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「河野壽大尉自決の地」二・二六事件と熱海陸軍病院跡

昭和11年(1936)2月26日。
後の世に言う「2・26事件」。東京以外では唯一、湯河原・熱海でも事件があった。

2・26事件と河野壽大尉

河野壽(こうの ひさし)は、陸軍航空兵大尉。陸軍士官学校(陸士40期)卒業。所沢陸軍飛行学校操縦学生。

河野壽大尉以下8人は、別働隊(河野隊)として湯河原「光風荘」に滞在していた牧野伸顕伯爵を襲撃した。

牧野伸顕
牧野伸顕は大久保利通の次男。事件当時75歳。前内大臣として 天皇陛下の側近であり欧米強調主義であったために、君側の奸( 天皇を取り巻く悪者)として暗殺対象となっていた。麻生太郎の母、麻生和子は吉田茂の長女(吉田和子)であったが、当時、祖父であった牧野伸顕ともに湯河原に滞在して事件を経験している。(吉田和子は事件当時20歳)

河野寿大尉の指揮する湯河原襲撃隊
現役は、河野寿大尉・宇治野時参軍曹(歩一第六中隊歩兵軍曹)・黒沢鶴一上等兵(歩一歩兵砲隊歩兵一等兵)。
民間元陸軍からは、黒田昶(予備役歩兵上等兵)・中島清治(予備役歩兵曹長)・宮田晃(予備役歩兵曹長)
民間からの参加者は、水上源一(弁理士)・綿引正三の合計8名。
河野寿大尉自身は、学生であったために部下がおらず、同士であった栗原中尉からの紹介で7名を率いることとなった。

湯河原・熱海の「二・二六事件」
2月26日早朝午前5時頃、牧野伸顕が滞在していた湯河原「光風荘」を襲撃。
玄関前で乱射された機関銃の銃声で目覚めた身辺警護の皆川義孝巡査(警視庁警務部警衛課勤務・牧野礼遇随衛)は、機転を働かせ牧野伯爵を裏口から避させることに成功。
河野壽大尉の襲撃部隊は護衛の皆川義孝巡査と銃撃戦となり、河野大尉と宮田が負傷。河野大尉が負傷したことで計画変更を余儀なくされ、放火を行い光風荘を炎上させるも、牧野伸顕伯爵襲撃は失敗。

銃撃戦で皆川義孝巡査は死亡(享年32歳・殉職)、河野壽大尉と宮田晃予備役曹長は負傷。河野壽大尉重傷後の部隊指揮は民間出身であった水上源一が務めている。(そのために民間人でありながら水上源一は、河野大尉自決後の湯河原隊責任者として唯一の死刑となっている)

襲撃隊8名の内、宮田は湯河原の病院に入院。重傷の河野大尉は熱海の東京第一衛戍病院熱海分院に入院し胸部盲貫の弾丸摘出手術を受ける。残る6名は翌日の2月27日に三島憲兵隊に収容。

河野壽の最期
熱海陸軍病院に入院し、刃物などを取り上げられた河野壽は、密かに兄の河野司に自決用の刃物を用意するように頼み、河野司は果物ナイフを差し入れ。
昭和11年3月5日午後、軍服に着替え病室を抜け出した河野壽大尉は、病院の外、裏山で自決。しかし果物ナイフでの自決は致命傷を得られず、16時間後の3月6日朝に死去。享年28歳。

辞世
 あを嵐 過ぎて静けき 日和かな
戒名 
 徹心院天嶽徳寿居士

二・二六事件
河野壽大尉自決の地

河野寿大尉自決の地
 河野寿大尉(28才)はニ・ニ六事件において、湯河原の伊藤屋旅館の貸別荘(当時)である光風荘に滞在していた牧野伸顕前内大臣(大久保利通の二男、麻生太郎元総理の曾祖父)を8名で襲撃し、護衛の皆川義孝巡査と相撃ちとなり、熱海の陸軍病院で治療をした。
 ニ・ニ六事件は陸軍皇道派の青年将校が、世界恐慌を発端とした昭和恐慌、また冷害による凶作によって疲弊する東北地方の農村の状況を座視し得ず、世直しを目指して取起した事件。昭和11年2月26日、第一師団を中心に1,483名を率いて、政府要人および天皇側近6名を襲撃し4日後には反乱軍となり鎮圧された。
 反乱軍となった河野大尉は3月5日、兄の司氏に果物ナイフを差し入れて貰い、午後3時半頃、病院の裏山で割腹し首を6箇所も切って、翌朝6時半絶命した。
 陸軍病院は戦後、国立熱海病院となった。昭和39年熱海バイパス国道の開通によって病院は分断され、山側は国家公務員共済組合連合会(KKR)に売却された。病院は取り壊され荒地となって放置されていた。
 平成2年に地元有志が自決跡に目印の石を置き、平成5年に標柱を立てたが、KKRホテルの建設に伴いそれらは撤去させられ、平成15年6月19日に関係者一同で現在地に石碑を建立した。
 光風荘は日本で唯一のニ・ニ六事件資料館として土日祭日開館しており、入館時間は午前10時~午後2時半。
 湯河原駅より奥湯河原行きバス乗車、万葉公園入口下車、徒歩1分。
 問合せは、湯河原町役場・地域政策課(0465・63・2111)
平成25年9月 
 看板菅理者川久保勲0557(83)4636

入口にはいくつかの案内があった。

熱海陸軍病院裏門跡
河野寿大尉自決の地
豆相人車鉄道軽便路

場所

https://goo.gl/maps/hqVFnt3ZzPrGL1NG8


東京第一衛戍病院熱海分院
熱海陸軍病院
(現・国際医療福祉大学熱海病院)

現在の国際医療福祉大学熱海病院とKKRホテル熱海のあるあたりに、当時は熱海陸軍病院があった。

明治44年(1911)5月、東京第一衛戍病院熱海分院が創設。
昭和13年(1938)2月、臨時東京第一陸軍病院熱海分院と改称。
昭和20年(1945)12月、終戦により厚生省に移管、国立東京第一病院熱海分院として発足。
昭和25年(1950)7月、国立東京第一病院から分離独立し、国立熱海病院に改称。
平成19年(2007年)2月、国際医療福祉大学熱海病院となる。

熱海陸軍病院の裏山。河野寿大尉自決の地。

KKRホテル熱海。
写真の後方奥に、熱海病院


熱海陸軍病院の陸軍境界標石

河野寿大尉自決の地から山の反対側に当たる場所。熱海駅側に標石が残っていた。

陸軍用地

場所

https://goo.gl/maps/khT5H6qyBNakEuAUA

熱海

風光明媚な熱海の海を望みながら、自決された河野大尉。
二・二六事件の歴史をほんの僅かに残していた、熱海でした。


関連

渋谷にある「二・二六事件慰霊碑」は、河野壽大尉の兄であった河野司氏が中心となって建立された。

麻布の賢崇寺は、二・二六事件で殉難した「二十二士」を祀る。

河野司さんが代表を務めていた佛心會(仏心会)

https://busshinkai.or.jp/

「二・二六事件」海軍の動き。

こちらは湯河原。

2・26事件資料館「光風荘」

https://www.town.yugawara.kanagawa.jp/kankou/leisure/koufusou.html

潮音寺の平和観音・特設自動車隊第23中隊(小田原)

小田急足柄駅の近くに鎮座している「潮音寺」。
ここに平和観音があるというので足を運んでみた。


平和観音

平和観音
比島派遣軍特設自動車隊第二十三中隊戦没者英霊 50柱
各戦役戦没者英霊 52柱
潮音寺戦没英霊各位 27柱

平和観音像は比島派遣軍特設自動車隊第二十三中隊戦没者英霊及び各戦役に散華された諸英霊に対し広大無辺なる観世音菩薩のご慈悲を仰ぎ心からなる供養の誠心を捧げると共に再び悲惨な戦争が繰り返されぬよう永遠の世界平和を祈念し建立されたものである。
昭和56年11月22日
比島派遣軍特設自動車隊第二十三中隊
 生存者遺族一同合掌
奉為当山35世天英光重大和尚尚上酬滋恩
 守塔比丘康哉合掌 

第35軍とレイテ島の戦い

比島派遣軍特設自動車隊第二十三中隊は、第35軍直属の部隊。
第35軍は、鈴木宗作陸軍中将を司令官とする。
昭和19年8月4日に編成。第14方面軍隷下。司令官は山下奉文陸軍大将。

第35軍はレイテ島の戦いの主力として奮戦。
制空権制海権を失い、昭和19年12月18日に大本営はレイテ島を放棄。12月22日には第14方面軍より自戦自活を命じられる。第35軍は、レイテ島、ミンダナオ島、ビサヤ諸島などの各地で長期持久作戦を行い、米軍へ抵抗するとともに、飢餓との戦いが行われた。
第35軍直轄部隊参加者10,932人のうち戦死者10,682人、第35軍司令官であった鈴木宗作も昭和20年4月19日にフィリピン戦線で戦死、没後陸軍大将に進級する。

合掌

親を子を
 妻はとよびて
  逝きしとも
静かに眠むる
 平和のいしぶみ

為 平和観音慰霊供養

潮音寺

潮音寺毘沙門天と平和観音 小田原七福神
 この寺は大徳山潮音寺と号し、天文23年(1554)大休宗恵大和尚により開創され聖観世音菩薩をご本尊とする霊場である。
 毘沙門堂には七福神の一つである毘沙門天が安置され特に小田原七福神として広く知られている。
 尊像は総丈1m余り、室町中期の傑作といわれ、勇壮破邪の相を現じている。
 毘沙門天は北方多聞天とも称せられ財宝、智慧、福徳を授け、仏法加護の天王として篤い信仰を集めている。寅の日が縁日であり年頭の初寅の日には大祈祷会が厳修され大勢の善男善女で賑つている。
 「初黄晴れ毘沙門天の破邪心」俳人 石川冬城の句です。
 境内には平和観音像が建立されており、慰霊供養と世界平和を祈念する平和観音祭が行われる。

場所

〒250-0055 神奈川県小田原市久野511 潮音寺

https://goo.gl/maps/zJ5C5NJz66YkDusw7

「陸軍中佐上原重雄戦死の地碑」と「疾風のプロペラ」(小田原)

小田原市沼代。その山中の道路の傍らに、この地で戦死された搭乗員の慰霊碑があった。


上原重雄

鹿児島出身。陸士第52期卒業。
上原重雄は、スマトラ島の「パレンバン航空隊」にて、遠くニューギニア戦線までも遠征し縦横無尽に活躍。
特にB17爆撃機の迎撃で勇戦した「偉勲の戦士」として知られる。
昭和19年にパレンバンから日本本土に戻り、兵庫県の「加古川航空隊」で教育にあたっていたが、昭和20年1月愛甲郡愛川町中津にあった「相模陸軍飛行場(中津飛行場)」を拠点としていた「飛行第22戦隊長(22FR長)」に着任。

ジャンボリー作戦
昭和20年2月16日、米海軍空母機動部隊は関東地方に対して、空母艦載機による本土初空襲を敢行。(ドーリットル空襲を除く、通常の米海軍空母艦載機による本土初空襲)
これは、硫黄島上陸作戦と連動する、日本本土航空戦力の撃滅を目指したものであった。

米海軍の高速空母機動部隊である第58任務部隊が、関東地方周辺の日本軍航空基地及び航空機工場を攻撃。第58任務部隊は大型正規空母11隻・軽空母5隻を基幹とする強力な艦隊であった。
2月16日の空襲では、房総半島から関東上空を目指し、戦闘機部隊は本土上空で空中戦を展開。爆撃隊は中島飛行機太田製作所や小泉製作所を目標としたものであった。
2月17日の空襲では、東京西部の中島飛行機武蔵製作所や多摩立川地区の航空機工場が目標となる。
日本軍航空隊の損失は、少なくとも被撃墜60機・地上撃破60機以上。アメリカ軍の損失は戦闘による航空機損失60機とその他作戦中の損失28機の合計88機。

相模陸軍飛行場(中津飛行場)
第22航空戦隊は最前線から帰還し戦力回復のため中津で錬成している最中であった。
昭和20年2月17日、第22航空戦隊は既に近日中に朝鮮への移駐が決まっており、部隊には迎撃中止命令が発令されていた。しかし着任したばかりの飛行第22戦隊長・上原重雄少佐は、我が物顔に飛行する米軍機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、部下をなだめつつも自らは義憤の単機発進を決行。

飛行第22戦隊長・上原重雄少佐は、相模陸軍飛行場(中津飛行場)から離陸し、米軍機を迎撃した。

100機にも及ぶ米軍機に上原重雄少佐は単機捨身で突入するも衆寡敵せず被弾。小田原市沼代上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の中津飛行場、そして皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆。壮烈な戦死を遂げられた。
(上原重雄少佐は、死後、陸軍中佐に特進)


飛行第22戦隊(隼第18913)
飛行第二二戦隊 (隼第一八九一三部隊) 

飛行第22戦隊は、初の四式戦闘機「疾風」装備部隊であった。
初代戦隊長には陸軍戦闘機隊のエースパイロットであった、岩橋譲三少佐が着任。岩橋譲三少佐は四式戦テストパイロットも務めていた。
岩橋譲三少佐はノモンハン事件以来の古参熟練搭乗員でもあったが、昭和19年9月9日に西安飛行場で戦死。

飛行第22戦隊は、最新鋭の大東亜決決戦機「四式戦 疾風」を要する陸軍屈指の決戦部隊であり、上原重雄少佐は、第四代目の飛行第22戦隊長であった。

「疾風」運用の最初の実戦部隊として活躍した飛行第22戦隊の部隊マークは、湊川の楠木正成にちなむ「菊水紋」であった。

※画像は「ハセガワ 1/48 日本陸軍 中島 キ84-I 四式戦闘機 疾風 プラモデル JT67」
 http://www.hasegawa-model.co.jp/product/jt67/

飛行第二二戦隊 (隼第一八九一三部隊) 略歴
昭和19年3月5日  東京福生(多摩陸軍飛行場)において臨時編成・
昭和19年5月下旬  神奈川中津(中津陸軍飛行場)において教育訓練開始
昭和19年8月17日  中津飛行場を出発し漢口へ
昭和19年8月20日  中国大陸にて桂林作戦に参加
昭和19年10月中旬 内地帰還
昭和19年10月18日 中津飛行場を出発しフィリピンへ移動、レイテ作戦に参加
昭和20年1月28日  戦力を回復するために内地帰還
昭和20年2月20日  福岡第一飛行場に到着   
昭和20年2月21日  中津飛行場に到着
昭和20年3月5日  朝鮮京城金浦第二飛行場に着
昭和20年3月25日  中国徐州飛行場に着 
昭和20年8月2日  朝鮮京城飛行場に着
昭和20年8月15日 朝鮮晋州で終戦

参考:
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122419500、陸軍航空部隊略歴(その1) 付.航空部隊の隷指揮下にあったその他の部隊/分割8(防衛省防衛研究所)」


中島 キ84 四式戦闘機「疾風」

大東亜決戦機として名高い「疾風」。
小山悌技師長を設計主務者とする中島製戦闘機の集大成。
「疾風」は重点生産機に指定され、戦争末期に近い昭和19年配備でありながら日本軍戦闘機としては零戦、一式戦(隼)に次ぐ約3,500機に及んだ。


疾風のプロペラ

四式戦に採用されたプロペラブレードは直径3.05 mの4翅であり、2000馬力戦闘機としては小径のプロペラであった。同時期に誕生した海軍の紫電・紫電改は、直径3.3 m、そして疾風と同じ中島製の海軍の彩雲は直径3.6 mを採用ということからも、疾風のプロペラが小さいことがわかる。一般には、プロペラ直径を大きくすると離陸時と上昇時の効率が向上し、小直径化すると高速飛行時の効率が向上するといわれている。
「疾風」プロペラは、フランスのラチェ式を改造し日本国際航空工業が国産化した電動可変ピッチ機構プロペラ「ペ32型」が採用。

「上原重雄戦死地の慰霊碑」は、疾風プロペラ1枚が用いられている。
これは、上原重雄の愛機「疾風」の残骸を陸軍が回収しに来た際に、「偉勲の戦士」の最後を見届けた農家の1人がプロペラを隠しておき、碑を作ったものだという。


陸軍中佐上原重雄戦死之地碑

合掌

近隣の方々により、今も手厚く維持されている。

陸軍中佐上原重雄戦死の地碑
 昭和20年2月17日、相模湾沖に進行した航空母艦から発進したグラマン戦闘機延べ600機が初めて関東地区を襲った。硫黄島上陸作戦を目前に、米軍の本土の目標に対する超低空からの集団攻撃だった。2日目を迎えた当地は朝から空襲警報下にあった。
 午前10時頃、攻撃を終えて南下してきた暗緑色の大編隊の群に単機捨身で突入した日本軍機があった。衆寡敵せず不運にも本市小竹上空で被弾してしまった。機は相模湾上で反転し、飛行場への帰還に向かったが、後続し南下する敵編隊の挟み撃ちにあい当地上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の基地、皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆し壮烈な戦死を遂げられた。墜落場所は沼代の山の中腹(やまゆりライン沼代入口付近から山側に入る鉄塔近く)。
 その姿は当地の人々に現在も鮮烈に残っている。戦死した搭乗者は首都防衛飛行第22戦隊長上原重雄中佐(鹿児島出身 享年28歳)であった。
 歴戦の中佐は陸士第52期の卒業でスマトラ島のパレンバン航空隊を拠点として遠くニューギニア戦線までも遠征し縦横無尽に活躍をし、特にB17爆撃機の迎撃には偉勲の戦士と言われている。前年に祖国に帰り兵庫県加古川航空隊で教育にあたっていたが、20年1月愛甲郡愛川町中津にあった第22航空戦隊長として着任した直後であった。
 当日は部隊が朝鮮平壌に移駐が決まり、軍は迎撃中止を命じていたが、我が物顔の敵機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、はやる部下隊員を掩体壕になだめおいて、自らは義憤の単機発進をされたものと思われる。
 当地においては故人を偲び、当地区の戦死者として遺影を福泉寺に掲額し遺族会としても懇ろに供養している。
 墓地の記念碑は搭乗機「疾風」のプロペラ4枚のなかの1枚である。永く戦死の地に設置されていたが、平成22年(2011)に現在地に移設された。

(表面)
 故上原重雄墓

(裏面)
 昭和20年2月17日戦死
 昭和28年9月23日建之
 百機ノ敵ニ一機ヲ以テ挑戦
 享年28才
 

(表面)
上原重雄戦死之地

(裏面)
 時 昭和20年2月17日
爆音乃たへて 桜とちりぬるも 
 高きかんばせ 永遠にきへなん

隼 戦闘隊長
 陸軍少佐 行年28才

故人愛キ之プロペラ

出身地
 鹿児島県日置郡
  市来町 湊

昭和28年
 墓ト共ニ建之

林唯四郎
 カキキザム

疾風のプロペラ。ジュラルミンのアルミ合金に刻まれたレクイエム。

プロペラであることがわかる薄さ。なおかつ、墜落時の衝撃でより一層に曲がっている。

案内看板の背面には、地元の人による墜落当時のエピソードが掲げられていたが、残念ながら風雨により劣化しており、全てを読むことが出来ない状態だった。

第22航空戦隊長上原重雄が散った小田原の空。

実際の墜落現場は、慰霊碑がある場所より直線距離で約800mほど西側の山中。
平成22年(2011)に山中で関係者が高齢となり維持や参拝が困難となったことから、山中から沼代の集落近くの道路に移転。

Googleストリートビューにて。中央の鉄塔のあたりが、墜落現場。

墜落現場

https://goo.gl/maps/6d49swavBGKpnnkV9


福泉寺

ちかくの福泉寺には、上原重雄中佐の遺影が保管されているという。

王子神社

「陸軍中佐上原重雄戦死之地碑」へは、王子神社を目標とするとわかりやすい。
王子神社 〒256-0801 神奈川県小田原市沼代506−1

下記写真の鳥居の先の道路がカーブする所に、慰霊碑がある。

「陸軍中佐上原重雄戦死之地碑」の場所

https://goo.gl/maps/9vd8T8yrW3oKfSPT8


公共機関でのアクセス方法

JR二宮駅南口よりバスというのが、一番わかりやすい。
ニ30系統 中井町役場入口行に乗車し、「下中駐在所前」で下車。徒歩約20分。

道中は、のどかな田園地帯を20分ほど歩く感じ。


参考

https://www.townnews.co.jp/0607/2015/05/02/281877.html

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-92679.html

臨時東京第三陸軍病院跡(相模原)

小田急相模原駅から一直線に伸びる道路を1.5キロほど突き当たりまで歩いていくと、「国立相模原病院」にたどり着く。「国立相模原病院」はかつて、「陸軍病院」であった。

軍都相模原
昭和12年(1937)に「陸軍士官学校本科」が、座間・相模原に移転。
その後も続々と陸軍関連施設が展開。
「相模陸軍造兵廠」「陸軍兵器学校」「陸軍機甲整備学校」「陸軍通信学校」「相武台陸軍病院」など。

臨時東京第三陸軍病院
昭和13年4月、野戦病院として、「臨時東京第三陸軍病院」創設。突貫でバラック建物を建てたという短期間設営の病院であったが、規模は大病院以上。陸軍直轄病院。東日本最大の陸軍病院であった。
陸軍病院の開院に合わせて小田急相模原駅が開業。
昭和天皇が、戦地からの傷病兵を見舞うために、行幸された唯一の陸軍病院。敷地内は記念碑が残っている。

昭和20年12月、戦後、臨時東京第三陸軍病院は、厚生省に移管され、「国立相模原病院」として発足する。

臨時東京第三陸軍病院 行幸記念碑

相模原病院正門右手に。陸軍病院時代を物語る石碑。

行幸記念碑
陸軍省医務局長 三木良英 謹書

(裏面)
行幸 昭和14年3月14日
臨時東京第三陸軍病院

(添碑)

昭和15年5月
 臨時東京第三陸軍病院長
 陸軍軍医少将 押火権太郎 選並書

昭和14年3月14日に、支那事変での傷病将兵を 昭和天皇が見舞うために行幸されたことを記念する碑。
昭和15年に建立された。

行幸記念碑と相模原病院


相模原病院

相模台商店街通り(サウザンロード相模台)

古道「辰街道」(たつ街道)
小田急相模原駅と相模原病院を結ぶ道路。

※2021年4月撮影


関連

平和の碑・探照灯基地跡(川崎市麻生区)

神奈川県川崎市麻生区古沢。
小田急線新百合ヶ丘駅から歩いて10分ほどの里山に、かつて「探照灯基地」があったという。

戦争末期、内地防空の為に、「高射第1師団」が編成。
麾下の「高射砲第112聯隊」は世田谷を本部とし東京西部地区、多摩川を挟んで南北に展開していた。
この川崎市麻生区の探照灯基地も、この照空隊陣地の一つであったと思われる。

ちなみに、日本陸軍では「照空灯(照空燈)」と呼称し、陸軍船舶部隊及び日本海軍では「探照灯(探照燈)」と呼称していたので、本来であれば、麻生区古沢での記載は「照空灯基地跡」とするのが正しい。
(現在の自衛隊では「サーチライト」と呼称。

平和の碑 探照灯基地跡

(裏面)
世界第二次大戦により古沢288番地海抜70m地点に探照灯が据えつけられ昭和19年9月20日から昭和20年8月17日まで使用された

(側面)
平成2年6月吉日
 柿生郷土誌古沢編集委員協力者

里山の丘陵の中腹に。
「平和の碑」のとなりにあるのは、「地神塔」嘉永6(1853)年建立。

実際には、石碑のある場所の上、丘陵の高台に「照空基地」があった。

場所

https://goo.gl/maps/9nWHfM21U3f22i5R6

新百合ヶ丘駅から10分ほど歩いた場所に、のどかな里山風景が残っていて、そして戦時中のエピソードがあるというのが驚きであった。

※撮影2021年4月

難波宮跡公園周辺の戦跡散策(大阪)

大阪城の南側、難波宮跡周辺を散策してみた。
「難波宮跡公園」界隈。


大阪医学校跡 明治天皇聖躅碑
大阪師範学校跡 明治天皇聖躅碑
(国立病院大阪医療センター)

大阪城の南側、中央区の法円坂。明治の初め頃、この地に大阪医学校と大阪師範学校があった。
そして、学校が廃止された後は、陸軍の地、であった。

大阪医学校
大阪医学校の歴史は、適塾までさかのぼる。緒方洪庵が大阪で開いた蘭学・蘭医学の個人塾「適塾」。その緒方洪庵の息子であった緒方惟準が院長として就任したのが明治元年(1869)2月に設立した「大阪府仮病院」(上本町の大福寺を仮地としてスタート)。大阪府仮病院には適塾出身者が多く採用された。
明治2年に「大阪府仮病院」は法円坂に移転し「大阪府医学校病院」(大阪医学校病院)となった。緒方洪庵の弟子であった大村益次郎が運び込まれて、そして絶命したのが、この病院であった。南東角には「大村益次郎卿殉難報国之碑」は建立されている。

「大阪医学校」は明治5年の学制発布により文部省管轄の「第四大学区医学校」と改称。
しかし、改称2ヶ月後の明治5年(1872)10月に大阪の「第四大学区医学校」は廃校となり、「第一大学区医学校」(東大医学部)に医学教育が集中されることとなる。
「大阪医学校」は官立であったために国の方針で廃校となってしまったが、その後に公立医学校として復活。現在の大阪大学医学部へとつながっている。

大阪師範学校(官立大阪師範学校)
明治5年(1872)に廃校となった「大阪医学校」の跡地に、明治6年8月に大阪師範学校(官立大阪師範学校)が開設。明治11年(1878)に学制改革により廃止。大阪府師範学校として、現在の大阪教育大に連なる。

明治天皇聖躅碑
明治天皇は、大阪師範学校を明治10年(1877年)2月に行幸されており、 明治天皇聖躅碑が大正14年5月に建立された。
明治天皇聖躅碑は、所在不明であったが2016年に発掘調査時に発見された。

明治天皇聖躅碑

大阪医学校
大阪師範学校

大阪市青年聨合團

大正14年5月10日建之


国立病院 大阪医療センター
(独立行政法人国立病院機構大阪医療センター)

大阪医学校・大阪師範学校のあと、この地は陸軍の兵営となった。
昭和22年、「旧大阪陸軍病院」の流れをくむ「国立大阪病院」が河内長野から現在地に移転。

大阪医学校があった地は、陸軍の時代を経て、再び医学の地に戻ったこととなる。


歩兵第三十七聯隊(歩兵第37連隊)

「大阪医療センター」の敷地内に陸軍時代の記念碑がある。
歩兵第三十七聯隊に関係する石碑。

歩兵第三十七聯隊(歩兵第37連隊)
明治29年(1896)連隊本部設置
明治31年(1898)3月24日  明治天皇より軍旗拝受
明治37年(1904)日露戦争従軍
昭和12年(1937)南京攻略戦に参加、翌年昭和13年に徐州会戦に参加
昭和15年(1940)漢水作戦に参加
昭和17年(1942)バターン半島攻略戦、コレヒドール島攻略戦に参加
昭和18年(1943)スマトラ島パレンバン警備
昭和20年(1945)タイに転戦、タイ・ビルマ国境で終戦。

歩兵第三十七聯隊
創立100周年 記念碑

碑文
明治三十一年三月二十四日 歩兵第三十七聯隊が創立されて本年を以て100周年に当たるため由緒あるこの地に記念として建立した所以であります。 
 平成十年三月吉日 
  歩三七会建立

歩兵第三十七聯隊跡
昭61年11月 歩三七会 建之

克忠

克忠とは、「より忠に」の意。大正11年5月二五日建立。
上部の「克忠」は、第四師団長・鈴木荘六中将の揮毫
下部の「詩」は、歩兵第三十七聯隊長・井染禄郎大佐の揮毫

(碑面裏)
此碑は元営門築山に在りし物にして終戦後撤去されおりしも北庭園を増築するに当たり37会此を再建せしものなり。

歩兵第三十七聯隊
明治三十六年創設
昭和二十年廃止
 三七会

かつて営門築山にあった灯籠?かもしれない。

大阪医療センターの一角に記念碑が集められていた。


歩兵第八聯隊(歩兵第8連隊)

またも負けたか八連隊(大阪の歩兵第8連隊)、それでは勲章九連隊(くんしょうくれんたい)(京都の歩兵第9連隊)」といわれた大阪の歩兵第八聯隊の兵営地は、現在の難波宮跡公園であった。
その歩兵第八聯隊は、決して弱かったわけではなく多くの勝ち戦もある。語呂の耳障りの良さと大阪人らしい気質とウィットに富んでいたために流布された里謡という側面もありそうだ。

歩兵第八聯隊(歩兵第8連隊)
明治7年(1874)5月、第10大隊と第14大隊を基幹に改編
        10月、萩の乱に第3大隊が従軍
12月、 明治天皇より軍旗拝受
明治10年(1877)西南戦争に従軍
明治27年(1894)日清戦争に従軍
明治37年(1904)日露戦争に従軍
大正3年(1914)第一次世界大戦にて、青島の戦いに参戦
昭和12年(1937)満州転戦
昭和17年(1942)第二次バターン半島攻略戦、コレヒドール島攻略戦に参加
昭和18年(1943)スマトラ島に移動
昭和20年(1945)仏印に転進、明号作戦に参加、その後タイへ転進し終戦

歩兵第八聯隊跡

碑文
歩兵第八聯隊は 明治7年5月14日創設
同年12月18日天皇より軍旗を親授せられ 萩の乱 西南の役 日清戦争 日露戦争 日独戦争 支那事変 大東亜戦争等に参加
七十有余年にわたり 国土の防衛に任じた
碑は 国史に著き摂河泉出身の若人が 練武に励んだ想い出の聯隊跡地を記念し 中馬馨大阪市長の揮毫をいただいて建てたもので この記念碑には 全国歩八関係戦友の魂がこもっている
 昭和50年4月
  歩八会

御臨幸之
 昭和7年11月14日

昭和7年(1932)年11月、奈良と大阪で陸軍特別大演習が行われ、
昭和天皇が大阪城東練兵場において観兵式を御統監になったのを記念して建立された碑。

石垣部分は当時からのもの、という。

排水孔

歩兵第八聯隊兵営の南門門柱。

難波宮跡公園。
大阪城と教育塔を望むことができる。

※撮影は2021年4月


関連

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑と埋腿骨之地(大阪)

大阪市中央区法円坂の国立病院機構大阪医療センター近くの上町交差点。
ひときわに大きな石碑がある。
当時、この地にあった鈴木町の大阪府医学校病院(大阪府仮病院)に大村益次郎が運び込まれ、そしてこの地で亡くなった。


大村益次郎

文政7年5月3日〈1824年5月30日〉 – 明治2年11月5日〈1869年12月7日〉
幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。「維新の十傑」の一人。
日本陸軍の創設者
村田蔵六、良庵、諱は永敏。あだ名は「火吹き達磨」

周防国の村医の家柄に生まれた村田蔵六は、弘化3年(1846年)、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾の塾頭まで進む。
嘉永6年(1853年)、宇和島藩で蘭学者として勤務。
安政3年(1856年)4月、宇和島藩主・伊達宗城の参勤にしたがって江戸に出府。
同年11月、宇和島藩御雇の身分のまま幕府の蕃書調所教授方手伝となる。
安政4年(1857年)11月11日、築地の幕府の講武所教授に就任。
万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となる。
文久3年(1863年)10月、萩へ帰国、長州藩の軍事を掌り、高杉晋作の奇兵隊の指導などを行う。
慶応2年(1866年)、第二次長州征伐に際して、石州石見国方面の実戦指揮を担当し、軍事的才能を遺憾なく発揮し幕府軍を撃破。
明治元年(1868年)、戊辰戦争では有栖川宮東征大総督府補佐として、軍務官判事、江戸府判事を兼任し、江戸を掌握。討伐軍を指揮し、上野山に籠もる彰義隊を撃破。その後も江戸から事実上の新政府軍総司令官として戊辰戦争を指揮し、新政府軍を勝利に導く。

明治2年(1869年)、明治新政府の幹部として軍政改革の音頭を取るも、兵制論争となり、結果として大久保利通派に敗れるも、軍政では大村益次郎に変わるものもなく、新たに設置された兵部省の兵部大輔(次官)に就任。兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王であったために、実質的には大村益次郎は近代日本の軍制建設を指導する立場となる。

大村益次郎は大阪に大阪城近くに兵部省の兵学寮(士官学校)を設け、造兵廠(大阪砲兵工廠)、宇治に火薬製造所の建設するなどを決め、東京から関西へ軍事拠点を移転させることを決定。

明治2年(1869年)8月、視察のために京阪方面に出張。
9月4日夕刻、益次郎は京都三条木屋町上ルの旅館で会食中、8人の刺客に襲われる。
重傷を負い9月7日に京都の山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けるも、傷口から菌が入り敗血症となる。医療設備の整っていた「大阪府医学校病院」(浪華仮病院・大阪府仮病院)に転院を決め、教え子であった寺内正毅、児玉源太郎らが担架で高瀬川船着き場まで運び、10月2日に大阪府医学校病院(大阪仮病院)に入院。
大阪府医学校病院は院長が緒方惟準(大村益次郎の恩師・適塾緒方洪庵の次男)、オランダ人医師ボードウィンを主席教授とし、楠本イネ(シーボルトの娘)らが看護。蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術をおこない、足を切断するも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し11月5日の夜に死去した。享年46歳。
大村益次郎は「切断した私の足は緒方洪庵先生の墓の傍に埋めるように。」と遺言した。(龍海寺の緒方洪庵の墓の隣に足塚がある)


兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

昭和15年11月に大村益次郎が治療を受けた大阪府医学校病院(浪華仮病院・大阪仮病院)、そして亡くなった地に鎮座。
昭和15年(1940)は、1月米内光政内閣、7月に第2次近衛文麿内閣が成立し陸相には東条英機が就任。9月には、日独伊三国同盟条約が締結され、11月には、紀元2600年祝賀行事が行われるという時局であった。
ひときわに大きい、大村益次郎の殉難報國之碑もそんな時局をあらわしていた。

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑

明治兵制ノ創始者兵部大輔大村益次郎卿ハ周防ノ人資性沈毅明敏少壮ニシテ漢籍ヲ廣瀬淡窓ニ蘭学ヲ梅田幽斎及緒方洪庵等ニ学ビ専ラ醫学及兵学ヲ修メ夙ニ皇政維新ノ大業ヲ翼賛シテ東京以北戡定ノ偉勲ヲ樹テ親兵ヲ創設シテ兵馬ノ大権確立ニ資シ徴兵ノ制ヲ布キテ國民皆兵ノ實ヲ擧ゲンコトヲ主張シ兵学寮及兵器弾薬製造所並軍艦碇泊場ノ設立等ニ拮据奔走中明治二年九月四日京都ニ於て刺客ノ難ニ遭ヒ後大阪病院ニ於て右大腿切断ノ手術ヲ受ク病牀二ケ月瀕死ノ中ニ在ツテ尚ホ書ヲ要路ニ致シ陸海兵制ノ整備ト軍事醫療ノ急設トヲ説キ傷處ノ疼痛ニ悩ミツゝ一言モ之ニ及ブ■ク愬フル所皆是レ國家公共ノ大策ニ非サルハ無カリキ不幸経過良好ナラズ遂ニ十一月五日経國ノ雄圖ヲ抱イテ空シク此ノ地ニ薨ス時ニ年四十六本會ハ茲ニ卿ノ高邁ナル識見ト偉大ナル功績トヲ敬慕シ特ニ終焉ノ地ヲ選ビ記念碑ヲ建テ此遺跡ト共ニ其洪勲ヲ長ヘニ後昆ニ傳フト云爾
   昭和十五年十一月 大村卿遺徳顕彰會

※中央部に亀裂が有り、一部の文字が読み取れず

発起人・賛助者にはそうそうたる名前が刻まれていた。
昭和15年当時の軍人・関西財界人など。

また、緒方銈次郎の名も有る。
緒方銈次郎は、大村益次郎の恩師であった緒方洪庵の子・緒方惟準の二男。大村益次郎は緒方惟準が院長を務める、適塾の流れをくむ浪華仮病院・大阪仮病院に担ぎ込まれた。

財界
伊藤忠兵衛(伊藤忠)
鳥井信治郎(サントリー)
種田虎雄(近鉄)
松下幸之助(パナソニック)
鴻池善右衛門(鴻池家)
小林一三(阪急)
江崎利一(江崎グリコ)
野村徳七(野村証券)

陸軍
畑俊六
林銑十郎
東条英機
大島健一
松井石根
松岡洋右
寺内寿一
荒木貞夫
杉山元

海軍
及川古志郎
高橋三吉
末次信正

場所

https://goo.gl/maps/UoLZBv6H6k1Debqy7

現在は、国立病院大阪医療センター。
この地は、のちに元歩兵第三十七連隊が展開されていた。
敷地内には、歩兵第三十七連隊の慰霊碑などもある。


大村益次郎寓居跡「漏月庵」

少し時系列をさかのぼる。
大村益次郎(村田蔵六)は、22歳のころに来阪して「緒方洪庵の適塾」に入門して塾頭まで務める。そのころにこの場所から適塾に通っていたという。

大村益次郎寓居跡
「漏月庵」

 大村益次郎は1825(文政8)年、山口・周防の医者の家に生まれた。蘭学、医学、蘭式兵学に通じ、日本の近代兵制を創始した。
 緒方洪庵に師事し、1849(嘉永2)年からこの家に住んで適塾に通った。初めて構えた居宅を愛し、ひさしのすき間から見える月の美しさに感謝して「漏月庵」と名付けた。
 後、故郷に戻って医者になったが洋楽の知識を認められ、明治新政府の兵部大輔(軍事大臣)となり、日本の兵制をととのえた。1869(明治2)年没。
「漏月庵址」の石碑は1950(昭和25)年まで存在したが、その後不明になり今回改めて建立した。
 令和2年9月吉日
  古川宏太郎建立

場所

https://maps.app.goo.gl/vPs8sqw7kCMfZRp78


大村益次郎埋腿骨之地(足塚)
緒方洪庵墓所

大阪市北区の龍海寺。緒方洪庵の菩提寺。
緒方洪庵の墓は東京文京区の高林寺にもあり、この龍海寺には遺髪が埋葬されている。
適塾で恩師であった緒方洪庵の墓之隣に、大村益次郎は切断した右足を埋めるように遺言した。
埋葬後も、しばらくは秘匿されており、昭和14年(1939)に、「埋腿骨之地」が建立された。

大村兵部大輔埋腿骨之地

裏面は陸軍軍医中将飯島茂による撰文。

緒方洪庵先生之墓
洪庵先生夫人億川氏墓

緒方洪庵の墓の隣に、大村益次郎足塚がある。

場所

https://goo.gl/maps/wqmbK9kYwMZDJQ1f6

靖國地蔵尊

龍海寺境内に。
昭和17年1月14日建立。開戦直後、ですね。


付記

緒方洪庵墓所(東京文京区・高林寺)

緒方洪庵墓(文京区指定史跡)
 洪庵は、江戸時代末期の蘭学者、医学者、教育者。文化7年~文久9年(1810~63)現在の岡山県に生まれ、名は章、後に洪庵と改めた。
 大坂、江戸、長崎で蘭学、医学を学び、天保9年(1838)、大坂に”適々斎塾”(適塾)を開き、診療と研究のかたわら、三千人におよぶ門弟の教育に当たった。この塾から大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉などが輩出した。
 洪庵は、幕府の奥医師として江戸に招かれ、翌年、文久3年(1863)に病没した。


付記

大村益次郎像(靖國神社)

明治15年(1882)、大村益次郎の意思を継いで陸軍創設に貢献をした山田顕義らにより、大村益次郎の功績を称えるべく銅像の建立が発議される。
明治26年(1893)、6月、大村益次郎も創建に尽力をしていた東京の靖国神社の境内に大村益次郎の銅像が建立され、除幕式が執行。日本初の西洋式銅像、であった。

この像は、戊辰戦争の際、司令官として江戸城本丸から、彰義隊が立てこもる上野を見つめている姿であるという。

靖國神社の大村益次郎は、上野公園の方向を向いているという。そして上野公園の西郷隆盛と向かい合っている、ともいう。


関連

「明治神宮外苑」と「青山練兵所跡」

明治神宮外苑。

もともと当地は、「青山練兵場」であった。
大正元年(1912)9月13日、  明治天皇崩御による「大喪の礼」が青山練兵場で執り行われた。
大正15年(1926)に、青山練兵場の葬場殿跡地に、「聖徳記念絵画館」を中心とする「明治神宮外苑」が完成。
大正13年(1924)に完成していた「明治神宮外苑競技場」では、戦時中に「学徒出陣壮行会式典」が行われている。

青山練兵場

以下を参照。


御観兵榎

御観兵榎の碑は、東郷平八郎書。大正15年7月、明治神宮奉賛会による。
この場所で、  明治天皇御台臨のもとに、明治22年2月11日の憲法発布観兵式、明治39年4月30日の日露戦役凱旋観兵式などが行われた。
明治天皇の御座所は、常にこの榎の大木の西側に設けられていたという。
現在の榎は2代目。

御観兵榎
伯爵東郷平八郎書

御観兵榎 について
 この外苑の敷地は、もと陸軍の青山練兵場で、明治天皇 の御台臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治二十三年(一八九〇)二月十一日の憲法発布観兵式や、明治三十九年(一九〇六)四月三十日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎 を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成七年(一九九五)九月十七日老令(樹令二百余年)の為台風十二号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。
 平成八年(一九九六)一月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹令六十年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。
  平成八年一月吉日 明治神宮外苑

「初代 御観兵榎」
 
 にれ科えのき属、樹齢二百余年と推定される。
 幹廻り、二・二メートル 高さ、九メートル 枝張り、十六メートル
碑石 
 石材は伊豫(愛媛県)青石、天然石
題字 
 東郷平八郎 書 
 明治三十八年日本海海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、
 当時の連合艦隊司令長官 東郷神社の祭神

場所

https://goo.gl/maps/neRxNAr38GfSDxot8


陸軍大学校跡

青山練兵場があったころの陸軍大学校は、現在の港区立青山中学校にあった。


明治神宮外苑の記

明治神宮外苑の記
石碑の題字 
  「明治神宮外苑之記」
  明治神宮奉賛会 総裁 閑院宮載仁親王殿下の篆書
撰文  
  明治神宮奉賛会 会長 徳川家達
石材
  東北仙台産の板岩
  高・地表4メートル 幅・1.8メートル 厚・0.36メートル

碑文の大意
 明治45年(1912)7月30日に、明治天皇(第122代の天皇・今の天皇の曽祖父)、大正3年(1914)4月11日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正9年(1920)11月1日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。
 明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいものと、明治人外苑の造営が進められることになりました。
 これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しばしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正15年(1926)10月に、明治神宮外苑は完成しました。
 苑内には、天皇・皇后御二方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画が掲げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の身心鍛錬の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る内苑と相俟って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。
 外苑造成工事全く成り、奉賛会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。
  大正15年(1926)10月 
    明治神宮奉賛会 会長徳川家達

明治神宮外苑案内図。
かつて、「明治神宮外苑競技場」として明治神宮外苑に含まれていた競技場は、昭和31年に国立競技場として文部省に移管されたため、現在は明治神宮外苑の敷地には含まれない。

明治神宮外苑
銀杏並木

銀杏並木

手前が高く、奥が低い銀杏が植えられるという、巧みな遠近法が用いられている。
大正15年の明治神宮外苑に先立ち、大正12年(1923)に植樹。


明治神宮外苑
国旗掲揚塔

見事すぎる国旗掲揚塔。

台座には2頭の一角獣が。


日本最古級のアスファルト舗装
聖徳記念館絵画館前通り

近年(令和元年12月)、当時の舗装が保護のために覆われ、当時の舗装は、今ではほんの一角のみが見学できるようになっている。

明治神宮外苑の舗装
 明治神宮外苑の道路の舗装は、東京市(当時)でも大規模で本覚益那加熟アスファルト混合物を用いた舗装であり、1926年(大正15年)1月に完成しました。
 この工事は、我が国においてワービット(Warrenite-Bitulithicの略)工法を採用した最初の工事であったばかりでなく、アスファルトは国産品(秋田県豊川産)を使用し、当時の最新鋭機による機械化施工が行われました。
 この舗装は長い年月の使用に耐え、左図の濃色の箇所(下の写真)が66年間(1992年改良)にわたって車道として使われてきたことは、驚嘆に値します。また、この案内板の前の舗装は当時のまま現存しており、日本における車道用アスファルト舗装としては最古のものです。

  当時の工事概要
(1)発注者:明治神宮造営局
(2)施行面積:59,096㎡
(3)施行費用:167,135円
(4)工期:1924年5月~1926年1月
(5)監督者:工学博士・藤井眞透

土木学会選奨土木遺産
 特別区道43-650(霞ヶ丘町1番地先)の車道用アスファルト舗装は国内最古級の「ワービット舗装(ワーレナイト・ビチュリシック工法による舗装の略称)」であり、平成16年度に公益社団法人土木学会選奨土木遺産に認定されました。
 完成から90年以上が経過し路面性状が良くない(ひび割れが生じている)ことから、土木学会及び東京都と協議し、ワービット舗装をインターロッキングブロック舗装(ILB舗装)で覆いました。
 こちらの展示スペースでワービット舗装をご覧いただけます。


聖徳記念絵画館

大正15年(1919)10月22日竣工。国指定重要文化財。
明治神宮による維持管理が行われている。


葬場殿趾(葬場殿趾円壇)

葬場殿址
明治天皇が明治45年(1912)7月30日にお亡くなりになり、その御葬儀が9月13日に全国民の悲しみのうちにこの場所(当時の青山練兵場)で行われました。
ここがその時に御柩車が置かれた葬場殿のあとです。
中央の大木はこのことを記念して植えられた楠の木です。
 明治神宮外苑

明治天皇の御柩車は、青山練兵場仮停車場から、京都桃山に向かわれた。

葬場殿趾


樺太国境画定標石(樺太島日露国境天測標)

日露戦争終結後、明治38年(1905)から昭和20年(1945)までの40年間、樺太島北緯50度以南は、日本の領土だった。日本としては陸地の国境線は以後に有していない。

樺太島を北緯50度で南北に分断し、東のオホーツク海沿岸から西の間宮海峡まで132kmの間に、日露の紋章を刻した「天測境界標」と呼ぶ国境標石4基を設置、さらに平均6kmごとに小標石17基を置き、19か所に木標が建てられた。

明治神宮外苑にある「天測境界標」は第四天測点のレプリカ。
日本側には「菊の紋章」、ロシア側は「双頭の鷲の紋章」が刻まれている。

樺太国境画定標石
 時 明治39年6月~40年10月
 所 樺太日露境界

 明治37、8年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯50度以南は、日本の領土となりました。
その境界を標示するため、日露両国委員は、明治40年9月4基の天測標と17基の小標石を建てて境界を確定しました。
 この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたが、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕彰周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。
 日本側の菊の紋章の背面には露国の鷲の紋章が刻んであります。又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が国境標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。
  昭和54年6月2日
    明治神宮外苑

大日本帝国
境界

上に「模造」と刻まれている。

天第四号
明治三十九年

ロシア国側。日本にとっては裏、ロシアにとっては表。


建国記念文庫

「建国記念の日」の祝日の制定を記念して建立。

建国記念の日 二月十一日

建国記念文庫
昭和41年12月9日、建国日制定審議会は2月11日を建国記念の日として答申、即日法律によって発布された。この間、数十万通に及ぶ、記念日制定の希望・意見書が進達されたので、ここに建国記念文庫を建設し、これを保管する事にした。
建設費は総て国民の浄財である。これは、現下の国民が等しく建国を思う情熱の結果であり、千年万年の子々孫々に伝え、以て後日の語り草にしたいのが、記念文庫設立の目的である。
建物は、わが国が建国当時、米穀を以て立国としたことを想い、奄美大島の高倉様式を移築しその屋上にテンパガラスを施行し、ここに書類を保管した。書は、出雲大社の神門の布施杉の材に佐藤大寛が墨書した。
礎石は、坂上田村麻呂将軍の東征により、平和国家が確立された故事に鑑み、奥州厳作山の石垣白河石を以て施工した。
  昭和44年(1969)2月11日
  元建国記念日制定審議会長 菅原通済記

ちなみにこのエリアは夜間は立入禁止、だそうで。
建国記念の日を面白くない人々の襲撃を防ぐため、だとか。


青山練兵所の陸軍境界標石?

青山練兵所の南西付近。それっぽい標石が残っている。
ただし、記載されているであろう文字面が見えないために詳細は不明。

場所

https://goo.gl/maps/CCc8xhEvYAURs5fBA


明治神宮野球場

大正15年(1926)10月に明治神宮外苑に「明治神宮外苑競技場」とともに完成。
改修に次ぐ改修が行われているが、ベースは大正15年に建設された球場が使用されている。
再開発が予定されており、2027年以降に取り壊して、秩父宮ラグビー場と敷地を入れ替えて新球場が建設される予定という。秩父宮ラグビー場は明治神宮外苑第二球場の地に新設。


日本オリンピックミュージアム
MONUMENT AREA

オリンピックシンボルモニュメント、岸記念体育会館から移設した岸清一像、ピエール・ド・クーベルタン像、嘉納治五郎像、1964年東京オリンピック、1972年札幌冬季オリンピック、1998年長野冬季オリンピックの聖火台レプリカなどが設置されている。

「いだてん」な感じですね。

岸清一像

ピエール・ド・クーベルタン像

嘉納治五郎像

オリンピックシンボルモニュメント

1998年長野冬季オリンピック 縮尺1/2

1972年札幌冬季オリンピック 縮尺2/3

1964年東京オリンピック 縮尺3/4


国立競技場

前身は「神宮外苑競技場」。

大正13年(1924)に、明治神宮外苑競技場として開場。
第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)10月21日には学徒出陣壮行会会場ともなった。

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300562_00000&seg_number=002

戦後は、明治神宮から文部省に移管され、旧国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)は昭和33年(1958)竣工。
そして、2019年に新・国立競技場として生まれ変わった。


学徒出陣壮行の地 記念碑

明治神宮外苑競技場の地から、一時的に移転された学徒出陣壮行の地 記念碑。新国立競技場に戻ってきました。
ただし、新国立競技場には自由に入れないので、これは後ろ姿ですね。。。。
(早く正面から見たい。。。

※訪問しました


近衛歩兵第四連隊跡碑
近衛歩兵第六連隊跡碑

国立競技場の隣、「都立明治公園」に、近衛歩兵第四連隊跡碑・近衛歩兵第六連隊跡碑があるというも、再開発とオリンピック絡みで立ち入りできず。。。

まあ、落ち着いた頃に再訪ですね。。。
なんか悪い予感がするんです、再開発で無くなっていなければよいのですが。。。


「学徒出陣壮行の地 記念碑」と「近衛歩兵第四連隊跡碑」「近衛歩兵第六連隊跡碑」と、確認できなかったものがあったのが心残り。また、再訪をしましょう。

※撮影は2020年8月

「御所トンネル」と「青山練兵場停車場跡」

東京都下を東西に結ぶ中央線。
その中央線の中でも最古のトンネルが「御所トンネル(旧御所トンネル)」。
このトンネルの建設には陸軍も関与しておりました。

鉄道遺産、そして戦跡として、ちょっと観察してみます。


甲武鉄道と陸軍

「中央線」の前身「甲武鉄道」。
甲武鉄道は明治22年(1889)4月に新宿~立川間、8月には、立川~八王子間を開業。
新宿から東京市内への路線延長に関しては、新宿~牛込・飯田橋間を甲州街道沿い(新宿御苑北側)で計画されていたが、明治27年(1894)日清戦争の勃発の影響などもあり陸軍側の強い要請で千駄ヶ谷~信濃町間を経由するルートで延伸が決定。これは「陸軍青山練兵場」(現在の明治神宮外苑)からの軍隊輸送のために必要という側面があった。
陸軍が希望するルートで線路を敷設するためには、 畏れ多くも「赤坂御料地(赤坂離宮・赤坂御用地・赤坂御所・迎賓館」「学習院初等科」の敷地の一部にトンネルを設けざるを得なかったが、そこは軍事優先で陸軍の後押しもあり、明治27年9月17日に新宿~青山軍用停車場が完成。
甲武鉄道はその後も着実に路線を延長し明治27年10月に新宿~牛込(飯田橋)」間、明治28年4月には牛込~飯田町間が開業。
明治28年に新宿~飯田町間を複線化、明治37年(1904)に御茶ノ水まで延伸。また、日本の普通列車としてはじめての電化運転(電車)を開始。
東のターミナルとして万世橋まで延伸が予定されていたが、明治39年(1906)に鉄道国有化法により国有化し、甲武鉄道としての歴史は終了した。(万世橋駅の開業は国有化後の明治45年)


御所トンネル(四ツ谷駅側)
<丸ノ内線四ツ谷駅ホームより>

旧御所トンネル
明治27年(1894)、新宿~牛込(飯田橋)間を延伸するにあたって、陸軍の強い要望により青山練兵場を経由するルートで線路を敷設せざるを得なかった甲武鉄道は、 畏れ多くも「赤坂御料地(赤坂離宮・赤坂御用地・赤坂御所・迎賓館」「学習院初等科」の敷地の一部にトンネルを敷設。(もちろん陸軍が承諾の後押しをしている)
これが、煉瓦造りで造られた全長317mの「旧御所トンネル」

新御所トンネル
大正時代末期に中央本線を複々線化する工事が始まり、旧御所トンエルの西側に3線を通す新しいトンネルが、昭和4年(1929)完成の「新御所トンネル」(鉄筋コンクリート・385m)

現在は、旧御所トンエルを総武線下りのみが利用。新御所トンネルを中央線と総武線上りが利用している。

地下鉄丸の内線・四ツ谷駅。荻窪方面行きホーム後方から、よく観察できます。

旧御所トンネル 317M

こちらは、新御所トンネル。3連です。
同じく、丸ノ内線ホームより。

明治のトンネルと昭和初期のトンネルで、煉瓦造から鉄筋コンクリート造に変化してます。

新御所トンネル 385M


御所トンネル(四ツ谷駅側)
<中央線四ツ谷駅ホームより>

JR中央線の四ツ谷駅からは、新御所トンネルしか見えません。旧御所トンネルは死角。


御所トンネル(信濃町駅側)
<朝日橋より>

御所トンネルの新宿方面(信濃町側)も観察。
新御所トンネルと旧御所トンネル。
信濃町側は旧御所トンネルも鉄筋コンクリートになってますね。新御所トンネルが建造された際に統一されれたのでしょうか。


四ツ谷駅眺望

総武線の先には、迎賓館が見える。

丸の内線は、ギリギリで御所の脇を通過するが、総武線は、ギリギリで御所の敷地を通過している。

旧御所トンネルの四ツ谷口が丸ノ内線車両の先に見える。


位置関係(御所トンネル)

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」 より (一部加工)

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.680682&lng=139.724132&zoom=16&dataset=kanto&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

赤坂離宮の敷地の下を・・・。
文字通り、赤坂御所(赤坂離宮)の下を通過する「御所トンネル」です。

Google航空写真(一部加工)

https://goo.gl/maps/ejmv9ZDX8argh34u9


迎賓館前

御所トンネルは、現在は迎賓館前の「新宿区立若葉東公園」の下を通過している。


青山練兵場停車場跡

甲武鉄道(現在の中央線)は、甲州街道ルートを目指していたが、陸軍の強い要請で南回りルート(千駄ヶ谷・信濃町ルート)での線路敷設に変更させられた。その理由は「青山練兵場」に軍用停車場を設置するため。
そしていまでも、青山練兵場に通じていた線路の名残が側線として、残っている。

線路と首都高速4号線の間に側線が見える。この側線が当時の青山練兵場停車場の名残。
首都高速4号線の左側が、明治神宮外苑(当時の青山練兵場)。

千駄ヶ谷駅ホームから、側線を望む。
右側の緑の茂みに伸びる側線が「青山練兵場停車場」の名残。

隣の駅、信濃町駅のホームも見える。


位置関係(青山練兵場停車場)

Goo地図-1907年(明治40年)を一部加工

https://map.goo.ne.jp/map/latlon/E139.43.18.149N35.40.38.381/zoom/11/?data=meiji

当時、青山練兵場の北側には「陸軍第一師団輜重兵第一大隊」があった。
青山練兵場と陸軍第一師団輜重兵営との間は、3つの跨線橋があったが、現在は1つのみ残されている。(跨線橋=大番町跨線橋は後述)

明治天皇が崩御された際に、大喪の義は青山練兵場で執り行われた。
葬場殿の後方にあった「青山仮停車場」で、東京の人々は、 明治天皇と最後のお別れを行い、そして 明治天皇のお棺は、京都桃山に鉄路で向かわれた。

また、陸軍第一師団輜重兵営の敷地は大正9年に慶應大学に売却され、現在は慶應義塾大学病院となっている。
当時の名残として「陸軍境界石」が残されている。

青山練兵場の北側にあった輜重兵営は、世田谷に移転している。

そして、青山練兵場は、代々木練兵場に移転している。

ちなみに都内の練兵場としては、日比谷→青山→代々木と移転している。


大番町跨線橋(大番町通跨線道路橋)

前述の青山練兵場停車場跡を上から撮影したのが、「大番町跨線橋」。
青山練兵場と陸軍第一師団輜重兵営の間には、3つの跨線橋があったが、現在は一つのみ残されている。

この橋の正式な名称は、「大番町通跨線道路橋」というのかもしれない。

しかし交差点では「無名橋」と記載。

青山練兵場とともにあった跨線橋が、当時を物語る戦跡。
いまでは「無名な橋」とされているが、今も昔も南北を往来する貴重な橋として名前は知られずとも活用されていた。

※本記事の撮影は、2020年8月及び2021年3月


明治神宮外苑

青山練兵場の跡地、明治神宮外苑など。

東京第二陸軍造兵廠深谷製造所深谷工場跡地散策

埼玉県深谷市。
かつてここには兵器工場「陸軍造兵廠」があった。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所として深谷市内に「原郷工場(深谷工場)」「明戸工場」「櫛挽工場」の3工場が展開。
今回はそのうちの南西側にあった「原郷工場(深谷工場)」の戦跡を散策してみる。


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所

昭和15年(1940)の組織改編によって、陸軍兵器廠の板橋火薬工場が「東京第二陸軍造兵廠」となり、隣の十条兵器工場が「東京第一陸軍造兵廠」となった。

埼玉県内には「大宮」「川越」「春日部」に東京第一陸軍造兵廠が置かれていた。
そして「深谷」には東京第二陸軍造兵廠が置かれた。これは板橋の疎開先としての設置であった。深谷には「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」があり、利根川の対岸の高崎には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」があったことから工場疎開先として都合が良かったとされる。
昭和18年11月より移転のための用地買収が開始。
もともとの「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」を「明戸工場」とし、日本煉瓦製造専用線沿線の幡羅地区に「深谷工場」(原郷工場)を建設。深谷駅南の櫛挽地区に「櫛挽工場」を建設。
用地買収の1年後となる昭和19年10月に「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所」が設立され、本部は現在の「深谷第一高等学校」の地に置かれた。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦。

「櫛挽工場」は以下で。

「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」「明戸工場」は以下で。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-B-80
1947年11月04日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

GoogleMapにて補完。

今回の散策は深谷の中心部に位置する「深谷工場」跡地を散策してみる。


二造深谷製造所深谷工場跡地散策

当時の給水塔が住居として再利用されている。
現在は個人所有のため、立ち入りは不可。

ティーサロン詩季

喫茶店が営業している。

登録有形文化財

給水塔は文化財指定。

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/116147

旧東京第二陸軍造兵廠深谷製造所給水塔
 この建物は第二次世界大戦(太平洋戦争)末期、1943年~1944年にかけて旧陸軍造兵廠が周辺の軍火薬工場に給水する為に建設したものです。1955年より個人所有となり現在は住居として利用しています。2002年10月18日登録有形文化財に指定されました。

構造   鉄筋コンクリート造5階建
     (最上部5階部分が水のタンクになっていた)
高さ   18m
延床面積 205.5平方メートル

住居としての記事が、以下のサイトに詳しい。
給水塔の家 → http://www.karasaki.org/top/top.html 

この建物は住居です。
敷地内に不法侵入した場合は警察に通報します。

1階と2階部分の天井が高く、3階4階までが住居。5階部分がかつての貯水槽。

4階からは外階段で屋上にアクセスする構造。

場所

埼玉県深谷市原郷1118

https://goo.gl/maps/5TtfpvV4Saem1wGp7


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所本部跡

現在の埼玉県立深谷第一高等学校に、東京第二陸軍造兵廠深谷製造所の「本部」が設けられていた、という。
(当時は、埼玉県深谷高等女学校)

埼玉県立深谷商業高等学校記念館

近くには、埼玉県立深谷商業高等学校もある。
国の登録有形文化財「埼玉県立深谷商業高等学校記念館」は1922年(大正11年)4月竣工。

中山道深谷宿

深谷宿は中山道で最大規模の宿場。
深谷市内には随所に、往時の賑わいを感じさせる佇まいが残っている。

「中山道深谷宿本舗」でレンタサイクルを借りました。
渋沢栄一関連なども交えて観光するには広域移動が必要なので、自電車必須です。

https://fukaya-tmo.com/project/

煉瓦の街、深谷って感じです。


造兵廠関係

東京第二陸軍造兵廠

https://senseki-kikou.net/?p=11875

埼玉県内にあった陸軍造兵廠のひとつ


深谷関係

大本営地下壕と市ヶ谷記念館(防衛省・市ヶ谷台ツアー)

市ヶ谷台ツアーに参加してきました。
「大本営地下壕跡」を中心に掲載していきます。

以前に「市ヶ谷ツアー」に参加したときとは、コースも大きく変更されてますね。
特に大きな変更点は「メモリアルゾーン」への見学が無くなったこと。

以前の「市ヶ谷ツアー」のレポートは以下も参照に。
※大講堂の展示資料の多くは重複するので、以前のレポートに譲ります。

ちなみに、かなり特殊ですが、運良く、メモリアルゾーンの見学もしました。ここは、一般向け見学ツアーには含まれておりません。


市ヶ谷台ツアー

大本営地下壕跡

今回、「市ヶ谷台ツアー」に参加した最大の理由は、もちろん「大本営地下壕跡」の見学のため。

補修工事後の2020年8月から「市ヶ谷台ツアー」の午後の見学コースとして一般公開を開始。
防衛省市ヶ谷地区を見学できる「市ヶ谷台ツアー」は事前予約・定員制。大本営地下壕跡が見学できる午後の部は参加定員も少ない。開催は平日のみ。土日祝は無しのために、平日に時間を捻出しない限り参加できないので、人によっては参加条件の難易度が高い。

防衛省・自衛隊>市ヶ谷地区(市ヶ谷台ツアー)の御案内

https://www.mod.go.jp/j/press/ichigaya/index.html


儀仗広場の石灯籠(地下壕の通気筒)

儀仗広場の奥に見える石灯籠。
実は、大本営地下壕の通気筒。地上部は石灯籠によりカモフラージされている。
石灯籠は2基設置されているが、儀仗広場から見えるのは、1基のみ。

ちなみにこの日は、外国からの来賓があった。そのため、日本国旗は中央ではなく右側に。
一度掲げた国旗は、揚げ直しは出来ないため、この日はこのまま右側で掲揚。

中央に掲揚でない日本国旗を見るのは、レアかもしれない。

地下壕に入る前に、ヘルメットが支給されます。


大本営地下壕

この地下壕は、第二次世界大戦中に市ヶ谷台に置かれた陸軍中枢機関の防空壕として建設されました。
平成28年5月の観光立国推進閣僚会議において「観光ビジョンの実現に向けたアクション・プログラム2016」が決定されたことを受け、将来的な保存・公開が検討され、構造物の調査が行われました。
その後、耐震補強や老朽化防止対策が施され、公開されることとなりました。

江戸城周辺の要衝
市ヶ谷台は海抜31.4m、江戸城の西北に位置し、江戸城周辺における最も高台の要衝の地であり、明暦2年、尾張徳川家第2代光友公が上屋敷を築いた。明治時代には陸軍士官学校が開校した。

陸軍中枢機関の移転
昭和12年に士官学校本科が神奈川県座間へ、昭和16年に予科士官学校が埼玉県朝霞へ移転し、代わって大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部等の陸軍中枢機関がこの地に移転した。地下壕は、大本営陸軍部等が入る建物(旧陸軍士官学校本部)地下に建設された。

終戦
当時の軍人の記録によれば、昭和20年8月10日、阿南惟幾陸軍大臣が将校らをこの地下壕に集め、8月9日の御前会議においてポツダム宣言受諾を決断した昭和天皇の聖断を伝えたとされている、戦後は、GHQ(連合国最高司令官総司令部)が使用した後、昭和34年に返還された。

地下壕は南北に3本、東西に2本、南側には出入り口が6扉設けられ、北側は階段で建物とつながっていた。

大本営・大本営陸軍部
大本営は、戦時または事変に際して設置された、天皇を補佐する最高の統帥機関。明治26年5月の「戦時大本営条例」により、制度化され、日清戦争及び日露戦争において設置された。その後、日中戦争の拡大にともない、昭和12年11月20日設置され、太平洋戦争を通じて存続し、昭和20年9月13日に廃止された。この期間の大本営の構成は軍人に限定され、首相や分館が除かれたため、大本営とは別に、大本営政府連絡会議、のちに最高戦争指導会議などの政府との協議体が設けられた。

大本営陸軍部は、参謀本部とほぼ同一の組織である大本営陸軍部幕僚(大本営陸軍参謀部及び陸軍副官部)と、兵站総監部や大本営陸軍報道部等からなる大本営陸軍部諸機関より構成されていた。また、軍政に関する事務を処理するため必要な人員として陸軍省から陸軍大臣、同次官、人事局長、軍務局長など10数名が加わった。昭和12年の設置以降、戦線の拡大にともない逐時機構を拡大し、昭和20年5月には定数が1792名となっていた。

終戦間際の地下壕
終戦時に陸軍省軍務局軍務課内政班長を勤めていた竹下正彦中佐の記した「機密終戦日誌」によれば、1945(昭和20)年8月10日、阿南惟幾陸軍大臣が陸軍省幹部をこの地下壕に集め、8月9日の御前会議においてポツダム宣言受諾を決断した昭和天皇の聖断を伝えたとされている。


昭和二十年八月十日
一、昨夜二十三時ヨリ開カレタル御前会議ハ本朝三時過終了引キ続キ閣議アリ
二、九時三十分ヨリ地下防空壕ニ於テ陸軍省高級部員以上ノ集合ヲ命ゼラレ大臣ヨリ昨日ノ御前会議ノ模様ニ付左記要旨ノ説明アリ

左記
昨夜十一時ヨリ本朝三時ニ亘リ御前会議開催セラレ皇室ノ保全ヲ条件トシテ「ポツダム」宣言内容ノ大部ヲ受諾スルコトニ 御聖断アラセラレタリ
(略)
 「機密終戦日誌」より引用

市ヶ谷台の歴史
江戸時代
・1656年3月 尾張徳川家第2代光友が第4代将軍家綱から市ヶ谷台に5万坪を拝領
・1657ね1月 明暦の大火を機に尾張徳川家が上屋敷を設置
明治・大正時代
・1868年3月 江戸城開場に際して官軍の砲兵陣地を設置
・1871年   西郷隆盛率いる御親兵が駐屯
・1974年12月 陸軍士官学校開校
・1923年9月 関東大震災によって校舎の大部分が消失
昭和時代
・1937年6月 陸軍士官学校本部庁舎竣工
・1937年8月 陸軍予科士官学校創設、陸軍士官学校が座間へ移転
・1941年12月 太平洋戦争開戦
       陸軍予科士官学校が朝霞へ移転
       大本営陸軍部、陸軍省、参謀本部などが三宅坂から移転
・1945年8月 終戦
・1945年12月 第一復員省設置
・1946年5月 連合国軍進駐、極東軍事裁判開廷
・1947年   米極東軍司令部、国連軍司令部、米国将校宿舎等として使用
・1959年   連合国軍から返還
・1960年1月 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地開設

大本営地下壕
地下壕は南北に3本、東西に2本の壕が交差した構造となっている。3か所の出入り口には、堅固な鉄扉が取り付けられ、内部には大臣室、通信室、炊事場、浴槽等の設備を備えていた。また、通気筒が2か所あり、地上部は日本庭園に石灯籠を配置しカモフラージュした。
全体:幅48m x 奥行52m
通路:幅4.6m x 高さ4m
構造:鉄筋コンクリート構造
面積:1342.21平方m

地下壕の通気孔。
この通気孔は直線ではなく、内部で折り曲がった上で地上の石灯籠とつながっている。直線ではないのは、万が一の爆撃が直撃する恐れもあり、また光を漏らさないための工夫であった。

当時の壁面を一部残している。鉄骨で構築されているのがわかる。
この箇所以外の壁は保存補強で上塗りされている。

米軍占領時代に記載。

No Smoking

陸軍大臣室ちかくの通風孔。

東西を結ぶ地下壕。

柱の奥が「陸軍大臣執務室」(手前)や「通信所」(その奥)跡。
左側の通路は「食堂室跡」へつながる。

「陸軍大臣執務室」(手前)や「通信所」(その奥)跡

南北の地下壕。奥には庁舎につながっていた階段がある。

便所跡
(大便器跡)

便所跡
(小便器跡)

南側の出入り口につながる扉跡。

分厚さがわかる。

出入り口には鉄扉があった。

重厚なコンクリートで覆われた出入り口。

陸軍中枢の大本営地下壕。絶対に何があっても護られる重厚な地下壕。
貴重な見学となりました。

以下、地下壕以外の見学記録も。


市ヶ谷台ツアー

防衛省庁舎 D棟 E棟

防衛省庁舎 A棟 D棟

bぼうえいしょう防衛省防衛省t庁舎庁舎

防衛省庁舎B棟 陸海空各自衛隊の通信部隊が使用する通信局舎


市ヶ谷記念館

陸軍士官学校本部として建設された建物の象徴的な部分を移設・復元。


市ヶ谷記念館
大講堂

昭和9年に陸軍士官学校の大講堂として造られた。
昭和21年5月から同23年11月までの間、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法定として使われた。

玉座

玉座に集まるように設計された壁面

玉座からみて、扉を小さく見せる工夫。
2階のせり出しをギリギリまで下げている。

よく見ると斜面。
扉を小さく見せ、2階部分を高く見せないための工夫。

玉座の陛下の目線から、2階を上に感じさせない構造となる。


極東国際軍事裁判・証言台(復元)

極東国際軍事裁判の証言台をイメージ。実際に置かれた場所に設置。
大講堂は「陸軍士官学校」時代を再現しているが、ここは「東京裁判」な空間。


極東国際軍事裁判・裁判官出身国国旗(復元)

こちらの大講堂が極東国際軍事裁判の法定として使用された際に裁判官席の後方に設置された裁判官の出身国の国旗(1946年当時)を再現したものです。

インド、オランダ王国、カナダ、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)、アメリカ合衆国、オーストラリア連邦、中華民国、ソビエト社会主義共和国連邦、フランス共和国、ニュージーランド、フィリピン


大講堂の床も復元にあたって当時の材質を忠実に利用。

矢印の場所は、復元するために位置情報をマーキングしていたシールの跡。
きれいな板は新しく用意した板。それ以外は当時からの板を再利用。


旧陸軍士官学校長室
旧陸軍大臣室
旧陸上自衛隊東部方面総監執務室

士官学校時代は、士官学校校長室。
昭和16年以降は、陸軍大臣室。
戦後は陸上自衛隊東部方面総監執務室であった。

陸上自衛隊東部方面総監執務室時代に、三島由紀夫が扉につけた刀傷が3箇所残っている。
以前はマークはなかったが、いつのまにかわかりやすい表示に進化。

陸上自衛隊時代の旧1号館の復元模型。

バルコニー。三島由紀夫が演説した場所。

大本営陸軍部
陸軍士官学校

表札


旧便殿の間

士官学校時代、 陛下の休憩所として使用された。
戦後は、陸上自衛隊幹部学校長室として使用。

通常の扉は中からは引く扉であるが、 陛下が中から引くことを想定しておらず、外から引く扉となっている。

当時は冷房がなかった時代。地下からの冷気を部屋に取り込むために冷却ダクトが備えられている。

昭和9年の特別大演習の集合写真。


陸軍士官学校歴代校長

2代校長 中将 大山巌
3代校長 中将 谷干城

9代 14代 校長 中将 寺内正毅

20代校長 中将 白川義則 (上海事変)
21代校長 中将 鈴木孝雄 (鈴木貫太郎の弟)

23代校長 中将 南次郎 (満州事変の陸軍大臣)
25代校長 中将 真崎甚三郎 (皇道派 二・二六事件)

陸軍予科士官学校歴代校長

初代予科校長 少将 甘粕重太郎 (甘粕正彦の従兄弟)
2代予科校長 中将 牛島満 (沖縄戦)
3代予科校長 中将 牟田口廉也 (ジンギスカン)


警察予備隊本部
警察予備隊で使用していた看板
昭和25年に国家地方警察本部から分かれ警察予備隊本部が越中島に設置された。

防衛庁
元防衛帳南門で使用していた看板
昭和45年 中曽根元総理揮毫

市ヶ谷記念館のシンボル
「大時計」「桜」

「大時計」
「1号館」の大時計として、平成9年の解体まで波瀾万丈の時を刻んだ。

「桜」
陸上自衛隊東武方面総監部等が使用した「1号館」のシンボルとして、長い間人々に親しまれた。



市ヶ谷記念館の西隣りに。(以前のツアーの際は見学コースに含まれておりませんでした)

スディルマン・インドネシア共和国初代国軍司令官

スディルマン・インドネシア共和国
初代国軍司令官

 本銅像は、プルノモ・インドネシア共和国国防大臣より防衛省に対し、日・インドネシアの友好親善及び日・インドネシア防衛協力・交流の今後の発展の象徴として寄贈されたものである。
 本銅像のスディルマン・インドネシア共和国初代国軍司令官とは、オランダとの独立戦争の指導者であり、インドネシアの国民的英雄である。1916年生まれ。師範学校を出て教師になったが、独立戦争のため、軍に参加。日本軍政の時、日本軍の軍事訓練を受け大団長(大隊長)を務めた経験もあり、1945年、最年少で将軍になる。インドネシア政府は業績をたたえ、記念碑を建立。彼の名は、首都ジャカルタをはじめ国内主要都市の最も繁華な通りの名前につけられ、大学の名前にもなっている。


同じく市ヶ谷記念館の西隣りに。

旧歩兵第一連隊営門

旧歩兵第一連隊営門の由来
 防衛庁が所在した檜町地区は、江戸時代には毛利藩中屋敷があったが、明治4年12月に国有地となり、明治6年5月、日本陸軍の名誉ある頭号歩兵連隊として創設された東京鎮台歩兵第一連隊が駐屯することとなった。爾来、同連隊には34代にわたる連隊長が在職したが、その中でも乃木希典は第2代歩兵第一連隊長(明治11年~15年)であり、彼の住居は今も旧防衛庁の近隣に現存し、昔日の姿を残している。
 大正12年の関東大震災に伴い損傷を受けた連隊本部は取り壊され、連隊はしばらくの間バラックを使用していたが、昭和4年8月に連隊本部の建物(旧防衛庁庁舎20号館)及び営門(本展示物)が竣工した。
 その後、幾多の昭和の激動を経た連隊本部は、その営門と共に昭和20年5月25日の東京大空襲による焼失を免れ、終戦を迎えた。
 戦後、昭和21年から米軍が駐屯したが、旧20号館は営門とともに残置された。昭和34年の米軍移駐に伴い、昭和35年、それまで霞が関に所在していた防衛庁は桧町に移転し、旧20号館は防衛庁の庁舎として使用されるとともに営門は檜町の象徴として保存された。
 昭和53年4月、老築化が進んでいた既設の塀は建て替えられたが、営門は敷地内に引き続き保存されることになった。
 平成12年、防衛庁本町庁舎の市ヶ谷地区への移転完了に伴い、檜町地区の既存建物は旧20号館を含め逐次解体されたが、昭和35年に霞が関から檜町地区に移転して以来、防衛庁・自衛隊を見守ってきた営門は、檜町地区における唯一の歴史的建造物として、ここ市ヶ谷地区に移設された。
 この旧歩兵第一連隊本部の営門は、檜町地区勤務経験者にとって王子を偲ばせるものになるとともに、21世紀を担う若い自衛隊隊員とこの市ヶ谷の地に繰り広げられる諸々の出来事を、これからも見守り続けていくことであろう。
 平成15年7月


戴き物

防衛省 市ヶ谷台ツアー 来場記念品
防衛大臣のメッセージカードとポストカード

是非、足を運んでみてください。


関連

市ヶ谷水管橋

横沢入の戦車橋と地下壕跡(あきる野市)

東京都あきる野市に武蔵野の里山が残っている。
「横沢入里山保全地域」
静かな里山に、ひっそりと戦跡も混じっていた。

夏場は草が茂っていて観察には適さないであろうと考え、冬場に散策を。

武蔵増戸駅から約15分ほどあるけば、「横沢入」。案内看板も出ているので迷うことはないだろう。

横沢入保全地域
この地域は「東京における自然の保護と回復に関する条例」により指定された「横沢入里山保全地域」で、その自然を回復し。保護していく地域です。
 東京都

 マムシに注意!

豊かな自然には、マムシやハチなどもすんでいます。自然を良く知り、危険のないよう気をつけましょう。
東京都

正直言って、スズメバチとは遭遇したくないので、やっぱり冬場が推奨ですね。

横沢入の里山風景。

そして、里山に忽然と現れる戦跡。

陸軍立川航空工廠引田資材倉庫
地下秘匿地区

陸軍立川航空廠によって、軍用航空資材を疎開させるために、あきる野市横沢入に秘匿地区が設けられた。
地下壕は27箇所に及んだとされる。多くの地下壕は斜面を彫り込んで屋根をかぶせた半地下壕タイプが多く、間口2間・奥行5間半、高さは1間半から2間というものが多かった。
設置は昭和19年11月以降から昭和20年2月頃。陸軍64部隊(本部を増戸小学校に設けた)のおよそ100人での掘削であったという。
 ※参考→ http://a9akiruno.net/sennsei.pdf

戦車橋(東)

横沢川に架かる2つの橋。鋼鉄の骨組みを用いた頑丈な戦車の車体で作られている。
戦後に、農家が生活道路整備のために地下壕に残されていた残骸を用いて、橋の補強に使用したと言われている。
 ※参考→ http://a9akiruno.net/sennsei.pdf

「戦車橋」とは言われているが、使われたのは「戦車」ではなく「牽引車」、いわゆる砲兵トラクター。
「92式3頓試作牽引車」もしくは「94式3頓試作牽引車」とされている。

イメージはこんな感じ。
※ 参考→ https://www.ms-plus.com/72410

ただし、上記は「98式4屯牽引車」。
この戦車橋に使用された車体は、これよりもっと小さく、そして旧型であった。

東の戦車橋。

水路が代わったために、既に橋としては機能してませんね。

しっかりとした鉄の塊。
当時からのものと考えると、感慨深い。

水路にかかる現在の橋と、奥の戦車橋。

そのまま里山を奥にすすんで、西側の戦車橋に。

戦車橋(西)

見事な里山に同化する戦車橋。
こちらは水路の上に架かっており、現在も橋としてきちんと機能しております。


地下壕(地下壕跡)は、簡単にみつけられたのが、4つ。
東側から「1」「2」「3」「4」と振り分けしておく。

地下壕跡1

崩れてますね。。。

きけん
岩が落ちてきます
入らないでください

地下壕跡2

こちらも崩れてますね。。。

この先は、危険なので、立ち入らないでください。 
 東京都

地下壕跡3

おや、ここは「立入禁止」って看板がないですね。

ロープが備えられています。これは登れってことですね。

地下壕が開口してました。
おまけにハシゴまで備え付けられています。

ライトを照らしてみました。なぜかスコップが。。。
こんな急斜面な地下壕に、航空資材を秘匿したとは考えもつかないですが、火急時は平時の想像を容易く超えるんだろうなあ、と。

地下壕跡4

里山から林道に、景色がかわったところに。

なにやら塞いでるような。

柵がありました。こちらも開口してますね。

地下壕の内部を照らしてみました。


横沢入里山保全地域イラストマップ

里山の中心あたりに、イラストマップがありました。

戦車橋2つと、地下壕4つは、きちんとこの地図に書いてありましたので、散策がはかどり助かりました。
ご参考まで。

「戦車橋(東)」と「戦車橋(西)」。
そして2つの戦車橋の間に「地下壕跡1」。
「戦車橋(西)」の近くに「地下壕跡2」。

戦車橋(西)から歩道にそって「地下壕跡2」「地下壕跡3」「地下壕跡4」と並んでいる。


私は、そのまま林道を抜けて、武蔵五日市駅を目指してみました。

釜ノ久保
 ここは、釜ノ久保と呼ばれ、横入沢の源流部です。
  東京都

ここが「峠」

武蔵五日市駅に。

所要時間

武蔵増戸駅  0935
横沢入    0950 ~ 1050
釜ノ久保   1055
峠      1100
武蔵五日市駅 1120

場所

https://goo.gl/maps/RhwyMwqVyK1anZ1N9

関連

日本初の機械式煉瓦工場「日本煉瓦製造上敷免工場」と専用鉄道線跡【渋沢栄一6】

明治政府は急速な近代化整備を行うにあたり良質な煉瓦を必要としており、大量生産可能な煉瓦工場を必要としていた。
煉瓦需要を受けた渋沢栄一らによって煉瓦工場が埼玉県榛沢郡上敷免村(深谷市)に創業した。「上敷免」は渋沢栄一の出身地「血洗島」と同じ榛沢郡であった。

日本で最初の洋式煉瓦工場は「小菅煉瓦製造所」(明治5年)
日本で最初の機械式煉瓦工場が「日本煉瓦製造工場」(明治21年)

日本煉瓦製造工場で生産された煉瓦は、日本の近代化の推進力となった。

  • 東京駅
  • 中央本線の鉄道高架橋(秋葉原の万世橋高架橋など)
  • 司法省(現在の法務省休館)
  • 日本銀行本店本館
  • 迎賓館赤坂離宮
  • 東京大学
日本煉瓦製造工場跡

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R3233-88
1949年10月03日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

上記とほぼ同じ場所をGoogleMapで。

ファイル:USA-R256-No1-146
1947年10月30日、米軍撮影画像を一部加工。

上記とほぼ同じ場所をGoogleMapで。


深谷駅

「日本煉瓦製造・上敷免工場」で製造された煉瓦で建築された東京駅を模した深谷駅から散策はスタート。
深谷駅から、「日本煉瓦製造・上敷免工場」までは約4キロ。かつては専用の線路で結ばれていた。民間工場の専用線路というのも、実は日本初であった。現在、廃線跡は「あかね通り」として整備されている。

※この日は、レンタサイクルを利用して深谷市内を散策しました。
※深谷駅に関しては別記事にて


旧・日本煉瓦製造株式会社上敷免工場専用鉄道線跡
(日本初の専用鉄道)

深谷駅から廃線跡の遊歩道へ。線路にそって、唐沢川を渡る橋は「つばき橋」と呼称されていた。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 渋沢栄一が中心となって、明治20年に設立した日本煉瓦製造株式会社は、日本で初めて機械による煉瓦の大量生産を行いました。ここで生産された煉瓦は、東京駅丸ノ内本屋、旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮)、日本銀行本店本館、旧信越本線碓氷第三橋橋など多くの建造物に使用され、日本の近代化を支えました。市内にも数多くの煉瓦建造物が残っています。
 当初は舟により製品などが運搬されましたが、明治28年に、深谷駅から向上までの約4kmに、日本で始めてとなる民間工場のための専用鉄道線が引かれ、昭和40年代まで使用されました。
 現在は、あかね通り(自転車歩行者専用道)として利用されています。

唐沢川橋梁跡

つばき橋。

ボナール型プレート・ガーダー橋。
橋は、移設再構築されたものという。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 唐沢川に架かる長さ約13.4mの鉄橋は、チャールズ・アセトン・W・ボナールというイギリス人技師が設計した鋼板桁(プレート・ガーダー)橋です。当初は違う構造でしたが、大正時代以降にこの構造になったようです。ボナールは、明治15年に鉄道院が外国から招いた最後の技師で、ボナール型プレート・ガーダー橋は、明治28年から明治34年までに国内各地に架設されました。この橋桁自体は、以前に製作され使用されていたものを移設、又は再構成したものと思われます。

中山道

しばらく進むと、中山道と交差する。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 専用鉄道線は、明治初頭に建てられた中山道深谷宿東端(稲荷町)に建つ常夜灯のすぐ脇を通っていました。昭和50年に廃線となった後、歩行自転車専用道として整備されていきますが、それまで専用鉄道線は街の景観の一つでした。

中山道深谷宿の東端にたつ常夜灯。

そして国道17号と立体交差。

住宅地の合間を抜ける。

福川橋梁

そして、福川を渡ると「ブリッジパーク」。

ここには、福川橋梁が保存されている。
日本に現存する最古のボーナル型プレート・ガーター橋、という。

旧・日本煉瓦製造株式会社上敷免工場専用鉄道線跡
 福川には、長さ約10.1mの鉄橋と、洪水に備えた長さ約22.0mの避溢橋が架けられました。鉄橋は、イギリス人技師ボーナルが設計した銅板桁(プレート・ガーダー)橋です。河川改修に伴って移設されましたが、ほぼ明治28年に創設された当時のまま残っており、日本に現存する最古のボーナル型プレート・ガーター橋です。また避溢橋は、5連の箱桁(ボックス・ガーダー)橋で、当時は木桁だったものが順次鉄になっていたようです。また、これより北の17号バイパス付近には、十二祖用水橋という長さ約3.3mの小さな鉄橋がありました。

福川鉄橋
深谷市指定文化財
昭和61年12月22日指定
 日本煉瓦製造株式会社専用線の福川に架設された鉄橋で、福川に架けられていたブレ―ト・ガーダー橋と、その北側の水田の中に造られていた5連のボックス・ガーダー橋からなっていました。プレート・ガーダー橋は、全長10.1mで、明治28年(1895)の建設当初の姿をほとんどそのままに伝えており、現存する日本最古のポーナル型プレート・ガーター橋です。
 ボックス・ガーダー橋は、全長22.9mで、洪水のときに福川から溢れた水の逃げ道をあけておくために設けられたものです。当初は木桁でしたが、順次鉄桁に変えていったようですポーナル型プレート・ガーダー橋は、イギリス人の鉄道技師、チャールズ・ポーナルの設計による鉄橋です。日本の近代産業革命期の明治28年から34年(1895~1901)に全国各地で建造されました。
 福川鉄橋は、日本の近代化を象徴する産業遺構として、極めて高い歴史的価値をもっています。
 深谷市 深谷市教育委員会

福川鉄橋

五連の福川避溢橋梁

福川

楡山神社

ちなみに福川橋梁の南近くには武蔵国延喜式内社「楡山神社」が鎮座している。
かつて2003年に武蔵国内の延喜式内社(=平安時代から信仰されている古社)を巡っていた頃に一度参拝したことがあり。今回が実に18年ぶりの参拝。

以下に2003年の参拝記録があるが、実にひどいもので、当時は「日本煉瓦製造の廃線跡」にさほどの興味も抱いていなかったようで。この記録の18年後に「廃線跡」を巡る記録を書いているのが実に皮肉めいている。

http://jinja-kikou.net/oosato.html#1

福川橋梁のある原郷は、深谷駅から2.5キロ。
あと1.5キロを進めば、煉瓦工場にたどり着く。

備前渠鉄橋

国指定重要文化財「日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設」の一部

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
工場の南には、江戸時代に開削された備前渠が流れ、イギリス人技師ボナールが設計した専用鉄道線最長(長さ15.7m)の鋼板桁(プレート・ガーター)橋、備前渠鉄橋が架けられました。
 また用水路には煉瓦アーチ橋が架けられています。これらは、旧煉瓦製造施設の一つとして、ホフマン輪窯6号窯、旧事務所、旧変電室とともに国重要文化財に指定されています。

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
備前渠鉄橋
  重要文化財(建造物)
  平成九年五月二十九日指定
 煉瓦輸送専用に架設された鉄橋である。
 操業当初からの輸送手段であった利根川船運は安定した輸送力に欠け、燃料や製品の輸送に度々問題が発生した。これを解決するため建設されたのが本専用線であり、明治二十八年、深谷駅との間で日本初の民間専用線として運用を開始した。
 専用線には四箇所の鉄橋が架設されているが、唐沢川、福川、備前渠には、当時の鉄道員技師、イギリス人チャールズ・アセトン・ボナールが基本定規を設計したI字形鋼板を橋桁とする「ボナール型プレート・ガーダー橋」が採用された。中でも本鉄橋は十五・七メートル(約五十フィート)と、専用線中最長の橋桁を有している。また分岐する用水路に架設された煉瓦アーチ橋は、長さ約二メートルと小規模ながら、完全な煉瓦構造と推定される貴重な構造物である。
 文化庁
 埼玉県教育委員会
 深谷市教育委員会

用水路に架かる煉瓦アーチ橋

備前渠に架かるボナール型プレート・ガーダー橋

備前渠用水路は埼玉県内最古の農業用水路。
慶長9年(1609)関東代官頭の伊奈備前守忠次によって計画されたことから「備前渠」と呼ばれている。「世界かんがい施設遺産」に登録。


日本煉瓦製造株式会社上敷免工場

日本煉瓦製造株式会社は、渋沢栄一が中心となって明治20年(1887年)に設立した、日本初の機械による煉瓦の大量生産が可能な工場。上敷免(じょうしきめん)に建設された。
のちに太平洋セメントの子会社となり、2006年に廃業。残されていた工場諸施設は深谷市に移譲され、専用鉄道跡とともに整備及び保存されている。
「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電所」が国指定重要文化財。

旧日本煉瓦製造株式会社上敷免工場 専用鉄道線跡
 渋沢栄一翁が中心となって明治20年に設立された日本煉瓦製造株式会社の上敷免工場では、日本で初めて機械による煉瓦の大量生産を行いました。約10万m2の広大な敷地をもち、明治40年ごろの最盛期には、6基の煉瓦窯が稼働しました。原料となる粘土(原土)は、周辺の畑地から採掘されてトロッコで工場まで運ばれ、採掘後の畑は、一段低くなって水田になりました。


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所明戸工場

昭和15年(1940)の組織改編によって、陸軍兵器廠の板橋火薬工場が「東京第二陸軍造兵廠」となり、隣の十条兵器工場が「東京第一陸軍造兵廠」となった。

埼玉県内には「大宮」「川越」「春日部」に東京第一陸軍造兵廠が置かれていた。
そして「深谷」には東京第二陸軍造兵廠が置かれた。これは板橋の疎開先としての設置であった。深谷には「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」があり、利根川の対岸の高崎には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」があったことから工場疎開先として都合が良かったとされる。
昭和18年11月より移転のための用地買収が開始。
もともとの「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」を「明戸工場」とし、日本煉瓦製造専用線沿線の幡羅地区に「深谷工場」(原郷工場)を建設。深谷駅南の櫛挽地区に「櫛挽工場」を建設。
用地買収の1年後となる昭和19年10月に「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所」が設立され、本部は現在の「深谷第一高等学校」の地に置かれた。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦。


造形が美しい。

国指定重要文化財
日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
日本煉瓦史料館

ホフマン輪窯は保存修理工事中のため、公開休止。2024年頃に再開予定。

門扉には日本煉瓦製造株式会社のシンボルマーク

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧事務所

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧事務所
  重要文化財(建造物)
  平成九年五月二十九日指定
 建物は明治二十一年頃の建設で、煉瓦製造施設の建造と煉瓦製造技術の指導に当たったナスチェンテス・チーゼ技師が住居兼工場建設事務所として使用したと伝えられている。地元の人々からは「教師館」「異人館」の名で呼ばれていた。
 日本煉瓦製造株式会社は、明治政府が計画した洋風建築による官庁街建設を推進するため、煉瓦を大量供給する民営工場として、渋沢栄一らが中心となって設立された。工場建設地は、当時政府に招かれていた建築技師ウィルヘルム・ベックマン、チーゼらのドイツ人技術者の指導により選定され、良質の原土を産出し、水運による東京への製品輸送が可能な現深谷市上敷免 新井に決定された。チーゼは娘クララと共に明治二十二年十二月に帰国するまでここで生活し、彼の帰国後は会社事務所として使用された。
  文化庁
  埼玉県教育委員会
  深谷市教育委員会

正面に掲げられた日本煉瓦製造株式会社のシンボルマークが美しい。

裏には記念碑がふたつ置かれていた。
レールはかつての専用線のものだろうか。

創立70周年記念
昭和32年10月25日
日本煉瓦製造株式会社

昭和32年10月25日創立70周年記念日に当り我社70年に渉る歴史と伝統とを回顧し又我社の今日を築いた先覚者の精神と業蹟とを想起すると共に今後益々社業の発展を期するものである。仍って茲に記念の為この記念碑を建立する。
 昭和33年4月20日
  日本煉瓦製造株式会社
   専務取締役 諸井貫一

創立100周年記念

我社は昭和62年10月25日創業百周年を迎えた。創業以来幾多の変遷と苦難を超えて一世紀に亘る歴史を築き上げた二世紀への節目に当り先人の偉業を偲び新たな歴史に挑戦する決意をもってここに記念碑を建立する。
 昭和63年10月25日
 日本煉瓦製造株式会社
 取締役社長 松尾芳樹

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧変電室

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
旧変電室
  重要文化財(建造物)
  平成九年五月二十九日指定
 明治三十九年頃の建造と言われている。室内には変電設備が設置されていた。
 日露戦争後の好景気による建築・土木事業の拡大がもたらした煉瓦需要の増加に対応するため、日本煉瓦製造株式会社は、設備投資の一環として電力の導入を開始した。諸産業への電力利用の普及もあり、従来より使用していた蒸気式原動機の電動機への転換に踏み切ったのである。
 明治三十九年八月、会社は高崎水力電気株式会社と契約を締結、電灯線を架設し、電動機を導入した。当時の深谷町に電灯が導入される一年前のことであり、先端技術を積極的に導入しようとする会社の姿勢をうかがうことができる。
 その設備自体はすでに失われているが、この建物だけが建造当時の姿をとどめている。当時の煉瓦業界の隆盛を物語る貴重な建物である。
  文化庁
  埼玉県教育委員会
  深谷市教育委員会

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
日本煉瓦史料館(旧事務所内)

何気なく積まれているのは、かつての線路のレール・・・?

旧事務所から旧変電室を望む。

渋沢青淵先生像(渋沢栄一胸像)

煉瓦に刻まれる製造工場の刻印は、時代とともに異なっていた。
明治期「上敷免」
大正期「日煉」
昭和期「日本」

写真は、場所は変わって「誠之堂」で販売されていた「煉瓦ペンダント」

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設
ホフマン輪窯6号窯

保存修理工事中。見学再開は2024年予定。
ホフマン輪窯6号窯は明治40年(1907)の建造。この窯で焼かれた煉瓦が東京駅の建設にも用いられた。
ちなみに東京駅を設計した辰野金吾は、日本煉瓦製造株式会社上敷免工場の建設にも関わっていた。

深谷の散策は、まだまだ続きますが本編は一旦ここで〆


日本煉瓦製造の煉瓦を使用した建物


渋沢栄一関連

陸軍航空士官学校狭山飛行場跡(陸軍狭山飛行場跡)

埼玉県入間市。
入間市で有名なのが「狭山茶」、隣の狭山市にあるのが「入間基地」。
入間と狭山は地名が交差していてややこしい。

この地にあった飛行場は「狭山飛行場」と呼称され、入間市にあった。

狭山飛行場へのアクセス方法。
西武線入間市駅からバス。
 西側
  三井アウトレットパーク停留所
 南側
  二本木停留所
  入間市博物館ALIT停留所
 北側
  根岸停留所
 などを利用して、あとは歩く感じ。

私は入間市駅からバスに乗って北側の根岸バス停を起点に約8キロ歩いて、三井アウトレットパークバス停から入間市駅に戻るコースでの散策でした。


陸軍航空士官学校狭山飛行場

狭山飛行場は陸軍航空士官学校分教場であった。

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

狭山飛行場は、昭和8年(1933)7月に陸軍の要請により飛行場用地としての買収が始まり、昭和9年(1934)年11月には狭山陸軍飛行場、所沢にあった陸軍飛行学校の分飛行場として開設。昭和13年の陸軍航空士官学校発足とともに分教場として利用。
開場当初は120ha、終戦時には約237haもの広大な飛行場であった。狭山飛行場の面積は現在の入間市の約5.3%を占めていた。

終戦後は狭山台土地区画整理事業が行われ、農地開墾、狭山台工業団地、住宅地などが造成。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:892-C2A-97
1944年09月24日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を拡大。

現在の様子。区画がしっかりわかる。

北東部分を拡大。

「飛行訓練塔?」と「エンジン試験台」の基礎が今も残っている。

これらのポイントを巡ってみる。


時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

参考までに当時の東京西部と埼玉西部の飛行場の位置関係を記載してみた。


狭山飛行場外周道路・北部

根岸バス停から歩くを開始して、茶畑を縦断。
茶畑の向こうに見える工業団地が、狭山飛行場の跡地。


狭山飛行場・飛行訓練塔基礎?

狭山飛行場北東部に残る基礎。飛行訓練塔?の基礎、とされている。

場所

https://goo.gl/maps/DtzXiYUwXTyck6cd7


狭山飛行場外周道路・西部

飛行訓練塔基礎から南下し外周道路の西端を南下していく

左が飛行場エリア。

ふりかえってみる。右が飛行場エリア。

次の目的地へ。


狭山飛行場・エンジン試験台基礎

茶畑に向こうに、コンクリートの塊がふたつ見えてくる。
これらはエンジン試験台の基礎、という。

コンクリートの塊のうち、ひとつは廃材や枯れ草に覆われておりよく見えなくなっている。

場所

https://goo.gl/maps/dBy9rSnyFrKA5FDL9


中村屋武蔵工場(中華まんミュージアム)

そのまま南下をしていくと中村屋武蔵工場が見えてくる。
かつて、航空士官学校校舎があり、格納庫などがあった場所。
戦後は、大妻女子大学狭山台キャンパスがあったが、2015年に閉校し、その跡地に中村屋武蔵工場ができた。


狭山飛行場・航空士官学校校舎跡地

学舎の跡
 この場所は、東西およそ1800メートル、南北およそ1390メートルの旧日本陸軍航空士官学校狭山飛行場跡地の西端に位置し、航空士官学校校舎がありました。
 校舎は戦後も遺され。終戦直後の混乱期には寺にあった有隣青年学校生徒の学舎となり、昭和22年4月には元狭山村・宮寺村組合立狭山中学校がここに開校し、新しい教育の場となりました。更に二本木地区の子どもたちの狭山小学校が、校舎の一角に開校しました。
 昭和42年、役目を終えた跡地には大妻女子大学狭山台校が新設され、再び学舎の歴史が積み重ねられてきました。こうして、この地は多くの人びとの懐かしい学舎の跡になったのです。
 弊社は、地域の人びとに親しまれ続けてきた学舎の跡に工場を操業できることを誇りとして、新たな歴史を刻んでまいります。
 平成30年7月
  株式会社 中村屋

場所

https://goo.gl/maps/8kGNTzovqk5zoGuKA


狭山飛行場・陸軍境界石

狭山飛行場外周道路・南部に位置する。ちょうど中村屋工場と交差する場所。電信柱と並ぶように境界石が残されている。

陸軍

狭山飛行場外周道路・南部となる。


入間市博物館「ALIT(アリット)」

狭山飛行場外周道路・南部を歩く。
飛行場の南側に入間市博物館「ALIT(アリット)」がある。常設展示コーナーなどに「狭山飛行場」に関する展示もあるので時間があれば脚を運ぶことをおすすめ。


そのまま狭山飛行場外周道路・南部を東に向けて歩く。

狭山飛行場外周道路・南東部

南東部は外周道路とともに排水溝が暗渠された状態で残っている。

場所

https://goo.gl/maps/pwAcCPHYoZMATSYT7

武蔵工業団地は、狭山飛行場の跡地に開設された工業団地。


狭山開墾記念碑

狭山開墾の碑
狭山飛行場跡地の開墾事業完成の記念碑。
昭和21年(1946)1月に鍬入れ式を行い、翌年の夏には開墾が完成。総入植者542戸のうち、新規入植は15戸で、大部分は地元に還元。

狭山開墾記念碑
碑面裏(一部抜粋)
 秩父の連峰を背景に県の南境に近く蟠る一連の台地此処狭山は古くから茶処としてその名を知られて居る其の一画、元狭山宮寺金子東金子の4箇村に跨る250町歩の地域は昭和8年飛行場の開設を見たが終戦後はこれを農耕地として開拓せらることとなった(以下略)

「昭和8年飛行場の開設」と刻まれている。

場所

https://goo.gl/maps/CCkCLJsoehMFvCUDA


狭山飛行場・無蓋掩体壕跡

ファミリーマート駐車場とフジボウル駐車場の裏の森の中に、無蓋掩体壕の跡が残っている。
無蓋掩体壕は、土塁・土盛りでしかなく、正直言ってよくわからない。ただ森の中に不自然に土塁があるのが、今でもわかる。飛行機を駐機したであろう側まで森を進んでみたが、木々が茂りすぎて写真に撮ってみてもよくわからないものではあったが。

奥に無蓋掩体壕の土塁。

土塁に登ってみた。下は飛行機を駐機したであろうスペース。

場所

https://goo.gl/maps/XY8EMJHZcwCQb7hV8


狭山飛行場の東側に、コストコと三井アウトレットパーク。
ここまでくれば、入間市駅までバスで戻れる。


関連

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策(その2)

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の跡地を散策。

加賀公園・野口研究所跡地・理化学研究所板橋分所跡地・愛誠病院エリアなどは「その1」にて。

「その2」では、西側のエリアを散策。位置関係等なども、その1を参照で。


圧磨機圧輪記念碑(加賀西公園)

板橋区立加賀西公園に鎮座。
板橋火薬製造所(日本で最初の西洋式火薬製造工場)で用いられた「圧磨機圧輪」にちなむ澤太郎左衛門の遺徳を称え建てられた記念碑。

慶応元年(1865年)、澤太郎左衛門が幕命を受け、オランダに留学し火薬の製法を学び、ベルギーより圧磨機圧輪を購入し帰国の際持ち帰ったもの。
澤太郎左衛門は旧幕臣として榎本武揚とともに函館戦争を戦い、蝦夷共和国開拓奉行に選任。室蘭で明治新政府に降伏。
明治新政府では、おもに海軍兵学校の教官職にあった。日本海軍において海上砲の操砲訓練を行ったのは澤が最初であったという。

明治9年8月の火薬製造所開業より黒色火薬製造に圧磨機圧輪が使用開始。
圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造する際の硫黄や木炭、硝石などを、水力を動力にして磨り潰すために用いた。
明治39年11月、黒色火薬の製造廃止により圧磨機圧輪の使用が停止。
大正11年3月に記念碑として設置。
昭和60年頃に加賀西公園造成にあわせて現在地に移設。
板橋区登録文化財に指定。

板橋区指定記念物
圧磨機圧輪記念碑

 この圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造する機械です。その材質はヨーロッパ産の大理石と判明しています。慶応元年(1865)に、艦船運用術・砲術・火薬製造などを研究するため欧州へ留学していた幕臣の澤太郎左衛門が幕命を受けて、ベルギーで購入したものです。澤はその任にあたり、ベルギーのウエッテレンにあったコーパル火薬製造所で作業員として働き、そこで職工長から火薬製造に必要な炭化釜等の図面を借り受け、圧磨機などについて教授されたと伝えられています。また、工場技師長を通じて、圧磨機をはじめとする火薬製造機械類の発注に成功したともいわれています。
 慶応3年に開陽丸で帰国した澤は、すでに小栗上野介忠順などにより、北区滝野川で企画されていた幕府の大砲製造所・火薬製造所の建設に加わりますが、明治維新の中で工事は中断となり、澤も箱館へと脱出します。この時に輸入した火薬製造機械の一部は滝野川から運び出され、軍艦へと積み込まれていますが、この圧磨機圧輪自体の動向については不詳です。のちに澤は新政府軍へと投降しますが、釈放された直後の明治5年(1872)には兵部省へ出仕し、板橋における火薬製造所建設にも中心的な役割を果たしました。
 明治4年7月、兵部省は板橋金沢県邸(旧加賀藩江戸下屋敷平尾邸)の一部を火薬製造所の用地とするために政府に引き渡しを求めました。その理由は「彼邸水車モ有之、造兵ノ為便利不少候」と申入れ書にあるように、石神井川に敷設した水車の動力が圧磨機を動かす上で重要な条件となっているためでした。同年12月に当邸の一部は造兵廠属地となり。火薬製造所の建設が始まりました。なお、当時の兵部省における造兵部門の長にあたる造兵司正には、加賀藩師で洋学(兵学・科学)に通じていた佐野鼎が就任しており、このことが製造所用地の選択にも影響を与えた可能性があります。
 明治9年8月に完成した火薬製造所は、陸軍の「砲兵本廠板橋属廠」として操業を開始し、この圧磨機圧輪を使って黒色火薬が製造されました。圧磨機による火薬製造工程は、水を注ぎながら、圧輪を回し、硫黄・硝石・木炭を細砕・混和し、篩(ふるい)にかけて粒子をそろえ、乾燥させたのち製品化するというものでした。なお、圧磨機を回転させる動力には、、石神井川からの導水路による縦軸水車(簡易フランシス水車)の動力が利用されています。なお、その設置場所は、現在の加賀2丁目15番街区あたりと考えられます。当工廠は、その後、「板橋火薬製造所と改称され、最終的な呼称は、東京第二陸軍造兵廠・板橋製造所(通称二造)となりました。
 明治27年には、当所で無煙火薬の製造が開始され、施設・設備も拡充していきますが、その一方で、取扱いが難しく、爆発事故が続いた黒色火薬については製造が減少し、同39年に製造中止となると、圧磨機圧輪も使用されなくなりました。
 大正11年(1922)3月、国内外で軍縮が進む中で、陸軍は使用されなくなった圧磨機圧輪を転用し、そこに澤の威徳を称え、圧磨機圧輪の来歴などについて刻み、記念碑としました。
 戦後、当記念碑は、通産省計量研究所敷地内にありましたが、同研究所の移転にともなって区立加賀西公園に移設されました。昭和60年(1985)に産業考古学会推薦の産業遺産に認定され、翌年には板橋区登録記念物(平成7年からは指定記念物)となりました。
 平成23年(2011)10月
  板橋区教育委員会

「板橋火薬製造所」を管轄していた「東京陸軍砲兵工廠」のマークが中央にある。

圧磨機圧輪記
是為圧磨機圧輪当用製火薬
慶応元年九月澤太郎左衛門承徳川幕府旨所購於白耳義也・・・

招魂之碑
明治 35 年爆発事故招魂之碑
(加賀西公園)

板橋区立加賀西公園内に鎮座。

明治35年7月24日に発生した、板橋火薬製造所内の丙製薬所で出火した火災が隣接する建物に延焼し、 消火活動の指揮を執った花土丈七技士をはじめ、 火薬の搬出にあたった職工ら、 合計 10 名が亡くなった事故。
明治36年7月24日で、 火災爆発事故によって亡くなった技師 ・ 職工の
1 周忌に合わせて建立された。建立者は 「板橋火薬製造所有志一同」。

 明治35年7月24日板橋火薬製作所火災起り各員之が消火に勉む偶々爆然たる猛火は勢迅雷の如く襲い来り陸軍技手花土丈七 職工今井吉次郎 辺見忠一 常盤勝次郎 金子徳次郎 田中信太郎 高木文次郎 石原吉五郎 渡辺誠次郎 新井久太郎の諸君を包み遂に非命に斃れしむ誠に悲惨の極と云うべし然と雖も死生固より命あり諸君の死を以て其任を謁し以て災害を一局に制し巨方の財を花神の厄より免れしめんもの其功績亦偉大にして以て瞑するに足るべし 茲に其一周忌に際し義金を拠出し碑を立て其霊を弔し其魂を慰むると而云。
  明治36年7月24日
   板橋火薬製造所 建之

https://goo.gl/maps/j1ZSmNcU863qtnjUA


板橋区立板谷公園

板橋の二造の南側に造成された公園。

 江戸時代、この板橋3・4丁目、加賀一帯は加賀藩の江戸下屋敷でした。明治になると板橋3・4丁目周辺は三合商会の所有地となり「三合野原」、「三五ヶ原」と呼ばれました。その後、小樽を基盤とした船運会社板谷商船の設立者初代板谷宮吉氏が取得し、昭和4年(1929)に東京市電が板橋まで延長したのを契機に、二代目宮吉氏(貴族院議員等も歴任)が昭和10年(1935)1月、区画整理による大規模住宅地「上御代の台」の造成に着手しました。
 当時、国は区画整理に際しては公園用地の確保を求めており、それを受け、東京市は土地の無償提供を条件に公園造成を代行する規定を設けていました。当公園はこの規定により、板谷氏の用地提供を受けて同市が施行し、昭和12年(1937)4月29日に東京市板谷公園として開園しました。なお、その際に設置された銘板が、ニか所の出入口の門柱に残っています。その後、昭和18年(1943)の都制施行により都立公園となり、昭和25年(1950)10月1日には板橋区に移管されました。
 この公園は、区内に現存する公園の中で開園時期が最も古く、また、その来歴にこの地域の歴史がよく反映されている事から、平成21年(2009)3月に区の登録文化財(史跡)となりました。
 平成21年(2009)9月  
  板橋区教育委員会

東京市板谷公園
 昭和12年4月開園

https://goo.gl/maps/L9WPAc4bc8mDjVLz9


コミュニケーションステージ
レンガパーク
(加賀一丁目緑橋緑地内)

陸軍板橋火薬製造所時代に設置された煉瓦造平屋建(大正期 ) の建物の一部をモニュメントとして保存。

 このモニュメントは、明治から大正時代に建てられた煉瓦建造物の一部を利用しています。
 明治時代から太平洋戦争の敗戦まで、加賀1・2丁目には日本陸軍の火薬製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所、通称「二造」)がありました。製造所は、江戸時代の旧加賀藩下屋敷の広大な敷地を利用して作られていました。内部には、火薬の事故に備えて土塁で囲まれた建物や煉瓦造りの建物などが立ち並んでおり、その一部は、戦後の払い下げ後も学校や工場、研究所の建物として利用されていました。
 ここの敷地にも、当時の建物が工場として残されていましたが、日本の近代建築史を伝える貴重な煉瓦建造物を保存・活用するため、その一部をモニュメントとして利用することになりました。

中央部の古さを感じられる黒ずんだ部分が、当時の建物の壁をそのまま保存した箇所。

かすかに「東京陸軍砲兵工廠」のマークを見ることができる。

https://goo.gl/maps/ySLuEPF6EsAAQzr58


陸軍の消火栓

金沢小学校の校庭隅の隅。道路から見える場所に、板橋製造所時代の消火栓があった。陸軍の徽章「星」のマーク付き。
案内板は小学校敷地内内より。休日校庭開放日に見学。

 これは、昔の消火栓です。昭和の初め頃につくられました。このあたりは、陸軍の第二造兵廠というものがありました。
 星の印は陸軍のマークで、陸軍の人達が火事を消すための設備として作ったのが、この消火栓です。
 江戸時代には、このあたりに加賀前田藩の下屋敷がありました。明治になって、板橋火薬製造所ができました。その後、太平洋戦争が終わるまで、第二造兵廠として約70年間火薬を作る仕事などしていたのです。
 昭和20年8月に戦争は終り、このあたりには、研究所、公園、学校、工場等が造られました。
 板橋火薬製造所のことは、おとなりの東板橋体育館にある記念碑にくわしく書いてあります。この消火栓も、昔をしのぶ一つの記念碑として大事に保存したいと思います。

https://goo.gl/maps/cYWhfnkdxsLuTwrr5


境界壁柱とコンクリート壁

板橋区立東板橋公園と板橋こども動物園の北側。ユースハイムという建物の車庫入口近くに、「板橋製造所の境界壁柱」が残っている。

https://goo.gl/maps/m44R4jfG9kQqJ5QA7

さらに道なりに西の方に歩みを進めていくと、駐車場と電信柱のあいだに、もう一本「板橋製造所の境界壁柱」がある。

https://goo.gl/maps/eWFMxMPLNzrABBkv6


境界壁柱(消失)

「板橋製造所」当時の敷地の西端部分。道なりに歩んでいくと、さらに「境界壁柱」があったが、2018年の段階で消失を確認。

※写真は2016年

消失を確認。。。 ※2020年撮影


境界壁と境界石(消失)

「板橋製造所」当時の敷地の西端部分。
陸軍用地の境界石と境界壁が残っていたが、同じく消失を確認。

境界壁は消失。
境界石は、2つのうち、1つはまだ残っています。
(コメントでのご指摘ありがとうございます)

1つ目 ※写真は2016年

この境界石と境界壁は消失。

2つ目 ※写真は2016年

この境界壁も消失した。

※境界石は下の写真で、右側の電信柱の根本右側に残っているという。
(私は見逃していました。後日、再確認します。)
※コメントでのご指摘ありがとうございます。

境界壁は綺麗に消失。

新築住宅がセットバックされたために、境界壁とともに境界石も消失してしまいました。境界壁がなくなり、だいぶ見た目が変わってしまいました。


場所は変わって。

板橋憲兵分隊の門柱跡

「板橋製造所」の西側には中仙道が走っていた。
中山道の宿場町「板橋宿」の中心であった「仲宿」も徒歩圏内。
宿場町が廃止された後は「板橋遊廓」としても賑わっていた地区。
ここに「板橋憲兵分隊」は置かれ、門柱が1本だけ残されていた。

https://goo.gl/maps/TFU6xV9ypWD1tLm69

仲宿

地名「板橋」の由来となった石神井川を渡る「板橋」

※撮影:2016年5月/2020年7月/ 2021年1月


関連

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策(その1)

十条の造兵廠は掲載しておりましたが、板橋の造兵廠は未掲載でした。
板橋の二造は公園整備が行われることも決まり、そのために記録が鈍化していたというのもありました。
ひとまずは、整備前の写真を中心としたレポとなります。
整備が終りましたら再訪は必須ですが。

十条…東京第一陸軍造兵廠(一造)
板橋…東京第二陸軍造兵廠(二造)


東京第二陸軍造兵廠(東二造・二造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

明治3年、兵器工場として造兵司が新設。
明治4年、小石川に東京工場として「東京造兵司火工所」が新設。
明治8年、東京造兵司は「砲兵本廠」と改称。

明治9年(1876)
砲兵本廠板橋火薬製造所」として、加賀藩江戸下屋敷跡地に石神井川の水力を生かした火薬製造所が発足。これが明治政府が初めて設置した火薬製造所となる。当時の工場は水力を軸としており、小石川の板橋火薬製造所をはじめ、赤羽火薬庫なども水運を想定した位置関係であった。

明治12年(1879)
東京砲兵工廠と改称。「東京砲兵工廠板橋火薬製造所」となる。

大正12年(1923)
「陸軍造兵廠」が設置。「陸軍造兵廠板橋火薬製造所」となる。

昭和11年(1936)組織改編
陸軍造兵廠火工廠から十条兵器製造所が分離し、小石川の東京工廠が十条に移転。十条に置かれていた陸軍造兵廠火工廠本部は板橋に移転。
板橋が「陸軍造兵廠火工廠本部」となる。火薬製造所は再編により加工廠管轄下となる。「陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所

昭和15年(1940)組織改変
陸軍造兵廠と陸軍兵器廠を統合。兵器本部が新設。
 十条の東京工廠「東京第一陸軍造兵廠」(東一造・一造)
 板橋の火工廠 「東京第二陸軍造兵廠」(東二造・二造)
板橋火薬製造所は「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」となる。

2008年に「旧東京第二陸軍造兵廠建物群(東京家政大学構内)」が板橋区登録有形文化財に指定。
2017年(平成27年)10月13日に「陸軍板橋火薬製造所跡」として国指定史跡に指定。
2018年(平成30年)3月29日付で板橋区登録記念物(史跡)に登録。
史跡範囲は「旧野口研究所跡・旧理化学研究所板橋分所跡・区立加賀公園」

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/bunkazai/1004848.html

現在は、、史跡公園に向けて整備となる。

板橋区史跡公園(仮称)

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/1021974/1023606.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-129
1947年07月24日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※航空写真はクリックして拡大可

上記を拡大。
こうしてみると、板橋十条の軍事施設は思ったよりかは建屋が残っているのがわかる。逆に周辺の住宅地が白くなっており建屋が焼失しているので、軍事施設を狙った爆撃が工場周辺に外れてしまった様子を想像することもできる。

上記とほぼ同じエリアの現在の様子。
こうしてみると、軍事区画であった場所が今でもかなりわかりやすい。

前述の航空写真より東京第二陸軍造兵廠の部分を拡大。

現在の様子と並べてみる。
黄色は「その1」での掲載箇所。
紫色は「その2」での掲載箇所。

前述の航空写真(USA-M380-129)の南東部をさらに拡大。

黄色は愛誠病院・愛世会関連施設
橙色は旧理研
赤色は加賀公園・旧野口研究所


関連記事

上記の位置関係でも記載のある周辺エリアは別記事にまとめてあるので、それぞれリンク掲載。

東京第一陸軍造兵廠

陸軍兵器補給廠と稲付射場・赤羽火薬庫道


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策

軍用鉄道跨線橋台座跡
(トロッコ・電気軌道)

埼京線にかかる十条台橋から見えるのが、往時の軍用鉄道跨線橋(トロッコ)の台座跡。金網の向こうを覗く。両側に台座が残っているのがわかる。

明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡。

場所

https://goo.gl/maps/ps6TZ6ThbeHo3tpm9


東京家政大学構内

北側に広がる「東京家政大学」も東京第二陸軍造兵廠板橋製造所時代の建物が残っているが、女子大となるので構内は未見学。
煉瓦造平屋が3棟現存という。
 旧220号棟 (現板橋校舎21号棟)
 旧225号棟 (現板橋校舎22号棟)
 旧261号棟 (現板橋校舎58号棟)
上記が板橋区登録有形文化財(建造物)に指定されている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・板橋区立加賀公園)
(旧野口研究所跡)

加賀公園と、その西側にあった旧野口研究所跡。
周辺が「板橋区史跡公園」(仮称)として整備される予定。

加賀公園は、もともとは加賀前田家下屋敷であった。明治期にこの地に火薬製造所が置かれたことに始まる。

建屋の情報は板橋区の資料に詳しい。

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/res/projects/default_project/_page/001/023/606/noguchikenmap.pdf

爆薬製造実験室

建築年代は昭和10年1月。構造は鉄筋コンクリート造の平屋建築、屋根は切妻屋根。トタンによって外壁が補修されている。
もともとは後方のマンションの位置にあったが、保存のために平成29年に主要部(全体の1/3部分)の曳家工事を実施。

常温貯蔵室
地下貯蔵庫

常温貯蔵庫は昭和9年以前には建設されていたと推定。
構造はコンクリート造で、上下2段8列の棚構造で、16の鉄製扉を有している。扉は現在、8面のみ現存するも固着しており開閉は困難という。

常温貯蔵庫の手前には地下貯蔵庫がある。
地下貯蔵庫には蓋がされている。水槽として使用されていたという。

加温貯蔵室

昭和9年以前には建造か?

加温貯蔵室試験火薬仮置場基礎

加温貯蔵室に併設されていた建物。基礎のみ現存。平姓18年までは建物が確認できたが、平成26年までのあいだで撤去。

銃器庫

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、内部は木造二階建の棚床が設置。
昭和18年以降の改築か?

土塁

燃焼実験室
試験室
弾道管

燃焼実験室の構造は鉄筋コンクリート造2階建。
昭和18年以降の建築か?

弾道管は、約30m現存。

「燃焼実験室」から弾道管が一直線に伸びている。
コンクリートの2棟は「試験室」。

試験室No.672

試験室No.552

弾道管

弾道管

試験室

試験室No.552

試験室No.672

弾道検査管(爆速測定管)の標的
 区立加賀公園にある小高い山は、加賀藩前田家 の江戸下屋敷内の庭園にあった築山の跡です。
 この築山の中腹に造られたコンクリート製の構築物は、現在隣接している野口研究所内からのびる弾道検査管(爆速測定管)の標的の跡です。
 戦前、野口研究所を含めたこの場所には、板橋火薬製造所(昭和15年以降は東京第二陸軍造兵廠=ニ造)内におかれた火薬研究所があり、弾薬の性能実験などが行われていました。今も野口研究所の構内には、火薬研究所時代に使われていた試薬用火薬貯蔵庫や防爆壁などの構造物が残されています。その中の一つに、長さが十数メートル、内径686mmのコンクリート製の弾道検査管の一部があります。
 これは、技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬(発射薬)の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定・観測する装置であり、戦前のニ造構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向って撃ち込まれていたことがわかります。
 戦後、旭化成などの創業者である野口遵 が設立した野口研究所が当地に移転してきましたが、いまなお構内には、戦前に使用していた観測装置や標的などが現存しています。このような例は全国的に見ても珍しく、軍工場 時代の活動の一端を窺うことができる貴重な資料となっています。 

擁壁

軽便鉄道の軌道と北側の試験室や弾道管等の試験施設との間を隔てる役割を担っていた。
鉱滓煉瓦壁が4スパン、コンクリート壁が1スパン、合計5スパンが現存。

射垜

露天式発射場の的である射垜と、弾道管と接続する隠蔽式発射場の射垜が存在していた。隠蔽式発射場の射垜は昭和46年の加賀公園造成工事の際に一部撤去。遺構が埋蔵している可能性あり。
露天式発射場の射垜の下方部構造は埋蔵されており不明。
レンガ積にモルタルが塗布。

コンクリート擁壁

昭和46年の加賀公園造成工事で撤去された常温貯蔵庫が隣接していた。また防火壁も設置されていたという。

電気軌道線路敷跡

電気軌道(トロッコ)線路敷跡
 区立加賀公園のこの場所から、隣接する野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦前、この一帯(現在の加賀一・二丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷跡です。
 軌道は、北区十条の銃砲製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。
 現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあるコンクリートの土台は、明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。その後、明治40年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公園・野口研究所付近)や本部(現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付近)を結ぶために軌道が延伸しています。以降も軌道網の整備は進められ、大正12年(1923)の構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。


加賀公園の北側を流れる石神井川の対岸エリア。
現在は「愛誠病院」など愛生会関連の建物が展開されているエリアにも、当時の建屋が残っている。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛歯技工研究所)

最近まで愛歯技工専門学校として使用されていたが2019年3月で閉校。
愛歯技工研究所は存続しているが、今後の扱いが気になるところ。

試験室(140号棟)

煉瓦造建造物。
愛歯技工専門学校時代の内部は体育館兼倉庫として使用。

仕上収函仮置場(13号棟)

煉瓦造建造物か?だいぶ改良されている外観であるが、建屋下部には面影が残っている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛誠病院)

愛誠病院内にもいくつかの建屋が残っている。
愛生会病院は、昭和22年に二造の敷地と建物の使用を開始したという。

現存する建物
 煉瓦造の旧 36 号家 ( 現第 1 病棟 )
 煉瓦造の旧 35 号家 ( 現第 2病棟 )
 煉瓦造で一部二階の旧 168 号家 ( 現精神神経科外来棟 )
 煉瓦造の旧 164 号家 ( 現本部事務棟および第 3 病棟 )
 煉瓦造の旧 256 号家 ( 現作業療法棟 )
 鉄筋コンクリート造の旧 438 号家 ( 現第 11 病棟 )

病院敷地の見学は、言わずもがなですが、常識の範囲内で静粛に。

化学実験室(438号棟)
現・愛誠病院第11病棟

鉄筋コンクリート造。

駆水室(35号棟)
現・愛誠病院第2病棟

煉瓦造

綿薬配合室(36号棟)
現・愛誠病院第1病棟

煉瓦造

混合室(168号棟)
現・愛誠病院精神科外来棟

煉瓦造

爆薬理学実験室(256号棟)
現・愛誠病院作業療法棟

煉瓦造

物置(164号棟)か?
現・愛誠病院デイケア棟

煉瓦造

煉瓦の気配。

なお、板橋区の資料によると「愛誠病院本部事務棟/第 3 病棟」(下の写真)が煉瓦造の164号棟と記載あるが、どうみてもデイケア棟が煉瓦造建造物。事務棟/第 3 病棟は、逆に煉瓦造建造物には見えず。

本記事の冒頭に記載した位置関係でもデイケア棟と当時の建屋の場所が一致する。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(理化学研究所板橋分所跡)

石神井川の北側。旧・理化学研究所板橋分所エリア。

物理試験室

東西に3棟が連結。
東から昭和13年、明治40年、昭和6年の建造。中央部が一番古く、東西が増設されたことがわかる。
理研時代は湯川秀樹や武井武、朝永振一郎が使用していた。

中央の煉瓦棟は明治40年の建造。

東の棟は昭和13年。

西側の棟は昭和6年。

南側、石神井川側より。

爆薬理学試験室

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、地下一階建。
昭和9年から昭和12年にかけて建造か。

理研跡地も板橋区によって加賀公園・野口研究所跡地ともども、「史跡公園」として再整備予定。
この辺のエリアは整備されたら改めて訪問したいと思う。


陸軍工科学校板橋分校跡

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の南東におかれていた陸軍学校。
現在の「加賀公園」の南側に設置された石碑。
陸軍工科学校の卒業生によって組織された工華会による設置。

花匂ふ桜ヶ丘
永遠の平和を祈る
 工科学校
 板橋分校跡
  工華会建之

板橋区立板橋第五中学校の敷地は、明治41年から昭和15年まで陸軍工科学校板橋分校(通称「桜ケ丘」)が位置していた。

明治41年9月に砲兵工科学校分校として砲兵工科学校の火工学生が小石川本校から板橋分校に移転。大正9年に陸軍工科学校板橋分校と改称。
昭和15年7月に小石川本校とともに陸軍兵器学校と解消され、神奈川県相模原市に移転。
その後、終戦までは「一造の板橋宿舎」として使用。終戦後は昭和30年までGHQの情報機関CIC(対敵諜報隊)が置かれていた。
昭和30年4月に板橋区立板橋第五中学校が開校。


陸軍工科学校板橋分校の陸軍境界石

加賀公園の南、板橋第五中学校の南東に残る境界石。
板橋第五中学校の界隈が、陸軍工科学校板橋分校であった。

「陸軍省」の文字が残る。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の西側は、その2、にて。

※撮影:2016年5月/2020年7月/ 2021年1月

東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場跡地散策

埼玉県深谷市。
かつてここには兵器工場「陸軍造兵廠」があった。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所として深谷市内に「原郷工場(深谷工場)」「明戸工場」「櫛挽工場」の3工場が展開。
今回はそのうちの南西側にあった「櫛挽工場」の戦跡を散策してみる。


東京第二陸軍造兵廠深谷製造所

昭和15年(1940)の組織改編によって、陸軍兵器廠の板橋火薬工場が「東京第二陸軍造兵廠」となり、隣の十条兵器工場が「東京第一陸軍造兵廠」となった。

埼玉県内には「大宮」「川越」「春日部」に東京第一陸軍造兵廠が置かれていた。
そして「深谷」には東京第二陸軍造兵廠が置かれた。これは板橋の疎開先としての設置であった。深谷には「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」があり、利根川の対岸の高崎には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」があったことから工場疎開先として都合が良かったとされる。
昭和18年11月より移転のための用地買収が開始。
もともとの「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」を「明戸工場」とし、日本煉瓦製造専用線沿線の幡羅地区に「深谷工場」(原郷工場)を建設。深谷駅南の櫛挽地区に「櫛挽工場」を建設。
用地買収の1年後となる昭和19年10月に「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所」が設立され、本部は現在の「深谷第一高等学校」の地に置かれた。
東京第二陸軍造兵廠深谷製造所は、稼働10ヶ月にして終戦。

「深谷工場」(原郷工場)

「日本煉瓦製造株式会社上敷免工場」「明戸工場」は以下で。

https://senseki-kikou.net/?p=13059


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M626-B-80
1947年11月04日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

GoogleMapにて補完。

今回の散策は深谷の南西部に位置する「櫛挽工場」跡地を散策してみる。


櫛挽地区(櫛引地区)へ

立地場所は公共交通機関ではかなりアクセスのしにくい場所。
北東の深谷駅からではなく南を走る秩父鉄道を利用して近くに向かうことにする。

ちなみに櫛挽(櫛引)で、「くしひき」と読む。

「次はオマエダ」
これが見たかった、とも。

秩父鉄道「小前田駅」から歩く。
約6キロの距離を約1時間20分ほどかけて歩く。

二造深谷製造所櫛挽工場跡地散策

「櫛挽ヶ原」と呼ばれていた深谷市櫛挽地区(櫛引地区)は、周辺集落の入会地・秣場的林地として使用されており、野水が停滞する農地には向かない土地であった。
戦後に開拓地として平地林が広がる原野を開墾し、排水の便を整備。赤城おろしの北風が吹き下ろす土地であったため、防風林とする林を残しながらの開拓が行われた。

開拓前の櫛挽地区は平地林が広がっており、そんな中に、「二造深谷製造所櫛挽工場」が展開された。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M105-A-5-106
1946年04月15日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※クリックして拡大

「櫛挽ヶ原」を拡大。
戦後の開拓が始まっており、「櫛挽工場」の区画も、いまいちはっきりしない。なんとなく平地林であったことはわかるが。

GoogleMap航空写真。
櫛挽ヶ原の名残を防風林に残しつつ、開拓された様子がわかる。
ピンを立てた場所が唯一残る「櫛挽工場」名残の廃屋。

1時間以上歩いて、流石に歩くのに飽きてきた頃、畑の真ん中に唐突にコンクリートの建物が見えてきた。
「東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場」の弾薬庫跡とされる建物。

2階建コンクリート。屋根も扉もなく、風雨にさらされている。

農地に忽然と現れたコンクリート建造物。

建物の周辺にもコンクリートの基礎が残っている。

鉄筋。

1階部分。覗いてみましょう。

思ったよりもきれいな空間。

階段があります。2階に登ってみましょう。

踊り場に生えた緑。
コンクリートに根を生やした草木。

二階部分。

一階に通じる穴。

屋根はない。
空が近いような気がする。

踊り場

そびえ立つコンクリート。

ちょっと離れたところにある基礎。
高射砲台座?か。

ちなみに晴天時・乾燥時は心配ないが、雨天後の湿っている時などは、周辺が牛糞系肥料のぬかるみで大変なことになっているそうです。幸い、私が訪れた時は乾燥してましたが、この茶色い土のエリア=肥料のぬかるみ、となるそうです。

場所

https://goo.gl/maps/sCQKogFwFFX3LCxy8

さて、駅に向かいましょう。

行きは秩父鉄道・小前田駅から6キロ80分を歩いてきました。
ちょうど電車の接続がよかったので、帰りは4キロほどを歩いて八高線用土駅まで向かいました。
ちなみに、改めて記載するが、周辺に駅は、無い、、、

東京第二陸軍造兵廠深谷製造所櫛挽工場弾薬庫跡
アクセス方法(駅起点)

  • JR八高線 用土駅 約4キロ
  • 秩父鉄道 永田駅 約5キロ
  • 秩父鉄道 小前田駅 約6キロ
  • JR高崎線 深谷駅 約7キロ

あくまで、公共交通機関を軸にした場合ですが、秩父鉄道も八高線も本数がかなり少ないので接続が悪い場合は、深谷駅から往復アクセスするのが時間的にも無駄がないかもしれません。
深谷駅であればレンタサイクルを活用するという手段もあります。
(私は歩いてしまいましたが・・・)

八高線・用土駅。

八高線。キハ110。

行程記録。
小前田駅から約6キロを約1時間20分。
用土駅へ約4キロを約50分、でした。
まあ、良い運動です。

※202008撮影


造兵廠関係

東京第二陸軍造兵廠

埼玉県内にあった陸軍造兵廠のひとつ

関連

深谷の隣町、熊谷

深谷関係

「弾薬庫から女子大へ」大塚弾薬庫跡散策

東京都文京区大塚。
JR大塚駅は本来の「大塚」からは遠い。丸ノ内線の新大塚駅から茗荷谷駅にかけて、そして有楽町線の護国寺駅から東にかけてのエリア。
具体的には「お茶の水女子大学」「跡見学園女子大学」のある周辺を散策してみた。「女子大の周辺を散策」という表現はいささか語弊を招きそうなので、「女子大に昔あった弾薬庫の周辺を散策」と言い直してみる。

2022年3月現在、一部の遺構の消失を確認しました

大塚陸軍弾薬庫

江戸時代は、譜代大名であった磐城平藩安藤家下屋敷。
安藤家10代安藤信正は、老中首座として公武合体を進め、水戸浪士ら尊王攘夷派に襲撃された「坂下門外の変」で知られている。

明治期には安藤家下屋敷はそのまま陸軍用地となっている。

  • 明治13年(1880) 陸軍病馬厩分廠が設置
  • 明治23年(1890) 大塚陸軍弾薬庫が設置
  • 明治41年(1908) 東京陸軍兵器支廠大塚弾薬庫に改称
  • 昭和3年(1928) 大塚弾薬庫が板橋陸軍兵器廠(東京第二陸軍造兵廠)内に移転
  • 昭和7年(1932) 東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)が当地に移転
  • 昭和8年(1933) 跡見学園が当地に移転
  • 昭和8年(1933) 東方文化学院東京研究所(東京大学東洋文化研究所)が建設
  • 昭和15年(1940) 東京高等師範学校附属中学校(筑波大附属中高)が当地に移転

明治期は陸軍用地であったが、昭和3年以降この地は文教地区として再開発されそのまま現在に至っている。


位置関係

時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」を参照。

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.717689&lng=139.732136&zoom=17&dataset=tokyo50&age=9&screen=1&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2

1/25000「東京西部」
昭和4年二修・昭和6.6.30発行

「大塚兵器庫」の敷地が広がっている。

1/25000「東京西部」
昭和20年部修・昭和22.7.30発行

兵器庫跡地は南北に分断。
北部を「お茶の水女子大学」が使用。兵器庫を東西に横断する道路も新設されている。

現在の様子。
北部をお茶の水女子大学、南東部を跡見女子大学、南西部を筑波大付属高校などが利用。

国土地理院・地理院地図(電子国土Web)

https://maps.gsi.go.jp/#17/35.718116/139.731771/&base=pale&ls=pale%7Crelief&blend=1&disp=11&lcd=relief&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

大塚火薬庫のあたり=お茶の水女子大学がちょうど良い大地になっているのがわかる。

googleMapに「大塚火薬庫」の推定位置を描いてみた。
見どころポイントは「北部」と「北西部」。

下記が当日のロガー。
護国寺駅を起点に一周してみましたが、北部と北西部以外は、再開発などで当時の面影を感じることはできませんでした。


大塚弾薬庫跡地(北西部)

現在の「お茶の水女子大学西門」付近。
弾薬庫時代の壁=軍用地境界壁がほんの僅かに残っている。

訪れたのが年の瀬のタイミング。門松がバリケードを作っているかのようで。

別の季節に。。。(2022年12月)

境界壁

境界石(境界標石)の消失を確認しました(2024年1月)

陸軍境界石もありました。文字は摩耗してもう読めません・・・

こちらも境界石ですね。

消失確認後の写真(2024年1月)

切り取られました。。。

塗り固められました

陸軍時代の境界壁が残る。

お茶の水女子大学新学生宿舎が建築されるそうで。この古い壁はどうなってしまうのかな。。。


大塚弾薬庫跡地(北部)

お茶の水女子大学の北門、のあたりにも古い壁が残っていました。
こちらも弾薬庫時代の壁=軍用地境界壁、ですね。
亀裂なども発生しており、もしかしたら再開発されるかもしれない雰囲気。

2022年3月 北部の境界壁の消失を確認しました

このあたりの門柱は当時からのものか?

こちらは、欠けておりますが陸軍境界石、ですね。

ここにもお茶の水女子大学新学生宿舎建築のお知らせが貼ってありました。

北側の角で、壁は強引に分断されて新しい柵が取り付けられていました。

2022年3月、壁が改修されました。遺構消失、です。


大塚弾薬庫跡地(東部)

北側から春日通り側を、Googleストリートビューにて。
新しい建物の脇の細い道を進んでいくと、陸軍時代の壁を見ることができます。

https://www.google.co.jp/maps/@35.7202333,139.732885,3a,75y,206.79h,103.39t/data=!3m6!1e1!3m4!1sOt0aOy0ezgPq78yxW4utpA!2e0!7i16384!8i8192?hl=ja

春日通り側は新しい柵と新しい建物、ですね。春日通り側の再開発は一段落したようです。

https://www.google.co.jp/maps/@35.7197044,139.7336597,3a,75y,244.25h,90.59t/data=!3m6!1e1!3m4!1s6Ovz9bAhLxdhhYXwroLj5Q!2e0!7i16384!8i8192?hl=ja

お茶の水女子大学の正門


大塚弾薬庫跡地(南東部)

そのまま南下しますと「新大塚公園」に到着。
この公園は当時の弾薬庫の敷地内。東側にある「跡見女子大学」も西側にある「筑波大付属中学・高校」も弾薬庫の敷地内。


新大塚公園の南側にある建物。

東方文化学院東京研究所
(拓殖大学国際教育会館)

1933年(昭和8年)竣工。内田祥三設計。
大塚陸軍弾薬庫が移転後の建設。内田祥三は東大の安田講堂をはじめとした東大構内を再建し「内田ゴシック」で著名。
鉄筋コンクリート造の和風表現。
義和団の乱の賠償金により東方文化学院東京研究所(現:東京大学東洋文化研究所)として建設された建物。
第二次世界大戦後は外務省の外務省研修所も入居、東京大学と外務省が共同で管理運営。1967年に東京大学東洋文化研究所が東京大学本郷キャンパスに移転。その後、外務省研修所として使用されていたが、外務省研修所も1995年に移転となったために、近隣にキャンパスがあった拓殖大学が建物保存を条件に払い下げを受けた。


大塚弾薬庫跡地(南西部)

弾薬庫の南西部。現在、「鼠坂」と呼ばれている坂道というか石段。
弾薬庫時代の地図でも、この場所は変わらずに道が掲載されている。


大塚弾薬庫跡地(西部)

弾薬庫を東西に横断する道は、弾薬庫移転後に造られた道。
高台にあった弾薬庫跡地を削って道路を新設したことがわかりますね。

弾薬庫のあった台地を削って新設された道路。

こちらは弾薬庫の西側。結構な段差が今も残っている。この高台の上に弾薬庫があった。


「大塚弾薬庫」の西側、音羽通りに古い建物が残っている。
散策ついでに、あわせて掲載。

講談社本館(大日本雄辯會講談社)

1933年(昭和8年)竣工。前述の「東方文化学院東京研究所」と同じ時期の建設。
設計は曽禰中條建築事務所。曽禰達蔵と中條精一郎の共同設計。


一昔前は、もうすこし見どころがあったらしいが、徐々に当時の面影が失われているようで。今も残る北部と北西部の弾薬庫時代の境界壁もいつまで残るものか。。。
特に2019年に発生した「お茶の水女子大学附属中学校への不審者侵入事件」以来、いろいろと変わりつつあるようです。


近くには、池袋や護國寺がある。