「航空隊・航空全般」カテゴリーアーカイブ

土浦海軍航空隊と霞ヶ浦海軍航空隊の慰霊巡拝(土浦・阿見)

阿見と土浦で、霞ヶ浦海軍航空隊と土浦海軍航空隊関連の慰霊碑を巡拝しました。
以下、徒然に。


阿見空襲(阿見大空襲)

昭和20年6月10日。
当時予科練生の訓練が行われていた土浦海軍航空隊とその周辺地区が、米軍のB29爆撃機による大規模な空襲を受け、予科練習生や近隣住民など370人を超える方が犠牲となった。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_02.html


霞ヶ浦湖畔の海軍航空隊

土浦海軍航空隊

霞ヶ浦海軍航空隊


被爆跡記念之碑(青宿壕跡予科練戦没碑)

阿見青宿ノ鹿島神社境内。

昭和20年6月10日の空襲で、神社西側の防空壕に避難中の土浦海軍航空隊の予科練教官11名と予科練習生281名が戦死した。
犠牲者は後述する法泉寺周辺で荼毘に付された。

合掌

第二次世界対戦 被爆跡記念之碑
海軍中将 寺岡謹平書

碑文
 太平洋戦争の末期、当時前線すでに戦力乏しく国内各地は空襲をうけ、物資食糧困窮のなかに、情勢は国民すべてを捲き込む悲愴な「本土決戦」へとかたむいていた。
 時に昭和二十年六月十日。教育訓練施設である土浦海軍航空隊に敵機群が来襲、折から本土防衛の水上特攻要員編成中の飛行予科練習生を中心とする隊員ら二百八十一名が、隊内外で戦死、同時に、当青宿部落を中心に阿見町民家も銃爆撃をうけ、民家多数が焼失又は爆破され住民六名が犠牲になるなど多大の戦災を被った。
 傷恨の跡は、各地に点在するが、いまこれをすべて明らかに留めるところは少ない。
 そして 世は日につれて変わって行く—
 
この場所は、「命を捨てて同胞を護らん」と
愛国の心に燃えて結集した十七・八歳を主体とする”予科練”たちの一部が、武器持たぬ身に血をたぎらせながらやむなく待避した壕の跡であり、不運にも直撃弾二発をうけ、多数が生埋めとなった悲傷の地である。

 ここにこの地の人達が集い、慰霊をおこなってきた戦友・遺族らの意志を継いで、指標を建てる。
 春に先がけて散った若桜たちの、憂国同胞愛の清明な心をとどめる「聖なる地」を顕彰し、ともに悠久の平和を希うことこそ、次の世代に伝える、この地の人達の郷土愛のあかしとおもうからである。
 昭和55年6月10日
  青宿壕跡予科練戦没碑建立委員会撰文

海軍中将 寺岡謹平の謹書。

阿見町名所百選
青宿の鹿島神社
 最新は武甕槌命、島状台地上にある。社殿の西側に2基の円墳(1号墳と2号墳)、東側にやや大型の円墳(3号墳)があり、1号墳は乱掘にあり直刀や勾玉が出土している。3号墳は削平されて原型は定かではない。
 神社西側に戦時中防空壕があり、昭和20年6月10日の空襲で入口に爆弾が投下され、避難中の予科練の教官11名と予科練習生281名が戦死、その他119名重傷の惨事が起こった。いま境内に慰霊の碑が立っている。
 阿見町教育委員会

青宿の鹿島神社

神社の西側。古墳?

西側から、土浦海軍航空隊と霞ヶ浦の方向を望む

台地を生かした防空壕であったことがわかる。

阿見町名所百選(44 青宿の鹿島神社)

https://www.town.ami.lg.jp/0000000816.html

場所

https://maps.app.goo.gl/RaR5XejvMNFSsq6EA


元土浦海軍航空隊戦没者之碑(法泉寺)

法泉寺(土浦市)の境内。
昭和20年6月10日の空襲で戦死された土浦・霞ヶ浦海軍航空隊関係者と町民の方を慰霊する碑が集まっている。
『元土浦海軍航空隊戦没者之碑』『戦死者氏名之碑』
『霞ヶ浦海軍航空隊戦没者慰霊碑』
『十三重供養塔』
『阿見町戦災被爆者供養塔』

合掌

元土浦海軍航空隊戦没者之碑は、昭和26年6月10日に建立された土浦海軍航空隊関係者の戦没者慰霊碑。
前述の青宿の鹿島神社にあった防空壕の犠牲者は、この地で荼毘に付された。

墓誌
 太平洋戦争も終末に近づいた昭和20年6月10日、土浦海軍航空隊にB29爆撃機を含む艦載機群の攻撃をうけ、折しも本土防衛の水上特攻要員編成中の第14期甲種飛行予科練習生・錬成中の同第15・16期生、後輩の訓練に当たっていた第13期生及び教官・教員ほか退院ら281名が、隊内及び周辺で散華した。
 当時、海軍適正部(現土浦第三高等学校)の庭で荼毘に附された遺骨はそれぞれ遺族に引渡されたが、法泉寺第52世住職大僧正山岡英明和尚はその残骨を慈しんでこの地に葬り独り回向を続けること10数年、漸く平和よみがえる昭和36年6月第17回忌法要に際し、土浦市・阿見町はじめ広く各地有志の協力を得て墓碑を建立するに至った。以後、戦死者多数を出した14期生同窓一四桜会はじめ各期の戦友らが集い、遺族と共に供養を行っている。
 時流れて三〇年、七生報国・悠久の大義に殉じた若き命の冥福を祈り、ここに悲傷の日を迎えるにあたり墓所の縁起を記す。
  昭和50年6月
   元土浦海軍航空隊戦没者法要委員会

戦死者氏名


十三重供養塔(法泉寺)

この塔は、平成6年6月5日、土浦海軍航空隊戦没者の50回忌に際して建立された。


霞ヶ浦海軍航空隊戦没者慰霊碑(法泉寺)

霞ヶ浦海軍航空隊戦没者慰霊碑は、昭和50年6月に建立。
昭和20年6月10日の阿見空襲で戦死した24名の方々の氏名が刻まれている。


阿見町戦災被爆者供養塔(法泉寺)

平成28年6月建立。


土浦海軍航空隊適性部跡(海軍航空要員研究所)跡地

現在、茨城県立土浦第三高等学校の敷地となっている海軍航空要員研究所跡地。
海軍航空要員研究所(適性部)では、飛行兵の採用試験や適性検査が行われていた。

霞ヶ浦を望む高台。

場所(法泉寺)

https://maps.app.goo.gl/fjWhJUSD3myijdgs6


霞ヶ浦海軍航空隊航空殉職者慰霊塔(神龍寺)

土浦市文京町の神龍寺。
ここに海軍時代に建立された慰霊碑がある。

霞ヶ浦海軍航空隊航空殉職者の慰霊塔は、昭和10(1935)年に建てられ、殉職者41人の名が刻まれています。 
神龍寺の参道近くには霞ヶ浦海軍航空隊に副長として赴任中だった山本五十六が住んでおり、住職の秋元梅峯と交友があったという。
神龍寺24代住職・秋元梅峯は、霞ヶ浦海軍航空隊と親交が深く、慰霊塔建立の10年前の大正14年(1925年)には私財を投じて航空戦死者を慰める趣旨の花火会を霞ヶ浦湖畔の埋立地において行ったことが「土浦全国花火競技大会」の始まりでもあった。

霞ヶ浦航空隊
航空殉職者

航空殉職者

犠牲者の名前が刻まれている

石造念仏車。(念仏車、後生車、輪廻塔)
戦争関連の慰霊塔で、念仏車を備えているのは珍しいと思います。

隣は、消防の慰霊塔。

神龍寺

場所

https://maps.app.goo.gl/m4MfFoxtRFLXhRGXA


忠魂碑(亀城公園)

大正11(1922)年、陸軍大臣山梨半造の揮毫により建立。大正9
(1920)年におこった尼港事件の犠牲者を弔うため、土浦町の青年会の働きかけが建立のきっかけになったといわれている。

ちなみに水戸にある「尼港殉難者記念碑」も同じく陸軍大臣山梨半造の揮毫

忠魂
陸軍大臣山梨半造


土浦城跡(亀城公園)

太鼓櫓門が現存し、東西二か所の櫓は復元。
続日本100名城に選定。


原脩次郎銅像(亀城公園)

原脩次郎(1871~1934)は茨城県初の国務大臣。
昭和10(1935)年に立像が建てられましたが戦中に金属回収に伴い供出。戦後、胸像が復元された。

亀城公園内のミニ動物園には、ニホンザル(日本猿)がいました。

土浦は、まだまだ訪れたいところがありますので、また再訪します。

※撮影:2023年11月


「立川駐屯地創立50周年記念行事(航空祭)」その1(立川駐屯地史料館と歴史散策)

2023年10月29日、一般公開にあわせて、ひさしぶりに立川駐屯地に足を運びました。
以下では、前回の補完もあわせて、記事を再編していきます。

飛行展示は、「その2」で。

以下は以前の記事
「立川駐屯地」

「立川飛行場」

「立川飛行機(立飛)」


立川陸軍飛行場

大正11年(1922)に帝都防衛構想の陸軍航空部隊の中核拠点として開設。
日中戦争さなかの昭和13年(1938)に立川に駐留していた飛行第五連隊隷下の戦闘中隊は「飛行第五戦隊」に改編され、翌年には柏飛行場に移駐。 そののちは実働部隊は置かれなかった。

大東亜戦争のさなかは、実戦部隊は展開されていなかったが、陸軍航空部隊の研究・開発・製造の一大拠点として機能。また軍用機製造の民間工場もあつまっており、戦争末期にはたびたび空襲に見舞われた。

アメリカ空軍立川基地
戦後、アメリカ軍が立川飛行場を接収。アメリカ軍の飛行場運用は昭和44年まで続き、飛行活動停止後に徐々に基地返還が行われる。
昭和47年に立川駐屯地発足、昭和52年に全ての敷地が全面返還。再開発が行われ、今日に至る。

2013年より始まった立川基地跡地再開発事業により、それまで残存していた旧軍の遺構も解体撤去。残るものは少ない。


立川陸軍航空廠

1933年(昭和8年)、所沢にあった陸軍航空本部補給部所沢支部が立川に移転して陸軍航空本部補給部立川支部となる。1941年(昭和16年)8月、立川陸軍航空廠に改称。
北側には陸軍航空技術研究所、西側には陸軍航空工廠が存在していた。


陸軍航空工廠

1940年(昭和15年)発足。
陸軍唯一の航空機製造施設であり、主に航空機用発動機の製造、航空機の設計・試作・製造を目的としていた。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-16
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

立川飛行場東側
USA-R556-No1-16
1947年(昭和22)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
立川飛行場西側
USA-R556-No1-17
1947年(昭和22年)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
再開発の進む現在の様子

立川駐屯地史料館

2019年以来、4年ぶりの再訪です。

展示機MAPと庭園MAPは新しい。
参考にさせていただきます。

CAMP TACHIKAWA 庭園MAP
昭和48年 東部方面航空隊 立川に全面移駐完了
昭和48年に滑走路東側の旧立川駐屯地から現立川駐屯地へと移駐した際、隊員の手によって整備された。移駐にあたり、庭園を整備したほか、旧軍施設や旧立川駐屯地にあった石碑を移設している。

CAMP TACHIKAWA 展示機MAP
航空機としての役目を終え、広報用展示機となった航空機4機種と装甲車

では、MAPに従って散策してみましょう。


【1】八紘一宇

八紘一宇
昭和15年(1940)
 陸軍航空廠本部に建立された。
 アジアが欧米列強の植民地となっている状況を憂い、アジア及び世界が一つの家族のように平和でともに栄えるようにとの願いが。

八紘一宇
陸軍中将 山下奉文 謹書
昭和15年建立

紀元二千六百年記念
陸軍大佐 川崎正寴 謹書

史料館資料より

陸軍航空廠本部
航空廠は、陸軍航空関係の直轄工場です。
写真は、正門から本館を望んだもので、正面の八紘一宇の碑は、マレーの虎と恐れられた山下奉文大将の筆によるもので、現在は史料館東側に展示しています。

史料館にある拓本


【2】行幸記念碑(行幸紀念)

行幸記念碑
昭和8年(1933)
 昭和天皇が初めて行幸されたことを記念して建立された。
 部隊や試験中の航空機を視察されたほか、展覧飛行も行われ、その様子は新聞にも取り上げられた。

行幸紀念
周次郎 謹書

維時昭和八年五月四日  聖駕此地へ幸シ給ヒ親シク陸軍航空ノ威容ヲ臠セラレ當所ノ研究兵器亦  天覧ノ光栄二浴ス乃テ碑ヲ以テ之ヲ不朽二傳フ

周次郎とは、伊藤周次郎陸軍少将のこと。陸軍航空本部技術部長(1932~1935)、昇格後の陸軍航空技術研究所所長(1935~1936)を努めている。
天覧のあった、昭和8年(1933)に、伊藤周次郎が部長を努めていた。

立川駐屯地史料館より。
昭和8年5月4日の 天皇陛下行幸のようすなど。


【3】池

昭和48年(1973)
 隊員の手によって整備された。
 任務に向けて離陸した航空機が無事に帰投するようにとの願いを込めて「ブーメラン」の形を模して設計された。


【4】行啓記念碑

昭和10年11月19日 皇太子殿下の行啓

行啓記念碑
昭和10年(1935)
 皇太子殿下が行啓されたのを記念し、翌年12月に当時の飛行第5連隊長の柴田大佐により建立された。

飛行第5連隊長の柴田信一の最終階級は陸軍中将。陸士24期、陸大33期。
浜松陸軍飛行学校幹事や鉾田陸軍飛行学校長などを歴任した。


【5】行啓記念碑2(皇太子殿下行啓記念碑)

行啓記念碑の2つめ。
昭和16年10月28日 皇太子殿下の2回目の行啓

行啓記念碑
昭和16年(1941)
 再度皇太子殿下が行啓されたことを記念して建立された。
 裏には「陸軍大将土肥原賢二謹書」とあり、当時、航空総監を務めた土肥原大将が書いたことを示している。

土肥原賢二の最終階級は陸軍大将。奉天特務機関長として満州で活躍。欧米では「満蒙のロレンス」と畏怖された。
極東国際軍事裁判では、A級戦犯として処刑された。


【6】飛行第5戦隊記念碑(飛行第五戦隊之碑

飛行第5戦隊記念碑
昭和58年(1983)
 「飛行第5戦隊」の生存者の会により。
 飛行第5戦隊は、大正10年に岐阜県の各務原飛行場で編成され、翌11年に立川に移駐。昭和14年まで立川飛行場に駐屯した。

飛行第五戦隊之碑
開雲 高木秀明謹書


飛行第五戦隊の母隊である航空第五大隊は 大正十年各務原で創設 翌年立川に移駐し 同十四年飛行第五連隊となった
昭和十三年夏飛行第五連隊の戦闘中隊は改編して飛行第五戦隊となり 千葉県柏に移駐した
昭和十六年大東亜戦争の勃発により戦隊は首都防空に任じた 次いで昭和十八年夏南方戦線に進出してジャワ、チモール、ハルマヘタ、比島方面で作戦任務を遂行した
戦局の推移に伴い昭和十九年秋小牧に転進し 同二十年終戦まで中京地区の要塞防空に任じた この間戦隊は武勲を重ねて感状を授与され陸軍戦闘戦隊の華と謳われた
茲に戦隊の歴史を刻し創隊以来国家に殉じた幾多の戦友病没隊員の遺徳を偲びこの碑を建立する
 昭和五十八年五月二十九日
 飛行第五戦隊生存者有志一同

以下は、立川駐屯地の史料館から第五戦隊関連を。

陸軍飛行第5聯隊配置図

ステンドグラス
陸軍飛行第五大隊将校集会所の2階窓に取り付けられていたもの。
大正11年製

オルガン
陸軍飛行第五戦隊の将校集会所にあった

灯籠
立川駐屯地東地区 旧軍通用門門柱

昭和14年まで立川飛行場に駐屯した飛行第五戦隊は柏に移駐となっている。

飛行第五戦隊 その後
千葉県柏で本土防空任務に就いていた飛行第5戦隊は二式複座戦闘機”屠龍”(キ‐45改)を保有していました。昭和18年になると南方戦線を防衛するため、インドネシアのジャワ島マランに展開して船団護衛や要地の防空任務に従事していましたが、、昭和19年7月に名古屋地区の防空任務を命ぜられて本土へ帰還。愛知県の清洲飛行場を拠点として夜間防空に活躍しています。昭和20年7月には五式戦闘機(キ‐100)に徐々に機種改変して対艦攻撃の訓練を行っていました。しかし、本土決戦のため戦力を温存する傾向となり、出撃を延期することが多くなって、8月15日を迎えたのでした。


【7】駐屯地竣工記念碑(竣工記念植樹)

駐屯地竣工記念碑
昭和58年(1983)
 現立川駐屯地移駐の10年後、第5代駐屯地司令の菱田司令の時代に建立された。
 これに合わせて記念樹としてハナミズキが植樹された。


立川駐屯地史料館見学

いくつか目に止まったものをピックアップ。

昭和15年頃の陸軍施設等の配置図。
「立川飛行場」を中心とした、位置関係がわかる。

東側に
陸軍航空技術学校、陸軍病院
立川飛行機(民間)、陸軍獣医資材廠(東立川駐屯地)、立川工作所(民間)。
西側に
陸軍航空技術研究所、陸軍航空廠立川支廠、陸軍気象部立川出張所、陸軍航空工廠、東亜航空機(民間)、千代田航空機(民間)

立川と空襲
 米軍による日本本土空襲が始まったのは、昭和19年11月のこと。同年7月にサイパン島が占領され、ここを基地としたB-29が大挙して来襲するようになった。以来、空襲は激しさを増し、終戦までの10ヶ月足らずにうちに、日本の主要都市のほとんどが爆撃された。
 立川が空襲を受けた理由としては、軍事関連施設が多かったこと、B-29が東京に襲来するときのコースが、サイパン島からまっすぐ富士山めがけて北上し、伊豆諸島上空付近で進路を北東に向け侵入するため、多摩地区が通過コースとなっていたことなどが考えられる。このため立川は、昭和20年2月16日以降、13回の空襲を受けた。なかでも昭和20年4月4日の空襲は激しく、富士見町山中坂ではB-29が落とした250Kg爆弾が命中し、防空壕にいた全員が犠牲となった。立川飛行場にも空襲はあったが、市内の空襲よりも被害は少なかった。これは、終戦後立川飛行場をそのまま使おうと米軍が考えていたから、などと言われている。
 「昭和記念公園は飛行場だった」より抜粋

山中坂の防空壕跡。

昭和初期~昭和15年頃の軍用機

立川は民間航空発祥地

「神風号」昭和12年に立川を離陸して英国へ。

「ニッポン号」の世界一周(昭和14年)

木製プロペラ
日本楽器株式会社(ヤマハ・YAMAHA)

九三式単軽爆撃機の木製プロペラ
(被包式プロペラ甲型)
川崎造船飛行機工場製、昭和9年

八八式偵察機の木製プロペラ
(刃部包装)
日本楽器(ヤマハ)製、昭和6年

二式射撃標準器甲一号
日本工学工業製(ニコン・NIKON)

板垣征四郎大将の書
杉山元大将の書

陸上自衛隊の引退航空機

陸上自衛隊の現役航空機


野外展示機も見学。

【1】UH-1H

UH-1H
全長:17.4m/全幅:2.85m/巡行速度:215km/h
航行距離:420km/乗員:操縦士2名+兵員11名
UH-1Bの後継として1972年から1991年にかけて133基を導入。現在はUH-1Jに託し全て退役。
陸自ではコールサインから「ハンター」と呼ばれる。「ひよどり」という別名もある。米国では「ヒューイ」(先住民族の名)という愛称も。


【2】OH-6D

OH-6D
全長:9.54m/全幅:1.97m/巡行速度:239km/h
航行距離:460km/乗員:操縦士1名+兵員3名
1969年からOH-1J、1979年からはH-6Dが1997年まで310基を導入、2020年に全て退役。
陸自ではコールサインから「オスカー」と呼ばれる。米国では「カイユース」(先住民族の名)とい愛称も。


【3】LR-1

LR-1
全長:10.13m/全幅:11.95m/巡行速度:460km/h
航行距離:2000km/乗員:操縦士2名+兵員5名
1967年から1984年かけて20基が納入。現在はLR-2に託し2016年に全て退役。
陸自では「LR」コールサインから「レコン」と呼ばれる。


【4】L-19

L‐19
全長:7.62m/全幅:10.97m/巡行速度:160km/h
航行距離:750km/乗員:2名
セスナ社で制作されたセスナ170の軍用機。
1954年に米軍から貸与を受け1986年に全て退役。
「L-19」とそのまま呼ばれている。「そよかぜ」という愛称も。

常設の展示場所には、姿が見えず。。。

イベント限定で、滑走路にお引越ししていました。L-19にとっては、何年ぶりの滑走路だろうか。久しぶりの晴れ舞台でちょっと嬉しそうに見えました。

コクピットになにかいました。
こいつ、前から気になっていたんだけど、なぜにここにいるのだろう。ミニオンズ。

今にも飛び立ちそうな佇まい。


【5】60式装甲車

入り口近くに。
何かが乗っている。

60式装甲車
全長:4.85m/全幅:2.40m/速度:45km/h
行動距離:230km/乗員:4名+兵員6名
1960年に制式化され2006年に全て退役。
戦後米国から提供され、三菱重工業が開発。
「60式」は1960年に制式化されたことを示している。災害派遣でも活躍。


立川黒松

庁舎まえの庭園に。

立川黒松の由来
 立川の発展は 飛行場とともにあり 立川は歴史の中から また立川を語る上でも飛行場を忘れることが出来ない
 過ぎた日の飛行場を懐ひ 飛行場がもつ歴史的背景をおもいおこすときいつも立川飛行場を見守っているのが 此の黒松であり現在もそのさまはみごとである
 当駐屯地は 大正10年陸軍が飛行場の建設を開始し 翌年飛行場の開港とともに陸軍飛行場第5大隊が創隊して 兵舎の間には桜や梅など様々な植木が植樹された
 その中でも ひときわ立派で枝振りの良い此の黒松は 本部隊舎前の植え込みに植樹されたもので 昭和56年現在の立川駐屯地が建設された際に現在地に移植された

八紘一宇に続いて、再び本部庁舎前の写真。

現在の庁舎。

撮影:2023年10月


関連

救難飛行艇「US-2」新明和工業オリジナルグッズ

運良く仕事で防衛省に赴くことがありました。
(私の仕事は防衛産業の会社ではないので、普通は無縁なのですが、本当に運がよく関わることが出来た感じです)

防衛省(市ヶ谷基地)内にある厚生棟内の売店を何気なく見ていたら、思わず釘付けになってしまい、思わず買ってしまったのが「US-2」関連のオリジナルグッズ。

最初、「US‐2」のファイルとストラップだけを買うつもりだったのが、お店の人と盛り上がってしまい、気がつけば追加でいろいろ購入してしまいました。

じつのところ、「飛行艇」大好きマンだったりします。


「US-2」新明和工業オリジナルグッズ

実は、US-2製造元の新明和工業のオリジナルグッズ。
新明和工業の社内販売を想定された製品となり、東日本では防衛省厚生棟1階の売店「森川商店 防衛省市ヶ谷店」でのみ購入可能。

2024年のカレンダーは、もちろん新明和の制作なので「新明和(ShinMaywa)の航空機」のみが掲載というマニアックすぎて素敵なカレンダー。
私が覗いた日が、2024年カレンダーの入荷初日だったそうで、これはラッキー以外のなにものでなく。

ちょっといろいろ買いましたが、他にも買いたいもの多数あったのを我慢しつつ。。。

クリアファイル。美しいです。

人気のアクリルスタンド。
店主曰く、前のモデルが売り切れて、2ヶ月間入荷がなかったそうで、入荷したら「8号機」に変わっていたそうです。7号機から8号機にちょっとした変化をもたせた新明和工業の小技のある製品。そんなエピソード聞かされたら買うしか無いですね。

「US-2」 8号機

ちなみにキーホルダーは「US-2」 7号機。

ShinMaywa 50th FLYING BOAT
新明和工業としての飛行艇50周年記念


Japan Flying Boat History(日本の飛行艇の歴史)

Japan Flying Boat History


日本の飛行艇誕生から100年
 そして、その先へ・・・

海上自衛隊
第71航空隊
〒740‐8555
山口県岩国市三角町2丁目
TEL 0827-22-3181

2007~   US-2
1976~2017 US-1/US-1A
1967~1989 PS-1
1942~1945 二式飛行艇
1926~1938 十五式飛行艇
1920~1926 F-5飛行艇

歴代の代表的な飛行艇。店主さんの快諾で撮影しました。

レシート。
「新明和」と記載してアイテム登録しているのは、店主のこだわり。アクリルスタンドに8号機と記載してあるのも店主のこだわり。

ここは面白いです。店主も面白いです。貴重な話、いっぱい聞けました。

そうそう機会が無いと、防衛省の売店にたどり着くことはできませんが、チャンスがありましたら、是非に。

また来ます、また買いに行きます、行きたいです、、、
(そうそう防衛省に入る用事はありませんけど。。。)


新明和工業

新明和工業 航空機事業部

https://www.shinmaywa.co.jp/products/aircraft/


関連


浜松三方原の陸軍戦跡散策・その2【浜松6】

本記事は、以前の「三方原の陸軍戦跡散策」で、未訪問の箇所を補填した記録となります。

浜松三方原の陸軍戦跡散策【浜松3】の続きとして。

本記事のメインは、前回の訪問時に、移転先がわからなかった「四勇士碑」石碑の確認でした。


浜松の陸軍飛行場

浜松には陸軍の飛行場が2つあった。
「三方原飛行場」と「浜松飛行場」。
この2つの飛行場は誘導路で結ばれており、非常に近い関係であった。

「三方原陸軍飛行場」は、三方原教導飛行団と第7航空教育隊
「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊
なお。浜松陸軍飛行場は、現在は航空自衛隊浜松基地となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M142-A-5No3-21
1946年5月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


四勇士碑

三方原神社の境内に、四勇士碑がありました。

合掌

扁額は、徳川好敏の揮毫

四勇士碑
航空兵団長陸軍中将従四位勲二等功四級男爵徳川好敏題字
維時 昭和十二年三月十九日 故陸軍航空兵少佐従六位勲六等寿圓正隆 故陸軍航空兵曹長勲八等今泉正夫 故陸軍航空軍曹勲八等小川高平 故陸軍航空塀軍曹勲八等岡崎勝ノ四士 九三式重爆撃機第一〇二九号ニ搭乗シ爆撃演習中発動機ニ故障ヲ生シ此処ニ墜落 火ヲ発シ一瞬悉ク其職ニ殉ス 痛恨何ソ堪へン 今ヤ東亜ノ風雲急ニシテ空軍ノ飛躍拡張ヲスルノ秋此精鋭ノ士ヲ失フ国家ノ損失甚大ナリ 然レトモ其壮烈ハ深ク国民ヲ感奮セシメ其沈勇ハ蓋シ武人ノ亀鑑タリ報 天聴ニ達シ 畏クモ進級又ハ叙位叙勲ノ恩命ヲ賜フ 洵ニ餘栄アリト謂フへキナリ 此日壮烈永ク想フク此処ニ痛恨竟ニ忘ルへカラス 因テ村民相計リ碑ヲ建テ以テ之ヲ伝フ
 昭和十二年五月
 飛行第七聯隊長陸軍航空兵大佐
           従五位勲三等 島田隆一撰
           従七位勲六等 中島録平書

四勇士の碑
 昭和12年(1937)3月19日、飛行第7連隊の九三式重爆撃機がエンジン呼称のため失速し、今の三方原南研修会館に墜落して炎上、搭乗していた四人の兵士が殉職した。四人は殉職により二階級特進で、寿円正隆陸軍少佐、今泉正夫陸軍曹長、小川高平陸軍曹長、岡崎勝陸軍軍曹となった。この爆撃機の操縦士は非常事態に直面しても沈着に行動し、墜落の場所を民家や学校を避けていたことが判明した。これに感動した地元民は多くの資金を出し合い、墜落地点へ同年に石碑を建てた。四人は勇敢な行動をとったことから四勇士とされ「四勇士碑」が建立されたのである。篆額は航空兵団長、陸軍中将、男爵の徳川好敏、撰文は島田隆一飛行第七連隊長である。
 なお、この四勇士の碑は、平成29年(2017)に建立地点から三方原神社の境内に移転した。
 三方原歴史文化保存会
 浜松北地域まちづくり協議会
 三方原地区自治会連合会

陸軍士官学校第三十九期航空同期生一同

ちなみに、三方原神社境内には、多くの記念碑があった。

忠魂碑

陸軍大将 田中義一の書

三方原神社

三方原神社 
場所:

https://maps.app.goo.gl/fk8axzTa3QTbNg7WA

四勇士の碑
場所:

https://maps.app.goo.gl/3KQVFpJpZWcZ71BD6


四勇士碑跡地
(九三式重爆撃機墜落の地)

かつての墜落現場に、四勇士碑は建立されていたが、現在は跡地となっている。

四勇士の碑
 昭和12年3月19日、飛行第7聯隊の重爆撃機がこの地に墜落炎上し、搭乗の四勇士が殉職した。
 四勇士は殉職により階級特進で、陸軍少佐寿円正隆、陸軍曹長今泉正夫、陸軍軍曹小川高平、陸軍軍曹岡崎勝、に昇進した。
 この爆撃機が失速、墜落の直前一人の搭乗員が座席を立って、着陸地点を注視していた姿を見た人がいる。非常事態に直面しても沈着、冷静に行動し、民家や学校への被害を避けたことに感激した、地元民の熱意によって、この慰霊碑が建てられました。
 この碑の題字は、航空兵団長陸軍中将、男爵、徳川好敏閣下、撰文飛行第7聯隊長、島田隆一である。
  三方原歴史文化保存会

移転したことが書いていなかったために、前回の訪問時に現地で大混乱をしてしまった。三年ぶりに訪問し、ようやく移転後の石碑に接することが出来た。

四勇士の碑跡地(墜落の地)
場所:

https://maps.app.goo.gl/R9oUC96YH5a6eQCj9


第7航空教育隊の門柱

三方原教導飛行団の門柱のすぐ近くに、第7航空教育隊の門柱もある。こちらも前回、見逃していたので、ようやくの訪問。

場所

https://maps.app.goo.gl/dUfup4WDcu4t1ARt9


三方原教導飛行団の門柱

現在の自衛隊官舎の南側の門柱は、当時の「三方原教導飛行団」の門柱。

三方原教導飛行団は昭和19年4月に浜松飛行学校から独立。
中部第九十七部隊の使用していた三方原飛行場の一角に展開。任務は航空化学戦の実行と教育であった。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Vwyoit7uejnJvfMa8

※撮影:2023年11月


関連

浜松

はじめに

木更津駐屯地 創立55周年記念行事「第49回木更津航空祭」その3(飛行展示)

2023年10月1日(日)に開催された木更津駐屯地の記念行事「第49回木更津航空祭」。
普段は立ち入りができない駐屯地内を散策してみました。

海軍戦跡散策などは、「その1」にて。


陸上自衛隊V-22オスプレイ

木更津駐屯地に暫定配備されているオスプレイ。
暫定配備後、今回の航空祭が初の一般公開であった。
なので、もちろん、陸自のオスプレイを見たのは、今回が初めて。

以下、写真メインで。


編隊離陸

あっちこっちで各航空機が離陸

編隊上空通過

大編成での上空通過


訓練展示


地上展示

陸自以外。


その他

※撮影:2023年10月


関連

木更津駐屯地 創立55周年記念行事「第49回木更津航空祭」その2(木更津の海軍戦跡散策2)

2023年10月1日(日)に開催された木更津駐屯地の記念行事「第49回木更津航空祭」。
普段は立ち入りができない駐屯地内を散策してみました。

木更津駐屯地内の記事は「その1」で。

飛行展示などは、「その3」にて。


ここでは、木更津駐屯地外の戦跡を散策します。
木更津駐屯地の正門の脇にある吾妻公園にいくつか残っています。

射撃の的?(木更津市弓道場)

弓道場の的に活用されている台。射撃の的かな?

小さい斜台。

大きな斜台。


水道施設跡1(吾妻公園)

水道施設のあとが残っている。


水道施設跡2(吾妻公園)

覆屋が崩壊した状態で、水槽が残っている。



水道施設跡3(吾妻公園)


軍用兎之霊碑

選擇寺(せんちゃくじ)の境内に。木更津駅に戻る途中で寄り道。

軍用兎之霊

肉は食料、毛皮は兵隊の防寒着に利用するため、飼育された軍用のウサギの霊を弔う碑。

軍用兎の慰霊碑は、はじめてみました。


木更津の近代建築

木更津駐屯地と木更津駅の間に、いくつか近代建築物がありました。

山田眼科医院  
昭和3年(左)と昭和12年(右)

レディースサークル ひまわり(旧金田屋洋品店) 
昭和7年建造。

木更津駅西口。近代建築ではなく、昭和45年の建造。

木更津周辺は戦跡豊富。まだまだ見るべきところが多いのでまた来ます。

※撮影:2023年10月


関連

木更津駐屯地 創立55周年記念行事「第49回木更津航空祭」その1(木更津の海軍戦跡散策1)

2023年10月1日(日)に開催された木更津駐屯地の記念行事「第49回木更津航空祭」。
普段は立ち入りができない駐屯地内を散策してみました。

飛行展示などは、「その3」にて。


木更津海軍航空隊(木空)・海軍木更津飛行場

昭和11年(1936)4月1日、木更津海軍航空隊が現在の陸上自衛隊木更津駐屯地の場所に開隊。
木更津海軍航空隊は、鹿屋海軍航空隊と同時に開隊した日本初の陸上攻撃機部隊。
昭和17年(1942)11月1日に、第七〇七海軍航空隊と改称、翌12月1日に第七〇五航空隊(三沢空)に編入。
七〇七空の解散後も木更津飛行場は拠点基地として機能。
昭和20年8月7日には、木更津飛行場において、日本初の純国産ジェット機「橘花」が飛行に成功している。

敗戦直後の1945年8月19日、参謀次長河辺虎四郎中将を筆頭とする降伏全権団は、米軍の指示で木更津海軍飛行場から沖縄県の伊江島まで2機の飛行機=緑十字飛行(1番機一式大型陸上輸送機と2番機一式陸上攻撃機の緑十字機)で向かい、さらに伊江島から米軍機に乗り換えてフィリピンに向っている。

戦後は米軍の駐留を経て1956年(昭和31年)に航空自衛隊木更津基地が間借りする。
1961年(昭和36年)に米軍は立川飛行場に転出し、航空自衛隊が占有するが1968年(昭和43年)に入間基地に転出。
入れ替わりに陸上自衛隊が転入して木更津駐屯地となり、現在に至る。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M50-66
昭和22年(1947年)2月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

木更津飛行場界隈を切り出し。

現在の様子(GoogleMap)

さらに拡大。

黄色枠の部分の格納庫と建屋が現存。赤枠の建屋も現存。
緑は、ちょっと形状が違うかな。


木更津駐屯地正門(海軍木更津飛行場正門跡)

海軍時代の正門の門柱が残る。


翔鷺園(海軍防空掩体壕跡)

追悼碑と同時に作られた庭園。海軍時代の防空掩体壕跡でもある。

翔鷺園由来記
 本園は第一ヘリコプター団殉職者追悼之碑建立作業に関連し大堀大野石材店大野留吉氏矢那若草造園間弓三郎氏及び坂井敏武氏等の協力指導により当所にありし旧海軍防空掩体壕に土を盛りまた山梨県八ヶ岳山小淵沢町より石を運び併せて江川久津間地区の買収地より樹木を移し作業日数九十六日延人員1360名に及ぶ全隊員の労力奉仕により茲に庭園を築きたるものにして
昭和48年3月1日追悼之碑序幕と同じくして完成せり
陸上自衛隊第一ヘリコプター団長兼木更津駐屯地司令村岡英夫陸将補これを「翔鷺園」と命名す
永く隊員ならびに市民の思索と憩いの場とならんことを願うものなり


木更津航空神社(木更津神社)

木更津海軍航空隊の隊内神社。
大戦中に航空安全を祈願して建立された航空神社となる。
昭和14年造営。


行幸記念碑

昭和天皇が行幸された記念の碑。
1938年(昭和13年)8月11日に 昭和天皇が行幸された。

揮毫は、戸塚道太郎。
昭和12年に第1海軍聯合航空隊司令官として、木更津海軍航空隊・鹿屋海軍航空隊の九六式陸上攻撃機での上海渡洋爆撃を指揮している。

行幸記念

昭和13年8月11日行幸
 海軍少将正五位勲二等 戸塚道太郎謹書


追悼之碑

木更津駐屯地で殉職なされた隊員を追悼。


荒鷲之碑

昭和16年造。


一式陸上攻撃機(一式陸攻)プロペラ

特に何も説明がないが、一式陸攻のプロペラだという。


航空資料館

内部は撮影禁止。
V-107 (51736 / IIH, KV107II-4A) VIP輸送用の特別仕様機と、旧海軍時代から陸自関係の資料などを展示。

https://sec.mod.go.jp/gsdf/gcc/1hb/sta/index.html


旧海軍時代の格納庫

旧海軍木更津飛行場時代からの格納庫。前述の位置関係の黄枠部分。


海軍消火栓蓋

A格納庫の前に、海軍時代の消火栓蓋が残る。

波に錨


暗渠蓋(排水路の蓋)

もしかして、海軍時代かも。瓦礫が荒いので。


海軍止水栓蓋

海軍時代の止水栓蓋も残る。


海軍時代?の建屋1

おそらく、海軍時代の建屋と推定。前述の位置関係の黄枠部分。


海軍時代?の建屋2

おなじく、海軍時代の建屋と推定。前述の位置関係の黄枠部分。


海軍時代??の建屋3

おなじく、海軍時代の建屋と推定。前述の位置関係の赤枠部分。


講堂

前述の航空写真では形状が適合できなかった建屋。前述の位置関係の緑枠。
海軍時代ではないとしても、古そうなので、もしかして米軍時代?教会?とか???


海軍時代のスロープ?

海軍時代にも同じ場所にスロープがある。往時の名残かも。


海軍時代の施設1

防空壕と思われる施設。煙突のように通風孔もある。搭乗員退避壕だろうか。
往時は覆土してあったのだろう。


海軍時代の施設2

これはなんだろう。覆土された施設。燃料施設か。

上記の覆土された施設の隣。変電設備だろうか?

盛土されている。

土塁ですね。


海軍時代の施設3

若干、盛土が残っている防空壕。同じように通風孔もある。


海軍時代の施設4

防空壕。通風孔が2つもある。

こんな感じで、2つの防空壕が並んでいる。

特に立入制限のロープなどはなかったが、これより北には、ちょっと行っては駄目な雰囲気があったので、ここで引き返し。(掩体壕までは赴けず)


そのほか

そのほか木更津駐屯地内の写真。

格納庫に「笑門」
「笑う門には福来る」

給水タンク。海軍時代かどうかは???

陸上自衛隊 第1 ヘリコプター団の庁舎。

はなの舞。

現在の入り口。

木更津周辺は戦跡豊富。まだまだ見るべきところが多いのでまた来ます。

※撮影:2023年10月1日

その2へ


関連

海自 下総航空基地開設64周年記念行事・その1

藤ヶ谷陸軍飛行場跡に、現在は海上自衛隊下総航空基地が展開している。
2023年10月21日に、記念行事で一般開放があったので、足を運んでみた。

本記事は、その1となります。
その2は下記にて。

写真は、T-5展示飛行(やっぱりその2にて、、、)


藤ヶ谷陸軍飛行場
(海自下総航空基地)

藤ヶ谷の地名は、現在の柏市藤ケ谷。敷地としては、北の柏市と南の鎌ケ谷市にまたがっている。

もともと当地は、東洋一の規模を誇っていたゴルフ場であった「武蔵カンツリー倶楽部」の「藤ヶ谷コース」であった。ゴルフ場としては、昭和4年(1929年)に開発された。
「武蔵カンツリー倶楽部」 は、隣接する「六実リンクス18ホール」に「鎌ヶ谷コース18ホール」を有し、日本初の36ホールのゴルフ場であった。

「武蔵カンツリー倶楽部」は、昭和19年(1944年)に本土防空のための飛行場化のために、帝国陸軍に土地が接収され陸軍用地となったたことでゴルフ場は閉鎖され解散。

昭和20年4月、「藤ヶ谷陸軍飛行場」が完成。6月に飛行第53戦隊が、松戸陸軍飛行場から移動。
昭和20年8月、終戦により、アメリカ陸軍航空軍の白井基地としてGHQに接収。
その後、海上自衛隊と米軍による日米共同飛行場時代を経て、現在は「海上自衛隊下総航空基地」となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-62
昭和22年(1947年)7月24日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

現在の様子。GoogleMapより。


管制塔(海自下総航空基地)

まずは管制塔に行ってみます。

下総運航隊

下総運航隊のゆるキャラ。こいつは格納庫にいました。
あと、自転車ベースっぽいミニPも。

タワりん
うまれたところ:しもふさきちたいかんせいとう
うまれたひ:2023.10.20
レーダーのようせい
とくぎ:ミニPかんせい
すきなたべもの」:レーダー波(は)
なやみごと:ミニPかんせいがいうことをきかない
しんちょう:たぶんりんご30こぶん
たいじゅう:ひみつ♡

基地案内とイベントスケジュール

管制塔。8階の展望回廊。もうひとつ上の9階が管制室。

南側

南西

西

西

西

北西

北、筑波山

北東

南東

下総基地歴史ツアー

千葉県柏市にある、ここ海上自衛隊下総航空基地はもともと・・・

ゴルフ場でした!!!

1932年(昭和7年)~1945年(昭和20年)
当時は「武蔵野カントリークラブ藤ヶ谷コース」という名のゴルフ場でした。     

1945年(昭和20年)4月
第二次世界大戦の最中、帝都防衛※のため
(※帝都=東京)
ゴルフ場は急遽
「陸軍藤ヶ谷飛行場」に変わりました。

1945年(昭和20年)9月、第二次世界大戦後に陸軍藤ヶ谷飛行場は、
「米第5空軍基地」となり、
14年の間、アメリカが管理する基地でした。

1959年(昭和34年)10月
基地内の一部に
海上自衛隊の航空機整備の学校として、
「白井術科教育隊」が誕生し、
  ※1961年~現 第産3術科学校
米空軍と基地の共同使用を開始しました。

翌年1960年(昭和35年)6月
基地から米空軍が撤退し、全面返還され、
海上自衛隊の基地として運用する準備が次々に進みました。

1962年(昭和37年)には
滑走路及び管制塔などの建設が終わり、
航空機としての機能を確立していきます。
それまで白井基地という名称でしたが、
新たに「下総基地」という名称に変わりました。

管制塔の大きさ
高さ38メートル。

「戦艦大和」と「下総基地・管制塔」の大きさ比較。

管制塔の見学記念。
最近、はやりの御朱印タイプ。

こちらをいただきました。


第三術科学校史料室

まずは、史料室に。

下総基地史跡MAP

全部、まわりたいけど、、、立ち入り禁止区域にあるし。

雄魂の碑(立入禁止区域)

九一式改二型航空魚雷(立入禁止区域)
見たかった、、、

戦艦比叡の錨(立入禁止区域)
すごく見たかった、、、

2025年の公開時に、拝見できました!

これは横須賀にお引越し。
40糎被帽徹甲弾

藤ヶ谷飛行場概説。
かなり詳しくて、わかりやすい。

藤ヶ谷飛行場関連遺構(その1)

これですね。

藤ヶ谷飛行場関連遺構(その2)

これですね。

陸軍飛行第53戦隊の帝都防空戦

第3震天制空隊(特別攻撃隊)

陸軍飛行第53戦隊
二式複座戦闘機(キ45改)「屠龍」
キ46三型改「防空戦闘機(武装司偵)」(百式司令部偵察機に上向き銃装備)

「B29」VS「屠龍」の諸元対比

B‐29夜間迎撃戦概要

B-29に対する前方攻撃(推定)

藤ヶ谷飛行場への連合軍進駐

下総基地に関連する戦闘機、など

南方部隊航空部隊第一空襲部隊、第二空襲部隊に対する連合艦隊司令長官山本五十六の感状。開戦時のフィリピン航空戦。

左上の賞状は、呉鎮守府長官時代の嶋田繁太郎によるもの。

となりの安全啓発室。

海自の事故を踏まえた安全啓発室。

弔いの記録。
繰り返さないよう、安全への啓発へと。


下総厚生センター史料室

史料室が、もうひとつある。

日本海軍関連。
海自創設時は、教科書に日本海軍で使用されていた教育資料を礎としていた。

整備魂

YS-11のコクピット。


野外展示機(海自下総航空基地)

SNB型航空機

SNJ型航空機

V-107A型航空機

B-65型航空機


海自下総航空基地

庁舎

格納庫

そういえば、(敷地外の)どこかが火事だったようです。

飛行機の展示は、「その2」で。

※撮影:2023年10月21日


関連

日本初のジェットエンジン「ネ20」(特殊攻撃機「橘花」)

2023年10月に開催された横須賀田浦の海上自衛隊第二術科学校オープンスクール。
企業展示コーナーが解説されており、なんと株式会社IHIのブースで「ネ20」が展示されておりました。


ネ20

日本で始めて実用段階に到達したターボジェットエンジン。
横須賀追浜にあった海軍航空技術廠(空技廠)が中心となって研究開発が行われた。
並行して試作されていた特殊攻撃機「橘花」へ搭載。
「ネ」は燃焼噴射推進器(燃焼ロケット)の頭文字の「ネ」。

空技廠と石川島重工業(現IHI)が軍民一丸となって開発。
1944年7月にドイツからもたらされたBMW 003の図面を基にしているが、図面の大部分と実物エンジンを搭載していた伊号29潜水艦は撃沈しているために、完全なコピーが出来ない状況での開発であった。
1946年6月にネ20は完成し、12基が試作され、4基が地上試験、1基が空中実験に用いられ、残りが橘花の飛行試験に充当。1945年8月までに約50基が量産されていたという。

ネ20は終戦とともに、東側諸国に対する秘密保持のために、連合国によりほとんどが破壊され、現在は3基が現存している。
そのうちの2基は米国にあり、1基が日本でIHIが「IHIそらの未来館」(通常非公開)で保管。


特殊攻撃機「橘花」

大日本帝国海軍が開発したジェット戦闘攻撃機(特殊攻撃機)。
日本初のジェット機。
ジェットエンジンを、空技廠と石川島重工業、機体を中島飛行機が開発製造した。
1945年8月7日に飛行試験を木更津飛行場で実施し初飛行するも、1週間後に終戦を迎えた。

※画像は、Wikipediaより
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kikka_Orange_Blossom_Kikka-10.jpg


現存する国内唯一の「ネ20」ジェットエンジン

はじめて拝見しました。

企業展示コーナーにて

ネ20
IHIの航空宇宙事業の道をひらいた、日本初のジェットエンジン
第二次世界大戦中、海軍航空技術廠により開発された日本初のジェットエンジンである。”ネ”という呼称は「燃料ロケット」のネをとった。ドイツBMW-003A系の構造を参考に開発され、1945年七月に特殊戦闘機「橘花(きっか)に搭載、1945年8月に現・木更津航空基地で高度600m、12分間の初飛行に成功した。1944年12月、東京石川島造船所(現IHI)は5台の量産試作エンジンを受注し、翌年8月1日に横須賀海軍航空技術廠に納入した。IHIの航空宇宙事業は、ネ20から始まった。

Breakthrough Point
限られた物資の中のジェットエンジン開発
ネ20には、限られた物資を有効に使う技術が活かされていた。たとえば、耐熱材料が手に入らず、タービン部は入手困難なニッケルをマンガンに置き換えた鉄ベースの材料で代替した。化石燃料も枯渇していたため、松根油とアルコールを混合して使用した。

四方八方から見学する。

HISTORICAL TURBINE ENGINE
BUILT IN JAPAN
COURTESY OF
NORTHROP INSTITUTE
OF
TECHNOLOGY
INGLEWOOD CALLFORNIA

日本製の歴史的なタービンエンジン
戦後に、米国に鹵獲されたが、現在は、「永久無償貸与、返還要求なし」としてIHIが保管をしている。

米国の銘板、米国での試験時にとりつけられたものか?

貴重な技術遺産。良いものを拝見できました。

※撮影:2023年10月


関連(東京石川島造船所関連)

関連(中島飛行機関連)

陸軍伊那飛行場の跡地散策(熊谷陸軍飛行学校伊那分教所跡)

長野県伊那市。
のどかな信州の山間にも、戦前は陸軍の飛行場が設けられていた。
往時を物語るものが残されているので足を運んでみた。


旧陸軍 伊那飛行場について

第二格納庫跡に、伊那市によって詳細な案内板がセットされているので、以下に紹介をする。

旧陸軍 伊那飛行場について
旧陸軍伊那飛行場と格納庫

 ここは旧陸軍伊那飛行場の跡地です。
 昭和18年8月、この高台の広大な畑や林を軍が接収し、沢二つを埋め立てる大規模な工事が開始されました。同年11月には上伊那各地の住民に勤労奉仕の命令が出され、さらに翌春には、地元の旧制伊那中学校や上伊那農学校をはじめ南信の旧制中学校、旧制松本高校、長野師範学校などの学徒の勤労動員も行われました。軍や建設会社に所属した朝鮮人労働者にも過酷な作業が課せられました。昭和19(1944)年2月には、米軍の空襲をさけるため、この六道原に、埼玉県の「熊谷陸軍飛行学校」の「伊那分教場」が開設されました。
 伊那飛行場では、少年航空兵や見習士官などが、それぞれ3ヶ月の訓練を受けた後、戦地に配備され、特攻隊員となるものもありました。当時は、その飛行訓練のための赤い複葉飛行機(通称赤トンボ)や単葉飛行機(通称飛燕)などが終日伊那の空を飛び回っていました。そして、4回生まで送り出した後、昭和20年2月からは「各務原航空工廠」に所属し戦闘機作りの工場となりました。
 昭和20年8月の敗戦に伴い、米軍によって陸軍伊那飛行場は廃止されました。

・旧飛行場概要(右記の復元図参照)
伊那市六道原 標高650m~700m
南北約2km~2.5km 東西約0.6km~0.8km 総面積約150ha
・本部・兵舎・飛行機の格納庫・弾薬庫等建築物
・滑走路南北方向(芝植栽) 幅80m 長さ1,300m
・誘導路付掩体壕(飛行機を隠すところ)北の林の中に20ヶ所(航空写真)

旧伊那飛行場復元図


位置関係

案内板より

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R198-10
1947年09月22日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。
案内板と同じ航空写真ですね。

拡大。

赤いピンが案内板のある第二格納庫跡。


陸軍伊那飛行場跡地の散策。

第二格納庫の基礎が残っている。

建屋がある場所が格納庫の内部にあたる。

鉄筋がむき出し。

奥が滑走路の方向

格納庫の後ろ側。

滑走路あと。

滑走路跡にある「上の原公民館」に開拓碑がある。

開拓碑

昭和21年12月入植ㇱ此ノ地ヲ拓ク

前述の航空写真は昭和22年なので、開拓の1年後でもあり。

上の原公民館

この通りの奥に、本部があった。
何気ない道だけど、この直線が当時のメインストリート。

弾薬庫跡。一つだけ残っている。

弾薬庫跡を物置小屋に活用。個人宅なので、敷地外から。
場所は明記しませんが、前述の陸軍伊那飛行場の地図から、弾薬庫の場所を落とし込めば、だいたいの位置関係はわかるかと。

本部エリア周辺。

兵舎とかもこのあたりに。

本部はこのあたりかな。

真っ直ぐの道。
本部も兵舎も工場も格納庫も、この通りに接続していた。

このあたりに、陸軍伊那飛行場の営門があった、はず。

戦跡としては、第二格納庫の基礎と弾薬一棟を残すだけではあるが、伊那市によって整備されており、価値のあるものでした。

※撮影:2023年9月


関連

市ヶ谷台メモリアルゾーン(防衛省)

市ヶ谷の防衛省。
敷地内に、歴史的なメモリアルゾーンがある。

その様子は、以前にレポートしましたが、細部は見学コースに含まれておらず、で、

また、大本営地下壕が見学コースに含まれて以降は、時間の都合と思われるが、「メモリアルゾーン」への見学が、コースから、そもそも無くなっておりますが、、、

詳細は伏せますが、仕事の都合で、市ヶ谷の防衛省内に立ち入る機会があり、なおかつ時間的な制約もなく、比較的フリーで行動できたので、念願の「メモリアルゾーン」見学を実施することができました。以下、その模様を。


市ヶ谷台メモリアルゾーン

公務による殉職者の慰霊碑、殉職者慰霊碑をはじめ、市ヶ谷地区に点在していた記念碑・慰霊碑を集約整備した慰霊碑地区。

防衛庁本庁庁舎の市ヶ谷移転に伴い、1998(平成10)年、自衛隊員殉職者慰霊碑などを「メモリアルゾーン」として整理したが、地積が狭く儀仗隊を伴った式典などの実施が困難などの問題があり、平成14年度から同地区の整備を開始し、現在の「メモリアルゾーン」となった。

残念ながら、2023年現在、「市ヶ谷台ツアー」のコースには含まれていないので、見学難易度は高い。

場所

https://maps.app.goo.gl/wgxMjv6xSzGdPvfbA


自衛隊殉職者慰霊碑(殉職者慰霊碑)

昭和25年に警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、自衛隊に至るまでの職務に殉じられた1934柱の御霊(霊璽簿・名簿)が祀られている。昭和37年建立。昭和55年に新たに整備。

富士山をかたどった慰霊碑。

現行法では、自衛隊員の殉職者は、靖國神社に合祀はできない。
そのため、公的には、このメモリアルゾーンにある「自衛隊殉職者慰霊碑」での慰霊するほかないという。防衛大臣主催の追悼式は毎年10月に実施されている。

合掌

建碑の辞
 昭和25年警察予備隊が創設され、爾来保安隊、警備隊を経て、今日、自衛隊は創立30周年を迎えたが、この間、隊員はわが国を取りまく諸情勢の変化に対応するとともに、国民の期待と信頼に応えるべく日夜精励し,祖国防衛の責務完遂に努めている。
 しかしながら、陸に海に空に任務遂行の志半ばにして不幸にもその職に殉ぜられた隊員諸君の英魂に思いをいたすとき、痛恨の念を新たにするものである。
 過くる昭和37年5月、この市ヶ谷台上に慰霊顕彰の碑を建立すると思に霊域を整え、その御霊を慰めて来たところであるが、すでに十有八年余の風雪を経た慰霊碑は、落剝甚だしいものがあった。
 たまたま自衛隊創立30周年を迎えるに当たり、ご遺族をはじめ隊員一同から新たに碑の整備を望む声が昂まり、ここに財団法人防衛弘済会事業として、全隊員の参画の下にこれを整備するとともに、さきに建立された碑の碑銘と建碑の辞を副碑としてとどめ、改めて諸君の不滅の英魂に対し、深甚なる哀悼の意を捧げるものである。
  昭和五十五年十月
  国務大臣 防衛庁長官 大村 譲治 

以下は、以前にもらっていたリーフレットの案内文を掲載。

自衛隊殉職者慰霊碑
 昭和25年、警察予備隊が創設され、保安隊・警備隊を経て、今日の自衛隊に至るまで、隊員は、国民の期待と信頼に応えるべく祖国防衛の責務完遂に努めてきた。加えて、国際平和協力活動など自衛隊の任務も多様化し、国際社会の平和と安全にも大きく貢献している。これは、隊員一人一人が自らの使命に、自信と誇りを持ち、全力をもって任務を果たしてきたからにほかならない。
 しかしながら、創設以来、陸に海に空に、訓練演習、災害派遣等に当たり旺盛な責任感で身の危険をも顧みず任務の完遂に努めた幾多の隊員が職務に殉ぜられ、その数は1900を超える。
 これらの御霊は、自衛谷あっては良き上司部下あるいは良き同僚として、また家庭にあっては最愛の伴侶、心温かい親あるいは頼もしい子として敬愛されていた方々であり、防衛省・自衛隊としては、このような掛け替えのない方々を失ったご遺族の心情や御霊のご遺志、ご偉業を片時も忘れることはない。
 自衛隊殉職者慰霊碑は、このような職務に殉ぜられた隊員の功績を永久に顕彰し、深甚なる敬意と哀悼の意を捧げるものである、昭和37年建立された。その後、風化による傷みが著しくなったことからご遺族の要望もあり、防衛弘済会共助事業費と全自衛隊隊員の拠金をもって新たに整備され、昭和55年10月15日に完成した。
 碑銘は鈴木首相の揮毫によるもので、中央の石は黒御影石で、左右の石は無垢白御影石で霊峰富士山を形どっている。前面には、副碑として旧慰霊碑の「池田首相の銘石」と「建碑の辞の碑銘」が一緒に備え付けられた。

 自衛隊殉職者慰霊碑には、歴代防衛大臣等の防衛省幹部の離着任時に欠かさず、また、外国要人からも献花が行われている。

 警察
呼びたい創設以来、職務に殉ぜられた方々の御遺族も御高齢になられたことを考慮し、御遺族が来訪の時には心安らかにご参拝ができるよう、また同僚・後輩諸氏が事故絶滅の誓いを新たにするに、より相合しい場所となるよう慰霊碑を移設し、メモリアルゾーンの整備を行った。


阿南惟幾 陸軍大臣陸軍大将荼毘之碑

敗戦の責任を感じ、三宅坂の官舎に於て自刃された阿南大将の遺体は高等官集会所に安置され、昭和20年8月15日夜、荼毘に付された碑を移設したもの。


杉山元帥・吉本大将 自決之跡の碑

終戦時、第一総軍司令官杉山元元帥(昭和20年9月12日)、軍令部付であった吉本貞一大将(昭和20年9月14日)は、敗戦の責任を感じて市ヶ谷台で自決。この地にあった碑を移設したもの。


赤玉石

阿南大将及び杉山元帥・吉本大将の外囲いが整備された際、寄贈されたものである。

この慰霊碑台座下の敷石は「卵石」と称し、国内はもとより外国からも輸入された化粧石であります。
 杉山・阿南・吉本・晴木・その他各烈士の慰霊碑に参拝の方々は、是非とも、一個を参拝紀念に、形・色合いを選んでお持ち帰り下さい。
 それが先士先人の事迹に思いをはせ後世に語り継ぐべき、よすがになれば幸いであります。
  市ヶ谷台慰霊会


雄健神社跡(陸軍士官学校神社・市ヶ谷台の地主神)

市ヶ谷台の雄健神社。
陸軍士官学校の神社として、雄健(おたけび)神社は、大正5年(1916)に創建され、陸軍士官学校19代校長、与倉喜平中将が「雄健」と選名。
天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之命、明治天皇、大食津神とともに陸軍士官学校出身将兵の戦病歿者の霊を合祀。

昭和16年(1941)、陸軍予科士官学校の移転にともない御神体が御神体は、朝霞に奉遷。
なお、市ヶ谷台の地主神として大食津神は、引き続きこの地に祀られていたが、占領軍の接収を防ぐために、祭神(大食津神神)を靖国神社へ奉遷。
平成14年(2002)に、メモリアル地区整備(記念碑等の集約)に伴い、現位置に移設。

記念碑(雄健神社跡)
沿革
大正5年
 第19代陸軍士官学校長であった余倉中将により天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之男神、明治大神、大食津神、陸軍士官学校戦病歿者英霊を合祀する目的で建立
昭和12年
 陸軍士官学校が陸軍士官学校と陸軍予科士官学校に分離し、陸軍士官学校は座間へ移転
昭和16年
 陸軍予科士官学校の朝霞への移転に伴い祭神(市ヶ谷台の地主である大食津神以外)を朝霞へ奉遷
昭和20年
 終戦後、占領軍の接収を防ぐため、祭神(大食津神神)を靖国神社へ奉遷
昭和35年
 市ヶ谷駐屯地発足の際、歴史的資料の一つとして保存
平成12年
 防衛庁本庁移転に伴い、祈念碑(雄健神社跡)として管理
平成14年
 メモリアル地区整備(記念碑等の集約)に伴い、現位置に移設され、今に至る

雄健神社跡の記
市ヶ谷台の雄健神社は大正五年に創建された
天照大神、大国主命、経津主命、武甕槌之命、明治天皇、大食津神とともに陸軍士官学校出身将兵の戦病歿者の霊を合祀し、日夜生徒の参拝するところであった
昭和十六年陸軍予科士官学校の移転にともない御神体は朝霞に奉遷された
戦後は長野県の大伴神社にお祀りしてあったが、昭和三七年六月靖国神社にお迎えして昇神の儀が執り行われた。
 陸士二十五期建之

市ヶ谷台から相武台に移転した「雄健神社」。
相武台の旧鎮座地(米軍座間キャンプ)には、雄健神社を偲ぶ鳥居が再建されている。


全陸軍航空部隊・陸軍航空本部・陸軍航空総監部碑
(全陸軍航空部隊碑・全陸軍航空奉賛同人会碑

全陸軍航空部隊、陸軍法空本部、陸軍航空総監部における戦没者、殉職者の英霊を祭祀した主碑と、その後方に「鎮」「魂」及び「追碑」の副碑がある。昭和52年この地に建立。

 全陸軍航空部隊戦没者の慰霊顕彰の碑。菅原道大による謹書。

全陸軍航空部隊 陸軍航空本部 陸軍航空総監部碑
 菅原 道大 書

揮毫をした菅原道大は、陸軍航空の第一人者。陸軍特攻の軍司令官でもあった。

全陸軍航空部隊碑

 この碑は陸軍航空を育成管轄した陸軍航空本部、陸軍航空総監部ならびに全陸軍航空部隊を後世に記念し、かつ終戦に際し責を負って自決された航空本部長熊本中将を始め創始以来陸軍航空に在籍し、国の内外において戦歿或は殉職された全英霊の偉勲を偲んで敬虔な追悼の誠を捧げ、もってわれら陸軍航空同人の心のふるさととしてその友誼を深め、永遠に世界の平和と日本の空の安泰を祈念するものである。
   昭和52年3月10日
    建立委員長 川嶋虎之輔 謹書

鎮・魂の副碑について
主碑後方の「鎮」「魂」の副碑には陸軍航空始まって以来の二千百余の部隊名が彫記されております。
 陸軍航空碑奉賛会


九九式十糎山砲

大日本帝国陸軍が1939年(昭和15年)に制式化した口径105mmの山砲。
昭和42年9月から戦史室前に展示されていたものを移設。


砲一碑

野砲兵第1聯隊及び野砲兵第101聯隊の記念碑。昭和44年この地に建立。

野砲兵第一聯隊
野砲兵第百一聯隊

 聯隊は市ヶ谷台国府台世田谷に駐屯 昭和11年北満州に警備に任じた。其間 西南の役 日清日露両戦役に従軍、支那事変には第101聯隊其他を編成して参戦 大東亜戦争には一部をグアム島に派遣 最後はレイテ島に追撃して玉砕 70有余年に亘る栄光の歴史を閉じた
 茲に同志相計り由緒深い此地に碑を建立し 聯隊歴史同志芳名録記念の品々を納めて永く後世に伝える
 昭和44年6月3日
  砲一碑建設有志一同 建立


陸軍士官学校趾

明治7年、明治天皇の御聖旨により学校設立。第31代陸軍士官学校長、山田乙三大将の揮毫(大正5年)による碑を移設した。

陸軍士官学校趾
陸軍大将 山田乙三 書

山田乙三陸軍大将は。最後の関東軍総司令官(兼任で在満州国特命全権大使)であった。


東京陸軍幼年学校之跡

明治30年、明治天皇の御聖旨により学校設立。
戸山ヶ原にあった碑を学校発祥の地市ヶ谷に移設した。

東京陸軍幼年学校之跡
陸軍大将 山田乙三 書


陸軍少佐晴氣誠慰霊碑

晴氣少佐は大本営陸軍部作戦班に勤務中、敗戦となりその責任を感じて、昭和20年8月17日の早朝にこの地で自決。

 少佐は太平洋正面の作戦を担当し戦勢の挽回に精魂を注ぎ万策を盡したが、戦局の赴く所、如何ともし難く遂に終戦に至る。少佐はその責を一身に帰し、此の地で自決した。
 高潔な人格と全戦役を通ずる輝かしい功績とは軍人の鑑である。


大本営陸軍参謀 晴気誠少佐(陸士44期 佐賀県出身)は、前大戦中、サイパン島陥落の責任を痛感し、昭和20年8月17日未明、この地に於いて同期親友の益田兼利少佐を介錯として自決された。
この碑は、参謀本部作戦課有志により、昭和40年8月に建立。更に高柳實氏の奉仕により平成5年8月16日石碑の台座を修復した。


大元帥陛下御立所

大元帥陛下( 昭和天皇)が士官候補生の馬術訓練を御見学された場所。


謎の建造物

これ、謎なんです。通風孔?


戦史室跡の碑

大東亜戦争に関する戦史叢書102巻が編纂された戦史室の跡地に置かれた碑を移設。
戦史叢書は、みんなお世話になりますよね。

この地で大東亜戦争に関する戦史叢書百二巻を編纂し その業績は防衛研修所戦史部に引き継がれた
 昭和五十四年十二月
  有志一同 建立


東京オリンピック支援集団司令部跡の碑

1964年(昭和39年)の東京オリンピックを支援するため自衛隊支援集団が編成され、司令部は当時の22号館が当てられた。司令部跡に置かれた碑を移設。


市ヶ谷駐屯地・基地記念碑

防衛庁市ヶ谷移転に際して、昭和45年当時の市ヶ谷駐屯地・基地及び芝浦分屯地に在駐していた部隊が刻まれている。昭和45年は、、、三島由紀夫、、、


改めて

メモリアルゾーンに深々と拝礼を。

以前に配布のあった、案内リーフレット。

メモリアルゾーン
 自衛隊殉職者慰霊碑、雄健神社跡、市谷台の各所に点在していた記念碑等を移設した市谷台の東側一帯の地域です。

詳細。

ちなみに、私はA棟(防衛中枢機関)とC棟(情報本部)以外の庁舎棟には立ち入り可でした。

なかなか、立ち入る機会がない場所なので、今回は、貴重な記録になりました。

※撮影:2023年

零式艦上戦闘機と九六式陸上攻撃機のプロペラを祀る「零戦堂」(日光今市)

JR今市駅のちかくに、プロペラを祀るお堂があるという。
けっこう気になっていたので、行ってみることにした。


零戦堂

なんでも日光名産の「けっこう漬」の創始者は、かつて日本海軍に所属していたらしく、戦後にお店の敷地内にお堂を立てて、往時の同僚を慰霊したことにはじまるという。
創業者の福田義雄は、予科練、土浦海軍航空隊を経て鹿島海軍航空隊へ入隊し、特攻隊に志願。戦友が沖縄の海に散華するなかで、生還。
戦後は国鉄の機関車乗りを経て、地元の老舗醤油会社で営業をし、雜貨店を足がかりに、近隣農家で栽培された野菜を漬物にして販売することを決断。
故事にいう「日光を見ずしてけっこうと云うなかれ」から、社名は「けっこう漬本舗」となったという。

https://kekkozuke.co.jp/about

九六陸攻のプロペラは、マーシャル諸島のメジロ島沖合で現地人によって引き揚げられた。昭和61年に気仙沼の漁船によって日本に帰還し、ここに鎮座、多数の弾痕がある。
零戦のプロペラは、昭和57年に横浜沖で底引き網にかかり、柴漁港に引き揚げられたものを、ここに鎮座。

鎮魂
前席のプロペラ。太平洋戦争の激戦地マーシャル諸島のメジロ島沖合より原住民により引上げられた旧海軍九六式陸上攻撃機プロペラ。宮城県気仙沼市第一一〇卓昌丸石崎漁労長により昭和六十一年七月二十日この社に鎮座、無数の弾痕あり。
後席のプロペラ。零戦(零式艦上戦闘機)。横浜市金沢区柴町二四二綱元宍倉弥一氏の底引網により昭和五十七年六月二十一日午后一時横浜沖合にて収納される。海中にあること三十七、八年祖国の繁栄と幸せを願い信じて、太平洋戦争に散華した若鷲の魂が、このプロペラに宿されて、今ここに同じ人類の戦いのはかなくむなしさを呼びかけている。
 昭和六十三年十一月吉日
  日光けっこう漬本舗代表 福田義雄建之

鎮魂由緒書とは異なり、現在は、以下の鎮座配置となっている。
手前は、零式艦上戦闘機のプロペラ
奥は、九六式陸上攻撃機のプロペラ 

零戦堂

プロペラの依代として、勇士を祀る慰霊のお堂。

無数の弾痕。九六式陸攻のプロペラ。

手前は、零戦のプロペラ。

五省
五省は昭和7年、当時の海軍兵学校長 松下 元 少将が創始したもの。

一、至誠に 悖る なかりしか
一、言行に 恥づる なかりしか
一、氣力に 缺くる なかりしか
一、努力に 憾み なかりしか
一、不精に 亘る なかりしか

お堂のとなり。
これはなんだろう。。。


けっこう漬今市インター店(日光けっこう漬の直売店)

https://kekkozuke.co.jp/store/inter

零戦道は、日光けっこう漬の直売店の敷地内にある。
手打ちそばも名物らしい。

残念ながら、私は朝8時前に訪問のため、お店は開店前。

帰路に宇都宮駅内の売店で売っていたので、買いました!!
たまり醤油にワイン、ハチミツを加えたタレで漬け込んだお漬物。
これは美味しいですね!!お酒のおともになりました。

場所

https://maps.app.goo.gl/VxDkyFDUG1skPetq5

※撮影:2023年9月


関連

「桜花」発射の行川基地跡(いすみ)

千葉県いすみ市。
いすみ鉄道「上総中川駅」の北側の山中に、桜花の発射基地があった。


桜花

「桜花」
この美しき言霊は、時に残酷な言霊でもあり。

靖國神社
一一型レプリカ

神ノ池・桜花公園
一一型レプリカ

神栖中央公園
一一型レプリカ

河口湖自動車・飛行館
桜花一一型


桜花四三乙型(桜花43乙型)

ネ20ジェットエンジンを搭載し、300km近い航続距離を得たタイプ。
陸上からのカタパルト発進を行う予定で開発された。
また特徴としては、自力飛行で基地移動が可能となるように設計されており、より「飛行機」に近い形となった。その為、無線と落下傘も装備が予定されていた。トンネル式格納庫に収める為に主翼は折り畳み式で、さらに突入時に加速がつくよう翼端が火薬により切り離せる構造になっていたが、これは可変翼実用化のはしりであったという指摘もある。
実物木型模型は1945年4月に修了、海軍航空技術廠と愛知航空機で量産準備を進めていたところで終戦を迎えている。
この型ではエンジンと燃料タンクの設置のため爆弾重量は800kgに減らされていた。

※参照:Wikipedia 桜花 (航空機)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E8%8A%B1_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)#%E6%B4%BE%E7%94%9F%E5%9E%8B

千葉県房総南部には、12基の桜花発射用カタパルト(桜花43乙型発射基地)が建設されていた。
行川基地には、桜花が配備されることなく、終戦を迎えている。


特攻機「桜花四三乙型」行川基地跡

いすみ市指定史跡
特攻機「桜花四三乙型」行川基地跡
平成十六年三月二十三日指定

 航空特攻兵器として有名な「桜花」の基地がこの地に建設され、現在、格納庫用の洞窟と旋回盤跡が残っています。
「桜花」はまず、一式陸上攻撃機の胴体下に吊るして目標付近まで曳航させ、滑空もしくはジェットエンジンで敵艦船に体当たりするグライダー型の「一一型」及び「二二型」が開発されました。
しかし、本土決戦の意識が高まってくると、近海に押し寄せるアメリカ艦船に対して、本土から直接発進させ激突させようとする計画が持ち上がりました。
この計画によって開発されたのが、頭部に八〇〇キロ爆弾を搭載した、単葉タービンロケット推進の脚なし単座特攻機「桜花四三乙型」です。
これは、山間部から海上に向けて射出するために、非常に高い初速が求められ、そのための高性能のカタパルトの開発は昭和二十年二月、「桜花四三乙型」本体の開発は三月から始まりました。

五月には横須賀鎮守府が、桜花四三乙型噴進射出装置基地施設構築を命じました。
基地候補地のうち八月末に使用可能を目標として工事に着手したのは伊豆半島の十国峠および竹ノ沢、筑波の五輪堂および閉居山、房総半島南部の上滝田および下滝田(南房総市)、房総半島東部では黒原(大多喜町)およびこの行川の八か所でした。
 『中川小学校沿革史』によると、基地は七月二十六日に滑走路が完成したとありますが、それ以降も勤労奉仕が続いたとあるので、工事はまだ続いていたようです。
しかし、八月十五日の終戦までに、「桜花」が基地に届くことはなく、その役目を果たすことはありませんでした。
【格納庫の寸法】
 奥行 三十六・五m
 高さ 五・二m
 幅  四・五五
 旋回盤の直径 三m

基地跡はこの奥約60mの場所にあります。

※崩落の危険があるので、格納庫内部には立ち入らないで下さい。
  いすみ市教育委員会


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M399-116
1947年8月11日、米軍撮影の航空写真。

一部拡大

現在の様子と照合


桜花行川基地跡の散策(格納庫跡と旋回盤跡)

桜花四三乙型の格納庫跡と旋回盤跡(ターンテーブル跡)が残っている。

貴重な戦跡。

格納庫の手前に旋回台がある。

旋回台は、直径約3メートル

アンカーボルトが残る

格納庫

※崩落の危険があるので、格納庫内部には立ち入らないで下さい。

入口部分から、内部を見学する。

内部には、翼を折りたたんだ桜花が2機格納できたという。奥行きは36.5m。

左右に溝が掘ってある。

右側

左側

格納庫の床面。排水用に斜面が設けられている。

なお、案内看板近くの道路斜面には、カタパルト部分の基礎も残っているというが、茂みで基礎は確認できず。

実際は配備が間に合わなかった、桜花発射基地。
間に合わなかったことが、何よりも救いであり。


桜花行川基地跡へのアクセス

場所

https://goo.gl/maps/HdN1CcSnCwmvUMWy9

旧いすみ市立夷隅小学校(現在はJapanNextが使用)の脇の細道をのぼっていくと、いすみ市が設置した看板がある。

季節によっては、藪こぎになるので注意。

道中の右手にパレットで造られた階段の道があるが、それは罠なので、パレットは気にせずに直進を。

桜花の搬出路跡の小道をすすんでいくと、格納庫に到着します。

搬出路跡

周囲は水気に帯びているので、季節に寄ってはぬかるみにも注意が必要。。
カエルさんもいました。

ちなみに、私はレンタサイクル(いすみ鉄道・国吉駅)でアクセスしました。
ほかにも寄ってみたいところがあったので。

廃校となった夷隅小学校。

JAPANNEEXT。一部の界隈では有名なモニターメーカー。


いすみ鉄道

アクセスには、いすみ鉄道を利用しました。

かつての国鉄木原線。昭和5年に大原駅‐大多喜駅間が開業している。

大原駅にて。

国鉄木原線廃線に伴って第三セクター線として、昭和63年に「いすみ鉄道」が開業。
愛称は「い鉄」。

ちょうどお昼時だったので。
駅で「大原漁港 漁師のまかない飯」を購入。

美味。
外房名物、鯵(アジ)の「さんが焼き」そぼろご飯。

国吉駅。ここでレンタサイクルを借りました。

いすみ鉄道の有名撮影ポイント。
かなり久しぶりに走行撮影にチャレンジ。

キハ52 125号車も走っていました。
桜花行川発射基地の南側に鎮座する妙泉寺の門前踏切にて。


ポッポの丘

一部の界隈で有名な「ポッポの丘」

立ち寄ってみました。

懐かしいですね。銚子電鉄の701号と702号。

実は、戦前の車両なんですよ。

デハ700形は、銚子電気鉄道が1978(昭和53)年に導入した車両。
もとは、近江鉄道モハ51形電車。近江鉄道の全線電化に合わせて1928(昭和3)年に川崎造船所で製造された。

ほかにも懐かしい車両の大集結。

ここは、時間をつくって、ゆっくり見学したい、、、ですね。

場所

https://goo.gl/maps/GpgwHGAe9eiG9d4k6


いすみ鉄道 国吉駅

国吉駅でレンタサイクルを返却して、大原駅から帰路へ。

ちなみに、い鐵揚げ、美味しいので是非に。

※撮影:2023年5月


河口湖自動車博物館・飛行舘(2023年8月版)

昨年に続けて、2023年8月も「河口湖自動車博物館・飛行舘」でに行ってきました。
昨年の記事は以下にて。

正式名称は「河口湖自動車博物館・飛行舘」となりますが、「飛行館」の表記揺れがあります。

2024年の模様は下記にて。

以下、2023年版の写真を展開。

彩雲は、ついに尾部と胴体が完成!


河口湖自動車・飛行舘

山梨県南都留郡鳴沢村富士桜高原内にある自動車および航空機の博物館。
原田信雄氏が私費を投じて設立した博物館で、毎年8月の1ヶ月間だけ開館している。

https://www.car-airmuseum.com/index.html

飛行館・入口

ケイタイ電話の撮影のみOKです!

※本記事はすべて「Motorola moto g52j 5G」にて撮影


艦上偵察機 彩雲 11型1290号機

中島飛行機が開発。大日本帝国海軍の艦上偵察機。
実用化した海軍機の中で、彩雲は海軍最速機として陸上偵察機としても活用され、米軍機の追跡を振り切った際に「我ニ追イツクグラマン無シ」の名言も残っている。

1944年に愛知の半田製作所にて量産が開始。半田1号機は1944年6月に完成。終戦までに463機生産(半田では427機)されたという。

河口湖飛行館とアメリカ国立航空宇宙博物館(非公開)にのみ現存。
河口湖飛行館では、彩雲の復元作業に着手している。

ちなみに、来年にはエンジン部(機首部)も搭載されるとのことで。

艦上偵察機 彩雲 11型1290号機
Nakajima C6N1 MYRT
この彩雲は、最高速度654Km/h、最大航続距離5,000kmを誇る、日本海軍の高速偵察機である。
設計は、中島飛行機小泉製作所の山本良造、福田安雄、2名の技師にゆるものだ。太平洋戦争の開戦により、日本海軍は急遽、優れた偵察機が必要になり、昭和17年1月、中島飛行機に開発指示が下った。
要求された最高速度630km/hを実現させるためには、2,000馬力級のエンジンが必要であったが、当時そのような高出力エンジンは存在しなかった。山本、福田両技師は、1,000馬力級の星型エンジン2基を串刺にして、同軸でプロペラを駆動させることで要求を満足させようと考えていたが、幸いにも開発中であった、1,800馬力エンジンの実用化に目処がついたため、このエンジン”誉(ほまれ)”を搭載することで開発が進められた。エンジン出力の不足分は機体の設計技術により補うことで対応した。
彩雲には様々な新技術が採用された。それらの技術は現在の航空機にも使われている。今なお、傑作機として名を残している由縁であろう。

昭和18年4月26日に小泉製作所で量産試作機が完成。
翌年の昭和19年4月には愛知県の半田製作所にて、本格的な量産が開始され、終戦までに463機もの彩雲が生産されている。
現在は、河口湖飛行館とアメリカの博物館の”2機のみ”が現存するが、アメリカにある機体は未公開で、未だ復元が開始されていないため、ここに展示されている彩雲が、世界で初公開となる。

艦上偵察機 彩雲
太平洋戦争の終わり頃に、最新の技術を取り入れ、中島飛行機で開発され造られた、高速で飛べる偵察機である。
強力なエンジンにより、時速654kmのスピードで飛行できた。
現在でも量産プロペラ飛行機の最高速度の記録を持っている。
てんじされている機体は、ミクロネシアのジャングルに隠されていたもので、2000年頃に発見された。
その後、河口湖飛行館に運ばれ、現在修復が行われている。
政界で、この彩雲を見ることができるのは、ここ河口湖飛行館だけなのである。

彩雲の復元、来年も楽しみです!


誉11型(彩雲用エンジン)

中島飛行機と日本海軍航空技術廠発動機部が開発した航空機用空冷式レシプロエンジン。
1942年(昭和17年)9月に生産が始まり、銀河、彩雲、疾風や紫電改など第二次世界大戦後期の航空機にメーカーや機種を問わず幅広く搭載された。


三菱 十字号(自転車)

これは22年には、なかった展示です。一式陸攻つながりですかね。

三菱 十字号(自転車)
一式陸上攻撃機を設計した本庄季郎により、航空機技術を応用して考案された、ジュラルミンフレームの珍しい自転車である。
戦後、GHQにより、航空機の製造が禁止され、ジュラルミン材が豊富に残されていたことから、三菱が民生用の自転車として発売した。
板材をリベットで固定する航空機同様の作り方がなされている。


九九式艦上爆撃機 銘板

昨年、見逃し、、、


戦時下のポスター

昨年、見逃し分


人力ヘリコプター ア・デイ・フライ(A Day Fly)

内藤晃氏の二重反転式の人力ヘリコプター。
これは、昨年、展示されてなかった気がする。


一式陸攻山本長官機・宇垣機の模型

昨年、ちゃんと見ていなかったショーケース。

昭和18年4月18日

山本長官機705空323号機の不時着時の状態

戦時中に回収された「山本長官機」破片

昭和18年4月18日
連合艦隊司令長官前線視察団2番機
705空326号機(宇垣機)
不時着水事の状況を再現


あとは昨年も見ているけど。

一式陸上攻撃機(一式陸攻)22型

22年は日の丸部分の扉が開いていたけども、23年は閉まってますね。


特殊滑空機 桜花11型 I-16


「零戦」とか「隼」とか

あとは、昨年の記録を見ていただければ。だいたい一緒なので省略。


メッセージ

そろそろスペースが無くなりそう。
彩雲が完成後は、どこに展示するんかな、、、


河口湖自動車博物館

興味をもったのをいくつか。(ちなみに車は詳しくないです。。。)

自動車第一号車

ロールスロイス

DATSUN ダットサン

RIKUO 陸王

オオタ ODER型トラック

1937型 ダットサン トラック

ジープ ウイリス MB

戦争映画によく出てくるやつ

ダイハツ3輪トラック

戦前の車を中心に見学してました。
(戦後の車はあまり興味ないらしい、、、)


アクセス

ちなみに、河口湖駅からレンタサイクルで、行きました。
これが、電車からのアクセスの最適解。

バスもあるけど、前提は別荘向けだし、そもそも時間的にちょっと、、、、

河口湖と富士山。山頂は雲隠れ、、、

フジサン特急 かわいい

富士ミネラルウォーター
創業は昭和4年!!

※撮影:2023年8月

また、来年!!

「高ノ島と沖ノ島」館山の海軍戦跡散策・その6

館山散策の続き。
本記事は「その6」です。「その5」はこちらにて。


鷹之島弁天閣(館山海軍航空隊航空神社跡)

境内には、館山海軍航空隊のマークが取り付けられた手水盤がある。
もともとは、館山海軍航空隊の鎮護のために建立された「航空神社」に奉納されたもの。
高ノ島には、厳島神社が祀られていたが、海軍用地となり移転。
「航空神社」が創建し、昭和10年6月22日銘で手水盤が奉納されている。
「航空神社」は、戦後に破却され、厳島神社が昭和24年に復し鷹之島弁天閣となった。

高ノ島の厳島神社(弁財天)は平安時代中期の1092年に安房国司により勧進。
高ノ島は、大将12年(1923)の関東大震災による隆起で干潟となっている。

昭和十年六月二十二日

御社殿の手前に、手水盤


海軍兵器整備予備学生戦没者慰霊碑

鷹之島弁天閣境内。
戦没した海軍兵器整備予備学生を慰霊する。

海軍兵器整備予備学生戦没者慰霊碑

此処に刻せる戦没者名は昭和拾六年より昭和弐拾年に亘る第二次世界大戦の間 戦雲急を告げ全国の高等工業学校専門学校及び大学理工科系卒業後の若人等が 此の地館山洲ノ埼海軍航空隊に入隊し海軍兵器整備予備学生の教育訓練課程修業 期間を卒業し勇躍任務地に赴きしが武運に恵まれること無く国家の為散華せる 英霊を顕彰慰霊したるものなり
 
思い起こせば敗戦より四拾有余年遺憾交々去来す茲に兵器整備予備学生存命の同士等連携相集いて本碑建立せり
 平成弐年拾月

関東大震災の祈念碑もある。

大正地震祈念碑

場所

https://goo.gl/maps/iF5P9dvocghiAa5a8


沖ノ島

はい、季節を間違えました。
こういう場所は、閑散期に訪れるべきでした。大絶賛で繁忙期です。

さすがにカメラをぶら下げて、海水浴場を歩けないので、ここからはスマホに切り替え。

沖ノ島狙撃陣地跡

沖ノ島地下壕跡

まあ、冬に来ましょう、、、

場所

https://goo.gl/maps/Dtm9QZ7LpoLXD3ox9


第二海軍航空廠館山補給工場跡

海自館山基地の隣に残る大きな建物。
現在は民間企業が使用している。

外装がキレイになってますね。


米軍上陸の地

昭和20年9月2日降伏文書調印。 翌9月3日午前9時20分、米陸軍第8軍第11軍団第112騎兵連隊戦闘団約3,500人(司令官カニンガム准将)が館山上陸。 この館山が米軍による本土初上陸の地なのだ。

米軍上陸の地
1945(昭和20)年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリの降伏文書調印式によって第二次大戦が終わった。翌3日、カニンガム准将の率いる米陸軍第8軍約3500名が館山海軍航空隊水上半滑走台から上陸した。東京湾の入口である軍都館山は、このとき本土で唯一、4日間の直接軍政が敷かれた。

案内看板が、だいぶ薄くなってますね、、、

https://goo.gl/maps/VJ6eXCJh1acqtnpB7

むかしは、この脇の通路を抜けて、「館山海軍航空隊水上班滑走台跡」なスリップ場にも行けたのですけど、いまは行けなくなりました。

場所

https://goo.gl/maps/Uoz2GHxs4eXHLf4B7

館山湾から、館山城を望む。館山城址には砲台もあった。

散策漏れ多数なので、館山は再訪必須ですね、、、

※2023年7月


関連

「退避壕と香掩体壕」館山の海軍戦跡散策・その5

館山散策の続き。
本記事は「その5」です。

「その4」はこちらにて。


蟹田川

洲ノ埼海軍航空隊と館山海軍航空隊が隣接するエリア。
蟹田川を境としている。
今も、蟹田川を挟んで、北側が「館山航空基地」。管制塔が目印。

用水路


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M583-25
1947年10月23日、米軍撮影の航空写真。

対象エリアを拡大。
ちなみにこの場所は、洲ノ埼海軍航空隊と館山海軍航空隊とどちらに属しているのだろうか。
左下が洲ノ埼海軍航空隊、右上が館山海軍航空隊にあたる。
蟹田川にかかる橋と、用水路の区割りから、館山海軍航空隊と連携しているような気もするが。


掲揚台

掲揚台跡。


退避壕(1つ目)

畑にいくつか退避壕が見える。この写真では3つ見えています。
ここを中心部に。

いまはいずれの退避壕も半分以上埋もれているために、中に入って退避するスペースはないですね。

まずは、1つ目。


退避壕(2つ目)

覗けました。


退避壕(3つ目)


基礎跡?

なにかの基礎?もしくは塀?の跡。
コンクリート礫の具合から、往時のものと思われるが。


退避壕(4つ目)

一番、東側に残存。民家の庭先、、、
管制塔との位置関係で東側となります。


退避壕(5つ目)

こちらは、西側に残存。
管制塔からの位置関係で西側とわかるかな。

退避壕(6つ目)

どうやら6つ目もあるらしいが見逃しました、、、再訪しないと、、、

場所

https://goo.gl/maps/12gj4ahRN7f7NC428


場所は変わって。。。

香掩体壕

所在地は、千葉県館山市香。香と書いて「コウヤツ」と読む。難しい。
「こうやつ」掩体壕。
中攻(中型攻撃機・陸上攻撃機/陸攻)用の掩体壕とされている。

私有地にあたるため、近寄ることはできない。
もっとも、掩体壕はの全面から水没しているので、どのみち近寄ることはできない。

下記写真の柵の右側に、掩体壕が開口して残っている。

敷地前は水没している。さらに樹木が多くて、全容は不明。

場所

https://goo.gl/maps/vAgE6tKLgWaiUv3HA

※撮影:2023年7月


「その6」へ

「洲ノ埼海軍航空隊と射撃場跡」館山の海軍戦跡散策・その4

館山散策の続き。
本記事は「その4」です。「その3」はこちらにて。


洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)

館山海軍航空隊の隣には、「洲ノ埼海軍航空隊」(洲ノ空)が昭和18年6月1日に開隊。それまで「横空」で行われていた射爆兵器の整備教育を担当する全国でただひとつの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機にかかわる専門技術を学ぶ養成機関であった。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M583-25
1947年10月23日、米軍撮影の航空写真。

拡大、加工。

現在の様子。


洲ノ埼海軍航空隊射撃場跡

昭和18(1943)年につくられた洲ノ埼海軍航空隊は、飛行機を整備する兵隊を教育するための航空隊であった。
洲ノ埼海軍航空隊射撃場は、この前約100mの位置に、戦闘機をおいて、機銃の調整をおこなうための的として使われていた施設の跡。
射朶が5つ並んでいる。

毎回思うのですけど、こういうところは夏はだめですよ。冬にしましょう、、、

この奥に射撃場跡がある。

場所

https://goo.gl/maps/LGRGTwJ3vB4TVQiH7


洲ノ埼海軍航空隊の碑

館山海上技術学校の裏門近くに、洲ノ埼海軍航空隊の碑がある。

昔こゝに洲ノ崎海軍航空隊あり

隣家のワンコが吠え立ててくる。。。

海軍第六期兵器整備科予備練習教程修了 四十周年を記念してこれを建てる
 昭和五十九年甲子九月十五日  
  洲ノ空六期会
   題字 館山市長 半澤 良一

場所

https://goo.gl/maps/wJovD3zuXkDEE8du6


東京湾要塞第一区地帯標

正面:東京湾要塞第一区地帯標
裏面:海軍省
左側面:第一八号
右側面:昭和十六年七月三十日建設

どこかからか、移築された模様。

この「東京湾要塞第一区地帯標」の後ろの山は、洲ノ埼航空隊関連の砲台や監視所などがあるというが、いまは繁る山に登る季節ではないので、また今度。

※撮影:2023年7月

洲ノ埼海軍航空隊は、ほかにも防火水槽跡とかあるけど、やっぱり見逃し。再訪します。。。。

「その5」へ

「赤山地下壕と宮城掩体壕」館山の海軍戦跡散策・その3

先日、「海自館山航空基地ヘリコプターフェスティバル2023」で館山を訪れ、改めて館山の戦跡を散策したくなった私は、翌週にも館山を訪れ、いくつか気になっているところを散策してみました。

しかし、館山はいろいろありすぎる。見逃しが多すぎることが判明しているので、きっとまた行きます。。。

一部は、下記と重複します。

その2は、海自館山航空基地


館山駅

館山駅前のヤシの木は館山砲術学校正面にあったものを戦後に移植。
館山駅東口のロータリーに植えられているヤシの木が、「館山砲術学校」から移植されたものという。

西口にもヤシの木はある。

この日は、レンタサイクルで館山を移動

レンタサイクルの機動力に感謝。(また館山に行ったら使います)


赤山地下壕跡

赤山地下壕は2回目。真夏に冷を求めるのにちょうどよい。

立ち寄ってみる。

(入り口にある海軍止水弁の写真撮り忘れた、、、)

後世に伝えていきたい館山の戦争遺跡
赤山地下壕跡
東京湾の入り口にある館山は、かつて首都・東京を守る軍事的な要衝で、旧陸海軍の様々な施設が置かれていました。その中でも全長1.6kmにもなる赤山地下壕は、館山を代表する戦争遺跡です。本土決戦に向け、終戦の日まで壕の掘削が行われていたといわれています。今でもツルハシの跡が鮮やかに残っており、人の手を感じ取ることができます。赤山地下壕の吸い込まれるような美しい地層の中で、何を思って過ごしていたのでしょうね。

だいたいわかるw

館山市指定史跡 館山海軍航空隊 
赤山地下壕跡
平成17年1月27日指定
 1930(昭和5)年、海軍5番目の実戦航空部隊として、館山海軍航空隊がつくられました。それから、1945(昭和20)年の終戦までの間、館山市香(こうやつ)から沼(ぬま)にかけての一帯には、航空機の修理部品の補給などをおこなった第2海軍航空廠館山補給工場、食料・衣服・燃料などを補給した横須賀軍需部館山支庫関係の施設や、1943(昭和18)年に兵器整備の練習航空隊として開かれた洲ノ崎海軍航空隊など、さまざまな軍事施設がつくられました。
 東京湾の入り口にあることから、館山市には、海軍の施設だけではなく陸軍の砲台や、教育機関(洲ノ崎海軍航空隊、館山海軍砲術学校)など、いろいろな種類の戦争遺跡が残されています。
 このような場所は、わが国のなかでも例が少ないといわれていますが、この赤山地下壕は、合計した長さが約1.6㎞と全国的にみても大きな地下壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつです。
 つくられた時期は、はっきりしていませんが、このような大きな地下壕が、1941(昭和16)年の太平洋戦争開戦の前につくられた例はないといわれています。
 その一方で、昭和10年代のはじめに建設が始まったという証言もありますが、当時の軍部が本格的に防空壕をつくり始めたのは、1942(昭和17)年より後であるという歴史的な事実があります。
 全国各地につくられた大規模な地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10~20m以上(長野市松代大本営の象山壕は25mであるとされていますが、この赤山地下壕は5~10mと狭い上、計画的に掘られたとは考えにくい、そのつくりから見て、終戦がさし迫った1944(昭和19)年より後にけんせつされたのではないかと考えられています。
 アメリカ軍の空襲が激しくなった太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕が、館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことは内部にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務を行ったという体験や、病院の施設があったなどの証言から、知ることができます。
 平成15年 館山市・館山市教育委員会

入壕

自力発電所跡
 この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や、床面の鉄筋が残っています。発電所があったところで、昭和20年2月に、航空隊の正門前の変電所から移転して使用されていたということです。4気筒200馬力のディーゼルエンジンが2台、発電機が2台、変圧器が9個あったそうです。

このクボミは?その1
 変電所電気員の待機所です。右側の浅いクボミには2段式のベットがあったそうで、10人くらいが交代勤務していたとか。空襲で爆弾の振動があると、天井の土がサラサラと落ちてきたそうです。
 壕内には科(職種)ごとの居住区があったらしく、木の棚のベットがあったそうです。

このクボミは?その2
 この縦長のクボミには、電話番が腰掛けて勤務をしていたそうで、中段左右の突起にコードを巻いていたということです。左隣の窪みはトイレで、桶がおいてあったそうです。

この壕はどうのように使われたのだろう
 防衛庁防衛研究所に「館山航空基地次期戦備施設計画位置図」という図面があります。太平洋戦争末期につくられたこの図面をみると、赤山地下壕跡の位置には、「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されています。天井が高い壕は、格納庫として使われたのかもしれません。

応急治療所跡
このあたりに病院施設があったという証言が聞かれます。金属の2段ベッドがあり、軽い患者が治療対象だったようです。被弾した兵士も治療をうけていたそうですが、重症者は横須賀海軍病院で治療を受けたということです。

戦後の赤山地下壕跡
 終戦後は「忘れられた存在」になっていましたが、温度が年中一定していることから、昭和30年前後頃より、キノコ栽培に使われていました。国内の他の戦争遺跡にも、戦後しばらくキノコ栽培に使われた地下壕跡があります。この風呂やボイラー、コンクリートブロックなどは、そのときに設置されたものです。

外が見える。

このクボミは?その3
 この部屋はがんルームとよばれていたという証言があります。少尉クラスの士官たちの部屋だったようです。奥の四角く切った大きなクボミは御真影を安置した奉安殿で、桧の板張りだったそうです。空襲のときに航空隊から御真影を移したということで、少尉クラスの士官の役割でした。

奉安殿の棚。

場所:

https://goo.gl/maps/NdvFCLhPsVeuKDM68

外へ。

赤山のみち
長い時を越えて館山の歴史を伝える
地層・隆起海岸
房総半島南部の海岸沿いは、隆起したことによる海岸段丘と海食崖が帯状に分布しています。
また、沼地区には県指定天然記念物の沼サンゴ層があります。この地層や化石から見て、縄文時代は海水面が高く、谷の奥まで広がっていたことがわかります。房総半島南部は自然に海岸線が後退しただけではなく、度々の地震によって土地の隆起が繰り返され、4つの海岸段丘が形成されました。現在もその痕跡を見ることができます。

中からもみた、外側の開口部ですね。

場所:

https://goo.gl/maps/LbepPiBj3F17JbGn8


宮城掩体壕

忘れてはいけない戦争の名残
掩体壕
東京湾入口にある館山は、かつて首都・東京を守る軍事的な要衝でした。関東大震災による隆起で、海岸線から沖ノ島と高ノ島の間が浅瀬となり、そこを埋め立てて館山海軍航空基地が設置されました。敵機から戦闘機を守るための格納庫を掩体壕といい、戦争末期に学生や住民、兵士達によって多数造られました。かつては赤山周辺だけでも10基余りありましたが、現存するのは1基のみです。この1基はここの近くにあるので、ぜひ探してみてください。

掩体壕の見学も2回目。ここの掩体壕はキレイ。

非常にきれいな内部。

奥が赤山。

場所

https://goo.gl/maps/8hmHZYry31zuUzFMA

※撮影:2023年7月


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