平成28年3月6日撮影
筑波海軍航空隊記念館が中心。
- 筑波海軍航空隊記念館(司令部庁舎)
- かえり雲(流政之さん)
- 号令台
- 慰霊碑
- 滑走路跡
- 筑波神社跡(筑波海軍航空隊神社跡)
- 地下戦闘指揮所跡
- 地下病院跡(地下応急治療室跡)
- 二所神社
- 海軍道路
- 笠間市立歴史民俗資料館
- 正門跡
- 供養塔
ずっと訪れたかった地。
「永遠の0」を観る前から。
観た後は更に… 尊い歴史を伝承する空間。
後世にこの歴史を受け継がねばならぬ、と。
散華されし若き海鷲達に感謝と哀悼を…
筑波海軍航空隊記念館サイト
レポート当時(平成28年)と現在は展示状況が異なります。
あくまで参考でお願いいたします。
友部駅南口に到着。
記念館はここから南約2.5キロ。 到着の時間は朝8時。記念館の開館は9時。
ノンビリ歩いていきましょう。
南口より歩く。わかりやすい大通りをてくてくと。
大きな看板がみえてきましたね。
もう少し歩いていきます。
あえて現在の正門ではない方へ。開館時間まで余裕があるので散歩。
位置関係
目次
筑波海軍航空隊裏門
(霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊時代の正門)
筑波海軍航空隊は霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊として昭和9年に開隊。
その分隊時代は現在の裏門が正門。
門柱が戦前か戦後かは?だが、場所は大体同じようです…
現在は裏口。
徒歩は問題ないけど車はこちらからは入れません。
裏口を案内しちゃうナビも多々あるご様子。
私は徒歩なのでこのまま構内にはいります。
筑波海軍航空隊記念館
筑波海軍航空隊司令部庁舎
裏口から入ってしまったので、記念館も裏から……
まずは正面に向かいましょう
かえり雲
正面では号令台と「かえり雲」彫刻が出迎えてくれました。
かえり雲の作者は流政之さん。
元筑波海軍航空隊隊員(海軍飛行科予備学生)出身。
「筑波海軍航空隊の想い出と慰霊のために」寄附されこの地に設置。
号令台
正面には往時のままの姿を残す「号令台」
号令台の前には多くの若者たちが整列し、訓練に励み、そして飛び立っていき…
この場所に集いし桜はさぞかし美しかったことだろうと、想いを馳せると胸が熱くなる…
筑波海軍航空隊司令部庁舎
さて。館内へ。
この司令部として使われていた建物。
戦後は茨城県立友部病院管理棟としてそのまま転用。
平成23年10月に友部病院は茨城県立こころの医療センターと改称し新病棟に移設。
司令部であったこの建物は、解体予定のところを記念館として復活。
展示してあるものは一部を除いて撮影可能。
とても全部を語るのは難しいので印象深いものをランダムで。
こちらは英国アブロ504K練習機。海軍ではアブロ式練習機として中島が主に製造。黎明期の海軍練習機。
プロペラ展示室でスタッフの方に教えていただきました。
往時のプロペラは合板なんですよ。
断面を見れば一目瞭然。わかりやすいですね。
プロペラ展示室でスタッフの方に教えていただきました。
下二段のプロペラ。
同じ九三式中韓練習機(赤とんぼ)ですが違いが分かります?
回転方向が違うんです。
どうやら工場によって右だったり左だったり…
流石に戦争中には、これでは効率もなにもあったものではないので規格統一がすすんでいったようですが、同じ飛行機でもエンジンの回転軸方向が違うのが驚き。
故障時にパーツのニコイチも出来たものではないし…これはアカン
関口富坂海軍大尉
開戦前は金剛の射撃手として乗艦。
開戦時には一航戦赤城乗組員として真珠湾・ミッドウェイに従軍。
次いで翔鶴乗組員として第二次ソロモン・南太平洋に。
乗艦が沈没するも無事に生還される。
「軍艦金剛」
銘入マグカップ
前述の関口富坂海軍大尉遺族の手によって発見され記念館にて展示。
昭和七年度
射撃幹部員競技
軍艦金剛
銘
小笠原諸島にて収集された遺品など。
陸上爆撃機・銀河のエンジン
艦上攻撃機・天山の第四風防(偵察員席)
小笠原諸島にて収集された遺品など。
艦上攻撃機・天山のエンジン
陸上爆撃機・銀河のエンジン
ひときわ大きな遺品。
二式大艇のプロペラエンジン。
筑波空記念館にて鎮座する遺品たちには御神酒が添えられてた。
自ずと手を合わせ頭を垂れる。
感謝の念と哀悼の誠を捧げ、ひとり静かに黙祷する…
零式艦上戦闘機21型。ゼロ戦。
後部胴体。
もともとはソロモン諸島でニュージランド空軍が回収した機体。
ラバウル航空隊所属機と推定。
払い下げ品を大阪の個人が購入し、この地にて展示。
十九試局地戦闘機「秋水」
陶器製燃料タンクは左が陸軍、右の錨印が海軍。
秋水の燃料タンクが陶器製とは知りませんでした。
ちなみに秋水は(末期ゆえに)陸海軍共同で研究された稀有な機体。
記念館の二階へ。
さらに時代を感じる気配がします。
しばらく、雰囲気を堪能します。
中央階段。二階廊下。
記念館二階中央。
司令室。
記念館2階。
副官室。
記念館2階の窓から
広場に眼をやれば桜並木が。
これもまた往時の姿を残すよすがかな…
記念館2階。
こちらは「永遠の0」撮影に使用された部屋。
陽の差し込み具合がやんわりとしていて良い雰囲気です。
記念館2階。
「永遠の0」撮影に使用された部屋にて。
雰囲気重視。
廊下を往来しておりますと、さっきから気になる部屋があるんですよね。
ん?
提督ONLY
扉をそーっと… 押して参ります!
あっ 確かに提督Only部屋っぽい。
さて改めてまして。
模型の展示室があります。ちょっと見てみます。
先任旗…港湾停泊時に司令官不在時に先任の艦長が乗艦している艦艇に掲揚。
代将棋…将官不在時に大佐等の艦長が司令官を務める際に掲揚。
大和格納庫(零式水上観測機)や赤城カットモデルなども展示してありました。
カットモデルはなかなか見る機会がないので新鮮。精密さにしばし見入ってしまいました。
武蔵
模型のこの部分がシブヤン海での映像ではコレと照会してくれているのは、わかりやすく。
こうやって様々な艦船が揃っていると戦艦空母と駆逐などのスケールの違いが視覚化されてよいですよね。
1/700
横山保さんの遺品など。
ゼロ戦が実験機(十二試艦上戦闘機)だったころから部隊を編成し機体の問題解決に尽力しゼロ戦の初陣を指揮。
筑波空飛行長も務め、戦後は空自にて司令などを歴任。
風防ガラスのペンダント
筑波空予備士官金井正夫少尉と女学生。 一度も会うことなく文通がとりかわされ、そして金井少尉は神風特別攻撃隊筑波隊として散華…
神風特別攻撃隊
神雷部隊(桜花)と筑波隊。
この筑波空が「まさにカミカゼの生まれた地」。
この歴史を風化させてはいけない。
筑波山神社で記念写真を撮る筑波空の隊員達の姿がひときわに美しく……
桜花。神雷部隊。桜花を搭載した一式陸攻。
先日、鑑賞させていただいた映画「サクラ花 桜花最期の特攻」が頭によぎる。
ボタンの掛け違い…こんな時代になるなんて…の想いがよぎる。
万感…
こちらは桜花の主翼の一部。
もともとこの建物は、司令部の役目を終えたあとは、病院として使用されたもの。病院の役目が終わり筑波空記念館として改めて活用されています。
展示部屋の中には病院の名残ぽい水道などもあり…
紹介しきれなかった展示も多数あります。私は9時過ぎから2時間ほどいましたが、まだまだ離れがたくもっと時間が欲しいと。
とはいってもスケジュールがあれなので、野外展示にスライドしましょう。
筑波海軍航空隊正門門柱
海軍道路の基地側には門柱が残っている。
筑波海軍航空隊正門
正門の脇にあるコンクリート壁も往時の名残り。
もともとこの記念館は県立友部病院。病院が平成23年4月「県立こころの医療センター」として隣接地にリニューアルし、元の建物は廃院。 ちょっとした廃墟感。 そんな中を抜けて建物の先にある供養塔へ。
筑波海軍航空隊
司令部庁舎庭園
供養塔まで赴く途中にあるこの荒れ庭。 司令部庁舎の裏庭として一応往時からのものらしいです。
筑波海軍航空隊 供養塔
昭和13年から筑波空司令を務めた古瀬貴季中佐の指示で訓練中に亡くなった隊員の為に建てられた供養塔。
この供養塔を建てられた古瀬貴季氏(最終官位は少将)は、フィリピンで捕らえられBC級戦犯として死刑判決を受けるも「ああ、モンテルンパの夜は更けて」のレコードを出した流行歌手・渡辺はま子が戦犯減刑を嘆願し、恩赦によって帰国する事が出来ております。
記念館では自転車(有料)も貸してくれるので、有効活用。
周辺散策へと。
慰霊碑
筑波海軍航空隊 ここにありき
碑文
一九三四年六月開隊。練習機による操縦教育開始。四四年三月零戦による戦闘機搭乗員養成に任務変更。四十五年五月紫電戦闘機の実戦部隊となる。八月終戦。
君は信じられるだろうか。
ここを巣立った若人達が広域各地に勇戦敢闘しその殆どが南溟の空に散ったことを 。
また四四年十月以降フィリピン・沖縄の作戦に数多の者が神風特別攻撃隊員として一命を捧げたことを。
この地で編成し沖縄戦に出撃散華した筑波隊だけでも五十五柱を越える 。
ここに万感の愛惜をこめてその鎮魂を祈り且つは恒久の平和を念じてこの碑を建てる。
一九九九年六月
筑波海軍航空隊関係者有志
用地は橋本二朗氏提供
筑波海軍航空隊滑走路跡
滑走路跡。面影は直線的な道路を感じる程度。
もともとは平らに慣らしただけの土地だったものを筑波空が自力で昭和19年に滑走路整備したものという。
筑波海軍航空隊
筑波神社跡(筑波海軍航空神社跡)
戦後、GHQを恐れた地元住民によって壊されてしまい台座のみ残ると…
若鷲たちが祈願をしたこの場所で静かに頭を垂れ手を合わせる。
筑波海軍航空隊
地下戦闘指揮所跡
※現在は非公開
受付でご案内をいただき、懐中電灯とヘルメットが関与されます。
中に入って実感しましたが、ヘルメット大活躍。コツコツと頭ぶつけますからご注意を。
あと、花粉症の人。ヤバイです。杉林の中です。
地下戦闘指揮所跡。
懐中電灯が大活躍します。
通路がふたつ。部屋は真ん中に5つ。奥に1つ。奥行きは30m。
通路の奥では…プロジェクタ?戦争記憶を求める記念館の広報映像が流れていたり。
うん、印象深い演出だけとちょっとシュール。
地下戦闘指揮地下戦闘指揮所跡。
地下室。
青く見えるのはLED懐中電灯の影響。
素直に言ってかなり興奮する空間。
時間が止まったかのような空間。
無機質なコンクリートが歴史を伝承してくれている…
戦争記憶と記録を求めるポスト…
一番奥の部屋は通信室。
台座や金具跡が残る。
ちなみにこの地下施設は地上の司令部が無事に残ったので使われることはなかったとのことで。
天井に無数に開いている穴はケーブル孔や通気口など。
通気口は途中で折れ曲がって貫通しています。
地下戦闘指揮所跡。
こんな感じで地下室散策。
なかなか興味深い経験をさせていただきました。
これは貴重な歴史遺産。
このまま歴史伝承の装置として残しいかねばならぬもの。
もう一箇所、このエリアには地下施設があります。
筑波海軍航空隊
地下病院(地下応急治療所)
70年ぶりの発見!とのことで、こちらは近年の調査による成果。
地下病院は広さ16畳。奥には明かり取り用の窓もある。
地下戦闘指揮所とは違い、こちらは病院として実際に使用されてます。
明かり取り用の窓側を外から。
筑波空の地下施設。
圧巻でした。
これは一見の価値ありです。
貴重な遺産として、大変価値のあるものを体感させていただきました。
ありがとうございます。
さて、脇道へ。
地下施設の森の南に神社があるんですよ。
こりゃ、いかねばならないでしょ。
地下施設からは立ち入り禁止の道があるので大回りして神社に行ってみました。
二所神社
筑波空とは直接には関係ない…と思われるが界隈の鎮守様。
地下施設がある村の鎮守様。
昭和31年に耕地整理で池八幡神社の地に遷座。 この御社殿後方の杉林の中に先ほどの地下施設があるのだ。
海軍道路
筑波空正門から西に伸びる道路は通称「海軍道路」。
友部から筑波空までは海軍が建設し、そして地元の有志によって宍戸駅から筑波空までの道路が建設。
海軍と地元が交流する橋渡しの道路。
海軍道路の脇には道路建設に貢献した人々の名前が刻まれた石碑が残ってます。
石碑には昭和十年五月と記あり。
長閑な気持ちで、宍戸の集落を遠望。往時も今もそんなにかわらない光景かもしれない。
海軍道路から宍戸の街を抜けて行く。
宍戸駅に向かう途中に笠間市立歴史民俗資料館がある。
旧宍戸町役場庁舎(旧友部町役場庁舎)
笠間市立歴史民俗資料館
国登録有形文化財指定。 ちょっと立ち寄り。
笠間市立歴史民俗資料館。
入館は無料。
訪れた時は私一人でした。
空間を満喫。
手作り感満載の展示はなかなか味があって面白い。 たまにはこうやって郷土史や郷土民俗に触れるのも楽し。
筑波海軍航空隊にまつわる展示室もあります。
いまでこそ資料的密度は筑波海軍航空隊記念館が勝っておりますが古くからこうやって郷土の資料館にもコーナーがあることに敬意を表し。
筑波海軍航空隊記念館に戻りまして。
記念館1階では、お土産や書籍やグッズが販売されております。 後学のために購入。
「茨城県の戦争遺跡」
これから 足を運ぶ事が増えそうです……
記念館が、作成したパンフレット。 なかなか読み応えのある内容。 22ページと6ページの冊子。
戦争の記憶と記録を伝承し風化させない為の空間として。
先人たちの苦難を見つめ直す空間として。
期間限定公開が終わってしまうその後はどうなるのかが未知ではありますが…
なんとか良い方向へと進んでいくのを希求しつつ。
この空間は後世に必要なのです…
桜並木と司令部庁舎は往時と変わらぬ姿ででそこにあった。
この地より飛び立つ若鷲たちを見送ってきた桜並木。
万感の想いで脳裏で夢想する。
きっと、この桜花の咲く季節に訪れたら、泣いてしまうんだろうな…と
〆