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「残された横浜市電最後のポール」と横浜大空襲(横浜市電保存館)

疎開道路散策をしていたら、横浜市電保存館に辿り着きました。

面白そうなので、立ち寄ってみましょう。


残された横浜市電最後のポール

横浜市電保存館の入口にあるポール。
横浜市電を物語る残された最後のポールは、「横浜大空襲を物語る戦跡」でもあった。

ポールの下の部分の穴。
1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲で受けた被弾の跡といわれている。

1928(昭和3)年の横浜市電生麦線開業時に建てられた架線用のポールという。

残された横浜市電最後のポール
このポールは、1928(昭和3)年の横浜市電生麦線開業時に建てられた架線用のポールです。
かつては、市電沿線に列をなして建てられました。横浜の市電は、1904(明治37)年に横浜電気鉄道㈱によって発足しましたが、1921(大正10)年に横浜市が買収して市電となりました。横浜の市電の最盛期は昭和30年代で、路線長は50キロを超えていました。しかし、自動車交通の波にのまれ、1972(昭和47)年3月31日限りで横浜からその姿を消してしまいました。その後市電の線路は道路となり、架線用ポールも道路整備や腐食のために撤去されていきました。
このポールは、神奈川新町の国道15号線の歩道上に奇跡的に残った最後のポールです。このたび道路整備のため撤去されることになったので、記念に保存するため横浜市電保存館に移設しました。なお、撤去されたのは2007(平成19)年6月3日で、高さは地上から7.3mあります。先端のねぎぼうずみたいなポールトップは鉄製の飾りもので、いくつかの型があります。市電保存館の館内に展示されています。
社営時代から取り付けられていました。
このポールの下の部分に穴があいていますが、戦時下の1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲で受けた被弾の跡といわれています。
2007(平成19)年7月
横浜市電保存館

当館のアプローチには、昭和3年(1928年)の市電生麦線開通時に立てられた架線用のポールが展示されています。かつては、市電の線路に沿い列をなして立てられていました。
ポールの下部には、空襲での被弾の跡とされる穴が残っています。


横浜市電

1921年(大正10年)、横浜電気鉄道を買収し、横浜市電気局(現在の横浜市交通局)によって運行開始。
元となる横浜電気鉄道は、横浜市初の路面電車として1904年(明治37年)から路面電車を運行していた民間企業。総延長距離は28.86キロ、8路線、保有車両は104両であった。

関東大震災
1923年(大正12年)の関東大震災では、保有車両143両のうち、72台が火災焼失、13台が大破し、変電所や道路、橋梁、架線の被害も甚大であった。復旧に際しては帝国陸軍鉄道第一聯隊工兵3000人が携わった。

横浜大空襲
1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲では、保有車両203台のうち、48両が焼失等で被害をうけ、関東大震災と同じく、変電所や架線、線路の被害も甚大であった。

廃止
戦後復興と共に財政は逼迫し累積赤字が膨れ上がり、経営が悪化。
モータリゼーションによる慢性的な道路渋滞もあり定時運行も困難となり、そして横浜市の急速な郊外の都市化もあり、時代に変化に追随できなくなった横浜市電は、1972年(昭和47年)3月31日に全廃された。


横浜市電保存館

横浜市電保存館は、神奈川県横浜市磯子区にある、1972年(昭和47年)に廃止された横浜市交通局の路面電車(横浜市電)に関する資料を保存・展示する施設。
もともとは、横浜市電の滝頭電停前・滝頭車庫・滝頭車両工場跡地。現在は、横浜市営バス滝頭営業所、でもある。

以下、館内展示など興味持ったところを。

横浜大空襲


関東大震災

関東大震災とその復興
大正12年(1923年)、関東大震災が発生。横浜市電は車両の半数以上を失い、一ヶ月間、全線が不通となりました。しかし、復興事業による街路の整備や区画整理とあわせて、線路の改良が進められ、郊外の各方面へ新しく路線がつくられていきました。
その距離は震災前の二倍以上となり、市電の路線網はこの時期にほぼ完成したのです。


戦時下の横浜市電

奉祝 紀元二千六百年祝典

戦争と市電
戦時体制下になると、軍事施設への動員による輸送が大きく増加します。スピードアップと電力節約のため急行運転が導入され、工場地帯の鶴見方面への延伸も行われました。しかし、昭和20年(1945年)、空襲によって横浜の中心市街は焦土と化し、市電の車両は約4分の1が焼失、車庫や変電所などの施設も大きな被害を受けました。

横浜大空襲
大空襲直後の横浜市街地
桜木町駅上空付近から根岸湾を望む。
写真中央が現大岡川にかかる吉田橋から伊勢佐木町通りの付近。
桜木町駅は無事だったが、中心市街地のほとんどは焼け野原となった。

空襲の罹災状況を示す地図

戦災車両の記録ノート

戦災被害状況

戦前の横浜市電女性車掌

良き笑顔


戦後の横浜市電

戦後、市民の足として復興した横浜市電は昭和30年代に最盛期を迎える。

昭和35年
路線規模が最大となり運転系統本数がもっとも多かった時期の横浜市電。

昭和41年、生麦線と中央市場線が廃止。

昭和44年、久保山線が廃止。
また杉田線、浅間町線なども廃止済み。

昭和45年
本牧線、保土ヶ谷線の廃止。

昭和46年
山元町線廃止。
もう運転系統路線もだいぶ少なくなってきている。

昭和46年度末での市電全廃。


旧横浜駅東口大時計

昭和3年(1928年)10月の旧横浜駅完成時から、昭和54年(1979年)2月まで半世紀にわたり、東口正面で時を刻んできた大時計です。戦時中は出征兵士が学童疎開、戦後は戦災復興、経済発展、横浜の都市開発が進むなか、多くの出会いと別れを見てきた時計です。激動の昭和を見つめつづけたこの大時計は70余年を走った市電の歴史を刻んできたものでもあり、縁あって当館で展示することとなりました。そしてリニューアルを期に再び時を刻む大時計として蘇りました。


横浜市電の保存車両たち

523号車(500型)

昭和3年、震災復興車両、戦後に15両を600型に改造、昭和44年に廃車


1007号車(1000型)

初ボギー車。昭和3年に震災復興事業として20両を購入。
昭和45年に全廃。


1104号車(1100型)

昭和11年に5両を購入。
昭和47年の市電全廃まで活躍。


1311号車(1300型)

昭和22年の30両を製造。
昭和46年に廃車。


1601号車(1600型)

昭和32年に製造。昭和45年に廃車。


1510号車(1500型)

昭和26年に20両を導入。
「ちんちん電車の決定版」ともいわれた。
昭和47年の市電廃止の最後の日まで走った車両。


無蓋貨車10号

昭和23年製造。戦後復興で市電軌道を修理するために活躍。
レールや枕木、バラスト、石炭輸送などを担い、また祝賀装飾の花電車としても活躍し、昭和47年の市電全廃まで運用された。

いまは、横浜市営バス滝頭営業所

※撮影:2025年6月


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根岸の疎開道路(横浜市磯子区)

最近、疎開道路を巡っています。
もちろん、いま、そこに何かが残っているわけではないのだけれども、なんとなく空間が往時を偲んでいるような、そんな気配を感じつつの散策の記録です。


疎開道路

第二次世界大戦中に空襲による延焼防止を目的に、建物を疎開(建物疎開)させ、敷設・拡張された道路を、通称「疎開道路」と呼称してている。


横浜の疎開道路

1944年1月、建物疎開を推進するために、横浜市に臨時疎開課が設立された。第一次として44年4月に鶴見区で工場周辺の民家除却を実施。
第六次として、磯子区では堀脇川下流近くで建物疎開と消防道路の整備が行われた。
実際に1944年5月29日の横浜大空襲では、延焼防止や住民避難、消火活動の役割を果たしたという。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R498-6
1947年11月5日、米軍撮影の航空写真。

上記を拡大。
建物疎開で拡げられた疎開道路の様子がよく分かる。

現在の様子。
紫の線が、疎開道路。上記の拡張された道路空間と一致する。


磯子橋疎開道路

根岸小学校の南北の道路と、磯子橋に至る東西の道路。

以下、疎開道路であったことを記す看板のみが往時を物語っているので、見つけたら写真を撮りつつの散策。


根岸飛行場

根岸疎開道路の入口は、「根岸飛行場跡」
戦前は、ここに飛行艇専用の飛行場があったのだ。

以前、散策していました。
下記の記録の際は、疎開道路をまったく認知せずに周辺を散策していたのだから、モノを知っているか知らないかで、目線が大きく変わるのが、新鮮でもあり。
こうして同じところを目線を変えつつ、何度も往訪することになるのだ。


根岸疎開道路

根岸飛行場跡を南端に、根岸橋に至る南北道路。

根岸疎開道路と磯子橋疎開道路の交差エリア


坂下疎開道路

坂下橋を東西とする疎開道路。


ヘルムドック跡

堀割川の右岸、坂下橋と磯子橋の間に、ヘルム・ドックという木造船所の跡があり、堀割川に水門が開いている痕跡が残っている。開港地の外国人居留地にあったヘルム・ブラザーズ商会。
戦後、このドックの跡地に大入産業という解体業者が入り、その大入産業の次男が松山善三で、大女優高峰秀子と結婚している。

なお、堀割川の石積は、太平洋戦争の被害を免れたため、昭和初期の震災復興期の姿をそのまま残すものとして、2010(平成12)年に土木学会の土木遺産に認定されている。


滝頭疎開道路

掘割川の左岸。南北に連なっている疎開道路。

横浜市電保存館も滝頭疎開道路に面している。

横浜市電保存館は別記事にて。

掘割川河口近く

掘割川

八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

御大典記念碑(昭和天皇陛下即位記念碑)
「ブイ(浮標)」

敬神 東郷平八郎謹書

根岸駅前

根岸マップ

やはり、こういう土地に根付いた郷土史はなかなか興味深い。

※撮影:2025年6月


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護衛艦「いなづま」(横浜開港祭2025)

横浜開港祭2025で護衛艦「いなづま」の一般公開がありましたので、足を運んでみました。
「呉からようこそ!」なのです!

横浜ハンマーヘッド9号岸壁にて。


護衛艦「いなづま」

DD-105 護衛艦「いなづま」
むらさめ型護衛艦の5番艦。艦名としては旧海軍時代から数えて4代目。
三菱重工長崎造船所にて1997年5月8日起工、1998年9月9日進水、2000年3月15日に就役。
第4護衛隊群第4護衛隊に所属し、定係港は呉。

午前9時半。乗艦前。

第44回横浜開港祭親善大使の4名

一日艦長さんも

THUNDER STORM
DD-105
護衛艦いなづま

らっぱ演奏

横浜ノースドッグもついつい。

※撮影:2025年6月1日


関連

海保最大の練習船「PL23 いつくしま」一般公開(横浜港)

最新鋭の新造船である海上保安庁の練習船「いつくしま」が、横浜港に入港し一般公開があったので、見学してきました。

今年7月に配備された海上保安庁の最新鋭の練習船「いつくしま」
全長134メートル、5500トンと、これまでの練習船で最も大きな船となる。
海上保安大学校の研修生を乗せた航海実習の一環で、初めて横浜港に入港し、一般公開となった。


PL23 いつくしま(巡視船兼練習船)

三菱重工下関造船所江之浦工場で進水し、2024年7月1日に海上保安庁に引き渡しをされた新造船。
総トン数は5,500トン。全長は134メートル。

呉海上保安本部に配属された第六管区唯一の「PL型巡視船」。
海上保安大学校に派遣され、海上保安大学校5代目練習船を兼務。

海保初の「2段船橋」が導入されている。
通常の「航海船橋/航海操舵室」の真下には、訓練で実際に船を操舵できる「実習船橋・実習操舵室」と呼ばれる部屋があり、ふたつの操舵室がある。
船体後部の訓練甲板はこれまでの「練習船こじま」とは違いヘリの離発着は考慮されていない。

2段船橋。
上段が通常の航海船橋・操舵室
下段が実習用の船橋・操舵室
操船権を切り替えることで、どちらでも操船可能。

練習船であっても「PL型巡視船」として、「20mm機関砲」を1基備える。


練習船いつくしま一般公開

船内見学を。

Japan Coast Guard Academy
Training Ship
ITSUKUSHIMA
since 2024.7.1

海上保安大学校
練習船
いつくしま
2024年7月1日竣工

海上保安大学校のシンボルマーク

20ミリ機関砲

最近の護衛艦は、イージス艦橋ばかりで、こういった通常型の船橋は、久しぶり。


正義仁愛

貴賓室に掲げられた、初代長官大久保武雄の書。

正義仁愛
昭和23年冬
海上保安庁長官
大久保武雄

海上保安庁発足の日(昭和23年5月1日)、大久保武雄初代長官は、「海上保安庁の精神は“正義と仁愛である”」と訓示した。
正義とは、海上治安維持によって立つ精神であり、
仁愛とは、人命保護と航行安全の象徴です。
発足以来、海上保安庁の業務は時代に合わせて変わりつつありますが、「正義仁愛」という言葉は、個々の海上保安官に浸透するとともに、海上保安庁の伝統として、今も脈々と受け継がれている。


いつくしま船内

高速警備救難艇

航海船橋の操舵室。

操船室の海図。

実習用操舵室。

飛び出し防止。

書棚も飛び出し防止。

武器部完成図書の閲覧は、航海長の許可が必要。

教室。椅子も机も揺れに備えて固定されている。

精進
国土交通大臣・斎藤鉄夫

通路

新造船だけあって、ピカピカ。

学生公室は、食堂を兼ねているようだ。

椅子は鎖でつながれています。

洗面台

浴場

洗濯室

「清水」は貴重。

4人部屋
ベットは4つあるが、机は4つない。。。
それなりの体格の学生が、物理で4人この部屋に入ったら、結構な圧迫を感じそう。

救命胴衣室

後甲板

海保のシンボル「コンパスマーク」。
羅針盤をデザインしたシンボルマークと、海の色を表す濃い青色。


横浜海上保安部・横浜海上防災基地

「PL31 いず」が停泊中。約3,500トン。
「いつくしま」よりも小型船となる。

「PM36 おきつ」が入港してきました。
清水海上保安部の所属船。


「呉」x「いつくしま」のコラボTシャツ!!

船内で記念にTシャツをもらいました!!

「呉」x「いつくしま」のコラボTシャツは嬉しすぎる。

※撮影:2024年9月


関連

日本初の溶接鉄道橋「瑞穂橋梁」(昭和9年建造)と横浜ノース・ドック

「瑞穂埠頭(瑞穂ふ頭)」
大東亜戦争後の昭和21年に米軍に接収され、横浜ノースドックとして、在日アメリカ軍の湾岸施設として使用されている場所。
そこには、瑞穂橋(道路橋)と併設している瑞穂橋梁(鉄道橋)が架かっている。
そんな瑞穂埠頭は、橋の向こうは、米軍施設などもあり、立ち入りが制限されているというが、足を運んでみました。


瑞穂埠頭(瑞穂ふ頭)・横浜ノースドック

もともとは、外国貿易埠頭として1925年(大正14年)に着工し、昭和20年(1945年)に完成したが、終戦後に連合国軍に接収。1947年(昭和22年)より在日米軍が使用している。
現在、在日米陸軍施設管理本部(ふ頭地区)、在日米海軍横須賀基地司令部(郵便地区)が展開されている。
ふ頭地区は、中型・小型船舶用バース、野積場、倉庫等があり、物資の搬出入や軍人・軍属等の移動に伴う貨物輸送業務(相模総合補給廠や横田飛行場の兵站拠点に運ばれる米陸軍物資の陸揚げ拠点)が行われている。
郵便地区は、艦隊軍事郵便センターが置かれ、極東からペルシャ湾に至る米海軍関係の軍事郵便業務が行われている。

部分返還が進んでおり、2009年に瑞穂橋及び港湾道路(土地:約27,000平方メートル、水域:約2,500平方メートル)が返還。2021年に使用されていない鉄道レール(工作物)や周辺の土地(約1,400平方メートル)が変換されている。

2024年には、在日米陸軍第10支援群(司令部・沖縄県読谷村)下として「第5輸送中隊」が新設運用され、全面返還とは、異なる動きも発生している。

横浜市サイト

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/seisaku/torikumi/kichi/shisetsu/yokohama-northhtml.html


瑞穂橋梁(かながわの橋100選)

2021年に返還された鉄道橋「瑞穂橋梁」。
瑞穂埠頭内に敷かれていた線路は終戦前から利用されており、1946年の接収後も物資を搬出入するための引き込み線として使われていたが、近年は使われていなかった。

「瑞穂橋梁」は2021年に返還された線路などの一部に含まれており、内陸側とノース・ドック側をつないでいる橋梁。
1934年(昭和9年)に建造され、従来のリベット工法から新たな技法として取り入れられた、日本最初の溶接鉄道橋である。

※昭和10年の田端大橋が、田端駅北側ヤードの上を横断して架けられた跨線道路橋で、現場継手も溶接した日本最初の全溶接橋であった。当時は世界最大級の溶接橋であり、現在は歩行者専用橋「田端ふれあい橋」として補強して現存している。

瑞穂橋の返還後を管理する「南関東防衛局」では、基地返還後は現状復帰として「工作物は撤去する」とされており、線路設備や橋梁は解体撤去される方針とのことで。。。
いつまで、見れるかは、なんとも。。。

昭和9年に建造された鉄這橋で、わが国最初の溶接鉄道橋として知られている。構造は鋼曲弦ワーレントラスとブレートガーダーとから成る。アーク溶接は鈑桁部、床組、対傾構の接合に用いられたが、トラスにはリベットが用いられている。橋長77.2mのうち、中央トラス部分は36m。溶接延長は6,458mあって、溶接橋の試験橋梁の意味を持っていた。この橋は瑞穂ふ頭への連絡橋で、現在は防衛施設庁が管理者となっている。(神奈川県庁サイトより)

https://www.pref.kanagawa.jp/docs/bd2/hashi100sen/05-mizuho.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:897-C9-137
1944年10月14日、日本陸軍撮影の航空写真を加工。

まだ埋め立ては一部なことがわかる。

航空写真レベルだと、横浜ノース・ドック内の海側の米軍の建屋3棟が、往時からのもので適合するが、米軍基地なので確認の術がない。。。

今昔マップ on the web

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.471864&lng=139.636488&zoom=17&dataset=tokyo50&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

2022年に撮影していた横浜ノース・ドック(大さん橋から撮影)
艦艇の後ろの建屋、これ戦前からと思われ、です。航空写真で適合したので。


瑞穂橋

瑞穂埠頭に渡るための橋。
以前は瑞穂橋も米軍接収で立入禁止であったが、日本に返還されており、いまは瑞穂橋はわたっても問題ないらしい。

橋を渡った先、瑞穂埠頭の横浜ノースドック側は、立ち入り制限あり。
ゲートを写すと怒られるらしいので、カメラは向けず。。。

なので、陸地側から望遠する。

大さん橋がみえる。(逆に大さん橋から横浜ノースドックも見えるが)

「Bar StarDust」「BAR POLESTAR」
老舗のバー「スターダスト」
「バー・ポーラスター」は、貸切営業のみで「スターダスト」に応相談、だそうで。


三井倉庫(三井倉庫横浜支店千若事務所)

かつてはクレーンが張り出していた三井倉庫だが(2023年写真ではクレーンを確認)、2024年現在、クレーンは撤去されている。
1953(昭和28)年に建てられた、ココアとコーヒー豆専用の倉庫という。

モザイクタイルで描かれた「三井マーク」

かつては線路も敷地内に引き込まれていたという。

横浜港湾部の貨物線「高島線」

場所

https://maps.app.goo.gl/noayR1gJXUwxqH5r7

※撮影:2024年5月


勝海舟設計のコウモリ台場「神奈川台場」跡地散策

神奈川宿を散策した流れで、神奈川台場跡地も散策してみる。
なんとなくの流れですが。


神奈川台場

江戸時代末期に勝海舟により設計され伊予松山藩が築造した台場。

現場総指揮は平野弥十郎(「しょこたん」こと中川翔子の御先祖様。母方の五世祖父にあたる。)。
平野弥十郎は、土木工事の請負として、(品川台場、1854年)、神奈川台場工事(1858年)、築地ホテル館建築工事(1865年)、東京~横浜間鉄道工事(高輪築堤、1869年)といった日本の近代化に関わる大工事を請け負っている。

神奈川台場は、東京湾に侵攻してきた船舶に対する防衛を目的として築造された。
海岸から東京湾に突き出るように埋め立てられ、他の台場には見られない船溜まりという構造を持っていた。
総面積は約2万6000平方メートルで、埋立には付近の権現山(神奈川県神奈川区幸ヶ谷。頂部は現在の横浜市立幸ヶ谷小学校の敷地に該当)の土砂が使われた。

1860年(万延元年)に竣工。
砲台を設置していたが実戦に使用されたことはなく、諸外国の貴賓が港に入った際に祝砲を上げるに留まっている。
1899年(明治32年)に、台場としての施設廃止後の跡地は転用され、現在はJR貨物の東高島駅の敷地などとして利用されている。
神奈川台場は、羽を広げたコウモリのような形をしていることから通称「コウモリ台場」とも呼ばれ、欧州の城などをモデルにして造られたとされる。対近代戦用の稜堡式城郭として、扇型に近い形状で3つの稜堡星形の形状を伴っている台場、である。
14門の大砲が設置され、前面(大砲の照準方向)は、約2.4km離れた象の鼻方面を向いていたという。
象の鼻(横浜開港時の東波止場)も、黎明期の横浜港の重要な港湾建造物。


位置関係

今昔マップ

https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.471864&lng=139.636488&zoom=17&dataset=tokyo50&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

なるほど、コウモリ台場だ。コウモリの形をしている。


神奈川台場跡(西部)

JR貨物の東高島駅の西側。内陸側。石垣が残っている。

神奈川台場跡
 安政6年(1859年)5月、幕府は伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。
 当時の台場は総面積2万6千余平方メートル(約8千坪)の海に突き出た扇形で、約7万両の費用と 工期約1年を要し、万延元年(1860年)6月竣工した。
 明治32年(1899年)2月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正10年(1921年)頃から 埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。

場所

https://maps.app.goo.gl/5C6Ad4ggRG5mzi4o9


神奈川台場公園

神奈川台場公園は海に築かれた台場と陸地をつなぐための通路である「西取渡り道」があった場所。
神奈川台場跡(西部)とセットのエリア。
資料展示がメインの公園。メインの遺跡は地下に眠っている。

地図と絵に見る神奈川台場の歴史
横浜の開港により、開港場の付属施設として「神奈川台場」が築造されました。
安政6年(1859)5月、幕府が伊予松山藩に砲台の構築を命じ、勝海舟が設計にあたりました。
約7万両の費用と約1年の工期を要し、万延元年(1860)6月に竣工した当時の台場は、総面積2万6千㎡(約8千坪)で、海に突き出た扇形をしていました。
明治32年(1899)2月に廃止されるまで、礼砲や祝砲を発射する施設として使われていましたが、大正10年頃から埋め立てられ、いま地上部には石垣の一部だけが残っています。

神奈川台場関係年表(月日は和暦)
弘化2(1845)年
 2月 アメリカ捕鯨船メルカドル号が浦賀入港を求める。この年、幕府が三浦郡鶴崎に台場を新設。
弘化3(1846)年
 閏5月27日 ビッドル艦隊が浦賀に入港、通商を求める。
 6月28日 鎌倉沖にデンマーク船発見。
嘉永2(1849)年
 1月 浦賀奉行が三浦郡観音崎・十石・旗山・猿島台場を視察。
 閏4月8日 イギリス船マリーナ号が東京湾に侵入。
嘉永5(1852)年
 4月19日 幕府が三浦郡観音崎に新造した台場を川越藩に引き渡す。
嘉永6(1853)年
 6月3日 ペリーが浦賀沖に来航。
 6月8日 ペリー久里浜に上陸、アメリカ合衆国大統領の国書を幕府に渡す。
 7月18日 ロシア使節プチャーチンが長崎に来航。
 8月24日 幕府が品川台場の築造に着手。
 11月1日 幕府が徳川斎昭の主張を入れ「海防の大号令」を発令。
嘉永7(1854)年
 1月16日 ペリー艦隊が小柴沖に錨をおろす。
 3月3日 日米和親条約締結。
安政3(1856)年
 7月21日 アメリカ総領事ハリスが下田に来航。
安政4(1857)年
 4月28日 幕府が松山藩に神奈川宿周辺地域の警備を命じる。この年、松山藩が神奈川宿の並木町に台場を築造する。この台場は神奈川台場が完成した頃に廃止された。
安政5(1858)年
 6月19日 日米修好通商条約締結。その後、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと同様の条約を締結。
 12月13日 松山藩が幕府に神奈川宿の猟師町のどこに台場(神奈川台場)を築造すべきかをうかがう文書を提出する。
安政6(1859)年
 5月 神奈川台場仕様書と入用内訳書が作成される。
 6月2日 横浜が開港する。
 7月 神奈川台場の工事が始まる。
万延1(1860)年
 6月19日 神奈川台場が竣工。松山藩主松平勝成が視察する。
文久2(1862)年
 8月21日 生麦村でイギリス人が薩摩藩の藩士に殺害される(生麦事件)。
慶応2(1866)年
 7月 松山藩が神奈川台場の警備を免除される。その後、台場の警備は慶応3年1月から古河藩が担当する。
慶応4(1868)年
 1月3日 戊辰戦争が始まる。
 4月24日 神奈川台場が新政府に引き渡される。
 9月22日 天皇誕生日を祝って神奈川台場から祝砲を発射する。
明治4(1871)年
 9月 神奈川台場が東海鎮守府(海軍省)の管轄となり、明治17(1884)年12月、横須賀鎮守府の管轄に移る。
明治32(1899)年
 神奈川台場が廃止された。

前述と同じですが。

神奈川台場跡
 安政6年(1859年)5月、幕府は伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。
 当時の台場は総面積2万6千余平方メートル(約8千坪)の海に突き出た扇形で、約7万両の費用と 工期約1年を要し、万延元年(1860年)6月竣工した。
 明治32年(1899年)2月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正10年(1921年)頃から 埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。

場所

https://maps.app.goo.gl/CJwFVe2HYkVn9NHC8


海側に移動。。。

盛大に再開発中で、なおかつ貨物の東高島駅を大迂回しないと線路の向こう側に行けないので、動線はかなり悪い。


「Historia Residense 海舟」に残る石垣

コットンハーバーエリアに到着。

「Historia Residense 海舟」ビル。佳き名称。

石垣がありますね。


神奈川台場跡(星野町公園)

もう一つの台場跡地。ここにも石垣が残っている。

開港百五十周年記念 神奈川台場跡

神奈川台場跡地
安政6年(1859年)5月、幕府は伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で台場(砲台)を構築した。
台場は総面積約26,000㎡(約8,000坪)の海に突き出た扇形で、約7万両の費用と工期約1年を要し、万延元年(1860年)6月竣工した。
国交のある国々と礼砲や祝砲を交換するという、当時の国際港としてはなくてはてはならない重要な役割を担った施設である。
明治32年2月に廃止されるまで台場として使われたが、大正10年(1921年)頃から埋め立てられ、現在では、石垣の一部を残すのみとなった。

神奈川台場と象の鼻
安政5年(1858年)に米、蘭、露、英、仏と通商条約が結ばれ、翌年(1859年)横浜港が開港する。港には波止場が作られ、そのうちの一つ西波止場(イギリス波止場、後の象の鼻)は、国際航路に乗船した旅客の出入や輸出入品の揚げ下ろしに利用された。
初代の波止場は、2本の並行な形状だったが、慶応2年(1866年)の大火をきかっけに道路などが整備されたのにともない、波止場の延長工事がおこなわれた。
この工事によって、東側の波止場は大きく湾曲し、波除けとして機能するようになった。こうして、のちに「象の鼻」と呼ばれる防波堤が誕生した。
台場と波止場は国際港のもっとも重要な施設で、明治4年(1871年)、岩倉具視を全権大使とした使節団が西洋諸国に出発した際にも、「象の鼻」からはしけに乗船し、神奈川台場からは祝砲が打たれている。
2つの史跡は現在もその遺構が残っているが、横浜市では、平成21年(2009年)開港150周年を記念して、開港当時の歴史を現在に伝えるため、神奈川台場の再整備工事、「象の鼻」の復元工事を行った。

位置関係は、これがわかりやすいですね。

石垣が残る。

星野町公園。

なんとなく実施した「神奈川台場跡」散策。
位置的には「瑞穂橋」と連動して、それなりに面白みのある散策になりました。
勝海舟とか、しょこたん中川翔子とか、歴史が絡んでそれもまた面白し。

※撮影:2024年5月


神奈川宿周辺の戦跡散策

横浜駅の隣の神奈川駅。
かつては東海道五十三次の3番目の宿場町「神奈川宿」のあった場所。
ちょっとした戦跡が残っているので、散策してみた。


神奈川駅・神奈川宿

東海道五十三次の日本橋から数えて3番目に位置する「神奈川宿」
この地が「県名や区名」の由来となった「神奈川」の地であり、近代都市「横浜」の母体となった地でもある。

まずは、幸ヶ谷公園に向かいます。

場所

https://maps.app.goo.gl/RnHNFd8pxwREB7QeA


表忠碑(幸ヶ谷公園)

神奈川宿(神奈川町と青木町)出身者における日清戦争3柱、日露戦争21柱の陣歿者合計24柱を合祀した招魂碑。
明治43年6月、神奈川軍友会が建立。


支那事変陣歿者銘碑(幸ケ谷公園)

隣には、支那事変陣没者銘碑もある。
支那事変による陣歿者120名の慰霊碑。
皇紀2600年にあたる昭和15年10月20日に、帝国在郷軍人会によって建立。

神奈川区第二次世界大戦陣没者

昭和41年に合同慰霊祭を執行し、第二次世界大戦での陣没者1357名の御霊は洲崎神社に奉安されている。


権現山(幸ヶ谷公園)

神奈川宿の権現山は、幕末から明治にかけて作られた神奈川台場や鉄道用地の埋立のため削りとられ山としては、姿を残していない。
権現山は、戦国時代には上田蔵人の砦があり、北条早雲に内通をしたことで、扇谷上杉朝良に責められた「権現山合戦」の跡地でもある。


割れた石碑(幸ケ谷公園)

昭和20年(1945年)5月29日の横浜大空襲では、神奈川宿にほど近い東神奈川駅周辺をはじめ5カ所を目標地点に設定し集中的に攻撃した。
割れているので、委細不明だが、太田櫛朝書とある。太田櫛朝は江戸文字(千社札文字)で著名。
この功績碑は、一説には「横浜大空襲」で割れた、ともいわれているが、これも委細不明。

幸ケ谷公園


防空壕?(洲崎大神)

洲崎大神のわきに、防空壕と思われる横穴が残っている。


洲崎大神

1191年(建久2年)創建。
源頼朝が安房国安房郡(現・千葉県館山市)の安房国一宮安房神社より分霊を勧請。
明治天皇の東京行幸の際、境内に内侍所奉安殿が設けられた。

明治遷都内侍所奉安之跡

皇紀2600年記念

御即位記念
大正4年11月10日建之

場所

https://maps.app.goo.gl/BaytmnTP5e39sg6r8

※撮影:2024年5月


護衛艦「ゆうぎり」(横浜開港祭2024)

横浜の大さん橋で、「ゆうぎり」を見てきました。


ゆうぎり

DD-153 ゆうぎり
あさぎり型護衛艦の3番艦。浦賀造船所にて建造。
竣工は1989年。護衛艦隊第11護衛隊に所属し、定係港は横須賀。

無骨なデザインが、素敵ですね。第2マストが特徴的。

以下、写真メインで。

62口径76mm単装速射砲

ハープーンSSM4連装発射筒

シースパローIBPDMS

ヘリ格納庫

第二マスト

護衛艦印「護守印」

横浜大さん橋から。

このゴテゴテな雰囲気が良いのです。

向こうには大先輩の「氷川丸」

※撮影:2024年6月2日

三菱重工「横浜造船所跡」と「三菱みなとみらい技術館」

横浜の「みなとみらい」は、かつては、三菱の横浜造船所であった。
往時の物語るものが、「三菱重工横浜ビル・三菱みなとみらい技術館」の片隅にある。


横浜造船所関連

日本丸の第一号船渠と、ドックヤードガーデンの第二号船渠

横浜造船所で造艦された「山汐丸」


三菱重工業株式会社 横浜造船所跡

三菱重工業横浜船渠として、旧海軍では練習巡洋艦「香取」「鹿島」「香椎」、陸軍護衛空母「山汐丸」、測量艦「筑紫」などを造艦した。
なお、三菱と合併前の「横浜船渠」時代では、軽巡洋艦「那珂」駆逐艦「吹雪」航空母艦「龍驤」などを手掛けている。

三菱重工業株式会社 横浜造船所跡
横浜造船所は明治24年(1891) 有限責任横浜船渠会社として発足、昭和10年(1935) 三菱重工業株式会社と合併し 三菱重工・横浜造船所となった。
横浜港出入り船舶の修理から始め、その後新造船、鉄橋、原動機、環境装置に事業を広げ、横浜市と共に発展してきた。
昭和58年(1983)「みなとみらい21」計画に沿い、この創立の地から本牧と金沢へ工場を移転し横浜事業所としてその事業を継続している 
 平成6年3月 

この記念碑の石材は、横浜造船所二号ドック(現ドックヤードガーデン)の底部に使われていたものです。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:897-C8-107
昭和19年(1944年)10月14日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

日本丸の第一号船渠と、ドックヤードガーデンの第二号船渠で位置関係を把握できる。


三菱重工横浜ビル・三菱みなとみらい技術館

三菱みなとみらい技術館が併設されている三菱重工横浜ビル。
三菱の技術を垣間見える施設。


三菱みなとみらい技術館見学1

せっかくだから見学します。

この台座に使われている石は明治30年完成の2号ドック(現ドックヤードガーデン)の石材の一部である。

三菱グループのはなし。

三菱の歴史。

岩崎彌太郎

1929 客船「浅間丸」建造
1939 零式艦上戦闘機制作

1931 日本初の国産戦車「八九式中戦車」制作
1942 世界最大の戦艦「武蔵」建造

空の夢が宇宙へと続く、挑戦のあゆみ

1923 Type10 Carrier Fighter (一〇式艦上戦闘機)
1927 Mitsubishi MC-1(三菱 MC-1)
1937 KAMIKAZE (神風号・雁型通信連絡機)

1939 Mitsubishi A6M Zero 零式艦上戦闘機


三菱みなとみらい技術館見学2(模型)

三菱が創り上げてきた乗り物たちの模型がありました。
ここで、私の時間はガッツリと持っていかれてしまい。

The History of Vehicles 乗物の歴史

実は模型コーナーは、出口の目の前にあった。
出口前で、私は、模型コーナーをもちろんスルーできずに吸い寄せられてしまいました。

飛行機関連は、すべて縮尺1/25で作成。

以下、飛行機模型を。。。

艦上戦闘機一〇式二号(海軍)
1921年(大正10年)
海軍として日本初の空母搭載用戦闘機で三菱内燃機(現:三菱重工)が開発・製造した。英国製エンジンを三菱が製造、骨組みは木製でボディーは布張り、複葉機(主翼が上下二枚)だが、当時の戦闘機としては充分な仕様であった。一号機は乗員2名だが、当機二号機は前後に一人ずつ搭乗し練習機としても使用した。

艦上雷撃機一〇式(海軍)
1922(大正11年)
雷撃機とは、戦闘機から水上艦へ魚雷攻撃するもので爆弾を投下するより命中率が高い。
本機は日本軍で唯一の三葉機(主翼が三枚)で運動性能は良好であったが単座(一人乗り)のため攻撃の正確性に欠け20機の生産で終了となった。

艦上攻撃機一三式二号(海軍)
1924(大正13年)
英国人の設計で三菱重工が製造、まだこの時代もボディーは布張りだが骨組みは鋼管になった。複座で前座の操縦席と後座の銃座に分割、よって攻撃性が高まった。一三式全種で400機以上生産。

練習機 己式一型(陸軍)
1924(大正13年)
フランス アンリオ社から3機購入試用し以後ライセンス生産となった、エンジンは気筒自体がプロペラと一緒に回転、操縦の容易性に定評で初歩練習機としても活躍した。

神風号(司令部偵察機九七式一型の改造機)
1937(昭和12年)
朝日新聞社は英国ジョージ6世の戴冠式に向け陸軍の九七式司令部偵察機の試作機を高速通信機に改造し、1937(昭和12年)4月、操縦士、機関士の2名で立川飛行場を離陸、途中11ヶ所を経由して4日後にロンドンに着陸しました。全行程1万5357kmを94時間、実飛行51時間で都市間連絡飛行の新記録をたて、当時の国民はこの大記録に熱狂しました。 

水上観測機 零式(海軍)
1936(昭和11年)
観測機の役割は戦艦同士の砲撃で命中率を高めるために着弾位置を上空から観測し誤差の週製情報を戦艦に伝えること。艦上から見渡せない敵艦の向こう側の着弾位置など正確に計測可能。偵察機としての役割も果たせます。従って攻撃力は低くても運動性能を重視し当時の技術では複葉機(主翼が2枚)が充分な成果を発揮した。

ひなづる(旅客輸送機)
1936(昭和11年)
英国エアスピード社製エンボイ機のライセンス生産で11機製造した。骨組みは木製で胴体は合板、翼は布張りで、乗員1名、乗客6名。後にこの旅客輸送機「ひなづる」は日本海軍が徴発し「エンボイ」と呼称を変え輸送機として使用した。

陸上攻撃機一式一一型(海軍)
1940(昭和15年)
従来の攻撃機と同等な空気抵抗で胴体径を増すことに成功した、それにより爆弾、魚雷を機内内部に収納でき、高速飛行と俊敏な機動力で敵機をかわすことができた、2400機を生産。

一式陸上攻撃機、ですね。

艦上戦闘機  零式五二型(海軍)
1939(昭和14年)
零戦の制作機数は日本機中最大の10,430機、当52型は主翼の折畳式を廃して短め、先端部を円形にしたこと更にエンジン排気はエンジンカバーの外周に沿って円形に分割したのが特徴、それにより空気整流と推進増加で最高時速が従来型より20km増強、急降下速度も米機に匹敵した。

艦上攻撃機九七式二号(海軍)
1936(昭和11年)
当機二号は、三菱重工製、一号、三号は中島飛行機がそれぞれ開発、製造を担当した。
二号は固定脚のため振動が少ないという利点があった、乗員3名で魚雷を1基搭載している。

零戦52型と、97艦攻2型

艦上戦闘機 九六式二号二型(海軍)
1937(昭和12年)
空中戦を重視し軽量、高速、運動性能を追求した設計、3回の改良を重ね当機は特に視認性を上げるために風防を開閉式にした。高速性、運動性能には主翼を熱くして主翼後方に設けたスプリットフラップ(下げ翼)を設けた。外国機の模倣から脱却した機であり、後に零戦へと継承される。

重爆撃機 九七式二型(陸軍)
1937(昭和12年)
機体は三菱重工製だがエンジンは中島飛行機製で九三式の後継機である。武装・防弾を強化しているが、高速性も確保しており制空権争いに実力を発揮した。生産数は2千機を超えている。

襲撃機 九十九式(陸軍)
1939(昭和14年)
襲撃機とは、爆撃機と異なり高度100m程度の超低空飛行で森陰から敵地を急襲するのに適したもの、そのため本模型は迷彩柄で武装している。戦闘機ほどの俊敏性はないが偵察機としての任務も可能。

司令部偵察機一〇〇式三型(陸軍)
1939(昭和14年)
高度6000mで最大時速630kmは「零戦」より早く敵機も振り切る速度である、機首からキャノピー(操縦席の風防)までを一体型にした流線型と1500馬力の双発エンジンで高度高速の偵察を可能にした。

陸上攻撃機 九十六式二一型(海軍)
1935(昭和10年)
主脚引込式や頭のないリベット(沈頭鋲)で空気抵抗を低減、可変ピッチプロペラで速度に応じた羽の角度を調整して燃費向上、など長距離攻撃機としての技術力を駆使している。
また、派生機として「ニッポン号」がある。(別途模型展示しています)

ニッポン号(輸送機)
1939(昭和14年)
海軍の九六式二一型攻撃機(別途模型展示しています)を長距離輸送機に改造した双発機。海外親善を目的とした改造機で兵器を取り外し大容量の燃料タンクを増設、割ピン1本、ナット1個も交換することなく世界一周を成功させた純国産機。

MC-20(旅客輸送機)
1939(昭和14年)
軍用輸送機の民間転用機で三菱重工が開発・製造、大日本航空のほか満州航空、中華航空でも運行、国内企業の社有機としても使用され、軍用機と合わせ500機以上生産された。乗員4名、乗客11名。

局地戦闘機【雷電】(海軍)
1942(昭和17年)
上昇力と速度向上のため大馬力エンジンを搭載、そのため機首から胴体中央まで大型化され空力特性に苦労したが中高速では零戦よりも横転性能が向上した、数多くの改良がなされたが総生産は600機程度であった。

重爆撃機【飛龍】(陸軍)
1942(昭和17年)
航続距離3800kmは当時日本軍機でトップクラス、高度6000から600km/hで急降下し超低空飛行も可能。機首と2つのキャノピー(風防)は防弾ガラスで急降下爆撃に威力を発揮した、また陸軍でありながら雷撃(魚雷発射)可能は珍しい。

キ‐83 遠距離戦闘機 試作(陸軍)
1944(昭和19年)
敵地奥まで進行できるよう遠距離戦闘機の開発となった、単発から双発エンジン、単座から複座(操縦席と後部座席の二座)仕様、最大速度650km/hだが、のちに米軍が接収し米軍仕様のハイオクタン価燃料で762km/hを記録した。これは米軍機の記録759Km/hを上回るものであった。

艦上戦闘機十七試【烈風】(海軍)
1944(昭和19年)
第二次世界大戦において戦闘機は日々敵国との開発競争に追われ抜きつ抜かれつの連続であった。三菱重工が開発した「零戦」も破竹の勢いで脅威を与えたが、やがてヘルキャット、コルセアの登場で劣勢になっていく、そこで三菱は次機種となる「雷電」の開発に着手、並びに「零戦」の改修型開発で多忙を極め後継機種の開発に大幅な遅れを取った、やがて「烈風」が誕生したが、量産前に終戦となったため試作機で終える事となった。

局地戦闘機【試作秋水】(陸海軍共同試作機)
1945(昭和20年)
陸軍、海軍、民間(三菱重工)共同開発の初のロケットエンジン試作機、B29の高度1万メートルに対抗するためドイツのメッサーシュミットを基に開発され試作機を7機まで製造したが、戦況の悪化で中断となった。尾翼無し、主翼のみが特徴的。

重爆撃機 九三式二型(陸軍)
1933(昭和8年)
陸軍からの要請を受け開発、全金属双発の重爆撃機は国内初であった、当初はロールスロイス社のエンジンで試作機を製作、後に三菱重工製エンジンを搭載した。機首と後方に旋回銃座が取り付けられており乗員は4名。

ここからは、戦後かな。

シコルスキーHSS-2Bヘリコプター
1964(昭和39年)

三菱重工にてノックダウン生産。エンジンも三菱重工製。

シコルスキーS-55Cヘリコプター
1953(昭和28年)

三菱が国内でノックダウン生産。

YS-11A ターボプロップ輸送機
1962(昭和37年)

三菱重工は最終組立を担当した。

MU-300(ダイヤモンド-1】ビジネスジェット機
1978(昭和53年)

三菱アメリカ・インダストリー社と共同開発。

ジェット戦闘機F-104 (航空自衛隊)
米国ロッキード社(1954年)

1962年(昭和37年)から三菱重工がライセンス生産。
F104Jは230機製造。スリムな機体形状から三菱鉛筆といわれたが、三菱グループとは無縁の会社。

ジェット戦闘機F-86F(航空自衛隊)
米国 ノースアメリカン社(1947年)

1956年(昭和31年)から300機をライセンス生産。
初代ブルーインパルスとしても活躍。1964年の東京オリンピック開会式で5色の五輪を描いた。

高等練習機T-2(航空自衛隊)
1971(昭和46年)

国産航空機として初の超音速機(マッハ1.6)
2代目ブルーインパルスとしても活躍。

ジェット戦闘機F-4E(航空自衛隊)
米国 マクダネル・エアクラフト社(1958年)

1968年(昭和43年)にF-$EJを三菱重工がライセンス生産。

三菱の艦船。

上:浅間丸 貨客船 1929(昭和4年)長崎造船所
下:鎌倉丸 貨客船 1930(昭和5年)横浜造船所
姉妹船にあたるが、搭載エンジンの違いから煙突の本数が異なっている。
両船とも日本郵船所有。

あるぜんちな丸 貨客船 1939(昭和14年) 長崎造船所
※のちに空母「海鷹」に改装。

戦艦「武蔵」

武蔵 戦艦 
1942(昭和17年)長崎造船所
全長263m 乗組員:3,300名
1937(昭和12年)海軍より三菱重工が正式発注を受けた長崎造船所として5隻目の大型戦艦、前年に大和が就役しており同級の姉妹艦だが、大和の弱点を改善し副砲塔周辺の防御力を強化した。巨大船でありながら船台建造であった(大和はドック建造)
3つのギネス世界記録に認定されている。
①世界最大の戦艦(総トン数)
②最大の艦砲を搭載した軍艦
③世界一被弾火薬量の多い軍艦

隼鷹 航空母艦
1942(昭和17年)長崎造船所
全長219.32m 乗組員:1187名
飛行甲板にエレベーター2基、零戦ほか53機搭載可能、40口径連装高角砲6基、蒸気タービン4基、推進スクリュー2軸、日本最大の豪華客船の建造中に空母に改造された。そのため母港は呉である。
太平洋戦争で生き延びたが商船への復帰は無く、1947(昭和22年)に佐世保で解体された。

伊19 一等潜水艦
1941(昭和16年)神戸造船所
第日本帝国海軍の一等潜水艦は伊(い)号、二等を呂(ろ)、続いて波(は)号、ホランド級と分類されている。
本艦は伊号の19番艦で、潜航深度100m、魚雷発射管6門、小型水上偵察機1機、ディーゼルエンジン2基を搭載。偵察機は主翼を後方に折り畳み、艦橋前方の格納筒に収納、飛行時は海上に浮上し、格納筒から引き出して主翼を広げた後、カタパルトで押し出す。
数々の太平洋線で活躍したが、1943(昭和18年)爆雷により撃沈された。

あまつかぜ 対空ミサイル護衛艦
1965(昭和40年)長崎造船所

蒸気機関車、ディーゼル機関車、電気機関車など。
三菱は機関車にも関わり合ったんですね。

なかなか見応えのあるのある展示館。もっともほぼ模型コーナーに釘付けだったけど、三菱目線でみてみるのも面白いかな。

※撮影:2023年12月


横浜海上保安部・巡視船「PLH03 さがみ」一般公開(2023年11月)

横浜ハンマーヘッド開業4周年として、横浜ハンマーヘッド9号岸壁で、横浜海上保安部 巡視船「さがみ」の一般公開が実施されましたので、2023年11月3日に行ってみました。

青と白が美しい空間。以下、写真中心で。


PLH03巡視船さがみ

海上保安庁のヘリコプター1機搭載型巡視船。つがる型巡視船の2番船。
1979年10月18日の竣工(2023年時点で船齢は44年)。
旧船名は「おおすみ」。みやこ型巡視船の2番船が「おおすみ」と命名されたことに伴い、2022年2月1日に「さがみ」と改名された。

ハンマーヘッドの向こうにPL31「いず」が停泊。

船橋

休憩室

シコルスキー S-76D
MH912
るりかけす

いただきもの。


産業遺産「ハンマーヘッドクレーン」

1914年(大正3年)に建造されたイギリス製の50tジャイアント・カンチレバークレーン。
日本に3基(他は長崎県長崎市および佐世保市に稼働状態で現存)、世界でも17基しか存在しない貴重な産業遺産。
2007年に近代化産業遺産(経済産業省)に認定。
さらに2018年には土木学会選奨土木遺産にも認定。

※撮影:2023年11月


横浜大空襲の慰霊巡拝

昭和20年(1945年)5月29日。横浜大空襲。
今回は、横浜の空襲にまつわる慰霊碑などをいくつか散策してみようと思う。

合掌


横浜大空襲

昭和17年4月18日、ドーリットル空襲において横浜・川崎地区でも初空襲を受けて以来、横浜は大小30回にも及ぶ空襲を受けてきたという。

昭和19年12月25日、B-29 による横浜地区、初空襲。

https://www.city.yokohama.lg.jp/city-info/yokohamashi/gaiyo/shishiryo/showa/digital-archives/daikushu/ks-nenpyou3.html

昭和20年4月4日、B-29 による川崎地区、初空襲。
そして4月15日にB-29爆撃機200機を超す編隊にて川崎を空襲。
「川崎大空襲」での死者は700人から1500人といわれている。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html

昭和20年(1945)5月29日昼間、アメリカ軍はB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機という大編隊でもって横浜を空襲。約8000人から10000人という死者をだした。この「横浜大空襲」では、京急平沼駅が壊滅、神奈川県護國神社は焼失、している。


防空壕跡と戦災受難者の碑(霞ケ丘丘友会館)

霞ケ丘丘友会館の敷地内。

石垣のところに、防空壕あったという。

戦災殉難者之碑

昭和41年5月29日
 霞ケ丘丘友会 建立

会館では、観音様を安置しているという。
5月29日には、戦災殉難者之碑の前で、供養が行われている。

場所

https://goo.gl/maps/NFbeTsHgFzSn31iu7


親子身がわり地蔵尊(医王山光明院東光寺)

医王山光明院東光寺。
毎年、5月29日の横浜大空襲の日には、横浜大空襲物故者慰霊法会が執り行われている。

親子身がわり地蔵尊

地蔵尊は、先々代住職木川光雄和尚が終戦後間もなく三春台町内会の皆様と相談し、空襲で亡くなられた方々のご冥福をお祈り致す為に建立されたもの。

場所

https://goo.gl/maps/tLmf66oCqTZeXsdB6


横浜大空襲の遺体仮収容所(久保山円覚寺)

昭和20年(1945年)の横浜大空襲によって、久保山円覚寺の堂宇の全ては消失。境内には、遺体の仮安置所が設けられた。

有鉛無縁三界万霊

横浜大空襲の犠牲者も含め、有鉛無縁に命ある全ての霊を慰める。

慰霊塔

戦没者慰霊碑

場所

https://goo.gl/maps/omRwLti4PVdLaLdo8


黄金地蔵尊(普門院)

昭和20年5月29日、横浜大空襲の際、近くに高射砲台があったためか焼夷弾が数多く落とされた。普門院にも助けを求めて多くの人が駆け込んできたが、火の回りが早く境内手前の階段で力尽きたものもいた。
当時の住職も迫りくる炎の中、念仏を唱えながら絶命されたという。
黄金町駅前には多くの遺体が運び込まれたため、終戦後、供養のため地蔵尊が駅前に建立された。その後、駅前開発の際、普門院に移築された。
毎年5月29日に法要が行われている。
  普門院 ご住職の証言をもとに構成

総務省>黄金地蔵尊

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/kanagawa_yokohama_city004/index.html

防災頭巾を被った、黄金地蔵尊

場所

https://goo.gl/maps/ffv2zd7dT5juJeLN7


京急黄金町駅

横浜大空襲で一番の被害を出したのが、京急黄金町駅周辺であった。停車中の電車の乗客、退避中の人々などが駅に集まり、高架下のガードは焼死体であふれかえったともいわれている。

黄金町を流れる川は、あたり一面が火の海となり熱湯と化したという。

黄金町がある南区は死者1308人、行方不明7人、重軽傷者1987人、被災者6万9124人という市内でもっとも大きな被害を受けた。


戦没者供養地蔵(黄金町)

横浜大空襲において、黄金町駅周辺は、多数の犠牲者で溢れ、遺体の仮収容所が当地に設けられていた、という。
その後、再開発しようとすると事故が多発したために、供養のために地蔵を建立し、当地は駐車場として活用することになった、という。

前述の黄金地蔵尊が、当初はこの地にあったが、のちに普門院に遷座し、そのごに、供養地蔵が建立されたものと推測。

場所

https://goo.gl/maps/grqEhdh4Vsm1eWvC9


平和祈念碑(大通り公園)

大通り公園。最西端、阪東橋駅近くにある祈念碑。
愛・平和・地球を中国殷時代の金文を立体構成したブロンズ製のモニュメント。

「愛をもって世界の平和を祈念する」

平和祈念碑 由来之記
  1941年12月8日 日本軍の米国真珠湾軍港に対する奇襲攻撃により 大日本帝国は 連合国軍との間に戦端を開くに至った。
その後1945年8月15日に至り わが民族の滅亡を憂うご聖断により漸く敗戦の日を迎えた。

  その間 三年九ヶ月余。政・軍・官の情報統制の下 一般庶民は戦争の実相を知らされることなく ひたすら盲従を強いられた日々であった。戦線が次第に日本本土に近づくにつれ 米軍機による空爆は熾烈を極め 国内百数十の都市が軍事施設・民間施設の別なく攻撃を受け 非武装の一般民衆が多数犠牲となった。横浜はこの間三十数回の空爆をうけた。特に1945年5月29日白昼 当時世界最大級の重爆撃機B29五百余機 随伴戦闘機P51百余機の連合軍機により 市内は絨毯爆撃を受けること一時間余。焼夷弾換算四十三万余発の投下により市内は焦熱地獄の様相を呈し 非武装の民衆に万余の犠牲者を生ぜしめた。

  この地に戦火止みて既に四十数年の歳月が経過したが 残された遺族の心の傷は今なお癒えることはない。当時を知る遺族も その多くは鬼籍に入り 犠牲者達の恒久平和を希求する声なき声を伝うべきよすがとて失われようとしているこの時 遺族縁類相倚り相扶け 私財を投じ 心ある市民の合力を得て 平和祈念碑建立を発願した。
  祈念碑回廊中には犠牲者の姓名を彫刻し そのアイデンタティを復活せしめ 共に手をたずさえて平和のメッセージを伝え 全世界において我らが子々孫々に至るまで戦争の惨禍におびえることなく恒久平和を享受出来る世界の実現を願い 惻隠の情を意味する「愛」と 飢餓のない世を理想とする「平和」の文字を 我らのいのちを支える「地球」に配して象徴とした。幸い 横浜市会代表の正・副議長殿の賛同を得 国会・県議会有志議員諸賢 神奈川県知事殿の賛意を得た。題字には 横浜市長 高秀 秀信殿のご揮毫になる「平和祈念碑」の彫刻を付し 横浜市からは施設設置許可を受け この地に恒久平和実現の為の一里塚として この碑を建立した。

  除幕式には 国際連合駐日代表殿 広島市長殿 長崎市長殿世界各地のピース・メッセンジャー都市首長殿から 多数の献辞が寄せられた。

  この人類至高の祈りが 志ある人々により継承発展され 犠牲者も平和の使徒の先駆者として 至福の時を 共に迎える日の近きことを信ずる。
  1992年5月29日
   横浜戦災遺族会
    会長 池谷榮一撰

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/kanagawa_yokohama_city001/index.html

関連

https://www.kanaloco.jp/news/social/article-993270.html

https://www.tokyo-np.co.jp/article/253278

場所

https://goo.gl/maps/s3uUwHfpbEyKM78B8


横浜戦災者慰霊碑(三ツ沢墓地)

横浜戦災者慰霊碑、合掌碑、戦災遭難者諸霊供養塔が建立されている。
三ツ沢墓地管理事務所のすぐ横手。

もともと慰霊碑は、久保山にあったというが、三ツ沢に移転という。

横浜戦災者慰霊碑
横浜市
昭和二十五年三月建之

合掌
横浜戰災遺族会
昭和四十七年五月二十九日建

戦災遭難者諸霊供養塔
爲戰災遭難者諸霊
供養塔
昭和二十二年三回忌五月建之

横浜市三ツ沢墓地

総務省

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/kanagawa_yokohama_city003/index.html

場所

https://goo.gl/maps/HhD7g6xzv6pAVZqq6

撮影:2023年7月‐8月


関連

はじめに

「野毛山公園のラジオ塔」野毛山の近代史跡散策(横浜)

きがつけば、なんとなく「ラジオ塔」の散策も4箇所目。
野毛山公園のラジオ塔を見に行ってみました。


野毛山公園のラジオ塔

戦前の日本。まだまだ一般家庭にラジオが普及していなかった時代。
ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。「公衆用聴取施設」として各地にラジオ等が建設された。

野毛山公園のラジオ塔は、日本放送協会(NHK)が昭和7年、ラジオ受信契約数100万件突破を記念して設置したもの。

ラジオ塔
このラジオ塔はラジオの聴衆契約者が百万人を超えた記念に日本放送協会が昭和7年に全国の著名な公園や広場に建てる計画が進められ昭和7年度から昭和8年度中に41箇所が完成してその中に野毛山公園も選ばれ建塔されたものです。
 正式名 公衆用聴衆施設
 全高  3メートル
 建塔  昭和7年11月19日

近くには寄れないので、望遠で眺める。。。


野毛山公園

ラジオ塔だけでは、話題が薄いので、野毛山公園も散策する。
野毛山は動物園だけではないのだ。

野毛山公園
 野毛山公園は日本の公園発祥の地である横浜で横浜公園や掃部山公園に次ぐ長い歴史を持つ公園です。
 明治時代の野毛山は豪商たちの屋敷が立ち並ぶ住宅地でした。現在の散策地区には生糸貿易で財を築いた原善三郎の邸宅が、現在の野毛山動物園の区域には茂木惣兵衛の別荘がありました。
 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災の際に野毛山も大きな被害を受けきした。震災後、被災地復興事業の一環で、都市防災の要地、また市民の憩いの場として、野毛山に公園を建設することになりました。横浜市が買収した民有地、復興局が買収した茂木別邸跡地と市水道浄水場、市長公舎を含む市所有地をあわせ公園用地を取得し、1925年(大正14年)に着工、翌1926年(大正15年)に一般公開されました。開園当時は回遊式日本庭園(現在の野毛山動物園)・西洋庭園(現在の配水池地区)・折衷庭園(現在の散策地区)の三つの様式を持っていました。
 その後、第二次大戦中は陸軍が使用し、戦後は1947年(昭和22年)まで米軍に接取され、公園として利用できない時期が続きました。
 米軍の接収解除後、1949年(昭和24年)に横浜で日本貿易博覧会が開催されました。第一会場に野毛山公園、第二会場に反町公園を利用して開催された博覧会は野毛山公園を現在の形に整備する契機となりました。日本庭園だった部分は動物園になり、洋式庭園部分には噴水池が設けられました。噴水池は博覧会終了後、競泳用プールに改築され、同年開催された第4回国民体育大会夏季水泳大会の会場となりました。
 さらに1951年(昭和26年)には洋式庭園だった部分に児童遊園が造られ、児鏨遊園と動物園をあわせて「野毛山遊園地」として開園しました。児童遊園には豆電車、メリーゴーランドなどの遊戯機械や横浜の街並みが見渡せる展望台が設けられ賑わいました。この頃、様々なイベントや集会、映画のロケなどが園内で開かれ、まさに横浜市の中央公園の役割を担っていました。
 1964年(昭和39年)明治時代に作られた野毛山配水池の老朽化により、水道配水池整備工事によって配水池を地下に新設することになリ、児童遊園を閉鎖して整備をすることとなりました。地下配水池整備後は地上部を公園とし、動物の広場、子供の広場が設けられ、現在の野毛山公園の形になりました。

結構な情報量だが、勉強になるので書き起こし。

野毛山歴史探訪
野毛山は明治、大正、昭和と市民の文化の中心地として、歴史にたくさんの足跡を残してきました。

 横浜は日本の文明開化のスタート地点です。江戸の末期に開港して以来、開港場(中区関内地区)を軸として街づくりが進められました。
 戸部・野毛山には神奈川奉行所が置かれ、当時の官庁街でした。1899年に外国人居留地が廃止されるまで、横浜は現在の県庁の場所にあった運上所を境にして西に外国人が、東に日本人が分かれて住んでいました。山手は外国人の住宅地になったのに対して、野毛山は成功した日本人の住宅地になり、横浜の行政の中心地になりました。
 山手の外国入墓地に対するように野毛山の久保山墓地があり、英仏領事館に対するように、神奈川奉行所がおかれ、山手フランス山庭園に対するように、野毛山がありました。

■野毛の切通しから江戸の人々は異人たちの生活に思いをはせました
 江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を調印しました。その後、開港場をどこに建設するかアメリカと交渉に入りました。アメリカ側は東海道神奈川宿付近を主張しました。しかし、幕府は大名行列や庶民が行きかう東海道から開港場を隔離し、庶民と外国人との接触をできるだけ避けたいという思惑がありました。大岡川の砂州であった横浜村が開港場に選ばれたのは、横浜村と東海道の間には野毛山があり、大岡川河口部に大きく張り出していたので、横浜村の開港場は東海道から見ることのできない立地となり、庶民と外国人の接触を制限することが可能だったのです。しかし、幕府の提示した横浜村開港場案に対して、「横浜は神奈川東海道から2里半(約10キロ)もあり、そのうえ、途中河川、丘坂があって、これに道を通ずるには橋を架け、丘坂を平らかにしなければならず」と横浜村開港場案に反対しましたが、幕府は開港三ヶ月前に着工し、条約の定めた1859年(安政6年)6月2日に横浜港を差し出しました。
 これに対し、アメリカの全権大使ハリスと各国領事は抗議しましたが、貿易を急いだ外国商人は自国領事の警告を無視し、横浜に住み着いてしまい、やむなく横浜を開港場として受け入れざるを得なくなってしまいました。
 
横浜道と野毛の切通し
 1858年(安政5年)当時は、東海道筋から横浜への交通は非常に不便であったため、幕府は東海道筋の芝生村(現浅間町交差点付近)から横浜(関内)にいたる「横浜道」と呼ばれる道路を開きました。(当時、東海道と連絡するには、保士ケ谷から井土ケ谷、蒔囲を通るか、神奈川からの舟運しかありませんでした。)
 この道は、芝生村から湿地帯だった岡野・平沼の各新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路を築くとともに、新田間、平沼、石崎の三つの橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切通しを開き、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けたものでした。
 野毛の切通しへと至る道の途中には関門と番所がいくつも設けられ通行が厳重にチェックされました。
 野毛の切通しの上に神奈川奉行所を築いたのは、いざというとき開港場に架かる吉田橋を落とし、野毛山を砦とする意図があったとも言われています。

■ペリーから敬礼を受けたただ一人の日本人と言われました。
 佐久間象山は信州松代藩に1811年(文化8年)に生まれました。松代藩の藩主真田幸貫は若年期に様々な学問を修めた象山を洋学研究の担当者の役に任じました。その後、象山は兵学を学び、大砲やガラスの製造を手がけるなど西洋の技術、学問を積極的に取り入れました。
 1852年(嘉永5年)、江戸に赴いた象山は幕府に、戦略上の観点から開港場に選ばれた下田ではなく横浜の開港を提言しました。
 その後、1864年(元治元年)開国派であった象山は京都に赴きましたが、攘夷派の前田伊右衛門、河上彦斎らによって暗殺されてしまいました。
 象山の門弟には勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など開国派の中心人物が名前を連ねています。まさに日本の近代化を支えた立役者といえるでしよう。
 公園内に顕彰碑が立っています。

■日本最初のガス灯は花咲町から始まりました。
 1872年(明治5年)9月29日、花咲町から送られたガスによって、大江橋から馬車道、本町通にかけてガス燈が灯りました。これは日本初のガス灯の一般事業化であり、日本近代化の歴史的な瞬間となったのです。
 ガス灯は開国当初の1867年(慶応3年)にアメリカ人によリガス灯建設の提案が出されたのをはじめとして、横浜の外国人を中心に建設申請が出されるなど強い要望がありました。
 神奈川県知事井関盛良と大参事内海忠勝はガス灯の利権を外国人に独占されるのを嫌い、日本人とドイツ商社との共同経営を提案しました。
 しかし、明治の実業家、高島嘉右衛門は、横浜の有力者8名と「日本社中」という会社を作り、日本人によるガス事業を目差しました。
 日本社中はドイツ商社とガス事業の認可をめぐり、競争することとなり、結果、日本社中がガス燈設置の免許を獲得しました。
 日本社中はフランス人技師、アンリ・オーギュスト・ベルグランを上海から招き、花咲町の伊勢山下石炭蔵跡(現・本町小字校)にガス工場を建設し、点灯に成功したのです。

■ヘンリー・スペンサー・パーマー 横浜にきれいな水を届けてくれた恩人です。
 開港後の横浜は海や沼を埋め立て市街地の造成をしたため水質が悪く、衛生的な生活用水の給水が強く求められていました。
 1883年(明治15年)3月にイギリス工兵中佐のパーマーに水道建設を一任しました。1885年(明治18年)4月に水源を相模川支流道志川に定め、野毛山配水池に至る48キロメートルの水道建設に取り掛かりました。
 1887年(明治20年)9月に完成し、10月17日より市内への給水を開始しました。これが日本初の近代的水道の始まりとなったのです。
 今もパーマーが築いた道志川から西谷浄水場を通り野毛へと続く上水道は「水道道」となってその道筋を追うことができます。
 旧野毛山配水池に胸像が立っています。

■汀女はここ野毛山で俳句を詠みました。
 中村汀女は昭和の著名な女流俳人で、日常を題材にしながらも叙情性に富む句によって知られています。汀女は本名を破魔子といい、1900年(明治33年)熊本に生まれました。
 18歳のときに詠んだ句で認められ、1919年(大正8年)19歳の時に「ホトトギス」に投句し、俳句を始めました。
 1920年(大正9年)に結婚、夫の転勤によって日本各地を転々とし、子育てにも追われて、その間は創作活動を中断せざるをえませんでした。
 その後、創作活動を再開したのは1930年(昭和5年)に夫が横浜税関長横浜(西戸部町)に移り住んだ時からでした。高浜虚子に師事し、1934年(昭和94年)「ホトトギス」の同人となって頭角を現します。戦後「風花」を創刊主宰、後の女流排人に多大な影響を与えました。
 汀女は生涯を通じて郷里の実家近くの江津湖を愛したといい、1979年(昭和54年)には熊本市の名誉市民となりました。また、郷里に残した母を想って詠んだ句も多数あります。1988年(昭和63年)9月、その生涯を閉じました。
 散策路をあがってゆくと句碑があります。

参考文献
「区政五十周年記念 横浜西区史」横浜西区史刊行委員会
「ヨコハマ西区ふるさと白書 誰かと西区の話をしてみたい」横浜市西区役所
「横浜市史」横浜市
「横濱復興史 第3編」横浜市
「水と港の恩人H,S.パーマ―」横浜開港資料館


佐久間象山顕彰碑

昭和29年10月1日、開国100年を記念して「横浜開港の先覚者」である佐久間象山を顕彰して建立された碑。


旧野毛山配水池

近代水道発祥の地。
野毛山公園内にある旧野毛山配水池は、関東大震災後の復興と、横浜市の人口増加に伴って昭和2年に完成、昭和5年に運用を開始した配水池。
昭和42年に4万tの新野毛山配水池が完成したことを受け、平成7年に廃止された。

水道みち
「トロッコ」の歴史

 この水道みちは、津久井郡三井村(現:相模原市緑区三井)から横浜村の野毛山浄水場(横浜市西区)まで約44kmを、1887年(明治20年)わが国最初の近代水道として創設されました。運搬手段のなかった当時、鉄管や資機材の運搬用としてレールを敷き、トロッコを使用し水道管を敷設しました。横浜市民への給水の一歩と近代を共に歩んだ道です

近代水道発祥の地(野毛山貯水場跡)

 明治20年(1887年)10月、日本最初の近代水道は横浜に誕生した。
 当時の横浜は、埋立地が多く良い水が得られないため、長い間飲み水や伝染病に苦しみ、また大火事にも悩まされていた。
 いつでもどこでも安全で良い水が欲しいという人々の夢は、この近代水道の完成によって実現された。
 横浜の水道は、英国人H.S.パーマーの設計・監督によるものであるが、沖守国県知事をはじめ三橋僕方(後に市長となる)、三田善太郎など多くの日本人の努力も忘れることはできない。
 パーマーは、横浜のほかにも大阪・神戸・函館・東京などの水道計画に貢献した。
 さらに、横浜築港工事や横浜ドックの設計など港湾整備の面でも業績を残したほか、天文台の建設やロンドンタイムズへの寄稿など広い分野で活躍し、明治26年(1883年) 54才で没し東京青山墓地に眠る。
 横浜水道創設100周年を迎えるにあたり、パーマー像をこの地に建て、先人の業績を讃え、明日への発展を願いたいと思う。
  昭和62年4月  横浜市長 細郷道一

ヘンリー・スペンサー・パーマーの碑

日本初の近代水道となる横浜水道を完成させ、横浜港第1期築港工事を提案したパーマーの胸像。
ヘンリー・スペンサー・パーマー工兵少将は、横浜の水道の父とも言える人物。

昭和2年に完成した流入弁室。野毛山配水池。

野毛山公園展望台

場所

https://goo.gl/maps/XCgE93UXfM5sb9Vi6

撮影:2023年7月


ラジオ塔関連

「国際観艦式2022フリートウィーク」艦艇一般公開(横浜)

2022年11月3日。国際観艦式2022に際して、艦艇の一般公開がありました。
横浜の3埠頭で開催された海上自衛隊艦艇の一般公開の模様を、写真多めに掲載します。

船橋の様子は以下で。


山下埠頭

山下埠頭での一般公開は、護衛艦「あたご」と輸送艦「くにさき」でした。まずはここから。

「ガンダム」と「護衛艦」が並んでいるのは、これはこれでレア。

山下埠頭からは、横浜港大さん橋に停泊している「いずも」や「飛鳥Ⅱ」、そして旧海軍では病院船でもあった海軍の大先輩の「氷川丸」なども一堂に。

そして新鋭の「もがみ」も。「あたご」と並ぶと、「もがみ」のコンパクトさがよくわかります。

米軍横浜ノース・ドックの埠頭にも、多くの護衛艦が停留しているのがわかります。


輸送艦「くにさき」(JS Kunisaki, LST-4003)

おおすみ型輸送艦 (2代)の3番艦。母港は「呉」。
就役は2003年2月26日。基準排水量は8,900トン。

水陸両用車AAV7

ホバークラフトLCAC(エアクッション型揚陸艇)

エレベーターで上甲板(第1甲板)全通飛行甲板へ。

艦首

「あたご」と「もがみ」の艦尾。

くにさき

降ります。


護衛艦「あたご」(JS Atago, DDG-177)

あたご型イージス護衛艦の1番艦。母港は「舞鶴」。
就役は2007年3月15日。基準排水量は7,700トン。

あたご艦尾から、くにさき艦尾を。

もがみと接続しているけども、もがみは今回は非公開。

ステルスな、もがみ。

なんかいた。重巡洋艦「最上」だ。

成功させるぞ!国際観艦式!!


護衛艦「もがみ」(JS Mogami, FFM-1)

もがみ型護衛艦1番艦。母港は「横須賀」。多機能フリゲート艦。
就役は2022年4月28日。基準排水量は3,900トン。


横浜新港

山下埠頭から横浜新港に移動。11時頃に到着して13時の整理券を獲得。待ち時間の間に、大さん橋の「いずも」の整理券を獲得しに行ってもよかったが、大行列との話も飛んできたので、「いずも」は諦めて、そのまま横浜新港のハンマーヘッドで昼休みとする。

海保の巡視船PL31「いず」(3,500トン型巡視船)


護衛艦「しらぬい」(JS Shiranui, DD-120)

あさひ型護衛艦 (2代)の2番艦。母港は「大湊」。
就役は2019年2月27日。基準排水量は5,100トン。

なんかいた。駆逐艦「不知火」だ。

やばい、かっこいい!


潜水艦「たいげい」(JS Taigei, SS-513)

たいげい型潜水艦1番艦。母港は「横須賀」。
就役は2022年3月9日。基準排水量3,000トン。

潜水艦の操舵のデモは貴重。

アンテナを伸ばすデモも。


横浜港大さん橋

大さん橋には、「いずも」が停泊。一番の目玉ということもあり、整理券配布の大行列などもあり、私が到着した15時ごろにはすでに整理券の配布は終了。まあ、想定内なので、「いずも」は外観のみの見学で。

大さん橋から、山下埠頭を。
「くにさき」「あたご」「もがみ」が停泊。


護衛艦「いずも」(JS Izumo, DDH-183)

ヘリコプター搭載護衛艦(DDH)。いずも型護衛艦の1番艦。
就役は2015年3月25日。基準排水量は19,500トン。

いずもは乗れなかったので、過去記事など。。。


横浜ノース・ドック埠頭

米軍基地である横浜ノース・ドックの埠頭にも、国際観艦式2022に備えて、複数の護衛艦が停泊していた。

前は、「護衛艦せとぎり(DD-156)」(母港は舞鶴)
奥は、不詳。。。

手前は、「護衛艦くまの(FFM-2)」(母港は横須賀)
奥は、「練習艦しまかぜ(TV-3521)」(母港は呉)

米海軍の軍艦。音響測定艦が3隻も連なっている。
右が、音響測定艦インペッカブル(T-AGOS-23)(同型艦なし)
中が、ヴィクトリアス級音響測定艦ロイヤル(T-AGOS-22)
左が、ヴィクトリアス級音響測定艦ヴィクトリアス(T-AGOS-19)
米海軍は、音響測定艦を5隻保有している。そのうちの3隻が横浜に集まっているということになる。

さらには、スピアヘッド級遠征高速輸送艦プエルト・トリコ(T-EPF-11)も停泊。

こんな感じで、観艦式に向けて賑わっている横浜港でした。


艦艇護守印

護衛艦乗艦記念として乗艦した艦艇の護守印が頒布。

※撮影:2022年11月3日


関連

日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」部分移設で保存となった観客席(取り壊し後)

2021年末、多摩川河川敷に開設された日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」観客席跡が取り壊しとなった。

当初は、全面的な解体が予定されていたが、観客席の保存活動を行っていた任意団体「多摩川スピードウェイの会」の尽力により、ほんの一部であるが、移築保存となった。

そうして、2022年7月に、3席分(幅約3.3m)の観客席(座面)と、2016年に設置した80周年記念プレートを移設し、2022年に新設された観客席について説明したプレートを追加し、往年の「多摩川スピードウェイ」を物語ることとなった。

「多摩川スピードウェイの会」

https://www.facebook.com/TamagawaSpeedwaySociety/

移設された観客席とプレートは堤防の上にある。


取り壊し前の「多摩川スピードウェイ」

取り壊し前の風景などは、以下の記事にて。


「観客席について」プレート

2022年7月に治水対策に伴う堤防強化工事が完了し、そして観客席の一部が移築保存された。階段状での移築は認められず、観客席のコンクリートの1段だけの移築。それでもここに、日本初の常設サーキット「多摩川スピードウェイ」があったということをなんらかの形あるもので伝承する大変貴重な遺構。
「多摩川スピードウェイの会」の皆さまのご尽力に頭が下がる。

実は、私もほんのささやかではございますが、縁があり。
「多摩川スピードウェイの会」にて、新しいプレートを作成するに当たり、写真の提供を行っておりました。

東急線車内から撮影されたこのアングルは、取り壊し寸前まで原型を保っていた観客席の拡がりや堤防と一体化した物量感を存分に表現しており、他にはない素晴らしい1枚です。

多摩川スピードウェイの会様のメールより

ありがとうございます。

写真提供後、忙しくなりメールを見逃してしまい、お披露目式のご連絡などもいただいておりましたが、参加すること叶わずとなってしまい、プレートを確認させていただいたのが9月になってしました。失礼しました。
この場を借りて、改めてではございますが、多摩川スピードウェイの活動に、ご協力できましたこと感謝しております。
ここに日本初の常設サーキットがあった!ということを、移築保存なった観客席とともに、ささやかであれども、長く後世に伝承していくことを、当記事でも引き続き協力させていただきます。

ありがとうございました。

プレートには特殊な顔料をタイルに焼成したもの、という。
下記は、「多摩川スピードウェイの会」より、いただいた写真より。

観客席について
1936年の開場時には、楕円形コースとあわせて長さ300mの階段状のコンクリート製観客席が堤防上に建設されました。コンクリート部分の厚みは、最大で30cm近くありました。
2016年に当会は、多摩川スピードウェイ跡地保存のシンボルとして、竣工当時のまま現存していた観客席に「開場80周年記念プレート」を設置し、川崎市に寄贈しました。
しかし、2021年に治水対策に伴う堤防強化工事により観客席は取り壊され、3席分のみをここに移設しています。
この観客席を、日本の自動差産業発展の礎としてだけでなく、85年以上にわたりこの地に存在した産業遺産・史跡として後世に伝えるべく、この碑に記します。
 寄贈:多摩川スピードウェイの会 2022年3月

2021年取り壊し前

2022年、取り壊し後


取り壊し後の「多摩川スピードウェイ」

以下、現地写真など。

多摩川スピードウェイ
多摩川スピードウェイは、日本初の常設サーキットとしてこの地に建設されました。階段状のコンクリート製堤防は、当時の観客席そのものです。
1936年6月の第1回大会以降、ここで第2次世界大戦前の数年間を中心に自動車・オートバイのレースが開催され、3万人の観客を集めていました。
若き日の本田宗一郎氏をはじめ、出場者・関係者の多くは、レースで得た技術・経験を活かし、戦後の自動車産業の発展において中心的な役割を果たしました。
開場80周年を機に、多摩川スピードウェイが果たした役割と、先人たちの功績を後世に語り継ぐべく、この碑に記します。
 寄贈 多摩川スピードウェイの会 2016年5月

は観客席の椅子を固定するものであった。

いたって、普通の堤防になってしまいました。。。

東急線の車窓から。

※撮影:2022年9月

二ヶ領用水久地円筒分水・昭和16年完成の円筒型自然分水装置(川崎・溝口)

武蔵溝ノ口駅・東急溝の口駅から北西に15分ほどの道のり。
駅前に紹介の看板があったので予備知識無しで興味本位で足を運んでみた。結果として、なかなか見ごたえのある曲線美のある建造物に出会うことができた。


二ヶ領用水久地円筒分水

昭和16年(1941)に完成した円筒分水装置。

今も昔も日本を支える稲作を欠かせないのが、農業用水。各村々に、平等に水を分けるというのが、欠かせないものであった。

国登録有形文化財 
二ヶ領用水久地円筒分水
 この円筒分水工と呼ばれる分水装置は、送水されてくる流量が変わっても分水比が変わらない定比分水装置の一種で昭和16(1941)年に造られました。内側の円形の構造物は整水壁とも呼ばれ、一方向から送水されて吹き上げる水を放射状に均等にあふれさせ、送水されてくる流量が変わっても、円弧の長さに比例して一定の比率で分水される、当時の最先端をいく装置でした。平成10(1998)年6月9日に、国登録有形文化財になっています。

「土木学会選奨土木遺産2012」の認定
 二ヶ領用水は、江戸幕府の用水奉行 ・小泉次大夫 の指揮のもと、江戸時代直前の1597年(慶長2年)に開削着手されました。現在の多摩区から川崎区にわたる灌漑用水路として、14年におよぶ歳月をかけて、1611年(慶長16年)に完成しました。当時の川崎領と稲毛領の二つの領に水を引いたことが名前の由来とされています。
 現在では、農業用水の役割をほぼ終えつつありますが、都市化のなかで、憩いや安らぎを与えてくれる水と緑の空間として、また川崎市の発展の礎を築いた歴史のシンボルとして、多くの市民に愛され、親しまれています。
 本用水は、当時とは姿を変えていますが、多摩川流域では最古で最大の農業用水であり、現在にもその機能を残す貴重な土木遺産として、後世に保存すべきとの評価を得て、平成24年度に土木学会より認定されました。
 土木学会選奨土木遺産
 2012
 二ヶ領用水

二ヶ領用水 400年・久地円筒分水70年記念 
平賀柴治 顕彰碑
 この世界に冠たる独創的な久地円筒分水は、平賀栄治 (ひらがえいじ)が設計し手がけたもので、1941(昭和16)年に完成した。多摩川から取水された二ヶ領用水を平瀬川の下をトンネル水路で導き、中央の円筒形の噴出口からサイフォンの原理で流水を吹き上げさせて、正確で公平な分水比で四方向へ泉のように用水を吹きこぼす装置により、灌漑用水の分水量を巡って渇水期に多発していた水争いが一挙に解決した。
 平賀栄治は1892(明治25)年甲府市生まれ。東京農業大学農業土木学科を卒業し、宮内省帝室林野管理局、農商務省等の勤務を経て、1940(昭和15)年に神奈川県の多摩川右岸農業水利改良事務所長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、そして久地円筒分水の建設などに携わった。川崎のまちを支える水の確保に全力を捧げた「水恩の人」は、1982(昭和57)年、89歳の生涯を閉じた。
 2010(平成22)年3月27日
 寄贈 川崎西ライオンズクラブ
 結成 45周年記念事業

円筒分水
中野島と宿河原の取入れ口から流れ込んだ水は久地で合流し、分量樋へ導かれていた。「久地分量樋」は、川崎堀、根方堀、六ヶ村堀、久地・二子堀に水を分ける施設。それぞれの耕地面積に応じて用水の幅を分割する樋が使われていたが、水量をめぐる争いが絶えず、より正確な分水が望まれていた。
この円筒分水がつくられたのは昭和十六年。サイフォンの原理を応用して新平瀬川の下をくぐり、円筒の切り口の角度で分水量を調節するしくみになっている。農業用水の施設としては、当時の科学技術の粋を集めた大変すぐれたものだった。

正確な自然分水を目的としており、平瀬川の下を潜ってきた用水は、直径8mのコンクリート製円筒から吹き上がり、その外側にある直径16mの円周を、それぞれの灌漑面積に合わせた比率で水量を分ける、当時としては最も理想的で正確な自然分水方式であった。

二ヶ領用水 久地分量樋 
 稲毛川崎ニヶ領用水は、徳川家康の命を受けて小泉次大夫が、慶長 ニ(1597)年から東京側の六郷用水とともに工事に着手し、十四年の歳月をかけて慶長一六(1611)年に完成させた神奈川県最古で最大の農業用水 です。この用水の完成により、米の収穫量は飛躍的にのびていきました。
 その後、百年あまり経た頃、荒廃したニヶ領用水を蘇らせたのは、川崎宿の名主であった田中休愚 (丘隅)です。休愚は水争いをなくすために、多摩川から上河原と宿河原のニケ所で取水し、久地で合流したニヶ領用水の水を、決まった水量に分けるための施設として、久地分量樋を樋を作りました(写真は明治四三年撮影のものです)。
 昭和一六(1941)年、多摩川右岸農業水利政良事務所長であった平賀栄治の設計建設により、水害防止のための新しい平瀬川の開前とニヶ領用水の伏せ越し、そして久地円筒分水が完成しました。これに伴い、久地分量樋は、ニヶ領用水の水量調節と分量を洪水から守るための施設・久地大樋とともに役目を終えました。
 久地分量樋があった場所は、ここより二百メートルほど上流に御影石で示されています。

ニヶ領用水知絵図
ニヶ領用水知絵図は、川崎の地を四百年にわたって流れるニヶ領用水のことを市民の皆さんに、もっと知っていただくために、平成四年度に作成された「ニヶ領用水総合基本計画」に沿って、過去、現在、未来の視点から用水の姿をとらえて描いたものです。
 左の図は、ニヶ領用水水路網が最も広く張りめぐらされた時期である江戸時代後期~明治時代初期の姿と、都市化が進んだ現在の姿を対比して図示してあります。
 久地分量樋と久地円筒分水の位置も示してあります。

円形の造形が美しい。手前は「川崎堀」

奥は「根方堀」、手前は左が「六ヶ村堀」と右が「久地堀」。

二ヶ領用水の右側の堰から、二ヶ領用水久地円筒分水へと用水を引き込む。

二ヶ領用水の本流は平瀬川と合流する。
二ヶ領用水久地円筒分水向けの用水は、平瀬川をアンダークロスする、

川崎堀の流れ。

国道246号(大山街道の新道)を、二ヶ領用水はアンダークロスし、人は歩道橋でオーバークロスする。

場所

https://goo.gl/maps/VrTf7xgi2H9SZ9i68

※撮影は2022年2月

溝口神社境内稲荷社・高津尋常高等小学校奉安殿(川崎・溝口)

溝口の鎮守、溝口神社の境内稲荷社は、かつての奉安殿であった。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


溝口神社境内稲荷社
高津尋常高等小学校奉安殿

戦前に、高津尋常高等小学校(現在の高津小学校)で使用されていた「御真影( 天皇陛下と 皇后陛下のお写真)」と「教育勅語(勅語謄本)」を納めていた鉄筋コンクリートの建物「奉安殿」が、昭和21年1月に、現在の稲荷社として移築され、御社殿として再活用された。


溝口神社

創建年代は不明。江戸時代には、神仏習合のお社として、大山街道の溝口宿近在の村々の総鎮守として赤城社と称された。
旧社殿は、関東大震災で倒壊。
昭和8年(1933)に新社殿建設が起工され昭和9年11月完成。

本殿は土蔵造。昭和9年築。
同じく拝殿も昭和9年築。

拝殿に掲げられた「溝口神社」の社名額は、元帥海軍大将東郷平八郎の書。昭和8年9月に新社殿完成を記念して奉納。
東郷平八郎が直接に揮毫し彫刻されたもので大変貴重な扁額。

溝口神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

東郷平八郎は昭和9年5月30日に亡くなっているため、溝口神社社名額への揮毫は亡くなる1年前ということになり、最晩年の揮毫としても貴重。

東郷平八郎謹書
ご朱印符

東郷平八郎直筆の書体を転写し、ご朱印符として奉製いたしました。

東郷平八郎に関しては、以下も参照で

奉安殿に関してば、以下を。

はじめに

※撮影:2022年2月

「お化け灯籠と陸軍東部62部隊」の戦跡散策(川崎・宮崎台)

東急田園都市線「宮崎台駅」。今でこそよくある住宅街のこの地に、かつて陸軍部隊が展開されていた。
六本木で編成された東部62部隊(陸軍101聯隊)は、招集兵の訓練と東京近郊に駐留する部隊の演習場として、川崎市宮前区を中心に、川崎市高津区や横浜市青葉区の一部などに進出したという。


東部62部隊(陸軍歩兵第101聯隊)

昭和15年(1940年)12月、歩兵第1聯隊留守居隊を基幹に歩兵第101聯隊が改編され、近衛歩兵第3聯隊の兵舎に駐屯。(近衛歩兵第3聯隊の兵舎は、現在の赤坂TBS界隈。)
昭和17年(1942年)11月、歩兵第101聯隊は、川崎北部の高台、溝の口界隈に転営。

以下は、川崎市平和館・掲示 より

陸軍東部62部隊と溝の口演習場
 宮前区宮崎から高津区梶ケ谷にかけては「陸軍歩兵101連隊(通称東部62部隊)が敗戦までの3年間所在していた場所です。1942年に東京赤坂から移転し、連隊本部は現在の宮崎中学校におかれました。神奈川県を中心とする招集兵を短期間訓練して数万人も外地へ送り出す軍事施設でした。
 現在でも、部隊と共に赤坂から移された「お化け灯籠」(現 市青少年の家)や、被服廠・馬房の一部が残っています。
 また、陸軍は強制的に農地を買収し、宮前区の約3割と高津区・横浜市青葉区にまたがる約9平方kmもの広大な溝ノ口演習場を設置しました。当時の射撃場は現在の国学院大学たまプラーザキャンパスにあたります。

陸軍東部62部隊跡と溝ノ口演習場の現存している遺跡


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-M376-26
昭和22年(1947年)7月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

再開発で、界隈の様相が大きく変わっている。
交通網だけでも、バイパスが南北を縦断し、東急が東西を横断している。


宮崎台駅

東急田園都市線・宮崎台駅。
「電車とバスの博物館」がすぐとなりにある。
開業は昭和41年。陸軍時代にはまだ鉄道は敷かれていなかった。

界隈の鉄道では、昭和2年(1927年)、玉川電気鉄道の溝ノ口線(二子玉川‐溝の口間)が開業。溝の口駅から長津田駅間は、昭和41年(1966)の開業まで待たねばならなかった。


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石1
(宮前区宮崎台・馬絹)

宮崎台の台地の南側、馬絹との境目のあたりにいくつかの陸軍境界標石が残っている。

階段の脇と階段に埋め込まれた、面白い境界標石。

陸軍

ちょうど、ぴったり階段に埋め込まれている。
これは、階段を作った人の心意気に感謝。

場所

宮崎台サニーハイツと宮崎台パークハイツの間の石段。

https://goo.gl/maps/79XJsgKeCRBm79qv7


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石2
(宮前区宮崎台・馬絹)

こちらも石段の脇。こうしてみると宮崎台という台地が分かる。
台地の上が陸軍用地であった、と。

場所

宮崎台ハイツの手前の石段

https://goo.gl/maps/wb6cDyVfRZ5qdFC99


馬絹ノ稲荷神社

この稲荷神社の界隈にも、境界標があるというが、見つけられませんでした。。。

場所

https://goo.gl/maps/mLixMHczBRBEeMYa6


陸軍東部62部隊・馬房跡

宮前区梶ケ谷。
「虎の門病院分院」から、東京横浜バイパスを南下したエリアの住宅地。ここに、当時「馬房」として使用されていた長屋建物が、戦後に住居に転用された。現在も長屋の一部が数カ所に残っている。

関係者の方より「馬房跡の長屋」を切り離した際の写真を頂戴しました。
ご提供ありがとうございます。


ーーー
戦後、この長い馬房跡に人々が寄り合い早い者勝ちというような感じで土地を取り合ったようです。
なので広さはマチマチみたいです。
時代が変わり、代もかわり当時から住んでいる方もだいぶ居なくなりました。
(下記の写真は、)長屋を切り離した際に撮影したものです。工事中で乱雑に板が貼り付けてありますが、馬房の形跡がよくわかるかと思います。
ーーー

以下は、現在の通りの様子。
この通りの右手側に馬房の長屋があった。いまも一部の建屋にその痕跡をみることができる。
 ※建屋の写真は割愛。

場所

神奈川県川崎市高津区梶ケ谷4丁目の住宅地。

※界隈は、住宅地ですので、配慮の上でお願いいたします。


虎の門病院分院・宮崎中学校

陸軍東部62部隊の兵舎や酒保があったあたりが、虎の門病院分院。
陸軍東部62部隊本部があったあたりは、川崎市立宮崎中学校となっている。


陸軍東部62部隊・将校集会所跡

陸軍東部62部隊の将校集会所があったあたりは、現在は「川崎市青少年の家」となっている。庭園に将校集会所時代の石灯籠が残されている。

陸軍東部62部隊・将校集会所庭園
お化け灯籠

川崎市地域文化財
お化け灯籠
 この灯籠は、1941年(昭和16年)まで、元日本陸軍東部62部隊の将校集会所の庭にありました。(部隊の場所は、現在の東京都港区六本木)そのころ、灯籠が夜になると六本木辺りに出るという噂が立ちました。
 1942年に、部隊は灯籠も一緒に連れて、現在の青少年の家を中心としたこの場所に移しました。その時、この噂を消す願いを込めて、動かないように足の部分を埋めたとも、また足を切って移したとも言われ、本当のことははっきりしていません。
 今では化けて出るかどうか定かではありませんが、「お化け灯籠」と呼ばれ、この青少年の家の庭で、平和を願い、青少年の健やかな成長を見守っています。

けっこう、おおきな灯籠。

下はどうなっているのだろう。埋められているのか、切られているのか。。。

場所

https://goo.gl/maps/9CaDuLt1xTNTFBgv8


宮崎大塚古墳(高射砲陣地跡?)

高さ4.7メートルの方墳、という。頂上部には、「馬絹大塚供養塔」が建立されている。
陸軍東部62部隊が駐留していた当時は、高射砲陣地がおかれていた、とも伝承されている。

場所

https://goo.gl/maps/DSzvsnuf2fsfFUeSA


陸軍東部62部隊・ 被服廠の建屋跡

陸軍東部62部隊の被服廠は、川崎市宮前生活環境事業所の界隈にあった。
川崎市宮前生活環境事業所から東の住宅街の一角に、「被服廠の建物の一部」とされている木造建造物が残存している。

現在は、物置小屋として使用されているようだ。

場所

https://goo.gl/maps/9YopjwbfL4Yi4K3V9


陸軍東部62部隊・門柱跡?

被服廠跡ちかくにあるレンガの残骸。
往時の門柱跡?もしくは、なにかの基礎かもしれない。 

今は駐車場の角。

奥に 川崎市宮前生活環境事業所 が見える。

川崎市宮前生活環境事業所が、陸軍東部62部隊の被服廠跡。

場所

https://goo.gl/maps/2uq2B8HZsp7C5moJ8


長坂(陸軍用地迂回路)

長坂
国道246号線梶ヶ谷付近の坂は、かつて「長坂」と呼ばれていた。この坂道は、現在の「青少年の家」周辺が陸軍に接収され、迂回路としてつくられたものですが、「長坂」という名が残りました。
 平成12年2月1日制定
  宮前区

場所

https://goo.gl/maps/CmBERJpqQUnwjtvo6


陸軍東部62部隊・弾薬庫跡?

東急田園都市線の作延トンネル西出口付近がかつての弾薬庫であった。
トンネルは弾薬庫の転用?ともいうが定かではない。
作延トンネルの上部には、今は虎の門病院分院・宮崎中学校などがある。
往時は、このトンネルのうえに、部隊本部があった。

場所

https://goo.gl/maps/TH2ZCCgRw1cr8Kqi9


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石3
(高津区向ケ丘)

宮崎台駅の北側。しばられ松(聖社)の境内に保存されている。

陸軍

しばられ松

しばられ松、聖社の由来
昔、上作延南の原に聖松という大きな曲がり松がありました。
相模の国の或る六部(六十六部の経典を寺々に修める修行僧)が、諸国巡礼の折、この地で百日咳に苦しみ亡くなったという。
又、一説には、この地で穴の中にて鉦をたたき、念仏を唱え修行をしていたが、「この鉦の音が止んだら死んだと思ってくれ」と言い残し入定したといわれる。
その跡に植えたのが、この聖松であるいう(←「あるいう」って書いてあるけど、「あるという」のまちがいでしょうねたぶん)。松の樹勢は、高さ五メートル根廻り三メートル余りある大木となり、枝葉は相模の方向を向き生い繁っていた。明治二十年ごろ落雷にあい、焼け落ちて今日の姿となったが、残る枝ぶりは今も往年の面影をとどめている。近郷の人々は、子供が百日咳にかかると素縄を左に編んで、聖松に縛り願をかけ、病が治ると、右縄を編み幹に縛り直して願ほどきをしたと、言われる。
その由に、この松を別名「しばられの松」という。
社殿がある。又、このしばられ松は古くより稲毛領の七本松の一つとされ、百合ヶ丘の「「弘法の松」、久地の「綱下げの松」などと共によく知られた松である。
稲毛三郎重松が鎌倉に赴く途中、馬の鞍を掛けた「鞍掛けの松」とも言われている。
民俗信仰の対象としても江戸時代、大変崇められ、親しまれたと言われている。平成十二年、聖社を新築建立したのを記念してその縁起由来の伝聞を要約してここに記す。

慰霊碑
忠魂碑

しばられ松(聖社)の境内に、2つの慰霊碑がある。

慰霊碑は、日支事変、大東亜戦争における戦没者の慰霊顕彰。
忠魂碑は、西南の役から日清日露戦役における戦没者の慰霊顕彰。

碑文
 昭和の初期をふりかえって見れば日支事変、又大東亜戦争と、中期は二十年八月終戦、すべての物資の不足等で国全体がもっとも貧窮な時を迎えました。
 又此の戦争により入営や召集により北は大陸の果に南の海に島々に又空地とお国の為とは云え多くの方々が祖国をあとにして戦禍により散っていった。誠にお気の毒に耐えません。
 私達も此のような戦争は二度とあってはならない。いつまでもいつまでも平和な日本であってほしいとただただ祈り願うものであります。
 我が上作延に於ても戦没された方は日支事変で二名、大東亜戦争にて十二名の方が亡なっています。
 そして昭和三十九年東京オリンピック大会が過ぎる頃より経済の急成長により安定した克つてない平和な日本となりました。
 戦後五十年になろうとする今日、戦没者皆様の遺影に感謝申し上げここに慰霊碑を建立して衷心より哀悼の意を表し冥福をお祈りし其の名を後世まで伝え遺族の方々の心よりの慰めとして毎年慰霊祭の出来る事を願い度い。
  平成5年12月5日建立
   上作延戦没者慰霊碑建立委員会建立

場所

https://goo.gl/maps/6myByRTS6P3scmNv7


川崎市平和館

川崎市平和館には、東部62部隊の境界標石が展示してある。

陸軍軍用地境界標
近隣の家の庭に埋まっていたものを、陸軍東部62部隊の研究をしている関係で譲り受けた。東部62部隊・溝口演習場の境界を示すために使われていた境界標。
 川崎市平和館所蔵

陸軍軍用地境界標(宮前区馬絹で使用)
 軍用地の境界には、長さ1m余の御影石が30cm程度頭を出して埋められていました。「陸軍」という文字が刻まれています。都市開発の影響でほとんどが抜かれてしまいましたが、当時のまま埋まっているもの、別の場所に移されたものが約50本、宮前区・高津区に残っています。

撮影:2022年1月及び2月


関連

溝口

陸軍東部62部隊(101聯隊)は、宮崎台に移る前は、六本木に駐留していた。

「防空壕と溝口演習場」溝口の戦跡散策(川崎・溝口)


東急溝の口駅・JR武蔵溝ノ口駅前の防空壕

表記ゆれしているでややこしいが、東急溝の口駅・JR武蔵溝ノ口駅の南口ロータリー。
その向かい側の台地の下には、ぽっかりと穴が空いていた。

どうみても防空壕ですね。

穴は、左に折れた構造。

溝の口には昭和15年(1940年)に軍需工場として「日本光学」が建設。
南武線沿線は軍需工場は集中していたために、大規模空襲「川崎空襲」の被害を被ることとなる。

駅前ロータリー。

場所

https://goo.gl/maps/2iRVRoXvgKewFEn7A


久本神社裏山の防空壕

東急溝の口駅・JR武蔵溝ノ口駅から南に。
久本神社の裏山にも防空壕が残っている。

開口している。

近くには、久本横穴墓群もある。ただし横穴古墳群が埋められている。

場所

https://goo.gl/maps/PNYM9N9pdJLZ7rv99


馬坂ノ庚申堂

武蔵溝ノ口駅から南に、「馬坂」「兎坂」という動物の名を冠した坂がある。
このあたりにも陸軍の境界標が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/YmFhR4KgYWVuNZDf8


溝口演習場の陸軍境界標石(兎坂)

兎坂に2つ、境界標石が残っている。

ひとつめ。南側。

ふたつめ。北側。

ふたつの境界標石を見比べれば、天面の刻みの向きが違うことがわかる。
この角度で陸軍用地の方向を表している。

場所

https://goo.gl/maps/ViXV79Japdm6GfcY6


溝口演習場の陸軍境界標石(馬坂)

勾配26%(14.6度)の急坂。「馬坂」と書いて「まさか」という。急坂として有名らしい。

ここには、陸軍境界標席が1つ残っているといわれているが、見つけることが出来なかった。

もしかして、新しくフェンスが設けられた際に、撤去されたのかもしれない。不自然な痕跡を見つけた。

これは、境界石跡?かもしれない。関係ないかもしれない。

奥に、横たわっている石柱のような、なにかがあった。もしや…

庚申塚の手前の細道にも、標石があったが、これは違うかもしれない。

うーん、ちょっと違うかな??

溝口演習場と関連する「陸軍東部62部隊」に関しては、以下の頁にて

※撮影:2022年2月