「近代史全般」カテゴリーアーカイブ

武蔵野陵に拝す(昭和天皇祭の儀・令和4年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。

国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

即日、
皇太子明仁親王殿下が践祚され、第百二十五代天皇の御位にお就きになられた。
そして、年号は「平成」と改元せられた。


武蔵野陵(むさしののみささぎ)

33年後の令和4年(2022年)1月7日、
昭和天皇が眠る武蔵野陵を参拝いたしました。

昭和を偲びつつ…

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。

昭和天皇武蔵野陵

令和4年1月7日。
午前9時30分前に到着。武蔵野陵へ参進する。

午前9時33分。祭員が参進。

このあとは、撮影禁止。

午前9時開門から午前9時30分までは一般参拝可能。
午前9時30分から11時頃までは祭祀のために、立ち入り制限発生の場合あり。
祭祀の間は一般参拝者は御陵向かって右側で待機、でした。

祭祀は、神道式。
 一般参拝停止
 祭員参進
 式部官参進(宮内庁式部職)
 招待者参進
 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下でした。)
 勅使参進
  献饌
  勅使拝礼
  皇族代表拝礼
  招待者拝礼
  撤饌
 勅使退出
 皇族代表退出
 招待者退出
 式部官退出
 祭員退出
 一般参拝再開 
祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

https://www.fnn.jp/articles/gallery/295317?image=5

https://mainichi.jp/articles/20220107/k00/00m/040/074000c

最初は、一般は15人かな。
最終的には一般も50人くらいまで集まっていたような感じでした。

午前10時45分頃、祭員退出。

前日の雪が残る武蔵野陵。

武蔵野陵墓地(宮内庁多摩陵墓監区事務所所管の陵墓 )

大正天皇 多摩陵
貞明皇后 多摩東陵

昭和天皇 武蔵野陵
香淳皇后 武蔵野東陵

高尾駅

羽田の平和大鳥居(旧穴守稲荷神社大鳥居)

羽田空港の伝説として、よく語れるのが「羽田の大鳥居」。
羽田の平和大鳥居から、赤レンガ堤防を経由して、六郷水門まで多摩川沿いを散策してみました。

平和大鳥居(旧穴守稲荷神社大鳥居)

昭和4年(1929年)10月建立。
昭和6年(1931年)に民間飛行場として羽田飛行場(東京飛行場)が開業。
昭和20年(1945年)8月15日の終戦後、羽田飛行場を接収したGHQによって穴守稲荷神社は強制遷座を余儀なくされた。
残された穴守稲荷の社殿等はGHQによって破壊。羽田飛行場の駐車場近くに残された大鳥居も撤去対象となるが、作業員が怪我をしたり、責任者が病死したりという怪奇現象により撤去叶わずにそのまま残されることになった。

 この大鳥居は、穴守稲荷神社がまだ羽田穴守町にあった昭和初期に、その参道に寄付により建立されたと伝えられています。
 その後、終戦とともに進駐した米軍により、羽田穴守町、羽田鈴木町、羽田江戸見町の地域一帯に居住していた人々は強制退去され、建物は全て取り壊されました。
 しかしながら、この大鳥居だけは取り壊しを免れて羽田の地に残され、往時を物語る唯一の建造物となりました。
 米軍から、施設が日本に返還された昭和27年7月、東京国際空港として再出発した後も、この大鳥居は旅客ターミナルビル前面の駐車場の一隅に残され、羽田空港の大鳥居として航空旅客や空港に働く人々に親しまれました。また、歳月を重ね風雪に耐えた大鳥居は、進駐軍に強制退去された元住民の方々の「心のふるさと」として往時を偲ぶ象徴なりました。
 昭和59年に着手された東京国際空港沖合展開事業により、滑走路や旅客ターミナルビル等の空港施設が沖合地区に移設され、大鳥居も新B滑走路の整備の障害となることから、撤去を余儀なくされることとなりました。
 しかしながら、元住民だった多くの方々から大鳥居を残してほしいとの声が日増しに強まり、平成11年2月、国と空港関係企業の協力の下で、この地に移設されたものです。
 ここに関係各位に謝意を表するとともに、この大鳥居が地域と空港の共生のシンボルとして末永く親しまれることを念願する次第です。

羽田空港に残された穴守稲荷神社のかつての大鳥居。
現在は穴守稲荷神社の管理ではなく、国土交通省管理となっている。
扁額もかつては「穴守神社」であったが、現在は「平和」と掲げられている。

場所

https://goo.gl/maps/REBV1d1cLjazVNQY9


五十間鼻無縁仏堂

海老取川の対岸に五十間鼻という場所がある。そこに無縁仏が祀られている。
多摩川の下流となり、多くの水難者がこの地に流れ着いたという。

なかでも東京大空襲の犠牲者の多くもこの地に漂着している。
目と鼻の先の羽田飛行場は米軍に接収され、対岸には、犠牲者の無縁仏堂が祀られていた。

合掌

五十間鼻無縁仏堂の由来
創建年代は、不明でありますが、多摩川、又、関東大震災、先の第二次世界大戦の、昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着致しました。
その方々を、お祀りしていると言われております。
元は、多摩川河口寄りの川の中に、角塔婆が一本立っているだけで有りましたが 初代 漁業組合長 故 伊東久義氏が管理し毎年お盆には、盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養を
していました。昭和五十三年護岸工事に伴い、現在地に移転しました。
その後荒廃著しく、仲七町会 小峰守之氏 故 伊東米次郎氏 大東町会 故 伊東秀雄氏 が、私財を持ち寄り復興致しました。
又、平成十六年に、村石工業、北浦工業、羽田葬祭スミヤ、中山美装、中山機設、の協力により新たに、ブロック塀、角塔婆、桟橋、などを修理、増設、現在に至ります。
又、新年の水難祈願として、初日の出と共に、羽田本町 日蓮宗 長照寺 住職 並びに信者の方々が、水難者への供養を、毎年行っています。
  合掌
  堂守謹書

海老取川の両岸に。
左に平和大鳥居、右に五十間鼻無縁仏堂。

場所

https://goo.gl/maps/hAL8P6bqYdZy7qpNA


穴守稲荷神社

遷座した穴守稲荷神社。2014年4月撮影の写真を掲載しておきます。
2020年に改修工事が行われたために、この姿を見ることはもうできない。。。

当時は、神社参拝と御朱印を目的としておりました。。。

場所

https://goo.gl/maps/fihEKsezAFg4PC7T9

※穴守稲荷神社の写真のみ2014年


ねずみ島

多摩川の河口にあるちいさな島。かつて梨の果樹園であった場所が、多摩川の河川改修工事で川幅を広げた際に、取り残され島になった、と。

場所

https://goo.gl/maps/48Bv9e8phuVKhdSE9


関連

出陣学徒壮行の地(学徒出陣・国立競技場)

国立競技場。
もとは、大正13年(1924年)に明治神宮外苑競技場として完成した競技場。
昭和18年(1943年)10月21日には明治神宮外苑競技場で文部省学校報国団本部の主催による「出陣学徒壮行会」が行われ、強い雨の中で出陣学徒25000人が競技場内を行進した。

戦後、「明治神宮外苑競技場」は解体され、昭和33年に「国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)」が完成。旧国立競技場は2015年に解体され、2019年には新たな国立競技場が完成した。

「出陣学徒壮行の地」の碑(出陣学徒壮行碑)

「出陣学徒壮行碑」は。国立競技場建設中は、一時的に秩父宮ラグビー場敷地内にあったが、国立競技場完成とともに戻ってきた。現在は、千駄ヶ谷門の近くにある。

東京オリンピックが終わり、ようやく国立競技場周辺に近寄れるようになったので、脚を運んでみた。

出陣学徒壮行の地

次世代への伝言―出陣学徒壮行碑に寄せてー
  昭和18年(1943)10月2日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、全国の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。この非常措置により同年12月、約10万の学徒がペンを捨てて剣を執り、戦場へ赴くことになった。世にいう「学徒出陣」である。
 全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年12月21日、ここ元・明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺77校が参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋めつくした後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってこの実況を報道した。翌19年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子および女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶えた。  
 時流れて半世紀。今、学徒出陣50周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。 
 平成5年(1993)10月21日
  出陣50周年を記念して   
   出陣学徒有志

生等、もとより生還を期せず

NHK放送史
出陣学徒壮行会

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060059_00000

〈東條内閣総理大臣〉
「御国の若人たる諸君が勇躍学窓より、征途に就き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃滅をして皇運を扶翼し奉るの日は今日(こんにち)来たのであります。大東亜十億の民を、道義に基づいてその本然の姿に復帰せしむるために壮途に上るの日は今日(こんにち)来たのであります。私は衷心より諸君のこの門出を御祝い申し上げる次第であります。もとよリ、敵米英におきましても、諸君と同じく幾多の若き学徒が戦場に立っておるのであります。諸君は彼等と戦場に相対(あいたい)し、気魄(きはく)においても戦闘力においても必ずや彼等を圧倒すべきことを私は深く信じて疑わんのであります。」

〈学生(東京帝国大学文学部・江橋慎四郎〉
「学徒出陣の勅令、公布せらる。予(か)ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ、迸(ほとば)しめ得たりし生(せい)らは、ここに優渥(ゆうあく)なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従うを得るに至れるなり。豈(あに)、感奮興起せざらんや。生ら今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて悉(ことごと)くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生らもとより生還を期せず。誓って皇恩の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。決意の一端を開陳し、以て答辞となす。昭和18年10月21日、出陣学徒代表。」

〈東條内閣総理大臣〉
「諸君のめでたき征途にのぼれるところの第一歩にあたります。諸君とともに聖寿の万歳を心の底から三唱いたしたいと思います。天皇陛下、万歳、万歳、万歳。」

「万歳、万歳、万歳。」

NHKアーカイブス
日本ニュース第177号 1943年(昭和18年)10月27日
[2]学徒出陣

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300562_00000

1943年(昭和18年)10月21日に開催された神宮外苑での学徒出陣壮行会では、東京帝国大学文学部の江橋慎四郎氏が答辞を読んだ。

明治神宮外苑は学徒が多年武を練り、技を競ひ、皇国学徒の志気を発揚し来れる聖域なり。
本日、この思ひ出多き地に於て、近く入隊の栄を担ひ、戦線に赴くべき生等の為、斯くも厳粛盛大なる壮行会を開催せられ、内閣総理大臣閣下、文部大臣閣下よりは、懇切なる御訓示を忝くし、在学学徒代表より熱誠溢るる壮行の辞を恵与せられたるは、誠に無上の光栄にして、生等の面目、これに過ぐる事なく、衷心感激措く能はざるところなり。
惟(おも)ふに大東亜戦争宣せられてより、是に二星霜、大御稜威の下、皇軍将士の善謀勇戦は、よく宿敵米英の勢力を東亜の天地より撃攘払拭し、その東亜侵略の拠点は悉く、我が手中に帰し、大東亜共栄圏の建設はこの確乎として磐石の如き基礎の上に着々として進捗せり。
然れども、暴虐飽くなき敵米英は今やその厖大なる物資と生産力とを擁し、あらゆる科学力を動員し、我に対して必死の反抗を試み、決戦相次ぐ戦局の様相は、日を追って熾烈の度を加へ、事態益々重大なるものあり。
時なる哉、学徒出陣の勅令公布せらる。
予ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ迸しめ得たりし生等は、是に優渥なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従ふを得るに至れるなり。
豈に感奮興起せざらんや。
生等今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて、悉くこの光栄ある重任に獻げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。
生等もとより生還を帰せず。
在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず。
斯くの如きは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行する信条なり。
生等謹んで宣戦の大詔を奉戴し、益々必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を磨礪し、強靭なる体躯を堅持して、決戦場裡に挺身し、誓つて皇恩の万一に報ひ奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。
決意の一端を開陳し、以て答辞となす。
昭和十八年十月二十一日。

学徒出陣壮行会 答辞

国立競技場千駄ヶ谷門の近くに、学徒出陣の歴史を刻む碑がある。

合掌。

二度とあってはならない、繰り返してはいけない歴史。

※撮影は2021年12月


関連

「はじまりの日」昭和16年12月8日(太平洋戦争開戦の日)

80年前の節目を偲び、先人たちの生き様に想いを馳せる。
また、この日がやってくる。

はじまりの日。

大東亜戦争に散りし英霊たちに… 感謝を。 哀悼を。

憂国の想いを胸に抱き英霊に感謝する。
素晴らしき祖国・日本の為に、未曾有の国難に殉じた英霊に哀悼の誠を捧げ、今日の我が国の安泰と繁栄に感謝する。

12月8日。


忘れてはいけない「節目の日」。


昭和16年12月
「ヒノデハヤマガタ」(陸軍)
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」(海軍)

開戦の詔勅に先立つ12月1日に開戦を決意する「帝國國策遂行要領」が可決。
翌日12月2日には開戦日を伝える、「ヒノデハヤマガタ」(陸軍)「ニイタカヤマノボレ一二〇八」(海軍)が発令。


昭和16年12月8日
対米英宣戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)

昭和16年12月8日。
「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」(開戦の詔勅)が公布。

米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲に米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顯ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提攜スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ鬩クヲ悛メス米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剩ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隱忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衛ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
 御名御璽
昭和十六年十二月八日

米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書(国立公文書館)

※国立公文書館にて撮影

昭和16年12月8日
大詔を拝し奉りて

『大本営陸海軍部発表 十二月八日午前六時』
帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。

昭和16年12月8日
大東亜戦争(太平洋戦争、アジア・太平洋戦争)開戦に際し、
昭和天皇の名により「対米英宣戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)」が渙発されたことを受けて、同日午後7時過ぎ、内閣総理大臣・東條英機がラジオ放送を通じて日本国民に向けて戦争決意表明演説を実施。

大詔を拝し奉りて
「只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦を行いつつあります。東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘らず、遂に決裂の已むなきに至ったのであります。・・・(略)」

只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦を行いつつあります。東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘(かかわ)らず、遂に決裂の已(や)むなきに至ったのであります。
過般来政府は、あらゆる手段を尽し対米国交調整の成立に努力して参りましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、かえって英、蘭、支と連合して支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し帝国の一方的譲歩を強要して参りました。これに対し帝国は飽(あ)く迄(まで)平和的妥結の努力を続けましたが、米国は何ら反省の色を示さず今日に至りました。若(も)し帝国にして彼等の強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となるのであります。
事茲(ここ)に至りましては、帝国は現下の時局を打開し、自存自衛を全うする為(ため)、断乎として立ち上がるの已むなきに至ったのであります。今宣戦の大詔を拝しまして恐懼(きょうく)感激に堪(た)えません。私は不肖なりと雖(いえど)も一身を捧げて決死報国、唯々(ただただ)宸襟(しんきん)を安んじ奉らんとの念願のみであります。国民諸君も、亦(また)己が身を顧みず、醜(しこ)の御楯(みたて)たるの光栄を同じうせらるるものと信ずるものであります。

およそ勝利の要訣(ようけつ)は、「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、我等は、未だ嘗(か)つて戦いに敗れたことを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。我等は光輝ある祖国の歴史を、断じて、汚さざると共に、更に栄ある帝国の明日を建設せむことを固く誓うものであります。顧みれば、我等は今日まで隠忍、自重との最大限を重ねたのでありまするが、断じて安きを求めたものでなく、又敵の強大を惧(おそ)れたものでもありません。只管(ひたすら)、世界平和の維持と、人類の惨禍の防止とを顧念したるにほかなりません。しかも、敵の挑戦を受け祖国の生存と権威とが危うきに及びましては、蹶然(けつぜん)起(た)たざるを得ないのであります。

当面の敵は物資の豊富を誇り、これに依て世界の制覇を目指して居るのであります。この敵を粉砕し、東亜不動の新秩序を建設せむが為には、当然長期戦たることを予想せねばなりません。これと同時に絶大の建設的努力を要すること言を要しません。かくて、我等は飽くまで最後の勝利が祖国日本にあることを確信し、如何(いか)なる困難も障碍も克服して進まなければなりません。是(これ)こそ、昭和の御民(みたみ)我等に課せられたる天与の試錬であり、この試錬を突破して後にこそ、大東亜建設者としての栄誉を後世に担うことができるのであります。

この秋(とき)に当り満洲国及び中華民国との一徳一心の関係愈々(いよいよ)敦(あつ)く、独伊両国との盟約益々堅きを加えつつあるを、快欣とするものであります。帝国の隆替(りゅうたい)、東亜の興廃、正に此(こ)の一戦に在り、一億国民が一切を挙げて、国に報い国に殉ずるの時は今であります。八紘を宇と為す皇謨(こうぼ)の下に、此の尽忠報国の大精神ある限り、英米と雖も何等惧るるに足らないのであります。勝利は常に御稜威(みいつ)の下にありと確信致すものであります。

私は茲に、謹んで微衷を披瀝し、国民と共に、大業翼賛の丹心を誓う次第であります。

東条英機  大詔を拝し奉りて
日本ニュース第79号
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300464_00000&seg_number=001

開戦時の内閣

内閣總理大臣
内務大臣
陸軍大臣
 東條 英機
文部大臣
 橋田 邦彦
國務大臣
 鈴木 貞一
農林大臣
拓務大臣
 井野 碩哉
厚生大臣
 小泉 親彦
司法大臣
 岩村 通世
海軍大臣
 嶋田繁太郎
外務大臣
 東郷 茂德
逓信大臣
 寺島 健
大藏大臣
 賀屋 興宣
商工大臣
 岸 信介
鐵道大臣
 八田 嘉明


昭和16年12月8日
ハワイ真珠湾

昭和16年(1941)12月8日。
米国ハワイ真珠湾。
ハワイ時間12月7日7時53分(日本時間12月8日3時23分)。

帝國海軍航空隊より無電が発信される。
「トラトラトラ」「我、奇襲に成功せり」
連合国との長き戦争の始まりであった。

昭和16年12月1日。
柱島の連合艦隊旗艦「長門」から発信された電文は呉鎮守府を通じ海軍省を経て、12月2日に船橋送信所から無線にて南雲機動部隊を初めとする全艦隊に伝達された。

ハワイ沖合

東京時間12月8日午前零時
ハワイ時間7日午前4時30分、ワシントン時間7日午前10時)。
南雲忠一中将率いる「機動部隊」は、全てが順調に予定通りにオアフ島北方230マイルの地点に到着していた。

南雲中将直率の空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」「瑞鶴」「翔鶴」
支援部隊は、三川軍一中将率いる戦艦「比叡」「霧島」重巡「利根」「筑摩」
警戒隊は大森仙太郎少将率いる軽巡「阿武隈」と駆逐隊群。
周辺海域には哨戒のための潜水艦も張り巡らされていた。

ハワイ時間7日5時30分(東京時間12月8日1時)
「利根」「筑摩」のカタパルトから零式水上偵察機が一機ずつ直前偵察を開始。
偵察の結果、ハワイ真珠湾には戦艦8隻、重巡2隻、軽巡6隻を初め大小94隻が在泊。
しかし戦艦は全隻揃っていたが、空母は在泊していなかった。

ハワイ時間12月7日6時。 (東京時間12月8日1時30分)
南雲長官率いる機動部隊では戦闘ラッパが鳴り響き、第一次攻撃隊の出撃準備。
「発艦はじめ」の合図と共に次々と飛行機が舞い上がる。

第一次攻撃隊の総指揮官は淵田美津雄中佐。
制空隊零式艦上戦闘機43機、
九九式艦上爆撃機51機、
九七式艦上攻撃機89機。
うち九一式魚雷搭載40機、250キロ爆弾搭載51機、800キロ徹甲爆弾搭載49機。
しめて攻撃隊140機であった。

第一次攻撃隊発艦後の1時間15分後。
島崎重和少佐率いる第二次攻撃隊が発艦。
九九式艦爆78機、
九七式艦攻54機、
零式戦闘機35機。
第二次攻撃隊は魚雷を持たず、250キロ爆弾搭載105機、60キロ爆弾搭載27機であった。

真珠湾上空に向け飛び立った瞬間であった。
全てが幸運に恵まれていた。
単冠湾出港後、艦隊の航路を遮るものはなく、無謀とも危惧されていた米国ハワイ真珠湾を攻撃するという破天荒な目標は遂に実現の時が迫っていた。

実はこれより前に既に作戦行動は開始されていた。
ハワイ時間1941年12月6日23時。
日本海軍潜水艦5隻が真珠湾内の艦艇を攻撃するために、特殊潜航艇5隻を発進させていた。

ハワイ時間7日3時42分。
米国哨戒艇が特殊潜航艇の1隻を発見。

ハワイ時間7日6時45分(東京時間8日1時15分)。
警戒中の米駆逐艦ウォードが特殊潜航艇(甲標的)1隻を発見し撃沈。
彼ら特殊潜航艇5隻は未帰還となり、のちに九軍神として祀られる。

米駆逐艦ウォードが甲標的を撃沈したのは、南雲機動部隊航空隊が真珠湾攻撃を開始する1時間ほど前のことであった。
この事実は時を移さずに司令部に連絡され、それらの情報が司令長官キンメル大将に電話連絡されたのが7時40分(東京8日2時10分)であった。

そのまったく同じ時間。
ハワイ時間7時40分。(東京12月8日2時10分)
オアフ島上空に到達した淵田隊長が「展開命令」である信号弾を発射し攻撃態勢に入った瞬間でもあった。

7時49分「ト連送」(全軍突撃せよ)
7時53分「トラトラトラ」(我、奇襲に成功せり)

ハワイでの「はじまりの日」
日本側 搭乗員戦死54名 (一次攻撃20名・二次攻撃34名) 、甲標的戦死9名
米国側 2,345名戦死
合掌…


昭和16年12月8日
マレー半島

昭和16(1941)年12月8日。
戦争は真珠湾だけではなかった。
いや、全作戦の中心はマレー半島にあった。

主力艦隊で構成されていた真珠湾攻撃部隊に比べて、輸送部隊で構成され警戒厳重の中を進むマレー作戦の方が一層の危険を宿していた。

昭和16(1941)年12月4日午前7時。
日時をさかのぼる。
昭和16(1941)年12月4日午前7時。
開戦日を伝える「ヒノデハヤマガタ」の電報を受けた山下奉文陸軍中将率いる第二十五軍が乗船する輸送船団は、集結していた海南島を抜錨してマレー半島に向かっていた。

※山下奉文の墓は多磨霊園にある。 

東京時間12月6日13時45分。
輸送船団は仏領インドシナ・カモー岬南方の洋上を航行。
この地点からまっすぐに突き進めばマレー半島。作戦では輸送船団は数時間後に行動欺瞞の為に、バンコク・タイ湾に向かうかのごとく変進する予定になっていた。

マレー半島上陸部隊の上空に航空機による爆音が鳴り響く。
周辺警戒にあたっていた小澤治三郎海軍中将率いる護衛艦隊に警戒ブザーとラッパが鳴り響く。
予想された事態が遂にやってきた瞬間。当然、予想はしていた。しかし出来ることなら想定したくはなかった事態。

この時、マレー半島上陸輸送船団の上空に現れたのは、大型双発機イギリス空軍ロッキードハドソン爆撃機。
ハドソン機は上空で大きく旋回し輸送船団の規模を測るように飛行。
この英国機による輸送船団発見はバンコクに向かうと見せかける変針前のことであった。

どう見てもマレー半島に直進しているようにしかみえない船団。偵察を許すわけにもいかず撃墜するわけにもいかず、旗艦「鳥海」に置かれた南遺艦隊司令部は大混乱となる。
ここで、小澤治三郎南遺艦隊司令官は毅然と命令を発した。
「触接中ノ敵機ヲ撃墜セヨ」

触接中ノ敵機ヲ撃墜セヨ
南遺艦隊各艦の高角砲が一斉に火を吐く。
同時に連絡を受けた南部仏領インドシナ駐留の海軍第二十二航空戦隊からも英国機撃墜のために零式戦闘機が離陸。 ここで危険を察知した英国機は西方に機首を返し、そのまま零戦の追跡を振り切り遁走に成功した。

開戦の火蓋を切る
対英米戦の最初の一発は、小澤治三郎中将(のちの「最後の連合艦隊司令長官」)によって撃たれたのであった。
南遺艦隊司令部は輸送船に乗船している陸軍第二十五軍司令官山下奉文中将に対して「輸送船団ハ本六日英飛行機ニ依リソノ全貌ヲ発見セラレタリ」と伝達。

小澤長官は戦後、「マレー作戦で奇襲はもちろん望ましいが敵機が我が方を発見し触接をつづけるなら我が方の企図はすべて暴露してしまうであろう。それなら撃墜すべきだ。あまり心配しすぎて敵機をそのまま行動させておけばその結果はもっともっと重大なことになっただろう」と語っている。

ここで予定日より早く戦闘が始まっては、すべてが崩壊する。
「真珠湾に向かっている艦隊は?」
「マレー半島の輸送船団は大丈夫か?」
「フィリピンや香港やシンガポールの動きは?」
作戦中枢部はただ祈る思いで経過を見守るしかなかった。

南遺艦隊旗艦「鳥海」艦橋内の司令部でも、幕僚一同が不安に包まれていた。
すでに日は没していた。翌日には英米海軍が押し寄せるかもしれないという不安とともに・・・。
そんな中ただ一人、小澤治三郎中将だけは泰然自若と構え何も変わらぬ顔つきをしていた。

翌日にはプリンス・オブ・ウェールズを旗艦とする英国東洋艦隊を中心とした英米蘭連合艦隊も総出撃してくるに違いなかった。このプリンス・オブ・ウェールズに対抗できる戦艦は「長門「陸奥」しか日本海軍にはまだ存在しておらず、重巡主体の南遺艦隊では心許なかった。

※
開戦時には戦艦「大和」型は竣工前。 
戦艦「長門」は連合艦隊旗艦(山本五十六GF長官)として、姉妹艦「陸奥」とともに呉近海に待機中。 
大和・昭和16年(1941)12月16日竣工 
武蔵・昭和17年(1942)8月5日竣工 
「大和」は開戦12月8日の8日後に竣工したのだ。

遂にサイゴンに拠点を置く南方軍総司令官寺内寿一陸軍大将は悲痛な決断をせざるをえなかった。
「翌七日早朝ヨリ敵機ノ反復来襲ノ虞大ナルト認ム」という判断報告につづいて敵海空兵力の攻撃を受けた場合には海軍と協力して航空機による進行作戦を開始する、と…

東京の大本営は強烈な衝撃をうけた。
開戦日時は8日午前零時であるというのに、南方軍は7日早朝から戦闘開始は決定的だと伝えてきている。しかし寺内大将の判断は状況を鑑みて妥当なものではあるし、攻撃を受けた場合の航空機による進行作戦も当然なことであった。

そもそもマレー半島上陸作戦は当初から哨戒厳重な危険海域を航行するため、奇襲などがそう易々とできる場所ではなかった。
英国機に発見されるのも当然であったし充分予測されていたことでもあった。
大本営中枢では諦めの色も浮かびはじめていた…

マレー半島上陸部隊を乗せた輸送船団は12月6日午後7時、西北方に変針し予定通りに「欺瞞」のためバンコク・タイ湾方面に向かった。
この欺瞞行動が既に意味があるかどうかの疑問符が漂う中で、闇夜の海を輸送船団はただただ作戦遂行の為に進むだけであった。

昭和16年12月7日
緊張の12月7日がやってきた。
早朝から味方航空機が輸送船団上空掩護を行い、空気の緊迫さが一般の兵士にも伝わってきた。
たしかに昨日のイギリス機による日本軍輸送船団の偵察結果はシンガポールに置かれていた英国極東軍司令部に伝えられていた。

英軍はマレー防衛用対日作戦「マタドール作戦」を兼ねてから準備していた。
しかし、12月6日の時点では英国司令部は開戦を予期せず日本軍の行動目的がはっきりしない為に日本軍はタイに向かうものとして「マタドール作戦」の発動は行われず何の処置もとらなかった。


当時のタイ王国は日本同様にアジアにおける独立国。
日本(大日本帝国)とは友好国の関係にあった。
タイ国は開戦時は中立。
開戦後の1941年12月21日に日泰攻守同盟条約が締結。
タイ政府は1942年1月25日に英米に対して宣戦布告。条約破棄は1945年9月2日。

この時、英国東洋艦隊司令官のフィリップス大将は、米国アジア艦隊司令長官ハート大将との打ち合わせのためシンガポールを離れてフィリピンマニラにいた。
フィリップス大将は、日本艦隊・輸送船団発見の報を受け、急遽7日にシンガポールに引き返すことになっていた。

昭和16年12月7日9時50分
小澤提督率いる南遺艦隊所属特設水上機母艦「神川丸」から偵察のために発艦していた零式水上偵察機が、輸送船団にかなり近い上空で不意にイギリス空軍機コンソリデーテッドPBYカタリナ飛行艇と遭遇。

英軍カタリナ飛行艇が、そのまま真っ直ぐに飛行すると間違いなく輸送船団を発見してしまう、という状況の中で零式水上偵察機は必死の進路妨害と誘導を行うも上手くいかず。
英軍カタリナ飛行艇は日本輸送船団の方向へとなおも近づこうかと直進飛行を始めてしまう。

昭和16年12月7日10時15分。
前方から飛行してきた陸軍九七式戦闘機中隊が海軍零式水上偵察機と英国飛行艇が繰り広げていた異変に気づき援護を開始。
一方でカタリナ飛行艇は銃撃を加えて逃げようとした為、陸軍戦闘機隊は散開し飛行艇を撃墜してしまう。

英国飛行艇撃墜
陸軍機による英国飛行艇撃墜の報は、海軍南遺艦隊・陸軍南方軍総司令部に緊急報告された。
撃墜した事は輸送船団への偵察行為を阻止したという意味では大成功ではあったが、既に昨日に引き続く攻撃行動は8日の開戦日以前に既に戦闘が開始されたということでもあった。

昭和16年12月7日 10時30分
小澤治三郎南遺艦隊司令長官から、山下奉文陸軍第二十五軍司令官に対して「上陸ハ予定ノ如ク決行ス」の信号伝達。 予定海域に到達した船団は進路を変えコタバル・シンゴラ・パタニー等の上陸地点に向けて、英国軍の待ち構える海域へと航行を開始した。

英国極東司令部の決断
既に予定日より1日早い7日開戦の覚悟を決めた日本。
しかし、英国は未だにマタドール作戦を発動していなかった。
飛行艇一機が消息を絶ったという情報(撃墜されたとは想像できなかった)がシンガポール極東司令部には届いていたがまだ決断ができなかった。

英国極東司令部には、続々と日本軍の動きが伝えられる。
午後5時30分「輸送艦一隻、巡洋艦一隻、コタバル北方一一〇マイル。シンゴラニ向カウ」
午後6時30分「駆逐艦四隻、パタニー北方六〇マイル、海岸沿ニ南下中」
しかし英国は動かなかった。

イギリス極東軍司令部ブルックポーハム総司令官は、フィリップス東洋艦隊司令長官と協議を行った結果、12月8日早暁の偵察結果を待ってから作戦行動の判断することを決定。

12月7日23時20分。
英国は「マタドール作戦発動準備」の命令を下した。

昭和16年(1941)12月8日 午前0時45分
マレー半島上陸
佗美浩少将第二十三旅団がコタバル上陸開始。
続いて午前1時40分、山下奉文中将率いる第二十五軍司令部と第五師団主力がシンゴラ上陸。
午前2時、第五師団歩兵第四十二連隊他がパタニーに上陸。

昭和16年(1941)12月8日
マレー半島上陸作戦は、真珠湾攻撃に先立つ2時間前のことであった。
この報を受け、香港・フィリピン・グアム・ウェーキ等へ攻略部隊が一斉に活動を開始。

ここに「戦争」の火蓋が切られた…

この日よりシンガポールを攻略するまでマレー作戦は続く。
10日には英国東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ及び巡洋戦艦レパルスをマレー沖海戦にて沈め、山下奉文将軍は「マレーの虎」の勇名をはせ、翌年42年1月31日に極東英国軍は降伏する。

マレーでの「はじまりの日」
マレー作戦での日本側の犠牲は、戦死1,793名。
英国側(インド・オーストリア兵)含む犠牲は、戦死約5,000名とされている。
合掌…


節目の日「12月8日」

私たちの先祖が 祖国の安寧と発展を願い 祖国を護るために戦った その節目の日 「12月8日」
この節目の日ぐらいは、ご先祖様が、文字通りに命がけで戦った時代を振り返り往時を偲ぶよすがとしたい。

海行かば 
水漬く屍 山行かば 
草生す屍 大君の 
辺にこそ死なめ
かへり見はせじ

うみゆかば 
みづくかばね やまゆかば 
くさむすかばね おおきみの 
へにこそしなめ
かへりみはせじ

※80年後の令和3年12月5日夕刻に。

参考文献

『昭和16年12月8日 日米開戦・ハワイ大空襲に至る道』児島襄著 文春文庫 1996年9月
『史説 山下奉文』児島襄著 文芸春秋社 昭和44年5月
『太平洋戦争(上)』児島襄著 中公新書 昭和40年11月
『大本営が震えた日』吉村昭著 新潮文庫 昭和56年11月
『昭和史の謎を追う(上)』秦郁彦著 文芸春秋社 1993年3月
『最後の連合艦隊司令長官-勇将小沢治三郎の生涯』寺崎隆治著 光人社 1997年12月
『日本海軍総覧』 別冊歴史読本戦記シリーズ26 新人物往来社 1994年4月
『太平洋戦争海戦ガイド』福田誠・牧啓夫共著 新紀元社 1994年2月
『 歴史と旅・日米開戦50周年記念号 特集真珠湾奇襲攻撃』  秋田書店 平成3年12月号
※雑記のため、参考文献が「一次資料」ではないことをお詫びいたします。


そして、私は当たり前の事に気がついてしまったのです。


「はじまりの日」12月8日から、毎日が「節目の日」を迎えるということを。

命がけの日々がはじまったということを。

日々に感謝をしつつ、 日々を過ごして参ります…

巣鴨刑務所の排水口跡(移設保存)と池袋散策

池袋サンシャイン60の界隈には、「巣鴨監獄」(「巣鴨刑務所」「巣鴨拘置所」「巣鴨プリズン」)があった。

かつて、巣鴨刑務所があった台地の下、石垣には排水口があり、水窪川に排水がされていた。

巣鴨プリズンはなくなり、水窪川は暗渠となり、戦後にあった造幣局東京支局もなくなり、そして石垣と排水口のみがひっそりと残されていたが、近年の再開発で、石垣と排水口も消失した………と思っていた。

ところが、
造幣局東京支局跡地に2020年12月に完成した「IKE・SUNPARK(としまみどりの防災公園)」に、なんと排水口跡の石組みが移設保存されておりました。最近、その事実を知ったので、慌てて足を運んでみました。


巣鴨刑務所の石積みの排水口跡

あぁ、消失したと思っていた、石積みの排水口跡が、公園内に保存されていました。
これは嬉しい。本当に嬉しい。
価値が分かる方が居てくれて、本当にありがとうございます!

石積みのモニュメントについて
このアーチ状の石積みは、本公園の敷地の隣接道路(都市計画道路補助第176号線および特別区道41-340)を支えていた石垣の一部で、周辺道路整備で撤去した際に保存し、公園内に復元したものです。
かつてこの地には巣鴨刑務所があり、関東大震災で被害を受けその後縮小され、昭和14年、縮小により空地となった土地の一部に造幣局が移転してきました。この地には長らく貨幣の製造工場や博物館がありましたが、それらの機能は平成28年にさいたま市に移転し、その跡地に豊島区からの要請を受けたUR都市機構が本公園を整備しました。
そうした歴史から、かつてこの石積みは巣鴨刑務所の排水口として、この周辺を流れていた水窪川(現・暗渠)につながっていたのではないかと考えられています。石垣の石は他にもこの公園で再利用していますので探してみてください。

サンシャイン60に「巣鴨プリズン」があった。

公園内で再利用された石垣の名残の石?

石積みの排水口があった場所は、公園の南西。階段を降りたところ。
マンホールの先、にあった。

石積みの排水口があった頃の写真。
※以下の3枚は2017年撮影

近くには、撤去された石垣の残骸と思われれる石が集められていた。
これも公園内で再利用されると良いのだが。

豊島区立としまみどりの防災公園
(IKE・SUNPARK イケ・サンパーク)

非常に開放的な公園。最近の池袋の新しい公園は開放的なデザインが施された空間が多い。

https://ikesunpark.jp/

公園内には、IKEBUSも走ってくる。


せっかくだから、近隣の公園も「戦跡」として紹介していく。

豊島区立 東池袋中央公園
巣鴨プリズン跡

巣鴨プリズンの跡地。歴史を背負った公園は、ほかの公園と比べてどことなく重厚な空間。
心休まる公園ではないかもしれない。

永久平和を願って

永久平和を願って
碑裏文
第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。 戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
昭和五十五年六月

以下、巣鴨プリズン関係。

東池袋中央公園から見上げるサンシャイン60は、いつでも墓標のように感じてしまう。

歴史の重みとリンクして、公園としての空気も重い気がする。。。

※ここまでは撮影2021年11月


豊島区立南池袋公園
豊島区空襲犠牲者哀悼の碑

豊島区空襲犠牲者哀悼の碑(南池袋公園)

恒久の平和を願って
―豊島区空襲犠牲者哀悼の碑―

  昭和20年4月13日深夜から翌14日未明にかけて東京西北部一帯を襲った空襲は、豊島区の大半を焦土と化し、甚大な被害と深い悲しみをもたらしました。
  死者778人、負傷者2,523人、焼失家屋34,000戸にのぼる被害により罹災者の数は161,661人と、実に当時の人口の約7割に及びました。
  この空襲によって無念のうちに尊い命を失った数多くの犠牲者が、当時、「根津山」と呼ばれた、ここ南池袋公園の一角において埋葬されました。
  先の戦争を通じて空襲の犠牲者となった豊島区民の冥福を祈るとともに、この悲惨な事実を永く後世に伝え、二度と再び戦争による悲劇を繰り返さぬように、この碑を建立します。
 平成7年8月 豊島区

根津山の防空壕
 昭和20年4月13日の空襲では、南池袋公園に隣接する、当時根津山と云った林の中に造られた巨大な防空壕に避難者が殺到した。

南池袋公園も非常に開放的な公園。往時は、この地に空襲の犠牲者が埋葬された。
今は人々の憩いの場。

※撮影は2021年2月


豊島区立池袋西口公園
平和の像

池袋駅西口バスターミナルに隣接。東武側。メトロポリタン側。
ここに豊島区の「平和の像」が建立されている。

平和の像

平成2年に、世界恒久平和への願いを込めて、池袋西口公園に、「平和の像」が設置された。
作者は竹内不忘。

裸婦像の掲げた左手と足元には、平和の象徴である鳩が。

非核都市宣言
 世界の恒久平和は、人類共通の願いである。しかし、核軍拡競争は激化の一途をたどっている。われわれは、人類唯一の被爆国民として、平和憲法の精神に沿って核兵器の全面禁止と軍縮の推進について積極的な役割を果すべきである。
 よって、豊島区及び豊島区民は、わが日本の国是である「非核三原則(造らず、持たず、持ち込ませず)」が無視され、われわれの海や大地に核兵器が持ち込まれることを懸念し、わが豊島区の区域内にいかなる国の、いかなる核兵器も配備・貯蔵はもとより、飛来、通過することをも拒否する。
 豊島区及び豊島区民は、さらに他の自治体とも協力し、核兵器完全禁止・軍縮、全世界の非核武装化にむけて努力する。
 右 宣言する。
 昭和57年7月2日
  東京都豊島区

※撮影は2021年3月


さらにもう一つの「日本の鉄道発祥の地」品川駅

日本の鉄道は、教科書的に記載すると、1872年10月14日(明治5年9月12日) 新橋駅-横浜駅の開業に始まる。
この10月14日は、今では、「鉄道の日」として記念日にもなっている。

しかし、この新橋駅-横浜駅が正式に開業する前から、日本では鉄道が走っていた。
それが、新橋駅が開業する前に仮営業で走り始めた、品川駅-横浜駅間の区間であった。

つまり、「横浜駅(桜木町駅)」と並んで、「品川駅」は、日本最古の鉄道駅のひとつなのだ。
(新橋駅は、横浜駅、品川駅の次)
そんな品川駅を散策してみることとする。


新橋駅関連

横浜駅関連(現在の桜木町駅)


日本の鉄道前史

1825年(文政8年)、イギリスのストックトン – ダーリントン間で蒸気機関車を用いた貨物鉄道(ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道)の運行が開始された。
1830年(文政13年)にはリヴァプール – マンチェスター間に旅客鉄道(リバプール・アンド・マンチェスター鉄道)も開業。

1853年(嘉永6年)、ロシアのエフィム・プチャーチンが長崎に来航。
船の上で蒸気機関車の鉄道模型を日本人に見せ、詳しい解説をおこなった。 蒸気機関車の模型を見学し「口を開いて見ほれていた」佐賀藩士が模型の制作を計画 。1855年(安政2年)には田中久重(からくり儀右衛門)と重臣や藩校の者の手によって、全長約27cmほどのアルコール燃料で動作する模型機関車を完成させている。これが模型とはいえ、日本人がはじめて作った機関車であった。 このとき当時18歳であった佐賀藩士の大隈重信も見学しており、のちの明治政府で熱心な鉄道導入を唱えることとなる。

1858年(安政5年)には、イギリスが中国の鉄道で使用する予定であった762mm軌間の本物の蒸気機関車が長崎へ持ち込まれ、1か月間にわたってデモ走行を実施。
こうして、国内で鉄道敷設の機運が高まってきた。

鉄道開通に向けて

明治維新後の1870年(明治3年)鉄道発祥国イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任。本格的工事が始まった。
日本側では1871年(明治4年)に井上勝(日本の鉄道の父)が鉄道頭に就任し、鉄道建設に携わった。
東京横浜間の全線29kmのうち、1/3にあたる約10kmが海上線路として建設。
資材を横浜港から供給した関係上、工事は横浜側から始まり、まず1871年夏頃には川崎までの工事が進み、その際に試運転と資材の輸送をかねて運転が行われていたと考えられる。

現横浜から桜木町にかけての左カーブ付近の埋め立ては地元の商人、高島嘉右衛門が工事を請負、土地を管理したので敬意を表して今でも「高島町」と呼ばれている。また、鶴見川、六郷川(多摩川)の橋は最初木造で作られたが木造では傷みが激しく、後に鉄橋に改められ、2代目六郷川橋(初代鉄橋)が愛知明治村に保存されている。

横浜停車場は現桜木町駅付近であったが、これは野毛外人居留地や港に近いという理由から選ばれたと思われる。新橋停車場は現汐留であるが、東京の入口であり、築地外人居留地に近いという理由もあるが、それよりも東京の中心に異様なものが進入するのを嫌った勢力や軍部が用地を提供しなかったという理由もあった。

1871年9月(明治4年8月)には、早くも木戸孝允や大隈重信、後藤象二郎や三条実美らが神奈川(現京浜急行神奈川駅付近と思われる。)-横浜停留場間を試乗。
そして同年11月には大久保利通も試乗。大久保は鉄道反対派であったが「百聞は一見に如かず。愉快に堪えず」と日記に記し一転して鉄道支持派になり、政府首脳の間にも鉄道の利便性が理解され始めた。

1871年11月(明治4年10月)には六郷川橋梁が完成し品川まで運転が開始された。
このころにはすでに時刻表で運転が定期的にくまれており、岩倉具視を団長とする「遣欧米使節団」一行100余名も臨時列車で品川から横浜まで利用している。
この列車は「品川仕立十一ジ二十分出行」であり「於川崎而蒸気行替五分避行」とあり横浜には12時40分に到着。所要1時間20分と、(同区間は仮営業時は40分)随分時間がかかっているのは、工事中ということもあり徐行しながら走ったのであろう。

品川-横浜間仮営業開始

1872年6月12日(明治5年5月7日)から品川-横浜間で仮営業が行われるようになり、陸蒸気の試運転を弁当持参で見物していた庶民も、お金さえはらえば平等に乗れるようになった。このお金さえ払えば身分の隔たりもなく無差別平等に汽車に乗れるということが、まさに新しい社会の到来であった。

仮営業当日は、所要35分で1日2往復。しかし翌日からは6往復となり、7月10日には川崎・神奈川の途中駅が開業し所要40分で運転が行われた。運転本数を増やしても平均乗車率は80%を越しておりかなりの人気であった。

仮営業中の1872年8月15日(明治5年7月12日)には
明治天皇が風波のために座乗する軍艦が品川に入港できなくなり急遽横浜から汽車に乗り品川から宮城に向かうという予定外の事件があった。
また箱根離宮の帰りに 
皇后(のちの昭憲皇太后)が横浜-品川間を利用しているということから、仮営業であっても
天皇・皇后の利用しており、汽車の安全性も認められ、あとはいよいよ本開業をまつばかりであった。

しかし品川-新橋の間には、高輪の台地がせまっており、また陸軍・海軍用地が多いため工事が難航。大隈重信はついには品川-新橋間を築堤し海のなかに線路用地を確保するという荒技をとることとなる。
海岸付近を通る路線のうち田町から品川までの約2.7kmには海軍の用地を避けるため約6.4mの幅の堤を建設して線路を敷設し、これが高輪築堤となる。高輪築堤の工事は1870年に着工し両側は石垣、船が通る箇所4か所には水路が作られた。

新橋-横浜間開業

1872年10月14日(明治5年9月12日) 新橋駅-横浜駅が正式開業。
新橋駅で式典が催され、明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜まで往復運転を実施した。
正式開業時の列車本数は日9往復、全線所要時間は53分、表定速度は32.8km/h。

開業当時の「1号機関車」は鉄道博物館、「3号機関車」は桜木町駅新南口に保存・展示されている。
また「1号機関車」は『南蛮阿房列車』に代表されるように大の鉄道好きで知られる阿川弘之先生が書いた、絵本「きかんしゃやえもん」のモデルとなった機関車でもある。

正式開業日を記念して、1922年(大正11年)に10月14日は「鉄道記念日」となった。
そして1994年(平成6年)には運輸省により「鉄道の日」と改称された。


品川駅創業記念碑

品川駅の西口・高輪口のロータリーにひっそりと記念碑がある。

 明治五年五月七日
品川駅創業記念碑 
 品川横浜間鉄道開通
  伴睦書

品川駅は、明治5年(1872年)5月7日(新暦6月12日)を開業日としている。
この日に品川・横浜間で仮開業。
品川から北、品川ー新橋間は、高輪築堤の工事などもあり開業が遅れ、品川ー横浜の仮営業から4箇月後の明治5年(1872年)9月12日(新暦10月14日)に、 新橋・横浜間で本営業を開始した。

品川駅創業記念碑
 品川駅では、明治5年(1872年)5月7日(新暦6月12日)をこの開業日にしています。何故かというと、新橋・品川間の工事が遅れたため、この日に品川・横浜間で仮開業したからです。新橋・横浜間で本営業を開始したのは仮営業から4箇月後の明治5年(1872年)9月12日(新暦10月14日)でした。それを記念して、今日では10月14日を「鉄道の日」としています。品川駅は日本で一番古い鉄道の駅といえます。
 この記念碑は鉄道開通80周年及び駅舎改築を記念して、昭和28年(1953年)4月に建之されたもので、揮毫者は衆議院議長をつとめた大野伴睦氏です。記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されており、当時の様子を偲ぶことができます。
 平成18年(2006年)10月 JR東日本 品川駅 この記念碑は鉄道開通80周年及び駅舎改築を記念して、昭和28年(1953年)4月に建之されたもので、揮毫者は衆議院議長をつとめた大野伴睦氏です。記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されており、当時の様子を偲ぶことができます。
 平成18年(2006年)10月 JR東日本 品川駅

鉄道列車出発時刻及賃金表
 定     明治五年五月七日

上り             下り
横浜発車 品川到着      品川発車 横浜到着
午前八字 午前八字三十五分  午前九字 午前九字三十五分
午后四字 午后四字三十五分  午后五字 午后五字三十五分

賃金表  
車ノ等級
上等  片道 壹円五拾銭
中等  同  壹円
下等  同  五拾銭

 昭和二十八年四月吉日
 品川駅改築落成祝賀協議会建之

高輪口のロータリーに記念碑はある。


JR品川駅中央改札内

品川駅の中央改札ナウに、ちょっとしたモニュメントがある。

さり気なく、「鉄道発祥の地“品川”」を主張している。

郵便ポスト&0kmポスト(ゼロキロポスト)
 この郵便ポストは,品川駅改良・ecute品川の誕生を記念してJR東日本・東京総合車両センターで製作されました。国鉄時代に活躍した荷物兼郵便車「クモユニ」をイメージした形に,東海道線電車の湘南色で仕上げ,鉄道発祥の地“品川”に相応しい「郵便車型ポスト」といたしました。
 0kmポストは,鉄道の路線の起点を示す標識で,品川駅には山手線と品鶴(ひんかく)線の2線の0kmポストがあります。山手線は一回りしているため,起点があまり知られていませんが,品川から新宿を経由して田端までを指します。
 品鶴線は,品川から西大井を経由して鶴見に至る路線で,当初は貨物線として敷設されましたが,現在では横須賀線への直通電車が走っています。
 生まれ変わった品川駅からの出発が,すばらしいものになりますことを祈念し,品川駅の新しいシンボルとして0kmポストのオブジェを設置しました。どうぞ,末長くご愛顧下さい。
2005年10月1日
高輪郵便局
JR東日本・品川駅
ecute品川

品川駅は、山手線の起点、そして品鶴仙という貨物線の起点とのこと。

※撮影:2021年11月


関連

日本の鉄道の父、井上勝の墓は、品川にある。

もう一つの「日本の鉄道発祥の地」初代横浜駅跡・JR桜木町駅

日本の鉄道は、明治5年(1872)に新橋駅ー横浜駅に開業したことに始まる。
その初代横浜駅は、現在の桜木町駅界隈であった。

鉄道発祥の地として、「新橋駅」とともに、もう一つの拠点であった「桜木町駅」を散策してみる。

JR桜木町新南口(市役所口)に隣接するJR桜木町駅ビル「CIAL桜木町ANNEX(シァル桜木町アネックス)」1階に開設されている「旧横ギャラリー」には、鉄道創業時に使用された蒸気機関車「110形」が展示されている。

桜木町は、日本初の鉄道のもう一つの起点駅。
そう、新橋横浜間の鉄道の横浜駅は、今の桜木町駅界隈であったのだ。


旧横濱鉄道歴史展示(旧横ギャラリー)

若干、窮屈そうな場所に、鉄道創業時に使用された蒸気機関車と展示スペースがあった。
しかし青梅鉄道公園で展示されていた頃に比べて、屋内展示としての絶対の安心感が感じられるのが、とにかく好印象。鉄道発祥の横浜にこうして記念すべき施設ができたことが喜ばしい。

鉄道記念物
110形蒸気機関車
1961(昭和36)年10月14日指定
東日本旅客鉄道株式会社 2020(令和2)年6月建植

110形蒸気機関車(110号)
1871(明治4)年、英国のヨークシャー・エンジン社の製造で、1872(明治5)年の鉄道創業時に「10号機関車」として新橋~横浜間で使用され、後に「3号機関車」と呼ばれた日本で最も古い機関車の一つです。1909(明治42)年、「110号」に名を改められ、1918(大正7)年まで各所で活躍し、廃車後は車体の一部を切開ののち、大宮工場内にあった「鉄道参考品陳列所」で技術者育成の教材として展示されました。1961(昭和36)年には「鉄道記念物」に指定され、翌年から2019(令和元)年まで青梅鉄道公園で保存展示されました。その後、大宮工場にて溶接を使用しない工法で切開箇所を閉腹し、錆の除去や破損箇所の修復を行い、本機の晩年頃の姿を再現しました。(形状が不明な箇所は資料が残る明治初期の形状を参考にしました。) そして、2020(令和2)年、旧横浜停車場であるこの地へ戻りました。

機関車全長:7,214mm
動輪直径:1,245mm
輪軸配置:1‐B‐0
シリンダ直径×行程:299×432mm
機関車重量:運転整備 23.04t 空車 18.85t
購入時価格:2,600ポンド(船賃含む)
使用蒸気圧8.0kg/cm²

鉄道創業時の中等客車(再現)
日本に輸入された客車は、上等車10両、中等車40両、緩急車8両の計58両で、全て英国製でした。外観や車内の構造は上等車、中等車ともにほぼ同じで、両端に出入口を兼ねたオープンデッキがあり、車内は中央通路式となっています。展示の客車は、鉄道開業期にM.モーザーが撮影した、横浜停車場に留置中の車両写真、英国製古典客車図面、車両形式図等の記載寸法を参考に、中等客車として再現しました。木造の客室部、車輪脇の板バネは新造し、本来は金属製である緩衝器は、木地をろくろ挽きで製作。他の国内で入手困難な金属部品は英国から輸入した古物を使用しています。車輪の外観は、創業期に用いられ乗り心地に優れているとされる、木製の「マンセルホイール」をイメージし、その造形を施しました。車内照明(オイルランプ)は、古文献や英国製のものを参考に電気式で再現しています。色彩は、当時の浮世絵、M.モーザー撮影写真のコントラスト、そして昔の英国車両を参考に配色しました。

客車サイズ:全長 7,630mm(緩衝器含む) 全幅 約2,210mm(客室側壁部)
定員:24名

旧横ギャラリーとして、展示資料も豊富。
これは丹念に見ていたら、結構な時間を要しそうだ。

最初の機関車たち

帰ってきた110形機関車
展示の実物機関車は、1872年の鉄道創業時に英国から輸入された蒸気機関車です。この地に荷揚げされて以来、日本各地で活躍し、2020年に再びここけ戻りました。

鉄道創業時の機関車
1871(明治4)年、英国からスエズ運河(1869年開通)を経由し、横浜港に5種10両の機関車が到着しました。これらの車両は、この地に存在した横浜停車場内の作業場で組み立てられました。
1号機関車(150形)
2~5号機関車(160形)
6、7号機関車(A3形)
8、9号機関車(190形)
10号機関車(110形)

明治初期の横濱停車場と街の風景

旧横ギャラリー

受け継がれる鉄道への夢

鉄道開業式典と明治の人々

明治の元勲たちを乗せた式典列車

元は武士!? 官員さんと舎内の様子

謎のステンショ内部を探る

西洋から導入されたモノは?

西洋の慣習と鉄道システム

産業革命を見聞したサムライたち

幕末の日本と横濱

鉄道敷設までの道のり

明治の鉄道建設と発展に貢献した人々

最初の客車と明治のお客さま

そして建物の外にも、掲載がある。

モレルさん、ガラスの反射が厳しい。

初代鉄道建築師長
エドモンド モレル

 十河信二書
EDMUND MOREL
1841-1871
1958.5.7 横浜市 鉄道友の会

旧横濱鉄道歴史展示
この地に存在した、日本初の鉄道駅「横濱停車場」の様子と横浜~新橋間を駆け抜けた機関車や客車、そして新たな時代を「鉄道」という文明の利器によって切り拓いた、明治の先人達の活躍を紹介します。

旧横ギャラリー

鉄道創業時に使用された蒸気機関車

展示の110形蒸気機関車について
1871(明治4)年 英国にて製造され、日本に輸入。
1872(明治5)年 鉄道創業時、10号として運用。
1876(明治9)年 機関車の番号を3に改番。
1909(明治42)年 形式称号改正で110形となる。
1923(大正12)年 廃車(諸説あり)後、大宮工場に展示
1961(昭和36)年 鉄道記念物に私邸。
1962(昭和37)年 青梅鉄道公園へ移転。
2020(令和2)年 この地へ移り、屋内展示となる。

英国から輸入された最初の客車

再現された創業時の客車
輸入された客車は、上等車10両(定員18人)、中等車40両(定員22か24人)、荷物緩急車8両の計58両でした。構造は前後にデッキを有する中央通路式で、室内左右にロングシートが配置されていました。開業時に中等客車を改造し、26両を下等客車としました。展示の客車は英国や明治期の資料を元に再現した中等客車です。

この地に存在した日本初の鉄道駅「横濱停車場」

旧横濱停車場と桜木町駅
1872(明治5)年 横濱停車場がこの地に開業。
1915(大正4)年 横浜駅は移転、桜木町駅に戒名。
1923(大正12)年 関東大震災にて初代駅舎消失。
1927(昭和2)年 2代目桜木町駅舎が完成。
1964(昭和39)年 根岸線開通にともない、駅舎を改築。
1989(平成元)年 3代目駅舎は高架下駅となる。

場所

https://goo.gl/maps/gvPFDDa2sAY7toRs9


鉄道創業の地 記念碑

旧横ギャラリーのある建物のすぐ南側に、記念碑がある。

鉄道創業の地 記念碑
 日本で初の鉄道を作るために 明治3年(1870年)に鉄道資材を英国から購入し 横浜港で陸揚げされ建設が始まった。
 その2年後の明治5年(1872年)5月7日、この地に初代横浜駅が建設され、 横浜、 品川間に最初の鉄道が開業した。
 この鉄道創業の地を象徴して昭和42年(1967年)10月13日に記念碑が竣功した。
 その後、昭和63年(1988年)12月に現在の位置に移設され、当初記念碑のあった位置に原標を置いた。

平成26年7月
公益財団法人 横浜観光コンベンション・ビューロー

鉄道創業の地
 我が国の鉄道は、明治5年(1872年)旧暦5月7日、この場所にあった横浜ステイションと品川ステイションの間で開通し、その営業を開始しました。
 わたくしどもは、当時の人の気概と努力をたたえ、このことを後世に伝えるとともに、この伝統が受け継がれて、さらにあすの飛躍をもたらすことを希望するものであります。
   昭和42年10月14日  
            財団法人 横浜市観光協会
             鉄道発祥記念碑建設特別委員会

創業当時の横浜駅

創業時の時刻・運賃表及び乗車に当たっての注意書きも記念碑に刻まれている。

鉄道列車出発時刻及び運賃表

定 明治5年5月7日
上り
 横浜発車 品川到着
 午前8時 午前8時35分
 午後4時 午後5時35分
下り
 品川発車 横浜到着
 午前9時 午前9時35分
 午後5時 午後5時35分

運賃表
車の等級
 上等 片道 1円50銭
 中等 同  1円
 下等 同    50銭

来る五月七日より此表示の時刻に日々横浜並びに品川ステイションより列車出発す乗車せむと欲する者は遅くとも此表示の時刻より十五分前にステイションに来り切手買入其他の手都合を為すべし
 但発車並に着車共必ず此表示の時刻を違はさるやうには請合かねたけれとも可成丈遅滞なきよう取行ふべし
手形は其日限り乗車一度の用たるべし
小児四歳までは無賃其餘十二歳まては半賃金の事
旅客は總て鐡道規則に隋ひ旅行すべし
手形檢査の節は手形を出し改を受又手形収集の節は之を渡すべし旅客自ら携ふ小包みドウランの類は無賃なれとも若し損失あらは自ら負うべし其餘の手廻り荷物は目方三十斤迄は二十五銭三十斤以上六十斤迄は五十銭を拂ひ荷物掛へ引渡請取證書を求め置くべし尤一人に付目方六十斤を限とす
手廻荷物は總て姓名か又は目印を記すべし
旅客中乗車を得ると得さるは車内場所の有無によるべし
犬一疋に付片道賃銭二十五銭を拂ふべし併し旅客車に載するを許さす犬箱或は車長の車にて運送すべし尤首輪首綱口綱を備へて相渡すべし
発車時刻を惰らさるため時限の五分前にステイションの戸を局さすべし
吸煙車の外は煙草を許るさす

旅客車上中下三等の内乗らむと欲する所の賃金を過金取引なきやうに用意致し来るべし
   明治五年 鐡道寮

記念樹
横浜緋桜
モレルの桜
 英国人技師エドモンド・モレル(1841-71)は、明治5年日本で最初の鉄道を桜木町-新橋間に建設するにあたって建築師長として貢献しました。生誕170年の今、その功績を称え縁の地に”モレルの桜”を植樹し記念とします
2011.3.30
 桜木町に桜の木を植える会
 神奈川県淡彩画会
  協賛 横浜郷土研究会
     横浜ペンクラブ
     学校法人横浜学院

場所

https://goo.gl/maps/Z4kZ7zGF2gVYCHSq9


JR桜木町駅

桜木町の駅にも見どころが豊富。
正直、丹念に見ていたら、駅だけでも結構な時間泥棒となる。
桜木町駅は、鉄道発祥の駅として、相当な力の入れ具合を感じられた。

JR桜木町駅

みなとみらい地区の記憶
明治から昭和まで臨海地域は造船と鉄道物流の拠点で、この街のシンボル的存在でした。現在は国際的なビジネスと観光の街として生まれ変わりました。

みなとみらい時層マップ
明治初期から平成までの海岸線の変化を俯瞰しながら、この地区の産業や町並みの発展を「時間を旅する」感覚で観察すると、新たな発見があるかもしれません。

日本の産業を支えた横濱停車場
鉄道開業の翌年、1873(明治6)年9月、横浜~新橋間の鉄道による貨物営業が始まりました。以来、横浜は日本の産業における重要な物流拠点となりました。

鉄道創業の地・桜木町(旧横濱停車場)
日本人と鉄道の出会いは江戸時代の末期でした。明治時代になるとその導入が決定し、1872(明治5)年、横浜と新橋の間で日本初の営業運転が始まりました。

初代横濱駅と発着場の情景
初代横浜駅は新橋駅と同じく、アメリカ人建築家、R・P・ブリジェンスの設計で、この場所から関内駅方面へ120m程の地に位置し、華麗な外観を誇りました。

明治の横濱・鉄道路線案内
明治初期、当時の人々にとって鉄道への関心は高く、多くの錦絵が残されました。開業時の路線は現在でもほぼ同じルートをとりながら、高度に複線化されています。

鉄道旅行のお楽しみ
江戸期の旅は徒歩による信仰と巡礼が目的でした。明治期、鉄道が利用されるようになると、やがて旅の目的は観光や仕事など、多様なものとなりました。

鉄道が発信する文化
鉄道創業時に、早くも横濱停車場の構内で商いをする人たちが現れました。以来、鉄道に関連した数多くの商売や文化が生まれてきました。

追憶の野毛・桜木町駅
庶民の街として親しまれてきた野毛、またその玄関口として街の変遷を見守って来た桜木町駅界隈は、いつの時代も人々の活気ある息吹を感じ取る事ができます。

桜木町にやってきた鉄道車両
鉄道の開業以来、この地には様々な種類の列車がやって来ました。ここでは蒸気から電気機関車までの変遷や鉄道車両の様々な形態を見る事ができます。

 この光景は、明治20年(1887)頃の初代横浜停車場(現桜木町駅)前を撮影したものです。写真中央の噴水塔は、高さ約4.4m、重さ約1.3tの鋳鉄製で、日本初の近代水道創設を記念して設置され、往来する方々に親しまれていました。
 この噴水塔は、現在、横浜市保土ケ谷区の横浜水道記念館に保存されています。
 平成25年10月17日 横浜市水道局

桜木町&みなとみらい地区は、馬車道や赤レンガもあるので、近代史散歩がはかどる街。しかし、それはまだ未探訪なので、おって、で。

※撮影:2021年11月


鉄道関連

横浜関連

マッカーサー草案・日本国憲法草案審議の地

日本の、戦後再起動の歴史を感じる場所。


この界隈に、かつて外務大臣官邸があり、日本国政府とGHQ連合国軍総司令部の間で日本国憲法の草案審議が行われた。それが審議であったか恫喝であったかは別として。

昭和21年(1946)11月3日に公布された日本国憲法は、翌年の昭和22年(1947)5月3日に施行された。
公布に至るまでの紆余曲折の歴史舞台のひとつがこの地であった。


マッカーサー草案・日本国憲法草案

昭和20年8月の終戦以降、日本政府は憲法の改正作業を進めていた。その流れの中でソ連を中心に天皇制の廃止を要求されることに、日本の世情を理解していたGHQは方針を転換し、GHQは総司令部にて憲法草案を起草することを判断した。

そうして、昭和21年2月13日に日本政府に「マッカーサー草案」が提示された。
これは、先立って日本政府が2月8日に提出していた「憲法改正要綱」(松本試案)に対する回答という形で示されたものであった。

「マッカーサー草案」 提示を受けた日本側、松本烝治国務大臣と吉田茂外務大臣、通訳の白洲次郎などは、寝耳に水のマッカーサー草案に驚き、大至急で審議を開始。
2月26日の閣議で、「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、作業を開始した。
そうして、日本国政府は、「憲法改正草案要綱」を発表し、マッカーサーも直ちにこれを支持、了承する声明を発表し、大筋が決まった。

昭和21年4月、幣原内閣が総辞職し、5月22日に第1次吉田内閣が発足。
6月20日、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、憲法改正案を衆議院に提出し可決、次いで貴族院でも可決され、帝国議会における憲法改正手続が完了。

こうして、帝国議会における審議を通過して、10月29日の枢密院本会議で、 昭和天皇臨席の下で「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した。
同日、 昭和天皇は、憲法改正を裁可。11月3日、日本国憲法が公布された。

日本国憲法草案審議の地

こうした一連の、憲法草案の地を記憶した史跡。

日本国憲法草案審議の地

日本国憲法草案審議の地
この地は、昭和二十一年(1946 年)二月、連合国軍総司令部と、日本国政府との間で、日本国憲法草案について審議された跡地である。
この地には(財)原田積善会の本部があり、戦後に外務大臣官邸として使用されていた。当事者に総司令部側代表としては、民生局長ホイットニー准将、民生局次長ケーティス大佐の両名で、日本側は当時の外務大臣吉田茂と法務大臣松本烝治であった。
  八木通商株式会社

六本木麻布台ビル

場所

https://goo.gl/maps/g8TGD9E94drYhZGu8

※撮影:2018年11月


関連

川端龍子と「爆弾散華の池」(大田区)

大田区立龍子記念館に脚を運んでみました。

川端龍子

川端龍子(かわばた りゅうし)
1885年〈明治18年〉6月6日 – 1966年〈昭和41年〉4月10日)
日本画家、俳人。
1959年(昭和34年)、文化勲章受章。
本名は川端 昇太郎。

臼田坂下に画室を新築した
川端龍子(かわばたりゅうし:1885~1966)
日本画の巨匠川端龍子は、明治42年24歳の時、牛込矢来町より入新井新井宿に移ってきました。この頃はまだ作品を認められてはいませんでしたが、挿絵を描いたり、国民新聞社に勤めたりして生計を立てていました。
大正2年に渡米した際ボストン美術館で日本画に魅せられ、龍子は油絵から日本画へと志向の転機を決意します。翌3年には、処女作「観光客」が東京大正博覧会に入選し、日本画家として立つきっかけを摑みました。その後はつぎつぎと作品が認められ、大正9年現在の臼田坂下に住宅と画室を新築し、ここを御形荘(おぎょうそう)と名付けました。
一 画人生涯筆菅 龍子 一 、という句があるように画業に専念する人でしたが、唯一の趣味としての建築は、龍子持ち前の器用さと熱心さを反映して素人の域を脱するものでした。龍子記念館、屋敷内の建築は全て龍子の意匠によるものです。
 参考文献 集英社「現代日本の美術」 
  大田区


大田区立 龍子公園

一日に3回の公開が行われている。この時間以外は見学不可。
この龍子公園内に、「爆弾散華の池」やアトリエ、旧宅などがある。


爆弾散華の池

龍子公園に入ったすぐ左手に池がある。
この場所には、大正9年(1920年)に建てられた龍子の居宅があった。しかし昭和20年8月13日に爆撃を受け、居宅は倒壊。使用人が2人死亡している。

爆弾散華の池
昭和20年(1945)8月13日、米軍機の爆撃により龍子旧宅は全壊に近い被害をうけました。その体験から制作された作品が「爆弾散華」です。「爆弾散華」には、食糧難の中で栽培された野菜が、爆風によってもの悲しく散っていく光景が描かれています。
終戦後の10月に龍子は第17回青龍展を開催し、この作品を出品しています。また、爆撃跡の穴からは水が湧き出してきたため、龍子の発案によって「爆弾散華の池」として整備されました。
 大田区立龍子記念館

龍子のアトリエ

川端龍子のアトリエは昭和13年(1938年)の建造。
竹が多く用いられた龍子デザインの建屋。

龍子の旧宅

終戦後の昭和23年(1948年)の建造。


大田区立龍子記念館

龍子記念館とは
龍子記念館は、近代日本画の巨匠と称される川端龍子(1885-1966)によって、文化勲章受章と喜寿とを記念して1963年に設立されました。当初から運営を行ってきた社団法人青龍社の解散にともない、1991年から大田区立龍子記念館としてその事業を引き継いでいます。当館では、大正初期から戦後にかけての約140点あまりの龍子作品を所蔵し、多角的な視点から龍子の画業を紹介しています。展示室では、大画面に描いた迫力のある作品群をお楽しみいただけます。
龍子記念館の向かいの龍子公園には、旧宅とアトリエが保存されており、画家の生活の息づかいが今も伝わってきます。

大田区立龍子記念館 https://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi


川端龍子 作品

川端龍子の絵画のうち、いくつか私が興味を持った作品を紹介。

「香炉峰」

昭和14年(1939)の作。幅は727.2cmにも及ぶ大作。
飛行する九六式艦上戦闘機が半透明に表現されたインパクトのある作品。

川端龍子は海軍省嘱託画家として支那事変に従軍。中支の廬山上空を海軍機に便乗し、俯瞰した廬山主峰の香炉峰を中心に連峰と長江の大景観を取材した。

白居易が「簾をかかげて看る」と詠んだ香炉峰を、川端龍子は戦闘機という近代兵器で透かして見せた。戦闘機を透視的に扱ったのが龍子のウィットに富んだ秀逸な技法。

中央に日の丸。ほぼ、戦闘機を原寸大で描かれたものという。

川端龍子の自画像という。

ただ透明にしているのではなく、きとんと戦闘機の骨組みを踏まえた透明感が凄い。

※このとき(2021年10月)は香炉峰のみ撮影可、でした。
※展示会の内容により、作品は入れ替わりがあります。

絵葉書を購入しました。

「越後(山本五十六元帥)」

昭和18年(1943年)の作品。4月に戦士した山本五十六の鎮魂の作品。
川端龍子作品では珍しい肖像画。
山本五十六が長岡出身であったことから、人物から「越後」を表すことを試みた作品。
龍子は「五十六の写真」をヒントに描いたという。
しかし写真の第一種軍装の山本五十六と違い、龍子は、ソロモンの南東海域で亡くなった五十六を踏まえ、熱帯で着用されていた白い軍服(第二種軍装)の姿で描いている。

地図を見入る山本五十六の写真

絵葉書を購入しました

「水雷神」

昭和19年(1944年)の作品。
作品が発表された昭和19年の南方戦線は壊滅的な戦況となっていた。その南方海域を感じさせる熱帯魚が泳ぐ海での、特攻と精神的苦悩の様を造形で記録した作品。
海中で忿怒の表情を呈す3人の青年が、敵陣に突入する爆弾三勇士のように、魚雷を突き動かしつつ悲痛な叫びを上げている。
一方で、魚雷の先端に金剛杵を描くことで魚雷そのものを宝具と化し、それを突き動かす青年三体を神格化している仏教的な試みもされ、兵器としての水雷の神格化も踏まえ「水雷神」と銘し、軍部の期待にも龍子なりに応えている。

絵葉書

爆弾三勇士

「爆弾散華の池」

絵葉書は、「香炉峰」「越後(山本五十六元帥)」「水雷神」「爆弾散華の池」の都合4枚をいただきました。

実は、川端龍子のこと、ほとんど知りませんでした。
たまたま「爆弾散華の池」というフレーズを知り、ちょっと気になったので脚を運んだ次第でしたが、記念館で圧倒的な迫力で「香炉峰」を目にして、一気に興味を持った次第。

場所

大田区立龍子記念館
〒143-0024 東京都大田区中央4丁目2−1

https://goo.gl/maps/SD3uzoqfLhpopYxY6

大森駅からは歩いて25分くらい。バスだと15分くらい。


大森駅の東側にある入新井公園に戦争の慰霊碑があるので、あわせて参拝。

入新井萬霊地蔵尊

入新井萬霊地蔵尊
為昭和昭和二十年一月 十一日
        五月二十三日
        五月二十九日
               大空襲戰災死者

入新井萬霊地蔵尊の由来
 この辺りは、太平洋戦争下の昭和二十年五月二十九日の東京大空襲にて、不幸にも三・三平方メートル(一坪)当り六、七発の大量油脂焼夷弾が落され、大勢の尊い犠牲者が出ました。
 戦後、区画整理も整い入新井公園が設けられるに及び、昭和三十二年住民の声にて、今は亡き肉親を偲び、在りし日の隣人を追慕してご冥福を祈ると共に永遠の平和を祈念し、故広瀬定光氏他有志が発起人となり、住民の浄財をあおいで地蔵尊が建立されました。
 その後永年の風雪に破損がひどく、今回三十三回忌を記念して再び広く浄財を募り再建したものであります。近隣の方々のお力により、毎日お花や線香の絶える時がございません。
 昭和五十一年五月二十九日
 入新井萬霊地蔵尊奉賛会

場所

https://goo.gl/maps/cCBUbWuQyH9ptFtD6


※撮影は2021年10月

「日本の鉄道発祥の地」新橋停車場と高輪築堤跡

近代の発展は、鉄道の発展でもあった。

日本の鉄道前史

1825年(文政8年)、イギリスのストックトン – ダーリントン間で蒸気機関車を用いた貨物鉄道(ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道)の運行が開始された。
1830年(文政13年)にはリヴァプール – マンチェスター間に旅客鉄道(リバプール・アンド・マンチェスター鉄道)も開業。

1853年(嘉永6年)、ロシアのエフィム・プチャーチンが長崎に来航。
船の上で蒸気機関車の鉄道模型を日本人に見せ、詳しい解説をおこなった。 蒸気機関車の模型を見学し「口を開いて見ほれていた」佐賀藩士が模型の制作を計画 。1855年(安政2年)には田中久重(からくり儀右衛門)と重臣や藩校の者の手によって、全長約27cmほどのアルコール燃料で動作する模型機関車を完成させている。これが模型とはいえ、日本人がはじめて作った機関車であった。 このとき当時18歳であった佐賀藩士の大隈重信も見学しており、のちの明治政府で熱心な鉄道導入を唱えることとなる。

1858年(安政5年)には、イギリスが中国の鉄道で使用する予定であった762mm軌間の本物の蒸気機関車が長崎へ持ち込まれ、1か月間にわたってデモ走行を実施。
こうして、国内で鉄道敷設の機運が高まってきた。

鉄道開通に向けて

明治維新後の1870年(明治3年)鉄道発祥国イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任。本格的工事が始まった。
日本側では1871年(明治4年)に井上勝(日本の鉄道の父)が鉄道頭に就任し、鉄道建設に携わった。
東京横浜間の全線29kmのうち、1/3にあたる約10kmが海上線路として建設。
資材を横浜港から供給した関係上、工事は横浜側から始まり、まず1871年夏頃には川崎までの工事が進み、その際に試運転と資材の輸送をかねて運転が行われていたと考えられる。

現横浜から桜木町にかけての左カーブ付近の埋め立ては地元の商人、高島嘉右衛門が工事を請負、土地を管理したので敬意を表して今でも「高島町」と呼ばれている。また、鶴見川、六郷川(多摩川)の橋は最初木造で作られたが木造では傷みが激しく、後に鉄橋に改められ、2代目六郷川橋(初代鉄橋)が愛知明治村に保存されている。

横浜停車場は現桜木町駅付近であったが、これは野毛外人居留地や港に近いという理由から選ばれたと思われる。新橋停車場は現汐留であるが、東京の入口であり、築地外人居留地に近いという理由もあるが、それよりも東京の中心に異様なものが進入するのを嫌った勢力や軍部が用地を提供しなかったという理由もあった。

1871年9月(明治4年8月)には、早くも木戸孝允や大隈重信、後藤象二郎や三条実美らが神奈川(現京浜急行神奈川駅付近と思われる。)-横浜停留場間を試乗。
そして同年11月には大久保利通も試乗。大久保は鉄道反対派であったが「百聞は一見に如かず。愉快に堪えず」と日記に記し一転して鉄道支持派になり、政府首脳の間にも鉄道の利便性が理解され始めた。

1871年11月(明治4年10月)には六郷川橋梁が完成し品川まで運転が開始された。
このころにはすでに時刻表で運転が定期的にくまれており、岩倉具視を団長とする「遣欧米使節団」一行100余名も臨時列車で品川から横浜まで利用している。
この列車は「品川仕立十一ジ二十分出行」であり「於川崎而蒸気行替五分避行」とあり横浜には12時40分に到着。所要1時間20分と、(同区間は仮営業時は40分)随分時間がかかっているのは、工事中ということもあり徐行しながら走ったのであろう。

品川-横浜間仮営業開始

1872年6月12日(明治5年5月7日)から品川-横浜間で仮営業が行われるようになり、陸蒸気の試運転を弁当持参で見物していた庶民も、お金さえはらえば平等に乗れるようになった。このお金さえ払えば身分の隔たりもなく無差別平等に汽車に乗れるということが、まさに新しい社会の到来であった。

仮営業当日は、所要35分で1日2往復。しかし翌日からは6往復となり、7月10日には川崎・神奈川の途中駅が開業し所要40分で運転が行われた。運転本数を増やしても平均乗車率は80%を越しておりかなりの人気であった。

仮営業中の1872年8月15日(明治5年7月12日)には
明治天皇が風波のために座乗する軍艦が品川に入港できなくなり急遽横浜から汽車に乗り品川から宮城に向かうという予定外の事件があった。
また箱根離宮の帰りに 
皇后(のちの昭憲皇太后)が横浜-品川間を利用しているということから、仮営業であっても
天皇・皇后の利用しており、汽車の安全性も認められ、あとはいよいよ本開業をまつばかりであった。

しかし品川-新橋の間には、高輪の台地がせまっており、また陸軍・海軍用地が多いため工事が難航。大隈重信はついには品川-新橋間を築堤し海のなかに線路用地を確保するという荒技をとることとなる。
海岸付近を通る路線のうち田町から品川までの約2.7kmには海軍の用地を避けるため約6.4mの幅の堤を建設して線路を敷設し、これが高輪築堤となる。高輪築堤の工事は1870年に着工し両側は石垣、船が通る箇所4か所には水路が作られた。

新橋-横浜間開業

1872年10月14日(明治5年9月12日) 新橋駅-横浜駅が正式開業。
新橋駅で式典が催され、明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜まで往復運転を実施した。
正式開業時の列車本数は日9往復、全線所要時間は53分、表定速度は32.8km/h。

開業当時の「1号機関車」は鉄道博物館、「3号機関車」は桜木町駅新南口に保存・展示されている。
また「1号機関車」は『南蛮阿房列車』に代表されるように大の鉄道好きで知られる阿川弘之先生が書いた、絵本「きかんしゃやえもん」のモデルとなった機関車でもある。

正式開業日を記念して、1922年(大正11年)に10月14日は「鉄道記念日」となった。
そして1994年(平成6年)には運輸省により「鉄道の日」と改称された。


新橋停車場
鉄道歴史展示室(旧新橋停車場)

旧新橋停車場駅舎の再現に合わせて、2003年(平成15年)4月10日開館。

https://www.ejrcf.or.jp/shinbashi/

駅舎玄関遺構
ここに残されているのは、正面玄関の階段の最下段として使われていた切石です。正面玄関の階段は9段あったことが当時の写真から分かっています。

旧新橋停車場
この建物は、1872(明治5)年10月14日(太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置にできるだけ忠実に再現したものです。新橋停車場駅舎は、アメリカ人R・P・プリジェンスの設計により、1871(明治4)年5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。1914(大正3)年、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えました。文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し、1934(昭和9)年から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。1986(昭和61)年、汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立つ埋蔵文化財発掘調査が1991(平成3)年から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。1996(平成8)年12月10日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡「旧新橋停車場跡」として国の指定を受け、この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の往時を偲ぶために、駅舎を再建することになったものです。

プラットホーム構造
プラットホームは「盛土式石積」という構造で作られています。両側面の真下には溝状に地面を掘って基礎石を敷詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。基礎石には龍野藩脇坂家・仙台藩伊達家両屋敷の礎石などが使われました。切石は笠石を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3段が出ていました。最下段部分は小口面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。ただし、一律的に小口面と長手面が交互になっているわけではなく2・3段目では小口面が続く箇所もあり、4・5段目では長手面が並ぶ箇所もあります。

日本の鉄道発祥の地

0哩(ゼロマイル)標識
1870年4月25日(明治3年3月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。1936(昭和11)年に日本の鉄道発祥の地 として0哩標識と約3mの軌道を復元しました。1958(昭和33)年10月14日、旧国鉄によって「0哩標識は鉄道記念物に指定され、1965(昭和40)年5月12日、「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の指定史跡に認定されました。

創業時の線路
創業当時、枕木やレールの台座(チェアー)は恋しや砂の混じった土を被せられ、レールの頭だけが地上に出ていました。レール断面は上下対象のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再現し、乗ろこの枕木や台座が見えるようにしました。双頭レールは錬鉄製で、1873年イギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われた跡、新潟柏崎市の製油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両方から寄贈いただきました。

場所

https://goo.gl/maps/1y4XYSvUQ2iYCyw86

旧新橋停車場から新橋駅へ


JR新橋駅

足元で鉄道発祥を物語る。
1号機関車や初代新橋駅の写真などを。


鉄道唱歌の碑

新橋駅の汐留口側に鉄道唱歌の碑が建立されている。

これは、大和田建樹の生誕100周年と鉄道開業85周年に当たる1957年(昭和32年)、大和田の門弟らが結成した同人「待宵舎」が記念碑の建立を発案史建立されたもの。
大和田の生涯を記す碑文は、彼と同郷で鉄道唱歌の全歌詞を暗誦できたという安倍能成が揮毫している。

汽笛一声新橋を  
はや我が汽車は離れたり
愛宕の山に入りのこる
月を旅路の友として

鉄道唱歌の碑
鉄道唱歌の作者大和田建樹先生は安政四年(一八五七)四月廿九日愛媛縣宇和島に生まる
幼少國漢文に親しみ十五歳以後特に國学に志した
明治七年十八歳の秋上京遊学十七年東京大学講師翌年高等師範学校教授廿四年辞任
爾来又官仕せず門を開いて歌文を教え地方に出講し行餘謡曲能舞を嗜む
学は漢洋に亘り著述は辞典註釋詩歌随筆等百五十冊を越えたが丗三年鉄道唱歌東海道山陽九州奥州線磐城線北陸地方關西参宮南海各線の五冊を連刊就中汽笛一聲新橋をの一句に始まる東海道の部は普く卋に流布して津々浦々に歌われ鉄道交通の普及宣傳に絶大の貢献をなした
先生明治四十三年十月一日に歿す享年五十四
今年恰も生誕百年に當って先生の遺弟待宵舎同人の發起により東海道鉄道唱歌にゆかり深い新橋驛構内に碑を建て永く先生を記念する 
昭和三十二年十月 安倍能成

記念碑上部には第1号機関車の模型。

鉄道唱歌は、大和田建樹が作詞をし、多梅稚と上真行が作曲をし、明治33年(1900年)5月10日に第1集東海道篇が発行されたことに始まる。全5集・334番。のちに発見された北海道編を追加し、全6集・374番ともいう。

第1集東海道篇
1.汽笛一声新橋を  はや我が汽車は離れたり
    愛宕の山に入りのこる  月を旅路の友として
2.右は高輪泉岳寺  四十七士の墓どころ
    雪は消えても消えのこる  名は千載の後までも
3.窓より近く品川の  台場も見えて波白く
    海のあなたにうすがすむ  山は上総か房州か
4.梅に名をえし大森の  すぐれば早も川崎の
    大師河原は程ちかし  急げや電気の道すぐに
5.鶴見神奈川あとにして  ゆけば横浜ステーショ
    港をみれば百船の  煙は空をこがすまで

D51機関車の動輪
D51 形機関車は1936年(昭和11年)に誕生した機関車です。10年間で1,115両と、日本のSLでは一形式で最多の両数が製造され、戦前・戦後を通じて全国各地で、主に貨物用として活躍しました。「デゴイチ」などの愛称で親しまれ、蒸気機関車の代名詞にもなり、1975年(昭和50年)のSL最後の運転まで重用され、使命を全うしました。展示されている動輪は、1976年(昭和51年)の総武・横須賀線乗り入れ記念として、北海道の札幌鉄道管理局から譲り受け、鉄道発祥の地である新橋駅 に設置したものです。

鉄道唱歌の碑
1957年(昭和32年)10月4日の鉄道開通85周年記念日に鉄道唱歌 の作詞家、大和田建樹生誕100年を記念して新橋駅に建立されました。鉄道唱歌は、長い間私たちのために働いた鉄道を讃えるだけでなく、明治時代の文学者大和田建樹 自身が実際に汽車に乗ってつぶさに日本国内を旅行した見聞録です。

場所

https://goo.gl/maps/DyqHHBimyQgkW1yHA


新橋SL広場

C11 292号
昭和20年2月11日、日本車輛株式会社製。

戦時型蒸気機関車として、誕生後すぐ山陽本線の姫路機関区に配属となり、中国地方のローカル線、播担線や姫新線などを走行。走行距離は108万3975km。
最初から最後まで一つの機関区にいた珍しい機関車。
昭和47年10月14日に鉄道100年記念して設置。


愛の像

昭和51年 東京新橋ライオンズクラブ 寄贈。
寄贈時より30年間、広場中央に位置した噴水に設置されていましたが、平成18年の広場改修工事に伴い、現在の機関車先頭部へと移動。
愛の像は「平和をモチーフとする母子のブロンズ像」とも呼ばれ、東京新橋ライオンズクラブが20周年事業として、この像を可愛がって頂き、新橋駅に集う人々に温かい愛を育ててもらえる様、願いを込めて寄贈された像。

場所

https://goo.gl/maps/oBGFGKro8Fw7GBrK8


高輪ゲートウェイ駅~おばけトンネル

高輪ゲートウェイ駅から、おばけトンネルへと歩いてみる。いまならば、高輪築堤の跡もちらりと見えるらしいので。

おばけトンネル入口

すでに車は通行止めとなり、歩行者と自転車のみの通行となっていました。(2020年4月12日から車両通行禁止)

高輪築堤

途中、石垣が見えました。

高輪築堤の石垣ですね。一般公開以外でも垣間見れるのは、ちょっと得した気分。
水が溜まっていると、更に「らしく」なる。


高輪橋架道橋下区道
おばけトンネル

仮設通路から、トンネル部分に。

タクシーの行灯が擦られたという、無数の天井こすり跡を残すガード下トンネル。

ガードを抜けると芝浦地区となるが、ここから駅に戻るのは難儀なので、来たガードを戻ることにする。

場所

https://goo.gl/maps/Dwny78v9vxhbL88P7

高輪ゲートウェイ駅からも、高輪築堤の姿を見ることができる。

今回、高輪ゲートウェイ駅は初めて降りました。

※2021年7月撮影


関連

日本海軍と対支政戦略

支那事変(日華事変)初期の日本海軍の対応などを論じた、某大学史学科での私の卒業論文。
拙いですが、往時のデータがサルベージ出来たので、せっかくなので掲載。
なお、卒論提出時は「日本海軍と対華政戦略」と題していた。(教官から支那表記を止めるように指導があったため)
そのため、論文中表記に関しても、「対支」ではなく「対華」、「支那」ではなく「中華」で記載していたが、Web公開時に、歴史的事実を尊重し、当時の表現に合わせて一部表記の置き換えを行った。しかし多数に表記ゆれが残っている。

なお、注釈は「補注篇」として別紙としていたが、Web公開するにあたり、各章直下に挿入とした。
参考文献は、補記として文末に掲載した。
目次と注釈には文中リンクを貼るのが本来であれば望ましいが、作業リソース不足のために割愛する。


目次

序章  本論文の意義
第一章 これまでの研究について
第二章 海軍の対支認識
 一、海軍の対支認識
 二、満州事変(満洲事変)
 三、一次上海事変                
 四、北海事変                  
第三章 支那事変(日華事変)初期における海軍の対応
 一、北支派兵問題に対する政府対応        
 二、海軍戦略と中支派兵問題           
 三、中支派兵決定後の海軍及び近衛内閣     
第四章 海軍の対支政戦略と近衛内閣        
おわりに
補記1 参考及び引用文献一覧   
補記2 主要官職                  

凡例
一、場合によっては一部不適切と思われる表現がみられるかもしれないが当時の資料の重要性を鑑み、また論文の性格上表現はおおむね資料の記述に基づくものであり他意はない。
二、一部漢字及び語句の相違点がみられるが、これらに対しては置き換え等をせず出典資料の記述に基づくものとする。
三、一部に表記ゆれが発生してる場合もある。(対支=対華、支那=中華民国・中国、満洲=満州など)


序章 本論文の意義

 昭和期の日本海軍は日本陸軍に対して、良識を発言できる最大の勢力であった、とされている。しかし、歴史は海軍自らの手で戦争を推進していく形を形成していく。自ら「政治に関せず」と表していた海軍は、本当に政治に無関心であったのだろうか。また当時の日本を導いていた陸軍、海軍という二つの軍事集団は当然軍事以外の、政治、外交、内政、その他日本の国策のすべてに影響力を持っていた。その中で海軍としてどれだけの力を保持していたか、という点が重要になってくる。

 なかでも当時、日本陸軍が勢力を広げていた満州地方及び華北地方の政戦略に対して日本海軍はどのような意識を持っていたか、また海軍の勢力下にあった華中・華南地方に対してとられた海軍中央部の政戦略はどのようなものであったのか、と言う点を戦争拡大への過程のキーポイントの一つとして考えていきたい。さらに当時の対支政策を考える上で、陸軍・海軍・外務三者による国策決定が多く、軍に次ぐ政策決定集団としての外務省にも目を向け海軍との関わりを探っていきたい。

 「大東亜戦争」という表現は中国大陸の戦闘から始まっている。その発端として陸軍の対支政戦略に対して、海軍は対支政戦略にどのように取り組んでいただろうか、また外務省と海軍の対支政策の共通・相違の関係、と言う点を研究すれば、それが「大東亜戦争」拡大につながる経緯及び原因を知る手がかりになるのではないかと私は考えている。

 そこで最初に昭和海軍の対支認識を概観した上で「支那事変(日華事変)」初期及び「第二次上海事変」の派兵問題を中心に考察していくことで戦争拡大の経緯及び原因を研究していくことが目標となる。

(*)
政戦略…陸海軍の国家戦略的概念を当時は政戦略と表現した。


第一章 これまでの研究について

 この時代を研究する上で注意を要する点に、歴史の証言者がいる、ということがあげられる。その結果、資料の量が膨大になり、旧軍人関係者・外交・政界関係者、民間人を問わず、多くの当事者の手によって書物が書かれており、主にそれらが研究の対象となってくる。

 中でも近代軍事史研究の牽引をなしているものが「防衛庁防衛研究所戦史室」(1)関連であり、それ以外にも論文の数は豊富にある。しかし多くの論文は陸軍が中心であるといわざるをえない。それは当時の軍隊の中心は陸軍であったという事実からすれば当然ではある。さらに海軍の研究では主として対欧米問題が中心であり、中華問題の研究が軽く扱われている。中華問題の研究では海軍よりも陸軍が研究の中心にあり海軍の研究が軽く扱われるという状態であるのが現状であり、総括的なものが全体からすると少ないと言う点があげられる。

 全体からすると少ないとしても私としてはそれでも膨大な研究資料を整理することは為しがたいことであり、すべてに着目することは私の実力からしても到底不可能なことである。そこで海軍と対支認識を研究する上で、まず注目しなければならない「米内光政」(2)について従来の研究を整理したいと思う。

 米内光政についてはこれまでも幾多の研究がされており、その生涯について書かれたものも多い。古くは慶應義塾塾長であった小泉信三氏の「米内光政のこと」に始まり、朝日新聞社副社長や副総理であった緒方竹虎氏による『一軍人の生涯・提督米内光政』。また、海軍関係者では米内海相の秘書官であった海軍大佐実松譲氏の『米内光政』や米内海相・井上次官のもとで終戦のために尽力した海軍少将高木惣吉氏の「回想の米内光政」 (『山本五十六と米内光政』)。予備学生出身の海軍大尉であった阿川弘之氏の『米内光政』や兵学校卒の海軍大尉であった豊田穣氏の『激流の弧舟・提督米内光政の生涯』」。それ以外にも高宮太平氏の『米内光政』や米内光政銅像建設会による「米内光政追想録」・高田万亀子氏による『静かなる楯・米内光政』など米内光政に関しては読むべきものが多い。

 しかしこれらは米内光政の生涯について書かれたものであり、私の課題である初期支那事変における対支認識については断片の記述にとどまっている。

 そこで論文として注目すべきものとして、高田万亀子氏の「日華事変初期における米内光政と海軍」(3)相澤淳氏の「日中戦争の全面化と米内光政」(4)という二論文を海軍の対支政戦略を考える上で着目したいと思う。

 また、初期支那事変を扱ったものとして「支那事変勃発当初における陸海軍の対支戦略」森松俊夫(5)「支那事変初期における政戦両略」今岡豊(6)などがある。またそれ以外の論文等は随時註釈で触れていきたいと思う。


○第一章注釈 

補注 (各章ごとに注釈を追記)
なお、資料添附するにあたっては旧漢字は現代漢字に直すことを前提とはしているが完全な統一はされていない。
参考文献一覧は文末に掲載した。

(1)
公刊戦史として防衛庁防衛研究所戦史室編『戦史叢書』全102巻がある。

(2)
米内光政 海兵29期 海軍大将 日華事変当時の第一次近衛内閣海軍大臣。林・一次近衛・平沼内閣の海相を歴任、昭和15年には予備役入りし総理大臣となる。日華事変の対応や三国同盟問題、戦争回避に尽力する。昭和19年には現役復帰し小磯・鈴木内閣の海相として終戦の為に奔走。戦後も東久邇宮・幣原内閣の海相として海軍の最後を看取る。

※盛岡八幡宮の米内光政像

(3)
「日華事変初期における米内光政と海軍 上海出兵要請と青島作戦中止をめぐって」
高田万亀子 『政治経済史学』251号 1987.3

 本論文では日華事変初期における青島作戦放棄・現地保護放棄という後に何等重大な問題も起こさず平穏に歴史の彼方へ消えた「出来事」を今次大戦を通じてみても希有の存在である、として研究を展開している。この青島作戦は陸海軍の協議がなり、すでに陸軍からは先発部隊が発して海軍部隊の到着を待ち、海軍も軍令部では手続きを終え海軍省の了解さえあれば上陸を開始するという状態での中止であり、普通の作戦中止とは同一視できないものである。

 高田氏は今次大戦中容易にみられなかった大局観に基づく政戦両略の一致があり、海軍ではなお統帥権が独立せず、統制が保たれていた事実があり、そこには米内光政海軍大臣の存在こそ大きく、また天皇意志も働いていた、と分析している。本論文ではこうした青島問題を中心に、上海出兵の経緯も関連させながら当時の海軍と米内海相の措置について考察されている。高田氏は青島と上海の状況を分析し青島作戦の中止は引き揚げ、現地保護の放棄を断行出来たからであり、まだ戦闘は始まっておらず市長もこれまで一応の友好関係にあった人物ということもあり、面子を捨てて、責任をとる覚悟があればまだ引き揚げが出来る余地が残っていた。一方、上海においては中国側からの先制攻撃を受け全面戦争の状態に陥っており米内としては不拡大の不可能を見通していた。最後に高田氏は青島作戦の中止は米内であったから出来たことであった、とするも上海戦と上海派兵要請は米内にとっても最早他に選択肢はなかったとし米内の責任を問うとすれば、それは派兵要請や強硬発言よりも、早期収拾を図れなかった近衛内閣の一員であったことにあるのではないか、と結んでいる。

(4)
「日中戦争の全面化と米内光政」相澤淳 『軍事史学』33 1997.12

 本論文では大山事件発生後の海軍の強硬論への転換は陸軍の拡大派ですら北支限定の強硬論であったことを考えると日中戦争全面化へのターニングポイントであったとし、米内の態度の急転を分析している。

 まず廬溝橋事件以前の海軍の中国への関わりを概観した上で、海軍の対応を米内の中国間を交えて検討している。

 相澤氏は本論文で八月十四日中国空軍の第三艦隊旗艦出雲爆撃(日本の在中国艦隊のシンボルである旗艦出雲への攻撃は日本海軍の威厳とプライドを傷つける十分な攻撃であり、それは路上での突発的な武力衝突とは異なって、中国の中央政権の意図をはっきりと感じさせる攻撃であり、中国からの重大な挑戦である。)に非常な怒りを示していたという状況と米内の「日本を強者とし中国を弱者とする」中国認識のもと蒋介石に反省を促すという膺懲論の選択のもと南京占領発言につながったものであり、米内の中国認識は基本的に国民党蒋介石政権の民族自決・国家統一という動きには肯定的であったが、その動きが日本海軍の利害と真正面から衝突した時には不信感に転ずるものであった、としている。

(5)
『政治経済史学』168号(80.5)

(6)
『軍事史学』10(74.6) 


第二章 海軍の対華認識

 本論にはいる前に簡単に当時の情勢について概観していきたい。しかし、昭和史の概観について書かれたものには優れたものも多く、私としては陸軍を中心とした中国大陸一連の対支政戦略等はそれら優れた書物(1)に譲るとしたい。

 ここでは前提として海軍の対支認識を分析し支那事変に至るまでの大陸情勢を海軍中心の視点から概観することになる。

一.海軍の対支認識

 海軍にはいかなる対華認識があったのだろうか、ということが以下で論ずるにあたって重要な位置付けをもってくる。

 

 日露戦争後の海軍は想定敵国をアメリカに絞った関係から、戦後経営の方向をもっぱら海軍の物的・技術的近代化に求めていた。そのために、海軍指導者らの眼は欧米の先進諸国だけに向けられ、複雑なアジア大陸、とくに中国の内情等については認識が浅く陸軍に情報を仰ぐだけというのが実情であった。(2)

 さらに海軍は第一次大戦の戦争様相の変化に伴う総力戦認識、また大戦後の対米関係の悪化が海軍の大陸資源への関心を高めそれが中国問題に一歩踏み込む契機を与えつつあった。しかしアメリカを第一の仮想敵国とする海軍にとって、中国問題に深入りすることは、なけなしの艦艇を分散する不利があり、また明治以来の大陸非干渉主義が底流に存在していた。(3)

 昭和海軍の指導者の底流にあったとされる明治以来の対華認識としてここで明治41年に海軍大学校教官の職にあった佐藤鉄太郎大佐(4)の『帝国国防史論』(5)を取り上げたい。これには、これからの海軍のとるべき方針が書かれており、とくに海洋国家日本が大陸に進出することの危険性を主張し、海主陸従論が展開されている。

 日本の満蒙経営を批判し海上に利を求めたこの『帝国国防史論』は当然陸軍の反発をかうことになる。ここには当時の陸海軍人の「国防」問題や「作戦」方針についての考え方にかなり基本的な相違があり、ほとんど「水と油」の感じさえ抱かせるもの(6)であり、陸海軍の意見の相違というものが今後も影響を及ぼすことになる。

また、この当時はこのような海洋立国論が多くみられ、これらが「南進論」へと発展していくことになる。(7)

 日本海軍では中国に長く勤務した者や中国情報担当者は「シナ屋」と呼ばれていた。主流の欧米派に比べてシナ屋の人数は圧倒的に少なく、彼等は一段下にみられ、いわゆる出世街道から外れた傍系であった。将官に進級した者もごく限られており、(8)津田静枝中小は、日本の海軍がとかく英米を重視するの余り、支那を軽視するのをしばし慨嘆し「支那と親交を結ばずして対米作戦など出来る筈がない」とよく述べていたという。結局海軍では「支那関係の勤務など、海軍では島流しにされたかのように」考えられていたというのが実情であった。(9)

二.満州事変(満洲事変)

 昭和海軍や米内の対華認識は後ほど検討することにしてここでは昭和期の中国の現状を海軍の対応を中心に概略していきたいと思う。

 

 昭和二年(1927)には「第一次山東出兵」昭和三年には「第二次・三次山東出兵」(10)「張作霖爆死事件」(11)という動きがあり、昭和五年には海軍として「ロンドン軍縮会議」(12)があり、ついには昭和六年九月十八日に「満州事変」(13)を迎える事となる。

満州事変前、六月か七月頃に軍令部一課長近藤信竹大佐(14)が軍令部長谷口尚真大将(15)に

「「陸軍は何かやり出すに違いないから、早く手を打たねばならぬ」と申しあげしところ、部長は「承りおく程度にしよう」と答えられた。…間もなく満州事変が勃発した。」と回想している。その近藤第一課長は「海軍は満州で事を起こすのは不可と考え、つむじを曲げていた。」とも回想している。

 一方で澤本頼雄軍務一課長に(16)いたっては「事変勃発まで知らなかった。」と証言している。(17)

 満州事変当時の海軍次官小林躋造中将(18)は

「我海軍は、多年に亘る満州不穏の情勢よりして警戒はして居たけれども、海軍の伝統として政治に触れない立場から、一に平和的施策に信頼し、特に政府に対し意見を具申した事もない。また海軍としては倫敦軍縮会議の直後であるし、之が善後策に腐心していたので、この時機に、悪くすると大戦に導入する虜のある満州事変の勃発は、好ましからぬ事であった。衝突の起こった地点が、国内遙かな処でもあるし、陸軍に協力する必要も無いので事変勃発に対処する特別の処置は、満州に関する限り採られて居らない。」(19)

と極めて消極的意見が回想されている。

 この考えは『帝国国防史論』以来の伝統的な海軍の大陸政策といえそうである。海軍にとっては「国内遙かな処」であり「支那プロパー(20)にあらずして外地的存在」でしか認識がない満州での事変勃発は迷惑でしかなく、その消極的態度は、陸軍中堅幕僚層の不評をかっていた。(21)

 満州事変当時の参謀本部第二課機密作戦日誌には

「海軍側は本事変に対し熱意なきが如し、特に海相及び海軍次官に於いて然り。」九月二九日

「海相は単に中南支那の事のみに意を注ぎ満蒙問題に関しては何等定見なく且極めて消極的態度を持しあり。」十月九日

「政府の大方針に極めて忠実なることが海軍の鉄則なるが如し」十月十五日(22)

などが記してあり、陸軍としては政府同様に不拡大方針を採る海軍に対して不満が述べられている。

 結局海軍は満州事変に対しては

「海軍は満州事変の際は、海軍の出る幕ではないと冷淡であった。」(23)という立場を貫き通すことになる。

三.第一次上海事変

 しかし昭和七年一月二十八日に上海事変(24)が発生すると状況は大きく変わる。

そのころの上海の様子を当時南京領事館勤務の上村伸一(25)は

「満州事変勃発以来上海在留の日本人は恐ろしく強気になった。長い間排日に悩まされ、辛抱に辛抱を重ねてきたので、満州の爆発とともに堪忍袋の緒が切れたのであろう。」(26)とし、また中華公使である重光葵(27)は

「上海の日本人たちは満州で日本の軍隊がとった強硬な態度によって満州における排日運動を解消し、日本の権益を護ることができたと思っており、同様な強硬手段が上海でも成功すると考えていた。」(28)というように上海をみていた。

 このような状況である上海にやはり事変が起こることになる。戦備が充分でない陸戦隊は苦戦を強いられることになる。(29)

 重光中華公使は

「問題の焦点は要するに陸戦隊及び海軍の力だけでこの混乱している上海の戦争を片づけて、居留民の生命財産の安康を期し得るかどうかにあった。責任をもつ海軍側は軍隊の意地とでもいうか、最後まで自分の手で解決するという無謀な意気込みである。しかし外務省側の館員の意見を総合してみると、それは不可能ということで、この際は陸軍の出兵を見なければ問題を片づけることができぬ。しかし海軍を説得することが困難だという意見であった。(後略)」(30) としている。

 外務・陸・海軍省それぞれに送られた電報により閣議が開かれることになる。 原田熊雄(31)によると

「二月一日大角海軍大臣(32)に呼ばれていったところ、…「上海の陸軍出兵問題は明日二日の閣議に提出し、その時期は陸海軍大臣に一任する筈である。…」というような話があった」(33)としている。

 二月三日には貴族院副議長近衛文麿(34)が大角海相を訪問し、そこで陸軍出兵の再考に対して意見を求めたところ、大角海相は興奮し

「今となりては絶対に陸軍出兵の中止は困難にして、ぐづぐづして居ては尼港事件の二の舞を演ずるの虞あり…」(35)と陸軍の増援を希望している。

 豊田貞次郎軍務局長(36)は

「陸軍の派遣は大角大臣の発案で、われわれは海軍だけでやりたいと申し上げたところ、大臣は、海軍には本来の重要任務がある。手遅れになってから陸軍の増援を求めるのは、事がうるさくなるからと答えられた。」(37)

としている。

 派兵に反対の人物も多く、高橋大蔵大臣(38)は

「財政の点からいっても、また我が国の国際的立場からいっても、この際居留民の引き上げを断行した方がいい。そのためには、よしんば一億万円かかるとしても、兵隊を出すとなれば、到底そんなことでは済まないのだから…」(39) という見解であった。

 結局は

「上海や揚子江の問題となると海軍の縄張りで、依然積極的になる。」(40) ということになる。

 この出兵後日華両軍で死闘が行われたが、諸外国の調停もあり三月三日には停戦声明がだされ、五月五日には停戦協定(41)が成立することになる。

 満州事変以来、陸海軍は膨張し続けた。

「太平洋中の一小島国である日本が世界最大の陸軍国及び海軍国を目標として、勢力を争はんとするのであるから、憐れむべき日本国は、陸海軍勢力のために、南北に引き裂かれんとするわけである。」とは重光葵の意見(42)である。

四.北海事件

 昭和七年以降も北支・中支ともに紛争が続くことになるが、両国共に外交的に接近をしようともしていた。

昭和十年九月には中国側が「三原則」を日本側に提出。一方日本の広田弘毅(43)外相はこれを検討し、回答。いわゆる「広田三原則」を中国側にしめすことになるが、結果的にはこの「三原則」は崩壊することになる。(44)

昭和十一年頃の陸軍の「北支自治工作」以降対日警戒心を強めることになり、中国人の抗日救国の気勢を、著しく高めることになった。(45)

 海軍は従来、華北の事態に対しては比較的冷静な傍観者であり、華北における陸軍の行動に対しては概して批判的であり、外務省と協力して、その行き過ぎを的行動を監視する立場にあった。

 これ以降抗日事件が立て続けに起きるが昭和十一年八月二十三日の成都事件や九月三日の北海事件、十七日の汕頭(さんとう)事件、十九日の漢口事件、二十三日の上海事件がそれぞれ発生した。従来陸軍の対中国政策に冷静であった海軍ではあったが北海事件以降異常な興奮状態に陥ったのは、これらの地域が海軍の警備担当区域であり、陸軍の華北と対抗する意味でその勢力範囲とされていたからである。

 北海事件(46)では調査を行おうとして拒絶された海軍が、強攻策に転じ、海軍は軍艦を派遣。陸軍に出兵を希望する申し出をすることになる。対ソを重視し対華作戦が困難なことを知る陸軍石原部長を中心に出兵反対論が強かったが、これまで穏健な海軍が急に豹変したことが政府・外務省・陸軍を当惑させることとなる。(47)最終的には自然消滅していくが、このとき戦線が開かれてもおかしくない状況ではあった。


○第二章注釈 

第一節

(1)
陸軍を中心とした中国大陸の動きを把握するための概略書として『日中戦争史』秦郁彦著 昭和47年 河出書房新社、『満州事変』『日中戦争』臼井勝美著 昭和61年 中公新書、『戦史叢書86支那事変陸軍作戦1』防衛研究所 昭和50年 朝雲新聞社など。

外交史の概略書として『日本外交史』上村伸一著 昭和46年。

海軍としては『戦史叢書72中国方面海軍作戦』昭和49年、を代表して列記しておく。

(2)
『海軍と日本』 池田清著 昭和56年 中公新書 88頁

(3)
『日本海軍史第三巻』 25頁  

(4)
佐藤鉄太郎 海兵14期 海軍中将 「海主陸従論」を唱えた「帝国国防史論」を著す。軍縮問題で加藤友三郎海相と衝突し大正12年に予備役に編入。

(5)
『帝国国防史論』上下巻 佐藤鉄太郎著 昭和54年(原本M43)原書房

以下順に上巻89貢 下巻119貢 126頁~127頁

「我が帝国の維持すべき方針は近き将来に於いては一に唯征服を大陸に試むるの壮図を避け、天与の好地勢を利用し、海上勢力を拡張し、且之を永遠に維持し得べき所以の道を図り自強の策を講じ、国利の増進を海上権力の暢達に求めて疑ざるにあり。」

「日本が其の軍隊(陸軍)を将来益々増大ならしむるは大征略的戦闘の準備をなすの他に何等の意義を有せざるなり。斯の如き目的を有するにあらずんば軍隊を増大ならしむるは愚の至るなるべし。」

「近き将来の世界的舞台における我が帝国の役割は誠に重大なり。殊に東洋方面においては事の軽重大小に論なく避けんと欲するも能はざるの関係を有せり。…要するに近き将来における、東洋の紛争は支那問題より生せん。…主として此の問題に容喙すへき英米仏独四国は、地理的関係上共に大いなる陸軍を派遣して事に当たるに由なし乃ち此の場合に所する我帝国の態度は極めて簡単なり。我が武力を海上に発揮し、比較的小規模なる陸上武力を大陸に用いるは可なり。」

(6)
『戦史叢書91 大本営海軍部連合艦隊一 開戦まで』 昭和50年 朝雲新聞社108頁  

(7)
『海軍と日本』115頁 

(8)
『海軍と日本』90頁 

(9)
「日中戦争の全面化と米内光政」126頁 

第二節

(10)
田中義一内閣が、中国統一を目指す国民政府軍の北上を阻止する為に、居留民保護を名目に山東省に出兵した事件。昭和2年5月・昭和3年4月・5月の3回行われ、その結果、中国民衆の排日運動が激化した。

(11)
奉天軍閥の張作霖が途中奉天郊外で関東軍による列車爆破により死亡した事件 

(12)
1930年、ロンドンで開かれた海軍補助艦の保有量に関する軍縮会議。参加国は英・米・日・仏・伊であったが仏・伊は協定拒否。英・米・日で協定成立。日本は総トン数で対英米約7割の補助艦を確保したが、この問題をめぐって海軍内は艦隊派と条約派に分裂。

(13)
昭和6年9月18日の柳条溝事件を契機とする関東軍の一連の軍事行動。関東軍参謀石原莞爾中佐の奇跡的な作戦によって開始。当時の若槻内閣は不拡大方針であったが軍は政府方針を無視して拡大。翌年3月に満州国が建国された。満州事変時の海軍の動きについては『國學院大學日本文化研究所紀要』第80輯(H9.9)「満州事変と日本海軍」樋口秀美 に詳しい。

(14)
近藤信竹 海兵35期 海軍大将 満州事変時は軍令部第一課長。日華事変は軍令部第一部長。太平洋戦争開戦時は第二艦隊司令長官から南方部隊総指揮官。 

(15)
谷口尚真 海兵19期 海軍大将 昭和3年12月連合艦隊司令長官。昭和5年6月から軍令部長。

(16)
澤本頼雄 海兵36期 海軍大将 満州事変時の軍務一課長。

(17)
『海軍戦争検討会議記録』 新名丈著 昭和51年 毎日新聞社 118頁

(18)
小林躋造 海兵26期 海軍大将 野村吉三郎の同期。満州事変時の海軍次官。条約派とみなされ昭和11年予備役編入、台湾総督に就任。  

(19)
『小林躋造手記』「政治経済史学138号」所収 野村実  

(20)
プロパー…本来あるさま 

(21)
『海軍と日本』91頁

(22)
『太平洋戦争への道 別巻資料編』 稲葉正夫他編 昭和63年新装版 朝日新聞社
「満州事変機密作戦日誌」 113頁~

(23)
『破滅への道 私の昭和史』 上村伸一著 昭和41年 鹿島研究所出版会 45頁 

第三節

(24)
上海公使館付陸軍武官補佐官田中隆吉少佐が企てた陰謀によって勃発した事件。上海事変については『政治経済史学』333号(94.3)「第一次上海事変の勃発と第一遣外艦隊司令官塩沢幸一少将の判断」影山好一郎 『軍事史学』28号(92.9)「第一次上海事変における第三艦隊の編成と陸軍出兵の決定」影山好一郎 『政治経済史学』318号(92.12)満州・上海事変の対処に関する陸海軍の折衝』影山好一郎 などに詳しい。 

(25)
上村伸一 上海領事・南京領事を努めて昭和9年から外務省東亜局第一部長となる。

(26)
『破滅への道』43頁

(27)
重光葵 上海事変当時の駐華臨時代理公使。天長節遙拝式場にて爆弾により右足を失う。のち外務次官として対華問題に取り組み、張鼓峰事件時の駐ソ、二次世界大戦開戦時の駐英大使。東条・小磯・東久邇宮内閣時の外相。降伏時の日本首席全権。戦後は改進党総裁。鳩山内閣副総理・外相として日ソ共同宣言・国連加盟を果たすなど第一級の外交官。

(28)
『外交回想録』 重光葵著 昭和28年 毎日新聞社 130頁

この機会に上海でも満州と同様に強硬な態度をもって排日運動に一撃を加えて、従来の悪い空気を一掃せしめるべきだ、と考えられていた。

(29)
この間の過程は「戦史叢書 大東亜戦争開戦経緯1」や「日本海軍史第3巻」に詳しい。

(30)
『外交回想録』137頁

「海軍武官の北岡大佐も「自分の口から海軍で処理することは出来ないとは言いにくいが、今日の事態では陸軍の出兵を要求するほかないと思う。」という結論だった。」とし最終的に重光公使は「熟慮の結果、今目前に起ころうとしている悲惨事を救うことがすべての前提であり…日本政府に出兵を求めることは両国の関係を救うことになると結論し…十分な兵力を上海に送ってもらいたいと政府にその日(二月一日)のうちに電報で要請した。」

(31)
原田熊雄 男爵 貴族院議員 元老西園寺公望の私設秘書 

(32)
大角岑生 海兵24期 海軍大将 犬養・斎藤・岡田内閣海相。ロンドン軍縮条約をめぐり艦隊派と条約派の対立を招き、条約派を一掃する「大角人事」を断行する。昭和11年軍事参事官。16年に飛行機事故で殉職。

(33)
『西園寺公と政局』第2巻 原田熊雄述 昭和25年 岩波書店 200頁

以下『原田日記』とする。

(34)
近衛文麿 公爵 五摂家筆頭 3度の首相を務める。戦後戦犯容疑がかかり自殺。

(35)
『木戸幸一日記』上  木戸幸一著 木戸日記研究会 昭和41年 東京大学出版会  135頁

(36)
豊田貞次郎 海兵33期 海軍大三国同盟締結に積極的に動いた海軍次官。16年予備役。二次近衛内閣の商工相、三次近衛内閣の外相・拓相。その後日本製鉄社長、内閣顧問。鈴木内閣の軍需相。戦後は貴族院議員。その半生は「出世の為に海軍を踏み台にした」といわれる。

(37)
『海軍戦争検討会議』122頁

(38)
高橋是清 政治家・財政家。文部省、農商務省、日本銀行に勤め、明治44年日銀総裁。また蔵相、政友会総裁、首相など要職を歴任。昭和11年の2・26事件で暗殺された。

(39)
『原田日記』第二巻 201頁  

(40)
『破滅への道』45頁

(41)
「上海停戦協定」は日華事変時の「大山事件」(第二次上海事変)勃発時に中国側が違反したとされるものであるので、ここに掲載する。

なお協定は英米仏伊四国公使斡旋である。

「上海停戦協定」

第一条

 日本国及中国の当局は既に戦闘中止を命令したるに依り昭和七年五月五日より停戦が確立せらるること合意せらる双方の軍は其の統制の及ぶ限り一切の且有らゆる形式の敵対行為を上海周囲に於て停止すべし停戦に関し疑を生ずるときは右に関する事態は参加友好国の代表者に依り確かめられべし

第二条

 中国軍隊は本協定に依り取扱はるる地域に於ける正常状態の回復後に於て追て取極ある迄其の現駐地点に止まるべし(略)


第三章 支那事変初期における海軍の対応

一.北支派兵問題に対する政府対応

 

 廬溝橋事件(1)当初、陸軍は基本的に不拡大方針であった。一時は現地で協定が結ばれることになるが、その陸軍の統制はとれておらず、参謀本部や関東軍中堅層の勢いを止めることが出来ず、事変は徐々に拡大の方向に向かうことになる。以下その動きを海軍を中心に日を追ってみていきたい。

 

 まずは事件勃発翌八日時点での中央部(2)の動きを把握していきたい。

 七月七日に発生した廬溝橋事件を陸軍中央部が知ったのは八日早朝の電報であった。

陸軍省軍務局の柴山兼四郎課長は「やっかいなことが起こったな」と眉をひそめ、参謀本部の武藤章第三課長は「愉快なことが起こったね」(3)と全く逆の反応を示している。しかし陸軍はこの時点では参謀本部石原莞爾第一部長(3)を中心に非拡大・現地解決方針であった。参謀本部は八日午後に臨命をもって支那駐屯軍司令官に指示をしている。

「事件ノ拡大ヲ防止スル為更ニ進ンテ兵力ヲ行使スルコトヲ避クベシ」(4)

 一方、海軍では中国側の不穏の情勢に対する陸軍の態度から事変の拡大の可能性も考慮し、台湾方面で演習中の第三艦隊に演習中止や警備の強化などを決定し警戒をしている。(5)また、山本五十六海軍次官(6)は「陸軍のやつらは、なにをしでかすか、わかったものではない、油断がならんよ」と陸軍を疑い、米内光政海軍大臣もそれに同感の意を示している。(7)

 外務省では広田弘毅外務大臣・堀内謙介次官・石射猪太郎東亜局長(8)らが「柳条溝の手並みを知っているわれわれにはまたやりやがったであった。」と陸軍の謀略説の可能性を疑っている。

 午前中には中国問題に対する慣例から陸軍の後宮淳軍務局長(9)と海軍の豊田副武軍務局長(10)と石射東亜局長の三者が会同して三省事務当局会議が開かれ事件不拡大方針を申し合わせている。(11)

 近衛文麿総理大臣は風見章書記官長(12)から報告をうけ、杉山元陸相(13)の「わがほうにとってはまったくの偶発事件である」という話を聞くと「まさか、日本陸軍の計画的行動ではなかろうな」と疑いの目を向けている。(14)

 以上のように陸海外三省と総理の勃発時点での反応を記してみたがおおかた事変拡大の可能性を考慮し、また陸軍の行動を疑っていることがわかる。しかし、これら初期の陸軍不信という認識が、後の事変処理を誤ることになっていく。

 

 九日には政府において臨時閣議が開かれている。米内手記によると閣議の模様はこうなっている。(15)(以下「米内手記」を参考)

「昭和十二年七月七日 廬溝橋事件勃発する。

 九日 閣議において陸軍大臣(杉山元)より種々意見を開陳して出兵を提議した。海軍大臣(米内光政)はこれに対し、なるべく事件を拡大せず、すみやかに局地的にこれが解決をはかるべきを主張した。」(16)

 閣議では全閣僚が米内意見に同意したため陸相の意見は見送られることになる。その間現地では善後交渉が開始されることになり日本政府は、外務・陸軍・海軍ともに「不拡大・局地解決」の方針をもって望むことになる。(17)しかし陸軍では出先の朝鮮軍、関東軍や中央の中堅将校などの多くは強硬論であり、一部の慎重派を除き、陸軍全体はなんとなく殺気立っていた。

 当初から不拡大を唱えていた海軍も、陸軍の態度と中国の情勢を考え、万が一に備えて和戦両様の構えをとり、万全の体制を整えるようになる。外務省も同様に派兵は絶対反対の立場にあった。

 

 そして自体は急転した七月十一日日曜日の緊急閣議を迎えることになる。この日の早朝から石原莞爾参謀本部第一部長が突然近衛総理の私邸を訪ね、そこで「本日の閣議で陸軍側の動員案を否決してくれ」と頼み込み近衛を驚かすことになる。(18)同じ頃石射猪太郎東亜局長もまた陸軍省軍務局からの連絡員が「動員案を外務大臣の手で葬ってもらいたい」と外務省にやって来た話を聞き「明らかに陸軍部内の意見不統一の暴露だ。現地でせっかく、解決交渉中というのに、何を血迷っての動員案か、頼まれずとも外務省は大反対に決まっている。」とこの陸軍省や参謀本部の分裂ぶり、無統制にあきれはてている。石射は広田外相に軍務局の連絡員の話をし「動員案を食い止めていただきたい。このさい中国側を刺激することは絶対禁物です」と進言し、広田外相は了承している。(19)

 派兵の為の予算問題を伴うため賀屋興宣大蔵大臣を交えた総理・陸海外の五相は閣議前に会談を開き、そこで米内海相は「今回の事件をもって、第二の満州事変たらしむようなことは、絶対にやらない」と発言。意見の申し合わせを行った。(20)

 この閣議の模様を米内の認識を知るためにも米内手記で過程をみていきたい。(21)

「十一日 五相会議において陸軍大臣は具体案による出兵を協議した。五相会議においては、諸般の情勢を考量し、出兵に同意しなかったが、陸軍大臣は五千五百名の天津軍と平津(北平・天津)地方におけるわが居留民を皆殺しにするに忍びずとして、たって懇請したるにより、渋々ながらこれに同意せり。しかして陸軍大臣は、出兵の声明だけでも、(イ)中国軍の謝罪(ロ)将来の保障 を確保できると思考したようである。

 思うに、…和平の交渉と兵力の行使を同時にするようなことは、この際とるべき方途ではなかるべく、要は和平交渉を促進することを第一義とせねばならない。陸軍大臣は出兵の声明だけをもって問題はただちに解決するものだと考えているようだが、海軍大臣は諸般の情勢を観察するとき、陸軍の出兵は全面的な対中国作戦の動機となろうであろうことを懸念し、再三にわたって和平解決の促進を要望した。

 華中における対日動乱は、華北における禍根の波動にほかならない。…もし今回の廬溝橋事件にたいし誤った認識をもってその解決にあたったならば、事件が拡大することは火をみるより明らかである。そしてその余波は一ないし二ヶ月にして華中に及ぶであろう。海軍大臣のもっとも懸念したのは、実はこの点にあったのである。

 …前述したようなことを考慮し、あくまで事件不拡大・現地解決を強調する。

 なお、動員後も派兵する必要がなくなったならば、ただちにこれを中止させることを希望した。」

 以上のように米内海相は派兵は好ましくない旨を強調し、「陸軍の出兵は全面的な対中国作戦の動機となるであろうことを懸念」していたが、用兵が華北陸上における陸軍用兵に限定されるとあれば、海軍としてはこれ以上反対の理由なしとして渋々ながら派兵に同意している。この対応には海軍の消極性の一面が表れているが、米内海相は杉山陸相から「動員後も派兵の必要がなくなった時は派兵を中止させる」という条件をとりつけることになる。そして居留民保護と自衛に限り派兵するという条件付きのもと動員準備案が可決された。(22)

 広田外相は「条件付きの、万一の為の準備動員案だったから、主義上意義なく可決された」と石射東亜局長に語っているが、石射は「手もなく軍部に一点入れられた感じ」といたく広田に失望している。(23)

 近衛総理も後に回想しているが「蘆溝橋の事件が突発した時はどうであったかといふと、軍部から、北支に反乱が起きた。居留民保護のため派兵する。この程度の報告で、出兵費用の要求をうけたのである。何といふても居留民の生命財産の保護といふ名目であるから、之に対しては一応反対はできない。」というように消極的であり、米内の奮闘(24)が目立つ結果となっている。(25)また、本事件は今後事変とみなすこと、出兵とせず派兵とすることとされた。同日十七時三十分に風見章書記官長が「今次ノ北支事件ハ其性質ヲ鑑ミ事変ト称ス」と発表し、続いて十八時二十四分に近衛総理が「北支派兵ニ関スル政府声明」(26)を発表している。(27)

 しかし同日午後十時頃に陸軍大臣が五相会議において現地停戦協定の成立という報告を行い、そこで海軍大臣は「本日の閣議で決定された出兵はどのように取り扱われるか」を質問したところ、陸相は「中国側が文書によって承諾すれば全員を復員させてよろしい」と答えている。(28)

 以上のように閣議では派兵は決定されたが現地協定成立という報告により、約束通り派兵は取りやめということになった。このまま収まっていれば後の悲劇はなかっただろうが確実に戦争への歯車は回り始めていた。

 近衛総理は先ほどの声明のあと、貴衆両院議員代表、財界有力者及び、新聞、通信関係者代表を首相官邸に集めて、国内世論統一のため、自ら政府の強硬な決意を披瀝し、一般の了解と支援を求めた。その結果翌日の新聞などは「暴支膺徴」論を書き立てて気勢をあげることになるが、近衛総理の側近ではこれまで事件があるごとにいつも後手に廻り、軍部に引きずられることが多かったので、今度こそは先手を打って軍部をたじろかせるほうが事件解決上効果があろうという考えでこのような気勢を示したものであった。(29)

 近衛首相は原田日記の記述では「総理は国論を統一するために、また支那に対してまづ威嚇的に日本の挙国一致を見せるために、各方面から有力者を総理官邸にたびたび呼んで、陸軍の決意あるところ、即ち政府の決意あるところを示して協力を求めたりしてをつた。」という状態であり、一方「殊に海軍の態度は立派で終始総理を授けて、今後事態の大きくならないやうに大いに努力してをり、有田(30)も杉山陸相に会って、心から国家のために忠告をしているやうな状態である。なんにしてもあらゆる意味で日本の非常な危機を、いかにして内部的に纏めて免れるかといふことについて、みんな非常に心配しているのである。」(31)と海軍などの努力を記している。

 この内地師団動員を進んで支持し戦争熱をあおるような近衛総理の行動は風見書記官長の献策からでたものであった。外務省の上村東亜課長は「軍は戦車のようなもので、しかも強力な組織力を持っている。非力な首相が小手先の芸当で強力無比な軍部を操り得るなどと考えること自体がドン・キホーテの亜流である。首相が一歩先んじれば、軍は二歩も三歩も先行する。そして首相にはこれを抑える力はないので、ずるずると引きずられるのが落ちである。」(32) と、見解の甘さを批判し、また官邸の様子を見た石射東亜局長は、近衛首相周辺の動きは政府自ら気勢をあげて、事件拡大の方向に滑り出さんとする気配であり、「冗談ではない、野獣に生肉を投じたのだ」と嘆いている。(33)

 さらに協定成立後も近衛総理の派兵声明はこのままとなり、この事変勃発当初からの誤った認識が中国側を刺激し対日不信をかきたてることになった。

 各新聞は現地停戦協定成立を号外として発行しようとしたが陸軍省新聞班が「その報道は疑いがあるから発行を見合わせるよう」に各社に申し入れ、東京のラジオ局に「現地では、停戦協定が成立したということだが、冀察の従来の態度からみて協定の実行に誠意ありやなしやは疑わしい。おそらく協定は反古同然になるだろう」と放送させた。現地の松井機関長は直ちに参謀本部に抗議の電報を発したところ、軍中央では「ラジオ放送は誤りである。引き続き努力ありたい」と回電があった。これは陸軍省新聞班の強硬派がかってに原稿を書いて放送させたものであったとのちに判明している。(34)

 翌十二日の新聞は声明の撤回もなく、さらに陸軍省新聞班の指導によって、各紙とも第一面に大きく派兵に関する政府声明を掲げ、同じ日に調印された現地停戦協定成立の記事は、ほとんどの新聞が極めて目立たない形で取り上げられ「現地からの通信によると、支那側がわが駐屯軍の要求を全部容認したとの噂があるが…一片の口約束で支那側を承認したならばまたまた煮え湯をのまされるに決まっている。厳重に監視するのみ。」という内容の陸軍当局談話まで掲載されているものもあった。(35)

 国民の「暴支膺徴微熱」も政府の鼓吹によって高まり、国防献金の殺到、国民大会の開催が相次ぎ、産業界の一部も戦争気分を歓迎している。(36)

 また同盟通信社上海支局長の松本重治は十二日の新聞で十一日の閣議決定、内地師団の派兵中止、停戦協定成立などのあわただしい、混沌たる動きを知り、また近衛総理の日本各界への「挙国一致」の訴え、それに応じた各界の安易な姿勢に対して、中国の「反省を促すために派兵し、平和交渉を進める方針」という近衛総理の頭が狂っていないとすれば、私の頭では解らぬことばかりであった、と感想している。松本は自分の頭が狂っているのか、いないのかを冷静に見極める為に中国側の反応を知りたい、ということで蒋介石の側近の一人である斐復恒と会談している。そこで斐は「日本内地からの出兵が中止されたのはいいが、華北の現地は局地解決協定が出来ても、なかなか事態が円く収まるものとは思えない。…内地師団の華北への出兵問題についての東京からのニュースで、華北のみならず全中国の若いものは、今までにないほど激昂しているんだ。近衛首相をはじめ、日本の政治家達や責任の地位にある軍人たちは、この明白かつ重大な事実をしらないのかね。知っていて何もできないのかね。あんまり、日本が中国を甘くみては、お互いの為にはならんことになる。…蒋さんには政戦両略の聡明さがあるが、東京にもそれがあれば、越したことはないのだが、十一日の閣議や出兵中止など、東京には中国の現状の認識も、今後の見通しも、ないとしか思えない。」と松本支局長に語っている。(37)

 このように七月十一日の閣議を中心に状況を確認してきたが、この七月十一日の政府時局認識が内外に与えた政治的影響は大きく、この時点で中国との全面戦争に乗り出したかの感がある。陸軍も基本的には全面的な対支作戦は反対であり、強硬論者も北支を一撃すれば支那は弱いからどうにでもなるという考えであり、海軍は米内海相をはじめ事件不拡大・現地解決の方針、外務省も石射東亜局長を中心に海軍と同様の方針であった。近衛総理、風見書記官長を中心に政府が率先して戦争熱をあおり、これが以後の戦争拡大への道しるべをなしているかの雰囲気がみられる。

 

 中央では七月十一日の派兵声明から二十七日最終的に内地師団の動員が決まるまで停戦協定の細部交渉や派兵などをめぐって陸軍部内にはいわゆる拡大派と不拡大派の対立が激化し、この二週間の間に三回にわたって動員の決定と中止が繰り返されている。(38)

 十三日には参謀本部において交渉事項を破棄して新たに行動をはじめようとするとの聞き込みあり、そこで米内海軍大臣は広田外務大臣にたいして、「陸軍大臣を督励してこのような誤りがないようにしてほしい」と要請し外相が陸相に交渉すると陸相も了解している。(39)

 その日の閣議では陸相は「中国側はわが要求を容れて調印をおわったので事件は表面上には一段落したかのようである。だが全線では時々支那側から発砲があり、南京政府はいよいよ北進開始を決定したという情報もある。我が軍は関東軍を派遣し朝鮮軍に動員を下令したが、内地師団にはまだ動員を下令していない。内地部隊を動員することは、内外の各方面に対して衝撃を与えるだけでなく、中国をしてやむをえず対抗させるようになるだろう、と観測できないこともないので動員はもっと慎重に考慮しなければならない。」

と発言。米内海相や広田外相もこの方針を歓迎している。(40)石原部長を中心とした不拡大派の努力がこの時点では拡大派をかろうじて抑えており、それがこの杉山陸相の発言となったであろうことは推測できる。しかし陸軍大臣の威令が適格であれば、陸軍部外からよけいな注文をだす必要もなかったであろう。米内海相は職責観念が強く、自分から他分野に口を出すことはせず今回は広田外相を挟んで要請しているが、この陸軍の現状には歯がゆいものを感じ、よほど苦心したであろうと思われる。

 同十三日に満州にいた沢田廉三満州国大使館参事官が東京で原田熊雄と会談したところ、「よほどこちらと事情が違って、かへって今まで聞いていたのと逆な方向にあるようにも思へる。…非常に慌て過ぎたといふ風に内地を見てをり、現地では現地だけで局部的に必ず解決できるものと思っている。東京で我々が聞いているのだと、出先が非常に強くて抑へきれないといふけれど、寧ろ参謀本部あたり、或いは陸軍省あたりの若い士官達が喧しいのである。」と原田は感じている。(41)現地では落ち着いているのに、東京が騒がしいという状態であり、これが事変拡大の一因でもあった。

 

 十五・六日は米内手記のクライマックスとなっており、米内の苦心ぶりが手記にあらわれているため、以下抜粋したい。

「七月十五日 夕刻 外務省は直接南京政府との交渉をもあわせ行うことが適当であるとなし、次のような案を立てて海軍省の意見をもとめてきた。

 一、七月十一日、わが軍と中国二十九軍との間で成立した解決条件を、わが政府は承認する。

 二、国民政府にたいして、軍事行動の即時停止を要求する。(略)

 三、国民政府において右二の要求を受諾する場合には、この上の派兵を中止するとともに増派部隊は前記一の条件の履行をまってすみやかに帰還させる。

 四、右の次第を中外に声明する。

 七月十六日 閣議において未だ正式討議の運びにいたらない。」

 この外務省案は石射東亜局長を中心に作成されたもので、後宮・豊田陸海両軍務局長の同意を得て、翌十六日の閣議で承認を受けた後、国民政府と交渉に入る予定であった。米内手記では、この間の過程を詳しく記している。

「同日正午前後、陸軍省軍務局長(後宮淳)は外務省東亜局にて…(現地の)会見の模様について意見をかわした。(先方冀察政権側の希望略42)

 右について意見をかわした結果、大局上から、このさい先方の提案を承認することが適当であるとの意見に一致した。ところが、後宮軍務局長はいったん陸軍省にかえり、しばらくして彼は外務省に電話をかけ、

 「陸軍省においては、すでに方針が決定していた。そこで、さきほどの話合いは、すべて水に流されたし」

と申し入れた。なお、中央軍の即時復帰を期限付き(七月十九日)にて要求してもらいたいといった。」

 実松秘書官はこのころ「陸軍はほんとにこまったものだ」と米内さんの口から何度も耳にしたと回想している。「人にあまりぶつぶつ言ったことのない米内さんが、このころ、五相会議から帰ってくると、「五相会議なんか、駄目だ。五相会議で、折角きめても、外務省と陸軍省の間にやっと話合いがついても、あとから電話がかかってきて、「省に帰ってみたら、参謀本部の連中がみんな憤慨しており、陸軍の方針はすでに決定しているということなので、さきほどの話合いは全部水に流していただきたい」というようじゃあ、どうにもならない」と山本(五十六)次官や近藤(泰一郎)先任副官を捕まえて、珍しくぶつぶつと愚痴を言った。」と実松秘書官は回想している。また米内海相は近藤副官に

「君、揚子江の水は一本の棒ぐいではくいとめられはせんよ」ともいっていた。(43)

 結局、外務省から掲示された対南京交渉案は遂に正式に閣議で話し合われることはなかった。後宮軍務局長が無力であるというよりも、そこには軍務局長の参加なしに決定された方針という陸軍の下克上が表れており米内もその陸軍の無統制ぶりに失望している。いくら米内ががんばっても、陸軍がこのありさまでは「一本の棒」では激流はとめられないよ、と米内も呟かざるをえないだろう。

 十六日の閣議後、内務・海・陸・外務の四大臣が会談しているときに米内海軍大臣は「これは一時も早く解決しなければ駄目だ。期限でもつけて催促したらどうだ。現地の問題は現地で解決するとしても結局根本的に考慮を要すべき時だ」

としきりに発言。米内はこの発言をこの後の近衛首相との会談と翌日の閣議と記録上三度繰り返すことになる。期限付きとはいっても「最後通牒的な内容では困る」ともしきりに言っており、米内はこの後の首相との会談では「時局が速やかに解決しなければ、内地から出す準備の出来る前に局地的に解決しなければ、もし準備が出来てしまえば、陸軍はなかなか局地的にだけでは済まない。口では現地解決と言っているけれども、なかなか済まないで、のっぴきならない状態になりやせんかということを心配している。」と発言し、一時的に派兵は中止されているが、これが派兵されてしまってはどうしようもなくなる、準備が出来たら全面戦争になってしまうという陸軍への不信感・危機感を感じ、派兵準備が出来る前に解決しなければという米内の切実な焦りが感じられる。(44)

 さらにこのときの近衛首相は胃腸障害でいささか不快ということで、十三日以降十八日までの閣議や会議を欠席しており、この重要期に首相抜きで話を進めていかなければならない状態であった。そのためか、首相はこの日、各大臣を個別に私邸に招いている。

 米内手記は、十六日午後九時に近衛総理の私邸を訪問し会談した場面が最後となっている。そこには局地解決をあせり、陸軍をたしなめてほしいと願う米内の姿が垣間見れる。

「首相はいう。

 「将来の問題ではあるが、たとえ今回の問題が解決するにしても、あいついで同様の問題がおこらぬともかぎらない。そこで、今回の問題を解決すると同時に、根本的に対中国問題を解決するような談判をはじめてどうかと思う。…そこで広田外相らをわずらわして、じかに蒋と談判してはどうだろうか。いったい、外務省は問題を事務的にのみ見て、政治的に考えていないように思われる。…あなたは、どう思うか」

 海相は、こう答えた。

 「御意見は、ごもっともである。まず首相から、直接外相に話されたい。海相としては、裏面から外相を説得することがよろしいと思う。いずれにしても、事件はさしあたり局地解決を急がねばならない。そうでなければ、好むと好まざるとにかかわらず、事件は拡大する可能性がある。いったい、首相は陸軍のやり方を、どう考えておられるか。自分(米内)は、すこぶる憂鬱にたえないものがある。きょう陸軍軍務局長の外務省東亜局における行動のごときは、その例証とみるべきである。首相より陸軍大臣にたいし、なんとか注意を喚起するよう、考慮されることを切望してやまない」

 首相は問う。

 「陸軍省軍務局長の行動とは、どういうことか」

 海相は、これについて説明する。

 首相はいう。

 「どうも陸軍のやり方は、こまったものですな」

 海相はいう。

 「外相をわずらわすにしても、先決問題は陸軍の態度をはっきりと一本立てにすることです。そうでなければ、いかに外相らを派遣しても効果は望まれない。この点、首相のじゅうぶんな考慮をわずらしたいと思います」

 午後十時すぎ会談をおわる。

 以上をもって事変拡大の序幕とする。」(45)

 これだけでも米内海相の焦りが手にとるようにわかるだろう。以下高田氏や秦氏も著作において触れている事(46)ではあるが、これまで米内はしきりに事変の早期収拾を訴え、できなければ事変が拡大する可能性は大きいとしていた。また近衛首相に陸軍に注意を喚起して欲しいと訴えているが、それに対し近衛首相は他人事のように「陸軍のやり方は、こまったものですな」と、とても一国の首相のせりふとは思えないことを発している。米内自ら陸軍をたしなめ、蒋介石と談合するよう外相に勧めるという積極的行動をおこせばよい、というのは職責観念に厳しい米内としては越権行為であり、この点米内は消極的といわれるかもしれないが、この時点では危機意識はあっても終戦時の非常な緊迫時とは違い、これが米内としては限界であると思われる。米内は海相としてできるだけのことはしているが、しかし問題なのは近衛総理にあるといえる。海相が外相に外交問題の方針を示唆するのは越権であり、陸相に部内の統制をしっかりしろ、と海相がいえば陸海軍の無用な喧嘩を招くだけである。しかし、首相が内閣の首班として外相に示唆し「こまった」陸軍に注意を喚起することは越権ではなく、むしろ首相の職責である。米内海相としては国務大臣の職責として近衛首相に「先決問題として陸軍の態度をはっきりと一本立てすることに首相のじゅうぶんな考慮をわずらしたい」と進言するのが職責の限界であろうと思われる。米内もこの会見をもって「事変拡大の序幕」として筆を置いている。米内は近衛の首相としての自覚のなさを痛感して手記を記したと思われる。米内から事変拡大を注意されてもそれを理解しなかった近衛首相は事変拡大の大きな責任があるといわざるを得ない。

 

 翌十七日の会議も近衛首相は欠席し外・陸・海・蔵・内相の五相会談が行われている。杉山陸相は七月十九日を限度(47)とした期限付き交渉案を提案。しかしこの陸軍案には「支那側右期限内ニ我カ要求事項ヲ履行セサルトキハ我カ軍ハ現地交渉ヲ打切リ第二十九軍ヲ膺懲ス」(48)という最後通告的内容が含まれていたため、米内海相は「一つ期限をつけて早く解決してもらいたい。ただその期限付解決の内容が最後通牒のようなものでは困る。」とふたたびしきりに発言。(49)討議の結果陸相の案は了承され、要求を実行しない可能性を考慮し次の内地部隊動員を十九日ごろとすることも了承された。ただ、交渉の要件は中央から指示せず、現地軍の裁量に一任されることとなった。また南京の日高信六郎参事官(50)に南京政府に北上中の中央軍を復帰せしめること、現地解決を妨害しないこと、を要求するように指示している。

 山本次官はこれらに対し「纏まらないような、即ち向こうが受け入れることのできないような条件は出さない方がいい。」「責任転嫁されて海軍に対する悪声を放たれては困る…陸軍は実際はこう思うが自分達だけで駄目なら助けることも辞せぬが、腹を割って話せ。海軍は外務省のと少しも変わらず。」と原田熊雄に語っている。(51)

 現地ではすでに指示をうける前から交渉が進んでおり、十七日夜に冀察政権側の宋哲元から支那駐屯軍の提案を承認する回答があり、十九日には調印された。しかしこの調印よりさきに南京の日高参事官に提出された南京政府側の蒋介石公文は、日本側の要求を拒絶したものであった。(52)外務省では、首脳者会議を開いた結果、国民政府の回答内容は日本政府の承服しがたいことであり、国民政府の誠意のくむべきものはないとし「日本側の要望に対する中国側の全面的拒否とみなす」との声明を発表し日支交渉は一応打ち切らねばならぬこととなった。(53)この回答は二日前に廬山談話会で蒋介石が行った「もし不幸にして最後の関頭に立ち至らば、徹底的犠牲、徹底的抗戦に依り、全民族の生命を賭して国家の存続を求むべきなり」という「最後の関頭」演説の趣旨に添うものであり(公表は十九日)重大な決意を示していた。(54)

 このころ馬場内務大臣は「閣内にいかにも政治家が少く、たとへば広田外務大臣の如きはあまりに消極的で、かういふ大事な時に進んでちっとも発言しない。自分のような素人が見てをっても甚だはがゆいそうな感じをもつ。やむを得ず自分が先に立って、何かいわなくちやあならないやうなことになるので、実は困っている。」と発言し、一方近衛首相は、「北支出兵の問題を議するについて推進力になる人物がいない。それでやみを得ず陸海軍、外務三省会議もおのおのが困ってしまっているから事柄を進めるために…馬場内務大臣を一枚加えると、他の大臣から「何のために内務大臣を入れたんだ」というような苦情もでる。殊に外陸両大臣はお互いに遠慮し合って実に困る。」とまことに頼りない様子が原田によって語られている。(55)

 近衛はのちに「陸軍部内の意見といふものは一體何處から生まれて來るものであるかは余も判らず、正體無き統帥の影に内閣もまた操られたのである。」「余が大命を拝した頃は既に満州事変以来陸軍がやった諸々の策動が次第に実を結び、大陸では既に一触即発の状態にあつたらしく、余も支那の問題が武力を用ひる程に深刻化してゐたことも無論判らず組閣後僅か一月を出でずして廬溝橋事件が勃発し支那事変へと発展したのである。當時かゝる事件が勃発することは政府の人は勿論一向に知らず、陸軍の本省も知らず専ら出先の策謀によつたものである。」(56)と語っているが、結局は川辺課長のいう「政治家に本当に戦争を引き受ける気持ちがなければ駄目だと思います。政治家 近衛首相、広田外相等当時は軍に「オベッカ」を使っていた政府であります。何事でも「軍はどうゆう風に思っているか」というて心配する非常に勇気のない政府でありまして、軍に問うては事を決するというやり方で、政治的に全責任を負い戦いも戦わざるも国家大局の着眼からやっていこうというものはなかった事をつくづく思います。広田さんは相当な見識を持った人でありましたけれども、何しろ軍の意向を聞かなければ外務大臣としての仕事が出来ないという状況で、「外相として苦しい立場にあろうけれども、何もかも軍の言うことを聞かんでも正しいと思うことは貴方が強調し実行せられたら如何です」と私は申し上げたことがあります。近衛公爵は、当時は大いに軍の鼻息を窺っているかの如く真に戦争指導の根元を把握してやる大政治家としてのやり方はなかったと思います。」(57)という意見に当時の政府の状況をみることができるだろう。

 

 七月二十日には、これらの動きを鑑み、再び派兵問題が討議されることになった。

 午前の閣議で杉山陸相は「南京政府の回答不誠意なるに鑑み支那側の協定に対する誠意ある実行の監視並びに中央軍に対する準備として速やかに内地より三個師団を出兵したい」と提議した。それに対して米内海相は「南京政府は、中央軍の北上は自衛上やむを得ないと主張している。この際出兵することは南京政府に対して挑戦することにならないか」と発言。閣僚からも現地で細目協定が調印されているのに何故出兵するのか、出兵名文が立ちがたい等の意見が出され、広田外相や近衛首相も動員に反対している。結局は同時に進行している南京での交渉結果の判明をまって態度をきめることとなった。

 午後の閣議前にこの間に起きた中国側の不法射撃や南京の会談の結果が伝わり、その日の夜の閣議において杉山陸相は「中国側には協定を実行する誠意が認められない。居留民の保護、軍自衛のため、動員派兵が必要である。情勢は切迫している」と発言。結果として「動員発令後も事態が好転すればただちに復員するという条件付きで、内地三個師団を北支に派兵する」ことが決定した。(58)

 またこの日の閣議で、海相は陸相に対し「中支にも陸兵を出せるか」とただし陸相は渋ったが出すと返答。これに対し海相は「それならよい」と答え、そこで石射局長は「海相が派兵を支持したそうである。これは約束が違うではないか」と海軍に詰問に来たが豊田軍務局長は「それは考え方がたりぬ。海相のは、全面的作戦になることを警告した言い回しに他ならぬ」と返答したという。(59)米内海相としては陸軍が派兵するなら、中支まで拡大し全面戦争になるぞ、という気持がそこにはあり、常に海軍としては中支への飛火を心配していたことがわかる。

 また外務省の石射局長は上村課長と連名で広田外相に善処を進言したが、派兵決定に失望し「事務当局の進言も嘆願もご採用なく、動員に賛成せられたのは、事務当局不信任に他ならないと思います」と前置きし辞職を願い出てたが、広田外相は「黙れ、閣議の事情も知らぬくせに余計なことをいうな」と一喝したという。(60) 当然、広田外相やまた米内海相にも事情はあっただろうが、こうあっさりと派兵が決まってしまうという結果に、早期収拾を必死に願っていた海軍や外務の努力は陸軍という存在に対して無力でしかないのか、という思いを抱かずにはいられない。

 

 しかし、翌二十一日朝、現地視察に赴いていた中島参謀本部総務部長と柴山軍務課長が帰国。現地で橋本支那駐屯軍参謀長に「不拡大と称し中央は続々と兵力を北支に注いでいるではないか。このような矛盾をやり、なにが不拡大か。これでは不拡大では収まらぬ。」(61)と一喝されてきた両名は「支那駐屯軍は統制が見事に保たれ、むしろ静穏すぎるくらいである。内地師団を必要とする情勢ではない」と報告。その橋本参謀長からも天津の宋哲元が日本の追加条件を呑んで交渉が妥協したと報告。これらを鑑み二十二日の閣議で、再び派兵は保留と正式に決定された。(62)

 現地視察から帰国した柴山大佐は外務省東亜局で上村課長に「どうも驚いたね。現地は全く静かなのに、帰りに朝鮮を通ると、あわただしい空気で、おかしいなと思った。東京に着くと、まるで戦争気分じゃないか。これはまたどうしたことなんだ」と語っている。「この重大事になぜ汽車なんかで帰ってきたのか」上村が反問すると、「飛行機の座席が取れなかった」と柴山大佐は答えている。上村は、軍務課長ともあろう人物が飛行機の座席がとれないはずはない。帰京が遅れたについては言うに言われぬ事情があるのだろう。軍の内部は奇々怪々なことがあるようだ(63)と触れているが、不拡大派の柴山大佐の帰国を遅らすために何者かが手を回した可能性が大きそうである。

 以前原田熊雄も見解していたように、現地はいたって静穏であり、どうも戦争気分で騒がしいのは東京の一部のようである。このような状態で国策が決定されていくわけだから、その判断が狂ってしまうのもやむを得ないといえる。しかし、このような統制がとれていない状態であるがゆえに拡大派が勢力を広げ、まったく無意味な、中国側を挑発するだけの派兵声明をたびたび行ってしまう羽目となってしまていった。

 

 外務石射局長は二十三日の日記に「世の中はだいぶ静かになった」(64)と記し、二十五日に南京では国民政府も現地協定を黙認する意向であることが明らかになり、「もうしめた、次のステップは中日国交の大乗的調整に乗り出すばかりだ。私の胸は爽快になった。」と回想している。

 しかし、二十五日に「郎坊事件」(65)二十六日に「広安門事件」(66)そして二十七日には冀東政府の通州で叛乱が起き、状況は大きく一転することとなる。

現地では、この時点に至りもはや不拡大主義は不可能であり、拡大主義に踏み切ることとなる。東京でも、二十七日の閣議において内地三箇師団の動員が上程され、たいした議論もなく閣議決定となり、同夕動員案が発令された。

 二十八日に海軍は北支派兵に関する「大海令第一号」(67)を伏見宮軍令部総長から「奉勅」として永野連合艦隊司令長官あてに発出している。また二十九日には一度鎮圧した通州で「通州事件」(68)がおき、石射局長は「悪魔は一人ではなく三人連れであった」と嘆くことになる。(69)

 二十七日に支那駐屯軍は一斉攻撃を開始。内地師団が到着するよりもはやく、三十日には永定河以北が平定されている。

 

 「この戦争開始とともに参謀本部の連中は、よく東亜局に現れて、日本の軍事力から見ても無理な話であとは外務省よろしく頼むといったものである。統帥部としてはそれが本音であろう。統帥部には軍事的に収拾する自信が初めからなかったのである。さりとて戦争を始めて直ぐ政治的収拾ができるぐらいなら、戦争にはならなかったはずで、問題はすべて軍内部の統制いかんにかかっていた。外交は魔術ではないから、ごまかしだけで瞞着することはできないのである」と外務省の上村課長は当時の陸軍を記している。(70)

 しかし三十日、 陛下の思し召しによって伺候した近衛首相に対し、「(永定河以北を平定すれば)もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか」とお言葉があり、首相は「速やかに時局収拾を図る」旨を奉答している。(71)

 この話が、陸軍にも伝えられ、翌日、陸軍柴山課長から石射局長に正式に外交交渉の申し込みがなされている。(72)

 これより前、事変解決案は幾多かあったが、これまでの陸軍主導の処理案に対して、海軍および外務は対抗意識を燃やしていた。米内海相も斡旋には積極的であり、海軍は全面的に外務省石射局長案に協力することになった。このとき陸軍省柴山課長や参謀本部石原部長と海軍・外務が詳細の検討をはじめ、八月二日に首・陸・海・外相が外交交渉の瀬踏みを了承した。(73)この外交工作を引き受けたのが中国側に知友が多い元外交官の船津辰一郎であり、いわゆる「船津工作」が開始されることとなった。以下「船津工作」については石射の「外交官の一生」や上村の「日本外交史」などに詳しいので、ここでは詳細をさけたい。

 結果としては、この船津工作は出先の川越大使に横取りされる形となっていしまい、海軍からは「陸軍の病気が外務省にもうつったな」と皮肉られる状態であり、このころには上海の方が怪しくなってきた。(74)この交渉中に「北支における日支の衝突は直ちに中支に反映する。」(75)といわれる上海の情勢が爆発寸前であり、ついに八月九日には「大山事件」(76)が勃発し上海出兵・全面戦争へと発展していくことになるが、中支派兵問題と海軍戦略については、次節で分析していきたい。

 

   

二.海軍戦略と中支派兵問題

 

 前節において北支派兵が決定されるまでの政府の過程を分析したが、本節では八月にはいって中支に事変が拡大し全面戦争化していく過程をみていきたい。そこでまず中支派兵問題に関連する事変勃発時からの海軍の対支戦略を簡単に分析したい。

 

 海軍があくまで不拡大であったことは前節で触れており、七月十二日軍令部策定の「対支作戦用兵に関する内示事項(統帥部腹案)」(77)でも原則的に不拡大・居留民保護を本旨としていたが、十六日の現地第三艦隊司令長官長谷川清中将からの意見具申は積極意見であった。(78)出先の長谷川長官は、すでにこの時点で上海の危機を感じており「支那膺懲ヲ作戦ノ単一目的トシ」「支那ノ使命ヲ制スル為ニハ上海及南京ヲ制スルヲ以テ最要トス」と積極的であり「中支作戦の為には陸軍五箇師団と航空部隊の先制攻撃が必要」と早くも派兵の必要性を意見具申している。この時点の中央は絶対不拡大であったが、以後軍令部では不拡大の看板を掲げるが、拡大の可能性も考慮し作戦優先の方針に傾いていくことになる。(79)

(以下、海軍の中南支における行動は出典なき場合「中支出兵の決定」に基づく(80))

 情勢の悪化していた二十四日には上海において特別陸戦隊の宮崎一等水兵が行方不明になるといういわゆる「宮崎水兵事件」がおきる。拉致との情報もあり海軍は警戒態勢をとるが、のちに逃亡の疑いもあるとし二十五日に陸戦隊・中国側双方とも警戒解除した。二十七日に宮崎水兵は投水自殺せんとするところを救助され、翌日南京総領事館に送致され事件は事なきを得た。海軍中央部はこの事件に対し「政府の方針並びに陸軍の内情等を鑑み大袈裟に取り扱わざる如く言論機関を指導」し「外務官警を通し南京政府及び上海市政府工部局に対し排抗日運動を厳重取締まることを要求」というように極めて冷静に対処っしており、事件を騒ぎ立てるようなまねは決してしなかった。この事件が陸軍管轄で起きていたならば事件が拡大する可能性は大いに推測でき、この点海軍の統制はしっかりと取れていたといえる。軍令部作成の「中支出兵の決定」ではこの事件を「当時悪化しつつありし中支の情勢に一時相当の緊張を与へたる本事件は斯くして事なく決着せるが帝国海軍としては体内対外共に面目を失せる観無きに非ざりき」と宮崎水兵事件に関して筆を結んでいる。

 

 事態の悪化に伴い、最も機微とする問題は、揚子江沿岸各地にある居留民の引き上げであった。過早な引揚げは、現地にある邦人の権益・財産の無駄な放棄を強請するばかりではなく、中国側からは、日本敗退の兆しありととられ、あるいは逆に開戦の意図とも解され、いずれにしても、事態をいよいよ危険にするおそれがあった。現地では早期引揚げを要請していたが、政府及び海軍は、北支での総攻撃の始まった七月二十八日に漢口より上流の居留民の引き上げを実行することになる。(81)

 八月二日には在東京中国海軍武官が「中南支方面に事を及ぼすときは海軍の全面的攻撃予報せらる 切に同方面の日本居留民を保護し彼等を引揚げしむること勿れ」と訴えている。しかし居留民の生命に危機がせまれば、保護のため派兵が必要になる。その兼ね合いが難しい所であった。

 漢口総領事代理松平忠久は「日本海軍の存在自体が、事態の危機感を与えるのであって、さもなければ漢口は平安であり…」と発言している。(82)この発言には、いままで中南支における居留民を保護してきた海軍の存在自体が否定されているが、これに関してはのちほど触れたい。

 

 第三艦隊司令長官長谷川中将は八月三.四日と続けて作戦に関する意見具申をし、現地の情勢の悪化を訴えている。(83)

 そのころ中央では海軍省と軍令部に作戦指導に対する意見の相違がみられ、軍令部作成の「中支出兵の決定」では

「当時青島、漢口、上海方面情勢は危機一発の情勢に在り。彼より積極的攻勢に出づることなからんも突発事件発生起せば之を契機に戦闘生起は必然なりしなり。

 海軍としては揚子江流域邦人引揚完了後にあらざれば徹底的作戦は実施せざる立前にて従って局部的事端の発生は局地的以外には及ばざるべからず…」

「軍令部としては右事態の急迫に鑑み全面的戦争避くべからずとなし此の際作戦実施上最も影響ある漢口下流在留邦人引揚を即時実施方主張せるも海軍省外務省に抵抗あり遂に未だ発令せらるるに至らず引揚完了前戦闘開始されんか作戦上極めて不利あり」

「要するに現状は軍令部としては海軍用兵の見地より一歩を進むる要あるに立ち至りしが外務側居留民引揚に対する態度煮え切らざるのみならず海軍省首脳部も亦八月初旬在南京日高代理大使が実行中の外交交渉に望を嘱し、逼迫する実情の存せしにも関らず居留民の漢口引揚にすら同意せざる情態なりき。」

といったように、軍令部は作戦上の強烈な批判を外務省及び海軍省にむけることとなる。

 八月四日には陸軍寺田参謀本部部員が「嘗ての話合ひにては八月四五日頃には居留民引揚げを終り作戦を積極化し得る筈なるに…未だ其の運に至り居らざる様子なり 海軍関係の諸準備の現状承り度し」と尋ね、それに対し軍令部福留繁第一課長は「海軍としては極めて不愉快なる作戦振りなれど政府の不拡大方針に抑制せられ尚手出しを慎み支那の出方を見つつあり…全面作戦開始となれば直に動き得る兵力を動かして大いにやる積もりなり…」とその不満を述べている。

 一方で八月六日頃には現地の松本重治同盟通信上海支局長が散歩中に中国保安隊や正規軍が徐々に上海を包囲していることを感じ取り、中国側の対戦準備の一環ではないかと悟って東京に打電したところ、翌日嶋田軍令部次長から訓電があり「(昨日の電報は)上海内外の情勢を誇大に描いたアラーミングな電報である。海軍は不拡大に徹しているので、松本支局長が、ああいう調子で打電し続けるのは軍の方針に背馳することになる。」という意味が返ってきたという。(84)これらのことから軍令部の嶋田次長はいまだ不拡大方針であったが軍令部全体としては全面戦争にむけて動きだしていたことがわかる。

 しかしその後も情勢悪化が伝えられ、その六日午前には海軍省軍令部間で協議が行われ、第三艦隊に向けて次官次長連名で電報が送られた。

一 爰一両日ハ最モ重要ナル外交上ノ転換時機ニアルニ付此ノ際特ニ麾下竝ニ居留民ヲ引緊メ隠忍自重セシメ事ヲ起ササル様セラレ度

二 漢口居留民ノ引揚ニ関シテハ現地外務官憲トモ充分協議ノ上現地ノ状況ニ応ズル如ク適当に処理セラレ度シ

 この電報により漢口居留民がようやく引き揚げることとなるが、米内海相をはじめ海軍省としては「最も重要なる外交」すなわち船津工作に対する期待が大きく「隠忍自重」を訴えているのがわかる。

 同じ日の午後には「大海令八号」が第三艦隊に発令された。そこでは「居留民の引き揚げ待って艦隊並びに陸戦隊を上海方面に集結」させ作戦準備をとるように命令がだされた。(85)

 

 船津の上海入りは八月八日であり、懸念されていた揚子江沿岸の引き揚げが完了したのが、九日であった。しかし同日夕方「大山事件」が勃発し、上海をとりまく情勢が大きく変化することになる。

 軍令部では解決策を要求し(86)「大山事件」を単なる勃発事件ではなく、昂揚した排日抗日の気勢と日本の武力に対する軽蔑が上海停戦協定の精神を蹂躙したものであり、支那側の不穏な情勢のなせる必然の結果であるとしている。

 また解決策は「現に進行中なる外交交渉を阻礙するやの懸念あるべきも」としているが「断乎として実力行使も敢えて辞せざるの決意を示す事に依り側面的に本外交交渉を支援するの結果ともなるべきものと観察す」(87)と理由付けし強行的になってきた。

 

 軍令部は「大山事件」勃発前の六日に派兵準備を海軍省に申し入れており、海軍省としても居留民保護のための派兵は否定する理由もなく米内海相は翌七日に杉山陸軍大臣に派兵準備を申し入れている。

 その後に「大山事件」が勃発し、軍令部は積極的増兵を直に行い、事態急進するなら陸軍兵力によって処断するしかないと検討していたが、事件翌十日に山本海軍次官及び嶋田軍令部次長は長谷川第三艦隊司令長官に時局指導の次の如く申進している。(88)

「目下外交交渉進行中にして最も慎重を要する時機にてもあり旁旁事態の解決は窮極は武力に依るの外無きに 至るとするも陸軍の派兵には相当の時日を要するのみならず我方より攻撃を開始せざる限り支那側より攻撃せざる中央政府の意向なる旨の特情もある次第なるを考慮し大山中尉射殺事件に対する当面の処置は先づ真相を糾明する等必要なる外交的措置を執ることとし可及的事態を急速破局に導かしめざる様致し度」

 これは大山事件後も「最も慎重を要する時機」であるからと外交交渉に望みをつないでいるのは米内海相以下海軍省側と思われ、一方で「事態の解決は窮極は武力に依る」として一刻も早く派兵したい軍令部との方針が違う妥協の電報であることが推測ができる。

 

 その十日に軍令部は陸軍兵力派遣の件を海軍より提議して閣議に諮することを要求している。近藤軍令部第一部長より動員実施の必要を訴えられたのに対し米内海軍大臣は「動員部隊を内地に止め置くこと可能なりや」と質問。これに対して近藤部長は参謀本部との研究により「前例もあり差支なし」と返答。しかし米内海相は目下進行中の機微なる外交措置に望を嘱し「今明日中に何とか其の成果を期待し得べきを以て閣議に於て今後の情勢に応じ直に要求貫徹を容易ならしむる如く措置し置くべきも今日直に陸軍派兵の件を決定するのは暫く待たれ度し」と派兵実施の返答を保留。軍令部としては今後の事態に応じ「何時にても要求する」こととなり、省部の溝が深まりつつあった。(89)

 

 同じ十日に横井軍令部第一部甲部員が動員遅延に対して意見書を提出している。一部抜粋すると、「(略)帝国として今日執るべき対策は東洋平和の大局的見地よりする公平至純なる外交交渉を促進すると共に支那側に於て遂に反省する処無ければその飽くなき非違不法を糾弾是正する為直ちに断固たる一撃を加へ得るの準備を完成し両々相俟つて速に時局の解決を図るをなし、最近の外交交渉に対しては深くその内容を審にせざるも関係者の善処に信頼する事とし一方戦略的準備完からざる方面を速に充足する事肝要なり(略)支那側の巧妙なる引延し外交手段に翻弄せられ所謂「明日の吉報」のみ鵜首して現地逼迫の情勢に強いて目を蔽はんとするに於ては対策機宜を失し遂に我国が東亜の安定勢力たるの地位は有名無実となり帝国の国威空しく泥土に委し去らんのみ。」(90)と海軍省に対して痛烈な批判が行われている。

 

 翌十一日に軍令部にて嶋田次長以下軍令部幹部が大山事件に対する相会をしている。ここでは「外交交渉とは別に局地的解決を期する」「停戦協定の誠実なる実行」「期限付要求」などと付帯して「陸軍派兵準備を促進する」ことが話し合われたが、海軍省側と協議の結果「現在国的方針は事件不拡大にして上海方面に事を起こすの決意なくして同意出来ざる軍令部案には直に同意し能はず」ということで物別れに終わった。軍令部福留作戦課長は当時の状況を「大山事件に関連し陸軍派兵動員に関する閣議の提議は今日にても開かるる様促進せしが事は高等政策に移り大臣総長にて話進行中なり(中略)我が要求を容れざるべきを以て其の時は陸軍を以て積極的に追払ふ斯くせば名分も立つべしこの為には尚一両日を要すべし」としており、軍令部としては「これに関し現在にては海軍省側に尚はっきりせぬ者あり」と海軍省に痛烈な批判をしている。海軍省の米内海相・山本次官・豊田軍務局長・保科一課長などがおもな派兵反対者であり、彼等は軍令部の派兵要請に応じなかった。

 ここにいたり軍令部は陸軍出兵促進の必要のため、ついに伏見宮軍令部総長が米内海相を「招致」するという非常手段をとることになる。役職としては海相の方が高いが、皇族という絶大な権力をもって大臣を「招致」している。

 要点を抜粋していくと伏見宮総長は「…支那側の態度不遜なり今や陸兵を上海に派遣して治安維持を図るを要する時機に達せり而して陸兵派遣は同時に外交交渉を促進せしむるものと認む 海軍大臣の所信如何」との質問に対して米内海相は「上海方面に於いて支那側の停戦協定蹂躙の確証なし 大山事件は一の事故なり何れも交渉の余地残れり而も目下の処上海方面に大なる変化なし 今打つべき手あるに拘らず直に攻撃するは大義名分立たず今暫く模様を見度し 公言は出来ざれ共停戦区域には正規兵は居らず「トーチカ」塹壕等は防禦の為の準備なり 我が居留民に危害を及ぼすが如き事態に至らば直に出兵すべし但し陸軍の事情は対蘇作戦を考ふる時は青島上海方面に使用し得る兵力は各一箇師団に過ぎず斯くの如きことにては如何ともすべからず…上海方面への陸兵派遣はこの辺のことも充分に考へたる上決行せねばならぬものと思考す」(91)と返答している。高田氏はこの米内発言を上海方面変化なしといいきるのはいささか鈍感すぎるが、状況を冷静に分析しており、攻撃は名分がないと考えていることは、中国側の非がひとり彼のみにあるのではないとみているに違いないとしている。(92)

 その米内もさすがに居留民に危害が及ぶときは出兵やむなしと答えているが、軍令部の計画する兵力展開は認めるが、陸軍の派兵には慎重であるという海相の判断には海軍は部隊の配備が容易でありいつでも派兵撤回ができるが、陸軍は中途変更が容易でないというようなことを踏まえた上で(93)派兵はせずに不拡大堅持という政戦略が米内に働き、その相手がたとえ宮様でも良識な判断と自信のもとに行動していたということがわかる。

 

 十二日になっても海軍省の決意は堅く、この日も「然るに海軍省事務当局は最後迄不拡大方針を堅持し結局海軍省事務局長軍令部第一部長の協議は依然として何等の進展を見ずして夕刻に至れり」と軍令部を嘆かせることになる。また陸軍は動員開始から上海方面に展開を開始するまで二十日を要する、ということを参謀本部から連絡された軍令部は「動員下令と日支衝突同時に始まれば陸戦隊は単独にて約二十日間戦闘を継続するを要する次第なり…ここに於て上海がこの期間孤立するの恐れあり…」と焦りも出始めている。

 

 さらに十二日の午後五時五十分に現地から、中国軍が続々と進出しており万一に備えるため警戒兵を配備し「速ニ陸軍派兵ノ促進緊要ナリト認メラル」という電報(94)が届き状況が緊迫してくることになる。この緊要なる要請を受けて嶋田軍令部次長と米内海相の協議がおこなわれることになる。嶋田次長が米内海相に対して「逼迫せる状況に鑑み最早最後の手段を採らざるべからざること」を申し入れ海相も事態の急変からこれに同意することになる。そこでは「陸軍出兵に関する政府の方針決定の為即夜臨時閣議を要請する」ということなどが話し合われた。

 そして十二日夜に近衛首相・米内海相・杉山陸相・広田外相の四相会議が開催され米内海相より陸軍派兵の方針決定を要求した。「各大臣共事態斯くなる以上何れも異存なく、翌十三日午前九時正式閣議を開き之を決定することとなれり。」となったが、解散後に杉山陸相より米内海相に対して秘書官より「参謀本部は支那側の戦備意外に進捗し当初の計画時とは上海方面著しく状況の変化を来たしたる為出兵に就きては最も慎重に考慮を要する旨通告ありたり」と陸軍としては中南支派兵をしたくない旨を伝えてきている。さらにその日の夜に軍令部員が参謀本部にて打ち合わせをしていると参謀本部石原第一部長が上海に対する陸軍即派に関し否定的陳述をおこない、武藤第三課長も作戦の困難を訴えている。(95)

 現地では十三日午後に戦闘状態となり、上海海軍特別陸戦隊司令官大川内傳七少将は

「全軍戦闘配置に就き警戒を厳にせよ」と下令。「中支出兵の決定」は「茲に中支に於ける日支戦端は開始せらるるに至れり」と筆を置いている。

 

 石原莞爾は日華事変中昭和十四年に回想している(96)がそこで「上海に飛火する可能性は海軍が揚子江に艦隊を持って居る為であります。何となれば此の艦隊は昔支那が弱い時のもので現今の如く軍事的に発展した時には居留民の保護は到底出来ず、一旦緩急あれば揚子江に浮かんでは居れないのであります。(略)だいたい漢口の居留民引揚は有史以来無いことであり若し揚子江沿岸が無事に終わったならば海軍の面子がないことになります。(略)今次の上海出兵は海軍が陸軍を引摺って行ったものと云っても差し支えないと思ふのでありまして、そこに機微なるものがあると私は思ふのであります。」といった発言をしている。これは松平総領事代理の意見に通じるものがあるが、艦隊は任務として居留民の生命財産を保護しているのであって、事実を否定することは海軍の用兵を知らない人間の発言である。また協定がなければ生命の危機が迫っている現状を見捨てるのか、と疑問を感じてしまう。すでに海軍として出来うる限りのことを行ってきており、引くに引けない状態であったことももこれまでみてきた通りである。

 上海に事変が飛び火したころ、米内は「上海から陸軍の派遣を要求して来ているのだが、こういう時に備えて駐屯させている陸戦隊だから、陸軍の派兵は好ましくないと思っている」と半ば独語しながら憂慮に堪えぬようであった(97)と緒方竹虎が回想しているが、十三日に閣議で結局上海への派兵を決定することになる。

 

 十四日の閣議は深夜に及び上海に続き青島方面の増兵も決定する。このときの閣議の様子は「上海派兵をしても不拡大方針を貫けるか」「もはや北支事変は不拡大の時期ではない。全面戦争準備に移るべきだ」「北支事変を日支事変と改称すべき」(98)というような意見が飛び交うことになる。陸軍としては華中方面には出兵したくないため、なお不拡大方針を唱え、広田外相も賀屋蔵相も不拡大を訴える。一方で米内海相は上海の事情を説明したが状況は以下の通りであった。「斯クナル上ハ事態不拡大ハ消滅シ、北支事変ハ日支事変トナリタリトシ三省当局ニテ立案シアリシ政府声明ニ手ヲ入レ可決、外相ハ依然不拡大ノ考ヲ述ヘ声明モ必要ナシト述ヘ、海相之ヲ論駁シ、外相ヨリ国防方針ヲ承リ度ト云ヒ、海相ハ国防方針ハ当面ノ敵ヲ速ニ撃滅スルニ在リト 蔵相ハ経費ノ点ヨリ渋リアリタリ 海相ヨリ陸相ヘ、日支全面作戦トナリシ上ハ南京ヲ打ツガ当然ナリ、兵力行使上ノ事ハアランモ主義トシテ斯クアラズヤト云ヒ、陸相ハ参謀本部ト良ク話スベキモ対蘇ノ考慮モアリ多数兵力ハ用ヒ得ズ」(99)またその時の臨時閣議では近衛首相が原田熊雄に「海軍大臣が非常に興奮して賀屋大蔵大臣を怒鳴りつけ、財政上の説明なんかはほとんどきかなかった。」(100)と語っているほど米内の態度は豹変している。

 政治家としては派兵したくない米内も海軍大臣としては統帥上戦略上派兵しなくては収めることができず、その他の閣僚はその点に理解の差があることがわかる。米内海相としてはすでに戦いは中支に移っているのであって不拡大は事実上消滅しているのであって、こうなった以上速やかに当面の敵を撃滅することが国策であり、戦略的要求が優先されるべきだ、という判断のもとからの主張(101)ではあるが、一方の陸軍から見れば、海軍の豹変は「陸軍が強盗なら海軍は巾着切りだ」「上海出兵は陸軍を引きずってやった」という石原の発言による海軍批判へとつながることになる。(102)また閣議の席上中島鉄相から「いっそのこと、中国軍を徹底的にたたきつけてしまうという方針をとるのがいいのではないか」という意見の陳情もあり、永井逓相は同意したが閣議散会後杉山陸相はそれらの意見に対し「あんな考えを持っているばかもあるから驚く、困ったものだ」と風間書記官長にささやいたという。(103)あくまで陸軍は中支には手出しを出したくなかったということがわかるが、かといって責任を海軍に押しつけるのではなく、そもそもは陸軍から始まった事変対応に問題があり、中支は北支の問題ありきで勃発したものであると私は考えざるを得ない。

 

 

三、中支派兵決定後の海軍及び近衛内閣

 

 前節では中支派兵決定の過程を分析してきた。本節では、八月十三日の実質的戦闘開始以後の海軍と米内光政について分析していきたい。

 

 まずこの間の一連の海軍の動きをいくつかの日記で追ってみる。軍令部勤務の

高松宮殿下の日記を以下抜粋すると、(104)

九日「も早や不拡大方針を捨てねばならぬ事態であらう。まことに残念な事なり。もとより、直ちに作戦行動を上海に開始するのは兵力上不利であらうが、この事件は放置しても又より大きな支那側の不法行為となるであらう。(略)閣議にて、海相より、上海派遣師団の準備を提案するとしても、併し中々やつかひなり。その使ひ方が動きのとれぬものであらう。」

十一日「上海に特陸(呉、佐)第八艦隊、第一水雷艦隊が、十一日入港するのであるが、之が第三艦隊の麾下とされて第三艦隊長官の命令のみで、上海によばれたことは、今回の如き程度の事件には面白くない。しかも、この部隊の上陸、入港による結果が相当大きく支那側に影響し、その上、それによる交戦乃至対抗の結果が、全面戦争を誘致する予想のもとにおいて、特に不適当だと思ふ。 不拡大方針が変化を余儀なくせしめられる様なことを、出先の指揮官に一任しておくのは甚だ無責任なり。海軍内だけの問題としてゞなく、少くとも統帥部としての決定のもとに、いな、政府の決心のもとに行はるべきである。いな、陛下の御前にて決すべき事なり。」

十二日「新聞あたりも今度は「オツパジマラウ」と云う風だし、世間もそうした気持あり。大局の利もさることながら「海軍何してるか、引き上げばかりして、コワガッテゐる、何んのための警備か」と「不人気」になり「頼りないもの」に考へられることはあるだろう。そこが海軍のつらい処であるだろう。」

一六日「海軍も適当なる手段をとるの止む得ざるに至れりと云ってスッカリ気勢をあげて、現配備全力的作戦になったが、その結末は依然明確にならぬ。益々外交々渉の頓坐を来しただけである。尊き犠牲、而も海軍のは復旧し得ざる犠牲多きに関らず、そうしたまことに止むを得ざる次第なりてコマッたことなり」

と海軍の置かれた立場の心境が記されており、米内海相に通じる考えを持っていたことがわかる。

 宇垣一成陸軍大将は日記(105)に「小児の火いぢりが遂に大火事になり相である。海軍も愈々上海で始めた様であるが、今日迄の行動は克く落付いて飽迄不拡大主義を循守し来りし様である。」(十五日)「陸軍が枝葉末節に拘はれて中央は出先に引摺られ、出先は先方から致されて不拡大を内外に高唱しながらも拡大の事実を展開するが如き不始末を演じ居るの際、海軍は自重して不拡大の主義に如何にも忠実循守の態度を堅持し来りしは機宜に適して居る。而して支那が我軍艦や陸戦本部や総領事館に爆撃を加へて交戦意志を明白になしたるや、毅然と立ちて杭州、広徳に一撃加へたり…応戦と決せば疾風迅雷的に的の心臓を衝くの作戦は全く吾人の念願する所なり。海軍当局の勇気と苦心に対しては重ねて国民の一員として敬意と謝意を表する。陸軍海軍の御手並は内外に明白となれり。次の働は霞ヶ関(外務省)の順番なり。好漢健在なりや、為二君国一切に健闘を祈る」(十六日)と陸軍の支那通は海軍を褒め称えているが、これは民間的な意見でもある。

 のちに広田の次の外相として宇垣の下でも働くことになる外務省の「好漢」石射東亜局長の日記では、以下抜粋すると、(106)

「十日 火  昨夜上海で陸戦隊の大山(勇夫)中尉、斉藤水兵がモニュメント路で支那公安隊から殺される。又にぎやかになった。一波未平一波又起。モニュメント路なんて余慶(計)な処へ行ったものだ。

十一日 水 陸戦隊危く居留民危ない。海軍あせる。

十三日 金 上海では今朝九時からとうとう打出した。平和工作も一噸座(頓挫)である。折角居留民や邦商が芽が出そうになると砲煙弾雨にあらされる。長江筋の日本人も禍なる哉。 夕方昨日の通り会合。処理要綱なるものを議す。海軍もだんだん狼になりつつある。

十四日 土 陸戦隊は日本人保護なんかの使命はどこかに吹きとばして今や本腰に喧嘩だ。もう我慢ならぬと海軍の声明。

十九日 木 本日石原完爾の河相情報部長に内話する処によれば、支那軍に徹底的打撃を与える事は到底不可能と私の予見も其通り。日本はソビエットの思う壺に落ち込みつつある。新追加予算、陸海軍合わせて三十億と云ふ。愚かなる日本国民はどんな顔をするだろう。アザ笑うはロシアばかりでは無い、拙者もだ。

二十五日 水 上海派遣軍が防共の聖戦とか国共抗日の南京政府を掃蕩とか馬鹿げた声明をすると云ふのを差しとめて貰ふ。彼等は気が違って居るのだ。無知と功名心は往々同一カテゴリー下に来る。」

と海軍の豹変の具合と政府の対支政策にあきれはてているのが感じられる。以上、日記をもとに当時の雰囲気を簡単に推し量ってみた。

 

 十四日深夜まで続いた閣議の延長である十五日午前一時に「廬溝橋事件に関する政府声明」がだされることになる。

「帝國としては最早隠忍其の限度に達し、支那側の暴戻を膺徴し以て南京政府の反省を促す為、今や断固たる措置をとるのやむなきに至れり。」(107)と七月の時点の声明文よりも強い決意が述べられている。

 同じ頃中国でも十五日に総動員令が発令され、八月十五日をもって事実上の戦争状態に至ることになる。

 

 米内海相は十五日に時局を奏上した際に

天皇から

「従来の海軍の態度、やり方に対しては充分信頼しておった。なおこの上とも感情に走らず、よく大局に着眼して誤りのないようにしてもらいたい。」と御言葉を戴いている。これは信頼できうる軍部大臣を得た思いで発せられた

天皇の言葉であったろうと思われ、米内はこの御言葉に恥じた様子がある。海軍省で米内は「十四日夜の海軍大臣の激した言葉を近衛総理大臣から上聞に達したように思われ、非常に恐懼した」様子であったという。(108)

天皇に「感情に走らず」と御言葉を戴いた米内は十四日は明らかに興奮していたということがわかる。そしてこの時以降「信頼」に答えなければならないと決意したであろうことも推測できる。

 

 以後戦局は支那全土に拡大し、政府も従来の不拡大方針を放棄し、時局は今や戦時情勢にはいった。九月にはいると第七十二回帝国議会(臨時)が招集され、開院式に先立つ九月二日の臨時閣議で施政方針演説を決定した際「北支事変」を「支那事変」に改称することが決定され同日発表された。(109)

 八月十五日以来拡大していた事変は、ここにおいて不拡大・局地解決が破棄され名実共に全面戦争となることになった。(110)


○第三章注釈 

第一節

(1)
昭和12年7月7日22時40分ごろ永定河東岸一帯で夜間演習に従事していた支那駐屯軍の一部に対し、鉄橋を越えた所に位置する竜王廟付近から突然射撃がなされた。この事件の原因となった射撃については真相は明らかになっておらず、偶発説・中国共産党陰謀説・西北軍閥説・馬賊私怨説などがある。

廬溝橋事件については秦郁彦氏が『日中戦争史』や「廬溝橋事件の再検討」『政治経済史学』333・4号(94.3)等で詳細な研究をされている。

  

(2)
「河辺虎四郎回想応答録」414頁 『現代史資料12 日中戦争4』所収 

小林龍夫他編 昭和40年 みすず書房

  

(3)
石原莞爾 陸士21期 陸軍中将 日華事変不拡大派であったため、左遷される。東条陸相とは不和であり、16年予備役入り。東亜連盟を主宰し、一種宗教者の側面も合わせもった怪人物

  

(4)
『戦史叢書支那事変陸軍作戦1』155頁 以下『支那事変陸軍作戦』とする

  

(5)
『戦史叢書中国方面海軍作戦1』240貢 『日中戦争史』193頁 

また第三艦隊は第一次上海事変時に新設された支那派遣艦隊。旗艦出雲は明治33年製で日露戦争時の第二艦隊旗艦をつとめた骨董船であり艦艇は貧弱なものが多かった。他に第一遣外艦隊、第一航空艦隊、上海特別陸戦隊等を指揮下におく。

  

(6)
山本五十六 海兵32期 元帥海軍大将 日華事変当時の海軍次官。のち連合艦隊司令長官として日米開戦を迎え、南方戦線にて戦死。

  

(7)
『近衛内閣』 風見章著 昭和57年(原本26年) 中公文庫 30頁

  

(8)
石射猪太郎 外交官 満州事変時は吉林総領事。支那事変時の東亜局長。駐泰公使・駐蘭、駐伯大使を務め、ビルマ大使時に終戦を迎える。外務省きっての軍部嫌いとして知られる。

  

(9)
後宮淳 陸軍大将 支那事変時の軍務局長。のち師団長、軍司令官、方面軍司令官を歴任。支那派遣軍総参謀長時に終戦を迎える。

  

(10)
豊田副武 海兵33期 海軍大将 日頃から「陸軍にけだものみたいな者がいる」と公言し、陸軍に嫌われる。のちに連合艦隊長官や軍令部総長などの要職を歴任する。

  

(11)
『外交官の一生』 石射猪太郎著 昭和61年(原本21年) 中公文庫 295頁

  

(12)
風見章 政治家 新聞記者辞職後衆議院議員となる。第一次近衛内閣時の内閣書記官長。第二次近衛内閣司法大臣。その後野に下るが、戦後は衆議院議員として日中友好に務める。

  

(13)
杉山元 陸士12期 元帥陸軍大将 「グズ元」「ボケ元」と呼ばれ、操り人形と化していた将軍。戦後いちはやく自害を遂げる。

  

(14)
『近衛内閣』30頁

  

(15)
「米内手記(覚書)」は八月中・下旬頃まとめられたものであろうと高田万亀子氏は推測している。理由として、一、事変は初め北支事変と呼ばれ、九月二日以降は支那事変と正式呼称された。しかし上海戦が始まった八月中・下旬に限っては手記にある日支事変の語を使うのが一般だった。二、上海に事変が拡大し、北支事変が日支事変と呼ばれるようになった時、米内が痛恨の気持で事変拡大に至る経緯を手記にしたとみるのが時期的にもふさわしい。(『静かなる楯・米内光政』)

  

(16)
『海軍大将米内光政覚書』高木惣吉写稿 実松譲編 昭和63年 光人社 

「日支事変拡大の序幕」13頁 以下『米内覚書』とする 

また米内は昭和八年の第三艦隊長官時代に「対支政策について」とする手記を書いておりそこで「支那全土をたたきつけるということは…おそらく不可能のことなるべし」「優者をもって自認する日本が劣弱な支那に対して握手の手をさしのべたところで、それはなにも日本のディグニティ(威厳)を損しプライド(自尊心)をきずつけるものだろうか。いつまでもこわい顔をして支那をにらみつけ、そして支那のほうから接近してくるのを待つということは、いかにも大人気のない仕業であり、むしろ識者の笑いをかうにすぎないものといわねばならない。日本はよろしく、つまらない静観主義をさらりと捨て、大国としての襟度をもって積極的に支那をリードしてやることに務めるべきである。」「陸軍あたりに引きずられて、海軍もそれでよいと思って居るのか。」等の意見が見られる。日華事変時の米内の取り組みを考えるうえで、本来なら論文中に記すべきものだが、見落としていたためあえてこの場に記した。

  

(17)
『日中戦争史』195頁

  

(18)
『広田弘毅』広田弘毅伝記刊行会 平成4年復刻版(昭和41年初版) 葦書房 259頁

  

(19)
『外交官の一生』296頁

  

(20)
『近衛内閣』35頁

  

(21)
『米内覚書』14~15頁

  

(22)
「廬溝橋事件処理に関する閣議決定」昭和十二年七月十一日

今次事件ハ全ク支那側ノ計画的武力抗日ナルコト最早疑ノ余地ナシ 思フニ北支治安ノ快復ハ最モ迅速ヲ要スルモノアルノミナラス支那側カ不法行為ハ勿論排日侮日行為ニ対スル謝罪ヲナシ及今後斯ル行為ナカラシムル為ノ適当ナル保障ヲ得ルノ必要アリ 即チ軍ハ今ヤ予メ関東軍及朝鮮軍ニ於テ準備シアル部隊ヲ以テ急遽支那駐屯軍ヲ増援スルト共ニ内地ヨリモ所要ノ部隊ヲ動員シテ北支ニ急派スルノ要アリ 而シテ東亜ノ和平維持ハ帝国ノ常ニ念願スルトコロナルヲ以テ今後共共面不拡大現地解決ノ方針ヲ堅持シテ平和的折衝ノ望ヲ捨テス 又前記支那側ノ謝罪及保障ヲナサシムル目的ヲ達シタルトキハ速ニ派兵ヲ中止セシムルコト勿論ナリ 

以下表記なきは『日本外交年表並主要文書』下巻 外務省編 昭和四十年 原書房

  

(23)
『外交官の一生』296頁

  

(24)
広田外相も『広田弘毅』260貢によるとこの閣議では米内と同様の発言を行っている。米内や海軍側は資料が豊富にあり、一方広田は戦後何も語らずに戦犯容疑で刑死しているため資料が少ないという不利があるために広田の動きは分からない点が多い。

  

(25)
『平和への努力』近衛文麿著 昭和21年 日本電気通信社 8頁

  

(26)
「北支出兵に関する声明」昭和十二年七月十一日夕刻発表 一部略

相踵ク支那側ノ侮日行為ニ対シ支那駐屯軍ハ隠忍静観中ノ処、従来我ト提携シテ北支ノ治安ニ任シアリシ第二十九軍ノ、七月七日夜半廬溝橋付近ニ於ケル不法射撃ニ端ヲ発シ、該軍ト衝突ノ已ムナキニ至レリ。(中略)我方ハ和平解決ノ望ヲ捨テス事件不拡大ノ方針ニ基キ局地的解決ニ努力シ、一旦第二十九軍側ニ於テ和平的解決ヲ承認シタルニ不拘、突如七月十日夜ニ至リ、彼ハ不法ニモ更ニ我ヲ攻撃シ再ヒ我軍ニ相当ノ死傷ヲ生スルニ至ラシメ、(中略)平和的交渉ニ応スルノ誠意ナク遂ニ北平ニ於ケル交渉ヲ全面的ニ拒否スルニ至レリ。

以上ノ事実ニ鑑ミ今次事件ハ全ク支那側ノ計画的武力抗日ナルコト最早疑ノ余地ナシ。

(中略)支那側カ不法行為ハ勿論排日侮日行為ニ対スル謝罪ヲ為シ及今後斯カル行為ナカラシムル為ノ適当ナル保障ヲナスコトハ東亜ノ平和維持上極メテ緊要ナリ。仍テ政府ハ本日ノ閣議ニ於テ重大決意ヲ為シ、北支派兵ニ関シ政府トシテ執ルヘキ所要ノ措置ヲナス事ニ決セリ。

 然レトモ東亜平和ノ維持ハ帝国ノ常ニ顧念スル所ナルヲ以テ、政府ハ今後共局面不拡大ノ為平和的折衝ノ望ヲ捨テス、支那側ノ速カナル反省ニヨリテ事態ノ円満ナル解決ヲ希望ス。又列強権益ノ保全ニ就テハ十分之ヲ考慮セントスルモノナリ。 

  

「支那側の計画的武力抗日」であることは明確であり、「よって政府は本日の閣議において重大決意をなし、北支出兵に関して執るべき所要の措置をなす」ということで「北支事変」と閣議決定された。

  

(27)
『支那事変陸軍作戦1』165頁

  

(28)
『米内覚書』17頁

  

(29)
『広田弘毅』260頁

  

(30)
有田八郎 外交官 政友会領袖山本悌二郎の弟。 広田・第一次近衛・平沼・米内内閣外相。のちの「三国軍事同盟」締結問題では米内海相、石渡蔵相と共に強硬に反対をする。

  

(31)
『原田日記』第六巻 33~34頁 

  

(32)
『日本外交史』75頁

  

(33)
『外交官の生涯』296頁

  

(34)
『日本外交史』69頁

  

(35)
『日中戦争史』234頁

  

(36)
『太平洋戦争への道 開戦外交史』第4巻 日中戦争下 
日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編 昭和63年新装版 朝日新聞社 11頁

  

(37)
『上海時代』下巻 松本重治著 昭和50年 岩波新書 137~141頁

  

(38)
『太平洋戦争への道』4巻 11頁 

  

(39)
『米内覚書』17頁

  

(40)
『米内覚書』18頁

  

(41)
『原田日記』第六巻 32頁

  

(42)
冀察政権側希望

宋哲元の代わりに副軍長を、馮治安の処罰の代わりに現地大隊長を、永定河左岸の三十七師を保安隊と交代させる代わりに二十八師と交代させることなど。

  

(43)
『米内光政』 実松譲著 昭和41年 光人社 50頁

  

(44)
『原田日記』第六巻 40頁

  

(45)
『米内覚書』 22頁

  

(46)
秦郁彦著『日中戦争史』高田万亀子著『静かなる楯』第四章注(1)(5)参考

  

(47)
支那駐屯軍の戦略展開完了予定日を期限としていた為。

  

(48)
『支那事変陸軍作戦』198頁

  

(49)
『原田日記』第六巻 40頁

  

(50)

川越大使が南京不在のため日高参事官が代理を勤めていた。

  

(51)
『原田日記』別巻 274頁

  

(52)
南京政府回答

 中国政府ハ事件不拡大主義ノ下ニ和平解決ニ努力シツツアリ 中国側ノ軍事行動ハ日本軍ノ平津一帯増兵ニ対スル当然ノ自衛的準備ニ過キス 中国政府ハ事件ノ不拡大ヲ希望スル …  尚地方的性質ヲ有スル故ヲ以テ地方的ニ之ヲ解決ヲ図ラントスルモ如何ナル現地協定モ中央政府ノ承認ヲ得ル事ヲ要ス … 

  

(53)
『支那事変陸軍作戦』204頁

  

(54)
『支那事変陸軍作戦』205頁

  

(55)
『原田日記』第六巻 46頁

  

(56)
『失はれし政治』近衛文麿公の手記 昭和21年 朝日新聞社 9頁

  

(57)
「川辺虎四郎少将回想応答録」『現代史資料12 日中戦争4』416頁所収

  

(58)
『支那事変陸軍作戦』207頁

  

(59)
『高松宮日記』第二巻 高松宮宣仁親王殿下 平成7年 中央公論社 495頁

  

(60)
『外交官の一生』301頁

  

(61)
「盧溝橋事件の勃発」『現代史資料月報 日中戦争4付録』

  

(62)
『支那事変陸軍作戦』209頁

  

(63)
『破滅への道』75頁

  

(64)
『石射猪太郎日記』171頁

  

(65)
郎坊駅の日本の軍用電信線が故障し、日本側が修理中に中国兵から射撃され、日本軍が撃退した事件

  

(66)
広安門から北京に入城しようとした部隊が城壁上の中国軍から射撃された事件

  

(67)
北支派兵の決定(奉勅)

「大海令第一号」

一 帝國ハ北支那ニ派兵シ平津地方ニ於ケル支那軍ヲ膺懲シ同地方主要各地ノ安定ヲ確保スルニ決ス

二 連合艦隊司令長官ハ第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ト協力シ北支那方面ニ於ケル帝國臣民ノ保護並ニ権益ノ擁護ニ任ゼシムルト共ニ 第三艦隊ニ協力スベシ

三 連合艦隊司令長官は第二艦隊ヲシテ派遣陸軍ノ輸送ヲ護衛セシムベシ

四 (略)

なお、これは支那事変に関して発出された大海令三百余の最初のものである。

  

(68)
冀東政府の保安隊1500名が叛乱し、通州の守備隊・領事警察・居留民約250名を虐殺した事件

  

(69)
『外交官の一生』303頁

  

(70)
『破滅への道』74頁

  

(71)
『支那事変陸軍作戦』245頁

  

(72)
『外交官の一生』304頁

  

(73)
『支那事変陸軍作戦』245頁

  

(74)
『破滅への道』77頁

  

(75)
『昭和の動乱』173頁

  

(76)
大山事件は巡察中の大山勇夫中尉と斎藤興蔵一等水兵が中国側の保安隊兵士に射殺された偶発事件である。大山事件に関しては影山好一郎氏論文「大山事件の一考察第二次上海事変の導火線の真相と軍令部に与えた影響」『軍事史学』32(3) 1996.12)に詳細な研究がされている。

  

  

第二節

(77)
『現代史資料9巻』8頁

  

(78)
『現代史資料9巻』186頁

  

(79)
『静かなる楯』162頁

  

(80)
『現代史資料12』「中止出兵の決定」軍令部策定 364頁~

  

(81)
『海軍開戦経緯1』207頁

『現代史資料9』「漢口上流居留民引揚ノ指示」187頁

  

(82)
『海軍開戦経緯1』207頁

  

(83)
「中支出兵の決定」371~374頁

  

(84)
『上海時代』(下) 101頁

  

(85)
「中支出兵の決定」375頁~377頁

  

(86)
「中支出兵の決定」367頁

軍令部策定対処方針

要旨 

  大山事件の解決は将来此種事件の根絶を期するを方針とし左記要求事項の充足を目途として交渉するを要す

  而して支那側当事者に於て之が解決実行に対し誠意を示さざるに於ては実力を以て之を強制するも敢て辞せざるの決意あるを要す

要求事項

 一 事件責任者の陳謝及処刑

 二 将来に対する保障

  (一)停戦協定地区間に於ける保安隊員数、装備、駐屯地の制限

  (二)右地区に於ける陣地の防御施設の撤去

  (三)右の実行を監視すべき日支兵団委員会の設置

  (四)排抗日の取締励行 

理由 

一  大山事件は単なる偶発事件に非ず、昂揚せられたる排日抗日の気勢と日本の武力に対する軽侮とに因由して上海停戦協定の精神を蹂躙し停戦区域内に有力なる装備の多数保安隊を駐屯せしめ且各所に陣地を構築し防御施設を施す事に基ける不穏なる情勢の齎せる必然の結果なり

二 (略)

三  右解決方は現に進行中なる外交交渉を阻礙するやの懸念あるべきも右交渉は北支事変解決として日支国交の根本的改善を基調とするものなるを以て短時日の間に之が妥協を期待し得べからざるのみならず右交渉に於て上海方面に於ける将来の保証迄広範囲に亘り我が方の我方の要求を満足すべき妥結を得る事困難なりと認めらる即ち大山事件に対し我方が求めて消極的態度を執る事は却て彼を増長せしめ本交渉を不利ならしむるの虞あり寧ろ大国策として和平の間に解決を望むも其の間に於ける彼の不法不正に対しては断乎として実力行使も敢て辞せざるの決意を示す事に依り側面的に本外交々渉を支援するの結果ともなるべきものと観察す

(略)支那側が誠意を示さざるに対する已むを得ざる手段と為すに於て名分自ら公正且明確なり

  

(87)
「中支出兵の決定」368頁

  

(88)
「中支出兵の決定」380頁

  

(89)
「中支出兵の決定」385頁

  

(90)
「中支出兵の決定」386頁

  

(91)
「中支出兵の決定」387頁

  

(92)
『静かなる楯』170頁

  

(93)
『海軍開戦経緯1』212頁

  

(94)
十二日午後五時五十分 第三艦隊参謀長ヨリ軍令部次長及海軍次官宛

機密第五四八番電

一 上海特陸ノ報告ニ依レバ昨夜来北停車場付近ニ汽車及「トラツク」ニテ八十八師続々到達既ニ一部ハ鉄路ヲ超ヘ「ハスケル」路ニ進出ス

二 (略)

三 此ノ状況ニ対シ万一ニ備フル為本夕到迄ニ虹口地区越界路上ニ警戒兵ヲ配セントス。

四 (略)

五 一方大使館附武官及総領事ハ即刻停戦協定委員又ハ同関係国領事ト連絡シ当地支那官憲ニ正規兵ノ撤退ヲ要求シ同時ニ南京ニ於テハ国民政府ニ要求セシム

六 此ノ際速ニ陸軍派兵ノ促進緊要ナリト認メラル

  

(95)
武藤章は「作戦に関しては尚現地にて十分検討打合され度し」と発言。

石原完爾は「今次事変が斯くなりたる上は已むを得ざる次第なり。又呉淞方面の上陸に対する懸念の如きも事前海軍が爆撃砲撃等に依り決して陸軍単独の無謀なる上陸となるが如きこと無き様海軍に於て充分援助すべし」と近藤信竹少将に要望している。

  

(96)
「石原完爾中将回想応答録」307頁『現代史資料9』所収

  

(97)
『一軍人の生涯』34頁

  

(98)
「日華事変拡大か不拡大か」

  

(99)
『海軍部戦争経緯1』214頁「嶋田繁太郎大将備忘録」

  

(100)
『原田日記』第六巻 68頁 『原田日記』では13日に記述ではあるが状況を考えると14日の可能性の方が無難である。

  

(101)
『海軍開戦経緯1』215頁

  

(102)
『静かなる楯』174頁

  

(103)
『近衛内閣』46頁

  

  

第三節

(104)
『高松宮日記』530頁~541頁

  

(105)
『宇垣一成日記』1167~1168頁

  

(106)
『石射猪太郎日記』178頁~

  

(107)
『日本外交年表並主要文書 下』369頁

「蘆溝橋事件に關する政府聲明」八月十五日午前一時十分発表

帝国夙ニ東亜永遠ノ平和ヲ冀念シ、日支両国ノ親善提携ニ力ヲ致セルコト久シキニ及ヘリ。然ルニ南京政府ハ排日抗日ヲ以テ国論昂場ト政権強化ノ具ニ共シ、自国国力ノ過信ト帝国ノ実力軽視ノ風潮ト相俟テ、更ニ赤化勢力ト苟合シテ反日侮日愈々甚シク以テ帝国ニ敵対セントスルノ気運ヲ醸成セリ。近年幾度カ惹起セル不祥事件何レモ之ニ因セサルナシ。今次事変ノ発端モ亦此ノ如キ気勢カ其ノ爆発点ヲ偶々永定河畔ニ選ヒタルニ過キス、通州ニ於ケル神人共ニ許ササル残虐事件ノ因由亦茲ニ発ス。更ニ中南支ニ於テハ支那側ノ挑戦的行動ニ起因シ帝国臣民ノ生命財産既ニ危殆ニ瀕シ、我居留民ハ多年営々トシテ建設セル安住ノ地ヲ涙ヲ呑ンテ遂ニ一時撤退スルノ已ムナキニ至レリ。

顧ミレハ事変発生以来累々声明シタル如ク、帝国ハ隠忍ニ隠忍ヲ重ネ事件不拡大ヲ方針トシ、努メテ平和的且局地的ニ処理センコトヲ企図シ、平津地方ニ於ケル支那軍累次ノ挑戦及不法行為ニ対シテモ、我カ支那駐屯軍ハ交通線ノ確保及我カ居留民保護ノ為真ニ已ムヲ得サル自衛行動ニ出タルニ過キス。而モ帝国政府ハ夙ニ南京政府ニ対シテ挑戦的言動ノ即時停止ト現地解決ヲ妨害セサル様注意ヲ喚起シタルニモ拘ラス、南京政府ハ我カ勧告ヲ聴カサルノミナラス、却テ益々我方ニ対シ戦備ヲ整ヘ、厳存ノ軍事協定ヲ破リテ顧ミルコトナク、軍ヲ北上セシメテ我カ支那駐屯軍ヲ脅威シ又漢口上海其他ニ於テハ兵ヲ集メテ愈々挑戦的態度ヲ露骨ニシ、上海ニ於テハ遂ニ我ニ向ツテ砲火ヲ開キ帝国軍艦ニ対シテ爆撃ヲ加フルニ至レリ。

此ノ如ク支那側カ帝国ヲ軽侮シ不法暴虐至ラサルナク全支ニ亙ル我カ居留民ノ生命財産危殆ニ陥ルニ及ンテハ、帝国トシテハ最早隠忍其ノ限度ニ達シ、支那側ノ暴戻ヲ膺懲シ以テ南京政府ノ反省ヲ促ス為今ヤ断乎タル措置ヲトルノ已ムナキニ至レリ。

此ノ如キハ東洋平和ヲ念願シ日支ノ共存共栄ヲ翹望スル帝国トシテ衷心ヨリ遺憾トスル所ナリ。然レトモ帝国ノ庶幾スル所ハ日支ノ提携ニ在リ。之カ為支那ニ於ケル拝外抗日運動ヲ根絶シ今次事変発生ノ根因ヲ芟除スルト共ニ日満支三国間ノ融和提携ノ実ヲ挙ケントスルノ外他意ナシ、固ヨリ毫末モ領土的意図ヲ有スルモノニアラス。又支那国民ヲシテ抗日ニ踊ラシメツツアル南京政府及国民党ノ覚醒ヲ促サントスルモ、無辜ノ一般大衆ニ対シテハ何等敵意ヲ有スルモノニアラス且列国権益ノ尊重ニハ最善ノ努力ヲ惜シマサルヘキハ言ヲ俟タサル所ナリ。

  

(108)
『日中戦争史』232頁

同じ頃中国でも十五日の総動員令が発令され、八月十五日をもって宣戦布告なしの事実上の戦争状態に至ることになる。

  

(109)
『静かなる楯』181頁所収「島田文書」

  

(110)
『支那事変陸軍作戦1』305頁


第四章 海軍の対支政戦略と近衛内閣

 

 以上海軍の支那事変・日華事変初期における対応等を分析してきた。

 ここまで分析した上で、海軍にはどのような責任があるのか、という疑問ここで抱かざるをえなくなる。以下私の責任において諸説まとめていくと、秦郁彦氏は「海軍特有の便乗主義がこの局面でかなり露骨に打ち出された」「陸軍は戦面の拡大を嫌って-上海の場合は拡大派をも含め-海軍の出兵要望に容易に応じようとはしなかったが、居留民の全面引揚げと陸戦隊の撤退が実現不可能であるかぎり、けっきょくは海軍の要請に応じるほかなかった。海軍は部内一致して不拡大方針を守ったとはいえ、七月十一日の派兵決定に当って、迫力ある反対をしなかったため、上海へ戦火が拡大するのを防ぎ得なかったのである」(1)と述べ、臼井勝美氏は「軍部の中国認識の誤謬、軍内部の不統一が日中戦争をいたずらに拡大させ収拾を困難にさせたことは事実であるが、戦争遂行の第一義的な責任はあくまでも近衛内閣(軍を含めて)自体にあるといわなければならない」(2)と述べている。また豊田穣氏は「陸軍が華北に派兵したがるのは、支那駐屯軍が可愛いからであり、これに対してほとんど無関係な海軍は不拡大を唱え通してきた。しかし虎の子の上海陸戦隊と第三艦隊が危なくなって来ると、陸軍の派兵を頼むということになる。このあたり、陸海それぞれのに己の田に水を引こうとしていた形跡が明白である。戦史を論ずる人は米内のおおらかな人柄と、その和平尊重を賞揚するが、彼も軍人であり上級幹部である以上、このような望まざる戦闘を推進したことはあったのである。(略)ハト派の海軍といえども上海危しとなれば、文人の本性を現すもので、米内も多分に第一線である第三艦隊に引きずられたものと思われる。」(3)といずれも厳しく批評している。

 一方で高田万亀子氏は「米内のかねてからの憂慮が現実となっているのが十四日夜である。今まで派兵を抑えに抑えてきた米内が、海軍の責任者として容易ならぬ焦慮を感じていたとしても無理はない」とし「上海戦と上海派兵要請は米内にとっても最早他に選択肢はなかった。米内の責任を問うとすれば、それは派兵要請や強硬発言よりも、早期収拾を図れなかった近衛内閣の一員であったことにあるのではないか」(4)と米内を弁護している。相澤淳氏は「八月十四日中国空軍の第三艦隊旗艦出雲等、またその他居留地に対する先制攻撃という、交渉相手が実力をもって立ち向かってくる状態では敗退か、実力行使による対決しかありえないという状況と「日本を強者とし中国を弱者とする」中国認識のもと蒋介石に反省を促すという膺懲論の選択がなされ、その象徴として首都南京占領という発言につながった」(5)と米内の変化をみている。

 

 最後にここまで述べたことを総括すると、海軍は勢力拡張の為に事変を拡大したわけでもなく、縄張りの中南支の権益拡大をもくろんでいたわけでもないことが理解できる。ここで通説的な「陸軍は悪玉で、海軍は善玉」なる旧態依然とした認識をもちだすわけではないが、あくまでこの件に限っては海軍は善と到底いうことはできないがやむおえなかったと思われる。八月に至り「大山事件」勃発以降の海軍には政戦略としての不拡大の政策はもはや選択肢とはなりえず、泥沼に戦端を開くしか道はなかったと思われる。あの八月の時点でたとえば石原完爾のいう「上海が危険なら居留民を全部引揚げたらよい。損害は一億でも二億でも補償しろ。戦争するより安くつく」(6)といった発言は到底実行に移すことが出来るものではなく、「陸軍は中支不拡大に徹しているのに上海出兵後は全面戦争と化した」等の意見(7)は終戦後の後知恵としかいいようがない。八月の時点では居留民の生命はすでに危機化しており、引き揚げたとしても戦争が避けられた可能性をみいだすことはできない。むしろ、あの時点で海軍が立ち上がらなかった場合の方が最悪の事態を迎えていたであろうと考慮できる。

 また、海軍の上海確保から南京占領後の軍事基地化、海南島占領、北部仏印という一連の海軍南進戦略が米国の石油禁輸となり、致命傷を負った海軍が太平洋戦争へと陸軍を引きずっていった等の意見(8)も基本的には戦後のこじつけ的な解釈であろうと考えられる。もっとも「南進論」については軍令部を中心にその動きがみられるが、少なくとも時の海軍省米内海相以下には海軍・陸軍の縄張りに関係なく、日本国家の為に不拡大方針をとなえ、そして不拡大保持が不可能となった以後は早急に居留民の生命保護の手を打つという、国家を見据えた大局的な政戦略に立っていたと思われる。

 以上、問題は八月の上海にあるのではなく、それ以前の北支における派兵決定の対応にあると考えられる。この七月の時点で現地解決が行われ、事件が収まったならのちの八月以降の事件は違うものとなっていただろう。現に、七月の現地交渉で事件は収まっていたはずである。それを大きく広げたのが近衛内閣及び、陸軍ではなかったか。海軍及び米内海相としてこの「支那事変・日華事変」の責任をあえて問うとするなら、それは選択の道がなかった八月の上海ではなく、選択によっては不拡大・非戦で収まった七月十一日閣議での派兵決定をした近衛内閣の海軍大臣としての責任しかとりようがないのではないか、と考えられる。私としては「海軍はよくがんばったが、陸軍に押し切られた。」という思いが強く感じられる。

 

 海軍大臣就任は昭和十二年二月。就任当時は「米内光政」という名はほとんど知られておらず飾り物の「金魚大臣」と渾名されるほどの認識でしかなかった。そして近衛内閣成立後わずか三十三日後に勃発した「廬溝橋事件」までは海相就任五ヶ月間しかなく、また海軍内部では「ロンドン軍縮会議」以降のいわゆる「艦隊派」が牛耳ってきた陸軍以上の無茶苦茶な状況是正。さらに前年におきた「北海事件」等での対応のまずさと反省のための意識の建て直し。海相として米内がすべきことはたくさんあったなかでの事件勃発。

「海軍では、その職にない場合に政治に関与してはならないというのが昔からの伝統だった。(略)とにかく軍の政治関与は絶対にいかん、それをやると政治は麻痺してしまい、悪くすれば内乱となり、ひいては亡国の因となるというのが海軍の指導者の伝統的信念であった。(事変時の)海軍のとった態度は、何とかして陸軍を脱線させないようにとだましながらレールの上を乗せていく、というのが精々のところだった。(略)もし正面から立ち向かえば、結局は正面衝突、喧嘩になってしまう」(9)という当時の豊田副武軍務局長のいう政治に携わる職である海軍大臣として陸軍をだましつつレールに乗せていたのが米内海相であった。絶対不拡大の信念を閣僚の誰もが持ちながらも、閣議の流れは事変拡大へと導かれていく。そこには米内を含め、時流に対抗する強い力を持ち合わせていなかったからだろうか。

 海軍少将高木惣吉氏の意見をあげておきたい。高木氏は著作でH(元海軍士官)Y(政界人)I(高木氏自身)三者による会談という設定で戦後回想している。H「華北事変を全面的な衝突に広げてしまつたのはどうしたんです。米内海軍大臣の責任重大という気がするんですがネ…」I氏は近衛との七月十六日会談など一連の米内手記の内容などを説明する。(第三章第一節部分参考)Y「いや、あの近衛という責任観念のコレッポチもない男を首班に担いで、それで事変不拡大を考えるなんか虫がよすぎだ!」H「近衛公の責任もそうでしょうが、いまの話を聞いても、米内大将の手際の不味さかげんが想像できますよ。近衛公や広田外相なんて木偶坊を相手にして、ああだ、こうだといつてみたところで、何のタシにもならんのは判りきったことでしょう。」I「米内さんはあの雄弁も、迫力も、政治的炯眼も持ち合わせていなかった。(山本権兵衛に比べて)人を説破したり、会議の空気を逆転させたりする技巧と表現を備えていなかった。だがその代わり、いつでも自分の精魂を傾けて信ずる結論だけを最後まで繰り返したものだ」(10)と回想している。終戦を米内海相とともに導いた高木氏ゆえの意見であり、結局は外務省の石射猪太郎がいう「広田外相は時局に対する定見も政策もなく、全く其日暮し、イクラ策を説いても、それが自分の責任になりそうだとなるとニゲを張る。頭がよくてズルク立ちまわると云うこと以外にメリットを見い出し得ない。それが国士型に見られて居るのは不思議だ。彼(近衛首相)はだんだん箔が剥げて来つつある。門地以外に取柄の無い男である。日本は今度こそ真に非常になってきたのに、コンな男を首相に仰ぐなんて、よくよく廻り合わせが悪いと云ふべきだ。之に従ふ閣僚なるものは何れも弱卒、禍なる哉、日本。」「近衛首相の議会演説原稿を見る。軍部に強いられた案であるに相違無い。支那を膺懲とある。排日抗日をやめさせるには最後迄ブったたかねばならぬとある。彼は日本をどこへ持つて行くと云ふのか。アキレ果てた非常時首相だ彼はダメダ。…彼は中身の無いテンプラであるのだ」(11)というような政治家や陸軍の操り人形である「ボケ元」杉山陸相というような無定見なよりあわせのような内閣が戦争を引き受けたというのが不幸であったといわざるを得ないのだろうか。

 この「日華事変」拡大の責任を米内は重く感じ、それゆえに反省・贖罪の意も働き「日独伊三国同盟」における時流に対する強い意志による頑強な抵抗を米内は行い、最後は「支那事変・日華事変」拡大の責任を背負い、すべてを終わらせるための「終戦」にむけて「最後の海軍大臣」として生命をすり減らして尽力したのではないか。米内は「海軍」という枠ではなく「国家」としての枠で「支那事変・日華事変」拡大の責任を背負い、その「近衛内閣時の事変拡大責任」を背負い続けていたのではないか、と私は最後にそう思わざるをえない。


○第四章注釈 

(1)
『日中戦争史』252頁 『太平洋戦争への道4』22頁

  

(2)
「日中戦争と軍部」86頁

  

(3)
『激流の弧舟』65頁

  

(4)
「日華事変初期における米内光政と海軍」44頁及び『静かなる楯』174頁

  

(5)
「日中戦争全面化と米内光政」137頁

  

(6)
『大東亜戦争回顧録』73頁

  

(7)
『大東亜戦争回顧録』73頁

  

(8)
「帝国海軍の責任」13頁

  

(9)
『最後の帝国海軍』27~29頁

  

(10)
『山本五十六と米内光政』187頁~

(11)
『石射猪太郎日記』182・183・188・191頁


おわりに

 以上でもってすべてを完結させた訳ではあるが、私の実力不足を痛感せざるをえないものとなってしまった。比較的資料収集はうまくいったが、それでも探しきれない資料が山のようにあった。さらに収拾した資料のうち論文に使用できたものは一握りであり、私の資料整理能力不足から、生かしきれていない資料が山のように残ってしまったことが悔やまれる。最後の方は100枚という制限の調整を気にしてしまい、竜頭蛇尾のようなしまりのないものとなってしまったことも悔やまれる。

 

 本来、「米内光政」は私のテーマの一部であったが、全体をしめるものではなかった。しかし執筆を重ねるにつれ、当時の海軍は米内光政海軍大臣を中心に記すべきであり、同様に外務省は石射猪太郎東亜局長、陸軍は石原完爾参謀本部第一部長を中心に記さなければまとまりがつかないということがわかり、いつのまにか「米内光政と支那事変(日華事変)」というような内容に変貌してしまった気がする。

 私は「海軍びいき」な人間であり、また「米内光政びいき」でもある。そのような気持が本来中立でなければならない論文にも表れてしまっていることは否定できない。しかし、その心があったからこそこの論文をまがりなりにも仕上げることができたと思っている。

 

 この場を借りて、毎週のように資料請求をする私に対して、支那事変(日華事変)に関わる様々な分野の本の収拾を担わせてしまった図書館の方々に陳謝するとともに、的確な論文指導を行って下さった〇〇先生に感謝いたします。

 最後に乱筆乱文を御詫びし筆を置きたいと思います。

 

   

                         支那事変より六四年目の極月吉日

初稿 2001年


補記1 参考及び引用文献一覧

  

一、公刊戦史 防衛庁防衛研究所戦史室編 朝雲新聞社

 『戦史叢書100 大本営海軍部 大東亜戦争開戦経緯1』 S54

 『戦史叢書91  大本営海軍部 連合艦隊1 開戦まで』 S50

 『戦史叢書72  中国方面海軍作戦 昭和十三年三月まで』S49

 『戦史叢書86  支那事変陸軍作戦 昭和十三年一月まで』S42

  

二、通史・研究書・研究論文関係

 海軍

 『日本海軍史 第三巻 通史 第四編』財団法人海軍歴史保存会編集発行 H7

 『日本海軍史 第四巻 通史 第五・六編』

 『海軍と日本』 池田清著 S56 中公新書

 『五人の海軍大臣』 吉田俊彦著 S58 文芸春秋社

 「北海事件と蘆溝橋事件 海軍の反応」 角田順
   『現代史資料12』所収 S41 みすず書房

 外交

 『日本外交史』19・20巻 日華事変上下 上村伸一著 S46 鹿島平和研究所

 陸軍

 『日本の参謀本部』大江志乃夫著 S60 中公新書

 中国大陸

 『日中戦争史』 秦郁彦著 S47増補改訂版 河出書房新社

 「日中戦争と軍部」 臼井勝美 
   『大陸侵攻と政治体制 昭和史の軍部と政治2』所収 S59 筑摩書房

 『日中戦争』 臼井勝美著 S43 中公新書

 『満州事変』 臼井勝美著 S49 中公新書

 「満州事変の展開」 島田俊彦 
   『太平洋戦争への道 開戦外交史 第二巻 満州事変』
   日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編 朝日新聞社 S63新装版 所収 

 「日中戦争の軍事的展開」 秦郁彦 
   『太平洋戦争への道 開戦外交史 第四巻 日中戦争 下』所収

 研究論文

  樋口秀実論文

 「日本海軍の大陸政策の一側面 一九〇六~二一年」
   『国史学』147 1992所収

 「第一次上海事変の勃発と第一遣外艦隊司令官塩沢幸一海軍少将の判断」          
   『政治経済史学』333号 1994.3所収

 「日本海軍の対中国政策と民間航空事業」
   『国史学』155 1995.5所収

 「満州事変と海軍」
   『國學院大學日本文化研究所紀要』第80巻 1997.9所収

 「日中関係と日本海軍 昭和十年の中山事件を事例として」
   『軍事史学』33 1997.12所収

 「日中関係と日本海軍1933年~1937年」
   『史学雑誌』108巻4号 1999.4所収 

  影山好一郎論文

 「第一次上海事変における第三艦隊の編成と陸軍出兵の決定」
   『軍事史学』28 1992.9所収

 「満州・上海事変の対応に対する陸海軍の折衝 海軍の対応を中心として」
   『政治経済史学』318号 1992.12所収

 「大山事件の一考察 第二次上海事変の導火線の真相と軍令部に与えた影響」
   『軍事史学』32(3) 1996.12所収 

 「昭和十一年前後の日本海軍の対中強硬姿勢」
   『軍事史学』33 1997.12所収

 「広田三原則の策定をめぐる外務、陸、海軍の確執 海軍の対応を中心として」
   『日本歴史』595号 1997年12月号所収

  その他

 「支那事変初期における政戦両略について」今岡豊 
    『軍事史学』10 1974.6所収

 「支那事変勃発当初における陸海軍の対支戦略」森松俊夫 
    『政治経済史学』168号 1980.5所収

 「日華事変初期における米内光政と海軍 上海出兵要請と青島作戦中止をめぐって」 高田万亀子 
    『政治経済史学』251号 1987.3所収

 「昭和期海軍と政局(1)/(2)-「高木惣吉資料」の紹介と分析を中心として-」 纐纈厚 
    『政治経済史学』344/345 95.2/3所収

 「日中戦争の全面化と米内光政」相澤淳 
    『軍事史学』33 1997.12所収

  

三、日記

 『石射猪太郎日記』 石射猪太郎著 伊藤隆他編 H5 中央公論社

 『西園寺公と政局』2・6巻 別巻 原田熊雄述 S25 岩波書店

 『木戸幸一日記』上巻 木戸幸一著 木戸日記研究会 S41 東京大学出版会

 『宇垣一成日記』第2巻 宇垣一成著 角田順校訂S25 みすず書房

 『高松宮日記』第2巻 高松宮宣仁親王著 H7 中央公論社

  

四、回顧録・手記・記録・覚書など 

海軍関係資料

 「大東亜戦争海軍戦史本紀巻一(中支出兵の決定)」
   『現代史資料12 日中戦争4』所収 S40 みすず書房

 『海軍大将米内光政覚書』 高木惣吉写 実松譲著 S63 光人社

 『海軍戦争検討会議記録』 新名丈著S51 毎日新聞社

 『最後の帝國海軍』豊田副武  柳澤健著 S25 世界の日本社

 「第二次大戦についての小林躋造・嶋田繁太郎手記 参戦をめぐる海軍側の二史料」
 「嶋田大将の「大東亜戦争に至る回顧」を読みて 小林躋造手記」
   『政治経済史学138』所収 野村実著 S52.11

 『明治百年史叢書280・281 帝國國防史論』上・下巻 佐藤鉄太郎著 S54(原本M43) 原書房

 「反古に帰した「帝国国防方針」」『別冊知性』1956年12月号 福留繁著 

 『山本五十六と米内光政』 高木惣吉著 S41新訂 文藝春秋社

外交官・外務省関係史料                  

 『外交官の一生』石射猪太郎著 S61(原本S25) 中央公論社

 『外交回顧録』重光葵著 S28 毎日新聞社

 『昭和の動乱』上巻 重光葵著 S27 中央公論社

 『陰謀・暗殺・軍刀』 森島守人著 S25 岩波書店 

 『破滅への道 私の昭和史』 上村伸一著 S41 鹿島研究所出版会

 『東郷茂徳外交手記 時代の一面』 東郷茂徳著 S42 原書房

 『馬鹿八と人は言う 外交官の回想』 有田八郎著 S34 光和堂

 『昭和の動乱と森島伍郎の生涯』 森島伍郎著 S60 葦書房 

陸軍関係資料

 「満州事変機密作戦日誌」『太平洋戦争への道 開戦外交史 資料編』収録

 「石原莞爾中将回想応答録」『現代史資料9 日中戦争2』所収 S39 みすず書房 

  「川辺虎四郎少将回想応答録」『現代史資料12 日中戦争4』所収 S40みすず書房

 『大東亜戦争回顧録』 佐藤賢了著 S41 徳間書店

 「惑星のころ 松籟莊随想」 宇垣一成著 『改造』1949.6月号 

 『軍務局長武藤章回想録』 武藤章著 上法快男編 S56 芙蓉書房

 『日本軍閥暗闘史』 田中隆吉著   S63(原本S22) 中央公論社 

 「上海事変はこうして起こされた 第一次上海事変の陰謀」 田中隆吉著 
   『別冊知性1956.12号』 

 「日華事変拡大か不拡大か 真の拡大主義者はどこにいたか」 田中新一著 
   『別冊知性1956.12号』 

 『支那事変戦争指導史』 堀場一雄著 S37 時事通信社  

政界関係資料

 『平和への努力』 近衛文麿著 S21 日本電報通信社

 『失はれし政治 近衛文麿公の手記』 近衛文麿著 S21 朝日新聞社 

 『近衛内閣』 風間章著 S57(原本S26) 中央公論社

民間関係資料

 『昭和史への一証言』 松本重治著 S61 毎日新聞社

 『上海時代』 松本重治著 S50 中央公論社

 『海軍の昭和史 提督と新聞記者』 杉本健著 S60 文芸春秋社

 『重臣達の昭和史』下巻 勝田龍夫著 S56 文藝春秋社

その他資料

 『現代史資料7・8・9・12(満州事変・日中戦争1・2・4)』S39~ みすず書房

 『太平洋戦争への道 開戦外交史 別巻資料編』稲葉正夫他編 S63新装版 朝日新聞社 

 『日本海軍史 第八巻 年表 主要文書』海軍歴史保存会 H7

 『明治百年史叢書・1 日本外交年表竝主要文書』下巻 外務省編 S40 原書房

  

五、伝記

 『一軍人の生涯 提督・米内光政』 緒方竹虎著 S58(原本S30) 光和堂 

 『米内光政』 実松譲著 S41 光人社

 『激流の弧舟 提督米内光政の生涯』 豊田穣著 S53 講談社 

 『米内光政』 高宮太平著 S61 時事通信社 

 『静かなる楯・米内光政』 高田万亀子著 H2 原書房 

 『米内光政』上巻 阿川弘之著 S53 新潮社

 『重光葵』 渡邊行男著 H8 中央公論社 

 『近衛文麿』上巻 矢部貞治編 S26 近衛文麿伝記編纂刊行会 非売品

 『近衛文麿』 岡義武著 S47 岩波書店

 『広田弘毅』 広田弘毅伝記刊行会 H4復刻版(S41初版) 葦書房


  

補記2 主要官職

満州事変当時(昭和 六年九月) ~ 
第一次上海事変当時(昭和七年一月)

 満州事変当時(昭和 六年九月)第一次上海事変当時(昭和七年一月)
総理大臣若槻礼次郎犬養毅
外務大臣犬養毅芳沢謙吉
大蔵大臣高橋是清 
海軍大臣大角岑生 
 次官小林躋造左近司政三
  軍務局長豊田貞次郎 
   軍務第一課長澤本頼雄 
軍令部長谷口尚真 
 次長永野修身百武源吾
  一課長近藤信竹小林躋造
連合艦隊司令長官山本英輔 
陸軍大臣南次郎荒木貞夫
 次官杉山元 
  軍務局長小磯国昭 
   軍事課長永田鉄山 
参謀総長金谷範三閑院宮載仁親王
 次長宮治重真崎甚三郎
関東軍司令官本庄繁 

北海事件当時(昭和十一年九月)

総理大臣広田弘毅
外務大臣有田八郎
海軍大臣永野修身
 次官長谷川清
  軍務局長   豊田副武  
   軍務第一課長 保科善四郎  
軍令部総長   伏見宮博恭王  
 次長   嶋田繁太郎
  第一部長   近藤信竹  
   第一課長  福留繁  
連合艦隊司令長官  高橋三吉  
陸軍大臣寺内寿一
 次官  梅津美治郎
参謀総長   閑院宮載仁親王
 次長今井清

軍令部の顔ぶれは日華事変時と代わらず。

北海事件時の強硬意見が中支派兵問題時に尾を引きずっていた可能性も考慮できる。

海軍省は長谷川清次官が支那駐屯第三艦隊長官となり次官には山本五十六(11年12月)が就任。

永野修身海相は連合艦隊長官となり、米内光政連合艦隊長官が入れ替わる形で海相に就任(12年2月)することにより新体制となる。

支那事変・日華事変勃発当時(昭和十二年七月~八月)
第一次近衛内閣

総理大臣近衛文麿
 内閣書記官長風見章
内務大臣馬場鍈一
大蔵大臣賀屋興宜
外務大臣広田弘毅
 外務次官堀内謙介
  東亜局長石射猪太郎
   東亜局第一課長上村伸一
  欧亜局長東郷茂徳
  情報局長河相達夫
海軍大臣米内光政
 海軍次官山本五十六
  軍務局長豊田副武
   軍務第一課長保科善四郎
軍令部総長伏見宮博恭王
 軍令部次長嶋田繁太郎
  第一部長近藤信竹
   第一部第一課長福留繁
連合艦隊司令長官永野修身
 第三艦隊長官長谷川清
陸軍大臣杉山元
 陸軍次官梅津美治郎
  軍務局長後宮淳
   軍務課長柴山兼四郎
   軍事課長田中新一
参謀総長閑院宮載仁親王
 参謀次長今井清 → 多田駿
  第一部長石原完爾
   第一部第二課長河辺虎四郎
   第一部第三課長武藤章
  第二部長本間雅晴
教育総監寺内寿一 → 畑俊六
関東軍司令官植田謙吉
 参謀長東条英機
朝鮮軍司令官小磯国昭
支那駐屯軍司令官田代完一 → 香月清司
 参謀長橋本群

参謀次長今井清は病気療養中の為に実権は序列上石原完爾少将が権限を持つことになる。

また支那駐屯軍司令官田代完一は事件後まもなく病死。

現地交渉は橋本群参謀長を中心に行われることになる。

支那事変に対する陸軍部内拡大派・不拡大派一覧

拡大派
※中佐以下の大部分は拡大派

参謀本部第一部第三課課長・武藤章大佐
参謀本部第二部支那課課長・永津佐美重大佐
陸軍省軍事課課長・田中新一大佐
支那駐屯軍軍司令官・香月清司中将
関東軍軍司令官・植田謙吉大将
参謀長・東条英機中将
朝鮮軍軍司令官・小磯国昭大将

準拡大派

参謀本部第二部部長・本間雅晴少将
陸軍省軍務局局長・後宮淳少将

不拡大派

参謀本部第一部部長・石原完爾少将
参謀本部第一部第二課課長・河辺虎四郎大佐
陸軍省軍務課課長・柴山兼四郎大佐
支那駐屯軍参謀長・橋本群少将

準不拡大派

陸軍省次官・梅津美治郎中将

中立(見解もたず)

陸軍省陸軍大臣・杉山元大将
参謀本部参謀総長・元帥閑院宮載仁親王

本一覧は秦郁彦氏・上村伸一氏の見解を中心にまとめたものである。

以上〆


「一死以て大罪を謝し奉る」陸軍大臣・阿南惟幾

終戦時の陸軍大臣・阿南惟幾。多磨霊園に墓所があり、三鷹に邸宅跡がある。
関連する史跡などを徒然に記載していきたいと思う。


阿南 惟幾(あなみ これちか)

1887年(明治20年)2月21日 – 1945年(昭和20年)8月15日
日本帝国陸軍軍人。陸軍大将勲一等功三級。
1945年(昭和20年)4月に鈴木貫太郎内閣の陸軍大臣に就任。終戦直前の陸軍の暴発を抑え、そして終戦の詔が発布される前、8月15日早朝に自決をした。


昭和20年8月9日・御前会議

広島そして長崎と新型爆弾(原子爆弾)が投下され、ポツダム宣言を受諾するしか道がない状況下での御前会議は、昭和20年8月9日に開催された。

これまで陸軍を代表して「一撃講和」、一戦を交えてからの講和を(陸軍へのジェスチャーとしての側面もあったが)主張していた阿南惟幾陸軍大臣も、ここに至って、ポツダム宣言の受諾を受け入れる方向へとなりつつあった。

昭和20年の鈴木貫太郎内閣主要人物
内閣総理大臣:鈴木貫太郎
外部大臣:東郷茂徳
内大臣:木戸幸一
陸軍大臣:阿南惟幾
参謀総長:梅津美治郎
 参謀次長:河辺虎四郎
海軍大臣:米内光政
軍令部総長: 豊田副武
 軍令部次長:大西瀧治郎
内大臣:木戸幸一
枢密院議長 :平沼騏一郎

陸軍の声を代表する阿南惟幾陸軍大臣は、米内光政海軍大臣と激論を戦わせるも、結論が出なかった。そして、ついに鈴木貫太郎首相は、最後の手段として、 昭和天皇のご臨席を仰ぐ御前会議を決断する。
昭和天皇ご臨席のもとに午後11時50分に開始された御前会議。

阿南惟幾陸軍大臣は「本土決戦は必ずしも敗れたというわけではなく、仮に敗れて1億玉砕しても、世界の歴史に日本民族の名をとどめることができるならそれで本懐ではないか」という意見をし、梅津美治郎陸軍参謀総長と豊田副武海軍軍令部総長は阿南の意見に賛同。
東郷茂徳外務大臣は「終戦やむなき」と意見し、米内光政海軍大臣と平沼騏一郎枢密院議長が賛同。
意見が出揃った8月10日深夜2時ごろ、鈴木貫太郎総理大臣は、自らは発言せずに「意見の対立のある以上、甚だ畏れ多いことながら、私が 陛下の思召しをお伺いし、聖慮をもって本会議の決定といたしたいと思います」と 昭和天皇の意見を求めた。終戦反対の強硬派は不意を突かれた形となった。

昭和天皇は身を乗り出すと
「それならば私の意見を言おう。私は外務大臣の意見に同意である」
「もちろん忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持ちをしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」との「ご聖断」を下した。

そうして、聖断が下された御前会議が終了した。

聖断が下されたのちの、阿南惟幾陸軍大臣の切り替えは見事であった。
なおも終戦に反対する陸軍将校を統制し、出来得る限り暴発を防ぐべく尽力をした。

8月12日には、三鷹の私邸に戻り、家族とつかの間の時間を過ごした。
すでに自決を決意していた阿南としては、家族との最期の別れ、でもあった。

8月13日、 聖断があったにも関わらず、最高戦争指導会議は紛糾しており、翌日に再び 聖断を仰ぐことになった。

昭和20年8月14日・御前会議

8月14日午前11時、御前会議開催。
阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、豊田軍令部総長は、「このままの条件で受諾するならば、国体の護持はおぼつかなく、是非とも敵側に再照会をすべき」という意見を述べた。阿南らにとって最期に死守すべき事項が「国体護持」(天皇制の継続)であった。
意見を聞いた 昭和天皇は、「私自身はいかになろうと、国民の生命を助けたいと思う。私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣は至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と述べられた。その瞬間、会議は慟哭に包まれ、鈴木貫太郎首相は、至急詔書勅案奉仕の旨を拝承し、繰り返し聖断を煩わしたことを謝罪した。

慟哭する阿南陸相に対して、 昭和天皇は「あなん、あなん、お前の気持ちはよくわかっている。しかし、私には国体を護れる確信がある」とやさしく説いたという。

陸軍省に戻った阿南陸相は、御前会議での 昭和天皇の言葉を伝え「国体護持の問題については、本日も陛下は確証ありと仰せられ、また元帥会議でも朕は確証を有すと述べられている」「御聖断は下ったのだ、この上はただただ大御心のままにすすむほかない。陛下がそう仰せられたのも、全陸軍の忠誠に信をおいておられるからにほかならない」「 陛下はこの阿南に対し、お前の気持ちはよくわかる。苦しかろうが我慢してくれと涙を流して申された。自分としてはもはやこれ以上抗戦を主張できなかった」と説いた。

大東亜戦争終結ノ詔書

昭和20年8月14日午後4時より、終戦の詔書の審議が始まった。
原案では「戦勢日ニ非ニシテ」と記載有る箇所に関して、阿南陸相は、「身命を投げ出して戦ってきた将兵が納得しない」として「戦局必スシモ好転セズ」との穏やかな表現にして欲しいと主張。
対して、米内光政海相は、「陸軍大臣はまだ負けてしまったわけではないと言われるが、ここまで来たら、負けたのと同じだ」「ありのままを国民に知らせた方がよいと思うので、私はまやかしの文を入れないで、原案のままがよいと思う」と反論。
それでも阿南陸相は、交渉を続け、「まだ最後の勝負はついていないので、ここはやはり“戦局必スシモ好転セズ”の方が相応しいと思う」と主張。陸軍将兵の心情を重んじる表現を譲らずに、この点に関しては米内海相が折れて、阿南陸相の修正案に賛同。


これが、陸軍大臣・阿南惟幾の最後の務めであった。

大東亜戦争終結ノ詔書

(全文)
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庻ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス
世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ
是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル
然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣總理大臣鈴木貫太郞

大東亜戦争終結ノ詔書
(読み下し)
朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置を以って時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ

朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽しみを共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
さきに米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず 延べて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何を以ってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せんや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉し 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排せい 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うか如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ

御名御璽
昭和二十年八月十四日
内閣総理大臣鈴木貫太郎

以下は、2016年に国立公文書館で公開のあった「終戦の詔書原本」。

「戦局必スシモ好転セズ」 の修正は、阿南の強い要望で修正された。
紙を削って修正されたという箇所がよく分かる。

陸軍大臣として阿南惟幾が公的書類へ署名した最後の文書。

終戦の詔書の審議も無事に終わり閣僚たちが終戦の詔勅への署名する。

阿南惟幾陸相は、閣僚たちに最後の挨拶を取り交わす。

阿南陸相は、東郷外相のそばに歩み寄り、最敬礼で「さきほど保障占領及び軍の武装解除について、連合国側に我が方の希望として申し入れる外務省案を拝見しましたが、あの処置はまことに感謝にたえません。ああいう取り扱いをしていただけるのなら、御前会議であれほど強く言う必要はありませんでした」と謝罪。
東郷外相は「いや、希望として申し入れることは外務省として異存はありません」と答えると、阿南陸相は「いろいろと本当にお世話になりました」とさらに丁重に腰を折って礼をしたので、東郷外相はあわてて「とにかく無事にすべては終わって、本当によかったと思います」と返答している。

次に、総理大臣室を訪れた阿南陸相は、鈴木首相に「終戦についての議が起こりまして以来、自分は陸軍の意志を代表して、これまでいろいろと強硬な意見ばかりを申し上げましたが、総理に対してご迷惑をおかけしたことと想い、ここに謹んでお詫びを申し上げます。総理をお助するつもりが、かえって対立をきたして、閣僚としてはなはだ至りませんでした。自分の真意は一つ、国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものではございません。この点はなにとぞご了解いただくよう」と謝罪。同席していた迫水内閣書記官長は、陸軍の暴発を抑えるために心にもない強硬意見を発していた阿南の心情を理解しもらい泣きをしている。

鈴木首相は、阿南陸相の肩に手をやって「阿南さん、あなたの気持ちはわたくしが一番よく知っているつもりです。たいへんでしたね。長い間本当にありがとうございました」「今上陛下はご歴代まれな祭事にご熱心なお方ですから、きっと神明のご加護があると存じます。だから私は日本の前途に対しては決して悲観はしておりません」と答え、阿南は「わたくしもそう信じております」と同意。

阿南陸相が部屋を離れた後に、鈴木首相は迫水に「阿南君は暇乞いに来たんだね」と。最期の覚悟を感じ取っていた。
ちなみに昭和4年に、阿南惟幾が侍従武官に就任した際の、当時の侍従長は鈴木貫太郎であり、その時から阿南は鈴木の懐の深い人格に尊敬の念を抱き、その鈴木への気持ちは終生変わるところがなかった。

自決

8月14日の夜11時すぎに陸軍大臣官邸に戻ってきた阿南陸相。自決の意志は陸軍大臣官邸に帰宅する前から固まっていた。

8月15日深夜1時、阿南の義弟であった竹下正彦中佐が陸軍大臣官邸を訪れた。竹下はクーデター決起(宮城事件)に際して阿南陸相を説得するために、阿南のもとを訪れたが、奇しくも阿南の最期に立ち会うこととなった。

阿南が竹下に「もう暦の上では15日だが、14日は父の命日だから、この日に決めた。15日には玉音放送があり聴くのは忍びない」と遺書の日付を14日とした理由を話した。

会話の最中に銃声が聞こえ始め、宮城事件が勃発。決起した青年将校は近衛師団長森赳中将を殺害。井田正孝中佐が報告のための阿南陸相のもとを訪れると、「そうか。森師団長を斬ったのか、お詫びの意味をこめて私は死ぬよ」と短くもらしただけであったという。

宮城事件に関係する慰霊碑は青松寺にある。
「國體護持 孤忠留魂之碑」


宮城事件が発生しているさなかの、ちょうど同じころの陸軍官邸。
阿南は、竹下と井田を囲んで3人で酒盛りをし、最期の宴を興じ、そして夜明け間近に二人を下がらせた。

阿南は侍従武官時代に昭和天皇から拝領した白いシャツを身につけ、軍服を床の間に置き、昭和18年に戦死した惟晟(次男)の遺影を置いて、ひとり縁側で割腹自決した。

義弟の竹下が阿南の手から短刀を取り介錯。井田は官邸の庭の土の上に正座し、阿南がいる縁側の方を仰ぎ慟哭していた。

「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」と記録されている

阿南陸相は、8月15日正午のラジオでの玉音放送を聴取することもなく、ポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前の自決となった。

8月15日夜、阿南の遺体は市ヶ谷台で荼毘に付された。

阿南惟幾 遺書

阿南 惟幾 遺書

一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル

昭和二十年八月十四日夜
 陸軍大臣 阿南惟幾 花押

神州不滅ヲ確信シヽ

「一死以て大罪を謝し奉る」
阿南惟幾は、この一言の遺書に、 陸軍の責任者として、大東亜戦争責任の「大罪」を一死でもって「謝し奉る」覚悟を記した。

阿南惟幾の遺書(血染めの遺書)は、遺族から靖國神社に奉納され、遊就館にて保存されている。

画像引用:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Anami’s_will.jpg

阿南惟幾 辞世の句

阿南惟幾 辞世の句

大君の
 深き恵に
  浴みし身は
言ひ遺こすへき
 片言もなし

辞世の句は、昭和13年(1938)に、第109師団長として転出するにあたり、 昭和天皇と二人きりで陪食した際に、その感激を詠んだ歌であり、国体護持に最後まで拘った、阿南惟幾の心意でもあった。

死後

8月15日の玉音放送後、終戦に伴う臨時閣議が開催。
閣議に先立ち、空席となった陸軍大臣席を前に、鈴木首相から話があった。
「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。反対論を吐露しつつ最後の場面までついて来て、立派に終戦の詔勅に副署してのち、自刃して逝かれた。このことは立派な態度であったと思います」
「実に武人の最期らしく、淡々たるものであります……謹んで、弔意を表する次第であります」との報告があり、阿南の遺書と辞世の句もその場で披露された。

また、阿南陸相がとった最後の手段、自らの自決という行為は全陸軍に衝撃を与え、終戦という事実を強烈に全陸軍に伝えるここととなった。

阿南が最期まで身を挺して護り抜こうとした「国体護持」の象徴である 昭和天皇は、阿南が自決したという知らせを聞くと、「あなんはあなんとしての考え方もあったに違いない。気の毒なことをした……」と漏らされた。

終戦に至る過程で激論を繰り広げてきた、米内海相は、阿南の自決を聞くと「我々は立派な男を失ってしまった」と語った一方で、「私は阿南という人を最後までよくわからなかった」と感想を残している。
阿南の自決直後、米内海相は誰よりも早く阿南の弔問に訪れている。

阿南と陸大同期生であった石原莞爾は、ご聖断による終戦を聞くと、まずは阿南の身を案じて「阿南の気持ちは俺がよく知っている。きっと阿南は死ぬだろう。」と知人に話している。

なお、日本の内閣制度発足後、現職閣僚の自殺はこれが初めてのことであった。


阿南惟幾陸軍大将 御着用の軍服
(冬服)

阿南陸軍大臣の冬服は市ヶ谷台にあり、そして夏服は靖國神社遊就館にある。
以下は市ヶ谷記念館にて。

陸軍大将阿南惟幾荼毘之碑

8月15日の夜に阿南大将の遺体は、自決をした陸軍大臣官邸から、大本営陸軍部・陸軍省・参謀本部のあった陸軍の中枢たる市ヶ谷台に運ばれ、そこで荼毘に付くされた。

市谷台の防衛省メモリアルパーク内に、「陸軍大臣陸軍大将 阿南惟幾 荼毘之跡碑」がある。
(通常非公開)

以下は、市ヶ谷台ツアーでかつて配布のあった「メモリアルゾーンのご案内」パンフレットより


阿南惟幾之墓

多磨霊園に阿南惟幾は眠る。場所は、13区1種25側。

阿南惟幾之墓

合掌

阿南惟幾の辞世の句が碑に刻まれている。

大君の深き恵に
  あみし身は
言ひ遺こすへき
 片言もなし
昭和20年8月14日夜
陸軍大将 惟幾(花押)

故 大将追慕の念已み難く 友人舊部下教へ子親威相集り 卿を同じくする朝倉文夫氏に嘱して 之の碑を建つ 
 昭和二十八年八月十四日

多磨霊園には、阿南惟幾ほか、一族が眠る。

場所

https://goo.gl/maps/mxdhnKMC3VWHcr2r9


阿南惟幾邸宅跡

三鷹市下連雀に、阿南惟幾の私邸があった。現在は、平和通りと呼称されている。

阿南家
長男・阿南惟敬(1921年生まれ、元防衛大学校教授)
次男・阿南惟晟(1923年生まれ、陸軍少尉、1943年〈昭和18年〉戦死)
三男・阿南惟正(1933年生まれ、元新日本製鐵副社長、靖国神社氏子総代)
四男・野間惟道(1937年生まれ、野間家へ養子、野間佐和子の夫、元講談社社長)
五男・阿南惟茂(1941年生まれ、元駐中国大使)
長女・喜美子
次女・聡子(大國昌彦元王子製紙社長の妻)

現在、阿南惟幾邸宅跡は、今はふたつの阿南家の邸宅となっていた。

阿南惟茂
阿南惟幾の五男(末っ子)。外交官として活躍し中国大使などを勤めた。

南隣にも阿南家。

阿南惟正
阿南建太

阿南惟正は、阿南惟幾の三男。実業家として新日本製鐵副社長などを勤めた。また、靖國神社氏子総代も勤めていた。2019年3月に86歳で没している。
阿南建太は、阿南惟正の長男。

すぐ近く、おなじ通りに太宰治の邸宅もあった。

太宰治のゆかりの「さるすべり」が花を咲かしていた。

阿南惟幾と太宰治は、ご近所ではあったが、生きていた世界が異なるために、お互いを知っていたかどうかは不詳。。。

場所

https://goo.gl/maps/gRvzeMJPaiAk93pt6


阿南一族の出身地、大分県竹田市の広瀬神社(御祭神:広瀬武夫)には「阿南惟幾顕彰碑」が建立され、「阿南惟幾胸像」も建立されている。未訪問。いつの日か、訪れたい。

以上、阿南惟幾関連の史跡、でした。


関連

「戦争に負けて外交に勝つ」吉田茂

吉田茂像と吉田茂墓を巡ってみましたので、以下に掲載を。大磯の吉田茂邸は未訪問。


吉田茂

言わずと知れた吉田茂。
1878年〈明治11年〉9月22日 – 1967年〈昭和42年〉10月20日)
日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。
外務大臣(第73・74・75・78・79代)、貴族院議員(勅選議員)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、第一復員大臣(第2代)、第二復員大臣(第2代)、農林大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、二松学舎大学舎長(第5代)などを歴任。

戦前は、外交官として陸軍と対立。
吉田茂は親英米派として戦前から開戦回避を図り、開戦後も岳父であった牧野伸顕、元首相の近衛文麿、外務次官時代の上司であった幣原喜重郎や鳩山一郎、西園寺公望秘書の原田熊雄、米内光政らの海軍穏健派とネットワークを構築し、東條内閣倒閣運動や戦争終結工作などを進めていた。

吉田茂は近衛文麿と協議し、「近衛上奏文」を作成。近衛文麿が参内の際に 昭和天皇に戦争の早期終結の訴える上奏を実施。
しかし吉田茂の動きを 「 ヨハンセングループ 」としてマークしていた憲兵隊は、吉田茂の身元にスパイを送り込んでおり、上奏文の写しを入手し「造言飛語罪」として昭和20年4月に吉田茂を逮捕。
ちなみに 「 ヨハンセングループ 」 とは首謀者であった吉田茂の「吉田反戦」(しだはんせん)の意味をもった憲兵隊当局の符丁(暗号)。
しかし、吉田茂の容疑を立証することができず、親交のあった阿南惟幾陸相の裁断により吉田茂は不起訴処分として釈放された。
このときに投獄されたことが、「反軍部」の象徴となり、戦後はGHQの信用を得たきっかけにもなっている。

戦後は東久邇宮内閣・幣原喜重郎内閣で外務大臣に就任。鳩山一郎が公職追放されたあとに、昭和21年5月に、第一次吉田内閣として総理大臣に就任。大日本帝国憲法下での 天皇陛下組閣命令下での最後の首相。選挙を経ていない国会議員(貴族院議員)としも最期の首相であった。
戦後日本の礎を築いた吉田茂は、 和製チャーチルとも称された 。

昭和26年9月8日、吉田茂首相はサンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)を締結。第二次世界大戦・太平洋戦争後に関連して連合国諸国と日本との間に締結された平和条約となり、この条約を批准した連合国は日本国の主権を承認した。そして国際法上、この条約により日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。


吉田茂像

北の丸公園の一角に、吉田茂像が建立されている。北の丸公園の清水門近く。
昭和53年に吉田茂生誕百年を記念して記念事業実行委員会が各界から寄付を募って昭和56年に閣議の了解を得え建立されたものという。

吉田茂像は、東京以外には、高知や大磯にもあるというが未見。

吉田茂

吉田茂像碑文
「昭和の黒幕」と称された、安岡正篤氏が作文なされたのが趣深い。

吉田茂
古来各國史上名相賢宰星羅照映スト雖モ昭和曠古ノ大戦ニ社稷傾覆生民塗炭ノ苦悩ニ方リ萬世ノ為ニ太平ヲ開クノ聖旨ヲ奉シ内外ノ輿望ヲ負ウテ剛明事ニ任シ慷慨敢言英邁洒落能ク人材ヲ舉用シ民心ヲ鼓舞シ以テ復興ノ大義ニ盡瘁セシコト公ノ如キハ實ニ稀代ノ偉勲ト謂フベシ
後人相謀ツテ茲ニ厥ノ像ヲ建テ長ク高風ヲ仰カント欲ス亦善イ哉
昭和五十六年九月
 船越保武 作
 安岡正篤 文
 桑原翠邦 書

木々に囲まれた吉田茂像は、ノンビリとした穏やかな空間の中に佇んでいた。

吉田茂といえば、ステッキですね。

※吉田茂像の撮影は2021年5月


吉田茂之墓
(久保山墓地)

横浜の久保山墓地に眠っている。
昭和42年(1967)10月20日、大磯の自邸で死去。享年90(満89歳没)。
10月31日に戦後初の国葬が執り行われた。
戒名は叡光院殿徹誉明徳素匯大居士。
遺骨は、当所は青山霊園の一角において娘婿の麻生太賀吉らと並んで葬られたが、2011年に神奈川県横浜市の久保山墓地に改葬された。久保山墓地には、吉田家一族の墓もある。

吉田茂之墓

昭和42年10月20日薨

明治42年(1909)に牧野伸顕の長女雪子と結婚。
昭和16年(1941)10月、日米関係が悪化するさなかで、吉田茂夫人の吉田雪子は51歳で死去。

吉田雪子之墓


吉田健三之墓
吉田健一之墓
(久保山墓地)

同じく、横浜の久保山墓地に吉田茂一族の墓がある。吉田茂の墓とはだいぶ離れている。
もっとも吉田茂の墓が久保山に改装されたのが2011年と最近ではあるが。

吉田健三之墓・吉田士子之墓

吉田茂の養父。吉田茂は吉田健三の養子であった。
吉田健三は越前福井藩士であったが、実業家として成功し、横浜有数の富豪であった。
吉田茂の実父、竹内綱とは昵懇の間柄であり、1881年(明治14)に、実子に恵まれなかった吉田健三は、竹内綱の五男の茂を養嗣子とした。
吉田健三は40歳で急死し、吉田茂は11歳で、莫大な遺産とともに吉田家を継いだ。
吉田士子(ことこ)は、吉田健三の儒学者佐藤一斎の孫。吉田茂の養母。

吉田健一之墓

吉田茂の長男。
1912年(明治45年)4月1日 – 1977年(昭和52年)8月3日)
日本の文芸評論家、英文学翻訳家、小説家。
父は吉田茂、母・雪子は牧野伸顕(内大臣)の娘で、大久保利通の曾孫にあたる。吉田健三の養孫。

吉田茂の長男ではあるが、吉田茂の墓とは一緒ではなく、養祖父の吉田健三と一緒の墓地。
吉田健一の母親であった吉田雪子の死去、父の吉田茂が新橋の芸者であった喜代子を事実上の後妻として迎えたことに反発があった、とも。

久保山墓地からは、横浜ランドマークタワーが望める。

吉田健一之墓から、吉田茂之墓の方向を望む。

灯籠から覗くと、この位置に「吉田茂・吉田雪子」の墓がある。
吉田健一の両親の墓。

吉田健三君碑

明治24年建立。

※久保山墓地の撮影は2021年3月


以下は、場所は変わって青山霊園。
※青山霊園の撮影は2021年5月


麻生太賀吉之墓
麻生和子之墓
(青山霊園)

青山霊園にて。
麻生和子は、吉田茂の三女。
麻生太賀吉は、実業家・麻生セメント会長。

麻生太賀吉と麻生和子の長男が、麻生太郎。三女は、寬仁親王妃信子様。

麻生和子は、1951年(昭和26年)9月8日のサンフランシスコ講和条約締結の会議に、総理大臣の父・吉田茂の私設秘書として随行している。そして、1967年(昭和42年)10月20日、吉田茂の死を看取っている。

麻生太賀吉之墓・麻生和子之墓の隣が更地になっている。
久保山墓地に改装される前、青山霊園時代は、この場所に吉田茂之墓があった。


牧野伸顕夫妻之墓
(青山霊園)

同じく青山霊園に牧野伸顕の墓がある。
吉田茂夫人であった吉田雪子は、牧野伸顕の長女、であった。

牧野伸顕から見ると、大久保利通は父、吉田茂は娘婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。
そして、牧野伸顕夫人の牧野峰子は、三島通庸の次女であった。

大久保利通之墓
(青山霊園)

牧野伸顕は大久保利通の次男であった。

三島通庸之墓
(青山霊園)

牧野伸顕夫人の牧野峰子は、三島通庸の次女であった。

明治の偉人は、青山霊園に集中している。青山霊園はまだまだ参拝しきれていないが、それはまた別記事にて。


吉田茂記念資料特別展示場

外務省外交史料館別館は、吉田茂記念資料特別展示場も設けられており、一見の価値あり。
ただし、基本開館は平日のみ、、、

※ 吉田茂記念資料特別展示場の撮影は2015年9月

昭和26年9月8日、サンフランシスコ平和条約で吉田茂全権が読み上げた対日平和条約受諾演説の原稿はまるでトイレットペーパーだと称された。

日米安全保障条約に、吉田茂は同じく昭和26年9月8日調印している。

吉田茂のパスポートは、サンフランシスコ講和会議に首席全権として参加のために発行されたもので、戦後発行第一号のパスポート。

吉田茂のステッキ
昭和40年に米寿祝いとして御下賜された鳩杖。吉田茂遺品として展示されている。

外交史料館別館
開館は、月曜日から金曜日の10時~17時30分。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archive.html


大磯にも行かねば・・・(まだ行っていないので宿題)

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/oisomuseum/index.html


吉田茂関連

「七士之碑」は吉田茂の謹書。
吉田茂は、広田弘毅の外交官時代の同期でもあった。

近衛文麿の荻外荘。戦後の一時期、吉田茂が居住していたこともあった。
吉田茂が首謀であったヨハンセングループは、近衛文麿が昭和20年2月に上奏した「近衛上奏文」にも関わりがあった。

昭和26年10月。
吉田茂内閣直属の「秘密組織」として「海軍再建」を検討した組織がY委員会。

Y委員会での検討がすすみ、結果として1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下で、より軍事組織に近い海上警備隊(沿岸警備隊)が海上保安庁附属機関として組織。その後まもなく「海上警備隊」として海保より分離され、これが後の「海上自衛隊」となった

特攻観音堂
門標 「世田谷山観音寺」、石碑「世界平和の礎」は、吉田茂の謹書となる。

久保山火葬場では、吉田茂の外交官同期であった広田弘毅を始めとする七士の火葬が行われた。

大應寺のコンクリート代用梵鐘(富士見市)

金属類回収令

昭和18年8月12日勅令第667号
戦局の激化による金属資源不足を補うために、官民所有の金属類回収を行なった勅令。
各地の寺院にあった鐘楼の梵鐘も金属供出の対象となった。

寺院の鐘楼は、梵鐘の重みで建屋のバランスを保つ構造でもあったため、梵鐘を外したままでは鐘楼崩壊の危険性があったため、コンクリートや自然石など何らかの重みを確保できる代替梵鐘が釣り下げられた。

もちろん、コンクリートの梵鐘は叩いても音を出すことはない。

大應寺(大応寺)

水光山不動院大應寺。真言宗智山派。
創建は不詳であるが室町時代には開山している。

鐘楼門は享保4 年(1719)造立。朱色の回廊の見える上層部が鐘撞堂に
なっている鐘楼門。
この鐘楼門に吊り下がる梵鐘が、戦時中に金属供出された際は、コンクリート代替梵鐘が備え付けられていたと思われる。
現在、役目を終えたコンクリート代替梵鐘は、本堂右手に静かにその姿を鎮座させていた。

吊り下げ部から、若干の崩壊が始まっていた。

「鐘楼門」 に吊り下がる、梵鐘。

参道から「鐘楼門」を望む。

「本堂」は平成21年に建て替え。


大應寺の隣には「水宮神社」。
狛蛙で有名。志木市の敷島神社の本務社、でもある。

そして、大應寺の向かいには 「水子貝塚公園」もある。

場所

https://goo.gl/maps/ZFBpk4wfg34a6ahJ6

※撮影は2021年9月


関連

「インド独立運動の父」マハトマ・ガンジー像(杉並区)

杉並区立読書の森公園(杉並区立中央図書館の隣)

杉並区、杉並区日印交流協会、杉並区交流協会が交流を結んできたインドの慈善団体である「ガンジー修養所再建トラスト」(本部:デリー)により寄贈されたもの、という。

インド独立の志士であるチャンドラ・ボースの遺骨の供養を続ける蓮光寺との縁もあり、杉並区とインドは深い関係にある。


マハトマ・ガンディー(ガンジー)

インド独立運動の象徴とされるガンディー。

第2次世界大戦中、インド国外でイギリスに対する独立闘争を続けていた「スバス・チャンドラ・ボース」や「ビハーリー・ボース」、「A.Mナイル」などの独立運動家は、日本の支援を受けてインド国民軍を組織し、インドの外側から軍事的にイギリスに揺さぶりをかけようとした。
しかしインド国内、つまりイギリスの植民地に留まっていたガンディーは、この様な動きに連携することなく、インド国内でイギリスに対する「不服従運動」「非暴力運動」に終始していた。

1945年8月に日本が降伏し、第二次世界大戦が終結。
イギリスは戦勝国となったが、国力は衰退。
イギリス本国から遠く離れている上に独立運動が根強く続けられてきたインドを植民地として支配し続けることが困難な状況であった。

さらには、日本と連携した「チャンドラ・ボース」や「ラース・ビハーリー・ボース」「A.M.ナイル」らが設立した「インド国民軍」の一員として、これを支援した日本軍とともにイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍などと戦った多くのインド人将官が、イギリス植民地政府により「反逆罪」として裁判にかけられる事態となり、これに対してガンディーは「インドのために戦った彼らを救わなければならない」と、インド国民へ独立運動の号令を発令。この発令をきっかけに再びインド独立運動が拡大。
イギリスはもはや、この運動を止めることができず、1947年8月15日にデリーにてジャワハルラール・ネルーがヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言。イギリス国王を元首に戴く英連邦王国であるインド連邦が成立した。その後1950年には共和制に移行し、イギリス連邦内の共和国となった。

1947年8月のインド・パキスタン分離独立に前後して、 宗教理由から分かれたヒンドゥー教徒とムスリム(イスラーム教徒)による宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンディーは身を挺して両宗教の融和を図るが好転しなかった。ガンディーは戦争相手のパキスタンにも協調しようとする態度から、「ガンディーはムスリムに対して譲歩し過ぎる」としてヒンドゥー原理主義者から敵対視され、「イスラーム教徒の肩を持つ裏切り者」として、1948年1月30日に暗殺される。78歳であった。
最期の言葉は、「おお、神よ」(ヘー ラーム ) 。

ガンディーの葬儀は死去翌日の1月31日、国葬として営まれた。
群衆の見守る中、 彼の亡骸はラージガート火葬場にて荼毘に付され、遺灰はガンジス川や南アフリカの海に撒かれた。

マハトマ・ガンジー
1869年10月2日-1948年1月30日

東京都杉並区にこのガンジー翁の銅像を、2008年11月6日にガンジー・アシュラム(修養所)再建財団創立者・インド国会議員・故ニルマラ・デッシュバンデ女史の遺志により、ガンジー翁の精神に基づいて、世界平和と相互理解が強められることを記念して、贈る。

「7つの大罪」
汗なしに得た財産
良心を忘れた快楽
人格が不在の知識
道徳心を欠いた商売
人間性を尊ばない科学
自己犠牲をともなわない信心
原則なき政治

場所

https://goo.gl/maps/VNi1gW5ajydKKo2D6

元祖国民的キャラクター「のらくろ」田河水泡・のらくろ館(江東区森下文化センター)

のらくろ

戦前の少年たちに絶大な人気を誇った漫画があった。
日本漫画界における国民的キャラクターの元祖、でもあった。

田河水泡
 「のらくろ」

日本漫画界の開拓者である、あの手塚治虫も模範としたのが、田河水泡の「のらくろ」であった。

野良犬の黒(野良の黒犬)であった、「のらくろ」(本名・野良犬黒吉、アニメでは、のら山くろ吉、とも)が、猛犬連隊に入隊し、軍隊の中で成長し出世をしていく物語。

昭和6年(1931)に講談社「少年倶楽部」で連載開始。戦前では異例の10年に渡る連載が行われていたが、昭和16年(1941)に戦時下体制での印刷紙の節約として、打ち切りとなった。戦後は潮書房「丸」で連載が行われ、昭和56年(1981)まで田河水泡による連載が続いた。

戦前「少年倶楽部」連載時
野良の黒犬「のらくろ」(野良犬黒吉)が、大日本帝国陸軍をモチーフとした「猛犬聯隊」に入営。はじめは、二等卒(二等兵)であったが、活躍を重ねる。
伍長の際は、師団長より猛犬聯隊の聯隊旗の図案を任され、猛犬士官学校卒業ととに少尉に昇進。聯隊旗手や駐屯守備隊長などを務める。最終的に大尉に昇進し、第五中隊長となる。「大」「日」「本」の3つの勲章を授与されたが、しかし思うところあり、大尉で退役。(戦時下による連載打ち切り)

猛犬聯隊は、山猿・ゴリラ・象・チンパンジー・かっぱ・蛙・熊・豚などと戦いを繰り広げていた。
なかでも、山猿聯隊とは熾烈な戦いをした「犬猿の仲」。

戦後「丸」連載時
のらくろは、予備役として再招集。中隊長として新兵教育などにあたる。山猿軍との決戦の際に、双軍ともに物資不足のために休戦となり、軍隊は解散。のらくろは元の野良犬とsて戦後社会に復員。
のらいぬは最終的に喫茶店のマスターとして自活できるようになり恋人と結婚し子供も生まれ、「もう野良犬ではない」として、物語が完結。

余談だが、「島耕作」が部長から取締役になったとき、編集長が漫画の中で「タイトルが出世していくマンガなんて『のらくろ』以来ですよ」といった、とか。
のらくろは、のらくろ上等兵→のらくろ伍長→のらくろ軍曹 → のらくろ曹長 → のらくろ小隊長 → のらくろ少尉、と、単行本も出世とともにタイトルが出世していた。


田河水泡・のらくろ館

田河水泡・のらくろ館
漫画「のらくろ」の作者・田河水泡の作品や愛用の品々を展示しています
田河水泡(本名:高見澤仲太郎 1899-1989)は、幼少期から青年期までを江東区で過ごした、本区ゆかりの漫画家です。
昭和6年(1931年)、大日本雄辯會講談社(現・講談社)の雑誌「少年倶楽部」に『のらくろ二等卒』を発表、爆発的な人気を博し、昭和初期を代表する漫画家となりました。
漫画「のらくろ」は、身寄りのない野良犬・のらくろが猛犬連隊という犬の軍隊へ入隊し活躍する物語です。最初は二等卒(二等兵)でしたが、徐々に階級を上げ、最終的には大尉まで昇進します。
自分の境遇にもめげず、明るく楽しく元気よく出世していくその姿を、当時のこども達は愛情を込めて応援しました。
平成10年(1998年)、ご遺族から作品や書斎机などの遺品が本区に寄贈されたことから、田河水泡が生涯愛し、その作品にも大きな影響を及ぼした深川の地に、平成11年(1999年)、「田河水泡・のらくろ館」が開館しました。開館時間 9:00~21:00(まん延防止等重点措置中は20:00まで)
休館日 第1・3月曜日(祝日の場合は開館)及び年末年始
観覧料 無料

江東区森下文化センター https://www.kcf.or.jp/morishita/josetsu/norakuro/

高橋商店街「高橋のらくろード」

「のらくろード」として、のらくろとともにある商店街。


田河水泡・のらくろ館パンフレット

一部のパンフレットは以下からダウンロード可能。

https://www.kcf.or.jp/morishita/josetsu/norakuro/pamphlet_jp.pdf

田河水泡・のらくろ館
「のらくろというのは、実は、兄貴、ありゃ、みんな俺の事を書いたものだ」(義兄・小林秀雄との会話のなかで)「文藝春秋」1959(昭和34)年10月号より

 田河水泡(本名:高見澤仲太郎 1899-1989)は、幼少期から青年期までを江東区で過ごした、本区ゆかりの漫画家です。
 昭和6年(1931年)、大日本雄辯會講談社(現・講談社)の雑誌「少年倶楽部」に「のらくろ二等卒」を発表、爆発的な人気を博し、昭和初期を代表する漫画家となりました。
 漫画「のらくろ」は、身寄りのない野良犬・のらくろが猛犬連隊という犬の軍隊に入隊し活躍する物語です。最初は二等卒(二等兵)でしたが、徐々に階級を上げ、最終的には大尉まで昇進します。
 自分の境遇にもめげず、明るく楽しく元気よく出世していくその姿を、当時のこども達は愛情を込めて応援しました。
 平成10年(1998年)、ご遺族から作品や書斎机などの遺品が本区に寄贈されたことから、田河水泡が生涯愛し、その作品にも大きな影響を及ぼした深川の地に、平成11年(1999年)、「田河水泡・のらくろ館」が開館しました。

のらくろ
本名 野良犬黒吉

ぼくは
こうとう文化親善大使
でもあります、
どうぞよろしく。

Q1「のらくろ」は、どのように誕生したの?

こどもたちに夢をあたえ、励ましたい
この思いがのらくろ誕生の大きな力となりました。のらくろが連載され始めた頃は、まだ日本は貧しく、本が貴重な時代でした。こどもたちは、ひとつの雑誌をみんなで回し読みしていました。そんなこどもたちの前に現れたのが、みんなより少しオッチョコチョイで失敗ばかりするけれども、ひるんだり、落ち込むことなく、明るく前向きに生きる「のらくろ二等兵」でした。このアイデアを思いついたのは、当時の「少年倶楽部」変s入朝加藤謙一でしたが、早くから両親を失って、さみしい幼少期を過ごした水泡は、自分の人生経験を一匹の野良犬に託して、これを見事に表現し、日本における子ども漫画の先駆者的存在となりました。
のらくろがブームになると全国の企業が、CMに登場させたいと思うようになりました。現在のように著作権や商標権が確立されていなかったので、業者に勝手に使用されても、作者の水泡は、多目にみていたようです。

Q2「のらくろ」は、どのくらい人気があったの?

これまで出版された「のらくろ」本、制作された「のらくろ」アニメーション映画・テレビ番組を、ご紹介します。とても人気がありました。
・連載 戦前134本 戦後284本
・付録本(戦前のみ・ゲーム含む)11本
・単行本 戦前10巻/戦後19巻
・復刻版 27冊
・文庫本 19冊 ・ 劇場映画(戦前のみ)9本
・テレビ・アニメ放映(戦後のみ)
1970(昭和45)年10月~1975(昭和50)年3月
1987(昭和62)年10月~1988(昭和63)年10月

※ここまで2021年8月撮影


日本酒「のらくろの故郷」

のらくろの作者 田河水泡さんの育った街 深川

発売元
 のらくろに逢える街 高橋のらくろ~ド
 マスヤ酒店
醸造元
 橘倉酒造(長野県佐久市・きつくら・菊秀)

※2018年1月撮影
このときに友人に連れられて「田河水泡・のらくろ館」を訪れたのが、のらくろ館を知ったきっかけでもありました。


中道寺のコンクリート代替梵鐘(杉並区)


金属類回収令

昭和18年8月12日勅令第667号
戦局の激化による金属資源不足を補うために、官民所有の金属類回収を行なった勅令。
各地の寺院にあった鐘楼の梵鐘も金属供出の対象となった。

寺院の鐘楼は、梵鐘の重みで建屋のバランスを保つ構造でもあったため、梵鐘を外したままでは鐘楼崩壊の危険性があったため、コンクリートや自然石など何らかの重みを確保できる代替梵鐘が釣り下げられた。

もちろん、コンクリートの梵鐘は叩いても音を出すことはない。


中道寺

東京都杉並区荻窪にある日蓮宗の寺院。
山門は、安永2年(1773年)建立。鐘楼を兼ねた鐘楼門に存在感がある。この山門の梵鐘が金属供出された際は、コンクリート代替梵鐘が備え付けられていた。
役目を終えた、コンクリート代替梵鐘は、とくにアピールするわけでもなく、静かに境内参道の片隅にその姿を鎮座させていた。

場所

https://goo.gl/maps/YgYzoej2EiLDsZ5d6


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金属供出関連

焼夷弾の花立(杉並区)


荻窪駅と井萩駅の中間あたり。
住所でいうと、杉並区清水2丁目15番7号。
住宅地の静まる小祠で、意外な花立があった。

このカタチ、この六角形、既視感あります。
M69焼夷弾、ですね。

なんでも、この界隈を空襲された際に、落ちた焼夷弾を再利用しているとのことで。

お賽銭箱の左右の花立てが、焼夷弾。。。

民間信仰石塔
 ここに建立されている石塔は、向かって右が宝永5年(1708)銘笠付角柱庚申塔(帝釈天)、左が安永10年(1781)銘角柱型廻国供養塔です。かつてはここより北西約100メートルの現NTT井草ビル北西角(旧称馬場下道の路地角)に造立されていましたが、大正から昭和初めに行われた土地区画整理の際に当地に移されました。
 庚申塔は、庚申の夜に体内にいる三(さん)尸(し)の虫が、その人の悪業を天帝に告げ、寿命を縮めるという道教の説から、人々が集まって夜を明かす庚申待を行った講中が、供養のために建てたものです。この塔は、青面金剛や三猿が彫刻された庚申塔で、「奉造立帝釈天王講中」と刻まれています。一般に庚申信仰では青面金剛が主尊とされますが、日蓮宗では帝釈天を庚申信仰の対象としています。この塔からも、日蓮宗での帝釈天信仰と庚申信仰の結びつきがわかります。また、青面金剛は六臂のものが一般的ですが、これは八臂の青面金剛で区内でも珍しいものです。
 廻国供養塔は、西国33観音などの霊場巡拝を遂げたことを記念して建てたものといわれます。西国33観音に加え、江戸時代には坂東33観音、秩父34観音が設けられ、100観音巡拝の観音信仰が盛んになりました。この塔も100ヶ所を巡拝したことを記念して建てたものと思われます。塔上部の8字の梵字は、聖観音真言をあらわしています。真言とは、口で唱えると仏と一体となれると考えられている、仏の教えを表現する梵語です。
 なお、花立にはこの辺りに落ちた焼夷弾の残骸を使用しています。
  平成19年7月
   杉並区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/pF8dWFmnz8RmTu2y5


M69焼夷弾

このカタチ。同じですね。
下の写真は、「小金井市文化財センター」にて展示されているM69焼夷弾。

燃えずに落ちた焼夷弾は、風呂の焚き付けにつかわれた、と。それなら「花立」に使用しても違和感なし?

M69焼夷弾
太平洋戦争当時、アメリカ軍が木造の多い日本家屋を焼き払うために開発した兵器で、爆風で破壊する爆弾とは異なります。38発のM69焼夷弾を束ねた親弾(E46集束焼夷弾)がB29爆撃機から投下され、空中でバラバラの子弾(M69焼夷弾)に分離して、地上に着弾すると油脂を成分とする焼夷剤が火災を引き起こします。燃えずに落ちた焼夷弾は、風呂の焚き付けに使われることもありました。
この焼夷弾には「焼夷弾」と書かれていますが、のちに書き込んだものと思われます。

こちらのM69焼夷弾は、「江戸川区小松川さくらホール・江戸川区平和祈念展示室」展示品。

下は、「東京大空襲・戦災資料センター」展示品。

E46集束焼夷弾(模型)
1945年3月10日の空襲で主に使われた焼夷弾。中にM69油脂焼夷弾を38本納めており、空中で尾翼部分にある信管が作動してバラバラになって落ちてくる。

M69油脂焼夷弾 AN-M69
1945年3月10日の空襲で主に使われた焼夷弾。尾の部分にストリーマーと呼ばれる4本のリボンがついており、空中姿勢を安定させる。
着火すると、ふたのようなストリーマーの部分は吹き飛んで外れ、筒の内部から粘着性の燃焼剤が飛び出して発火する。


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