「近代史全般」カテゴリーアーカイブ

記念碑の台座となった「旅順口閉塞船弥彦丸の閉塞石」(久里浜・若宮神社)

久里浜の神社に、日露戦争の旅順港閉塞船に積まれていた石が使用されているというので、足を運んでみた。


旅順口閉塞船弥彦丸の閉塞石

昭和10年の「久比里ノ若宮神社」の社殿改築を記念して建立された石碑。

この記念碑の台座は、日露戦争の旅順閉塞隊に参加した弥彦丸に積まれていた花崗岩。
日露戦争後に、旅順港口を復旧させるために、閉塞船として擱座していた弥彦丸を旅順港口から撤去し、浦賀船渠の川間分工場で解体した際、その船底から取り出したものという。

この台石は浦賀工場の寄贈にして日露戰役の際 旅順口閉塞船弥彦丸に使用せしものなり


第二次旅順港口閉塞作戦

旅順港に立てこもったロシア艦隊を壊滅できない日本海軍の連合艦隊は、旅順港の入口を封じてしまう「旅順港口閉塞作戦」を決行。三次にわたり海上を封鎖する閉塞作戦が行われたが、充分な封鎖はできなかった。

第二次旅順港口閉塞作戦は明治37年(1904年)3月27日未明に決行された。4隻の閉塞船(千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸)を投入して実行されたが、ロシア軍に察知されて失敗。閉塞船「福井丸」を指揮した広瀬武夫少佐(のち中佐に特進)が戦死し、のちに軍神となった。
また、杉野孫七上等兵曹(没後、兵曹長)の他、「朝日」乗組の菅波正次2等信号兵曹(没後、1等信号兵曹)、「高千穂」乗組の小池幸三郎2等機関兵(没後、1等機関兵)も戦死している。


若宮神社

久比里地区の氏神様。西叶神社が本務社。

1531年(享録4年)、千葉介常胤の末流にあたる臼井惣左衛門が鎌倉の鶴岡若宮明神を奉戴して建立した。
祭神は仁徳天皇。
1983年(昭和58年)社殿は焼失し、1985年(昭和60年)新築されている。社殿の左側に、古い鳥居の一部や額が保存されている。
境内にある石碑には神社の縁起について書かれており、その台座は日露戦争の際、旅順口閉塞船の弥彦丸に使用されたとされる。
例年7月には「例大祭」がおこなわれる。

https://kurihama.info/jisya/wakamiyajinja/

享禄4年(1531)の建立で、御祭神は仁徳天皇です。
鎌倉の鶴岡若宮明神を奉戴して氏神とする久比里の鎮守様です。
神社の縁起を記した謹誌の基壇には、日露戦争で旅順口閉塞船の弥彦丸に積まれた石が使われています。
ここの祭礼は「久比里の下駄まつり」と呼ばれ、かつては勝海舟が書いた大幟が上がりました。

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/yosii9.html

社号標。
揮毫は、海軍大将・小栗孝三郎。黎明期の潜水艇研究の第一人者。

撮影:2022年7月


写真の撮り忘れがありましたので、2022年11月に再訪しました。。。

28糎砲弾

久比里の若宮神社の境内社、八雲神社の社殿横に鎮座。
日露戦争の勝利を記念して明治39年2月に氏子によって建立されたもの。

征露紀念

明治三十九年二月 氏子中

境内社の八雲神社


関連

「陸軍桟橋」と「浦賀港引揚記念の碑」海外引揚者が第一歩を踏みしめた港(浦賀)

昭和20年8月15日の終戦を海外で迎えた邦人(日本人)は、軍人と民間人をあわせて約660万人以上に及んでいた。戦後、日本各地の引揚者指定港では、引揚者の受け入れを行い、中でも東京湾の入口に位置する浦賀港は、約56万人の受け入れを実施した。これは舞鶴港の約67万人に次ぐ規模であった。


海外引揚者

終戦当時、旧陸軍308万人、旧海軍45万、一般法人300万の約660万人が海外にいたという。
1945年9月2日のGHQ(連合国総司令官マッカーサー)による「日本政府宛一般命令第1号」にて、外地にいた日本人は、それぞれの軍管区の下に降伏することになり、軍人・軍属・一般人を含め、すべての日本人は各軍管区の支配下に置かれた。

  • 中国軍管区
     満州以外の中国全土、台湾など
      約312万人
  • ソ連軍管区
     満州、38度以北の朝鮮、樺太、千島列島
      約161万人
  • イギリスならびにオランダ軍管区
     インドシナ、インドネシア、マレーシアなど東南アジア
      約74万人
  • オーストラリア軍管区
     ボルネオ、ニューギニア、ビスマルク、ソロモンなど
      約14万人
  • アメリカ軍管区
     38度以南の朝鮮、沖縄、フィリピン、小笠原ほか太平洋諸島など
      約99万人

実際の引き揚げは、各軍管区ごとに実施された。
昭和20年12月1日に陸軍省は「第一復員省」に改組、海軍省は「第二復員省」に改組となり、軍人の復員を司った。昭和21年6月に廃止、「復員庁」に統合された。
復員庁は昭和22年10月に廃止となり、最終的には昭和23年の「厚生省引揚援護庁」(厚生省外局)に引き継がれた。軍人軍属は復員、一般人は引揚と呼称され、一般人は厚生省担当であったが、復員・引揚それぞれの概念的呼称も「復員援護」として統一され厚生省での管轄となった。
なお、陸軍の復員はソ連軍管区で抑留された軍人以外は昭和23年1月までにほぼ完了。海軍の復員は昭和22年末迄に概ね完了していた。
一般人の引揚を含めると昭和24年(1949年)までに624万人が帰還。昭和51年(1976年)までに約629万(軍人軍属311万人、一般318万人)が帰還している。


横須賀地方復員局

厚生省引揚援護庁の横須賀地方復員局が岩手県、宮城県、福島県、茨城県、千葉県、栃木県、群馬県、埼玉県、東京都、神奈川県、山梨県、静岡県、長野県の復員業務を担当。
現在も保存されている、「氷川丸」「宗谷」も横須賀地方復員局所管の復員船として活躍している。


浦賀引揚援護局(浦賀検疫所)

「浦賀引揚援護局」は昭和20年(1945年)11月~昭和22年(1947年)5月まで引揚者の援護や検疫業務を担当。昭和22年5月からは「引揚援護院横浜援護所」(昭和22年に引揚援護庁援護局横浜援護所に改称)が設置された。昭和30年7月11日に引揚所は廃止され、業務は「横浜検疫所」が引き継いでいる。

昭和21年3月29日に中国広東からの引揚船内でコレラが発生し蔓延したまま引揚船は浦賀港に4月5日に入港。海上隔離を実施。
浦賀引揚援護局では「コレラ防疫本部」を設置し、中国及びベトナムからやってくる引揚船の海上隔離を継続し20隻が海上隔離のために沖合停泊、隔離者が7万余人に到達。患者等の食糧、飲料水の確保・提供が窮迫するも、急ピッチで施設及び衛生資材等が整備し、同年5月4日には停留船隔離者が上陸可能となった。
浦賀港での汚染船は22隻にも及び、患者483人(うち死亡72人)、保菌者191人、疑似者345人であった。
浦賀引揚援護局浦賀検疫所は、旧海軍対潜学校の敷地を活用。

https://www.forth.go.jp/keneki/yokohama/museum/page2-5.html

なお、久里浜駅近くの「長安寺」には、浦賀引揚援護局引揚者精霊塔の慰霊碑が建立されている。引揚船コレラ病没者(身元不明者)を祀っている慰霊碑。

「浦賀引揚援護局引揚者精霊塔」

また、浦賀引揚援護局の下には、引揚者を援護するための援護所も設置された。

  • 久里浜援護所(海軍工作学校)
  • 鴨居援護所(浦賀船渠鴨居工員宿舎)
  • 馬堀援護所(陸軍重砲兵学校)

馬堀援護所(陸軍重砲兵学校)「行幸之地碑」


陸軍桟橋(西浦賀緑地)

陸軍桟橋の名称で歴史を伝えている桟橋。今は釣り人たちが集う場所となっている。

この海岸線は浦賀港の海の玄関口であり、歴史を語るうえで、重要なスポットである。
L字型の桟橋は、通称・陸軍桟橋と呼ばれ、昭和10年代に出来たものである。
太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引揚者が何十万人上陸し、帰国の第一歩を印した思い出深い桟橋である。
また、この場所は、享保6年(1721)に浦賀奉行所の主要機関である船番所が置かれ、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と荷物の検査が行われた船の関所であった。この検査は江戸経済の安定を図るために行われ、港町浦賀の繁栄にもつながった。
※この、港湾緑地は、国土交通省の環境整備事業により、整備したものであります。

関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5575/minato/amenity_kouen/nisiuraga/index.html

https://www.cocoyoko.net/spot/rikugunsanbashi.html


浦賀港引揚記念の碑

西浦賀みなと緑地公園内にある記念碑。

浦賀港引揚記念の碑
昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結。ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に返還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。私たちは再び繰り返してはならない戦争により悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。
 横須賀市

裏面に設立趣旨が記載されている。(裏面が見にくいのは、、、)

(裏面の設立趣旨)
ここ浦賀港は、先の大戦終結後、引揚指定港の一つとして極めて重要な責務を担いました。引揚とコレラ等の防疫に携わったすべての人々をねぎらい謝意を表するとともに、この地で倒れた幾多の御霊に弔意を表します。この碑は、引揚者や地元の方々の熱意により建立が実現したものであり、市制百周年を迎えるにあたり、当地の歴史を再認識し、恒久平和の願いを後世に伝えんとするものです。
 平成18年(2006年)10月 横須賀市長 蒲谷亮一

浦賀港。
外地からの引揚者が最初の一歩を踏みしめた祖国の大地。

関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/hikiage.html


船番所跡

陸軍桟橋の前の駐車場の地が浦賀奉行所の出先機関であった番所が置かれていたところという。

関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2752/uraga_walk/nisi9.html


浦賀の渡し(浦賀渡船)

浦賀港の東西を往来する渡し船。ポンポン船の愛称で親しまれている。

もともとは、奉行所が浦賀に置かれてまもない享保10年(1725年)頃から始まる渡し船。
渡し船の愛宕丸は「御座船(ござぶね)」と呼ばれた東叶神社の祭礼の際に御輿を運んだ船をモチーフにしている。
浦賀港の東西を結ぶ海上航路は横須賀市道(2073号線)に認定されている。

関連

https://www.cocoyoko.net/spot/uraga-watashi.html

https://ponponsen.jp/


関東大震災の慰霊塔

現在、愛宕山公園(浦賀園、横須賀最古の公園)になっている愛宕山が、関東大震災によって土砂崩れを起こし、その時の土砂によって生き埋めになってしまった人々の慰霊塔。


叶神社

浦賀港の東西には叶神社が鎮座している。
東叶神社と西叶神社。宗教法人としては別法人なので、まとめて記載するのはしょうしょう乱暴ではあるが、今回は神社は社頭で遥拝するのみ。

西叶神社

東叶神社(後方が奥宮と浦賀城址)

撮影:2022年7月


叶神社の御朱印帳と御朱印

むかし、参拝していたときに御朱印を戴いてました。

以下は、平成28年(2016年)の写真です。ご注意を。

西叶神社、平成28年(2016年)

東叶神社、平成28年(2016年)

昔は、神社メインでした。海軍的なところはまだ深掘りできてなくて。
今思えば、浦賀ドックの写真をもっと撮っておくべきでした。

懐かしい気持ちにもなりつつ、浦賀港関連は、いったん〆


「千代ヶ崎砲台跡」散策(横須賀)

明治時代に、東京防衛のために構築されたのが、「東京湾要塞」。
なかでも「千代ケ崎砲台」は、東京湾がもっとも狭まる浦賀水道の入口に位置している防衛上の重要拠点でもあり、近年まで自衛隊管理下にあり立入禁止区域だったということもあり、当初の面影をよく残している砲台跡。
自衛隊跡地となった国有地を横須賀市が管理し史跡整備を実施。そうして2021年10月より土日祝日限定で一般公開が開始されたので、足を運んでみました。


千代ヶ崎砲台跡

国指定史跡 東京湾要塞跡

千代ヶ崎砲台とは
 千代ケ崎砲台は、江戸時代後期に会津藩により台場が造られた平根山に、明治25年(1892年)から明治28年(1995年)にかけて陸軍が建設した西洋式の砲台です。
 東京湾内湾口を防衛する観音崎砲台の援助や、浦賀湾前面海域への防御、また久里浜から上陸した敵に対する防衛が任務で、榴弾砲の海正面防御砲台と臼砲・加農砲・機関砲からなる陸正面防御砲台で構成されています。
 建造当初の姿を良好にとどめていること、日本の近代の軍事や築城技術を理解するうえで重要であることから、猿島砲台跡(横須賀市猿島1番)とあわせて平成27年に国の史跡に指定されました。

東京湾要塞とは
 日本で始めて西洋の築城技術と建築資材を導入して建設された砲台は観音崎砲台の第一・第二砲台で、明治13年(1880年)起工、明治17年(1884年)竣工です。観音崎砲台の起工以後、明治政府は首都東京や軍港防衛のために東京湾岸に沿岸砲台群を建設しました。これらの砲台群によって守備する土地を「要塞」と定め、東京湾要塞と呼称しました。
 東京湾要塞を構成する砲台群は、明治20年代後半までに20か所、大正から昭和にかけては火砲の能力向上に伴い防衛ラインを東京湾の南側に拡大して12か所の砲台が築かれました。

日本遺産
 千代ヶ崎砲台跡は、「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財として平成28年に日本遺産に認定されました。
 横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミュージアム」のサテライト施設でもあります。

千代ケ崎砲台の構造
 千代ケ崎砲台の海正面防御砲台は、3つの砲座が南北に並び、1砲座に2問ずつ、合計6門の28cm榴弾砲が配備されていました。地表からすり鉢状に深く掘りこまれた露天砲座の地下には、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部が造られ、砲弾の供給や地上との連絡、砲台内での貯水や排水の仕組みが合理的に設計されています。
 地下施設の壁は煉瓦造で、天井は無筋コンクリート造となっています。千代ヶ崎砲台より11年前に建設を開始した猿島砲台は地下施設の壁・天井ともに煉瓦造であり、2つの砲台を比較することにより建築資材や技術の改良と発展を見ることができます。

以下は案内所にて。

日本の要塞と東京湾要塞

日本の要塞

東京湾要塞

千代ケ崎砲台とは
 千代ケ崎砲台は東京湾要塞を構成した砲台のひとつで、明治25年(1892年)に工事が始まり、明治28年(1895年)に完成しました。
 東京湾要塞の中での任務は観音崎の砲台群の側防と浦賀湾前面海域の防御で、対岸の富津元州砲台とともに援助砲台に位置づけられました。
 千代ケ崎砲台は、28cm榴弾砲と呼ばれる大口径の大砲が備えられた榴弾砲砲台と小口径の加農砲などが備えられた近接防御砲台で構成されていました。
 榴弾砲砲台は南北に一直線に並んだ3砲座からなり、その延長線上の北側と南側にそれぞれ左翼観測所と右翼観測所が配置されていました。各砲座には28cm榴弾砲を据え付けた砲床は2つ置かれ、3つの砲座で合計6門の28cm榴弾砲が備えられました。

28cm榴弾砲
 28cm榴弾砲の砲身は全長約2.8m、最大射程距離は7.8km、砲弾の重量は217kgになります。砲身を水平にして砲弾と装薬を装填した後、砲身を仰角に合わせて発射します。弾道は高く放物線を描き、敵艦の甲板を貫いて、エンジンや火薬庫などの艦艇の重要な部分を破壊する狙いがありました。

砲座と地下施設
 千代ヶ崎砲台の榴弾砲砲座は地表から約6m低い場所に砲床が設計され、周囲はすり鉢状の高い旨檣が築かれて大砲を隠していました。敵艦艇からの砲撃による着弾の被害を小さくするため、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部などは砲座間の地下に造られています。

砲台の建設
 千代ヶ崎砲台が建設された土地は、浅く谷が入った細尾根が続く丘陵地でした。
 砲台の建設にあたっては、丘陵頂部を削平し、地下施設の建設場所を掘削して施設を建設した後に埋戻し、残土で浅谷の埋め立てや土塁などを造成する大規模な土木工事が行わました。建設工事は陸軍工兵第一方面が担当しました。

千代ケ崎砲台の構造

集水と排水の仕組み
 千代ケ崎砲台の水の流れには、砲台内部で雨水を集水・ろ過して生活用水を確保するための集水系統と、砲座などからの汚水を砲台の外に排出する排水系統の2系統がありました。
 集水系統は、飲用水など生活用水を確保する貯水所への導水システムです。貯水所は塁道の南北2か所で確認され、類同には貯水所につながる「ろ過下水溝」が埋設されています。ろ過下水溝で簡易ろ過された雨水は沈殿池の給水口から導水され、沈殿池からろ過池を経由して、最終的にきれいに濾過されて貯水池に貯められ、生活用水として利用される仕組みになっています。
 排水系統は、雨水とともに砲座や地下施設から出る汚水を砲台の外に排水する仕組みです。貯水所への集水系統と交わらないように設計されていました。

地下室に使われた建築資材
 千代ケ崎砲台の地下に造られた砲側弾薬庫などの諸施設は、脚壁が煉瓦造、天井は無筋コンクリートで造られています。また柵門への切通しや塁道の露天空間部分の擁壁は凝灰質礫岩という石材で造られています。
 煉瓦の積み方はイギリス積みと呼ばれる方式です。塁道に面した貯水所や棲息掩蔽部の煉瓦壁は、雨水の帯水を防ぐために撥水性の高い焼過煉瓦(焦げ茶色)、直接雨風にさらされない室内や隧道内は普通煉瓦(赤色)を用いるという使い分けをしています。使われている煉瓦は小菅集治監という当時の刑務所に併設されていた煉瓦工場で造られたもので、桜の花の刻印が押されています。
 一般公開に先立ち実施した砲台の構造体の健全度調査では数か所でコア抜きを行い、煉瓦の脚壁は奥壁が約75cm、天井を支える側壁が開く1.5mの厚さで、コンクリート像のヴォールト天井は最も厚いところで約2mに及びました。
 コンクリートの強度試験では、現在のコンクリートトンネルに必要とされる強度と同等の数値が得られ、千代ケ崎砲台の地下に残る諸施設は堅牢な構造物であることが分かりました。 

現在に残る砲台跡

千代ヶ崎砲台の歴史

28cm榴弾砲模型(原寸)

28糎榴弾砲 1/35スケール

千代ケ崎砲台(現状)の模型

小菅集治監製の煉瓦


軍道

千代ケ崎砲台にアクセスするための唯一の道として「軍道」が設けられていた。現在は横須賀市道であるが、唯一のアクセス道路としての役割は変わっていない。


柵門

千代ケ崎砲台の出入り口。唯一の出入り口。

凝灰質礫岩の擁壁。


掘井戸

入口近くに掘井戸が設けられている。水は貴重。

国史跡 東京湾要塞跡 千代ヶ崎砲台跡


土塁

土塁は海上自衛隊時代に削られたりもしているが、よく姿を残している。


塁道

千代ケ崎砲台は3つの砲座と3つの弾薬庫、3つの棲息掩蔽部と2つの貯水庫などの関連施設にわかれており、塁道でそれぞれが結ばれている。

塁道の擁壁は凝灰質礫岩。

アーチ部分はコンクリートで強化している。

塁道と砲座を結ぶ交通路。


濾過池と沈殿池

奥が濾過池で手前が沈殿池。斜面を利用し、雨水を貯めるために濾過溝で水を集水し、水が下りきったところに濾過池と沈殿池が設置されている。


貯水池(第二貯水所)

沈殿と濾過を終えた浄水は、貯水池に貯められる。千代ケ崎砲台には、南北の2か所に貯水所が設けられていた。

自衛隊時代は、蓄電池倉庫だったようで。。。
(剥がして撤収しなかったようで)

オランダ積み(イギリス積み)の煉瓦。

見事な煉瓦のグラデーション。露天部や入口部分は強度を高めた撥水性に優れた「焼過煉瓦(焼きすぎ煉瓦)」が用いられ、通常の普通煉瓦と使い分けているために色が異なる。


棲息掩蔽部

兵員の待機所、倉庫などが設けられていた。

交通路


弾薬庫

弾薬庫部分。

揚弾井


点灯室

点灯室。弾薬庫にランプが持ち込みできないために、ランプは隣の部屋にある。

弾薬庫から砲座に向けて階段を上がる。


高塁道

砲座への連絡通路。砲弾供給の通路でもある。
そして砲弾の揚弾井の上部。

砲弾を砲座に移動させるためのガイドが取り付けられていたと推測。



砲座

砲弾は横のスペース縦置きで並べていた。

伝声管の穴。隣の台座とつながっている。

砲座から弾薬庫に戻ります。

塁道へ。

棲息掩蔽部の上部には通風孔がある。

塁道

小菅のマーク入り煉瓦

棲息掩蔽部と貯水所

この先には右翼観測所があるが、民有地のために立ち入りができない。。。


砲台上部

砲台の上部に。気持ち良い空間。

第三砲座。

第二砲座。

そして第一砲座。

第一砲座
28cm榴弾砲を据え付けた場所です。
地上からコンクリートの床面まで約6mの深さがあります。
1つの砲座に2門の榴弾砲が設置されました。

桜の季節にも来てみたい。桜並木。

浦賀水道。東京湾フェリーが航行している。

千代ケ崎砲台の立地
 千代ヶ崎砲台は、眼下に東京湾を一望できる標高約65mの山の上に建設されました。
 要塞建設期(明治時代)に建設された砲台群の中では最も南に位置し、当時の防御線の外側です。28cm榴弾砲が据え付けられた海正面砲台は、東京湾内湾に侵入しようとする艦船と最初に対峙することが想定されていました。
 対岸の房総半島側は水深が浅く、大型の艦船は三浦半島寄りを航行します。そのため、三浦半島側に集中して砲台が建設されました。
 大型艦が通行する航路は浦賀水道とも呼ばれ、現在では世界有数の海上交通量を誇っています。

これは、良い東京湾要塞。

なにかの遺構。
横須賀市が管理している千代ヶ崎砲台跡地の敷地外の民有地。南側堡塁にあたる。

このあたりに右翼観測所。また近接防御砲台もあるエリアであるが同じく横須賀市管理敷地外の民有地。

富士山が見えた。

塁道を上から。

通風孔は塞がれている。

千代ケ崎砲台、ここは面白いですね。
ちょっとアクセスは不便ですが、一見の価値あり。
ボランティアガイドを活用して見学するのがおすすめです。

夏場に訪問したので、ちょっと草木が茂りすぎていたので、冬にも再訪したい、あと桜の季節にも良き花見ができそう。


燈明堂跡

千代ケ崎砲台の眼下には、もともとは燈明堂があった。
江戸時代に造られた日本式灯台。

燈明堂は慶安元年(1648)から明治5年(1872】まで灯台として機能していた。
そして燈明堂背後の山には、平根山台場が設けられた。
天保8年(1837)に日本人漂流民を送り届けるために来航した米国商船モリソン号を最初に砲撃した台場。
また燈明堂は浦賀奉行所の処刑場でもあり、供養塔もあつまっている。

千代ケ崎砲台のある場所を望む。
夏場なので、海水浴客で大賑わい。燈明堂に至る道が路駐で溢れてました、、、

※撮影:2022年7月

なお、千代ケ崎砲台の下には、海軍の学校があった。


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8120/bunkazai/chiyogasaki-koukai.html

https://routemuseum.jp/theme/navy/c03/

https://chiyogasaki-supporter.jimdofree.com/

https://www.cocoyoko.net/event/chiyogasaki-.html

砲台関連

「走水低砲台跡」散策(横須賀)

横須賀の走水。
古くは、日本武尊と弟橘媛命の伝説の地「御所ヶ崎」(旗山崎)として知られている当地は、江戸期には「走水番所」が置かれ、そして幕末には「旗山崎台場」が設けられた。
明治19年(1886)には、陸軍によって半円形の低砲台が築かれ「走水低砲台」として跡が残っている。
近年、横須賀では今まで未公開であった砲台跡の整備がすすみ、一般公開・見学ができるようになったので足を運んでみた。


御所ヶ崎

横須賀風物百選

日本武尊 弟橘媛命 伝説の地 御所ヶ崎
古事記・日本書紀によれば日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐のおり、走水から上総(千葉)へ船で渡ろうとした時、海が荒れて進めず弟橘媛(おとたちばなひめ)は海神の怒りを静めるために身を投じ荒れ狂う海を鎮めました。
地元伝承によれば武尊がこの地に臨時の御所を設け軍旗を立てたことから御所ヶ崎、旗山崎と呼び弟橘媛は御所ヶ崎先端の「むぐりの鼻」 に次女たちと共に身を投じたと伝わります。港には尊が海を渡るときに乗船したといわれる寺島(御座島)の名があります。
《古東海道》
日本武尊の東征の道は古東海道といわれ足柄峠を越えて相模国に入り三浦半島を横切って衣笠宗源寺・天神坂辺りから安房口神社、小原台・走水から上総へ渡る道順と考えられています。
 大津行政センター市民協働事業・大津深訪くらぶ

走水番所・旗山崎台場跡
天正18年(1590)徳川家康が関東に入封しました。
その後、船手衆である向井一族に明治走水に御船番を置き、向井政良は御船番、走水奉行を務め、後に三崎奉行・向井忠勝が兼任しました。三崎では上り船を、走水では江戸に下る船を検査しました。今も同心町海岸の名があります。
天保14年(1843)川越藩が江戸湾海防のため台場を築いた所で、六挺の大砲を配備し異国船の侵入に備えました。
明治19年(1886)旧陸軍によって築かれた半円形の低砲台が前方の松の木に現在も残されています。
旗山崎の名は日本武尊(やまとたけるのみこと)が上総(千葉)に渡る時海が荒れて進めず臨時の御所を設け軍旗を立てたことに由来します。
 大津行政センター市民協働事業・大津深訪くらぶ


走水低砲台跡

走水低砲台跡
走水低砲台跡とは?
 走水低砲台は、明治18年(1885年)から19年(1886年)に陸軍によって建設された砲台です。27cm可農砲4門を備え、東京湾要塞を構成する砲台の一つとして首都東京を守る任務にあたりました。
 日清、日露戦争とも交戦することはなく、また関東大震災で被害を受けましたが、その後、横須賀重砲兵学校の演習用砲台として復旧し、終戦まで稼働状態にありました。現在も良好な状態でほとんどの遺構が残っています。
 走水周辺は東京湾の内湾が房総半島と近接して最も狭くなる場所に位置し、江戸時代後期には旗山崎台場が築かれ、明治時代には低砲台のほかにも走水高砲台、小原台堡塁、花立台砲台が築かれるなど海防の重要地点でした。走水低砲台が建設された丘を含む岬一帯を示す「御所ヶ崎」や丘の周辺を指す「旗山崎」という地名は、古事記・日本書紀に伝わる日本武尊と妻の弟橘媛の伝説に由来しています。
 横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミュージアム」のサテライト施設でもあります。

兵舎の左右に弾薬庫がそれぞれ。
弾薬庫の左右に、砲座(第一から第四まで)がそれぞれ。
そして左翼観測所の遺構が残されているようだ。

一般公開は祝日と土日のみ、門扉が開放される。


弾薬庫(左翼)

まずは最初に弾薬庫が見える。
左翼の弾薬庫の奥には第四砲座と第三砲座がある。

走水低砲台の構造
 海岸に突出した海抜約20mの低丘上に4つの砲座が並び、27cm加農砲が設置されていました。
 4つの砲座の中央には地下式の兵舎(掩蔽部)を設け、第一砲座と第二砲座の間に共通の地下式の弾薬庫、第三砲座と第四砲座の間に同じく共通する地下式の弾薬庫が設置されています。

砲弾供給の仕組み
 砲座間の横檣(=防弾用の土塁)の下に設置された弾薬庫からは、左右の揚弾井を使用して地上の砲座に砲弾を供給しました。引き揚げられた砲弾は各砲座の弾室に納められ、射撃に備えました。
 2つの砲座は高塁道で連絡し、その中間には小隊長掩壕が造られ、両側の砲座に指示を出すことができました。

左翼の弾薬庫は、外からの見学のみ。


兵舎(兵員棲息部)

左右の弾薬庫の間には、兵舎がある。中に入れます。

ここに兵隊さんが待機していたのだろうが、収容人数はどのくらいなのだろうか。

左右の砲座と弾薬庫に繋がる道。


弾薬庫(右翼)

右側の弾薬庫。開放されている。

内部は、左右にわかれている。
右側は第一砲座、左側は第二砲座。

揚弾井
弾薬をここから引き揚げる。

弾薬を引き揚げる場所。
揚弾井
揚弾機の金具も残る。


第一砲座

砲座を第一から順番に見ていく。
見学用に見事に整備されている。

中央に、27cm加農砲が置かれていた。

海が見える。


速射加農砲座

9cm速射加農砲のアンカーボルト。4つ残っている。
横須賀陸軍重砲兵学校の演習用として、南門砲台(観音崎・関東大震災で大破除籍)の九糎速射加農砲4門が移設されたという。

1つ目。

東京湾要塞の砲台。
竣工順に32砲台が記載されている。走水低砲台は7番目。


第四砲座

見学用にきれいに整備されている。


左翼観測所

左側の観測所の基礎が残っている。
左翼があるなら右翼もと思いたいが、右翼は消失したのかな、、、。


第三砲座

樹木に覆われているが、第三砲座。


第二砲座

基本的には、同じ作り。

4つの台座と、2つの弾薬庫と、兵舎と、とても綺麗にのこっている、大変貴重な空間。ゆっくりと見学できたということもあり、ここは必見ですね。

撮影:2022年8月


関連

https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/hasirimizuteihoudai.html

https://routemuseum.jp/area/c/c01/

https://www.cocoyoko.net/spot/hasirimizuteihoudaiato.html

砲台関連

走水低砲台を演習用砲台として活用していたのが、横須賀重砲兵学校。

横須賀には、重砲聯隊も配備されていた。

観音崎が東京湾要塞の要であった。

走水関連

走水神社の近代史跡散策(横須賀)

横須賀の走水。日本武尊と弟橘媛命の伝説を残す古社。
今回は近代史の目線で参拝をしてみる。


弟橘媛命の記念碑

明治43年6月5日建立。
弟橘媛命の今際の御歌が刻まれている。
記念碑は、東郷平八郎、伊東祐亨、井上良馨、乃木希典、高崎正風、上村彦之丞、藤井茂太の7名が発起人となり建立。

さねさしさがむのをぬにもゆるひの
ほなかにたちてとひしきみはも
勲一等昌子内親王書

昌子内親王は、明治天皇の第六皇女。竹田宮恒久王の妃となる。

嗚呼此は 弟橘比賣命いまはの御歌なり命夫君 日本武尊の東征し給ふ伴われ
駿河にては危き野火の禍を免れ 此の走水の海を渡り給う時端無く暴風に遭ひ 御身を犠
牲として尊の御命を全からしめ奉りし其のいまはの御歌なり御歌に溢るゝ真情はすべて
夫君の御上に注ぎ露ばかりも他に及ばず其の貞烈忠誠まことに女子の亀鑑たるのみならず
亦以て男子の模範たるべし平八郎等七人相議り同感者の賛成を得記念を不朽ならしめ
むと御歌の御書を 常宮昌子内親王殿下に乞ひ奉り彫りてこの石を建つ
明治四十二年十月
発起人
海軍大将正三位大勲位功一級 伯爵 東郷平八郎
海軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 伊東祐亨
海軍大将従二位勲一等功二級 子爵 井上良馨
陸軍大将従二位勲一等功一級 伯爵 乃木希典
樞密顧問官兼御歌所長従二位勲一等 男爵 高﨑正風
海軍中将従三位勲一等功一級 男爵 上村彦之丞
陸軍中将従四位勲二等功二級  藤井茂太
  御歌所主事従五位勲六等 阪正臣謹書
  旭海鶴永富萬治敬刻

そうそうたる発起人が名を連ねる。

東郷平八郎
 日露戦争時の連合艦隊司令長官
伊東祐亨
 日清戦争時の連合艦隊司令長官、日露戦争時の軍令部長
井上良馨
 日露戦争時の横須賀鎮守府司令長官 
乃木希典
 日露戦争時の第3軍司令官
高﨑正風
 御歌所初代所長、初代國學院院長
上村彦之丞
 日露戦争の第二艦隊司令長官
藤井茂太
 日露戦争の第1軍参謀長


機械水雷

日露戦争での鹵獲品が奉納。

この機雷(機械水雷)は、弟橘媛(弟橘比賣命)の記念碑の序幕にあたり、発起人の一人で建立のため中心的な役割を果した海軍中将上村彦之丞から走水神社に寄贈されたもの。
上村中将は、除幕式の折には、第一艦隊司令長官に転じていますが、少し前まで横須賀鎮守府司令長官を勤めていた。

奉献
露国機械水雷
横須賀鎮守府司令長官
男爵 上村彦之丞
明治43年6月5日
走水神社氏子会


走水神社

御祭神:日本武尊 弟橘媛命

創建年代は不詳であるが、伝承では日本武尊が東征の途上に当地から浦賀水道を渡る際、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが始まりという。
走水神社は兼務社であり神職は非常駐。本務社は西浦賀の叶神社となる。旧社格は郷社。

社号額には、海軍少将大勲位依仁親王とある。
東伏見宮依仁親王のことですね。
海軍少将時代に、横須賀予備艦隊司令官(明治44年)や横須賀鎮守府艦隊司令官(大正2年)などを努めていたので、そのご縁で揮毫されたものと推測。

走水から眺める浦賀水道。

横須賀に来ると、たまに足を運んでしまう神社です。

※撮影は2022年8月

なお、御朱印帳と御朱印は、戦跡に興味を抱く前に参拝していた、だいぶ昔のころにいただいていましたので、参考までに掲載しておきます。

平成26年(2014)でした。8年前、、、


関連

JR根府川駅に残る機銃掃射弾痕(小田原市)

昭和20年。小田原周辺は度々の空襲に見舞われていた。

小田原地方の空襲

界隈では、二宮駅が8月5日にアメリカ軍戦闘機P‐51の機銃掃射を受けていた。

この日、襲来したP-51戦闘機の編隊は、各地の鉄道駅や列車を襲撃し続けている。二宮駅や小田原駅・下曽我駅・国府津駅などに機銃掃射を加えながら、丹沢山地を抜け内陸部へと飛行を続け、八王子・浅川の上空に到達し、走っていた列車に機銃掃射を行った。

また、小田原でも、7月から8月にかけて、いくどとなく空襲を受けていた。東京への空襲の進入路や退出路のひとつであった、からのようだ。

今回、訪問した根府川駅に残る機銃掃射弾痕が、いつの空襲かは定かではないが、昭和20年7月末頃、とされている。


JR根府川駅に残る機銃掃射弾痕

昭和20年7月末から、小田原地方は連日、米軍艦載機の空襲を受けていた。低空で飛び交う艦載機(主にP‐51マスタングか)からの機銃掃射は、人々を恐怖のどん底へと引き落としていた。
JR根府川駅の上りホームには、その機銃掃射の弾痕が多く残っている。

以下、見つけたものを、仮で番号を振りつつ、掲載。
見逃しや機銃掃射弾痕ではないものもあるかもしれませんがご了承いただければ幸いです。

【1】
階段からホームに降りたすぐ近くの屋根の柱の上部に大きく抉られた機銃掃射の弾痕がある。抉られた柱をのちに後ろに当て板をして補強しているものと見られる

【2】

屋根の下の柱には、いくつも抉られたあとがある。

【3】

【4】

【5】

【6】

【7】

【8】

【9】

屋根を支える柱も。手前の柱は綺麗なために、のちの補強か。

【10】

着弾の衝撃で凹んだと思われるコンクリート壁。

【11】
階段の壁にも穴が。

内側。

【12】
階段を支えるコンクリートが削られている。

【13】

階段の壁が、えぐられている。

【14】

弾痕の穴を木片で埋めているようだ。

【15】

【16】

【17】
【18】

【19】

【20】

【21】

【22】

【23】

【24】

これは違うかもしれないけど、削れているので、、、

【25】

【26】

【27】
【28】
階段を支える鉄筋部分。

【29】

まだまだあるかもしれませんが、ざっくりでも29箇所を見ることができました。


根府川駅旅客上家1号

昭和8年8月11日の建物財産標を確認できました。

風光明媚。


関東大震災殉難碑(根府川駅列車転落事故)

大正12年(1923年)9月1日。
東京発真鶴行普通第109列車が、根府川駅のホームに入線しかけたところで、関東大震災によって引き起こされた地滑りによる土石流に遭遇。根府川駅の駅舎やホームなどの構造物もろとも海側に脱線転覆して最後部の客車2両を残して全てが海中に没してしまった。
この事故に遭遇した列車の乗員乗客と根府川駅にいた乗客及び駅勤務職員のうち、112人が死亡している。
関東地震が原因となって引き起こされた最悪の被害を出した列車事故であった。

昭和48年(1973年)に根府川駅の改札口横に、鉄道関係者によって慰霊碑が建立されている。

関東大震災殉難碑

昭和四拾八年九月壱日 根府川駅職員一同

合掌


根府川駅(根府川駅旅客上家3号)

根府川駅旅客上家3号(駅本屋)は、大正13年10月5日と建物財産標に記載があるのが確認できる。。大正12年9月1日の関東大震災で駅舎を消失し、その翌年に再建された駅舎となる。

関東の駅百選認定駅

小田原ふるさとの原風景百選


根府川の高射砲陣地跡

根府川公民館には高射砲陣地が設けられていた。
高射砲部隊の所属していた元兵士が、1988年に、この地に陣地があったことを詠んだ句碑を建立している。

訪いくれば
 要塞たりし
丘高く
 公民館の白き
 映えおり
  正夫

高射砲陣地跡からは、海を望める。

※撮影:2022年8月


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M46-A-7-1-199
1946年2月15日、米軍撮影の航空写真。

拡大。根府川駅と高射砲陣地跡。


参考

小田原市のリーフレット「伝えておきたい小田原の戦争と平和」

https://www.city.odawara.kanagawa.jp/municipality/peace/peace/ki-20170149.html


関連(鉄道と機銃掃射)

日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」部分移設で保存となった観客席(取り壊し後)

2021年末、多摩川河川敷に開設された日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」観客席跡が取り壊しとなった。

当初は、全面的な解体が予定されていたが、観客席の保存活動を行っていた任意団体「多摩川スピードウェイの会」の尽力により、ほんの一部であるが、移築保存となった。

そうして、2022年7月に、3席分(幅約3.3m)の観客席(座面)と、2016年に設置した80周年記念プレートを移設し、2022年に新設された観客席について説明したプレートを追加し、往年の「多摩川スピードウェイ」を物語ることとなった。

「多摩川スピードウェイの会」

https://www.facebook.com/TamagawaSpeedwaySociety/

移設された観客席とプレートは堤防の上にある。


取り壊し前の「多摩川スピードウェイ」

取り壊し前の風景などは、以下の記事にて。


「観客席について」プレート

2022年7月に治水対策に伴う堤防強化工事が完了し、そして観客席の一部が移築保存された。階段状での移築は認められず、観客席のコンクリートの1段だけの移築。それでもここに、日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」があったということをなんらかの形あるもので伝承する大変貴重な遺構。
「多摩川スピードウェイの会」の皆さまのご尽力に頭が下がる。

実は、私もほんのささやかではございますが、縁があり。
「多摩川スピードウェイの会」にて、新しいプレートを作成するに当たり、写真の提供を行っておりました。

東急線車内から撮影されたこのアングルは、取り壊し寸前まで原型を保っていた観客席の拡がりや堤防と一体化した物量感を存分に表現しており、他にはない素晴らしい1枚です。

多摩川スピードウェイの会様のメールより

ありがとうございます。

写真提供後、忙しくなりメールを見逃してしまい、お披露目式のご連絡などもいただいておりましたが、参加すること叶わずとなってしまい、プレートを確認させていただいたのが9月になってしました。失礼しました。
この場を借りて、改めてではございますが、多摩川スピードウェイの活動に、ご協力できましたこと感謝しております。
ここに日本初の常設サーキットがあった!ということを、移築保存なった観客席とともに、ささやかであれども、長く後世に伝承していくことを、当記事でも引き続き協力させていただきます。

ありがとうございました。

プレートには特殊な顔料をタイルに焼成したもの、という。
下記は、「多摩川スピードウェイの会」より、いただいた写真より。

観客席について
1936年の開場時には、楕円形コースとあわせて長さ300mの階段状のコンクリート製観客席が堤防上に建設されました。コンクリート部分の厚みは、最大で30cm近くありました。
2016年に当会は、多摩川スピードウェイ跡地保存のシンボルとして、竣工当時のまま現存していた観客席に「開場80周年記念プレート」を設置し、川崎市に寄贈しました。
しかし、2021年に治水対策に伴う堤防強化工事により観客席は取り壊され、3席分のみをここに移設しています。
この観客席を、日本の自動差産業発展の礎としてだけでなく、85年以上にわたりこの地に存在した産業遺産・史跡として後世に伝えるべく、この碑に記します。
 寄贈:多摩川スピードウェイの会 2022年3月

2021年取り壊し前

2022年、取り壊し後


取り壊し後の「多摩川スピードウェイ」

以下、現地写真など。

多摩川スピードウェイ
多摩川スピードウェイは、日本初の常設サーキットとしてこの地に建設されました。階段状のコンクリート製堤防は、当時の観客席そのものです。
1936年6月の第1回大会以降、ここで第2次世界大戦前の数年間を中心に自動車・オートバイのレースが開催され、3万人の観客を集めていました。
若き日の本田宗一郎氏をはじめ、出場者・関係者の多くは、レースで得た技術・経験を活かし、戦後の自動車産業の発展において中心的な役割を果たしました。
開場80周年を機に、多摩川スピードウェイが果たした役割と、先人たちの功績を後世に語り継ぐべく、この碑に記します。
 寄贈 多摩川スピードウェイの会 2016年5月

は観客席の椅子を固定するものであった。

いたって、普通の堤防になってしまいました。。。

東急線の車窓から。

※撮影:2022年9月

「勿来の風船爆弾打ち上げ基地」跡地散策(福島県いわき市)

東京と仙台の中間地点にある「勿来」。
古来、この地には「勿来の関」が設置され、白河の関と並んで、関東と東北の境目であった。
太平洋戦争中、ちょうど「勿来の関」を挟んで南北に、「風船爆弾」の放球基地が設置された。
北は勿来で、南は大津港。
南の「大津港の放球基地跡」は、以前に取り上げていました。

一宮の放球基地跡は以下で。

今回は、北側の「勿来の放球基地跡」を散策してみます。


風船爆弾(ふ号)

太平洋戦争において日本軍が開発・実戦投入した、気球に爆弾を搭載した爆撃兵器。
日本本土から偏西風を利用して北太平洋を横断させ、時限装置による投下でアメリカ本土空襲を企図。
「風船爆弾」は、戦後の名称。当時の呼称は「気球爆弾」であり、防諜符号として「ふ号」「風船」などと呼称されていた。

千葉の気球聯隊が母体となり、ふ号差苦戦気球聯隊が編成され、連隊本部と第1大隊が茨城県大津、第2大隊が千葉一宮、第3大隊が福島勿来であった。
発射基地(放球基地)も、千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の各海岸に設けられ、昭和19年11月から昭和20年3月までのあいだに、約9300発が放球されたという。
9300発のうち、アメリカ本土到達が300発前後。
1945年5月5日オレゴン州で風船爆弾不発弾に触れた民間人6人が爆死。あとは小規模の山火事など。 風船爆弾による心理的効果は大きく米国内では箝口令が引かれていた。

実戦に用いられた兵器として、約7,700 km(茨城県からオレゴン州への概略大圏距離)は、発射地点から最遠地点への攻撃。
また、ほぼ無誘導で、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器であった。

風船爆弾は、登戸研究所第一科で開発されたものであった。
明治大学生田キャンパス内の「明治大学平和教育登戸研究所資料館」には、風船爆弾の復元展示や気球紙の作り方の説明などもある。

こちらは、江戸東京博物館に展示の風船爆弾復元模型。
気球部分を約1/5、ゴンドラ部分を約1/2に縮小して復元。

風船爆弾(復元模型)
縮尺:気球部:約約1/5、ゴンドラ部分:約1/2
 風船爆弾は、日本軍がアメリカ本土の攻撃のために開発したもので、和紙をこんにゃく糊で貼りあわせて作った直径10mの気球に、爆弾や焼夷弾を吊り下げて飛ばした兵器である。陸軍によって秘密裡に開発されたこの兵器は、軍の施設のほかに、日本劇場や東京宝塚劇場、国技館といった大きな空間を持つ施設で製造された。製造にあたっては、学徒勤労動員によって集められた女学校の生徒たちが多数従事した。完成した風船爆弾は、太平洋沿岸の千葉県の一宮や茨城県の大津、福島県の勿来にあった各打ち上げ基地より、1944年(昭和19)11月から翌年4月にかけて9,000個あまりが打ち上げられた。そのうち300個弱がアメリカ大陸に到達し、オレゴン州では6人が犠牲になったという。
 この模型は、実物を保管しているアメリカ・ワシントンの国立航空宇宙博物館が作成した報告書などをもとに、気球部を約1/5、ゴンドラ部分を約1/2に縮小して制作した。
※江戸東京博物館展示資料より


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M205-A-7-143
昭和21年(1946年)7月24日、米軍撮影の航空写真。

拡大。

案内開設看板の地図を反転して比較。


「風船爆弾勿来基地」の跡地散策

JR勿来駅から風船爆弾の放球基地=勿来基地があった場所を眺める。
左側の山に「放球監視所」があり、放球基地は三方を山に囲まれた谷戸にあった。

常磐線。


風船爆弾勿来基地引込線の橋台跡

小さな小川をまたぐために、橋が設けられていた。引込線の橋台だけが、残っている。線路は複線だったのだろうか。2対の橋台がある。

駅側の内陸の橋台。

駅側の海寄りの橋台。

勿来基地側の内陸の橋台

勿来基地側の海寄りの橋台。

物理的には、この2対の引込線の橋台が、風船爆弾勿来基地を物語る唯一の戦跡かもしれない。

場所

https://goo.gl/maps/ejerQX7cFxNoKAwN7


勿来基地の引き込み線跡

山裾を引込線が曳かれていたと思われるが、特に何も残っていない。


風船爆弾勿来基地跡

風船爆弾基地図として、勿来基地跡図と、風船爆弾全体図の案内板が立っている。

隣にある石碑は、勿来基地とは関係ない歌碑であった。
山口茂吉の歌碑。斎藤茂吉の弟子。山口茂吉の妻である恭代子が少女時代にいわき植田で過ごしていた縁からの歌碑。

何度見渡しても、この看板以外に、風船爆弾を物語るものはありません。

風船爆弾勿来基地の衛兵所跡

さきに進んで見る。
右側に衛兵所があった。

風船爆弾勿来基地の本部跡

本部跡があったと思われる空間。なにもない。

ソーラーパネルがある。

風船爆弾勿来基地の兵舎跡

兵舎跡があったと思われる場所も何もない。

トンネルとかバイパスとか新しい道路が建築中。
これでますます風船爆弾勿来基地を物語る雰囲気は消失していくのかな。。。

風船爆弾勿来基地の放球台跡

放球台があったと思われる場所。

ソーラパネル、、、

風船爆弾勿来基地の引込線ホーム跡

道路の右手に線路があった、はず。

薮しかない、、、

道路を先に進めば、勿来の関。

風船爆弾勿来基地の火薬庫跡

道路の左側の高台に火薬庫があった、らしい。

うーん、なにもないですね。
この先の勿来関に行く時間的な余裕はないので、とぼとぼと勿来駅まで戻ります。。。


勿来駅

東北の駅百選

源義家さん

風船爆弾の跡地を散策するのであれば、勿来は引込線の橋台が物理的な見どころ。放球台は、南の大津基地に残っているので、勿来関の南側がおすすめ。


勿来基地は、ほぼなにもないということを確認した感じです。

※撮影:2022年8月

米沢の近代史跡散策・その1

山形県米沢市に赴く機会があったので、米沢城周辺を散策してみました。


招魂碑

米沢城址、上杉神社の境内の上杉謙信祠堂(御堂)跡に建立されている招魂碑。

招魂碑
 この招魂碑は、慶応4年(1866)に始まった戊辰戦争で、主に新潟方面で西軍と激戦の末に戦死した米沢藩士280余名と、明治10年(1877)におこった西南戦争の戦死者52名を慰霊するために、明治11年4月に建てられました。その後、日清・日露戦争で戦死した将兵の霊も合祀されています。この場所は、米沢城本丸の東南隅にあたり、藩祖上杉謙信公の遺骸を安置した御堂があったところです。毎年2月に開催される雪灯篭祭は、この地で執り行われます。
 碑は、凝灰岩で高さ約3.4メートル、総高約5.8メートル。碑銘は、戊辰戦争に従軍して参謀を務めた齊藤篤信(後の山形県師範学校初代校長)が、稲穂の芯を束ねた特製の大筆で書いたものです。
 米沢市
 米沢観光協会

上杉謙信祠堂(御堂)跡

松が岬公園の南東の高台にある謙信公御堂跡(米沢城本丸南東)。ここは米沢城下で一番高い場所。


傷痍之碑

上杉神社境内社の春日神社敷地内に建立。

恒久平和祈念
傷痍之碑
米澤市傷痍軍人会
米澤市傷痍軍人妻之会

傷痍之碑
趣意書
 ああ 過ぎしいくさの日日を憶えは痛ましくも悲しく万感胸に迫る
 時まさに風雲急を告げ青春の血を燃やし国難に殉せんと祖国遥かに陸海空の戦陣に召されるや護国の大任に就き戦傷病を負い戦列を去ったわれら傷痍軍人は、昭和20年8月15日痛恨と慟哭の裡に終戦を迎えた
 国破れて山河あり 傷痍の身に生命の灯を点し帰郷したわれらは、以来耐え難き苦悩と心身の障害を克服 祖国再建 平和布求の決意も新たに再起し妻とともに相寄り相扶な生活を刻み心魂を傾け生きてきた生きざまを省みるとき 恒久平和 祖国郷土の発展 家運繁栄を衷心より記念して止まず 願わくはこの熱き思いを込めたわれらの志を永く伝えるべく 四季美しく神鎮まる城址の丘に傷痍の碑を建立 協賛会員一同の名を刻み 鎮魂のため 上杉神霊の加護を祈願奉納するものである
 昭和57年5月1日
  米澤市傷痍軍人会、
  米澤市傷痍軍人妻之会

春日神社は、上杉鷹山公が学問・武芸に励むことや、行動や賞罰に不正の無いこと等を誓った誓詞を奉納した神社。


慰霊の碑

松が岬公園内。

ふるさとの父母想い 
 妻や子の 
やすらかなれと
 祈りつつ
平和を願い
 散りし魂

戦後50年の節目の年に当り、あらためて、あの太平洋戦争を顧みながら、世界の恒久平和と、御霊の永遠の安寧を願うとともに、あの痛ましい悲惨な戦争体験を風化させることなく、戦争を二度と起こさない証として、ここに慰霊碑を建立する
  平成7年9月
   米沢市遺族連合会  
   米沢市遺族共励会
     婦人部
     青壮年部


建国記念の日碑

松が岬公園内。

上杉鷹山が米沢に迎え入れられた際に、義父の上杉重定は、歓迎の意を表して米沢城大手門前広場の前を流
れる御入水川(上水道)に架かる橋を、新しく石橋に架け替えた。上杉鷹山は、この新しい橋に気が付き、下馬をして橋の前で頭を下げて徒歩で橋を渡ったという。人々は鷹山の人柄に触れ、この石橋を「いただき橋」と名づけました。のちにこの石橋が割れてしまうが、その石で「建国記念の日」碑を建てて、形を変えつつ鷹山の人柄を伝承している。

建国記念の日
2月11日


以下、近代史に限らずで、米沢城址・松が岬公園の散策を。

従三位上杉曦山公之碑

第12代上杉斉憲公。
正面の題字は、陸軍大将兼参謀総長で書道に優れた有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の筆。
裏面の斉憲の経歴は勝安房(かつあわ)(勝海舟)の撰文。


稽照殿(上杉神社宝物殿)

稽照殿は、大正8年の米沢大火による大正12年の上杉神社再建に際し、宝物殿として創設。
設計は米沢市出身の建築家・伊東忠太。
平成10年に登録有形文化財に認定。


赤穂事件殉難追悼碑

吉良上野介の正室は、米沢藩主の娘であり、赤穂浪士が実際に討ち入りの時には、吉良上野介の実子(上杉綱憲)が上杉家に養子入りして藩主となっていた。


上杉神社

松が岬公園(米沢城址)に位置し、上杉謙信を祀る。旧社格は別格官幣社。
現在に残る社殿は、大正12年に竣工。設計は米沢出身の伊東忠太によるもの。


米沢城

伊達政宗公生誕の地

伊達政宗は永禄10年(1567)、米沢城で生誕している。

上杉鷹山公之像(上杉神社参道)

天地人
上杉景勝公と直江兼続公主従像

上杉謙信公


逸三之像

日本で初めて人造絹糸(レーヨン)製造に成功した科学者・実業家。帝国人造絹糸(現・帝人の前身)共同設立者。


明治天皇行在所遺趾

明治天皇が明治14年9月に東北地方を巡幸した際、米沢に宿泊した場所(行在所)。当時新築の南置賜郡役所がこの地にあった。
南置賜郡役所は大正8年の米沢大火で類焼。大正10年に 明治天皇ゆかりの遺蹟があったことを記念して石碑が建立された。


米沢牛の恩人
チャールズ・ヘンリー・ダラス碑

1842年(天保13)、英国の首都ロンドン市で生まれる。1862年頃(文久2)、鉱物商として中国大陸に渡り、1865年(慶応元)に初来日した。
明治4年10月、米沢興譲館洋学舎で教鞭をとり、明治8年に任期を終え横浜の居留地に戻る折り、お土産として米沢の牛を持ち帰ったとされている。その米沢肉をイギリス人仲間に食べさせたところ、その食味の良さに驚き大好評であったといわれ、米沢牛が有名となった。


上杉鷹山公之像(松が岬第2公園)


草木塔

石碑草木塔。草木の魂を供養する碑。


松岬神社

松岬神社(まつがさきじんじゃ)。
上杉鷹山、上杉景勝、直江兼続、細井平洲、竹俣当綱、莅戸善政を祀る。
上杉謙信の祠堂を改めた上杉神社に合祀された米沢藩中興の大名・上杉鷹山は、明治35年(1902年)に上杉神社が別格官幣社に列せられるに際し、米沢城二の丸世子御殿跡に設けた摂社「松岬神社」に遷座された。
旧社格は県社。上杉神社摂社。

上杉景勝公

松が岬公園

場所

https://goo.gl/maps/Cv3Xb6aPnNzMLBDG7

撮影:2022年5月


関連

米沢出身の建築家・伊東忠太

適塾の流れをくむ「大阪仮病院」と「蘭医ボードウイン」の史跡散策

大阪の医学は、「適塾」から始まった。
もっとも「適塾」と言ってしまうと、日本の医学にも多大な影響を残しており、大坂だけの話ではなくなってしまうが。


適塾から浪華仮病院へ

緒方洪庵が、大阪船場で開塾した適塾(1838-1868)は、幕末から明治にかけての名士を多く輩出していた。福沢諭吉や大村益次郎なども適塾頭を務めていた。門下生にも、大鳥圭介、高松凌雲、佐野常民、池田謙斎、杉亨二、高峰譲吉など錚々たる名が連なっている。
緒方洪庵は1862年(文久2年)に、大坂の適塾を養子の緒方拙斎に委ね、江戸幕府奥医師および西洋学問所頭取就任のために江戸に移住。
1863年(文久3年) 洪庵が江戸の医学所頭取役宅で客死。
緒方洪庵の墓は、大坂の菩提寺であった大阪市北区の龍海寺と、客死した先の東京都文京区の高林寺にある。

1868年(明治元年) 適塾閉鎖。
1869年(明治2年)後藤象二郎大阪府知事、参与小松清廉の尽力により、現在の大阪市天王寺区上本町四丁目の大福寺に「浪華仮病院」および「仮医学校」が設立。
設立にあたっては、適塾関係者が多く採用された。

「浪華仮病院」院長は緒方惟準(洪庵の次男)
主席教授としてオランダ軍医ボードウィン(長崎ではボードウィンのもとで緒方惟準は生徒でもあった)を招き、大福寺の施設の提供を受けて、一般の病気治療と医師に対する新治術伝習のために「仮病院」が設立された。
半年後に、現在の法円坂の大阪医療センター付近(大坂代官所跡)に移転し「大坂府医学校病院」となる。緒方惟準、緒方郁蔵(義弟)、緒方拙斎らがこれに参加。
京都で刺客に襲われた大村益次郎が担ぎ込まれたのも、この「大坂府医学校病院」であった。医学校病院は当時は、長崎・大坂・東京のみ。

「浪華仮病院・仮医学校」は、「大坂府医学校病院」となり、その後も改組・改称を経て「大阪帝国大学」へと発展し、現在の国立大学法人「大阪大学」となっている。
つまり、大阪大学医学部の前身にあたる。


大村益次郎と緒方洪庵

大村益次郎の話と、緒方洪庵の墓などは以下の記事にて。

緒方洪庵

「緒方洪庵旧宅及び塾」として史跡となっている。

緒方洪庵の適塾

適塾

https://goo.gl/maps/4QvDxDc5sN4twULt9


大坂の假病院跡(大福寺)

大坂の假病院跡
 大福寺は、明治元年春から明治貳年秋まで、大坂の假病院にあてられた。大阪大學の醫學教育はここからはじまる。
 明治元年参月、ようやく平和を恢復した大坂の街に、明治天皇は行幸されたあと、恵まれない人のために病院をたてるべきとの御沙汰書を出された。これをうけて明治政府と大坂府は直ちに準備にとりかかり、大福寺の建物を利用して診療をはじめたが、明治貳年貳月、緒方惟準は恩師蘭醫ボードウインとともに、假病院の診療と醫学教育に専念した。
 その後、鈴木町代官屋敷、いまの法円坂町国立大阪病院敷地に大坂醫学校と病院ができたので、この假病院の使命はおわった。
 ここに、百年の歴史をかえりみて、これをたてる。

A.F.Bauduin
(1822-1885)

アントニウス・フランシスクス・ボードウィン
Anthonius Franciscus Bauduin
1820年6月20日 – 1885年6月7日
オランダ軍の軍医。
1862年(文久2年)、江戸幕府の招きを受けて来日。
ポンペ(日本に近代西洋医学教育をもたらした)の後任として長崎養生所の教頭となる。その間、東京、大阪、長崎で蘭医学を広める。
1866年(慶応2年)に、緒方惟準らオランダ留学生を伴ってオランダに帰国。
1867年(慶応3年)に再来日。
1869(明治2年)に、緒方惟準が浪速仮病院の院長となり、ボードウィンも病院の運営に関与。
1870年、大阪仮学校、大阪陸軍病院に務め、オランダに帰国。
1873年にオランダ陸軍に復帰。1884年に退役。

緒方惟準
(1843-1909)

緒方惟準(おがたこれよし・いじゅん)
緒方洪庵の次男。
慶応元年(1865)にオランダ留学。明治元年(1868)に帰国し、 明治天皇の侍医となる。
明治2年(1869)に浪速仮病院の院長となり、オランダの軍医ボードウィンらとともに病院の運営する。
明治4年(1871年)から陸軍の軍医となる。
明治18年(1885年)には、陸軍軍医学会長兼近衛軍医長として脚気の予防策に麦飯給食を勧めたが、軍上層部と対立。
明治20年4月陸軍を辞して大阪にて緒方病院を開設した。
明治42年没。

ちなみに、陸軍部内での脚気問題は、その後の明治37年-38年の日露戦争でも多数の脚気患者が発生。陸軍手動(陸軍省医務局長の森林太郎・森鴎外)で明治41年(1908)に臨時脚気病調査会が設立され、大正13年(1924)にビタミン欠乏説が確定し、臨時脚気病調査会が解散するまで続いた。

浪華假病院跡

大福寺

場所

https://goo.gl/maps/jzDxuN4Xwa5hUywA6

資料

https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009681.html

https://juken.y-sapix.com/articles/5945.html


ボードウィン顕彰碑
蘭医者ボードウィン逗留の寺(大坂・法性寺)

大坂の法性寺には、「ボードウィン顕彰碑」がある。
大坂仮病院で教師をしていたボードウィンは、法性寺に居住していた。

ボードインゆかりの地

蘭医ボードウィン逗留の寺
明治元年大阪に行幸された明治天皇が、知事後藤象二郎に病院建設を命じ、大福寺(現天王寺区上本町)に大阪仮病院が設置された。
院長は緒方洪庵の次男惟準で、教師はオランダから招聘された蘭医ボードウィンであった。惟準はボードウィンの身の回りの世話を「適塾」の門下生で薩摩藩出入御用商人薩摩屋半兵衛広長に頼み、法性寺がその寓居となった。
ボードウィンは、生活習慣の違いから豚を寺内で飼育したりして周囲を驚かせもしたが、熱心な法華信仰者の半兵衛の教化を受け、南無妙法蓮華経の題目を唱えるようになったという。
適塾と大阪仮病院は、阪大医学部の前身である。
またボードウィンは日本最初上野恩賜公園生みの親でもある。
A.F.Bauduin (1820-1885)

法性寺。袖門の脇に顕彰碑がある。

場所

https://goo.gl/maps/WP6ZsuubKDgafEFw6

距離感は、700m


ボードワン博士像(上野恩賜公園生みの親)

ボードワン博士像が上野公園内にある。

ボードウィン(ボードワン)は、明治2年に緒方惟準が院長となった大阪仮病院の教師に就任する。明治3年に任期が切れたボードウィンは帰国直前であったが、普仏戦争の勃発で就任予定だったドイツ人医師の着任がおくれていたため教師が空席だった東京の「大学東校」(医学校兼病院・のちの東大医学部)のショートリリーフとして2ヶ月間だけ講義を実施。その際に「大学東校」の校地として上野の山が候補にあがっていたのを、ボードウィンは大反対をし、「東京一の公園にすべきだ」と主張。オランダ大使館を通じて政府にも忠告書を提出し、明治政府はボードウィンの主張を受け入れて、「大学東校」の上野認可を取り消し、上野に公園を建設することに決定した。「大学東校」は上野から本郷加賀屋敷跡に変更。結果として、上野には東京一の「上野公園」が建設され、本郷には「東京大学」が設置された。
ちなみに、ボードウィンが日本に持ってきた健胃剤が、太田胃散のもとともなっている。

ボードワン博士像
Dr.A.F Bauduin
 オランダ一等軍医ボードワン博士は医学講師として1862年から1871年まで滞日した。かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを機に大学附属病院の建設が進められていたが、博士はすぐれた自然が失われるのを惜しんで政府に公園づくりを提言し、ここに1873年日本初めての公園が誕生するに至った。上野恩賜公園開園百年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。

実は、1937年に建立されたボードウィン像は、弟の写真をベースにした像であったことが判明したため、2006年にボードウィンゆかりの大坂法性寺の寄贈で、現在の兄のボードウィン像に改められた。
撤去された弟のアルベルト・J・ボードウィンの像は、オランダ大使館を経て、神戸市ポートアイランド北公園に設置されている。これは、アルベルト・J・ボードウィンが、神戸初代領事であったゆかりによる。

東京都
台東区
上野観光連盟
オランダ大使館
1973年10月

東京都
台東区
上野観光連盟
オランダ大使館
大阪市 法性寺
2006年10月


※撮影:2022年7月

次回の大坂では、適塾跡と法性寺に行かないと、です。

2022年9月に再訪分追記しました。

機銃掃射弾痕が残る黒門町架道橋(JR大阪環状線玉造駅)

JR大阪環状線玉造駅のすぐ隣の鉄橋。ここに無数の穴が開いている。
この無数の穴は、機銃掃射の弾痕、という。

中央の柱に残る、強烈な痕跡。H鋼の2枚を貫通した弾痕に、すさまじい威力を感じるとともに、恐怖と悲劇も思い起こさせるものがある。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M84-1-97
1948年08月31日に米軍が撮影した航空写真を加工。

大阪城には陸軍第四師団司令部が置かれ、そして大阪城の西側、森ノ宮駅の北側には「軍需工場」(大阪砲兵工廠・大阪陸軍造兵廠)が展開されていた。

大阪陸軍造兵廠は、空襲により、80%を焼失している。
このエリアが重要な軍事拠点であり、逆に言うと、米軍からすれば重要攻撃拠点であったことがわかる。


黒門町架道橋(橋脚)

道路の真ん中にある、黒門町架道橋の橋脚部分。
大きくえぐられた穴がある。なかなかに衝撃的な穴である。

機銃弾痕は、東側から西側に銃弾が飛んだことを予想させる痕跡を残していた。

東側。

交通量が多いため、なかなかじっくりと写真を撮ることも難しいため、グーグルストリートビューの画像を借ります。

https://goo.gl/maps/vj9pm79fqNTXqn8v5

東側。

機銃痕をマークしてみた。

実は、ひとつ謎がある。

銃痕が下から上って、どういうことでしょうか?

国土地理院の地図で高低差を見てみると、大阪城南部の高低差がわかってきます。

https://maps.gsi.go.jp/#15/34.674529/135.533202/&base=std&ls=std%2C0.72%7Cslopemap%7Chillshademap%2C0.23%7Crelief%2C0.59&blend=101&disp=1111&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

それこそ大阪城のの東側は低地、南の高台には「真田丸」もありました。
この高低差は、今も昔も変わりません。

つまり、米軍の戦闘機(P-51 マスタング)は、あり得ないほどの超低空飛行で長堀通り上を飛行し、地表スレスレの位置から、黒門町架道橋を機銃掃射したことが予想されます。
長堀通りの高低差に合わせて超低空飛行での機銃掃射であれば、「黒門町架道橋」の部分が下から上ということも理解はできます。行為そのものに理解出来るかはまた別ですが。

https://www.google.com/maps/place/%E7%8E%89%E9%80%A0/@34.6742724,135.5364859,30a,35y,276.45h,79.32t/data=!3m1!1e3!4m5!3m4!1s0x6000e0b04f5c6103:0x48697e6491d73e8!8m2!3d34.673469!4d135.532835


黒門町架道橋(橋桁)

橋桁部分にも無数の機銃掃射痕跡がありました。

位置関係

https://goo.gl/maps/iFTn7Rb3jkfckGAo9


東成警察署 中道本通警ら連絡所

玉造駅からほど近いので、脚を運んでみた。
建設は、昭和12年(1937年)。暗越奈良街道の細い道に面している。
この界隈は、ほぼ空襲で焼失したなかで、残った戦前の建造物。
「警ら連絡所」は、警察官は常駐せず、主にパトロール中に立ち寄る、といういうもので、どうやら大阪のみで使用されている名称のようで。

場所

https://goo.gl/maps/xMDE5tJeF7WuS3W6A

※撮影:2022年7月


関連

日本の高さの基準点「日本水準原点」一般公開

かつて「陸地測量部」があった場所は、現在は「国会前庭」として整備されている。
その場所にあるのが「日本水準原点」。
日本水準原点と日本水準原点標庫は、測量分野では初の国指定重要文化財となり、監視用の附属水準点標石3点は附指定とされている。


測量の日

測量法が昭和24年6月3日に公布され、平成元年に満40年を迎えたことを機会に、測量の意義と重要性に対する国民の理解と関心を高めることを目的として、6月3日を「測量の日」として制定。

https://www.gsi.go.jp/kinki/survey_day-survey_day_index.html

https://www.gsi.go.jp/kanto/kanto40002.html

毎年6月3日を中心に「測量と地図のフェスティバル」「国土地理院技術研究発表会」「日本水準原点を始めとする各種施設公開」等の測量と地図に関する情報と知識を国民に啓発する運動を広範囲に展開されている。

2022年(令和4年)は、5月25日に「日本水準原点」の一般公開がありましたので、見学してきました。


水準原点(日本水準原点)

日本の高さ(標高)の基準点となる、水準の原点が一般公開されました。
普段は、扉が閉じられております。

重要文化財【建造物】
「日本水準原点」
  所在地 東京都千代田区永田町1-1-2
  指定 令和元年12月27日
 日本水準原点は、明治24年に創設された我が国の高さの基準になるもので、130年近くにわたり、我が国の測量の歴史を支えている重要な施設です。
 日本水準原点の歴史的及び技術的な価値が認められ、測量分野の建造物としては初となる国の重要文化財に指定されました。
日本水準原点 
 日本水準原点の零目盛りは、温度変化の影響を受けにくい水晶板に刻まれており、丈夫な花崗岩台石にはめ込まれ、固い岩盤まで達する約10mの基礎に支えられています。
日本水準原点標庫
 日本水準原点標庫は、ドーリス式ローマ神殿形式の古典的建築で、日本人建築家により設計された初期の洋風建築として、歴史的、建築学的にも貴重なものです。
  令和元年12月
   国土地理院

これが水準原点
目盛尺の材質:推奨(山梨県産)
 長さ25cm、幅5.5cm

水準原点

日本水準原点
 日本水準原点は、我が国の土地の標高を測定する基準となる点である。明治24年(1891)5月にこの場所に設置した。
 日本水準原点の位置は、この建物の中にある台石に取り付けた水晶板の目盛りの零線の中心である。その標高は明治6年から12年までの東京湾の潮位観測による平均海面から測定したもので、24.500メートルと定めた。
 その後、大正12年(1923年)の関東地震による地殻変動に伴いその標高を24.4140メートルに改正したが、平成23年(2011年)3月11日の東北地方太平洋沖地震による地殻変動に伴い24ミリメートル沈下したため、新たに24.3900メートルに改正した。
 平成23年10月21日
 国土地理院

開扉されています。はじめて開いているところを見ました。

このゼロ目盛(零位)が原点数値。
目盛りの部分は水晶。水晶版を花崗岩でしっかりと固定している。
ゼロ表示の高さ、原点数値は24.3900mとなっている。(2011年現在)

扉の模様も美しいのですが、開扉中はもちろん正面からは見えません。

扉をしめているときは、こんな感じ。

年に1度の一般公開は、平日にはなりますが、これは調整してでも見る価値ありますね。


水準原点(日本水準原点)裏側

水準原点の裏側も公開。

明治24年
辛卯5月建設
陸地測量部

明治24年は1891年。
ちょうど、1891年5月11日には、ロシア皇太子(ニコライ二世)来日中に、滋賀県にて警官に切りつけられ重傷を負った「大津事件」があった。

水晶版がはめ込まれた舟型台石(厚さ36cm、長さ2.7m)を花崗岩の正八角形台石(厚さ45cm)が支え、さらに台石の下を、10m下の岩石層まで達するコンクリートの基礎が支えている。

舟形台石の裏側(下部)には、関係者5名の名前が刻まれてる。

参謀総長陸軍大将大勲位 熾仁親王
参謀次長陸軍中将従三位勲三等 川上操六
陸地測量部長陸軍工兵大佐正六位勲四等 藤井包總
陸地測量部三角科長陸軍工兵中佐従六位勲六等 田坂虎之助
陸地測量部三角科班長陸軍工兵大尉正七位勲五等 唐澤忠備


日本水準原点標庫

保管庫として、「日本水準原点標庫」は以前に紹介をしておりました。

https://senseki-kikou.net/?p=5007

菊の御紋と大日本帝国の文字残っている。

大日本帝国

明治24年5月に、陸地測量部の庭園であった現在地に設置された。
現在も使用されている公的建造物において「大日本帝国」号を残している希有な建造物としても貴重。

設計は、佐立七次郎。
日本近代建築の父といわれた、ジョサイア・コンドルの一番弟子。
生涯で設計した建造物は34棟を数えるが、現存する建造物は、「日本水準原点標庫」と「旧日本郵船株式会社小樽支店」の2棟のみ。

日本水準原点の建物(標庫)は文化財
「特徴」
・小ぶりな石造
・ローマ風神殿建築 トスカーナ式
・明治期の数少ない近代洋風建築
・佐立七次郎の設計
  東大建築学科(現在)第1期生(4人)のひとり
「注目」
・装飾
・文字
・円柱の柱
・扉の模様
建築面積:14.93平方m 軒高3.75m 総高:4.3m

東京都制定有形文化財(建造物)
日本水準原点標庫
 日本全国の統一された標高決定のための基準として、明治24年(1891)5月に水準原点が創設されたが、この建物はその水準原点標を保護するために建築されたものである。設計者は工部大学校第1期生の佐立七次郎(1856~1922)。建物は石造で平屋建。建築面積は14.93㎡で、軒高3.75m、総高4.3m。正面のプロポーションは柱廊とその上部のエンターブラチュア(帯状部)とペディメント(三角妻壁)のレリーフ装飾で特徴づけられる。
 日本水準原点標庫は石造による小規模な作品であるが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカーナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な模範建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重である。
 平成9年(1997)3月31日建設  
 東京都教育委員会


機械台と一等水準点

陸軍参謀本部陸地測量部の敷地内に水準原点と一等水準点が設置されている。

甲・乙・丙・丁・戊
「丁」のみが地上に設置。それ以外は地中にある。
今回は「甲」も公開されておりました。

水準原点の前にあるのが「機械台」

記載台のさらに北の先に一等水準点「甲」がある。
普段は、鉄の蓋の下。

一等水準点「乙」

一等水準点「丙」

一等水準点「丁」
「丁」のみが地上にある。その他は鉄の蓋の下。

一等水準点「戌」は、今回は未確認。
憲政記念館の工事の影響で立ち入りできないエリアにある。


電子基準点

電子基準点の内部も公開されていました。

GNSS受信機、ルーター、バッテリー、電源監視装置、通信装置、UPS、傾斜計などが収納されている。
高さは7m。

電子基準点「東京千代田」
測位衛星で国土を測る位置情報インフラ

GNSS連続観測システム
GEONET
(GNSS Earth Observation Network System)
電子基準点を用いて高精度な測量や地殻変動の監視をしています。

国会前庭にある「日本水準原点」の隣に、電子基準点「東京千代田」を設置し、平成30年3月26日から、準天頂衛星システム(みちびき)やGPSなどの観測を始めました。都心での測量が効率化するとともに、全国の標高の基準である日本水準原点の変動をモニターできるようになり、大きな地殻変動が生じた場合でも円滑な測量が可能になります。

電子基準点「東京千代田」
 この電子基準点は、我が国の準天頂衛星システムや米国のGPSなどの衛星測位システムの信号を常時受信し、地球上の正確な三次元位置を計測・モニタリングする施設である。国土地理院は全国に電子基準点網を構築して、土地の測量や地図の調整に必要な位置の基準を提供するとともに、国土の地殻変動をモニタリングしている。また、受信した信号は高精度なリアルタイム位置情報サービスにも利用されている。
 電子基準点「東京千代田」は、日本の基準となる日本水準点(明治24年(1891)設置)の近傍にあり、その標高を常時モニタリングする役割も担っている。
 平成30年3月
 国土地理院


6月3日の「測量の日」の前、5月最終週の水曜日あたりが毎年の一般公開日。
気になる人は、国土地理院の発表を気にしてみてください。

ちかくは国会議事堂。

桜田門も見える。
水準原点のある国会前庭は、かつての井伊家藩邸でもあった。

配布物


「日本水準原点」と「水位観測所・験潮場」

油壷験潮場と日本水準原点の間で、水準測量を毎年行い、原点の変動を把握している。

油壺験潮場の前身は、霊岸島水位観測所


日本経緯度原点

日本の高さの基準は、かつての陸軍の敷地にあったが、日本の位置の基準は、かつての海軍の敷地にあった。


場所

https://goo.gl/maps/nsfG9TqSGaz4xjGH9

※撮影:2022年5月

日本の高さの出発点「霊岸島水位観測所」と一等水準点「交無号」

日本の国土の基点となっている場所がある。今回は「高さ」のスタート地点を散策。

国会議事堂前庭にある「日本水準原点」の標高は、霊岸島で水位を観測し定められた水準点「交無号」からの測量で決定している。

日本水準原点

油壷験潮場


一等水準点「交無号」

花壇にかこまれて「水準点」があった。
ここが日本の「高さ」の出発点。

大切にしましょう
水準点
国土地理院関東地方測量部

一等水準点「交無号」
 標高3.24m

 水準点とは、精密に測られた高さの基準点です。全国の主要道路に約2キロメートルおきに設置されており、各種測量の基準や地殻変動の検出に利用されています。
 日本の高さの基準である東京湾平均海面(標高0m)は、明治6年から12年の間に霊岸島で行われた潮位観測によって決定されました。この結果は、潮位観測に用いられた量水標近傍の「内務省地理局水準標石(霊岸島旧点)」に取り付けられましたが、明治24年に新しい基点として、この「霊岸島新点・交無号」が設置されました。同年、国会議事堂前の地に建設された日本水準原点の標高は、この水準点からの測量で決定されています。
 水準点番号「交無号」の由来は、水準路線が交差する点であることを示す「交」と、「0」を意味する「無号」を合わせたものです。
 この水準点は、まさに日本の高さの出発点として歴史あるものです。
 現在の水準点は、平成18年にこの地に移転されました。標石は昭和5年の移転時に作られたもので、小豆島産の花崗岩が用いられています。
 平成21年2月
  国土地理院関東地方測量部

すぐ近くに水位観測所がある。


霊岸島水位観測所

日本水準原点と霊岸島水位観測所
 国土交通省関東地方整備局
 荒川下流河川事務所
1.水準原点とは
 現在日本の水準原点は、測量法施行令第2条により東京都千代田区永田町1丁目1番地内にある日本水準点で、その高さは東京湾平均海面上24.4140mと定められています。
(東京湾平均海面をT.P.0mとして算定しています。)
この水準原点の高さに基づいて、例えば、山の高さや土地の高さが「標高〇〇m」というように求められているのです。

2.日本近代測量と霊岸島水位観測所について
 日本の近代測量は明治初期に始まりました。当時の測量方法は所要河川の河口部に水位を測るための「量水標」を設け測量を行うときには近くの「量水標」の平均海面データを用いていました。「量水標」の主なものは、明治5年に利根川河口の「銚子量水標」が日本初で、翌明治6年にここ霊岸島に、明治7年に江戸川と淀川の河口にと、全国の主要河川でそれぞれ設置されました。
 霊岸島水位観測所の零位は、A.P.0m(エーピーゼロ、A.P.はArakawa Peilの略、Peliはオランダ語で「基準」あるいは「標準」の意)と呼ばれるようになりました。
 その後、測量技術などの進歩に伴い、平均海面のデータの全国統一が考えられ、そのときに選ばれたのがここ霊岸島水位観測所だったのです。

3.東京湾平均海面と日本水準原点
 平均海面を算出するために霊岸島水位観測所で明治6年6月から明治12年12月の間、4ヶ月間の欠測を除き6年3ヶ月の毎日の満潮位と干潮位を測定しその平均値を求め、さらにその平均値を算出したのです。このときの値が霊岸島水位標の読み値で1.1344mでした。これを東京湾平均海面すなわちT.P.0mとし全国の高さの基準として定めたのです。そしてその後の明治24年5月に東京都千代田区永田町に「日本水準原点」が設置され、このとき霊岸島水位観測所から原点までの水準測量を行い、日本水準原点の高さ24.5000mを基準点としたのです。しかしこの値は、大正12年に起きた関東大震災の影響により昭和3年に24.4140mに改定され現在に至っています。

4.現在の霊岸島水位観測所
 日本の水準原点を生んだ令官島水位観測所も、その後の東京湾の埋め立てや隅田川の河川水の影響があり、水準原点の検証をするための観測所としては、理想的な位置とは言えなくなり、現在では神奈川県三浦半島油壺の観測所にその機能が移されています。
 現在の霊岸島水位観測所は荒川水系の工事実施基本計画や改修計画の策定及び改訂のための基礎データの観測を続けていますが、隅田川のテラス護岸の施行に伴い平成6年5月に元の位置から約36m下流に観測所を移設しました。
 元の観測所の位置には、その歴史的経緯を永く後世に伝えるため、観測柱を正面にシンボル柱として設置しました。また新しい観測所の3角形のフレームは、土木や建築の設計図などに高さを表す記号として用いられる▽をイメージし、その下端部はA.P.0mを指し、その1辺の長さは観測所位置のある東経139°47’にちなみ13.947mとしています。
 観測室については、斜方十二面体という形で立方体それぞれの面に後輩45°の四角錐を付加したような形をしていて、川に沿って視点を移動していくと正方形、正六角形、八角形と変化して見えるものです。

霊岸島検潮所・量水標跡

護岸工事で観測地点が移転したため、もともとの観測所があった場所には、観測柱がモニュメントして設置されている。

亀島川水門。水門の向こうには、南高橋がある。

防潮堤の耐震補強工事中でした。

江戸港発祥跡

近くには江戸港発祥跡がありました。

江戸港発祥跡
慶長年間江戸幕府がこの地に江戸湊を築港してより、水運の中心地として江戸の経済を支えていた。昭和11年まで、伊豆七島など諸国への航路の出発点として、にぎわった。
  東京京橋ライオンズクラブ
  結成35周年記念
  平成11年1月吉日建立

離島への汽船発着所として
東京湾汽船は明治22年、この地に設立された
町には6軒の旅館があ、島の人々で賑わった
 旧町名越前堀は越前松平家の周囲に堀があったことに由来する
 地名将監は幕府奉行職御船手(海兵団)向井将監の屋敷跡に由来する
 霊岸島検潮舎は、海抜の原点で、この大川のテラス内にある
     越前堀将監21号住民建立


場所

https://goo.gl/maps/ui5sXHkt3r6k82mi8

https://goo.gl/maps/QYe1iemx9angQmMV9

https://goo.gl/maps/okvmLTa7kxfEDKLt8

※撮影は2022年5月

松脂油採取の跡(井の頭自然文化園)

戦争末期。
苦肉の策として航空燃料原料としての利用が試みられたのが「松から採取された油」であった。
しかし労力と効率の割が悪く、また粗悪のために実用には至らず。
松の根からは「松根油」、樹皮からは「松脂油」が採取されたという。

その痕跡を「井の頭自然文化園」で探してみました…


井の頭恩賜公園(井の頭公園)

吉祥寺駅の南に広がる、井の頭池を中心とした公園。神田川は井の頭池を源としている。徳川家光が鷹狩りの際に休息した御殿を造営した場所でもあり、地名として「御殿山」と呼称されている。

井の頭自然文化園

当地には、明治38年(1905年)、渋沢栄一が、井の頭御殿山御料地の一角(現在の自然文化園本園)を皇室から拝借して、非行少年を収容する東京市養育院感化部(のちの「井の頭学校」)を創設したことにはじまる。
大正6年(1917年)御料地全体が東京市に下賜され「井の頭恩賜公園」となる。
昭和9年(1934年)「中之島小動物園」が開園。
昭和14年(1939年)「井の頭学校」移転。「中之島小動物園」を上野動物園規模の大動物園にする計画が立ち上がるが、戦時中ということもあり、予算も物資も不足。
昭和17年(1942年)5月17日に「井の頭自然文化園」が開園する。
昭和18年には、猛獣処分が井の頭自然文化園でも実施されていおり、ホッキョクグマ1頭、ニホングマ2頭、ラクダ3頭が処分されている。
昭和20年には、事実上の救援状態となる。
昭和22年、水生物園が再開。昭和26年に移動動物園が開催、昭和28年に北村西望がアトリエを設置。昭和29年、アジアゾウはな子が来日。昭和33年、北村西望から平和祈念像の原型や作品、アトリエなどが寄贈される。


松脂油採取の跡(井の頭自然文化園)

井の頭自然文化園の中心に位置する「大放飼場」のあたりにある松の木。
根本を見てみれば、人工的に削られた痕跡がありました。

今どきの感覚でいうと「ハート型」でかわいい、となるかもしれません。
この松の木の傷が、戦時中に油を採取した名残といっても、ピンと来ないかもしれませんが、これも立派な戦跡、です。

東京都井の頭自然文化園

小動物中心の動物園。


アジアゾウ はな子

終戦時、日本には名古屋東山動物園に2頭、京都市動物園に1頭のゾウが生き延びていただけであった。
1947年にタイ王国で生まれたアジアゾウの「はな子」は、戦後日本で、再びゾウの姿をみたいという声に応えるかたちで1947年に来日。
戦後にはじめて来日した像であった。
「はな子」は、公募で決まった名前であったが、これは戦争中に猛獣処分(餓死処分)された上野動物園の「花子」(ワンリー)に因んだ名前であった。

なお、昭和18年に「井の頭自然文化園」でも、猛獣処分により、ホッキョクグマ1頭、ニホングマ2頭、ラクダ3頭が処分されている。

はな子は2016年5月26日、69歳で永眠。


北村西望「アトリエ館」「彫刻館」

北村西望は、昭和を代表する彫刻家。
代表作は、長崎平和公園の「平和祈念像」、国会議事堂内「板垣退助翁像」など。

「平和祈念像」を作成するにあたり、大きなアトリエが必要となり、東京都が井の頭自然文化園内の敷地を提供。北村西望はアトリエ施設や作品を寄付という縁から、井の頭自然文化園内に北村西望作品が展示されることとなった。

「将軍の孫」と北村西望アトリエ

「将軍の孫像」の軍靴と、「橘中佐像」の軍靴は同一のものという。

加藤清正像

若き日の織田信長像

聖観世音菩薩

咆哮


彫刻館B館には、興味深い作品がいくつか集まっているので、是非とも足を運んでみてほしい。なお、館内は写真撮影は禁止。以下はテキスト紹介のみで。

橘中佐
1919年
北村西望の初めての公共彫刻。橘中佐は故郷の隣町出身。日露戦争で戦死。その死が惜しまれ、橘神社も建立されている。

寺内正毅元帥騎馬像
1921年
北村西望がはじめて制作した騎馬像でもある。赤坂の三宅坂に設置されていたが、像は失われ現在は台座のみ残されている。

山県有朋公騎馬像
1929年
当初は永田町の陸軍省前に置かれていたが戦後に撤去。
現在は山県の出身地である山口県萩市に復元されている。

閑院宮馬上像
1937年
閑院宮載仁親王殿下の騎馬像。

児玉源太郎大将騎馬像
1938年
北村西望最大の騎馬像で高さ5m。満洲に設置されていた。


松脂油から北村西望まで、目線を変えた見どころも豊富な井の頭自然文化園。
ちょっとしたスキマ時間に足を運んでみるのも楽しいかもしれません。

※撮影:2022年6月


参考リンク

https://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=news&inst=ino&link_num=26636

https://www.tokyo-zoo.net/zoo/ino/history.html


関連

松脂油採取の跡。

兼六園の戦跡散策

 「八清住宅」陸軍航空工廠従業員の集団住宅地(昭島)

東中神駅の南側に「八清」と呼ばれる住宅街がある。
地図を見てみると、円形のロータリーが住宅地の中に今も残っている。

八清の由来

八清の由来
 日中戦争から太平洋戦争へと軍国主義の道を歩む頃、我が国の軍需産業は飛躍的発展を遂げた。昭和13年、当地に設立された名古屋造兵廠立川製作所(後の陸軍航空咬傷)も拡張につぐ拡張という有様で翌14年には従業員2万余を数える大軍需工場へと急成長した。こうした状況下、同工廠では早急なる従業員住宅建設の必要にせまられ当時一面の桑畑であった福島827番地付近、約3万坪の地を買収、その建設に着手した。
 工事は軍の協力下、八日市屋清太郎氏によって進められ、同16年10月までに約500戸の住宅と集会所、市場、映画館、浴場、神社、公園などの福利施設が竣工。ここにロータリーを中心として放射線状にに区画された大規模な住宅街が誕生した。即ちこれが八清住宅の起源であり八清という名称は工事をした八日市屋清太郎氏の名に由来するものである。
 戦後、これらの住宅は住民に払い下げられ、また市場(マーケット)を中心に商店街としての新たな街づくりも進められ、その結果今日見られるような市内屈指の住宅商店街”八清”が生まれたのである。
ここに恒久の平和を念願し建立したものである。

八日市屋清太郎は博覧会の仮設建築を得意としていた「ランカイ屋」。
「博覧会の八日市屋」で著名であったという。
初代八日市屋清太郎と二代目八日市屋清太郎がいる。
数々の博覧会をこなし仮設建築のノウハウで、軍部に依頼に答えるべく驚くべき速さで工場従業員住宅の建設をした人物。

名古屋陸軍工廠熱田製造所の飛行機製造設備と千種の発動機製造施設が立川に移転するにあたり、新工場予定地の近くに、短納期で住宅建設を行うことが必要となり、二代目八日市屋清太郎が、23歳の時に陸軍施設の移転協力を行った。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C23-C7-138
昭和16年(1941年)06月25日、日本陸軍撮影の航空写真。

中央上「陸軍航空工廠」
右上 「陸軍航空技術研究所」
右  「陸軍航空工廠立川支廠」

八清住宅を拡大。昭和16年。

こちらは戦後。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R360-115
昭和22年(1947年)10月24日、米軍撮影の航空写真。

昭和16年の頃と比べるとだいぶ密度が上がってきている。

八清住宅を拡大。昭和22年。

Google航空写真で八清住宅の現在の様子を見てみる。
八清公園の円形もよく残っている。


八清住宅のロータリー

昭和16年に開発された八清住宅。最寄りとなる東中神駅は昭和17年7月に開業。戦時下の開業は軍需工場と従業員向け住宅の性質を考えれば、なっとくの開業。

中央円形部は防火水槽のような噴水のような水たまりと花壇。
そこを中心に八差路に道が伸びている。ちょっとおもしろい。

郵便局は今も昔もこの場所。

ベンチもある。

昭島市立玉川会館(東部出張所)は、元々は八清住宅管理事務所があった場所。
戦後の昭和町警察署もあったという。

隣のメインストリートたる「八清通り」には商店があつまっている。
食堂は昔からの佇まいがある。

年季の入ったコンクリート建屋もある。

八清通りには、住民の生活を支えるスーパーもある。

ありゃ、すずさんだ。
片渕須直監督の劇場版アニメ4作品の紹介があった。
八清通りの写真館さんにて。

参考

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1320715100/space/spaceD/D14.html#:~:text=%E3%80%8C%E5%85%AB%E6%B8%85%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%90%8D%E7%A7%B0%E3%81%AF,%E3%81%8C%E8%A1%8C%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

場所

https://goo.gl/maps/VGTdmi8s5ceCbj1x6

撮影:2022年5月


関連

中神坂の防空壕跡(昭島)

昭島市の南側を走る「奥多摩街道」。
ざっと中神駅から南に1キロ。
そこに防空壕跡があるというので足を運んでみた。


中神坂の石垣

中神坂交差点周辺は見事な石垣が造成されている。
多摩川の玉石を使った石垣は、東京府が昭和6年に奥多摩街道の旧道の蛇行と急坂を直す改良工事の際に、工事を請け負った地元土建業者が造成したもの。

中神坂の防空壕跡

福巌寺南面の石垣には「防空壕」の入り口が残っている。昭和19年(1944年)ごろに地元の警防団が掘ったものという。当時は西角にあった別の防空壕と奥でつながっていたというが、現在は南側の入口跡しか残っていない。
昭和20年4月4日の空襲によって、防空壕入口付近で、警防団員が1名死亡しているという。

警防団は昭和14年(1939年)に「警防団令」施行で持って「空襲あるいは災害から市民を守る」ために組織された団体。警察及び消防の補助組織として機能していた。昭和22年(1947年)に警防団は廃止され、消防団に改組移行された。

参考

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1320715100/space/spaceC/C8.html

場所

https://goo.gl/maps/JTCKBiP3sNHeeXfp9

中神坂、奥多摩街道の石垣。
左手は中神日枝神社。

石垣が連なる奥多摩街道。


関連

「初雁公園のラジオ塔と国旗掲揚台」(川越)

小江戸川越として著名な観光地。
小江戸といえば近世的な見どころが多数ではあるが、近代目線でも見どころが豊富。実は、川越には、大きな空襲が無かったことも幸いして、近代建築物も多数残されている。
(ゆくゆくは川越の近代建築物の散策記録も掲載していく予定だが、まだ準備中、、、)

※川越市における戦災の状況(総務省)

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_04.html

川越の「初雁公園」は、「現存2つのうち、東日本唯一現存の川越城本丸御殿」や「とおりゃんせにゆかりのある三芳野神社」などがあり、川越観光で足を運ぶ機会も多い場所。
初雁公園にある「川越市営初雁公園野球場」には、戦前のラジオ塔と国旗掲揚台が残されているというので足を運んでみた。


初雁公園のラジオ塔

ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。これらラジオ塔は「公衆用聴取施設」と称され、全国各地で人が集まるところに建設された。

初雁公園のラジオ塔は、建立年月は不詳であるが、後述する国旗掲揚台が昭和13年(皇紀2598年)6月建立であることから同年代と推定。

初雁公園野球場の一塁内野側に。
はたから見ると、野球場内にある不自然な灯籠。それでも違和感を感じさせないのは「小江戸川越」のイメージ感だからか。

前後に開口しているが、左右は壁がある。
通常の灯籠は、四方に開口しているが、ラジオ塔として音の広がりを意識していたのかもしれない。


初雁公園の国旗掲揚台

階段状のモニュメントを持つ国旗掲揚台。
初雁球場の1塁側フェンスに沿った駐車場にある。

建立は昭和13年6月。銘板には「皇紀二千五百九十八年六月」の文字をみることもできる。
高さの異なる5本の杭は、一部が色あせているが左から「青」「黄」「黒」「緑」「赤」となっている。
この5色はオリンピックのシンボルカラー。色の並びも同じく。

幻となった昭和15年(皇紀2600年、1940年)の東京オリンピック(東京五輪)を前に、盛り上がっていた地元有志の寄付でもって、オリンピックの五色を意識した国旗掲揚台が建立されたという。
なお、建立翌月の昭和13年7月に日中戦争(支那事変)の影響などもあり軍部の反対などから日本政府は東京五輪の開催権を返上している。

建立時に多額の寄付をした中心人物が前川道平氏。
川越出身で、のちの伊勢丹社長。昭和8年の第二回東京優駿(日本ダービー)優勝馬カブトヤマの馬主としても有名。

青は色あせており、わかりにくい。。。

本グランド施設ニ際シ前川道平氏ハ特志ヲ以テ金員ヲ寄與セラル
誠ニ時宜ニ適シ工備ヲ促進スルヲ得タリ
茲ニ厚ク其ノ行為ヲ録ス
 皇紀二千五百九十八年六月十日

川越市初雁公園野球場

場所

https://goo.gl/maps/3SLfJV7bwkei4A8b7

川越城本丸御殿

※撮影:2022年4月及び5月


川越関連

ラジオ塔関連

靖國信仰~人を神に祀るということ~


  • はじめに
  • 人を神に祀るということ
  • 御霊信仰と顕彰信仰
  • 祖霊信仰と靖國神社
  • みたままつり
  • 靖國のみたまへの想い 

はじめに 

 「靖國神社という神社」は、数多くの神社のなかでも、異彩を放っている。 

 異彩の一つとしては、その過程がそのまま「近代日本の具現化」であり、国家のために殉じた「英霊」が御祭神であることだろう。あまりにも強く明治維新以後の歴史に絡みつつ、またそれが定期的に政治イデオロギーに起因することも多く、そもそも「靖國神社とは何か?」と疑問符を抱くことも多い。 

 ここでは世の中に溢れる「靖國論争」ではあまり触れられることのない、「信仰」の側面から「靖國神社」を紐解いてみようと思う。 


人を神に祀るということ 

 靖國神社は明治二年(1869)六月二十九日に「東京招魂社」として設立している。 

 文字通りに「靖國神社は招魂社である」という大前提がこの創立起源にある。 

 東京招魂社の意義は一言でいうなれば「戦禍で斃れた者達の霊を慰め、その遺志を長く祈念するための社」である。 

 戦没将兵の慰霊鎮魂の為に、それが各藩ごと(官軍・幕府軍側問わず)であれ民間であれ明治政府であれ、慰霊・鎮魂・招魂の祭祀が各地でとりおこなわれたことは日本の文化側面的に何等おかしなことではない。これは自然な風習であり、何等「人工的」でも「作為的」なものでもない。 

 例えば、明治政府が主宰した「靖國神社」がこのような伝統的な「人を神に祀る風習」に反して、抑圧的なものであったならば、日本国民の信頼は決して得られるものではない。またこのような「信仰」が強制されたというなら靖國神社創立以来約150年も祭祀が休むことなくとりおこなわれ、確固たる民間によって維持されていることは何を意味しているのだろうか。 

 そこには民間風習が伝統として生きており、靖國の信仰が深く民間に根付いているからではないだろうか。では、その「靖國の信仰」に連なる「民間信仰・民間風習」とは何であろうか。 

 この世に生をうけ、そして亡くなった者を「カミ」として祀り上げる事は古くからの風習の一つであった。人を神に祀った施設で圧倒的に多いのが「神社」である。当然これらの祀り上げの儀式は、古俗に基づく「鎮魂(たましずめ・おおみたまふり)」に基づく神道式でとりおこなわれた。 

 本来の初期仏教・原始仏教は「魂」の存在自体を認めていなかったが、日本古来の風習や神道と巧みに融合してきた仏教は、「誰でも彼でも死ねばすべてホトケ」「死者を無差別に皆ホトケといふやう」(柳田國男『先祖の話』)になり、死せる霊を「成仏」という形で遠方(極楽浄土)に送りつけようとばかりし(柳田國男によれば霊は国土にとどまるという)、さらに祖霊の融合を認めず、古代以来培ってきた魂思想を機能神(守護神)信仰にねじまげ、家々の先祖祭や死者の霊の管理・葬送儀礼に関与しだした。 

 その結果、「人を祀る神社」とは別に「霊堂・霊廟・供養卒塔婆」等に「霊」が祀り上げ「人を祀る寺院」の例も多くなった。 

 仏教でも東南アジアに波及した部派仏教(=小乗仏教。近年の仏教界では小乗仏教とは呼称しない)系の生死観は「輪廻転生」、つまり生まれ変わりの精神であるので、そこには慰霊の精神は存在しない。同じく日本国内でも浄土真宗(真宗・一向宗)系は、その開祖である親鸞が先祖供養は不要だと主張している。(亡き人は諸仏となる。迷いなく即時転生。) 

 またシャマニズムや霊魂等をそもそもないキリスト教が靖國の慰霊行為に納得行かないとするのも宗教観的には理解できる。そこはお互いの文化が培ってきた伝統を尊重する必要があるだけであり、互いの宗教論で否定するのは無意味に等しい。 

 カミ・ホトケ・霊・魂と呼び名は様々にせよ「人を祀る」という根底には大差はない。「人を祀る」延長線上に「靖國信仰」がある以上、この古来の風習の起源を探っていく必要があるだろう。 

 柳田國男翁は人を祀る風習の根源について「最初に外から持ち込まれたと認むるべき証拠が無い」「民族固有のものだとする」理由も積極的には明確ではない、としている。「単に外から入つたもので無いならば、元から在つたと見るべきだと謂ふに過ぎぬ」ので、その「元から」が容易ではないが「永い年月の間に極めて徐徐として、所謂人格崇敬の思想は養はれて来たのである」としている。つまり根源を明確に出来ないほど身近なことであり死者の霊魂は生者が慰め供養するしかないという観念を日本人は伝統的に培ってきたのである。しかし柳田翁は人が祀られるのにかつては制限があったとし「弘く公共の祭を享け、祈願を聴容した社の神々の、人を祀るものと信ぜられる場合には、以前は特にいくつかの条件があった。即ち年老いて自然の終りを遂げた人は、先ず第一に之にあづからなかった。遺念予執といふものが、死後に於てもなほ想像せられ、従ってしばしばタタリと称する方式を以て、怒や喜の強い情を表示し得た人が、このあらたかな神として祀られることであつた」(柳田『人を神に祀る風習』)とされている。本来、死後に祀られる霊魂は「祟り」という観念に基づいており、とりわけ祟ることがない一般の死者の霊魂は「先祖」という霊体に融けこんで家(私)や公のために活躍する我が国固有の氏神信仰・祖霊信仰に基づく霊魂観念となり(柳田『先祖の話』)、これらの祖霊は子孫によって祀られるべき神格であった。 

 同じ「カミ」でも「遺念予執の人を神に祀る」はその多くが御霊信仰(怨霊信仰)であり、一方で「先祖を神に祀る」は祖霊崇拝(祖先祭祀)といえる。「人を祀る」という古来風習も歴史が経つと「生前に傑出した業績を残した人物を祀る」という「勲功顕彰信仰」というべき風習が出来あがる。いわば、三種の「人を祀る」信仰があるといえる。 

三種類の「人をまつる信仰」
 御霊信仰(怨霊信仰) 遺念予執の人を神に祀る
 祖霊信仰(祖先祭祀) 先祖を神に祀る
 勲功顕彰信仰     生前に傑出した業績を残した人物を祀る


御霊信仰と顕彰信仰 

 祟り神系は一般的には御霊信仰(怨霊信仰)とされる。この世に怨みを残して死んだ者の霊魂は、生者に祟りをなすと考えられ、これらの怨霊・亡霊は御霊・物の怪と恐れられてきた。本来の「たたり」という言葉は神の示現をいう意味にすぎなかったが、「巫蠱(ふこ)の幣なるもの」が「たたり」を変容させたという。。(柳田『先祖の話』)この巫蠱=呪術者が「たたり」を「祟り」として恐怖の世界の怨霊として明確化させ、本来は霊魂に関して沈黙していた仏教(密教)による呪術と古来の鎮魂儀礼の融合によって奈良末期から平安時代(最澄や空海が帰朝し密教を導入した後)に急速に「御霊信仰」が広がっていった。本来は天皇家の死者の霊を特別に御霊と呼んだが、このころには非業の死を遂げた人々の霊魂を御霊と呼ぶようになり、平安時代には疫病・飢饉・地震・雷等のあらゆる災害が、御霊の仕業とされ、これらの怨霊を鎮魂するための儀礼が必要となっていた。 

 古来、怨霊とされる霊も「神」として祀り祭礼儀式を行うことによって常に鎮魂してきた。その供養の結果、祭神の業績や伝説が世に語り継がれていくにつれて怨霊の力は弱まり祭神の性質がマイナスからプラスへと転換されていくことになる。有名な菅原道真が死後四十数年後に北野神社にまつられ、その後「文筆・学問の神」として祭神が顕彰されるように。 

 この顕彰化ということが後世に着目され「顕彰神」という人神が発生することになる。これが「勲功顕彰信仰」へのシフトといえる。一般的に「一定の年月を過ぎると、祖靈は個性を棄てゝ融合して一体になるものと認められて居た」(柳田『先祖の話』)といわれており神になれない「霊」というものは三十三年忌(もしくは四十九年忌・五十年忌)で最期の法事を行い「先祖」になるといわれている。つまりある程度の年月がたつと故人は先祖という枠の中に埋没して忘れ去られ記憶として残らなくなってしまう。しかし人を神に祀るということはその人物が永遠に記念として記憶され伝承されることを意味する。遺念予執がまったくなく祟り神とは到底思えない権力者や偉人が神として祀られる理由の一つにはこの記憶・記念される「顕彰」という機能が働いているといえる。つまり「祟り神」も時と共に「顕彰神」に転化するという根本があり、祭神が記憶・記念される場として神社が存在している。それもその神社が後世まで永続祭祀・信仰されていくという根本があって記憶され記念されるのである。このように「御霊信仰」と「顕彰信仰」というものは対極線上にあるもののようにみえて実は非常に近い関係にあるということがわかる。 

 また、天変地異等が「祟り」として認知認識されるときは得てして「政情不安定」な時である。誰かが「あれは祟りだ」と認定して「祟り神」を捜してこない限り「怨霊」は表面化して来ない。その「怨霊」を祭祀する役割は為政者や民衆が担っている。特に為政者にとっては政情安定化のために政治的目的で神社建立をするのが最良であった。つまり怨霊の転化ではなく最初から顕彰目的で建立された神社には政治的効果が大きいとされる。明治期の神社建立の動きを「国家神道のもとで、天皇崇拝を主軸に神社を再構築し、人為的作為的に改変し、国家神道の思想に立つ神社を次々と創建した」(村上重良『慰霊と鎮魂』)とみる見方もあるが、顕彰すべき必要性がない神というものもありえず、もし作為的作られた「顕彰に値しない神々」なら、少なくとも今の世の中では信仰されなくなるはずだが、明治以来の神社も今日多くの信仰を集めている。 


祖霊信仰と靖國神社 

 「人を神に祀る」概念を冒頭に三種類あげたが、一番最初に取りあげた「祖霊信仰(氏神信仰)」に関しては未だ詳述していない。

 「祖霊信仰」とは先に触れたように「先祖」という霊体に融けこんで家(私)や公のために活躍する我が国固有の霊魂観念のことを指し、本来これらの祖霊は子孫によって祀られるべき神格であり、子孫が先祖の霊を敬虔に祀り、それに対して「先祖の霊」は子孫の守護神として応えてくれるというものである。 

 以下、加地伸行氏の意見を参考にする。東北アジア(儒教文化圏)では亡霊を招き慰霊するシャマニズム(魂降ろし)が基本的宗教感覚であり、死者と生者とのきずなを断ち切ることのない祖先祭祀(仏教的には祖先供養)という宗教感覚が儒教によって体系化されてきた。日本古来の神道の根底はシャマニズムであり、印度から中国に波及した仏教(大乗仏教系)も儒教的慰霊観を取り入れ先祖供養重視の日本仏教に発展した。日本の古来神道は仏教・儒教体系や道教理論が伝来するにつれて原始信仰的なものから徐々に体制を整えていったが、ただ日本の神道は儒教にはない「穢れを忌む」思想があった。死に際しての火葬は禊的浄化であり、日本人にとっては「死」そのものは穢れである。しかし葬儀以降は「死」という厳粛な大事が聖化し、死者はカミもしくはホトケとなる。そしてこのように浄化された死者の生前のできごとを問うことは一切しない。死者は「死」という大事によって人間界の責任をすべて果たされ、あとは「カミ・ホトケ」となり人間界の子孫を護る存在となったと加地氏はいう。 

 例えば靖國神社で見てみれば「東京国際軍事裁判」という名の判決で裁かれたABC級戦犯の方々(便宜上「戦犯」と呼称)は、現世では「法務死」という一番重い刑で責任を果たされ「カミ・ホトケ」として祀られるべき存在といえる。 

 「祖霊信仰」は極めて儒教的なものであるが、そこに日本的な思想・伝統が加味されて「靖國信仰」が形成されてきた。私はそれらの昭和受難者たちが現世での罪を裁かれ「カミ・ホトケ」となったからには、もはや現世の罪を問うことはせず(問うこともできない)、ただ慰霊の一心で向き合うだけである。それが日本の伝統的な信仰のはずであるから。 

 彼らの御霊を後世の我々はどう祀ればよいのだろうか。以下、柳田國男翁・小堀桂一郎氏の見解を参考にしたい。御霊を祀れないという事態は、家が断絶して祀る人の無い霊が出来る場合もあれば、戦火で斃れ家の跡を継ぐものがいなくなる場合もある。柳田翁によれば、それらの「不祀の霊」の増加というものは、大きな恐怖であり、盆の先祖祭にてさまざまな外精霊や無縁ぼとけ(仏教呼称)等の為に、特別に外棚・門棚・水棚と呼ばれる棚(不祀の霊を祀るための棚)を設け、供物を分かち与えることをしなければならなかったという。これが古来の家の構造であり信仰であった。『先祖の話』の末尾で柳田翁は記す。「國家の為に戦つて死んだ若人だけは、何としても之を佛徒の謂う無縁ぼとけの列に、疎外して置くわけには行くまいと思ふ。」とし、子孫が絶え祭祀が行われなくなってしまうと「程なく家無しになつて、よその外棚を覗きまはるやうな状態にして置くことは、人を安らかにあの世に赴かしめる途では無く、しかも戦後の人心の動揺を、慰撫するの趣旨にも反するかと思ふ」と切実に記している。この言葉こそが「靖國信仰」の原核精神を示しているだろう。 

 靖國神社の祭神も個々の家々の墓に祀られている。それは柳田翁のいう両墓制のうち「いけ墓・上の墓・棄て墓」という、やがては記憶されなくなり(先祖と同化)、忘れ去られてしまう墓(所在不明になるのが良いとされる地域もある)であり、その地に死者の「魄」(肉体の象徴)は祀られる。一方で「参り墓・祭り墓」と呼ばれる参拝に都合の良い、社会的な霊魂の逗留地(招魂の祠)に死者の「魂」(精神の象徴)が祀られ、元の天に帰って、子孫の安寧を護ると考えられたきた。つまり、それらの招魂祭祀を司る場が「靖國神社」等であり、たとえ「いけ墓」での祭祀が廃れたり、または祭祀を司る子孫のない若い戦死者等の「不祀の霊」は、社会的立場ある「参り墓」での祭祀によって絶えることなく記憶され、霊は安んじてその祠にとどまり、それらの霊が「祀る者」を加護する。小堀桂一郎氏によれば「戦死者の霊を祀り、祭を営んだ人々と共鳴者が、恰も氏子が氏神に対する如き感情を自らのうちに育んでその神霊を尊崇し、かつその加護を祈るという信仰形体」が靖國神社・護国神社であり「霊(参い墓の霊=靖國・護国神社の霊)が加護を垂るべき子孫とは共同体の成員全体であると考えられる。祀る者と護る神とに関係が氏族の子孫と祖先という私的な関係から、共同体を軸とする公的な関係に移して考えられる様になる。祭神はその遺執を国を靖からしめんとの志に示現し、祀る氏子等は我等の安寧を守り給えと祈る。」とし、これこそが靖國信仰の形でもある。「いけ墓=私的な祭祀場」に対する「参い墓=公的な祭祀場」という考えによって招魂社は公的なものとして出発し、国家が主宰する祭祀によって公的な「国事殉難者」が祀られているのもなんら問題はなく自然の帰結である。 

 「靖國神社こそ国営にすべきだ」という声がある。本来なら靖國神社は国家機関たるべきだろう。いや根本の「神道」という信仰こそ「日本人の公的な信仰」とすべきだろう。(あくまで「宗教」とはせずに「信仰」というが。)ただ、そのようなことは現実には夢物語でしかない。ではどうするべきか。昭和五十三年七月から平成四年三月までの靖國神社の六代目宮司を務めていた松平永芳氏の意見が一番賛同的であると思う。以下一部抜粋する。「靖國神社は政府の維持すべき神社ではなくて、国民総氏子の神社ということでなければ、どうにもならないんじゃないかと考えています。(略)政府から庇護を受けていると、一時的にせよ、どんな政権が出現するかわからない。その時の不安があるから絶対に政府からお金は貰わない方がよいと考えているのです。仮に国家護持ということになると政府がお金を出せばよいと思うようになり、国民はノホホンとして靖國の存在を忘れ去ってしまうかもしれません。(略)少額でもいいからできるだけ多くの方々がここの神社を認識されて、ここのお陰で自分たちの今日の平和があるんだ、ということを理解していただくのが理想的なんだと考えております。」(『靖國神社創立百二十年記念特集』)たしかに、靖國神社がなんたるかすら理解できてない政府や国に、今後万が一でも委せる自体が発生する可能性はゼロではないとすれば、あとあとの不安が大きくなるばかりである。やはり小堀氏や松平氏のいう、この「祀る者と護る神」の関係を大切に、靖國神社を日本国民の氏神とした「国民総氏子」というのが理想ではなかろうか。 


みたままつり 

 毎年7月13日から16日にかけて、靖國神社では夏の風物詩として「みたままつり」が斎行されている。 

 この「みたままつり」とはなんであるかを簡単に触れてみようと思う。 

 靖國神社の「みたままつり」は靖國150年の歴史から鑑みれば決して古い祭儀ではない。従来、戦前の靖國神社は現在のように庶民がいつでも気楽に参拝できる神社ではなく、国家と軍部が管理していた神社であった。 

 昭和20年8月終戦後、靖國神社はGHQの厳しい統制下に置かれ、その段階で未合祀であった戦没者の御霊を今後合祀できるかどうかがわからないという懸念から11月19-20日に臨時大招魂祭を斎行。本来は戦没者氏名等を明白にし霊璽簿に奉斎すべきところを緊急時ということで、まずは氏名不詳のままで招魂しその後に調査が進み次第で霊璽簿奉安祭を行い逐次ご本殿におまつりする手はずとなった。こうして創建以来の軍部が関与する最後の招魂式が行われた。 

 その1ヶ月後にGHQは国家神道・神社神道をターゲットとした「神道指令」を発令。昭和21年2月を以って靖國神社は国家との関係を絶ち一宗教法人へと再生することとなる。 靖國神社規則では、「当神社は靖國神社と称し、国事に殉じた御霊を祭神とし、神徳光昭、遺族慰藉、平和醇厚なる民風を振励するのを目的として事業を行う」ことを明記している。 

 昭和21年7月、神社として国家と断絶し今後の立ち行く様を模索していた靖國神社に長野県遺族会の有志の方々が、神社の勧誘や依頼というべきものではなく自発的に上京してきて、境内で盆踊りを繰り広げ民謡を歌唱して戦没のみたまを慰めるという出来事があった。 

 このような民間発案の慰霊行事は戦中戦前含めかつてなかった事例であり、これが今日の「みたままつり」の起源とされている。 

 これにヒントを得て、翌年の昭和22年7月には、13日の前夜祭にはじまり、新暦のお盆の3日間(14日・15日・16日)に神社主導ではじめての「みたままつり」を斎行、以後は夏の恒例となった。 

 お精霊様の迎え火を焚き、茄子や胡瓜の馬・牛の乗り物を飾り、先祖の霊の一時帰宅を待ち受けるという古い民間習俗の風習は、平安期には京都では廃れていたが関東では盛んであったと兼好法師の「徒然草(第19段)」には記載されている。 「亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なおする事にてありしこそ、あわれなりしか」 

 往時は歳事であった古習も時代の変遷の中で、いつしかお盆の祭事として、先祖の祭り・家の祭りとして伝承されてきた。もともと家々の祭りであった祖霊の祭りは「公」の祭りではなく「私」のまつりであり、昭和21年2月に「公」たる靖國神社が、一宗教法人にならざるを得なかった以後をもって、その年の7月に「私」たる民間有志の発案でもってはじまった「みたまのまつり」であった。 

 こうして長野県遺族会の方々が自発的に盆踊りを始められた「みたまのまつり」は、その契機は柳田國男の「先祖の話」で記述された下地が根底にある。 

 柳田翁の先祖の話は昭和20年4月から5月にかけて書かれたものであり、昭和21年4月に刊行されている。その柳田翁は日本降伏後の昭和20年10月付けの序文に「まさか是ほどまでに社会の実情が改まってしまうとは思わなかった」とし「家の問題は自分の見るところ、死後の計畫と關聯し、また靈魂の觀念とも深い交渉をもつて居て、國毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ惡しかれ多數の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、又どうなつて行くべきであるか。もしくは少なくとも現在に於て、どうなるのがこの人たちの心の願ひであるか。」と記している。、終戦後の日本の行く末を案じ混沌からの憂いが強く伝わってくる序文である。 

 先祖の話。すなわち「先祖から子孫に向けての相続と先祖祭祀の継承という民俗の根底になしている伝統に大いなる断絶がせまっていることへの危機感と解決方法」「子孫を残さずに死んでいく(戦死者の)霊の存在を目の当たりにし、日本の家の構造と先祖の祀りの有り様」を記述している。 

 靖國神社で祀られる「みたま」は「国のために戦って死んだ若人」「国難に身を捧げた者」というのが特徴的であり、中でも若人の御霊は、これを家々の先祖として祭るであろう子孫を有していない場合も多い。そこに祖霊信仰の断絶が発生してしまう。祭ってくれる子孫を持たぬ御霊を直系の子孫に代わって祭り、その記憶を伝承し、それら先祖の霊を後世の祭祀される人々の守護霊として安んじる。これが「靖國神社」であり、後世の社会が祭る「みたままつり」である。「この祭りは、祭ってくれるべき子孫を欠いた若き御霊達を安らかにあの世に在らんしめんがために、あるべかりし子孫に代わって共同体の常民が営む祭」(小堀桂一郎氏)であり、その祭りは格別な儀礼に基づくものではない。 

 「みたままつり」は伝統的な民間風習を兼ね備えるとともに、「個」ではない社会的な祭祀が行われるという公的な位置づけも帯びた、昭和22年にはじまった新しい「お祭り」ではある。その新しいお祭りは新暦お盆の三日間で斎行され、東京では一番最初の盆踊りも奉納されるということもあり、異色な趣も感じさせずに自然なカタチで受け入れられたのも、その性質が「日本人の信仰」の根底に根付いたものであった、といえる。 

 後世の我々が御霊の献身的な御心を記憶に留めて回想し、往時に想いをはせる。そうして御霊とともに「お盆」を過ごし、その意志を継承することで御霊達は後世の守護神となる。これを「祖霊信仰」から一段と特化した「靖國信仰」と称しても良いのかもしれない。 

  みたまを慰めるこの信仰。「生きた人の社会と交通しようとするのが、先祖の霊だといふ日本人の考へ方」(柳田國男)が共通共同の事実として根付いていたからこそのまつりであり信仰である。「この曠古(こうこ)の大時局に当面して、目ざましく発露した国民の精神力、殊(こと)に生死を超越した殉国の至情には、種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培ひ育てて来た社会制、わけても常民の常識と名づくべきものが、隠れて大きな動きをして居るのだといふことである。(略)人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に、信仰の基底が無かつたといふことは考へられない。」とこの「常民の常識」が共通した信仰に根ざしていたのであり、「信仰はただ個人の感得するものでは無くて、寧ろ多数の共同の事実だつたといふことを、今度の戦ほど痛切に証明したことは曾て無かつた。」と力説をされている。 

 そのうえで柳田翁は「但しこの尊い愛国者たちの行動を解説するには、時期がまだ余りにも早過ぎる」と昭和20年春の段階ではこれ以上の追求は遠慮されているが、その言わんとしている深意は日本人の心底に根付いており、戦後も連綿と続く靖國の祭祀、みたまのまつりに継承されてきている。 


靖國のみたまへの想い 

 今回、信仰という側面から靖國神社を紐解いでみた。 

 世間的なイメージで言えば、靖國神社への参拝は慰霊・鎮魂・顕彰・感謝などの側面が多いが、その根底には「日本人の伝統的な民俗意識」があることもわかった。その「民俗的な先祖の祭り」を戦後改革の中で一宗教法人となり「神社神道形式」で伝承しているのが現在の靖國神社となる。 

 この信仰の根底を気にもしないような政治的なイデオロギーに巻き込まれるのも現在の靖國神社の一つの姿であり、嘆かわしい自体ではあるが、そんな事は関係なく心静かに拝する人々の願いとともに、これからも御霊の御心を伝承を願っていきたいと思う。 

 靖國信仰とは? 

「靖國神社・靖國信仰は日本人の心であり、日本人が築いてきた民俗文化である」ということも出来るかも知れない。 

 後世に生きる我々の多種多様の想いのなかでも不動のものがある。それが御霊への鎮魂と感謝の祈りであり、その行為は日本人の伝統でもあり伝承されるべき風習でもある。 

 彼ら御霊の想いと願いを記憶し、御霊を未来永劫に祈念し回想する。幕末以来今日まで246万6500余柱もの英霊たちが国家のために殉じられ、幾多の無名人が国難に立ち向かっていった。 

 後世の我々は彼らが身を挺して護り抜いた「日本」に生きるものとして残された義務がある。「家=国」を身を挺して護った彼らの想いを、「家=国」に残された子孫が引き継ぐ。御霊の遺志を後世に伝え続ける。そして先祖の御霊は子孫の「守護神」となり、国靖らかであることを願う「靖國の想い」へと導き、未来を馳せていく。 


主な参考文献(順不同) 

靖國及び周辺事項 

小堀桂一郎『靖国神社と日本人』PHP新書・1998年 

神社本庁編『靖国神社』PHP研究所・2012年 

加地伸行・新田均他『靖国神社をどう考えるか』小学館文庫・2001年 

村上重良『慰霊と鎮魂 靖国の思想』岩波新書・1974年 

神道及び思想全般 

柳田國男「先祖の話」昭和21年/「人を神に祀る風習」大正15年 

(『定本柳田國男集第十巻・新装版』所収 筑摩書房・昭和44年) 


初 稿 :平成14年(2002)5月
一次改訂:平成14年(2002)11月
二次改訂:平成28年(2016)7月 (みたままつり項目を追記)
三次改訂:令和04年(2022)4月 (Web掲載用に表記微修正)

学生の頃に、とある同人誌に寄稿した論文。
読み直せば、若気の至りも多数はあるが、基本的な考え方としての根底は今も変わりない。
うっかり発掘してしまったので、せっかくなのでWeb用に再構築して掲載しました。 


関連

霊璽奉安祭