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靖國信仰~人を神に祀るということ~


  • はじめに
  • 人を神に祀るということ
  • 御霊信仰と顕彰信仰
  • 祖霊信仰と靖國神社
  • みたままつり
  • 靖國のみたまへの想い 

はじめに 

 「靖國神社という神社」は、数多くの神社のなかでも、異彩を放っている。 

 異彩の一つとしては、その過程がそのまま「近代日本の具現化」であり、国家のために殉じた「英霊」が御祭神であることだろう。あまりにも強く明治維新以後の歴史に絡みつつ、またそれが定期的に政治イデオロギーに起因することも多く、そもそも「靖國神社とは何か?」と疑問符を抱くことも多い。 

 ここでは世の中に溢れる「靖國論争」ではあまり触れられることのない、「信仰」の側面から「靖國神社」を紐解いてみようと思う。 


人を神に祀るということ 

 靖國神社は明治二年(1869)六月二十九日に「東京招魂社」として設立している。 

 文字通りに「靖國神社は招魂社である」という大前提がこの創立起源にある。 

 東京招魂社の意義は一言でいうなれば「戦禍で斃れた者達の霊を慰め、その遺志を長く祈念するための社」である。 

 戦没将兵の慰霊鎮魂の為に、それが各藩ごと(官軍・幕府軍側問わず)であれ民間であれ明治政府であれ、慰霊・鎮魂・招魂の祭祀が各地でとりおこなわれたことは日本の文化側面的に何等おかしなことではない。これは自然な風習であり、何等「人工的」でも「作為的」なものでもない。 

 例えば、明治政府が主宰した「靖國神社」がこのような伝統的な「人を神に祀る風習」に反して、抑圧的なものであったならば、日本国民の信頼は決して得られるものではない。またこのような「信仰」が強制されたというなら靖國神社創立以来約150年も祭祀が休むことなくとりおこなわれ、確固たる民間によって維持されていることは何を意味しているのだろうか。 

 そこには民間風習が伝統として生きており、靖國の信仰が深く民間に根付いているからではないだろうか。では、その「靖國の信仰」に連なる「民間信仰・民間風習」とは何であろうか。 

 この世に生をうけ、そして亡くなった者を「カミ」として祀り上げる事は古くからの風習の一つであった。人を神に祀った施設で圧倒的に多いのが「神社」である。当然これらの祀り上げの儀式は、古俗に基づく「鎮魂(たましずめ・おおみたまふり)」に基づく神道式でとりおこなわれた。 

 本来の初期仏教・原始仏教は「魂」の存在自体を認めていなかったが、日本古来の風習や神道と巧みに融合してきた仏教は、「誰でも彼でも死ねばすべてホトケ」「死者を無差別に皆ホトケといふやう」(柳田國男『先祖の話』)になり、死せる霊を「成仏」という形で遠方(極楽浄土)に送りつけようとばかりし(柳田國男によれば霊は国土にとどまるという)、さらに祖霊の融合を認めず、古代以来培ってきた魂思想を機能神(守護神)信仰にねじまげ、家々の先祖祭や死者の霊の管理・葬送儀礼に関与しだした。 

 その結果、「人を祀る神社」とは別に「霊堂・霊廟・供養卒塔婆」等に「霊」が祀り上げ「人を祀る寺院」の例も多くなった。 

 仏教でも東南アジアに波及した部派仏教(=小乗仏教。近年の仏教界では小乗仏教とは呼称しない)系の生死観は「輪廻転生」、つまり生まれ変わりの精神であるので、そこには慰霊の精神は存在しない。同じく日本国内でも浄土真宗(真宗・一向宗)系は、その開祖である親鸞が先祖供養は不要だと主張している。(亡き人は諸仏となる。迷いなく即時転生。) 

 またシャマニズムや霊魂等をそもそもないキリスト教が靖國の慰霊行為に納得行かないとするのも宗教観的には理解できる。そこはお互いの文化が培ってきた伝統を尊重する必要があるだけであり、互いの宗教論で否定するのは無意味に等しい。 

 カミ・ホトケ・霊・魂と呼び名は様々にせよ「人を祀る」という根底には大差はない。「人を祀る」延長線上に「靖國信仰」がある以上、この古来の風習の起源を探っていく必要があるだろう。 

 柳田國男翁は人を祀る風習の根源について「最初に外から持ち込まれたと認むるべき証拠が無い」「民族固有のものだとする」理由も積極的には明確ではない、としている。「単に外から入つたもので無いならば、元から在つたと見るべきだと謂ふに過ぎぬ」ので、その「元から」が容易ではないが「永い年月の間に極めて徐徐として、所謂人格崇敬の思想は養はれて来たのである」としている。つまり根源を明確に出来ないほど身近なことであり死者の霊魂は生者が慰め供養するしかないという観念を日本人は伝統的に培ってきたのである。しかし柳田翁は人が祀られるのにかつては制限があったとし「弘く公共の祭を享け、祈願を聴容した社の神々の、人を祀るものと信ぜられる場合には、以前は特にいくつかの条件があった。即ち年老いて自然の終りを遂げた人は、先ず第一に之にあづからなかった。遺念予執といふものが、死後に於てもなほ想像せられ、従ってしばしばタタリと称する方式を以て、怒や喜の強い情を表示し得た人が、このあらたかな神として祀られることであつた」(柳田『人を神に祀る風習』)とされている。本来、死後に祀られる霊魂は「祟り」という観念に基づいており、とりわけ祟ることがない一般の死者の霊魂は「先祖」という霊体に融けこんで家(私)や公のために活躍する我が国固有の氏神信仰・祖霊信仰に基づく霊魂観念となり(柳田『先祖の話』)、これらの祖霊は子孫によって祀られるべき神格であった。 

 同じ「カミ」でも「遺念予執の人を神に祀る」はその多くが御霊信仰(怨霊信仰)であり、一方で「先祖を神に祀る」は祖霊崇拝(祖先祭祀)といえる。「人を祀る」という古来風習も歴史が経つと「生前に傑出した業績を残した人物を祀る」という「勲功顕彰信仰」というべき風習が出来あがる。いわば、三種の「人を祀る」信仰があるといえる。 

三種類の「人をまつる信仰」
 御霊信仰(怨霊信仰) 遺念予執の人を神に祀る
 祖霊信仰(祖先祭祀) 先祖を神に祀る
 勲功顕彰信仰     生前に傑出した業績を残した人物を祀る


御霊信仰と顕彰信仰 

 祟り神系は一般的には御霊信仰(怨霊信仰)とされる。この世に怨みを残して死んだ者の霊魂は、生者に祟りをなすと考えられ、これらの怨霊・亡霊は御霊・物の怪と恐れられてきた。本来の「たたり」という言葉は神の示現をいう意味にすぎなかったが、「巫蠱(ふこ)の幣なるもの」が「たたり」を変容させたという。。(柳田『先祖の話』)この巫蠱=呪術者が「たたり」を「祟り」として恐怖の世界の怨霊として明確化させ、本来は霊魂に関して沈黙していた仏教(密教)による呪術と古来の鎮魂儀礼の融合によって奈良末期から平安時代(最澄や空海が帰朝し密教を導入した後)に急速に「御霊信仰」が広がっていった。本来は天皇家の死者の霊を特別に御霊と呼んだが、このころには非業の死を遂げた人々の霊魂を御霊と呼ぶようになり、平安時代には疫病・飢饉・地震・雷等のあらゆる災害が、御霊の仕業とされ、これらの怨霊を鎮魂するための儀礼が必要となっていた。 

 古来、怨霊とされる霊も「神」として祀り祭礼儀式を行うことによって常に鎮魂してきた。その供養の結果、祭神の業績や伝説が世に語り継がれていくにつれて怨霊の力は弱まり祭神の性質がマイナスからプラスへと転換されていくことになる。有名な菅原道真が死後四十数年後に北野神社にまつられ、その後「文筆・学問の神」として祭神が顕彰されるように。 

 この顕彰化ということが後世に着目され「顕彰神」という人神が発生することになる。これが「勲功顕彰信仰」へのシフトといえる。一般的に「一定の年月を過ぎると、祖靈は個性を棄てゝ融合して一体になるものと認められて居た」(柳田『先祖の話』)といわれており神になれない「霊」というものは三十三年忌(もしくは四十九年忌・五十年忌)で最期の法事を行い「先祖」になるといわれている。つまりある程度の年月がたつと故人は先祖という枠の中に埋没して忘れ去られ記憶として残らなくなってしまう。しかし人を神に祀るということはその人物が永遠に記念として記憶され伝承されることを意味する。遺念予執がまったくなく祟り神とは到底思えない権力者や偉人が神として祀られる理由の一つにはこの記憶・記念される「顕彰」という機能が働いているといえる。つまり「祟り神」も時と共に「顕彰神」に転化するという根本があり、祭神が記憶・記念される場として神社が存在している。それもその神社が後世まで永続祭祀・信仰されていくという根本があって記憶され記念されるのである。このように「御霊信仰」と「顕彰信仰」というものは対極線上にあるもののようにみえて実は非常に近い関係にあるということがわかる。 

 また、天変地異等が「祟り」として認知認識されるときは得てして「政情不安定」な時である。誰かが「あれは祟りだ」と認定して「祟り神」を捜してこない限り「怨霊」は表面化して来ない。その「怨霊」を祭祀する役割は為政者や民衆が担っている。特に為政者にとっては政情安定化のために政治的目的で神社建立をするのが最良であった。つまり怨霊の転化ではなく最初から顕彰目的で建立された神社には政治的効果が大きいとされる。明治期の神社建立の動きを「国家神道のもとで、天皇崇拝を主軸に神社を再構築し、人為的作為的に改変し、国家神道の思想に立つ神社を次々と創建した」(村上重良『慰霊と鎮魂』)とみる見方もあるが、顕彰すべき必要性がない神というものもありえず、もし作為的作られた「顕彰に値しない神々」なら、少なくとも今の世の中では信仰されなくなるはずだが、明治以来の神社も今日多くの信仰を集めている。 


祖霊信仰と靖國神社 

 「人を神に祀る」概念を冒頭に三種類あげたが、一番最初に取りあげた「祖霊信仰(氏神信仰)」に関しては未だ詳述していない。

 「祖霊信仰」とは先に触れたように「先祖」という霊体に融けこんで家(私)や公のために活躍する我が国固有の霊魂観念のことを指し、本来これらの祖霊は子孫によって祀られるべき神格であり、子孫が先祖の霊を敬虔に祀り、それに対して「先祖の霊」は子孫の守護神として応えてくれるというものである。 

 以下、加地伸行氏の意見を参考にする。東北アジア(儒教文化圏)では亡霊を招き慰霊するシャマニズム(魂降ろし)が基本的宗教感覚であり、死者と生者とのきずなを断ち切ることのない祖先祭祀(仏教的には祖先供養)という宗教感覚が儒教によって体系化されてきた。日本古来の神道の根底はシャマニズムであり、印度から中国に波及した仏教(大乗仏教系)も儒教的慰霊観を取り入れ先祖供養重視の日本仏教に発展した。日本の古来神道は仏教・儒教体系や道教理論が伝来するにつれて原始信仰的なものから徐々に体制を整えていったが、ただ日本の神道は儒教にはない「穢れを忌む」思想があった。死に際しての火葬は禊的浄化であり、日本人にとっては「死」そのものは穢れである。しかし葬儀以降は「死」という厳粛な大事が聖化し、死者はカミもしくはホトケとなる。そしてこのように浄化された死者の生前のできごとを問うことは一切しない。死者は「死」という大事によって人間界の責任をすべて果たされ、あとは「カミ・ホトケ」となり人間界の子孫を護る存在となったと加地氏はいう。 

 例えば靖國神社で見てみれば「東京国際軍事裁判」という名の判決で裁かれたABC級戦犯の方々(便宜上「戦犯」と呼称)は、現世では「法務死」という一番重い刑で責任を果たされ「カミ・ホトケ」として祀られるべき存在といえる。 

 「祖霊信仰」は極めて儒教的なものであるが、そこに日本的な思想・伝統が加味されて「靖國信仰」が形成されてきた。私はそれらの昭和受難者たちが現世での罪を裁かれ「カミ・ホトケ」となったからには、もはや現世の罪を問うことはせず(問うこともできない)、ただ慰霊の一心で向き合うだけである。それが日本の伝統的な信仰のはずであるから。 

 彼らの御霊を後世の我々はどう祀ればよいのだろうか。以下、柳田國男翁・小堀桂一郎氏の見解を参考にしたい。御霊を祀れないという事態は、家が断絶して祀る人の無い霊が出来る場合もあれば、戦火で斃れ家の跡を継ぐものがいなくなる場合もある。柳田翁によれば、それらの「不祀の霊」の増加というものは、大きな恐怖であり、盆の先祖祭にてさまざまな外精霊や無縁ぼとけ(仏教呼称)等の為に、特別に外棚・門棚・水棚と呼ばれる棚(不祀の霊を祀るための棚)を設け、供物を分かち与えることをしなければならなかったという。これが古来の家の構造であり信仰であった。『先祖の話』の末尾で柳田翁は記す。「國家の為に戦つて死んだ若人だけは、何としても之を佛徒の謂う無縁ぼとけの列に、疎外して置くわけには行くまいと思ふ。」とし、子孫が絶え祭祀が行われなくなってしまうと「程なく家無しになつて、よその外棚を覗きまはるやうな状態にして置くことは、人を安らかにあの世に赴かしめる途では無く、しかも戦後の人心の動揺を、慰撫するの趣旨にも反するかと思ふ」と切実に記している。この言葉こそが「靖國信仰」の原核精神を示しているだろう。 

 靖國神社の祭神も個々の家々の墓に祀られている。それは柳田翁のいう両墓制のうち「いけ墓・上の墓・棄て墓」という、やがては記憶されなくなり(先祖と同化)、忘れ去られてしまう墓(所在不明になるのが良いとされる地域もある)であり、その地に死者の「魄」(肉体の象徴)は祀られる。一方で「参り墓・祭り墓」と呼ばれる参拝に都合の良い、社会的な霊魂の逗留地(招魂の祠)に死者の「魂」(精神の象徴)が祀られ、元の天に帰って、子孫の安寧を護ると考えられたきた。つまり、それらの招魂祭祀を司る場が「靖國神社」等であり、たとえ「いけ墓」での祭祀が廃れたり、または祭祀を司る子孫のない若い戦死者等の「不祀の霊」は、社会的立場ある「参り墓」での祭祀によって絶えることなく記憶され、霊は安んじてその祠にとどまり、それらの霊が「祀る者」を加護する。小堀桂一郎氏によれば「戦死者の霊を祀り、祭を営んだ人々と共鳴者が、恰も氏子が氏神に対する如き感情を自らのうちに育んでその神霊を尊崇し、かつその加護を祈るという信仰形体」が靖國神社・護国神社であり「霊(参い墓の霊=靖國・護国神社の霊)が加護を垂るべき子孫とは共同体の成員全体であると考えられる。祀る者と護る神とに関係が氏族の子孫と祖先という私的な関係から、共同体を軸とする公的な関係に移して考えられる様になる。祭神はその遺執を国を靖からしめんとの志に示現し、祀る氏子等は我等の安寧を守り給えと祈る。」とし、これこそが靖國信仰の形でもある。「いけ墓=私的な祭祀場」に対する「参い墓=公的な祭祀場」という考えによって招魂社は公的なものとして出発し、国家が主宰する祭祀によって公的な「国事殉難者」が祀られているのもなんら問題はなく自然の帰結である。 

 「靖國神社こそ国営にすべきだ」という声がある。本来なら靖國神社は国家機関たるべきだろう。いや根本の「神道」という信仰こそ「日本人の公的な信仰」とすべきだろう。(あくまで「宗教」とはせずに「信仰」というが。)ただ、そのようなことは現実には夢物語でしかない。ではどうするべきか。昭和五十三年七月から平成四年三月までの靖國神社の六代目宮司を務めていた松平永芳氏の意見が一番賛同的であると思う。以下一部抜粋する。「靖國神社は政府の維持すべき神社ではなくて、国民総氏子の神社ということでなければ、どうにもならないんじゃないかと考えています。(略)政府から庇護を受けていると、一時的にせよ、どんな政権が出現するかわからない。その時の不安があるから絶対に政府からお金は貰わない方がよいと考えているのです。仮に国家護持ということになると政府がお金を出せばよいと思うようになり、国民はノホホンとして靖國の存在を忘れ去ってしまうかもしれません。(略)少額でもいいからできるだけ多くの方々がここの神社を認識されて、ここのお陰で自分たちの今日の平和があるんだ、ということを理解していただくのが理想的なんだと考えております。」(『靖國神社創立百二十年記念特集』)たしかに、靖國神社がなんたるかすら理解できてない政府や国に、今後万が一でも委せる自体が発生する可能性はゼロではないとすれば、あとあとの不安が大きくなるばかりである。やはり小堀氏や松平氏のいう、この「祀る者と護る神」の関係を大切に、靖國神社を日本国民の氏神とした「国民総氏子」というのが理想ではなかろうか。 


みたままつり 

 毎年7月13日から16日にかけて、靖國神社では夏の風物詩として「みたままつり」が斎行されている。 

 この「みたままつり」とはなんであるかを簡単に触れてみようと思う。 

 靖國神社の「みたままつり」は靖國150年の歴史から鑑みれば決して古い祭儀ではない。従来、戦前の靖國神社は現在のように庶民がいつでも気楽に参拝できる神社ではなく、国家と軍部が管理していた神社であった。 

 昭和20年8月終戦後、靖國神社はGHQの厳しい統制下に置かれ、その段階で未合祀であった戦没者の御霊を今後合祀できるかどうかがわからないという懸念から11月19-20日に臨時大招魂祭を斎行。本来は戦没者氏名等を明白にし霊璽簿に奉斎すべきところを緊急時ということで、まずは氏名不詳のままで招魂しその後に調査が進み次第で霊璽簿奉安祭を行い逐次ご本殿におまつりする手はずとなった。こうして創建以来の軍部が関与する最後の招魂式が行われた。 

 その1ヶ月後にGHQは国家神道・神社神道をターゲットとした「神道指令」を発令。昭和21年2月を以って靖國神社は国家との関係を絶ち一宗教法人へと再生することとなる。 靖國神社規則では、「当神社は靖國神社と称し、国事に殉じた御霊を祭神とし、神徳光昭、遺族慰藉、平和醇厚なる民風を振励するのを目的として事業を行う」ことを明記している。 

 昭和21年7月、神社として国家と断絶し今後の立ち行く様を模索していた靖國神社に長野県遺族会の有志の方々が、神社の勧誘や依頼というべきものではなく自発的に上京してきて、境内で盆踊りを繰り広げ民謡を歌唱して戦没のみたまを慰めるという出来事があった。 

 このような民間発案の慰霊行事は戦中戦前含めかつてなかった事例であり、これが今日の「みたままつり」の起源とされている。 

 これにヒントを得て、翌年の昭和22年7月には、13日の前夜祭にはじまり、新暦のお盆の3日間(14日・15日・16日)に神社主導ではじめての「みたままつり」を斎行、以後は夏の恒例となった。 

 お精霊様の迎え火を焚き、茄子や胡瓜の馬・牛の乗り物を飾り、先祖の霊の一時帰宅を待ち受けるという古い民間習俗の風習は、平安期には京都では廃れていたが関東では盛んであったと兼好法師の「徒然草(第19段)」には記載されている。 「亡き人のくる夜とて魂まつるわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なおする事にてありしこそ、あわれなりしか」 

 往時は歳事であった古習も時代の変遷の中で、いつしかお盆の祭事として、先祖の祭り・家の祭りとして伝承されてきた。もともと家々の祭りであった祖霊の祭りは「公」の祭りではなく「私」のまつりであり、昭和21年2月に「公」たる靖國神社が、一宗教法人にならざるを得なかった以後をもって、その年の7月に「私」たる民間有志の発案でもってはじまった「みたまのまつり」であった。 

 こうして長野県遺族会の方々が自発的に盆踊りを始められた「みたまのまつり」は、その契機は柳田國男の「先祖の話」で記述された下地が根底にある。 

 柳田翁の先祖の話は昭和20年4月から5月にかけて書かれたものであり、昭和21年4月に刊行されている。その柳田翁は日本降伏後の昭和20年10月付けの序文に「まさか是ほどまでに社会の実情が改まってしまうとは思わなかった」とし「家の問題は自分の見るところ、死後の計畫と關聯し、また靈魂の觀念とも深い交渉をもつて居て、國毎にそれぞれの常識の歴史がある。理論は是から何とでも立てられるか知らぬが、民族の年久しい慣習を無視したのでは、よかれ惡しかれ多數の同胞を、安んじて追随せしめることが出来ない。家はどうなるか、又どうなつて行くべきであるか。もしくは少なくとも現在に於て、どうなるのがこの人たちの心の願ひであるか。」と記している。、終戦後の日本の行く末を案じ混沌からの憂いが強く伝わってくる序文である。 

 先祖の話。すなわち「先祖から子孫に向けての相続と先祖祭祀の継承という民俗の根底になしている伝統に大いなる断絶がせまっていることへの危機感と解決方法」「子孫を残さずに死んでいく(戦死者の)霊の存在を目の当たりにし、日本の家の構造と先祖の祀りの有り様」を記述している。 

 靖國神社で祀られる「みたま」は「国のために戦って死んだ若人」「国難に身を捧げた者」というのが特徴的であり、中でも若人の御霊は、これを家々の先祖として祭るであろう子孫を有していない場合も多い。そこに祖霊信仰の断絶が発生してしまう。祭ってくれる子孫を持たぬ御霊を直系の子孫に代わって祭り、その記憶を伝承し、それら先祖の霊を後世の祭祀される人々の守護霊として安んじる。これが「靖國神社」であり、後世の社会が祭る「みたままつり」である。「この祭りは、祭ってくれるべき子孫を欠いた若き御霊達を安らかにあの世に在らんしめんがために、あるべかりし子孫に代わって共同体の常民が営む祭」(小堀桂一郎氏)であり、その祭りは格別な儀礼に基づくものではない。 

 「みたままつり」は伝統的な民間風習を兼ね備えるとともに、「個」ではない社会的な祭祀が行われるという公的な位置づけも帯びた、昭和22年にはじまった新しい「お祭り」ではある。その新しいお祭りは新暦お盆の三日間で斎行され、東京では一番最初の盆踊りも奉納されるということもあり、異色な趣も感じさせずに自然なカタチで受け入れられたのも、その性質が「日本人の信仰」の根底に根付いたものであった、といえる。 

 後世の我々が御霊の献身的な御心を記憶に留めて回想し、往時に想いをはせる。そうして御霊とともに「お盆」を過ごし、その意志を継承することで御霊達は後世の守護神となる。これを「祖霊信仰」から一段と特化した「靖國信仰」と称しても良いのかもしれない。 

  みたまを慰めるこの信仰。「生きた人の社会と交通しようとするのが、先祖の霊だといふ日本人の考へ方」(柳田國男)が共通共同の事実として根付いていたからこそのまつりであり信仰である。「この曠古(こうこ)の大時局に当面して、目ざましく発露した国民の精神力、殊(こと)に生死を超越した殉国の至情には、種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培ひ育てて来た社会制、わけても常民の常識と名づくべきものが、隠れて大きな動きをして居るのだといふことである。(略)人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に、信仰の基底が無かつたといふことは考へられない。」とこの「常民の常識」が共通した信仰に根ざしていたのであり、「信仰はただ個人の感得するものでは無くて、寧ろ多数の共同の事実だつたといふことを、今度の戦ほど痛切に証明したことは曾て無かつた。」と力説をされている。 

 そのうえで柳田翁は「但しこの尊い愛国者たちの行動を解説するには、時期がまだ余りにも早過ぎる」と昭和20年春の段階ではこれ以上の追求は遠慮されているが、その言わんとしている深意は日本人の心底に根付いており、戦後も連綿と続く靖國の祭祀、みたまのまつりに継承されてきている。 


靖國のみたまへの想い 

 今回、信仰という側面から靖國神社を紐解いでみた。 

 世間的なイメージで言えば、靖國神社への参拝は慰霊・鎮魂・顕彰・感謝などの側面が多いが、その根底には「日本人の伝統的な民俗意識」があることもわかった。その「民俗的な先祖の祭り」を戦後改革の中で一宗教法人となり「神社神道形式」で伝承しているのが現在の靖國神社となる。 

 この信仰の根底を気にもしないような政治的なイデオロギーに巻き込まれるのも現在の靖國神社の一つの姿であり、嘆かわしい自体ではあるが、そんな事は関係なく心静かに拝する人々の願いとともに、これからも御霊の御心を伝承を願っていきたいと思う。 

 靖國信仰とは? 

「靖國神社・靖國信仰は日本人の心であり、日本人が築いてきた民俗文化である」ということも出来るかも知れない。 

 後世に生きる我々の多種多様の想いのなかでも不動のものがある。それが御霊への鎮魂と感謝の祈りであり、その行為は日本人の伝統でもあり伝承されるべき風習でもある。 

 彼ら御霊の想いと願いを記憶し、御霊を未来永劫に祈念し回想する。幕末以来今日まで246万6500余柱もの英霊たちが国家のために殉じられ、幾多の無名人が国難に立ち向かっていった。 

 後世の我々は彼らが身を挺して護り抜いた「日本」に生きるものとして残された義務がある。「家=国」を身を挺して護った彼らの想いを、「家=国」に残された子孫が引き継ぐ。御霊の遺志を後世に伝え続ける。そして先祖の御霊は子孫の「守護神」となり、国靖らかであることを願う「靖國の想い」へと導き、未来を馳せていく。 


主な参考文献(順不同) 

靖國及び周辺事項 

小堀桂一郎『靖国神社と日本人』PHP新書・1998年 

神社本庁編『靖国神社』PHP研究所・2012年 

加地伸行・新田均他『靖国神社をどう考えるか』小学館文庫・2001年 

村上重良『慰霊と鎮魂 靖国の思想』岩波新書・1974年 

神道及び思想全般 

柳田國男「先祖の話」昭和21年/「人を神に祀る風習」大正15年 

(『定本柳田國男集第十巻・新装版』所収 筑摩書房・昭和44年) 


初 稿 :平成14年(2002)5月
一次改訂:平成14年(2002)11月
二次改訂:平成28年(2016)7月 (みたままつり項目を追記)
三次改訂:令和04年(2022)4月 (Web掲載用に表記微修正)

学生の頃に、とある同人誌に寄稿した論文。
読み直せば、若気の至りも多数はあるが、基本的な考え方としての根底は今も変わりない。
うっかり発掘してしまったので、せっかくなのでWeb用に再構築して掲載しました。 


関連

霊璽奉安祭

「桜咲く宮・靖國神社」~靖國櫻(令和4年)

令和四年。終戦から77年。
今年も靖國神社の桜花を愛でる。

境内に献木された桜たち。
一木一木に込められた戦友・ご遺族の皆様の想いが、花を咲かせる。

御英霊の皆様と、今年も花見と洒落込もう。
「花の都」「桜咲く宮」を楽しもう。

靖國の桜花「靖國櫻」には御英霊の御心が宿っている。
感謝を。哀悼を。


散る桜 残る桜も 散る桜
 良寛和尚

奉頌歌「靖國神社の歌」

日の本の 光に映えて
尽忠の 雄魂祀る
宮柱 太く燦たり
  あゝ大君の 御拝し給ふ
  栄光の宮 靖國神社
日の御旗 断乎と守り
その命 国に捧げし
ますらをの 御魂鎮まる
  あゝ国民の 拝み称ふ
  いさをしの宮 靖國神社
報国の 血潮に燃えて
散りませし 大和をみなの
清らけき 御霊安らふ
  あゝ同胞の 感謝は薫る
  桜咲く宮 靖國神社
幸御魂 幸はへまして
千木高く 輝くところ
皇国は 永遠に厳たり
  あゝ一億の 畏み祈る
  国護る宮 靖國神社

奉頌歌「靖國神社の歌」 
昭和16年(1941)3月  
献納:主婦之友社 
作詞:細渕国造 作曲:陸海軍軍楽隊

軍歌「同期の桜」

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
 みごと散りましょ 国のため

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
 なぜか気が合うて 別れられぬ

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
 未だ還らぬ 一番機

貴様と俺とは 同期の桜
 同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
 なぜに死んだか 散ったのか

貴様と俺とは 同期の桜
 離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
 春の梢に 咲いて会おう

軍歌「同期の桜」
昭和14年

神雷桜と桜花。


令和4年春の靖國神社

写真を。

※撮影:20220403

雨の日

また、来年。

※撮影:20220404


関連

所沢駅周辺の戦跡散策

所沢といえば、日本の航空の発祥の地。
日本初の航空機専用飛行場は所沢陸軍飛行場が明治44年(1911)に完成したことにはじまる。
以来、昭和20年(1945)の終戦に至るまで、日本の航空発展の歴史は、所沢とともにあった。

「空都所沢」の歴史は、明治44年(1911年)4月1日、日本初の航空機専用飛行場として「所沢陸軍飛行場」が完成したことに始まる。


位置関係

米軍撮影国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R741-123
昭和22年(1947年)12月29日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。


陸軍東京憲兵隊赤坂憲兵分隊所沢分遺所

所沢駅と所沢陸軍飛行場のを結ぶ道路の途中に。所沢陸軍飛行場の手前に、陸軍東京憲兵隊赤坂憲兵分隊所沢分遺所があった。憲兵隊は明治44年の飛行場開設と同時に配置された。

現在は、「陸軍用地の境界標石」と「門柱」「壁」が残っている。

陸軍用地

この先は、陸軍所沢飛行場。

門柱も残っている。

所沢憲兵隊の名残の壁。

場所
所沢憲兵隊の跡地には、現在は、所沢市消防団第2分団がおかれている。

https://goo.gl/maps/Q4x4crCNr135TzNn7


旭橋と飛行機新道

日本最初の飛行場である所沢飛行場の開設(明治44年)に伴い、所沢駅から飛行場へつながる道「飛行機新道」が整備された際に東川を渡るために架けられた橋。
旭橋は当初は土橋であったが、昭和5年(1930年)に、より強固でかつ空都所沢にふさわしいモダンなデザインの現在の橋に架け替えられた。
平成21年(2009年)8月に国の有形文化財に登録。

国登録有形文化財
旭橋
 旭橋は、わが国初の飛行場となった所沢飛行場が、明治44年(1911)に開設された際につくられた橋です。最初は土橋でしたが、昭和に入り飛行場が拡張されることととなり、橋の架け替えも計画されました。そして約2年の歳月をかけて昭和5年3月に現在の橋が完成しました。
 当時としては、重厚なつくりとモダンなデザインが施されており、「空都所沢の表玄関にふさわしい橋を」との関係者の意気込みが伝わってくるようです。

橋の特徴
 鉄筋コンクリート造りの単純桁橋(1本の桁を両端2点の支点で支える構造)です。
 両端の親柱には赤御影石が使用され、西洋風な彫刻が施されています。上部にはかつてブロンズ製で唐草模様をあしらった六角形の電灯がありましたが、戦時中の金属供出により台座だけが残されています。
 欄干はリズミカルな白タイル貼りの連続アーチで飾られています。西洋建築の様式的モチーフが所々に取り入れられている点が、この橋の魅力となっています。
  平成22年3月
   所沢市教育委員会

国登録有形文化財
「旭橋」の昔の写真を探しています
 旭橋は、日本最初の飛行場である所沢飛行場の開設(明治44年)にともない、所沢駅から飛行場へつながる道(飛行機新道)が整備された際に、東川を渡るために架けられました。
 当初は土橋でしたが、所沢飛行場が拡張されて飛行機新道を通る物資や飛行機を見物する人々が増えたため、昭和5年、より強固でかつ空都所沢にふさわしいモダンなデザインの現在の橋に架け替えられました。
 欄干はリズミカルな白タイル貼りの連続アーチで、両端の親柱には赤御影石を使用し、西洋風の彫刻を施されています。親柱の上部には、かつてブロンズ製で唐草模様をあしらった六角形の電灯が設置されていたと伝わりますが、戦時中の金属供出で失われ、現在は台座だけが残されています。
 文化財保護課では、電燈が失われる前の旭橋の写真を探しています。戦前の旭橋の写真をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひご提供ください。写真はお借りして複写した後、お返しします。
 所沢市教育総務部文化財保護課

昭和5年3月竣工

飛行機新道は所沢飛行場(1911年)の開設に合わせて作られた道。

飛行機新道

場所

https://goo.gl/maps/qLtcV8k8bqFQT6Zw8


将校住宅

所沢駅近くの洋館付き和風住宅。
所沢陸軍飛行場・陸軍航空学校に勤務する佐官クラスの将校が住んでいたという。

表通りは駅前商店街。

この界隈は所沢駅から100メートルも離れていない場所。駅前開発の流れから置き去りにされたかのような不思議な空間。いつまでも残っているとは思えないが、貴重な往時の空間が残されていた。

場所

https://goo.gl/maps/6P518LJ1H1mH9vbW8

日本で初めて飛行した飛行機「アンリ・ファルマン機」に由来。


秋田家住宅

秋田家は屋号を「井筒屋」といい、所沢の織物産業の発展を支えた綿糸商。
秋田家住宅は、明治後期の建造。所沢市寿町の銀座通りに南面して店舗を構える商家の建物。
国登録有形文化財。

大正元年 11 月の陸軍特別大演習の際に、伏見宮貞愛親王が宿泊している。
内部は通常非公開。

場所

https://goo.gl/maps/kAAtf2FUufLs1dMq5


陸軍航空部補給部所沢支部「南倉庫」
(所沢航空参考館)跡地

所沢駅前の再開発エリア西武鉄道車両工場跡地。その前身は、陸軍用地であった。
この地に運ばれた元ドイツ軍青島飛行場格納庫は、「所沢航空参考館」として活用され、戦後は「西武鉄道車両工場」としても活用されてきた。

数年前までは陸軍時代からの遺構があったが、再開発によって、「往時の建物」から「陸軍境界標石」に至るまで、現在はすべて消失し更地となっている。。。

なにもなくなった。。。

場所

https://goo.gl/maps/bz86N56WKE9ogYmb9

※撮影:2022年3月


なお、南倉庫に関しては、「所沢航空発祥記念館」にも展示コーナーがある。

所沢航空発祥記念館の展示コーナー
航空参考館

東洋一の航空博物館だった航空参考館
 大正10(1921)年、陸軍航空部補給部所沢支部の資材倉庫用地が所沢駅西口に整備されました。5.5haの広さのこの用地は当時の陸軍所沢飛行場(現在の所沢航空公園)に対して南に位置していたため通称「南創庫」と呼ばれていました。南創庫は所沢駅に隣接しており、駅からの専用の引き込み線に飛行機や機材を載せて南倉庫に収容していました。
 大正12(1923)年、それまでは木造の倉庫だった南倉庫に、第一次世界大戦でドイツから押収した鉄骨造の二棟の巨大な倉庫(展示模型の中の奥の角にある建物と手前角にある建物)が建設されます。
 昭和10(1935)年、南創庫は陸軍航空技術学校分教場として各種の教育、訓練の場となりました。
 賞あ14(1939)年、南倉庫に陸軍航空士官学校の展示施設として「航空参考館」が設けられます。航空参考館には国内外の多数の航空機をはじめ、部品類や航空関係の遺品などが展示され、終戦まで「東洋一の航空博物館」といわれました。
 戦後は西武鉄道の車輌工場として平成12(2000)年まで鉄道車輌を製造してきましたが、車輌工場の建物は全て撤去され、所沢駅西口土地区画整理事業に基づく街づくりが進められることになりました。

西棟で使用されていたドイツ製の鉄骨(実物)

所沢の戦跡散策をするのであれば、所沢航空発祥記念館も欠かせません。


有志が建立した「神奈川縣護國神社」

全国47都道府県で唯一「護國神社」が無い県が神奈川県。
(内務大臣指定護國神社として。東京は靖國神社で包括している。)

もちろん、神奈川県にも公式に護国神社建立の予定はあった。


神奈川縣護國神社(内務大臣指定護國神社)

神奈川縣護國神社(神奈川県護国神社・神奈川県護國神社)が完成直前であった昭和20年5月29日、横浜一帯を襲った「横浜大空襲」によって、社殿は焼失。そして、そのまま、公式には神奈川縣護國神社が完成することはなかった。

もともと「神奈川縣護國神社」は、横浜市三ツ沢の三ツ沢総合グランドの地に建立される予定であった。現在は横浜市によって跡地に「慰霊塔」が建立されている。

もともとの「神奈川縣護國神社」に関しては、以前の記事に詳しい。


私祭招魂社

「招魂社」は、後に全国各都道府県に一社の護國神社となる「官祭招魂社」と、地域住民の崇敬から自ずと創建された町・村単位から端を発する「私祭招魂社」に分けられる。

「私祭招魂社」の創建は明治以降、特に日露戦役終結以後の戦没者の増加に伴い、主に地域住民が発起人となる形で盛んに建立が進んだ。
政府は、官祭・私祭を含めた招魂社の把握・維持をする目的で新たな招魂社創建には、各種の必要条件を規定することとなる。
そうして、昭和14年、内務省は「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」という法令を発し、全国各都道府県に一社または二社の護國神社を指定することとなった。
これにより官祭、私祭招魂社は内務省に指定された指定護國神社(内務省指定護國神社)と、指定を受けない指定外の護國神社や招魂社となった。
御英霊を祀るということが、招魂社、指定内護國神社、指定外護國神社と様々であれ、いつの時代であれ、慰霊鎮魂の真心でもって、人々の願いの場は創られてきたのである。


神奈川縣護國神社(民間の有志が建立)

噂は聞いておりました。
有志が「神奈川縣護國神社」の建立を目指している、と。
思えば、御英霊を慰霊鎮魂し感謝顕彰するという御心には、公的なものも私的なものも、その心がけには大小の差はない。
内務大臣指定護國神社の創建は夢と終わった。
しかし、私的であれど護國神社を創建することはできる。それを具現化したものが、この小さな小さな「神奈川縣護國神社」といって良いかもしれない。

しかし、小さくても、御英霊に対する御心に深く溢れているお社。
彼らの公式サイトから、その心意気を感じることができる。
今回、たまたま大船に足を運ぶ機会あって、ようやく参拝する機会を得ることができた。

ありがとうございます。

ー>神奈川縣護國神社氏子會サイト

https://peraichi.com/landing_pages/view/gokoku0529

神奈川縣護國神社 由緒
創祀:紀元2672・平成24年5月29日
創建:紀元2678・平成30年5月29日
祭神:神奈川縣英霊(かながわすべてのほつみたま)
 幕末より現代に至るまで、祖国や故郷を護るために尊い生命を捧げられた神奈川県(旧相模国含む)出身の英霊を祀り、感謝と顕彰の誠を奉げるべく、県民有志によって創建されました。
 神奈川県は日本全国で唯一「護国神社のない県」という汚名に甘んじて来ましたが、本社の創建を先駆けとして、先人たちの愛と勇気、我が国の平和と独立を次世代に受け継いで参ります。
 神奈川縣護國神社氏子会

大船観音を垣間見ることができる高台に鎮座している。
大船観音は、護國観音。
奇しくも、護國神社と護國観音が相まみえた空間。

場所

https://www.google.com/maps?ll=35.342707,139.531131&z=16&t=m&hl=ja&gl=US&mapclient=embed&cid=9671488658464060009

※2022年3月参拝


関連

「護国観音」(大船観音寺)

大船駅に到着すると、ひときわに存在感を放つ白亜の観音様がみえてくる。通称「大船観音」。
実は、この観音様は戦前に「護国観音」として建立が予定されていた観音様であった。

昭和4年(1929)に「護国大船観音」の建立に着手。
昭和9年(1934)に像の輪郭部分が完成するも、社会情勢や資材不足により、未完のまま工事は一時中断。戦後の工事再開を待つこととなる。。。


大船観音寺

大船の駅から、その異様な姿を拝することができる。山の上に上半身から上の胸像として建立されている。

参拝料は大人300円。セルフにて。

観音像の由来
 昭和四年、当時の日本は第一次世界大戦後の不況や飢饉など、不安定社会情勢の中にありました。そこで、観音信仰によって国民の平安と国家の安寧を祈願しようと、護国大船観音建立会を設立。 昭和九年には観音像の輪郭まで完成したのですが、日中戦争・太平洋戦争に突入し資金や資材不足となり、観音像は未完成のまま放置されました。
 昭和三十二年に放置された観音像を完成させようと、曹洞宗管長高階瓏仙、吉田内閣国務大臣安藤正純東急会長五島慶太等を中心に財団法人大船観音協会が設立され、修仏工事が着工されました。 そして昭和三十五年、現在の観音像が完成されたのです(胎内にはこの修仏工事の写真が展示されております)。
 その後、昭和五十六年、大船観音協会は宗教法人大船観音と改称し、曹洞宗大本山總持寺の末寺として現在に至っております。

鎌倉市戦歿者の英霊を観音胎内に祀る

大船観音寺

・宗派 曹洞宗
・山号寺号 仏海山大船観音寺
・建立 昭和56年(1981)
・開山 大本山總持寺貫首乙川瑾瑛
・開基 岩本勝俊

 昭和4年(1929)に平和祈願のため地元有志が大船観音の建立に着手し、昭和9年(1934)に像の輪郭部分だけが出来上がりましたが、当時の社会情勢や資材不足により、未完のまま工事は一時中断となりました。
 戦後、曹洞宗管長高階瓏仙禅師らが中心となり財団法人大船観音協会を設立し、多くの人々からの募金による浄財で、昭和35年(1960)に現在の白衣観音像(高さ約25m、幅約19m)を完成させ、その後、昭和56年(1981)に曹洞宗の大船観音寺となりました。境内には、印象的な観音像の他に、子育地蔵や厄除地蔵が祀られてあり、また、恒久平和を祈願して、原爆慰霊碑や「原爆の火」の石灯籠なども建てられています。

石段のうえには、堂々たる白衣観音様。

大船観世音
曹洞管長瓏仙書

上半身の大船観音。
もともとは立像を計画していたらしいが、地盤の影響などもあり、上半身のみとなったそうで。
下半身が埋まっているわけではなく。

護国観音。

低頭し合掌す。


大船観音の胎内

胎内には、太平洋戦争で亡くなった人々への供養と戦争や原爆のない平和な世界への祈りを込めた千体仏や千羽鶴が収められている。

1934年、永遠に平和の礎を築かんと護国観音建立会が発足し、尊像の輪郭ができる。
その後、日華事変や太平洋戦争により、資金、資材その他意に任せず、未完成のまま20余年の歳月が流れていきます。

 観世音とは、世の中の音(声)を聞くのではなく、観(み)るという。苦悩にうちひしがれた人々が、一心に観音の名を称えれば観世音は、人々の苦しみの音声を観察して、慈悲の心をもって救うと言われています。
 熱心な観音信仰の発起人の中にも完成するのを念願しつつ、倒れられた方もいます。それぞれの労苦が渾然と混じりあって完成を待つ姿。

千体仏

日本の無条件降伏により、太平洋戦争終結から60年以上が経ちました。
そして、我々日本人の中にも、戦争を知らない世代が半数以上になりました。
これを機に、この戦争で亡くなられた多くの人々や、原爆被害によりなくなられた方々に対して、少しでも慰めになりますよう、そして今後の平和の為にお役に立てればと思い、木彫家植草等雲氏とその受講生、又一般の有志の方々とで神仏による千体仏を制作しております。
現在、その数は980体を超え、その思いはまだまだ増え続けております。
多くの方々の思いを、そしてその願いをご理解戴ければ幸いです。

現在でも、千体仏を制作して戴ける方を募集しておりますので、ご賛同戴ければ幸に存じます。

佛海山大船観音寺

胎内に鎮座する木造の大船観世音


大船観音寺の境内には、原爆関連の慰霊碑もある。

原爆慰霊碑

被爆40周年平和祈念塔

核兵器もない 
  戦争もない 
 平和な世界を 
   神奈川県知事 長洲 一二

 第二次世界大戦の末期、一九四五年八月六日午前八時十五分広島 九日午前十一時二分長崎に米軍機により投下された原子爆弾は、一瞬の閃光とともに両市を壊滅させ数十万の人びとを殺傷しました。
 慰霊碑は、県下の原爆死没者の霊を合祀し、みたまを慰めるために 生き残った県下在住の被爆者が、放射能障害とたたかいながら、一九七〇年四月末被爆二十五周年を記念して建立しました。
 平和祈念塔は、核戦争の危機を憂い、すべての核兵器の廃絶と世界の恒久平和への切なる被爆者の願いを永久に銘記するために、一九八五年八月末被爆四十周年に、ここ大船観音境内に建立したものであります。
  一九八五年八月吉日
   神奈川県原爆被災者の会

原爆の火

 被爆四十五周年 
原爆の火 
 神奈川県知事長洲一二

原爆の火
 一発の原子爆弾によって、数十万人の広島を焼き尽くした“怨念の炎”は、いまなお福岡県星野村で燃えつづけている。
 未来永劫、平和を願う“原爆の火”としてその火をこの塔に採火した。
  被爆45年7月29日 神奈川県原爆被災者の会

被爆二十五周年記念 慰霊碑
 一九七〇年(昭和四十五年)完成

 この慰霊碑は、神奈川県の原爆死没者の霊を合祀し、みたまを慰めるために、県下在住の被爆者が「財団法人大船観音協会」の関係者(代表五島慶太氏)のご好意により、この地に慰霊碑を建立することができました。
 慰霊碑は、広島・長崎の爆心地の石及びビキニで被爆した第五福竜丸の遺品を添え千羽鶴を刻んだ橇に乗せ、被爆者が平和の丘に向かう姿を表しています。
 この慰霊碑の地蔵土台石(二〇〇kg)は広島の爆心地の西蓮寺から、被爆石(五〇kg)は長崎の浦上天主堂から、碑内に納められたケロイド状の瓦は広島原爆資料館から寄贈されたものです。
 慰霊碑のカロートには亡くなられた被爆者の氏名を刻んだ御影石の名札が納められています。

慰霊碑のソリの上の地蔵土台石(二〇〇kg)は広島の爆心地の西蓮寺から、被爆石(五〇kg)は長崎の浦上天主堂から、という。


戦歿者慰霊碑

西部ニューギニア派遣第三十五師団工兵隊の慰霊碑。
石碑は昭和56年に行われた37回忌法要の際に建立。
碑前面の碑誌及び石碑左手の観世音菩薩像は平成5年の50回忌に建立。

西部ニューギニア派遣第三十五師団工兵隊(東第二九二五部隊)
戦歿者慰霊碑

昭和十九年四月北支河南省方面より転進す
途中海歿せる者又無事に任地に着くも食糧の補給等全く無く加えて赤道直下瘴癘蛮雨のなか飢餓と病魔のために逝った多くの戦友の慰霊のため謹みて三十七回忌法要を勤め併せて恒久の平和を祈念し之を建つ
    昭和五十六年七月吉日 鎌倉市台 金子秋雄 旧姓福岡

 曩に戦友諸霊の三十七回忌 に因み当山の御慈慮を忝うし 慰霊碑を建立開眼法要を厳修 永代供養の喪情を捧げ頓証菩 提を冀う
 國民思想の善導と永遠の平 和を築き此れを看守せらるゝ 大観世音菩薩の脚下に建立し 得たるは是れ一重に南溟の孤 島に散華せる戦友の慰霊と御 遺族各位の慰藉を衷心より念 ずるに外ならざるものなり
 第二次大戦後既に半世紀を 閲し茲に諸霊の五十回忌令辰 に相遇て観世音菩薩尊像並碑 誌を建立し専ら祈る大悲の願 力以て去来を示現せんことを
 伏して冀う驪珠滄海に輝き 普く世間を導き賜はんことを
  一九九三年三月
   鎌倉市台 金子(旧姓福岡)秋雄謹誌


JR大船駅からは、横顔となる。
大船観音の名前は聞いたことがあっても、それが戦前から平和を願った護国観音として建立を目指していたものとは知りませんでした。たまたま今回、訪問にあたり調べて知ったことでした。よき機会を得ることができ、感謝です。

駅からは歩いて5分ほどと近いので、大船でちょっとしたスキマ時間が産まれた際には、参拝をオススメ。

※参拝:2022年3月


関連

おなじ大船の界隈に。

都内現存唯一のラジオ塔「聖蹟公園とラジオ塔」(品川)

戦前の日本。まだまだ一般家庭にラジオが普及していなかった時代。
ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。「公衆用聴取施設」として各地にラジオ等が建設された。


聖蹟公園のラジオ塔

品川聖蹟公園のラジオ塔は、公園の開園と同じ年の昭和13年(1938年)に建設された。現在は聖蹟の記念碑とともに並んでいる。
公園内の看板には「灯籠」としか記載されておらず、これが歴史的な意義のある「ラジオ塔」であることが明記されていないのが残念。

寄贈
日の丸奉仕團


品川聖蹟公園

情報量が多い公園。
江戸時代は、東海道品川宿本陣。明治には 明治天皇の行在所となり、昭和には聖蹟公園と。

品川区指定史跡
東海道品川宿本陣跡
 品川宿は、江戸四宿の一つで、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した。ここはその本陣跡であり、 品川三宿の中央に位置していた。 東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところである。明治五年(1872)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用された。
 現在、跡地は公園となり、明治元年(1868)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。
 平成14年3月28日
  品川区教育委員会

聖蹟公園の石碑案内
聖蹟公園由来の碑
昭和13年(1938年)聖蹟公園として整備開園するに当たり、その由来を記して東京市が建てたものである。
灯籠
聖徳の碑
東京市品川聖蹟公園開設までの明治天皇品川聖蹟保存会の活動について記録した碑。
御聖徳の碑
明治天皇の行在所になった品川宿本陣跡が昭和十三年(1938年)に東京市の公園となったのを機に設置された碑である。
旗台
石井鐵太郎氏胸像
常に住民の福祉増進と社会福祉の向上に尽くし、昭和五十年に社会福祉国労を検証し名誉区民となった。
夜明けの像
昭和二十四年に二宮尊徳像が建立さられたが、昭和四十二年に石井鉄太郎によって、現在の子どもたちが親しみやすい像ということであらためて新聞少年の像が贈られた。

「灯籠」としか記載されていない「ラジオ塔」。
ちょっと寂しい。

東京市
品川聖蹟公園
昭和13年11月開園

聖蹟公園由来の碑

昭和13年に東京市によって建立された「聖蹟公園由来の碑」。摩耗していて判読不能。。。

御聖徳の碑

昭和13年11月15日建立。聖蹟公園の開園に際し、 明治天皇の御聖徳を記念する碑。

御聖徳の碑

御聖蹟

ボール遊びの弊害かもしれないが、激しく摩耗しており、判別不能。畏れ多いことではある。

旗台

のちに両サイドが増設されたのか、寄贈〇〇、読めなくなっている。

石井鐵太郎氏胸像

品川区名誉区民第一号、という。

夜明けの像

聖蹟公園。
江戸の品川宿から明治の行在所、昭和のラジオ塔まで、地味に歴史が詰まった公園。面白い。

品川区立聖蹟公園

品川宿本陣跡

もちろん本陣跡ゆえに、東海道に面している。

場所

https://goo.gl/maps/q1jUwoM7U1QtX12x7


関連

3月10日・東京大空襲(あの日から77年)

令和4年(2022年)3月10日。

あの日から77年。

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。

犠牲者10万人を超す規模であり、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
世にいう、東京大空襲(下町大空襲)であった。

「東京都平和の日」

慰霊鎮魂を。

3月10日に手を合わせてきました。


東京都慰霊堂

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、遭難者慰霊大法要が執り行なわれている。

震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
 顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった、与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
 爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った、戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった、江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った、当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが昭和二十三年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
 横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
 昭和二十六年九月 東京都

新型コロナの影響で規模が縮小。
法要の参列者は限定され、法要終了後に一般参列者が祭壇で追悼可能となりました。


東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」の中には、「東京空襲犠牲者名簿」が納められている。
大法要が行われる3月10日と9月1日に内部公開。

こちらも手を合わせてきました。

東京空襲犠牲者名簿

現在は、35巻まで納められており、令和2年(2020年)3月現在、81,273名のお名前が登載されている。

3月10日。
この日は、「陸軍記念日」だった。
1905年(明治38年)3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天城に入城した日。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説もある。

ちなみに、同じく1945年(昭和20年)5月27日の「海軍記念日」(日本海海戦で海軍が勝利)には、呉大空襲があった。


リンク

公益財団法人 東京都慰霊協会 都立横綱町公園-震災、戦災の記憶-

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html

総務省 一般戦災死没者の追悼

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city001/index.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/tokyo.html

東京大空襲・戦災資料センター 東京大空襲とは

https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/

東京都生活文化局 東京都平和の日関連事業

https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/bunka/bunka_seisaku/0000000632.html#:~:text=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%81%E3%80%8C%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD,%E3%82%92%E5%AE%9F%E6%96%BD%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82


関連

はじめに
東京大空襲・慰霊
戦災電柱

二ヶ領用水久地円筒分水・昭和16年完成の円筒型自然分水装置(川崎・溝口)

武蔵溝ノ口駅・東急溝の口駅から北西に15分ほどの道のり。
駅前に紹介の看板があったので予備知識無しで興味本位で足を運んでみた。結果として、なかなか見ごたえのある曲線美のある建造物に出会うことができた。


二ヶ領用水久地円筒分水

昭和16年(1941)に完成した円筒分水装置。

今も昔も日本を支える稲作を欠かせないのが、農業用水。各村々に、平等に水を分けるというのが、欠かせないものであった。

国登録有形文化財 
二ヶ領用水久地円筒分水
 この円筒分水工と呼ばれる分水装置は、送水されてくる流量が変わっても分水比が変わらない定比分水装置の一種で昭和16(1941)年に造られました。内側の円形の構造物は整水壁とも呼ばれ、一方向から送水されて吹き上げる水を放射状に均等にあふれさせ、送水されてくる流量が変わっても、円弧の長さに比例して一定の比率で分水される、当時の最先端をいく装置でした。平成10(1998)年6月9日に、国登録有形文化財になっています。

「土木学会選奨土木遺産2012」の認定
 二ヶ領用水は、江戸幕府の用水奉行 ・小泉次大夫 の指揮のもと、江戸時代直前の1597年(慶長2年)に開削着手されました。現在の多摩区から川崎区にわたる灌漑用水路として、14年におよぶ歳月をかけて、1611年(慶長16年)に完成しました。当時の川崎領と稲毛領の二つの領に水を引いたことが名前の由来とされています。
 現在では、農業用水の役割をほぼ終えつつありますが、都市化のなかで、憩いや安らぎを与えてくれる水と緑の空間として、また川崎市の発展の礎を築いた歴史のシンボルとして、多くの市民に愛され、親しまれています。
 本用水は、当時とは姿を変えていますが、多摩川流域では最古で最大の農業用水であり、現在にもその機能を残す貴重な土木遺産として、後世に保存すべきとの評価を得て、平成24年度に土木学会より認定されました。
 土木学会選奨土木遺産
 2012
 二ヶ領用水

二ヶ領用水 400年・久地円筒分水70年記念 
平賀柴治 顕彰碑
 この世界に冠たる独創的な久地円筒分水は、平賀栄治 (ひらがえいじ)が設計し手がけたもので、1941(昭和16)年に完成した。多摩川から取水された二ヶ領用水を平瀬川の下をトンネル水路で導き、中央の円筒形の噴出口からサイフォンの原理で流水を吹き上げさせて、正確で公平な分水比で四方向へ泉のように用水を吹きこぼす装置により、灌漑用水の分水量を巡って渇水期に多発していた水争いが一挙に解決した。
 平賀栄治は1892(明治25)年甲府市生まれ。東京農業大学農業土木学科を卒業し、宮内省帝室林野管理局、農商務省等の勤務を経て、1940(昭和15)年に神奈川県の多摩川右岸農業水利改良事務所長に就任。多摩川の上河原堰や宿河原堰の改修、平瀬川と三沢川の排水改修、そして久地円筒分水の建設などに携わった。川崎のまちを支える水の確保に全力を捧げた「水恩の人」は、1982(昭和57)年、89歳の生涯を閉じた。
 2010(平成22)年3月27日
 寄贈 川崎西ライオンズクラブ
 結成 45周年記念事業

円筒分水
中野島と宿河原の取入れ口から流れ込んだ水は久地で合流し、分量樋へ導かれていた。「久地分量樋」は、川崎堀、根方堀、六ヶ村堀、久地・二子堀に水を分ける施設。それぞれの耕地面積に応じて用水の幅を分割する樋が使われていたが、水量をめぐる争いが絶えず、より正確な分水が望まれていた。
この円筒分水がつくられたのは昭和十六年。サイフォンの原理を応用して新平瀬川の下をくぐり、円筒の切り口の角度で分水量を調節するしくみになっている。農業用水の施設としては、当時の科学技術の粋を集めた大変すぐれたものだった。

正確な自然分水を目的としており、平瀬川の下を潜ってきた用水は、直径8mのコンクリート製円筒から吹き上がり、その外側にある直径16mの円周を、それぞれの灌漑面積に合わせた比率で水量を分ける、当時としては最も理想的で正確な自然分水方式であった。

二ヶ領用水 久地分量樋 
 稲毛川崎ニヶ領用水は、徳川家康の命を受けて小泉次大夫が、慶長 ニ(1597)年から東京側の六郷用水とともに工事に着手し、十四年の歳月をかけて慶長一六(1611)年に完成させた神奈川県最古で最大の農業用水 です。この用水の完成により、米の収穫量は飛躍的にのびていきました。
 その後、百年あまり経た頃、荒廃したニヶ領用水を蘇らせたのは、川崎宿の名主であった田中休愚 (丘隅)です。休愚は水争いをなくすために、多摩川から上河原と宿河原のニケ所で取水し、久地で合流したニヶ領用水の水を、決まった水量に分けるための施設として、久地分量樋を樋を作りました(写真は明治四三年撮影のものです)。
 昭和一六(1941)年、多摩川右岸農業水利政良事務所長であった平賀栄治の設計建設により、水害防止のための新しい平瀬川の開前とニヶ領用水の伏せ越し、そして久地円筒分水が完成しました。これに伴い、久地分量樋は、ニヶ領用水の水量調節と分量を洪水から守るための施設・久地大樋とともに役目を終えました。
 久地分量樋があった場所は、ここより二百メートルほど上流に御影石で示されています。

ニヶ領用水知絵図
ニヶ領用水知絵図は、川崎の地を四百年にわたって流れるニヶ領用水のことを市民の皆さんに、もっと知っていただくために、平成四年度に作成された「ニヶ領用水総合基本計画」に沿って、過去、現在、未来の視点から用水の姿をとらえて描いたものです。
 左の図は、ニヶ領用水水路網が最も広く張りめぐらされた時期である江戸時代後期~明治時代初期の姿と、都市化が進んだ現在の姿を対比して図示してあります。
 久地分量樋と久地円筒分水の位置も示してあります。

円形の造形が美しい。手前は「川崎堀」

奥は「根方堀」、手前は左が「六ヶ村堀」と右が「久地堀」。

二ヶ領用水の右側の堰から、二ヶ領用水久地円筒分水へと用水を引き込む。

二ヶ領用水の本流は平瀬川と合流する。
二ヶ領用水久地円筒分水向けの用水は、平瀬川をアンダークロスする、

川崎堀の流れ。

国道246号(大山街道の新道)を、二ヶ領用水はアンダークロスし、人は歩道橋でオーバークロスする。

場所

https://goo.gl/maps/VrTf7xgi2H9SZ9i68

※撮影は2022年2月

溝口神社境内稲荷社・高津尋常高等小学校奉安殿(川崎・溝口)

溝口の鎮守、溝口神社の境内稲荷社は、かつての奉安殿であった。


奉安殿(御真影奉安殿)

奉安殿とは、戦前において
天皇陛下
皇后陛下
の御真影(お写真)と教育勅語を納めていた建物。
当初は職員室や校長室に奉安所が設けられていたが、被災による危険を防ぐために、金庫型や独立した奉安殿としての建設がはじまった。小型ながらに耐火耐震構造とされてものも多く、威厳を備えた荘厳重厚なデザインの建造物が多い。
戦後、奉安殿は廃止され解体や撤去が行われるが、その頑丈な建造物が戦災で焼失した神社社殿などに再活用もされ、現在に残っている例もある。


溝口神社境内稲荷社
高津尋常高等小学校奉安殿

戦前に、高津尋常高等小学校(現在の高津小学校)で使用されていた「御真影( 天皇陛下と 皇后陛下のお写真)」と「教育勅語(勅語謄本)」を納めていた鉄筋コンクリートの建物「奉安殿」が、昭和21年1月に、現在の稲荷社として移築され、御社殿として再活用された。


溝口神社

創建年代は不明。江戸時代には、神仏習合のお社として、大山街道の溝口宿近在の村々の総鎮守として赤城社と称された。
旧社殿は、関東大震災で倒壊。
昭和8年(1933)に新社殿建設が起工され昭和9年11月完成。

本殿は土蔵造。昭和9年築。
同じく拝殿も昭和9年築。

拝殿に掲げられた「溝口神社」の社名額は、元帥海軍大将東郷平八郎の書。昭和8年9月に新社殿完成を記念して奉納。
東郷平八郎が直接に揮毫し彫刻されたもので大変貴重な扁額。

溝口神社
元帥伯爵東郷平八郎謹書

東郷平八郎は昭和9年5月30日に亡くなっているため、溝口神社社名額への揮毫は亡くなる1年前ということになり、最晩年の揮毫としても貴重。

東郷平八郎謹書
ご朱印符

東郷平八郎直筆の書体を転写し、ご朱印符として奉製いたしました。

東郷平八郎に関しては、以下も参照で

奉安殿に関してば、以下を。

はじめに

※撮影:2022年2月

「お化け灯籠と陸軍東部62部隊」の戦跡散策(川崎・宮崎台)

東急田園都市線「宮崎台駅」。今でこそよくある住宅街のこの地に、かつて陸軍部隊が展開されていた。
六本木で編成された東部62部隊(陸軍101聯隊)は、招集兵の訓練と東京近郊に駐留する部隊の演習場として、川崎市宮前区を中心に、川崎市高津区や横浜市青葉区の一部などに進出したという。


東部62部隊(陸軍歩兵第101聯隊)

昭和15年(1940年)12月、歩兵第1聯隊留守居隊を基幹に歩兵第101聯隊が改編され、近衛歩兵第3聯隊の兵舎に駐屯。(近衛歩兵第3聯隊の兵舎は、現在の赤坂TBS界隈。)
昭和17年(1942年)11月、歩兵第101聯隊は、川崎北部の高台、溝の口界隈に転営。

以下は、川崎市平和館・掲示 より

陸軍東部62部隊と溝の口演習場
 宮前区宮崎から高津区梶ケ谷にかけては「陸軍歩兵101連隊(通称東部62部隊)が敗戦までの3年間所在していた場所です。1942年に東京赤坂から移転し、連隊本部は現在の宮崎中学校におかれました。神奈川県を中心とする招集兵を短期間訓練して数万人も外地へ送り出す軍事施設でした。
 現在でも、部隊と共に赤坂から移された「お化け灯籠」(現 市青少年の家)や、被服廠・馬房の一部が残っています。
 また、陸軍は強制的に農地を買収し、宮前区の約3割と高津区・横浜市青葉区にまたがる約9平方kmもの広大な溝ノ口演習場を設置しました。当時の射撃場は現在の国学院大学たまプラーザキャンパスにあたります。

陸軍東部62部隊跡と溝ノ口演習場の現存している遺跡


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-M376-26
昭和22年(1947年)7月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

再開発で、界隈の様相が大きく変わっている。
交通網だけでも、バイパスが南北を縦断し、東急が東西を横断している。


宮崎台駅

東急田園都市線・宮崎台駅。
「電車とバスの博物館」がすぐとなりにある。
開業は昭和41年。陸軍時代にはまだ鉄道は敷かれていなかった。

界隈の鉄道では、昭和2年(1927年)、玉川電気鉄道の溝ノ口線(二子玉川‐溝の口間)が開業。溝の口駅から長津田駅間は、昭和41年(1966)の開業まで待たねばならなかった。


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石1
(宮前区宮崎台・馬絹)

宮崎台の台地の南側、馬絹との境目のあたりにいくつかの陸軍境界標石が残っている。

階段の脇と階段に埋め込まれた、面白い境界標石。

陸軍

ちょうど、ぴったり階段に埋め込まれている。
これは、階段を作った人の心意気に感謝。

場所

宮崎台サニーハイツと宮崎台パークハイツの間の石段。

https://goo.gl/maps/79XJsgKeCRBm79qv7


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石2
(宮前区宮崎台・馬絹)

こちらも石段の脇。こうしてみると宮崎台という台地が分かる。
台地の上が陸軍用地であった、と。

場所

宮崎台ハイツの手前の石段

https://goo.gl/maps/wb6cDyVfRZ5qdFC99


馬絹ノ稲荷神社

この稲荷神社の界隈にも、境界標があるというが、見つけられませんでした。。。

場所

https://goo.gl/maps/mLixMHczBRBEeMYa6


陸軍東部62部隊・馬房跡

宮前区梶ケ谷。
「虎の門病院分院」から、東京横浜バイパスを南下したエリアの住宅地。ここに、当時「馬房」として使用されていた長屋建物が、戦後に住居に転用された。現在も長屋の一部が数カ所に残っている。

関係者の方より「馬房跡の長屋」を切り離した際の写真を頂戴しました。
ご提供ありがとうございます。


ーーー
戦後、この長い馬房跡に人々が寄り合い早い者勝ちというような感じで土地を取り合ったようです。
なので広さはマチマチみたいです。
時代が変わり、代もかわり当時から住んでいる方もだいぶ居なくなりました。
(下記の写真は、)長屋を切り離した際に撮影したものです。工事中で乱雑に板が貼り付けてありますが、馬房の形跡がよくわかるかと思います。
ーーー

以下は、現在の通りの様子。
この通りの右手側に馬房の長屋があった。いまも一部の建屋にその痕跡をみることができる。
 ※建屋の写真は割愛。

場所

神奈川県川崎市高津区梶ケ谷4丁目の住宅地。

※界隈は、住宅地ですので、配慮の上でお願いいたします。


虎の門病院分院・宮崎中学校

陸軍東部62部隊の兵舎や酒保があったあたりが、虎の門病院分院。
陸軍東部62部隊本部があったあたりは、川崎市立宮崎中学校となっている。


陸軍東部62部隊・将校集会所跡

陸軍東部62部隊の将校集会所があったあたりは、現在は「川崎市青少年の家」となっている。庭園に将校集会所時代の石灯籠が残されている。

陸軍東部62部隊・将校集会所庭園
お化け灯籠

川崎市地域文化財
お化け灯籠
 この灯籠は、1941年(昭和16年)まで、元日本陸軍東部62部隊の将校集会所の庭にありました。(部隊の場所は、現在の東京都港区六本木)そのころ、灯籠が夜になると六本木辺りに出るという噂が立ちました。
 1942年に、部隊は灯籠も一緒に連れて、現在の青少年の家を中心としたこの場所に移しました。その時、この噂を消す願いを込めて、動かないように足の部分を埋めたとも、また足を切って移したとも言われ、本当のことははっきりしていません。
 今では化けて出るかどうか定かではありませんが、「お化け灯籠」と呼ばれ、この青少年の家の庭で、平和を願い、青少年の健やかな成長を見守っています。

けっこう、おおきな灯籠。

下はどうなっているのだろう。埋められているのか、切られているのか。。。

場所

https://goo.gl/maps/9CaDuLt1xTNTFBgv8


宮崎大塚古墳(高射砲陣地跡?)

高さ4.7メートルの方墳、という。頂上部には、「馬絹大塚供養塔」が建立されている。
陸軍東部62部隊が駐留していた当時は、高射砲陣地がおかれていた、とも伝承されている。

場所

https://goo.gl/maps/DSzvsnuf2fsfFUeSA


陸軍東部62部隊・ 被服廠の建屋跡

陸軍東部62部隊の被服廠は、川崎市宮前生活環境事業所の界隈にあった。
川崎市宮前生活環境事業所から東の住宅街の一角に、「被服廠の建物の一部」とされている木造建造物が残存している。

現在は、物置小屋として使用されているようだ。

場所

https://goo.gl/maps/9YopjwbfL4Yi4K3V9


陸軍東部62部隊・門柱跡?

被服廠跡ちかくにあるレンガの残骸。
往時の門柱跡?もしくは、なにかの基礎かもしれない。 

今は駐車場の角。

奥に 川崎市宮前生活環境事業所 が見える。

川崎市宮前生活環境事業所が、陸軍東部62部隊の被服廠跡。

場所

https://goo.gl/maps/2uq2B8HZsp7C5moJ8


長坂(陸軍用地迂回路)

長坂
国道246号線梶ヶ谷付近の坂は、かつて「長坂」と呼ばれていた。この坂道は、現在の「青少年の家」周辺が陸軍に接収され、迂回路としてつくられたものですが、「長坂」という名が残りました。
 平成12年2月1日制定
  宮前区

場所

https://goo.gl/maps/CmBERJpqQUnwjtvo6


陸軍東部62部隊・弾薬庫跡?

東急田園都市線の作延トンネル西出口付近がかつての弾薬庫であった。
トンネルは弾薬庫の転用?ともいうが定かではない。
作延トンネルの上部には、今は虎の門病院分院・宮崎中学校などがある。
往時は、このトンネルのうえに、部隊本部があった。

場所

https://goo.gl/maps/TH2ZCCgRw1cr8Kqi9


陸軍東部62部隊・陸軍軍用地境界標石3
(高津区向ケ丘)

宮崎台駅の北側。しばられ松(聖社)の境内に保存されている。

陸軍

しばられ松

しばられ松、聖社の由来
昔、上作延南の原に聖松という大きな曲がり松がありました。
相模の国の或る六部(六十六部の経典を寺々に修める修行僧)が、諸国巡礼の折、この地で百日咳に苦しみ亡くなったという。
又、一説には、この地で穴の中にて鉦をたたき、念仏を唱え修行をしていたが、「この鉦の音が止んだら死んだと思ってくれ」と言い残し入定したといわれる。
その跡に植えたのが、この聖松であるいう(←「あるいう」って書いてあるけど、「あるという」のまちがいでしょうねたぶん)。松の樹勢は、高さ五メートル根廻り三メートル余りある大木となり、枝葉は相模の方向を向き生い繁っていた。明治二十年ごろ落雷にあい、焼け落ちて今日の姿となったが、残る枝ぶりは今も往年の面影をとどめている。近郷の人々は、子供が百日咳にかかると素縄を左に編んで、聖松に縛り願をかけ、病が治ると、右縄を編み幹に縛り直して願ほどきをしたと、言われる。
その由に、この松を別名「しばられの松」という。
社殿がある。又、このしばられ松は古くより稲毛領の七本松の一つとされ、百合ヶ丘の「「弘法の松」、久地の「綱下げの松」などと共によく知られた松である。
稲毛三郎重松が鎌倉に赴く途中、馬の鞍を掛けた「鞍掛けの松」とも言われている。
民俗信仰の対象としても江戸時代、大変崇められ、親しまれたと言われている。平成十二年、聖社を新築建立したのを記念してその縁起由来の伝聞を要約してここに記す。

慰霊碑
忠魂碑

しばられ松(聖社)の境内に、2つの慰霊碑がある。

慰霊碑は、日支事変、大東亜戦争における戦没者の慰霊顕彰。
忠魂碑は、西南の役から日清日露戦役における戦没者の慰霊顕彰。

碑文
 昭和の初期をふりかえって見れば日支事変、又大東亜戦争と、中期は二十年八月終戦、すべての物資の不足等で国全体がもっとも貧窮な時を迎えました。
 又此の戦争により入営や召集により北は大陸の果に南の海に島々に又空地とお国の為とは云え多くの方々が祖国をあとにして戦禍により散っていった。誠にお気の毒に耐えません。
 私達も此のような戦争は二度とあってはならない。いつまでもいつまでも平和な日本であってほしいとただただ祈り願うものであります。
 我が上作延に於ても戦没された方は日支事変で二名、大東亜戦争にて十二名の方が亡なっています。
 そして昭和三十九年東京オリンピック大会が過ぎる頃より経済の急成長により安定した克つてない平和な日本となりました。
 戦後五十年になろうとする今日、戦没者皆様の遺影に感謝申し上げここに慰霊碑を建立して衷心より哀悼の意を表し冥福をお祈りし其の名を後世まで伝え遺族の方々の心よりの慰めとして毎年慰霊祭の出来る事を願い度い。
  平成5年12月5日建立
   上作延戦没者慰霊碑建立委員会建立

場所

https://goo.gl/maps/6myByRTS6P3scmNv7


川崎市平和館

川崎市平和館には、東部62部隊の境界標石が展示してある。

陸軍軍用地境界標
近隣の家の庭に埋まっていたものを、陸軍東部62部隊の研究をしている関係で譲り受けた。東部62部隊・溝口演習場の境界を示すために使われていた境界標。
 川崎市平和館所蔵

陸軍軍用地境界標(宮前区馬絹で使用)
 軍用地の境界には、長さ1m余の御影石が30cm程度頭を出して埋められていました。「陸軍」という文字が刻まれています。都市開発の影響でほとんどが抜かれてしまいましたが、当時のまま埋まっているもの、別の場所に移されたものが約50本、宮前区・高津区に残っています。

撮影:2022年1月及び2月


関連

溝口

陸軍東部62部隊(101聯隊)は、宮崎台に移る前は、六本木に駐留していた。

「防空壕と溝口演習場」溝口の戦跡散策(川崎・溝口)


東急溝の口駅・JR武蔵溝ノ口駅前の防空壕

表記ゆれしているでややこしいが、東急溝の口駅・JR武蔵溝ノ口駅の南口ロータリー。
その向かい側の台地の下には、ぽっかりと穴が空いていた。

どうみても防空壕ですね。

穴は、左に折れた構造。

溝の口には昭和15年(1940年)に軍需工場として「日本光学」が建設。
南武線沿線は軍需工場は集中していたために、大規模空襲「川崎空襲」の被害を被ることとなる。

駅前ロータリー。

場所

https://goo.gl/maps/2iRVRoXvgKewFEn7A


久本神社裏山の防空壕

東急溝の口駅・JR武蔵溝ノ口駅から南に。
久本神社の裏山にも防空壕が残っている。

開口している。

近くには、久本横穴墓群もある。ただし横穴古墳群が埋められている。

場所

https://goo.gl/maps/PNYM9N9pdJLZ7rv99


馬坂ノ庚申堂

武蔵溝ノ口駅から南に、「馬坂」「兎坂」という動物の名を冠した坂がある。
このあたりにも陸軍の境界標が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/YmFhR4KgYWVuNZDf8


溝口演習場の陸軍境界標石(兎坂)

兎坂に2つ、境界標石が残っている。

ひとつめ。南側。

ふたつめ。北側。

ふたつの境界標石を見比べれば、天面の刻みの向きが違うことがわかる。
この角度で陸軍用地の方向を表している。

場所

https://goo.gl/maps/ViXV79Japdm6GfcY6


溝口演習場の陸軍境界標石(馬坂)

勾配26%(14.6度)の急坂。「馬坂」と書いて「まさか」という。急坂として有名らしい。

ここには、陸軍境界標席が1つ残っているといわれているが、見つけることが出来なかった。

もしかして、新しくフェンスが設けられた際に、撤去されたのかもしれない。不自然な痕跡を見つけた。

これは、境界石跡?かもしれない。関係ないかもしれない。

奥に、横たわっている石柱のような、なにかがあった。もしや…

庚申塚の手前の細道にも、標石があったが、これは違うかもしれない。

うーん、ちょっと違うかな??

溝口演習場と関連する「陸軍東部62部隊」に関しては、以下の頁にて

※撮影:2022年2月

殉職救護員之碑・日本赤十字社埼玉県支部(浦和)

浦和の調神社の隣の調公園の隣に、日本赤十字社埼玉県支部がある。
その駐車場の片隅に、従軍看護婦を顕彰する慰霊碑がある。

殉職救護員之碑

日本赤十字従軍看護婦(第一種服装)の銅像。見事な造形。

殉職救護員之碑
博愛人道の赤十字の旗のもと、身を捨て、家を忘れて、召に応じ不眠不休、自愛懇切に、ひたすら戦傷病者の救護に奉仕する姿は、崇高の限りである。然も大陸の曠野に太平洋上の孤島に、或いは人跡未踏のジャングルに、その若き一生を捧ぐるに至っては実に一死仁を成すと謂うべきである。
茲に同志相謀り、殉職救護員のため、その徳を頌し又もつて永く吾等の師表として敬仰する姿となす
 昭和31年3月31日
  殉職救護員慰霊碑 建立委員会

「 殉職救護員之碑 」のプレートの左右に、32名の殉職救護員の名が刻まれている。
救護員、救護看護婦副監督、救護看護婦長、そして救護看護婦のお名前。

合掌

裏面。

精密な造形。

日本赤十字社 埼玉県支部

場所

https://goo.gl/maps/ojZMpUyhTotduBzJ9

※撮影2022年2月


関連

「調公園のラジオ塔」浦和の戦跡・近代史跡散策

埼玉県さいたま市。浦和地区にある調公園。武蔵国の古社「調神社」の隣にある公園に、戦前の建造物や慰霊碑などがある。あわせて浦和地区(旧浦和市)の近代建築物など、散策してみる。


調公園のラジオ塔(ラヂオ塔)

ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。これらラジオ塔は「公衆用聴取施設」と称され、全国各地で人が集まるところに建設された。
調公園のラジオ塔は、NHKの寄贈によって昭和15年に建立された。

寄贈
社団法人 日本放送協会
昭和15年3月建之

今は、子供が、なにかしらを投げ込む場所。

かつて、この前に人々が集まり、ラジオ放送に耳を傾けていた時代があった。
きっと、8月15日正午も、そうだっただろう。


調公園

調神社の隣りにある公園。
かつては調神社の境内であったことは予想に固くない。
公園内にいくつかの慰霊碑や記念碑が有るので見てみよう。


慰霊塔(調公園)

日清戦争、日露戦争から大東亜戦争における戦没者の慰霊顕彰の碑。

慰霊塔

英霊奉祭

由来
 この慰霊塔は、祖国の繁栄と世界の恒久平和とを祈念しつつ戦場に或は国土の護りに貴い犠牲となられた明治二十七八年戦役から太平洋戦争までの英霊を奉祀してその功績を永遠に顕彰し慰霊するため市議会及び関係者並びに関係諸団体等が協力して市民の浄財と市費等により建立したものである。
 この男性像は市民が英霊の念願に背かぬよう力強く邁進しようとの決意を表現し、女性像は、英霊の冥福を祈りその霊を慰める心持を表現したるものである。
  昭和三十九年十月
   浦和市慰霊塔建設期成会 会長 相川宗次郎

「英霊奉祭」と記されたレリーフ。


埼玉忠魂社(調公園)

靖国神社から分霊された埼玉県関係の戦歿者を祀る埼玉忠魂社


平和の灯(調公園)

平和の灯
世界の恒久平和は全人類の最大の願いである。
浦和市は、この悲願の達成を記念し、昭和62年6月、平和宣言を行い、全市民が心を合わせて努力することを誓った。
ここに、そのモニュメントとして、平和の灯を建立し、崇高なる目標を照らすとともに、精進し継承する光にしようとするものである。
 平成2年3月吉日
 浦和市長 中川健吉
  題字 佐藤浦州


埼玉縣人殉難之碑(調公園)

西南戦争の殉難者195名を顕彰。
題額は陸軍大将兼右大臣議定官二品大勲位熾仁親王の御揮毫、撰文は県令白根多助、書は正五位日下部東作の筆になる。
明治10年11月4日に、 西南戦争の殉難者を浦和調神社神殿前に祭壇を設け、大宮氷川神社権宮司が祭主となって慰霊祭が行われた、という記録があり、明治13年に慰霊碑として建立。
東京靖国神社に合祀された旨が記載されている。


調神社

武蔵国延喜式内社の古社。旧社格は県社。狛兎で有名。趣旨がことなるのでここでは深入りしない。。。

社殿は安政5年(1858)造営。

旧本殿は、享保18年(1733)造営。


さいたま市立 高砂小学校西門(勇愛門)

創建年代は不詳。門柱の造形に戦前ぽさを感じる。

高砂小学校は、明治4年(1871)創立。

中仙道浦和宿


浦和諸聖徒教会

日本聖公会浦和諸聖徒教会の聖堂は昭和3年竣工という。

撮影は2020年9月、ほか。


「日本の近代化を支えた砂利鉄道」西武安比奈線廃線跡の散策・その2(川越)

埼玉県川越市。
西武川越線「南大塚駅」から「安比奈駅」を結んでいた貨物線。
日本の近代化を支えた砂利鉄道の跡を散策してみる。

本記事は、「その2」です。「その1」は以下から。

「砂利鉄道」と「西武安比奈線」

入間川で採取した砂利運搬を目的とした「砂利線」として、1925年(大正14年)2月15日に開業。
砂利の需要減や採取規制強化により、1963年(昭和38年)休止。2017年(平成29年)に正式に廃線となった。

1900年代初頭に河川敷で採取した砂利を首都圏でのコンクリート建設資材などで活用するために「砂利鉄道」の敷設が相次いだ。東京近郊では入間川や多摩川などで砂利採取が活発であった。
しかし砂利採取は、堤防の破壊、河床面の低下、水質汚染などを巻き起こすこととなった。
戦後、1964年に多摩川、相模川、入間川、荒川などの主要河川での砂利採取は全面禁止され、近代化を支えていた砂利鉄道の役目も終わった。

ちなみに、安比奈は「あひな」と読む。

西武安比奈線では、かつて鉄道聯隊で活躍していた蒸気機関車も戦後、「安比奈のコッペル」として走っていた。


西武安比奈線廃線跡の散策

西武池袋線「南大塚駅」。北東方面にかつての線路跡が伸びている。
沿線に沿って歩いてみようと思う。

続きの場所はここから、

https://goo.gl/maps/koorCr847N5jWNwd6

廃線跡近くの小路から線路が見えた。ちょっと覗いてみる。

あぁ、これは良いですね。

道路と交差。

橋が見えた。

かつて、遊歩道として公開されていたらしいが、いまは再び封鎖。

再度の木枠は遊歩道時代の名残。

そのまま廃線跡を意識しながら、脇のあぜ道をあるく。

廃線跡と交差しながら。

良いカーブ。木の成長が根っこでレールを持ち上げている。

レールが盛り上がってる。。。

場所

https://goo.gl/maps/3AhMxL8JLKDvB5wP7

廃線跡は、川越越生線「八瀬大橋」によって分断。

八瀬大橋をくぐって、反対側に。

入間川の河川敷へ。

バイクの講習コースがとなりに。

場所

https://goo.gl/maps/k89R2Q6CUCm612CEA

切断時に、変な力が加わったのか。すごい曲がり方をしている。

SKマテリアル安比奈工場が、今も砂利を採掘しており、入間川の南北にパイプラインが渡されている。

その下を、安比奈線の廃線跡が伸びる。

伐採されていた。

根っこがすごい。

根っこの力で、レールが浮いている。

しかし、力強い根を這わせていた樹木は伐採されてしまった。

安比奈駅にむかってレールが分岐している。その後、分岐点を遮るかのように、大木が立ちふさがり、そしてその大木は伐採され、分岐するレールと切り株が、無用のものとして残った。
すごい光景。

レールを遮る切り株。正直いってわけがわからない。

この先は、安比奈駅跡。

場所

https://goo.gl/maps/pmYCiSwDfNNfZGPn6

安比奈駅跡。

砂利鉄道として、近代化を象徴するコンクリート建材を運び出していた鉄道は、戦後に需要が低下し、そして、廃線。廃線跡のレールを押しのけるかのように成長した樹木も伐採され、不思議な空間が目の前に広がっていた入間川河川敷の安比奈線。なかなかの見応えでした。

11時に南大塚駅を散策開始し、12時30分に安比奈駅跡に到着。
そこから南大塚駅に戻ってきたのが、13時15分。

約8キロで2時間15分、でした。

※撮影:2022年2月

「日本の近代化を支えた砂利鉄道」西武安比奈線廃線跡の散策・その1(川越)

埼玉県川越市。
西武川越線「南大塚駅」から「安比奈駅」を結んでいた貨物線。
日本の近代化を支えた砂利鉄道の跡を散策してみる。


「砂利鉄道」と「西武安比奈線」

入間川で採取した砂利運搬を目的とした「砂利線」として、1925年(大正14年)2月15日に開業。
砂利の需要減や採取規制強化により、1963年(昭和38年)休止。2017年(平成29年)に正式に廃線となった。

1900年代初頭に河川敷で採取した砂利を首都圏でのコンクリート建設資材などで活用するために「砂利鉄道」の敷設が相次いだ。東京近郊では入間川や多摩川などで砂利採取が活発であった。
しかし砂利採取は、堤防の破壊、河床面の低下、水質汚染などを巻き起こすこととなった。
戦後、1964年に多摩川、相模川、入間川、荒川などの主要河川での砂利採取は全面禁止され、近代化を支えていた砂利鉄道の役目も終わった。

ちなみに、安比奈は「あひな」と読む。

西武安比奈線では、かつて鉄道聯隊で活躍していた蒸気機関車も戦後、「安比奈のコッペル」として走っていた。


西武安比奈線廃線跡の散策

西武池袋線「南大塚駅」。北東方面にかつての線路跡が伸びている。
沿線に沿って歩いてみようと思う。

南大塚駅北口。
11時散策スタート。

コンクリート枕木が山積み。

道路部分に線路が残る。

場所

https://goo.gl/maps/c86ndHKjifRoMcx87

レールが端に寄せられている。

場所

https://goo.gl/maps/mhy88LYFuRsmaSUFA

国道16号と交差。渡りたいけど、渡ってはだめ。迂回する。

横断禁止 わたるな危険!

国道を迂回して北側に。
廃線跡は立ち入り禁止なので、迂回しながら廃線跡を辿る。

ここから北はレールが残っている。

歩行者用の通路。車は入れないように意図的に細くしているのかも。

https://goo.gl/maps/XM2aP6XwttTy6PDBA

柑橘と廃線。絵になる組み合わせ。

焼団子屋さん。入間川街道と交差。

場所

https://goo.gl/maps/gKTQgJ6qBNnPZte87

住宅地が終わり、目の前がひらけた。
この先に新河岸川。

場所

https://goo.gl/maps/V7pMRxUwDh9H5rS2A

用水にかかる小さな鉄橋が見える。

畑のあぜ道から回り込めた。枕木も残っている。

もうひとつ鉄橋がある。

場所

https://goo.gl/maps/XeEf7y8vT1eT3cCW6

新河岸川にかかる鉄橋。こちらも枕木が残っている。

鉄橋。

新河岸川。ここでは小さな小川。下流の岩淵水門で隅田川と合流している。

田んぼのなかを伸びる廃線跡。

場所

https://goo.gl/maps/DyxkXffgo7U84ehm8

場所

https://goo.gl/maps/EysDKQ6c35nWy7Dp8

この先の森がトンネルのようになっている。

場所

https://goo.gl/maps/3d8WY4muT2Vy5RwY7

場所

https://goo.gl/maps/TRnsH9g5MTNaAWtr9

森の中へ。

この先は、「その2」で。

「海軍無線電信所船橋送信所」と「無線電信所道」(船橋)

以前に記載した記事の内容が浅かったために、「海軍無線電信所船橋送信所」を中心に記事を再編集。再編集するに当たり、未掲載写真や新規取材分の写真を追加しました。

元記事:船橋西部の戦跡散策(2017年6月撮影)

追記の再々編集を2022年11月にさらに実施しました。

船橋無線塔記念碑
(海軍無線電信所船橋送信所跡)

送信所は大正4年(1915年)完成。


昭和16年12月1日。柱島の連合艦隊旗艦「長門」から発信された電文は呉鎮守府を通じ海軍省を経て、12月2日に船橋送信所から無線にて南雲機動部隊を初めとする全艦隊に伝達された。
ちなみに、船橋送信所が艦船へ向けて短波・中波を送信し、依佐美送信所が潜水艦に向けて超長波を発信という。

現在は行田公園となっている。

船橋無線塔記念碑
ここ下総台地の一角にかつて無線塔が聳えていた。大正4年(1915年)に船橋海軍無線電信所が創設された。大正5年にはハワイ中継でアメリカのウイルソン大統領と日本の大正天皇とで電波の交信があった。広く平和的にも利用されたのでフナバシの地名がはじめて世界地図に書きこまれた。大正12年(1923年)の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた。昭和16年(1941年)の頃には長短波用の大アンテナ群が完成し、太平洋戦争開幕を告げる「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電波もここから出た。船橋のシンボルとして市民に親しまれていたが昭和46年(1971年)5月解体され栄光の歴史を閉じた。

この記念碑以外には、往時を物語るものは残っておらず。あとは道路の円形の雰囲気をなんとなく楽しむぐらい。
(※道路の反対側に開設板が新設されました、後述)

しかし、記念碑以外、何もなくても、この船橋の地から「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の無線が発せられ、日本の運命が決せられたと思うと感慨深い歴史の重みを感じてしまう。

場所

https://goo.gl/maps/iTWhzR4ioYDKTBt57

撮影:2017年6月


行田無線塔(船橋海軍無線電信所跡)

2022年11月に再訪してみたので、記事を追記。令和4年(2022年)3月に新たに設置された解説版もあった。

行田無線塔(船橋海軍無線電信所跡)
 大正4年(1915)この地(塚田村行田新田)に「船橋海軍無線電信所」が開設されました。当時最先端の通信技術の粋を集めた東洋一の施設でした。次年、逓信省(現:総務省)の「船橋無線電信局」を併設、日米通信をはじめ、世界各国との電信が、この行田無線塔を経由して行われました。無線施設は、敷地中央のレンガ造の局舎の脇に高さ200mの主塔が立ち、高さ約60mの副塔18基が周り(円形道路際)を取り巻き、アンテナ線がその間に36本張り巡らされ、あたかも笠の如しと評判でした。
 昭和16年(1941)頃、無線塔は高さ182mの自立式鉄塔6基に替えられました。この無線塔群は「行田の無線塔」として、船橋の目印として、永く市民に親しまれ、日本近代史の中で、重要な役割を果たしてきました、太平洋戦争後、アメリカ軍に接収されますが、昭和41年に返還され、昭和46年(1971)に解体されました。
 跡地は都市計画により、県立行田公園・行田団地・小学校などになりました。地図や航空写真でみると円形の道路に囲まれていますが、当初、副塔を管理する道路を外縁上に設置したためで、珍しい風景が今に残ることとなりました。
 なお、この説明板の左手(北側)にある石垣で囲われた四角い一角は、当初の無線塔の200m主塔が建てられた場所で、植え込みの下には無線塔の基礎部分が現在も残されています。
 令和4年3月 船橋市教育委員会

https://www.city.funabashi.lg.jp/gakushu/0005/p046654_d/fil/gyodamusentou.pdf

この石垣の場所に、200m主塔が立っていたという。

基礎跡は埋没されていると思われる。
現在はサツキが植樹されており、基礎は露出していない。

案内板は東側に新設されており、記念碑は道路の西側にある。

ニイタカヤマノボレ1208の箇所のみ、見やすくなっていた。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M871-93
昭和23年(1948年)03月19日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

中山競馬場の「楕円」
行田公園を中心とした「円」
新船橋駅となりの「四角」

円形は「送信所跡」で、四角は「軍需工場跡」。
どちらも海軍に関係した場所。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M860-62
昭和23年(1948年)03月29日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

赤い丸の部分に182mの無線塔が6基。
これが 「ニイタカヤマノボレ一二〇八」 を発した「長短波用の大アンテナ群」。


周辺道路は円形。

上から見ないとわからない。


海軍境界標石

円周の東側、ちょっとへこみがあるところに「海軍境界標」がのこっている。ちょうど諏訪神社あり、この部分のみ、円周に凹みがあるのは、当時から諏訪神社があったことも意味している。

場所

https://goo.gl/maps/1ZwLYbVSECG6K5Gu6


日本建鐵船橋製作所跡

「船橋無線塔記念碑」のある行田公園から南東の方向、新船橋駅の近くの四角いエリアが「日本建鐵船橋製作所」跡地。
船橋送信所とは関係ないけど、近くなので、一緒に掲載。

「日本建鐵船橋製作所」跡地
現在は三菱電機管理地とイオン船橋を始めとする商業エリアとなっている。
(日本建鐵は三菱の完全子会社となり会社清算済)

三菱の下請けということで往時は三菱系の航空機部品も制作。

具体的には海軍局地戦闘機「雷電」部品を製造していたという。
バス停の名前は「日本建鉄前」であれど、既に工場撤退しているのでバス停名も変更される未来は近そうです・・・

場所:

https://goo.gl/maps/4okHm4TgUfKAxSDY7

撮影:2017年6月および2022年11月


無線電信道の道標

西船橋駅の北西。庚申塔などと一緒にまとめられている。
ここから東の道を北上すれば「 海軍無線電信所船橋送信所 」の行田公園に到達できる。文字通り、無線電信所への道。

無線電信所道

東 船橋方面ニ至ル
西 市川方面ニ至ル

従是北八百餘間至無線電信所
大正六年行啓ヲ奉迎ニ付國縣郡費補助ヲ受耕地會沿道民ノ寄附並村費等金四千餘円ヲ以テ葛飾村ニ於テ大改修工事ヲ施行セル記念ニ建之

もとは違う場所にあったようだ。

場所

https://goo.gl/maps/Sibmkab5q2zVJW1U8

撮影:2022年1月


海軍境界標

船橋法典駅の東側。七面堂というお堂の境内に、海軍境界標石があった。
ちょうどこの場所から南に行けば、行田公園の円の中心に到達できる。

ここも、無線電信所への道の目印。

場所

https://goo.gl/maps/sVyoWKx7i6fTUp3d6

撮影:2022年1月


関連

「日本初の短波標準電波送信所」東京無線電信局検見川送信所跡(千葉)

検見川送信所。
解体話も飛び交っていたが保存の声が高まり「保存する」というところまでは、話を聞いていた建物。その後の話題を聞くこともなく、そういえば、で思い出しての訪問。
訪問は、日本戦跡協会さんと合同で実施しました。

本記事は、日本戦跡協会様との共同探索となります。
 日本戦跡協会サイト
  https://www.sensouiseki.com
 日本戦跡協会Twitter
  https://twitter.com/sensouiseki
 日本戦跡協会Facebook
  https://www.facebook.com/sensouiseki/

訪問は夕刻。夕日の照り返しが、建物を彩る。


東京無線電信局検見川送信所

検見川送信所は1926年(大正15年)竣工。関東大震災以降に、これまでの木造やレンガ造から、堅牢であった鉄筋コンクリート造へと変遷していった大正期の建造物。

設計は逓信省の吉田鉄郎。吉田鉄郎はのちに東京中央郵便局の設計も手掛ける。
吉田鉄郎や山田守などが所属していた逓信省営繕課は、優秀な建築家があつまり「逓信建築」と称される公共建築を数々と手掛けていた。

検見川送信所は初期モダニズム作品として日本の近代建築の過渡期の時代として貴重なものとなる。

大正15年に、「東京無線電信局 検見川送信所」と、「東京無線電信局 岩槻受信所」が竣工。「東京無線電信局 東京中央通信所」が統括した。こうして、検見川送信所は、日本の無線通信の黎明期を支えてきた。

  • 昭和2年(1927) 日本初の標準電波発射
  • 昭和4年(1929) ドイツ飛行船ツエッペリン号と交信成功
  • 昭和5年(1930) 日本初の対航空機通信
  • 昭和5年(1930) 日本初の国際放送
    →浜口雄幸首相のロンドン軍縮会議締結記念放送
  • 昭和7年(1932) ロサンゼルスオリンピック中継放送
  • 昭和15年(1940) 標準電波業務を正式に開始
    →米国に継いで世界2番目の短波標準電波局を開設

戦中は、日本外地(南方地域)との通信拠点として活用。
戦後は、日本電信電話公社の無線交信所として使用され、昭和54年(1979年)に施設利用を廃止。
千葉市が敷地を取得し、取り壊し予定であったが、平成19年(2007年)に発足した「検見川送信所を知る会」が保存運動を開始。千葉市も保存の方針に意向を示すが、今後の方針は未定のまま。。。

検見川送信所を知る会

http://kemigawaradio.web.fc2.com/index.html

https://www.facebook.com/kemigawaradio/

不定期に内部公開なども行われている模様。。。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル: USA-M58-A-6-88
昭和21年(1946年)02月28日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

埋め立てが多すぎて、川も流路が変わっており、様相が全く異なる。。。

検見川送信所はのちに増築されている。現在、増築部分はすべて解体済み。


東京無線電信局検見川送信所の散策

敷地外より見学。いたずら防止などの観点から窓や出入り口などはすべて鉄板で塞がれている。

写真は2022年1月撮影。

「検見川無線送信所記念碑」は昭和59年(1984)に建立されたが、荒れるがままの状態。無残にも放置された記念碑ほど悲しいものはない。。。

「検見川無線送信所記念碑」 に掲げられていた銘板「検見川無線局跡」は剥がれ落ち、そして行方不明になったとのことで。。。

拡大。記念碑の面影はない。。。

以下に建立時の写真が掲載されている

http://kemigawaradio.web.fc2.com/cont/archive/monument01.html

給水塔。

建物背後には中央の出入り口から増築がされていた。増築部分の名残が中央に接続部として跡が残っている。

※撮影:2022年1月


関連

海軍無線電信所船橋送信所跡

海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊の耐強受信壕跡地散策(川崎)

川崎市高津区蟹ケ谷。
「蟹ヶ谷」には鉄道駅はなく、武蔵小杉駅や溝の口駅、武蔵新城駅や綱島駅などからバスに乗り「蟹ヶ谷バス停」が最寄りとなる。「蟹ヶ谷」という文字通りに、谷戸の多いこのエリアに、かつて海軍の受信所があった。


海軍東京通信隊 蟹ヶ谷分遣隊地下壕

昭和5年(1930)、無線基地(橘村短波受信所)が蟹ヶ谷に設置。
昭和12年(1937)、海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊と改称。

海軍東京通信隊の本部は、海軍省。
送信所は船橋分遣隊と戸塚分遣隊が担当。
受信所は蟹ヶ谷分遣隊が担当。

昭和18年(1943)に耐強受信所(地下壕)を設置。すぐちかくの日吉の地下壕に展開されていた連合艦隊司令部とも地下ケーブルで繋がっていた。
蟹ヶ谷や日吉は、東京の海軍省と、軍港横須賀の中間地点で都合がよく、また当時は、周辺が何もなく受信環境も良かったという。

海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊と耐強受信所(地下壕)
 昭和5(1930)年6月、旧日本海軍は高津区蟹ケ谷に無線基地を設置し、昭和12(1937)年には「海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊」と改称しました。海軍東京通信隊は本体を海軍省に置き、送信を任務とする船橋分遣隊と戸塚分遣隊、受信を任務とする蟹ヶ谷分遣隊に分かれていました。戦争が激しくなってきた昭和18(1943)年には、当時周囲を山林と竹やぶで覆われていたこの谷戸地に2つの耐強受信所(地下壕)を造りました。旧日本海軍の攻防と併せて世界の情報を傍受し、その内容は東京通信隊本部や日吉の慶應義塾大学構内にあった連合艦隊司令部にも伝えられていたといわれています。
 現在残っている耐強受信所(地下壕)は、厚さ40センチメートルのコンクリートでアーチ状に作られ、当時3か所の出入り口がありました。その一部が保存されていますが、立ち入ることはできません。実物の約三十五分の一の大きさの模型を川崎市平和館に展示しています。
 ※危険ですので立ち入らないでください。
  平成17(2005)年3月 川崎市平和館

現在は、塞がれた入口があるのみ。内部は崩落と浸水、ガスが発生していて立ち入り禁止という。
谷戸は水が豊富に湧いて出てくるものなので、谷戸にある地下壕の浸水というのは想像に難くない。

川崎市平和館の看板と、コンクリートの造形物以外、なにもない。
もうすこし何かあっても良いのだが、構造物は地下なので、致し方がない。

数年前は、近くの高台にアンテナが1基残っていたというが、それも今はない。

場所は非常にわかりにくい。

下の写真の道はハズレ。この道のもう一段下の資材置き場のさらに奥になる。

北からアクセスするか、南からアクセスするか。
順当に言うと、北からアクセスするのが道のり的には間違いない。最寄りは鷹巣橋バス停。
南は、蟹ヶ谷バス停からは近いが、正直言って道がなく、資材置き場の脇を抜けて、さらに畑のあぜ道をいかえばならない。。。

ちなみにグーグルマップにある場所は、間違い。この場所を目指すとたどり着けない。ちょっと北側になる。

https://goo.gl/maps/hh1a7obVxpKkSDFNA

所管の川崎市平和館に行ってみよう。模型が展示してあるという。


川崎市平和館

川崎市平和館。市の資料館ではあるが、かなり充実している。語弊あるかもしれないが、神奈川県の資料館(かながわ平和祈念館)よりも見応えあると思う。

https://www.city.kawasaki.jp/shisetsu/category/21-21-0-0-0-0-0-0-0-0.html

常設展の入り口。

空から無数の焼夷弾が降り注ぎ、川崎空襲を再現している。

日本海軍東京通信隊 蟹ヶ谷分遣隊地下壕の復元ジオラマ。 35分の1。発電室と通信室に分かれている。

「旧日本海軍東京蟹ケ谷分遣隊」について
 高津区蟹ケ谷に旧日本海軍の通信基地橘村短波受信所が置かれたのは、昭和5年(1930年)のことでした。
 後に東京通信隊・蟹ヶ谷分遣隊と改称し、電波受信に適した多摩丘陵台地上のこの地で、世界の情報を傍受していたのです。
 この短波受信専門の蟹ヶ谷分遣隊通信基地は、敷地18.7ヘクタール(中原平和公園の約13倍の広さ)と22棟の建物を擁し、無線電信用の高い鉄塔6基とほかに多くの電柱にアンテナ線を張り巡らしていました。
 現在は、航空管制用の通信鉄塔が立っている丘と、そこから見下ろす谷間の地下壕に、当時の面影をみることができます。

航空管制用の鉄塔は、今はもう残っていない。。。

旧日本海軍東京蟹ケ谷分遣隊地下壕
 旧日本海軍が現在の高津区蟹ケ谷に通信基地橘村短波受信所を置いたのは1930(昭和5)年です、後に東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊と改称し、電波受信に適した多摩丘陵台地上のこの地で、世界の情報を傍受していたのです。地下壕は厚さ40cmのコンクリートでアーチ状になっていて、中に通信室と発電室があったそうです。丘の上には通信用の高い鉄塔が6基設置されていましたが、現在はすべて撤去されています。その丘から見下ろす谷間に地下壕の出入り口がありますが、公開はされていません。、本館に地下壕の縮尺模型が展示されています。

登戸とか日吉とかもパネルに。

下には、陸軍境境界標も展示されています。これは、東部62部隊のもの。こちらは、宮崎台を散策した別の記事で触れたいと思います。

防空壕の体験コーナーもある。横穴式防空壕の再現。

海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊の耐強受信壕跡の現地散策は、正直言って、コンクリート構造物と案内板だけで味気ないものがあるが、川崎市平和館はみるべきものがある。近くに赴かれた際は、是非足を運んでみるのも良いかと。

場所

https://goo.gl/maps/jwVFjVAnUoxkSVFM6

※撮影:2022年1月


関連

海軍無線電信所船橋送信所跡