船橋西部の戦跡散策

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平成29年撮影

船橋妙典駅から新船橋駅までの散策。

スタート地点は「船橋妙典駅」 。
中山競馬の最寄り駅。 競馬場と無線塔跡と工場跡と。
格別にめぼしいものは残っていないけど歩いてみました。

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中山競馬場

船橋妙典駅から中山競馬場の裏手の方を目指す。

中山競馬場は昭和3年に開業。
性質上、軍部との繋がりも深く協力体制にあったが、戦時中の昭和19年に中山競馬場は封鎖され陸軍が接収。中山競馬場敷地内には陸軍軍医学校中山出張所などが展開された。

中山競馬場の裏手に「馬頭観音」が林立しているエリアがある。

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中山競馬場の馬頭観音

戦時中、陸軍軍医学校中山出張所を中心としてこの中山の地では「破傷風の血清ワクチン」を製造する為に全国から競走馬や軍馬などが集められ、馬から血を抜いて血清を作っていたという。
ここにある馬頭観音の中には、それらの馬霊もあるだろうか。

合掌

ここには江戸期から明治大正昭和までの馬頭観音(馬頭観世音)がある。

中央の3基。
左が大正9年、中央が明治38年、そして右が昭和49年建立。
周辺の小型馬頭観音は江戸期から昭和までの幅広い年代の建立。

写真を見ての通り、中山競馬場の敷地内のようでいて外部からアクセスできるようにポッカリとくぼんでいる。

競馬場の表側には「競走馬たちの馬頭観音」があるというが(未訪問)、裏手にもこうしてひっそりと人間の犠牲となった馬たちの霊を祀る場所が残っていた。


馬頭観音のある場所から競馬場の縁に沿って南下。 熊野神社とありましたのでちょっと立ち寄りしてみました。

船橋市古作の熊野神社

鎌倉期の創建と伝わる。
昭和50年に不審火で消失。昭和52年再建。
境内地のすぐ裏手が「中山競馬場」

船橋市古作の熊野神社。

「一億一心」の石柱掲揚台
紀元二千六百年記念(1940年・昭和15年)建立
当時のスローガンの一つ。


位置関係

地図を見るとワクワクする。

中山競馬場の「楕円」
行田公園を中心とした「円」
新船橋駅となりの「四角」
実は円形は「送信所跡」で、四角は「工場跡」なのです。
どちらも海軍に関係した場所でした。

USA-M871-93
1948年03月29日‐米軍撮影

船橋無線塔記念碑
(海軍無線電信所船橋送信所跡)

円形の中にある行田公園。
その中心にあるのが
「船橋無線塔記念碑」(海軍無線電信所船橋送信所跡)
送信所は大正4年(1915年)完成。

ニイタカヤマノボレ一二〇八

昭和16年12月1日。柱島の連合艦隊旗艦「長門」から発信された電文は呉鎮守府を通じ海軍省を経て、12月2日に船橋送信所から無線にて南雲機動部隊を初めとする全艦隊に伝達された。 (コメントいただき文面修正しました)

船橋無線塔記念碑
碑文
ここ下総台地の一角にかつて無線塔が聳えていた。
大正4年(1915)に船橋海軍無線電信所が創設された。
大正5年にはハワイ中継でアメリカのウイルソン大統領と日本の大正天皇とで電波の交信があった。
広く平和的にも利用されたのでフナバシの地名がはじめて世界地図に書きこまれた。
大正12年(1923)の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた。
昭和16年(1941)の頃には長短波用の大アンテナ群が完成し、太平洋戦争開幕を告げる「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電波もここから出た。
船橋のシンボルとして市民に親しまれていたが昭和46年(1971)5月解体され栄光の歴史を閉じた。

USA-M871-93
1948年03月29日‐米軍撮影

赤い丸の部分に約200メートルの 無線塔 が6基。
これが 「ニイタカヤマノボレ一二〇八」 を発した「 長短波用の大アンテナ群 」

この記念碑以外には往時を物語るものは残っておらず。
あとは道路の円形の雰囲気をなんとなく楽しむぐらい。

この船橋の地から「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の無線が発せられ、日本の運命が決せられたと思うと感慨深い歴史の重みを感じてしまう。

※こおり様よりコメントを戴きまして修正アップデートしました。

この界隈には、具体的には行田東東小学校や周辺の畑に「海軍標石」が残っているという。
が、このご時世ですので学校内は未確認。畑内も未確認。時間があまりなかったので。


日本建鐵船橋製作所跡

「船橋無線塔記念碑」のある行田公園から南東の方向、新船橋駅の近くの四角いエリアが「日本建鐵船橋製作所」跡地。 この地には日本建鐵(日本建鉄)工場跡地が残るのみ。 (コメントいただき文面修正しました)

「日本建鐵船橋製作所」跡地
現在は三菱電機管理地とイオン船橋を始めとする商業エリアとなっている。
(日本建鐵は三菱の完全子会社となり会社清算済)

「日本建鐵船橋製作所」跡地
三菱の下請けということで往時は三菱系の航空機部品も制作。

具体的には海軍局地戦闘機「雷電」部品を製造していたという。
バス停の名前は「日本建鉄前」であれど、既に工場撤退しているのでバス停名も変更される未来は近そうです・・・

東武野田線新船橋駅から直結する 日本建鐵船橋製作所・工場敷地は「イオン船橋」
こうして徐々に往時の雰囲気がなくなっていく痕跡を辿りつつの戦跡探訪。

船橋妙典駅から新船橋駅まで。
今回の歩行距離は約5キロ、所要時間は約75分ほどでした。


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コメント

  1. こおり より:

    日本建鐵本体は記事にお書きのように、三菱電機の完全子会社となった後に清算。
    子会社、関連会社は他の場所に移転・事業譲渡等を行いましたが、日本建鐵自体は移転せずに清算のはずです。
    2020年には汚染除去の手続きも終わりそうなので、奥に残る会社も移転して全部売却になるのではないかと思われます。
    バス停名だけでなく、系統名が「建鉄循環」なので、再開発の最初のステップが完成するであろう数年後には両者とも変更されるでしょうね。(「建鉄荘前」などの古いバス停名はだいぶ前に改名されました。)

    なお、「ニイタカヤマノボレ」が送信されたのは、よく写真で紹介される円形形状の敷地の理由となった無線施設ではなく、その年の8月に完成した高さ200m6基の鉄塔をはじめとする改造後の無線施設で、これが戦後まで残っていたものです。
    大きな鉄塔は、戦後の航空写真で円形内に2本、その北側に2本写っているものです。(もう2本がさらに北側なので、この写真には写っていません。)
    ここより送信された日付は「12月2日」というのが正しいようですよ。

  2. 乱太郎 より:

    「船橋無線塔記念碑」について、記事中に「具体的には行田東東小学校や周辺の畑に「海軍標石」が残っているという」とありましたが、実際にあります。行田公園の東側に「パークコート宮ノ前」というアパートがありその裏側に「自転車置き場」がありますその周辺を探してみてください「海軍」と刻まれた海軍標石があるはずです。私もそれを見つけるのに数分かかりましたww。随分分かりにくい場所にあります。https://www.google.co.jp/maps/@35.7200519,139.9759416,3a,90y,93.53h,105.86t/data=!3m6!1e1!3m4!1sooeqh3d890URydSvKG38_Q!2e0!7i16384!8i8192?hl=ja