「航空隊・航空全般」カテゴリーアーカイブ

高座海軍工廠の地下壕と台湾少年工顕彰碑(芹沢公園・座間)

以前、高座海軍工廠跡地散策を行ったときに、芹沢公園にも脚を運んだのが2017年12月だった。
その後に、様相が若干かわったとの噂を聞いたので、4年後の2021年12月に再訪してみました。

前回の記録は以下で。


芹沢公園の地下壕

高座海軍工廠(こうざかいぐんこうしょう)の地下工場跡。
地下壕には、「雷電」のミニチュア模型があった。

雷電

大日本帝国海軍の局地戦闘機(乙戦)「雷電」
零戦を設計した三菱の堀越二郎が陸上基地防空のための戦闘機(十四試局地戦闘機)として設計を手掛けた。
昭和18年(1943年)9月から生産開始となり、生産数は621機。三菱生産のほか、高座海軍工廠でも生産された。

「箱根東京軽石層」の白い地層がよくわかる。

芹沢公園の地下壕は、立ち入りはできないが、柵の隙間から地下壕の様子を伺うことができる。現在、2本の壕内がライトアップされており、そのうちのひとつには、壕内に雷電のミニチュアが置かれている。
ライトアップは、9時~17時のあいだ。

芹沢の地下壕

高座海軍工廠と地下壕

 第2次世界大戦末期の昭和19年、現在の東原と大和市・海老名市の一部にまたがる地域に、本土防衛を遂行するための戦闘機「雷電」を製造する目的で口座海軍工廠が建設されました。
 地上施設と並行して、日々激しさを増してゆく空襲を避け、工員と操業の安全を図るために、下栗原の目久尻川沿いや支流にあたる芹沢川の谷あいの垳面に無数の地下壕をが作られました。地下工場が3カ所と知か物資倉庫が10数か所のほか、地下変電所や救護用ベッドを備えた郷もあったと伝えられています。
 栗原の中丸地区(現在の芹沢公園)には、地下工場として、この地下壕が作られました。地下壕の中には、東西と南北にあみだくじのように地下壕が張り巡らされ、その総延長は1500m程となります。これは、赤土の関東ローム層を人力で掘り抜いたものです。
 現在では、殆どの地下壕は埋められて。当時の姿を知ることはできなくなりました。そこで、埋められていないこの壕を残して、戦争の招いた悲惨さを忘れずに久遠の平和を祈念したいと思います。

箱根東軽石層
 地下壕内の壁には、幅40cmほどの白い地層があります。この地層は「箱根東京軽石層」といい、約66,000年前に起きた箱根火山の最大級の噴火による火山灰で、軽石を主体とし、神奈川県を中心とする南関東一帯に降り積もったものです。白い地層の上の層は、噴火直後に起こった火砕流の堆積物で、高熱の火砕流に巻き込まれて炭化した木片や、大木が倒れた跡と推定されている構造も観察できます。
 この地下壕は火砕流がこの地を通過したことがわかる貴重な場所です。(危険防止のため、一般公開は行っておりません。)
 平成28年11月座間市教育委員会

芹沢公園 園路整備工事は
【特定防衛施設周辺整備調整交付金(一般助成)】
を活用して完成しました。
 防衛省南関東防衛局
 座間市公園緑政課

土砂が堆積したままの地下壕もそのまま残っている。


芹沢公園の地下壕から北エリアに移動。北駐車場・管理棟の近くに新しい顕彰碑が建立されている。
「台湾少年工顕彰碑」
2018年に再整備が行われ、顕彰碑とあせて、地下壕のライトアップも行われるようになった。

台湾少年工顕彰碑

台湾少年工顕彰碑
八千の台湾少年雷電を
   造りし歴史永遠に留めん
    高座日台交流の会 石川公弘
北に対き年の初めの祈りなり
   心の祖国に栄えあれかし
    台湾万葉歌人 元少年工 洪坤山
朝夕にひたすら祈るは台湾の
   平和なること友の身のこと
    元伊勢原高女勤労挺身隊 佐野た香
2018年10月20日
 台湾高座会
 台湾高座会 留日七五周年歓迎大会記念
  石川創一謹書  

台湾少年工顕彰碑の由来
 先の大戦中、航空機生産の労働力不足に直面した日本海軍は、その供給源を向学心に燃えていた台湾の若者に求めました。新鋭戦闘機(雷電)を生産しながら勉学に励めば、旧制工業中学の卒業資格を与え、将来は航空機技師への道を開くとの条件に、多くの台湾台湾少年が応募し、選抜試験を突破した八千四百余名が、海を渡って高座海軍工廠のあったこの地(神奈川県高座郡)にやってきました。
 戦局はすでに下り坂で、彼らが求めた勉学の機会はほとんど無く。その上新設の高座海軍工廠には十分な設備が無かったため、大半が全国各地の航空機工場に派遣され、慣れない寒さやひもじさに耐えながら懸命に働き、非常に高い評価を得ました。しかし米軍機の空襲などで六十名に上る尊い犠牲もありました。
 一九四五年八月一五日の敗戦により、志半ばで帰国した彼らを待っていたのは、四十年の長きにわたる戒厳令下の厳しい生活でしたが、それにも耐え抜き、戒厳令が解除されると直ちに同窓組織・台湾高座会を発足させ、李雪峰氏を会長にして日本との密度の高い交流を重ねてきました。
 二〇一八年は、台湾からの第一陣が日本本土に上陸した日から数えて七五年になります。私たちはこの機に台湾高座会留日七五周年歓迎大会実行委員会を組織し、台湾高座会の戦時下の貢献と戦後における台湾最大の親日団体としての活動に感謝の意を表すため、台湾少年工顕彰碑建立を計画しました。
 なお、台湾高座会の皆さんが今もこの高座の地を「第二の故郷」と呼ぶのは、工廠のあった高座の地の多くの農家のお母さんたちのやさしさに源があるようです。此の顕彰碑は当時の農家のお母さんたちへの感謝の碑でもあります。
 二〇一八年一〇月二〇日(平成三十年十月二十日)
 台湾高座会留日七五周年歓迎大会会長 衆議院議員 甘利明

なお、座間市内に高座海軍工廠があったが、台湾少年工たちは、大和市の宿舎から通っていた。
大和市内には、「台湾亭」と「戦没台湾少年の慰霊碑」がある。

以下も参照に。

高座海軍工廠と台湾少年工
「雷電」を作った海軍の工場

 太平洋戦争末期の昭和18(1943)年、現在の座間市東原一帯に海軍直属の工場が開設されました。この工場は当初は空C廠と呼ばれていましたが、昭和19(1944)年高座海軍工廠として正式に発足しました。
 この工場は約1万人規模の工場で、開設された目的は高度1万メートルを飛行する米軍爆撃機 B 29を迎
え新型戦闘機「雷電」を生産することでした。
 工廠の中心部は、およそ現在の相鉄線さがみ野駅から東中学校までですが、その敷地全体は当時の大和
町、海老名町、綾瀬町にまたがり、組み立て工場のほかに将校宿舎・行員宿舎・倉庫・診療所などを含んで
いました。
 この工場の従業員の約8割は台湾出身の少年工で、そのほかに軍人、学徒動員の学生、勤労女子挺身隊
などが働いていました。戦後、フジヤマのトビウオとして有名になった水泳選手の古橋広之進さんや、作家の
三島由紀夫さんもこの工場に在籍していました 。

台湾から来た少年たち
 高座海軍工廠では戦争末期に不足していた労働力を当時日本の統治下にあった台湾に求めました。台湾で行
われた選抜試験には多くの少年が応募し、国民学校高等科や旧制中学校などを卒業した、十代の優秀な少人
余りが、海軍軍属として海を渡って日本にやってきました。
 少年たちは、昭和18(1943)年から順次、現在の大和市上草柳にあった寄宿舎に入寮し基礎教育を受けた後、
高座海軍工廠をはじめ群馬県の中島飛行機製作所や名古屋の三菱航空機など各地の工場へ派遣されました。
その真面目な働きぶりと高い技術は派遣先の工場でも高く評価されました。
 しかし戦局が厳しくなると労働環境は悪化し、中には空襲で命を落とした少年もありました。大和市上草柳の善
徳寺には、亡くなった少年工60名の慰霊碑が建てられています。
 昭和20年8月に終戦を迎え、少年工たちは台湾へ戻ることになりました。翌年の帰国までの間、戦争直後多少
の混乱はあったものの、少年たちは自治組織を結成し、秩序を守って整然と帰国しました。
 戦後、元少年工たちは戒厳令下の台湾でも懸命に努力して故郷の発展に尽くし、また苦労した戦時を過ごした
この地を訪れ、若き日の思い出にふける人も少なくありません。
 出典:石川公弘著「二つの祖国を生きた少年工」「座間市史」ほか 

芹沢の地下壕
 ここ芹沢公園の芝生広場の地面の下には総延長1.5kmに及ぶ「あみだくじ」状の地下壕があります。この地下壕は、激しさを増す空襲を避けて、高座海軍工廠の部品工場を移すために人力で掘り抜かれたものです。
 また、この地下壕は「箱根東京軽石層」という白い特殊な地層が観察できる場所としても知られています。この地層は、約6万6千年前に起きた箱根火山の大噴火によって、軽石を含む火山灰が降り積もったものです。
 現在は、地下壕の入口部分を見学することができます。
  平成30年10月 座間市教育委員会


高座海軍工廠と地下工場と台湾少年工宿舎の位置関係


座間市役所

2020年6月に、座間市役所で公開が始まった「雷電の部品」

座間市>戦闘機「雷電」部品用展示ケースの寄贈式と展示の開始

https://www.city.zama.kanagawa.jp/www/contents/1592805582887/index.html

ぜひ見たいと思い、脚を伸ばしてみたところ、見当たらないので職員さんに確認してみたところ、2021年12月現在では公開休止中。しばらく相模原市に貸し出していて、戻ってきてからは、展示していないのだとか。

相模原市の展示、、、見に行けばよかった。

https://www.sagami-portal.com/city/scmblog/archives/27576

座間市役所での展示再開の際は、またWEBで告知があるとのことです。

撮影:2021年12月

立川飛行機「一式双発高等練習機・キ54」(立飛ホールディングス一般公開)

立飛ホールディングスの前身、立川飛行機が制作した飛行機が、里帰りし、一般公開された。
その様子を写真中心に以下に掲載。

写真多めですが、それだけ充実の展示。
ありがたいものを拝見させていただきました。

本記事は2021年公開時のものです。
2022年公開時の模様は下記の記事にて


立川飛行機一式双発高等練習機

一式双発高等練習機
大日本帝国陸軍の練習機。
キ番号は、「キ54」。
略称は、「一式双発高練」「一式双高練」「双発高練」など。
連合軍のコードネームは、「Hickory」(ヒッコリー、クルミの意味)
開発製造は、立川飛行機。
昭和16年(皇紀2601年、1941年)に正式採用。
立川飛行機として、はじめての自社開発全金属製双発機。
傑作機として重宝され総生産機数は、1342機に及ぶ。

国内唯一の「一式双発高等練習機」現存機

飛行第38戦隊所属機。昭和18年(1943年)9月27日、能代飛行場から離陸後にエンジントラブルによって十和田湖に不時着水。乗員4名のうち3名が死亡、1名が生還。
低温淡水の十和田湖底であったために、機体腐食が少なく当時の塗装が残るままで発見され、2012年に引き揚げ。
青森県立三沢航空科学館で展示されていたが、2020年に立飛ホールディングスに譲受された。
また同時に引き上がられた天風型エンジンの1基は製造を担当した東京瓦斯電気工業(日立航空機)の後継企業にあたる日野自動車が復元処理をおこなっている。

一般公開 平成28年 重要航空遺産認定
一式創発高等練習機
11月25日(木)~28日(日)10時~16時

一式創発高等練習機
公開展示 2021.11.25~28
株式会社 立飛ホールディングス

一般公開の趣旨
 一般公開を行う一式双発高等練習機は、立川飛行機(立飛ホールディングスの前身)が制作した機種の一つで、同機は昭和18年(1943年)に青森県の十和田湖に沈んで以来、今から9年前の平成24年9月に69年ぶりに引き揚げられ、青森県立三沢航空科学館に展示されていました。
 同機の雄姿や、かつて立川飛行機を中心とした科学技術の最先端を誇っていた街の歴史を伝えることが弊社の使命であると感じ、令和2年11月に同機を譲受、今回の一般公開に至りました。

一式双発高等練習機(キ五十四)
 昭和14年(1939年)3月、陸軍から多目的双発高等練習機の試作指示があり、立川飛行機にとっては初めて双発、全金属製、引込脚の機体を制作しました。
 操縦訓練だけではなく、航法、通信、射撃、写真撮影など、いわゆる機上作業全般に使用される練習機です。エンジンの信頼性が高く機体の耐久性に優れ、また操縦席からの視界がよく、機内も様々な訓練に対応できる広いスペースが確保されているなど使い勝手に優れている傑作機でした。
・乗員:5~9名
・発動機:空冷式星型9気筒
・全長:11,940mm
・全幅:17,900mm
・全高:3,580mm
・最大速度:376km/h/2,000m
・上昇限度:7,180m
・航続距離:960km~1,300km
・生産期間:昭和15年~昭和20年
・総生産機数:1,342機

青森県十和田湖から引き揚げ
 太平洋戦争の最中であった昭和18年9月27日、秋田県能代飛行場から飛び立って青森県八戸市高舘飛行場に向かった1機の陸軍機が、エンジントラブルで十和田湖に墜落したことがわかっていました。
 青森県立三沢航空科学館 館長 大柳繁造氏を中心とした引き揚げプロジェクトにより、平成24年9月、十和田湖に沈んでいた「一式双発高等練習機」が引き揚げられました。


一式双発高等練習機
「機首部」

操縦席からの視界が良いと好評だった前面部。

機首部

上部の窓は跳ね上がることができた。

胴体は、2つに割れていた。


一式双発高等練習機
「右翼エンジン部」

双発エンジンは、空冷単列星型9気筒。
東京瓦斯電気工業(日立航空機)が開発・製造した航空機用空冷星型エンジン
陸軍名称は「ハ13」、海軍名称は「天風」。陸海軍統合名称は「ハ23」。

一式双発高等練習機に使用されたエンジンは、「日立ハ13甲」 (九八式四五〇馬力発動機)。

主に、陸海軍の中間・高等練習機で使用されたエンジン。
陸軍では、「一式双発高等練習機」、「一式輸送機」、「二式高等練習機」などに採用。
海軍では、「赤とんぼ」と呼称された「九三式中間練習機」や、機上作業練習機「白菊」などにも採用されている。


一式双発高等練習機
「右翼主翼部」

補助翼
補助翼。展示機は補助翼を覆う羽布が失われていることで、フレームがむき出しの状態を観察できる。補助翼前方には操縦系統と繋がる動作機構が見えている。

一式双発高等練習機の翼型について
「キ五十四取扱参考」(立川飛行機株式会社、昭和18年1月)から、一式双発高等練習機の主翼の翼型は次のNACAの5桁シリーズ翼と呼ばれる種類であることが分かる。どのような翼型だろう。
 胴体中心 NACA23016
 翼端   NACA23009
(以下略)


一式双発高等練習機
「胴体外板・右部」

胴体外板
 附図第2「外板厚 胴体」と展示機。鮮やかに残る日章(日の丸)が描かれている胴体外板の薄さを実感していただきたい。日章の辺りは、厚さ0.5~0.7mmの高力アルミニウム合金板mいわゆる「超ジュラルミン」が使用されている。

一式双発高等練習機の金属材料について
「昭和15年 立川一式双発高等練習機(キ-54)飛行機設計附図」では、胴体外板や主翼骨格の補強材に「チ221」「チ222丙」、主翼結合部に「イ201」「イ202」という材料名称を見ることができる。
(以下略)


一式双発高等練習機
「垂直尾翼部」

垂直尾翼
 移送のための胴体から外された垂直尾翼。飛行第三八戦隊の舞台標識(三と八をうまく組み合わせている)が良く見てとれる。巣直安定版先端の黄色く塗装されている部分には、無線アンテナを張る為のリングも残っている。
 が、ここでは安定版や方向舵の構造にも注目したい。「キ五四取扱参考」からは「対象翼断面、付け根で翼弦長の8%、2本桁」と分かるが、胴体との結合部分は胴体から外さなければ絶対に見ることができない部分である。

飛行第38戦隊


一式双発高等練習機
「水平尾翼部」

水平尾翼
 こちらも移送のために胴体から外されている不意丙尾翼。「キ五十四取扱参考」にあるように、本機の水平尾翼は左右一体の一翼型で、「付け根で翼弦長の10%、2本桁」である。本機の昇降舵も左右一体で、胴体に隠れる部分に操縦索と繋がる槓桿やバランス錘がある。


一式双発高等練習機
「尾部」

尾部
 こちらは、水平尾翼を収納する胴体尾部部分で、左右一体型の水平尾翼を格納するため胴体が切り抜かれている。
 機体後端で尾翼という荷重が掛かる部分がこんな空洞なのには驚かされるが、水平尾翼と垂直尾翼が組み合わされことで、強固な構造となる。本機は水平尾翼と垂直尾翼とも胴体にボルト留めなのだが、展示機ではその結合部分はその結合箇所は分かりにくい。

尾部
 こちらは胴体の尾部端に装着される「尾端覆」(カバー)。プレス成型された数枚の外板を小骨と縦通材、リベット付けで組みあげたと思われ、外板の微妙なカーブ具合を実感していただきたい。その先端に「尾灯」も見えているが、その「保護覆」は失われている。


一式双発高等練習機
「胴体外板・左部」

「5541」は、製造番号


一式双発高等練習機
「機首操縦席内部」

通路扉
 実際に見ると「小さすぎる」という印象が強烈な、胴体と機首操縦席を結ぶ通路ドア。下部がややすぼまっており、上部も十分な広さとは言えず、背の高い人はもちろん通常体型の人でもスムーズに通れなかっただろうと推測される。体を横にして出入りしていたのだろうが、冬用飛行服を着たらつっかえる人が少なくなかっただろう。
 失われているが、ここには木製扉が付く。 


一式双発高等練習機
「同乗室内部」

 同乗室内部
  附図に見る甲型の道場室内部と展示機。附図で見えている空気導管)(今風に言えばエアコンダクト)は展示機では外されて別に展示されている。なお、展示機には内装材も残っていることがわかる。


一式双発高等練習機
「操縦装置」

操縦装置
 展示機の操縦装置。2つある「8の字」状の転輪(コントロールホイール)を
・左右に回転させて補助翼を操作し、機体を左右に傾け
・前後に動かして昇降舵を操作し、機首を上下させ
 機首を左右に振るには、ペダルの左右の踏み分けで方向舵を操作する。


一式双発高等練習機
「左翼主翼部」

ノルナ

フラップの操作油管

主翼結合部。
材質は強靭鋼。クロムモリブデン鋼。


一式双発高等練習機
「燃料タンク」

一式双発高等練習機の主燃料タンクは、主翼付け根前部に格納される内蔵タンク。
容量は1つが約300リットル。

燃料タンク
 このタンクには銘板が付いており、昭和17年9月15日製造と分かる。製造番号は「294左(左タンク)」となっており、機体の製造番号と製造年月(5541号機、昭和17年12月)とは異なっている。そのことに加えて陸軍の検印もあることから、燃料タンクは陸軍への単独納入品だった可能性があるが、他機と共用とも考えにくく詳細は掴めなかった。

主翼の内部に燃料タンクを収納するスペースがある。


一式双発高等練習機
「左翼エンジン部」


一式双発高等練習機
「パネル展示」


一式双発高等練習機
「模型」


一式双発高等練習機
「部品展示」

左主脚「オレオ緩衝器」銘板
製造会社:茅場製作所
製造年:昭和16年

立川 キ54
一式双発高等練習機
「第5541号」機体銘板
※発動機操作台に設置されていた。

操縦席計器盤

航空羅針儀:羅針盤(1号)
※操縦席計器盤丈夫に設置されていた。

高度計(97式)
※操縦席計器盤に設置されていた。

大気温度計
製造会社:富士航空計器
※操縦席計器盤に設置されていた。

油圧調整弁(外板)

操縦席で見つかった鉛筆


エンジン(発動機)

特に説明がなかったが、エンジンが展示してあった。


一式戦闘機「隼」搭載
「ハ25型エンジン」

中島飛行機の空冷複列星型14気筒エンジン。
なぜか展示してあった。


トートバック

Tachihi
Since1924
Tachikawa Ki-54

お土産にトートバックをいただきました。ありがとうございます。

あとは、ワックスペーパー(蠟引紙)でつくられたA4ファイルもいただきました。
企画:立飛ストラテージラボ
販売:TAKEOFF-SITE


立飛リアルエステート 南地区5号棟

一式双発高等練習機が展示されたこの建屋は、「立川飛行機」時代からのもの。

以上、一式双発高等練習機の展示レポートでした。
目の前で見られた、往時の息吹。大変貴重な遺産、ありがとうございました。

※撮影:2021年11月


立川関連

「日本の飛行機王」東洋一の中島飛行機を創業した中島知久平(太田の戦跡散策1・銅像、邸宅、墓所)

日本一にして東洋一の航空機メーカーが戦前の日本にはあった。
「中島飛行機」
その創業者が、日本の飛行機王と称せられた「中島知久平」であった。


中島知久平と中島飛行機

中島 知久平(なかじま ちくへい)
明治17年(1884年)1月11日 – 昭和24年(1949年)10月29日)65歳没。
海軍軍人(海軍大尉)、のち実業家・政治家。
中島飛行機(のちの富士重工業・SUBARU)創始者。

帝国海軍
明治36年(1903)10月に、海軍機関学校(海軍兵学校機関科)入学(第15期生)。
明治40年(1907年)4月25日、海軍兵学校卒業。明治45年、海軍大学校卒業。
海軍中尉となった中島知久平は明治45年に米国に派遣され、さらに大正3年にフランスに出張し、飛行術・機体整・飛行機製作技術などを会得。
大正3年、中島知久平(機関大尉)は横須賀海軍工廠飛行機工場長として設計試作などに従事。

飛行機研究所
大正6年、中島知久平は、航空機の将来に着目し「航空機は国産すべき」「それは民間製作でなければ不可能」と結論し、「飛行機研究所」を設立。海軍を大尉で退役した。(予備役編入)

「飛行機研究所」は、群馬県新田郡尾島町(現・太田市)にて創業(大正6年・1917)。
中島邸宅のすぐ近くの河川敷に滑走路が設けられた。

中島飛行機製作所
「飛行機研究所」 は、大正7年に「日本飛行機製作所」に改称し、さらに大正8年に「中島飛行機製作所」と改称。
大正13年(1924)に「中島飛行機東京工場」(後の東京製作所・杉並区桃井)を建設し、翌年より東京工場にてエンジンの本格生産を開始。

昭和12年には、中島知久平は近衛内閣の鉄道大臣に就任。群馬県人として初の大臣であった。

そして昭和13年(1938)に陸軍の増産要請により陸軍専用のエンジン工場として「中島飛行機武蔵野製作所」(武蔵野市緑町)を開設。
昭和16年(1941)、陸軍専用エンジンを製造していた「武蔵野製作所」の西側に、海軍専用のエンジン工場として「多摩製作所」が開設。
昭和18年に軍需省より増産命令を受け両製作所を統合し陸海軍機の生産を一元化された「中島飛行機武蔵制作所」が成立。
国内エンジン生産シェア4分の1を誇るものとなる。

昭和18年12月、軍需会社法により中島飛行機は軍需省管理下の軍需会社に指定。

武蔵野市の中島飛行機武蔵製作所を中心に西東京田無には中島航空金属田無製造所、三鷹には中島飛行機三鷹研究所などが展開。また周辺には立川飛行機や陸軍立川飛行場、陸軍調布飛行場、府中陸軍燃料廠など軍事施設が集中する一大航空産業地区が出来上がっていた。

昭和19年(1944)11月24日。
マリアナ諸島を発進したB29の東京初爆撃の目標地点は「中島飛行機武蔵製作所」であった。
米軍は武蔵製作所を標的とし高度8000メートル以上の高高度爆撃を行うも、この初空襲での命中率は高くなかった。武蔵製作所は1箇所の工場としては例を見ない計9回に及ぶ爆撃を受ける。

爆撃による壊滅的な被害を受けた中島飛行機武蔵製作所は、各地に工場機能を移転。(工場疎開)
八王子浅川では地下壕にて浅川工場、栃木宇都宮では大谷石採石場跡を利用した大谷工場、福島信夫山に福島工場など30ヶ所以上に分散疎開工場を展開したという。

昭和20年4月に中島飛行機は国営化され「第一軍需工廠」となり、武蔵製作所は「第十一製造廠」に指定。
疎開先の工場は本格稼働も出来ず、特に地下壕の浅川工場は湿気による金属腐敗や内外の温度差などが生産に不向きな環境であり、結局終戦までに10数個のエンジンが完成しただけだったという。

戦後
昭和20年8月16日、中島飛行機は社名を「富士産業株式会社」に改称。中島知久平は代表取締役社長を辞任。弟の中島乙末平が富士産業株式会社社長就任。
中島知久平は、昭和20年8月終戦直後の東久邇宮内閣で、軍需大臣及び商工大臣に就任し敗戦処理に当たる。
(中島知久平は、昭和5年(1930)以降衆議院議員として連続5回当選し、昭和6年に犬養内閣の商工政務次官に、同12年には近衛内閣の鉄道大臣に、同20年に東久邇内閣の軍需大臣(後の商工大臣)を歴任している。)

昭和20年12月に中島知久平はGHQよりA級戦犯に指定。病気を理由に中島飛行機三鷹研究所内の泰山荘にて自宅拘禁扱いとなり、昭和22年9月にA級戦犯指定解除。
昭和24年10月29日に脳出血のため泰山荘にて死去。65歳没。

昭和20年11月16日、富士産業株式会社は財閥指定を受け解体を命じられ昭和25年に解散。

以下は中島飛行機が解体したのちに設立された主な会社

  • SUBARU (旧富士重工業・東京富士産業)
  • THKリズム(旧リズム・富士精密工業)
  • 富士機械(旧富士機器)
  • 輸送機工業(旧愛知富士産業)
  • マキタ(旧富士機械産業・富士発動機)
  • GKNドライブライントルクテクノロジー(旧栃木富士産業)
  • イワフジ工業(旧岩手富士産業)

中島飛行機の主要な航空機と航空エンジン

陸軍

  • 1931年(昭和6年) 九一式戦闘機
  • 1934年(昭和9年) 九四式偵察機
  • 1936年(昭和11年)九七式輸送機
  • 1937年(昭和12年)九七式戦闘機
  • 1940年(昭和15年)一〇〇式重爆撃機 「呑龍」
  • 1941年(昭和16年)一式戦闘機 「隼」
  • 1942年(昭和17年)二式戦闘機 「鍾馗」
  • 1943年(昭和18年)四式戦闘機 「疾風」
  • 1945年(昭和20年)キ87 高々度戦闘機(試作)
  • 1945年(昭和20年)キ115特殊攻撃機「剣」(試作)
  • 1945年(昭和20年)キ201戦闘爆撃機「火龍」(試作)

海軍

  • 1928年(昭和3年) 三式艦上戦闘機
  • 1930年(昭和5年) 九〇式艦上戦闘機
  • 1936年(昭和11年)九五式艦上戦闘機
  • 1936年(昭和11年)九五式水上偵察機
  • 1937年(昭和12年)九七式艦上攻撃機
  • 1938年(昭和13年)十三試陸上攻撃機「深山」(試作)
  • 1942年(昭和17年)二式水上戦闘機
  • 1942年(昭和17年)二式陸上偵察機
  • 1943年(昭和18年)夜間戦闘機「月光」
  • 1943年(昭和18年)艦上攻撃機「天山」
  • 1943年(昭和18年)十八試陸上攻撃機「連山」(試作)
  • 1943年(昭和18年)十八試局地戦闘機「天雷」(試作)
  • 1944年(昭和19年)艦上偵察機「彩雲」
  • 1945年(昭和20年)特殊攻撃機「橘花」(試作)

※中島飛行機では三菱の零戦のライセンス生産も行っており、設計元の三菱を上回る全体約2/3(約6000機)を中島飛行機で量産している。

航空エンジン

  • 空冷式単列星型9気筒 
     海軍名称「 寿」
     陸軍名称「ハ1」「ハ24(性能向上型)」
  • 空冷式複列星型14気筒
     陸軍名称「ハ5」「ハ41」「ハ109」
     陸海軍統一名称「ハ34」
  • 空冷式複列星型14気筒 → 零戦/隼のエンジン 
     海軍名称「栄」
     陸軍名称「ハ25」「ハ105(性能向上型)」「ハ115(性能向上型)」
     陸海軍統一名称「ハ35」
  • 空冷式複列星型18気筒 → 銀河/彩雲/紫電改/疾風のエンジン 
     海軍名称「誉」
     陸軍名称「ハ45」
     陸海軍統一名称「ハ45」

太田市

https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/manga-19.html


中島知久平之像

中島知久平生誕百周年記念として、中島知久平の出生地である尾島町に昭和59年10月建立。

巨人中島知久平先生顕彰之碑に讃ず
 名誉町民、中島知久平先生は明治17年1月11日群馬県尾島町押切の徳望家中島粂吉翁の長男として出生す。同31年尾島町立尋常高等小学校を卒業。向学心に燃え独学で見事専門学校検定試験に合格。引き続き海軍機関学校、海軍大学に学び優秀な成績をもって卒業す。此の間、飛行機の研究に着目する。その後、欧米の航空界の実情を視察し民営の航空機工場の必要性を提唱すると共に、自ら海軍を退官して飛行機の製作を郷里尾島町前小屋を発祥の地として志し後に、現在の太田市に中島飛行機製作所を創設し、我が国の航空機工業に絶大の貢献をもらたす。また政治家としても昭和5年衆議院議員として初当選を機に政界に入り、鉄道、軍需、商工の各大臣を歴任しこの間第八代政友会総裁に就任するなどその経世の才は世界の飛行機王の名と共に今になお高く評価せらる。
 尚今日の富士重工業、三菱電機、東京三洋等をはじめとして東毛の工業発展の礎を創り、かつ平和産業の基盤を残した足跡は誠に偉大にして郷土の誇りとするところであり、ここに巨人中島知久平先生の生誕百年を記念し関係者有志の発起により町内外多くの方々の浄財を基に生誕の地を選び顕彰事業として記念像を建設し先生の偉業を永く後世に伝えんとするものなり。
 昭和59年10月吉日
  尾島町長 小出由友撰之

雄飛

雄飛
それは中島知久平翁が最も好んだ座右の銘であり、翁が若くして雄々しくはばたき人生の夢を描きつづけその全生涯を宇宙への先駆者として生きつづけた指標です。今日も尚若者たちの変わらざる永遠の指針でもあります。
 昭和59年10月27日
  中島知久平翁生誕百年記念
   顕彰事業推進委員会

中島知久平之像

元内閣総理大臣 岸信介

威風堂々とした中島知久平の立像

中島知久平像の後方には女の子の像があった。。。
女の子の像は艶めかしい。「婉然」と名付けられていた。

かつての尾島町役場。旧新田郡尾島町が太田市が合併してからは「太田市尾島総合支所
総合支所としては2008年に廃止。現在は、「太田市尾島行政センター」

場所
太田市尾島総合支所(町民の森公園)

https://goo.gl/maps/ix7xM2HGKQxL28wP9

※中島知久平像(中島知久平先生像)は、この他に、群馬県太田市の金山城跡に胸像がある。(未訪問)

https://goo.gl/maps/sAqGEZgJVmwFZoij9


旧中島家住宅
中島知久平邸地域交流センター

国指定重要文化財。
中島知久平が両親のために築いた邸宅。来客を迎える重厚な車寄せやステンドグラスやシャンデリアなどの高貴な装飾が施された応接室、客間から見渡せる前庭など、宮殿建築としての特徴が随所に見られる近代和風建築物。
大正15年に図面が作成され、昭和4年10月12日に地鎮祭、昭和5年4月17日に主屋上棟、12月5日に屋敷神社殿地鎮祭が執り行われている。

資料(太田市教育委員会)

https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/kankoubutu/files/nakajimapanhu.pdf

太田市

https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bunkazai/shinotabunka04nakajimatei.html

中島知久平邸を、見学。

正門と門衛所。門衛所は昭和6年(1931)の上棟。

主屋は昭和5年(1930)の上棟。主屋の設計監督は宮内省内匠寮出身の伊藤藤一。

中島家の家紋「下がり藤」が施された彫刻。

氏神社は昭和5年に地鎮祭が祭行されている。

重要文化財指定書
旧中島家住宅 4棟

現在、主屋4棟のうち、車寄せのある建物のみが耐震補強整備が完了し公開されている。
その他の建屋は未公開。

電気ストーブの据えられた大理石の暖炉。

電気ストーブは当時、使用されていたもの。

電気ストーブ側のコンセント。

暖炉に備え付けられたコンセント。

ステンドグラスが施された窓

当時この窓から利根川河川敷の滑走路を離着陸する飛行機を眺望することができたようです。

シャンデリアが高級感を引き立てる。

各部屋や玄関には電鈴が設置されていた。
電鈴は女中室外側の壁に集中端末が設置されており、どこで鳴らされたかがわかるようになっていた。

中庭。車寄部の北側には食堂部がある。

外から庭に足を運ぶ。庭からは客室部や居間部の各部屋を見学することができる。

主屋のなかで居間部のみ2階建て。そのとなりには2階建ての土蔵もある。

居間部と土蔵。

左から車寄部、客間部、居間部、土蔵

敷地は四方を塀で囲まれている。

北側の通用門。

旧中島家住宅を南から遠望。

利根川の堤防から。

中島家住宅の南側、利根川の河川敷。かつてこの河川敷から中島知久平の飛行機が飛んでいた。

場所

https://goo.gl/maps/4xEZgJiUQA1cpqCF6


中島知久平墓(徳性寺)

群馬県太田市押切町。中島家住宅のすぐ近く。
中島知久平の出生地である、この地にも分骨され墓がある。

中島知久平の墓

知空院殿久遠成道大居士

昭和二十四年十月二十九日卒 中島知久平
 享年 六十六

墓石は、昭和30年10月に、中島知久平の長男である中島源太郎によって建立されている。

右が中島知久平の墓。
左は中島知久平の妹である中島あやの墓。
中島家住宅は戦後にGHQにより将校倶楽部として接収されている。昭和33年頃に進駐軍も撤退し空き家となり、中島あやが居住していた。

中島家代々之墓。中島知久平の両親(中島粂吉と中島いつ)もこの地で眠る。

場所

https://goo.gl/maps/JHH5jthBReBNBu9z9

※撮影は2021年9月
※群馬県太田市の中島知久平関連の史跡は公共機関のアクセスが悪いので、埼玉県深谷市でレンタサイクルにてアクセスしましたが、利根川(新上武大橋)を渡り、流石に移動距離が尋常ではないので最良の方法ではありません。。。


中島知久平墓(多磨霊園)

多磨霊園9区1種2側。正門から名誉霊域の古賀峯一・山本五十六・東郷平八郎を拝しながら北上していくと、9区に到達する。ここに中島知久平が眠る。

多磨霊園の東には中島飛行機三鷹研究所と、中島知久平が晩年を過ごした泰山荘がある。北東には中島飛行機武蔵工場、そして南東には調布飛行場。

左に「中島知久平墓」、右に「中島家之墓」

中島知久平墓

知空院殿久遠成道大居士
 昭和二十四年十月二十九日卒 享年六十六

中島家の家紋「下がり藤」

中島知久平には大空が映える。

中島知久平墓の向こうを航空機が飛び抜ける。

墓誌

中島知久平、中島ハナ、中島源太郎、嬰児(中島弘仁郎)、中島洋次郎、の名が刻まれている。中島知久平は正妻を設けていなかったが、内縁の小島ハナが、実質の妻として、中島ハナとして刻まれて中島家の墓に眠っている。

場所

https://goo.gl/maps/i3tEsMzetUiGcFbx6


その2は準備中


中島飛行機関連

中島飛行機武蔵製作所

中島飛行機三鷹研究所

中島飛行機東京製作所(中島飛行機発動機)

中島飛行機武蔵製作所疎開工場(中島飛行機浅川地下工場)

中島飛行機大宮製作所疎開工場(中島飛行機吉松地下工場)

中島飛行機田無試運転工場
中島航空金属田無製造所(田無鋳鍛工場)

中島飛行機半田製作所

中島飛行機(第一軍需廠)エンジン工場

竹製落下タンク(小金井市文化財センター)

東京都小金井市。小金井市文化財センター。
ここに、落下増槽(落下タンク)が展示してあるというので、足を運んでみた。

館内の展示物撮影は許可制。申請を行う。
 学芸員さん「何を撮影されますか」
 私「戦時下の展示物を、具体的には、増槽を・・・」
 学芸員さん 「わかりました、そんなに珍しいものではないですけど・・・」
 私「いえいえ、珍しいものだと思います。」
 学芸員さん「撮影の用途は?」
 私「研究?でしょうか。趣味で。」
 学芸員さん「SNSとかブログに投稿されます?」
 私「そうですね、ネット上にも写真公開しています。大丈夫ですか?」
 学芸員さん「えぇ。問題ないですね」
話のはやい学芸員さんで助かります。

学芸員さんは、さっそく「増槽」が展示された由来や、小金井にあった陸軍施設「陸軍技術研究所」の解説などをしてくださいました。
「陸軍技術研究所」跡地は、このあと赴こうと思っていましたので、記事は別立てにて。


竹製落下タンク(増槽)

どのような航空機に搭載されていた増槽かは不明。
統一型二型(木製)落下タンク(200リットル)
主に、陸軍戦闘機(隼、飛燕、疾風、五式戦)に装備され、海軍では零戦21型、52型乙の(爆戦型)が装備していた、という。珍しく陸海軍で共用していた落下タンク。

上部には銘板が残っており、名称は「らつかたんく」「竹製」であることがわかる。竹に紙張り。これで航空燃料が漏れずにタンクとして活用できるものなのですね。

落下タンク(増槽)
太平洋戦争当時、戦闘機の機体下部に取り付けられた補助燃料タンク。期待本体内の燃料を温存するために、先に落下タンク内の燃料を使用し、戦闘開始と同時に投棄して身軽になって戦いました。
日本戦闘機の卓越した航続距離を支えた部品ですが、素材は当時の日本の資源不足を反映して、竹製の骨組みに紙張りです。この落下タンクは敗戦直後、調布飛行場から持ち帰り、何らかの容器として使われていたようです。

名稱 らつかたんく
製造番號
製造所

竹製

戦後、調布飛行場に様々の飛行機の部品が転がっていたのだろう。展示されている増槽もそうして回収されてきたものと思われます、と学芸員さん。
飛行機のタイヤをリヤカーなどに転用していた例もありますし。

一矢と和冬が調布飛行場へ行き。飛行機の部分品をはずして来る。計器、コードのようなものを持ってあそんでいる。座席からはずして来たのだそうだ。
 子供ばかりではなく、大人もやっているらしい。座席をそっくり持って来て、椅子にしている家もある。スプリングがきくから具合がいいだろう。
 そういえば。先日、農家が作物を積んで引いてくる車に、ひどく幅のひろい立派なゴムタイヤのついているのを見た。いつものならカタンカタンと音をたてて動く車が、無音ですべっているのを不思議に思ったが、なるほど、あれは飛行機の車輪だったわけだ。
 富永次郎「失われた季節-日本人の記録」より

つまりこういうことですね。

紙が経年劣化で割れ始めていた。

下地が見える。なるほ、竹を編んでいる感がする。


M69焼夷弾

M69焼夷弾も陳列されていた。

M69焼夷弾
太平洋戦争当時、アメリカ軍が木造の多い日本家屋を焼き払うために開発した兵器で、爆風で破壊する爆弾とは異なります。38発のM69焼夷弾を束ねた親弾(E46集束焼夷弾)がB29爆撃機から投下され、空中でバラバラの子弾(M69焼夷弾)に分離して、地上に着弾すると油脂を成分とする焼夷剤が火災を引き起こします。燃えずに落ちた焼夷弾は、風呂の焚き付けに使われることもありました。
この焼夷弾には「焼夷弾」と書かれていますが、のちに書き込んだものと思われます。


小金井市文化財センターには、 「陸軍技術研究所」 関連の展示もある。

陸軍技術研究所境界石杭

陸軍技術研究所境界石杭
昭和15年と17年、矯正買収により現在の小金井市北西部と小平市上水南町3・4丁目に移転してきた陸軍技術研究所は、広大な用地の周囲に石杭を埋めて、その範囲を表示しました。
石杭は全長100cm、「陸軍」と刻んだ上部20cmを地上に出し、残りの80cmの下部は地中に埋めてありました。戦後、技研敷地の払下げと宅地造成にともない大多数が廃棄され、現在残っているのは当館所蔵の石杭と、本町5-31道路脇に残る石杭のみです。

「陸軍技術研究所」に関しては、別記事にて。


浴恩館

小金井文化センターはかつての「浴恩館」であった。

そして「浴恩館」は、昭和3年、京都御所で行われた昭和天皇即位大嘗祭の神職の更衣所の建物であった。

小金井文化センター
文化財センターは、教育者下村 湖人が青年団講習所の所長として講習生と語らい、小説「次郎物語」の構想を練った浴恩館を改修し、博物館施設としたものです。
市内から発見された考古資料・古文書・民具をもとに、小金井市のあゆみや生活について常設展示しています。
この建物は、「浴恩館」と呼ばれ、昭和5年から青年団講習所として使われた由緒のある建物です。
講習所長であった下村 湖人の小説『次郎物語』の舞台としても知られ、空林荘と共に、市史跡に指定されています。

浴恩館のあゆみ
浴恩館は昭和3年、京都御所で行われた昭和天皇即位大嘗祭の神職の更衣所を、財団法人日本青年館が譲り受けて移築したものです。昭和6年から全国の青年団の指導者層が集まり、寝食を共にして人間形成をする講習所として機能しました。
日本青年館の設立理事であり、「青年館の父」とうたわれる田澤たざわ 義鋪よしはるは、昭和8年、故郷佐賀の後輩で無二の友人、下村 湖人を、浴恩館に開かれた青年団講習所の所長として呼び寄せ、実践教育に当たらせました。
しかし、全国から才能ある青年が集まる浴恩館は、軍事教練に格好の場として軍部に目を付けられました。「次郎物語」も雑誌連載中止まで追い込まれた湖人は、昭和12年に講習所所長を辞任、以後、浴恩館は戦時体制に組み込まれます。
戦後、再び青年教育の場、あるいはユースホステルとして復興を果たしますが、時代は高度成長期に突入し、農村社会を支えていた青年団が自然消滅していきます。維持困難におちいった日本青年館は、教育の場として運用することを条件に、昭和48年に小金井市に売却、小金井市は青少年センターとして開館、平成5年には室内を抜本的に改装し、小金井市の郷土資料を展示収蔵する文化財センターとして、新たに開館しました。

小金井市
https://www.city.koganei.lg.jp/kankobunka/bunkazai/bunkazaisenta.html

浴恩館と下村湖人
次郎物語の舞台
 浴恩館は、1928年(昭和3)の大嘗祭で使用された建物を、財団法人日本青年館が譲り受け、京都御所からここに移築し、全国の青年団指導者の講習施設として開設したもので、各種の講習会が開かれました。
 下村湖人(本名虎六郎・前台北高等学校長)は、田沢義鋪(大日本連合青年団常任理事)に招かれ、1933~1937(昭和8~12)まで、専任の青年団講習所長を務めました。
 空林荘は、講習宿舎として田沢が寄贈したもので、湖人はここで講習生と人生を語り、「次郎物語」の構想を練りました。「次郎物語」の構想を練りました。「次郎物語」第五部に登場する友愛塾、空林庵は、浴恩館と空林荘がそれぞれモデルといわれ、物語は、湖人の浴恩館における青年教育への情熱や実践を基に創作されました。

同じ小金井市内にあった陸軍技術研究所跡地散策の記録は別記事にて。

※2021年8月撮影

場所

https://goo.gl/maps/zwceWeap6MQuD2Ac7


関連

一式戦闘機「隼」のタイヤ(檜原村の手打ちそば「深山」)

これは2016年(平成28年)10月22日の撮影記録。

友人からお誘いがありまして、突然に唐突に東京多摩地区唯一の村「檜原村」へと赴くことに。
友人曰く「蕎麦屋に行こう」と。
友人が懇意にしている蕎麦屋さんへと連れられまして・・・。

えっ、蕎麦屋?

なんでも、蕎麦屋に凄いものがあるらしい。


一式戦闘機「隼」車輪

大日本帝國陸軍
中島キ43一式戦闘機「隼」
日本タイヤ株式会社 (現在のブリヂストン)
昭和19年5月製 昭和18年10月製

昭和17年にブリッヂストンタイヤ株式会社から、社名を「日本タイヤ株式会社」に変更。
タイヤからは昭和19年5月製及び昭和18年10月製の刻印が確認できる。

このタイヤは 一式戦闘機・隼二型にものという。

「日本タイヤ」の文字が見える

「なんでも鑑定団」にて証明された「隼の車輪」は、蕎麦屋にて静かにその歴史を物語っていた。

https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20121204/02.html#

エピソード
生まれも育ちも東京都桧原村の高木さん。1年前に脱サラし、今年の春、長年の夢だった蕎麦屋を開いた。また、30年前から、夏は会社員の傍らキャンプ場を経営してきたため、7月から9月は蕎麦屋を休んでキャンプ場の主をしている。
昨年6月、そのキャンプ場で使うためにある物が欲しいと思っていた矢先、偶然通りかかった民家の壁にそれが立てかけてあるのを発見。かなりボロボロだったが、持ち主に頼み込んで1万円で譲ってもらった。しかし、その後、偶然これを見た友人が興奮し「とんでもないお宝だ」と言った。本当に凄いものなのか?

何でも鑑定団 
日本軍の戦闘機のタイヤ https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20121204/02.html

古民家を再活用した蕎麦屋さん。
この雰囲気。 たまらない人には、たまらない雰囲気です。
ヤバイです。 週末は結構な行列にもなる人気店だとか。


手打ち蕎麦「深山」

主役の蕎麦。
本格的な手打ち蕎麦に檜原村特産舞茸御飯に、自家栽培野菜、手作り燻製合鴨など。
そして、店主考案の蕎麦甘味。

料理を語る店主の楽しそうな、それでいてこだわり溢れる姿とともに、味わうひととき。
こんなん、旨いに決まってるじゃないですか!

こちらは、お土産に。
檜原村の男爵いもを使用した、じゃがいもアイス。
バニラの甘さと、じゃがいもの甘さがコラボ。
これもおいしいです。 入っているジャガイモの粒もワンポイント。

以上、「隼の車輪」と蕎麦屋さんのお話でした。

蕎麦焼酎を蕎麦湯で割るという粋な吞みも堪能。

ありがとうございました!!


手打ちそば 深山(みやま)

サイト

http://soba-miyama.com/


関連

陸軍柏飛行場関連の戦跡散策(軍都柏・その7)

軍都柏の戦跡散策、その7。
柏飛行場の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。

本記事は、流山市内の戦跡も含みますが、便宜上「柏飛行場・軍都柏」として一緒に掲載します。


位置関係

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


旧陸軍東部第105部隊の営門

高田原交差点、柏警察署高田原交番の隣、航空自衛隊 柏送信所の入り口に、往時と同じように営門門柱が残っている。
この場所から北側には柏飛行場「陸軍東部第105部隊」が展開。また、この営門より南に下れば、「陸軍東部102部隊」 が展開していた。

旧陸軍東部第105部隊の営門
 この門柱は、昭和13年(1938)11月に開設された柏飛行場の兵営施設の営門(旧陸軍東部第105部隊営門)で、建設当時の位置のまま残されています。
 右の写真は、施設正面を撮影したもので、営門や衛兵の姿、本部建物など戦争当時の状況を伺うことができる貴重なものです。
 柏飛行場は、現在の県立柏の葉公園を含む柏の葉、中十余二の地区にありました。昭和初期、中国との関係悪化から、「国土防空」特に「帝都防空」のため飛行場建設を急ぐ必要がありました。そこで昭和12年(1937)6月、陸軍の近衛師団経理部が新設飛行場予定地を旧東葛飾郡田中村十余二に計画し、地元の誘致運動もあり、同年9月に旧田中村、八木村(現流山市)にまたがる約145万平方メートルの用地を買収し、同13年1月に起工式が行われ、同11月に1,500mの滑走路1本を有する飛行場が完成しました。合わせて同13年に東京立川から陸軍飛行第五戦隊が移転し、同17~18年(1942~1943)に兵員は700人を超えるまでになり、松戸、成増、調布などとともに同19年(1944)末から激しくなったB-29爆撃機に空襲に対し防空戦闘にあたりました。戦争末期の同20年1月には我が国発のロケット戦闘機「秋水」の基地となりましたが、テスト飛行で終わり、終戦を迎えます。
 戦後、米軍に接収され、同30年(1955)に「米空軍柏通信所」、トムリンソン通信基地が建設されましたが、返還交渉を経て、同54年(1979)に日本に全面返還となり現在に至ります。
 戦時中の様子を今に伝える市内に残された数少ない文化財です。
  平成24年3月31日 柏市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/j7tqHGqCidbGFem59


航空自衛隊 柏送信所

陸軍東部第105部隊の営門から奥に進めば、今は空自の柏送信所。
この場所は、東部第105部隊の中心的な位置に当たる。

場所

https://goo.gl/maps/vJYobndngLKLThKu6


旧陸軍東部第105部隊の弾薬庫
(柏飛行場弾薬庫)

前述の東部第105部隊営門門柱より東に少し移動。
中華料理屋の駐車場から、往時のコンクリート建造物を垣間見ることができる。
現在は、社会福祉法人千葉県厚生事業団「ひかり隣保館」の敷地。

2棟のうち、西側は屋根の部分がなくなっている。。。

東側は屋根も健在。

入り口側は、私有地のため確認不可。

場所

https://goo.gl/maps/xFeehEVyZMQ6U51DA


柏飛行場西側の境界土塁跡

住所は千葉県流山市駒木台。このあたりは、柏市と流山市の境界あたり。
柏の葉公園の南西、柏の葉第2水辺公園あたりから、外周は境界土塁を見ることができる。

陸軍柏飛行場時代から境界としては同じ区割り。

https://goo.gl/maps/u7N74JnwXq2G41We8


陸軍航空廠立川支廠柏分廠
ガス庫及び部品庫

昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成し、翌年昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
東部第105部隊の西側に陸軍航空廠立川支廠柏分廠が隣接していた。

こちらも住所は、流山市駒木台ではあるが、便宜上「軍都柏」にまとめる。

「ガス庫」とされる建物。扉も往時のまま。

「部品庫」とされる建物。

雑品庫

右の扉側は雑品庫とあった。

圧搾空気室

そして、左の扉は、圧搾空気室とあった。
右から読ませる札は、往時からのものか?

2つの建物は、背中あわせで建てられていた。

場所

https://goo.gl/maps/XYtN8ugpfG7Lit9R8


法栄寺の平和観音像
陸軍航空審査部特兵隊(秋水実験部隊)本部跡

流山市駒木台に鎮座する法栄寺。
昭和20年の戦争末期、陸軍は柏飛行場にロケット戦闘機「秋水」の実験隊を配備。
秋水の実験部隊であった「陸軍航空審査部特兵隊」の本部が置かれ、荒蒔義次少佐(特兵隊隊長)や木村秀政(東大教授・秋水開発に関与)、秋水搭乗パイロットなどは、法栄寺を宿舎としていた。

現在、法栄寺境内には、「平和観音像」が建立されている。

平和観世音

昭和24年11月20日、法栄寺住職によって建立。戦没者の法名と俗名を台座に刻んでいる。

法栄寺からまっすぐにのびる道路の突き当りは、「流山市駒木台福祉会館」がある。この場所に当時は、「柏航空観測所」があったというが、今は面影は残っていない。

場所(法栄寺)

https://goo.gl/maps/oWAfgbRtVF3RJ9RC8


場所は変わって、慰霊碑を掲載

長覚寺若紫観音堂の軍馬慰霊碑

柏飛行場は関係ないが、戦跡として。
陸軍第102部隊と、花野井の秋水地下燃料貯蔵庫の中間あたりに鎮座する長覚寺。
その観音堂の参道に、馬頭観音とともに、軍馬慰霊碑が建立されていた。

柏は鎌倉時代には、広大な牧場地帯でもあり、戦時中は陸軍の牧場もあった。
そして、昭和3年(1928)には、柏競馬場が開設された。柏競馬場は、「日本一の競馬場」「東洋一の近代競馬場」とも呼称された、前述の航空写真でも中央下部に競馬場の姿をみることができる。
柏競馬場は戦時中は軍需工場として使用され、戦後に再開するも、1952年に船橋競馬場に移転され廃止されている。現在の豊四季団地界隈。

柏は、軍馬とも縁が深い街であったのだ。

軍馬慰霊碑
とつ国に征きてかへらぬいくさ馬
 もの言ぬこそいさを尊し

復員(中支)三十三年記念として昭和54年に建立されている。

江戸後期や明治の「馬頭観音」とともに並ぶ「軍馬慰霊碑」。

場所

https://goo.gl/maps/CEoajSDS6ezvnGzbA


軍都柏の戦跡散策。
陸軍柏飛行場を中心に、往時を偲ぶ戦跡が、再開発で消えたものもありましたが、それでもまだまだ豊富に残っていました。後世に伝承すべき貴重な戦跡として、今残っているものは、この先も引き続き残して戴きたく。

本記事でもって、一連のシリーズ「軍都柏」はいったん締めです。
また何か、ありましたら追記します。


関連

無蓋掩体壕と柏飛行場の跡地散策(軍都柏・その6)

軍都柏の戦跡散策、その6。
柏飛行場の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R516-No.2-39
昭和24年(1949年)1月7日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R1585-76
昭和23年(1948年)7月25日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


無蓋掩体壕

「こんぶくろ池自然博物公園」の飛び地に無蓋掩体壕が保存されている。

陸軍柏飛行場 柏歴史クラブ
 日中戦争(1937・昭和12年~)の開戦前夜から、帝都・東京の空を守る施設が東京周辺に建設され始めました。東京都心から30キロメートル圏にある柏でも、陸軍による飛行場設置が1937年に決まり、翌年11月頃、完成しました。実戦部隊の飛行第5戦隊が移駐し、飛行機の点検・整備をする航空廠柏分廠も竣工し、柏飛行場は第一線の飛行場となりました。
 滑走路は当所は1本だけでしたが、何度も行われた拡張に伴い、最終的にはコンクリート舗装の1500メートルと未舗装の計2本となり、飛行場面積も約1.8倍となっています。南の地域には、本部・将校集会所・兵舎・弾薬庫などの建物があり、南西には格納庫や気象観測所も設けられました。1942(昭和17)年には、ダンプカーやパワー・シャベルを使用した、機械化による飛行場設営の実験も行われています。
 日本本土への空襲がひんぱんになった1944(昭和19)年夏頃から、飛行場内の戦闘機を爆撃から守るため、場外へ移す誘導路3本(西・北・東)と、その道沿いに掩体壕が造られました。図中の水色の線が誘導路で、赤・茶・緑の馬蹄形で描かれているのが掩体壕です。赤丸で囲んでいるのが、現在地の掩体壕です。

掩体壕 柏歴史クラブ
 掩体壕とは、戦闘機を隠し、爆撃・爆風から守る施設です。掩体壕には有蓋掩体壕と無蓋掩体壕があり、柏飛行場では無蓋掩体壕が造られ、79基あったといいう記録も残っています。コンクリート製で屋根がある有蓋掩体壕は、千葉県内では茂原市や館山市に残っていますが、土手で築かれただけの無蓋掩体壕は風化しやすく、あまり見られなくなりました。
 空襲がひんぱんになる1944(昭和19)年夏頃から誘導路や掩体壕が造られ、この近辺では、朝、飛行場から掩体壕まで戦闘機を運び出し、夕方に戻す兵隊たちの姿が見られたといいます。戦闘機は上空から見えにくいように、木の枝や緑のネットで覆われました。
 2009年の柏歴史クラブによる調査では、柏飛行場関連の掩体壕は、6か所残っていました。しかし、そのうち4基は開発地区にあり、こんぶくろ池自然博物公園内にあった2基が保存されました。現在地にある掩体壕は、土手が低くなっているものの、ほぼ完全な形で、土手の長さは巻尺で測った概数ですが、下図のようになっています。

おおおっっっ!無蓋掩体壕だ!!

始めて見ました。結構興奮。
とはいえ、無蓋掩体壕は、基本的に土塁のため、写真で伝えるのは難しい。。。

パノラマで撮影してみた。クリックで拡大。

実は、冬場にも撮影してみた。以下は、令和元年(2019)12月 の撮影。

動画も撮ってみた。

https://senseki-kikou.net/wp-content/uploads/2019/12/VID_20191226_073731.mp4

場所

https://goo.gl/maps/QUd1Js2iY3Ty5wXj7


柏飛行場滑走路跡

「柏の葉公園通り」 が 滑走路というわけではなく、「柏の葉公園通り」の東側に滑走路があった。
現在の東大柏の葉キャンパス東側、国立がん研究センター東病院や、財務省税関研修所、 科学警察研究所などが滑走路跡と考えるとわかりやすい。
柏飛行場の看板は、柏の葉通りの北端交差点近くにある。

柏飛行場跡地
 第一次世界大戦は、航空機などの兵器の急激な発達をもたらしました。高性能な飛行機の開発の一方で、航空機による攻撃に対処するための施設の整備が必要となりました。
 柏飛行場は、成増・調布(東京)などとともに航空力強化と首都東京を守ることを目的として日本陸軍が設置しました。飛行場に選ばれた東葛郡田中村十余二は、東京の周辺部で畑地が大半を占める、平坦な土地を広く活用できる場所でした。昭和12年6月、近衛師団経理部が新飛行場を建設する旨を決定し、昭和13年11月に完成しました。同月、東京の立川から実戦部隊である飛行第5戦隊(東部105聯隊)が移転し、柏飛行場は首都東京防空の第一線の航空基地となりました。以後、いくつかの飛行戦隊の変遷があり、柏飛行場を基地としてB29をはじめとする米軍機の迎撃にあたりました。
 飛行場は北側が滑走路で、南側に本部・将校集会所・被服庫・兵舎・弾薬庫などの建物がありました。また、格納庫5つと、気象観測用の柏観測所も設けられました。
 終戦後もアメリカ軍の日本における最大の通信所として使用されていましたが、昭和54年に日本に全面返還されました。都市公園、学校、国の研究所などが立地する大規模なまちづくりが進められ、つくばエキスプレス開通に伴う区画整理の中で、掩体壕や秋水の燃料庫など新たな発見もありました。
参考文献:歴史アルバムかしわ-明治から昭和-、柏市史近代編、歴史ガイドかしわ
 令和3年3月31日 柏市教育委員会

柏の葉公園通り


柏通信所跡

柏飛行場は、戦後、米空軍に接収され、柏通信所として利用されてきた。

そんな米軍基地返還後の再開発記念の碑が、柏の葉公園の入口近くに建立されていた。

柏通信所跡地土地区画整理事業
完成記念
千葉県知事 沼田 武

事業の完成にあたって
 この「柏の葉」地区は、明治2年、千葉県で12番目に開拓されたことから、その地名を「十余二」といわれてきました。第二次世界大戦中は、旧日本陸軍の基地として使用され、また、終戦後、一旦農地として払い下げられたのち、再び米軍が接収し「米空軍柏通信所」として使用してきました。
 その後、県民の基地返還に対する熱意が伝わり、昭和54年8月14日全面変換されました。
 この土地区画整理事業は、千葉県が地域の身近な緑を生かし、市民がさわやかに憩う、文化の香り高い街づくりを目指して、昭和59年に着手し、7年余と事業費76億円を要し、このたび完成いたしました。
 この事業に携わった関係権利者、土地区画整理審議会、米空軍柏通信所跡地利用促進協議会及び関係機関の皆様の御協力に深く感謝致します。
 ここに事業の完成を祈念し、碑を建てました。
  平成2年11月吉日 
   千葉県知事 沼田 武

県立柏の葉公園

場所

https://goo.gl/maps/NtWNDecQujvzEyKH8

そのほか、柏飛行場関連の戦跡散策は別記事にて

※撮影:2021年7月


関連

ロケット戦闘機「秋水」地下燃料貯蔵庫の跡地散策(軍都柏・その5)

軍都柏の戦跡散策、その5。
柏飛行場の東側に展開していた「地下燃料貯蔵庫」の名残を探しに。
この日は、柏の葉キャンパス駅で自転車を借りて、飛行場を中心に自転車散策を敢行しました。

柏の戦跡を代表するのが、秋水燃料貯蔵庫、だろう。地上に突き出た通気孔のインパクトがあまりにも大きい。私もかねてから、現地を訪れたくてウズウズしていたが、今回ようやくに足を運ぶことができた。


ロケット局地戦闘機「秋水」

秋水

日本海軍と日本陸軍が共同で開発をすすめたロケット局地戦闘機(十九試局地戦闘機)。ドイツ空軍のメッサーシュミットMe163をベースに試作された。
試製秋水海軍略称はJ8M陸軍キ番号はキ200
「秋水」の呼称は、陸海軍の命名規則に沿っていない例外的命名。

画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:J8M_Shusui_Sword_Stroke_Komet_J8M-10.jpg

高度1万メートル以上を飛来するアメリカ軍のボーイングB-29の邀撃に、日本陸海軍の従来のレシプロ戦闘機では高高度を維持することは極めて困難であった。
ロケット戦闘機は、酸化剤と燃料を全て機体内部に搭載し、酸素を外気に求めない=高高度の希薄な大気に影響されない特性を持つことから、邀撃機としてB-29の飛行高度まで加速度的に達し、1撃から2撃をかけるだけならば、設計上、数分の飛行時間しかない、当時のロケット戦闘機でも「局地的な防衛には十分に有効」との判断が下された。
そこで、ドイツから提供されたMe163Bの(資料を輸送していた潜水艦の撃沈によって不完全となってしまった)設計資料をベースに急ピッチで開発が推進。

この秋水プロジェクトに関しては、陸軍・海軍の枠を超えた、陸海軍民間共同の制作体制が整ったということは、当時の状況からすれば奇跡的なことであった。逆に言うと、陸海軍の意地を張る余裕もないほどにで日本は追い詰められていた状況であった。
機体の製作を海軍・海軍航空技術廠主導で、国産ロケットエンジンの開発を陸軍・陸軍航空技術研究所が主導、製造を三菱重工で実施。陸海民の連携であった。

秋水に搭載されるエンジン「特呂二号」の燃料は、2つの液体を化学反応させるものであった。
 酸化剤:濃度80%の過酸化水素、オキシキノリン・ピロリン酸ソーダ
 混合液:メタノール、水化ヒドラジン、水、銅シアン化カリウム
日本軍では前者を「甲液」、後者を「乙液」と呼称。(ドイツではT液とC液)
甲液の供給する酸素により燃料である乙液を燃焼させるシステムであるが、酸化剤(甲)と燃料(乙)の配合はデリケートなセッティングが要求され、また取り扱いが非常に難しい危険な劇薬でもあった。

昭和20年7月7日に、横須賀海軍航空隊追浜飛行場試製秋水(三菱第201号機)は試飛行するもエンジントラブルで墜落、テストパイロットの海軍三一二航空隊の犬塚豊彦大尉(海軍兵学校七十期)は殉職。

試製秋水生産2号機(三菱第302号機)が陸軍キ200として柏飛行場の飛行第70戦隊へ運搬され試験開始。しかしロケットエンジンが間に合わずに動力飛行を行うことができず、そのまま終戦を迎えた。

試作機製造とあわせて量産の準備も進んでいた秋水は、配備のための燃料タンクの準備も進められた。柏飛行場の地下燃料貯蔵庫も秋水配備のための準備であった。

秋水は、陸海軍共同開発機のため、それぞれに配備計画があった。
陸軍は、柏飛行場の「飛行第七〇戦隊」
海軍は、百里原飛行場の「第三一二海軍航空隊」
陸軍海軍ともに、秋水の実験部隊も兼ねていた。

以下の写真は、筑波海軍航空隊記念館の展示品。
陶器製燃料タンクは左が陸軍、右の錨印が海軍。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R393-117
昭和22年(1947年)10月23日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


軍都「柏」

軍都柏とも軍郷柏とも称されることになった、千葉県柏市。
柏飛行場をはじめとし、多くの軍事施設が集まる地となっていた。

柏飛行場
昭和12年(1937)6月、近衛師団経理部は東葛飾郡田中村十余二に陸軍の新飛行場を建設する旨を決定。
昭和13年11月に「陸軍柏飛行場」(東部第105部隊)が完成。東京立川から「飛行第五戦隊」が移転してきたことにより、柏飛行場は、帝都防空の航空基地となり、軍都としての歩みもここからはじまった。

昭和20年4月には、ロケット推進戦闘機「秋水」開発のための陸軍の特殊部隊、陸軍航空審査部特兵隊が柏飛行場に進出。柏には、秋水の燃料貯蔵庫なども設けられた。

高射砲部隊
昭和12年10月、「飛行部隊」とは別に、帝都防空のもう一つの主役として「高射砲部隊」が千葉県市川市国府台に高射砲第二連隊が新設。
昭和13年11月に柏飛行場の完成とあわせて、柏(富勢)に「高射砲第二連隊」も移動。帝都防空の一翼を担うとともに、東葛地域の飛行場の防御も担当した。
昭和16年に東京に「高射砲第二連隊」主力が移動。その後、 高射砲第二連隊 の跡地には留守近衛第二師団の歩兵・工兵補充隊が駐留し、昭和20年に東京師管区第二補充隊(東部八三部隊)と同近衛工兵補充隊(東部一四部隊)となった。

その他
昭和12年11月、東京憲兵隊市川分隊柏分遣隊開設

昭和14年2月、第4航空教育隊(東部第102部隊)が開設。飛行機の整備に関する訓練や教育を担当した。
昭和14年4月、陸軍航空廠立川支廠柏分廠も開設され、飛行場に配備されていた飛行機や車両の整備・点検を行う補給機関を担った。
同じ 昭和14年4月には、陸軍柏病院が開設。
昭和20年6月には柏(鎌ヶ谷)に、陸軍藤ヶ谷飛行場が完成している。現在の海自下総航空基地となる。
また、昭和18年11月には、柏陸軍墓地忠霊塔も建設された。

ーーー

ファイル: USA-M29-58
昭和24年(1947年)2月8日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

軍都柏の主要軍事施設を記載しておく。


ロケット戦闘機「秋水」地下燃料貯蔵庫(花野井)

柏警察署花野井交番の奥の住宅地におもむろにあらわれたコンクリート造形物。
コンクリート胴体が地下燃料貯蔵庫。現在は地上に露出しており、出入り口は塞がれている。

場所

https://goo.gl/maps/4Z1VvQqwzzNvRB2J8

「秋水」地下燃料貯蔵庫の出入口(花野井)

北上する。
台地の下には地下燃料庫が隠されている。台地縁辺には燃料庫出入口がいくつか見られる。3箇所は確認できた。

1つ目。

2つ目。むき出してる。近くで見てみたいが私有地のために近寄れず。

3つ目。わかりにくい。。。

「秋水」地下燃料貯蔵庫の通気孔(花野井)

畑に唐突にあらわれるコンクリート筒。連なる砲台のように見えるこの筒が、地下燃料貯蔵庫の通気孔であった。これは貴重な戦跡。地下の貯蔵庫とあわせてぜひとも史跡公園などに整備していただけると良いのだが、現実的にはいまのままの自然な保存が良いのかもしない。後世に残してほしい、いや、後世に残していかねばならない空間。

場所

https://goo.gl/maps/s4fjUhW51Ws5yLvi6


柏飛行場の近くにも、秋水の燃料庫があった。柏飛行場は別記事でまとめるが、先に柏飛行場近くの燃料庫にもあわせて言及しておく。

ロケット戦闘機「秋水」燃料貯蔵庫(正連寺)

こんぶくろ池自然博物公園の南東側(一号近隣公園エリア)内にある、一号丘と二号丘に燃料庫が保存されている(現在は埋没保存のため、燃料庫そのものをみることはできない)

陸軍柏飛行場と秋水
 日中戦争(1937・昭和12年~)の開戦前夜から、帝都・東京の空を守る施設が東京周辺に建設され始めました。東京都心から30キロメートル圏にある柏でも、1938(昭和13)年11月頃、陸軍飛行場が完成しました。
 柏飛行場は第一線の飛行場でしたが、神奈川県の厚木飛行場とともに、有人ロケット戦闘機「秋水」の基地に予定されたことが特徴の一つです。秋水は、ドイツで開発されたロケット戦闘機をモデルに、B29迎撃用の新兵器として、陸海軍共同で開発されました。1944(昭和19)年夏から始まった開発は急ピッチで進み、年末には訓練用の軽滑空機「秋草」のパイロット訓練にこぎつけました。しかし、完成前に配線となり、柏飛行場にあった軽滑空機・重滑空機・実機の計4機とも、すべて燃やされてしまいました。
 秋水の燃料庫は柏市内の「飛行場隣接地」と。3~4キロメートル離れた「花野井・大室」に建設されました。まず飛行場東側の隣接地に、1944(昭和19)年末から建設。その地域が柏ゴルフ倶楽部(1961~2001年)となり、コンクリート製だったために、一部がコース小丘に埋められて破壊されず現在に至りました。
 図①内の赤丸が現在地で、2010年に柏歴史クラブが燃料庫5基を発見しました。公園内に保存されているのは、そのうち3基で、秋水の遺構は全国的に見ても少なく、大変貴重な戦争遺跡です。(ただし3号基は本体なし)

秋水燃料庫(1号基)
 柏飛行場東側の隣接地に造られた秋水燃料庫は、航空写真②のようにエル字型をしていました。飛行場隣接地では飛行訓練のため急いで燃料庫を造る必要があり、1944(昭和19)年末から、既製のヒューム管(下水道管)を利用・加工して建設されました。ヒューム管の長さは約2メートルで、9~10個つないだ燃料保管場所が、エル字の長い部分にあたります(柴田一哉氏)。
 この1号基は、戦時中と少し位置が変わって埋まっていました。写真①の「リング状の遺構」は、もともとは「煙突状の遺構」の上にあり、両者はつながっていました。柏ゴルフ倶楽部を造成するときに、コースに設ける丘の高さを調整するため、「リング状の遺構」を移動させたと思われます。
 柏歴史クラブは2010年の調査で、5か所の燃料庫跡を発見しました。そのうち1~3号基は、こんぶくろ自然博物公園内にあったため、柏市で保存してくれることとなり、一旦埋め戻されました。4・5号基は開発地域内にあったため、残念ながら撤去されました。

秋水燃料庫(2号基)
 この2号基は、戦時中の構造がそのまま残っている燃料庫で、柏市により保存、整備したうえで公開される予定です。
 柏飛行場東側の隣接地に造られた秋水燃料庫は、航空写真③のようにエル字型をしていました。柏市には、現在の地の「飛行場隣接地」と、3~4キロメートル離れた「花野井・大室」に燃料庫が建設されました。飛行場隣接地では、飛行訓練のため、急いで燃料庫を造る必要があり、1944(昭和19)年末から、既製のヒューム管(下水道管)を利用・加工して建設されました。ヒューム管の長さは約2メートルで、9~10個つないだ燃料保管場所が、エル字の長い部分にあたります(柴田一哉氏)。そこには写真④のように両側に店があり、過酸化水素20リットルを入れたガラス瓶(写真⑤)を並べて保管しました。
 また先端部分に、リング状の遺構が出土しました。このリングは、円筒状の消火用貯水槽の底部だったと思われます。その貯水槽とヒューム管は管でつながれ、過酸化水素の流出や火災の場合などに大量の水を流す仕組みでした。

現在地は森の中、立入禁止。丘の中に埋没保存されている。

場所

https://goo.gl/maps/r6WNGkgNh5M3TRGEA

柏飛行場の記事等は、別途。

※撮影は2021年7月


関連

浜松三方原の陸軍戦跡散策・その1【浜松3】

「三方原の戦跡」と書いてしまうと、元亀3年(1572)、三方原古戦場での徳川家康と武田信玄の「三方原合戦(三方原の戦い)」の跡地を巡る散策になってしまいそうなので「三方原の陸軍戦跡」ということで。
それもそれで興味があるが、ここでは「浜松の三方原に展開された大日本帝国陸軍関連の戦跡」を巡ってみたいと思う。
この日は、浜松駅近くでレンタサイクルを借りての散策でした。


浜松の陸軍飛行場

浜松には陸軍の飛行場が2つあった。
「三方原飛行場」と「浜松飛行場」。
この2つの飛行場は誘導路で結ばれており、非常に近い関係であった。

「三方原陸軍飛行場」は、三方原教導飛行団と第7航空教育隊
「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊
なお。浜松陸軍飛行場は、現在は航空自衛隊浜松基地となっている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M142-A-5No3-21
1946年5月22日、米軍撮影の航空写真を一部加工。


三方原陸軍飛行場跡地散策

半田山トーチカ(半田町のトーチカ)

静岡県浜松市東区半田町に残るトーチカ。

前面部のみのトーチカ。なぜか西を向いている。
防衛を考えると南を向くべきでは?
もっともこのトーチカは再開発で移築されたものともいう。真偽不詳。

西を向いている。三方原飛行場の方向。

トーチカの跡
 太平洋戦争中、この船岡山にはトーチカがいくつか築かれた。戦争が激化したため本土決戦に備えて構築したもので、その名残が今もみられる。幸いにもトーチカは使用されることはなく、平和な時代を迎えた今、当社の新鋭工場が建てられ、活躍しているというのも新しい時代の流れである。
 平成3年4月吉日 株式会社桜井製作所

場所

https://goo.gl/maps/A8GADE4XemhRoYws6


三方原飛行場の掩体壕

三方原飛行場のあったエリアの北側に。
民家の一部に掩体壕が残っている。

場所

https://goo.gl/maps/r5kUfUeSH1dzrada6


東三方神社(赤松の鳥居)

奥山半僧坊への参詣道に鎮座。「赤松の鳥居」は奥山半僧坊への遥拝所でもあった。
昭和16年6月に陸軍よって松の大木や鳥居・石碑などが敵の攻撃目標にあるという理由で撤去。
当地の西側に三方原陸軍飛行場があり、このあたりが「三方原爆撃場」として使用された。
戦後、三方原陸軍飛行場は開拓地として再開発され、昭和39年に鳥居再建された。

これも、三方原陸軍飛行場に連なる戦跡のひとつ。

場所

https://goo.gl/maps/frmi18CWbim7akL4A


三方原教導飛行団の門柱

現在の自衛隊官舎の南側の門柱は、当時の「三方原教導飛行団」の門柱。

三方原教導飛行団は昭和19年4月に浜松飛行学校から独立。
中部第九十七部隊の使用していた三方原飛行場の一角に展開。任務は航空化学戦の実行と教育であった。

場所

https://goo.gl/maps/qYwjCPwcLArLzTqN9


第7航空教育隊の門柱

三方原教導飛行団の門柱のすぐ近くに、第7航空教育隊の門柱もあるというが、調査漏れで未探索。悔しい。
ひとまず、Googleストリートビューでお茶を濁す。
※再訪しないと

場所

https://goo.gl/maps/f8SNeVPHhbtPRuVh7

訪問しました

浜松三方原の陸軍戦跡散策・その2【浜松6】


四勇士の碑跡

四勇士の碑
 昭和12年3月19日、飛行第7聯隊の重爆撃機がこの地に墜落炎上し、搭乗の四勇士が殉職した。
 四勇士は殉職により階級特進で、陸軍少佐寿円正隆、陸軍曹長今泉正夫、陸軍軍曹小川高平、陸軍軍曹岡崎勝、に昇進した。
 この爆撃機が失速、墜落の直前一人の搭乗員が座席を立って、着陸地点を注視していた姿を見た人がいる。非常事態に直面しても沈着、冷静に行動し、民家や学校への被害を避けたことに感激した、地元民の熱意によって、この慰霊碑が建てられました。
 この碑の題字は、航空兵団長陸軍中将、男爵、徳川好敏閣下、撰文飛行第7聯隊長、島田隆一である。
  三方原歴史文化保存会

三方原陸軍飛行場の飛行第7聯隊の重爆撃機の墜落地点に建立された慰霊碑・・・がない。

説明解説板はあれど、慰霊碑がない。
「この碑は・・・」って説明があるのに、ない。

誰かに訪ねたいとおもっても、誰もいない。。。
このときは、撤去された??と思い、諦め。

改めて少ない情報を手がかりに調べてみると、どうやら近くの「三方原神社」に移築されているらしい。
こちらも再訪、ですね。。。

訪問しました

浜松三方原の陸軍戦跡散策・その2【浜松6】

ここに慰霊碑があった。

在りし日のGoogleストリートビュー
情報がなさすぎて、無くなっていることがわからんなかった。。。

墜落現場の場所

https://goo.gl/maps/ANS6EnvZcohCvh4e8

移築場所の三方原神社

https://goo.gl/maps/2ozUBQq6Mug3rhQb8


徳川家康のエピソードで有名な「小豆餅」。ここにも「昭和の戦跡」があった。

第一航測聯隊跡

第一航測連隊(中部百三十部隊・陸軍航空通信隊第130部隊)
航測技術の取得を目的とした教育部隊。
第一航測連隊は、当時最新の航空工学の部隊であった。戦局悪化の昭和20年7月に滋賀県日野町周辺に貨車300両と兵員1500余名が疎開。小豆餅地区の残留部隊300余名は残務や農園作業に従事し終戦を迎えている。

(表面)第一航測聯隊跡
(裏面)有志一同之を建つ 昭和61年9月 

碑誌
第一航測聯隊は、昭和17年4月22日、水戸市郊外にあった第11航空教育隊において、聯隊本部、第一、第ニ中隊および材料廠をもって編成。4月末、三方原演習廠舎に移駐、12月新兵舎の完成とともに、八個中隊の編成を完結し、ここ小豆餅地区に屯し、昭和20年7月、滋賀県日野町周辺に部隊移動、終戦を迎えた。
聯隊の使命は、地一号方向探知機および対空二号無線機をもって、友軍機の、航空基地への帰投誘導や各種作戦任務飛行の航行支援にあたる航測手の、基本教育と錬成訓練をもって本旨とした。

黒松は、当時からの面影を残す。

「小豆餅子供の遊び場」公園内に、第一航測聯隊の碑があった。

場所

https://goo.gl/maps/woQzQ6BQHDSxtx1x7


六所神社

静岡県浜松市東区半田山鎮座。
延喜式神名帳(遠江国・長上郡)「朝日波多加神社」延喜式内論社(小社)。旧村社。
浜松医科大学の東側に鎮座。台地を背にし東面している。

境内には地元の方々によって「日清日露戦役記念碑」「大東亜戦争慰霊碑」「忠魂碑」、そして「平和観音」が建立されている。

平和観音は平成7年11月建立。

場所

https://goo.gl/maps/3W9mvnThiGBJnam68


三方原古戦場跡(犀ヶ崖)

もちろん三方ヶ原なので、「三方ヶ原合戦」の戦跡記念碑も界隈にはある。
正確には、この地は「三方原の戦い」で破れた徳川家康が、浜松城に迫る武田信玄軍に対し、地の利を生かして反撃し一矢報いた「犀ヶ崖の戦い」の戦跡。

https://goo.gl/maps/qYE39EineYpK1Jzt7


三方原エリアは、結果として散策漏れ多数。
また浜松を訪問する機会があるときに再訪したいと思ってます。

※撮影及び散策は、2020年11月


関連

「日本初の零戦復元機」零式艦上戦闘機52型甲(空自浜松広報館エアパーク)【浜松2】

航空自衛隊の広報施設である浜松広報館「エアパーク」。
ここには空自の退役機に混じって、零戦が展示されている。

展示場所が移設されます(2024年6月24日~)


零式艦上戦闘機五二型甲 A6M5
43-188号機

日本への里帰り第1号機の零戦。

昭和19年3月、三菱名古屋工場製造機。
所属は、第三四三海軍航空隊(1944年1月に開隊した初代、通称隼部隊)。
昭和19年6月〜7月にかけてのマリアナ諸島攻防戦で、米軍との戦闘や米軍機の空襲などにより壊滅し、7月10日に解隊。
浜松基地浜松広報館に保存されている零戦は、第三四三海軍航空隊の飛行隊長・尾崎伸也大尉(海兵68期)が昭和19年6月19日に米軍と交戦し被弾し不時着し放棄された機体。尾崎伸也大尉は戦死されている。
海兵68期の尾崎伸也大尉の同期には、作家・豊田穣、撃墜王・鴛淵孝、九軍人の広尾彰、海軍中将松永貞市の息子・松永市郎、捕虜第一号となった酒巻和男など。
第三四三海軍航空隊は、昭和19年12月に再編(二代目)される、これが通称「剣部隊」として紫電改を用いて有名となった航空隊。

昭和39年1月に日本に里帰り。

零戦52型
零戦52型は1943年8月初飛行し、太平洋戦争後半の日本海軍の主力戦闘機として活躍した機体である。この機体には甲、乙、丙の3種の型があり、零戦総生産数約1万機のうち、4種あわせた52型シリーズは約6,000機が生産された。

性能
全幅 11m
全長 9.1m
全高 3.5m
全備重量 2,733kg
エンジン 栄21型 最大出力1,100馬力x1基
最大速度 565km/h
実用上昇限度 11,740m
航続距離 1,920km
乗員 1名
搭載武装 7.7mm固定銃x2門 99式20mm固定銃x2門

零式艦上戦闘機(零戦)の展示経緯
昭和38年4月  本展示機がグアム島で発見される。
同   7月  グアム島知事から日本への返還が決まる。
昭和39年1月  米軍C-130輸送機により岐阜基地へ搬送。
       本機の製造元である三菱重工業大江工場にて忠実な復元作業を実施。
同   10月 我が国で最初の零戦復元機が完成。
(その後、全国各地において展示されたため期待の損傷がひどくその管理が必要とされた。)
昭和42年11月 航空自衛隊の航空機整備のメッカ(航空機の整備学校が所在)である浜松基地に移送され
       その後浜松基地におきて展示・管理された。
平成11年4月  航空自衛隊浜松広報館開設に伴い、当館において展示される。

国内で吊り下げ展示されている唯一の零戦。

航空自衛隊浜松広報館

浜松陸軍飛行場

「浜松陸軍飛行場」は、浜松陸軍飛行学校と飛行第7聯隊があった。
現在は、航空自衛隊浜松基地。

広報館とは別に、浜松基地内にある「浜松基地資料館」にも行きたいんですけどねええ。。
基地内には「陸軍爆撃隊発祥之地」碑もある。

空自関係の展示多数。

※撮影は2020年11月


https://www.mod.go.jp/asdf/airpark/


浜松には陸軍の施設が集中していた。戦跡もちらほら残っている。
そんな散策の記録は別途で。

「陸軍中佐上原重雄戦死の地碑」と「疾風のプロペラ」(小田原)

小田原市沼代。その山中の道路の傍らに、この地で戦死された搭乗員の慰霊碑があった。


上原重雄

鹿児島出身。陸士第52期卒業。
上原重雄は、スマトラ島の「パレンバン航空隊」にて、遠くニューギニア戦線までも遠征し縦横無尽に活躍。
特にB17爆撃機の迎撃で勇戦した「偉勲の戦士」として知られる。
昭和19年にパレンバンから日本本土に戻り、兵庫県の「加古川航空隊」で教育にあたっていたが、昭和20年1月愛甲郡愛川町中津にあった「相模陸軍飛行場(中津飛行場)」を拠点としていた「飛行第22戦隊長(22FR長)」に着任。

ジャンボリー作戦
昭和20年2月16日、米海軍空母機動部隊は関東地方に対して、空母艦載機による本土初空襲を敢行。(ドーリットル空襲を除く、通常の米海軍空母艦載機による本土初空襲)
これは、硫黄島上陸作戦と連動する、日本本土航空戦力の撃滅を目指したものであった。

米海軍の高速空母機動部隊である第58任務部隊が、関東地方周辺の日本軍航空基地及び航空機工場を攻撃。第58任務部隊は大型正規空母11隻・軽空母5隻を基幹とする強力な艦隊であった。
2月16日の空襲では、房総半島から関東上空を目指し、戦闘機部隊は本土上空で空中戦を展開。爆撃隊は中島飛行機太田製作所や小泉製作所を目標としたものであった。
2月17日の空襲では、東京西部の中島飛行機武蔵製作所や多摩立川地区の航空機工場が目標となる。
日本軍航空隊の損失は、少なくとも被撃墜60機・地上撃破60機以上。アメリカ軍の損失は戦闘による航空機損失60機とその他作戦中の損失28機の合計88機。

相模陸軍飛行場(中津飛行場)
第22航空戦隊は最前線から帰還し戦力回復のため中津で錬成している最中であった。
昭和20年2月17日、第22航空戦隊は既に近日中に朝鮮への移駐が決まっており、部隊には迎撃中止命令が発令されていた。しかし着任したばかりの飛行第22戦隊長・上原重雄少佐は、我が物顔に飛行する米軍機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、部下をなだめつつも自らは義憤の単機発進を決行。

飛行第22戦隊長・上原重雄少佐は、相模陸軍飛行場(中津飛行場)から離陸し、米軍機を迎撃した。

100機にも及ぶ米軍機に上原重雄少佐は単機捨身で突入するも衆寡敵せず被弾。小田原市沼代上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の中津飛行場、そして皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆。壮烈な戦死を遂げられた。
(上原重雄少佐は、死後、陸軍中佐に特進)


飛行第22戦隊(隼第18913)
飛行第二二戦隊 (隼第一八九一三部隊) 

飛行第22戦隊は、初の四式戦闘機「疾風」装備部隊であった。
初代戦隊長には陸軍戦闘機隊のエースパイロットであった、岩橋譲三少佐が着任。岩橋譲三少佐は四式戦テストパイロットも務めていた。
岩橋譲三少佐はノモンハン事件以来の古参熟練搭乗員でもあったが、昭和19年9月9日に西安飛行場で戦死。

飛行第22戦隊は、最新鋭の大東亜決決戦機「四式戦 疾風」を要する陸軍屈指の決戦部隊であり、上原重雄少佐は、第四代目の飛行第22戦隊長であった。

「疾風」運用の最初の実戦部隊として活躍した飛行第22戦隊の部隊マークは、湊川の楠木正成にちなむ「菊水紋」であった。

※画像は「ハセガワ 1/48 日本陸軍 中島 キ84-I 四式戦闘機 疾風 プラモデル JT67」
 http://www.hasegawa-model.co.jp/product/jt67/

飛行第二二戦隊 (隼第一八九一三部隊) 略歴
昭和19年3月5日  東京福生(多摩陸軍飛行場)において臨時編成・
昭和19年5月下旬  神奈川中津(中津陸軍飛行場)において教育訓練開始
昭和19年8月17日  中津飛行場を出発し漢口へ
昭和19年8月20日  中国大陸にて桂林作戦に参加
昭和19年10月中旬 内地帰還
昭和19年10月18日 中津飛行場を出発しフィリピンへ移動、レイテ作戦に参加
昭和20年1月28日  戦力を回復するために内地帰還
昭和20年2月20日  福岡第一飛行場に到着   
昭和20年2月21日  中津飛行場に到着
昭和20年3月5日  朝鮮京城金浦第二飛行場に着
昭和20年3月25日  中国徐州飛行場に着 
昭和20年8月2日  朝鮮京城飛行場に着
昭和20年8月15日 朝鮮晋州で終戦

参考:
「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122419500、陸軍航空部隊略歴(その1) 付.航空部隊の隷指揮下にあったその他の部隊/分割8(防衛省防衛研究所)」


中島 キ84 四式戦闘機「疾風」

大東亜決戦機として名高い「疾風」。
小山悌技師長を設計主務者とする中島製戦闘機の集大成。
「疾風」は重点生産機に指定され、戦争末期に近い昭和19年配備でありながら日本軍戦闘機としては零戦、一式戦(隼)に次ぐ約3,500機に及んだ。


疾風のプロペラ

四式戦に採用されたプロペラブレードは直径3.05 mの4翅であり、2000馬力戦闘機としては小径のプロペラであった。同時期に誕生した海軍の紫電・紫電改は、直径3.3 m、そして疾風と同じ中島製の海軍の彩雲は直径3.6 mを採用ということからも、疾風のプロペラが小さいことがわかる。一般には、プロペラ直径を大きくすると離陸時と上昇時の効率が向上し、小直径化すると高速飛行時の効率が向上するといわれている。
「疾風」プロペラは、フランスのラチェ式を改造し日本国際航空工業が国産化した電動可変ピッチ機構プロペラ「ペ32型」が採用。

「上原重雄戦死地の慰霊碑」は、疾風プロペラ1枚が用いられている。
これは、上原重雄の愛機「疾風」の残骸を陸軍が回収しに来た際に、「偉勲の戦士」の最後を見届けた農家の1人がプロペラを隠しておき、碑を作ったものだという。


陸軍中佐上原重雄戦死之地碑

合掌

近隣の方々により、今も手厚く維持されている。

陸軍中佐上原重雄戦死の地碑
 昭和20年2月17日、相模湾沖に進行した航空母艦から発進したグラマン戦闘機延べ600機が初めて関東地区を襲った。硫黄島上陸作戦を目前に、米軍の本土の目標に対する超低空からの集団攻撃だった。2日目を迎えた当地は朝から空襲警報下にあった。
 午前10時頃、攻撃を終えて南下してきた暗緑色の大編隊の群に単機捨身で突入した日本軍機があった。衆寡敵せず不運にも本市小竹上空で被弾してしまった。機は相模湾上で反転し、飛行場への帰還に向かったが、後続し南下する敵編隊の挟み撃ちにあい当地上空で炎につつまれ天蓋から身を乗り出して北方の基地、皇居に両手を上げて決別しそのまま機とともに自爆し壮烈な戦死を遂げられた。墜落場所は沼代の山の中腹(やまゆりライン沼代入口付近から山側に入る鉄塔近く)。
 その姿は当地の人々に現在も鮮烈に残っている。戦死した搭乗者は首都防衛飛行第22戦隊長上原重雄中佐(鹿児島出身 享年28歳)であった。
 歴戦の中佐は陸士第52期の卒業でスマトラ島のパレンバン航空隊を拠点として遠くニューギニア戦線までも遠征し縦横無尽に活躍をし、特にB17爆撃機の迎撃には偉勲の戦士と言われている。前年に祖国に帰り兵庫県加古川航空隊で教育にあたっていたが、20年1月愛甲郡愛川町中津にあった第22航空戦隊長として着任した直後であった。
 当日は部隊が朝鮮平壌に移駐が決まり、軍は迎撃中止を命じていたが、我が物顔の敵機の振る舞いに祖国の末路を案じてか、はやる部下隊員を掩体壕になだめおいて、自らは義憤の単機発進をされたものと思われる。
 当地においては故人を偲び、当地区の戦死者として遺影を福泉寺に掲額し遺族会としても懇ろに供養している。
 墓地の記念碑は搭乗機「疾風」のプロペラ4枚のなかの1枚である。永く戦死の地に設置されていたが、平成22年(2011)に現在地に移設された。

(表面)
 故上原重雄墓

(裏面)
 昭和20年2月17日戦死
 昭和28年9月23日建之
 百機ノ敵ニ一機ヲ以テ挑戦
 享年28才
 

(表面)
上原重雄戦死之地

(裏面)
 時 昭和20年2月17日
爆音乃たへて 桜とちりぬるも 
 高きかんばせ 永遠にきへなん

隼 戦闘隊長
 陸軍少佐 行年28才

故人愛キ之プロペラ

出身地
 鹿児島県日置郡
  市来町 湊

昭和28年
 墓ト共ニ建之

林唯四郎
 カキキザム

疾風のプロペラ。ジュラルミンのアルミ合金に刻まれたレクイエム。

プロペラであることがわかる薄さ。なおかつ、墜落時の衝撃でより一層に曲がっている。

案内看板の背面には、地元の人による墜落当時のエピソードが掲げられていたが、残念ながら風雨により劣化しており、全てを読むことが出来ない状態だった。

第22航空戦隊長上原重雄が散った小田原の空。

実際の墜落現場は、慰霊碑がある場所より直線距離で約800mほど西側の山中。
平成22年(2011)に山中で関係者が高齢となり維持や参拝が困難となったことから、山中から沼代の集落近くの道路に移転。

Googleストリートビューにて。中央の鉄塔のあたりが、墜落現場。

墜落現場

https://goo.gl/maps/6d49swavBGKpnnkV9


福泉寺

ちかくの福泉寺には、上原重雄中佐の遺影が保管されているという。

王子神社

「陸軍中佐上原重雄戦死之地碑」へは、王子神社を目標とするとわかりやすい。
王子神社 〒256-0801 神奈川県小田原市沼代506−1

下記写真の鳥居の先の道路がカーブする所に、慰霊碑がある。

「陸軍中佐上原重雄戦死之地碑」の場所

https://goo.gl/maps/9vd8T8yrW3oKfSPT8


公共機関でのアクセス方法

JR二宮駅南口よりバスというのが、一番わかりやすい。
ニ30系統 中井町役場入口行に乗車し、「下中駐在所前」で下車。徒歩約20分。

道中は、のどかな田園地帯を20分ほど歩く感じ。


参考

https://www.townnews.co.jp/0607/2015/05/02/281877.html

https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-92679.html

陸軍航空士官学校狭山飛行場跡(陸軍狭山飛行場跡)

埼玉県入間市。
入間市で有名なのが「狭山茶」、隣の狭山市にあるのが「入間基地」。
入間と狭山は地名が交差していてややこしい。

この地にあった飛行場は「狭山飛行場」と呼称され、入間市にあった。

狭山飛行場へのアクセス方法。
西武線入間市駅からバス。
 西側
  三井アウトレットパーク停留所
 南側
  二本木停留所
  入間市博物館ALIT停留所
 北側
  根岸停留所
 などを利用して、あとは歩く感じ。

私は入間市駅からバスに乗って北側の根岸バス停を起点に約8キロ歩いて、三井アウトレットパークバス停から入間市駅に戻るコースでの散策でした。


陸軍航空士官学校狭山飛行場

狭山飛行場は陸軍航空士官学校分教場であった。

陸軍航空士官学校
昭和12年(1937)に陸軍所沢飛行場内に陸軍士官学校の分校として「陸軍士官学校分校」が開校。(現在の入間基地・入間飛行場)
昭和13年5月に「陸軍士官学校分校」が豊岡町(現在の入間市)に移転。
昭和13年12月に、「陸軍航空士官学校」として独立し、昭和16年には行幸された 昭和天皇より「修武台」の名称を賜った。

陸軍航空士官学校の本校は豊岡(入間)、その他に飛行練習をするために狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用された。

狭山飛行場は、昭和8年(1933)7月に陸軍の要請により飛行場用地としての買収が始まり、昭和9年(1934)年11月には狭山陸軍飛行場、所沢にあった陸軍飛行学校の分飛行場として開設。昭和13年の陸軍航空士官学校発足とともに分教場として利用。
開場当初は120ha、終戦時には約237haもの広大な飛行場であった。狭山飛行場の面積は現在の入間市の約5.3%を占めていた。

終戦後は狭山台土地区画整理事業が行われ、農地開墾、狭山台工業団地、住宅地などが造成。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:892-C2A-97
1944年09月24日、日本陸軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

上記を拡大。

現在の様子。区画がしっかりわかる。

北東部分を拡大。

「飛行訓練塔?」と「エンジン試験台」の基礎が今も残っている。

これらのポイントを巡ってみる。


時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」

参考までに当時の東京西部と埼玉西部の飛行場の位置関係を記載してみた。


狭山飛行場外周道路・北部

根岸バス停から歩くを開始して、茶畑を縦断。
茶畑の向こうに見える工業団地が、狭山飛行場の跡地。


狭山飛行場・飛行訓練塔基礎?

狭山飛行場北東部に残る基礎。飛行訓練塔?の基礎、とされている。

場所

https://goo.gl/maps/DtzXiYUwXTyck6cd7


狭山飛行場外周道路・西部

飛行訓練塔基礎から南下し外周道路の西端を南下していく

左が飛行場エリア。

ふりかえってみる。右が飛行場エリア。

次の目的地へ。


狭山飛行場・エンジン試験台基礎

茶畑に向こうに、コンクリートの塊がふたつ見えてくる。
これらはエンジン試験台の基礎、という。

コンクリートの塊のうち、ひとつは廃材や枯れ草に覆われておりよく見えなくなっている。

場所

https://goo.gl/maps/dBy9rSnyFrKA5FDL9


中村屋武蔵工場(中華まんミュージアム)

そのまま南下をしていくと中村屋武蔵工場が見えてくる。
かつて、航空士官学校校舎があり、格納庫などがあった場所。
戦後は、大妻女子大学狭山台キャンパスがあったが、2015年に閉校し、その跡地に中村屋武蔵工場ができた。


狭山飛行場・航空士官学校校舎跡地

学舎の跡
 この場所は、東西およそ1800メートル、南北およそ1390メートルの旧日本陸軍航空士官学校狭山飛行場跡地の西端に位置し、航空士官学校校舎がありました。
 校舎は戦後も遺され。終戦直後の混乱期には寺にあった有隣青年学校生徒の学舎となり、昭和22年4月には元狭山村・宮寺村組合立狭山中学校がここに開校し、新しい教育の場となりました。更に二本木地区の子どもたちの狭山小学校が、校舎の一角に開校しました。
 昭和42年、役目を終えた跡地には大妻女子大学狭山台校が新設され、再び学舎の歴史が積み重ねられてきました。こうして、この地は多くの人びとの懐かしい学舎の跡になったのです。
 弊社は、地域の人びとに親しまれ続けてきた学舎の跡に工場を操業できることを誇りとして、新たな歴史を刻んでまいります。
 平成30年7月
  株式会社 中村屋

場所

https://goo.gl/maps/8kGNTzovqk5zoGuKA


狭山飛行場・陸軍境界石

狭山飛行場外周道路・南部に位置する。ちょうど中村屋工場と交差する場所。電信柱と並ぶように境界石が残されている。

陸軍

狭山飛行場外周道路・南部となる。


入間市博物館「ALIT(アリット)」

狭山飛行場外周道路・南部を歩く。
飛行場の南側に入間市博物館「ALIT(アリット)」がある。常設展示コーナーなどに「狭山飛行場」に関する展示もあるので時間があれば脚を運ぶことをおすすめ。


そのまま狭山飛行場外周道路・南部を東に向けて歩く。

狭山飛行場外周道路・南東部

南東部は外周道路とともに排水溝が暗渠された状態で残っている。

場所

https://goo.gl/maps/pwAcCPHYoZMATSYT7

武蔵工業団地は、狭山飛行場の跡地に開設された工業団地。


狭山開墾記念碑

狭山開墾の碑
狭山飛行場跡地の開墾事業完成の記念碑。
昭和21年(1946)1月に鍬入れ式を行い、翌年の夏には開墾が完成。総入植者542戸のうち、新規入植は15戸で、大部分は地元に還元。

狭山開墾記念碑
碑面裏(一部抜粋)
 秩父の連峰を背景に県の南境に近く蟠る一連の台地此処狭山は古くから茶処としてその名を知られて居る其の一画、元狭山宮寺金子東金子の4箇村に跨る250町歩の地域は昭和8年飛行場の開設を見たが終戦後はこれを農耕地として開拓せらることとなった(以下略)

「昭和8年飛行場の開設」と刻まれている。

場所

https://goo.gl/maps/CCkCLJsoehMFvCUDA


狭山飛行場・無蓋掩体壕跡

ファミリーマート駐車場とフジボウル駐車場の裏の森の中に、無蓋掩体壕の跡が残っている。
無蓋掩体壕は、土塁・土盛りでしかなく、正直言ってよくわからない。ただ森の中に不自然に土塁があるのが、今でもわかる。飛行機を駐機したであろう側まで森を進んでみたが、木々が茂りすぎて写真に撮ってみてもよくわからないものではあったが。

奥に無蓋掩体壕の土塁。

土塁に登ってみた。下は飛行機を駐機したであろうスペース。

場所

https://goo.gl/maps/XY8EMJHZcwCQb7hV8


狭山飛行場の東側に、コストコと三井アウトレットパーク。
ここまでくれば、入間市駅までバスで戻れる。


関連

越谷陸軍飛行場跡地の戦跡散策

埼玉県のシンボルであり、県民の鳥としても親しまれているシラコバト。埼玉県のマスコットキャラクター・コバトンとしても近年では馴染みが深い。
そんなシラコバトの名前を冠した施設「しらこばと水上公園」。当時、この地域は陸軍の飛行場であった。
そんな「しらこばと水上公園」周辺を散策してみようと思う。


越谷飛行場

埼玉県南埼玉郡新和村・荻島村、現在のさいたま市岩槻区と越谷市に存在していた飛行場。

通称「越谷陸軍飛行場」。地元では「新和飛行場」「荻島飛行場」「論田飛行場」とも呼称。
昭和19年7月、建設開始。急造での工事が行われ、昭和20年に竣工するも、ほぼ機能することなく終戦。

戦後、連合軍が進駐。この地域に生息していたシラコバトの多くが乱獲され絶滅にひんした、ともいわれている。

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R393-167
昭和22年(1947年)10月23日に米軍撮影。越谷飛行場空撮。

上記を一部拡大。
滑走路・誘導路・排水路区画などがわかる。

現在の様子をgoogle航空写真にて。
今でも、当時の区画を辿ることが可能。


滑走路跡コンクリート
(滑走路で作った記念碑)

越谷陸軍飛行場から約6.5キロ北の地に、東岩槻駅近くの稲荷神社に越谷飛行場で使用された滑走路のコンクリートが転用されていた。

戦後、貴重であったコンクリート。不要となった飛行場で使用されていたコンクリートをはるばる6キロ以上先の地まで運搬。そこには、農地を開拓して見事に完成した証の記念碑を作りたいという熱意が感じられる。

稲荷神社
鎮座:さいたま市岩槻区南平野1-33-5

昭和22年に農地開拓事業完成の記念碑建立のために「新和飛行場」より碑石を運搬して作成した旨が記録されている。

碑文・裏
岡崎大沢両氏ハ昭和二十二年村民一同ニ推シ代表ニ就任スルヤ部落厚生福祉ノタメ本事業ニ着眼シ工事ノ設計工築ヲ担当シ自己ヲ忘レ一意専心事業完成ニ努力ヲセラレ其目的ヲ達成セリ
茲ニ記念碑建設ニ当リ碑石ハ新和飛行場ヨリ運搬使用セル一片ヲ残シ両氏ノ設計耕作ニヨリ碑ノ完成ヲ見タリ
洵ニ両氏ノ業績大ナリ其偉徳ヲ感激シ謝恩ノ一端ヲ抜瀝センガタメ碑ニ刻シ後年ニ傳ヘ讃ヘントス村民一同

https://goo.gl/maps/HbcrzAcYjYatfER99


しらこばと水上公園

埼玉県営都市公園。昭和54年(1979)開園。海無し県埼玉にとっては貴重な海。

https://goo.gl/maps/S7w5nQv2FjjarffF7

以下、散策してみましょう。

しらこばと水上公園まっすぐ南に伸びる道路は、当時の滑走路跡となっている。交通量は多く、近隣には工事業者も多く大型車の往来も多い。


滑走路跡


第一排水路

滑走路跡の道路から、ひとつ西となりの農道に移動。
建物のあるあたりが、当時の滑走路。

そして「第一排水路」。

そこからさらに農地を西に進む。


第二排水路・暗渠排水路(西)

水田の間にある排水路。
多孔型の蓋がされている暗渠となっている。
これは、滑走路に向かう飛行機が排水溝を渡れるように蓋をし、雨水を排水溝に落とすための工夫。
現在も排水路として機能している。

建物の場所が滑走路方面。

ときどき、大きな穴が空いていて要注意。かなり深いらしい。

砂利が多く混じっている。

ぼーっと歩いていると落ちる。落ちたら危険。

コメントを戴きました。

暗渠排水路ですが深さは深いらしく大人が立っても余裕らしいです、昔はウナギが取れたらしいのですが中に入ると簡単に出れなくなってしまい死ぬから絶対に入るなと言われました。
ちなみに暗渠より滑走路側の蓋のない用水路が第一排水路で暗渠の排水路が第二排水路だそうです。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM


建物基礎跡

格納庫のあったエリア。なんらかの施設の基礎と推定。赤丸の建物。青丸は橋。

飛行場の境目の用水は今も昔も変わらず。

https://goo.gl/maps/XD8H3BZAjc2zPsfKA

水田に囲まれている。

階段もある。

格納庫はあっても飛行機はなかったようで。。。

コメントを戴きました。

飛行場には当時、本物の飛行機はなく木で作った飛行機(ダミーのモックアプ)があっただけだそうです。
一度だけ飛んできた飛行機が事故を起こしたと言っていたのですが、私が大きくなり自分で色々調べた際に一式戦闘機が着陸に失敗し事故を起こした事を知り、祖父の話は本当だったのだと思いました。

ひろゆき様 より : 2021年6月17日 1:12 PM

石橋

石橋も古さを感じる。ただ主要な出入り口ではない農地エリアから飛行場エリアに、安易に橋を架けるのは飛行場側としては警備上のデメリットしかうまれないため、この橋は戦後の農地開拓時に架橋された可能性も高い。掲載している昭和22年の航空写真ではすでに橋が確認できるため、遅くともその頃には架橋されたものと判断できる。

コメントを戴きました。

格納庫跡付近の橋から西に延びる道は飛行場建設当時、軍のトラックが資材運搬に使用したらしいのですが、トラックが道を荒らしてしまい穴だらけにしてしまったらしいのです。
軍も住民への補償という形で道を修繕したのですが、穴に大きな石を入れただけだったらしく、その上をトラック等が走っていると石が水田側に出てきてしまい結局自分たちで石を砕いて道を修繕したらしいです。
ですので橋も飛行場建設当時からあったと思われます。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM

コメントを戴いた、ひろゆき様のお祖父様は石橋の近くに住んでいたとのことで。
飛行場の外側にあった民家にも兵隊さんが訪ねてきたそうです。

食糧難の話で、終戦間際の正月一人の兵士が餅を食べさせてほしいと訪ねてきたそうです。
ウチにもたくさんあるわけではないので、今日だけという事で餅を食べさせてあげたらしいのですが、翌日から毎日のように兵士が仲間を伴ってやってくるようになってしまい、家の木戸(門)が開けられなくなってしまったと言っていました。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM

また、ひろゆき様のお父様から聞いたエピソードも頂戴しました。

ここまでが祖父に聞いた話で、こちらは私の父親(戦後生まれ)が子供のころ近所の元憲兵から聞いた話です。
飛行場完成後、倉庫にあった軍の備蓄米を当時の司令が横流しをしていたらしいです、その後その司令は何事もなく移動になり飛行場を去っていったらしいのですが、後任の司令が着任後に米の備蓄数を調べたところ数が合わない事で発覚したのですが、当時その事を咎められたのは新しく来た司令だったそうです。
その司令は結局、その事を苦に首を括ってしまったそうです。

ひろゆき様 よりコメント : 2021年6月17日 1:12 PM

鉄塔基礎跡(1つ目)

前述のなんらかの建物基礎は、もしかしたら変電系の施設だったかもしれない。建物基礎跡を挟んで前後には鉄塔基礎跡と思われるものが一直線に並んでいた。下図の左上は現在の東京電力の施設。公共系の施設は今も昔も同様の使われ方をしているので、当時でも左上の建物は電力系と判断することができる。

コメントを戴きました。

飛行場建設にあたっては朝鮮人も動員したらしく、本文にもある東京電力の施設の近くに宿舎があったそうです。
食糧難ということもあり、食事は真っ黒い握り飯を食べていたそうです。
真っ黒とは?と祖父に尋ねたところ、玄米だそうです。(精米すると量が減ってしまうからだそうです)
祖父は親からあまり朝鮮人には近づくなと言われたそうです。

ひろゆき様 より : 2021年6月17日 1:12 PM

赤丸は鉄塔基礎跡。青丸は現在の鉄塔。
星印は前述の建物基礎跡。

まずは格納庫エリアより南東に残る鉄塔の基礎跡。滑走路に一番近い鉄塔基礎跡。

そんなに大きなものではない。

下部は水田に張られた水で徐々に削られているようだ。


鉄塔基礎跡(2つ目)

こちらは格納庫エリアの北西にある鉄塔基礎跡。水田の中にきれいに残っている。

後ろには現在の鉄塔の姿も見える。


誘導路跡

滑走路に戻る。このあたりが、滑走路の南端。

この南端からは曲線を描いたターニングサークル・誘導路跡の道路が今も残っている。


第二排水路・暗渠排水路(西)

暗渠となった排水路は東側にも一部残っている。

当時の排水路と新しい排水路が合流。新しい排水路は暗渠化されておらず開渠型。

東の排水路は、あたしい排水路と交差する箇所も多く、改良も多いようです。

また西側は水田主体でしたが、東側は畑が多いようです。

畑が多いと土砂も多いため、暗渠の摩耗も進んでしまうような雰囲気。

南側は排水路そのものが、飛行場当時のものを改め新しい開渠型に更新されておりました。

このあたりは排水路・用水路が多い。水っぽい土地。

コメントを戴きました。

この飛行場一帯は元々水田で低湿地帯のため水捌けが悪く飛行場南側に新堀池という排水池を作ったのですがそれだけでは足りず排水ポンプも使用していたらしいです。
しかし、そのポンプの電線が切れていた所に運悪く近所の農家(家まで聞いたのですが忘れました)の牛が引っ掛かり感電死してしまったらしいです。
また低湿地帯のため末田須賀堰を閉める事ができなくなり農家は苦労したそうです。
(この近辺は水門を閉める事により水を貯め用水路に水を分配しているのですが用水路に水を入れると水田とともに飛行場にも水が入ってしまうため、水門を閉めて水を貯めることができなっかった)

ひろゆき様 より : 2021年6月17日 1:12 PM

兵舎跡

飛行場の南東には兵舎があった。

区画は当時も今も変わらない。

さらに拡大してみる。

まわりの住宅とまったく異なる方向を向いている建物。飛行場時代の兵舎と同じ場所で同じ向きに建っている建物。

そこには、時代に取り残された空間が残っていました。

このまま北越谷駅まで歩いていきました。

しらこばと水上公園バス停から北越谷駅まで約8キロの散策でした。


関連

中島航空金属と武蔵野鉄道引込線跡の戦跡散策(東久留米・西東京)

西武線の東久留米駅から西東京方面に向けて、かつて貨物線路が引かれていた。中島飛行機関連の工場に向けての貨物線であった。

中島飛行機田無試運転工場
中島航空金属田無製造所(田無鋳鍛工場)

昭和13年に中島飛行機株式会社荻窪製作所田無鋳鍛工場として発足。その後、独立して中島航空金属株式会社となった。
中島航空金属田無製造所では飛行機エンジンの鋳物部品を製造しており、その製造のために大量の砂を必要としていたために、東久留米駅から中島航空金属田無製造所まで貨物輸送用の引き込み線が作られたという。
また、隣接する中島飛行機田無試運転工場では、すぐ近くにあった中島飛行機武蔵製作所で組み上げたエンジンの試運転などを行っていたという。

中島航空金属(現在の住友重機械工業田無製造所)


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:USA-R360-77
1947年10月24日-米軍撮影

一部加工。クリックで拡大。

GoogleMapで現在の様子を。

わかりやすいので参考までにマークをした自由学園の位置も変わらず。
学校内にも往時の建造物が残っているが、今回はその脇を歩く形となる。


武蔵野鉄道引込線跡

東久留米市指定旧跡 旧跡第4号
武蔵野鉄道引き込み線跡
 学園町1丁目1番から2丁目1番他
 この「たての緑地」は、昭和19年(1944)に武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)東久留米駅から旧中島航空金属田無製造所へ敷設された鉄道の引き込み線跡です。
 東久留米から分岐された全長2.84Kmの側線で、正式名称は「東久留米駅構外線」です。当時、西東京市保谷(旧保谷町・田無町)には軍用機エンジンを製造していた中島飛行機武蔵製作所(現武蔵野市)の鋳造部門の工場である中島航空金属田無製造所があり、砂などの原材料や燃料を小型蒸気機関車が引く貨車に乗せて運んでいました。昭和20年8月の終戦によって廃線となり、引き込み線は昭和30年代までその原形を保っていましたが、現在は築堤された道床や切通しなど、その一部を残すのみとなっています。旧跡指定は東久留米市所有部分のみです。
  東久留米市教育委員会

武蔵野鉄道引込線跡の散策

東久留米駅から散策を開始。

しばらくは線路と並走

引き込み線の築堤と送電線。
当時の引き込み線の場所を、今は送電線が走る。

築堤は西武鉄道の所有。

築堤と川。この場所に川を渡る橋梁があった。

https://goo.gl/maps/NhHGNNZ5i6xDNDPq5

両側ともに西武鉄道の管理地。

しばらくすすむと「たての緑地」となる。「緑道」といっても問題ない廃線跡。東久留米市の管轄。

足下に境界石。西武鉄道のシンボルマーク、ですね。

送電線と廃線跡。

東久留米市立南中学校や西武ハイヤー多摩地区配車センターのある笠松坂通り近くで廃線跡は終わり、ひばりが丘団地へと吸収。

そろそろ中島航空金属かなという手前の住宅地、ひばりが丘団地交番の奥の路地

にあった境界石。これはなんだろうな。


中島航空金属株式会社
住友重機械工業株式会社田無製造所

現在、こちらは「住友重機械工業株式会社田無製造所の正門」

そして、こちらは「住友重機械工業株式会社田無製造所の通用門」とのこと。
この門柱は中島航空金属当時からのものであろうか。

https://goo.gl/maps/3GvggRdYMy6xNs4P6


中島飛行機武蔵製作所と中島航空金属を結ぶ軽便鉄道跡

中島航空金属田無製造所から、中島飛行機武蔵製作所までも線路が結ばれていたという。
が、この区間に線路があった時代は短く、その名残をたどるのは既に難しくなっている。

この辺りも軽便鉄道の跡、とはいうが。。。

https://goo.gl/maps/cWFvYiur8SWXQfEh6


西武柳沢駅近くの西武鉄道と軽便鉄道の交差ポイント。

https://goo.gl/maps/Scc8EVn74BLZw2r6A

中島航空金属田無製造所の周辺には、中島飛行機の社紋が刻まれた境界石も残っているという。探しに行かねば。。。課題ですね。


少年航空兵像と所沢陸軍整備学校(所沢航空記念公園)

明治44年(1911年)、日本初の飛行場として、所沢飛行場が開設。
以来、昭和20年(1945年)の終戦に至るまで、日本の航空発展の歴史は、所沢とともにあった。

所沢陸軍整備学校

大正8年、陸軍航空学校が所沢に開設。フォール大佐を長とするフランス航空団が航空教育を指導。
大正10年、陸軍航空学校は、所沢を本校に、千葉の下志津と伊勢の明野に分校を開設。
大正13年、所沢陸軍飛行学校に改称。
昭和8年、少年航空兵教育が追加。
昭和10年、所沢陸軍飛行学校から機関科が分離し、陸軍航空技術学校が開設。
昭和12年、下士官と少年航空兵の整備科を分離し、陸軍航空整備学校が開設され。所沢陸軍学校は廃止。陸軍士官学校分校に転用。
昭和13年、陸軍士官学校分校は、現在の入間基地の地に移転し陸軍航空士官学校として独立。のち「修武台」と命名される。
昭和16年、陸軍航空技術学校は立川に移転。
昭和18年、所沢陸軍整備学校へと名称変更。
昭和19年、所沢陸軍整備学校の敷地内に「少年飛行兵の像」が建立。
昭和20年、所沢陸軍整備学校は陸軍幹部候補生・少年飛行兵の航空整備技術の中心地として機能して終戦を迎える。


少年航空兵像

航空発祥の地・ところざわ
航空整備兵の像
 この像は、昭和18年、彫刻家故長沼孝三氏(1908~1993)が第二回大東亜戦争美術展に出品し、翌19年5月21日に、当時この地にあった所沢航空整備学校内に建立されたものです。
 翼を抱き、空を見上げる航空整備兵三人の姿は、当時の少年飛行兵や整備兵のシンボルとされていました。
 戦後、所沢飛行場は米軍基地として接収され、昭和46年の基地返還により、所沢航空公園として整備されました。しかしこの像は痛みがはげしかったため、所沢航空資料調査収集する会では、後世にわたりこの像を保存していこうと、平成9年2月、長沼孝三彫刻館(山形県長井市)の協力をいただき、修復工事を行いました。
 空への夢と希望を抱いたこの像が、市民のやすらぎや平和への祈りを込めた像として永く市民に親しまれていくことを願ってやみません。
 平成10年3月
  所沢市
  所沢航空資料調査収集する会

翼を抱き空を仰ぐ少年飛行整備兵


位置関係

国土地理院航空写真
ファイル:892-C2A-107
1944年(昭和19年)9月24日、日本陸軍撮影

一部拡大

現在の様子

今も昔もはっきりと分かる空間。


大正天皇御駐輦之跡

大正天皇御駐輦之跡
 大正元年(1912)11月15日から19日にかけて関東地方で10万人の将兵が参加する陸軍特別大演習が行われました。所沢飛行場からはブレリオ機、会式3号機、会式4号機と飛行船パルセバルが初参加しました。この碑は、同年11月17日に大正天皇が所沢飛行場に行幸され、飛行機の飛行を統監されたのを記念して建立されたものです。
 尚、この碑には当時の井上幾太郎の直筆による文字が刻まれれており価値ある記念碑と言われています。
 2020年3月
  所沢市
  所沢資料調査収集する会


フォール大佐胸像

フォール大佐胸像
 日本にとって航空の黎明期であった大正7年(1918)、陸軍の航空本部長であった井上幾太郎大将は、先進国であったフランスに我が国の航空技術全般の指導を要請しました。
 日本からの妖精を受けたフランスは、フォール大佐を団長とする技術者63名の航空教育団を大正8年(1919)1月から大正9年(1920)10月までの間、派遣してくれました。
 この間、フランス航空教育団は、日本各地で陸軍の将校や技術者に学科と飛行訓練を指導しました。
 フォール大佐は、44歳で砲兵連隊長として第一線で活躍しており、フランスの航空部隊の第一人者でした。また、優れた操縦者であり、教育者でもあったので航空教育団の団長として派遣されたと言われています。
 日本でのフォール大佐の功績は大きく、日本の「航空の父」と呼ばれ、昭和3年(1928)4月に所沢飛行学校の校庭だったこの地に胸像が建立されました。
 しかし、胸像部分と正面プレートは、第二次世界大戦中に接収され、取り外されたままになっていましたが、昭和57年(1982)10月、少年飛行会及び所沢航空資料調査収集する会等の協力を得て、石川県金沢市の水野朗氏制作の原型を基に復元し、所沢市が建立したものです。
 なお、現在フォール大佐胸像正面にあるプレートは、フランス航空教育団来日100周年となる平成31年(2019)に、オリジナルの姿に復元したものとして、フランス航空宇宙工業会(GIFAS)から寄贈されたものです。
 2019年3月
 所沢市
 所沢航空資料調査収集する会

この胸像は昭和3年 当時所沢陸軍飛行学校校庭だったこの場所に建立されましたが 戦後取り外されたままとなっていました
この度少飛会有志の御協力により 金沢市の水野朗氏制作の原型を求め復元したものです
 昭和57年10月 所沢市

~記念植樹~
フランス航空教育団来日100周年記念
2019年4月7日(日)、フランス航空教育団来日100周年記念式典の実施にあたり、日仏交流の証、そしてフランスが日本の航空技術の発展に大きく貢献してくれたことをいつでも思い出すことができ、次の100年後も語り継げるよう、桜の木の植樹をしました。
(以下略)

ジャック・P・フォール大佐
フォール大佐の功績を記念して、所沢陸軍飛行学校校庭に設置された胸像の原型


ニューポール81E2(甲式一型練習機)

1918年(大正7年)、陸軍がフランスから輸入したニューポール81E2練習機。
翌大正8年に来日したフォール大佐のフランス航空団の教材として所沢陸軍航空学校設立以来、活用された練習機。その後、国内でも三菱によって国産化されている。写真の機体はレプリカ機。

岩田正夫のニューポール81E2

埼玉県ときがわ町の慈光寺に保存されていた「ニューポール81E2」の残骸。都幾川村出身の民間飛行家であった岩田正夫が、郷土訪問飛行時に機体を破損させたために、そのまま村に寄贈した機体。


所沢航空発祥記念館に関係する記事

日本初の航空犠牲者・木村中尉と徳田中尉(所沢)

日本初の飛行場、航空発祥の地「所沢」
航空事故も所沢が日本初であった・・・。

東京青山練兵場から所沢飛行場に向けてのフライトで、所沢飛行場を目の前にして墜落してしまったのが、木村中尉と徳田中尉が搭乗したブレリオ機であった。


木村・徳田両中尉像
(木村・徳田両中尉記念塔)

我が国最初の航空犠牲者 
木村・徳田両中尉像

 大正2年(1913年)3月28日、所沢飛行場を離陸した木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の搭乗する「ブレリオ機」は青山練兵場に着陸し、貴・衆両議院の観覧及び説明の後、午前11時36分帰航の途につきました。
 ところが、所沢飛行場北東約1500メートルの大字下新井字柿の木台の上空に差し掛かったとき、突風に左の翼を破壊され両中尉は飛行機と共に墜落して殉職し、我が国最初の航空犠牲者となり、国民のすべてが深くその死を悲しみました。
 当時の「やまと新聞」は義捐金を募り、墜落地点に記念塔を建て、両中尉の英姿を銅像として残しました。
 墜落地が交通不便のため訪れる人も少なかったので、当時所沢町のほか六カ村の在郷軍人会が発起人となり、昭和4年3月西武線所沢駅に移設しました。
 その後西部園から航空自衛隊入間基地へ移設されましたが、関係者の協力を得て、昭和55年3月航空発祥の地である現在地に移設したものです。
 所沢市

大正二年三月二十八日、陸軍ノ航空術ヲ兩院議員ノ觀覧ニ供スルニ當リ、陸軍砲兵中尉木村鈴四郎ハ「ブレリオ」式飛行機ヲ操縦シテ所澤ヨリ青山練兵場ニ至リ。
次テ陸軍歩兵中尉徳田金一ヲ載セテ歸航セシニ、偶突風ニ機翼ヲ毀損セラレ、木村中尉ハ其ノ卓絶セル伎倆ヲ施スニ由無ク、徳田中尉ト共ニ此ノ地ニ墜落シテ壮烈ナル最期ヲ遂ケタリ。
惟フニ、飛行機ノ軍國ノ用ヲナスコト多大ナルハ言ヲ俟タス。
其ノ研鑽ノ初ニ於テ一身ヲ犠牲ニ供シタル兩中尉ノ事蹟ハ、之ヲ千載ニ傳ヘテ朽チサルヘシ。
乃チ、有志相謀リ記念塔ヲ建テ、以テ後人ニ貽スト云爾。
 大正三年三月
 建設發起者 やまと新聞社

塔本在松井村村域、両中尉殉職之処。
経癸亥之大震而、荒廃甚殆瀕倒壊。今兹際、同志相謀而修復之、鑑所在僻遠而、有詣者漸稀看守屡絶之、憾移之於此地庶幾長全。
建立之趣旨、云爾。
 昭和四年三月
 発起者 帝国在郷軍人会所沢町外六箇村聯盟分会

場所


木村・徳田両中尉墜落地

所沢航空記念公園の東方が墜落地点であった。

木村 德田 兩中尉殉職之處
所澤陸軍飛行學校長古谷清書
大正二年三月二十八日兩中尉之殉職於此地也
有志者建塔而記念之今茲昭和四年三月之於所澤驛頭別勒碑而傳後人
 発起者 帝國在郷軍人會所澤町外六箇村聯盟分會

所沢市指定文化財(史跡)
木村・徳田両中尉墜落地
 所沢市は日本初の飛行場が開設され、「航空発祥の地」として知られていますが、航空界初の犠牲者が出たのも、この所沢の地でした。
 大正2年(1913)3月28日、陸軍省は航空機の重要性を説くため、貴族院・衆議院議員を対象に青山練兵場で観覧飛行を行いました。その帰路、木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の搭乗したブレリオ機は、午前11時59分、所沢飛行場を目前にして突風を受け左翼が折れて墜落、両中尉とも即死でした。事故現場は、旧松井村下新井柿木台(現在の所沢市下新井)にあたります。
 両中尉の所沢での葬儀は、3月31日におこなわれ、会葬者は所沢飛行場から飛行機新道、日吉町を通り所沢駅に行き、停車場踏切南方まで見送ったといいます。事故後、両中尉の記念塔を建てようとする運動がおこり、やまと新聞社が中心となって義金を募集、墜落現場の土地を購入して、両中尉の銅像記念塔が建設されました。除幕式は一周忌にあたる大正3年(1914年)3月28日に挙行されています。
 この記念塔は、昭和4年(1929年)に所沢駅前へ移され、更に何度か移転を繰り返しましたが、昭和56年(1981年)に所沢航空記念公園内に移され、現在に至っております。
 記念塔の移転後、ここ墜落地跡には、根府川石で作られた「木村・徳田両中尉殉職記念碑」が建立されました。
 平成23年3月
 所沢市教育委員会

我が国ではじめての
航空殉職の地
大正2年3月28日正午頃、東京青山練兵場において皇太子をはじめ、貴・衆両院議員の公開飛行を終え、所沢飛行場に帰航中の「ブレリオ」式単葉機が、この上空300メートルにさしかかった時、突風のため左翼が壊れ墜落し搭乗の
木村鈴四郎
徳田金一
両中尉が、殉職を遂げられました。
 所沢市牛沼戦友会 建

所沢市指定文化財史跡
木村・徳田両中尉墜落地

日本最初の航空機事故犠牲者墜落の地

日本初飛行機事故の地

墜落地点

墜落地点

平成25年3月28日建立
殉職100年記念

墜落地点

木村中尉と徳田中尉が墜落死をされた場所。
もともとは、記念塔がこの地に建立されていたが、昭和4年に記念塔は所沢駅前に移転し、当地には新たにこの石碑が建立された。

所沢聖地霊園の駐車場の南側に建立。

航空公園駅前からは3km


所沢航空発祥記念館

所沢航空発祥記念館の展示より、木村・徳田両中尉に関係するものを。

ブレリオⅪ-2bis単葉機
1911(明治44)年4月13日、徳川大尉の操縦で、滞空時間1時間9分30秒、距離80kmの当時の最大記録を作る。1913(大正2)年3月28日、木村、徳田両中尉搭乗、所沢、東京間野外飛行の帰途、所沢上空で空中破壊、両中尉はわが国最初の犠牲者となる。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:2
 全備重量:550kg
 最大速度:90km/h
 航続距離:4時間
 全幅:11.00m
 全長:8.80m
 全高:3.40m

出発前のブレリオ機と木村中尉

木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉

墜落したブレリオ機のハンドル

木村/徳田両中尉 遺品
この遺品は大正3年3月28日午前11時36分、木村徳田両中尉が「ブレリオ」式にて松井地区柿の木台(こぶし団地東北方)に墜落の際、祖父越阪部一(初代の所沢市議会議長)が最初に駆けつけ燃えさかる機体から操縦士の救助にあたったとのことで遺族からお礼の記念として贈られた遺品で戦時中は陸軍航空士官学校に飾られていたものを戦後当家に返還されたものでありまして、この尊き遺品を独り保存するに忍び得ず航空発祥の地所沢市の遺品として長く保存いたしたい次第であります
  (以下略

木村・徳田両中尉の事故の状況

木村・徳田両中尉の事故現場

墜落大破したブレリオ機

木村鈴四郎中尉、徳田金一中尉が日本の航空史に名を残した偉大な実績に感謝を。

合掌


「日本の航空事始め・その1」アンリ・ファルマン機と徳川好敏(所沢航空発祥記念館と代々木公園)

所沢航空発祥記念館に展示されている「アンリ・ファルマン機」。
日本で初めての動力飛行を行った飛行機。
徳川好敏とともに初フライトを行ったアンリ・ファルマン機と日本の航空史を簡単にまとめてみました。

所沢航空発祥記念館での「アンリ・ファルマン機」展示は2022年2月27日で終了しました。(航空自衛隊に返却)


日本の航空事始め

日本の航空史上、多くの「初」が溢れている。
以下に事象を箇条書きしてみる。

1877年(明治10年)5月21日
日本初の乗用気球飛行
  海軍兵学校が乗用繋留気球を制作。
  海軍省前の築地海軍練兵場で試験を行い高度110mまで上昇し成功。

1891年(明治24年)4月29日
日本初のプロペラ飛行実験
  二宮忠八による烏型飛行機・ゴム動力が完成。

1909年(明治42年)7月30日
臨時軍用気球研究会が設立
  陸海軍が設置した気球と飛行機の研究会
  委員に田中館愛橘・日野熊蔵・徳川好敏・相原四郎・奈良原三次ら。

1909年(明治42年)12月9日
日本初のグライダー制作
日本初の滑空飛行
  上野不忍池
  フランス海軍士官ル・プリウールがグライダー滑空飛行に成功。
  田中館愛橘(物理学者)・相原四郎海軍大尉がグライダー制作協力。
  (相原は明治44年1月にドイツで搭乗していた飛行船墜落により死去)
  相原四郎は日本人初の航空事故犠牲者となる。。

1910年(明治43年)3月18日
  日野熊蔵陸軍大尉設計の日本初の国産機「日野式1号機」が完成。
  戸山ヶ原で飛行試験を実施するも離陸できず。
   ※戸山ヶ原の射撃場を流用したため滑走距離不足とも。

1910年(明治43)10月
  奈良原三次海軍技師設計の「奈良原式1号飛行機」が完成。
  戸山ヶ原で飛行試験を実施するも地上滑走のみで離陸失敗。
   ※戸山ヶ原の射撃場を流用、馬力不足であったという。

1910年(明治43年)12月14日
日本初の動力飛行(動力滑空・動力跳躍)(非公式記録)
  代々木練兵場
  日野熊蔵大尉(グラーデ単葉機・独機)

1910年(明治43年)12月19日
日本初の公式動力飛行
  代々木練兵場
  徳川好敏陸軍大尉(アンリ・ファルマン・仏
  日野熊蔵陸軍大尉(グラーデ単葉機)
  日本人による(外国機)国内初飛行

1911年(明治44年)4月1日
日本初の航空機専用飛行場
  所沢陸軍飛行場が完成。

1911年(明治44年)4月5日
日本初の飛行場からの飛行
  所沢陸軍飛行場
  徳川好敏大尉が操縦する「アンリ・ファルマン機」飛行。
  高度10m、飛行距離800m、飛行滞空時間1分20秒の試験飛行を実施。

1911年(明治44年)5月5日
日本人による民間国産機での国内初飛行
  所沢陸軍飛行場
  奈良原三次(海軍を退役)が製造・操縦する「奈良原式2号飛行機」初飛行。
  高度約4m、距離約60mの飛行に成功。

1911年(明治44年)10月13日
日本人による軍用国産機での国内初飛行
  所沢陸軍飛行場
  徳川好敏陸軍大尉が設計した「会式一号機」が初飛行。

1912年(明治45年)5月
民間初の飛行場
  稲毛海岸
  奈良原三次が稲毛海岸の干潟を利用した飛行場を開設。

1912年(大正元年)11月2日-5日
日本海軍機の初飛行
  追浜飛行場(横須賀)
  河野三吉、金子養三による海軍機初飛行、観艦式への航空機初参加に成功。

1913年(大正2年)3月28日
日本初の航空機死亡事故
  所沢陸軍飛行場
  木村鈴四郎・徳田金一両中尉が死亡。
   ※別記事にて


地域でまとめると、
代々木
「日本航空発始の地」
「日本初飛行離陸の地」
「日本初飛行の地」
所沢
「航空発祥の地」
「日本初の飛行場」
稲毛
「民間航空発祥の地」
ということに。


アンリ・ファルマン機(原型:1910年型)

日本で、最初に動力飛行を記録した飛行機。

アンリ・ファルマン機
(原型:1910年型)


 当機は1910(明治43)年12月、徳川好敏大尉の操縦により日本で初めての動力飛行を記録したのち、翌1911(明治44)年には日本初の飛行場である「所澤飛行場」(現在の「所沢航空記念公園」)に備えられ、飛行訓練などに活躍しました。

主要諸元(原型)
●型式:1910年型アンリ・ファルマン(複葉複座型)
●エンジン:グノーム50馬力7気筒 星型回転式
●全幅:10.5m(展示機:10.8m)
●全長:12.0m(展示機:10.5m)
●重量:約600Kg
●水平速度:65Km/h
●航続時間:4時間
●製造国:フランス

アンリ・ファルマン機展示について
 このアンリ・ファルマン機は、徳川好敏大尉が操縦技術の取得と飛行機購入のために訪れていたフランスで買い付け、帰国とともに輸入したものです。
 1910(明治43)年12月19日に、わが国最初の動力飛行機による公式記録飛行を代々木練兵場において大尉自身の操縦により行ったのち、日本最初の飛行場である所澤飛行場で、これもまた徳川大尉らによって飛行技術の教育訓練に使用されました。
 第一線を退いたのちは、所沢の陸軍施設内にあった航空参考館(通称:南創庫)に展示・保管されていましたが、1945年、第二次世界大戦終結時にアメリカのライト・パターソン空軍博物館に運ばれ、15年後の1960(昭和35)年5月21日、日米修好100年ならびに日本の航空50年を機に日本へと返還されたものです。
 ときの航空幕僚長源田実氏は、わが国最初の動力飛行を記録したこのアンリ・ファルマン機を、青少年の教育・育成に役立てることを提案され、以来約50年間、東京都千代田区にあった交通博物館に展示されていましたが、2008(平成20)年3月、交通博物館の鉄道博物館へのリニューアルの折に航空自衛隊へと返却され、入間基地修武台記念館に移設・展示・保管されました。
 そしてこのたび、フランス航空教育団来日100周年を記念する事業を契機として、埼玉県が2019(令和元)年7月より航空自衛隊からの貸与を受け、かつこのアンリ・ファルマン機が活躍した地に立地する、所沢航空発祥記念館に展示することとなりました。
 このアンリ・ファルマン機を展示公開することは、わが国の航空発展に尽力した先人の足跡、ならびに日本とフランスの航空分野における深い係わりを、広く知っていただく機会となるとともに、空と空に関する技術や文化に対する興味や関心の喚起に繋がるものと確信します。

アンリ・ファルマン機のグノームエンジン
 当アンリ・ファルマン機に装備されているグノーム・エンジンは、普通のエンジンと全く逆で、クランク軸は回転せずに固定したままでシリンダー全体が回転します。放射状のシリンダーが弾み車のように回転し冷却効果を得ることができるこのタイプのエンジンをロータリー・シリンダー・エンジンといいますが、ピストンが回転するロータリー・エンジンとは全くの別物です。
 当時の航空界に衝撃を与えた画期的なこのエンジンはベストセラーになり、1910年頃のフランス機を中心に普及していきました。その後、飛行機の高速化にともなってシリンダーを回転させなくても冷却が可能となると、ロータリー・シリンダー・エンジンは姿を消していきます。

二人乗りの座席。複座。操縦席は脚が空中に飛びでるようで雰囲気で考えただけでも結構怖い。

ロータリー・シリンダー・エンジン

所沢航空発祥記念館での「アンリ・ファルマン機」展示は2022年2月27日で終了しました。(航空自衛隊に返却)


徳川好敏

御三卿清水徳川家第八代当主。男爵。最終階級は陸軍中将。
黎明期の陸軍航空を主導。
日本国内で初の航空機飛行に成功。

徳川好敏の軍用行李

漢詩「代々木初飛行の感慨」
徳川好敏が1910(明治43)年12月19日、東京・代々木練兵場もおける日本最初の動力飛行に成功した時の感慨を50年後の1960(昭和35)年に漢詩に認め、木村秀政・日本大学教授に贈ったもの。

漢詩読み下し
代々木原頭風凍る
寸時の飛行、是天祐
春秋去来す五十年
当時を偲びて、感慨更に新

飛行するアンリ・ファルマン機


航空発祥の地

航空発祥の地
この地は明治45年我が国で初めて飛行場が解説され同年4月5日早朝徳川大尉操縦のアンリファルマン機が初飛行に成功しました
それ以来、我が国航空界の発達に貢献した由緒ある「航空発祥の地」であります
 平成12年4月5日
 所沢市
 所沢航空資料調査収集する会

所沢市指定文化財(史跡)
航空発祥の地
 所沢市が日本の航空発祥の地といわれているのは、明治44年(1911年)4月、所沢に日本初の飛行場が開設されたことによります。
 明治42年(1909年)7月、勅令により臨時軍用気球研究会が発足し、航空機に関する研究が開始されました。気球研究会は、設置直後から試験場候補地を検討。栃木県大田原や千葉県下志津なども候補地にあがりましたが、旧所沢町と松井村にまたがる地域に決定されました。気象条件や地形の起伏などが選定の理由であったとされています。
 開設当初、所沢飛行場の敷地面積は約76.3ヘクタール。飛行機格納庫、気象観測所、軽油庫、東西方向に幅約50メートル、長さ約400メートルの滑走路を持つ飛行場でした。
 所沢飛行場での初飛行は、明治44年(1911年)4月5日の早朝に開始されました。まず、徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン機で飛揚し、約1分で着陸。続いて、日野熊蔵大尉がライト機で3分30秒の飛行時間を記録しました。
 所沢の住民はもとより、多くの見学者が、飛行を一目見ようと近在各地から集まり、訓練日には桟敷が設けられ、飛翔のたびに歓声が上がったといわれています。
 平成23年3月
 所沢市教育委員会


1911年の所沢飛行場

当時、この場所に滑走路があった。

「あっ、飛行機がとんだ!」
この地点はわが国最初の公式飛行場「所沢飛行場」の滑走路にあたります。
この滑走路で1911年(明治44年)4月5日早朝、徳川好敏大尉操縦のアンリ・ファルマン機が初飛行をお行いました。この飛行は公式飛行場における日本最初の快挙であり、以来所沢は「日本の航空発祥の地」といあわれています。
このモニュメントは、その偉業を成し遂げた滑走路を永遠にたたえる意味で作成されました。
 1994年5月
 創立5周年記念
 所沢東ロータリークラブ


会式1号機(日本初の国産軍用機)

臨時軍用気球研究会式1号・徳川式1号機

所沢飛行場が開設され、飛行機が足りなくなってきたことから、1911年(明治44年)4月、臨時軍用気球研究会として新しい飛行機の設計を開始。
徳川好敏を中心としてアンリ・ファルマン機をベースに設計された新型機は7月より所沢飛行場格納庫内で制作され、10月に完成した。
日本最初の国産軍用機であった。
10月13日に所沢飛行場で試験飛行が行われ、時速は72km/h・最高高度は85mで飛行試験は成功した。

所沢航空発祥記念館には、原寸大に復元された「会式1号機」も展示している。
入り口に吊り下げられているので、うっかりしていると見逃す展示。(実際、初見で私は見逃したために再訪しました。)

会式一号飛行機(日本・1911)
所沢で富んだ日本初の国産軍用機
明治44年、徳川好敏大尉の設計・制作により日本で初めて作られた軍用機。この前年に代々木練兵場で日本での初飛行に成功した「アンリ・ファルマン機」を参考にして、より高い性能を持つ飛行機を作ることを目的として、所沢飛行場格納庫内で制作された。明治44年10月13日所沢飛行場で、徳川大尉みずからの操縦によって初飛行に成功した。主に操縦訓練や空中偵察教育に使われ、同大尉の設計で4号機までが生産された。


奈良原式2号複葉機(国産機初飛行)

奈良原式2号複葉機
1911(明治44)年5月5日、所沢飛行場で奈良原三次の操縦によって高度4m、距離約60mを跳び、国産機による最初の飛行記録を作る。その後、最大距離約600m、高度約60mを記録した。奈良原三次は海軍技師として臨時軍用気球研究会に参加していたが、委員会の活動とは別に自作の飛行機を設計、制作した。
 発動機:グノーム空冷式回転星型50馬力
 座席:1
 全備重量:550kg
 全幅:10.00m
 全長:10.00m

国産機の初飛行
奈良原三次と“奈良原式2号機”
日本の初飛行は海外から購入した飛行機によるものであったが、国産の飛行機が初めて日本の空に舞い上がったのは、民間人の手により、ここ所沢で実現された。1911(明治44)年五月5日、海軍造兵中技師であった奈良原三次は、自ら私財を投じて“奈良原式2号機”を制作し、所沢飛行場にて初飛行に成功している。この初飛行の半年前、奈良原は1号機を完成させ東京・戸山ヶ原練兵場で飛行実験をしたが、わずか30cmほど浮き上がっただけで失敗している。この原因は、搭載を予定しフランスに注文したエンジン“ノーム50馬力”に対し、誤って“アンザニ25馬力”が届いたためであった。奈良原は、馬力不足であることを承知で行ったこの実験で、わずか30cmでも浮き上がったという事実で得た自信を旨に、所沢で2号機の飛行に挑み成功、これが国産飛行機の初飛行となった。続いて“奈良原式3号機”“奈良原式4号機”がつくられ、“4号機”は「鳳」号と命名された。翌4月13日に神奈川県川崎競馬場で日本初の有料飛行会を開催し、以後、地方巡回飛行を行った。
(以下略)


二宮忠八(航空思想のパイオニア)


臨時軍用気球研究会

日本での軍用気球の研究は、明治10年の西南戦争がきっかけであった。
明治10年5月21日、海軍兵学校が乗用繋留気球を制作。海軍省前の築地海軍練兵場で試験を行い、高度110mまで上昇し成功。
これが日本最初の気球飛行となる。

日本における航空技術は欧米に比べ遅れていたということから、専門の研究機関の設立が必要であった。
そこで、気球と飛行機の軍事利用のための研究組織として明治42年(1909年)に勅令によって、陸軍大臣と海軍大臣の監督に属する「臨時軍用気球研究会)が設立。

会長
 長岡外史(陸軍中将)
委員
 田中舘愛橘(東京帝国大学教授)
 日野熊蔵(陸軍)
 徳川好敏(陸軍)
 井上幾太郎(陸軍)
 相原四郎(海軍)
 奈良原三次(海軍)
 金子養三(海軍)
 河野三吉(海軍)
 ほか

臨時軍用気球研究会は陸軍主導で運営されていた為に、海軍の意向が反映されにくい状況があった。海軍では明治45年6月に横須賀追浜にて独自研究を開始。翌年には事実上の退会状態であった。
大正8年には陸軍航空部が設立。
大正9年(1920)五月14日、田中義一陸軍大臣と加藤友三郎海軍大臣が協議し、臨時軍用気球研究会は解散となった。

長岡外史(陸軍中将)と田中舘愛橘(東京帝国大学教授)


所沢市内のいたる所に「アンリ・ファルマン機」


所澤神明社

徳川好敏は、明治44年4月、所沢飛行場での初飛行を行う前に所沢神明社にて正式参拝を行ったという。

鳥船神社(所沢航空神社)
 所澤神明社の境内社

https://www.shinmeisha.or.jp/shinmeisha/hikouki.html

https://www.shinmeisha.or.jp/omamori/

所澤神明社 サイトより
所澤神明社 サイトより

境内再整備後の記事


ここまでは所沢を中心とした記事でしたが、以下は場所を変わって代々木公園に。日本の航空を鑑みる上で、所沢とともに重要な歴史が代々木公園にもあります。

代々木練兵場(代々木公園)

戦前の代々木公園は「帝国陸軍代々木練兵場」でした。所沢に日本初の飛行場が整備される前、日本の飛行機は代々木練兵場を利用して飛んでおりました。

日本初飛行の地
日本航空発始之地記念碑

明治43年(1910)12月19日
代々木練兵場において徳川好敏陸軍大尉が飛行に成功。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も飛行に成功。

これが日本航空史上「最初の飛行」である。
(ライト兄弟初飛行の7年後)

日本航空発始之地
陸軍大将井上幾太郎書

紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士ノ来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也
昭和十五年十二月 朝日新聞社

日本初飛行の地
 1910年(明治43年)12月19日, 当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
 継いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単葉機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。これが日本航空史上、最初の飛行である。

日本航空発始之地記念碑
 建立 朝日新聞社
 設計 今井兼次
 彫刻 泉二勝麿

徳川好敏之像
 建立 航空同人会
 彫刻 市橋敏雄

日野熊蔵之像
 建立 航空五〇会
 彫刻 小金丸義久

 東京都 昭和49年12月

日本初飛行離陸之地

徳川好敏之像と日野熊蔵之像

日本航空の父
徳川好敏之像
 井上幾太郎書

誠実 謹厳 航空に生涯を捧げた この人が明治四十三年(一九一〇年)十二月一九日 この地代々木の原でアンリ・ファルマン機を操縦しわが国の初飛行を行い飛行時間四分 飛距離三〇〇〇米 飛行高度七〇米の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった 
 昭和三九年四月十七日 
  赤城宗徳 
 像作者 鋳金家 市橋敏雄

至誠
通神
 好敏(花押)

平成17年4月17日
日本航空発始之地顕彰保存会
航空碑奉賛同人会

日野熊蔵之像
 美土路昌一書

限りなき大空
限りある人生
限りなき代々の祖国のため
限りある現世の定命をささぐ

翁は熊本の産 豪放磊落英仏独語に通じ 数理に秀で選ばれて 独逸に飛行機操縦を取得し一九一〇年十二月一九日此地に於いて発動機の不調を克服してグラーデ式を駆り一分間一〇〇〇米の飛行をした不屈の精神は次代の青少年の範とすべきである 
 昭和四一年四月二三日
  松野頼三

飛行機唱歌
  明治44年(1911)6月17日作
   作詞 日野熊蔵   
   作曲 岡野貞一
勇み立つたる推進機の
 響きは高し音高し
時こえて よけれ放てよと
 弓手を挙ぐる一刹那
御國を守るますらをよ
 勲立つる戦場は
かの大空にありと知れ
 かの大空にありと知れ
  平成17年(1942)4月17日
   日本航空発始之地顕彰保存会 
   航空碑奉賛同人会


関連ページ

飛行神社・二宮忠八

日野熊蔵

戸山(戸山ヶ原の射撃場で飛行試験)

代々木(代々木練兵場で初飛行)

稲毛(民間航空発祥の地)

航空神社

日本初の航空犠牲者

九一式戦闘機二型(所沢航空発祥記念館)

所沢航空公園にある「所沢航空発祥記念館」。
ここに日本の航空史上で貴重な機体が展示されているので脚を運んでみた。

九一式戦闘機(二型)

胴体部分の展示。再塗装や修復などは行わず、当時の材質などがわかるように自然体での展示が行われていた。

重要航空遺産
「九一式戦闘機」は航空の歴史を未来に伝える重要な航空遺産です
2008年3月28日
財団法人 日本航空協会

近代化産業遺産
平成20年度 経済産業省

未来に伝えよう!「航空遺産」
過去の技術の変遷や、それを支えた人々の生きた証を伝える「文化財」として、そのままの姿で展示し、未来に継承していきます。

展示されている機体について
 展示されている機体は「九一式戦闘機(二型)」といい、第2次世界大戦中に宮城県加美郡加美町に住む方が購入したものであり、垂直安定板や主翼支柱にある番号および銘板から「九一式戦闘機(二型)」、製造番号「第237号」、製造年月が「昭和8年1月」組立検査・飛行検査が「昭和8年2月」と判明しています。九一式戦闘機は試作段階にここ所沢でテスト飛行を行うなど、当地とも深いゆかりがあります。
 この胴体は、先の購入者が入手して以来、手を加えられずに現在に至っていることが分かっており、戦前の使用当時の状態を保っているわが国の代表的な航空遺産となります。また、長期間屋内に保管されていたため材質の劣化もあまり進行せず保存状態も良好です。一部腐食している箇所もありますが、展示場所の温湿度環境を常に記録監視すると共に、錆の状態についても定期的に状態を確認し、他の箇所についても板厚を計測するなどして、貴重な航空遺産を将来に遺すための処置を実施しています。

当時の状態をそのままに
 一見すると胴体の塗色も一部剥離し、木製羽布張りの垂直尾翼が破損するなど、なぜきれいに直さないのだろうと疑問に思う方もいるかもしれません。しかしながら、あえて美しく直すことはせずに現状を維持したまま展示しています。なぜなら、当時塗られた塗色や書き込まれた製造番号を始め、この機体を制作し使用した人々が関った多くの痕跡がそのまま遺っているからです。技術資料としてだけでなく当時の人々の生きた証を未来に継承する貴重な文化財として、そのままの姿で展示しています。
 1930年代初期の航空機は海外でもオリジナルの状態で残っている例は少なく、特に日本では、戦前の航空機で当時の状態を良く保ったまま保存展示されている例は他にはほとんどありません。

九一式戦闘機とは
 九一式戦闘機は、中島飛行機が設計し1931(昭和6)年に旧日本陸軍に正式採用された最大速力が300km/hを超えるなど日本が欧米先進国の水準に近づいた初の国産戦闘機です。
 わが国の航空技術は、明治後期に諸外国の航空機の模倣から始まり、外国機をライセンス生産しながら生産のノウハウを学ぶと共に生産設備を整え、その後外国から招いた技師の指導のもとで設計・開発を進めることで、自立化を進めました。九一式戦闘機もフランスから招いた技師の指導のもとに設計が始められ、日本人技術者は、原型の設計だけでなく、その後の改良などを通じて、後に純国産機を生む基礎となる設計開発の主砲の多くを学びました。そのような経験を基にして、日本の航空機産業は一式戦闘機「隼」や「零戦」などの世界的水準の戦闘機を世に送り出し、航空に関する一切が禁止されていた戦後は蓄えた技術を自動車や鉄道を始めとする産業全般に広く普及させて、今日の繁栄の基礎を作りました。九一式戦闘機は、日本航空技術が海外の追従殻自立に移る転換期の設計・生産技術の状況を象徴してます。

九一式戦闘機の技術的特徴
 九一式戦闘機は、胴体はアルミニウム合金の金属製応力外皮構造、主翼は高張力鋼薄板の骨格に木製部品、羽布張りという木金混製羽布張り構造で、空力形態はパラソル型の高翼単葉です。
 航空機の構造と形態は、ライト兄弟の「フライヤー」号以来の木製骨格羽布張り構造・複葉形態から、1930年代後半に主流となり現在のジャンボジェット機にまで続くアルミニウム合金を使用した金属製応力外皮構造・低翼単葉形態に進化を遂げてきましたが、本機はその過渡期に試みられた構造・形態のひとつです。
 九一式戦闘機には一型と二型があり、展示機は二型です。一型は300機以上生産される一方で、2型は20機程度の生産に留まったといわれています。一型から二型への主な変更点は、エンジンを外国で設計、日本でライセンス生産したものから、中島飛行機が設計生産を行った国産のエンジンに換装したことです。

反射性の強いガラスのため、撮影は難儀。

垂直尾翼部分やエンジン取付部分などの様子がわかる。

91式戦闘機の脚部

九一式戦闘機模型

陸軍九一式戦闘機
1927(昭和2)年、陸軍は日本の航空機会社に対し国産戦闘機の開発を命じ、中島、三菱、川崎の3社が試作機を制作、翌年6月、所沢飛行場で審査が行われた。結果はいずれの機も不合格に終わったが、中島飛行機のNCパラソル型単葉機は、陸軍の指示によって引き続き研究改良が続けられ、1931(昭和6)年、“陸軍九一式戦闘機”として正式採用された。初めての国産制式戦闘機であるにも関わらず評価が高く、飛行第3連隊の進藤中尉による高度9,000mへの上昇、飛行第5連隊の立川~八丈島長距離洋上往復飛行、所沢飛行学校による日本一周飛行などの好成績を残し、1936(昭和11)年の陸軍大空中分列式には、指揮官の徳川好敏大佐みずから“九一戦”を操縦して先頭に立地、偵察機や爆撃機など一五〇機の大編隊を誘導した。昭和9年に九五式戦闘機が採用されるまで合計四五〇機が生産された。

その他

所沢航空発祥記念館内で旧軍に関係あるものを。

爆撃標準座席(九七式重爆撃機)

左から
一式戦闘機「隼」の主輪
九八式直協偵察機の尾輪
九一式戦闘機のプロペラ軸部

左から
モ式六型飛行機のプロペラ
乙式一型偵察機のプロペラ
甲式一型練習機のプロペラ

川崎ハ-40
三式戦闘機「飛燕」のエンジン
展示の都合、実際の取り付けとは上下逆に展示。。

所沢航空公園と所沢航空発祥記念館のそのほかに関しては別記事にて。