「慰霊碑・顕彰碑・記念碑」カテゴリーアーカイブ

駆逐艦「朝霜」「梅」と重巡洋艦「愛宕」戦没者慰霊碑(三島・妙法華寺)

静岡県三島市の山中に静かに鎮座する玉澤妙法華寺(妙法華寺)。
その境内に、軍艦の慰霊碑があるというので、足を運んでみた。


「愛宕」「朝霜」の慰霊碑建立の経緯

昭和19年(1944)10月。
捷一号作戦、レイテ沖海戦。
第二艦隊司令長官栗田健男海軍中将は、重巡洋艦「愛宕」に座乗し、第一遊撃部隊第一部隊(通称:栗田艦隊)は、10月22日にブルネイを出航し、レイテ島に向かった。
翌日10月23日に米国潜水艦が栗田艦隊を発見し、雷撃を実施。栗田艦隊の旗艦「愛宕」に魚雷が命中し、愛宕は20分後に転覆沈没。1197名の乗員のうち、492名が駆逐艦「朝霜」に、221名が「岸波」に救助され、484名が戦死したという。
駆逐艦「朝霜」は、愛宕生存者を救助後に、駆逐艦「長波」とともに、同じく雷撃を受けて応急修理を行っていた重巡洋艦「高雄」の警戒と護衛を実施。「高雄」に留めを刺そうとする米潜水艦による攻撃を断念させた。

昭和20年4月。

坊の岬沖海戦。沖縄水上特攻作戦(天一号作戦)
4月6日。
沖縄特攻部隊として、第二水雷戦隊第21駆逐隊「朝霜」(司令駆逐艦)、僚艦の「初霜」「霞」は、第一航空戦隊戦艦「大和」(第二艦隊旗艦)、第二水雷戦隊旗艦「矢矧」、第17駆逐隊「磯風」「雪風」「浜風」、第41駆逐隊「冬月」「涼月」とともに徳山を出撃。
翌日7日に、朝霜は機関故障を起こし速力低下し艦隊から落伍。応急修理を実施するも復旧せずに、単艦で米軍機と戦闘。孤軍奮闘し『我敵機ト交戦中』『90度方向に敵機30数機を探知す』との無電を発した後、連絡が途絶え消息が途絶えた。朝霜乗組の第21駆逐司令小滝久雄大佐、艦長杉原与四郎中佐以下、327名の将兵は、消息不明となった朝霜と殉じ、全員戦死認定された。

昭和32年
三島市の高橋氏が朝霜で戦士した息子を思い、朝霜戦没者遺族に呼びかけて、戦没者の冥福を供養する為に玉沢の妙法華寺に「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」を建立。

昭和55年
「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」碑前での慰霊祭を耳にした、軍艦愛宕元乗組員が、愛宕沈没時に乗組員を救助した朝霜の英霊に感謝し、「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」碑前にて、軍艦愛宕戦没者三十三回忌法要を愛宕生存者と遺族の有志により施行し、併せて朝霜の英霊に従事に謝しつつ御冥福を祈念した。
その折に、「愛宕戦没者慰霊碑」建立を決定し、妙法華寺の理解を得て、「駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑」と並んで建立された。

慰霊碑建立の経緯
 軍艦「愛宕」は、重巡洋艦(壱万屯)で戦時中は第四戦隊の旗艦として活躍し、昭和十九年十月二十三日、比島パラワン島沖の回線で不運にも轟沈せり。乗組員(司令部付を含む)一一九七名のうち戦死者四八四名、その折り救援の駆逐艦「朝霜」が四百九二名同じく「岸波」が二二一名救出せり(戦闘詳報より)駆逐艦朝霜は昭和二十年四月七日沖縄特攻部隊として出撃中、敵機三十余機と交戦、武運拙く第二一駆逐司令小滝久雄大佐、艦長杉原与四郎中佐以下、三二七名の将兵は九州南端沖に護国の鬼と化し、悲惨、艦と共に轟沈。全員戦死せり。駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑の建立は三島市中央町高橋実衛氏(錦店)の父晋吾氏が五男通夫氏も朝霜で戦死したので、子を想う親として同憂の全国の朝霜戦没者遺族に呼びかけ、先達となり全国を行脚し、尚私財を投じ戦没者の冥福を供養する為に玉沢の聖地に、昭和三十二年春建立したものである。
 毎年命日には遺族会長小滝国雄氏(故 小滝司令息子)のもと全国より遺族が碑前で慰霊祭を行っておるがその祭事を地元海軍出身者の集いである海軍会員が協賛し、厳粛盛大に行っており、時候的に玉沢は桜花咲き乱れ好時期であり桜花の如く散りし戦没者を想い同じ海軍にありて運よく達者である事を感謝しつつ戦没者のご冥福を祈念し祭事に奉仕しておる三島地方の出身者海軍会であります。
 この事を軍艦愛宕元乗組員が知り愛宕沈没の折り身を悌し救助に活躍した駆逐艦朝霜の英霊の碑前で先年軍艦愛宕戦没者三十三回忌法要を愛宕生存者と遺族の有志により海軍会員多数列席佛式により厳粛に施行し併せて朝霜の英霊に従事に謝しつつ御冥福を祈念した。その折愛宕戦没者慰霊碑建立の議を決し、妙法華寺の御理解を得て駆逐艦朝霜の碑と並びに建立する事が決り愛宕関係者や海軍出身者その他各界の協賛を得て昭和五十五年十月二十三日建立されました。
 敵味方入り乱れての激戦の最中沈没寸前に救助された生存者の感謝が朝霜の英霊に答えるや如く愛宕戦没者の慰霊碑が建立された事は、戦後三十余年を迎え遅ればせながら両艦の偉勲をたたえると共に、慰霊と御供養になることを信ずるものであります。
 願わくば、此の慰霊碑建立によって永年に平和を願い戦争の悲劇を再び繰り返さないよう楯となっていただき祖国日本をお守りくださることを念願してやまない次第です。
 このようにして由緒深い玉沢の妙法華寺境内に大東亜戦の生んだ海軍の遺跡が生現した次第であります。
  昭和五十五年十月二十三日
   三島田方駿東海軍会


駆逐艦朝霜戦没者之碑
(駆逐艦朝霜戦没者慰霊碑)

駆逐艦朝霜戦没者之碑
正二位勲一等 小笠原長生 書

駆逐艦朝霜の戦歴
 駆逐艦朝霜は大東亜戦争中 帝国海軍第二艦隊第二水雷戦隊に所属し、太平洋海域の主要作戦に参加、奮闘した。
 昭和二十年四月六日、戦艦大和ほか九隻で水上特攻隊を編成し、米軍による沖縄侵攻を阻止するため、同地に向け 三田尻沖を出撃し 四月七日正午頃 九州南西方面海域において敵機多数と交戦、奮闘するも力及ばず、旗艦 大和 宛て
「我、敵機 三十機と 交戦中」との電報を最後に 十二時十分頃 同海域に沈没、乗組員全員三百二十九柱は 艦と共に 壮絶な最後を遂げた。
 ここに同艦の赫々たる功績を称え、戦没者諸柱の鎮魂のため、此の碑を建立する。


一、建造
   竣工 昭和十八年十一月二十七日
   場所 藤永田造船所(大阪)
二、要目
   排水量 二、〇七七 屯
   全長 百十七米 全幅一〇・八 米
   吃水 三・七六 米
   主機 蒸気タービン二機二軸
   出力 五二、〇〇〇 馬力
   最高速力 三十五 節
   装備 主砲 十二・七糎 二連 三基
      魚雷 六十一・〇糎 四連 二基
   乗員 約三百名
三、戦歴 (参戦した主要な作戦)
   あ号作戦(マリアナ沖海戦)
   捷一号作戦(レイテ沖海戦)
   多号作戦(オルモック輸送作戦)
   礼号作戦(ミンドロ島沖作戦)
   天一号作戦(沖縄突入作戦)

跋文
「駆逐艦朝霜戦没者之碑」は昭和三十一年 同艦沈没時、艦と運命を共にした乗組員総員の鎮魂のために建立された。
 「駆逐艦朝霜戦没者之碑」の建立にあたっては朝霜会地元世話人 髙橋晋五殿の並々ならぬ御苦労があった。
 三島市玉澤の聖地に立つ此の碑を心の拠りどころとして爾来三十数年に亘って遺族と元乗組員から成る朝霜会は、毎年一回此の地に集い相互に親交を深め励ましあって戦後の荒波を乗り越えてくることができた。
 此の度、北海道亀田郡七飯町の遺族 森本絹子殿は篤志を以て英霊の供養のため本戦歴碑を寄進された。
  平成二年四月七日 
   駆逐艦朝霜会一同

揮毫の小笠原長生さん、、、昭和31年建立の慰霊碑にも揮毫されていました。小笠原長生は昭和33年に90歳で没しているので、戦後は、海軍の大長老といったところ。

大和、、、坊の岬沖海戦。


軍艦愛宕戦没者之碑
(軍艦愛宕戦没者慰霊碑)

軍艦愛宕戦没者之碑
参議院議員 源田実 書

巡洋艦 愛宕
巡洋艦愛宕は、広島県呉海軍工廠に於て昭和7年3月30日竣工し排水量12,400屯、太平洋戦争に当り、マレー沖海戦・マレー比島上陸作戦支援・ミッドウェー海戦・アリューシャン攻略戦・南太平洋海戦・ソロモン沖海戦・ガダルカナル攻防戦・マリアナ沖海戦・比島沖海戦等に参加。昭和19年10月23日比島パラワン島西方東経1177北緯922に於て敵潜水艦の雷撃により乗組員480余名と共に沈没す。
我等九死に一生を得て生存した愛宕乗組員は、共に戦った戦友と愛宕の御霊を慰め、永くその名を後世に留めようと決意し、ここに真心をこめて慰霊碑を建立した。
 昭和55年10月23日
  愛宕慰霊碑建立委員長  芹沢吉作
        副委員長  平山正晴
        副委員長  冨樫雅文
  静岡愛宕会会長     山下三男
  三島田方駿東海軍会会長 星谷庄作
   (略)


駆逐艦梅戦没者慰霊之碑
(駆逐艦梅戦没者慰霊碑)

駆逐艦「梅」の慰霊碑が当地にある由来は不明。

駆逐艦梅戦没者慰霊之碑
艦長 海軍少佐 従六位勲四等 大西快治 書

駆逐艦「梅」
丁型一等駆逐艦第5483号艦として藤永田造船所にて、昭和19年6月竣工した。昭和19年10月のレイテ作戦には参加せず、台湾方面輸送作戦に従事していた。

「パトリナオ輸送作戦」
駆逐艦「梅」は、昭和20年1月31日、ルソン島アパリに集結していたフィリピンからの搭乗員救出(フィリピン撤退)のために、台湾高雄からルソン島に向けて航行中に空襲され沈没。

駆逐艦「梅」艦長・大西快治少佐は、子ノ日航海長、水雷艇鳩艇長、朝凪艦長、梅艦長等を歴任。「梅」沈没後は、横須賀突撃隊特攻隊長。終戦後は「萩」艦長を努めている。

艦歴
昭和一九
(四.二四)  大阪藤永田造船所にて進水
六.二   竣工 第十一水雷戦隊に編入
七.一五  桃と共に第四十三駆逐隊を編成
七.二〇  内海西部にて訓練に従事
八.二〇  第三十一戦隊に編入
一〇.一二 台湾沖航空戦に参加
一〇.二三 多号作戦一〇二師団レイテ西岸オルモック上陸作戦掩護
一一.三  人員機材を台湾に緊急輸送
一一.六  戦艦伊勢 日向 五十鈴 新南郡島進出の為護衛任務に従事
一一.一四 戦艦大和 長門 金剛 内地回航の為護衛任務に従事
一一.二五 単艦にてブルネイ方面に進出
一二.二  南西方面艦隊(マニラ)指揮下に入りマニラに回航
一二.五  多号第八次オルモック輸送作戦に従事
一二.一四 マニラ湾にて敵機動部隊の艦載機と交戦
      艦首へ至近弾を受け揚錨機作動不能となる
一二.一五 修理の為香港に回航
昭和二〇
一.一五  香港々内にて米機動部隊艦載機五〇機と交戦 三機撃墜
一.二九  台湾高雄港にて米機動部隊艦載機と交戦
一.三一  比島アパリ集結中の搭乗員救出の為
パトリナオ輸送作戦実施の為
高雄を出港
     バシー海峡にて敵機約三〇機の来襲を受け之と交戦
     被弾三発後部甲板切断沈没 敵一機撃墜(一八時一〇分)
     戦死者八〇余名 東経一二〇度五〇分 北緯二〇度三〇分
茲にて短命なりと雖も 梅の輝かしい戦績を讃え 勇敢に戦い悠久の大義に就いた戦友の霊を慰むる為「梅」ゆかりの地 三島玉沢木山妙法華寺霊峰富士の万年雪溶けて流るる神霊地に 此の碑を建立す
  昭和六十一年一月三十一日(四十年目命日)
   駆逐艦梅慰霊碑建立委員会


永代供養料碑

昭和63年、3団体の寄進。

三島田方駿東海軍会
駆逐艦梅戦友会
静岡県愛宕戦友会


忠魂碑

忠魂碑
陸軍大将 鈴木荘六書

昭和8年建立。
鈴木荘六は、定年退役後に第4代帝国在郷軍人会長であったことから、揮毫された忠魂碑も多い。


日露役戦死病没英霊菩提塔


忠霊殿

にゃあ


玉澤妙法華寺(妙法華寺)

静岡県三島市玉沢にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)。
山号は経王山。

1284年(弘安7年)、日蓮の弟子日昭は風間信昭の帰依を受け、鎌倉浜土の玉沢(現鎌倉市材木座)に法華堂を建立したことにはじまる。
1538年(天文7年)戦乱により、越後村田(現新潟県長岡市村田)の妙法寺に避難。
1594年(文禄3年)戦乱により、伊豆加殿(現静岡県伊豆市)の妙国寺に避難。
その後、15代日産の時、1621年(元和7年)に大木沢(現在地)に移転し、日産、日達、日亮の3代に渡り再建された。大木沢は妙法華寺創建の地名をとって玉沢と改称された。

最寄りのバス停は「玉沢」
1時間に1本あるときもあれば、2時間に1本のときもあるので、バスで赴く時は、時間配分は要注意。

私は9時15分に到着して、帰りは11時5分のバスでしたので、約2時間ほどの持ち時間でした。。。

場所:

https://maps.app.goo.gl/Ndi3Ae2UrL4ohjB78

撮影:2023年12月


関連

朝霜と梅は、藤永田造船所で生まれた

岐阜護國神社

岐阜県岐阜市の稲葉山の麓にある岐阜護國神社。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。


岐阜護國神社

岐阜城の築かれた金華山の北麓に鎮座する。戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでの、岐阜・中濃・東濃各地区出身の英霊37,800余柱を祀る。

現在、岐阜県には主要な護國神社が3つ存在している。
「濃飛護國神社」「岐阜護國神社」「飛騨護國神社」

創立の順番
 1870年(明治3年)  大垣城内に大垣招魂社(後の濃飛護國神社)
 1909年(明治42年) 高山城址に飛騨招魂社(後の飛騨護國神社)
 1940年(昭和15年) 岐阜城金華山の麓に岐阜護國神社

岐阜県内には、1870年(明治3年)に大垣城内に大垣招魂社(後の濃飛護國神社)が創建。
1909年(明治42年)に高山城址に飛騨招魂社(後の飛騨護國神社)が創建。
岐阜市ほか10郡には招魂社がなかった。日露戦争後の1908年(明治41年)、岐阜市郊外の稲葉郡北長森村(現・岐阜市野一色)に陸軍歩兵第68聯隊が設置され、1917年(大正6年)に稲葉郡那加村(現・各務原市)に陸軍各務原飛行場が開設されると、当地出身の英霊を祀る招魂社建立の機運が高まった。
1918年(大正7年)に歩兵第68聯隊は岐阜県知事、市町村長及び在郷軍人などの有志と共に招魂社の創建を企画したが実現しなかった。
1937年(昭和12年)の支那事変勃発に伴い、1939年(昭和14年)3月10日に2市10郡209ケ村の代表者が内務省へ創立を出願し、内務大臣から創立許可を受けた。
翌1940年(昭和15年)11月に社殿が竣工、同19日に鎮座の儀、翌20日に幣帛供進の儀が執り行われて「岐阜護國神社」と称し、内務大臣指定護国神社に指定され創建した。

結果、岐阜護國神社は、創建は後発であったが、岐阜県内では、濃飛護國神社と岐阜護國神社が、内務省指定護國神社となった。(飛騨護國神社は指定外護國神社)

御英霊に感謝を。

岐阜護國神社


御朱印(岐阜護國神社)

御朱印をいただきました。


霊璽簿奉安殿(岐阜護國神社)

英霊の霊璽簿(名簿)を護る耐火耐震造の奉安殿


招魂祭場(岐阜護國神社)

御英霊の御霊をお招きする場。

招魂斎場
新たに御英霊を御本殿にお祀りする際に、御霊をお招きする招魂祭を行う場所です。
中央にある、美しく苔むした磐座に御英霊の御霊をお招きします。
御霊は依代に遷され、御本殿にお祀りされます。


足乳根宮(岐阜護國神社)

足乳根宮(たらちね宮)
女性の悩み・出会い
英霊に支えられた女性(母・妻・恋人など)を女神としてお祀りしとります。
女性の参拝にはある時は母、ある時は姉、またある時は先輩、友人とお姿を変え、女性の悩みをお聞きいただき導いて下さる神様として信仰されています。


愚多羅愚多羅のかわらけ割り
(岐阜護國神社)

民俗風習が同居している護國神社は珍しい。


河童堂(岐阜護國神社)

土着の水神様の使いとしてカッパを祀る。

河童堂
 水難守護・水練上達・無病息災
当社が創建される以前、この地は長良川の河川敷で沼地が広がり、古くから河童が棲むといわれていました。
水の神様の使いである河童をお祀りし土地の鎮めをしています。
毎年7月に子供の水難防止・水練上達・無病息災を祈念する河童祭が行われ、河童の仮装をした子供達が参列します。


御神田(岐阜護國神社)

中央に河童がいますね。


大八州(岐阜護國神社)

我が国の雅称。大八洲国。
岐阜護國神社の境内の庭は、大八洲を見立てた庭造りとなっている。


鵜飼桜(岐阜護國神社)

岐阜市内きっての早咲き桜


鎮霊社(岐阜護國神社)

戦災犠牲者(空襲や海外移民、敵味方を問わず)及び無縁の遺族や遺骨を祀る鎮霊社
また、サイパンテニアン両島の遺骨が分骨祭祀されている。

 この御社には先の大戦の戦没将兵の他にも空襲や海外移住民などの多くの犠牲者が祀られています 人は誰しもが その所を得て祀られねばなりません 友敵恩仇を問わず 不祀怨念もいまは解脱供養し万霊を浄斎して大平を祈ります 正殿の御英霊も靖国なす神と転生され安心されますよう鎮魂の御社です
 霊社は伊勢の神宮古殿賜材・霊像に大秡詞と般若心経・床下には戦跡地よりの収骨・遺品を納めた家郷の墳墓です。
   昭和53年終戦33年忌建立


平和之碑(岐阜護國神社)

 岐阜県フィリピン慰霊碑建立奉賛会により、昭和54年5月7日、比島ルソン島リサール州モンタルバン町に建立除幕された。
 「岐阜県出身戦没者慰霊碑」「主碑」を周辺環境の変化、遺族、戦友の高齢化等による慰霊巡拝の激減により、将来の慰霊碑の管理等を考慮し、慰霊碑「主碑」を撤去し、ご英霊を郷土岐阜県へお帰り願うこととし、平成16年4月、ご英霊お迎えの慰霊巡拝を行い、4月20日現地で還霊祭を斎行し、碑の撤去を行ったものである。
 この「平和之碑」は、撤去された「主碑」の銘板であり、岐阜県へ持ち返り、平成16年7月18日還幸祭を行い、ここに安置するものである。
 なお、レイテ島に建立してある「副碑」は、現地オルモック市により日比親善の碑として永久管理されます。


防人群像(岐阜護國神社)

 防人とは御英霊のことで、ここではサイパンのバンザイクリフに見立て、御英霊が遠く日本の未来を信じ、玉砕する様子を表している。(愛知文明作)
  「郷国思慕」

 昭和の戦いは万葉のむかしから、うたい継がれた海ゆかばで兵士は出征し、大君の辺にこそ死なめの歌さながらに散華されました。
 防人はその兵士の古称です。
  昭和五十九年五月十三日 寄進
   発起 サイパン、テニアン遺族会


庭師寄進碑(岐阜護國神社)

終戦二十三年忌 庭師寄進碑

戦友乃 みたま弔う 時得しと 
 庭のたくみも わざをつくしぬ

終戦二十三年忌盛夏建立 
庭師らが記念の寄進なり


神馬像(岐阜護國神社)


陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭之碑
(岐阜護國神社)

留守第3師団長 陸軍中将 曽田孝一郎
曽田孝一郎は陸士5期、陸大16期。満洲軍参謀、台湾総督府陸軍部参謀長、台湾軍初代参謀長、鎮海湾要塞司令官などを歴任。大正15年予備役。昭和3年消臭され、留守第3師団長(名古屋・本体は山東出兵)に着任している。


境内風景(岐阜護國神社)

かつての扁額かな。

本神社は長良川河畔に位置するため、浸水を防ぐために境内を囲むように防水壁が設けられいる。
そして、洪水時に使用される陸閘もところどころに設けられている

金華山の山頂に岐阜城が見える。
岐阜護國神社から見ると、かなり高い。


岐阜城

標高329mの金華山(稲葉山)。
山頂には、復興模擬天守がある。昭和31年落成。


引き続き、岐阜護國神社の周辺を散策

明治大帝聖像

明治天皇ご崩御100年に岐阜公園千畳敷に建立されたものを移設。
平成24年3月。

明治大帝
明治天皇は御名を睦仁、御幼稱は祐宮と申し、孝明天皇の第二皇子として嘉永五年九月二十二日(陽暦十一月三日)京都御所朔平門外の權大納言中山忠能邸内後産所に於て誕生せられた。 御生母は忠能の女、從一位勳一等中山慶子である。 萬延元年七月十日准后夙子(後の英照皇太后)の御子として儲君に治定せられ、次いで九月二十八日親王宣下を受けられ、慶應二年十二月御父天皇が崩御されるや、翌三年正月九日踐祚せられた。 時に御年十六である。 翌四年八月二十七日即位の禮を/擧げられ、同年九月八日明治と改元あり、御在位四十六年に亘られたが、明治四十五年七月三十日御年六十一を以て崩御せられた。 翌八月二十五日御追號を定めて明治天皇と稱し奉り、九月十五日御遺旨によつて、京都府紀伊郡堀内村大字堀内字古城山(京都市伏見區桃山町古城山)に斂葬し奉つた。 御陵名は伏見桃山陵と申上げる。 「御資性英武嚴明にあらせられ、而して善く侍補耳に逆ふの諫を嘉納し給ふ、是れ眞に寛仁大度の君徳に適はせ給ひて大舜太宗に揆を同うし給うなり」とは侍講元田永孚が納諫の御盛徳を稱揚し奉つた語である。
 御製  述懐
 いにしへのふみ見るたびに思ふかな
  おのがをさむる國はいかにと

照古鑑今 源深流長
今日、我が日本の輝かしい繁栄の、もといを築かれた明治天皇の御遺徳を永く顕彰し、国民等しく、これを景慕するため、明治100年・昭和43年を追憶して御料林・国有林・金華山のふもとに、御遺旨によって斂葬し奉つた伏見桃山陵に対峙して、崩御の御命日に聖像を建立する。

明治大帝崩御百年のこの年に明治大帝のご偉功を後世に末永く継承することを旨として昭和四十七年に岐阜公園千畳敷に建立された明治大帝聖像を「明治大帝崩御百年聖像移設委員会」の提言により多くの方々に親しんで頂けることを願いこの地に移設する
 明治大帝崩御百年聖像移設委員会
  平成二十四年三月

場所

https://maps.app.goo.gl/8eK9zLnQJh9DLBn96


満蒙開拓青年義勇軍 伊藤中隊慰霊碑

拓魂
満蒙の 野に鍬とりし開拓の 勇士の夢を とわに忘れじ

昭和17年3月5日満蒙の曠野に開拓を夢見 小さな胸に大望を抱いて第三次岐阜中隊を編成 中隊長伊藤喜馬太氏外二百八十九名 茨城県内原満蒙開拓青少年義勇軍訓練所に入所 同年四月二十七日親兄弟と別離の哀しみを胸に秘め曠漠たる満洲の地四平省昌図青年義勇隊訓練所に入所 夏は水沸く猛暑に悪疫と闘い 冬は零下三十余度の酷寒をものともせず農事に亦軍事訓練に励み一意祖国日本の為と信じつゝ互いに励まし助け合い 昭和二十年三月 三ヶ年の義勇隊訓練を模範中隊として修了した
 その後大東亜戦争酣と成り一部は軍奉仕に出動他は銃と鍬を肩に氷雪未だ解けやらぬソ満国境 虎林県五十鈴開拓団に入植 開拓精神に則り日夜健闘したが同年八月十日未明突如ソ聯軍の参戦により我等の夢は空しく破れ去り宝西城外にて最悪の戦闘状態となり中隊長外若い義勇隊員四十九名 父母を呼びつゝ異国の夏草を血に染め散った同志のなきがらを手厚く葬むる事も出来ず心ならずも二十有余年の歳月は流れた
 幸い 我等無事帰国した者 会い集い茲に同志の冥福を祈り永遠にその栄光を称えて故郷の地にこの碑を建立する
  昭和四十一年三月    
    伊藤中隊帰還者一同

追碑文
 雄途心ざし、満蒙開拓青少年義勇軍として国策に呼応し、華々しく満蒙の荒野の地に移住し、希望の達成に全魂を傾け、食糧増産、軍事訓練にいそしむも、戦局は悪化し敗戦の終結となり、志し半ばにして戦後九死に一生を得て帰郷し、国土復興に、又自らの生活のため苦難に打ち勝ち最善を重ね、今日の繁栄ある郷土と社会を築き挙げ、ここに歓喜に満ちた人生を期して居ることに万福の感がある。
 時を追憶すれば日時の経つのは早いもので、渡満半世紀を得る年齢を重ねてきました。
 ここに生ある者として、残れる同志拓友は、五十周年を記念として現碑に無き友の銘記、併せて生存者の拓友名を刻み、永遠の拓魂に追碑を建立するものである。
   平成四年四月吉日
    五十鈴拓友会生存者同志


国旗掲揚台

宣揚皇道
 陸軍大将松井石根書

松井石根大将の揮毫


大野伴睦 句碑

草に埋もれて、よくわかりませんでした。

大野伴睦先生略歴
 先生は明治23年岐阜県山県郡谷合村に生まれ 生来豪放闊達 大志をいだいて上京し 後の首相原敬 鳩山一郎両先生の知遇を得 政界に進出することとなり 後に衆議院議長 国務大臣 自由民主党副総裁などを歴任し 政界の重鎮となった
 永年の政治活動においては常に指導的役割を演じ その間 新時代の要請たる保守党の大同団結を実現されたことは日本政治史上特筆すべきである
 青年時代から侠気と情熱にあふれ 義理人情に厚く 他面ユーモアを解し 囲碁 俳句をよくし 虎に関する収集などいずれも政界の第一人者として知られている
特に第二次大戦の犠牲者たる軍人遺族の援護については諸種の悪条件を克服し その実績をあげるために全力を傾注されている
 下記両団体は先生の多年のご偉業に報いるため 句碑をたて 永く記念することとした
 昭和38年3月 岐阜県知事 松野幸泰 撰文
 財団法人日本遺族会 岐阜県遺族連合会建之


平和祈念の碑

傷痍軍人の記念碑

 本年は 先の大戦の終結より50年になります
 苛烈を極めた戦争を身をもって体験し 二度と戦争を繰り返さないよう 傷痍軍人は心より願っております
 戦後の荒廃と苦難の道から立上がり 祖国日本の復興に心血を注ぎ筆舌につくせぬ苦労の上 今日の繁栄を迎えたことを誇りとし 平和の大切さを後世にわたり訴えるため ここに日本国及び世界の恒久平和と繁栄を希求する証として 平和祈念の碑を建立します
   平成七年十一月
     財団法人 岐阜県傷痍軍人会
     平和祈念の碑建設委員会

碑名揮毫は、日傷援護議員協議会会長・衆議院議員・武藤嘉文による。


岐阜県戦歿者慰霊塔

慰霊塔

この慰霊塔は日清戦役以後太平洋戦争に至る間に日本の繁栄と平和を念じ戦陣に散華されあるいは戦禍にたおれた人々の霊を慰め後世永くその遺芳を伝えるため岐阜県民の総意によって建設されたものである
   昭和三十一年十一月
    岐阜県戦没者慰霊塔建設委員会

(世界の平和を願って)
 この慰霊塔は昭和三十一年十一月に建設されたものであるが長い年月の経過とともに老朽化したためここに世界の平和を願い全面改修したものである。
   平成五年六月
    岐阜県戦没者慰霊塔改修委員会


御製

川の辺に あまたの人のつどひ来て 
 振るともしびを遠く望みぬ


平和一神

1941年に創始された「いわゆる新宗教」の修養団捧誠会による記念碑。


青年日本の歌

いわゆる「昭和維新の歌」。
作者は海軍中尉で、後の五・一五事件に関与した三上卓。


岐阜公園(日中友好庭園)

1989年(平成元年)に、岐阜市と中華人民共和国 杭州市の友好都市提携10周年を記念して作られた庭園。

なぜか、拓友関連の慰霊碑が、この不可思議な公園にある。できることなら、岐阜護國神社に移設してほしいが。。。


慰霊塔・満蒙開拓青少年義勇隊栗田中隊

満蒙開拓青少年義勇隊慰霊碑。

 昭和16年3月美濃若人弐百余名茨城県内原訓練所に満洲開拓義勇隊栗田中隊を編成 同年6月渡満浜江省一面波訓練所及び北安省鉄驪訓練所に多年開拓訓練に励む
 19年4月永住地北安省綏稜県南長英屯に入植第4次岐阜義勇隊開拓団生まる
 20年8月太平洋戦争終戦 団は解散の悲運 幾多団員は業ならず開拓の礎石と仆る 
茲に生存者集ひ殉難同志の霊を慰め開拓の雄図を永く後世に伝う
  昭和36年9月吉日 
   岐阜義勇隊開拓団生存者一同建立

栗田会のあゆみ
 風雲急をつげる昭和16年3月当時の国策であった 
 満洲國建設の使命と新天地開拓の夢と希望に燃え 県知事始め各市町村長より激励の言葉と祝辞を受け 県民からは日の丸の旗と歓呼の声援で見送られ岐阜県郷土中隊として日本を後に大陸に渡ったのである 
 年齢は八割強が14才の少年であった

    記 
昭和16年3月8日  
 満蒙開拓青少年義勇軍として 茨城県内原訓練所に入所した 
 第3大隊第13中隊に編制された 
 中隊長は栗田英太郎
昭和16年6月    
 敦賀港より渡満の途につく元満洲国浜江省珠河縣一面波 一面波訓練所に入所した
昭和16年7月   
 一部留守隊員を残し関東軍特別演習勤労奉仕隊として ソ連国境近くの軍務についた
昭和16年9月   
 軍勤解除で鉄驪に移行となった 
 北安省慶安県鉄山包 鉄驪訓練所 第5大隊栗田中隊
昭和17年      
 大半の隊員は農作業と軍事訓練が日課となる 
 約50名は将来の村造りに備えて特殊技能修得の為訓練本部特科隊に編入された
昭和19年春    
 北安省綏稜県北黒馬劉へ 第4次岐阜義勇隊開拓団として入植した 
 草葺き掘立て小屋の住居建設から村造りを始めた 
 村造りの進んでいる隣村の四国村に種々便宜を受けた 
 十余名が技能修得の為派遣された
昭和20年5月   
 昭和18年頃より年長者から現地現役入営した  
 20年5月には一度に70余名が入営した 
 団に残った拓友は43名となった
昭和20年8月   
 ソ連が参戦し国境を越えて進攻して来た 
 日本國敗れて終戦となる 
 その間にも 召集令状が来て一時は二百余名居た同志が 栗田団長他男子が7名女子子供5名となった 
 最後の入営者が即時帰団で43名となった
昭和20年9月   
 団本部襲撃を受け付近の開拓団と共に四国村開拓団に集結した 
 四国村も襲撃を受け死亡者28名 
 我々同志からも負傷者が2名出た
昭和20年10月  
 四国村を出て過酷な避難民の旅が始まった
 哈尓浜市に向けて南下 途中ソ連軍に連行されシベリヤ行きになった者が3名居た
 この頃5月の入営者の大半はシベリヤの収容所に送られ厳寒と食料不足や強制労働で苦労した
昭和20年10月~翌年8月 
 この間哈尓浜で生活するも 不衛生と栄養不足 マイナス30度を越す寒さでほとんどの者が発疹チブスにかかり生死をさまよう日々であった 
 この時岐阜市出身の高井勇氏と知り合い世話になった 
 病気を克服した者から 思い思いに中國人の住み込み働いた
昭和21年8月  
 哈尓浜を出て新京 奉天の難民収容所を経て 南下コロ島へ集結した
昭和21年10月 
 夢破れて避難民の姿で帰国した 
 帰国早々高井氏の発案に協力 栗田の同志により岐阜駅前に ハルピン街を建設した 
 これが岐阜市のアパレル産業の源となった 
 事は岐阜新聞の「終戦から半世紀」の連載記事に紹介されたとおりである
昭和21年~24年
 一部中途で進路を変え離農した者も同じく入営しシベリヤに多くが抑留されシベリヤ収容所で苦労した者も逐次帰国祖国の土を踏んだ
昭和27年     
 戦病死等で不帰の人となった同志の第1回慰霊祭を行ない次年度からは各地で会合を開き旧交を温めた
昭和36年     
 拓友同志の霊を祀るため 尊い浄財を集めて慰霊塔を金華山水道山に建立した 
 爾後9月に慰霊の会を催す事を決めた
昭和48年9月   
 栗田会として発足した
平成元年      
 四国村引揚者と交流が始まり旧交を温めた
平成3年      
 栗田会の会員による渡満50周年を記念し思い出の書「青春の追憶」を発行した 
 日中友好訪中団を結成し栗田会の有志が昭和57年61年と平成3年に訪中し ゆかりの地を訪問残留孤児と対話激励等を行った。
平成7年     
 終戦後50年水道山からこの地に再び浄財を募り慰霊塔を移設併せて追碑を建立し慰霊祭を行ない生存者の念願を叶えて今は亡き拓友に心から哀悼の誠を捧げる
     平成七年九月吉日      栗田会生存者一同

 昭和の歴史に残る五十有余年前昭和16年国策としての大事業に僅か14 5歳の少年が中国東北部旧満州に 満蒙開拓青少年義勇軍として我ら栗田中隊二百有余名は 鋤 鍬あるときは銃を手に王道楽土の建設 五族共和の夢を胸に北満の地に渡りしが 図らずも昭和20年敗戦に夢破れ九死に一生を得 裸一貫で帰国 戦後の荒廃した社会のなかで郷土復興 自活の為と根性で恵まれた郷土社会を築き上げた 不運にも異国の地に骨を埋めた拓友同志の霊を祀るため 昭和36年金華山中腹に慰霊塔を建立 慰霊祭を行い青春を追憶慰霊し歓喜してきた今日 年老いて金華山での慰霊祭も至難となり 寂しさを痛感するとき岐阜公園に移設することとなった
 この機を記念し拓友同志の名を刻み 後世に記す追碑を建立す  
 拓友生存者の念願を叶えた戦後半世紀の記念すべき年である
 兵戈無用  世界はひとつ
  平成七年九月吉日
   栗田会 拓友生存者一同


拓友之碑・満蒙開拓義勇隊横山中隊

同じく、満蒙開拓青少年義勇隊の慰霊碑。

拓友之碑

 維時大東亜戦争熾烈の半、昭和18年錦秋我々満蒙開拓義勇隊岐阜県中隊は、日本民族繁栄の一翼として墳墓の地に袂別し勇躍渡満以来、現地の厳寒酷暑と闘いつつ開拓に専念す。 然るに図らんや戦争の終結に遭遇し、その夢と事業は遂に水泡に帰し死亡或は雄図空しく生還し今日に至る
 而して戦後二十星霜を閲したる現在と雖も、吾々愛国の至誠は不変にして母国の永遠の平和と郷土発展に努力せんことを誓い、併せて義勇開拓精神の同志の魂の寄り処としてこの聖地を選び記念の碑を建立す
   昭和四十年八月十五日
    旧横山中隊 朋友会一同
      教士 馬渕 勲 文


中国人殉難者之碑

中国人殉難者之碑
 平野三郎書

碑文
 太平洋戦争の末期 日本国内において軍関係の建設工事に従事された中国人が約四万人あり このうち六八三〇人に及ぶ多数のひとびとが殉難されました
 岐阜県においても一六八九人が高山市 瑞浪市 各務原市および加茂郡川辺町で従事せられ七三人が殉難されております
 遠い異郷の地で亡くなられたこれらのひとびとの冥福を祈り ここにその事蹟を永く後世に伝えるとともに 県民をあげて友好親善の誓いを新たにし 日中両国恒久の平和を祈念してこの碑を建設したものであります
 昭和四十七年六月
  岐阜県中国人殉難者慰霊事業実行委員会会長
   岐阜県知事 平野三郎


岐阜杭州友好盟約記念碑


中日両国人民世世代代友好下去

昭和37(1962)年9月、杭州・王子達市長と岐阜・松尾吾策市長との間で碑文が交換されたことを記念して建立されたもの。
日本国と中華人民共和国の間で「日中国交正常化交渉」が行われた昭和47(1972)年より10年前にあたる。

杭州っぽいらしい。

西湖を模して作られた池。

※撮影:2023年9月


護國神社関連

はじめに

久里浜駐屯地 創立73周年記念行事・その2(海軍通信学校の戦跡散策)

2023年11月19日。
神奈川県 横須賀市にある陸上自衛隊 久里浜駐屯地で「久里浜駐屯地 創立73周年記念行事」が開催されました。
今は、陸上自衛隊通信学校。そして、かつては、海軍通信学校のあった久里浜。
駐屯地内が開放されましたので、足を運んでみました。

ちなみに、久里浜駐屯地は日本最古の駐屯地、でもあります。

その1は、訓練展示など。

こちらも参照で。


海軍通信学校

日本海軍においては、明治36年(1903)に海軍水雷学校に於いて無線電信術練習生として無線通信要員の育成がはじまり、昭和5年(1930)に海軍通信学校が独立するに至っている。
昭和14年(1939)11月に通信学校は 久里浜に移転。昭和18年には通信科要員の需要が増し、海軍防府通信学校が併設され、従来の通信学校は「海軍横須賀通信学校」と改称。


海軍通信学校跡碑

海軍通信学校跡

我々ここに巣立つ 
 第五十二期普通科練習生 十四志 
 昭和四十七年十一月五日 建立 
  海軍中将 志摩清英書

志摩清英中将は、昭和18年9月16日から昭和19年1月31日までの通信学校長。ついで、昭和19年2月に第5艦隊司令長官となり、第二遊撃部隊(通称志摩艦隊)を率いてレイテ沖海戦を戦う。

碑の脇には、海軍用地の標石がある。海軍通信学校の境界標かと。

もともと「海軍通信学校碑」がある場所は、海軍通信神社が鎮座していた場所であった。本部庁舎前。


通校神社(海軍通信学校神社) ※長安寺

海軍通信学校・本部庁舎前に鎮座していた「通校神社(海軍通信学校神社)」。
「通校神社」 は終戦後に長安寺に遷座されている。

長安寺は2018年撮影


防空壕跡

海軍通信学校本部庁舎前の庭にあるこんもりとした丘。
防空壕跡と推測。


海軍通信学校・本部庁舎
(久里浜駐屯地・本館・建屋1)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」は閉校後は復員局を経て米軍が接収。

戦後、昭和25年に「警察予備隊」が発足すると久里浜部隊が開設され、その後は「保安隊」の通信学校となる。

昭和29年に陸上自衛隊が設立すると、当地は「陸上自衛隊通信学校」が開設。陸上自衛隊として最も古い駐屯地であり、旧海軍通信学校庁舎をそのまま使用している。

正面玄関

陸上自衛隊 通信学校

中に入ってみます。

正面玄関

在室確認のランプ

歴史を感じさせる廊下。

本部庁舎の裏側。

建屋番号は「1」


海軍通信学校・第一兵舎(久里浜駐屯地・建屋2)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」。
おそらく本部庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。


海軍通信学校・第二兵舎(久里浜駐屯地・建屋3)

昭和14年(1939)開校の 「海軍通信学校」
おそらく本庁舎と第一兵舎・第二兵舎は開校当初同じ時期に建設されたものと推測。


海軍通信学校・車庫

陸自時代の現在も同じく車庫として使用されている。


地下通路入り口

久里浜駐屯地には、地下通路が4ヶ所設けられていたという。そのうちの一箇所は、タイヤ倉庫になっている。
立ち入りはできないので、望遠にて。

敷地の北側。南を向いている開口部。

上記写真は「C」に該当する。

久里浜駐屯地の東側の山にも地下通路があった。


久里浜駐屯地内の記念碑

いくつかの記念碑が、整備されている。

甲種飛行予科練習生 電信術錬成之地
昭和62年4月吉日建立

保安隊記念碑 
昭和29年

保安隊駐屯記念碑 
昭和28年

保安大学校開校之地(防衛大学校創設の記念碑)
平成31年3月吉日建立


海軍電話蓋

「波」に「話」
建屋1の本部庁舎と建屋2の兵舎のあいだに。


海軍蓋(制水弁蓋)

敷地内にいくつかあるらしい。
私は2つ見つけました。

1つ目。建屋2の近く。

2つ目(歴史館前)


歴史館

主に通信に関係するものなどを展示。

海軍の精神注入棒

山下奉文ゆかりの書


御稜威橋

海軍通信学校、そして久里浜駐屯地の入り口。
平作川にかかる「御稜威橋」

御稜威とは、天皇陛下の強い御威光のこと。


日本最古の駐屯地「御稜威橋」(日本酒)

 陸上自衛隊久里浜駐屯地は、昭和14年「海軍通信学校」として開設、その後は昭和27年から通信電子の教育の中核として「通信学校」が置かれている。
 自衛隊としては最も古い駐屯地である。

販売は、久里浜駐屯地限定。
製造は、岩手の「世嬉の一酒造」

百里基地航空祭2023・その1(百里原海軍航空隊の戦跡散策)

2023年12月17日、茨城県の百里基地航空祭に行ってきましたので、その模様を。

本編は歴史的なところを触れる「その1」となります。
航空祭そのものは「その2」で。


関連


百里原海軍航空隊

百里原海軍航空隊(ひゃくりはら)は、昭和13年に筑波海軍航空隊の補助飛行場が建設されたことに始まる。
昭和14年(1939)12月1日に筑波海軍航空隊百里原分遣隊から独立して開隊。初歩飛行訓練に従事。
昭和17年には予科練の受け入れを開始。
昭和19年(1944年)10月1日、「桜花訓練隊」として「第七二一海軍航空隊」が百里飛行場に開隊。
昭和19年11月7日、七二一空は「神ノ池飛行場」に転出。

昭和20年「第六〇一海軍航空隊」が百里原飛行場に進出。
同年4月には「神風特別攻撃隊・正気隊」が編成され出撃が行われている。
終戦後、飛行場は引揚者の開拓地に転用され破却されるも、首都圏唯一の戦闘機基地として昭和41年に百里基地が開隊している。


百里基地(雄飛園)

百里基地内にある用廃機(用途廃棄機)を保存展示しているエリア。
保存機の記録は多いようだけど、慰霊碑や記念碑の記録がすくないようなので、百里基地航空祭で開放をされていたエリアを散策記録しました。


百里原海軍航空隊記念碑

ここに百里旗海軍航空隊ありき
記念に桜を植え その栄光を伝う 
 昭和51年3月
  百里原海軍航空隊有志

百里原海軍航空隊と特攻について
百里原海軍航空隊は昭和13年、練習機の教育航空隊として発足した。
昭和16年大東亜戦争勃発、昭和18年練習機境域は他基地に移され、実用機の操縦員、偵察員の教育が開始されて昭和20年8月の終戦まで続けられた。
昭和20年3月沖縄戦が始まると、百里空も作戦に参加、教育に使用中の飛行機35機が九州から出撃、85名の隊員が沖縄の海域に散華した。
この記念碑の下に戦死者の名簿が埋めてある。
 平成20年3月
  百里原海軍航空隊有志


雄魂碑(殉職者慰霊碑

基地殉職者を祀っている。
昭和49年4月吉日の建立。


犬魂碑

基地内警備犬慰霊碑


F-4EJ飛行隊発祥の地記念碑

この記念碑は、第301飛行隊が昭和48年10月16日航空自衛隊初のF-4EJ飛行隊として誕生し昭和60年
3月九州に移動するまでの間、この百里基地において活躍したことを記念して建立したものである。

記念碑修復の記
 昭和六十年、部隊移動に先立ち建立されし本記念碑なれど、爾来十数年の風雪に耐え難く、「銘板」等の損傷見るに忍びず、第三〇一飛行隊(百里)出身者より浄財を募り、ここに「銘板」の修復・土手基礎部の造成をみるに至る。
 尚、「銘板」につきては、当初揮毫せりし土屋重正氏に依頼致したものなり。
 平成十三年九月吉日 記念碑修復実行委員会


第206飛行隊記念碑

栄光と共に
昭和40年12月~昭和53年12月
 第206飛行隊


アルゼンチンの碑

「アルゼンチンの碑」
大正十三年(一九二四)六月、アルゼンチン空軍のサンニ大佐とベルトラメ技師の二人が四五〇馬力の単発機を駆使し、アムステルダムから世界一周に飛び立ちました。
 同年十月、約二万キロメートルにも及ぶ人類未踏の大飛行を達成し、土浦の霞ヶ浦に着陸しました。
 その後、航空機の故障によりやむなく世界一周は断念することとなりましたが、二人の偉業を永久に顕彰するため、昭和五十六年十二月、アルゼンチン大統領の訪日に際し、最後の着陸地となった霞ヶ浦に近い百里基地に当記念碑が建立されました。


保存機

向こう側の保存機

こっち側の保存機

あまり興味がなかったようで、撮影ほぼシていませんでした。


百里基地

入り口。茨城空港とは反対側。航空祭の機会がなければ、まずこないですね。

航空祭の様子は、その2で。

2023年12月撮影


「観武ケ原」盛岡市青山地区の戦跡散策

盛岡市北西部の青山地区。往時は騎兵第三旅団や工兵第八連隊の駐屯地として発展した地域。
陸軍時代の面影を辿りつつ散策をしてみました。

観武ケ原(みたけがはら)

観武ヶ原(みたけがはら)は、現在の岩手県盛岡市の青山・みたけ・月が丘、及び滝沢市滝沢地区にあたる地域に広がっていた原野。後世に観武野(みたけの)とも。
大正天皇が皇太子時代に、練兵場を観閲した折に命名したと言われている。またそれ以前に、岩手山が眼前に見えることから、「御嶽(みたけ)」と呼ばれていたものを改めたという。

今昔マップ on the web


陸軍騎兵第三旅団・覆馬場(覆練兵場)(現・盛岡ふれあい覆馬場プラザ)

煉瓦造の建屋がのこっている。
かつて青山地区に6棟の「覆馬場」があったが、この1棟を残し解体されてしまった。
建築年代は、明治42年(1909年)となる。
陸軍第八師団騎兵第三旅団騎兵第二十三聯隊、騎兵第二十四聯隊が明治42年に編成配備。

盛岡ふれあい覆馬場プラザの施設概要と周辺案内
盛岡ふれあい覆馬場プラザと青山地区の歴史
 青山地区一帯は、藩政時代は荒涼とした原野でした。明治41年に、工兵第八大隊が弘前から移転、明治42年(1909)に、騎兵第三旅団第二十三聯隊、第二十四聯隊が編成配置され、煉瓦造の覆馬場が6棟建設されました。
 当時、南部駒は軍馬として優秀であり、岩手山から続く広い原野は絶好の演習地でした。終戦後の昭和21年には、観武原の開拓とともに、兵舎を応急仮設住宅とし、この年に青山町が誕生しました。
 青山地区一帯には、現在でも盛岡ふれあい覆馬場プラザ(旧覆馬場)をはじめ、近接する森永乳業盛岡工場敷地内には、騎兵第三旅団の兵舎の煉瓦造の門柱等が保存され、また独立行政法人国立病院機構盛岡病院の敷地内には、工兵第8聯隊の兵舎の門柱等が保存されています。
 また、平成18年に開業した青山駅の駅舎や門柱、ショッピングセンターの歩道境等にも煉瓦が使用されており、今日においても、煉瓦文化が根付いている地域となっています。

盛岡ふれあい覆馬場プラザの施設概要
 この建造物は、平成16年に地元住民や有識者、保存を求める団体等からの要望をうけ、平成17年に盛岡市が取得しました。その後、平成18年から平成21年まで、5回の旧覆練兵場活用懇話会を開催して策定した「旧覆練兵場整備基本構想」に基づき、平成23年度、24年度の2個年で整備を進めてきました。
 歴史的な景観を形成するうえで、復元を基本に、屋根等の外観の色彩は建築当時のものとし、外壁の煉瓦については、経年劣化部分を補修のうえ、煉瓦素地のままの外観としました。また、敷地内の桜の樹木も保存し、さらに、閉鎖的にならないよう緑化整備を行うなど、景観に配慮したものです。
 名称を「盛岡ふれあい覆馬場プラザ」とし、平成24年6月1日に、「多目的施設」として開館しました。この建造物は、約100年もの間、青山地区の歴史を見続けてきた建造物である、同地区における歴史的建造物のシンボルとして、また本市における近代化遺産として、次代に継承するものです。

境界柵の残骸かも。

内部を覗いてみる。

場所

https://maps.app.goo.gl/QpYMUoxPCGzWDZ7t9


第八師団工兵第八聯隊・工兵園
(現・国立病院機構盛岡医療センター)

病院内のちいさな庭園。整備されたこの庭園が、工兵の思い出の場所であった。

明治41年に、工兵第8大隊が弘前から移転してきている。

工兵園の由来(碑文)
1,この園庭は明治、大正、昭和に亘りこの地に駐屯した工兵第八聯隊及びその編成部隊の隊員の冥福と勲功を顕彰するため造営し後世の活用を希い、厚生大臣の承認を得て国立盛岡療養所に寄贈したものである。
1,工兵隊は第8師団管下青森、秋田、岩手、山形四県の壮丁を訓練し数々の戦役に従軍して、常に抜群の功績を挙げ国宝師団の名を高からしむると共に、平時災害に際しては身を挺して事に當り、その温厚純朴の気風は市民に深い愛敬を受けていた。
1,部隊の歴史は陸上自衛隊岩手駐屯部隊史料館に、また造園記録は当園管理者に委託し永く保存する。
 昭和44年夏
  工八会

工兵園

工兵第八聯隊碑

工兵営跡

盛岡医療センター内にある。

病院敷地内の為、節度ある見学を。

場所

https://maps.app.goo.gl/XSrLGVZYyi9MJBSS9


騎兵第23連隊跡地
(現・青山児童公園)

いくつか「御手植えの碑」があった。
どうも見逃したものもあるようで。。。 
大正天皇の碑を確認漏れしていることをあとから知りました。。。

閑院宮殿下御手植

大正9年◯月◯日

月日は判読できなかった。

竹田宮殿下御手植

昭和7年5月7日

淳宮殿下御手植

淳宮は、 昭和天皇の弟で、後の秩父宮。

大正5年◯月◯日

月日は判読できなかった。

岩手県営体育館

場所

https://maps.app.goo.gl/qgnHPvLsWL5zEMiv5


騎兵第三旅団第23聯隊跡の門柱
陸軍豫備士官學校跡の碑
(現・森永乳業盛岡工場)

第23聯隊の門柱、盛岡陸軍予備士官学校の碑などがある。

旧騎兵第三旅団第二十三聯隊

明治41年に、工兵第8大隊が弘前から移転、明治42年(1909)に、騎兵第三旅団第23聯隊、第24聯隊が編成配置されている。

騎兵第三旅団
観武練兵之跡
 飯田貞固謹書

飯田貞固は、最終階級は陸軍中将。昭和8年(1933年)に騎兵第三旅団長を務め満州事変に出動している。

盛岡陸軍豫備士官學校跡

「陸軍予備士官学校」は、昭和13年に「仙台陸軍教導学校」内に「陸軍予備士官学校」を設置したことにはじまる。
「盛岡陸軍予備士官学校」は、「騎兵第三旅団」が昭和10年(1935)に満州に移駐したのち、昭和14年(1939)に騎兵第三旅団兵営跡地に、仙台から移転して創設された。
昭和16年8月に、盛岡から前橋に移動となり、前橋陸軍予備士官学校となっている。

  • 1938年8月 陸軍予備士官学校を設置(仙台陸軍教導学校内)
  • 1939年3月 陸軍予備士官学校を盛岡近郊に移転(騎兵第23連隊跡地)
  • 1939年8月 陸軍予備士官学校を盛岡陸軍予備士官学校と改称
  • 1941年8月 盛岡陸軍予備士官学校を前橋近郊に移転、前橋陸軍予備士官学校と改称
  • 1945年8月 敗戦によりすべての予備士官学校を閉校

建立志
 盛岡陸軍豫備士官學校は、兵制上はじめての陸軍予備士官学校として昭和14年に創設され、改正甲種幹部候補生制度上での第三期生が、同年4月にはじめて入校し、ついで同年11月第四期生、昭和15年12月第五期生が入校し、昭和16年7月、この期の卒業と同時に新設された前橋陸軍豫備士官學校に、その教育が引き継がれた。
 日支事変や、それに続く大東亜戦争では、多くの卒業生を戦場で失った。また生き長らえた私たち同窓生が、戦後の混乱と困難を乗り越えて、国家の債権に多大の貢献を成し得たのも、この校に学び性根を尽くして鍛えられ培われた不撓不屈の精神に因るところが大きい。
 この地に私たちが人生の足跡を残した證として「學校跡」の記念碑を建立した所以である。
 平成5年9月吉日
  盛士校記念碑建立委員会

場所:

https://maps.app.goo.gl/zPUpf7WhuTn47pzp9

「燕飛行隊発祥の地」「大元帥陛下御野立所聖蹟」とかがある「観武ヶ原」の北部(演習場跡地)には訪れる時間がなかった。これは再訪案件です。。。

※撮影:2023年8月


関連

岩手護國神社

盛岡陸軍墓地にあった忠霊塔(久昌寺・移設)

盛岡にあった陸軍墓地関連の散策。


盛岡陸軍墓地にあった忠霊塔(久昌寺)

久昌寺の記載によると以下の説明がある。

放光塔(忠霊塔)
元陸軍墓地にあった忠霊塔を二十二世義雄和尚が、戦争殉難者供養のためにこの地に移設したものと伝えられています。

久昌寺 http://www.kyushoji.com/history.html

久昌寺の放光塔(忠霊塔)

昭和9年10月建之

久昌寺の山門。昭和8年に建立。

場所:

https://maps.app.goo.gl/1jceTVuYxsXDacjK7


盛岡陸軍墓地跡(盛岡市高松2丁目)

当所は、岩手県滝沢市穴口にある「穴口公葬地」に陸軍墓地があった。その後、盛岡市高松にあった元岩手県庁舎第二分庁舎の地に移転している。
現在、元岩手県庁舎第二分庁舎は解体されており、更地となっている。ここは特に遺構は残っていない。
※滝沢市の跡地には境界標が残っているという。

更地。格別になにかは残されていない。

場所:

https://maps.app.goo.gl/WfdQEZvRBx68UHiu7

撮影:2023年8月


関連

岩手護國神社

岩手護國神社

岩手県盛岡市。盛岡八幡宮と並んで、岩手護國神社が鎮座している。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。


岩手護國神社

岩手県ゆかりの殉国の御英霊を祀る。
約3万5800余柱。
岩手縣護國神社ではなく岩手護國神社。「県(縣)」がつかない社号は珍しい。
明治2年(1869年)11月2日創建。
明治39年(1906年)、岩手護國神社は岩手郡東中野村茶畑から盛岡八幡宮の境内に移設されている。

https://morioka8man.jp/gokoku/

岩手護國神社
御祭神
岩手県ゆかりの殉国の御英霊
御由緒
当神社は、明治天皇の畏き思し召しのより、明治新政の夜明け勤王の大儀を固守し国事に殉ぜられた郷土の勤王の志士 目時隆之進命・中島源蔵命の二柱の御霊を祀る為明治二年十一月二日岩手郡東中野村茶畑の地に時の盛岡蕃知事南部利恭により創建されました。
その後、西南戦争、日清日露の両戦役、そして大東亜戦争等幾多の事変戦役で、我が国の平和と繁栄を念じつつ尊い生命を御国に捧げられた、岩手県ゆかりの御英霊三万五千七百余柱がお祀りされています。
 明治十四年、当時の内丸公園地に遷座されましたが、明治三十九年にはその社地を県社八幡宮の境内に求め遷座されました。更に、昭和十四年には境内地を拡張して、神明造様式による新たな大社殿が造営され、現在に至っております。
天皇皇后両陛下(昭和天皇)には、昭和45年10月13日、本県で開催された国民体育大会御臨場の行幸啓の砌り、畏くも当神社に幣饌料を御奉納の上、御親拝あらせられました。

岩手護國神社
御祭神
殉国の御英霊
(令和4年現在)
三万五千七百八十五柱
相殿一柱

広々とした境内

左の燈籠には「照闇(しょうあん)」
右の燈籠には「揚輝(ようき)」

昭和10年4月建立

照明燈
愛国婦人会解散記念として昭和18年3月31日に石灯籠、参道敷石、階段を奉納。

岩手護國神社

社号額

参拝

岩手護國神社御朱印
盛岡八幡宮で頒布しております。

東北3県、福島・宮城・岩手の護國神社の御朱印。


鎮魂
歩兵第三十一連隊戦歿者将兵一同之霊

鎮魂
南部ルソン島マニラ東・西地区 
 昭和20年1月~9月
振武集団第8師団
歩兵第三十一連隊戦歿者将兵一同之霊
 歩兵第三十一連隊岩手会

建立趣旨
 日本民族の繁栄と郷土の幸福を一途に遠くは日露戦争より太平洋戦争に到るまで散華された数多くの郷土出身戦死者の事蹟を永久に忘却してはならない。終戦五十周年にあたり御霊の奉安と恒久平和を祈念し関係諸団体と相謀り多くの御賛同と尊いご芳志により鎮魂の碑を護国の社に建立した次第であります。
 平成七年九月吉日
  歩三一岩手会


ビアク支隊戦歿者顕彰碑

ビアク支隊戦歿者顕彰碑
 内閣総理大臣 大平正芳 書

ビアク支隊戦史
 ビアク支隊は太平洋戦争のさなか北支山西省よりニューギニア、サルミ地区に派遣された第36師団(雪部隊)の中、ビアク島に分遣された歩兵第222連隊(雪3523部隊即ち葛目部隊)とその配属諸隊により構成された11,267名の混成部隊であり、葛目部隊と少数の海軍部隊の他は、飛行場設定隊、開拓勤務隊等の軍属を主とする非戦闘部隊であった。
その基幹を成す葛目部隊(3,815名)は、岩手県人を主体とし、青森・秋田・山形出身の東北健児並びに全国各県より選ばれた精鋭部隊であった。
 昭和14年3月雪部隊創建以来、幾多の輝かしい戦績を北支の山野に残して、戦雲急を告げる南海の要衝ビアク島に急遽派遣されるに至ったのは、戦局の頽勢いよいよ深まりつつあった昭和昭和18年の暮れのことであり、ガダルカナルに勝利を収めたマッカーサー麾下の連合軍が余勢を駆ってまさに怒涛の如くニューギニア北岸を西進北上中の時であった。
この優勢な連合軍の進攻正面に敢然と立ち向かったのが即ちビアク支隊である。
まる1ヶ月に亘る間断なき爆撃の後、連合軍は突如昭和19年5月27日の早暁約40隻の艦船と空を蔽う戦爆連合の大編隊支援の下に、水陸両用戦車を先頭に夥しい上陸用舟艇を連ねて雲霞の如くビアク島南岸に殺到した。 満を持して待機せる我が軍はこれを水際に邀撃し、随所に悽惨な白兵戦が展開され、ここに濃密なビアク攻防戦の幕が切って落とされたのであった。 以来制海権・制空権ともに無きビアク支隊が寡兵よく衆敵に抗し、用兵の妙を発揮して3万の敵大軍を小島の一隅に釘付けにして絶え間なき攻撃を敢行し、二度三度敵を海中に追い落としてその第一の目標とする飛行場の使用を許さなかった。  これがため、遂に敵将は戦闘のさなかに更迭されるに至りビアク支隊の目覚ましい勇戦敢闘は全軍の模範と謳われて度々感状を授与されたである。 しかし、戦力の消耗甚だしく、しかも援軍は続かず、遂に連日連夜の死闘に刀折れ矢尽きて部隊としての組織的戦闘は継続不能となり支隊長陸軍中将葛目直幸は、支隊本部の西洞窟脱出に当り軍旗を奉焼し、7月2日天水山に於て引責自決したのであった。
 同年7月25日「ビアク支隊は玉砕することなく極力ビアク島に健在し、現地自活を徹底しつつ次期攻勢を準備すべし」との持久命令を受け、生き残った将兵は「次期攻勢」を固く信じて、後日の再会を誓い、それぞれ生きんがための糧を求めて痩躯に鞭打ち、あてどなき密林に分散したのである。 しかしながら、生き残った者のすべては既に体力消尽し、熱帯病の患者たるか或は負傷者たるか、いずれも健全な者とては無く、執拗な敵の進撃と厳しい自然との闘いに、その殆んどがあたかも大地に吸われる水の如く戦場の土に帰したのであった。
かくして戦後生きて祖国の土を踏んだ者は、捜索隊により救出された者並びに戦中現地住民又は連合軍により救出収容された者、或は島外に分遣されて、ヌンホル島その他の地区に於て万死に一生を得た者、合わせて520名を数えるのみであった。
 戦後すでに34年、今や我が国が世界にその繁栄を誇り、平和と自由を謳歌出来るのも、前線に銃後に今次大戦の幾多数知れぬ尊い犠牲の上に築かれたものであることを忘れてはならない。
その一典型として、酷寒の北支に、はた又炎熱と瘴癘の南溟の孤島に精強なるが故に常に祖国防衛の最前線に身を挺して遂に護国の神と化したビアク支隊戦没諸氏の崇高な殉国の史実を記憶されんことを切に希うものである。
 これ、この度御遺族の御支援を忝うし、共に砲火を潜り、共に草の根をかじって辛くも生き残った戦友一同心から平和の尊さを思い、悲惨な過ちを二度と繰り返さざることを祈念し茲に碑を建立する所以である。
 ビアク島その名忘れそみちのくの
  ますらたけおの聖き奥津城
      昭和54年5月27日
         ビアク戦友会

西南太平洋図

戦歿者遺骨奉安殿


天皇陛下 皇后陛下 御親拝記念碑

昭和45年10月本県で開催された第25回国民体育大会秋季大会にご臨場のため両陛下が行幸啓の御砌り同月13日午前10時2分畏くも当岩手護國神社へ聖籠を進められ幣饌料を御奉納のうえ御親拝あらせられたことは千載一遇の栄誉であった
以ってここに無上の光栄を後世に伝えるためこの碑を建てたものである。
 昭和46年10月13日
  岩手護國神社宮司 北田喜七郎敬白


平和の塔


岩手県戦没者遺品館

残念ながら閉館中でした。


明治天皇像(盛岡八幡宮)

御聖像奉建之詞
謹んで顧うに 明治御維新の大業は洵に今日日本国進展の基礎である
明治天皇御歳16歳にして御即位あそばされ御在位46年常に御躬を以て衆に先んじ聖明親しく国運拓開の萬機を総攬せらる ご聖徳は赫々として日月の如く御聖訓は昭々として萬世を照させ給う 恪も明治9年7月7日東北巡幸の砌り畏くも
天皇親しく岩手県産馬御台覧の地盛岡八幡宮の境内に御聖像を奉建して永く御聖徳を景仰し奉らんことを希い奉ります
                       謹白再拝
昭和50年9月10日
 明治大帝聖像奉賛協会 会長 榊原孝

明治大帝聖像

明治天皇産馬展覧聖阯


盛岡八幡宮

旧社格は県社。現在は神社本庁の別表神社。
盛岡総鎮守。
創建は、康平5年(1062年)、源頼義の安倍氏討伐に際して、岩清水八幡宮を当地に勧請したことにはじまる。

※撮影:2023年8月


関連

「昭和の聖将」今村均の墓と輪王寺散策(仙台の戦跡散策・その6)

名将・今村均大将の墓がある輪王寺に足を運びました。
本編は、「その6」です。

仙台市の輪王寺。仙台藩伊達家にゆかりの深い寺院。

境内案内図もわかりやすいですね。墓地を彷徨わなくて済むので助かります。
境内裏手の墓地には、足を運ぶ。


今村 均

今村均
1886年(明治19年)6月28日 – 1968年(昭和43年)10月4日)
陸士19期、陸大27期首席。陸大同期は本間雅晴や東條英機などがいた。最終階級は陸軍大将。
仙台藩士の家柄で仙台出身。
太平洋戦争では、初戦に第16軍司令官として蘭印作戦を指揮した名将。ジャワ軍政では、中央よりとかくの批判を受けるも、独自色を発揮し成果を発揮する。
昭和17年に第8方面軍司令官として、ラバウルに着任。
ラバウルで自給自足体制を確立。米軍は今村によって要塞化したラバウルの状況を知った米軍は、占領を回避し、打撃による無力化に留め、封鎖を実施。ラバウル守備隊は孤立したが、自給自足体制を整えていたために、今村均の陸軍第8方面軍は、草鹿任一の海軍南東方面艦隊とともに終戦までラバウルを維持し続けた。

陸軍大将 今村均 明治19年~昭和43年〔宮城〕
南方進攻作戦の最終段階、蘭印攻略作戦を指揮した昭和の名将
今村は、知、情、意の調和がとれた名将と知られています。開戦前、今村は、陸軍大学校で蘭印の石油資源を含む要域占領を目的とした蘭印攻略作戦準備を統括しましたが、よく部下と意志の疎通を図り、各級指揮官が孤立しても適切な判断ができるよう認識統一に努めていました。そして今村は、第16軍司令官としてその作戦指揮を執り、戦域の広大さ、部隊運用の複雑さがありつつも名将ぶりを発揮しました。また、昭和17年2月11日発令の第16軍命令(下掲史料)からもわかるように、今村は、兵站を特に重視し、各正面毎綿密に準備しました。さらに住民の安全に意を尽くし、住宅地への軍の進入を厳に諫め、占領後は住民の心に寄り添います。第16軍主力は、3月1日、ジャワ本土に上陸、日本軍戦力を過大評価したオランダ軍は、9日に降伏します。占領後、今村は、敵味方の区別なく緩和を主義とする軍政の実行を指示します。今村の軍政は緩すぎると中央で問題となりますが、その意思は揺るぎませんでした。戦後、今村は、ジャワ戦犯裁判で捕虜虐待の責任を追及されますが、責任追及は当然と求刑を甘受します。結局この法廷では無罪となり巣鴨に送還されますが、自ら志願してマヌス島に送られ、29年の刑期終了まで旧部下数百名とともに在監の苦悩を共にします。

防衛研究所 https://www.nids.mod.go.jp/military_archives/siryo/siryo_19.html


今村均の墓

今村均家累代之墓

合掌

墓誌
今村均
 明治19年6月28日 仙台に生まる 陸軍士官学校 陸軍大学校を卒業し 歩兵第四聯隊付 英国駐在武官 等を歴任 第二次世界大戦に際しては 郷土部隊と共にジャワ ラバウル方面の戦闘に参加す
 昭和18年5月 陸軍大将に任ぜらる 昭和43年10月4日歿
勲一等功二級従三位
 享年82歳

今村家の家紋は、浮線蝶紋


輪王寺境内を巡ります。

昭和大戦戦没者慰霊碑

昭和の戦いに 
 国のために倒れ 
  帰らぬ私達を
ふるさとの人は 
 忘れないで下さい

合掌

この碑は、昭和の大戦で戦没した将兵の慰霊の為昭和37年有志が通町公園内に建立した。
然し、仙台市が平成13年に撤去削損、国民は碑に託された将兵360余柱を思い、多くの協力を得て再建した。
 国のため戦死された人々よ
  安らかにお眠りください
    平成14年3月建立

昭和の大戦戦没者慰霊碑
別名 戦没者の声なき声、忘れないでの碑
 昭和6年、満州事変より、大東亜戦争後ソ連抑留の18年間、国の命により戦いに倒れた将兵212万1千名、その多くは遺骨すら故郷に帰へらなかった。
遺族らは父や夫の面影を追い、昭和37年通町公園に慰霊碑を建立、裏面に戦没者名(364柱)を刻み残した。然し、40年後の平成13年、仙台市は公園整備の際撤去、他に転用の為。碑の両面を削除した。
人々は祖国に尽くした戦没者と遺族の進駐を思い、碑石の返却を求め慰霊の為、亡き人の声なき声を碑文とし、日本の永遠の平和と安泰を願い、この地に再建した。
 平成14年3月
  戦没者遺族・妻子孫他
  旧軍・自衛隊市民有志


志賀潔博士の墓

赤痢菌発見の志賀潔博士の墓所


飯沼貞雄の墓

白虎隊士として飯盛山で自刃するも偶然救助されて、唯一蘇生した人物。


輪王寺

伊達家ゆかりの古刹。

※撮影:2023年8月

仙台の戦跡散策・その7はこちら、で。


関連

仙台陸軍墓地・常盤台霊苑(仙台の戦跡散策・その5)

仙台陸軍墓地のあった場所を巡ってみました。
本編は、「その5」です。


仙台陸軍墓地(常盤台霊苑)

歩兵第四聯隊が駐留した仙台。往時の陸軍墓地は、「特話題霊苑」として宮城県によって管理されている。
宮城県が、昭和28年に国から譲渡を受け、戦没者慰霊の合葬碑等を建立し、慰霊祭等を行っている。
現在は、一般非公開となっており施錠され、敷地内に立ち入ることができない。

常盤台霊苑

入れないと知ってはいたが、訪れてみた。
入口で、手を合わせ黙祷をする。

常盤台霊苑の由来
 ここ常盤台霊苑はもとの陸軍墓地であり明治年間平時に病没した第二師団将兵軍属の墓であった。後に日露戦争及び満洲事変における戦歿勇士合葬の墓をそれぞれこの地に建立したのは当時世界列強の包囲と抑圧に耐えて我が民族の独立と生存を守り抜いた国民的心意気の発露であった。
 昭和20年8月大東亜戦争の配線と共に人身極度に混迷し為にこの聖域は荒廃してこの戦争に斃れた勇士の遺品は仮の堂中に納められたまま永くその所に安んずることができなかった。
 サンフランシスコ平和条約成り我が国独立の快復と共に県民の総意は再びここに大東亜戦争勇士合葬の墓を建立し聖域を補修し昭和28年11月これを完成したのである。
天主台の護國神社が戦没者英霊の神域であればここはその墓域である。
 その名も常盤台霊苑と改め不滅の遺芳を偲びつつ毎年毎月の祭を絶やすことはない。
 日本民族無窮の生命は古来敬神崇祖の伝統に輝く
ここに霊苑の由来を碑に刻んで永く後世に伝える所以である
  昭和44年3月
   文 島貫常行

文責の島貫常行は、宮城県出身の陸軍大佐(砲兵・士候39 陸大47優等)ルーマニア駐在武官などを務めた。

標柱

陸軍墓地

占用期間が記されていた。どうやら5年更新のようです。

占用期間
自 昭和13年10月1日
至 同 18年9月30日

閉門。立入禁止。
脇の隙間から入れそうだけど、もちろん入らない。
門前で拝礼する。


常盤台霊苑の後方

敷地の後方から、見渡せる高台があった。
多くの陸軍墓地に足を運んだが、立入を制限しているだけあって、霊域として見事な空間を保っていた。

左:満州事変戦没勇士合葬之墓
中央:明治三十七・八年役戦死病没者合葬之墓
右:大東亜戦争戦没勇士合葬之墓

宮城県

https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/syahuku/shisetsu.html

場所

https://maps.app.goo.gl/gtzcAmj8n64y5SrH7

撮影:2023年8月


関連

宮城野の戦跡散策(仙台の戦跡散策・その4)

榴岡公園周辺の宮城野地区の戦跡を巡ってみました。
本編は、「その4」です。


仙台陸軍地方幼年学校阯

仙台市立宮城野中学校の敷地内にいくつかの記念碑が建立されている。
敷地外から見学。

仙台陸軍地方幼年学校阯

第一期生 多田駿書

昭和14年建立。

多田 駿
1882年(明治15年)2月24日 – 1948年(昭和23年)12月18日)
陸士15期・陸大25期。最終階級は陸軍大将。宮城県仙台市出身。
支那事変のトラウトマン和平工作の中心人物。

こちらは、1939年(昭和14年)4月1日に、再生した仙台陸軍地方幼年学校の記念碑。
再興した幼年学校は、太白区三神峯であったので、この記念碑は移設。
太白区三神峯時代の仙台陸軍地方幼年学校の記念碑も、宮城野区五輪時代の敷地に移設されたので、ちょっとややこしい。

なお、三神峯公園にも「雄大剛健」幼年学校の碑が建立されている。

以下は、仙台市歴史民俗資料館より。

仙台陸軍地方幼年学校
 日清戦争後の軍備拡張に応じるため、明治29年(1896)5月の条例改正により、陸軍中央幼年学校と陸軍地方幼年学校(東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)が設けられた。地方幼年学校の採用生徒は各校50名、年齢は13~15歳、毎月の納金は6円50銭、陸海軍将校の子弟は半額、戦死者の遺児は免除、修学期間は3年だった。明治30年(1897)9月には、榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東側に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設立された。
 しかし、第一次世界大戦後の軍備縮小で大正13年(1924)には廃校となる。その後、昭和12年(1937)には、仙台幼年学校として復活し、第1期生は第41期生として広島陸軍幼年学校に入校し、昭和13年(1938)には仙台市三神峯に完成した仙台陸軍幼年学校に転校した。昭和20年(1945)8月の配線まで、49期生におよんだ。仙台幼年学校の出身者には、多田駿(第1期生)、板垣征四郎(第2期生)、土肥原賢二(第2期生)、中島鉄蔵(第4期生)、石原莞爾(第6期生)などがいる。

いくつかの石碑があつまっている。

仙台陸軍地方幼年学校記念碑

1924年(大正13年)3月。軍縮により地方幼年学校が廃止となったことにより、設置された記念碑。
当地=宮城野区五輪時代の仙台陸軍地方幼年学校。

明治42年建立の「皇太子殿下手植えの松」碑と
「明治天皇 昭憲皇太后 御大葬遥拝之地」碑

場所

https://maps.app.goo.gl/e7w3xHqJFx5xMqBWA


宮城野原練兵場跡
(宮城野原公園総合運動場)

いまは楽天イーグルスの本拠地、ですね。
この地は、かつて練兵場でした。


明治天皇 大正天皇 御野立所跡

正門入口のすぐ脇に、記念碑がありました。

明治天皇 大正天皇 御野立所跡

第二師団在仙各部隊、将校下士卒等一同によって、昭和2年(1927) 建立
練兵場の北端にあり、戦後に撤去されていたものを昭和44年(1969)に再建したもの

場所

https://maps.app.goo.gl/ktSKDqDnsgMp63N59


騎兵 捜索 第二聯隊之跡

明治40年(1907)に第2師団編成改正があり、宮城野練兵場の南端に山砲兵第1大隊が設置。大正14年の軍縮によって、山砲兵第1聯隊は新潟高田に移転。
跡地には、騎兵第二聯隊が移転。騎兵第二聯隊は昭和15年(1940)に乗馬中隊と軽装甲車中隊編成となり、太平洋戦争中は、捜索第二聯隊と称された。

東海道
騎兵 捜索 第二聯隊之跡

東街道
 東街道は「あずま」への道で白河から多賀城までの道であった。
 この街道は仙台市では、鈎取から木ノ下の西、宮城野原を経て多賀城に、向かっていた。

騎兵捜索第二聯隊之跡
大正14年 川内からこの地に移駐

宮城野の 萩喰いさかる 軍馬かな
 虚子

場所

https://maps.app.goo.gl/ZZcvEZb5typb17tw7

※撮影:2023年8月


関連

榴岡公園の戦跡散策(仙台の戦跡散策その3)

仙台市内の榴岡公園の戦跡を散策してみました。
本編は、「その3」です。


榴岡公園

宮城県仙台市宮城野区。
江戸時代からの桜の名所。
戦前は、歩兵第四聯隊が営所をおいた。
仙台市歴史民俗資料館は、旧陸軍歩兵第四聯隊兵舎。


歩兵第四聯隊

宮城県仙台市の榴岡に営所を設置。仙台鎮台(第2師団)の司令部が仙台城に設置されたことに対して、聯隊が榴ヶ岡に設置されたのは、仙台城が要害の地にあり、広瀬川の氾濫時には、交通途絶し、仙台城から部隊が出動できなくなるために、白に対して広瀬川の対岸に位置し、街道に近い榴ヶ岡に置かれた。
歩兵第四聯隊は、明治8年(1875年)に発足。太陽戦争では、初戦をジャワ島、ついでガダルカナル島での激戦を経て、終戦はビルマで迎えている。


旧第四聯隊兵舎
(仙台市歴史民俗資料館)

陸軍第2師団歩兵第4聯隊の兵舎。
宮城県内最古の洋風木造建築。

宮城県指定有形文化財 令和5年3月24日指定
旧第四連隊兵舎
 明治7年(1874)に造営された兵舎建築で、宮城県内に現存する洋風建築では 最古のもの、瓦葺寄棟造り木造2階建で、漆喰塗りの大壁、建物角にはコーナー ストーン、ガラス入り上下窓、出入り口のポーチには洋風円柱、雲形の彫刻のある 階段等の特徴を持つ、これらは明治6年完成の名古屋第六連隊兵舎と似ている ことから、当時の兵舎建築の基準に則ったものと考えられる。
 終戦まで70年間にわたり旧陸軍の兵舎として使用された後、終戦から昭和31年 までは米軍が駐留、その後昭和50年まで東北管区警察学校等に使用された。 内部はその都度改造されているが、昭和53年文化財に指定された後、明治37年 の状態に復元された。昭和54年(1979)11月3日、仙台市歴史民俗資料館 として開館した。
 なお、同様の兵舎が7棟残されていたが、これ以外の兵舎や本部等の建物は榴岡 公園整備のため昭和52年2月に取り壊された。
 平成27年3月
  仙台市教育委員会

白を基調としたシンプルな美しさがあります。

中に入ってみましょう。

四聯隊コーナーがあります。

大正四年に空撮した歩兵第四聯隊。
中央が榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の兵営地。

軍隊生活の再現。

仙台陸軍地方幼年学校
榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東隣に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設置された。

仙台陸軍地方幼年学校
 日清戦争後の軍備拡張に応じるため、明治29年(1896)5月の条例改正により、陸軍中央幼年学校と陸軍地方幼年学校(東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)が設けられた。地方幼年学校の採用生徒は各校50名、年齢は13~15歳、毎月の納金は6円50銭、陸海軍将校の子弟は半額、戦死者の遺児は免除、修学期間は3年だった。明治30年(1897)9月には、榴ヶ岡の歩兵第四聯隊の東側に隣接して、仙台陸軍地方幼年学校が設立された。
 しかし、第一次世界大戦後の軍備縮小で大正13年(1924)には廃校となる。その後、昭和12年(1937)には、仙台幼年学校として復活し、第1期生は第41期生として広島陸軍幼年学校に入校し、昭和13年(1938)には仙台市三神峯に完成した仙台陸軍幼年学校に転校した。昭和20年(1945)8月の配線まで、49期生におよんだ。仙台幼年学校の出身者には、多田駿(第1期生)、板垣征四郎(第2期生)、土肥原賢二(第2期生)、中島鉄蔵(第4期生)、石原莞爾(第6期生)などがいる。

仙台空襲

仙台空襲は、昭和20年7月9日深夜から10日未明にかけて、131機編成のB29爆撃機のうち123機が仙台上空に到達し、約3000mの高度より爆撃を行い、合計1万2961発、911.3トンの焼夷弾と焼夷集束弾が投下された。7月17日・8月9日・10日の小規模な爆撃も含め、1400名近い人々が空襲によって亡くなった。
(以下略)

満洲事変勇士合奏の墓は、常盤台霊苑にある。立ち入りできないけど。
昭和6年に勃発した満洲事変での日本軍の最初の戦死者は、仙台第二師団だった。

仙台と西南戦争

軍都仙台の誕生
仙台と日清戦争
仙台と日露戦争

愛国婦人会と国防婦人会
帝国在郷軍人会

仙台と満洲事変

満洲事変、日中戦争、アジア太平洋戦争

徴兵制と庶民のくらし

対外戦争と歩兵第四聯隊

歩兵第四聯隊全図

榴ヶ岡歩兵営図

招魂社
宮城縣護國神社

ガイドブック 仙台の戦争遺跡 2008
こちら、購入しました。はかどりますね。


歩兵第四聯隊営門跡

榴岡公園の西側。このあたりに営門があったという。


歩兵第四聯隊之碑

至誠無息
歩兵第四聯隊之碑

今村均(仙台出身の陸軍大将)による謹書。

 歩兵第四聯隊は明治八年九月九日重陽の佳節にあたりわが郷土出身者によってここ榴ヶ岡に編成せられてから星霜実に八十有余年父子相継いで護國の大任についた 其間明治十年西南の役を初めとし日清日露の両戰役満州事変昭和十二年日支事変引続き大東亜戰争等幾多の事変戰争に参加し二回に亘り感状を賜はる等抜群の功績は永く記念すべき聯隊であった 然るに昭和二十年終戰に遭い 畏くも 明治大帝より親授された我が軍旗は昭和二十年八月三十一日午後十二時南部佛領印度支那サイゴン市西北方約八十粁ホックモン町のゴム林内で涙を呑んで奉焼した 我等聯隊出身者竝に縁故者有志は今は無き軍旗の榮光
を偲び併せて陣歿せる幾多先輩戰友諸氏の英魂を慰むるためここに思出深き営門前に記念碑を建立し之を後世に伝うるものである
 昭和三十五年九月九日   
  重陽会
  その他有志一同


陸軍省所轄地標柱(境界標柱)


朝鮮戦役記念の碑

明治17年(1884)の甲申事変の開化派(独立党)と守旧派(事大党)が衝突し、京城(ソウル)の日本大使館護衛にあたったのが、歩兵第四聯隊第一中隊であった。
歩兵第四聯隊第一中隊は、事大党側の清国軍及び朝鮮軍と戦闘し死傷者を出している。
朝鮮戦役記念の碑は、軍功を称えて明治18年12月建立。


梅の園碑
(石原莞爾を偲ぶ碑)

石原莞爾は、昭和6年に陸軍中佐として関東軍の作戦主任参謀として、満洲事変を指揮。翌年の昭和7年8月に大佐に任ぜられ、陸軍省兵器本部付で内地に帰還。
昭和7年10月、石原莞爾は、満州問題に関するリットン調査団報告書を受けたジュネーブでの国際連盟総会に、松岡洋祐全権の随員として派遣。そして、この総会で日本は国際連盟脱退を宣言。
翌昭和8年6月に日本に帰国し、8月の異動で第四聯隊長に着任。
石原莞爾が第四聯隊長として在任したのは、昭和8年8月から昭和10年8月までの2年間であったが、出身地である東北の名門の聯隊に着任できたことを喜んでいる。

石原莞爾氏は昭和八年九月から二ヶ年間この地に歩兵第四連隊長として在任し連隊諸兵の栄養源又非常用として自ら植えられた
この四連隊跡地が仙台市民の公園として開放されたことを祈念してこの碑を建立する
 昭和五十二年三月二十五日
  石原莞爾将軍を偲ぶ会
  建立会一同

歩兵第四連隊長
石原莞爾大佐の日記から
昭和九年三月二十五日日曜(晴)
梅二〇〇本植える

榴岡公園は桜の名所として知られるが、今も石原莞爾なごりの梅園も残っている。


場所

https://maps.app.goo.gl/qB5NDWXWPL62xa78A

※撮影:2023年8月


関連

仙台城址周辺の戦跡散策(仙台の戦跡散策その2)

仙台城周辺の戦跡を巡ってみました。
本編は、「その2」です。


野砲兵第二聯隊之跡
(第二師団野砲兵第二聯隊)

仙台城の北にある国際センター駅のさらに北側。
宮城県美術館の東側道路の植え込みの陰に、ひっそりと跡地の石碑があった。

野砲兵第二聯隊之跡

昭和58年の建立。

明治11年(1878)に砲兵第2大隊が榴ヶ岡に創設され、後に山砲兵第2大隊となり、明治16年(1883)に川内に移転、明治17年に野砲兵第2聯隊となった。

これはわかりにくい。。。

場所

https://maps.app.goo.gl/ftq371WNTHgudYye8


親兵淵
(第二師団野砲兵第二聯隊)

親兵淵
ここの淵は「親兵淵」と呼ばれ、対岸の崖の上に駐屯していた旧陸軍野砲第二聯隊の親兵さんがこの淵で泳いだり、洗濯したちしていたことから名付けられたものです。

場所

https://maps.app.goo.gl/BNCdAXDrtBLPJgtA7

広瀬川

左側に高台に、野砲第二聯隊が駐留していた。


軍馬軍用動物彰忠塔

昭和15年(1940)の紀元二千六百年奉祝行事を記念して、軍馬や伝書鳩や警戒犬などの軍用動物の慰霊のために建立。

軍馬軍用動物彰忠塔

参加聖戦
 日清戰役
 日露戰役
 西伯利亞事變
 満洲事變
 支那事變

場所

https://maps.app.goo.gl/sHJhsudzFKbHh1S8A


満洲事変軍馬戦歿之碑

満洲事変軍馬戦歿之碑

昭和六年九月十八日以降無言ノ戰士トシテ満洲事変變ニ参加セシ第二師團下諸部隊戰病死馬八十七頭ノ霊ヲ合祀ス
 昭和八年十二月
  正六位勲六等四竃仁邇書

四竃仁邇(雅号は静堂)は、仙台の裁縫教育の先駆者であり、音楽教育の先駆者でもある。

2つの軍馬関連の慰霊碑

場所

https://maps.app.goo.gl/VhJEBPpknEA5BSXP7


家畜慰霊碑

昭和30年建立

場所

https://maps.app.goo.gl/Cf587NmoUbGEtm918


工兵隊の跡
(第二師団工兵第二聯隊)

明治15年(1882)に工兵第二中隊が創設。
明治22年(1889)に工兵第二大隊となり、明治30年(1897)に旧駐留地の亀岡から仙台大橋通に移転。
昭和11年(1936)6月1日に、工兵第二聯隊に改編された。

工兵隊の跡

場所

https://maps.app.goo.gl/9HDZ3H2DP8e94Xi66


フリーメイソンの石碑(米軍仙台ロッジ跡?)

仙台城大手門の入り口近くに「フリーメイソン」らしき石がある。

諸説あるが、仙台城(青葉城)には、戦後に進駐軍が駐留しており、米軍「フリーメイソン」の「仙台ロッジ」があったということから、「フリーメイソン仙台ロッジの礎石」であるという説が濃厚とのことで。

場所

https://maps.app.goo.gl/XyiCrwpzpT8NRrH66


松川大将之碑

仙台出身である松川敏胤の記念碑。
仙台城唯一の復元建築物である大手門隅櫓のちかくにある。

松川敏胤は、軍事参議官・朝鮮軍司令官・東京衛戍総督や第10・第16師団長を歴任し、階級は陸軍大将従二位勲一等功二級に至る。陸士旧5期、日露戦争時は満州軍作戦参謀であった。

松川大将之碑

題額は閑院宮載仁親王

発起人はそうそうたる面々が名をつられている。

松川将軍薨シテ追慕措ク能ハス我等集リテコノ碑ヲ建ツ
協力者ハ陸軍大学兵学教官当時ノ学生旧部下其ノ恩顧ヲ受ケタル者ニシテ題額ハ畏クモ 閑院宮載仁親王殿下ノ御深筆ナリ 
友田宣剛文ヲ撰シ四竃仁邇之ヲ書ス
 昭和4(1929)年4月30日
発起人
 河合操 田中義一 田中國重 奈良武次 武藤信義 大庭二郎 尾野實信 山梨半造 町田経宇 福田雅太郎 白川義則 森岡守成 鈴木荘六(イロハ順)

場所

https://maps.app.goo.gl/3v6g3MQCLUnLribBA

大手門隅櫓のすぐちかく。


御大典記念樹

三の丸跡に。

御大典記念樹

これは別の石碑

大正14年10月竣功

なにが竣功したのは不詳。。。


林子平の碑

江戸時代後期の経世論家、元仙台藩士。
高山彦九郎、蒲生君平と並ぶ「「寛政の三奇人」の一人。


魯迅の像と魯迅の碑

魯迅は中国の小説家、翻訳家、思想家。
魯迅と仙台とは、1904年、仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)の最初の中国人留学生として入学した縁がある。


仙台市地下鉄の国際センター駅を拠点に南北を散策しました。

※撮影:2023年8月


関連

宮城縣護國神社(仙台の戦跡散策その1)

宮城県仙台市。仙台を代表する観光地でもある青葉城址(仙台城址)に宮城縣護國神社が鎮座している。そのため、青葉城址の観光客も自然の流れで参拝するために、非常に賑わっている護國神社。
立ち寄る機会がありましたので、参拝してきました。

御英霊に感謝を。

本編は、仙台の戦跡散策の「その1」です。


宮城縣護國神社

青葉山の仙台城(青葉城)本丸跡に創建。
明治維新以降の諸事変、戦役における宮城県出身戦歿者をはじめ、元第二師団管区(福島、新潟、山形の一部)戦歿の御祭神五万六千余柱を御祀りしている。

国際センター駅から歩いていったので、途中の見どころを押さえつつ。
仙台城址の石垣。

宮城縣護國神社

社号標は、鈴木孝雄謹書。
鈴木孝雄は陸軍大将。終戦時の内閣総理大臣の鈴木貫太郎の弟。

由緒
 明治維新から大東亜戦争に至るまで、幾多の戦役で尊い生命を御国に捧げられた 郷土出身者の み霊を祀る。
 明治37年8月27日仙台城(青葉城)本丸阯に招魂社として創建され、昭和14年内務大臣指定護國神社となり、昭和20年7月仙台大空襲の戦火により神社施設を全焼したが、戦後現在の姿に復興した。
現在 御祭神5万6千余柱をお祀りしている。
 (神社本庁包括別表神社)

御本殿
 御本殿は、日本民族の祖神と尊ばれている 伊勢神宮の 外宮「風宮」の旧御正殿で、昭和28年の第59回神宮式年遷宮に際し、戦災で消失した当社の御復興にあたり、神宮の特別の思召しを以って昭和30年東北に初めてさずけられた極めて尊い御殿である。
建築様式は、唯一神明造(「掘立式で棟の左右を棟持柱で支える」で伊勢神宮よりそっくりそのまま御移築したものであるが、お屋根のみ建物を永く保存するために萱葺を銅板葺に改めてある。

宮城縣護國神社 由緒

https://gokokujinja.org/yuisho/yuisho.html

御英霊に感謝を。哀悼を。

朱塗りの護國神社。

参拝

御朱印を頂戴しました


英霊顕彰館(宮城縣護國神社境内)

平成16年、宮城縣護國神社創立百周年を迎え、この創立百周年のよき年を契機として、英霊の遺徳を正しい歴史に沿って展示し、永く後世に伝えるべく「英霊顕彰館」を開館した。

英霊顕彰館 サイト

https://gokokujinja.org/eirei/eirei.html

概要
 護国神社は、平成16年、創立百周年を迎えました。
 この創立百周年のよき年を契機として、英霊の遺徳を正しい歴史に沿って展示し、永く後世に伝えるべく「英霊顕彰館」を開館いたしました。
 「明治維新・戊辰戦争→日清戦争→日露戦争→第一次世界大戦→満州事変→支那事変→大東亜戦争→終戦・戦後→アジアの独立」と戦史を追いながら、それぞれの戦役・事変で散華された我が郷土の英霊について遺影・遺書・遺品等を中心に展示しております。

館内は遺影・遺書・遺品等を中心に展示。

歩兵第四聯隊の軍旗

大日本帝国陸軍第二師団歩兵第四聯隊。
終戦時に仏領インドシナ・サイゴン西北約80キロのホクモンのゴム林内で奉焼された。

復元した軍旗には、数多くの亡き歩兵第四聯隊の御英霊の魂が宿っている。

乃木大将
「古道照顔色」

明治維新

日清戦争
日露戦争

第一次世界大戦
上海事変・満州事変

ノモンハン事件・支那事変

大東亜戦争

特攻

終戦

利根

飛龍

雪風

矢矧

大和

巡潜乙型
秋津洲
北上

宮城縣護國神社の歴史

随想録
陣中有情
ガダルカナル島での日記
陸軍大尉 安田憲一命は、ガ島で戦士した。

戦時日誌

硫黄島収集遺留品

仙台空襲

三浦襄命(仙台市出身)
バリ島にて自決
「独立を約束できず謝罪のため人柱となる。屍を越えて独立を獲得せえよ」とバリ島民に告げ、自決。同島民には今なお『バリ島の父』として記憶される。

さくら陶板(靖國神社ご創立150年記念事業)

ビルマの竪琴

改めてゆっくりと観覧したと思います。
ありがとうございました。


鎮魂の泉(宮城縣護國神社境内)

御製

鎮魂の泉

「鎮魂の泉」
 この「泉」は、我国の今日の平和と繁栄を念じつつ遥かなる異国の戦場で力の限り尽され、ついに一滴の水も飲めず散華された郷土出身56,000余柱の御祭神に、青葉城本丸下百八十㍍の地中より汲み上げた水を、四六時中捧げ御霊が永久に鎮られますように作成した。
 石組は、「宮城の山河」をモチーフにし、武運長久を祈願された産土(うぶすな)神社より奉納された石、及び激戦地ガダルカナル島、ビルマ、硫黄島、グァム、サイパン、宜昌(中国)、占守島(中千島)等、御祭神ゆかりの戦跡の石、砂、サンゴ礁等を用いて大東亜戦争終結五十周年を記念し建立した
 平成七年八月一五日


浦安宮(宮城縣護國神社境内)

別宮浦安宮。
左宮には天照大御神・豊受媛大神・級長津比古神・級長戸辺神、右宮には当地に屋敷神として古くから祀られている白水稲荷大神と伊達政宗公がまつられている。


昭忠碑(宮城縣護國神社管理)

仙台城(青葉城)本丸跡に建つ昭忠碑(宮城縣護國神社管理)。
明治35(1902)年、仙台にある第二師団関係の戦没者を弔慰する目的で建立された。
東日本震災により高さおよそ15mの石塔上部に設置されたブロンズ製の鵄(とび)が落下・破損する被害を蒙った。
鵄本体旧状通りに戻した場合、大地震が発生した際には再び高所より落下する恐れがあるため、安全性を考慮して塔の下に設置復元を実施。

鵄は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)が依嘱を受けて同校内で制作・鋳造したもの。

昭忠
元帥大勲位功二級彰仁親王書

小松宮彰仁親王

明治34年8月起工
明治35年7月竣工

東日本大震災の記憶~昭忠碑(しょうちゅうひ)~
設置年
 明治35年(1902)(明治33年制作委嘱 明治34年着工)
設置目的
 西南戦争・日清戦争等戦没者慰霊碑
所在地
 仙台市青葉区川内 青葉山公園仙台城本丸跡
所有者
 宮城縣護國神社
「昭忠」揮毫
 小松宮彰仁親王(1846~1903)
 (昭忠とは、忠義を明らかにするという意)
全体の高さ
 約20m
鵄の材質
 とび ブロンズ製
鵄の重量
 4,689トン(修復後の内部構造材を含む総重量)
鵄の制作
 宮城県昭忠会(陸軍第二師団関係者で組織され、会長は宮城県知事)が東京美術学校(現在の東京藝術大学)に制作委嘱
 川邊正夫(岡山県生まれ1874~1918)全体構想立案
 沼田一雅(福井県生まれ1873~1954)鵄原型製作
 桜岡三四郎(茨城県生まれ1870~1919)鵄の鋳造
 津田信夫(千葉県生まれ1875~1946)鵄の鋳造

 昭忠碑の塔上に設置された鵄は、戦前の金属供出を免れた明治30年代制作のブロンズ彫刻作品として希少であり、仏像を除くブロンズ彫刻として東北地方で最も古い時期に設置された重要な作品です。
 平成23年3月11日の東日本大震災により、鵄が塔上から落下し、大きく破損しました。
 破損した鵄は、平成25年2月、文化財レスキュー事業により、石段前に仮設置され、平成26年5月から文化庁補助事業として、保存修復事業が開始されました。平成27年7月、修復のため東京のアトリエに運ばれましたが、平成28年10月、修復作業が完了し、石塔の安全性を考慮し、塔の上ではなく、基壇上に設置されました。


伊達政宗公騎馬像

昭忠碑とおなじく、東日本大震災で被災した伊達政宗公騎馬像。2023年3月に修復が完了し、旧来の姿を取り戻している。

政宗の騎馬像は、昭和10(1935)年5月、藩祖公没後三百年祭を記念し、宮城県青年団が寄付を呼びかけて建立されたもの。
第二次世界大戦中の金属供出令によって消失するが、昭和39(1964)年9月に復元鋳造。

本丸跡からの眺望

仙台の戦跡散策、つづいては、仙台城址周辺の散策へ。

※2023年8月撮影


関連

長岡空襲の慰霊巡拝と長岡史跡散策

新潟県長岡市。
長岡は、2度の戦災で焼失をしている。戊辰戦争と太平洋戦争。
そして、太平洋戦争では、新潟県下で最大の被害をだしている。
長岡空襲の鎮魂巡礼をさせていただきました。
(ただし、時間の関係があり、すべての慰霊碑を網羅しておりません。)

以下、戦跡と碑石と墓所の散策。


長岡空襲

昭和20年(1945年)8月1日の午後10時30分から翌8月2日の未明午前0時10分の間に、アメリカ軍により行われた空襲。
1時間40分にわたり、新潟県長岡市の中心部市街地を標的に、125機のB-29によって925トン焼夷弾が大量に投下され163,000発あまりの焼夷弾が長岡市に降り注いだ。これにより中心部市街地の約8割が焼失し、長岡市長だった鶴田義隆を含む1,488人の市民が死亡した。罹災戸数は11,986戸にも及ぶ。

総務省>

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/shinetsu_02.html


長岡市>

https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/cate12/sensai/kuusyu.html

長岡は、山本五十六の出身地でもあり、長岡空襲の爆撃中心点は、結果として山本五十六の生家の近くの明治公園であった。

以下、関連する史跡を散策。


長岡戦災資料館

資料館がある。まずは、事前情報として、最初に足を運ぶことをお勧めます。
(私は、時間の制約があり、最後に見学でしたが)

https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/cate12/sensai/siryoukan.html

場所

https://maps.app.goo.gl/ewx8wxgYAQT5jyFV6


長岡空襲爆撃中心点の碑(明治公園)

山本五十六生家の山本公園の近くにある明治公園。
ここが、長岡空襲の爆撃中心点であった。

長岡空襲爆撃中心点の碑
米軍は、昭和20(1945)年6月に長岡地域を空撮し、リト・モザイクと呼ばれる精密な航空写真を作成した。そこに爆撃目標範囲となる半径4,000フィート(約1.2km)の円を描き、その円の中心点を狙って爆撃する作戦をとった。その地点がここ明治公園にあたり、長岡空襲における爆撃中心点である。
同年8月1日の長岡空襲では、この作戦に基づき125機の米軍爆撃機B29が大量の焼夷弾を投下した。それにより市街地の8割が焼け野原となり、現在わかっているだけで、1,486人の尊い命が失われた。
長岡空襲の史実を後世に継承し平和の尊さを伝えるため、ここに碑を建立する。
 平成28(2016)年8月1日
  長岡市

長岡のリト・モザイク(米国立公文書館所蔵)
記された円は確率誤差円といい、米軍は円内に着弾する確立を50%と見込んでいた。横軸070縦軸073の交わる位置が爆撃中心点である。
赤い線はB29の侵入経路であり、南西から北東へ飛行した。

明治天皇行在所御遺蹟(明治公園)

明治公園は、明治天皇が巡幸の途中に立ち寄った場所が由来となっている。明治天皇の北陸巡幸は1878年(明治11年)のことであった。

明治11年9月22日
明治天皇行在所御遺蹟
子爵牧野忠篤謹書

牧野忠篤は、旧越後長岡藩牧野家15代、貴族院議員。
忠篤は戊辰戦争で山本義路(帯刀)が戦死し無嗣となった旧長岡藩の家老山本家を、当時海軍勤務であった高野五十六少佐に家督継承させて再興するよう働きかけをして実現させている。

野本互尊胸像(明治公園)

明治公園には、互尊文庫(図書館)がある。
創設者・野本恭八郎(野本互尊翁)

野本互尊(恭八郎)は、教育者として互尊独尊の言葉を残し、山本五十六をはじめ、長岡出身の人物に大きな影響を与え、陽明学者の安岡正篤とも深い親交があった。
また、11月3日を文化の日(旧明治節)とし、富士山を国立公園とする活動も行っていた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/ED7dYVrYvGvCgwcr5


戦災殉難者之墓(昌福寺)

長岡空襲に際して、身寄りが分からない遺体は合同で荼毘に付されましたが、遺骨の埋葬場所はなかなか見つからなかった。そうしたなかで、昌福寺が埋葬場所の提供。
1945(昭和20)年9月に遺骨はようやく埋葬された。そして、1947(昭和22)年9月には、市民の寄附により墓碑が建立された。

戦災殉難者之墓

昭和二十年八月一日当市戦災 殉難者市長ほか千百四十名 茲に有志相計り全市民の浄財を以って永く菩提を弔う

合掌

鵜殿春風の墓(昌福寺)

鵜殿団次郎(鵜殿春風)
幕末期の洋学者。蕃書調所教授。諱は長養、号は春風。

鵜殿春風の墓
 長岡藩士の鵜殿団次郎は天保2年(1831)生まれ。春風と号した。
 幼いころ神童とうたわれ、江戸に遊学し、蘭・英の学を修めた。数学・測量学に優れ、幕府の蕃書調所で数学を教授した。
 勝海舟をたすけて、西郷隆盛との交渉の間にたち、江戸開城を成功させた。
 長岡藩開戦後、急いで帰郷したが、病のため、明治元年(1868)38歳で没した。
 著書に「万国奇観」などがある。
 長岡市教育委員会

昌福寺
戊辰戦争では負傷者を手当てする軍病院としても機能した。
戊辰戦争戦後間もない明治2年、米百俵で有名な小林虎三郎が焼失を免れた昌福寺の本堂を借りて学校を開校している。
「長岡国漢学校発祥之地碑」が門前にある。

場所:

https://maps.app.goo.gl/kJC4Gcwmbio2VYPo8


河井継之助の墓(栄凉寺)

河井継之助の墓
 文政10年(1827)1月1日、長岡城下同心町(表町)に生まれた。幼少から文武にいそしみ、主に陽明学を修めた。
 河井家の禄高は、120石であったが、その才腕を認められて長岡藩政を指導し、のちに家老上席、軍事総督となった。
 北越戊辰戦争では、新政府軍との小千谷談判にのぞみ、意見が通らず開戦となった。長岡城攻防戦では、よく奮闘してその名を高めた。長岡城を奪還した際、傷を負、慶応4年(1868)8月16日、会津塩沢で陣没した。
 長岡市教育委員会

河井家の墓は此處
忠良院殿が継之助様であります

墓石がいくつかあるが。

ひときわ、ぼろぼろなのが、河合継之助の墓と思われる墓石。
長岡を荒廃させた張本人として恨む者たちによって、何度も倒された墓石という。

牧野家代々の墓(栄凉寺)

栄凉寺は、長岡藩牧野家の菩提寺でもあった。

二見虎三郎の墓(栄凉寺)

河井継之助が長岡藩の運命を決めた小千谷談判に随行した唯一の長岡藩士。

戦歿者供養塔(栄凉寺)

明治戊辰戦争以降太平洋戦争終了迄の戦歿者を合祀。

合掌

栄凉寺

場所

https://maps.app.goo.gl/s9Ta2dase21kZo8b7

この日は、河井継之助記念館は休館日でした。。。

まあ、長岡はまた来ると思います。

撮影:2023年9月


長岡空襲関連史跡について

長岡市サイトをベースに散策するのをおすすめします。

https://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/cate12/sensai/sensai5.html

①模擬原子爆弾投下地点跡地の碑(左近町、永代橋付近)
②柿川戦災殉難地の碑(柳原町、柳原公園)
③戦災殉難者慰霊塔(表町1、平潟公園)
④平和像(本町3、平和の森公園)
⑤長岡空襲爆撃中心点の碑(坂之上町3、明治公園)
⑥戦災殉難者之墓(四郎丸4、昌福寺)

1番から4番まで、まだ巡礼できていません。。。
機会あれば、再訪します。


関連

「聯合艦隊司令長官・山本五十六」由縁の地を巡る(長岡)

長岡に赴く機会があった。
長岡といえば、山本五十六。せっかくなので、山本五十六元帥ゆかりの地を巡ってみる。


山本五十六

新潟県長岡出身。
旧姓は高野(たかの)。
海兵32期、海大甲種14期。第26、27代連合艦隊司令長官。
海軍兵学校では、同期生に堀悌吉、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾などがいる。

昭和18年4月18日、ソロモン諸島前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)。
日本において皇族・華族以外で、国葬を受けた最初の人物。


山本元帥生誕記念公園

山本五十六元帥の生家を復元し、記念公園として整備してある。

山本元帥誕生地

山本五十六は、1884年(明治17年)4月4日、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士(120石)・高野貞吉の六男として誕生した。
当時の父親の年齢から「五十六(いそろく)」と命名された。

山本元帥生誕記念公園記
 山本元帥は長岡の生んだ最大の偉人であるばかりでなく、明治・大正・昭和の三代に於ける日本の代表的偉人である。偉人は遠い處にあるのでなく、他にあるのでなく、我の中にある。誰れもの各個の性質の中にそれぞれ偉人の素質に存している。こゝに来り集まる青少年達よ、大人達よ、この人に學び、この人に倣え。然らば則ち亦偉人となることが出来よう。偉人とは自ら謙虚にして堅忍不抜、自らを人の中に置き、人のために、社會のために、國家のために捧げる人である。これが自らを大に生かす所以である。
 元帥は明治十七年四月四日、この地で、舊長岡藩士高野貞吉六男として生れた。時に貞吉五十六歳であった。後年赫々世界歴史上にその偉大さをうたわれた聖将山本元帥その人であった。長岡の歴史、山川、風土が元帥の修養努力と相待って、その人格と地位とを作り上げたのである。
 元帥の学んだ阪之上小學校、長岡中學校もこゝから近い。青少年達よ、この偉人に續け。元帥は自ら處すること嚴に他を處すること寛であった。自らを捧げて他を大ならしめる山本精神はこゝで生れたのである。
 こゝに我が景仰會が元帥の胸像を安置して、その誕生地を記念し、後進子弟の奮起を待つ所以である。
 昭和33年11月3日
 山本元帥景仰會

山本元帥生誕の地
 提督山本五十六は、明治17年(1884)、旧長岡藩士の髙野貞吉の六男に生まれた。
 高野家は代々儒官と槍術指南役をつとめ、質素倹約の生活を家風とした。
 五十六は海軍兵学校にはいり、大正五年、迎えられて旧長岡藩家老・山本家の名跡を継いだ。海軍次官を経て、連合艦隊司令長官。
 昭和18年(一九四三)太平洋戦争において戦死、元帥の称号をうけた。
 生家は戦災で焼失し、後に復元した。
   長岡市教育委員会


山本五十六胸像

山本元帥の胸像。

胸像は、昭和23年、霞ヶ浦の湖底から引き揚げられた胸部をブロンズ像に鋳直したもの。

もとは、山本五十六の戦死後の昭和18年12月に作られ、霞ヶ浦航空隊に設置されたコンクリート製の全身像。
終戦後に、米軍の破壊を案じた土浦海軍航空隊では、山本五十六元帥像の上半身を霞ヶ浦に沈め、下半身を台座近くに埋めたという。上半身はその後引き上げられ、現在は江田島の教育参考館に展示。
この地のブロンズ像は、胸像部分を鋳直復元したもの。

また、現在、陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校内の予科練記念館前に建っているものは、戦後の平成16年1月に作った新しいブロンズ像となる。

以下は、土浦駐屯地内「雄翔館」前の山本五十六像。(2023年4月撮影)


山本五十六の生家

山本元帥生誕の地 
 山本元帥は、長岡藩士の髙野貞吉の第六男としてここに生まれ、のちに海軍兵学校にすすみ、少佐のとき長岡藩家老山本家の名跡の絶えるのをおそれ迎えられて山本家を継ぐ。
 大東亜戦に壮烈な戦死を遂げられ元帥府に列し、特に元帥の称号を賜る。ご生家は昭和20年の戦災で焼失したので、これを復元し、ここを山本記念公園と命名した。
   長岡市教育委員会

石膏の山本元帥の胸像。

山本五十六の手紙。
昭和17年に、相馬御風に送ったもの。相馬御風も山本と同じく新潟の出身(糸魚川)

位牌。

大義院殿誠忠長陵大居士

「長陵」は生前の山本が用いていた雅号

常在戦場

越後長岡藩・牧野家に代々伝えられてきた家訓。長岡藩の藩風・藩訓でもあった。

手前の左端に写っているのが、山本五十六であろうか。

山本五十六の手紙

終戦の詔

真珠湾攻撃の電文

手紙

便所

台所

廊下

階段

山本五十六の勉強部屋(二帖部屋)

部屋から、胸像がよく見える。

場所

https://maps.app.goo.gl/FCZ58Kcnn393ncAEA


山本五十六記念館

1999年に開業した山本五十六記念館。

http://yamamoto-isoroku.com/

山本元帥御愛育の名木「唐楓(とうかえで)」
 この楓は、山本五十六が鎌倉在住の頃に自ら買い求め、以後、大切に育てられていたものである。
 昭和14年、海軍次官官舎より青山の自宅に転居する際には、「その楓は、もとから官舎にあったものじゃないから持っていこう」と移しかえたという逸話が残っている。
 南青山の旧山本邸は、都市開発の関係で取り壊されたが、その際に有志により一旦移植され、丹念に生育された後、平成22年秋に山本五十六記念館に寄贈されたものである。

館内は撮影禁止。
下記のサイトで360度パノラマビューできる。

https://360vrpanorama.jp/yamamoto-isoroku/hall.html

見どころは、「一式陸上攻撃機・長官搭乗機の左翼」

昭和59年(1984)2月山本五十六の生誕100年を記念して、山本元帥景仰会は、ブーゲンビル島のジャングルをたずね、搭乗機の残骸を前に慰霊祭を行った。その後、パプアニューギニア政府の厚意により平成元年(1989)、左翼の里帰りが実現。

展示品

山本五十六記念館展示図録を購入しました。

場所

https://maps.app.goo.gl/o2w5Ss1LadW8FNjv5


山本五十六墓所(長岡・長興寺)

山本家の墓所。
長岡の山本家の墓では長岡藩が朝敵であった事から養祖父「山本帯刀」の墓が非常に質素に作られている。山本五十六の墓は、その山本帯刀よりもさらに質素に造られた為、戦死した陸海軍将官中、最も粗末な墓とされている。(多磨霊園の墓はまた別として) 

山本家の墓
 長岡藩家老職山本家は、武田信玄の軍師山本勘助の血脈。代々、藩主牧野氏に仕え、政治、文政に尽くした。
 特に老迂齋精義(ろううさいきよよし)は、名家老と称賛され、歴代の藩主を五十年にわたってよく助けた。幕末、帯刀義路(たてわきよしみち)は、北越戊辰戦争で大隊長として奮戦。会津飯寺で痛恨の死を遂げた。
 山本五十六元帥は、旧長岡藩士高野家から山本家を継いだ。はやくから航空機の重要性を説き、連合艦隊司令長官として、近代戦を指揮したが、昭和十八年四月十八日、南冥に散華した。
 長岡市教育委員会

山本家の墓。中央に山本五十六の墓石。左隣りに山本帯刀。

大義院殿誠忠長陵大居士

大正六年五月十九日 越後長岡 山本五十六

五十六 昭和十八年四月十八日於南太平洋戦死享年六十歳
十三 大義院殿誠忠長陵大居士 

最後の山本五十六の墓誌は、長男の山本義正氏が追記したもの。

旧長岡藩家老の山本家墓誌は山本家を相続した山本五十六によって記されています。
平成十六年(2004)十月二十三日の中越地震で崩壊した墓碑の改修にあたり父の戒名を加えて建立しました。
 平成十九年(2007)四月十八日
  山本義正

山本家の家紋は、左三つ巴紋

長興寺

場所

https://maps.app.goo.gl/dwNtciK67PvKwXAs5


山本五十六墓所(多磨霊園)

1943年(昭和18年)4月18日。 連合艦隊司令長官 山本五十六海軍大将戦死の日。 多磨霊園に埋葬。 墓字は山本五十六の国葬葬儀委員長を務めた米内光政による。

※2015年2月撮影

昭和18年6月5日に行われた山本五十六元帥の国葬の列は「水交社本部ビル」から出発し「日比谷公園」で国葬が行われた。葬儀委員長は米内光政。 皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例という。

山本五十六元師国葬 NHKアーカイブス https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009060058_00000 …


阪之上小学学校(長岡町立阪之上尋常小学校)

山本五十六は、明治23年(1890)4月、長岡町立阪之上尋常小学校)現在の阪之上小学校)に入学している。


新潟県立長岡高等学校(古志郡立長岡尋常中学校)

山本五十六は、明治29年(1896)4月、古志郡立長岡尋常中学校(旧制新潟県立長岡中学校)に入学。
正門は、国の登録有形文化財(建造物)、大正5年(1916)建立なので、山本五十六よりも新しい。


長岡駅

明治31年(1898)に開業。

昭和18年(1943)4月18日、一式陸上攻撃機に搭乗し前線視察中、パプアニューギニア ブーゲンビル島上空で米軍機の攻撃を受け山本五十六は戦死。
およそ一か月間極秘事項として伏せられ、5月20日、堀悌吉により山本家に五十六の訃報が伝えられる。
翌21日午後3時、大本営発表。
国民には新聞やラジオ報道を通じて「元帥府に列せられ国葬を賜う」と知らされた。
6月5日、東京麻布の水交社を出発した葬列は日比谷公園に到着、盛大に国葬は営まられた。
6月7日、長岡駅に到着した山本の遺骨は、多くの市民に見守られ菩提寺長興寺の山本家墓所に納められた。

※撮影:2023年9月


関連

土浦海軍航空隊

霞ヶ浦海軍航空隊

多磨霊園

12月8日

米内光政

井上成美

明治天皇銀婚式記念「可美真手命像」(浜離宮恩賜庭園)


可美真手命(うましまでのみこと)

可美真手命(日本書紀)、宇摩志麻遅命(古事記)
邇芸速日命(天津神)が那賀須泥毘古(大和地方の豪族)の妹である登美夜毘売を娶って生んだ子が、可美真手命。
神武天皇の東征に際して、那賀須泥毘古を殺し、神武天皇に帰属。
可美真手命は、穂積臣、物部連などの祖にあたる。
御祭神としては、物部神社、石上神宮などに祀られている。


可美真手命像

可美真手命像
明治27(1894)年、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った検証募集に当選した作品で、佐野昭氏が制作、鈴木長吉氏が鋳造したと言われています。

明治天皇の銀婚式記念。
明治27年3月9日に催された大婚二十五年祝典。
日本で初めて明治天皇が銀婚式の祝賀を行ったことが契機になり、金婚式の折返しにあたる銀婚式を日本に広めた式典ともなった。
ちなみに、同じ年の明治27年7月25日から、日清戦争が勃発している。

フツノミタマを抱える可美真手命

神武天皇の東征に従った可美真手命は、末裔となる物部氏が武門の家柄となり、近代においては、軍神として崇敬された。

可美真手命像は、太平洋戦時の金属供出を逃れ、今も変わらずに勇姿を伝えている。


浜離宮(浜離宮恩賜庭園)

この地は、江戸時代に埋め立てがすすみ、将軍家の鷹狩場として活用されていた。
三代将軍徳川家光の三男綱重が賜邸され、屋敷が築かれた。
その後、徳川将軍家浜御殿として、活用され、11代徳川家斉の時代には、鴨場も設けられた。
幕末には、浜御殿は海軍所となり、御殿奉行を廃止され海軍奉行となったが、15代将軍慶喜は、江戸城と浜御殿には一度も入ること無く、明治を迎えることになった。

明治期の浜御殿は、東京府の管理となり軍事的利用から貴賓接待場に変化していた。
明治3年に宮内省の管轄となり「浜離宮」となった。
明治7年(1872年)1月28日、敷地内にあった外国貴賓用の施設「延遼館」(日本で最初の西欧式の石造建築)を外務省所管とし、敷地21,765坪を宮内省所管とした。

昭和19年(1944年)11月29日、浜離宮にサイレンが鳴り響き、上空をB29が編隊で通過した。園内には防空壕が造られ、高射砲も備えられていたが、一帯は火の海となり、浜離宮は日に包まれ、歴史的建物は全て焼失。稲荷と宮内省官舎だった現在の芳梅亭だけが生き残ったという。

鴨がいますね。

鴨場も復元されてる。

鴨塚

鷹場も

稲荷神社(稲生神社)

三百年の松。

延遼館の跡。

※撮影:2022年12月


関連

土浦海軍航空隊と霞ヶ浦海軍航空隊の慰霊巡拝(土浦・阿見)

阿見と土浦で、霞ヶ浦海軍航空隊と土浦海軍航空隊関連の慰霊碑を巡拝しました。
以下、徒然に。


阿見空襲(阿見大空襲)

昭和20年6月10日。
当時予科練生の訓練が行われていた土浦海軍航空隊とその周辺地区が、米軍のB29爆撃機による大規模な空襲を受け、予科練習生や近隣住民など370人を超える方が犠牲となった。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_02.html


霞ヶ浦湖畔の海軍航空隊

土浦海軍航空隊

霞ヶ浦海軍航空隊


被爆跡記念之碑(青宿壕跡予科練戦没碑)

阿見青宿ノ鹿島神社境内。

昭和20年6月10日の空襲で、神社西側の防空壕に避難中の土浦海軍航空隊の予科練教官11名と予科練習生281名が戦死した。
犠牲者は後述する法泉寺周辺で荼毘に付された。

合掌

第二次世界対戦 被爆跡記念之碑
海軍中将 寺岡謹平書

碑文
 太平洋戦争の末期、当時前線すでに戦力乏しく国内各地は空襲をうけ、物資食糧困窮のなかに、情勢は国民すべてを捲き込む悲愴な「本土決戦」へとかたむいていた。
 時に昭和二十年六月十日。教育訓練施設である土浦海軍航空隊に敵機群が来襲、折から本土防衛の水上特攻要員編成中の飛行予科練習生を中心とする隊員ら二百八十一名が、隊内外で戦死、同時に、当青宿部落を中心に阿見町民家も銃爆撃をうけ、民家多数が焼失又は爆破され住民六名が犠牲になるなど多大の戦災を被った。
 傷恨の跡は、各地に点在するが、いまこれをすべて明らかに留めるところは少ない。
 そして 世は日につれて変わって行く—
 
この場所は、「命を捨てて同胞を護らん」と
愛国の心に燃えて結集した十七・八歳を主体とする”予科練”たちの一部が、武器持たぬ身に血をたぎらせながらやむなく待避した壕の跡であり、不運にも直撃弾二発をうけ、多数が生埋めとなった悲傷の地である。

 ここにこの地の人達が集い、慰霊をおこなってきた戦友・遺族らの意志を継いで、指標を建てる。
 春に先がけて散った若桜たちの、憂国同胞愛の清明な心をとどめる「聖なる地」を顕彰し、ともに悠久の平和を希うことこそ、次の世代に伝える、この地の人達の郷土愛のあかしとおもうからである。
 昭和55年6月10日
  青宿壕跡予科練戦没碑建立委員会撰文

海軍中将 寺岡謹平の謹書。

阿見町名所百選
青宿の鹿島神社
 最新は武甕槌命、島状台地上にある。社殿の西側に2基の円墳(1号墳と2号墳)、東側にやや大型の円墳(3号墳)があり、1号墳は乱掘にあり直刀や勾玉が出土している。3号墳は削平されて原型は定かではない。
 神社西側に戦時中防空壕があり、昭和20年6月10日の空襲で入口に爆弾が投下され、避難中の予科練の教官11名と予科練習生281名が戦死、その他119名重傷の惨事が起こった。いま境内に慰霊の碑が立っている。
 阿見町教育委員会

青宿の鹿島神社

神社の西側。古墳?

西側から、土浦海軍航空隊と霞ヶ浦の方向を望む

台地を生かした防空壕であったことがわかる。

阿見町名所百選(44 青宿の鹿島神社)

https://www.town.ami.lg.jp/0000000816.html

場所

https://maps.app.goo.gl/RaR5XejvMNFSsq6EA


元土浦海軍航空隊戦没者之碑(法泉寺)

法泉寺(土浦市)の境内。
昭和20年6月10日の空襲で戦死された土浦・霞ヶ浦海軍航空隊関係者と町民の方を慰霊する碑が集まっている。
『元土浦海軍航空隊戦没者之碑』『戦死者氏名之碑』
『霞ヶ浦海軍航空隊戦没者慰霊碑』
『十三重供養塔』
『阿見町戦災被爆者供養塔』

合掌

元土浦海軍航空隊戦没者之碑は、昭和26年6月10日に建立された土浦海軍航空隊関係者の戦没者慰霊碑。
前述の青宿の鹿島神社にあった防空壕の犠牲者は、この地で荼毘に付された。

墓誌
 太平洋戦争も終末に近づいた昭和20年6月10日、土浦海軍航空隊にB29爆撃機を含む艦載機群の攻撃をうけ、折しも本土防衛の水上特攻要員編成中の第14期甲種飛行予科練習生・錬成中の同第15・16期生、後輩の訓練に当たっていた第13期生及び教官・教員ほか退院ら281名が、隊内及び周辺で散華した。
 当時、海軍適正部(現土浦第三高等学校)の庭で荼毘に附された遺骨はそれぞれ遺族に引渡されたが、法泉寺第52世住職大僧正山岡英明和尚はその残骨を慈しんでこの地に葬り独り回向を続けること10数年、漸く平和よみがえる昭和36年6月第17回忌法要に際し、土浦市・阿見町はじめ広く各地有志の協力を得て墓碑を建立するに至った。以後、戦死者多数を出した14期生同窓一四桜会はじめ各期の戦友らが集い、遺族と共に供養を行っている。
 時流れて三〇年、七生報国・悠久の大義に殉じた若き命の冥福を祈り、ここに悲傷の日を迎えるにあたり墓所の縁起を記す。
  昭和50年6月
   元土浦海軍航空隊戦没者法要委員会

戦死者氏名


十三重供養塔(法泉寺)

この塔は、平成6年6月5日、土浦海軍航空隊戦没者の50回忌に際して建立された。


霞ヶ浦海軍航空隊戦没者慰霊碑(法泉寺)

霞ヶ浦海軍航空隊戦没者慰霊碑は、昭和50年6月に建立。
昭和20年6月10日の阿見空襲で戦死した24名の方々の氏名が刻まれている。


阿見町戦災被爆者供養塔(法泉寺)

平成28年6月建立。


土浦海軍航空隊適性部跡(海軍航空要員研究所)跡地

現在、茨城県立土浦第三高等学校の敷地となっている海軍航空要員研究所跡地。
海軍航空要員研究所(適性部)では、飛行兵の採用試験や適性検査が行われていた。

霞ヶ浦を望む高台。

場所(法泉寺)

https://maps.app.goo.gl/fjWhJUSD3myijdgs6


霞ヶ浦海軍航空隊航空殉職者慰霊塔(神龍寺)

土浦市文京町の神龍寺。
ここに海軍時代に建立された慰霊碑がある。

霞ヶ浦海軍航空隊航空殉職者の慰霊塔は、昭和10(1935)年に建てられ、殉職者41人の名が刻まれています。 
神龍寺の参道近くには霞ヶ浦海軍航空隊に副長として赴任中だった山本五十六が住んでおり、住職の秋元梅峯と交友があったという。
神龍寺24代住職・秋元梅峯は、霞ヶ浦海軍航空隊と親交が深く、慰霊塔建立の10年前の大正14年(1925年)には私財を投じて航空戦死者を慰める趣旨の花火会を霞ヶ浦湖畔の埋立地において行ったことが「土浦全国花火競技大会」の始まりでもあった。

霞ヶ浦航空隊
航空殉職者

航空殉職者

犠牲者の名前が刻まれている

石造念仏車。(念仏車、後生車、輪廻塔)
戦争関連の慰霊塔で、念仏車を備えているのは珍しいと思います。

隣は、消防の慰霊塔。

神龍寺

場所

https://maps.app.goo.gl/m4MfFoxtRFLXhRGXA


忠魂碑(亀城公園)

大正11(1922)年、陸軍大臣山梨半造の揮毫により建立。大正9
(1920)年におこった尼港事件の犠牲者を弔うため、土浦町の青年会の働きかけが建立のきっかけになったといわれている。

ちなみに水戸にある「尼港殉難者記念碑」も同じく陸軍大臣山梨半造の揮毫

忠魂
陸軍大臣山梨半造


土浦城跡(亀城公園)

太鼓櫓門が現存し、東西二か所の櫓は復元。
続日本100名城に選定。


原脩次郎銅像(亀城公園)

原脩次郎(1871~1934)は茨城県初の国務大臣。
昭和10(1935)年に立像が建てられましたが戦中に金属回収に伴い供出。戦後、胸像が復元された。

亀城公園内のミニ動物園には、ニホンザル(日本猿)がいました。

土浦は、まだまだ訪れたいところがありますので、また再訪します。

※撮影:2023年11月


「立川駐屯地創立50周年記念行事(航空祭)」その1(立川駐屯地史料館と歴史散策)

2023年10月29日、一般公開にあわせて、ひさしぶりに立川駐屯地に足を運びました。
以下では、前回の補完もあわせて、記事を再編していきます。

飛行展示は、「その2」で。

以下は以前の記事
「立川駐屯地」

「立川飛行場」

「立川飛行機(立飛)」


立川陸軍飛行場

大正11年(1922)に帝都防衛構想の陸軍航空部隊の中核拠点として開設。
日中戦争さなかの昭和13年(1938)に立川に駐留していた飛行第五連隊隷下の戦闘中隊は「飛行第五戦隊」に改編され、翌年には柏飛行場に移駐。 そののちは実働部隊は置かれなかった。

大東亜戦争のさなかは、実戦部隊は展開されていなかったが、陸軍航空部隊の研究・開発・製造の一大拠点として機能。また軍用機製造の民間工場もあつまっており、戦争末期にはたびたび空襲に見舞われた。

アメリカ空軍立川基地
戦後、アメリカ軍が立川飛行場を接収。アメリカ軍の飛行場運用は昭和44年まで続き、飛行活動停止後に徐々に基地返還が行われる。
昭和47年に立川駐屯地発足、昭和52年に全ての敷地が全面返還。再開発が行われ、今日に至る。

2013年より始まった立川基地跡地再開発事業により、それまで残存していた旧軍の遺構も解体撤去。残るものは少ない。


立川陸軍航空廠

1933年(昭和8年)、所沢にあった陸軍航空本部補給部所沢支部が立川に移転して陸軍航空本部補給部立川支部となる。1941年(昭和16年)8月、立川陸軍航空廠に改称。
北側には陸軍航空技術研究所、西側には陸軍航空工廠が存在していた。


陸軍航空工廠

1940年(昭和15年)発足。
陸軍唯一の航空機製造施設であり、主に航空機用発動機の製造、航空機の設計・試作・製造を目的としていた。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R556-No1-16
昭和22年(1947年)11月14日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

立川飛行場東側
USA-R556-No1-16
1947年(昭和22)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
立川飛行場西側
USA-R556-No1-17
1947年(昭和22年)11月14日 米軍撮影
すでに米軍の進駐がはじまっており、建屋の一部も変更はあるが参考として
再開発の進む現在の様子

立川駐屯地史料館

2019年以来、4年ぶりの再訪です。

展示機MAPと庭園MAPは新しい。
参考にさせていただきます。

CAMP TACHIKAWA 庭園MAP
昭和48年 東部方面航空隊 立川に全面移駐完了
昭和48年に滑走路東側の旧立川駐屯地から現立川駐屯地へと移駐した際、隊員の手によって整備された。移駐にあたり、庭園を整備したほか、旧軍施設や旧立川駐屯地にあった石碑を移設している。

CAMP TACHIKAWA 展示機MAP
航空機としての役目を終え、広報用展示機となった航空機4機種と装甲車

では、MAPに従って散策してみましょう。


【1】八紘一宇

八紘一宇
昭和15年(1940)
 陸軍航空廠本部に建立された。
 アジアが欧米列強の植民地となっている状況を憂い、アジア及び世界が一つの家族のように平和でともに栄えるようにとの願いが。

八紘一宇
陸軍中将 山下奉文 謹書
昭和15年建立

紀元二千六百年記念
陸軍大佐 川崎正寴 謹書

史料館資料より

陸軍航空廠本部
航空廠は、陸軍航空関係の直轄工場です。
写真は、正門から本館を望んだもので、正面の八紘一宇の碑は、マレーの虎と恐れられた山下奉文大将の筆によるもので、現在は史料館東側に展示しています。

史料館にある拓本


【2】行幸記念碑(行幸紀念)

行幸記念碑
昭和8年(1933)
 昭和天皇が初めて行幸されたことを記念して建立された。
 部隊や試験中の航空機を視察されたほか、展覧飛行も行われ、その様子は新聞にも取り上げられた。

行幸紀念
周次郎 謹書

維時昭和八年五月四日  聖駕此地へ幸シ給ヒ親シク陸軍航空ノ威容ヲ臠セラレ當所ノ研究兵器亦  天覧ノ光栄二浴ス乃テ碑ヲ以テ之ヲ不朽二傳フ

周次郎とは、伊藤周次郎陸軍少将のこと。陸軍航空本部技術部長(1932~1935)、昇格後の陸軍航空技術研究所所長(1935~1936)を努めている。
天覧のあった、昭和8年(1933)に、伊藤周次郎が部長を努めていた。

立川駐屯地史料館より。
昭和8年5月4日の 天皇陛下行幸のようすなど。


【3】池

昭和48年(1973)
 隊員の手によって整備された。
 任務に向けて離陸した航空機が無事に帰投するようにとの願いを込めて「ブーメラン」の形を模して設計された。


【4】行啓記念碑

昭和10年11月19日 皇太子殿下の行啓

行啓記念碑
昭和10年(1935)
 皇太子殿下が行啓されたのを記念し、翌年12月に当時の飛行第5連隊長の柴田大佐により建立された。

飛行第5連隊長の柴田信一の最終階級は陸軍中将。陸士24期、陸大33期。
浜松陸軍飛行学校幹事や鉾田陸軍飛行学校長などを歴任した。


【5】行啓記念碑2(皇太子殿下行啓記念碑)

行啓記念碑の2つめ。
昭和16年10月28日 皇太子殿下の2回目の行啓

行啓記念碑
昭和16年(1941)
 再度皇太子殿下が行啓されたことを記念して建立された。
 裏には「陸軍大将土肥原賢二謹書」とあり、当時、航空総監を務めた土肥原大将が書いたことを示している。

土肥原賢二の最終階級は陸軍大将。奉天特務機関長として満州で活躍。欧米では「満蒙のロレンス」と畏怖された。
極東国際軍事裁判では、A級戦犯として処刑された。


【6】飛行第5戦隊記念碑(飛行第五戦隊之碑

飛行第5戦隊記念碑
昭和58年(1983)
 「飛行第5戦隊」の生存者の会により。
 飛行第5戦隊は、大正10年に岐阜県の各務原飛行場で編成され、翌11年に立川に移駐。昭和14年まで立川飛行場に駐屯した。

飛行第五戦隊之碑
開雲 高木秀明謹書


飛行第五戦隊の母隊である航空第五大隊は 大正十年各務原で創設 翌年立川に移駐し 同十四年飛行第五連隊となった
昭和十三年夏飛行第五連隊の戦闘中隊は改編して飛行第五戦隊となり 千葉県柏に移駐した
昭和十六年大東亜戦争の勃発により戦隊は首都防空に任じた 次いで昭和十八年夏南方戦線に進出してジャワ、チモール、ハルマヘタ、比島方面で作戦任務を遂行した
戦局の推移に伴い昭和十九年秋小牧に転進し 同二十年終戦まで中京地区の要塞防空に任じた この間戦隊は武勲を重ねて感状を授与され陸軍戦闘戦隊の華と謳われた
茲に戦隊の歴史を刻し創隊以来国家に殉じた幾多の戦友病没隊員の遺徳を偲びこの碑を建立する
 昭和五十八年五月二十九日
 飛行第五戦隊生存者有志一同

以下は、立川駐屯地の史料館から第五戦隊関連を。

陸軍飛行第5聯隊配置図

ステンドグラス
陸軍飛行第五大隊将校集会所の2階窓に取り付けられていたもの。
大正11年製

オルガン
陸軍飛行第五戦隊の将校集会所にあった

灯籠
立川駐屯地東地区 旧軍通用門門柱

昭和14年まで立川飛行場に駐屯した飛行第五戦隊は柏に移駐となっている。

飛行第五戦隊 その後
千葉県柏で本土防空任務に就いていた飛行第5戦隊は二式複座戦闘機”屠龍”(キ‐45改)を保有していました。昭和18年になると南方戦線を防衛するため、インドネシアのジャワ島マランに展開して船団護衛や要地の防空任務に従事していましたが、、昭和19年7月に名古屋地区の防空任務を命ぜられて本土へ帰還。愛知県の清洲飛行場を拠点として夜間防空に活躍しています。昭和20年7月には五式戦闘機(キ‐100)に徐々に機種改変して対艦攻撃の訓練を行っていました。しかし、本土決戦のため戦力を温存する傾向となり、出撃を延期することが多くなって、8月15日を迎えたのでした。


【7】駐屯地竣工記念碑(竣工記念植樹)

駐屯地竣工記念碑
昭和58年(1983)
 現立川駐屯地移駐の10年後、第5代駐屯地司令の菱田司令の時代に建立された。
 これに合わせて記念樹としてハナミズキが植樹された。


立川駐屯地史料館見学

いくつか目に止まったものをピックアップ。

昭和15年頃の陸軍施設等の配置図。
「立川飛行場」を中心とした、位置関係がわかる。

東側に
陸軍航空技術学校、陸軍病院
立川飛行機(民間)、陸軍獣医資材廠(東立川駐屯地)、立川工作所(民間)。
西側に
陸軍航空技術研究所、陸軍航空廠立川支廠、陸軍気象部立川出張所、陸軍航空工廠、東亜航空機(民間)、千代田航空機(民間)

立川と空襲
 米軍による日本本土空襲が始まったのは、昭和19年11月のこと。同年7月にサイパン島が占領され、ここを基地としたB-29が大挙して来襲するようになった。以来、空襲は激しさを増し、終戦までの10ヶ月足らずにうちに、日本の主要都市のほとんどが爆撃された。
 立川が空襲を受けた理由としては、軍事関連施設が多かったこと、B-29が東京に襲来するときのコースが、サイパン島からまっすぐ富士山めがけて北上し、伊豆諸島上空付近で進路を北東に向け侵入するため、多摩地区が通過コースとなっていたことなどが考えられる。このため立川は、昭和20年2月16日以降、13回の空襲を受けた。なかでも昭和20年4月4日の空襲は激しく、富士見町山中坂ではB-29が落とした250Kg爆弾が命中し、防空壕にいた全員が犠牲となった。立川飛行場にも空襲はあったが、市内の空襲よりも被害は少なかった。これは、終戦後立川飛行場をそのまま使おうと米軍が考えていたから、などと言われている。
 「昭和記念公園は飛行場だった」より抜粋

山中坂の防空壕跡。

昭和初期~昭和15年頃の軍用機

立川は民間航空発祥地

「神風号」昭和12年に立川を離陸して英国へ。

「ニッポン号」の世界一周(昭和14年)

木製プロペラ
日本楽器株式会社(ヤマハ・YAMAHA)

九三式単軽爆撃機の木製プロペラ
(被包式プロペラ甲型)
川崎造船飛行機工場製、昭和9年

八八式偵察機の木製プロペラ
(刃部包装)
日本楽器(ヤマハ)製、昭和6年

二式射撃標準器甲一号
日本工学工業製(ニコン・NIKON)

板垣征四郎大将の書
杉山元大将の書

陸上自衛隊の引退航空機

陸上自衛隊の現役航空機


野外展示機も見学。

【1】UH-1H

UH-1H
全長:17.4m/全幅:2.85m/巡行速度:215km/h
航行距離:420km/乗員:操縦士2名+兵員11名
UH-1Bの後継として1972年から1991年にかけて133基を導入。現在はUH-1Jに託し全て退役。
陸自ではコールサインから「ハンター」と呼ばれる。「ひよどり」という別名もある。米国では「ヒューイ」(先住民族の名)という愛称も。


【2】OH-6D

OH-6D
全長:9.54m/全幅:1.97m/巡行速度:239km/h
航行距離:460km/乗員:操縦士1名+兵員3名
1969年からOH-1J、1979年からはH-6Dが1997年まで310基を導入、2020年に全て退役。
陸自ではコールサインから「オスカー」と呼ばれる。米国では「カイユース」(先住民族の名)とい愛称も。


【3】LR-1

LR-1
全長:10.13m/全幅:11.95m/巡行速度:460km/h
航行距離:2000km/乗員:操縦士2名+兵員5名
1967年から1984年かけて20基が納入。現在はLR-2に託し2016年に全て退役。
陸自では「LR」コールサインから「レコン」と呼ばれる。


【4】L-19

L‐19
全長:7.62m/全幅:10.97m/巡行速度:160km/h
航行距離:750km/乗員:2名
セスナ社で制作されたセスナ170の軍用機。
1954年に米軍から貸与を受け1986年に全て退役。
「L-19」とそのまま呼ばれている。「そよかぜ」という愛称も。

常設の展示場所には、姿が見えず。。。

イベント限定で、滑走路にお引越ししていました。L-19にとっては、何年ぶりの滑走路だろうか。久しぶりの晴れ舞台でちょっと嬉しそうに見えました。

コクピットになにかいました。
こいつ、前から気になっていたんだけど、なぜにここにいるのだろう。ミニオンズ。

今にも飛び立ちそうな佇まい。


【5】60式装甲車

入り口近くに。
何かが乗っている。

60式装甲車
全長:4.85m/全幅:2.40m/速度:45km/h
行動距離:230km/乗員:4名+兵員6名
1960年に制式化され2006年に全て退役。
戦後米国から提供され、三菱重工業が開発。
「60式」は1960年に制式化されたことを示している。災害派遣でも活躍。


立川黒松

庁舎まえの庭園に。

立川黒松の由来
 立川の発展は 飛行場とともにあり 立川は歴史の中から また立川を語る上でも飛行場を忘れることが出来ない
 過ぎた日の飛行場を懐ひ 飛行場がもつ歴史的背景をおもいおこすときいつも立川飛行場を見守っているのが 此の黒松であり現在もそのさまはみごとである
 当駐屯地は 大正10年陸軍が飛行場の建設を開始し 翌年飛行場の開港とともに陸軍飛行場第5大隊が創隊して 兵舎の間には桜や梅など様々な植木が植樹された
 その中でも ひときわ立派で枝振りの良い此の黒松は 本部隊舎前の植え込みに植樹されたもので 昭和56年現在の立川駐屯地が建設された際に現在地に移植された

八紘一宇に続いて、再び本部庁舎前の写真。

現在の庁舎。

撮影:2023年10月


関連