「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

「護国観音」(大船観音寺)

大船駅に到着すると、ひときわに存在感を放つ白亜の観音様がみえてくる。通称「大船観音」。
実は、この観音様は戦前に「護国観音」として建立が予定されていた観音様であった。

昭和4年(1929)に「護国大船観音」の建立に着手。
昭和9年(1934)に像の輪郭部分が完成するも、社会情勢や資材不足により、未完のまま工事は一時中断。戦後の工事再開を待つこととなる。。。


大船観音寺

大船の駅から、その異様な姿を拝することができる。山の上に上半身から上の胸像として建立されている。

参拝料は大人300円。セルフにて。

観音像の由来
 昭和四年、当時の日本は第一次世界大戦後の不況や飢饉など、不安定社会情勢の中にありました。そこで、観音信仰によって国民の平安と国家の安寧を祈願しようと、護国大船観音建立会を設立。 昭和九年には観音像の輪郭まで完成したのですが、日中戦争・太平洋戦争に突入し資金や資材不足となり、観音像は未完成のまま放置されました。
 昭和三十二年に放置された観音像を完成させようと、曹洞宗管長高階瓏仙、吉田内閣国務大臣安藤正純東急会長五島慶太等を中心に財団法人大船観音協会が設立され、修仏工事が着工されました。 そして昭和三十五年、現在の観音像が完成されたのです(胎内にはこの修仏工事の写真が展示されております)。
 その後、昭和五十六年、大船観音協会は宗教法人大船観音と改称し、曹洞宗大本山總持寺の末寺として現在に至っております。

鎌倉市戦歿者の英霊を観音胎内に祀る

大船観音寺

・宗派 曹洞宗
・山号寺号 仏海山大船観音寺
・建立 昭和56年(1981)
・開山 大本山總持寺貫首乙川瑾瑛
・開基 岩本勝俊

 昭和4年(1929)に平和祈願のため地元有志が大船観音の建立に着手し、昭和9年(1934)に像の輪郭部分だけが出来上がりましたが、当時の社会情勢や資材不足により、未完のまま工事は一時中断となりました。
 戦後、曹洞宗管長高階瓏仙禅師らが中心となり財団法人大船観音協会を設立し、多くの人々からの募金による浄財で、昭和35年(1960)に現在の白衣観音像(高さ約25m、幅約19m)を完成させ、その後、昭和56年(1981)に曹洞宗の大船観音寺となりました。境内には、印象的な観音像の他に、子育地蔵や厄除地蔵が祀られてあり、また、恒久平和を祈願して、原爆慰霊碑や「原爆の火」の石灯籠なども建てられています。

石段のうえには、堂々たる白衣観音様。

大船観世音
曹洞管長瓏仙書

上半身の大船観音。
もともとは立像を計画していたらしいが、地盤の影響などもあり、上半身のみとなったそうで。
下半身が埋まっているわけではなく。

護国観音。

低頭し合掌す。


大船観音の胎内

胎内には、太平洋戦争で亡くなった人々への供養と戦争や原爆のない平和な世界への祈りを込めた千体仏や千羽鶴が収められている。

1934年、永遠に平和の礎を築かんと護国観音建立会が発足し、尊像の輪郭ができる。
その後、日華事変や太平洋戦争により、資金、資材その他意に任せず、未完成のまま20余年の歳月が流れていきます。

 観世音とは、世の中の音(声)を聞くのではなく、観(み)るという。苦悩にうちひしがれた人々が、一心に観音の名を称えれば観世音は、人々の苦しみの音声を観察して、慈悲の心をもって救うと言われています。
 熱心な観音信仰の発起人の中にも完成するのを念願しつつ、倒れられた方もいます。それぞれの労苦が渾然と混じりあって完成を待つ姿。

千体仏

日本の無条件降伏により、太平洋戦争終結から60年以上が経ちました。
そして、我々日本人の中にも、戦争を知らない世代が半数以上になりました。
これを機に、この戦争で亡くなられた多くの人々や、原爆被害によりなくなられた方々に対して、少しでも慰めになりますよう、そして今後の平和の為にお役に立てればと思い、木彫家植草等雲氏とその受講生、又一般の有志の方々とで神仏による千体仏を制作しております。
現在、その数は980体を超え、その思いはまだまだ増え続けております。
多くの方々の思いを、そしてその願いをご理解戴ければ幸いです。

現在でも、千体仏を制作して戴ける方を募集しておりますので、ご賛同戴ければ幸に存じます。

佛海山大船観音寺

胎内に鎮座する木造の大船観世音


大船観音寺の境内には、原爆関連の慰霊碑もある。

原爆慰霊碑

被爆40周年平和祈念塔

核兵器もない 
  戦争もない 
 平和な世界を 
   神奈川県知事 長洲 一二

 第二次世界大戦の末期、一九四五年八月六日午前八時十五分広島 九日午前十一時二分長崎に米軍機により投下された原子爆弾は、一瞬の閃光とともに両市を壊滅させ数十万の人びとを殺傷しました。
 慰霊碑は、県下の原爆死没者の霊を合祀し、みたまを慰めるために 生き残った県下在住の被爆者が、放射能障害とたたかいながら、一九七〇年四月末被爆二十五周年を記念して建立しました。
 平和祈念塔は、核戦争の危機を憂い、すべての核兵器の廃絶と世界の恒久平和への切なる被爆者の願いを永久に銘記するために、一九八五年八月末被爆四十周年に、ここ大船観音境内に建立したものであります。
  一九八五年八月吉日
   神奈川県原爆被災者の会

原爆の火

 被爆四十五周年 
原爆の火 
 神奈川県知事長洲一二

原爆の火
 一発の原子爆弾によって、数十万人の広島を焼き尽くした“怨念の炎”は、いまなお福岡県星野村で燃えつづけている。
 未来永劫、平和を願う“原爆の火”としてその火をこの塔に採火した。
  被爆45年7月29日 神奈川県原爆被災者の会

被爆二十五周年記念 慰霊碑
 一九七〇年(昭和四十五年)完成

 この慰霊碑は、神奈川県の原爆死没者の霊を合祀し、みたまを慰めるために、県下在住の被爆者が「財団法人大船観音協会」の関係者(代表五島慶太氏)のご好意により、この地に慰霊碑を建立することができました。
 慰霊碑は、広島・長崎の爆心地の石及びビキニで被爆した第五福竜丸の遺品を添え千羽鶴を刻んだ橇に乗せ、被爆者が平和の丘に向かう姿を表しています。
 この慰霊碑の地蔵土台石(二〇〇kg)は広島の爆心地の西蓮寺から、被爆石(五〇kg)は長崎の浦上天主堂から、碑内に納められたケロイド状の瓦は広島原爆資料館から寄贈されたものです。
 慰霊碑のカロートには亡くなられた被爆者の氏名を刻んだ御影石の名札が納められています。

慰霊碑のソリの上の地蔵土台石(二〇〇kg)は広島の爆心地の西蓮寺から、被爆石(五〇kg)は長崎の浦上天主堂から、という。


戦歿者慰霊碑

西部ニューギニア派遣第三十五師団工兵隊の慰霊碑。
石碑は昭和56年に行われた37回忌法要の際に建立。
碑前面の碑誌及び石碑左手の観世音菩薩像は平成5年の50回忌に建立。

西部ニューギニア派遣第三十五師団工兵隊(東第二九二五部隊)
戦歿者慰霊碑

昭和十九年四月北支河南省方面より転進す
途中海歿せる者又無事に任地に着くも食糧の補給等全く無く加えて赤道直下瘴癘蛮雨のなか飢餓と病魔のために逝った多くの戦友の慰霊のため謹みて三十七回忌法要を勤め併せて恒久の平和を祈念し之を建つ
    昭和五十六年七月吉日 鎌倉市台 金子秋雄 旧姓福岡

 曩に戦友諸霊の三十七回忌 に因み当山の御慈慮を忝うし 慰霊碑を建立開眼法要を厳修 永代供養の喪情を捧げ頓証菩 提を冀う
 國民思想の善導と永遠の平 和を築き此れを看守せらるゝ 大観世音菩薩の脚下に建立し 得たるは是れ一重に南溟の孤 島に散華せる戦友の慰霊と御 遺族各位の慰藉を衷心より念 ずるに外ならざるものなり
 第二次大戦後既に半世紀を 閲し茲に諸霊の五十回忌令辰 に相遇て観世音菩薩尊像並碑 誌を建立し専ら祈る大悲の願 力以て去来を示現せんことを
 伏して冀う驪珠滄海に輝き 普く世間を導き賜はんことを
  一九九三年三月
   鎌倉市台 金子(旧姓福岡)秋雄謹誌


JR大船駅からは、横顔となる。
大船観音の名前は聞いたことがあっても、それが戦前から平和を願った護国観音として建立を目指していたものとは知りませんでした。たまたま今回、訪問にあたり調べて知ったことでした。よき機会を得ることができ、感謝です。

駅からは歩いて5分ほどと近いので、大船でちょっとしたスキマ時間が産まれた際には、参拝をオススメ。

※参拝:2022年3月


関連

おなじ大船の界隈に。

都内現存唯一のラジオ塔「聖蹟公園とラジオ塔」(品川)

戦前の日本。まだまだ一般家庭にラジオが普及していなかった時代。
ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。「公衆用聴取施設」として各地にラジオ等が建設された。


聖蹟公園のラジオ塔

品川聖蹟公園のラジオ塔は、公園の開園と同じ年の昭和13年(1938年)に建設された。現在は聖蹟の記念碑とともに並んでいる。
公園内の看板には「灯籠」としか記載されておらず、これが歴史的な意義のある「ラジオ塔」であることが明記されていないのが残念。

寄贈
日の丸奉仕團


品川聖蹟公園

情報量が多い公園。
江戸時代は、東海道品川宿本陣。明治には 明治天皇の行在所となり、昭和には聖蹟公園と。

品川区指定史跡
東海道品川宿本陣跡
 品川宿は、江戸四宿の一つで、東海道五十三次の第一番目の宿駅として発達した。ここはその本陣跡であり、 品川三宿の中央に位置していた。 東海道を行き来する参勤交代の諸大名や、公家・門跡などの宿泊・休息所として大いににぎわったところである。明治五年(1872)の宿駅制度廃止後は、警視庁病院などに利用された。
 現在、跡地は公園となり、明治元年(1868)に明治天皇の行幸の際の行在所となったことに因み、聖蹟公園と命名されている。
 平成14年3月28日
  品川区教育委員会

聖蹟公園の石碑案内
聖蹟公園由来の碑
昭和13年(1938年)聖蹟公園として整備開園するに当たり、その由来を記して東京市が建てたものである。
灯籠
聖徳の碑
東京市品川聖蹟公園開設までの明治天皇品川聖蹟保存会の活動について記録した碑。
御聖徳の碑
明治天皇の行在所になった品川宿本陣跡が昭和十三年(1938年)に東京市の公園となったのを機に設置された碑である。
旗台
石井鐵太郎氏胸像
常に住民の福祉増進と社会福祉の向上に尽くし、昭和五十年に社会福祉国労を検証し名誉区民となった。
夜明けの像
昭和二十四年に二宮尊徳像が建立さられたが、昭和四十二年に石井鉄太郎によって、現在の子どもたちが親しみやすい像ということであらためて新聞少年の像が贈られた。

「灯籠」としか記載されていない「ラジオ塔」。
ちょっと寂しい。

東京市
品川聖蹟公園
昭和13年11月開園

聖蹟公園由来の碑

昭和13年に東京市によって建立された「聖蹟公園由来の碑」。摩耗していて判読不能。。。

御聖徳の碑

昭和13年11月15日建立。聖蹟公園の開園に際し、 明治天皇の御聖徳を記念する碑。

御聖徳の碑

御聖蹟

ボール遊びの弊害かもしれないが、激しく摩耗しており、判別不能。畏れ多いことではある。

旗台

のちに両サイドが増設されたのか、寄贈〇〇、読めなくなっている。

石井鐵太郎氏胸像

品川区名誉区民第一号、という。

夜明けの像

聖蹟公園。
江戸の品川宿から明治の行在所、昭和のラジオ塔まで、地味に歴史が詰まった公園。面白い。

品川区立聖蹟公園

品川宿本陣跡

もちろん本陣跡ゆえに、東海道に面している。

場所

https://goo.gl/maps/q1jUwoM7U1QtX12x7


関連

3月10日・東京大空襲(あの日から77年)

令和4年(2022年)3月10日。

あの日から77年。

昭和20年(1945)3月10日午前0時過ぎ、爆撃が開始。

犠牲者10万人を超す規模であり、単独の空襲としては世界史上最大の犠牲者となっている。
世にいう、東京大空襲(下町大空襲)であった。

「東京都平和の日」

慰霊鎮魂を。

3月10日に手を合わせてきました。


東京都慰霊堂

都内戦災遭難者 関東大震災遭難者
春季慰霊大法要

東京都慰霊堂では、毎年、関東大震災の9月1日と東京大空襲の3月10日に、遭難者慰霊大法要が執り行なわれている。

震災記念堂 東京都慰霊堂 由来記
 顧れば大正十二年九月一日突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千の市民が業火のぎせいとなった。このうち最も惨禍をきわめたのは陸軍被服廠跡で、当時横網町公園として工事中であった、与論は再びかかる惨禍なきことを祈念し慰霊記念堂を建立することとなり官民協力広く浄財を募り伊東忠太氏等の設計監督のもとに昭和五年九月この堂を竣成し東京震災記念事業協会より東京市に一切を寄付された。
 堂は新時代の構想を加味した純日本風建築の慰霊納骨堂であると共に、広く非常時に対応する警告記念として、亦公共慰霊の道場として設計された三重塔は百三十五尺基部は納骨堂として五万八千の霊を奉祀し約二百坪の講堂は祭式場に充て正面の祭壇には霊碑霊名簿等が祀られてある。
 爾来年々祭典法要を重ね永遠の平和を祈願し「備えよつねに」と相戒めたのであったが、はからずも昭和十九、二十年等にいたって東京は空前の空襲により連日爆撃焼夷の禍を受け数百万の家屋財宝は焼失し無慮十万をこえる人々はその難に殉じ大正震災に幾倍する惨状を再び見るに至った、戦禍の最も激じんをきわめたのは二十年三月十日であった、江東方面はもとより全都各地にわたって惨害をこうむり約七万七千人を失った、当時殉難者は公園その他百三十ヶ所に仮埋葬されたが昭和二十三年より逐次改葬火葬しこの堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同二十六年春戦災者整葬事業を完了したので東京都慰霊堂と改め永く諸霊を奉安することになった。
 横網公園敷地は約六、〇〇〇坪、慰霊堂の建坪は三七七坪余、境内には東京復興記念館中華民国仏教団寄贈の弔霊鐘等があり、又災害時多くの人々を救った日本風林泉を記念した庭園及び大火の焔にも耐え甦生した公孫樹を称えた大並木が特に植えられてある。
 昭和二十六年九月 東京都

新型コロナの影響で規模が縮小。
法要の参列者は限定され、法要終了後に一般参列者が祭壇で追悼可能となりました。


東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑

「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」の中には、「東京空襲犠牲者名簿」が納められている。
大法要が行われる3月10日と9月1日に内部公開。

こちらも手を合わせてきました。

東京空襲犠牲者名簿

現在は、35巻まで納められており、令和2年(2020年)3月現在、81,273名のお名前が登載されている。

3月10日。
この日は、「陸軍記念日」だった。
1905年(明治38年)3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天城に入城した日。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲は、この陸軍記念日を狙って実施されたという説もある。

ちなみに、同じく1945年(昭和20年)5月27日の「海軍記念日」(日本海海戦で海軍が勝利)には、呉大空襲があった。


リンク

公益財団法人 東京都慰霊協会 都立横綱町公園-震災、戦災の記憶-

https://tokyoireikyoukai.or.jp/kuyou/meibo.html

総務省 一般戦災死没者の追悼

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_sumida_city001/index.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/tokyo.html

東京大空襲・戦災資料センター 東京大空襲とは

https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/

東京都生活文化局 東京都平和の日関連事業

https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/bunka/bunka_seisaku/0000000632.html#:~:text=%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%80%81%E3%80%8C%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD,%E3%82%92%E5%AE%9F%E6%96%BD%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82


関連

はじめに
東京大空襲・慰霊
戦災電柱

殉職救護員之碑・日本赤十字社埼玉県支部(浦和)

浦和の調神社の隣の調公園の隣に、日本赤十字社埼玉県支部がある。
その駐車場の片隅に、従軍看護婦を顕彰する慰霊碑がある。

殉職救護員之碑

日本赤十字従軍看護婦(第一種服装)の銅像。見事な造形。

殉職救護員之碑
博愛人道の赤十字の旗のもと、身を捨て、家を忘れて、召に応じ不眠不休、自愛懇切に、ひたすら戦傷病者の救護に奉仕する姿は、崇高の限りである。然も大陸の曠野に太平洋上の孤島に、或いは人跡未踏のジャングルに、その若き一生を捧ぐるに至っては実に一死仁を成すと謂うべきである。
茲に同志相謀り、殉職救護員のため、その徳を頌し又もつて永く吾等の師表として敬仰する姿となす
 昭和31年3月31日
  殉職救護員慰霊碑 建立委員会

「 殉職救護員之碑 」のプレートの左右に、32名の殉職救護員の名が刻まれている。
救護員、救護看護婦副監督、救護看護婦長、そして救護看護婦のお名前。

合掌

裏面。

精密な造形。

日本赤十字社 埼玉県支部

場所

https://goo.gl/maps/ojZMpUyhTotduBzJ9

※撮影2022年2月


関連

「調公園のラジオ塔」浦和の戦跡・近代史跡散策

埼玉県さいたま市。浦和地区にある調公園。武蔵国の古社「調神社」の隣にある公園に、戦前の建造物や慰霊碑などがある。あわせて浦和地区(旧浦和市)の近代建築物など、散策してみる。


調公園のラジオ塔(ラヂオ塔)

ラジオ普及を目的として、公共空間に設置された公衆ラジオ。ラジオ受信機を塔の内部に収納する。これらラジオ塔は「公衆用聴取施設」と称され、全国各地で人が集まるところに建設された。
調公園のラジオ塔は、NHKの寄贈によって昭和15年に建立された。

寄贈
社団法人 日本放送協会
昭和15年3月建之

今は、子供が、なにかしらを投げ込む場所。

かつて、この前に人々が集まり、ラジオ放送に耳を傾けていた時代があった。
きっと、8月15日正午も、そうだっただろう。


調公園

調神社の隣りにある公園。
かつては調神社の境内であったことは予想に固くない。
公園内にいくつかの慰霊碑や記念碑が有るので見てみよう。


慰霊塔(調公園)

日清戦争、日露戦争から大東亜戦争における戦没者の慰霊顕彰の碑。

慰霊塔

英霊奉祭

由来
 この慰霊塔は、祖国の繁栄と世界の恒久平和とを祈念しつつ戦場に或は国土の護りに貴い犠牲となられた明治二十七八年戦役から太平洋戦争までの英霊を奉祀してその功績を永遠に顕彰し慰霊するため市議会及び関係者並びに関係諸団体等が協力して市民の浄財と市費等により建立したものである。
 この男性像は市民が英霊の念願に背かぬよう力強く邁進しようとの決意を表現し、女性像は、英霊の冥福を祈りその霊を慰める心持を表現したるものである。
  昭和三十九年十月
   浦和市慰霊塔建設期成会 会長 相川宗次郎

「英霊奉祭」と記されたレリーフ。


埼玉忠魂社(調公園)

靖国神社から分霊された埼玉県関係の戦歿者を祀る埼玉忠魂社


平和の灯(調公園)

平和の灯
世界の恒久平和は全人類の最大の願いである。
浦和市は、この悲願の達成を記念し、昭和62年6月、平和宣言を行い、全市民が心を合わせて努力することを誓った。
ここに、そのモニュメントとして、平和の灯を建立し、崇高なる目標を照らすとともに、精進し継承する光にしようとするものである。
 平成2年3月吉日
 浦和市長 中川健吉
  題字 佐藤浦州


埼玉縣人殉難之碑(調公園)

西南戦争の殉難者195名を顕彰。
題額は陸軍大将兼右大臣議定官二品大勲位熾仁親王の御揮毫、撰文は県令白根多助、書は正五位日下部東作の筆になる。
明治10年11月4日に、 西南戦争の殉難者を浦和調神社神殿前に祭壇を設け、大宮氷川神社権宮司が祭主となって慰霊祭が行われた、という記録があり、明治13年に慰霊碑として建立。
東京靖国神社に合祀された旨が記載されている。


調神社

武蔵国延喜式内社の古社。旧社格は県社。狛兎で有名。趣旨がことなるのでここでは深入りしない。。。

社殿は安政5年(1858)造営。

旧本殿は、享保18年(1733)造営。


さいたま市立 高砂小学校西門(勇愛門)

創建年代は不詳。門柱の造形に戦前ぽさを感じる。

高砂小学校は、明治4年(1871)創立。

中仙道浦和宿


浦和諸聖徒教会

日本聖公会浦和諸聖徒教会の聖堂は昭和3年竣工という。

撮影は2020年9月、ほか。


「海軍無線電信所船橋送信所」と「無線電信所道」(船橋)

以前に記載した記事の内容が浅かったために、「海軍無線電信所船橋送信所」を中心に記事を再編集。再編集するに当たり、未掲載写真や新規取材分の写真を追加しました。

元記事:船橋西部の戦跡散策(2017年6月撮影)

追記の再々編集を2022年11月にさらに実施しました。

船橋無線塔記念碑
(海軍無線電信所船橋送信所跡)

送信所は大正4年(1915年)完成。


昭和16年12月1日。柱島の連合艦隊旗艦「長門」から発信された電文は呉鎮守府を通じ海軍省を経て、12月2日に船橋送信所から無線にて南雲機動部隊を初めとする全艦隊に伝達された。
ちなみに、船橋送信所が艦船へ向けて短波・中波を送信し、依佐美送信所が潜水艦に向けて超長波を発信という。

現在は行田公園となっている。

船橋無線塔記念碑
ここ下総台地の一角にかつて無線塔が聳えていた。大正4年(1915年)に船橋海軍無線電信所が創設された。大正5年にはハワイ中継でアメリカのウイルソン大統領と日本の大正天皇とで電波の交信があった。広く平和的にも利用されたのでフナバシの地名がはじめて世界地図に書きこまれた。大正12年(1923年)の関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた。昭和16年(1941年)の頃には長短波用の大アンテナ群が完成し、太平洋戦争開幕を告げる「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電波もここから出た。船橋のシンボルとして市民に親しまれていたが昭和46年(1971年)5月解体され栄光の歴史を閉じた。

この記念碑以外には、往時を物語るものは残っておらず。あとは道路の円形の雰囲気をなんとなく楽しむぐらい。
(※道路の反対側に開設板が新設されました、後述)

しかし、記念碑以外、何もなくても、この船橋の地から「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の無線が発せられ、日本の運命が決せられたと思うと感慨深い歴史の重みを感じてしまう。

場所

https://goo.gl/maps/iTWhzR4ioYDKTBt57

撮影:2017年6月


行田無線塔(船橋海軍無線電信所跡)

2022年11月に再訪してみたので、記事を追記。令和4年(2022年)3月に新たに設置された解説版もあった。

行田無線塔(船橋海軍無線電信所跡)
 大正4年(1915)この地(塚田村行田新田)に「船橋海軍無線電信所」が開設されました。当時最先端の通信技術の粋を集めた東洋一の施設でした。次年、逓信省(現:総務省)の「船橋無線電信局」を併設、日米通信をはじめ、世界各国との電信が、この行田無線塔を経由して行われました。無線施設は、敷地中央のレンガ造の局舎の脇に高さ200mの主塔が立ち、高さ約60mの副塔18基が周り(円形道路際)を取り巻き、アンテナ線がその間に36本張り巡らされ、あたかも笠の如しと評判でした。
 昭和16年(1941)頃、無線塔は高さ182mの自立式鉄塔6基に替えられました。この無線塔群は「行田の無線塔」として、船橋の目印として、永く市民に親しまれ、日本近代史の中で、重要な役割を果たしてきました、太平洋戦争後、アメリカ軍に接収されますが、昭和41年に返還され、昭和46年(1971)に解体されました。
 跡地は都市計画により、県立行田公園・行田団地・小学校などになりました。地図や航空写真でみると円形の道路に囲まれていますが、当初、副塔を管理する道路を外縁上に設置したためで、珍しい風景が今に残ることとなりました。
 なお、この説明板の左手(北側)にある石垣で囲われた四角い一角は、当初の無線塔の200m主塔が建てられた場所で、植え込みの下には無線塔の基礎部分が現在も残されています。
 令和4年3月 船橋市教育委員会

https://www.city.funabashi.lg.jp/gakushu/0005/p046654_d/fil/gyodamusentou.pdf

この石垣の場所に、200m主塔が立っていたという。

基礎跡は埋没されていると思われる。
現在はサツキが植樹されており、基礎は露出していない。

案内板は東側に新設されており、記念碑は道路の西側にある。

ニイタカヤマノボレ1208の箇所のみ、見やすくなっていた。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M871-93
昭和23年(1948年)03月19日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

中山競馬場の「楕円」
行田公園を中心とした「円」
新船橋駅となりの「四角」

円形は「送信所跡」で、四角は「軍需工場跡」。
どちらも海軍に関係した場所。

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M860-62
昭和23年(1948年)03月29日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

赤い丸の部分に182mの無線塔が6基。
これが 「ニイタカヤマノボレ一二〇八」 を発した「長短波用の大アンテナ群」。


周辺道路は円形。

上から見ないとわからない。


海軍境界標石

円周の東側、ちょっとへこみがあるところに「海軍境界標」がのこっている。ちょうど諏訪神社あり、この部分のみ、円周に凹みがあるのは、当時から諏訪神社があったことも意味している。

場所

https://goo.gl/maps/1ZwLYbVSECG6K5Gu6


日本建鐵船橋製作所跡

「船橋無線塔記念碑」のある行田公園から南東の方向、新船橋駅の近くの四角いエリアが「日本建鐵船橋製作所」跡地。
船橋送信所とは関係ないけど、近くなので、一緒に掲載。

「日本建鐵船橋製作所」跡地
現在は三菱電機管理地とイオン船橋を始めとする商業エリアとなっている。
(日本建鐵は三菱の完全子会社となり会社清算済)

三菱の下請けということで往時は三菱系の航空機部品も制作。

具体的には海軍局地戦闘機「雷電」部品を製造していたという。
バス停の名前は「日本建鉄前」であれど、既に工場撤退しているのでバス停名も変更される未来は近そうです・・・

場所:

https://goo.gl/maps/4okHm4TgUfKAxSDY7

撮影:2017年6月および2022年11月


無線電信道の道標

西船橋駅の北西。庚申塔などと一緒にまとめられている。
ここから東の道を北上すれば「 海軍無線電信所船橋送信所 」の行田公園に到達できる。文字通り、無線電信所への道。

無線電信所道

東 船橋方面ニ至ル
西 市川方面ニ至ル

従是北八百餘間至無線電信所
大正六年行啓ヲ奉迎ニ付國縣郡費補助ヲ受耕地會沿道民ノ寄附並村費等金四千餘円ヲ以テ葛飾村ニ於テ大改修工事ヲ施行セル記念ニ建之

もとは違う場所にあったようだ。

場所

https://goo.gl/maps/Sibmkab5q2zVJW1U8

撮影:2022年1月


海軍境界標

船橋法典駅の東側。七面堂というお堂の境内に、海軍境界標石があった。
ちょうどこの場所から南に行けば、行田公園の円の中心に到達できる。

ここも、無線電信所への道の目印。

場所

https://goo.gl/maps/sVyoWKx7i6fTUp3d6

撮影:2022年1月


関連

海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊の耐強受信壕跡地散策(川崎)

川崎市高津区蟹ケ谷。
「蟹ヶ谷」には鉄道駅はなく、武蔵小杉駅や溝の口駅、武蔵新城駅や綱島駅などからバスに乗り「蟹ヶ谷バス停」が最寄りとなる。「蟹ヶ谷」という文字通りに、谷戸の多いこのエリアに、かつて海軍の受信所があった。


海軍東京通信隊 蟹ヶ谷分遣隊地下壕

昭和5年(1930)、無線基地(橘村短波受信所)が蟹ヶ谷に設置。
昭和12年(1937)、海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊と改称。

海軍東京通信隊の本部は、海軍省。
送信所は船橋分遣隊と戸塚分遣隊が担当。
受信所は蟹ヶ谷分遣隊が担当。

昭和18年(1943)に耐強受信所(地下壕)を設置。すぐちかくの日吉の地下壕に展開されていた連合艦隊司令部とも地下ケーブルで繋がっていた。
蟹ヶ谷や日吉は、東京の海軍省と、軍港横須賀の中間地点で都合がよく、また当時は、周辺が何もなく受信環境も良かったという。

海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊と耐強受信所(地下壕)
 昭和5(1930)年6月、旧日本海軍は高津区蟹ケ谷に無線基地を設置し、昭和12(1937)年には「海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊」と改称しました。海軍東京通信隊は本体を海軍省に置き、送信を任務とする船橋分遣隊と戸塚分遣隊、受信を任務とする蟹ヶ谷分遣隊に分かれていました。戦争が激しくなってきた昭和18(1943)年には、当時周囲を山林と竹やぶで覆われていたこの谷戸地に2つの耐強受信所(地下壕)を造りました。旧日本海軍の攻防と併せて世界の情報を傍受し、その内容は東京通信隊本部や日吉の慶應義塾大学構内にあった連合艦隊司令部にも伝えられていたといわれています。
 現在残っている耐強受信所(地下壕)は、厚さ40センチメートルのコンクリートでアーチ状に作られ、当時3か所の出入り口がありました。その一部が保存されていますが、立ち入ることはできません。実物の約三十五分の一の大きさの模型を川崎市平和館に展示しています。
 ※危険ですので立ち入らないでください。
  平成17(2005)年3月 川崎市平和館

現在は、塞がれた入口があるのみ。内部は崩落と浸水、ガスが発生していて立ち入り禁止という。
谷戸は水が豊富に湧いて出てくるものなので、谷戸にある地下壕の浸水というのは想像に難くない。

川崎市平和館の看板と、コンクリートの造形物以外、なにもない。
もうすこし何かあっても良いのだが、構造物は地下なので、致し方がない。

数年前は、近くの高台にアンテナが1基残っていたというが、それも今はない。

場所は非常にわかりにくい。

下の写真の道はハズレ。この道のもう一段下の資材置き場のさらに奥になる。

北からアクセスするか、南からアクセスするか。
順当に言うと、北からアクセスするのが道のり的には間違いない。最寄りは鷹巣橋バス停。
南は、蟹ヶ谷バス停からは近いが、正直言って道がなく、資材置き場の脇を抜けて、さらに畑のあぜ道をいかえばならない。。。

ちなみにグーグルマップにある場所は、間違い。この場所を目指すとたどり着けない。ちょっと北側になる。

https://goo.gl/maps/hh1a7obVxpKkSDFNA

所管の川崎市平和館に行ってみよう。模型が展示してあるという。


川崎市平和館

川崎市平和館。市の資料館ではあるが、かなり充実している。語弊あるかもしれないが、神奈川県の資料館(かながわ平和祈念館)よりも見応えあると思う。

https://www.city.kawasaki.jp/shisetsu/category/21-21-0-0-0-0-0-0-0-0.html

常設展の入り口。

空から無数の焼夷弾が降り注ぎ、川崎空襲を再現している。

日本海軍東京通信隊 蟹ヶ谷分遣隊地下壕の復元ジオラマ。 35分の1。発電室と通信室に分かれている。

「旧日本海軍東京蟹ケ谷分遣隊」について
 高津区蟹ケ谷に旧日本海軍の通信基地橘村短波受信所が置かれたのは、昭和5年(1930年)のことでした。
 後に東京通信隊・蟹ヶ谷分遣隊と改称し、電波受信に適した多摩丘陵台地上のこの地で、世界の情報を傍受していたのです。
 この短波受信専門の蟹ヶ谷分遣隊通信基地は、敷地18.7ヘクタール(中原平和公園の約13倍の広さ)と22棟の建物を擁し、無線電信用の高い鉄塔6基とほかに多くの電柱にアンテナ線を張り巡らしていました。
 現在は、航空管制用の通信鉄塔が立っている丘と、そこから見下ろす谷間の地下壕に、当時の面影をみることができます。

航空管制用の鉄塔は、今はもう残っていない。。。

旧日本海軍東京蟹ケ谷分遣隊地下壕
 旧日本海軍が現在の高津区蟹ケ谷に通信基地橘村短波受信所を置いたのは1930(昭和5)年です、後に東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊と改称し、電波受信に適した多摩丘陵台地上のこの地で、世界の情報を傍受していたのです。地下壕は厚さ40cmのコンクリートでアーチ状になっていて、中に通信室と発電室があったそうです。丘の上には通信用の高い鉄塔が6基設置されていましたが、現在はすべて撤去されています。その丘から見下ろす谷間に地下壕の出入り口がありますが、公開はされていません。、本館に地下壕の縮尺模型が展示されています。

登戸とか日吉とかもパネルに。

下には、陸軍境境界標も展示されています。これは、東部62部隊のもの。こちらは、宮崎台を散策した別の記事で触れたいと思います。

防空壕の体験コーナーもある。横穴式防空壕の再現。

海軍東京通信隊蟹ヶ谷分遣隊の耐強受信壕跡の現地散策は、正直言って、コンクリート構造物と案内板だけで味気ないものがあるが、川崎市平和館はみるべきものがある。近くに赴かれた際は、是非足を運んでみるのも良いかと。

場所

https://goo.gl/maps/jwVFjVAnUoxkSVFM6

※撮影:2022年1月


関連

海軍無線電信所船橋送信所跡

日露戦勝記念の「砲弾狛犬」(横浜・川崎)

神奈川県と千葉県に、砲弾を抱えた狛犬がいる。

なんでも、神奈川県横浜市内の2社、川崎市内の2社、千葉県館山市内の1社の合計5社にて、境内に「砲弾を抱えた狛犬」こと通称「砲弾狛犬」が現存しているという。

いずれも明治34年(1904)から明治35年にかけて日本とロシアの間で勃発した日露戦争での戦勝記念で建立奉納されたもの。
神社において伝統的であった「狛犬」が、近代の熱狂の中で、砲弾を抱え始めたという、ひとつの時代の象徴的な姿、でもある。

そんな「砲弾狛犬」の姿を、今回は、横浜と川崎に見に行ってみようと思う。

※千葉館山にも行きました。


本牧原の吾妻神社「砲弾狛犬」(横浜市)

神奈川県横浜市中区本牧原の鎮座。旧社格では村社。
御祭神は日本武尊。

南北朝期の文和3年(1354年)、新田義貞の家臣であった篠塚伊賀守平重広が勧請したという。

社頭の左右には獅子山があり、砲弾を抑えつけた狛犬がいる。
狛犬は、明治39年(1906)5月の建立。日露戦争戦勝記念で建立された。

阿行(開口)の狛犬は「戦捷」の球型砲弾、吽行(閉口)の狛犬は「祈念」の椎実型砲弾を抑えつけている。

戦捷 ( 球型砲弾 )

祈念 ( 椎実型砲弾 )

りっぱな獅子岩。子獅子を従える。

王師渡海 屡戰屡克 豈獨人力 惟神之徳

嗚呼神徳 何以永憶 爰設狻猊  撰文以刻

場所

https://goo.gl/maps/8i5z5svQ19rydqLN8


お三の宮日枝神社「砲弾狛犬」(横浜市)

神奈川県横浜市南区山王町の鎮座。旧社格は村社。


日露戦争戦勝記念として、明治40年10月建立。
本牧原の吾妻神社に遅れること1年半後に奉納された。おそらくは同じ石工に手によると思われる。
昭和11年9月再建。

マスクをしているので、阿吽がわからないが。。。
阿行(開口)の狛犬は「戦捷」の球型砲弾、吽行(閉口)の狛犬は「祈念」の椎実型砲弾を抑えつけている姿は、本牧原の吾妻神社と同じ。

戦捷 ( 球型砲弾 )

祈念 ( 椎実型砲弾 )

日露戦戦捷為記念
 明治40年10月之建

皇徳溢内 威稜耀外 海表萬里 遠掲大旆

維勇維武 献靖報國 凱歌髙揚 ■■神徳

公式サイト

http://www.osannomiya-hie.or.jp/

場所

https://goo.gl/maps/wdz5KeAWbvGFoD1J6


川崎大島の八幡神社「砲弾狛犬」(川崎市)

川崎市川崎区大島の鎮座。
川崎市大島地区の鎮守様。

砲弾狛犬は明治39年10月建立。
阿吽の狛犬のうち、口を閉じた吽行の狛犬の脚下に「椎実型砲弾」がある。
阿行の狛犬は球体だが、何やら違和感がある。もしや、この部分だけ後世の作り変え?

台座には、陸軍を表す「小銃」と海軍を表す「錨」が刻まれている。

凱旋記念の砲弾狛犬。

凱旋

紀念

明治39年10月建之

阿行の狛犬は顔が破損。そして、球体が不自然。

台座には、旭日旗。

旭日旗の台座。

場所

https://goo.gl/maps/FzFLGeEaYqf7EK6x5


大戸神社の「砲弾狛犬」(川崎市)

川崎市中原区下小田中の鎮座。
戦国時代の永正年間(1504年-1521年)に、世田谷吉良氏家臣の内藤豊前の舎弟にあたる内藤内匠之助が信濃国戸隠大明神を勧請したことにはじまるという。
御祭神は、手力雄命、ほか。

砲弾狛犬は、明治40年(1907年)10月吉日建立。日露戦争戦勝記念。
阿吽の狛犬が対で砲弾(椎実型砲弾)を抱えている。砲弾には金属の輪が施されており、意匠に富んでいる。

閉口している吽行の砲弾狛犬は、砲弾を体側に傾けている。

日露戦捷紀念

一方、開口している阿行の砲弾狛犬は、砲弾を外側に傾けている。

日露戦捷紀念

境内には、「平和の礎」碑があった。昭和43年建立の慰霊碑。

平和の礎
 川崎市長 金刺 不二太郎 書

 今は昔昭和6年満州事変に始まる一連の大東亜戦争が20年8月痛ましくも玉音放送を以て終結する迄日本は実に有史未曾有の非常時でありました。此の間祖国の平和の為に氏神大戸神社社頭より聖戦に従軍したる者百有余名万里の波濤を越えて各地に勇戦したがあゝ悲しい哉内30余名の人々は酷寒の大陸に灼熱の孤島に草むす屍水つく屍とあたら若き生命を散華して再び故国の土を踏むことは無かったのであります。
 やがて星移り年は変わって戦後の混乱も漸く治まり独立日本に平和甦る此の時恰も明治百年を記念し従軍生存有志一同を以て戦歿者慰霊碑平和の礎を縁の大戸神社境内に建て、国に殉じた今は亡き友人たちの霊を慰め永しへに日本よ平和であれと切に祈念するものであります。  昭和43年9月 建立
   従軍有志

場所

https://goo.gl/maps/KyLSoGE8QbWK28zk9


付記
砲弾狛犬とは関係ありません。。。
川崎をうろうろして、立ち寄りついでに。

稲毛神社(稲毛公園)の「平和の塔」

稲毛神社の瑞垣は皇紀2600年記念。昭和15年’(1940年)。

稲毛神社の隣にある稲毛公園にひっそりとある「平和の塔」。
もともとは、「忠魂碑」であったという。

平和の塔としては昭和43年竣工。
しかし、いわれてみれば「台座」の造りは、昭和43年のデザインではないだろう。戦前の忠魂碑の台座が流用されたことが推測される。

平和の塔の裏面。何かを無理矢理に剥ぎ取ったような跡がある。

場所

https://goo.gl/maps/AkN9o7RZMqenykeR9

※撮影:2022年2月


砲弾狛犬5社

神奈川県横浜市南区山王町5-32
 お三の宮日枝神社

神奈川県横浜市中区本牧原29-18
 吾妻神社

神奈川県川崎市中原区下小田中1-2-8
 大戸神社

神奈川県川崎市川崎区大島3ー4ー8
 八幡神社

千葉県館山市長須賀406
 熊野神社

帝国陸軍船舶部隊の根拠地・宇品(広島)

広島に出張した際のスキマ時間に。あまり時間が無かったけれども、宇品まで足を運んでみました。
この宇品港は、陸軍船舶部隊の中心地、であった。


宇品へ

広島電鉄宇品線で南に向かう。

広島電鉄宇品線は、「宇品口(現在の元宇品口)」電停まで現在のルートで線が引かれたのが昭和10年(1935年)であった。

今回は「海岸通」電停で下車。臨海エリアを歩く。


旧広島水上警察署

広島水上警察署
(旧広島港湾事務所)
所在地:広島市南区宇品海岸2丁目23-53
概要:木造2階建、建築面積189.13㎡、延床面積360.80㎡
 この建物は、明治42年(1909年)、広島水上警察署として建設されました。
 昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾により被爆しましたが、爆心地から4.6km離れていたために倒壊を免れました。
 昭和40年(1965年)から広島港湾事務所の事務室として、昭和56年(1981年)から広島港湾事務所の倉庫として利用されてきましたが、平成22年(2010年)からは使用されていません。
 平成8年(1996年)、広島市の「被爆建物等登録台帳」に登録され、平成10年(1998年)、広島県教育委員会の「広島の近代化遺産」に掲載されました。
 今では、市内に現存する唯一の明治の木造洋風建築であり、歴史的にも建築学的にも価値が高いものです。
 広島県

何故か、1階部分正面のみ塗装が施されている。以前は1階も特には塗装などはなかったようだが。

場所

https://goo.gl/maps/UTdFhtEVwMSKZpA58


陸軍運輸部船舶司令部

宇品中央公園に旧陸軍船舶司令部の記念碑がある。

広島県宇品(宇品港) は、帝国陸軍船舶部隊の根拠地であり、陸軍運輸部の本部(のちに兼船舶司令部)も置かれ、陸軍を代表する特殊船舶であった「神州丸」「あきつ丸」など帝国陸軍船舶の母港でもあった。

旧蹟
陸軍運輸部
船舶司令部

昭和55年2月吉晨
暁宇品会
建之


陸軍運輸部が1904年(明治37年)4月に設置。
その後、日中戦争(支那事変)開戦に伴い、1937年(昭和12年)8月、第一船舶輸送司令部が宇品に発足。
平時の業務は運輸部が担い、戦時業務を第一船舶輸送司令部が担当することとなった。
太平洋戦争(大東亜戦争)突入後の1942年(昭和17年)7月に、軍司令部格の「船舶司令部」に改編。

1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下に際し、中国軍管区司令部を初めとする陸軍部隊は壊滅、藤井洋治司令官は被爆死。
また、第2総軍司令部は壊滅は免れたが大きな被害を受け、機能停止に陥った。
行政としての中国地方総監府・広島県庁・広島市役所も大きな被害を受け、大塚惟精地方総監・粟屋仙吉市長が被爆死したため、行政機能もほぼ停止した。

6日夕刻になって、たまたま市外への出張で難を免れていた高野源進知事のもとで比治山麓の多聞院に臨時県防空本部が発足。
この結果、爆心地から4キロメートル前後離れていた宇品に駐屯し大きな被害を受けなかった船舶司令官(佐伯文郎陸軍中将)が、翌7日以降「広島警備本部」として市内の救援活動や警備活動の指揮をとることとなった。
船舶司令部麾下の「暁部隊」は市内での活動に総動員され、これに従事した部隊員の中から多くの二次被爆者を出すことになった。
また被害を受けた広島電鉄の復旧のため、船舶司令部隊が所有していたマスト300本が電柱として利用され、広電の早期復旧にも役立った。

かつて、この地に、帝国陸軍の船舶部隊があった証。


明治天皇御駐蹕趾碑

1885年(明治18)年
明治天皇の広島巡幸の際、建設中の宇品港から呉・倉橋島を視察された記念して1939年(昭和14)年に建立。


宇品凱旋館建設記念碑

宇品凱旋館建設記念碑
 皇紀二千六百年 昭和十五(1940)年二月十一日
  陸軍中将 田尻昌次書

田尻昌次は、運輸部長。
宇品凱旋館は、鉄筋コンクリート造3階建物として、 1939(昭和14)年4月に建設。
宇品凱旋館は、昭和49年12月に解体され建設記念碑だけが残された。


みなとの歌の碑


 作詞 籏野十一郎
 作曲 吉田信太

そらもみなとも
 よははれて
つきにかづます
 ふねのかげ
はしけのかよい
 にぎやかに
よせくるなみも
 こがねなり

※ 空も港も夜はれて
  月に数ます舟の影 
  艀の通いにぎやかに 
  よせくる波もこがねなり

『港』の歌碑建立由来記
 私達が、小学校時代を連想するごとに。口ずさまれる国民唱歌の一つに「空も港も夜は晴れて・・・」の懐かしいメロディーがあります。
 しかし、この歌がいつ、どこで、だれによって作られたものか忘れられ、いうなれば流浪の歌の運命をたどっていました。
ところが、昭和四十八(1973)年八月、全日本海員組合の宮城伸三が前任地博多から広島に赴任され、ある日、宇品の居酒屋で、たまたま同席した一老人から、この歌は宇品を歌ったものであることを聞かされました。
 そこで、同氏は広島といえば、原爆の都市という暗いイメージを与えているが、この明るく生き生きとした情緒あふれる名曲を掘り起こし、広島のイメージ・チェンジをはかるならば、今後、広島のこども達の情操教育と、海事思想普及に貢献することができるだろうと考え、地元海運関係者や有志に呼びかけました。一同これに賛意を表し、いろいろ調査研究の結果、作詞は旗野十一郎、作曲は吉田信太(いづれも故人)場所は宇品暁橋(通称めがね橋)であることを確かめました。
 その結果、数多くの人々の協力により、昭和五十(1975)年七月二十一日、海の記念日のよき日に地元小学生等の手によって除幕され、ただちにこの歌碑を広島県に寄贈されました。
 こうして国民に親しまれました「港」の歌は流浪の旅を終え、生まれ故郷の宇品港に帰ることができました。
○ 歌碑は船の煙突をかたどった円筒型のコンクリート製(高さ三・九米)歌詞の四十八文字は、地元三小学校の四年生による一人一字の手書きであり「港」の字は港湾管理者宮沢県知事の自筆です。
○ 歌碑の周囲の「いかり」は呉市、内外運輸(株)の寄贈です。
○ 歌碑の裏面の「歌碑建立発起人一同」の文字は、建立の推進役をした全日本海員組合中国支部長の宮城伸三に書いてもらいました。
○ 建立関係の書類、除幕のアルバム、資料は末永く記念するため、ここに保存してありますから御閲覧下さい。


平和の礎

シベリア抑留関連の記念碑。

ありし日に
 君と遊びし
  砂の浜
こゝに建つなり
 平和の
  祈り

先の大戦の後においても、強制抑留された本県出身者の多くは、この地宇品港から出港した。
その軌跡をここに刻み、世界の恒久平和と広島港が国際平和港として発展することを記念してこの碑を建立する。
 平成6年12月吉日
 財 全国強制抑留者協会広島県支部

 悲惨を極めた第二次大戦は、昭和20年(1945年)8月15日、日本のポツダム宣言受諾により集結した。
 戦争終結にもかかわらず、在満並びに北方地域の邦人並びに将兵は、シベリア各地に抑留された者約60万人、本県関係者1万6000人余は極度の重労働と飢餓、酷寒の中、1000人余が無念の死を遂げ、帰国せしも極度の栄養失調、塵肺その他の重い病気に耐えず消えた者600人余、これらの友の霊を鎮め、恒久平和の祈念をこめてこの碑を建立す。
する。
 平成6年12月吉日
 (財) 全国強制抑留者協会
      広島県支部建立委員会


宇品線の足跡をたどる  
鉄道伝説つかりの地めぐり

広島の宇品港は日清戦争において輸送の拠点基地となりました。広島駅と宇品を結ぶため大急ぎで整備されました。その期間、わずか17日、日本最短と云われています。
また、宇品駅のホームは積み下ろしを迅速に行うため何と560mもありました。これも当時は日本最長と云われていました。数々の伝説を生んだ宇品線ですが、昭和61(1986)年に廃線になりました。

宇品線の跡を散策するのも楽しそうだ。。。


宇品中央公園

場所

https://goo.gl/maps/7kEyVQfoVEkuVywv8


宇品の海

かつてここは、帝国陸軍の海であった。

宇品島。

私としたことが、残り持ち時間に焦りを感じ、すぐ隣の「六管桟橋(旧陸軍桟橋)」や「国鉄宇品線跡」のある宇品波止場公園に行きそこねてしまい。。。

しゃーない、また来よう。。。


広島陸軍糧秣支廠倉庫跡

広島陸軍糧秣支廠倉庫のあとが、わずかに残されている。被爆建物として黒く焦げた跡が生々しい。。。

広島陸軍糧秣支廠
(爆心地から約4.6キロメートル)
陸軍糧秣支廠は、戦時において必要な兵隊の食糧や軍馬の飼料を調達、補給するために設置されました。1894(明治27)年に日清戦争が始まると、当時山陽鉄道の西端であった広島駅とここ宇品を結ぶ軍用鉄道を二週間あまりの突貫工事により完成させ、宇品港は第二次世界大戦が終結するまで陸軍の海外への輸送基地となりました。この倉庫は、1910(明治43)年頃、軍需物資を保管するため、宇品駅のプラットフォームに沿ってレンガ造りで建てられました。1945(昭和20)年8月6日の原爆による被害は、爆心地から離れていたため、軽微にとどまり、傷ついた大勢の被爆者はこの付近の陸軍の関連施設に収容され、手当てを受けました。戦後、日本通運株式会社に払い下げられ、倉庫として利用されてきましたが、1997(平成9)年、広島南道路の整備にあたり、被爆建物として歴史を後世に伝えるため、その一部をモニュメントとして保存するものです。
(旧広島陸軍糧秣支廠倉庫 1985(昭和60)年4月 井手三千男氏撮影 日本通運株式会社 寄贈)

場所

https://goo.gl/maps/qg9txfrQ3S7sXACs7


陸軍船舶練習部

マツダ宇品工場西区は、かつての陸軍船舶練習部。
工場内なので入れないが、敷地内のある「講堂」が被爆建物として現存している。正門からは見えなかった。

後で知ったが、宇品線廃線跡の海岸通りの下丹那駅跡付近から垣間見ることができるらしい。 悔しい、見損ねた。また来よう。。。

場所

https://goo.gl/maps/CBy18Mxzk38WWgzX8


広電宇品線

中心部にぼちぼち戻ろう。。。

なんか、見逃したところ多数ですね。時間に余裕がなかったので、致し方がないです。きっと、ここにはまた来ます。

※撮影は2021年4月


関連

名古屋城周辺の戦跡と近代建築

本記事は2017年1月と2018年6月に名古屋方面を散策した際の記録をまとめたものになります。
2022年現在とは様相が異なる可能性濃厚ですが、往時の記録としてご参照いただければ幸いです。

なお、このころの散策はムラが多いので見逃し多数ですが、まあ、そのうち再訪するということで。。。


騎兵第三聯隊跡

名古屋市役所の北西角にある石碑。

騎兵第三聯隊跡
 名古屋市長 杉戸清書

騎兵第三聯隊は明治二十五年十一月創設以来昭和三年三月守山に移転する迄此の地に駐留せり
茲に往時を偲び明治百年を記念し之を建つ
 昭和42年4月 騎三会

場所

https://goo.gl/maps/rMq48pch1osUXDyq5


松脂採取跡

名古屋市役所の北側には松並木がある。
松脂採取跡。これも戦争の名残。


加藤忠四郎翁之碑

加藤忠四郎翁之碑
 陸軍大将 宇垣一成書

昭和6年4月建立。撰文は陸軍歩兵大佐津田次郎。
加藤忠四郎翁は第三師団に大きな貢献をし、雑役の元締として60余年奉仕的に勤め名古屋の第三師団では知らないものがいないほどの有名人であったという。


名古屋市役所

名古屋市役所。国重要文化財。
1933年(昭和8年)竣工。
政令指定都市の中では1927年竣工の京都市役所に次いで2番目に古い。
名古屋市役所本庁舎は、 昭和天皇即位の記念事業として建設され、日本趣味を基調とした近世式意匠の建造物として特徴的。いわゆる帝冠様式建物。


愛知県庁

愛知県庁。国重文化財。
愛知県庁本庁舎は1938年(昭和13年)3月完成。
昭和天皇御大典の記念事業の1つとして建設。頂部に名古屋城大天守風の屋根を乗せた帝冠様式。
日本趣味溢れる建造物。

名古屋市役所と愛知県庁。
帝冠様式・国重要文化財コンビ。

巨大な帝冠様式建造物がドーンっと並んでいるさまは圧巻の一言。
この日本趣味丸出しの昭和初期を代表する建造物たちに歴史的重みと風格を感じます。
見ていて飽きませんね。


野砲兵第三聯隊跡
(旧・名城東小公園)

かつてここに公園があり、その公園の中には「野砲兵第三聯隊跡碑」があった・・・という。
2018年現在では公園は閉鎖され再開発中でした。
碑は・・・どうなったのだろうか(不明


第三師団司令部跡の煉瓦塀

二の丸交差点の北西角に煉瓦壁が残る。
レンガはイギリス積み。

場所

https://goo.gl/maps/adTLjZkUhCiKegEk8


名古屋城二の丸

ここにかつて歩兵第六聯隊が展開されていた。


歩兵第六聯隊

二の丸の敷地。

歩兵第六聯隊之由来
抑々明治4年8月、東京鎮台第3分営を名古屋に設置せられたのが起源で、その後明治6年第3分営を名古屋鎮台と改め、歩兵6番大隊と称した。
この年わが国に徴兵令が施行され、翌年3月壮丁を愛知、三重、岐阜の県から徴集し、歩兵第6聯隊を創設し、此の地名古屋城二の丸に兵営を新築し、12月27日軍旗を拝授し衛戌した。
以来精強な軍隊の練成に励み国威の宣揚に尽した。
健軍早々にして明治10年西南の役に初陣し、熊本城の圍を解き本営を護衛し干城の任を尽した。
その後日清戦役に出陣し、九連城海城の戦闘で勇名を挙げ、明治37、8年の日露戦争にては首山堡、沙河、于洪屯の戦闘で武勲を樹てた。
大正7、8年のシベリア派遣、昭和初期における山東派兵及び満洲に加わりて、克く護国の大任を完うせり。
昭和12年支那事変勃発するや上海方面に急派せられ、幾多の辛酸をなめ威武堂々、南京、武漢に転進、次いで応山浙河地区に進駐し警備地の治安確保に任じつつ大東亜戦争に突入し、専ら大陸にありて長沙、常徳、湘桂など累次の会戦に加わりて、東亜新秩序の建設に邁進した。
然れども大勢我に利なく終戦となり、命により武装を解除し国軍は解散するの憂き目に遭い、今や郷土の誇りを継ぐ軍隊なきは誠に遺憾に堪えない。
茲に戦友相計り由縁の地に碑を建て、由来を刻み先人の偉績を顕彰し、併せて殉国の英霊を弔慰し其の功勲を不朽に伝う。
 昭和55年3月10日
  元歩兵第6聯隊戦友生存者有志建之

歩兵第六聯隊之跡
 河辺正三 書

明治4年8月20日創設
昭和20年8月15日解隊
昭和39年軍旗親授90周年記念建立

忠霊

馬魂碑

軍役動物の慰霊のために
昭和55年3月10日 歩六会建之

勅諭下賜五十周年記念碑

昭和7年

場所

https://goo.gl/maps/Sir2v3PCQNZ6ssmJ6


名古屋城

訪れたときは、改修工事中でした。(2018年)


天守礎石

天守礎石
昭和20年(1945年)の名古屋空襲で焼失した旧国宝天守の礎石。
焼け焦げた様子が今も残る。

場所

https://goo.gl/maps/CMx7uidECJteMvib8


乃木倉庫(弾薬庫)

乃木倉庫
 登録有形文化財(平成9年)
 乃木希典が名古屋鎮台に在任していた明治初期に建てられたと伝えられ、だれいうとなく「乃木倉庫」と呼ぶようになった。
 当建物は、煉瓦造平屋建で旧陸軍の弾薬庫であった。昭和20年5月14日の名古屋空襲の際、天守閣、御殿等が消失したが、本丸御殿の障壁画や天井絵類の大半を取りはずしてここに保管していたため被災を免れた。のちに煉瓦の保全のため白亜塗りにした。
 なお、被災を免れた障壁画等は重要文化財に指定されている。
  名古屋市教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/XRC3zKxLBwf6RU6c6


戦争に関する資料館
愛知県庁大津橋分室

愛知県庁大津橋分室。建物としては1933年(昭和8年)に竣工。

場所

https://goo.gl/maps/S1DzhcXZjkwXGvh57

名古屋は、再訪して、がっつり歩きたいですね。。。

撮影:2017年1月と2018年6月


関連

愛知縣護國神社
豊橋の戦跡散策

「日独友好の碑」ドイツ人名古屋俘虜収容所跡

愛知県立旭丘高等学校の塀沿いにある記念碑。
この愛知県立旭丘高等学校のある場所は、かつてドイツ人名古屋俘虜収容所の地であった。


ドイツ人俘虜

1914年(大正3年)8月23日に、日本はドイツに宣戦布告。
第一次世界大戦の日独戦争で、中国の青島(チンタオ)や南洋諸島で俘虜になったドイツおよびオーストリア=ハンガリー帝国軍の将兵や在留民間人などは約4700人居たという。
俘虜とは陸軍の用語で、捕虜と同義。

アジアでのドイツ降伏は1914年11月7日。4700名の俘虜は日本本国に輸送され、久留米・東京・名古屋・大阪・姫路・丸亀・松山・福岡・熊本・静岡・徳島・大分の12ヶ所に開設された仮設の俘虜収容所に収容された。
アジアでの戦争は早期集結したが、ヨーロッパ戦役が長期化しているために、長期収容が可能な施設を新規建設し、1915年に久留米・名古屋・千葉習志野・兵庫青野原・広島似島・徳島坂東の6ヶ所の俘虜収容所に統合。
名古屋俘虜収容所は1914年11月11日開設、1920年4月1日閉鎖。
一部の収容所では技術指導なども行われ、後述する敷島製パンはドイツ人俘虜の技術で発展することとなる。

1919年6月28日、ヴェルサイユ条約の締結。
ドイツ人捕虜の本国送還は1919年12月から1920年1月にかけて実施。約170名が日本に残り、技術力を活かして日本で生計を立てた。敷島製パンの技術指導を行ったハインリヒ・フロインドリーブは神戸にベーカリーを開業。ほかにも、バームクーヘンで有名なユーハイム創業者のカール・ユーハイムや、ロースハムのアウグスト・ローマイヤーなども俘虜経験者。


日独友好の碑

日独友好の碑

由緒
 この地には1915年ドイツ人名古屋収容所がおかれここに第一次世界大戦の折に総勢519名の人々が1920年までの5年間生活した
 ここには多くの蔵書を備えた図書館があり日刊新聞も発行され運動場にはフットボールテニス体操などの諸施設がありオーケストラも編成され開放的であった
 名古屋にこれほど多くのドイツ人が在住することは稀有であったため地域住民は彼らに遠来の客として接し先進国ドイツの文化に関心を持ち彼らとの交流が多く見られた
 地域住民は特にドイツ人の勤勉な生活態度に深く感銘を受け優れた職業技能に触れて多くを学びこれを地域の産業振興に役立て音楽やスポーツを通して友好関係を深めた
 ゆえにこの跡地に碑を建立して歴史の事実を後世に伝えることは誠に意義深く国際親善の礎になるものと信ずる。
 2003年3月
  在名古屋ドイツ連邦共和国名誉領事 安倍浩平
  名古屋日独協会会長 石黒伊三雄

愛知県立旭丘高等学校

敷地外から。壁の向こうに、銅像があった。
マラソン校長と称された、「日比野 寛」の銅像。
「日比野 寛」 は、旧制・愛知一中(現在の愛知県立旭丘高等学校)校長時に、日本で最初にマラソンを本格的に教育界に導入したとされている。

場所

https://goo.gl/maps/hLAJHq7ZKmeMY3ES7


敷島製パン

敷島製パンの創業者・盛⽥善平は、第一次世界大戦中のドイツ捕虜収容所(名古屋俘虜収容所)のドイツ兵捕虜の指導をきっかけにパンづくりを開始。
第一次世界大戦終結後、敷島製パンが発足する際に、収容所から開放されたあとも日本に残った元捕虜のハインリヒ・フロインドリーブを技師長として招聘。こうして、ドイツ流製法から敷島製パン(パスコ・PASCO)の製パンは、はじまっている。

創業までのあゆみ[挑戦のはじまり]
敷島製パンが製パンメーカーとして創業するまでには、創業者・盛⽥善平のさまざまな挑戦がありました。

第⼀次世界⼤戦開始の激動の中、善平はついにパンと出会います。

4.パンとの出会い

ある⽇、製粉⼯場の機械の修理にドイツ⼈技師らがやって来た際、「ドイツ⼈俘虜の焼くパンがおいしい」という話を聞いた善平は、さっそく職⼈から学び、パンづくりをはじめました。

特集 1 想いのバトン 創業までのあゆみ https://www.pasconet.co.jp/csr/feature2020/feature_01/01/

敷島製パン(パスコ)とも縁が深い、ドイツ捕虜収容所とは、知りませんでした。

※撮影は2021年11月


関連

名古屋市平和公園の陸軍墓地の一角にドイツ人兵士の墓があるというが未訪問。

※訪問しました

同時期に習志野の俘虜収容所に収容されていたドイツ人の慰霊碑が、船橋市習志野霊園内にある。

静岡にも。

名古屋陸軍造兵廠千種製造所跡(千種公園)

愛知県名古屋市千種区の「千種公園」は、かつては陸軍の工場であった。


名古屋陸軍造兵廠 千種製作所

名古屋陸軍造兵廠千種製作所は、 1919年(大正8年)発足。
第一次世界大戦で新兵器として登場した飛行機の国内生産に取り組むために設置。
熱田製作所で機体を生産し、千種製作所で発動機を生産する分業体制であった。
名古屋には三菱や愛知時計電機などもあり、民間工場も活性化していた。

1923年(大正12年)の関東大震災により、東京砲兵工廠が被害を受けたために、陸軍は小銃などの兵器生産を名古屋と小倉に分散。関東大震災以降に千種製作所は拡大し、小銃・機関銃などの生産も開始。

1945年(昭和20年)3月25日、4月7日、6月26日の3回、米軍B-29の爆撃を受けており、職員だけでも69人以上の犠牲者が出ている。

千種公園

案内地図には、慰霊碑等の記載はない。


名古屋陸軍造兵廠千種製造所慰霊碑

千種公園内の遊歩道脇にある。一見しただけでは、なんの慰霊碑かはわからない。裏の碑文を読めば、「名古屋陸軍造兵廠千種製造所」の慰霊碑であることがわかる。

ここに涙あり
されど
平和は永遠に

 名古屋市長 杉戸清 書

ここは元名古屋陸軍造兵廠千種製作所の所在地であって大正八年開所以来兵器を製造して国家の要請に応え、多大の貢献をした由緒ある地である。
太平洋戦争において全従業員は祖国愛に燃えて職域を固守したのであるが、不幸にして昭和二十年三月以降数度の爆撃を蒙って六十九名の犠牲者を出し、これに戦前の公務による死亡者五名を加えて計七十四名の殉職者を出したことはまことに痛恨の極みである。
 ここに有志相図り旧構内にこの碑を建立して記念としあわせて永遠の平和をこい願うものである。
  昭和43年6月
元名古屋陸軍造兵廠千種製造所関係者有志一同


名古屋陸軍造兵廠千種製作所の外塀跡

ちかくには、名古屋陸軍造兵廠千種製造所の外壁コンクリート塀が移築されている。
爆撃によって、無数の穴が空いている様がよく分かる。

第二大戦の末期、再度の名古屋空襲はこの地にあった名古屋陸軍造兵廠千種製作所に甚大な被害を与えた。この碑はその爆撃による痕跡を残す外塀の一部を移設し戦争の記録として残したものである。
 昭和62年1月


民間戦災傷害者の碑

千種公園内には、もうひとつ戦災に関係する碑があった。

痛みを共有し、継承を
 第二次世界大戦中、戦闘機のゼロ戦を生産するなど大軍需都市だった名古屋市は、60回以上の米軍の空襲を受け、街は焼き尽くされ、市民約8000人が死亡、それに劣らない数の人々が重軽傷を負った。
 死傷した民間人も国が援護すべきという運動は、昭和47年、全国戦災傷害者連絡会(杉山千佐子会長)により、ここ名古屋から始まった。一方、名古屋市は平成22年に「民間戦災傷害者援護見舞金」制度を受け、独自の援護を開始した。
 大戦が終わって70年が過ぎようとしている。壊滅した名古屋の街は市民のたゆまぬ努力によって復興、目覚ましい発展を遂げ、今日では、日本を代表する大都市となった。
 しかし、世界ではいまだに争いが絶えず、惨禍が繰り返されている。
 名古屋市は、市民が再び戦火に巻き込まれることがないようにと願うとともに、空襲で体と心に癒えない傷を負った方々の長年の苦難に思いを寄せ、その痛みの記憶をここに刻む。
 平成26年11月 名古屋市

民間戦災傷害者の碑
 平成26年11月
設置:名古屋市健康福祉局
写真提供:中日新聞社
     戦争と平和の資料館ピースあいち

※撮影は2021年11月

場所

https://goo.gl/maps/LB2xHbeAVBFkGfAo9


関連

武蔵野陵に拝す(昭和天皇祭の儀・令和4年1月7日)

昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分。

国民の祈りの中で、
昭和の天皇陛下は御崩御あそばされた。

即日、
皇太子明仁親王殿下が践祚され、第百二十五代天皇の御位にお就きになられた。
そして、年号は「平成」と改元せられた。


武蔵野陵(むさしののみささぎ)

33年後の令和4年(2022年)1月7日、
昭和天皇が眠る武蔵野陵を参拝いたしました。

昭和を偲びつつ…

陵内には幔幕(青白の浅黄幕・神事での葬祭)が張られ、祭祀の為の仮屋が設けられております。

昭和天皇武蔵野陵

令和4年1月7日。
午前9時30分前に到着。武蔵野陵へ参進する。

午前9時33分。祭員が参進。

このあとは、撮影禁止。

午前9時開門から午前9時30分までは一般参拝可能。
午前9時30分から11時頃までは祭祀のために、立ち入り制限発生の場合あり。
祭祀の間は一般参拝者は御陵向かって右側で待機、でした。

祭祀は、神道式。
 一般参拝停止
 祭員参進
 式部官参進(宮内庁式部職)
 招待者参進
 皇族代表参進 (本年は、 秋篠宮佳子内親王殿下でした。)
 勅使参進
  献饌
  勅使拝礼
  皇族代表拝礼
  招待者拝礼
  撤饌
 勅使退出
 皇族代表退出
 招待者退出
 式部官退出
 祭員退出
 一般参拝再開 
祭礼の全容は把握できていませんが、おそらく上記の流れ。

https://www.fnn.jp/articles/gallery/295317?image=5

https://mainichi.jp/articles/20220107/k00/00m/040/074000c

最初は、一般は15人かな。
最終的には一般も50人くらいまで集まっていたような感じでした。

午前10時45分頃、祭員退出。

前日の雪が残る武蔵野陵。

武蔵野陵墓地(宮内庁多摩陵墓監区事務所所管の陵墓 )

大正天皇 多摩陵
貞明皇后 多摩東陵

昭和天皇 武蔵野陵
香淳皇后 武蔵野東陵

高尾駅

嗚呼 海軍七勇士殉難之碑(船橋)

船橋市の内陸。
かつて、一式陸攻が墜落し若人7名が殉職した地に建立された慰霊碑がある。
行きにくい場所ではあるが、気になるので足を運んでみた。

新京成電鉄「高根公団駅」から「さつき台」行きのバスにのり「梨園」バス停で下車。そこから10分ほど歩くと、「海軍七勇士殉難之碑」慰霊碑がある。
バスは20分に1本ぐらい走っているので、訪問に手間はかかるが、そこまでは難易度は高くなかった。


嗚呼 海軍七勇士殉難之碑
嗚呼 海軍七勇殉難之趾 慰霊碑

この地に、一式陸攻が墜落し、搭乗員だった海軍七勇士が散華なされた。

合掌

(正面)
嗚呼海軍七勇殉難之趾

(右側面)
昭和十八年二月二十七日建立

(裏面)
故 海軍飛行兵曹長  松本博
  海軍一等飛行兵曹 横山彦造
  同        重村惠
  海軍一等整備兵曹 富澤正吉
  海軍二等飛行兵曹 島田茂
  同        高橋利省
  同        飯田輝與

嗚呼 海軍七勇士殉難之碑
 この碑は、太平洋戦争のさなか、昭和17年11月27日の早朝、木更津航空基地から海軍第七〇二航空隊の一式陸上攻撃機(一式陸攻)が訓練飛行に離陸した。機が当地付近上空にさしかかたころ、天候が急変、豪雨、落雷に遭難し墜落、機は飛散した。搭乗していた20歳前後の若き航空兵、下記7名全員が無念にも殉職散華されました。

    記
故 海軍飛行兵曹長  松本博  (京都府)
  海軍一等飛行兵曹 横山彦造 (愛知県)
  同        重村恵  (同)
  海軍一等整備兵曹 富澤正吉 (千葉県)
  海軍二等飛行兵曹 島田茂  (栃木県)
  同        高橋利省 (宮城県)
  同        飯田輝與 (埼玉県)
注 石碑の裏面「階級、氏名」右側側面「昭和十八年二月二十七日建立」とあり

 当時近隣住民の方々が殉職兵士を悼み殉難の碑を建立しましたが、戦中、戦後の混乱の中で永らく樹間に放置され墓参に訪れる人もなく、異境の地で淋しく眠っておられましたが、樹間に埋もれていた碑が、昭和39年たまたまこの地に訪れた葛西氏(松が丘1丁目)により発見されました。その後地主さんの御好意により周辺が整備され、再び白く輝く碑を見ることが出来ました。
 その後、近隣の住民の方々のおりに触れた献花、焼香等が手向けられ、慰霊に努めて来られました。10年前頃からは地元ボランティアによる周辺の整備に当って来られたためにきれいになり、近年は散策に訪れてついでに手を合わせてくださる姿が多くなりました。
 この大穴の地にもこのような戦争の傷跡が残っていることを、記憶にとどめて語り伝えていただければと思います。ここに改めて若くして散華した七勇士に哀悼の意を捧げるとともに、今後も後世のため、この殉難の碑を守り伝え、慰霊に務めるものであります。
 平成26年11月27日
  殉難の碑を守る有志の会

海軍第702航空隊の前身は、海軍第4航空隊。
昭和17年2月10日に、高雄空陸攻隊と千歳空陸攻隊と艦戦隊で編成された航空隊。トラック島で編成。
昭和17年9月にラバウルから木更津に帰還し昭和11月1日に第4航空隊から、第702航空隊に改称。
翌年の昭和18年5月に再びラバウルに進出。米軍の中部ソロモン進攻に対抗。ラバウル周辺で展開された「ろ号作戦」に参加後に解隊。

昭和17年11月27日に墜落した一式陸攻は、9月にラバウルから帰還し、そして11月に新たに第702航空隊となり、再び最前線のラバウルに進出するために、内地木更津で訓練を重ねていたタイミングであった。

一式陸攻のイラストもありました。

一式陸攻K310は、1941年12月10日のマレー沖海戦において、鹿屋航空隊第3中隊分隊長の壱岐春記大尉が機長を務めた機体。巡洋戦艦レパルスに魚雷を命中させた機体のひとつ。
一式陸攻が一番輝き、そして大活躍し、若き一式陸攻搭乗員たちのあこがれであったであろう機体のイラストをレクイエムとして奉納、かもしれない。

この場所に、一式陸攻が墜落した。。。

場所

https://goo.gl/maps/MdcdyZtJnPnsXdas5

※撮影:2022年1月


関連

旧日立航空機立川工場変電所(補修完了後の再訪)

2017年に訪れた際は、1階のみの公開で、2階部分は非公開エリア、でした。
2020年に改修工事が行われ、問題となっていた耐震補強や老朽化による雨漏りの補修を実施。
2021年10月に、2階部分も一般公開される運びとなった。そのため、改めて脚を運んでみた次第。

前回の様子はこちら。

旧日立航空機立川工場変電所

戦災建造物 東大和市指定文化財
旧日立航空機立川工場変電所

公開日:毎週水曜日・日曜日
公開時間:午前10時30分~午後4時
入場料:無料
 東大和市立郷土博物館

市指定文化財
旧日立航空機立川工場変電所見学入口

東大和市文化財 
史跡・戦災建造物
旧日立航空機株式会社立川工場変電所

 この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。
 北隣にあった設備で受電した66000ボルトの電気を33000ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。
 工場地域への攻撃は3回ありました。最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。2回目は4月19日、P51ムスタング戦闘機数機によるもの。3回目は4月24日、B29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。
 この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。
 都立公園として整備されるにあたり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。
 戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。
  平成8(1996)年3月 東大和市教育委員会

変電所
関係者以外立入禁

昭和13年(1938)竣工。
航空機エンジン製造していた日立航空機立川工場(立川発動機製作所)変電所。
昭和20年2月17日にF6Fヘルキャット戦闘機、4月19日にP-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射を受けた痕が残る。戦後も変電所機能は失われていなかった為そのまま使用され平成5年まで活躍。公園整備されるあたり取壊しを回避し保存された。

機銃掃射の銃撃痕が壁一面に残る。

内階段に残る銃撃痕
 内階段には、木製の手すりや階段面、階段の裏側と、いたるところに多くの機銃掃射の銃撃痕が残されています。
 手すりにある2ヶ所の傷痕のうち、上方のものはすぐ横のコンクリートにも傷が残っています。窓から飛び込んできた弾丸には、手すりを傷つけたあとも、コンクリートを破壊する威力があったことを物語っています。
 令和2(2020)~3年の工事で、内階段を保護し弾痕もみえるようにした上で、階段に負荷がかからない構造のガラス階段と手すりを設置しました。

保存のため、弾痕が残る木製の手すりには触れないようお願いいたします。

手すりをえぐり、コンクリートをも破壊した機銃掃射の銃撃痕を間近で見ることができる。

コンクリートの階段も破壊された。

従来のコンクリートの階段は、新たに設置されたガラス階段で補強され、2階への見学が可能となった。

2階部分は初めて見学。

木製の小屋は仮眠室。

変電の設備が残っている。

変電所について
 変電所は、昭和13(1938)年に建てられ、戦後も富士自動車(株)や小松ゼノア(株)などで、設備を更新しながら平成5年(1938)年まで使われていました。
 2階には受変電設備のほか、24時間体制に対応するための仮眠スペースがありました。
 野外に主変圧器や遮断器(スイッチ)などの主要設備、屋内に受電・配電設備などの監視・制御装置を、この変電所では配置していました。
 八ツ沢発電所(現:山梨県上野原市)で発電された電力は、府中変電所を経て、この変電所に供給されていました。66kV・2回戦で送られてきた電力を、この変電所で3.3kVに変電して、工場内の各施設に供給していました。

配電盤について
 前面パネルに、「第1パネル」「第2パネル」「第1~9号高圧配電盤」と記されています。バンクとは主変圧器のことで、野外に2台設置されていました。この変電所では、主変圧器で受けた電力を、9個の配線で各工場に供給していました。配電盤には、電力の流れが分かるように矢印が表示されています。
 向かって一番左側の低圧配電盤は、変電所が建設された当時のものです。脇に「昭和14年製」と記載があります。
 この低圧配電盤には、複数の銃撃痕が残されています。空襲の際に、南側の窓から、金属でできた盤を貫通する威力で、銃弾が飛び込んできたことがわかります。

貫通した銃撃痕が2箇所。

配電盤の後方の壁にも銃撃痕。

受変電設備の配置(電力の流れ)

特別高圧受電盤

油入遮断器

木製のアナログ式の計測器。一番左の絶縁抵抗測定機は昭和13年製。

変電所の計測器類

外階段
 この建物は、もともと1階が倉庫、2階が事務所として使用されており、変電所稼働当時、従業員は外階段から出入りしていました。
 外階段やテラスにも数多くの銃撃痕が残っています。外階段保護のため、現在は立ち入りを制限しています。
 外階段保護のため、ここから外にはでられません。

このさきは、1階部分の展示をメインに。

製造していたエンジン
 工場では、陸軍用の航空機のエンジンを製造していました。会社全体の製造状況のうち、陸軍用のエンジンは表のとおりです。

エンジン種類 製造台数 製造期間
ハ‐12      895    昭 8~19
ハ‐13     3,116    昭10~18
ハ‐13甲    7,086    昭12~20
ハ‐26      758    昭19~20
ハ‐42      77    昭 8~18
ハ‐112      47    昭19~20
昭和14年以前は大盛り工場で製造された分を含みます。
 出典:「小松ゼノア社報 創業80周年記念号」平成2年

ハ‐13甲エンジンを使用した代表機種
95式練習機
昭和10年(1935)年に実用化され、長く使用された機種です。鮮やかなだいだい色の塗装から「赤とんぼ」と呼ばれました。

九五式一型練習機乙型
エンジン:ハ-13日立九五式350馬力空冷星型9気筒

米軍500ポンド爆弾(226.7kg)実物大模型
東大和市内でも過去にいく度か戦時中の不発弾処理が行われました。
そのすべてが500ポンド爆弾でした。
B-29爆撃機から落とされた大型爆弾は、東日本では500ポンド爆弾、西日本では1000ポンド爆弾が中心だったとも言われています。

蓄電池室
 室内にある蓄電池は、非常用とうよう電源として使われていました。停電時には、2階の直流電源装置に電力を供給し、変電所の設備が停止することないようにしていたのです。
 鉛蓄電池を使用していたので、安全対策として、壁には耐酸性能のある塗料が塗られ、野外への換気も行われれています。(塗装の詳しい成分をご存じでしたらお知らせください。)
 蓄電池室内の壁面にも、2か所の銃撃痕が残されています。1か所は貫通していませんが、外壁に当たった機銃掃射の弾丸(12.7mm弾)の衝撃で壁の内側もすり鉢状にえぐられたのだと思われます。
 外壁の銃撃痕は、外階段沿いに見ることができます。

東洋陶器の洗面台
 変電所の1階と2階に残る洗面台は東洋陶器(現在のTOTO)製のもので、全面に鷲のトレードマークがあります。
 このマークが使われたのは、昭和7年(1932)から昭和36年(1961)までで、戦時中は「敵性語」である「CO LTD.」を「KAISHA」にかえた時期もありました。
 TOTOミュージアム(北九州市)への問い合わせの結果、洗面台の形式は「L-92」で、これも戦前・戦後を通じて生産されており、残念ながら変電所建設当初からあるものか、戦後新たに設置されたものかは特定できませんでした。

こちらは1階の洗面台。

こっちは2階の洗面台。


旧日立航空機株式会社 
立川発動機製作所
太平洋戦争戦災犠牲者 慰霊碑

111名の方々が亡くなられた。合掌。

旧日立航空機株式会社 立川発動機製作所
太平洋戦争
戦災犠牲者
慰霊碑
  戦災犠牲者慰霊碑建立委員会
  平成七年四月吉祥日建之

慰霊碑建立の由来
  旧日立航空機立川発動機製作所戦災犠牲者の慰霊碑は、一九九四年( 平成六年) 夏、元同社々員小川準一氏(九十四才)の提唱により、コマツゼノア立川OB会がその推進母体となり、戦後五十周年を期して建立する運動を開始し、五十年忌にあたる翌一九九五年(平成七年)四月二十三日に除幕式ならびに慰霊祭を執り行うにいたったものである

昭和20(1945)年の空襲
 戦争末期になると、軍需工場が集まる多摩地域は、多くの空襲を受けました。当工場も、計3回の攻撃を受け工場の8割が破壊され、従業員やその家族、勤労動員された学生など100人を超える方が亡くなられました。

2月17日(土)10:30すぎ(諸説あり)
グラマンF6FやカーチスSB2Cなど50機以上による爆撃と機銃掃射
(略)

4月19日(木)10:00ごろ
P-51マスタング数機による機銃掃射
(略)

4月24日(火)9:00ごろ
B29の101機編隊による1800発余りの爆弾投下
(略)

日立航空機株式会社立川工場空襲死没者一覧
2月17日 78名死亡
(個人名略)
4月19日 5名死亡
(個人名略)
4月24日 28名死亡
(個人名略)
以上 111名

遷座の由来
 旧日立航空機株式会社(現在の小松ゼノア(株)の前身)は、太平洋戦争中、航空機のエンジンを製造していた軍需工場であったため、数回にわたり米軍機の空襲を受け、多くの従業員がその犠牲となりました。
 この慰霊碑は、元従業員の方々が戦後50年を節目に、多くの市民やそのゆかりのある方々からの寄付により、小松ゼノア(株)の構内の一隅に建立されたものです。(平成7年4月23日除幕式)
 その後、平成12年に同会社が移転することとなり、この慰霊碑をこの場所に移設したものです。
 東大和市では、慰霊碑を被爆工場に近いこの地に移設し、戦災建造物の変電所とともにまちの歴史の証しとして、また、恒久平和を願い保存することとしました。
 平成12年8月 
  東大和市

防護壁

防護壁
 旧所在 東大和市桜が丘2丁目

 昭和13(1938)年、東京瓦斯電気工業株式会社の工場が建設され(翌年日立航空機株式会社と改名)、その施設のひとつとして変電所とその北側に受電施設が建設されました。この防護壁は高圧電流を取り入れる受電施設の東西にあり、外部との分離をするためのものです。
 昭和20(1945)年、3回の爆撃を受けたあとも、変電所とともに長く工場内にあった防護壁は、変電所が稼働を止め、公園の中に保存されることになったときに、受電施設ととともに解体されてしまいましたが、爆撃跡を残す一部を切り取りこの地に保存し、長く変電所とともにあった壁の記憶を残していくこととしました。
 東大和市教育委員会

被爆アオギリ二世
2011年植樹。

給水塔

給水塔
 旧所在 東大和市桜ケ丘2丁目

 変電所の西方約230メートルのところにあった給水塔は、高さが約25メートルあり、工場内のほぼ全ての水をまかなっていました。太平洋戦争中の昭和20年(1945)、三回にわたる米軍機の空襲を受けましたが、戦後もずっと工場内に水を送り続け、工場の移転により、操業も停止するまで、給水塔も働き続けました。
 戦争中に施された迷彩が、長い年月の間に色が薄れ、濃淡がやっとわかる程度になってしまった給水塔は、変電所同様戦災建造物として歴史的価値が高いものですが、老朽化に伴う維持管理や用地取得などの問題から、平成13年(2001)3月やむなく取り壊されることになりました。その際、爆撃の痕跡を顕著に残す部分を切り取り、ここに保存することにしました。
 東大和市教育委員会


位置関係

米軍撮影1947年(昭22年) 11月14日 を編集


玉川上水駅

多摩モノレールにも、旧日立航空機株式会社変電所(戦災建造物)として、掲載があります。

※撮影は2021年12月


関連

出陣学徒壮行の地(学徒出陣・国立競技場)

国立競技場。
もとは、大正13年(1924年)に明治神宮外苑競技場として完成した競技場。
昭和18年(1943年)10月21日には明治神宮外苑競技場で文部省学校報国団本部の主催による「出陣学徒壮行会」が行われ、強い雨の中で出陣学徒25000人が競技場内を行進した。

戦後、「明治神宮外苑競技場」は解体され、昭和33年に「国立競技場(国立霞ヶ丘陸上競技場)」が完成。旧国立競技場は2015年に解体され、2019年には新たな国立競技場が完成した。

「出陣学徒壮行の地」の碑(出陣学徒壮行碑)

「出陣学徒壮行碑」は。国立競技場建設中は、一時的に秩父宮ラグビー場敷地内にあったが、国立競技場完成とともに戻ってきた。現在は、千駄ヶ谷門の近くにある。

東京オリンピックが終わり、ようやく国立競技場周辺に近寄れるようになったので、脚を運んでみた。

出陣学徒壮行の地

次世代への伝言―出陣学徒壮行碑に寄せてー
  昭和18年(1943)10月2日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、全国の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。この非常措置により同年12月、約10万の学徒がペンを捨てて剣を執り、戦場へ赴くことになった。世にいう「学徒出陣」である。
 全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年12月21日、ここ元・明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺77校が参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋めつくした後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってこの実況を報道した。翌19年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子および女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶えた。  
 時流れて半世紀。今、学徒出陣50周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。 
 平成5年(1993)10月21日
  出陣50周年を記念して   
   出陣学徒有志

生等、もとより生還を期せず

NHK放送史
出陣学徒壮行会

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060059_00000

〈東條内閣総理大臣〉
「御国の若人たる諸君が勇躍学窓より、征途に就き、祖先の遺風を昂揚し、仇なす敵を撃滅をして皇運を扶翼し奉るの日は今日(こんにち)来たのであります。大東亜十億の民を、道義に基づいてその本然の姿に復帰せしむるために壮途に上るの日は今日(こんにち)来たのであります。私は衷心より諸君のこの門出を御祝い申し上げる次第であります。もとよリ、敵米英におきましても、諸君と同じく幾多の若き学徒が戦場に立っておるのであります。諸君は彼等と戦場に相対(あいたい)し、気魄(きはく)においても戦闘力においても必ずや彼等を圧倒すべきことを私は深く信じて疑わんのであります。」

〈学生(東京帝国大学文学部・江橋慎四郎〉
「学徒出陣の勅令、公布せらる。予(か)ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ、迸(ほとば)しめ得たりし生(せい)らは、ここに優渥(ゆうあく)なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従うを得るに至れるなり。豈(あに)、感奮興起せざらんや。生ら今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて悉(ことごと)くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生らもとより生還を期せず。誓って皇恩の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。決意の一端を開陳し、以て答辞となす。昭和18年10月21日、出陣学徒代表。」

〈東條内閣総理大臣〉
「諸君のめでたき征途にのぼれるところの第一歩にあたります。諸君とともに聖寿の万歳を心の底から三唱いたしたいと思います。天皇陛下、万歳、万歳、万歳。」

「万歳、万歳、万歳。」

NHKアーカイブス
日本ニュース第177号 1943年(昭和18年)10月27日
[2]学徒出陣

https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300562_00000

1943年(昭和18年)10月21日に開催された神宮外苑での学徒出陣壮行会では、東京帝国大学文学部の江橋慎四郎氏が答辞を読んだ。

明治神宮外苑は学徒が多年武を練り、技を競ひ、皇国学徒の志気を発揚し来れる聖域なり。
本日、この思ひ出多き地に於て、近く入隊の栄を担ひ、戦線に赴くべき生等の為、斯くも厳粛盛大なる壮行会を開催せられ、内閣総理大臣閣下、文部大臣閣下よりは、懇切なる御訓示を忝くし、在学学徒代表より熱誠溢るる壮行の辞を恵与せられたるは、誠に無上の光栄にして、生等の面目、これに過ぐる事なく、衷心感激措く能はざるところなり。
惟(おも)ふに大東亜戦争宣せられてより、是に二星霜、大御稜威の下、皇軍将士の善謀勇戦は、よく宿敵米英の勢力を東亜の天地より撃攘払拭し、その東亜侵略の拠点は悉く、我が手中に帰し、大東亜共栄圏の建設はこの確乎として磐石の如き基礎の上に着々として進捗せり。
然れども、暴虐飽くなき敵米英は今やその厖大なる物資と生産力とを擁し、あらゆる科学力を動員し、我に対して必死の反抗を試み、決戦相次ぐ戦局の様相は、日を追って熾烈の度を加へ、事態益々重大なるものあり。
時なる哉、学徒出陣の勅令公布せらる。
予ねて愛国の衷情を僅かに学園の内外にのみ迸しめ得たりし生等は、是に優渥なる聖旨を奉体して、勇躍軍務に従ふを得るに至れるなり。
豈に感奮興起せざらんや。
生等今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて、悉くこの光栄ある重任に獻げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。
生等もとより生還を帰せず。
在学学徒諸兄、また遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗り越え乗り越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の寿きに置かざるべからず。
斯くの如きは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行する信条なり。
生等謹んで宣戦の大詔を奉戴し、益々必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を磨礪し、強靭なる体躯を堅持して、決戦場裡に挺身し、誓つて皇恩の万一に報ひ奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとす。
決意の一端を開陳し、以て答辞となす。
昭和十八年十月二十一日。

学徒出陣壮行会 答辞

国立競技場千駄ヶ谷門の近くに、学徒出陣の歴史を刻む碑がある。

合掌。

二度とあってはならない、繰り返してはいけない歴史。

※撮影は2021年12月


関連

高座海軍工廠の地下壕と台湾少年工顕彰碑(芹沢公園・座間)

以前、高座海軍工廠跡地散策を行ったときに、芹沢公園にも脚を運んだのが2017年12月だった。
その後に、様相が若干かわったとの噂を聞いたので、4年後の2021年12月に再訪してみました。

前回の記録は以下で。


芹沢公園の地下壕

高座海軍工廠(こうざかいぐんこうしょう)の地下工場跡。
地下壕には、「雷電」のミニチュア模型があった。

雷電

大日本帝国海軍の局地戦闘機(乙戦)「雷電」
零戦を設計した三菱の堀越二郎が陸上基地防空のための戦闘機(十四試局地戦闘機)として設計を手掛けた。
昭和18年(1943年)9月から生産開始となり、生産数は621機。三菱生産のほか、高座海軍工廠でも生産された。

「箱根東京軽石層」の白い地層がよくわかる。

芹沢公園の地下壕は、立ち入りはできないが、柵の隙間から地下壕の様子を伺うことができる。現在、2本の壕内がライトアップされており、そのうちのひとつには、壕内に雷電のミニチュアが置かれている。
ライトアップは、9時~17時のあいだ。

芹沢の地下壕

高座海軍工廠と地下壕

 第2次世界大戦末期の昭和19年、現在の東原と大和市・海老名市の一部にまたがる地域に、本土防衛を遂行するための戦闘機「雷電」を製造する目的で口座海軍工廠が建設されました。
 地上施設と並行して、日々激しさを増してゆく空襲を避け、工員と操業の安全を図るために、下栗原の目久尻川沿いや支流にあたる芹沢川の谷あいの垳面に無数の地下壕をが作られました。地下工場が3カ所と知か物資倉庫が10数か所のほか、地下変電所や救護用ベッドを備えた郷もあったと伝えられています。
 栗原の中丸地区(現在の芹沢公園)には、地下工場として、この地下壕が作られました。地下壕の中には、東西と南北にあみだくじのように地下壕が張り巡らされ、その総延長は1500m程となります。これは、赤土の関東ローム層を人力で掘り抜いたものです。
 現在では、殆どの地下壕は埋められて。当時の姿を知ることはできなくなりました。そこで、埋められていないこの壕を残して、戦争の招いた悲惨さを忘れずに久遠の平和を祈念したいと思います。

箱根東軽石層
 地下壕内の壁には、幅40cmほどの白い地層があります。この地層は「箱根東京軽石層」といい、約66,000年前に起きた箱根火山の最大級の噴火による火山灰で、軽石を主体とし、神奈川県を中心とする南関東一帯に降り積もったものです。白い地層の上の層は、噴火直後に起こった火砕流の堆積物で、高熱の火砕流に巻き込まれて炭化した木片や、大木が倒れた跡と推定されている構造も観察できます。
 この地下壕は火砕流がこの地を通過したことがわかる貴重な場所です。(危険防止のため、一般公開は行っておりません。)
 平成28年11月座間市教育委員会

芹沢公園 園路整備工事は
【特定防衛施設周辺整備調整交付金(一般助成)】
を活用して完成しました。
 防衛省南関東防衛局
 座間市公園緑政課

土砂が堆積したままの地下壕もそのまま残っている。


芹沢公園の地下壕から北エリアに移動。北駐車場・管理棟の近くに新しい顕彰碑が建立されている。
「台湾少年工顕彰碑」
2018年に再整備が行われ、顕彰碑とあせて、地下壕のライトアップも行われるようになった。

台湾少年工顕彰碑

台湾少年工顕彰碑
八千の台湾少年雷電を
   造りし歴史永遠に留めん
    高座日台交流の会 石川公弘
北に対き年の初めの祈りなり
   心の祖国に栄えあれかし
    台湾万葉歌人 元少年工 洪坤山
朝夕にひたすら祈るは台湾の
   平和なること友の身のこと
    元伊勢原高女勤労挺身隊 佐野た香
2018年10月20日
 台湾高座会
 台湾高座会 留日七五周年歓迎大会記念
  石川創一謹書  

台湾少年工顕彰碑の由来
 先の大戦中、航空機生産の労働力不足に直面した日本海軍は、その供給源を向学心に燃えていた台湾の若者に求めました。新鋭戦闘機(雷電)を生産しながら勉学に励めば、旧制工業中学の卒業資格を与え、将来は航空機技師への道を開くとの条件に、多くの台湾台湾少年が応募し、選抜試験を突破した八千四百余名が、海を渡って高座海軍工廠のあったこの地(神奈川県高座郡)にやってきました。
 戦局はすでに下り坂で、彼らが求めた勉学の機会はほとんど無く。その上新設の高座海軍工廠には十分な設備が無かったため、大半が全国各地の航空機工場に派遣され、慣れない寒さやひもじさに耐えながら懸命に働き、非常に高い評価を得ました。しかし米軍機の空襲などで六十名に上る尊い犠牲もありました。
 一九四五年八月一五日の敗戦により、志半ばで帰国した彼らを待っていたのは、四十年の長きにわたる戒厳令下の厳しい生活でしたが、それにも耐え抜き、戒厳令が解除されると直ちに同窓組織・台湾高座会を発足させ、李雪峰氏を会長にして日本との密度の高い交流を重ねてきました。
 二〇一八年は、台湾からの第一陣が日本本土に上陸した日から数えて七五年になります。私たちはこの機に台湾高座会留日七五周年歓迎大会実行委員会を組織し、台湾高座会の戦時下の貢献と戦後における台湾最大の親日団体としての活動に感謝の意を表すため、台湾少年工顕彰碑建立を計画しました。
 なお、台湾高座会の皆さんが今もこの高座の地を「第二の故郷」と呼ぶのは、工廠のあった高座の地の多くの農家のお母さんたちのやさしさに源があるようです。此の顕彰碑は当時の農家のお母さんたちへの感謝の碑でもあります。
 二〇一八年一〇月二〇日(平成三十年十月二十日)
 台湾高座会留日七五周年歓迎大会会長 衆議院議員 甘利明

なお、座間市内に高座海軍工廠があったが、台湾少年工たちは、大和市の宿舎から通っていた。
大和市内には、「台湾亭」と「戦没台湾少年の慰霊碑」がある。

以下も参照に。

高座海軍工廠と台湾少年工
「雷電」を作った海軍の工場

 太平洋戦争末期の昭和18(1943)年、現在の座間市東原一帯に海軍直属の工場が開設されました。この工場は当初は空C廠と呼ばれていましたが、昭和19(1944)年高座海軍工廠として正式に発足しました。
 この工場は約1万人規模の工場で、開設された目的は高度1万メートルを飛行する米軍爆撃機 B 29を迎
え新型戦闘機「雷電」を生産することでした。
 工廠の中心部は、およそ現在の相鉄線さがみ野駅から東中学校までですが、その敷地全体は当時の大和
町、海老名町、綾瀬町にまたがり、組み立て工場のほかに将校宿舎・行員宿舎・倉庫・診療所などを含んで
いました。
 この工場の従業員の約8割は台湾出身の少年工で、そのほかに軍人、学徒動員の学生、勤労女子挺身隊
などが働いていました。戦後、フジヤマのトビウオとして有名になった水泳選手の古橋広之進さんや、作家の
三島由紀夫さんもこの工場に在籍していました 。

台湾から来た少年たち
 高座海軍工廠では戦争末期に不足していた労働力を当時日本の統治下にあった台湾に求めました。台湾で行
われた選抜試験には多くの少年が応募し、国民学校高等科や旧制中学校などを卒業した、十代の優秀な少人
余りが、海軍軍属として海を渡って日本にやってきました。
 少年たちは、昭和18(1943)年から順次、現在の大和市上草柳にあった寄宿舎に入寮し基礎教育を受けた後、
高座海軍工廠をはじめ群馬県の中島飛行機製作所や名古屋の三菱航空機など各地の工場へ派遣されました。
その真面目な働きぶりと高い技術は派遣先の工場でも高く評価されました。
 しかし戦局が厳しくなると労働環境は悪化し、中には空襲で命を落とした少年もありました。大和市上草柳の善
徳寺には、亡くなった少年工60名の慰霊碑が建てられています。
 昭和20年8月に終戦を迎え、少年工たちは台湾へ戻ることになりました。翌年の帰国までの間、戦争直後多少
の混乱はあったものの、少年たちは自治組織を結成し、秩序を守って整然と帰国しました。
 戦後、元少年工たちは戒厳令下の台湾でも懸命に努力して故郷の発展に尽くし、また苦労した戦時を過ごした
この地を訪れ、若き日の思い出にふける人も少なくありません。
 出典:石川公弘著「二つの祖国を生きた少年工」「座間市史」ほか 

芹沢の地下壕
 ここ芹沢公園の芝生広場の地面の下には総延長1.5kmに及ぶ「あみだくじ」状の地下壕があります。この地下壕は、激しさを増す空襲を避けて、高座海軍工廠の部品工場を移すために人力で掘り抜かれたものです。
 また、この地下壕は「箱根東京軽石層」という白い特殊な地層が観察できる場所としても知られています。この地層は、約6万6千年前に起きた箱根火山の大噴火によって、軽石を含む火山灰が降り積もったものです。
 現在は、地下壕の入口部分を見学することができます。
  平成30年10月 座間市教育委員会


高座海軍工廠と地下工場と台湾少年工宿舎の位置関係


座間市役所

2020年6月に、座間市役所で公開が始まった「雷電の部品」

座間市>戦闘機「雷電」部品用展示ケースの寄贈式と展示の開始

https://www.city.zama.kanagawa.jp/www/contents/1592805582887/index.html

ぜひ見たいと思い、脚を伸ばしてみたところ、見当たらないので職員さんに確認してみたところ、2021年12月現在では公開休止中。しばらく相模原市に貸し出していて、戻ってきてからは、展示していないのだとか。

相模原市の展示、、、見に行けばよかった。

https://www.sagami-portal.com/city/scmblog/archives/27576

座間市役所での展示再開の際は、またWEBで告知があるとのことです。

撮影:2021年12月

巣鴨刑務所の排水口跡(移設保存)と池袋散策

池袋サンシャイン60の界隈には、「巣鴨監獄」(「巣鴨刑務所」「巣鴨拘置所」「巣鴨プリズン」)があった。

かつて、巣鴨刑務所があった台地の下、石垣には排水口があり、水窪川に排水がされていた。

巣鴨プリズンはなくなり、水窪川は暗渠となり、戦後にあった造幣局東京支局もなくなり、そして石垣と排水口のみがひっそりと残されていたが、近年の再開発で、石垣と排水口も消失した………と思っていた。

ところが、
造幣局東京支局跡地に2020年12月に完成した「IKE・SUNPARK(としまみどりの防災公園)」に、なんと排水口跡の石組みが移設保存されておりました。最近、その事実を知ったので、慌てて足を運んでみました。


巣鴨刑務所の石積みの排水口跡

あぁ、消失したと思っていた、石積みの排水口跡が、公園内に保存されていました。
これは嬉しい。本当に嬉しい。
価値が分かる方が居てくれて、本当にありがとうございます!

石積みのモニュメントについて
このアーチ状の石積みは、本公園の敷地の隣接道路(都市計画道路補助第176号線および特別区道41-340)を支えていた石垣の一部で、周辺道路整備で撤去した際に保存し、公園内に復元したものです。
かつてこの地には巣鴨刑務所があり、関東大震災で被害を受けその後縮小され、昭和14年、縮小により空地となった土地の一部に造幣局が移転してきました。この地には長らく貨幣の製造工場や博物館がありましたが、それらの機能は平成28年にさいたま市に移転し、その跡地に豊島区からの要請を受けたUR都市機構が本公園を整備しました。
そうした歴史から、かつてこの石積みは巣鴨刑務所の排水口として、この周辺を流れていた水窪川(現・暗渠)につながっていたのではないかと考えられています。石垣の石は他にもこの公園で再利用していますので探してみてください。

サンシャイン60に「巣鴨プリズン」があった。

公園内で再利用された石垣の名残の石?

石積みの排水口があった場所は、公園の南西。階段を降りたところ。
マンホールの先、にあった。

石積みの排水口があった頃の写真。
※以下の3枚は2017年撮影

近くには、撤去された石垣の残骸と思われれる石が集められていた。
これも公園内で再利用されると良いのだが。

豊島区立としまみどりの防災公園
(IKE・SUNPARK イケ・サンパーク)

非常に開放的な公園。最近の池袋の新しい公園は開放的なデザインが施された空間が多い。

https://ikesunpark.jp/

公園内には、IKEBUSも走ってくる。


せっかくだから、近隣の公園も「戦跡」として紹介していく。

豊島区立 東池袋中央公園
巣鴨プリズン跡

巣鴨プリズンの跡地。歴史を背負った公園は、ほかの公園と比べてどことなく重厚な空間。
心休まる公園ではないかもしれない。

永久平和を願って

永久平和を願って
碑裏文
第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。 戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
昭和五十五年六月

以下、巣鴨プリズン関係。

東池袋中央公園から見上げるサンシャイン60は、いつでも墓標のように感じてしまう。

歴史の重みとリンクして、公園としての空気も重い気がする。。。

※ここまでは撮影2021年11月


豊島区立南池袋公園
豊島区空襲犠牲者哀悼の碑

豊島区空襲犠牲者哀悼の碑(南池袋公園)

恒久の平和を願って
―豊島区空襲犠牲者哀悼の碑―

  昭和20年4月13日深夜から翌14日未明にかけて東京西北部一帯を襲った空襲は、豊島区の大半を焦土と化し、甚大な被害と深い悲しみをもたらしました。
  死者778人、負傷者2,523人、焼失家屋34,000戸にのぼる被害により罹災者の数は161,661人と、実に当時の人口の約7割に及びました。
  この空襲によって無念のうちに尊い命を失った数多くの犠牲者が、当時、「根津山」と呼ばれた、ここ南池袋公園の一角において埋葬されました。
  先の戦争を通じて空襲の犠牲者となった豊島区民の冥福を祈るとともに、この悲惨な事実を永く後世に伝え、二度と再び戦争による悲劇を繰り返さぬように、この碑を建立します。
 平成7年8月 豊島区

根津山の防空壕
 昭和20年4月13日の空襲では、南池袋公園に隣接する、当時根津山と云った林の中に造られた巨大な防空壕に避難者が殺到した。

南池袋公園も非常に開放的な公園。往時は、この地に空襲の犠牲者が埋葬された。
今は人々の憩いの場。

※撮影は2021年2月


豊島区立池袋西口公園
平和の像

池袋駅西口バスターミナルに隣接。東武側。メトロポリタン側。
ここに豊島区の「平和の像」が建立されている。

平和の像

平成2年に、世界恒久平和への願いを込めて、池袋西口公園に、「平和の像」が設置された。
作者は竹内不忘。

裸婦像の掲げた左手と足元には、平和の象徴である鳩が。

非核都市宣言
 世界の恒久平和は、人類共通の願いである。しかし、核軍拡競争は激化の一途をたどっている。われわれは、人類唯一の被爆国民として、平和憲法の精神に沿って核兵器の全面禁止と軍縮の推進について積極的な役割を果すべきである。
 よって、豊島区及び豊島区民は、わが日本の国是である「非核三原則(造らず、持たず、持ち込ませず)」が無視され、われわれの海や大地に核兵器が持ち込まれることを懸念し、わが豊島区の区域内にいかなる国の、いかなる核兵器も配備・貯蔵はもとより、飛来、通過することをも拒否する。
 豊島区及び豊島区民は、さらに他の自治体とも協力し、核兵器完全禁止・軍縮、全世界の非核武装化にむけて努力する。
 右 宣言する。
 昭和57年7月2日
  東京都豊島区

※撮影は2021年3月