目次
軍艦「長門」
「軍艦長門の碑」
ありし日の
連合艦隊旗艦長門の
姿をここに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとする
撰文 阿川弘之 / 書 新見政一 (海軍中将)
昭和21年(1946)7月28日深夜から29日未明にかけて。
1隻の艦が人知れずに太平洋の海へと姿を隠していった。
帝国海軍
戦艦「長門」
そんな彼女を偲ぶよすがに…
「陸奥と長門は日本の誇り」
昭和5年の少年倶楽部「いろはかるた」にあるとおりに、正にこの長門型こそが日本の誇りであった。
戦前戦中は長門と陸奥こそが「大日本帝国海軍」を代表する戦艦であり、国民から愛され慕われた戦艦。
あれっ?と思った人も居るかもしれない…
帝国海軍の戦艦を往時の少年たちは当たり前のように諳んじていた。
「長門陸奥、扶桑山城、伊勢日向、金剛比叡、榛名霧島」
この10隻が開戦時の戦艦・巡洋戦艦。
「大和武蔵」は?
戦中は大和型の存在そのものが極秘であり多くの国民はその艦を知る良しもなかったのです…。
開戦時の連合艦隊旗艦「長門」。
昭和16年12月2日の「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号無電は、この長門から打電。(大和の竣工は昭和16年12月16日、開戦直後)
建造当初から煙突排煙処理が問題となり大正13年(1924)に屈曲煙突に大改装。この姿が国民に親しまれ一番印象に残る姿とも。
私も一番好きな姿です。 (この屈曲煙突は昭和の大改装で廃止)
太平洋戦争時は、大和武蔵ともども主力艦として温存。
昭和17年2月には、連合艦隊旗艦の座を大和に譲っている。
艦に心あり
捷一号作戦では西村艦隊旗艦の予定であったが、宇垣纏第一戦隊司令官の反対で主力に編入。西村艦隊としてスリガオ海峡に突入することはなかった。
宇垣纏『戦藻録』
昭和19年3月6日、宇垣纏第一戦隊司令官は駆逐艦谷風より第一戦隊旗艦長門に乗艦した際に
「長門に着任、中将旗を掲げ死所とす。長門も縁ありてここに四度目の乗艦なり。艦に心あり余の乗艦を喜べば、余は彼女の健在と今日迄の奮闘を謝するものなり」と記している。宇垣は度々「長門」に乗艦しており、この一文からも長門を愛していたことが感じ取れる。
さらには、宇垣は捷一号作戦 にて武蔵が沈んだ際にも(『戦藻録』 昭和19年10月24日)
「嗚呼、我が半身を失えり!誠に申し訳なき次第とす。さりながらその斃れたるるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり。遅かれ早かれこの両艦は敵の集中攻撃を喰らう身なり。
思えば限りなきことなるも無理な戦なれば致し方がなし。明日大和にして同一の運命とならば麾下なお長門の存するあらんも、もはや隊を為さず、司令官として存在の意義なし。・・・」
と麾下の「長門」の存在を意識をしていた。
昭和20年7月18日。
横須賀空襲において艦橋が破壊され、そのまま修復されること無く中破で終戦。唯一残った戦艦であった。
8月30日に米軍に接収。
昭和21年3月18日にクロスロード作戦(米軍核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島ビキニ環礁に向け日本を出港。
その最後の姿を物語る絵画と写真。 昭和21年米軍接収の写真。
昭和21年7月1日の第一実験では爆心地から約1.5 kmの距離でほとんど無傷。長門とともに標的艦とされた阿賀野型軽巡洋艦酒匂は爆心地近くの為に大破炎上、翌日沈没。
そして7月25日の第二実験。爆心地から900-1000m。 実験直後は傾斜を生じるも長門は海上に浮かんでいた。
その4日後の7月29日の朝。 実験関係者が「長門」の浮かんでいた海面を見れば、その姿は海上にはなく、静かに沈んでいた・・・。
阿川弘之著「軍艦長門の生涯」
激動の大正・昭和 日本の運命を背負った一隻の軍艦
… …
遠くビキニの海に沈む… 軍艦長門の生涯には あの時代の 日本と日本人がある!
軍艦長門碑
ありし日の
聯合艦隊旗艦長門の
姿をここに留めて
昭和激動の時代を
偲ぶよすがとする
政一書
揮毫は海軍中将新見政一
撰文は阿川弘之
長門の母港横須賀ヴェルニー公園にて
軍艦長門碑のモニュメントも 「屈曲煙突」時代をかたどっておりました。
多くの国民が耳目してきた帝国海軍のシンボルたる 「連合艦隊旗艦長門」の姿を。
軍艦「長門の副錨」
(平成30年6月撮影)
先日、中京方面に赴く用事があったので立ち寄ってきました。
岡崎市の東公園。
東岡崎駅から市民病院方面のバスに乗り東公園口にて下車。
東公園の中央に堂々とした記念碑がある。
「海の記念碑」
ここに軍艦「長門の副錨」が記念碑として保存されていた。
「海の記念碑」
碑文
時まさに岡崎市制六十周年
ここに岡崎市海友会は、創立六十五周年を記念し、戦艦「長門」の副錨をもって「海の記念碑」を建立する。
これは海国日本の永遠の平和を祈念する心の発露である。
昭和五十二年三月 岡崎市 海友会
シンボルになっている錨は戦艦長門の副錨で、戦後まもなくビキニ環礁でアメリカ合衆国の原爆実験の標的にされたときの唯一の遺品です。 この碑により、人々に広く戦争の悲惨さを知らしめ我国の恒久平和を願う象徴として設置されました。
※一説には昭和9年改装時に取り外した副錨とも
岡崎市の東公園。
長門の副錨の後方には恐竜のモニュメント。
こうして恐竜と対比してみれば長門の副錨の大きさがわか・・・?
長門の忘れ形見・・・
しばしのとき
長門を思い起こし、感慨にふける空間・・・
岡崎市 東公園
「三景艦主砲砲弾」
昭和57年4月29日 岡崎市海友会 創立70周年記念建立。
日清戦争の際に清国北洋艦隊「定遠」「鎮遠」に対抗するために整備した「松島」「厳島」「橋立」を三景艦と呼称。その32センチ主砲弾も記念碑に。
付記
岡崎市 東公園
公園には邸宅もありました。
「本多忠次邸」
こちらの本多さんは忠勝系の本多の末裔。昭和7年に世田谷に建てた住宅の移築保存だそうで。 このときは、すでに夕刻で閉門していたので外観のみの見学。
姉妹艦「陸奥」はこちらにて