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さらにもう一つの「日本の鉄道発祥の地」品川駅

日本の鉄道は、教科書的に記載すると、1872年10月14日(明治5年9月12日) 新橋駅-横浜駅の開業に始まる。
この10月14日は、今では、「鉄道の日」として記念日にもなっている。

しかし、この新橋駅-横浜駅が正式に開業する前から、日本では鉄道が走っていた。
それが、新橋駅が開業する前に仮営業で走り始めた、品川駅-横浜駅間の区間であった。

つまり、「横浜駅(桜木町駅)」と並んで、「品川駅」は、日本最古の鉄道駅のひとつなのだ。
(新橋駅は、横浜駅、品川駅の次)
そんな品川駅を散策してみることとする。


新橋駅関連

横浜駅関連(現在の桜木町駅)


日本の鉄道前史

1825年(文政8年)、イギリスのストックトン – ダーリントン間で蒸気機関車を用いた貨物鉄道(ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道)の運行が開始された。
1830年(文政13年)にはリヴァプール – マンチェスター間に旅客鉄道(リバプール・アンド・マンチェスター鉄道)も開業。

1853年(嘉永6年)、ロシアのエフィム・プチャーチンが長崎に来航。
船の上で蒸気機関車の鉄道模型を日本人に見せ、詳しい解説をおこなった。 蒸気機関車の模型を見学し「口を開いて見ほれていた」佐賀藩士が模型の制作を計画 。1855年(安政2年)には田中久重(からくり儀右衛門)と重臣や藩校の者の手によって、全長約27cmほどのアルコール燃料で動作する模型機関車を完成させている。これが模型とはいえ、日本人がはじめて作った機関車であった。 このとき当時18歳であった佐賀藩士の大隈重信も見学しており、のちの明治政府で熱心な鉄道導入を唱えることとなる。

1858年(安政5年)には、イギリスが中国の鉄道で使用する予定であった762mm軌間の本物の蒸気機関車が長崎へ持ち込まれ、1か月間にわたってデモ走行を実施。
こうして、国内で鉄道敷設の機運が高まってきた。

鉄道開通に向けて

明治維新後の1870年(明治3年)鉄道発祥国イギリスからエドモンド・モレルが建築師長に着任。本格的工事が始まった。
日本側では1871年(明治4年)に井上勝(日本の鉄道の父)が鉄道頭に就任し、鉄道建設に携わった。
東京横浜間の全線29kmのうち、1/3にあたる約10kmが海上線路として建設。
資材を横浜港から供給した関係上、工事は横浜側から始まり、まず1871年夏頃には川崎までの工事が進み、その際に試運転と資材の輸送をかねて運転が行われていたと考えられる。

現横浜から桜木町にかけての左カーブ付近の埋め立ては地元の商人、高島嘉右衛門が工事を請負、土地を管理したので敬意を表して今でも「高島町」と呼ばれている。また、鶴見川、六郷川(多摩川)の橋は最初木造で作られたが木造では傷みが激しく、後に鉄橋に改められ、2代目六郷川橋(初代鉄橋)が愛知明治村に保存されている。

横浜停車場は現桜木町駅付近であったが、これは野毛外人居留地や港に近いという理由から選ばれたと思われる。新橋停車場は現汐留であるが、東京の入口であり、築地外人居留地に近いという理由もあるが、それよりも東京の中心に異様なものが進入するのを嫌った勢力や軍部が用地を提供しなかったという理由もあった。

1871年9月(明治4年8月)には、早くも木戸孝允や大隈重信、後藤象二郎や三条実美らが神奈川(現京浜急行神奈川駅付近と思われる。)-横浜停留場間を試乗。
そして同年11月には大久保利通も試乗。大久保は鉄道反対派であったが「百聞は一見に如かず。愉快に堪えず」と日記に記し一転して鉄道支持派になり、政府首脳の間にも鉄道の利便性が理解され始めた。

1871年11月(明治4年10月)には六郷川橋梁が完成し品川まで運転が開始された。
このころにはすでに時刻表で運転が定期的にくまれており、岩倉具視を団長とする「遣欧米使節団」一行100余名も臨時列車で品川から横浜まで利用している。
この列車は「品川仕立十一ジ二十分出行」であり「於川崎而蒸気行替五分避行」とあり横浜には12時40分に到着。所要1時間20分と、(同区間は仮営業時は40分)随分時間がかかっているのは、工事中ということもあり徐行しながら走ったのであろう。

品川-横浜間仮営業開始

1872年6月12日(明治5年5月7日)から品川-横浜間で仮営業が行われるようになり、陸蒸気の試運転を弁当持参で見物していた庶民も、お金さえはらえば平等に乗れるようになった。このお金さえ払えば身分の隔たりもなく無差別平等に汽車に乗れるということが、まさに新しい社会の到来であった。

仮営業当日は、所要35分で1日2往復。しかし翌日からは6往復となり、7月10日には川崎・神奈川の途中駅が開業し所要40分で運転が行われた。運転本数を増やしても平均乗車率は80%を越しておりかなりの人気であった。

仮営業中の1872年8月15日(明治5年7月12日)には
明治天皇が風波のために座乗する軍艦が品川に入港できなくなり急遽横浜から汽車に乗り品川から宮城に向かうという予定外の事件があった。
また箱根離宮の帰りに 
皇后(のちの昭憲皇太后)が横浜-品川間を利用しているということから、仮営業であっても
天皇・皇后の利用しており、汽車の安全性も認められ、あとはいよいよ本開業をまつばかりであった。

しかし品川-新橋の間には、高輪の台地がせまっており、また陸軍・海軍用地が多いため工事が難航。大隈重信はついには品川-新橋間を築堤し海のなかに線路用地を確保するという荒技をとることとなる。
海岸付近を通る路線のうち田町から品川までの約2.7kmには海軍の用地を避けるため約6.4mの幅の堤を建設して線路を敷設し、これが高輪築堤となる。高輪築堤の工事は1870年に着工し両側は石垣、船が通る箇所4か所には水路が作られた。

新橋-横浜間開業

1872年10月14日(明治5年9月12日) 新橋駅-横浜駅が正式開業。
新橋駅で式典が催され、明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜まで往復運転を実施した。
正式開業時の列車本数は日9往復、全線所要時間は53分、表定速度は32.8km/h。

開業当時の「1号機関車」は鉄道博物館、「3号機関車」は桜木町駅新南口に保存・展示されている。
また「1号機関車」は『南蛮阿房列車』に代表されるように大の鉄道好きで知られる阿川弘之先生が書いた、絵本「きかんしゃやえもん」のモデルとなった機関車でもある。

正式開業日を記念して、1922年(大正11年)に10月14日は「鉄道記念日」となった。
そして1994年(平成6年)には運輸省により「鉄道の日」と改称された。


品川駅創業記念碑

品川駅の西口・高輪口のロータリーにひっそりと記念碑がある。

 明治五年五月七日
品川駅創業記念碑 
 品川横浜間鉄道開通
  伴睦書

品川駅は、明治5年(1872年)5月7日(新暦6月12日)を開業日としている。
この日に品川・横浜間で仮開業。
品川から北、品川ー新橋間は、高輪築堤の工事などもあり開業が遅れ、品川ー横浜の仮営業から4箇月後の明治5年(1872年)9月12日(新暦10月14日)に、 新橋・横浜間で本営業を開始した。

品川駅創業記念碑
 品川駅では、明治5年(1872年)5月7日(新暦6月12日)をこの開業日にしています。何故かというと、新橋・品川間の工事が遅れたため、この日に品川・横浜間で仮開業したからです。新橋・横浜間で本営業を開始したのは仮営業から4箇月後の明治5年(1872年)9月12日(新暦10月14日)でした。それを記念して、今日では10月14日を「鉄道の日」としています。品川駅は日本で一番古い鉄道の駅といえます。
 この記念碑は鉄道開通80周年及び駅舎改築を記念して、昭和28年(1953年)4月に建之されたもので、揮毫者は衆議院議長をつとめた大野伴睦氏です。記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されており、当時の様子を偲ぶことができます。
 平成18年(2006年)10月 JR東日本 品川駅 この記念碑は鉄道開通80周年及び駅舎改築を記念して、昭和28年(1953年)4月に建之されたもので、揮毫者は衆議院議長をつとめた大野伴睦氏です。記念碑の裏面には仮開業当時の時刻表と運賃が記載されており、当時の様子を偲ぶことができます。
 平成18年(2006年)10月 JR東日本 品川駅

鉄道列車出発時刻及賃金表
 定     明治五年五月七日

上り             下り
横浜発車 品川到着      品川発車 横浜到着
午前八字 午前八字三十五分  午前九字 午前九字三十五分
午后四字 午后四字三十五分  午后五字 午后五字三十五分

賃金表  
車ノ等級
上等  片道 壹円五拾銭
中等  同  壹円
下等  同  五拾銭

 昭和二十八年四月吉日
 品川駅改築落成祝賀協議会建之

高輪口のロータリーに記念碑はある。


JR品川駅中央改札内

品川駅の中央改札ナウに、ちょっとしたモニュメントがある。

さり気なく、「鉄道発祥の地“品川”」を主張している。

郵便ポスト&0kmポスト(ゼロキロポスト)
 この郵便ポストは,品川駅改良・ecute品川の誕生を記念してJR東日本・東京総合車両センターで製作されました。国鉄時代に活躍した荷物兼郵便車「クモユニ」をイメージした形に,東海道線電車の湘南色で仕上げ,鉄道発祥の地“品川”に相応しい「郵便車型ポスト」といたしました。
 0kmポストは,鉄道の路線の起点を示す標識で,品川駅には山手線と品鶴(ひんかく)線の2線の0kmポストがあります。山手線は一回りしているため,起点があまり知られていませんが,品川から新宿を経由して田端までを指します。
 品鶴線は,品川から西大井を経由して鶴見に至る路線で,当初は貨物線として敷設されましたが,現在では横須賀線への直通電車が走っています。
 生まれ変わった品川駅からの出発が,すばらしいものになりますことを祈念し,品川駅の新しいシンボルとして0kmポストのオブジェを設置しました。どうぞ,末長くご愛顧下さい。
2005年10月1日
高輪郵便局
JR東日本・品川駅
ecute品川

品川駅は、山手線の起点、そして品鶴仙という貨物線の起点とのこと。

※撮影:2021年11月


関連

日本の鉄道の父、井上勝の墓は、品川にある。

川端龍子と「爆弾散華の池」(大田区)

大田区立龍子記念館に脚を運んでみました。

川端龍子

川端龍子(かわばた りゅうし)
1885年〈明治18年〉6月6日 – 1966年〈昭和41年〉4月10日)
日本画家、俳人。
1959年(昭和34年)、文化勲章受章。
本名は川端 昇太郎。

臼田坂下に画室を新築した
川端龍子(かわばたりゅうし:1885~1966)
日本画の巨匠川端龍子は、明治42年24歳の時、牛込矢来町より入新井新井宿に移ってきました。この頃はまだ作品を認められてはいませんでしたが、挿絵を描いたり、国民新聞社に勤めたりして生計を立てていました。
大正2年に渡米した際ボストン美術館で日本画に魅せられ、龍子は油絵から日本画へと志向の転機を決意します。翌3年には、処女作「観光客」が東京大正博覧会に入選し、日本画家として立つきっかけを摑みました。その後はつぎつぎと作品が認められ、大正9年現在の臼田坂下に住宅と画室を新築し、ここを御形荘(おぎょうそう)と名付けました。
一 画人生涯筆菅 龍子 一 、という句があるように画業に専念する人でしたが、唯一の趣味としての建築は、龍子持ち前の器用さと熱心さを反映して素人の域を脱するものでした。龍子記念館、屋敷内の建築は全て龍子の意匠によるものです。
 参考文献 集英社「現代日本の美術」 
  大田区


大田区立 龍子公園

一日に3回の公開が行われている。この時間以外は見学不可。
この龍子公園内に、「爆弾散華の池」やアトリエ、旧宅などがある。


爆弾散華の池

龍子公園に入ったすぐ左手に池がある。
この場所には、大正9年(1920年)に建てられた龍子の居宅があった。しかし昭和20年8月13日に爆撃を受け、居宅は倒壊。使用人が2人死亡している。

爆弾散華の池
昭和20年(1945)8月13日、米軍機の爆撃により龍子旧宅は全壊に近い被害をうけました。その体験から制作された作品が「爆弾散華」です。「爆弾散華」には、食糧難の中で栽培された野菜が、爆風によってもの悲しく散っていく光景が描かれています。
終戦後の10月に龍子は第17回青龍展を開催し、この作品を出品しています。また、爆撃跡の穴からは水が湧き出してきたため、龍子の発案によって「爆弾散華の池」として整備されました。
 大田区立龍子記念館

龍子のアトリエ

川端龍子のアトリエは昭和13年(1938年)の建造。
竹が多く用いられた龍子デザインの建屋。

龍子の旧宅

終戦後の昭和23年(1948年)の建造。


大田区立龍子記念館

龍子記念館とは
龍子記念館は、近代日本画の巨匠と称される川端龍子(1885-1966)によって、文化勲章受章と喜寿とを記念して1963年に設立されました。当初から運営を行ってきた社団法人青龍社の解散にともない、1991年から大田区立龍子記念館としてその事業を引き継いでいます。当館では、大正初期から戦後にかけての約140点あまりの龍子作品を所蔵し、多角的な視点から龍子の画業を紹介しています。展示室では、大画面に描いた迫力のある作品群をお楽しみいただけます。
龍子記念館の向かいの龍子公園には、旧宅とアトリエが保存されており、画家の生活の息づかいが今も伝わってきます。

大田区立龍子記念館 https://www.ota-bunka.or.jp/facilities/ryushi


川端龍子 作品

川端龍子の絵画のうち、いくつか私が興味を持った作品を紹介。

「香炉峰」

昭和14年(1939)の作。幅は727.2cmにも及ぶ大作。
飛行する九六式艦上戦闘機が半透明に表現されたインパクトのある作品。

川端龍子は海軍省嘱託画家として支那事変に従軍。中支の廬山上空を海軍機に便乗し、俯瞰した廬山主峰の香炉峰を中心に連峰と長江の大景観を取材した。

白居易が「簾をかかげて看る」と詠んだ香炉峰を、川端龍子は戦闘機という近代兵器で透かして見せた。戦闘機を透視的に扱ったのが龍子のウィットに富んだ秀逸な技法。

中央に日の丸。ほぼ、戦闘機を原寸大で描かれたものという。

川端龍子の自画像という。

ただ透明にしているのではなく、きとんと戦闘機の骨組みを踏まえた透明感が凄い。

※このとき(2021年10月)は香炉峰のみ撮影可、でした。
※展示会の内容により、作品は入れ替わりがあります。

絵葉書を購入しました。

「越後(山本五十六元帥)」

昭和18年(1943年)の作品。4月に戦士した山本五十六の鎮魂の作品。
川端龍子作品では珍しい肖像画。
山本五十六が長岡出身であったことから、人物から「越後」を表すことを試みた作品。
龍子は「五十六の写真」をヒントに描いたという。
しかし写真の第一種軍装の山本五十六と違い、龍子は、ソロモンの南東海域で亡くなった五十六を踏まえ、熱帯で着用されていた白い軍服(第二種軍装)の姿で描いている。

地図を見入る山本五十六の写真

絵葉書を購入しました

「水雷神」

昭和19年(1944年)の作品。
作品が発表された昭和19年の南方戦線は壊滅的な戦況となっていた。その南方海域を感じさせる熱帯魚が泳ぐ海での、特攻と精神的苦悩の様を造形で記録した作品。
海中で忿怒の表情を呈す3人の青年が、敵陣に突入する爆弾三勇士のように、魚雷を突き動かしつつ悲痛な叫びを上げている。
一方で、魚雷の先端に金剛杵を描くことで魚雷そのものを宝具と化し、それを突き動かす青年三体を神格化している仏教的な試みもされ、兵器としての水雷の神格化も踏まえ「水雷神」と銘し、軍部の期待にも龍子なりに応えている。

絵葉書

爆弾三勇士

「爆弾散華の池」

絵葉書は、「香炉峰」「越後(山本五十六元帥)」「水雷神」「爆弾散華の池」の都合4枚をいただきました。

実は、川端龍子のこと、ほとんど知りませんでした。
たまたま「爆弾散華の池」というフレーズを知り、ちょっと気になったので脚を運んだ次第でしたが、記念館で圧倒的な迫力で「香炉峰」を目にして、一気に興味を持った次第。

場所

大田区立龍子記念館
〒143-0024 東京都大田区中央4丁目2−1

https://goo.gl/maps/SD3uzoqfLhpopYxY6

大森駅からは歩いて25分くらい。バスだと15分くらい。


大森駅の東側にある入新井公園に戦争の慰霊碑があるので、あわせて参拝。

入新井萬霊地蔵尊

入新井萬霊地蔵尊
為昭和昭和二十年一月 十一日
        五月二十三日
        五月二十九日
               大空襲戰災死者

入新井萬霊地蔵尊の由来
 この辺りは、太平洋戦争下の昭和二十年五月二十九日の東京大空襲にて、不幸にも三・三平方メートル(一坪)当り六、七発の大量油脂焼夷弾が落され、大勢の尊い犠牲者が出ました。
 戦後、区画整理も整い入新井公園が設けられるに及び、昭和三十二年住民の声にて、今は亡き肉親を偲び、在りし日の隣人を追慕してご冥福を祈ると共に永遠の平和を祈念し、故広瀬定光氏他有志が発起人となり、住民の浄財をあおいで地蔵尊が建立されました。
 その後永年の風雪に破損がひどく、今回三十三回忌を記念して再び広く浄財を募り再建したものであります。近隣の方々のお力により、毎日お花や線香の絶える時がございません。
 昭和五十一年五月二十九日
 入新井萬霊地蔵尊奉賛会

場所

https://goo.gl/maps/cCBUbWuQyH9ptFtD6


※撮影は2021年10月

「鉄道紀行文学の御三家」内田百閒・阿川弘之・宮脇俊三の墓

近代化とともに発展してきた鉄道。そんな鉄道を舞台とした旅物語を作家たちが綴り、そして鉄道紀行文学が確立された。

日本の近代を鉄道を介して旅してきた日本を代表する御三家の墓詣でを。

合掌。


内田百閒(うちだ ひゃっけん)

本名は内田榮造。
1889年〈明治22年〉5月29日 – 1971年〈昭和46年〉4月20日。
別号は百鬼園(ひゃっきえん)。

夏目漱石門下生。 東京帝国大学独文科卒。
1916年(大正5年)、陸軍士官学校ドイツ語学教授に任官(陸軍教授高等官八等)
1918年(大正7年)、海軍機関学校英語学教官であった芥川龍之介の推薦により、海軍機関学校のドイツ語学兼務教官嘱託となる。
1920年(大正9年)、法政大学教授(予科独逸語部)に就任。
1923年(大正12年)、陸軍砲工学校附陸軍教授に任官。
しかし、同年に関東大震災に罹災。海軍機関学校も崩壊焼失したため、嘱託教官解任。1925年(大正14年)陸軍士官学校教授を辞任、陸軍砲工学校教授依願免官。
1929年(昭和4年)、法政大学航空研究会会長に就任、航空部長として、学生の操縦による青年日本号訪欧飛行を計画・実現。
1934年(昭和9年)、いわゆる「法政騒動」を機に法政大教授を辞職。
以後、本格的に文筆業に専念。

1922年(大正11年)、処女作品集『冥途』刊行。
1933年(昭和8年)、随筆集『百鬼園随筆』刊行。
1939年(昭和14年)、日本郵船嘱託。
1945年(昭和20年)、東京大空襲により自宅焼失。
1950年(昭和25年)、大阪へ一泊旅行。これをもとに随筆「特別阿房列車」を執筆、以後『阿房列車』としてシリーズ化し戦後の代表作となる。
1952年(昭和27年)、鉄道開業80周年を記念して,東京駅一日駅長に就任。
1957年(昭和32年)、愛猫「ノラ」が失踪。『ノラや』をはじめとする随筆を執筆。
1970年(昭和45年)、最後の百鬼園随筆である「猫が口を利いた」発表。これが絶筆となる。
1971年(昭和46年)4月20日、東京の自宅で老衰により死去、享年81歳。

代表作
『冥途』1922年2月
『百鬼園随筆』1933年10月
『旅順入城式』1934年2月
『贋作 吾輩は猫である』1950年4月
『阿房列車』1952年6月
『禁客寺』1954年10月
『東京焼盡』1955年4月
『ノラや』1957年12月
『クルやお前か』1963年7月
『日没閉門』1971年4月

映画
『まあだだよ』(1993年、大映、監督:黒澤明、主演:松村達雄)
百閒と法政大学教授当時の教え子の交流を描いた作品。
毎年百閒の誕生日である5月29日に「摩阿陀会(まあだかい)」という誕生パーティーが開かれていた。摩阿陀会の名は、「百閒先生の還暦はもう祝ってやった。それなのにまだ死なないのか」、即ち「まあだかい」に由来する。

阿房列車
『阿房列車』に代表されるように大の鉄道好きの知られ、酒宴では「鉄道唱歌」を熱唱することでも知られていた内田百閒。
全く無目的に、ただひたすら大好きな汽車に乗るためだけの旅を実行、それを『阿房列車』という鉄道紀行シリーズにまとめた。

「なんにも用事はないけれども、汽車に乗って大阪に行つて来ようと思ふ。用事がないのに出かけるのだから三等や二等には乗りたくない。汽車の中では一等が一番いい。これからは一等でなければ乗らないときめた。そうきめても、お金がなくて用事が出来れば止むを得ないから、三等に乗るかも知れない。しかしどっちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。…今度は用事はないし、だから一等車で出かけようと思ふ。…行く時は用事はないけれども、向こうに著いたら、著きつ放しと云ふわけには行かないので、必ず帰って来なければならないから…さう云ふ用事のある旅行なら、…三等で帰ってこようと思ふ。」(内田百閒「特別阿房列車」)

大手饅頭
岡山出身の内田百閒は郷里の名物、大手饅頭伊部屋「大手まんぢゅう」をこよなく愛していた。
「私は今でも大手饅頭の夢を見る。つひこなひだの晩も同じ夢を見たばかりである。東京で年を取つた半生の内に何十遍大手饅頭の夢を見たか解らない。」(古里を思ふ)と随筆し、そして大手まんぢゅうになら「押しつぶされてもいい」とまで書いている。

大手饅頭伊部屋
https://www.ohtemanjyu.co.jp/

大手まんぢゅう、たまに食べたくなるです。。。


内田榮造之墓(内田百閒の墓)

内田百閒の墓は、東京都中野区の金剛寺と、岡山県の安住院にある。
今回は中野区金剛寺のお墓を参拝。

内田榮造之墓

本名が刻まれている。

側面には戒名。

覺絃院殿随翁榮道居士
昭和四十六年四月廿日没 行年八十三歳

背面には建立日、そして摩阿陀會。

昭和四十八年四月廿日之建 摩阿陀會

内田百閒の家紋は、「丸に剣片喰」

木蓮や塀の外吹く俄風 百間

内田百閒没2年後の1973年(昭和48年)には、摩阿陀会有志により墓の脇に句碑「木蓮や塀の外吹く俄風」が建立。
この句碑から、忌日の4月20日を木蓮忌とも言われている。

内田百閒の最初の妻は、中学時代の親友であった堀野寛の妹、堀野清子であった。内田百閒40歳の頃(昭和4年・1929年)に家族と別居し合羽坂に転居した際に、佐藤こひと同居。愛人でもあった。
昭和39年(1964)に、妻・清子が72歳で死去。翌年、75歳だった内田百閒は、佐藤こひと入籍している。そうして、内田こひは内田百閒の隣の墓で眠っている。

内田こひ、昭和62年8月5日没 行年80歳。

なお、内田百閒の最初の妻であった清子夫人は、内田百閒の岡山の墓で一緒に眠っている。

場所は金剛寺の奥にある金剛寺墓所。寺院とは離れた場所なので、ちょっとわかりにくい。駅からちょっと遠い。

https://goo.gl/maps/V8vs88FmtjM9tZVp6

サイト内で内田百閒に関連する記事。


夏目漱石の弟子であった内田百閒は、師を敬愛し「贋作」を書いた。
『贋作吾輩は猫である』
阿川弘之は、鉄道好き作家であった内田百閒に敬意を評して、阿房列車を再び走らせた。
『南蛮阿房列車』

阿川弘之

1920(大正9年)12月24日-2015(平成27年)8月3日
94歳没

東京帝国大学文学部国文学科を繰り上げ卒業し、1942年(昭和17年)9月に海軍予備学生として海軍入隊。
1943年(昭和18年)8月に海軍少尉任官、軍令部勤務。大学在学中に中国語の単位を取得していたことから対中国の防諜担当班に配属される。
1944年、海軍中尉に進級し、8月に支那方面艦隊司令部附となる。
1945年8月15日の終戦は中国大陸で迎える。終戦に伴う進級で阿川弘之は海軍大尉となる。いわゆる「ポツダム大尉」。
1946年(昭和21年)2月、復員。

戦後は、志賀直哉に師事して小説家となる。

代表作は、
予備学生の特攻を描いた「雲の墓標」
海軍提督三部作「山本五十六」「米内光政」「井上成美」
海軍のシンボルであった戦艦の姿を描いた「軍艦長門の生涯」
志賀直哉最後の弟子として師匠を伝記した「志賀直哉」
鉄道物として絵本「きかんしゃ やえもん」の原作
内田百閒に薫陶を受けた「南蛮阿房列車」など、
戦記文学・記録文学・紀行文学・随筆など多数の作品を残す。

広島県名誉県民・日本芸術院会員・日本李登輝友の会名誉会長・文化勲章受章。

南蛮阿房列車
鉄道好き作家としても知られる阿川弘之は、内田百閒を敬愛していた。

「お目にかかったことは無いが、内田百閒先生に私は敬愛の念を持っている。理由はいろいろあるけれども、その一つは百閒先生が非常な汽車好きだからで、小説家の中で汽車のことに異常な関心を持っているのは、百閒老先生を除いては、おそらく自分一人だろうという、いわばそういう親愛感である。」(お早く御乗車ねがいます・昭和33年)

「内田百閒先生が最初の阿房列車に筆を染められてから四半世紀の時が経ち、亡くなられてからでもすでに五年になるが、あの衣鉢を継ごうという人が誰もあらわれない。年来私はひそかに心を動かしていたが、我流汽車物語は贋作でないまでも、少しく不遜なような気がして、なかなか実行に移せなかった。
生前、お近づきは得なかったが泉下の百鬼園先生に、貴君、僕も『贋作吾輩は猫である』なる作物がある。二代目阿房列車が運転したければ、運転しても構わないよと言われているような気がしないでもない。」(南蛮阿房列車・昭和52年)


阿川弘之の墓(阿川家之墓)

北鎌倉の浄智寺に阿川弘之は眠る。

阿川家之墓

阿川弘之

場所

https://goo.gl/maps/aCUioiPJdfZsKvVc9

阿川弘之さんのお別れ会(以下のサイトで様子が詳細に記載されている)

http://home.r07.itscom.net/miyazaki/bunya/owakarekai.htm

サイト内で阿川弘之に関連する記事。


内田百閒と阿川弘之が確立した鉄道紀行を文学として高めたのが宮脇俊三であった。
編集者として阿川弘之と親交も深かった。

宮脇俊三

1926年12月9日 – 2003年2月26日。76歳没。
編集者、紀行作家。元中央公論社常務取締役。
阿川弘之の『お早くご乗車願います』担当編集なども務める。

父は宮脇長吉。
宮脇長吉は陸軍航空兵大佐を最後に衆議院議員となる。
1938年の帝国議会では、国家総動員法の委員会審議で横柄な演説をした説明員の佐藤賢了陸軍中佐に対して野次を飛ばし、佐藤に「黙れ!」と怒鳴られるという事件が起きた(黙れ事件)。佐藤賢了は陸軍時代の教え子であった。

宮脇俊三は、1945年(昭和20年)、東京帝国大学理学部地質学科に入学。父である宮脇長吉は軍需工場の経営なども行っており、ちょうど東京から山形に父親と共に鉄道で移動している最中、8月15日正午、米坂線今泉駅前で玉音放送を拝聴する。
戦後、東京大学文学部西洋史学科に入学し、1951年(昭和26年) 東京大学文学部西洋史学科卒業。中央公論社(現在の中央公論新社)に入社。
中央公論では「婦人公論」編集長、また「世界の歴史」シリーズ、「日本の歴史」シリーズ、「中公新書」などにも関わる。
1978年(昭和53年)6月30日 常務取締役編集局長を最後に中央公論社を退社。
1999年(平成11年)気力・体力に限界を感じ、休筆を宣言。
2003年(平成15年)2月26日、肺炎のため没する。享年76。戒名「鉄道院周遊俊妙居士」。宮脇俊三の命日は「周遊忌」と称されている。

代表作
時刻表2万キロ(1978年7月10日)
最長片道切符の旅(1979年10月)
時刻表昭和史(1980年7月)
終着駅は始発駅(1982年8月)
殺意の風景(1985年4月)

時刻表昭和史
「正午直前になると、「しばらく軍管区情報を中断します」との放送があり、つづいて時報が鳴った。私たちは姿勢を正し、頭を垂れた。固唾を呑んでいると、雑音の中から
「君が代」が流れてきた。
天皇の放送がはじまった。雑音がひどく聞き取りにくく、難解であった。けれども、「敵は残虐なる爆弾を使用し」とか「忍び難きを忍び」という生きた言葉は、なまなましく伝わってきた。放送が終っても、人びとは黙ったまま棒のように立っていた。ラジオの前を離れてよいかどうか迷っているようでもあった。目まいがするような真夏の蝉しぐれの正午であった。
時は止まっていたが汽車は走っていた。 
まもなく女子の改札係が坂町行が来ると告げた。父と私は今泉駅のホームに立って、米沢発坂町行の米坂線の列車が入ってくるのを待った。こんなときでも汽車が走るのか、私は信じられない思いがしていた。 
けれども、坂町行109列車は入ってきた。
いつもと同じ蒸気機関車が、動輪の間からホームに蒸気を吹きつけながら、何事もなかったかのように進入してきた。
機関士も助士も、たしかに乗っていて、いつものように助役からタブレットの輪を受けとっていた。機関士たちは天皇の放送を聞かなかったのだろうか。あの放送は全国民が聞かねばならなかったはずだが、と私は思った。
昭和二〇年八月一五日正午という、予告された歴史的時刻を無視して、日本の汽車は時刻表通りに走っていたのである。」 (時刻表昭和史)


宮脇俊三の墓(宮脇家の墓)

青山霊園に眠る。
父親である宮脇長吉も同じ墓。

宮脇家之墓

鉄道院周遊俊妙居士
平成15年2月26日去
宮脇俊三 76歳

宮脇俊三が愛していた「大井川鉄道の関の沢鉄橋」が刻まれた記念碑

終着駅は始発駅

 宮脇俊三
  鉄道院周遊俊妙居士

場所は、青山霊園1種ロ7号15側2番 

https://goo.gl/maps/rDViBcS6jTRwAt6T6


関連

「インド独立運動の父」マハトマ・ガンジー像(杉並区)

杉並区立読書の森公園(杉並区立中央図書館の隣)

杉並区、杉並区日印交流協会、杉並区交流協会が交流を結んできたインドの慈善団体である「ガンジー修養所再建トラスト」(本部:デリー)により寄贈されたもの、という。

インド独立の志士であるチャンドラ・ボースの遺骨の供養を続ける蓮光寺との縁もあり、杉並区とインドは深い関係にある。


マハトマ・ガンディー(ガンジー)

インド独立運動の象徴とされるガンディー。

第2次世界大戦中、インド国外でイギリスに対する独立闘争を続けていた「スバス・チャンドラ・ボース」や「ビハーリー・ボース」、「A.Mナイル」などの独立運動家は、日本の支援を受けてインド国民軍を組織し、インドの外側から軍事的にイギリスに揺さぶりをかけようとした。
しかしインド国内、つまりイギリスの植民地に留まっていたガンディーは、この様な動きに連携することなく、インド国内でイギリスに対する「不服従運動」「非暴力運動」に終始していた。

1945年8月に日本が降伏し、第二次世界大戦が終結。
イギリスは戦勝国となったが、国力は衰退。
イギリス本国から遠く離れている上に独立運動が根強く続けられてきたインドを植民地として支配し続けることが困難な状況であった。

さらには、日本と連携した「チャンドラ・ボース」や「ラース・ビハーリー・ボース」「A.M.ナイル」らが設立した「インド国民軍」の一員として、これを支援した日本軍とともにイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍などと戦った多くのインド人将官が、イギリス植民地政府により「反逆罪」として裁判にかけられる事態となり、これに対してガンディーは「インドのために戦った彼らを救わなければならない」と、インド国民へ独立運動の号令を発令。この発令をきっかけに再びインド独立運動が拡大。
イギリスはもはや、この運動を止めることができず、1947年8月15日にデリーにてジャワハルラール・ネルーがヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言。イギリス国王を元首に戴く英連邦王国であるインド連邦が成立した。その後1950年には共和制に移行し、イギリス連邦内の共和国となった。

1947年8月のインド・パキスタン分離独立に前後して、 宗教理由から分かれたヒンドゥー教徒とムスリム(イスラーム教徒)による宗教暴動の嵐が全土に吹き荒れた。ガンディーは身を挺して両宗教の融和を図るが好転しなかった。ガンディーは戦争相手のパキスタンにも協調しようとする態度から、「ガンディーはムスリムに対して譲歩し過ぎる」としてヒンドゥー原理主義者から敵対視され、「イスラーム教徒の肩を持つ裏切り者」として、1948年1月30日に暗殺される。78歳であった。
最期の言葉は、「おお、神よ」(ヘー ラーム ) 。

ガンディーの葬儀は死去翌日の1月31日、国葬として営まれた。
群衆の見守る中、 彼の亡骸はラージガート火葬場にて荼毘に付され、遺灰はガンジス川や南アフリカの海に撒かれた。

マハトマ・ガンジー
1869年10月2日-1948年1月30日

東京都杉並区にこのガンジー翁の銅像を、2008年11月6日にガンジー・アシュラム(修養所)再建財団創立者・インド国会議員・故ニルマラ・デッシュバンデ女史の遺志により、ガンジー翁の精神に基づいて、世界平和と相互理解が強められることを記念して、贈る。

「7つの大罪」
汗なしに得た財産
良心を忘れた快楽
人格が不在の知識
道徳心を欠いた商売
人間性を尊ばない科学
自己犠牲をともなわない信心
原則なき政治

場所

https://goo.gl/maps/VNi1gW5ajydKKo2D6

中道寺のコンクリート代替梵鐘(杉並区)


金属類回収令

昭和18年8月12日勅令第667号
戦局の激化による金属資源不足を補うために、官民所有の金属類回収を行なった勅令。
各地の寺院にあった鐘楼の梵鐘も金属供出の対象となった。

寺院の鐘楼は、梵鐘の重みで建屋のバランスを保つ構造でもあったため、梵鐘を外したままでは鐘楼崩壊の危険性があったため、コンクリートや自然石など何らかの重みを確保できる代替梵鐘が釣り下げられた。

もちろん、コンクリートの梵鐘は叩いても音を出すことはない。


中道寺

東京都杉並区荻窪にある日蓮宗の寺院。
山門は、安永2年(1773年)建立。鐘楼を兼ねた鐘楼門に存在感がある。この山門の梵鐘が金属供出された際は、コンクリート代替梵鐘が備え付けられていた。
役目を終えた、コンクリート代替梵鐘は、とくにアピールするわけでもなく、静かに境内参道の片隅にその姿を鎮座させていた。

場所

https://goo.gl/maps/YgYzoej2EiLDsZ5d6


関連

金属供出関連

焼夷弾の花立(杉並区)


荻窪駅と井萩駅の中間あたり。
住所でいうと、杉並区清水2丁目15番7号。
住宅地の静まる小祠で、意外な花立があった。

このカタチ、この六角形、既視感あります。
M69焼夷弾、ですね。

なんでも、この界隈を空襲された際に、落ちた焼夷弾を再利用しているとのことで。

お賽銭箱の左右の花立てが、焼夷弾。。。

民間信仰石塔
 ここに建立されている石塔は、向かって右が宝永5年(1708)銘笠付角柱庚申塔(帝釈天)、左が安永10年(1781)銘角柱型廻国供養塔です。かつてはここより北西約100メートルの現NTT井草ビル北西角(旧称馬場下道の路地角)に造立されていましたが、大正から昭和初めに行われた土地区画整理の際に当地に移されました。
 庚申塔は、庚申の夜に体内にいる三(さん)尸(し)の虫が、その人の悪業を天帝に告げ、寿命を縮めるという道教の説から、人々が集まって夜を明かす庚申待を行った講中が、供養のために建てたものです。この塔は、青面金剛や三猿が彫刻された庚申塔で、「奉造立帝釈天王講中」と刻まれています。一般に庚申信仰では青面金剛が主尊とされますが、日蓮宗では帝釈天を庚申信仰の対象としています。この塔からも、日蓮宗での帝釈天信仰と庚申信仰の結びつきがわかります。また、青面金剛は六臂のものが一般的ですが、これは八臂の青面金剛で区内でも珍しいものです。
 廻国供養塔は、西国33観音などの霊場巡拝を遂げたことを記念して建てたものといわれます。西国33観音に加え、江戸時代には坂東33観音、秩父34観音が設けられ、100観音巡拝の観音信仰が盛んになりました。この塔も100ヶ所を巡拝したことを記念して建てたものと思われます。塔上部の8字の梵字は、聖観音真言をあらわしています。真言とは、口で唱えると仏と一体となれると考えられている、仏の教えを表現する梵語です。
 なお、花立にはこの辺りに落ちた焼夷弾の残骸を使用しています。
  平成19年7月
   杉並区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/pF8dWFmnz8RmTu2y5


M69焼夷弾

このカタチ。同じですね。
下の写真は、「小金井市文化財センター」にて展示されているM69焼夷弾。

燃えずに落ちた焼夷弾は、風呂の焚き付けにつかわれた、と。それなら「花立」に使用しても違和感なし?

M69焼夷弾
太平洋戦争当時、アメリカ軍が木造の多い日本家屋を焼き払うために開発した兵器で、爆風で破壊する爆弾とは異なります。38発のM69焼夷弾を束ねた親弾(E46集束焼夷弾)がB29爆撃機から投下され、空中でバラバラの子弾(M69焼夷弾)に分離して、地上に着弾すると油脂を成分とする焼夷剤が火災を引き起こします。燃えずに落ちた焼夷弾は、風呂の焚き付けに使われることもありました。
この焼夷弾には「焼夷弾」と書かれていますが、のちに書き込んだものと思われます。

こちらのM69焼夷弾は、「江戸川区小松川さくらホール・江戸川区平和祈念展示室」展示品。

下は、「東京大空襲・戦災資料センター」展示品。

E46集束焼夷弾(模型)
1945年3月10日の空襲で主に使われた焼夷弾。中にM69油脂焼夷弾を38本納めており、空中で尾翼部分にある信管が作動してバラバラになって落ちてくる。

M69油脂焼夷弾 AN-M69
1945年3月10日の空襲で主に使われた焼夷弾。尾の部分にストリーマーと呼ばれる4本のリボンがついており、空中姿勢を安定させる。
着火すると、ふたのようなストリーマーの部分は吹き飛んで外れ、筒の内部から粘着性の燃焼剤が飛び出して発火する。


関連

日本初の田園都市・田園調布の玄関口「旧田園調布駅舎」

「田園調布」
日本を代表する高級住宅街は、渋沢栄一の理想とした田園都市でもあった。


田園調布

田園調布は、1918年(大正7年)に渋沢栄一らによって立ち上げられた『理想的な住宅地「田園都市」の開発』を目的とする田園都市株式会社により主に開発され、1923年(大正12年)8月から分譲された地域であった。

渋沢栄一はイギリスで提唱された田園都市構想を理想とし模範的な住宅街を開発。
田園調布駅前広場を中心に放射状に延びる街路は、当時のヨーロッパの都市に見られた特徴をそのまま取り入れたものであった。渋沢栄一の四男であった渋沢秀雄が、日本の田園都市建設の参考とするために、大正8年(1919)に欧州11カ国を視察し住宅事情を学び、帰国後に田園都市株式会社に取締役として入社。
「田園調布」開発へとつながった。

田園調布の由来
この広場を中心とする凡そ八十万平米の地域は、明治文化の先駆者渋沢栄一翁が、我国将来の国民生活の改善の為に、当時漸く英米に現われ始めた「田園都市」に着目して都会と田園との長所を兼ねた模範的住宅を実現させようと念願して、既にあらゆる公的関係から退かれた後であるにも関らず自ら老躯を運んで親しく土地を選定された所であります。
 その目的の為に大正七年、田園都市株式会社が創設されて、翁の理想に共感する人々に土地の分譲を行ない、我国最初の近代的大計画都市が実現しました。そして居住者による社団法人が生まれました。
 この都市全体を一つの公園のように明るく美しいものにする為、建築その他に関し色々な申し合せを固く守り殊に道路との境界には一切土塀板塀などを設けず、花壇か生け垣の低いものの程度にすることなどを、厳格に実行しました。その協力の結果、この明るい住宅地と楽しい散策地が生まれたのであります。
 大正十一年には同社の姉妹会社として目黒蒲田電鉄が創立され大正二年三月、当時荏原郡調布村であった当地に調布という駅が設けられ間もなく田園調布という駅名に改められました。その後この地区が東京市に編入された際、町名改正がおこなせれて当都市のみならず周辺の町村をもひろく含めて田園調布と呼ぶこととなりました。その折当会の地域は頭初の田園都市の約三分の二となり、他の三分の一は、世田谷区玉川田園調布となりました。
 ここに明るく住む方々も、ここを来し訪れる方々も、渋沢翁が永くここに栄えてゆくようにこの田園都市を愛護して下さるようお願い致します。
 昭和三十四年秋
 社団法人 田園調布会 会長 矢野一郎

田園調布駅前、放射状の起点となる西口広場に由来を記した石碑が建立されている。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:C50-C2-29
昭和16年(1941年)4月2日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

上記写真を加工。

現在の様子。GoogleMap航空写真

田園調布駅から西側には、同心円状のエトワール型(パリの凱旋門周辺と同型)の道路と街路樹、広場、公園が設けられている。


旧田園調布駅舎

1923年(大正12年)3月11日
 目黒蒲田電鉄の開通と同時に開業。開業当時の駅名は「調布駅」であった。
1926年(大正15年)1月1日
 駅名を「田園調布駅」に改称。
1990年(平成2年)9月4日
 田園調布駅地下化のため、旧駅舎解体。
2000年(平成12年)1月15日
 旧駅舎を田園調布駅のシンボルとして復元(駅舎としては使用せず)。

旧田園調布駅舎設計者は神宮外苑の絵画館や上高地帝国ホテル、伊豆の川奈ホテルなどを設計した矢部金太郎。
特徴的な屋根の形はマンサード・ルーフという欧州中世紀の民家がモデルになっているという。

田園調布を造成した田園都市会社は、東急電鉄目蒲線前身である目黒蒲田電鉄の母体会社でもあった。

※撮影2021年5月


関連

板橋の田園調布

田園調布の南側は多摩川

「田園調布」と「調布」は、ちょっと違う。。。

渋沢栄一関係

はじめに

新河岸川橋梁に残る弾痕修復の名残?(北区)

鉄道と軍隊は、切っても切れない重要な関係にあった。
そのため日本の動脈である鉄道は、戦時中は幾多の危険を伴っていた。

新河岸川に架かる「新河岸橋梁」も、戦争をくぐり抜けた鉄道鉄橋の一つであった。

軍都・赤羽

東京と埼玉をの間に横たわっている荒川・新河岸川。
東北本線は赤羽と川口で南北に横断する。

荒川・新河岸川の南側は、陸軍の拠点として工兵部隊が展開されている「軍都・赤羽」であった。

赤羽台の戦跡散策

位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:893-C1-191
昭和19年(1944年)9月27日、日本陸軍撮影の航空写真を一部加工。

画像右上に鉄道橋が「2本」架かっているのがわかる。(現在の鉄道橋は「3本」)


新河岸川橋梁

東京都北区赤羽と埼玉県川口市舟戸町の間で、新河岸川に架かる「新河岸川橋梁」と荒川に架かる「荒川橋梁」が連なっている。
明治16年(1883)に初代橋梁が仮設として建設され、明治18年に初代橋梁が完成。
関東大震災後に2代目橋梁が企画され、貨客分離で2本目も増設された。

現在は3本の鉄道橋が並んでいる。
上流 貨物線 昭和2年(1927) → 東北貨物線・湘南新宿ライン
中央 列車線 昭和3年(1928) → 宇都宮線・高崎線。上野東京ライン
下流 電車線 昭和43年(1968)→ 京浜東北線

上流側から。
手前の2本は戦前の架橋。奥の1本(京浜東北線)は戦後の追加架橋。

平成25年(2013)11月17日(日)、上記写真の右側の護岸工事中に不発弾が見つかっている。

新河岸川整備事業(新河岸川護岸工事現場)では、新河岸川橋梁の間近にて不発弾(2,000ポンド爆弾/1トン爆弾)も見つかっていることから、米軍も戦略的に、この東京都埼、そして東北を結ぶ大動脈であった鉄道橋・新河岸橋梁をターゲットしていたこともわかる。

http://www.ukima.info/newslog/episolgo/form2/130724.pdf

上記PDFより不発弾発見場所

https://www.ktr.mlit.go.jp/arage/arage00271.html


新河岸川橋梁(貨物線)

新河岸川橋梁(貨物線)は、3つの橋のうち、一番古く昭和2年(1927)竣工。上流に位置している。

その新河岸橋梁の埼玉側(北側)に、戦争の爪痕があるというので足を運んでみました。

トラス橋の「端柱・橋門構」をみると、左右で異なっている。
北側から見て、左は「リベット結合」、右は板が追加され「溶接結合」がされていることがわかる。

この左右で異なっている理由が(真偽は不詳ではあるが)
「米軍機によるロケット弾により被弾損傷したものを修復した名残である」、とされている。

確定できるソース(原拠)に辿りついていないため、本記事の表題は「?」としました。

たしかに、右側と左側が異なっている。
端柱・橋門構の右側は補強修復されていることがわかる。

オリジナルの端柱はリベットのみ。

修復された端柱はオリジナルのリベットと、一部に板を追加された溶接となっている。

左 貨物線 昭和2年(1927) → 東北貨物線・湘南新宿ライン
中 列車線 昭和3年(1928) → 宇都宮線・高崎線。上野東京ライン
右 電車線 昭和43年(1968)→ 京浜東北線


関連

海軍技術研究所と陸軍目黒火薬製造所跡(目黒区)

JR恵比寿駅と東急中目黒駅、目黒川のほど近くには、かつて陸軍火薬製造所、そして海軍技術研究所があった。


陸軍目黒火薬製造所

幕末に江戸幕府は千駄ヶ谷にあった焔硝蔵(火薬庫)を目黒に移転させ、「目黒砲薬製造所」が設置されたことから、目黒は火薬と密接な関係となる。

明治政府は、旧幕府の「目黒砲薬製造所跡地」に新たに「目黒火薬製造所」を設置。明治18年に操業開始。当初は海軍省の管轄であった。
明治26年、海軍省から陸軍の東京砲兵工廠に移管。
「目黒火薬製造所」は日清戦争・日露戦争での火薬需要とともに発展。

昭和3年(1928)、周辺地域の開発が進むにつれて、都市化された目黒で火薬製造を続けることが危険な状態となったために、火薬製造所を群馬県岩鼻に移転。幕末から続いた目黒での火薬製造の歴史は終焉した。

海軍技術研究所

海軍技術研究所は海軍艦政本部隷下として海軍の先進研究を行っていた機関。
大正12年(1923)に築地で設立。
昭和2年(1927)、築地の研究機関に東京中央市場(築地市場)が建設されることに決まったために、陸軍目黒火薬製造所の跡地に移転を決め、昭和5年(1930)に移転完了。
陸軍目黒火薬製造所から海軍技術研究所へと、目黒のこの地は生まれ変わった。

海軍技術研究所 大水槽

昭和2年(1927)に築地から目黒に移転が決まった海軍技術研究所。
「大水槽」「高速水槽」、ふたつの水槽棟は移転完了の昭和5年に完成。

平賀譲 海軍造船中将

大正時代から昭和初期にかけて海軍艦政本部で艦艇設計に従事した平賀譲は、大正14年から「海軍技術研究所所長」の立場にあり、目黒に海軍技術研究所が移転した際の所長でもあった。平賀譲は昭和6年に退任し予備役となっている。

昭和10年から、海軍艦政本部の造船業務嘱託として戦艦大和の設計に携わる。
海軍技術研究所の大水槽は、戦艦大和の設計の際にも活用された水槽という。

防衛省 目黒地区

海軍技術研究所は昭和20年11月30日、海軍省廃止とともに解体。
占領期間を経て、現在は防衛省目黒地区として活用されている。

  • 防衛省 統合幕僚学校
  • 防衛装備庁 艦艇装備研究所
  • 陸上自衛隊 目黒駐屯地
  • 海上自衛隊幹部学校
  • 航空自衛隊幹部学校

敷地内には、「海軍技術研究所本館」も近年まで残っていたが目黒地区の再整理に伴い、既に解体済み。

そういえば、学生時代に、当時はまだ目黒にあった「防衛研究所史料閲覧室」に卒論のために通ったことを思い出した。防衛研究所史料閲覧室は市ヶ谷に移転。そして目黒地区の北半分は売却された。


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M1121-A-39
1948年07月26日、米軍撮影の航空写真を一部加工。

大水槽の北西には「海軍技術研究所本館」

航空写真には残っている「海軍技術研究所本館」は近年取り壊された。

恵比寿ガーデンプレイスタワーの最上階の展望スペースから、遠望できました。

※2023年9月撮影


海軍技術研究所跡地散策

現在は、艦艇装備研究所。
もちろん立入禁止のため、外周から。

大水槽は2つ並んでいる。

大水槽の隣の小屋も当時からのものと思われる。

大水槽

防衛装備庁
艦艇装備研究所

新しい正門。

統合幕僚学校
陸上自衛隊教育訓練研究本部
海上自衛隊幹部学校
航空自衛隊幹部学校

かつての正門。北側は敷地売却された。

場所

https://goo.gl/maps/KiQ2iLaT8hL9kMrB7


東京海軍共済総合病院(東京共済病院)

海軍技術研究所の隣りにあったのが東京海軍共済総合病院。現在の東京共済病院。
昭和5年(1930)9月、東京海軍共済組合病院として開設したことにはじまる。

場所

https://goo.gl/maps/YKvvYeC1uadZ9ptk6


陸軍目黒火薬製造所跡地散策

海軍技術研究所の前身は、陸軍目黒火薬製造所であった。

当時をものがたるものとして、陸軍標石(陸軍境界標石)が2基残っている。

小さな階段の途中に標石があった。
撤去をせずに、このまま階段を作るという心意気が素晴らしい。

もうひとつは、駐車場の片隅に。

陸軍用地
238

場所(この周辺)

https://goo.gl/maps/kBpa3yFqfy5zb5ZZA


奥沢海軍村跡(世田谷区)

東急線の自由が丘駅と奥沢駅の周辺。高級住宅地エリアであるこの界隈は、かつて「海軍村」であった。


奥沢海軍村

大正12年(1923)に発生した関東大震災後、将校居住地が都心部に集中するのは危険であり、郊外に住んだほうが安全だということもあって、郊外への海軍将校の移住が進んだ。

大正13年、海軍士官の親睦団体「水交社」に事務所を置く「水交住宅組合」の斡旋によって、住宅地として整備された奥沢2丁目界隈。
この地は、北に向かえば「霞が関の海軍省」、南に向かえば横浜を経て「横須賀の軍港」となり、また「目黒の海軍大学校・海軍技術研究所」にも近かったということと、まだ開発が進んでいなかったために土地の価格も手頃であったということもあって、多くの海軍士官たちが居住することとなり、気がつけば海軍将校の邸宅が30軒ほど集まったことから「海軍村」と呼ばれるようになった。

奥沢海軍村跡は、今も当時の面影を残す建物が3軒残っており、ポーチ上の玄関やシュロの古木等が残っている。

海軍村跡

地域風景資産
奥沢海軍村
ゆかりの風景
海軍士官の子孫やその後に住み着いた人々により、緑豊かな町並みが残る。
ポーチ付の玄関やシュロの古木等に、当時の面影を垣間見ることができる。

地域風景遺産
大ケヤキのある散歩道‐けやき道
この界わいは、大正13年に海軍士官の住宅地として開発された。海軍村と呼ばれ、街のみどりは洋風住宅が多くあった当時の面影を感じさせる。

「シュロ」(棕櫚)の古木。

海軍村当時の住宅は3軒残っている。

場所

https://goo.gl/maps/MBhYkPKDDbjX1tvk6


関連

https://www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/sumai/005/002/d00038440.html

https://okusawa.garden/%e5%9c%b0%e5%9f%9f%e9%a2%a8%e6%99%af%e8%b3%87%e7%94%a3/

https://okusawa.garden/ht/%e6%b5%b7%e8%bb%8d%e6%9d%91%e4%bd%8f%e5%ae%85%e9%85%8d%e7%bd%ae%e5%9b%b3%ef%bc%88%e6%98%ad%e5%92%8c11%e5%b9%b4%e9%a0%83%ef%bc%89/

「八面九体地蔵」空襲犠牲者供養の地蔵(板橋区)

東京都板橋区大山金井町16-8。東武東上線大山駅徒歩8分。

大山の住宅地の交差点に、お地蔵様が建立されていた。
「八面九体地蔵」
文字通りに、八面あり、それぞれにお地蔵様が掘られている。一面のみは、親子の地蔵様。

昭和20年4月13日「板橋空襲」
この地にあった防空壕に避難していた1人の乳児を含む9人が、直撃弾を受けて犠牲となった。
昭和25年、この地を所有した小川氏が、供養のために建立したのが、「八面九体地蔵」であった。

地元に人々によって祀られており、乳児も含む9体のお地蔵様それぞれに、綺麗な頭巾が乗せられており、前掛けも回されていた。

合掌

空襲犠牲者供養の地蔵
第二次世界大戦中の昭和二十年(一九四五)四月十三日夜、板橋から志村の地域にかけてアメリカ軍による空襲がありました。この空襲は、区内最大の羅災者約四万五千人を出し、板橋駅、区役所、養育院など板橋区の中枢を焼け野原にしました。
 この空襲で、当地の防空壕に避難していた、一人の乳児を含む九人が、爆弾の直撃弾を受け犠牲になったといわれています。
 戦後、当地を購入し、公衆浴場を開業した小川忠雄氏が、先の空襲による被害を知り、供養のために建てたのが、このお地蔵さまです。昭和二十五年(一九五〇)に現在地に建てられました。八面の胴部分に一体ずつの地蔵が刻まれ、そのうちの一体が子供を抱いています。
 昭和四十九年(一九七四)には、覆屋(おおいや)も作られ、現在ではまちの方々によって大切におまもりされています。
 このお地蔵さまは、板橋区における空襲の事実を伝え、後世に戦争の悲惨さと平和の尊さを伝える史跡として、平成七年度、板橋区の記念物に登録されました。
 平成九年二月 
  板橋区教育委員会

小川医院の敷地の角地に建立されている。

場所

https://goo.gl/maps/hGrvHVxWj2SCks1v8


関連

板橋空襲で、甚大な被害を出した「養育院」

板橋区内の空襲犠牲者を祀る「平安地蔵」

板橋区内には都内有数の軍需工場があった。「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」

板橋の田園調布「ときわ台駅」周辺散策

東京都板橋区常盤台。東武東上線「ときわ台駅」。
東急の「田園調布」、小田急の「成城学園」などの鉄道会社主体の住宅地造成ブームの中で、東武鉄道が手掛けた最初の本格的な住宅地開発が「ときわ台駅」であった。

そんな、開発当初の昭和の雰囲気を感じつつ散策してみました。


常盤台(ときわ台)

東上鉄道
大正3年に東上鉄道として開通した際は、「ときわ台駅」はまだ未開業であった。大正9年(1920)に東上鉄道は東武鉄道と対等合併し、「東武鉄道東上本線」となった。

西板線
合併後の東武鉄道は伊勢崎線などの本線系統と東上鉄道系統との接続を予定し、「西板線」の建設を計画。これは西新井駅と上板橋駅を結ぶ計画であった。しかし関東大震災の影響などもあり頓挫。西板線は、東武大師線として一部が開業。

前野飛行場
西板線の車両基地・操車場予定地として東武鉄道が買収していた用地は、昭和4年(1929)に前野飛行場(板橋飛行場・遠藤飛行場)として、退役軍人の遠藤辰五郎に貸し出され、東京市内などの遊覧飛行が行われていたが、東武鉄道が西板線計画を撤退し、常盤台住宅地として分譲をすることを決め、昭和8年頃に前野飛行場を廃止。

武蔵常盤駅
常盤台住宅地の分譲地への最寄り駅として、昭和10年(1935)10月20日、武蔵常盤駅として開業。
昭和11年より13年にかけて、「常盤台住宅地」として分譲開始。

常盤台住宅地「板橋の田園調布」
駅前ロータリーから放射状に道路が伸びており、大田区田園調布の町並みと比較されることが多い。
そのため「板橋の田園調布」などとも呼称される。
常盤台住宅地分譲の際、東武鉄道が当時の内務省都市計画課職員小宮賢一の設計を採用。地域を一周する並木道(プロムナード)、袋小路(クルドサック)、道路に沿った緑道(ロードベイ)を配置する設計を行い、日本では先駆的な事例となった。

ときわ台駅
昭和26年に武蔵常盤駅から、ときわ台駅に改称。


ときわ台駅

平成30年(2018)に、北口駅舎のリニューアル工事が完了し、昭和20年の開業時の姿で復元。
開業当時からある青色スペイン瓦の三角屋根や、その下に配された縦長の三連窓、大谷石の表面に幾何学的模様を凹凸で表現した壁面や大谷石貼りの柱脚などを残しつつ、開業当初の塗装色で塗り直しなどを行い、改札上部の欄間のデザインなども再現。

特徴的な三連窓。

昭和10年の開業当時から残る大谷石の壁面・柱脚。


ときわ台駅ギャラリースペース
武蔵常盤小径

常盤台住宅地に関連した11枚のパネルが提示してある。


1935(昭和10)年10月20日、ときわ台駅は「武蔵常盤駅」として産声を上げました。以来、80余年にわたり、地域の発展、そして、時代の浮沈みを感じながら、町のシンボルとして皆さまに愛され続けてまいりました。

このたび、駅舎のリニューアルを記念し、11面のパネルから成るギャラリースペースを設けました。特徴的な青瓦と大谷石、幾何学的意匠の目立つ「ときわ台駅」は、今後も地域のシンボルであり続けます。

なお、パネル製作にあたり、板橋区教育委員会、常盤台の景観を守る会、東武博物館より、貴重な資料を提供いただきましたことに感謝いたします。

平成30年5月
東武鉄道株式会社

常盤台住宅
常盤台住宅は、東武東上線で池袋から5つ目「ときわ台」駅の北側に広がる2万3千余坪の面積を持つ住宅地で、現在の常盤台1丁目、2丁目に当ります。東武鉄道株式会社によって昭和11年度から分譲されました。

街づくり
常盤台アーバンデザインの最大の特徴は、地区内を一周できる環状のプロムナード(散歩道)です。日本では珍しい曲線を多用した街路で、5か所に設けられたクルドサック(袋路)や、プロムナード沿いの3か所にロードベイも用意されました。 

常盤台住宅地建築内規
大正期から昭和戦前期までに開発された郊外住宅地の中には、住環境の保全対策を講じていたものが多くあります。常盤台住宅地にも住環境保全を謳った規制が存在しました。開発主体である東武鉄道が定めた「常盤台住宅地建築内規」です。昭和13年4月には成文化されています、以下にそれを要約します。
 (略)

常盤台住宅販売
(略)

思ひ出の建物

思ひ出の景色

思ひ出の駅

帝都幼稚園
帝都幼稚園付門柱 常盤台1丁目6番
板橋区登録有形文化財(建造物) 登録年月日 平成25年(2013)3月27日

 帝都幼稚園は、昭和11年(1936)に、常盤台住宅地の分譲開始に合わせ、元東京府豊島師範学校教諭で、音楽家であった山本正夫が、帝都学園女学校を開いたことに始まります。

 その後、昭和17年に財団法人帝都学園高等女学校の認可を受けましたが、同21年に起きた漏電事故により校舎の3分の2を焼失し、同26年に高等学校は廃止となりました(なお、その跡地には現在区立常盤台小学校が建っています)。その後は、帝都幼稚園として再出発し、現在にいたります。

 建物調査の結果、現在園舎として使われている建物は、昭和21年の焼失を免れた設立当時の「家事割烹室」や「教育棟」などの建物を移築したものと考えられます。

 当園は、薄緑色に塗装された南京下見の外壁や、セメント瓦による勾配の緩い寄棟造や切妻造の屋根に直線的で幅の狭い破風板が施されているなどの特徴が認められます。また、教室空間を大きくとるために、洋小屋構造などの洋風建築の意匠や構造が採用されるなど、昭和初期の時代性を顕著に現わす近代建築となっています。

 なお、幼稚園正門の門柱は、昭和32年に卒園生一同が寄贈したものですが、当時、南常盤台に住居をかまえていた童画家、武井武雄がその設計に当たっています。 

 帝都幼稚園の園舎は、移築をしているものの、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅地における草創期の姿をとどめる数少ない現存している建造物であり、区の近代の歴史を明らかにする上でも重要な建造物となっています。

※現在も幼稚園として使われており、内部への立ち入り・見学はできません。

おさんぽマップ
(略)

斯波家住宅
常盤台・斯波家住宅 常盤台2丁目13番
板橋区登録有形文化財(建造物) 登録年月日 平成20年(2008)3月27日

 東武東上線ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし開発された住宅地です。昭和8~13年かけて駅の開発を含めた26万4千平方mに及ぶ区画整理事業がすすめられ、「常盤台住宅地」と呼ばれています。

 近年、建物の老朽化や生活様式の変化にともなう建て替え、相続による土地の細分化等によって開発当初の建物が大変少なくなっています。

 当住宅は、平成16年に、昭和13年(1938)の建築当初の形が維持できなくなる状況となりましたが、当時の所有者は建造物の文化財的価値の重要性を鑑み、建物二階部分と北側一部分を曳家として保存しました。

 当住宅は、建設当初と比較すると、規模は40%に縮小され、位置も同敷地内において移動していま す。しかし、広縁を含む四部屋と屋根は、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅における草創期の姿をとどめており、現存している数少ない建造物となっています。区の近代の歴史を明らかにする上でも大変重要です。

※現在も住居として使われており、内部への立ち入り・見学はできません


帝都幼稚園

昭和11年(1936)の建物が今も使われている幼稚園。

帝都幼稚園付門柱
 帝都幼稚園は、昭和11年(1936)に、常盤台住宅地の分譲開始に合わせて、元東京府豊島師範学校教諭で、音楽家であった山本正夫が、帝都学園女学校を開きました。
 その後、昭和17年に財団法人帝都学園高等女学校の認可を受けましたが、同21年に起きた漏電事故により校舎の3分の2を焼失し、同26年に高等学校は廃止となりました(なお、その跡地には現在区立常盤台小学校が建っています)。その後は、帝都幼稚園として再出発し、現在にいたります。
 建物調査によれば、現在の建物は、昭和21年の焼失を免れた設立当時の「家事割烹室」や「教育棟」などの建物を移築し、使用しているものと考えられます。
 当園は、薄緑色に塗装された南京下見の外壁や、セメント瓦による勾配の緩い寄棟造や切妻造の屋根に直線的で幅の狭い破風板、教室空間を大きくとるために採用された洋小屋構造などの、洋風建築の意匠や構造を取り入れた、昭和初期の時代性を顕著に現わす近代建築です。
 また、幼稚園正門の門柱は、昭和32年に卒園生一同が寄贈したものですが、当時、南常盤台に住居をかまえていた童画家、武井武雄がその設計に当たったものです。
 帝都幼稚園の園舎は、移築をしているものの、昭和戦前当時の最先端の開発がなされた常盤台住宅地における草創期の姿をとどめる数少ない現存している建造物です、また、区の近代の歴史を明らかにする上でも重要な建造物です。平成24年度に登録文化財となりました。 ※内部の見学は不可
  平成26年2月 
   板橋区教育委員会

正門門柱

昭和11年の建造物

帝都幼稚園という、名称に歴史と尊厳を感じさせる。

場所

https://goo.gl/maps/tAJnAkUN97fQmxGZ8


閉館した板橋区立中央図書館。

板橋区立中央図書館旧館は、1970年に開館。2021年度に解体。
旧館は2020年12月20日閉館。新館は板橋区平和公園内に新築され2021年3月28日開館。

曲線を描くプロムナード。


常盤台・斯波家住宅

板橋区登録有形文化財
常盤台・斯波家住宅

木造二階建・近代和風建築
所在地 常盤台2丁目13番
登録年月日 平成20年3月27日
所有者 (略)

 ときわ台駅北側の常盤台1丁目・2丁目一帯は、東武鉄道が田園都市づくりをめざし、昭和8~13年に駅の開発を含めた26万4千平方mに及ぶ区画整理により造った街で、住宅地は「常盤台住宅地」と呼ばれています。
 しかし近年、建物の老朽化・生活様式の変化に伴う建替えや、相続による土地の細分化等で建築当初の建物が大変少なくなってきました。
 この住宅も、平成16年に建築当初の形を維持できなくなる事態が生じましたが、現所有者は建築物の価値の重要性を鑑み、建物の二階部分と北側一部分とを曳家して保存しました。  
 建築当初と比較すると規模は縮小され、位置も同敷地内にて移動していますが、広縁を含む四部屋が屋根を含めて建設当初のまま残っており、「常盤台住宅」の歴史を伝える上で重要な建造物です。
 平成21年3月
  板橋区教育委員会
  ※現在も居住していますので、内部への立ち入りはできません。

場所

https://goo.gl/maps/o9hYsm4x19ay43297


常盤台の南に空襲の慰霊碑があるので足を伸ばしてみる。
マンションのの間に鎮座。

平安地蔵

昭和20年6月10日の板橋区内で最大の死者(死者269名)を出した空襲の犠牲者「戦災死没者之霊」を祀る。昭和二十三年六月十日建之。

平安地蔵尊
平安地蔵尊由来
 この地は、大東亜戰争末期の昭和二十年六月十日午前八時半頃、米爆撃機参拾数機の編隊により數百発の爆彈を投下され一瞬にして修羅の巷と化し死者貮百八拾余名を出せり
 ここに戰災死没者永遠の冥福を祈るため地元有志發起人となり昭和二十三年六月十日平安地蔵尊を建立する

平らけく 安ら希く
  世越は 護り座す
 地蔵菩薩の
   誓ひうれしき

伊藤康安撰 長谷川耕南拜書

平安地蔵
 昭和二十年(一九四五)六月十日、午前七時五十五分より約二時間にわたり、この付近一帯はB29による空襲をうけました。『帝都防空本部情報』の記録によると、死者二六九名、重傷者八六名、建物の全壊二六〇戸、投下爆弾(二五〇キログラム級)一一六個、罹災者二、四六七人羅災世帯四九八世帯とあります。区内では最大の死者を出した空襲といわれ、実際にはこの数字より多い被害があったようです。
 戦後、亡くなった人々の供養と再びこの悲劇を繰り返すまいという誓いのもとに昭和二十三年六月十日、地元有志の人々が浄財を集め、おとな、子どもを表す大小の地蔵を造立、平安地蔵と命名しました。太平洋戦争を語る区内では数少ない史跡の一つです。
 平成七年度、板橋区の記念物に登録されました。
  平成九年三月 板橋区教育委員会

場所

https://goo.gl/maps/SCDofGz5KnhB6jqL7

※本記事の撮影は2021年2月


板橋区関連

「日本の福祉・医療の原点」養育院と渋沢栄一【渋沢栄一2】


渋沢栄一銅像

板橋区登録有形文化財
渋沢栄一銅像

初代養育院院長として渋沢栄一は50年以上養育院に関与し、他の職を辞することはあっても、養育院の運営には最後まで関与し続けた。

明治5年(1872)に、本郷の旧加賀藩邸の長屋を利用して養育院の仮施設が造られ、翌明治6年に上野に養育院本院を設置。維新後に急増した窮民収容保護のため、東京府知事大久保一翁(大久保忠寛)の「救貧三策」の一策であった。
養育院本院は、上野、神田、本所、大塚などを転々とし、関東大震災後に板橋に移転。
渋沢栄一は、大久保一翁東京府知事より、共有金の取り締まりを依頼され、養育院に関与。財政基盤が定まらない中で、渋沢栄一は初代・養育院院長として必死に寄金を集め、養育院の維持に努力。
関東大震災後に養育院本院が板橋に引っ越しし一段落した大正14年に、養育院常設委員会(委員長は東京市長)は市民の寄付金による渋沢栄一養育院院長の銅像建設を計画。
「養育院の構内に、百年の後も永久にこれを守護せんとする渋沢栄一子爵の魂魄ための定住所」という設立理由に渋沢栄一も銅像制作を承諾。

大正14年(1925)11月15日、本院完成にあわせて建立、小倉右一郎作の渋沢栄一像は、高さ4.3メートル、方5.4メートルの花崗岩台座に、高さ3.75メートル、重量1.8トンの青銅製銅像。フロックコート姿でソファーに座っている姿となる。
銅像の完成時には、渋沢栄一本人も出席して除幕式が執り行われた。

昭和20年(1945)、戦時中の金属供出によってコンクリート像に作り変えられ、銅像本体は供出予定で地上に降ろされるも、4月の板橋空襲で養育院は9割が焼失、107名の犠牲が出る中で、渋沢栄一銅像は焼け残った。そのまま運搬手段などが無くなったために渋沢栄一銅像は供出を逃れ、戦後に修復された。

旧養育院長渋沢栄一銅像
 日本の福祉・医療の原点である「養育院」は、明治5年(1872)に設立されました。渋沢栄一は明治7年以来その運営に関与し、養育院長として半世紀を超えて中心的な役割を果たしました。その偉業を顕彰するため、まだ存命中の大正14年(1925)、幅広い東京市民の醵金により建てられたのがこの銅像です。
 帝展・文展の審査員も努めた彫刻家、小倉右一郎の制作で、高さ16尺(4.3m)、方20尺(5.4m)の花崗岩の台座に、高さ10尺(3.75m)、重量480貫(1.8t)の青銅で造られています。フロックコートをまといソファーに座る晩年の姿を映しています。
 また、昭和18年(1943)金属供出のためにコンクリート製の代替像が作られ、本体は敷地の一隅に置かれて供出作業を待っていましたが、輸送の為の交通事情、都内空襲などで回収作業ができず、昭和20年4月13日の板橋地区の空襲にも焼け残り、供出されないままに昭和20年8月15日の終戦を迎えました。
 昭和32年に、作者・小倉右一郎の監修のもとに修築され、その後3回の敷地内移設を経て現状に至ってます。
 大正年間の養育院に関する造形物であり、板橋区の近代化の歴史を語る重要な史料となっています。平成26年(2014)3月に板橋区の登録文化財(歴史資料)となりました。
 平成26年12月 板橋区教育委員会

子爵渋沢栄一像

大正14年11月
小倉右一郎

大正14年11月建設寄附
澁澤養育院長銅像建設會
理事
會長 中村是公 
(以下略)

中村是公は関東大震災後の復興に取り組んだ第9代東京市長。
渋谷区広尾3丁目の旧中村是公邸(旧羽澤ガーデン)は有名であった。2011年に再開発で消失。


養育院本院

養育院本院の跡。
「養育院本院」の字は渋沢栄一の墨蹟

養育院本院の碑
 養育院は、昭和5(1871)年10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諸問に対し経営会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京芸大)、神田、本所大塚など東京市内を転々としたが、関東大震災後、現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(江戸幕府の松平定信によって創設された七分積金が明治維新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治7年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。特に第二次世界大戦後は、自動の保護や身寄りのない高齢者の養護、さらに高齢者の福祉・医療・研究、看護師の養成など時代の要請に応じて様々な事業を展開した。
 平成11年12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の膜を閉じたが、養育院が行ってきた事業はかたちをかえて現在も引き継がれている。
 養育院に関連する碑は、ほかに養育院の物故者中、引取人のいない遺骨を埋葬、回向をお願いした東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園にある。
 なお、碑の「養育院本院」は渋沢栄一の墨蹟を刻んだものである。
  平成25(2013)年3月 養育院を語り継ぐ会

この碑は元養育院職員当の篤志によって建てられました。
 地王独立行政法人 東京都健康長寿医療センター

養育院に関しては、以下に詳しい。

地方独立行政法人 
東京都健康長寿医療センター

養育院は、現在「東京都健康長寿医療センター」となっている。

https://www.tmghig.jp/hospital/about/history/

ようこそ 養育院・渋沢記念コーナーへ

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/guide.pdf

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/shibusawacorner2014.pdf

櫻園通信平成25年度発行

https://www.tmghig.jp/hospital/cms_upload/ouen_1-9.pdf


東京都健康長寿医療センター、かつての養育院を見つめる渋沢栄一像


谷中に養育院関連の慰霊碑が2つある。

養育院者故者の墓
義葬之冡(大雄寺)

台東区谷中の大雄寺では、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向を行っていた。
明治6年(1873)中の埋葬者は100名と伝えられ、寺内の一角に「義葬之冡」がある。この「義葬之冡」は養育院創立当時の唯一の遺構という。

養育院義葬の冡
 養育院は、明治5年(1872)10月15日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原始資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治7年(1874)から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治12年(1879)には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成11年(1999)12月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、127年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ここ大雄寺には、養育院創設当初の物故者中、引取人のない遺骨の埋葬、回向をお願いしたものである。明治6年(1873)中の埋葬者は100名と伝えられ、寺内の一角に義葬之冡がある。この義葬之冡は養育院創立当時の唯一の遺構である。
 なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の了俒寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多磨霊園がある。
 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
  平成22年(2010)4月 
   養育院を語り継ぐ会

義葬之冡  明治6年癸酉

幕末三舟の一人、高橋泥舟墓の墓も大雄寺にある。


養育院者故者の墓
東京都養育院慰霊碑・了俒寺

谷中霊園の隣、了俒寺(りょうごんじ)の飛地にあたる了俒寺墓地に「東京都養育院慰霊碑」がある。了俒寺の境内ではなく、谷中霊園側となるので要注意。私は場所がわからなかったので、了俒寺の御人に案内していただきました。

東京都養育院慰霊碑
 養育院は、明治五年(1872)十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事・大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関るようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史に幕を閉じた。
 ここ了俒寺の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬、回向を御願いしたものであり、明治六年末から大正二年に至る埋葬者は三千七百六十二名である。
 なお、養育院物故者の墓は、ほかに東京都台東区谷中の大雄寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多摩霊園がある。

 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。

 平成二十二年(2010)四月
             養育院を語り継ぐ会
この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                          了俒寺

慰霊碑
明治6年末から
大正2年12月まで
3762名
 合葬
東京都養育院

養育院義葬之墓
明治12年3月建之

東京市養育院義葬

明治から大正にかけての合葬墓、義葬墓が5つ並んでいる。

場所は、谷中霊園の甲3号5側の隣。

谷中霊園には渋沢栄一墓もあるがそれは別記事にて。

谷中霊園の一角に、了俒寺墓地の隣に養育院慰霊碑の敷地がある。

谷中7丁目に、了俒寺がある。

突き当りの白い壁が了俒寺。左手に谷中霊園側の了俒寺墓地がある。


養育院合葬冢・多磨霊園

多磨霊園にて拝してきました。(※2021年9月)
場所は、5区の無縁墓地エリア。

東京市養育院合葬冢

歸入無為楽

昭和五年三月 成

養育院合葬冢
 養育院は、明治五(千八百七十二)年十月十五日に創設された。維新後急増した窮民を収容保護するため、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。その後、事業拡大などのため養育院本院は東京市内を転々としたが、関東大震災により大塚から現在地の板橋に移転した。養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(松平定信により創設された七分積金が新政府に引き継がれたもの)である。
 養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。営繕会議所は、共有金を管理し、養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢栄一は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長として事業の発展に力を尽くした。
 養育院は、鰥寡孤独の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じた。
 ここ多磨霊園には、昭和八年以降、養育院の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬し、現在も供養をしている。
 なお、養育院者故者の墓は、他に東京都台東区谷中の大雄寺、了俒寺及び栃木県那須塩原市の妙雲寺がある。

 ここに、養育院及びその墓地の由来を記し、諸霊の冥福を祈るものである。
   平成二十二(二千十)年四月 養育院を語り継ぐ会

 この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
                   東京都福祉保健局

 ここ多磨霊園には、この碑文にある養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)があります。

裏には、墓標が5つ、並んでおりました。
明治・大正・昭和にかけて合葬されてきた証。

場所

https://goo.gl/maps/ykwnFSMRFTJh2xre7


大久保一翁墓

多磨霊園には、養育院創設時の東京府知事、大久保一翁の墓所(11区1種2側3番)もあるので拝してきた。

大久保忠寛
幕臣、のちに東京府第五代知事を務める。養育院創立時の東京府知事。養育院の設立を行い、運営を渋沢栄一に委任した。

大久保氏墓
一翁忠寛之墓

勝海舟の書、という。


栃木県那須塩原市の妙雲寺にあるという養育院者故者の墓は、訪れる機会があれば、アップデートします。


渋沢栄一関連

晩香廬と青淵文庫(渋沢栄一旧邸・曖依村荘跡)【渋沢栄一1】

2024年度発行予定の1万円新紙幣の顔、そして2021年の大河ドラマの主人公でもある渋沢栄一の邸宅は飛鳥山にあった。


渋沢栄一

日本近代経済の父、日本資本主義の父、と称される。
1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)
旧幕臣、官僚、実業家。正二位勲一等子爵。雅号は青淵。

第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所、東京株式取引所を初めとし、500を超える企業や経済団体の設立・経営に関わる。
社会福祉事業、病院医療、実業教育、女子教育、私立学校等の設立、運営、支援等、700を超える社会事業にも尽力。

実業家としては、みずほ銀行・りそな銀行・埼玉りそな銀行・王子ホールディングス・東京ガス・IHI・いすゞ自動車・立飛ホールディングス・大日本印刷・日本経済新聞・東京海上日動火災保険・東日本旅客鉄道・日本郵船・東京電力ホールディングス・東洋紡・太平洋セメント・キリンホールディングス・清水建設・日産化学・東京製綱・帝国ホテル・サッポロホールディングス・アサヒグループホールディングス・大成建設・古河グループ(古河機械金属・古河電気工業・富士通・富士電機・横浜ゴム)・オーベクス・大日本明治製糖・川崎重工業・住友重機械工業・東京建物・京阪ホールディングス・東宝・東京会館・ニッピなど、500以上に及ぶ企業の設立や運営に関わる。

教育面では、一橋大学・東京経済大学・東京女学館・日本女子大学・同志社・早稲田大学・高千穂大学・二松学舎・国士館大などに関与。

昭和6年(1931年)11月11日死去。享年91歳。
法名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。墓所は谷中霊園渋沢家墓地。


渋沢史料館

「飛鳥山3つの博物館」のひとつに、「渋沢史料館」がある。史料館本館とは別に、渋沢栄一の旧邸として大正期に建立され国指定重要文化財に登録されている建物が2棟ある。

  • 1878年(明治11年)
     渋沢栄一が飛鳥山に別荘「曖依村荘(あいいそんそう)」を設ける。
  • 1901年(明治34年)
     本邸を飛鳥山に移す
  • 1917年(大正6年)
     晩香廬竣工
  • 1925年(大正14年)
     青淵文庫竣工
  • 1931年(昭和6年)
     11月11日 渋沢栄一死去。
     旧渋沢邸は栄一門下生が結成した竜門社に遺贈される
  • 1945年(昭和20年)
     4月13日 太平洋戦争時の空襲により建物の大部分を焼失
  • 1946年(昭和21年)
     財団名を渋沢青淵記念財団竜門社に改称
  • 1982年(昭和57年)
     渋沢史料館開館
  • 1998年(平成10年)
     3月 本館新築開館
  • 2003年(平成15年)
     11月 財団名を渋沢栄一記念財団に改称
  • 2019年(令和元年)
     9月1日 渋沢史料館休館
  • 2020年(令和2年)
     11月19日 渋沢史料館リニューアルオープン

青淵文庫

大正14年(1925)竣工。重要文化財(旧渋沢家飛鳥山邸)

後日、撮影をやり直しました。。。季節が変わると見え方も変わりますね。

旧渋沢庭園
開演時間のお知らせ
開演時間 3月1日~11月30日 9:00から16:30まで
     12月1日~2月末日 9:00から16:00まで
(以下略)

ようこそ旧渋沢庭園へ
曖依村荘跡
 飛鳥山公園の一角は、渋沢栄一が1879(明治12)年から亡くなる1931(昭和6)年まで、初めは別荘として、後には本邸として住まいした「曖依村荘(あいいそんそう)」跡です。約28,000㎡の敷地に、日本館と西洋館をつないだ主屋の他にも色々な建物が建っていました。住居等主要部分は1945(昭和20)年4月の空襲で消失しましたが、大正期の小建築として貴重な「晩香廬」と「青淵文庫」が、昔の面影をとどめる庭園の一部ともに、よく保存されています。

渋沢史料館
 渋沢栄一の1840(天保11)年から1931年(昭和6)年の91年におよぶ生涯と、携わったさまざまな事業、多くの人々との交流等を示す諸資料を渋沢史料館にて展示しております。

国指定重要文化財
晩香廬
青淵文庫

国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
青淵文庫
 所在地    北区西ヶ原2-16-1
 設計者    中村田辺建築事務所・田辺淳吉
 建築年    1925(大正14)年
 指定年月日 2005(平成17)年12月27日

 渋沢栄一(号・青淵)の80歳と子爵に昇爵した祝いに、門下生の団体「竜門社」より寄贈された。渋沢の収集した「論語」関係の書籍(関東大震災で焼失)の収蔵と閲覧を目的とした小規模な建築である。
 外壁には月出石(伊豆天城産の白色安山岩)を貼り、列柱を持つ中央開口部には、色付けした陶板が用いられている。上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、色鮮やかな壁面が構成されている。内部には1階に閲覧室、記念品陳列室、2階に書庫があり、床のモザイクや植物紋様をあしらった装飾が随所に見られ、照明器具を含めて華麗な空間が表現されている。
 財団法人 渋沢栄一記念財団

上部の窓には渋沢家の家紋「違い柏」と祝意を表す「寿」、竜門社を示す「竜」をデザインしたステンドグラスがはめ込まれている。

「寿」の字。

露台下より出土した「まぐさ」
露台基礎

晩香廬(ばんこうろ)

国指定重要文化財
旧渋沢家飛鳥山邸
晩香盧
 所在地    北区西ヶ原2-16-1
 設計者    田辺淳吉(清水組技師長)
 建築年    1917(大正6)年
 指定年月日 2005(平成17)年12月27日
 
 近代日本の大実業家のひとり渋沢栄一の喜寿を祝い、合資会社清水組(現・清水建設(株))の清水満之助が長年の厚誼を謝して贈った小亭である。
 建物は応接部分と厨房、化粧室部分をエントランスで繋いだ構成で、構造材には栗の木が用いられている。外壁は隅部に茶褐色のタイルがコーナー・ストーン状に張られ壁は淡いクリーム色の西京壁で落ち着いた渋い表現となっている。
応接室の空間は勾配の付いた舟底状の天井、腰羽目の萩茎の立簾、暖炉左右の淡貝を使った小窓など、建築家田辺淳吉のきめこまかな意匠の冴えを見ることができる。なお晩香廬の名は、バンガローの音に当てはめ、渋沢自作の詩「菊花晩節香」から採ったといわれる。
 財団法人 渋沢栄一記念財団

渋沢栄一像

この像は、兜町の第一銀行本店中庭にあった。

後日、撮影をやり直しました。
足場もいつの間にかしっかりと。

山形亭跡

山形亭跡
丸芝をはさんで本邸・西洋館と対した築山にあった亭です。
「六角堂」とも呼ばれていました。この亭の名前は、六角形の土台の上に自然木を巧みに組んだ柱で、山形をした帽子のような屋根を支えていたところから付けられたようです。西洋館の書斎でくつろぐ栄一が、窓越しにぼんやりと見える山形亭を遠望する写真も残されています。

兜稲荷神社跡
 日本橋兜町の第一銀行内にあった洋風の珍しい社です。1897(明治30)年の第一銀行改築時に現在地に移築されました。その後、1966(昭和41)年に破損が激しく、危険ということもあって取り壊されましたが、基壇部分や灯籠等は現在まで残されています。この社は、最初、三井組の為換座として新築された時、三井の守護神である向島の三囲神社から分霊を勧請し、兜社と名付けられたものでした。その後兜社は、為換座の建物と共に第一国立銀行に引き継がれたのです。

茶席門跡
茶席「無心庵」へ向かう途中に設けられていたいくつかの茶席門の一つです。この門をくぐってすぐに水の流れがありました。流れに架かる石橋を渡り、飛び石をたどっていくと、途中左手に「茶席待合」、さらにその奥に「無心庵」がありました。これらは、1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまいましたが、当時の跡をたどることができます。

茶席待合跡
 茶席「無心庵」への途中にあった待合です。腰を下ろすだけの簡素なものですが、気持ちを落ちつけ、茶席へ誘う重要な役割を担っていました。現在は、軒下の踏石をはじめとして、礎石などがほとんど当時の形で残されています。

無心庵跡
茶室「無心庵」
設計は茶人としても有名な益田孝の弟、克徳と柏木貨一郎と言われています。
京都裏千家の茶室などを参考にして1899(明治32)年に建てられました。
栄一は、徳川慶喜の名誉回復を図るため、慶喜と伊藤博文等をこの茶室で対面させたという逸話が残されています。
無心庵には茶室のほかに広間も設けられ、伝統的なものの中に、新しい時代の茶席をも感じさせるものがあったようです。
縁先には石製の手水鉢が置かれていましたが、こうした静かなたたずまいも1945(昭和20)年4月13日の空襲で焼失してしまいました。

邀月台(ようげきだい)
無心庵の東側に切り立つ崖の斜面には、月見台がしつらえてありました。
当時、ここからは、栄一が誘致した王子製紙の工場が眼下に見え、荒川方面まで続く田んぼの先には、遠く国府台の台地や、さらにその北には、筑波山の勇姿を望むこともできたといいます。

飛鳥山は近いので、また再訪します。


渋沢栄一関連


関連

順次追加。。。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策(その2)

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の跡地を散策。

加賀公園・野口研究所跡地・理化学研究所板橋分所跡地・愛誠病院エリアなどは「その1」にて。

「その2」では、西側のエリアを散策。位置関係等なども、その1を参照で。


圧磨機圧輪記念碑(加賀西公園)

板橋区立加賀西公園に鎮座。
板橋火薬製造所(日本で最初の西洋式火薬製造工場)で用いられた「圧磨機圧輪」にちなむ澤太郎左衛門の遺徳を称え建てられた記念碑。

慶応元年(1865年)、澤太郎左衛門が幕命を受け、オランダに留学し火薬の製法を学び、ベルギーより圧磨機圧輪を購入し帰国の際持ち帰ったもの。
澤太郎左衛門は旧幕臣として榎本武揚とともに函館戦争を戦い、蝦夷共和国開拓奉行に選任。室蘭で明治新政府に降伏。
明治新政府では、おもに海軍兵学校の教官職にあった。日本海軍において海上砲の操砲訓練を行ったのは澤が最初であったという。

明治9年8月の火薬製造所開業より黒色火薬製造に圧磨機圧輪が使用開始。
圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造する際の硫黄や木炭、硝石などを、水力を動力にして磨り潰すために用いた。
明治39年11月、黒色火薬の製造廃止により圧磨機圧輪の使用が停止。
大正11年3月に記念碑として設置。
昭和60年頃に加賀西公園造成にあわせて現在地に移設。
板橋区登録文化財に指定。

板橋区指定記念物
圧磨機圧輪記念碑

 この圧磨機圧輪は、黒色火薬を製造する機械です。その材質はヨーロッパ産の大理石と判明しています。慶応元年(1865)に、艦船運用術・砲術・火薬製造などを研究するため欧州へ留学していた幕臣の澤太郎左衛門が幕命を受けて、ベルギーで購入したものです。澤はその任にあたり、ベルギーのウエッテレンにあったコーパル火薬製造所で作業員として働き、そこで職工長から火薬製造に必要な炭化釜等の図面を借り受け、圧磨機などについて教授されたと伝えられています。また、工場技師長を通じて、圧磨機をはじめとする火薬製造機械類の発注に成功したともいわれています。
 慶応3年に開陽丸で帰国した澤は、すでに小栗上野介忠順などにより、北区滝野川で企画されていた幕府の大砲製造所・火薬製造所の建設に加わりますが、明治維新の中で工事は中断となり、澤も箱館へと脱出します。この時に輸入した火薬製造機械の一部は滝野川から運び出され、軍艦へと積み込まれていますが、この圧磨機圧輪自体の動向については不詳です。のちに澤は新政府軍へと投降しますが、釈放された直後の明治5年(1872)には兵部省へ出仕し、板橋における火薬製造所建設にも中心的な役割を果たしました。
 明治4年7月、兵部省は板橋金沢県邸(旧加賀藩江戸下屋敷平尾邸)の一部を火薬製造所の用地とするために政府に引き渡しを求めました。その理由は「彼邸水車モ有之、造兵ノ為便利不少候」と申入れ書にあるように、石神井川に敷設した水車の動力が圧磨機を動かす上で重要な条件となっているためでした。同年12月に当邸の一部は造兵廠属地となり。火薬製造所の建設が始まりました。なお、当時の兵部省における造兵部門の長にあたる造兵司正には、加賀藩師で洋学(兵学・科学)に通じていた佐野鼎が就任しており、このことが製造所用地の選択にも影響を与えた可能性があります。
 明治9年8月に完成した火薬製造所は、陸軍の「砲兵本廠板橋属廠」として操業を開始し、この圧磨機圧輪を使って黒色火薬が製造されました。圧磨機による火薬製造工程は、水を注ぎながら、圧輪を回し、硫黄・硝石・木炭を細砕・混和し、篩(ふるい)にかけて粒子をそろえ、乾燥させたのち製品化するというものでした。なお、圧磨機を回転させる動力には、、石神井川からの導水路による縦軸水車(簡易フランシス水車)の動力が利用されています。なお、その設置場所は、現在の加賀2丁目15番街区あたりと考えられます。当工廠は、その後、「板橋火薬製造所と改称され、最終的な呼称は、東京第二陸軍造兵廠・板橋製造所(通称二造)となりました。
 明治27年には、当所で無煙火薬の製造が開始され、施設・設備も拡充していきますが、その一方で、取扱いが難しく、爆発事故が続いた黒色火薬については製造が減少し、同39年に製造中止となると、圧磨機圧輪も使用されなくなりました。
 大正11年(1922)3月、国内外で軍縮が進む中で、陸軍は使用されなくなった圧磨機圧輪を転用し、そこに澤の威徳を称え、圧磨機圧輪の来歴などについて刻み、記念碑としました。
 戦後、当記念碑は、通産省計量研究所敷地内にありましたが、同研究所の移転にともなって区立加賀西公園に移設されました。昭和60年(1985)に産業考古学会推薦の産業遺産に認定され、翌年には板橋区登録記念物(平成7年からは指定記念物)となりました。
 平成23年(2011)10月
  板橋区教育委員会

「板橋火薬製造所」を管轄していた「東京陸軍砲兵工廠」のマークが中央にある。

圧磨機圧輪記
是為圧磨機圧輪当用製火薬
慶応元年九月澤太郎左衛門承徳川幕府旨所購於白耳義也・・・

招魂之碑
明治 35 年爆発事故招魂之碑
(加賀西公園)

板橋区立加賀西公園内に鎮座。

明治35年7月24日に発生した、板橋火薬製造所内の丙製薬所で出火した火災が隣接する建物に延焼し、 消火活動の指揮を執った花土丈七技士をはじめ、 火薬の搬出にあたった職工ら、 合計 10 名が亡くなった事故。
明治36年7月24日で、 火災爆発事故によって亡くなった技師 ・ 職工の
1 周忌に合わせて建立された。建立者は 「板橋火薬製造所有志一同」。

 明治35年7月24日板橋火薬製作所火災起り各員之が消火に勉む偶々爆然たる猛火は勢迅雷の如く襲い来り陸軍技手花土丈七 職工今井吉次郎 辺見忠一 常盤勝次郎 金子徳次郎 田中信太郎 高木文次郎 石原吉五郎 渡辺誠次郎 新井久太郎の諸君を包み遂に非命に斃れしむ誠に悲惨の極と云うべし然と雖も死生固より命あり諸君の死を以て其任を謁し以て災害を一局に制し巨方の財を花神の厄より免れしめんもの其功績亦偉大にして以て瞑するに足るべし 茲に其一周忌に際し義金を拠出し碑を立て其霊を弔し其魂を慰むると而云。
  明治36年7月24日
   板橋火薬製造所 建之

https://goo.gl/maps/j1ZSmNcU863qtnjUA


板橋区立板谷公園

板橋の二造の南側に造成された公園。

 江戸時代、この板橋3・4丁目、加賀一帯は加賀藩の江戸下屋敷でした。明治になると板橋3・4丁目周辺は三合商会の所有地となり「三合野原」、「三五ヶ原」と呼ばれました。その後、小樽を基盤とした船運会社板谷商船の設立者初代板谷宮吉氏が取得し、昭和4年(1929)に東京市電が板橋まで延長したのを契機に、二代目宮吉氏(貴族院議員等も歴任)が昭和10年(1935)1月、区画整理による大規模住宅地「上御代の台」の造成に着手しました。
 当時、国は区画整理に際しては公園用地の確保を求めており、それを受け、東京市は土地の無償提供を条件に公園造成を代行する規定を設けていました。当公園はこの規定により、板谷氏の用地提供を受けて同市が施行し、昭和12年(1937)4月29日に東京市板谷公園として開園しました。なお、その際に設置された銘板が、ニか所の出入口の門柱に残っています。その後、昭和18年(1943)の都制施行により都立公園となり、昭和25年(1950)10月1日には板橋区に移管されました。
 この公園は、区内に現存する公園の中で開園時期が最も古く、また、その来歴にこの地域の歴史がよく反映されている事から、平成21年(2009)3月に区の登録文化財(史跡)となりました。
 平成21年(2009)9月  
  板橋区教育委員会

東京市板谷公園
 昭和12年4月開園

https://goo.gl/maps/L9WPAc4bc8mDjVLz9


コミュニケーションステージ
レンガパーク
(加賀一丁目緑橋緑地内)

陸軍板橋火薬製造所時代に設置された煉瓦造平屋建(大正期 ) の建物の一部をモニュメントとして保存。

 このモニュメントは、明治から大正時代に建てられた煉瓦建造物の一部を利用しています。
 明治時代から太平洋戦争の敗戦まで、加賀1・2丁目には日本陸軍の火薬製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所、通称「二造」)がありました。製造所は、江戸時代の旧加賀藩下屋敷の広大な敷地を利用して作られていました。内部には、火薬の事故に備えて土塁で囲まれた建物や煉瓦造りの建物などが立ち並んでおり、その一部は、戦後の払い下げ後も学校や工場、研究所の建物として利用されていました。
 ここの敷地にも、当時の建物が工場として残されていましたが、日本の近代建築史を伝える貴重な煉瓦建造物を保存・活用するため、その一部をモニュメントとして利用することになりました。

中央部の古さを感じられる黒ずんだ部分が、当時の建物の壁をそのまま保存した箇所。

かすかに「東京陸軍砲兵工廠」のマークを見ることができる。

https://goo.gl/maps/ySLuEPF6EsAAQzr58


陸軍の消火栓

金沢小学校の校庭隅の隅。道路から見える場所に、板橋製造所時代の消火栓があった。陸軍の徽章「星」のマーク付き。
案内板は小学校敷地内内より。休日校庭開放日に見学。

 これは、昔の消火栓です。昭和の初め頃につくられました。このあたりは、陸軍の第二造兵廠というものがありました。
 星の印は陸軍のマークで、陸軍の人達が火事を消すための設備として作ったのが、この消火栓です。
 江戸時代には、このあたりに加賀前田藩の下屋敷がありました。明治になって、板橋火薬製造所ができました。その後、太平洋戦争が終わるまで、第二造兵廠として約70年間火薬を作る仕事などしていたのです。
 昭和20年8月に戦争は終り、このあたりには、研究所、公園、学校、工場等が造られました。
 板橋火薬製造所のことは、おとなりの東板橋体育館にある記念碑にくわしく書いてあります。この消火栓も、昔をしのぶ一つの記念碑として大事に保存したいと思います。

https://goo.gl/maps/cYWhfnkdxsLuTwrr5


境界壁柱とコンクリート壁

板橋区立東板橋公園と板橋こども動物園の北側。ユースハイムという建物の車庫入口近くに、「板橋製造所の境界壁柱」が残っている。

https://goo.gl/maps/m44R4jfG9kQqJ5QA7

さらに道なりに西の方に歩みを進めていくと、駐車場と電信柱のあいだに、もう一本「板橋製造所の境界壁柱」がある。

https://goo.gl/maps/eWFMxMPLNzrABBkv6


境界壁柱(消失)

「板橋製造所」当時の敷地の西端部分。道なりに歩んでいくと、さらに「境界壁柱」があったが、2018年の段階で消失を確認。

※写真は2016年

消失を確認。。。 ※2020年撮影


境界壁と境界石(消失)

「板橋製造所」当時の敷地の西端部分。
陸軍用地の境界石と境界壁が残っていたが、同じく消失を確認。

境界壁は消失。
境界石は、2つのうち、1つはまだ残っています。
(コメントでのご指摘ありがとうございます)

1つ目 ※写真は2016年

この境界石と境界壁は消失。

2つ目 ※写真は2016年

この境界壁も消失した。

※境界石は下の写真で、右側の電信柱の根本右側に残っているという。
(私は見逃していました。後日、再確認します。)
※コメントでのご指摘ありがとうございます。

境界壁は綺麗に消失。

新築住宅がセットバックされたために、境界壁とともに境界石も消失してしまいました。境界壁がなくなり、だいぶ見た目が変わってしまいました。


場所は変わって。

板橋憲兵分隊の門柱跡

「板橋製造所」の西側には中仙道が走っていた。
中山道の宿場町「板橋宿」の中心であった「仲宿」も徒歩圏内。
宿場町が廃止された後は「板橋遊廓」としても賑わっていた地区。
ここに「板橋憲兵分隊」は置かれ、門柱が1本だけ残されていた。

https://goo.gl/maps/TFU6xV9ypWD1tLm69

仲宿

地名「板橋」の由来となった石神井川を渡る「板橋」

※撮影:2016年5月/2020年7月/ 2021年1月


関連

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策(その1)

十条の造兵廠は掲載しておりましたが、板橋の造兵廠は未掲載でした。
板橋の二造は公園整備が行われることも決まり、そのために記録が鈍化していたというのもありました。
ひとまずは、整備前の写真を中心としたレポとなります。
整備が終りましたら再訪は必須ですが。

十条…東京第一陸軍造兵廠(一造)
板橋…東京第二陸軍造兵廠(二造)


東京第二陸軍造兵廠(東二造・二造)

大日本帝国陸軍の陸軍造兵廠のひとつ。

明治3年、兵器工場として造兵司が新設。
明治4年、小石川に東京工場として「東京造兵司火工所」が新設。
明治8年、東京造兵司は「砲兵本廠」と改称。

明治9年(1876)
砲兵本廠板橋火薬製造所」として、加賀藩江戸下屋敷跡地に石神井川の水力を生かした火薬製造所が発足。これが明治政府が初めて設置した火薬製造所となる。当時の工場は水力を軸としており、小石川の板橋火薬製造所をはじめ、赤羽火薬庫なども水運を想定した位置関係であった。

明治12年(1879)
東京砲兵工廠と改称。「東京砲兵工廠板橋火薬製造所」となる。

大正12年(1923)
「陸軍造兵廠」が設置。「陸軍造兵廠板橋火薬製造所」となる。

昭和11年(1936)組織改編
陸軍造兵廠火工廠から十条兵器製造所が分離し、小石川の東京工廠が十条に移転。十条に置かれていた陸軍造兵廠火工廠本部は板橋に移転。
板橋が「陸軍造兵廠火工廠本部」となる。火薬製造所は再編により加工廠管轄下となる。「陸軍造兵廠火工廠板橋火薬製造所

昭和15年(1940)組織改変
陸軍造兵廠と陸軍兵器廠を統合。兵器本部が新設。
 十条の東京工廠「東京第一陸軍造兵廠」(東一造・一造)
 板橋の火工廠 「東京第二陸軍造兵廠」(東二造・二造)
板橋火薬製造所は「東京第二陸軍造兵廠板橋製造所」となる。

2008年に「旧東京第二陸軍造兵廠建物群(東京家政大学構内)」が板橋区登録有形文化財に指定。
2017年(平成27年)10月13日に「陸軍板橋火薬製造所跡」として国指定史跡に指定。
2018年(平成30年)3月29日付で板橋区登録記念物(史跡)に登録。
史跡範囲は「旧野口研究所跡・旧理化学研究所板橋分所跡・区立加賀公園」

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/bunkazai/1004848.html

現在は、、史跡公園に向けて整備となる。

板橋区史跡公園(仮称)

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/1021974/1023606.html


位置関係

国土地理院航空写真
地図・空中写真閲覧サービス
ファイル:USA-M380-129
1947年07月24日、米軍撮影の航空写真を一部文字入れ加工。

※航空写真はクリックして拡大可

上記を拡大。
こうしてみると、板橋十条の軍事施設は思ったよりかは建屋が残っているのがわかる。逆に周辺の住宅地が白くなっており建屋が焼失しているので、軍事施設を狙った爆撃が工場周辺に外れてしまった様子を想像することもできる。

上記とほぼ同じエリアの現在の様子。
こうしてみると、軍事区画であった場所が今でもかなりわかりやすい。

前述の航空写真より東京第二陸軍造兵廠の部分を拡大。

現在の様子と並べてみる。
黄色は「その1」での掲載箇所。
紫色は「その2」での掲載箇所。

前述の航空写真(USA-M380-129)の南東部をさらに拡大。

黄色は愛誠病院・愛世会関連施設
橙色は旧理研
赤色は加賀公園・旧野口研究所


関連記事

上記の位置関係でも記載のある周辺エリアは別記事にまとめてあるので、それぞれリンク掲載。

東京第一陸軍造兵廠

陸軍兵器補給廠と稲付射場・赤羽火薬庫道


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所跡地散策

軍用鉄道跨線橋台座跡
(トロッコ・電気軌道)

埼京線にかかる十条台橋から見えるのが、往時の軍用鉄道跨線橋(トロッコ)の台座跡。金網の向こうを覗く。両側に台座が残っているのがわかる。

明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡。

場所

https://goo.gl/maps/ps6TZ6ThbeHo3tpm9


東京家政大学構内

北側に広がる「東京家政大学」も東京第二陸軍造兵廠板橋製造所時代の建物が残っているが、女子大となるので構内は未見学。
煉瓦造平屋が3棟現存という。
 旧220号棟 (現板橋校舎21号棟)
 旧225号棟 (現板橋校舎22号棟)
 旧261号棟 (現板橋校舎58号棟)
上記が板橋区登録有形文化財(建造物)に指定されている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・板橋区立加賀公園)
(旧野口研究所跡)

加賀公園と、その西側にあった旧野口研究所跡。
周辺が「板橋区史跡公園」(仮称)として整備される予定。

加賀公園は、もともとは加賀前田家下屋敷であった。明治期にこの地に火薬製造所が置かれたことに始まる。

建屋の情報は板橋区の資料に詳しい。

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/res/projects/default_project/_page/001/023/606/noguchikenmap.pdf

爆薬製造実験室

建築年代は昭和10年1月。構造は鉄筋コンクリート造の平屋建築、屋根は切妻屋根。トタンによって外壁が補修されている。
もともとは後方のマンションの位置にあったが、保存のために平成29年に主要部(全体の1/3部分)の曳家工事を実施。

常温貯蔵室
地下貯蔵庫

常温貯蔵庫は昭和9年以前には建設されていたと推定。
構造はコンクリート造で、上下2段8列の棚構造で、16の鉄製扉を有している。扉は現在、8面のみ現存するも固着しており開閉は困難という。

常温貯蔵庫の手前には地下貯蔵庫がある。
地下貯蔵庫には蓋がされている。水槽として使用されていたという。

加温貯蔵室

昭和9年以前には建造か?

加温貯蔵室試験火薬仮置場基礎

加温貯蔵室に併設されていた建物。基礎のみ現存。平姓18年までは建物が確認できたが、平成26年までのあいだで撤去。

銃器庫

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、内部は木造二階建の棚床が設置。
昭和18年以降の改築か?

土塁

燃焼実験室
試験室
弾道管

燃焼実験室の構造は鉄筋コンクリート造2階建。
昭和18年以降の建築か?

弾道管は、約30m現存。

「燃焼実験室」から弾道管が一直線に伸びている。
コンクリートの2棟は「試験室」。

試験室No.672

試験室No.552

弾道管

弾道管

試験室

試験室No.552

試験室No.672

弾道検査管(爆速測定管)の標的
 区立加賀公園にある小高い山は、加賀藩前田家 の江戸下屋敷内の庭園にあった築山の跡です。
 この築山の中腹に造られたコンクリート製の構築物は、現在隣接している野口研究所内からのびる弾道検査管(爆速測定管)の標的の跡です。
 戦前、野口研究所を含めたこの場所には、板橋火薬製造所(昭和15年以降は東京第二陸軍造兵廠=ニ造)内におかれた火薬研究所があり、弾薬の性能実験などが行われていました。今も野口研究所の構内には、火薬研究所時代に使われていた試薬用火薬貯蔵庫や防爆壁などの構造物が残されています。その中の一つに、長さが十数メートル、内径686mmのコンクリート製の弾道検査管の一部があります。
 これは、技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬(発射薬)の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定・観測する装置であり、戦前のニ造構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向って撃ち込まれていたことがわかります。
 戦後、旭化成などの創業者である野口遵 が設立した野口研究所が当地に移転してきましたが、いまなお構内には、戦前に使用していた観測装置や標的などが現存しています。このような例は全国的に見ても珍しく、軍工場 時代の活動の一端を窺うことができる貴重な資料となっています。 

擁壁

軽便鉄道の軌道と北側の試験室や弾道管等の試験施設との間を隔てる役割を担っていた。
鉱滓煉瓦壁が4スパン、コンクリート壁が1スパン、合計5スパンが現存。

射垜

露天式発射場の的である射垜と、弾道管と接続する隠蔽式発射場の射垜が存在していた。隠蔽式発射場の射垜は昭和46年の加賀公園造成工事の際に一部撤去。遺構が埋蔵している可能性あり。
露天式発射場の射垜の下方部構造は埋蔵されており不明。
レンガ積にモルタルが塗布。

コンクリート擁壁

昭和46年の加賀公園造成工事で撤去された常温貯蔵庫が隣接していた。また防火壁も設置されていたという。

電気軌道線路敷跡

電気軌道(トロッコ)線路敷跡
 区立加賀公園のこの場所から、隣接する野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦前、この一帯(現在の加賀一・二丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)の線路敷跡です。
 軌道は、北区十条の銃砲製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。
 現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあるコンクリートの土台は、明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。その後、明治40年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公園・野口研究所付近)や本部(現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付近)を結ぶために軌道が延伸しています。以降も軌道網の整備は進められ、大正12年(1923)の構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。


加賀公園の北側を流れる石神井川の対岸エリア。
現在は「愛誠病院」など愛生会関連の建物が展開されているエリアにも、当時の建屋が残っている。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛歯技工研究所)

最近まで愛歯技工専門学校として使用されていたが2019年3月で閉校。
愛歯技工研究所は存続しているが、今後の扱いが気になるところ。

試験室(140号棟)

煉瓦造建造物。
愛歯技工専門学校時代の内部は体育館兼倉庫として使用。

仕上収函仮置場(13号棟)

煉瓦造建造物か?だいぶ改良されている外観であるが、建屋下部には面影が残っている。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(現・愛誠病院)

愛誠病院内にもいくつかの建屋が残っている。
愛生会病院は、昭和22年に二造の敷地と建物の使用を開始したという。

現存する建物
 煉瓦造の旧 36 号家 ( 現第 1 病棟 )
 煉瓦造の旧 35 号家 ( 現第 2病棟 )
 煉瓦造で一部二階の旧 168 号家 ( 現精神神経科外来棟 )
 煉瓦造の旧 164 号家 ( 現本部事務棟および第 3 病棟 )
 煉瓦造の旧 256 号家 ( 現作業療法棟 )
 鉄筋コンクリート造の旧 438 号家 ( 現第 11 病棟 )

病院敷地の見学は、言わずもがなですが、常識の範囲内で静粛に。

化学実験室(438号棟)
現・愛誠病院第11病棟

鉄筋コンクリート造。

駆水室(35号棟)
現・愛誠病院第2病棟

煉瓦造

綿薬配合室(36号棟)
現・愛誠病院第1病棟

煉瓦造

混合室(168号棟)
現・愛誠病院精神科外来棟

煉瓦造

爆薬理学実験室(256号棟)
現・愛誠病院作業療法棟

煉瓦造

物置(164号棟)か?
現・愛誠病院デイケア棟

煉瓦造

煉瓦の気配。

なお、板橋区の資料によると「愛誠病院本部事務棟/第 3 病棟」(下の写真)が煉瓦造の164号棟と記載あるが、どうみてもデイケア棟が煉瓦造建造物。事務棟/第 3 病棟は、逆に煉瓦造建造物には見えず。

本記事の冒頭に記載した位置関係でもデイケア棟と当時の建屋の場所が一致する。


東京第二陸軍造兵廠板橋製造所
(理化学研究所板橋分所跡)

石神井川の北側。旧・理化学研究所板橋分所エリア。

物理試験室

東西に3棟が連結。
東から昭和13年、明治40年、昭和6年の建造。中央部が一番古く、東西が増設されたことがわかる。
理研時代は湯川秀樹や武井武、朝永振一郎が使用していた。

中央の煉瓦棟は明治40年の建造。

東の棟は昭和13年。

西側の棟は昭和6年。

南側、石神井川側より。

爆薬理学試験室

構造は鉄筋コンクリート造平屋建、地下一階建。
昭和9年から昭和12年にかけて建造か。

理研跡地も板橋区によって加賀公園・野口研究所跡地ともども、「史跡公園」として再整備予定。
この辺のエリアは整備されたら改めて訪問したいと思う。


陸軍工科学校板橋分校跡

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の南東におかれていた陸軍学校。
現在の「加賀公園」の南側に設置された石碑。
陸軍工科学校の卒業生によって組織された工華会による設置。

花匂ふ桜ヶ丘
永遠の平和を祈る
 工科学校
 板橋分校跡
  工華会建之

板橋区立板橋第五中学校の敷地は、明治41年から昭和15年まで陸軍工科学校板橋分校(通称「桜ケ丘」)が位置していた。

明治41年9月に砲兵工科学校分校として砲兵工科学校の火工学生が小石川本校から板橋分校に移転。大正9年に陸軍工科学校板橋分校と改称。
昭和15年7月に小石川本校とともに陸軍兵器学校と解消され、神奈川県相模原市に移転。
その後、終戦までは「一造の板橋宿舎」として使用。終戦後は昭和30年までGHQの情報機関CIC(対敵諜報隊)が置かれていた。
昭和30年4月に板橋区立板橋第五中学校が開校。


陸軍工科学校板橋分校の陸軍境界石

加賀公園の南、板橋第五中学校の南東に残る境界石。
板橋第五中学校の界隈が、陸軍工科学校板橋分校であった。

「陸軍省」の文字が残る。

東京第二陸軍造兵廠板橋製造所の西側は、その2、にて。

※撮影:2016年5月/2020年7月/ 2021年1月

「12月23日の記念日」陽気と陰気と

令和2年(2020)になっても、12月23日は特別な記念日という想いが強い。

平成の時代は 天皇誕生日、であった。
そして
令和の時代は 上皇誕生日。御年87歳となられた祝ひ日。

https://www.kunaicho.go.jp/joko/press/r021223.html

https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/42

記念日であり、節目の日である「12月23日」という日を振り返ってみる。

陽気と陰気と。


令和2年12月23日-巣鴨プリズン跡

かつて巣鴨プリズンと呼ばれていた巣鴨拘置所跡地。
そのサンシャイン足元の東池袋公園。

この公園に慰霊碑がある。
かつて天皇陛下誕生日であり、一般参賀を終わらせた流れから足を運びに来る人も多く、一般参賀の名残で日の丸の小旗が多く捧げられていた慰霊碑。鎮魂の碑。

永久平和を願って
第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された。 戦争による悲劇を再びくりかえさないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する。
昭和五十五年六月

墓標のように聳え立つサンシャイン60を横目に、静かに頭を下げる。

昭和23年12月23日

昭和23年12月23日。
極東国際軍事裁判にて、いわゆるA級戦犯とされ、死刑囚とされた7名に対する絞首刑が執行された。
これは当時の皇太子殿下(現在の 天皇陛下)の誕生日という、12月23日の尊い「国民の祝い日」を敢えて刑の執行日に選んだともされている。

昭和受難者

1978年(昭和53年)10月17日に「昭和殉難者」(国家の犠牲者)として靖国神社に合祀。

靖國神社に合祀された「昭和受難者14柱」は以下の方々。

昭和23年12月23日に絞首刑執行(刑死)
 東條英機
 広田弘毅
 土肥原賢二
 板垣征四郎
 木村兵太郎
 松井石根
 武藤章
終身刑(刑期中に病死)
 平沼騏一郎
 白鳥敏夫
 小磯国昭
 梅津美治郎
 東郷茂徳
戦犯指定を受けたが判決前に病死
 永野修身
 松岡洋右

令和2年12月23日-東条英機墓

サンシャイン60が見える雑司ヶ谷霊園に東条英機は眠る。

昭和23年(1948)12月23日
午前零時1分
巣鴨拘置所(スガモプリズン)内

東条英機は極東国際軍事裁判(東京裁判)にて裁かれ、ときの皇太子誕生日であった12月23日に死刑(絞首刑)が執行された。64歳没。

「東條家墓」(東條英機墓)
明治四十四年七月 第二代英俊埋葬の機会に於て墓地を浅草区松葉町清水寺より雑司ヶ谷共葬地に移し新に此墳墓を築く 第三代英教 識す

東條家第二代東條英俊(盛岡藩士)、第三代が東條英教(陸軍中将・東条英機の父)、そして第四代が東條英機。

令和2年12月23日-皇居

毎年のように朝一番で足を運んでいた12月23日の二重橋前広場。懐かしさもあって思わず足を運んでみた。感慨深い心持ち。

令和2年12月23日-靖國神社

昭和受難者の方々、いわゆるA級戦犯と称された方々が祀られた靖國神社。

参拝を。

パール博士顕彰碑
極東国際軍事裁判法廷インド代表判事
※顕彰碑の写真は2018年12月23日

時が熱狂と偏見とを
やわらげた暁には
また理性が虚偽から
その仮面を剥ぎとった暁には
その時こそ正義の女神は
その秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに
そのところを帰ることを
要求するであろう


ラダ・ビノード・パール博士は昭和二十一(1946)年五月東京に開設された『極東国際軍事裁判所』法廷のインド代表判事として着任され、昭和二十三年十一月結審・判決に至るまで、他事一切を顧みる事なく専心この裁判に関する膨大な史料の調査と分析に没頭されました。
博士はこの裁判を担当した連合国十一箇国の裁判官の中で唯一人の国際法専門の判事であると同時に、法の正義を守らんとの熱烈な使命感と、高度の文明史的見識の持主でありました。
博士はこの通称「東京裁判」が、勝利に傲る連合国の、今や無力となった敗戦国日本に対する野蛮な復讐の儀式に過ぎない事を看破し、事実誤認に満ちた連合国の訴追には法的根拠が全く欠けている事を論証し、被告団に対し全員無罪と判決する浩瀚な意見書を公にされたのであります。
その意見書の結語にある如く、大多数連合国の復讐熱と史的偏見が漸く収まりつつある現在、博士の裁定は今や文明世界の国際法学会に於ける定説と認められたのです。
私共は茲に法の正義と歴史の道理とを守り抜いたパール博士の勇気と情熱を顕彰し、その言葉を日本国民に向けられた貴重な遺訓として銘記するためにこの碑を建立し、博士の偉業を千古に伝えんとするものであります。
 平成十七年六月二十五日 
  靖国神社
   宮司 
    南部利昭

※パール判事の碑の写真は別の年


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愛の像(アガペの像)

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殉国七士を偲びし慰霊の鐘「仁慈の鐘」

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池上本門寺の戦争慰霊碑(大田区)

池上本門寺にて、戦争に関連する慰霊碑などを巡ってみる。

国難に殉じられた皆様に感謝と哀悼を。合掌。


日本看護婦会慰霊塔

由緒等はなく建立経緯は不詳。「日本看護婦会」という団体も不詳。
戦前にあった「日本帝国看護婦協会」は、戦後は「日本看護協会」となっている。
また日清日露戦争時には、戦時下の救護をボランティアで行っていた上流婦人階級による「日本赤十字篤志看護婦人会」という団体もあった。

日本赤十字によると日清戦争から第二次世界大戦(大東亜戦争)において戦時救護にて殉職した殉職救護員(日本赤十字社救護看護婦、いわゆる従軍看護婦)は1317名に及ぶという。

港区芝大門の日本赤十字本社前にも、看護婦慰霊碑があるので参考まで。

殉職救護員慰霊碑と看護婦立像(日本赤十字社)


日蓮大聖人説法像
星亨銅像跡

もともとこの場所には「星亨」の銅像があった。戦時下の金属供出で銅像は撤去され、台座のみが残されていたが、昭和58年に総アルミの日蓮大聖人像が建立された。

日蓮大聖人説法像
 星亨銅像跡

 この像は宗祖第七百遠忌記念として昭和58年富山県新湊市の黒谷美術株式会社より奉納されたんもので斯界の権威北村西望先生の作品です。(像の材質はアルミ、高さ3.4米、重量1瓲)
 もともとここには明治の政治家星亨先生の銅像がありましたが、今般星家の御協力により台座を奉納頂きこの像を建立しました。
 昭和58年10月吉日
 大本山 池上本門寺

星亨(ほしとおる)
嘉永3年4月8日(1850年5月19日) – 明治34年(1901年)6月21日)
イギリスに留学し日本人初の法廷弁護士資格を取得。日本での弁護士第1号。
明治時代の政治家。逓信大臣や衆議院議長などを勤める。東京市議会議長職にあった明治34年に暗殺された。享年51歳。墓所は池上本門寺。

星亨銅像は立像として大正14年(1925)に建立という。作者は本山白雲。戦時下に金属供出され、立派な台座が残り銅像は今はない。


大田区戦歿者慰霊塔

本堂向かって右手に鎮座。

慰霊

慰霊塔建設誌
碑文
 日華事変太平洋戦争における戦歿軍人軍属の英霊と戦災で犠牲になられた人々の霊魂を弔慰し 恒久の平和を祈念するため慰霊堂を建設すべく大田区自治会連合会大田区郷友会大田区遺族会及有志は昭和35年7月大田区戦歿者慰霊塔建設奉賛会を結成した
 区民の絶大なる協力と本門寺の好意を得て翌年9月23日この地に工を起し本日除幕の式を挙げるにいたった 塔内には日清日露の両役をもふくめた区内5千有余に及ぶ犠牲者名を18地区別の芳名録に謹記して奉安した
 われわれはこの慰霊塔を仰いで今後益々複雑なる国際関係の動きに処する決意を固め、地区の発展と世界平和に寄与することを英霊に誓いあわせてその加護を願うものである
  昭和37年4月8日
   大田区戦歿者慰霊塔建設奉賛会

日露戦役忠魂之碑

池上村軍人家族保護會


五重塔のむかって左側の道路に面した場所に鎮座

満洲国軍戦没者之碑

満州国での戦没者を祀る慰霊碑。

慰霊
満洲国軍戦没者之碑

満洲の大地に沈む夕陽を表しているという。

蘭花の碑 蘭星会
赤い夕陽の満洲に活躍した日系軍官此処に眠る

蘭花は満洲国の国花。
蘭花御紋徽は満洲国の国章は1932年(満洲国・大同元年/日本での昭和7年)に制定された。

蘭花碑誌「天地内有了新満州
青年の希望と夢に充ちた新国家は民族間等の歴史に幕を下し新しい時代を開くべく民族の融和を根本理念とした道義国家として創建された。
此の時にあたって選ばれたもの感激をそのままに何のためらいもなく日系軍官として国軍に投じた若人達は国軍の中核となって辺境の守護国内の治安維持に又国兵の練成を通じての建国理念の透徹に若い情熱の限りを傾け尽くした。
建国からその崩壊に至る十四歳の間に約六千の同志は日系軍官軍属文官として勤務奉公しつつ一千余名の同志はその使命に倒れて或は赤陽の荒野にはた又凍土の辺地に長限を留めるに至った。
以来幾星霜を経て今聖僧ゆかりの地本門寺の浄域に顕彰慰霊の碑を建て同志の英魂を祀り、あわせて民族協和の大理想に結ばれた国軍戦死没諸友の霊をも迎えその供養を行う。
ここに永遠の平和への悲願をこめて 
同志よ 友よ 安らかに眠られんことを祈る
  昭和51年8月15日
蘭星会

蘭花御紋徽


郡司成忠墓

海軍大尉で、北千島の探検・開発に尽力した冒険家であった郡司成忠墓。
幸田露伴墓の隣(幸田露伴は郡司大尉の弟)。

詳細は下記で。


児玉誉士夫墓

1911年2月18日-1984年1月17日。
戦時中の児玉誉士夫は海軍嘱託(佐官待遇)として暗躍。児玉機関を設立し海軍航空本部のために物資調達を担う。大西瀧治郎が海軍総務部長の際に児玉誉士夫と親睦を深め、大西滝次郎自決の際に立ち会う縁となった。

戦後はフィクサーとして政財界の黒幕として君臨。

昭和35年に建立。

児玉と縁が深かった大西瀧治郎の墓は鶴見総持寺。大西の墓を建立する支援も行っている。

大西瀧治郎を偲ぶ

近くには力道山の墓もある。


池上本門寺

日蓮宗大本山。
日蓮入滅の霊場。日蓮宗の十四霊蹟寺院。七大本山。
昭和20年4月の空襲によって五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇を焼失。
現在の大堂は昭和39年再建。

五重塔は1608年(慶長13年)に建立。空襲による焼失を免れた建物。


池上妙見堂

日蓮宗池上三院家のひとつ、朗慶山照栄院妙見堂。

池上妙見堂の境内にBC級戦争犯罪で処刑された殉難者の慰霊碑がある。

シンガポールのチャンギーで行われたBC級戦争犯罪人とされた日本の軍人軍属の裁判(シンガポール裁判)。
チャンギー刑務所にはBC級戦犯が2000名以上集められ、146名の被告が極刑を宣告され処刑されたという。
教誨師の田中日淳上人(照栄院前住職・池上本門寺第81世貫首)は教誨師として、その処刑に立ち会い、帰国後に妙見堂の境内に慰霊碑を建立。(建立は昭和58年)毎年4月第2日曜日には慰霊祭が祭行されている。

BC級戦犯

BC級戦犯は、連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における区分総称。

戦争犯罪類型A項「平和に対する罪」 = A級戦犯
戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」
戦争犯罪類型C項「人道に対する罪」(日本には適用なし)

日本のBC級戦犯は、GHQにより世界49カ所の軍事法廷で裁かれた。
被告人は約5700人。そのうち約1000人が死刑判決を受けたというが、中国及びソ連での裁判の実態は不明。

靖國神社では、彼らを「昭和受難者」として合祀。

シンガポール チャンギー殉難者慰霊碑

献文
第二次世界大戦後、シンガポール地区においては、146名の旧軍人軍属が連合軍の軍事裁判により戦争犯罪者として処刑されたが、その大部分は誤った戦争の犠牲者としてこのような悲運に哭かねばならなかった人々であった。しかもこの方々は祖国から見放されたまま、不自然な「死」を前にして苦悩に苦悩を重ね、最後には「己の死が祖国再建の人柱となるのであれば、又世界人類の平和にもつながればよし」と絶叫して散華したのである
これら殉難者の往時の心情を思うとき、万斛の涙また新たなるものがあり、かかる悲惨時が決して再びあってはならないと誓うのである。今ここ池上の寂かなる杜をこの方々の安らかなる眠りの場と定め碑を建て、以って所霊の冥福を祈る次第である
 昭和58年4月11日
 シンガポール チャンギー殉難者慰霊碑建立協賛会

碑誌
 元英領シンガポールチャンギ―獄戦犯殉難者のうち数多の人々が刑死されるまでの間、川崎市明長寺故関口亮共師、池上照栄院田中本隆師による獄内挺身教化に浴し従容として死に就かれた
 又殉難者が此の地に安息の場を得ることができたのは、往時の田中本隆師即ち現大本山本門寺第八十一世田中淳上人の廣大な御仁慈によるものである。
 第七回慰霊法要に当り両上人の御高徳を永えに称える為茲に追誌すること如斯
  平成元年4月

http://www.shoueiin.jp/myoken/changi.html

http://www.shoueiin.jp/myoken/profile.html


池上本門寺とは関係ないけれども。
池上駅の北側の池上本門寺に対して、場所は変わって池上駅の南へ。曹禅寺へ。

池上平和観音

池上平和観音
昭和二十年四月爆撃により五十余名の生命を失つたこの地に大悲菩薩を安置して殉難者の冥福を祈り念すると共に町内の平安と世界の平和を祈り願うものなり
 昭和四十三年十月十日
 壹世實道大憲

https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/memorialsite/tokyo_ota_city004/index.html