富岡空襲(横浜南部空襲)の慰霊巡拝

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横浜の富岡地区は、「横浜海軍航空隊」の飛行艇基地や軍需工場などがあった。
この富岡地区にも大規模な空襲があり、往時をしのぶ慰霊碑があるというので、足を運んでみた。


富岡空襲(横浜南部空襲)

昭和20年5月29日
「横浜大空襲」

昭和20年(1945年)5月29日。横浜大空襲。今回は、横浜の空襲にまつわる慰霊碑などをいくつか散策してみようと思う。 合掌...

その12日後。
昭和20年6月10日
「富岡空襲」

横浜大空襲でターゲットから外れていた、富岡地区にあった横浜海軍航空隊と日本飛行機富岡工場・大日本兵器富岡製作所、そのほか磯子や本牧にあった軍需施設を中心として、米軍による空襲があった。
投下された爆弾は約250発とされ、100名近い犠牲者があった。

湘南富岡駅(現在の京急富岡駅)では、ちょうど停車していた電車の乗客や周辺住民が駅隣の人道トンネルに避難したが、周辺で数十発の爆弾がさく裂し、多くの被害者を出した。
この富岡空襲により、湘南富岡駅(現在の京急富岡駅)は、破壊され営業停止となっている。

こうして、横浜大空襲と富岡空襲(横浜南部空襲)によって、横浜の街は深刻な被害を被った。


戦争犠牲者諸聖霊(慶珊寺)

富岡空襲に際して、慶珊寺には多くの遺体が運ばれた。特に湘南富岡駅(現在の京急富岡駅)周辺での犠牲者が多く運ばれた。境内に安置された遺体は40体ほどあったという。

戦争犠牲者諸聖霊

昭和二十年六月十日横浜市富岡町ハ米軍ノ爆撃ヲ受ケ数多ノ犠牲者ヲ出ス 偶々当地ニアッテ非業ノ死ヲ遂ゲシ諸聖霊無念ノ恨ミヲイダキテ当苑ニテ仮葬セラル 時移リ平和ノ世トナリテ三十数星霜往時ヲ知ル人数ナシ 今ココニ檀徒有志ト共ニ供養塔ヲ建立シ聖霊ヲ慰メ併セテ戦没者各霊ノ追福菩提ヲ祈ルモノナリ
昭和五十五年春 慶珊寺第十九世 隆定識

合掌

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山門の隣には、「孫文の上陸記念碑」があった。孫文は、日本には何度も来日しているので、そのうちのひとつ、ではあるが。
なお、当時、慶珊寺の門前は、すぐ海が迫っていた。埋め立てられたのは戦後もだいぶ最近の昭和52年に「並木」地区が埋立地として造成された。

孫文先生上陸之地
岸信介書

由緒
近代中国建設の父にして、三民主義・大アジア主義の提唱者である孫文先生は第二革命に際し、袁世凱に追われ中国を脱出、台湾経由日本に亡命を企図され、1913年(大正2年)8月17日横浜沖より小舟にて当地富岡海岸に上陸、東京に向かわれた事実は当時の神奈川県知事大島久満次より外務大臣牧野伸顕に宛てた報告文により明白となりました。孫文先生の富岡亡命上陸成功の陰に当時の日本当局者並びに日本人有志の援護があり、それが要因となって近代中国が生まれたことを思えば、富岡上陸の意義は誠に大きいと言わねばなりません。しかも今回右の史実と意義を顕彰のため建てられたこの史蹟碑が富岡住民たちの研究と日本人有志多数の協力によって竣功したことは、両国親善の歴史に大きな金字塔を成すものと言えましょう。
 昭和59年(1984)8月17日
  孫文先生上陸之地記念碑建立委員会

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ちかくには、直江三十五の邸宅跡、文学碑もあった。

直江三十五は、1934年に亡くなっているので、戦争とは直接の関係はないが。

京急富岡駅の境内にも、「直木三十五と富岡」についての掲示がある。

さらに近くには、松方正義別荘跡もあった。
伊藤博文や井上馨、三条実美らの別荘も近くにあり、横浜金沢は明治期の政治家の別荘でもあった。のちに鉄道の開通とともに、鎌倉逗子湘南(大磯小田原)方面にと別荘も移っていくことになる。

十二天 松方正義別荘跡

「十二天」とは、十二神将をまつる十二天神社があったことに由来する。

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戦災殉難供養塔(持明院)

「慶珊寺」の近くに鎮座する「持明院」にも、遺体が運び込まれたという。
こちらにも慰霊碑があった。

戦災殉難供養塔
昭和二十年六月十日

昭和20年6月10日の富岡空襲の戦災殉難者の供養塔。

合掌

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位置関係は、こんな感じ。
緑地帯=公園から右側が埋立地。

富岡八幡公園

富岡八幡宮

富岡八幡宮の隣、

日本国憲法起草之地

終戦後の第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣を任じられた金森徳次郎がこの地(印刷会社文寿堂社主・佐藤繁次郎別荘跡)に籠り、草案を書いたとされている。
ちなみに、近くの金沢八景には伊藤博文らが関わった明治憲法の草案の地でもある。

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日本国憲法として、マッカーサー草案は、下記も。

日本の、戦後再起動の歴史を感じる場所。 この界隈に、かつて外務大臣官邸があり、日本国政府とGHQ連合国軍総司令部の間で日本国...

京急富岡駅(湘南富岡駅)

京急富岡駅は、戦前は「湘南富岡駅」と称していた。
昭和5年(1930年)に、海水浴客専用の仮駅として開業。
昭和6年(1931年)に、駅に昇格。
昭和20年(1945年)6月10日の富岡空襲(横浜南部空襲)によって破壊され、営業停止している。


人道トンネル(京急富岡駅)

京急富岡駅のとなりにある人道トンネル。昭和20年6月10日の富岡空襲に際して、鉄道の乗客や周辺住民がトンネルに逃げ込んだが、トンネルの前後で爆弾がさく裂し、多くのっ人々がなくなった。
富岡空襲は、都市空襲を目的とした焼夷弾ではなく、軍事施設の破壊を意図した爆撃であったため、破壊力の強い爆弾であり、そのために死傷者も増えたという。

このトンネル内でも、多くの人々が空襲の犠牲となった。
合掌。

往時を物語るものは特にない。
ただ、ここで爆撃があったという伝承が残っているのみ。

※撮影:2026年4月


三渓園の被災狛犬
(横浜南部空襲で被災した狛犬)

富岡空襲(横浜南部空襲)で被災した三渓園の狛犬。
むかし(2016年)、三渓園に赴いたときに、撮影していた写真があったので、掲載。
空襲被災で首から上を失った狛犬や、左耳を失った狛犬が今も残る。

三渓園は、原富太郎(原三溪)によって、1906年に造園された。
1923年の関東大震災と太平洋戦争中の1945年(昭和20年)6月10日の横浜南部空襲で被害を受け、一部の建造物を失っている。

楠公社と観心橋
楠公とは、南北朝時代の武将·楠正成のこと。社殿の建物は、もと大阪·観心寺にあったもので、楠正成が建武元(1334)年に建立、自らの守護神·牛頭明王を祀ったと伝えられた。三溪園へ移築後は、高村光雲門下の彫刻家·米原雲海作の楠公の木彫像が安置されていたが、空襲の爆撃により社殿と楠公像はともに失われた。現在の天満宮の鳥居脇にある首の欠け落ちた狛犬は、楠公社があった頃からのもので空襲による破壊の痕が生々しく残されている。手前にかかる橋は観心橋で、その名は楠公社の由緒(観心寺)による。


(おまけ)巡洋戦艦「天城」流用の浮桟橋

まったく、関係ないけど、三渓園のある本牧の高台から、ジャパンマリンユナイテッド横浜事業所磯子工場を垣間見る事ができる。此処には、関東大震災で被災し解体された巡洋戦艦「天城」船体の一部を流用した浮桟橋が今も護衛艦の整備等で活躍している。
三渓園に行ったときに撮影してましたので、メモ程度に掲載。

※撮影:2016年8月(三渓園と本牧)

本牧は、下記をメインで過去に散策していました。

平成28年4月ほか 友人と諏訪地方を訪れる機会があった。というよりも、もともと友人が「この記念館」に訪れるために事前予約をしており、...

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