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武蔵野陵に拝す(昭和天皇祭の儀・令和4年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。

国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

即日、
皇太子明仁親王殿下が践祚され、第百二十五代天皇の御位にお就きになられた。
そして、年号は「平成」と改元せられた。


武蔵野陵(むさしののみささぎ)

33年後の令和4年(2022年)1月7日、
昭和天皇が眠る武蔵野陵を参拝いたしました。

昭和を偲びつつ…

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。

昭和天皇武蔵野陵

令和4年1月7日。
午前9時30分前に到着。武蔵野陵へ参進する。

午前9時33分。祭員が参進。

このあとは、撮影禁止。

午前9時開門から午前9時30分までは一般参拝可能。
午前9時30分から11時頃までは祭祀のために、立ち入り制限発生の場合あり。
祭祀の間は一般参拝者は御陵向かって右側で待機、でした。

祭祀は、神道式。
 一般参拝停止
 祭員参進
 式部官参進(宮内庁式部職)
 招待者参進
 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下でした。)
 勅使参進
  献饌
  勅使拝礼
  皇族代表拝礼
  招待者拝礼
  撤饌
 勅使退出
 皇族代表退出
 招待者退出
 式部官退出
 祭員退出
 一般参拝再開 
祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

https://www.fnn.jp/articles/gallery/295317?image=5

https://mainichi.jp/articles/20220107/k00/00m/040/074000c

最初は、一般は15人かな。
最終的には一般も50人くらいまで集まっていたような感じでした。

午前10時45分頃、祭員退出。

前日の雪が残る武蔵野陵。

武蔵野陵墓地(宮内庁多摩陵墓監区事務所所管の陵墓 )

大正天皇 多摩陵
貞明皇后 多摩東陵

昭和天皇 武蔵野陵
香淳皇后 武蔵野東陵

高尾駅

嗚呼 海軍七勇士殉難之碑(船橋)

船橋市の内陸。
かつて、一式陸攻が墜落し若人7名が殉職した地に建立された慰霊碑がある。
行きにくい場所ではあるが、気になるので足を運んでみた。

新京成電鉄「高根公団駅」から「さつき台」行きのバスにのり「梨園」バス停で下車。そこから10分ほど歩くと、「海軍七勇士殉難之碑」慰霊碑がある。
バスは20分に1本ぐらい走っているので、訪問に手間はかかるが、そこまでは難易度は高くなかった。


嗚呼 海軍七勇士殉難之碑
嗚呼 海軍七勇殉難之趾 慰霊碑

この地に、一式陸攻が墜落し、搭乗員だった海軍七勇士が散華なされた。

合掌

(正面)
嗚呼海軍七勇殉難之趾

(右側面)
昭和十八年二月二十七日建立

(裏面)
故 海軍飛行兵曹長  松本博
  海軍一等飛行兵曹 横山彦造
  同        重村惠
  海軍一等整備兵曹 富澤正吉
  海軍二等飛行兵曹 島田茂
  同        高橋利省
  同        飯田輝與

嗚呼 海軍七勇士殉難之碑
 この碑は、太平洋戦争のさなか、昭和17年11月27日の早朝、木更津航空基地から海軍第七〇二航空隊の一式陸上攻撃機(一式陸攻)が訓練飛行に離陸した。機が当地付近上空にさしかかたころ、天候が急変、豪雨、落雷に遭難し墜落、機は飛散した。搭乗していた20歳前後の若き航空兵、下記7名全員が無念にも殉職散華されました。

    記
故 海軍飛行兵曹長  松本博  (京都府)
  海軍一等飛行兵曹 横山彦造 (愛知県)
  同        重村恵  (同)
  海軍一等整備兵曹 富澤正吉 (千葉県)
  海軍二等飛行兵曹 島田茂  (栃木県)
  同        高橋利省 (宮城県)
  同        飯田輝與 (埼玉県)
注 石碑の裏面「階級、氏名」右側側面「昭和十八年二月二十七日建立」とあり

 当時近隣住民の方々が殉職兵士を悼み殉難の碑を建立しましたが、戦中、戦後の混乱の中で永らく樹間に放置され墓参に訪れる人もなく、異境の地で淋しく眠っておられましたが、樹間に埋もれていた碑が、昭和39年たまたまこの地に訪れた葛西氏(松が丘1丁目)により発見されました。その後地主さんの御好意により周辺が整備され、再び白く輝く碑を見ることが出来ました。
 その後、近隣の住民の方々のおりに触れた献花、焼香等が手向けられ、慰霊に努めて来られました。10年前頃からは地元ボランティアによる周辺の整備に当って来られたためにきれいになり、近年は散策に訪れてついでに手を合わせてくださる姿が多くなりました。
 この大穴の地にもこのような戦争の傷跡が残っていることを、記憶にとどめて語り伝えていただければと思います。ここに改めて若くして散華した七勇士に哀悼の意を捧げるとともに、今後も後世のため、この殉難の碑を守り伝え、慰霊に務めるものであります。
 平成26年11月27日
  殉難の碑を守る有志の会

海軍第702航空隊の前身は、海軍第4航空隊。
昭和17年2月10日に、高雄空陸攻隊と千歳空陸攻隊と艦戦隊で編成された航空隊。トラック島で編成。
昭和17年9月にラバウルから木更津に帰還し昭和11月1日に第4航空隊から、第702航空隊に改称。
翌年の昭和18年5月に再びラバウルに進出。米軍の中部ソロモン進攻に対抗。ラバウル周辺で展開された「ろ号作戦」に参加後に解隊。

昭和17年11月27日に墜落した一式陸攻は、9月にラバウルから帰還し、そして11月に新たに第702航空隊となり、再び最前線のラバウルに進出するために、内地木更津で訓練を重ねていたタイミングであった。

一式陸攻のイラストもありました。

一式陸攻K310は、1941年12月10日のマレー沖海戦において、鹿屋航空隊第3中隊分隊長の壱岐春記大尉が機長を務めた機体。巡洋戦艦レパルスに魚雷を命中させた機体のひとつ。
一式陸攻が一番輝き、そして大活躍し、若き一式陸攻搭乗員たちのあこがれであったであろう機体のイラストをレクイエムとして奉納、かもしれない。

この場所に、一式陸攻が墜落した。。。

場所

https://goo.gl/maps/MdcdyZtJnPnsXdas5

※撮影:2022年1月


関連

鉄道連隊演習線松戸線の散策3(鉄道連隊橋脚・鎌ヶ谷)

鉄道連隊の跡地散策。
この日は、新京成線沿線から離れ、東武野田線(東武アーバンパークライン)の馬込沢駅から20分ほど歩いた場所にある、演習線の橋脚を見学。


新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。

鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M504-45
昭和22年(1947年)09月24日、米軍撮影の航空写真

google航空写真でほぼ同位置。演習線の跡を色付け。ポイントが橋脚跡。
新京成の鎌ヶ谷大仏駅は、曲線をショートカットした新設線路で新駅であることがわかる。

拡大。


鎌ヶ谷の鉄道連隊橋脚

史跡 
鉄道連隊橋脚
  所在地 鎌ヶ谷市東道野辺6丁目8番

 この橋脚は、昭和初期に旧日本軍の鉄道大隊が、訓練や物資等の輸送のため、建設した鉄道の一部です。
 近代の戦争では、鉄道は人や物資の輸送のために重要な役割を担っていました。千葉県でも、鉄道大隊から独立した第1鉄道連隊が千葉町(現在の千葉市)に、第2鉄道連隊が津田沼町(現在の新京成新津田沼駅の辺り)に配備され、昭和20年(1945年)第2次世界大戦終了まで活躍しました。
 この橋脚は、第2鉄道連隊が、大戦中、鉄道を敷く訓練として津田沼~松戸間に設けた路線の一部でしたが、終戦後は放置されていたため、この部分を除くほとんどを京成電鉄が買い受けました。その後、昭和21年(1946年)に京成電鉄の出資により新京成電鉄が設立され、当路線の整備を行いました。しかし、この部分は整備から除かれ、この橋脚だけが残りました。現在の新京成電鉄の全線が、整備を終え開通したのは、昭和30年(1955年)のことでした。
  平成11年3月 
  鎌ヶ谷市教育委員会

アカシア児童遊園

児童遊園の中に橋脚が残っている。

西側の1番目。

西側の2番目。

西側の2本。

東側の二本。合計、四本の橋脚が残されている。

端の橋脚は凹型。

桜の季節が気になる枝ぶり。「戦跡と花見」というのは良きポイントですね。
もちろん、桜は戦後の植樹。

今は暗渠となっているが、この四本の橋脚のちょうど中間に川が流れていた。
そのために窪地となっており、鉄道連隊演習線は、この部分に橋を渡した。

地理院地図の標高地形図をみると、凹み具合がわかる。

https://maps.gsi.go.jp/#18/35.747603/140.002915/&base=std&base_grayscale=1&ls=std%7Crelief&blend=1&disp=11&lcd=relief&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m

Google Mapsでも、道路のアップダウンが分かる。

場所

https://goo.gl/maps/MJrHPkUPMVwzxBqz6


陸軍境界標石(石杭)

公園の西端入口に、境界石もあった。

陸軍

場所

https://goo.gl/maps/oTpYKdmbq3JEzL5PA


出会い

実は、ここで偶然の出会いがありました。

私が橋脚の写真を撮っていると、同じくカメラを持っている御仁が。
「ん?同業者さんか??」と思って、そうこうして、挨拶を交わしてみると。。。

なんと、日本戦跡協会の代表さん!
(戦跡協会さんからすると、なんと、戦跡紀行さん!となったようですが。。。)
この場所で、タイミングよく出会うというのは、かなり奇跡的。
私が、橋脚を見ようかなと考えたのは、この日の移動中の電車の中でしたので、直前まで行き先も確定させていなかったので。

日本戦跡協会さんのサイト
 https://www.sensouiseki.com
日本戦跡協会さんのTwitter
 https://twitter.com/sensouiseki
日本戦跡協会さんのFacebook
 https://www.facebook.com/sensouiseki/

戦跡協会さんのTwitter等で発信される情報は、かなりの頻度で拝見しておりました。日本のみならず海外情報にも明るく、それらの記録は大変に秀逸なもので、まさかここで偶然の極みで御縁が出来るとは思いもよらず。今年(令和4年)の戦跡フィールドワークの幸先は良く、充実したものになりそうです。

このあと、せっかくの御縁なので、 日本戦跡協会さんと一緒に、千葉界隈の戦跡散策を実施。
それらの戦跡探訪記録は、おいおい掲載していきます。。。
ありがとうございました。

ひとまず、本編は以上で〆

※撮影:2022年1月


鉄道連隊演習線松戸線の散策2(新京成電鉄・常磐平駅~五香駅)

新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。

鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。

八柱駅界隈はこちら。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:893-C1-168
昭和19年(1944年)09月27日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を拡大、文字入れ加工。
オレンジ色は、現在の情報を追記。

常盤平駅と五香駅のあいだの鉄道連隊演習線区間は、北に大迂回をしていたが、新京成ではショートカットされたことがわかる。


常盤平駅

常盤平駅から北に。


「金ヶ作 熊野神社」と「囲いやまの森」の西側

境内地と森の西側を北に向けて歩く。
この道は、当時の鉄道連隊演習線の線路跡になる。

場所

https://goo.gl/maps/QYjKkZvYxQE4Uajy6

急に林となるが、そのまま北上する。ここも演習線の線路跡。


陸軍境界標石(陸軍境界杭)1

開けたところに、石杭がみえる。陥没しているが、これはきっと境界石。


陸軍境界標石(陸軍境界杭)2

そのまま北上すると、「印西道」に交差する。その交差の南側にありました。
はっきりと「陸軍」の刻印がわかる境界石が。

印西道は、さすがに交通量が激しい。

場所

https://goo.gl/maps/VV9AFECwZzjjCsQWA


陸軍境界標石(陸軍境界杭)3

北端部分にもいくつかの境界石があるというが、住宅地となっており、建て替えなどもすすんでおり、きれいになった住宅が多数。おそらく消失したものと思われる。

「千葉鎌ヶ谷松戸線」に面したところに、それっぽい石杭が残っていた。

https://goo.gl/maps/TnajYL8VcfgDRfPQ8

演習線路は、東に伸びて、ヨークマート青葉台店の辺りで南下するが、このあたりは痕跡は残っていない。


「松戸市立金ケ崎小学校」の東

北東側は道も残っていないほどに再開発がすすんでいる。
松戸市立金ケ崎小学校の東側に伸びる道路が、演習線路跡の名残を伝えている。


陸軍境界標石(陸軍境界杭)4

その南端部の突き当りの道 「千葉鎌ヶ谷松戸線」 と合流先に、石杭があった。
上部の一部が欠けているが、これもきっとそうに違いない。

右側の道路が「鉄道連隊演習線跡」。左側が、「千葉鎌ヶ谷松戸線」。
石杭は左の看板の陰にあった。

場所

https://goo.gl/maps/3NZVLZoegnUvCGnT9


五香駅

そのまま道沿いに南下すると、新京成電鉄「五香駅」に到着。
五香たかねちゃんがお迎えしてくれた。

他の境界石があるかもしれないが、再開発も進んでおり、なかなか住宅地の中を探し回るのも大変。

常盤平駅から五香駅まで、5キロで約1時間オーバーの散策でした。

※撮影は2022年1月

本記事は以上で〆


鉄道連隊演習線松戸線の散策1(新京成電鉄・八柱駅)

新京成電鉄は、陸軍の鉄道聯隊の演習線路をベースとしていた。
日本陸軍解散後に、鉄道聯隊演習線は払い下げられ、京成電鉄は子会社としての新京成電鉄を昭和21年10月に設立。昭和22年12月27日に、新津田沼駅-薬園台駅間が開業した。
陸軍鉄道連隊演習線の規定は、軽便鉄道の戦術的運用目標である路線長45kmの急速構築運用を目的としていたために、45kmの距離を確保することが定められていた。そのため路線敷設演習を兼ねて急曲線が多数混在する線形となっており、新京成電鉄を旅客開業するにあたり、可能な限りは直線化を図ったが、いまなお陸軍演習線時代の名残の曲線が多数残っている。


鉄道連隊演習線松戸線

松戸にあった陸軍工兵学校が構築した、工兵学校-八柱演習場間と、鉄道第二連隊が構築した津田沼-八柱演習場間の路線。
昭和7年(1932年)完成。
習志野線と同様に日常的に物資輸送や兵員輸送も行われ、工兵学校への資材搬入もおこなわれた。


鉄道連隊

以前、以下の記事でも触れていました。

習志野の鉄道聯隊

千葉の鉄道聯隊

鉄道連隊の蒸気機関車


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M676-145
昭和22年(1947年)11月28日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を抜粋。
現在の八柱駅は、集落から外れていた事がわかる。集落は「鮮魚街道」にあった。鉄道連隊の演習線であったことを鑑みれば、逆に集落の近くにあって欲しくはない。

今回の散策は以下のエリア。新京成電鉄「八柱駅」武蔵野線「新八柱駅」界隈を中心に散策しました。


八柱駅周辺散策

八柱駅から西に。住宅地のなかに標石があった。

陸軍境界標石(陸軍境界杭)

摩耗していて判別は難しいが、うっすらと「陸軍」と書いてあるのがわかる。

場所

https://goo.gl/maps/RUKPp931dg1SujtW8


八柱駅

八柱駅の周辺は、境界標石(境界杭)の宝庫。

陸軍境界標石(陸軍境界杭)・踏切

踏切近くに。

はっきりと「陸軍」と判読できる。

場所

https://goo.gl/maps/CwRVng6Vcpqy5MQd8

陸軍境界標石(陸軍境界杭)・駐車場

踏切の近くの駐車場にも「陸軍」があった。

場所

https://goo.gl/maps/fDbcJjAG6Ej9YKDFA


陸軍境界標石(陸軍境界杭)・鮮魚街道踏切近く

線路脇の歩道の真ん中近くに、陸軍の境界杭がそそり立っていた。通行の邪魔にもなる存在であれ、撤去されずに残っているのが嬉しい。

うっすらと陸軍の文字が読める。

けっこうな存在感。

場所

https://goo.gl/maps/zyHtuqBjsZKDQ1Cm9

陸軍境界標石(陸軍境界杭)・線路近く

新京成の線路沿いに、常盤平駅方面に歩く。


森のホール21

かつての演習線は、このあたりから、森のホール21・21世紀の森と広場方向に線路が伸びていた。

ちょっと寄り道します。


松戸市立博物館

陸軍工兵学校の門標が残っている。

陸軍工兵学校

陸軍工兵学校は、松戸駅の近くに。門柱も残っています。


平和の像

21世紀の森と広場の「光と風の広場」の奥まったところに、平和の像があった。
作者は雨宮敬子氏。

私たちの愛する街“松戸” 
緑あふれ、文化の香り高いこの地に
全ての市民と共に
世界の“生きとし生けるもの”の
恒久平和と豊かな未来を念願し
ここに、その象徴として『平和の像』を建立する。 
 平成3年3月 
 松戸市長 宮間 満寿雄

「21世紀の森と広場」には塹壕跡も残っているというが、公園はそこそこ広くて、散策の時間が取れなかったために、それは未訪。


鉄道連隊演習線跡と陸軍境界標石

森のホール21 (松戸市文化会館)から駐車場の脇の歩道を歩く。

ありましたね。

刻印は外側かもしれません。線路跡の歩道からは確認できませんでした。

埋もれてましたが、きっとこれもそうだと思います。

陸軍鉄道連隊の演習線路跡。

場所

https://goo.gl/maps/VdRUgnMcjFGSQc1b9


演習線路跡と新京成線の合流地点

演習線をショートカットするようにカーブを削った新京成線路と合流するあたり。
青面金剛碑がありました。

新京成の線路と、演習線路跡の合流地点。推測ですが。

新京成の標石もありました。

陸軍鉄道連隊の演習線は、この先の常盤平駅で大きく北に大カーブを描くが、新京成線は大カーブを嫌い、ショートカットした短絡線路を構築している。
常盤平駅と五香駅の記事は、別記事にて。

本記事は、ひとまずこれで〆。

※撮影は2021年10月


旧日立航空機立川工場変電所(補修完了後の再訪)

2017年に訪れた際は、1階のみの公開で、2階部分は非公開エリア、でした。
2020年に改修工事が行われ、問題となっていた耐震補強や老朽化による雨漏りの補修を実施。
2021年10月に、2階部分も一般公開される運びとなった。そのため、改めて脚を運んでみた次第。

前回の様子はこちら。

旧日立航空機立川工場変電所

戦災建造物 東大和市指定文化財
旧日立航空機立川工場変電所

公開日:毎週水曜日・日曜日
公開時間:午前10時30分~午後4時
入場料:無料
 東大和市立郷土博物館

市指定文化財
旧日立航空機立川工場変電所見学入口

東大和市文化財 
史跡・戦災建造物
旧日立航空機株式会社立川工場変電所

 この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。
 北隣にあった設備で受電した66000ボルトの電気を33000ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。
 工場地域への攻撃は3回ありました。最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。2回目は4月19日、P51ムスタング戦闘機数機によるもの。3回目は4月24日、B29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。
 この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。
 都立公園として整備されるにあたり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。
 戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。
  平成8(1996)年3月 東大和市教育委員会

変電所
関係者以外立入禁

昭和13年(1938)竣工。
航空機エンジン製造していた日立航空機立川工場(立川発動機製作所)変電所。
昭和20年2月17日にF6Fヘルキャット戦闘機、4月19日にP-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射を受けた痕が残る。戦後も変電所機能は失われていなかった為そのまま使用され平成5年まで活躍。公園整備されるあたり取壊しを回避し保存された。

機銃掃射の銃撃痕が壁一面に残る。

内階段に残る銃撃痕
 内階段には、木製の手すりや階段面、階段の裏側と、いたるところに多くの機銃掃射の銃撃痕が残されています。
 手すりにある2ヶ所の傷痕のうち、上方のものはすぐ横のコンクリートにも傷が残っています。窓から飛び込んできた弾丸には、手すりを傷つけたあとも、コンクリートを破壊する威力があったことを物語っています。
 令和2(2020)~3年の工事で、内階段を保護し弾痕もみえるようにした上で、階段に負荷がかからない構造のガラス階段と手すりを設置しました。

保存のため、弾痕が残る木製の手すりには触れないようお願いいたします。

手すりをえぐり、コンクリートをも破壊した機銃掃射の銃撃痕を間近で見ることができる。

コンクリートの階段も破壊された。

従来のコンクリートの階段は、新たに設置されたガラス階段で補強され、2階への見学が可能となった。

2階部分は初めて見学。

木製の小屋は仮眠室。

変電の設備が残っている。

変電所について
 変電所は、昭和13(1938)年に建てられ、戦後も富士自動車(株)や小松ゼノア(株)などで、設備を更新しながら平成5年(1938)年まで使われていました。
 2階には受変電設備のほか、24時間体制に対応するための仮眠スペースがありました。
 野外に主変圧器や遮断器(スイッチ)などの主要設備、屋内に受電・配電設備などの監視・制御装置を、この変電所では配置していました。
 八ツ沢発電所(現:山梨県上野原市)で発電された電力は、府中変電所を経て、この変電所に供給されていました。66kV・2回戦で送られてきた電力を、この変電所で3.3kVに変電して、工場内の各施設に供給していました。

配電盤について
 前面パネルに、「第1パネル」「第2パネル」「第1~9号高圧配電盤」と記されています。バンクとは主変圧器のことで、野外に2台設置されていました。この変電所では、主変圧器で受けた電力を、9個の配線で各工場に供給していました。配電盤には、電力の流れが分かるように矢印が表示されています。
 向かって一番左側の低圧配電盤は、変電所が建設された当時のものです。脇に「昭和14年製」と記載があります。
 この低圧配電盤には、複数の銃撃痕が残されています。空襲の際に、南側の窓から、金属でできた盤を貫通する威力で、銃弾が飛び込んできたことがわかります。

貫通した銃撃痕が2箇所。

配電盤の後方の壁にも銃撃痕。

受変電設備の配置(電力の流れ)

特別高圧受電盤

油入遮断器

木製のアナログ式の計測器。一番左の絶縁抵抗測定機は昭和13年製。

変電所の計測器類

外階段
 この建物は、もともと1階が倉庫、2階が事務所として使用されており、変電所稼働当時、従業員は外階段から出入りしていました。
 外階段やテラスにも数多くの銃撃痕が残っています。外階段保護のため、現在は立ち入りを制限しています。
 外階段保護のため、ここから外にはでられません。

このさきは、1階部分の展示をメインに。

製造していたエンジン
 工場では、陸軍用の航空機のエンジンを製造していました。会社全体の製造状況のうち、陸軍用のエンジンは表のとおりです。

エンジン種類 製造台数 製造期間
ハ‐12      895    昭 8~19
ハ‐13     3,116    昭10~18
ハ‐13甲    7,086    昭12~20
ハ‐26      758    昭19~20
ハ‐42      77    昭 8~18
ハ‐112      47    昭19~20
昭和14年以前は大盛り工場で製造された分を含みます。
 出典:「小松ゼノア社報 創業80周年記念号」平成2年

ハ‐13甲エンジンを使用した代表機種
95式練習機
昭和10年(1935)年に実用化され、長く使用された機種です。鮮やかなだいだい色の塗装から「赤とんぼ」と呼ばれました。

九五式一型練習機乙型
エンジン:ハ-13日立九五式350馬力空冷星型9気筒

米軍500ポンド爆弾(226.7kg)実物大模型
東大和市内でも過去にいく度か戦時中の不発弾処理が行われました。
そのすべてが500ポンド爆弾でした。
B-29爆撃機から落とされた大型爆弾は、東日本では500ポンド爆弾、西日本では1000ポンド爆弾が中心だったとも言われています。

蓄電池室
 室内にある蓄電池は、非常用とうよう電源として使われていました。停電時には、2階の直流電源装置に電力を供給し、変電所の設備が停止することないようにしていたのです。
 鉛蓄電池を使用していたので、安全対策として、壁には耐酸性能のある塗料が塗られ、野外への換気も行われれています。(塗装の詳しい成分をご存じでしたらお知らせください。)
 蓄電池室内の壁面にも、2か所の銃撃痕が残されています。1か所は貫通していませんが、外壁に当たった機銃掃射の弾丸(12.7mm弾)の衝撃で壁の内側もすり鉢状にえぐられたのだと思われます。
 外壁の銃撃痕は、外階段沿いに見ることができます。

東洋陶器の洗面台
 変電所の1階と2階に残る洗面台は東洋陶器(現在のTOTO)製のもので、全面に鷲のトレードマークがあります。
 このマークが使われたのは、昭和7年(1932)から昭和36年(1961)までで、戦時中は「敵性語」である「CO LTD.」を「KAISHA」にかえた時期もありました。
 TOTOミュージアム(北九州市)への問い合わせの結果、洗面台の形式は「L-92」で、これも戦前・戦後を通じて生産されており、残念ながら変電所建設当初からあるものか、戦後新たに設置されたものかは特定できませんでした。

こちらは1階の洗面台。

こっちは2階の洗面台。


旧日立航空機株式会社 
立川発動機製作所
太平洋戦争戦災犠牲者 慰霊碑

111名の方々が亡くなられた。合掌。

旧日立航空機株式会社 立川発動機製作所
太平洋戦争
戦災犠牲者
慰霊碑
  戦災犠牲者慰霊碑建立委員会
  平成七年四月吉祥日建之

慰霊碑建立の由来
  旧日立航空機立川発動機製作所戦災犠牲者の慰霊碑は、一九九四年( 平成六年) 夏、元同社々員小川準一氏(九十四才)の提唱により、コマツゼノア立川OB会がその推進母体となり、戦後五十周年を期して建立する運動を開始し、五十年忌にあたる翌一九九五年(平成七年)四月二十三日に除幕式ならびに慰霊祭を執り行うにいたったものである

昭和20(1945)年の空襲
 戦争末期になると、軍需工場が集まる多摩地域は、多くの空襲を受けました。当工場も、計3回の攻撃を受け工場の8割が破壊され、従業員やその家族、勤労動員された学生など100人を超える方が亡くなられました。

2月17日(土)10:30すぎ(諸説あり)
グラマンF6FやカーチスSB2Cなど50機以上による爆撃と機銃掃射
(略)

4月19日(木)10:00ごろ
P-51マスタング数機による機銃掃射
(略)

4月24日(火)9:00ごろ
B29の101機編隊による1800発余りの爆弾投下
(略)

日立航空機株式会社立川工場空襲死没者一覧
2月17日 78名死亡
(個人名略)
4月19日 5名死亡
(個人名略)
4月24日 28名死亡
(個人名略)
以上 111名

遷座の由来
 旧日立航空機株式会社(現在の小松ゼノア(株)の前身)は、太平洋戦争中、航空機のエンジンを製造していた軍需工場であったため、数回にわたり米軍機の空襲を受け、多くの従業員がその犠牲となりました。
 この慰霊碑は、元従業員の方々が戦後50年を節目に、多くの市民やそのゆかりのある方々からの寄付により、小松ゼノア(株)の構内の一隅に建立されたものです。(平成7年4月23日除幕式)
 その後、平成12年に同会社が移転することとなり、この慰霊碑をこの場所に移設したものです。
 東大和市では、慰霊碑を被爆工場に近いこの地に移設し、戦災建造物の変電所とともにまちの歴史の証しとして、また、恒久平和を願い保存することとしました。
 平成12年8月 
  東大和市

防護壁

防護壁
 旧所在 東大和市桜が丘2丁目

 昭和13(1938)年、東京瓦斯電気工業株式会社の工場が建設され(翌年日立航空機株式会社と改名)、その施設のひとつとして変電所とその北側に受電施設が建設されました。この防護壁は高圧電流を取り入れる受電施設の東西にあり、外部との分離をするためのものです。
 昭和20(1945)年、3回の爆撃を受けたあとも、変電所とともに長く工場内にあった防護壁は、変電所が稼働を止め、公園の中に保存されることになったときに、受電施設ととともに解体されてしまいましたが、爆撃跡を残す一部を切り取りこの地に保存し、長く変電所とともにあった壁の記憶を残していくこととしました。
 東大和市教育委員会

被爆アオギリ二世
2011年植樹。

給水塔

給水塔
 旧所在 東大和市桜ケ丘2丁目

 変電所の西方約230メートルのところにあった給水塔は、高さが約25メートルあり、工場内のほぼ全ての水をまかなっていました。太平洋戦争中の昭和20年(1945)、三回にわたる米軍機の空襲を受けましたが、戦後もずっと工場内に水を送り続け、工場の移転により、操業も停止するまで、給水塔も働き続けました。
 戦争中に施された迷彩が、長い年月の間に色が薄れ、濃淡がやっとわかる程度になってしまった給水塔は、変電所同様戦災建造物として歴史的価値が高いものですが、老朽化に伴う維持管理や用地取得などの問題から、平成13年(2001)3月やむなく取り壊されることになりました。その際、爆撃の痕跡を顕著に残す部分を切り取り、ここに保存することにしました。
 東大和市教育委員会


位置関係

米軍撮影1947年(昭22年) 11月14日 を編集


玉川上水駅

多摩モノレールにも、旧日立航空機株式会社変電所(戦災建造物)として、掲載があります。

※撮影は2021年12月


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靖國神社の新春初詣(令和4年)

令和4年(2022年)正月元日。
靖國神社に初詣。

新春初詣の正式参拝を。

御本殿には、 明治天皇が明治7(1874)年1月27日に初めて招魂社をご参拝された際に詠まれた御製が奉書された御宸筆の扁額が掲げられている。
年のはじめに、改めて御本殿の扁額に接する。

我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき

国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えるお社。

感謝と哀悼を。

靖國神社で正月の光景を。

令和壬寅

ご参拝の後は甘酒をどうぞ

甘酒を戴きました。

雑煮&古代ちまきセットも戴きました。

毎年恒例の「全国奉納絵馬展」

毎年恒例の「献酒」全国奉納酒造業者の酒銘柄。

社務所は、建て替え工事開始。。。

新春恒例 振舞い酒

戴きました。

多くの参拝者で賑わう、新春初詣の靖國神社。

おみくじを引きました。
中吉、でした。

新春初詣の正式参拝のおさががりと、
お神酒と祝枡、御朱印をいただきました。

神菓は、新宿中村屋の月餅。靖国紋と虎柄と。

靖國神社の御神菓

お神酒と祝枡。

裏面。

靖國神社の御神酒

太平洋戦争開戦から80年。
1942年に起きた戦いは、今年2022年で、すべからく80年の節目となります。

六郷水門(昭和6年・大田区)

多摩川の下流域を散策していた際に出会った史跡。

六郷水門

昭和6年(1931年)竣工の六郷水門。
2021年(令和3年)に、土木学会推奨土木遺産となる。

六郷水門
名称
 六郷水門
所在地
 東京都大田区
竣工年
 1931(昭和6)年 
選奨年
 2021年 令和3年度
選奨理由 
 六郷水門は、今もなお水門としての機能を保ち、多摩川改修工事や六郷用水の記憶を物語る地域のシンボルとなっており、貴重な土木遺産です。

土木学会推奨土木遺産 https://committees.jsce.or.jp/heritage/node/1160

以下、写真多めで。

六郷水門
昭和6年3月竣工

「郷」の字を「ロ」の字が囲むデザインは、地元である旧六郷町の町章を用いたもの。

六郷排水機場

レンガ造の六郷排水機場。
昭和18年(1943)に生活排水を機械的に排出させるために設置された。

雑色運河

今は公園に組み込まれた船溜まり。

堤内地の舟だまりは、かつては舟運にも利用され、雑色運河と呼ばれたころの雰囲気を残す。

大田区立南六郷緑地

トイレが「六郷水門」の形を模していた。なかなか粋ですね。

※撮影は2021年11月


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羽田の赤レンガの堤防(レンガ胸壁)

羽田の平和大鳥居から多摩川を上流に向けて歩いていくと、昔の堤防跡が残っている。
それも赤レンガで造られた堤防。
弁天橋から大師橋の約1.6kmほどの距離に、とぎれとぎれながもレンガの堤防が残っている。

赤レンガの堤防(赤煉瓦の堤防)

かつての多摩川は暴れ川であった。

大正6年(1917年)9月に内務省によって「多摩川改修計画」が立案。
河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完了(工期16ヵ年)
1632mの築堤は、 イギリス積み工法による鉄筋レンガの胸壁(赤レンガの堤防)となった。

昭和20年4月15日に、東京都大田区のほぼ全域が対象となった城南大空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができた。
赤レンガ堤防は、多摩川の水害だけではなく、空襲による戦災からも多くの人々の生命財産を守った。

平和大鳥居から弁天橋を渡って多摩川沿いに歩けば、「赤レンガの堤防」の案内地図があります。

赤レンガの堤防と五十間鼻
 羽田のレンガ堤防は、洪水対策として大正から昭和初期にかけて行なわれた多摩川改修工事で建設された。自然堤防上、道路面から腰高ほどのレンガ堤防を建設したのは、堤内外を日常的に往来する羽田猟師町の土地柄への配慮であった。イギリス積み工法による堤防は「赤レンガの堤防」と親しまれ、羽田の原風景ともいえる。そのレンガ堤防の突端、多摩川と海老取川の合流地点には、長さ50間(約90m)の石積みの沈床があり「五十間鼻」と呼ばれる。新防潮堤が完成し隠れてしまったが、今も昔も初日の出の絶景スポットである。

現在の堤防は左側。右の道路に行けば、旧堤防が残っています。

多摩川弁財天は旧堤防の内側に鎮座。

住宅地に連なる煉瓦造りの堤防。これはなかなか圧巻。

ところどころに石段も残っています。

利便性の都合で、ところどころは切断。

防潮板を嵌めたであろう凹み。

陸閘。
当時の出入口のまま、今も出入口で使用している箇所もあります。

住宅を新築しても、赤レンガ堤防を切断しつつも残せるところはわずかでも残していた。

大田漁業協同組合がありました。

断面図。

上部は砂利まじりのコンクリ。鉄筋も見える。

うねり具合が見事で美しすぎる。

曲線美。

ここの防潮板は、だいぶ厚め。二重ですね。

境界杭。

レンガ堤防を撤去した跡。

首都高(横羽線)が見えてきました。
この部分は、レンガをコンクリで塗り固めていますね。

首都高をくぐった先にも、レンガ堤防が伸びています。

羽田の渡しの石碑がありました。

羽田の渡し
 古くから, 羽田漁師町(大田区)と 上殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が 存在していたという (現在の大師橋下流, 羽田3丁目で 旧城南造船所東側あたり)。
 この渡しは, 小島六左衛門組が営んでいたので, 「六左衛門の渡し」 とも呼ばれていた。
 渡し場付近の川幅は 約40間(約80m)ぐらいで, 「オーイ」と呼ぶと 対岸まで聞こえたという。
 その昔, 徳川家康が狩りに来た帰りに, お供の者と別れて 一人でこの渡し場に来たところ, 船頭は 家康とは知らずに 馬のアブミを取った という伝説が伝わっている。
 ここで使われた渡し船は, 20~30人の人々が乗れる かなり大きなもので, この船を利用して 魚介類, 農産物, 衣料品など, 生活に必要な品々が 羽田と川崎の間を 行き来していた。
 江戸の末には, 穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が, のどかで野梅の多かった 大森から糀谷, 羽田を通り 羽田の渡しを利用するため, 対岸の川崎宿では 商売に差しつかえるので, この渡しの通行を禁止してほしいと 公儀に願い出るほどの賑わいをみせていたという。
 また, 明治後期から昭和初期にかけて, 川遊びする船も往来していた。
 物資の交流だけでなく, 人々の生活, 文化の交流など 大きな貢献をしてきた羽田の渡しは, 時代の変化とともに多くの人々に利用されたが, 昭和14年に大師橋が開通したことにより廃止された。
 大田区

赤レンガ堤防の一部も保存されていました。

羽田レンガ堤(レンガ胸壁)の沿革

1 度重なる水害に苦しめられた羽田地区
 羽田は多摩川河口の砂州の上にあったことから、たびたび水害が発生しました。天正17年(1589年)から安政6年(1859年)の間に62回の大洪水があったことが記録されています。明治以降の水害は、明治11年(1878年)、17年(1884年)、40年(1907年)、43年(1910年)の洪水は甚大な被害をもたらしました。

2 羽田レンガ堤の建設
 「水利水運の利便性を高めかつまた洪水及び水害を防ぐ」ことを目的として、大正6年(1917年)9月に内務省によって「多摩川改修計画」が立案されました。堤の整備を含む大規模な河川改修工事は大正7年度着工、昭和8年度完了(工期16ヵ年)しました。
 「多摩川改修工事概要」(内務省東京土木出張所、昭和10年10月発行)には、「羽田地先1632mの築堤の区間は、初め旧堤を拡張する計画であったが、土地の状況を考慮して、工法を変更。旧堤表法肩に鉄筋レンガの胸壁(赤レンガの堤防)を築き、所々に陸閘(りくこう)を設け、堤上は道路に利用することとして、河川住民及び一般の利便を増進させた。」と記されています。また人が堤防をまたぐ為の階段も設けられました。

3 羽田レンガ堤と人々の暮らし
 レンガ堤の外の川側は堤外とか堤外地といわれ、桟橋、造船所、生簀、材木置き場、作業所があり、船大工、魚問屋、鍛冶屋などがなどが住んでおり、船宿や筏宿もありました。昭和20年(1945年)9月21日に進駐軍が鈴木新田(現羽田空港)の住民に48時間以内の強制退去を命じたため、堤外地に移り出てここで生活する人もいました。
 レンガ堤の完成以来、住民は大きな洪水被害も無く安心した生活を過ごすことができました。そして昭和20年4月15日の米軍空襲の際には、赤レンガ堤の外側で火災を避け避難所とすることができました。赤レンガ堤は水害から、そして戦災から多くの人々の生命財産を守りました。
 昭和48年(1973年)、高潮防潮堤として新たに外堤防が完成し、レンガ堤は洪水を防ぐ堤防としての役割を終えましたが、この地域のかつての水防の姿や人々の暮らしの歴史を物語る近代の遺構として姿を留めています。

出典:羽田レンガ堤調査報告書(大田区教育委員会 平成23年3月より)』

旧大師橋の親柱もあった。

場所

https://goo.gl/maps/W2MFCASaB7a3dYm78

羽田第二水門の内側は、赤レンガ堤防が「堤防としてわかりやすく」残っています。

多摩川側は、レンガがそそり立っています。

場所

https://goo.gl/maps/SdjLL1ihuZjkg757A

大師橋をくぐり、歩みをすすめます。この先もレンガ堤防が残っていますね。

羽田神社は、中央の杜。

ここが、レンガ堤防の残っている部分のラスト。

本羽田公園にたどり着きました。

本羽田公園の先には、赤レンガはありませんでした。

1.6キロの赤レンガ散策。なかなか良きものを見ることができました。

※撮影:2021年11月


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羽田の平和大鳥居(旧穴守稲荷神社大鳥居)

羽田空港の伝説として、よく語れるのが「羽田の大鳥居」。
羽田の平和大鳥居から、赤レンガ堤防を経由して、六郷水門まで多摩川沿いを散策してみました。

平和大鳥居(旧穴守稲荷神社大鳥居)

昭和4年(1929年)10月建立。
昭和6年(1931年)に民間飛行場として羽田飛行場(東京飛行場)が開業。
昭和20年(1945年)8月15日の終戦後、羽田飛行場を接収したGHQによって穴守稲荷神社は強制遷座を余儀なくされた。
残された穴守稲荷の社殿等はGHQによって破壊。羽田飛行場の駐車場近くに残された大鳥居も撤去対象となるが、作業員が怪我をしたり、責任者が病死したりという怪奇現象により撤去叶わずにそのまま残されることになった。

 この大鳥居は、穴守稲荷神社がまだ羽田穴守町にあった昭和初期に、その参道に寄付により建立されたと伝えられています。
 その後、終戦とともに進駐した米軍により、羽田穴守町、羽田鈴木町、羽田江戸見町の地域一帯に居住していた人々は強制退去され、建物は全て取り壊されました。
 しかしながら、この大鳥居だけは取り壊しを免れて羽田の地に残され、往時を物語る唯一の建造物となりました。
 米軍から、施設が日本に返還された昭和27年7月、東京国際空港として再出発した後も、この大鳥居は旅客ターミナルビル前面の駐車場の一隅に残され、羽田空港の大鳥居として航空旅客や空港に働く人々に親しまれました。また、歳月を重ね風雪に耐えた大鳥居は、進駐軍に強制退去された元住民の方々の「心のふるさと」として往時を偲ぶ象徴なりました。
 昭和59年に着手された東京国際空港沖合展開事業により、滑走路や旅客ターミナルビル等の空港施設が沖合地区に移設され、大鳥居も新B滑走路の整備の障害となることから、撤去を余儀なくされることとなりました。
 しかしながら、元住民だった多くの方々から大鳥居を残してほしいとの声が日増しに強まり、平成11年2月、国と空港関係企業の協力の下で、この地に移設されたものです。
 ここに関係各位に謝意を表するとともに、この大鳥居が地域と空港の共生のシンボルとして末永く親しまれることを念願する次第です。

羽田空港に残された穴守稲荷神社のかつての大鳥居。
現在は穴守稲荷神社の管理ではなく、国土交通省管理となっている。
扁額もかつては「穴守神社」であったが、現在は「平和」と掲げられている。

場所

https://goo.gl/maps/REBV1d1cLjazVNQY9


五十間鼻無縁仏堂

海老取川の対岸に五十間鼻という場所がある。そこに無縁仏が祀られている。
多摩川の下流となり、多くの水難者がこの地に流れ着いたという。

なかでも東京大空襲の犠牲者の多くもこの地に漂着している。
目と鼻の先の羽田飛行場は米軍に接収され、対岸には、犠牲者の無縁仏堂が祀られていた。

合掌

五十間鼻無縁仏堂の由来
創建年代は、不明でありますが、多摩川、又、関東大震災、先の第二次世界大戦の、昭和二十年三月十日の東京大空襲の折には、かなりの数の水難者が漂着致しました。
その方々を、お祀りしていると言われております。
元は、多摩川河口寄りの川の中に、角塔婆が一本立っているだけで有りましたが 初代 漁業組合長 故 伊東久義氏が管理し毎年お盆には、盆棚を作り、有縁無縁の御霊供養を
していました。昭和五十三年護岸工事に伴い、現在地に移転しました。
その後荒廃著しく、仲七町会 小峰守之氏 故 伊東米次郎氏 大東町会 故 伊東秀雄氏 が、私財を持ち寄り復興致しました。
又、平成十六年に、村石工業、北浦工業、羽田葬祭スミヤ、中山美装、中山機設、の協力により新たに、ブロック塀、角塔婆、桟橋、などを修理、増設、現在に至ります。
又、新年の水難祈願として、初日の出と共に、羽田本町 日蓮宗 長照寺 住職 並びに信者の方々が、水難者への供養を、毎年行っています。
  合掌
  堂守謹書

海老取川の両岸に。
左に平和大鳥居、右に五十間鼻無縁仏堂。

場所

https://goo.gl/maps/hAL8P6bqYdZy7qpNA


穴守稲荷神社

遷座した穴守稲荷神社。2014年4月撮影の写真を掲載しておきます。
2020年に改修工事が行われたために、この姿を見ることはもうできない。。。

当時は、神社参拝と御朱印を目的としておりました。。。

場所

https://goo.gl/maps/fihEKsezAFg4PC7T9

※穴守稲荷神社の写真のみ2014年


ねずみ島

多摩川の河口にあるちいさな島。かつて梨の果樹園であった場所が、多摩川の河川改修工事で川幅を広げた際に、取り残され島になった、と。

場所

https://goo.gl/maps/48Bv9e8phuVKhdSE9


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出陣学徒壮行の地(学徒出陣・国立競技場)

国立競技場。
もとは、大正13年(1924年)に明治神宮外苑競技場として完成した競技場。
昭和18年(1943年)10月21日には明治神宮外苑競技場で文部省学校報国団本部の主催による「出陣学徒壮行会」が行われ、強い雨の中で出陣学徒25000人が競技場内を行進した。

戦後、「明治神宮外苑競技場」は解体され、昭和33年に「国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)」が完成。旧国立競技場は2015年に解体され、2019年には新たな国立競技場が完成した。

「出陣学徒壮行の地」の碑(出陣学徒壮行碑)

「出陣学徒壮行碑」は。国立競技場建設中は、一時的に秩父宮ラグビー場敷地内にあったが、国立競技場完成とともに戻ってきた。現在は、千駄ヶ谷門の近くにある。

東京オリンピックが終わり、ようやく国立競技場周辺に近寄れるようになったので、脚を運んでみた。

出陣学徒壮行の地

次世代への伝言―出陣学徒壮行碑に寄せてー
  昭和18年(1943)10月2日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、全国の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。この非常措置により同年12月、約10万の学徒がペンを捨てて剣を執り、戦場へ赴くことになった。世にいう「学徒出陣」である。
 全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年12月21日、ここ元・明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺77校が参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋めつくした後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってこの実況を報道した。翌19年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子および女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶えた。  
 時流れて半世紀。今、学徒出陣50周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。 
 平成5年(1993)10月21日
  出陣50周年を記念して   
   出陣学徒有志

生等、もとより生還を期せず

NHK放送史
出陣学徒壮行会

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060059_00000

〈東條内閣総理大臣〉
「御国の若人たる諸君が勇躍学窓より、征途に就き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃滅をして皇運を扶翼し奉るの日は今日(こんにち)来たのであります。大東亜十億の民を、道義に基づいてその本然の姿に復帰せしむるために壮途に上るの日は今日(こんにち)来たのであります。私は衷心より諸君のこの門出を御祝い申し上げる次第であります。もとよリ、敵米英におきましても、諸君と同じく幾多の若き学徒が戦場に立っておるのであります。諸君は彼等と戦場に相対(あいたい)し、気魄(きはく)においても戦闘力においても必ずや彼等を圧倒すべきことを私は深く信じて疑わんのであります。」

〈学生(東京帝国大学文学部・江橋慎四郎〉
「学徒出陣の勅令、公布せらる。予(か)ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ、迸(ほとば)しめ得たりし生(せい)らは、ここに優渥(ゆうあく)なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従うを得るに至れるなり。豈(あに)、感奮興起せざらんや。生ら今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて悉(ことごと)くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生らもとより生還を期せず。誓って皇恩の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。決意の一端を開陳し、以て答辞となす。昭和18年10月21日、出陣学徒代表。」

〈東條内閣総理大臣〉
「諸君のめでたき征途にのぼれるところの第一歩にあたります。諸君とともに聖寿の万歳を心の底から三唱いたしたいと思います。天皇陛下、万歳、万歳、万歳。」

「万歳、万歳、万歳。」

NHKアーカイブス
日本ニュース第177号 1943年(昭和18年)10月27日
[2]学徒出陣

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300562_00000

1943年(昭和18年)10月21日に開催された神宮外苑での学徒出陣壮行会では、東京帝国大学文学部の江橋慎四郎氏が答辞を読んだ。

明治神宮外苑は学徒が多年武を練り、技を競ひ、皇国学徒の志気を発揚し来れる聖域なり。
本日、この思ひ出多き地に於て、近く入隊の栄を担ひ、戦線に赴くべき生等の為、斯くも厳粛盛大なる壮行会を開催せられ、内閣総理大臣閣下、文部大臣閣下よりは、懇切なる御訓示を忝くし、在学学徒代表より熱誠溢るる壮行の辞を恵与せられたるは、誠に無上の光栄にして、生等の面目、これに過ぐる事なく、衷心感激措く能はざるところなり。
惟(おも)ふに大東亜戦争宣せられてより、是に二星霜、大御稜威の下、皇軍将士の善謀勇戦は、よく宿敵米英の勢力を東亜の天地より撃攘払拭し、その東亜侵略の拠点は悉く、我が手中に帰し、大東亜共栄圏の建設はこの確乎として磐石の如き基礎の上に着々として進捗せり。
然れども、暴虐飽くなき敵米英は今やその厖大なる物資と生産力とを擁し、あらゆる科学力を動員し、我に対して必死の反抗を試み、決戦相次ぐ戦局の様相は、日を追って熾烈の度を加へ、事態益々重大なるものあり。
時なる哉、学徒出陣の勅令公布せらる。
予ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ迸しめ得たりし生等は、是に優渥なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従ふを得るに至れるなり。
豈に感奮興起せざらんや。
生等今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて、悉くこの光栄ある重任に獻げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。
生等もとより生還を帰せず。
在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず。
斯くの如きは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行する信条なり。
生等謹んで宣戦の大詔を奉戴し、益々必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を磨礪し、強靭なる体躯を堅持して、決戦場裡に挺身し、誓つて皇恩の万一に報ひ奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。
決意の一端を開陳し、以て答辞となす。
昭和十八年十月二十一日。

学徒出陣壮行会 答辞

国立競技場千駄ヶ谷門の近くに、学徒出陣の歴史を刻む碑がある。

合掌。

二度とあってはならない、繰り返してはいけない歴史。

※撮影は2021年12月


関連

高座海軍工廠の地下壕と台湾少年工顕彰碑(芹沢公園・座間)

以前、高座海軍工廠跡地散策を行ったときに、芹沢公園にも脚を運んだのが2017年12月だった。
その後に、様相が若干かわったとの噂を聞いたので、4年後の2021年12月に再訪してみました。

前回の記録は以下で。


芹沢公園の地下壕

高座海軍工廠(こうざかいぐんこうしょう)の地下工場跡。
地下壕には、「雷電」のミニチュア模型があった。

雷電

大日本帝国海軍の局地戦闘機(乙戦)「雷電」
零戦を設計した三菱の堀越二郎が陸上基地防空のための戦闘機(十四試局地戦闘機)として設計を手掛けた。
昭和18年(1943年)9月から生産開始となり、生産数は621機。三菱生産のほか、高座海軍工廠でも生産された。

「箱根東京軽石層」の白い地層がよくわかる。

芹沢公園の地下壕は、立ち入りはできないが、柵の隙間から地下壕の様子を伺うことができる。現在、2本の壕内がライトアップされており、そのうちのひとつには、壕内に雷電のミニチュアが置かれている。
ライトアップは、9時~17時のあいだ。

芹沢の地下壕

高座海軍工廠と地下壕

 第2次世界大戦末期の昭和19年、現在の東原と大和市・海老名市の一部にまたがる地域に、本土防衛を遂行するための戦闘機「雷電」を製造する目的で口座海軍工廠が建設されました。
 地上施設と並行して、日々激しさを増してゆく空襲を避け、工員と操業の安全を図るために、下栗原の目久尻川沿いや支流にあたる芹沢川の谷あいの垳面に無数の地下壕をが作られました。地下工場が3カ所と知か物資倉庫が10数か所のほか、地下変電所や救護用ベッドを備えた郷もあったと伝えられています。
 栗原の中丸地区(現在の芹沢公園)には、地下工場として、この地下壕が作られました。地下壕の中には、東西と南北にあみだくじのように地下壕が張り巡らされ、その総延長は1500m程となります。これは、赤土の関東ローム層を人力で掘り抜いたものです。
 現在では、殆どの地下壕は埋められて。当時の姿を知ることはできなくなりました。そこで、埋められていないこの壕を残して、戦争の招いた悲惨さを忘れずに久遠の平和を祈念したいと思います。

箱根東軽石層
 地下壕内の壁には、幅40cmほどの白い地層があります。この地層は「箱根東京軽石層」といい、約66,000年前に起きた箱根火山の最大級の噴火による火山灰で、軽石を主体とし、神奈川県を中心とする南関東一帯に降り積もったものです。白い地層の上の層は、噴火直後に起こった火砕流の堆積物で、高熱の火砕流に巻き込まれて炭化した木片や、大木が倒れた跡と推定されている構造も観察できます。
 この地下壕は火砕流がこの地を通過したことがわかる貴重な場所です。(危険防止のため、一般公開は行っておりません。)
 平成28年11月座間市教育委員会

芹沢公園 園路整備工事は
【特定防衛施設周辺整備調整交付金(一般助成)】
を活用して完成しました。
 防衛省南関東防衛局
 座間市公園緑政課

土砂が堆積したままの地下壕もそのまま残っている。


芹沢公園の地下壕から北エリアに移動。北駐車場・管理棟の近くに新しい顕彰碑が建立されている。
「台湾少年工顕彰碑」
2018年に再整備が行われ、顕彰碑とあせて、地下壕のライトアップも行われるようになった。

台湾少年工顕彰碑

台湾少年工顕彰碑
八千の台湾少年雷電を
   造りし歴史永遠に留めん
    高座日台交流の会 石川公弘
北に対き年の初めの祈りなり
   心の祖国に栄えあれかし
    台湾万葉歌人 元少年工 洪坤山
朝夕にひたすら祈るは台湾の
   平和なること友の身のこと
    元伊勢原高女勤労挺身隊 佐野た香
2018年10月20日
 台湾高座会
 台湾高座会 留日七五周年歓迎大会記念
  石川創一謹書  

台湾少年工顕彰碑の由来
 先の大戦中、航空機生産の労働力不足に直面した日本海軍は、その供給源を向学心に燃えていた台湾の若者に求めました。新鋭戦闘機(雷電)を生産しながら勉学に励めば、旧制工業中学の卒業資格を与え、将来は航空機技師への道を開くとの条件に、多くの台湾台湾少年が応募し、選抜試験を突破した八千四百余名が、海を渡って高座海軍工廠のあったこの地(神奈川県高座郡)にやってきました。
 戦局はすでに下り坂で、彼らが求めた勉学の機会はほとんど無く。その上新設の高座海軍工廠には十分な設備が無かったため、大半が全国各地の航空機工場に派遣され、慣れない寒さやひもじさに耐えながら懸命に働き、非常に高い評価を得ました。しかし米軍機の空襲などで六十名に上る尊い犠牲もありました。
 一九四五年八月一五日の敗戦により、志半ばで帰国した彼らを待っていたのは、四十年の長きにわたる戒厳令下の厳しい生活でしたが、それにも耐え抜き、戒厳令が解除されると直ちに同窓組織・台湾高座会を発足させ、李雪峰氏を会長にして日本との密度の高い交流を重ねてきました。
 二〇一八年は、台湾からの第一陣が日本本土に上陸した日から数えて七五年になります。私たちはこの機に台湾高座会留日七五周年歓迎大会実行委員会を組織し、台湾高座会の戦時下の貢献と戦後における台湾最大の親日団体としての活動に感謝の意を表すため、台湾少年工顕彰碑建立を計画しました。
 なお、台湾高座会の皆さんが今もこの高座の地を「第二の故郷」と呼ぶのは、工廠のあった高座の地の多くの農家のお母さんたちのやさしさに源があるようです。此の顕彰碑は当時の農家のお母さんたちへの感謝の碑でもあります。
 二〇一八年一〇月二〇日(平成三十年十月二十日)
 台湾高座会留日七五周年歓迎大会会長 衆議院議員 甘利明

なお、座間市内に高座海軍工廠があったが、台湾少年工たちは、大和市の宿舎から通っていた。
大和市内には、「台湾亭」と「戦没台湾少年の慰霊碑」がある。

以下も参照に。

高座海軍工廠と台湾少年工
「雷電」を作った海軍の工場

 太平洋戦争末期の昭和18(1943)年、現在の座間市東原一帯に海軍直属の工場が開設されました。この工場は当初は空C廠と呼ばれていましたが、昭和19(1944)年高座海軍工廠として正式に発足しました。
 この工場は約1万人規模の工場で、開設された目的は高度1万メートルを飛行する米軍爆撃機 B 29を迎
え新型戦闘機「雷電」を生産することでした。
 工廠の中心部は、およそ現在の相鉄線さがみ野駅から東中学校までですが、その敷地全体は当時の大和
町、海老名町、綾瀬町にまたがり、組み立て工場のほかに将校宿舎・行員宿舎・倉庫・診療所などを含んで
いました。
 この工場の従業員の約8割は台湾出身の少年工で、そのほかに軍人、学徒動員の学生、勤労女子挺身隊
などが働いていました。戦後、フジヤマのトビウオとして有名になった水泳選手の古橋広之進さんや、作家の
三島由紀夫さんもこの工場に在籍していました 。

台湾から来た少年たち
 高座海軍工廠では戦争末期に不足していた労働力を当時日本の統治下にあった台湾に求めました。台湾で行
われた選抜試験には多くの少年が応募し、国民学校高等科や旧制中学校などを卒業した、十代の優秀な少人
余りが、海軍軍属として海を渡って日本にやってきました。
 少年たちは、昭和18(1943)年から順次、現在の大和市上草柳にあった寄宿舎に入寮し基礎教育を受けた後、
高座海軍工廠をはじめ群馬県の中島飛行機製作所や名古屋の三菱航空機など各地の工場へ派遣されました。
その真面目な働きぶりと高い技術は派遣先の工場でも高く評価されました。
 しかし戦局が厳しくなると労働環境は悪化し、中には空襲で命を落とした少年もありました。大和市上草柳の善
徳寺には、亡くなった少年工60名の慰霊碑が建てられています。
 昭和20年8月に終戦を迎え、少年工たちは台湾へ戻ることになりました。翌年の帰国までの間、戦争直後多少
の混乱はあったものの、少年たちは自治組織を結成し、秩序を守って整然と帰国しました。
 戦後、元少年工たちは戒厳令下の台湾でも懸命に努力して故郷の発展に尽くし、また苦労した戦時を過ごした
この地を訪れ、若き日の思い出にふける人も少なくありません。
 出典:石川公弘著「二つの祖国を生きた少年工」「座間市史」ほか 

芹沢の地下壕
 ここ芹沢公園の芝生広場の地面の下には総延長1.5kmに及ぶ「あみだくじ」状の地下壕があります。この地下壕は、激しさを増す空襲を避けて、高座海軍工廠の部品工場を移すために人力で掘り抜かれたものです。
 また、この地下壕は「箱根東京軽石層」という白い特殊な地層が観察できる場所としても知られています。この地層は、約6万6千年前に起きた箱根火山の大噴火によって、軽石を含む火山灰が降り積もったものです。
 現在は、地下壕の入口部分を見学することができます。
  平成30年10月 座間市教育委員会


高座海軍工廠と地下工場と台湾少年工宿舎の位置関係


座間市役所

2020年6月に、座間市役所で公開が始まった「雷電の部品」

座間市>戦闘機「雷電」部品用展示ケースの寄贈式と展示の開始

https://www.city.zama.kanagawa.jp/www/contents/1592805582887/index.html

ぜひ見たいと思い、脚を伸ばしてみたところ、見当たらないので職員さんに確認してみたところ、2021年12月現在では公開休止中。しばらく相模原市に貸し出していて、戻ってきてからは、展示していないのだとか。

相模原市の展示、、、見に行けばよかった。

https://www.sagami-portal.com/city/scmblog/archives/27576

座間市役所での展示再開の際は、またWEBで告知があるとのことです。

撮影:2021年12月

武蔵村山の戦跡散策(高射砲第七聯隊跡地)

武蔵村山市の南東部は、陸軍関連の戦跡が点在している。
以前に、「東航」(東京陸軍少年飛行兵学校)の戦跡散策を行った。
今回は、ちょっと北側のエリアを散策。


高射砲第七聯隊
東部第七十八部隊
所沢陸軍航空整備学校立川教育隊

多摩地区の軍事施設は、大正11年(1922)に開設された陸軍第五飛行大隊 (後、陸軍飛行第五連隊)が、立川陸軍飛行場に駐屯したことに始まる。

その後、立川陸軍飛行場周辺には、所沢から陸軍航空本部技術部が移転し、立川飛行機が設立された。

昭和7年(1932)には、現在の武蔵村山市内の大南地区に大規模な陸軍飛行第五連隊の射爆場が完成。

昭和13年(1938)には、陸軍飛行第五連隊が千葉県柏(陸軍柏飛行場)に移動し、立川陸軍飛行場には実戦部隊がいなくなった。

昭和13年(1938) 8月 、第五連隊移転により空地 となった射爆場に、「東航」東京陸軍航空学校校舎が完成。武蔵村山の地で少年飛行兵の基礎訓練が開始となった。

昭和15年(1940)には、立川飛行場の付属施設として陸軍多摩飛行場が建設。(現在の横田基地)
同じ年に、東京陸軍航空学校の北に、陸軍東部第七十八部隊(高射砲第七聯隊)が駐屯。陸軍東部第七十八部隊の西隣には、近衛師団司令部直轄の二等陸軍病院として、村山陸軍病院が開設された。

昭和18年3月には陸軍少年飛行兵学校令の公布により、東京陸軍航空学校は東京陸軍少年飛行兵学校へ改称された。
昭和18年10月、戦局悪化の中、陸軍東部第七十八部隊は解隊され、その跡地に所沢陸軍航空整備学校立川教育隊が開設された。


高射砲第七聯隊跡地散策

武蔵村山市の南東に点在する戦跡を散策。
武蔵村山市が制定した歴史散策コースに基づいて散策を開始。

武蔵村山市>歴史散策コース(南東コース)

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/kankou/spots/rekishiminzoku/1001937/1012519.html

歴史散策コース(南東コース)地図

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/res/projects/default_project/_page/001/012/519/map_nantou.pdf

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)
陣営地土塁

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)陣営地境界の土塁は、陣営地の周囲に築かれ、その断面からは、もともと東南への傾斜地であった敷地を平らにならした状況が確認できます。また、土塁が残るさいかち公園付近には、射撃場や土塁とは別に10メートルほど高い土手に囲まれた火薬庫(弾薬庫)が設置されていました。

土塁が僅かに残っている。

さいかち公園には、火薬庫が設置されていたという。

陸軍用地であったこの場所は、戦後は武蔵村山市立第五小学校の校庭であったが、平成10年(1998年)に閉校となり公園化された。

場所

https://goo.gl/maps/JzWRe3f5QkJ5z9N7A


高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)
鉄塔基礎跡

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)陣営地内に設置されていた、4本あった鉄塔の跡地のひとつ。敷地中央に建てられた高さ30メートルの鉄塔4本にはワイヤーが張られ、模型飛行機を吊るして高射砲の照準訓練が行われていました。

雷塚公園

土盛りがある。これが、訓練鉄塔の盛土跡。
公園の奥、なんかそれっぽい土盛がある。

案内の杭がたっていた。無かったらわからないですね。

盛り土の上に、基礎?があった。

場所

https://goo.gl/maps/41yAd62jTqbXvxSU8


高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)
正門跡

高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)は、昭和14年(1939)に部隊を新設され、翌年には村山村(学園地区)の陣営地へ兵舎や営庭のほか、トラックの運転練習場などが設置されました。
その後、昭和18年(1943)5月に高射砲第七連隊は解体され、この陣営地は同年9月に少年飛行兵短期制度(乙種制度)を行う所沢陸軍航空整備学校立川教育隊の教育訓練施設として転用されました。

村山医療センターの西側、学南通りと大学通りのT字交差点に、高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)の正門があった。

場所

https://goo.gl/maps/6NQ6n5NsxAtrSygK6


村山陸軍病院正門跡

昭和16年(1941)4月に近衛師団隷下の病院として開設。外科棟・内科棟・手術棟・伝染病棟が設置され、隣接する高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)、所沢陸軍航空整備学校立川教育隊や東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)、そのほか陸軍航空整備学校第二教育隊(立川陸軍航空整備学校(福生市))、東京陸軍少年通信兵学校(東村山市)などの傷病兵を収容しました。

現在の東京経済大学武蔵村山キャンパスのグランドが、かつての村山陸軍病院、であった。

村山陸軍病院の正門のある道路の突き当りが、高射砲第七連隊(東部第七十八部隊)の正門であった。

場所

https://goo.gl/maps/3HwUSBVTkGxWcikG9


江戸街道

江戸と青梅を結んでいた街道。青梅街道とも。当時、陸軍用地として敷地拡大した際に、江戸街道が寸断された、と。

市内を東西に通る江戸街道は、昭和20年(1945)に軍備拡張のため所沢陸軍航空整備学校立川教育隊の敷地を拡張した際に街道の一部が寸断されましが、戦況悪化によって敷地は穀物の栽培地として転用されました。
戦後、拡張された敷地は農地改革で農家へ払い下げられ、昭和42年(1967)にもとの街道筋へと整備されました。

場所

https://goo.gl/maps/LYGXEHQbUfuhGizo7


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-74
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。


以下は、東京陸軍航空学校の話題になるので、前述の「東京陸軍少年飛行兵学校跡地散策」 記事を参照に。

東京陸軍航空学校練兵場跡地

東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)は、少年航空兵(少年飛行兵)へ1年間の基礎教育を行う施設で、普通学(国語作文・数学・歴史・理科・図画・英語(後に廃止))と軍事学を学び、教練・体操(フープ体操・マット体操・デンマーク体操)・剣術訓練を行っていました。また練兵場では、エンジンやプロペラといった動力装置が搭載されていない初歩操縦用グライダーを使用した訓練も行われていました。

そのまま南に歩けば、「東航」の地となる。
東航に関しては、以前のレポートでも触れていたので、かんたんに。

場所

https://goo.gl/maps/Tfs62zh915i6vL9S8


東京陸軍航空学校西通用門跡

東京陸軍航空学校は、村山村(大南地区)にあった立川小爆撃場地を転用して昭和13年(1938)に開設され、昭和18年(1943)に「東京陸軍少年飛行兵学校」と改称されました。敷地内には生徒舎や生徒自習室をはじめ、各分野の学科講堂、剣道場、練兵場などが設置され、南にある正門のほか、北に4カ所と東西に1カ所ずつ通用門が設置されていました。終戦後、学校施設の解体に伴い、正門や通用門も同時に解体されましたが、東通用門の門柱は市内にある禅昌寺(西2コース)境内に移設されています。

東航の西側通用門。このさきの住宅地の中に、歴史民俗資料館分館もある。揺籃之地碑や正門跡もある。

場所

https://goo.gl/maps/fkdwRZMpvkXs9nUh6


揺籃之地碑

昭和38年(1963)、東京陸軍航空学校(東京陸軍少年飛行兵学校)跡地の一角に陸軍少年飛行兵戦没者慰霊碑が建てられましたが、平成2年(1990)に周囲の宅地開発によって慰霊碑は禅昌寺へと移されました。同年10月、その跡地へ揺籃之地碑が建てられました。
平成19年(2007)7月に、市内に軍事施設が存在したことを後世へ伝えるため、東航正門跡碑とともに市の旧跡に指定されています。

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/kankou/spots/rekishiminzoku/1001937/1012519.html

場所

https://goo.gl/maps/zygSuWbVYrAQzqys8


東航正門跡碑

東京陸軍航空学校(略称:東航。後の東京陸軍少年飛行兵学校)が開校し、第6期生から20期生までの18,000余名の生徒が少年航空兵(少年飛行兵)の基礎教育訓練を受けました。基礎教育訓練を終えた1年後には上級教育(操縦・整備・通信)学校へ進学し、その後陸軍兵士となった生徒の約4,500名が戦争の犠牲となったことを後世へ伝えるため、平成11年(1999)4月に建てられました。

平成19年(2007)7月に、市内に軍事施設が存在したことを後世へ伝えるため、揺籃之地碑とともに市の旧跡に指定されています。

https://www.city.musashimurayama.lg.jp/kankou/spots/rekishiminzoku/1001937/1012519.html

場所

https://goo.gl/maps/TH61x5H28gBeMSVX7

この日は、玉川上水駅から東大和南公園を経由して、そこからぐるっと武蔵村山市を経て、玉川上水駅に戻るコースを歩きました。ざっくり8.5キロで1時間45分。

東大和南公園では、2階部分も見学できるようになった日立航空機立川変電所の見学をしたわけですが、それはまた別記事にて。(以前の見学はこちら

※撮影は2021年12月


関連

椿山荘(山縣有朋邸跡)

山縣有朋は、数カ所に邸宅を持っていた。

本サイトでは、以前に、「山縣有朋邸庭園跡(三番町共用会議所)」を掲載していた。

他にも、山縣有朋は多くの邸宅を有していた。


 椿山荘 東京都文京区
  明治11年
 山縣有朋私邸 東京都千代田区
  明治18年
 無鄰菴 京都府左京区 京都別荘
  明治27~29年
 古稀庵 神奈川県小田原市 小田原別邸
  明治40年 
  70歳の古希を迎えた晩年の別荘

今回は、縁あって「椿山荘」に赴く機会がありましたので、夜でしたが庭園を(さくっと)見学してみました。


椿山荘

この地は、かつては椿が自生する景勝の地で「つばきやま」と呼ばれていた。

明治の元勲で日本軍閥の祖でもある山縣有朋が、明治11年(1878年)に、私財を投じて「つばきやま」を購入し庭、邸宅をつくり、「椿山荘」と命名。
椿山荘には、山県有朋自らが庭園を計画し高低差のある回遊式庭園が造られた。
山縣有朋の名庭園には、京都の無隣庵、小田原の古稀庵、そして、この椿山荘があり、この三園をあわせて「山縣三名園」とも呼称されている。

ホテル椿山荘東京公式サイト
ホテル椿山荘東京の歴史

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/garden/history/

現在のホテル椿山荘東京の庭園は、太平洋戦争で多くが焼失した後に1万本以上の樹木を植栽して新たに生まれ変わったもの。


椿山荘の碑

この碑は、山縣有朋公爵がこの地を気に入り、入手し、椿山荘の造営に着手し始めた当時を振り返り、(明治11年に)椿山荘と命名した際の感慨を刻んだ碑。

椿山荘の碑の内容
「明治10年の西南戦争は既に平定され、国内が平穏となって暇になった日にはしばしば城北の目白に出かけ、その大地におもしろさを感じた・・・」という内容から始まり、「後にここに住む人もこの自然を守り続け、この山水を楽しむような私の望み通りの人物であろうか」と締めくくられているこの碑は、明治30年に創られました。

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/garden/historic_site/

椿山荘の碑
風光明媚なこの地を気に入った山県有朋公は、明治11年(1878年)に土地を入手し、本邸と広大な庭園を造り「椿山荘」と名付けました。明治30年(1897年)に創られた「椿山荘の碑」には、この地と出会い、この地を愛した山縣公の感慨が刻まれています。(総高2m70cm、碑の幅90cm)

椿山荘記

椿山荘主山縣有朋撰


椿山荘庭園

霧というか雲海が凄い。。。
山縣有朋公もびっくりだろう。
この東京雲海の演出はコロナ渦で客足の鈍っていた2020年10月にスタートした新しい演出。

椿山荘の碑には、「後にここに住む人もこの自然を守り続け、この山水を楽しむような私の望み通りの人物であろうか」と最後に刻まれている。

椿山荘の庭園は山縣公の故郷である山口・萩の風景を再現したものであるという。
いま、ホテル椿山荘東京は、山縣有朋が愛した郷里・萩に流れる阿武川にかかる雲海の雲海を再現したかのように、国内最大大規模の霧噴霧で雲海を演出している。

東京雲海

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/unkai_lightup/


実は、椿山荘で会社の忘年会でした。
そうでもないと、椿山荘に行く機会はそうそうありません。

※撮影は2021年12月


ケルンの眺めと「萬年橋」

萬年橋(江東区)

昭和5年(1930)開通。鉄筋アーチ橋。

萬年橋は小名木川にかかる橋。萬年橋のすぐ西側で、小名木川は隅田川と合流する。合流先には清洲橋がある。そして萬年橋の東側には新小名木川水門が設置されている。
また北側は松尾芭蕉が居を構えていた場所でもあり江東区芭蕉記念館もある。

隅田川の南にある清須川は、萬年橋のたもとからの長めが最も美しく見える角度と言われており、清洲橋のモデルとなったドイツ・ケルンのライン川に架かる吊橋を連想させることから、「ケルンの眺め」と呼ばれている。

萬年橋

ケルンの眺め
 ここから前方に見える清洲橋は、ドイツ、ケルン市に架けられたライン河の吊橋をモデルにしております。
 この場所からの眺めが一番美しいといわれていおります。

新小名木川水門

※撮影は2021年11月


関連

令和3年12月8日の靖國神社(太平洋戦争開戦80年)

令和3年12月8日、太平洋戦争開戦の日から80年の節目に。

御英霊に感謝と哀悼を。
靖國神社に参拝をいたしました。

「はじまりの日」昭和16年12月8日(太平洋戦争開戦80年)

靖國神社(靖国神社・靖國神社)

雨降る社頭。
境内は靖國桜が紅葉に色付く。

大詔奉戴80年

午前10時。
深くは把握していないが、ある団体が、 大詔奉戴80年記念の昇殿参拝(正式参拝)をしていた。

大詔奉戴日
大東亜戦争(太平洋戦争)完遂のための大政翼賛の一環として1942年1月から終戦まで実施された国民運動。大東亜戦争開戦記念日(1941年12月8日)に「宣戦の詔勅」(開戦の詔書)が公布されたことにちなんで、毎月8日に設定された。

大詔奉戴日の趣旨
「皇國ノ隆替ト東亞ノ興廃トヲ決スベキ大東亞戰爭ノ展開ニ伴ヒ國民運動ノ方途亦畫期的ナル一大新展ヲ要請セラルルヲ以テ茲ニ宣戰ノ大詔ヲ渙發アラセラレタル日ヲ擧國戰爭完遂ノ源泉タラシムル日ト定メ曠古ノ大業ヲ翼賛スルニ遺算無カランコトヲ期セシメントス」

到着殿の靖國桜も紅葉色。

招魂斎庭
かつて、この地で、尊い戦没者の御霊が招魂され、そして靖國の御英霊として霊璽簿が奉安された。

遊就館

平日の午前中の遊就館は、80年目の12月8日であっても、静かであった。

黄色い参道。

御英霊を思いながら、知覧の「玉子丼」をいただく。
ほんのりとした甘さが口の中に広がり、感無量。

詳細は、以下にて。

鳥濱トメさんの玉子丼・靖國八千代食堂

12月8日、80年前の日本を意識しつつ、昇殿参拝(正式参拝)をしました。

御英霊に感謝と哀悼を。

80年目の12月8日。
靖國神社の御朱印をいただきました。
美濃和紙に社紋が刺繍された御朱印。美しいです。

80年目の12月8日といっても、世間的には平日。
静かな境内を、久しぶりにゆっくりと散策しました。

※撮影は太平洋戦争開戦80年目の令和3年(2021)12月8日


関連

「はじまりの日」昭和16年12月8日(太平洋戦争開戦の日)

80年前の節目を偲び、先人たちの生き様に想いを馳せる。
また、この日がやってくる。

はじまりの日。

大東亜戦争に散りし英霊たちに… 感謝を。 哀悼を。

憂国の想いを胸に抱き英霊に感謝する。
素晴らしき祖国・日本の為に、未曾有の国難に殉じた英霊に哀悼の誠を捧げ、今日の我が国の安泰と繁栄に感謝する。

12月8日。


忘れてはいけない「節目の日」。


昭和16年12月
「ヒノデハヤマガタ」(陸軍)
「ニイタカヤマノボレ一二〇八」(海軍)

開戦の詔勅に先立つ12月1日に開戦を決意する「帝國國策遂行要領」が可決。
翌日12月2日には開戦日を伝える、「ヒノデハヤマガタ」(陸軍)「ニイタカヤマノボレ一二〇八」(海軍)が発令。


昭和16年12月8日
対米英宣戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)

昭和16年12月8日。
「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」(開戦の詔勅)が公布。

米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書
天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス
朕茲に米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ
抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顯ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英兩國ト釁端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提攜スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ鬩クヲ悛メス米英兩國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剩ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復セシメムトシ隱忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ歸シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衛ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ
皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス
 御名御璽
昭和十六年十二月八日

米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書(国立公文書館)

※国立公文書館にて撮影

昭和16年12月8日
大詔を拝し奉りて

『大本営陸海軍部発表 十二月八日午前六時』
帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。

昭和16年12月8日
大東亜戦争(太平洋戦争、アジア・太平洋戦争)開戦に際し、
昭和天皇の名により「対米英宣戦の詔勅(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)」が渙発されたことを受けて、同日午後7時過ぎ、内閣総理大臣・東條英機がラジオ放送を通じて日本国民に向けて戦争決意表明演説を実施。

大詔を拝し奉りて
「只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦を行いつつあります。東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘らず、遂に決裂の已むなきに至ったのであります。・・・(略)」

只今宣戦の御詔勅が渙発せられました。精鋭なる帝国陸海軍は今や決死の戦を行いつつあります。東亜全局の平和は、これを念願する帝国のあらゆる努力にも拘(かかわ)らず、遂に決裂の已(や)むなきに至ったのであります。
過般来政府は、あらゆる手段を尽し対米国交調整の成立に努力して参りましたが、彼は従来の主張を一歩も譲らざるのみならず、かえって英、蘭、支と連合して支那より我が陸海軍の無条件全面撤兵、南京政府の否認、日独伊三国条約の破棄を要求し帝国の一方的譲歩を強要して参りました。これに対し帝国は飽(あ)く迄(まで)平和的妥結の努力を続けましたが、米国は何ら反省の色を示さず今日に至りました。若(も)し帝国にして彼等の強要に屈従せんか、帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期し得ざるのみならず、遂には帝国の存立をも危殆に陥らしむる結果となるのであります。
事茲(ここ)に至りましては、帝国は現下の時局を打開し、自存自衛を全うする為(ため)、断乎として立ち上がるの已むなきに至ったのであります。今宣戦の大詔を拝しまして恐懼(きょうく)感激に堪(た)えません。私は不肖なりと雖(いえど)も一身を捧げて決死報国、唯々(ただただ)宸襟(しんきん)を安んじ奉らんとの念願のみであります。国民諸君も、亦(また)己が身を顧みず、醜(しこ)の御楯(みたて)たるの光栄を同じうせらるるものと信ずるものであります。

およそ勝利の要訣(ようけつ)は、「必勝の信念」を堅持することであります。建国二千六百年、我等は、未だ嘗(か)つて戦いに敗れたことを知りません。この史績の回顧こそ、如何なる強敵をも破砕するの確信を生ずるものであります。我等は光輝ある祖国の歴史を、断じて、汚さざると共に、更に栄ある帝国の明日を建設せむことを固く誓うものであります。顧みれば、我等は今日まで隠忍、自重との最大限を重ねたのでありまするが、断じて安きを求めたものでなく、又敵の強大を惧(おそ)れたものでもありません。只管(ひたすら)、世界平和の維持と、人類の惨禍の防止とを顧念したるにほかなりません。しかも、敵の挑戦を受け祖国の生存と権威とが危うきに及びましては、蹶然(けつぜん)起(た)たざるを得ないのであります。

当面の敵は物資の豊富を誇り、これに依て世界の制覇を目指して居るのであります。この敵を粉砕し、東亜不動の新秩序を建設せむが為には、当然長期戦たることを予想せねばなりません。これと同時に絶大の建設的努力を要すること言を要しません。かくて、我等は飽くまで最後の勝利が祖国日本にあることを確信し、如何(いか)なる困難も障碍も克服して進まなければなりません。是(これ)こそ、昭和の御民(みたみ)我等に課せられたる天与の試錬であり、この試錬を突破して後にこそ、大東亜建設者としての栄誉を後世に担うことができるのであります。

この秋(とき)に当り満洲国及び中華民国との一徳一心の関係愈々(いよいよ)敦(あつ)く、独伊両国との盟約益々堅きを加えつつあるを、快欣とするものであります。帝国の隆替(りゅうたい)、東亜の興廃、正に此(こ)の一戦に在り、一億国民が一切を挙げて、国に報い国に殉ずるの時は今であります。八紘を宇と為す皇謨(こうぼ)の下に、此の尽忠報国の大精神ある限り、英米と雖も何等惧るるに足らないのであります。勝利は常に御稜威(みいつ)の下にありと確信致すものであります。

私は茲に、謹んで微衷を披瀝し、国民と共に、大業翼賛の丹心を誓う次第であります。

東条英機  大詔を拝し奉りて
日本ニュース第79号
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300464_00000&seg_number=001

開戦時の内閣

内閣總理大臣
内務大臣
陸軍大臣
 東條 英機
文部大臣
 橋田 邦彦
國務大臣
 鈴木 貞一
農林大臣
拓務大臣
 井野 碩哉
厚生大臣
 小泉 親彦
司法大臣
 岩村 通世
海軍大臣
 嶋田繁太郎
外務大臣
 東郷 茂德
逓信大臣
 寺島 健
大藏大臣
 賀屋 興宣
商工大臣
 岸 信介
鐵道大臣
 八田 嘉明


昭和16年12月8日
ハワイ真珠湾

昭和16年(1941)12月8日。
米国ハワイ真珠湾。
ハワイ時間12月7日7時53分(日本時間12月8日3時23分)。

帝國海軍航空隊より無電が発信される。
「トラトラトラ」「我、奇襲に成功せり」
連合国との長き戦争の始まりであった。

昭和16年12月1日。
柱島の連合艦隊旗艦「長門」から発信された電文は呉鎮守府を通じ海軍省を経て、12月2日に船橋送信所から無線にて南雲機動部隊を初めとする全艦隊に伝達された。

ハワイ沖合

東京時間12月8日午前零時
ハワイ時間7日午前4時30分、ワシントン時間7日午前10時)。
南雲忠一中将率いる「機動部隊」は、全てが順調に予定通りにオアフ島北方230マイルの地点に到着していた。

南雲中将直率の空母「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」「瑞鶴」「翔鶴」
支援部隊は、三川軍一中将率いる戦艦「比叡」「霧島」重巡「利根」「筑摩」
警戒隊は大森仙太郎少将率いる軽巡「阿武隈」と駆逐隊群。
周辺海域には哨戒のための潜水艦も張り巡らされていた。

ハワイ時間7日5時30分(東京時間12月8日1時)
「利根」「筑摩」のカタパルトから零式水上偵察機が一機ずつ直前偵察を開始。
偵察の結果、ハワイ真珠湾には戦艦8隻、重巡2隻、軽巡6隻を初め大小94隻が在泊。
しかし戦艦は全隻揃っていたが、空母は在泊していなかった。

ハワイ時間12月7日6時。 (東京時間12月8日1時30分)
南雲長官率いる機動部隊では戦闘ラッパが鳴り響き、第一次攻撃隊の出撃準備。
「発艦はじめ」の合図と共に次々と飛行機が舞い上がる。

第一次攻撃隊の総指揮官は淵田美津雄中佐。
制空隊零式艦上戦闘機43機、
九九式艦上爆撃機51機、
九七式艦上攻撃機89機。
うち九一式魚雷搭載40機、250キロ爆弾搭載51機、800キロ徹甲爆弾搭載49機。
しめて攻撃隊140機であった。

第一次攻撃隊発艦後の1時間15分後。
島崎重和少佐率いる第二次攻撃隊が発艦。
九九式艦爆78機、
九七式艦攻54機、
零式戦闘機35機。
第二次攻撃隊は魚雷を持たず、250キロ爆弾搭載105機、60キロ爆弾搭載27機であった。

真珠湾上空に向け飛び立った瞬間であった。
全てが幸運に恵まれていた。
単冠湾出港後、艦隊の航路を遮るものはなく、無謀とも危惧されていた米国ハワイ真珠湾を攻撃するという破天荒な目標は遂に実現の時が迫っていた。

実はこれより前に既に作戦行動は開始されていた。
ハワイ時間1941年12月6日23時。
日本海軍潜水艦5隻が真珠湾内の艦艇を攻撃するために、特殊潜航艇5隻を発進させていた。

ハワイ時間7日3時42分。
米国哨戒艇が特殊潜航艇の1隻を発見。

ハワイ時間7日6時45分(東京時間8日1時15分)。
警戒中の米駆逐艦ウォードが特殊潜航艇(甲標的)1隻を発見し撃沈。
彼ら特殊潜航艇5隻は未帰還となり、のちに九軍神として祀られる。

米駆逐艦ウォードが甲標的を撃沈したのは、南雲機動部隊航空隊が真珠湾攻撃を開始する1時間ほど前のことであった。
この事実は時を移さずに司令部に連絡され、それらの情報が司令長官キンメル大将に電話連絡されたのが7時40分(東京8日2時10分)であった。

そのまったく同じ時間。
ハワイ時間7時40分。(東京12月8日2時10分)
オアフ島上空に到達した淵田隊長が「展開命令」である信号弾を発射し攻撃態勢に入った瞬間でもあった。

7時49分「ト連送」(全軍突撃せよ)
7時53分「トラトラトラ」(我、奇襲に成功せり)

ハワイでの「はじまりの日」
日本側 搭乗員戦死54名 (一次攻撃20名・二次攻撃34名) 、甲標的戦死9名
米国側 2,345名戦死
合掌…


昭和16年12月8日
マレー半島

昭和16(1941)年12月8日。
戦争は真珠湾だけではなかった。
いや、全作戦の中心はマレー半島にあった。

主力艦隊で構成されていた真珠湾攻撃部隊に比べて、輸送部隊で構成され警戒厳重の中を進むマレー作戦の方が一層の危険を宿していた。

昭和16(1941)年12月4日午前7時。
日時をさかのぼる。
昭和16(1941)年12月4日午前7時。
開戦日を伝える「ヒノデハヤマガタ」の電報を受けた山下奉文陸軍中将率いる第二十五軍が乗船する輸送船団は、集結していた海南島を抜錨してマレー半島に向かっていた。

※山下奉文の墓は多磨霊園にある。 

東京時間12月6日13時45分。
輸送船団は仏領インドシナ・カモー岬南方の洋上を航行。
この地点からまっすぐに突き進めばマレー半島。作戦では輸送船団は数時間後に行動欺瞞の為に、バンコク・タイ湾に向かうかのごとく変進する予定になっていた。

マレー半島上陸部隊の上空に航空機による爆音が鳴り響く。
周辺警戒にあたっていた小澤治三郎海軍中将率いる護衛艦隊に警戒ブザーとラッパが鳴り響く。
予想された事態が遂にやってきた瞬間。当然、予想はしていた。しかし出来ることなら想定したくはなかった事態。

この時、マレー半島上陸輸送船団の上空に現れたのは、大型双発機イギリス空軍ロッキードハドソン爆撃機。
ハドソン機は上空で大きく旋回し輸送船団の規模を測るように飛行。
この英国機による輸送船団発見はバンコクに向かうと見せかける変針前のことであった。

どう見てもマレー半島に直進しているようにしかみえない船団。偵察を許すわけにもいかず撃墜するわけにもいかず、旗艦「鳥海」に置かれた南遺艦隊司令部は大混乱となる。
ここで、小澤治三郎南遺艦隊司令官は毅然と命令を発した。
「触接中ノ敵機ヲ撃墜セヨ」

触接中ノ敵機ヲ撃墜セヨ
南遺艦隊各艦の高角砲が一斉に火を吐く。
同時に連絡を受けた南部仏領インドシナ駐留の海軍第二十二航空戦隊からも英国機撃墜のために零式戦闘機が離陸。 ここで危険を察知した英国機は西方に機首を返し、そのまま零戦の追跡を振り切り遁走に成功した。

開戦の火蓋を切る
対英米戦の最初の一発は、小澤治三郎中将(のちの「最後の連合艦隊司令長官」)によって撃たれたのであった。
南遺艦隊司令部は輸送船に乗船している陸軍第二十五軍司令官山下奉文中将に対して「輸送船団ハ本六日英飛行機ニ依リソノ全貌ヲ発見セラレタリ」と伝達。

小澤長官は戦後、「マレー作戦で奇襲はもちろん望ましいが敵機が我が方を発見し触接をつづけるなら我が方の企図はすべて暴露してしまうであろう。それなら撃墜すべきだ。あまり心配しすぎて敵機をそのまま行動させておけばその結果はもっともっと重大なことになっただろう」と語っている。

ここで予定日より早く戦闘が始まっては、すべてが崩壊する。
「真珠湾に向かっている艦隊は?」
「マレー半島の輸送船団は大丈夫か?」
「フィリピンや香港やシンガポールの動きは?」
作戦中枢部はただ祈る思いで経過を見守るしかなかった。

南遺艦隊旗艦「鳥海」艦橋内の司令部でも、幕僚一同が不安に包まれていた。
すでに日は没していた。翌日には英米海軍が押し寄せるかもしれないという不安とともに・・・。
そんな中ただ一人、小澤治三郎中将だけは泰然自若と構え何も変わらぬ顔つきをしていた。

翌日にはプリンス・オブ・ウェールズを旗艦とする英国東洋艦隊を中心とした英米蘭連合艦隊も総出撃してくるに違いなかった。このプリンス・オブ・ウェールズに対抗できる戦艦は「長門「陸奥」しか日本海軍にはまだ存在しておらず、重巡主体の南遺艦隊では心許なかった。

※
開戦時には戦艦「大和」型は竣工前。 
戦艦「長門」は連合艦隊旗艦(山本五十六GF長官)として、姉妹艦「陸奥」とともに呉近海に待機中。 
大和・昭和16年(1941)12月16日竣工 
武蔵・昭和17年(1942)8月5日竣工 
「大和」は開戦12月8日の8日後に竣工したのだ。

遂にサイゴンに拠点を置く南方軍総司令官寺内寿一陸軍大将は悲痛な決断をせざるをえなかった。
「翌七日早朝ヨリ敵機ノ反復来襲ノ虞大ナルト認ム」という判断報告につづいて敵海空兵力の攻撃を受けた場合には海軍と協力して航空機による進行作戦を開始する、と…

東京の大本営は強烈な衝撃をうけた。
開戦日時は8日午前零時であるというのに、南方軍は7日早朝から戦闘開始は決定的だと伝えてきている。しかし寺内大将の判断は状況を鑑みて妥当なものではあるし、攻撃を受けた場合の航空機による進行作戦も当然なことであった。

そもそもマレー半島上陸作戦は当初から哨戒厳重な危険海域を航行するため、奇襲などがそう易々とできる場所ではなかった。
英国機に発見されるのも当然であったし充分予測されていたことでもあった。
大本営中枢では諦めの色も浮かびはじめていた…

マレー半島上陸部隊を乗せた輸送船団は12月6日午後7時、西北方に変針し予定通りに「欺瞞」のためバンコク・タイ湾方面に向かった。
この欺瞞行動が既に意味があるかどうかの疑問符が漂う中で、闇夜の海を輸送船団はただただ作戦遂行の為に進むだけであった。

昭和16年12月7日
緊張の12月7日がやってきた。
早朝から味方航空機が輸送船団上空掩護を行い、空気の緊迫さが一般の兵士にも伝わってきた。
たしかに昨日のイギリス機による日本軍輸送船団の偵察結果はシンガポールに置かれていた英国極東軍司令部に伝えられていた。

英軍はマレー防衛用対日作戦「マタドール作戦」を兼ねてから準備していた。
しかし、12月6日の時点では英国司令部は開戦を予期せず日本軍の行動目的がはっきりしない為に日本軍はタイに向かうものとして「マタドール作戦」の発動は行われず何の処置もとらなかった。


当時のタイ王国は日本同様にアジアにおける独立国。
日本(大日本帝国)とは友好国の関係にあった。
タイ国は開戦時は中立。
開戦後の1941年12月21日に日泰攻守同盟条約が締結。
タイ政府は1942年1月25日に英米に対して宣戦布告。条約破棄は1945年9月2日。

この時、英国東洋艦隊司令官のフィリップス大将は、米国アジア艦隊司令長官ハート大将との打ち合わせのためシンガポールを離れてフィリピンマニラにいた。
フィリップス大将は、日本艦隊・輸送船団発見の報を受け、急遽7日にシンガポールに引き返すことになっていた。

昭和16年12月7日9時50分
小澤提督率いる南遺艦隊所属特設水上機母艦「神川丸」から偵察のために発艦していた零式水上偵察機が、輸送船団にかなり近い上空で不意にイギリス空軍機コンソリデーテッドPBYカタリナ飛行艇と遭遇。

英軍カタリナ飛行艇が、そのまま真っ直ぐに飛行すると間違いなく輸送船団を発見してしまう、という状況の中で零式水上偵察機は必死の進路妨害と誘導を行うも上手くいかず。
英軍カタリナ飛行艇は日本輸送船団の方向へとなおも近づこうかと直進飛行を始めてしまう。

昭和16年12月7日10時15分。
前方から飛行してきた陸軍九七式戦闘機中隊が海軍零式水上偵察機と英国飛行艇が繰り広げていた異変に気づき援護を開始。
一方でカタリナ飛行艇は銃撃を加えて逃げようとした為、陸軍戦闘機隊は散開し飛行艇を撃墜してしまう。

英国飛行艇撃墜
陸軍機による英国飛行艇撃墜の報は、海軍南遺艦隊・陸軍南方軍総司令部に緊急報告された。
撃墜した事は輸送船団への偵察行為を阻止したという意味では大成功ではあったが、既に昨日に引き続く攻撃行動は8日の開戦日以前に既に戦闘が開始されたということでもあった。

昭和16年12月7日 10時30分
小澤治三郎南遺艦隊司令長官から、山下奉文陸軍第二十五軍司令官に対して「上陸ハ予定ノ如ク決行ス」の信号伝達。 予定海域に到達した船団は進路を変えコタバル・シンゴラ・パタニー等の上陸地点に向けて、英国軍の待ち構える海域へと航行を開始した。

英国極東司令部の決断
既に予定日より1日早い7日開戦の覚悟を決めた日本。
しかし、英国は未だにマタドール作戦を発動していなかった。
飛行艇一機が消息を絶ったという情報(撃墜されたとは想像できなかった)がシンガポール極東司令部には届いていたがまだ決断ができなかった。

英国極東司令部には、続々と日本軍の動きが伝えられる。
午後5時30分「輸送艦一隻、巡洋艦一隻、コタバル北方一一〇マイル。シンゴラニ向カウ」
午後6時30分「駆逐艦四隻、パタニー北方六〇マイル、海岸沿ニ南下中」
しかし英国は動かなかった。

イギリス極東軍司令部ブルックポーハム総司令官は、フィリップス東洋艦隊司令長官と協議を行った結果、12月8日早暁の偵察結果を待ってから作戦行動の判断することを決定。

12月7日23時20分。
英国は「マタドール作戦発動準備」の命令を下した。

昭和16年(1941)12月8日 午前0時45分
マレー半島上陸
佗美浩少将第二十三旅団がコタバル上陸開始。
続いて午前1時40分、山下奉文中将率いる第二十五軍司令部と第五師団主力がシンゴラ上陸。
午前2時、第五師団歩兵第四十二連隊他がパタニーに上陸。

昭和16年(1941)12月8日
マレー半島上陸作戦は、真珠湾攻撃に先立つ2時間前のことであった。
この報を受け、香港・フィリピン・グアム・ウェーキ等へ攻略部隊が一斉に活動を開始。

ここに「戦争」の火蓋が切られた…

この日よりシンガポールを攻略するまでマレー作戦は続く。
10日には英国東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ及び巡洋戦艦レパルスをマレー沖海戦にて沈め、山下奉文将軍は「マレーの虎」の勇名をはせ、翌年42年1月31日に極東英国軍は降伏する。

マレーでの「はじまりの日」
マレー作戦での日本側の犠牲は、戦死1,793名。
英国側(インド・オーストリア兵)含む犠牲は、戦死約5,000名とされている。
合掌…


節目の日「12月8日」

私たちの先祖が 祖国の安寧と発展を願い 祖国を護るために戦った その節目の日 「12月8日」
この節目の日ぐらいは、ご先祖様が、文字通りに命がけで戦った時代を振り返り往時を偲ぶよすがとしたい。

海行かば 
水漬く屍 山行かば 
草生す屍 大君の 
辺にこそ死なめ
かへり見はせじ

うみゆかば 
みづくかばね やまゆかば 
くさむすかばね おおきみの 
へにこそしなめ
かへりみはせじ

※80年後の令和3年12月5日夕刻に。

参考文献

『昭和16年12月8日 日米開戦・ハワイ大空襲に至る道』児島襄著 文春文庫 1996年9月
『史説 山下奉文』児島襄著 文芸春秋社 昭和44年5月
『太平洋戦争(上)』児島襄著 中公新書 昭和40年11月
『大本営が震えた日』吉村昭著 新潮文庫 昭和56年11月
『昭和史の謎を追う(上)』秦郁彦著 文芸春秋社 1993年3月
『最後の連合艦隊司令長官-勇将小沢治三郎の生涯』寺崎隆治著 光人社 1997年12月
『日本海軍総覧』 別冊歴史読本戦記シリーズ26 新人物往来社 1994年4月
『太平洋戦争海戦ガイド』福田誠・牧啓夫共著 新紀元社 1994年2月
『 歴史と旅・日米開戦50周年記念号 特集真珠湾奇襲攻撃』  秋田書店 平成3年12月号
※雑記のため、参考文献が「一次資料」ではないことをお詫びいたします。


そして、私は当たり前の事に気がついてしまったのです。


「はじまりの日」12月8日から、毎日が「節目の日」を迎えるということを。

命がけの日々がはじまったということを。

日々に感謝をしつつ、 日々を過ごして参ります…

巣鴨刑務所の排水口跡(移設保存)と池袋散策

池袋サンシャイン60の界隈には、「巣鴨監獄」(「巣鴨刑務所」「巣鴨拘置所」「巣鴨プリズン」)があった。

かつて、巣鴨刑務所があった台地の下、石垣には排水口があり、水窪川に排水がされていた。

巣鴨プリズンはなくなり、水窪川は暗渠となり、戦後にあった造幣局東京支局もなくなり、そして石垣と排水口のみがひっそりと残されていたが、近年の再開発で、石垣と排水口も消失した………と思っていた。

ところが、
造幣局東京支局跡地に2020年12月に完成した「IKE・SUNPARK(としまみどりの防災公園)」に、なんと排水口跡の石組みが移設保存されておりました。最近、その事実を知ったので、慌てて足を運んでみました。


巣鴨刑務所の石積みの排水口跡

あぁ、消失したと思っていた、石積みの排水口跡が、公園内に保存されていました。
これは嬉しい。本当に嬉しい。
価値が分かる方が居てくれて、本当にありがとうございます!

石積みのモニュメントについて
このアーチ状の石積みは、本公園の敷地の隣接道路(都市計画道路補助第176号線および特別区道41-340)を支えていた石垣の一部で、周辺道路整備で撤去した際に保存し、公園内に復元したものです。
かつてこの地には巣鴨刑務所があり、関東大震災で被害を受けその後縮小され、昭和14年、縮小により空地となった土地の一部に造幣局が移転してきました。この地には長らく貨幣の製造工場や博物館がありましたが、それらの機能は平成28年にさいたま市に移転し、その跡地に豊島区からの要請を受けたUR都市機構が本公園を整備しました。
そうした歴史から、かつてこの石積みは巣鴨刑務所の排水口として、この周辺を流れていた水窪川(現・暗渠)につながっていたのではないかと考えられています。石垣の石は他にもこの公園で再利用していますので探してみてください。

サンシャイン60に「巣鴨プリズン」があった。

公園内で再利用された石垣の名残の石?

石積みの排水口があった場所は、公園の南西。階段を降りたところ。
マンホールの先、にあった。

石積みの排水口があった頃の写真。
※以下の3枚は2017年撮影

近くには、撤去された石垣の残骸と思われれる石が集められていた。
これも公園内で再利用されると良いのだが。

豊島区立としまみどりの防災公園
(IKE・SUNPARK イケ・サンパーク)

非常に開放的な公園。最近の池袋の新しい公園は開放的なデザインが施された空間が多い。

https://ikesunpark.jp/

公園内には、IKEBUSも走ってくる。


せっかくだから、近隣の公園も「戦跡」として紹介していく。

豊島区立 東池袋中央公園
巣鴨プリズン跡

巣鴨プリズンの跡地。歴史を背負った公園は、ほかの公園と比べてどことなく重厚な空間。
心休まる公園ではないかもしれない。

永久平和を願って

永久平和を願って
碑裏文
第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。 戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
昭和五十五年六月

以下、巣鴨プリズン関係。

東池袋中央公園から見上げるサンシャイン60は、いつでも墓標のように感じてしまう。

歴史の重みとリンクして、公園としての空気も重い気がする。。。

※ここまでは撮影2021年11月


豊島区立南池袋公園
豊島区空襲犠牲者哀悼の碑

豊島区空襲犠牲者哀悼の碑(南池袋公園)

恒久の平和を願って
―豊島区空襲犠牲者哀悼の碑―

  昭和20年4月13日深夜から翌14日未明にかけて東京西北部一帯を襲った空襲は、豊島区の大半を焦土と化し、甚大な被害と深い悲しみをもたらしました。
  死者778人、負傷者2,523人、焼失家屋34,000戸にのぼる被害により罹災者の数は161,661人と、実に当時の人口の約7割に及びました。
  この空襲によって無念のうちに尊い命を失った数多くの犠牲者が、当時、「根津山」と呼ばれた、ここ南池袋公園の一角において埋葬されました。
  先の戦争を通じて空襲の犠牲者となった豊島区民の冥福を祈るとともに、この悲惨な事実を永く後世に伝え、二度と再び戦争による悲劇を繰り返さぬように、この碑を建立します。
 平成7年8月 豊島区

根津山の防空壕
 昭和20年4月13日の空襲では、南池袋公園に隣接する、当時根津山と云った林の中に造られた巨大な防空壕に避難者が殺到した。

南池袋公園も非常に開放的な公園。往時は、この地に空襲の犠牲者が埋葬された。
今は人々の憩いの場。

※撮影は2021年2月


豊島区立池袋西口公園
平和の像

池袋駅西口バスターミナルに隣接。東武側。メトロポリタン側。
ここに豊島区の「平和の像」が建立されている。

平和の像

平成2年に、世界恒久平和への願いを込めて、池袋西口公園に、「平和の像」が設置された。
作者は竹内不忘。

裸婦像の掲げた左手と足元には、平和の象徴である鳩が。

非核都市宣言
 世界の恒久平和は、人類共通の願いである。しかし、核軍拡競争は激化の一途をたどっている。われわれは、人類唯一の被爆国民として、平和憲法の精神に沿って核兵器の全面禁止と軍縮の推進について積極的な役割を果すべきである。
 よって、豊島区及び豊島区民は、わが日本の国是である「非核三原則(造らず、持たず、持ち込ませず)」が無視され、われわれの海や大地に核兵器が持ち込まれることを懸念し、わが豊島区の区域内にいかなる国の、いかなる核兵器も配備・貯蔵はもとより、飛来、通過することをも拒否する。
 豊島区及び豊島区民は、さらに他の自治体とも協力し、核兵器完全禁止・軍縮、全世界の非核武装化にむけて努力する。
 右 宣言する。
 昭和57年7月2日
  東京都豊島区

※撮影は2021年3月