「近代史全般」カテゴリーアーカイブ

白梅学徒隊「白梅之塔」と奮闘継戦した山形聯隊「歩兵第32聯隊終焉の地」(沖縄戦跡慰霊巡拝6)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その6」となります。

その5は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


白梅学徒隊「白梅之塔」

沖縄県立第二高等女学校の「白梅学徒隊」慰霊の塔

白梅之塔
 沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六人で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦としての特別集中教育を受けていた。
 米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。
 戦況は日毎に悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。その場所は殆ど不明である。
 また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一、二十二の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最後を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。
 塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生百四十九柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和二十三年一月に建立した。
 毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。
  平成十年六月二十三日 
   沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会

白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)
 沖縄県立第二高等女学校の前身は、1905年(明治38年)那覇市に設立された女子講習会(同年私立那覇女子技芸学校となった)で、その後変遷を経て、1928年(昭和3年)に沖縄県立第二高等女学校になりました。
 1945年(昭和20年)3月24日、生徒たちは東風平村(現八重瀬町)富盛の八重瀬岳に置かれていた第二十四師団第一野戦病院に配置されることになりました。
 生徒たちの仕事は、負傷兵の看病や手術の手伝い、水汲み、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬などでした。
 その後、5名の生徒が具志頭村(現八重瀬町)新城の自然洞窟(ヌヌマチガマ)の新城分院に配置されましたが、米軍が迫ってきたため、6月3日、分院は閉鎖されました。
 6月4日、病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒たちはそれぞれ数名ずつ班をつくって南部へと向かいました。
 6月9日、一部の生徒は国吉(現糸満市)に到着。18日に国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、辺りは一大殺りく場と化し、21日と22日に壕が馬乗り攻撃を受け、多数の死傷者を出しました。
 国吉に行かなかった生徒たちは、砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続 け、ほとんどの生徒が6月下旬に米軍に収容されました。
  平成28年3月 
   沖縄県子ども生活福祉部平和援護・男女参画課

白梅之塔

建立は平成4年(1992)6月10日。
沖縄県立第二高等女学校同窓会

犠牲者の御芳名

ちいさな「白梅之塔」(もとの慰霊塔)と、「納骨堂」

白梅之塔

散りてなほ 香りい憂し 白梅(うめ)の花
 元教諭 金城宏吉
  昭和二十二年一月建立

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_012/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/Crj79zEr4x6yd3CF9


白梅学徒隊「自決之壕」

白梅学徒看護隊
自決之壕

昭和56年6月23日建立

マチドーヌティラ
 字国吉の南西に位置するこの自然洞穴を、地元ではマチドーヌティラといいます。ティラとは神が鎮座する洞穴のことを指すといわれ、毎年旧暦 9月にはクングゥチムヌメーという伝統行事が国吉自治会によって行われています。
 また、この壕は沖縄戦において第24師団第 1野戦病院に動員された白梅学徒の一部が入っていた壕としても知られています。八重瀬岳の麓にあった同野戦病院は 1945年 6月 4日に学徒に解散を命じ、この壕に撤退してきました。鉄の暴風が吹き荒れる中、行き場のない学徒16人は野戦病院の部隊と行動を共にし、この壕で再び負傷兵の看護を手伝うことになりました。この壕の南、「山形の塔」の近くには「上の壕」と呼ばれた壕があり、食糧や弾薬の倉庫、学徒らの仮眠所として利用されていました。一方のこの壕は「下の壕」と呼ばれ、負傷兵の看護場所でした。6月 21日に「下の壕」、翌 22日には「上の壕」 が米軍の激しい攻撃を受け、学徒 16人のうち 10人が死亡しました。
 戦後この敷地内には、第二高等女学校の全戦没者を祀る「白梅の塔」、字国吉の住民による「萬魂之塔」が建立されています。
  糸満市 平成31年3月

周辺の位置関係

マチドーヌティラは「下の壕」。2021年11月に内部で崩落があり、立入禁止となっている。

ティラとは神が鎮座する洞穴であり、この地は、慰霊の場でもあり、聖なる場でもある。

白梅学徒隊自決の壕の入口。
内部崩落があり、立ち入り禁止となっていた。

合掌

南禅廣寺
白梅之塔の東側にあり、向かって左側に白梅学徒看護隊の自決之壕がある。
琉球王朝時代からの寺院という。

場所:

https://maps.app.goo.gl/5atU1WwbfrJ5GyZr5

https://maps.app.goo.gl/c3d88QHHLwKXaW1J8


萬魂之塔

糸満市国吉地区は沖縄戦最後の激戦が繰り広げられた場所である。
同地区の住民は各所に散っていた遺骨を洞穴に納めたが、昭和30年5月にコンクリートの塔を完成、無名戦没者の4000余柱を合祀した。

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/mankonnotou

敵味方関係なく、純粋に真摯に、戦没者を弔っている。

場所:

https://maps.app.goo.gl/5atU1WwbfrJ5GyZr5


陸軍大尉中村巌之碑

歩兵第32聯隊に属する独立機関銃第17大隊の隊長。
6月18日、中村大尉以下17名が戦死している。

場所:

https://maps.app.goo.gl/NHCK5YNfsa45vocYA


上の壕

上の壕(眞山之塔裏)は食糧弾薬倉庫、下の壕(白梅之塔側)は傷病兵の看護場所、であった。

白梅之塔 上の壕
 左の竪穴は、沖縄戦当時軍の物資置場であったが、白梅学徒看護隊の仮眠所でもあった。
 昭和20年6月22日、米軍の攻撃を受け、軍人・白梅隊員及び一般住民が死傷した。
  昭和63年6月 白梅同窓会

格別に整備されていない竪穴は、静かに自然に埋没していた。

場所:

https://maps.app.goo.gl/edhyv9DhT8k5GwBa9


眞山之塔

雨宮中将率いる第24師団の各部隊は運玉森を守っていたが、第32軍司令部が摩文仁へ移ったのに伴い、与座岳、国吉、真栄里の線に後退し布陣を敷き、米軍と戦った。ここに陣地を築いて戦い全滅した100人余りを祀っている。

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/mayamanotou

沖縄の守備を担った第32軍に属する第24師団は、圧倒的火力を誇る米軍相手に熾烈な抗戦を繰り広げるも南部に追い込まれ、師団長・雨宮巽陸軍少将は、6月20日に師団の自活自戦を指示し師団としての組織的な戦闘を終了させた。
第24師団の師団長・雨宮巽陸軍少将(死後に中将)と参謀長の木谷美雄大佐(死後に少将)は、1945年6月30日に自決している。
(なお、第32軍の軍司令官・牛島満陸軍中将は6月23日に自決)

 怒涛の南進を続ける米軍に対し第二四師団隷下の各部隊は最後の拠点として真栄里地区に陣地を構築し勇戦奮斗敵の心胆を寒からしめたるも、ついに昭和二十年六月十七日この附近の壕内において玉砕せり。
 ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め永くその遺烈を伝う。
  昭和四二年二月財団法人 沖縄遺族連合会

場所:

https://maps.app.goo.gl/edhyv9DhT8k5GwBa9


山形の塔

糸満市真栄里、昭和40年建立。

1965年 2月山形県民の総意と誠心による碑石、台座を県から運び建立したもの。この地は歩兵第32連隊が激しい戦いを繰り広げた場所でもある。

合祀者数:40,834柱(沖縄戦戦没者 765柱、南方諸地域戦没者 25,612柱、その他地域戦没者 14,457柱)

https://heiwa-irei-okinawa.jp/ireitouhi/yamagatanotou

山形の塔

山形県知事安孫子藤吉謹書

山形の塔建立記
 大東亜戦争において祖国防衛のため惜しくも散華された山形県出身三万八千余の英霊を仰ぎその偉勲をしのび、み霊の冥福を祈り永久に鎮まりますことを念じここに県民の総意を結集してこの塔を建てたのである
 昭和四十年二月六日
   建設期成同盟会長 加藤富之助

山形の塔
 この塔は沖縄(七七六柱)をはじめ海外諸地域において戦没された山形県出身者四万余柱の諸霊を祀ってあります。
 一九六五年二月山形県民の総意と誠心による碑石、台座を県から運び建立してもので、この聖地は歩兵第三二連隊が軍旗を奉持勇戦奮斗し一九四五年八月この壕で奉焼した由緒ある丘であります。
 右の堂は観音像(二体)を安置する観音堂です。
   山形県
    一九八二年十月(再記)

場所:

https://maps.app.goo.gl/RsrasQkCDi1PpioX8


第二十四師団歩兵第三十二聯隊の壕(ウフ壕・田原屋取の壕)

歩兵第32聯隊の最期の壕
もともとは、真栄里の住民が整備した避難壕であった。

場所:

https://maps.app.goo.gl/RsrasQkCDi1PpioX8


歩兵第三十二聯隊終焉の地

沖縄戦初期の前田高地の激戦(米軍戦車群を擲弾筒射撃および肉薄攻撃によって阻止)、棚原の戦い(第32軍の総攻撃で米軍陣地を突破し、棚原一五四.九高地を奪取)から末期の国吉高地まで、終始激戦の最前線で戦ってきたのが第24師団の「歩兵第32聯隊」であった。

歩兵第32聯隊は、上級司令部にあたる第32軍(牛島満中将は6月23日に自決)、第24師団(雨宮巽中将は6月30日に自決)の組織的な戦闘行為が壊滅したのちも、第32聯隊長・北郷格郎陸軍大佐、第1大隊長の伊東孝一大尉のもとで組織的な戦闘を継続。

歩兵第32聯隊は、残存将兵をもって、米軍に多大な損害を与え続け、既に沖縄戦勝利を発表していた米軍を悩ませ続け、そして8月15日の終戦まで、国吉台の洞窟陣地を堅持し、最期まで健闘した。
8月29日の武装解除の段階で、歩兵第32聯隊の残存将兵は約300名であった。

我が興亡の史碑
歩兵第三十二聯隊終焉の地
呼名 霞城聯隊・満州八〇三部隊・山三四七五部隊、
   平成十七年八月 建
    聯隊関係者一同

 聯隊は明治31年3月末軍旗を拝受して山形に誕生し日露戦争黒溝台会戦で武勲を立て満州事変熱河作戦に活躍した。
 太平洋戦争の沖縄戦で終始敢闘し昭和20年6月23日軍の組織的戦闘が終了後も残存軍民協力してこの地を守り終戦後の8月28日夜軍旗を奉焼し翌日鉾を納めた。
 この間の戦没者に対し心から弔意を捧げる

場所:

https://maps.app.goo.gl/wokGqXuAjTMwQ1QVA


撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その7」へ

「沖縄陸軍病院糸洲二外科壕跡」と「糸洲の壕跡」(沖縄戦跡慰霊巡拝5)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その5」となります。

その4は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


沖縄陸軍病院糸洲二外科壕

いままで見てきた壕とは違い、ここは詳細な説明がとくにない、目立つことのない静かな壕。糸満市の糸洲集落の北側にある。
半分埋もれかけている。

ぬちどうたから

「ぬちどぅ宝」「命どぅ宝」
沖縄の言葉で「命こそ宝」を意味する。
沖縄戦では、集団自決から「命こそ宝」の言葉で気の残ったという証言も残っている。

陸軍病院第二外科壕

壕内には入れない。

開口部で合掌する。

コンクリートの塊で塞がれている。

場所:

https://maps.app.goo.gl/EWBzQY65r5C9N5Yv9


糸洲の壕跡(ウッカーガマ)

糸満市字伊敷にある壕。
小池勇助少佐(死後に中佐昇進・佐久市出身)が率いた第24師団第二野戦病院の跡地。

6月26日、学徒隊の解散にともない、小池少佐は「ふじ学徒隊25人(積徳学徒隊・積徳高等女学校)」に、「君たちは非戦闘員だ。死んではならぬ。つらくても生きのび、戦争の悲惨さを後世に伝えるのが君たちのつとめだ」と訓示し解散命令を発した。小池少佐は、最後の訓示ののち学徒隊を送り出して自決。最終階級は中佐。

「ふじ学徒隊」は、多くの犠牲者をだした他の学徒隊と比べ、3人の犠牲者に留まり、小池少佐の教えを守った。
小池勇助軍医の辞世の句
 南の孤島の果てまで守りきて
  御盾となりてゆく吾を
 沖のかもめの翼にのせて
  黒潮の彼方の吾妹に告げん

「ふじ学徒隊(積徳学徒隊)」の「積徳高等女学校」は、沖縄県那覇市久茂地にあった高等女学校で、1930年に私塾として開設した高等女学校

なお、「糸洲の壕」の入り口は2つあり、それぞれ「ウッカーガマ」と「ウンジャーガマ」と呼ばれていたという。慰霊碑は、ウッカーガマの入口にある。また、北西の「轟の壕」まで一部は繋がていた、ともいう。

鎮魂之碑

此の洞窟は第二十四師団山第二野戦病院の跡である。長野富山石川出身の将兵現地防衛招集兵並に従軍看護婦積徳高等女学校看護隊が傷病兵を収容した壕跡である

鎮魂の碑
(御霊よ。安らかに)

戦闘避難中に、当地で戦没した民間の慰霊碑

糸洲の壕

合掌す

場所:

https://maps.app.goo.gl/gVEVG3D9eFyq5RU67

近年(2025年)、整備が行われました。

https://www.city.itoman.lg.jp/site/toretateitorepo/27891.html


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その6」へ

「沖縄陸軍病院山城本部壕跡」と「井原第一外科壕跡」(沖縄戦跡慰霊巡拝4)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その4」となります。

その3は、下記にて。

2022年10月記録です

「ひめゆりの塔」は、伊原第三外科壕の跡地。
ちかくには、同じように南部に追い込まれてきた陸軍病院本部壕と、伊原第一外科壕、伊原第二外科壕などもあった

みたま安らかに


沖縄陸軍病院

昭和19年6月、開南中学に開設したことに始まる。
南風原に移転したのちに、昭和20年5月下旬、南部に分散移転し、伊原の近くの山城集落の「山城壕」が本部となった。6月18日に解散した。

https://www.city.itoman.lg.jp/site/kankou-navi/1826.html


沖縄陸軍病院之塔

沖縄陸軍病院之塔
この塔は戦没された沖縄陸軍病院の傷病将兵及び職員と学徒の慰霊塔である
慰霊会(遺族及び戦友の会)が昭和39年1月26日に建立し平成4年6月23日これを再建す

春くると ひたすら待ちし 若草の 萌え立ついのち 君は捧げぬ
 水汲みに 行きし看護師 死ににけり 患者の水筒 四つ持ちしまま

陸軍病院の軍医であった長田紀春氏が詠んだ歌碑。

ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)
 沖縄師範学校女子部の前身は、1886年(明治19年)に師範学校内に設置された「女子講習科」でした。その後変遷を経て、1943年(昭和18年)に国立の専門学校に昇格し、「沖縄師範学校女子部」に名称を変更しました。
 沖縄県立第一高等女学校の前身は1900年(明治33年)に設置された「市立高等女学校」でした。1928年(昭和3年)に「沖縄県立第一高等女学校」に名称を変更しました。
 1945年(昭和20年)3月23日、学徒たちに動員命令が下され、配置先の沖縄陸軍病院があった南風原に向かいました。
 4月中旬~下旬、戦況悪化による負傷兵の増加に対応するため、一日橋分室、識名分室、糸数分室が設置され、学徒たちも配置されました。
 5月下旬、米軍は首里戦線へ侵攻を開始し、日本軍は南部への撤退の準備を始めました。25日には、沖縄陸軍病院にも撤退命令が下されました。
 26日に学徒らは井原に到着し、翌27日、山城、波平、糸洲、井原の壕へ分散配置されました。
 6月18日、学徒らは学徒隊の解散命令を受けました。米軍のg猛攻撃の中、負傷した学徒は壕に残され、壕を出た学徒たちは、砲弾が飛び交う中、逃げ惑い、追い詰められ、多くの命が失われました。
 平成28年3月 沖縄県子ども生活福祉部保護・援護課

沖縄陸軍病院山城本部壕(山城本部壕)
 地元ではサキアブと呼ばれる自然洞穴です。すり鉢状の窪地部分から中に入ると、壕口のある広場と奥の広場の2つに分かれています。
 1945年3月、米軍の猛爆撃や艦砲射撃が始まると、山城の住民の一部がこのサキアブに避難しました。
 5月下旬、南風原にあった陸軍病院が南部に撤退し、この場所を病院本部壕として、第一外科壕、第三外科壕を井原に、第二外科壕を糸洲におきました。陸軍病院には、沖縄師範女子部と県立第一高等女学校の学徒も配属されていました。廣池文吉病院長以下の首脳陣らは、伝令や命令受領者を通じ、分散した各外科壕を統率しましたが、撤退後は病院としての機能はほとんど失われていました。
 6月14日、本部壕入口付近に落ちた直撃弾によって、廣池文吉病院長をはじめとする兵士や学徒の多くが戦死または負傷しました。6月18日、沖縄陸軍病院は解散となり、病院勤務者や学徒らは、米軍の激しい包囲攻撃の中をさまようことになりました。
 糸満市 平成31年3月

下に降りることができる。

合掌

場所:

https://maps.app.goo.gl/G28xrGoZPsRcdzHP9


位置関係

陸軍病院本部壕と第一外科壕・第二外科壕・第三外科壕の位置関係


第一外科壕

第三外科壕(ひめゆりの塔)の近く。

碑文。
くずし字で非常に難解。。。

ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生徒のいた壕である
米軍の迫まる1945年 6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられて、弾雨の中をさまよい照屋秀夫教授以下多くはついに消息をたった
軍医看護婦患者も同じく死線を行く生死のわかれの地点である

ここで負傷戦没した生徒
(犠牲者の氏名省略)

藤野憲夫沖縄県立第一中学校長もここで最後を遂げられた
謹んで記して御冥福を祈り平和を祈願する

しらじらと 明けそむる野を 砲弾の
 雨に散りゆく 姿目に見ゆ
血にそまる 巌のしづくは 地底にしみて
 命の泉と 湧きて出でなむ 

  1974年 6月 ひめゆり同窓会

場所:

https://maps.app.goo.gl/vkhXLcBfB3TaUXfo8


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その5」へ

沖縄昭和高等女学校・梯梧学徒隊「梯梧之塔」(沖縄戦跡慰霊巡拝3)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その3」となります。

その2は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


梯梧之塔

「ひめゆりの塔」の隣接地に、「梯梧之塔」がある。
「梯梧」は、沖縄昭和高等女学校の校歌の一節にでてくる、沖縄県の木でもある「デイゴ」に由来する。

梯梧之塔

梯梧の塔説明碑文
 梯梧の塔は、昭和46年6月23日、旧校舎跡より、ゆかりの地に移転。母校の校歌「梯梧の花の緋の誠」にちなんで、「梯梧の塔」として建立された。
 昭和20年1月25日より約1月間の看護教育を受け、3月6日、17名(4年生)は、第62師団野戦病院(石5325)へ学徒看護隊として、ナゲーラの壕へ配属された。
 4月1日、地上戦が始まるや、日を逐うて前線からの負傷兵が激増、壕の中は、まるで生き地獄、昼夜の別なく看護は続いた。4月29日学友の中から最初の戦死者が出る。
ナゲーラの壕は満杯で収容できず、9名は第二分院の識名の壕へ移動した。壕の中で休息中、飛んで来た破片で学友2名が戦死。戦況の悪化で5月末、武富、米須、伊原へと後退。米軍は物量にものを言わせて猛攻撃は止むことなく、伊原の地で6名戦死。病院としての機能を果たす事ができず、6月19日、隊に解散命令が出た。
 無念にも学業半ばにして、戦禍の中で犠牲になった、同窓生57名と、職員3名、計60柱(旧字)が合祀されている。
 勝利を信じ若くして御霊となった学友の永遠に眠る南部終焉の地に建立、恒久平和を願いつつご冥福を祈っている。
 所在地 糸満市米須1150番地
 建立年月日 昭和46年6月23日(移設)
 敷地面積 70坪
 合祀柱数 60柱
 管理者 梯梧同窓会
     慰霊奉賛会と永久管理契約済

梯梧之塔・沖縄昭和高等女学校説明碑文
 私立沖縄昭和高等女学校は昭和5年3月15日、山梨県北巨摩郡江草村出身の同校校長八巻太一氏によって那覇市崇元寺町(現泊町一丁目)に設立された。校舎は崇元寺橋の近く安里川沿いにあり当時、この付近に梯梧の並木道があって、梯梧の花は本校の象徴にもなっている。校舎は昭和20年5月、沖縄戦により焼失した。戦後、再建の取り組みが行われたが当時の情勢はそれを許さず、遂に閉校となった。
梯梧之塔は昭和25年8月1日、この沖縄戦で犠牲となった本校同窓生および教職員らの霊を慰めるため、八巻校長並びに同校関係者によって旧校舎跡に建立されたが昭和46年6月23日、ここ梯梧学徒隊ゆかりの地に元教職員、同窓生、遺族らの浄財によって移転建立された。

梯梧学徒隊(昭和高等女学校)
 昭和高等女学校は、1930年(昭和5年)に設立された、戦前の沖縄で一番若い私立女学校でした。
 1945年(昭和20年)3月15日ごろ、生徒たちは、新川のナゲーラ壕(現南風原町)の第62師団野戦病院に配置されました。
 4月1日に米軍が上陸し、宜野湾ー浦添戦線が激化し、負傷芸の激増に伴い、4月17日ごろに昭和高女生の9名は識名分室(現那覇市)へ配属されました。
 5月13日には、識名分室壕での勤務を終え生徒たちが一眠りしていたころ、壕入り口に爆弾が落ち生徒2名が亡くなりました。
 5月下旬、米軍が守備軍司令部のある首里まで迫ってきたため、野戦病院は5月27日に南部へ撤退することになりました。生徒たちは、負傷兵に肩を貸しあるいは担架を担ぎながら南部へ向かいました。6月の上旬、米須の壕に到着し、満杯の状態で全員入れず、生徒は井原の壕に入りました。
 6月8日、野戦病院の兵隊は看護婦や生徒を集め、解散命令を伝えました。生徒たちは、壕を出て米須の壕に行きましたが、19日に二度目の解散命令が出され、米須一帯を彷徨し、21日米軍に収容されました。

梯梧之塔
所在地 糸満市米須
設置 1950(昭和25)年8月1日
移設 1974(昭和49)6月23日
合祀者数 62柱
所有者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団
清掃管理者 公益財団法人沖縄県平和祈念財団

梯梧の塔に捧ぐ
いたましく 二八に散りし 乙女等の
         血潮に咲ける 紅の花
                 藤岡 豊子
ゆさぶりて 碑をゆさぶりて 思い切り
         きけどもきけぬ 声をききたし
一人来て 抱きしめて見ぬ わが友よ
         名刻まれし 濡れし碑文(いしぶみ)              
                 瑞慶覧 道子

梯梧隊の乙女のレリーフ

合掌

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/okinawa_itoman_010/index.html

場所:

https://maps.app.goo.gl/cW4LrygHxnNmUziU6


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その4」へ

荒崎海岸に追い込まれ自決した「ひめゆり学徒・散華の地」(沖縄戦跡慰霊巡拝2)

沖縄戦跡慰霊巡拝の記録「その2」となります。

その1は、下記にて。

2022年10月記録です

みたま安らかに


ひめゆり学徒・散華の地

昭和20年6月18日、南風原の陸軍病院から南部に撤退し、伊原第三外科壕に避難していた「ひめゆり部隊(女師・一高女の看護女子学徒隊)」に解散命令が発布。
翌19日、第三外科壕に米軍によるガス攻撃があり壕内は地獄と化した。
第三外科壕を脱した、ひめゆり学徒隊は、小さなグループに分かれて、戦場を彷徨うこととなった。
南に追い込まれ、荒崎海岸一帯で隠れ場所を求めて右往左往していた人たちの中に「ひめゆり学徒」のグループもいた。

昭和20年6月21日、平良松四郎教諭(一高女教頭)が引率する学徒隊は、突如、米軍の自動小銃の凶弾に倒れ、そして混乱の最中で、手榴弾で自決をした。

ひめゆり学徒散華の跡

石版には、この地で亡くなった学徒隊や教員の名前が刻銘。

平良松四郎教頭(一高女)と、一高女生徒8名と卒業生1名、師女生徒3名と二高女1名、そして、一高女教諭2名の名が刻まれている。
生徒たちは、16歳や17歳などの若き女子学徒。

合掌

遠くからでも、ひめゆり学徒の最期の岩場がわかる。

荒崎海岸

場所:

https://maps.app.goo.gl/MmUkgArVCTE1sg938


関連資料

糸満市ホームページ

https://www.city.itoman.lg.jp/site/kankou-navi/1828.html

ひめゆり平和祈念資料館

https://www.himeyuri.or.jp/himeyuri/study_war


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その3」へ

沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校・ひめゆり学徒隊「ひめゆりの塔」と「沖縄陸軍病院第三外科壕跡」(沖縄戦跡慰霊巡拝1)


沖縄へ

2022年10月記録です

2022年10月。
人生で初の沖縄に赴く機会があった。
しかし、それは能動的なものではなく、受動的なきっかけとする、ある意味で偶然の機会。
そう、たまたまで、社員旅行が「沖縄」だったのだ。
社員旅行であれど、滞在合計3日間のうち拘束は1.5日で、自由時間も1.5日。まるまる1日使える2日目と、午前中のみ使える半日の3日目があった。あとは、どのように使うか。

正直言って、沖縄の戦跡は、巡り始めたら終わりがない。官民を巻き込んでの地上戦の痕跡は至るところに残っている。私としては、はじめての沖ということもあり、行くべきところ、最低限、これは行っておかねばと決めた戦跡のみを巡り、そうして、手を合わせておきたいと考えていた。そうでないと収拾がつかない。
ただ、実のところ、私は車を運転する権利はあるが、身分証以外の活用をしていないレベルだったのでレンタカーという選択肢を有していなかった。そのため、沖縄では非常に不利ではあるが、バスをはじめとした公共交通機関のみで戦跡を回ろうと考えていた。

そうして、事前に沖縄で、どこを廻るかを調べていた際に、他部署ながらよく仕事を一緒にすることのあるAさんから、こう言われた。

Aさん
 「沖縄の自由行動、どうされますか?」
わたし
 「歴史好きだから、歴史散歩でブラタ○リするつもり」
Aさん
 「面白そうですね、沖縄は何度も行ったことあるので、知らないところに行けそうですね、ご一緒しても良いですか、ちなみに歴史はどんな歴史ですか?」
わたし
 「(語弊があるかもしれないですが)、沖縄の歴史って、大きく分けると2つかなと。琉球王国の歴史と、戦争の歴史。私が行こうと思っているのは、重い方です、、、」
Aさん
 「あっ、重い方ですか、、、」

Aさんは、「重い歴史」は余り知らないという。それでも「沖縄は車がないと不便ですよ、レンタカー手配しますよ」と、私の散策に乗ってきたので、そこで、大きく私のプランと行動範囲は変更されることとなった。
さらに直前に、私とAさんは自由行動で、沖縄の歴史散歩するということを聞いた同僚のBさん(Bさんは年齢的には人生の大先輩)も、沖縄の歴史には興味あるということで、そうしていつのまにか、ツアーみたいな感じで同行がきまって、都合3人で「沖縄慰霊の戦跡散策」を実施することとなった。

ちなみにAさんは、私の歴史散策の初手からの行程都合ということもあったが「地下壕」続きにかなりびっくりされ、「こんなにディープなところに行くとは思いませんでした」というような状況になり、途中から、「いやあー、沖縄ドライブ楽しいんで、遠慮せず」という状況だったような。。。

沖縄の南部地区は、1日を使って「レンターカー」での移動。
那覇市街地は、ソロ活動で半日使って「レンタサイクル」を活用した次第、でした。

以下、行程順ではなく、エリアごと、内容ごとに、順不同で掲載していきます。
「はじめての沖縄」ということもありますので、探訪漏れも多く、1日半の短い時間でしたが、沖縄巡拝の記録として、徒然と。

みたま安らかに


ひめゆりの塔・沖縄陸軍病院第三外科壕跡

沖縄の代表的な戦跡として、慰霊巡拝先として必須の地。
まずは、ひめゆりの塔から掲載をしていきます。

「2代目・ひめゆりの塔」の手間に、ちいさく「初代・ひめゆりの塔」が鎮座している。

ひめゆりの塔
沖縄戦で亡くなった「女師「一高女」の教師・学徒の慰霊碑。
終戦翌年の1946年、付近の収容所にいた真和志村民により建立された。

そして、「沖縄陸軍病院第三外科壕」跡が開口している。

刻銘碑
「女師「一高女」の教師・学徒戦没者の刻銘碑。戦後、間もない頃に建立されたために、戦没者全員は刻まれていない。

伊原第三外科壕
このガマ(自然洞窟)は、沖縄戦時、南風原町にあった沖縄陸軍第三外科配属の軍医、看護婦、ひめゆり学徒たちが、南部への撤退後に避難した場所。1945年6月19日朝の米軍の攻撃により、ガマに入っていた約100名中80余名(うち42名がひめゆり学徒と教師)が亡くなった。ひめゆり学徒の最期の地のひとつである。

ひめゆりの塔
1957年に建立された新しいひめゆりの塔。
「納骨堂」を覆った白壁には、学徒戦没者の名を刻み、「女師「一高女」のシンボルである百合のレリーフを手むけた。
2009年、改修。学徒戦没者を追記。
納骨堂には、この洞窟「伊原第三外科壕」や「伊原第一外科壕」「荒崎海岸」など、沖縄戦最期の地から回収された遺骨が眠っている。


ひめゆり学徒隊

1944年12月、看護訓練によって動員された女子学徒隊のうち、沖縄県立女子師範学校と沖縄県立第一高等学校の生徒で構成された部隊。
沖縄女子師範学校は沖縄第一高等学校と併設されていたことから、校名はことのあるものの実質的には一つの学校に等しかった。

1945年3月22日、両校の生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる「ひめゆり学徒隊」は、沖縄第32軍直轄となる沖縄陸軍病院(通称:南風原陸軍第一病院)に看護要員として動員。40近くの横穴壕に分散配置された。
敗色濃厚となった6月18日に解散命令が出され、翌日19日からの1週間のあいだに多数の犠牲者を出した。最終的には、240人の学徒隊のうち、136名が死亡している。
戦後、最大の犠牲者を出した伊原第三外科壕跡に、慰霊塔として「ひめゆりの塔」が建立された。


沖縄の女子学徒隊

沖縄にあった旧制中学校21のすべての学校が動員された。
男子生徒は、鉄血勤皇隊、通信隊に配属され、女子生徒は、看護隊に配属された。

  • 沖縄県立女子師範学校・ひめゆり学徒隊:犠牲81名/動員157名(戦死率52%)
     配属:第32軍司令部直轄・沖縄陸軍病院
  • 沖縄県立第一高等女学校・ひめゆり学徒隊:犠牲42名/動員65名(戦死率65%)
     配属:第32軍司令部直轄・沖縄陸軍病院
  • 沖縄県立第二高等女学校・白梅学徒隊:犠牲17名/動員46名(戦死率37%)
     配属:第24師団第1野戦病院
  • 沖縄県立大三高等女学校・なごらん学徒隊:犠牲1名/動員10名(戦死率10%)
     配属:第32軍司令部直轄・沖縄陸軍病院名護分院
  • 沖縄県立首里高等女学校・瑞泉学徒隊:犠牲33名/動員61名(戦死率54%)
     配属:第62師団野戦病院
  • 沖縄積徳高等女学校・ふじ学徒隊:犠牲3名/動員25名(戦死率12%)
     配属:第24師団第2野戦病院
  • 昭和高等女学校・梯梧学徒隊:犠牲9名/動員17名(戦死率53%)
     配属:第62師団野戦病院
  • 沖縄県立宮古高等女学校・宮古高女学徒隊:犠牲1名/動員48名(戦死率2%)
     配属:第28師団野戦病院・宮古島陸軍病院
  • 沖縄県立八重山高等女学校・八重山高女学徒隊:犠牲1名/動員60名(戦死率2%)
     配属:石垣島陸軍病院・海軍病院

沖縄戦の推移

1945年
3/17
 硫黄島の日本守備隊、玉砕する
3/23 
 ひめゆり学徒、南風原陸軍病院へ動員。
 米軍、沖縄諸島に空襲を開始  
3/26
 米機動隊が慶良間諸島に上陸。地上戦のはじまり。島民集団自決。
4/1
 沖縄本島の中部西海岸(北谷・嘉手納・読谷地区)に米軍上陸。
4/7
 沖縄に向けて出撃した戦艦「大和」が九州南方沖で撃沈される
5/23
 米軍が那覇市に進攻。
5/25
 陸軍病院、南部へ撤退。
5/27
 第32軍司令部、首里を撤退。喜屋武半島の摩文仁地区に司令部を移す。
5/31
 米軍が首里を占領する。
6/18
 米軍司令官バックナー中将が糸満市前栄里で戦死する。
 学徒隊に解散命令。
6/19
 第三外科壕にガス弾が打ち込まれ、多くの学徒が死亡。
6/21
 荒崎海岸で

多くの学徒が死亡。(集団自決)
6/23
 第32軍司令官牛島満中将、参謀長長勇中将が自決。
7/2
 米軍、沖縄作戦終了宣言。


陸軍病院第三外科職員之碑・沖縄戦殉職医療人之碑

ひめゆり学徒とともに、第三外科壕にいた職員や、沖縄戦で殉職した医療関係者の慰霊碑。

沖縄戦殉職医療人之碑

陸軍病院第三外科職員之碑


ひめゆり平和祈念資料館

https://www.himeyuri.or.jp

「ひめゆり学徒隊」の沖縄戦を伝える施設。
第三外科壕の下部、断面を垣間見ることができる。

ひめゆりの塔
沖縄戦に動員されたひめゆり学徒の最期の地のひとつである伊原第三外科壕跡に建立された慰霊碑。

ひめゆり平和祈念資料館
亡き学友の慰霊と平和への願いを発信する場として、同窓生たちが1989年に開館しました。写真や遺品、実物資料、生き残った学徒の証言集が、沖縄戦とひめゆり学徒の実相を伝えています。
正面は、ひめゆり学徒たちの学び舎、沖縄師範学校女子部・沖縄系ん立第一高等女学校を模し、校門までの並木道をなしていた相思樹が植えられています。
那覇にあった学園は沖縄戦で消滅しました。

沖縄戦とひめゆり学徒隊
動員
1945年3月、米軍の上陸作戦開始とともに沖縄の男女学とは戦場に動員されます。
ひめゆり学徒隊は3月23日、南風原の「沖縄陸軍病院」に配置されました。
戦場の病院は、丘の中腹に掘り巡らされた横穴壕にベットを備えただけの施設で、砲煙弾雨の中、学徒は医師と看護婦の下、負傷兵の看護や水汲み、伝令、食料運搬などを担いました。
4月1日の米軍上陸後の激しい戦闘により負傷兵が急増し、3つの分室ができていきます。

撤退
5月下旬、米軍の攻撃が日本軍司令部のある首里まで迫り、5月25日、軍の南部撤退命令により、陸軍病院も南部への撤退が始まります。
学徒たちは砲弾と悪路の中をこの南部までたどり着きます。病院としての機能を失った後も6つの壕に分散して不難死、伝令や水汲み、食糧確保の任務に当たりました。

解散
6月18日夜、緊迫した戦況の中でひめゆり学徒に突然「解散命令」が下されます。激化する戦場で、負傷した学徒は壕に残され、外に放り出された学徒たちは、砲弾の飛び交う中、逃げまどい、追い詰められ、多くの命が失われました。

儀間真一顕彰碑
(ハーリー・シンイチ・ギマ)
沖縄系ハワイ2世、昭和27年に、ひめゆりの塔の敷地を購入するための資金援助をした。

冊子を購入しました


ひめゆりの塔の記

ひめゆりの塔の記
昭和二十年三月二十四年、島尻郡玉城村港川方面へ米軍の艦砲射撃が始まった。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員生徒二百九十七名は軍命によって看護要員としてただちに南風原陸軍病院の勤務についた。
戦闘が激しくなるにつれて、前戦から運ばれる負傷兵の数は激増し、病院の壕はたちまち超満員となり、南風村一日橋・玉城村糸数にも病室が設けられた。看護婦・生徒たちは夜晝となく力のかぎりをつくして負傷兵の看護をつづけた。
日本軍の首里撤退もせまった五月二十五日の夜、南風原陸軍病院は重症患者は豪にに残し歩ける患者だけをつれて手を引き肩をかし砲弾をくぐり包帯をちぎって道しるべとしてここ摩文仁村に移動した。
南に下って後は病院は本部・第一外科・糸数分室・第二外科・第三外科にわかれて業務をつづけた。第三外科は現在のひめゆりの塔の壕にあった。
六月十八日いよいよ米軍がま近にせまり、看護隊は陸軍病院から解散を命ぜられた。翌十九日・第三外科の壕は敵襲を受けガス弾を投げこまれて地獄圖絵と化し、奇跡的に生き残った五名をのぞき職員生徒四十名は岩に枕を並べた。軍醫・兵・看護婦・炊事婦等二十九名民間人六名も運命をともにした。その他の豪にいた職員生徒たちは壕脱出後弾雨の中をさまよい沖縄最南端の断崖に追いつめられて追い詰められて多く消息をたった。南風原陸軍病院に勤務した看護要員の全生徒の三分の二がこうして最後をとげたのである。
戦争がすんで二人の娘の行方をたずねていた金城和信夫妻によって第三外科壕がさがしあてられた。真和志村民の協力により昭和二十一年四月七日最初のひめゆりの塔が建ち次第に整備された。沖縄師範学校女子部と沖縄縣立第一髙等女学校の職員十六名生徒二百名の戦没者を合祀して白百合のかおりをほこったみ霊の心をうけ、平和の原点とする。乙女らは涙と血とを流してえた体験を地下に埋めたくないと平和へのさけびを岩肌に刻みながらついに永遠に黙した。
 いはまくら かたくも あらむ やすらかに
 ねむれ とぞいのる まなびの ともは

裏面には、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の「校歌」が刻まれている。


いはまくら碑

いはまくら碑 1990
ひめゆり学徒の引率教師 仲宗根政善先生の歌
いはまくら 
 かたくもあらむ 
  やすらかに
ねむれとぞいのる 
 まなびのともは
「固いごつごつした岩場で亡くなったのはさぞ無念で辛かったでしょうあ。心安らかに眠って欲しいと学友たちは願っています」という哀悼の歌です。
島の南の果てに追いつめられて岩陰や洞窟で学友たちは亡くなっていきました。この恩師の歌は、戦争のおろかさと平和の素晴らしさを、亡き学友に代わって訴えていくことを誓う私たちの心そのものです。


赤心之塔

赤心之塔 1948
伊原第三外科壕に入っていた民間人(大田家)5名の戦没者の慰霊碑。遺族によって建立された。

女神の像

ひめゆりの石

井伊文子の歌碑
琉球王朝の末裔にあたる井伊文子氏の歌

ひめゆりのいしぶみに
ふかくぬかづけば
たいらぎをこひのむ
乙女らのの声す


※撮影:2022年10月


沖縄戦跡慰霊巡拝

「その2」へ

「遺髪塚」終戦2日前の大月空襲

富士急行線から大月で乗り換えるのに、時間があったので、大月の町を散策してみた。


大月空襲

1945年8月13日午前8時過ぎ、終戦2日前にあった米軍による大月空襲。
大月駅の裏にあった興亜航空(興亜航空工業株式会社)などの軍需工場や、大月に疎開していた軍事施設(都留中に立川航空廠、都留高女に陸軍航空本部第4技術研究所の工場疎開)を狙った空襲で、旧制都留中学(現県立都留高校)や旧・都留高等女学校の生徒や教職員、市民など、あわせて50人以上が犠牲になった。
もっとも被害が大きかったのが、都留高等女学校であった。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/attend/detail/yamanashi_ootsuki_005/index.html

大月は、道路や鉄道の合流点として栄えており、線路の北側には能登精機(現・大月東中)、興亜航空(興和コンクリート跡地)、大月産業(住宅地や大月倉庫跡地)、線路の南側には、大月東国民学校(現・大月東小)、都留中学校、都留高等女学校(現・大月短期大学)があり、東側には、長距離大容量発電を可能とした駒橋水力発電などどがあった。


遺髪塚

行願寺の墓苑、もっとも高い場所に位置しておる。
都留高等女学校があった、大月短期大学を見下ろす東の高台に。

https://www.gyoganji-otsuki.com/memorial.html

遺髪塚
山梨県立都留高等学校東校舎生徒会

遺髪塚合祀霊名
24名の氏名略

遺髪塚の記
太平洋戦争もまさに終わらんとする昭和二十年八月十三日午前八時二十分思いもよらぬ無差別の空襲
たちまち悲惨な血の地獄と化した都留高女
このたった数分の挙があたら十数名の尊い命を奪う
戦い終わり悲しみの中に校葬を挙行 
遺髪を塚に納めて弔う三十年
旧都留高女校舎の歴史を閉するの時生徒会の名にて碑を建立
今年三十三回忌に当たり同窓旧師四百余名挙りて遺髪塚を整備し懇ろに回向して永久の冥福を祈る。
 昭和五十二年八月十三日  遺髪塚整備委員会

終戦既に五十年、歴史の重さを痛感しつつ旧師同窓願い一つに遺髪塚をば大改修し追悼の法要も営み、以後の管理を都留高等学校同窓会並びに学校当局にゆだね、永久の供養と歩み来し五十年の思いを託し万感込めて、み霊の冥福を祈る。
 平成六年七月二十四日  遺髪塚管理委員会

合掌

都留高等女学校のあった方向

遺髪塚あります、の記載あり。

場所

https://maps.app.goo.gl/Fv2oPqtCQ7D1YwxLA


平和祈願の石(厄王大権現)

厄王大権現、大月市駒橋の鎮守。
境内に、大月空襲に関係する巨石がある。

平和祈願の石
昭和二十年八月十三日午前八時三十二分米軍艦載機は突如大月町を襲い山間の町民に恐怖の中で甚大な被害を与えた
この時投下された爆弾の一つは桂川で爆発しその爆風は一、五トンの石をふき上げ百余米の高さに達したという
附近は国道沿いの人家密集地であったがこの石は厄王大権現の霊験によって当山地先に落下し町民はあやうく難をまぬかれた
時移り世が進むにつれ世人びと厄王大権現を畏敬し当時落下したこの石を、平和祈願の石と名づけここに安置したものである
 昭和四十七年四月八日
  大月市長 志村寛識


大月駅

明治35年、中央本線とともに開業。
岩殿山がそびえ立つ。

駅の南西方向には「むすび山」
大月防空監視哨があった。

大月の市街地方面


浅利防空壕跡

大月駅の北側、桂川にかかる浅利橋に向かう道の途中には崖面がある。
往時、ここには防空壕が多数あったとされている。
興亜航空の工場から避難した工員や勤労学生・学徒は、この場所にあった横穴の防空壕に避難したが、都留中学生がここで被災し亡くなっている。


興亜航空工業跡地

大月駅北側の広大な空き地には、「興亜航空」という軍需工場があった。
海軍の零式輸送機の翼を製造。
また、木製のおとり飛行機(デコイ)も造っていた。
都留中や都留高女の生徒たちが学徒勤労動員で作業に従事していた。

https://www.kkn.co.jp/ja/company/enkaku.html

2022年にオープンした大月の東横INNの存在感が。。。

工場跡地

とにかく主張が強いのは東横INN。。。

御太刀塚

興和産業(興亜航空)の工場創設の造成に際し、周辺にかけて幾つかの古墳や墓碑は破壊されたが、多くの遺物が掘出されたという。

※撮影:2025年8月


関連

ハワード・キャノン航空博物館・Howard W. Cannon Aviation Museum(ハリー・リード国際空港・ラスベガス)

ラスベガスの国際空港。
空港内にちょっとした展示コーナーがあったので、写真をぱちぱちと。
何が書いてあるかは、よく理解していません。(英語が出来ない民なので)


ハリー・リード国際空港

ネバダ州ラスベガスの国際空港
2021年に「マッカラン国際空港」から、「ハリー・リード国際空港」に改称した。
いずれも、ネバダ州出の上院議員の名前から名付けられている。

もともとは1942年開設の「アラモ空港」に始まり、1948年にクラーク郡が買取「クラーク郡営空港」となり、そして「マッカラン飛行場」となった。

ちなみに米軍基地としては、「ネリス空軍基地」がラスベガス北東7マイル(約11キロ)の距離にある。


ハワード・キャノン航空博物館

ハリー・リード国際空港の展示コーナー。

ターミナル1の2階部分、荷物受け取り所を見下ろす位置にある。
ネバダ州の航空の歴史資料が展示されている。
ハワード・キャノンはネバダ州出身の上院議員。

T-50ボブキャット(セスナ)のプロペラ。

戦略爆撃機の時代。
B-17
B-29
爆撃機に搭乗する機関銃座の担当者は、ラスベガスにあった航空砲術学校で訓練を受けたという。
現在もラスベガスのネリス空軍基地には「アメリカ空軍戦闘センター」があり、テストプログラムが実施されている。

セスナがぶら下がっていました。

下は、到着フロア
手荷物を回収したら、そのまま外に出れる感じで、この辺りは日本とはだいぶ違うなあ、と。

いたるところにカジノマシンがあります。


羽田→ロサンゼルス→ラスベガス

写真を徒然。
アメリカン航空で、往復しました。

昼食?夜食?
時差があるので、どっちの時間軸になるのかな、、、。

夜食?朝食?

ロサンゼルス
アメリカに着いたって感じ。
ここから入国審査で1時間くらいかかって、乗り継ぎはやはり2時間は必要な感じでした。
英語できない民にとっては、入国審査で、どこに行く?どこに泊まる?何しに来た?とか説明するのが大変なので、泊まる場所とか、目的とか、全てプリントしておくと宜し。

ロサンゼルスでトランジットで国内線に乗り換え。
ラスベガスに。
国内線の保安検査も、日本とは違って、靴を脱いで、チェック。
パソコン出し忘れると、引っかかります。(引っかかった。。。)

アメリカの大地って感じ。

ラスベガスにつくと、カジノ機が迎えてくれます。
おっ、ラスベガスに来た!って感じ。


ラスベガスあれこれ

とりあえず、BBQっぽい肉を喰らう。
アメリカに来たって感じ。

人生に於いて、これ以上はないステーキに出会ってしまった。
分厚いのに柔らかく美味すぎて、もうヤバい。。。
こういうのは出会ってはいけない奴です。
もう普通の食べれなくなるやんw

約400グラム(14オンス)で64ドル。

Oscar’s Steak House @ Las Vegas BOBBY Gs’ 14oz NEW YORK STRIP

ジン マティーニ とか エスプレッソ マティーニ とか マティーニも過去最高に美味。

プライムリブステーキ
Lawry’s The Prime Rib Las Vegas

もはや何を飲んだっけな?

コンビニでお買い物

ファーストフード

ラスベガスの丸いやつ。

MSGスフィア

ラスベガスのモノレール

ザ・ラスベガス!!っていう場所。

ダウンタウン

屋根がLED
こういうのは日本では無理だろうなあ。維持管理も大変そう。

WELCOME TO Fabulous LAS VEGAS NEVADA

すばらしいネバダ州ラスベガスにようこそ!

例の有名なウェルカムボードのコピーですね。


ラスベガス→ロサンゼルス→羽田

帰りもアメリカン航空。

ロサンゼルス

ちなみに、行きも帰りも遅れて。
異国の地の飛行機の遅れは勝手がわからなくて、結構困りますね。
ロサンゼルスでは、搭乗口も何回か変わって、あっち行ったりこっち行ったりもあって。

ゲート155から

ゲート41に移動って、場所がぜんぜん違うし。

夜飯?

ワインが美味しかった。

朝飯?

実は、人生初のアメリカ、でした。
それなのに、ソロでの移動、なかなかの緊張感で、、、いやあ、英語できない民としては、怖かったですわ。
(ラスベガス着いたら、現地の業務委託スタッフと合流できたので、なんとかなりましたが)

※撮影:2025年4月



「Atomic Museum(核実験博物館)」(アメリカ合衆国ネバダ州ラスベガス)

仕事でラスベガスに行く機会があった。
砂漠を開拓した都市なので歴史的なネタはないかなと思いつつ、それでも、なにかしらの面白い発見があればと地図を眺めていたら「アトミックミュージアム(核実験博物館)」があった。そういえば、ネバダ核実験場か、、、ということで、脚を運んでみた。

もっとも、私は英語がダメなので、ほぼフィーリングになりますが。


マンハッタンプロジェクト・トリニティ実験

オッペンハイマーを中心としたマンハッタン計画の研究者たちがニューメキシコ州のロスアラモスに研究所が置かれることが決定したのが1941年11月であった。
そして、1945年7月16日にアメリカで実施された人類最初の核実験が「トリニティ実験」。
ニューメキシコ州のトリニティ実験場で実施された。
トリニティ実験では、のちに長崎に投下された「ファットマン」と同様の構造であったが、ファットマンのように空中投下ではなく、鉄塔添え付けでの爆発であった。
7月16日のトリニティ実験の成功を踏まえて、1ヶ月も経たない短期間で、8月6日に広島に「リトルボーイ」、8月9日に長崎に「ファットマン」が投下された。

そういえば、映画「オッペンハイマー」もみましたが、なんというか、「原爆の父」であるオッペンハイマーの心理的な自伝であって、戦後のオッペンハイマー事件も含め、その背景を知っているか知っていないかで、だいぶ見え方が変わってくる作品でした。良くも悪くも日本人として描いてほしい原爆の話は皆無で、そういう観点でいうと、日本人にとっては駄作なのかもしれず。
まあ、そういう意味でも、このラスベガスの核実験博物館も然りで、米国からみる原爆の見え方は、日本とは異なるわけで。


核実験博物館( Atomic Museum)

核実験博物館( Atomic Museum)はアメリカ合衆国ネバダ州ラスベガスにある博物館。非営利団体であるネバダ核実験場歴史財団(Nevada Test Site Historical Foundation)の運営であり、核実験とネバダ核実験場の歴史を主に展示している。2005年3月に開館した。スミソニアン協会にも加盟している。
おもな展示物は、核爆弾の発達に関するものやファットマンの模型など。

ATOMIC MUSEUM
A SMITHSONIAN AFFILIATE

It’s A BLAST!

最高だよっ!
核爆発級の、科学と歴史の体験を!!ってこと、らしいですが。。。

ノリノリの女性の写真は、1950年台にラスベガスで発生した「ミス・アトミックボム(ミス・原爆)」で知られる「リー・マリーン」(1957年)
キノコ雲水着というのが、当時の「核実験鑑賞ツアーブーム」とともに文化的象徴でもある。

うーん、なんというか、表現が、ラスベガスというか、アメリカンっぽいですね。
なんか、核に対する根本的な意識が、これに集約されている感もあり。

入館料は、大人$29。だいたい4,000円~4,500円くらい。

National Atomic Museum

メインの展示室

HARRY REID GALLERY
ATOMIC ODYSSEY

このコーナーは、科学技術的な展示室。私には難しすぎた。。。

ハーリー・リードはネバタ州出身の政治家。
ラスベガスの国際空港も以前はマッカラン国際空港であったが、改名され「ハーリー・リード国際空港」と、その功績を讃えている。

ATOMIC LOUNGE & GALLERY

SPY関係の展示があるというがクローズだった。
ここに、ドイツのエニグマ暗号機関連の展示を中心としたコーナーというが、見学できずで残念。。。

DINA TITUS GALLERY
THE MANHATTAN PROJECT

マンハッタンプロジェクトに関連する展示室。
日本人的には、ここが一番、見どころあるというか見ておかないとダメなコーナー。


Fat Man(長崎に投下された原子爆弾)模型

Fat Man(ファットマン)
長崎に投下された原子爆弾の原寸大の模型。
太った男性の丸い形、、、

人類史上初の核実験である「トリニティ実験」に使用されたガジェットと同型。
アメリカ軍での分類番号は「Mk.3」
マンハッタン計画の一部として、ロスアラモス国立研究所でつくられた核兵器。
リトルボーイ(Mark .1)が高濃度ウランに対し、ファットマンはプルトニウムを用いてた。
1945年8月9日に、実戦投入され、長崎に投下された。

第二次世界大戦後も製造が続けられ、1940年台の米軍の核戦力の中心にあった。1947年にはロスアラモス国立研究所にはファットマン60発分の部品が備蓄され、アメリカ兵器廠には使用可能な状態で13発が備蓄されていた。そして1949年までに120発が生産された。

降伏文書のコピー

参考までに。
外務省外交史料館別館で展示されている降伏文書(原本特別公開時に撮影)

ファットマンの模型の後ろで、ミズーリの降伏調印の画像を展示。
ファットマンのおかげで、米国が勝利し、日本が降伏、その通りではあるが。

降伏文書調印式の日本全権 重光葵

ミズーリ号の甲板上にて。

WAR IS OVER
戦争終結

原爆投下部隊が語る JAP 日本の都市襲撃のエピソード。

原子爆弾が、ジャップを驚愕させる。。。

なんとも複雑な思い。


核実験博物館での「ヒロシマ」「ナガサキ」

カメラマンが福岡で出会った男性。

Old Man

<意訳>
この時代の男性の珍しい西洋スタイルのロングコートと帽子が目に止まり写真を撮りました。
撮影した人から簡単な質問をされることは慣れていましたが、この男性は過去のことを語ってくれました。
「アメリカに住んでいたが戦争が始まった際に家族を訪ねていた際に日本で捕えられた。」
原爆についても言及し、私を驚かせました。

「私は家族全員とほとんどの友人を失いました。彼らはあなたや私と同じように罪のない人々で、死ぬべきではありませんでした。私はアメリカを許しますが、忘れろとは言わないでください。土に種をまくように、この灰の中から建物が立ち上がるでしょうが、残念ながら私が生きている間には無理です。あなたは、原爆投下後の状況を人々に伝えてください。」

彼の言葉は、その後、数ヶ月間、私の心を悩ませました。

I lost my entire family and most of my friends. They were like you and me, Innocent ones, and they did not deserve to die. I can forgive America, but don’t ask me to forget. Like planting seeds in the dirt, buildings will rise out of these ashes, but unfortunately not in my life time. You tell your people what it was like after the bomb.


ガジェット(人類初の原子爆弾)模型

人類初の原子爆弾(プロトニウム原子爆弾)
マンハッタン計画で製造
1945年7月16日、ニューメキシコ州のホワイトサンズ射爆場での核実験「トリニティ」で爆発した。
ガジェット(ちょっとした装置)の名称は、爆弾を連想させないことで、情報漏洩を防止し開発を秘匿する意味があった。
「ガジェット」は、「ファットマン」と同様の構造をしていた。
当時、米国では「ガジェット」「リトルボーイ」「ファットマン」を並行して製造しており、トリニティで「ガジェット」の爆発成功から1ヶ月以内に、「リトルボーイ」と「ファットマン」を実戦に投入している。


核開発の歴史

核兵器を開発せざるをえなかった歴史的なお話。
「5W1H」で。

WHY?

WHAT?

WHO?

WHERE?

HOW?

WHAT NOW?


メイン展示室

いったん、メイン展示室に。

トルーマン大統領、、、

<意訳>
製造が間に合わず、原子爆弾を2発しか保有しておらず、実験もトリニティ実験の1回のみであったが、米国として「日本との戦争を迅速に最小限の犠牲者で終わらせるために」、未実験だったリトルボーイをヒロシマに投下。それでも日本は降伏をしなかったために、トリニティ実験で成功した同型のファットマンをナガサキに投下し、日本は降伏した。

<意訳>
1945年7月26日、連合国(アメリカ・イギリス・ソ連)は、日本にポツダム宣言を通告するも、日本はこれを拒否した。連合国による日本本土侵攻はアメリカ軍だけでも推定100万人の犠牲者がでるとされ、政策立案者たちは全員一致で、原子爆弾が最も少ない流血で戦争を終結させ、軍事目標に対して警告なしで使用すべきと結論づけた。
そして、1945年8月に、2発の原子爆弾が投下され、日本は降伏した。
連合国による大規模な侵攻作戦と戦後の戦勝国間の分裂を回避することができた。
<意訳ここまで>

うん、、、、

結果、ヒロシマとナガサキで、21万人以上という市民の犠牲者を招いたわけで。

ヒロシマにリトルボーイを投下した「B-29 エノラ・ゲイ」の模型。


ネバダ核実験場

ラスベガスの北西約105キロのネバダ砂漠にある核実験場。
1951年に核実験場として開設。
ラスベガスに、核実験博物館がある理由でもあり。


展示あれこれ

ネバダ州と、核と、その歴史などが時系列で、いろいろと展示してある。
私は、何度も言いますが、英語がダメなので、なんとなくフィーリングで察しつつ、気になるところはスマホ翻訳をさせながら、観覧をば。

第二次世界大戦後の、原子爆弾の開発の歴史。

あっ、またこのおねえさん。。。

ネバダ実験場

原爆実験をネタにしたグッツの数々。

戦艦ネバダ
1916年就役、1948年海没処分
1941年の真珠湾攻撃に際して日本軍機の攻撃によって被弾するも戦艦列の中では損害は軽微であったが着底座礁。1942年2月に引きげられ1943年3月に大改造を経て修理完了。アリューシャン列島でアッツ島攻略作戦に加わり、その後、ノルマンディー上陸作戦を支援。
1945年2月、硫黄島の砲撃に参加し、その後、沖縄攻略作戦に参戦。
戦後、ビキニ環礁における原爆実験(クロスロード作戦)の標的艦に供出。
1946年7月1日と25日の2回の核爆発実験で、ネバダは生き残った。
真珠湾で調査を受けた後、1848年に標的艦に指定され、7月31日に戦艦アイオワなどから砲撃され、海没処分となった。

クロスロード作戦

核開発の歴史はすすむ。

地下核実験へ、と。

核弾頭ミサイルの変遷

アメリカからみた、戦勝国からみた、核兵器・原子爆弾。
ここでは良し悪しを言うつもりはありませんが、いろいろと考えさせられた博物館。
ラスベガスといえば、ギラギラしたカジノをはじめとしたエンターテイメントの街のイメージしか持っておりませんでしたが、核実験場もある街であったこと、学ばさせていただきました。

※撮影:2025年4月


関連

模擬原子爆弾「パンプキン」長崎に原爆投下したB-29「ボックスカー」の最終投下訓練地(西東京)

西東京市に、模擬原子爆弾が投下されていた。
つい最近にそのことを知り、投下現場に足を運んできました。
ちょうど、戦後80年の節目に当たる2025年の夏に、新しい看板が設置されたとのことで。


模擬原子爆弾の着弾・爆発地点(しじゅうから第2公園)

模擬原子爆弾の着弾・爆発地点
 第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年7月29日午前9時23分、1機のB-29爆撃機が中島飛行場武蔵製作所をねらって模擬原子爆弾を投下し、この付近に着弾・爆発しました。当時この場所はじゃがいも畑で、3人の女性が亡くなり、8人が重傷、3人が軽傷という記録が残っています。2人の女性は、それぞれわが子を自分の体で守り、子ども(女の子:当時7歳、男の子:当時5歳)は助かりました。
 このB-29爆撃機は「ボックスカー」と呼ばれ、その後8月9日に長崎に原子爆弾を投下することになります。

模擬原子爆弾とは
 原子爆弾を確実に目的地に投下して爆発させる訓練のために作られたもので、東京で2発、日本各地に計49発が投下されました。長崎に投下された原子爆弾と同じ形、同じ重さ(4.5t)で、核物質ではなく高性能爆薬が込められていました。
 黄色く塗られ丸い形をしていたことから「パンプキン(かぼちゃ)爆弾」と呼ばれました。
  戦後80年の節目にあたり、模擬原子爆弾が投下され市民が犠牲になった歴史を後世に伝え、平和を考える場とするため解説板を設置しました。
 令和7年7月29日
  西東京市教育委員会 教育部 地域学習推進課

投下から着弾までの想定図

西東京市は、中島飛行場武蔵製作所の北側。

8921-C6-132
1944年(昭19)11月07日‐陸軍撮影を編集 空襲前

東伏見稲荷の西側に位置する。

下記はアメリカ・ラスベガスのアトミックミュージアム展示の「ファットマン原寸大模型」
(2025年4月撮影)

模擬原子爆弾の着弾・爆発地
ここが長崎の原爆攻撃機の最終訓練地でした。
昭和20年(1945年)7月29日午前9時23分、この公園の近くに原子爆弾の投下訓練のため米軍によって模擬原子爆弾(パンプキン)が落とされました。
当時、この場所はじゃがいも畑で、作業中の3人の女性が亡くなり、11人が負傷しました。

西東京市サイトには、以下の記載もある。

1945年8月9日長崎に投下された原子爆弾。
この投下に先立ち、訓練のため、全国で49発の模擬原子力爆弾が投下されました。
そのうちの1発は、武蔵野市にあった中島飛行機武蔵製作所を狙って投下されましたが、
実際には西東京市の柳沢駅近く、現在のしじゅうから第2公園付近に着弾し、複数の死傷者がでました。

https://www.city.nishitokyo.lg.jp/enjoy/rekishi_bunka/bunkazai/pumpkinbomb_shijyukara2.html

以下、西東京市による資料も添付。

https://www.city.nishitokyo.lg.jp/enjoy/heiwa/manabu/sensaipaneru.files/a20.pdf

パンプキン爆弾
重さ4.5トン(通常の高性能爆薬2.5トン)
投下したB29(愛称ボックスカー)は、10日後、長崎に原爆を投下

原爆模擬爆弾の被害
1945年(昭和20年)7月29日、西武柳沢駅南にある現在のしじゅうから第二公園の東側に、強力な爆風を生じる爆弾1発が投下され、畑仕事をしていた女性ら3名が亡くなりました。その爆弾が何であるのか長い間不明でしたが、米軍資料関係者らの調査により、原子爆弾の投下訓練のために全国50ヶ所で実施された作戦の一つであることが判明しました。

いまは、静かな公園。

ちなみに、西武柳沢駅に近い北側には「しじゅうから公園」がある。
模擬原爆が投下されたのは「しじゅうから第二公園」の近く。

「しじゅうから」は、西東京市の鳥、とのこと。

※撮影:2025年7月

※場所:

https://maps.app.goo.gl/5Bs2uhBD9jDEkHhL7


模擬原爆関連

「残された横浜市電最後のポール」と横浜大空襲(横浜市電保存館)

疎開道路散策をしていたら、横浜市電保存館に辿り着きました。

面白そうなので、立ち寄ってみましょう。


残された横浜市電最後のポール

横浜市電保存館の入口にあるポール。
横浜市電を物語る残された最後のポールは、「横浜大空襲を物語る戦跡」でもあった。

ポールの下の部分の穴。
1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲で受けた被弾の跡といわれている。

1928(昭和3)年の横浜市電生麦線開業時に建てられた架線用のポールという。

残された横浜市電最後のポール
このポールは、1928(昭和3)年の横浜市電生麦線開業時に建てられた架線用のポールです。
かつては、市電沿線に列をなして建てられました。横浜の市電は、1904(明治37)年に横浜電気鉄道㈱によって発足しましたが、1921(大正10)年に横浜市が買収して市電となりました。横浜の市電の最盛期は昭和30年代で、路線長は50キロを超えていました。しかし、自動車交通の波にのまれ、1972(昭和47)年3月31日限りで横浜からその姿を消してしまいました。その後市電の線路は道路となり、架線用ポールも道路整備や腐食のために撤去されていきました。
このポールは、神奈川新町の国道15号線の歩道上に奇跡的に残った最後のポールです。このたび道路整備のため撤去されることになったので、記念に保存するため横浜市電保存館に移設しました。なお、撤去されたのは2007(平成19)年6月3日で、高さは地上から7.3mあります。先端のねぎぼうずみたいなポールトップは鉄製の飾りもので、いくつかの型があります。市電保存館の館内に展示されています。
社営時代から取り付けられていました。
このポールの下の部分に穴があいていますが、戦時下の1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲で受けた被弾の跡といわれています。
2007(平成19)年7月
横浜市電保存館

当館のアプローチには、昭和3年(1928年)の市電生麦線開通時に立てられた架線用のポールが展示されています。かつては、市電の線路に沿い列をなして立てられていました。
ポールの下部には、空襲での被弾の跡とされる穴が残っています。


横浜市電

1921年(大正10年)、横浜電気鉄道を買収し、横浜市電気局(現在の横浜市交通局)によって運行開始。
元となる横浜電気鉄道は、横浜市初の路面電車として1904年(明治37年)から路面電車を運行していた民間企業。総延長距離は28.86キロ、8路線、保有車両は104両であった。

関東大震災
1923年(大正12年)の関東大震災では、保有車両143両のうち、72台が火災焼失、13台が大破し、変電所や道路、橋梁、架線の被害も甚大であった。復旧に際しては帝国陸軍鉄道第一聯隊工兵3000人が携わった。

横浜大空襲
1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲では、保有車両203台のうち、48両が焼失等で被害をうけ、関東大震災と同じく、変電所や架線、線路の被害も甚大であった。

廃止
戦後復興と共に財政は逼迫し累積赤字が膨れ上がり、経営が悪化。
モータリゼーションによる慢性的な道路渋滞もあり定時運行も困難となり、そして横浜市の急速な郊外の都市化もあり、時代に変化に追随できなくなった横浜市電は、1972年(昭和47年)3月31日に全廃された。


横浜市電保存館

横浜市電保存館は、神奈川県横浜市磯子区にある、1972年(昭和47年)に廃止された横浜市交通局の路面電車(横浜市電)に関する資料を保存・展示する施設。
もともとは、横浜市電の滝頭電停前・滝頭車庫・滝頭車両工場跡地。現在は、横浜市営バス滝頭営業所、でもある。

以下、館内展示など興味持ったところを。

横浜大空襲


関東大震災

関東大震災とその復興
大正12年(1923年)、関東大震災が発生。横浜市電は車両の半数以上を失い、一ヶ月間、全線が不通となりました。しかし、復興事業による街路の整備や区画整理とあわせて、線路の改良が進められ、郊外の各方面へ新しく路線がつくられていきました。
その距離は震災前の二倍以上となり、市電の路線網はこの時期にほぼ完成したのです。


戦時下の横浜市電

奉祝 紀元二千六百年祝典

戦争と市電
戦時体制下になると、軍事施設への動員による輸送が大きく増加します。スピードアップと電力節約のため急行運転が導入され、工場地帯の鶴見方面への延伸も行われました。しかし、昭和20年(1945年)、空襲によって横浜の中心市街は焦土と化し、市電の車両は約4分の1が焼失、車庫や変電所などの施設も大きな被害を受けました。

横浜大空襲
大空襲直後の横浜市街地
桜木町駅上空付近から根岸湾を望む。
写真中央が現大岡川にかかる吉田橋から伊勢佐木町通りの付近。
桜木町駅は無事だったが、中心市街地のほとんどは焼け野原となった。

空襲の罹災状況を示す地図

戦災車両の記録ノート

戦災被害状況

戦前の横浜市電女性車掌

良き笑顔


戦後の横浜市電

戦後、市民の足として復興した横浜市電は昭和30年代に最盛期を迎える。

昭和35年
路線規模が最大となり運転系統本数がもっとも多かった時期の横浜市電。

昭和41年、生麦線と中央市場線が廃止。

昭和44年、久保山線が廃止。
また杉田線、浅間町線なども廃止済み。

昭和45年
本牧線、保土ヶ谷線の廃止。

昭和46年
山元町線廃止。
もう運転系統路線もだいぶ少なくなってきている。

昭和46年度末での市電全廃。


旧横浜駅東口大時計

昭和3年(1928年)10月の旧横浜駅完成時から、昭和54年(1979年)2月まで半世紀にわたり、東口正面で時を刻んできた大時計です。戦時中は出征兵士が学童疎開、戦後は戦災復興、経済発展、横浜の都市開発が進むなか、多くの出会いと別れを見てきた時計です。激動の昭和を見つめつづけたこの大時計は70余年を走った市電の歴史を刻んできたものでもあり、縁あって当館で展示することとなりました。そしてリニューアルを期に再び時を刻む大時計として蘇りました。


横浜市電の保存車両たち

523号車(500型)

昭和3年、震災復興車両、戦後に15両を600型に改造、昭和44年に廃車


1007号車(1000型)

初ボギー車。昭和3年に震災復興事業として20両を購入。
昭和45年に全廃。


1104号車(1100型)

昭和11年に5両を購入。
昭和47年の市電全廃まで活躍。


1311号車(1300型)

昭和22年の30両を製造。
昭和46年に廃車。


1601号車(1600型)

昭和32年に製造。昭和45年に廃車。


1510号車(1500型)

昭和26年に20両を導入。
「ちんちん電車の決定版」ともいわれた。
昭和47年の市電廃止の最後の日まで走った車両。


無蓋貨車10号

昭和23年製造。戦後復興で市電軌道を修理するために活躍。
レールや枕木、バラスト、石炭輸送などを担い、また祝賀装飾の花電車としても活躍し、昭和47年の市電全廃まで運用された。

いまは、横浜市営バス滝頭営業所

※撮影:2025年6月


周辺の関連記事

根岸の疎開道路(横浜市磯子区)

最近、疎開道路を巡っています。
もちろん、いま、そこに何かが残っているわけではないのだけれども、なんとなく空間が往時を偲んでいるような、そんな気配を感じつつの散策の記録です。


疎開道路

第二次世界大戦中に空襲による延焼防止を目的に、建物を疎開(建物疎開)させ、敷設・拡張された道路を、通称「疎開道路」と呼称してている。


横浜の疎開道路

1944年1月、建物疎開を推進するために、横浜市に臨時疎開課が設立された。第一次として44年4月に鶴見区で工場周辺の民家除却を実施。
第六次として、磯子区では堀脇川下流近くで建物疎開と消防道路の整備が行われた。
実際に1944年5月29日の横浜大空襲では、延焼防止や住民避難、消火活動の役割を果たしたという。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-R498-6
1947年11月5日、米軍撮影の航空写真。

上記を拡大。
建物疎開で拡げられた疎開道路の様子がよく分かる。

現在の様子。
紫の線が、疎開道路。上記の拡張された道路空間と一致する。


磯子橋疎開道路

根岸小学校の南北の道路と、磯子橋に至る東西の道路。

以下、疎開道路であったことを記す看板のみが往時を物語っているので、見つけたら写真を撮りつつの散策。


根岸飛行場

根岸疎開道路の入口は、「根岸飛行場跡」
戦前は、ここに飛行艇専用の飛行場があったのだ。

以前、散策していました。
下記の記録の際は、疎開道路をまったく認知せずに周辺を散策していたのだから、モノを知っているか知らないかで、目線が大きく変わるのが、新鮮でもあり。
こうして同じところを目線を変えつつ、何度も往訪することになるのだ。


根岸疎開道路

根岸飛行場跡を南端に、根岸橋に至る南北道路。

根岸疎開道路と磯子橋疎開道路の交差エリア


坂下疎開道路

坂下橋を東西とする疎開道路。


ヘルムドック跡

堀割川の右岸、坂下橋と磯子橋の間に、ヘルム・ドックという木造船所の跡があり、堀割川に水門が開いている痕跡が残っている。開港地の外国人居留地にあったヘルム・ブラザーズ商会。
戦後、このドックの跡地に大入産業という解体業者が入り、その大入産業の次男が松山善三で、大女優高峰秀子と結婚している。

なお、堀割川の石積は、太平洋戦争の被害を免れたため、昭和初期の震災復興期の姿をそのまま残すものとして、2010(平成12)年に土木学会の土木遺産に認定されている。


滝頭疎開道路

掘割川の左岸。南北に連なっている疎開道路。

横浜市電保存館も滝頭疎開道路に面している。

横浜市電保存館は別記事にて。

掘割川河口近く

掘割川

八幡橋八幡神社(滝頭八幡神社)

御大典記念碑(昭和天皇陛下即位記念碑)
「ブイ(浮標)」

敬神 東郷平八郎謹書

根岸駅前

根岸マップ

やはり、こういう土地に根付いた郷土史はなかなか興味深い。

※撮影:2025年6月


周辺の関連記事

「甲府空襲(甲府七夕空襲)」甲府の近代史跡と戦跡散策

甲府の近代史跡と、甲府空襲に関係する戦跡を巡ってみました。


山梨県議会議事堂

1930年(昭和5年)3月31日に竣工。山梨県議会議事堂と山梨県庁別館は、ほぼ同一の公法、素材、様式によって建立している。
1945年(昭和20年)7月7日の甲府空襲では、罹災地域にありながらも、山梨県議会議事堂と山梨県庁別館ともに、甲府城址に守られて被害を免れた。
山梨県議会議事堂と山梨県庁別館は、いずれも2009年に山梨県の有形文化財指定を受けている。


山梨県庁別館

1930年(昭和5年)3月31日に竣工。山梨県議会議事堂と山梨県庁別館は、ほぼ同一の公法、素材、様式によって建立している。
1945年(昭和20年)7月7日の甲府空襲では、罹災地域にありながらも、山梨県議会議事堂と山梨県庁別館ともに、甲府城址に守られて被害を免れた。
山梨県議会議事堂と山梨県庁別館は、いずれも2009年に山梨県の有形文化財指定を受けている。

現在、山梨県庁別館内には、「山梨近代人物館」が開設されている。
竣工当時の内装に再現された旧知事室・旧正庁、県政の歴史を紹介するコーナーも併設されているというが、今回は外観のみで、館内は未訪問。また次回の楽しみ、で。
ちなみに、山梨県庁別館は、大日本帝国陸軍関連の司令部としてドラマや映画の撮影に活用されることも多いという。

今回は外観見学のみ、で。

甲府城から


甲府城(舞鶴城)

舞鶴城公園として整備されている。
武田氏時代は、躑躅ヶ崎館を中心とした武田城下町が整備されていたが、武田氏滅亡後に、甲府城が築城され甲府城下町が整備された。

本丸跡から望む、甲府市内。

富士山も。


謝恩碑

甲府城内にある記念碑。明治40年の大水害などにより荒廃した山梨県内の山林に対し、  明治天皇より山梨県内の御料地の下賜が行われたことに対する感謝と水害の教訓を後世に伝える。
1922年(大正11年)に建設。
碑の正面に彫られた揮毫は山縣有朋の筆による。また、裏面には山梨県知事の山脇春樹の撰文による碑文となる。
碑の設計は明治神宮造営局参与工学博士伊藤忠太と同局技師大江新太郎による。
碑の高さは約18.2メートル、碑身は、オベリスクと呼ばれる古代エジプトの記念碑を形どり、碑台はパイロンと呼ばれる同じく古代エジプトの神殿の入口に設けられた塔状の門を形どっている。

謝恩碑
元帥公爵山縣有朋

あっちこっちから、目に止まる。

山梨県警察本部道場「武徳殿」


明治天皇御登臨之跡

昭和13年3月建立
明治13年6月、 明治天皇が山梨県に御巡幸に際に、21日に、甲府城にご登臨し、国見遊ばされたことを記念し、建立。

明治天皇御登臨之跡


甲府市市役所

展望室に行ってみます。
現在の甲府市役所は2013年竣工。10階には展望フロアもある。

10階の展望フロアから。

さきほどの謝恩碑が聳え立っていますね。

富士山がみえるたびに、写真を撮ってしまうのも、仕方がないですね。

謝恩碑と甲府城は、こんな感じの距離感。


甲府空襲

甲府盆地は、南太平洋から富士山を目標に東京方面に向かう米軍機の飛来ルート上にあったため、米軍機と空襲警報が頻発していた場所であった。すでに甲府上空の制空権は米軍が握っており、3月の東京大空襲で罹災し、甲府に避難してきた人々も多く、多くの甲府市民は、「米軍は甲府上空を通過するだけ、ただの通り道なので、空襲は無いだろう」という意識と判断があったという。

1945年(昭和20年)7月6日深夜から7月7日にかけて、米軍B-29爆撃機によって、甲府市街地の74%が焼失し死者1,127名、負傷者1,239名、被害戸数18,094戸に及ぶ被害を出した空襲。7月7日の空襲であったことから、「七夕空襲」(たなばた空襲)」とも呼称される。山梨県内で最大の戦争被害となる。(千葉市も7月7日の空襲があったことから、同じく七夕空襲と呼称されている。)

https://www.city.kofu.yamanashi.jp/kids/mukashi/013.html

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_24.html


南銀座仲町ノ稲荷社(甲府市中央1丁目)

甲府空襲で全てが焼けてしまった甲府中心街のなかで、この祠の裏には「昭和十年五月五日 合資会社松林軒 社員一同建之」と記載されていることから、甲府空襲で奇跡的に焼け残った祠であることがわかる。

昭和十年五月五日 合資会社松林軒 社員一同建之

狛狐は平成元年の建立だが、その台座は往時からのモノかもしれない。

狛狐の台座から煉瓦が垣間見れる。この台座も往時からのものと推測。

南銀座仲町の繁華街に、静かに佇むお稲荷さま。


戦災者慰霊「いしずえ地蔵尊」(一達寺)

甲府空襲の犠牲者を祀る地蔵様。
一蓮寺に鎮座する。

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/yamanashi_koufu_001/index.html

戦災者慰霊 いしずえ地蔵尊(礎地蔵尊)

いしずえ地蔵尊縁由
第二次世界大戦末期んお昭和20年7月6日夜半より7日払暁にかけ当市は大空襲を受け焦土と化す
殊に当地にて死せる人夥しく三百余体を当山境内にて荼毘に付し当所に埋葬す
終戦後間もなく市営墓地に改装せしむも当時の残状誠に忘れ難く跡地に篤信者に依り慰霊の地蔵尊が建立され今日に至りしと謂う以来五十有余年堂宇等の損耗殊の外激し茲に整備改築を発願し有縁の士の協賛を基に是を成就せり
平和への礎となられたる諸精霊への慰霊と報恩の深心を以て茲に いしずえ地蔵尊 と稱し奉らんこととせり
冀くは向後参詣の士には平和護持倍増の志を以て諸精霊の冥福と謝徳の誠心を賜わらんことを
 平成十一年十月仏日
  一達寺

一蓮寺境内の慰霊碑
支那事変と大東亜戦争の慰霊碑。

日支事変
大東亜戦

昭和36年建立

ちょうど、縁日でした。そんな日に、境内で戦跡散策をしていた私は若干の場違い感。

場所:

https://maps.app.goo.gl/DtsaoifsjgausaxY6

※2025年5月撮影


関連

山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館(甲府)

甲府に赴いたときに、甲府の戦跡をしらべていて、見つけたのが「山梨平和ミュージアム」。
せっかくなので、足を運んでみました。

NPO法人の運営。


山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館

2007年開館。
「伝えたい戦争の記録・記憶を」という広範な市民の声を結集して生まれた民立民営の平和博物館。
1階に甲府空襲、甲府連隊、戦時下の暮らしなど戦争に関わるパネル・資料を展示。
2階には、山梨出身の偉大な言論人石橋湛山の生涯と思想を展示。

公式サイト

http://ypm-japan.jp/

山梨平和ミュージアム、略称「YPM」

ちょうど、訪問時にいらっしゃった館長さんは、元校長先生。学校の先生ということで、提示物も学校感があることに納得。


甲府空襲の実相

甲府空襲で亡くなった1127名の全員の氏名等を記載したパネルや、元日航機長諸星廣夫氏とB29飛行士のローランド・ボール氏との交流で明らかになった甲府空襲の全貌を展示。
また、戦略爆撃の系譜として、ドイツのゲルニカ爆撃、日本の重慶爆撃から連合国軍によるドレスデン爆撃、東京大空襲・ヒロシマ・ナガサキなどの空襲の歴史も展示。

展示コーナー

甲府空襲の断面図

実物資料コーナー

甲府空襲犠牲者1,127名の御芳名。

甲府空襲の戦災地図

甲府空襲跡

本ミュージアム建設時に出土した焼土

山梨県下の空襲

大月空襲の遺髪塚
これは知らなかったので、今度、行ってみましょう。

戦略爆撃の系譜
世界史として、戦略爆撃の流れを復習

重慶爆撃

重慶爆撃で、取り上げられるのは、井上成美と大西瀧治郎。

重慶からヒロシマへ
ところで、毎回思うのですが、「ヒロシマ」カタカナ表記の由来ってなんだろう。

日本の空襲被害


甲府聯隊の歴史

1909年の開設から1945年崩壊の甲府連隊(歩兵第49聯隊)の歴史
49連隊の満州移駐、149連隊の無言の凱旋、49連隊のレイテ戦の悲劇などを展示

49聯隊の創設と甲府

49聯隊と「満洲」

149聯隊と日中戦争の実態

49聯隊とレイテ戦


戦時下の暮らし

戦争の真実が知らされなかった(国民を駆り立てた新聞)、学校教育の実態と子ども達の暮らし、学徒勤労動員などが展示


石橋湛山

2階は、石橋湛山のコーナー。

石橋湛山
1884年〈明治17年〉9月25日 – 1973年〈昭和48年〉4月25日)
日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。 大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第10・11・12代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任。
総理大臣在任期間は65日であり、日本国憲法下では羽田孜の64日に次いで2番目に短く、日本の憲政史上でも3番目の短さである。

生まれは東京だが、少年期は、甲府の増穂・鏡中条で育ち、甲府中学・早稲田大を出て、「東洋経済新報」の記者として、大日本主義に抗して平和・民権・自由主義の論陣を張り、戦後、首相となった湛山の生涯が、写真・実物資料等で展示されている。
全国初の石橋湛山記念館。


戦後80年、歴史と今を考える(2025年企画展)

2025年の企画展。なんとなく学校の文化祭の発表感にあふれた感じもしつつ。

図書コーナー


ブックレット

冊子をいくつか購入しました。
ローカルな冊子ですが、意外と貴重な情報も掲載されており、侮れないんですよね。。

ざっと1時間くらい、見学をさせていただきました。
ありがとうございました。

撮影:2025年5月


関連

タイ王国バンコクの戦跡散策その5・立川飛行機「九九式高等練習機」と日本小型「滑空機」(タイ王国空軍博物館)

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)。
今回は時間を確保できたので前述の「タイ王国海軍博物館」についで、「タイ王国空軍博物館」に足を運んでみました。

下記の続き


九九式高等練習機(立川飛行機・キ55

タイ王国空軍に残された「九九式高等練習機(キ55)」。
日本には残っていない日本製の航空機。

大日本帝國陸軍の練習機。通称「九九式高練」「九九高練」。
1939年(昭和14年)に立川飛行機が開発し正式採用、立川飛行機と川崎飛行機が製造を担当。
1940年(昭和15年)から新型練習機として陸軍飛行学校に配備。
1943年(昭和18年)までに、立川飛行機で1075機、川崎飛行機で311機の合計1386機が生産された。終戦まで陸軍の高等練習機の主力機。
生産された機体は、日本陸軍の飛行学校で運用されたが、一部は満洲国やタイ王国にも輸出された。
タイ王国空軍は1942年(昭和17年)に本機を導入。24機が運用された。1945年の終戦時には22機が残存し、18機が稼働状態にあり、1951年まで運用されたという。

RTAF Ki-55 Tachikawa
RTAF acquired 24 Ki-55 advanced trainers from Japan in 1942. The aircraft was used to train student pilots at Flying Training School in Nakhon Ratchasima. This one on display is one of the two Ki-55’s left in the world. The other is at air museum in Beijing, China
Commissioned:1942-1950

RTAF(Royal Thai Air Force タイ王国空軍) キ-55 立川
RTAFは、1942年に日本からキ-55高等練習機24機を導入しました。この機体は、ナコーンラーチャシーマーの飛行訓練学校で訓練生のパイロット訓練に使用されました。展示されているこの1機は、世界に残る2機のキ-55のうちの1機です。もう1機は中国の北京航空博物館に所蔵されています。
就役期間:1942年~1950年

九八式四五〇馬力発動機
発動機番号 第10928号
製造年月 昭和17年6月
製造所名 日立航空機株式会社


初級滑空機「鳩」(日本小型飛行機・K-14)

1941(昭和16)年に、大東亜共栄圏の国策に応じて、朝日新聞社がタイ国に(初級)鳩型、(中級)蔦3型、(高級)鳳2型を贈り、そのうち、鳩型と鳶型が展示されている。

滑空機は、日本小型飛行機株式会社の宮原旭技師長の設計。
のちに、日本小型式K-14型(戦後生産の後進となる霧ヶ峰式はとK-14型」につながる。宮原旭は三菱名古屋航空機出身の航空機技術者、貴族院議員、男爵。戦後は自作航空機の普及啓発に努めた。

なお、現地の解説板の「Hato」と「Tobi」のイラストが入れ違っているのは御愛嬌で。「Hato」の解説文の図絵が「Tobi」になっている。

RTAF Nihon Kogata Hato
On 23 June 1941, the Asahi Shinbun Newspaper of Japan presented three Nihon Kogata gliders namely, Tobi, Hato and Ootari(Ootoriの誤字ですね) to Thailand as a goodwill gift for Thai National Day ( Then on 24 June). The Thais named these gliders Liwlom , Lenlom and Longlom respectiveely. The Hato or Lenlom on display is elementary training glider. It repuires a light tow-aircraft to become airborne.

RTAF(Royal Thai Air Force タイ王国空軍)
日本小型飛行機 鳩
1941年6月23日、日本の朝日新聞は、タイ建国記念日(その後6月24日)の親善品として、トビ(鳶)、ハト(鳩)、オオトリ(鳳)という3機の日本小型飛行機のグライダーをタイ王国に贈呈した。
タイ人はこれらのグライダーをそれぞれ、「リウロム」、「レンロム」、「ロンロム」と名付けました。
展示されている「ハト(鳩)」または「レンロム」は、初級訓練用グライダーです。 飛行するには軽量の牽引機が必要です。


中級滑空機「鳶」(日本小型飛行機・K-15)

上記と同じく、現地の解説板の「Hato」と「Tobi」のイラストが入れ違っているのは御愛嬌で。「Tobi」の解説文の図絵が「Hato」になっている。

RTAF Nihon Kogata Tobi
On 23 June 1941, the Asahi Shinbun Newspaper of Japan presented three Nihon Kogata gliders namely, Tobi, Hato and Ootari to Thailand as a goodwill gift for Thai National Day ( Then on 24 June). The Thais named these gliders Liwlom , Lenlom and Longlom respectiveely. The Tobi or Liwlom on display is aprimary training glider. It needs a catapult launch for taking off.

1941年6月23日、日本の朝日新聞は、タイ建国記念日(その後6月24日)の親善品として、トビ(鳶)、ハト(鳩)、オオトリ(鳳)という3機の日本小型飛行機のグライダーをタイ王国に贈呈した。
タイ人はこれらのグライダーをそれぞれ、「リウロム」、「レンロム」、「ロンロム」と名付けました。

RTAF(Royal Thai Air Force タイ王国空軍)
日本小型飛行機 鳶
日本の朝日新聞は、タイ建国記念日(その後6月24日)の親善品として、トビ(鳶)、ハト(鳩)、オオトリ(鳳)という3機の日本小型飛行機のグライダーをタイ王国に贈呈した。
タイ人はこれらのグライダーをそれぞれ、「リウロム」、「レンロム」、「ロンロム」と名付けました。
展示されている「トビ(鳶)」または「リウロム」は、初等訓練用のグライダーです。離陸にはカタパルトの発射が必要です。


以下は、日本とは関係ないけど。同じ空間に展示されていたので紹介。

DeHavilland DH-82A Tiger Moth

イギリスのデ・ハビランド社製の練習機。愛称はタイガー・モス。
初飛行は、1931年。
タイガー・モスは、日本では、満州事変の際に鹵獲された元国民革命軍機を、関東軍が輸送・連絡機として使用していたこともある。
タイでは戦後の導入。タイ海軍で運用予定であったが、クーデター騒ぎ(マンハッタン反乱)で、海軍は懲罰として縮小され、海軍航空隊は閉鎖のうえで、航空兵力は全てタイ空軍に移管。

RTAF De Havilland DH-82A Tiger Moth
Royal Thai Navy purchased 30 Tiger Moths from England in 1950. The Navy planned to use this primary trainer in Navy Flying School. However, in 1951 the Navy had to transfer all aircraft to Royal Thai Air Force. There the Tiger Moth was used to train members of Thai Flying Club.
Commissioned: 1951-1961

RTAF デ・ハビランド DH-82A タイガーモス
タイ海軍は1950年にイギリスから30機のタイガーモスを購入しました。海軍はこの初等練習機を海軍飛行学校で運用する予定でした。しかし、1951年に海軍はすべての機体をタイ空軍に移管せざるを得なくなりました。そこでタイガーモスは、タイ・フライング・クラブの隊員の訓練に使用されました。
就役:1951年~1961年


Boeing Model 100E(ボーイング・100E)

タイ王国空軍で最古の航空機。
アメリカで1929年より運用されたアメリカ海軍複葉艦上戦闘機「F4B」の派生型が「P-12」となりアメリカ陸軍陸上戦闘機で運用。
タイ空軍向けのP-12Eの輸出型が「100E」。2機製造のうち1機は、後に日本海軍に試験機としてAXBの名称で移管された。

アメリカ国内以外での海外展示は、タイ・バンコクのみ。

RTAF Boeing Model 100E
RTAF purchased 2 Boeing 100E fighters from USA in 1931. It is an export version of P-12E. At the same time, RTAF acquired 2 Bristol Bulldog fighters from England and 2 Heinkel HD43 fighters from Germany. These aircraft ware under evaluation to find the most suitablle fighter for RTAF. This Boeing 100E on display is the oldest Thai aircraft still exists today.
Commissioned:1931-1941

RTAF ボーイング モデル100E
RTAFは1931年にアメリカからボーイング100E戦闘機2機を購入しました。これはP-12Eの輸出型です。同時に、RTAFはイギリスからブリストル・ブルドッグ戦闘機2機、ドイツからハインケルHD43戦闘機2機を取得しました。これらの航空機は、RTAFに最適な戦闘機を見つけるために評価中でした。展示されているこのボーイング100Eは、現在も残るタイの航空機の中で最古のものです。
就役期間:1931年~1941年


Curtiss Hawk 75N(カーチス・ホーク75N)

1935年にアメリカのカーチス社が開発しアメリカ陸軍などで運用された「P‐36ホーク」。
タイ空軍は、P-36 廉価版の固定脚仕様のホーク75Nを導入。
固定脚のホーク75としては現存唯一の機体。

RTAF Curtiss Hawk 75N
 Hawk 75N is a simplified version of P-36 fighter with fixed landing gear. Twelve Hawk 75N’s were purchased from USA in 1937 to become the first all etal monoplane fighter in RTAF. The aircraft flew in combat during French in RTAF. The aircraft flew in combat during French Indochina Conflict(1940-1941)and World War 2 (1941-1945). This Hawk 75N on display is theee sole surviving fixed landing gear Hawk 75 in the world.
Commissioned:1937-1949

RTAF カーティス ホーク 75N
ホーク 75Nは、固定脚を備えたP-36戦闘機の簡易版です。1937年にアメリカから12機のホーク 75Nが購入され、RTAF初の全金属製単葉戦闘機となりました。この機体は、フランス占領下、フランス領インドシナ紛争(1940~1941年)および第二次世界大戦(1941~1945年)において実戦に投入されました。展示されているこのホーク 75Nは、世界で唯一現存する固定脚式のホーク 75です。
就役:1937~1949年


ちょうど、タイ空軍の88周年の記念式典の準備が行われていたようでして。

タイ王国では国王は神の化身とされ、国民の深い敬愛の対象となっている。

※撮影:2025年2月

タイ空軍博物館、これは、また行きたいです、、、


タイ王国バンコクの戦跡散策その4・泰仏インドシナ紛争と第二次世界大戦機(タイ王国空軍博物館)

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)。
今回は時間を確保できたので前述の「タイ王国海軍博物館」についで、「タイ王国空軍博物館」に足を運んでみました。

下記も。


タイ空軍とインドシナ紛争

タイ王国は、フランスに5度に渡り領土を奪われ、タイ政府は国境の調整を何度もフランスに提案してきた。
フランス航空機は、タイ領空を飛行することも多く、タイ政府は領空侵犯に関しても、フランス政府に講義してきたが、フランスは変わらずに偵察機を飛ばし続きてきた。
この蓄積した対立が、のちの「インドシナ紛争」へと発展していくことになる。

1940年11月28日、インドシナ紛争において、サニット飛行隊司令官は、南方からタイ領空に侵入してきたフランス空軍機5機を迎撃するために、「V-93コルセア」「カーティス・ホークⅢ」を派遣。
迎撃対空戦にて、タイ空軍はフランス軍機を1機撃墜し、無傷完勝を収めた。
この戦いは、インドシナ紛争における最初の空中戦にして、タイ王国史上最初の空中戦(ドッグファイト)であった。

1941年1月25日、タイ王国とフランス政府の紛争を日本が仲裁を開始し、3月には調停案に合意となり、タイの要求を仏印側がほぼ受諾するというタイ側の事実上の勝利に終わった。

タイ王国空軍英雄記念碑
フランス領インドシナ紛争
1940-1941
サニット・ヌアンマニー空尉(Sanit Nualmanee)
「タイの領空は誰にも踏みにじまれることはない」


中島飛行機「一式戦闘機・隼(キ43)」残骸

地中に埋められれていた隼の残骸が2013年に発見された。
ドンムアン飛行場に駐留していた大日本帝国陸軍の中島キ43・一式戦闘機「隼」。
タイ空軍では、1943年から1949年にかけて、「13型戦闘機」の名称で24機のキ43‐2b「隼」戦闘機(一式戦闘機二型乙)が運用されていた。

1945年3月15日に墜落したと思われる「隼」のエンジン、プロペラ、ホイールベース。

手前の発動機は、次項目記載の「九七式戦闘機(キ27)」の中島ハ1(寿)。


中島飛行機「九七式戦闘機(キ27)」残骸

「九七式戦闘機(キ27)」の翼部分の残骸
1981年に漁船が「九七式戦闘機(キ27)」残骸を発見した。
南方作戦に参加した帝国陸軍の機体。

タイ空軍では、1942年から1949年まで、12機の九七式戦闘機(キ27)を「12型戦闘機」の名称で運用していた。


ノースアメリカン「P-51D・マスタング」残骸

アメリカ陸軍航空隊第2航空コマンド群所属のノースアメリカン「P-51D・マスタング戦闘機(44‐15302)のアルバート・エイブラハム大尉の機体。
1945年4月9日、ドンムアン飛行場を機銃掃射中に対空砲で撃墜され、エイブラハム大尉は脱出するも、戦争終結まで捕虜となった。


カーチス「ホークⅢ・BF2Cゴスホーク」
Curtiss HawkⅢ(Curtiss BF2C Goshawk)

カーチス社が1934年に開発した複葉機「BF2Cゴスホーク」。
1935年、タイ空軍は、アメリカのカーチス社から、「BF2Cゴスホーク」の海外輸出機「ホークⅢ(HawkⅢ)」を24機発注し、50機の国内生産ライセンスを取得。
「ホークⅢ(HawkⅢ)」は、カーチス社が、アルゼンチン、中国、タイ、トルコ向けに770馬力(R-1820-F53)発動機を搭載したBF2C-1の輸出バージョン。総生産数137台。

「ホークⅢ」は、タイ空軍初の戦闘機。
タイ空軍では、10型戦闘機と愛称され、フランス領インドシナ紛争や第二次世界大戦での主力機であった。
「ホークⅢ(HawkⅢ)」同型機の現存機は、世界で唯一の機体。


ヴォート「V-93S・O2Uコルセア(初代コルセア)」
Vought V-93S/SA Corsair

ヴォートO2Uコルセア
1927年にアメリカ海軍に発注されヴォート社によって開発された。
複葉複座の偵察/観測機。
残存するコルセアは1機だけで、タイ空軍博物館に展示されている「O3U-6」のタイ向け輸出型「V-93S」のみ。
タイ空軍で、タイ・フランス領インドシナ紛争の時に活躍。

日本海軍も「ヴォートAXV1」として、1929年に評価のために大日本帝国海軍航空隊に一機だけ供給されたO2Uがあり、これは後に、九〇式二号水上偵察機となる。


グラマン「ベアキャット」
Grummam F-8F-1/1B Bearcat

タイでは戦後の導入であるが、第二次世界大戦中に開発された、最強のレシプロ艦上戦闘機。米軍では1945年から運用が開始された。

タイ空軍では、1951年より導入され、愛称は15型戦闘機。
最盛期には、ベアキャットを200機以上、保有していた。
タイ空軍最後のピストンエンジン駆動・プロペラ駆動の戦闘機。


シャム航空機工廠「ポリパトラ」複葉複座軽爆撃機
(Boripatra Bomber Type2)レプリカ

1927年に初飛行したシャム航空機工廠での設計製造された複葉複座軽爆撃機。
タイ王国で設計された最初の航空機。
現在はレプリカが2機、タイ王国空軍空軍博物館で展示してある。
(紹介プレートがない、、、)

意外なことに、タイ王国は自国で航空機設計ができる技術力を有していたのだ。


タイ王国空軍博物館には、大戦機として、「米カーチスSB2Cヘルダイバー」「英フェアリーファイアフライ」「英スーパーマリン・スピットファイア」などもいるというのだが、展示飛行機が多すぎて、見逃していたり、見当たらなかったり、とかで。
うーん、これは再訪しないといけないかもしれません。。。

※撮影:2025年2月

タイ王国バンコクの戦跡散策その3・黎明期のタイ航空機と大東亜戦争タイ空軍の絵画(タイ王国空軍博物館)

2025年2月、仕事でタイ王国に赴いていました(人生2回目のタイ王国)。
今回は時間を確保できたので前述の「タイ王国海軍博物館」についで、「タイ王国空軍博物館」に足を運んでみました。

下記もあります。


タイ王国空軍博物館

バンコク・スカイトレインBTS(BTS Sky Train)のスクムウィット線(Sukhumvit line)「Royal Thai Air Force Museum駅」(タイ王国空軍博物館駅)の直ぐ目の前。
立地としては、ドンムアン国際空港、ならびにドンムアン空軍司令部に隣接した場所となる。

場所:

https://maps.app.goo.gl/8B7F1oqc8y93ofTn7

正面

ラマ5世銅像
タイ三大王のうちの一人、タイの近代化を推進。

銅像の裏。

入口。

F-5Aがお出迎え。

タイ空軍の部隊の所在地かな。


タイ王国の航空黎明期

「航空力は我が国を戦争から守る唯一の盾であり、また平時には輸送にも大きな役割を果たしている。」
ヂャックラボンセ・ブワナート王子(ピサヌローク王子)、のちのラーマ6世
タイ王国空軍の父(ラーマ6世)

ちなみに、ラーマ5世の王子は、それぞれ3軍の父となっている。
海軍の父 
 チュムポーンケートウドムサック親王
  アブハカラ・キアーティヴォンセ王子
空軍の父 
 ピサヌロークプラチャーナート親王 
  チャクラポンプーワナート王子
陸軍の父 
 ナコーンチャイスィースラデート新王 
  チラプラワットワラデート王子

航空黎明期
1903年のライト兄弟から始まった航空機時代

1921年‐1932年まで使用されたタイ王国空軍のパイロット制服

第二次世界大戦


タイ王国の最初の航空機

タイ王国の航空史は、1911年に、サラパトゥム競馬場にベルギーパイロットにおいて展示されたことから始まる。
ヂャックラボンセ・ブワナート王子(ピサヌローク王子)は1912年に3人の将校をフラン氏に派遣。1913年11月2日に、航空技術を習熟した3人の将校は8機の航空機とともに帰国した。
1914年にドンムアンに常設飛行場が完成しタイ王国での航空機運用が開始された。

タイにおける最初の航空機と飛行場

ニューポール単葉機
タイで最初に就役した2種類の航空機のうちの1つ。

プレゲ複葉機
タイで最初に就役した2種類の航空機のうちの1つ。

タイ航空の父 ラーマ6世

タイ国産機(Paribatra)


タイ空軍に関係する絵画

タイ王国での最初の国産機「パリバトラ」(ボリパトラ)
Luang Amphorn Baisal飛行中尉

いろいろなタイ空軍に関係する絵画があった。見ていて楽しい。
言葉がわからないけど、絵なら伝わってくる。

サヤーム王国(タイ王国)陸軍局局長であったヂャックラボンセ・ブワナート王子(ピサヌローク王子)は航空機に多大な関心を示し、1912年2月28日、「タイ王国を飛行機先進国とする」という使命を帯びた3名の将校を航空技術習得のためにフランスに派遣した。
派遣された3名の将校、ルアン・サックサンラヤーウット少佐(スニー・スワンナプラティープ)、ルアン・アーウットシキゴーン大尉(ロン・シンスック)、ティップ・ゲトゥタット中尉は、飛行技術を習得し、1913年11月2日、8機の航空機(ブレゲー4機、ニューポール4機)とともに本国に帰国。
この3名の将校は、今日「タイ空軍の父」と見なされている。

3人の肖像は、すなわち、タイ空軍の黎明期を担った彼らなのだろう。

1914年1月13日、国王陛下隣席での3機の航空展示


唐突に出てきた、お姉様。

この辺りは、日本でもグッとくる万国共有の感性。


日本供給航空機の絵画(大東亜戦争絵画)

1940年、フランス領インドシナ紛争により米国がタイ国へ航空機の供給を停止した。そのためタイ空軍は航空機の供給を日本に切り替え、三菱キ30軽攻撃機「九七式軽爆撃機」(M103「ナゴヤ」)25機と、三菱キ21重爆撃機(キ21-I)「九七式重爆撃機」9機を購入することとなった。

タイ政府は日本軍の通過権を承認し、日本と同盟を結び、タイ王国空軍は1942年-43年にかけて日本軍の進軍を援護した。
三菱 キ21 九七式重爆撃機

インドシナ紛争においてタイ王国空軍は防空において積極的に役割を果たし、タイ王国海軍とタイ王国陸軍の支援を実施。

1942年、タイ王国空軍はキ27b Nate 戦闘機「九七式戦闘機」を12機、日本に発注した。
この機体は7.7mm2挺と55ポンド爆弾4発を搭載していた。

1943年、大東亜戦闘において、12型戦闘機(中島キ27bNate)「九七式戦闘機」は、ランバーン県コーカ飛行場の第16飛行隊に配備され、爆撃機や攻撃機の護衛任務を努め、タイ北部の哨戒任務に努めた。

1943年、タイ王国空軍は、日本から24機の中島キ43Ⅱb「隼」戦闘機を購入。12,7mm機関銃2挺と550ポンド爆弾2発を搭載できる「隼」は、大東亜戦争中のタイ王国空軍で最も高性能な戦闘機であった。

1944年6月5日、アメリカ陸軍航空隊のB-29爆撃機98機はバンコクのマカサン鉄道操車場を攻撃した。タイ空軍は3機の中島キ43「隼」を派遣し、迎撃を試みたが失敗に終わった。

1944年11月27日、バンスー操車場は、アメリカ陸軍航空隊のB-29爆撃機55機による空襲を受けた。たいと日本の中島キ43「隼」戦闘機14機が、巨大なB-29の迎撃を試みた。
隼のパイロットの一人、テルサック飛行中尉は、B-29を攻撃し損傷させたが、反撃により撃墜された。テルサック飛行中尉は、重度の火傷を負いながらも、ベッチャブリー上空で損傷した隼からパラシュートで脱出した。損傷したB-29は基地に帰還する途中で撃墜され行方不明となった。


そのほか展示物

写真をいくつか。。。
展示物は多すぎてお腹いっぱい、取りこぼしも多数。。。


そのほか航空機

写真は順不同

タイ王国で最初のジェット機T-33

F-5

Douglas A-1H Skyraider

いっぱい並んでる。

Fairchild C-123B Provider

中に入れた。

右も左も圧巻の展示。

Cessna A-37B Dragonfly

ファントレーナーFT-400

ヘリコプターも

レーダーも展示?

火器類

こっちにも

左:ノースアメリカン製中間練習機T-28Trojan
右:ピラタス製軽飛行機PC-6

建物を取り囲むように航空機の展示が続く。

Beech C-45F Expeditor

Fairchild Swearingen SA-227AT

食堂と喫茶室とお土産屋さんがある建物。

軍人さんも利用。

ココナッツアイスコーヒーで一休み。テーブルの下に、戦闘機がいました。

いやはや、圧巻ですよ、これはまた期待です。
(スピットファイアとかヘルキャットをみるためにも)

駅チカ。

※撮影:2025年2月


大阪大空襲による弾痕が残る「旧制北野中学校本館西壁」と「殉難碑」(大阪市淀川区・北野高校)

大阪に出張のおり、夕刻に時間ができたので、北野高校に残る弾痕壁を見学してきました。


空襲による弾痕「旧制北野中学校本館西壁」

昭和20年6月15日の空襲の際、学校防衛中の生徒2名が亡くなるなど、米軍の空襲により9名の生徒の尊い生命が奪われた。
この壁に残る28個の弾痕は、昭和20年7月の空襲によるものといわれ、その直径は平均約30cmに及ぶ。

大阪大空襲
1944年12月以降から1945年8月15日の終戦までに、大阪は50回を超える空襲があり、なかでも下記の8回は特に大規模な空襲として、延べ1万人以上の一般市民が犠牲になったと言われている。
昭和20年(1945年)
第1回大阪大空襲 3月13日
第2回大阪大空襲 6月1日
第3回大阪大空襲 6月7日
第4回大阪大空襲 6月15日
第5回大阪大空襲 6月26日
第6回大阪大空襲 7月10日 (堺大空襲)
第7回大阪大空襲 7月24日
第8回大阪大空襲 8月14日 (京橋空襲)

殉難乃碑
昭和20年6月15日の空襲により、北野中学2年生の中島要昌、池田彰宏、学校防衛中焼夷弾に斃る 
 北野百年史

空襲による弾痕「旧制北野中学校本館西壁」
 太平洋戦争中、大阪は昭和19年12月以降同20年8月15日の終戦までに、50回を超える空襲を受け、多大の惨禍をこうむった。
 昭和19年夏には、空襲の危難を避けるため、学童疎開がはじまり、大阪でも国民学校(現在の小学校)の児童たちは地方に疎開して行った。この頃、中学校や高等女学校(現在の高等学校、当時は男女共学生ではない)ではほとんど授業は行われず、生徒たちは軍需工場に動員されたり、食糧増産のため農場で働いたりしていた。
 旧制北野中学校では、昭和20年6月15日の空襲の際、学校防衛中の生徒2名が亡くなるなど、米軍の空襲により9名の生徒の尊い生命が奪われた。
 この壁に残る28個の弾痕は、同年7月の空襲によるものといわれ、その直径は平均約30cmあり、機銃掃射の激しさを物語っている。
 戦後50周年の憶いをこめて、これを残す。
  平成7年12月
   大阪府立北野高等学校

https://news.yahoo.co.jp/articles/c6fcd0dbdf51dfd47d212f0bccf5bf49bc551fe7?page=1

https://www.sankei.com/article/20250429-YFNUPEQVYFJPZGZQ4NCGEG7RTQ

壁に残る28個の弾痕が生々しく、往時の惨劇を伝える。


「北中」記念碑

大阪府立北野高等学校。1873年創立という歴史を持ち、府内でも屈指の進学校。

「北中」記念碑
1931年竣工の昭和校舎屋上の飾り壁。
円形の窓にはめ込まれた「北中」の文字。
その幾何学的な美しい意匠は、六稜の星とともに北野の象徴として、文武に励む幾多の俊秀の胸に刻み込まれてきた。

※撮影:2025年4月撮影(PENTAX WG-1000)

※場所

https://maps.app.goo.gl/TsiyPNNsg7d688RS8


関連(大阪の空襲)