とは異なる航路で突如として名古屋を襲撃。日本軍は当初の航路から名古屋の空襲警報を解除しており、不意をつかれたことから被害が広がり、結果、愛知時計電機・愛知航空機工場で働いていた従業員や動員学徒約2万2000名のうち1045名が死亡、重軽傷者約3000名、周辺住民も数十人死亡した。(従業員や周辺住民あわせて約2000人が死亡、重軽傷者約2000名との説もある)
この空襲は、9時30分から40分にかけての約10分間の空襲であったという。

米軍は、「エンパイア作戦」として、複数の重工業地点を同時に襲撃し日本側の迎撃態勢を分散させる作戦を立案し、この6月9日は、兵庫県西宮市の川西航空機の鳴尾製作所、兵庫県明石市の川崎航空機の明石製作所、そして愛知県名古屋市熱田区の愛知時計電機、愛知航空機が爆撃をされたものであった。
そして、2トン爆弾が日本で最初に使われた日でもあった。


愛知時計電機と愛知航空機

もとは、機械式時計メーカーの一つ。現在の愛知時計電機株式会社は時計事業からは撤退しているが、歯車技術を応用して精密計測機器メーカーとなっている。
戦前の同社は、やはり時計製造による技術・資本蓄積によって派生した機械、電機、化学部門などを活かし軍用航空機やエンジン製造に携わっていた。

1893年(明治26年)に「愛知時計製造」として創立。
日露戦争時の1904年(明治37年)に陸海軍から砲弾の信管などを初めて受注。
1912年(明治45年)に「愛知時計電機」に社名を改称。引き続き機雷や魚雷発射管の製造の他、艦砲用の射撃盤(射撃データの機械式計算機)の国産化にも協力し海軍との関係が深かった。
また、航空用エンジンの生産も手がけ、大戦中は水冷エンジン「アツタ」の製造をしている。
大戦中の1943年(昭和18年)には航空機増産のために同社の航空機部門を独立させて「愛知航空機株式会社」(現在の愛知機械工業)を設立。
1944年(昭和19年)12月7日の東南海地震では機体組立の中心工場だった永徳工場の製造用治具が乱れ、以後の航空機生産に大きく影響した。
更に1945年(昭和20年)6月の空襲(熱田空襲)により主力の船方工場が大きな被害を受け、そのまま終戦を迎えた。

「愛知時計製造」及び「愛知航空機」の代表作
・九九式艦上爆撃機
・流星
・流星改
・零式水上偵察機
・瑞雲
・晴嵐
・九八式水上偵察機(夜偵)
・水冷式発動機「アツタ」
など。


慰霊地藏尊(愛知時計電機)

愛知時計電機の正門脇に鎮座する慰霊地蔵尊。

熱田空襲の犠牲者を慰霊。

三界萬靈

合掌

地藏尊建立縁起
過グル第二次世界大戦當時當愛知時計電機株式會社ニハ從業員並ニ動員學徒ヲ併セ二萬二千名就業セリ
時ニ昭和二十年六月九日午前九時三十分ヨリ同四十分ニ至ル約十分間ノ空襲ニヨリ忽チニシテ工場一帯ハ當社関係死者一一四五名重軽傷者三〇〇〇名更ニ地方人死者一〇〇〇名ノ一大修羅場ト化セリ
嗚呼惨シイカナ 茲ニ終戰後五年船方工場再建セラル丶ニ當リ同志相謀リ隨喜ノ寫經ヲ埋藏シ地藏尊一軆ヲ建立シ以テ右殉國諸靈魂ノ冥福ヲ祈ラル各靈位願クハ此ノ功徳ニヨリ佛果菩堤ヲ證得セラレンコトヲ
 昭和二十四年六月九日
  覺王山主
   勅賜襌師瓏仙記

場所

https://maps.app.goo.gl/6v6EeH3WfBR177AaA

愛知時計電機 正門

堀川沿いの新建屋


第二次大戦非戦闘員横死者諸霊之追善菩提

愛知時計電機株式会社本社の北側に。
熱田空襲の犠牲者を祀る。

爲第二次大戰非戰鬪員横死者諸靈之追善菩提

愛知時計電機関係者以外の犠牲者を祀る。
合掌

昭和二十年六月九日此の白鳥橋周邉に於て米軍爆撃により無量数百名の一般人名を失ひよつて将來の平和と安定を祈り被爆死者等の冥福を謹みて祈願するものである
 維時 昭和三十三年八月吉祥日
 發願 廣小路徳風會
 隨喜 一般有志者

場所

https://maps.app.goo.gl/KBidYm8HPBxebhAaA


熱田空襲の被爆堤防

以前の記事から抜粋。

堀川運河。
愛知時計電機のすぐ脇に保存されている戦跡。
そこには、 熱田空襲の爆撃痕を残す堤防が移築保存されている。

この護岸は、昭和八年に築造され、平成四年度から実施した「マイタウン・マイリバー整備事業」による新たな護岸の設置にあたり、撤去したものの一部である。
護岸表面にみられるくぼみは、昭和二十年六月九日のいわゆる「熱田空襲」の爆撃によりできたものである。
 平成八年三月 
  名古屋市

場所:

https://maps.app.goo.gl/V8NdRDpmjEDYfuHj9


殉職者之墓

平和公園墓地に、愛知時計電機株式会社の殉職者のお墓がある。

合掌

殉職者之墓
愛知時計電機株式会社
此の墓は、昭和20年6月9日に熱田大空襲を受け殉職された英霊を祀ったものである。

殉職者之墓

愛知時計電機株式会社

場所:平和公園墓地

https://maps.app.goo.gl/BymDWWKzzd3DxhMu7

撮影:2023年10月


関連

靖國招魂碑(高遠城址公園)と伊那散策

長野県伊那市に行く機会があった。
伊那市の戦跡として著名なのは、別記事に掲載した「陸軍伊那飛行場跡」となるが、それ以外の近代史に関連した史跡などを散策してみた。


伊那市街地の看板建築群

上伊那地区の中心となる伊那の駅。
1912年(明治45年)開業。昭和27(1952)年3月改築。

伊那節と勘太郎の街。
どっちもよく知らないけど、信州を代表する民謡のひとつと、伊那の勘太郎は映画の侠客。

自動改札では無いです。

跨線橋は昭和51年(1976)

伊那北駅。1912年(明治45年)開業。
現在の駅舎は1991年(平成3年)。

伊那の町並み。
伊那市駅と伊那北駅は歩いて15分くらいの距離感。駅間距離は0.9キロ。商店街が連続している。

看板建築が残る。
伊那では大正8年に大火があり、そののちに看板建築が多数建設されたという。
これだけの看板建築が集中している空間は貴重。


伊那ローメン

ローメン誕生の地

戦後10年目の昭和30年8月に、伊那名物のローメンは誕生した。

ローメン誕生の地

まだ戦後の混乱と食料難が尾を引いていた昭和三十年 服部幸雄氏の協力を得て伊藤和弌氏の発案によってこの地にローメンが誕生した 冷蔵庫もない時代 日持ちをよくするため考え出された蒸し麺と 当時は食べる習慣のなかった羊肉を用いたローメンは 味と栄養を求める多くの 人々の支持を受けた やがて「飽食の時代」と言われるようになっても 大陸を思わせるその独特の味の人気は衰えるどころかさらに広がり 伊那市 伊那商工会議所の支援を受け またローメンを支える多くの人たちの努力によって伊那市を代表する味覚へと成長した 誕生から五十年を経て 今なお多くの人々に愛される「伊那の味」として愛好者が全国に広がりつつあるローメンのさらなる発展を祈りつつ ここに誕生の記憶を刻む
 平成十五年十一月二十五日
 伊那市長 小坂樫男 謹書
 寄贈 ローメンを愛する有志の会

ローメン発祥の店「萬里」

萬里 メニュー

伊那の名物ローメンのおいしい食べ方

ローメンのお話し

ローメンの誕生
 東京・横浜で修行をして故郷の伊那市に帰り、天竜川と並行して走る国道153号沿いに小さな店を出した青年(先代社長・伊藤和弌)は、毎日考えていることがありました。それは、まだ冷蔵庫が普及していない時代でしたので、仕入れた麺を翌日まで保存することができなかった事でした。
 試行錯誤していたそんなある日、麺を蒸してみることにしました。これが不思議に独特の風味と歯ごたえのある麺に仕上がり、日持ちもすることが解りました。当時伊那地方では羊毛産業が盛んで羊肉が安く仕入れることが出来たので、地場産のキャベツと共に蒸し煮する事にしました。シンプルな料理ですが、これがお客様に好評で、名前を「炒」チャー、「肉」ロー、「麺」メンと名付けました。後に「チャー」が取れて「ラーメン」と語呂が良い「ローメン」と呼ばれることになり現在に至っております。
「ローメン誕生」それは、昭和30年8月の暑い日でありました。

ローメン。
羊肉とキャベツなどの野菜をを炒め, 蒸した中華太麺を加えたもの。普通のラーメンとも焼きそばとも異なる「ソース味ベースのスープ焼きそば」のような食べ物。

一番人気の記載があった「豚頭」もいただく。


高遠城址公園

高遠駅。JRバスの駅。
かつて高遠電気軌道という鉄道を建設する計画があったが、未成線におわり、バス路線となっている。

土日の本数はかなり少ない。
伊那と高遠の往復は計画性が必要。

高遠城址の方向。

高遠城址公園

桜の季節以外は、静かな城址公園。

高遠城の戦い。織田信忠軍と仁科盛信軍(信玄の五男)。
武田氏の最後を飾る奮戦。

高遠閣

高遠町民の集会場及び観光客の休憩施設として建設された施設。木造2階建、鉄板葺、入母屋造の大規模な建造物。
昭和11年(1936年)

天下第一の桜
昭和9年

新城神社・藤原神社
仁科五郎盛信と藤原鎌足を祀る。

太鼓櫓

高遠城本丸跡

高遠公園碑

中村元恒・元起記念碑

南曲輪


靖國招魂碑(高遠城址)

明治30年(1897)建立。小松宮彰仁親王の揮毫。

靖國招魂碑
発起者 本郡各寺院

合掌

日清戦争1年後の明治30(1897)年1月18日に、明治維新後の戦没者および満蒙開拓人殉職者の慰霊を目的として、上伊那仏教会・上伊那尚武会が中心となり建設された碑。

終戦後、昭和23(1948)年4月ケリー将校が、高遠町役場へやって来た際に黒河内町長と面談した際にマッカーサーの命令として、「高遠城址公園内にある靖国招魂碑と、それに付属する一切の戦争遺産と思われるものを全部撤去」するように命令され、消失の危機を迎える。
慰霊碑を維持してきた高遠町の元軍人関係の人々により結成された高遠町八日会は、独断で裏側に大きな穴を掘って碑を埋める対応を実施。
6年後の昭和28(1953)年、日米講和条約が締結され、土中から招魂碑を掘り起こし、再建した。

忠骨蔵
 この招魂碑脇の忠骨蔵には日露戦争のとき上伊那郡から出征し戦死された256柱の貴い遺骨及び遺品が収められています。
 謹んで諸霊のご冥福をお祈りいたします。
 平成7年4月
 上伊那靖国招魂碑奉賛会 

28センチ榴弾砲を活用した忠骨蔵


撮影:2023年9月

市ヶ谷台メモリアルゾーン(防衛省)

市ヶ谷の防衛省。
敷地内に、歴史的なメモリアルゾーンがある。

その様子は、以前にレポートしましたが、細部は見学コースに含まれておらず、で、

また、大本営地下壕が見学コースに含まれて以降は、時間の都合と思われるが、「メモリアルゾーン」への見学が、コースから、そもそも無くなっておりますが、、、

詳細は伏せますが、仕事の都合で、市ヶ谷の防衛省内に立ち入る機会があり、なおかつ時間的な制約もなく、比較的フリーで行動できたので、念願の「メモリアルゾーン」見学を実施することができました。以下、その模様を。


市ヶ谷台メモリアルゾーン

公務による殉職者の慰霊碑、殉職者慰霊碑をはじめ、市ヶ谷地区に点在していた記念碑・慰霊碑を集約整備した慰霊碑地区。

防衛庁本庁庁舎の市ヶ谷移転に伴い、1998(平成10)年、自衛隊員殉職者慰霊碑などを「メモリアルゾーン」として整理したが、地積が狭く儀仗隊を伴った式典などの実施が困難などの問題があり、平成14年度から同地区の整備を開始し、現在の「メモリアルゾーン」となった。

残念ながら、2023年現在、「市ヶ谷台ツアー」のコースには含まれていないので、見学難易度は高い。

場所

https://maps.app.goo.gl/wgxMjv6xSzGdPvfbA


自衛隊殉職者慰霊碑(殉職者慰霊碑)

昭和25年に警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、自衛隊に至るまでの職務に殉じられた1934柱の御霊(霊璽簿・名簿)が祀られている。昭和37年建立。昭和55年に新たに整備。

富士山をかたどった慰霊碑。

現行法では、自衛隊員の殉職者は、靖國神社に合祀はできない。
そのため、公的には、このメモリアルゾーンにある「自衛隊殉職者慰霊碑」での慰霊するほかないという。防衛大臣主催の追悼式は毎年10月に実施されている。

合掌

建碑の辞
 昭和25年警察予備隊が創設され、爾来保安隊、警備隊を経て、今日、自衛隊は創立30周年を迎えたが、この間、隊員はわが国を取りまく諸情勢の変化に対応するとともに、国民の期待と信頼に応えるべく日夜精励し,祖国防衛の責務完遂に努めている。
 しかしながら、陸に海に空に任務遂行の志半ばにして不幸にもその職に殉ぜられた隊員諸君の英魂に思いをいたすとき、痛恨の念を新たにするものである。
 過くる昭和37年5月、この市ヶ谷台上に慰霊顕彰の碑を建立すると思に霊域を整え、その御霊を慰めて来たところであるが、すでに十有八年余の風雪を経た慰霊碑は、落剝甚だしいものがあった。
 たまたま自衛隊創立30周年を迎えるに当たり、ご遺族をはじめ隊員一同から新たに碑の整備を望む声が昂まり、ここに財団法人防衛弘済会事業として、全隊員の参画の下にこれを整備するとともに、さきに建立された碑の碑銘と建碑の辞を副碑としてとどめ、改めて諸君の不滅の英魂に対し、深甚なる哀悼の意を捧げるものである。
  昭和五十五年十月
  国務大臣 防衛庁長官 大村 譲治 

以下は、以前にもらっていたリーフレットの案内文を掲載。

自衛隊殉職者慰霊碑
 昭和25年、警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、今日の自衛隊に至るまで、隊員は、国民の期待と信頼に応えるべく祖国防衛の責務完遂に努めてきた。加えて、国際平和協力活動など自衛隊の任務も多様化し、国際社会の平和と安全にも大きく貢献している。これは、隊員一人一人が自らの使命に、自信と誇りを持ち、全力をもって任務を果たしてきたからにほかならない。
 しかしながら、創設以来、陸に海に空に、訓練演習、災害派遣等に当たり旺盛な責任感で身の危険をも顧みず任務の完遂に努めた幾多の隊員が職務に殉ぜられ、その数は1900を超える。
 これらの御霊は、自衛谷あっては良き上司部下あるいは良き同僚として、また家庭にあっては最愛の伴侶、心温かい親あるいは頼もしい子として敬愛されていた方々であり、防衛省・自衛隊としては、このような掛け替えのない方々を失ったご遺族の心情や御霊のご遺志、ご偉業を片時も忘れることはない。
 自衛隊殉職者慰霊碑は、このような職務に殉ぜられた隊員の功績を永久に顕彰し、深甚なる敬意と哀悼の意を捧げるものである、昭和37年建立された。その後、風化による傷みが著しくなったことからご遺族の要望もあり、防衛弘済会共助事業費と全自衛隊隊員の拠金をもって新たに整備され、昭和55年10月15日に完成した。
 碑銘は鈴木首相の揮毫によるもので、中央の石は黒御影石で、左右の石は無垢白御影石で霊峰富士山を形どっている。前面には、副碑として旧慰霊碑の「池田首相の銘石」と「建碑の辞の碑銘」が一緒に備え付けられた。

 自衛隊殉職者慰霊碑には、歴代防衛大臣等の防衛省幹部の離着任時に欠かさず、また、外国要人からも献花が行われている。

 警察
呼びたい創設以来、職務に殉ぜられた方々の御遺族も御高齢になられたことを考慮し、御遺族が来訪の時には心安らかにご参拝ができるよう、また同僚・後輩諸氏が事故絶滅の誓いを新たにするに、より相合しい場所となるよう慰霊碑を移設し、メモリアルゾーンの整備を行った。


阿南惟幾 陸軍大臣陸軍大将荼毘之碑

敗戦の責任を感じ、三宅坂の官舎に於て自刃された阿南大将の遺体は高等官集会所に安置され、昭和20年8月15日夜、荼毘に付された碑を移設したもの。


杉山元帥・吉本大将 自決之跡の碑

終戦時、第一総軍司令官杉山元元帥(昭和20年9月12日)、軍令部付であった吉本貞一大将(昭和20年9月14日)は、敗戦の責任を感じて市ヶ谷台で自決。この地にあった碑を移設したもの。


赤玉石

阿南大将及び杉山元帥・吉本大将の外囲いが整備された際、寄贈されたものである。

この慰霊碑台座下の敷石は「卵石」と称し、国内はもとより外国からも輸入された化粧石であります。
 杉山・阿南・吉本・晴木・その他各烈士の慰霊碑に参拝の方々は、是非とも、一個を参拝紀念に、形・色合いを選んでお持ち帰り下さい。
 それが先士先人の事迹に思いをはせ後世に語り継ぐべき、よすがになれば幸いであります。
  市ヶ谷台慰霊会


雄健神社跡(陸軍士官学校神社・市ヶ谷台の地主神)

市ヶ谷台の雄健神社。
陸軍士官学校の神社として、雄健(おたけび)神社は、大正5年(1916)に創建され、陸軍士官学校19代校長、与倉喜平中将が「雄健」と選名。
天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之命、明治天皇、大食津神とともに陸軍士官学校出身将兵の戦病歿者の霊を合祀。

昭和16年(1941)、陸軍予科士官学校の移転にともない御神体が御神体は、朝霞に奉遷。
なお、市ヶ谷台の地主神として大食津神は、引き続きこの地に祀られていたが、占領軍の接収を防ぐために、祭神(大食津神神)を靖国神社へ奉遷。
平成14年(2002)に、メモリアル地区整備(記念碑等の集約)に伴い、現位置に移設。

記念碑(雄健神社跡)
沿革
大正5年
 第19代陸軍士官学校長であった余倉中将により天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之男神、明治大神、大食津神、陸軍士官学校戦病歿者英霊を合祀する目的で建立
昭和12年
 陸軍士官学校が陸軍士官学校と陸軍予科士官学校に分離し、陸軍士官学校は座間へ移転
昭和16年
 陸軍予科士官学校の朝霞への移転に伴い祭神(市ヶ谷台の地主である大食津神以外)を朝霞へ奉遷
昭和20年
 終戦後、占領軍の接収を防ぐため、祭神(大食津神神)を靖国神社へ奉遷
昭和35年
 市ヶ谷駐屯地発足の際、歴史的資料の一つとして保存
平成12年
 防衛庁本庁移転に伴い、祈念碑(雄健神社跡)として管理
平成14年
 メモリアル地区整備(記念碑等の集約)に伴い、現位置に移設され、今に至る

雄健神社跡の記
市ヶ谷台の雄健神社は大正五年に創建された
天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之命、明治天皇、大食津神とともに陸軍士官学校出身将兵の戦病歿者の霊を合祀し、日夜生徒の参拝するところであった
昭和十六年陸軍予科士官学校の移転にともない御神体は朝霞に奉遷された
戦後は長野県の大伴神社にお祀りしてあったが、昭和三七年六月靖国神社にお迎えして昇神の儀が執り行われた。
 陸士二十五期建之

市ヶ谷台から相武台に移転した「雄健神社」。
相武台の旧鎮座地(米軍座間キャンプ)には、雄健神社を偲ぶ鳥居が再建されている。


全陸軍航空部隊・陸軍航空本部・陸軍航空総監部碑
(全陸軍航空部隊碑・全陸軍航空奉賛同人会碑

全陸軍航空部隊、陸軍法空本部、陸軍航空総監部における戦没者、殉職者の英霊を祭祀した主碑と、その後方に「鎮」「魂」及び「追碑」の副碑がある。昭和52年この地に建立。

 全陸軍航空部隊戦没者の慰霊顕彰の碑。菅原道大による謹書。

全陸軍航空部隊 陸軍航空本部 陸軍航空総監部碑
 菅原 道大 書

揮毫をした菅原道大は、陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官でもあった。

全陸軍航空部隊碑

 この碑は陸軍航空を育成管轄した陸軍航空本部、陸軍航空総監部ならびに全陸軍航空部隊を後世に記念し、かつ終戦に際し責を負って自決された航空本部長熊本中将を始め創始以来陸軍航空に在籍し、国の内外において戦歿或は殉職された全英霊の偉勲を偲んで敬虔な追悼の誠を捧げ、もってわれら陸軍航空同人の心のふるさととしてその友誼を深め、永遠に世界の平和と日本の空の安泰を祈念するものである。
   昭和52年3月10日
    建立委員長 川嶋虎之輔 謹書

鎮・魂の副碑について
主碑後方の「鎮」「魂」の副碑には陸軍航空始まって以来の二千百余の部隊名が彫記されております。
 陸軍航空碑奉賛会


九九式十糎山砲

大日本帝国陸軍が1939年(昭和15年)に制式化した口径105mmの山砲。
昭和42年9月から戦史室前に展示されていたものを移設。


砲一碑

野砲兵第1聯隊及び野砲兵第101聯隊の記念碑。昭和44年この地に建立。

野砲兵第一聯隊
野砲兵第百一聯隊

 聯隊は市ヶ谷台国府台世田谷に駐屯 昭和11年北満州に警備に任じた。其間 西南の役 日清日露両戦役に従軍、支那事変には第101聯隊其他を編成して参戦 大東亜戦争には一部をグアム島に派遣 最後はレイテ島に追撃して玉砕 70有余年に亘る栄光の歴史を閉じた
 茲に同志相計り由緒深い此地に碑を建立し 聯隊歴史同志芳名録記念の品々を納めて永く後世に伝える
 昭和44年6月3日
  砲一碑建設有志一同 建立


陸軍士官学校趾

明治7年、明治天皇の御聖旨により学校設立。第31代陸軍士官学校長、山田乙三大将の揮毫(大正5年)による碑を移設した。

陸軍士官学校趾
陸軍大将 山田乙三 書

山田乙三陸軍大将は。最後の関東軍総司令官(兼任で在満州国特命全権大使)であった。


東京陸軍幼年学校之跡

明治30年、明治天皇の御聖旨により学校設立。
戸山ヶ原にあった碑を学校発祥の地市ヶ谷に移設した。

東京陸軍幼年学校之跡
陸軍大将 山田乙三 書


陸軍少佐晴氣誠慰霊碑

晴氣少佐は大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦となりその責任を感じて、昭和20年8月17日の早朝にこの地で自決。

 少佐は太平洋正面の作戦を担当し戦勢の挽回に精魂を注ぎ万策を盡したが、戦局の赴く所、如何ともし難く遂に終戦に至る。少佐はその責を一身に帰し、此の地で自決した。
 高潔な人格と全戦役を通ずる輝かしい功績とは軍人の鑑である。


大本営陸軍参謀 晴気誠少佐(陸士44期 佐賀県出身)は、前大戦中、サイパン島陥落の責任を痛感し、昭和20年8月17日未明、この地に於いて同期親友の益田兼利少佐を介錯として自決された。
この碑は、参謀本部作戦課有志により、昭和40年8月に建立。更に高柳實氏の奉仕により平成5年8月16日石碑の台座を修復した。


大元帥陛下御立所

大元帥陛下( 昭和天皇)が士官候補生の馬術訓練を御見学された場所。


謎の建造物

これ、謎なんです。通風孔?


戦史室跡の碑

大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された戦史室の跡地に置かれた碑を移設。
戦史叢書は、みんなお世話になりますよね。

この地で大東亜戦争に関する戦史叢書百二巻を編纂し その業績は防衛研修所戦史部に引き継がれた
 昭和五十四年十二月
  有志一同 建立


東京オリンピック支援集団司令部跡の碑

1964年(昭和39年)の東京オリンピックを支援するため自衛隊支援集団が編成され、司令部は当時の22号館が当てられた。司令部跡に置かれた碑を移設。


市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

防衛庁市ヶ谷移転に際して、昭和45年当時の市ヶ谷駐屯地・基地及び芝浦分屯地に在駐していた部隊が刻まれている。昭和45年は、、、三島由紀夫、、、


改めて

メモリアルゾーンに深々と拝礼を。

以前に配布のあった、案内リーフレット。

メモリアルゾーン
 自衛隊殉職者慰霊碑、雄健神社跡、市谷台の各所に点在していた記念碑等を移設した市谷台の東側一帯の地域です。

詳細。

ちなみに、私はA棟(防衛中枢機関)とC棟(情報本部)以外の庁舎棟には立ち入り可でした。

なかなか、立ち入る機会がない場所なので、今回は、貴重な記録になりました。

※撮影:2023年

零式艦上戦闘機と九六式陸上攻撃機のプロペラを祀る「零戦堂」(日光今市)

JR今市駅のちかくに、プロペラを祀るお堂があるという。
けっこう気になっていたので、行ってみることにした。


零戦堂

なんでも日光名産の「けっこう漬」の創始者は、かつて日本海軍に所属していたらしく、戦後にお店の敷地内にお堂を立てて、往時の同僚を慰霊したことにはじまるという。
創業者の福田義雄は、予科練、土浦海軍航空隊を経て鹿島海軍航空隊へ入隊し、特攻隊に志願。戦友が沖縄の海に散華するなかで、生還。
戦後は国鉄の機関車乗りを経て、地元の老舗醤油会社で営業をし、雜貨店を足がかりに、近隣農家で栽培された野菜を漬物にして販売することを決断。
故事にいう「日光を見ずしてけっこうと云うなかれ」から、社名は「けっこう漬本舗」となったという。

https://kekkozuke.co.jp/about

九六陸攻のプロペラは、マーシャル諸島のメジロ島沖合で現地人によって引き揚げられた。昭和61年に気仙沼の漁船によって日本に帰還し、ここに鎮座、多数の弾痕がある。
零戦のプロペラは、昭和57年に横浜沖で底引き網にかかり、柴漁港に引き揚げられたものを、ここに鎮座。

鎮魂
前席のプロペラ。太平洋戦争の激戦地マーシャル諸島のメジロ島沖合より原住民により引上げられた旧海軍九六式陸上攻撃機プロペラ。宮城県気仙沼市第一一〇卓昌丸石崎漁労長により昭和六十一年七月二十日この社に鎮座、無数の弾痕あり。
後席のプロペラ。零戦(零式艦上戦闘機)。横浜市金沢区柴町二四二綱元宍倉弥一氏の底引網により昭和五十七年六月二十一日午后一時横浜沖合にて収納される。海中にあること三十七、八年祖国の繁栄と幸せを願い信じて、太平洋戦争に散華した若鷲の魂が、このプロペラに宿されて、今ここに同じ人類の戦いのはかなくむなしさを呼びかけている。
 昭和六十三年十一月吉日
  日光けっこう漬本舗代表 福田義雄建之

鎮魂由緒書とは異なり、現在は、以下の鎮座配置となっている。
手前は、零式艦上戦闘機のプロペラ
奥は、九六式陸上攻撃機のプロペラ 

零戦堂

プロペラの依代として、勇士を祀る慰霊のお堂。

無数の弾痕。九六式陸攻のプロペラ。

手前は、零戦のプロペラ。

五省
五省は昭和7年、当時の海軍兵学校長 松下 元 少将が創始したもの。

一、至誠に 悖る なかりしか
一、言行に 恥づる なかりしか
一、氣力に 缺くる なかりしか
一、努力に 憾み なかりしか
一、不精に 亘る なかりしか

お堂のとなり。
これはなんだろう。。。


けっこう漬今市インター店(日光けっこう漬の直売店)

https://kekkozuke.co.jp/store/inter

零戦道は、日光けっこう漬の直売店の敷地内にある。
手打ちそばも名物らしい。

残念ながら、私は朝8時前に訪問のため、お店は開店前。

帰路に宇都宮駅内の売店で売っていたので、買いました!!
たまり醤油にワイン、ハチミツを加えたタレで漬け込んだお漬物。
これは美味しいですね!!お酒のおともになりました。

場所

https://maps.app.goo.gl/VxDkyFDUG1skPetq5

※撮影:2023年9月


関連

名古屋大空襲と大曽根(ナゴヤドーム・大曽根駅・片山八幡宮)

名古屋の大曽根駅周辺を散策してみました。


名古屋大空襲

1938年7月1日に三菱名古屋航空機製作所(大江)からエンジン製造部門を分離独立したのが三菱重工業名古屋発動機製作所(大幸)。

https://www.mhi.com/jp/company/location/nagoyaguidew/history

名古屋でB-29爆撃機による本格的な空襲がはじまった1944年12月13日に真っ先に爆撃目標となったのが、三菱重工業名古屋発動機製作所(三菱発動機)であった。
当時、三菱発動機大幸工場では日本の航空機用発動機(エンジン)の4割を生産していた大工場であり、米軍にとっては、東の中島飛行機武蔵工場、西の三菱発動機大幸工場は壊滅させねばならない工場であった。

昭和19年12月13日、三菱発動機大幸工場に対する初の本格的な空襲が実施。。翌年4月7日まで、執拗な爆撃が実施され、三菱発動機大幸工場は壊滅した。
また、昭和20年3月12日に名古屋市街地が被災、3月19日に名古屋駅が炎上、5月14日に名古屋城が焼失など、大規模な空襲が名古屋市に対して繰り返し行われた。こうして名古屋市に対しては、63回の空襲が行われ、B29飛来2579機、死者は7858名、負傷者10378名に及ぶという。


ナゴヤドーム
(三菱重工業名古屋発動機製作所跡)

1994年8月8日より三菱重工業大幸工場の跡地で建設を着工。
1997年2月18日に完工し、同年3月12日に、同市中川区露橋にあるナゴヤ球場(旧・中日スタヂアム/中日球場)に代わる中日ドラゴンズの本拠地として開場した。

総合案内所

総合案内所の脇に、掲げられたプレート。

平和への礎になられた人々を忘れません
 ナゴヤドームが建つこの地は、かつて三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場があり、第2次世界大戦下の1944年(昭和19)12月13日に米空軍B-29爆撃機70機の空襲を受け、工場で働く人たち、挺身隊の女性たち、学徒動員の生徒ら300余人の尊い命が奪われました。

 この大戦では、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)石丸進一投手(当時24歳)も特攻隊員として出撃、野球への熱い想いを胸に抱いたまま空の彼方へ消えて行きました。

 私たちは今日、平和への礎となられた人々を決して忘れず、野球やコンサートなどを通して感動を味わうことができることに深く感謝し、ここにご冥福をお祈りいたします。
2004年4月2日
株式会社 ナゴヤドーム

ナゴヤドームの地の歴史を伝承するプレート

場所

https://maps.app.goo.gl/sHW7QoM8zWkJ8fR49

北側には、三菱電機名古屋製作所大幸ビル

イオンモールもある。

見えてきたのは、三菱電機名古屋製作所

近代的なビルと、三角屋根の工場。

三菱の街

大曽根駅の南側に向かいます。


殉職者慰霊碑(大曽根駅)

JR大曽根駅の南側に、昭和20年4月7日の空襲での大曽根駅における殉職者を祀る。

合掌

殉職者慰霊碑
桂秋 吉田 藤 謹書

至誠公ニ奉シ毅然
トシテ職ニ殉ス業
ヲ我國有鐵道ニ操
ル者ノ儀表タリ茲
ニ其ノ義烈ヲ稱ヘ
長ヘニ旧字 靈ノ呵護
ヲ祈ル

昭和二十年四月七日大曽根驛ニ於ケル殉職者
(故人名略)
昭和二十一年 八月建之 建設委員
遺家族一同
大曽根驛員一同

大曽根駅の南口は、住宅街。商業エリアは北口で。

場所

https://maps.app.goo.gl/WrVHmNqq7in6Rx6w5


片山八幡宮に残る弾痕

名古屋鬼門鎮護の片山八幡神社。旧社格は県社。

敷地の東側を囲う石垣には焼夷弾の跡が多数残っている。破損や焼け跡など。

鳥居には、爆弾の破片が当たってできた弾痕がある。

昭和8年の社号標にも弾痕。

場所

https://maps.app.goo.gl/Jdt1dx7XRNxRXywE8

撮影:2023年7月及び9月


名古屋関連

はじめに

「三島陸軍墓地」三島の戦跡散策・その2

静岡県三島市。
町おこしで軍隊の誘致を実施し、陸軍の街となった「軍都・三島」。
現在も、往時を物語るものが残っていると聞き、散策してみました。

本編は「その2」となります。
「その1」はこちらから。


三島陸軍墓地

かつて川原ケ谷と呼ばれた地であり、古くは源頼朝が三嶋大社へ参詣する際には、三島から川原ケ谷付近を通って芦ノ湖畔に出る箱根路を往来したと言われている場所。
「川原ケ谷城」という中世城址と、頼朝にもゆかりのある「願成寺」のちかくに、近代には「陸軍墓地」が設けられていた。

三島陸軍墓地の入口。

表札のある部分は、えぐられている。

空き地であった隣に、新築住宅ができた。
この草むらに陸軍境界標があるらしいがあるのかないのか確認できず。
消失した可能性が大。

陸軍境界標石
1つ目。

陸軍用地

陸軍境界標石
2つ目。

陸軍境界標石
3つ目。
西側の敷地。埋もれている。

三島陸軍墓地跡。

1週間後に再訪したら、草刈りされていました。
(三島が一回で終わらなかったので、短期間に2回訪れたという)

忠魂碑

野戦重砲兵第21大隊戦没者慰霊

平和の碑
御製

碑文
我らは戦争の悲惨を身をもって体験した者として二度と戦争を繰り返す事のないよう訴え、日本の繁栄と、世界の恒久的平和を祈念する。
 従って、我等が最後の傷痍軍人であり、又その妻であることを願望して、その名をここに残す。
   昭和55年10月吉日
    三島市傷痍軍人会
    同    妻の会 建立

子どもでも読めるように、丁寧にルビが振ってあります。

平和への道標
 ここ城山墓地に祀られている方々は、皆さんの美しい故郷の山や河を守り、日本の平和と豊かな暮らしを願いながら、長い戦争の中で亡くなられました。
 今日の平和を思うとき、私たちは、ここに眠る方々を決して忘れません。この尊い御霊の心を受け継いで、感謝の心を持って二度と戦争のない平和な国をめざして、一日一日を大切に暮らしましょう。
 平成30年11月吉日
  三島市遺族会

墓標はない。
ここにまつられていた戦士たちの暮鐘がどうなってしまったかは不詳…

陸軍墓地の境界柵の跡。

道路を挟んで、古刹「願成寺」。

場所(三島陸軍墓地跡)

https://goo.gl/maps/QFNkZFZHF4xwn1tx8


三島憲兵分所跡(三島商工会議所)

三島商工会議所の裏に、陸軍境界標石(陸軍境界標柱)が残っている。かつてこのあたりに、憲兵隊司令部三島分隊が駐留していたという。

場所:

https://goo.gl/maps/5JKj9E2oHbRBD88U8

うなぎがいた、三島のうなぎ。


三島

三島といえば、三嶋大社。

伊豆国一宮。延喜式内名神大社。旧社格は官幣大社。
戦争中も被災せずに、神域を保っている。
社殿は慶応2年(1866)の造営、国重要文化財。

水の都、三島。あっちこっちで湧き水。

撮影:2023年6月


野戦重砲兵関連

「三島野戦重砲兵聯隊」三島の戦跡散策・その1

静岡県三島市。
町おこしで軍隊の誘致を実施し、陸軍の街となった「軍都・三島」。
現在も、往時を物語るものが残っていると聞き、散策してみました。

本編は「その1」となります。
「その2」はこちらから。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R440-27
1948年11月12日、米軍撮影の航空写真。


軍都・三島

明治22年(1889)に東海道線が国府津駅から静岡駅まで開通(現在の御殿場線)した際は、東海道の宿場町であった三島には駅が開設されなかった。
鉄道が開通しなかったことにより街が寂れ、そうして町おこしとして軍隊の誘致活動が始まり、大正8年(1919)に野戦重砲兵第一旅団・第二聯隊が横須賀から三島に移転。三島衛戌(えいじゅ)病院(国立病院機構静岡医療センター)も開設。
翌年、大正9年に第三聯隊も三島に移転。
昭和9年(1934)には丹那トンネル開通に伴い、東海道線のルートも変更され、現在の三島駅も開業している。

野戦重砲兵第二聯隊及び第三聯隊をもって野戦重砲兵第一旅団となる。
こうして、三島に聯隊が来て、鉄道も来たことで活気を取り戻し道路も整備された。
現在の日大通りは、大学、高校、中学校、小学校と並んでいるが、このころは十間道路と呼ばれ、道の両側には桜と銀杏が植えられたという。現在は、銀杏だけが残って見事なイチョウ並木となっている。

また、現在の国立遺伝学研究所のある一帯には、中島飛行機株式会社三島製作所が進出していた。


野戦重砲兵第二聯隊跡(三島市立北中学校)

野戦重砲兵第二聯隊の正門門柱と歩哨舎、記念碑などがある。

野戦重砲兵第二聯隊跡
従四位 木下 滋 謹書

木下 滋 は、陸士22期。最終階位が陸軍大佐(陸軍砲兵大佐)。昭和11年に野戦重砲兵第二聯隊長。昭和12年に予備役となるも、招集され昭和20年に重砲兵第13聯隊長となり終戦を迎えている。

略歴
明治23年要塞砲兵大隊として神奈川県浦賀に創設爾来野戦重砲兵第二聯隊と改称、大正8年10月三島に移転、大正天皇、今上陛下の行幸を仰ぎ日清、日露、日独戦役、上海事変、支那事変m大東亜戦争等に参加
昭和20年8月終戦、聯隊の跡を永く残すため此の地に記念碑を建つ
 昭和47年10月1日
 野戦重砲兵第二聯隊
  関係者有志一同

公孫樹碑

大正八年巳未の春三島野戦重砲兵旅団当地に新設さる当時市民挙げて之を歓迎す 人馬絡繹として殷賑を加え新明の地ここに軍容を重ぬ 今の街道を以て然りとなす 当時在郷軍人会相計つて 之が新設を永久に記念すべく公孫樹を植う 爾来四十有八年今や天空を摩さんとす 既往の兵舎は学舎と化し軍歌嘶馬は攻学の和声と変せしも公孫樹は語らず天中を指す 嗚呼 市民朝夕この銀杏並樹の美観に酔う ここに公孫樹並樹記念の碑を建立す 蓋し八万市民の心肺に通う企挙なるを疑わす
 昭和42年11月3日
 (略)

場所(三島北中学校)

https://goo.gl/maps/Am43Rkriq87deQHX8


野戦重砲兵第三聯隊跡(三島市立北幼稚園)

野戦重砲兵第三聯隊も同じく、正門門柱と歩哨舎、記念碑がある。

野戦重砲兵第三聯隊兵営址

野戦重砲兵第三聯隊は当初紀州深山の地に誕生し大正9年11月5日此の地に転営す 終始15糎榴弾砲を装備とし初は輓馬後に自動車を以て牽引せり 尓来星霜40年 訓練に実戦に常に軍の骨幹たるの重責を果し昭和20年ビルマ及チモールに於て解隊す 此の間死生相許したる戦友実に3万を越ゆべし その士どもの夢の跡 東西四百米南北凡そ七百米に亘る兵営の址 歳と共に面影を失うに至るを嘆き残存有志相図って茲に碑を刻し以て永く記念とするもの也
 昭和四十年3月10日
 元野戦重砲兵第3聯隊出身 愛鷹会員有志一同
 撰文並書 元大隊長 本田森造

場所(三島市立北幼稚園)

https://goo.gl/maps/GiTzNbqxP4W2udZX8


野戦重砲兵第三聯隊の通用門跡(三島市立北小学校)

三島市立北小学校の北側には、通用門が残っている。

こちらにも、歩哨舎が残っている。

歩哨舎の窓は塞がれている

門扉。
なんて書いてあるのだろうか。

公孫樹並木に、3つの門跡と歩哨舎跡が集中して残っているのは、なかなかに貴重な空間。

場所(三島市立北小学校)

https://goo.gl/maps/Xh9m1Uysxoe3Y5U8A


日大三島校舎

文教エリアの中心にかまえる日大。
かつての野戦重砲兵第二聯隊の跡地。


野戦重砲兵第二聯隊の境界塀の支柱(日大三島校舎最北端)

日大三島校舎の最北端に、往時の境界の支柱が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/hrrgETNpFrKMtTg86


野戦重砲兵第二聯隊の将校集会所

日大三島校舎11号館の奥にある建屋。
コの字型の平屋。
大学構内への部外者立ち入りができないために敷地外より見学。
シンプルだけどモダンなデザイン。

立ち入りできれば正面玄関も見ることができるが、立ち入りできないので、敷地外から側面のみ。

場所

https://goo.gl/maps/77p9P5YycV2NpBwx6

※撮影:2023年6月

「その2」へ


野戦重砲兵関連

姫路城周辺の戦跡散策

姫路に行く機会があったので、隙間の時間で夕方に駆け足気味に姫路城の周辺を散策してみた。きちんと、散策できてないけど、まずはざっくりでも、何もしないよりかはマシかな、という感じで、巡ってみました。


姫路城

実は、初めて見ます。これは、やはり美しいですね。
良いものを拝見できました。
なお、日没直前なので、あまり時間もなく、城を遠望するのみ。


歩兵第10聯隊跡碑

柵の内側、立入禁止エリアになにやら石碑があります。

三の丸広場の北東。天守閣のすぐ下、です。

歩兵第十聯隊跡碑

歩兵第10聯隊は、明治7年に大阪鎮台にて編成され、明治9年に姫路に転営。
宇垣軍縮の影響で、大正14年に岡山に転営。

望遠で、、、

歩兵第十聯隊は明治七年大阪鎮台に於て編成同九年此の城域に移る爾来駐屯して大正十四年岡山轉營に至る
 其の間兵庫岡山及び當初は鳥取縣に跨る徴募区より毎年入營せし壮丁皆滅私奉公の至誠に徹して日夜練武に精進一旦有事の秋に備ふ
 春風秋雨五十年終始衞戍の責に任じ更に西南の役を始め日清日露の両戰役に際し勇躍國難に於いて偉勲を樹つ
 茲に其の史蹟を永く記念して此の碑を建つ
  昭和四十二年三月
   姫路歩十會

誠忠

奥になにかあった。立ち入りできないので望遠。。。

(前略)
廢藩置縣後陸軍ノ所管タリシヲ昭和八年五月文部省ニ移管シ本市ニ於テ縦覧通路ヲ開設ス仍テ此ノ碑ヲ建ツ

陸軍から移管されて姫路市が通路を開設したことを記録する石碑。

場所

https://goo.gl/maps/F81hPo5TiqDrVqvu8


迫撃第四大隊

姫路城の南西の広場にある記念碑。

中国戦線で戦い抜いた迫撃砲部隊の記念碑。第11軍に属していた。
迫撃第四大隊発祥の地。

迫四の友 集い来りて 白鷺乃地に立つ

迫撃第四大隊發祥の地に之を建つ
 昭和十二年七月日中事變の勃發と共に郷土の衆望を擔ひ姫路に於て編成せられた我が大隊は十年の歳月を大陸の戰野に轉戰常に特殊任務に從事する獨立大隊として國軍唯一の精華たりしも曽て征旅に就くに方り命運懸けて祈りしひと本の植樹も今は亡く仍てその跡に生還せる者相集ひ我等が鎮魂の賦をここに埋銘し以て萬世不易世界平和を祈念するものである。
 昭和五十六年三月吉日 迫四會

愛馬の碑

場所

https://goo.gl/maps/9F9UFNCmAWZ4n9r87


歩兵第39聯隊碑

兵ども乃 あゝ三九 庭の跡
姫路市長 吉田豊信 書

歩兵第三十九聯隊は日清戦争後姫路に創設せられ第二次大戦の終わるまで姫路城内に屯し文武両道を練磨すること五十有余年平時は國家の中堅となり出でては北満より南洋に至るまで勇躍國難に当たり赫々たる偉勲を樹つ
我等戦友は関連諸部隊と相計り往年の面影を偲び茲元営内跡に記念碑を建て血染の軍旗の一部を地下に浄めて永へに顕彰せんとす
 昭和五十一年十一月
  姫路 三九会

場所

https://goo.gl/maps/bxyRo6wQNPapLQzZ7

左側に、第39聯隊の兵営があった。
現在は、兵庫県立姫路聴覚特別支援学校などがある。


歩兵第39聯隊の境界標石

「姫路城 埋門跡」近くに、陸軍の境界標石(陸軍標柱)が残っている。

陸軍省

このあたりが、第39聯隊の兵営の最南西端にあたる。

埋門跡


国道2号線建設之碑

姫路城の中堀を埋め立てて国道2号線を建設した記念碑。
案内板に掲げられた御紋が重々しい。

この石碑は昭和七年(一九三二)二月、国道2号線の改修を記念して建てられた。改修にあたって、中堀が東西約四五〇メートルにわたって埋め立てられた。中堀のあったことがわかるように、その境界線にこの石碑が建てられた。この石碑は元々は道路の西側にあったが、昭和六十一年(一九八六)の国道2号線拡張工事のため、同所に移転された。中堀の埋め立ては大正期にも進められていた。昭和七年当時、この石碑から東側はすでに埋め立てられて商業地等に変貌しており、姫路市立女子技芸学校(現在の姫路市立琴丘高等学校)も建てられていた

姫路駅のテラスから。この眺望は絵になりますね。

時間がなくて、陸軍第10師団兵器庫(姫路市立美術館)に行けなかったのが悔しい。

https://goo.gl/maps/L7G1L8NUxsHXE4L87

ストリートビューより。。。

姫路、再訪できるかな、、、、

※2023年6月撮影


関連

兵庫縣姫路護國神社

「兵庫縣姫路護國神社」に立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。

ちなみに兵庫県は、護國神社が2社あります。神戸と姫路。内務大臣指定護国神社として。
 兵庫縣神戸護國神社:兵庫県東部地区出身の戦没者53,257柱
 兵庫縣姫路護國神社:兵庫県西部地区出身の戦没者56,988柱

参考

兵庫縣姫路護國神社

戊辰の役(明治元年)以降国難に殉ぜられた兵庫県西南部地域(播州、但馬地区)出身の護国の「みたま」五万六千九百八十八柱命を祀る。

1893年(明治26年)より毎年、現鎮座地の近くに祭庭を設けて招魂祭が行われていたが、正式な社殿を造営して招魂社とすることとなり、1936年(昭和11年)に鎮座地を決定。
1938年(昭和13年)に竣工・鎮座した。
翌1939年(昭和14年)、制度改革により「兵庫縣姫路護國神社」となり、内務大臣指定護国神社となった。
第二次世界大戦後のGHQ占領下では一時的に姫路城の別名の白鷺城に因んで「白鷺宮」と改称していたが独立後は元の社名に復している。


兵庫縣姫路護國神社境内

社号標

昭和天皇御製
静かなる
 神のみそのの
  朝ぼらけ
世のありさまも
 かかれとぞおもふ

昭和13年歌会始の御製「神苑朝」

狛犬

社号標

昭和17年12月8日建立。開戦の1年後。

御社殿

拝礼

ありがとうございます。


御朱印

御朱印をいただきました。


護國神社の由緒

兵庫縣姫路護國神社の由緒を、書き起こし。
これは、とても佳き記述です。

護國神社の由緒 
明治という時代は今に続く国の仕組みの基になりました。
慶応3年(1867)徳川慶喜公が大政奉還を明治天皇に上奏し、王政復古の大号令によって明治政府樹立が宣言されました。この前後、国内では、独立を保つ近代国家をめざして様々な議論や戦いがありました。
姫路藩河合惣兵衛宗元をはじめ明治維新の志半ばで倒れた勤王の志士を、慰霊顕彰する祭祀が、明治26年(1893)この地で執行されました。それが当護國神社の始まりであります。
その時代から昭和に至るまで国家を守護し、地域とそして何より家族を守ろうとして殉ぜられた方々を英霊とお呼びし、最新としてお祭りしています。
先人の困難を振り返り、あらためて私たちが平和で豊かな国土に暮らしていることに感謝し未来の御加護を祈りましょう。

我が国が米国や英国などと戦った大東亜戦争は、国内に物資も乏しい上に供給を止められ惨烈を極めました。特に「比島散華碑」に記載された部隊が派遣されたフィリピン、ルソン島のように、南方では武器も食料も尽きその上マラリアなど熱帯特有の病気に罹るなど、将兵の疲労困憊は、極度に達し、遂に力尽きて斃れるものも多かったのです。生存者は少なく、戦後13年を経て昭和33年(1958)4月、政府の手により比島方面遺骨収集が行われました。共に戦った戦友は、護國神社に相よって英霊の偉勲を讃え、石碑を建立しました。
召集や志願で戦地に向かわれ戦死された方々の残された手紙や遺書には、本土への空襲を阻止するなど祖国防衛の気概と家族を守らんとする思いにあふれています。

明治維新のさきがけから、戦陣に倒れた英霊は246万余柱です。当護國神社には郷土の人たち56,988柱の方々が祀られています。多くの方々が「欧米諸国によるアジアの植民地を開放し、自立を目指すという理念と構想」を元に始まったとされる大東亜戦争で戦死をされました。
昭和6年(1931)の満州事変から昭和20年(1945)の長い戦いの中、我が国は、資源や財力も乏しく敗戦を迎えました。戦後約6年8ヶ月もの間、占領下におかれ、民族固有の価値観が制限されました。その間当護國神社は、社名を「白鷺宮」として祭祀を永続し、昭和27年占領が解かれ、再び護國神社と復称いたしました。昭和28年8月衆議院本会議において「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議案」が、全会一致で承認され、東京裁判でいわゆる戦犯と呼ばれた方々の名誉が回復されました。

先の大戦は、国家国民を挙げての戦いでありました。
勉学に励む20歳以上の学生も戦場に向かいました。
東京オリンピックが開催された国立競技場は、昭和18年(1943)に出陣学徒壮行会が行われました場所です。
また、国民は男女を問わず、地域や工場で奉仕するなど銃後を守りました。「賀堂流碑」は、戦地に兵士の慰問に行かれ戦死された宗家を顕彰して建立されました
今を生きている私たちが、戦争の起こった当時の状況を学び理解することは、大変重要なことです。私たちはそれらの資料に基づいてその歴史を客観的に見ることができます。しかし、動乱のなかに生きた英霊は、大変な困難を前に一心に、自分の命をかけて、国家を、地域を、家族を守ることが、正しい道と考え立ち向かわれました。
そのことを後世の人達が称え、感謝することはとても大切なことです。

日本全国には8万柱を超える神社が鎮座しています。
日本最古の歴史書「古事記」が編纂されて1300余年になりますが、それ以前から私たち民族は、自然と祖先を崇拝し感謝をささげるために、8百万の神々を祀ってきました。
私たちが命をいただき生きているのは、自然の恵みと祖先のおかげであります。
護國神社の御祭神は身近なご先祖の一柱です。
あなたのたくさんのご先祖様の中には、必ず御英霊がいらっしゃいます。
ふりかえって、もう一度社殿を見てください。
子孫を温かく見守って下さるまなざしを感じられると思います。
神社のいわれを深く知り、もう一度頭を垂れ感謝の気持ちを伝えてください。
 ここはあなたの祈りが届場所です。
  姫路市本町118
  兵庫縣姫路護國神社


境内の慰霊碑

鉄五四五四部隊 比島散華碑

鉄五四五四部隊(第十師団輜重兵第十聯隊)の慰霊顕彰碑。
昭和三十四年十月建立。

鉄五四五四部隊(第十師団輜重兵第十聯隊)は昭和十九年七月満州国三江省佳木斯に於て動員下令翌八月同所を出発台湾防衛の任に就く同年十二月比島作戦参加の為め高雄港を出発主力を以てルソン島リンガエンに一部を以てマニラ及アパリに上陸す途中主力の乗船せる乾端丸は敵潜水艦の攻撃を受けて軣沈部隊長鍋島少将以下多数の戦友を失う昭和二十年一月中部ルソン島ハレテ峠付近に集結米軍迎撃の準備を整ふ同年二月優勢なる米軍は空陸呼応して我が陣地正面に対し攻撃を開始す此処に於て聯隊は第一大隊をして第一線部隊に対する補給を継続せしむると共に第二大隊をして其の補給任務を解除し之を歩兵部隊に改編し第一線陣地の守備に就かしむ恰も我が第二大隊陣地正面は米軍の主攻撃方向に当りたる為其の戦斗は惨烈を極め全員勇戦奮斗せるも戦況我に利あらず大隊長以下多大の犠牲者を出すに至れりかくの如くして此の方面に於て激戦を継続すること半年有余部隊は爾后の作戦準備の為ビノンカシブを経てビナバガンに向ひ転進を開始せり此の間凡そ二百粁人類未踏の山岳地帯にして進まんとすれど道無く食はんとすれど糧なく将兵の疲労困憊は極度に達し遂に力尽きて斃るゝもの数を知らずかくして八月初めピナバガンに到着戦斗準備を完了す此の時に於ける部隊の生存者は百有余名なり昭和二十年九月十一日終戦を知る 戦後十有三年を経て昭和三十三年四月政府の手により我等念願の比島方面遺骨収集が行はれ幸にしてこれが分骨を受く此処に生存者同志相寄り護国神社境内に石碑並に献木し亡き戦友の偉勲を讃え其の霊を弔う

碑の傍らには、「輜重車の車輪」が献納されておりました。

散華鎮魂
二六四三

2643は、紀元かな。
そうすると、1983年(昭和58年)奉納の鐘と推測できる。
(紀元2600年=西暦1940年=昭和15年)


姫路歩兵第百三十九聯隊 
鎮魂碑

第百三十九聯隊の戦友戦没者1357柱の慰霊顕彰

姫路歩兵第百三十九聯隊略史
昭和十三年六月、軍旗を拝受。北支に出征。鷺三九〇八部隊として河北省、山東省その他を転戦し、数年にわたり、よく治安の大任を果す。
昭和十九年、黄河を渡り京漢作戦に参加、梃進部隊として密県、登封、洛河々谷を進撃し、その武勲高く輝く。こえて昭和二十年、老河口作戦開始せらるるや、たちまち内郷、西峡口に突入し、数倍の敵を阻止し、その武功抜群の奮戦により感状が上聞に達した。
終戦後、八月二十四日軍旗を奉焼し、洛陽に集結。翌二十一年三月、同地出発、帰国、復員する。散華して祖国に帰り得ない英霊一三五七柱あり。
われら、鎮魂のため、永久平和を祈念して、この碑を建立する。

第139聯隊戦友会  
 会長 伊藤栄一謹書
  平成四年五月吉日


歩兵第八十一聯隊・野砲兵第二十三聯隊 
鎮魂

歩兵第八十一聯隊、野砲兵第二十三聯隊戦友戦没者の慰霊顕彰

鎮魂
 元第十七師団長 酒井康

酒井康は、第17師団長・留守第56師団長・陸軍兵器本部企画部長等を歴任し、階級は陸軍中将、勲一等に至る。陸士24期を経て陸大32期首席。
昭和17年12月から17師団長として南方戦線ニューブリテン島の防衛にあたり、ラバウルで持久戦のさなか、終戦を迎えた。

歩兵第八十一聯隊戦友会
野砲兵第二十三聯隊戦友会
建之

歩兵第八十一聯隊ハ支那事変酣ノ昭和十三年第十七師団隷下ニ編制八月軍旗ヲ遠ク長江山野ニ進メ宜昌・漢水・豫南・浙贛他数多作戦悉ク捷チ馳騁千里武名華中ニ遍ク 
戦雲南東太平洋ヲ蓋フヤ十八年秋敵雷撃ニ僚船轟沈ノ悲運ニ堪ヘ南溟ノ怒涛遙カニューブリテン島マーカス岬ニ奮迅御嘉賞ヲ賜フ士氣凛々祖国ノ興廃ヲ賭シテブーゲンビル島タロキナ攻隊ノ死闘半ハ終戦ノ令下り無念軍旗ヲ奉焼ス 征戦七年殉国ノ勇士五千有余敵弾ト飢餓瘴癘ニ遂ニ還ラス実ニ痛恨断腸ノ極茲ニ我等碑ヲ刻ミ忠烈武勲ヲ千載ニ垂レテ英魂ヲ鎮メ邦家無窮ノ安寧ヲ希フヤ切ナリ
 昭和五十七年五月三日
  歩兵第八十一聯隊戦友会

第十七師団野砲兵第二十三聯隊は明治四十一年創立大正十四年廃隊昭和十三年再編同年七月大陸に進出
武漢攻畧・高瑞鎮・漢水・豫南・浙贛等各作戦に武勲を挙げ十八年装備を山砲に改め同年秋呉淞出港台湾沖にて敵潜水艦の雷撃を受け聯隊長以下の枢軸を失ふもニューブリテン島ブーゲンビル島に上陸・ツルブガスマタ・タラセヤ・タロキナの攻防戦に死闘し 時に利なく二十年八月終戦の令下り二十一年五月名古屋にて解隊す
創立以來敵弾飢餓瘴癘に殪れた幾多戦友の英魂を鎮め武勲を千載に残すため我等戦友遺族相寄りこの神域に鎮魂碑を建立す
  昭和五十七年五月三日
   野砲兵第二十三聯隊戦友会


詩歌吟詠道 賀道流碑

部隊慰問中に急逝された詩歌吟詠道賀堂流(初代宗家・礒部賀堂)の慰霊顕彰の碑

詩歌吟詠道 賀道流碑

碑文
詩歌吟詠道賀堂流は初代崇吟社礒部賀堂創始 礒部家を宗家として伝承す
初代は明治二十六年七月姫路東郷町松下家に生れ礒部家に入婿坂田町に住す姫路藩吟詠を伝えし西村宣孝の教を受く多年刻苦の末豪壮且つ幽麗なる吟詠法を創案しその格調天下に冠たり
全国に門人を得社会人心の醇化並に吟詠界に貢献多大なりしが昭和十七年再度戦陣慰問吟行中に中国山西省喉馬鎮に急逝し靖国神社に合祀さる
爾來二十星霜茲に及門相謀り流碑を建立して当流の由来を記しその発展を期すると共に創始の偉績を万世に顕揚す
   昭和三十七年三月
     詩歌吟詠道賀堂流門弟一同


征き逝きし 同胞迎う 里もみじ


敬仰 国旗掲揚塔

敬仰

海軍少将 水井静治 書

水井静治は海兵40期。千代田や千歳の艦長、舞鶴や呉の防戦司令官を経て終戦時は第81戦隊司令官。

碑文
 戊辰の役以降、今次大戦に至る数次の戦役において祖国の負託に応え国難に赴き散華された御霊の、不滅の偉勲を顕彰し国際社会にあって国家を表徴する英霊由縁の日章旗と、海軍伝統精神の象徴たる軍艦旗を捧げるとともに、併せて国旗尊厳を後世に伝承すべく念願して、海軍在籍者の団体兵庫県海交会、ならびに海軍ゆかりの有志により、ここに国旗掲揚塔を建立し奉献する。
  平成2年11月吉日
    兵庫県海交会

境内の石碑群

兵庫縣姫路護國神社サイト

TOP

姫路城

周辺も散策してみましたが、それは別記事にて

※撮影:2023年6月


関連

ちなみに仕事の移動の関係で、同日で滋賀県と兵庫県姫路の護國神社を参拝しました。。。

護國神社関連

はじめに

滋賀縣護國神社

「滋賀縣護國神社」に立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。


滋賀縣護國神社

明治戊辰の役以来、西南の役、日清戦争、日露戦争から大東亜戦争に至る幾多の戦役、国事・国難に殉じられた滋賀県出身の英霊3万4750柱をお祀りする。

明治2年9月、彦根藩は戊辰戦争の戦死者をとむらうため、古沢村(現・古沢町)の地に招魂碑を建立。
明治8年には内務省の発令と旧彦根藩主・井伊直憲公の発議により、旧彦根藩士と協議の上で現在の地に招魂社を造営する。
明治9年5月に竣工され、戊辰戦争の御英霊26柱が祀られた。
昭和14年(1939)4月に内務省の告示により、全国の招魂社が護国神社と改名され、滋賀県の招魂社も「滋賀縣護國神社」となった。
昭和20年8月15日に敗戦を迎え、占領軍の干渉により、滋賀縣護國神社は沙々那美(さざなみ)神社と改名。その後、サンフランシスコ講和条約の締結で主権を回復し、同28年10月に再び社名を滋賀縣護國神社に戻された。


滋賀縣護國神社 社頭

滋賀縣護國神社

陸軍大将鈴木孝雄謹書

鳥居

狛犬


滋賀縣護國神社 御社殿

拝礼

ありがとうございます

近江を制する者は天下を制す

彦根藩第17代最後の藩主である井伊直憲公の具足「紅緘二枚胴具足」を保有している。(彦根城博物館に保管)
井伊家の赤備え

御朱印

滋賀縣護國神社の御朱印

浦安の舞 の 御製 
昭和天皇(昭和8年歌会始)
天地の 神にぞ祈る 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を

限定御朱印は際限がないので、基本の御朱印をいただきました。

ありがとうございます。


境内の慰霊碑を巡拝する

第二十号掃海艇 慰霊碑

第二十号掃海艇 
慰霊碑

第二十号掃海艇戰闘詳報
第二十号掃海艇は昭和二十年五月二日海防艦男鹿が門司港から上海に向かう途中敵潜水艦の魚雷攻撃をうけ沈没した情報に接し同艦の遭難者を救助するため翌三日五時十五分朝鮮木浦港を出発、男鹿の沈没地点である黄海南部に向け航行中同月五日二十時に通信連絡を行った後同艇は消息不明となりその遭難地点は北緯三三度五六分東経一二二度四九分附近と認定せらる。
同艇乗組員艇長海軍中佐田中三蔵以下一七五名壮烈なる戦死を遂ぐ。
 滋賀縣護國神社宮司
  山本浅次郎

碑の裏に順不同として刻されている府県別戦没者氏名の柱数は以下。
滋賀県16柱、京都府28柱、兵庫県1柱、福井県12柱、石川県15柱、富山県20柱
新潟県50柱、山形県32柱、秋田県1柱。


滋賀県近衛歩兵第一聯隊会 灯籠


慰霊

日露戦争従軍記念の碑

慰霊 散りてこそ誉れあるなりやま桜 正雄

戦場の四季 和歌4句


石部隊独立歩兵第十一大隊 
北支沖縄戦没勇士慰霊碑

石部隊独立歩兵第十一大隊 
北支沖縄戦没勇士慰霊碑

昭和13年2月10日 部隊編成於北支天津
同20年6月20日 沖縄南部に於て玉砕
昭和45年3月 昔陽會 建之

部隊は昭和13年2月北支天津に於て編成され、北支山西省昔陽県に駐屯し、山西河南河北の各省に亘り大行山系の各作戦また中原会戦等に参加、赫々たる戦果を挙げ太平洋戦争となるや部隊は昭和19年沖縄に転戦
米軍上陸と共にこれを迎え撃ち激戦の末部隊は突撃を敢行し全員玉砕す
茲に部隊の在籍生存者が相集り今は亡き戦友の霊に対して心からその栄誉を賞え偉功を永久に伝えるため慰霊碑を建立したものであります
この碑の下には沖縄激戦地の石を持帰り奉祀してあります
 独立歩兵第11大隊
  昔陽会


平和の礎 シベリア強制抑留者慰霊碑

シベリア強制抑留者の慰霊碑。
平成12年11月建立。

平和の礎
シベリア強制抑留者慰霊碑
 滋賀県知事 國松善次

碑文
悲惨な第二次世界大戦は、日本のポツダム宣言受諾により、昭和二十年八月十五日を以って終結した。
然るに旧ソ連は、協定を守る事なく六十余万人の日本将兵を酷寒のシベリア各地に連行抑留し長期に及ぶ過酷な重労働を強制した。飢えと寒さと生地獄の中、祖国日本への帰還の願い空しく、本県出身者四百余名は、遂に力尽きて無念の死を遂げた。
誠に痛恨の極みである。辛酸に耐え生還した私たちはこのことに深く想いを致すと共にその事実を後世に正しく伝え、且つ抑留死没者の冥福と恒久の平和を祈念し、財団法人全国強制抑留者協会の助成並びに会員、遺族等の賛助を得て、ここにこの碑を建立する。
 平成十二年十一月吉日  
 滋賀県シベリア抑留者慰霊碑建立委員会


戦歿軍馬軍犬軍鳩靈之碑

戦歿した軍馬・軍犬・軍鳩の霊を、戦士と共に末長く慰霊顕彰するため彦根・長浜地区の旧軍人等有志が「戦歿軍馬軍犬軍鳩慰霊塔建設委員会」を組織し県下一円に篤志を募って建立。
御影石製台座の上に馬1頭、犬1匹、鳩2羽の像が据えられている。

昭和61年10月1日建立。

戦歿軍馬軍犬軍鳩靈之碑

戦歿軍馬軍犬軍鳩を慰む
昭和二十年の終戦を迎えるまで幾多の戦役に従い傷病に斃れあるひは海没となり草むす屍水漬く屍となり一頭も故国に帰らずして終る軍馬犬鳩幾十百万とも数知れず。
祖国の護りのため英霊と運命を共にした無言の軍馬犬鳩の尊い犠牲をしのび永くその功をたたえると共にその霊を慰むる一端として有志の主唱により県内は勿論全国から五阡余名の方々の浄財を得ここ彦根市尾末町一番地滋賀県護国神社内に慰霊銅像を建立し安らかな眠りと永遠の平和を希う。
 昭和六十一年十月一日


祈 平和之碑

昭和57年5月吉日建立。

祈 
平和之碑
彦根傷痍軍人会

御製
国もると 身をきすつけし ひとびとの 
うへをしおもふ あさにゆうへに
 滋賀縣護國神社宮司 山本浅次郎 謹書

広島長崎の原爆を忘れず
人類の破滅を招く戦争を
二度とおこすことなく
世界の平和を守ろう
 滋賀縣護國神社宮司 山本浅次郎 謹書


拓魂碑

昭和47年12月建立。滋賀県知事 野崎欣一郎 謹書

昭和7年からの満蒙開拓事業に参加した滋賀県送出の44個団隊1800余名の開拓者のうち、青少年義勇隊員も含む物故者約400余名の諸霊の慰霊顕彰のため、滋賀県拓魂碑建立委員会が建立。

顧みるに満蒙開拓事業は昭和七年より二十ヵ年百万戸移住計画に基づき民族協和の理想現実と日本民族の発展とを目ざした当時の国策であった。
この要請にこたえて本県送出の四十四個団隊千八百余名の開拓者たちは、現地の苛烈な気候風土を克服しあらゆる困苦欠乏に耐えながら営々と未墾の沃野を拓き着々その成果を挙げつつあった。
然るに、昭和二十年八月、終戦によってその雄図は挫折したのみならず、異境で遭難した開拓者の末路はあまりにも悲惨であった。
戦火に追われて混乱する治安のなかで一家は離散し母子相擁して命を絶つ者、逃避放浪の末生死不明の者、ひたすら帰国を夢みつつも遂に飢餓と病魔に斃れた者四百名を数え、この渦中に可憐な十四・五歳の青少年義勇隊員の多くもあたら青春を犠牲にしたのである。
爾来二十幾星霜辛うじて生還した拓友をはじめ同志相計り多くの賛同を得て、此の地に拓魂碑を建立するに至った。
悲運の肉親同胞を偲び、諸霊の冥福を祈願するとともに、われわれもまたこの碑に集い、祖国永遠の平和と弥栄を翼うものである。
 昭和四十七年十二月九日  
 滋賀県満蒙開拓物故者 
 慰霊碑建立委員会


拓友碑

昭和44年9月建立。満蒙開拓の慰霊碑。

顧ミルニ昭和七年カラ十九年ニカケテ我国ハ満蒙ノ開拓ヲ国策トシテ日本各県カラ大陸移民ヲ奨メ又満洲各地ニ満洲青年義勇隊訓練所ヲ設ケテ北満ノ守リヲ兼ネ開拓部落建設ニ当ラシメ三年ヲ勉学教練農事ノ訓練期間トシテ十五、六歳ノ青少年ヲ全国各県カラ続々其訓練所ニ入所セシメタ
昭和十八年三重滋賀両県カラ集マッタ青少年二百三名ハ滋賀県甲西町針出身ノ北島光三ヲ隊長トシテ大志ヲ抱イテ元満洲国北安省対店義勇隊ニ入所シタ
爾来三年炎熱ノ大平原二千里果ナイ銀世界ニ理想実現ヲ目サシテ青春ノ情熱ヲ傾ケタノデアッタガ太平洋戦争ハ敗北シ其雄図ハ空シク挫折シタ昭和二十年九月満洲ニ進駐シタソ聨軍ノ命ニヨッテ北安捕虜収容所ニ収容の憂目ヲミタ
厳寒ノ冬来ル頃出所ヲ見タモノノ乏シイ糧ヲ分ケ合ヒ幾十日カヲ過シタ収容生活ニ体力ノ消耗甚シク其上アラユル強制労役ニ服スル事一年有余加エテ混乱スル治安ハ言語ニ絶シ五十一名ノ若イ命ガ赤イ夕日ノ荒野ニ悲シク露ト消エタ
此碑ハ只管帰郷ノ夢ヲ見ツツ今尚寂シク異国ノ土ニ眠ル友ト且又漸クニシテ故国ノ土ヲ踏ンダガ幸薄クシテ早ク逝ッタ友ノ霊ヲ慰メル為ニ此地ニ昭和四十四年九月建立シタ墓石ト礎石ハ隊員数二百三個ノ郷土ノ石ヲ我等ガ持寄ッタモノデアル毎年秋生存者一同ガ墓前ニ集マリ永眠スル拓友ノ冥福ヲ祈ルモノデアル
 昭和四十八年九月
 元満洲国北安省対店青年義勇隊北島中隊
 三滋北義會


花塚

平成4年4月建立

花に感謝
平成元年花塚建立、平成23年花塚改修


宮田思洋句碑

昭和52年春建立。
宮田常蔵(思洋)氏は、能楽シテ方観世流師範・俳人・郷土史研究家。弟子によって建立。

お天守の 窓に野山の錦かな


父の像

昭和44年8月建立。滋賀県遺族会。

平和を願う
戦争で幾百万という兵士が死んだ
兵士には父や母があり妻と子がいた
その子供達は父のいない家庭に育ち
父がほしいと何度か思って大人になった
そして自分達で父の像をつくった
異国で散った兵士も遺された家族も
 願いは一つ平和であった

父の像に捧ぐ 詞 我孫子元治
おとうさん
あなたに抱かれたことのない子が
あなたの遺骨を抱いたとき

おとうさん
あなたの無言の帰還を迎えて
あなたのきびしい声を聞いた

おとうさん
あなたの遺志を継いだ子が
あなたの霊に改めて誓う

おとうさん
あなたの抱き続けた平和への祈りを
あなたの子として祈り続ける   

 滋賀県遺族会青壮年部


母の像

平成19年9月建立。

 祖国の危機に際し、多くの若者が戦場に赴いた。そして幾百万人もが戦禍に散った。
 残された家族は、深い悲しみに耐えながらも敗戦の中で様々な困難と闘い、家族を守り、国の復興に努めた。とりわけ兵士の妻たちは、夫の無言の帰還の日から悲しみや孤独に耐え、唯一子供の成長を頼りに母として必死に生きた。
 子供たちも、その母と父を誇りに、二度と戦争のない世界を目指し、遺族として各種の活動を展開した。
滋賀県遺族会は創立六十周年を記念し、ここに平和への願いをこめて「母の像」を建立する。
 平成十九年 九月 吉日
 財団法人 滋賀県遺族会
      会長 山田利治


天皇陛下皇后陛下御親拝記念碑

天皇陛下皇后陛下御親拝記念碑

昭和50年5月28日建立。

昭和50年5月28日天皇・皇后両陛下には、第26回全国植樹祭ご臨席のため、滋賀県に行幸啓あらせられ、滋賀縣護國神社にご親拝を賜ったのを記念。


滋賀県英霊顕彰館

御英霊のお写真を掲揚

滋賀縣護國神社サイト

https://www.shigagokoku.jp/


彦根城

時間がなかったので、彦根城は寄らずに遠巻きに、見ただけでした。。。

※撮影:2023年6月


関連

ちなみに仕事の移動の関係で、同日で滋賀県と兵庫県姫路の護國神社を参拝しました。。。

護國神社関連

はじめに

日露戦勝記念の「砲弾狛犬」(館山・長須賀の熊野神社)

以前、横浜と川崎の砲弾狛犬を特集した。その続き。

日露戦勝記念の「砲弾狛犬」(横浜・川崎)

先日、館山に赴いた際に、宿題となっていた館山の砲弾狛犬にも会ってきたので、写真を掲載。


長須賀の熊野神社「砲弾狛犬」(館山市)

千葉県館山市長須賀406に鎮座する狛犬。
前足を砲弾に乗せていますね。

明治34年(1904)から明治35年にかけて日本とロシアの間で勃発した日露戦争での戦勝記念で建立奉納されたもの。
神社において伝統的であった「狛犬」が、近代の熱狂の中で、砲弾を抱え始めたという、ひとつの時代の象徴的な姿、でもある。

椎実型砲弾を前足で抑えつけている。

銘がないため詳細じは不詳だが、大正8年(1919年)に奉納されたものという。

こちらは球型砲弾といって良いのか?

熊野神社
長須賀熊野神社の創建年代等は不詳。
明治社格制定に際しては村社に列格。

拝殿前は、普通の狛犬。

こちらは昭和17年の奉納。

※撮影:2023年7月


砲弾狛犬5社

神奈川県横浜市南区山王町5-32
 お三の宮日枝神社

神奈川県横浜市中区本牧原29-18
 吾妻神社

神奈川県川崎市中原区下小田中1-2-8
 大戸神社

神奈川県川崎市川崎区大島3ー4ー8
 八幡神社

千葉県館山市長須賀406
 熊野神社

横浜大空襲の慰霊巡拝

昭和20年(1945年)5月29日。横浜大空襲。
今回は、横浜の空襲にまつわる慰霊碑などをいくつか散策してみようと思う。

合掌


横浜大空襲

昭和17年4月18日、ドーリットル空襲において横浜・川崎地区でも初空襲を受けて以来、横浜は大小30回にも及ぶ空襲を受けてきたという。

昭和19年12月25日、B-29 による横浜地区、初空襲。

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/gaiyo/shishiryo/showa/digital-archives/daikushu/ks-nenpyou3.html

昭和20年4月4日、B-29 による川崎地区、初空襲。
そして4月15日にB-29爆撃機200機を超す編隊にて川崎を空襲。
「川崎大空襲」での死者は700人から1500人といわれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html

昭和20年(1945)5月29日昼間、アメリカ軍はB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機という大編隊でもって横浜を空襲。約8000人から10000人という死者をだした。この「横浜大空襲」では、京急平沼駅が壊滅、神奈川県護國神社は焼失、している。


防空壕跡と戦災受難者の碑(霞ケ丘丘友会館)

霞ケ丘丘友会館の敷地内。

石垣のところに、防空壕あったという。

戦災殉難者之碑

昭和41年5月29日
 霞ケ丘丘友会 建立

会館では、観音様を安置しているという。
5月29日には、戦災殉難者之碑の前で、供養が行われている。

場所

https://goo.gl/maps/NFbeTsHgFzSn31iu7


親子身がわり地蔵尊(医王山光明院東光寺)

医王山光明院東光寺。
毎年、5月29日の横浜大空襲の日には、横浜大空襲物故者慰霊法会が執り行われている。

親子身がわり地蔵尊

地蔵尊は、先々代住職木川光雄和尚が終戦後間もなく三春台町内会の皆様と相談し、空襲で亡くなられた方々のご冥福をお祈り致す為に建立されたもの。

場所

https://goo.gl/maps/tLmf66oCqTZeXsdB6


横浜大空襲の遺体仮収容所(久保山円覚寺)

昭和20年(1945年)の横浜大空襲によって、久保山円覚寺の堂宇の全ては消失。境内には、遺体の仮安置所が設けられた。

有鉛無縁三界万霊

横浜大空襲の犠牲者も含め、有鉛無縁に命ある全ての霊を慰める。

慰霊塔

戦没者慰霊碑

場所

https://goo.gl/maps/omRwLti4PVdLaLdo8


黄金地蔵尊(普門院)

昭和20年5月29日、横浜大空襲の際、近くに高射砲台があったためか焼夷弾が数多く落とされた。普門院にも助けを求めて多くの人が駆け込んできたが、火の回りが早く境内手前の階段で力尽きたものもいた。
当時の住職も迫りくる炎の中、念仏を唱えながら絶命されたという。
黄金町駅前には多くの遺体が運び込まれたため、終戦後、供養のため地蔵尊が駅前に建立された。その後、駅前開発の際、普門院に移築された。
毎年5月29日に法要が行われている。
  普門院 ご住職の証言をもとに構成

総務省>黄金地蔵尊

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/kanagawa_yokohama_city004/index.html

防災頭巾を被った、黄金地蔵尊

場所

https://goo.gl/maps/ffv2zd7dT5juJeLN7


京急黄金町駅

横浜大空襲で一番の被害を出したのが、京急黄金町駅周辺であった。停車中の電車の乗客、退避中の人々などが駅に集まり、高架下のガードは焼死体であふれかえったともいわれている。

黄金町を流れる川は、あたり一面が火の海となり熱湯と化したという。

黄金町がある南区は死者1308人、行方不明7人、重軽傷者1987人、被災者6万9124人という市内でもっとも大きな被害を受けた。


戦没者供養地蔵(黄金町)

横浜大空襲において、黄金町駅周辺は、多数の犠牲者で溢れ、遺体の仮収容所が当地に設けられていた、という。
その後、再開発しようとすると事故が多発したために、供養のために地蔵を建立し、当地は駐車場として活用することになった、という。

前述の黄金地蔵尊が、当初はこの地にあったが、のちに普門院に遷座し、そのごに、供養地蔵が建立されたものと推測。

場所

https://goo.gl/maps/grqEhdh4Vsm1eWvC9


平和祈念碑(大通り公園)

大通り公園。最西端、阪東橋駅近くにある祈念碑。
愛・平和・地球を中国殷時代の金文を立体構成したブロンズ製のモニュメント。

「愛をもって世界の平和を祈念する」

平和祈念碑 由来之記
  1941年12月8日 日本軍の米国真珠湾軍港に対する奇襲攻撃により 大日本帝国は 連合国軍との間に戦端を開くに至った。
その後1945年8月15日に至り わが民族の滅亡を憂うご聖断により漸く敗戦の日を迎えた。

  その間 三年九ヶ月余。政・軍・官の情報統制の下 一般庶民は戦争の実相を知らされることなく ひたすら盲従を強いられた日々であった。戦線が次第に日本本土に近づくにつれ 米軍機による空爆は熾烈を極め 国内百数十の都市が軍事施設・民間施設の別なく攻撃を受け 非武装の一般民衆が多数犠牲となった。横浜はこの間三十数回の空爆をうけた。特に1945年5月29日白昼 当時世界最大級の重爆撃機B29五百余機 随伴戦闘機P51百余機の連合軍機により 市内は絨毯爆撃を受けること一時間余。焼夷弾換算四十三万余発の投下により市内は焦熱地獄の様相を呈し 非武装の民衆に万余の犠牲者を生ぜしめた。

  この地に戦火止みて既に四十数年の歳月が経過したが 残された遺族の心の傷は今なお癒えることはない。当時を知る遺族も その多くは鬼籍に入り 犠牲者達の恒久平和を希求する声なき声を伝うべきよすがとて失われようとしているこの時 遺族縁類相倚り相扶け 私財を投じ 心ある市民の合力を得て 平和祈念碑建立を発願した。
  祈念碑回廊中には犠牲者の姓名を彫刻し そのアイデンタティを復活せしめ 共に手をたずさえて平和のメッセージを伝え 全世界において我らが子々孫々に至るまで戦争の惨禍におびえることなく恒久平和を享受出来る世界の実現を願い 惻隠の情を意味する「愛」と 飢餓のない世を理想とする「平和」の文字を 我らのいのちを支える「地球」に配して象徴とした。幸い 横浜市会代表の正・副議長殿の賛同を得 国会・県議会有志議員諸賢 神奈川県知事殿の賛意を得た。題字には 横浜市長 高秀 秀信殿のご揮毫になる「平和祈念碑」の彫刻を付し 横浜市からは施設設置許可を受け この地に恒久平和実現の為の一里塚として この碑を建立した。

  除幕式には 国際連合駐日代表殿 広島市長殿 長崎市長殿世界各地のピース・メッセンジャー都市首長殿から 多数の献辞が寄せられた。

  この人類至高の祈りが 志ある人々により継承発展され 犠牲者も平和の使徒の先駆者として 至福の時を 共に迎える日の近きことを信ずる。
  1992年5月29日
   横浜戦災遺族会
    会長 池谷榮一撰

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/kanagawa_yokohama_city001/index.html

関連

https://www.kanaloco.jp/news/social/article-993270.html

https://www.tokyo-np.co.jp/article/253278

場所

https://goo.gl/maps/s3uUwHfpbEyKM78B8


横浜戦災者慰霊碑(三ツ沢墓地)

横浜戦災者慰霊碑、合掌碑、戦災遭難者諸霊供養塔が建立されている。
三ツ沢墓地管理事務所のすぐ横手。

もともと慰霊碑は、久保山にあったというが、三ツ沢に移転という。

横浜戦災者慰霊碑
横浜市
昭和二十五年三月建之

合掌
横浜戰災遺族会
昭和四十七年五月二十九日建

戦災遭難者諸霊供養塔
爲戰災遭難者諸霊
供養塔
昭和二十二年三回忌五月建之

横浜市三ツ沢墓地

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/kanagawa_yokohama_city003/index.html

場所

https://goo.gl/maps/HhD7g6xzv6pAVZqq6

撮影:2023年7月‐8月


関連

はじめに

大阪に落とされた模擬原爆(東住吉区田辺)

全国各地に投下された模擬原爆「パンプキン爆弾」。大阪にも投下されており、往時を伝える石碑が建立されているというので、足を運んでみた。


模擬原爆

パンプキン爆弾(かぼちゃ爆弾)は、1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾(原爆)である「ファットマン」の模擬爆弾として開発された。「パンプキン」は特殊形状な爆弾であった「ファットマン」の投下訓練とデータ取得の爆弾として、日本全国に投下され、その訓練と解析の実績が長崎に投下された「ファットマン」へのつながることとなった。
パンプキンは、18都道府県30都市に50発(うち1発は任務放棄し爆弾は海上投棄された)が7月20日 – 8月14日の間に投下され、全体で死者400名・負傷者1200名を超す被害が記録されている。


大阪に落とされた模擬原爆

終戦間近の昭和20年(1945年)8月6日広島に人類史上初の原子爆弾が投下されました。その11日前の7月26日午前9時26分大阪市東住吉区田辺2-3(現在の田辺小学校北側)に大きな爆弾が投下されました、大阪市が作った「昭和20年大阪市戦災概観」という資料には死者7人、重軽傷者73人、焼失倒壊戸数485戸、罹災者1645人とその爆弾による被害が記録されています。
実はこれは模擬原爆という特別な爆弾でした。模擬原爆というのは長崎に落とされたプルトニウム原爆(ファットマン)と同じ型、大きさ、重さで、中身がTNT火薬の約5トンの爆弾です。ずんぐりした型で黄色い色彩からパンプキンと呼ばれました。
米軍は終戦近い7月20日から日本各地への空襲に紛れて模擬原爆を49発も投下しました。模擬原子爆弾による被害は死者400名、負傷者1200名を越えると記録されています。

なぜ模擬原爆が慌ただしく投下されたのか。原爆を投下するには技術が必要でした。目視で原爆を目標地点に投下する。投下とともに自らの機体が被爆しないように急旋回させる。それもB29という巨大な爆撃機をです。当時完成したばかりの実物の原爆は3発しかなく、それを想定通り実戦投下するためには訓練が必要でした。その訓練用爆弾が模擬原爆だったのです。

模擬原爆の存在が歴史の明るみになったのは戦後の平成3年(1991年)です。愛知県春日井市の市民グループが国会図書にあった米軍資料から模擬原爆の投下場所の一覧表や地図を見つけました。模擬原爆の事実を解明していくと人類最悪の兵器原爆がどのような意図で使用されたかが見えてきます。

模擬原爆追悼碑は令和元年(2019年)5月末マンション建設に伴い恩楽寺(田辺1-14-18)山門に移設されました。恩楽寺本堂も模擬原爆の爆風で傾いた被災モニュメントです。毎年7月26日の投下時間に碑の前で追悼式が行われます。

東住吉区 081 模擬原子爆弾投下跡地之碑(https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033897.html

模擬原爆資料館 – 恩楽寺

https://www.onrakuji.com/%E6%A8%A1%E6%93%AC%E5%8E%9F%E7%88%86%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8/

模擬原子爆弾投下跡地
一九四五年七月二十六日九時二十六分広島・長崎への原爆投下を想定してこの田辺の地に模擬原爆が投下され、村田繁太郎(当時五十五歳)他六名が死亡、多数の方が罹災しました。ここに犠牲者の冥福をお祈りし、戦争のない世界の実現と全人類の共存と繁栄を願い、碑を建立します。
二〇〇一年三月吉日

「模擬原子爆弾投下跡地」の石碑を迎えて
 私たちは過去において、大日本帝国の名の下に、世界の人々、とりわけアジア諸国の人たちに、言語に絶する惨禍をもたらし、将来ある青年たちを死地に赴かしめ、言いしれぬ苦難の過ちを犯したことを、深く懺悔するものであります。
 同時に、我が国には、広島、長崎に、アメリカによる二つの原子爆弾が投下され、まことに多くのいのちが無差別に奪われ、筆舌し難い業苦を被りました。
 この二つの原子爆弾に先立ち、模擬原子爆弾という、原爆投下練習用の殺戮兵器が我が国各地に四十九発も使用され、その内の一つが、昭和二十年七月二十六日、ここ東住吉区田辺にも投下されていました。死者七名が犠牲になり、重軽傷者七十三名、四八五戸の家屋が倒壊しました。
 この事実は長く歴史に埋もれており、先人がこれを発見し、こうした隠れた痛ましい事実を広く知らしめ、広島・長崎の原爆投下を身近に感じて、この悲劇が繰りかえされないことを念じて、「模擬原子爆弾投下跡地」の石碑を建立し、毎年追悼式を行って参りました。そのように、不戦平和への願いに促されて、その現実に身を捧げておられるあらゆる心ある人々に、深甚の敬意を表するものであります。
 しかしながら、戦後七十数年、戦争の悲惨さと愚かさに対する人々の感覚は風化していきます。その風化は、現在も、基地問題で苦しむ沖縄の人たちの心に向き合おうとせず、戦争に向かう状況を生み出そうとしています。
 かつて二五〇〇年前、釈迦牟尼仏・仏陀は、私たち人間の生きざまを憐れんで、仏教を開闢されました。
 永い人類の歴史は、人が人を殺し、傷つけ合う悲しみの連続でありました。仏陀の願心は、自我愛を正当化して「賜った尊いいのち」を奪い合うことを悲しみ、私たちに「共に生きよ」と呼びかけておられます。
 「殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」という仏陀の悲願を受け取り、あらためてここに「非戦の誓い」を表明します。当恩楽寺は、この懺悔の思念を旨として、人間のいのちを軽んじ、他を抹殺して愧じることのない、すべての戦闘行為を否定し、さらに仏より賜った信心の智慧をもって、人類が犯した罪責を検証し、これらの惨事を未然に防止する努力を惜しまないことを決意して、ここに「模擬原子爆弾投下跡地」の石碑を迎え、不戦の誓いを改めて表明するものであります。
 今日ここに集う私たちは、民族・言語・文化・宗教の相違を越えて、戦争を許さない、豊かで平和な国際社会の建設にむけて、すべての人々と歩みをともにすることを誓うものであります。
  令和元年六月二日 釋大信

7月26日 
田辺 模擬原爆 追悼式

場所

https://goo.gl/maps/6rXxMdJ1NsvLFcv67

総務省>田辺模擬原爆投下跡地

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/osaka_osaka_city016/index.html

模擬原爆追悼碑は令和元年(2019年)5月末マンション建設に伴い恩楽寺(田辺1-14-18)山門に移設している。もともとは、下記の写真のあたりにあったようだ。

場所

https://goo.gl/maps/oTkhdvyscHRdt3tV6

※撮影:2023年7月


関連

昭南島改称記念の国旗掲揚塔(大阪東住吉区北田辺ノ榎神社)

昭南島。
1942年から1945年にかけて、日本統治下にあったシンガポールを「昭南島」と呼称していた。
現在に残る、歴史的に貴重な国旗掲揚塔の記念碑。
「昭南島」と刻まれた文字列を、この手の記念碑で初めて拝見したので、戦跡として記録。


昭南島

第二次世界大戦において、日本軍第25軍(第25軍軍司令官・山下奉文中将)は初戦で「マレー作戦」を決行し、難攻不落とされた大英帝国が誇る一大拠点であったシンガポールを昭和17年2月15日に陥落させた。

大英帝国(イギリス極東軍司令官・パーシバル中将)のシンガポール降伏に伴い、日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」と改名された。そして軍政下の行政組織として「昭南特別市」が設置された。

日本ニュース 陸軍報道部発表<特輯シンガポール陥落>

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009180591_00000

「マレー(馬来)方面、帝国陸軍部隊は、本15日午後7時50分、シンガポール島要塞(ようさい)の敵軍をして無条件降伏せしめたり。」
老英帝国の威信、ついに地に落つ。時に昭和17年2月15日、全国を興奮のるつぼに投じた歴史の夜はほのぼのと明けて、一億の民草あげて感激の奔流と化し、続々宮城前広場に参集、この声天にも届けと母国の弥栄(いやさか)を唱え奉る。靖国神社社頭は夜の明けきらぬ頃より参拝者引きも切らず、大東亜聖戦の華と散った多くの英霊も、この日世紀の朝を寿ぐかのようであります。町々は戦勝祝賀の歓喜に沸き立つ中にも、米英倒れる日まで戦い抜かんとする一億国民の意気は火と燃える。

日本ニュース 陸軍報道部発表<特輯シンガポール陥落>

シンガポール陥落は、日本国中を歓喜の渦に包み込んだ。
そんな熱狂のなかで、国旗掲揚塔の記念碑として建立されたと思われる。


昭南島改称記念の国旗掲揚塔

境内奥の大黒社の前にある国旗掲揚塔。

昭南島改稱記念
昭和17年3月10日建之

設立団体などは不詳。
日本軍がシンガポールを占領したのは昭和17年(1942年)2月15日。
占領後シンガポールは「昭南島」と改称し、その記念で、約1ヶ月後に国旗掲揚塔が建立された。


榎神社

JR阪和線・美章園駅が最寄り。
行基菩薩に由来の有る桑津墓地内にある神社。

大阪市東住吉区>榎神社

https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000032782.html

大阪市東住吉区>桑津墓地

https://www.city.osaka.lg.jp/higashisumiyoshi/page/0000033849.html

かつては、樹木で覆われていたようだが、現在は樹木は伐採され開放的な空間となっている。

場所

https://goo.gl/maps/5geu8gySizntetXt5

※撮影:2023年7月


関連

大阪星田で散華した学鷲・中村純一中尉の慰霊巡拝

以前、宝塚聖天を参拝した際に、目についた慰霊碑があった。
それが、中村純一中尉の顕彰碑(慰霊碑)であり、そこで交野市の星田駅近くの戦死場所にも慰霊碑があると聞き、それを知ったのはなにかの縁、いつかは行かねばと、心の片隅に気にかけていた。
先日、大阪に赴く機会があり、運良く時間があったので、足を運んでみました。


中村純一中尉慰霊碑(星田)

星田駅周辺の再開発により、新設された星田北4号公園に移設された、「中村純一中尉慰霊碑」。
移設先でも大切に整備された、清廉な慰霊の空間が設けられておりました。

合掌

陸軍中尉中村純一は 学鷲として参戦 凄惨苛烈なる戦局俄かに急迫を告ぐる頃 一切の懐疑迷妄を越え 淡々として特別攻撃隊を志す
昭和二十年七月九日 天日を覆ひて来襲せる敵機群に突入 壮絶なる空中戦を展開するも 遂に被弾 この地に恨みを残して散る 
近隣有志が相集ひ 烈士の霊を懇ろに弔い 鎮魂の碑を建つ
平和は血と涙によって築かれたるも 愛惜と悲しみは尽きず 痛恨の碑の前に伏し 御霊安かれと祷る
 鹿児島市西43-32 中村三郎 撰

中村純一中尉の弟である、中村三郎氏の撰文。

中村純一陸軍中尉は特操1期。(特別操縦見習士官・学鷲)
昭和20年7月9日、陸軍・飛行第56戦隊は硫黄島より飛来したP51を迎撃するために伊丹飛行場より出撃。
三式戦「飛燕」で迎撃をした中村純一中尉は空中戦闘で被弾。脱出し落下降下中に敵機の翼で落下傘の紐が切断され、星田村(大阪府交野市)の水田に落下し戦死された。戦死の地に慰霊碑が設置されている。

また、被弾した飛燕は大阪府交野市星田北に墜落。
平成17年、第二京阪道路建設工事現場で搭乗機「飛燕」の部品(残骸)が発見されており、いきいきランド交野(交野市)にて展示保管されている。
兵庫県宝塚市の宝塚聖天にも遺族による顕彰碑が設置されている。

再開発の影響で、「陸軍用地の境界標石」も2つ移転されてきた。
星田駅の北側には、陸軍香里火薬製造所へ専用線路があり、その境界標石であった。なお、陸軍香里火薬製造所周辺にも境界標石が多数残存しているというが、さすがに今回は時間がないので、散策などはまたの機会で。

後方は、JR学研都市線。

陸軍香里火薬製造所へ専用線路跡、でもある。ちょうどカーブを描いて北上する位置に公園が整備された。

星田北4号公園

移転前は、このあたりに、慰霊碑があった。

じつは最初は、あるべき場所に慰霊碑がなく、ちょっと焦りましたが、移設先の記載があって安心しました。

中村純一中尉慰霊碑 場所

https://goo.gl/maps/F9RMxBNj6tz5U2m38


中村純一中尉の搭乗機「飛燕」

いきいきランド交野(交野市立総合体育施設)に、中村純一中尉搭乗の飛燕の残骸が展示されている。

平成17(2005)年3月16日に、第二京阪道路の工事で発掘された。
調査の結果、昭和20年7月9日に撃墜された中村純一中尉の飛燕と判明。

60年後にエンジン発見(高知新聞 2008年9月5日)
米機と交戦 戦闘機「飛燕」
※一部抜粋
 1945年7月9日、敵機の接近を知った中村純一中尉=当時(23)=ら17機は伊丹飛行場(現大阪空港)を飛び立った。相手は硫黄島から飛来した約60機の米戦闘機P51。爆撃機B29の護衛を主な目的とし、優れた性能を誇った。
 飛燕は戦時中、実戦に投入された数少ない水冷式エンジンの戦闘機。高馬力で選果を挙げたが、故障が多く、整備士泣かせだったとされる。
 P51一機に中村中尉らの四機が立ち向かったが、すべて撃墜され、中村中尉は落下傘で脱出、敵機の翼でひもを切られ、墜落死した。機体は水田に突っ込み、機種が地中にめり込んでいた。
 目撃者によると、遺体に目立った傷はなく、身につけた赤いマスコット人形が印象に残ったといい、遺体は住民らによって手厚く葬られた。

交野で発掘された出土品(飛行機の残骸)
 2005年(平成17)3月16日に、交野市星田北8丁目の第二京阪道路建設現場で、飛行機の残骸が出土しました。交野市は、発見者の浪速国道事務所から出土品の引き渡しを受けました。
 今後、出土品は、交野歴史文化や教育の一環に使っていきます。

概要
 星田北地域の第二京阪道路建設工事現場で3月16日、橋梁基礎杭施行中に機関銃一丁と銃弾3発が発見されました。
 その後、調査を進めるうちに3月23日には飛行機のエンジンとプロペラが見つかるなど25日までに多数の各種部品が出土しました。
 
 星田歴史風土記(平成7年、財団法人交野市文化財事業団発行)には、次のように史実が記載されています。
 
 「60年前、第二次世界大戦の終戦前の7月9日、米軍機P51約50機が来襲、大阪上空で空中戦があり、鹿児島県出身の中村純一中尉が操縦する戦闘機・飛燕が撃墜され、星田に墜落しました。
 中尉は、パラシュートで脱出しましたが、米軍機が翼でパラシュートのロープを切り、中尉は水田にしぶきを上げて墜死され、星田の村民が手厚く弔われた」と言われています。

 今回見つかったこれらの部品は、エンジンのマークから飛燕のもので、中村純一中尉が操縦さていたものであることが確認されました。

問い合わせ 交野市「平和と人権を守る都市宣言」を進める実行委員会(事務局:交野市総務部人権と暮らしの相談課)

陸軍3式 「飛燕 戦闘機1型乙」
全幅 12.00m
前長 8.74m
全高 3.70m
エンジン 液冷 1100馬力
最高速度 590km
昭和16年12月生産開始 川崎航空機岐阜工場で昭和20年6月まで生産されました。
太平洋戦争でビルマ フィリピン 沖縄 本土防衛など各地で活躍した戦闘機です。

発動機(エンジン)

川崎航空機の社章。

陸軍で唯一、液冷の航空機を開発していたのが、川崎航空機。

ドイツ空軍のメッサーシュミット「Bf109」に搭載されていたダイムラー・ベンツ製のエンジン「DB 601」を、ライセンスを取得し国産化したのが、陸軍機を手掛けるカワサキ(川崎航空機ハ40)であった。
同じタイミングで、海軍機を手掛けるアイチ(愛知航空機アツタ21)もライセンスを取得。
同じ日本で2社(陸海軍それぞれが折半せずに)が個別にライセンス費を払ったために、ドイツ政府は困惑したという逸話もある。

三式戦闘機一型(キ61)は、ハ40発動機を搭載。
三式戦闘機二型(キ61-Ⅱ改)は、ハ140発動機を搭載。

飛燕のエンジン(川崎ハ-40)は、所沢航空発祥記念館にもありました。

プロペラ

墜落時の衝撃で曲がったものと思われる。

二式二十粍固定機関砲(ホ五)

一式十二・七粍固定機関砲(ホ一〇三)

いききランド交野

場所

https://goo.gl/maps/NbwWLRueEuGoiLHJ8


中村純一中尉慰霊碑(宝塚聖天)

宝塚聖天英霊礼拝堂「大光明殿」に鎮まる中村純一中尉の慰霊碑。

終戦33周年の年、昭和53年8月に宝塚聖天に、戦没者英霊礼拝堂「大光明殿」として建立。
全国陸海空戦没者260万の英霊を祀る。

君黙思不動
至誠廉潔士
祖国ノ難ニ殉ズ
兄等ノ礎ニ
日本ハ在リ
魂魄不滅

陸軍中尉中村純一は学鷲として阪神防衛に参戦
絶望的な戦局に動ぜず眦を決して天翔る
愛機飛燕を駆り凄絶死闘
夏蒼穹に光烈散華す
雲染めて声なし
時 昭和二十年七月九日 
於 大阪星田村 
特操一期 鹿児島二中 東京農大卒 
二十三歳  愛惜尽きず

鹿児島市 弟中村三郎建之
特別操縦見士官有志一同
昭和56年6月28日

以下の記事も参照に。

場所

https://goo.gl/maps/gFiLp9F5BUo3LuwMA

大阪府交野市の撮影:2023年7月
兵庫県宝塚市の撮影:2019年8月


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