「艦船」カテゴリーアーカイブ

英空母「プリンス・オブ・ウェールズ」(東京国際クルーズターミナル)

2025年8月、イギリス海軍が誇る空母「プリンス・オブ・ウェールズ」が東京港(東京国際クルーズターミナル)に入港したので、ちょっと観に行ってきました。


プリンス・オブ・ウェールズ (空母)

イギリス海軍の航空母艦(空母)
クイーン・エリザベス級航空母艦の2番艦。
プリンス・オブ・ウェールズとしては、8代目。
就役は2019年12月10日。満載排水量は65,000トン。全長は284m、全幅は73m。


東京国際クルーズターミナル駅から「プリンス・オブ・ウェールズ」

以下、写真にて。

うーん、船の科学館、、、跡地。。。

入場制限。。。


東八潮緑道公園から「プリンス・オブ・ウェールズ」

東京国際クルーズターミナルは立ち入り制限があったので、この東八潮緑道公園からが一番近くでPoWが見える場所。かなり多くの人々が見にきていました。


青海北ふ頭公園から「プリンス・オブ・ウェールズ」

「宗谷」とセットで見たり、艦尾を見たりするなら、こちら。


レインボーブリッジ(台場)から「プリンス・オブ・ウェールズ」

せっかくなので、レインボーブリッジを歩いて、望遠でPoWを観覧。


レインボーブリッジ(中間地点)から「プリンス・オブ・ウェールズ」

海上保安庁の測量船「HL01昭洋」(3,128トン)が手前に。

羽田空港をバックにするために、ジャンボ機の着陸も頻繁に。


レインボーブリッジ(芝浦)から「プリンス・オブ・ウェールズ」

芝浦からでも、見えるんですね。さすが巨艦。

おがさわら丸(総トン数11,000トン、全長150m、全幅20.4m)
11,000トンですら、英空母(65,000トン)と並んでしまうと、かなり小さく見えます。。。

※撮影:2025年8月31日


世界最大の駆逐艦「ズムウォルト級ミサイル駆逐艦・マイケル・モンスーア」と「YOKOSUKA軍港めぐり」(横須賀)

横須賀に「世界最大の駆逐艦」が来航したというので、足を運んでみました。


マイケル・モンスーア
USS Michael Monsoor DDG-1001

ズムウォルト級ミサイル駆逐艦の2番艦。
2019年就役
姉妹艦は、3隻

満載排水量 14,564 トン
全長 600 ft (182.9 m)
最大幅 80.7 ft (24.6 m)
吃水 27.6 ft (8.4 m)
兵装 62口径155mm単装砲 2門
30mm機関砲 2門
Mk 57 VLS(20セル) 4基

満載排水量は14,000t以上で、これは現在アメリカ海軍が唯一保有する巡洋艦であるタイコンデロガ級ミサイル巡洋艦よりも大きい。世界最大の駆逐艦。

主砲は、単装155mm先進砲システム(AGS)2基搭載。

海自護衛艦と比較。遠近は考慮しても、とにかく大きい。

せっかくなので「横須賀軍港めぐり」を活用して、近くから拝見。

YOKOSUKA軍港めぐり

https://yokosuka-gunko.jp


横須賀軍港めぐり~米海軍

マッキャンベル (ミサイル駆逐艦)
マッキャンベル (USS McCampbell, DDG-85) は、アメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の35番艦。イージス艦。

ラファエル・ペラルタ (ミサイル駆逐艦)
ラファエル・ペラルタ (USS Rafael Peralta, DDG-115) は、アメリカ海軍のミサイル駆逐艦。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の65番艦。

デューイ (ミサイル駆逐艦・2代)
デューイ (USS Dewey, DDG-105) は、アメリカ海軍のミサイル駆逐艦。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の55番艦。

ブルー・リッジ (揚陸指揮艦)
ブルー・リッジ(USS Blue Ridge, LCC-19)は、アメリカ海軍の揚陸指揮艦。ブルー・リッジ級揚陸指揮艦の1番艦。

修理宿泊船(非自走) YRB-30
1945年5月12日進水、5月28日運用開始という戦前の船は、横須賀で最古参の現役船。

ルイス・アンド・クラーク級貨物弾薬補給艦
T-AKE-11
ワシントン・チャンバース
USNS Washington Chambers

米海軍の警備艇、艦首に機銃あり


横須賀軍港めぐり~海自

「たかなみ」「あすか」

「あすか」の後甲板には、レールガン砲塔が白幕で隠されてました。

護衛艦「たかなみ」
試験艦「あすか」

潜水艦救難艦「ちよだ」

海洋観測艦「にちなん」

海保

田浦の倉庫群

潜水艦は、呉と横須賀のみ。

新井堀割水路
明治期に、海軍が短絡水路のために人工的に掘割を設けたことにより吾妻島として半島が切り離された。

特務艇「はしだて」
迎賓艇、病院艇

多用途支援艦「えんしゅう」

補給艦「ときわ」
護衛艦「まや」

護衛艦「きりしま」
護衛艦「くまの」
練習艦「やまぎり」

海洋観測艦「わかさ」

護衛艦「もがみ」


海自横須賀

護衛艦「もがみ」が一般公開でした。

ちなみに、横須賀基地からは、米軍基地方面は撮影禁止、でした。
マイケル・モンスーアに配慮。。。

海洋観測艦「わかさ」
近くで見る機会がなかなかない艦


高台から

例の高台から。
横須賀のヌシ(いずも)がいない光景も新鮮。

※撮影:2025年7月


関連

練習艦「かしま」体験航海(横須賀港~東京港)

2025年6月。
練習艦隊「かしま」「しまかぜ」が、横須賀港(逸見岸壁)から東京港に航行するタイミングにあわせて、運良く乗艦する機会がありました。横須賀水交会(水交会横須賀支部)の部隊研修として、貴重な体験航海の模様を以下に写真中心で掲載。

ちなみに、乗艦に際しては、海上自衛隊横須賀地方総監部の正門に「朝7時集合」ということで、家からでは始発でも到達できないので、近隣で前泊しての参加、でしたが、艦に乗れるのであれば、なんてことないです。

東京湾を北上する「かしま」と「しまかぜ」


練習艦「かしま」

TV-3508
練習艦「かしま」。旧海軍の戦艦「鹿島」、練習巡洋艦「鹿島」に次いで、艦名としては3代目。
1993年4月20日起工、1994年2月23日進水、1995年1月26日就役。
母港は「呉」。
練習艦隊直轄艦、練習艦隊旗艦。

2025年は6月13日から、「かしま」「しまかぜ」にて、一般幹部候補生75期の実習幹部を乗せ遠洋練習航海へと赴くこととなる。


練習艦「しまかぜ」

はたかぜ型護衛艦の2番艦。艦名としては3代目。
1985年1月13日起工、1987年1月3日進水、1988年3月23日就役。2021年3月19日、練習艦に種別変更。
練習艦隊第一練習隊に所属、定係港は「呉」。


出港前の練習艦隊(横須賀地方総監部逸見岸壁)

壁岸壁に停泊する練習艦隊。
「かしま」と「しまかぜ」


「かしま」乗艦

午前7時すぎ。
ちなみに、招待者ゆえ、手荷物検査は一切なし、で。
「かしま」に乗艦です!!

雨が厳しいことがわかっていたんで、カッパで。


「しまかぜ」出港

「かしま」の隣に停泊する「しまかぜ」が先行して出向していきます。

ちなみに「しまかぜ」に乗艦することも任意選択で可能でしたが、やっぱ「かしま」でしょってことで。なにげに「かしま」に乗艦したのも今回が初めて。

「73式54口径5インチ単装速射砲」の存在感。

「しまかぜ」が離れていきました。

すごい旋回で一気に離岸。

曳舟(タグボート)が大活躍

「しまかぜ」出港


「かしま」出港

つづいて、「かしま」も出港です。

通称「オランダ坂」と称される傾斜は、後甲板と中甲板を結んでおり、艦上体育で艦の全周がランニングできる構造になっている。

出港に際しての立ち入り制限

タグボート

出港!

おっ、米軍の揚陸艇ですね。トラックが小さく見える。


「かしま」11メートル作業艇の揚艦

吉倉護衛艦A桟橋から、作業艇が近づいてきました。

「かしま」に接舷し、揚艦されます。

おお。作業艇を引き揚げる光景、始めて見ました!!


「横須賀」吉倉桟橋の様子

2025年6月3日の吉倉桟橋の様子。

「いかづち」むらさめ型護衛艦の7番艦

左から
「たかなみ」たかなみ型護衛艦の1番艦
「あがの」もがみ型護衛艦の6番艦
「くまの」もがみ型護衛艦の2番艦
「もがみ」もがみ型護衛艦の1番艦


「かしま・特別公室」

国家元首級の来賓を想定し、公式儀礼をおこなう内装が配慮された特別公室。
練習艦隊旗艦として、世界各国に寄港する「かしま」だからこその内装。

窓の外は前甲板

日本国練習艦隊
JAPAN TRAINING SQUADRON

この帽子、欲しい、、、

第65代練習艦隊司令官 渡邉海将補
海将補は旧軍における海軍少将
ちょうど、プレスの取材を受けていました。

特別公室への入口も豪華


初代戦艦「鹿島」の水差し

特別公室の机に、凄いものがありました。

初代戦艦「鹿島」の水差し
この水差しは、初代戦艦「鹿島」士官室で使用されていた水差しです。平成10年4月9日横須賀において、作家の阿川弘之氏が来艦された際、本艦に寄贈していただきました。

初代戦艦「鹿島」
143.3m 16,400t
明治39年5月23日~大正12年9月20日

初代 戦艦「鹿島」
士官室用水差し
平成10年4月9日
作家 阿川弘之氏 寄贈


「かしま神社」(練習艦かしま神社)

かしま神社由来
由緒
日本の船には古くから慣習として、船霊様(航海安全の守り神)を祭っております。
本艦もこの例にならい就役に先立ち、平成7年1月12日に本艦の命名地の氏神様である鹿島神宮の分社として入魂式を行い、平和と本艦の航海安全、乗員一同の健康を守る船霊様を祭っております。
例祭 1月12日

鹿島神宮由来
鎮座地 茨城県鹿島郡鹿島町
御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)
由緒 神代の昔に、天照大神の御命令により出雲の国に天降り、大国主命と話し合って、日本の国を一つにまとめられた神様です。
その後、日本中を歩かれ最後に関東地方の開拓と鎮撫に当たられ、当時水陸交通の要所であった鹿島に鎮まられ、地霊を鎮め氏子を異境の神々から守り、航海の安全を司る海の神様として全国の人々より崇敬されています。
例祭 9月1日

自衛艦命名書
本艦をかしまと命名する
平成6年2月23日
国務大臣防衛庁長官 愛知知男


「かしま・13メートル将官艇」

通常の護衛艦に搭載されている11メートル作業艇とは別に、13メートル将官艇も搭載されているのが「かしま」の特徴。


「かしま・76ミリ速射砲」

62口径76ミリ速射砲
オート・メラーラ社第2世代の62口径76ミリ砲(コンパクト砲)

前甲板の76ミリ速射砲


「かしま・前甲板」

手前に見えるのは、「礼砲」

すれ違うのは、オーストラリア海軍 ホバート級駆逐艦シドニー(HMAS Sydney DDG-42)

右舷1時の方向に「しまかぜ」

エモい。。。


「かしま・訓練甲板(後甲板)」

雨降る訓練甲板で作業する海自隊員

もうね、艦尾の自衛艦旗のゆらめきをずっと見ていたい。

この台は、栄誉礼用のお立ち台である。
上に物を置いたり、もたれ掛かったり、掃除用具盗ったりするな。 
射撃員長

突然の掃除用具w
そして管轄が射撃員長、、、

「しまかぜ」の台が「かしま」に置きっぱなし。。。


「かしま・下後甲板」

訓練甲板の下。


「かしま・甲板」

航行中に、制限なしで、甲板をいったりきたり。
雨なので人が少なくて、ある意味で快適。。。

前方に「しまかぜ」
右舷に転回したもよう。

潜水艦救難艦「ちよだ」

ん?
帆船?
これは、二代目「日本丸」か!

東海汽船の「セブンアイランド・友」


「かしま・艦橋」

雨だから、艦内が特に混み合ってました。
(逆にいうと甲板は、空いていました)

人員
総員 163名
幹部 19名
曹士 143名
入院 0名
休暇 16名
その他 2名
現在員 144名
司令部 51名 1名
実習幹部 195名
その他 297名
合計 687名

わたしを含めた便乗乗客が297名いるのかな、ですね。

0745 横須賀出港
1100 東京国際ターミナル入港


「かしま・食堂」

昼も夜も、どんぶり!

ポップコーンと綿菓子の振る舞いがありました。


「かしま・操縦室兼応急指揮所」

こんなところも見せてくれました、良いの?


「かしま・士官室」

士官室

「ましか」と「かしまる」


「かしま・艦内」

日本国 練習艦隊 旗艦 TV3508 KASHIMA

WAVE区画

お、男子禁制のエリア
WAVE=Woman Accepted for Volunteer Emergency Service


「かしま・実習員講堂」

雨だから、実習員講堂は、常に満杯でした。
せっかく自衛艦(練習艦)に乗っているのだから、あっちこっち見に行かないと損だとばかりに、私はかっぱを着込んで、雨を機にせず甲板をウロチョロしてました。
実習生を170名は収容できる講堂。

東京国際ターミナル到着で、下艦が始まったあと。


「かしま・東京入港」

1030ごろから入港準備、11時15分頃に下艦でした。

タグボートのお世話になります。

着岸準備

東京国際ターミナルを海側から見たのは、始めてでした。

ロープを投擲

着岸し、階段を展開


「しまかぜ・入港」

かしまの着岸が完了し、「しまかぜ」が「かしま」の左舷に横付けされます。

近づいてくる「かしま」

エモい


東京国際クルーズターミナル

11時35分に「かしま」を下艦。
約4時間をみっちり「かしま」堪能してしまいました。

ちなみに以前は「晴海」でしたが、現在は晴海に停泊ができなくなったとかで、「東京国際クルーズターミナル」に着岸。レインボーブリッジをくぐることもなくなってしまったのだ。

雨の体験航海というのも、なかなか貴重な時間。
雨ゆえに、甲板は人が少なく、それはそれで逆に得難き光景にも出会え、非常に貴重な体験を得ることが出来ました。
海上自衛隊横須賀地方総監部のご配慮に感謝します。

撮影機材:今回本格的に役に立った防水カメラ「PENTAX WG-1000」が8割で、残りは「PENTAX KP」とスマホ、でした。
撮影:2025年6月3日


関連

南極観測船「ふじ」(名古屋港)

先日、名古屋に赴いていたので、スキマ時間に「ふじ」を観覧してきました。

名古屋港ポートビルと南極観測船「ふじ」のほうに。


名古屋港開港の出発点「鉄桟橋」跡地

1907年、名古屋港開港の出発点「鉄桟橋」跡地。

「鉄桟橋」から始まった名古屋港
左下か斜めに伸びる橋が「鉄桟橋」。
名古屋港開港の1907年(明治40年)に建設されました。
長さ127m、幅14.5m。
その後、桟橋上部には貨物列車のレールも敷かれ、開港から昭和初期までの唯一の船着場として、また、接岸する船舶でにぎわう名古屋港の代表的施設として市民から親しまれました。
※10,000トン級の船の入港が可能でした。

現在の名古屋港
1981年(昭和56年)中央ふ頭と東ふ頭の間を埋め立てて完成したガーデンふ頭。
昭和59年に名古屋港ポートビル、昭和60年に南極観測船ふじ、平成4年に名古屋港水族館がオープンし、親しまれる港づくりが進められています。

1905年(明治38) 鉄桟橋建設着手、2号地埋立完成
1906年(明治39) 巡航博覧会「ろせった丸」入港
1907年(明治40) 鉄桟橋完成、名古屋港開港
1929年(昭和4) 西埠頭埋立着手
1931年(昭和6) 中央埠頭・東埠頭埋立着手
1934年(昭和9)西埠頭埋立完成
1936年(昭和11)中央埠頭・東埠頭埋立完成
1981年(昭和56) 2号地(現・ガーデン埠頭)埋立完成
1983年(昭和58) ガーデンふ頭臨海緑園完成
1984年(昭和59) 名古屋港ポートビル完成
1985年(昭和60) 南極観測船「ふじ」係留
1992年(平成4) 名古屋港水族館開館
2001年(平成13) 名古屋港水族館北館開館

だいたいこのあたりに鉄桟橋があった。

名古屋ポートビル


「南極観測船ふじ」

「宗谷」に次ぐ、2代目南極観測船。
日本初の極地用本格砕氷艦。
自衛艦初のヘリコプター搭載艦。
1965年(昭和40年)3月18日に進水、7月15日竣工。
1984年(昭和59年)4月11日に退役。1985年8月より、名古屋港博物館船として係留されている。

https://nagoyaaqua.jp/garden-pier/fuji


「南極観測船ふじ」船内

1965年(昭和40)から18年間、南極観測を支援してきた砕氷船。

第9回の南極観測時の砕氷艦ふじ艦長の森田1等海佐のコメント。

食堂室
椅子は2008年引退の初代しらせのもの。

調理室

麻酔ガスは「笑気」なんですね。

自衛艦旗
第7次南極観測記念

格納庫は、南極観測に関する展示コーナー

ふじ搭載のヘリコプター「S-61A」

艦橋

上部操舵所
そこに至るまでが怖い。。。

デッキクレーン


名古屋港ポートビル

隣の名古屋港ポートビル、へ。


名古屋海洋博物館

名古屋港発祥の地「熱田の浜」

「ろせった丸」の入港と、名古屋開港

「ろせった丸」は、明治39年(1906年)に巡回博覧会船として、全国の港を巡航し、展示品を即売した移動博覧会を実施していた。特に、当時築港工事が進められていた名古屋港(現・熱田港)への入港は、築港反対運動を沈静化させ、名古屋港開港の契機となった。

https://history.nagoya-cci.or.jp/meiji/h3.html

1907年(明治40年)名古屋港開港

戦争中、名古屋港は機動作戦基地にはならなかったため、兵員や兵器などの軍需品輸送港としては使われなかったが、全国有数の軍需工場地帯であったため、激しい空襲にさらされることになった。
1944年(昭和19年)12月7日の昭和東南海地震、翌年1月13日の三河地震で名古屋港の港湾機能は麻痺状態となり、終戦を迎えた。

名古屋汎太平洋平和博覧会


名古屋港ポートビル展望室

展望室から名古屋港を眺める。

ふじを上から。

ちょっとした展示コーナーも。

※撮影:2025年5月


関連

海保最大の練習船「PL23 いつくしま」一般公開(横浜港)

最新鋭の新造船である海上保安庁の練習船「いつくしま」が、横浜港に入港し一般公開があったので、見学してきました。

今年7月に配備された海上保安庁の最新鋭の練習船「いつくしま」
全長134メートル、5500トンと、これまでの練習船で最も大きな船となる。
海上保安大学校の研修生を乗せた航海実習の一環で、初めて横浜港に入港し、一般公開となった。


PL23 いつくしま(巡視船兼練習船)

三菱重工下関造船所江之浦工場で進水し、2024年7月1日に海上保安庁に引き渡しをされた新造船。
総トン数は5,500トン。全長は134メートル。

呉海上保安本部に配属された第六管区唯一の「PL型巡視船」。
海上保安大学校に派遣され、海上保安大学校5代目練習船を兼務。

海保初の「2段船橋」が導入されている。
通常の「航海船橋/航海操舵室」の真下には、訓練で実際に船を操舵できる「実習船橋・実習操舵室」と呼ばれる部屋があり、ふたつの操舵室がある。
船体後部の訓練甲板はこれまでの「練習船こじま」とは違いヘリの離発着は考慮されていない。

2段船橋。
上段が通常の航海船橋・操舵室
下段が実習用の船橋・操舵室
操船権を切り替えることで、どちらでも操船可能。

練習船であっても「PL型巡視船」として、「20mm機関砲」を1基備える。


練習船いつくしま一般公開

船内見学を。

Japan Coast Guard Academy
Training Ship
ITSUKUSHIMA
since 2024.7.1

海上保安大学校
練習船
いつくしま
2024年7月1日竣工

海上保安大学校のシンボルマーク

20ミリ機関砲

最近の護衛艦は、イージス艦橋ばかりで、こういった通常型の船橋は、久しぶり。


正義仁愛

貴賓室に掲げられた、初代長官大久保武雄の書。

正義仁愛
昭和23年冬
海上保安庁長官
大久保武雄

海上保安庁発足の日(昭和23年5月1日)、大久保武雄初代長官は、「海上保安庁の精神は“正義と仁愛である”」と訓示した。
正義とは、海上治安維持によって立つ精神であり、
仁愛とは、人命保護と航行安全の象徴です。
発足以来、海上保安庁の業務は時代に合わせて変わりつつありますが、「正義仁愛」という言葉は、個々の海上保安官に浸透するとともに、海上保安庁の伝統として、今も脈々と受け継がれている。


いつくしま船内

高速警備救難艇

航海船橋の操舵室。

操船室の海図。

実習用操舵室。

飛び出し防止。

書棚も飛び出し防止。

武器部完成図書の閲覧は、航海長の許可が必要。

教室。椅子も机も揺れに備えて固定されている。

精進
国土交通大臣・斎藤鉄夫

通路

新造船だけあって、ピカピカ。

学生公室は、食堂を兼ねているようだ。

椅子は鎖でつながれています。

洗面台

浴場

洗濯室

「清水」は貴重。

4人部屋
ベットは4つあるが、机は4つない。。。
それなりの体格の学生が、物理で4人この部屋に入ったら、結構な圧迫を感じそう。

救命胴衣室

後甲板

海保のシンボル「コンパスマーク」。
羅針盤をデザインしたシンボルマークと、海の色を表す濃い青色。


横浜海上保安部・横浜海上防災基地

「PL31 いず」が停泊中。約3,500トン。
「いつくしま」よりも小型船となる。

「PM36 おきつ」が入港してきました。
清水海上保安部の所属船。


「呉」x「いつくしま」のコラボTシャツ!!

船内で記念にTシャツをもらいました!!

「呉」x「いつくしま」のコラボTシャツは嬉しすぎる。

※撮影:2024年9月


関連

世界一美しい帆船「アメリゴ・ヴェスプッチ号」(イタリア海軍帆船・東京港)

東京国際クルーズターミナルに世界一美しい帆船と言われているイタリア海軍の練習帆船「アメリゴ・ヴェスプッチ号」(「Amerigo Vespucci」号)が入港してきました。
令和6年8月25日(日)入港、30日(金)出港。
歓迎イベント「Villagio Italia」にて、平日のみ一般公開があったので、足を運んでみました

Amerigo Vespucci World Tour 2023-2025

https://tourvespucci.it/jp


アメリゴ・ヴェスプッチ号(イタリア海軍練習船)
Italian Navy training ship Amerigo Vespucci

「世界一美しい帆船」とされるイタリア海軍(Marina Militare)のアメリゴ・ヴェスプッチ号(Amerigo Vespucci)は、イタリア海軍の練習艦として、1931年に進水。
母港は、イタリアのラ・スペツィア(La Spezia)。

探検家アメリゴ・ヴェスプッチにちなんで命名。
アメリゴ・ヴェスプッチは「新世界」がアジアの一部ではなく、道の4つ目の「新大陸」であったことを論証した探検家にして地理学者であった。
「新大陸」はアメリゴのラテン語名アメリクスの女性形として「アメリカ」と後に呼称された。

 1925年、王立イタリア海軍(Royal Italian Navy、王立海軍 レジア・マリーナ Regia Marina)は、2隻の練習艦を発注した。
1番艦のクリストフォロ・コロンボ号は1928年に就役し、1943年までイタリア海軍で使用された。 第二次世界大戦後、戦争賠償金の一部としてソ連に引き渡され、まもなく退役した。
2番艦のアメリゴ・ヴェスプッチ号は、1930年にカステランマーレ・ディ・スタビア(ナポリ)の(旧)王立海軍造船所で建造された。
1931年2月22日に進水し、同年7月に就役。

アメリゴ・ヴェスプッチ号は全長82.4m(270フィート)、バウスプリットを含む全長101m(331フィート)、最大幅15.5m(51フィート)の総艤装3本マストの鋼船で。 喫水は約7m(23フィート)、満載時の排水量は4146トン。 補助ディーゼル電気推進により、アメリゴ・ヴェスプッチは時速10ノット(19km)に達し、航続距離は6.5ノットで5450海里。
2013年から2016年に掛けて近代化改装が行われ、ディーゼルエンジンを搭載。

3本の鋼鉄製マストの高さは50メートル、54メートル、43メートルで、合計2,824平方メートル(30,400平方フィート)の帆を張っている。
アメリゴ・ヴェスプッチ号には26枚の帆があり、角帆、ステイセイル、ジブなど、すべて伝統的な帆布の帆を用いている。 強い海風条件下で帆を張ると、時速12ノット(22km)に達する。
約30kmに及ぶロープは伝統的な麻のロープのみを使用し、係留索だけは港湾規制を遵守するため合成繊維を使用している。

アメリゴ・ヴェスプッチ号の標準的な乗組員は、士官16名、下士官70名、水兵190名である。海軍兵学校(アカデミア・ナヴァーレ)の中等士官が乗船すると、乗組員は合計約450人になる。


東京国際クルーズターミナルのデッキから

デッキから、見学。軍艦旗のはためきが美しい。

イタリア海軍の軍艦用国籍旗(イタリア海軍紋章)

軍艦旗の中央に使用される紋章は、中世、地中海の覇権を争い、「海洋共和国」(レプブリケ・マリナーレ)と呼ばれた都市国家の紋章を組み合わせたもので、左上がヴェネツィア共和国(聖マルコの獅子)、右上がジェノヴァ共和国(白地に赤十字)、左下がアマルフィ公国(青地に白のマルタ十字)、右下がピサ共和国(赤地に、使徒を示す12の珠の付いた白十字)となっている。イタリア海軍もイタリア商船も共通で使用している。

イタリア海軍の軍艦旗
イタリア海軍の軍艦旗は、国旗と王冠と紋章で構成。

日の丸掲揚
ありがとうございます

船首

中央に最新のアンテナ群。近代化改装の賜物。

おっ、東海汽船のジェットフォイルだ。
「セブンアイランド愛」


東京国際クルーズターミナルの岸壁から

裸婦像
なんだろう。航海の女神的なものかな。


アメリゴ・ヴェスプッチ号の船内

※撮影:2024年8月


関連

イタリア海軍航空母艦「カヴール」と「金沢まつり花火大会」の夜(横須賀)

2024年8月24日の夜。
イタリア海軍の空母「カブール」(ITS Cavour C 550) と「金沢まつり花火大会」を、写真中心に。


イタリア海軍航空母艦「カヴール」と「花火」

例の高台にて。
花火とは知らず、三脚を保有していなかったが、一脚を駆使して、なんとか頑張って撮影してみました。

艦橋がイタリア三色旗「トリコローレ」に彩られている。


ヴェルニー公園の夜

高台から、ヴェルニー公園に移動。

イタリア海軍フリゲート艦「アルピーノ」
ピントが甘いですが。


フランス海軍フリゲート艦「ブルターニュ」

フランスの国旗三色旗(トリコロール)に彩られ。

※2024年8月24日撮影


イタリア海軍航空母艦「カヴール」と「YOKOSUKA軍港めぐり」(横須賀)

2024年8月。イタリアの空母「カヴール」が日本に初めて寄港した。
横須賀にその様子を見に行ったので、写真メインで。


イタリア海軍航空母艦(軽空母)
「カヴール」(Cavour C 550)

カヴール(Cavour, C 550)は、イタリア海軍の軽空母。艦名はイタリア王国の初代首相カミッロ・カヴールに由来する。
2001年7月17日に起工、2004年7月20日に進水、2008年4月27日に就役。
スキージャンプ勾配つき全通飛行甲板となる。
艦載機は、「AV-8B ハリアー II」と「F-35 ライトニング II」の短距離離陸・垂直着陸(STOVL)型を搭載する。

「YOKOSUKA軍港めぐり」を活用して、イタリア空母を見学。

「AV-8B ハリアー II」

「F-35 ライトニング II」

イタリア海軍旗と「F-35 ライトニング II」

艦橋

艦首に、単装砲塔オート・メラーラ 76mmスーパー・ラピッド砲

なんか抗議船がいました、海保の皆様、ご苦労さまです。

例の高台からも。

NHインダストリーズ(NHI)「NH90」艦載ヘリ

ハリアーⅡ、はじめて見ました!


イタリア海軍フリゲート艦「アルピーノ」

カルロ・ベルガミーニ級フリゲート「アルピーノ(Alpino F 594)」。
対潜型フリゲート艦。
2012年2月23日に起工し、2014年12月13日に進水、2016年9月30日に就役。

カヴールとアルピーノ


フランス海軍フリゲート艦「ブルターニュ」

フランス海軍フリゲート艦「ブルターニュ」(FS BRETAGNE D 655)
米軍基地に、フランス海軍も入港。
アキテーヌ級フリゲート艦(駆逐艦)。
2013年起工、2016年9月16日進水、2019年2月20日就役。

フランス国旗とアメリカ国旗。

フランス軍艦の手前には、日本の潜水艦。


YOKOSUKA軍港めぐり

あとはいろいろ。

日本の潜水艦

米海軍ミサイル駆逐艦ラファエル・ペラルタ (USS Rafael Peralta, DDG-115) 
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の65番艦。

米海軍ミサイル駆逐艦マッキャンベル (英語: USS McCampbell, DDG-85) 
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の35番艦。

右は、米海軍ミサイル巡洋艦ロバート・スモールズ (USS Robert Smalls, CG-62) 
タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦の16番艦。 

左は、米海軍ミサイル巡洋艦レイク・エリー(USS Lake Erie, CG-70)
タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦の24番艦。

米海軍ミサイル駆逐艦ヒギンズ(USS Higgins, DDG-76)
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の26番艦。 

奥は、米海軍揚陸指揮艦ブルー・リッジ(USS Blue Ridge, LCC-19)

左は、ジョン・フィン (英語: USS John Finn, DDG-113) 
アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の63番艦。

沖合に。
海自「くまの」(JS Kumano, FFM-2)

海自「いずも」JS Izumo, DDH-183

ドイツ海軍補給艦「フランクフルト・アム・マイン」が横須賀に入港。

「いずも」と対面。

相模倉庫

船越地区、長浦港。

海洋観測艦「わかさ」AGS-5104

海上自衛隊掃海艦「ひらど」MSO-305

海洋観測艦「しょうなん」AGS-5106

掃海艇「ちちじま」MSC-605

潜水艦は艦名わかんないね。

特務挺「はしだて」ASY-91 迎賓艇。
潜水作業支援船(水中処分母船1号型)「YDT-03」

輸送艇1号型の2番艇(LC-2002)
多用途支援艦えんしゅう(AMS4305)

いろいろいっぱい。
手前から。
護衛艦もがみ(FFM-1)
護衛艦おおなみ(DDD-111)
護衛艦むらさめ(DD-101)
 桟橋
掃海母艦うらが(MST-463)
護衛艦ゆうぎり(DD-153)
潜水艦救難艦ちよだ(ASR-404)

護衛艦てるづき(DD-116)
護衛艦まや(DDG-179)
 桟橋
イタリア海軍アルピーノ(Alpino F 594)

こんな感じで、多国籍が楽しめた2024年8月25日、でした。


ドイツ海軍フリゲート艦「バーデン・ヴュルテンベルク」と補給艦「フランクフルト・アム・マイン」(東京港)

ドイツ海軍の最新鋭のフリゲート艦と、最大級の補給艦が東京国際クルーズターミナルに来航していたので、ちょっと見学。

2024年8月24日-25日の写真。


ドイツ海軍フリゲート「バーデン・ヴュルテンベルク」
(Baden-Württemberg, F222)

ドイツ海軍のフリゲート。
バーデン・ヴュルテンベルク級フリゲートの1番艦。
就役は2019年、満水排水量は、7,316トン。

後甲板に「NFH90哨戒ヘリコプター」を2機搭載。
シーライオン(Sea Lion)
機体には、ドイツ連邦軍を象徴する伝統の「鉄十字」(Eisernes Kreuz)EK(エー・カー)紋章も。

ドイツ海軍もドイツ艦載ヘリも、はじめてみました!
もちろん、ドイツ海軍軍艦旗も。

64口径127mm単装砲(オート・メラーラ 127 mm 砲)

艦名の由来ともなった、「バーデン=ヴュルテンベルク州」の州小紋章

きがついたら、いつの間にか、格納庫が一つ閉じていました。

荷下ろし作業中。


ドイツ海軍補給艦「フランクフルト・アム・マイン」
Frankfurt am Main, A1412

ドイツ海軍の補給艦。
2002年就役。満水排水量は20,240トン。
ベルリン級補給艦の2番艦。
補給艦であるが、27mm機関砲(マウザー BK-27)×4基を実装。

艦名の由来となったフランクフルト・アム・マイン市の紋章


東京国際クルーズターミナル

翌週からの「イタリア」(イタリア帆船「Amerigo Vespucci」号寄港)の準備中。


東海汽船「セブンアイランド結(ゆい)」

25年ぶりに川崎重工にて建造された東海汽船の超高速旅客船「セブンアイランド結(ゆい)」(2020竣工)が、ドイツ艦の後方を走り抜けて行きました。


横須賀(長浦港)

翌日の8月25日。YOKOSUKA軍港めぐりの12時の回にて。
沖合より、ドイツ海軍補給艦「フランクフルト・アム・マイン」が入港してきました。
このあとに、フリゲート艦「バーデン・ヴュルテンベルク」も入港でした。

沖合に停泊する、海上自衛隊最大の護衛艦「いずも」と、ドイツ海軍最大の補給艦「フランクフルト・アム・マイン」の邂逅。

普段見ることのできない海外艦は、日本とか米国とかとは違っていて、みていて面白いですね!

※撮影:2024年8月


関連

護衛艦ふゆづき(艦艇広報2024 in Funabashi)

護衛艦ふゆづき
艦艇広報2024 in Funabashi 自衛隊千葉地方協力本部

2024年7月20日。船橋港にて。

護衛艦ふゆづき、舞鶴からようこそ!!


護衛艦ふゆづき

DD-118 JS Fuyuduki 護衛艦ふゆづき
あきづき型護衛艦の4番艦。
艦名は「冬空に高く輝く、凛冽とした冬の夜を照らす月」に由来する。
母港は舞鶴。2014年就役。

冬月

ホワイトボードに描かれたふゆづき

船橋港。艦尾には、先代しらせ(SHIRASE5002)が係留されている。

SHIRASE5002艦橋から。

CIWSをグリグリ動かすデモ。

あっ、千葉地本の千葉三兄弟だ。


ミニP-3C演技展示

下総航空基地から船橋港に出張ですね。
わるい潜水艦を懲らしめます!


SHIRASE5002

しらせ (砕氷艦・初代)
1982年就役、2008年退役。
退役後は、ウェザーニューズ社が引き取り、現在は関連団体のWNI気象文化創造センターに管理移管されている。

ちなみに航行可能な状態で維持されている。

かなり広いヘリ甲板

海保の光洋(2021年竣工の最新鋭の測量船)も係留されている。

なんかいた

撮影:2024年7月


関連

よこすかYYのりものフェスタ2024(海自・横須賀基地)

2024年6月9日。久しぶりに横須賀に護衛艦を見に行きました。
海上自衛隊横須賀地方総監部へ。

横須賀のヌシ「いずも」はお出かけで、いつもとはちょっと違うメンバーが停泊。

写真中心で。

横須賀のヌシ「いずも」は、何度か乗ってます。。。


護衛艦「てるづき」「あきづき」試験艦「あすか」

DD-116 護衛艦「てるづき」(あきづき型2番艦)母港は横須賀
DD-115 護衛艦「あきづき」(あきづき型1番艦)母港は佐世保
ASE-6102 試験艦「あすか」母港は佐世保

低視認塗装(ロービジ化)で艦番号が薄くなっている「あきづき」「てるづき」
一方で、試験艦「あすか」は、低視認塗装にする必要はないので、くっきりはっきりの艦番号。

護衛艦「てるづき」見学

護守印の中央上部には月の女神「アルテミス」を、右下には「つるづき」を描き、「照り輝く月の下、率先して任務に挑み、達成する」という艦の方針を示しています。
乗員は艦名の由来「照り輝く月」を誇りに思っています。

となりの僚艦「あきづき」

おっ、照月ちゃん。かわいい!


護衛艦「もがみ」見学

FFM-1多機能護衛艦「もがみ」(母港は横須賀)

「もがみ」「くまの」とはよく会いますね。最近。


護衛艦「きりしま」

「もがみ」の隣に停泊。
DDG-174ミサイル護衛艦「きりしま」母港は横須賀。

艦番号423は、補給艦「ときわ」


もがみ型護衛艦

もがみ型護衛艦
FFM-2くまの(横須賀)
FFM-5やはぎ(舞鶴)

艦番号110は、護衛艦「たかなみ」


潜水艦「うずしお」見学

SS-592潜水艦「うずしお」(母港は横須賀)

潜水艦は甲板の上のみだけど、一番混んでました、、、

潜望鏡!!
潜望鏡をぐるぐるするデモ


そのほか

そのほか、目についたものを。

補給艦「ときわ」

AMS-4305 多用途支援艦「えんしゅう」
水中処分船「YDT-03」

曳船YT10


横須賀海軍港務部の境界塀

JRと海自のあいだあたりに残存している境界塀


横須賀海軍港務部係船環表示板


海上自衛隊横須賀地方総監部

繋留用ブイ繋止錨

四瓲 昭和十三、一 (住友マーク)NO5

国産水産物を食べよう!

艦めしーふーど

佳きデザイン!

護衛缶!!

ちょっと高級な缶詰(護衛缶)でしたが、がんばろう!ということで、ゲットしました!

わんわんお


海上自衛隊横須賀資料室(横須賀厚生センター)

なにげにはじめて、でした。

海自の主要部隊配置図。

横須賀と海軍の沿革
 横須賀における海軍の歴史は嘉永6年(1853年)ペリーの来航から始まります。当時、勘定奉行小栗忠順の提唱により建設された横須賀造船所があったことから、明治17年(1884年)海軍省は横須賀に鎮守府を置き「横須賀鎮守府」が誕生しました。横須賀には造船部が開設され、海軍工廠として戦艦「薩摩」「陸奥」空母「鳳翔」「加賀」など多くの軍艦が建造されました。
 また、砲術練習所、機関練習所が置かれ、追浜には海軍航空隊が開設され、海軍基地として大きく発展しました。
 戦時下に水雷学校、通信学校(久里浜)、海兵団(武山)など多くの機関が設けられました。
 昭和20年(1945年)8月帝国海軍は消滅し、在日米海軍司令部が横須賀に移りました。旧海軍施設の一部は民間に払下、昭和27年4月水雷学校跡に海上警備隊横須賀監部が設けられました。

横須賀厚生センター

喫茶と食堂

なんか茶色い揚げ物がてんこ盛りのカレーを食べました。

海上自衛隊横須賀地方総監部庁舎

自衛隊がんばれ!

横須賀で偉い人

撮影:2024年6月


トルコ海軍コルベット艦「クナルアダ」(日本・トルコ外交関係樹立100周年記念)

2024年は、日本・トルコ外交関係樹立100周年。

2024年6月。
日本とトルコの歴史を振り返りつつ、トルコ軍艦を見学してきました。


エルトゥールル号遭難事件

日本とトルコの交流は、1887年の小松宮彰仁親王のオスマン帝国訪問と、翌年のエルトゥールル号の来日から始まった。

1887年、小松宮彰仁親王がヨーロッパ訪問の途中で、オスマン帝国の首都イスタンブールに立ち寄った。それに応える形で1890年、オスマン帝国スルタンであったアブデュル・ハミト2世の使節としてフリゲート艦「エルトゥールル」が日本へ派遣された。
使節は 明治天皇へ親書などを手渡し帰国の途についたが、和歌山県沖で台風に巻き込まれ座礁沈没。
特使オスマン・パシャを含め500名以上の乗組員が死亡した。このとき紀伊半島南端の和歌山串本・大島の住民が救援に駆けつけ69名を救出した。報告を受けた 明治天皇は直ちに神戸港へ医師と看護婦を派遣、救援に全力をあげた。さらに生存者には日本全国から多くの義捐金・弔慰金が寄せられた。
生存者は日本海軍の装甲コルベットの金剛と比叡により、オスマン帝国に丁重に送還された。
「トルコ軍艦遭難事件」とその顛末はトルコ国内で大きく報道され、日本人に対する友好的感情もこの時より醸成された。
現在、和歌山県串本町には遭難事件にまつわるトルコ記念館がある。


日露戦争

1904年から始まった日露戦争に、オスマン帝国国民は大きな関心を寄せた。
これはクリミア戦争(1853年 – 1856年)・露土戦争(1877年 – 1878年)などによるもので、日本・トルコ両国にとってロシア帝国は共通の敵であった。
トルコを苦しめてきたロシア帝国であったが、1905年に日本が日本海海戦でロシアバルチック艦隊に対し決定的な勝利をおさめると、オスマン帝国国内では、日本の快勝を自国の勝利のように歓迎した。


第一次大戦

極東で南下政策を日本によって阻止されたロシア帝国は、オスマン帝国(オスマン・トルコ)に矛先を転じ、ボスボラス海峡とイスタンブールの掌握を目指した。トルコはドイツと接近し、第一次大戦は、同盟国(ドイツ帝国、オスマン帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国)として、連合国(イギリス、フランス、ロシア、日本)と戦うことになった。
日本は連合国(日英同盟)として、同盟国と戦うことになり、オスマン帝国と日本は交戦国となる。
敗れたオスマン帝国は、1920年セーヴル条約によって広範な領土を失った。


トルコ革命(トルコ独立戦争)

第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国は、さらなる列強による国土分割・植民地化の危機にあった。

しかし1922年からアンカラに樹立された大国民議会政府(アンカラ政府)ケマル・アタテュルク(現代トルコの国父・建国の父)らの主導で祖国解放戦争が開始され、祖国解放戦争に勝利、オスマン帝国を打倒して、トルコ共和国が成立。
1923年のローザンヌ条約(フランス・イギリス・イタリア・日本・ギリシャ・ルーマニア・ユーゴスラビア・トルコ)により国境が決定した。


平明丸事件(ツムラ・ユキチ通り)

終戦によってロシアの捕虜となったトルコ兵は1918年に日本側に移管され、その後、日本が捕虜をトルコ本国へ送り届けることとなった。
1921年に捕虜を乗せた輸送船の「平明丸」(司令官・津村諭吉)がトルコ到着直前にギリシャ軍に拿捕された。
これは、ギリシャ政府はトルコ内(小アジア)の領土を獲得しようと侵攻しており戦争状態(希土戦争)であり、トルコ兵捕虜返還によりトルコ側の戦力増強につながることを懸念したためであった。

津村中佐は、ギリシャより捕虜の引き渡しを要求されたが、これを拒否した。そして7カ月近い抑留の末、仲介役のイタリアに捕虜を引き渡し、トルコ兵らを救った。
結果として、トルコ人捕虜の多くは最終的に1922年6月に無事帰国、その後はギリシャの懸念通り直ちに祖国解放戦争に参加し、同年9月にギリシャ軍はトルコから完全撤退することになった。

2020年にイスタンブール市内のある通りが「津村諭吉中佐通り」と改名された。


日本・トルコ国交樹立

トルコ共和国建国の翌年、1924年の8月6日に日本がローザンヌ条約を批准し、同条約が発効したことにより、トルコと日本の間で外交関係が樹立。
その後、1925年にトルコに日本大使館を開設。
中東地域での日本大使館開設はトルコが初めてであり、これは日本政府が当時からトルコをいかに重要視していたかを示している。

1926年に日土協会が発足。
1928年にはトルコ海軍が日本海軍に駆逐艦や潜水艦などの建造を依頼。
1929年に高松宮宣仁親王( 昭和天皇弟宮・日本海軍将校)が、日土協会の総裁に就任。
トルコは、日本の明治維新を手本として、近代化政策をすすめていった。
1930年、日土通商航海条約が結ばれ両国の関係はより強固なものとなった。


第二次世界大戦

第二次世界大戦でトルコが枢軸国側に参加することは無かった。
開戦当初からトルコは中立を宣言し、中立を長らく維持していたがイギリスをはじめとした連合国の圧力により、1945年日本に宣戦布告した。
しかしトルコ国内世論は宣戦布告に反対であり、日本に対しての軍事行動は一切行わなかった。

戦時中に、破棄された国交は、1951年のサンフランシスコ平和条約によって回復。
トルコ政府は日本政府に対して、賠償をはじめとする一切に請求を行わなかった。


日本・トルコ外交関係樹立100周年

1924年から100年。
2024年、日本とトルコは外交関係樹立100周年を迎えた。


トルコ海軍コルベット艦「クナルアダ」

アダ級コルベット「クナルアダ」が、国交樹立100周年を記念して、東京港(東京国際クルーズターミナル)に入港し一般公開されました。


クナルアダ(F514 TCG Kınalıada)
トルコ海軍初の国産大型水上戦闘艦。ステルス艦として設計されている。
排水量2465トン、全長99.56メートル。
イスタンブール海軍工廠で起工され2019年に就役した。

ムスタファ・ケマル・アタテュルクの肖像とともに。
トルコ共和国の元帥、初代大統領
「父なるトルコ人」
「現代トルコの国父(建国の父)」

第一次世界大戦で敗れたオスマン帝国において、トルコ独立戦争とトルコ革命を指導してトルコ共和国を樹立。トルコの近代化を推進し、トルコ大国民議会から「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」の称号を贈られた。「現代トルコの国父(建国の父)」とも呼ばれる。

トルコ国旗

撮影は後甲板のみで、艦内は撮影禁止。

WELCOM ON BOARD
TCG KINALIADA(F-514)

OUR FRIENDSHIP IS GOLDEN

「TCG」(Turkiye Cumhuriyeti Gemisi)(トルコ共和国艦艇)

上からも。

記念の帽子。トルコ国旗が良い!!


トルコ海軍

トルコ海軍の紹介パンフ。

トルコ共和国海軍は、チャカスがスミュルナを制圧した1081年を創設年としている。

トルコ海軍の歴史(意訳概略)
1081年にCaka Bey(チャカ・ベイ/チャカス)の指揮のもとに、イズミット(Izmir)で最初の艦隊が設立されたことにはじまる。
取るか艦隊は、1090年のKoyun諸島の戦いで輝かしい勝利を収めた。
1538年に、バルバロス・ハイレディン・バシャ(Barbaros Hayreddin Pasa)率いるトルコ艦隊は十字軍とのプレヴェザの海戦で勝利を収め、地中海の絶対的な支配を確立した。(大航海時代、ですね)
トゥルグト・レイス(Turgut Reis)の指揮下で、トルコ艦隊は1560年にジェルバ島近くで再び十字軍を破り、地中海の優位性を強化。
トルコ艦隊は、第一次世界大戦の1915年にチャナッカレ海戦(ガリポリの戦い)で連合国を撤退に追い込んだ。(オスマン帝国の名指揮官ムスタファ・ケマル・アタテュルクが活躍)
チャナッカレ海戦(ガリポリの戦い)の勝利と、のちのムスタファ・ケマル・アタテュルクによるトルコ共和故国の設立により、トルコ海軍は新たな海軍として立ち上がった。
トルコ海軍は、「Türkiye(テュルキエ)」の権利、利益、資産、そして潜在的な脅威を守り、地域の案件保証への取り組みに貢献するために、海上での重要な役割を引き受けることで、任務を遂行し続けている。


ケバブ

やっぱり食べたくなるので。
東京国際クルーズターミナルから、ケバブが食べれる場所を探して、一番近場だったお台場まで足を伸ばして、ケバブラップを。


付記

トルコ海軍フリゲート艦「ゲディズ」(2015年撮影)

1890年に現在の和歌山県串本町沖で座礁、沈没したエルトゥールル号事件の125周年記念事業の一環として来日したときの写真などを付記で。

F495 Gediz(ゲディズ)
ガビヤ級フリゲート艦。
旧・米O・H・ペリー級(オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲート)をベースとしている。
元は、米海軍の「ジョン・A・ムーア」(1981就役)
2000年9月1日に米海軍を退役し、トルコ海軍に移管、艦名はゲティズ (Gediz, F 495) と改められた。

エルトゥールル号事件 125 周年記念として、トルコ海軍TCGゲディズが晴海埠頭に寄港。
海自ホストシップ艦は護衛艦たかなみ。

記念品。
エルトゥールル号の本とキーホルダー。

ホスト艦の「たかなみ」

映画「海難1890」
2015年制作の映画。日本とトルコの友好125周年を記念して制作された。
エルトゥールル号海難事故編とテヘラン邦人救出劇編の二部構成。


駆逐艦「朝霜」「梅」と重巡洋艦「愛宕」戦没者慰霊碑(三島・妙法華寺)

静岡県三島市の山中に静かに鎮座する玉澤妙法華寺(妙法華寺)。
その境内に、軍艦の慰霊碑があるというので、足を運んでみた。


「愛宕」「朝霜」の慰霊碑建立の経緯

昭和19年(1944)10月。
捷一号作戦、レイテ沖海戦。
第二艦隊司令長官栗田健男海軍中将は、重巡洋艦「愛宕」に座乗し、第一遊撃部隊第一部隊(通称:栗田艦隊)は、10月22日にブルネイを出航し、レイテ島に向かった。
翌日10月23日に米国潜水艦が栗田艦隊を発見し、雷撃を実施。栗田艦隊の旗艦「愛宕」に魚雷が命中し、愛宕は20分後に転覆沈没。1197名の乗員のうち、492名が駆逐艦「朝霜」に、221名が「岸波」に救助され、484名が戦死したという。
駆逐艦「朝霜」は、愛宕生存者を救助後に、駆逐艦「長波」とともに、同じく雷撃を受けて応急修理を行っていた重巡洋艦「高雄」の警戒と護衛を実施。「高雄」に留めを刺そうとする米潜水艦による攻撃を断念させた。

昭和20年4月。

坊の岬沖海戦。沖縄水上特攻作戦(天一号作戦)
4月6日。
沖縄特攻部隊として、第二水雷戦隊第21駆逐隊「朝霜」(司令駆逐艦)、僚艦の「初霜」「霞」は、第一航空戦隊戦艦「大和」(第二艦隊旗艦)、第二水雷戦隊旗艦「矢矧」、第17駆逐隊「磯風」「雪風」「浜風」、第41駆逐隊「冬月」「涼月」とともに徳山を出撃。
翌日7日に、朝霜は機関故障を起こし速力低下し艦隊から落伍。応急修理を実施するも復旧せずに、単艦で米軍機と戦闘。孤軍奮闘し『我敵機ト交戦中』『90度方向に敵機30数機を探知す』との無電を発した後、連絡が途絶え消息が途絶えた。朝霜乗組の第21駆逐司令小滝久雄大佐、艦長杉原与四郎中佐以下、327名の将兵は、消息不明となった朝霜と殉じ、全員戦死認定された。

昭和32年
三島市の高橋氏が朝霜で戦士した息子を思い、朝霜戦没者遺族に呼びかけて、戦没者の冥福を供養する為に玉沢の妙法華寺に「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」を建立。

昭和55年
「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」碑前での慰霊祭を耳にした、軍艦愛宕元乗組員が、愛宕沈没時に乗組員を救助した朝霜の英霊に感謝し、「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」碑前にて、軍艦愛宕戦没者三十三回忌法要を愛宕生存者と遺族の有志により施行し、併せて朝霜の英霊に従事に謝しつつ御冥福を祈念した。
その折に、「愛宕戦没者慰霊碑」建立を決定し、妙法華寺の理解を得て、「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」と並んで建立された。

慰霊碑建立の経緯
 軍艦「愛宕」は、重巡洋艦(壱万屯)で戦時中は第四戦隊の旗艦として活躍し、昭和十九年十月二十三日、比島パラワン島沖の回線で不運にも轟沈せり。乗組員(司令部付を含む)一一九七名のうち戦死者四八四名、その折り救援の駆逐艦「朝霜」が四百九二名同じく「岸波」が二二一名救出せり(戦闘詳報より)駆逐艦朝霜は昭和二十年四月七日沖縄特攻部隊として出撃中、敵機三十余機と交戦、武運拙く第二一駆逐司令小滝久雄大佐、艦長杉原与四郎中佐以下、三二七名の将兵は九州南端沖に護国の鬼と化し、悲惨、艦と共に轟沈。全員戦死せり。駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑の建立は三島市中央町高橋実衛氏(錦店)の父晋吾氏が五男通夫氏も朝霜で戦死したので、子を想う親として同憂の全国の朝霜戦没者遺族に呼びかけ、先達となり全国を行脚し、尚私財を投じ戦没者の冥福を供養する為に玉沢の聖地に、昭和三十二年春建立したものである。
 毎年命日には遺族会長小滝国雄氏(故 小滝司令息子)のもと全国より遺族が碑前で慰霊祭を行っておるがその祭事を地元海軍出身者の集いである海軍会員が協賛し、厳粛盛大に行っており、時候的に玉沢は桜花咲き乱れ好時期であり桜花の如く散りし戦没者を想い同じ海軍にありて運よく達者である事を感謝しつつ戦没者のご冥福を祈念し祭事に奉仕しておる三島地方の出身者海軍会であります。
 この事を軍艦愛宕元乗組員が知り愛宕沈没の折り身を悌し救助に活躍した駆逐艦朝霜の英霊の碑前で先年軍艦愛宕戦没者三十三回忌法要を愛宕生存者と遺族の有志により海軍会員多数列席佛式により厳粛に施行し併せて朝霜の英霊に従事に謝しつつ御冥福を祈念した。その折愛宕戦没者慰霊碑建立の議を決し、妙法華寺の御理解を得て駆逐艦朝霜の碑と並びに建立する事が決り愛宕関係者や海軍出身者その他各界の協賛を得て昭和五十五年十月二十三日建立されました。
 敵味方入り乱れての激戦の最中沈没寸前に救助された生存者の感謝が朝霜の英霊に答えるや如く愛宕戦没者の慰霊碑が建立された事は、戦後三十余年を迎え遅ればせながら両艦の偉勲をたたえると共に、慰霊と御供養になることを信ずるものであります。
 願わくば、此の慰霊碑建立によって永年に平和を願い戦争の悲劇を再び繰り返さないよう楯となっていただき祖国日本をお守りくださることを念願してやまない次第です。
 このようにして由緒深い玉沢の妙法華寺境内に大東亜戦の生んだ海軍の遺跡が生現した次第であります。
  昭和五十五年十月二十三日
   三島田方駿東海軍会


駆逐艦朝霜戦没者之碑
(駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑)

駆逐艦朝霜戦没者之碑
正二位勲一等 小笠原長生 書

駆逐艦朝霜の戦歴
 駆逐艦朝霜は大東亜戦争中 帝国海軍第二艦隊第二水雷戦隊に所属し、太平洋海域の主要作戦に参加、奮闘した。
 昭和二十年四月六日、戦艦大和ほか九隻で水上特攻隊を編成し、米軍による沖縄侵攻を阻止するため、同地に向け 三田尻沖を出撃し 四月七日正午頃 九州南西方面海域において敵機多数と交戦、奮闘するも力及ばず、旗艦 大和 宛て
「我、敵機 三十機と 交戦中」との電報を最後に 十二時十分頃 同海域に沈没、乗組員全員三百二十九柱は 艦と共に 壮絶な最後を遂げた。
 ここに同艦の赫々たる功績を称え、戦没者諸柱の鎮魂のため、此の碑を建立する。


一、建造
   竣工 昭和十八年十一月二十七日
   場所 藤永田造船所(大阪)
二、要目
   排水量 二、〇七七 屯
   全長 百十七米 全幅一〇・八 米
   吃水 三・七六 米
   主機 蒸気タービン二機二軸
   出力 五二、〇〇〇 馬力
   最高速力 三十五 節
   装備 主砲 十二・七糎 二連 三基
      魚雷 六十一・〇糎 四連 二基
   乗員 約三百名
三、戦歴 (参戦した主要な作戦)
   あ号作戦(マリアナ沖海戦)
   捷一号作戦(レイテ沖海戦)
   多号作戦(オルモック輸送作戦)
   礼号作戦(ミンドロ島沖作戦)
   天一号作戦(沖縄突入作戦)

跋文
「駆逐艦朝霜戦没者之碑」は昭和三十一年 同艦沈没時、艦と運命を共にした乗組員総員の鎮魂のために建立された。
 「駆逐艦朝霜戦没者之碑」の建立にあたっては朝霜会地元世話人 髙橋晋五殿の並々ならぬ御苦労があった。
 三島市玉澤の聖地に立つ此の碑を心の拠りどころとして爾来三十数年に亘って遺族と元乗組員から成る朝霜会は、毎年一回此の地に集い相互に親交を深め励ましあって戦後の荒波を乗り越えてくることができた。
 此の度、北海道亀田郡七飯町の遺族 森本絹子殿は篤志を以て英霊の供養のため本戦歴碑を寄進された。
  平成二年四月七日 
   駆逐艦朝霜会一同

揮毫の小笠原長生さん、、、昭和31年建立の慰霊碑にも揮毫されていました。小笠原長生は昭和33年に90歳で没しているので、戦後は、海軍の大長老といったところ。

大和、、、坊の岬沖海戦。


軍艦愛宕戦没者之碑
(軍艦愛宕戦没者慰霊碑)

軍艦愛宕戦没者之碑
参議院議員 源田実 書

巡洋艦 愛宕
巡洋艦愛宕は、広島県呉海軍工廠に於て昭和7年3月30日竣工し排水量12,400屯、太平洋戦争に当り、マレー沖海戦・マレー比島上陸作戦支援・ミッドウェー海戦・アリューシャン攻略戦・南太平洋海戦・ソロモン沖海戦・ガダルカナル攻防戦・マリアナ沖海戦・比島沖海戦等に参加。昭和19年10月23日比島パラワン島西方東経1177北緯922に於て敵潜水艦の雷撃により乗組員480余名と共に沈没す。
我等九死に一生を得て生存した愛宕乗組員は、共に戦った戦友と愛宕の御霊を慰め、永くその名を後世に留めようと決意し、ここに真心をこめて慰霊碑を建立した。
 昭和55年10月23日
  愛宕慰霊碑建立委員長  芹沢吉作
        副委員長  平山正晴
        副委員長  冨樫雅文
  静岡愛宕会会長     山下三男
  三島田方駿東海軍会会長 星谷庄作
   (略)


駆逐艦梅戦没者慰霊之碑
(駆逐艦梅戦没者慰霊碑)

駆逐艦「梅」の慰霊碑が当地にある由来は不明。

駆逐艦梅戦没者慰霊之碑
艦長 海軍少佐 従六位勲四等 大西快治 書

駆逐艦「梅」
丁型一等駆逐艦第5483号艦として藤永田造船所にて、昭和19年6月竣工した。昭和19年10月のレイテ作戦には参加せず、台湾方面輸送作戦に従事していた。

「パトリナオ輸送作戦」
駆逐艦「梅」は、昭和20年1月31日、ルソン島アパリに集結していたフィリピンからの搭乗員救出(フィリピン撤退)のために、台湾高雄からルソン島に向けて航行中に空襲され沈没。

駆逐艦「梅」艦長・大西快治少佐は、子ノ日航海長、水雷艇鳩艇長、朝凪艦長、梅艦長等を歴任。「梅」沈没後は、横須賀突撃隊特攻隊長。終戦後は「萩」艦長を努めている。

艦歴
昭和一九
(四.二四)  大阪藤永田造船所にて進水
六.二   竣工 第十一水雷戦隊に編入
七.一五  桃と共に第四十三駆逐隊を編成
七.二〇  内海西部にて訓練に従事
八.二〇  第三十一戦隊に編入
一〇.一二 台湾沖航空戦に参加
一〇.二三 多号作戦一〇二師団レイテ西岸オルモック上陸作戦掩護
一一.三  人員機材を台湾に緊急輸送
一一.六  戦艦伊勢 日向 五十鈴 新南郡島進出の為護衛任務に従事
一一.一四 戦艦大和 長門 金剛 内地回航の為護衛任務に従事
一一.二五 単艦にてブルネイ方面に進出
一二.二  南西方面艦隊(マニラ)指揮下に入りマニラに回航
一二.五  多号第八次オルモック輸送作戦に従事
一二.一四 マニラ湾にて敵機動部隊の艦載機と交戦
      艦首へ至近弾を受け揚錨機作動不能となる
一二.一五 修理の為香港に回航
昭和二〇
一.一五  香港々内にて米機動部隊艦載機五〇機と交戦 三機撃墜
一.二九  台湾高雄港にて米機動部隊艦載機と交戦
一.三一  比島アパリ集結中の搭乗員救出の為
パトリナオ輸送作戦実施の為
高雄を出港
     バシー海峡にて敵機約三〇機の来襲を受け之と交戦
     被弾三発後部甲板切断沈没 敵一機撃墜(一八時一〇分)
     戦死者八〇余名 東経一二〇度五〇分 北緯二〇度三〇分
茲にて短命なりと雖も 梅の輝かしい戦績を讃え 勇敢に戦い悠久の大義に就いた戦友の霊を慰むる為「梅」ゆかりの地 三島玉沢木山妙法華寺霊峰富士の万年雪溶けて流るる神霊地に 此の碑を建立す
  昭和六十一年一月三十一日(四十年目命日)
   駆逐艦梅慰霊碑建立委員会


永代供養料碑

昭和63年、3団体の寄進。

三島田方駿東海軍会
駆逐艦梅戦友会
静岡県愛宕戦友会


忠魂碑

忠魂碑
陸軍大将 鈴木荘六書

昭和8年建立。
鈴木荘六は、定年退役後に第4代帝国在郷軍人会長であったことから、揮毫された忠魂碑も多い。


日露役戦死病没英霊菩提塔


忠霊殿

にゃあ


玉澤妙法華寺(妙法華寺)

静岡県三島市玉沢にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。
山号は経王山。

1284年(弘安7年)、日蓮の弟子日昭は風間信昭の帰依を受け、鎌倉浜土の玉沢(現鎌倉市材木座)に法華堂を建立したことにはじまる。
1538年(天文7年)戦乱により、越後村田(現新潟県長岡市村田)の妙法寺に避難。
1594年(文禄3年)戦乱により、伊豆加殿(現静岡県伊豆市)の妙国寺に避難。
その後、15代日産の時、1621年(元和7年)に大木沢(現在地)に移転し、日産、日達、日亮の3代に渡り再建された。大木沢は妙法華寺創建の地名をとって玉沢と改称された。

最寄りのバス停は「玉沢」
1時間に1本あるときもあれば、2時間に1本のときもあるので、バスで赴く時は、時間配分は要注意。

私は9時15分に到着して、帰りは11時5分のバスでしたので、約2時間ほどの持ち時間でした。。。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Ndi3Ae2UrL4ohjB78

撮影:2023年12月


関連

朝霜と梅は、藤永田造船所で生まれた

軍艦「三笠」のスクリューの一片と補助舵輪(川口市)

埼玉県川口市に、なぜか「戦艦三笠」に関係するものが残っているというので、足を運んでみた。

そこには、遠目でもわかる状態で、三笠のスクリューが住宅地に忽然と陳列してあった。


三笠

日露戦争の日本海海戦での第日本帝国海軍の連合艦隊旗艦を務めた。
世界三大記念艦のひとつ。

三笠は、敷島型戦艦の4番艦。イギリスのヴィッカース社で建造され1902年(明治35年)竣工。

昭和20年の終戦後、三笠はソ連の圧力で解体処分されそうになるが、米軍の調整により解体は免れるも、戦後の荒廃で金属やチーク材などは盗まれ、そして米軍によってダンスホールや水族館などの娯楽施設が艦上に開設された。


軍艦「三笠」のスクリューの一片と補助舵輪

軍艦「三笠」のスクリューの一片と補助舵輪
 明治38年5月27日は日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に大勝した日である。其の時の旗艦「三笠」の栄誉をたたえ横須賀に記念艦とし此のスクリューの一片と補助舵輪は共に保存されてありました。
 昭和20年8月15日終戦後進駐軍より三笠艦を解体せよとの命令に従い惜しくも東郷元帥が指揮をした司令塔Z旗を掲揚したマスト等の解体作業が進められた其の折此の三笠艦のスクリューの一片と補助舵輪は私石井が幸いにして入手した次第であります。
 此のスクリューはイギリスのストーンブロンズ社が鋳造したもので奇しくも石井を英訳するとストーンであり而も同じ特殊ブロンズの鋳造会社であるが故に栄光に奇縁を添えた三笠艦のスクリューの一片と補助舵輪は石井家の宝として保存するものであり恂寿
 昭和59年10月吉日
  ストーンブロンズ株式会社
  石井次郎 記述 書

STONE’S BRONZE
LONDON 1899

なお、「三笠」は、保存のため陸地と固定されているため、スクリュー含め艦底部分は埋められている。

補助舵輪

ちなみに下記は、今の三笠についている艦橋の舵輪。(意識せずに撮影してました)
かなり大きさが違う。
補助舵輪は、どこに設置されていたのだろうか。
この大きさを設置しようとすれば、艦内では、それなりのスペースを必要とする。

まちかどスポット賞 川口市 1988

大砲のような鋳造品。

場所

https://maps.app.goo.gl/TiYs772Fy3HHTb89A

撮影:2024年2月


三笠関連

川口関連

意外と川口には、いくつか戦跡関連の話題が集まっている。

三菱重工「横浜造船所跡」と「三菱みなとみらい技術館」

横浜の「みなとみらい」は、かつては、三菱の横浜造船所であった。
往時の物語るものが、「三菱重工横浜ビル・三菱みなとみらい技術館」の片隅にある。


横浜造船所関連

日本丸の第一号船渠と、ドックヤードガーデンの第二号船渠

横浜造船所で造艦された「山汐丸」


三菱重工業株式会社 横浜造船所跡

三菱重工業横浜船渠として、旧海軍では練習巡洋艦「香取」「鹿島」「香椎」、陸軍護衛空母「山汐丸」、測量艦「筑紫」などを造艦した。
なお、三菱と合併前の「横浜船渠」時代では、軽巡洋艦「那珂」駆逐艦「吹雪」航空母艦「龍驤」などを手掛けている。

三菱重工業株式会社 横浜造船所跡
横浜造船所は明治24年(1891) 有限責任横浜船渠会社として発足、昭和10年(1935) 三菱重工業株式会社と合併し 三菱重工・横浜造船所となった。
横浜港出入り船舶の修理から始め、その後新造船、鉄橋、原動機、環境装置に事業を広げ、横浜市と共に発展してきた。
昭和58年(1983)「みなとみらい21」計画に沿い、この創立の地から本牧と金沢へ工場を移転し横浜事業所としてその事業を継続している 
 平成6年3月 

この記念碑の石材は、横浜造船所二号ドック(現ドックヤードガーデン)の底部に使われていたものです。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:897-C8-107
昭和19年(1944年)10月14日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

日本丸の第一号船渠と、ドックヤードガーデンの第二号船渠で位置関係を把握できる。


三菱重工横浜ビル・三菱みなとみらい技術館

三菱みなとみらい技術館が併設されている三菱重工横浜ビル。
三菱の技術を垣間見える施設。


三菱みなとみらい技術館見学1

せっかくだから見学します。

この台座に使われている石は明治30年完成の2号ドック(現ドックヤードガーデン)の石材の一部である。

三菱グループのはなし。

三菱の歴史。

岩崎彌太郎

1929 客船「浅間丸」建造
1939 零式艦上戦闘機制作

1931 日本初の国産戦車「八九式中戦車」制作
1942 世界最大の戦艦「武蔵」建造

空の夢が宇宙へと続く、挑戦のあゆみ

1923 Type10 Carrier Fighter (一〇式艦上戦闘機)
1927 Mitsubishi MC-1(三菱 MC-1)
1937 KAMIKAZE (神風号・雁型通信連絡機)

1939 Mitsubishi A6M Zero 零式艦上戦闘機


三菱みなとみらい技術館見学2(模型)

三菱が創り上げてきた乗り物たちの模型がありました。
ここで、私の時間はガッツリと持っていかれてしまい。

The History of Vehicles 乗物の歴史

実は模型コーナーは、出口の目の前にあった。
出口前で、私は、模型コーナーをもちろんスルーできずに吸い寄せられてしまいました。

飛行機関連は、すべて縮尺1/25で作成。

以下、飛行機模型を。。。

艦上戦闘機一〇式二号(海軍)
1921年(大正10年)
海軍として日本初の空母搭載用戦闘機で三菱内燃機(現:三菱重工)が開発・製造した。英国製エンジンを三菱が製造、骨組みは木製でボディーは布張り、複葉機(主翼が上下二枚)だが、当時の戦闘機としては充分な仕様であった。一号機は乗員2名だが、当機二号機は前後に一人ずつ搭乗し練習機としても使用した。

艦上雷撃機一〇式(海軍)
1922(大正11年)
雷撃機とは、戦闘機から水上艦へ魚雷攻撃するもので爆弾を投下するより命中率が高い。
本機は日本軍で唯一の三葉機(主翼が三枚)で運動性能は良好であったが単座(一人乗り)のため攻撃の正確性に欠け20機の生産で終了となった。

艦上攻撃機一三式二号(海軍)
1924(大正13年)
英国人の設計で三菱重工が製造、まだこの時代もボディーは布張りだが骨組みは鋼管になった。複座で前座の操縦席と後座の銃座に分割、よって攻撃性が高まった。一三式全種で400機以上生産。

練習機 己式一型(陸軍)
1924(大正13年)
フランス アンリオ社から3機購入試用し以後ライセンス生産となった、エンジンは気筒自体がプロペラと一緒に回転、操縦の容易性に定評で初歩練習機としても活躍した。

神風号(司令部偵察機九七式一型の改造機)
1937(昭和12年)
朝日新聞社は英国ジョージ6世の戴冠式に向け陸軍の九七式司令部偵察機の試作機を高速通信機に改造し、1937(昭和12年)4月、操縦士、機関士の2名で立川飛行場を離陸、途中11ヶ所を経由して4日後にロンドンに着陸しました。全行程1万5357kmを94時間、実飛行51時間で都市間連絡飛行の新記録をたて、当時の国民はこの大記録に熱狂しました。 

水上観測機 零式(海軍)
1936(昭和11年)
観測機の役割は戦艦同士の砲撃で命中率を高めるために着弾位置を上空から観測し誤差の週製情報を戦艦に伝えること。艦上から見渡せない敵艦の向こう側の着弾位置など正確に計測可能。偵察機としての役割も果たせます。従って攻撃力は低くても運動性能を重視し当時の技術では複葉機(主翼が2枚)が充分な成果を発揮した。

ひなづる(旅客輸送機)
1936(昭和11年)
英国エアスピード社製エンボイ機のライセンス生産で11機製造した。骨組みは木製で胴体は合板、翼は布張りで、乗員1名、乗客6名。後にこの旅客輸送機「ひなづる」は日本海軍が徴発し「エンボイ」と呼称を変え輸送機として使用した。

陸上攻撃機一式一一型(海軍)
1940(昭和15年)
従来の攻撃機と同等な空気抵抗で胴体径を増すことに成功した、それにより爆弾、魚雷を機内内部に収納でき、高速飛行と俊敏な機動力で敵機をかわすことができた、2400機を生産。

一式陸上攻撃機、ですね。

艦上戦闘機  零式五二型(海軍)
1939(昭和14年)
零戦の制作機数は日本機中最大の10,430機、当52型は主翼の折畳式を廃して短め、先端部を円形にしたこと更にエンジン排気はエンジンカバーの外周に沿って円形に分割したのが特徴、それにより空気整流と推進増加で最高時速が従来型より20km増強、急降下速度も米機に匹敵した。

艦上攻撃機九七式二号(海軍)
1936(昭和11年)
当機二号は、三菱重工製、一号、三号は中島飛行機がそれぞれ開発、製造を担当した。
二号は固定脚のため振動が少ないという利点があった、乗員3名で魚雷を1基搭載している。

零戦52型と、97艦攻2型

艦上戦闘機 九六式二号二型(海軍)
1937(昭和12年)
空中戦を重視し軽量、高速、運動性能を追求した設計、3回の改良を重ね当機は特に視認性を上げるために風防を開閉式にした。高速性、運動性能には主翼を熱くして主翼後方に設けたスプリットフラップ(下げ翼)を設けた。外国機の模倣から脱却した機であり、後に零戦へと継承される。

重爆撃機 九七式二型(陸軍)
1937(昭和12年)
機体は三菱重工製だがエンジンは中島飛行機製で九三式の後継機である。武装・防弾を強化しているが、高速性も確保しており制空権争いに実力を発揮した。生産数は2千機を超えている。

襲撃機 九十九式(陸軍)
1939(昭和14年)
襲撃機とは、爆撃機と異なり高度100m程度の超低空飛行で森陰から敵地を急襲するのに適したもの、そのため本模型は迷彩柄で武装している。戦闘機ほどの俊敏性はないが偵察機としての任務も可能。

司令部偵察機一〇〇式三型(陸軍)
1939(昭和14年)
高度6000mで最大時速630kmは「零戦」より早く敵機も振り切る速度である、機首からキャノピー(操縦席の風防)までを一体型にした流線型と1500馬力の双発エンジンで高度高速の偵察を可能にした。

陸上攻撃機 九十六式二一型(海軍)
1935(昭和10年)
主脚引込式や頭のないリベット(沈頭鋲)で空気抵抗を低減、可変ピッチプロペラで速度に応じた羽の角度を調整して燃費向上、など長距離攻撃機としての技術力を駆使している。
また、派生機として「ニッポン号」がある。(別途模型展示しています)

ニッポン号(輸送機)
1939(昭和14年)
海軍の九六式二一型攻撃機(別途模型展示しています)を長距離輸送機に改造した双発機。海外親善を目的とした改造機で兵器を取り外し大容量の燃料タンクを増設、割ピン1本、ナット1個も交換することなく世界一周を成功させた純国産機。

MC-20(旅客輸送機)
1939(昭和14年)
軍用輸送機の民間転用機で三菱重工が開発・製造、大日本航空のほか満州航空、中華航空でも運行、国内企業の社有機としても使用され、軍用機と合わせ500機以上生産された。乗員4名、乗客11名。

局地戦闘機【雷電】(海軍)
1942(昭和17年)
上昇力と速度向上のため大馬力エンジンを搭載、そのため機首から胴体中央まで大型化され空力特性に苦労したが中高速では零戦よりも横転性能が向上した、数多くの改良がなされたが総生産は600機程度であった。

重爆撃機【飛龍】(陸軍)
1942(昭和17年)
航続距離3800kmは当時日本軍機でトップクラス、高度6000から600km/hで急降下し超低空飛行も可能。機首と2つのキャノピー(風防)は防弾ガラスで急降下爆撃に威力を発揮した、また陸軍でありながら雷撃(魚雷発射)可能は珍しい。

キ‐83 遠距離戦闘機 試作(陸軍)
1944(昭和19年)
敵地奥まで進行できるよう遠距離戦闘機の開発となった、単発から双発エンジン、単座から複座(操縦席と後部座席の二座)仕様、最大速度650km/hだが、のちに米軍が接収し米軍仕様のハイオクタン価燃料で762km/hを記録した。これは米軍機の記録759Km/hを上回るものであった。

艦上戦闘機十七試【烈風】(海軍)
1944(昭和19年)
第二次世界大戦において戦闘機は日々敵国との開発競争に追われ抜きつ抜かれつの連続であった。三菱重工が開発した「零戦」も破竹の勢いで脅威を与えたが、やがてヘルキャット、コルセアの登場で劣勢になっていく、そこで三菱は次機種となる「雷電」の開発に着手、並びに「零戦」の改修型開発で多忙を極め後継機種の開発に大幅な遅れを取った、やがて「烈風」が誕生したが、量産前に終戦となったため試作機で終える事となった。

局地戦闘機【試作秋水】(陸海軍共同試作機)
1945(昭和20年)
陸軍、海軍、民間(三菱重工)共同開発の初のロケットエンジン試作機、B29の高度1万メートルに対抗するためドイツのメッサーシュミットを基に開発され試作機を7機まで製造したが、戦況の悪化で中断となった。尾翼無し、主翼のみが特徴的。

重爆撃機 九三式二型(陸軍)
1933(昭和8年)
陸軍からの要請を受け開発、全金属双発の重爆撃機は国内初であった、当初はロールスロイス社のエンジンで試作機を製作、後に三菱重工製エンジンを搭載した。機首と後方に旋回銃座が取り付けられており乗員は4名。

ここからは、戦後かな。

シコルスキーHSS-2Bヘリコプター
1964(昭和39年)

三菱重工にてノックダウン生産。エンジンも三菱重工製。

シコルスキーS-55Cヘリコプター
1953(昭和28年)

三菱が国内でノックダウン生産。

YS-11A ターボプロップ輸送機
1962(昭和37年)

三菱重工は最終組立を担当した。

MU-300(ダイヤモンド-1】ビジネスジェット機
1978(昭和53年)

三菱アメリカ・インダストリー社と共同開発。

ジェット戦闘機F-104 (航空自衛隊)
米国ロッキード社(1954年)

1962年(昭和37年)から三菱重工がライセンス生産。
F104Jは230機製造。スリムな機体形状から三菱鉛筆といわれたが、三菱グループとは無縁の会社。

ジェット戦闘機F-86F(航空自衛隊)
米国 ノースアメリカン社(1947年)

1956年(昭和31年)から300機をライセンス生産。
初代ブルーインパルスとしても活躍。1964年の東京オリンピック開会式で5色の五輪を描いた。

高等練習機T-2(航空自衛隊)
1971(昭和46年)

国産航空機として初の超音速機(マッハ1.6)
2代目ブルーインパルスとしても活躍。

ジェット戦闘機F-4E(航空自衛隊)
米国 マクダネル・エアクラフト社(1958年)

1968年(昭和43年)にF-$EJを三菱重工がライセンス生産。

三菱の艦船。

上:浅間丸 貨客船 1929(昭和4年)長崎造船所
下:鎌倉丸 貨客船 1930(昭和5年)横浜造船所
姉妹船にあたるが、搭載エンジンの違いから煙突の本数が異なっている。
両船とも日本郵船所有。

あるぜんちな丸 貨客船 1939(昭和14年) 長崎造船所
※のちに空母「海鷹」に改装。

戦艦「武蔵」

武蔵 戦艦 
1942(昭和17年)長崎造船所
全長263m 乗組員:3,300名
1937(昭和12年)海軍より三菱重工が正式発注を受けた長崎造船所として5隻目の大型戦艦、前年に大和が就役しており同級の姉妹艦だが、大和の弱点を改善し副砲塔周辺の防御力を強化した。巨大船でありながら船台建造であった(大和はドック建造)
3つのギネス世界記録に認定されている。
①世界最大の戦艦(総トン数)
②最大の艦砲を搭載した軍艦
③世界一被弾火薬量の多い軍艦

隼鷹 航空母艦
1942(昭和17年)長崎造船所
全長219.32m 乗組員:1187名
飛行甲板にエレベーター2基、零戦ほか53機搭載可能、40口径連装高角砲6基、蒸気タービン4基、推進スクリュー2軸、日本最大の豪華客船の建造中に空母に改造された。そのため母港は呉である。
太平洋戦争で生き延びたが商船への復帰は無く、1947(昭和22年)に佐世保で解体された。

伊19 一等潜水艦
1941(昭和16年)神戸造船所
第日本帝国海軍の一等潜水艦は伊(い)号、二等を呂(ろ)、続いて波(は)号、ホランド級と分類されている。
本艦は伊号の19番艦で、潜航深度100m、魚雷発射管6門、小型水上偵察機1機、ディーゼルエンジン2基を搭載。偵察機は主翼を後方に折り畳み、艦橋前方の格納筒に収納、飛行時は海上に浮上し、格納筒から引き出して主翼を広げた後、カタパルトで押し出す。
数々の太平洋線で活躍したが、1943(昭和18年)爆雷により撃沈された。

あまつかぜ 対空ミサイル護衛艦
1965(昭和40年)長崎造船所

蒸気機関車、ディーゼル機関車、電気機関車など。
三菱は機関車にも関わり合ったんですね。

なかなか見応えのあるのある展示館。もっともほぼ模型コーナーに釘付けだったけど、三菱目線でみてみるのも面白いかな。

※撮影:2023年12月


横浜海上保安部・巡視船「PLH03 さがみ」一般公開(2023年11月)

横浜ハンマーヘッド開業4周年として、横浜ハンマーヘッド9号岸壁で、横浜海上保安部 巡視船「さがみ」の一般公開が実施されましたので、2023年11月3日に行ってみました。

青と白が美しい空間。以下、写真中心で。


PLH03巡視船さがみ

海上保安庁のヘリコプター1機搭載型巡視船。つがる型巡視船の2番船。
1979年10月18日の竣工(2023年時点で船齢は44年)。
旧船名は「おおすみ」。みやこ型巡視船の2番船が「おおすみ」と命名されたことに伴い、2022年2月1日に「さがみ」と改名された。

ハンマーヘッドの向こうにPL31「いず」が停泊。

船橋

休憩室

シコルスキー S-76D
MH912
るりかけす

いただきもの。


産業遺産「ハンマーヘッドクレーン」

1914年(大正3年)に建造されたイギリス製の50tジャイアント・カンチレバークレーン。
日本に3基(他は長崎県長崎市および佐世保市に稼働状態で現存)、世界でも17基しか存在しない貴重な産業遺産。
2007年に近代化産業遺産(経済産業省)に認定。
さらに2018年には土木学会選奨土木遺産にも認定。

※撮影:2023年11月


「たてやま海まちフェスタ2023」船内見学会(館山)

2023年7月23日、たてやま海まちフェスタ2023が、海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2023と連動して開催されておりましたので、あわせて船内見学などを。

海自と海保と国交省の船。


水中処分母船YDT-03(海上自衛隊)

水中処分母船1号型。
YDT-03 水中処分母船3号、前畑造船で2001年3月に竣工。
横須賀水中処分隊に所属。

水中処分母船を見学するのは初めて。


PC57巡視艇たかたき(海上保安庁)

千葉海上保安部所属。
よど型巡視艇の7番艇。新潟造船。2013年2月15日就役。

神棚をみると、つい撮影してしまいます。

高滝神社は、船名の由来として理解できるが、寒川神社はなぜ?
第三管区の本部が横浜、だから?


清掃兼油回収船べいくりん(国交省)

国土交通省 関東地方整備局 千葉港湾事務所

https://www.pa.ktr.mlit.go.jp/chiba/bayclean/specs/index.html

2022年3月に就役したばかりの新造船。双胴船。ジャパン マリンユナイテッド製造。
海洋環境整備船。

神棚。熊野神社。どこの熊野さんだろう?


館山港耐震岸壁

今回の船舶一般公開の会場。海上自衛隊館山航空基地の近く。
館山城の山もよく見える。

航行中の海保ふさかぜ
(千葉海上保安部館山分室所属CL179巡視艇ふさかぜ)
体験航海

館山城と、船内公開の3隻。

※撮影:2023年7月


関連

軍艦「橋立」のキャプスタン(素戔嗚神社・尼崎)

関西方面に行く機会があったので、気になっていた場所に足を運んでみました。


軍艦「橋立」

大日本帝国海軍の防護巡洋艦「橋立」。
艦名は名勝「天橋立」に由来する。
排水量4,210トンで、三景艦のうち唯一の国産艦(横須賀造船部で建艦)であった。

清国が保有していた戦艦「鎮遠」「定遠」に対抗する軍艦として、計画されたのが松島型防護巡洋艦。いわゆる「三景艦」(松島・厳島・橋立)であった。

1885年に清国北洋艦隊が就役させた「定遠」「鎮遠」
定遠級戦艦2隻は、基準排水量7,220t、主砲30.5cm連装砲を2基4門、舷側装甲最大厚305mmという、当時の列強海軍が東アジアに配備していた大型艦を凌駕する、アジア最強の戦艦であった。
日本海軍は定遠級戦艦に対抗するために、より口径の大きい32cm(38口径)単装砲を装備する軍艦を建造。「松島」は後部甲板に主砲を配備し、「厳島」と「橋立」の2隻は前部甲板に主砲を配備した。当時の日本海軍の艦艇では32cm砲を取り扱いするには困難を極めたが、一番艦の「松島」は日清戦争では連合艦隊の旗艦を務めた。
「橋立」は、日清戦争開戦直前の明治27年(1894年)6月26日竣工。同年の8月1日に日清戦争開戦。
連合艦隊に所属し、松島・厳島・橋立の三景艦として、清国北洋艦隊の鎮遠・定遠を撃破し、日清戦争の勝利に貢献した。

明治37年(1904 )の日露戦争では、三景艦の松島・厳島・橋立と、拿捕艦であった鎮遠を交えた第三艦隊第五戦隊の旗艦を橋立が務めている。

大正11年には横須賀海兵団の練習船として使用され、大正14年に廃船となり、大正15年(1926)に解体となっている。

軍艦「橋立」のキャプスタン

兵庫県尼崎市の素戔嗚神社。
境内に、軍艦「橋立」のキャプスタンが奉納されている。
キャプスタン(capstan)は、垂直軸回転式のウインチのことをいう。

明治廿七八年日清戦役旗艦橋立表上甲板ノCAPSTANロクロナリ昭和元年赤井氏が其艦ヲ拂下ゲ之ヲ本神社ニ献納 紀元二千六百年 赤井常吉

要約すると
明治27年~明治28年の日清戦役(日清戦争)旗艦(旗艦じゃない)の「橋立」の表上甲板のCAPSTAN「ロクロ」。
解体の翌年、昭和元年(1926)に払い下げされ、素戔嗚神社に献納された、という。

キャプスタンのことを「轆轤(ろくろ)」と表現しているのは面白い。たしかん「ろくろ」だ。

緑の四角は、塞いだ蓋。
ここに、キャプスタンバー(横棒)をさして、人力で回転させた。

明治40年頃、横須賀軍港の「橋立」
wikipedia参照写真

以下は参考まで。キャプスタンの例。

「明治丸」
これは橋立と近いメージですね。回転させるためのキャプスタンバー(横棒)があると、イメージがわかりやすい。これで人力で回します。

記念館「三笠」
橋立の5年後に竣工した三笠。すでに機械化されてますね。 

護衛艦「しらぬい」
いまどきのキャプスタン


素盞嗚神社(西素盞嗚神社)

兵庫県尼崎市大庄西町鎮座。
永禄年間の創建という。

兵庫県神社庁

https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6304065.html

武庫川の上にある「阪神武庫川駅ホーム」
「素盞嗚神社」は阪神武庫川駅の北、尼崎側の東にある。

場所

https://goo.gl/maps/TfECLbvZAEXRepdR9

※撮影:2023年4月


関連

兵庫県には海軍艦艇関連の奉納神社が多いような。